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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ300

淳之介を寝かせてから私は居間で美恵子と向かい合って座った。座卓越しに見つめると美恵子は何か覚悟をした顔で見つめ返してくる。しばらくの沈黙の後、美恵子は息を1つ飲んで話を始めた。
「私、好きな人ができたのさァ」私はこの言葉を予感として持っていたので冷静に受け留めたが、心の中で必死に打ち消そうとしていたのも事実だった。
「店のお客さんで、貴方の部隊の人なのさァ」相手はやはり先ほどの車の持ち主、演習場で「奥さん(美恵子)にセックスのテクニックを教えた」と言っていた若い陸曹・矢田だ。黙っている私に向って美恵子は話を続ける。
「貴方が家を空けてばかりで寂しいだろうって慰めてくれて・・・」「まだ若いんだからもっと楽しもうって、色々な遊びを教えてくれたのさァ」ここまで話して美恵子は言葉を止め、今度は私が質問した。
「それで今日もそいつと一緒だったのか?」「うん・・・会いたいって店の前で待ってたのさァ」「それで?」私は美恵子の顔を見つめながら訊いた。
「そのまま街外れに行って・・・」「抱かれてきたのか?」「夢中になっているウチに・・・」美恵子は悪ぶれる様子もなくありのままを告白した。

夫が伊丹駐屯地での講習に行っている日曜日、馴染み客の矢田が散髪をされながら話かけてきた。矢田は美恵子がこの店に勤め始めた頃からの客で夫の小隊員でもある。
「美恵ちゃん、明日は月曜日だから休みだろう」「うん」「だったら気晴らしにドライブへでも行かこうよ。俺は当直の代休で休みなんだ」全く予想もしていない提案に美恵子は驚いて鋏の手を止めた。
「ドライブ?」「子供は保育所に預けてさ」そう言って矢田は鏡の中でウィンクする。
「美恵ちゃんはこうして働いているのに子育てまで押し付けられて息が詰まるだろう。たまにはリフレッシュしなきゃ疲れちゃうよ」「でも・・・」美恵子は妻と言う立場を思いながらも馴染み客の好意を断る言葉が浮かばない。その時の客は矢田1人だけで店長は奥に引っ込んでいて2人きりだった。
「美恵ちゃんはまだ若いんだからもっと楽しまなきゃあ勿体ないよ」そう言った矢田は美恵子と同じ歳、つまり夫よりも4歳年下でまだ20歳代だ。
「小隊長は歳よりも年寄り臭いから一緒にいると美恵ちゃんも肩がこるだろう。たまには青春しようよ」「青春かァ?」18歳で生真面目な夫と知り合い、そのまま21歳で結婚した美恵子には青春と呼べるような思い出が浮かばなかった。
「よし決まったァ」美恵子の迷っている顔を見て矢田が強引に結論を出した。
「明日、9時に駅まで来てよ。赤いスプリンターの新車で迎えに行くからな」「うん」美恵子は返事をしながらも自分の胸が少しときめいたのに戸惑っていた。
よ・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/12/11(金) 10:00:51|
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12月11日・沢庵宗彭禅師の命日

正保2(1645)年の明日12月11日(太陰暦)は沢庵宗彭禅師が遷化された日です。
沢庵宗彭禅師は吉川英治氏の小説「宮本武蔵」に沢庵和尚として登場し、教えを与えたことになっていますが史実ではありません。吉川氏のこの作品は創作・脚色が過剰な上、小説だけでなく映画も大ヒットしたため、虚構を史実と信じられていることが非常に多いのです。その一例として武蔵と決闘して敗れた佐々木小次郎=巌流は豊前国田川郡の出身(越前国=福井市内とする説もある)とされているにも関わらず小説では岩国市内の錦川で燕返しを編み出したことにしているため、地元では「出身地」として観光に使っているのです。
またタクアン漬を発明したと言う俗説がありますが、沢庵禅師が活躍した江戸時代初期には、すでにタクアン漬は広く食されていました。研究者によれば品川の東海寺にある沢庵禅師の墓石が丸く大きな自然石なので、それがタクアンを漬ける樽に乗せる石に似ていることからそう呼ばれ出したと言うことです。
晩年、紫衣事件による出羽国上山配流から許されて江戸に戻った沢庵禅師は、品川に建立・寄進された東海寺にあって3代将軍・家光をはじめ多くの幕臣や大名の精神面の教導に努めました。
このことで後継者と期待した弟子からさえも「権力に媚諂った」と批判されたのですが、自身は最期までこれらの権力者に何かを求めることはなく、また求めに応じることもなく超然としていたようです。そのことを如実に示しているのが印可を絶法にしたことでしょう。
沢庵和尚は一凍紹滴和尚から受けた印可を将軍・家光をはじめとする多くの帰依者たちが懇願したにも関わらず誰に継がせることもなく遷化しました。
「悟り」は悟っていると言う「印可」を与えられている師によって証明されなければ許されず、その断絶は釋尊からの法脈を喪失する取り返しがつかない一大事なのです。
確かに野僧も印可を絶法にすることになると思いますが、それは現在の日本の佛教界の管理社会では同じように佛道を突き進み人間社会からはみ出した生き方をする若者が見当たらず、猊下に証明していただいた境地を与えることができないのです。
沢庵禅師には出家・在家を問わず多くの優れた弟子がいたはずですが、やはり目に適う人物はいなかったのでしょうか?
そんな沢庵禅師の遺言は「葬式をするな。香典は一切もらってはならない。死骸は夜、密かに担ぎ出して野外に埋めて2度と参ってはならない。墓を作らないこと。位牌を作らないこと。法事をしないこと。朝廷からの禅師号は受けてはならない」でしたが、結局、禅師号を贈られ、前述のように墓を作られ、野僧を含めて多くの人々に参拝されていますからこの遺言は無視されています(禅師と呼んでスミマセン)。
また禅僧は頂相(ちんそう)と言う肖像画を遺すのですが(現在は遺影)、沢庵和尚のそれは円相と呼ばれる一筆書きの円の中央に点を加えたものでした。
円相は本来、僧侶の迷いのない完成された境地を現わすものですから、これに敢えて点を加えることは不完全であった自己を自省したものと言えるでしょう。完成を誇る虚栄とは対極の自省に沢庵和尚の美意識を見ることができます。
また禅僧は遺偈と言う自己の境地を示す辞世の漢詩を遺すのですが、沢庵和尚はそれも拒み、臨終の床で弟子たちが「最期に何か」と訴え続けて、ようやく「夢」の一文字を書いて筆を投げ捨てて遷化したと言われています。
「丸画いてゝ(チョン)」の遺影、「夢」一字の絶筆なんて格好良いではないですか。
  1. 2015/12/10(木) 09:26:47|
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振り向けばイエスタディ299

ある日、淳之介を預けている保育所から残業をしている私のところへ電話が入った。
「すみません、時間になってもお母さんが迎えに来られないんです。お家にも電話しても留守のようなので、お父さんにお電話しました」「はい、すみません」そう返事はしたが美恵子からは何も聞いていない。
「お迎えをお願いできますか?」「はい、判りました。すぐにうかがいます」私は予約なしの飛び込みの客でもあって美恵子の仕事が忙しいのだろうと思い、残業を途中で切り上げ保育所に向った。
「お父さん、お帰りなさい」保育所へ迎えに行くと淳之介は無邪気に声を掛けてきた。どうやら最後の1人になってしまいNHK教育の幼児向け番組を見ていたようだ。
「淳之介こそお帰りだよ」そう言って私が淳之介の頭を撫でると持ち帰る荷物を持って保母さんが近づいてきた。
「すみません、遅くなって」私が頭を下げると保母さんは顔を強張らせて首を振った。
「いいえ、実はお父さんが海外へ行らしていた時にも時々こんなことがありまして・・・」「そうですか、家内も仕事が忙しいんでしょう」「いいえ、お店に電話しても、もう帰られていると言われて・・・」保母さんはそれだけ言うと無理に笑顔を作り、顔を覗き込んで「淳ちゃん、さようなら」と声をかけた。

近所の食堂で夕食を食べて、淳之介の手を引きながら歩いて帰ると官舎のフェンス沿いの道路脇に見覚えがある車が停まっていた。それは私の小隊員と同車種、同色の車だ。
通り過ぎながら中を覗き込むと暗い街灯だったが車内で若い男女が口づけをしているのが
見える。男はブラウスの間から手を差し入れて女の胸をまさぐり、女はそれを悦ぶように
男の首筋に腕をからめ身をまかせている。そのままカーセックスを始めそうな妖しい雰囲気だった。
その時、1台の車がすれ違いヘッドライトで車内が照らし出され、女が驚いて顔を上げるとそれは美恵子だった。美恵子は私と視線が合うと固まったようになったが、それに気づかない男がキスを再開するとそのまま身をまかせた。
幸い淳之介の身長では車内は見えない。私は黙って手を引き、足を早めて家に向った。握られている「手が痛い」と言ったので黙って抱き上げると淳之介は無邪気に喜んでいた。
家に帰り淳之介のテレビが終った頃、階段を上ってくる足音が聞えてきた。しばらくしてドアが開き、淳之介が玄関に駆け寄って「お母さん、お帰り」と出迎える。美恵子は固い表情のまま部屋に入ってきた
「淳ちゃんのお迎えゴメンナサイ。仕事が忙しくって・・・」美恵子は強張った笑顔を作り、そう言った。
「そうか・・・遅くまで大変だったね。夜道を1人で大丈夫か?」私の返事に美恵子の顔から笑いが消えた。
「話は淳之介が寝てからにしよう」私の言葉に美恵子は黙ってうなずいた。
せ・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/12/10(木) 09:24:13|
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振り向けばイエスタディ298

カンボジアから戻り1カ月が過ぎようとしていた5月上旬、重大で深刻な事件が発生した。カンボジアとタイの国境に近い北西部のバンテイメンチェイ州アンピル村で日本の文民警察官がゲリラの襲撃を受け、岡山県警の警部補が殉職したのだ。
この時もオランダ軍が警護に当たっていたが、先頭の車両がロケット弾を受けて破壊され、潜伏・包囲していた10名程度のゲリラが一斉に銃撃を加えてきた。
オランダ軍は敵の銃撃が激しいため応戦を止めて危険を回避し(日本のマスコミは「逃走」と報じていた)、取り残された日本人文民警察官5人が銃弾を浴び、指揮官だった警部補が死亡、他の4人も重傷を負ったと言う。
我々が日本に帰る直前にも国民会議選挙を支援するボランティアの若者が銃で射殺されており、第2次派遣大隊は「連絡」を名目にしてレンジャー経験者を投票所などで働く日本人ボランティアのところへ巡回させていたが、PKO法や今回の派遣命令に「警護」の任務は盛り込まれておらず、マスコミは事前の閣議決定があったにも関わらず「現地部隊の暴走」と批判をしていた(河野官房長官は「安全確認」でも警護に含まれる可能性があるため用語の使用を禁じた=伝聞情報)。この事件を受けて宮沢内閣の小泉純一郎郵政大臣はPKOを批判し始めた。
閣議で「血を流してまで貢献しろと言うことではない。金や物での貢献ではいけないと言うことなら汗を流せと言うことだ」「カンボジアは実質内戦に近い状態にあり、事実上危険な状態であればPKOの引き揚げも今後の選択肢に入れるべきだ」と発言したらしい。問題なのはその発言が別の閣僚から漏れたのではなく自分からマスコミに語ったことだ。つまりPKOに対する根強い批判を見て、自民党内の反対派としての存在をアピールしたのだろう。
その後も小泉大臣は講演などで「日本独自の判断で文民警察官をより安全な場所に移動させよ」「政府は国会で言ってきたこと、国民に約束したことを尊重すべきだ」などと持論を展開し、第2次派遣大隊が実施している巡回も「越権行為だ」と批判した。
しかし、日本は自衛隊や文民警察官、選挙監視ボランティアを国連のUNTACに派遣したのであって、現地での勤務態様はUNTACに任せるしかないのは当然であり、それを今更、「怖いから帰る」と言うのは国際社会への背信行為に他ならない。
小泉大臣の父親の純也氏が佐藤内閣で防衛庁長官を務めていたことは自衛隊史で知っているが、派遣を命じた政権与党の政治家としてあまりにも無責任ではないか。
自衛官を含む国民を事実上の戦場に送り込むのなら「死んでくれ」とハッキリ命じるべきであり、その覚悟もなく「安全地帯だから」と言う自己欺瞞を証明するため護身用の武器や弾薬も取り上げる欠陥法を成立させた自民党政権には心底愛想が尽きた。
小泉大臣は加藤紘一元防衛庁長官や自民党防衛族のドンとされている山崎某氏と共に将来の総理大臣と言われているらしいが、この連中を最高指揮官とする自衛隊で奉職はしたくない。
  1. 2015/12/09(水) 09:56:07|
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12月9日・航空自衛隊がソ連軍機に対して警告射撃を実施した。

昭和62(1987)年の明日12月9日に航空自衛隊第83航空隊第302飛行隊の戦闘機が領土侵犯しているソ連軍機に初めて警告射撃を実施しました。
当時、この事件については防衛秘密に属する部分が多く野僧も部外者に語ることを控えてきましたが、既に戦闘機、レーダーは更新されており、秘密とする理由はなくなっているはずです。
野僧が兵器管制幹部として配属された西部航空警戒管制団西部防空管制群で所属した小隊にはこの事件に直接関わったシニア・ディレクター(=先任指令官)から各レーダー・サイトの監視係まで揃っており、事件当時の南西航空混成団司令(西部航空方面隊司令官に就任された。残念ながら故人です)にも個人的に可愛がってもらっていたこともあって裏話まで知ることができました。
おまけに野僧は第83航空隊で勤務していたため当時の同僚たちからも現場の対応を聞くことができたのです。
この事件はソ連軍の4機編隊がベトナムのカムラン湾から極東の基地に向かって飛来し、午前10時40分頃には防空識別圏(ADIZ)に接近したため那覇基地から2機のF-4EJが緊急発進し、さらに「オ■オン」=緊急発進増強が発令されて4機が続きました。
同時に南西防空管制隊は英語とロシア語で警告を実施し、戦闘機が前方に出て両翼を振る「退去」の機体信号を現示したものの無視されました。
やがて1機のTu―16バジャーが他の僚機から離れて沖縄本島に向かってきたため、11時24分前後に南西航空混成団司令の許可を得た先任指令官が「シグナル・ブロー(信号射撃)」を指示し、戦闘機が進路に向けて曳光弾を含むバルカン砲を発射したのです。続いて戦闘機がバジャーの前方に出て、両翼を振った上で右に旋回する「我に続け=強制着陸」の機体信号を実施しましたが無視されました(地上では強制着陸に備えて小銃と実弾を持った警備小隊員が配備され、「先ずタイヤをパンクさせろ」と指示されていたそうです)。
その後、奄美諸島の上空を通過したため再度、警告射撃を実施しました。
この時の飛行経路は(いわゆる)領空侵犯ではなく沖縄本島、沖永良部島などの上空を通過した領土侵犯であり、外国軍であれば撃墜するのが常識です。実際、嘉手納基地上空を通過されたアメリカ軍は「自衛隊機が法的に撃墜できないのであればアメリカ軍機がやる」と連絡官を通じて申し入れてきたそうですが、幸いなことに九州大学出身の南西航空混成団司令は戦闘機パイロットではなく兵器管制幹部出身(1佐以上は職種区分が適用されなくなる)であったため冷静な総合的判断力を有しておられ、米軍が行使しようとする国際軍事常識が日本国内では大きな政治問題になる可能性を考慮し、当時の法令と内部規則で可能な限りの処置を講ずることに留めたのでした。
この1カ月後、在日米軍司令官は退任するに当たり「航空自衛隊が強硬手段に訴えず、冷静に対処したことを高く評価する」と発言しましたが単に政治的な配慮でしょう。
一方、当時のレーダーは電磁波が重なる空域内では相互緩衝を起こすため、与座岳と久米島、沖永良部島のレーダー・サイトの内側では航跡をロスト(=喪失)してしまい、戦闘機が発するSIF(敵味方識別信号)で位置を確認していたのです。
そんな中で唯一、陸上自衛隊勝連分屯地のホーク・ミサイルのレーダーだけが航跡を捉えており、資料作成する時に根拠となる記録を提供しました。
ちなみにシグナルのトリガーを引いたとても濃い顔のKon1尉は小松・第6航空団に転属してF-15に機種転換しますが、翌年の6月29日に島根沖の訓練空域で戦闘機同士の訓練中に衝突事故を起こし、殉職してしまいました。合掌
  1. 2015/12/08(火) 09:35:56|
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振り向けばイエスタディ297(観光案内?)

そろそろ飽きてきた淳之介を喜ばすために最後は少し張り込んでレオマ・ワールドへ出掛けた。レオマ・ワールドは1991年のゴールデン・ウィーク前に「四国唯一の本格的遊園地」として開園したのだが、東京ディズニーランドを知っている若い隊員たちの評判は「やっぱ田舎の遊園地っすよ」と今一だった。
それでもワクワクしている淳之介を助手席に乗せて車を走らせていくと田んぼの中に看板だけが並んでいる。レオマ・ワールドは高松空港の建設予定地を手に入れたリゾート開発会社がゴルフ場を造成する計画を変更して建設した娯楽施設だから元々が市街地から遠く、周囲に人家がないのは当たり前なのだ。とは言えレオマ・ワールドは期待していなかった以上に淳之介を喜ばせた。
「お父さん、ジェット・コースターに乗ろう」「待てよ、身長制限があるからな」そう言いながら看板を確認すると園児としては大き目の淳之介の身長なら大丈夫だった。ここのアトラクションは都会の遊園地ほど過激ではないため身長制限が緩く、さらに行列が短いので待ちくたびれることもなく次々と挑戦できる。しかし、これで私は困ってしまった。
「お父さん、何をブツブツ言ってるの?」「うん、修行しているんだよ」私はジェット・コースターでは目を閉じ、坐禅の姿勢で経文を唱えている。本当は大喜びしている息子の横で悲鳴を上げることはできないので恐怖心を誤魔化しているのだ。
「ああ、面白かった。もう終わり?」「そうだね。あっちにも何かあるみたいだよ」やはりレオマ・ワールドはアトラクションの数が少なく半日で乗り終わってしまった。
敷地の半分には小さな動物園と「歩いて世界旅行ができる」と宣伝している別の施設がある。ただ、それはネパールのサンティナート(目の寺院)やタイとカンボジアの国境にあるプラサット・ヒン・アルン、ブータンの王宮であるタシチョ・ゾンなど世界の名所の復元展示だが、3分の1サイズと中途半端なもので、どうせなら一部で良いから実寸大、それができなければ東武ワールドスクウェアのように25分の1のミニチュアにするべきだろう。
唯一、展示館にあった2階吹き抜け一杯サイズの巨大な曼陀羅だけは感激した。

「お母さん、僕、ジェット・コースターに乗ったよ」「ふーん、よかったね」「それからねェ」「お母さんは疲れているんだから静かにして」家に帰って淳之介が嬉しそうに報告しても美恵子は無関心だった。やはり帰宅した時間は遅く、店が忙しくて疲れているようだ。
「それじゃあ、ゴールデン・ウィーク最終日くらい外食しよう」「でも昼も外食だったんでしょ。いいよ」折角の私の提案も美恵子が拒否し、帰りにコンビ二で買ってきたらしい弁当の夕食になった。
結局、ゴールデン・ウィーク中に美恵子を抱くことはなかった。
タシチョ・ゾン
3分の1サイズのタシチョ・ゾン
  1. 2015/12/08(火) 09:32:37|
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女優・平良とみさんの逝去を悼む

12月6日に連続ドラマ「ちゅらさん」や映画「涙そうそう」などで「おばぁ」を好演したシマ劇(=沖縄演劇)女優の平良とみさんが亡くなったそうです。87歳でした。
野僧は沖縄時代、シマ劇が好きでよく見に行ったため(彼女の通訳付き)、平良さんが「ハーメー(=老夫人)」ではなかった頃から知っていますが、「首里子ユンタ」「多幸山」「人頭税物語」「美ら島」などの歴史劇よりも、「あんまー達のロックンロール」「めんそーれ沖縄・なんくる狂想曲」などの喜劇の突っ込み役の方が好きでした。
平良さんはアドリブ(これは彼女の見解)の舌鋒鋭く、突かれた方はかなり痛い一言のようでシマグチ(沖縄方言)がわかる場内の客たちは爆笑していました。ただし、野僧は隣で爆笑している彼女に通訳してもらってから笑うので完全にずれていました。
その後、本土に帰ってしまったためシマ劇に触れる機会は失われたのですが、平成13(2001)年4月から連ドラ「ちゅらさん」が始まって思いがけず再会を果たしたのです。
ところが平良さんは完全な「ハーメー」になっており、実年齢は何歳なのか非常に気になりました(「ビルマの竪琴」の新旧2作で老婆を演じた北林谷栄さんの例がある)。今回、亡くなった年齢から逆算すると73歳だったようです。
「ちゅらさん」を見てウチの母親が「沖縄の家族って素敵だね」と言ったため、心の底から命を掛けて愛し合っていた彼女と親の有無を言わさぬ命令で引き裂かれた野僧は激怒し、「貴様らにこのドラマを見る資格はない」と申し渡して自宅に帰り、以降、番組が終るまで近づきませんでした(用件があって訪ねて来ても玄関で追い返した)。
平良さんの「アンマー(=母親)」「トゥジ(=妻)」は彼女の母親、「ハーメー」は祖母を思わせましたが、彼女=妻が先に逝ってしまっていますから、美ら海(ちゅらうみ)の向こうのニライカナイ浄土でシマ劇を演じて楽しませてやって下さい。野僧も間もなく仲間に入れていただきます。
南無ミルクユガフ 合掌
  1. 2015/12/07(月) 10:16:48|
  2. 沖縄史
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12月8日・マレー半島上陸作戦が開始された。

昭和16(1941)年の明日12月8日の日本時間午前1時30分に対米英戦争の幕を切って落とす「ヒノデハヤマガタ」の電文を受け、マレー半島への上陸作戦が開始されました。ハワイ真珠湾で海軍機動部隊の艦載機が空襲を開始する1時間20分前のことです。
この夜、山下奉文中将が指揮する第25軍はタイランド湾に細長く伸びたマレー半島の太くなった部分でタイ王国領との国境にあたるイギリス領コタ・バルの砂浜に空襲や艦砲射撃もなしで上陸を開始しました。
これは作戦の最終目標が東南アジアにおけるイギリスの拠点であるシンガポールの占領であり、そこまで一気に進撃する必要があったことや海軍が実施する真珠湾攻撃と同時であることで英・米双方に打撃を与え、戦意を喪失させる必要があったためとされています。
さらに海軍の主力艦隊は真珠湾方面に出撃しており、残余の艦艇は日本周辺海域の防衛に当たっていたため、この作戦に割り当てる余裕はなかったのです。
一方、イギリス軍は前年の日独伊三国同盟の締結により(この時点で独伊は英仏と戦争に突入していた)、遠からず日本が戦争に踏み切ることは予想しており、中立国であるタイ王国との国境付近までトーチカを建設して、イギリス兵19600人、インド兵37000人、オーストラリア軍15200人などの88600人を配備し(日本軍35000人の2倍以上)、撤退時には橋梁を破壊する準備も完了していました。特にタイ王国領内を除けば上陸適地はコタ・バルしかなく、当然のように戦力を集中配備していたのです。
そこに援護もなく上陸した日本軍は波高2メートル以上の荒れた海で輸送船から上陸用舟艇へ移乗することにも苦労した上、苛烈な砲火による頑強な抵抗に遭い、指揮官クラスの戦死、負傷が相次ぎました。さらにイギリス空軍機も出撃して輸送船を空襲したため撃沈第1号を出すことになり、船団は沖に退避することになりました。
それでも日本軍は上陸地点に橋頭保を確保し、折からの悪天候を利用して飛行場を強襲・制圧すると、翌日にはコタ・バル市内を占領したのです。
イギリス兵は激闘が続くヨーロッパ戦線を逃れるため植民地軍に志願してきた者が大半で最初から戦意が低く、インド兵は十分な訓練を受けていない寄せ集めだったため優位に立っている間は武器を使って応戦しても、敵が上陸してくれば銃を捨てて逃げるのは当然でした。
この作戦で日本軍は戦死320人、負傷538人の人的損失に加え、輸送船1隻を撃沈され、多くの舟艇を失いましたが、空軍戦力はヨーロッパ戦線に優先され、大口径の野戦火砲も殆どなかったからこれで済んだのでしょう。
それにしても日本陸軍の上陸作戦の拙劣さは緒戦から如何なく発揮されてしまっています。
上陸適地がコタ・バルしかないのであれば、敵が十分な準備を施していることは事前に予想されることであり、それを艦砲や空襲で破壊することもなく小型の上陸用舟艇を向かわせたことは旅順要塞で乃木第3軍が犯した大きな失敗の戦訓を全く学んでいないことを示しています。
さらにアメリカ軍は太平洋全域の戦争では島嶼への上陸作戦を実施する時、守備隊の3倍以上の戦力を投入する原則を厳守しましたが、日本軍は逆に半分以下でした。
尤も、停戦成立後に千島列島・占守島に上陸してきたソ連軍も25000人の日本軍守備隊に対して8500人でしたからアメリカ軍が贅沢なのでしょう。
そのアメリカ軍もノルマンディー上陸作戦では380000人のドイツ軍守備隊に対して連合軍として156000人でしたから数の問題はあくまでも原則のようです。
  1. 2015/12/07(月) 10:15:44|
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振り向けばイエスタディ296(観光案内?)

「仕事に集中したい」と言う美恵子のプロ意識を尊重してゴールデン・ウィークは私が淳之介を連れて観光三昧に励むことになった。考えてみればゴールデン・ウィーク中に沖縄へ帰省する航空券が飛び込みで取れるはずがないのだ。先ずは小豆島からだ。
「お父さん、船に乗るの?」「うん、船酔いしなければ良いけどな」高松に向かう早朝の電車の中でも淳之介は大喜びだ。防府では海の近くに住んでいながら船に乗せたことがなかった。幼い淳之介は沖を行き来する船を見て「乗ってみたい」と思っていたのだろう。
やがて高松駅へ行き、歩いて桟橋に向かい、そこから連絡船に乗った。淳之介は船酔いもせずにハシャイで甲板を歩き回り、私は転落しないよう気が気ではなかった。
小豆島の波止場には壺井栄の名作「二十四の瞳」の銅像があり、観光客の小母さんたちは子供を数え「12人しかいないじゃない」「足りないわよね」「人数が多いとお金が掛かるのよ」などと言い合っている。しかし、瞳は普通1人に2つあるはずだ。
そこからは島内観光バスで回り、寒霞渓(かんかけい)のロープウェイにも乗った。
「お父さん、ロープウェイってすごいね」淳之介は日本3奇景(群馬県の妙義山と大分県の耶馬渓)の眺めよりも初めて乗るロープウェイに感激している。しかし、ロープウェイも防府の大平山にもあったので申し訳なくなった(律ちゃんとは乗ったことがある)。

次は徳島方面だった。途中の祖谷渓(いやだに)、大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)、かずら橋で私は高所恐怖症と父親の権威の狭間で死ぬ思いをした。
「淳之介、危ないからあまり前に出るな」「だって小父ちゃんたちは覗いているもん」保育所の年中組の息子にこう言われてしまってはパスすることはできない。
「それじゃあ、手を握っていてやるから顔だけ出しなさい」「お父さんは?」「ワシを誘うな」私たち親子の遣り取りを周囲の観光客たちは漫才のように笑いながら聞いている。
やがて初老の小父さんが「坊主、一緒に覗いてみよう」と声を掛けてくれた。こうなると陸上自衛官と言う身分だけは絶対に明かすことができない。何よりも名古屋のテレビ塔のエレベーターの隙間から下が見えることを教えて高所恐怖症にした母親が恨めしくなった。
私としては第1次世界大戦でのドイツ人捕虜を人道的に処遇したことで有名な鳴門市の坂東俘虜収容所を見たかったのだが、建物は木造の兵舎が1棟残っているだけで(当時)、跡地の3分の1は広い公園になっている。淳之介は喜んで駆け回っていたが元々が田舎の子供なので自動車に乗っている運動不足が解消できれば飽きてしまった。
隣接するドイツ館は1993年に改築されたばかりで、歴史を感じさせる外観とは違和感があり、私は展示物を熟読して尊敬する松江豊寿所長の業績を学習したが淳之介には無理だろう。
結局、淳之介が喜んだのは徳島市郊外の眉山(びざん)のロープウェイだけだった。
  1. 2015/12/07(月) 10:14:43|
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振り向けばイエスタディ295

私がPKOで個人貸与された新型の迷彩服に隊員たちは興味津津だった。彼らの要望で披露すると口々に絶賛した。
「これなら偽装網はいらないぞ」「うん、迷彩効果が高いからな」陸上自衛隊の旧型迷彩服は月明りの森の中を想定した色合いのため、草むらや日中はかえって目立つと言われ、演習では身体用偽装網が必要不可欠なのだ。
「だけど1人だけ新型だと違う意味で目立つよ」羨ましそうにしている隊員たちに私の真意が伝わったかは判らないが、PXで買うのもフライングは要注意だろう。
結局、私の新型迷彩服はPKOから戻って以来、お呼びが掛かることもある講演会のステージ衣装になった。

私は市の商工会議所や保守系議員の後援会に呼ばれカンボジアでの経験を語ることがある。この手の依頼は基本的に施設大隊の中核だった第8施設群の幹部の仕事だが演習で不在の場合は私の出番になった。
しかし、講話の内容は原稿にして連隊の事前審査を受けなければならず、アドリブも原則禁止だ。それでも質疑応答となると答えには細心の注意を払わなければならない。
何故なら講演会には必ず新聞記者が同席していて講演内容を録音している可能性もあるのだ。尤も、それは現地へ妨害・邪魔するために来ているとしか思えないマスコミの傲慢無礼な態度で十分に慣れている。彼等は隊員不在の事務所にも勝手に入り込み、机の上の書類や壁に貼っている掲示物を写真撮影しただけでなく、休日に隊員が外出して市民と交流する姿もカメラで追い続け、特に女性と親しくしている姿を狙っていた。
そんな国内報道が国際常識に反することを説明するため、私はフランス軍に売春婦=慰安婦がついていたことを話そうと思ったが削除された。

「ゴールデン・ウィークには沖縄へ帰ろう」今回の大型連休には当直勤務がないことを確認した私は美恵子に提案した。今年のゴールデン・ウィークは5月1日が土曜日なので4日の火曜日に休暇をもらえれば5連休なのだ。
「駄目さァ」「どうして?久しぶりの里帰りじゃないか」「連休は仕事が一杯なのは毎年のことさァ」言われてみればその通りだが、長期海外出張から戻った後くらいは何とかならないのかと思う。それでも美恵子は顔を強張らせて吐き捨てるように言った。
「ニンジンさんの留守中、店には迷惑をかけたのさ。お詫びに頑張らないといけないよ」これをプロ意識と受け取れば納得するしかない。しかし、私は話を続けた。
「でも、沖縄のお父さん、お母さんにも心配をかけただろう」「何の?」「カンボジアに行ったことだよ」「そんなの言ってないさァ」「へッ?」どうやら美恵子は夫が実質的な戦場に出征したことを親に言っていなかったようだ。こうなると唖然とするしかないが、自分の親にも言っていないので黙ることにした。
  1. 2015/12/06(日) 08:55:28|
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振り向けばイエスタディ294

「淳之介、おかえり」帰りは制服のまま保育所に淳之介を迎えに行った。
「あら、お父さんこそおかえりなさい」担当の保母さんは淳之介の荷物を持ってきながら驚いたように挨拶をする。ところが淳之介は保母さんの後ろに隠れてしまった。
「淳之介、お父さんを忘れちゃったのか?」「淳ちゃん、お父さんにおかえりなさいでしょう」保母さんに促されてようやく淳之介は恥ずかしそうに「おかえりなさい」と言う。
「うん、ただいま」そう答えて逃げようとする淳之介を捕まえて抱き上げるとハシャイダような歓声を上げた。やはり半年ぶりに抱く我が子は重くなっていた。
「お仕事は何年でしたかね」「半年ですよ」「そうかァ、年中の秋からですよね」保母さんは納得したようにうなずくと荷物を私に手渡し、淳之介に「今日はお迎えが早くて好かったね」と声をかけた。どうやら相変わらず美恵子は仕事が忙しいようだ。

美恵子の帰宅は遅かった。昨夜の電話で私が淳之介を迎えに行くことを決めていたので、思う存分仕事に励んできたようだ。
しかし、それが半年ぶりの夫の帰宅を迎える妻の姿勢なのだろうか?そんな疑問を感じながら淳之介と一緒にテレビを見て待っていたが、留守宅を守ってくれたことへの感謝で相殺することにした。

夜、久しぶりに淳之介と風呂に入り、美恵子の手料理を食べてカンボジアやタイで買ってきた土産に大喜びをした淳之介を寝かせた後、明日、部隊にもって行く資料を整理してから布団に入ると美恵子は背中を向けて寝ていた。
数カ月ぶりの夫婦の営みを美恵子も待っていると思っていた私はそれを見て困惑した。
「淳ちゃん興奮しちゃってよく寝てないさァ」「えッ?」美恵子は顔だけ上に向けてそう言うとまた淳之介の方を向いた。淳之介を見ると確かにゴソゴソ動き回っているようだ。
「だったら起こさないように静かにしないといけないな」そう言いながら美恵子の背中から抱きついて首筋を吸い、触りなれた乳房を掴んだ。しかし、美恵子はあまり反応をせず人形を抱いているような気分になる。
「言ってることとやってることが違うさァ」「だって久しぶりなんだもん、鼻血が出そうだよ」美恵子の抗議にそう答えたが、本当は伊丹で伊藤2尉を存分に愛してきたことを誤魔化すための嘘だった。
「まあ、淳之介はいい子だからおきたりしないよ」こんな勝手な言い訳をしながら前戯を始めると突然、美恵子が上になってきた。
「もう、前置きはいいよ」そう言って美恵子は腰を沈めて男根を受け入れた。私は感動すべき数ヶ月ぶりの営みのつもりだったが、美恵子の態度の変化の方が気になった。しかし、美恵子は以前に見せた以上の巧みさで積極的に快楽を追い始めている。
やがて美恵子は激しく声を上げ、腰を振り始めた。その好色な表情は別人のようだった。
  1. 2015/12/05(土) 08:48:48|
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12月5日・功罪を遺した元朝鮮総督・南次郎大将の命日

昭和30(1955)年の明日12月5日は朝鮮総督として大きな業績と共に深い禍根を残し、戦後はA級戦犯となった南次郎大将の命日です。
南大将は明治7(1874)年に大分県の豊後高田で生まれましたが、10歳で叔父を頼って上京し、中央の初等教育を受けました。この時、成績優等の評価を受けて高等科に進級していますから田舎で埋もれさせるには惜しい人材(=いわゆる神童)と目されていたのでしょう。
ところが旧制中学に進学すると数学の成績が下降線を辿り、合わせて素行も悪化したため停学処分を受け、それを好機とするため陸軍人脈を持つ別の中学校(エリート陸軍将校の不良息子が集まっていた)に転校し、やがて陸軍中央幼年学校へ進むことになりました。
日清戦争が終る直前に陸軍士官学校を卒業してからは騎兵士官になり、大尉で陸軍大学校を卒業した翌年に勃発した日露戦争では主に大本営参謀として勤務しますが、戦争中に少佐へ昇任して新たに編成された第13師団の参謀として樺太占領に参戦しています。
その後も順調に昇任を続け、第1次世界大戦が終結した大正8年に少将になると支那駐屯軍司令官に就任しました。当時の陸軍は大陸を活躍の舞台と注視していましたから有意な人物は誰しも関わっていたのですが、南大将もまた大正13年に中将へ昇任して満州に駐屯していた第16師団長になり、さらに朝鮮軍司令官、昭和5年に大将となってからは関東軍司令官として大きく関わり、昭和11年に予備役に編入されると第8代朝鮮総督に就任したのです。
朝鮮総督としての南大将は「大アジア主義」の頭目として「内鮮一体化」を推進しました。これは日本人と朝鮮人を同じ天皇の家臣=皇民として平等に扱うと言う「明」の面と朝鮮人の民族としての誇りや伝統的な儒教倫理を踏みにじる「暗」の面がある政策ですが、「根っからのお人好しだった」と評される南大将なので日韓併合から4半世紀が過ぎて完全な同胞になっていると本心から信じていたのかも知れません。つまり朝鮮半島の人々が未だに吐き続けている南大将への恨み節は無神経=鈍感さの結果なのであって、現代の中国が少数民族の自治地域で行っている「民族浄化=少数民族の女性を漢民族の人民解放軍兵士がレイプして妊娠させ、漢民族の血を持った子供だけを残す」とは真逆の目的をもった政策です。
同時に南大将は朝鮮半島を大陸に進出する日本軍の兵站基地にしようと計画しました(前提は「朝鮮人も大日本帝国の同胞だから協力するのは当たり前」と言う認識)。具体的には農業の近代化によって収穫量を増大させ、水力発電や港湾施設、道路網を整備して工業化を進めました。この結果、対米戦争が勃発して太平洋上の島々に配置された守備隊の多くはアメリカ海軍の潜水艦によって輸送船が撃沈されたことで兵站が滞り、戦闘を前に飢餓と疫病で自滅していったのに対して、大陸戦線では敗戦直前まで補給が途絶えることはなかったようです。
この産業近代化政策は満州に接する北側が工業、平坦で水利に富む南側は農業を中心としたため戦後、朝鮮半島が分断されると当初は北の共産主義国家の方が優位に立つことにもなりました。
敗戦後、南大将はA級戦犯の指定を受けて巣鴨プリズンに収監され、極東国際軍事裁判=東京裁判の被告となります。しかし、ここでも罪の意識や重い判決への不安は全く見せず、長く伸ばした仙人のような白鬚の手入れに励んでいたそうです。
これを泰然自若と呼ぶよりはやはり「自分は絶対に罪を犯していない」と信じている「鈍感な善意の人」と理解する方が適切なのかも知れません。
余談ながら野僧の父方の祖父は徴兵で朝鮮半島に配属されて南中将に仕えたそうで、兵役を終えてもその人徳を忘れず、4番目の息子=叔父を「次郎」と名付けました。
  1. 2015/12/04(金) 09:53:02|
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振り向けばイエスタディ293

伊丹での解隊式、それに続いての資料作成の間、カンボジアでの禁欲生活を取り戻すように私と伊藤2尉=佳織はお互いを求め合った。そんな関係にも幕を下ろす夜、佳織と外泊した。
「モリヤ2尉はいつも私が気持ち好いように抱いてくれるけど本当はどうしたいんですか?今夜は好きしてもいいですよ」私はその言葉に黙ってうなずくと抱き締めて口づけをした。佳織は一瞬驚いて戸惑ったが目を閉じて素直にそれを受け留める。
ベッドに入って灯りを消すと私は佳織の身体をゆっくり愛おしみ、味わうように愛撫した。
「これがしたいことですか?・・・こんなに優しく愛してくれるんですね」やがて佳織は耳元で呟き、再び口づけを求めてきた。それは、ゆっくりと味わうような口づけだった。
私は佳織の身体の受け入れ準備が整っていることを確かめて正常位で入っていく。身体の中でしばらく一体感を確かめた後、ゆっくり腰を動かすとその度に佳織もゆっくり顎を上下させる。激しくはないが愛情を確かめる営み、それが私のしたいことだった。
「好きです、私、貴方が好き・・・」佳織はそう言って私の胸に顔を埋めて涙を零した。

資料作成で残っていた第8施設群の幹部たちと一緒に善通寺へ帰ると、駅まで出迎えてくれた連隊のジープで駐屯地へ向い、連隊長に帰隊の申告をした。
「申告します。第4中隊 2等陸尉 モリヤニンジンは平成5年4月10日付を以て国際連合カンボジア暫定統治機構への第1次カンボジア派遣特別施設大隊から原隊復帰を命ぜられました」「うむ、よく覚えられた」答礼を終えた連隊長は長い申告の台詞を一気に言い切ったことを誉めてくれた。この台詞を命じた1科長も横で胸を撫で下ろしている。
「まァ、座れ」普通は申告を終えればそのまま退室なのだが連隊長はソファーを勧め、立ち合っていた中隊長と1科長にも同席するように促した。
「カンボジアでは残念な事件が起きたが自衛隊に被害はないのか?」「はい、自衛隊は地元の人たちが帝国陸軍を懐かしんでくれていますからクメール・ルージュ(=ポルポト派の反体制ゲリラ)も敵に回せないのでしょう」「ほう、帝国陸軍をな」連隊長の感心したような返事に隣の席の中隊長も感激した顔でうなずいた。
「何よりも駐車場の車が横一線に並んでいるだけでも隙のない威圧感を与えると外国軍が感心していました」「そうかァ、我々には当たり前のことだが」私の話が意外だったのか、連隊長と1科長、中隊長は互いに顔を見合わせた。
「ところで選挙ボランティアの射殺事件については何か聞いているか?」やはりその話題に戻った。おそらく連隊長も現地リポートを期待されているのだろう。しかし、私は首を振った。
「いいえ、事件直後に移動になりましたから」実際、UNTAC本部の伊藤2尉も第1報と現場に駆け付けたインドネシア軍兵士の報告を聞いただけだったらしい。
その後は外国帰りの土産話になってしまい、中隊の終礼で紹介されてから帰宅した。
  1. 2015/12/04(金) 09:51:40|
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振り向けばイエスタディ292

タイ・バンコクの空軍基地まで車両で移動し、航空自衛隊のC―130輸送機で小牧基地に帰ったが、熱帯のカンボジアからでは4月上旬の小牧の風=伊吹下しは少し冷たい。
C―130輸送機から下り、エプロンを横切ると見覚えがある顔が待っていた。
「モリヤ2尉、お久し振りです」「おっ、麻野3曹じゃないかァ」「今は吉田理美です」航空救難隊の識別帽をとった理美は笑顔で答えた。
「そうかァ、結婚したんだね。オメデトウ」「ありがとうございます」防府の愛知県人会で知り合い、同じ航空機整備員として語り合った理美だったが、私の陸上自衛隊転換以降は連絡がとれなくなっていたのだ。
「1輸空の友達がモリヤ2尉に会った。PKOに行ったって教えてくれたんです」「それは守秘義務が守られておらんなァ」私の惚けた返事に理美は笑った。
「でも、どうして陸上なんかに行っちゃったんですか?」「航空教育隊の教育内容をトコトン追求してみたかったんだよ」「ふーん、やっぱりモリヤ2尉ですね」そう言って理美が差し出した手で握手した。そんな姿を伊藤2尉は少し離れた場所から黙って見ていた。

幹部食堂に向って歩きながら伊藤2尉は理美のことを訊いて来た。
「あの人は誰ですか?」「防府の頃に可愛がっていた同郷のWAFだよ」「モリヤ2尉は岡崎の出身でしょう」「そう、岡崎の三河武士だよ」「・・・あの人、私の敵ではないですよね」「えッ?」そう言って伊藤2尉は真顔で私の顔を見た。思いがけない言葉に私は返事をできないまま幹部食堂につきブルーベレーを肩章に差し込んで中に入った。食堂の中は迷彩服で溢れている。
久しぶりに日本での夕食をとると伊藤2尉もホッと人心地がついたようだ。
「私の官舎は6カ月間も空き家だったからきっとカビてるなァ」守山駐屯地所属の伊藤2尉は一度官舎へ戻り、明朝、我々が伊丹に向う前に小牧基地まで戻ってくるのだ。そのまま伊藤2尉は佳織の顔をして訊いてきた。
「モリヤ2尉、一緒に来て泊りませんか?」「官舎はまずいよ、近所の目もあるし・・・」官舎の相互監視システムは私も防府、富士、善通寺で経験済みだった。それでなくても目立つWAC幹部の1人住まいに男が同行しては後が面倒だろう。
「だったら守山の飲み屋で待っていて下さい、後で私も行きますから」「でも作業服と迷彩服しかないしなァ」流石にPKOへ私服は持って行っていない。
そんな話をしているところで食事は終わった。後は外来宿舎に戻って入浴するだけだ。冬の夕陽が窓越しに食堂内に差し込んで佳織の表情に影を作っている。
食堂の日本茶を飲みながら佳織は独り言のように呟いた。
「このままお別れは嫌ですよ、続きは伊丹で・・・」私はこんな関係を当り前にしている伊藤2尉に戸惑い、一瞬、美恵子への後ろめたさを感じた。やはり日本の空気を吸うと夢から覚めて現実に引き戻されるようだ。
樋口3曹イメージ画像
  1. 2015/12/03(木) 09:45:12|
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12月2日・川崎航空機の創始者・川崎正蔵の命日

大正元(1912)年の本日12月2日は戦前だけでなく戦後にも数多くの名機を生んだ川崎航空機、現在の川崎重工業の創始者である川崎正蔵さんの命日です。
川崎さんは大塩平八郎の乱が起こる前年の天保7(1836)年に鹿児島で生まれで、後に日本の経済界の近代化に大きな足跡を残した五代才助=友厚さんと同郷・同年齢になります。
川崎さんも五代さんと同様に幕末に向かう時代の中で長崎での貿易や大阪蔵屋敷の運営に携わり、尊皇攘夷なる過激思想とは別次元の冷静・合理的な実利の社会観を身につけていきました。
明治になると島津藩での経験を活かして事業経営で力を発揮し、そこで得た資金を元手に造船業界に進出しました。これが川崎航空機、そして川崎重工業に発展するのです。ただし、川崎航空機が設立された時に川崎さんは亡くなっていました。
川崎航空機は大正8(1919)年に川崎造船所兵庫工場の中に自動車と飛行機製作所が設立されたことから始まります。川崎の飛行機部門は第1次世界大戦で敗れたドイツから技術者を招聘しており、フランス系の中島飛行機と新型機納入を巡って競争・切磋琢磨していきました。このドイツからの技術者によって川崎航空機は液冷エンジンをお家芸とするようになり、他社とは別の存在感を発揮するようになります。
大正12(1923)年には岐阜県の各務原に滑走路を併設した飛行機工場が作られ、昭和初期には複葉の92式戦闘機が陸軍に採用されたものの日進月歩の発達の中で陸軍の要望も高まり、その後継機を巡って中島飛行機の単葉機と熾烈な争いを繰り広げ、複葉液冷の95式戦闘機を採用させることに成功しました。現在の日本人には意外かも知れませんが、この中島飛行機と川崎航空機の一騎打ちに割り込んできたのが後発の三菱重工業だったのです。
日本がアメリカとの戦争に突入すると昭和17(1942=皇紀2602)年には2式複座双発戦闘機・屠竜(2式単座単発戦闘機は中島航空機の鍾馗)、さらに液冷エンジンの3式戦闘機・飛燕で気を吐きました。その後、飛燕は熟練工の不足によって複雑な液冷エンジンの生産が間に合わなくなり、エンジン以外は完成していた機体に空冷星型エンジンを載せた5式戦闘機に改造され、思いがけない高性能と信頼性を発揮しました。
しかし、戦争末期になると空襲によって工場が次々と壊滅的被害を受け、終戦後は財閥解体によって製鉄や海運などの系列会社の大半が独立したため中核企業だった造船所が川崎重工業として航空機部門を吸収合併したのです。
戦後になって航空自衛隊が創設されると川崎航空機はロッキード・T-33A練習機をライセンス生産します。ただし、T-33Aのジェット・エンジンは遠心式圧縮だったため主流になるタービン圧縮方式の独自技術の習得・開発には結びつかなかったかも知れません。
そして1970年、中型輸送機の傑作・Cー1が採用されます。Cー1は同世代のCー130シリーズと比べても優れた性能・機能を数多く有していますが、惜しむらくは当時の政府が防衛政策に対して及び腰だったためペイロード(搭載量)、航続距離などを意図的に落とされた面が目立ち「技術の粋を集めた」と言えません。
さらにT-4練習機ではエンジンも国産(石川島播磨重工業製)、破砕式キャノピー(=風防)や外気を濾過・圧縮して呼吸用空気を製造する装置など持てる技術を遠慮なく結集していますが、ここでも機銃を搭載した着脱式ポットの採用や火器管制装置と爆撃照準器の装着が検討されていたものの武装は認められず(練習機の開発として予算を要求したため大蔵省が許さなかった)、結局、極めて優れた飛行性能はブルー・インパルス用になってしまいました。
  1. 2015/12/02(水) 09:48:10|
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振り向けばイエスタディ291

予定通り第1次派遣大隊は6カ月で交代になり、次は北海道・北部方面隊の第3施設団だった。第2次派遣大隊長の岩下(いわおろし)義夫1佐は最初の部隊が豊川の第6施設群だったそうで旧知の隊員たちは大歓迎している。
我々は先遣隊との間で引き継ぎを実施したが、指揮所の通訳要員は業務別の連絡先と報告内容の確認、他は現地情勢の概略くらいだった。
「先日の事件でも明らかなように治安情勢は悪化の一途をたどっています。やはり5月28日の国民議会選挙を阻止したいのでしょう」「そうですか・・・今度の内閣は以前よりも腰が引けていて困っています」第1次派遣隊が出発した後、宮沢首相はPKO法で浴びた批判を払拭するため内閣改造を行い、顔となる官房長官を元防衛庁長官の加藤紘一氏から新自由クラブを潰して戻った河野洋平氏に交代させた。しかし、河野氏は自民党を飛び出した人物だけに保守政治家としての気概は全く持ち合わせていないらしい。
「それでは武器使用に関する要件の緩和は?」「ないどころか厳に戒めるように言われてきたよ」そう答えて通訳要員の1尉は溜息をついた。第2次派遣大隊は我々のようなOD色の防暑作業服ではなく新型迷彩服だ。つまり陸上幕僚監部以下だけが実戦に備えているのだろう。あの事件の日本人ボランティアは初の文民の犠牲者だったが、その後も投票会場や選挙管理委員会、外国人ボランティアの宿舎までも銃撃を受けており、それを取り締まる文民警察官も外国軍の警護を受けて巡回しているのだ。
「まァ、大隊長はやれることをやるつもりだろうけど・・・」「マスコミが足を引っ張りますから気をつけて下さい」「やっぱりな。新聞を読んでいて判ったよ」この口ぶりでは我々の努力の成果も日本国内では泥を塗りたくった汚れ物として紹介されているようだ。

警備隊も引き継ぎを終えると夜は食堂で打ち上げ会になった。本来であれば新旧派遣大隊で酒を酌み交わしたいところだが、治安情勢が悪化している中で酔うほど飲酒することはできない。それでもビール代わりの麦茶を酌み交わすと宴席ならぬ茶話会はそれなりに盛り上がってくる。第2次派遣隊からも数名が参加しているがやはり酒は控えていた。そんな彼らの強張った顔を見て豊川の隊員が茶山1尉にリクエストした。
「中隊長、お得意のあれをやって下さいよ」「あれ?」茶山1尉が首を傾げると隊員たちが手拍子を始め、口々にカラオケのイントロを歌い始める。それを顎で合わせながら茶山1尉が車座の中央に出て隊歌の姿勢をとった。
「すらかば(白樺) 青空 南風、こぶす(辛夷)咲くあの丘 北国の 北国の春・・・」それは岩手県人・茶山1尉の十八番「北国の春」だった。その正調岩手訛りの唄に東北の部隊から北海道へ転属している隊員たちも合唱を始める。
「・・・あの故郷へ 帰ろかな 帰ろかな」大合唱で唄い終えると食堂は拍手で包まれた。
映画「ビルマの竪琴」では日本兵の「埴生の宿」とイギリス兵の「ホーム・スイート・ホーム」の合唱になったが、北国の自衛隊と共鳴しようとすればこの歌かも知れない。
  1. 2015/12/02(水) 09:43:04|
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第38回月刊「宗教」講座・聖書に出演した女性たち

今回は第35回で「佛弟子の尼僧たち」を紹介したので、妙なバランス感覚を働かせました。
聖書には旧約聖書(英語ではOld Testament)と新約聖書(New Testament)があり、日本人の中には「ヤク」と言う語感から「同じ内容の旧い訳と新たな訳ではないか」と誤解している者もいますが、この「約」は「約束」の意味でカミさん(=創造主)との契約のことです。ちなみに「Testament」と言う単語は「聖書」以外には「告白」「証左」「信条」、さらに「遺書」などと訳されます。
旧約聖書は天地創造から始まり、最初の人間夫婦がカミさんを裏切ったことによる失楽園(不倫愛の話ではない)。夫婦の息子たちカインとアベル兄弟の骨肉の争い。有名なノアの方舟(この時乗っていた人間が八人だったので「船」と言う漢字ができたと主張するキリスト教者もいる)。人間の言語が乱れる原因になったバベルの塔。ソドムとゴモラの街が滅ぼされる時、あくまでもカミさんに従ったロトと背いて振り返って塩の柱にされてしまった妻。カミさんがアブラハムに「我が子・イサクを生贄に捧げよ」と命じて信仰心を試し、そのイサクの花嫁探し。イサクの息子たちエサウとヤコブ兄弟の争い。ヤコブの息子・ヨセフが兄弟の策謀でエジプトに追われるまでの「創世記」。そして預言者・モーセの誕生とエジプトで奴隷になっていたユダヤ人を救い、主から「十戒」を受ける「出エジプト記」。モーセの後継者・ヨシュアの物語である「ヨシュア記」。さらにダビデがエルサレムの王となるまでとその後の物語である「サムエル記」が大筋ですが、この他にも「士師記」「ルツ記」「ヨナ記」「ヨブ記」「エステル記」「ネヘミヤ記」「列王紀・歴代誌」「エレミア書」「ダニエル書」などの別伝が加えられています。
旧約聖書は本来、ユダヤ教の聖典なのですが、名前は違っても唯一絶対とするカミさんを戴くキリスト教やイスラム教でも根本教典に位置づけられています。一方、新約聖書はマルコ、マタイ、ヨハネ、ルカによる「福音書」と言う独立したイエスの言行録(ルカは使徒ではない)とイエス没後の原始キリスト教団の動向を歴史書としてまとめた使徒言行録。使徒でありローマ・カソリックの始祖でもあるバウロの手紙。使徒たちの言葉とされる合同書簡。これ以外の外典(「トマスによる福音書」はこれに含まれる)、そしてヨハネによる「黙示録」です。
この黙示録はイエスの教えを伝える「預言書」なのですが、これを「予言書」と誤解する者も多く、怪しげな小説や映画の題材にされることもあります。
旧約・新約聖書には魅惑的な女性が登場し、固い説話をドラマチックにしています。
先ずは最初の女性であるエヴァです。彼女は以前、イブと呼ばれていましたが、これは「Eva」を英語で「イーヴァ」と読むため日本人が聞き間違えた名前です。ちなみに原点のヘブライ語では「ハッヴァー」で「命」「生物」を意味する単語です。
天地を創造することにしたカミさんは1日目に闇の中で「光あれ」と言って光を創り、それを「昼」と名づけました。続いて2日目は大空と水を分けて「天」を創り、3日目は水と陸を分け、陸に色々な草や木を芽生えさせました。4日目には太陽と月と星を創って天に置き、昼と夜を支配させました。5日目は海に魚などの生物、空には鳥や虫を創り、6日目に陸の動物を創った後、人間を自分の姿に似せて創ったのです。こうして6日間働いて疲れたカミさんは7日目に休息しました。これが週7日制と日曜休みの紀元ですが(日本に入ってきたのは明治になってから)、外国のカレンダーでは日本とは逆に「月火水木金土」の後に「日曜日」があります。
最初に創られた人間はアダムと名づけられた男性でしたが、他の動物が雄雌一対なのでカミさんはアダムの肋骨を取り、それで女性のエヴァを創ったのです。ところが後世になって解剖学が発達すると男性と女性の肋骨の数が同じであることが問題になり、キリスト教会は弁明に苦慮し、問題を提起した解剖学者を異端者として罰したと言われています。ただし、火焙りになったかは不明です。
アダムとエヴァは楽園にある樹木の果実を自由に採って食べることを許されていたものの中央にある「善悪を知る木」の実だけはカミさんから禁じられていました。ところがエヴァは蛇にそそのかされて知恵の木の実を食べてしまい、アダムにも勧めたため2人はカミさんと同じ知恵を持ってしまったのです。
羞恥心から裸である姿を隠そうとした2人にカミさんは戒めに背いたことを察し、楽園から追放しました。これが「原罪」ですが、旧約聖書の記述通りに「人間が他の動物にはない『知恵』を得たこと」だけでなく、男女の肉体関係に生殖と言う自然の摂理以外の目的=快楽を持ったこととする珍妙な説もあります。
楽園を追われる時、エヴァはカミさんから「お前は夫によって支配され、子供を生む苦しみを知るだろう」。アダムは「一生自分の力で大地を耕し、働き続け、最期は大地の土に還えることになる」との宣告を受け、このため旧約聖書を信奉するユダヤ教、キリスト教、イスラム教において労働と出産は原罪による罰とされ、その軽減は彼らの願いとなってきました。それにしても遠い昔の顔も知らない最初の人類が犯した過ちを現在の我々まで贖罪し続けなければならない宗教は疲れます。
続いてイエスを生んだマリアです。マリアと言えば処女懐妊ですが、これをカソリックにおいては「無原罪の宿り(悪いことしてないのにできちゃった)」と言っており、前述の「原罪」を男女の肉体関係とする論拠になっています。ただマリアの処女懐妊を述べているのはマタイとルカによる福音書だけで、マルコやヨハネ、さらにトマスによる福音書では触れていません。
イエスには弟がいますから出産後には夫であるヨセフと肉体関係があったのは間違いなく、弟たちは「有原罪の宿り(やることやってできた)」なのでしょう。
前回も述べたように「マリア」と言う名前は当時のユダヤ人女性には極めて多かったようで使徒のヤコブ、ヨセフ、タダイのユダ、シモンも「マリアの子」とする説がある一方で、カソリックではヨセフを男ヤモメにして連れ子でマリアと結婚したことにしています。その根拠として結婚前に妊娠したマリアを「不貞を働いた罪女」として訴えなかったことを上げる宗教学者まであります。
つまり「折角見つけた後妻を逃す訳にはいかなかった」と言うことですが、ヨセフを実父とする代わりに古代ユダヤの英雄・ダビデ王の末裔とする説もありますから、ローマ帝国の圧迫の中、キリスト教を布教し、信者をつなぎとめるためにはイエスだけでなく関係者まで完全無欠の神聖な存在にする必要があったのでしょう。
ローマ・カソリックの総本山・サンピエトロ大聖堂にあるミケランジェロの名作「ピエタ」像のマリアは抱いている我が子・イエスの亡骸よりも若く見えますが、これは「無原罪のマリアは歳を取らない」と言う教説に基づいているそうです。
未完成のまま(「あえて途中で止めた」と言う説もある)のロンダニーニの「ピエタ」をミケランジェロがどのように完成させるつもりだったのかには興味があります。
マリアは1846年にフランスのラ・セレッタ、1858年にフランスのルルド、1917年にはポルトガルのファティマに現われて奇跡を起こしたとされていますが(=ローマ教皇庁公認)、目撃談では青い衣をまとった金髪の女性とありますから中世以降の宗教画のイメージで、考古学上の古代ユダヤ人の風貌には合致しません。
次もマリアですが、こちらは出身地の「マグダラ」を付けて識別することが一般的なようです。こちらのマリアはイエスの妻とする俗説が根強く、2人の濡れ場を描いた映画が「カミに対する冒涜」として激しく批判されたこともあります。
その点、釋尊は子持ちなのでブータン、チベットなどのヒマラヤ佛教では煩悩が尽きることを性行為で表現しているリアルな佛像=歓喜佛が祀られています。
新約聖書に出てくるマグダラのマリアは淫慾に溺れた汚れた女だったのですが、エルサレム入城を終えてベタニアに戻ったイエスに高価な香油を塗り、その場で体内に巣くっていた7つの悪霊を退散してもらって救われたとされています。
そしてイエスが磔になるのを遠くから見守り、埋葬を見届け、安息が終わった日の早朝に生みの母のマリアと共に埋葬地に行くと地震が起こって入口を塞いでいた巨石が転がり、中に入るとイエスの遺骸はなかった。そこにいた天使からイエスの復活を告げられ、使徒たちのところへ伝えに走るのです。そして真っ先に復活したイエスに会いますが、すがりつこうとすると「まだ父=カミさんのところへ行っていない」と拒まれてしまいます。この親密ぶりを見るとやはりイエスとマグダラのマリアは夫婦でなくとも恋人同士だったのではないでしょうか。
マグダラのマリアの身の上については「罪深い女」と言う記述から「売春婦だった」との説もあり、人々が石打ちの刑にしようとしているのを見てイエスが「自分自身に一切の罪がない者だけが石を投げよ」と言って救った姦通を犯した女が、ベタニアまで同行してきたとの推測・解釈もあります。
マグダラのマリアは実在したと信じられていて、イエスが昇天するのを見届けた後、兄弟と共に南フランスのマルセイユに辿り着き、晩年は洞窟で隠遁生活を送って死に、遺骨の一部はサント・マドレーヌ大聖堂に収められていると言います。
最後はサロメです。こちらはイエスに直接関係なく、イエスを洗礼したヨハネの首を刎ねさせた少女として新約聖書に登場します。
サロメの母・へロディアは夫の兄であるパレスチナの領主・ヘロデ・アンディパスと不倫関係になり、正妻を追い出して後妻に入ったことをヨハネに非難され、何としても殺そうと夫をそそのかしていたのですが、ヘロデは庶民に人気があるヨハネを殺すことができませんでした。そんな時、絶好のチャンスが巡ってきました。
ヘロデの誕生を祝う宴席で娘のサロメが踊りを披露し、それを誉めたヘロデが「褒美に望む物を与える」と約束したのです。迷っている娘の耳元でヘロディアは「ヨハネの首と言え」と命じました。こうして洗礼者・ヨハネは斬首されたのです。
ただ新約聖書にはサロメと言う名前はなく、単に「ヘロディアの娘」とされていますが、古典「ユダヤ古代誌」に聖書と同じ両親の娘としてこの名前が出ています。
ルネッサンス以降の宗教画でもこの名前を用いた多くの作品が残されており、ヨハネの首が載せられた銀の盆を持った少女が冷たい微笑みを浮かべているのが普通ですが、野僧は国立西洋美術館で見たギュスターヴ・モロー作の「牢獄のサロメ」が好きです。こちらは牢獄の壁際で奥の部屋で首を刎ねられようとしているヨハネの様子を不安そうにうかがっている情景です。
野僧は苦行を捨てた釋尊に乳粥を供養した娘・スジャータの名前をコーヒー・ミルクに採用したように、軟膏のサロメチールもサロメの冷たさを使ったのではないかと推理し問い合わせてみましたが、こちらは主成分のサリチル酸と効用があるとされる病名のロイマチス(=リュウマチ)、それにメチルアルコホールの合成語のようです。
しかし、聖書の女性たちはイエスの母のマリアに代表されるように後世のキリスト教団の必要によって神聖化されてしまい実像は伝わっていないようです。
やはり夫になるヨセフとの婚前交渉で妊娠したマリアが生んだ息子が普通ではなかったと言う方が説得力はあるでしょう。
さらにリアルさを追求するのならずば抜けて優秀な男性との肉体関係の結果の妊娠になりますが、これでは「原罪」以前の「不貞」に他なりません。
古事記や日本書紀、日本霊異記などに描かれている日本の神話では神さんの不倫、夜這い、強姦、乱交などは珍しくないので気楽にこんな罰当たりなことを言いますが、クリスチャンは頑なですから許されないでしょう。
懺悔。アーメン
38b・ゴールデンハーフ
ゴールデンハーフのエバ(右・父はスペイン人)とマリア(左・父はアメリカ人)
38c・ピエタ像サンピエトロ大聖堂の「ピエタ」像
38d・洗礼者ヨハネの首を持つサロメ
ルーカス・クラナッハ「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」
  1. 2015/12/01(火) 08:37:30|
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振り向けばイエスタディ290

我々の帰国が迫った4月8日、最も危惧していた事態が起こった。5月28日に実施される国民会議選挙を支援する日本人ボランティアの若者がゲリラと思われる武装集団に拘束され、射殺されたのだ。
現場はポルポト派の影響下にあるとされる地域の1つ・カンボジア中央部のプラサットサンボ郡のフィル・クレル村だった。その日、若者はクメール語の通訳と一緒にUNTACの公用車で選挙の説明と選挙人登録に巡回している途中を襲われたのだ。
救助を求める無線で「アイ アム ダイング(私は死ぬ)」と告げた後、2人とも車から降ろされて背中に3発、後頭部から左目に貫通する銃創を受けたと言う。
その夜、UNTAC本部で事件の状況を詳細に聞いていた伊藤2尉が電話をしてきた。日本のマスコミ関係者は事件の取材に出掛けているらしく今日は日本語だ。
「何でこんなことが・・・」「それが戦場と言うものだろう」「でも、善意で来ているボランティアを襲うなんて信じられません」「ゲリラって言う連中は弱い者を狙うんだ。彼は攻撃目標の弱点だったのだから仕方ないだろう」「仕方ないって・・・」珍しく伊藤2尉は私の答えに納得できないようだった。
「彼は大阪大学を出て就職もしないでUNTACに応募したんです」「それがどうした。戦場に来る以上、死の覚悟を持ってくるのは当然だ。その覚悟していることが現実になっただけだろう」「モリヤ2尉とは思えない冷たい見解ですね」「ワシは武人だよ。武人が戦闘を語ればこんなものだよ」伊藤2尉は黙ってしまい電話の向こうの荒い息使いだけが聞こえてくる。やがて受話器を握り直す音が聞こえた。
「私も武人です」「そうだ。ワシの掛け替えのない戦友だよ」「若し、私が襲われたら?」「近くにいれば身を盾にして守る。手が届かないところだったら必ず仇を討つ。それもワシの覚悟だ」「・・・ありがとうございます」伊藤2尉の声は少し湿り気が加わったようだ。
「それじゃあ、彼の死についてモリヤ2尉は特別な感情を持たないんですか?」「そんなことはない。悔しくてならないよ」「彼の死が?」「否、何で文民が危険な場所で働いて、俺たち武人が安全地帯に留まっていなければならないのか。そう思うと銃を持って脱走したいくらいだ」この過激な発言に聞き耳を立てていた指揮所の同僚たちが一斉にこちらを見たので、笑顔を作って誤魔化した。
「その時は私も連れて行って下さい」「君は残ってワシの無残な骸(むくろ)を葬ってくれ。頼んだよ」「頼まれません。死ぬ時は一緒です」電話だから周囲には私の声しか聞こえないが内容は大胆な愛の告白になっている。しかし、それでは同じ異国で若い命を散らした同朋に申し訳なくなり電話を終えた。
国会でのPKO派遣法の審議は自衛隊の海外派遣の可否に空費されてボランティアや文民警察官の安全確保については全く触れなかった(少なくともマスコミは取り上げなかった)。つまり彼こそ無能な政治の犠牲者なのだ。
  1. 2015/12/01(火) 08:33:46|
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