1996年の明日1月1日は「31ノット」の仇名で呼ばれた勇将・アーレイ・アルバート・バーグ大将の命日です。94歳でした。
バーグ大将は20世紀が始まった1901年に海がない荒涼の大地・コロラド州の農家の息子として生まれましたが、1919年に海軍士官学校に入り、1923年に卒業して少尉に任官すると最新鋭の超弩級戦艦・アリゾナに配置されました。ちなみにアリゾナは1941年12月8日に真珠湾で撃沈され、現在も艦体を軍港内に留め、上にはアリゾナ・メモリアルが設置されています。
艦艇を移動した後、地上勤務になりミシガン大学で工学博士の学位を取得すると駆逐艦の艦長を経て技術士官として工廠に配置されることになり、そこで中佐に昇任しました。
太平洋戦争が始まると海戦に参加できるよう手を尽くし、南太平洋戦線で駆逐艦隊司令官として勇戦したのです。
この時、「リトル・ビーバーズ」と呼ばれた第23駆逐艦隊の司令官に就任すると22回の海戦に参加し、日本海軍の巡洋艦1隻、駆逐艦9隻、潜水艦1隻を撃沈・撃破、航空機30機を撃墜しています。そして艦隊を当時の駆逐艦の限界速度を超える31ノットで航行させ、上級司令部に「現在、31ノットで航行中」と打電したことで「31ノット・バーグ」の仇名をつけられました。
こうして太平洋で日本海軍にトドメを刺すべく編成されたマーク・ミッチャー司令官の高速空母艦隊=第58任務部隊の参謀長に就任すると沖縄戦に参加し、戦艦・大和以下の艦隊が海上特攻で出撃したことを知ったレイモンド・スプルーアンス中部太平洋艦隊司令官が「戦艦同士で海上決戦させたい」「航空機は損傷を与える程度に留めるように」と言い出して艦隊内の戦艦を向かわせようとしたのに対して、パイロット出身のミッチャー司令官が歯嚙みするのを「ジャブでもノック・アウトさせられる」と助言し、初回の攻撃で撃沈するべく準備を進め、4月7日に実現しました。
終戦後はウィリアム・ハルゼー提督と同様に旧敵・日本に対して嫌悪感、侮蔑視をあからさまにしていましたが、ラボール守備隊司令官だった草鹿任一元提督と知り合ったことで一転して新日家になり、日本の早期独立と海上自衛隊の創設に全力を傾注しました。
このため3期6年に渡る(現在も破られていない最長記録)海軍作戦部長を退任した1961年には勲1等旭日大綬章を授与されていますが、本人の遺志で遺体に装着して埋葬されたため現在は実物をみることはできません。
さらに生前に命名されていたアーレイ・バーグ級の駆逐艦の全艦は追悼のため1分間の31ノット航行を実施したそうです。
同じ勲1等旭日大綬章でも日本人を大量虐殺したカーチス・ルメイは見向きもしなかったのとは真逆であり、政府は勲章の権威を守るためにそのあたりの検討を十分にするべきだったのでしょう(授与したのは佐藤栄作内閣ですが)。
- 2015/12/31(木) 08:55:56|
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夜になって佳織と淳之介の3人で、引っ越し前ではあったが官舎の近所回りをした。
「こちらが伊藤さんのホフマンさん?」「ヘッ?」今度はいきなり隣りの奥さんからオカシナことを言われた。
「だって伊藤さん、PKOに言っている間に奥さんに逃げられてクレイマー・クレイマーしている同期がいる。私が子供さんの母親になるって言うんだもん」「はァ・・・」どうやら官舎でも事前情報を流してあるらしい。
「だから『やめなさい』って言ったのに今度は自分が母親になっちゃって」「どうも、すみません」私は頭をかきながら振り返ると佳織は可笑しそうに笑っている。奥さんはそんな佳織と淳之介の顔を見ながら微笑んで言葉を続けた。
「でも、優しそうなお父さんで、これなら安心ね」「はい、よろしくお願いします」結局、どちらも佳織が言っていた通り、取り越し苦労のようだ。
考えてみれば旧日本軍の通信将校は情報に関する任務も負っていた。その意味では心理学専攻の佳織が通信幹部=情報操作のプロになったのは適職なのかも知れない。
3日遅れの引っ越しは荷物の割に作業員が多過ぎてアッサリと終わってしまった。持ってきた大きな荷物は増えた家族が使う冷蔵庫と淳之介の子供布団だけで、あとは佳織の持ち物で暮らすことになっている。したがって片づけもすぐに終った。
淳之介は佳織が選んで申し込んでいた保育所に入り、妊婦の佳織が車で送り迎えし、私は自転車で通勤することにしている。本当は2人一緒に通勤したいところだが、勤務時間が合わないことも予想されるのだ。
ちなみに官舎の駐車場は1軒1台なので佳織の若向きの車は売って私の香川ナンバーの普通車がマイカーになった。
また幸いなことに第10師団管内の演習場はどこも手狭なため私の第35普通科連隊と佳織の第10通信大隊が同時に演習をすることはなく、その点でも助かった。
「うーん、10師団の部隊章は格好良いなァ」陸上自衛隊では右上腕の肩に部隊章を縫い付ける。それを糸が見えないように手縫いするのは陸上自衛官必須の秘技なのだ。
剥がした第2混成団の部隊章は四国の地図にローマ数字の「Ⅱ」と英語の「CB」だけで味も素っ気もなかったが、第10師団は金の鯱鉾の腹と背で「10」を表現している。
「うん、私も歴史を感じさせて良いデザインだと思うよ」隣りで佳織もうなずいた。
「13師団は3本の矢の羽で13だったけど今一だったね」「それでも3師団の黄色地に水色の曲がった縦線で3よりは良いでしょう」「まァ、航空の部隊章はバッチだから単なる台座の色違いだもんな」そこで縫いつけ作業が終わった。
「よし、第10師団歌を教えてあげよう。隊歌用意」2人で立ち上がり隊歌の姿勢を取る。
「東海沃野風薫る 北陸山河水清し 日本の要 わが郷土 鎮めを誓う 10師団」
- 2015/12/31(木) 08:53:34|
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2006年の本日12月30日にイラク大統領だったサッダーム・フセイン・アブドゥル=マジード・アッ=ティクーティーさんの死刑が執行されました。
サッダーム・フセインさんはクウェートに侵攻して湾岸戦争を引き起こした極悪人と評されていますが、当時のクウェート王家は遊興にふけり、巨額のオイルマネーを浪費していたのですから侵攻そのものを悪事と断定できないのではないでしょうか。
さらにサッダーム・フセインさんは内政面においてはイスラムの戒律と欧米的な近代化の調和を図り、女性の教育や社会進出にも道を開いています。
何よりも少数民族を力と利で巧みに抑え、国内の治安を維持していました。
そもそもイラン・イラク戦争ではアメリカに代わって宿敵・イラクを討つ正義の指導者として持て囃されていたのです。それが湾岸戦争によって悪者のレッテルを貼られてしまったのです。
湾岸戦争でアメリカ軍を中心とする多国籍軍はバグダットを占領してサッダーム・フセインさんを失脚させることを企図していましたが、アメリカの先代ブッシュ政権は「国連の決議はクウェートの解放まで」として戦争の拡大を不許可として存続させることを容認しました。その背景には戦争で敗れた指導者をイラク国民が見放し、遠からず追放されると見ていたようです。
ところが何時まで経ってもそれが実現せず、CIAなどによる工作も失敗に終わり、着々と国内基盤の強化を進めているのを見て「このままではサッダーム・フセインを見逃した父の名誉に傷がつく」と焦った孝行息子のブッシュ・ジュニアが動き出したのです。
名目を作っては攻撃を加える強硬姿勢にイスラム過激派は怒り心頭に達し、2001年9月11日に同時多発テロを起こすと、ブッシュ・ジュニアは怒りの矛先をサッダーム・フセインさんに向けました。
「イラク国内に膨大な生物化学兵器が備蓄されており、それが少数民族への弾圧に使用されている」と言う虚偽の情報を流布し、国連での非難決議と査察を強行すると、査察団がアメリカが主張する生物化学兵器を発見できなかったことをイラク政府による妨害と隠蔽と断定して、戦争の名目を捏造しました。こうして2001年に始まったイラン侵攻でサッダーム・フセインさんは敗走する憂き目に遭ったのです。
それからの逃亡生活はかつての権力者には耐え難いものだったようで、2003年12月13日に逮捕された時の姿には映画「ホット・ショット」で茶化されたような憎らしいほどの貫録はありませんでした。逮捕時、身元を問われると「サッダーム・フセイン。イラク共和国大統領である。交渉がしたい」と答えたと言われています。
裁判は2004年7月11日から開廷し、「イラク中部ドゥジャイルのシーア派住民の大量虐殺による人道の罪」で訴追されました。この論法は第2次世界大戦後にナチス・ドイツと日本のA級戦犯を裁いたニュルンベルグと東京の裁判と類似しています。つまり結論は始めから決まっており、それを近代法制度の下で執行したと言う形式を踏むための通過儀礼に過ぎず、12月26日には予定通りの死刑の判決が下りました。
死刑判決が出て4日目には執行されましたが、それもサッダーム・フセインさんの身柄を奪還しようとする過激分子の動きがあるためとしていますが、これも明らかに詭弁です。
なお、野僧は週刊文春の新年号で吊首刑が執行されるまでの一連の写真を見ましたが、それだけでもこの死刑が不健全な暴挙であることを証明しているでしょう。
- 2015/12/30(水) 08:59:23|
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私にとって7回目の守山駐屯地は転属の赴任になった。1度目は自衛隊生徒の2次試験、2度、3度、4度目は一般曹候補学生の2次試験、5度目は曹学に入隊する前の愛知県の激励会、そして6度目は昨年の徒手格闘の集合訓練だ。
私の母方の曾祖父は元陸軍少将であり、名古屋で歩兵旅団長(歩兵連隊と師団の中間規模の部隊=陸上自衛隊で言う戦闘団の長)をやっていた。つまり今回の赴任は70年後の曾孫の帰還でもある。しかし、本四架橋を渡り、山陽道、名神高速を東へ走り、しだいに名古屋が近づいてくるとやはり、守山の部隊がどのようなイメージを私に抱いているかが心配になってきた。
PKOでカンボジアへ行ったことも、そこで不倫をしてWACの幹部を妊娠させ、離婚、再婚を繰り返したことでマイナスにしかならないだろう。
毎日のように入る電話で佳織は「大丈夫だよ」「心配し過ぎ」「取り越し苦労」と笑っているが、通信大隊と普通科連隊では隊員の質や部隊の雰囲気が全く違うはずだ。
何よりも官舎の奥さんと子供たちに淳之介を受け入れてもらえるのか・・・そんなことを思いながら助手席を見ると淳之介はチャイルドシートで眠っていた。
昼食以外は休憩なしで何とか夕方には守山についた。そのまま官舎で淳之介を佳織に渡し私は連隊に挨拶に行ったが、その時には道中で考えていた不安は最高潮だった。
「君がトツー2尉の旅順要塞かねェ」「はァ?」初対面の中隊長はいきなりニコヤカに笑いかけてきた。この1尉の中隊長も善通寺の中隊長同様に部内出身らしく同じような年かさに見えるが、まず質問の意味が判らなかった。
「トツー」と言うのはモールス信号の「・―=イ」のことで、通信員はこれを覚える時、「イトー」と符丁を唱えるらしい。駐屯地ではこれが佳織の愛称になっているようだ。
「トツー2尉がいくらアタックしても落ちなかった難攻不落の要塞だって言ってたぞ。それで彼女が押し倒したそうだな」「ヘッ?」どうやら佳織が事前に私との結婚の経緯について情報を流してくれているらしい。それには多少の脚色があるものの嘘はない。
「あの可愛い子ちゃんに押し倒されれば男なら受けて立つわなァ」「・・・(はい、受けて起ちました)」「それで結婚前に不時発射(=暴発)かァ」「どうもすみません」本当は結婚前ではなく離婚前だったのだが、それは黙っておいた。
「それから善通寺の中隊長が、折角1人前に仕込んでこれからと言う時に渡すのが悔しいってボヤイていたぞ」どうやら中隊長同士は知り合いらしい。その割には格闘指導官資格の更新で守山駐屯地に来た時、土産などは預からなかった。あの後から着任されたのかも知れない。
「はい、お世話になります」「うん、頑張ってくれ」その日は月曜日の日程と引っ越しの話をしただけで官舎に帰った。
- 2015/12/30(水) 08:57:19|
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引っ越しの日、陸曹の転属は8月23日付のため後に残る美恵子が会いにきた。2度目とは新婚の美恵子は少しやつれているように見えた。
矢田は私から美恵子を奪い取ったことを「勝利」と誇示し、前夜に美恵子を抱いた痴話を大声で自慢して悦に入っていると上司である幹部仲間から聞いている。
「矢田3曹、昨日も激しかったんでしょう。腰が引けてますよ」「おう、姦りまくったぜ」朝礼前、若い陸士がからかってくるのに答えて自慢話をするのが矢田の楽しみだった。
「昨日はなァ」「ゴクッ」矢田の周りに集まってきた陸士たちは生唾を呑む。
「俺が×××するとアイツは『アウッ』『オウッ』何て切なそうに叫ぶんだ」「へーッ、そんな激しいんですか」陸士たちは女を激しく責める様子を想像しながら興奮し始めたが、そこに真面目そうな陸士長が口を挟んだ。
「自分も床屋で奥さんに会ったことがありますけど、そんな風に見えませんよ」「そこは俺の調教1つ、今じゃ毎晩よがり狂ってるぜ」矢田の答えにワイ談に具体的な美恵子のイメージが加わった。
「それじゃあ、矢田3曹の方が前の旦那よりもテク二シャンってことですか」「アイツはセックスも教練だったんだよ。節度をつけて1、2、1、2ってな」「はい、あの小隊長なら分かる気がします」そこまでで朝礼の時間になった。
「お母さん、僕、お兄ちゃんになるよ」「そう、よかったね」淳之介の別れの言葉に美恵子は無表情に答え、流れで頭を撫でた。しかし、淳之介は特別な反応を示さず私の傍へ歩いてきたので手を取り、美恵子と正対しながら話を続けた。
「もう、後戻りはできないんだ。自分が選んだ新しい幸せをしっかり掴めよ」「はい・・・」私の最後の励ましに美恵子はユックリうなずいた。
「ニンジンさん・・・少林寺・・・さようなら・・・ありがとう」美恵子はそう言うと抱き締められるのを待つような態度を見せたが私はむしろ1歩後ずさった。それが今の2人の距離であることをお互いに確認したのだ。
気がつくと周囲には別れを告げようと官舎の奥さんや子供たちが集まっている。奥さんたちは美恵子に憎悪・侮蔑の視線を浴びせていた。
「不倫」についてはお互い様なのだが、中隊長を通じて幹部候補生学校での問題も奥さんたちの間に広まっているのだろう。何よりも理容師の仕事を理由に官舎の行事に全く参加しなかった美恵子は「幹部自衛官の妻失格」の烙印を押されていた。
「淳ちゃん、バイバイね」「これ、車の中で食べなさい」「素敵なお母さんができて良かったね」「今度のお母さんは良い人だから幸せになれるよ」奥さんたちが掛けてくる皮肉な言葉に美恵子は居た堪れなくなり、我が子の旅立ちを見送らずに立ち去っていた。これが美恵子の限界なのだ。

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- 2015/12/29(火) 09:16:28|
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7月18日の衆議院選挙で自民党は大敗したが、既成野党も勝利とは言えず国会は極めて不安定な状況になっている。結局、マスコミが作り出した新党ブームで議席を確保した何の実績もないイメージ政党がどちらにつくかで政権が決まる異常な事態になっていた。
「まったくどうなっちまうんだ」「まさか社会党や共産党が政権を握るなんてことにならないだろうな」月曜日に出勤すると隊員たちは寄ると触ると溜息混じりの政治談議で蜂の巣を突いたようだった。朝礼前、中隊長が声を掛けてきた。
「モリヤ2尉が先月言っていたような結果になったな」「実はあの時、言えなかったんですが・・・」「おッ、何か面白いネタがあるのか?」中隊長は訓示のネタを期待したようだ。
「日本新党の細川って言うのは地元の評判は最低でして?」「でも、選挙区は熊本だろう」「はい、庶民には男前のお殿様ですが、政治を知っている人たちには世間知らずな馬鹿殿なんだそうです」これは前川原で熊本出身の同期や8師団の部隊から入校していた部内の候補生たちに聞いた話だ。
「しかし、戦国武将・細川忠興の末裔だぞ」「むしろ母方の祖父である近衛文麿の血が濃いらしいんです」「近衛かァ。それは意外だったな」実際、細川氏は熊本県知事として失政を繰り返しながら名前に傷がつく前に椅子を投げ出した無責任な人物で、「功績は県立美術館に家宝を寄付したことだけだ」と酷評されていた。
8月1日付で守山・第35普通科連隊への転属が発令されたが、1日は日曜日なので前日の7月31日に申告、駐屯地朝礼での紹介になる。この2カ月間、「妻が海外派遣中に不倫した悲劇の男」と言う役柄が「愛人を妊娠させて妻を追い出した悪役」に変わっていたが、それでも淳之介を抱えながら明るく楽しく懸命に父子生活を送っている私を官舎の奥さんたちが認め、励ましてくれるようになっていた。
送別会には淳之介も呼んでもらい、特注のお子様ランチを食べさせてもらった。
「モリヤ2尉、こう言っちゃあ何だが、あの悪妻とは別れて正解だったよ」中隊長は私に酒を注ぎながら思い掛けないことを口にした。
「前川原の助教をやっている北海道時代の部下に色々訊いたんだが、君の卒業序列が悪かったのは女房が勝手に仕事を始めたことが原因だったらしいな」「それは私の監督不行き届きでした」「いや、妻は夫に従うものだ。それが判らないような女に結婚する資格はない」「それは少し時代が」「時代が変わっても軍人の職務に変わりはない。乃木閣下は奥さまが職場へ近づくことを禁じておられたから、用事がある時は途中の松の木のところで待っておられたくらいだ」その史跡は善通寺市内に残っている。
「君の人一倍のやる気、特異な能力があの悪妻によって潰されたかと思うと残念でならん」そう言って中隊長はさらに酒を勧める。しかし、私はその悪妻も心から愛していたのだ。何にしてもこの中隊長には公私共に大変なお世話をお掛けしたようだ。
- 2015/12/28(月) 08:52:19|
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四国の思いで作りの仕上げは「金毘羅船々」だった。これは元来、お座敷歌なのだが現在は民謡に分類されているようなので幼児に教えても問題ないだろう。
「さァ、風呂に入るぞ」「うん、シュラシュシュシュを唄うの?」「うん、あれは四国の歌だから覚えないとね」練習は父子で入る風呂の中だ。
淳之介の頭と身体を洗って風呂に入れると私の番だ。坊主刈りの頭は身体と一緒に石鹸で洗うので手間は掛からない。こうして湯船につかると練習が始まる。
「民謡、金毘羅船々、用意」「用意」最近では淳之介も号令に復唱するようになった。
「金毘羅船々 追い手に帆かけてシュラシュシュシュ」「こんぴらふねふね ほいてにおかけてシュラシュシュシュ」少し歌詞は違うがその修正が後にする。
「回れば四国は讃州 那珂(なか)の郡(こおり) 象頭山(ぞうずさん)」「まわればしこくはさんしゅう あかのこーり ぞううさん・・・どうして象さんじゃないの」質問への回答も後にした。
「金毘羅大権現 一度回れば」「こんぴらだいこんけん いちどまーれば」唄い終って父子で拍手をすると修正と回答になった。
「象頭山って言うのは金毘羅さんがある山の名前で、遠くから見ると像の頭みたいだから象頭山って言うんだよ。もう一度、ゆっくり唄うからよく聞いて真似しなさい」「うん」本当は「よさこい節」や「阿波踊り」の踊りもマスターさせたいのだが時間切れだった。
「お父さん、最近の淳ちゃんは明るくて元気ですよ」保育所に迎えに行くと担当の若くて美人の保母さんから声を掛けられた。
「以前は暗くて元気がありませんでしたか?」「・・・お父さんが外国に行かれてからは家であまり相手にしてもらえなかったようで、するのはテレビの話だけだったんです」「ふーん、今でもテレビは好きですよ」「お父さんは淳ちゃんの話を聞いて下さるでしょう。だから何かを学べるんです」「確かにアンパンマンがバイキンマンをやっつける理由を話し合えば教訓になりますね」「そこまで難しく考えなくても・・・」若い保母さんは話が難しくなる前に切り上げた。
「さて淳之介、今日は何をして遊ぼうか」「お遍路さんごっこ」「また善通寺に行くのか?」「うん、ぐるっと回るの」善通寺の境内の隅には小山の周囲に四国八十八カ所霊場の本尊を模した石佛を祀ったコースがあり、ここを1周回れば八十八カ所を参拝したのと同じ利益があるとされている。そこは山門が閉じられても外から歩いて入れるのだ。
「それじゃあ、急いで帰ろう」「うん、ナムダイチヘンチョーコンゴー」淳之介が合掌して頭を下げると保母さんも「南無大師遍照金剛」と正しく言い直して手を合わせた。
善通寺は弘法大師が生まれた土地だけに素朴で篤い信仰がある。何よりも園児たちは日常的に善通寺の境内で遊ぶ園外保育を楽しんでいるので信仰心は自然に身につくのだろう。この素晴らしい教育環境を離れて名古屋に移るのは本当に惜しい。
- 2015/12/27(日) 00:27:52|
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2012年の明日12月27日は湾岸戦争における事実上の最高指揮官として寄り合い所帯の多国籍軍をまとめ完全勝利を収めたノーマン・シュワルツコフ大将の命日です。78歳でした。
日本のマスコミは湾岸戦争を報じる時、シュワルツコフ大将を「最高司令官」と紹介していましたが、実際はアメリカ中央軍司令官として出征していたのであって、国際連合安全保障会議の決議に基づいて任意で参戦していた多国籍軍を指揮する権限は与えられていなかったのです。
それでも質・量ともに最大の軍を派遣していたアメリカ軍に主導権が与えられるのは当然であり、シュワルツコフ大将はIG170と言われる天才的頭脳で各国の軍隊が抱える事情と能力を把握した上で適材適所の任務を配り、形式的には総力戦(実質的にはアメリカ軍のお手伝いだが)とも説明できる戦争を展開・演出しました。
シュワルツコフ大将は1934年8月22日にニュージャージ州で生まれましたが、父はイラン政府の軍事顧問を務め、政権を打倒したクーデターにも深く関与した軍人(准将)でした。このため大将もペルシャ語を話せたそうです。
成長するとウェストポイント陸軍士官学校に入隊し、卒業後は空挺師団に配属されていますが、同時期に南カリフォルニア大学でも学び修士号を受けています。修士号を取得した後はウェストポイントの教授になり、続いて南ベトナム軍の空挺部隊の軍事顧問として参戦して、戦場での負傷将兵に授与されるパープルハート章を贈られました。
その後、1983年にクーデターで共産主義政権が樹立したため第2のキューバ化することを危惧したロナルド・レーガン大統領が命じたグレナダ侵攻では地上部隊の指揮官を務めています。
1988年に大将になるとアメリカ中央軍司令官に就任し、1990年8月2日のイラクのクウィート侵攻を受けて派遣されたアメリカ軍の現地司令官となったのです。
シュワルツコフ大将は現地での記者会見を自ら対応し、記者の不見識な質問には厳しく回答しました。例えばイラク軍が敷設した地雷原の排除に完全を期していることを「慎重になり過ぎている」と揶揄した記者に「貴方は地雷原を歩いたことがあるか」と逆質問し、自分がベトナム戦争で地雷原に迷い込み、多くの部下を失った経験を語り、黙らせてしまいました。
多国籍軍が実施した「砂漠の嵐」作戦ではイラク側が「目的はクウェートの奪還」と想定して地上戦力をクウェート国内に集中していたのに対して、海上からの巡航ミサイルや航空機による空襲を加え、イラク国内に直接打撃を与える意表を突いた戦術を開始しました。
特にサッダーム・フセイン大統領の立ち回り先を執拗に攻撃して指揮の混乱を図り、補給路も空から攻撃して遮断し、クウェートのイラク軍を孤立させることに成功したのです。
こうして最後の仕上げの地上戦に入りましたが、それは4日間で終わりました。
イラク軍は潤沢なオイル・マネーで最新鋭のソ連製の兵器を買い揃えており、士官クラスもソ連の軍学校でエリート教育を受けていましたから、自信を持ってクウェートに侵攻したのですが、アメリカを中心とする多国籍軍との戦闘では全く歯が立たず、敗走することもできずに殺傷・捕獲されるイラク兵たちの姿が世界中に配信されました。
この完全勝利に先代のブッシュ政権は元帥への昇任と陸軍参謀総長への就任を打診しましたが、軍歴では後輩に当たるコリン・ルーサー・パウエル統合参謀本部議長(3歳下でニューヨーク市立大学卒)の直近下位に甘んじることを嫌って固辞し、この年の8月に退役したと言われます。しかし、元帥になればパウエル大将よりも上官であり、軍の役職の上下位が逆転することは常識的にはあり得ないことなので、この打診の噂自体が信用できません。
- 2015/12/26(土) 09:26:05|
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その頃、連隊の幹部の間では政治問題が議論になっていた。野党によって提出された内閣不信任案が6月18日に自民党議員の賛成や棄権によって可決されたのだ。当然、衆議院は解散されたが、自民党の造反議員は離党して新党を結成するらしい。
さらに私がカンボジアに出発する前に熊本県知事だった旧藩主の末裔・細川護熙氏が結成していた日本新党も存在感を増しており、前例のない事態に隊員たちに対する指導が困難になっているのだ。ただし、国家公務員が投票行動に関して強制に類する指導を加えることは違法であり、あくまでも会議のついでの政治談議ということになる。通常は中隊長以上が出席する連隊の会議に今回は全ての幹部も呼ばれていた。
「隊員にどこへ入れろと指導すればいいんだ」「そうそう、今までのように自民党以外は自衛隊反対なら答えは1つだったが」「まてまて、隊員にどこへ入れろと言うのは禁句だぞ」政治談議なので発言は自由だ。ただし、2尉以下の平幹部はあくまでも傍聴者だった。
「問題は自民党に造反した連中が結成する新党が自民党の防衛政策を踏襲するかだな」「その前に日本新党の政策が見えんのが困る」中隊長以上と言っても田舎の部隊では地方公務員の管理職と大差はない。発言内容も本当に政治談議なのだ。
「ようするにPKO法案の強行で国民の支持を失った自民党では選挙に勝てないと踏んでの離党だろう」「だったらあまり自衛隊支持を前面には出せないな」「しかし、尾沢さんがいるぞ」「尾沢一郎かァ・・・」この名前が出て一瞬、中隊長たちの発言が止まり、そこに私が同じセリフを違うニュアンスで呟いてしまった。
「そうか、ウチにもPKOの当事者がいたな」「モリヤ2尉、君の見解を聞かせてくれ」いきなり中隊長の後ろに1小隊長と並んで座っていた私が注目される。私は中隊長が前を見たままうなずいているのを確認して遠慮がちに発言を始めた。
「PKO法はハッキリ言って欠陥法でした」私は遠慮がちのつもりだったがこれでも十分に刺激的だったようで、中隊長たちは強張らせた顔を見合わせた。
「危険な事態が発生しても被害と苦労は全て現場が負うばかりで政府は何もしませんでした。むしろ現場の対処を東京から妨害していたのです」「つまり、自民党政権は間違っていると言いたいのだな」「はい、宮沢内閣がです」本来、幹部自衛官であれば自分の発言が与える影響も計算しなければならないのだが、今回は格下の傍聴者に求められた機会なので敢えて率直な意見を述べた。
「それではやはり尾沢さんの・・・」「いいえ、尾沢などは金丸信の飼い犬でしょう。金丸は我らの偉大なる先達・栗栖統合幕僚会議議長を抹殺した国賊です」「そうだ、栗栖閣下の無念を忘れてはならんのだ」「私は閣下が13師団長だった時にお仕え申し上げたぞ」防衛官僚の誹謗中傷を鵜呑みにした金丸による栗栖閣下の解任は私が高校3年の時だったが、旧13師団だった四国には信奉者が多いようだ。
「やはり再婚すると元気が出るな」会議の後、中隊長は誉めてくれたが、内心では墓穴が施設大隊のパワーシャベルで堀ったような巨大サイズになったのを心配していた。
- 2015/12/26(土) 09:24:47|
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1991年の明日12月26日にソビエト社会主義共和国連邦が消滅しました。
ソ連は1917年11月7日のロシア革命を切っ掛けに泥沼の内戦を経て1922年12月30日に成立した史上初の社会主義国家であり、軍事・経済共に資本主義の盟主であるアメリカ合衆国に比肩し得る巨大国家でしたが、わずか69年で消滅したのです。
ソ連はアメリカに対抗することを目指して増強を重ねてきた強大な軍事力を保有したまま戦争によって敵に征服されることもなく自滅したことは極めて特異です。
ソ連とその植民地であった東欧諸国の関係は複雑でした。中世以降、東欧はヨーロッパを支配するオーストリア帝国の近隣国として最高水準の文化と豊かな経済を享受していたのですが、フランス、ドイツ、イギリスと言う辺境の新興国が力を持つようになると地盤沈下を始め、第1次世界大戦でオーストリア帝国の力が急速に衰退したのに同調して没落し、第2次世界大戦ではアドルフ・ヒトラーの第3帝国に組み込まれる憂き目を味わいました。
そして本当はヒトラーの共犯者でありながらドイツ軍の侵攻を受けて連合国に加わったヨシフ・スターリンによって支配されることになったのです。
ソ連は自国にマルクスの思想を実現することだけでは満足せず、世界全体を共産主義化することで脅威を解消しようとするマルクス・レーニン主義を国家戦略としていましたから、東欧と毛沢東によって共産化した中国はその手始めでした。しかし、東欧諸国にとってロシアは東側の辺境に位置する野蛮国であり、強大な軍事力だけで対等な顔をさせているに過ぎない存在だったのです。
だから権力者たちはソ連に服従しても市民たちは西側に共鳴しており、それを封殺するために情報統制や言論弾圧が加えられるとそれが不満の原因になる悪循環が積み重なっていきました。特に科学技術の進歩によって東欧の市民のテレビやラジオでも西側の放送が受信できるようになると文化水準の格差や自由を謳歌する大衆の姿に羨望を覚え、それが底辺で地鳴りを起こすようになったのです。
そんな中、ソ連では長期政権を維持していたレオニード・イリイチ・ブレジネフ書記長が1982年11月10日に死去して以降、ユーリー・ウラジーミロヴィッチ・アンドロポフ(1984年2月9日没)、コンスタンチン・ウスチーノヴィッチ・チェルネンコ(1985年3月10日没)と高齢の党幹部が政権を握って数年で亡くなることが続き、水面下では国民の不満は限界に達していきました。こうして1985年3月11日に登場したミハイル・セルゲーエビッチ・ゴルバチョフ書記長は大胆に西側の社会制度を取り入れる改革=ペレストロイカに乗り出したのですが、時すでに遅く1989年11月9日にはベルリンの壁が崩壊し、東欧の植民地は続々と倒壊・離反していったのです。
そして本家・ソ連でも内紛が火を噴き、1991年8月19日に改革に反対する共産党の守旧派がクーデターを起こしゴルバチョフ大統領が監禁される事態に陥りましたが、軍は同調せずロシア連邦共和国のボリス・ニコラヴィッチ・エリツィン大統領の指揮の下、これを鎮圧しました。
こうして解放されたゴルバチョフ大統領には政権を維持する力は残されておらず、連邦内の各共和国の独立が相次いだことで12月25日に辞任を表明し、同時にソ連共産党も解散したことで、26日にソビエト社会主義共和国連邦の消滅が宣言されたのです。
これが中学・高校時代であればソ連を賛美していた教師どもの説明・感想を訊きたかった。
- 2015/12/25(金) 09:32:26|
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淳之介とのクレイマー生活も悪くなかった。天気の良い休日には自転車の後ろに乗せて間もなく引っ越すことになる善通寺近辺の史跡見学を楽しんでいる。
そんなある日、駐屯地から少し離れた場所で思い掛けない施設を見せてしまった。
「お父さん、ここにも自衛隊があるよ」後ろの席から淳之介が言ってくる。そこには高いフェンスが巡らされた敷地に広いグランドがあり、揃いの服を着た若者たちが整列して基本教練をやっていた。ただフェンスの最上部の鉄条網は内側に向いており、外部からの侵入ではなく内部からの脱走に備えていることが分かる。
「ここは自衛隊じゃあないんだよ」「じゃあ、何?」私は少年院をどう説明するべきか悩んでしまった。
「悪いことをしたお兄ちゃんたちが集められる学校みたいなところだよ」「どうして自衛隊と同じことをやってるの?」我が子ながら2等陸尉も答えに窮する鋭い質問だ。
「・・・あれをやると決められたことをキチンとできるようになるんだ」「ロボットみたいに?」「ロボットもバイキンマンが動かすと悪いことをするけど、ジャムおじさんなら良いことをするだろう」「ジャムおじさんはロボットじゃあなくてアンパンマン号だよ」「なるほど」この答えは幼い頃に見ていた鉄人28号の主題歌「ある時は正義の味方、ある時は悪魔の手先」から思いついたのだが外してしまった。
「淳之介、自転車の練習をするぞ」夏は日没が遅いので外で遊ぶ時間も十分ある。そこで私は駐屯地のグランドで自転車の補助輪を外す猛訓練を課した。
善通寺駐屯地のグランドは3つ並んだ隊舎分なのでかなり広い。ここで練習すれば忽ちマスターできるはずだ。官舎から補助輪を外した自転車を引いて歩いていった。
「気をつけ」「幹部引率」「服務中異常なし」「御苦労さまです」今日の上番警衛隊は第8施設群だ。警衛所を通る時の挨拶は堅苦しいが子連れであれば警衛隊員たちも自然に顔が弛む。
「今日は子守りですか?」「馬鹿、モリヤ2尉は・・・」警衛司令の1曹が声をかけてくると隣りからPKOで一緒になった歩哨係の1曹が注意した。駐屯地でもウチの家庭の特殊事情を知らない者は少数派になりつつある。それはそれで仕方ないことだ。
グランドでは数人の隊員がプラスチックのボールでゴルフの打ちっ放しをやっていた。この広さがあれば普通のボールでも可能なはずだが、後で拾うのが面倒臭いのだろう。こちらとしても安全を考えれば有り難い。
「さァ、淳之介、思いっきりこいでごらん」「うん、放さないでね」グランドで淳之介の自転車の荷台を両手で支えながら走らせた。そのまま支えながら付いて行き、スピードが出たところで放すのだ。
「やったァ」単独で走り出したところで拍手すると振り向いた淳之介は転んでしまった。それでも大声でほめると淳之介は自信を持って練習を繰り返し、ついにマスターできた。
- 2015/12/25(金) 09:31:27|
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1977年の明日12月25日は俳優・監督・脚本家・作曲家として数多くの名作を残した
チャールズ・チャップリンさんの命日です。88歳でした。
この日、野僧は2学期の終業式に登校する途中で交通事故に遭って入院中だったため、病室のテレビで訃報に続く追悼名作劇場を喰い入るように見ることができました。おそらく自宅ではチャンネル権を握る父親と妹の趣味に合わないので全く見ることはできなかったでしょう。
チャップリンさんは喜劇俳優と呼ばれていますが、同時代のハロルド・ロイドさんやバスター・キートンさんのように大衆を笑わせるだけではなく作品の中で政治性や芸術性を主張しており、腹を抱えて爆笑することは出来ませんでした。
尤もバスター・キートンさんは笑顔を全く見せず、虚無感の中で人間の滑稽さを表現しており、ロイド眼鏡のハロルド・ロイドさんも同様で単なるドタバタ劇ではない深さがあるようです。
愚息たちは野僧のビデオ・コレクションではチャップリンさんの小難しい作品よりもロイドさんやキートンさんを好み、愚息2はNHKで放送が始まったミスター・ビーンの大ファンの変な小学生になってしまいました。遊びに来る同級生たちにも見せたためクラスでは妙なギャグが流行して先生は困惑していたそうです。
その後、成長するとチャップリンさんの作品も理解するようになりましたが、愚息1は「街の灯」を見て涙を流し、愚息2は「モダン・タイムス」「黄金狂時代」と「独裁者」が好みでした。
野僧は高校時代に追悼名作劇場を見て以来、「ライム・ライト」のクレア・ブルームさんのファンだったのですが(同級生たちが好むハリウッドのセクシー女優と年代が違うので話が合わず困りました)、やはり主題曲が素晴らしく、バレリーナとして成功したクレアさんがこの曲に乗って踊り、それを舞台袖で見届けたチャップリンさんが亡くなるラストシーンは感涙が止められません。
チャップリンさんの喜劇には幼い頃に目の当たりにした情景が強く影響を与えていると言われます。
ある日、チャーリー少年が見ている前で屠殺場から1頭の羊が逃げ出したのですが、その羊を追いかける男たちはつまずいて転び、あちらこちらにぶつかって物を壊し、仲間同士で衝突して喧嘩を始め、あたりは完全に喜劇の舞台になったのですが、やがて羊が捕らえられ、悲鳴を上げながら断頭台へ連れて行かれるのを見て「喜劇と悲劇は表裏一体だ」と心に深く刻まれたと言うのです。
だからヒトラーを模した「独裁者」が楽しんでいる世界制覇の遊びは侵略を受け、弾圧される側には悲劇に他ならず、「モダン・タイムス」で描いた極端に機械化が進んだ近未来社会は人間に幸福を与えるのか、悲劇をもたらすのかを考えさせるのでしょう。
ただ第2次世界大戦後のアメリカはソ連に対する嫌悪と警戒から反共産主義に染まっており、1936年の「モダン・タイムス」で発した資本主義への皮肉が逆に共産主義を称賛していると曲解されたため、1952年にロンドンへ向かう船の中でトルーマン大統領によって国外追放処分を受け、1972年にアカデミー賞名誉賞(この賞はハリウッドが国外追放を阻止できなかったことを謝罪する意味があったとされています)を受けるまで訪米することはありませんでした。それからはスイスの自宅で長い余生を過ごし、この日を迎えたのです。
野僧の人生も親が逃亡先にまで押し付けてきた「親心」によって踏みにじられた「苦悩」と「悲哀」で描かれた笑悲劇ですから、そろそろラストシーンを演じたいものです。
- 2015/12/24(木) 12:40:30|
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翌日、善通寺の市役所で婚姻の手続きをした。幸い休日なので宿直の職員が応対し、離婚届を受け付けた中年の女性職員ではなかった。その職員は手続きをしながら住民台帳で離婚の記載を見つけ、不審そうな顔をしたが書類に問題はなく受け付けられた。
讃岐うどんの昼食後、善通寺を参拜してから車で高松駅まで送っていったが、駅の改札口で佳織は先ず淳之介に顔を近づけて挨拶する。
「淳ちゃん、また会おうね」「うん、佳織さん、またね」「モリヤ2尉、次は守山で会いましょう」私は後回しになったがツイデではないだろう。
「転属が守山に決まれば、官舎は私のところでいいですか?」「でも、独身幹部用だろう」「いいえ、一般用の2DKですよ」「それじゃあ、それでいいかァ。手続きも面倒だし」豊川と春日井の駐屯地業務隊は定年前の幹部が居座っており特別事情でも割り込むことは難しいようで、現在は守山の普通科連隊への転属で人事調整が進んでいるのだ。
「しかし、帰ったらいきなりモリヤ佳織2尉になってるなァ」「そうかァ、この子の父親の種明かしにもなっちゃいますね」このことも守山では愛人が妻を追い出して入れ替わったように見られるかも知れない。それは私たちが今後、覚悟していかなければならないことなのだろう。
「しばらく大変だろうけど(多分)すぐに行くからな」「はい、待ってます」「お腹の子供を大切にしてくれよ、俺たちの・・・」私の言葉に佳織はうなずきながら涙を浮かべ、そんな様子を淳之介も戸惑って見ていた。
愛知の両親に佳織との結婚を報告する手紙を書き、その中では当然、妊娠のことも説明した。数日後、案の定の電話が入った。
「お父さんが『不倫をしていたのか』って怒っているよ」やはり母親の第一声はこれだ。
「奥さんを追い出して妊娠させた愛人を妻にしたのかって」それは佳織を見送る時に私が心配していたことそのままだった。結局、私もモリヤ家の発想から逃れられていないことを思い知らされ溜め息が出た。
「はい、不肖の息子で申し訳ありません」私の返事に母親は言葉に詰まる。
「貴方をそんな風に育てたつもりはないよ。沖縄へ行って狂ちゃったのかねェ」「いいえ、モリヤ家の血でしょう」モリヤ家の曽祖父は生涯働かず酒と女に狂い、代々庄屋を務めていた裕福な家を潰したと言う。何よりも沖縄を悪く言われることだけは許せなかった。
「どっちにしろウチには出入り禁止だからね」「そんなこと言ったって誰も美恵子の顔を知らないじゃないか、佳織に代わっても判らないよ。第一、お母さんは孫に会いたくはないのか?」前回の念押しに対する私のたたみ掛けるような質問に保育園長である母親は返事をせず、しばらく電話口で深い呼吸の音が聞えていた。
「そりゃあ、孫には会いたいけど・・・お父さんが伯父さんともめると困るんだよ」「そうかァ、だったらお母さんが会いにおいで」「うん、考えておくわ」この父親の機嫌を最優先する母親の気質があの家の欠陥だった。
- 2015/12/24(木) 12:38:37|
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1979年の明日12月24日にソ連軍がアフガニスタンに侵攻を開始しました。
この時、野僧は高校1年でしたが、日頃からアメリカによるベトナム戦争を厳しく批判した日教組の教師たちはソ連が同じことをやったのを説明するのに困り切っていました。
それでも教師は「アメリカと違いソ連は人民の支持を受けているので間違いなく勝利する。ベトナムのようなゲリラが潜むジャングルがないので終結も早い」と断言していたので、当時から軍事評論家的生徒だった野僧は「アフガニスタンの部族は古来から山岳地帯を利用した隊商への襲撃を得意としている上、ソ連軍は平坦な地形での戦闘しか能がないので長期戦になって最後は敗北する」と反論しました。回答が出たのですから100点満点の答案用紙を送ってもらいたいものです。
アフガニスタンは1919年にイギリスから独立して以降、ザヒール・シャーが統治する王国でしたが、1973年にシャーが海外での病気療養のため国を空けた隙を狙ってクーデターが起こり、共和制に移行しました。この政権はソ連とアメリカと友好関係を結び、両方から支援を引き出していましたものの1978年4月27日にソ連の傀儡である人民民主党がクーデターで政権を奪取し、ヌール・ムハンマド・タラキーが革命評議会議長・大統領・首相の地位を独占しました。しかし、ソ連国内の宗教弾圧に危機感を抱いたイスラム原理主義者による武装蜂起が続発するようになり、このため新政権はソ連との間で友好条約を締結し、国家の危機には軍事介入する権利を与えたのです。この時、タラキーを排除し、ハフィーウッラー・アミーンを後継者とすることが条件だった言われています。
1979年に入り武装蜂起が更に頻発するようになるとソ連が本格的な軍事支援を開始し、新政府軍を編成すると武器を供与して訓練を施しました。そして武装蜂起の鎮圧に向かわせるはずが逆に暴動を起こして350名ものソ連人が殺害される事件が起こりました。
こうした武装蜂起を受けてソ連が軍事介入を強める悪循環が続き、密約通りにタラキーが政権の座を去り(実際は殺害された)、アミーンが後継者となると侵攻の舞台は整ったのです。
12月中旬からソ連軍の空挺師団と自動車化狙撃師団が国境と空港に集結・待機し、12月24日にはアフガニスタン国内に駐留していたソ連軍の3個師団規模が首都・カブールと周辺地域の空港、変電所、通信網を確保し、さらに27日にはソ連軍が大統領府を攻撃してアミーン大統領が殺害され、翌28日に自動車化狙撃師団が国境を超えて侵攻を開始しました。
それから10年に渡り戦闘が繰り広げられましたが、イスラム原理主義者側にはサウジアラビアなどの石油富豪などからの潤沢な財政援助とアメリカにより新型の武器が与えられ、さらにアフガニスタンの不整地な山岳地帯はソ連軍が得意とする戦車戦を封じるには十分な地の利であり、ヘリコプターによる空からの攻撃もアメリカ製の携帯式地対空ミサイル・レッドアイが行き渡ったことで苦戦を強いられました。こうした国力の消耗もソ連の崩壊の遠因の1つになったと思われます。
日本では「アフガニスタン侵攻」と言えば1980年7月19日に開幕したモスクワ・オリンピックをボイコットする原因になったことが一番大きな影響だと思われていますが、この事件によってアフガニスタンでのイスラム原理主義組織・タリバーンによる支配が確立し、現在も国際社会が悩まされているイスラム教過激派にアラブの石油富豪が資金援助する構造が生まれたのですから決して無関係ではありません。
- 2015/12/23(水) 08:50:54|
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しばらくの雑談の後、私はズッと引っ掛かっていたことを質問した。
「君を初めて抱いた夜、ママさんの店でHawaiian Wedding Songを歌ったろう」「はい」「あれって何か意味があったのかい?」「うん・・・」佳織は私の顔を見詰めながらうなずいた。
「ウチの結婚式の時に歌って欲しいってママさんに頼んであったんや」雑談になると佳織は関西弁になるようだ。
「えッ、そんな大切な歌だったの?」「だから今夜、ウチは貴方の物になるってママさんに伝えたんや」「そうだったのか・・・」そこで私は立ち上がると佳織の手を取った。
「お嬢さん、1曲お願いできますか」「うん、エエよ」そして2人でHawaiian Wedding Songを歌いながら踊った。踊りを終えた時、佳織は私の顔を覗き込みながら呟くように言った。
「モリヤ2尉、もう一つお願いがあるやけど・・・」「何?」「ウチのこと佳織って呼んで欲しいんよ」「えッ?」私は一瞬戸惑った。
今まで何度も逢瀬を重ねてきてまだ「佳織」と呼んだことがなかったのか思い返してみたが確かに記憶はない。そこで顔を見ながら呟くように呼んでみた。
「佳織・・・」「イエス、ダーリン」「ハニー」「マイ ダーリン」これがプロポーズと応諾になり、佳織は嬉しそうに笑うと黙って口づけしてきた。
「ところでワシが伊藤になっちゃあ駄目かな?」「えッ、何言ってんねん」私の具体的な要望に伊藤2尉は真意を測りかねるような顔で質問してきた。
「ワシは昔からモリヤって苗字が嫌いでね。それ以上に親と一族郎党が大嫌いなんだよ」「・・・」これは本当だった。美恵子と結婚した時も玉城姓を名乗りたかったのだが、門衆(モンチュウ)意識が強い沖縄では受け容れらない願いなので諦めたのだ。
「でも、伊藤ってありふれ過ぎていてウチは好きやないねん」「逆に言えば当たり障りがないってことじゃあないの」「でも高校時代、同級生に『素子さん、貢いで』ってからかわれたよ」それは昭和56年に発生した大阪の三和銀行で起きたオンライン詐欺の話だ。犯人の美人銀行員は約2億円を不正に引き出し、全額を愛人に貢いだのだ。
「苗字が変わって影響を受けるのはモリヤが2人、伊藤が1人、多数決でいきまっしょ」「何じゃ、それは」「第1、ウチはモリヤ佳織になるのが夢やったんや。それを奪っちゃああかん」「・・・」やはり論争でこの優秀な同期には勝てそうもない。確かに愛知県内の部隊に転属することが決まっている以上、苗字を維持しておくのも利用価値はありそうだ。
この計算ずくの状況判断も陸上自衛隊の幹部の素養ではある。
「お願いがあるのーよ 貴方の苗字になる私・・・」隣りで佳織は平松愛理の「部屋とワイシャツと私」を口ずさんでいる。守山ではこの歌をカラオケで愛唱しているそうだ。
- 2015/12/23(水) 08:49:34|
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僕、アンパンマンのお菓子」それはアンパンマンのキャラクターが入ったクッキーだった。
「丁度、おやつの時間ですよね。淳ちゃん、手を洗おう」佳織は立ち上がると淳之介を連れて洗面台に行き、私は思いがけず子供を扱い慣れている佳織に唖然としていたが、考えてみればアメリカの大学で心理学を専攻し、児童カウンセラーを目指していたのだ。しかし、日本の精神医学会と心理学会が鋭く対立し、相談者を奪い合っている実態を知り、別の道を選んだと聞いている。
それから淳之介はクッキーに焼き印してあるアンパンマンの登場キャラクターの名前を説明しながら美味しそうに食べ、佳織も質問しながら摘んでいた。
おやつの後、淳之介はカバンの底から書店の紙袋を取り出した。袋を開けるとそこには数冊のアンパンマンの絵本が入っており、淳之介は目を輝かせて受け取った。確かに子供の扱いには慣れているようで、何より私にも一番の土産だった。
「アンパンマンってモリヤ2尉のイメージですよね」「ヘッ?」「困った人に自分の顔をちぎって食べさせるなんて、その通りじゃあないですか」「そうかなァ、そんなに優しかったら淳之介に哀しい思いはさせてないよ」「あまり自分を責めないで下さい」私の返事に佳織は哀しそうに首を振った。
佳織にアンパンマンの絵本を読んでもらいながら気がつくと淳之介は膝に入っている。
「僕ねェ、アンパンマン・ムージーヤム(ミュージーアム)に行ったよ」「ふーん、面白かった?」「うん、アーンパンチってパンチしたよ」それはバイキンマンの形をしたサンドバッグを叩く遊具だった。淳之介はそれが気に入り、汗をかいて叩き続けていたのだ。
「でもねェ、お父さんのパンチの方が強いんだよ」「うん、カクチョ―シジョーカン(格闘指導官)だもん」「よく知ってるねェ」佳織が感心して頭を撫でると淳之介は自慢そうに笑った。
その日は3人で買い物に出かけ、佳織手作りの夕食を食べ、淳之介は眠った。その後、居間で話をしたが妊娠中と言うことで酒は飲まないことにした。
「モリヤ2尉、今回は婚姻届もお願いします」「うん、そのつもりだよ」佳織が部隊で報告した以上、最早引き返すことはできないと覚悟は決めている。ただ、離婚後わずか1カ月で再婚することにためらいもあった。
美恵子は法律上、離婚が成立して300日を経なければ再婚できず今回の沖縄への転属の前に民生委員からの事実婚の証明で営舎外居住の許可を得ていくと聞いている。それは向こうで官舎を申請するための応用的処置なのだ。
また、美恵子には新しい夫との帰郷になるが離婚率が高い沖縄なら私との離婚もそれほど問題にはならないと思うことにしている。少なくともあの両親なら出入り禁止にはしないだろう。
- 2015/12/22(火) 09:47:35|
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「モリヤ2尉、来ましたア」淳之介との父子家庭生活が始まって早々の土曜日、伊藤2尉が善通寺までやってきた。伊藤2尉はマタニティ―姿だが、まだ腹が目立っておらずワンピースに見える。それで敬礼されても困ってしまう。
善通寺の駅で出迎えた淳之介と私に伊藤2尉はいつになく慎重な歩調で歩み寄り、私は手からカバンを受けとった。
「淳ちゃん、こんにちは」伊藤2尉に頭を撫でられた淳之介は慌てて私の影に隠れ、私は困って2人の顔を見比べた。淳之介は特別に人見知りする子ではないが母親を失って間もないのだから、やはり若い女性には幼心に違和感を抱いているらしい。
車の後部座席に並んで座っても2人は妙にソワソワしていて、そうしている間に官舎についた。ただし、駅から駐屯地への経路で美恵子の店の前は避けている。
駐車場から家に戻る間も休日で出かける近所の住人たちに会い、その度に佳織を紹介することになった。気がつくと向いの陸曹の棟のベランダからも奥さんたちが見ている。これで駐屯地中に知れ渡り、美恵子の耳に入るのも時間の問題であることを覚悟した。
家に入ると淳之介は黙ってテレビの前の自分の席に座り、リモコンでスイッチを入れて4月から始まったNHKの子供番組「忍たま乱太郎」を見始め、私と佳織はその横の座卓の席に向い合って座った。そんな淳之介の横顔を佳織は優しい目で見つめている。
「私、両親が離婚したから取り残された子供の気持ちがよくわかるんです」言われてみれば佳織は中学生の時、アメリカ空軍の輸送機パイロットだった父と母が離婚し、母子でハワイから日本に帰国した。父が日系人だったため容姿への偏見はなかったが帰国子女である中学生の学校での孤立と再び働き始めた母不在の家庭で直面した祖父母との価値観の相違、これらを同時に抱えてきたのだ。
「だけど、淳ちゃんはもっと小さいから上手く気持ちが表現できないでしょう・・・」そう言った佳織の目が哀しみに曇った。
淳之介は美恵子が出ていって一度だけ「お母さんは?」と訊いたが、私が哀しげな顔で「もういないよ」と答えると、それっきり何も言わなくなった。
私も淳之介の気持ちを癒そうと懸命に努めていたが、最近は夜尿症も再発している。しばらくの雑談の後、佳織は思い出したように自分のカバンを取り出して開けた。
「これ、お土産です。淳ちゃんはどんなお菓子が好きかわからないから・・・」佳織のカバンからは土産とは思えないチョコレートやキャラメル、クッキーなどの普通のお菓子がバラバラに出てきて、それを見て淳之介が身を乗り出した、
「淳ちゃん、どれが好きなかなァ」「僕ねェ・・・」淳之介は嬉しそうに座卓の上に広げられたお菓子を見渡しながら決めている。それを覗きながら佳織も一緒に選んでいた。

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- 2015/12/21(月) 09:33:20|
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嘉永3(1851)年の明日12月21日に「赤城の山も今宵限り」の名台詞で知られる侠客・国定忠治さんが磔刑死しました。
江戸時代の侠客と言えば「東海道一の大親分」と謳われた清水の次郎長さんが有名ですが、次郎長さんは明治になって富士山麓の開拓や静岡茶の販路拡大に努力するなど「大親分」と呼ばれるのに相応しい業績を遺しているのに対して忠治さんは「天明の大飢饉で困窮する村人を救済した」と言うのは講談の創作のようで、実際は博打と抗争に明け暮れた現在で言う反社会的勢力の典型だったようです。
忠治さんが人気を博したのは正面から堂々と関所を破る暴挙をやってのけたことで、幕府・武士に力で抑えつけられていた庶民にとっては権力に一矢報いた英雄に見えたのでしょう。
忠治さんは文化7(1810)年に上州国定村(現在の群馬県伊勢崎市国定町)で養蚕業も営む農家に生まれました。9歳の時に父親が死んだため家業を担うことになりますが、そんな生活に嫌気が差して家を飛び出し、無宿者になってしまいます。
と言っても上州は昔から養蚕が盛んな土地なので、夫が農業で収穫する作物よりも多額の収入を妻が稼ぐため、「カカア天下と空っ風(=赤城下し)」が名物とされているのです。
そんな夫の立場が弱い土地柄であれば博徒などに身を堕とす者が出るのは世の常で、「侠客」と呼ばれる人間が跋扈していました(木枯らし紋次郎も上州出身ですが架空の人物です)。
無宿人になった忠治さんは新門辰五郎、江戸屋寅五郎と共に「関東の三五郎」と呼ばれた上州の大親分・大前田英五郎の縄張りを譲り受け、日光街道沿いに勢力を伸ばす敵対勢力と対峙することになりました。この抗争の中で忠治さんは捕らえられますが、敵の親分の温情で解放されたものの、この温情を「恥をかかされた」と逆恨みして、やがて殺してしまいます。
この抗争は文化2(1805)年に勘定奉行の配下として設置された関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)の捕縛対象案件になったため管轄外の信州に逃亡してほとぼりが冷めるの待ち、帰国後は正式に一家を興しました。
この辺りから講談や大衆演劇で痛快劇として描かれる侠客旅の物語になるのですが、実際は強引な縄張りの拡大によって抗争が起こり、相手を殺害して追われるから他国へ逃れる。それでほとぼりが冷めると戻ってきて同じことを繰り返していただけのことです。
そんな逃亡生活でも面倒見てくれる同業者には事欠かず、子分に加わる荒くれ者が増える一方だったところを見ると人間的な魅力があったのは間違いないでしょう。
その一方で水戸藩領を除く上野・下野・上総・下総・常陸・武蔵・相模・安房の関東8州の治安維持と防犯を任務とする関東取締出役としては過激な抗争を繰り返し、勢力を拡大し続けている忠治さんを放置することができなくなり(武家は基本的にヤクザ同士の抗争には不介入であり、堅気を巻き込んだ時だけ摘発する)壊滅させるために強力な手配を敷きました。これから逃れるため忠治さんは信州街道・大戸で関所破りと言う非常手段にうったえましたが、関所役人も放置した訳ではなく側近とも言うべき子分たちを失っています。
この逃亡生活は頑健だった肉体を蝕み、上州に戻った時には中風(脳血管障害)を患い、動作も思いに任せぬ状態だったようです。
こうして嘉永3年8月24日に赤城山麓の田部井村で関東取締出役に捕縛され、勘定奉行の取り調べを受けた結果、最も重い関所破りの罪で現場となった大戸の関所内で磔刑に処せられました。41歳でした。

みなもと太郎作「風雲児たち」の関所を破る国定忠治
- 2015/12/20(日) 08:55:43|
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「私はまさしくクレイマー・クレイマーになった」。と本人は思っていたが連隊の連中は「子連れ狼」と呼んでいる。確かにこちらの方が似ているのかも知れない。
演習に行けない分、命令の起案と報告の作成や作業員の指揮官は一手に引き受けており、これが守山・豊川・春日井へ行くまで続くのだが、それが実現しなければ7月からの新隊員後期課程の区隊長になって他の可能性を探ることも決まっていた。
両親に美恵子と離婚したことを告げる手紙を送ると母親から電話が掛かってきた。母親は久しぶりの会話にも関わらず「お父さんが『やはり沖縄人なんかと結婚したことが失敗だった。親の意見の正しさが判っただろう』と言っている」と一方的に非難を始めた。
私は相変わらずの父親の頑なな考えに深い哀しみと悔しさを感じたが、豊川へ行くことになれば支援を頼む以上、「はい、すみません」と謝罪の言葉を繰り返すしかない。
母親は一方的に親不孝を非難する言葉を投げ続けた後、愕然とするような結論を告げた。
「世間体があるからウチには帰ってこないでちょうだい」この言葉を聞き、私は沖縄の玉城家の義父母が無性に懐かしくなった。義父母は別れ際、「淳ちゃんが孫なのに変わりないのだから、何かあればいつでも言ってくれ」と言ってくれている。
美恵子との結婚を決めた時もあの両親の息子になれることが無上の幸せだった。何が原因で、どこで間違えてしまったのか。その原因を梢と引き裂かれたことにするのは自分が哀し過ぎた。
そんな中、幹部候補生学校の同期・岡倉2尉から電話が入った。岡倉2尉は高射特科群で地対空ミサイル=ホークを扱っている。大卒組でありながら妙に戦史や軍事情報に詳しくて前川原でもマニアックに語り合える数少ない同期だった。
「結局、航空自衛隊は戦闘機以外の防空は考えていないんだな」「管制官の連中と話してもペトリオットの戦力化には興味がないようだった」岡倉2尉は演習で航空自衛隊の防空指揮所へ行った時の体験談を語った後、急に口調を落とした。
「ところで伊藤2尉が未婚の母になったぞ。知ってるか?」「うん・・・」一緒に検査を受けに行ってから1カ月、佳織は妊娠5カ月になりもう中絶はできないだろう。岡倉2尉によれば佳織は部隊でも公式に妊娠を報告したが父親については「プライバシーに当たる」と回答を拒否したと言う。佳織が周囲の好奇の目に晒されていることを思うと強く受話器を握り直してしまった。
「モリヤ2尉は一緒にPKOへ行ったんだろう、相手の心当たりはないか?」どうやら彼一流の情報収集の電話のようだ。
「・・・」黙っている私に岡倉2尉は何かを察したような声でこう言った。
「モリヤ2尉は離婚したんだって・・・責任の取り方としては立派だな」陸上自衛隊と言う巨大な閉鎖社会では僅かでもオカシナ動きをすれば忽ち全国に知れ渡ることを今更ながら思い知らされた。
- 2015/12/20(日) 08:54:06|
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演習から家に帰ると座卓の上に美恵子がとってきた離婚届が置いてあった。離婚届の緑の枠の妻の欄には美恵子の見慣れた文字が並び、押印はいつもの三文印だ。これで離婚が成立する。美恵子の荷物の大半は相手のアパートへ運んであるからこれで手続き完了だ。
矢田3曹はこの8月に沖縄へ転属することになっており美恵子も当然ついて行く。幹部仲間からは相変わらず「矢田3曹を退職させろ」と言う声もあるが美恵子の幸せを思えばそれは考えたくない。
これからは演習だけでなく当直勤務も免除され、私が映画「クレイマー・クレイマー」のダスティン・ホフマンのように子育てに励むのだ。
今日は朝、美恵子が淳之介を保育所に送り、夕方、私が迎えに行った。その淳之介は美恵子の姿を探して各部屋からトイレ、浴室まで歩き回った。
「お父さん、お母さんは?」「・・・もういないよ」「いないの?どうして」「いなくなっちゃったんだ」「いつ帰って来るの?」「もう、帰ってこないよ」淳之介の質問に答えながら私の胸には暗く沈んでいく部分と明るく沸き起こる部分があった。それは喪失(美恵子)と獲得(佳織)、過去と未来の相克=私が深層心理に持っている乾いたエゴイズムなのだろう。そんな時、ラジオから高校時代に流行っていた懐かしい大塚博堂の歌が流れてきた。
「ダスティン・ホフマンになっちゃったよ・・・」歌詞は自分に置き換えて口ずさんだ。
離婚届を提出したことを中隊長に報告すると、そのまま連隊長室に連れて行かれた。
「モリヤ2尉、これからどうしたい」連隊長は向かい側のソファーで私の報告を深刻な顔で聞いた後、一言こう訊いた。日焼けした顔の鋭い目に迷いはない。中隊長も隣で深くうなずいている。
「幹部自衛官として最善を尽くすことに変わりはありませんが、これ以上、息子を犠牲にはできません」私の答えに連隊長は黙って私と中隊長を見比べた。
「軍人としても父親としても気持ちはよくわかる。しかし、幹部自衛官たる者が子供を抱えて仕事に制約を受ける状態を長くは認められない」この言葉に私は返事ができなかった。しかし、仕事を優先して家庭を省みなかったことが離婚の理由であるなら、その責任は誰が負うべきなのかを問うてみたかった。連隊長は深く穏やかな目で私を見ながら言葉を続けた。
「息子さんはいくつだ?」「11月で5歳です」「そうか、うちの孫と変わらないな・・・」「モリヤ2尉は愛知の出身だったな」「はい」連隊長は一瞬天井を見上げた。
「愛知へ帰れば子供さんを親元で預かってもらえるのか?」この連隊長の率直で現実的な質問に私の胸をかき乱される思いがした。しかし、美恵子との結婚以来、親との縁は切れている。むしろ佳織の顔が浮かぶ、私の中で愛知とは佳織が住む土地になっていた。
結局、私も8月に守山の第35普通科連隊か豊川・春日井の駐屯地業務隊への転属を調整することになったが、流石に佳織との再婚については言い出せなかった。
- 2015/12/19(土) 10:18:08|
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病院からの帰り、遅めの昼食に寄った食堂の奥の席で佳織から話し始めた。
「避妊は女の責任です。自分で処置しますから心配しないで下さい」診断結果は妊娠3カ月、PKOから戻り、善通寺と守山に別れる前夜の子供だった。その時の佳織の表情に沖縄で美恵子が私の気持ちを確かめようとした時のことが甦った。
「待ってくれ。これは2人の問題だ。自分だけで決めるようなことはしないでくれ」私の言葉が思いがけなかったのか佳織の目が怪訝そうに陰る。
「でも、モリヤ2尉には家庭があるし・・・」「それはそれとしての話をしている」私は言葉を選んだ。言い方を間違えれば美恵子と離婚した後釜を佳織に頼むと言う意味になってしまう。「そんな計算はない」と言えば嘘になるがそれを期待しての言葉ではないのだ。
佳織は先ほどウェイトレスが持ってきたグラスの水を1口飲んで私の顔を見詰め直した。
「モリヤ2尉、どうして私を抱いてくれたんですか?」「えッ」突然の質問で私には返事ができない。佳織の目が嘘や誤魔化しを許さなかった。しばらくの沈黙の後、佳織はフッと表情を緩めた。
「前川原の頃、いつも家族の心配ばかりしているモリヤ候補生を見ていたから・・・答えて下さい」私もグラスの水を飲むと答えた。
「俺も君が好きだからだよ・・・本当に、心から・・・どっちも愛していたんだ・・・区別も優劣もなく・・・真剣に、全力で」これは今、気がついた真実だった。私の人生は場面で共演者が違ったのだと思った。私は1つ1つ言葉を選んで話し、その途切れ途切れの言葉を聞き終えて佳織は涙を零した。私がハンカチを手渡すと佳織はそれを断って掌で拭った。
「私、この子を生みたいな、貴方と生きた証に・・・」佳織は私の目を見ながら呟いた。
「それを考えようと言っているんだ・・・勿論、君の幸せを第1に」「有り難うございます」私の言葉に佳織は静かにうなずいた。
「君は幸せにならなくちゃ・・・君みたいな素敵な人が幸せになれないはずはない」「私、幸せになってもいいですか?」「当り前だよ」私の言葉はあまりにも綺麗ごとだろう。ただ、燃えるよう熱く過ごした時間が懐かしく、それが美恵子と過ごした年月よりも重くなっているように思われる。私は運ばれてきた料理を口に運びながら美恵子との出会いから歩いて来た時間の1つ1つを佳織とのそれに重ねていた。
「自分は美恵子が求めているものを与えてきたのか?・・・美恵子は自分が求めているものを持っていたのか?」本来、それは結婚を決める前に考えるべきことだろう。ただ、私は幼い頃から父親に「人を選り好みするな」と言う綺麗事を命じられてきたため、女性に対して「好み=タイプ」を持つことができなかった。その癖、本人に会いもせず勝手な条件だけで有無を言わさず引き裂いて来たのはその両親だ。
「私、貴方の息子さんなら愛せますよ」食事を終えて佳織は無理に笑顔を作ってそう言った。佳織は善通寺での出来事を知っているのかも知れない。
- 2015/12/18(金) 09:36:24|
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ある日、部隊への電話で伊藤2尉=佳織に伊丹まで呼び出された。私は土讃線で高松へ出て本四架橋を渡り、岡山から新幹線に乗って伊丹に向った。
人の波にまみれながら改札を出ると佳織が待っていた。佳織は私を見つけると固い表情のまま歩み寄る。
「モリヤ2尉、病院につきあって下さい」「病院?」佳織は黙ってうなずいたが私の胸には予感があった。最後に佳織を抱いた時、昂ぶる気持ちのまま避妊を考えずに果てていた。ならばこれも当然の帰結であろう。
「病院は決めてあるのか?」「はい、母の掛かりつけの病院にします」そう答えて佳織は先に立って歩き出し、タクシー乗り場へ向った。
その病院は市内の総合病院だった。タクシーを降りると佳織は今度も先に立ってロビーに入って行き、迷わず受付の前に立った。そして後をついて行った私の耳に「産婦人科を」と告げる佳織の声が聞えた。
美恵子との離婚はすでに既定の方針になっているが、部隊としても私がPKOへ赴任している間に起きた問題だけに対応は慎重だった。現在は「淳之介を引き取った後、私の勤務をどうするか」が議論になっている。そんな中で同期のWAC、しかも現役の幹部を妊娠させたとなると私の立場は一気に悪者に転換させられるだろう。しかし、私にはそんなことはどうでもよかった。
私は手渡された問診票の説明をうなずきながら聞いている佳織の横顔を見つめていたが、その表情に覚悟を決めた女の強さを感じた。
佳織は筆記用具があるカウンターへ移動し、必要事項を記入すると問診票をもう一度受付に提出し、書類を受け取って案内された産婦人科へ向って歩き出した。
産婦人科の受付で書類を出すと、私たちは待合席に並んで座った。周りには幸せそうな顔をした佳織と同世代の妊婦たちが座り、時折、マタニティの上から自分の腹を撫でながら雑談を楽しんでいる。私はそんな姿が辛くて床を見ていた。
「この病院で母は亡くなりました、癌でした」「えッ?それは初耳だな」佳織とは多くのことを語り合ってきたが、ジュニア・ハイスクールまで過ごしたハワイと関西での思い出話以外、プライベートなことにはあまり触れてこなかった。
「母は空軍の軍人だった父と離婚して私を連れて帰国したんです。でも私が大学3年の時に子宮癌で亡くなりました」「ふーん、それは大変だったね」私の表情が重くなったのを感じたのか佳織は無理して笑顔を作った。
「だから私、病院には慣れているんです」「それは変だよ」私も無理して笑った。私は胸の中に仕舞い込んでいる家庭崩壊の事実、今後への不安、焦りをこの人になら吐き出せるかと思ったが今は止めておいた。

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- 2015/12/17(木) 09:54:14|
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間もなく私たちは離婚と言う結論を出し、そのことを沖縄の両親へ報告すると2人は急いで善通寺まで駆けつけてきた。
「申し訳ありません」私は官舎の居間で両親の前に座り、両手をついて頭を下げた。それは美恵子を幸せにできなかったことへの謝罪を込めた切実な一言だった。
「何を言ってるんです、こちらこそ申し訳ありませんでした」顔を上げると義母は涙目をし、実直な義父は怒りに震えながら淳之介と並んでうつむいている美恵子を見ている。
「それで淳ちゃんはどうするねェ」「私が引き取って育てます」その後の話し合いの中で相手の矢田から「淳之介がいると美恵子が昔(私との生活)を思い出すからいらない」と言われたのだ。思いのほかアッサリと同意したところを見ると、それは美恵子の意思なのかも知れない。
「それで美恵子はいいんねェ?」義母の問いに美恵子は「彼とやり直すのさァ」と答えた。
その返事に義父が立ち上がって美恵子に殴りかかろうとしたので、私は盾になりながら「私は保母の息子ですから大丈夫です」と付け加えた。その言葉に義父は崩れるように腰を下し、唇を強く噛んで涙をこぼした。
「モリヤさんは頑張り過ぎるから無理してはいかんよ」「無理も何も1人2役、やるっきゃないですよ。ハハハ・・・」そう言って笑った私を義父母は哀しげな目で見つめた。
義父母から離婚の件を聞いた松真が官舎に電話してきた。
「ニィニ、離婚なんて嘘でしょう?あんなに幸せそうだったじゃあないですか」電話口で松真はそう切り出したが、私はそれを否定できないことが辛かった。
「嘘ならその方が好いけどな・・・本当だよ」私の答えを聞いて松真は絶句する。隣で美恵子は黙ったまま耳を傾けているのであえて話題を変えた。
「ところで仕事は順調か?」「はい、この間、アドバンスへ入校してきました」仕事の話になって義弟は少しホッとした声になる。
「そうかァ、彼女も寂しがったろう」「浜松まで来てもらいました」「それって婚前旅行じゃないかァ」私の指摘に松真はあわてた声で反論した。
「ネェネだって福岡へニィニに会いに行ってたさァ」「よく覚えてるなァ、俺たちは2カ月が我慢できなかったんだよ」松真への反論に私は2カ月が我慢できなかった美恵子を長い間、ほかっておいた自分の非を噛み締めた。
「松真、美代子さんとの結婚を考えているのなら夫婦はいつも一緒でな」「それは・・・」私の教訓めいた言葉に松真は返事に詰まった。
「俺たちかァ?俺は美恵子よりも仕事を取ってしまったんだ。でも国を守ることが家族を守ることって言うのは自衛官の勝手な思い込みだったんだな」それが私の任務への考えだったが美恵子は無反応、一方、松真は電話口で鼻をすすった。
- 2015/12/16(水) 10:47:42|
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承応3(1655)年の明日12月16日は幕末の動乱で東海道、中山道沿いの親藩、枝胤、譜代大名が早々に敗北して反乱軍の通過を許し、新居の関所を守る任を与えられながら馬や人夫まで提供した吉田藩のような恥晒しが続出した中、会津藩と共に最後まで忠義を貫いた越後長岡藩の藩祖である牧野忠成公の命日です。ただし、孫であった(父親の光成公は藩主を継ぐ前に亡くなった)2代藩主も同じ「忠成」と言う名前のため、こちらは「後忠成公」と呼び分けているようです。
初代・忠成公は信長による天下布武が実現段階に入っていた天正9年に現在の愛知県豊川市牛久保の領主であった牧野康成さまの長男として生まれました。父子の名前を見ても判るように父は家康公に初代・忠成公は2代将軍・秀忠公に仕え、それぞれ名の1字を与えられています。
しかし、牧野家は家康公の祖父・清康さまが三河統一を成し遂げるに当たって立ちはだかった今橋城主・牧野成時さま(しげとき・戒名は古白=こはく)と同族であり、三河国内の外様と言う立場でした。それ故に成時さまが討ち死にし、今橋城が落ちて降伏した牛久保・牧野家を厚遇した清康さまへの恩義を忘れず、松平家=徳川家への強い忠誠心を家訓としたのでしょう。
牧野家の居城跡にある牛久保神社には「参州牛窪之壁書」と言う看板が掲げられています。
それは1「常在戦場の四字」2「弓矢御法と云ふ事」3「礼儀廉恥と云ふ事」4「武家の礼儀作法」5「出仕之礼」6「馬上之礼」7「途上之礼」8「老人之会釈」9「座間之礼」10「目礼手礼之次第」11「取籠者対手之次第」12「切腹人検死之作法」13「同介錯之作法」14「改易人等御使心得」15「貧は士之常と云ふ事」16「士之風俗方外聞に係ると云ふ事」17「百姓に似る共町人に似るなど云ふ事」18「進退ならぬと云ふ事」19「鼻は欠とも義理は欠なと云ふ事」20「腰は不立とも一分を立よと云ふ事」21「武士之義理士之一分と云ふ事」22「士之魂は清水で洗へと云ふ事」23「士之切目折目と云ふ事」24「何事にても根本と云ふ事」25「荷なひ奉公と云ふ事」26「日陰奉公と云ひ事」27「親類は親しみ朋友は交り後輩中は附合ふといふ又一町の交り他町の附合ひと云ふ事」からなる武士の徳目です。
一方、「侍の恥辱十七箇条」には1「虚言又人の中を悪しく言いなすこと」2「頭をはられても、はりても恥辱の事」3「座敷にても路地にても盧外の事」4「親兄弟のかたきをねらわざる事」5「堪忍すべき儀を堪忍せず、堪忍すべからざる儀を堪忍すること」6「𠮟言すべき儀を叱言せぬ事」7「被官の者、成敗すべきを、成敗せざる事、免すべき事、免さぬ事」8「欲徳の儀に付て、人を出し抜く事」9「人の手柄をそねむ事」10「好色の事」11「贔負の人多き所にて、強みを出す事」12「手に足らぬ相手にがさつなる事」13「武功の位を知らずして、少しの儀を自慢する事」14「欲を先だて、縁類を求むる事」15「主君の仰せなりとて御請申まじきを辞退なく、或は御暇を申すべき儀を、とかくして不申事」16「仕合よき人をは、仕合悪しき人をばよき人をもそしりあなずる事」17「我身少し仕合よき時はほこり、めてになりたる時はまいる事」とあり、「右十七カ条、大方也、此外にもあるべし、日頃穿きんし置くべし」と更なる探究を求めています。
「常在戦場」は現在も政治家の精神徳目になっていますが(某管理隊長の統率方針でもあった)、これが牧野家の家訓が出典であることを知っている人はどれ程いるのでしょうか。
「武士の義理、士の一分を立てよ」も「武士の一分」として映画の題名になっています。
こんな牧野家だったからこそ三河西尾藩から養子に迎えた11代藩主・忠恭公の下、家宝を売り払ってまでガトリング砲(6本の銃身を回転させて連射可能)やゲベール銃などの最新兵器を買い揃え、武士道を弁えぬ薩長土肥の反乱軍を迎え撃って勇戦敢闘し、三河武士の落暉を煌めかし得たのでしょう。
- 2015/12/15(火) 09:36:13|
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次の日、私は中隊長に呼び出されて部屋へ行くとそこには美恵子の相手の矢田3曹と先任陸曹が待っていた。
「話は今、先任から聞いたところだ」中隊長は席で立ち上がり私の敬礼に答礼すると矢田3曹に目をやって用件を告げた。
「まあ、座れ」中隊長の指示で先任陸曹と矢田3曹が長い椅子に並んで座り、私は中隊長の隣の1人掛けの椅子に座ったが、矢田は私に近づかないようにしているのが判った。
「昨晩、矢田3曹が私の所へ来まして話は全て聞きました。それで今、中隊長に御説明申し上げたところです」先任陸曹が私にも説明する。若い矢田3曹にとっては先任陸曹が調停役として適任なのだろう。それでは中隊長が私の側に立ってくれるかは判らない。
「モリヤ2尉のお腹立ちは判りますが、もう1年近く関係が続いているようです」先任陸曹の言葉に中隊長が身を乗り出した。
「1年前と言えばモリヤ2尉がカンボジアに行った頃じゃないか」「はい、事前講習の頃です」それには私が答えた。
中隊長は黙り込んだが、その横顔に激情が湧いているのが判る。しばらくの沈黙の後、中隊長は感情を無理に抑えた口調で話し始めた。
「重要な任務に赴いている隊員の妻を寝盗るとは許せん」中隊長の有り難い言葉ではあったが、私自身の行状を思えば素直に同調できなかった。ようするに夫婦揃って不倫に溺れ、我が子だけが取り残されたと言うことだ。私が父親としての罪の意識を噛み締めていると中隊長が矢田の顔を見ながら重い声で結論を告げた。
「退職しろ」その言葉に先任陸曹は矢田の顔を見て矢田は中隊長の顔を見る。
「矢田3曹はモリヤ2尉と奥さんが離婚すれば結婚したいと言っています」「そんなことは関係ない」先任陸曹のとりなしにも中隊長は耳を貸さず語気を強める。しかし、私は別のことを考えていた。
「若し、妻が彼との再婚を考えているのなら夫を無職にすることは偲びありません。それだけは勘弁してやって下さい」私の言葉が意外だったのか中隊長だけでなく先任陸曹と矢田も私の顔を見た。しかし、中隊長は振り上げた拳のやり所に困っているのも判る。
「本当にそれでいいのか?」「はい、仕事ばかりを優先して家庭を省みなかった私の落ち度でもあります。妻だけを責める訳にはいきません」中隊長は深く溜め息をついた。
「そうか・・・しかし、このままここに置いておくわけにはいかない。転属させる」「那覇の1混団とは次の8月に人事交流の予定があり、転出者の交代は可能です」先任陸曹もこの結論が落とし処と考えていたのか、すでに連隊1科で確認をしていた。
「判った。それまでの3カ月、よその中隊へ配置換えだ」その日の話はそれで終ったが、よその中隊へ転出させる手続きを当事者である私にやらせることは中隊長が禁じ、急遽1小隊長が命じられた。
- 2015/12/15(火) 09:35:14|
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1944年の明日12月15日はスイング・ジャズの代表者の1人であるグレン・ミラー少佐が行方不明になり、殉職を認定された命日です。40歳でした。
グレン・ミラー少佐については映画「グレン・ミラー物語(1954年)」「5つの銅貨(1959年)」や「愛と哀しみのボレロ(1981年)」で劇的に描かれていますから多くを語る必要はないと思います(「愛と哀しみのボレロ」はあくまでもモデルで、戦後も生きている)。
航空自衛隊はアメリカ空軍の手によって創設されたため文化面も影響を受けており、防府南基地を除く各基地にはプロの航空音楽隊からアマチュアのバンドまで揃っていて、夜になると屋上で練習するラッパの音が響いていたものです。
特に沖縄では米軍のバンドが本場の生演奏を聞かせてくれるため、航空自衛隊のジャズ愛好家たちも練習に励んで腕を上げ、本土に帰って各基地のバンドのレベルアップに貢献していたようです。
友人の音楽隊長は映画「グレン・ミラー物語」の中で陸軍の音楽隊長に就任したグレン大尉が観閲行進で嫌々歩いている兵士たちを見てジャズを演奏し、士気を鼓舞したのを自分も実際にやってみたいと真面目な顔で言っていました。防府南基地で再会した時にも同じことを言っていましたが、いくら野僧が第1教育群本部の幕僚になっていても無理な相談でした。
そんな中でジャズの愛好家の間ではルイ・アームストロングに代表されるアフリカ系ジャズとグレン・ミラーやベニー・グッドマンたちのスイング・ジャズの優劣で論争が起こることがありました。
門外漢の野僧にはどちらの主張も「聞いて感動すれば良いじゃないか」と言う感じでしたが、体内に湧き起こるアフリカの魂で聞かせるサッチモ=ルイ・アームストロングと技巧と構成力で聞かせるグレン・ミラー・オーケストラのスイング・ジャズでは訴える迫力では前者、響く情感では後者が優れているように思います。
グレン大尉は陸軍でも航空軍に所属し、自軍の航空機に乗ってヨーロッパ戦線の各基地を慰問演奏して回り、BBCなどで敵味方の兵士にジャズを聴かせる放送を流していました。
このことはバロックやワルツ、オペラなどクラシックの文化圏であるヨーロッパに新たなジャズの種を蒔き、それが戦後になってアフリカ系の移民が流入したことも重なり、可憐な花を咲かせる耕作にもなったようです。
グレン少佐はこの日、ノルマンディー上陸作戦から6カ月、パリ解放から4カ月のフランスで慰問演奏を行うため専用の輸送機に乗って離陸し、ドーバー海峡で消息を絶ったのでした。
事故直後から「ドイツ空襲から帰還する爆撃機か投棄した爆弾が命中した」「イギリス軍機が誤って撃墜した」などと様々な憶測が流れましたが、中には「無事に到着したもののパリの娼婦と関係を持って腹上死したため行方不明・殉職にした」と言う奇説までありました。
実際には専用機・UC―46は戦前から売り上げを伸ばしていたカナダ製の単発機ですが、戦時下には用途による改造や増設の改造の手が数多く加えられており、機体の信頼性が落ちていたと言う指摘があります。
何にしてもアメリカ陸軍・航空軍が公式に「戦死」ではなく「殉職」としているのですから、「事故死」なのでしょう(投棄した爆弾の命中でも「戦死」になる場合が多い)。
亡き妻とはよく窓のカーテンを開けて月明かりの中で「ムーンライト・セレナーデ」をかけて踊ったものです。今でも夢枕に立つと踊っています。
- 2015/12/14(月) 09:05:07|
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矢田は駐屯地から少し離れた香色山の登山口の駐車場に車を停めた。
「時間がないからここでしようぜ」矢田はサイドブレーキを引き、ヘッドライトを消した。フロントガラス越しに駐屯地の外柵の灯りが見える。夫が淳之介を連れて出掛けたゴールデン・ウィーク以来、久しぶりの逢瀬だった。
「おっと、BGMを忘れていた」運転席で浮かせかけた腰をまた下ろし、矢田はカーコンポにカセットテープを入れる。美恵子も聞き覚えのある尾崎豊の曲が流れだした。
「アイ ラブ ユー 今だけは悲しい歌 聞きたくないよ・・・何もかも許された恋じゃないから 2人はまるで捨て猫みたい・・・」美恵子が小声で口ずさんでいると矢田はギアを跨いでシートの足元にもぐり込みスカートに頭を突っ込んできた。美恵子はされるままにまかせながら湧き上がる欲望に堪えている。それが序幕だった。
「ほら、シートを倒しな」美恵子が言われるままに助手席のシートを倒すと矢田は乱暴に圧し掛かってきて車体がギシっと軋んで揺れた。
「きしむベッドの上で 優しさを持ち寄り きつく躰抱きしめ合えば それからまた2人は目を閉じるよ 悲しい歌に愛が白けてしまわぬように」この歌がBGMなのは2人の現実を劇的に表現している。その時、美恵子は夫だけでなく我が子さえも忘れていた。それが今夜の出来事だった。
「そうか、もう男と女の関係なんだな」「うん、もうすぐ1年になるよ・・・」つまり私がPKOの事前講習で伊丹へ行っていた頃からと言うことだ。あの時、私の出征にも特別な感情を見せなかった美恵子の態度が納得できた。
それに気づかなかった自分の迂闊さに腹が立ったが、しかし、私自身も伊藤2尉との関係を思えば美恵子を責めることはできなかった。
「貴方は断れる仕事もハイハイと引き受けて家を空けてばかりいる。それは私よりも自衛隊が大切なんだって」「幹部になったばかりで仕事を覚えなければいけない時期だから仕方ないだろう」「私だって働いてるさァ」私の反論に美恵子はムキになって言い返した。
「それにセックスは女も楽しむものだって・・・女の悦びを教えてくれるって」「それがアイツの目的なんだよ。美恵子は遊ばれているんだ」「・・・」ここでまた会話が途絶えてしまった。しばらくの沈黙の後、私が結論を訊いた。
「それでアイツはどうしたいって言ってるんだ」「貴方と別れて結婚してくれって」そう答えた美恵子の目には一瞬、幸せそうな色がよぎる。昨年の夏にこの部屋で義父と交わした会話を思い出し私は深く溜め息をついた。
その夜から私と美恵子は部屋を分けて寝ることにした。1人寝の布団の中で「美恵子を抱いて、矢田以上の快感を与えたら取り戻せないか」などと馬鹿な考えが浮かんだが、首を振って枕を抱いて眠った。
- 2015/12/14(月) 09:03:15|
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次の日曜日、仕事を終えて淳之介の保育所にいくため歩道を歩いている美恵子の横に見覚えがある赤いスプリンターが横付けしてきた。
「美恵ちゃーん」助手席側の窓を開けては矢田が声をかけてくる。美恵子は無視して足を速めたが矢田はユルユルした速度で並走してきた。
「美恵ちゃ―ん、明日もドライブしよーよ」矢田は周囲に聞こえるように大声で呼びかけ、歩行者たちが立ち止まって一斉に美恵子と矢田を見た。
「美恵ちゃ―ん。またオッパイに触らせてよォ」「またアヘアへ言わせてやるよォ」美恵子は周囲の好奇の目に耐えられなくなり、矢田の車に駆け寄った。
「止めて!」「だったらつき合いな」独身貴族で女遊びに慣れている矢田に真面目人間の夫しか知らない美恵子が対抗することは不可能なことだった。
美恵子は矢田の車に乗せられたが中にはZARDの「負けないで」が流れている。この皮肉な歌を美恵子は無意識に口ずさみながら、これから起こることを考えていた。
「ふとした瞬間に視線がぶつかる 幸運(しあわせ)のときめき覚えているでしょ あの日のように輝いている 貴方でいてね 負けないで・・・」
「今日はここだ」矢田は街外れのラブホテルの前でウィンカーを出して一気に駐車場へ乗り入れる。そして美恵子の肩を抱えて部屋に連れ込んだ。
「美恵ちゃんはまだ女の悦びを知らないようだから俺が教えてやるよ」矢田は美恵子にベッドに押し倒すと、そんな理屈にもならない言い訳をしながら当り前のように覆いかぶさってくる。美恵子は無意識に逃れようとしたが矢田は馬乗りになって脚で下半身、右腕でクビを固めてこの獲物を逃さなかった。
「言うことをきけばいいんだ、お前も女の悦びを知りたいんだろう」矢田が耳元で囁いた言葉に夫の顔が脳裏によぎり、出会って以来の真面目で誠実な夫婦生活が甦る。美恵子は全身の力が抜けて人形、矢田の性玩具になった。
「そうだ、いい子だ」矢田は好色に笑いながらブラウスの胸元に手をかけ、息を荒く吐きながらボタンを外し、手際よくこの人妻を全裸に剥いた。
「これがエリート小隊長夫人の身体かァ」矢田が口にした「小隊長夫人」と言う呼び名はこの2人の現実逃避を逆説的に表している。
「美恵ちゃん、まだ十分、綺麗だね」矢田は何の意味も持たない褒め言葉を口にしながら再び美恵子の上から唇を重ね、深く入れた舌で美恵子の舌を求めてきた。
美恵子には今、自分の体で行われている行為が現実とは思えないでいる。玩具としてされるままに任せるしかない、もう怯えはない、これは逃れようのない儀式なのだから。

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- 2015/12/13(日) 00:21:28|
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矢田は洒落たレストランで食事をしてから五色台のドライブウェイに連れて行った。
パーキングエリアに車を停めるとフロントガラスの前に広がる瀬戸内海の風景を眺めながらの会話も、店での付き合いが長くなっている2人なので共通の話題には困らない。
「美恵ちゃんの故郷の沖縄とは海の色が違うだろう」「うん、あっちはサンゴ礁さァ。でもこんな高い所から眺める場所がないよ」「それじゃあ、海岸沿いにドライブしたんだね」「ううん、あの人は自転車だったからドライブなんてしたことないよ」美恵子の返事に矢田は運転席からこちらを見て意味あり気に笑った。
「ふーん、陸曹になれば車が買えない訳ないけどなァ、それはあの人の主義だね。楽しむことなんて興味がないんだよ」確かに夫は人一倍の生真面目さの反面、一緒に楽しむことに関心がなかった。夫が美恵子をドライブに連れて行くため車を持たなかったのもそんな性格のためだったのかも知れない。矢田は美恵子の横顔に不満の色があるのを見逃さなかった。
「それじゃあ、折角の青春も楽しいことをあまり知らないできちゃったんだな」そう矢田が言った時、カーコンポの曲が終りテープが飛び出した。
矢田の好みは店の有線放送でも流れている若者向きの流行歌で、クラシックや暗いフォークが好きな夫よりも美恵子の趣味に合っているような気がした。
そんなことを思いながらゴソゴソと次のカセットを選んでいる矢田の手元を覗き込んでいいると急に顔を向け2人の視線が間近に合った。
「そんな目で見つめられると悪いことしたくなっちゃうよ」矢田はそう言うと素早く美恵子の頬に手を伸ばして唇を重ねてきた。それは美恵子が夫以外の男とした初めてのキスだった。
矢田は美恵子の唇に舌を差し入れて前歯を押し広げ奥に差し入れてくる。美恵子は躊躇いながらも煙草の苦い味がするそれを受け入れた。
そんな反応を見ながら矢田は美恵子の乳房に手を伸ばして巧みな愛撫を始める。美恵子の胸にモヤのような快楽が漂い、知らぬうちに身を任せていた。
美恵子を駅まで送ると矢田は下りようとした美恵子の手を取った。
「来週もまた会おう」「ありがとう、でも・・・」美恵子はそう答えて振り払おうとした。今日、矢田と交わした口づけが過ちとして胸に重くのしかかっている。しかし、矢田は手を離さなかった。
「美恵ちゃん、これが普通の若い男と女の楽しみ方なんだよ。あんな自衛隊だけを愛しているような奴は忘れて俺と楽しもうよ」美恵子は返事ができないでいる。
「楽しかったろう」そう言うと矢田は手を強く引き寄せてもう一度美恵子の唇を奪った。
- 2015/12/12(土) 09:14:49|
- 夜の連続小説8
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平成元(1989)年の明日12月12日は漫画「のらくろ」の作者である田河水泡先生の命日です。90歳でした。田河先生は明治32年生まれですから明治・大正・昭和・平成の4つの時代を生きたことになります。
田河先生は本名を高見沢仲太郎と言い(立派な名前です)東京の本所で生まれましたが、母親が出産直後に亡くなったため父親が再婚し、子供がいなかった伯父夫婦に引き取られて育ちました。
その伯父には中国風の絵を描く趣味があったため絵画の道具は手近にあり、幼い頃から自然に絵を描くようになったそうです。
ところが実父と養父が相次いで亡くなる不幸が重なって尋常小学校を卒業すると働きにでることになりました。そして徴兵で朝鮮や満州に配属されて除隊後に帰国、画家を目指して日本美術学校に入学しますが深入りすることなく卒業し、学生時代に結婚したこともあり装飾や広告デザインの仕事で喰いつないでいたそうです。
その後、落語作家に転身しますが、売れっ子になると美術学校出身と言う経歴が面白がられ、落語雑誌の挿絵から始まって漫画家への道につながっていったのです。
野僧は保育園の頃から祖父に買ってもらった復刻版の「のらくろ曹長」を絵本として読み始め、これが一生懸命に文字を勉強する動機になりました。ただし、戦前の復刻版であったため旧仮名遣いを覚えてしまいましたが、昭和40年代に「・・・でしょう」を「・・・でせう」、「ちょうちょ」を「てふてふ」と書く小学生は滅多にいないでしょう。おまけに漢字も「高い」を「髙い」、「学ぶ」は「學ぶ」でしたから重症です。
その後、中学生になって文庫本化した「のらくろ」を擦り切れるほど愛読しましたが、やはり復刻版が欲しくなり「のらくろ伍長」と「のらくろ少尉」を買ったもののファンの小父さんが多いらしく、たまに街へ出て書店を探しても「2等兵」「1等兵」「上等兵」「軍曹」や「中尉」「大尉」までは揃いませんでした。おまけにこの文庫本は防府南基地で班長連中に貸したまま行方不明になってしまいました(防府では本やビデオ、カセットテープを数多く紛失しています)。
「のらくろ」は野良犬の黒吉と言う名前の短縮ですが、徴兵ではなく志願兵として入営し2等兵になりました。その後は失敗と手柄の繰り返しで昇任して行き、やがて大尉の中隊長にまで上りますが、大陸開拓に身を投じる決意をして退役するのです。
実は「国民に手柄を立てれば階級が上がると言う誤解を与えるのは問題である」と指摘する声が陸軍内にあり、少尉になって「士官になって手柄を立てるのは当然の責務である=同じ展開は許さん」とする馬鹿馬鹿しい指導に作者が行き詰まりを感じるようになったのが退役させた本当の理由だったと言われています。田河先生は軍歴を有しているものの実戦の経験はなく、講談などで耳にする戦国時代の出世物語・武勇伝を参考にしたのかも知れません。
田河先生には「のらくろ」の他にも「蛸の八ちゃん」や「凸凹黒兵衛」「窓野雪夫さん」などの作品がありますが、「のらくろ」に顔を出しています。
例えば退役して大陸に渡る船の船長は「蛸の八ちゃん」であり、退役後に下宿したアパートの階下には「凸凹黒兵衛」が住んでいて、大陸に出発する時、「後は頼むぞ」と家賃を押しつけようとして失敗し、旅費がなりました。「窓野雪夫さん」も通行人的に登場しています。
余談ながら「のらくろ」の連載は「ミッキーマウス」の制作から3年遅れでした。逆に似たようなデザインの「フィリックス ザ キャット」は1960年代になってからです。
- 2015/12/11(金) 10:01:59|
- 日記(暦)
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