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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月1日・南アフリカがアパルトヘイトから決別した。

1991年の明日2月1日に南アフリカのフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領が国会でアパルトヘイト=人種隔離政策からの決別を宣言しました。
アパルトヘイトは南アフリカがイギリスの植民地になったことに由来します。南アフリカ地域にはインドとの香辛料貿易の中継基地としてオランダが先に入植したのですが、フランス革命でナポレオン・ボナパルトが出現したことによりオランダと言う国自体が消滅したためイギリスに奪われたのです。そうなると新たな支配者として入植してきたイギリス人と現地オランダ人(=アフリカーナ)との間で争議が起こるようになり、ここで支配者と被支配者の身分制度が設けられることになりました。
アフリカーナの多くは不毛の大地の開墾に失敗して貧困生活を送っており、プア・ホワイト(=貧しい白人)と呼ばれていたため、新たに開発が進められた鉱山技術者として生活面の援助をする引き換えにイギリス人に従属することを求め、これで上位の身分が決まりました。
一方、南アフリカ地区にはヨーロッパ人や原住民だけではなくオランダ人と原住民女性との間に生まれた子供やオランダやイギリスが労働力として連れてきたインド人やマレー人などもいて彼らは有色人種を意味するカラードと呼ばれ、アフリカーナの不満を下に向けさせることで支配者としての地位を守ろうとしたイギリス人の画策もあって、この類別と区分がやがてアパルトヘイトになっていったのです。
初期のアパルトヘイトは居住地域の分離を定めた「原住民土地法」、職業の上下区分を定めた「鉱山労働法(技術者や管理的立場をヨーロッパ人のみに制限した)や「産業調整法(現地人は労働者と認めず交渉すら許されなかった)」、異人種間の性交渉を禁じた「背徳法」などの法律に基づいて推し進められ、それは第2次世界大戦後に独立を果たしても軽減されるどころか過酷の度を加えていきました。
選挙制度・労働権・学校教育などの近代民主主義を学んだカラードや現地人たちの要求に妥協しようとした連合党がヨーロッパ人である国民の反発を買うとアパルトヘイトを党是とする国民党が政権を握り、被差別者や国際社会の要求に反する隔離を徹底していったのです。
ちなみに南アフリカの人口比率では最上位に君臨するイギリス人が6パーセント、アフリカーナは9パーセント、アフリカーナと現地人女性の間の子供であるカラードは9パーセント、インド人やマレー人のアジア人は3パーセントで、最下位に置かれていた現地人が73パーセントと圧倒的多数を占めています。
そんな中、登場したデクラーク大統領は父親がアパルトヘイトを推進した国民党の大統領でありながら、就任後は政府方針・党是を180度転換し、現地人たちとの対話によって将来を模索する現実路線を推進し、非合法組織として弾圧を受けていた現地人の団体を合法化すると共にリーダーとして27年間も投獄されていたネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(日本名・いかりや長介?)を釈放したのです。
そして1990年6月に現地人の要求激化を弾圧するため発令されていた非常事態宣言を解除し、この日の宣言を経て、1991年6月にはアパルトヘイトを定めた法律を廃止しました。
ただし、それまで日本人は黄色い猿でありながら「名誉ホワイト」として上位に加えられていることに満足し、カラードや現地人への差別には冷淡、と言うよりも他人事のような態度でした。
それはアメリカで現在もネイティブを差別している人種隔離法を制定したエィブラハム・リンカーンを未だに「人道主義者」と教えている無神経さを見ても明らかです。
  1. 2016/01/31(日) 08:49:49|
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振り向けばイエスタディ351

その頃、モリヤ家では電話を終えた母親が父親に報告していた。
「今度の嫁さん、佳織さん、しっかりしてるわ」「うん、そうだろう。やはり女だてらに幹部自衛官になる人は違うな」「今も私たちだけじゃなくて、お母さんを取り上げられた雄馬にもよろしくってさ」「すごい気配りだな。そんな女性(ひと)が何であの馬鹿と結婚してくれたのかな」「・・・」父親の私に対する評価は理解不能を意味する「馬鹿」のままだった。一方、息子を馬鹿にされて母親は腹が立ったが父親の機嫌を損ねることを避けて黙り込んだ。この両親の主従関係は全く変わっていない。
「何にしても今回の震災の自衛隊の活躍は凄かったな」「少しは見直した?」「世間の目も大きく変わっただろう。会社で『息子さんは出動されたのですか』って訊かれると自慢だよ」「初日に駆けつけたのはお父さんだもんね」本当はあまり役に立たなかったのだが、父親としては災害派遣を支援=被災者の救助に貢献した気分なのだろう。
「それにしてもニュースで瓦礫を片づけている人の中にあの子がいないか探したけど見つからなかったね」「アイツのことだから使い物にならなくて炊事当番でもしてたんだな」やはりこの両親には自衛隊に対する知識が決定的に欠落しているようだ。

「げッ、本宮山が見えてきた」「何や?」私の大きな独り言に後席で志織をあやしていた佳織が反応した。東名高速道路を東に向かい岡崎市から宝飯郡音羽町(当時)の山間部を抜けて豊川市に入ると私にとって悪鬼の象徴・本宮山が迫ってくるのだ。地平線が見渡せる岡崎市の小学校を終えてこの山麓の中学校に入ることになってから私の人生は狂い始めた。
「地元の流儀に合わない」と言うことだけで同級生や教師から執拗に苛められ、毎日が砂を噛むような3年間だった。そこで1歩でも遠くと飯田線と東海道線を乗り継ぐ海辺の高校へ入学したのだが、徹底的に馬鹿扱いされていた中学校とは違い、高校では生徒会の役員を歴任した。それでも夕方、帰宅する東海道線の列車の窓から本宮山が見えてくると気分が滅入り、豊橋駅で飯田線に乗り換える時にはどん底になり、発車すると本宮山が地獄の入口に立つ悪鬼に見えたものだ。その山が見えてきて急にアクセルが緩んでしまう。
「高速やで、最低速度違反になってるやん」「いや、ギリギリ60キロだ」「そんなに嫌なの」「うん、Uターンできるなら引き返したい」「豊川インターを通り過ぎちゃあかんで」私がやろうとしていることを指揮官の佳織に見抜かれてしまった。
「昭和20年の8月7日に豊川海軍工廠が空襲されたんだ」「ふーん、広島の翌日やね」「そうだ。だから広島の代わりに豊川に原爆を落とせば良かったんだよ」「・・・」「それが駄目でも小倉に落とすつもりだったプルトニウム爆弾でも良いよ」しかし、豊川海軍工廠は核兵器の実験とは別の作戦だったため目標リストに入っていなかった。
「・・・貴方が自己紹介の時、岡崎市出身って言うのは豊川市で過ごした時間を削除したいんやね」「うん、あの親の子であることもな」佳織は心理学専攻の研究者の顔をしてルーム・ミラー越しに私を見ていた。
た・森野佳織イメージ画像(心の中の荒野を見る佳織)
  1. 2016/01/31(日) 08:48:39|
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振り向けばイエスタディ350

佳織が帰還したところで両親と妹にはお礼として20万円を現金書留で贈った。
「えろうお世話になったんやから挨拶に行った方がエエんやないの」「いや、出入り禁止は解除されていないからな」佳織の意見にはこう反論したが、本当は私の方が帰省するのが嫌なのだ。
「それでもウチはお義父さんに会ったで」「異常に紳士的だっただろう」「異常かは判らへんけどナイス・マチュア(熟年)ではあったわ」「それにみんな騙されるんだよ」「自分の親をそこまで言うかァ」「ワシは幼い頃からあの両親に散々な目に遭わされてきたからな」「うん・・・」佳織は両親が離婚しているが、ウチの場合は離婚の前に結婚したことが間違いだと思っている。それで私が生まれなければこんな苦労をしなくても済んだはずだ。
「ウチ、ダディがいないからお義父さんができて嬉しいんやけどな」「それを期待するのは間違いだ。あんな奴らとは用がなければ関わらないよ」「ふーん・・・」佳織もそれ以上は何も言わなかった。
2日後の夜に電話が入り、この日は私がKP(=食器洗浄当番)だったため佳織が出た。
「はい、佳織です。はじめまして」「大変にお世話になりました」「いいえ、こんなことしかできなくて」会話の内容で私の実家からだと判る。報酬と迷惑料のような現金を送ったことを「他人行儀な」と断るかと思ったが意外にアッサリ受け取ったようだ。
「はい、はい、そうですか。それでは是非、うかがいます」突然の佳織の返事に私は洗っていた皿を落としそうになった。これを業界用語で「独断専行」と言うのだ。
「娘も1歳になりましたから大丈夫です」佳織が勝手に約束しそうなので私は台所で「俺は帰らんぞ!」と絶叫したが受話器を抑えて聞こえないようにしていたようだ。
「それではお義父さん、義妹さんにもよろしく・・・それからお母さんを取り上げられたお孫さんにも『ありがとう』とお伝え下さい」「へーッ、確かに日給1万円には少し足りませんでしたね」話が横滑りするのもウチの特徴だが、どうやら妹は「日給1万円には少し足りない」と言っているらしい。佳織が電話を切るのと私がKPを終えるのは同時だった。
「誰が帰るって言った」「エエやん。子供たちだってお祖母ちゃんに会いたいやろ」「ワテは帰らへんよってアンタらだけ行きなはれ」興奮を隠すためワザと我が家の標準語にする。
「そう・・・命令!発、2等陸尉 モリヤ佳織。宛、2等陸尉 モリヤニンジン。守山から豊川までの車両操縦と荷物運搬を命ずる」「ゲッ・・・」自衛隊では同じ階級の場合も先任順位と言うものがある。通常は幹部名簿の記載順位なのだが、防大と部外課程出身者は1尉まで卒業序列通りになる。つまり佳織の方が上位であり命令権を持っているのだ。ただし、行使されたのは初めてだった。
「と言うことは公務だから2人とも常装(制服)だな」「そうきたか・・・エエよ」「迷彩服は?」「そらアカン」結局、佳織はモリヤ家の親子断絶を修復する機会を作ろうとしてくれているのだろう。しかし、ウチの父親が大の自衛隊嫌いであることは言っていなかった。
  1. 2016/01/30(土) 09:39:04|
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1月30日・徳川幕府が続いていれば・・・西周の命日

明治30(1869)年の明日1月30日は徳川幕府が続いていれば間違いなく近代国家への変革に大きな役割を果たしたであろう思想家・西周(にしあまね)さんの命日です。
西さんは文政12(1829)年に石見国津和野藩の藩医の子として生まれました。津和野藩出身の偉人と言えばやはり明治の文豪・森林太郎=鴎外さんですが、西さんの父親は同じく藩医だった林太郎さんの曾祖父の次男から養子に入っており、従叔父と従甥にあたります。
また津和野藩からは藩命で学問のために上京していながら毛利藩の過激分子に同調し、譜代であった津和野藩を尊皇攘夷運動に引き込み、反乱軍と化した毛利藩が浜田藩攻撃に向かうのを黙過させ、明治になって預けられた浦山崩れのキリシタンたちを虐待させた元凶である福羽美静も出ていますが、狭い城下町の小藩ですから顔くらいは見知っていたのでしょう。
西さんは幼い頃から蔵に閉じこもって勉学に励み、漢学を見につけますが、藩校では逆に蘭学を学び、28歳で輸入書を管理・研究する蕃書調所の教授並手伝いになっています。そこで哲学や西欧の学問を研究し、33歳で幕命により津田真道や榎本武揚と共にオランダへ留学しました。
3年後に帰国した時、日本ではペリー来航から打ち続く尊皇攘夷運動が倒幕に置き換えられ、血で血を洗う抗争が繰り広げられており、そんな中、15代将軍になった徳川慶喜の傍で幕政改革のプランである「議題草案」を起草しました。
「議題草案」では大政奉還後の国家像を述べていますが、公武合体を前提に天皇は象徴的存在として政務には不関与とする一方で、西欧式の三権分立を取り入れ、将軍を国家元首として行政権を担わせ、立法権は各藩主と武家によって構成する議政院に与え、司法権は各藩に分割し、国家レベルの争議については行政権の範疇とすることにしています。
その一方で西さんは議題草案の基本理念を「世禄を減らし、門閥を無くし、兵制を整える」と述べており、徴兵制の導入による武士階級の解消=四民平等を最終目標としていたようです。
薩長土肥の過激分子たちは幕府を倒して自分たちが取って代わる=武士階級を存続させることを目的としていたのに比べてはるかに近代的な国家像と言えるでしょう。
実際、世間知らずな公家と田舎者の薩長土肥が作った明治政府は国際常識を全く知らず、討幕の大義名分とした不平等条約の改正を目的に渡米・渡欧した岩倉具視、大久保一蔵、桂小五郎、伊藤俊輔、山口尚芳らの使節団は外交交渉には国家元首の委任状が必要なことも知らず、天皇の委任状が届くまで物見遊山して待つ醜態を晒しました。結局、不平等条約の改正は明治30年になってからであり、その明治政府=大日本帝国は77年にしてこの国を滅ぼしたのです。
西さんは明治3年になって要請により明治政府に出仕し、軍人勅諭の制定など村田蔵六さん亡き後の兵制の整備に関わりましたが、同じ津和野藩出身の福羽美静が国家神道による国民の思想統制に猛威を奮い、さらに廃佛毀釋と言う暴挙により多くの国宝を喪失させたのに対し、むしろ在野の思想家として西洋哲学の普及・啓蒙に尽力するようになりました。
ちなみに「芸術」「理性」「科学」「技術」「心理学」「意識」「知識」「概念」「定義」「命題」「分解」などの哲学・科学用語は西さんの翻訳・造語です。森林太郎さんも「情報」などの造語を残していますが、西・森家は言語学に何か特殊な才覚がある血統なのでしょうか。
何にしても西さんが起草した「議題草案」は西欧の近代的政治制度を日本の国情に合わせて脚色しており、後醍醐天皇以降、政治的な経験を全く持たなかった天皇を国家元首とするなど無理に西欧化した大日本帝国憲法よりも優れた内容です。勿体ない事をしました。
  1. 2016/01/29(金) 09:43:21|
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振り向けばイエスタディ349

夕方、守山に着いて4科に資材の点検と収納完了、1科に隊員の健康状態などの確認が入り、解散になったのは消灯ラッパが鳴ってからだった。私はOD色の作業服を脱いで制服に着替え、自転車にまたがって家路についた。荷台には洗濯物が満載の演習バッグがくくりつけてある。それは意外に重かった。
「ただいまァ」「お父さん、お帰りなさい」玄関を開けると淳之介はまだ起きていて玄関に出迎えてくれた。
「兄貴、今回は大変だったよ。そろそろ限界だから引き上げるつもりだったんだぞ」居間でテレビを見ていた妹は私の労をねぎらうよりも先に自分の苦労を口にした。しかし、この妹が言う「限界」とは子供たちを送り出した後、名古屋の街で遊んで金を使い果たしたらしい。それにしても妹とは8年以上会っていなかったが、そのことには触れなかった。
「そりゃあ、すまんかったな。有り難う、お世話になりました」私が謝罪と感謝の言葉を並べ、深々と頭を下げると妹は少し納得した顔になった。
「ところで淳之介はどうしてこんなに遅いんだ?」もう11時、淳之介は明日も学校のはずだ。
「回覧で兄貴の自衛隊が帰って来るって言うから寝ないで待ってたんだよ」妹は相変わらず自衛隊に関する知識は皆無で「兄貴の自衛隊」と言う妙な用語を使う。これは「お父さんの会社」の代用なのだろう。仕方がないので私は「家を守ってくれただけで有り難い」と感謝することにした。
「そうかァ、出迎えありがとう、もうお休み」「はい、お休みなさい」私の挨拶に、そう返事をして淳之介はアクビをしながら寝室に向った。
「ところで嫁さん・・・義姉さんは?」「佳織はもうしばらく掛かるみたいだ」「ふーん、夫婦バラバラなんだ」「部隊が違うから仕方ないだろう」私は一生懸命説明したが、この素人には何を言っても無駄だろうと思った。
「共働きならどちらか片方だけって配慮はしないの?」「どちらも幹部だから行かない訳にはいかないよ」「ふーん、大変なんだね」話に区切りがついたところで私は時計を見たが、洗濯を始めるには遅く、仕方ないので妹の話につき合うことにした。
「でも幹部用の割には狭い社宅だってお父さんが言ってたよ」「佳織が独身の時に入っていた官舎にそのまま入ったからな」「カンシャ?」「自衛隊の社宅のことだよ」モリヤ家の自衛隊への理解はやはりこのレベルだった。
「あッ、私、明日帰るんだった。もう寝ます」「でも布団はここに敷かないと」「そうかァ、父親が帰ってくればもう仕事も終りだね・・・志織は夜中に泣くよ」妹は押し入れから布団を出しながら説明したが志織の夜泣きは初耳だ。
「両親が突然、いなくなって知らない人が来たら子供も驚くわな」「夜泣きは私のせいだって言うの?」この反応も相変わらずなのが判り私は溜め息をついてもう冷めていた風呂を沸かし直して入った。
  1. 2016/01/29(金) 09:42:10|
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1月29日・旅順要塞攻撃の白襷隊指揮官・中村覚大将の命日

大正14(1925)年の明日1月29日は日露戦争に於ける旅順要塞への第3次総攻撃で犠牲的な働きをした白襷隊(しろだすきたい)の指揮官・中村覚大将(この時点では少将)の命日です。
旅順要塞はフランス、ドイツとの三国干渉によりロシアが遼東半島を手に入れて以来、ヨーロッパ式土木技術と大量の資材を投入して203高地から大孤山まで連接する永久保塁の建設を進めていたのですが、予算不足と開戦が予想よりも早く国交が断絶した時点では計画の40パーセント程度しか工事は終わっていませんでした。結局、白銀山、東鶏冠山、盤龍山、松樹山までの完成していた保塁を中核とする形で要塞化していたのです。
日本陸軍は奉天方面のロシア軍主力との決戦を前提に作戦計画を立てており、旅順については後方を脅かされないように半島の根元に監視・阻止役の部隊を置く予定でした。
ところが旅順港に逃げ込んで動かないロシア極東艦隊をバルチック艦隊が回航してくる前に砲撃により撃滅、若しくは追い出すことを海軍が要請し、このため第3軍が編成され、司令官には予備役になっていた乃木希典大将、参謀長にはフランス帰りの伊地知幸介少将が任ぜられました。
旅順要塞はこの時点でも日清戦争当時とは比べ物にならない程、堅牢になっていたのですが、乃木と伊地知はロシア軍を野戦による撃滅ではなく要塞内に追い込む作戦を実施したのです。
ところがロシア軍が立て篭もった要塞への総攻撃は第1回で戦死5017名、負傷者10843名の1個師団分の戦力を喪失しており、前後2回の第2回でも戦死1092名、負傷2782名の大損害を出したのですが、小手先の変更だけで正面攻撃を改めることはなく、厳寒期が迫る11月26日に第3回の総攻撃が実施されました。
この時、第1師団の歩兵第12、25、35連隊の志願者による特別支隊が編成され、第2旅団長の中村覚少将が指揮を執ることになりました。この特別支隊は夜間の識別のため全員が白襷をかけたため「白襷隊」と呼ばれましたが、夜間戦闘であれば黒の軍服のままの方が迷彩効果は高く、要塞・陣地に篭っている敵を攻撃するのであれば彼我が混戦になる危険性も低いはずですからワザワザ目立つように白襷をする理由が判りません。
白襷隊は26日の日没後の午後5時に出撃し、集結地点で月(ほぼ半月でした)が昇るのを待ち、午後8時30分に攻撃目標である松樹山砲台陣地へ向かいました。しかし、陣地周辺には鉄条網が幾筋も張り巡らされており、それを切断している間にサーチライトで照らし出されて銃撃を受け損害を受けます。それでも突撃を試みますが鉄条網の奥には地雷原が作られており、ほぼ全滅してしまいました。この戦闘で中村少将も銃弾を受けて重傷を負いましたが攻撃は継続され、ロシア軍の守備兵も残り少ないところまで追い詰めながら白襷隊の方が先に力尽き、翌27日の午前2時頃に退却したのです。
中村少将は白襷隊の指揮官を「大勢の兵士が死んでいる。そろそろ上(=将官)も死ななければ申し訳が立たない」と言って引き受けました。また出撃に当たっては「若しワシが倒れたら指揮は渡辺大佐が代われ、渡辺が倒れれば大久保中佐が指揮を執れ。各部隊も順次代わる者を決めておけ。理由なく後方に留まったり、隊伍を離れる者は斬れ!」と命じていますが、この命令の後半は志願した兵を侮辱していることになり、真偽を疑ってしまいます。
中村少将は事実上の停戦に入った7月に中将に昇任し、豊橋で新編された第15師団長や侍従武官などを歴任して大将で予備役に編入されて、この日を迎えました。70歳でした。
  1. 2016/01/28(木) 09:17:04|
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振り向けばイエスタディ349

中部方面隊の総力戦にも疲れが見えてきた頃、九州の西部方面隊が派遣されてくることになった。我々の宿営地も引き継ぐことになるため4師団の先遣隊が現地確認に来た。引き継ぎの合間の休憩時間、4師団司令部の1尉がオカシナことを訊いてきた。
「モリヤ2尉は東北方面隊総監だったモリヤ安弘閣下の御子息ですか?」「ヘッ?」私も防大1期生の陸幕長レースの出走馬の中で東北方面隊総監になっていたモリヤ安弘陸将の名前は知っていたが、アチラは東京都港区六本木出身の江戸っ子のはずだ(実際は志方俊之北部方面隊総監と同じく同期の後任だったため対象外)。
「残念ながら違います」「それはよかった」私が否定すると彼は何故かホッと微笑んだ。
「あの方は陸幕防衛部長から第8師団長に転任してきたら、いきなり滅茶苦茶な訓練をやり始めて隣りで見ていてもハラハラしどうしでした」「へーッ、滅茶苦茶ですか?」前から注目していた同姓の将官の逸話に私も興味を持った。
「兎に角、『実戦性の追及』が口癖で、演習が終わった連隊に『転戦』と言って別の演習場へ移動させて演習を再開させるんですよ」「ふーん」「おかげで過労運転の事故が続発して西部方面隊の指導でウチでも対策に追われました」「そりゃあ、そっくりじゃないか。本当に親子だろう」隣りから2科長が突っ込みを入れて、このネタは落ちがついた。

そんな引き継ぎ現場に取材にきている記者たちを1科長が案内してきた。
「あれ?」私はその中の1人に唖然とした。それは幹部候補生の同期である岡倉信一郎2尉だった。黒縁のメガネをかけた顔つきだけでなく身長、体格も彼そのものだ。ただ、私の顔を見ても表情を変えず、立ち振る舞いにも自衛官らしさを感じさせない。他の記者が大声で質問を繰り返す中、黙ったまま一歩離れて記者たちを観察しているようだった。
「岡倉は陸幕2部にいるはずだから・・・」私は高校の図書館にあった日本共産党が自衛隊の諜報活動を暴露した本の内容を思い出した。その本によれば陸上幕僚監部第2部にはJCIAとして諜報活動に従事している秘密組織があると言う。だとすれば陸上幕僚監部は粗探し報道を繰り返すマスコミ各社の悪意に他国からの政治工作の臭いを察知したのかも知れない。岡倉1尉がその特殊任務についているとすれば無視するのが協力だろう。

現地を出発する朝は多忙を極めた。朝食の炊き出しは通常通りに実施し、終わり次第撤収に掛かるのだが、食事を終えた被災者たちが「有り難う」「ごちそうさま」と感謝の言葉を掛けながら握手を求めてくるため一向に作業が始まらないのだ。
それでも我々が撤収した後には4師団の連隊が展開してくるため予定時間を遅らせる訳にはいかない。結局、現場長の陸曹1人に握手を任せて撤収作業を開始した。
出発する時、学校にいる被災者だけでなく宿営地周辺の住民たちも拍手で見送ってくれた。中には涙を拭っている人もいて、おまけに我々の宿営に反対した学校職員たちも総出で児童と一緒に見送っていた。
  1. 2016/01/28(木) 09:15:56|
  2. 夜の連続小説8
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豊味ミカン?+猫は喜び庭駆け回る。

年末年始のお供物の中に沖縄で言う「豊味=ホーミー(九州ならボボ、福井ではチャンペ?)」を思わせるミカンがありました。折角なので橙の代わりに鏡餅の上に載せましたが何か功徳があるのやら。ただし、沖縄ではミカンを作っていません。シークワサーはあるけれど・・・。
Hな蜜柑
古民家での暖房がない生活に耐えられなくなりこっそり暖冬を祈願していましたが、年末年始に色々あって力尽き、反動で90年に一度の大寒波が襲来してしまいました。
ところが室内と屋外の気温差があまりないため音子(ねこ)と若緒(にゃお)の猫母子は雪の中へ遊びに出ました。と言っても元気に走り回るのは若緒の方で音子は「寒いなァ」と言う顔で監視しているだけです。飼い主としてはコタツで丸くなっていてもらいたいものです。
ひ0・90年に一度の大寒波・16・1・24ひ1・90年に一度の大寒波・16・1・24

  1. 2016/01/27(水) 10:07:37|
  2. 猫記事
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振り向けばイエスタディ347(事実です)

支援物資の量が増え、道路網が整備されて運搬が回復したことで炊き出しにも余裕ができたため、学校に避難している被災者以外の人たちにも余り物を提供するようになった。
そんなある日、順番待ちしている被災者の列に割り込んでくる若者たちがいた。
「腹減ったァ」「匂いは美味そうじゃん」「外で食べるなんてキャンプみたい」「メニューが貼ってねェなァ」「うッそーッ!私、サイコロステーキが良い」「私、ドリア」「ドリンクは何があるんだ」若者たちの場違いに派手な服装はどう見ても余所から来た物見遊山だ。おまけに周囲の迷惑を考えずに悪ふざけして騒いでいる。
炊事当番の隊員たちは「順番を待つよう注意しよう」と思ったが、連日のように繰り返されているマスコミの粗探し報道とそれを鵜呑みにした首相官邸が加えてくる叱責で委縮して何も言えないでいた。現場長の陸曹は連隊からの指導通りに陸士を連隊本部に仲裁役の幹部を呼びに走らせた後、彼らの前に立ち「君たち・・・」と言いかけた時だった。
「おい、おめェら大人しく順番を待たんか」若者たちの背後で太い声がした。驚いて周囲の者が顔を向けるとそこには一見してヤクザ業界の金バッチと判る小父さんが立っている。小父さんは寒空の下に短く刈り上げた頭で、鋭いと言うよりも威圧感のある小さな目が暗く光り、厚い唇の上には綺麗に揃えた鬚が生えている。汚れてはいるが高級そうな革製のジャンバーを羽織っており、胸の前で結んだ両手の片方には小指がない。小父さんの迫力に若者たちは黙って後退さった。
「大体、おめェらは神戸の人間じゃあねェな?ここは被災者に救いの手を差し伸べてくれた全国の人たちの有り難てェおマンマをいただく場所だ。おめェらが来るところじゃねェ。とっと帰りやがれ!」この一喝で若者たちは急ぎ足で退散した。そこに私は到着した。
「どうも有り難うございました」不良の若者たちが相手と聞いていた私はヤクザ業界の幹部に代わっていることに戸惑ったが、そこは無難に挨拶する。
「おう、お前さんが仲裁役の金バッチか?」「はい、2等金バッチ尉の要チュウイ(中尉)です」私のとぼけた返事に小父さんはニヤリと笑った。それでも炊事係りの隊員たちは不良の若者以上にヤクザ屋さんが恐ろしいようで給仕を再開できないでいる。
「作業を再開しなさい。あちらへどうぞ」私は給仕の再開を指示して学校が提供した行事用テントの下に作った食堂の空いている席を勧めた。
「俺がここに座っちゃあ飯が喉を通らねェ人もあらァ、立ち話で良いだろう」「はい」そう言って2人で給仕と食事の場から離れて立ち話を再開した。
「ウチの組の総本部でも炊き出しをやってるんだが、灘区の被害は長田区ほどじゃあねェんで頑張っている同業者の仕事振りを見に来たって訳だ」「同業者?」「お前たちも戦争屋だろう」「確かに。職業で差別されるところも一緒ですね」「そうだな、ハハハ・・・」震災の後、山口組は全国の傘下組織から食料を集め、灘区篠原本町の総本部前で炊き出しを行っていた。傘下組織は組長の命令とあれば道路が不通になっている場所では組員に荷物を背負わせ徒歩で運んでいたと言う。その実行力は正しく戦争屋だろう。
  1. 2016/01/27(水) 10:04:59|
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1月27日・「日の丸」が日本の国旗になった。

明治3(1870)年の明日1月27日の太政官布告57号で「日の丸」が日本の国旗になりました。と言われると平成11(1999)年に小渕恵三内閣が成立させた「国旗及び国歌に関する法律=国旗国歌法」の前身のような法律かと思われますがこちらは「郵船商船規則」であり、国際条理に定められている船が掲げる船籍保有国を表す旗を正式化したに過ぎません。ただし、内容には国旗の取り扱いに関する事項もかなり含まれています。
かつて学校行事で国旗掲揚、国歌斉唱の起立を拒否していた教職員などは「法的根拠がない」ことを反対理由にしていましたが、国旗についてはこの規則で日の丸を「御国旗」とすることが明記されており、小渕首相が「国旗国歌法」を制定したのは「君が代」の方が理由だったようです。
日の丸を船に掲げている様子は秀吉の朝鮮出兵の絵図などでも描かれていましたが、それが国旗としての位置づけで正式化したのは鎖国政策を止めた幕府が嘉永7(1854)年7月9日に発した触書(ふれがき)で、「日本の総船印は白地日之丸幟(のぼり)」と定め、安政6(1859)年1月16日には「御国総印は、白地日之丸の旗」と幟を旗に改めています。
これを明治政府が踏襲する形で規則にしたのですが、日の丸は幕府が定めた国旗であったため、太政官の中には反対する声があったようです。つまり「戦争に加担した日の丸・君が代は変えるべきだ」と言う左派政党の主張と同じことを公家や薩長土肥も口にしていたのです。
ちなみに民主党は「国旗国歌法」については党議拘束を掛けず、各議員の自由投票としたため政治信条の踏み絵のようになりました。有名どころでは鳩山由紀夫(後の首相)、安住淳、岡田克也(現在の党代表)、渡辺周、石井一、浅尾慶一郎、江本孟紀、北澤俊美(後の防衛大臣)などは賛成、菅直人(後の首相)、枝野幸男、海江田万里(後の党代表)、前原誠司(後の党代表)、福山哲郎、河村たかし(現在の名古屋市長)、赤松広隆、岩國哲人、上原幸助などは反対しました。ちなみに首相を経験していた社民党・村山富市も反対しています。
ところでこの「郵船商船規則」と「国旗及び国歌に関する法律」では国旗の企画に差異があることをご存知でしょうか?
先ずは旗の形ですが、旧来は縦7・横10の比率だったのに対して現行では縦2・横3とやや横長になっています。また日の丸の大きさは縦の5分の3で同じでも中心点は、旧来が中心から100分の1、旗竿側(掲示時は左側)にずらしていたのに対して現行は中心になっています。
旧来は日本の伝統的な旗指し物の形状と掲揚した時の風になびく姿を考慮した規定だったのですが、現行は布地を外国の国旗の規格に合わせ、微妙な調整を廃止して大量生産が容易にした官僚的な配慮が持ち込まれているようです。
野僧は祝日を本来の記念日や祭日から月曜日に移して連休を作ったハッピーマンデーも消費拡大と引き換えに日本民族の伝統文化と歴史、精神性を踏みにじった軽薄な官僚と馬鹿な政治屋の愚策として許しませんが、ここでも国際規格や生産性などのために約130年もの長きにわたって守られてきた国旗を変質させた官僚とそれを認めた小渕政権を赦すことはできません。
前述のように現行の国旗に反対している共産党は日の丸をベトナムの国旗「金星紅旗(赤地に黄色の星)」のように赤地に黄色の丸にすれば賛成するのでしょうか?名称は「日章紅旗」になると思いますが、真っ赤に染まった大空に昇る太陽のようで白地に赤よりも「日の出」らしく見えます。
  1. 2016/01/26(火) 09:45:24|
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振り向けばイエスタディ346

ある日、業務調整のため10師団派遣隊司令部へ赴き、関西弁に戻っている佳織に会った。
「随分長くなってまったけど子供たちは大丈夫やろか」「うん、確かに長いな」「うちでも子連れのWACは残留にしてきたんやけど指揮官はねェ」「だよな」「でも、妹さんにはえろう迷惑をかけたね」「うーん、お袋ならプロだけど・・・」妹は守山の官舎に泊りぱなしで妹の息子は実家で両親が面倒を見ているらしい。その意味ではモリヤ家としても総力戦だった。しかし、私自身としては入隊以来、息子の職業に全く関心を示さず、自分たちの常識だけで曲解し、批判をしてきた親たちに学習させる良い機会だと言う気持ちもある。父は私がPKOに行っていたことを聞き、「親に断りもなく戦争に征った」と激怒したらしいが、この大震災の災害派遣なら文句はないだろう。
「まあ、実際の戦争なら半年や1年は当り前だから持久戦の練習と思って頑張ろう」「それ今日の訓示にエエわ、ネタをありがとさん」思いがけず佳織に感謝されて頬にキスしてもらった。「うッ、鼻血が・・・」

宿営地になっている学校では夜間に木銃を持った不寝番が巡回している。警備対象は自衛隊の天幕と車両や集積している資材だが経路は避難所になっている体育館や校舎まで及んでいた。そんなある夜、陸士の不寝番が体育館の前で女の子に声をかけられた。
「兵隊さん、ありがとう」「あれ、寝られないのかい?」「うん、お母さんが背中が痛くて眠れないって」体育館の固い床で寝る生活も長くなり、それぞれ段ボールを敷くなどの対策を取っているが、「やはり子供も安眠できないのだろう」と不寝番は思った。
「寒いよ。風邪をひくから中に入りなさい」「ううん、私は風邪をひかないよ」「どうして?」「だって死んじゃったもん」「そう言う冗談はいけないよ」「うふふ・・・」女の子はそう言って笑うと消えてしまった。女の子が座っていた段を月明かりが照らし出している。普通であれば背筋が凍りつくはずだが、不寝番の胸には切ない思いが湧き起こってきた。
「モリヤ2尉、女の子の幽霊に会いました」指揮所天幕で不寝番を交代した後、今夜は不寝当直幹部の私に陸士は真顔で報告した。この陸士は以前所属していた2中隊なので私が「僧兵」であることはよく知っている。
「ふーん、どこでだ?」「体育館の前です」「何か言っていたか?」「お母さんが背中が痛くて眠れないそうです」「そうか・・・きっと夜になってお母さんの夢枕に立とうと思ったのに眠らないから駄目なんだ」「なるほど」「それでは今夜の不寝番には小声で子守唄を歌って歩かせることにしよう」「はい、自分も眠る前に歌ってあげます」こう言って陸士は自分の天幕に帰って行った。
翌朝、被災者の代表にこの話を伝えると家屋の倒壊で娘を亡くした両親が見つかった。
「不寝番さんが見回ってくれるから安心して眠られるって感謝していますが、死んだ子供の相手もして下さるなんて・・・」この胸を打つ感動の怪談を「まんが日本昔ばなし」にしたいものだ。
そ・モリヤ佳織イメージ画像
  1. 2016/01/26(火) 09:42:41|
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振り向けばイエスタディ345(やはり事実です)

宿営地の近くの公園で坊さんたちが宗教ボランティアの炊き出しをやっていた。
「名古屋の覚王山日泰寺からですか?」「はい、35普って守山ですよね」「はい」一見して修行僧と判る坊さんが名札を見て質問してきたので私はうなずいたが、訪ねたのには訳があった。師僧でもある祖父は若い頃、覚王山日泰寺で修行しており、亡くなるまでつき合いがあったことを知っていたので、この機会に何か思い出話を聞きたかったのだ。
「実は私は曹洞宗の僧籍を持っていまして・・・」そう説明しかけた時、若いが風格のある坊さんが姿を見せ、修行僧は姿勢を正して合掌しながら報告をした。その態度が自衛官に似ていて思わず笑ってしまった。
「前山老師、こちらは守山の自衛隊さんです」修行僧の紹介に私は合掌して頭を下げ、その坊さんも合掌を返した。
「ほーッ、合掌が様になっていますね」「この方は僧籍を持っておられるそうです」と言われても私の合掌は少林寺拳法で身についたものだ。
「僧籍を?どちらのお寺で得度を?」「はい、愛知県□飯郡一宮町の妙隆寺で・・・」「オトベ老師の所ですか?」「はい、亡くなった・・・」「敏秋老師ですか」「はい」テンポの良い質疑応答で、僧侶としての自己紹介は一気に終わった。
「それは希有(きゆう)だ。拙僧の父と敏秋老師は修行仲間で、無二の親友だったんですよ」「私はその孫です」「そりゃあ、初対面なのに懐かしいなァ」そう言って前山老師は本当に懐かしそうな顔で微笑んだ。
「それで今日は?」「私も僧侶ですから後学のため一度見学をと思いまして」「こんなのを見ても何の役にも立ちませんよ」「えッ?」修行僧を前に今やっていることを否定した前山老師の言葉に私は驚いた。前山老師は修行僧が番をしている大釜の蓋を手で叩きながら話を続けた。
「折角、坊さんが飯を炊くのなら美しく、有り難く炊きたいものじゃありませんか。食材になった生き物の供養をし、食べやすいように刻み、美しく盛り付けたい。しかし、ここじゃあ、ただの炊事当番だ」私はなるほどと深くうなずいた。
「『坊主は暇なんだからボランティアにでも行け』と言うのなら、我々の修行は無駄だと言うことになる」「はい」話が核心に入ってきたようなので私も姿勢を正して聞いた。
「自衛隊だってそうでしょう。国の防衛と言う役割を否定されて、災害派遣だけを有り難がれるのは存在を否定されているのと同じじゃないですか?」「はい」本来は「どちらも大切な任務だ」と答えるべきかも知れないが私には老師の見解の方が納得できた。続きを期待したが前山老師は自嘲するような顔で首を振った。
「おっと喋り過ぎた。喋り過ぎるのが私の癖でして、続きは覚王山へどうぞ」「はい」そう言って前山老師は食材を準備している修行僧たちの所へ行ったが、修行僧は「前山睦正老師は維那和尚(いのおしょう=生活指導担当)です」と説明してくれた。
私は「この人になら禅を学んでみたい。帰ったら覚王山へ通ってみようか」と考えた。
  1. 2016/01/25(月) 08:42:07|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ344(事実です)

我々の宿営地になっている学校の校舎や体育館も避難場所になっており、グランドでの炊き出しが始まって全国各地から届く支援物資を使ったメニューに隊員たちも腕を奮っていた。そんな配食の列ができているグランドに「ピースボート」と言う看板を持った若い女性の一団が姿を現し、代表と思われる猿に似た女がハンドマイクを使って呼びかけ始めた。
「住民の皆さん、自衛隊は今回の災害派遣を自分たちの支持獲得に利用しています。皆さんに提供される食事は買収工作の一種です。そんな汚れた食事を口にしてはいけません」この演説にお供の若い女性たちも「自衛隊は宣撫工作を止めろ」「被災者に取り入るな」「偽善の実態を暴け」と応援を始めた。その場にいる人たちは不快そうに押し黙っていたが、あまりにも一方的な批判に初老の男性が怒声を浴びせた。
「黙れ!お前たちは俺たちのために何をやってくれてるんだ」しかし、学生たちを乗せて堺各国を回り、船内で洗脳教育をしている活動を雑誌やテレビで持て囃されているこの猿面女はひるむことなく厚顔無恥な態度で反論する。
「今、反論された方は既に自衛隊に洗脳されているのです。そうして多くの国民が戦場へと送り込まれたことを忘れてはなりません」これにお伴たちは「戦争反対!」「平和憲法を守れ!」と言いなれた応援を始めた。すると高齢の男性たちが罵倒を返した。
「お前は戦争を知らないだろう。エラそうに言うな」「ワシは神戸の空襲も経験しとる。人間は戦争でも地震でも死ぬ時は死ぬんじゃ」流石に猿面女はトレードマークの短く刈り上げた頭が寒くなったのか、お伴たちをうながしてグランドを去っていった。
後で教員の1人が「ピースボートの辻元がここに来ることは県教組から連絡があって、本当は応援するように言われていたんです。しかし、皆さんの献身的な努力と規律正しい行動を見ていたら批判する気にはなれません」と告白してくれた。
これを「宣撫工作」と言われれば間違いではないが、それにしても若い女性たちが「自衛隊も使わない古びた軍事用語を知っているものだ」と妙なことに感心してしまった。

2科の一員として神戸市内の偵察に出ると、ある公民館の駐車場で航空自衛隊の隊員が炊き出しをしているのを見つけた。
「あれ、2教群じゃないか」隊員の航空ジャンバーの胸には「みにくいアヒルの子」のワッペンが縫い付けてある。これは熊谷基地の第2教育群のものだ。
「はい、航空教育隊として派遣されました」その空曹は私を知らないようで淡々と答えた。
「それじゃあ、1教群の連中もいるのか?」「いいえ」「どうしてだ?」「防府南基地では空自武道大会が開催されるので選手は連覇を狙って訓練、他の隊員はその準備です」「この非常事態に武道大会をやる気か」「はい、上が決めたことですから」ここでは防府南基地から派遣されている基地業務群の隊員数名と再会したが、「ワザワザ熊谷から隊員を呼んで航空教育隊としての派遣実績を作ったんだ。自衛隊の恥だ」と2教群の空曹以上の辛辣な言葉で批判していた。やはりあの腐り切った部隊を出たのは正解だったようだ。
  1. 2016/01/24(日) 08:56:52|
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振り向けばイエスタディ343(事実です)

道路網が寸断されている現場への輸送はヘリコプターによる空輸が中心だったが、マスコミの取材ヘリも絶えず低空飛行を続け、時には自衛隊のヘリが負傷者を乗せている状況を撮影しようと数機が上空で停止する。これにはグランドで負傷者に付き添いヘリを待っていた医官と衛生隊員が怒声を上げた。
「緊急患者を搬出できないじゃないか」「どこの社のヘリだ。通報して止めさせろ」「■日放送と▼日放送です」双眼鏡でヘリの機体に描いてある在阪テレビ局の社名を確認した隊員の報告を受け、現場から災害派遣部隊司令部に連絡が入り、さらに指揮系統を通じて防衛庁に届いた。この日も情報収集のためテレビのニュースを見ていた私たち2科は唖然とした。
「本日、神戸市へ災害派遣されている自衛隊から取材ヘリの飛行を制限するよう要請があった模様です」「何か見られてはまずいことをやっているのですかね。住民に感謝されれば格好の宣伝になるでしょうに」「そんな隠蔽体質は旧軍と変わらないようです」このニュースを報じながらキャスターと解説者は皮肉交じりに批判していた。それは言葉だけでなく表情でも「自衛隊の実態」と言う虚構を演出している。これがテレビの恐ろしさだろう。
次の日からテレビや新聞の記者たちが作業現場に貼りつき粗探しを始めた。災害派遣から1週間が過ぎ、作業の目的も人命救助から被害復旧に移りつつある。ただし、やることがない住民たちは学校などの避難所から倒壊した自分の家屋の跡まで来て、自衛隊が掘り出す品物を確認していた。勿論、隊員も可能な限り住民に見せているのだが、それを記者たちは「自衛隊が大切な品物を粗末に扱うことを心配して監視している」と受け取っていた。
そんな現場で休憩時間になり、車座になって腰を下した隊員たちの中で陸曹が飴玉の袋を回した。
「おう、糖分補給にこれを舐めろ」「これはすみません」「元気が出ます」「続いて頑張ってくれ」「はい!」この場面を撮影した写真を載せた新聞記事はこんな見出しを付けていた。
「被災者の前でおやつを楽しむ自衛官たち」つまり遠巻きに見ている空腹の被災者の前で隊員たちが飴玉を舐めて談笑していると揶揄しているのだ。実際は周囲の住民たちに気づいた陸曹は残った飴を袋ごと渡していたのだが、そんなことは無視している。
この新聞を読んだ村山政権の社会党首脳陣は激怒し、防衛庁に断固たる指導を加えるように命じ、それが現場には実態調査と言う形で伝達された。しかし、新聞記事は写真の現場を「神戸市内」としか報じていないため全ての派遣部隊が調査対象に該当する。
それを報告した1科長に連隊長は憮然としながらも冗談めかして指導した。
「要するに我々は『災害派遣をさせていただいている』と言うことだ。隊員には『申し訳ありませんが被害を復旧させて下さい』『本日の作業は終わります。有り難うございました』と言うつもりで現場に向かうよう指導しろ」このため隊員は住民の前では休憩もできなくなり、人目を避けて食事をしなければならない異常なことが起った(その後も継続し、現在では災害派遣時のマナー化している)。
  1. 2016/01/23(土) 09:34:41|
  2. 夜の連続小説8
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山口県で中村梅之助さんの逝去を悼む。

1月18日の朝に多くの時代劇で活躍した中村梅之助さんが亡くなったそうです。85歳でした。
野僧の記憶に残っている中村さんの出演番組と言えば先ず「遠山の金さん」ですが、母親の実家の寺へ泊って祖母と一緒に見ていると主題歌で「気前が良くて2枚目で チョイとヤクザな遠山桜 ご存知長屋の金さんに惚れない奴は 悪だけさ チョッと金さんまかせたよ」と言われても、2枚目がハンサムのことだと知っている野僧には昔風の丸顔の中村さんがハンサムとは思えず困惑してしまいました。ついでに言えば歌舞伎役者の息子らしい品のよさそうな雰囲気ではヤクザ=暴力団にも見えず、実際の遠山金四郎について歴史の本で研究することになりました。尤も歌舞伎役者は現在でこそ伝統芸能の継承者ですが、元来はヤクザな仕事です。
そんな「遠山の金さん」で違和感を覚えていた中村さんが主役を交代して3年後に適役と納得させる番組が始まりました。それはNHKの大河ドラマ「花神」です。
中村さんは主人公の村田蔵六さんを演じたのですが、歴史マニアの中では常識である容貌魁偉なイメージになっていたことは間違いありません。
近親者や地元住民(地元・鋳銭司には人間はあまり住んでいませんでしたが)、門弟などが語っている風貌は「小柄で色黒、大頭で額が広い、目が長く耳が大きい、鼻が大きく両眉が濃い」ですから中村さんが眉を濃くする化粧をすればそのままです。
他に野僧が見た映画や番組では昭和61年の映画「幕末青春グラフティ」の三浦洋一さん、平成元年の年末時代劇「奇兵隊」の片岡鶴太郎さん、平成2年の大河ドラマ「翔ぶが如く」の平田満さん、平成18年の映画「長州ファイブ」の原田大二郎さん(山口県出身)くらいですが、全体的に貧相で前述の特徴には合致しません。
ちなみに野僧が視聴を拒否した昨年の大河ドラマ「花燃ゆ」では一岡裕人さんと言う若手俳優が演じたそうですが見ていないので評価できません。
こうして比較するとやはり中村さんの蔵六さんが一番イメージに合っているようで、地元の山口市鋳銭司では、現在も「大河ドラマ『花神』のふるさと」を観光の宣伝文句にしており、駅や公民館にはポスターが貼ってあります。
それにしても山口県人は幕末に藩内で対立する人間を片っ端から切り殺し、優秀な人材の多くを失った愚かさを反省していないので、批判された相手を全否定する過激な偏狭さが治っておらず、司馬遼太郎先生が大所高所から客観的に下した幕末史の評価が毛利藩に厳しいことを逆恨みして(「坂の上の雲」で乃木を愚将扱いしていることも大きい)、県庁内の県史編纂担当者や県内各所の博物館の学芸員を総動員して司馬史観の否定に躍起ですが、「花神」が司馬先生の作品なのは宜しいのでしょうか?
ところで蔵六さんの実際の顔については西洋医学や洋式兵学を極め、明治まで生きた蔵六さんですから長崎や京都、大阪で1枚くらい写真を撮っていても良さそうですが、現段階では見つかっていないのです。
一般的に写真だと思われているのは西郷隆永さん(そろそろ隆盛と言う父親の名前の誤用は止めましょう)と同様にエドアルド・キヨッソーネの手による肖像画で、制作方法も西郷さんと同じく証言によるモンタージュであってキヨッソーネ自身は本人に会っていません。
だとすれば実際はキヨソッネーの人間離れした肖像画よりも中村さんの顔の方が実物に近い可能性はあります。何にしても有り難うございました。御冥福を祈ります。合掌

  1. 2016/01/22(金) 08:47:23|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ342(少し事実です)

連隊本部2科の所属とは言え科長でもない私は意外に自由だった。情報収集、現場確認の名目で周囲を歩いて回ることもできる。すると見覚えがある隊員たちが本格的な機材を使って土木工事に当たっている現場に遭遇した。
「あれ、茶山1尉じゃあないですか」「やあ、モリヤ2尉かァ」それはPKOで一緒になった豊川の第6施設群だった。
「いよいよ真打ち登場ですか?」「うん、ウチは命令系統が違うからどうしても出遅れるんだよ」茶山1尉はいつもの温和な顔で説明したが内心には若干の不満があるように見える。
「確かに災害派遣の要請は師団に出されますから」「方面直轄の施設群には届かない」カンボジア以来の仲なので受け答えも阿吽の呼吸だ。しかし、私なら「後回し」と受けるところだがそこは茶山1尉だけに差し障りがない。
「要するに方面の部隊に御出馬を願うのは師団では手に負えないと言っているようなものですからね」「その発言は幹部として拙いよ」相変わらずの私の悪癖を茶山1尉が注意した。
それにしても手作業が中心の普通科連隊に比べ、施設群が大型の建設機材を駆使して本格的に土木作業をしているのを見ていると、災害派遣の出動手順を定める法体系や指揮命令系統を改める必要を痛感する。そんな私の顔を見ながら茶山1尉が声をかけた。
「ここで私の弟分もプロとして頑張ってるからのぞいてきなさい」「へッ?」茶山1尉が地図で示した場所では春日井の第10施設大隊が作業に当たっているはずだ。折角のお勧めなので、茶山1尉との旧交を切り上げて指示された現場に行ってみることにした。

「小椋2尉です」「35のモリヤ2尉です」「PKOでカンボジアに行ってたそうで」「はい、元施設大隊員です」「羨ましい・・・俺も行きたかったなァ」茶山1尉の弟分=小椋2尉は第10施設大隊の小隊長だった。私は小椋2尉の容姿・体格から漫画「のらくろ」に登場するデカ2等兵を思い出してしまった。デカ2等兵はのらくろ軍曹の分隊に配属された新兵で、図抜けた巨体通りの大らかな性格で苦難をモノともせず、のらくろの後を追うように活躍を重ね、後には名パイロットになっていたはずだ。
「小椋2尉は茶山1尉とお知り合いだとか」「はい、6群の中隊長でした」どうやら陸曹として茶山1尉の中隊で勤務している時、部内幹部候補生に合格して任官後は春日井に配属されたらしい。つまり茶山1尉がのらくろ、小椋2尉はやはりデカだった。
第10施設大隊とは普施共同演習で一緒になったことがあるが、その時は地雷排除などが中心で土木工事の腕前を見たのは初めてだった。
こうして施設職種の隊員たちのプロの仕事を見ていると非常事態のみの災害派遣とは言わず、土砂崩落や豪雪などには消防や警察よりも先に(予防処置を含めて)施設部隊を派遣するべきだと思った。しかし、社会党の首相が再登場して(1度目は片山哲内閣・昭和22年から23年)、未曽有の大震災にも出動命令すら拒否するようなこの国の政治状況では無理な話だろう。

  1. 2016/01/22(金) 08:46:14|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ341(少し事実です)

自衛隊の通信はすでにテレタイプからデジタル通信の時代へ移行していたが、今回の大震災でそれらの精密機器は破壊され、電話1つ通じなくなっている。そこで活躍したのが昔懐かしいモールス信号だった。
「これでようやく『通じん』が『通信』になる」「通信無くして戦さはできぬことを判らせてやる」通信大隊の首脳陣は誇らしげだったが、これまで防衛通信網の近代化を叫び、最新機材の導入に躍起になっていたのもこの人たちだ。その点、佳織は私が「最後は個人の戦闘能力」と言う信念に基づきスポーツ競技ではない戦技の錬成に力を入れていることの影響を受け、無線小隊長として「モールス信号」の強化を指導していた。
「これで若い連中にも小隊長の指導されたことの意味が解ったでしょう」「はい、頑張って勉強し直します」通信天幕の中でモールスのキーを打っている陸曹の隣りで陸士がうなずいた。通信手の隣りの席には信務手(暗号員)がいて入電する4桁の数字を乱数表の非算術(=特別計算法)で翻訳し、文章化するのだ。モリヤ佳織2尉の小隊でも若い隊員たちは最新デジタル通信機材の取り扱いばかりに熱中していて通信員の後期教育隊で習ったモールスにはあまり真剣でなかった。ところがその最新機材が役に立たない中で殺到する文書を迅速に暗号化し、モールスで打電するベテランの妙技に感動して心を入れ替えていた。
「こうしてモールスの音を聞いているとト・ツー(伊藤)2尉だったことが思い出されますね」小隊長の横で作業を監督している先任陸曹が懐かしそうにつぶやいた。
「ここは実戦だから能力不足の隊員に練習させる訳にはいかないのよ。だから通信量が減る夜間に働けるよう練度を上げておきなさい。間違っても仮眠しているベテランに助けを求めるような迷惑をかけないように」自分の思い出話に乗らないで陸士に指導を加えたモリヤ2尉に先任陸曹は頼もしそうにうなずいた。小隊長の指導を受けて陸士はコードをつないでいないキーで送信を終わった生の電文を打ち始める。そんな様子を見ながらモリヤ2尉は激励の指導を加えた。
「本当ならフラッシュライト(懐中電灯)のモールス信号で交信できるようにならないとあかんよ」「確かに」これは艦艇や航空機が行っている発光信号であり、夜間には意外に有効な通信手段なのだ。
「帰ったら手旗信号もやるで」「通信の職種章ですもんね」制服の襟の胸に装着している通信職種の徽章は松明の前で手旗を交差させたものだが、これは米陸軍の盗作でもある。
「旗旒信号(きりゅうしんごう=艦艇のマストに掲げる旗の組み合わせによる信号)も良いですね」「手話ってのもあるぞ」「それは通信と言うよりも福祉用だな」「その前に伝令としての持続走訓練だね」このままでは時代をさかのぼって武田信玄の「百足衆(ムカデの旗を背に挿した騎馬武者の伝令)」を養成しそうだ。
雑談の声が高くなったためモリヤ2尉は両手でボリュームを下げるように指示した。通信天幕はモールスを正確に聞き取り、集中して迅速に乱数計算をするための静寂は維持しなければならないのだ。
せ・モリヤ佳織イメージ画像
  1. 2016/01/21(木) 09:28:51|
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1月21日・フランス革命でルイ16世が処刑された。

1793年の明日1月21日にフランス革命でマリー・アントワネットの夫である国王・ルイ16世のギロチン刑が執行されました。
ルイ16世と言うと我々の世代では世界史の授業よりも「ベルサイユのばら」でマリー・アントワネットの夫として描かれていた世間知らずでお人よしのイメージかも知れませんが、実際は行き詰まりを見せる絶対王政の最後の君主として政治や経済、軍事の改革に取り組み、後には上流階級の代表によって制定された憲法に署名して最初の立憲君主になっています。その後も立憲君主としての立ち振る舞いは極めて適切であり、暴徒と化した民衆によって処刑されましたが、マリー・アントワネットを主人公とする物語で描かれるほど政治的に無能ではありませんでした。
またイギリスの脅威に対抗するためアメリカの独立戦争を援助する優れた外交センスも発揮しており(経済的には困窮を強めましたが)、アメリカでは恩人・英君として高く評価されています。ちなみにニューヨークにある自由の女神像は独立戦争を支援したことを記念して100周年の時にフランスが建てたものです。
ルイ16世は太陽王と呼ばれた絶対君主・ルイ14世の甥・ルイ15世を祖父に持ちますが、兄たちと父は即位前に病没したため3男でありながら立太子したのです。
立太子後は長年敵対しながら7年戦争で同盟を結んだオーストリア帝国と正式和解するため皇帝夫婦の娘との政略結婚が進められ、当初は10番目の娘が予定されていたもののその姉がナポリ王家に嫁ぐ直前に急逝したため代役となり、11番目で末娘のアントーニア(フランス語の読みではアントワネット)に変更されました。こうして婚儀も整った1774年5月10日にルイ15世が崩御するとノートルダム大聖堂で戴冠式を行いルイ16世となりました。
前王のルイ15世はあらゆることで常識から逸脱しており、社交界では多くの成り上がりの愛人たちが対立し、それにそれぞれの取り巻きが加わって一触即発の状態であり、政治は側近に丸投げして顧みず、経済は贅沢三昧の放漫経営、軍事はプロイセンとイギリスの連合軍に長年の宿敵・オーストリアとロシアと手を結んで7年にわたって戦ったものの敗北し、アメリカを含め多くの植民地を失っていました。
このためルイ16世が即位した時点でフランスの経済は破綻状態に陥っており、重税に喘ぐ庶民の不満は頂点に達していた一方で、前王の時代に政治を牛耳っていた貴族たちは既得権益の確保に執心するばかりでした。そこでルイ16世は議会の原型とも呼べる名士会(王族と上級貴族、司教、裁判官、高位の地方官僚の代表による会議)や三部会(一般的なカトリック聖職者、貴族、資本家の代表による会議)を活用して政治の改革を模索するようになりますが、これでは庶民の不満の捌け口にはなり得ず、やがて暴動が頻発するようになっていったのです。
そしてフランス革命が起きましたが、この時もルイ16世は暴徒たちの過激な要求に対して憲法の規定に基づいた回答=拒否をして、それが立場を危うくしていったのは言うまでもありません。
こうして妻の実家であるオーストリアへ逃れようとしたものの失敗し(原因は荷物の過積載と大型馬車を使用したこと)、妻に先立つこと9カ月前のこの日、ギロチン台の露と消えました。
ギロチンは苦痛を与えない処刑法としてルイ16世が承認した器材で、切れ味を良くするため刃を斜めに取り付けるように日曜大工が趣味であった国王らしい助言をしたと伝えられています。
「余は罪なくして死んでいく。余に死をもたらす者を余は許す・・・」が絶句となりました。
  1. 2016/01/20(水) 09:54:11|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ340(かなり事実です)

「手が見えたぞ!」作業にかかって小1時間、倒壊した家屋の柱や屋根瓦などを撤去し終わった時、残った建材の下から女性のものと思われる手が見えた。
「お母さん!」少女が駆け寄ろうとするのを古手の陸曹が抑え、軍手を取った若い陸曹が体を隙間に入れて手首で脈を確認する。
「駄目です。すでに死後硬直も始まっています」「そうか・・・」若い指揮官は膝をついて「ごめんね。間に合わなかった」と詫びたが、幼い少女も「駄目です」の言葉で状況を理解したようだ。その背中に古手の陸曹が声をかける。
「これからどうしますか?遺体の回収よりも他の現場復旧を優先するべきだと考えますが」この意見具申は本来であれば越権行為だ。しかし、初陣で悲惨な現場に遭遇してしまった若い幹部には必要な助言である。それで指揮官も感傷を振り払って命令を下した。
「遺体の回収は別命する。××士長はこの子と遺体を保護せよ。小隊は当初の予定地域の復旧作業にかかる」指揮官は本部管理中隊から同行していたWACに少女を任せ、トラックを停めた地域に戻ることを命じた。その時、集まっていた被災者たちから声が上がった。
「この子の母親は俺たちが掘り出すから自衛隊さんは次の仕事に行ってくれ」「そうだ、頼んだぞ」「頑張ってくれ」指揮官はその激励に姿勢を正して敬礼をすると部隊と一緒に歩きだした。
「小父ちゃん、ありがとう」追いかけてきた少女の叫び声に隊員たちは鼻をすすった。

その日の夕方、神戸港では許し難い事態が生起していた。広島県からの救援物資を満載して呉基地から出動した海上自衛隊の護衛艦の入港を港湾事務所が拒否したのだ。
運輸省から出向している管理職は拒否する理由を「神戸港は軍用艦船の入港は許可されていない」と説明したが、背後に公務員労組の意向があることは明らかだった。
「災害物資が陸揚げできません」「何故だ?」「神戸港への入港を拒否されています」派遣艦隊は呉基地の総監部に報告したが、この常識を大きく逸脱した事態が理解できないようだ。神戸市長はここでも港湾事務所の処置を黙認して自衛隊の救援を拒んでいる。当然のように社会党の首相周辺は何も言わない。河野洋平が総裁を務める自民党も様子見をするばかりだった。そこで総監部は兵庫県と調整し、艦隊を姫路港に着岸させ、物資の揚陸を始めた。艦橋からその作業を監督しながら艦隊司令は幕僚たちと話していた。
「これでは陸路で直送した方が早くなってしまうな」「確かに艦に搭載した時間が無駄になってしまいました」「本来は岸壁で患者診療や炊き出し、浴場開放も始める予定だったのですが」「この調子では伊丹空港への空輸も拒否されるかも知れません」この幕僚の心配は杞憂に終わった。兵庫県知事は陸上自衛隊に続いて航空自衛隊、海上自衛隊にも災害派遣要請を行い、ようやく災害派遣部隊としての権限を行使できるようになったのだ。
「村八分」と言う古語は集落内の関係断絶を意味するが、葬儀と消火の手助けだけは残っており、だから八部だった。神戸市長と公務員労組はそれさえも拒否したことになる。
  1. 2016/01/20(水) 09:50:35|
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振り向けばイエスタディ339(かなり事実です)

阪神淡路大震災の災害派遣は地元・第3師団が先陣を切り、隣りの10師団、13師団が馳せ参じると言う形になったが、航空自衛隊出身の私には納得できない場面もあった。
奥尻島を地震と津波が襲った時、航空自衛隊レーダーサイトの分屯基地司令は麓の官舎の住人たちに対して現地(青苗地区)集合を指示し、山の上に住む隊員が必要資材をトラックに積んで駆け付けると言う対応を取った。
一方、震災直後に出動した陸上自衛隊は破壊された道路と避難する車の渋滞に巻き込まれ、隊員たちはトラックの荷台で数時間待機することになったらしい。私が指揮官であれば奥尻と同様に隊員たちをトラックから下ろし、走って現場に向かわせ、トッラクには後から現場へ追いかけて来るように指示しただろう。しかし、「人員掌握」「指揮の徹底」「命令厳守」を絶対とする陸上自衛隊に於いてこれは「指揮の邪道」以外の何物でもないのだ。
命ぜられた方法で現場に到着し、資材をトラックから卸下(しゃか)して人員資材の異常の有無を確認した上で編成を取り、、現場を確認して命令を下達しなければ行動できないのが陸上自衛隊だ。
尤も、下車して移動すれば途中で出会った被災者から「助けてくれ」と要望される可能性があり、それを無視すれば「自衛隊が助けてくれなかった」とマスコミに言いつけられて袋叩きにされる原因になりかねないから難しいところだ。

最も被害が集中した長田区には被差別集落があった。このため日頃から役所の職員や警察官の立ち入りを拒否していた住民も多く、市や区などの各自治体も被災者の把握に手間取っていた。さらに役人が行う救助活動は被害の通報に対応する受け身に終始し、消防は火災、警察は交通整理とする縦割りの発想しかなかったため、倒壊した家屋の下敷きになった住民の救助活動は放置されていた。そんな現場にようやく自衛隊が到着した。
「小父ちゃん、お母さんが埋まっているの」トラックを止めて整列している隊員に少女が声を掛けてきた。驚いて見ると小学生らしい少女が倒壊した瓦礫の一角を指差している。指揮官の若い幹部は「手順を省く」と言う陸上自衛隊では固く戒められている禁じ手を取る決心をした。
「よし、そのまま現場に向かえ。異常はないな」「はい、異状なし」隊員たちも手分けして荷台から土工の道具を下しながら返事をする。道具を受け取った隊員から少女の案内で現場に駆け出した。
「ここか?」「うん、お母さんを助けて」「よし、先ずは柱や瓦を撤去する。掛かれ」隊員たちは指揮官の命令を待ち切れないように倒壊した家の屋根瓦や柱に取りついて撤去を始めた。同時に古参陸曹が瓦礫の隙間から「大丈夫ですか?」「返事をして下さい」と声を掛ける。別の陸曹は少女を抱きかかえて「頑張るから待っててね」と落ち着かせていた。
しかし、すでに震災の発生から半日が経過している。本来であれば生存の確率を冷静に判断し、緊急事態であるが故に指揮の手順を厳格に守るべきだったはずだ。
  1. 2016/01/19(火) 09:57:42|
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振り向けばイエスタディ338(かなり事実です)

佳織たちの通信大隊も夜には出動したが、その半日のタイムラグのおかげで子供たちを官舎に到着した父親に直接頼むことができた。
「お義父さん、はじめまして。佳織です」「義父(ちち)です。この度は大変なことになりまして」父親は初対面の嫁に相変わらずの他人行儀で馬鹿丁寧な挨拶をする。
「私も出動しますからこれで失礼します。子供に関することはここに書いてありますからよろしくお願いします」そう言って佳織はメモを手渡した。
「ほお・・・」家事が全くできない父親は困惑したがそのメモを見て驚いた。それには子供のスケジュールから物の保管場所、小学校、保育所、主治医などの連絡先、食べ物の好き嫌い、近所の飲食店まで詳細に記されており、とりあえず外食でその日は何とかしたが、結局、母の出動要請で仕事をしていない妹が官舎に派遣されることになった。

その頃、私たちは宿舎として割り振られた学校に到着し、日教組の教員たちの敵意に満ちた監視の中で設営を始めていた。
「ここからは立ち入り禁止です」「備品を勝手に使わないように」「失くなった物があれば警察に届けますから」「子供に接触しないで下さい」学校側は自衛隊にはグランドだけを使用させ、隊員が校舎に立ち入ることは断固拒否のつもりのようだ。
実際、我々は1月の寒空の下、グランドに設営したテント村で生活することになった。

社会党の村山富市首相は就任して「自衛隊の存在を認める」と公式に表明しながらも本音では全く認めておらず、むしろ敵視しているのがこの非常事態で明らかになった。
首相は官邸に続々と届く甚大な被害の報告を受けて周囲が首相命令による全国規模の災害派遣の発令を助言しても首を縦に振らず、むしろ同様に派遣要請を躊躇している官僚出身の兵庫県知事を無視して革新系の神戸市長と意思統一しているような態度だったらしい。
中部方面隊は出動に備えて大阪の八尾飛行場から偵察ヘリコプターを状況確認のために飛ばしたが、派遣命令がない訓練目的では優先権が低く、制限高度ギリギリから迫力のある画像を狙うマスコミ各社の取材ヘリに邪魔されて低空飛行ができず十分な成果を得ることができなかった。
さらに伊丹の中部方面隊や千僧の第3師団では出勤してくる隊員自身の被災状況を確認しながら迅速に出勤準備を進めていたが、兵庫県知事からの派遣要請が届かず「近傍自主派遣(近傍地域の災害に独自の判断で予防的に出動する災害派遣)」も検討していた。
現場となった神戸市内では各所で同時に火災が発生した上、道路網が寸断されて消防車が現場に急行できず、消火栓の水圧も不十分になって放水不能に陥っていた。
仮に災害派遣が発動されていれば大型ヘリによる空中散水などの消火手段も可能であっただろう。首相や神戸市長が緊急事態への対処よりも個人的な政治信条を優先したことによる出遅れが震災直後に発生した火災によって多くの人命を失う要因になったのだ。
す・モリヤ佳織イメージ画像
  1. 2016/01/18(月) 09:35:41|
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1月18日・宮永幸久元陸将補が逮捕され、スパイ事件が発覚した。

昭和55(1980)年の明日1月18日に現役時代は陸上自衛隊調査学校長を務めていた宮永幸久元陸将補が逮捕され、ソ連大使館の駐在武官や諜報部員へ情報を売り渡していたスパイ事件が発覚しました。
宮永元陸将補は対米戦が始まる前年の昭和15年9月に陸軍士官学校を修了した第54期生で、同期には金丸信によって事実上の罷免処分を受けた栗栖弘臣閣下の後任として統合幕僚会議議長になった高品武彦陸将がいます(高品陸将は陸上幕僚長も栗栖閣下の後任)。
宮永元陸将補は陸上自衛隊では情報畑を専門に歩みましたが、国民世論が自衛隊の存在自体に否定的だった時代であったため本来の「諜報」と呼べるレベルの活動はできず、隊員の思想傾向と交友関係を調査する秘密保全=防諜と米軍から提供される情報の翻訳、新聞各紙や雑誌から自衛隊に関係する記事を探して収集し、テレビを常時視聴して報道を確認するような元陸軍軍人としては不満ばかりが鬱積するような自衛隊生活だったようです。
それでも野僧が個人的に知っている調査学校出身者は通信隊が暗号書を保管している厳重な金庫を数分で開けてしまい通信幹部を青ざめさせ、さらに当時としては極めて小型のカメラと超高感度のフィルム、さらに店員に気づかれないように粘着テープでテーブルのある部分に貼り付けた高感度マイクを使ってある現場を撮影し、会話を録音するのに立ち合ったことがありますから、実力は隠しているのでしょう。
宮永元陸将補も情報畑の専門家らしく極めて真摯な学究肌の人物だったそうで、仮に自衛隊の中に諜報活動を実施できる人材が育っているとすれば、それが育つ土壌を整え、種を蒔いたのは宮永元陸将補なのかも知れません。
そんな宮永元陸将補は昭和49(1974)年に退役することが決まり、再就職先は現役時代に取り組んできた海外軍事情報に関係する仕事を希望し、その斡旋を依頼してソ連大使館の駐在武官と接触したのが事件の発端だと言われています。しかし、常識的に考えて自衛官=外国であれば軍人が情報を収集するのは「敵」としてであり、その相手の懐に飛び込んでくるような行為を敵が受け入れるはずがなく、この接触自体に異臭が漂っています。
何よりも陸将補と言う地位にあった者の再就職先については自衛隊離職者就職審査会の承認が必要であり、こうなると組織ぐるみで敵中に送り込んだような刺激臭が充満してきます。
宮永元陸将補はソ連の駐在武官との接触を重ね、始めは中ソ対立を背景に中国関連の情報を口頭で伝えることから部内誌「軍事情報月報」などを手渡すようになり、それにコメント記述し、次第に詳細な情報提供に進む間に謝礼を受け取るようになって、完全な協力者になったのです。
宮永元陸将補の情報漏洩についてはソ連大使館を監視していた警視庁公安部が疑惑を持ち、自衛隊の中央調査隊も部内での調査を進めていたため同時進行だったようです。
この前日の東京都千代田区神田駿河台のニコライ堂傍の紅梅坂で宮永元陸将補とソ連大使館の駐在武官(最初に接触した人物の後任)がすれ違いざまに資料を手渡すのを確認した警視庁公安部は翌18日、本人と依頼された資料を提供した元部下の2等陸尉、元部下に紹介された准陸尉の3人を逮捕しました(現職自衛官を逮捕したのは警務隊)。
ただし、罪状はスパイ活動ではなくあくまでも情報漏洩による自衛官の守秘義務違反で、宮永元陸将補は懲役1年、2名の自衛官は懲役8カ月と軽いものでした。
この事件の発覚を受けて防衛庁長官と陸上幕僚長が引責辞任しましたが、この幕僚長は宮永元陸将補よりも陸軍士官学校は1期後輩で、辞任後は政治家に転身して軍閥の亡霊化していました。
  1. 2016/01/17(日) 08:53:50|
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振り向けばイエスタディ337(かなり事実です)

連隊本部では幕僚や陸曹たちが個人の準備と同時進行でそれぞれの担当業務を抱えている。情報を担当する2科ではテレビを点けて各局のニュースを確認するのと同時に師団司令部などから流れてくる情報の他に関西地区の各部隊、道路公団、気象台などに電話して情報を収集していたが、電話回線も被害を受けているようで不通が多かった。しかし、情報がなければ3科も出動命令の起案ができないので急がなければならない。そこで私は善通寺の連隊本部ではなく中隊に電話を掛けてみた。
「おう、モリヤ2尉か」「お世話になりました」「どういたしまして」中隊長は定年配置で出身地の部隊に転属して1小隊長が交代している。雑談は手短に切り上げて本題に入った。
「そちらの状況は如何ですか?」そう質問しながら、この話の秘密区分を考えた。
「うん、かなり揺れて古手の連中もこんな揺れは初めてだと言ってるよ」「災害派遣がかかても本四架橋に被害があれば渡れないな・・・その前に淡路島もやられているらしいからそちらへ行くかも知れないぞ」中隊長の一方的な話が区切りなったところで確認をした。
「何か現地の情報は入っていますか?」「通信網がやられて何ともならないよ」それでも地元局と瀬戸内海を越えて入ってくるニュースを教えてくれた。
結局、私たちはその日の午後に出動した。しかし、通信網がここまで被害を受けていれば佳織の通信大隊にお呼びがかかるのは間違いなく、それまでに時間的な余裕もないだろう。
私は合間を見つけて実家に電話をしたが、すでに不在になっていて母の保育園を調べて電話をすると、「お父さんが会社の帰りに寄ると言っていた」と答えた。
それでは淳之介の帰宅には間に合わない。相変わらずの状況判断の甘さだった。結局、官舎の強い「助け合い機能」に期待するしかないようだ。

出動はしたものの関西地区の道路網が寸断されて大渋滞が起こっており、迂回できない高速道路にとじ込められては肝心の現場へ中々近づけなかった。おそらく三重県久居市から出動した第33普通科連隊の紀伊半島を横断する経路の方が早いだろう。
ただ、我々の宿営地に指定された小学校では教職員組合が自衛隊の使用に難色を示し、神戸市長も革新系であっため強い強制力を発揮せず、自衛隊と市の折衝が続いている以上、到着まで時間が掛かっていることはかえって好都合であった。
「しかし、関西って大地震の心配があるって言われてましたっけ?」「いや、静岡の東海地震は聞いてるがな」「あっちには予算も随分かけて対策してますよね」連隊本部の幹部が乗ったジープの中でも話題はこの程度だ。
私は1人、持ってきたラジオのニュースをイヤホーンで聞き情報収集をしていたが、時間の経過とともに被害の甚大さが伝わり、この派遣が長期化することを覚悟していた。
「神戸市長の強い拒絶があって兵庫県知事の災害派遣要請が遅れたようです」「伊勢湾台風の時、名古屋市でも同じようなことがあったな」「そうそう、こちらは大型台風が来るからって予防的に出動しようと準備しているのに出しゃばるなって怒られてな」私が自衛隊に関するニュースを伝えても古手幹部たちが思い出話に替えてしまった。
  1. 2016/01/17(日) 08:51:23|
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1月17日・ミスター・スカイライン・桜井眞一郎の命日

平成23(2011)年の明日1月17日は初代から7代目にかけてのスカイラインの設計を担当・指揮して「ミスター・スカイライン」と呼ばれている桜井眞一郎さんの命日です。
野僧の小学校の同級生に大のカーマニアがいて、暇があると国道1号線沿いのディーラーを回ってカタログを集めるのに付き合っていたため興味はなくても知識だけは増えていきました。
その頃はハコスカ(箱形スカイライン)からケンメリ(ケンとメリーのスカイライン)にモデルチェンジした直後だったので、日産プリンスでもらったスカイラインのカタログは開発秘話の特集号で、桜井眞一郎さんの業績が伝説調に語られており、その名前が強く記憶に残ったのです。
その時のカタログで車体側面後部にあった線をサーファー・ラインと言うことや1964年に鈴鹿で開催された第2回日本グランプリのGTⅢクラス(1001~2000cc)でトヨタ、ホンダ車では全く歯が立たなかったポルシェ904にスカイラインが圧勝したことを学びました。
自動車としてのスカイラインについては車力の小隊員で拙作小説「どさ?」「江戸さ」のマサ吉のモデルになっている車両整備員が「スカイラインGT-Rに乗るのが夢でした」と購入を希望したものの貯金が許可基準ギリギリしかなく、「購入費用は全額借金」と言う説明に野僧は「給与の大半を借金の返済に充てて燃料代もない状態では生活の足としての用をなさない」と言う現実の問題と「健全な生活を営まなければ希望が遠のくことを経験させる必要がある」と言う親心で、不許可を申し渡しました。しかし、親の無理解によって大切に育ててきた夢・愛を幾度も踏み躙られてきた野僧にとってこの決定は重い苦悩を伴いました。ですから今でも(大人になった)マサ吉に「スカイラインGT-Rを入手して欲しい」と願っています。
そんな多くの若者を魅了した(信仰と言うべきか?)傑作車を設計した桜井さんはやはり只者ではなく、一種の奇才だったようです。
桜井さんは昭和26年に横浜工業専門学校(現・横浜国立大学)を卒業すると自動車会社への就職を希望しましたが求人はなく、学校の指導で大手建設会社に就職しました。そこでも持前の研究心を発揮してコンクリート・ミキサー車(生コン車)を開発して作業効率の向上に大きく貢献したのですが、翌年、母校から弱小メーカーの「たま自動車から求人が入った」との連絡を受けると即座に転職してしまいました。
その弱小メーカーが高級車で名を馳せるプリンス社に発展し、さらに大手のダットサンと合併して日産自動車になっていくのですから強運も持っていたようです。
そんな桜井さんの設計には独自の手順があったそうです。それは設計を始める前に自動車が登場する物語を描くと言うもので、走行する道路がある土地の季節や天候、時間で変わる環境や状景、駐車・保管する場所、さらに運転する人間や同乗者の思想、性格、年齢、職業まで詳細に設定し、それをプロジェクトに参加する設計者全員で共有するのです。
スカイラインと言う車名は「岩山の雪を被った頂が青く澄み切った空にそびえている情景をイメージしている」と桜井さんが語っていますが、ポスターやテレビのコマーシャルにしてもスカイラインには似合う風景があり、乗って欲しい人物がいるようでした。
ただし、桜井さんが担当した1980年から84年のローレルや1986年から92年のレパートも同様なのかは車に詳しくないので判りません。
余談ながら野僧の高校では校内売店の利益が生徒会の収入になっていたため文化祭にフォーク歌手を呼んでおり、イルカの翌年にはケンとメリーのスカイラインのCMソング「愛と風のように」を歌っていたBUZZでした。「何時だって 何処にだって・・・愛のスカイライン」
  1. 2016/01/16(土) 09:21:17|
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振り向けばイエスタディ336

この正月2日には親として困ってしまうことが起きた。昭和50年1月7日から20年間に渡って放送されてきた「まんが日本昔ばなし」が終ってしまったのだ。親としては情操教育のため是非、見せたいと願っているのだが、淳之介は生まれた時から見てきたものの志織にはまだ判らないだろう。
放送終了の予定が流れ始めた時からビデオで録画しているがそれもわずかで、レンタル・ビデオ店でも1本に2話1回分なので全てが揃っている訳ではない。
再放送があれば第1話から録画するつもりでも、その頃には志織の方が大きくなっているのかも知れない。仕方がないので志織の子守唄には主題歌を唄うことにした。
「志織、良い子だ寝んねしな 今も昔も変わりなく 父の恵みの子守唄 遠い昔の物語」

1995年1月17日の朝、我が家の起床時間0600の直前に大きな揺れを感じた。
「地震?」「うん、大きいな」自衛官同士反応は同じだった。私はそのまま起き上がるとテレビを点けたが東京で収録している番組のニュースは6時からなのでNHKも天気予報をやっていて字幕での緊急速報は流れない。しばらくチャンネル変更を繰り返しているとようやくNHKのアナウンサーが第一報を読み始めた。
「先ほど関西地方で大きな地震があった模様です。詳細は情報が入り次第お伝えします」佳織も私の後ろに立ちニュースを確認している。
「関西の地震が名古屋でこれだけ揺れたんなら大きいわ。災害派遣になるんじゃない?」「うん、関西なら中部方面隊管内だから10師団にもお呼びかかるな」「2人とも出動になったらどうしよう?」このあらゆる可能性を同時に処理する思考は流石に幹部自衛官だった。
「そうなったらウチの親に頼むしかないね」「うん、お願いします」出動までに親に連絡して呼ぶ時間があるかは判らないが我が家の方針は決まった。
時計を見ると淳之介を起こす時間だったが非常呼集がかかればそれどころではない。急いで淳之介に朝食を食べさせ、志織に離乳食を与えた。

災害派遣は私の第35普通科連隊が先だった。私はそのまま出動できるように演習用の準備をしていつもより早く出勤したが、その間に出動準備が下令されていて連隊は慌ただしかった。
幹部更衣室で衣類などを演習用カバンに詰め込み終えると私は「忘れる前に」と実家に電話した。電話には母親が出たが「(保育園へ)出勤前で忙しいのに」と怒っている。それでも構わず一方的に用件を通告した。
「悪いけど夫婦揃って災害派遣へ行くんだ。子供を頼みます」しかし、ウチの親は自衛隊に全く関心がなく「災害派遣とは何か」からを説明しなければならない。しかし、そんな時間はなかった。
「それじゃあ、頼みます」と返事を待たず電話を切った。
  1. 2016/01/16(土) 09:20:09|
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振り向けばイエスタディ335

6月30日、悪夢のような政変が日本を襲った。昨年の衆議院選挙で天下が転がり込んだ細川護熙首相が政権運営に行き詰ると予想通りに投げ出して、その後は小沢と共に自民党を離党した羽田孔氏が首相に就任していた。ところが小沢に牛耳られる政権が上手くいくはずがなく2カ月で崩壊すると、自民党の策士・亀井静香が社会党委員長の村山富市を首相に担ぎ出す禁じ手で国民の批判を反らす自民党と社会党の連立政権が成立させたのだ。

夏季休暇前のある晩、同期の岡倉信一郎2尉から自宅に電話が入った。
「おう、その家に電話をかければ同期2人と話せるからね」「先ずはワシからでいいのかい」「うん、このネタはどっちでも良いよ」それで私が相手をすると岡倉1尉は現在、陸上幕僚監部第2部で勤務していると言った。
「すごいなァ、アフターバーナ点火、スロットル全開でエリート・コースまっしぐらだね」「ところがそうでもないんだよ」ここで岡倉2尉の声が沈んだ。
「社会党が政権与党になっただろう」「なっちゃったね」「あれから1カ月、とうとう本性を現し始めたんだ」「やっぱりな」私の口調から話の重さを察した佳織が傍に来て受話器に耳を当てたので肩を抱き寄せて頬に挟んだ。
「政権与党だからって内局や防衛施設庁の官僚を手懐けて防衛秘密を持ち出しているんだ」「だって防秘(=防衛秘密)は国会議員でも部外者には見せられないだろう」「ところが背広(=官僚)の連中は陸海空が防秘に指定している文書も参考資料扱いで、言われればホイホイとコピーして献上してやがるんだ」すると佳織が「何やてェ」と声を上げ、岡倉2尉は「おッ、伊藤ちゃんも聞いているか」と笑った。
「旦那の方は2科勤務になったんだから一緒に対策を考えてくれよ」何故か岡倉2尉は守山の連隊内の人事を知っている。
「それは天誅を加えるしかないな」「と言うと思ってたよ」落ちがついたところで電話を代わったが佳織は私以上に怒っていて、子供たちを安心させるのに困ってしまっていた。それでも防衛秘密の内容は全く口にしなかったのは流石だ。
し・モリヤ佳織イメージ画像
  1. 2016/01/15(金) 08:43:19|
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1月14日・特別攻撃隊指揮官のモデル(?)・富永恭次中将が死んだ日

昭和35(1960)年の本日1月14日に反戦色が強い映画や劇画で描かれる卑劣な特別攻撃隊の指揮官のモデルと言われる富永恭次中将が死にました。
富永中将は明治25(1892)年の1月2日に長崎県の医師の二男として生まれたと言われていますが、地元では触れられたくない人物のようで市町村については不明になっています。ただし、野僧は大正2年4月から五島列島=南松浦郡の2代目医師会長を務めていた人物が中将の父親と同姓同名であることにまでは行き当たりました(年齢的にも符合する)。
熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校から大正2(1913)年に陸軍士官学校を出て歩兵少尉に任官し、熊本の歩兵第23連隊に配属された後は陸軍経理学校の生徒隊などで勤務しながら大正12(1924)年には陸軍大学校を修了します。こうなるとエリートなので平時の軍人によくある花道を歩み始め、内地で参謀本部を中心に勤務しますが満州事変以降の武力紛争でも国内に在って実戦は全く経験せず階級ばかりが上がっていったのです。
大佐になった翌年の昭和12(1937)年にようやく関東軍司令部に転属しますが、この時の参謀長は東條英機中将で、これ以降は「東條の腰巾着」と呼ばれる飼い犬ならぬ威を借る狐と化していきました。その実例としては昭和15(1940)年に日本軍がフランス領インドシナへ進駐した時、現地に出張して軍司令官がフランス軍と合意していた協定を参謀総長の命令と偽って破り、かえって損害を出す結果を招いています。それで停職処分を受けたものの対米戦開戦の直前には中将に昇任して陸軍次官にまでなりました(東條大将の庇護の賜物か?)。
そんな腰巾着も東條大将がサイパン島陥落の責任を負って首相や陸軍大臣などの要職を辞任すると、左遷としてフィリピン方面の第4航空軍司令官を発令されたのです。それにしてもマックアーサーの逆襲が迫っている中、航空機に関する知識は皆無で、実戦を指揮した経験すらない人物の左遷先として第4航空軍を選んだ杉山元陸軍大臣の人事は愚劣の一語に尽きるでしょう。
昭和19年10月に海軍が残存艦艇を総動員した捷1号作戦を前に大西瀧二郎中将が狂い、神風(しんぷう)特別攻撃隊を出撃させると、陸軍も本土で準備を進めていた(零式艦上戦闘機に爆装した海軍とは違い爆撃機を専用に改造していた)特別攻撃隊の万朶隊と富嶽隊を派遣し、11月から富永中将の命令による62回の作戦で約400機を出撃させて全員を戦死させました。その時、富永中将は「君らはだけを逝かせはしない。最後の1戦で本官も特攻する」と訓示していたのですが実際は逆でした。
レイテ島が陥落すると第14方面軍司令官の山下奉文大将は奥地の密林に隠れての山岳戦を指示しましたが、富永中将は「特攻隊員を送り出したマニラを放棄することはできない」と拒否しながら、「視察」の名目で2人乗りの爆撃機に乗って台湾に逃れたのです。これは銃殺に値する敵前逃亡ですが、前代未聞の将軍の不祥事に司令部内は責任回避に走ったため約1カ月間も放置された挙句、内地に送還の上、昭和20(1945)年5月5日付で予備役に編入されたのです。
ところが「敵前逃亡した将軍を予備役にして命を永らえさせては示しがつかない」と言う声が軍の内外から上がり、昭和20(1945)年7月になって招集され、満州の寄せ集め部隊・第139師団長として赴任させられ、そこで敗戦を迎えてシベリアへ抑留されました。
そんな富永中将ですが、長男は慶応義塾大学に在学中に学徒出征で陸軍に入り、父親が予備役に編入された20日後に特別攻撃隊員として出撃して戦死しています。
富永中将が山口県出身であれば「息子を特別攻撃隊で戦死させた」ことで罪は相殺され、10年間もシベリアへ抑留された「昭和の乃木」として英雄に祭り上げられたのかも知れません。
大東徹源
中城健作「新・カラテ地獄変」より・と言うことは大東徹源も陸軍航空隊か?
  1. 2016/01/14(木) 09:50:07|
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振り向けばイエスタディ334

沖縄の玉城家に帰った松真は両親と飲みながら報告を始めた。
「モリヤニィニの今度の嫁さん、素敵な人さァ」「ニィニじゃあなくて2尉にしましょうよ」隣りから妻の美代子さんが適切な指導をする。
「会って来たねェ」「奥さん、嫌がっただろう」両親は呆れたような顔で心配した。
「名古屋空港まで行くんだからチョッと寄り道しただけさァ」「でも、別れた女房の弟が訪ねてくれば奥さんとしては面白くないはずさァ」母親の指摘に松真はようやく自分の迂闊さに気がついたようで、隣りで美代子さんもうなずきながら話を続けた。
「でも、奥さまは幹部自衛官らしく堂々としていましたよ」「本当、綺麗な人だったさァ、WACの方がWAFよりも美人がいるんだな」「馬鹿!」松真が余計なことを言ったため、隣りから現職WAFである美代子さんの肘打ちが脇腹に食い込んだ。
「それで淳ちゃんは元気だった?」「うん、お母さんの隣りで妹をかまっていたさァ」「もう妹が生まれたねェ」「はい、半年くらいの赤ちゃんでした」美代子さんの説明に両親は顔を見合わせた。美恵子とモリヤが離婚して1年足らず、生後半年の子供では計算が合わない。つまり美恵子だけでなくモリヤも不倫をしていたことになる。
「離婚する」と言う連絡を受けて善通寺に行った時、モリヤが美恵子をかばっていた理由が判ったような気がした。そこからは母も自分のグラスに泡盛を注いで飲み始めた。
「でも幹部同士で浮気してたんですよ。私、ガッカリしました」美代子さんは声を荒げて尊敬していた元義兄を非難する。しかし、母は首を振った。
「そんな素敵な女性が現れたらモリヤだって美恵子じゃあ我慢できなくなるはずさァ」「そんなこと言ったって妻がいるのに別の人を好きになるなんて許されません」「それは妻が妻じゃなくちゃ言えないことなのさァ」「そんなァ・・・」父の言葉に美代子は口ごもり、母はゆっくりうなずいた。
「ネェネは小さい頃から『私はアンタが生まれたからいらない子になった』て言っていたのさァ」「えッ?」思いがけない松真の言葉に両親は驚いたように顔を見合わせる。
「上のネェネたちは頭が良くて自慢の子供だし、俺は跡取りだから大事にされる。ネェネだけは頭が悪くて3番目のいらない子供だって」「・・・」「だから家では誰も持っていない国家資格を取っるんだって」松真が説明する美恵子の真情に3人はグラスをテーブルに置いてうつむいてしまった。しばらくの沈黙の後、母が口を開いた。
「だけど松真は私たちが美恵子をいらない子供にしているように見えたねェ?」「そんなことないよ、いつもネェネのことを一番心配していたさァ」「親には出来の悪い子ほど可愛いもんなのさァ」父が出した結論に今度は松真と美代子さんが顔を見合わせた。
結局、美恵子は理容師の国家資格を取ったことを自分の存在理由にしていて、それを最大限に認めてもらいたい欲求が抑えられなくなっていたようだ。その意味では美恵子の収入で生活を支えるのも仕事を認めていることになり、苦労を押しつけられている新夫・矢田との生活も幸せなのかも知れない。
  1. 2016/01/14(木) 09:46:12|
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振り向けばイエスタディ333

その年のゴールデン・ウィーク、思いがけない人の来訪を受けた。小松基地の玉城3曹夫婦、つまり元義弟の松真と妻の美代子さんが「名古屋発の民航機で沖縄へ帰る」と言うことで寄って行ったのだ。2人は美代子さんが3曹に昇任し、初任空曹課程を卒業したところで結婚したと言う。
「淳ちゃん、叔父さんを覚えてるか?」松真の問いかけに淳之介は「わかりません」と首を振った。前回会ったのは善通寺に来た3年前のことで、本当に覚えていないのかは判らない。むしろ淳之介も美恵子との思い出には心を背けているようなところがある。

茶飲み話だけで名古屋空港へ送って行く車内、松真は美恵子の現在の様子を語り始めた。
「今度の旦那はネェネの稼ぎを当てにして自分の給料は全部、酒と遊びにつかっているのさァ」松真は吐き捨てるように言った。
「おまけに借金を作ってネェネは夜のバイトも始めたんだ」「夜の?」「また、孝子叔母さんのスナックで働いているのさァ」「ふーん、それでおトウとおカァは何て言ってるんだ?」「『もう、ニィニにやり直してくれって頼みにはいけない』って言うだけさァ」私は義父母らしい言葉にうなずいてルームミラーでその息子夫婦を眺めた。
「そうかァ・・・松真と美代子さんはそれも教訓にして幸せな家庭を築いてくれよ」私が話を区切るため2人に振ると「はい」と揃って返事をし、揃ってうなずいている。そんな様子を見て、私もかつて美恵子とそうだったことを思い出して胸が痛んだ。突然、松真が妙なことを口にした。
「でも、ニィニの今度の嫁さん、素敵な人さァ」美代子さんが肘で松真の脇腹を突っついたのが見え、私は苦笑しながら話を受けた。
「あの人もシマンチュウだからな」「えっ?沖縄の人ねェ」「いや、もっと南、もっと遠くのさァ」「与那国島か波照間島ねェ」「ブーッ」私が否定すると松真は嫁さんと顔を見合わせている。
「ハワイ出身なのさァ」私の種明かしに2人はまた声を揃えて「へーッ」とうなずいた。

松真たちを空港まで送って帰ると佳織が夕食の仕度をしながら訊いてきた。
「貴方、また『俺の責任だ』って自分を責めてる顔をしてるよ」「うん・・・」私は美恵子の苦しい現在の生活を知り、自分の非を自身に問うているのだった。
「貴方が救いに行ってあげるの?」「そんなことできる訳ないじゃないか」佳織にからかわれているような気がして私の語気は強まった。
「だったら過去を振り返って自分を責めるのも止めなさい。前を向いて進まなきゃモリヤ2尉じゃないよ」「君もモリヤ2尉じゃないかァ」「そうだったァ。ウフフフ・・・」佳織の言葉が胸に染みわたり、私はジョークを返して涙を誤魔化した。そして、チャイルド・チェアーに座っている志織をあやし始めた。
  1. 2016/01/13(水) 10:08:35|
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振り向けばイエスタディ332

翌年、佳織の産休が終り、志織も託児所に預けられた頃、淳之介が小学校に入学した。今度は私の両親も張り切って立派な勉強机を買ってくれたが、志織の子供ダンスの置き場に悩んでいる者としては痛し痒しだった。
「随分と立派な勉強机だなァ」「多分、高いやろね」「どこに置くんだ?注文する前に間取りを確認しろよ」文句を言いながらそれが自分の親が仕出かしたことだと思うと佳織に申し訳なくなった。
「それでもこの棟にも子供はいるんだよな」「うん、向かいの家も2人いるよ」「一度、見学したいな」「・・・それは止めておいた方がええね」「確かに陸曹用官舎に幹部一家が紛れ込んでいるだけでも」「えらい迷惑や」結局、全ての家具を並び替え、収めることができた。ここまで苦労を掛けたのだから淳之介は勉強に励む義務があるはずだ(?)。
一方、沖縄の玉城家の元義父母から「ランドセル代に」と言って現金書留が届いた。
「沖縄のお祖父ちゃんとお祖母ちゃん?」「うん、淳之介のな」淳之介は戸惑っているが、元義父母としての縁は切れてしまっても血のつながりを断つことはできない。今後も何かあった時には祖父母として助力の手を差し伸べてくれるだろう。
「お礼はどないしよう」「やっぱり電話はなァ・・・」これにも母親として佳織が悩んだ。本当は淳之介の元気な声を聞かせたいのだが、話の展開が読めないので止めておいた。
「まァ、ランドセルを背負った淳之介の写真を入れてお礼状を出すわ」「うん、そんなところや」「早く淳之介が自分で書けるように勉強しなさい」ここでも落ちは淳之介のところに行った。

佳織が通常の仕事に復帰すると交代で演習に行くようになった。本来ならばエリート・コースの仕上げであるCGS(指揮幕僚課程)の受験資格であるAOCは2尉の間に入校するのだが佳織と私はまだ終えていない。それは佳織が産休、私は予定外の転属が原因なのだが、とりあえず私はAOCに入校するまで連隊2科の情報幕僚として勤務することになっている。しかし、私の場合は幹部候補生学校の卒業序列を考えれば「受験したい」と希望すること自体が分不相応だ。
佳織が出ている時は私が掃除・洗濯・ご飯炊きに育児まで一手に引き受け、クレイマー生活の再開だが、今度は志織が加わっているからオムツ洗いもある。むしろ「佳織2尉には負けないぞ」と気合を入れ、ハンバーグや餃子まで手作りしており、佳織が戻る前日には掃除も完璧に仕上げ、家の中は教育隊の点検前のようになっていた。
「ただいまァ」佳織は床を汚さないように入ってくる。陸上自衛官は演習で約1週間も革製の半長靴を履き放しなので臭いが染み込んでしまう。それは風呂で念入りに洗っても簡単には落ちないのだ。夜の久しぶりの営みの愛撫でも下半身で一瞬、臭いを感じて止まってしまうことがあった。
「何だか汚い足で歩いて入るのが申し訳なくなるわァ」「そんなことは気にしなくても良いよ。任務を遂行してきた汗の匂いじゃあないかァ」「だってェ、貴方の掃除は半端じゃあないやろ」「坊主にとっては汚すために磨き上げるのも修行なんだよ」「それじゃあ遠慮なく」こんな感謝と理解が佳織との夫婦生活の楽しみと喜びだった。
「お母さん、おかえりなさい」「オギャー、オギャー」そこに子供たちが年齢層に合わせた歓声を上げる。これが今のモリヤ家の味わいなのだ。
  1. 2016/01/12(火) 09:45:20|
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