大正8(1919)年の明日3月1日に韓国の憲法の前文で「悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓民国は、三一運動により建立された台環民国臨時政府の法統及び不義に抵抗した四一九民主理念(1960年に李承晩大統領の不正に抗議して起こった大規模なデモの理念)を継承し、祖国の民主改革と平和統一の使命に立脚して」と謳っている3・1運動が起こりました。
この独立運動はアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が同年1月8日に第1次世界大戦の勝利が確実になったことを誇示する「14カ条の平和原則」演説を議会で行い、その第5条の「植民地問題の公正な解決=民族自決」を熱狂的に受け留めた韓国人たちが起こしたものです。
これに先立って2月8日に東京神田のYMCA会館に集まった在日韓国人たちが「独立宣言」を採択しており、これに呼応してキリスト教、佛教、天道教(=東学党・東洋思想信仰)の指導者たち33人が3月3日に行われることになっていた韓国皇帝・李太王の葬儀に合わせて決起する計画を立てました(=韓国皇帝とは日清戦争に敗れた清国を見限って1897年に完全な独立を宣言した朝鮮の君主で、中国の皇帝に任命される国王よりも格上を意味しています)。
決起すると言っても宗教者たちですから「大衆化」「一元化」「非暴力」の原則を定め、朝鮮総督府内の韓国人高官や学生たちへ賛同を働き掛けたのです。
そして3月1日の午後にソウル(京城)市内インサトウ(仁寺洞)のテファグァン(泰和館)で「我等はここに朝鮮が独立国であり、朝鮮人が自由民であることを宣言する。これを以って世界万邦に告げる人類平等の大義を克明にし、これを以って子孫万代に告げる民族自存の正当な権利を永久に所有するものとする」との「独立宣言」を朗読して、万歳三唱を行いました。
しかし、この宣言は「独立」と言う表題に関わらず日本に対する敵意は見られず、むしろ対等な存在として友好的な外交交渉によって問題を解決しようと呼び掛けているのです。
その後、運動は学生を中心に広まり、デモ行進には市民も続々と参加して数万人規模に拡大し、3月から5月にかけて1542回、延べ205万人が参加したと言われますが、韓国の歴史資料の数字は話半分でも嘘っぽいので大規模な運動になったことだけ理解しましょう。
当時の朝鮮総督は山口県人(岩国出身)の長谷川好道大将で、やることは毎度の警察と軍隊による治安維持でした。しかし、当時の朝鮮半島の警察官は暑長クラスは日本人でも現場で動いていたのは韓国人であり、軍隊を出動させたのは彼らが運動に同調することを懼れたことが理由だったのかも知れません。
実際、指導者である33名は逮捕されましたが、内乱罪は法廷で棄却され、最も重い独立宣言の起草者以下の中心人物でも懲役3年、他の幹部は懲役2年半、残りは訓戒処分などで済みました。
この運動に過剰反応したのは日本の方で、「暴動」「「反乱」などと断定して朝鮮総督府に断固たる鎮圧と厳罰を要求する強硬な論調が湧き起こりましたが、やがて大正デモクラシーの自由の恩恵は朝鮮半島の人々にも享受させるべきだと気づき、むしろこれまでの歴代朝鮮総督(伊東博文・曾禰荒助・寺内正毅=全員が山口県人)の強圧的な統治方法が朝鮮人の不満の原因であったと批判する意見が大勢を占めるようになりました。
これを受けて原敬内閣は朝鮮総督を首相と同じ岩手県人の斎藤実海軍大将に交代させ、穏健な政策に転換させたため、この事件以降には独立運動は起こっていません。
- 2016/02/29(月) 09:18:44|
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そんな時期、私に思いがけない出張が命ぜられた。沖縄本島で行われるアメリカ海兵隊の上陸演習「コースト・ウォッシャーを研修せよ」と言うのである。若し那覇駐屯地泊であれば美恵子の夫・矢田に会うことも覚悟しなければならないだろう。しかし、公務に私情を持ち込むことはできないのは当然である。
子供たちが眠った後のパジャマ・ミーティングで佳織は珍しく複雑な顔をしていた。
「貴方、美恵子さんに会ってくる?」「まさかそんなことはできないだろう」そう答えてグラスの酒を飲んだが、それは私自身も迷っていることだった。
「悪いけど気になっているのは確かだな、淳之介の生みの母ではあるからね」過日、松真から美恵子の苦しい現状を聞いて以来、ニュースなどで沖縄が映るとそこに気持ちが行ってしまっているのは間違いない。佳織も当然、それを見通している。
「だったら現地調査してきたら」「でも人妻が元夫に会うと言うのもどうかな」私の答えを聞いて佳織も自分のグラスの酒を口に運んだ。それは佳織の立場で考えれば自分の夫が元妻に会いに行くと言うことになる。しばらく2人とも黙ったまま杯を重ねていたが頭が少し痺れてきたところで私は自分でも思いがけない質問をしていた。
「女性って相手に失望しているところに、それを心配した前の男が現れたらどう思うんだろう」この質問は些か危険である。ここで佳織から昔の男性の告白をされても私としては何と答えてよいのか分からない。しかし、佳織は顔色も変えずに酒を1口飲むと平然と答えた。
「私は貴方に失望することなんてあり得ないよ。だって私が奪い取った相手やもん」これが佳織の私との結婚に対する認識だと知って、やはり返事ができなかった。佳織は自分の意思で実行したことを後悔する弱さや迷いは持ち合わせていないのだ。
私は佳織のグラスに氷があることを確かめウィスキーと水を注いだ。
「俺って変に情に流されるところがあるんだよな・・・胸にすがりつかれて泣かれたら抱き締めてしまいそうだ」「それでヨシヨシって慰めてあげればいいじゃない」そこまで言って今度は佳織が私のグラスにウィスキーを注いだ。
「同情と愛情が違うことは貴方なら分かっているでしょ」「うん、君へは愛情、あちらは同情だな」「だったら大丈夫、モリノ1尉に現地調査を命じる」どうやらこれで結論が出たようだ。2人で乾杯のためにグラスを持った。
「その前に今夜の攻撃許可を」「了解、Cheers(乾杯)」「カンペイ(中国語の乾杯)」グラスの「カチン」と鳴った音が私の心に響き、飲み干した酒が染み渡った。

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- 2016/02/29(月) 09:17:13|
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安政2(1855)年の明日2月29日(太陰暦)は時代劇「遠山の金さん」の主人公で、実際に江戸時代末期に幕臣として活躍した遠山金四郎景元(かげもと)さまの命日です。
太陰暦ではニシムクサムライでなくても毎月30日ですから、この年が閏年だった訳ではありません。逆に2月30日に何か紹介すべき事件があれば閏年にしか書けないのですが、残念ながら見当たりません。
「遠山の金さん」と言えば刺青ですが、実際に「遠山桜」の彫り物をしていたか真偽は不明なのですが、若い頃に家出をして庶民の中で暮らし、博徒などとつき合いがあったことは事実とされ、真夏でも非常に身嗜みに気を使い、けっして肌を露出することはなかったと言われていますから本当に刺青があったのかも知れません。
景元さまが家出をした理由は父親の金四郎景晋(かげくに)さまは男子がいなかった遠山家に養子に入っており、その後、養父に男子が生まれたためその義弟を養子としていたため、実際の嫡男でありながら二男扱いされていたことへの不満があります。また景晋さまは幕府が中国の科挙に倣った学問吟味で最優等の成績を収めた秀才で、ロシアが日本人漂流民を送り届けにきた時に交付した長崎入港許可証を持って来航したレザノフと現地で交渉して追い返すなど幕臣として活躍していただけに家風は極めて厳格だったので窒息しそうだったのでしょう。
景元さまが家出から戻った頃、義理の兄=本当は叔父が病没し、正式に嫡男として幕臣となり、50年間も将軍であり続けた家斉公の後任として待ちくたびれていた家慶公の傍に仕えたようです。
その後、父親の景晋さまが隠居したため家督を相続すると順調に昇任し47歳で北町奉行に就任しました。この時の南町奉行は矢部定謙さまで、南北奉行は1カ月交代で江戸の行政業務を担当するため、堅物の矢部さまと柔軟な景元さまの取り合わせは絶妙であったと言われています。
特に老中・水野忠邦が推し進めていた時代錯誤な天保の改革の庶民を圧迫する命令について、矢部さまは非現実な点を論破して変更させ、景元さまは棚上げにして叱責されるまで放置していたようです。このため矢部さんは水野に取り入る寄生虫・鳥居耀蔵の策謀によって失脚してしまいますが、景元さまは家慶公の覚えもめでたく鳥居は手を出せず、庶民の味方として不動の人気を獲得していきました。これには水野と鳥居が風紀の取り締まりのため芝居小屋と寄席の全面禁止を画策した時、景元さまが江戸府の外であった浅草への移転で存続させたことに感謝した芸人たちが「遠山の金さん」の原型の芝居を上演し始めたことも大きいようです。
ただ、景元さまが町奉行として優れていたのは、ドラマで描かれているような白洲での裁きよりも行政官としての実務でした(司法についても定評があった)。
景元さまは北町奉行の後、大名以下の武士と取り締まる大目付に昇進しながらもう一度、南町奉行に降格していますが(水野の失脚で南町奉行になっていた実弟が連座したため空席になった)、この2度目の町奉行への就任後に発生した本郷の大火では大目付だった時の人脈を最大限に活用して江戸城内の戦備米を放出するなど庶民の救済に尽力しました。これは青山の火災の1年後でしたから、景元さまの適切な初動対処と救済処置がなければどれ程の悲劇を生んだか判りません。
この他にも天保の改悪で火が消えかけた庶民の生活を同一視点で再生させるよう手を尽くしたのですから、やはり大岡忠相さまと並ぶ名奉行なのでしょう。矢部さまは残念ながら在任が約半年と短いのです。

みなもと太郎作「風雲児たち」より
- 2016/02/28(日) 00:05:41|
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その夜の夫婦の会話=パジャマ・ミーティングは愚痴になってしまった。航空自衛隊の頃は非常呼集に備えて下着で寝ていたが、最近はペアのパジャマになって、佳織は色違いのパステルカラーが似合って可愛いが、それに見とれる気分ではない。グラスの酒を半分ほど飲んだところで、私はやや言葉を荒げて不満を吐き出した。
「何でどいつもこいつも物事の本質を考えないんだろう」「そやろね、そんなもんやわ」佳織もグラスの酒を口にしながら相槌を打ってくれる。
「連隊の幹部が雁首揃えて、誰も戦闘技術とは何かに想いが至らないんだぜ」「形式的な訓練しかやっていないからそうなるんや」佳織はそう言って自分でうなずいた。
佳織は出産後1年で私や淳之介の日本拳法の道場に入門し、現在は私が2段、佳織は初段で黒帯だ。時々、外で練習をするが始めは夫婦喧嘩と誤解した近所の奥さんに止められた。
「旧軍は(設楽が原の合戦の)信長の発想にも追いつけなかったから最後には負けたんだよ」「と言う教訓を学んでないんやね」今度は2人で溜め息をつく。
「通信大隊もそうかい?」「ウチは通じなくなればお手上げって緊張感はあるやろ」「うん、確かに」「それに貴方の所みたいに所帯が大きくないから変更も簡単なんや」「なるほどォ」佳織に言われて我が普通科連隊が鈍重な牛か象に思えてきた。今日の会議でもたかが銃剣道の話が師団の大会にまで及び、それを考えるのが広い視野だと言われてしまった。
「でも、貴方は中隊長の中で一番下やろ。よく御歴々に戦いを挑んだねェ」「もし、クビになったら君に自衛隊をやってもらって俺は専業主夫をしながら子育てに励むよ」これは半分くらい真面目な気持ちだったが、佳織は急に真顔になった。
「何を言ってんねん。貴方は私のライバルでもあるんやで、戦線離脱は許さへん!」佳織の幹部自衛官としての素養を認め、それを開花させるために協力すると言う私の気持ちは甘えだったのかも知れないと思い知らされた。
私が立場を弁えず率直に意見を言うのには、美恵子のおかげで幹部候補生学校の卒業序列や離婚後の演習・特別勤務の免除で勤務評定が最低にまで落ち、これ以上の昇任がないことを自覚していることもある。つまり上の目を気にする必要がないのだ。
「はい、判りました」「判ればよろしい」ここで乾杯をし直してグラスを口に運んだ。
「それにしても俺って、やっぱりズーミング・エアフォース気分が抜けないんだな」ズーミングとは音速突破する時の衝撃波のことだが、何でも、誰とでも言い合う空軍の気質を表している。そこで「三つ子の魂、百まで」を英語で何と言うかを考えた。
「a child’s spirit of three yeas old, keep for one hundred yeas・・・」酔った頭で浮かぶのはこの程度だったが、ここでグラスを開けた佳織がオチをつけた。
「今思ったんやけど、貴方って、どちらかと言えば特科向きかもね」「火を吹くからかァ?」「正解!ズドーン」正解の御褒美にキスをリクエストすると、差し出した頬に砲弾のようなパンチが飛んできた。
- 2016/02/28(日) 00:02:19|
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AOCを終えて帰隊すると私は定年配置になった中隊長の交代で古巣・第3中隊長に上番した。
帰隊の申告を終えるとそのまま次年度の練成訓練計画を策定する連隊の中隊長会議に出席する。しかし、3月末のこの会議では内定している計画に各中隊長が同意して決定する最終手続きでしかない。通常このような連隊長が出席する会議では、連隊本部の幕僚たちの伝達を恭しく承り、上意下達をお誓い申し上げるモノのようだが、元航空自衛隊である私は2科の幕僚の頃から「勇猛果敢」「支離滅裂」の気風が抜けず、納得できないモノはできないとハッキリ意見を述べるため、株主総会を妨げる裏組織になぞらえて「総会屋」と陰口を叩かれている。尤も中隊長の上は連隊長であるから意思疎通を円滑にするのが当然であろう。
「来年度の銃剣道大会を寒稽古の仕上げとして2月上旬に行います」「銃剣道はスポーツ種目であって戦技ではありません。あえて訓練で実施する理由を御説明願いたい」運用訓練幹部の説明に私は異議を申し立てた。私の性分は連隊長以下もよく知っていたが各中隊長は気まずそうに顔を見合わせる。
「しかし、モリヤ1尉の3中隊は今年、準優勝したじゃないか」副連隊長は助け舟のように私の中隊の戦績を口にする。しかし、私は話を止めなかった。
「はい、運動会の徒競争で2着なったようなモノです」私の発言が反論に聞えたのか副連隊長は不快そうな顔で連隊長を見た。
「それでは3中隊長は何をやればいいと言うのか。考えがあるなら言ってみろ」運用訓練幹部の上司にあたる3科長は「単なる批判か」と言いたげな顔で私に訊いてくる。
「徒手格闘を練成して大会をやるか、銃剣道なら短木銃で試合をするべきです」銃剣道の木銃は戦前の長い30式歩兵銃に30年式銃剣をつけたの槍のような物で、現在の64式小銃や間もなく更新される89式小銃とは長さがまるで違うのだ。ならばせめて64式小銃に着剣した長さの短木銃の間合いでと言うのが私の意見だった。
「しかし、ウチがそうしても師団の大会が今まで通りでは不利になるだけです」ここで今年の大会で優勝した2中隊長が意見を述べた。
「そうそう、幹部なら広い視野と常識が必要だ。若さだけで自分の意見を押し通すのもは考えものだ」さらに最古参の本部管理中隊長がそれに同調する。つまり私は視野が狭く、常識がない青二才と言うことらしい。しかし、私の意見は目先の競技会の成績を超えた陸上自衛隊としての戦闘技術を向上するための方策なのだ。それでも会議の席に並んでいる幹部たちの刺々しい視線は私を法廷の被告にしていた。
「徒手格闘が訓練として必須なのは間違いない。それも加えることにしろ」このように連隊長の裁定が下りたが、他の中隊長たちは「余計な訓練が増えると練度が上がらない」「徒手格闘は怪我が多い」などと小声でささやき合っている。
ようするに和を乱さず、今までのパターンを守っていれば好いのが陸上自衛隊のようだ。
- 2016/02/27(土) 09:42:09|
- 夜の連続小説8
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最近は首謀者・磯辺浅一を顕彰している山口県を除いて反乱将校を賛美する者は見当たらなくなりましたが、国家神道の復活を画策する保守派論客(元皇族の憲法学者など)がテレビなどで時代錯誤な発言をするようになり、その一方で政権・反政府双方が話し合いを放棄して相手を否定する活動を繰り広げている姿をみると皇道派の亡霊がさまよっているかのようです。
先ずは事件で亡くなった高橋是清大蔵大臣、斉藤実海軍大将、渡辺錠太郎陸軍大将、松尾伝蔵陸軍大佐、村上嘉茂衛門巡査部長、土井清松巡査、清水与四郎巡査、小館喜代松巡査、皆川義孝巡査の冥福を祈りましょう。
- 2016/02/26(金) 09:30:04|
- 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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1952年の本日2月26日にイギリスのチャーチル首相が核保有を宣言し、この年の10月3日にオーストラリア東部のモンテベロ諸島で核実験「ハリケーン」に成功して、それまで米ソが独占していた核抑止力=核兵器によって敵を消滅させ力の均衡に加わりました。
現在まで核兵器を保有しているのは実験に成功した順でアメリカが1945年、ソ連(=ロシア)が1949年、イギリスが1952年、フランスが1960年、中国は1964年でここまでが国連の常任理事国です。続いて1974年にインド、1998年にパキスタン、そして2006年に北朝鮮が成功してしまいました。
核弾頭の保有数で言えばアメリカは公表されている9400発、ロシアが推定13000発でこれだけでも地球を破滅させるのに十分な量です。それにイギリスが公表されている185発、フランスが同じく300発、中国は推定240発で、インド、パキスタン、北朝鮮は核実験に成功したところまでになっています。
ただし、イギリスの核開発は独自のものではなく、アメリカのマンハッタン計画の技術供与を受けて製造したのです。つまりソ連との核戦争に側面から参加する国を確保したいアメリカと第2次世界大戦後、凋落の一途を辿っているイギリスの存在感の確保と言う思惑が一致した結果でした。ちなみにイギリスは1957年11月8日に1953年8月12日のソ連、1954年3月1日のアメリカに続いて水爆実験にも成功しています。
しかし、イギリスは核兵器を保有したことでかえって先制攻撃を受ける脅威が増すことになりました。ソ連にとってアメリカは下手に手を出せば倍返しされる核兵器大国ですが、イギリスは数発を保有しているに過ぎず、やられる前に叩き潰すことが可能であり、目障りになれば何時でも消滅させれば良いのです。このためイギリスは核兵器を搭載することが可能な原子力潜水艦の建造を進め、1966年にレゾリューション級を4隻、1986年にはヴァンガード級4隻を就役させ、トライデント・ミサイルによる核抑止力を維持することになりました。
確かに世界の国家の生存が米ソ、現在であれば米露の2大国の一存で決められるよりは多数による意思決定の方が安心ですが、その一方で核の拡散はボタンを押す者の狂気で国家が消滅する脅威を増大させる事態を招いています。
その意味では核の拡散の端緒を作ったトルーマン大統領の判断の可否について検証を加える必要があるでしょう。
- 2016/02/26(金) 09:29:01|
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戦史の研究も主要テーマだった。ただし、学生たちの間には先輩から申し送られた論文のコピーが出回っており、それを自筆で書き直して提出しているため、討議は毎回、同じ結論になるらしい。今回のテーマは「インパール作戦」だ。
討議に入っても予想通り単調な意見しか出ないのは「当り前だのクラッカー」だ。他人の意見の請け売りなのだから白熱してくるはずがない。
議論はインパール作戦の必要性と失敗した原因を巡って平行線のまま時間だけが過ぎ、1期後輩で防衛大学校出身の司会者は「眠らないように」と注意している。
「どうも話が前に進みませんから、ここで副学生長の意見をお願いします」私に発言させると議論が崩壊するため最近は「触らぬ神」扱いになっているが今回は出番がきた。しかし、私は首を振った。
「私の意見は皆さんと全く噛み合いませんから遠慮します」「それなら尚更、別の切り口を披露して下さい」司会者は指名してしまった手前、あくまでも発言を求めてくる。そこで部屋の隅に座っている教官を見ると流石に難しそうな顔をしていた。私の論文は全く着想が違っているのだ。
「それでは・・・私は佐藤幸徳第31師団長の独断について考察しました」一般的な学生の論文は作戦全般の評価を論述しているため、佐藤中将の名前はあまり知らないようだ。
「佐藤幸徳師団長と言うのは何をやったのですか?」自分の不勉強を申告することになるのを考えない軽率な学生が質問した。しかし、それは必要な説明のようだ、
「佐藤師団長は第5軍司令官の牟田口廉也がこの作戦を言い出した時から反対しており、それでも強行されると前線から補給の要請を第5軍の各師団に送りつけ、それが受け入れられないと現場から独断で撤退したのです」「ゲッ、命令違反じゃないか」「それって敵前逃亡だろう」この説明に不勉強を隠していた学生まで驚愕の声を上げた。
「どうだね。この佐藤師団長の行動をどう考えるか、諸官の意見を聞かせてくれ」思いがけない史実に絶句している学生たちに教官は佐藤師団長が中国戦線で勇名を馳せた名指揮官であることを補足説明した後で提案した。
「それでは休憩を兼ねてシンキング・タイムを5分取ります」そこで司会者が絶妙の采配をした。
「やはり命令違反は許されません」「部下を守る。少なくとも無駄死にさせないために已むを負えない行動です」「反対が許されるのは決定が下るまでで、そこからは迷いを捨てて職務を遂行するのが軍人です」「明らかに間違った作戦を止めるためには超法規的処置も必要でしょう」休憩後の討論では各人の意見が賛否に別れ、真剣な論戦になった。私は黙って聞いていたが、意見が出尽くしたところで再び指名を受けた。
「乃木の旅順要塞攻撃で師団長クラスが馬鹿の一つ覚えな正面突破を拒否していれば頭が悪い乃木や第3軍司令部も少しは作戦を考えたでしょう。高級幹部にはそうする責任があると思います」学生たちは夜の酒盛りでもこの話題で唾を飛ばし合っていた。
- 2016/02/26(金) 09:27:50|
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昭和33(1958年)の明日2月26日は戦後の日本画家としては最高の評価を得ている横山大観さんの命日です(野僧個人としては日本史上最高の画匠だと思っています)。89歳でした。
最近は「開運!何でも鑑定団」と言う番組のおかげで学校の授業で習った武将や政治家以外にも芸術や文化に偉大な足跡を残した人物もかなり知られるようになりましたが、日本画で桁外れの評価を受けているのが横山大観さんです。
芸術の評価を金額だけで決定することには賛成しかねますが、価値の比較方法としては最も単純明快なのは間違いなく、素人には判り辛い絵画としての芸術性だけでなく(素人には好き嫌い以上の評価はないでしょう)市場的な価値も理解することができます。
野僧は横山さんの名前を作品ではなく母校の先輩である本多光太郎博士と共に第1回文化勲章を受章したことで知りました。その後、横山さんの作品を見ることができたのは航空自衛隊に入って美保基地への出張のついでに島根県安来市の足立美術館へ行った時でした(それまでも地方の美術館の日本画展で数点は見たことがあった)。足立美術館は山林王・足立全康さんが収集した膨大な日本画、陶芸、木彫、童画などの芸術作品と遠景となる山まで所有し、手を入れている日本庭園が有名ですが、横山さんの作品は130点を数え、美術の教科書や年鑑に掲載されている名作も少なくありません。
中でも幼児の立ち姿を描いた「無我」や雨上がりの山霧の「雨霽る(あめはる)」、そして屏風の全面に川の畔の紅葉した楓を配した「紅葉」は3度通っても見飽きることはなく、東から小庵に来る友人にも帰路に立ち寄ることを勧めています。
さらに東京に行く機会があると上野の国立博物館や北の丸の国立近代美術館に足を運び、上野では足立美術館と同じ構図の「無我」、北の丸で「生々流転」、を見ました。
その他では厳島神社で見た「屈原」は、嵐の中に蘭の小枝を持って立つ詩人・屈原の姿が防府南基地・第1教育群で四面楚歌・孤立無援だった野僧そのもので、浜松時代に寒風酷暑豪雨の中でも正門に立っていた頃の気合いを蘇らせてくれたのです。
横山さんは東京美術学校で教えを受け、盟友・菱田春草さんや下村観山さんと共に日本美術院創設に加わった(当時の美術界の立場では「殉じた」とも言えた)師・岡倉天心さんから投げかけられた「空気を描く工夫」と言う課題の探究の中で辿りついた日本画の特色である輪郭線を排した画風が最大の特徴です。
前述の「雨霽る」や「生々流転」はその代表作で、前作の屏風の前に立つと雨上がりの山に立ち込める霧が感じられ、後作では冬枯れの深山の冷気に身震いしそうになりました。
しかし、横山さんの作品の魅力は何と言っても富士山や太平洋の雄大な風景でしょう。
野僧は静岡県に住んでいいたため横山さんの富士山や太平洋の作品は幾つも見ましたが、富士山は年代によってリアルな急勾配の全体像となだらかで安定感がある山容に分かれるようでした。太平洋も目の前に大海原が広がって怒涛の声が聞こえてくるような迫力がありました。
そんな横山さんは大の酒好きで、40歳を過ぎた頃から飯を食べなくなり、酒と肴で済ませていたそうです。その酒は広島の酒蔵の社長と「一生分の酒を提供する」と約束しており、毎年「4斗樽を何本」と注文していたため無料でした。勿論、お礼に作品を贈っており、その酒蔵には現在、横山大観記念館があるそうです。野僧も絵葉書なら山ほど持っていますがね。
- 2016/02/25(木) 09:45:33|
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子供たちが爆睡した後は鼻血の原因解消作業だが和風の旅館では今一つだった。襖の防音効果がどの程度なのかが判らず、隣室との壁まで薄いような気がする。
それでも志織に添い寝している佳織の浴衣の襟元から手を差し入れて作業を始めるのは、高校時代に見たドラマ「青春の門」のようで興奮した。あのドラマでは信介に添い寝する小川真由美の乳房を菅原文太が後ろから掴んでいた。「ダイナマイト・ドーン・ドーン」
翌日は箱根で彫刻の森美術館、淡水魚水族館を巡り、ケーブルカーやロープウェイに乗った(海賊船の遊覧船は昨日、到着後に乗っていた)。
「貴方、ロープウェイは大丈夫?」切符を買う前、私の高所恐怖症を知っている佳織が訊いてきた。「駄目だ」と言えば1人で引率してくれるつもりのようだ。
「落ちて助からない高さなら諦めがつくから大丈夫だ」「変なの」「変なの」私の腕で志織も唱和する。志織が佳織に似てくるのは大歓迎だが2人掛かりの攻撃には少し困った。
ロープウェイから下りて少し歩くと山頂付近に雪をかぶった富士山が目の前に見えてくる。
「雄馬、淳之介、『富士山』の歌は知ってるか?」写真を撮った後、小学生2人に訊いてみた。私が小学校の時には文部省唱歌として習ったが、今の学校教育ではどうなのか興味があったのだ。すると2人は顔を見合わせた後、一緒に首を振った。
「ふーん、富士は高いな大きいな 雪が積もるし日が沈む」「それは聞いたことがあるよ」私が口ずさむと2人はうなずきながら拍手したが、運転手の佳織が噴き出した。
「それって『海』の替え歌じゃない。富士山って『頭を雲の上に出し、四方の山を見下ろして 雷様を下に聞き 富士は日本一の山』やないの」こちらが正解だが佳織はハワイの小学校だったはずだ。同じ曲の「キラウエア」と言う歌があるのだろうか?
山中湖畔の温泉旅館に泊まり、富士五湖と富士急ハイランドなどで遊んだ後、御殿場インターからのる前に私を富士学校に送ってくれた。
「富士学校かァ・・・」駐屯地が近づいてくるとルームミラーの佳織の目には気合いが入ってきた。陸上自衛隊には習志野・第1空挺団や北海道・第2師団など最強を誇る部隊は数々あるが、それは得意分野における自負であって、総合力では富士学校=教導連隊とすることに異存はないだろう。佳織も幹部自衛官として聖地に詣でる気分なのかも知れない。
「これが最新鋭の戦闘器材なんやね」駐屯地内を車で回りながら、停めてある戦闘車両に佳織は興味を示した。勿論、男の子2人も窓に釘づけだ。
「ここでテストをしてから北海道へ、続いて東北、関東ときて中部を跳んで九州に入る」「それは通信機材も一緒や。通信機材は軍事的緊張とは別の情報量の問題やから都市部から広めて欲しいんやけどな」「なるほど。流石は専門家の意見だ」そう言えば先日の図上演習で本部管理中隊長の役になって通信小隊を動かすのに、佳織からの情報が役に立ったことを言い忘れていた。

イメージ画像(平成版「青春の門」より)
- 2016/02/25(木) 09:43:35|
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昭和27(1952)年2月末の青森県警は呪われていたかのようでした。2月21日から23日には日本共産党からの暴動指令を受けた在日朝鮮人が木造警察署と木造駅を襲撃する事件が発生し、2月25日には日本の司法史上類を見ない冤罪事件であり、事実関係はほぼ確定していながら解決できない米谷事件を起こしたのです。
この事件については大学の刑法の講義で習いましたが、昭和27年の明日2月25日に青森県東津軽郡高田村(現在は青森市)で57歳の女性の強姦・絞殺遺体が発見され、家からは金品が奪われていたのです。
その後、近所の子供から「同じ集落に住む米谷四郎(冤罪ですが事件の名称になっているので、本名を記載します)が日没後に顔を隠して歩いていた」との証言が出て、警察は1週間後の3月2日に逮捕しました。
米谷さんは厳しい取り調べを受けて犯行を自供したため告訴されますが、公判では一転して犯行を否認したものの当時の裁判は自供を重視したため有罪となり、懲役十年の判決を受けて服役し、昭和33(1958)年に仮出所しました。
ところが昭和41(1966)年になって窃盗で審理中だった被害者の甥が伯母の殺害を証言したのです。それによると当時18歳だった甥は金品を奪うため伯母を絞殺した後、白い太ももが露わになったのに欲情して屍姦(しかん=死体との性行為)したとのことで、その証言を受けて検察当局は法医学者たちに検証を依頼した結果、甥の証言の信憑性は高いと確信し、15年の公訴時効(当時)が迫っていたため十分な証拠固めをせぬままに甥を殺人容疑で追起訴したのです。
ところが甥は公判で証言を翻して無罪を主張し、検察側も公判維持に苦心することになり、結局、昭和43(1968)年に地方裁判所は無罪の判決を下しました。検察は控訴したのですが、昭和45(1970)年に甥が拘置所で自死して公訴棄却になりました。
その後、日本弁護士連合会が冤罪被害者の救済のため再審請求を行い、公判では米谷さんと甥の証言と事件の客観的事実の比較が行われ、被害者の体内に残されていた精液などの状況から死後の性行為であることが確認され、「甥の犯行とする方が合理的である」とする結論に至り、昭和53(1978)年に米谷さんは無罪の本決を受けましたが、甥の方は被疑者死亡による公訴棄却なので殺人罪は認定されていません。つまり犯人はほぼ確定しながら不明のまま迷宮入りした事件なのです。野僧が大学で講義を受けたのはその2年後(3年後だったかも)ですから、教授としては最新の事例を紹介したと言うことになります。
それにしても2月下旬の青森市内であれば寒風を避けるため顔に布を巻くことは一般的であり、それを子供が「顔を隠していた」と証言したからと言って不信感を抱くのはいささか軽率であり、裁判所も冤罪を見抜けずに控訴を棄却して刑を確定させ、事件当時30歳だった無実の米谷さんを6年間も服役させ、仮出所後も8年間も濡れ衣を着せていたのですから、現在であれば重大な人権侵害として徹底的に糾弾されるでしょう。
おそらく木造警察署襲撃事件後の混乱の中で生起した事件のため、近傍の青森市警としても組織が動揺しており、裏付け捜査=証拠固めよりも犯人検挙と自白確保を優先したのかも知れません。
それにしても「被疑者死亡による公訴棄却だから真相究明はできない」と言う法運用から踏み出すことをしない法曹界の頑なさは何とかならないものでしょうか。証拠物件が保管されていれば検証は容易なはずです。
米谷さんは平成8(2006)年に84歳で亡くなりましたが、真犯人は判らぬままでした。
- 2016/02/24(水) 09:32:06|
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初日は箱根の温泉旅館を予約しておいた。小学生2人に幼児1人、それに夫婦ではホテルのベッドがどうなるか判らない。その点、旅館の和室なら布団を並べれば済むだろう。
「家族風呂もございますから仰って下さい。順番をお取りします」中居さんは部屋に案内し、非常口などを説明して退出する時、声を掛けてくれた。
「家族風呂かァ・・・」布団に入る前に佳織の全裸を見られるのは願ってもないことだが、禁欲生活が長いだけに身体の一部が変な反応をしそうだ。夫婦だけならその場で一戦だが、子供がいてはそうもいかない。特に甥の雄馬に目撃されると実家で報告されてしまうだろう。しかし、悩んでいる私を無視して甥と息子が「お願いします」と返事してしまった。
家族風呂では男性軍が先に入り、身体を洗って浴槽につかっていた。そこへ佳織が志織を連れて入ってきて、その愛おしい裸身に湯船の中で私は戦闘態勢になった。
「君はいつまでも綺麗だな」「ありがとう」こちらを向かせようと話しかけたが佳織は志織の頭を洗いながら軽くうなずいた。そのうなじの後れ毛がさらに興奮させる。そこへ雄馬が割り込んできた。
「本当、伯母ちゃん、スタイル良いね。お母さんみたいに腹がたるんでいないし」確かに同感だが、それにしても小学校4年生でこの発言は少しませてはいないだろうか。その時、雄馬が私を指さして叫んだ。
「あッ、伯父さん、鼻血が出てる」「えッ?」「本当、鼻血だァ」淳之介もこちらを指さした。両手で受けるとポタポタと落ちている。やはり溜まり過ぎると鼻血を吹くと言うのは本当のようだ。このままでは懐かしい谷岡ヤスジの漫画のように「鼻血ブー」になる。
「のぼせたんやね」「うん、少しな」口では佳織の助け船に同意したが、身体はまだ湯船を出ることができない。佳織が差し出した洗面器の水で頭と顔を洗って我慢した。
入浴して部屋に戻るとお膳が並んでいた。アメリカ生まれの佳織はお膳が初体験のようで目を輝かせながら自分の席に着いた。一方、私は祖父の寺で経験しているが、それよりも演習場で缶飯を食べるのを思い出していた。お膳のおかずを見ると小学生用にはお子様ランチのような取り合わせになっていて、佳織の隣りには志織の分も置いてある。こうして全員が正座すると中居さんが給仕を始めた。
「志織、お父さんのお膝においで」「いや、お母さんが良い」久しぶりに娘を膝に抱いて食事をさせようとすると鼻血で驚いたのか拒否されてしまった。
「今回、1人で家事と子育てをやってるとホンマに大変で、あらためて尊敬しちゃうわ」「そうかね」「うん、志織のオムツを取ってくれたから本当に助かってます」「でも、トイレで座ってオシッコするお手本は君が見せないとね」話の流れで口にした言葉がマナー違反だったようで、中居さんがチラッとこちらを見たため風呂の話に修正した。
「何よりも風呂の入り方は女親でなければ困るよ」「そうやね。しっかり躾けます」ここで中居さんが「後はお願いします。ごゆっくり」と言って退室した。
- 2016/02/24(水) 09:30:57|
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平成7(1995)年の明日2月24日に1936年・ベルリン・オリンピックの女子競泳200メートル平泳ぎで優勝し、日本人女性初の金メダリストになった前畑秀子さんが亡くなりました。80歳でした。
前畑さんは結婚後、兵頭さんになり名古屋在住だったため地元のローカル・テレビにも頻繁に登場していましたが(婆さんの水着姿には閉口しました)、実際は和歌山県橋本市の出身で、幼い頃から急流・紀ノ川で遊んで類まれな泳力を身につけたと言われています。
ちなみにベルリンの女子自由形では同じ橋本市の出身で旧制・椙山女子高校の2年後輩である小島一枝さんも6位に入賞しました。そんな橋本市では「前畑・小島に続け」と子供たちに川遊びを奨励しているのかと思いましたが、やはり時代には勝てず全面禁止だそうです(伝聞情報)。
前畑さんはベルリンで優勝したことばかり有名ですが、その前大会1932年・ロサンゼルスでも1位と0・1秒差で2位になっており、1928年・アムステルダムの女子800メートル走の人見絹枝さんに続く銀メダリストだったのです。
前畑さんはオリンピック決勝の中継で河西三省アナウンサーが「前畑がんばれ」を20回も連呼し、それを聞いていた新聞社の支局長がショック死する珍事もあって国民的ヒロインになりました。ただし、支局長が死んだのが途中で入った「前畑あぶない」だったのか、ゴールした「勝った、勝った」だったのかは不明です。
その後、日本の女子水泳は長い低迷期に入り、1960年のローマ・オリンピックの100メートル背泳ぎで田中聡子さんが銅メダルを獲得するまでメダリストは出ませんでした。田中さんは本来、200メートルの方が得意で世界記録を連発していたのですが、女子200メートル背泳ぎがオリンピック種目になったのは1968年のメキシコシティからで1964年の東京でも4位で終わっています。その東京では美貌の16歳・木原光知子さんが自由形・バタフライ・背泳ぎ、個人メドレーをこなす天才少女「ミミ」の愛称でアイドルになっていたもののメドレー・リレーで4位に入った以外は期待外れな結果でした(野僧は父親が勤める東レが木原さんをモデル兼アドバイザーに採用したため会社のプールで一緒に泳いだことがあります)。
そして1972年のミュンヘンでは青木まゆみさんが100メートル・バタフライで優勝し、ようやく水泳ニッポンも復調したかと思いましたが、1884年のロサンゼルスは東側諸国のボイコットで期待を一身に集めていた平泳ぎの長崎宏子さんは200メートルが4位、100メートルは6位と涙を呑んだのです。これは大会前の無理なトレーニングで膝を痛めたことが原因と言われています。しかし、ここで登場したのが「世紀の予想外」と言われる1992年・バルセロナの200メートル平泳ぎの岩崎恭子ちゃんでした。この大会では自由形の千葉すずさんに期待が集中し、14歳の中学生などは誰も注目していなかったのですが、岩崎ちゃんはオリンピックへ行ってから6秒も自己記録を更新して優勝を果たしました。
ところで我々が学校で水泳を習った頃、平泳ぎは両手で水をかき分けるように言われましたが。その後、体育学校では両脚で水を挟み出すことが主で両手は顔を浮かせるためだけに使うと習いました。愚息2が愛知県のド田舎の小学校で習った時も昔のやり方だったので、ベテランの女性教師に教えたことがあります(職員室なので水着ではなかった)。果たして前畑さんの時代はどちらだったのでしょうか?
- 2016/02/23(火) 09:39:36|
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富士学校では図上演習も繰り返された。ただし、AOCは中隊長としての素養の錬成が目的なので、指揮するのは戦闘団(=普通科連隊を中核に特科1個大隊、施設科1個中隊、状況によっては戦車を加えた混成部隊)指揮下の普通科中隊だ。
「4中隊は左側の敵陣地を制圧せよ」学生が各科長や幕僚を勤める連隊本部の命令を受けて学生の中隊長は攻撃準備を始める。今回、副学生長の私は本部管理中隊長だった。
攻撃準備と言っても状況確認から始まって参加者の人選、使用する武器と断薬の選定とその携行方法まで本番の通りの手順を踏み、それを詳細に記録する。
さらに地形や敵の占領期間などを確認し、陣地が強固であれば特科の火力支援、地雷原が考えられば施設科による排除・啓開を要求しなければならない。
講堂には各担当部署ごとのテーブルが並べられ有線電話JTAーT1が設置されている。大声で聞こえる位置関係なのだが、有線電話を使うことで臨場感を演出するのだ。
「この地形なら重迫撃砲中隊の支援で十分でしょう」「それでは3科に要求します」4中隊のテーブルでは中隊長以下が地図を見ながら作戦を立てている。私としては衛生隊員を同行させる準備と通信小隊への指示だが、まだ連隊本部から連絡がないので手がつけられなかった。仕方ないので資料として配られている衛生隊員の名簿を見ていると、目の前の電話機が「ジリジリ」と音を立てた。
「はい、本管中」電話は現場では副長と呼ばれる役柄の部内出身の2尉の学生が出た。
「はい、はい」彼は真顔で応対しているが、聴力が良い私には連隊本部3科のテーブルで話している声が聞こえている。要するに「1時間後に4中隊が陣地攻撃に向かうので衛生隊員を3名同行させろ」と言うことだった。副長役の学生の報告を受けて私が質問した。
「アンビ(アンビランス=救急車)は必要なのか?」「あッ、確認しませんでした」副長役はあわてて机上の電話機のレバーを回し、交換を通じて連隊3科に確認した。
「アンビは赤十字が目立つからいらないそうです」「代用の小型トラックは?」「確認します」この2尉は小銃小隊長の経験しかないため組織運営については未熟なようだ。これを模擬学習するのもAOCの意義なのだろう。
「同行させる衛生隊員はこの3名で良いですか」副長役は名簿から陸曹3名を選び報告してきた。
「陸曹は指揮官の1名、あとは第一線救護ができる陸士2名にしろ」「えッ?」第一線救護とは戦闘中の負傷者を現場で応急処置しながら担架に載せて後送する衛生隊員の技能だが、残念ながら名簿には隊員個々の技量まで記載されていない。
「となると陸曹3名の方が良いでしょう」自分の意見を否定されて彼は少しむきになる。
「まだ緒戦だ。熟練した陸曹を失う訳にはいかない。陸曹を養成するのにかかった時間と労力はここ一番まで温存するべきだ」「はい・・・」私は長年にわたる戦史の研究で古今東西の戦争を模擬体験してきたが、一般的な自衛隊の幹部たちはこの2尉のレベルで中隊長になるのだろう。巡回している教官もこのやり取りをうなずいて聞いていた。
- 2016/02/22(月) 10:10:20|
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秋から冬の富士学校は身も心も寒かった。幸い銃剣道の訓練指揮官として入校が遅れていた防衛大学校出身の同期が学生長になったが兎に角、反りが合わないのだ。
彼から見れば私など航空自衛隊から紛れ込んだ侵入者であり、卒業序列は最後尾の落ちこぼれなのだから仕方ないが、課題論文の討議でも頭から否定されるのは我慢できない。
その日は「部隊を精鋭化するための個人訓練の在り方」がテーマだった。部内出身者にも銃剣道の指揮官として全国大会に出場した実績を誇示する学生長に反論する者はおらず、結論は始めから出ている。私も陸上自衛隊生活が長くなり、多勢に無勢の議論は傍観者する知恵は身につけていた。ところが司会・進行に当たっていた部内出身の2尉が指名してきた。
「モリヤ1尉、先ほどから何も発言しませんが、この結論で良いのですか?」私の論文を読んでいる指導教官が横でうなずいているところを見ると「ナァナァ」で終わりそうな討議に一石投じることを期待しているらしい。しかし、君子危うきに近づかずだろう。
「場の論理から言えば仕方ないんじゃあないですか」「これはモリヤ1尉とも思えない発言だ。私はBOC(幹部初級課程)で一緒だったから貴方の本質を突いた意見に期待しているんですが」この司会者は平穏無事よりも波乱万丈が好みのようだ。
「大体、仕方ないって言い方が気に入らん。意見があるならハッキリ言うべきだ」突然、学生長がいきり立った。同時に防衛大学校出身は敵意丸出し、部外出身者は興味津津、部内出身者は他人事の顔をする。こうなっては腹をくくるしかない。
「それではよろしいか?」「おう」何故か司会者ではなく学生長が発言の許可を与えた。
「私は銃剣道を帝国陸軍の汚物だと思っています」「何だと!」「冷静になって下さい」いきなり立ち上がりそうになった学生長を司会者が注意した。
「それでは訊きますが、銃剣道が実戦で何かの役に立つのですか?」「銃剣突撃で敵を刺し殺せるじゃないか」「それは太平洋戦争どころか日露戦争の旅順要塞で駄目なことは証明されているでしょう」「・・・」「敵の射程距離を全力疾走で突撃しても大半は弾になぎ倒されて終わりです」「・・・」「その戦訓を学ばなかったから玉砕戦などと言う馬鹿な戦闘で多くの兵隊を無駄死にさせてしまったのです」「・・・ならば格闘技は無駄だと言うのか」「いいえ、敵と遭遇することはあり得ることです。でも着剣した小銃を所持しているとは限らないでしょう」「それで?」「同じ銃剣道連盟が段位を認定している短剣道にすべきです。そうすれば自衛隊からの収入も確保できるから癒着も維持できますから」「癒着と言う表現は拙いです」ここで司会者が注意を与えた。
「大体、治安出動の時、木銃は使えないことを知っていますか」「えッ?」「刑法の判例では相手の武器を超える道具を用いることは過剰防衛になるのです。相手が長い棍棒を振り回していない限り、木銃は使用できません」「・・・」「だから警棒にも応用できる短剣なのです」私の独演会が終って全員が黙ってしまったが、単なる参考意見に過ぎないことは私自身が判っていた。
- 2016/02/21(日) 08:50:02|
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有線中隊は饗庭野の起伏に富んだ演習場内に電話線を張り、無線中隊とは違う技術を発揮する。演習に入って有線中隊長は地図を見ながら作業を指示した。
「ここからここまでは車両展張だ」「はい」車両展張とはトラックの荷台に有線ケーブルを巻いたドラムを載せ、これを引き出しながら路肩に縛着して通信網を敷設する方法だ。このため隊員たちは次々と引き出される有線ケーブルを道の脇に立つ木の幹に括りつけながらトラックを追って走らなければならない。こうして車両展張が始まった。
「縛着(ばくちゃく)!」「はい」荷台の陸曹の指示で陸士は引き出した電話線を折り返して束ね、道路脇の細い木の幹に縛りつける。これを数十メートルごとに実施して電話線を固定していく。その作業が交代で繰り返されていた。
「止まれ!」荷台の陸曹の指示でトラックが停車した。同時に陸曹が空になったドラムを外して追いついた陸士に渡し、新たなドラ8をドラム台に設置する。
「接合(せつごう)!」「はい」陸曹の指示で陸士は空になったドラムの側面に出ている電話線の端末と新たなドラムから引き出された端末をつかみ道路脇にしゃがんだ。その場で腰の弾帯に下げたペンチで電話線の革を剥き、それを本結びにした上でワイヤーに巻きつけて導通を確保し、後は絶縁のためにビニールテープを巻きつける。このビニーステープは水たまりに浸かってもショートしないように固く締めなければならないのだ。
同時進行で山を隔てた場所には最短距離で有線の電話を構築する。やはり電波を使う無線は敵に傍受される危険があり、即時性や情報量も無線と有線では比較にならない。隊員たちはドラ4(どらよん)と呼ばれる直径30センチ程度の片手で持てるドラムの倍の大きさ=重さがあるドラ8(どらっぱち)を担いで山をよじ登るのだ。肩でドラムが回転してケーブルが引き出され、それを立ち木の幹に巻きつけて固定していく。勿論、予備のドラム8や途中でテストするための有線電話機JTAーT1も持っているからかなりの大荷物だ。しかし、困難を克服して任務を遂行する能力を練成することが演習の目的なのだから現実以上の試練が課されるのも当然だろう。こうして中部方面隊管内では最大の中規模演習場に電話網は設営された。
「おい、電話が入っているぞ」「あッ、すみません・・・もしもし交換です」深夜、交換業務についている陸士は昼間の疲れから眠ってしまっていた。ここからは状況付与として電話線を切断されない限り動きはないから緊張の糸が緩んでしまうようだ。
「それにしても今回の補佐官は誰ですか?」「大本(=大隊本部)の2科からだろう」演習で2科はシナリオの情報しか扱わないので比較的余裕があり、補佐官になることが多い。
状況付与で電話線を切断されるとその場所を特定するのにはかなりの労力を要する。不通になった回線を確認し、その電話線を歩いて確認しなければならないのだ。
意地が悪い補佐官(状況を付与する係)の中には電話線を切るのではなく、接合した個所を切断してビニールテープを巻き直しておく者もいる。ゲリラがそこまでやるかは別として単なる性格だろう。
- 2016/02/20(土) 09:51:29|
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インド南部の学校に侵入して3人を負傷させた雄の豹(=ヒョウ)が、捕獲されて動物園に預けられ、3重の柵の檻に入れられたそうです。それで一件落着するかと思いきや翌朝、担当者が見回ると檻は蛻(もぬけ)の殻(から)になっており、鍵は掛かったままで檻に破損個所もなくどこから脱走したのか不明で、話はミステリーに移行したようです。
実は小庵でも愛猫・音子を誘惑して妊娠させた憎むべき雄の野良猫を捕獲・殺処分しようと市役所から罠を借りてきたのですが、入口の蓋が落ちても中にはいないことが5回続き、近所の婆さんが餌をやっていたと言うので、朝の散歩のついでに逃がしたのだろうと思っていました。
その野良猫=若緒の父親は野僧が仕掛けた毒餌を食べて以来、姿を見せなくなったものの、もう1匹の音子に嫌われていた雄が徘徊し、庵内にまで侵入するようになったのです。
そこで倉庫にいるところを撲殺すべく殴る突くの連打を浴びせたところ、梁と天井板の隙間に無理やり体を押し込み逃走しました。しかし、梁と天井板の間隙はほとんどなく、上で蚕を飼っていた古民家の天井板は固く通常の力では押し開くことは不可能でしょう。
実際、天井板に潜り込む時、野良猫の体はほぼ平面になっており、背骨の厚さもありませんでした。然も抜けようとしている板を下から杖で突きましたから、かなりの衝撃があったはずですが、それでも内臓破裂も起こさず逃走したのです。
最近、その野良猫が姿を現すようになり再び罠を借りて縁側に仕掛けましたが、やはり蓋が落ちても姿がないのでこれは婆さんの仕業ではなく、通常では考えられない秘術=忍法(?)を使っているのは間違いありません。インドの豹も誰かが逃がしたと疑うよりも、通常では考えられないような逃走方法で檻から抜けたと見るべきでしょう。
ところで猫の知能はかなり高いと思います。少なくとも人間の言語を聞き分け理解することは十分に可能なようです。
ウチの音子はもらわれてきた時から自然に野僧の膝に乗ってお経を聞くようになり、それは現在も欠かさず続いています。そして言葉で話しかけることを理解して実行しています。
例えば夕方の帰宅時間になっても若緒が戻っていない時、「母親なら連れてこい」と命じるとそれだけで外へ飛び出していき、庵の周囲で「ニャーオ、ニャーオ」と呼びながら探し回るのです。若緒が先に帰ってきた時には「帰ってきたから戻ってこい」と呼ぶと走ってきて、若緒を確認します。
これは餌も同様で、「これは音子の分」「こちらが若緒の分」と言って分け与えると自分の分を食べ、相手の分は向こうが食べ終わるまで口にしません。
犬のように罰を与える必要はなく話しかけるだけで十分にしつけられますから、禅の公案にある「狗子佛性(=犬に佛の性質はあるか)」よりは猫佛性です。しかし、公案では「南泉斬猫」と斬り殺されてしまいます。
余談ながら2月14日のテレビで「チョコを出し放しにしておくと猫が食べてカカオ中毒で死ぬ惧れがある」と注意を呼び掛けていたので野良猫に1袋仕掛けてみましたが、完食していても効果がありませんでした。過剰な情報には注意して下さい。
- 2016/02/19(金) 09:42:44|
- 猫記事
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佳織とは入れ替わりに私がAOCに入校した。我々は7月1日付で1尉になっているので学生長は当選確実だろう。
一方、モリヤ佳織1尉は8月の移動で無線中隊長が転出して同時に発令され、帰隊すると「頭右(かしらみぎ)」の敬礼を受けるようなった。そんな通信大隊は秋の演習に入る。
通信大隊の演習は師団管内の演習場に展開して遠距離の無線通信網を構成し、師団司令部の展開地に有線の電話網を設置することだ。今回の演習では大隊本部を師団司令部の展開地を想定する饗庭野に置き、豊川の日吉原と久居の風早の演習場に各無線通信小隊を展開させた。
災害派遣と演習の違いはアンテナの設置に秘匿を要し、歩哨を配置して防護することだ。
饗庭野演習場は琵琶湖東岸北部の今津駐屯地に隣接しているが中央部に低地、周囲は高台が囲む盆地である。その1番高い峰にアンテナを設置しなければならないため訓練幹部を指揮官にアンテナとケーブルのドラムを担いだ隊員たちが険しい山を登っていく。
「おっと、熊の足跡だ」「これは爪の痕でしょう」人が通った形跡がない場所に入ると野性動物の活動範囲だった。秋は熊などの冬眠する動物には栄養を摂取するため準備期間でもある。毎年、この演習場を使っているが熊の爪の痕を見たのは初めてだ。
「歩哨は空砲しか持てないんですよね」「そりゃあそうだろう」「熊が襲ってきたらどうしましょう」「ヒグマじゃあないから空砲でも驚いて逃げるよ」「そうですか?」「多分な」北海道帰りの陸曹の説明に若い陸士たちは顔を見たが自信はなさそうだった。
汗をかきながら斜面を登り切ると山頂についた。ただし、周囲は雑木林なので琵琶湖は見渡せず、ただ木立の間から足元に航空自衛隊の高射部隊が見下ろせた。
「それにしてもウチらのケーブルは有線の電話線に比べるとかなり重いですよね」「うん、太さが違うだろう」「だから巻ける量も少ないから何巻も担いで来なけりゃいけない」「これじゃあ、どっちが有線中隊だか判りません」組み立てたアンテナにケーブルを接続しながら隊員たちはぼやき始める。昨年の演習はモリヤ2尉が作業指揮官だったので男性隊員も弱音を吐かなかったが今年は全開だ。これには新任の訓練幹部も困ってしまった。
「早く設置を完了して受信状況を確認しなければ明るいうちに帰れないぞ」「はい」アンテナを立木の枝に気をつけながら立て、固定の紐を4方向に広げて縛り付けると作業は完了だ。そのまま有線の電話機・JTAーT1(当時)を使って設置の完了を報告し、テスト結果を確認すれば今夜は男性の陸曹1名と陸士1名を残して下山する。以前は男女平等の名の下にWACも歩哨につけたが演習中に妊娠する不祥事(?)が続発したため、現在は男性隊員に限定されていた。
アメリカの大学を卒業しているモリヤ1尉の発想は女性としての嗜みさえも否定する日本のウーマンリブ闘士の男女平等とは一線を画しており、仮眠天幕を分け(以前は業務用天幕で一緒だった)、WACには演習中も羞恥心を保ち、身ぎれいにすることを指導しているのだ。

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- 2016/02/19(金) 09:41:38|
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「美恵ちゃん、化粧をすると色気があるなァ」その日、理容店の店主がスナックにきた。先ほどの叱責を詫びる代わりの来店らしい。
「ここではミチ子さァ」「芸名だね(源氏名だよ)」カウンターには他にも常連客がいたが新顔の店主が親しげに話していることにあからさまな敵意を表している者もいる。美恵子がママになって以降、客層が若返り、店は賑やかになったが、以前のような家庭的な雰囲気は失われており、美恵子よりも10歳ほど年長の店主は場違いな存在なのかも知れない。
「マスターは何を飲むねェ」「何があるの?」「一応は洋酒が専門さァ」「それじゃあ・・・」「シーバース・リーガル、1万5千円ね」「へッ?」勝手にキープボトルを決めて美恵子は悪戯っぽくウィンクをした。こんな様子は2人の関係を知らない者にはかなり親密に見えるだろう。すると店長の隣りの席に座っている若い客が空にしたグラスを突き出した。
「ママ、俺の水割りはどうなってるのさァ」「あッ、ごめんなさい」美恵子はカウンターに置いてあるボトルからスコッチを注ぎ、慣れた手つきで水割りを作ったが、そのボトルはカティサークで店長のシーバース・リーガルよりもランクが落ちる。若い客はカウンターに並んだ2本のボトルを見比べて小さく舌打ちをした。
「カラオケを歌うさァ」美恵子はカウンターの客に声を掛けメニューを配った。カラオケを歌えば喉が渇き酒を飲む、そうなればボトルが減ると言う簡単な理屈だ。
「俺は新曲を歌うさァ」先陣を切って若い客がメニューを指差しながらリクエストした。
「誰の曲?」「シャランQさァ」「ズルい女ねェ」「正解!」「昨日、入ったばかりさァ」この曲は5月3日に発売されたばかりなので本土から届くレーザーディスクの沖縄としては異例に早いカラオケ化だ。
「byeーbye ありがとう さようなら 愛おしい恋人よ あんたチョッと好い女だったよ その分ズルい女だね・・・」若い客は美恵子の方を見て熱唱している。要するに常連客を差し置いて新顔を大切にしていることを「ズルイ女」と揶揄しているのだ。
「なぜ 来ない 来ない 来ない 来ない 来ない あんたは」若い客の思い入れを込めた歌が終ると美恵子は「新曲なのに上手いさァ」と何時ものように誉めただけだった。
「マスターも何か唄うさァ」常連が一巡したところで美恵子は店長にマイクを手渡した。
「若い人の歌は知らないのさァ」「いいよ、演歌でもシマウタでも」「それじゃあ、これを」美恵子が機械を操作すると今までの軽快な曲とは全く違うイントロが流れた。
「飲ませて下さい もう少し 今夜は帰らない 帰りたくない 誰が待つを言うのあの部屋で そうよ誰もいないわ 今では・・・」今夜はこの演歌「氷雨」が美恵子の胸には深く染み込んだ。そこで珍しく美恵子も1曲歌うことにした。
「水割りを下さい 涙の数だけ 今夜は思い切り 酔ってみたいのよ・・・あいつなんか あいつなんか あいつなんか 飲み干してやるわ」それは堀江淳の「メモリーグラス」だった。客たちはそれぞれが美恵子から自分への返歌として受け留めた。

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- 2016/02/18(木) 10:28:28|
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ある日、美恵子は理容店の店主から指導を受けた。
「矢田さん、アンタは腕が良いのは助かるけど接客態度が悪いのは困ってしまうのさァ」「えッ?」美恵子は店を閉めた後の帰り支度の手を止めた。
「私の接客が悪いねェ」「うん、評判が悪いのさァ」美恵子には心当たりがなかった。ようやく天職と信ずる理容師の仕事に打ち込めるようになり、東京で学んだ流行と防府や善通寺で磨いてきた腕を存分に発揮しているつもりだったのだ。しかし、確かに客の中には店主を指名する者が増えてきているような気もする。
「アンタはお客さんに押しつけがましく指図するだろう」「指図?」「短くしたいって注文されても長い方が似合う何て言ってるのをよく聞くのさァ」「・・・」これは事実だった。最近も若い客が「坊主刈りにしたい」と言ったのを「長い方が似合う」と説得していた。
「でもあのお客さんは長い方が似合うって思ったし、刈ってしまったらやっぱり変な顔になったさァ」「・・・」美恵子の反論に店主は黙って首を振った。
「あのお客さんは仕事で失敗して反省の気持ちを表すために坊主にしたのさァ」「えッ?」思いがけない説明に美恵子の胸にあの時の若い客の顔が浮かんだ。言われてみればあの客は普段の快活な態度ではなく妙に沈んだ表情をしていた。
「そんな気持ちで髪を刈ろうとしているのに理容師に止めろと言われれば決意が揺らいでしまうだろう」「はい・・・」「そこはお客さんの顔を見て察しないといけないのさァ」「・・・」美恵子は素直に反省をしていたが、同時に胸の中に別の感情が湧き上がってきた。それは前夫への不満だった。前夫は善通寺に赴任して以降、門前で暮らすことに感激して、「ワシも坊主だ」と5厘刈りで通していた。
「でも、反省のために坊主にするのはおかしいさァ。反省は態度で示さなければ嘘さァ」「何?これだけ言っても判らんねェ」一転した店主の顔を見て美恵子は後悔したが後の祭りだ。店主は経営者としてだけでなく理容師の先輩としての助言のつもりだったのだ。
「そんな態度なら言わせてもらうが、アンタは二言目には東京では、本土ではと言うがここは沖縄さァ。そんなに本土が自慢ならナイチャアの旦那と一緒に本土へ帰れば良いんだ」店主の言葉は美恵子の胸を深くえぐった。そのナイチャアの夫は若い娘と同棲して家には帰ってこない。今夜もスナックで酔った客の相手をした後、家に帰れば1人で狂おしい孤独な時間を過ごさなければならない。
「すみませんでした・・・」急にうつむいて美恵子は謝罪の言葉を口にした。下を向いた顔からは水滴が落ちている。その水滴は店主の怒りを消す冷水になった。
「ごめん、言い過ぎたさァ・・・」「いいえ、すみませんでした・・・」美恵子は謝罪の言葉を繰り返すと両眼から大粒の涙を流し始めた。
「美恵ちゃん・・・」店主はそっと近づくと震える美恵子の肩に腕を掛け、ためらいがちに抱き締めた。
- 2016/02/17(水) 09:11:17|
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昭和46(1971)年の明日2月17日に日本共産党革命左派神奈川県委員会の活動家が栃木県真岡市の銃砲店を襲撃し、猟銃10丁、空気銃1丁、散弾約2300発を奪う事件が発生しました。
日本共産党革命左派と言うのは政党の日本共産党との直接的な関係は薄く、「反米愛国」を掲げながら毛沢東思想に基づく武力革命を日本でも実現し、マルクス・レーニン主義国家を樹立しようと言う過激派団体であり、赤いヘルメットに白い星を描いていました。
組織としては京浜工業地帯の日本共産党傘下の労働組合を主体として結成されたものの中国における文化大革命の評価を巡って路線対立が起こり、除名された親中派が学生運動の活動家と合流したことで闘争方法が過激になり、やがて横浜国立大学や東京水産大学を拠点とするようになったのです。このため参加者の中にも政党である日本共産党の分派であると信じている者が多く、政党側にとってはこの組織が起こす事件がかなりのイメージダウンになっていたこともあり、現在では京浜安保共闘の別称で呼ぶことが定着しています。
事件は逮捕された最高リーダーを護送車から略奪するために武器を奪おうと前年の12月18日に東京都板橋区の警視庁上赤塚派出所を3名で襲撃しながら警察官に拳銃で応戦されて1名が死亡、2名が重傷を負って逮捕された失敗により、焦燥感と復讐心を強めていたことが背景にあります(この時の武器はナイフと千枚通し、金属パイプだった)。
この日の深夜2時半頃、電報配達を装って勝手口を叩き、家族の1人が戸を開けると活動家3名が乱入して家族4人を縛り上げ、前述の銃器を奪ったのです。
活動家たちは予想以上に大量の銃器を手に入れたことで使用目的をリーダーの略奪から武力革命の実行に変更しました。
その頃、日本の革命勢力は60年反安保闘争で日米安全保障条約改定を阻止できなかった失敗から(岸信介内閣は退陣に追い込んだが)、1970年の自動更新に向けて学園闘争を過激化させていましたが佐藤栄作内閣の巧妙な世論操作によって孤立化していたため、日本共産党革命左派は主要なリーダーがよど号ハイジャック事件などで国外逃亡して弱体化した赤軍派と合流して連合赤軍を結成しており、武力革命を実行するための軍事訓練を開始したのです。
場所は人家から離れた山岳地帯が選ばれましたが、日本国内では人跡未踏の深山幽谷は存在せず、目撃されて移動することが繰り返され、その心身の疲労が活動家たちを追い詰めていきました。
日本共産党革命左派は女性解放を活動方針に掲げていたため女性の参加者が多く、男性のリーダーは「女性のために戦っている男性への奉仕」を要求し、肉体関係を含む絶対服従を強要していました。このため全員が追い詰められていく中で男性リーダーの森恒夫、女性リーダーである永田洋子の独断と偏見で総括と呼ぶリンチが加えられることになりました。
それが日本中を震撼させた山岳ベースでのリンチ殺人事件ですが、犠牲者は男性8人、女性4人で、死因は厳寒期の山岳地帯で裸同然の格好で屋外に縛られたことによる餓死・凍死が9人、首を絞めた窒息死が2名、そして暴行による内臓破裂が1名ですが、女性1名は妊娠8カ月でした。
ちなみにリーダーの永田洋子と森恒夫が妙義山で逮捕されたのは昭和47(1972)年の同じく2月17日で、逃れた参加者が浅間山荘事件を起こしたのです。
奴らが言う一連の革命闘争の発端はこの事件でした。それにしてもこの程度の武器と人数で警察や治安出動した自衛隊と戦えると考えたことが信じられません。日本人を文化大革命に狂奔した中国人と同じだと思っていたのでしょうか?
- 2016/02/16(火) 09:55:36|
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「一緒の同期は中隊が違うのか知らないなァ」「でも向こうは私たちを知ってたよ」幹部候補生学校では男子は数百人だが女子は十数人だったので当然と言えば当然だろう。
「みんな貴方と結婚したのは前川原の時からできていたのかって訊くんだよ」「そんな噂があったのかァ?」「噂は本人抜きで流すから判らないねェ」前川原では卒業パーティーの夜まで清廉潔白だったが、佳織ファンの男子学生から見ればそれでも私は許せない子持ち男だったのかも知れない。
「まあ、結果を見ればそうかもな」「うん、エピローグだね」そんな話をして酒を飲み終え、私たちは布団に入った。その前に子供たちの布団を直し、ついでに寝息を確かめ、あとは・・・。
AOCでは課題論文を作成し、それを討議するのも主要な教育内容だった。本来であれば同一職種の幹部自衛官の思想統一を図り、全国各地の部隊の指揮・統率に齟齬が生じないようにすることも目的なのだが、佳織だけは少し違っている。
その日は「通信部隊の精強化のために必要な隊員練成の具体的方策」と言う課題を巡って討論が行われていた。
「やはり最新の器材の使用が可能なように実際の配備を待つことなく中央に集めて事前教育を行うべきだ」「その教育に必要な時間を確保するため昔臭い訓練は整理しなければならない」最新の器材の勉強にアメリカへ行っていた学生長が取り仕切る討論はこの方向に決しかかった。そこでモリヤ佳織2尉が発言した。
「私はそうは思いません」「えッ?」思いがけない佳織の強い口調に男性陣は一瞬たじろぎ、その後、誰が考えても常識であるこの意見の何が問題なのかが判らず顔を見合わせた。
「部隊で練成すべきは自衛隊通信の基本であるモールスと非算術です」「また古臭いことを」「守山ではまだそんな時代遅れなことをやっているのか」佳織の意見を聞き他の学生たちは呆れて嘲笑し始める。それにたじろぐことなく佳織は発言を続けた。
「阪神大震災の時、中部方面隊総監部の通信機材の多くは破損し、電源も確保できず、通信が通じんに陥ったのです」「・・・」「その指揮・報告不能状態を回復させたのは我々のモールスと非算術でした」「・・・」「戦争になれば駐屯地や発電所が破壊されることは前提条件であり、高価な最新機材などは使えない置き物と化すでしょう」「・・・」佳織の経験に基づく正論に誰も反論できず、独演会になっていた。
「伊藤ちゃん、随分と旦那に染められてるな。危ないぞ」「幹部なら最新機材の導入を推進して予算を獲得することを考えなくちゃ」「アイツは日露戦争の立派な軍人さんみたいだろう。つまり前世紀的遺物なんだよ」討論を終えて前川原の同期たちが声を掛けてきた。
「何言ってんねん。ウチは旦那と共鳴し合ってるんや。予算なんて汚い話はせんとって」佳織は興奮すると関西弁になる。結局、同期たちは幹部自衛官を官僚化させる自衛隊の常識に染められているのだと思い溜め息をついた。
- 2016/02/16(火) 09:54:10|
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明治34(1901)年の明日3月16日は坂本龍馬の盟友である長府支藩の藩士・三吉慎蔵の命日です。満70歳になる半年前でしたから古希と20世紀を祝った後の死去だったのでしょう。
三吉さんは龍馬の護衛としてドラマに登場し、昭和43年の大河ドラマ「竜馬がゆく」では大木正司さん、昭和49年の「勝海舟」では宮崎和命さん、そして平成22年の「龍馬伝」では筧利夫さん、平成23年の「Jin・仁」では平畑啓史さんが演じていました。
ただし、幕末ドラマとしては出色の名作である「Jin・仁」では京に向かう坂本の護衛として三吉さん以外にも佐藤隆太さんが演じた兄を坂本に討たれた遺恨を抱く東修介がついていて、三吉さんは坂本と東の再会の場面で槍を持って立っているだけでした。
実際、三吉さんは長府支藩の剣術師範の家に生まれ、6歳で父親の同輩である田辺家の養子になって支藩の藩校に入り、8歳で武芸を本格的に学び始め、18歳で萩の毛利藩の藩校に入って宝蔵院流の槍術を極め、24歳で免許皆伝を受けているのです。
こうした武芸と人格を認められて26歳の時、長府支藩では格上の三吉家に再度、養子に入ったのですが、新たな養父の名前が「十蔵」であることを考えると「慎蔵」はこの時からの名前でしょう。
三吉さんは支藩の藩主の傍近くに仕えるようになって馬関海峡で西洋艦船を砲撃する暴挙が起こると軍備や兵制、戦闘の責任者を命じられ、そんな折に稀代の武器商人・坂本龍馬の知遇を得て、京での情報収集を命ぜられたことで護衛を兼ねて同行することになりました。
当時の毛利藩は全国で唯一、西洋艦船に砲撃を加えたことで公家や攘夷派の過激分子からは賞賛されていたものの責任ある立場の常識人たちからは危険視されており、さらに天皇を毛利領内に拉致する計画の発覚により朝廷と京から追放された8月の政変やそれを逆恨みして御所に発砲した禁門の変などで窮地に落ち込まれていたのですが、坂本は自分の商社・亀山社中が仲介して巨利を得る形で南北戦争の終結で大量に余っていた近代兵器と断薬を島津藩名義で毛利藩に売り渡す謀略を巡らしており、それが薩長同盟として実現したのです。
この秘密同盟を察知した伏見奉行所が坂本のアジトである伏見・寺田屋へ踏み込むと三吉さんは槍で立ち向かい、坂本も毛利藩士・高杉晋作から譲り受けた拳銃を発砲し、手傷をおいながらも逃亡に成功しました。三吉さんは重傷を負った坂本を材木置場の小屋に隠すと薩摩藩邸に走り、西郷吉之助さんの助けを乞い救出させたのです。
この時の模様は坂本龍馬を描いた小説、ドラマの名場面の1つですが三吉さんが明治になって著わした日記が出典・根拠になっているようです。
坂本の没後は預かっていた妾(妻?)を高知に送り届けていますが、その妾は亭主の実家に馴染めず、江戸へ出て再婚しました。
野僧は山口県に住んで内側から幕末史を研究しますが、幕府が日本国を代表して国際条理に基づいて外交に当たっていたのに対して、吉田松陰以下の毛利藩士たちが極めて偏った情報を鵜呑みにして低レベルな私怨と野望で天下を覆した事実に愕然とし、77年にしてこの国を滅ぼした大罪が許し難くなっています。
その最大の元凶は滅びるべき毛利藩に大量の近代兵器を売り渡した坂本龍馬であることは間違いなく、その意味では寺田屋で坂本を守った三吉さんは生真面目さ故に大罪の共犯者になったのです。誰か坂本龍馬を腹黒い武器商人として描く時代小説を書かないかなァ・・・。
- 2016/02/15(月) 09:13:47|
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山下公園の芝生の上で子供たちが遊んでいるのを眺めながら私と佳織は話をした。
「志織のオムツを取ろうと努力しているけど昼間は託児所だから無理も言えなくてねェ」「もう、そんな時期かァ」志織も1歳半になり日に日に成長して驚きと感動の連続である。それを佳織と一緒に楽しめないことが少し残念だった。
「でも、1カ月でもアンヨがシッカリしていてビックリしたよ」そう言いながら淳之介の後を追い掛けている志織の姿を2人で眺めた。
「ここなら芝生だから転んでも安全だけど女の子だから傷が残るとミニスカートがはけなくなるから気をつけないとね」私の言葉に佳織は感心したようにうなずいた。守山駐屯地の小幡北山官舎は名古屋市でも外れにあるため近所の緑化公園にも芝生はあるが、舗装道路で転べば膝が傷ついて跡が残り、大人になってミニスカートをはくのが心配になる。
「やっぱり志織も淳ちゃんに続いて貴方の手作りになっていくみたい・・・」私の過剰な親心に佳織は少し寂しそうな目で私の顔を見つめた。母子家庭で育った佳織は家族を思う気持ちはあってもその具体的な着意を知らない点がある。それを私が補っているのだ。
「そんなことないよ。君がいないと家の車輪が欠けてしまって3輪走行状態だ」私の言葉に佳織は安心したようにうなずいた後、目を閉じ私はそっと唇を重ねた。幸いここには外国人や若いカップルが多く、あちらこちらでキスをしているため違和感はなかった。
夜、横浜市内のホテルの部屋で子供たちを寝かせた後、持ち込んだ酒を飲んだ。やはり話題は私からは「家庭」、佳織からはAOCの「課程」の様子だった。
「今回、誰か同期がいるかい?」「流石にもう殆どいないね」「そうかァ、でも学生長じゃあないだろ」「うん、新型機材の導入でアメリカへ留学していた防大出の1尉がやってるけど危なかったよ」つまり特殊事情で入校が遅れたため学生長になったようだ。
「と言うことは俺なんか当選確実かなァ」「富士学校は人数が多いからどうやろね」確かに富士学校は普通科だけに人数が多くAOCも順番待ちらしい。私が前川原から入校した時には中隊長役のAOCの学生の指揮を受け、普通科教導連隊の隊員たちを使って小隊長の実技を演練したことがあった。あの時の人数も我々よりは少なかったように思う。
「AOCじゃあ毎晩飲むって言うだろう。誘われないのか?」「始めは誘われたけど私が子持ちって分かったら流石に遠慮してるわァ」人妻なら誘うが子連れでは興醒めと言うことだろうか。
ここで1本目の缶水割りが空になり、少し酔った頭では美恵子と一緒だった富士学校を思い出さずにすんでよかった。2人で2本目を開け乾杯をやり直した。
「ふーん、それじゃあ、楽しみも半減だな」「貴方と飲むのが一番安心だよ」昔なら「××も酔わせて」とフザケルところだが、子持ちともなるとそんな気分にはならない。ただ折角、子供たちがくれた束の間の2人の時間を味わいたかった。

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- 2016/02/15(月) 09:12:36|
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6月に入り梅雨時の演習は大変だったが合間を見て横浜へ行った。
「あッ、お母さんだ」「マミィ」新幹線が停車すると佳織がホームで待っているのが見えた。
車内から佳織を見つけて子供たちは歓声を上げ、下車する客の後ろについて降りると淳之介は駆け寄り、志織を抱いて私が後に続く。本当は真っ先に駆け寄って抱き締めたかったのだが志織とカバンで両手がふさがっていてはそうもいかない。
「淳ちゃん」佳織はしゃがむと先ず淳之介の顔を見て頭を撫で、続いて私の腕から降りた志織に同様のことをする。その後は私のはずだがパスされてしまった。
「元気そうだね」「うん、貴方のおかげだよ」「父子家庭には熟練してるからな」私は佳織の充実した顔を見て前川原の頃を思い出していた。
「お母さん、今日はどこへ行くの?」「横浜市内の観光だよ」淳之介の質問に佳織は微笑んで答え、淳之介も嬉しそうに私と佳織に抱かれた志織を見た。
「だったら中華街からかな」「ううん、あそこは昼にしよう」「そうか、昼飯かァ」坊主の端くれの私としては外人墓地を見たかったが子供たちと一緒では駄目だろう。とりあえず横浜を熟知している佳織のプランに任せた。
「先ずは山下公園へ行ってマリン・タワーに上ろう」「ゲッ」「やったァ」佳織の提案に高所恐怖症の私は絶句したが子供たちは大喜びをする。「親の心子知らず」と言うのはこのことだろうか。私がレンジャーや空挺にいけないのはこれも理由だった。
どちらかと言えば氷川丸の方が好かったが佳織も子供向けのコースを考えてきたようだ。
「貴方、何をブツブツ呟いてるの?」マリン・タワーの上で佳織が訊いてきた。実はさっきから私は恐怖心を忘れるため航空自衛隊歌を口ずさんでいるのだ。そこで私は自分のボリュームを上げた。
「光る山 輝く海に 燃ゆる憧れ 若き血よ・・・」「何や?それ」「備え厳たり 航空自衛隊」「やっぱり航空自衛隊歌かァ、変なの」「ヘンナノォ」志織まで私の腕で同じ台詞を言う。
「空に近づくと昔の血が騒ぐんだよ」「そうかァ・・・そうだったね」私の迷言に佳織は高所恐怖症を誤魔化していることに気づいてうなずいた。
「Off We go into the wild Blue yonder」突然、佳織が英語の歌を唄い始めた。これは嘉手納の空軍の連中から習ったことのある「The Air Force Song」だった。
「Climbing high into the sun.」私も知っていれば当然、デュエットになる。
「We live in fame, Or go down in flame.」この歌はここで一息ついて一気に唄い切る。それもピッタリ合った。
「Hey! Nothing‐ll stop the U.S.Air Force」唄い終って顔を見ると佳織は別れた父親を思い出したのか少し沈んだ顔をしていた。
その時、展望台内を縦横無尽に歩き回っている淳之介を志織が羨ましそうにしたので佳織が受け取ってガラスに近づいた。私は2メートル手前までだった。
- 2016/02/14(日) 08:41:18|
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1945年の本日2月13日に戦争犯罪の常習犯=連合軍が実施した凶悪行為の1つであるドイツ中部の古都・ドレスデンへの無差別空襲が始まりました。
イギリス空軍は植民地で従属しない敵対勢力の拠点を爆撃して抗戦意欲を喪失させることを創設の目的にしていたため、武力紛争関係法の文民保護の原則などは度外視してドイツ国民を大量に殺傷することに生まれついての悪しき血を沸き立たせていたのは間違いありません。
実際、イギリス空軍大臣であったチャールズ・ポータルは「ドイツ中央部の都市への大規模な空襲によりソ連軍が迫る東部方面からの避難民を混乱させ、西から迎撃に向かうドイツ軍を牽制することができる」と都市空爆の必要性を認めなかったチャーチル首相に抗弁し、当時から殺戮者と呼ばれていたアーサー・ハリス空軍爆撃軍団司令官に作戦の立案と実施を命じました。
目標としてはベルリン、ドレスデン、ライプツィヒ、ケムニッツの主要都市の中から作戦実施予定日の天候が良好な場所を選ぶこととしました。野僧は現在、昭和20年8月7日にアメリカ軍が行った豊川海軍工廠の空襲報告書を翻訳していますが、この時の第1目標は豊川、第2目標は横須賀海軍技術工廠でしたが、豊川の方に晴天の予報が出ていたため実施され、2500名以上が犠牲になったのです。ちなみに横須賀はそのまま8月15日を迎えています。また小倉に落とすはずのプルトニウム爆弾も天候不良のため逃げる途中の長崎で捨てたのですから天気予報も馬鹿にできません。
この日の空襲は過去2回の爆撃で十分な損害が出ていないことを踏まえ念入りでした。先ずは22時頃からイギリス軍のランカスター重爆撃機796機とモスキート軽爆撃機9機が爆弾の雨を降らせて古都の石・レンガ積みの街並みの屋根を破壊したのです。同様の空襲は日付が変わった明け方まで繰り返されました。
空襲が終って市民が家に戻り、破壊された家屋の片づけを始めていた14日の昼過ぎにアメリカ軍のB-17重爆撃機が空襲を再開して今度は焼夷弾を大量にばら蒔き、屋根を破壊されていた家屋を内部から延焼させた後、非難する市民の上に爆弾を降らせたのです。さらに多数のP-51戦闘機が低空から機銃掃射を浴びせ、逃げ惑う市民を大量殺戮しました。そして仕上げに15日にも被災者を捜索・救助している消防隊員を狙って爆撃と機銃掃射を加えたのです。
この空襲により、13世紀初頭から地方君主の宮廷都市として歴史を刻んできた貴重な建造物の85パーセントが破壊され、親英米派団体の推計で2万5千人、反戦団体は15万人の市民が犠牲になったと言っています。
余談ながら「アルプスの少女ハイジ」で描かれたフランクフルトの美しい街並みも空襲によって灰燼に帰し、古い建物はほとんど残っていないそうです。
武力紛争関係法を順守しながら日本への空襲を指揮していたヘイウッド・ハンセル少将に代わった悪鬼・カーチス・ルメイはこの時のアメリカ軍による空襲を指揮しており、その経験を強化して陸海軍以上の戦果(=日本人の大量殺戮)をあげて空軍として独立するための作戦を実施しました。
この機会に補足すると現代の日本人は「空母からの初空襲を除けばサイパン島が陥落するまで本土空襲はなかった」と思っていますが、実際は中国大陸からB-29によって九州・八幡製鉄所などが空襲されています。また「京都や奈良は古都だから空襲されなかった」と言うのも誤解で、京都は最後まで原爆の実験目標だったのです。
やはり戦争は勝ったことが正義なのでしょう。
- 2016/02/13(土) 09:05:23|
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「日本人は先祖代々、はるか昔から死んだ人を弔って来た」これには全員がうなずいた。
「それで色々なやり方を試し、ああやったら幽霊になって現れた。こうやったら家で不幸が続いた。何て実験しながら佛教でやったら上手くいったって訳だ」「ふーん」この返事は半信半疑だ。そこで豆知識を挟むことにする。
「佛教の葬式でも禅宗と念佛の宗派では形式が違うのは知ってるな」「・・・」「何だ。自分の家の葬式にも出たことがないのか」「はい」意外に大勢の隊員がうなずく。これが核家族の時代に育った若者たちなのだろう。
「禅宗の葬式は坊主の得度、出家の儀式を踏襲している。つまり『死なば佛』ならぬ『死ねば坊主』ってことだ。それで肉体を捨てた魂なら悟りを開いて佛になれるから成佛なんだよ」「へーッ」愛知県は曹洞宗王国と呼ばれているだけに半数の隊員がうなずいた。
「念佛の宗派では先ず阿弥陀さんをお招きして死んだ人を引き合わせる。それで西方浄土へ連れてってくれとお願いする。だから往生なんだね」「ホーッ」日本人の3分の1は浄土真宗の門徒なので過半数の隊員はこちらでうなずいた。そこで1人の1曹が手を挙げた。
「この機会に正式なお焼香の仕方を教えて下さい」「宗派は?」「浄土真宗です」すると別の隊員も次々と手を挙げて「ついでに曹洞宗も」「真言宗もお願いします」「日蓮宗もお忘れなく」とリクエストしてくる。これで下調べしてきた知識が役に立つことになった。
「先ずはリクエストがあった浄土真宗だが、回数は本願寺派が1回、大谷派は2回だけど、そのまま香炭に焚けばいいそうだ」口で説明しながら動作を展示して見せた。
「次に曹洞宗だが、こちらは2回でも1度目は額の前でいただいてから焚き、2度目はそれを追いかけるように焚く」これも展示すると数名の隊員が真似をした。
「真言宗は『佛法僧の三宝に』とも『過去現在未来の三世に』とも言うが兎に角、3回、額にいただいてから焚く」これには先ほどリクエストした隊員だけが真似をした。
「そして日蓮宗は1回か3回、そのまま焚く」「1回か3回はどうやって決めるんですか」「私は宗派が違うから判らん。前の人がやるのを見て決めなさい」「はい」本当は線香の立て方も調べてきたのだが、時間がなくなったので資料として配ることにした。
こうして「家の宗派を大切に守りましょう=変な宗教に勧誘されないように」と言う趣旨の信仰の教育は終わったが、最後にとんでもないことが起こった。
私が隊員たちを起立させて演台から歩み寄り連隊長に「教育、終わります」と報告すると、連隊長は隣りの席から立ち上がった人物に「終わります」と声を掛けたのだ。陸上自衛隊のOD色の作業服の階級章は遠目では識別できないが、この様子では1佐の連隊長よりも上位の高官らしい。
「うん、面白かった。御苦労」直立不動でいる私に声を掛けたその人物は10師団幕僚長だった。連隊長は駐屯地の所在部隊長会同で「オウム対策」が話題になった時、私の教育の話をしたらしい。
「事前に話せば隊員が緊張するから」と言う連隊長ならではの配慮だったようだ。
- 2016/02/13(土) 09:04:04|
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明治36(1903)年の明日2月13日は幕末に活躍した幕臣の中で「舟」がつく号を持っていた3人=幕末三舟の中では1番知名度が低いであろう高橋泥舟さんの命日です。
幕末三舟と言えばやはり軍艦奉行並み(=と言う役職でした)の勝海舟さんでしょう。それに続くのは無刀流を始めた剣豪にして谷中・全生庵を開いた禅者であり、薩長土肥の反乱軍に制圧されていた駿府で西郷南洲と面談して江戸無血開城への道筋をつけた山岡鉄舟さんですが、もう1人となると歴史好きの野僧でも高校時代には「誰だっけ?」でした。
高橋さんは天保6(1835)年に幕臣でも槍術の名門である山岡家の次男として生まれました。こうなれば当然のように槍術の修業に励み、すでに武芸者としての名声を得ていた6歳年上の兄からも「神業に達した」と評されるほどになったのです。しかし、当時の幕臣の家では次男を部屋棲み(当主に何かがあった時の補欠要員)にする余裕はなく、母親の実家である高橋家に養子に出されました。ところが家督を継いだ兄が安政2(1855)年6月30日に27歳の若さで急逝したため、山岡家に残っていた妹に婿養子を迎えなければならなくなり、それで門弟の中で最も信頼を得ていた小野鉄太郎に決まり、後の山岡鉄舟になったのです。
つまり山岡鉄舟さんは高橋泥舟さんから見れば妹婿であり、義理の弟と言うことになります。
兄が亡くなると高橋さんは槍術の腕を見込まれて主に幕臣の子弟を集めて武術を教育訓練するために設立された講武所の教授方に抜擢され、着実に頭角を現していきます。
そして若き将軍・徳川家茂公の上洛に先立って入京した将軍後見職・一橋慶喜公に随行しました。当時の京では毛利藩士を中心とする尊皇攘夷過激派が跋扈しており、これに対抗するため江戸などから主君を持たない浪士を集めて送り込んでおり、高橋さんはその担当者となりました。
ところが浪士組を差配していた出羽国庄内の郷士・清河八郎は将軍警護を名目にして幕府に資金を出させながら実際は尊皇攘夷派に合流する策謀を巡らしており、これを察知した幕府によって江戸へ戻されますが、高橋さんも連座して江戸で小普請人差控(土木作業員の採用・配置係)と言う閑職に左遷されてしまったのです。
こうして京都を中心に繰り広げられていた幕末の政変とは無関係に江戸で過ごしていた高橋さんも武芸者としての腕を無駄にさせておく訳にはいかなくなった幕府によって講武所を発展させた遊撃隊の頭取に復帰し、表舞台への再登場を待ちました。
しかし、大政奉還した上、鳥羽伏見の戦いで負けて逃げ返った元15代将軍・徳川慶喜には決戦を挑む気力はなく、護衛として傍に仕えた高橋さんは小栗忠順さんなどの主戦派とは逆に上野の東叡山寛永寺での恭順に同意せざるを得なかったようです(高橋さんが恭順を勧めたとする説もある)。
大政奉還したにも関わらず徳川家の根絶やし狙う反乱軍は天皇の許可も得ず勝手に作成した錦の御旗を翻して関東に迫り、江戸無血開城への交渉を行うための道筋を模索していた勝さんは腕が立ち、胆力が座った高橋さんを駿府に送ろうとしたのですが、慶喜公から絶大な信頼を得ていたため傍を離れることができず、代役として鉄舟さんを推薦しました。
ここからは海舟さんと鉄舟さんの2舟の活躍が始まりますが泥舟さんは慶喜公への忠義に徹し、主が世に出ることができないのに自分が栄達を望む訳にはいかないと忘れ去られ、泥の舟として沈んで消えゆく後半生を送ったのです。
幕末三舟と並び評される人材だったのですから、表舞台に立てば大きな仕事を成し遂げたはずですが、消え去ることが武士としての美学だったのでしょう。そこには共感します。
- 2016/02/12(金) 09:51:37|
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「始めに断っておくが、これは宗教の教育ではなく日本人としての信仰の在り方の紹介だから誤解のないように」私は最初に釘を刺した。ここが公的機関の難しいところだ。隊員が実家などで「部隊で宗教教育を受けた」と言えば無用な誤解を招きかねないだろう。
「先ず信仰と言うのは何か?それは大いなるものの存在に畏敬の念を抱く精神活動のことだ」私はホワイトボードに漢字を書きながら説明したが陸士の半分は反応しない。この漢字が読めないのかも知れなかった。
「要するに良いこと悪いことがあったのを単なる偶然と割り切るか、誰かのお陰と思うかの違いだな・・・小林1曹」「はい、小林1曹」ここで元の中隊の小隊先任を指名した。
「貴殿が毎年買っている宝くじが当たらないのは何故だ」「えッ?」小林1曹が毎年宝くじを買っていることは聞いている。隊員たちは一斉に立ち上がった小林1曹に注目した。
「色々な理由が考えられるね。買う店が悪い。出勤していて朝1番で買えないから・・・でも発売日に休暇を取ったよな」ここでようやく笑いが起こった。
「でもやっぱり当たらない。これを確立や偶然だけで片づけられるかね?」「・・・判りません」立っている小林1曹は難しそうな顔で首を振る。
「これを運だと思ったら信仰の始まりだ」「はい、自分は運のない男です」「それは違う。他で運を使ってるんだよ」ここで小林1曹に礼を言って座らせた。
「海外では『最も信仰心が篤いのはギャンブラーだ』と言われている。どうだ!大石2曹」
ここで外出先は中京競馬場、カラオケの十八番は「さらばハイセーコー」の大石2曹を指名した。すると立ち上がりながら妙な要望をしてきた。
「はい、大穴を当てられるお経を教えて下さい」「それは真言宗の坊さんに相談してくれ。禅宗の教えは欲を捨てろだからね」ようやく調子が出てきた。
「でも佛教なんて葬式しかやっていないじゃあないですか」質問を自由にさせていたので、話の途中で疑問の声が入る。こうした質疑応答も興味をつなげるためには有効なのだ。
「確かに葬式佛教と言うが、あれは佛教の日本的改造でもあるんだ」意外な説明に壁際に並んでいる連隊長以下もこちらを注視している。
「要するにインドのお釈迦様の教えと言っても聞く耳を持たない人たちでも、自分の祖父さん、祖母さん、ご先祖さんの話なら耳を貸すだろう」大半の隊員は首をひねった。
「逆に碌でもない糞爺ィ、糞婆ァでも佛教の知識があれば、お説教ができるって訳だ」話は益々難しくなる、これでは睡眠時間に入ってしまうかも知れない。
「もう1つ、葬式佛教の話をすれば日本人の葬式は佛教に限るね」「えッ?」内容は難しくても言い方が断定的なら意表を突けるようで眠りかけていた隊員たちも顔を上げた。
「私は寺の息子ではないから商売の話はしてないぞ・・・最近は坊主のことを『死の商人』とか『葬儀屋の下請け』などと言う奴もいるからな」このような関心をつなぐための余談を落語では「ダレ場」と言うそうだ。
- 2016/02/12(金) 09:50:27|
- 夜の連続小説8
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平成8年(1996)年の明日2月12日は日本最大の歴史作家である司馬遼太郎先生の命日であり、好きだった野の花にちなんで「菜の花忌」になっています(季節感は合わないものの)。
野僧の少年時代は司馬先生と共通する点が多々あり、作家としてだけでなく人間としても敬愛しています。司馬先生は学校の勉強、特に数学が苦手で大阪の上宮中学に入学した時の成績は300人中291番だったそうです。さらに教師の話を聞き流すことができず質問攻めにすることを意図的な授業妨害と決めつけられて叱責されるため、徹底的な学校嫌いになり図書館で乱読=独学するようになりました。これは野僧の中学時代と完全に共通しています。
そんな司馬先生の歴史小説の魅力は膨大な資料を検証した結果の史実を描いていることで、他の作家たちが物語の演出を優先して安易に史実を歪曲しているのとは全く違います。
野僧が「司馬史観」と呼ばれる大局的な歴史の捉え方に共鳴したのは、平岡公威(=三島由紀夫)先生との対談でした。平岡先生が熱っぽく安土城の壮大な城郭を語るのを聞いた後、「その時代に瀬戸内では農民たちが石垣を積んで今も残る千枚田を築いた」と朝廷や武士などの権力者の事績だけが日本史ではないことを伝えたのです。
そんな司馬先生の作品によって発掘されて、現在では幕末の最大の英雄になっているのが坂本竜馬です。漫画家の黒金ヒロシさんは高知市の出身ですが、幼い頃に悪いことをすると大人たちから「竜馬さんが来るぞ」と脅かされたと言います。つまり司馬先生が小説「竜馬がゆく」を発表し、昭和43年にNHKが大河ドラマにするまで地元では危険人物だと思われていたのです。
昭和48年に大河ドラマになった「国盗り物語」でも蝮(まむし)と呼ばれていた斉藤道三に脚光を浴びせ、それまでの主君・土岐氏から領土を奪った成り上がりの謀反人のイメージを払拭し、信長の先導役に転換させています。
ところが後に続く作家たちは司馬先生が世に出した竜馬や道三の人間的な魅力を踏襲するばかりで、独自の見解で検証を加える気概はありません。
司馬先生の最高傑作を司馬先生の最大のベストセラー作品「坂の上の雲」とすることに山口県人を除けば異論はないと思います(山口県では「乃木を愚将にした」として非難されている)。
「まことに小さな国が開花期を迎えようとしている。四国は伊予松山に3人の男がいた。・・・彼らは明治と言う時代人の体質で前をのみ見つめながら歩く。上っていく坂の上の青い天に、一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂を上ってゆくであろう」の冒頭は我々世代以上の男性にとって人生訓にさえなっていました。
ただ司馬先生はバブル真っ盛りの昭和62年に時代小説を執筆することを止め、随筆を書き始めました。おそらく司馬先生は堕ちていく日本人の姿に強い危機感を抱いておられ、小説では主人公を設けなければならず、その人物を通じての世界観に限定されざるを得ないので、より直接的なメッセージを発信する必要=焦燥感を抱いていたのでしょう。
平成3年の「21世紀の日本」委員会で「太平洋戦争を起こした日本と、それで負けて降伏した日本の、あの事態よりももっと深刻な事態なんじゃないかと・・・そこまでの事態だと思うんで・・・日本と言う国がなくなってしまうかもわかりません」と語っておられますが、この深刻な事態の一歩手前で踏みとどまったのは東北地区太平洋沖大震災で日本人の魂を思い出したからかも知れません。
この日、司馬先生は書斎で大量吐血して病院に搬送されました。手術室に向かうベッドの上でみどり夫人に言った「頑張るよ・・・」が絶句だったそうです。72歳でした。
- 2016/02/11(木) 08:44:26|
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