「煙草を吸いたいんだけど」酒を数杯交わしたところで部長がママに声を掛けた。
「銘柄は?」「うん、キャビンだが、洋モクだから在庫はないだろう」「はい、買いに行ってまいりますが自販機にもないので、しばらく席を外します」ママは断りながら岡倉に目で「後を頼みます」と依頼する。部長はママに千円札を手渡した。しかし、部長が愛飲している煙草はマイルドセブンのはずだ。
ママがドアを開けて出ていくと店内には防犯カメラが設置されているため、部長は携帯電話を使う仕草で小型の逆探知機を使い盗聴器の存在を確認した。
「大丈夫です」部長の報告に幕僚長はうなずき、真顔になって話を切り出した。
「岡倉1尉、君の将来を国家に捧げてもらいたい」「はい・・・」岡倉は報告のため部長室に行った時、ついでにように誘われたことから、この席が特別な目的を持っていることを予測していた。今、それが明らかにされるようだ。
先ほどからの雑談も身上把握と適性検査だったことが判る。社長を演じる幕僚長が突然、「岡倉のことだが」と部長に話しかけ、その時、岡倉が表情を変えないことを確認すると部長は「商品開発の岡倉が何か?」と応じていた。
「君の類まれな情報収集、分析能力と即座の状況判断、強固な実行力は組織の枠の中で飼い殺しにするよりも自由な環境下で役立てるべきだと部長とも話しているんだ」「若し、君がCGSを目指して陸上自衛隊での出世を考えているのなら別だが、防大出身ではない君には満足できるような結果はないだろう」第2部に配属されて2年、陸上自衛隊の情報収集の中枢に籍を置いていても、内局の監視下にあって身動きが取れず、側面からマスコミが粗探しにかこつけた妨害を加えてくる実情に不満が鬱積してくるばかりだ。
そんな中、海外の防衛駐在官や調査隊以外の情報が紛れ込んでいることに岡倉は気づいていた。その発信源の1人に自分もなることを命じられている。
「はい、自分も市川雷蔵になりたいものです」岡倉の返事に幕僚長と部長は呆気にとられた後に笑った。岡倉の世代であればスパイ映画のヒーローと言えばジェームズ・ボンドのはずだが、白黒の映画「陸軍中野学校」の主人公・三好(椎名)次朗を演じた市川雷蔵であることが意外だったのだろう。
そこにカウ・ベルが響き、ママが帰ってきた。
「お待たせしました」ママはにこやかにコンビニの袋から煙草を取り出して部長に渡すと、テーブルのグラスの酒が整えられていることを確認してから席に着いた。
「お釣りは」「それはチップで良いよ」「それではあんまり・・・」ママが和服の袖から小銭を取り出そうとするのを部長は制した。
「今時、煙草を吸うのは拙いぞ。アメリカなら管理職失格だな」その様子を見ながら幕僚長は部長をからかうように岡倉の任地を伝えた。
- 2016/03/31(木) 08:50:05|
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ある日、岡倉信一郎1尉は第2部長から飲みに誘われた。陸将補である部長が直近の課長を差し置いて1等陸尉を私的に誘うことは人事上の影響などもあり、極めて異例なことだった。
防衛庁がある檜町駐屯地(当時)は東京の六本木と言う高級歓楽街にあり、内局や陸海空幕僚監部の高官たちの行きつけの店も少なくないのだが、今日の待ち合わせ場所は近郊の閑静な住宅地である青山だ。
「岡倉くん、ここでは大手機械メーカーの上司と部下だからな」「はい、部長」「私の上司に会っても社長だ」「上司ですか・・・?」2部長の上司と言えば幕僚長か幕僚副長、それ以外では長官や政務次官になる。岡倉は困惑しながら部長について高級住宅街の在り来たりなスナックに入った。
「あら、部長さん。今日は若い人も御一緒なんですね」スナックの薄暗い明かりの中、和服を着たママが声を掛けてきた。
「うん、ウチの営業をやってる山村くんだ」部長は紹介するにも偽名を使う。つまり身分は秘匿しなければならないと言うことだ。
「席はカウンターでよろしいですか?」「いや、社長も来られるそうだから・・・」「社長さんもですか?それではボックス席へ」ママは先に立って奥のボックス席に案内した。岡倉は部長の後についていきながら胸の中で「山村、山村」と偽名を暗唱した。
ボックス席に座り、ママが部長のキープ・ボトルと水割りセットを持ってくると間もなくドアのカウ・ベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」ママは水割りの準備を中断して迎えに出る。するとドアの方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「おう、遅くなった」ママについて現れたのは眼鏡をかけて容貌を変えた陸上幕僚長だ。当然のように部長と岡倉は立ち上がって出迎える。
「いいえ、来たばかりです」「おう、山村くんも一緒か」「はい、お邪魔させていただきます」どうやら上司たちの役柄設定は済んでいるらしい。
ボックス席には幕僚長の隣りにママが座り、向い側に部長と岡倉が並んで座った。
「山村くん、君は独身のはずだが、誰か心に決めた相手はいないのか?」「君ほど優秀なハンサムボーイなら選び放題だろう」幕僚長と部長はさりげなく面接試験を始めたようだ。
この質問で岡村の胸には前川原の同期のWAFの顔が過ったが、彼女は妻子持ちの同期に思いを寄せ、紆余曲折の末に結婚している。
「いいえ、僕は不器用なので仕事と家庭の両立ができそうもないのです」「ふーん、今時、珍しい古風な若者だな」面接官である幕僚長と部長は顔を見合せてうなずいた。
「その仕事では将来、何を目指しているんだね」「やはりエリート街道を駆け上るつもりだろう」「それとも仕事を覚えて人脈を作ったらベンチャーで起業するのか」いよいよ本題に入ってきたようだ。岡倉の背中に少し汗がにじんできた。
- 2016/03/30(水) 08:26:49|
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ある日、志織を保育所に迎えに行くと若い保母さんから意外な確認をされた。
「志織ちゃんのお弁当はお父さんが作ってらっしゃるんですか?」「はい、そうですが」最近、佳織は新型機材の導入で忙しく、演習の時以外の家事は私が一手に引き受けている。
「そうなんですかァ。実は今日、弁当はお父さんが作る、お母さんが作るで志織ちゃんと男の子が喧嘩になったんです」「えッ、男の子とですか?」「ユウキ君だよ」私に手を引とかれた志織が下から見上げながら補足説明をした。
「私が見てもハンバーグやサラダは手作りだし、とてもキチンとしてるから志織ちゃんの勘違いかと思いまして・・・」「妻が忙しい時は私の役目なんですよ」私の説明に保母さんは感心したようにうなずいて、「ごめんね」と言いながら志織の頭を撫でた。
保母さんは持たせる荷物を取ってくると先ほどの話の続きをした。
「でも本当に美味しそうで味見したいもんだって保母の間でも評判ですよ」「そうですかァ、それじゃあ今度のお弁当の日には先生の分のオカズを持たせましょう」と答えながら頭の中でカレンダーと演習の予定を照らし合わせた。
「お父さんみたいな旦那さんを見つければ共働きも楽ですよね」「妻の方が優秀だから私が家事で頑張らないと駄目なんです」私の本音も保母さんは「謙遜」と思ったようだ。
「先生、さようなら」「志織ちゃん、さようなら。今日の晩御飯は何かな?」「ポトフです」
志織の代わりに私が答えると保母さんは「すごーい」と感心したように声を上げたが、ポトフは肉ジャガをコンソメ味にするだけなので手抜きのオカズなのだ。ついでに言えばポトフ、肉ジャガとカレーは材料と調理法が同じである。
冬の夕方なので厚着をさせてから自転車の後ろに乗せて帰ると志織が報告を始めた。
「ダディ、ユウキ君がお弁当はお母さんが作るって言ってたよ」「ふーん、ユウキ君のお家はそうなんだね」「でも、レイカちゃんもそうだって」確かに日本ではまだ家事は女性と言うのが一般的なんだろう。しかし、志織が大人になる頃までにウチの家庭のような分業が普通になっていないと妻になる時、困ると思った。
その夜のハンテン・ミーティングでその話をすると佳織は困った顔でうなずいた。
「ウチの共働き夫婦でも家事は妻の仕事って言う家庭が多いわァ。だからWACは半人前扱いになってるんや・・・」「うん、ウチでも本部管理中隊にはWACがいるから分かるよ」陸上自衛隊では肉体的な力が弱い女性は男性の補助に過ぎないと言う発想であり、男性隊員が仕事に集中できるよう家庭を守ることを期待しているようだ。しかし、頭脳労働である通信大隊でもそうだとすれば単に男社会の論理かも知れない。かと言って米軍のように男性隊員が妻と交代で育児休暇を取るようになるのは反発がありそうだ。
「君がトップになって発想そのものを変えないと何ともならないね。モリヤ陸将閣下」私の出した結論に佳織は難しい顔でグラスを飲み干した。

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- 2016/03/29(火) 09:51:47|
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「僕はクリントン政権の全アメリカ支配が完結する前に同志を救い出して反抗する体制を確保しておこうと考えたんだと思うんです」松山3尉の意見はアメリカの新聞などが報じている内容だ。ここで私はネタ元を説明させるための質問をした。
「その見解の出所は何だ?」「タイムズとニューズウィークです」「なるほど。一応、補足しておくがタイムズもニューズウィークもアメリカの雑誌だ。当然、英文で読んだんだろう」「はい」松山3尉の返事に聴衆の隊員たちからどよめきが起こった。私としてはこの機会に世間知らずな言動を馬鹿にされている松山3尉に箔をつけておきたかったのだ。
「ここでは正否をつけないが、日本とアメリカでは見解が違うことだけは理解しておこう」「はい」「どうしてですか?」私の進行に田島2尉は同意したが松山3尉は反抗する。これを「恩を仇で返す」と言うのだろう。
「まァ、松山3尉がそう言うのならワシから補足するが、クリントン政権は南北アメリカ大陸への影響力を強化しようと好調な経済力を使って色々な手を打っている。それで困るのは逆の立場のキューバだ。今回の事件の背景にそんな両者の思惑を見出しているのがアメリカのマスコミだと言うことだ。これで良いな」「・・・はい」松山3尉も不満そうに同意した。どうも松山3尉は指導役の田島2尉を打倒することを目的にしているようだ。
「次は今後の展開だが、ゲリラに勝ち目はあるかね?」「ないでしょう」「ある訳ないじゃん」ここでは両者の見解は一致する。ただし表現は違った。
「それでは解決までの手順はどうなる?」「日本政府がアメリカの特殊部隊の出動を要請して一挙解決です」指名する前に松山3尉が答えたが、これもアメリカのマスコミが主張している強硬論だ。
「それは無理でしょう。大使館は日本政府に権利がありますが、入国などにはペルー政府の承認が必要です。ここでアメリカ軍を介入させれば反政府ゲリラを利するだけです」思いがけず田島2尉からも深い洞察が披露され、幹部の権威が一気に高まった。
「だったらどうなるんですか?」司会の私を無視して松山3尉が質問する。
「包囲したまま持久戦に持ち込んで、ゲリラの疲労と苛立ちの中に隙を見つけて突入するでしょう」「誰が?」「勿論、ペルー軍だよ」田島2尉も私と松山3尉の間で言葉づかいに困っているようだ。
「自分は休暇中に名古屋のアメリカ領事館の首席公使の公邸を調べてみましたが、高級住宅地の一画なので突入するにも銃器の使用はかなり制約を受けそうです」ここまでくると軍配は田島2尉に上がったが、そこで私が馬鹿な落ちをつけてしまった。
「今回の事件では橋本の奴が『平和的解決の優先』なんて余計な注文をしたからペルー政府は人質は無事にゲリラだけを倒す離れ業を考えなければならなくなった。トンネルでも掘って内側から急襲するしかないな」「橋本って?」「ヒョッとして?」「ポマードの龍太郎だよ」これでは中隊長が政権批判した形になる。私の自民党嫌いは3中隊では知られているが、それが連隊に広まったのは極めてまずい。
- 2016/03/28(月) 09:35:52|
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硫黄島でバロン西こと西竹一中佐が戦死して6日後の昭和20(1945)年の明日3月28日にロサンゼルス・オリンピックの大賞典障害飛越競技で金メダルを受賞した愛馬・ウラヌスが死にました。
西中尉(当時)は騎兵将校として海外の馬術競技会に遠征していましたが、馬の能力の格差を痛感するようになり、オリンピックの2年前、日本では入手できない名馬を探してヨーロッパへ渡ったのです。その時、馬術学校の教官である今村安少佐から誰も乗りこなすことができない暴れ馬の噂を聞き、見に行くと一目で気に入りました。しかし、フランス生まれのアングロノルマン種の巨大な馬は600リラ=当時のレートで2000円(教師の初任給が48円程度だった)と破格であり、陸軍から資金が出なかったため、西中尉が自費で購入しました。
西中尉の乗馬法は馬を従わせるのではなく、馬の勢いを後押ししながら制御するやり方だったため暴れ馬であれば勢いも強く、むしろ願ったり叶ったりだったのです。
その馬は額に白い星型があったため「天王星」を意味するウラヌスと名づけられました。
西中尉は調教も十分に施されていないウラヌスに騎乗してヨーロッパの馬術競技会を転戦しましたが、意外にも好成績を残していますから、西中尉の騎手としての技能とウラヌスの身体能力はずば抜けたものであり、何よりも相性が最高だったのでしょう。
帰国後、ウラヌスは千葉県習志野の騎兵学校に預けられ、西中尉は東京・世田谷の騎兵第1連隊から毎日、調教と練習のために40キロの道のりを通ったと言います(当時の列車の速度や道路事情を考えれば大変な負担だったことは想像に難くありません)。
ウラヌスは体高(=肩までの高さ)が181センチもありましたが(サラブレットのハイセイコーでも171センチ)、西中尉も身長は175センチあり、体重は70キロでした(野僧と同じ体格ですが当時の日本人としては偉丈夫でしょう)。何よりも足が長く脚力がずば抜けて強いため、鞍に座って馬体を太股で挟むと簡単には姿勢を崩すことはなかったそうです。
そうして手綱を短めに持って馬の頭を進行方向に向けて突進させるのですが、これでは障害を飛び越した衝撃・反動で落馬してしまうところを微動だにしなかっと言います。
ロサンゼルス・オリンピックの大賞典障害飛越のコースは過去や他に例がない程の難コースで、12組の出走者の中、完走できたのは5組だけでした。
流石のウラヌスも刺が出た枝で作った障害には躊躇し、手前で立ち止まってしまったのですが、西中尉が少し引き返して首を向けると素直に従って敢然と飛び越したのです。
この時の160センチの大障害を飛び越える時、ウラヌスが自分から身体を捻ったことは人馬一体を体現したと賞賛され、優勝後のインタビューで西中尉が「We Won(我々はやった)」と述べたことも併せて世界を駆け巡りました。ただし、西中尉は自分とウラヌスの意味で「We」と言ったのですが、日本では「我が大日本帝国は」と解釈されたようです。
騎兵の時代が終わりを告げると、西大尉も無粋な機械=戦車に乗り換えざるを得なくなりました。
ウラヌスは東京都世田谷区上用賀にある馬事公苑で余生を送っていましたが、硫黄島に赴任する前、西中佐が別れを告げに立ち寄ると気配を察して出迎え、顔をすり寄せて別れを惜しんでいたと言われます。この時、西中佐はウラヌスのたてがみを切って携行しました。
そして西中佐が戦死して6日目の今日、飼い主に殉じるように病死したのです。遺骸は空襲によって墓標や資料が破壊・散逸したため、埋葬地さえも不明になっています。
- 2016/03/27(日) 08:43:13|
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「中隊長、小隊長たちとペルー事件の討論会をやられるそうですね」田島2尉の後段休暇が終わる前日、命令を持ってきた先任陸曹が訊いた。
「ほう、耳が早いね。幹部だけの秘密事項だったんだが」「はい、松山3尉が渡辺曹長に何か資料はないかと相談に来まして、使用目的を訊いたら白状しました」渡辺曹長は中隊の訓練係だ。相談する相手の選択としては悪くないが秘密保全上の問題はある。
「どうでしょう。時事問題の教育として隊員たちにも聞かせては?」「へッ?ワシも参戦して楽しむつもりだったのに」「まァ、中隊長は統裁官と言うことになりますが」「・・・そうしよう」「それでは準備を渡辺曹長に言っておきます」先任陸曹は妙に安心した顔で退室したが、性格から見てこれは渡辺曹長の発案を代弁したようだ。問題は休暇中に準備している田島2尉の研究の完成度だが、おそらく心配はないと思う。
「3中隊ではペルー事件の公開討論会をやるそうだね」今度は連隊3科で運用訓練幹部から声を掛けられた。
「さっき渡辺曹長が自慢して帰ったんだよ」「はァ、両小隊長に冬休みの宿題を出しただけで、その発表会が大袈裟なことになりました」この口コミ体質が陸上自衛隊の情報の共有と漏洩をもたらしているのだろう。
「若手幹部の見識を確認する好い機会だ。3科からも見学に行くぞ」「はい・・・解りました」マスマス拙い事態になった。私は休暇中の田島2尉に電話で注意喚起することにしたが、前日の午後では手遅れかも知れない。
公開討論会は田島2尉の休暇が明けて2日目に行われた。場所は連隊の大教場になり、3科からだけでなく連隊所属の幹部たちまで聴衆になっている。
田島2尉と松山3尉とは事前に内容の確認と討論の予行演習を行っているが(この辺りは私もかなり陸上自衛隊に染まっている)、スナックのカラオケのつもりがステージでのリサイタルになったようで歌手たちの舞台度胸が心配なる。
「それでは始めます」観客に3科長がいるので一応は報告をしてコの字型に机を並べた席についた。机の上には用意した資料が並べ対面している両者は、別に勝敗を決する討論ではないのだが妙に気合が入っている。
「先ずは事件が起きた原因についての見解を聞いてみよう。田島2尉からどうぞ」本当は気楽に言いたいことを言い合う座談会にしたかったのだが、気がつけば私が司会者になっている。せめて一杯、酒でも飲んでから始めたいものだ。
「はい、自分はやはりフジモリ大統領の強硬な鎮圧で追い詰められた反政府ゲリラが最大の支援者である日本に矛先を向けたのだと考えます」「なるほど、それに対して松山3尉はどうだね」昨日の概略説明では意外に面白い研究をしており、日頃のバカ田大学が名門・W稲田大学を実感させる内容だった。
- 2016/03/27(日) 08:41:50|
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1968年の明日3月27日に宇宙船・ボストーク1号により初めて大気圏外=宇宙を飛行して帰還した人類であるユーリィ・ガガーリン大佐が航空機事故で死亡しました。34歳でした。
ガガーリン中尉(発射時・飛行中に少佐へ特別昇級している)がボストーク1号で宇宙へ旅立ったのは野僧が生まれる直前の1961年4月12日のことなので物心ついた頃には世界的英雄になっており、宇宙飛行士と言えばアメリカのライトスタッフを差し置いてユーリィ・ガガーリンでした。この図式はアメリカが月面着陸に成功してアームストロング船長とオルドリン飛行士が脚光を浴びるまで変わりませんでした。
ガガーリン大佐の伝記は、宇宙開発に於いてアメリカよりも優位に立っていることを誇示するのに利用したソ連政府=共産党によって手を加えられているため真実は判らないのですが、1934年3月9日にモスクワの西でベラルーシとの中間に位置するグジャーツク市(現在はガガーリン市に名前を変えている)郊外で生まれたのは間違いないようです。
ただ「労働者階級出身」と言うことを強調するため本当は腕が立つ大工(=ある程度の富裕層)の3男であるにも関わらず集団農場の農夫の息子にされていました。
7歳の時、スターリンの野望に気づいたヒトラーのナチス・ドイツがソ連へ侵攻を開始するとガガーリン一家も巻き込まれ、兄2人はドイツ軍に拘束され、ポーランドへ連行されています。
その頃、ガガーリン大佐は小学校の低学年でしたが、数学の教師が義勇パイロットとして従軍したことに感動し、自分の夢とするようになったと言われています。
修学を終えると金属工場に就職しますが、やがて夢を実現するため21歳で空軍士官学校へ入校しました。こうしてパイロットとしての腕を磨いている頃、ソ連では宇宙開発が本格化し、アメリカに先んじるため十分な実験も行われないまま有人飛行へ進もうとしていました。
そしてガガーリン中尉も宇宙飛行士候補者に選ばれたのですが、その理由は身長158センチの短躯であったことだと言われています。何故なら当時のソ連のロケットは有人宇宙船を打ち上げるには出力が不十分で、極めて小型であったため乗員も小柄である必要があったからです。
その意味ではボストーク6号で女性のワレンチナ・ヴラディミヴナ・テレシコワさんを試したのも同様の理由だったのかも知れません(テレシコワさんが宇宙でパニックを起こしたため他の女性宇宙飛行士は使わなかった)。
また、2号のゲルマン・ステパノヴッチ・チトフ中尉(後の大将)よりも先にガガーリン中尉が選ばれたのは、顔立ちが整っていて宣伝向きであったためだと言われています。
なお、ガガーリン少佐の名言として日本で紹介されている「地球は青かった」は誤訳に近く、命日のモスクワ放送の番組によれば実際は「青味がかったベールに包まれていた」だったようです。
もう1つ、世界的に有名な「宇宙にカミはいなかった」もロシア正教の総主教とフルシチョフが登場するロシアン・ジョークの摘み食いのようです(総主教に「宇宙ではカミに会わなかった」と言ってたしなめられため、フリシチョフに「カミに会った」と言ってたしなめられる)。
この日の事故は世界的英雄としての宣伝活動が一段落したところで大佐の階級に見合う空軍の部隊指揮官としての能力を練成するため飛行訓練を受けている中で起きました。
練習機仕様の複座式ミグ15に搭乗しての訓練飛行中、何らかの理由で操縦不能に陥り、モスクワ北東に位置するキルジャチ郊外の森林に墜落して死亡したのです。
亡くなったのは1968年だったため、1970年の大阪万博のソ連館では宇宙船を展示した大ホールの壁には巨大な遺影が掲げられていました。
- 2016/03/26(土) 09:54:00|
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新年を迎え、例の課題は後段休暇になった田島2尉の出勤を待っていたが、そんな1月7日にとんでもない事件が起こった。現地に派遣されていたテレビ朝日の取材陣が直接、ゲリラにインタビューしようと突入を試みたのだ。
事件発生から3週間、橋本龍太郎首相から「平和的解決を優先して欲しい」と要求され、何の反応も見せないペルー政府に対しテロリストの苛立ちは高まっており、人質になっているペルー政府高官や各国の大使ほかもかなり疲労しているであろう。そこに海外のマスコミがスクープを狙って踏み込むことは許されざる暴挙と断ずるしかない。
その時の模様をテレビ朝日は夜のニュース番組で実況中継しようとしていたらしく、警官隊に逮捕・連行される広島ホームテレビの人見剛史アナウンサーの姿を放送していた。
「全く許せんなァ」我が家では情報が偏らないようにテレビのニュースは右の東海テレビ(フジ産経系)から左の名古屋テレビ(テレビ朝日系)まで見る。したがってハンテン・ミーティングの席につきながらテレビ朝日のニュースステーションで司会の久米宏が「残念な結果に終わりました」と解説しながら「我々はテロリストの生の声を伝え、事件の本質を明らかにしようとした」と目的を弁明しているのも見ていた。
「要するにこの事件をテロと批判している国際世論を『反政府は正義』『政府は暴君』と言う得意の図式に転換したかったのだろう」「それには系列局の若手アナウンサーは丁度良い鉄砲玉やったんや」佳織が賛成してくれたところでマグカップの熱燗で乾杯した。
「逆に現地取材陣の連中が功を焦って暴走したのかも知れないな」「うん、朝日って妙に帝国陸軍みたいなところがあるから、独断専行はあり得るよ」この佳織の見解は面白い。確かに従軍慰安婦の問題に関する世論操作の手法を見ていると大正デモクラシーを国体護持に反する危険思想として弾圧し、合わせて共産主義者も抹殺したことを思い出させる。つまり功を焦って戦端を開こうとする若手将校が常識的な上司を「弱腰」と侮辱しながら思うように軍を操ったようなものかも知れない。
「ウチの若手将校さんはこのニュースをどう見てるかなァ」突然、松山3尉の根暗そうな顔が浮かんだが、これでは酒が不味くなる。
「それってW稲田を出たって言う2小隊長の・・・」「松山くんだよ」「多分、ニュースなんて見ないでゲームをやってるよ」「そうかね?」「うん、ウチの大卒の新隊員は課業外はコンピュータのゲームばかりで困ってるんや」考えてみれば松山3尉は東京6大学の雄・W稲田大学出身であることを私が中退した愛知大学だけでなく防衛大学校よりも偏差値が高いと誇示しているが、佳織のアメリカの大学は世界の舞台で権威を認められているのだ。その佳織からの個人レッスンを受けている私が引けを取るはずがなかった。
「明日、部隊に行って中日新聞の見解を読んでみないとね」「うん、左翼の落ちこぼれの僻みと嫉妬で批判するだけかも知れないけれどな」何にしても長期戦化することが決まっている事件に妙なハプニングを作ってくれたのは間違いない。
- 2016/03/26(土) 09:52:58|
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1886年の明日3月26日にヨーロッパでは火葬される比率が最も高いイギリスで初の火葬が行われました(刑罰としての火炙りは除く)。
キリスト教では終末の時、死者が復活して最後の審判を受けることになっているため現在でも火葬によって肉体を消滅させることを嫌っていますが、ヨーロッパ諸国でもイギリスだけは70パーセントが火葬されています。
その背景にあったのはペストの流行で、土葬されたペスト患者の遺骸をネズミなどの動物が喰うと菌が媒介され、全ヨーロッパの人口が半減するほどの大流行が繰り返されました。
大陸部にある国であれば住居地域と埋葬地にある程度の距離を確保できますが、島国であり自然環境が厳しいイギリスでは居住できる地域は限定されるため、流行を根絶する手段として火葬が行われるようになったようです。
1874年に科学者や医師、文化人などを中心とするイギリス火葬協会が創設され、「ここに署名せる我等は、現在の死者埋葬慣習を非とし、これに代え生者の感情を損なう事なく、遺体を速やかに本来の構成元素に戻し、全く無害な遺灰を呈すべき方式を要求するものである。将来、より良き方法が見い出される日まで、我等は通称・火葬で知られる方式の採用を要求するものである」との独立宣言を出しましたが、それから10年以上の歳月を要しているのは手続きを重視し、正式な許可を得てから実行するイギリス人気質と言うところでしょう。
現在、日本が先進国では世界最高の火葬率を有していますが(インドなどは不明)、これは思いのほか最近になってからのことです。
佛教では釋尊が入寂された後、荼毘に伏されていることもあり古くから火葬が行われてきましたが、それには大量の木材=経費を必要とするため都市部では皇族や公家、高位の僧侶などに限られており、庶民は遺骸を街から離れた山中や河原に捨てて、街外れに墓標を立てて弔っていました=後には街外れまで行くのが面倒臭くなって佛壇ができた。
地方では土地に不自由しないため土葬が一般的で、むしろ火葬が庶民階層に広まったのは江戸や大阪などの大都市が成立し、山野に遺骸を捨てに行けないようになったものの、土葬するには土地が足らない止むに止まない事情によるものでした(ペストよりは理由が軽い)。
江戸落語「黄金餅」には桐ケ谷(=品川区五反田)の火葬場が登場しますから、この頃には庶民の間でも火葬が行われていたのは間違いないでしょう。
ところが神道では儒教の思想を請け売りしているので、親から授かった身体髪膚を焼却することは「不孝」と断じており、明治以降は火葬を禁止する布告が出されています。しかし、土葬するにも土地がない現実はどうしようもなく、一転して火葬を推進する布告を出し直しました。
現在では専用の土地を必要とする土葬よりも火葬の方が安価になり急速に増加したのですが、「墓地、埋葬等に関する法律」で禁止されていないため、土葬を行う地域は残っています。
日本では窯の扉を開けて棺を押し入れて着火しますが、イギリスでは棺を地下におろして着火するようです。また日本のように遺族が遺骨を拾う習慣がなく、教会の担当者が集骨して届けるのを飲食しながら待つのが慣習なのだそうです(イギリス国教会の牧師から聞いた話)。
土葬された三昧所(さんまいしょ)では大きな山菜が取れるため何も知らない都市部の人が入り込み、腐った棺桶の蓋を踏み破ることがありました。このため日没後に点検に行くのは子坊主の仕事でしたが、火葬された死者なら魂魄だけの幽霊ですが遺骸があればゾンビです。
幽霊なら読経で何とかなりますが、やはりゾンビは困ります。漏れなく火葬にして下さい。
- 2016/03/25(金) 09:46:12|
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郷土史巡りは家族の正月休暇の小旅行にもなった。岡崎市方面へは東名高速を使って岡崎城から大樹寺、私の出身地・矢作の後は川沿いに下って忠臣蔵の仇役になっている名君・吉良上野介義央公が治めた吉良へ回る。矢作川の堤防の右は「日本のデンマーク」と自称している地平線まで広がる田園地帯だ。この広い風景の中で育った私が本宮山が間近に迫る閉塞地に住むことになった苦痛は口では言い表せない。
堤防を延々と走り続けると前方に碧南火力発電所と工業団地の煙突が見えてきた。
「あの低い堤防が吉良さまが築かれた黄金堤だよ」黄金堤は現在でも大規模な堤防の内側に残っており桜並木になっている。矢作川は江戸時代の治水事業によって知多半島の付け根で2つに分かれており、そこに注ぎ込む支流を堅固な堤防で矢作古川に接続して氾濫を防いだのが黄金堤だ。その事業を吉良義央公は私財を注ぎ込んで独力で成し遂げた。
「吉良さんは屋敷の修繕費用まで惜しみなく注ぎ込んで領民を守ったんやね」「そのために愛馬も手放したから赤い農耕馬に乗って視察していたんだよ」佳織には前川原の頃に赤穂浪士の過ち=罪として名君・吉良義央公の善政の話はしている。今回はその現場を見せて理解を深めさせたいと思ったのだ。
「そんな名君を殺した赤穂浪士なんてただのテロリストやない」「救いようがない馬鹿殿にも忠義を尽くしたから忠臣蔵なんだろうけど、いつまでも吉良さまを悪役にされるのは我慢できんな」最近は昔の忠臣蔵に比べれば浅野内匠頭長矩の非を描くようになっているが、吉良義央公の意地悪がなければ刃傷沙汰になった原因が成り立たないので憎まれ役であることには変わりがない。
「家臣、領民のことも考えずにカッとなって刃傷沙汰なんて最悪の藩主やね」「それも作法のイロハも知らない不勉強を叱責したって言うんだから完全な逆恨みだよ」「そんなアンポンタン、自衛隊にもいそうや」自衛隊でも防衛大学校卒でエリートを気取る若造だけでなく、部内で幹部になると殊更に陸曹や陸士を頭から見下すようになる奴がいる。そんな奴に限ってかつての先輩の陸曹が与える助言を「越権行為」として問題視するのだ。
「ところで会津は今でも山口県人を許さへんって言うけど、兵庫県人が吉良へ入ってエエんやろか?」ルームミラーで見ると佳織は真顔で心配していた。確かに戦前・戦後変わらぬ権力志向の山口県人が、会津だけでなく全国的に嫌われていることを防府に入隊してくる学生たちの口から聞くことがあった。
「毛利藩の奇兵隊は庶民の寄せ集めだから武士道にも背く悪逆非道を繰り広げたんだよ。おまけに明治の学校教育で歴史を自分たちに都合よく捻じ曲げて反省しないから許されないんだ。その点、赤穂浪士は武士道の模範だから憎まれてはいないよ」吉良では義央公の命日に赤穂浪士が返り討ちに遭う痛快劇が上演されているが、大石内蔵助を悪役にはしていない。そこが関ヶ原や蛤御門の敗北を逆恨みしていた山口県人との違いだろう。
前後の席の両親の会話は弾んでいるが、助手席の淳之介、ベビーシートの志織は静かなものだ。そこで横を見てみると2人とも田園風景に飽きて熟睡モードに入っていた。
- 2016/03/25(金) 09:43:30|
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昭和43(1968)年の明日3月25日に敗戦で解体される大日本帝国陸軍の最後を締め括った陸軍大臣・下村定陸軍大将の命日です。80歳ながら交通事故死でした。
下村大将は明治20年に高知県で生まれ、陸軍士官学校は20期、兵科は砲兵でした。この期には朝香宮(後の大将)、東久爾宮(後の大将で戦後最初の首相)、北白川宮(大佐の時、フランスで交通事故死)の皇族軍人やA級戦犯として処刑された木村兵太郎大将、沖縄戦の第32軍司令官・牛島満中将、敗戦後、市ヶ谷で自決した吉本貞一大将などがいます。
中尉から陸軍大学校に入校すると首席で卒業しましたが、この時の同期にはA級戦犯として処刑された板垣征四郎大将、前述の牛島満中将、同じく木村兵太郎大将、同じく吉本貞一大将、フィリピンで処刑された山下奉文大将、敗戦時に降伏に反対する将校が起こした宮城事件を鎮圧した後に自決した田中静壱大将などがいて帝国陸軍の最期を飾る舞台の出演者を揃えているかのようです。
下村大将は首席で卒業しただけに第1次世界大戦終結直後のフランス駐在武官やジュネーブ軍縮会議の委員、幹事、全権随員などを経験していますが、大将への昇任は敗戦の3カ月前で、陸軍士官学校16期の板垣が昭和16年、同18期の山下は昭和18年、同期の木村が同時であったことを考えると、陸軍大学校の成績が必ずしも全てに優先される訳ではなかったようです。
下村大将は満州の北支那方面軍として敗戦を迎えましたが、陸軍士官学校の同期である東久爾宮が首相になり、陸軍大臣への就任を要請されたため帰国することになりました。
陸軍大臣は前任の阿南惟幾大将が敗戦時に自刃しており、下村大将が着任するまで東久爾宮が兼務していました。こうして陸軍の解体に向けての諸業務を実施していきましたが、肝心の東久爾宮内閣は正装の昭和天皇と平服のマックアーサーの会見写真を発禁にしようとしたことを占領軍に認められなかったことで10月10日に総辞職しました。しかし、続く幣原喜重郎内閣でも再任され、11月28日の衆議院で戦前から「粛軍演説」などで軍部の政治介入に反対していた斎藤隆夫議員の「軍国主義が発生した理由」の質問に答えることになったのです。
「いわゆる軍国主義の発生につきましては、陸軍と致しましては陸軍内の者が軍人としての正しきものの考え方を誤ったこと、特に指導の地位にあります者がやり方がわるかったこと、これが根本であると信じます。(中略)陸軍は解体を致します。過去の罪苦に対しまして私共は今後、事実を以ってお詫び申し上げること、事実を以って罪を償うことはできませぬ。(後略)」
この率直に陸軍の罪科を認めた演説は聴いていた議員や新聞などで読んだ国民の共感を呼んだのですが、戦後の文化人たちは逆に悪用し、「陸軍が諸悪の元凶」と断罪する映画や小説を世に溢れさせただけでなく、学校で使う教科書にも同趣旨の記述がなされ、その一方で、米内光政海軍大臣や山本五十六次官が日独伊三国同盟や対米戦に反対していた事実だけを以って「世界情勢を知る海軍は良識的だった」と一方的に賞賛しました。
しかし、戦史を知る者としては神風(しんぷう)特別攻撃隊を始めたのは海軍であり、ミッドウェイ以降の敗戦の事実を隠蔽したのも海軍、制海権を維持できると過信して太平洋全域へ戦線を拡大したのも海軍であり、結局は同罪であると断ぜざるを得ません。
陸軍の悪事の原因は山縣有朋から桂太郎、田中義一に続く山口県出身の軍政家が作り上げた反対どころか意見が異なる者を敵と断じて抹殺する狂気と目的を達成するためには手段を選ばない腹黒さが最後まで改まらなかったことに尽きます。やはり「長州の陸軍」が滅んだのです。
- 2016/03/24(木) 09:54:23|
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年賀状を書き終えて遠距離に帰省する隊員が休暇に入り始めた頃、私はパジャマの上にハンテンを羽織るハンテン・ミーティングである提案をしてみた。
この季節の酒は焼酎のお湯割りか、日本酒の熱燗で迷うところだが今夜は後者にしている。ただし、我が家ではマグカップに注いで電子レンジで2分間加熱するだけだ。
「初詣に行きたい神社あるんだよな」「へーッ、貴方が神社に行くなんて珍しいわ。来年は天変地異が起きるんやないの」私は廃佛毀釋による寺院の破壊や宝物の海外流出、何よりもこの国を護持してきた神佛習合の否定や国家神道の選民思想が昭和20年8月15日の滅亡につながったと確信して以降、神社に参詣することはなかった。
「実は曾祖父さんが揮毫した忠魂碑がある神社が判ったんだよ」「曾祖父さんって青山寛閣下?」「うん、第22旅団長だった青山少将だよ」青山寛少将は祖父の伯父であり、養父でもある。最近、歴史研究家が出版した愛知県出身の将軍・提督の資料で見つけたのだ。
「千種区の城山八幡宮の境内にあるらしいんだ」「ふーん、やっぱり将軍ともなると史跡が残るんやね」「青山少将自身は昭和3年で予備役編入になっているから日支事変には参戦していないけどね」「ふーん」返事をしながら佳織はマグカップを口につけてチビチビ飲み始める。猫舌の私は冷めるの待ちながら舐めるだけだ。
「でも、初詣だと混雑するから休暇が始まったら史跡研修にしたらエエよ」「それだったらお参りする必要もないな」「うーん、子供の情操教育にはよくないけどなァ・・・」確かに宗教施設を前にしながら無視するのは好ましくないから神前で読経することにした。
「ワシが戦死しても軍神なんかにはしないでくれよ」「オフ コース(=もちろん)」かつて山口県ではクリスチャンの殉職した自衛官の妻が勝手に合祀した護国神社を相手に訴訟を起こしているが、佳織を原告にすることは避けなければなるまい。
そんな折、私は三河武士の艱難辛苦の発端となった事件の現場を訪ねてみた。
「森山崩れ」これは徳川家康公の祖父で、若くして抜群の軍略、治世を発揮し、家臣・領民の人望を一身に集めていた松平清康が乱心した家臣によって斬殺された痛恨事である。
この「森山」は「守山」のことで、今まで行かなかったのが不思議なくらい近所だった。
「ここが守山城址だよ」「ふーん、やっぱり陣地を作るにはエエ場所やね」前もって佳織には史跡の説明をしていたが、名古屋市守山区と言っても城が築かれた場所だけに小高い丘の上にあり、古びた石段を登っていくと雑然とした大都会から隔絶した閑かな空気が漂っている。そこは宝勝寺と言う曹洞宗の寺院なのだ。
「ここで家康さんのお祖父さんが殺されて伝記の前半みたいな苦労が始まったんやね」「お祖父さんと言っても亡くなった時、24歳だったんだよ」「ふーん、清康さんが生きてはったら信長の出番なんてなかったやろね」「そうなると秀吉もね」「それじゃあ、黒田孝高が軍師になれんわァ。それはあかん」播磨武士の佳織も郷土の英雄を歴史から消去することは許せないらしい。
- 2016/03/24(木) 09:53:01|
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1976年の明日12月15日はイギリスだけで名将として人気を得ているバーナード・ロー・モントゴメリー元帥の命日です。88歳の長命でした。
モントゴメリー元帥は北アフリカ戦線で無敵を誇ったエドウィン・ロンメル元帥をエル・アラメインの会戦に於いて撃破し、ヒトラーの野望を頓挫させた英雄とされていますが、ロンメル軍はヒトラーが命ずる進撃の連続で弾薬や燃料が慢性的に不足しており自滅状態だったのです。
モントゴメリー元帥は1887年にロンドンのケンブリッジの英国国教会の牧師の息子として生まれましたが、母親が厳格なだけで子供への愛情を持たない女性だったため、幼いころから憎悪を抱いていたと言われます。それは第2次世界大戦後、母親が亡くなっても葬儀に出席しなかったことでも明らかでしょう。こうなれば当然のように不良少年に育ち、「ザ・ナイン(ロンドンの9の名門中等学校」と称されるセント・ポール・スクールを経て王立陸軍士官学校に入っても素行は改まらなかったようです。1908年に歩兵少尉に任官し、翌年にはインドへ赴任しますが、1914年に第1次世界大戦が勃発したことでフランスに派遣され、最前線での戦闘を経験することになりました。この時、モントゴメリー大尉は肺と膝にドイツ兵の狙撃を受けて重傷を負いますが、戦場での指揮能力を評価されて勲章を与えられています。
第1次世界大戦が終わり、束の間の平和な時代が訪れてもモントゴメリー大尉はアイルランドの独立戦争に派遣され、その後は教官の仕事につきながら少将にまで昇任しました。
そして迎えた第2次世界大戦ではフランスに派遣されますが、マジノ・ラインを過信していたフランス軍の敗退・降伏によりイギリス軍はドーバー海峡を越えて撤退しなければならなくなり、モントゴメリー少将はその敗走の作戦を指揮し、最高位のバス勲章を与えられています。
そしてチャーチルの指名によって北アフリカに派遣されて前述の勝利を挙げますが、反攻に転じた連合軍には猪突猛進の勇将・ジョージ・スミス・パットンがいました。
騎兵出身のパットン将軍は戦車の機動力を活かすには敵の防御線を突破すれば深く深く突進し、占領地域を内側から崩壊させることを信条としており、歩兵的に一歩一歩堅実に前進するモントゴメリー将軍と馬が合うはずがありませんでした。
さらに連合軍の司令官がアメリカ人のアイゼンハウアー将軍だったため政治的バランス感覚からモントゴメリー将軍を優遇する場面が多く、それを不満に思うパットン将軍との対立は激化する一途だったのです。
そんな中、モントゴメリー将軍は大失態を演じてしまいました。それはノルマンディー上陸から3カ月後の1944年9月、敗走しながら壊滅状態に陥っていたドイツ軍の退路である国境の橋をイギリス、アメリカにポーランド義勇兵を加えた空挺部隊によって占領することで遮断・孤立化させ、ソ連軍の侵攻以前に戦争に勝利しようと大胆で無謀な作戦「マーケティング・ガーデン」でした。しかし、軽装備しか持たない空挺部隊ではドイツ軍の機甲部隊に勝てるはずがなく、イギリス陸軍空挺師団は4000名の戦死者と6000名の捕虜を出してほぼ壊滅しました。
この無謀な作戦は「A Bridge Too Far=遠すぎた橋」と言う映画になって1977年に公開されています(野僧は高校生でしたが見ました)。
問題なのはモントゴメリー将軍がドイツ軍以上にパットン将軍への敵愾心を公言し、南進するアメリカ軍=パットン大戦車軍団がベルリンに達する前にイギリス軍によって勝利を獲得したいと言う私的な欲求からこの作戦を強行したことです。
このためイギリスでは名将でも、アメリカでは横暴な劣将と評価が分かれることになりました。
- 2016/03/23(水) 08:56:27|
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隊員たちの年末年始の休暇と残留者の勤務計画が固まりつつあった12月17日、南米のペルーでとんでもない事件が起きた。リマ市にある日本大使公邸が天皇誕生日の祝賀行事中に反政府ゲリラ・MRTAによって占拠されたのだ。
ペルーでは長年にわたり宗主国・スペインの統治の流れを汲む政権とキューバ革命の影響を受けた反政府ゲリラの抗争が繰り広げられており、日系人のアルベルト・フジモリ大統領は就任後、強硬な鎮圧を実施していることも影響しているのかも知れない。
丁度、駐屯地当直幹部だった私は朝から複数の新聞記事を読み、テレビのニュースを喰い入るように見て、この事件の情報収集をした。
「君たちに格好の宿題ができたな」国旗掲揚と駐屯地司令への報告を終えて幹部室を兼ねている中隊長室へ行くと小隊長の田島2尉と松山2尉の2人に声を掛けた。
「ペルーの大使館の話ですね」「あのニュースがどうかしたんですか?」田島2尉は即座に私の意図を察したが、松山3尉はポカンとしている。
「うん、あの事件の解決には数カ月は掛かるだろう。だから・・・」「えッ、そんな訳ないじゃないですか。軍と警察が突入して終わりですよ」「それじゃあ、人質が巻き添えになるだろうが」松山3尉の意見は田島2尉が否定した。
「これから事件の詳細を研究して正月明けにはペルー政府が実施する救出作戦の概要と現場指揮官としての着意事項をまとめてくれ」「それが何の役に立つのですか?」松山3尉は勤務時間以外に仕事をやらせられることが不満そうな顔で質問する。
「将来、君が現場指揮官になった時、役に立つだろう」「日本では警察の機動隊の仕事です」私の説明にも喰い下がってくるこの3等陸尉殿には本当に骨が折れる。
「日本国内の地方にも外国の領事館がある。そこを侵入したテロリストが襲えば警察では対処できないだろう」「その時には立派に成長した松山くんが指揮官になるかも知れないな」私と田島2尉の2人からの返事の集中砲火に松山3尉は黙ってしまった。
「それで回答は文書にしなければなりませんか?」「いや、私的な研究だから服案をまとめてくれ。正月明けにここで討論会をやろう」やはり田島2尉の確認は現実的だ。私としても私的に与える課題なので負担は最小限に留めるよう配慮した。
「松山3尉、君はイーグル・クロウ作戦を知っているか?」「ワシとカラスの作戦ですか?ワシを使って迷惑なカラスを退治する作戦なら東京でやりそうですが・・・知りません」知らないなら知らないと素直に答えれば良いのだが、この3尉にはできないようだ。
「イランのアメリカ大使館が占領された時、カーター政権が実施した救出作戦だよ」「あれは失敗したでしょう」「うん、田島2尉は入隊前なのによく知ってるな」「はい、興味がありましたから新聞を熟読しました」田島2尉は私よりも3歳年下だから、私が高校3年の11月に実施されたこの作戦は中学3年生の時だったことになる。私が中学3年の時に起きたミグ25亡命事件と似たような衝撃を感じたのかも知れない。
- 2016/03/23(水) 08:55:24|
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昭和32(1957)年の明日3月23日に数々の名曲を唄ったコーラスグループのダークダックスがデビューしました。
あの時代はNHKの「みんなの歌」はダークダックスとデューク・エイセス、ボニージャックスが交代で唄っていて、年末の紅白歌合戦で3組が揃うと、どれが誰の持ち歌なのか判らなくなったものです。
実際、高校の生徒会長だった時に近くの私立高校の学園祭に招待されるとデューク・エイセスのコンサートが行われて、その中で「京都にいるときゃダークと呼ばれたの、神戸じゃあボニーと名乗ったの、浜の×××に戻ったその日から貴方が探してくれるの待つわ、デュークの名前で出ています」と高校で唄うのはどうかと思うような替え歌を披露していました。
その中でもダークダックスは左からバクさん(2011年に病没)、マンガさん(84歳)、ゲタさん(86歳)、ゾウさん(86歳)の個人のニックネームも知られていて、一番の人気を博していたようでした。ちなみにデューク・エイセスは病気などでメンバーの交代を繰り返しており、
ボニージャックスは六さん(80歳)、トラさん(82歳)、髭ののぼさん(82歳)、アッちゃん(2011年に病没)でしたが、現在はヨンさま(51歳)が交代に加入しています。
野僧は岡崎市と言う文化活動に力を入れていた街で小学校6年間を過ごしたため、この3つのグループのコンサートへは行ったことがありますが、やはりダークダックスが一番賑わっていて、後ろの方の席だったようです。
今思うとダークダックスが売り出したのは「ともしび」「カチューシャ」「赤いサラファン」「カリンカ」「すずらん」などのロシア民謡とアメリカ民謡の「雪山讃歌」、オーストリア軍歌「エーデルワイス」。ボニージャックスはナポリ民謡「帰れソレントへ」「サンタルチア」やロシア民謡「1週間」などの外国曲が多く、逆にデューク・エイセスは「いい湯だな」「女ひとり」「筑波山麓合唱団」などの「にほんのうた」シリーズですが、あの時代の民謡喫茶に入り浸っていた若者たちがそのまま放送業界に就職して、子供たちにも外国曲、中でも労働者の聖地・ソ連のロシア民謡を教えようとしていたのかも知れません。
勿論、NHKの「みんなの歌」の常連になるとダークダックスは「クラリネットをこわしちゃった」や「森のクマさん」「山男の歌」、デューク・エイセスは「おさななじみ」、ボニージャックスは「ちいさい秋みつけた」「パジャマでおじゃま」「手のひらを太陽に」などの幼稚園や小学校で習う歌を出しています。
この他にもデューク・エイセスは「鉄人28号」「遊星少年パピィ」「「遊星仮面」「忍者部隊月光」「ジャングル大帝」などのアニメの主題歌(全部唄えます)や「光る東芝=光る光る東芝」「もくせいの花=日生の小母ちゃん自転車で・・・」「サントリーレッド」「パンシロンの歌=パンシロンでパンパンパン」などのCMソング、ボニージャックスも「月光仮面は誰でしょう」がありますから、我々の世代には音楽の先生みたいな存在だったようです。
野僧はダークダックスで1番好きなのは「花のメルヘン」です。
「(前台詞は省略)むかしむかしその昔 小さな川の畔に 大きな花と小さな花が並んで咲いていた。大きな花は美しい いつも楽しく唄う花 けれども小さな花は たった1人ぼっち 恋の日差しを浴びて 2つの花は 春の想いに胸を膨らませる むかしむかしその昔 小さな川のほとりに 大きな花と小さな花が並んで咲いていた」
音楽の教科書にディズニーや流行歌を載せるような軽薄な時代に育たなくて良かった(実感)。
- 2016/03/22(火) 09:31:57|
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そんなある日、問題の新任小隊長が中隊長・幹部室に飛び込んできた。
「中隊長、××1士が廊下で泣いているんですが?」「へッ?」あまりにも思いがけない質問に返事ができなかった。
「だったらどうしたのかって話を訊けよ」「えッ?」今度は松山3尉が黙ってしまう。
「イジメかも知れない、困ったことがあるのかも知れない。話を聞いて確かめなければ対応しようがないだろう」「・・・・」それでも松山3尉は返事をしない。
「何か質問は?」「そんなこと、どのマニュアルにも書いてありません」「人間を扱うのはマニュアルになくても臨機応変、状況確認が基本だぞ」「・・・」私の声が少し大きくなり、それに免疫がないのか松山3尉は怯えたような顔をした。
「兎に角、話を聞いてこい。早く行け!」「はい」私の命令に松山3尉は慌てて部屋を飛び出して行き、覗いてみると廊下で××1士と立ち話をしている。そんな人通りがある場所では悩みを打ち明けられないことも判らないようで私は溜め息をついた。
「××1士は隣りの中隊の同期に馬鹿にされたのが悔しくて泣いていたそうです」ほんの十分ほどで松山3尉は帰ってきて報告を始めた。
「何を馬鹿にされたんだ?」「そんなプライバシーに関する立ち入ったことは訊けませんよ」「それじゃあ、問題の解決はできないじゃないか」「しかし・・・」どうやら松山3尉は受験エリートとして順調に育ってきて挫折と言う物を知らないらしい。
一方、陸上自衛隊に入ってくる若者はあまり優等生ではなく、受験に向けて成績だけが人物評価の基準になる学校で何らかの挫折を味わっていることが多い。
私自身は曹候学生時代、そんな新隊員出身の先輩たちからの苛めを通じて彼らの悩みや辛さも理解できるようになった。どうやら私は今まで学んできた人間学をこのエリート君に教えなければならないようだ。
「まァ、座れ」私は中隊長・幹部室のソファーを勧め、向い合って講義を始めた。
「武田軍学の甲陽軍鑑は知ってるな」「私は日本史は取っていません」この口振りでは松山3尉は勉強に受験のため以外の意味を認めていないようだ。
「武田晴信の名前くらいは知ってるだろう」「それは誰ですか?」「入道名の機山信玄なら判るか?」「信玄なら始めからそう言って下さい」「はいはい、すみませんでした」この無礼千万な態度も悪意が全くないので叱責する気にならないのは不思議だった。
「武田晴信は家臣を使う心得として『渋柿の木に甘柿を継ぐようなことは下だ。渋柿は渋柿のまま使うことを考えよ』と言っているんだ」「馬鹿は馬鹿なまま使えと言うことですか」「君みたいな馬鹿もな」私を含めた他の人間を馬鹿にしている松山3尉をあえて「馬鹿」と断じた。流石に松山3尉は顔色を変える。
「僕はW稲田大学卒です」「バカ田大学じゃないのか」自分の席で話を聞いていた曹候学生出身の陸曹から部内で任官した1小隊長・田島2尉が厳しい言葉を投げ掛けた。
- 2016/03/22(火) 09:31:03|
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硫黄島での戦闘が大詰めを迎えていた昭和20(1945)年の明日3月22日に1932年のロサンゼルス・オリンピックの馬術競技で優勝した西竹一中佐が戦死しました。西中佐は男爵であったため「バロン西」の愛称を受け、ロサンゼル市の名誉市民にもなっています。
西中佐の男爵位は父親の西徳二郎さんが薩摩出身の外交官で、駐ロシアとスェーデン、ノルウェー公使(兼務)に就任する前に授与されました。その後、徳二郎さんは外交が困難な時期に第2次松方正義内閣と第3次伊藤博文内閣で外務大臣を務めています。
西中佐は徳二郎さんが55歳で妾に産ませた3男ですが、正妻が生んだ長男、二男が夭折していたため母親から引き離され、西家で跡取りとして育てられることになりました。
やはり男爵家の御曹司なので幼稚園から初等科まで学習院に進みますが、父親の遺志(10歳の時に病没)を継いで外交官になるため中学は現在の日比谷高校に入学します。ところが当時の学習院院長の乃木希典の影響を受けていたのか翌年には広島陸軍幼年学校に進路を変更し、そのまま中央幼年学校、陸軍士官学校へと突き進んでいきました。西見習士官は男爵の子息として軍人になる前から馬術を嗜んでおり、兵科は当然のように騎兵を選びました。
この頃は第1次世界大戦が終わり、束の間に民主主義の花が咲きかけた時代で、西中尉は軍務として海外の馬術競技に出場するようになり、天賦の才を発揮して活躍すると男爵と言う上流家庭の子息であることもあって社交界でも名声は広まっていきました。このヨーロッパ遠征中に愛馬・ウラヌスと出会い、私費で購入しています。
そして1932年にロサンゼルス・オリンピックに出場すると、馬術大賞典障害飛越競技はこの大会を最後に中止されたため、最終日に10万5千人の大観衆が見守る中で行われましたが、コースも他の国際大会に例がない難しさで、障害には刺が生えた木が用いられ、水溜りの水には馬が嫌がる派手な色に染められていた程です。出場した12組の人馬の中で完走したのは5組だけでした。欧米式の馬術の歴史が浅く、優れた血統の馬もおらず、過去にオリンピックでのメダリストがいない日本は問題外視されている中、特別注文の軍服と正帽で身を包み、エルメス製の乗馬ブーツを履いた西中尉は見事に優勝を飾りました。
得点としては優勝候補筆頭だったアメリカのチェンバレンが減点12で2位、3位のスウェーデンのロンセンが減点16だったのに対して西中尉は減点8でした。
西大尉は次のベルリン・オリンピックにも出場しましたが、ウラヌスとの障害飛越では落馬して失格、元競走馬のアスコットと出走した総合馬術では12位で終わっています。
その後、西大尉は騎兵と言う兵科が縮小(騎乗する天皇に同伴する近衛騎兵は残された)されると戦車に転換し、中佐で戦車連隊長として大陸へ赴きました。
戦局の悪化を受け、サイパンに派遣されることになりますが、守備隊の全滅が早すぎたため途中下車のように硫黄島に変更され、そこで栗林忠道中将の指揮下で勇戦することになりました。
日本軍の戦車は全てに時代遅れで、西連隊でも砲塔を残して地中に埋め、トーチカとして使う以外は歩兵同様の戦闘を行ったようです。この間も西中佐は愛馬・ウラヌスの鬣を胸ポケットに入れており、火炎放射を浴びて負傷した体で部下たちとスコッチを回し舐めした後、突撃した時も持っていたようです。
米軍は守備隊の中に西中佐がいることを知り、「バロン西、貴方の軍人としての名誉はすでに十分に保たれた。どうか降伏して下さい。我々はロサンゼルスの英雄を失いたくないのです」と呼びかけ続けましたが西中佐が応じることはありませんでした。
- 2016/03/21(月) 08:46:22|
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「佳織、今年の陸士はどうだい?」「うん、大卒が半分もいるんや」流石は通信科だけに隊員の質は遥かに高いようだ。
「それじゃあ、陸曹と陸士の能力が逆転していないか?」「ううん、いくらお勉強ができてもやっぱり熟練の技に勝てへんわ」ウチでも陸曹の権威を高める方策として猛訓練を取り入れるべきかも知れないと思った。
「でも、大卒ならウチらの後輩になれるんじゃないか?」「うーん、最近は難しいらしいからね」私たちの頃、佳織たち女子の候補生はそれなりの有名大学卒だったが、男子は聞いたこともない三流大学卒ばかりで、大学中退。曹候学生卒の私でも十分太刀打ちできた。
しかし、先日のクラウゼヴィッツの言葉ではないが、受験勉強ばかりをやってきた優等生に若い隊員の心の動きを掴む人間学が備わっているのか、そちらの方が心配になった。
この不安は的中した。秋になり配属になった新任の松山3尉は誰でも聞いたことがある一流大学卒だった。それを大学中退の私の中隊に押し付けたのは連隊内での立場を反映しているのかも知れない。そんな松山3尉は歓迎会の席でイキナリ私に挑戦的な言葉を吐いた。
「中隊長は大学中退だそうですね。それでも部外に合格したんですか?」「勉強は続けていたからな」私は話を和らげるため彼のグラスにビールを注いだ。
「地元の愛知大だとか?」「うん、愛知大学法経学部法学科中退だよ」これが上司に対する態度なのかと思いながらも質問には答える。すると松山3尉は皮肉に笑った。
「ならば偏差値は私のW稲田よりも落ちますね」「そうかね、興味なかったから知らないな」これは本当だった。私は「龍谷大学で佛教哲学を学びたい」と言う志望を父親に頭ごなしに否定されて以来、大学受験には全く熱意を持っていなかったのだ。
「こんな話を知っているか」「えッ?」私の真顔を見て松山3尉は妙に身構える。
「プロシアの軍事哲学者であるカルル・フィーリップ・ゴートリーブ・フォン・クラウゼヴィッツは『戦争論』の中で『卓越した将軍に博学多識の将校出身者が少なく、その境遇上、多くの知識を学ぶ機会がなかったような人物が多い』と定義しているんだ」「要するに大学の偏差値は幹部の能力に関係ないって言いたいんですか」話していてこの3尉は本当に前川原と富士学校を修了しているのか疑問になってくる。バブルが弾けて以降、部外課程には防衛大学校よりも偏差値が高い学生が入っているらしいが、意識改革が追い付いていないのかも知れない。
「いや、学ぶ姿勢は大切だが、君たちが励んできた受験勉強が本当の知性を養っているかは疑問だということだな」私の経験に基づく教訓も松山3尉は劣等性の負け惜しみのように受け取ったようで冷ややかな笑顔を浮かべただけだった。
「都の西北 W稲田の隣り、のさばる校舎は 我等が母校・・・バカ田 バカ田 バカ田 バカ田 バカ田 バカ田 バカ田」酔って母校の校歌を熱唱する松山3尉に向かってベテランの隊員たちは天才バカボンの「バカ田大学」の校歌を口ずさんでいた。
- 2016/03/21(月) 08:44:29|
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私が中隊長になったのはバブルの狂乱景気が崩壊して5年が過ぎ、隊員の服務指導や人事の上では難しい時期だった。バブルの頃は高い給与を得られる民間企業を若者は志向し、アレコレと制限が多い公務員、特に3Kと言われていた自衛隊は全く人気がなく、民間企業も採用しないような低レベルな者や保護観察処分を逃れるための非行歴を有する者が殆どだった。
ところがバブルが崩壊し、民間企業にリストラの嵐が吹き荒れると一転、安定した公務員の人気が沸騰し、さらにPKOで注目を集めた自衛隊は花形になって優秀な若者が続々と入隊してくるようになったのだ。
ただ、そこで問題になったのはバブルの頃に3曹に昇任した陸曹よりも新入隊員の方が頭脳は優秀であり、中卒や高校中退が多い陸曹に比べ新隊員には大卒者も少なくなかった。つまり陸曹の権威が揺らぎだしたのだ。ある日、私は陸曹たちを集めてこう訓示した。
「プロシアの軍事哲学者・カルル・フィーリップ・ゴ―トリ―ブ・フォン・クラウゼヴィッツは『軍人の能力と学問上の成績は必ずしも一致しない。むしろ戦場では熟練した古参兵の直観の方が危機を切り抜ける力となることが多い』と言っている」ここまでで言葉の意味を理解した陸曹は少なく、そろって「また中隊長の小難しい話が始まった」と言う顔をしている。私は1つ息を飲むと話を続けた。
「つまり学歴がどうであれ、勉強がどうであれ、自衛官として厳しい訓練で鍛えられ、災害や危険な任務を潜り抜けてきた経験に勝る知識はないと言うことだ」陸曹たちはようやくうなずいたが、やはり弁が立つ陸士を指導するにはある程度の知識は必要であり、それがなければ旧軍の鉄拳制裁になってしまう。私はその注意を言い添えることを忘れなかったが、元々勉強嫌いな連中にやる気を起させるのは訓練で体を鍛える以上に難しかった。
一方、陸士についても問題があり、バブルの頃、生徒を入隊させてくれた低レベルの高校に対する恩義がある募集担当者が、不況下の人気職種として希望してくる生徒を受け入れざるを得ず、新入隊員の中でも能力格差が目立つようになっている。
そして現場の陸曹たちは、仕事はできる者にやらせながら小難しい理屈を言う優等生よりも素直な馬鹿を可愛がり、陸士の中でも不満がくすぶり続けていた。
おまけに阪神大震災の災害派遣に感動して入隊してきた隊員は、体力練成や日常の作業には真剣に取り組むが、射撃や格闘などの戦技には「人殺しの訓練を受けるつもりはありません」とあからさまな拒絶反応を示している。
演習でも陣地構築は「これで土砂を片付けるんだ」と喜んで励むが、歩哨勤務は「宿営地の警備かァ」と仕方なし、最後の攻撃となると嫌々なのが見え見えなので始末に悪い。
この問題は連隊の幹部会同でも度々問題になっているが、どの中隊長も「理屈っぽい小難しい陸士などいらん」とお手上げ状態で、磨けば光る玉をそのまま転がしておくつもりのようだった。
- 2016/03/20(日) 08:52:33|
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1727年の明日3月20日は天才と狂人の境界線を行ったり来たりしたアイザック・ニュートンの命日です。
ニュートンと言えば林檎が落ちるのを見て引力を発見した逸話が有名で、大半の人はそれしか知らないのですが、実際は野僧を散々に苦しめ、未だに理解できない微分積分学を確立したのもニュートンであり、反射式天体望遠鏡を発明したのもニュートンです。
一方、林檎の逸話の方は創作・虚構の可能性が高いことになっているようですが、その割にイギリスのニュートンが所有していた農園には問題の林檎の木が大切に保存されており、日本にも東京の小石川植物園に枝分けされた木が植えられています。
そんなニュートンは1642年のクリスマスにイギリス東部の寒村で生まれました。豪農だった父親は生まれる3カ月前に亡くなっており、母親もニュートンが3歳の時に近郊の街の牧師と再婚したため祖母に育てられることになったのです。
再婚した母親の援助で13歳から文法学校(グラマー・スクール=ラテン語などを学ぶ中等学校)に通い始めますが、2年後に母親の再婚相手が死去して義弟3人を連れて祖母の家に帰ってきたためニュートンは学校を止めて、父親が残した農園の仕事に励むことになりました。
ところが学究肌のニュートンは農園仕事を放棄して、学校時代に下宿していた薬屋=薬草園へ行っては薬学や化学の専門書を読み耽り、工学の研究として水車を作ったりしていました。
このため母親は息子の才能を発揮させる道を親戚や知人と相談し、ケンブリッジ大学に入学させることにしたのです。ただし、学費を免除される教授の小間使いを兼ねた学生であり、本人はそれを負い目に感じていたようです。
しかし、天才は場を得られれば類まれなる能力を発揮するもので数学、自然科学などの学才を認めた恩師の引き立てによって学位を授与されるのと同時に教授の地位を得ました。
こうして順風満帆に進み出した学究生活に更なる幸運が訪れました。それはヨーロッパの全人口の3分の1が死亡したペストの大流行で、ニュートンはロンドンを離れて実家がある東部の寒村に疎開したのです。そこで時間と仕事に余裕ができたため林檎を眺める暇を見つけ、微分積分の考察に没頭することになりました。
ただし、万有引力の発見については友人のロバート・フックが先に提唱しており、後年、その先陣争いの中でニュートンが発見のエピソードとして創作したとの説が有力になっているようです。
その後、ニュートンは反射式望遠鏡を発明し、太陽系の惑星の軌道を確立して天文学にも踏み込み、数学、自然科学、物理学などと合わせて天才ぶりを発揮していきますが、それらの論文の著述によって次第に疲れ、精神に変調を来すことになりました。
突然、権力欲に取り憑かれ政治的地位を求めるようになると、教え子の推挙で王立造幣局長官に就任しますが、そこでは通貨の偽造犯の摘発に成功しながら自分は金を作る錬金術の研究に血道を上げていたのです。これが原因なのかニュートンの遺髪からは高濃度の水銀が検出されたそうですから、やはり天才と狂人は紙一重なのでしょう。

なぜかオリビア・「ニュートン」ジョン
- 2016/03/19(土) 09:21:26|
- 日記(暦)
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この事件は更に尾を引いた。怪我をさせられた中隊の陸曹が忘年会の後、民間人と喧嘩になり、殴られた腹いせに持っていた傘で突いて怪我をさせたのだ。
陸曹は逮捕されたが先に手を出したのが相手側であることを証言する人がいて釈放されたものの年末で多忙な時期に会議が繰り返された。
「相手が民間人と言うのがまずいな」副連隊長の言葉に各科長、中隊長は顔を見合わせる。
「陸曹であることも問題です」1科長の言葉がさらに追い打ちをかけた。ところが本来であれば全く無関係のはずの私に責任が飛び火してきた。
「大体、3中隊長が暴力を容認するような発言をしたのが伝わったんじゃないのか」確かに前回の暴力事件の時、私は喧嘩の強さは戦闘力であると発言した。しかし、あれは幹部だけの会議であり、その後、中隊長として「力なき愛は無力、愛なき力は暴力」と言う少林寺拳法の言葉を引用して隊員教育をしている。要するに連隊首脳陣の心証が悪い私に押し付けるのが得策と考えたのだろう。
「そうですか。私はウチの隊員の指導責任を取って懲戒処分を受けましたがまだ足りませんか?」私は中隊長の席だけに聞こえる程度の声で独り言をつぶやき、小声でささやき合ったいた中隊長たちは私の顔を見て黙った。
これはウチの連隊と言うよりも愛知県の土地柄だろう。愛知県は気候温暖で水利に恵まれて農耕に適しており、海は湾のため荒れ狂うこともなく豊かな漁獲がある。山は低く伐採は容易で、さらに街道が整備されていたため流通の便も最高だった。
その上、江戸時代には神君・家康公の出身地と御三家筆頭の尾張徳川家の領国として幕府から破格の優遇を受けてきたのだ。つまり過去の前例と周囲の常識さえ守っていれば間違いはないのが愛知県なのである。
その頃、中央では社民党と新党さきがけが閣外協力に転じたことで内閣改造が行われた。
社民党が政治中枢から去ることは日本の安全保障上、好ましいことだが、逆に言えば中国や北朝鮮が求める情報を渡し終えたのだとすれば後の祭りと言うことになる。
こう言う問題は情報の中枢である陸上幕僚監部第2部の岡倉信一郎1尉に訊いてみたいものだが、同期と言っても職務とは別だろうから控えていた。
それでも航空自衛隊の警戒管制部隊で要撃管制幹部になっている曹候学生時代の同期に確認したところ、中国空軍機は明らかに自衛隊のレーダー探知の盲点を探るような飛行を繰り返しており、秘密情報が漏洩しているのは間違いないと怒っていた。
結局、政権に返り咲くことために数を揃える目的だけで社会党と手を結んだ自民党の警察官僚出身の政治屋の暴挙が、この国を危機に陥れたのだ。
そう言えば沖縄に赴任した翌昭和58年の9月には元社会党の楢崎弥之助なる名物議員が衆議院予算員会で「自衛隊クーデター計画」を追及したが、「浜松の爆撃機が東京を攻撃する」と言われても浜松には爆撃機はないと呆れたものだった。
- 2016/03/19(土) 09:19:43|
- 夜の連続小説8
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3月6日に心理学者で千葉大学の名誉教授、何よりもクイズ形式のパズル問題集「頭の体操」の著者である多湖輝先生が亡くなりました。90さいでした。
野僧は字を覚え始めた保育園児の頃、祖父の寺でこの本を見つけて夢中になり、もらって帰ると母親に漢字を訊きながら問題を解くようになりました。しかし、父親は当時、テレビでやっていた人気番組「お笑い頭の体操(TBS・ロート製薬提供)」の原作だと思っていたようで、「テレビを見れば正解が判る」と興味を持ちませんでした。
野僧は字を覚えるに従ってドンドン深みにはまってしまい、小学校から中学校にかけて全23巻まで買い揃えましたが、最初に勧めた祖父は「この本には禅の妙味がある」と言っていたのです。
確かにこの知的パズルは固定観念や先入観を捨てることが解答の基本なので、万事を捨てて本質に到達する禅に通じるものがあります。その一方でこの本との出会いは野僧が「周囲がやっているから」「今までそうだったから」で行動を決定できない常識外れな人間になってしまった原因なのかも知れません。
実は多湖先生のお教えを受けたいと(卒業生の女優の萩尾みどりさんのファンでもあった)千葉大学に憧れていたことがあるのですが、数学が全く駄目だったため国公立は諦めました。
この本のおかげで普通ではない人生を味わっていますから先生と祖父には感謝したいと思います。心から冥福を祈ります。合掌
- 2016/03/18(金) 09:29:12|
- 追悼・告別・永訣文
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ミニチュア・ブラック・キャットの音子(ねこ)が娘の若緒(にゃお)を生んで10ヶ月にしてサイズが逆転してしまいました。抱いてみた具合では体重は外見以上に差がついているようです。
若緒は1匹っ子なので餌を奪い合う必要ないままに育ってきたにも関わらず、どう言う訳か食欲旺盛で、音子が譲っていたのを当たり前な顔をして食べていたのが、体格が追いついた頃から公然と横取りするようになりました。
最近では野僧の食事の上前まで撥ねるようになり、箸を取ったところから請求の声を上げ続け、応じないと背中で爪を研ぎ始めるので仕方なし分けた朝の粥、昼の麺、夜の飯をガツガツと食べています。
ところで最近、猫に関して気になっていることがあります。「猫屋敷」や「野良猫」「殺処分」などの問題でテレビや新聞が紹介する猫の多くが若緒と同じ「キジ虎」なのは何故でしょう。昔は猫と言えば三毛か白黒の斑と相場が決まっていて、虎猫は茶色の濃淡の「茶虎」でした(=古い映画やドラマを見ていると出てくる猫は三毛か茶虎ばかりです)。
灰色か薄茶色に黒い筋の「キジ虎」になったのは祖先の山猫に戻っているのかも知れませんが、生態系の変化にしては急速過ぎます。誰か謎を解き明かして下さい。

- 2016/03/18(金) 09:28:09|
- 猫記事
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秋の演習が終れば冬に向かって体力錬成のシーズンになる。通常、普通科連隊では銃剣道と持続走の2つに分かれて強化訓練を実施するのだが、私の3中隊は銃剣道の訓練を放棄しているので全員が持続走になる。そんな中、問題が起きた。
ウチの新隊員が銃剣道の強化訓練に入っている同期と隊員クラブで飲んでいて徒手格闘の技で怪我をさせたのだ。確かに3中隊では9月に配属された新隊員たちもすでに防具を着けて徒手格闘の試合練習に励んでおり、素人同士の素手の喧嘩では負けないだろう。
「お前らの3中隊は走ってばかりで自衛隊じゃあなくて競馬場だな」酔った同期が連隊での3中隊への陰口を投げつけると、こちらも酔った新隊員は赤い顔の色を濃くした。
「俺たちだって徒手格闘をやってるよ」「あんなのは踊りだってウチの陸曹の人たちが言ってるぞ」「遊びは銃剣道の方だろう。ビリヤードが格闘技か?」新隊員が3中隊長の口癖を請け売りすると同期は立ち上がり、銃剣道の要領で拳を突き出し、胸を殴ってきた。
「やったな」「やったぜ、一本!」新隊員は立ち上がると徒手格闘の構えをとった。
「徒手格闘なんかやらせるからだ」連隊の幹部会同の席で怪我をした隊員の中隊長は私に喰ってかかってきた。殴り合いが始まるとウチの新隊員は間合いを計って蹴り技を使い、相手は腹を蹴られて胃の中身を吐き出したのだと言う。
「その前に原因を確認するのが先でしょう」「酒の席でのことは調べても埒が明かないだろう」私の抗弁は副連隊長によって却下された。
「ならば問題は蹴られて怪我をした隊員の練度不足ですね。そんなんで戦闘ができるのですか?」私の反論は確かに極論である。しかし、兵士が喧嘩で負けては戦場で人殺しなどはできまい。ましてや格闘技の強化訓練をやっている方がやられたのである。
「それでは3中隊長は自分に責任はないと言うのか?」「いいえ、指揮官として服務指導の責任は感じておりますが怪我をさせたことについては別です」1科長の質問に対する私の答えに副連隊長と相手の中隊長は顔を見合わせた。
「要するに同僚と喧嘩になったことだけが問題だと言いたいのだな」「しかし、その原因は不問に付されると先ほど言われました」私の法理論に首脳陣は不快感を露わにする。
陸上自衛隊ではこのような場合、過失の度合いが大きい方がひたすら謝罪し、その上で反省の態度に免じて酌量するのが常識であり、私のように論理で抗弁する幹部はいないのだ。
「しかし、怪我をさせた以上、不問と言う訳にはいかないぞ」「ただ、喧嘩両成敗でなければ条理に適いません」「理屈じゃないんだ」とうとう副連隊長が声を荒立てた。
「ならば私だけを監督不行き届きで処分して下さい。確かに使用目的を十分に教育しなかったことの管理責任は痛感しております」「本人がそう言うのなら、そうしておけ」副連隊長はそう言うと煙草に火を点け、そっぽを向いた。
結局、私は連隊長から口頭注意の処分を受けたが、それは「あまりやり過ぎるな」と言う
本当の口頭注意だった。
- 2016/03/18(金) 09:25:44|
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式典は師団長への儀仗から始まり、国旗入場、国旗に対する捧げ銃、観閲官の巡閲、そして訓示、来賓の式辞と続き、いよいよ観閲行進になる。
第10音楽隊が陸上自衛隊分列行進曲「抜刀隊」を演奏する中、第35普通科連隊から雄姿を披露する。ただし、歩くのは普通科連隊の小銃中隊と女性自衛官だけで、残りはトラックや戦車などでの車両行進だった。
「次はモリヤ1尉以下の第3中隊です」観閲台の前を通過する部隊をアナウンス係の女性自衛官が紹介する。1個中隊は4個小隊、1個小隊は4個分隊だが列は8列縦隊だ。横8人縦11人を整列させたまま一糸の乱れもなく歩くのはかなり難しい(実際は欠員があるので徒歩行進しない中隊から補充する)。と言っても中国や北朝鮮の大部隊がグース・ステップで歩くのに比べればまだ楽かも知れない。
指揮官は正面に目標を決め、そこに向かって真っ直ぐ歩くなどのコツがあるが、行進曲は基本的に強い音が左足のリズムで構成されており、「頭右」の「頭」の予令は左足から始めて、「右」の動令は左足を下す瞬間にかける。中隊長は小銃を吊れ銃しているが、拳銃の上級指揮官は右手を降り出すタイミングが合わないと号令を外すことがあるらしい。
意外に問題なのは「直れ」の方で、隊員たちは「頭右」までで集中力を使い果たしていて、顔を向けた後は観閲官やスタンドの観客に意識が跳んでしまっていることがある。さらに「直れ」には予令がないため、指揮官も号令を迷うことがある。その意味では米軍のように全ての号令に予令があり、動令は「ハッ」で済ませる方が正解のようだ。
何にしろ朝霞で行われる中央観閲式の踏襲なのだが、私が体育学校に入校した年は昭和天皇の病気重篤のため中止になって実際に見ることができなかった。
普通科部隊の後は行進曲が「大空」に変わり、制服姿の女性自衛官が登場する。
「続いて第10通信大隊無線中隊長・モリヤ佳織1尉が指揮する女性自衛官部隊です」この妙に念入りなアナウンスに観閲台の後ろに作られているスタンドからはどよめきが起こった。
「かしらーッ」「右」この時、私はグランドから退場中だったが、妻の号令だけはしっかり聞きとれた。
「佳織さんは立派だったね」「うん、堂々としていて感心したよ」「伯母ちゃん、格好よかった」式典が終わった後、佳織の無線中隊長室に集まった実家の面々は口々に絶賛した。
「でもニンジンさんの普通科中隊も立派だったでしょう」仕方ないので佳織は夫を援護する。しかし、両親はそれをアッサリと否定した。
「あの子も歩いたの?気がつかなかったわ」「あんなグチャグチャな柄の服装では誰が誰だか判らないよ」営業マンの父親と保育園長の母親には迷彩服は不評のようだ。
「モリヤ1尉ってアナウンスがありましたよ」「佳織さんみたいに全部言ってくれないと判らないね」その頃、私は中隊長室で制服に着替えながらクシャミが連射状態になっていた。
- 2016/03/17(木) 08:41:37|
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10月26日の日曜日、守山駐屯地で観閲式典が行われる。子供たちの面倒を見てもらうため両親を招待したが、当然のように甥の雄馬が着いてきた。
守山駐屯地司令は第10師団の副師団長だが、式典は第10師団の自衛隊創立記念行事として行われ、守山駐屯地所在部隊以外にも今津、豊川、春日井から第10師団の隷下部隊が参加している。なお、平成2年10月21日に実施された記念式典で来賓として出席した丹羽兵助衆議院議員が司令部庁舎の正面玄関で暴漢に頚部を刺され、出血多量で死亡する事件があったため警備には万全を期すよう徹底されていた。
式が始まる前、本部管理中隊への所要のついでに1階のトイレに寄ると見覚えがある人と連れションになった。
「おや、モリヤ1尉じゃあないですか」「あれ、小椋2尉、お久しぶりです」それは神戸の震災で会った茶山1尉の子分・デカ2尉だった。しかし、デカ2尉は背が高いので上から秘部を覗かれそうで少し困ってしまう。
「そうかァ、施設大隊も参加するんですよね」「うん、マフラーの色揃えの賑やかしにな」陸上自衛隊の観閲式では迷彩服の襟元に職種色のネッカチーフを巻く。私の普通科は赤、佳織の通信は青、特科は黄(=山吹色)、施設はエンジ(=トビ色。隊員たちはワインレッドと言っている)、戦車と偵察(=偵察員の職種は戦車)はオレンジ、衛生は緑だ。
「本当なら俺は列外1なんだけどね」「へーッ、どうしてですか?」「指揮官よりもでかいから見栄えが悪いんだってさ」「なるほど」「でも部外工事で人が足らないから今回は特別参加だよ」部外工事とは地方自治体の公共工事を施設部隊が訓練の名目で実施するものだ。地元に大きな建設会社がない田舎の地方自治体としては予算削減になり、意外に要請が多いらしい。放水を終えても廊下を歩きながら話は続いた。
「昨年、沖縄へ海兵隊の上陸演習を見に行きましたよ」茶山1尉から小椋2尉が米軍マニアだと聞いているのでこの話題を持ち出した。
「しかし、あれは普通科よりも施設科の方が参考にするべきことが多いようでした」「確かに・・・俺は個人的に見てみたかったね」小椋2尉の返事に妙な重みを感じ、顔を見上げると向うも見下ろしていて視線が合った。
「俺の親父は陸軍の船舶工兵だったんだよ」「それって潜水輸送艇を持っていた陸軍の船乗りですか?」「ほーッ、モリヤ1尉は詳しいねェ。施設幹部でもそんなこと知っている人はいないぞ」船舶工兵は小舟を使って渡河などを行う専門部隊だったが、大陸では河川の幅が広いため装備は充実していき、やがて対英米戦に突入すると上陸作戦が繰り返されるようになり、外洋で揚陸艇を操縦する本格的な船乗りになっていった。そして戦局の悪化で海軍に頼らず隠密裏に物資を運ぶ必要から潜水輸送艇を建造したのだ。
「それじゃあ、小椋2尉の父上は広島の海田市におられたんですね」「うん、終戦時は日本海の隠岐島の守備隊だったみたいだけどね。モリヤ1尉を親父に会わせてみたいなァ」そこまで話したところで私は階段を上り、小椋2尉は外に出て別れた。
- 2016/03/16(水) 10:11:51|
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墓参りのついでに神戸市内を観光したが、そこで余計なモノを見てしまった。
「ここに震災の資料が展示してあるんやって」佳織が仕入れてきた情報によれば、神戸市の中心地・三宮駅前のセンタープラザ内に震災に関する展示コーナーが設置されたらしい。
「淳之介、お父さんやお母さんが出動した時の写真があるからな」「テレビのニュースで見たかも知れないけどね」「ううん、叔母ちゃん、ニュースは見なかったよ」思いがけず淳之介から留守中の妹の生活態度が発覚した。あの馬鹿は相変わらず娯楽番組しか見なかったらしい。そんなことで呆れているとフェニックス館と言う展示会場についた。
会場には夏休み中の多くの家族連れが集まって熱心に展示物を見ている。志織と同じ年頃の幼児を抱いた母親が写真を指さしながら説明しているところを見ると、教訓として何かを伝えようとしているのかも知れない。
「これだけ写真が並んでいて自衛隊の物は1枚もないじゃないか!」全てを見終わって私は怒声を上げてしまった。その大声に周囲の人たちは驚いて後退さったが、ウチの家族は慣れているのでそのまま会話が始まる。
「新聞の写真でも自衛隊の部分がトリミングされてるワ」やはり佳織も同調した。師団司令部に同行していた通信大隊では被災現地でも新聞を入手しており、その中で見た地元紙の写真を加工して展示してあることに気がついたようだ。
「震災の経緯も自衛隊が災害派遣の1行だけだったぞ」普通は第一声だけで音量が下がるのだが、今回はさらに大きくなった。
「結局、神戸市は自分たちと警察、消防だけが救助にあたり、ボランティアが市民を支えたことにしたいんだな」「反対派が強い自治体やからね」「その神戸市が自衛隊の災害救助をどれだけ邪魔したかを、ここに展示してやりたいよ」あの時、神戸市は自衛隊が市立の学校に宿営することに難色を示し、市街地の詳細な情報も渡さなかった(救援物資を積んだ海上自衛隊の護衛艦の入港を拒否したのは港湾労組)。それと同調するかのように上から邪魔した村山政権は私がAOCに入校していた1月18日に退陣し、翌19日には党名を社会党から社民党に変更している。しかし、自分の政治信条を住民の命よりも優先した神戸市長はそのままなのだ。そこに孫らしい子供を連れた中年の男性が声を掛けてきた。
「オタクは自衛隊さんですか?」「はい、そうですが」「奥さんも?」「はい」夫婦で返事をすると男性は一歩さがって深く頭を下げた。
「あの時は本当にお世話になりました」「へッ?」私と佳織は顔を見合わせる。
「自衛隊さんのおかげで我々は真冬の避難所でも凍えることなく過ごすことができました」「はァ・・・」こうしてあらたまった礼を言われると怒っていたのが申し訳なった。
「市役所が何を考えているのかは判りませんが、被災者はあの時のことは決して忘れません」小父さんの言葉に佳織と淳之介、志織は感激していたが、私は1人「山口組も頑張ってたんだよな」と炊き出し現場で会った金バッチさんの顔を思い浮かべた。そう言えば山口組の写真も1枚もないからやはり反戦平和主義者から見れば同業者なのだろう。
- 2016/03/15(火) 09:29:16|
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3月15日は「靴の記念日」ですが、これは明治3(1870)年の明日に西村勝三さんが東京築地に日本初の西洋靴の製造工場を開設したことに由来します。
日本では皮革を使うには手を血に染めて動物の死骸から皮を剥ぎ、なめさなければならないため弥生の農耕文化では禁忌とされ、いわゆる被差別の人の仕事とされてきました。
実際、野僧の母方の曾祖母は渥美半島の豪農の旧家から嫁入りしていましたが、叔父たちが明治の初期に東京で靴工場に就職していたことを知った父親の実家から「穢れた血筋の娘」と極めつけられていました(本当は惨めに没落した父親の実家の虚栄心による断定ですが)。
しかし、西村さんは千葉県佐倉市(長嶋茂雄さんの出身地)の旧藩士であり、それも藩の道場の頭取で、父親は佐野支藩の附家老を務めた名家の出身です。
幕末の混乱の中で武士の時代が長くは続かないことを見極め、脱藩して佐野の商人と横浜に出て貿易を始め、そこで外国人から靴についての知識を身につけたのは卓見と言えるでしょう。
それは渥美半島の田舎から靴の時代の到来を予測して東京に出た曾祖母の叔父たちにも言えるかも知れません。多くの小作人を使っていましたから喰うに困っていた訳ではないのです。
徳川幕府から国政を奪い取った薩長土肥にとっては近代的な軍の創設は急務でしたが、反乱軍が完全に洋式だったのは銃だけで、頭には変形させた陣笠(江川太郎左衛門英竜が考案した韮山笠に近い)、上は西洋式の軍服か筒袖の着物、下は細く仕立てた作務衣のような袴か股引(時代劇の岡っ引きのイメージ)の転用が多く、腰には帯を巻いて刀を差し、足は大半が草鞋でした。
とは言っても軍服や装具品などは輸入によるしかなく、服の袖丈は詰めれば用を足しても靴だけは何ともなりません。そこで兵部大輔である村田蔵六さんから白羽の矢を立てられたのが西村さんだったのです。こうして東京築地の京橋入舟に「伊勢勝靴工場」を設立し、製造を開始します。
ところが村田さんは前年の11月に徴兵制の導入を武士の否定と受け取った毛利藩士に襲撃された時に受けた傷が原因で死亡しており、万事が行き当たりばったりだった明治新政府への納入が約束通り進む保証はありませんでした。
実際、天才・村田さんが企画・立案していたことを凡人の新政府首脳や新米官僚たちが理解するには時間を要し、4万足と言う大量の発注が届いたのは明治3年末になってからでした。
西村さんの工場はその後、同業他社と合併して現在では「リーガル」のブランドで世界的に有名な日本製靴株式会社となっています。
野僧は航空自衛隊一般空曹候補学生で第1術科学校に入校していた時、浜松基地の売店でリーガル・シューズを購入して以来、愛用し続けていました。と言う訳でリーガル会員登録しています。
野僧の場合、空曹時代から制服もセミ・オーダーの私物でしたから亡き妻は自衛隊に官給品の制服があるとは思っていなかったかも知れません。
リーガルの靴は三沢や横田、厚木、横須賀、岩国、座間などの在日米軍に赴任した軍人の間でも人気になり、アメリカでも広まって来日時の土産に頼まれることが増えたそうです。
ところが沖縄にはリーガル・シューズの専門店がなかったため那覇市内の靴店から特別注文が殺到して、野僧が勤務している頃、国際通りに出店しました。
余談ながら日本にも公家や神職が履く「履(くつ)」はありましたが、西洋式のように踵(かかと)を取り付けてはおらず、来日する西洋人が履いている靴を見て(直接、目撃していなくても噂を聞いて)、「獣のように踵がない」と思い込んでいた日本人は少なくありませんでした
- 2016/03/14(月) 09:03:10|
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今年の夏期休暇も伊丹へ墓参りに行った。昨年は佳織のAOC入校前の春彼岸に参って震災の被害を確認したが、盆には出掛けられなかったので1年半ぶりになる。
その間に志織も色々なことが達者になり、今回は佳織と一緒に花や供物を準備している。私はバケツに水を汲んで来て、淳之介と雑巾で墓石を磨きながら側面に彫ってある義母と義祖父母の戒名を説明した。すると淳之介が「お母さんのお父さんは?」と訊いてきた。その顔は真剣だった。
「お母さんのお母さんとお父さんは別れちゃったんだよ」小学生には早いかと思ったが、あえて単刀直入に説明した。
「ふーん、だったらお母さんは僕とおんなじだね」「うん・・・同じだな」私の返事を聞いて淳之介は安心したように雑巾を動かし始めた。
墓石磨きが終わり、供物と花を整えるとモリヤ一家は整列する。流石に「右へ倣え」の号令は掛けないが、自動的に列が整うのは両親の薫陶の成果だろう。
「チーン、チーン、チーン」今年は前山老師から引鐘(いんきん=携帯用の鐘)をもらってきたので読経は少し本格的になっている。
「淳之介、木魚用意」「はい」「舎利らいもーん」「チーン」「ポク、ポク、ポク・・・」「一心頂来 万徳円満・・・」大真面目に法要を勤めている父子の隣りで施主(=法要の主催者)である母は手を合わせながら笑いをこらえていた。
伊丹のスナックには他の客が来る前の明るい時間に顔を出した。
「佳織ちゃん、すっかりお母さんらしくなっちゃって」ママさんはカウンター席で両親の間に座った淳之介と志織の顔を見比べなら嬉しそうに笑った。
「そうでもないでェ、子育てはトップ・ダディ(=最高のお父さん)に任せっぱなしや」「それが判っていれば大丈夫やね」そう答えてママさんは私の顔を見ながら深めにうなずいた。
「淳之介君は何年生になったの?」「小学校3年です」淳之介が答える時の口調と姿勢を正すのは私の影響だろうか。
「志織ちゃんは何歳かな?」「2歳半」2歳児が半年単位で答えるのは間違いなく佳織の影響だ。
「本当は貸し切りにしてユックリ話したいけど、お盆休みは水商売も掻き入れ時だからアカンねん」「うん、子供が眠くなる前にホテルへ戻るわ」「その前にカラオケを唄おう」私の提案に子供たちも身を乗り出した。
「でもウチには子供の歌はないよ」「大丈夫、北島三郎の『詠人』は?」「うん、あるよ」「光GENJIで『勇気100パーセント』?」「うん、あるある」私のリクエストをママさんが確認する。これらはNHKの「おじゃる丸」と「忍たま乱太郎」の主題歌なのだ。
「それがスラスラ出るところは流石にトップ・ダディやね」ママさんの誉め言葉は有り難いが私自身もこの歌が好きでCDを買って来ただけだった。
- 2016/03/14(月) 09:01:45|
- 夜の連続小説8
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昭和40(1965)年の明日3月14日に動物作家である戸川幸夫さんが入手していたイリオモテヤマネコの標本が新種と確認されました。
野僧は西表島には5度行っていますが残念ながら生きた山猫とは対面していません。ただし、復帰前に猪の罠に掛かって食べた山猫の毛皮は島民の自宅で見せてもらいました。
また独身時代のデート・コースだった沖縄こどもの国の動物園には1979年に親猫とはぐれて保護された「ケイ太」が1頭だけ飼育されていましたから野性ではない山猫とは顔見知りです(ケイ太は1992年に老衰で死にました)。
現在は特別天然記念物になっているイリオモテヤマネコも復帰前は島民が飼っている鶏を捕食する害獣扱いされていて、猪の罠に掛かると殺して肉は猫汁にして食べ、皮を剥いで敷き物にされていましたが、復帰後は猫の祖先に当たる世界的にも貴重な独立種として特別天然記念物に指定されたため、島民の友人が「人間よりも大事にされている」と憤慨するような保護が行われています。
実際、イリオモテヤマネコの交通事故死が問題になり、島内に持ち込める車の台数が規制され、交通量を増やさないため島を周回する道路は再三の陳情に関わらず実現していません。
そもそも島民はイリオモテヤマネコを逃げた飼い猫が野性化して、豊富な餌で巨大化した山に棲む野良猫だと思っており、「ヤママヤー(山の猫)」や「メーピカリャー(目が光る奴)」などと呼んでいたのです。
動物に関する記事を雑誌に連載していた戸川幸夫さんは沖縄への取材でこの山猫の話を聞きましたが、やはり「逃げた飼い猫が野性化した変種か、船員などが密輸入して放した山猫に過ぎないのではないか」と疑いました。ところが琉球大学の教授に確認すると「信憑性は高い」と逆に現地での確認を依頼されました。
そこで西表島に乗り込んだところ中学校の教師が猪の罠に掛かった山猫の死体を入手し、皮を剥いで前出の琉球大学の教授に送り、身体は埋めたとの証言を得たのです。
戸川さんはその埋めた場所を掘り起こして骨格を入手すると、島で採集した山猫の糞と教授が受け取っていた皮の3つをセットにして東京国立博物館に送りました。こうして日本哺乳類学会で鑑定が行われ、本日、「新種若しくは新亜種の可能性が高い」との結論が出されたのです。
しかし、沖縄では復帰後、県民に強く被害者意識を植えつけてきましたから、西表島の住人の山猫の保護のために生活の改善が妨げられていることへの不満はつのる一方で、そのためにはイリオモテヤマネコが貴重な新種であることを否定する必要があり、近年では沖縄の学者を中心とする動物学会の一部には「ベンガルヤマネコとの差異はあまりなく、無理に保護する必要はない」と吹聴する輩も現れています。
野僧は対馬へも行ったことがあり、福岡市動物園で飼育されているツシマヤマネコ(=対馬山猫)とも対面していますが、対馬には倍以上=1メートルを超える大きさがあり、薄茶色のオオヤマネコ(=大山猫)と呼ばれる別種の目撃談が続いています。
西表島の住人が先進の生活がしたいのなら石垣島や沖縄本島に移住すれば良いのであって、イリオモテヤマネコはあくまでも保護しなければなりません、
これらのヤマネコは個体としての特異性だけでなく、日本で生き残ったことが貴重なのですから。
それにしても対馬のオオヤマネコが確認されないかなァ。
- 2016/03/13(日) 08:53:52|
- 日記(暦)
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