佳織はCGS出身者から渡された資料で試験勉強を始めたが、苦手な丸暗記に近く頭を抱えていた。夕食の準備、片づけは私がやり、佳織は座卓で資料を開いている。これで淳之介が宿題を終えれば机で勉強をするのだ。
「何で正解を丸暗記するんや。だったら記憶力だけの勝負やないかァ」勉強机の向かいながら佳織が独り言で怒っている。私は佳織と自分の戦闘服のアイロンをかけながらうなずいた。
「陸上自衛隊って不思議だよなァ。陸曹候補生の試験や部内幹候の合宿で教えていても不思議だったんだ」陸上自衛隊の自衛隊法令に関する試験問題では条文の意味は正しくても用語が違うから間違い、中には句読点の位置が違うと言う意味不明の問題がある。このため教える方は間違いが判ると言うよりも気付く必要があり、一字一句を漏らさず頭に入れなければならない。
「航空は違うの?」「うん、航空は米軍直輸入の技術指令書を使っていたから、日本語訳を確かめた上で意味を理解する伝統が残っていたよ」つまり用語が違うのは誤訳でなければ解釈の差と言うことになり、正解・不正解以前の問題なのだ。
「だから貴方は自分で考えちゃうんやね」「仕事もそうだろう」「うん、嵐を呼ぶ男や」私は陸上自衛隊の上意下達と言うより盲従する仕事のやり方がどうしても身につかない。会議で連隊長の訓示に他の中隊長たちが大きくうなずく時にも、1人だけ顔を見返してしまっている。そんな態度を隣席の副連隊長は「反抗的だ」と嫌っているようだ。その意味では失敗だったかも知れないが、佳織と出会えたことだけでも正解としよう。
「私もハワイから日本の中学校に入って、自分の意見を持つことを許さない教育には納得できんかったな」「ワシの小学校はアメリカ式教育のモデル校だったから判るよ」私の岡崎市の伝統的に小学校は疑問探究の気風があったが、3年生の時に県からアメリカ式自主学習のテスト校に指定され、教師は司会進行役で児童が予習してきたことを発表し合って討議する方式で学んできた。ところが全く違う土地柄の中学校に入って自分の意見を持つことを教師からも否定され、教師からも存在を否定されていた。佳織も兵庫県で同じような苦労をしたのだろう。その意味では日本式教育に立ち向かった戦友なのかも知れない。
「そんな話をしてると勉強が嫌になってまう」佳織は頭を振って資料に目を落とし、私はアイロンを終えて片付けると、背後から肩を掴み、そのまま揉み始めた。夫婦なのでこの部分にある性感帯は当然、熟知している。
「だから駄目ェ。感じちゃう」「ウヒヒヒ・・・ゴクリ」このまま肩から手を下げて乳房を掴みたくなる。しかし、佳織は前を見たまま手を振りほどいた。
「今は勉強が任務やろ」「はい、失礼しました」私自身、自分がやっていることを反省し、座卓に戻りPXで買ってきた月刊誌「軍事研究」を開いた。やはり当事者と応援団では「真剣味」と言う点で差があるようだ。

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- 2016/04/30(土) 08:31:18|
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ある夜のパジャマ・ミーティングで佳織が難しい顔をして切り出した。
「大隊長からそろそろCGSを受けろって言われたんやけど・・・」私は飲みかけたグラスを座卓に置いた。CGS(指揮幕僚課程)は幹部としての将来を決める分水峰である。これを出なければ1佐、将官への道はか細くなり(皆無とは言えない)、出れば確実に可能性が開けるはずだ。陸は空よりも学歴重視なのでその傾向は顕著だろう。一方、空はパイロットの腕が学歴に関係ないこともあり、ある程度は実力主義である。
「それにウチならUSアーミーのCGSへ留学する道もあるって言わはるんや」「ふーん、そうなったらWACの将軍の可能性も開けるな」アメリカ陸軍のCGSはアメリカ陸軍指揮幕僚大学校と言って、カンザス大学と提携した修士課程なのだ。その点、佳織はアメリカの大学を卒業しているから修士課程に入校するには有利なのかも知れない。
入校資格はアメリカ陸軍の少佐か中佐で指名者リストに載った現役軍人と同盟国軍の将校で双方の国から推薦を受けた現役の軍人であり、自衛官も海外では公式に軍人=ミリタリー・パーソンに含まれるようだ。
一方、私は影で「部外と言ってもオマケで採用された例外」と言われていており対象外の問題外、何よりも副連隊長以下の上司に嫌われていては手も挙げられないのだ。
「でも、CGSの入校って2年やろ、貴方の演習中はどこかに子供たちを預けられるんかな」確かに現在は佳織と演習が重ならないから交代で1人2役をやっているが、入校となればそれもできなくなる。豊川の実家は妹夫婦が共働きになっておりすでに駄目だった。その理由は家を2世帯住宅に改築するための資金稼ぎだそうだから、幼い頃から押し付けられ、全ての可能性を踏みにじられてきた「長男の責任」からは解放されることになる。しかし、佳織の深刻な顔を前にしてはそんな喜ばしいことにも浮かれることはできない。
「折角、受けてみろと言われたんだから頑張りなさい。受かった後のことは情報収集しておこう」「その前に受かるはずないからね」佳織は肩をすくめてグラスを空けた。
自衛隊も共働き夫婦が増えてきており、CGSではないにしても長期入校をする幹部はいるはずだ。合格すれば人事担当者が前例、他例を調べて助言してくれるだろう。
私が退職して専業主夫になると言う選択は出なかったが、私の中では芽生えている。ただ、その選択を考える時に私の胸には「コンテストで世界一を目指すような理容師になるって言ったら貴方が自衛隊を辞めてくれるの」と問うた美恵子の顔がよぎってしまう。
理容師と自衛官、職業に貴賤をつけるつもりはないが、佳織のためなら天職と信ずるこの仕事を捨てることができる。それは佳織が苦難を分かち合った戦友であり、結婚後も互いの支えを感謝し、支えようと努力し合っているからであり、何よりも日本を守る自衛隊の任務に家族愛を重ねていることは美恵子の前のめりな職業意識とは自ずから異なるだろう。
私は佳織と一緒に自衛官としての夢を追求したいと願っているのだ。
- 2016/04/29(金) 08:48:01|
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1980年の明日4月29日はスリラー、サスペンス映画の最大の巨匠であるサー・アルフレッド・ジョセフ・ヒッチコック監督の命日です。80歳でした。
野僧が最初に見たヒッチコック監督の作品は「The Bird(鳥)」でした。これはテレビの名作劇場だったのですが、父親は日頃、偉そうなことばかり言っている割に臆病で、スリラーや怪談、心霊現象と言うだけでチャンネルを合わそうとしなかったのですが、幸いなことに夜勤だったため大のスリラー好きな母親が子供たちにも見せてくれたのです。
翌日、小学校に行くと同級生たちも見ており、夜更かししていただけに授業中に居眠りする児童が続出しましたが、先生も「鳥を見たな」と笑っていました。
この作品は中学生の時にも放送されましたが、今度は授業中にカラスの群れが校庭に集まっているのを見つけた女生徒が悲鳴をあげ、すると開けてあった窓から各クラスの生徒の叫び声が聞こえてきました。やはり見渡す限り鳥で埋め尽くされた広野を人間が車で逃げていくラストシーンで完全に恐怖心を植え付けつけられたのでしょう。
野僧としては「Rebecca(レベッカ)」や「Psycho(サイコ)」などの人間が精神的に追い詰められていくサスペンス・スリラーが好きでした。
「レベッカ」の亡くなった前妻の影に怯える主人公の行動を本人の視線で映し、台詞も「I」「My」「me」=私と1人称で語らせていたため臨場感が非常に強烈で(英語でもこれくらいは分った)、ドアを開けて部屋に入る時には身構えてしまったほどです。
「サイコ」は後年、まさか自分がサイコパスと結婚する羽目になるとも思わず、映画として怖がっていましたが、実際に殺されそうになる生活は映像とは違った味わいです。
ただし、個人的には亡き妻が怯えて手を握らせてくれたリチャード・フランクリン監督がヒッチコック風に再現した「PsychoⅡ(サイコ2)の方が好きです。
ヒッチコック監督はロンドンでアイルランド系カソリック教徒の鶏肉屋の二男として生まれました。就学年齢に達するとカソリックの寄宿制の学校に入れられますが、このことを「父親に留置場に入れられた」と語っています。14歳の時に父親が亡くなったため工業学校に入り直し、卒業後はケーブル会社で電気技師として働きながらロンドン大学で美術を学びました。
大学を卒業して同じ会社の広告宣伝部に移籍するとアメリカの映画会社のロンドン支社に自作の映画のタイトル画像を売り込んで採用されたことで映画界に足を踏み入れたのです。
こうして映画会社に加わったことで制作現場にも関わるようになり、26歳の時には最初の監督作品「The Pleasure Garden(快楽の園)」を撮り、3作目の切り裂きジャックを題材にした「The story of the London Fog(直訳すれば『ロンドンの霧の物語』だが日本語名は『下宿人』)」でサスペンス・スリラー作品を手掛けました。
その後はイギリスがドイツと第2次世界大戦を始めていた1940年に契約していたアメリカの映画会社があるハリウッドに渡り、傑作を連発します。
ヒッチコック監督の作品はただ怖いだけでなく一種独特のユーモアがありますが、これもイギリス流ジョークのセンスなのでしょう。
また作品に必ず姿を見せるため、それを探している間に物語が判らなくなると言う話もありますが、実際はそれを避けるため前半に登場するように心掛けていたようです。
撮影現場での口癖は「たかが映画じゃないか」でしたが、巨匠が言うから格好いいのでしょう。
- 2016/04/28(木) 09:58:52|
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「中隊長、もうすぐ自衛隊創設記念日がきますが、今年は少し複雑でしょう」「へッ、どうしてかね?」突然の田島2尉からの質問に私は反応できなかった。
「あれほど反対していた国旗国歌法が成立した上、即日施行になりましたから今年は正式に国歌斉唱ですよ」「確かにな」私は小渕内閣が日本共産党の提案を採用する形で法案を提出して以来、「国旗には賛成だが、国歌は反対だ」と一貫して明言してきた。それは連隊の会議の席の雑談でも同様で、他の中隊長たちからは「右翼の民族主義者かと思っていたが、本当は左翼だったのかァ」「やっぱり愛知大学中退だな」と呆れられていた。
「中隊長が反対される理由は理解できますが、やはり生まれた時から国歌と言えば君が代でしたから・・・」私が「君が代」を国歌と認めない理由は歌詞が詠み人知らず=作者不明の恋歌、若しくは上役への胡麻擦りの贈答歌に過ぎず国歌としての体裁を備えていないことと曲は本来の雅楽と西洋音楽の五線譜の演奏では曲調が全く違うことだった。
「それじゃあ、田島2尉はあの暗いしみったれた歌を唄ってやる気になるのかね」「厳粛な気持ちにはなります」知り合いのイスラエル人によれば君が代の歌詞と曲はヘブライ語とヘブライ調であり、ユダヤのカミを称える賛歌なのだそうだ。その意味では田島2尉の感覚は正しいのかも知れない。
「中隊長はどのような歌が国歌に相応しいと思っておられるんですか?」ここで田島2尉が追い討ちの質問をしてきたが、最初の話題から外れてしまっている。
「うん、やはり伝統的な大和民族の魂の叫びみたいな歌がいいな」「叫びですか?」アメリカの国歌「スター スパングルド バッナー=星条旗」やフランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」、さらに中国の「義勇軍行進曲」は軍歌だ。しかし、平和を守ることを職業としている者としては民族を「一億玉砕」に駆り立てるような歌は御免こうむりたい。
「国歌斉唱って号令が入ったら手拍子が始まるような感じだね」「手拍子ですかァ」そう答えて田島2尉が手拍子を始めたので、私も合わせると妙に気分が高揚してくる。
「北からいくぞ!北海名物 ハドウシタドウシタ(北海盆歌=北海道)・・・目出た目出たァの若松さまよ(花笠音頭=山形県)・・・お茶は茶っ切り節(茶っ切り節=静岡県)・・・酒は飲め飲め(黒田節=福岡県)・・・花は霧島 煙草は国分(おはら節=鹿児島県)・・・サー君は野中の茨の花か サーユイユイ(安里屋ユンタ=沖縄県)」いきなり全国民謡メドレーになったが中隊長・幹部室からの手拍子と歌声に廊下を通りがかった誰かが立ち止まったのが分かったので中止した。
「なるほど、これで国旗掲揚すれば朝からテンションが上がりますね」「少し品格には欠けるけどな」確かに観閲式の国歌斉唱で手拍子が始まってしまうと壇上に立つ国旗手は困ってしまうだろう。
本当は君が代を批判する前に世界各国の国歌を聴き比べた中ではスリランカの童謡のような「スリランカ・マータ=母なるスリランカ」が1番好きなのだが、残念ながら鼻歌でしか唄えなかった。
「スリランカ マータ アパ スリランカ ナモー ナモー マータ・・・」
- 2016/04/28(木) 09:57:30|
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「3科の赤木准尉から銃剣道の合宿に誘われましたが断りました」部屋に戻ってくるなり、松山3尉が報告してきた。ここで報告するようになっただけでも成長の跡が見える。
「断った?どうして」「中隊長の銃剣道批判を聞いていると正論だなァって納得できるからです」確かに私は中隊長・幹部室で田島2尉を相手に訓練のあり方を論じあうことがある。その中での銃剣道批判が激烈なのは間違いない。
「しかし、普通科の幹部としてやっていく気なら銃剣道はついて回るぞ」「その頃には僕も中隊長になっているでしょう」それはそうだが、私は一応5段であり喰わず嫌いではない。だから批判にも抵抗力があるのだ。
「それでも陸上自衛隊の幹部としては護身術ぐらい身につけておかないといけないぞ」「その相談です・・・僕には何が向いていますか?」この若造の質問は唐突で困る。しかし、私も密かに適性は考えていた。
「君は武道には向かないな」「はい、大嫌いです」ここまで率直では昔堅気の武道の先生に好かれるはずがない。
「大学時代、庭球をやっていたんだよな」「ウチの大学は全て低級ではないです」「庭球は英語で言えばテニスだ」「それなら判ります。テーキューのサークルでした」大学スポーツの雄・W稲田大学と言っても正式な部活動ではなく愛好会だったようだ。
「ならば答えは簡単だ。ボクシングだね」「へーッ、意外です」「そうかね、根拠を聞きたいんだろう」「はい」松山3尉が配属されてきて1年になり、私も大分、呼吸が掴めてきている。そこでボクシングを推薦した理由を説明することにした。
「テニスとボクシングのフットワークには共通性があるんだ」テニスで相手の球を待つ時の爪先立ちをして踵を左右に振る動作はボクシングの左右へのフットワークと体重の移動方法などが共通している。
「それからボールを受ける時に体軸線からずらすのは他の球技にはない。ボクシングも相手のパンチから体軸線を外すのが基本なんだよ」テニスは他の球技のように身体の中央でボールを受けるのではなく、ラケットの長さ分を外して打つ。この感覚もボクシングのスパーリングで使えるはずだ。
「何よりもボクシングはトレーニングが合理的で武道のように型はない。どうだ向いているだろう」ここまで理論的に説明すれば納得するかと思ったが、松山3尉は「考えておきます」と答えた。やはり彼には彼なりの思考過程があるのだろう。何はともあれお勉強とゲームばかりの若手幹部が戦士に変身する気になってくれたようで少し安堵した。
数日後、松山3尉が嬉しそうに報告してきた。
「中隊長が推薦してくれたボクシング・ゲームは面白いですよ。ありがとうございます」私はガックリと力が抜けて「立て、立て、立つんだジョー」と「明日のジョー」の主題歌を口ずさんだが、隣りで田島2尉は「ロッキー」のテーマ曲を鼻ずさんだ。
- 2016/04/27(水) 09:42:27|
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秋も深まりつつある頃、連隊3科の個人訓練担当の准尉が調整にきた。
「松山3尉を銃剣道の合宿に出してもらえませんか?」「銃剣道の?松山3尉は前川原でとった初段だよ」そう言う私は5段だが銃剣道嫌いは有名なので准尉は乗ってこない。
「はい、副連隊長が『3中隊では銃剣道を知らないことになってしまうから連隊の訓練で経験させろ』と仰ってるのです」「そうですか・・・」確かに銃剣道が陸上自衛隊からなくなることは当分ないだろう。ならば彼の将来のために経験を積ませるべきかも知れない。その一方で、これは准尉の方が指揮官要員の育成のため副連隊長に言った台詞だろうと推察した。
「本人には?」「いいえ、先ずは中隊長の同意をと思いまして」「あまり運動好きではないみたいだからどうかなァ。ワシは無理にやれとは言わないよ」「はい、判っています」松山3尉は前川原では輸送職種を希望したらしいが、その枠をWACに取られて普通科になり、富士学校でも訓練についていけず、「訓練が一番楽だ」と言うことで守山に回されてきたらしい。確かに訓練環境はあまり恵まれているとは言えないが、そこで勤務している者としては「馬鹿野郎」と言いたくなる話だ。
「ところで3中隊は連隊の銃剣道大会も本当に不参加なんですか?」「そう言う訳にはいかないだろう。単なるスポーツ大会として参加するしかないな」どうやら准尉はこの件で私の腹を探りに来たようだった。
64式小銃とは違い89式小銃の銃剣は短い。木銃との長さ=間合いの誤差は開く一方だ。おまけに銃剣道連盟は剣道衣に袴をはいて試合するように改めた。このため公式戦に出場する隊員は予定外の出費がかさみ、訓練後の洗濯にも時間がかかり、物干場も場所を取って困っている。
銃剣道連盟としては自衛隊の御用団体では日教組の顔色を窺う文部省官僚の受けが悪く、学校での部活動や体育の授業に喰い込むためにも古来の槍術の継承者として存在理由を確保したいと言うのが本音のようだ。
「どちらかと言えば徒手格闘の大会をやってもらいたいね」「あれは怪我人が多い上、死人も出ましたから御免こうむります」准尉は「この話題は拙い」と退避態勢に入った。
「そうか?銃剣道だってアキレス腱の断絶が多いだろう」「事故の発生頻度から言えば・・・」「比較するほど徒手格闘の試合教習をやってるかね?」「いいえ、たまの訓練で事故が発生するのは」「訓練不足だろう」私が先回りして出した結論に准尉は反論もせずに退室していった。おそらく連隊本部へ帰って私の暴論を吹聴してくれるのだろう。
結局、陸上自衛隊の訓練は演習のため、大会のためであって実戦性の追求などは現場が考えることではないらしい。
本当は松山3尉には射撃の訓練指揮官をやらせ、陸曹時代から射撃の名手だった小椋2尉から聞いた秘技を伝授しながら射撃徽章を取得させて、普通科の幹部としての箔をつけようと考えていたのだが、これで頓挫することになる。残念だ。
- 2016/04/26(火) 08:56:24|
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平成6(1994)年の明日4月26日にニュースでは名古屋空港、正確に言えば航空自衛隊小牧基地内に台湾の中華航空140便のエアバスA300が墜落し、乗客・乗員264人が死亡しました。この事故が起きた日の基地当直幹部は管理隊長のH井3佐だったので、後日その時の対処内容を詳細に聞くことができました。
この日の夕方8時18分頃、名古屋空港に着陸しようとしていた台湾の中華航空140便は滑走路の東側の小牧基地の旧アラート・ハンガー付近の空き地に墜落したのですが、当時は円高だったため帰路の燃料も名古屋空港で給油しないですむよう満載にしており、機体は激しく炎上して重傷を負った7名を除き、乗客249名と乗員15名の計264名が死亡しました。
H井3佐は強い衝撃と大きな爆発音を聞いて異常事態の発生を察知し、直後に基地の東端にある事務所から事故の報告が入ったので基地内に所在する全隊員に対して乙武装(作業服装にプラスチック製のヘルメットを着用する)と軍手をはめて現地に向かうように基地内一斉放送で命令し、同時に基地司令に報告した上で非常呼集を発令したのです。
このため帰宅途中の隊員も職場に引き返し、入浴中の隊員は内務班(=寮)に戻って着替え、現場に向かったのです。しかし、緊急事態の対処としては仕方ないにしても、指揮系統が確立されておらず、救助に必要な担架や消火器、通信機などの器材も気がついた隊員が携行しただけ、現場に向かった隊員の人数さえも把握できていないのでは、燃料が爆発すれば2次災害の危険性も十分に考えられるだけに指揮としては軽率の謗りも免れられないでしょう。
基地当直としては基地司令と第1輸送航空隊司令部が登庁してくるまで、必死になって知恵を絞り、思いついた指示を出し続けていたので、冷静に状況判断する余裕はなかったそうです。
特に事故発生数分後からは基地当直室にマスコミ各社からの取材の電話が殺到し(基地の交換もパンク状態になっていた)、基地指揮所が開設されたことの連絡も受けられず、必要な報告や指示の電話も不可能になっており(小牧市の警察や消防車両の入門許可なども事後報告になった)、混乱に拍車を掛けました。
事故原因はボーイング社とエアバス社では自動操縦装置を作動・解除させる手順が異なり、機長はこれまでボーイング747に乗機していたため、異常な飛行状況に陥った時、咄嗟にエアバス社製のA300の自動操縦装置を停止させることができず、手動の操作では降下させているのに機体は急上昇と続け、やがてエンジン推力の限界を超えたため失速してしまったのです。この事故を受けてエアバス社は自動操縦装置の作動手順を圧倒的なシェアを有するボーイング社方式に改めました。
日本国内のマスコミの一部は台湾の航空会社が起こした事故を「中国優越・台湾劣悪」の印象を与えることに利用しようとして「機長が飲酒していた」と言う風聞を流しましたが、そのような事実は確認されず、その後も中華航空が日本人の遺族に対して国際標準の賠償額しか支払わないことを非難したものの、これは中華航空に限った話ではなく、日本や欧米の大手航空会社が慰謝料的に過度な賠償金を支払っているだけです。
野僧の同期の友人も救助に向かったそうですが、燃え上がる炎の中から死んだ人たちの魂が浮かび上がり、上空に集まって地上を見下ろしているのを確かに見たそうです。
現場の旧アラートは事故が続発して「未亡人製造機」と呼ばれたF-86D=月光が使っており、夕暮れ時に通ると骨組みだけになった建物の中では死んだパイロットたちが語り合っていましたから、ヒョッとして仲間を招き寄せましたか?
- 2016/04/25(月) 08:55:35|
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結局、美恵子は矢田と離婚した。私との結婚生活は7年弱だったが、今回は4年しかもたなかった。尤も事実上は1年も続かなかったのだ。
矢田は同棲相手が親の承諾なしで結婚できる20歳になるのを待って離婚を切り出すつもりだったところ、美恵子の方から申し入れてくれたので2つ返事で応じ、離婚と婚姻届を一緒に提出して市役所で呆れられた。
地元の新聞は第1報を流しただけで、その後は取材すらしていない。おそらく「米兵が自衛官の妻を強姦した」と言う噂が県民の間で広まり、その続報が流れないことを「自衛隊の圧力」と解釈してくれれば不信感を生み、企図した効果は十分なのだろう。
「美恵子、もう結婚なんて考えずにお前が好きな仕事に打ち込め」父は玉城美恵子に戻った娘を前に座らせて教えを垂れた。
「はい、色々心配を掛けました。ごめんなさい」流石の美恵子も正座をして両手をついた。始めて見る姿に両親は驚きと安堵の入り混じった顔を見合わせた。
「これからどうするね」母は今回の事件で周囲から好奇の目に晒されることになる娘を守る方法を考えている。しかし、その娘の神経は親の常識とは別物だった。
「店長も気にしないで勤めてくれって言ってくれてるから那覇にアパートを借りて住むさァ」「だって・・・」「こっちに帰ってくればモンチュウ(門衆=親族)がうるさいさァ」美恵子にとっては他人よりもモンチュウに何かを言われることの方が煩わしいようだ。しかし、他人の噂は無責任な好奇心だけだが、モンチュウには親身な心配もあるはずだ。それが美恵子には解らないのだ。
「夜の仕事の方は日出子か、夕紀子にやらせるからアンタは床屋だけにするさァ」母は今回、祖母から母親、そして自分、末の妹が引き継いできた小料理屋・スナックを長女か二女に任せるつもりだった。両親にとって性的暴力を受けたことは「身体を汚された」と言う心の傷を負い、女性として立ち直れない程の痛手であり、酔客の無神経な言葉に酒を飲まない美恵子が傷つくことを心配している。
「私は自分の店が持ちたいのさァ。これからはスナックの仕事も頑張るよ」しかし、美恵子にとっては「すれ違いざまに殴られた」のと大差ない事件に過ぎないようだ。
「アンタ、今度のことを知られてる相手と普通に話ができるねェ?」「こっちは被害者だもん。それでお客が増えれば悪くないさァ」理容店の店主も「被害者なのだから」と雇用関係を維持してくれることを約束してくれたが、店主の妻は女性として「晒し者しては可哀そうだ」と反対したらしい。両親は困惑と不安に変えた顔を見合わせ直した。
「モリヤさんが一生懸命に愛してくれていたのも美恵子は何も感じていなかったみたいだな」「種がない畑に水を撒いていたみたいなもんさァ」「矢田も疲れてしまったんだろう」「あっちはただの女好きだよ」美恵子がいなくなった部屋で両親は長く話し合っていたが、この三女の異質の人格ができた原因だけは思い当るところがなかった。
- 2016/04/25(月) 08:53:45|
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1968年の明日4月25日は第2次世界大戦前のドイツ貴族の士官の中で逸早く戦車に着目し、多くの戦車戦で無類の強さを発揮したため「戦車伯爵」と呼ばれたヒアツィント・グラーフ・シュトラハヴィッツ・フォン・グロース=ツァウヒェ・カミネッツ大将の命日です。この長いフルネームのうちグラーフとは伯爵のことです。
シュトラハヴィッツ大将は1893年に当時はドイツ領だったポーランドとチェコの国境に位置するシレジア州グウォグフのグロース・シュタイン城で生まれました。
成長すると名門貴族の慣例としてベルリンの帝室士官学校へ入校し、卒業後は皇帝の護衛部隊に配属されます。この部隊もまた1740年代から歴代国王の護衛を務めてきた名門中の名門=スーパー・エリートでした(日本で言えば十津川郷士のようなものか?)。
シュトラハヴィッツ伯爵は部隊に配属されてからも勉学と鍛錬に励み、第1次世界大戦によって中止になった1916年のベルリン・オリンピックの選手に決まっていたのです。
第1次世界大戦が始まると西部戦線に配属され、中尉に昇任して第1級鉄十字勲章を受けていますが、開戦半年後にはフランス軍の捕虜になり、その時、軍服を着用していなかったため陸戦規則に違反する重大な不法戦闘行為(=戦争犯罪)として死刑の判決を受けています。
陸戦規則をはじめとする武力紛争関係法では指揮官によって指揮され、武器を公然と携行し、軍服(=服装と言うよりも階級章)を着用していることが戦闘員の要件であり、これに反すれば文民(一般的に言う民間人)が戦闘行為を行ったことになり、文民保護に疑義を生ずるため重大な戦争犯罪として処罰されていました。
しかし、ヨーロッパの名門貴族の人脈は敵味方の別なく広がっており、シュトラハヴィッツ伯爵も減刑されて捕虜収容所に送られています。
終戦後は自分の領地に帰りますが、ドイツ全土で激化していた共産主義運動との闘争に個人参加で加わり軍人としての鬱憤を発散していたようです。
その後はワイマール共和国軍の予備役騎兵士官として過ごしますが、再軍備を党是に掲げるナチス党が政権を握ると陸軍の自動車化・機械化を要求するデモに参加し、ベルサイユ条約を破棄するまでスターリンとの密約によりソ連領内で建設・訓練させていた戦車部隊が帰国するのを待って転属しました。ただし、身分は予備役のままです。
第2次世界大戦が始まると戦車部隊を指揮してポーランド、フランス、バルカン半島を暴れ回り、独ソ戦ではソ連軍の猛攻を何度も撃退した戦功で騎士鉄十字勲章、さらにスターリーグラードで包囲された中で敵戦車を100台以上撃破しながら、その時の戦傷で脱出すると柏葉勲章を贈られました。
戦傷からの恢復は形勢逆転してからでした。ソ連の侵攻を迎え撃つ防御戦でも自領を含む東部戦線で多くの戦功を挙げて剣勲章やダイヤモンド勲章を得たものの時すでに遅く、1945年4月に部下を引き連れてアメリカ軍の捕虜になるためソ連軍の包囲を突破してチェコに逃れ、ドイツ南部のバイエルン州で投降しました。
戦後はシリアの軍事顧問になった以外は自領を共産主義・ポーランドに奪われたため西ドイツで暮らしました。
なお、居城だったグロース・シュタイン城はポーランド古城街道の観光名所の1つのようです。
- 2016/04/24(日) 08:50:10|
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「茶山3佐の送別会に出ないか?」ある日、小椋1尉から電話が入った。この茶山門下の兄弟子はAOCを終えて1尉に昇任すると茨城県勝田の施設学校に転属して、船舶工兵を育成しているらしい。
「送別会って転属ですか?」「うん、定年前に東北に帰ることになったらしいんだ」普通科の私には東北方面隊管内の施設部隊の所在地は分からなかったが、カンボジアのオランウータン騒動以来、師と仰ぐ茶山3佐を見送りたいとは思った。
「豊川の割烹旅館であるんだがモリヤ1尉なら実家に泊まれば良いだろう」「・・・それはチョッと」小椋1尉には私の実家が宝飯郡一宮町(当時)にあることは教えていたが、親との不仲までは言っていない。電話口で口ごもった私に小椋1尉は何か事情があることを察したようだ。
「俺も自宅までは帰れないから市内のビジネスホテルを取ろう」「えッ?豊川市内にそんな洒落た物がありましたか」「諏訪の駅前に1つあるんだよ」小椋1尉の奥さんはブスの産地・愛知県には珍しい絶世の美女と評判なのだが、自宅は本宮山の向こう側にあるため愛しい妻が待つ自宅には帰られないのだろう(タクシーでは万単位の料金がかかる)。
それにしても実家を捨てて20年近い間に豊川稲荷だけが売り物の街も少しは開けていることが判った。
茶山3佐が中隊長を務めていた第312施設中隊にはカンボジアで一緒に汗を流した戦友も多く再会を喜び合うことができた。一方、小椋1尉には古巣であり、陸曹時代の先輩たちに取り囲まれて大きな体を小さくしている。
定年退官まで茶山3佐は宮城県の船岡駐屯地の自動車訓練隊の隊長になるそうだ。しかし、茶山3佐の出身地の三戸は岩手県でも青森県との県境なのでニアピンでもないらしい。
「ご実家の近くなら八戸の方が良いでしょうに」小椋1尉と誘い合って酒を注ぎに行くと、知識不足の私に代って質問してくれた。すると酒豪と評判の茶山3佐は汁椀の日本酒を「クイッ」と飲み干すとこの質問をされたことが嬉しそうに説明してくれた。
「船岡は桃太郎を育てた桃爺夫婦が住んでいた土地なんだよ」この話はカンボジアで聞いたことがある。茶山3佐はその桃爺夫婦の末裔のはずだ。
「婆さんが洗濯をしているところに桃太郎が宿った大きな桃がドンブラコッコ、ドンブラコッコと流れてきたのは白石川の上流で、爺さんが芝刈りにいったあたりに小さな祠を建てようと思ってるよ」小椋1尉は奇異な話に私が戸惑うのではないかと心配して顔を見たが、カンボジアで十分聞いていた。
「それじゃあ、中隊長殿の転属は先祖が住んだ土地に子孫が帰るようなものですね」私の感想に茶山3佐は「我が意を得たり」と言う顔でうなずいたが、私も曾祖父がいた駐屯地で勤務しているので気分は一緒だった。
それでは本家を誇る岡山は兎も角として、犬山の桃太郎伝説はどうなるのだろうか?
- 2016/04/24(日) 08:48:56|
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1891年の明日4月24日は世界に冠たるドイツ陸軍参謀本部=参謀システムを確立したヘルムート・カール・ベルハルト・グラーフ・フォン・モルトケ元帥の命日です。甥で第1次世界大戦の時の参謀総長だったヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・モルトケ上級大将と区別するため「大モルトケ」と呼ぶことがあります(当然、モルトケ上級大将の方は「小モルトケ」です)。
ちなみに帝国陸軍の草創期に来日し、教官として近代的陸軍とすることに大きく貢献したクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル少将はモルトケ元帥に直接、仕えていました。
野僧は幹部になって間もなく西部航空警戒管制団司令部で幕僚勤務を経験しましたが、通常、初級幹部のイロハとしては指揮官教育を施されるものなのに司令部だけに参謀学でした。
その時の取っ掛かりがモルトケ元帥で、幹部候補生学校で熟読していたカルル・フィーリップ・ゴートリーブ・フォン・クラウゼヴィッツ少将の「戦争論」の延長線上の教育になったため、馬鹿な頭でも多くを吸収することができたのです。
モルトケ元帥の経歴は異色で、父親はプロイセンの貴族でありながら没落していたため中尉で退役して農場経営に手を出しました。しかし、経営能力に乏しく失敗続きで、デンマーク領内の農場を買うため仕える君主を乗り換えたのです。
このため成長したモルトケくんも次兄と同じくデンマーク王立陸軍幼年学校に入校することになり、19歳で士官学校を卒業すると少尉に任官しました。
ところがデンマークはフランス革命政権と同盟を結んでおり、ナポレオンの敗退と同時進行で失速し、軍隊も縮小されたため、将来に不安を抱いたモルトケ少尉はナポレオンを打ち破ったプロイセン陸軍の士官採用試験を受けて合格したのです。
プロイセン陸軍に移ってからは外国語に堪能で(最終的には7カ国語に精通していた)、国際情勢を熟知するモルトケ少尉は貴重な存在として頭角を現していくことになりました。しかし、没落・貧困貴族の3男と言う経済基盤では陸軍士官としての生活は維持できず(馬も自前で調達・飼育しなければならなかった)、アルバイトとして専門書の翻訳や学術書、さらに小説まで執筆しますが、その中の地図に関する著作が評価されたことで参謀本部の陸地測量部に配属され、参謀への道が開けました。
大尉に昇任した頃、オスマン・トルコを旅行して陸軍大臣に会い、その才能を見抜いた大臣がプロシア陸軍と交渉して軍事顧問になりました。トルコではエジプトとの戦争に参加しますが、モルトケ大尉の専門的助言よりも聖職者からの託宣や宗教的美意識を優先する司令官では勝てるはずはなく、敗戦の教訓を抱えてプロイセンに帰国することになったのです。
ここからはプロイセン王室の信任を得て参謀として辣腕を奮いつつ陸軍の強化に力を発揮していきますが、鉄血宰相と呼ばれたオットー・フォン・ビスマルクとは政治と軍事の専門家として互いを認め合いながら二人三脚でプロイセン=ドイツをヨーロッパ最強の帝国に押し上げました。
モルトケ元帥は「戦史から勝利の公式を見つけることはできない」と言っているように、過去の戦術例を無批判に踏襲することを戒めており、ナポレオンの勝利の原則だった戦力の集中発揮も「時代が変わった」と完全に否定し、鉄道などによる長距離移動で兵力を分散させて包囲し、通信機による命令の伝達で多方面から圧迫、収縮する殲滅戦術を採用しています。
その孫弟子である日本陸軍が何故、日露戦争の失敗例=銃剣突撃を40年間も踏襲し続け、100年後の陸上自衛隊、さらに航空自衛隊まで模倣しているのか?やはり民族性でしょう。
- 2016/04/23(土) 09:42:07|
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「ニィニ、ネェネの事件知ってるねェ」突然、かつての義弟・松真から電話が入った。
「ネェネって矢田美恵子さんか?」私の中で美恵子は他人になっているので呼び方もこうなる。すると松真も心に冷水を浴びたようで声のトーンを落として話を続けた。
「はい、僕の姉の美恵子です・・・一昨日の夜、米軍に集団レイプされたって言うのさァ」「ふーん、そんな事件、新聞には載ってないけどな」私は自宅で産経新聞、職場で中日新聞を読んでいるが、どちらにも載っておらず朝のニュースでも報道されていなかった。
「こっちの北陸新聞でもそうさァ。だけど沖縄の新聞には載ったんだって」松真は今も小松基地にいるらしい。しかし、どう考えても新聞好みの事件のはずなのに本土の新聞には載らず、沖縄の地元紙だけが報じていることには首を傾げるしかない。
「おカァから電話があったんだけど、ネェネは米兵だって言ってないのに新聞が勝手に書いたらしいのさァ」「ふーん、判ってきたぞ」要するに米軍と自衛隊を敵視する地元紙が捏造した記事であり、全く確証がないから本土の新聞やテレビは取り上げないのだろう。
「ところが陸上自衛隊が問題なのさァ」「我が社が何をやったんだ?」松真の口調が重くなったので、私も受話器を握り直した。
「今度の旦那の中隊長が、米軍が関係しているのなら告訴しないように言っているらしいのさァ」美恵子が再婚して4年経っているのだから、そろそろ「今度の」を付けなくても良いだろう。そんなことを思いながら松真の訴えに対する答えを考えた。
「それは中隊長クラスによくいる小心者の考えだな。米軍は個人の犯罪は個人が処罰されるべきだと考えるから犯人が米兵だとしても告訴したからって日米関係が悪くなることはないよ」「ふーん、やっぱりニィニは違うさァ」松真との義兄弟の縁が切れてからも4年になるが、やはり信頼は維持してくれているらしい。
「問題は矢田の立場では中隊長に逆らって美恵子さんに告訴しろとは言えないことだが、美恵子さんが米兵じゃないと思うなら告訴させる方が米軍の潔白を証明することになるはずだよ」こう説明しながら松真はそれを私から矢田の上司の中隊長に言わせようとしているのかと勘繰ったが、航空自衛隊はそこまで深謀遠慮ではないことを思い返した。
「それでおトォがこの機会に別れろって言いだしたのさァ」「ふーん、それは大変なことだねェ」私の反応はあくまでも他人事だ。美恵子に対しては幹部としての可能性を潰された怒りの方が強く、かつて妻だったことは思い出したくもない。
「まァ、傷ついた妻の気持ちも考えないで、職場の上司の言うことに盲従するような男とは別れた方が良いのかも知れないが、美恵子さん自身が選んだ相手だからな」「・・・モリヤ1尉はやっぱり姉のことを許してくれていないんですね」「いや、もう縁が切れているんだ。許すも何もない」この言葉をかつての義弟がどう受け止めるかは判っている。しかし、私が守るべきは佳織と築き上げている今の家庭であって、美恵子とのオママゴトではないのだ。
「お忙しいところ有り難うござました」「はい、さようなら」それで電話を切った。
- 2016/04/23(土) 09:40:17|
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山口県は吉田松陰に代表される国を滅ぼした狂人を数多く生んでいますがこんな狂女もいます。それは「イエスは日本で死んだ」と大真面目に主張した山根キク(本名・菊子)で、昭和40(1965)年の明日4月23日に死にました。
野僧が愛知県岡崎市の小学生だった頃はオカルト・ブームで「イエスの墓は岩手県戸来村にある」と言う話が評判になり、疑問はトコトン探求する校風を発揮して色々な本で調べた知識を持ち寄って議論したものです。
肯定派は古代ユダヤの伝説に「民族が滅亡する時、十の氏族が東方に逃れ、やがて救済のために帰ってくる」とあり、ユダヤ人のアルベルト・アインシュタイン博士が来日した時、「貴方たちは神聖なる士族の末裔だ」と挨拶したと言う雑誌「ムー」の記事を見せました。
別の肯定派は戸来村の「へらい」とは「ヘブライ」のことであり、「『ナニャドヤラ』と言う村人にも意味が判らない踊り囃しがあり、これはヘブライ語だった」と言う話を紹介しました。
この他にも戸来村にはダビデの星を家紋にしている旧家がある。子供の額に十字を描く風習があるなどの仕入れてきた知識で熱弁を奮ったのです
一方、否定派(こちらの方が優等生でした)は「東に逃れると言ってもインドや中国を超えて日本まで来る必要はないだろう」「戸来村の言葉が全てヘブライ語なら信じられるが、1つの単語だけではただの偶然だ」。「星の家紋は明智光秀と同じ桔梗だ」「十字を切るのは日本の祓いの儀式にもある」などと反論しました。
この「戸来村にイエトの墓がある」との奇説の言い出しっ屁が山根キクなのです。
山根キクは明治26年に萩市の醤油醸造屋の長女として生まれますが、8歳の時に母を、続いて父を亡くしたこともあり、14歳の時にキリスト教に染まりました。尊皇攘夷・神国思想の震源地である萩市は意外にもキリスト教が盛んで、現在も市内唯一の私立高校はミッション系です。しかし、祖父の猛反対に合ったため嫁入り修行として修繕学校に入りますが、卒業後に家を出て横浜にある共立女子神学校とフェリス女学院、東京の桜井女塾(ミッション系)に入学しました。
ところが共立女子神学校の卒業式の時、トランス状態に落ちてイエスの復活に対する疑問を大声で叫び問題を起こしています。それでも卒業後は東京で日曜学校を開設するなど布教活動を展開しますが、やがて旧幕臣の男性を婿養子(姉妹だけだったため)に迎えました。しかし、倒幕した毛利藩の庶民と幕臣の武家が上手くいくはずがなく、4人の子供を引き取って離別しています。
その後は現在で言うシングル・マザーの救済団体を起こしたことから婦人参政権運動に参加するようになり、これを利用しようとする政治家と関わりながら名を売っていきました。
そんな政治活動で青森県を訪れたことから宗教者としての意識が甦りますが、それはキリスト教ではなく怪しげな異端の古神道だったのです。
「竹内文書」なる謎の古文書を捏造して日本神話に疑義を唱えていた狂人・竹内巨麿と出会うと、「日本列島は世界の縮図である。世界の宗教が崇拝するカミは全て皇室の血統であり、カミの子であるイエスはこの地に逃れて生涯を全うした」との奇説を自分が共立神学校の卒業式で受けた託宣と重ね、その証明に邁進するようになりました。
この一度思い込めば現実を平気で無視して自分の独断を正当化するために暴走するところが山口県人の血が発する狂気であり、キクも専門外の古代史研究に後半生を賭けたのです。
しかし、純粋性を伴う狂気が人を惹きつける力を持つことがあるのは確かで、吉田松陰ほどではないもののキクの信奉者は現在も存在します。
- 2016/04/22(金) 09:32:52|
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「自衛官の妻を米兵が集団暴行か?」翌日の地元紙の最終面にはこんな見出しが載っていた。新聞の編集者の間では事実の確証によって見出しに用いる表現を段階的に変えている。「か?」と言った場合は告訴された時に「断定はしていない」と言い逃れするための保険の意味合いが強く、これが「?」だけであれば確認が取れていない事実となる。
昨夜、美恵子は覆面パトカーで自宅に送られた。その時、玄関まで送ってきた女性警官は中まで付き添って就寝の準備を手伝おうとしたが美恵子が断った。おそらく生活の様子を探って夫婦関係を確認しようとしたのだろう。
鎮静剤を飲み、自分で布団を敷いて1人で横になったが眠られるはずがない。ただ事件の中で描かれた場面が繰り返し脳裏で上映された。
暗いビルの谷間に仰向けにされて、見上げた夜空を遮るように男たちの黒い影が覆いかぶさってくる。同時に下半身には固い物が差し込まれ、長く忘れていた感覚が身体を貫いた。乳房を掴む指、乳頭を噛む歯、太腿を撫でまわす手も全て忘れたはずの刺激だった。その時、枕元に置いてある携帯電話が鳴った。
「・・・」電話を耳に当てても美恵子は返事をしない。すると相手は大声で話し始めた。
「美恵ちゃん、新聞に書いてあるのってアンタねェ?」それは理容店の店長だった。美恵子はまだ新聞を読んでいない。昨夜、警察署の廊下で記者に会ったのだから新聞に載ることは予想できたが、美恵子にそんな余裕があるはずがなかった。
「新聞、読んでないさァ」美恵子のかすれた声に店長は「ごめん、当分、仕事は休みで良いよ」とだけ言って電話を切った。
「矢田3曹、奥さんが大変だったな。無理して出勤しなくて良かったのに」朝、矢田が部隊に顔を出すと待ち構えていたように先任陸曹が声を掛けてきた。
「へッ?何かありましたか」矢田には返事ができなかった。勉強が苦手な20歳直前の小娘と暮らしている矢田は出勤してから朝礼までの間に中隊の新聞に目を通しているだけなので、自分に関係する「大変な事件」が何なのか判らなかったのだ。
「何かって昨晩、那覇市内で米兵に強姦された理容師の自衛官の妻って言うのはお前の奥さんだろう」「テレビのニュースではやっていないが、琉球タイムスと沖縄新報には載ってるぞ」先任陸曹の大声に集まってきた中隊長以下の面々で事務室は人だかりになった。
テレビのニュースは新聞からの情報提供で制作されることも多いが、誤報による影響が大きいだけに取材も慎重であり、記者の推測に過ぎない事件の採用は躊躇したのだろう。
しかし、まだ新聞に目を通していない矢田には妻=美恵子の身に起こった事件は想像もできず、曖昧に相槌を打つしかなかった。
「お前、まさか自宅から出勤してないのか?」そんな矢田の様子を見て、中隊長は噂になっている不倫関係を事実と断定した。

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- 2016/04/22(金) 09:30:48|
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大正14(1925)年の明日4月22日に戦前の思想弾圧の大義名分とされている治安維持法が公布(国民への周知=刑罰の予告のため官報で公表すること)されました。
戦後しばらくの映画やドラマ、小説や漫画などでは戦前の思想弾圧は憲兵が行っていたかのように描かれていましたが、実際は明治43(1910)年に発生した大逆事件(幸徳秋水などの社会主義者が明治天皇の暗殺を計画していたとして逮捕・処刑された)を契機に発足した特別高等警察が行っていたことを敗戦によって永遠の悪役に決定した帝国陸軍に押し付けたのです。
明治政府=大日本帝国は樹立後から自由民権運動を取り締まりのための集会及政社法、日清戦争後に盛んになった労働争議に対する治安警察法を制定して思想犯の摘発に力を入れてきましたが、大正6(1917)年にロシア革命が起きて労働運動がロシア帝国を崩壊させるのを目の当たりにした権力者が受けた衝撃は大きく、翌年に起きた思想的には社会主義と関係がない米騒動まで「日本国内に革命の危機が迫っている」と考えるようになったのです。
そんな中、1922年に日本共産党が結成されると北海道警、警視庁、神奈川県警、長野県警、愛知県警、京都府警、大阪府警、兵庫県警、山口県警、福岡県警に特別高等課を設置して取り締まりに乗り出し、1928年には全県警に拡充しました。
その一方で大正デモクラシーの高まりを受けて衆議院議員選挙法を改正し、納税金額による資格要件を廃止して25歳上の男性に選挙権、30歳以上の男性に被選挙権を与えますが、これを飴と鞭のように使い、「納税による区分がなくなれば日本を内部から崩壊させる危険思想の持ち主にも被選挙権が与えられて国政を左右される」と危機感を煽り、抱き合わせのように治安維持法を成立させたのです。
その前にも大正12(1923)年の関東大震災の発生を受けて公布された「治安維持の為にする罰則に関する件」と言う勅令をそのまま継続運用しようとする動きも政府にはあったのですが、勅令は法律を制定する時間がない場合に発せられる天皇の命令であり、これを政治利用することは天皇の権威をないがしろにする行為だと批判する声が出て諦めています。
ただし、この時点では思想統制や弾圧を目的とした法律ではなく、暴力革命を画策する危険分子を摘発するための名称の通り治安を維持するための法律でした。
ところが国家神道による神国思想の洗脳を受けている皇道派の青年将校たちの暴走が続発するのに合わせて軍人が政治を牛耳るようになると、治安維持法は軍国主義を確立・強化する道具として昭和3(1928)年を皮切りに何度も改悪されていったのです。
それも「危険な兆候を察知してこれを防ぐ」と言う疑心暗鬼・過剰反応ならまだしも、政府(=軍部)に都合が悪い反対勢力を抹殺するために条文の表現を変え、法律の「不可逆性(後から制定した法律で過去の行為をさかのぼって処罰することの禁止)」と言う絶対的原則を無視していきましたが、それを実行したのは特別高等警察でした。
ところが治安維持法は犯罪行為ではなく危険思想を取り締まる法律であったため刑罰は意外に軽く、ソ連のスパイとして逮捕されたリヒャルト・ゾルゲと朝日新聞記者・尾崎秀実は治安維持法ではなく国家保安法で処刑されています。
尤も、小林多喜二をはじめ多くの逮捕者は拘束・留置中に受けた過酷な拷問と劣悪な環境によって死んでいますから、警察としても罪を陸軍・憲兵に押し付けないといられないのでしょう。
敗戦後も共産革命の機運の高まりに危機感を抱いていた日本政府は治安維持法を維持する方針でしたが、占領軍司令部の命令で昭和20(1945)年10月15日に廃止されました。
- 2016/04/21(木) 09:25:54|
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産婦人科医院では体内に残っている犯人たちの体液を吸引採取され、全裸のまま写真を撮られた。特に乳房に残った歯形の痣は角度を変えて繰り返し撮った。その後、全身の皮膚に付着している唾液を念入りに拭きとられたが、その間も美恵子は全裸だった。
「1番近い性交渉は何時ですか?」「・・・」証拠の採取を終え、看護婦と女性警官に付き添われてシャワーを浴びた後、入院患者用の服に着替えた美恵子は医師の問診を受けた。しかし、美恵子は質問に答えられなかった。
「御主人が相手でなくても構いません」「・・・」医師は美恵子が答えない理由を「不倫」と考えたようだが、あまりにも遠い昔だったため思い出せないだけなのだ。
「思い出せません」「そうですか。ならば体内にあった精液は全て犯人の遺留物と言うことになりますね」「・・・はい」美恵子の返事を受けて医師はカルテに何かを記入したが、背後に立っている女性警官もバインダーに書き込む気配がした。
診察を終え、処方された避妊薬と鎮静剤を受け取った美恵子は再びパトカーに乗せられた。
「お住まいの上原アパートは陸上自衛隊の特借官舎だそうですが御主人は自衛官ですか?」席に座り、走りだすと男性警官が質問してきた。
「・・・はい」「階級は?」「3等陸曹・・・だったと思います」ここでも女性警官は美恵子の返事を全て記入している。
「所属は判りますか?」「普通科中隊のはずです・・・」美恵子の自信のない返事に女性警官は問診で前回の性交渉が思い出せなかったことと考え合わせ、夫婦関係が破綻していると推理した。
それ以上の事情聴取をする時間もなくパトカーは最寄りの警察署に到着した。
同乗していた女性警察官は産婦人科から借りてきた入院患者用の服の上に最初の服を上着のように掛けてくれた。美恵子は身支度をしてから警察署の玄関で下りる。すると廊下で警察署番をしている新聞記者が待ち構えていてストロボを連射して写真を撮った。
「矢田さんは自衛官の妻だそうですね。自衛官の妻が米兵に強姦されたことをどう思いますか?」美恵子は一度も「犯人は米兵だ」とは言っていない。しかし、記者は「レイプ事件=米兵の犯罪」と決めつけており、頭の中では「日米関係の悪化」を期待した記事を下書きしているようだ。何よりも美恵子の個人情報が記者に知られている。美恵子に付き添っている女性警官はかばうような姿勢を見せながらも記者の写真撮影は阻止していない。つまり全てが演出なのだ。
狭い取調室に机をはさんで女性警官と向かい合って座り、パトカーの運転手とは別のベテランの男性警察官が、部屋の隅の席に座って筆記の用意をした。
これから事情聴取が始まる。ここでは今日の美恵子の行動を時間を区切りながら説明させ、すべて終わってから、もう一度、繰り返し、時間などのズレがあるとどちらが正しいのかを確認してきた。

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- 2016/04/21(木) 09:23:37|
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明治17(1884)年の明日4月21日に役行者(えんのぎょうじゃ)に次ぐ我が国第2の修験者と呼ばれた林実利(じつかが)行者が那智の滝から投身入定しました。
実利行者は天保14(1843)年に美濃国恵那(現在の岐阜県中津川市)で農民の子として生まれ、成長すると地元で盛んだった御嶽講に入信し、御嶽山での修行に参加するようになりました。
ある日、お座立て(神佛のお告げを聴く儀式)に参加していると三の池の竜王が現れ、「夜中に水面に姿を現すから、会いたい者は夜中に登ってこい」と誘ったそうです。しかし、他の年長の行者たちは怯えてしまって動こうとせず、実利行者だけが1人で夜道を登り、山頂直下にある火口湖の1つ三の池に向かいました。
翌朝、帰ってきても体験したことは何も語りませんでしたが、既に別人と化しており、山を降りると間もなく妻子を捨てて出家したのです。慶応3(1867)年、25歳のことでした。
ところが翌年=明治元年、反乱に成功して政治権力を手中にした公家と薩長土肥(特に毛利藩士)が尊皇を原理とする神道を国教としたため長年にわたり共同して国家鎮護の験を果たしてきた佛教と神道の分離を強行し、廃佛毀釋の暴風が巻き起こりました。特に神佛融合の信仰形態である修験道は徹底的な弾圧を受けますが、恵那の領主は譜代大名だったため新政府へ忠誠を示す必要があり弾圧は過酷でした。しかし、実利行者は現在も無人の原野である大台ケ原に小屋を建てて隠れ住み、1人で修行に励みます。
明治5年には修験道禁止令が発布されたため警察に追われることになり、それで故郷を捨て中部、関東、東北の霊場佛刹神祠を巡杓しますが、その後に古来からの修験道の聖地である大峯山に入り、山中の岩屋で寝起きして1000日回峰行を2度果たしたほか、日常的に護摩行、水行、断食などの荒行や止観(=坐禅)を勤めていたようです。
その頃は五穀を断ち、木の芽や麦粉、ワラビなどしか口にせず、天狗のような1枚刃の高下駄を履いて山道や岩場、渓流を駆け巡っていたそうですから、伝説と化している役行者が再び姿を現したような存在だったのでしょう。
そんな修行は16年に及び、政府によって修験者を崇敬することを禁じられている庶民だけでなく、皇族の有栖川宮からも宮殿造営の地鎮祭を依頼され、役行者に次ぐ我が国第2の修験者を意味する「大峯山二代行者実利師」の称号を贈られています。
明治16(1883)年には和歌山県の那智山で冬ごもりを行い、翌年の明日、那智の滝の頂にある平らな石の上で結跏趺坐(止観・坐禅の姿勢)を組んだまま信者の眼の前で身を投じて入定しました。数日後、滝壺から引き揚げられた遺骸は133メートルの高さ(30階建に相当)から幅13メートルの水量と共に落下したにも関わらず結跏趺坐のままだったそうです。
山形県の血をひく佛教者として即身佛に憧れていますが、あの行法は密教の秘伝なので五穀断ちによって腐敗し易い肝臓を収縮させることは推測できても、漆などを舐めて皮膚を硬化させる方法が判りません。何よりも現行刑法では生き埋めにすれば殺人でなくても自殺幇助の罪で警察に逮捕されてしまうのです。
また南向きの海岸から小舟に乗って沖へ流される補陀洛渡海(ふだらくとかい)でも良いのですが、これも海流がある沖まで引いていく船が必要なので、賛同者は同様の罪に問われ海上保安庁に逮捕されることになるでしょう。
やはり自衛官として職務に殉ずることに憧れながら果たせなかった「死に損い」は、どこまでも生き恥を晒していくしかないようです(死に損いは健康を害しますから真似をしないように)。
- 2016/04/20(水) 08:29:21|
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「女の人の泣き声がするさァ」「何ねェ、こんなところで幽霊さァ」信号で車が止まり一時の静寂の中、恋人と58号線を歩いていた女性が路地の前で美恵子の泣き声を聞きとめた。
女性は歩道で立ち止まり、耳に手を当てて辺りを確かめる。そんな様子を男性は気味悪そうに見ていた。
「やっぱり女の人の泣き声が聞こえる」「そうか?俺には聞こえないけど」その時、信号が変わって車が走り出したが、女性は男性の手を引き路地に入っていった。
路地には誰かが捨てた段ボールやビールケースなどが積み上げられ、暗い中では前に進めない。しかし、ビルの間に入ると泣き声ははっきり聞こえてきた。すると男性の方が怯え、後退りしたが、女性は勇敢に前進した。
「誰かいますか?」女性の呼びかけに鳴き声は止まった。
「やっぱり幽霊さァ」もう逃げ腰の男性を女性が前に押し出す。すると「来ないで」と言う叫び声が暗闇に響いた。こうなれば男性も事態を理解する。先に立って奥に進み、裸でうずくまっている美恵子を見つけた。
「もしもし、警察ねェ?女の人がレイプされてるさァ」美恵子を確認した女性は路地から裏通りに出て携帯電話で110番に通報した。
パトカーに乗せられた美恵子の肩に隣に座った女性警官が大きめの服を掛けた。座席には股間から漏れ出る犯人の体液を染み込ませるための布が敷いてあった。
「大変でしたね。大丈夫、犯人は必ず捕まえます」女性警官は声をかけながら美恵子の外見を観察する。表情に落ち着きが見えてきたところで項目が印刷されている用紙を挟んだバインダーを左手に持ち、右手のボールペンで記入しながら質問を始めた。
「これから幾つか質問をしますが、御都合が悪いことには答えなくても結構です。ただし、犯人捜査のためにも御協力下さい」これも手順だろう。ただ美恵子はどうみても沖縄出身の顔をしている女性警官が本土の言葉で話しかけていることに「業務」と言う冷たい違和感を感じていた。
「お名前は?」「・・・矢田美恵子」「年齢は?」「32歳」「住所は?」「那覇市小禄××× 上原アパート、○○○号室」「何かお仕事はされていますか?」「理容師」「御家族は?」「矢田浩司」「関係は?」「夫」美恵子は矢田を夫と答えながら一瞬、胸に前夫・少林寺の顔が過ったのに戸惑っていた。
パトカーは先ず市内の産婦人科医院に向かった。それは精液などの証拠を採取するのには新しい方が良いからだ。
女性警官が美恵子に付き添って下りると運転席の男性警察官が無線で報告を始めた。
「被害者の名前は矢田美恵子、年齢32歳、住所は・・・」大声で報告する声がゆっくりと駐車場を歩く美恵子の背中に追い付いてくる。
「夫、矢田浩司・・・」男性警察官の声に美恵子は黙って首を振った。
- 2016/04/20(水) 08:26:29|
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昭和23(1948)年の明日4月20日は「この人が首相であれば対米戦争は起きなかっただろう」と本当に惜しまれる米内光政大将の命日です。正確に言えば陸軍大臣を辞任した畑俊六大将の後任を陸軍が出さなかったことで米内内閣が退陣に追い込まれ、お公家さんの近衛文麿が再登場したもののやはり投げ出した結果、東條英機が首相になってしまったのです。
その東條は岩手・南部藩お抱えの能役者の末裔ですが、米内大将も旧南部藩士の息子でした。しかし、両者を比較して見ると東條の身長163センチは当時としては平均ですが、顔立ちは細かいことにうるさい嫌味な爺さんにしか見えず、逆に米内大将は180センチ超の堂々たる体格であり、鼻筋が通った歌舞伎役者のような風貌は、こちらの方が能役者の血統のようです。また東北の覇者・安倍氏の末裔と称していたと言う話も聞いたことがありますが、それは奥州の米内家の話で米内大将の家系は関西から南部家に仕えましたから便乗した冗談でしょう。
米内大将と言えば映画「日本の一番長い日」で山村聰さんが演じる米内海軍大臣と徹底抗戦を主張する三船敏郎さんの阿南惟幾陸軍大臣と激論を交わす場面が有名なので、軍政家としての面ばかりが評価されていますが、実際は少尉に任官した翌年に鈴木貫太郎中佐(=敗戦時の総理大臣)が指揮する水雷戦隊の「電」に乗り組んで日本海海戦に参戦しています。その後もロシア、ソ連、ドイツに駐在した以外の大半は艦艇に乗り組むか、艦隊参謀や司令官として勤務しており、海軍の隠語で言うかなり「潮っぽい」軍歴です。
そんな米内中将(大臣就任と引き換えに大将に昇任した)が念願の連合艦隊司令長官になって2カ月で陸軍の横暴の末、就任した林銑十郎内閣の海軍大臣に指名された時には「人事には黙って従う」と言う海軍の作法に背いて首を振りましたが、そのおかげで陸軍が推し進める日独伊三国同盟に抵抗することができたのです。
林内閣が崩壊した後は半年単位で首相が入れ替わり、昭和15年には米内大将にもお鉢が巡ってきましたが、何が何でも三国同盟を締結しようとしている陸軍にとっては始めから倒閣させるべき仇敵であったため、就任して半年と3週間で前述の方法で退陣に追い込まれました。
それにしても若し開戦時の総理大臣が東條英機ではなく米内大将だったなら、日米交渉が難航し、アメリカ側が「ハルノート」を提示してきてもそれを受理しながら棚上げにして、アメリカが抗議して来くれば「国内問題を調整中」などと惚け通して、なし崩しにする離れ業ぐらいは使ったでしょう。後に東京裁判で自分の内閣を倒した畑俊六陸軍大臣を弁護して、本人が不利になる点を誤魔化して証言し、それを検事に誤りだと証拠を突きつけられても、「私の記憶違いか、この証拠が間違っているのか判らん」と惚け通し、裁判長から「こんな馬鹿な総理大臣は見たことがない」と言われながらも、最後までそれで押し切った実話がありますからあり得る仮説です。
あれが小心で生真面目な東條大将だったからアメリカの無理無体な言い分を全て馬鹿正直に受け止めて追い詰められ、「戦争も已む無し」と逆ギレして、国民を道連れに破滅への道に踏み込んでしまったのです。
米内大将は戦争中、「ここまで思い上がった日本人が目を覚ますには民族が滅ぶほどの犠牲を払って敗れるしかない」と明言していて、緒戦の勝利には喜ばず、むしろ敗色が濃くなっていくのを冷めた目で眺めていたようです。
この冷徹さは緒戦で連勝して有利な条件で講和しようとした山本五十六大将以上に徹底した戦略家だったのかも知れません。

かわぐちかいじ作「ジパング」より

盛岡市内にある米内大将の墓所
- 2016/04/19(火) 10:06:39|
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「お先に失礼します」美恵子は理容店の勤めを終え、夜の仕事に向かった。第2の職場であるスナックへは理容店からはタクシーに乗っても基本料金から1つカウントが加わる程度の距離で、観光客目当てのタクシーがホテル街へ行っている時期は徒歩で向かうことにしている。交通量が多い58号線の排気ガスを避けて美恵子はビルの谷間の裏通りを足早に歩いて行った。すると暗い通りの向こうから若者らしい3人の影が歩いてくる。
前後に通行人はなく、美恵子は少し足を速めて通り過ぎようとした。すると影は2人と1人に別れ、その間を抜けようとした時、真ん中の影が美恵子を羽交い絞めにした。
叫ぼうとした口にはタオルが押し込まれる。身をよじって逃れようとしたが、1人が足を抱え上げた。引っ掻こうともがいても後ろから抱きつかれていては顔には届かない。
影たちは無言のままビルとビルの合間の路地へ美恵子を引きずり込んだ。
「絶対に喋るなよ。俺たちが本土の人間だってバレると空港で警察が張るからな」これもリーダーになった若者の指示だった。夜の那覇市内の裏通りを歩き回って犯行現場を決め、手順の予行演習も繰り返していた犯人たちの動きに無駄はない。「アッ」と言う間に路地の奥に引き倒された。
「ウグッ、ウグッ・・・」美恵子は叫ぼうとするがタオルは喉にまで押し込まれている。そこで1人が上げさせた両腕を膝で踏み、もう1人が必死にバタつけせている両足を体重を掛けて押さえ、最初に抱きついた1人がスカートの中に手を突っ込んだ。美恵子の仕事着はGパンなのだが、夜の仕事がある日はロングスカートだった。
「ビリッ」呆気ない音を立てて下着が引きちぎられる。準備を終えると凶暴な性器を露出した1人が美恵子の両足を脇に抱えて膝をついた。美恵子は大きな目を見開いて黒い影が圧し掛かってくるのを凝視している。そして・・・。
若者たちが立ち去った後、美恵子は全裸にされていた。最初の1人が身体に入ってきた時、美恵子の中で何かが壊れ、抵抗する気力が失われていた。そんな美恵子に男たちは代わる代わる自分の1部を挿入しながら服を剥ぎ、乳房を揉み、全身を舐め回し、可能な限りの性技を施した。全身には唾液が塗り込まれ、股間には男たちの性液が溢れている。
矢田が家に帰らなくなって4年余、スナックでも私生活を気軽に話す美恵子に客たちは「欲求不満だろう」「慰めて上げるよ」などと口説くこともある。しかし、それを拒否してきたのは美恵子の中で密かに抱いている後悔と自尊だった。
「性行為は愛情の確認作業だ」と言っていた前夫を捨てて矢田に賭けた結果の今を思えば、男に抱かれることなど嫌悪以外の何物でもない。
その最後の自尊心が踏み躙られて美恵子は暗い路地の酔った男たちが撒いた尿の臭いがする土に泣き崩れた。しかし、その涙は夫・矢田への貞操や身体を汚された屈辱ではない。身も知らぬ男たちに好き勝手にされた敗北感だった。
- 2016/04/19(火) 10:00:53|
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1960年の明日4月19日に韓国で学生運動に端を発する反政府運動「4・19革命(サイルグヒョンミョン)」が起きて、現在も後遺症が残る韓国政界の異常性を作った元凶・李承晩(イ・スンマン)大統領が失脚し、亡命に追い込まれました。
韓国の憲法の前文ではこの事件を「悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓民国は、三一運動(1919年に日本からの独立を求める民衆が起こした政治運動)により建立された大韓民国臨時政府の法統及び不義に抵抗した四一九民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和統一の使命に立脚して」と謳っているように李承晩政権は日本と同様に韓国国民の敵と見なされているようです。
李承晩は李王朝の統治下にあった1875年に現在は北朝鮮西側の黄海南道で生まれました。青年期には日本の近代化を見て朝鮮半島で高まった清国からの独立運動に参加すると、その流れで李王朝打倒に移行して逮捕され、同時にクリスチャンになっています。
その後はアメリカに留学して人脈を作りながら帰国すると寺内正毅第3代朝鮮総督暗殺計画に連座して逮捕、アメリカに亡命して前述の三一運動ではアメリカの活動支部を設立するなど海外で活躍していました。
日本の敗戦を受けて帰国すると独立に向けて権力の中心に立ち、済州島で金日成による南北統一国家の樹立を求める住民の蜂起が発生すると韓国軍と警察隊の前身である武装組織を送り込んで全島民の5分の1にあたる6万人を殺戮し、村落の7割を焼き払ったのです。半年後にも李承晩が送り込んだ右翼団体によって同じことが繰り返されています。
こんな人間でも1948年8月15日に独立を果たすとアメリカの後ろ盾によって初代大統領に就任しました。しかし、反対者を虐殺する政治手法に変更はなく、就任から2年弱で勃発した朝鮮戦争でも政府が撤退するドサクサの中で政治犯を大量に殺害しただけでなく、前線に送る物資を横流して利益を着服したとされています。
李承晩は就任以来、大統領の権力強化と反対派の弾圧を繰り返してきましたが、3期目の大統領選挙では圧倒的優位に立っていた対抗馬の候補が急逝したことで勝ちを拾っており、この4期目は84歳の李承晩が権力を維持しながら地位を継承するため絶対に勝利しなければなりませんでした。
そのため対抗馬の選挙妨害を公然と行い、野党への弾圧を強化している中、3月15日に慶尚南道馬山の投票所で野党側の立会人が排除されたことから選挙の不正=無効を訴える街頭運動が始まりました。これに対して李承晩は鎮圧を命じ、警官隊が無差別発砲しましたが、このデモに参加して行方不明になっていた高校生の遺骸が警官隊によって殺害されたことが明らかな状態で発見されたことで、デモが全国に波及し、激化していったのです。
4月18日にはソウル市内の名門私立大学校の学生が国会を包囲しますが、それを李承晩お抱えの右翼団体が襲い、多数を殺傷したため国民の堪忍袋の緒は完全にブチ切れ、全国各地で大学生を中心とする数十万人のデモ隊が大統領官邸や政権中枢の政治家の自宅までを包囲し、これに警察隊が発砲したため、警察署までが襲撃される事態になりました。
これを受け李承晩は戒厳令を施行しましたが、軍も腐敗し切った政権を見限っており命令に従わなかったため、4月27日に辞任を発表し、5月29日にハワイへ亡命したのです。
ただし、韓国の近代史は日本に関する論述を見ても悪意による誇張と虚構に満ちていますから、話100分の1くらいに聞いておかないと評価を間違います。
韓国は現在も「李承晩ライン」を堅持していまから完全否定はしていないのでしょう。
- 2016/04/18(月) 09:34:50|
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夏の観光シーズンが終わりに近づいた那覇市内に妙な若者たちがいた。彼らはホテルを予約せず、空席待ちの安価な料金で沖縄へ来たのだが、目的は言わずと知れた「女性」だった。
今夜も寝床と決めているバスターミナルのベンチでコンビニから万引きしてきたツマミと缶ビールで酔い、大声で馬鹿騒ぎをしている。
「お前だろう。沖縄へ行けばスピードみたいな若い娘と姦り放題だって言ったのは」「俺は上原多香子とできるって言うからバイト代をはたいたんだぞ」「俺は安室奈美恵と姦れるってんで朝から並んだんだ」若者たちは互いの勝手な目的を言い合って揉め始めた。
「それが観光客には無視されるわ」「外人の女は歩いていねェから声も掛けられねェ」この頃は円高のためドルで支払われるアメリカ兵の給与は大幅に目減りしており、むしろ横田・厚木・横須賀の米兵の妻が生活苦から売春していると言う噂があったから、この目的なら沖縄へ来る必要はない。
「大体、地元の女は丸顔のブスばかりじゃあねェか。アクターズ・スクールって本当に沖縄にあるのか?」確かにアクターズ・スクールは沖縄出身の人気タレントを量産しているが、選び抜かれた美少女に歌や踊りのレッスンを施しているのだから、平均値を上回っているのは当然だろう。それも判らず沖縄にまで来たこの若者たちは本当に馬鹿共だ。
沖縄の夏の夜は蚊が多い。ベンチの周りにはこれも店頭から置き引きしてきた蚊取り線香が並んでいる。その煙にむせながら1人が大変なことを口にした。
「このまま1発も姦らずに帰る気か?」「そんな訳ないだろう。元は取るぜ」「それじゃあ、姦っちまうか」「ゴクリ・・・」若者たちは本当に気軽な気分で「犯行」を決めた。
バスの最終便が出た後、辺りに人影はないが、後ろめたい話をする時の習慣として1つのベンチに集まり声を落とした。
「お前、輪姦(まわ)したことがあるって言ってたよな」「おう、族の頃には姦りまくったぜ」3人の中で1番体格が良い若者が胸を張る。これは犯罪歴の告白なのだが悪ぶれた様子はない。むしろ誇示しているようだ。他の2人は尊敬と憧憬の目で顔をのぞき見た。
「ここなら大通りから1本奥の裏通りが狙いだな」「へーッ」「ビルとビルの間の路地に押し込めば、車の音で女が騒いでも聞こえねェ」「うんうん」「路地なら逃げるのも1本道だ」「ふーん」これも完全に犯罪の指南なのだが、教師も生徒も全く自覚がない。
「それから姦る時は最初に入ちまわなければ駄目だぞ」「前戯抜きか?」生徒はエロビデオや漫画で見ている強姦の手順を思い出して質問した。その手の映像ではレイプの前、念入りに女性の身体を弄び、その屈辱で精神から破壊すると言う残酷な描写もあるらしい。
「女ってのは入れられれば諦めて大人しくなるんだよ。触るのは入れてからのお楽しみにしろ」「なるほどォ」「キスなんてするなよ。唇を噛み切られるぞ」「えーッ、尺八(=口腔性交)は?」「絶対に駄目だ」この具体的な講義を見る限り犯罪歴は本当のようだ。
「そいでチ■ポが擦り剥けるからクリームを塗っておくんだよ」「流石、経験者」「おう」話し合いの雰囲気は残酷な犯行ではなくレジャーの計画のようになってきた。
- 2016/04/18(月) 09:33:47|
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昭和18(1943)年の明日4月18日に連合艦隊司令長官である山本五十六大将がブーゲンビルへの視察に向かう途中で米軍機の攻撃を受けて戦死しました。海軍省はこれを海軍甲事件と呼称し、翌年3月31日に古賀峯一長官が殉職した事故を海軍乙事件と呼ぶようになりました。
山本五十六大将は外国軍の将校が「ヤマモト・フィフティーシックス」と呼んで研究するくらい、おそらくロンメル、パットンなどと並ぶ有名人(名将?)ですが、冷静で合理的なリアリストの面と浪花節的な義理人情の面が共存している非常に矛盾した人物だったようです。
この「五十六」と言う名前は父親の高野貞吉さんが56歳の時に生まれた6男であったことに由来し(母親も45歳の高齢出産だった)、山本姓は旧藩主家の周旋で跡取りが戊辰戦争で戦死していた家老の山本家を相続したことによります。
山本大将は砲弾ではなく航空機による攻撃で艦隊の死命を制する空母機動部隊の運用を確立したことで、世界戦史に大きな1項目を遺したものの個々の作戦指揮については明らかな判断ミスも目立ちます。
ミッドウェイ攻撃を決意した動機が米軍によるドーリットル空襲(=東京初空襲)をゆるし、御宸襟(天皇)を悩ませたことへの謝罪であったなどと言うのは作戦そのものの戦略的必要性、情勢判断、費用対効果などの点で疑問が残ります。
この作戦ではミッドウェイ島の攻略に留まらず、北太平洋アリューシャン列島のキスカ、アッツ島の占領も同時に行っていますが、これはアメリカ本土を占領することでアメリカ国民の士気を低下させることを目的としていながら、ミッドウェイの敗戦で連合艦隊機動部隊の主力を失ったため、アメリカの眼前まで伸び切った補給線が維持できなくなり、陸軍のアッツ島守備隊は見捨てられることになりました(海軍が半数だったキスカ島は撤退作戦が実施されましたが)。
さらに空母機動部隊が壊滅状態になると山本大将は戦艦・大和以下の大艦隊が後方に控えているにも関わらず作戦の中止を決断しています。しかし、戦艦などの艦砲射撃でミッドウェイ島を叩き、可能な限りアメリカの空母に肉薄してこれにも攻撃を加えれば、アメリカ空母艦隊も損害を受けていただけに結果は判りませんでした。
東郷平八郎元帥と山本大将の人物比較で、東郷元帥は「天佑神助」の座右の言葉の通り神を信じていましたが、山本大将は無神論者だったと言う話があります(と言いながら山本大将も神社に祀られてしまった)。この「神」即ち「理解を超えた大いなる力の存在」に対する認識の違いが、自己の能力に対する謙虚と過信、戦いに臨んでの惧れ、迷った後の決断と博打、場当たり的独断などの差になって現れたと言われています。ミッドウェイ作戦の途中放棄も好きだったポーカーで負け札を引いたような感覚だったのかも知れません。
その前に東郷元帥には天才作戦参謀・秋山真之中佐がいましたが、山本大将には黒島亀人大佐でしたから日本海軍の人材が払底していたのも確かです。
山本大将は対米戦に反対していたことで戦前は勿論のこと戦後も英雄視されており、数多くの映画が製作されていますが、野僧が見た作品だけでも「太平洋の鷲(1953年公開・大河内傳次郎さん=山本大将を演じた役者)」「軍神山本元帥と連合艦隊(1956年・佐分利信さん)」「連合艦隊司令長官・山本五十六(1968年・三船敏郎さん)」「トラトラトラ(1970年・山村聰さん)」「ミッドウェイ(1976年・三船敏郎さん)」「連合艦隊(1981年・小林桂樹さん)」などがあります。風貌は山村さんが一番似ているようですが(三船さんは真逆の顔立ちです)、背が低かった特徴まで求めるのは2枚目俳優では無理だったのでしょう。

かわぐちかいじ作「ジパング」より
- 2016/04/17(日) 08:41:53|
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「岡倉くんが所在不明になってるらしいんや」今夜のパジャマ・ミーティングで佳織が深刻な情報を持ち出した。
「岡倉が?陸幕の2部にいたんじゃあなかったっけ」「それが人事発令もないまま転出扱いにされて、後任も来たらしいんよ」佳織は陸上幕僚監部1部で勤務しているWACの同期から聞いたらしい。我々の同期の中でも岡倉1尉はマニアックな軍事知識が豊富で、その見解が私とも違うため話し合っていて勉強になった。
その一方で防衛大学校出身者からは「素人(=一般大学出身者)の癖に生意気な奴」と目の敵にされ、大学中退=特例入校の私とは違った苦労もしていたようだ。
「岡倉は自衛隊には必要な人材だけどな」「うん、前川原の頃にウチが貴方のことが好きだって見抜いて色々と相談に乗ってくれたんや」「と言うことはワシが君と結婚できたのは岡倉のおかげか?」「おかげまではいかへんけど、応援団だったのは確かやね」意外な告白に岡倉の顔を思い浮かべたが卒業後は会っておらず、黒縁の眼鏡をかけた少し気難しそうな顔しか浮かばなかった。
「岡倉くんは前川原で堀栄三将補を尊敬しているっていたけど知ってる?」グラスの酎ハイを一口飲んだ佳織が意外な質問をしてきた。
「堀将補ってマックアーサーの参謀だろ」「違うよ、帝国陸軍の軍人や」「これはマックアーサーの作戦を言い当てるからついた仇名なんだ」「ふーん、優秀な情報将校やったんやね」堀栄三陸将補は太平洋戦争当時の大本営参謀でアメリカ軍の戦術を分析し、離島の守備隊に日本軍が常用する水際での防御は上陸前の苛烈な砲撃で戦力を消耗するだけだから内陸に引き込んでの持久戦を取るように指導を与えたが、それを無視したガダルカナル島やサイパン島は早々に全滅・陥落し、実行したペリリュー島や硫黄島はアメリカ軍にも多大の損害を与え、作戦の進行を大幅に遅滞させた。
「それで戦後は自衛隊に入ったんだけど、情報の第一人者として影では大変な活躍をしたらしいんだ」「情報関係の人は表には出てこないやろうからね」「赤旗が出している本では米軍のキャンプ座間の中にJCIAを作っているって書いてあったよ」「ほんまかいな」
「いわゆる陸幕第2部別室って奴だ」ここまで来ると話が嘘っぽくなってしまう。
「そう言えば震災の時、現場の取材にきた記者の中に岡倉そっくりな人がいたんだ」「それは初耳や」「うん、視線も合わせんかったから本人とは確認できなかったからね」しかし、岡倉の謎の人事を考えると堀将補が果たしていた役割の一翼を担うことになったのかも知れない。つまり会っても他人の顔をするのが同期としてのケジメだろう。
「岡倉って独身だったっけ?」「うん、結婚したって噂は聞いてないね」「家族は?」「ウチと一緒で大学生の時に亡くしたらしいんよ」「ふーん、だったら任務になり切ることができるな」私の独り言の意味を佳織は理解し、静かにうなずいた。
「それにしても同期名簿はどうするんやろ・・・」関西人の作法として話には落ちをつける佳織だが、今回はあまり冴えていなかった。
- 2016/04/17(日) 08:39:58|
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昭和23(1948)年の明日4月17日は第2次世界大戦の最終局面で総理大臣に就任し、本土決戦を叫ぶ陸軍の「狂」硬派(「凶硬派」でも可)を翻弄し、ポツダム宣言の受諾を決めた日本国存続の最大の功労者である鈴木貫太郎海軍大将の命日です。
鈴木大将は慶応3年に現在の堺市中区伏尾(沢口靖子さんの実家に近い)の幕臣の家庭に生まれ、長薩肥土出身者(順番に注意)がこの国を私物化した明治時代には優秀な若者が選ぶ花形の職業であった軍人になりました。しかし、海軍でも島津藩出身者ばかりが優遇されており(毛利藩の陸軍ほど露骨ではないにしても)、嫌気がさしていたところに父親から「日露関係が緊迫化している今こそ国家のために奉公せよ」と言う手紙が届いたのです。そこで思い留まって日本海海戦では水雷戦隊司令として勇名を馳せ「鬼貫」と呼ばれることになりました。ちなみに秋山真之参謀の作戦では昼間は艦隊主力の丁字(ちょうじ)戦法による砲撃、夜間は炎上する艦影を目標に水雷戦隊による雷撃でバルチック艦隊を殲滅することになっていました。
その後はドイツ駐在武官、海軍次官、連合艦隊司令長官、軍令部長を歴任しますが、昭和天皇とその母親である貞明皇太后の要請で侍従に就任して予備役に編入されています。ところが昭和11(1936)年に生起した2・26事件では安藤輝三大尉が指揮する歩兵第3連隊の襲撃を受けて危うく命を落としかけます。安藤大尉はそれ以前に鈴木大将を訪ねて酒を酌み交わして心から信服していたそうですから、この襲撃自体が海軍を「西洋かぶれの貴族趣味」と毛嫌いしていた陸軍皇道派上層部の指示に寄って行われたことの証明でしょう。
鈴木大将は妻の懇願を入れてとどめを刺さなかった安藤大尉のことを「命の恩人」と呼び、刑死した時には「惜しい若者を死なせてしまった」と残念がったと言います。
こうして重傷を負った鈴木大将は元老的な役割を果たし、対米戦末期の昭和20(1945)年4月には枢密院議長になっていましたが、その時も天皇から戦局の悪化の責任を取って辞職する小磯首相の後任の指名を受けることになりました。ちなみに鈴木大将は江戸時代に生まれた最後の総理大臣であり、77歳2カ月での就任は現在も破られていない最高齢記録です。
鈴木大将は東條英機など陸軍の狂硬派の前では、かつての英雄の顔で「ポツダム宣言など黙殺するのみ」「一億玉砕已むなし」と同調しながら、裏では和平に向けて着々と手を打ち、最後には天皇の聖断を仰ぐ形で陸軍を抑えてポツダム宣言を受託し、無条件降伏を実現させたのです。
現在の戦史研究者の中には鈴木大将が陸軍の前で吐いた強硬論を軍人としての本心であったと曲解する輩もありますが、海軍軍人は水練がお家芸なので、陸軍と言う波風を避けるための遠回りをしたのだと理解するべきでしょう。
また、首相就任5日後の4月12日にアメリカのルーズベルト大統領が死去すると鈴木大将は短波ラジオで「今日、アメリカが優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によってアメリカの日本への戦争継続の努力が変るとは考えておりません。我々もまた貴方たちの覇権主義に対して今まで以上に強く戦います」と言う談話を発信し、それをアメリカで聴いた亡命ユダヤ人作家・トーマス・マンは感銘を受け、「ドイツ国民の皆さん、東洋の国・日本にはなお騎士道精神、人間の死に対する深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな言葉の精神に比べて貴方たちドイツ人は恥しくないのですか」と大統領を口汚く罵ったヒトラーを批判しています。
2・26事件でこの人物を殺さなかった安藤大尉は「日本の恩人」なのかも知れません(=逆説)。
- 2016/04/16(土) 09:30:43|
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岡倉は完全に自信を喪失してアメリカに戻った。フリー・ジャーナリストとして面会したリカルド大佐に一目で自分が軍人=自衛官であることを見破られたのだ。
岡倉は陸上幕僚監部第2部へ配置される前、調査学校で情報幹部としての基礎教育は受けている。しかし、調査学校では技術的な内容が中心で、諜報に属するところまでは踏み込まなかった。
ある日、映画「陸軍中野学校」を見せた後、旧軍出身者から直接教えを受けた教官が「戦前はここまでやったが・・・」と言って講義を終えたことがある。つまり「自衛隊ではやれない」と諦めの心境を吐露したのだろう。
「俺には何が足りないのか?」防衛駐在官にペルーでの突入作戦のレポートを提出した後も岡倉はその自問自答の中で苦悶している。日本人にとって諜報活動は陸軍中野学校でなくても「007」や「スパイ大作戦」で描かれる架空の世界に過ぎず、それは自衛官も例外ではない・・・はずだった。
ニューヨークの雑然とした街を歩きながら答えを探していると、路地から軽快な音楽と手拍子が聞こえてきて、岡倉は吸い寄せられるように入って行った。するとビルの1階ホールで少女たちがクラシック・バレーの練習をしているのが窓越しに見えた。
「Un,deux,trois(アンド、ドゥ、トロワ=1,2,3)」助手と思われる女性がフランス語で掛け声をかけながら手拍子を打って少女たちに集団演技の練習をさせている。
それとは別に指導者らしい中年女性が窓際で美しい少女に指導をしていた。発表会が近いようで主役を演じるらしい少女は単独で踊り始めるのだが、それを中年女性が遮ってやり直しを命じている。それが何度も繰り返えされて少女が泣き出した。
「厳しいなァ」岡倉は少女の汗で濡れた金髪と紅潮した頬、涙を浮かべた青い目を窓越しに見ながら「頑張れ」と応援していた。その時、中年女性が厳しい口調で言った。
「Get into character(=役になり切りなさい)!」岡倉にはその言葉が自分に向けて放たれた託宣のように思えた。
「役になり切る」自分の中に果たしてフリー・ジャーナリストを演じる上での知識、技術があったのか?阪神大震災の時、自衛隊の活動妨害を企図して取材をしているマスコミ関係者の実態を調査するために同行したことがあった。それにはCGS後の企業研修で新聞記者を経験した隊員からの助言を受けたのだが、別に怪しまれることもなく任務は達成できた。しかし、海外では「敵」に対する危機感=警戒心が平和ボケした日本とは格段に違う。岡倉は自分に足らないモノが判明し、その足で演劇学校と語学学校を訪ね、入学手続きを取った。
CIAの諜報員育成コースでもプロの演出家から役作りの教育をかなり本格的に受けるらしいが、それに参加すれば日本以前にアメリカ合衆国に忠誠を誓わなければならなくなる。あくまでも岡倉はスパイではなく「公儀隠密」になるつもりなのだ。
- 2016/04/16(土) 09:29:20|
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演習終了後は滝ヶ原駐屯地に泊まり、久しぶりの入浴の後、幹部は隊員クラブで普通科教導連隊との懇親会になる。
「おう、モリヤじゃないか」そこには防衛大学出身の幹部候補生学校の同期がいた。防大出身者は人事的に一般課程出身者よりも優位に立っているので少し見下すところがある。彼は4歳年下だがこうして当たり前のように呼び捨てにしたことでも明らかだ。何よりもエリート部隊にいることがその証明だろう。我々は練度が上がらない隊員たちを叱咤激励し、始めから規律心がない若者の生活に目を光らせ、保育園の保父か小学校の教師のような勤務をしているが、全国から優秀な隊員を集めた教導連隊では担がれる御輿になっていれば良いのだ。
「これはお世話になりました」分をわきまえて私も一応、一歩引いた挨拶をする。
「ところで伊藤ちゃんは元気か?」「うん、今頃は名古屋で子守りに頑張ってくれてるよ」佳織も同期であるからこの出だしも不思議はないが、旧姓で呼ばれるのには少し違和感がある。すると彼は私のグラスにビールを注ぐと仕事の顔になって訊いてきた。
「それでお前は何中隊だ?」「3中隊だよ」「3中隊って一番右翼を守っていたんだよな」「うん、こちらから言えば左翼だけどな」私の返事を聞いて彼は黙ってビールを飲んだ。
「あそこだけはゲリラが潜入しようとしてもいつも待ち伏せされたって言うんだ」「うん、だろうな」「何か秘密兵器でも持っているのかってウチの連中も首を傾げているんだ」彼は謎解きの相手が同期と判り、答えを待って顔を覗き込んだ。
「ワシは坊主だぜ」「うん、そうだったね」「だから毘沙門天の守護があるのさ」「へッ?」彼は答えをはぐらかされたように思ったのか、少し不満そうな顔をしてまたビールを注いできたので、今度は私もビンを受け取って注ぎ返した。
「要するに内緒だから秘密兵器なんだよ」「ふーん、それって高いのか?」「うん、入手困難だね」どうやら市販の商品を使っていると勘違いしたらしい。
「ところで教導連隊って仮想敵の戦術なんかは研究しているのか?」「えッ?」落ちこぼれた同期からの奇襲攻撃にエリート幹部は対応できなかった。
「航空自衛隊の飛行教導隊はロシア軍の飛行方法なんかを研究してるんだぜ」「そう言うことはもっと上が考えることで、俺たちはそれが実施できるように練度を上げることだよ」エリート幹部は無用の反撃はせずに建前と言う陣地に退避する状況判断をしたようだ。
「それにしても舗装が行き届いた日本の道路で地雷を埋める場所なんてあるのかなァ」これは敵部隊の侵攻を阻止する定番である地雷原の非現実性を指摘している。地雷は地面に穴を掘って埋設しなければならない。したがって道路が舗装されていては埋めようがないのだ。かと言って平原がない日本では道路以外を走行するのも難しいであろう。
「相変わらず禁句を平気で言う奴だな。そんなんじゃあ、上に嫌われて出世できないぞ」彼の答えに私は陸上自衛隊で幹部として生きていく上での秘訣を再認識した思いだった。どちらにしろ私には無用な「教え導き」ではある。
- 2016/04/15(金) 09:54:25|
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月のない暗夜には攻撃側がゲリラを潜入させてくる。然もそれは精鋭・普通科教導連隊であり並みの隊員では見逃してしまい、どこの中隊も損害を出して連隊指揮所も対応に大あらわだった。そんな中、私の中隊では被害がなかった。
「今、北側から1個分隊が来ているな」「えっ、先ほど西から2、3名と言う報告がありましたが」「それは陽動だ。控えの隊員に迎え撃つ準備をさせておけ」すると間もなく配置についている田島小隊の北側の歩哨から「別のゲリラがいます」と報告が入り、指揮所のメンバーは顔を見合わせた。
「よし、いらっしゃったな」私の返事を聞いて即座に迎撃の命令が下り、ゲリラを包囲・捕獲することができた。そんなことが繰り返され、やがて「中隊長のお告げ」と言う評判が広まっていった。
演習の最終日には敵が大規模な攻勢を掛けてくる。普通科教導連隊の装甲車両が道路を無視して進撃してくるのを設想・施設中隊の補佐官が示した地雷原で阻止し、同時に陣地から車載の対戦車ミサイルや携帯式のカール・グスタフが発射される。そこで下車した敵の兵士を包囲して攻撃を加えると言うのが台本だった。
いつもの演習では「射ったつもり」「当たったはず」の白けた戦闘状況だが、今回はバトラーを着けているので対戦車ミサイルが命中すると赤煙が上がりブザーが鳴り響く。隊員も姿勢が高ければたちまちブザーが鳴って戦死、負傷と判定される。
「ここからじゃあ状況が見えないなァ」全力配置になって中隊の担当区域の左翼を守っている2小隊の中央で松山3尉は苛立っていた。我々が配備についている木立の各所で銃声は聞こえてくるが、バトラーの照射距離では敵の動きが見えないのだ。
「小隊長、頭を上げては危ないですよ」隣りからベテランの陸曹が注意したが松山3尉は無視して頭を上げる。すると前方で発射炎が光り、腰のブザーが鳴り出した。
「はい、小隊長は頭部銃創で戦死」ブザーの音を聞いて補佐官が駆け寄り、拳銃型の機械で松山3尉に警報解除の光線を浴びせ、淡々と事務的に判定を下した。
「2小隊長が戦死しました」「そうか、予定通りに根〆1曹が指揮を執れ」「予定通りですか?」「だったろう」私は松山3尉の戦死を予定しており、小隊先任陸曹に指揮を交代させる準備をさせていた。そして重迫撃砲中隊の一斉射撃で敵を沈黙させた後、包囲網を縮め殲滅して状況は終わった。
状況終了後、補佐官によって戦死と判定された隊員たちが帰ってきたが、陸士たちの中に松山3尉が入っている。そこで私はドカンと気合を入れた。
整列した中隊の前に戦死者を並べて寝かせ、礼式通り田島2尉の号令で捧げ銃をし、ラッパ手が弔悼ラッパを吹奏した後、私が真ん中に座って棒切れでヘルメットを叩きながらお経を挙げたのだ。すると陸士たちは泣き出し、松山3尉は青ざめて固まっていた。
- 2016/04/14(木) 09:33:18|
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東富士演習場は本州最大の演習場である。富士の裾野の原生林と赤土の大地が広がり、2つの普通科連隊が4つに組んで戦うにも十分だった。
状況は教導連隊が攻撃、我々が防御で演習場の中央道路を大都市への経路としてそこを前進してくる敵を阻止するシナリオだ。本来であれば特科1個大隊と機甲(戦車)科1個中隊、施設科1個中隊を普通科連隊長の指揮下入れて戦闘団を編成するのだが、そこは設想(想定)=「いるつもり」で演習の統裁部が指示することになる。
防御側の演習は陣地構築から始まる。連隊司令部から示された担当地域に中隊本部や隊員が待機する壕を掘り、歩哨の配置を決めてそこにも壕を掘った。ただし、富士の演習場は赤土なので饗庭野などと違い晴天なら簡単に掘れる一方、雨が降ればたちまち流れて崩れてしまう。
「この壕は深さが5センチ足りないぞ。もう少し掘らせろ」「はい、判りました」「こっちは幅が7センチ広過ぎる。埋めて修正しろ」「えーッ、埋めるんですかァ?」こんな時も曹候補学生の優秀な頭で普通科一筋に学んできた田島2尉は頼りになるが、松山3尉は教範と首っ引きで巻き尺を持ち出して寸法を測っては隊員に呆れられている。
「2小隊は間に合いますかね?」そんな様子を見て帰った先任陸曹が心配して報告した。
「間に合わせるんだ。それをやり遂げればお勉強だけでは通じないことが身に染みて判るだろう」「それはそうですが・・・」私は暗闇の中で陣地構築する方法を2小隊の先任陸曹に研究させている。それが役に立つだけだ。しかし、私自身は「舗装が行き届いた現代の道路網でどこに陣地を作れるような場所があるのか」と白けていた。
そんなことをやりながら3日が過ぎ、連隊長の準備確認を受けていよいよ戦闘状況が始まる。松山3尉の陣地もベテラン陸曹たちの仕事で何とかなった。
私は中隊指揮所の天幕に座り、連隊指揮所から入る状況を確認していた。警備は両小隊が交代で配置につくので小隊長には仮眠を許可していたが、田島2尉は指揮所で状況を聞いているものの松山3尉は個人天幕で寝ている。
「中隊長、松山3尉に言った方がいいんじゃあないですか」これには田島2尉も気分を害しているようだ。中隊本部のベテラン陸曹たちもうなずいた。
「うん、ワシが言ってもいいけど、田島2尉からアドバイスとして言った方がいいかもな」松山3尉も幹部であり、頭から叱りつけてプライドを傷つけるのには少し躊躇いがある。その一方で「始めが肝心」と言う気もしていた。
「あの手のお坊ちゃんはビシッと言わないと判りませんよ。お願いします」「うん、俺の性格から言えば演習で失敗したところをドカンとやるのが好みだな」「しかし、それでは中隊長の恥になります」「今更、恥をかいても単なる上塗りだぜ」私の返事に天幕にいたメンバーは顔を見合わせて黙った。どちらにしろ目を覚まして配置につく時、状況が判らなければ指揮はできない。そこでドカンだろう。
- 2016/04/13(水) 09:54:43|
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名古屋市内にある守山駐屯地の問題点は訓練場が近くにないことである。同じ普通科連隊でも金沢には三小牛山演習場、久居には風早演習場が近くにあり、日常的に訓練ができるが守山ではそうはいないのだ。
また第10師団が使う演習場では滋賀県の饗庭野が広い方だが(ただし第3師団管内)、中には航空自衛隊の高射部隊や特科の射撃場があって広さの割には使い勝手が悪く、おまけに周囲が高く中央が低い盆地地形のため部隊を展開させるには不十分だった。ましてや対抗演習をやるには狭過ぎて、数人のゲリラからの攻撃への対処しか演練できていない。そんな中、東富士演習場で普通科教導連隊との対抗演習が実施されることになった。
今回の演習では交戦判定装置・バトラーを使用する。これは空砲と同時に光線が飛び、身体に装着したセンサーに当れば命中になる優れ物のだ。しかし、我が中隊の2小隊長は着任して半年の松山3尉で、私が四国の国分台演習場で徹底的に叩き込まれていた基本的な指揮もほとんどやらせていない。私は演習とは言え「指揮官戦死」さらに「中隊全滅」を覚悟していた。
「中隊長、富士では駐屯地泊の時、外出してもいいですか?」いよいよ演習が近づいてきた頃、松山3尉がトンデモナイことを訊いてきた。隣りで1小隊長の田島2尉が呆れた顔をしているが一応話は聞くことにする。
「学生の時、キープしたボトルが残っているはずなので、空にしないと勿体ないと思いまして」松山3尉は悪びれる様子もなく平然と説明するが、田島2尉は呆れを通り越して少しイラついた顔になる。部内出身の田島2尉はこのお坊ちゃん気分丸出しの新任3尉が許せないらしい、しかし、どちらも今回の宿泊が富士駐屯地ではなく滝ヶ原駐屯地であることには気がついていないようだ。
「それじゃあ、演習が終わるまで戦死せずに生き残れたら許可しよう。死んだら諦めろ」「そうですかァ、だったら大丈夫ですよね」「無理だな・・・諦めろ」松山3尉と田島2尉が言い合いを始めた横で私は「宿泊は滝ヶ原だと教えようか」と思案していた。
数日後、演習の命令が発令され、それを読んだ松山3尉が唇を尖らせた。
「中隊長、宿泊は滝ヶ原じゃないですか?」「うん、そうだろう。教導連隊との対抗演習だからな」私の返事に隣りの田島2尉が膨れた松山3尉の顔を見て噴き出した。
「それじゃあ外出は結構です」「そうか?でも戦死はするなよ」「はい、勿論です」私は指揮能力の向上と隊員との結束を強化するため両小隊には小隊教練をやらせている。また駐屯地のグランドや外周道路などを使って小隊指揮要領の演練も繰り返しているが所詮は素人であり、初心者に高速道路を走らせるようなものだった。それでも松山3尉は夜な夜なコンピューターのシュミレーション・ゲームで鍛えていることで絶対的な自信を持っているらしい。
- 2016/04/12(火) 09:49:22|
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