大正7(1918)年の明日6月1日に第1次世界大戦の青島攻撃で捕虜になったドイツ軍将兵を収容していた徳島県鳴門市の坂東俘虜収容所で海軍の水兵、H・ハンセンの指揮によりベートーベンの交響曲第9番「合唱つき」が公演されました。
この事実については昭和16(1941)年に出版された書籍で紹介され、帰国した捕虜たちによってドイツでも語り継がれていたにも関わらず日本では戦後の陸軍断罪の空気の中で意図的に抹消され、地元以外では知る者がいない状態でした。
それが戦後の日本陸軍がやったことは全て悪とする断罪史観が薄まり始めた1990年代になって会津出身の松江豊寿所長の寛大で人道的な組織運営を評価する空気が起こり、その中でこの事実が広く知られるようになったのです。
それでも陸軍=日本軍を賛美することを嫌う歴史学会や音楽関係者たちは理由をつけて最初の公演であることを否定することに躍起になっていました。
例えば坂東には木管楽器であるファゴット(英語名はバスーン)やコントラファゴットがなかったためオルガンで代用したことを取り上げて「正規の編成ではなかったから正式な公演とは言えない」と主張し、収容所には女性がおらず男性だけの合唱だったことでも同様の見解に結びつけました。それでも否定し切れないと判ると今度はドイツ人による演奏では日本初とは言えないと詭弁を弄しましたが、それでは欧米の楽団や歌手の来日公演で初めて披露された曲や歌も日本人が手掛けるまで認められないことになってしまいます。
さらに坂東を描いた映画「バルトの楽園」ではこの演奏会に多くの地元住民を招いて盛大な拍手を受けたことになっていましたが、実際は捕虜や所長・所員(日本兵)だけが聴衆だったため、このことでも「日本初」とは言えないと断じています。
翌年末には久留米の俘虜収容所でも編成されたクラシック楽団が地元の高等女学校で演奏会を開き、ここでも多くの曲の中で第9番の合唱がない第2、第3楽章を演奏したされており、こちらを一般の聴衆を前にした初演奏とする声もあります。
ちなみに2日後には久留米収容所内でフルコーラスが演奏されていますが、この時も男性だけの合唱だったため前述の人たちは認めていません。
逆に彼らが「日本初」と主張しているのは坂東から6年後の大正13(1924)年に皇太子(=昭和天皇)の成婚を祝して九州帝国大学の学生オーケストラが第4楽章だけを演奏したことですが、この時の歌はドイツ語の原詞や日本語の訳詞でもなく、文部省が制定した「皇太子殿下御成婚奉祝歌」だったのですから空いた口がふさがりません。
日本の近代史はこのような連中によって評価されていることを覚えておきましょう。
ちなみにベートーベンの交響曲第9番「合唱つき」の第4楽章「歓喜の歌」は統一前の西ドイツが国歌の代用にしていたほど愛されており、日本では年末のテーマ曲と化しています(ドイツでも年末に定期演奏会を開いている有名楽団はありますが日本ほどの国民的行事ではありません)。
俗説では年末にオーケストラと合唱団の両方に新年を迎える収入を与えるための方策と言われていますが、戦後の生活苦の時期から始まった風習なのであながち虚構とも言えないようです。
ただ、最近は「第9=だいく」と略称で呼ぶことが増えたので「建設業の主題歌」のようになっています。逆に「合唱」だけだと「お手々のしわとしわを合わせて幸せ・合掌」とウチの業界でしょう。
ちなみにドイツ語や日本語の歌詞が覚えられない人は童謡「村の鍛冶屋」の「暫しも休まず槌打つ響き 飛び散る火花や走る湯玉 ふいごの風さえ 息をもつかず 仕事に精出す村の鍛冶屋」の歌詞が曲にピッタリ合うのでこちらでどうぞ。
- 2016/05/31(火) 08:39:55|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
ハンゾー=岡倉はジェームズの助言を受け、取り合えず市内で韓国語の教室を探してみた。アメリカでも太平洋岸には韓国=朝鮮半島や中国からの移民が多く、彼らは地元に溶け込もうと努めている日系人とは違い、コリア・タウン、チャイナ・タウンを形成してアメリカ国内に自分たちの領土を作っているかのようだった。
「アンニョイハセヨ(=こんにちは)」「オソオシ(ピ)ッオ(=いらっしゃいませ)」街角の店ではアジア人とみれば韓国語で声を掛けてくる。ここで自然に返事をすれば同朋として会話が始まるのだろう。確かに隠密としては自分の容姿を利用しない手はない。ハンゾーは役作りとして日本人と韓国人の違いを見極めるため、街を歩く人々の動作や表情を観察し始めた。
「中国語をもっと真面目にやっておけばよかったな」ハンゾーは大学に入る時、第2外国語に中国語を選択したのだが、その動機は「漢字なら読めば何とかなるだろう」と言う安易なものだった。ところが中国語には日本や台湾が使っている旧来の繁字体と原型を留めないほど崩した簡字体の2種類があり、基本的にアルファベットを並べたヨーロッパの言語以上に難解なのだ。
「ハングルってのは訳が判らんな」街に溢れているハングル文字の看板を見ながらハンゾーは溜息をつく。今習っているアラビア文字にも苦労しているが、ハングルの構成も理解できない。日本で一大韓流ブームが起こり、猫も杓子も韓国語を学び始めたのは10年後のことだ。それまでの韓国は軍事独裁政権、反日デモ、支援をたかる厚かましい隣国と言うマイナスのイメージしかなく、むしろ北朝鮮の方が夢の楽園、王道楽土と虚飾が厚塗りされていた。
それにしても隠密として役になり切る前に予備知識を習得する必要性を教えていなかった自衛隊の調査学校には失望するしかない。江戸時代、島津領内に潜入する隠密は領内に張り巡らせていた警戒組織と国境で行われる徹底した身元調査、さらに難解な薩摩弁などの特異な作法で発覚して殺される者が続出したことから「生きて還れぬ薩摩飛脚」と呼んで恐れていた。そんな歴史を持つ国の自衛隊が諜報員を育てることに掛けている手間と費用は絶対的に不足している。
「そう言えばモリヤの奴はカンボジアで中国語を聞き取って交渉を有利に進めたって書いてあったな」突然、陸上幕僚監部2部で勤務していた時に読んだカンボジアPKOの報告書にあった同期に関する記述を思い出した。その同期は大学中退の特例合格者だったが異常な向学心の持ち主で、語学に限らず知識よりも推理力と直感を駆使していた。
「あいつは坊主だから坐禅で超能力を身につけたのかも知れないな」ハンゾーは知識として学ぼうとしている自分を反省しながらアメリカ人向けのコリアタウンガイドを開き、店員に観光用韓国語で声をかけてみた。
「キム・ギョバチ」これが名前を問われたハンゾーが咄嗟に考えた韓国名だ。早い話が「金魚鉢」のことだった。アメリカは戦前の抗日独立運動の拠点になった土地だけに、同じように白人社会の中で差別を受けるアジア人であっても、韓国系移民は中国系移民とは抗日の同志として手を結びながら日本人に対して敵意を剥き出しにする人間が多い。このためハンゾーも韓国系移民を演じなければならないのだ。
幸い韓国語教室にはアメリカで生まれ育って母国語が話せない移民3世たちが通っており、ハンゾーもその役柄を演じている。
「ミスター・キム。リピート アフター ミー(金さん、私の後に続いて)」「ネ(はい)」・・・「モルゲッス(ミ)ニダ(わかりません)」「ノー!ドゥ ユー ノット ノウ ディス シンプル シング(貴方はこんな簡単なことも判らないの)?」「ミアネヨ(ごめんなさい)」ハンゾーは下手な韓国語で謝りながら隣国の言語を簡単に覚えているヨーロッパ人に感心していた。
- 2016/05/31(火) 08:37:42|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1989年以降、明日5月31日は世界保健機関が定めた「世界禁煙デー」になっています。
野僧は父親が喫煙者の癖に咳をする人だったため、幼い頃から「煙草を吸うとあんな風になるよ」と言われて育ち、高校に入って同級生たちが煙草を吸うことを自慢し合っている時にも手を伸ばすことはありませんでした。
あの時代の高校生は規則(=実際は法律)を破る快感と少し背伸びをして大人の気分を味わうため煙草を吸っていたようですが、生徒会役員を歴任していた(風紀委員長も経験していた)野僧が法令違反を犯す訳にはいかず、「歩くと金属音がする。カキーン、カキーン」とからかわれながらも超型物で通したのです。ただし、高校3年の秋で生徒会長を退任してからの役職は選挙管理委員長だけでしたから、「いよいよ大人の気分を味わえる」と言うところでしたが、そこで手を出したのは酒でした。
父親は酒が極めて弱く、正月に買った日本酒が1年間、台所の流しの下に置きっ放しになっており、それを自分の部屋に持ってきて受験勉強を終えた後、寝酒に飲むようになったのです。したがって同級生たちには「俺は酒を飲んでるぞ」宣言をして大人と認めてもらいました。そんな昭和の馬鹿な高校生とは別人種の今の高校生たちも煙草を吸っているのでしょうか?
煙草は日本の縄文時代後期にあたる時期から南米のアンデス地方で栽培が始まったと言われる人類にとってつき合いの長い嗜好品であり、ヨーロッパにはコロンブスがアメリカ地域に到達して以降、伝来して急速に広まったのです。
日本語の「煙草」と言う名前はスペイン語、ポルトガル語の「tabaco」が語源で、アラビア語で薬草を意味する「tabaq」に由来するようです。
日本には慶長6(1601)年に来日した宣教師・ヒエロニムス・デ・カストロが平戸の領主に種を献上したことが栽培の始まりで、やはり薬として普及していきました。
煙草は兵隊の嗜み=必須アイテムのようなところがあり、航空自衛隊では煙草を吸わない野僧にも煙缶(えんかん)=灰皿係は回ってきて、休憩後に先輩たちの吸殻を片づけると、その本数の多さに呆れたものです。実際、ジュネーブ条約では捕虜収容所で支給、若しくは購入できるように義務付けている物品の中には酒はなくても煙草はあり、タオル、石鹸、葉書、切手と同様に生活必需品と認められているのです(これらの物品は基地や駐屯地の直営売店の販売品でもある)。
古い映画やドラマを見ても主人公や登場人物が煙草を吸うシーンは極めて多く、それが心理描写になっていることも珍しくありません。
それがいきなり諸悪の根源扱いされるようになった最大の理由は受動喫煙の問題でしょう。確かに控室が喫煙所を兼ねていたり、同僚がヘビ-スモーカーノの職場で勤務していると制服に煙草の臭いが染み込んでいることに気づくことがありましたから、煙草に害しかないのなら諸手を挙げて賛成します。しかし、本当に害しかなく、人類は数千年もの長きにわたって(日本は515年間です)有害な物質を愛飲していたのでしょうか?
医学的には肺癌の原因であり、ニコチン、タール、さらに1酸化炭素も有害であると断定していますが逆に効能はないのか?最近は「紫外線は有害だ」と言い出して昔は健康法として推奨されていた日光浴は自殺行為扱いされています。
国際機関が「世界禁煙デー」などと大げさなことをすれば、偏狭な日本人は「煙草を根絶しよう」と不要な弾圧を始めかねません。そこまでしなくても有害なのを承知で愛飲する人には受動喫煙を避ける努力義務を課した上で自由にさせれば良いのではないでしょうか。
受動喫煙だけが問題であるのならばアメリカ軍の友人が愛好していた噛み煙草を推薦したいところですが、こちらは歯科医が問題視しています。
- 2016/05/30(月) 09:06:35|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
岡倉の鼻は男が飲んでいる酒がスコッチであることを嗅ぎ当てた。アメリカでは意外に人気がない銘柄だ。そこで言葉をスコットランド訛りの英語に切り替えて話しかけてみた。
「イギリスにはアメリカのアサルト・ライフルと同じ名前の情報機関がありますよね」これはイギリスの諜報機関・MI6(エムアイシックス)をわざとM16と読み違えているようにしたジョークだ。すると男は唇の端を歪ませて笑った。
「その点、ジャパンは個人参加だから辛いな」そこまで知られている以上、話は諜報員=スパイと隠密になる。
「ジェームズだ」「ハンゾーです」相手がジャームズ・ボンドと名乗れば、こちらは服部半蔵だ。2人はグラスを鳴らして飲み干すと互いに眼で合図して外へ出た。しかし、ハンゾーが先にドアを出るとジェームズは呆れたように苦笑した。この業界では人を背後に立たせないのはイロハのイなのだ。この無防備さでジェームズはハンゾーの未熟さを察知したのだろう。
アメリカの街は表通りの店の灯りと車のヘッドライトで昼間と変わらないほど明るいが、裏通りは闇に近い。ビルとビルの間には一見して怪しい若者がたむろしている。ジェームズとハンゾーは互いに指呼(しこ)の間=刀が届く間隔を外しながら歩いた。
「日本語で話そう」ジェームズの提案にハンゾーはうなずく。これはアメリカで会話を秘匿するための方法として適切だ。第2次世界大戦中、暗号を解読されていることを察知した日本海軍は通信員を鹿児島出身にして文章を古い薩摩弁に代えた。そもそも薩摩弁は隠密を防ぐため他の土地の人間には理解できないように作った暗号なのだ。ジェームズがこの戦史を知っているのかは判らないがハンゾーはそう納得した。
「ハンゾー、我々の仕事はネットワークで成り立っている。ラグビーのようにパスを回しながら本質に迫ることが基本だ」「うん、そうだろう」これは岡倉も悩んでいることだった。
「君は個人参加のようだがネットワークをどうやって作るつもりなのだ」「・・・」岡倉は修業を終えて日本に戻って指示を受けるつもりでいたが、幕僚長以下の主要幹部は交代しており、どのように申し送られているかは判らない。ワシントンの防衛駐在官が交代した時には飲んでいる店に呼ばれて偶然に対面した日本人を演じたものの市ヶ谷へ移転した陸上幕僚監部へ訪ねて行くことはできない。
「我々なら対岸で友邦と敵対国の首脳会談が行われることになれば直ちに派遣されるものだが、君は何もしないのか?」それはアメリカではニュースにもなっていない話だった。ハンゾーにはその情報を与え、活動を指示される組織がないのだ。
「だいたい君はアラビア語やアフリカの言語を学んでいるようだが、そこに乗り込むつもりか?私なら同じアジアの朝鮮語や中国語を学ぶな。続いてチベット語とモンゴル語だ」言われてみれば同じアジアの国であれば潜入することも容易であろう。やはり自己流の限界を思い知らされた。
「ここで本題だが、君は日本の軍人だから泳がせているが、すでにNSBやCIAはマークしている。あいつらの嗅覚はウチのM15ライフルよりは鈍いが、仕事はやっているということだ」ジェームズがM15と言ったのはイギリスの防諜機関・MI5(エムアイファイブ)のことだ。1963年にメジャー首相が存在をMI6の存在を認めるまでイギリスの情報機関はMI5だけとされていた。それは日本の公安調査庁、警察庁公安部や自衛隊の調査隊も同様だ。しかし、人事・予算まで丸裸にされている自衛隊の情報機関とスパイの本場・イギリスでは立場が違う。溜息をついたハンゾーの肩をジェームズが叩いた。本来であれば身構えるべき態度だが、岡倉はイギリス人とアメリカ人は血統こそ近くても体格は違うことを観察していた。
- 2016/05/30(月) 09:05:35|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
岡倉信一郎はアメリカで隠密の修業に励んでいる。何よりも語学、それはフランス語やスペイン語だけでなく日本では習うことが難しいアラビア語やアフリカ西部のハウサ語、さらに東部のスワヒリ語にまで及び、現地から来ている人間が開いている私塾で学んでいる。
演劇学校は役作りを習得したところで退学し、変わって拳銃の射撃を習い始めた。それは自分にはライフルによる狙撃は必要なく、あくまでも護身のための訓練だった。
次は格闘技だがカンフーやテコンドウを除けば日本の武道が多く、日本人と接触することを避けて本場のボクシングやマーシャルアーツのジムに通い始めた。
そんな中、街で「ニンジャ=忍術」と言う看板を見つけ覗いてみたが、広いホールの隅に器械体操の道具が並び中央にはクッションが敷かれている。そこで小柄なアメリカ人のインストラクターが上下黒の装束でバク転や側転を繰り返しながら子供たちに教えていた。
ホールの奥には人型の的があり、大人たちがナイフ投げを練習している。中には日本式の手裏剣を使っている者もあるが、あまり殺傷力は感じない。
岡倉が壁に掛けてある日本刀を抜いてみようとするとインストラクターが「危険だ。触るな」と叫んだ。しかし、外観や重さからみて模造刀であるのは明らかだった。
子供たちの体操の時間が終わると大人たちが腰に締めた帯に模造刀を差して集まってきた。インストラクターも1振り差して中央へ戻る。そして正座をすると「レイ=礼」と言って手を床につき、深く頭を下げた。インストラクターの妙なイントネーションの号令と気合に合わせて生徒たちが居合の要領で刀を抜き、素振りを始める。
岡倉はこのインストラクターが教えている「忍術」が何なのか判らなくなった。どうも古い忍術映画などで繰り広げられる動作から勝手に作り上げた自己流の武術のように推察した。そして自分の隠密修業と重ね合わせて苦笑しながら道場を後にした。
演劇学校で学んだ役作りを磨くため、岡倉は色々な職業を経験するためアルバイトを繰り返している。この時にはビジネス目的の渡航になっているパスポートの人物になり切らなければならないのは当然だ。
アパートも自衛官として支給されている活動費には手をつけず、アルバイトの収入に見合う安い物件を借りた。したがって治安は良くないが、何かあれば修業の成果を試す機会になると言うのが岡倉の考えだった。しかし、その考えを超える恐怖を岡倉は味わうことになった。
その日、岡倉は裏通りの安いバーで酒を飲んでいた。銘柄は貧乏なアメリカ人が好む安物のバーボンのシーグラム7だ。このような店では一杯ごとに客はカウンターに代金を置き、それと引き換えにバーテンダーは酒をグラスに注ぐ。ここの客層では財布を持っているような者はおらず、皆ポケットの中の小銭を取り出しては酒を注がしているのだ。
ポケットの中の小銭が寂しくなってきた時、隣に立っている白人の男が岡倉のグラスの横に小銭を置いた。つまり「奢り」だ。しかし、見も知らぬ男が酒を奢るのには何か目的があるはずだ。それは多くの場合、同性愛者の誘いだろう。岡倉にはそのような趣味はない。だから黙って小銭を男の前に押し返した。すると男が発した言葉に岡倉の背筋は凍りついた。
「メジャー・オカクラ、お近づきの印ですから遠慮せずにどうぞ」岡倉の人事書類は幕僚長室の金庫の中に保管されているが、人事事項は担当の主要幹部だけで処置され、先日、3佐に昇任したことをワシントンの防衛駐在官から聞いている。その極秘事項をこの男は知っているのだ。岡倉は5感の全てを動員して男の正体を探った。ただし、バーテンダーや他の客に気づかれる訳にはいかない。岡倉は平静を装いながら小銭を押し返してきた男に軽く礼を言ってバーボンを注がせた。
- 2016/05/29(日) 08:58:28|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
行進を終えた部隊は観閲道路を突っ切って戦闘訓練場から車両訓練隊の教習コースの脇を通って駐屯地に帰る。その間、中村3曹は鼻水をすすっていた。
「中隊長、すみませんでした」隊舎に着くと中村3曹は泣きながら詫びた。事務室の窓から見下ろしている作野先任まで申し訳なさそうな顔をしているのが分かる。
「いや、ワシの号令が小さくて聞こえなかったんだろう。気にするな」そう答えたが動作を遅らせた後、中村3曹がどのように対処したのかは確認できていない。焦らずに基本通りの動作をしてくれていると良いのだがパニックになったことも考えられる。それでも中村3曹を事務室に帰し、私は続いて帰ってくる各区隊を待つことにした。
観閲式の後、佳織が淳之介、志織を連れて中隊長室にやってきた。
「これは小隊長、お久しぶりです」「先任、守山では大変お世話になりました」案内してきた作野先任と佳織は混雑している廊下を避けて中隊長室に来てから挨拶を始めた。
「もう3佐ですか。立派になられて」「先任こそ曹長になられて・・・何より主人もお世話になっています」お辞儀の交換が終わると先任は真顔になって話を始めた。
「実を言うと私は伊藤3尉のことを娘のように思っていまして、未婚の母になった話を聞いた時にはこちらで怒り狂ったんですよ」その相手は私だ。少し冷汗がにじむ。
「しかし、その相手に仕えることになったのですから縁とは不思議なものです」娘を嫁がせる男親の気持ちを知らない佳織は複雑な顔をして私と先任を見比べた。
「こうして中隊長に接していると伊藤3尉が惚れてしまったのも解ります」「はい、私が押し倒したんですよ」佳織のとぼけた返事を聞き、今度は先任が呆れた顔で私たちを見比べた。挨拶に区切りがついたところで先任は私に正対した。
「ところで先ほどは中村3曹が大変な失態を仕出かしまして申し訳ありませんでした」先任は事務室の窓から双眼鏡で一部始終を見ていたそうだ。
「まあ、湧いた観衆の中で掛けた号令としては音量が足りなかったのかも知れません。むしろ予行演習ではなかった旗手の紹介を勝手に入れた誰かの責任だと思っています。WACが旗手だと判れば観客が喜ぶのは当たり前でしょう」私が言葉を重ねると先任は黙って首を振った。
「中隊長、惚れさせるのは佳織3佐だけにして下さい。中村は中隊長の優しさに感激して泣いていましたよ」「はい・・・」しかし、私が若い女性に惚れられるとは全く思えない。佳織との赤い糸は前河原からカンボジアで苦労を分かち合ったことで結ばれた戦友愛から発展したのだ。それでも小倉駐屯地でWACと当直についた3佐が消灯後に迫られて拒否したことで逆切れされ、「当直室でレイプされた」と訴えられた事件があったばかりだから気をつけるに越したことはない。
案の定、私が隊員食堂での会食に出ている間、中隊長室で弁当を食べていた家族に茶を出しにきた中村3曹は意味ありげな顔で佳織を見ていったらしい。
- 2016/05/28(土) 09:16:24|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
天正7(1579)年の本日5月27日(太陰暦)に浄土宗と日蓮宗によるタイトルマッチ「安土法論」が行われました。野僧は小学生の時に愛読していた「信長公記」でこの一戦を知りました。野僧は基本的に日蓮が開いた非佛教的宗派を教義の形態を表わす「法華宗」と呼ぶのですが、この一戦では教義よりも宗祖の言動が大きく影響しているので、あえて「日蓮宗」と呼ぶことにします。
一戦が行われることになった切っ掛けは整備された城下町と楽市楽座に魅かれて活況を呈していた安土に京都から霊誉玉念と言う浄土宗の高僧が来て7日間の予定で説法をしているところに日蓮宗の僧侶である建部紹智と信者で塩商人の大脇伝介が議論を吹き掛けたことでした。
すると霊誉玉念さんが「貴方たちのような若い人では佛法の奥深いことは解らないでしょう。誰でもこの人ならと思う代表を選んできなさい。そうすれば相手をさせてもらいます」と答えたので、京都や堺など関西一円から論客を集め、チーム「日蓮宗」を結成しました。
一方、霊誉玉念さんも7日間の予定を11日間に延長してチーム「日蓮宗」を待ちましたが、評判はたちまち安土城下に広まり、信長さんの耳にも届いてしまったのです。
すると信長さんは「我が家中にも日蓮宗の信徒は大勢いる。ワシが仲介するからことを荒立てるな」と命じ、両方の宗門に使者を送りました。すると浄土宗の方は始めから迷惑な話だったため、「信長さまに従います」と了承したのですが、選りすぐりの論客を集めて必勝を期していた日蓮宗は拒否したため、信長さんは「それならばレフリーを出すから決着をつけろ。法論の内容は文書に記録して報告せよ」とタイトルマッチにすることを命じ、この日、安土城下にある浄土宗の浄厳院でゴングが鳴ることになったのです。
世紀の一戦に臨むチーム「日蓮宗」はリングコスチュームのような派手な袈裟と法衣を着て現れ、法華経8巻を並べて準備万端整えましたが、急ごしらえのチーム「浄土宗」は宗祖・法然坊源空上人そのままに黒の質素な法衣で筆記用具だけでした。レフリーは京都随一の知恵者と評判だった南禅寺の高僧とたまたま安土に顔を出した法隆寺の高僧が務めたのです。
寺内と周辺には織田の兵が配置されていましたが法論は信仰の優劣を決することでもあり、庶民の関心が高く、野次馬よりは真剣な観客が固唾を飲んで注視している中、ゴングが鳴りました。
結局、勝負は浄土信仰の専修念佛の真義を理解していなかったチーム日蓮宗が、妙法蓮華経も学んでいたチーム浄土宗に3ラウンドでノックアウトされたのですが、怒った観客が乱入して僧侶の派手な法衣を剥ぎ取って暴行を加え、並べてあった妙法蓮華経8巻を破り捨てました。
そして対戦結果を聞いた信長さんはチーム浄土宗とレフリーに褒美を与え、発端となった法論を仕掛けた建部紹智と塩商人の大脇伝介、さらに舌鋒を買われて経歴詐称でチーム「日蓮宗」に加わった妙国寺の僧侶・普伝を斬首したのです。さらに日蓮宗には敗北を認め、今後は法論を仕掛けないことを誓約させましたが、そもそも日蓮宗は宗祖の時代から折伏と言って法論を吹きかける布教を常用しますが知的論理性に乏しく、最後は大声で威圧するのが毎度のパターンです(と来日したスペイン人宣教師も述べています)。
ちなみに信長さんが明智光秀さんに討たれた本能寺は法華宗=日蓮宗本門派の大本山ですから、宗門そのものを嫌悪していた訳ではないようです。
- 2016/05/27(金) 08:51:43|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「本番を前に観閲式の本当の意義を話しておく」会場に向かう前、私は相変わらずの気合を入れた。檀上から見ると今日は新隊員たちの目も輝いている。
「観閲式の意義とは自衛隊の練度を一般に披露してつけ入る隙がないことを示すことだ。諸官たちも中国や北朝鮮の軍事パレードやイギリスの近衛兵のパレードを見たことがあるだろう。あの動作で軍の実力を誇示しているんだ。諸官たちも自衛隊の練度の高さを見せてくれ。以上」ここからは区隊ごとに式典会場に移動する。すでに仮設スタンドには観客が集まり始めているため、ここでも気を抜く訳にはいかないのだ。先に出発した各区隊を見送りながら、私は旗手の中村3曹に声をかけた。
「中村3曹、化粧は大丈夫だな」「えッ?」「だってWACの旗手は君だけだから今日は目立つぞ。テレビのニュースで映るかも知れないだろう」「はい・・・確認します」そう答えて中村3曹はポケットからコンパクトを取り出して口紅を塗り直し、私は彼女の準備が終わるのを待って第329、第335共通教育中隊長に合図して出発した。
久居の観閲式は5月中旬に行われる防府よりも半月早いため日差しは弱く、気温は涼しく、何よりも湿度が低いので意外に楽だった。服装から言えば夏服の防府の方が楽そうだが(ただし、長袖にネクタイを締めている)、梅雨、夏に向かう半月の差は大きいようだ。したがって久居でも防府と同じく隊員が倒れた時に交替で入る班長が後方で待機しているが出番はなさそうだ。
観閲官=駐屯地司令入場、観閲官に敬礼、国旗入場、国旗に敬礼、巡閲、駐屯地司令の訓示、地元選出の国会議員、久居市長の式辞が終わればいよいよ観閲行進が始まる。音楽隊が演奏しているのは教育大隊が自衛隊行進曲「大空」、普通科連隊は陸上自衛隊分列行進曲「抜刀隊」だ。先頭は観閲部隊指揮官の副連隊長がジープで通過し、その次が私だった。
「続いて入場しますのは第116教育大隊第328共通中隊の新隊員たちです。中隊長は1等陸尉・モリヤニンジン、旗手は女性自衛官の中村昌代3曹です」中村3曹の紹介は予行演習ではなかった。おそらく行進を確認していた駐屯地司令の指示で加えられたのだろう。するとスタンドの観客から異様な歓声と拍手が起こった。この思い掛けない反応に中村3曹が緊張したのは当然だ。
「頭―ッ、右」観閲官の前で号令を掛け、敬礼をした瞬間、後ろで中村3曹の「あッ」と言う声が聞こえ、少し遅れて旗を振り降ろす音が聞こえた。
やはり中村3曹は思い掛けない歓声と拍手に舞い上がってしまい号令が耳に入らなかったのだ。旗の敬礼では「頭」の予令で脇の旗竿を高く引き上げ、「右」の動令で一気に振り下ろさなければならない。幸い観閲台の前のアクシデントだったので観客からはあまり見えなかったはずだが、台の下で撮影していたテレビや新聞のカメラが捉えていたのは間違いない。自衛隊の式典でのアクシデントとして全国に流れる可能性があり、特にテレビの画像では困ったことになりそうだ。
- 2016/05/27(金) 08:49:57|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1917年の明日5月27日に日本側は88429名、ロシア側が32628名の戦没者を供した日露戦争の元凶・エヴゲーニイ・アレクセイエフが死んだ日です。
アレクセイエフは帝政ロシアの貴族の息子として1843年に生まれ、海軍士官の道を歩み始めました。やがて提督になると黒海艦隊司令官を経て極東に赴任し、太平洋艦隊司令官兼関東州駐留軍司令官となりました。そして1899年に義和団事件が生起すると、その混乱に乗じて満州を占領し、その軍功で中将に昇任しました。
この頃から弱体化した清国を冷ややか見ながらロシアのアジアにおける権益を最大限に拡張し、その中で暴利を貪ろうと言う野心を抱くようになったようです。
アレクセイエフは極東の地から宮中の同調者を操り、若き皇帝・ニコライ2世にも朝鮮半島を領土とする計画を吹き込みました(この時点で皇帝が日本にまで手を伸ばす気だったのかは不明)。日本側もロシアがフランス、ドイツと共に日清戦争で割譲を受けた遼東半島の返還を迫った背景に全満州と朝鮮半島への野心があることを察知し、その先には日本への侵攻があると危惧するようになり、1902年に日英同盟を締結しました。
そんな1903年、アレクセイエフは大将に昇任し、軍の司令官だけでなく極東総督として外交、行政、財政の権利を握ることになり、極東における権益を自分の利益とすることになったのです。
一方、日本は対露戦の準備を進め、両国の緊張が高まっていきますが、アレクセイエフは日本の戦力を蔑っており、実際はイギリスから三笠以下の最新鋭戦艦・巡洋艦を揃えつつあったにも関わらず海軍軍人としての見識すら発揮しませんでした。
こうして日露国交の断絶が迫った中、ニコライ2世は日本側の要求に対する譲歩による戦争回避を決め、交渉にあたっていた在日ロシア公使に訓令を打電したのですが、これを経由するアレクセイエフが握り潰したため、日露交渉は決裂することになったのです。
その後は海軍軍人として太平洋艦隊を指揮しますが、緒戦で日本海軍の実力を知り、全艦艇を旅順港に停泊させて組織だった戦闘は避け、港湾の砲によって防御しながら成り行きを任せるようになりました。ただし、一部は日本海や東シナ海を遊撃して輸送船を撃沈する戦果を上げています。結局、アレクセイエフの艦隊はバルチック艦隊の到着を待つことなく旅順港の底に沈み、日露両陸軍の激闘が始まると陸軍のアレクセイ・クロパトキンと対立し、さらに日本の勝利に貢献したのです。
ロシアは広大な領土に多数の民族を抱えており、これを圧していたのは強力な軍事力でした。ところが日露戦争でアジアの弱小国・日本に敗れ、戦力も大幅に消耗したことで国内を抑える力は失われ、帝政は大きく揺らぎ始めました。その意味でアレクセイエフは帝政ロシアを滅ぼした元凶とも言えるでしょう。実際、アレクセイエフはロシア2月革命によってニコライ2世が廃位になって3ヶ月後に死んだのです。
- 2016/05/26(木) 08:45:00|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
観閲式の練習は区隊単位の「頭右」「捧げ銃」と行進から中隊としての行事の流れ、さらに各中隊合同での位置関係の調整、そして第33普通科連隊の副連隊長を部隊指揮官にしての予行演習の段階に入った。
私は防府で初めて観閲式に参加した時、司会が「観閲官に敬礼」と言った後、観閲部隊指揮官が回れ右をして「観閲官に敬礼」と指示し(独特の節回しがある)、それを受けて「頭、右」の号令になるのが江戸時代の主君と家臣の礼式のようで苦笑してしまった。つまり殿に挨拶するのに侍者が「おなりじゃ」と声を掛けると揃って畳に額をこすりつけ、頭を上げる時には家老から広間の隅にいる下級の家臣への順と言う作法が自衛隊に残っているように感じたのだ。陸上自衛隊の新隊員がそこまで余計なことを考えるとも思えないが、私自身が笑わないように気をつけなければいけない。
以前は教育大隊がOD色の作業服、普通科連隊は迷彩服だったので父兄にも一目瞭然だったが、今は全員が迷彩服なので赤いスカーフの有無で見分けるしかないようだ。
「観閲官入場、部隊気をつけ」今回は司会も本番のように気合が入っている。そこへOD色のライトバン=業務車が入ってきて制服の隊員が駆け寄って後席のドアを開けた。予行演習は普通科連隊の3科長が代役を演じるらしい。代役は観閲台の横の札の位置に立ち、そこで司会が「観閲官、登壇」と進行した。ここからが時代劇の始まりだ。
「観閲官に敬礼」司会の声を受け観閲部隊指揮官が回れ右をして「観閲官にケーレー」とやはり独特の節回しで指示した。今回は私も号令を掛けなければならないので笑っている場合ではない。
「頭ーッ、右」通常は司会や先任指揮官の「××に敬礼」の指示で号令を掛けるのだが、観閲式では異なる。このため教育大隊の3個中隊と普通科連隊の5個中隊で全く揃わなかった。すると迷彩服の人物が司会のマイクを奪い、聴き覚えがある声が流れた。
「全く合っていない。揃うまで練習だ」それは駐屯地司令だった。しかし、本人が現場へ来るのなら代役を立てる必要はないだろう。そこが時代劇らしいところだ。
「観閲官にケーレー」「1、2、3」「頭ーッ、右」タイミングを合わせるため駐屯地司令自ら手拍子を始めたが、「頭」の「カ」の字を合わせるには息を吸うのも一緒にしなければならない。
「4中隊長、早い!」いつの間にか駐屯地司令は観閲台に上がって指導を始めている。こうなればウチの大隊長も顔を出さなければならないはずだが影も形もない。実は大隊長は2佐だが1佐の連隊長よりも防衛大学校は先輩なのだ。このため壇上から「教育大隊の真ん中の中隊、頭の向け方が少し合ってない」などと指導をするのも遠慮しているのが見え見えでそこに失笑しそうだった。
それにしても観閲部隊指揮官である副連隊長の回れ右の動作まで指導をしたこの連隊長は守山で仕えた連隊長とは器が違うようだ。
- 2016/05/26(木) 08:44:03|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
明治10(1877)年の明日5月26日は毛利藩士・桂小五郎くん=後の木戸孝充の命日です。野僧は幕末から明治の歴史を見ていると桂くんの存在がフランスのド・ゴールに重なってしまいます。
ド・ゴールは第2次世界大戦の緒戦でドイツに占領されたフランスからイギリスに逃走し、亡命政権の長として反ナチスの抵抗運動を指揮したことになっていますが、実際は議会や国民から政権を託された事実はなく、また抵抗運動を指揮したと言ってもBBC放送で演説をぶっていただけで、レジスタンスを組織的に運用した訳ではありません。
ところがド・ゴールは連合軍がヨーロッパに上陸すると、急ごしらえで自由フランス軍を組織して戦闘に参加しながら実態のない軍功を捏造していったのです。その結果、フランスは安全保障理事会の常任理事国になり、公用語にフランス語を割り込ませるなどの厚かましさを発揮しました。
桂くんも西郷吉之助さんとの間で薩長連合を結びましたが、この時の両藩の実力はフランス式軍制を敷く幕府に対抗し得る近代的な軍備を有していた島津藩に比べ毛利藩は朝敵として滅びる寸前まで没落していたのです。そこでド・ゴール的な立ち回りを見せたのが桂くんでした。
薩長連合では武器商人・坂本竜馬くんの売り込みで南北戦争が終わったアメリカから余った武器を島津藩名義で購入しましたが、その見返りに必要もない米を売ることで対等な立場を確保し、毛利藩を連合軍の片棒に仕立て上げたのです。
そんな桂くんは天保4(1833)年に藩医・和田家の長男として萩城下で生まれましたが、幼い頃は成長が危ぶまれるほど病弱だったため姉が婿養子を迎えて跡取りにしていたので、7歳で子供がいなかった近所の裕福な藩医の桂家へ養子に出されました。しかし、養子に入って間もなく養父と養母が相次いで亡くなったことで桂家の当主でありながら実家に帰ったのです。
実父母は我が子を養子に出したことを負い目に感じていたので甘やかしてしまい、完全なお坊ちゃまに育ってしまいました。その育ちの良さが幸いしたのか桂くんは極めて女性にもて(=174センチと当時としては長身だったこともあるが、逆に目立ったはず)、毛利藩が京を追われてからも留まって情報収集に当たっている間、島原の芸妓である君尾ちゃんや幾松ちゃんの下に身を寄せて新撰組や京都所司代の探索から逃れており、後の妻・松子はこの時の幾松ちゃんです。
その他にも京を逃れて但馬の出石(いずし)に隠れた時には支援者・広戸甚助さんの妹・ミネちゃんに手をつけてしまい子供まで儲けています。
こんな桂くんが明治以降の学校教育で流布された日本史では「勤皇の志士」の代表として脚光を浴びているのですから、やはりド・ゴール的です。
野僧が桂くんを評価しているのは人材を発掘したことです。鋳銭司の村医者から宇和島・伊達藩に仕官し、幕府の蕃書調所(=洋書を翻訳・研究する図書所)に務めていた村田蔵六さんを毛利藩に引き戻して軍師に据え、足軽だった伊藤俊輔(=博文)くんを「はぐくみ=軽輩者・貧乏人を上位者・富裕層が預かる毛利藩の人材育成制度」として世に出したのは桂くんであり、子飼いの桂太郎、寺内正毅、田中義一で大東亜戦争に続く陸軍閥を作り上げた山縣有朋とは全く違います。
桂くんは松陰神社の「維新の志士=松陰の門下生たち」の掲示などで紹介されることがありますが松下村塾に入ったことはなく、吉田寅次郎が藩校・明倫館の教授だった時の学生です。

みなもと太郎作「風雲児たち・幕末編」より
- 2016/05/25(水) 08:29:37|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
4月29日には久居駐屯地の開庁記念行事が行われる。これには29日の土曜日と翌30日の片づけで2日の代休を付け、隊員を5月1日の月曜日から7日の日曜日まで帰省させる目的もある。本来であれば開庁記念日の観閲行進を見に来る家族と一緒に帰省させられれば良いのだが、自衛隊はそこまで融通は利かない。ただし、北陸から来る家族の中には30日に伊勢や熊野を観光して拾って息子を帰ると申し出ている場合もあった。
また10キロ行進訓練が終わればこの準備訓練に全力投入になるが、基本教練の練度の進捗から言えばやや時期尚早なのは間違いないだろう。
久居駐屯地は正門前を一般の車道が通っていて、その向こうに同程度の面積を有する車両訓練隊の教習コースとラグビー・グランド、戦闘訓練場、射撃訓練用の屋根付き射座、駐車場などがある。観閲式と行進はこのラグビー・グランドと戦闘訓練場に向かう通用道路で行われる。
「貴方、今回はお客になって晴れ姿を見させてもらいます」佳織からそんな電話が入った。CGSの学生も入校中は休暇を取得できないため4月と5月の中2日は東京に戻らなければならないが、そこは休日出勤の私のために帰って来てくれるらしい。しかし、守山の時には第3中隊を率いて歩いたのに今回は区隊単位なので私は中隊旗手の中村3曹と前後2人で歩くだけだ。第116教育大隊の後には第33普通科連隊の部隊が続くから間違えた振りをしてこちらに参加したい気分だった。
行事の2日前に今津から74式戦車が到着した。終礼中も新隊員たちは、グランドの横の道路に駐車している戦車が気になって仕方なく、作野先任の命令伝達や村上3尉の注意も全く耳に入っていないようだ。気がつくと2区隊長の岩田3尉まで部隊での愛車=戦車に見入っている。そこで国旗掲揚の前の訓示を省略して特別サービスをした。
「第328中隊、左向けー左」突然の号令に隊員たちの動作は揃わなかったが、視線の先に戦車あることに気がついて歓声を上げた。通常は短い訓示の後、国旗掲揚までの数分間は「休め」で待つのだがこれも悪くないだろう。しかし、そこは私だった。
「あれが74式自走対戦車砲だ。後で2区隊長にワンポイント・レッスンしてもらおう」74式戦車は私が中学生の頃に制式化された自慢の戦車だが、すでに26年が経過しており、複合装甲が一般化している中で時代遅れであることは否めない。何よりも陸上自衛隊は敵の防御線を突破して深く進攻する戦車本来の運用戦術は採用しておらず、敵の戦車部隊の侵攻に備えて待ち伏せる事実上の自走対戦車砲なのだ。
腕時計を見ながら「右向け右」を掛け、国旗降下の敬礼の後、「中隊長に敬礼」を受けてから岩田3尉にワンポイント・レッスンを実施させた。
「あれが74式戦車だ。詳しく知りたい者は終礼後に説明をするから戦車の前に集まれ」解散になった新隊員たちは争って戦車に向かって歩き出したが、岩田3尉は人気職種の宣伝は控え目にするよう村上3尉から釘を刺されていた。
- 2016/05/25(水) 08:25:43|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
訓練当日の出勤は少し早目だが志織の保育所には特別な対応をお願いし、淳之介には火気点検をしてから鍵を掛けて出かけることを教育した。小学校6年の淳之介に家事を任せられるようになれば私の負担も随分、軽くなるだろう。
「中隊長のおかげで久しぶりに背嚢を背負うことになりました」最後尾を歩く私には中隊事務室のWAC=中村3曹が話し相手に同行するらしい。
「君は衛生員だろう。銃の代わりに担架でも担いだらどうだ」「短靴(たんか)ならOKですが、担架は銃よりも重いから遠慮します」私にこのような舐めた口をきく隊員は初めてだ。着任以来、少し遠慮が過ぎたのかも知れない。そこで気合いを入れてみた。
「ウチの上さんもWACだが、幹候校の80キロ行軍の時、初日に足にマメができたから『荷物を持とうか』って言ったけど『私も陸上自衛官です』って断わられたぞ」「中隊長の奥さまってCGSに入校中でしょう。私とはレベルが違いますよ」WACは生半可に頭が良いため男性隊員がやることを冷めた目で眺めて中途半端に納得するところがある。こんなWAFは防府南基地で「嫌」と言うほど見てきたが、班長連中の迷台詞「舐めた口をききやがるとその口で舐めさせるぞ」を吐くのは立場上まずい。
最後尾を歩く私の仕事は家の庭から応援してくれる年寄りたちに挨拶することだった。
「どうも隊員たちを励まして下さって有り難うございます」「いえいえ、お国のために入営された新兵さんですから有り難いことです」そう言いながら手を合わせるお婆ちゃんに私も坊主の癖で手を合わせてしまう。久居は大正14年に歩兵第33連隊が守山から移駐してきて以来、一時的にシベリア出兵や大陸戦線へ進駐しながらも太平洋戦争末期にレイテ島で全滅するまで陸軍の町だった。同じナンバーを冠する現在の第33普通科連隊に対しても強い親近感を抱いている市民は多く、その点では善通寺にも通じ、陸上自衛隊を「馬鹿か不良の集まり」と蔑んでいる守山や豊川よりは新隊員教育を行う場所として適切だろう。挨拶を終えて歩き始めると中村3曹が声をかけてきた。
「中隊長はまだ30代ですよね」「うん、ギリギリそうだが」「何だか元軍人だった祖父と同世代のようです」「ふーん、お祖父さんの階級は何だったんだい?」「確か終戦時に中尉でした」終戦時の階級には「ポツダム昇任」と言う特例が多いので当てにならないが、中村士長の祖父の年齢の中尉なら士官だったことは間違いないだろう。
今日も天気は良い。田植えを終えた水田にはトンボを狙ったツバメが低く飛び、空ではヒバリが歓声を上げている。その時、前を歩く1区隊から最後尾まで歌声が広がってきた。
「久遠の平和築かんと 高き理想の夢かけて 凛々しく集う若駒の 千里の門出意気高し 嗚呼我らが 希望輝く2教団」これは村上3尉お得意の第2教育団歌だ。しかし、こうして聞いてみるとド演歌調の曲が元気を沸き立たせ、「若駒の千里の門出」の歌詞も行進訓練に似合うのは間違いない。私が防府の行進訓練で愛唱していた「ああ人生に涙あり=水戸黄門の主題歌」や「三百六十五歩のマーチ」よりも適切なのは間違いない。
- 2016/05/24(火) 08:56:26|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「淳之介、サイクリングに行くぞ」訓練前の金曜日の夜に佳織が帰ってくると、土曜日に行進経路の確認に出かけることにした。志織は佳織に預けるつもりだが、すると意外な反応が返ってきた。
「ずるい、私も行く」「だったら私も行くよ。Follow you(ついていく)」我が家の自転車は2台あるが佳織が不在になってから1台は使用していないので、飛行前点検しなければならない。そこで空気入れを持って階下の自転車置き場へ向かった。
点検と言っても空気を補充し、スタンドを立てた状態でペダルを回してブレーキを掛けてみるだけの簡易なものだ。明るい間に帰ってくる予定なので電灯は省略した。元航空機整備員としては手抜きだが仕方ないだろう。
こうして家族4人で出かけたものの私自身も行進経路は実施命令に添付されていた地図を見ただけであり、命令を自宅に持ち帰る訳にはいないので記憶だけが頼りだった。
目標地点は伊勢湾の砂浜で直線距離では4キロ弱だが交通量が多い道路は避けて田舎道を遠回りしながら片道5キロにしているらしい。
ゲートから車道の歩道を通って市街地から離れると横断して田圃の中の畦道に入る。これなら車両に関する注意は必要ない。やはり部隊での訓練を目的にしているようだ。ただし、訓練でここを横断する時間帯は通勤ラッシュにも重なる可能性があるので注意が必要・・・そんなことは判っているだろうから余計な御世話だった。
最近では兼業が一般的なため土・日曜日に田植えの準備をしている農家も多い。
「あれが苗代、田植えする稲の苗を育てるんだ」こちらを見た農家の人たちに挨拶しながら前を行く淳之介と後の席の志織に教育する。
「何故、田植えするんですか?」突然、自転車を止めて淳之介が質問してきた。これには農業と縁がなかった佳織も隣りにきてこちらを見た。
「それは日本の水温が稲を種から発芽させるには冷たいからだよ。だから暖かい東南アジアなんかでは直播き(じかまき)してるんだ」「ふーん」家族は毎度の教育だったが、声が聞こえたらしい農家の小父さんが「自衛隊さん、すごいですね」と感心してくれた。
この経路は毎回10キロ行進訓練で使っているので「自転車で下見にくる余所者は自衛隊だ」と一目瞭然のようだ。実際、経路に迷っていると田圃の小母さんが「行軍のコースはあっちだよ」と声を掛けてくれた。
目的地の海岸についてからしばらく防波堤沿いに植えられた防砂林の中を歩くことになる。この心理的負担のかけ方も中々のものだ。子供たちもイライラし始めた頃、ようやく防波堤の切れ目から海岸に出るゴール(=正確には折り返し地点)に着いた。
「わーッ、海だ」志織は歓声を上げたが、淳之介は妙にしんみりした口調で呟いた。
「知多半島は見えないね」この季節は海水温が高くなるため水蒸気で視程が落ちて対岸は見えなかった。淳之介は知多半島に何か特別な思い入れがあるのかも知れない。
- 2016/05/23(月) 08:52:49|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
ゴールデン・ウィークで帰省させる前、10キロ行進訓練があるのは航空教育隊と同じだ。私は航空教育隊の頃、学生の多くは毎日5キロ以上を走っているのだから改めてこの距離の行進を訓練する意味が判らなかった。しかし、今回は事前教育を隊舎の屋上から双眼鏡で覗いて必要理由が得心できた。
航空教育隊では小さな背嚢に着替えなど必要最小限の荷物を入れるだけだが、陸上自衛隊では野営できるように個人用天幕セットや飯盒、着替えなどを詰めている。
荷造りが終われば駐屯地内の道路を使って行進隊形の演練を始める。先頭を「歩度規制員(速度を時計と歩数で調整する係)」が歩き、その後を4個分隊が隊形を維持して行く。
時折、前の分隊と後ろの分隊の間で「逓伝(ていでん)」と呼ばれる方法で連絡を取り合っている。それは最後尾の隊員の1人が後ろ向きに歩き、それを隣の隊員が背嚢を持って誘導する。そして片手を上げて「前から後ろへ伝達」と大声を出し、すると後ろの分隊の先頭も同じように発声して連絡事項を伝達していくのだ。
さらに班長たちが自家用車を路上に停めておき、その横を通る時、「床尾に気をつけろ」と注意喚起している。これは行進訓練で駐車している車に小銃の金属部位で傷をつけないための必要な心得だろう。こうして全ての分隊が車両の横を通り終えると区隊付の石本1曹が車に乗って後方から通り過ぎ、「後方車両」と注意喚起させていた。
とどめに休憩地点での装具点検と健康の申告なども練習しており、村上3尉は「休憩中も小銃を身体から離すな」「市民の目を気にして行動せよ」などと注意している。
つまり航空教育隊では形式的に模倣しているに過ぎない訓練も、ここでは実際に部隊で使う必要な知識・要領を教育しているのだ。
行進訓練で中隊長は最後尾を歩くのが伝統らしい。ただし、部隊では隊員たちと同じように背嚢を背負い小銃を肩に掛けているが、ここでは腰に拳銃と水筒だけのようだ。
「ワシは普通科だから背嚢を背負わないと調子が出ないなァ」訓練の実施命令の決裁を受けに来た村上3尉に中隊長の携行装具品の修正を要求すると「ここで変更するとそれが前例になるので、定年前の中隊長が来られた時に困ります」と説明した。
「そんなことを言っても定年までは陸上自衛官でしょう。給料をもらっている以上は与えられた職務を果たす責任があるはずです」すると村上3尉は「これが噂のモリヤ節ですね」と苦笑した。私以上に普通科連隊一筋できた村上3尉だけに人脈は濃く、私の破天荒な言動は耳に入っているらしい。
「ここでは隊員に今後の自衛隊生活の下書きを与えるのです。『中隊長は特別だ』『中隊長になれば楽ができる』と思わせるのも必要なことではないでしょうか」村上3尉の意見は防府でも耳にした教育職の論理=私の中のタブーだ。
「不同意」私は印を押す前に赤のボールペンで訂正した。村上3尉は表情を変えることなくバインダーを抱えて退室していった。

腰の袋はガスマスクです。
- 2016/05/22(日) 08:32:21|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
先ずはウェサック満月(スリランカ最大の祭礼)を前にしての集中豪雨での被害のお見舞いを申し上げます。野僧もスリランカで数万人が亡くなる被害が出た集中豪雨を経験していますが、全ての市民が被災地に向かうトラックの荷台に着ていた衣類を脱いで投げ込み、鍋のままの食料を運転手に預けている姿を見て、政府など公共機関任せの日本以上の国民性を実感しました。
1972年の明日5月22日に我が母なる国の名称が「スリランカ=輝ける島」に改まりました。スリランカはポーク海峡を隔ててインドと対峙している洋上の孤島ですが大きさは九州と四国を合わせた位あります。意外なことにアフリカ大陸の一部であったインドが大陸移動でユーラシアにぶつかってヒマラヤ山脈ができた時、置き去りにされた大地であることが地質調査から明らかになっています。だから島のどこを掘ってもダイアモンド以外の宝石が出るのです。
スリランカは佛陀が生まれる前からシンハラ王家が統治しており、1815年にイギリスによって廃位されるまで続いていました。日本の万世一系の皇室には2676年の歴史があると言う輩がいますが、卑弥呼が登場する魏志倭人伝が成立したのは3世紀末ですから、実際は半分程度でしょう。
民族はシンハラ人が4分の3、タミル人が15パーセント、ムーア人が9パーセントです。宗教は佛教が約7割で、後はヒンズー教徒が約13パーセント、イスラム教徒が約10パーセント、キリスト教徒が約8パーセントです。
セイロンと言う島名は「シンハラの島」が由来とされており、イギリスの植民地になったことでこの呼称が定着してしまいました。そして1948年の独立後もこの国名で通していましたが、1972年に佛教を準国教とし、共和制へ移行した新憲法が成立したことを受けてこの日に国名も変更されたのです。したがって1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博の時にはセイロンでした。
その後、1978年にはイギリス式の議院内閣制から大統領制に移行したことを受けてスリランカ民主社会主義共和国に再度変更されて現在に至っています。
ちなみに首都は最大の都市であるコロンボだと思われがちですが、実際は1984年にコロンボの近傍の湖畔に作られたスリジャヤワルダナブラコッテ(未だに名前が暗記できない)に遷都しています。
野僧は日本よりも実在する佛国土であるスリランカを心の底から愛しています。若し宗教亡命が成功していれば政府軍に加わって佛敵・タミル・イーラムの虎との戦闘に命を捧げたでしょう。
スリランカは敬虔な佛教国であり、国民は釋尊の教えを心から信じ、真摯に学び、実践しています。そこが明治以降に国家神道の狂気に染められて滅亡し、敗戦後は低級なアメリカの大衆文化を味わってしまった日本人とは違うのです。
スリランカには日本人が自画自賛する美徳が日本以上の鮮明さで存在しており、むしろ純朴さとイギリス式紳士のマナーが同居している分だけ、数段上回っているのです。
スリランカでは襟がない服は下着と看做されるため男性は幼い子供から老人まで白のワイシャツを着ています。頭髪も僧侶以外は七三分けで、日本のようにアメリカの不良少年まがいの服装をした若者が街中にたむろする国籍不明の風景は見られません。
愛国者を自称する人は日本が自画自賛するほど立派な国なのか、外から眺めてみた方が良いですよ。

スリランカ国旗
- 2016/05/21(土) 09:20:29|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
陸上自衛隊の新隊員教育には航空教育隊とは明らかに違う点があった。それは体育学校と同じく理論的な説明は教官である区隊長だけが行い、班長はあくまでも助教として実技だけを指導するようだ。その点、航空教育隊では全てを班長が取り仕切り、区隊長は単なる飾りとして蚊帳の外に置かれる。だから私のように教育内容に疑問を持つ班長まで現れるのだ。
朝礼は隊舎前のグランドを区切って朝礼台を並べ、第329共通教育中隊、第335共通教育中隊で分けた営庭で行う。こんなことをするくらいならグランドの隅に朝礼台を置けば良さそうだが、国旗掲揚台が正門内にあるため、区隊にそっぽを向かせないための苦肉の策だった。
「中隊長に敬礼、頭―ッ、右」人数は守山の時と大差ないが、若い隊員の顔は日に日に変化する。特に視線に力がこもっているかは敬礼をしながら流していても見分けることができる。若し力のない隊員に気がつけば悩みがないかを区隊長に注意させなければならない。これが久居での「中隊長のお告げ」と言われることになった。
ところで「頭、右」の敬礼は規則上、編成単位部隊長以上に対して行うものであり、陸上自衛隊では問題ないが、航空教育隊の中隊長には資格がない。このため「頭、右」の敬礼の練習として朝礼・終礼で行っているのだ。
私としては航空教育隊の部隊で何の役にも立たない教育に嫌気が差して陸上自衛隊に転換したので、ここでの教育の内容が気になって仕方なかった。
「チョッと村上3尉の教練を見学してきます」グランドで1区隊が基本教練をやっている時、覗きに行こうと思い中隊事務室に声をかけた。
「視察の件は事前に言ってありましたか?」作野先任が驚いたような顔をして確認する。
「そんな大袈裟なものじゃなくて覗いてみるだけですよ」「しかし・・・」作野先任は困惑した様子だったが、それ以上は何も言わなかった。
グランドでは村上3尉の教育が終わり、4つに分かれて各班単位の実技になっている。私がグランドを歩いてこちらに背中を向けて全体を監督している村上3尉に近づくと、それに気がついた1班の新隊員が班長に知らせ、振り返った班長が私を見つけた。そして班長は村上3尉に駆け寄り、何かを知らせると今度は村上3尉が振り返った。
「動作止めーッ、1区隊、気をつけ」突然、村上3尉は基本教練を中止させ、姿勢を正させる。呆気にとられて立ち止まると村上3尉が駆け寄ってきた。
「第1区隊、基本教練6時間目、各個動作を実施中」敬礼の後、大声で報告されて私は驚いたが、確かに礼式の規則では上司の視察を受けた部隊は実施内容を報告することになっている。ここではそれを正しく実施しているのだが、これでは迂闊に見学ができない。しかも1区隊を見学=視察した以上、2区隊もしなければならないのだ。体育学校で首を傾げた型通りに固まった教育が陸上自衛隊の体質であることを今更ながら実感した。
- 2016/05/21(土) 09:18:28|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
昭和13(1938)年の明日5月21日に映画「丑三つの村」で描かれ、横溝正史さんの代表作「八つ墓村」のモデルでもある津山30人殺人事件が起きました。ただし、小説はこの事件をエピローグにしているだけで直接関連づけてはいません。ちなみに1つの事件で死亡した人数としてはオウム真理教による地下鉄サリン事件の27人を超えて日本最多です。
犯人は事件の舞台になった岡山県津山市加茂町行重の貝尾地区で生まれ、育ち、殺された28人、翌日までに死んだ2人、重傷を負った2人の被害者たちとは顔見知りでした。
犯人は幼少の頃から学業優秀で、性格も良く、礼儀正しい好青年だったのですが、進学の夢を親代わりとして育ててくれた祖母に反対されて断念し、尋常高等小学校を卒業して1人切りの姉が嫁いだ後は祖母と2人で暮らすことになったのです。
それでも実家はそれなりの資産家だったので田畑で働く必要はなく、幼い子供たちに自作の物語を聞かせたりしながら過ごしていたようです。
そんな折、微熱と咳が収まらないため受診すると右肺に影がある=カタル=結核と診断されました。それは両親が結核で死んでいた犯人に深刻な衝撃を与えたのです。当時、結核には有効な治療方法はなく(初期の治療薬・ストレプトマイシンが生成されたのは1943年のこと)、遺伝する病気と言う迷信も根強く、両親に続いて犯人も発病したとなれば噂に火が点いたのは当然の帰結でした。
村人たち、特に女性は犯人の姿を目にすると「肺病病みが来たぞ。息を止めろ」「近づくな肺病がうつるぞ」と聞こえよがしに声を上げ、村八分のような状態に追い込んでいったのです。葬儀と消火以外は手を貸さず、会っても挨拶も交わさない村八分と言う私刑は、本来、村の掟を破った者と家族に課せられる風習で、病気を理由にすることは人情に反する非道として逆に非難されなければなりません。しかし、山間の集落では場の空気が規範であって皆がやっていれば是非を問わず参加するのが処世術であり、それで傷つき、追い詰められる若者の痛みに気づく者はいなかったのでしょう。さらに将来を誓い、契りを結んでいた幼馴染みの女性まで手のひらを返したように別れを告げ、他家に嫁いだのですから、好青年が凶悪犯になったのも当然なのかも知れません。
この日、犯人は村に電気を送る電線を切り(当時は停電が珍しくはなく、復旧は翌日になるのが普通だった)、村人たちが眠りに落ちるのを待って行動を開始しました。
服装は白のワイシャツの上に黒の詰襟とズボン、足には脚絆を巻きました。頭には両手が使えるように2本の懐中電灯を角のように巻き付けました。そして腰に日本刀を差すと猟銃と斧を持って祖母の寝室に向かったのです。祖母は2歳で父、3歳で母を亡くしてからの親代わりでしたが、殺人者の家族が村人からどのような目に遭わされるかを考えて最初に手を掛けることにしたのかも知れません。こうして祖母を斧で殺した後、自分に暴言を吐いた村人の家を襲い、日本刀や猟銃で惨殺していったのです。特に自分を捨てて他家に嫁した女性への憎悪・憤怒は激しかったのですが、家族を射殺していく途中で猟銃が故障して逃してしまったようです。
しかし、騒ぎを聞きつけて出てきた村人が自分に悪口雑言を吐いていないことを認めると見逃したようですから、このような中でも冷静な分別は残していたようです。
そして翌朝、町から警察と消防が駆けつけると犯人は山に逃れ、自ら猟銃で胸を撃って命を絶ちました。21歳でした。
現代社会はネットによって村社会化が急速に進んでいますから、このような好青年が豹変する凶悪犯が現れないとは限りません。
- 2016/05/20(金) 08:45:49|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「宗教上の理由により参拝できない者が2名います」出発前に村上3尉が報告してきた。これは修学旅行などでも起きる問題だが、自衛隊は批判の対象になり易いだけに対応は慎重を要するだろう。
「内訳としてはクリスチャンと学会が1名ずつです」「本人が熱心な信者なんですか?」「いいえ、電話で親に報告したところ、そう言われたとのことです」村上3尉は33普連から3尉候補者で任官して以来、2年にわたり区隊長を務めてきた。つまり過去の対応は熟知しているのだから先に説明して欲しいところだが、そこは互いの立場を守っているのだろう。
「今まではどのような対応しましたか?」「中隊長が説得しても応じなければ社殿に向かう手前で待たせています」「ワシが説得するのかァ」「はい、お願いします」そう言われても本当は「私が」参拝を拒否したいのだ。
昼休みにクリスチャンの新隊員を緊張させずに本音を聞けるよう教場に呼び出した。創価学会の隊員は同期たちから「つき合いが悪いなァ」と言われて納得したらしい。
「何故、神宮を参拝してはいけないんだね」「はい、カミとは唯一絶対の創造主だけだからです」どう見ても親の請け売りの回答だ。しかし、頭ごなしに否定することはできない。
「しかし、今回は神宮を見てくることで日本人の精神文化を学べと言う目的の公務なんだよ」「コームって何ですか?」「早い話が我々の仕事だね」「・・・」賢い隊員であれば「参拝を公務にするのは憲法が定める政教分離に違反する」と反論するのだが、素直な彼は黙ってうつむいた。
「だから建物の見学と作法の勉強の気分で一緒に行かないか」実はこれは自分自身への弁解だった。すると自衛官にするのが心配になるほど素直な彼は真顔で考え込んだ。
「やっぱり信じていないカミに祈るのは嫌です」やはり素直な子の答えは素直だった。
「それじゃあ巫女さんにも会えないなァ」「巫女さんですか?」「うん、若くて美人ばっかりのな」そこで押して駄目なら引いてみた。
「口の中で聖書を唱えても良いですか?」「頭は下げてもらわないと困るぞ」「はい、判りました」結局、引き倒しで参拝することに同意したが、神前で口の中で別の宗教の祈りを捧げている者が2人いることにもなった。1人はクリスチャン、もう1人は・・・?
神宮までの観光バスは小学校の遠足のようだった。乗車前に村上3尉が指導をしていたが、乗り込んだところで童心=悪ガキに戻った隊員たちを監視するため班長たちは最後列に陣取っている。おまけにガイドは定年退職した小母さんが臨時に復帰したような超ベテランだ。つまり教育大隊とバス会社にとっては経験十分=対策万全の行事なのだろう。
私は行きが1区隊の1号車、帰りは2区隊の2号車になる。この当たりのバランス感覚も抜かりはないが、参拝に行くのに白手袋をはめさせるのは自衛隊の礼式に反するはずだ。
「山紫に水清く 神鎮ませる伊勢の地に 祖国を護もる盾として 集う若人意気高し」それにしても村上3尉の隊歌の教育はこの日のためだったようだ。
- 2016/05/20(金) 08:44:14|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
研修前の中隊長の精神教育で神宮へ行く意義を説明するのに私はやらかしてしまった。
「諸官たちは日本の歴史がどうやって始まったのか知ってるかね?」バブルが弾けてからの新隊員には色々なレベルが揃っており話題の設定が難しいのだが、学校の授業のような質問には全員が「興味なし」の拒絶反応を示した。
「古事記の日本神話にはこう書いてある」それでも話を始めると数人が睡眠態勢に入った。
「この国土を作るため地上に降り立った男神の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と女神の伊邪那美命(いざなみのみこと)は自分の身体を確かめた後、お互いに質問し合ったんだ。先ず男神が『お前の身体はどうなっているんだ』と問い、すると女神が『私の身体は出来上がっているが1カ所足りないところがある』と答えたので、男神が『私は1カ所余っているところがあるので、それで足りないところをふさいで国を生もう』と言ったんだ。、意味は判るか?」いきなりのエッチ・シーンなのだが隊員たちは反応しない。そこで質問で参加者を作ることにした。
「1区隊の××2士」「はい、××2士」ここで身上調書に「彼女がいる」と書いてあった××2士を指名し、立ち上がったところで間髪を入れず質問する。
「君の身体で余っていて、彼女の身体で足りないところはどこだ?」「はい、チンポとマ▲コです」「そうだ、正解」これでようやく興味を持ったようで全員の目に点灯した。
「要するに男神と女神が好いことをやってできたのがこの国と言う訳だ」「好いことってオメ■ですか?」「福井ではチャンぺって言います」「チャンぺ、姦りてェ」「俺もォ」この話は防府での座学で曹候学生の後輩にもしたことがあるのだが、ここまで過剰反応しなかったはずだ。そこで収拾がつかなくなる前に難しい話をして鎮めることにした。
「その伊邪那岐命がナニを火傷して死んだ伊邪那美命を黄泉の国へ訪ねたんだけど、その恐ろしい姿を見て逃げ帰って最後に作ったのが天照大皇神(アマテラスオオミカミ)と月読命(ツクヨミノミコト)、それから須佐之男命(スサノオノミコト)の3柱だ。ついでに言えば神さんは柱と数えるんだぞ」「・・・」難しい話をすればたちまちソッポを向く。白けさせる効果も極端だ。それでもこの話を始めた目的でまとめた。
「そのアマテラスを祀っているのが伊勢の神宮だぞ」こうして壇上から見渡していると、騒いでいる隊員ばかり目立つが真面目な顔でノートを取ってくれている者も少なからずいる。そこで興味を持ってくれている優等生を相手にすることにした。
「ここまでで何か質問はないか?」「ツクヨミノミコトが祀られている神社はどこですか?」思いがけず高度な質問だった。それでも下調べはしている。
「ツクヨミは夜の神さんで全国各地にあるが、有名なところでは京都の八坂神社かな」「スサノオは出雲大社ですよね」「誤解されていることが多いが出雲は大国主命(オオクニヌシノミコト)だよ」自衛隊では原則的に宗教教育を禁止されているのだが、これは観光ガイドの範疇だろう。本当は国家神道が犯した重罪を教育したかったのだが、それは右翼と左翼の両方から批判されることになるので君子危うきに近づかなかった。
- 2016/05/19(木) 08:51:08|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
寛政7(1795)年の明日5月19日(太陰暦)は極めて厳格な火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)として「鬼平」と恐れられながら生粋の江戸っ子には「本所の平蔵さま」と慕われた長谷川平蔵宣以(のぶため)さんの命日です。
「鬼平」と言えば池波正太郎さんの小説「鬼平犯科帳」とそれをドラマ化した時代劇で有名ですが、水戸光圀さま、宮本武蔵さん、坂本竜馬さんや村田蔵六さんを除く毛利藩士全員など小説や時代劇が史実とかけ離れた人物像を作ってしまった例は少なくありません。
平蔵さんは延亨2(1745)年に400石取りの旗本で火付盗賊改や京の西町奉行を務めた長谷川平蔵宣雄さん(宣以さんの「平蔵」は家督と一緒に継承した)の長男として生まれますが、若い頃には後世の名町奉行・遠山金四郎景元さん=「遠山の金さん」と同じく厳格な家風に反抗して家を飛び出し、放蕩無頼の徒に加わっていたようです。
その後、家に戻って妻を迎え、長男を儲けますが、父の宣雄さんが京の町奉行に就任したため家族連れで一緒に赴任しました(家督を相続していない嫡男は何歳になっても父親の従属者だった)。しかし、京でも放蕩癖は抜けず、島原の遊郭に通い詰めていたようです。
ところが在任中に宣雄さんが死去したため江戸へ帰ることになり、挨拶代わりに与力や同心たちを集めて「ワシは江戸で英傑になるから、その方たちは精々励んでくれ」と言い放ったそうです。
江戸に帰って家督を継いでも当時の江戸では流行の先端だった歌舞伎物の派手な着物姿で吉原に通い宣雄さんからの遺産を遣い果たしました。
それでも400石取りの旗本で有能な父親の跡取りとなれば仕事は回ってくるもので、家督相続から1年後には江戸城内で将軍の子供の警護役に任ぜられたのを手始めに、老中・田沼意次さまへの伝達役として幕閣中枢に関わることになっていったのです。ちなみに近代的市場経済政策を導入した田沼さまを否定する明治以降の日本史では「賄賂の受け渡し役」と解されています。
それからも順調に出世を続け、42歳で父親も務めた火付盗賊改に就任しました。この時、関八州(と言っても幕府の直轄領だけが担当区域)を荒し回っていた大窃盗団・神道(=しんとう・当時の記録には真刀、神稲ともある)の徳次郎一味を壊滅させ、さらに江戸で強盗や強姦を頻犯していた葵(あおい)小僧を捕縛し、断罪に処しています。
ここまでなら小説やドラマの通りの正義の味方なのですが逆の仕事やっているのです。それは田沼さまの治世下で自由を謳歌していた庶民を嫌悪する新たな老中・松平定信の意向を受けて、江戸に流入した無宿者を集めて仕事を習わせる人足寄場を作ったことです。これも明治以降の日本史では犯罪者の更正施策として評価していますが、この無宿人と言うのは正業につかず博打や犯罪に手を染めた無頼の徒は少数派で、むしろ天明の大飢饉以降、衰退した農村では食べていくことができず手形を持たないで出てきた、江戸の寺院に檀家登録していない者たちが大半だったのです(当時は寺院が地方自治体の住民登録の役割を果たしていた)。そんな罪もない人々を強制的に施設に収容して労働を課し、後には佐渡の金山の採掘労働者として送ることまでやり始めたのですから暴挙と言う他なく、まるで無届けでも真面目に働いている外国人を重宝がっていながら、その一方で「不法労働」として摘発している現代日本の先取りのようです。
ただ、この非道な事業でも平蔵さんらしいのは倹約に執心する松平定信が必要経費を認めなかったため、その乏しい資金を相場で増やして捻出したことです。公務員が予算不足を投資で補うのは明らかに違法ですが、長谷川平蔵さんは人足寄場で働く者たちの処遇改善に遣ったと信じましょう。なお、平蔵さんは8年間務めた火付盗賊改を退任して3カ月に亡くなりました。

みなもと太郎作「風雲児たち」より
- 2016/05/18(水) 08:39:23|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
新隊員たちに団体行動が身についてきた頃、史跡研修が行われる。行き先は言わずと知れた伊勢の神宮だ。本来は愛国心教育の材料にしなければければならないところだが、皇室を縄文人の楽園を奪った侵略者としか見ていない私には不愉快な行事だった。
防府の曹候学生はこの時期に大津島の回天特攻基地へ行くが新隊員は特にない。強いて言えば最初の引率外出で防府天満宮へ参拝に行くくらいだが、高校を卒業してから学問の神様に祈っても手遅れだろう。
「これが研修の日程です」作野先任がバス会社から届いた研修日程を持ってきた。私は観光旅行の気分で確認したが、3個中隊で観光バスを6台も仕立てていく割に行き先は神宮と二見ケ浦だけだ。
「ふーん、もったいないなァ」作野先任は守山から聞こえてくる私の型破りな噂と着任以来の理解不能な言動に敏感になっているようで、独り言にもいきなり身構えた。
「何か問題点でもありますか?」「これけじゃあ遠くから来ている隊員にはつまらないでしょう」弟33普通科連隊の臨時教育隊は三重県出身者ばかりだが、第116教育大隊には富山、福井、岐阜、愛知県からの隊員が多い(石川県も三重県と同様に金沢の第14普通科連隊の臨時教育隊が大半だが、他の職種を希望する者は久居に入っていた)。新隊員は外出範囲も制限されているので、この機会に観光小旅行をさせたいものだ。
「それでは何か希望がありますか?」「折角、夫婦岩まで行くなら鳥羽水族館はどうかな」「あそこは時間がかかる上、人員の掌握が困難になりますから無理です」言われてみれば緑色の制服を着た自衛官がゾロゾロと水槽の前を占拠するのは迷惑かも知れない。
「どうせなら『見たか聞いたか伊勢の国・・・国際秘宝館』はどうかな?」「あそこはご夫婦で行って下さい、お子さんはウチで預かります」「えッ、子連れでは拙いの?」私としては子供頃に土曜日の夜に眠られず親が見ていた深夜番組で流れていたCMで興味を持っただけだったが、先任は古今東西の性に関する展示内容を具体的に教えてくれた。
「あとは渡鹿野島(わたかのじま)って・・・」「あそこは佳織3佐の旦那さんは禁止です」渡鹿野島は伊勢湾に浮かぶ小島だが、古来から船乗りを相手にする売春宿が軒を連ねているらしい。ただし、これも大学時代に対岸の渥美半島から通っていた同級生に聞いた話だ。
「昔、『人魚伝説』って映画を見たけどな」「あれは面白かったですね」渡鹿野島を舞台にした白都真理主演の映画の話をすると先任も身を乗り出した。この映画では夫を殺された海女が売春婦に身を落としながらも夫の仇を突き止めて皆殺しにする。したがってポルノ映画顔負けの濃厚な濡れ場が繰り返されていた。
「先任も意外に好きですね」「ゴホンッ、失礼しました」私の馬鹿話に同調しそうになった先任は危なく踏み止まった。
佳織不在の私が欲求不満であることは間違いない。近所のレンタル・ビデオ店でこの映画を借りて少し解消することにしよう(どうやって?)。
- 2016/05/18(水) 08:37:25|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「君は秋の身体検査の時にはタトゥを彫ってなかっただろう」「はい、高校を卒業して春休みに入れました」担当の村上区隊長には中隊長室のソファーで面接させた。私は大人が2人並ぶと圧迫感があるので自分の席でブラインドを開けた窓を向いて座っている。
「どこで?」「名古屋の栄のタトゥ・スタジオです」「親御さんは知っているのか?」「お母さんは知ってます」「そうか・・・」私は村上区隊長から渡された地連からの入隊予定者の身上調査書のコピーを見ながら説明を聞いていた。この入隊予定者の両親は私よりも7歳ほど年長だから日本の高度経済成長の中で育った元祖バブル世代に当たるのだろう。
「どうして彫ったんだい?」「大人になった証明です」私の父親のような戦前派は「入れ墨は親から授かった身体を傷つける親不孝」と言って絶対に許さないのだが、この入隊予定者の親世代の躾感覚は少し違うようだ。
「ところで君は自衛隊では入れ墨が禁止されていることを地連の人から聞いていたかね?」「いいえ・・・駄目なんですか」村上区隊長が本論に踏み込むと窓に映った入隊予定者の顔が強張った。
「昔は皮を剥いだり、硫酸で焼いて消したものだが跡が残って可哀そうだったよ」「・・・」誰が聞いても痛そうな処置の話に入隊予定者は怯えた顔になる。これが大人になった証明に入れ墨を彫った男なのかと思うと失笑しそうになった。日本式の入れ墨は幅1センチほどの竹棒に鋭い絹針を並べた道具(筋彫り用は2段20本、ぼかし用は同30本)で肌に穴をあけ、そこに墨を入れていくため苦痛はかなりのものらしいが、現在は機械彫りなので少しは違うのかも知れない。
結局、この若者は翌日の入隊前身体検査は受けずに宿泊していた地連の担当者と一緒に帰って行った。
久居駐屯地には体育館がなく、第116教育大隊と第33普通科連隊臨時教育隊の新入隊員と父兄を収容できる建物がないため、入隊式は市民会館を借りて行われる。その時、中隊長は草鞋型の儀礼用階級章を付けた礼装をして壇上に並ばなければならない。
航空教育隊では隊司令の下に各教育群司令がいて、その下に大隊長がいるので中隊長などは端役なのだが、ここではトップである大隊長の次の脇役なので当然だろう。
ただし、主役は第116教育大隊長と第33普通科連隊長の2枚看板になり、2佐と1佐、居候と駐屯地司令では参加者の多数決とはいかないようだ。
1つ、不思議だったのは航空教育隊の入隊式では、最後に「防府航空自衛隊歌」を合唱していたが久居ではそれがなかった。
「山紫に 水清く 神鎮ませる 伊勢の地に 祖国を守る 盾として 集う若人 意気高し」と中隊朝礼の後に村上区隊長が熱心に第116教育大隊歌を教えていたのだが、それを披露する機会はない。これも臨時教育隊を設置している第33普通科連隊への遠慮のようで、陸上自衛隊ならではの分相応と言うものだろう。
- 2016/05/17(火) 08:24:39|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:1
春になって新隊員が入隊してきた。ところが不思議なことに我が第116教育大隊だけでなく駐屯地に同居している(=正確に言えば教育大隊が間借りしている)第33普通科連隊の臨時教育隊でも受け入れている。これは新入隊員が集中する春には普通科と特科の連隊に臨時教育隊を設ける基準によるものだが、実際は三重地方連絡部が新隊員前期課程を終了後も久居で勤務したい地元出身者を振り分けているようだ。
私が善通寺に赴任したバブルの頃は、第110教育大隊に入隊するため地方連絡部のバスから下りる若者は近所の少年院への収監者のような風態だったらしいが、流石に不景気な時代では特別職国家公務員になれるレベルはありそうだ。
「新隊員の着隊は異常なく完了しました」共通教育中隊には普通科連隊の小隊と同じく2個区隊がある。区隊長は3尉候補者出身の村上3尉と第10戦車大隊から臨時勤務の岩田3尉だが、報告は受付業務を処理した中隊事務室の先任陸曹がしてきた。
私の第328共通教育中隊の先任陸曹は佳織が「ト・ツー2尉」だった頃に第10通信大隊から転属してきた作野(さくの)曹長で夫婦揃ってお世話になることになった。
最近の若者は個室で育っているため、2段ベッドの12人部屋に驚き、その場で退職(正確に言えば入隊辞退)を申し出る者もいるらしいが、今回は大丈夫だったようだ。
中隊長としては消灯ラッパまで留まって着隊者が無事に就寝するのを見届けなければならないのだが、志織を保育園に迎えに行き、子供たちに夕食を食べさせなければならない。このため一度、帰宅して再度、出直することにした。その間は班長の引率で食事、入浴、買い物があり、部屋に戻ってからは各班長の面接が始まるから、それが終わってから報告を受けられれば問題はないだろう。
「ダディ、遅いよ」「ごめん、ごめん、どうもすみません」志織を保育園に迎えに行くと最後の1人になっていた。家族持ちの保母さんも帰っていて主任先生が残ってくれていた。
「お父さんも新しい隊員さんが入ってきて大変ですね」この保育園には官舎の子供も多く、保母さんたちも自衛隊の事情は分かってくれている。
「はい、ご飯を食べさて風呂を沸かせば後は兄に頼んで出直しです」「共働きの自衛隊さんはお母さんが休むことが多いですが、志織ちゃんはお父さんなんですね」主任先生は今更のように言ってきた。やはり主任先生の世代では育児は女性の役割と言う認識らしい。
「それでも志織ちゃんはキチンとしていて父子家庭には見えませんよ」これは誉めてくれているのようだが素直に喜ぶ気分にはならなかった。
日が暮れた7時過ぎに出勤すると思いがけない報告があった。入隊予定者を入浴させたところ腕に入れ墨がある者が1名いたのだ。私はジュディを含む海兵隊員が護符として腕に入れ墨をしているのに慣れているので問題だとは思わなかったが、自衛隊ではご法度らしい。
- 2016/05/16(月) 08:35:54|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「ただいまァ」入校から1カ月が過ぎ、佳織は課題がなければ毎週末に帰ってくるようになった。私としては「無理をするな」「勉強に励め」と言いたいのだが、子供たちの気持ちを考えるとそれもできない。1週間の不在であれば演習と違いがなく、父子交代だったのが母だけになるようなものだ。
「マミィ、保育園でねェ・・・」「お母さん、学校で友達が・・・」帰宅して普段着に着替えた佳織に子供たちが報告を始めると私の出番は当分ない。それでも子供たちからの近況報告は、幹部学校で受けている圧迫感と言うモルト(原酒)に足すミネラルウォーターの役割を果たしてくれているはずだ。夜はパジャマ・ミーティングになるのは同じだった。
「やっぱり貴方は日本の自衛隊に入ったのが失敗だったね」今夜の佳織の話は想定外だった。CGSにはアメリカだけでなく西側各国から交歓留学生が入校しており、同期として机を並べている。彼らは基本的に少佐であり、英語が堪能で同じ階級の佳織には親近感を抱くのだろう。
「自衛隊の学生は規格品ばかりだけど、外国軍の人たちは主張が明確で貴方と話が合うだろうなって感じなのよ」「ふーん、確かに航空時代もアメリカ軍の連中の方が話が合ったね」そう答えながら久しぶりに海兵隊のジュディの逞しい身体を思い出してしまった。
「自衛隊に限らず日本人って始めに常識を立てるから、間違いは冒さないけど不測事態に対処できないのよ」「だから諦めてお任せするんだね。南無阿弥陀佛」そう言って手を合わせるのが2人揃い、顔を見合わせて笑った。
「やっぱり組織としては使い辛いはみ出し者だな。ワシは」「逆よ。貴方が使いこなせないと組織として未熟と言うことなの」ここで佳織の関西弁が薄まっていることに気がついた。
我が家の居間には「二兎を追う者は三兎を得る」と言う色紙の額が飾ってある。これは覚王山日泰寺の前山老師の手によるもので、入校が決まり、幹部自衛官と妻・母の狭間で悩んでいた佳織に与えてくれた教示だった。
「どうせなら漢文にして下さいよ」私が墨を磨っている前山老師の隣りでリクエストすると意外な返事が返ってきた。
「これはラテン語の諺の変換形だから漢文はないんですよ」「へーッ、中国の古語かと思っていました」「よし、今度は一本取った」前山老師は痛快そうに笑うと小筆を取って色紙に文字を流したが、その書体には見覚えがある。
「何だか良寛みたいな筆致ですね」「判りますか?やはり貴僧には勝てないなァ」色紙に署名はせずに落款を押して完成させると前山老師は少し自慢そうに説明を始めた。
「拙僧は良寛の書だけは好きでしてね。名古屋で研究している書家の先生に習ってるんですよ」大愚良寛は曹洞宗の表看板のはずだが、前山老師に掛っては単なる引き篭もりの落ちこぼれらしい。
佳織は出掛ける前にこの色紙を見て、三つ目の何かを得ることを誓っているようだ。
- 2016/05/15(日) 08:44:03|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
明日5月15日は明治乳業が提唱している「ヨーグルトの日」=乳酸菌が消化器の健康に有益であることを提唱したイリヤ・イリイチ・メチニコフ博士の誕生日です。
メチニコフ博士は1845年5月15日にロシア南部(現在はウクライナ)のカルコフ地方のユダヤ人富豪の3男として生まれ、17歳で地元の大学に進むとミジンコやナマコなどの無脊椎動物で比較発生学の研究に入りました。ところで日本人は「何で変な物を研究するんだ」などと思ってはいけません。昭和の陛下も無脊椎動物の研究をライフワークにしておられ、葉山御用邸の近くの海岸でサメジマオトメウミウシなど新種の海洋生物を発見されて学会でも認められておられたのです。
その後、1886年にオデッサ大学に細菌学研究所が設立されると教授に就任しますが、フランスンの細菌学者であるルイ・パストゥール博士が開発した狂犬病ワクチンの人体実験を巡って学内対立に巻き込まれ退任することになりました。当時は狂犬病の有効な治療薬は他になく、その検証は急務だったのですが、パストゥール博士自身は狂犬病がウィルスによって発症することを解明しておらず、経験則に基づく方法で作った薬であったため信頼が担保されない中での人体実験に反対した側の主張にも一理ありました。
退任後はパリのパストゥール研究所の招聘を受けて主任研究員として最先端の環境の中で研究を進めることになりますが、当時の細菌学会はフランスのパストゥール研究所とドイツのハインリヒ・ヘルマン・ロベルト・コッホ博士の研究所がしのぎを削っており、細菌の培養方法でシャーレに寒天などの固形の培養地を用いたコッホ博士に対してフラスコの培養液だったパストゥール博士は後れを取っていました。
それでもメチニコフ博士は今まで積み上げてきた研究を進め、かつて無脊椎動物の研究の中でミジンコなどを体内から捕食する微生物が個体によっては逆に消化・吸収されることに気づいた謎が「腸内環境」と言うキーワードに至ったのです。
メチニコフ博士はブルガリアを旅行した時に接した現地の人々が大変に健康的であることと発酵させた乳を常食していることを結びつけ、発酵乳が人体の腸内環境に有益であると仮説を立て、その検証に邁進することになりました。
その検証は死に至るまで続き、臨終に際して友人に発酵乳=乳酸菌が自分の身体にどのような影響を与えたか確認するように依頼して、「腸の辺りだと思うんだが」と言って亡くなったそうです。
勿論、生前には原因は究明できていないにしても統計学的に発酵乳が健康な腸内環境を作ることに有益であるとの確信を持っており、それを人々に普及した功績が認められて1908年にはノーベル生理学・医学賞を授与されています。
ところで古くから日本にも乳から作る発酵食品がありました。それは「酥(そ)」と呼ばれるチーズ状の固形物で、白隠禅師の「夜船看話」の内観法で頭の上に載せていることをイメージして、それが溶けて体内に染みわたることを想像することで滋養強壮を得られるとしているように寺院内に伝わる健康食品でした。
チーズとヨーグルトはどちらも乳酸菌を加えることは同じですが、チーズにはレンネットと言う酵素を加えて固形化する点が違います(友人のスイス人の奥さんから聞いた話)。
最近は「乳酸菌は胃液で死滅してしまう」と効果を否定・疑問視する声を聞きますが、人間を生半可な知識で分析する現代医学よりも経験則・統計学を信用する方が間違いないでしょう。

明治乳業の商品に描かれている肖像画
- 2016/05/14(土) 08:59:28|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
夕食の後、私は志織を風呂に入れる。最近は髪をのばし始めたので、洗うのも少し手間がかかるようになった。
「シャンプー、ブクブクしたよ」志織が小さな手で髪を洗い終えると今度は私が仕上げをする。そして「目をつぶって」と言ってシャワーで洗い流し、リンスをするのだ。私自身は小学校5年以来、髪を伸ばしたことがなく、これは佳織に習った作業だった。
「ダディはどうして髪の毛がないの?」「どうしてって?」「だって頭、ザラザラしてるけど髪の毛ないよ」「うん、ザラザラは毛だけどね」本当は綺麗さっぱり剃ってしまいたいのだが自衛隊の中ではオウム事件の余波が消えていない。そこで土曜日に剃って月曜日から1週間は超短い坊主刈り状態で通していた。
「でもブラッシングもドライヤーもしないでしょ」「うん、ドライヤーしたら火傷しちゃうな」「それにシャンプーしないで石鹸で洗うでしょ」「そうだね。短いから背中のついでと顔のついでに洗えるんだ」こんなところでも佳織の教育を実感する。日常生活の中で女性としての嗜みを伝授していたようだ。
志織も年中ともなると突っ込みが鋭く、関西人の娘だけに問答にはボケ役が必要なようだ。ここまで話して身体を洗い終え、湯船に並んで入った。
「でもお兄ちゃんのおチンチンはツルツルだけどダディはフサフサだね」「うん、志織もツルツルだろ」「うん、頭に毛がないのにおチンチンは毛が生えるやね」「大人になるとね」「女の子はオッパイも大きくなるよ」我が娘ながら鋭い観察眼には感心する。そう言えば少し関西弁も入ってきている。
「そうだね。志織もマミィみたいに素敵なプロポーションになるかな」「プロボジョンって何?」うっかり「ナイスボディ」と言いそうになったが控えておいた。
「マミィみたいに綺麗な身体のことだよ」「マミィみたいな?」「うん」これはプロポーションと言う単語の説明としては不適切だが好いだろう。佳織はWACとして鍛えているだけに産後も体形は崩れずナイスボディを維持している。ただ乳房は昔から巨乳ではなく、むしろ筋肉質なのだ。その愛おしいナイスボディに触れられなくなって1カ月が過ぎようとしている。鼻血を吹く前に風呂から上がらなければいけない。
「だからお兄ちゃん、マミィのお風呂を覗くのが好きなんだ」「へッ?」「お兄ちゃん、志織もオッパイ大きくなるかなァって言うんだよ」淳之介も小学校5年になり、目覚めてもいい頃だが晩熟だった自分自身を想うとやや早いような気もする。
「よし、今度はダディがマミィと一緒に入ろう」「志織も入りたい」そこまでで志織を出し、淳之介の番になった。裸になった淳之介のおチンチンはまだツルツルだった。
今後、佳織の階級が高くなり、移動が頻繁になって別居生活が続くようなら志織が成長していく過程では母親の躾が必要になるだろう。礼儀作法や家事一切なら私にも仕込めるが「女性」特有の美意識はやはり母親でなければ判らない。つまり私は志織の新隊員課程の担当なのだ。
- 2016/05/14(土) 08:57:24|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
昭和39(1964)年の明日5月14日はハンセン氏病の研究と患者の救済に生涯を捧げ、昭和26(1951)年には文化勲章を受章した山口県防府市の名誉市民である光田健輔医師の命日です。
光田医師は明治9(1876年)に現在の防府市中関(防府南基地の近傍)で生まれ、高等小学校を卒業すると単身上京して医師宅に住み込みながら勉学に励み、医師開業の前期試験に合格すると野口英世さんと同期で済生学舎に入って後期試験に合格しました。
その後は東京帝国大学に進んで病理学を学びますが、この頃から癩(らい)病と呼ばれていたハンセン氏病の原因を究明して治療法を確立することを志すようになったそうです。
実際、癩病患者の療養所から患者の遺骸が献体された時、他の医学生たちが感染を恐れて誰も手をつけようとしない中、光田医師だけは進んで解剖し、原因探求への志を実践しました。
当時、ハンセン氏病には強い伝染性があると信じられており(実際の感染力は弱い)、身体が病み崩れていく症状は前世の悪業による報い=業病として忌み嫌われ、家族まで村八分にされていたのです。このため多くの患者は裕福な家なら土蔵や奥座敷で、貧しい家では縁の下に穴を掘って人目を避けて暮らすか、人知れず捨てられ、放浪の挙句に野垂れ死ぬ宿命でした。
この悲惨な状況に対して光田医師は患者の救済に動き始め、全国各地に療養所を設置するよう努力し、自身も岡山県の瀬戸内海の離島・長島に設立された国立ハンセン病療養所「愛生園」で患者たちと暮らし始めたのです。
この患者と生活を共にしながらの研究は当時としては自分を献体とする一種の人体実験でもあり、人里離れた場所に療養所を設置したのは医学的に評価が定まっていなかった伝染を避けると共に患者を世間の目に晒して迫害を受けさないためでもありました。
しかし、近年、群馬県草津町の国立ハンセン氏病療養所「栗生楽泉園」に1938年から47年まで設置されていた全国唯一の懲罰施設「重監房」の一部を復元した資料館が一般公開され、患者の強制収容が罪もない弱者を社会から抹殺するための人権侵害であるかのように喧伝さています。
また、最近では1931年から1996年まで強制収容が継続され、患者が原告・被告になった時の裁判が療養所内に設けられた特別法廷で行われたのは憲法違反であるとする訴訟が結審し、最高裁は憲法判断を避けたものの「差別的で違法」との結論を示しました。
光田医師は患者同士の恋愛・結婚の問題に直面し、当時は可能性が否定されていなかった遺伝による拡大を防止するため男性の生殖能力を奪う処置を行っていますが、被害者意識のみで過去を見れば可能な限りの最善を尽くしてきた功労者の業績も忽ちのうちに「負の歴史」になっていまいます。これを「恩を仇で返す」と言うのでしょう。
現在ではステロイドの有効性が確認され(予防ワクチンについては検証未確定)、検査と予防方
法の確立により国内の患者数は年間1名程度ですが、当時、治療方法自体が暗中模索・試行錯誤の状態であれば様々な過誤があってもそれを断罪することが正しいとは言えません。
情けないことに防府市は最近の批判的なマスコミ報道を鵜呑みにした市民からの指摘を受けて(と市の担当者は説明していますが、実際は新聞記者に直接言われたのでしょう)、市役所内にある光田医師の銅像に並んで設置されていた顕彰碑を撤去したそうです。
担当者は「名誉市民を撤回することは避けたい」と言っていますが、この県の住民は被害者意識だけで過去の事績を一方的に否定する業病を患っていますから要注意です。
- 2016/05/13(金) 08:37:24|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
私の転属の方が佳織の入校よりも先だったため引っ越しでは久居に同行した。佳織も入校期間が1年を超えるので幹部学校への転属になるが、官舎は借りずに12階建て学生隊舎の最上階にある女性自衛官宿舎の1室を使うことになっている。
「へーッ、広々としたエエとこやね」名古屋の雑然とした都会を抜けて名四国道から伊勢自動車道へ入ると風景は田園地帯になる。
「うん、子供たちを育てるには最高の環境だな」「関西弁が標準語みたいやから嬉しいわ」サービスエリアで聞こえてくる人たちの会話は関西弁だ。これから母不在になる我が家としては子供たちの胸に響くことがあるかも知れない。
「ウチはここに帰ってくるんやね」「うん、家族がいる場所にな」同じ第2教育団(中部方面隊管内の教育大隊を統括していた=現在は廃止)隷下なら名古屋で新幹線を降りて近鉄に乗り換える久居よりも大津駐屯地、別名・雄琴駐屯地の第109教育大隊の方が便利だっただろう。しかし、人事異動の調整は担当者の人脈に関わる面もあるので、10師団管内の方が容易だったようだ。
久居駐屯地は近鉄の駅の目の前にある。ここの教育隊出身の隊員たちの話によると昔は駅と駐屯地の間に看護学校の寮が隣接していたらしいのだが現在は取り壊されて丸見えだ。
官舎は駐屯地に隣接しており、今回は家族帯同の幹部用なので守山での独身用とは部屋数が倍増した。これも佳織が抜ける分、かえって広さが心の空間として迫ってくる。ただ淳之介だけは念願の自分の部屋をもらえたため1人で有頂天になっていた。
淳之介の転校は手続きをすませれば終わりだが志織の保育園はそうはいかない。規則上は保育園への入園資格の審査の後(両親の収入や家族構成、特に母親が保育できない理由などを詳細に調べられる)、1カ月程度の半日の慣らし保育で集団生活に耐えられるか観察してから正式に入園となるのだ。しかし、ウチの場合は父子家庭であり、育児休業を取得することも難しいため特例で入園が許可された。
本当は私が上番した第328共通教育中隊には新隊員が入っていないから男性隊員の先駆けとして育児休暇を申請したかったのだが、着任早々から目立つことをするのは陸上自衛隊に於いては極めて拙いので諦めた。
「ダディ、保育園の先生が志織ちゃんはマミィ、ダディって言うの?格好いいねって言うよ」夕方に保育園へ迎えに行き、自転車の後ろに乗せて走りだすと、志織が報告を始める。佳織に似て度胸が据わっている志織は新しい保育園でもマイペースを堅持しているようだ。
「うん、マミィ、ダディってのはアメリカの言い方だからね」これは志織が言葉を覚え始めた頃、佳織が教えていたのだ。あの時の幸せそうな顔を思い出すと恋しさが募る。
「お兄ちゃんはお父さん、お母さんって言うよ」「そっちが日本だね」「パパ、ママは?」「それは中国語だよ。フランス語ならパパン、ママンだけど」「難しいね・・・」佳織が不在なので志織を代役して小難しい話をしてしまったが、やはり無理だった。
- 2016/05/13(金) 08:36:25|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
送別会では曹候学生の後輩でもある田島2尉が隣りを離れず、思い出を語りながら泣き上戸になっていた。
「キャップと接して曹学出身であることに自信を持てました」田島2尉は海空以上に生徒=少年工科学校が幅を利かせている陸上自衛隊の中で一般陸曹候補学生の存在理由に悩んでいたようだ。
「生徒なんて世間に背を向けた純粋馬鹿を製造する制度は陸軍幼年学校の失敗に懲りて自衛隊には作るべきではなかったんだよ」「はい、今はそう思うようになりました」しかし、ウチの中隊にも生徒出身の陸曹がいるので音量は下げた。
「曹学の受験勉強よりも部活や趣味に打ち込んで高校時代を楽しんだ頭が良い馬鹿に実力を発揮させれば、この組織も柔軟で幅広い活躍ができるようになるはずだ」「キャップは武山に行って曹学の教育にあたって下さい」田島2尉の言葉で私の胸に一般陸曹候補学生への興味芽生えたが現実の人事は別物だろう。
「中隊長のおかげで僕のプライドはズタズタです」次は上席の反対側に座っている松山3尉だ。こちらも一般幹部候補生課程の後輩なのだが、そんな態度ではない。
「僕は子供の頃から良い大学へ入れば高い立場に立てると言われて勉強に励んできました。だからW稲田大学に入れば頭を下げるのは東大だけ、K応大の連中は実力でKOすれば良いと思っていました。ところが・・・」ここで松山3尉は私が注いだグラスのビールを一口飲んだ。
「ローカルな大学の、それも中退の中隊長に完膚なきまで叩きのめされて・・・当分、立ち直れません」「そうかァ?しっかり立っているだろう」ここで席を見回すと陸上自衛隊の礼式に則り、主賓と上司に酒を注ぎにきた隊員たちが正座して並んでいる。そこで松山3尉にビールを勧めて前を向こうとすると、まだ絡んできた。
「中隊長は本当に人に屈辱を与える人ですね」「ワシが屈辱を?」「人間にはレベルと言うものがあるでしょう。大学中退なら中退らしく、幹候校の卒業序列が悪いなら悪いレベルでいるのが分相応でしょう。トップエリートよりも優秀なんて僭越です」「ふーん、ワシは自分が馬鹿だと自覚してるがな」すると松山3尉はいきなりビールを飲み干した。
「こんな失礼なことを言っても笑いながら受け取ってしまう。中隊長には自分がありそうで全くないんです」突然、松山3尉は泣き出した。
その後、酒を注ぎにきた陸曹たちも「貴重な経験でした」「一生、記憶に残ります」「自分も幹部を目指します」と言っていたから楽しんではくれたのだろう。
しかし、こちらが酒を注ぎに行った陸士たちが「キャップって頭がいいのですか?馬鹿なんですか?」と訊いてきたのには困ってしまった。確かに間違いなく馬鹿です。
「これで諸官たちは普通の特別職国家公務員に戻れる。1日でも早く陸上自衛隊の常識を取り戻されることを期待する。以上」これが私の離任の辞であった。
- 2016/05/12(木) 08:35:28|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
次のページ