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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ502

課程教育が終われば臨時勤務の区隊長、班長たちは原隊復帰する。その前に慰労と謝恩の宴を持った。これは平日だったが淳之介に留守を頼んで出席した。
「中隊長の評判はあちらこちらで聞いていますが、大分、尾ひれがついていますね」私の右隣に座った岩田3尉が乾杯のビールを飲み干した後、私に注ぎながら話を始めた。
「どうせ、相手構わず吠えつく狂犬みたいな奴って言うのだろう」「犬ではありませんが突進する猛牛って言うのはあります」「それじゃあ、戦車の方が向いてたかな」ここは冗談で区切りにした。すると岩田3尉は真顔になって話を続けた。
「中隊長は開庁記念日の時、ウチの戦車を自走対戦車砲と呼ばれたのを覚えておられますか?」「うん、覚えてるよ」「あれにはショックを受けました」ここで私がビールを注いだ。
「実際、陸上自衛隊の戦車の運用方法は自走対戦車砲じゃあないか」「はい・・・」岩田3尉は私の知識がどの程度なのかを計りながら返事を探しているようだ。
「戦車って兵器は敵の攻撃をものともせずに前線を突破して、深く敵の領域内に突き進んで死命を制するのが本来の用法だろう」「はい、そうです」「しかし、陸上自衛隊にはそれだけの数がなければ国土の縦深もない」「その通りです」ここで互いに相手のグラスにビールを注ごうとしてビンを奪い合ってしまった。
「だから普通科に随伴して敵の戦車を迎え撃つことが任務になっているんだな」「そうなんですよ。自分も悔しくてなりません」そう答えて岩田3尉は私が注いだビールを飲み干した。
「まあ、ワシに言わせれば戦車は北海道と本州中央部の日本海側、後は関東平野に集中配置して、後は対戦車誘導弾に切り替えた方が正解だな」これは戦車の運用に適した広大な平野を指している。13個師団に分散させている戦車をこの3カ所に集中させれば、ある程度の数が揃うはずだ。費用対効果の面でもかなりの効果がある。
「普通科の幹部なのにそこまでの見識を持っておられる中隊長がどうして1尉でここにおられるのですか?」岩田3尉は少し酔いが回ってきたようだ。そう言われても階級が上がらないのは自業自得、教育隊に来たのは愛妻一筋なのだから仕方ない。私としては7月1日付で村上義夫区隊長が2尉になることで満足することにしよう。

「貴方、伊勢へお参りに行く気ない?」7月に帰宅した佳織が妙な質問をした。
「ワシがか?行くはずがないだろう」「やっぱりな、ホンマ困ってまうわァ」返事を聞いた佳織が溜め息をついたので、どういうことなのかを訊いてみた。
「ドイツ、フランスとトルコの交換学生が伊勢参りをしてみたいって言うんや」「ふーん、物好きな奴だね」「それで私の自宅が三重県だったら『泊めて案内してくれ』って頼むんや」「何とも厚かましい連中だな」私の渋い返事に佳織は益々困った顔になる。私としては1週間ぶりに会った妻には笑顔でいてもらいたいので了承することにした。
「まァ、『神道は大日本帝国を戦争に追い込んだ狂気の宗教だ』と言う解説つきで良いなら案内するよ」「うん、その方が彼らも勉強になるやろ」靖国神社や明治神宮に参拝して興味を持った外国人に批判的な知識を与えても良いのかは判らない。それでもこの国を滅亡させた大罪を懺悔することもなく、自然を大切にする穏健な宗教と言う表面的なイメージで国家神道の再生を図っている神道の実態は海外でこそ認識してもらいたいのは確かだった。
「それにしてもイスラム教徒のトルコ人が伊勢へ行っても良いのか?」「単なる観光、歴史研修やからエエんやって」「なるほど、ワシもそれでいこう」実は佳織が入校して以来、私は夜の時間つぶしに佛教書と新・旧約聖書やコーランを愛読している。これは違った意味で楽しみになってきた。
ひ・森野佳織イメージ画像
  1. 2016/06/30(木) 08:47:00|
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振り向けばイエスタディ501

村田和上の大音声の念佛についての見解(けんげ)を記した書簡を覚王山の前山老師と広島の田沼和尚に送った。すると全く違う評価が返ってきて考えさせられてしまった。何より驚いたのは曹洞宗の前山老師が村田静照和上を知っていたことだ。
「専修寺がある津市の一身田は我が曹洞宗の沢木興道老師の出身地だからよく知っているよ。村田和上のことも一身田の寺から掛塔(かた=入門)した雲水から聞いたことがあるな」と説明した上で、「貴僧は自衛官として使命に身を任す日常を修行にしているから、坐禅で自己を手放すよりも念佛で投げ渡す方が脱却し易いのかも知れない。自力の念佛を極めるのも一興だ」と肯定・激励してくれた。
逆に田沼和尚は「曹洞宗の貴方が我が真宗の教えに傾倒してくれたのは嬉しいが、私は村田和上と言う方は知りません」と断っておいて「曹洞宗の中で問題になりませんか?」と心配してくれた。しかし、私は僧籍こそ曹洞宗に置いているものの坊主としての活動はしておらず、実質的に自由気ままな無所属の坊主なのだ。
さらに田沼和尚は「貴方はおそらく阿弥陀如来と縁を結んだことで身体の中から歓喜が沸き起こり、それが大音声となったのでしょう」と評価・理解してくれたが、念佛の後から元気が湧いてきたことを考えれば少し違っているようだ。やはり浄土真宗的にはそうなるのだろう。

新隊員たちの卒業は悲喜交々(ひきこもごも)だ。任地や職種が希望通りになるか否かで、空に勇躍する者と絶望の淵に沈む者とに分かれてしまう。
任地と職種の枠は私が受けて帰り、区隊長を呼んで話し合うのだが希望者数が偏らない限り基本的に2分割する。一番の問題は北海道=北部方面隊だ。他の地域に比べ極端に地元志向が強い東海・北陸出身の新隊員たちを津軽海峡の向こうに赴任させるのは至難の技だった。
「岩田3尉、君は隊員に北海道へ行けば90式戦車に乗れると言っているらしいが?」「はい、確かに職種説明の時にそう言いました」村上3尉の質問に岩田3尉は少し顔を強張らせて答える。
「それはまずいな。北海道の枠は戦車だけじゃあないんだ。戦車に乗りたいから北海道と希望させて違う職種になったら赴任先で辞めてしまうぞ」「・・・はい」村上3尉の指摘に岩田3尉はうなだれるようにうなずいた。村上3尉は不人気な職種を宣伝し、人気がある職種は苦労話を聞かせている(嘘はついていない)。こんなイメージ誘導も必要なのかも知れない。
「それで北海道枠は埋まりそうですか?」「ウチは何とか」「ウチは2名を説得中です」私がジャンケンで負けたため今年の枠は21名だった。それを村上3尉の1区隊が11名、岩田3尉の2区隊が10名を割り当てたのだ。
こうして職種と任地が決まると卒業前に各区隊ごとの発表がある。ここで泣く者はなぐさめ、怒る者はなだめて諦めさせる。私が人事発令を個人単位で印刷した辞令を渡した後は卒業式、一時帰省、赴任と一気に突き進んでいく。

「間もなく北海道へ赴任する新隊員が出発する。隊員は正門どおりに整列せよ」朝礼が終わった頃、駐屯地一斉放送が流れた。北海道へは小牧から航空自衛隊の輸送機で赴任するため他の任地の隊員よりも1日早く出発する。だから駐屯地の全隊員で見送るのだ。
「知床の岬にハマナスが咲く頃 思い出しておくれ 俺たちのことを・・・」昔懐かしい「知床旅情」が流れる中、立派に成長した教え子たちは巣立っていった。
しかし、私なら「北の大地に根づけ」との想いを込めて松山千春の「大空と大地の中で」を選びたいところだ。「果てのない大空と広い大地のその中で・・・」
  1. 2016/06/29(水) 08:42:06|
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振り向けばイエスタディ500

「中隊長もアンビで目的地まで行かれたらどうですか?」なんとか1区隊の隊員に処置しているアンビランスに追いつき、中村3曹を託すと衛生隊の2曹が声をかけてきた。確かに炎天下を中村3曹に2人分の背嚢を加えた大荷物を背負って2キロ近くを歩いてきたのでクタクタだ。おまけに水筒の水は全て中村3曹に振りかけてしまっている。
「ワシは普通科の幹部だぞ。満洲の広野を負傷した兵を背負って歩いた日本陸軍の歩兵士官に負けるわけにはいかないんだよ」それでも弱音を吐かない私に衛生隊員たちは溜め息をついた。
「これが評判のモリヤ節ですね」「でも病院に搬送なんてことにならないようにお願いしますよ」
私たちの会話をエアコンが効いたアンビランスの6段ベッドで聞いていた中村3曹は「中隊長の馬鹿・・・」と呟いて頬に涙を伝わせた。私はそれを手のひらで拭って暑い外に出た。
「うん、少し歩調を速めないと区隊に追いつけないな。ファイト!」こう言って歩き出したが、膝はガクガク、頭もクラクラしている。そこで土曜日に試した村田和上の念佛で気合いを入れることにした。
「ナームアーミダーブー」西に向かって手を合せ、大声で念佛を唱える。これでは死人の供養のようだが、効果は間違いないはずだ。アンビランスの運転席と助手席(=自衛隊的には車長席)に座った衛生隊員たちは顔を見合せて唖然としている。
「ナームアーミダーブー」残っている力を吐き捨てるように念佛を繰り返していると、西の方から「おう、いつでも来い」と言う声が聞こえ、身体の底から力が湧き起ってきた。
いきなり歩度(=1分間の歩数)140で前進を始めた私にドライバーの衛生隊の士長が「中隊長、無理しないで下さい!」と声をかけたが、阿弥陀如来から「死力=生命を超越した力」を頂いているので最早、私の体力ではない。

ようやく最後尾の2区隊4分隊の後ろ姿が見えてきた。するとアンビランスが横づけしてきた。
「この2人も体調が回復したようなので歩かせましょう」「うん、小松2士は歩いた方がいいな。中村3曹は無理させることはないぞ」小松2士には卒業前の関門とも言える25キロ行軍を歩くかなければ「試練から逃げた」との思いが残り、今後の自衛隊生活で負い目にもなるだろう。
一方、中村3曹の任務が私の話し相手であればこれ以上は必要ない。むしろ衛生員として行動させたいと考えていた。ところがアンビランスの後部ドアを開けて2人とも下りてきた。
「「あれ、中村3曹は無理することないぞ」「いいえ、中隊長を1人で歩かせる訳にいきません」確かに先ほどの意識を失って白目を剥いていた時とは別人のような顔になっている。
「そうか、だったら今度はワシが倒れたら衛生員としておぶってもらおう」「そうだぞ中村!衛生員の癖に熱射病の兆候に気づかなかったなんて勉強不足だ」私の冗談に衛生員の先輩である2曹が叱責を加える。中村3曹の元気は急速に凋んでしまった。
「仕方ないなァ、気合いを入れて行こう」そう言って私が手を合わせると全員が「極楽へ連れて行かれそうなので遠慮します」と辞退した。
風早演習場に入ると各区隊が隊列を組み、目的地の廠舎に向かって道足(足は合わさない歩き方)行進になった。新隊員たち最後尾をついてくる私がどこで「その場に伏せ」と号令を掛けるか警戒しているのでその期待に応えることにした。
「中隊長、何を?」私が胸ポケットから100円ライターと爆竹を取り出すと隣を歩いている中村3曹が驚いて声をかける。ここで爆竹を鳴らし「敵襲」の状況を与えようと言うのだ。
しかし、爆竹は袋が破れて汗を吸ってしまっている。どうやら中村3曹を背負って歩いた時の無理な姿勢がまずかったようだ。つまり私が期待を裏切った原因と新隊員たちが余計な動作をしないで済んだ恩恵はどちらも中村3曹が倒れた結果だった。
恵庭・25km行軍
  1. 2016/06/28(火) 08:34:50|
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6月28日・姉川の合戦が起きた。

元亀元(1570)年の明日6月28日(太陰暦)に織田・徳川連合軍VS浅井(あざい)・朝倉連合軍が近江の琵琶湖東岸で雌雄を決した姉川の合戦が起こりました。この合戦の舞台はJR北陸本線、北陸自動車道から看板が見え、小学生の頃から三河武士の古戦場巡りが趣味だった野僧は何度も訪れて、かなりリアルに研究しています。
織田信長さまは妹・市さんを浅井長政さまに嫁がせ盟約を結んでいましたが、足利義昭ちゃんを報じて上洛を果たした際、越前の朝倉義景さんに帰順を明らかにして上洛することを求めたものの拒否されたため攻撃したところ、永年にわたる朝倉との同盟関係を尊重する長政さまの父・久政さんとその取り巻きによって織田を裏切ることに決し、後方から織田軍を襲ったのです。
この時はそれまでに奪取していた朝倉の支城などの戦果には目もくれず、総てを放棄して単騎逃亡した信長さまの軍事的天才性によって窮地を脱しましたが、近江の浅井の存在は美濃・尾張と京を結ぶ連絡網の大きな障害となり、遠からず雌雄を決しなければならなくなりました。
信長さまを破った浅井・朝倉は近江東岸から北陸にかけての勢力確保にむけて着々と手を打ち、永年の宿敵だった近江南部の六角義賢さんと手を結び(織田との盟約は六角を討つことが目的だった)、主要交通路を遮断して織田軍を京と美濃・尾張に分断し、足利義昭ちゃんの密命を受けて動くはずの甲斐・武田晴信さまや関西の諸将と共に各個撃破する戦略を立てました。
ところが六角義賢さんが敗れたため交通路に穴が開き、自領を守備することに方針転換しましたが、上洛の征途で武田さまが病没した上、義昭ちゃんが追放されて、いよいよ決戦に追い込まれたのです。
決戦に先立って境界線の砦を任されていた重臣が織田の調略により寝返ったため、6月19日に美濃を発った信長さまはその日のうちにその砦に入り、21日には浅井の本拠地・小谷城に近い虎御前山に布陣しました。ちなみに「虎御前」とは鎌倉幕府の業務日誌である「吾妻鏡」の曽我兄弟の仇打ちの項にも名が出てくる伝説の遊女です。この時、織田軍は小谷城下を焼き払い、翌日には撤退しています。
24日になると小谷城下を流れる姉川の対岸にある横山城を包囲し、ここに徳川家康さんの精鋭三河武士団が到着しました。その頃、朝倉軍も到着したため両軍の兵力は1万3千と拮抗したのです。
こうして28日の未明、姉川を前にして2手に分かれて布陣していた浅井・朝倉連合軍に織田・徳川軍が別々に攻撃を開始し、明るくなると戦闘は本格化していきました。
激戦は一進一退でしたが、朝倉・浅井連合軍の陣形が伸び切っていることを見て取った家康さまが榊原康政さんに別動隊を与え、側面を突かせたことで総崩れになり、浅井軍は小谷城に入り、朝倉軍は越前に撤退しました。
この合戦は浅井の地元で行われたため多くの重臣が討ち死にしており、中でも長政さまの守役だった遠藤直経さんの最期は伝説として今も語り継がれています。
遠藤さんは合戦が終わって浅井軍が小谷城に入ってことを見届けた後、信長さまの本陣に「浅井家重臣・遠藤直経(=自分)の首を持ってきた」と申し出て、検分をさせる振りをして近づき、刺し違えるつもりでしたが、顔を知っていた者に見破られ、その場で討たれたのです。
遠藤直経i石井あゆみ作「信長協奏曲」の遠藤直経
  1. 2016/06/27(月) 09:03:30|
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振り向けばイエスタディ499

25キロ行軍では今回も中村昌代3曹が話し相手に付いてくることになった。作野先任は別の男性隊員にするよう言ったのだが、本人が命令を起案している村上3尉に「私ですよね」と念を押したらしい。
「陸上自衛隊の行軍は目的地が戦場だ。到着したらそのまま戦闘訓練をやるつもりで歩け」こんな私の訓示に3ヶ月のつき合いで冗談ではないことが判ってきた新隊員たちは顔を強張らせている。しかし、本当は演習場に隣接する風早池で着衣泳をやらせたいのだ。
「本日は気温が高いから水分補給を十分に行え。水筒は目的地で補充させるから無理な我慢はせずに飲め」「隣を歩いている者が話しかけても返事をしなくなったら班長に報告しろ」「前を歩いている者がふらつき出したら声をかけろ」出発前の両区隊長の注意も念入りだ。確かに今日は快晴だが訓練には悪天候だろう。
陸上自衛隊の25キロ行軍では衛生隊のアンビランス(=救急車)が最後尾をついてくる。その前を私と中村3曹が歩いているのだが、対向車が来ると道を譲るためつかず離れずの状態だ。
10キロ行軍の時は沿道から応援してくれる人にお礼を言って回ったが、炎天下では外に出ている人は少ない。仕方ないので中村3曹の人生相談に乗りながら歩いていた。
「チョッと失礼します」休止地点にトイレがあると中村3曹は必ず利用している。この季節には汗をかくので尿の頻度は低くなるものだが、少し体調が悪いのかも知れない。
「中隊長、1区隊の隊員が熱射病のような症状で動けなくなったそうですから急行します」往路の半ばでアンビランスが追いついてきて、助手席の陸曹が窓越しに報告した。
「そうか、よろしく頼む」「はい」陸曹は私の返事が終わる前に窓を閉め、アンビランスは発進する。往路は前を歩いている1区隊の隊員では収容は数キロ先になるだろう。ただし、緊急車両の回転塔と警告音は作動させていないので、それほど心配する必要はないようだ。
「そう言えば無線機はアンビに積んであるんだったな」第116教育大隊本部には通信専門の部署がないので無線機は教材班が管理している数台だけだ。このため必要最小限になり、最後尾はアンビランスに1台、私は駐屯地との連絡用に官品の携帯電話だった。
「まあ、連絡が必要になったらワシが伝令に走るかね」そんな冗談を言ったが中村3曹は返事をしない。振り返って見ると10メートルほど後方にうつ伏せに倒れていた。
「どうした?しっかりしろ」私は駆け寄って声をかけた。抱き起こすと顔色は蒼白だ。唇も血の気が失せている。私は首筋に手を当てたが汗をかいていない。
「熱射病だな」自分で確認しながら応急処置を思い出した。先ずは意識を回復させ、水分を補給し、体温を下げなければならない。意識を回復させるには頬を打つのが手っ取り早い。私はヘルメットを取り、「中村3曹、中村3曹、中村、中村、昌代、昌代」と声をかけながら軽く頬を打ち、すると中村3曹は大きく息を吸った。そこで自分の水筒の水を頭からかけ、残りを背中に流し込んだ。これで意識は回復したが、やはり立つことは無理だ。そこで私は防府のむつみ訓練の時のように背負っていくことにした。しかし、あの時は20代半ばだったが、あれから10年以上が経過している。それでも背嚢を胸に回して中村3曹を背負った。
「すみません・・・」「もしかして生理中か?」「・・・はい」私の質問に首筋でうなずいたのが判る。これは休止地点でトイレに行っていたことで察しなければならないことだろう。
「それは悪かったね。こんなに勘が悪くては指揮官失格だな」「中隊長の馬鹿・・・」私の自嘲と謝罪に中村3曹は鼻をすすりながら腕で首を絞めてくる。背中で佳織よりは小ぶりな乳房がつぶれたのが判った。
幹部候補生学校では酔い潰れた佳織を背負って屋上に登ったことがあったが、何にしてもこの25キロ行軍は前半で体力を使い果たしてしまった。
  1. 2016/06/27(月) 09:01:07|
  2. 夜の連続小説8
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6月27日・こいつも山口県人・松岡洋右が死んだ日

昭和21(1946)年の明日6月21日に日本を対米戦争に引き込んだ元凶の1人としてA級戦犯に指定されていた松岡洋右(ようすけ)が巣鴨プリズンから移送された東大病院で結核のため死亡しました。つまり毛利藩士が作ったこの国の奇態・大日本帝国に終幕を下した山口県人です。
松岡は明治13(1884)年に山口県熊毛郡室積町(現在の光市)の裕福な廻船問屋の4男として生まれましたが、11歳の時、父親が事業に失敗して破産したためアメリカに移民していた親戚を頼り、13歳で渡米しました。
アメリカではプロテスタントで洗礼を受け、苦学しながら勉強に励みましたが、人種差別による迫害を日常的に受けたことで「アメリカ人には力と力で立ち向かわなければ対等な交渉はできない」と言う信念を抱くようになっていたようです。
オレゴン大学の法学部を卒業した後、更に名門大学への進学を考えていたようですが、母親の病気が重篤になったと言う連絡を受け、9年ぶりに帰国しました。
帰国後は現在の明治大学に籍を置きながら日露戦争の徴兵を逃れるため外交官試験を受けて合格し、明治37(1904)年に外務省に入省したのです。
山口県人が官僚になれば芋づるに絡むのは至極当然で、松岡も中国や欧米での勤務を経て山口県軍閥の寺内正毅内閣では総理秘書官兼外務書記官にまで昇りました。
ところが第1次世界大戦後のパリ講和会議に事実上の通訳として参加したのを最後に41歳で外務省を退官し、中国での勤務で作っていた人脈で南満州鉄道に理事として入社しました。
ところが南満州鉄道も副総裁まで昇りながら9年で退社し、いよいよ代議士として政治中枢に参画することを目指したのです。
郷里の山口2区で当選すると議会で列強諸国との協調と中国への内政不干渉を基本とする幣原喜重郎外務大臣の外交方針を厳しく批判し、戦意高揚を煽っていた新聞から賞賛され、衆愚の喝采を浴びました。この背景には若い頃に抱いた「力と力で対抗する」との信念があったことは言うまでもありません。
こうして華々しい集中照明(=スポットライト)を浴びれば外交の専門家として立振舞うようになり、昭和6(1931)年に関東軍が満州事変を起こすと国際連盟が派遣したリットン調査団の報告が採択される翌年の国際連盟の総会に代表として出席したのです。
この時、松岡は「満州国を認めないのであれば脱会も已む無し」との政府の方針を受けていたのですが、会議は「日本の満州における特別な権益は認めるが満洲国は不承認」と言う方向に定まりつつあり、そこで「十字架の上の日本」と言う演説を打ちました。
その内容は「イエスは無実の罪で十字架にかけられたが後世には理解されたように、日本の行為に対する誤解も必ず理解される日が来ることを信じている」と言うもので、「出席者に感銘を与え、万雷の拍手を受けた名演説であった」と光市教育委員会や郷土資料館の連中は自賛しているものの、実際は非キリスト教国の日本の代表(本人がクリスチャンであることがどこまで知られていたかは不明)がイエスを引き合いに出したことに対する皮肉・嫌味と松岡の日本人離れしたアメリカ訛りの英語への喝采だったと言われています。
何にしても日本としては脱会しなければならないような不利な内容ではなく、その後の国際的孤立と、嫌われ者同盟の締結へ進む国運の暗転を考えれば代表だった松岡の重大な判断の誤りだったことは間違いないでしょう。
昭和15(1940)年には近衛文麿内閣の外務大臣に就任しますが、やったことは文民による外交の否定で、大使を全て軍人や代議士に交代させました。これが第2次世界大戦につながった以上、東條英機と並ぶA級戦犯の頭目であったことは明らかです。
こんな奸物でも郷土の偉人にしている公共団体があるとことが山口県人の異常性です。
  1. 2016/06/26(日) 08:53:41|
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振り向けばイエスタディ498

東海地方が梅雨入りする前に久居の教育隊では新隊員課程最大のイベント・25キロ行軍がやってくる。目的地は久居市郊外にある風早演習場で、直線距離なら3キロ程度なのだが、市内を大きく迂回して片道12キロにする(実際は往路の方がかなり長い)。さらに現地で飯盒炊飯を行い、背嚢に着けていく個人用天幕も敷設して野営の雰囲気を味あわせてくるのだ。
訓練前の土曜日、私は帰宅した佳織に子供たちを託して朝から出掛けることにした。
「チョッと自転車で出かけてくるワ」「25キロ行軍の下見だね。気をつけて行ってらっしゃい」おそらく佳織だけなら2人でサイクリングにするのだが家族連れでは無理だと判断したようだ。それでも「栄養補給の間食に」と塩味が強めのおにぎりを持たせてくれた。
風早演習場は歩哨訓練で行ったことがあるのだが、あの時はトラックで駐屯地を出て近鉄の踏切を渡り、市街地を抜ければ間もなくだったはずだ。ところが今回のコースは近鉄沿いに逆方向に進む、かなりの遠回りだ。それでも10キロ行軍の時に田植えしていた苗がかなり伸び、その姿が新隊員たちの成長と重なって気分も上々だ。
その頃、私は5月の連休に参拜した専修寺=浄土真宗高田派の偉大な念佛者・村田静照和上に強い関心を抱いていた。
夏の光を受けて輝いている水田を眺めながら村田和上が勤めていた大音声の念佛を真似てみることにした。先ず畦道に自転車を止め、阿弥陀さまがおられる西に向かって立つ。この時の姿勢は号令調整の半歩開いて手は腰にではなく両足揃えて合掌だ。そして3度深く頭を下げてから大きく息を吸った。
「ナームアーミダーブー」この時間帯は東風だから念佛は風速で飛んでいく。
「ナームアーミダーブー」やはり自衛官なので発声は号令調整と似てきてしまう。
「ナームアーミダーブー」腹の底から声を出し切ると目の前が真っ白になった。しかし、これは坐禅を組んで静かに腹式呼吸を繰り返しているよりも短時間で確実に「無」になれるようだ。この経験を前山老師と田沼准尉に手紙で送ろうと思いながら自転車にまたがった。

自宅には昼過ぎに帰った。行きと帰りではコースが違うため目的地から最短距離で帰ってくることができず、25キロを自転車で走破することになったのだ。
家では先に昼食を終えた子供たちと一緒にテレビで吉本新喜劇を見ていた佳織が私の昼食の準備に立ち上がった。
「一緒にシャワーを浴びないか?」私は台所に向かう佳織の腕を掴んで頼んでみた。
「突然、どうしたんや」すると佳織は何故か関西弁になっている。
「うん、1人で半日も過ごしたら・・・」「分かった。エエよ」そう答えると佳織はバスタオルを取りに箪笥へ向かい、私は先に脱衣場で裸になり、中でシャワーの温度を調整した。こんな夏の日中は低めが丁度良いだろう。するとガラスのドア越しに脱衣場の外で佳織が裸になったのが見えて、そのまま髪にタオルを巻いて入ってきた。
「冷たいけど良いかな?」「うん、貴方は全身が火照ってるやろから冷やしたらエエよ」そう答えて佳織はシャワーを受け取り私の背中を洗い始めた。佳織の手が昨夜剃ったばかりの頭を撫でる。私は思わず手を合せて念佛の続きを始めてしまった。
「ナームアーミダーブー」「何や、それ?」「水行(みずぎょう)です」「だったら滝に打たれなあかんやろう」そんな悪ふざけを満喫してシャワーを出ると淳之介が「お父さん、よかったですね」と声を掛けてきた。続いて「志織、お兄ちゃんと一緒にシャワーを浴びようか」と口説いている。流石に中学生の息子の前ではまずかったかも知れない。
は・鈴木京香イメージ画像
  1. 2016/06/26(日) 08:50:16|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ497

アメリカに帰って島村、杉本に戻った2人はホテルの高層階にこもり防衛駐在官・野中将補に提出する報告書を作成していた。作業開始に先立って室内の盗聴器、隠しカメラと放射電波を徹底的に探したのは言うまでもない。さらにパソコンはインターネットを接続していなくても内部機能で情報が流出する可能性があるため昔懐かしい和文のタイプライターを使っている。
「金大中は何故、16歳も年下の金正日に臣従したような態度を取ったんでしょう?」金大中は明らかに格下の扱いをされたことにも不満の色を示さず、むしろ「お会いできて光栄です」などと挨拶したらしい。
「手土産に財閥を通じてかなりの資金を金正日に朝貢したらしいですよ」「うん、それは公然の事実だったな」島村=岡倉が接触した韓国人たちは金大中の形振り構わぬ北への接近はノーベル平和賞を獲得して自分を「偉大な大統領」として歴史に刻むためだと口を揃えていた。
「朝鮮半島の人間にとっては南の大統領はアメリカの傀儡に過ぎないと言う意識が本人にまで染み込んでいるかな」杉本の認識は韓国語教室の講師も言っていたことだ。むしろ千年来の宗主国・中国が支持する北の政権の方が正当な統治者だと思っているのかも知れない。
「つまりアメリカさえいなくなれば平和裏に統一が果たせると言うことですね」「うん、金大中の政権はその方向に進めているな」これでは杉本だけが仕事をしてきたようなので、岡倉も仕入れてきた情報を提供した。
「軍の高級幹部でも対北強硬派は次々と予備役に編入されているようです」「そのようだな。知り合いの軍人たちも戦々恐々としていたよ」周知の話題に杉本はあまり関心を示さない。
「アメリカへの留学経験を持つエリートが狙い撃ちにされているのですが、優秀な人材が排除されては軍としての機能が滞ってしまいます」「確かに自衛隊でもアメリカへ留学すると洗脳されて帰ってくるからな」珍しく杉本の口から自衛隊の話が出てところで岡倉が見解を述べた。
「金大中の狙いが軍の弱体化にあるとすれば問題は日本にも及びます」「・・・まさか大統領の職にある者が自国民を脅威に晒すようなことを考えはしないだろう」「いいえ、韓国軍内では金大中の過去の言動からその懸念がかなり高まっているようです」これは李中尉が語っていた最近の軍内の雰囲気から推理した見解だった。
「金大中が軍の弱体化を図っているのには今までのようにクーデターを起こすような気概を奪うこともあるのではないでしょうか」「それはどこまでが情報で、どこからがお前の見解なんだ?」杉本は唇を歪めて皮肉に笑った。

「そうか、金大中は韓国軍の指揮権独立を北に反抗しないためだと言ったのか」数日後、ホテルを訪ねてきた野中将補は杉本がタイプ化した報告文書を読んで顔を強張らせた。軍人出身の全斗煥・盧泰愚大統領は完全な民主政権の実現を求める国民の支持を得る窮余の策として在韓米軍の指揮統制下にある韓国軍の独立に向けて交渉を始めた。民間人出身の金泳三が大統領になっていた1994年には平時における独立を果たし、2015年には完全な独立体制に移行することになっている。その前提が親米政権の継続であることは言うまでもない。
「韓国軍内には政権によって軍の存在意義まで真逆に変質されるくらいなら、このままアメリカの指揮を受けている方が良いと言う意見が広がっているのは確かです」「問題は現政権が親米派の軍人たちの排除を進めていることです」2人の説明に野中将補は大きくうなずいた。
「どちらにしろこの報告は米軍に送ってもらうことになるからあちらの手にも渡る。このような前例を作ってしまえばおそらく完全な独立は延期されるだろう」日本では金大中を「悲劇の政治家」「不屈の闘士」などと持て囃し、それまで禁止・制限されていた日本文化を開放するなど柔軟な対応を示したことで、小渕首相は「最も友好的な大統領」との賛辞を与えたのだが、所詮は韓国の政治家なのだ。
  1. 2016/06/25(土) 09:11:33|
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6月25日・日本の偉大なる作曲家・宮城道雄の命日

昭和31(1956)年の明日6月25日に日本の楽器である琴などを使って西洋人にも感銘を与える幾多の名曲を生んだ宮城道雄さんが東海道線の刈谷市内で急行列車から転落死しました。62歳でした。
野僧が育った岡崎市の小学校では音楽の授業で宮城さんの作品「春の海」を鑑賞する時、音楽担当の女性教師が琴を持ち込んで尺八が趣味の教頭と生演奏した上、エピソードまで習ったため地元出身の偉人なのかと思ってしまいましたが、実際は兵庫県神戸市の出身で、亡くなったのが同じ西三河の刈谷市だったと言うことでした。それでも国鉄の頃の刈谷駅では電車の到着を知らせる警告音に宮城さんの「春の海」を流していましたから、かなり強い思い入れがあるようです。
宮城さんは前述のように神戸市三宮で日清戦争が始まる直前の明治27(1894)年4月に菅家の長男として生まれました。生後7カ月になる頃から眼病を患い、両親が離別したため祖母に預けられて育ちますが、7歳の頃に失明してしまいました。
日本では古くから盲目の人たちには按摩か芸事で身を立てる救済手段が確立されていたため(欧米の非富裕層の身体障害者は物乞いをするしかなかった)、宮城さんも琴の生田流に入門したのです。
そして11歳で免許を受けますが、この修業時代の火の気のない寒さの中で練習するため指を湯につけていたものの長時間に及んだため湯が冷めて水になり氷が張ってしまったなどのエピソードは音楽界のスポ魂として我々を感動させたものです(エピソードの前提として弦の感触を覚えるために指先を柔らかくしておく必要があったことも習いました)。
免許を受けると朝鮮半島の仁川に移住していた父親を援けるため13歳で渡航し、現地で昼は女性相手に琴、夜は男性相手に尺八を教え始めますが、同時に既成の楽曲の演奏と教授だけでは満足できなくなり作曲にも取り組むようになりました。こうして14歳で最初の作品「水の変態」を完成させ、朝鮮総督だった伊藤博文さんの前で披露して感心させました。この年、伊藤は暗殺されています。
翌年には首都であるソウルに活動の拠点を移し、19歳で入り婿として結婚し、さらにソウルでは尺八の名手・吉田晴風さんとも知り合い、盟友として切磋琢磨と共助協力していくことになりました。
そんな安定した生活を得てからも宮城さんは現状に安住することなく、神戸の師や西日本で名人と呼ばれる人々を訪ねて教えを受け、22歳の若さで琴界では最高位の大検校を与えられますが、好事魔多しで先に帰国していた吉田晴風さんの招きで上京して間もなく奥さんが病没してしまったのです。
本来であればこの時点で亡妻の姓である「宮城」を名乗る理由はなくなったのですが、宮城さんは生涯、この姓を守りました。
翌年、再婚すると新しい妻の姪2人を内弟子(半分、世話係のような)にして活躍の場を広げ、洋楽家や文筆家、評論家、学者などとの交流により、作曲家として大きく飛躍していくことになったのです。
特にラジオの国際化を受け、日本発の番組として宮城さんの作品と演奏が欧米で聴取されるようになると注耳を集め、海外でもレコードが発売され、色々な楽器の名演奏家が来日すると宮城さんとの協奏を希望するようになりました。このため宮城さんは琴や尺八の楽曲を西洋音楽式の五線譜で表現するように工夫して、それが琴の普及に一役買ったのです。
敗戦後も名声は失われず、ヨーロッパでも度々演奏会を開き、多くの賞を受賞していた中、大阪での公演に向かうため乗っていた東海道線の刈谷駅手前の三河線との交差ガード付近で急行列車から転落してしまいました。深夜3時過ぎに現場を通過した貨物列車の乗務員からの通報を受けた刈谷駅の職員が救助に向かい、豊田病院に搬送された時点では「道雄の道は・・・」などと説明できる程度の意識があったのですが、午前7時15分に死亡したそうです。
転落の原因としては盲目の宮城さんがトイレと間違えて乗降口のドアを開けてしまったと言われていますが、線路を走る大音響と風圧に気づかないはずがなく「覚悟の自死だったのではないか」との憶測もありました。
同じ盲目の演奏家でも津軽三味線の高橋竹山さんと比べてしまうと順風満帆な人生だったようです。
  1. 2016/06/24(金) 08:44:50|
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振り向けばイエスタディ496

「今からアメリカへ帰ります。その前に会ってくれませんか?」岡倉は金田に別行動の許可をもらうと李中尉にメールを送った。それは「返事がなければ仕方ない。この出会いもここまでだ」と言う賭けでもある。仮に李中尉が勤務中の携帯電話の使用が禁止されていてもそれは考慮しないつもりだった。
「はい、ゲートで待っています」すると即座に返事が返ってきた。岡倉は携帯電話を握ったままタクシーを止め、駐屯地に向かわせた。
「お前、遠回りしたな。こんなに高くつくはずがないだろう」「貴方、日本人だね。韓国語が下手で言ってることが判らない」李中尉がゲートで待っているとタクシーが止まったが、中で岡倉が運転手と揉め始めた。牧村=岡倉はどうやら前回、来た時よりも高い料金を請求されたらしい。韓国のタクシーでは経路を指定しなければ不要の遠回りをして高額な料金を請求されることも珍しくない。それで文句を言えば「韓国語が下手で行き先がよく判らなかった」「ついでに市内観光をさせたサービスだ」などと開き直る。
「どうしました」陸軍士官の略服を着た李中尉がドアのガラスをノックして声をかけると、運転手は驚いて「それで結構です」と岡倉が持っていた少額の札を奪ってそのまま走り去った。ゲートに立つ2人の兵士は憧れの聖女=李知愛中尉が待っていた相手が男と判り、勤務中であるにも関わらず耳打ちを始めた。
「どうも助かりました」「いいえ、韓国の恥を見せてしまいましたね」タクシーを下りた岡倉が礼を言うと李中尉は困った顔で返事をした。
「時間がないのでここで失礼します」「はい・・・」岡倉の言葉に李中尉は唇を噛んでうなずく。単独行動を許可した金田は「念押しの一発か?時間がないぞ」とせせら笑っていたが、岡倉と李中尉は肉体よりも精神で結ばれつつあるのだ。
しばらく岡倉は韓国語、李中尉は日本語で次の言葉を探していたが、彼女の方が切り出した。
「この間は取り乱してすみませんでした」あの夜、李中尉は腕の中で泣き続けていた。岡倉にはそれが薬の効果が覚めてきた結果だと判っていたが、黙って涙が尽きるのを待っていた。
「これでもう会えないのですか?」岡倉が腕時計を見ると李中尉は意を決したように質問した。その目には明確な答えを求める軍人らしい力がある。しかし、それは岡倉が決めていた答えを引き出す切っ掛けに過ぎなかった。
「牧村と言うのは僕のペンネームです。僕は仕事上の理由で結婚することはできません。おそらく日本に帰ることもないでしょう。しかし・・・」岡倉が言葉を途切れさせると直視している李中尉の目が一瞬、怪訝そうになる。しかし、表情を変えることなく言葉を続けた。
「貴方が本当の僕を知りたければ岐阜県大垣市の松念院と言う寺を訪ねて下さい。そこに両親の墓があります。住職に『岡倉信一郎の妻だ』と言えば話は聞けるはずです」「ギフケン・・・ショーネンイン・・・オカクラ・・・シンイチロー」李中尉は今、聞かされた言葉の要点を呟いて確認している。そんな妻=李中尉を岡倉は抱き締めた。
「シンイチロー・・・ナムピェォン(私の夫)」昨夜、李中尉は神父から「相手の男性が一言でも真実を語ればそれで全てを信じ、カミが与えたもうた伴侶としなさい。しかし、貴女に嘘しか残さないで去ったなら悪夢として忘れなさい」と言われていた。軍人・陸軍士官として軽率な状況判断であることは判っているが、この言葉を信じることにした。
岡倉には韓国陸軍の服務規則は判らないが、警備の兵士たちの好奇の視線に構わず口づけをし、李中尉も首筋に腕を回してそれを受け入れた。
若し、李知愛中尉がKCIA(韓国中央情報局)のハニートラップであれば岡倉3佐はまんまと引っ掛かったことになる。しかし、「人間であること」を棄て切ることはできなかった。
李英愛4イメージ画像
  1. 2016/06/24(金) 08:43:32|
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6月24日・UFO記念日

明日6月24日は「UFO記念日」だそうです。初めてこの記念日を聞いた時、カップ焼きそば「UFO」の発売を記念して日清製粉が制定したのかと思いましたが違うそうなので、それならばピンクレディのヒット曲のレコード会社の方かと考えましたがこちらも外れ、結局、福島市(旧伊達郡福田町=UFOの里)にあるUFO物産館内のライブラリーが提唱した1947年の6月24日にアメリカの実業家がロッキー山脈上空で閃光を放つ9つの飛行物体を目撃したことを記念する日でした。ちなみにライブラリーは「世界中でUFO観測が行われている国際的な記念日だ」と説明しています。
その実業家は飛行物体の形状を「主翼や尾翼がない円盤状」と表現したため「空飛ぶ円盤」と言う単語が造られましたが、調査に乗り出したアメリカ空軍は「Unindentified(未確認) Flying(飛行) Object(物体)」と定義したため頭文字を取って「UFO」と言う呼称が生まれたのです。
野僧が子供の頃のウルトラシリーズなどの特撮ドラマでは空飛ぶ円盤が宇宙からの侵略者の乗り物として登場し(球形が多かったが)、巨大な怪獣はM78星雲の傭兵が倒し、空飛ぶ円盤は地球人の防衛部隊が叩き落とすと言うのがパターンで、まるで日米安全保障条約の米軍と自衛隊の役割分担のようでした。
そんな頃、野僧や同級生が夢中になっていたのが「サンダーバード」や「機関車トーマス」を制作したイギリスの21世紀プロダクションの特撮ドラマ「謎の円盤UFO(=読みはユーエフオー」)」で、円谷プロの模型然とした円盤とは全く違うリアルな映像に胸を躍らせ、学校でも戦術や粗筋について議論を闘わせました。何よりも戦いの舞台が月と地球全土であることが日本にしか怪獣が現れないウルトラシリーズよりも真実味があり、「地球防衛秘密組織・シャドーに入隊したい」と思ったのが航空自衛隊への道の始まりだったのかも知れません。実際、野僧が自衛隊に入ってからも夜間飛行を終えたパイロットに「上空でUFOに遭遇しませんでしたか?」と訊く馬鹿や警戒管制部隊で勤務している時、本物のレーダースコープを使ったシュムレーションで「これがUFOの襲来だ!」と超高速度の大編隊のデータを入力する阿呆もいたので、どいつもこいつも野僧と同じくシャドーに憧れて航空自衛隊に入ったようでした。それにしてもあのドラマの時代設定は1980年代だったはずですが、シャドーはその後、どうなったのでしょうか?秘密のまま解散になってしまったのかも。
そんな昭和の時代には幽霊、ネッシー、つちのこ、河童、比婆ゴン(=広島県の中国山地に棲んでいると言われる大猿のような怪物)などと並んでUFOの有無に関する論議が盛り上がっていて、テレビ各局も競うように特番を放送していました。
あの頃の怪奇・超常現象の特別番組は妙にリアルな映像を集めており、幽霊なら心霊写真から始まり有名人の体験談、ネッシーでも目撃証言から写真や足跡(どちらも潜入レポートが付く)、そしてUFOではアメリカの研究者が提供したUFOの大群がライトを点滅させながら低空飛行する様子や大空を高速度で通過する多数の飛翔体の鮮明な動画が流されていました。今にして思うとあそこまでリアルな映像が撮影されたのなら大ニュースになって、特番ではない真面目なニュースの時間に報じられたはずですが、そうはならなかったところが虚偽の証明でしょう。
その点、1917年7月13日にスペインのファティマで起こった怪奇現象は5千人の観衆と多くの新聞記者が立ち会い、白黒写真も発表されたためバチカンの教皇庁も「聖母による奇跡」と認めています。あの時、大空を飛び交った光の球はUFOではないのでしょうか?
尤も、かぐや姫や日本神話の天孫降臨もUFOと言えないことはないので、古代エジプトや南米のインカ、アステカの星のカミを含め目撃情報は有史以前にまでさかのぼるのかも知れません。
そんなUFOの目撃情報が科学者の否定だけで立ち消えになってしまったのはかえって謎です。あの頃の番組に登場していた研究者流に解釈すれば「UFOの存在を秘匿したい政府の圧力で揉み消された」と言うところでしょうか。
「『E.T』や『未知との遭遇』『COCOON』みたいなことが起きないかなァ」などと思いながら星空を見上げていると福島市のライブラリーの会員にされてしまうのかも知れません。
それにしても6月6日は「悪魔の日」、9日は「ネッシーの日」です。やはり梅雨時は家で時間をつぶすのにも困る輩が多いようです。
  1. 2016/06/23(木) 09:43:26|
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振り向けばイエスタディ495

アメリカへ帰る前、金田と岡倉は挨拶を名目とした報告のため防衛駐在官の林1佐を訪ねた。「そうか、実態はそんなところだとは思っていたが、そこまでアカラサマに擦り寄っているとはな」金田が携帯の画面(当時)で説明する南北首脳会談でのやり取りを読んで林1佐は唇を噛み締めた。金田は大統領に随行した女性ジャーナリストが色香を使って北朝鮮関係者から聞き出した内部情報を入手していたが、日本大使館内の防衛駐在官室とは言え盗聴の可能性は否定できないので出所は伏せている。
「それにしても君たちの情報網をウチの外交官に譲ってもらいたいな」「我々、ジャーナリストは噂レベルのネタを拾い集めることから始めますから、外交官の責任ある情報とは次元が違うのです」林1佐の口調が不満になったので金田は盗聴されていることを前提に謙遜した。
「そう言いながら俺は陸幕にいた頃、記者クラブの連中には苦労させられたよ」「はい、大変でしたね」親しげな2人の横顔を眺めながら岡倉は「金田も陸上幕僚監部で林1佐と一緒だったのではないか」と推察した。
「本社にはアメリカから報告しますので、この情報がアメリカ国内でも知られることは十分にあり得ます」「そうなると韓国軍の指揮権独立の問題もこのままと言う訳にはいかなくなるな」「はい、そのための人脈は牧村が開拓しています」そう言って金田は黙っている岡倉の顔を見る。教官の気分でいる金田は弟子の岡倉が指示を実施したことを確信していた。
「どうでも良いけど慰安婦問題の再発は困るぞ」「まあ、似たようなものですが」「クックックッ・・・」2人の中年親爺は顔を背けながら押し殺すように笑った。

李知愛はあの夜から苦しみ続けていた。幼い頃から修道院に入り、汚れを知らぬ信仰の生活に憧れながらも、中学生の時に起きた大韓航空機爆破事件で晒し者にされている実行犯・金賢姫の姿を見て、カミを否定する北の脅威から祖国を守る殉教者になることを決意したのだ。
そんな自分が初対面の日本人に抱かれた。それも身体から沸き起こる衝動に身を任せた。それは自分の中に潜んでいた悪魔が身と心を奪い取ったとしか思えなかった。
李知愛は仕事を終えると毎夜、教会で長時間祈っている。その真剣な姿を見かねた神父が声をかけた。
「李中尉、苦しんでおられるようですが」李知愛は結んでいた両手を解き、神父を見上げた。
「神父さま、罪の告白をお願いします」「告悔室にいきますか?」「いいえ、カミの秘跡をいただけるような罪ではありません」告侮室とはヨーロッパの映画などで描かれることがある懺悔の部屋だ。カソリックでは罪を告白し、それを聖職者がカミの許しを与えることで浄化されるとしている。これが告侮の秘跡だ。ただし、犯罪行為は告白しないのが不文律である。
「それではこちらで紅茶を飲みながら話しましょう」そう言って神父は聖堂の控室にいざなった。聖堂の控室には壁際の事務机の外には古びた木製の椅子とテーブルがあるだけだ。神父は事務机の横の棚の上に置いてある電気ポットで紅茶をいれて李知愛に勧めた。
「私の中に悪魔がいます」熱い紅茶の湯気を吸った後、李知愛は叫ぶように告白した。この態度は神父が知っている理知的な陸軍士官とは別人だった。しかし、これは神父にとっては珍しくない序幕だ。若い殊更に真面目な娘が自分を忘れてカソリックの戒律に背き、韓国社会に根差す儒教の規範を破り、親の躾を守らなかった時の後悔ではこのような思考に陥るらしい。要するに「敬虔な信仰ゆえの過剰反応なのだ」と初老の神父は受け取った。
神父は李知愛の告白を聞いた後も酔った末の婚前交渉と理解し、「今は6月ですから悪魔が動き出しても不思議はないですね」とヨハネの黙示録13章にある悪魔の名を示す数字を引用してこの迷える子羊を許すことにした。
  1. 2016/06/23(木) 09:38:06|
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6月23日・国際オリンピック委員会が設立された。

1894年の明日6月23日にフランスのピエール・ド・フレディ・クーベルタン男爵の提唱で国際オリンピック委員会が設立されました。このため国際オリンピック委員会ではフランス語が第1公用語とされています。
クーベルタン男爵はワーテルローの戦いでナポレオンが指揮するフランス軍がイギリス、プロイセン連合軍に敗れた原因は、庶民を集めたフランス軍よりもスポーツで健康的に鍛えられていたイギリス貴族の子弟の方が心身ともに強健であったことだと考え、パブリック・スクールの教育について研究するようになりました。そしてラグビー校を見学した時に本場の闘球(=ラグビー)に魅了され、自ら練習に励み、審判の資格を取得して帰国するとフランスでの普及に尽力したのです。
それにしても日本のオリンピック委員会は「オリンピックは平和の祭典」と自画自賛していますが、提唱者がスポーツに目を向けた理由が戦争の勝因の研究だったことには失笑してしまいます。
確かにクーベルタン男爵がソルボンヌ大学(現在のパリ大学ソルボンヌ校)で近代オリンピックの開催を提唱した趣旨は「帝国主義の進展により世界中に新たな植民地とする土地がなくなり一触即発の危機が迫っている中、古代ギリシャで個人の闘争・競争を以って昂ぶる戦意を解消し、国としての雌雄を決していた故事に倣いたい」なので「平和の祭典」と言えなくはありません。しかし、オリンピック委員会が主張する「オリンピックの開催が戦争を停止する効果」はそれ程でもないでしょう。
東京と札幌(冬季)での開催が決定していた1940年の大会は大陸での武力紛争の泥沼化と対米英戦の準備を進めていた日本の辞退により、ヨーロッパで第2次世界大戦が始まっていたこともあり中止されています。
さらに1980年のモスクワ大会の2年前には開催国のソ連がアフガニスタンに軍事侵攻したため、西側主要国のボイコットが相次ぎ、2012年のロンドン大会を開催した時点でイギリスはアフガニスタンでの軍事作戦を実施していました(イラクへの侵略戦争も2年前まで)。
それにしてもオリンピックに感動したのはどの大会までだったのか?野僧の記憶にあるのは3歳の時に国道1号線まで聖火を見に行った東京オリンピックからで、テレビで見た女子バレーのソ連戦や柔道無差別級のヘーシンクさんと神永昭夫さんの対決、そして円谷幸吉さんがトラックに入ってからヒートリーさんに抜かれた場面は白黒で思い出せます。
メキシコ大会では何と言っても君原健二さんの意識朦朧としながらの力走と銀メダル、三宅義信さんの重量挙げ(東京大会の方は記憶にない)ですが、三宅さんは体育学校で一緒にシャワーを浴びた時の裸体の衝撃が大き過ぎて今一つ鮮明ではありません。
ミュンヘン以降は解説書を読むようになって情報量が数倍増していますから記憶に残っているから感動したとは言えません。
やはりソウル大会の年に自衛隊体育学校に入校して、日本の各競技協会のあまりにも汚い政治的な駆け引きの実態を知り、オリンピック選手たちの多くが人間としての限界を超えた鍛え方によって肉体が破壊され、引退と同時に身体障害者になっている現実を聞いたことがオリンピックに懐疑的な感情を抱くようになった切っ掛けだったようです。
日本はマスコミがオリンピックを唯一絶対とする勝手な価値観を押し付けていますが、サッカーなどの圧倒的競技人口を有する種目についてはオリンピックよりもワールドカップの方が人気と権威があり、オリンピックの中心をなす陸上競技も世界陸上や伝統があるマラソンの方が国単位の選考を経ない分、見応えがある競技が繰り広げられているようです。
クーベルタン男爵の名言「重要なのは参加することである(=フランス語の言葉の直訳)」の精神も今では「重要なのは金だけだ」となり、中継で視聴率を稼ぐマスコミ、ネームバリューを狙うスポンサー企業から提供される金で財布は肥満体になっていながら純真なスポーツ馬鹿を演じる選手たちの非健康体の競技を鑑賞するのが現代オリンピックです。
  1. 2016/06/22(水) 09:04:09|
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振り向けばイエスタディ494

「シッリエ・ハェッセウニダ=失礼しました」戻ってきた李中尉は化粧も直してきたらしく、酔って潤んでいた目元も少しスッキリしたようだった。
「チャン=友達同士の乾杯の発声」韓国での乾杯は会話が途絶える度に繰り返す。2人もグラスを鳴らしたが、岡倉は暗い目で李中尉がグラスの酒を口にするのを確かめていた。
「今日は有り難うございました。おかげで美味しい韓国料理を堪能できました」「宮廷料理と屋台料理ではどちらがお口に合いましたか?」「うーん、僕は庶民の出身なので屋台かな。でも宮廷料理も奥が深くて勉強になりました」いつの間にか2人の会話は日本語になっている。それに気づいた李中尉は肩をすくめて笑った。
「私は大学で日本語を学んだのです」「そうですか。僕の韓国語よりも上手ですね」岡倉に誉められて李中尉は嬉しそうに笑ったが、突然、表情を強張らせた。岡倉は内心では薬の効果が現れ始めたことを察していても、表面上は心配そうな顔で見詰めている。
李中尉の顔は徐々に紅潮し、息遣いが荒くなってきている。自分自身の変調が理解できず自問自答を繰り返しているようだ。
「大丈夫ですか?調子に乗って飲ませ過ぎてしまったようです。すみません」岡倉がかけた言葉にも李中尉は返事をしない。まだ考えられる可能性を取捨選択しているのだ。
「少し部屋で休憩しましょう。男2人で取っているダブルですが」そう言うと岡倉は李中尉の返事を待たず先に立ってフロントに向かって歩き出し、李中尉=李知愛も黙って後に従った。

27歳の李中尉はバージンだった。厳格なカソリックの家庭で育ったため、特定の男性と接することもなくミッション系の一貫校を卒業していた。
そんな彼女が陸軍に入ったのはカソリックの教育の中で信仰を否定する北朝鮮の国家体制への危機感を抱くようになり、カミの正義を守る使命を果たそうと思ったからだった。
その純潔の身体に起きている変調は彼女の知識の範疇から外れていた。下腹部が内側から熱く燃え、股間に汗がにじんでくる。頭の芯が痺れ、何故か目の前に立つ牧村=岡倉にすがりつきたくなる自分を必死で抑えていた。
岡倉が部屋のドアを閉め、チェーンを下ろした。灯りは薬の効果を確認するために消さない。そのまま立ちすくんでいる李中尉を後ろから抱き締めた。岡倉の吐息が首筋にかかると身体の中では点った火が油を注がれたように燃え上がる。両手が肩にかかり、向きを変えられた。そして頬を抑えられて口づけされた。李知愛にはこの行為も初めての経験だ。
李知愛の中では拒もうとする理性=聖女と求める衝動=悪魔が死闘を演じていたが、次第に後者だけの独壇場になっていくのを感じていた。岡倉の手は悪魔を助け、聖女を払いのけるように李知愛の身体を刺激していく。やがて抱き上げられベッドに寝かされた。
李知愛を全裸にして岡倉は言葉を失った。それは始めて見るバージンの未開発の肉体だった。すでに半分意識を失っている李知愛は岡倉に触れられると電気で打たれたように体を硬直させる。この聖なる女性を自分は薬物で狂わせ、清らかな身体を犯そうとしている。その罪悪感が胸に迫った。しかし、これも任務だ。
岡倉はボンヤリと天井を見上げている李知愛に背中を向けて戦闘態勢になっている注射器=性器にコンドームをはめ、2本目のアンプルを折って塗り込んだ。これが女性器から吸収されれば理性が破壊され、李知愛中尉は性の餌で操られる愛玩動物に堕する。岡倉が前戯もなく覆いかぶさった時、李知愛が「サラング ハエジュセヨ」と呟いた。
「愛して下さい」この言葉を聞いて岡倉はコンドームを抜き捨ててしまった。この夜、岡倉は1人の女として李知愛を自分の物にした。
李英愛3イメージ画像
  1. 2016/06/22(水) 08:59:40|
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6月22日・ボウリングの日

明日6月22日はボウリングの日です。その由来は幕末の文久元(1861=野僧が生まれる100年と9日前)年5月15日(太陰暦)に長崎出島(大浦居住地とする説もある)で日本初のボウリング場が開設され、ボウリングブームの最盛期だった昭和47(1972)年に日本ボウリング場協会がそれを太陽暦にして制定したのです。
昭和47(1972)年と言えば札幌オリンピックが開催された年ですが、雪が降らない関東以西の都市部では老若男女、猫も杓子もボウリング場に通っていたため、信じられないような密度でボウリング場が建設されていました(今ではホームセンターや企業の倉庫になっているようです)。
この頃の休日の昼間のテレビではプロ野球のデーゲームがなければボウリング中継で、中山律子さん(昭和17年生れ)、須田開代子さん(昭和13年生まれ=母親と同じ年)、並木美恵子さん(昭和24年生まれ)の3人の女子プロが熾烈な激闘を繰り広げ、家族が揃って見ていたものです。余談ながら父親はショートヘアで細身な並木さんが大嫌いで、「こいつは並木路子(『リンゴの唄』を歌った歌手)の名前を真似したのか?」と怒っていましたが、生まれた年を考えると並木さんの親は参考ぐらいにはしたのかも知れません。
そんな中で中山律子さんだけが特別扱いで、須田さんや並木さんがストライクを出して先行すると場内の観客から溜め息が出て、中々追いつけない中山さんに茶の間の視聴者が苛立ち始めたところで「律子さん、律子さん、中山律子さん、さわやか律子さん、花王フェザー」と言うシャンプーのコマーシャルが入りました(顔面だけのシャワーシーンがあった)。そして中継が再開すると一転、中山さんがストライクを連発し、須田さんや並木さんはイージーミス(ストライクになりそうで1本残るなど)でスコアが伸びず、結局、逆転勝ちと言う筋書きだったように思います。
しかし、ボウリングはゴルフと同じく個人の競技なので狙いを外すことは可能だとしても、ストライクを連発することは不可能でしょう。今にして思えばコマーシャルの間に何投か撮影しておいて、ストライクシーンをつなぎ合わせていたのではないかと疑ってしまいます。ボウリング場は観客数が少ないので、全員がテレビ局の用意したエキストラだったと言うことも考えられなくはありません。
そんな中継が終わると「ボウリング、それボウリング、ここで一発ストライク、何の負けてはなるものか、ここで一発ストライク・・・今日も楽しくボウリング」と言うコマーシャルが流れました。
ここまでブームになれば当然のようにスポーツ根性ドラマも放送されましたがアニメではなく、新藤恵美さん主演の「美しきチャレンジャー」と言う実写物でした。物語は完全に「巨人の星」や「アタックナンバー1」をボウリングに置き換えたパロディで、大リーグボールの代わりにレーンの両端に残ったスピリッツを直角に曲がって倒す魔球が登場しました。それを編み出すまでの過酷な練習がスポ魂です。
野僧が現役の頃は先輩たちがボウリングブームの中で青春を満喫した世代だったため、「宴会の前にボウリングで汗をかく」と言う妙な企画をする幹事がいて迷惑したものです。
それで終わったかと思いきや愚息2が下関市内の高校に入ると楽み始め、70を過ぎた爺さんが昔取った杵柄を発揮するのを見て帰ると「お父さんは?」と訊かれるのでこちらも迷惑しました。
ちなみに野僧は目黒のSOC課程に入校中、ルーテル教会(=ルター派)の牧師から「ボウリングのピンは悪魔であり、元来はそれを何本倒せるかで信仰心の強弱を決める儀式だった」と言う発祥と現在のルールの基本はマルティン・ルターが考案したとする史実の詳細な説明を聞いて以来、娯楽やスポーツとして見られなくなってしまいました。
  1. 2016/06/21(火) 08:52:12|
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振り向けばイエスタディ493

「ハニートラップに掛からないためにはこちらが落してしまうことだ」「・・・」金田は無表情と言うよりも凍りつくような冷たい目をしている。その目を見て岡倉は返事ができなくなった。
「お前がセックスのテクニックに自信があるのなら別だが、念のためこれを使え」そう言うと金田はスーツケースの枠を外し、中から2本の小さなアンプルを取り出した。
「ナチスが旧プロシア貴族の女たちを籠絡するのに使った媚薬だ。気位が高い女たちもこれを2、3滴盛られればたちどころに性の虜になったそうだ」「・・・」そう言いながら金田は左手に持っていた1本を渡した。中には液体が入っている。
ナチス政権下では騎士道を堅持する旧プロシア貴族の男たちは新ドイツ軍の士官として従軍したが、留守を預かっている女たちは暇を持て余し、夜な夜なパーティーにうつつを抜かしていた。それには「イギリス貴族との人脈で講和を仲介できるのは自分たちだけだ=ヒトラーも蔑ろにはできない」と言う思い込みがあったのだが、ヒトラーはそんな社交界に美男子の士官を送り込み、化学兵器の研究者に開発させたこの薬品で次々と性に溺れさせて奴隷に落とした。
「こちらは注射用だ」「注射?」「注射器はお前の肉棒だ。そこに塗って体にうち込め」「・・・」岡倉の胸に昼間会った李中尉の顔が浮かんだ。あの清楚で生真面目そうな李中尉が薬で乱れる姿などは想像もしたくない。実は本気になりかけているのだ。
「ただし、お前の肉棒が吸収してしまうと共倒れになるからコンドームの上からだ」「・・・」一言しか返事ができなかった岡倉の顔を見て、金田は嘲笑するように言葉を続ける。
「何て顔をしているんだ。ジェームズ・ボンドだってこの手の薬を使って世界中の女を弄んでいるんだぞ。まさかお前、イギリスが紳士の国だなんて思っていないだろうな」「・・・はい」ようやく岡倉が返事をすると金田はうなずきながら右手のもう1本を渡した。映画ではジェームズ・ボンドの男性としての魅力でボンドガールに恋愛感情が芽生えているように描いているが、実際の諜報の世界では金田の話の方が真実味はあった。
「俺は女のところに泊る。その女の顔が見たければニュースでも見ろ。テレビでは売れっ子の女性ジャーナリストでも、ベッドではキャンキャン鳴きまくる雌犬だがな」そう言って金田は腕時計を確認して立ち上がった。こちらの待ち合わせは夕方のニュースが終わってからのようだ。金田がその人気ジャーナリストを手懐けるのにこの薬を使ったのかは判らない。

「牧村さん、お待たせしました」「李(リ)中尉こそ・・・」「今夜は知愛(ジアエ)と呼んで下さい」約束したホテルのロビーの隅にあるラウンジで待っていると李中尉は時間どおりにやってきた。凛々しい軍服姿は素敵だったが落ち着いたセミフォーマルのドレスも似合っている。すると李中尉は岡倉の首筋に両手を伸ばした。
「ネクタイ、換えたんですね。少し曲がっています」そう言ってネクタイを直す李中尉の顔は至近距離にあり、髪からシャンプーの甘い匂いがきこえてきた。

夕食を終えて2人はホテルのバーで酒を飲んでいた。李中尉が案内してくれた韓国の宮廷料理の店に続き、ソウル名物の屋台で庶民料理も楽しんできたので少し酔いが回っている。
酒が入るにしたがって李中尉は「日本語がわからない演技」を忘れ、岡倉が説明に困っている言葉を日本語で訊くようになってきた。これを見ても彼女が情報関係の士官ではないことは明らかだが、油断を誘うハニートラッブの手である疑いも否定できない。岡倉の胸に諜報の世界の漆黒の闇が迫ってくる。その時、李中尉がトイレに立った。
岡倉は手のひらの中で金田に渡された1本目のアンプルを折り、李中尉のグラスの位置を直すふりをして注ぎ込んだ。
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  1. 2016/06/21(火) 08:50:59|
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振り向けばイエスタディ492

申大佐へのインタビューを終えた金田と岡倉は李中尉の案内で駐屯地内を見学した。しかし、陸上自衛隊と韓国陸軍では施設、装備品や兵士の態度、訓練内容に大差はなく、強いて言えば陸上自衛隊の銃剣道の代りにテコンドーをやっていることが興味を引いた。李中尉は韓国語に堪能な金田と話すため片言の岡倉は通訳を頼むことになってしまう。
「牧村さんは日軍を見学したことがあるのですか?」「お前は陸上自衛隊を見学したことがあるのかってよ」そろそろ通訳に飽きてきた金田はぶっきら棒に伝える。
「はい、取材で行ったことがありますと答えて下さい」「お前も韓国語を習っているのなら自分で言ってみろ」金田の突き放すような言葉に岡倉は李中尉の顔を見ながら一息のみ、挑戦してみた。
「私は日本の陸軍の部隊を取材したことがあります」韓国語で日本の陸上自衛隊はイボン(=日本)・ユグサングジャウィダエと長い上に発音が難しいので使われることがない。岡倉も知識を総動員しながらも簡単にイボン・ユッグンと説明した。李中尉はそんな岡倉の一生懸命さに好感をもったようで、微笑みながらうなずいだ。すると突然、金田がメモ帳を開いて走り書きして見せた。そこには「日本語で『李中尉は美人だな』と言え」とある。岡倉が驚いて金田の顔を見ると意味ありげに笑っている。そこで指示通りに言ってみた。
「李中尉は美人だなァ」すると金田は嘲笑するように唇を歪めた。
「韓国の女の大半は整形手術を受けているんだ。美人なのは腕が良い医者の作品と言うことだ」金田は日本語で答えた後、岡倉に振り向くように指で指示した。2人が振り返ると李中尉は明らかに不快そうな顔になっていた。
「やっぱり日本語が判るんだな」金田は岡倉だけに聞こえる声量でこの試験の意味を説明した。

「李中尉、今夜は韓国の美味しい料理を楽しみたいのですが案内してもらえませんか」取材を終えて別れる時、岡倉は駐屯地のゲートまで送ってきた李中尉を誘った。これが金田の指示であることは言うまでもない。李中尉は半日駐屯地内を案内し、写真撮影を制限しながらも質問には言葉を選び誠実に答えてくれたのだが、金田は彼女が2人を監視する情報要員なのか、一般の陸軍士官なのかを確認する必要を感じたようだ。
「はい、今日は土曜日ですから良いですよ」李中尉も思いがけず快諾してくれた。韓国では以前の日本のように週休は日曜日だけなので、サタデーナイト・フィーバーが生きているのだ。
生真面目そうな李中尉が応じたのには日本の雑誌記者を名乗っている2人の身元を確かめようとする職務上の興味と本当にジャーナリストであるのなら海外の情報を聞きたいと言う若手士官らしい探究心があるようだ。
「それでは私がホテルに迎えに行きましょう」「はい、服装はこのスーツしかありませんが良いですか?」「大丈夫です」礼節を重んじる韓国では市民の服装は意外にキチンとしている。岡倉は「せめてネクタイを買っておこう」と考えながら久しぶりのデートに胸が時めいている自分に気づき、プロとして胸の中で叱咤した。

「俺は外泊するからこの部屋を使え」ホテルに帰ると金田は岡倉の淡い恋心に冷水を浴びせた。2人は襲撃を受けた時の安全の確保と打ち合わせの便を考え、ダブルの部屋を取っている。部屋の中にはジャーナリストが使っているようにパソコンを置き、資料を散乱させてある。ホテルにはルーム・サービスを断ってあるが信用はできない。当然のようにパソコンのデータや資料も取材に沿った内容にしてあった。
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  1. 2016/06/20(月) 08:55:52|
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6月の第3日曜日・父の日

本日は6月の第3日曜日なので「父の日」とされています。その由来となった逸話は「母の日」と同じくアメリカで、南北戦争に出征して不在になった夫の分まで孤軍奮闘して6人の子供を育てた妻が夫の帰還直後に過労で亡くなったため、今度は夫が代わって子供たちを育てたのですが、全員が無事に成人したのを見届けるように1909年に亡くなったのです。このため娘が教会の牧師に父の誕生日である6月16日に追悼と感謝の礼拝を依頼したことが「父の日のミサ」の発祥となりました(一部には「父の日がないので母の日の1ヶ月後に作った」と言う風説もありますが誤りです)。
「母の日」は同じく南北戦争で夫が不在になった妻が1870年に「2度と夫や息子を戦場に送るのを拒否しよう」との宣言による反戦運動として始まったため(後には亡き母への追悼と感謝の宗教儀式になった)、「父の日」は政治色を薄める必要があり、翌年には大統領自ら家族が暮らしたワシントン州にある教会を訪れてミサに参加し、6月の第3日曜日を「父の日」とする告示を発したのです。
野僧は妻を失くして男手一つで息子を育てた経験がありますが、その時、横田基地の米空軍中佐である恩師2人が訪ねてきて、「子育ては人生最高の喜びであり、最大の仕事でもある。それを独占できる君は幸運だ」「今や男性の子育ては欧米のトレンドだ。近い将来、日本でもそうなるだろう。つまり君は時代を先駆けているんだ」と激励してくれたのです。
確かに息子が熱を出すなどして職場の上司や同僚に迷惑をかけることはありましたが、料理はハンバーグ、餃子、沢庵からカレーにハヤシまで全て手作りで、洗濯や掃除も自衛隊式に朝から一仕事、さらに「父さんが夜なべをして手袋編んで」いました。そんな生活だったので破れた園服も翌日には手縫いで直してあるのを見て、保育所の先生たちは「ダスティン・ホフマンを越えた最高の父子家庭」と称賛して「ホフマンさん」「ミスター・クレイマー」と呼んでくれました。さらにその保育所では「母の日」に感謝の行事をやっていたのを、野僧のために「父の日」のミニチュア行事をやってくれたのです。
この時、先生たちの間で議論になったのが「父の日」に贈る花で、南北戦争で負傷兵の看護活動にあたった女性の命日だった「母の日」が、本人が好きだった白のカーネーションと決まっていたのに対して(南半球のオーストラリアでは秋のため菊)、「父の日」は墓前にバラを手向けたと言う逸話以外に決まりはなく、結局、園庭の花壇に咲いていた花の束を手渡してくれました。
ちなみに母の日のカーネーションは母が亡くなっている場合が白で、生きている時は赤に改められましたが、さらに「父子家庭を特別視することになる」として現在では赤に統一されているようです。ならば最初の基本通り白に戻すべきだと思いますが、教会の意見なのか婦人団体の主張なのか花屋の都合なのかは判りません。
一方、日本では父の日のバラが黄色に確定しつつあります。こちらこそ「黄色は安全色なので無事を願っている」との通説があるくらいで理由は不明です。
日本はアメリカ式の「父の日」を模倣していますが海外では意外にバラバラで、カソリックの国では3月19日のイエスの養父・ヨセフの祝日としていることが多いようです。野僧はヨセフさんと通じる点があるので、こちらの方が好みです。
ロシアではソ連時代の1918年に第1次世界大戦の対独戦争で勝利した2月23日を「祖国防衛の日」としており、父親だけでなく夫や兄、働いている息子に感謝する祝日として継承されているようです。
台湾では8月8日で、これは中国語の父=パパと読みが似ていると言う理由で、それで良いのなら日本も11月13日にすれば「いいとおさんの日」になります。
何にしても全国の父子家庭の皆さん、子育ては人生最高の喜びで、最大の仕事です。母親には生活を教えられても人生を導くことは無理なようです。逆に父親が生活を教えることは可能でしょう。ファイト!

  1. 2016/06/19(日) 08:57:53|
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振り向けばイエスタディ491

金田と岡倉はソウル特別市鍾谷区内にある日本大使館に向かった。日本大使館は赤い陶板の壁が古びていて思っていた以上に見栄えがしない建物だ(=現在は建て替え中)。そこで2人は取材の申し込みがしてある防衛駐在官・林1佐に会った。
「金田です」「牧村(『ボクむら』にかけている)です」「林1佐です」岡倉は制服姿の林1佐に今回の偽名を名乗り、金田が名刺を差し出した隣で一歩退った。これもビジネスマンの作法であり、格下の牧村=岡倉が出すのは相手に求められた場合だけだ。林1佐は金田と名刺を交換した後、「君も」と声をかけたので岡倉は名刺入れから取り出して渡した。
「まあ、座ってくれたまえ」ソウル大使館の防衛駐在官室はワシントンに比べ階級が低い分だけ手狭で、あまり良い待遇とは思えなかった。
「君たちの取材目的である南北首脳会談については私としても情報収集に努めているが、外務省の連中は日本よりも韓国に愛国心を抱いている連中ばかりなので、現政権に不利になるような情報は大使の決裁が下りないのだ」現在の防衛駐在官制度の最大の欠陥は日本への通信手段が外務省に独占されており、軍事案件の文書も大使の決裁が下りなければ送達することができないことだ。このため軍人から入手した情報を外務官僚の目に晒すことになり、「軍人から軍人へ」と言う軍事情報関係者の鉄則を守ることができないでいる。
「その意味でも君たちの取材には全面協力する。むしろ君たちに託して東京に送りたい話が山ほどあるんだ」ワシントンの防衛駐在官も公式には大使の決裁を受けているのだが、秘密裏に米軍の通信網を利用することもある(勿論、情報を共有することが前提になる)。だから岡倉たちはアメリカを拠点として実質的にワシントンの防衛駐在官の統括を受けているのだ。
「今回の首脳会談では南の大統領からトンデモナイ発言があったらしい」「トンデモナイ?」岡倉は形式的に作動させている録音装置を止めて録音されていないことを確認した。
林1佐の話は韓国軍関係者から聞いた噂に過ぎないが耳を疑うような内容だった。
「そうですか。日本では亡くなった小渕総理と友好関係を促進させて親日的な大統領と評価されていますが」「その親日、反日と言う単語の用法は間違っているぞ」岡倉の感想を林1佐は否定した。金田もうなずいて岡倉の顔を見た。
「韓国で親日と言うのは戦前に日本の協力者だった裏切り者のことで、逆に反日は朝鮮の独立運動に参加した愛国者を指すんだ。日本人が思っている親近感や反発・嫌悪と言うような感情とは次元が違うぞ」「そうですね。強いて言うのなら好日と嫌日ですか」「コウニチと言うと抗日を指してしまうからまずいな」林1佐は金田の見解にも賛成しなかった。大使館では余程、反日の外務省職員に悩まされているらしい。

「エンペラー社の金田です」「牧村です」2人は林1佐に紹介された韓国陸軍の申大佐と面会した。金田が漢字とハングルで書かれた名刺を差し出すと申大佐は鼻で笑って受け取った。
「エンペラーと言えば日本のビジネスマンが読んでいる高級誌だろう。その割に私レベルの軍人にインタビューするのは変だな」前回、岡倉はリカルド大佐のこのような指摘に動揺して自分が自衛官であることを明かしてしまった。しかし、金田は表情を変えずに趣旨を説明した。
「ウチの雑誌はどちらかと言えば企業の経営者よりも中堅クラスの管理職を対象にしていますから、トップではなく現場責任者の本音をうかがいたいのです」「なるほど・・・そう言えば小渕首相が急に亡くなったが今度の森首相はどうかね」「おそらく長くはもたないでしょう」金田の回答も自衛官と言うよりも雑誌記者的なのか申大佐は表情を緩めてソファーを勧め、そこへ若い女性の中尉が資料のファイルをもって入ってきた。
「連隊長付の李中尉だ。後で駐屯地内を案内させよう」申大佐の言葉にうなずいた李中尉の顔に岡倉の眼は釘づけになってしまった。
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  1. 2016/06/19(日) 08:56:26|
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6月19日・アメリカでローゼンバーク夫妻がスパイ容疑で処刑された。

第2次世界大戦が終わり、冷戦が激しさを増していた1953年の明日6月19日にソ連のスパイとして原爆に関する情報を売った容疑で夫のジュリアス、妻のエセル・グリーングラス(旧姓)のローゼンバーグ夫妻の死刑が執行されました。夫妻はユダヤ人でした。
2人の容疑は原爆製造工場に勤めていた妻の弟のデイヴィット・グリーングラスがソ連のスパイであることが発覚し、FBIの厳しい取り調べの中で原爆の製造法と言う最高軍事機密をソ連に渡した方法として2人の関与を証言したことです。
逮捕されて以降、夫妻は一貫して無罪を主張していましたが、逮捕される直前の1949年8月26日にソ連は原爆実験に成功しており、その急速な開発にはアメリカの技術が漏洩したことがあったと言うのは政府首脳の確信となっていたため、死刑の判決が下りました。ちなみにこの時のアメリカ大統領はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下して非戦闘員を大量虐殺することを命じたハリー・S・トルーマンです。
判決が下りてからも証拠が弟の証言以外にないことから世界中から「冤罪」とする批判の声が上がり、著名な作家、哲学者、科学者、芸術家からローマ教皇まで声明を発しました。
これを受けてアメリカ国内よりも海外のマスコミが死刑反対の論陣を張りましたが、毎度のことながらローゼンバーグ夫妻を救えと言う主張は置き忘れられ、次第に反米一色になっていったのです。
アメリカ政府も夫妻に対してソ連のスパイ活動に関する情報を提供することと引き換えの減刑=司法取引を持ちかけていたのですが、これを拒否してこの日を迎えました。
死刑の方法は当時としては一般的だった電気椅子で、ニューヨーク州シンシン刑務所で執行されたのです。
始めに夫のジュリアスが午後7時6分に、続いて妻のエセルが10分後の午後7時16分に同じ椅子で死にましたが、この2人がアメリカの建国以来177年目にして初めてスパイ容疑により死刑を執行した民間人でした。
野僧は大学の刑法の教授が死刑について研究して、講義で詳細、具体的に語ってくれたため異常に詳しいのですが、電気椅子は高圧電流を足の鉄板から頭にはめた電極まで通すことで殺すため、裸足で直接鉄板を踏ませ、頭髪も頂部は丸刈りにして、水を吸い込ませたスポンジを被せると言います。それで背中は黒焦げになり、尿、便などの水分が噴出し、脳が沸騰して頭蓋骨を破ることが一般的なのだそうです。
夫妻の死刑が執行された後も海外のマスコミは「冤罪を晴らせ」「国家による殺人を許すな」などとアメリカを糾弾する論陣を緩めることはなく、スパイの最高刑を引き下げる運動のシンボルとされ続けていましたが、冷戦終結とソ連崩壊後に明らかになったソ連政府と共産党の内部文書と関係者の証言によってローゼンバーグ夫妻がスパイであり、原爆製造の情報を提供し、それによってソ連の原爆開発が急速に進んだことが明らかになっています。
さらにヨーロッパを中心とするマスコミが反対運動を扇動し、夫妻の死刑執行を政治利用しながら継続的、かつ広範化していったこともソ連の工作だったと証明されました。現在はこの世論工作を継承し、さらに巧妙化した中国によって世界の世論は誘導されています。
若し、ローゼンバーグ夫妻が原爆製造の情報をソ連に提供することに失敗し、さらにソ連が独自開発に成功しなければ、原爆と言う究極の兵器はアメリカ一国が独占し続けることになり、その後の軍拡競争で進展した狂気の凶器の開発もここまで高度にはならなかったのではないでしょうか。
何よりも中国と北朝鮮に原爆とロケットの技術を流した下手人を明らかにしなければなりません。日本人である可能性が否定できないところが恐ろしい。
  1. 2016/06/18(土) 09:01:44|
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振り向けばイエスタディ490

「俺は金田で在日2世だ」ニューヨークのケープ・ケネディ空港の地下鉄から受付カウンターに向かう長いエスカレーターで杉本と言う名前しか知らない同僚は今更のように自己紹介した。前回の面談で岡倉が諜報部員として未熟であることを感じたのだろう。確かに杉本の語学力であれば在日2世でも通じるはずなので、岡倉はそれに同行する半人前の記者と言う役柄で丁度よい。今回、2人は日本の大手雑誌社のアメリカ支局員が南北首脳会談について取材すると言う役柄を与えられている。パスポートも当然、それ用の物を持ってきた。
「お前はコリアン・エアは初めてだろう」「はい、落とされないか心配です」「確かにコリアン・ターゲットだからな」一般人の雑談としてはこの程度までだろう。
「これは聞いた話だがコリアン・エアのパイロットは全員が予備役の軍人だそうだ」これは韓国に民間のパイロット養成学校がない以上、常識的な話だ。
「おまけにスチュワーデスも軍出身が揃っているそうだ」「へーッ、何だか恐ろし気ですね」要するに保全に気をつけろと言う注意喚起のようだ。確かにアメリカ国内で既にマークされているとすれば、同盟国とは言い切れない韓国ではそれ以上の監視が予想されるのは間違いない。岡倉の胸に幼い頃に起きた金大中拉致事件が思い出された。しかし、今回の任務はその金大中が大統領となって実現した南北対話の実態=裏側の調査なのだ。岡倉は地獄を潜り抜けながら最高権力者まで上り詰めた金大中と言う政治家の底知れない運と力が、バランス感覚だけで泳いでいる日本のそれに比べて恐ろしくなった。

金浦空港行きのコリアン・エアの機内は観光帰りの韓国人の乗客が多く、少しキムチに似た体臭が漂っている。人前では遠慮する日本人と違い韓国人たちは狭い機内でも今を目一杯楽しもうと大騒ぎしており、岡倉と杉本、今回は金田が小声で話をするにはかえって好都合だった。
「韓国での取材だが、先ずはソウルの日本大使館で防衛駐在官の林1佐に会う」早い話が現地情報の収集と任務の最終確認だろう。
「そこで紹介してもらった韓国軍の高級士官にインタビューを申し込む」「はい、通訳はなしですね」「当然だ」これが金田単独であれば韓国人として入国したのかも知れない。岡倉にはペルーに続いて今回も諜報員としての実務訓練のように思われてきた。それもブッツケ本番だ。
そんなことを考えている岡倉の横顔を見て金田が独り言のように小声で呟いた。
「どうせ取材するのなら北へ潜入して、あちらの立場からの評価を確認してみたいものだな」「はい、そうすれば大スクープで社長賞ものですね」岡倉はこれを金田個人の希望だと受け取った。しかし、その続きで任務の最終目標を知り、自然体を装うのができず絶句した。
「どうせ北まで行くのなら拉致被害者のインタビューもしたいよな」「・・・」つまり北朝鮮に拉致された日本人の所在を確認し、救出作戦が実施され時には手引きしようと言うのだ。岡倉の膝がガクガクと細かく震えだした。そんな岡倉を見て金田は「貧乏ゆすりをするな」と声をかけ、スチュワーデスを呼び韓国の焼酎・チャミスルを2つ注文した。
「まあ一杯飲んで眠ろう。酔って眠っていれば爆弾が爆発しても極楽気分のままで本当に往生だ」これは1987年の爆破事件を使ったブラック・ジョークだ。岡倉は「ミサイルなら」と返しかかったが、一般人としては軍事的話題にこだわり過ぎていると考え、黙ってうなずいた。
来年には仁川空港が開港するためこの路線を利用するのは最後かも知れない。

6月の韓国は日本以上に不快な梅雨だった。韓国人は並んで入国審査の順番を待つことはせず、後ろになった者は隙あらば割り込もうとしており、それで不快さが増した。
  1. 2016/06/18(土) 09:00:31|
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振り向けばイエスタディ489

岡倉にワシントンから郵便が届いた。差出人は申し合わせた偽名を使っているが防衛駐在官の野中将補だ。岡倉は渡米して以来、ペルー大使公邸突入に参加した時の報告の他には防衛庁、自衛隊との関わりはもってこなかった。3等陸佐の給与と別枠の手当ては日本企業のアメリカ営業所員の名義に振り込まれており、現在の活動を知るはずがない。
「それにしても何で郵便なんだ」岡倉には多くの人間の目に触れ、盗難の惧れもある郵便を使った意図が判らなかった。しかし、実際は公的機関の手で運ばれる郵便は盗聴の危険がある電話や傍受が行われているメールなどよりもはるかに安全な通信手段とされている。
開封するとそれはワシントンでの会合への出席通知だ。同封されている防衛駐在官の偽名の名刺を持ってワシントン市内の韓国料理店へ行けば良いらしい。

「おーッ、島村くん、相変わらず頑張っているようだな」ワシントンでもビジネスマンが集う飲食店街の一角にあるホーフ(韓国の居酒屋)で野中将補は待っていた。同席しているのは在外公館警備官の1等陸尉ではない日本人だ。国民の間に健康志向が広まっているアメリカでは日本料理に比べ刺激が強くカロリーが高い韓国料理は好き嫌いが分かれており、店内はあまり混んでいなかった。
「こちらはニューヨーク支店の杉本くんだ。2人は初対面だな」「はい、島村です」「杉本です」岡倉は立ち上がった杉本と呼ばれた男性と握手した。これが普通の自衛官であれば相手の素性を探るため五感を働かすところだが諜報部員はそのようなことはしない。極自然体で相手の動作や表情を観察した。
「そうだ。折角だから島村くんには得意の韓国語で好きな物を注文してもらおう」野中将補の提案に岡倉の神経は一瞬、乱れた。岡倉が韓国語を習っていることは報告していない。月謝も個人からの支出だ。それなのに防衛駐在官は把握している。岡倉の胸には先日のイギリスの諜報部員の言葉を思い出された。しかし、表情は変えないでいる。
「それでは恥ずかしながら拙い韓国語を披露いたしましょう」岡倉はビジネスマンが上司に対して使う口調で応じる。杉本も同様なので本当にビジネスマンのように思えてきた。岡倉はコリアタウンの韓国語教室に通うようになり、ホーフにも寄るようになっているので、料理の知識もそれなりに身についている。
「タン(スープ)はゴム(牛の尾)にしますかね」岡倉は注文を取りに来たアジア人の女性に韓国語で話しかけた。今日は日本人の役なので自信がなさそうな言葉遣いで良い。すると横から杉本も韓国語で自分の注文をする。
「私はネジャン(牛の内臓)にしよう。所長はチグ(真鱈の切り身)でいかがですか?」この遣り取りを聞く限り、杉本の韓国語の会話能力はかなり高い。
「飯はキムパプ(韓国の海苔巻き)で良いですか?」「私はランシャン(韓国のラーメン)にしよう。所長は?」「ワシも飯が良いな」野中将補は岡倉の提案に同調した。すると杉本が口を挟んだ。
「この季節に韓国ではチジミ(ネギのお焼き)を食べるんですよ」「お客さん、日本人なのに良く知っていますね」杉本の話に店員の女性は嬉しそうに笑った。
「梅雨の雨の音とチジミを油で揚げる音が似ているんだよな」「はい、母もそう言って作ってくれました」杉本は若い韓国人の女性と自然に打ち解けている。これが諜報要員に必要不可欠な人脈を造る手法の1つなのだろう。
「島村くん、今度、杉本くんとカルビでも食べに行ってこないか」野中将補からの命令も唐突に、しかも自然な会話の中で発せられた。
  1. 2016/06/17(金) 09:16:07|
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6月16日・昭和の陛下の妻の命日

21世紀を迎える前年の平成9(2000)年の明日6月16日に昭和の陛下の妻である香淳皇太后が薨去(こうきょ)しました。歴代皇后の中で最高齢の97歳だったそうです。
野僧も「昭和」と言う日本が日本だった最後の時代を26年半も生きましたから、「皇后」と言えばこの方の絵巻物に描かれているようなお姫さま顔をイメージしてしまいます。
逆に言えば今上さんに対して全く敬意を抱いていないのと同様に国民には絶大な人気があるクリスチャンの皇后さんにも関心がありません。
最近、世論を作り出す絶大な影響力を持ち始めた週刊文春はかつて執拗な皇室報道を繰り返していました。その中でも皇后(=後の香淳皇太后)と皇太子妃(=現在の皇后)の姑と嫁の確執は多くの女性たちの共感を呼び、皇太子妃が結婚後、激瘠せしたのは姑の苛めが原因であったかのように信じられてしまいました。
ところが現在の元エリート外交官の息子の嫁(=一応は皇太子妃)が精神性の病気を患っていることを姑の責任とは言わないところが文春の卑怯なところで、このような報道で動く世論の軽率さには嫌気が差してしまいます。
そもそも香淳皇太后さんは社長令嬢である今上さんの妻とは違い正真正銘のお姫さま出身なので、庶民レベルの卑しい打算や嫉妬などとは無縁のはずで、仮に苛めがあったとすれば周囲の取り巻きが勝手に皇后さんの顔色を伺って気分を害さないよう嫌味に忠告していたのでしょう。
さらに言えば昭和の陛下の母=皇后さんの姑は「九条の黒姫」と呼ばれた女傑=貞明皇太后でしたから同様の苦労は経験ずみだったはずです。
昭和の頃の週刊文春では皇太子妃さんが皇后さんに「私が民間出身であること以外に問題があるのなら仰って下さい」と直接訴えたと言う東宮女官(皇太子妃の取り巻き)の証言が紹介されていましたが、これは完全に橋田寿賀子ドラマで姑の苛めに耐えかねた嫁の台詞で、記者の先入観に基づく創作のようにしか思えません。
一方、平成になってから皇居の庭園が改修された時、週刊文春は「昭和天皇が愛した木々が次々と伐採されているのは新皇后が前皇后から受けた苛めに対する報復だ」と報じましたが、これについて新皇后は「事実に基づかない報道で心が傷ついている」と異例の注意を述べました。
そんな昭和の陛下の妻はどのような人物なのかと言えば、父方は皇族、母方の曽祖父は島津久光公なのでお姫さまと言うよりも宮さまです。
昭和の陛下とは規定路線のように婚約されたそうですが、島津家の血を引く女性が皇太子后、将来の皇后となること山口県出身の山県有朋が「島津家には色盲の遺伝がある」と反対したと言われています。これを「宮中某重大事件」と言い確たる証拠はないのですが、山口県出身者で陸軍閥を作り上げた山県の策謀好きな性格と日頃の言動を考えれば如何にもやりそうな話です。
その後は激動と成長の昭和史の中で陛下に寄り添って生きたのですが、陛下よりも先に高齢化の影響が出始めたそうで、次第に公式の場に姿を見せなくなってしまいました。そしてこの日、老衰により呼吸困難で崩御したのです。ただし、陛下の時と違いテレビ各局が特別番組を流すこともなく、各種行事の自粛などもなくあまり印象に残らないまま通り過ぎてしまったのは確かです。
それにしても今上さんの母親似が長男と長女に受け継がれていますが、兄2人の妻が美人なだけに長女はかなり損をしていたようです。おまけに長男の1人娘も曾祖母に似ているため二男さんの娘である従姉妹に比べられると可哀想になります。やはりあの時代の人だったからあの容貌が「高貴な」「気品ある」と内外で賞賛されたのでしょう。
  1. 2016/06/16(木) 17:02:21|
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振り向けばイエスタディ488

岡倉はカルチャーショックに悩んでいた。以前、ジェームズ(・ボンド?)と名乗ったイギリスの諜報部員から聞いていた朝鮮半島での南北首脳会談が実現したのは良いとしても、このニュースを受けての在アメリカの南北出身者の反応が日本人には理解できないのだ。
日本人の感覚で言えば韓国系の人々にとって北朝鮮は突如、国境線を破って侵攻してきた許し難き宿敵であり、その体制が現在も継続している以上、首脳同士が握手したとしても外交の一段階に過ぎないはずだ。
ところが岡倉が通う韓国語教室だけでなくコリアタウン全体に祝賀ムードが充満し、通りでは知らない者同士が出身地を自己紹介して南の者は北の者を、北の者は南の者を見つけ出すと抱擁し合っている。日頃の「怨」気質とは明らかに違う民族の姿がそこにあった。
しかし、ここでは韓国系アメリカ人・キムギョバチを演じているのだから、そんな疑問は億尾にも見せることはできない。むしろ岡倉も北の人間を探して抱擁しなければならないのだろう。
「ミスター・キム、これで民族の不幸が解消すればいいですね」「はい、先生」岡倉の韓国語も上達が進み、教師の質問もニュースの話題になっている。教師が本当に幸せそうな笑顔を見せているので岡倉はさりげなく朝鮮民族の精神文化について質問してみた。
「私はアメリカで生まれましたから祖国の歴史にあまり詳しくないのですが」「そうでしたね。とても残念なことです」教師の目に少しの侮蔑と同情の色が過った。
「これから祖国に帰って真剣に学ぼうと思っています」「はい、是非そうして下さい」岡倉の決意に満ちた表情の演技に教師も一転して好感の笑顔になる。
「そこで実に下らない質問で申し訳ないのですが」「ミスター・キム。貴方は時々日本人のような物の言い方をします。我が国では申し訳ないと思えば言いません」「はい・・・」「日本人のように申し訳ないと判っていながら意見を述べる偽善者になってはいけません」今度は不信と嫌悪になった。それは逆の意味で岡倉も同様なのだが、この教師の態度こそ最高の教材なのだと自分を納得させた。
「私はアメリカで教育を受けましたから、北朝鮮は我が祖国に侵略した敵であると習いました。同じ民族同士が殺し合う不幸の原因を作ったのは金日成です。その息子と金大中大統領が握手したからと言って許せるのですか?」「アイゴー(=嗚呼、何てことを・『哀号』は日本人の当て字)、貴方の両親は民族の魂を息子に受け継がせていないのですか?」この辺りから会話は英語が混じり始める。韓国人は母国語の会話は母国語で、英語の会話は英語で考える技が身についているが、岡倉はようやく英語で考えることができるようになったところなので、韓国語の会話は頭の中で2つの言語への翻訳を経ているのだ。
「それでは学校で日本人とも一緒だったのでしょう」「はい、仲の良い友達がいました」「それはいけません!」教師の顔にはあからさまな不快感が表れた。
「でも白人社会のアメリカでは同じ東洋人として日系の人たちとも仲良くすべきでしょう」「そんなことを言っては駄目です。我が祖国は中華との長い親交の歴史があるのです。我が祖国の韓国、朝鮮の国名は中華皇帝陛下から賜ったものです。東夷が『倭』と蔑まれていたのを勝手に『和』の字を当てたのとは違うのです」日本への侮蔑もここまで来れば感心するしかない。岡倉は小さく溜め息をつくと最後の質問をした。
「韓国の軍人は北朝鮮を敵視していますが?」「彼らは内戦による民族の流血を繰り返さないために備えているのです。しかし、アメリカによって指揮権を奪われているため同じ血を持つ親戚までも敵としなければならなくなっています。哀しくも腹立たしいことです」自衛官を含む日本人の保守派は「朝鮮戦争が再発した時には自衛隊も韓国軍の支援に行くべきだ」と善意で考えているが、半島の住民にとってそれは日清戦争の再現に過ぎないのかも知れない。
  1. 2016/06/16(木) 17:01:27|
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振り向けばイエスタディ487

新隊員課程の仕上げの時期は雨の中だった。このため新隊員たちは戦闘訓練のことを水溜りで泳ぐ「水泳訓練」と呼んでいる。尤も炎天下でジリジリと焦がされる基本教練よりも気分は壮快だろう。
「イチバーン(=1番)」ダダダダ・・・(走る音)、バシャッ(水しぶき)、「凄ェ、あそこまで上がったぞ」パチパチパチ(=拍手の音)。他の分隊を見学している新隊員たちは水溜りで伏せる時に上げる水しぶきの量を競い合っており、現代の若者にはこんな訓練にも遊び感覚が働くようだ。
村上3尉には突撃の美学がある。それは初弾の銃声が1つに聞こえる当に一斉射撃だ。このため綺麗に揃うまで「突撃に」「進め」の動作を繰り返している。1区隊がやれば2区隊もやる。こうして我が第328共通中隊の戦闘訓練は満足できる仕上がりになってきた。
「中隊長のおかげで今年の新隊員たちの突撃は迫力があります」いつものように見学していると村上3尉が声をかけてきた。
「いや、区隊長の指導の賜物でしょう」「仮標刺突を指導して下さったのは中隊長です」言われてみれば私は地元の農協でムシロとワラ縄を仕入れて仮標の俵を作り、新隊員たちに刺突させた。しかし、この基本動作の演練をやらせてこなかったこと自体が片手落ちなのだ。
「今までは刺突動作の演練を口実にして銃剣道をやっていたのです」「へーッ、それは奇怪な話ですね」「私も普通科ですから入隊以来、銃剣道には励んできましたが、やはり89式小銃の時代には合いませんね」そう言って村上3尉は突撃準備を完了した分隊の方を見た。
「突撃に」「突撃に」「進め」「進め」「バーン」カシャン。口鉄砲と引き金を落とす音が重なり、村上3尉は満足そうにうなずいた。
「終わった分隊は雨水で汚れを落としてから帰れ。戻ったなら銃清掃までの間に身体の手入れを許可する」突撃を終えた分隊に村上3尉は指示を与えた。これは温情のようだが「そのまま帰るのではなく、雨の中を走ってから」と言う意味だ。
「よし、汚れを落として帰るぞ。控え銃(つつ)」班長の号令で新隊員たちは89式小銃を胸の前に保持する。
「駆け足、進め。左・左・左右」「オーリャ」班長の掛け声に新隊員たちは雄叫びで唱和する。その声は半分焼け糞、半分気合いだ。私は次第に遠ざかっていく新隊員たちを見送りながら防府でも同じ場面の中に身をおいていたはずなのに、どうして不満しか感じなかったのかが判らなくなった(それは中身がない虚しさだったのは言うまでもない)。

その頃、私は新隊員たちの職種と任地の調整会議に明け暮れていた。課程終了後はそのまま第33普通科連隊に残る臨時教育隊とは違い、教育大隊では幅広い職種に配分し、北海道に赴かせなければならない。この枠を奪い取り、譲り合うのは中隊長の仕事なのだ。しかし、陸上自衛隊では航空自衛隊のように適性検査や知能指数、性格傾向と言った科学的な分析はあまり重視されておらず、あくまでも本人の希望と運で決まるらしい。このため精神教育では北海道防衛の重要性や最新装備の話をして興味を煽り、岩田3尉には人気職種の筆頭である戦車の嫌な経験ばかりを述べさせてきたのだ。そんな中、大隊本部で配属方面隊、職種枠の発表があった。
「今年の北海道の枠は62名ですから取り敢えず各中隊20名ずつお願いします。2名については抽選にしましょうか?」「2名ならジャンケンで良いだろう」中隊長同士で顔を見合わせていると大隊長が意図もアッサリと裁定した。東海・北陸地方の若者は異常に地元志向が強く、海・空ではなく陸上自衛隊を選ぶ理由の第1位も地元にいられることのはずだ。そんな若者に北海道の素晴らしさを語ってもどれ程の説得力があるのか。何にしても勝てば説得する相手が1名減るのは間違いないが、負けて21名になれば2個区隊で割るのに困りそうだ。
恵庭・戦闘訓練(雨天)
雨で綺麗になりました・。
  1. 2016/06/15(水) 08:56:50|
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振り向けばイエスタディ486

「メジャー(3佐)・モリヤ。貴女は非常に面白い人物だ」CGS課程では学生同士の討議が教育の中心の位置を占めている。それは将来の高級幹部にとって各職種・部隊からの見解をぶつけ合い相互理解を進めることが必要であり、外国軍の認識を学ぶ機会とする意味もある。そんな議論の後、佳織はドイツ、フランス、トルコ軍の交歓士官たちから声をかけられた。
「そうですか?」「私は自衛隊の学生は規格品ばかりで、思想統制が徹底していると聞いて入校しました」「うん、ナチス・ドイツの軍隊のようにね」ドイツ軍の少佐の説明にフランス軍の少佐が冷や水を浴びせる。この隣接する両国はゲルマン人とラテン人の異民族国家でもあり、本音ではかなり仲が悪い。
「ヒトラーとトージョー(=東條英機)では間違ったが、民主国家同士で手を組めば最高の同盟が成立するだろう」フランスは国際会議でも余計な横槍を入れて議論を混乱させるが、個人レベルでも同様なようで話が反れてしまった。それを見かねたトルコ軍の少佐が話を戻した。
「日本人は学校で習った知識を疑いもなく信じ込んでいるようだが、貴女は史実の別の切り口を探しているね」「おう、それだ」普仏戦争を始めそうになっていた2人もうなずいた。
「貴女はアメリカの大学出身だそうだけどその割にあまりアメリカ的でもない。誰の影響を受けているのか?」先日の討議でも日本人の学生たちはリンカーン大統領を黒人を解放した人道主義者だと口を揃えていた。しかし、佳織は「南北戦争で勝利して国家分裂の危機から救った英雄ではあるが、ネイティブ・アメリカンを大弾圧した人種差別主義者だ」と反論した。この時は教官から見解を求められたアメリカ軍の少佐も佳織の意見を肯定したものの「合衆国の偉大な大統領を誹謗する表現には同意できない」と不快感をあらわにした。
本日もナポレオンを「革命の英雄」「時代に先駆けた天才的指導者」と称賛する他の日本人学生に対して「革命後の混乱を利用して権力を握った野心家」「フランスを帝国主義にしてしまったヒトラーが模範にした先輩」「ヨーロッパを蹂躙した侵略者」と批判し、ナポレオンによって被害をこうむったドイツやトルコだけでなく意外にもフランスの軍人にも賛同を受けたのだ。
「私が最も影響を受けたのは夫です」佳織の意外な答えに各国陸軍の少佐は顔を見合わせた。
「貴女の夫もジエータイですか?」「はい、ジエータイと言うよりもサムラーイみたいな人ですけど」そう答えながら極めて適切な表現に言った本人が笑ってしまった。
「それではルテナン・カーネル(2佐)か、メジャーかね?」「いいえ」「それじゃあ、カーネル(1佐)?」「いいえ」「まさかジェネラル(将軍)?」「いいえ、ウルトラ(=度外れ)・キャプテンです」また自分の極めて適切な表現に佳織は1人で爆笑してしまう。
「貴女ほど優秀な人がどうしてそんなアンエリート(うだつが上がらない)の男性と結婚したのかね?」やはり男女問題はフランス人が専門だ。流石の佳織も夫のウルトラさを外国人に理解させる説明に自信がない。そこで日本の精神文化の特色から始めることにした。
「『I overhunged a stake for it’s drivein=出る杭は打たれる』と言う日本の諺を知っていますか?」「知らないな。工兵の作業の話か?」3人は顔を見合せて首を傾げた。
「要するに人並み以上の人間は排除されるのが日本の組織管理なんです」「つまり和の文化だね」この手の話題もフランス人が一番得意なようだ。
「私の夫は高く突き出た杭なので組織ぐるみで地面に叩き込まれているんです」「くだらない」「人材を潰してどうするんだ」佳織の説明にドイツ人とトルコ人が怒ってくれた。しかし、フランス人は同調しない。
「それでも貴女は何故、許されているんだい?飛びっきりの美人だからだろう」そう言ってウィンクをしたフランス人に呆れながらも佳織は、この雑談の向こうにある情報収集の気配を感じていた。
  1. 2016/06/14(火) 08:51:11|
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振り向けばイエスタディ485

「お父さん、ごめんなさい」中学校に入って初めての中間テストが終わったある日、淳之介が何の前置きもなしに正座して謝った。
「うん?何をやったんだ」「テストが返ってきました」「そうか、中間テストだな」「はい・・・」淳之介はうなずくと黙ったままテストを座卓の上に置いた。中間テストは国数英理社の5科目だ。小学生の時には通販教材を使って勉強を見ていたが、中学生になってからは自覚に任せている。採点結果を見るとあまり勉強の成果は上がっていないようだ。航空自衛隊なら急降下の低空飛行と言うところだが、陸上自衛隊では第1から第4、第5匍匐になってしまう。
「どうした。数学なんて算数の名前が変わっただけだろう」「気がついたら解らなくなっていました」私は小学生の時、珠算教室に通い始め、その級が上がっていくことで「計算は大丈夫だ」と油断して、その頃、習った方程式などが解らなくなった。淳之介も何かポイントを外してしまったのかも知れない。
「英語は苦手なのか?」「先生が僕の英語は聞き取りにくいから直せって言うから、お母さんはアメリカ生まれだよって言ったら生意気だって怒られたんだ」これも経験がある。親の勝手な都合でド田舎の中学校に入る羽目になり、自学探求を校風としていた岡崎の小学校で身につけた知識で質問すると教師から「そんなことを調べる暇があったらテストの勉強をしろ」と指導され、同級生から馬鹿にされるようになった。私自身はその後も興味があることの探求に励み、受験戦争から落ちこぼれたのだが。
「社会と国語はマアマアだな」「うん、本は好きだもん」三重県は愛知県ほど教師の質が劣悪ではないだろうけど、それでも不安はある。
「まあ、淳之介が頑張った結果なら仕方ない。ただし、高い夢を実現するためには受験で勝ち抜かならないのが日本の現実だぞ」「はい・・・わかりました」「それとも学習塾に通うか?」「部活が忙しいから無理です」淳之介はバスケット部に入っている。そのおかげか最近、身長が急激に伸び遠からず私に追いつきそうだ。その時、淳之介がためらいがちに口を開いた。
「お父さん、1つ、訊いていいですか?」「うん、何だ?」「僕を生んだお母さんは勉強ができたんですか?」「・・・」今夜は志織が早めに眠ってしまったからした質問だろう。美恵子と別れて以来、淳之介からこのようなことを問われたのは初めてだった。
「確かにあの人は勉強が苦手だったな」美恵子は理容師としての勉強には貪欲だったが、一般教養や社会常識には欠けていた。持ち前の一生懸命さを発揮して「一緒に学んでくれる」と期待したのは裏切られたように思っている。
「それじゃあ、馬鹿だったの?」「馬鹿って言っても色々あるだろう。お父さんなんか自衛隊馬鹿だぞ」「お父さんは凄い馬鹿です」淳之介が素直に同意したので笑いながら頭に拳骨を当てた。
「あの人はバーバー馬鹿だったね」「バーバーパパって絵本の?」「お前はバーバーと言う英単語も知らんのか?床屋のことだ」「うん、床屋さんだったね」美恵子は自分の職業を理容師と呼ぶことに強くこだわっていたが、それは放っておいた。
「それじゃあ、やっぱり僕はお母さんの血が濃いんだね」「それはどうかな・・・」何故か淳之介は安堵したような顔になっている。言われてみれば成長するに従って淳之介の人間性が美恵子に似ていることを感じることがある。何よりも顔つきは美恵子似で叔父の松真のようなイケ面になりそうだ。やはり血は争えないと言うことかも知れない。
しかし、この場に佳織がいれば何と言うのだろうか。その前に淳之介はこのような質問はできなかったはずだ。佳織と2人で懸命に築き上げてきたこの家庭にも子供の成長と言う予測不能の事態によって歪みが生じていることを考えさせられた夜だった。
  1. 2016/06/13(月) 08:33:05|
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6月13日・南北首脳会談が行われた。

2000年の明日6月13日に現在も休戦状態=戦争継続中である対岸の半島で北の若き首領・金正日と南の大統領・金大中の間で初の南北首脳会談が行われました。
金大中は1998年に大統領に就任して以降、それまでの敵対的強硬姿勢から「太陽政策」と呼ばれる融和的な外交方針に転換しており、その成果が結実したように見えました。
「太陽政策」とはイソップの「旅人のコートを脱がすことを北風と太陽が争い、北風が力で吹き飛ばそうとして冷たい風を強く吹きつけると旅人は寒さにかえって襟を閉じしまったのに対して太陽が暖かい日差しで照らすと旅人は汗をかいて脱いだ」と言う寓話に基づく命名です。
それまでも日本のマスコミと野党、文化人たちは金大中の方針転換を称賛しており、南北首脳会談の実現は金大中が差し伸べた温かい太陽が頑なな金正日の心を溶かしたと両手放しでイソップどころかアンデルセンも書かない甘いメルヘンを語っていました。しかし、野僧はこのまま南北の協調が進み、遠からず南北統一が実現すれば、朝鮮半島の軍事力は全て南=日本に向くことになると危惧していたのです。
それは西部防空管制群で勤務していた時、韓国空軍が明らかに日本からの侵攻を想定した演習を繰り返していることを目の当たりにしていた経験から韓国にとっては同じ民族である北朝鮮との戦争は内戦に過ぎず、米軍を中心とする国連軍の逆襲を受けた北朝鮮を支援した中国は民族の救済者であり、東夷の分際で併合の屈辱を与えた日本こそ許し難い敵であると考えていることを確信していたからです。
これは在日米軍の友人たちも同じ見解で、金泳三政権下の1993年末に合意していた2012年に韓国軍の米軍の指揮下から独立させる計画を延期するべきだと断言し始めました。
その後、盧武鉉政権下で韓国空軍を追われた元士官の友人によれば、金大中は金正日と会った時、「間もなく韓国軍は米軍の指揮下を離れるから、もう同じ民族の貴方の軍と戦うことはない」と述べたそうですから、アメリカが本当にこの合意を無期限延期したことは正解だったようです(その友人は韓国軍が対日戦の訓練を行っていることを「全ての周辺国の侵攻に備えるのは軍の務めだ」と認めていました)。
金大中はこの会談の実現を評価されてこの年のノーベル平和賞を授与されていますが、佐藤栄作や佛教国・ミャンマーのクリスチャン女、さらにパキスタンの売国小娘やアラブの血塗られた混乱の発端を作った談合団体がもらっている程度の賞ですから実際は不名誉なことでしょう。
金大中も大統領を退任した2003年になって南北首脳会談が実現する直前に現代財閥が北朝鮮の首脳に対して巨額の不正資金を送ることを黙認した上、便宜を図っていたことが発覚しました。これは金大中自身が「国家が正式な手続きを経て資金を送ることができないから財閥に肩代わりしてもらった」と認めましたが、金大中の子分である盧武鉉が恩師に全斗換、盧泰愚のような囚人生活をさせるはずもなく、この時も暴走し始めた韓国の司法界に圧力をかけて沈静化を図ったのです。
さらに2011年にはノーベル平和賞を獲得するためにも政治工作を行っていたことが暴露されていますが、本人は死去していました。
それにしても日本のマスコミ、野党とノーベル委員会はどうしてここまで見識を誤り続けるのでしょうか?あの時、金大中が送った裏金で北朝鮮は核兵器の開発を進め、それが重大な脅威になっているのです。この南北会談を称賛した連中は前言を訂正することもなく益々面の皮を厚くしているだけです。
  1. 2016/06/12(日) 08:50:30|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ484

久居での実用を目的とした訓練を見ていると防府の形式的な教育との違いを実感し、あちらの空教隊が空虚隊(=くうきょたい)に思えてくる。そんな中、少し首を傾げるような訓練があった。それは歩哨訓練だ。
「絶えず敵方を監視し、合わせて四周を警戒し、全ての兆候に注意する。敵に関し発見したならば外哨長に報告する」これは「歩哨守則」の冒頭であるが帝国陸軍の丸写しなのだ。
問題なのは2項以降で「通過を許す者は味方の幹部、部隊、斥候、巡察、伝令とし、それ以外は外哨長の指示を受ける」とあるが、1項は昼間の見晴らしが良い高所の陣地での勤務要領を謳っているのに2項は夜間の道端で監視する壕での話になっている。
そもそも暗視眼鏡が行き渡り始めている中で夜間は下から月・星明かりのシルエットで監視すると言うのは時代錯誤だろう。これについて村上3尉の見解を聞いてみたが、やはり「教範に書いてある以上、疑問は持ちません」と言う回答だった。
実技は戦闘訓練場の手前の土手を掘って歩哨壕の構築から始まり、完成すれば2名の新隊員が分隊長に連れられて壕に入る。その動作は敵に発見されないよう努めてゆっくりとである。
先ず分隊長=外哨長は最初の2人の歩哨に命令を下達する。歩哨は小銃を脇に抱える「腕に銃(つつ)」と言う姿勢で、互いの片足は交差せており、これは何かあった時に合図するためだ。
「前方、見えるか?」「はい」「監視範囲、右、駐屯地煙突」「確認」「から左、車両訓練隊隊の外柵までの間」「確認」分隊長は指差して監視範囲を示し、歩哨は顔を向けて確認している。
「なお、本日の訓練の状況は訓練場内だけとする」「はい、須藤2士」この受け答えを聞いていても新隊員と分隊長の意思疎通は十分なようだ。分隊長は後方の待機位置へ後退した。
すると訓練場の外柵の辺りを区隊先任班長が歩き出した。歩哨は手元に置いてあるスイッチを取り分隊長に知らせたが、この状況は前方を監視している4個分隊が同時進行なので、「ブー」と言うブザー音が4つ響き、存在を暴露しそうだ。
「どうした?」「先任班長が前方をうろついています」「馬鹿!先任班長ではない不審者だ」分隊長がやってくると歩哨はありのままを報告した。しかし、この辺りは新隊員である。

夜間の訓練もこのまま実施するのかと思っていたが、折角掘った歩哨壕は跡形もなく埋めてしまった。それは壕を掘る場所がここしかないため、他の2個中隊も交代で使用するためだ。
結局、夜間の歩哨訓練は日没後ではなく、駐屯地の外れにある映写講堂を暗くして、その中で実施するそうだ。それならば淳之介に志織の面倒みさせなくても見学ができる。
当日、班長たちが準備しているところから見学に行くと寝かせた長机をコの字型に並べて歩哨壕を作り、壕への経路も長机を並べている。これで真暗にすれば演習場で構築している歩哨陣地になるのだろう。
そして本番、1個分隊ずつ急造の歩哨陣地に配備される。歩哨は下からステージを見上げることになり、基本通りの監視要領だ。真っ暗な教場内にキャタピアラの音が流れだした。
「どうした?」「戦車が来ました」歩哨の報告に分隊長が小声で叱責した。
「聞こえたのはキャタピラの音だろう。戦車と決めつけては駄目だ」「はい、すみません」この演出は防府でも導入するべきだと思ったが余計な御世話だろう。
「止まれ、誰か?」「巡察」「合言葉、村」「上」「違う、動くな!」「やべェ、逃げろ」「射殺」ステージの上と下で不審者と歩哨の寸劇が始まったが、ここでの指導事項は以前、小牧基地の基地警備訓練で吉田2曹=理美に教育したことがある、
しかし、この訓練はあくまでも基本動作の演練で、続きは風早演習場にある高台の歩哨壕で実施するのだ。
  1. 2016/06/12(日) 08:49:11|
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振り向けばイエスタディ483

久居の戦闘訓練場は思いの外に優れ物だった。防府のように真っ平らの芝地に幅2メートルの布を立てるのではなく、「堆土(たいど)」と呼ぶコブが並んでいる。戦闘行動では射撃した時に銃口から噴出する火炎を狙って敵が射ち返してくるため、射撃後は敵の照門内の視界から外れる3メートル以上、横に移動しなければならない。防府では後方に3メートル移動させて帳尻を合わせているが、それでは意味がないだろう。
また最後に突撃して制圧する敵の陣地には人的(人間の胸から上の形の標的)が並んでいるだけでなく、中央には立ったり寝たりする可動式の的があり、その右脇の銃口の位置の赤いライトが発砲のように点滅するのだ。新隊員たちは発砲を受ければ即座に伏せる。空砲射撃をしても無視して前進させる防府とは雲泥の違いだった(防府では「前進の命令は危険を顧みず遂行する」と詭弁を教えていた)。
私も興味津々で1区隊と2区隊が交代で訓練する時には半日、訓練場へ行って見学している。新隊員課程も仕上げの段階に入ると区隊長よりも各班長が活躍するようになっていた。
「第1分隊、位置につけ」1班長の指示で新隊員たちは一斉に排水路の溝に飛び込んだ。
「射撃用意」「射撃用意」新隊員たちは復唱しながら銃を構える。この時も班長は土手や堆土越しに目標を確認しようと不用意に頭を上げた者に注意を与えていた。
「射て」「射て!バンッ」口鉄砲を1発射つと2発目は溝の中を3メートル移動してからだ。この時も溝から頭や体がはみ出した者は注意を受けることになる。
「第1分隊」「第1分隊」「ここからの前進は交互前進」「ここからの前進は交互前進」「奇数から前進、偶数は援護射撃を実施せよ」「奇数から前進、偶数は援護射撃を実施せよ」新隊員隊が長い号令をスラスラと復唱するところをみれば練度が上がっていることが分かる。
「第1分隊、前方の15の堆土まで」「第1分隊、前方15の堆土まで」「早駆けに」「早駆けに」「前へ」「前へ」防府ではここの堆土がボサ(=草むら)になる。おまけに分隊の一斉前進なので号令はここまでだ。ところが陸上自衛隊では援護射撃を実施するので続きがある。
「1番、前へ」射撃姿勢をとった偶数の隊員の号令で、自分の番号を叫びながら奇数の隊員が全力疾走する。ただし、それは敵が発見、照準して引き金を引くまでの3秒間だ。
「1、2、3」「はい、5番と11番戦死」班長は3秒間を数え、伏せが遅れた者を発進位置に戻してやり直させている。しかし、伏せるのが早ければ匍匐前進する距離が延び、どうしても隊員たちは堆土まで走ろうとしてしまうのだ。さらに射撃した後には「安全装置よし」「照門よし(照門を倒す。逆に射撃時には同じことを言いながら照門を起こす)」と動作を口で確認してから3メートルの小移動を実施している。
そんな動作を繰り返しながら、敵の陣地の前に広がる平坦な場所に着いた。ここで再び班長が号令をかける。
「第1分隊、前方20の線、突撃発起(ほっき)位置」「第1分隊、前方20の線、突撃発起位置」「突撃発起位置到着までに突撃準備を完了せよ」「突撃発起位置到着までに突撃準備を完了せよ」「「第3、第4、第5匍匐」「第3、第4、第5匍匐」「前へ」「前へ」ここからは防府でも見慣れた芋虫の前進だ。しかし、陸上自衛隊では特科や迫撃砲による援護射撃の砲弾の破片を避けるため、近づくに従って姿勢を低くすると言う明確な理由があった。
「1番到着、突撃準備完了」「よし」「2番到着」・・・新隊員たちは順番に申告してくる。そしていよいよ突撃だ。この号令も防府とはリアリティがまるで違う。
「最終弾着5秒前、5、4、3、2、1。イマー(=今)」「第1分隊、突撃に」「第1分隊、突撃に」「進め」「進め」つまり援護射撃が終了した後に突撃して生き残った敵兵を制圧するのだ。これがプロの卵が羽化するために演練している戦闘訓練だった。
恵庭・戦闘訓練
腰にガスマスクを着けていることにも注意
  1. 2016/06/11(土) 08:49:48|
  2. 夜の連続小説8
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