天正元(1573)年の明日9月1日(太陰暦)に北近江の小谷城主であり、織田信長公の妹・市の方の夫である浅井長政さまが義兄の攻囲の中、自刃しました。28歳でした。
ちなみに「長政」と言う名前は市さんとの婚儀の際、信長から1字をもらって改名したもので、その少し前までは「賢政」です。
我々が学校で日本史を習った頃は「あさいながまさ」と呼んでいましたが、近年ではテレビなどでも「あざい」と地元の正確な呼称で紹介するようになっています。
浅井氏は北近江の有力な戦国大名と思われていますが、土豪から身を起こして北近江の守護大名・京極氏を討ったものの長政さんが生まれた時には祖父の亮政さんが南近江の守護大名・六角氏に敗れて従属しており、その居城があった現在の近江八幡市安土町(後に織田信長公が居城を築いた土地)で生まれ、人質として過ごしたと言われています。
また家督を継いだ父の久政さんは六角氏と越前の朝倉氏との2正面外交で北近江の領有権を維持していたため京極氏を打ち破るまで活躍してきた武闘派の古参家臣たちからは「弱腰」と見られ、世継ぎの長政さま(この時点では賢政)への期待が日に日に強まっていきました。
そんな家臣たちの期待に応えるように長政さまは15歳の若さで浅井軍を率いて六角軍と戦って勝利を収め、それを見た家臣たちは久政さんを琵琶湖に浮かぶ竹生島に幽閉して、強引に主家を代替わりさせたのです。
その後は六角氏に公然と敵対するようになりましたが、人質であった時に娶った六角氏の重臣の娘を離別し、六角義賢さんから1字もらっていた「賢政」の名前を返上して、諱(いみな)なしで新九郎の通称を公式にも用いることしました。
ここまでが長政さまが織田信長公と同盟を結び、妹の市さんを決行することになった経緯です。この時の信長公は、2年間も放置されていた朝倉氏を見限り岐阜へ頼ってきた足利義昭(この時点では義秋)を奉じて上洛するため南近江を通過しなければならず、それを拒んだ六角氏を挟撃するため浅井氏と手を結んだのです。
長政さまとしても宿敵・六角氏を討つための強力な援軍を得た上、絶世の美女との評判が高い市さんを後妻に迎えられ、名前も改名できたのですから万々歳の同盟だったのでしょう。
ところが幽閉先から小谷城に戻ってきた久政さんが足を引っ張ります。同盟を結ぶ際に交わした約定の中にあった「朝倉は攻めない」と言う1条を破り、信長公が越前に出兵したことを「裏切り」と批判し始めたのです。しかし、信長公は朝倉氏に「上洛して新将軍に礼を尽くせ」と要求して味方としての旗幟を鮮明にする機会を与えており、それに応じなかった朝倉氏の方に非があったのです。ところが外交だけで世を渡ってきた久政さんには情勢判断ができず、長政さまとしても父親を孤島に幽閉し、当主の座を奪った負い目があり、無碍に拒否できずに浅井家は滅亡に向けて迷走を始めてしまいました。
こうして本来であれば信長公の「天下布武」に参加して大きな役割を果たしたはずの有為な人材は若い命を散らしてしまったのです。優柔不断な性分で自滅した朝倉義景が自刃して10日後のことでした。つまり織田軍にとっては武田信玄公の上洛に備えていた最大戦力を投入した2正面作戦だったのです。
歴史ドラマなどでは市さんが織田と決裂した長政さまに従ったことを美しい夫婦愛として描くことが多いようですが、朝倉攻めの金ヶ崎の陣中に袋の両側を縛った小豆を送って浅井の裏切りを知らせた伝説があるように、情報を送るため命を賭して敵中に留まったと言う見方もできるでしょう。
長政さまは徳川2代将軍・秀忠公の義父、3代将軍・家光公の母方の祖父であるため江戸時代も名誉回復が図られています。一方、長政さまには側室の八重さんとの間に男子がいて、こちらの子孫は現在も横浜市に在住しています。

石井あゆみ作「信長協奏曲」より
- 2016/08/31(水) 09:15:58|
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翌朝、佳織が仕事終えて帰宅した時間を見計らって電話をした。本来は携帯電話だから時間は問わないのだが、こちらが徹夜する訳にはいかないので丁度よい。
「ハロー」「もしもし」最初の挨拶で佳織は私を識別する。今日は急に低音になった。
「貴方、大変なことになっちゃった」「ワシもニュースで見たよ。カンザスは大丈夫か?」「うん、街には特別な動きはないけれど・・・」朝のニュースではニューヨークとワシントンの惨状だけが紹介されており、それが全米にどう波及しているかは判らないのだ。
「ブッシュの演説を聞いても待っていたみたいにテロと断定したから、もう戦争に向けて猪突猛進なんだろう」「そうなんや。冷静でいなければならない士官たちまでが興奮状態で、敵は誰かって激論を始めているんよ」一度火が点けば燃やし尽くすまで消えないアメリカ人気質は近代史で繰り返されている狂気だ。その火を点けるのは常に政治家だった。
「教場でも『イスラムを滅ぼして地球をキリスト教一色に染めなければならない』なんて演説する同期もいるのよ」「君子危うきに近づかずだな」私の返事を聞いて佳織は安堵の溜め息をついた。若い頃の私ならキリスト教が犯してきた罪を挙げて論争に臨んだかも知れない。しかし、日頃は寛容で理知的にディベートを楽しむアメリカ人たちも狂気に駆られた時には凶暴な野獣と化すことを史実で学び、今は現地にいる妻と娘の安全だけを考えた。
「ショックだったのはユナイテッドの175便がサウス・タワーに突っ込むのを見て『パール・ハーバーのようだ』って言った同期がいたんや」「へーッ、ワシは神風(しんぷう)に見えたがな」やはりアメリカ人にとって自国が攻撃されることは唯一の経験に重ねてしまうようだ。
「このままだと教官の指名で真珠湾と神風のレクチャーをやることになりそうだから資料を送ってよ」「うん、わかった」私の手元には戦史の資料は山のようにある。それをコピーして郵送可能な重量ギリギリまで送れば良さそうだ。
「ところで志織は大丈夫か?」「小学校の方が子供への影響を考えて見せなかったみたい。ニュースは親の判断と責任で一緒に見て下さいって連絡があったわ」流石はアメリカである。前例の踏襲と周囲との協調だけを行動規範にしている日本の学校=教師ではこれ程まで冷静な応はできないかも知れない。
「これから夜のニュースを一緒に見るつもりだけど、貴方の軍刀を握っておくつもりよ」「軍刀を?」今回の留学に際して佳織は私が高校の先輩の刀匠に打ってもらった軍刀を持って行った。それは卒業式の時に提げるサーベルの代わりと守り刀のはずだが、仮に志織が怯えれば「お父さんがついている」と示すつもりなのだろう。
「それじゃあ、仕事に遅れるから」「うん、大丈夫だから安心してや」今回はこれで電話を切った。やはり朝食を食べる時間がなくなったので握り飯にして持っていくことにした。
「中隊長、今回の事件はやっぱりイスラムの仕業ですかね」出勤すると事務室のテレビのニュースを見ていた訓練係の1曹が訊いてきた。ブッシュ政権がキリスト教による世界制覇を標榜し始めるとアメリカ発&経由の海外情報だけを流している日本のマスコミもイスラム教を揶揄する報道に偏向し始めた。この1曹はそれを鵜呑みにしているようだ。
「イスラム教は元来、過酷な自然環境に生きる砂漠の民をいたわる穏健で寛容な宗教なんだ。好戦的なのはキリスト教の方だと言うのは十字軍の歴史を見れば判るだろう」私の口調が強まると作野先任と中村3曹が驚いたように顔を向けた。村上2尉以下の区隊長・班長要員は今回の2曹教育を担当する第329共通教育中隊に行って不在だ。
「先任、隊員教育を実施しますから適当な時間を知らせて下さい」私は佳織に自制をうながしておきながら、自分は逆のことをやろうとしていた。
- 2016/08/31(水) 09:13:46|
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日露戦争が始まって半年が経過していた明治37(1904)年の明日8月31日に遼陽会戦で橘周太中佐が戦死しました。橘中佐は日露戦争後、海軍の広瀬中佐と並び軍神と謳われました。
また、愚息が所属している板妻駐屯地の陸上自衛隊第34普通科連隊は、橘中佐が第1大隊長を務めていた静岡の帝国陸軍歩兵第34連隊の部隊番号を踏襲しているため、「橘連隊」の名も伝統として継承しています。
橘中佐は慶応元年に長崎県の島原半島(現在の雲仙市)の庄屋の二男として生まれ、陸軍士官学校幼年生徒=後の陸軍幼年学校に入営後は陸軍軍人の道を真っ直ぐに歩んで行きました。
橘家は敏達天皇と推古天皇の前の妻・広姫の間の玄孫・橘諸兄の子孫であり、同族になる楠木正成の弟からの流れでもある名門です。ただし、室町期に島原半島へ移住・定着したため、橘中佐が生まれた時の家柄は庄屋=土豪(この時の姓は城代=きのしろ)でした。
その家柄が尊重されたのか、少尉に任官してからは近衛第4連隊での勤務が多く、出ては戻るの繰り返しだったようです。そして大尉に昇任してからは歩兵第36連隊と戸山学校(主に体育訓練の教育・研究)の中隊長や名古屋陸軍幼年学校長を務めてから日露戦争に出陣したのです。
遼陽会戦は遼東半島の付け根の要衝で最初に両軍の主力が衝突した激戦でした。守備するロシア軍は15万人、攻撃する日本軍は12万人の兵力でしたが、勇将・黒木為禎大将が指揮する第1軍、名将・奥保鞏大将の第2軍、そして知将・野津道貫大将の第4軍が見事な連携を取って攻撃したため、指揮官と言うよりも軍政家であるクロパトキン大将が背後を遮断されることを恐れて得意の退却戦術に出たことで日本が勝利を拾いました。
この会戦の戦死者はロシア軍が2万人、日本軍は2万3千5百人と言われ、死亡率は日本の方が大きいのですが、劣勢にある軍が攻勢を取り、包囲すると言う戦闘原則を無視した作戦ですから当然の結果でしょう(メッケル教官の師・モルトケ元帥が確立した最先端の戦術ではある)。橘中佐が戦死したのは会戦が始まって1週間目で主要目標であった首山堡(しゅさんほ)が陥落する前日です。
野僧の曽祖父は陸軍士官として日露戦争に出陣しており、橘中佐は名古屋幼年学校の校長だったことを考えると面識があって祖父は逸話を聞かされてきたのか、「橘中佐」と言う唱歌を教えてくれました。ところが「橘中佐」と言う別の軍歌も存在しており、今も両方を愛唱しています。
唱歌「橘中佐」
1、 屍は積りて山を築(つ)き 血汐は流れて川をなす 修羅の巷か向陽寺(しゃおんずい) 雲間をもるる月青し
2、 「味方は大方討たれたり しばらく此処を」と諌むれど 「恥を思えや つわものよ 死すべき時は今なるぞ
3、 御国の為なり、陸軍の 名誉の為ぞ」と諭したる 言葉半ばに散り果てし 花橘ぞかぐわしき
軍歌「橘中佐」
1、遼陽城頭夜は闌(た)けて 有明け月の影すごく 霧立ちこむる高梁の 中なる塹壕声絶えて 目覚め勝ちなる敵兵の 肝驚かず秋の風
2、我が精鋭の3軍を 邀撃せんと健気にも 思い定めて敵将が 集めし兵は20万 防禦いたらぬ隅もなく 決戦すとぞ聞こえたる
3、時は8月末つ方 我が籌略(ちゅうりゃく)は定まりて 総攻撃の命下り 3軍の意気天を衝く 敗戦の将いかでかは 正義に敵する勇あらん
4、「敵の陣地の中堅ぞ まず首山堡を乗っ取れ」 30日の夜深く 前進命令たちまちに 下る34連隊、橘大隊一線に
※歌詞中の「3軍」は第1、2、4軍のことで、愚将・乃木の第3軍ではありません。
- 2016/08/30(火) 08:42:14|
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1人暮らしになった私はテレビのニュースを点けながら佳織・志織に手紙を書くのが習慣になっている。一緒に暮らしている時のパジャマ・ミーティングの相手がワープロになっているのだが、酒を飲みながらと言う訳にはいかず写真を相手に恋文をつづっていた。
この日のニュースは台風が2つも接近しており、それだけで前半は終わった。それにしても昨年からメイン・キャスターに復帰した久米宏は妙に派手になって、おまけにノーネクタイだ。このような常識破りの演出は久米嫌いの隊員を抱える管理職としては困ってしまう。私としては「嫌い」と断っている者に批判されても仕方ないと思うのだが、そうはいかないのが普通の人間の感情構造のようだ。
台風の後は歌舞伎町の風俗店が入ったビルの火災原因と国内初の狂牛病の個体発見のニュースが続き、久米得意の政府批判は聞かないで終わりそうだ。
佳織への手紙は淳之介の親権を美恵子に渡すことの相談が中心だが、太平洋とアメリカ大陸を越えて往復する手紙では返事は来週になる。何より佳織は勉強のためにアメリカへ行っており今回は志織の育児もある。夫婦の連携と負担の軽減のバランスも中々難しい。
その時、終わる間際の画面に妙な緊張感が走った。いつもは焦った表情を見せない久米も強張った顔をしている。私は手紙をプリントアウトする手を止めて画面を注視した。
「今、入ってきたニュースです。先ほどアメリカのニューヨークにあります世界貿易センタービルに小型機が衝突し、ビルが大きく破損したようです」久米に代わりサブ・キャスターの渡辺真理が無表情を装いながらニュースを読み上げた。同時に中継ヘリコプターが撮影していらしい黒煙が立ち上っている世界貿易センタービルの映像が流れ始めた。その煙の間から見える破損状況から言えば小型機程度の衝撃ではない。しかし、ここまでで番組は終わってしまった。
「新たな情報が入りましたら速報でお知らせすることとします。それではまた明日」久米が挨拶し、出演者が揃って頭を下げるとCMが始まった。私は「下らないプロ野球でも放送を延長するのに」と怒りながら、続くNHKのニュース10にチャンネルを合わせた。
NHKはCMがないので時間通りに番組か始まる。そしてメイン・キャスターの森田美由紀が渡辺真理と同じ台詞を繰り返している間に挿入されている映像が衝撃的な光景を流し始めた。
1機の旅客機が無事だった南側のビルの背後に現れ、急旋回しながら突入したのだ。その瞬間、森田美由紀は言葉を失っていた。
「まるで特攻機のようだな」私には神風(しんぷう)特別攻撃隊がアメリカ艦隊の猛烈な対空砲火の中を突入する光景が戦闘ではなく「殉教」に思われてならない。今回の旅客機も迷うことなくビルに向かって舵を切っている。それは命を大いなる存在に捧げる恍惚の業なのではないだろうか。
日本でも浄土真宗は一向一揆と言う殉教者を生んだ。それは親鸞聖人が師である法然上人が「選択(せんじゃく)」としていた念佛を「一向」に純化させたことにより、事実上の一神教と化してしまった結果だろう。神道も狂人・平田篤胤が八百万の神々を洩れなく崇敬していた多様性を否定し、天皇だけを信仰対象とする一神教に変質させて、それが明治以降の国家神道になった。おそらくこの旅客機を操縦している者も唯一絶対の大いなる存在に自己を捧げる快感に酔いながら多くの乗客を道連れにしたのではないか。
最初の突入から45分弱で始まったブッシュ大統領の演説はすでにテロと断定していた。この手法を私は第2次世界大戦で学んでいる。
この映像は現地時間の午前8時台後半から9時台のものだ。ワシントンの東部時間とカンザスの中部時間では1時間の時間差があり、2人は仕事と学校に行っているはずだ。つまり電話は朝までできない。私は再びワープロに向かい、長文の追伸を打ち始めた。
- 2016/08/30(火) 08:39:20|
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岡倉はブッシュ政権内の権力闘争に関する調査・報告を終えて西海岸に戻るためロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港にいた。飛行機の搭乗手続きのため空港のロビーを歩いているとホール内に老若男女を分けぬ多くの悲鳴が響き、悲鳴はドヨメキに続いた。その騒ぎはホールの所々に設置されているテレビの周りから起こっている。岡倉はこの異常事態を確認するため間近のテレビに歩み寄った。
「大迷子(おおまいご)」「大迷子(オオマイゴ)」人々は同じ台詞を繰り返している。天を仰いで呆然としている老夫婦、抱き合って涙を流している若いカップル、好奇心丸出しでテレビに見入っている子供を抱き締めている母親が目を引くが、多くの人々は大画面に映し出される中継ヘリからのニューヨーク世界貿易センターの惨状を注視していた。
「何だ?事故か」「小型機がツインタワーに衝突したそうだ」岡倉が英語で呟くと傍らにいた中年男性が応えてくれた。しかし、岡倉の軍事的知識では小型機が衝突した被害とは考えられない。そんな疑問を感じながら人々をかき分けて前に出ようとすると、中継は現場に駆けつける多くの緊急車両を見下ろす場面になってしまった。
「かなり酷いな」「愚か者がスリルを味わうためツインタワーの間をすり抜けようとしたんじゃないか」アメリカでも素人の知ったかぶり談義は日本と大差はない。しかし、次の場面に人々は息を呑んだ。1機の旅客機が無事だった南側のビルの向こうに姿を現すと、迷うことなく接近し、旋回しながら機体を大きく傾けて突っ込んだのだ。次の瞬間、場面は再び地上での救助活動と2度目の事態に驚愕する人々の恐怖に歪んだ顔のアップに切り替わってしまったが、再び南側のビルが崩れ落ちる映像に戻り、悲鳴以上の絶叫が起こった。
「これは事故ではない。テロだな」そう判断した岡倉は携帯電話で日本大使館の防衛駐在官からの確認するため人々の群れから離れた。その時、異常な空気が充満しているロビーにアナウンスが流れた。
「ご来場の皆さまに緊急連絡です」「ニューヨークで航空機を使用したテロが発生したことを受けて、連邦政府はアメリカ国内の全ての空港からの民間機の発進を停止し、飛行中の民間機に対して最寄りの空港へ着陸することを命じました。したがって本日の飛行スケジュールはオール・キャンセルとなり、運行再開の見込みは立ちません」通常、このような放送が流れれば苦情の罵声が起こるものだが、今日は重苦しい空気の中で全員が押し黙り、誰からともなく犠牲者を追悼する讃美歌が流れ始めた。
ブッシュ大統領の演説が予告され、人々がテレビの前に群がっている中、岡倉は日本大使館に向かおうとタクシー乗り場に急いだ。これほどの事態が発生すればいわゆる戒厳令が敷かれても不思議はない。当然、首都・ワシントンでの行動も大幅に制限を受けることになるだろう。しかし、タクシーの運転手は全員が車載テレビを着けている車両に集まってニュースを見ている。岡倉は仕方なく街の様子を確かめるため空港ビルの屋上展望台に向かった。
そしてエレベーターを下りて外に出た時、1機のアメリカン航空のボーイング757が異常な低空で西から東へ通過した。その方向にはポトマック川の対岸にアーリントン墓地やペンタゴン=国防総省がある。岡倉が腕時計を確認するとワシントン時間で9時38分だ。数秒後、街並みの向こうで炎と煙が上がり、少し間をおいて爆発音が聞こえてきた。
岡倉は「テロである」と判断した時、軍産複合体による「自作自演」の可能性を考えていた。アメリカには真珠湾攻撃に向かう日本艦隊を察知してもハワイの海軍には知らせず、空襲させてそれを国民世論の扇動に利用した前科がある。湾岸戦争でもイラン・イラク戦争で武器を与え、サダム・フセインを侵略に誘導した疑いは否定できない。しかし、国防総省が狙われた以上、その可能性は否定しなければならない。あくまでも現段階の話ではあるが。
- 2016/08/29(月) 08:47:32|
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「何でこんな場面が中継できるんだ。これはフィクションだろう」悲惨な現場からの中継が続くことに嫌気が差したらしい1人の中佐が疑問を呈すると大半の学生も同調した。やはりアメリカ人としては「信じられない」「信じたくない」と言う気持ちが先行し、事実そのものを否定する方向に思考が働くようだ。
ニュースでも旅客機がビルに向かって突入し、炎を上げるところまでで映像が切れ代わり、その後は流さなくなっている。このような緊急事態にも冷静に取捨選択している番組編集の練度は日本の比ではない。その時、別の中佐が声を上げた。
「まてッ、字幕が流れているぞ」同じような映像を繰り返している画面の下部に字幕が流れていく。全員でそれを注視していくと誰かがそれを読み上げて絶叫した。
「テロの可能性が高い・・・本物だ!」この声を最後に教場内の空気が耐えきれないほど重くなり、誰も「チャンネルを変えて別のニュースを見よう」とは言わなかった。
テレビの映像は現場からの中継が中心になっているが、アメリカ人たちは自分の席に戻っても画面から目を反らさないでいる。一方、留学生たちが小声で話し合っている内容は「今後、アメリカが取る行動の推察」が中心だった。外国人の認識ではアメリカがテロ受ける原因は幾らでもある。しかし、ここでそのことを論じ出せばアメリカ人全員を激昂させ、無事では済まないことは誰でも判っているからだ。
「メジャー・モリヤ。あの映像を見て私はカミカゼを思い出しました」「ノー、正しくはシンプーです」東南アジアからの留学生に声をかけられて佳織はわざと答えをはぐらかした。佳織自身も旅客機が突入する光景を神風特攻隊に重ねていたのだが、冷静さを失ったアメリカ人が過去を現在に投影して異常な精神状態になる危険性があることを大学時代に見てきている。
佳織が大学だった時、ソ連のチェルノブイリ原子力発電所が原子炉溶解の重大事故を起こしたのだが、それをスリーマイルズ島の放射能漏れ事故と結びつけて反核運動に走った同級生たちがいた。興奮状態に陥ったアメリカ人の狂気は暴走を制止する者まで敵としてしまうのだ。
「シンプーと言うと漢字の読み方の違いですね」「イエス、カミカゼは日本語読み、シンプーは中国語読みです」相手も佳織の不安を察したのかはぐらかした話題に乗ってくれた。すると中国人華僑が多い国だけに発音の矯正が始まってしまった。
「神風と言う単語の中国語読みはシェン・フォンです。シンプーはかなり古い発音ですね」「なるほど・・・夫がいれば中国語も判るのですが私は専門外です」佳織の説明に相手は談笑しかけたが、教場内の空気を考えて話を打ち切った。
「大統領の演説が始まるぞ」教場に入ってきた教官が呼び掛けたので、また全員がテレビの前に集まった。先ほどニュースで「大統領はフロリダ州を訪問中で、現在は小学校を視察している」と報じていたから現地で状況報告を受け、演説を起案するスタッフと電話連絡ながら草稿を練り、その練習を終えたのだろう。
9時30分、テレビの画面にジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領の見慣れた顔が映った。しかし、いつもの阿呆面にも悲壮感が色濃く漂っている。演説の口調も重苦しい。それでなくても重い空気に圧力が加わり、立っているのが辛くなる。その時、アメリカ人の学生が独り言を呟いた。
「パール・ハーバーの時のルーズベルトの演説のようだな」「そうだ!ジャップの不意討ちと一緒だ」先ほど佳織が神風特攻隊と重ねた光景をアメリカ人たちは映画「トラトラトラ」や今年、公開された「パール・ハーバー」で見た日本海軍機の空襲に結びつけたようだ。確かにアメリカにとっては自国の領土が攻撃を受けた史上2度目の経験である。この次に起こる事態に備えて佳織は人の群れから離れて傍観する態勢を取った。
- 2016/08/28(日) 09:16:13|
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1974年の本日8月27日にエチオピア革命によって幽閉されていた世界最古の帝国の皇帝であったハイル・セラシエ1世が撃たれ、崩御しました。83歳でした。
エチオピア皇帝は旧約聖書に登場し、紀元前5世紀から10世紀にかけて実在したとされるソロモン王とシバの女王の後継者であるアクムス王朝から始まり、紀元10世紀頃にはサグヴェ王朝が取って代わったものの1270年にはアクムス王朝の血統と称するイクノ・アムラクが王権を奪還し、ハイル・セラシエ1世まで続くソロモン帝国を打ち立てたのです(その後の帝朝は幾つかの変遷がある)。
日本人は皇室を万世一系で2650年以上続く世界最古の家柄だと思い込んでいますが、海外の文献で最初に日本が登場する「魏志倭人伝」は紀元3世紀頃の書物であり、その当時でも「卑弥呼なる女王が呪術を以って領民をあやかしている」とありますから統一国家は成立してはおらず、古事記で「天孫降臨」と称する侵略が行われたのはそれほど遠い昔ではないのかも知れません。
エチオピアはアフリカでも高地の冷涼な地域で世界最古のエチオピア・キリスト教=エチオピア正教を国教とする王朝を維持してきましたが、中東から北アフリカに勢力を拡大したイスラム教徒との抗争が始まり、戦争によりこれを撃退したものの後に領土の大半を奪われる事態に陥りました。
この時はバスコダ・ガマのインド航路の確立を受け、国交を結んだポルトガルの援助で領土を奪還したのですが、ヨーロッパ諸国で帝国主義の植民地獲得競争が始まっている中、ポルトガルの影響下に置かれることになったのです。ポルトガルは手始めに国教であるエチオピア正教からローマ・カソリックへの改宗を迫り、王族の中にも改宗する者が出たことで国内に宗教対立が発生し、やがては内戦に発展しました。内戦の結果、カソリックに改宗した皇帝の甥が即位したのですがこれは火に油を注いだだけで、さらに親に背いてまでエチオピア正教を守っていた皇帝の息子が即位したのです。
新たな皇帝はカソリック勢力を一掃して内戦を終結させ、イスラム教徒ともヨーロッパの帝国主義と言う共通の脅威で利害が一致したため和解を果たし、国力を充実させていきましたが、その繁栄は3代で終わり、その後は豊かになった国力の争奪を巡って群雄割拠の時代に入ってしまい日本の戦国時代を思わせるほど混乱を極めることになりました。
日本の戦国時代は織田信長が統一への道筋をつけましたが、エチオピアでは皇帝自らが諸侯を屈服させて国内の混乱を収め、国土の再建に向けて踏み出したのです。そのあたりは戦乱を他人事として傍観していた日本の皇室とは雲泥の差があります。
しかし、ヨーロッパ帝国主義の魔の手は迫っており、19世紀末に今度はイタリアの侵攻を受け、一度は撃退したもののムッソリーニによる再度の侵攻には抗しきれず、1936年から1941年まで植民地になってしまいました。
そんなエチオピアの最後の皇帝になったハイレ・セラシエ1世は1度目の対イタリア戦争に勝利した皇帝の従兄弟の息子ですから直系ではなくとも血統は受け継いでいます。
イタリアとの戦争に勝利した後、1916年に発生したクーデターで皇帝の娘が即位すると摂政となって実権を握り、1930年に女帝が没すると代わって即位して、そのままイタリアの植民地時代を含め皇帝として君臨してきたのです。
特に第2次世界大戦後は西側式の近代化を推し進め多大な業績を上げたのですが、日本のように単なるお飾りではない皇帝による直接統治が34年に及べば腐敗を招き、貧富の格差の拡大、経済の停滞が蔓延する中、1970年代から飢饉が発生しても有効な対策を打たず、むしろ放置して自分は遊興に耽っていたためストライキやデモが頻発するようになり、ついには社会主義クーデターによって逮捕・廃位させられました。暗殺はクーデター政権の首班が自ら手を下したと言われています。
ハイレ・セラシエ1世の息子は海外で療養していて粛清を逃れ、現在もその息子=孫が「亡命中のエチオピア皇帝」を名乗っていますが、母国や国際社会では認められていません。
ちなみに日本の125代の天皇の中で暗殺されたらしいのは20代・安康天皇(581年崩御)、31代・用明天皇、32代・崇峻天皇、121代・孝明天皇(犯人は岩倉具視)だけで打率としては低いようです。
- 2016/08/27(土) 08:49:36|
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佳織・志織母子の学校生活が順調に進み始めた9月11日の朝、校舎内に一斉放送が流れた。
「各教場のテレビを点けろ。学生はニュースを視聴せよ」佳織はこの放送を前川原で聞いた覚えがあった。あの時は天安門事件が発生したため当直幹部は点呼を各中隊の娯楽室として学生にニュースを見させた。今回も重大なニュースが起こったのであろう。
教場の前方に置いてある大型のテレビはビデオ用にセットしてあるらしく、チャンネルを入れてもニュースの画面にならない。そこで数人の学生がリモコンを操作してようやくニュースが流れ始めた。
「繰り返します。先ほど小型機が1機、ニューヨークの世界貿易センタービルに突っ込む事故が発生しました」アナウンサーは画像が届いていないようで極めて簡略な第1報を繰り返している。ただ背景には中継ヘリからのニューヨークの摩天楼の中でも一際、目立つツインタワー=世界貿易センタービルが煙を上げている様子が流れ始めていた。
その映像を見る限り、ツインタワーのうち北側の上方部に航空機が衝突したようで、ビルの側面が大きくえぐれている様子が煙の間から見えた。それを見て佳織は「この損害は小型機によるものではないだろう」と言う疑問を感じたが陸軍の軍人たちは別の次元の議論を始めた。
「あそこまで破壊されていてビルがもつのか?」「外壁が強度を担っている構造なら危ないですね」1人の中佐の質問に工兵の少佐が答えた。すると別の中佐が周囲の学生たちに声をかけた。
やはり学生は対等とされていてもリーダーシップは中佐が執るのが軍隊のようだ。
「それにしてもこんな事故が起こるのか?」「確かに不測事態で操縦不能になっても機体を安全な場所に不時着させるように努力するのがパイロットの責務だ。朝の明るい時間帯に摩天楼へ入り込むなんてことはあり得ない」今度はヘリコプターのパイロットの少佐が答える。佳織は心の中で「元航空自衛隊の夫がいればさらに議論が盛り上がるのに」と少し残念に思っていた。何にしろアメリカ人にとっては信じがたい大事故だが、外国人には単なるニュース映像に過ぎず、佳織は他の留学生たちと一緒にテレビの前から少し後退した。
その頃には現場中継のカメラが到着したのだろう。上空からのニューヨークの全てと思われるほどの数の消防車や救急車、パトロールカーが駆け付ける映像に破片が崩れ落ち続けている貿易センタービルを下から見上げる中継が加わった。
消防士、救急士、警察官たちはビルを見上げながら救助に向かおうとしているが、破片は降り止まず無念の歯噛みをしている顔がアップになっている。さらに通常では視聴者への心理的配慮から映さない犠牲者の無残な遺体も救急士や警察官の足元に転がっているままに撮影されていた。
間もなく朝の講義が始まる時間だが教官は姿を見せない。おそらく教官自身もニュースから目を離せなくなっているのだ。その時、再び悲鳴のような叫び声が起こった。佳織が時計からテレビに視線を戻すと1機の旅客機が再び世界貿易センタービルの無事だった南側に向かって飛んでくる光景が流れている。その模様は日本の円谷プロが制作した特撮映画のようだ。
「オー マイ ゴッド」学生たちの口から一斉にこの言葉が漏れ、佳織の横ではヨルダンからの留学生が「アッラー」と呟いている。しかし、佳織の中ではその場面が夫と見た神風特攻隊の記録映像に重なっていた。そして日本軍機が優勢なアメリカ海軍の対空射撃に次々と撃墜されていったのとは違い、旅客機は何の抵抗も受けず確実に目標に突入した。カメラのアングルの関係で機体がビルの側面に突入して破砕されたところは見えなかったが、今回は旋回しながらの突入であったため姿勢が斜めに傾き、多くの階を縦に破壊する結果になったようだ。
これでこの事態が「衝突事故」ではなく「突入事件」であることが明らかになった。
「誰が?」「何のために?」この重大過ぎる疑問を口にする者はすぐには現れなかった。
- 2016/08/27(土) 08:48:25|
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昭和57(1982)年の本日8月26日に河野談話と同様に新聞の売国行為の結果である宮沢談話が発表されました。この頃、野僧は曹候学生として浜松の第1術科学校に入ったばかりだったので新聞しかニュースのネタがありませんでしたが、この談話には怒り心頭に達し、密かにクーデターを考える切っ掛けになりました。
河野談話は朝日新聞が吉田雄兎(=清治・福岡県遠賀郡芦屋町出身)の虚構の出版物と講演内容を利用して単に売春業者が軍に同行していたに過ぎない慰安婦を、「官憲が女性を集団拉致し、売春を強要した」とする記事を捏造した結果(それも宮沢総理の訪韓直前に)、低支持率に悩む全斗煥大統領の日本批判につながり、自民党の大敗で宮沢内閣が退陣する直前に発表されたものです。
一方、宮沢談話はこの日の新聞各紙の朝刊に「今回の歴史教科書の検定の結果、『日本軍が華北を侵略した』とあった記述が『進出』に書き改められた」と言う記事が掲載されたのです。
この記事の内容について朝日・毎日新聞や共同通信が韓国・中国政府の要人に感想を求めたため、たちまち両国政府が知ることとなり、日本大使を呼びつけて強い抗議を行いました。
しかし、抗議を受けても大使はおろか外務省もそのような事実は承知しておらず、経緯・影響などの状況分析や相手の意図を洞察することなく抗議内容のみを官邸に伝えたため、社会党から自民党に鞍替えした鈴木善幸総理と学歴だけは立派な宮沢喜一官房長官は困り果て、何をどうすべきかも決められないまま窮余の策としてこの談話を発表したのです。
その内容は「日本政府と日本国民は、過去において我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し」と冒頭から国民も中国や韓国に対して贖罪意識を持っていると決めつけ、「日韓共同コミュニケ、日中共同声明の精神は我が国の学校教育、教科書の検定にあたっても、当然、尊重されるべきものであるが、今日、韓国、中国等より、こうした点に関する我が国教科書の記述について批判が寄せられている」と報道内容を事実と認めた上で、「我が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に耳を傾け、政府の責任において是正する」と全面譲歩を表明しています。
この談話が河野談話以上に悪質なのは教科書には始めから「進出」と記述されており、「検定内容が変更になった」と言う事実がなかったことです(河野談話の「慰安婦」そのものは存在していた)。
つまり新聞各紙が一斉に誤報を流し、それを売国新聞が意図的に外交問題化し、慌てふためいた外務省からの報告で官邸が動いた結果、認める必要がない問題を失策として認めて謝罪し、日本の学校教育に中国、韓国を関与させる切っ掛けを作り、外交カードを売り渡すことになったのです。
確かに同じ敗戦国であるドイツは第1次世界大戦の敗戦後から教科書検定に戦勝国が関与しており、一度はヒトラーによって拒否されたものの、第2次世界大戦後にはフランスやポーランドの承認を得ないと公式の教科書とは認められないことになっているそうです。
おそらく官邸から談話の起草を命じられた外務官僚は似たような立場にあるドイツの実情を踏襲することを決め、このような談話になったのでしょう。
しかし、問題の本質は文部省にあり、発表の前に確認の電話をすれば事実無根の誤報であったことが判明したはずで、記者会見の場で新聞各紙に誤報の責任を問い、それを悪意を以って海外に拡散した売国新聞の体質を糾弾できたはずです。それができる首相と官房長官ではありませんが。
それにしても河野談話は宮沢喜一内閣の時であり、この東京大学卒の元エリート大蔵官僚で英字の新聞を愛読する首相は事実確認の重要性と外交カードを売り渡す危険性を学ぶことなく、何故、同様の過誤を繰り返したのか。
その前に文部省記者クラブで誤報となる虚偽の資料を配布した犯人は誰か?野僧が現役時代から知っていた某新聞のデスク(故人)によると、「朝日の記者が教科書のコピーを配って、『見ろよ!侵略が進出に変わっているぞ』と言い出し、各紙の記者も色めき立った」そうですが証拠はありません。
- 2016/08/26(金) 08:41:09|
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アメリカ陸軍指揮幕僚大学校はカンザス大学の修士課程と連携して学位を発給しており、学生は必須科目の講義以外は2つの学校を自由に行き来できるようだ。ここには日本の幹部学校以上に西側各国からの留学生が集まっているが、やはり女性は珍しく佳織は「珍獣」扱いされている。流石に米兵に群がる「一発ガール」と一緒にはしないが日本女性への評価は高くない。
「メジャー・モリヤ。研究テーマは決まりそうか?」「イエス、夫との共同研究をここで検証しようか思っています」担当教官は在日米軍で勤務した経験があるそうで、佳織には気軽に声をかけてくれる。
「ふーん、共同研究は良いが夫は同行していないんだろう」「はい、日本に単身赴任しています」この場合、単身で日本に残った私が単身赴任なのか、志織と連れて赴任した佳織が帯同赴任なのか表現が難しい。ましてや英語の説明となると流石の佳織でも訳がわからなかった。
「君の夫は日本のCGSを終えたのか?」この質問は日本のような興味本位の個人情報の収集ではなく、これから作成することになる論文に発表された経歴があるかの確認だろう、
「いいえ、まだです」佳織の答えに教官は黙ってうなずくと長い廊下を歩いて行った。
「マミィ、アメリカの学校って楽しい」いきなり1学年の上の2年生に編入した志織は目を輝かせて報告した。スクールバスの停留所まで制服を着た佳織が送っているので、子供たちも軍人の娘であることは認識しており、日本以上に過激と評判の苛めの心配はあまりしていないが、やはり1学年上の内容を慣れない英語の授業で理解できるか不安だった。
「わからない時は先生に手を上げて質問すれば良いんだよ」これは当たり前の話のはずだが、日本の学校では子供に躊躇させるような雰囲気があったようだ。
「それに先生は勉強の途中でも『判った』『判った』って聞いてくるし、イエス、ノーってハッキリ言っても怒らないんだよ」佳織の中で自分の小学校時代が思い出されてきた。
「お友達とはどうなの?」「大丈夫、相手が言いたいことを言ったら志織も言いたいことを返せば良いんだもん」これは佳織自身が日本に帰国した時、伊丹の中学校で苛められた原因だった。夫も岡崎市の小学校でアメリカ式の教育を受けながら田舎の中学校に入って苛めを受けたと言っていたが、この両親の娘である志織は逆の開放感を満喫しているようだ。
「モリヤくんって玉城の美恵子さんの息子って本当ねェ?」話し相手がいない淳之介が教室で本を読んでいると同級生たちが声をかけてきた。本人は標準語のつもりのようだが、やはりシマグチ=沖縄方言が交じっている。
「うん、そうだけど」「それじゃあ、エリート自衛官の旦那さんを捨てて男と駆け落ちしたのさァ」「それで沖縄へ帰ってきて今度は男に捨てられたのさァ」この話は淳之介も知らない訳ではないが、同級生たちの方が詳しく知っているのには困惑した。沖縄では本土に比べ、男女関係に対する規律心が緩く、恥や罪と言う意識が弱い分、下卑た噂が大っぴらに広まる傾向がある。しかし、本土で育った淳之介には、これらの言葉が母への誹謗・中傷に聞こえた。
「おまけにアメリカ兵に集団レイプされたのさァ」「嘘だ!」自分が知らない内容が出た時、淳之介は立ち上がり、その台詞を吐いた男子生徒を突き倒した。
「何するねェ」倒された生徒は立ち上がると小林流空手の構えをとる。それに淳之介は日本拳法の構えで応じた。他の同級生たちは見たことがない日本拳法の構えに興味を示して身を乗り出している。こうなれば一戦交えるしかないようだ。
「コラッ!何をしとる」そこに担任の教師が入ってきた。淳之介は急な転校だったため久居市の中学校から送られてきた資料に不明な点があって確認にきたのだった。
- 2016/08/26(金) 08:39:28|
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8月21日に平松守彦元大分県知事が亡くなったそうです。92歳でした。
平松知事と言えば野僧が福岡県春日基地に勤務していた頃も現職でしたが、「1村1品運動」などの地域の活力を発揮する独自の政策を打ち出し、地に足を下した地方自治を推し進めていて、バブルに踊っていた福岡県とは大違いでした。
当時は熊本県の細川護煕知事と大分県の平松知事が九州の名物知事として脚光を浴びていましたが、細川の方は旧藩主の家系と若くて男前であることだけが売り物で、「功績は家宝を県立美術館に寄贈したことだけ」「典型的な馬鹿殿」「細川家ではなく母方の近衛文麿の血が濃い=すぐに投げ出す無責任な奴」と言われて地元の評判は散々でしたが、平松知事を語る大分県人は胸を張り、鼻息が荒くなり、声量が上がり、目が燃え上がって自信と誇りが漲っていました。
大分県は江戸時代、異常なほど細分化された小藩ばかりだったため「県民の団結心が弱い」と言われていたのですが、平松知事はそれを逆手に取り、「1村1品」を競わせることで相互に研究し合う気風を植えつけ、同じ産品を選んだ地域の戦友愛的な共感を育てたのです。
国家予算を奪ってくるため地元出身で東大卒、中央官僚経験者を県知事の必須条件にしている某県では考えられない存在でした。衷心から冥福を祈ります。
- 2016/08/25(木) 09:16:06|
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「ちょるちょる姦っちょる姦られちょる 防府娘は姦られちょる」これは防府市に住民票を置いている若者たちが愛唱していた防府音頭の冒頭ですが、本日8月25日に山口県防府市は市制80周年を迎えました。
防府市は名称でも判るように律令国・周防の国府が置かれていた土地で、県庁所在地の山口市や藩主の居城があった萩市と比べても気候は温暖で風光明媚、古来から海路・陸路の交通の便に優れ、さらに農業、漁業の生産品などは名前の通り豊富なので国府が置かれたのは当然でしょう。
ちなみに全国各地の律令国の国府があった土地で市の名前にしているのは防府だけで、甲府市は甲斐国の国府の所在地ではなく、山大=山梨大出身の友人によるとそれは笛吹市内なのだそうです。
余談ながら武蔵国と備後国は府中市で、他は「国府町」など市の下の町名に留まっているようです(長門国も下関市長府です)。
防府市の観光ガイドなどでは防府天満宮を前面に押し出していますが、本来であれば国府とワンセットの周防国分寺にするべきでしょう。これもやはり廃佛棄釋と言う国家的暴挙の発信源である山口県に存する残滓なのかも知れません。
その防府天満宮は「日本三天神」と自称していますが、菅原道真が海路で太宰府へ赴任する途中でこの地に立ち寄った際、現在は天満宮がある山からの眺めが気に入り、「魂はこの地に帰ってくる」と言ったとする伝承が唯一の根拠であって、「日本最古」と言う説明は菅原道真が合祀される前にも風神、雷神、雨神などの天の神を祀る神社はあったはずなので虚構の疑いがあります。
ついでに言えば防府と大宰府の天満宮は菅原道真と元来の天の神を分祀しており、天災除けに関する利益(りやく)もタタリ神である菅原道真が担当しています。したがって先年、防府市で未曾有の集中豪雨による大規模災害が続発したのは天の神を分祀して菅原道真個人に仕えている防府天満宮の責任です。
防府は古来、塩田による製塩業が盛んで戦時中は朝鮮半島から労働者が大挙して渡ってきたため南基地がある沿岸部には在日の人たちが多く、日韓・日朝の外交問題で突然のように「反自衛隊」の怒りの声が上がることがありました。
また遣唐使や菅原道真の時代から海運の寄港地であり、三田尻と言う港町には船員を相手にする売春街が残っていました。薄暗い通りの寿司屋やうどん屋に入ると数人の女給さんがいるので寿司やうどんを食べながら値段の交渉をして、話が決まると路地を挟んだ家の狭い部屋に移動し、座布団を敷いて姦るのだそうです。ただし相手の女性は売春防止法が制定される前からの超ベテランなので平均年齢は還暦をはるかに超えているとのことでした(野僧が最初に防府で勤務した頃の話)。
現在の防府は急激な斜陽に陥っており、工業団地を構成していた大企業の撤退が相次ぎ人口も減少傾向にあります。しかし、山口県は明治以降、中央に送り込んだ有力政治家によって国家予算を獲得させる以外の経済対策を持たず、敗戦後も岸信介・佐藤栄作兄弟がその悪癖を継続させてしまいましたから自力で回復するのは難しいようです。「安倍さん、助けて!選挙区ではないけど」
防府にはパイロットを養成する北基地と一般の兵隊や初任空曹などの教育を行う南基地があり、航空自衛官の過半数がこの地に戸籍を置いた経験を有しています。ところが全国各地から隊員を防府に集めることは防府・山口県嫌いの人間を生産する結果を招いていました。
それは山口県人たちが他の都道府県を見下す言動を弄するため、東京から福岡までの太平洋・瀬戸内海ベルト地帯から来ている隊員が「何もない田舎者の癖に」と反発するのです。勿論、戊辰戦争で被害に遭った地域の隊員たちは黙って激怒していました。
そこで野僧は教育を担当する山口県人の隊員たちに注意したのですが、すると幹部まで「明治以降の日本は山口県の所有物だ。総理大臣の数を見てみろ!」「負け犬の遠吠えだな」とうそぶきました。
防府南・北基地が入隊してくる隊員たちに好印象を与えて全国各地に送り出せば、売れないタレントを観光大使にするよりもはるかに大きな宣伝効果があるはずですがおそらく無理でしょう。
- 2016/08/25(木) 09:14:53|
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佳織と志織はアメリカ陸軍指揮幕僚大学校があるカンザス州カンザス市に到着した。カンザス州はアラスカとハワイを除くアメリカ本土のほぼ中央に位置し、大平原以外の風景はない。
「マミィ、蒸し暑いね」「うん、そうやね」カンザスシティ空港に着いて外に出た途端、志織が呟いた。大陸の中央部に位置する州であればモンゴルやオーストラリアのような乾燥した気候を想像するが、アメリカ大陸は大西洋と太平洋に挟まれているため両側から強力な季節風が吹き、夏の湿度が高い地域も多い。ただし、カンザス州でも西側半分は砂漠に近い乾燥地帯だ。
カンザス州では日本人が珍しいようで、2人の姿を通り過ぎる人たちが興味深そうに見ていく。佳織は久しぶりの右側通行に懐かしさを感じながら道路を渡り、タクシー乗り場に向かった。
借家はCGSに留学する自衛官の申し送りだ。アメリカの借家は家具つきであり、家電製品などは長期レンタルですませ、移動は衣類や食器などの日用品だけにする。
こちらに向かう旅客機の中で志織はアメリカ人の子供たちと英語で談笑していた。そんなところにも初めて海外生活をする娘を思い、あらん限りの力を注いでくれた夫の存在を感じ、佳織の胸は熱くなっていた。
「OK、2年生です」翌日、転校手続きのため地元の小学校へ行くと校長と担当教師は志織に各科目の質疑応答を繰り返す面接と筆記試験を行い決定を下した。佳織としては日本の小学校を半年しか経験していない以上、1年生になっても仕方ないと考えていたが、ここでも夫の努力の成果が認められた形だ。
「日本のオフィサーは子供をワシントンの日本人学校へ入れてカンザスには夫だけで住んでいることが多いですが、メジャー(少佐)は娘さんにアメリカの教育を受けさせるのですね」校長の話は留学が決まった時、経験者から助言として聞いていたことだ。中には家族を日本に残して単身赴任することも珍しくないらしい。
「メジャーはハワイ生まれなんですね。大学もアメリカだ」校長は机の上に広げている佳織の履歴書を担当教師に見せた。アメリカの学校も個人情報の保持には厳しいが、日本のように過剰な制限はしない。家族の個人情報も必要なことは申告させ、関係者とは共有する。
「ならば国籍はアメリカと日本の2ヶ国ですね」「日本だけです」日本では20歳までに国籍を1つに絞らなければならないが、他国では複数の国籍を認めていることが一般的なのだ。。
「シングル・マザーですか」「いいえ、夫は日本に残っています」ここで「兄と一緒に」と答えようか迷ったが、「淳之介は沖縄へ行くことになるから」と口をつぐんだ。
「それではシオリの英語はメジャーが教えたのですね」「いいえ、勉強を教えたのは夫です」佳織の答えに国際性に乏しい日本人のイメージが崩れ、2人は困惑したように顔を見合わせた。
「モリヤくんです。本土から来ました。挨拶しないさい」日本では淳之介が玉城村の中学校に転校した。8月も後半に入ってからの手続きで、久居市の中学校には大変な迷惑をかけたが、受験生としての立場を考えれば2年の2学期はギリギリの限界線だろう。
「ハイサーイ」淳之介は「ちゅらさん」で覚えた沖縄式の挨拶をしたが、教室には白けた空気が発生する。それでも構わず続けるのが空気を読まない淳之介だ。
「僕はモリヤ淳之介って言うのさァ、母はシマンチュウだからナイチャアとシマンチュウのハーフさァ」ここまで来ると同級生の一部が苦笑を始め、淳之介はそれを「受けた」と思いさらに追い討ちをかけた。
「部活はバスケットさァ」「はい、ありがとう。みんな分からないことは教えてやってくれ」教師が言う「分らないこと」とは沖縄の流儀・作法からになる。前途は多難なようだ。
- 2016/08/25(木) 09:13:10|
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昭和20(1945)年の本日8月24日にアメリカ相手の敗戦処理でこそ必要な人材だった田中静壱大将が自決してしまいました。57歳でした。
田中大将は明治20(1887)年に現在の兵庫県たつの市で生まれましたが、田中家は守護大名・赤松氏の血統をひく名家の大豪農で、二男であったため日露戦争が終結した明治38(1907)年に地元の龍野中学校を卒業して陸軍士官学校に入営しました。
この19期生には今村均大将や本間雅晴中将など一般の中学校を卒業して士官学校に入った逸材が多く、陸軍幼年学校からの軍隊しか知らない純粋培養の将校士官たちが国家主義クーデター、テロ、言論弾圧、日支事変から日独伊三国同盟、第2次世界大戦への参戦に向けて暴走する中、戦地でも人道主義や国際法などに配慮した柔軟で幅広い発想の作戦指揮や占領統治を行っています。
さらに田中大将は陸軍大学校の成績が優秀だったためイギリスの名門・オックスフォード大学へ官費留学しており、第1次世界大戦の戦勝祝賀パレードでは騎馬隊の旗手を務めました。そしてメキシコやアメリカの駐在武官も経験し、陸軍参謀長だったマックアーサーとも親交があったのです。
敗戦時の日本政府と日本軍でこれだけ戦勝国の軍上層部に人脈を持っていたのはおそらく田中大将が唯一であり、存命であれば戦犯の指定・拘束や裁判、陸海軍の解体、新たな国家体制の構築に於いて日本側の立場を説明する役割を果たしたことでしょう。
指揮官としての田中大将は歩兵連隊長として第1次上海作戦に参加したほか将官になってからは満州を守備する歩兵旅団長や内地の憲兵司令官、大陸の師団長などを歴任し、対英米戦が勃発すると人道的な占領政策を弱腰と批判されて更迭された同期の本間中将の後任としてフィリピンの軍司令官になっています(批判を受けている住民虐待は主にアメリカ軍の反攻開始後)。
敗戦時は関東地区を担当する東部軍管区司令官でしたが、大都市を多数抱える地域だけに空襲の目標にならざるを得ず、宮城や明治神宮が焼失した責任を強く感じていたようです。
そして敗戦が決定した後、焦燥した将校士官たちが天皇の玉音放送を阻止するため蜂起すると(映画「日本敗れず」「日本の一番長い日」で描かれている)自ら護衛の憲兵を連れて首謀者のところへ乗り込み、面談する振りをして集めて憲兵に捕縛させ無事に放送することに成功しました。
それからも散発した武装蜂起を鎮圧し終えて事態の鎮静化を見届けたこの夜、執務室で拳銃自決してしまったのです。旧知のマックアーサーが占領軍最高司令官として厚木に下り立つ6日前でした。
大日本帝国陸軍の将校士官の中心を為していたのは田中大将や今村大将とは真逆の陸軍幼年学校から士官学校に進んだ純粋培養の世間知らずたちでした。この悪しき病理は自衛隊にも遺伝しており、慢性的な募集難に対する窮余の策として自衛隊生徒と言う高校(制度的には一般高校の通信課程)を設け、衣食住と給与を与えながら勉強させ、卒業後は19歳で3曹に昇任させていました。
中でも陸の生徒=少年工科学校では「陸軍幼年学校の伝統を継承する」と公言しながら成績優秀な者に防衛大学校への受験対策を徹底的に施し、それに失敗した者にも一般大学の夜間部、通信課程へ進学して部内部外と呼ばれるエリートコースに乗ることを指導していたのです。
陸の生徒出身者は陸軍幼年学校の全てを伝統として踏襲しようとしており、戦前以上に多様な価値観が交錯する現代社会において自衛隊の狭い偏った論理を絶対視していました。
例えば陸上自衛隊の千葉徳次郎北部方面隊総監は生徒出身の防衛大学校卒でしたが、自衛隊が公式に募集した生徒、一般陸曹候補学生、陸曹候補士、一般陸曹候補生に新隊員からの陸曹昇任者に加えると陸曹が陸士よりも多くなるため、「これでは指揮系統が維持できない」と言う雇用契約を無視した理由で廃止になった陸曹候補士を切り捨てることを決定したのです(5年から7年で陸曹にする雇用契約で採用していた)。
海空は生徒を廃止しましたが陸は制度だけを変えて温存しています。田中大将や今村大将のような真に有為な人材に日を当てるためには陸も悪しき病巣を切除するべきです。
野僧自身も生徒出身の第1教育群司令=佐藤芳美1佐と同総務人事班長=東俊輔2尉による不当人事操作で将来を潰された被害者ですがから敢えて言います。
- 2016/08/24(水) 08:48:33|
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2年に及ぶ入校を終えて帰宅した佳織との生活は新たな旅立ちの支度になっている。佳織と志織をアメリカに送り出すだけでなく淳之介も沖縄に引き渡すことになりそうだ。
志織のアメリカへの転校は佳織との話し合いで決定してから小学校に伝えてあるが、淳之介については中学校に全く話していない。部活動も淳之介自身が顧問に参加できないことを申し出ただけだった。
「貴方、淳之介から連絡は?」「それが全くないんだよ」佳織は8月中の移動期間は荷造り(アメリカの借家は家具つきなので中身だけ)や色々な手続きなどの引っ越し準備に当たっているが、淳之介については連絡がこないため手がつけられないでいる。
「あちらの家に電話をする訳にはいかないの?」「とりあえず義弟にしてみるよ」そう説明してから玉城家の本土窓口である松真の自宅へ電話をしてみた。
「あッ、どうもすみません」電話を取った松真は私の声を聞いていきなり謝った。私はその様子から余程不味い事態になったのかと心配になった。
「淳之介は沖縄へ転校したいって言ってるんですけど、おトゥとおカァが沖縄をよく見てから決めろって言うのさァ」「うん、そうだろうな」「それを2尉ニに伝えるのを忘れていました」要するに松真の航空機整備員とは思えないポカミスのようなので安堵の溜め息をついた。
「しかし、淳之介は中学2年だから転校するにも早く手続きをしないと受験の準備が始まってしまうだろう」本当はこんな心配はしたくないのだが、最終決定を本人にまかせた以上、必要な確認だ。
「そうだよね。そろそろ結論を出すように俺から電話してみるさァ」「その結果を忘れずに教えてくれよ」「はい、判りました」そう言って受話器を置き、振り返ると佳織が立っていた。
「貴方って本当に無理ばっかりしてるね」「やっぱり君に隠し事はできないな」「本当は淳之介に早く帰って来いって言いたいんでしょ」「「うん、そうなんだ」「私にだって行くなって・・・」そこまで言うと佳織が抱きついてきた。2年間の不在で忘れかけていた夫婦の呼吸が甦ってくる。この掛け替えのない妻を送り出して私は自分を保てるのだろうか。そう思うと志織が見ている前で強く抱き締め熱く口づけをしてしまった。
結局、淳之介は私たちが佳織の家の墓参りを終えた夏季休暇明けに、玉城家の義父母と一緒に帰ってきた。課程教育を担当していないとは言え出勤しなければならない私に代わり、佳織が初対面の義父母を接遇した。しかし、義父母にとって佳織は娘の夫を奪った女でもある。
「淳之介がご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」そう言って床に手をついた佳織の態度に義父母は戸惑ったように顔を見合わせた。
「こちらこそ長い間、引き留めまして・・・」「僕が帰りたくないって言ったんです」義父の挨拶を遮って淳之介が訴えた。すると佳織の顔が3等陸佐になった。
「お父さんが自分で決めろって言ったのは、そんな風に楽しいことだけを見て流されることじゃあないよ。沖縄で何ができるのか、何を諦めなければならないのか。そう言うことを地元の人に確かめて決めろと言うことなの」おそらく淳之介が佳織からこのようなことを言われたのは初めてだろう。義父母は黙って孫の横顔を見ていたが、表情を引き締めて反論を始めた。
「僕は毎日笑いながら楽しく暮らしたいんです。沖縄ならそれができます」「だったらこの家に貴方の居場所はないわ。出ていきなさい」これが母として、何よりも私の妻として佳織が下した結論だった。佳織は3等陸佐の顔のまま義父母に再び手をついて深く頭を下げた。
「不束な息子ですが謹んでお返しします。どうかよろしくお願いします」その肩が小刻み震えているのを義父母は見逃さなかった。

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- 2016/08/24(水) 08:46:17|
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正応 2(1289)年の本日8月23日(新暦なら9月9日)に念佛門の最高峰を極められた一遍智真上人が極楽浄土へ往生されました。
我が国の佛教徒の3分の1を占める浄土真宗は法然坊源空上人の教えを愚禿親鸞聖人が机上で理論的に純化=先走りさせたものですが、最期まで安心(あんじん)の境地には至っておらず、その点では一遍上人に遠く及びません。
一遍上人は伊予国松山(愛媛県)の水軍・河野通広の嫡子で、親鸞聖人よりも66年遅い1239年生まれですが27年後の1289年に亡くなっており、聖人と上人の生涯は23年間重なっていました。
上人は十歳の頃、母の死をきっかけに出家して福岡県の浄土宗西山派の祖・証空(記主禅師の師)に師事したものの河野家相続のため還俗しています。しかし、領地の相続争いに巻き込まれて再度出家し、やがて妾の超一と娘の超二を連れて遊行の旅に出ました。これだけでも煩悩が捨てられない自分に苦悩し、妻を娶った親鸞聖人よりも数段上をいっています。
上人は断崖絶壁の山の上などで念佛を行じて境地を深め、大阪の四天王寺、紀州の高野山などに詣でて託宣を得たとしていますから「念佛と修験道の融合者」と言う見方もできるかも知れません。熊野権現では「全ての衆生は御坊の勧めによって始めて往生するのではない、阿弥陀佛によって往生することが決定しているのだ。信仰心の有無を選ばず、浄不浄を嫌わずに、その札を配りなさい」と言う神勅を受けて往生札を配るようになったそうです。ところがある日、上人がいつものように往生札を配っていると旅の僧侶が「宗旨が違う」と受け取りを拒んだため、上人は「阿弥陀の衆生済度の誓願はこちらが求める拒むに関わりなく普く及んでいる」と押しつけるように手渡したそうです。つまり法然上人が開かれた「念佛によって救われる」と言う教義は、一遍上人により「往生必定」を保証するに至ったのです(その頃、親鸞聖人は「私のような者が本当に救われるのだろうか」と悩んでいたが)。
また紀州の宝満寺で法燈国師に参禅し、無門関「念起即覚」の提唱を受けて、「となふれば 佛もわれも なかりけり 南無阿弥陀佛の 声ばかりして」の一首を呈したものの国師は「不徹底」と拒絶し、そこで上人は「となふれば 佛もわれも なかりけり なむあみだぶつ なむあみだぶつ」の一首を再呈してゆるされたと伝えられています。つまり「南無阿弥陀佛の声ばかりして」では「佛もわれもなかりけり」と言いながら南無阿弥陀佛を聞いている自己の隔たり、そして「なむあみだぶつ」だけになり切ったのです。
そんな遊行の旅は出身地の四国はもとより、北は祖父・河野通信の墓があった陸奥の江差(岩手県)から南は九州の大隅(鹿児島県)まで全国各地に及びました。
上人と言えば往生札と共に有名なのが踊り念佛ですが、これは善光寺に参詣した時に信者の家の庭先で踊ったのが始まりで、瞬く間に全国に広がり、現在行われている盆踊りの原型と言われています。ただ時宗の踊り念佛は打ち鳴らす鐘に合わせて念佛を唱えながら飛び跳ねる躍動感あふれるもので、上人は踊り念佛を「自然遊躍」と言っておられますから、沸き起こる往生の悦びに任せて体が躍り上がる陶酔=トランス状態の踊りのようです。
また時宗の念佛は天台宗の聲明のような独特の節回しがあり、簡単には覚えられません。
上人の旅には次第に同行者が増え、一度に280名以上が出家したこともあったとも言われ、中には「早く往生したい」と海に入水自死する者までありました。その点も親鸞聖人が高弟の唯円と「往生できると言われても待ち遠しいとは思えない」と言い交わしていたのとは対照的です(「歎異抄」の記述)。
上人が示寂する時、紫雲がたなびき弟子たちがそれを告げると「紫雲にまかせておけ=放っておけ」と言って目を閉じたそうです。死因は栄養失調ではないかと推測されています。
一遍智真上人の辞世は「一代の聖教みな尽きて 南無阿弥陀佛になりはてぬ」でした。

一遍上人像(重文・宝蔵寺・2013年8月10日・火災で焼失)
- 2016/08/23(火) 09:00:59|
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岡倉たち在米諜報要員による調査報告はアメリカの危険な素顔を暴き出していた。日本では「軍産複合体」と呼ばれている病理の実態は「政財複合体」であり、戦争を引き起こす実行犯=政治勢力とそれに活動資金を与える黒幕=財界の共犯関係のことだ。
「ブッシュ政権内では軍備拡大に消極的だった民主党のクリントン政権の8年間で収益が落ちていた軍事産業の巻き返しが強まっているようです」今回、集められた諜報要員たちは日本のマスコミ関係者を名乗っており、酒席の政治談議の形を借りて報告を始めた。
「ブッシュ大統領は敬虔なクリスチャンなのでそれを利用して反イスラムの思想を植え付ける策謀が行われているようです」実際のブッシュ大統領は極めて真面目なクリスチャンで、ホワイトハウスでも朝夕の礼拝を欠かさず、職員たちも大統領自身の不倫疑惑があったクリントン時代とは真逆の修道院のような堅苦しい生活になったと口を揃えている。
「ブッシュ政権内で軍備の拡張と戦争の準備を進めているのは副大統領のディック・チェイニーと国防長官のドナルド・ラムズフェルド」「これにネオコンと呼ばれる連中が議会とマスコミの根回しを進めています」ブッシュ政権が成立して半年以上が経過し、先入観に基づく報道ばかりだった日本のマスコミでも、この程度の内容は紹介している。
「国務省では元軍人のコリン・パウエル長官とリチャード・アーミテージ副長官が穏健派として融和的な外交による戦争の回避を模索しているようです」話題が国務省に移ったところで岡倉が口を開いた。
「問題なのは外交がパウエルとアーミテージのラインに一本化されていないことです」「ほう、2元外交なのか」主にペンタゴンを中心に情報を収集してきた出席者たちは野中将補が興味を示したことに少し顔を強張らせた。
「コンドリーザ・ライス」「あの鋭い眼をした黒人女だな」岡倉が名前を出すのと同時にベテランの参加者が口を挟んだ。
「はい、国家安全保障問題担当補佐官です」「そもそも彼女は何者なのだ」野中将補の質問に全員が岡倉の方を向いた。
「彼女は学者と国務省職員の立場を往復している才女で、現在のアメリカでは外交の第1人者なのだそうです」「ふーん、大使館の外務省職員はピアニスト出身のエレガントな女性だとべた褒めだがな」野中将補の説明に岡倉は首を振った。
「国務長官の側近はオフェンシブ・リアリスト(=攻撃的現実主義者)と呼んでいて、軍事力の行使を躊躇しないかなり強硬な外交を基本方針にしているようです」「外務省の連中こそ先入観を捨ててもらわないと困るな」野中将補の嘆きに今度は全員がうなずいた。
「女性は平和主義者、学者は反戦派、軍人は好戦的なんて言うのは日本だけの定義だ」「それも間違っています。土井たか子や福島瑞穂が平和主義者の訳ないじゃないか」酒が進んできたのか、議論が本題から外れてきたので岡倉が話を続けた。
「ホワイトハウスではパウエル長官とライス補佐官に討論させて勝負をつけさせているようです。ところがブッシュ大統領は舌鋒鋭いライス補佐官の方が温和な口調のパウエル長官よりも優勢だと思うらしく、今の外交政策はライス補佐官の思うままになっているそうです」岡倉の説明に出席者の1人が独り言のような質問を呟いた。
「黒人同士なんだから協力し合うことはできないのかな」「それは無理です」岡倉が即答すると全員が再び顔を向けた。
「ライスの父親も実力で大学の副学長になったエリートなので、彼女は黒人優遇政策に反対なんです。だからパウエル長官を『黒人優遇政策で大将に昇任した』と蔑視していて、始めから認めていないのです」岡倉の説明に今度は全員が溜め息をついた。
- 2016/08/23(火) 08:56:14|
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大正12(1923)年の明日8月23日は日本海海戦の参謀長で、その後は海軍大臣としてワシントン海軍軍縮会議に出席し、その締結に向けて尽力した加藤友三郎大将の命日です。なお、死亡時は内閣総理大臣でした。
先年、NHKで放送された「坂の上の雲」では加藤大将(当時は少将)の役を草刈正雄さんが演じていましたが、舘ひろしさんが演じた前任の島村速雄元帥(当時は大佐から少将)に比べて貫禄がなく、バルチック艦隊の接近経路の判断を誤る失態を犯していました。
ただし、あの判断は連合艦隊司令部内のことなので誰が何を考え、何を主張したのかを記録した正式な文書はなく、三船敏郎さんが東郷平八郎元帥を演じた映画「日本海大海戦」では主人公の司令長官自身が迷い悩み封密命令を準備させたことになっていましたから史実は不明なのです(あの映画は下瀬火薬の効果など事実誤認も多い)。
加藤大将を軍政家として高く評価していたのは最後の海軍大将となった井上成美大将でした。井上大将は「反戦の提督」として有名ですから、加藤大将がワシントン条約を締結し、帰国後も加藤寛治常備艦隊司令長官に代表される反対派を抑えて批准を実現したことが評価の理由でしょう。
しかし、加藤大将自身はワシントン会議に赴くまでは戦艦8隻、巡洋艦8隻を基幹として艦齢8年で更新すると言う88艦隊構想を推進していましたから必ずしも平和主義者ではなく、むしろ軍縮に進む国際情勢の中で自分の信念を捨てても判断を誤らなかった点を評価すべきなのです。
確かに88艦隊構想が実施されていれば膨大な軍事費が必要になり、日本の乏しい税収で戦時予算並みの巨額の支出を負い続けることになりますから丁度良い引き際だったのかも知れません。
実際、この頃の欧米では日露戦争に勝利し、第1次世界大戦でも青島のドイツ軍陣地を陥落させた日本をアジアにおける植民地を脅かす危険な新興帝国と見ており、「日本の反対で条約は不成立になる」と言う見方が大勢だった中、むしろ積極的に締結に努力する加藤大将の態度は悪役のイメージを払拭するのに十分でした。
加藤大将はワシントン条約においてアメリカとイギリスが5、日本は3と言う主力艦の保有比率を受け入れることを日本に打電する時、「日露戦争において最も多くの戦時公債を買ってくれたのはアメリカだ。それは今も変わらない。ここでアメリカを敵とすれば日本は誰を頼りに戦争を行うのだ」と述べています。この情勢判断を弱腰・悲観的と見れば草刈正雄さんのイメージになるのでしょう。
一方で日本国内では「ロシアを打ち破った後はアメリカやイギリスが仮想敵である」と豪語する艦隊派が力を持ち、彼らにとって加藤大将は卑しい金の計算で軍備を引き渡した許し難き敗北主義者であり、その欝憤晴らしにワシントンに同行した堀悌吉中将が予備役に編入されてしまいました。堀中将は海軍兵学校の同期である山本五十六大将が尊敬して止まなかった逸材であり、若し現役に留まっていれば米内光政海軍大臣と山本海軍次官が身命を賭して阻止に働いた日独伊三国同盟の締結や対米戦の回避に大きく貢献したはずです。
昭和19年に公開された東宝映画「怒りの海」はこの時代の欝憤を再燃させた作品ですからかなり根深いものがあったようです(この映画のテーマは「88艦隊構想が実現していればアメリカなどに負けていない」でした)。
大正デモクラシーの時代に加藤大将は首相に就任しましたが、これを現在の歴史家たちは自由民権の流れに逆行する軍人内閣と批判しています。しかし、加藤内閣では海軍大臣を兼務し、ワシントン条約の実現に全力を傾注するのと同時に山梨半造陸軍大臣(原敬内閣、高橋是清内閣でも一緒だった)にも陸軍の軍縮を断行させていますから、政争に明け暮れる以外に能がなかった政党内閣以上に平和の実現に向けて大きく貢献しています。
最後につけ加えれば加藤大将は明治6年に広島城下の大手門前で旧下級藩士の3男として生まれています。したがって芋蔓式で昇進した薩摩出身の海軍軍人ではありません。
- 2016/08/22(月) 09:56:29|
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佳織の卒業式に出席するのに私は妙なことで悩んでしまった。自衛官が公式行事に参加する時は制服で行くのが本来なのだが、同期の中でも昇任が遅れている1尉では上昇気流に乗った佳織の評価にも傷をつけかねない。と言って背広では私が同業者であることを知っている人たちに違和感を抱かせることになる。そこで出した答えは副業の制服だった。
今回は張り込んで基地から近い目黒ガーデンプレイスのホテルに部屋を取り、佳織も一緒に泊まった。ただし、淳之介は沖縄から帰ってこないため欠席だ。
「貴方、本当に法衣で来るの?」「うん、これが一番無難だろう」「そうかなァ」食事を終えて高層ビルの最上部の部屋に戻ると私の衣装を見て佳織は呆れたように首を傾げた。
「私としてはキャップ(1尉)の制服で出席して、馬鹿なメジャー(3佐)どもを圧倒して欲しかったな」確かにそれも一興だったが、私も教育隊生活で過剰な気配りが身についてしまっている。むしろ佳織に落ちこぼれの夫がいることをあまり公にしたくないのだ。
「同期にはタイからの交歓士官もいるんだろう。『サワデー』って挨拶しないとな」そんな馬鹿げた話をしていると、都会の夜景に興奮していた志織がソファーで眠ってしまっていた。
「志織ったらシャワーも浴びないで寝ちゃったわ」私が抱き上げてベッドに運んだ志織の服を着替えさせながら佳織は愛おしそうに寝顔を見ている。その妻の顔は私の胸に愛おしさを湧き起こした。私は黙って後ろから抱き締めるとそのままベッドに押し倒した。
「先にシャワーを・・・」そう言いかけた唇を塞ぎ、そのまま戦闘を開始する。卒業祝いは激しい夜の営みだった。
「ダディ、格好良い」翌朝、佳織が先に部隊へ戻った後、着替えている私を見て志織が歓声を上げた。考えてみれば志織に法衣姿を見せるのは初めてかも知れない。
確かに私自身も鏡で着こなしを整えながら「制服よりも似合うかな」と思っていたが、娘に手放しで褒められるとその気になってくる。昨夜、煩悩はかなり消費したので、その境地が法衣に合うのだ(そんな訳がない!)。東京は7月中に盆を勤めるのでこの格好で歩いていても棚経回りの坊主に間違われることはないはずだ。
「あれ、モリヤ班長じゃあないですか」目黒基地のゲートで幹部自衛官の身分証明書を見せると法衣姿に違和感を抱いた警備員は念入りに確認しながら驚いたような声を上げた。
「おッ、砂浜じゃあないか」それは防府の教え子だった。術科学校を終えて間もなく自衛隊を退職したことは聞いていたが嘱託警備員として就職していたのは知らなかった。
「それにしても坊さんが自衛官の身分証明書を出すわ、航空自衛官が陸上自衛隊の幹部の身分証明書を持っているわで、自分には何が何だか理解できませんよ」「現在は1等陸尉が本職だから間違いはないぞ」「はい、結構です」こうして基地に入ることはできたが、法衣を着て下駄を鳴らしながら娘の手を引いて歩いている坊主の出現に、すれ違う自衛官たちは驚いて立ち止まり、受付では出席者名簿の「モリヤ佳織3佐、夫、モリヤニンジン1尉、第116教育大隊所属」の肩書と外見で困惑して固まっていた。まさに戦果は上々である。
「キャプテン・モリヤ、今日の服装はとても似合いますね」「やはりレビ(僧侶)には法服が一番です」家族控室で再会を果たした交歓士官の妻たちは口々に誉めてくれた。
実は淳之介が沖縄へ行って以来、我が家の会話は英語を基本にしている。今日はその成果を確かめたかったのだが、志織は私以上の積極性を発揮して話に加わり、果たして練習の必要があったのか判らなくなった。
何にしてもこれだけ受けたのだから法衣姿で出席したのは正解だったのだろう。
- 2016/08/22(月) 09:50:59|
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1978年の明日8月22日は第2次世界大戦後に混迷を極めていたアフリカで卓越した指導力を発揮してケニアの繁栄を成し遂げた大統領・ジョモ・ケニヤッタの命日です。
野僧はSOC(=幹部普通課程)で幹部学校に入校した時、「戦略」の講義でマハンやモルトケ、クラウゼヴィッツの著書、さらに中国の古典を引用しながら質問責めにすると、教官は「SOCの学生から質問が出たのは初めてだ。CS(=指揮幕僚課程)でもここまで高度な質問が出ることは滅多にないぞ」と呆れていました。このため卒業時のパーティーでは戦略の教官に捕まり、「君は部内(=叩き上げ)だろう。いつから戦略の勉強を始めたのか」と逆の質問責めを受けることになったのです。その時、野僧から質問責めを受けた被害者=教官たちが取り囲んでいたのですが、野僧が「高校時代です」と答えると、「高校時代から戦略を考えていたって・・・」と半信半疑になりましたから、「倉前盛通先生の悪の論理を読みました」と補足すると「ゲオポラティクス=地政学かァ」と納得したのです。
その「悪の論理」の中で倉前先生はアフリカを巡る東側の浸透戦略とケニアの地政学的価値、そしてケニヤッタ大統領の統治の意義について1節を費やして熱弁を奮っていました。
極東の島国の住人である日本人は赤道以北の太平洋の西半分と東シナ海沿岸の中国大陸(オホーツク海は無視)までしか視界は届きませんが、第2次世界大戦後のアフリカはヨーロッパ列強から独立しても国土は長年にわたる収奪によって荒廃し、国民は教育はおろか文明人としての躾さえも受けておらず、当然のように貧窮しており、その混迷に目をつけたソ連による浸食が急速に進んでいたのです。ソ連の経済力が弱まるとその役は中国が引き継ぎますが、中国が交際社会に加わるとその代理として北朝鮮が武器を売りさばき、軍事顧問団を送り込んで内戦を指導していました。そんな中、ケニアはケニヤッタ大統領の指揮の下、西側に組みし、旧宗主国であるイギリスを中心とする欧米各国の投資を受け、自由主義的な経済建設を進め、国土を整備すると同時に国民に教育を普及させたため、地中海沿いと南アフリカを除けば唯一と言って良い近代的国家になり得たのです。
実際、平成6(1994)年に実施されたルワンダ難民救済派遣でアフリカに行った小牧・第1輸送航空隊の隊員は「ケニアの首都・ナイロビは清潔で治安もよく、野生動物の番組で紹介されるケニアのイメージしか持っていなかったので驚いた」と言っていました。そんなアフリカの野生動物を紹介する番組もケニアだから撮影できるのであって、他の地域では危険が大き過ぎるのでしょう。
ケニヤッタ大統領の生年月日は研究者によって諸説がありハッキリしませんが、1963年12月12日の独立の10年前にはマウマウ団の一員として反乱を起こした罪で逮捕され、1959年まで刑務所で過ごしたことから史実となっています。
ちなみにケニヤッタと言うのは独立運動に入った時に独立後の国名に予定していたケニアから取ったもので本名はカマウ・ウェ・ンゲンギと言いますが、国名を自分の名前から付けたのではありません。日本の文化人の一部にはケニヤッタ大統領が西側寄りであることが気に入らず批判的な論評をする者もおり、「国名を私物化した」と虚偽の説明をしていました。
確かにケニヤッタ大統領は独立後に初代首相、1年後に大統領制へ移行すると初代大統領になって、亡くなるまでの14年間もその地位にありましたからある意味の独裁者であり、また混迷する国家を1つの方向に進めるためには強力な指導力を発揮するしかなかったのですが、結果としては数少ない独立の成功例をアフリカに残したのです。
ケニヤッタ大統領が亡くなると日本を除く西側諸国は最大限の哀悼の意を表し、イギリスはサー・ウィンストン・チャーチル首相の棺を運ぶのに使った砲車を提供し、国葬で使用されたのです。日本は過去の政治屋を形式的に参列させただけで、倉前先生もこんな外交センスのなさを嘆いていました。
「白人がアフリカにやって来た時、我々は土地を持ち、彼らは聖書を持っていた。彼らは我々に目を閉じ祈ることを教えた。我々が目を開いた時、彼らは土地を持ち、我々は聖書しか持っていなかった」ケニヤッタ大統領の名言より
- 2016/08/21(日) 10:38:06|
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翌朝、淳之介が目を覚ますと母がこちらを見ていた。
「おはようございます」実母とは言え淳之介にとっては10年ぶりに会う女性だ。少し焦りながら挨拶すると母は妙に懐かしそうな顔でうなずいた。
「お父さんも初めてこの家に泊まった時、そんな顔をしてたさァ」それは私が美恵子とつき合い始めた頃、半ば強引に家へ連行され、モンチュウと酒を飲まされて酔いつぶれたのだった。
「私が隣に寝ているのを見て『俺、何もしてないよな』って真剣に心配していたのさァ」そんな思い出話をしながら何故か母は鼻をすすった。
「お母さん、まだお父さんが好きなんですか?」淳之介は率直に訊いてみた。昨夜の態度を見て以降、母が待っているのが自分ではなく父ではないのかと言う疑問が頭から離れないのだ。
「だって私にとっての淳之介はお父さんとセットなんだもん。もう一度、家族でやり直せればって思うのさァ」しばらく考えてから美恵子は答えた。しかし、その思考時間が淳之介には工作した回答に思われた。
「起きたなら食事にするさァ」2人の話声が聞こえたのか、襖の外から祖母が声をかけてきた。
「はーい、行きます」と答えながら母は立ち上がり、2人の掛け布団を整え、パジャマのまま出て行くように促した。居間の前を通ると松真叔父と子供2人がテレビを見ている。祖父は自室で寝ているようだ。このため家族は声の音量を落としているのがわかった。これが「ちゅらさん」では描かれていないタクシー・ドライバーの家庭生活なのだ。
「お前は淳之介に沖縄へ来いって言ったらしいが、本当にそう願っているのか?」午後になって祖父が目覚めると淳之介に祖父母、美恵子、それに松真を交えて話し合いが始まった。冒頭は祖父の美恵子への質問からだ。
「淳之介が来たいって言うなら来れば良いさァ」「今の沖縄で本当に淳之介が幸せになれると思っているのか」軽い美恵子の答えに祖父の質問が重くなる。
「笑って暮らせればそれで幸せさ。淳之介は少し暗いさァ。お母さんと楽しく暮らそうね」祖父の厳しい視線から逃れるため、美恵子は淳之介に笑いかけた。すると淳之介が口を開いた。
「僕はあの家では窒息しそうなんです」その思い詰めた表情に祖父母、松真だけでなく美恵子まで真顔になった。
「窒息しそうってモリヤさんはそんなに厳しいねェ?」「やっぱり新しいお母さんが辛く当たるのか?」祖母と祖父が交代で質問する。しかし、淳之介は首を振った。
「父は僕のやることを見守ってくれています。今の母は僕を父の子供として愛してくれています」淳之介の説明に祖父母は「ホッ」と溜め息をつき、松真は納得したようにうなずいた。
「ただ、あの両親は完璧過ぎて僕には重いんです」「重い?」今度は全員が淳之介の顔を見る。
「父と母はこれ以上ないくらい強く愛し合っていて誰も割って入ることはできません」淳之介はこの事実を母に言いたかったのだが、すると美恵子は強張った顔で息子を見た。
「父は僕が沖縄へ行きたいって言っても、本当は引き留めたいはずなのに『お前が決めろと』って考えさせてくれました。僕にはそんな父の大きさが重いんです」この言葉を祖父母、松真、美恵子はそれぞれの受け取り方で理解し、納得した。
「母は父以上に優秀な人ですからもっと大きく強く家族を愛しています。だから僕が沖縄へ行くことにハッキリ反対しました。妹は母の申し子ですから当たり前に暮らしていますが、僕には耐えられません」最後の嘆きには美恵子の血が淳之介を苦しめていることも含まれているのだが、そのことに気づいたのは祖父母だけだ。ただ玉城家では淳之介が沖縄へ来ることが既定路線として承認されることになった。
- 2016/08/21(日) 10:36:37|
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ヨーロッパでは第2次世界大戦が始まっていた1940年の明日8月21日にロシア革命を成功に導き、ソビエト共産党の草創期に抜群の活躍を見せたレフ・ダヴィードヴィテ・トロツキーが亡命先のメキシコでかつての政敵・スターリンが送った刺客によって暗殺されました。
野僧の高校の社会科の担当で、後に母校・広島大学教育学部教授になった某先生は野僧が資本論を読破するのを励ましながら「ロシア革命の出演者の中で誰が1番好きか?」と言う質問に「トロツキーだ」と答えました。ついでにトロツキーと言う革命家についての個人講義を受けたのですが、その熱弁を聞きながらも「本当に危ねェ奴だなァ(=その先生も)」と言う印象を持ちました。
トロツキーはソ連が提唱した世界革命を志向するマルクス・レーニン主義とその世界戦略である第3インターナショナルに飽きたらず、ソ連が帝政ロシアから引き継いだヨーロッパでも有数の軍事力を行使する世界革命の早期実現を主張しました。
実際、トロツキーはヒトラーがドイツを国家社会主義化(=反共産主義)するのを阻止し、同時に共産主義化するためポーランドを含むドイツへの軍事進攻を主張しています。確かにヒトラーが軍備の拡充を進めるまでのドイツはベルサイユ条約によって弱小の戦力しか有していませんでしたから軍事的には実現性がありましたが、それでなくても史上初の共産主義国家の成立を脅威と見ていた列強に侵攻の口実を与えることも明らかなので却下され、失脚の原因になりました。
トロツキーは1879年に帝政ロシアで比較的裕福なユダヤ人農場経営者兼実業家の家庭に生まれましたが、母親は港町・オデッサの商家出身の当時としては教養人だったため、幼い頃から幅広い分野を学習する機会を与えられて育ったようです。トロツキーと言うと前述のように血生臭い革命家としての面ばかりが注目されますが、意外にも文芸評論家としての顔も持ち、トルストイやドストエフスキー、プーシキンなどロシアの文豪の作品に関する評論を残しています。
成長すると母の出身地であるオデッサのドイツ人学校に入学しましたが、この地は貿易港だけにヨーロッパ各国の人々が行き交っており、当時のドイツやフランス、スペインで大流行していたマルクス主義に傾倒していくことになりました。
その後は革命家によくある弾圧と反抗、闘争の人生になっていくのですが、歴史で語らえることが少ない事実として最初に大衆が蜂起した2月革命の時、レーニンはドイツに亡命していてロシアにはおらず、スターリンも無名な存在で、実質的に組織を確立して準備を整え、大衆を扇動して革命の気運を高揚し、闘争を指揮したのはトロツキーだったことです。
トロツキーはその高い文学的素養による演説の名手であり、地方で革命を扇動して回っている時、反対派の住人に包囲され、銃を突き付けられても平然と演説を始め、かえって心服させて同志にしてしまったと言う逸話も残っています。さらに革命に賛同する赤軍の兵士たちが「体制側の兵士を殺せ」と叫んでいるのを聞き、「殺してはいかん。彼らも同志として共に闘うのだ」と説いたと言いますから、ある意味ではレーニンやスターリンよりも純粋な革命家だったのでしょう。
こうした出る杭=異端者は革命後の基盤の確立・安定を図っている政権には目障りであることは世界共通で、トロツキーもレーニンに疎まれ、代わって台頭してきたスターリンによって失脚させられるとトルコからフランス、ノルウェー、そしてメキシコへ亡命することになったのです。
ところが海外でもスターリンの新体制への批判を繰り広げたため、ソ連国内で反対派の大量粛清を進めていたスターリンが許すはずがなく、刺客が送り込まれることになりました。
手始めはフランスに留学していた息子が惨殺され、これを受けて自宅を要塞化して警戒していたトロツキーは女性秘書の恋人を称して侵入した刺客が、ピッケルで後頭部を打ち抜き殺害したのです。
それにしても野僧は中学・高校時代の約6年間、モスクワ放送を聴いていましたが、一度もトロツキーの名前を聞きませんでしたから、当時のソ連共産党にとってもタブーになっていたのかも知れません。
余談ながらトロツキーの日本語の当て字は「泥附(どろつき)」だそうです(前述の先生の話)。
その先生は他の日教組の教員のように虚偽の「反戦平和」や「人命尊重」を主張しないところが好きでした。
- 2016/08/20(土) 10:52:58|
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玉城家で淳之介は母を待っていた。夕食後に祖父母と叔父を相手に自分の気持ちを話したが、やはり沖縄に転校してくることに反対された。ここは自分を待ってくれている母の意思を確かめておきたかったのだ。
「淳之介、もう遅いさ。先に寝なさい」日付が変わった頃、美恵子と並べて布団を敷いた部屋で漫画を読んでいる淳之介に祖母が声をかけた。
「ううん、まだ待ってる」「あの子が帰ってくるのは3時過ぎさァ。話は明日にしなさい」祖母の言葉に淳之介は「お母さんの仕事は大変なんだ」と心配し、「やはり出迎えたい」と思った。
3時を過ぎた頃に玄関の前に車が停まった。日曜日の夜なので祖父は仕事に出ており、何かの用事で帰ってきたのかと思い淳之介は玄関まで迎えに出てみた。すると外では客と運転手が料金をやり取りしている会話が聞こえてくる。やがてドアが閉まり走り出す音とバックして行くヘッド・ライトが見え、同時に玄関の引き戸を開けて女性が入ってきた。
「おかえりなさい」淳之介が声をかけると女性は驚いたように後退る。
「誰ね?松真じゃあないさ」母にとってこの家にいる若い男性は松真叔父だけなのだが、自分が判らないことに淳之介は落胆した。
「淳之介です。お母さん」「・・・」淳之介が名乗ると女性は1つ息を呑んでから歩み寄った。
「淳之介ねェ。大きくなったさァ」淳之介は玄関の小さな灯りで映し出された母の顔を見詰めた。別れた頃の母はウェーブさせた長い茶色の髪で、子供心にも派手な容姿が恥ずかしいと思っていたが、今は官舎で会う同世代の母親たちと同じような髪型で服装も落ち着いている。テレビドラマや漫画などで知っている「飲み屋のママさん」のイメージとは全く違っていた。
「お父さんは?」「へッ?」しばらく淳之介の顔を見ていた母は突然、薄暗い玄関の周囲を見回しながら訊ねた。
「お父さんは家です」「一緒に来てないねェ」「はい、母が帰ってきませんから妹の面倒をみています」自分の説明に母は明らかに落胆している。その顔を見て淳之介は困惑した。結局、淳之介は密かに期待していた感動の対面を諦めなければならなかった。その時、奥から祖母が出てきた。
「何を玄関で立ち話をしているねェ。声で松真の子供が起きてしまうさァ」祖母は夜の営業運転をしている夫からの連絡に備えて熟睡しない習慣が身についているようだ。
「少林寺は来てないねェ」母は祖母にすがるような顔で確認する。その横顔を見ながら淳之介は待っていたのは自分ではなく父だったことを噛み締めた。
「モリヤさんが来るはずないよ。奥さんが学校に入ってるから留守を守っているのさァ」祖母は先ほど淳之介と松真叔父が話した内容を説明する。それは淳之介がした答えの補足にもなっている。すると母=美恵子は玄関に座り込んでしまった。淳之介は背後に立ってそのシルエットを見下ろしていた。
「お母さん、僕だけじゃあ駄目ですか?」「そうさァ、久しぶり帰ってきた息子に母親としてかける言葉があるはずさ」孫の哀しげな問いかけに祖母の声が少し大きくなったところで、奥の部屋から松真叔父の咳ばらいが聞こえてきた。
「美恵子、シャワーを浴びて寝るんでしょう。静かにね。淳之介はもう寝なさい」祖母はようやく立ち上がった美恵子に声をかけ、淳之介の肘を掴んで寝室へ連れて行った。
「馬鹿なお母さんでごめんね」祖母が独り言のように呟いた言葉に淳之介は「ビクン」と身体を硬直させてから小さくうなずいた。

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- 2016/08/20(土) 10:49:54|
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天正元(1573)年の明日8月20日(太陰暦)に織田信長が越前・一乗谷を攻め朝倉義景が自刃しました。
野僧は以前、三重県名張市の寺の春秋彼岸と盆を手伝っていたのですが、歴史好きにはたまらないお勤めでした。名張市は近鉄が開発した大阪のベッド・タウンのため事業から引退して終の棲家として屋敷を構えている方も多く、中にはかなり著名な人物(例えば源頼朝の母親の実家、藤堂家の当主、シーボルトの高弟・二宮敬作など)の末裔の家があったので、勤経の後からタップリと歴史秘話を聞かせてもらいました=午前・午後の最後に伺うのがミソです。
そんな名張市内の老舗プロパンガス屋さんが「越前・朝倉家の末裔」と言うので、「織田信長に一族郎党皆殺しにされたはずだが」と半信半疑でいたところ、いきなり家系図を見せてくれたのです。
その家系図は巻物で、広げると8畳敷きの佛間から隣りの10畳敷きの客間、さらにその隣室まで伸び、藤原鎌足から始まる頼朝の母親の実家(=熱田神宮大宮司)以上の長さがあり、始祖は皇族で「命(みこと)」と言う神式の贈り名がついていました。ただ、一族に同じ名前の人物が極めて多く子孫でも説明するのに苦労していたことの方が印象に残っています。
その朝倉義景さまは織田信長公よりも1歳年長です。それも朝倉家の当主であった父・孝景さまが40歳になってから授かった嫡男だったため溺愛され、戦国武将としては覇気のない文弱な性質になってしまったと言われています(実子ができないため養子として迎えられたとする説もある)。
その父が15歳の時に亡くなったため大叔父で名将の誉れの高い教景さんが後ろ盾となってもらうことになりました。この大叔父のおかげで越前の平穏は保たれ、他の国々が他国との戦争や内乱で荒廃し、領民が疲弊していく中、束の間の繁栄を享受できたのです。
ところが大叔父は7年後に亡くなり、同時期に武田晴信(14歳年長)、長尾景虎(同3歳)、北条氏康(同19歳)、今川義元(同19歳)などの群雄が動きを活発化させ、徐々に緊張感が増してきました。
そんな中、義景さまは将軍・足利義輝公の招聘を受けて上洛し、歴代当主が受けることができなかった高い官位を与えられていますが、それが乱世で何の役にも立たないことには気づかなかったようです。このような越前の領主の立場すら危ぶまれるような義景さまが、田楽狭間(=桶狭間)で今川義元を討って以降、尾張を平定し、美濃を手中に収めた織田信長公に対抗できるはずはなく、数々の好機を逃し続けることになりました。
その最初は足利義輝公が松永弾正の裏切りによって殺された後、再起を期して奈良の寺を逃れた足利義秋(後の義昭)公が頼ってきたにも関わらずこれを放置し、結局、岐阜の織田信長公の下へ移らせてしまいました。当時の朝倉家は加賀一向一揆勢と抗争を繰り返していたのは確かですが、衰えたとは言え将軍の上洛に出向いた留守を襲われる可能性は低く、むしろ嫡男を亡くした悲しみでやる気が起きなかった見るべきでしょう。
結局、足利義昭(ここで改名した)は信長公によって上洛を果たして将軍になったのですが、その祝賀と同時に味方であることを示すため上洛することを求められながら、これを拒否したため「将軍家に弓弾く敵」と言うレッテルを貼られ、執拗な攻撃を受けることになりました。
そこからの失策は嫌になるので紹介しませんが、ガス屋さんも家系図を見せながら義景さんの話題だけは避けたいようでした(それまでは多くの名君・勇将を輩出している優れた血統だった)。
姉川の合戦で敗れた後も決死の覚悟で戦いを挑む近江・浅井家に比べてやる気がなく、家臣の信頼を失って離反を招き、本拠地である一乗谷も焼き払われて、寺に身を潜ませていたのですが、最後は同族の攻撃を受けて自刃に追い込まれました。41歳でした。
この時、生母や妻、子供たちも丹羽長秀によって全て殺されたはずなのですが、血筋は残っていたようです。坂本龍馬も明智光秀の末裔と言う通説がありますから(幼児だった3男を家臣が長宗我部を頼って連れて逃げた)、一族を根絶やしにするのは意外に難しいのかも知れません。
この話題は9月1日に続きます。
- 2016/08/19(金) 09:13:39|
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結局、松真一家は子供たちの夏休みが始まって早々の7月下旬に帰省するらしい。メンコンは訓練飛行が休止になっていてもアラート機の不具合に対処する必要があるため交代で出勤させて機能を維持しており、それで観光シーズンを外したこの時期の休暇にしたと言う。尤も沖縄の行事は太陰暦なので今年のお盆=8月15日は10月1日の演習中だ。
「2尉ニ、淳之介をどうするねェ」松真は官舎に到着して席に座ると、志織が隣室で子供たちとハシャイデいるのを確かめてから私に声を掛けた。
「お義父さんは現在の沖縄は淳之介が帰って来るような土地ではないって言ってきたな」私が先日の手紙の内容を説明すると隣りから淳之介が口を挟んだ。
「でもお母さんは楽しみに待っているって喜んでます」日頃、淳之介は志織の前では美恵子の話題を出さないように細心の注意を払っているのだが今日は少し口が滑るようだ。私が睨むと肩をすくめて視線を反らした。そこに美代子さんが冷蔵庫の麦茶をグラスに入れて運んできてくれた。
「俺もニュースなんかを見ていると情けなくなるよ。やっぱり小学生を集団強姦した事件で反基地運動に同調するシマンチュウが増えたのがまずかったみたいだ」「強姦事件は本来、兵士個人の犯罪で軍の存在を原因とするのは無茶なんだがな」私の見解は明らかに幹部自衛官のものだ。松真の隣りで聞いている美代子さんはやはり納得できない顔をしているが、今日は佳織が帰っていないので女性同士の議論にできないのが残念だった。
「昔は自衛隊反対の人たちも『米軍は自分たちが生まれる前からあるから仕方ない。後から来た自衛隊には反対する』って言ったたけどな」「へーッ、そうねェ」私が沖縄にいた頃は高校生だった松真は意外そうに返事をした。
「マスコミと教育を押さえられてしまっている以上、県民が洗脳されていくのを止めるのは難しいな」私の見解は義父の手紙の内容にも通じるのだが、淳之介は黙って麦茶を飲んでいた。
「淳之介は沖縄へ行きたいって気持ちばかりが先行しているから松真が本質を語って判断を誤らないように指導してやってくれよ」「うん、責任重大さ」松真はこの件の電話で「淳之介に実家を継がせたい」と言っていたが、それは考え直してくれたようだ。淳之介の件はこのくらいにしておかないと志織が妙な勘を働かせそうなので話題を変えた。
「結局、『ちゅらさん』も舞台は東京で、本土では通用しないシマンチュウの欠点を周囲に元気を与える長所のように変質させてしまっているからな」「うん、俺も苦労したけど2尉ニが指導してくれたから随分、助かったよ」しかし、松真が新隊員の時は教育隊の班長だったが、曹侯学生の時は私自身も幹部候補生学校に入校していた。その意味では少し申し訳ない気持ちもある。これを結論として私は台所に立ち、手伝おうとした美代子さんには志織の面倒を頼んだ。
「淳之介くんねェ?」那覇空港には祖父母が迎えに出ていた。日曜日のため美恵子は仕事があり、スナックを終えた深夜に玉城村の実家まで帰って来ると言う。
「はい、淳之介です」挨拶をしながら淳之介は記憶の中の祖父母を探し始めた。今回の再会を前に父から体育学校への入校で半年近く預けられていたと聞いている。ただ、その後に会うようになった父の両親=愛知の祖父母の印象が強烈過ぎて記憶が上手く再生できないでいた。
「久しぶりの沖縄観光さァ。思いっきり楽しんで帰れば良いよ」「どこへでも連れて行ってやるぞ」この言葉に淳之介は大きく首を振り、それを見て祖父母は強張らせた互いの顔を見合った。
「淳之介、その話は家に行ってからにするさァ」観光客の雑踏の中の立ち話には相応しくない話題を松真が制した。それには黙って従ったが、やはり沖縄の地は淳之介の体に流れる沖縄の血を蘇らせているようだ。
- 2016/08/19(金) 09:11:57|
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元和8(1622)年の本日8月18日(太陰暦)に奥羽の雄・最上藩57万石の改易が決定しました。
最上家は足利幕府草創期の羽州探題・斯波氏を祖先とする名門ですが、同族相討つ内部抗争が絶えず、歴代当主はそれぞれ武勇・統治・外交・経済に優れていたにも関わらず出羽半国で終わってしまったのはそれが理由です。実際、伊達家に嫁した政宗公の生母もお家騒動を起こしていますから、これは血統なのかも知れません。
若し、最上家の家中が一丸となって奥羽の制覇に邁進していれば現在の岩手県の南部や米沢市の伊達(仙台に移ったのは秀吉の時代)は早々に服従させてしまい、その圧倒的勢力で越後や関東へ進出すれば、上杉謙信や北条早雲の出番はなかったでしょう。しかし、この改易も「最上騒動」と呼ばれているように内部抗争の結果でしたから、山形県人としては極めて残念ですが仕方ないようです。
現在の山形県から米沢を除く地域を領有していた山形藩57万石は最上義光(よしあき)公を初代藩主とします。義光公は歴代の当主の中でもずば抜けた才覚の持ち主だったので、豊臣秀吉の北条征討に奥羽の各大名や豪族が右顧左眄する中、時代の変遷を的確に見極めただけでなく、その先の先まで読んで北条氏滅亡後に関東に転封された徳川家康公に二男を預け、養育を依頼しました。
この先行投資は大正解で(その一方で大失敗にもなった)、秀吉亡き後は家康公の信頼を獲得し、山形の地から中央の騒乱を眺めていたのです。ところが会津に転封された上杉景勝が家康公に反旗を翻して関ヶ原の前哨戦を起こすと、これを劣勢ながら攻撃し、地の利を得ている分、優位に戦っている間に関ヶ原で決着がつき、前述の大幅加増を受けました。
これで最上家は安泰かと思われましたが、そうは問屋が卸さなかったのはやはり血統でした。あれほど優れた状況判断を下していた義光公が嫡男・義康さまとの間で確執を起こし、やがて謀殺してしまったのです。その背景には自分を越える人望を集める息子への嫉妬や徳川家との縁が強い二男・家親公に家督を譲った方が安泰との計算があったと言われていますが、義康さまが真剣に関係修復を模索していたことを知り、義光公は失意と後悔のうちに亡くなったのです。
これでも家中が1つにまとまれば藩は存続していけたのですが、義光公と言う巨大な押さえが失われた最上家は分裂・崩壊を始め、大坂冬の陣の前には家中の豊臣派が擁立を企てた次弟・義親さんを殺して禍根を断ったものの家親公自身が37歳の若さで病没してしまいました。
後は家親公の嫡男・義俊公が13歳で継いだのですが、武将の気風を持たない若い藩主では義光公以来の家臣を押さえることはできず、義光公の4男を担ぎ出そうとする一派が現れ、藩主を守ろうとする一派と激しく対立を始めたのです。
この対立も太平の世では武力を以って解決することができないため、愚かなことに幕閣への内部告発の応酬へ走り、お家騒動は幕府が仲裁することになりました。
その結果は義俊公から最上藩57万石を取り上げた上で新たに6万石を与え、成長後に57万国を返すと言う温情裁定でしたが、さらに愚かなことに反義俊公の一派が不服を申し立てたため改易が決定したのです。
それにしても加藤清正公の肥後54万石、福島正則公の安芸・備後49万8千石は改易されてそれぞれ細川氏、浅野氏が入りましたが、藩領は維持されていました。一方、山形藩は切り刻んだ小藩ばかりになってしまいました。山形藩57万石として存在していれば奥羽越列藩同盟はより強力になり、神武東征の再現だった戊辰戦争で薩長土肥の反乱軍を返り討ちにして、虚偽の錦の御旗を踏み躙ってやれたことでしょう。
- 2016/08/18(木) 09:06:07|
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在ワシントン防衛駐在官である野中将補は政権交代以降、密かな嫌がらせを受けていた。その理由は単純明快だ。新たな国務長官・コリン・パウエルは元軍人であり、新任のスタッフも元軍人が多い。このため日本大使館内でも人脈を有するのは防衛駐在官となり、それが外務官僚のプライドを著しく傷つけるのだ。ただし、野中将補は他の防衛駐在官(1佐=1等書記官相当)よりも上位の参事官相当であり外交情報の蚊帳の外に置く程度だが、国益よりも省益を優先する日本的官僚の悪しき面を目の当たりにして苦虫を噛み締めている。
そんな野中将補の命を受け、日本国内では失踪者扱いを受けている員数外の自衛官たちが活動を開始した。外務官僚が究極に愚かな大臣を戴く以上、正常に機能するはずがないだろう。
岡倉は国務省に行ってみることにした。他の同業者たちはそれぞれの人脈でペンタゴン=国防総省から情報を収集しており、後追いの岡倉が太刀打ちできるはずがなかった。
「それにしてもDepartment of Stateだったら専門分野省だよな」ワシントンの北西にある国務省の建物前の立て看板を眺めながら岡倉はつぶやいた。アメリカ国務省は憲法が成立して間もない1789年に外務省として創設されたのだが、当時は役人が不足していており政府が抱える雑務を分業していたため(当初は造幣も担当だった)、Foreign(対外国)が削除されて単なる「Department(専門分野) of Affairs(総務係)」になったらしい。現在も国家的行事の企画・運営を担当することがあり、日本の外務省よりも所掌業務は幅広いようだ。
「湾岸戦争の英雄がペンタゴンではなく国務省のトップになるところがアメリカ的だな」歴史と格式を感じさせる建物の階段を上りながら岡倉はアメリカの人事制度に改めて感心した。
シビリアン・コントロール(文民統制)の鉄則を守るため元軍人は国防長官の職には就けない。それは第2次世界大戦後、多くの若者が徴兵によって軍隊経験を持つようになり、これをどう扱うかで国会が真剣な議論を繰り返したほど重要な問題なのだ。
「そう言えばアレクサンダー・ヘイグ長官も元NATO軍司令官の大将だったぞ」ヘイグ長官はドナルド・レーガン政権が発足した時の国務長官だ。岡倉は中校生だったがこの頃から軍事に強い興味を持っていたため覚えていた。
「外交は血を流さない戦争」と定義したのは毛沢東だが、アメリカも認識は同じようだ。その時、重いドアの前に立っている警備員が立ち入り許可証の提示を求めたので用意していたプレス(報道)・パスを見せた。
広いロビーで掲示物を眺めていると警備員たちが集まってきて中央に整列した。そして指揮官と思われる1名の指示で中央エレベーターから玄関に向けての区域を遮断するように配置についた。これは間もなく要人が通過することを示している。
岡倉は「パウエル長官か」と期待したが不用意にカメラなどを構えると忽ち逮捕されてしまう。下手すれば射殺されかねない。ここはアメリカなのだ。
その時、エレベーターが開き、中から背はそれほど高くはないが(185センチ前後)異様なほど巨漢の男性が歩いてきた。剃髪しているのか禿げているのか判らないが頭に毛が生えていない。何よりも圧倒的な存在感を発しており、周囲を警戒している警備員たちの身体が硬直しているようだ。
「オーッ、ミスター アーミテージ」「ヒー イズ パウエルズ デピュティー セクレタリィ(彼はパウエル長官の副秘書だ)」岡倉の前でアメリカ人たちが小声でささやき合っている。彼らもこの人物には畏敬の念を抱いているらしい。
「デピュティー セクレタリィ オブ ステーツ」は副長官のことだ。この人物を直接見ることができただけでも国務省を訪れた意味があった。
- 2016/08/18(木) 09:04:34|
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2009年の明日8月18日に「人柄の小渕」こと小渕恵三首相が「最も親日的な大統領」と絶賛した金大中さんが死にました。
日本のマスコミも金さんについては金泳三さんに続く非軍人出身の大統領であることだけで擁護に値する上、こちらの金さんが韓国中央情報部(KCIA)に日本国内で拉致されたことで勝手に共犯者のような負い目を国民に喧伝していたため「痘痕も笑窪」「癌もおでき」式の偏った報道に終始していました。
金さんは李承晩政権の思想弾圧が厳しかった時代に(と韓国では言われている)野党の活動家として政界デビューし、苦労の末に国会議員になったものの朴正煕さんの軍事クーデターで無効にされてしまいました。
その後も反軍事政権の野党の活動家として頭角を現し、国会議員に当選してから実施された大統領選挙に出馬し、現職の朴さんの634万票に対して537万票を獲得したことで注目を集めた反面、「危険な政敵」として当局がつけ狙う結果を招きました。
こうして東京に滞在していた昭和48(1973)年8月8日にホテルから拉致され、韓国の自宅に姿を現すまで行方不明になった「金大中氏事件」が起こったのです。
その後も民主化運動の指導者としての地位を与えられながらも、朴さん以降も続く軍人政権下では「危険人物」として扱われ続け、光州事件や学園浸透スパイ団事件などの首謀者とされ、懲役刑や死刑判決を受け、刑務所で暮らすことになりました。
それでも屈することなく異常なまでの執念を燃やし、国際世論を利用し続けた結果、1998年に大統領になったのです。
確かに金さんは色々な意味で画期的な大統領だったのは間違いありません。例えば朴正煕、全斗煥、盧泰愚、金泳三と慶尚道出身の大統領が4代続いたため(李承晩は北朝鮮領内の黄海道出身)、日本以上に国家予算の分配が偏り、地域対立が深刻化していたので、全羅道出身の金さんの登場で是正されることが期待されたそうです。
またそれまで北朝鮮を敵視する軍人出身者の政権が続いた後を受けた金泳三政権でも米国との関係を重視したため政策の転換を図ることができなかったのを経済援助と南北交流を積極的に進める融和政策に一転させました。
実際、多くの韓国人は北朝鮮を同じ民族の同胞国家と見ており、本音では朝鮮戦争を民族と国土を統一する好機であったとする意識があって韓国軍人は国土を2分する戦争を行った米軍の先兵と蔑視されていますから国民の熱烈な支持も受けました。
金政権はこれをイソップ物語「北風と太陽」の暖かい日差しで旅人のコートを脱がすことに成功した逸話から「太陽政策」と呼びましたが、日本や欧米では平和外交への歴史的転換と大絶賛したものの実態は多くの問題も孕んでいたようです。
その最大の問題は北朝鮮の金正日主席個人への資金提供で、経済援助以外の名目では国家予算を支出することができないため、財閥の1つである現代グループに5億ドルを送金させ、その見返りに南北首脳会談を実現させたのです。
この南北首脳会談の実態は16歳も年下の金正日に臣下のような態度をとったことが明らかになっていますが、そこには金さんのしたたかな計算と野望がありました。この南北首脳会談が評価され現職中の2000年にノーベル平和賞を受賞しますが、その工作資金を国家予算から支出していたことが退任後に暴露されています。
小渕首相が「親日的」と賞賛した最大の理由はそれまで韓国国内では禁止・制限されていた映画やテレビ番組、マンガを含む書籍などの日本文化を自由化したことと言われていますが、小渕首相個人としてはそれまでの「日王」の呼称から「天皇」に改めさせた一事だったようです。
マスコミの勝手な思い込みで黒に近い灰色を真っ白と報じるのはやめてもらいたいものです。
- 2016/08/17(水) 09:23:48|
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岡倉はアメリカ国内で諜報活動にいそしむ事態になっていた。この年の1月20日に就任した2代目・ブッシュ大統領は民主党のアルバート・ゴア候補との大統領選挙に僅差で勝利したのだが、その得票数の操作が政治問題化して支持率が低迷し、それを挽回する一手として対外戦争を画策していると言う噂の真偽を探っていたのだ。
岡倉はニューヨークの少し高級感があるバーに呼び出された。今回は某商社のアメリカ支社の営業報告親睦会と言う名目で集まっており、初めて会う人間もいる。
「結局、軍産複合体はクリントン政権が北朝鮮の核開発疑惑に武力行使を決断しなかったことが不満なんでしょう」支社長役の防衛駐在官・野中将補の隣りに座った一見、やり手ビジネスマン風の男が知ったかぶりを演じながら熱弁を奮っている。確かにブッシュ政権にはディック・チェイニー副大統領やドナルド・ラムズフェルド国防長官などの軍産複合体の利益代表のような人物がいたが、日本のマスコミや外務省は湾岸戦争の英雄であるコリン・パウエル元大将の方を「新政権を戦争に駆り立てる危険人物」と決めつけていた。
「あそこでゴーサインが出ていれば三沢の空軍や日本海で演習中の第7艦隊が核施設を攻撃して戦闘開始、中国が出てくれば朝鮮戦争の再開だ」「軍産複合体としては湾岸以来の大口商談だね」これもアメリカではある程度の知的水準にある者には常識のレベルだ。
「湾岸から10年かァ、そろそろ軍事産業も大きな収益を上げないと商品開発競争から脱落する企業が出かねないからな」韓国・朝鮮の問題で抜群の実力を見せる杉本が今回は黙っている。それだけでもこのメンバーが熟練した諜報部員であることは想像できたが、自己紹介しないのが原則なので岡倉も杉本の横で黙って日本語の会話を聞いていた。
「問題なのは小泉政権の対応だ」日本では4月13日に一貫して不人気だった森内閣が崩壊し、「変人」と言われている小泉純一郎が首相になったらしい。この奇をてらったとしか思えない首相の決定に自民党政権の寿命が長くないことを感じているのは岡倉だけではないはずだ。
「小泉は親父が防衛庁長官の割に本人は無責任で軽薄なんだよな」「カンボジアPKOの時、選挙監視ボランティアと岡山県警の警察官が殺された途端、『自衛隊を撤退させろ』って言い出したからな」この無責任な発言をした小泉純一郎の悪名がPKO参加国の間に広がっていることを知っているのは軍関係者だけだろう。
「問題なのは外務大臣が無能なお嬢さまってことだ」ここで突然、杉本が身を乗り出した。
「5月1日の対応は何ですか!」常に冷静な杉本が少し大きな声を出したため、野中将補以下が厳しい視線を送る。拉致家族の奪還を個人的な目標にしている杉本にとっては来日した金正日の長男・正男を厄介払いのように強制送還した田中真紀子外務大臣の処置は我慢ならないのは当然であったが、やはり酒席には相応しくなかった。
「折角、北朝鮮の王子さまが来日されたのなら滞在していただけば使い道は幾らでもあったはずだな」再び黙ってしまった杉本に代わり、最年長らしい参加者が話題を引き取った。
「田中真紀子は日中国交回復を父親の手柄にしているから、親中派であることを隠そうともしない」「そこがお嬢さま育ちの馬鹿なんだよ」ここで別の参加者が酒席の雰囲気を演出する相の手を入れる。それを受けて最年長者が話を続けた。
「日本の外交が親中に傾けば政権が危なくなるから小泉はアメリカに肩入れする」「馬鹿なアイツはブッシュと馬が合う」こうなると時事漫談になってくる。
「つまりこちらの軍産複合体が画策する戦争に日本が参加することになると言うことだ」「ブッシュ個人は敬虔なクリスチャンだから、そこにつけ込まれて対イスラムの戦争を始める危険性が高いな」2代目・ブッシュには父親が果たせなかったフセイン打倒と言う至上命題がある。これを利用して戦争に踏み切らせれば軍事産業は莫大な利益を得ることができるはずだ。
- 2016/08/17(水) 09:22:19|
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今年の課程教育の終盤は佳織の米国留学、志織の同行、何よりも淳之介の沖縄行きに悩みながらになっている。そんな中、沖縄から元義父の玉城松栄さんと元妻の美恵子から淳之介宛の手紙が届いた。松栄さんの手紙は難しかったようで淳之介が見せたため、美恵子の手紙も一緒に読むことにした。
「淳之介くん、お手紙を嬉しく読みました。変わらず私たちの孫でいてくれて有り難う。だけど淳之介くんが沖縄に来ることには賛成できません。何故なら今の沖縄は私たちの世代が社会から退くに従って、復帰の時に本土から来た活動家たちが広めた日本を敵視する考え方が強くなっているのです。特に学校の先生は酷くて授業でも嘘ばかりを教えています。だから淳之介くんが沖縄へ来れば『自衛官の息子』として先生から苛められるでしょう。今の沖縄は本土に行けない負け犬の集まりです。淳之介くんには立派なお父さんがいるのですから、本土で頑張って下さい」元義父の手紙はやはり「頭が痛くなるまで」孫のことを考えた深い思索の跡がうかがえる(本人の口癖)。本当であれば孫が「沖縄に来たい」と言ってくれば手放しで歓迎したいはずだ。それを拒絶できる元義父はやはり尊敬と信頼に値する人物なのだ。それにしても元義父は戦時中、鉄血勤皇隊として戦った兄から教えを受け、復帰前から自分のタクシーに愛国心を表す日の丸を掲げていたような人物だけに、現在の沖縄の学校教育には強い危機感を抱いているらしい。次は元妻の手紙だ。
「淳之介、お母さんは大喜びだよ。やっぱり本当のお母さんが好きなんだよね。淳之介が来たら今のアパートでは狭いから少し大きなアパートを探します。淳之介が好きだった食べ物を思い出して作っています。メンソーレさ」こちらは元義弟の松真以上の能天気振りだった。私に手紙を渡す時、淳之介が妙に嬉しそうだったのは美恵子の手紙だけを受け止めたのかも知れない。この軽薄さも母親の血のように思えて溜め息が出た。おそらく美恵子は淳之介の転校や進学にまでは考えが及んではいないだろう。
「お祖父さんの手紙をよく読んでどうするべきかしっかり考えろ。自分が決めたことの責任は自分が負うしかないんだからな」そう言って手紙を返したが、どこまで通じたかは判らない。しかし、私自身は親が決めた人生の責任を私が負っている。そう思うと自分の言葉に説得力を感じられなかった。
夏の高級幹部の異動情報を取材に来た新聞記者が第10師団司令部で妙な話を持ち出した。
「自衛隊には恐ろしい人がいますね」「恐ろしい?何かありましたか」記者の大げさな怯えぶりに師団司令部の広報担当者は怪訝そうな顔をして訊き返した。
「先日、知り合いの教師が娘をレイプした自衛官を告発するから取材しないかって声を掛けてきて、自宅で両者の対話を聞いていたんですがね」「来たのは本人ですか?」「その上司の幹部でした」この記者の説明は事実を伝えていないが、これでも情報は提供される。
「先ず我々のマイクの存在を察知してからかってきたり」「からかって?」「本日は晴天なりなんてね」広報担当者は「この幹部自衛官の不誠実な態度は問題だ」と思い始めた。
「おまけに両親にショックを与えるような事実を次々と暴露しまして・・・」「具体的にどんな?」「何でも相手の隊員が撮った娘さんのエロ写真を見せたようです」隊員の犯罪行為を告発しようとする民間人に向かってこの対応は許し難い暴挙である。相手の心証を害して事態を悪化させる危険性は大であろう。広報担当者はその幹部自衛官の所属と氏名、階級を確認した。
「確か久居の教育隊の中隊長でモリヤマ1尉だったかな。名刺を渡さなかったそうなので確かではありません」久居の第116教育大隊は第10師団の管内ではない。しかし、処罰を前提に事実確認する必要を感じながら本題の取材に応じ始めた。
- 2016/08/16(火) 08:53:34|
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