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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月1日・東海道新幹線が開通した。

昭和39(1964)年の明日10月1日に東海道新幹線が開通しました。それにしても東京オリンピックの開会は10月10日なのですから、何か重大な問題があって総点検・再工事を実施するような事態になることは想定していなかったのでしょうか?
自分たちの技術に絶対的な自信を持っていたと言うべきか、思慮が足りなかったと言うべきなのかは判りませんが、それが昭和と言う時代の仕事だったのは間違いありません。
野僧は3歳でしたが、NHKの子供教育番組で「ビュワーン、ビュワーン、走る。青い光の超特急、時速250キロ、飛んでくようだな走る。ビュワーン、ビュワーン、ビュワーン、走る」と歌う童謡「走れ超特急」が流れるようになり、それまでの「汽車、汽車、シュッポ、シュッポ・・・シュッポポポ」とのスピード感の違いに幼心を沸き立たせたものです。それ以上にアニメ「エイトマン」のオープニングの主題歌の「弾よりも早く」のところでエイトマンが抜き去る場面があったので、友人たちと超特急=新幹線に夢中になました。
間もなく自家用車を持っている家の子供たちは岡崎市と安城市の境界線付近を通っている新幹線を見に行って「本当にビュワーンって走って行ったぞ」と教えてくれましたがウチの家には車がありませんでした。一度、「僕も見に行きたい」と父親に頼んだところ「あんな遠くまで自転車で行けるか」と激怒されましたが(それでも小学1年生の春の遠足で歩いた距離)、路線バスに乗って行けば新幹線の下を通過するのですから親の思慮が足りなかったのでしょう。
その反動から野僧は新聞などに写真が載っていると詳細に書き写し、小学館や学研の児童書を丸暗記するほど勉強するようになり、そのおかげで30年弱後の航空自衛隊の輸送幹部課程では車両には興味や知識が全くなかったにも関わらず鉄道と船舶については研修に行ったJR九州や日通本社職員が驚くほどの知識を持っていました。
野僧が最初に興味を持ったのは線路の幅で、これは「線路は続くよどこまでも」を愛唱していた影響だと思います。日本の鉄道はイギリスが植民地向けに輸出した車軸の幅が狭い蒸気機関車から始まったため線路の幅が1067センチと狭く(母親の実家へ行った際、近所の飯田線の踏切で計って確認しました)、一方、新幹線はイギリス本国の線路幅が基準になった世界標準軌の1435ミリと言うことなので家族旅行に出かけた際、「計ってみよう」と定規を持って行きましたが、新幹線の駅には踏切がありませんでした。
標準軌は国鉄が変更することを見越して近鉄、阪急、京阪、阪神、京浜、京成などの私鉄が先に採用していたため、新幹線の工事で線路の地盤に悪影響が出ることが懸念された阪急は国鉄よりも先に新幹線の高架で列車を走らせていたそうです(ネタ元は高校の鉄道研究会)。
輸送量を考えれば標準軌の方が有利なのは判っていますが、私鉄は国鉄(=JR)や公営地下鉄などと線路を共用することも多く、線路の用地拡張の必要も生じるため中々踏み切れないようです。ちなみに関西の私鉄幹線では南海だけが1067ミリの狭軌です。
線路の次は当然車両ですが、野僧は遠足でドクター・イエローを見て以来、こちらに興味を持ってしまいました。ドクター・イエローとは正式名称を「新幹線電気軌道総合試験車」と言い、線路の歪みや架線の弛み、さらに信号へ電波を送り作動を点検するなどの試験を走行しながら行う特殊車両です。車体が黄色に青のストライブなのでこの愛称がつきましたが、東北新幹線は白地に赤のストライプで、こちらはJR東日本からイースト・アイ(i)と呼ばれています。
愚息1との2人暮らしが始まると春日市の車両基地まで自転車で見に行って、一緒に「走れ超特急」を歌ったものです。その後、青森県の車力へ左遷されると東北・関東各地を家族旅行して宇都宮駅で秋田新幹線・こまち、山形新幹線・つばさ、長岡駅で上越新幹線・MAXを見ました。野僧が生まれた時に住んでいたアパートは名鉄の高架のすぐ近くだったので、胎教でレールの響きを聞き、生まれてからもパノラマカーの警笛のメロディーを聞いて育ったので、その延長線上に新幹線があったのかも知れません。
牧瀬里穂JR新幹線のCM
  1. 2016/09/30(金) 08:55:57|
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振り向けばイエスタディ594

年末・年始休暇はアメリカに行って淳之介を除くモリヤ一家で新年を迎える予定だ。ついでにニューヨークの世界貿易センタービルの倒壊現場を見て戦争の真実を考えるつもりでいる。
「8中隊長、大隊長がお呼びです」そんな11月半ばの午後、大隊本部第1部門担当主任から直接電話が入った。私は「また何かお気に召さぬことを仕出かしたか」を反省してみたが思い当たることはない。強いて言えばアメリカ行きの海外渡航申請が気に入らないのかも知れない。
「大隊長に呼ばれましたので行ってきます」「お疲れさまです」事務室に声を掛けると私が一方的に嫌われていることを知っている作野先任は気の毒そうな顔で返事をした。
「モリヤ1尉、入ります」ドアを叩いて入室すると、大隊長は珍しく温和な顔をして出迎えた。それを見て私は気持ちが悪くなった。
「まァ、座ってくれたまえ」ソファーを勧められたので大隊長を待ってから座ると、間髪を入れずにWACがコーヒーを運んできた。第1部門としては準備万端整えていたのだろう。大隊長はWACがコーヒーを配り終えて退室すると唐突に用件を切り出した。
「モリヤ1尉はカンボジアのPKOに参加していたんだよな」「はい、指揮所要員でしたが」年が明ければ9年前になる。十年一昔の一歩手前だ。
「もう一度、似たような任務に行ってもらうことになった」「へッ?」最近は新聞やテレビのニュースでもアフガニスタンでの戦闘ばかりに目が行っていたが、陸上自衛隊が派遣されることになっているとは知らなかった。
「アフガニスタンの特措法に陸上自衛隊の派遣はありませんでしたが」「そちらではない。PKOだ」「ゴラン高原の輸送業務ですか」「違う!」やはり気に入らない人間と話しているのは腹が立ってくるのだろう。大隊長の口調が少し荒くなり始めた。
「アフリカの北キボールにPKOとして施設部隊が派遣されることになった」「北キボールと言えば来年の5月に独立する国ですね」「そうだ」これは新聞の国際欄の記事を覚えていただけなのだが、大隊長は先ほどまでの問答を「とぼけ」と受け取ったようで吐き捨てるように答えた。
「それで年明けから恵庭の第3施設団へ出張してくれ」「中核部隊は?」「岩見沢の第12施設群だ」施設群が派遣されると言うことはカンボジアと同様に戦災の復興とインフラ整備が任務なのだろう。つまり独立前の派遣になるはずだ。
それにしてもカンボジアは最初のPKOだったとは言え半年前に本人の意向確認から始まり、事前教育も十分過ぎるほど行われた(無駄な内容も少なくなかったが)。まだ今回の派遣時期は判らないが、随分と拙速・性急になったものだ。
「ところで私の意思確認はないのですか」私の確認に大隊長は呆気にとられた顔をした。確かに手順としてはそれが第1段階のはずだ。
「命令を拒否すると言うのか」大隊長はこれも手順を省略したことへの当て擦りと受け取ったようだ。どうしてここまで嫌われるのかは判らないが、少年工科学校から防衛大学校へ進んだ大隊長には私のような特例のAコース幹部は存在すること自体が許せないのかも知れない。しかし、カンボジアの一件を考えると小泉政権の間は海外派遣に参加したくないのも事実だった。
「私にも考慮すべき事情はあります」「幹部たる者、何時如何なる命令にも応じられるよう公私を整えておくのが責務だ。それができないのなら退職しろ」ここで「退職します」と答えればPKO要員に指定された幹部が1名欠員になって大隊長も困るのだろうが、私はそこまで悪意は持っていない。ただ、前回のPKOで家庭が崩壊し、今もまた息子が去ろうとしていることは綺麗ごとでは済まない事実なのだ。
「判りました。(武人としての死処を与えて下さった)ご配慮に深く感謝を申し上げます」こう言って立ち上がると大隊長は視線も合わさず黙って冷めたコーヒーを飲んだ。
  1. 2016/09/30(金) 08:47:40|
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振り向けばイエスタディ593

11月、今年は佳織の母=典子さんの命日が土曜日になったので、早朝に久居を出発して伊丹まで墓参に出かけた。墓参の読経で木魚の効果音をやってくれる淳之介はいない。仕方ないので市内の佛具店で戒尺と呼ばれる小型の拍子木を買ってBGMにすることにした。
淳之介は沖縄に行かせてから2カ月になるが連絡もないのだ。私としては親権をどうするのか先方の意向を確認したいのだが、こちらから「どうぞ差し上げます」と言うのも変なので放置している。
そんな1人旅は昼過ぎに墓苑についた。苑内で花や線香を売っている売店は盆や彼岸の時期以外は閉まっているので、花屋の前でタクシーを止めて買ってきた。
バケツ2杯に水を汲んで片方に雑巾を入れ、伊藤家の墓の前に来ると見覚えがある女性が手を合わせている。それはスナックのママさんだった。
「こんにちは」「あら、モリヤさん」祈りが終わったところ声をかけるとママさんは驚いたように振り返った。足音に気づかないほど真剣に祈っていたようだ。
「佳織ちゃんがアメリカに行っちゃってるから典子さんも寂しいだろうと思ってお参りに来たのよ」「それは有り難うございます」「でも余計なお世話だったみたいやね」ママさんは肩をすくめながら立ち上がると墓前を譲ってくれた。しかし、私には作務がある。
雑巾を絞って墓石を拭き、ママさんが献じてくれた花を抜いて水を変え、私が買ってきた花を加える。ママさんの線香が燃え尽きていないので水はかけなかった。
こうして私も線香を立てると手鞄から戒尺を取り出した。ママさんは帰らずにつき合ってくれているので、一緒に手を合わせ頭を下げる。
「カチッ、カチッ、カチッ」と戒尺を鳴らしてお経を勤め始めるとママさんは隣りで「なむあみだぶつ」と浄土宗の念佛を唱えていた。考えてみれば法然上人は兵庫県人だ。

墓参りを終えるとママさんが店に誘ったので寄ることにした。
「今日は日帰りなの?」「はい、夜中には佳織から電話が入りますから」私の返事を聞いてママさんはキープ・ボトルではなくコーヒーを落とす準備を始めた。
「佳織は典子さんが日本に連れて帰ってきてから本当に苦労したのよ」「あまり苦労話はしないからよく知りませんが、中学校で苛められたことは少し聞いています」しかし、ママさんは顔を強張らせて唇を噛んだ。
「佳織ちゃん、バージンやなかったやろ」「はい、大卒の女の子ですから・・・」バブルの頃の女子大生は受験勉強を終えた解放感から都会で派手に遊び回っているイメージだった。佳織がそうだとは言わないが、男性との肉体関係があっても不思議はないと納得している。
「あの子は中学生の時、信頼していた教師に裏切られて酷い目にあったんや。それから男性とはつき合ったことないのよ」「・・・」思いがけない話に私は言葉が出なかった。
「だから日本の学校教育には不信感を抱いていて、そのまま日本には帰ってこないつもりで留学したんやけど、お母さんが癌で入院して、続いてお祖父さんが倒れて、後は貴方も知っている通りや」私の胸に前川原で出会った頃の佳織が浮かんでくる。あの時、こんな私に形振り構わずすがるような接近の仕方をした理由が判ったような気がした。
「だからあの子が『結婚したら歌って』って言っていたハワイアン・ウェディング・ソングを本当に歌う日が来るなんて思っていなかった」ここまで話してママさんが涙をこぼし、当然のように私もつき合ってしまった。
「モリヤさん、典子さんの代わりに私からお願いします。佳織を永遠によろしく」そう言ってママさんが入れてくれたコーヒーを飲んだが、苦味と甘味が織りなす深い味がした。
む・JunJiHyunイメージ画像
  1. 2016/09/29(木) 09:08:47|
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振り向けばイエスタディ592

日本はかなり暴走的に「不朽の自由作戦」に参加した。参加根拠である「対テロ特措法」の法案が国会に提出されたのはNATOが集団的自衛権を発動して3日後の10月5日だが、正式名称が「平成13年9月11日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」と112文字であることを見ても十分に内容を精査して起案されたものではなく、「一刻も早く自衛隊を参加させろ」と言う政府中枢の命令を受けて作った泥縄式であることは明白だった。
「遅れ馳せながら海上自衛隊も出撃かァ。補給艦って言うのが味噌だな」岡倉は街角のスタンドで買ってきた新聞の隅に小さく載っている記事を読み、地上部隊=陸上自衛隊が派遣されなかったことに一先ず安堵の溜め息をついた。
実は法案が小泉人気で与党が絶対的多数を確保している衆参両院を素通りしたように成立し、翌日の11月2日に施行されたのは良いが、アメリカの言うなりに推し進めようとする外務省と現実を見据えている防衛庁の調整が進まず基本計画ができていないため、情報収集の名目で補給艦と護衛の護衛艦2隻を先遣隊として派遣したのだ。しかし、アメリカの新聞にはそこまで詳しくは載っていない。
「韓国軍も衛生要員を派遣する方向で検討中か。ジアエが言っていた通りだな」要するにアメリカの新聞は「仲間がこんなに増えている。みんなで叩けば悪くない。だって多数決は国際社会のルールだもん」と言う紙面作りをしているのだ。
「デザート・ストームの時には韓国にしてやられたが、今回は日本の勝ちだな」岡倉の頭に高射学校を卒業して長崎県大村市の竹松駐屯地に赴任した時のことが甦ってきた。
湾岸戦争で韓国は日本のアイディアを横取りするように輸送機部隊を派遣していた。戦争が終わり、その編隊が帰ってくるのを春日の航空自衛隊から送られてくるレーダー画像で眺めたのだ。あの時は韓国政府に羨望を感じたが、今はどこかが狂っているのかも知れない。
先日、見てきた韓国国内の空気から見て今回の戦争は軍が医療活動をするだけでは済まないだろう。キリスト教VSイスラム教と言う構図を真に受けた連中がアフガニスタンで布教活動を始めようと乗り込みかねないのが、急速な経済発展を遂げて自信を深めている現在の韓国だ。
「やはりな・・・」岡倉は最後にあまり関心を持たない経済欄を読んだ。すると軍事関連企業の株価は軒並み急騰を続けており、ここ数年の負債を返済した上、巨額の収益を挙げることを予測する解説が踊っている。そんな記事を暗い目で眺めていると、テレビがアメリカ版大本営発表を始めた。
「戦略空軍のBー2爆撃機がタリバーンの潜伏地域を空襲しました」「海軍が発射した巡航ミサイルがタリバーンの軍事拠点を徹底的に破壊しました」日本の大本営発表は虚構の代名詞だが、アメリカ版は広報・宣伝そのものだ。画像はBー2が高空から爆弾を投下する場面と艦艇から巡航ミサイルが発射される場面なので資料映像のように思われる。
それにしてもアフガニスタンの街に並んでいた粗末な建物が最新の強力な爆弾を受ければどれ程の被害が出るかは想像に難くない。第2次世界大戦で繰り広げられた日本の都市空襲と似たような惨状になるはずだ。
「サフィ、アジズ、死ぬなよ。慈悲深いアッラーは逃げることを禁じたりはしないだろう」岡倉の胸にアフガニスタンで知り合ったタリバーンの友人たちの顔が浮かんだ。彼らと過ごした4日間、一緒に勤めたサラート(=礼拝)が懐かしい。
日本の神道は国民に死んで軍神になることを命じたが、イスラムの大義は過酷な環境でも逞しく生きることのはずだ。アッラーの大恩に報いるのは機会を得てからで良い。
  1. 2016/09/28(水) 09:04:19|
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振り向けばイエスタディ591

開戦前後から防衛駐在官・野中将補はアメリカ国務省に出入りする機会が増えている。通常、極度に縄張り意識が強い外交官=外務官僚は部外者と思っている防衛駐在官が自分たちの縄張りである国務省に近づくことを嫌うのだが、現在のパウエル長官、アーミテージ副長官は共に軍人出身であり、特に東南アジアの戦場で多くの敵を殺してきたアーミテージ副長官の圧倒的な迫力はエリート外交官たちに恐怖を与え、このため国務省からもたらされる業務連絡を副長官に確認する仕事のお鉢が回って来るようになったのだ。
この日も若手外交官がカウンター・パートナーの国務省の職員から伝えられたアーミテージ副長官の発言の真意を確認に訪れており、副長官室のソファーで2人きりの対話になった。
「ウチの職員に訓示を賜ったそうで」「これは少将閣下に御足労をお掛けして申し訳ない(英語にこのような丁寧語はないが便宜上アシカラズ)」パウエル長官は元大将だがアーミテージ副長官は尉官で退役し、その後も秘密任務に当たっていたと言う噂はあるものの真偽は不明だ。したがって野中将補には外交官の大使以上の敬意を払っている。
「何でも『ショウ・ザ・フラッグ(旗幟を鮮明にせよ)』と仰ったとか。確かに日本はオペーレション・デザート・ストーム(砂漠の嵐作戦=湾岸戦争)では何も決断できなくて世界に恥を晒しましたから、今回は政府も積極的に動き始めています」湾岸戦争の時、海部内閣はアメリカに要求されるままに巨額の財政支援を行ったが国際社会の理解は得られなかった。その後、国民の意識は変わってきているが、野党とマスコミは思考停止したままだ。しかし、この説明にアーミテージ副長官は怪訝そうな顔をした。どうも真意と説明の内容が違っているらしい。
「私がショウ・ザ・フラッグと言ったのはアメリカの同盟国としてだけでなく西側の中核を担う大国として日の丸を国際社会に見せよと言う意味だ。小泉首相は日本の常任理事国入りを希望しているようだが、国際秩序を守るための軍事的貢献がなければ無理な話だ」どうやら誤訳まではいかなくても違訳だったようだ。学校で英語の勉強に励んできた外交官には適切な日本語訳だったのかも知れないが政治用語は意味が違うのである。
それにしても小泉首相が国連の常任理事国入りを希望していると言う話は初耳だ(国連の演説で表明したのは2004年)。おそらくブッシュ大統領との直接対話の中で漏らした個人的希望が国務省にまで伝わっているのだろう。
「日本に憲法の制約があることは我々も熟知している。あの憲法の下書きを書いたのは我々だからね」アーミテージ副長官はそう言って眼光鋭い片目をつぶった。要するにウィンクをしたのだが、流石の野中将補も背中に冷たいものが走り身震いした。
「憲法の許容範囲の中で可能な最大の貢献とは・・・」「先日、私は日本に帰国し、外務省と防衛庁の担当者に見解を述べてきました」野中将補の話にアーミテージ副長官は巨体を乗り出した。
「今の日本の政治情勢では地上戦で犠牲者を出すことは避けなければなりません。それは空輸で輸送機が撃墜されることも同様です」「結局、また金だけで何もしないのか」アーミテージ副長官の目が殺気を感じるほど鋭くなったが、野中将補は話を続けた。
「海上自衛隊が各国の艦艇に洋上補給を実施すれば貢献になりませんか」「ショウ・ライジングサン・フラッグ(旭日旗=海上自衛隊旗)だな」アーミテージ副長官は自国内でもタリバーンが活動しているため作戦への参加に難色を示したパキスタンのムシャラク大統領に「先にパキスタンを空襲して石器時代の原野に戻してから基地を提供してもらおうか」と恫喝したと言う。それに比べて日本の特殊事情に対する理解は大きな違いがある。
「補給艦だけでなく戦闘艦も参加させるんだろう」「あくまでも補給艦の護衛にです。うちの戦闘艦は護衛艦ですから」こんなジョークに笑ってもやはりアーミテージ副長官は怖かった。
  1. 2016/09/27(火) 08:52:15|
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振り向けばイエスタディ590

10月7日、とうとうアフガニスタンへの侵攻が始まった。前日にアメリカ本土の基地からBー2爆撃機が発進したことはテレビでは報道されていなかったものの民間人たちが撮影した動画がインターネットで拡散している。情報統制が機能しない中での軍事行動も現代の戦争なのだろう。佳織は小学校での言動を念入りに注意してから志織をスクールバスに乗せた。
CGS課程が行われているこの駐屯地は別として近傍の陸軍部隊がパキスタンへ派遣されており、カンザス州内にも戦争の気配は漂い始めている。
これまでの熱狂状態から今日はそれ以上の騒ぎになることを予想して登校したが雰囲気は全く逆だった。路上でそれ違う兵士たちの敬礼にも緊張感があり、顔つきは強張っているようだ。これが戦争を始めた=死を直視することになった軍隊なのだ。
「メジャー(3佐)・モリヤ。とうとう始まりましたね」教場ではアメリカ陸軍のWACの少佐が声を掛けてきた。彼女の夫もパキスタンに派遣されており、入校中は夫が担当していた子供たちを彼女の親に預けたようだ。アメリカ軍は憲法によってWACが前線で戦うことを禁じられているため彼女も兵站(主に補給)担当の部隊で勤務してきた。一方、ウェストポイントの同期である夫は戦闘職種の指揮官だ。その点が佳織と共通するため顔を見れば親しく話をする関係になっている(話題は夫の自慢?疑問?不満?愚痴?)。
「地上戦は北の反タリバーンの組織が担当するそうだから、ご主人はまだパキスタン国内でしょう」佳織は留学生なので軍事情報はアメリカ軍の学生ほどは周知されていない。その知り得た範囲で彼女の不安を和らげる言葉をかけた。こう言う場合、日本の戦争映画などでは軍人の妻は毅然とした態度で夫が使命を果たしてくれることを願う言葉を発することになっているが、自分も軍人である彼女は素直に顔を曇らせて目を潤ませた。
「私は貴女が言っていたジャスト(適切)とアンジャスト(不適切)の問題をずっと考えているの。本当にこの戦争に正義はあるのかしら」「それは歴史にならないと判らないのでしょう」「でも夫が戦場に立っているのは現在の現実よ」本当は佳織自身も今回の戦争はそこに至るまでの経緯に疑問を感じている。おそらく大半の学生たちも同様であり、それを無理にでも戦争に向かわせるため熱狂して大声を上げなければいられないのだろう。
「ウォルツアー博士は『一国同士の戦争は強者の独善に陥り易いから多国籍軍を編成しろ』と言ってたけど、今の政権は共犯者を作るために多くの国を巻き込んだみたい」軍人(自衛官)、ましてや士官・将校が政府を批判することは完全にタブーだ。戦後の日本人は戦争を追い求め、死ぬことを望んだ帝国陸・海軍の残影で「軍人を好戦的な人種だ」と決めつけているが、彼らが求めているのは正義であり、だから作戦を命ずる指揮官はカミの許しを乞うのだ。
その時、教官が入ってきて、当直学生の中佐が席に着くように声をかけた後、号礼を掛けた。
「アテーン、ハッ(気をつけ)」「デューティ・ステューデント(当直学生)、レポーティング、サー(報告します)」同じ組織の一部が戦争に直面している時、別の一部は何も変わらない静かな時間を過ごしている。それを区分するのは「命令」と言う事務処理だ。
「諸君も知っているようにいよいよオペレーション エンダーリング フリーダム(不朽の自由作戦)が開始された。今までこの作戦について議論を重ねてきたが今後は我が軍の任務遂行を静観していきたい」日本人と違いアメリカ人は言いたいことを言い合って納得して始めれば後は自己責任で職務遂行である。ところがアメリカ軍の少佐が妙な質問をした。
「作戦名はオペレーション インファイント ジャスティス(無限の正義作戦)ではなかったですか」確かに当初はこの作戦名だったはずだ。ブッシュ政権のことなので歴史家や宗教者などから意見を集め、カミの代理である十字軍に相応しい格調高く、一点の瑕疵もない名称を考えたのだろう。教官は「変更になった」とだけ説明した。
  1. 2016/09/26(月) 08:59:27|
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9月26日・薩摩が生んだ本当の偉人・五代才助の命日

明治18(1885)年の明日9月26日は実質的にやったことは破壊のみだった薩長土肥の中で現在にも幾多の業績を残している偉人・五代才助=友厚さんの命日です。
五代さんは活動拠点を大阪に置いたため東京から視界が届いた事績だけを歴史としている明治以降の日本では取り上げられることは稀ですが、最近になって中央官僚が破壊するまで大阪が経済の中心として機能していたのは五代さんの功績が大きいのです。
五代さんは島津藩の文書管理を担当する記録奉行の次男として生まれますが、中堅藩士の子供なので郷中教育ではなく8歳から藩の学習塾である児童院に通い(郷中には小稚児=6歳~10歳から参加する)、12歳で聖堂=造士館に進学しています。このことが他の薩摩藩士のような「チェストー!イケーッ」と示現流で相手を斬るだけの武闘派とは一線を画す合理的で冷静な人間性を作ったのでしょう。
五代さんが14歳の時、琉球交易担当を兼ねていた父がポルトガル伝来の世界地図の筆写を命じ、それで視界は広い世界に向かいました。
嘉永6年=安政元(1854)年、ペリーの浦賀来航で日本が騒然となった頃、島津藩ではその前に沖縄へ寄港していたため(那覇市内の上陸地点には「ペリー」と言う地名が残っている)情報を入手しており、藩主が斉彬公であったこともあって比較的冷静に時代の変化を眺めていました。翌安政2(1855)年、農政担当部署の書記官になると次第に鎖国継続=攘夷派の兄と意見が分かれることになりました。そんな思想傾向を見込まれたのか長崎に海軍伝習所が設立されると入所を命ぜられますが、幕府が孝明天皇と攘夷を約束した関係で4年後に閉鎖されると、文久2(1862)年に朝廷の目が届かない場所で欧米と交易を行うため幕府が上海に派遣した蒸気船・千歳丸に水夫として乗り込み、イギリスの商社と蒸気船の購入契約を結んでいます。つまり歴史で描かれる幕末史の登場人物たちが血で血を洗う死闘と策謀を繰り広げていた頃、五代さんは海外で経済と言う戦場に乗り出していたのです。
その年、トップ・オブ・藩主・イン・ジャパンであった斉彬公が亡くなった後、新藩主の父親として実権を握った久光さまが幕政改革の勅命を伝えるため江戸へ赴いた帰路、現在の横浜市鶴見区生麦で行列の前を馬に乗ったまま横切ったイギリス人を藩士が斬った生麦事件が起こり、その報復としてイギリス艦隊が鹿児島城下に攻撃を加えてきました。この時、五代さんは納入されたばかりの蒸気船3隻を攻撃されないため交渉による解決を模索して捕虜となり、これで武闘派との距離が益々広がったのです。
慶応元(1865)年、島津藩が独自に派遣した遣欧使節に加わり、ここでも海外との交渉術に磨をかけ、帰国後は島津藩の経済活動を一手に担う会計担当に就任しました。
こうして戊辰戦争を後方支援する形で明治を迎えると、新政府では国際法に詳しいことを買われ、外国人が起こした犯罪に関する交渉を担当する判事として中心的貿易港である大阪(当時の横浜は建設途上であった)へ赴任して歴史の表舞台から遠ざかることになりました。
大阪では判事以外に造幣局を誘致し、初代大阪税関長に就任するなど経済人としての活躍を見せ、明治2(1869)年に退官すると日本各地の産業を興すため奔走することになったのです。その一方で現在の大阪証券取引所、大阪商工会議所、大阪市立大学(=商業講習所)、大阪製鋼、関西貿易社、神戸桟橋、阪神電鉄などを設立しています。
大阪に経済の拠点があると困るのは監督者=支配者を自認する中央官庁の官僚たちで、関西選出の有力議員がいないことに乗じて在関西の企業に対する圧迫を強め(情報を流さない、公共事業から外すなど)、現在の惨状に貶めました。
しかし、経済活動=商売は偏狭で教条主義の関東人には向かないことは江戸時代から判っていたことで、官僚の手前勝手には五代さんの怒声が聞こえてきそうです。
  1. 2016/09/25(日) 00:15:03|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ589

淳之介は美恵子に連れられて国際通りに買い物に出た。国際通りには沖縄へ来て間もなく祖父に案内されているが今日は母と一緒であり、トキメク筈がない胸の鼓動が少し高まってきた。
「Tシャツを着るにしてもパッと目立つ原色のじゃないと女の子が気づいてくれないさァ」母は淳之介が着ているグレーのTシャツを見ながら吐き捨てるように言った。しかし、淳之介は「女の子に気づいて欲しい」などとは一度も言っていない。そんな強引な言動に先ほどのトキメキは急速に冷めていく。
「よし、ここで探すさァ」母は那覇三越を通り過ぎると角を曲がって狭い道の奥にあるファッション・シティー・マキシーに入った。このテナントビルは国際通りのシンボルである那覇タワーの下にあり(2008年に閉鎖、2014年に解体された)、他の商店とは違うセンスの商品が並んでいるため客層も同世代の若者ばかりだ。
「ここにはお父さんと一緒に来たのさァ。あの人は服を持ってないから私が選んで買わせたんだよ」母は独り言を喋りながら次々とTシャツを選び、横に立たせた淳之介に合わせていく。確かに目を引く原色で若者向きの洒落た柄のTシャツばかりだが、それを着る勇気は持ち合わせていない。淳之介は父の性格から言って「この母とつき合うのはかなり苦労だっただろう」と同情した。
「あッ、淳之介さァ」肩を叩かれて振り返ると同級生たちが立っていた。その中には淳之介に母がレイプされたことを言って喧嘩になった奴もいる。その後、担任の教師の仲介で喧嘩は収まったが、やはり気まずい関係ではあった。
「淳之介の同級生ねェ」母が振り返って声をかけるとレイプされた本人と対面した同級生たちは一斉に顔を強張らせた。
「淳之介がお世話になってるさァ」接客用の笑顔で会釈した母に同級生たちは困った顔で頭を下げ、逃げるように階段を下りていった。
「あんなに恥ずかしがって可愛いさァ」母は能天気に笑ったが、淳之介はその理由が判っているので返事ができないでいる。そんな息子を見上げて母が怪訝そうな顔をした。
「どうしたのさァ。何か嫌なことでもあるんねェ」母の問い掛けに淳之介は答えに窮してしまったが、それでも事実として説明することを決めた。
「アイツらは僕にお母さんがアメリカ兵に集団レイプされったって言ったんだ。その話はお祖父ちゃんに聞いたけど・・・」ここまで話して淳之介は声を詰まらせた。そんな我が子の顔を見ながら美恵子は決然と言葉を返した。
「だからお母さんが嫌いになってしまったねェ。そんな汚れた女は許せないねェ」驚いて顔を見ると母は大きな目でこちらを直視している。それを見返してトキメキが再開した。
「そんなことある訳ないじゃないか。僕はお母さんと暮らしたくて沖縄に来たんだよ」淳之介の返事に母は弾けたように笑うと人前であることも構わずに抱きついてキスをしてきた。身長が父を超えている淳之介では母は背伸びしても唇に届かない。だから強引に首筋を引き寄せて淳之介のファースト・キスを奪ったのだ。
そこから母は淳之介の腕に自分の腕をからめて歩き始めた。時折、母の知り合いに会うと「随分、若い彼氏だね」と声を掛けられるが、それを否定せずにより強く腕を引き寄せてくる。
肘に当たる母の胸の弾力にトキメキが興奮になりそうなので質問で紛らわすことした。
「お父さんとも腕を組んで歩いたの」「ううん、あの人には近寄りがたい雰囲気があったからね」母の返事を聞いて淳之介は今の妻とはベッタリ寄り添っている父とのギャップに首を傾げてしまった。
「父にとってこの母との結婚は何だったのだろうか?」息子として謎が深まってきた。
  1. 2016/09/25(日) 00:13:59|
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振り向けばイエスタディ588

美恵子は昼過ぎまで眠っていた。淳之介は近所のコンビニで握り飯とジュースを買って店の前のベンチで食べ、漫画雑誌を数冊立ち読みして帰ったがそれでも寝息を立てている。
「本当に疲れているんだなァ」この孝行息子は先ほど母の唇を盗む、と言うよりも借りようとしたことも忘れ、感謝に涙ぐんだ。母が眠っていてはテレビを点けられず、部屋も明るくできないので本は読めない。仕方ないのでアパートの階段に腰掛けて読みかけだった小説=吉行淳之介の「砂の中の植物群」を開いた。
この本は三重県の書店で見つけ、自分の名前の由来は聞いていたので購入したのだが、顔見知りの店主は「君には少し早いんじゃないか」と言いながら売ってくれた。
今回、初めて読んでみると店主の言葉の意味が良く判った。物語は主人公が横浜のマリンタワーで声をかけてきた少女を抱いて処女を奪ったことから始まる。その少女は両親を亡くして夜の仕事で生活している姉に面倒を見てもらっているのだが、その姉は純潔を守ることに厳しい癖に自分は相手構わず抱かれ、被虐(=マゾ)趣味もあるのだ。そんなリアルな性描写は文字だけで十分興奮できる。淳之介は膨らんだ股間を隠すため膝を固く閉じて読み進めた。
物語は主人公に腹違いの妹がいて、その名前が少女の姉と同じこと知って疑惑がつのっていく展開に移った。つまり主人公は血がつながった妹を抱き、求められるままに加虐(=サド)趣味に溺れていることになる。その罪の意識と性の快楽との間で苦悩する主人公は姉との関係を断つため乱れ切った姿を妹に見せる非情な手段に出た。ここまで来ると淳之介には難しくなってくる。案の定、股間の膨らみも収まった。
そして最後は2人の関係は終わらず一緒に夕闇せまる海岸に歩いて行くところで終わった。
小説を読み終えて部屋に入るとその音で母が目を覚まし、かすれた声をかけてきた。
「淳ちゃん、お腹は空いてないねェ」「うん、コンビニでお握りを買って食べた」淳之介の返事を聞いて母は布団から立ち上がった。昨夜と同じ黒いスリップ姿だったが、今回は小説で描かれていた夜の仕事をしている姉と重なって無意識に顔を背けてしまった。
確かに母も夜の仕事をしており、そこは未知の世界だ。しかし、あの堅物の父がそれを承知で結婚したのだから小説のようなことはないはずだ。何にしても多感な年頃の淳之介には刺激的過ぎる新たな環境のようだ。

「淳ちゃん、服のセンスが悪いさァ。お母さんが選んであげる」美恵子は朝昼兼用の食事を終えると淳之介を買い物に誘った。
「そんなんじゃあ、女の子にもてないさァ」「服はお父さんが選んでるねェ。相変わらずセンスが年寄り臭いよ」「・・・」淳之介が返事をしないと母は一方的に話を続けてくる。この強引さは今の父たち夫婦にはない。2人は難しい仕事の話から思い出話、笑い話まで何でも楽しそうに話し合い、風呂を終えてパジャマに着替えてから始まる酒を飲みながらの談笑=パジャマ・ミーティングは毎晩の恒例行事だった。
「今度のお母さんは淳ちゃんのことに関心がないねェ」淳之介が買い物に意欲を見せないと母は妙な勘繰りを働かせてきた。
「違うよ。官舎の友達たちも似たような服を着ているから何も言わないんだ」久居の幹部官舎では家族も周囲に気を遣っており地味目の服装が普通だった。その点が善通寺の幹部官舎で派手な茶髪のソバージュにして流行のファッションを東京から取り寄せていた母とは違うのだ。
「それでも街には出たいな。一緒に行こうよ」黙ってしまった母に淳之介が同意の返事をすると何かを考えているような顔でうなずいた。
「淳ちゃんは今度のお母さんが好きなんだね」母の独り言は小さくて聞こえなかった。
砂の中の植物群映画「砂の中の植物群」より
  1. 2016/09/24(土) 09:01:39|
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9月24日・幕府がシーボルトに国外退去を命令した。

文政12(1826)年の明日9月24日(太陰暦)に幕府がオランダ商館付医官のシーボルトさんに対して国外退去命令を出しました。おそらくこれが日本初の公式な外国人を対象とするスパイ事件でしょう。
シーボルトさんの名前はドイツ人の友人によると「ズィーボルト」と発音するそうなので、今回はそれで通します。なお、本人については10月18日の命日に語ることとします。
ズィーボルトさんはオランダ人ではなくバイエルン(=ドイツ)の医師の家系の出身で、祖父と父親は大学教授を務める名医だったためズィーボルトさん(祖父と父親もズィーボルト姓ですが)が20歳の時、貴族に列せられ「フォン」の称号が付きました。
ズィーボルトさんは医学だけでなく理科系では解剖学、生理学、生物学、植物学、地学、文科系でも地理学、民俗学、歴史学、言語学などを学び、飽くなき探究心と強烈な好奇心からヨーロッパでは未知の秘境になっていた日本に興味を抱いたのです。そんな折、オランダで長崎・出島の商館付医官の募集があり、迷わず応募するとその学識・経歴から「日本の国家としての実態調査」と言う特別命令を受けることになりました。
と言う訳で長崎に赴任した27歳のズィーボルトさんですが、長崎の通詞(=通訳)はオランダ語の発音が変であることに気づき、仕方なしに「オランダの山岳地帯の出身だから訛っている」と言い訳したのです。若し通詞が「オランダに山岳地帯がない」と言う地理の知識を持っていれば嘘がばれるのですが、そこは職務以外の知識を持つことを余事(野僧もこれで第1教育群司令・S1佐に嫌われました)とする日本人の特性で難を逃れました。
こうしてスパイとしての活動を始めたズィーボルトさんは、先ず出島以外に活動拠点を確保するため「西洋医学を広めたい」と長崎奉行に申し出て、私塾兼診療所の鳴滝塾を建てることに成功しています。鳴滝塾と言う名称をズィーボルトさんの愛妾・滝さんの名前に由来すると勘違いしている人もいますが、これは江戸初期の長崎奉行がつけた所在地の地名です。
こうして全国から集まってくる医師たち(卵と言うよりも開業医)に医学だけでなく西洋科学などを教えながらオランダ語の実習を名目にして出身地や見聞した土地の歴史風土の論文を作成させ、長崎を動かずに日本全土の情報を収集していきました。
さらに5年に1度行われる商館長の江戸出府に同行すると道中で度々駕籠を下りて植物採取やスケッチだけでなく、海岸線や富士山の測量も行っています。
江戸では押し掛けてくる人たちが鳴滝塾以上で、相手を厳選して言葉巧みに情報収集を実施しました。中でも幕府天文方の高橋景保さんとはロシアの探検家・クルーゼンシュテルンの「世界一周記(世界地図が入っている)」と伊能忠敬さんが作成した「大日本沿海実測全図」の筆写を交換したのですが、これは幕府が指定した最高機密だったのです。
これを長崎に持ち帰ると鳴滝塾でも成績優秀だった岡研介くんと高野長英くんに地名のオランダ語化を命じ、翌年に迫った帰国の前に収集品でも大きな物を定期便で送ることにしました。
ところが文政11年の8月9日(太陰暦)に九州を縦断した台風で収集品を載せていたハウトマン号が座礁したため長崎奉行所の検索を受けることになり、積み荷の中に膨大な禁制品があることが発覚したのです(刀剣や甲冑、弓矢などの武器類も国外持ち出しが禁止されていたが美術品として含まれていた)。
当然、ズィーボルトさんは取り調べを受けることになりましたが、その場で日本への帰化を申請してスパイ容疑を不成立にし、収集品はあくまでも個人的趣味として協力者の罪を免じるように申し出ました。
長崎奉行所は想定外の申し出には幕府の意向を確認しなければならず、使者が江戸との遠路を往復する間にズィーボルトさんは伊能地図の筆写を完成させていたのです。結局、伊能地図を没収された上で国外追放になりましたが、筆写した地図はオランダで確認・保存されています。
日本人はズィーボルトさんを西洋医学や科学を紹介した恩人のように考えていますが、スパイとしても極めて有能だったことを知っておいても良いでしょう。同時代の日本最高のスパイ(公儀隠密)・間宮林蔵とは江戸で対面していますが、何が語られたのかは一切が不明です。
  1. 2016/09/23(金) 09:04:56|
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振り向けばイエスタディ587

淳之介は母が自分に会いに来ないことが不満だった。長年、別れ別れで暮らしていた息子が手元に戻ってくれば、何を差し置いても足しげく会いに来てくれると思い込んでいたのだ。
「お母さん、帰ってこないね」「美恵子は忙しいのさァ」祖母に不満をこぼしてもあまり真剣に受け止めてくれない。沖縄では女性が働いて生活費を稼いでいる家庭も珍しくないので、特別なこととは考えていないようだ。
「僕、お母さんのアパートに泊まりに行きたいな」「でも狭いよ。それに殆どアパートにいないしね」母の本業である理髪店は週1度の月曜日休みで、その日は夜の仕事も休んでいるのだから、この間のように日曜日の夜に帰ってくれば朝夕には会えるはずだ。
「お母さん、僕が帰ってきたことを喜んでいないのかなァ・・・」淳之介の胸には再会した時、父のことばかりを訊ねた母の姿が焼き付いている。そんな孫の顔を覗き込みながら祖母が説明した。
「美恵子は淳之介を引き取るために広いアパートを借りて、高校・大学へ行かせられるように稼がないといけないって頑張ってるのさァ。淳之介が月曜日が休みの日に会いに行けば良いんだよ」言われてみれば間もなく運動会がある。運動会の後は月曜日が代休だ。母は応援には来てくれないだろうが「会ったら自慢できるように頑張ろう」と思うだけで元気が湧いてきた。

「今、帰ったさァ」運動会が終わった日曜日の夜、淳之介は夜の仕事に出る祖父のタクシーで美恵子のアパートに行った。それでも美恵子が帰ってきたのは月曜日になってからだった。
「お帰り、お母さん」淳之介は祖父の家から運んできた自分の布団を敷いて待っていた。
「やっぱり本土の中学生は遅くまで勉強するねェ」流し台で顔を洗い、化粧を落としてから部屋に入ってきた美恵子は布団に寝転んで本を読んでいる淳之介に声をかけた。
「これは小説だよ」「小説だったら勉強さァ」どうやら母にとって読書は勉強になるらしい。本当はそろそろ中間テストの勉強をしなければならないのだが今回はパスしたのだ。
ところが美恵子は淳之介が見上げている前でママさんの衣装を脱いで下着姿になった。年頃の淳之介は母とは言え長年に会っていなかった女性の妖艶な姿を最近、手に入れたエロ漫画に重ねてしまった。しかし、母は息子の視線には無頓着にトイレに歩いて行く。その黒い下着に隠された背中から腰、尻へのラインが悩ましく性器が勃起しなかったのが奇跡だ。
「こんな時間にシャワーを使うと近所の人がうるさいのさァ、だから寝るよ」戻ってきた母はそう言うと淳之介が敷いた布団に入ってしまった。やはり一人暮らしが長い母の生活に家族が加わることは難しいのかも知れない。
淳之介は暗くしてもカーテン越しに街の明かりが差し込み、車のエンジン音が聞こえてくる部屋で、実母の寝息を聞きながら父と父の妻と妹との生活を思い出してしまった。

翌朝、淳之介は腹が空いて目を覚ました。それでも母は隣で熟睡している。カーテン越しの日の光が寝顔を淡く照らし出しているがやはり美人だ(かなァ?)。
突然、淳之介の胸に「キスしてみたい」と言う危険な信号が点った。狭い守山の官舎では親子4人が同じ部屋で寝ていたため父の妻の寝顔を見たことはある。しかし、彼女はいつも父の腕枕で寝ていたので所有権は明確だった。一方、母は独身だ。
「アメリカではキスが挨拶だ」「ファースト・キスを母に捧げるんだ」「お母さん、好きだよ」そんな馬鹿な自己弁護を胸の中で並べながら淳之介は唇を尖らせて母の顔に近づいていく。
その時、淳之介の鼻息が顔にかかった美恵子が頬をかき、寝返りを打ってしまった。こうして息子・淳之介と母・美恵子の危険な関係は寸前で回避された。
外8・市川美織イメージ画像
  1. 2016/09/23(金) 09:03:26|
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振り向けばイエスタディ586

佳織が掛けてくる土曜深夜の電話が愚痴で長くなっている。こちらの夜があちらの朝なので私が夜更かしして電話をするには土曜日しかないのだが「朝まで生電話」になりそうだ。
「アメリカはベトナム戦争の失敗を懲りずに繰り返すみたいや」「ベトナムよりも悪いんじゃないか。今度はイスラムを過激な宗教に変質させてしまうぞ」私の返事に佳織は溜め息をついた。
連日、今回の戦争に関する議論を繰り返していてもNATOのように対等な立場で意見をぶつけ合う関係とは違い、国家としての意思を明確にしない日本からの留学生は個人の意見が陸上自衛隊、下手すれば政府の代弁のように扱われるのでかなり気疲れしているらしい。
「日本でもNATOの集団的自衛権発動を受けて自衛隊の派遣の検討が始まったけど、どうも地上部隊については慎重みたいだな」これが師団管内の戦闘部隊にいれば中央の情報も入ってくるのだが、教育団隷下の教育大隊では方面隊の優先順位が低いから蚊帳の外だ。
「確かに地上戦はアメリカが言っている程、簡単じゃあなさそうだから陸自を派遣しないのは正解だね」「ワシなんぞはアフガニスタンに行ってタリバーンの方に参加したいくらいだ」私自身は反米ではないのだが、十字軍を再開する宗教戦争となればイスラム側につきたくなる。
「ほんまにイスラムのテロなんやろか」「ワシもうっかりすると『テロはアメリカの自作自演だ』何て言いそうだけどな」先日も中隊長会同の雑談で「テロの原因は自業自得・因果応報」などとアメリカの非を指摘したため、大隊長から白眼視されてしまった。
そもそも今度の大隊長は私が「通信大学を受験したい」と言ったのを「部外出身の実力がないことを認めたんだな」と揶揄し、事実上、却下したのだ。
「それにしても空自の輸送機を派遣しないと言うのは意外やな」湾岸戦争の時も海部内閣は空自のCー130を派遣し、難民の空輸を行おうとした。現地で日の丸をつけた輸送機を飛ばすことは戦闘に参加せずに存在をアピールする格好のスタイルなのは間違いない。
「アフガニスタン・ゲリラはソ連が侵攻した時、レッド・アイを大量に供与されているから輸送機は危ないんだろう」「その情報を自衛隊も掴んだんやろか」「まさか、自衛隊にはスパイなんていないはずだぞ」この幹部自衛官の夫婦は「ペンタゴンから情報提供を受けたんだろう」と言うことで納得した。
「ところで志織は元気で学校に行ってるか」「う・・・ん、イスラム教徒の子供への苛めが深刻になってきたみたいでね」日本でも学校での苛めが問題になっているが、戦争の狂気に駆られたアメリカとはレベルが違うのだろう。
「アメリカ人は日本人みたいに偏狭な国民じゃあないから反イスラムが異教徒排斥につながることはないと思うけど、志織にはキリスト教を批判するようなことを言わせないように注意しないとな」「うん、それは口を酸っぱくして言ってるよ」日本人は何か問題が起きると原因を根絶しようと粗探しを始め、疑わしきを消去して完全滅菌するまで徹底してしまう。その点、アメリカ人は突っ走る勢いは凄まじいが脱落者を放置する無神経さがある。敵対行為さえ働かなければ無視してもらえるはずだ。
「それにしても志織は凄い経験をしているな。将来は国際人になるぞ」「ライスみたいな国際政治学者は御免だけどね」佳織はアメリカのコンドリーザ・ライス大統領補佐官には腹に一物あるらしい。日本のマスコミは妙に好意的な紹介をしているが、衛星放送で見る(同時通訳なし)アメリカやイギリスのニュースでは今回の戦争を主導している人物の1人のようだ。
「この期に留学した君は特別な人事枠で管理してもらいたいものだな」「正規のカリキュラムを受けていないから?」「逆に普通では経験できない戦争を最高レベルの現場で見聞しているんだ。米西戦争を見て帰った秋山真之みたいなもんだよ」私の手放しの賞賛にようやく佳織も電話の向こうで笑った。
  1. 2016/09/22(木) 08:59:36|
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女優・シャーミアン・カーさんの逝去を悼む。

9月17日に映画「サウンド オブ ミュージック」でトラップ一家の長女・リーズルを演じたシャーミアン・カーさんが認知症の合併症で亡くなったそうです。73歳でした。認知症の合併症は野僧が患う神経障害と似たような症状なのでその苦しさは判りますから、「楽になれて好かったね」と言うべきかも知れません。
シャーミアンさんはマイナー女優・リタ・オーマンさんとミュージシャンのブライアン・フロンさんの3人娘の次女で姉と妹は女優ですが、本人は結婚後、育児に専念するため事実上は引退し、事業経営や執筆活動に励んでいたようです。
「サウンド オブ ミュージック」は母親が勝手にオディーションを申し込み、ジュラルディン・チャップリン(チャーリー・チャップリンの娘で「愛と哀しみのボレロ」や「赤ちゃんよ永遠に」などに出演している)を押さえて合格したため、本人は医師を目指して大学に通っていたのを断念して女優の道に入ることになりました。
つまり1965年に公開された時には23歳になっていて、シッカリ者で華麗なルイーズは立派に大人だったのです。尤も、純情な家庭教師で母親になるマリアを演じたジュリー・アンドリュースさんは30歳ですから、本人たちの演技力とカメラワークの妙でしょう。
野僧がルイーズに「大人の女」を感じたのは胸の膨らみでした。明らかに母親よりも豊乳なので「外国人は早熟なのか」と納得していましたが、後につき合った19歳のアラスカ人の彼女は日本人よりも貧乳だったところを見ると、やはり年齢の問題のようです。
湖のように青い目も魅力的でしたが彼女は緑がかった青だったので「青い目にも色々あるんだなァ」と感心したものです。
映画の中の名場面と言えば郵便配達のロルフとのダンスとファーストキスですが、実際はスタッフが靴の滑り止めを付け忘れたため、滑ってガラスを突き破ったと言う裏話が映画雑誌「スクリーン」か「ロードショー」に載っていました(リバイバルを見に行った時のパンフレットかも知れません)。
余談ながら「カー」と言う芸名は名前の「シャーミアン」が長く、本名の姓「ファルノン」では売り出しにくいため「リー」や「スー」などの1語の苗字のリストの中から本人が選んだそうです。ご冥福をお祈りします。アーメン
CharmianCarr.jpg「サウンド オブ ミュージック」より
  1. 2016/09/21(水) 09:10:27|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ585

佳織たちのCGS課程では今回の戦争に関する議論が白熱の一途を辿っている。闘争本能を沸き立てせているアメリカの軍人たちと第3者的に観察し、率直な疑問を呈する留学生で意見の一致を見ることが難しいのは当然だが、それが教官の狙いのようだ。
「今こそ長年にわたって旅客機の爆破を繰り返して多くの乗客・乗員を殺害してきたイスラム過激派を殲滅しなければならない」このブッシュ政権の代弁はアメリカ軍人が日替わりで担当している。それに基本教練のように揃ってうなずいているアメリカ軍人たちの顔を見ながら佳織は「自分もアメリカ生まれだけど・・・」と心の中で首を傾げていた。
事件が起きた直後にはアメリカ軍人たちの熱狂に危険を感じた留学生たちは傍観者に徹していたが、この日の議題は間近に迫ったNATO軍の集団的自衛権の発動の可否で、留学生側がアメリカ軍人たちに疑問をぶつける設定だった。先ずドイツ軍の少佐が先制攻撃を加えた。
「テロは軍による攻撃ではない。言わば犯罪行為だ。それに集団的自衛権を適用して軍が対応するのは国際法の拡大解釈である」流石は法理を尊重する国の軍人らしい発議だが、ドイツ軍も湾岸戦争を機にNATO加盟国内に限定していた行動範囲を撤廃しているので、NATO軍が集団的自衛権を発動すればアフガニスタンへも派遣されることになるのは間違いない。つまりこの疑問を解決できなければ部下に任務を与えられない国民性のようだ。
「それでは警察をアフガニスタンに派遣してテロリストと戦わせろと言うのか」アメリカ軍人の反論を受けてカナダ軍の少佐がさらに本質的な疑問を述べた。
「アメリカ政府が今回の9・11に至るまでの一連のテロをアルカーイダの犯行と断定している根拠は何か?」確かに事件後「搭乗者名簿の中にアルカーイダの人間が含まれており、荷物を預けた後、本人は搭乗しなかった」と発表されているが、同姓同名の可能性は払拭できておらず、アメリカ政府の独断をマスコミ各社が強力な組織力を駆使して配信拡大し、その蓄積で既成事実化していったと言われれば否定はできまい。
「合衆国政府が虚偽の情報を発表していると言うのか!」苦し紛れの強弁は教官から「議論の趣旨から外れている」と却下された。そこにイギリス軍の少佐が追い討ちの疑問を発した。
「アルカーイダとタリバーンは協力関係にはあるが一体ではない。引き渡しを拒否したからと言って攻撃対象にするのは無茶だ」「イギリスの首相は集団的自衛権の発動に協力しているじゃないか」今度は即座に皮肉な反論が出た。しかし、少佐は冷笑を浮かべて否定した。
「彼は彼、私は私だ。女王陛下に対する忠誠心に優劣はない」トニー・ブレア首相がブッシュ大統領に同調していることはアメリカでは好意的に報道されているがイギリス国内では疑問の声が上がっているらしい。やはりアメリカとイギリスでは負っている歴史の深さの違うのだ。
「しかし、ソ連軍が大韓航空機を撃墜したことと今回のテロの被害を比べれば明らかに今回の方が事態は重大でしょう」突然、韓国軍の少佐が割って入った。これは劣勢なアメリカ軍人にとって貴重な援軍になった。
「そうだ!ロシア(アメリカ人はソ連をロシアと呼んでいた)以上の悪事を許して良いはずがない」「悪を滅ぼすことが我々アメリカ軍人のカミから与えられた使命なのだ!」結局、熱狂が始まってしまい、教官は渋い顔をして韓国軍の少佐を見たが、本人もアメリカ軍人たちに同調して韓国語で何かを叫んでいる。それを眺めながら佳織が独り言のように質問した。
「この戦争がジャスト(適切)なのかアンジャスト(不適切)なのか、歴史にならないと判らないのでしょうか?」この疑問はウェスト・ポイント(=陸軍士官学校)でも戦争倫理学の教科書として用いられているマイケル・ウォルツアー博士の定義に由来している。アメリカ軍人たちは水を打ったように静かになった。やはり彼らもこの戦争には本質的な疑問を感じており、それを隠すために熱狂を演じているのだ。
  1. 2016/09/21(水) 09:04:32|
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9月21日・日本文化を守った大恩人・フェノロサの命日

1908(明治41)年の明日9月21日に公家と薩長土肥の過激分子どもが狂人・平田篤胤とアジテーター・吉田松陰などの妄言「尊皇攘夷」を実行に移した「廃佛毀釋」のため壊滅の危機に直面していた日本の至宝を守ってくれた大恩人・アーネスト・フェノロサさんの命日です。
野僧は小学生の頃に祖父の寺で岡倉天心さんの法隆寺夢殿の秘佛・救世観音さまを調査した時の体験記を読んで興味を持ち、学校の図書室などで調べたためフェノロサさんのことは早くから知っていました。また高校時代に傾倒していた清沢満之先生の恩師であることを知り、哲学者としての業績も加わりましたから、奈良の幹部候補生学校に入校中はフェノロサさんの足跡を辿る思いで各地の寺院・佛閣巡りに励んだものです(法衣姿なら拝観料が不要なので奈良市内の殆どの寺に入りましたが、観光とは無縁の普通の寺にも随分迷惑をかけました。誠に申し訳ありません)。
フェノロサさんはスペイン人の音楽家の息子ですが、海軍の艦上で演奏するピアニストとして雇われ(旅費がなかった窮余の策らしい)、そのままアメリカに移住したためアメリカ人として生まれました。
成長するとハーバード大学で哲学と政治経済学を学び、先に来日していた友人の紹介で東京帝国大学の招聘教授となり、哲学と政治学、理財(=経済)学を教えました。ここでの教え子には前述の岡倉天心さんや清沢満之さんの他に坪内逍遥さん、高田早苗さん(政治学者・早稲田大学総長)、井上哲次郎さん(日本人初の帝国大学哲学科教授)などの錚々たる人物がいます。
フェノロサさんが来日した明治11(1878)年と言えば廃佛毀釋の凶刃が由緒ある寺院を破壊し尽くしていた頃で、奇跡的に残った佛像・佛画や寺宝の多くも行方知れずになっていました。
フェノロサさんはボストン美術館付属の美術学校で絵画を学んでいたこともあり日本の伝統美術に強い関心を持ち、来日して6年後に文部省図画調査会委員に就任すると岡倉さんと共に奈良・京都・大阪・和歌山の古寺巡りを始め、日本人が自分の手で祖先が営々と築き上げてきた貴重な文化財を破壊し、海外に流出させている愚かさに静かな怒りを抱き、亡国の宗教と化した神道に操られている明治政府の悪業をこれ以上許さないために佛教の至宝を歴史遺産と美術品としての価値を西洋的合理性に基づいて評価する調査を始めたのです。
この業績により明治政府も神道の狂気を政治に持ち込んでいた公家の退潮もあって日本文化の清華と言うべき文化財を破壊する愚かさに気づき、明治30(1897)年には現在の文化財保護法の前身である古寺保存法(本当は「社」も入っているが敢えて省略する)が制定されました。また「国宝」と言う概念もフェノロサさんが提唱したと言われています。
確かに佛教界には実務を取り仕切った岡倉さんの西洋哲学者と美術家の立場から佛像を単なる彫刻、佛画を古びた絵とする調査方法を不遜とする反発はありましたが、政府が推し進める廃佛毀釋に対して為すすべもなく屈従した責任を考えれば何かを言える立場ではないでしょう。
一方、フェノロサさん自身は日本画、特に狩野派に傾倒して、岡倉さんと共に東京美術学校を創設した狩野芳崖と親交を持ち、名作「悲母観音」はフェノロサさんの助言を基に東洋西洋の技法を取り入れて描いたとされています。また自身も狩野派を学び、「狩野永探理信」と言う画名を受けました。さらに佛教に深く帰依し、来日して18年後には滋賀県の三井寺(園城寺)で得度を受けています。
1890年に帰国しますが、アメリカでもボストン美術館の東洋部長に就任し、アメリカに渡っている日本の美術品の調査を行い、散逸を防止する処置を講じる一方で日本文化を紹介する啓蒙活動に取り組んだため、ヨーロッパで流行したジャポニズムとは別次元の日本の伝統文化に対する強い関心が定着したのです。
この日、フェノロサさんはロンドンの大英博物館が収集している日本の美術品を調査している時、心臓発作で急逝し、英国国教会で荼毘に伏され埋葬されましたが、本人の遺志で分骨され、日本の三井寺の別院・法明院にも墓が建てられました。戒名は「玄智院明徹諦信居士」です。
  1. 2016/09/20(火) 09:29:18|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ584

インチョン(仁川)国際空港からニューヨークのジョン・フィッシュランド・ケネディ国際空港までは秋季の風力(太平洋上の偏西風の強さ)では約14時間かかる。したがって昼過ぎの出発では到着は翌日の深夜だ。
岡倉はアフガニスタン以来の疲れと昨夜の不眠が重なりエコノミー席で熟睡していたが、突然、満席の機内で歓声が起こり目を覚ました。
「ようやく決定しそうだな」「これで悪を滅ぼすことができる」「我が国も出遅れてないようにないと」機内には韓国語の叫び声が沸き起こっている。ようやく意識が戻って画像スクリーンを見るとNATOが集団的自衛権の発動を決定する見込みであることを伝える衛星ニュースが流れていた。
映像としてはNATO内で指導的立場を果たしているイギリスのトニー・ブレア首相が熱弁を奮っている姿とニューヨークの貿易センタービルへの旅客機の突入シーン、そして湾岸戦争の記録映像を織り交ぜて編集されているようだが、これで開戦は時間の問題になった。
ジアエの話では韓国も軍を派遣することが決まっているようだが、今回は湾岸戦争以上の国が同調するだろう。
「自衛隊の派遣は法案を国会に提出する前に総理府の官僚に説明する必要があるから、まだ間に合うな」岡倉の任務は自衛隊の派遣を決定する上での現地情報の提供だが、本来であれば「後手」以外の何物でもない。しかし、それが政府の情報専門組織ではない非合法な集団の限界ではあった。
何にしても今の岡倉には防衛庁が総理府の外局である日本の異常な組織制度や周囲の顔色を窺いながらでしか前に進まないお役所仕事がかえって有り難く思えた。

ニューヨークに到着した岡倉は朝一番で報告できるようにワシントンに向かった。野中将補への取り次ぎは自分にアフガニスタン行きを命じた工藤に依頼してある。
岡倉は地下鉄の出口で待っていた工藤と一緒にタクシーで日本大使館に向かった。
「ご苦労さん、睡眠不足で大丈夫か?」「こちらへ向かう機内で熟睡してきましたから大丈夫です」工藤も唐突に何の情報も与えず命令したことを気にしているようで、珍しく気遣いの言葉をかけた。それに答えながら岡倉は頭の中で口頭報告を組み立てていた。
「島村くん、ご苦労だったな」野中将補は岡倉の顔を見ると握手をして出迎えてくれた。
「私も東京に呼ばれて今夜、出発するんだ。間に合ってくれて良かったよ」そう言いながら野中将補は2人にソファーを勧め、盗聴機を妨害するためのBGMをかけた後、「コーヒーが来るから報告は待て」と注意しながら自分も座った。やがて金髪の中年女性がコーヒーを持ってきて、退室したところで報告が始まった。
「タリバーンへの国民の支持は強固なものがあります」野中将補や工藤もアメリカ政府の主張に疑問を持っているらしく、この冒頭には反応しない。
「アフガニスタン国内には明確な軍事拠点は見当たりません。そもそもタリバーンは軍事組織ではなく基地や駐屯地を持たないのだから当然です」これも同様だった。
「彼らはソ連との戦争で鍛えられていますから、ゲリラ戦には熟練しています。若し地上部隊が侵攻すれば国民の支持・協力の元に執拗なゲリラ戦を展開するでしょう」要するに欧米の後押しで新政府が樹立され、クラウゼヴィッツ的な定義での勝利を掴んでも戦闘は延々と散発し続け、やがて疲弊した欧米の正規軍は撤退しなければならなくなる。それどころか9・11式の自爆テロが世界規模で展開されることになるだろう。
「要するに陸自の派遣は止めるべきだと言うのが結論だな」野中将補の理解は適切だった。
  1. 2016/09/20(火) 09:27:08|
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9月19日・大親分中の大親分・新門辰五郎の命日

明治8(1875)年の本日9月19日は江戸町火消し「を」組の新門辰五郎親分の命日です。火消の辰五郎親分と言えば時代劇「暴れん坊将軍」でも北島三郎さんが演じていましたが、こちらは「め組」であり、時代背景も100年ほどの違いがあるので同名の別人でしょう。
野僧の記憶に残っているところでは(別人とは)言え北島三郎さんの他には大河ドラマ「翔ぶが如く」では三木のり平さん、同じく「徳川慶喜」は堺正章さん、「仁・JIN」では中村敦夫さんが演じていましたが、やはり風格と江戸の粋な雰囲気から見て中村さんが一番でしょう(顔は全く似ていませんが)。兎に角、「仁・JIN」は内藤聖陽さんの坂本龍馬を始め、小日向文世さんの勝海舟、宮沢和史さんの西郷吉之助など妙な内部事情や条件が先に立つNHK(堺さんは三木さんのイメージを踏襲したのでしょう)とは雲泥の差の適役ばかりです。その点は流石に「ドラマのTBS」です。
辰五郎親分の通称「新門」は浅草の浅草寺伝法院(=昭和になって「極道辻説法」の今東光猊下が出家した寺)の門番だったことに由来しています。
火消しになった理由は小説や時代劇によって異なりますが、現実味があるものでは「火事で父親が焼死したため仇を討とうとした」、逆に「実家の失火で近所を類焼させたことで責任を感じた」などが語られています。
そんな辰五郎親分は浅草を担当(=縄張り)する「を組」の頭である仁右衛門親分の配下になり、やがて娘の婿養子になって後を継ぎました。
江戸の町火消しについては江戸落語「鼠穴」で詳細に描かれていますが、当時の消防は消火器材が貧弱だったので(木製のポンプ=竜吐水以外は手桶や濡れ布団・濡れムシロによるしかなかった)、火災の類焼を防ぐため近隣の建物を破壊し、可燃物を撤去して防火帯を作ることが消火活動の中心であり、身軽で強靭な体力を必要とするため鳶職からの転業や兼業が多かったのですが、常に死線を潜っているため度胸が据わっており、おまけに日頃から大店の商人や長屋の大家、地区の顔役などから付け届けが入るため多くの配下を養ってもなお非常に裕福だったので、八九三(=ヤクザ)の揉め事の仲裁や奉行所では対応できない裏社会の摘発などを行う江戸の町を守る実力者だったようです。
その中でも辰五郎親分の腕と度胸は群を抜いており、一橋家に養子に入ったばかりの後の15代将軍・徳川慶喜公とも知り合い、上洛や蟄居の時には警護の任を果たしました。
また勝海舟さんとは父親の小吉さん以来の付き合いで(勝小吉さんは江戸最強の剣豪でしたが、正式な作法を身につけていなかったため喧嘩が専門だった)、この両者との関わりによって辰五郎親分は幕末史に名を残すことになったのです。
先ず慶喜公とは14代将軍・家茂公の後見役として上洛する時、多くの家臣を従えて行ったにも関わらず京で毛利藩士がテロを繰り返している治安状況に不安を持ち、辰五郎親分に同行を求めました。この時、親分の身の回りの世話をさせるためについてきた娘の芳さんが慶喜公の妾になっています。辰五郎親分は町人としての分を守って戦さには参加せず、あくまでも慶喜公の警護役に徹していましたが、大阪城を抜け出て軍艦で江戸へ逃れた後、城内に残置されていた将軍家の象徴である東照神君・家康公以来の金扇子の馬印を持ち帰りました。
勝海舟さんとは慶喜公が上野の寛永寺に蟄居している中、反乱軍の江戸攻撃を回避する交渉が決裂した場合、陸路では移動できない庶民を船で対岸に逃がした後で江戸の各所に放火して反乱軍を火炎攻撃することを依頼されていました。
結局、西郷吉之助さんの度量により江戸総攻撃は回避されたため辰五郎親分は慶喜公の警護に専念して水戸、駿府へも同行し、駿府には移住しています。駿府では清水の大親分・次郎長さんと知り合い、幕臣のための富士裾野の開墾や茶の栽培、販路開拓に尽力したのです。
そんな辰五郎親分の辞世は「思ひおく まぐろの刺身 鰒汁((ふぐとしる) ふっくりぼぼ(=女性自身)に どぶろくの味」です。最高ですね。
新門辰五郎みなもと太郎作「風雲児たち」より
  1. 2016/09/19(月) 10:22:30|
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振り向けばイエスタディ583

「我が国は衛生要員を派遣して医療救援活動を実施するようなの」翌朝、モーテルから出勤するジアエは身支度をしながら説明をした。韓国当局としては人道主義に基づく派遣であり、これならば国民の理解を得られ、現地でも歓迎されると言う見通しに立っているようだ。しかし、岡倉は首を振った。
「やはり赤十字の標章を使うんだろう」「当然、そうなるね」ジアエは大き目のダブル・ベッドの隅にあるドレッサーに座り、シャワーを浴びた髪をドライヤーで乾かしながら返事をした。
岡倉はドライヤーの音で話が聞き辛いことを察して、すぐ後ろに立って話を続けた。
「イスラム教徒にとって赤十字はキリスト教の旗になるんだ。若し、衛生部隊を派遣するのならイスラム教の赤新星旗にしないと危ないな」赤新月はジュネーブ条約で認められている赤十字と同じ効力を持つ標章だが、原則としてイスラム教国の要員が使用するもので地域に適用される訳ではない。非イスラム教国の軍が使用することが国際法上の違法行為に当たるかは判らないが、キリスト教国の一員として乗り込むつもりの韓国では無理な話だろう。
「ふーん、それは考えてもみなかったな。出勤したら意見として上申してみるわ」「カソリックの李中尉がそんな意見を上げても良いのか?」「韓国軍兵士の安全を守るためなら話は別よ」そう答えた鏡の中の妻は士官としての面ざしであり、岡倉は感服しながらうなずいた。
そんなジアエはポーチから取り出した口紅をドレッサーに置くと立ち上がってこちらを向いた。「貴方、口紅を塗る前に・・・」確かに化粧が終わってから口づけをすればジアエは口紅の塗り直し、岡倉は洗顔のし直しで互いに二度手間になってしまう。岡倉は苦笑しながら抱き締め、またしばらく会えない妻に口づけをした。

一緒にモーテルを出て、別々にタクシーを止める前に岡倉はジアエに訊いてみた。
「お前の李家の墓はどこにあるんだ?」「どうして?」「今日はチュソク(秋夕)だろう。お前は岡倉家の墓参りに行ってくれたから、今度は俺がと思ってね」本当に飛び込みの購入だったためインチョンからニューヨークの航空券は昼過ぎの便しか取れなかったのだ。これが日本であれば大規模なテロが起きた直後のアメリカへの旅行は自粛ムードになるところだが、韓国人は余計な遠慮をしないようだ。
「ありがとう。私は貴方のところへ行った時にチェソクの休暇を取ったから勤務なのよ」おそらく国防省は休暇を返上して派遣準備に当たっているはずなので、連隊司令部勤務のジアエも職場を離れられないのだろう。派遣されるのが衛生部隊だけであれば規模は百人前後かも知れないが、韓国軍の後方職種は指揮官以下女性が主力なので選考にも難しい点がありそうだ。
「でも、李家の墓は済州島にあるの」「済州島?九州の近くのか?」「うん・・・」返事をしてジアエの顔は暗く沈んだ。
「私の父は朝鮮戦争の時、李承晩が住民を大弾圧した事件で両親を殺され、ソウルのカソリックの家庭に引き取られたの。だから父の養父母の墓はソウル市内にあるけれど、李家の墓は判らない・・・」思いがけないジアエの告白に岡倉は言葉が出なかった。済州島事件は島民の一部の共産主義信奉者が北朝鮮の侵攻を歓迎する集会を開催したことに李承晩が激怒し、軍を送って摘発を始めたのだが、戦争の興奮状態の中で行ったため大虐殺に発展したのだ。
別れ際が重苦しくなってしまったことを不吉に感じ、岡倉は無理に話題を変えることにした。
「俺の親父は九州の小倉生まれだから対岸の出身だな。名古屋の大学で岐阜の旧家の一人娘のお袋と知り合って養子に入ったんだが、俺も対岸の九州男児のハーフだぞ。半分幼馴染だ!」ジアエは「対岸の」を重ねた夫の言葉に優しさを感じ、微笑みながらうなずいた。
「あッ、遅刻しちゃう」ジアエは腕時計を見ると慌てて手を挙げてタクシーを止めた。
  1. 2016/09/19(月) 10:17:32|
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9月18日・埋もれた天才・前原嘉蔵の命日

明治25(1892)年の本日9月18日は大天才によって発掘されながら再び埋もれてしまった天才・前原嘉蔵=巧山さんの命日です。
どのくらい埋もれてしまっているのかと言うと出身地である宇和島市の紹介ページを見ても市出身の有名人の中に入っていません(野僧が知っている人物は漫画家の谷岡ヤスジさん=「鼻血ブー」ぐらいですが)。
前原さんは昭和52年のNHKの大河ドラマ「花神」で愛川欽也さんが好演して注目を集めましたが、地元出身者に訊いても「二宮忠八なら知っているけど、前原嘉蔵なんて知らない」と言う答えが大半でした。尤も、訊いた相手は航空自衛官ですから模型飛行機を発明した二宮さんの方が模型蒸気船を制作した前原さんよりも関心があったのかも知れません。
野僧も中学生の頃に司馬遼太郎先生の「花神」を読むまで知りませんでしたが、逆に言えば司馬先生だから再発掘できた逸材なのでしょう。
前原さんは文化9(1812)年に伊予国(=現在の愛媛県)南部の海岸沿いにあった宇和島藩の八幡浜で生まれ、幼い頃から手先が器用なため細工職人を目指しましたが、宇和島城下では弟子をとって教える程の親方はおらず、他国に出て修業するだけの余裕もなかったため、自己流で提灯の修理を本業としたようです。
しかし、市場規模が小さい宇和島藩内の八幡浜集落では提灯の修理の頻度は知れており、頼まれれば雨漏りの修理や棚の取り付け、どぶ板の補修からちゃぶ台などの家具の製作、小間物細工までやっていました。
そんな前原さんは単なる手先が器用な職人ではなく、物を作りながら構造を探求し、改良する工夫を思案する研究者的な資質を持っていたのです。
その頃、宇和島藩では蘭学好きの藩主・伊達宗城公が相次ぐ外国船の来航を受けて海防の近代化を言い出し、鳥居耀蔵の策謀でつながれていた伝馬町の牢から脱獄した(=手下の牢番に放火させて逃走した)高野長英をかくまい技術指導を受けましたが、あまりにも優れた西洋技術の導入であったため幕府の疑いを招き、追い払うことになりました。
それでも外国船の来航は頻繁になる一方で、ついにはロシアとアメリカが国交の樹立を要求してくるに至り、次の指導者探しを藩医でシーボルトの高弟だった二宮敬作先生に命じ、大阪の緒方洪庵先生の適塾の塾頭だった村田蔵六さんを見つけ出したのです。
着任早々、村田さんは藩主・宗城公から蒸気船の製作を命ぜられますが、問題は村田さんが引いた設計図を理解して近代的な機械を製作できる技術者がいないことでした。
宇和島藩は10万石の小藩のため他国から高名な職人を招聘する資力はなく、藩主の命令と村田さんが示した条件に苦慮した重臣が「藩内1番の職人」として推薦したのが前原さんだったのです。
村田さんは「宇和島藩内の職人」と聞いて失望し、担当する仕事のレベルの高さを思い知らせるために蒸気船の設計図を見せたのですが、すると前原さんは長時間にわたって図面を眺めた後、機関部と推進部の接続の不備を指摘しました。
そこは村田さんが読んでいた西洋書にも詳細な解説がなく、長崎で実物を見てから書き加えるつもりだった部分で、図面を見ただけでそれを見抜いた前原さんに村田さんは自分と同レベルの天才としての能力を認めたのです。
こうして村田さんに同行して長崎で実物の蒸気機関を見て、その後は既に蒸気船を導入していた島津藩で研究を深め、帰国後は村田さんと二人三脚で蒸気機関を試作し、ついに日本初の純国産蒸気船を完成させました。
この功によって士分として宇和島藩に仕えることとなりますが狭い藩内から出ることはできず、明治5年になってから大阪へ出たものの商才は欠けていたため翌年には宇和島に帰って、そのままこの日を迎えてしまいました。
西洋式新型小銃や砲弾の開発などの軍事技術だけでなく、染料、木綿繊維、合金の研究やミシンまで製作しているのにパンを作ることには失敗したのはご愛嬌でしょう。
前原嘉蔵みなもと太郎作「風雲児たち・幕末編」より
  1. 2016/09/18(日) 08:55:32|
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振り向けばイエスタディ582

「お前は今回のテロをアメリカが言うようなイスラムの犯罪だと思っているのか?」岡倉は韓国陸軍中尉で敬虔なカソリック教徒である妻に訊いてみた。韓国も日本と同様にアメリカの同盟国であり、その意向に反することはできないことは承知しているが、現場のアメリカで見てきたあまりにも強引な戦争への手順に感じている疑問を妻にも理解させたかったのだ。
「大統領が中央情報部(=KCIA)を解体してしまったから我が国には独自の情報収集能力がないのよ。だからアメリカの言うことを信じるしかないでしょう」妻の返事に岡倉は我が身を思って苦笑してしまった。
「そんなことを言ったって日本には始めから情報専門機関なんかないぞ。おまけに外務省はその国が好きで勉強してきた連中ばかりが入っているから日本よりも担当する国の利益を優先する。その点、韓国人には強烈な愛国心があるじゃないか」ジアエの顔が複雑に変化する。日本に情報専門機関がないのなら夫の仕事は誰の指令を受けているのなのか軍に所属する者としては理解できない。その一方で日本の外交を見ていると自国の権益や尊厳よりも相手の機嫌取りを優先しているように感じていた。その原因が「愛国心の欠如だ」と言うのなら日本は国家なのかも疑問になってくる。そんな様子を見ながら岡倉は本論に入った。
「アメリカは続発する旅客機爆破テロをタリバーンの犯行だって断定しながらタリバーンとアルカーイダを同一視してきたが、両者は一体ではないぞ」アフガニスタンから帰ってきたばかりの夫が言うのだから、それが真実なのだろうとジアエは思った。
「アルカーイダとタリバーンは同志として互いを尊重しているが方向性は真逆だ」「真逆?」「タリバーンは内政、アルカーイダは外征。それを承知で共犯者にして攻撃を始める戦争に正義があるか?」ここまで言った後、岡倉は自分が制服を着たままの幹部自衛官で、WACの妻が同じことを言ったならどうするかを考えてしまった。つまり同期のモリヤと伊藤(=旧姓)夫婦のような設定だ。そこで話の内容をもう少し穏健なものにした。
「韓国人はクリスチャンと佛教徒が半々いるんだろう。それで互いに努力して共存している。つまりお前が韓国で佛教徒を見るような目で海外のイスラム教徒を見るべきなんだ」「でも戦争を仕掛けたのはイスラム側でしょう」士官であるジアエの立場としては軍が戦争の準備を進めている中で疑問や反論をすることはできないのは当然だ。しかし、「この妻にはあくまでも冷静で誠実な人間であって欲しい」と言うのが国際社会の渦中に棲む岡倉の願望だった。
「それを言うなら佛教では『因果応報』『自業自得』と答えることになる。欧米がイスラム圏を植民地にしていた時代からやってきたことの蓄積がテロと言う反撃手段を生んだんだ。ブッシュはアメリカ軍を現代の十字軍だと明言しているだろう。そんな外交姿勢が自分に向けて引き金を引かせたんだ」「でもアルカーイダのテロは・・・」ジアエは反論しかけて口をつぐんだ。珍しく熱弁を奮う夫の意見を聞く気持ちになったようだ。
「アフガニスタンでのアルカーイダへの支持は強固なものがある。だから異教徒の外国軍が入って行けば国民の大半は支援者になるはずだ。だから・・・」今度は岡倉が言葉を濁した。本当はこの情報を基に日本の防衛庁に送る意見を言いかけたのだ。
「お前は出撃命令が出ても拒否しろ。クリスチャンの正義はあの国では悪事なんだからな」「命令拒否を・・・」それは重過ぎる指示だった。しかし、夫も同じ軍務に身を置いている以上、その重大性を承知した上で言っていることも判る。ジアエは返事をしないまま夫の肩にもたれかかった。
「お前だけは危険な目に遭わせたくない。それで軍から追われるなら俺のところへ来い」そう言って岡倉は妻に口づけをし、生きて還った証の営みを始めた。ジアエはこの快感の波が重過ぎる悩みを流し去ってくれることを願いながら夫の求めに応えていた。
  1. 2016/09/18(日) 08:53:44|
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9月18日・韓国で江陵浸透事件が発生した。

1996年の明日9月18日に韓国の東岸北部の江原道(この地方は軍事境界線で分断されている)・江陵市の海岸で座礁した潜水艦が発見されたため軍・警察による大規模な捜索が開始され、南北双方に多数の死傷者を出す「江陵浸透(工作員を潜入させるの意味)事件」になりました。
事件の概要は1名だけ捕獲された北の工作人の証言によるしかないのですが、それによると新たな工作員を潜入させ、交代者を収容する任務を帯びて5日前にサンオ型潜水艦で北朝鮮のウオンサン付近の軍港を出発し、軍事境界線を越えた海岸したのです。
サンオ(=朝鮮語の「鮫」)型潜水艦はユーゴスラビアの小型潜水艦を模倣した旧式で、ユーゴスラビアが公表している諸元では全長35メートル、排水量25トン、航続距離350浬=463キロ、持続潜航距離40浬=74キロ、電動モーター(=潜航時)とディーゼルエンジン(シュノーケルを海面上に出す必要がある)駆動なのでこの程度の任務にしか使用できないのでしょう。この時も韓国海軍の警戒が厳しい(海上自衛隊に比べれば大きな網の目ですが)軍事境界線沖では電動モーターによる最大潜水深度で通過したようです。
何とか無事に目的地の江陵市の人気がない海岸に到着し、土台人と呼ばれる工作の中核的支援者(主に朝鮮戦争時に残留した北朝鮮出身者、日本では在日朝鮮人)と連絡を取らせるため工作員3名を泳いで上陸させ、潜水艦はその場で再度潜行して待機したのです。
しかし、戻ってきた工作員を収容するため浮上して海岸に接近したところ波に押し流されて座礁してしまい、離礁操作を繰り返す間にスクリューも破損して航行不能に陥りました。
このため艦長は艦の放棄を決定し、泳いで上陸した後、遠隔装置によって爆破・自沈しようとしたのですが爆発の効果が予定ほどではなく、朝になって海岸沿いの道路を走ってきたタクシーによって発見され、大騒ぎになりました。
当時は文民から就任した金泳三大統領でしたが即座に軍と警察による捜索と掃討を命じました。
その日のうちに現場から20キロ離れた山の中で艦長以下11名の遺体が見つかりましたが、現場の状況から10名は青酸カリで服毒した後、同行している政治将校が拳銃で頭部を撃って殺しており、本人は服毒の上、拳銃で頭を撃って死んでいました。この身の処し方を見ると「北朝鮮は帝国陸軍の遺児」と言う評価も納得できてしまいます。
翌日、軍が山の中に蛸壷を掘って隠れていた工作員を発見しましたが、先に飛び出して手榴弾を投げて逃げたためヘリコプーターで兵士を降下させて退路を塞ぎ、射殺しました
3日後、軍と工作員の間で銃撃戦が発生し、北の2名、南の1名が戦死しました。
4日後、軍事境界線付近で待ち伏せしていた軍と工作員の銃撃戦が発生し、双方2名が戦死したのですが、この時、夜間外出禁止命令を無視して茸採りをしていた民間人も誤って射殺されています。
その後も散発的に銃撃戦が続きますが、次第に軍が行動を把握していない民間人や警察官を誤って射殺する事件が頻発するようになり、韓国政府も投降を呼び掛けるようになっていた中、11月5日に軍事境界線から10キロ手前で追い詰められた工作員2名が持っている武器を使い切るように激しく抵抗し、北の2名を射殺したものの南も3名が戦死、14名が戦傷と言う損害を出しました。こうして事件発生から49日目の11月7日に終結宣言が発表されたのです。
最終的には北が集団自決11名、射殺13名、逮捕1名、行方不明1名、南は軍の戦死が8名、事故死が4名、警察官の事故死が1名、民間人は射殺が3名、事故死が1名でした。
2日目に逮捕された工作員は当初、乗員と工作員は20名と証言していましたが実際は26名で、これは「20名程度が射殺されれば韓国軍も納得して6名は逃れられるだろう」と言う冷静な計算だったのです。ところが煙草や焼酎などを与えながら尋問すると口を割ったそうです。
  1. 2016/09/17(土) 09:01:39|
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振り向けばイエスタディ481

タイ航空の機内には香が焚いてあり、岡倉は佛教の空気に包まれて心が癒されるように感じていた。ところがキャビンアテンダントたちの態度は妙だった。
先ず食事を配る時、「連絡がなかったので申し訳ありませんがハラールの肉(=イスラムの儀礼で屠殺した食用肉)がありません」と謝罪された。どうやら随分と伸びた髭でムスリムと間違えられているらしい。
パキスタンでも道路を頻繁に行き交う軍用車両や入国時には見かけなかった完全武装の軍人の警備など戦争が間近に迫っていることを実感する光景を何度も見た。この風貌のままでは韓国やアメリカでは身柄を拘束されかねない。
岡倉は妻のジアエに見せたい気持ちもあったが、タイに到着したなら売店で髭剃りを買ってトイレで剃り落すことにした。その前にハサミも必要かも知れない。

「貴方、お帰りなさい」仕事帰りにインチョン(=仁川)空港まで迎えに来ているジアエは軍服姿だった。流石にこの服装では愛情表現は控えるのかと思ったが、当たり前に抱きついてくる。しかし、生命を危険に晒してきた岡倉の下半身は妻の髪の匂いと身体の弾力で完全に戦闘態勢になってしまった。このままでは空港のトイレに連れ込んで一戦になりそうだ。
「うん、ただいま。君の祈りのおかげで無事に帰ったよ」キスを終えた岡倉の日本語の返事にジアエは難しそうな顔をした。どうやら「おかげ」と言う日本独自の概念の意味が思い出せなかったらしい。確かに韓国語や英語でも完全に位置する言葉は思いつかない。強いて言えば英語なら「サンキュー」の「サンクス」、韓国語なら「ドックン・ネ」ぐらいだろうか。そんな余計なことを考えている間に戦闘態勢は解除された。
「今夜はお前のアパートに泊めてもらっても良いのか?」「それはいつも貴方が決めているんでしょう」確かに身分を隠すため軍人であるジアエのアパートに宿泊することを避けてきた。極度の緊張から解放されて警戒心が薄れてしまうのは危険だ。岡倉は韓国に予約なしで宿泊できる連れ込みホテルがあるのか訊こうと思ったが、陸軍士官としての立場を考えて控えた。
「私が軍服を脱いで何かを羽織るから、それでモーテルへ入りましょう」思案している夫の顔を見てジアエが提案してきた。どうやら韓国にもモーテルはあるらしい。
結局、空港内の衣料品店で軍服の緑色のスカートに合うカーデガンを買い、ソウル市内で夕食を終えた後、まともそうなモーテルに入った。韓国のモーテルにも日本のカーホテルのような「いかにも」と言う派手な外観の若向きやビジネスホテルを思わせる一般宿泊兼用があるようだ(サービスは韓国の方が柔軟で楽です)。

「我が国もアフガニスタンに軍を派遣するようです」ホテルの部屋でジアエが深刻な顔で説明を始めた。岡倉はコンビニで買ってきた英字新聞で現在の動きを確認していたが妻の解説に切り替えた。
「大統領(=金大中)はカソリックだから反イスラムの戦争には手放しで賛成だし、バーミアンの石佛の爆破で佛教界も賛成しているから止める者はいないの」妻にタリバーンがバーミアンの石佛を爆破した経緯を語ろうかと思ったが、意味がないので口にしなかった。
「タリバーンはアメリカが言っているような恐怖政治を敷く弾圧者ではないよ。むしろ模範的信仰者として国民の強い信頼と尊敬を集めているんだ。そんなところに異教徒が足を踏み入れれば猛烈な抵抗に遭うだけだぞ」本来は岡倉がアフガニスタンに潜入したことは秘密事項だ。しかし、この妻は全てを見抜いている。だから敢えて韓国軍の士官として必要な情報を与えようと思った。
  1. 2016/09/17(土) 09:00:36|
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振り向けばイエスタディ480

淳之介が沖縄へ来て1カ月が過ぎた日曜日、祖父が那覇市内の美恵子が勤める理容店に連れて行ってくれた。国際通りを外れたビジネス街の一角にその店はあった。
「こんにちは」「いらっしゃいませ」予約は電話で母に頼んであり、ガラスのドアを開けると母と父と同年代の店長が待ちかねたように声をかけてきた。
「こちらが美恵ちゃんの息子さんねェ、男前さァ」店長に誉められて淳之介は店内に並んでいる鏡に映った自分を見て首をひねった。
「それは私に似たのさァ。淳之介、こっちへおいで」母は店長の指示も待たず3つ並んだ椅子の一番奥に座らせる。淳之介は母と暮らしていた頃には自宅で散髪していたので、こうして理容店で客として頭を刈ってもらうのは初めてだ。
「今まで髪はどこで刈ってたねェ」椅子に座った淳之介の顔を鏡で見ながら母が訊いてきた。
「うん、家でお父さんがやってくれてたよ」淳之介の答えを聞いて母の目が険しくなった。
「道理で素人の仕事だと思ったさァ。あの人は相変わらずケチ臭いことをやっているんだね」「ううん、家でやると床屋代をお小遣いに上乗せしてもらえるんだ」淳之介の想定外の説明に母は困ったように笑って誤魔化した。
「これからはプロの仕事で男前を磨くのさァ。お母さんに任せるね」「でも・・・」今まで淳之介は父がホームバリカンで刈り上げるスポーツ刈りだった上、玉城村の中学校では耳と首筋に触らない程度までと指導されている。母がそのことを知っているのか不安なのだ。
「大丈夫、ウチには中学生のお客さんも多いのさァ、だから学校の規則は判っているよ」そう言うと母はスプレーで水をかけ、ハサミで髪を切りだした。この強引さに父は翻弄されていたのだが、そんなことを淳之介が知るはずがなかった。
「うん、やっぱり私のセンスが一番似合うさァ」髪を切り終えると母は鏡の中の息子の顔を惚れ惚れしたような目で見ている。確かにスポーツ刈りよりもお洒落な感じがするが、淳之介は大きな鏡の前に座ったことがないので気恥ずかしさが先に立っていた。
「それじゃあ、髭を剃るさァ」そう言うと母はシャボンの用意をしに店の隅へ行き、代わりに別の予約の客が来ていないらしい店長が椅子の後ろに立って母の仕事を確認した。
「お母さんは朝から君をどんなスタイルにしようか業界誌を研究していたんだよ。帰ってきてくれて有り難う。俺からもお礼を言うよ」店長の言葉に淳之介が胸を熱くしているところに母が戻ってきて店長は「良い仕事してるさァ」と声をかけた。
鏡の中の母が初めてみる不思議な形の器の中で泡を立て、見たことがない短い筆のようなブラシで首筋に泡を塗っていく。そんな仕事をしながらも母は話を止めなかった。
「首筋なんかはどうやって剃ってるねェ」「お父さんがやってくれてたよ」「ふーん、安全剃刀だから微妙な曲線が描けないんだね」どうも母は父の仕事にケチをつけたくて仕方ないようだ。
首筋、耳の周り、揉み上げときて淳之介は椅子を倒して寝かされた。
「熱いよ」そう言って母が蒸しタオルを顔にかぶせる。これも初体験だ。やがてタオルをはがして泡を塗り、顎から剃り始めた。まだ髭が薄い淳之介ならこれは簡単な仕事だろう。母の仕事が唇の上=鼻の下になった時、何気なく淳之介は家でのエピソードを話した。
「僕が髭を剃るようになった時、お父さんが『唇を切らないように気をつけろ』って言ってたよ」その言葉に母は急に手を止めた。寝かされている淳之介には見えないが母は鼻をすすっているようだ。
「そんなこと言ったら目が潤んで唇を切ってしまうさァ」母にとって唇を切ることには何か特別な意味があるようだ。それが父と母が交際を始める切っ掛けになったことは、あのまま家族でいれば思い出話として聞く機会もあったのだろうが、それは失われてしまった。
岡田奈々イメージ画像
  1. 2016/09/16(金) 09:03:31|
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9月16日・横山大観が認めた天才・菱田春草の命日

明治44(1911)年の明日9月16日は近代日本画界最大の巨星である横山大観さんが「あいつこそ天才だ。磨くほど光る金の瓦だったよ。俺何か普通の瓦だよ」と認めていたライバルにして盟友の菱田春草さんの命日です。惜しいことに36歳の若さでした。
菱田さんは長野県飯田市の出身のため飯田線沿いに棲んでいた美術部部長の野僧は中学生の頃から画集を持っていましたが(=お年玉で購入した豪華本)、その作品には美術部の顧問が「優れた絵画には引き込まれるか、飛び出してくる力がある」と言っていたのとは別の力を感じていました。
菱田さんの作品は東京美術学校の卒業作品「寡婦と孤児」では戦さで夫を亡くした女性の慟哭と怯え、1902年の「王昭君」なら列に並ぶ女性の囁きや呟き、晩年の傑作「落葉」では風が吹けば「カサカサ」と乾いた音が聞こえるような静寂な空気を感じました。熊本県立美術館で見た「黒き猫」は触れれば毛が柔らかいのではないかと思わせる質感があり、その点は圧倒的な迫力で魅せる横山さんの作品とは異なる深さがあるようです。
ただし、東京美術学校2年=18歳の時に描いた「海老にさざえ」では同年代の天才の技量を見せつけられ、「これが才能と言うものか」と自分を見極めることになりました。所詮、野僧は「絵が上手な普通の子」だったのです。
愛知県岡崎市の子供の国公園の美術館には世界各国の巨匠たちの少年時代の作品が展示されていますが、菱田さんのように緻密で完成度が高い作品を描く早熟な人と着想・注目点が普通ではない強烈な個性を発揮している人に分かれるようで、絵が上手・好きなだけではプロにはなれないことを再確認しました。
菱田さんは前述の卒業作品「寡婦と孤児」について美術学校の教授たちが描かれている寡婦の顔が余りに不気味なため「化け物絵」と批判した中、校長の岡倉天心さんだけが最優等と高く正当に評価してくれたこともあり、生涯行動を共にすることになりました。
岡倉さんが校内に怪文書が流布されたことで追われ日本美術院を創設すると、菱田さんも横山さんや下村観山さんたちと共に参加したのですが、日本社会の閉鎖性はこの頃からどうしようもなく、天才たちの優れた作品でも名が通った作家の推薦=権威がなければ売れず、組織の経営は窮乏に陥りました。
この頃、横山さん、菱田さん、下村さんは岡倉さんから「空気を描く工夫はないか」と言う命題を与えられてその探求に明け暮れていたのですが、伝統的な日本画が常用してきた輪郭線を廃したことで空間的な広がりと温度のような臨場感が高まったものの、市場では「朦朧体(=ボンヤリとした作風)」と揶揄されて見向きもされなかったのです。現在ならトンデモナイ価格になることは「開運!何でも鑑定団」でご存知のはずです。
そんな中、岡倉さんが横山さんと菱田さんを伴って欧米を旅行すると日本では「朦朧体」と揶揄された新たな技法は人気を博し作品が飛ぶように売れて自信を持って帰国したのですが、3人の留守中に反対勢力が日本美術院の排斥を固めており、茨城県の海岸の寒村・五浦(いずら)に都落ちすることになりました。
こうした無理がたたったのか菱田さんは網膜炎を患い、医師から製作を禁止されて東京での失意の日々を送ることになったのです。この頃、息子を連れて散歩に出た武蔵野の風景を描いたのが前述の「落葉」です。しかし、この傑作も保守派からは「西洋かぶれ」と批判されたため賞などを受けることはありませんでしたが、現在は国の重要文化財に指定されています。
明治44(1911)年の8月に失明し、この日に腎臓炎で亡くなったのですが、この組み合わせは糖尿病の合併症そのままです(翌年に崩御した明治天皇も同様)。
日本社会の閉鎖性はどれ程多くの有為な人材を闇に葬ってきたのか・・・おそらく現在も名が知られぬ天才たちが歴史の影に埋もれているのでしょう。
  1. 2016/09/15(木) 08:37:10|
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振り向けばイエスタディ579

淳之介は転校して早々に教室で暴れたことで教師から「問題児」と言うレッテルを貼られてしまった。勿論、騒動の後に面接を受け母の件を訴えたのだが、沖縄の人間である教師にはそれがどれ程、心を傷つけるかが判り切れていなかった。部活を終えて家に帰ると教師から電話で説明を受けたらしい祖父に居間へ呼ばれた。
「教室で暴れたそうだが、本当にお母さんのことを言われたからなのか?」祖父は目の前に正座をしている孫を見ながら静かに訊いた。
「お母さんがアメリカ兵に集団エイプされた何て嘘を言うから腹が立って・・・」孫の返事に祖父は黙って何かを思案した。淳之介には祖父が作るこの短い間(ま)が安心感を与えている。
「それは半分だけ事実なんだ」「えッ?それじゃあお母さんはアメリカ兵にレイプされたの」淳之介が大声を出すと祖父は手でそれを制しながら言葉を続けた。
「アメリカ兵と言うのは新聞が勝手に書いたことだけど、男に集団で強姦されたのは本当なのさァ」淳之介には「ゴーカン」と言う単語の意味が判らなかったが前後の脈絡から理解した。
「お母さん、それで離婚したの?」淳之介は母が自分を捨ててまで結ばれようとした相手と別れた理由が判らないでいた。しかし、祖父は黙って首を振った。
「それは違う。でもどれもこれもお母さん自分で播いた種子なのは間違いないさ」祖父の厳しい言葉に淳之介は返事ができないでいる。そんな孫に祖父は教えを垂れた。
「お前も自分で沖縄へ来ると決めたのだから、良いことも悪いことも受け入れないといけないさァ。お母さんもモリヤさんや息子を捨てて別の男に走った結果を自分で受け止めているんだよ」淳之介の胸に愛知県の祖父母の言動が浮かんできた。愛知の父の両親は二言目には「世間の目」と口にしていた。それは「自分で決めること」を頭から認めない態度であり、この祖父のような「自己責任」と言う考え方ではない。
「僕、お母さんの所へ行きたいんです」「それは無理さァ。お母さんは忙しくてアパートにも寝るために帰るだけみたいだからな」祖父の説明にこちらに来て一度だけ会った母の顔が浮かんだ。随分と落ち着いた雰囲気だった母に会って「今後のことを相談したい」「父が話してくれなかった別れた理由も確かめたい」それが沖縄での事実受け入れる第一歩になるはずだ。
「それじゃあ、髪が伸びたらお母さんの店で散髪してもらうことにしよう」「うん、決まったァ」淳之介が歓声を上げたところへ祖母が「夕食の用意ができた」と呼びにきた。

「淳之介、早く来るさァ」9月11日の夜、母が使っていた部屋で勉強をする振りをしてマンガを読んでいた淳之介を祖父が呼んだ。
「どうしたの?」「良いからテレビを見ろ」祖父の厳しい口調に淳之介がテレビの画面を見ると1機の旅客機が超高層ビルに突っ込んでいく光景が映し出されていた。
「これ何、特撮?」「世界貿易センタービルに旅客機が突っ込んだのさァ」祖父の説明に淳之介の頭の中では「世界貿易センタービルはニューヨークにある超高層ビル」と言う乏しい知識が浮かんだもののその情報と映像の事実が結びつかないでいた。居間の重い空気に台所から顔を出した祖母は廊下で立ち止まっている。そんな中で祖父が思いがけない言葉を発した。
「これではアメリカが戦争を始めるな。沖縄も大変なことになるさァ」この祖父の重い言葉は過去の歴史に裏づけられている。復帰前のベトナム戦争の時には戦地に赴く恐怖から逃れようと泥酔して暴れ、通りがかりの女性をレイプする米兵が後を絶たなかったのだ。
「今のお母さんは妹を連れてアメリカに行っているんだろう。住んでいる場所はニューヨークから近いねェ?」祖父は淳之介の母として父の新たな妻のことまで心配してくれていた。淳之介には父が自分の両親よりも沖縄の元義父母を尊敬している理由が判ったような気がした。
  1. 2016/09/15(木) 08:35:41|
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9月14日から16日=今年の秋夕(チュソク)

9月14日から16日は今年の韓国の祝日・秋夕です。わざわざ「今年の」と断るのはこの祝日が太陰暦の8月15日に前後1日を加えた3日間であるためで、韓国では太陰暦を太陽暦のカレンダーに当てはめて祝日としています=日本の夏季休暇にあたる。
秋夕には墓前で「祖先崇拝」の儀礼が行われるので日本の盂蘭盆会と同じ由来なのかと勘違いしてしまいますが、佛教の盂蘭盆会は本来、太陰暦の7月15日に行われていたのを明治5年12月3日(=太陽暦の1872年1月1日)に太陽暦へ移行して以降、「1カ月前倒しでは季節感が合わない」と夏真っ盛りの8月15日にずらしただけなので8月15日では日付が合いません。
そもそも秋夕は儒教の儀礼なので墓前での作法は三跪九叩頭(さんききゅうこうとう=立った姿勢から土下座して頭を3回床に叩きつける動作を3回繰り返す)など立ったり座ったりの繰り返しであまり落ち着かないようです。
中国の祖先供養の祝日は太陰暦の4月5日から4月7日あたり(数日の誤差がある)の「清明節」ですが韓国では採用されていないようです。沖縄では「シーミー祭」として行われていますが。
日本では太陽暦に移行してからもカレンダー通りの7月15日に行っている盂蘭盆会を「新盆(にいぼん)」と呼びますが、これは太陰暦の7月15日、実際は太陽暦の8月15日に盂蘭盆会を行っている地域を「旧盆=旧来のお盆」と揶揄した言葉の対比語であって、本来は太陰暦・太陽暦の7月15日までに四十九日を終えた魂魄を新たに迎える盂蘭盆会を意味し、誤用に近いのです。
それでも東京の官公庁やマスコミは太陽暦の「7月15日が盆である」と強弁しており、新聞などの「今日の出来事」欄などでは7月15日が盂蘭盆会、8月15日は「敗戦の日」のついでに「旧盆」と書いてあります。
野僧は浜松の寺の管理人をやっていた頃、市内の佛具店が7月から8月まで2ヶ月間も「お盆セール」をやっていることで興味を持ち、全国各地の同じ業界の友人に確認してみたのですが、太陽暦の7月15日に盂蘭盆会を行っている地域は東京でも23区と周辺の市までで多摩や伊豆・小笠原諸島では8月15日か太陰暦の7月15日でした。神奈川県では横浜市(川崎市は「大師さんが旧盆だからウチも」だそうです)、この他には石川県金沢市、静岡県静岡市(静岡県内では戸主の出身地で両者が混在している)、栃木県栃木市の県庁所在地3つと北海道函館市、富山県白山市でも旧市街くらいで、多数決で言えば8月15日か太陰暦の7月15日の圧勝です。
野僧の経験で言っても西方浄土から魂魄さん御一行様のお盆ツアーが行われるのは太陰暦の7月中旬ですから、季節感を尊重した地方の人たちの方が正しかったのは間違いありません(と言うよりも尊皇攘夷と文明開化を一緒にした明治政府の宗教政策は全て間違っていた!)。
日本では盂蘭盆会の期間中、京都では「おばんざい」と呼ばれている精進料理を食べる風習がありますが(このため素麵がお寺の供物になる)、韓国の秋夕では里芋の団子や汁を食べるようです。季節的には日本の月見団子に重なりますが、韓国人の友人に尋ねると何でも「日本の文化は韓国の物真似」と言われるので関連は調べていません。
祖先供養の他に収穫祭の意味合いもあるようで、家々の墓参がすむと相撲や綱引き、農楽の演舞会など地域の祭礼・行事が目白押しのようです。
ちなみに「春分の日」「秋分の日」は佛教の春秋彼岸なのかと勘違いしていましたが、どちらも神道の皇霊祭に由来するそうで、こうなると日本の戦前からの祝日は神道の行事・儀礼のみと言うことになります。それも太陰暦の行事を太陽暦でやるから季節感が滅茶苦茶になっており、その点では伝統を正しく継承している韓国の方が立派です。
  1. 2016/09/14(水) 08:58:43|
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振り向けばイエスタディ578

広い官舎に1人で暮らす私は時間を持て余している。課程教育も今年度中には予定がなく、内容は毎回同じなので新たな知識も必要としない。
「これでは航空教育隊の二の舞になる」と思い武力紛争関係法や戦史、おまけに宗教の勉強を進めているが独学では限界があり、そこで大学の通信課程に入学することを思い立った。
「やはり龍谷大学だよな」「佛教大学も捨て難いぞ」「花園大学って言う線もあるか」さっそく各大学から入学案内を取り寄せた私は机の上に並べて思案の頭(こうべ)を垂れた。やはり高校時代に憧れながら父親の無理解で断念させられた龍谷大学が第1候補だが、最近は法然上人の武士の気迫に公家出身の親鸞聖人以上の敬意を抱くようになっているので佛教大学にも魅力を感じている。その一方で禅宗に僧籍を置いている以上、花園大学からも資料を取り寄せた。
「ふーん、30単位以上か・・・ワシはそんなに取っていないな」どの大学も中退者向けに3年次から編入と言うコースがあるが、条件は2年次以上の修了と30単位以上の修得で、その証明が必要だ。私は親の命令で入った愛知大学が嫌で仕方なく学費が足りないことを口実にしてアルバイトばかり励んでいた(土建屋に就職していた)。
興味がある講義には出て、前・後期の試験は全て受けたが単位を貰えるような成績が取れたとは思えない。その意味では大卒が条件の一般課程に合格できたのは本当に特例なのだ。
「大体、始めから希望通りに進学させてくれていれば大学中退なんてことにはならなかったんだ」久居に赴任して以来、縁を切っている親だが久しぶりに思い出して腹を立てた。そもそも父親の無理解と母親の盲従で希望を破り捨てられ、懸命の努力を無駄にされたのは1度や2度ではない。何よりも沖縄で大切に守り育てていた梢との愛情を引き裂かれた心の傷は佳織と結婚するまで癒えることはなかった。すると今度はアメリカにいる愛妻の顔が浮かび、こちらの顔が弛んでくる。
「佳織はアメリカで修士課程の勉強をしている時にワシは学士を目指すのかァ。それが分相応と言うものだな。佳織の夫になれたのが出来過ぎなんだ」そんな独り言を呟きながらテレビを点けるとアメリカの戦争準備のニュースをやっていた。
アメリカはNATO軍に対してニューヨークへのテロを同盟国への武力攻撃として集団的自衛権の発動を要求している。それにはイギリスのトニー・ブレア首相が実現に向けた先導役を務めているようだ。こうなるとブッシュとの盟友を気取っている小泉純一郎首相が軽率な判断をしないか心配になってくるが、日本には憲法第9条と言う足枷があるから集団的自衛権の行使は無理だろう。それにしても私はカンボジアPKOの選挙監視要員や文民警察官が射殺された事件を受けて即時撤退を主張した小泉純一郎と言う政治屋が信用できないでいる。小泉は現場の努力や苦労を遠く離れた東京(横須賀が選挙区だが)の感覚で踏み躙ることができる人間だ。
若し、何かの間違いで日本がテロとの戦いに参加することになっても小泉の命令であれば拒否しよう。そんなことを考えながらニュースに見入っているとアメリカ国内の話題になった。
「何だか戦時中の日本みたいだな」アメリカでは戦争に向けてイスラム教を敵視する世論が沸騰しているようだ。これでは「撃ちてし止まん鬼畜米英」の代わりに「鬼畜イスラム」と言う張り紙が現われても不思議はない。尤もアメリカでは第2次世界大戦中でも「欲しがりません勝つまでは」などと言う貧乏臭い標語はなく「ドライブは控えめに」程度だった。
それにしても私が富士学校に入校している時はイラクのクウェート侵攻で多国籍軍が展開して戦争前夜の緊迫感の中だったが、佳織はアメリカでそれ以上の体験をしている。そう思うと呑気に大学進学を考えていることが申し訳なってきた。しかし、日本の夜はアメリカの朝だ。登校前の忙しい時間に電話をすることはできない。
ところで淳之介のことを考えなかったが、これで良かったのだろうか?
  1. 2016/09/14(水) 08:57:14|
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9月14日・ローマ教皇・ハドリアヌス6世が暗殺された。

1523年の明日9月14日にオランダ人でありながらローマ教皇になったハドリアヌス6世が暗殺されました。在位は1年8ヶ月と5日でした。
ハドリアヌス6世は日本では応仁の乱の8年前にあたる1459年に現在のオランダの狭い国土の中央で首都・アムステルダムから30キロほど南方にあるユトレヒトで生まれました。
ユトレヒトはローマ帝国の北限の境界線にあたる要塞都市で、8世紀頃からカソリック教会が存在し、ネーデルランド(現在のオランダやベルギーやルクセンブルグ地域)の宗教の総本山だったのです。そんな恵まれた環境で幼い頃から宗教に関わって育ち、創立して50年程だったベルギーのルーヴェン大学で神学・哲学・方角を修め、32歳の時には神学博士号を取得して教授に就任しています。
48歳でフランドル(オランダ南部・ベルギー西部・フランス北部)で生まれ、ネーデルランドで育ったローマ帝国の皇太子の家庭教師に抜擢されたことから頭角を現し始め、皇太子の祖父母の結婚で統一国家になったスペインを始めとする各地で要職を務め、皇太子が即位してカール5世となると摂政として補佐し、次第に父親のような存在になっていったようです。
こうして1517年、派手好みのイベント好きでルネサンスの大輪を花開かしたローマ教皇・レオ10世から司祭枢機卿に任命され、4年後の1521年12月1日にレオ10世が死ぬと(暗殺とする説もある)、皇帝の家庭教師にして信頼厚き側近と言う威光を尊重したのか異例の抜擢で教皇に任命されました。しかし、芸術を好み、手厚い保護を与えていたレオ10世に比べハドリアヌス6世は宗教者としての生活規範を厳格に守っていたため、楽しむことに慣れていたバチカン内外から「貧乏臭い田舎学者」と陰口を叩かれるようになって人気は急落してしまったのです。
当時はヨーロッパの大半がローマ帝国だったのでオランダ出身であることも地方出身程度の感覚だったのかも知れませんが、東京都23区出身者が同じ都民を「都内」「都下」に分類して差別しているように、中心地で生まれ育った人間の高慢さは簡単には治らないようです。実際、ハドリアヌス6世の次の非イタリア出身の教皇は455年後に就任したポーランド出身のヨハネ・パウロ2世でした。その後はドイツ、アルゼンチンと非イタリア出身者が続いていますが、ローマ教皇の権力は当時とは比べ物にならず、権威だけの地位ならそれ程の魅力はないのかも知れません。
ハドリアヌス6世の時代にはルネサンスの人間賛美の副作用としてカソリックが定める聖職者を上位とする人間の序列に対する疑問と批判が沸き起こり、ドイツのマルティン・ルターなどを起点とする宗教改革の嵐が吹き始めました。
これに対してハドリアヌス6世はバチカンを中心とするカソリック上層部の腐敗と堕落を率直に認め、カソリック自身の改革を約束したのですが、すでに分裂による新教団創設の方向に動き始めていたヨーロッパ各地の諸侯や宗教者からは冷笑され、かえって「教皇自らが過ちを認めた」とこれまでの無謬性(むびょうせい=誤りを犯さない)を否定した発言として反カソリックの宣伝に利用されてしまいました。
この経験がマイナスの教訓となり、ローマ教皇がカソリック、バチカンの非を公式に認めるのは20世紀のパウロ6世、ヨハネ・パウロ1世、21世紀のヨハネ・パウロ2世まで行われませんでした。
しかし、ハドリアヌス6世は無謬性を再構築するため内部規律の引き締めを推し進め、不正を行った上級聖職者の摘発・解任を断行したため、逆に既得利権を喪失することを恐れた上層部の密命を受けた侍医によって毒殺されることになりました。
最近のローマ教皇としてはヨハナ・パウロ1世(2世が即位してから1世が付けられるようになった)もバチカン内の不正を究明しようとした途端に原因不明の死を遂げ、遺骸に証拠隠滅の処置を施されるなど暗殺であったことが明らかなのですが、バチカンの厚いカーテンは真相究明の科学の目を遮ってします。そろそろ日本人もカソリックが背後に深い闇を引きずる宗教であることを正しく認識した方が良いでしょう。
  1. 2016/09/13(火) 08:37:23|
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振り向けばイエスタディ577

「モリヤ3佐は今後も自爆テロが続くと思うか?」佳織の精神文化論が切れ目になったところで中佐の学生が訊いてきた。
「はい、思います。イスラム教も日本の神道と同じように自己判断を否定する宗教のようですから、あのように殉教する前例を作ってしまえば、かなり高位の聖職者が否定しない限り後に続く者は止められないでしょう」「シンプーでもそうだったのか?」ようやく「神風」を「シンプー」と読むことが理解されたようだ。
「日本には『場の空気』と言うモノがあって、多数決を取る訳でもないのに方向性が決まってしまうことがあるのです。シンプーも次第に戦果などは度外視されて、『アイツが行ったから俺も』式に殉教することが目的になってしまいました。そこがナチス・ドイツのゾンダーユンゲ・コマンドとは違うところです」突然、ナチス・ドイツ空軍の特別攻撃隊を例に出され、ドイツ陸軍の留学生が驚いたように顔を向けた。
「モリヤ3佐はゾンダーユンゲ・コマンドを知っているのか?」「はい、ゾンダーユンゲ・コマンドは損害に比して戦果が上がらなかったので一度の出撃で中止になったはずです」本当は戦果が上がらなくなった後も「他に有効な作戦が思いつかない」と言う無責任な理由で若者たちを殺し続けた日本軍よりもナチス・ドイツの方が人道主義だと言いたかったが、ナチスを称賛することは現在のイスラムを肯定することと同様の反発を招くのが判っているので控えた。
考えてみれば日本軍は神風・神雷などの航空特別攻撃隊だけでなく人間魚雷・回天やベニヤ製モーターボートの震洋でも特別攻撃を行い、地上戦でも爆弾を抱えた兵士が戦車の下敷きになって爆破する肉弾戦を常用していた。そもそも損害を与えていない陣地に向かって行う銃剣突撃も戦果が期待できない以上、殉教的集団自殺と言えるだろう。そんな狂気の戦術を誰がイスラム過激派に教えたのか?今度は佳織の方が質問したくなったが相手がいなくては仕方ない。

「マミィ、学校でムスリマ(女性のイスラム教徒)の子が苛められてるの」スクールバスの停留所で志織が訴えてきた。ここカンザス州ではイスラム教徒は少数派だが、それだけに苛め易い存在なのだろう。それでもムスリマたちは最低限の戒律として髪をスカーフで隠すヒジャブを守っており、男子児童たちはそれを奪い取って泣かせているらしい。
「先生もツインタワーを壊して沢山の人を殺したのはイスラム教徒だって苛める子の味方をするんだよ」9月11日の事件の後、ブッシュ大統領が「テロとの戦い」を宣言して以降、アメリカ国内ではイスラム教を敵視する空気が充満しており、全米各地でイスラム教徒への嫌がらせが頻発し、それが日に日に過激化しており、虐待、殺人に発展するのも時間の問題のように思われる。問題は「佛教徒」も非クリスチャンとして攻撃の対象にならないかだが、日頃から志織に「正邪は自分で考えろ」「弱い者を守れ」と教えてきたことが不安になってきた。
「でも志織がムスリマの子を守って男の子たちに立ち向かっても勝てないよね」「うん、相手は人数が多いから無理かな」そう答えながら志織は立ち止まって腕組みをした。
「どうしたの?」「勝てる作戦を考えてるの」「それは家でしなさい」佳織は苦笑しながら娘の手を取って歩き出した。
「ダディだったらナイス・アイディアを出してくれるのになァ」「マミィは?」「マミィは普通科じゃあないから駄目」これでは夫が娘に何の教育をしていたのか理解できなくなるが、護身術として柔道と日本拳法、さらに短剣道を仕込んでいたのは判っている。
「志織、帰ったらマミィと日本拳法の練習をしよう」「うん、良いけどメジャー・モリヤは格闘指導官なの?」「違うけど初段の黒帯だよ」「はい、合格」佳織は志織が夫の手作りであることを深く感じて、握っている手の温もりまで夫のもののように思えてきた。
  1. 2016/09/13(火) 08:36:15|
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加藤紘一さんが死んだので弔意を表します。

9月9日に我々山形県人の「初の総理大臣」と言う期待を一身に集めておきながら自滅して裏切った加藤紘一さんが亡くなりました。77歳でした。
加藤さんは中曽根内閣で防衛庁長官を務め、内閣改造後も留任したのですが、隊員の間でも「珍しくまともな長官=中曽根首相が防衛を重視している証左」として人望があり、防衛大学校出身の中谷前防衛大臣が制服を脱いで政治屋を志したのも加藤長官に憧れたことが理由だったそうです。
しかし、野僧はある事件を切っ掛けに不信感を抱くようになりました。それは御巣鷹山への日航機墜落事故に関して朝日新聞が現場の実情を全く無視した批判記事を掲載し、それに航空幕僚監部広報室長(鷺坂1佐ではない)が雑誌に反論記事を発表したことに朝日新聞の田岡俊雄論説委員が激怒し、佐藤1佐を内局の記者クラブに呼びつけて侮辱の限りを尽した事件でした。
野僧はその室長(最終的には南西航空混成団司令)から個人的に教えを受けていたのである程度の情報を持っているのですが、朝日新聞の批判記事の事実誤認が明らかになり、田岡氏の傲慢な言動を批判する世論が起き始めた時、加藤長官が仲裁に入り、手打ちにしてしまったのです。
加藤長官としては自分の派閥の宏池会に肯定的な朝日新聞に恩を売っておけば宮沢喜一政権の実現に有益と言う政治判断があったようですが、野僧には化けの皮が剝がれて政治屋の素顔を見た思いでした。
その後も村山富市社会党政権の時に自民党の幹事長として迎えた敗戦50周年の国会決議をやらかすなど、「所詮は元外務官僚」と言う失望のうちに自滅してしまったのです。尤も、野僧は「YKKトリオ」の山崎拓とは直接話をしたことがありますが「とっても馬鹿」で、小泉純一郎を含めこの3人に政権を担わせてはいけませんでした。
放火前に山形県鶴岡市の自宅を見たことがありますが、左翼の過激派ではなく右翼の犯行だったところが加藤さんに対する社会的評価なのでしょう。一応、同県人として冥福を祈ります。元自衛官としてではありません。
  1. 2016/09/12(月) 09:04:40|
  2. 追悼・告別・永訣文
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