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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月1日・日本の大恩人・ジャヤワルダナ・スリランカ大統領の命日

1996年の明日11月1日はサンフランシスコ講和会議で日本に巨額の賠償を要求しようとしていたフィリピンやシンガポールの機先を制して賠償放棄を宣言してくれた大恩人=ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ・スリランカ大統領の命日です。
ジャヤワルダナ大統領はイギリス領セイロンであった1906年に最高裁判所の判事の11人兄弟の長男として生まれ、コロンボ王立大学で学びました。この時、クリケットの選手として現在のワールドカップに当たる国王杯の大会に出場しています。また、この時期にクリスチャン(スリランカでは高級官僚やヨーロッパ系企業で働くエリートにはクリスチャンが多かった)から佛教徒に改宗しました。
父の職業を継承しようとコロンボ法科大学に進むと優秀な成績を修めて法曹界に入りますが、植民地下のエリートの道を捨てて政治活動に身を投じます。こうして1947年に独立前のセイロン自治政府で閣僚に就任すると翌年の独立後も留任し、1951年にサンフランシスコで開かれた日本との講和会議に参加しました。
講和会議の演説でトルーマン大統領は「アメリカ国民はパール・ハーバーを忘れていない」と日本の罪を永久化することを宣告したため(実際は正当な軍事行動であって戦争犯罪ではない)場内は重苦しい空気に包まれ、フィリピンとシンガポールは快哉を叫んだのでしょう。
ところが続いて壇上に登ったジャャワルダナ代表の演説はこのようなものでした。あえて全文を掲載します(邦訳はスリランカの友人のものなので日本文としては少しおかしいかも知れません)。
「何故、アジアの諸国民は『日本は自由であるべきだ』と切望するのでしょうか。それは我々の日本との永年に亘る関わり合いの故であり、またアジア諸国民が日本に対して持っていた高い尊敬の故であり、日本がアジア諸国民の中でただ1人強く自由であった時、我々は日本を保護者として、また友人として仰いでいた時に日本に対して抱いていた高い尊敬のためでもあります。我々はこの前の戦争の最中に起きたことですが、アジアの為の共存共栄のスローガンが今問題になっている諸国民にアピールし、ビルマ、インド、インドネシアの指導者の或いは人たちがそうすることによって自分たちが愛している国が解放されると言う希望から日本の仲間入りをしたと言う出来事が思い出されます。
セイロンに於ける我々は幸い侵略を受けませんでしたが、空襲によって引き起こされた損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我が国が連合国に供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける我が国の主要産業の1つであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は損害賠償を要求する資格を我が国に与えるものであります。
しかし、我々はそうしようとは思いません。何故なら我々は佛陀の言葉を信じているからです。佛陀のメッセージには『人はただ愛によって憎しみを越えられる。人は憎しみによっては憎しみを越えられない。実はこの世に於いては怨みに報いるに怨みを以ってしたならばついに怨みの恩(や)むことがない。怨みは捨ててこそ恩む。これは永遠の真理である』とあります。この教えはアジアの数え切れないほど多くの人々の生涯を高尚にしました。佛陀、大師、佛教の元祖のメッセージは人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム(=タイ)、インドネシア、それからセイロンに伝わり、そしてまた北方へヒマラヤを通ってチベットへ、支那へ、そして最後に日本へ伝えられました。これが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統で互いを結びつけたのであります。この共通文化は未だ存続しています。それを私は先週、この会議に出席する途中、日本を訪問した際に見つけました。また日本の指導者たちから、大臣の方々から、市井の人々から、寺院の僧侶からも日本の普通の人々は今もなお平和の佛陀の教えの影響下にあり、それに従っていこうと願っているのを見出しました。
我々は日本人に機会を与えて上げねばなりません。そうであるから我々はソ連代表の『日本の自由は制限されるべきである』と言う見解には賛同できないのです」この演説によって場内の空気は一変し、日本に罪を問うことが欧米の植民地支配を肯定することにつながることに気づいたアジア諸国はこぞって賠償放棄に賛同しました。
その後、ジャワルダナさんは大統領との2元制だった時に第10代首相に就任し、さらに大統領の1元制に移行した後の最初の大統領に選任されています。現在のスリランカの首都はコロンボ近郊の古都・スリジャワルダナプラコッテですが、この名前はスリランカとジャワルダナ、そして地名のコッテを合わせたものです。
ジャワルダナさんは昭和天皇が崩御された時、現職の大統領に代わって出席しましたが、日本は国賓として接遇しました。さらにこの日を迎えるに当たって「角膜を摘出したなら1つはスリランカ人、もう1つは日本人に移植して欲しい」と遺言していたため実現しています。
昔から日本人は欧米の国王や元首ばかりを敬愛しますが、こう言う人物こそ思慕するべきでしょう。
  1. 2016/10/31(月) 08:29:22|
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振り向けばイエスタディ625

岡倉は在米日本人ジャーナリスト・島村としてパキスタンの国境付近にできた難民キャンプに入った。難民キャンプではヨーロッパやアメリカから来ている多くのボランティアが食糧配給などの支援活動を始めているもののトイレが設置されておらず糞尿は垂れ流しであり、それから発生するハエなどが絶えず飛び交い衛生環境は劣悪だ。
「この臭いは何とかならんものかな」角材とシートで作った簡易過ぎるテントの間を歩きながら岡倉はマスクの上からハンカチを当てた。それでも背中に背負っているリュックサックに子供たちが群がるように手を伸ばしてくるため、それを振り払いながら歩いている。
キャンプの中心部の広場ではヘリコプターで運ばれてくる赤十字の支援物資に長い列ができていた。そこで働くボランティアの女性たちはTシャツにGパンの薄着なのに対して並んでいる難民の女性たちはイスラムの戒律を守ってブルカを身にまとっている。
「貴女、さっきも来たでしょう」突然、ボランティアの女性が大声を上げた。どうやら1人1回の配給を2度受け取ろうとする不正を見つけたようだ。しかし、ブルカは目の部分にまですだれ状の網で覆っているため同一人物と断定することは不可能なのではないか。岡倉はドイツ語で捲くし立てているボランティアとアラビア語の難民女性のところへ歩いて行った。
「私は初めてです。アッラーに誓って不正はしていません」難民女性はアラビア語で訴えているがボランティアは「アッラー」の部分だけを理解したのか激昂した。
「アッラーの罪で貴女たちは国を失ったんでしょう」ボランティアのドイツ語は難民女性には通じないので口論にはならない。それでも2人の女性は一触即発の赤い炎を見せながら睨み合っている。仕方なく岡倉はボランティアに英語で話しかけた。
「この場でアッラーを冒涜するような発言は良くないですよ」するとドイツ人と思われるボランティアは驚いたように岡倉を見た。鼻の下から顎にかけて黒い髭が生え揃い始めている岡倉はムスリムに見えるのだろう。
「私たちはGOTT(英語のGODに当たるドイツ語)への奉仕として罪深き異教徒たちを救いに来ているのです。貴方たちこそ悔い改めなさい」「ヒトラーもユダヤ人をホロコーストに送る時、GOTTの許しを得たんでしょうね」岡倉の痛烈な皮肉にボランティアは血相を変えて矛先を向け換えてきた。そこで岡倉はプレス(=報道)のTDカードを提示した。
「私は在米日本人ジャーナリストだ。今日はボランティアの活動を取材に来たのだが、面白い場面を見せてもらいました」流石に相手が悪いと思ったのかボランティアは「取材拒否」と大声で叫びながら持ち場を放棄して駆け出した。その後を引き継いだ男性ボランティアが訛りのある英語で「取材拒否だ。我々の本部に申し込んでくれ」と説明して物資の配分を再開した。彼は問題の難民女性にも物資を詰めた赤十字のビニール袋を手渡した。
「シマムラ、流石だな」列から離れ、キャンプ内を歩き始めると聞き覚えがある声で呼び止められた。振り返ると国境警備所で会ったアジズが腕を組んで立っていた。
「アジズ、無事だったか」「アッラーは『お前はまだ戦え』と命じておられるようだ」そう言うとアジズは腕を解いて岡倉の髭に触れ、岡倉も返した。
「それでサフィは?」「彼はキリスト教徒のミサイルで砕け散った。運び込んであった弾薬も一緒だったから骨の欠片も残らなかったよ」アジズは巡回に出ていて難を逃れたと補足した。
「お前は『日本軍を参加させたくない』と言っていたがその通りになったな」「うん、よかったよ」「韓国軍は阻止できなかったのか?」岡倉の気楽な返事にアジズは冷たく強張った顔で質問を返した。
「韓国軍が何か問題でも」「奴らは敵だ!」岡倉の確認にアジズは吐き捨てるように答える。そこには厳格なイスラム原理派=タリバーンとしての怒りがあるようだ。
  1. 2016/10/31(月) 08:28:17|
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振り向けばイエスタディ624

昨日、群長に報告した後、UNTANK司令部にいるモロッコ大使館員に日本での新聞報道を確認するように依頼しておいたおかげで、その日のうちにファックスの新聞紙面を入手することができた。
「北キボールで銃撃戦」「PKO法の前提崩れる」そこには大々的な見出しが躍っている。
「えらく情報が早いな」「この銃撃戦でPKOの派遣用件は崩れた。即時、撤退しろと書いてあるぞ」ファックスのコピーを回し読みしながら幕僚たちは口々に批評を始める。
「小泉首相はアメリカとの同盟関係を重視しているからあり得ないな」「小泉さんとしては本当ならアフガニスタンに派遣したかったのだろう」どうも自衛官は過去の言動から人物の本質を見極める知的作業が苦手なようで、単純に今のイメージに同調してしまうようだ。
私は梅田と名乗った元航空自衛官らしい特派員が言っていた「銃撃戦の真相」を考えながら各紙を見比べていたが、その中で小泉首相がカンボジアでの日本人の殉職を受けて自衛隊の撤退を主張したことを紹介し、「今回も同様の判断を下すはずだ」と断定している某新聞に目を止めた。その新聞はこれまで「反米軍、反自衛隊」の主張を繰り返していたのだが、今回ばかりは「自衛官が犠牲になる前に」と訴えてくれている。
「このニュースで世論が厭戦気分に陥れば小泉は我々を撤退させるかも知れませんね」私はマスコミの論調の比較で盛り上がっている幕僚たちにこの記事を示して所見を述べた。するとカンボジアでの変節を覚えていない幕僚たちが反論を始めた。
「あり得ない。そんなことをすればブッシュはブレアの方に走ってしまうだろう」「俺たちは不朽の自由作戦の埋め合わせの派遣だからな」2佐以下の幹部が持っている情報が新聞、テレビの域を出ていないのは当然であっても推理力が弱過ぎるのではないかと溜め息が出た。するとファックスのファイルを読み進めていた群長が疑問を示した。
「この記事は銃撃した人数や場所を明記している。まるで現場に居合わせていたようだ」その指摘に情報担当の2科長は手元の記事を読み直した。
「写真はハッキリしませんが確かに現場の様子が詳細に述べてあります」「おそらく写真も銃撃している人間が写っているのでしょう」2科長と情報幕僚の確認に他の幕僚たちは顔を見合わせた。
「ここにはフリー・ジャーナリストしか来ていないようですから、そのうちの誰かが売り込んだ記事でしょう。しかし、同じ記事を複数の社に売ることはあり得ないのですが・・・」「逆パターンの可能性があると言うことだな」この私の推理には群長だけが反応した。
「逆パターンとは?」ここで1科長は群長に質問することが躊躇われたのか私に訊いてきた。
「日本からの指示で自作自演した記事だと言うことです」「そう言う表現はまずい。事前了解していた記事くらいにしておけ」流石に群長は私よりも数段上だった。事態の本質を見極めた上で政治的な配慮を加える余裕があるのだ。
「つまり現地で雇った人間に市街地で発砲させたと言うことか」「まさかそこまでやるとは思えんがな」「フリーとは言えマスコミだろう」あまりにも過激な推理に幕僚たちは言い出しっ屁の私に否定的見解をぶつけてくる。しかし、私は朝日新聞が沖縄の青サンゴに自分で傷をつけた写真を掲載した事件を忘れていない(当時は美恵子が妻だった)。その他にも小さな事実を拡大・歪曲して自分たちの主張に利用するマスコミの手法を山ほど見てきており、新聞社やテレビ局があそこまでやるのならフリーの連中ならこのくらいはお手の物であると確信していた。
「むしろこれで思ったような効果が得られなければ次は何を仕出かすかを考えて対策を講じるべきです」「宿営地への発砲か」さらに過激な意見にうなずいた群長以外は黙り込んでしまった。
「彼はそれを見たと言うことだな」私は梅田が耳打ちした言葉の意味をそのように理解した。
  1. 2016/10/30(日) 00:00:22|
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振り向けばイエスタディ623

銃撃があった翌日、私はオランダ軍とUNTANK司令部、そして近傍の部族の長を訪ねた。
「我が軍としては井戸の掘削が始まってからは部族間の対立は緩和しており、ここで妙なことをすれば自分たちの番が遅らせられると自重しているようなので安心していたのだが」対応したオランダ軍の大尉は首を傾げている。確かに昨夜の銃声は攻撃と応戦と言う感じではなく市街地を移動しながらの連続射撃だった。
「若者が景気づけに射ち上げたんですかね」「しかし、イスラム教徒は酒を飲まないから射つなら昼間だろう」結局、私と大尉の推理はそこまでで終わってしまった。ここに日本の警察がいれば射撃した場所を特定し、目撃者を探して聞き込みを始めているはずだ。次はUNTANK司令部の治安担当者だ。
「UNTANKとしては市内での銃器と弾薬の売買を禁止する方向で各部族に働きかけているところです。だから今持っている銃器や弾薬を消耗するようなことはないと考えます」担当者はスペインの警察官僚だが、ここでも部族間の抗争については確認していないようだ。
「ジャパン アーミー(日本陸軍)としては何か情報は持っていませんか。井戸や道路の工事で各部族ともかなり親密になっているようですが」「いや、我々としては宿営地の警備以上のことはできませんから外のことは判りません」私の答えに担当者は呆れたように溜め息をついた。
「チャイニーズ アーミー(中国軍)は工事と警備を自分でやっているんですがね」この言葉に先日、隊員から聞いた中国軍の武器の横流しの可能性について訊きたくなったが、国際問題になる懼れがあるので控えた。
「おーッ、日本のウラマー(聖職者)じゃあないか」近傍の部族長を訪ねるとニコヤカに笑いながら私が鼻の下に蓄え始めている髭に触れた。これは握手に当たる挨拶と聞いているので私も返した。
「私は英語が得意ではないから通訳になる者を呼ぼう」部族長はかなり文法が混乱した英語で説明した後、若い者を使いに走らせ、一族のインテリと思われる男を同席させた。
「昨夜の銃声についてはウチでも聞いている。今日になって確認したが被害を受けた者はいない」どうも部族長は被害の見舞いと勘違いしているらしい。イスラム教徒は日本人が思っている以上に他人の痛みを心配するようだ。
「それで応戦はしたんですか?」「全く攻撃は受けていないから銃を構えていただけだ」私の質問には正直に答えてくれた。この話し振りから銃声に驚いて警備態勢を取った我々と似たような立場だったことが判る。結局、どの部族も同様で部族間の抗争の可能性は消えてしまった。

「元空自のモリヤ1尉ですね」宿営地に戻る途中、我々が道路工事を実施している現場を見ていると日本語で声を掛けられた。振り返ると30歳代半ばと思われる日本人が立っていた。
「そうだが君は?」「私は朝空新聞社の元記者で現在はフリーの梅田と言います。貴方の写真は曹候学生の卒業アルバムで見たことがあります」朝空新聞と言えば自衛隊の部内紙だ。防府南基地に取材に行けば卒業アルバムを見る機会はあるだろう。彼を観察すると立っている時、手を握っている。これは自衛隊だけの仕草だ。そこで私はカマをかけてみた。
「梅田くんは曹候の22期だったかな」「えッ?・・・そうです」梅田は一瞬、息を呑んでから素直に認めた。しかし、私は年齢から期別を推理しただけだった。
「モリヤ1尉は昨夜の銃撃のことを調べておられるのでしょう」「うん、そうだが特派員としては何か掴んでいるかね」私の質問に梅田は少し強張った顔を近づけた。
「明日の日本での報道を見れば答えは判ります」梅田と名乗った元航空自衛官(本当に「元」なのか?)はそれだけを言うと10度の敬礼をして立ち去って行った。
  1. 2016/10/29(土) 09:15:53|
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10月28日・島津藩に高崎崩れを招いた凶女・由羅が死んだ日

年号が明治に変わる前年の慶応2(1866)年の本日10月28日に島津藩のお家騒動=高崎崩れの元凶である島津斉興公の愛妾=側室・由羅さん(藩主の側室・祖母なので敬称はつけます)が死んだ日です。71歳でした。
由羅さんの出自には江戸の大工、八百屋、船宿の亭主などの諸説がありますが早い話が町人の娘で、江戸上屋敷に奉公に上がっている時に斉興公のお手つきになり、妻が藩邸勤めをしている藩士の養女になった上で側室になりました。
藩主の正室は江戸藩邸に人質として留め置かれるため側室は国元に棲むのが通常なのですが(妾を中・下屋敷に置く場合はある)、斉興公は参勤交代の度に江戸と薩摩を帯同させたくらい執着していたようです。実際、正室が子供を産んだ数カ月後に由羅さんも子供を産んでおり、正室が使えないのをもっけの幸いに励んでいたのでしょう。
この正室が生んだ後の名君・斉彬公と由羅さんが生んだ久光さん(藩主ではなく藩主の父)の家督相続を巡って生起したのが高崎崩れでした。
斉興公は祖父の重豪公がオランダ渡来の書物や舶来品の収集に血道を上げ、藩の財政を悪化させたことを恨み、祖父に可愛がられていた嫡子・斉彬公を嫌っていました。しかし、重豪公のオランダ好みが藩の財政を悪化させたと言う通説には若干の疑問があります。
何故なら重豪公の父の重年公の時、島津藩は尾張国の木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川の治水工事を命じられて巨額の負債を負っており、工事から2年後に重年公が急逝したことで藩主になった重豪公は質素倹約の範を示さなければならなかったのは間違いないのですが、逆に折からの蘭学ブームに乗り、その近代的な技術を藩に取り入れて殖産興業を図ろうとしたのではないでしょうか。
その一方で斉興公は由羅さんが生んだ久光さんを溺愛し、藩主の座を譲るべく手を打とうとしたのですが重豪公は将軍への謁見=継嗣の届け出を済ませており、不満だけを募らせることになりました。
何にしても斉興公は祖父の死を待つように藩主の座に42年間も居座り続け、その祖父が89歳で大往生を遂げるといよいよ動き出しました。
先ず琉球を通じての密貿易と過去な倹約で財政を立て直した家老の調所笑左衛門さんに命じて藩内で久光さんを待望する空気を作ろうとしましたが、町人出身の由羅さんを誇り高き島津藩士たちが認めるはずがなく、むしろ下級武士から成り上がった調所さんまで同一視する反発を招く結果になりました。
さらに西洋船の来航が相次ぐ中、重豪公に比べ海外事情に疎く、財政立て直し以外に指導力を発揮することもなく藩主の座に執着する斉興公に対する非難まで起こり、斉彬公待望論が公然化するようになると、長年にわたって鬱積していた不満が一気に火を噴いたのです。
国元に戻った斉興公は斉彬公派=反久光派の重臣を解任し、下級藩士たちを由羅さんと久光さんの暗殺を計画していたと言う嫌疑で次々と捕縛し、その多くを取り調べもなく即日切腹させました。
この事態を受けて一部の藩士たちは重豪公の9男である黒田光溥公(孫の斉彬公よりも2歳年下)の下へ走り、幕府隠密でさえ進入・探索が難しかった島津藩の内紛が発覚することになったのです。
この事件は幕府=老中・阿部正弘公の裁定に委ねられましたが、斉興公は隠居となり、ようやく斉彬公が藩主に就任することで決着しました。
ところが斉彬公が卓越した藩政運営を発揮するようになって久光さんの出番が遠のくに合わせたように急逝していました。この突然過ぎる死と斉彬公の男子たちが全て夭折していることから斉興公と由羅さんによる毒殺と言う説が当時から流れていて、それでは恐れ多いと言うことで由羅さんの呪訴にして鹿児島県人は納得しているようです。
そんな由羅さんは斉彬公の没後、久光さんの息子=孫が藩主になったことを見届けた後、斉興公の7年後に鹿児島で病没しましたが、墓所となった城下の福昌寺(曹洞宗=歴代藩主の菩提寺)は廃佛毀釋を受けて破壊されています。鹿児島県人の島津家に対する忠誠心はどうなっているのでしょうか?
由羅みなもと太郎作「風雲児たち」より
  1. 2016/10/28(金) 08:57:30|
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振り向けばイエスタディ622

工事も順調に進み始めた頃、深夜の市街地に銃声が響き渡った。トバラ市内には官庁街とヨーロッパ資本のホテル以外には鉄筋コンクリートの建物はなく、至近距離から銃撃を受ければ住宅の壁などは貫通してしまうだろう。そう言う我々の宿営地も防弾性があるのは外壁に土嚢を積み上げている指揮所くらいだ。
私は姿勢を低くしてズボンと靴を履き、上着とヘルメット、弾帯を手に持って指揮所に向かった。指揮所には各科の幕僚が集まり始めていた。
「第1ポスト、銃声はどこからだ」「こちらからは確認できません」「第2ポスト、銃声は・・・」指揮所では今夜の当直である2科の情報幕僚が各歩哨ポストに確認している。そこに群長と副群長が入ってきて我々は姿勢を正し、最先任の3科長が報告した。
「現地点で被害の報告はありません。指揮所要員は全員無事のようです」「あの銃声の大きさでは近距離ではないだろう。市街地での散発的な銃撃のようだな」指揮所は外の音が遮蔽されているため距離までは推測できなかったのだろう。確かに射撃訓練で聞く銃声に比べれば数百メートルは離れているようだ。それでも銃弾が届くことは間違いない。
群長の適切な状況判断に少し気まずそうな顔になった指揮所当直が「各ポスト、異常ありません。発砲位置は確認できないようです」と報告した。
外では相変わらず散発的な銃声が続いている。その間にも3科の指示で隊員に銃と弾薬が渡され、警備の強化が発令された。私はその機敏な動きを見ながらカンボジアの宿営地で戦争映画の銃声に右往左往したことを思い出してしまった。あの時は銃声に驚きながらも伏せなどの防護動作を取った者はいなかったが今回は問題なさそうだ。
「特別警備の編成が完了した」との報告を受けて群長は「諸官らを宿営地の防護要員に指定する。武器使用は正当防衛と緊急避難に限定する。合言葉は今夜のモノを継続使用する」と口頭で発令した。それを3科の警備担当幕僚が時間を添えて記録している。これは国内法で求められる武器使用のための手続きであった。
警備計画に基づいて宿営地の外周に警備要員を配置すると指揮所でも少し余裕ができる。群長と指揮所長である副群長、そして各科長が中央の長机を囲んで雑談的な会議を始めた。
「井戸を掘る順番で各部族が揉めていると言うことはないのか」「それは十分に説明しています。実際、クジ引きの順番で作業を進めていますから問題はないでしょう」群長の懸念に対外的な交渉を担当している1科長が説明した。
「近傍部族間の対立について情報はなかったのか」「国連とオランダ軍からは入っていません」
今度は2科長だ。ただ私にはマスコミが姿を現してから2科は情報保全の方に関心が向いているように見えていた。
「モリヤ1尉、普通科の幹部として歩哨の配備状況を確認してきてくれ」突然、私に話が飛んできた。どうやら群長と3科長が目で話し合って決めたことのようだ。カンボジアでは叶わなかった戦闘体験ができることに武人の血が湧いてくる。指揮所の隅で防弾チョッキを身につけ、金庫からMー6短機関銃と実弾を積めた弾倉を取ると自然に顔が弛んできた。このままでは遠足に出かける子供のように満面の笑顔になってしまいそうだ。
「プロの目で身を守るための動作を指導してやってくれ」「はい、壕がありませんから低い姿勢を徹底してきます」群長の指示を受けて私は以前から気になっていることを答えた。
「そうだ。この宿営地には待避壕がありませんね。早速、作らないと」そんな私の返事を聞いて4科長が提案した。
外に出ると銃声は止まっていた。姿勢は低くしているが懐中電灯を点けることはできない。一発くらい銃弾が頭をかすめて行けば良いのだが、残念ながらそれも期待できないようだ。
  1. 2016/10/28(金) 08:54:08|
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10月28日・衆議院議員・中野正剛が東條英機に抹殺された。

昭和18(1943)年の明日10月28日に日本の政界で反東條内閣の急先鋒だった衆議院議員・中野正剛(せいごう)さんが自宅の書斎で自刃しました。これは事実上の東條英機首相による抹殺です。
中野さんは明治19(1886)年に福岡市(現在の中央区)で生まれ、現在の修猷館高校を卒業後、早稲田大学に進みました。ここで戦前の朝日新聞で主筆・副社長にまで登りながら敗戦直前に退社し、戦後はCIAの工作員として政界で暗躍した緒方竹虎と出会い、一緒にジャーナリストを目指すことになりました。
また学生時代に原稿料を得るため雑誌に寄稿したことで右翼の大物・遠山満の知遇を得て強い影響を受けたのです。我々は右翼と言うと内向きの国粋主義者のイメージを持ちますが、この時代は国家自体が天皇崇拝の国粋主義だったため、むしろ外を向いて日本の指導による共存共栄を目指す大アジア主義が主流でした。
大学を卒業して最初は毎日新聞に入社したものの間もなく朝日新聞に転社し、そこで社会評論家=ジャーナリストとしての地位を固めていきました。その後、朝日新聞を退社して政治評論雑誌の社長兼主筆に就任し、翌年、衆議院選挙に出馬したものの落選、それでも自ら執筆した外交評論がベストセラーになったこともあり、次の衆議院選挙で当選し、以降は8期当選を重ねていきました。
議会では会派・政党を渡り歩きましたが、山口軍閥の田中義一内閣の時に勃発した張作霖爆殺事件や臨時軍事費問題を厳しく追及し、反軍派の政党人として名を馳せることになりました。
ところが時局が戦時色に染まっていくと一転、全体主義を標榜するようになり、昭和12(1937)年から翌年にかけてヨーロッパを歴訪し、イタリアのベニト・ムッソリーニやドイツのアドルフ・ヒトラーと面談して国際情勢を語り合い、ムッソリーニを「非常に気さくで恰幅の良い親しみが持てる小父さん」、ヒトラーを「物静かで知性的な人物」と高く評価しています。
その一方でイギリスのサー・ウィンストン・チャーチルやフランスのジョルジュ・クレマンソーも尊敬しており、それも中野さん自身の中では矛盾がなかったようです。
昭和14(1939)年になると近衛文麿首相が主導した大政翼賛会結成への動きに同調したのか議会政治否定・政党解消を主張しながらも、近衛とは逆に南進論、日独伊三国同盟を支持しました。
日本が第2次世界大戦に加わることになると当初はこれを推進する立場でしたが、戦争指導を名目として東條首相が独裁性を強めると急速に反発するようになり、反東條の急先鋒になっていきました。
昭和17年には大政翼賛会を脱会して無所属で衆議院選挙に当選し、この年の11月10日には母校・早稲田大学の大隈講堂で2時間半にも及ぶ「天下一人を以て興る」と言う反東條の大演説を打ちました。会場では東條の命を受けた特高警察が監視していましたが、中野さんの圧倒的な雄弁と学生の熱狂で阻止することができず、内容と反応だけを東條に報告することになりました。
その後も新聞や議会で東條批判を繰り広げ、辞任を迫る政界工作を進めたのですが、10月21日に日本のハインリッヒ・ヒムラー(ナチス親衛隊長)とも言うべき内務大臣・安藤紀三郎中将の命を受けた特高警察に逮捕され、10月25日に釈放されてこの日を迎えました。
現職の衆議院議員を明らかに首相の機嫌を損ねただけの理由で逮捕したことには戦時下とは言え批判が起こり、立件・起訴を命じられた検事総長は「無理」と拒否し、議会出席停止を命じることを強要された国務大臣まで「できません」と断るほどでした。
中野さんの最期は自宅1階の書斎で割腹したのですが、隣室には監視役の特高警察2名が控えており、数時間前には4男に遺墨を渡すのに立ち会っていますから、形の上では自刃でも実際は詰め腹を切らされたと言うべきでしょう。
一説には徴兵されている息子の安全を保証することへの交換条件だったと言われています。実際、東條にとって徴兵は「目障りな者を抹殺する手段」と言う目的も持っていましたからあり得る話です。
数年前、北九州市在住の東條の末娘が偽名でマスコミに登場し、父親の名誉回復を主張していましたが、ムッソリーニのような殺され方でなかったことだけでも感謝すべきでしょう。
  1. 2016/10/27(木) 09:01:03|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ621

岡倉は前回と同じルートでアフガニスタンに向かうことにした。西側ジャーナリストに扮するのであれば髭はない方が良いが、アフガニスタン人の側に立って情報を収集するため今回も髭を伸ばし始めている。
「ジアエ・・・」李知愛中尉は自宅マンションの建物の間の路地から声を掛けられた。その声は振り返るまでもない。
「貴方!」李中尉は声がした方向に振り返りながら抱きついた。その身体を馴れた手つきで抱き締められるのは1人しかいない。夫=タイガー・ジェット・シンイチローだけだ。
「今夜もモーテル泊になるから支度をしてこい」「はい、夕食は?」「手料理を食べたいが家には入れないな」熱い抱擁と口づけを終えて夫は行動を指示した。それに答えながら妻は夫が新たな任務に赴くことを察し、可能な限り夫婦としての時間を過ごしたいと思っていた。
「30分だけ待ってくれますか。せめてお弁当でも」「うん、それをモーテルで食べよう」そう言うと夫は次の待ち合わせ場所を指示して暗闇に消えていった。

前回とは別のモーテルに入るとジアエが冷蔵庫に作り置きしていたオカズを詰めた弁当を開き、待つ間に岡倉が買っておいたビールで乾杯した後、夫婦の食事が始まった。
「アフガニスタンに派遣されている知り合いはいないのか?」突然、夫が任務を明らかにした。
「学士士官(自衛隊で言う一般課程=部外))の同期が小隊長として行っているけど・・・」「そうか、お前とは仲は良いのか?」「彼女もカソリックだから仲は良いよ」何故、夫が韓国軍の人脈を探っているのかは判らないが、ジァエの胸に衛生隊の救護小隊長としてアフガニスタンへ派遣されている同期・高仁智(ゴー・インジ)中尉の顔が浮かんだ。
韓国軍の4年制大卒者を対象とする学士士官は16週間の短期教育で任官する(当時)。ソウル特別区にある士官学校(日本の防衛大学校に相当する)の校内には佛教の法堂やキリスト教でもカソリックの聖堂とプロテスタントの教会があり、高中尉とは一緒に礼拝に通っていた。
「今回は我が国のためにアフガニスタンへ行くのね」突然、ジアエの胸に今度の任務の意味が鮮明になってきた。日本の自衛隊はインド洋での給油活動で「不朽の自由作戦」への参加実績を作って地上戦には関与していない。その代わりのようにアフリカのPKOへ連隊相当の部隊を派遣している。つまり夫がアフガニスタンへ行く理由が見当たらないのだ。
「韓国政府はKCIAを潰したままで軍を派遣するのは無茶だよな」ジアエの独り言に岡倉も独り言で応える。それが情報を漏洩する上での作法ではあった。
「新聞を読んでも『アフガニスタンの人たちに大歓迎されている』とか『人権を奪われていたイスラムの人たちにカミの救いを与えた』なんて美辞麗句が並んでいるだけで事実が判らないのよ」ジアエは岡倉の告白を世間話にするように答えた。
「・・・それにしてもこのケランマリは美味いな。海老入りかァ」岡倉は妻=ジアエに任務を漏らしたことを誤魔化すように料理を頬張り始めた。
「うん、野菜と一緒に刻むのよ」「海苔がお洒落だね」「切った時、綺麗でしょ」ケランマリとは韓国の卵焼きだが刻んだ野菜などの具を混ぜて塩味で焼く。巻く前に海苔を挟み黒い渦巻き模様にするのが特徴だ。今の岡倉には愛妻の手料理が何よりも勇気を与えてくれるのだ。
「帰りは2泊できるから休暇は無理でも夜はゆっくり過ごそう」夫婦の営みも最近は生活の一部になりつつある。しかし、夫が口にした「帰り」には「帰ることができれば」と言う現実の短縮形であることをジアエは腕の中で噛み締めていた。
伸びかけた髭が肌の敏感なところを擦る不思議な感覚がジアエの中で夫との人生の記憶に加わった。
韓国軍イメージ画像(韓国陸軍)
  1. 2016/10/27(木) 08:48:46|
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声優・肝付兼太さんの逝去を悼む。

10月20日に我々の世代には耳から離れない声を聞かせてくれていた声優・肝付兼太さんが亡くなったそうです。81歳でした。
野僧と肝付さんとの出会いは藤子不二雄アニメの「おばけのQ太郎」のゴジラ(ドラえもんのジャイアンのようなキャラクター)、若しくは赤塚富士夫アニメの「おそ松くん」のイヤミからでしょう(「ゼロ戦はやと」や「鉄腕アトム」「ビッグX」「エイトマン」にも端役で出演していたそうです)。
これらは小学校に入る前で「おそ松くん」が土曜日、「おばけのQ太郎」は日曜日の放送だったので、どちらが先だったのかは定かではありません。
肝付さんは藤子アニメにはレギュラー出演したようですが、これはゴジラを演じた時、スタジオに来ていた藤子不二夫さんに絶賛され、以降は作者の指名を受けるようになったのだそうです。
当初はゴジラ、「パーマン」のカバオ、「怪物くん」の番野、そして野僧が小学生だった古い方の「ドラえもん」のジャイアンなどガキ大将の役回りが多かったのですが、これがテレビなどで代表作として紹介されている新しい方の「ドラえもん」のスネ夫役につながっていったのは声の質が変わった訳ではなく演技力の幅の広がりなのでしょう。
ところで藤子アニメで主演を勤めていた「ジャングル黒べい」の黒べいのことは新聞、テレビで全く紹介していないのは視聴率が低かったのでしょうか。やはり「ウラーッ」「ウラウラ」しか台詞がなかったので認められなかったのかも知れませんが、台詞なしでキャラクターの感情を表現するのは声優の技量のはずです。
ちなみに我が家で藤子アニメの肝付さんと言えば「奇天烈大百科」の苅野勉三さんです。子供たちにはあの山形弁が強く印象に残っていたようで、山形に帰省した時、叔父さんたちの口ぶりに「勉三みたい」と耳打ちしたくらいでした。と言っても肝付さんは鹿児島県出身です。
もう一方の赤塚アニメではやはりイヤミの「シェーッ」ですが、「天才バカボン」の目ん玉つながりのおまわりさん=本官さんの「逮捕するーッ」と言う決め台詞も捨て難いものがあります。
そして野僧が選ぶ肘付さんの代表作は宮崎駿アニメの「アルプスの少女ハイジ」のセバスチャンです(「銀河鉄道999」は年齢的に見ていません)。あの感動的な名場面の数々の脇を固めていたセバスチャンが発する一言は肝付さんでなければ演じられなかったでしょう。
昨日は私蔵する「奇天烈大百科」と「アルプスの少女ハイジ」を見て追悼しました。ご冥福を祈ります。合掌
  1. 2016/10/26(水) 08:47:28|
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振り向けばイエスタディ620

9月11日から半年が過ぎた3月中旬、岡倉はワシントンに呼ばれていた。ブッシュ政権はアフガニスタンのタリバーン政権の壊滅を宣言し、次はイラクに狙いをつけていることはマスコミの報道でも明らかだが、それに関連があるのかは判らなかった。
指定されたホテルのラウンジには松本が待っていた。松本が収集した北キボールの情報については知ることができないものの自衛隊のPKOが順調に始まっていることを見ると適切な内容だったのは間違いない。
「これは御苦労さまでした」「ご無沙汰しています」岡倉の顔を見て松本が立ち上がり、2人は握手を交わした。しかし、互いの果たした仕事については触れなかった。そのままソファーに座るとウェイトレスが飲み物の注文を取りにくる。岡倉は松本と同じくコーヒーを頼んだ。
「よう、待たせたな」そこに野中将補と工藤が現われた。今日も日本企業のアメリカ支社長と管理職のような服装だ。2人は岡倉と松本の向かい側に座ったが注文を取りに来たウェイトレスには「すぐに退席する」と言って断った。それを聞いて岡倉と松本も飲みかけ立ったコーヒーを飲み干した。
「島村くん、前回の任地のその後の確認に行ってくれないか」野中将補はインド料理のレストランに入ると料理の注文を終えたところで用件を切り出した。ここで言う「前回の任地」がアフガニスタンであることは確認するまでもない。
「まさか本社が追加営業を考えているのですか?」「いや、そうではないんだが」野中将補はインド風の衣装を着たウェイターがインドのビール=キングフィッシャーを持ってきたので話を中断した。すると工藤が変わって説明を始めた。
「君も知っている韓国の林支社長が営業に入っている地元企業から現地情報を確認して欲しいと頼まれたらしいんだ。韓国の企業は情報収集もしないで参入したから不安なんだろう」これは金大中政権がKCIAを潰しておきながら韓国軍をアフガニスタンへ派遣したことを言っている。どうやらソウルの防衛駐在官である林1佐が韓国軍から現地確認を依頼されたらしい。
「しかし、韓国のマスコミも現地取材しているでしょう」「あそこの報道は先入観と政治的計算が強過ぎて役に立たないらしい」「現政権にはベッタリだから都合が悪い情報は握り潰しているようだ」そこにウェイターが注文した料理を運んできた。4人はビールを飲んでいないことに気づいてビンを捧げると日本語で「乾杯」した。
「こちらはタンドリーチキン(鶏肉の漬け焼)です。そしてこちらがコーンサブシ(トウモロコシ、オニオン、ピーマンなどの炒め煮)です・・・」ウェイターは大皿に盛った料理の説明を始めた。この余計なサービスは岡倉に考える時間を与えた。アフガニスタンのタリバーン政権が壊滅されたと言ってもそれは組織の指揮系統を分断し、兵器を破壊したと言う欧米的な定義によるもので全てのイスラム教徒が臣従したことにはならない。そこに乗り込むことは前回以上の危険を覚悟しなければならないだろう。
「判りました。行ってきます」「日本は年度末だから予算は心配しないで良いぞ」岡倉の返事にうなずいている野中将補の横から工藤が声をかけた。
「実は松本くんも同様の業務依頼なんだ」「君の前任地で中国系企業に不審な動きがあるらしい」こちらは北キボールだ。中国軍が来ればそこで不審な動きを始めるのは毎度のことだった。そこで工藤が手招きをして松本に顔を近づかせて耳打ちをした。
「特に武装組織が地対空ミサイルを入手したらしいんだ。それで輸送機を狙っているとすれば問題だ」工藤の任務付与に松本は黙ってうなずいた。
「どちらもアメリカが美しい花の季節になるのに申し訳ないがよろしく頼む」野中将補の挨拶で席は会食に移った。今度は本場インド料理を味わう機会があるのだろうか。
  1. 2016/10/26(水) 08:46:18|
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俳優・平幹二朗さんの逝去を悼む。

10月23日に俳優・平幹二朗さんが亡くなったそうです。野僧は保育園児の頃の「源義経」からNHKの大河ドラマを見て育ったため、平さんとは顔馴染みでした。尤もキャラクターが強烈過ぎて馴染む前に記憶に刻み込まれてしまったのかも知れません。
平さんと言えば何と言っても「樅の木は残った(1970年)」の原田甲斐です。この番組は主演の平さんの他にも栗原小巻さん、吉永小百合さん、実は左翼の香川京子さんにアメショ女優・田中絹代などの人気女優を揃え、佐藤慶さんと北大路欣也さんを憎まれ役にする豪華な顔ぶれが演技を競い合っていたのですが、やはり平さんが共演者を圧倒していました。
特に最終回の酒井雅楽邸で伊達藩士が惨殺される場面は斬られた痛みが伝わってくるようで、「斬殺する」と言う行為が他の時代劇のように簡単ではないことを子供ながらも実感したものです。
次は「国盗り物語(1973年)」の斉藤道三ですが油商人の池内淳子さん、賭けで奪い取った主君の愛妾の三田佳子さんなどの誘惑の仕方はやはり不似合いでしたが(色気は感じない)、油売りの客引きで角柄杓から永楽銭の穴の中に油を垂らすシーンや愛妾を賭けて絵の虎の目を長槍で突くシーンは種明かしを雑誌で読んでもリアルで演技とは人を欺くことだと思いました(永楽銭はタコ糸を穴の中に垂らして油滴を映した。虎の目は刺した状態から撮影した画像を逆転させた)。
ただ平さんの出番は全51話の18話までで、その後は高橋英機さんの信長と近藤正臣さんの光秀、火野正平さんの秀吉のドラマが展開して信長の上洛で会った近藤さんと池内さんが思い出を語る回想シーンでも登場しなかったのは不思議です。
ちなみに歴史少年だった野僧は色黒で引きしまった風貌の斉藤道三の肖像画を知っていたので、平さんとは全く似ていないのが少し引っ掛かっていました。
「武田信玄(1988)」では中井貴一さんの武田晴信に追われる父・信虎でしたが完全に中井さんを喰ってしまっていました。
この番組は戦国時代を描いた大河ドラマでありながら女同士の愛憎・葛藤・駆け引きがかなりウェイトを占めていて、前年の「独眼竜政宗」が秀作だっただけに期待を裏切られて気分でしたが、追放された駿河で鬱屈を溜めていた平さんが自分を侮蔑する宮崎萬純さんの愛妾・らんを花見の席の花吹雪の下で斬殺する場面は流石の迫力でした。
野僧が大河ドラマで平さんに会った最後は「信長・KING OF ZIPANG」の加納随天ですが、番組自体が緒方直人さんや菊池桃子さん、的場浩司さん、仲村トオルさんの学芸会のようで画面を単に点けているだけでした。
ただ、ここでも高橋恵子さんの織田信秀さんの正室・るいを誘惑する場面には無理があり(ここでは高橋さんの艶技に圧倒されていた)、やはりお色気シーンは似合わないようです。それが女優の佐久間良子さんと離婚した理由だったとすれば問題は深刻でしょう。
最後に会ったのは映画「永遠の0(2013年)」の元海軍航空隊のパイロット・長谷川でしたが、この中で平さんの右腕の肘から先がなく、事故にでも遭ったのかと心配しましたが、それは画像処理だったようです。確かに「フォレストガンプ」でもダン中尉が両足を失った姿があり、その後の「アポロ13」では立っていますから、画像技術の発達は役者以上に人を欺くようになっているようです。
昨日は朝のニュースで訃報を知ってから私蔵する「樅の木は残った」と「国盗り物語」「武田信玄」「永遠の0」を見て追悼しました。やはり平さんの圧倒的な存在感と演技力は平成の時代には収まりきれなくなったのでしょう。ご冥福を祈ります。合掌
  1. 2016/10/25(火) 10:52:51|
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振り向けばイエスタディ619

淳之介は中学3年=高校受験の学年になった。成績は三重県では後方集団だったが沖縄では先頭集団の最後尾に位置している。そんな新学期の授業参観の後に三者面談が行われた。
「モリヤくんは高校もこちらで入学するんですよね」今度の担任は自衛官の息子である淳之介が気に入らない様子で確認してきた。祖母はそんな態度を腹立たしく思ったが受験への影響を考えて笑顔を作って「はい」と答えた。その辺りはやはり元居酒屋の若女将である。
「新学期の志望高校の確認でモリヤくんは学校名を書いていなかったので確認したのですが」担任は祖母が無理に作った笑顔の裏にある立腹を感じ取ったのか弁解のような説明をした。
「僕はこちらの高校を知らないんです」「同級生たちから聞いていないのか?」「好き嫌いだけで勝手な高校の名前を出すからマスマス判らなくなります」沖縄では進学校に入っても親に本土の大学へ行かせる経済力がなければ全国でも最低レベルの沖縄県内の大学になる。これでは高校の受験勉強を頑張る気にならないのも仕方ないのだ。
「モリヤくんは自衛隊のお父さんから学費は出してもらえるのでしょうね」やはり担任の言葉には棘がある。祖母は父親のモリヤから親権変更の書類が届いたことを伝えようと思ったが夫が結論を出していない以上、口外することを控えた。
「淳之介はウチの子ですから母親と私たちの力で育てるつもりです」祖母の説明に担任と淳之介が揃ってうなずいた。
「それでは淳之介くんの大学進学は考えられないと言うことで良いですね」担任は短絡的に結論を出した。やはり淳之介に対して教え子としての愛情は持っていないようだ。
「ところで淳之介くんには行きたい高校があるのか?」ここで担任は淳之介の成績表を開いて話を訊いた。玉城村からはバス路線が糸満市方面と那覇市方面に出ていて意外に選択肢が広く、だから同級生たちも気楽に好き勝手な高校を志望しているのかも知れない。
「僕は沖縄水産高校に行きたいです」淳之介の答えに担任は一瞬、「野球部だったか?」と思案したがバスケット部だ。意外な答えに初耳だった祖母と担任は顔を見合わせた。
「どうして沖水へ行きたいんだ?」「ヌーンチよォ?(何でよ?)」少し慌てた祖母は標準語を忘れてシマグチ(沖縄方言)に戻っている。淳之介は祖母の質問は判らなかったが、担任と同じ意味だと推理して答えた。
「祖父の仕事を見ていて僕もお客さんを乗せて行きたい所へ運ぶ仕事がしたくなりました」「と言うことなら将来はフェリーに乗るつもりだね」「はい、離島へ人や物を運ぶ仕事がしたいです」担任は腹の中で「『海上自衛隊に行きたい』と言えば反対しよう」と考えていた。しかし、離島便を希望していると知って急にこの教え子が可愛くなってきた。
「今の成績なら沖縄水産の総合学科は大丈夫だろう。それでも油断しないで頑張りなさい」「 総合学科なんですか?僕は船乗りになりたいんです」「水産高校では小型船舶の資格を取るのは総合学科なのさァ」淳之介の勘違いに担任までシマグチになってしまった。そんな師弟の漫才を聞きながら祖母は陸上自衛官になっている父親のモリヤがどう思うのか、何よりも引き取った孫を危険が伴う船乗りにすることが本当に正しいのか考え込んでいた。

「やはり淳之介にはウミンチュウ(=海ん衆)の血が流れているんだな」家に帰り祖母の報告を聞いた祖父は思いがけず満足そうな顔をした。
「俺の祖父さんが漁師なのは知っているだろう。戦争で舟を失って百姓になったのさァ」そう言われてみれば夫が自分の居酒屋に通うようになったのは漁師から仕入れる魚料理を楽しみにしてのことだった。そのウミンチュウの血が美恵子に受け継がれ、淳之介で復活する。モリヤの武人と坊主の血がどこへ行ってしまうのかは思案の外だった。
  1. 2016/10/25(火) 08:49:41|
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10月25日・韓国の「独島(どくと)の日」

明日10月25日は韓国の「独島の日」です。と言っても祝日ではなく歴史的な記念日として内外に喧伝し、若者たちに継承させるための教育や行事が催されているだけです。
その由来は1900年10月25日に韓国王が鬱陵島に軍を配備して独島も守備範囲とする任務付与を命じた勅令41号とされています。
一方、日本では同じ島を竹島と呼び、日露戦争中の明治38(1905)年1月28日に山口軍閥の桂太郎内閣が島根県への編入を閣議決定し、これを受けて2月22日に松永武吉知事(鹿児島県出身)の島根県が所属所管を告示(明治38年告示第40号)したことを記念する「竹島の日」として県主催の行事が開かれています。
しかし、国境に位置する島でありながら両国とも相手国への事前交渉や通告を行っておらず、一方的に自国領としたため現在にまで禍根を残すことになりました。さらに明治43(1910)年8月9日には日本が朝鮮を委任統治することになったため外交交渉そのものが成立しなくなり、それが韓国民の「怨」を根深いものにしているようです。
独竹島(この際、名前を一緒にさせてもらいます)の位置を地図で見ると日本からも韓国からもかなり離れていて昔の手漕ぎ、帆走の漁船では日常的に立ち寄るには無理があり、漂着のような形で存在を知った程度の話ではないでしょうか。
これが植物や動物などの食料が得られて命が救われたのなら、竜宮城のような伝説になるかも知れませんが、岩場だけで水も湧いていない孤島ではもう一度訪れたいとは思わないはずです。早い話が両国とも存在は知っていても船を派遣してまで確認をするだけの興味を持つような島ではなく、千島・小笠原、沖縄まで日本の周辺の島々を紹介している林子平の「三国通覧図説」にも取り上げられていません。
おそらく明治以降、近代的な汽帆船が導入されると日本海の往来が盛んになり、独竹島も行動範囲に入ったため、両国の統治者が領有権を意識するようになったのでしょう。
タイミング的に見ると韓国が言っている1900年は日清戦争で宗主国・清が敗れて完全な自立を志向する意識が高まり始めていた時期なので、独竹島を自国領とする勅令を出したと言う主張も説得力はあります。ただ外交的常識が欠落していたため日本への通告にまで意識は及ばなかったのかも知れません(日清戦争後、影響力を強めていた日本が韓国の勅令を知らないはずありませんが)。
尤も、当時は山口軍閥の長である山縣有朋の第2次内閣から伊藤博文の第4次内閣ですから迂闊に通告すると逆に奪われる可能性が高く、そのことを危惧してあえて無視したのなら中々の外交センスです。何にしてもこの頃の明治政府は完全に山口県出身者の私物と化していました。
逆に日本側が主張している明治38(1905)年2月22日は日露戦争も後半戦に入っており、ウラジオストックのロシア極東艦隊が旅順港に逃げ込んで動かず、明治37(1904)年10月15日にはバルチック艦隊がバルト海のリバウ港を出航して極東に向かっていたため日本海の制海権を確保しなければならず、韓国が外交通告もなしに領有を決めた独竹島を譲ることはできなかったのでしょう。
結局、敗戦によって日本の統治が崩壊したことで韓国は独竹島の領有を連合国に要求しますが、手続き上は日本の近代的行政の事務処理の方に説得力があるため受け付けられず、李承晩大統領は昭和27(1952)年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効した3カ月後の7月18日に軍事境界線・李承晩ラインを宣言して独竹島を実効支配下に置きました。
日本政府が本当に竹島を自国の領土をとしているのであれば竹島の周囲12浬は領海・領空であり、ここに接近する航空機に対して航空自衛隊は通告・警告を実施し、緊急発進によって国籍などを確認した上で退去させなければなりません。しかし、実際は外務省のコリア・スクール(韓国担当者)の陳情を受けた自民党外交族の圧力で関与することが許されず、レーダー上の航跡シンボルは国籍不明(=飛行計画の通知なし)の「U(アンノウン)」ではなく「K(コリア)」にさせられているのです。
ところで野僧は日本国内の「独島(ひとりじま・どくしま他)」を探しているのですが見つかっていません。
  1. 2016/10/24(月) 09:20:50|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ618

休日、指揮所当直についているとトバラ市内に外出した隊員たちから妙な情報を耳にした。大通りに並ぶ露店では相変わらず武器や弾薬、刃物が売り買いされているのだが、それが中国製だと言うのだ。
「AKー74に漢字が刻まれているんですよ」「弾薬箱も漢字表記でした」隊員たちは携帯のカメラで撮った写真を見せて報告するが、証拠物件を購入することはしなかったようだ。
北キボールではまだ憲法が制定されておらず、これを取り締まる法律もないためUNTANKの行政命令だけが根拠だ。しかし、カンボジアでは日本の文民警察がフランス外人部隊やオランダ軍と協力しながら治安の維持と防犯に活躍していたが、北キボールにはその機能を果たす組織がない。
「まさかPKOに来ている中国軍が横流ししていると言うことはないだろうな」「その可能性があると思って報告しました」カンボジアでもPKOに来ている人民解放軍が親中であるポルポト派に武器、弾薬を渡して自衛隊を狙わせたが隙がなく、その代わりとして日本人の選挙監視ボランティアや文民警察官を襲ったと言う噂はあった。その一方でソ連が崩壊して以降、中国が北朝鮮に武器や弾薬を輸出させ、軍事顧問団を送り込ませていることは公然の事実である。
確かに中国が首都圏を自衛隊に譲って郊外の道路工事を担当していることはかなり疑わしい。ただ中国の直接の影響下にあったカンボジアとは違いイスラム教国の北キボールでは武装勢力が思い通りに動くとは思えない。何にしても安定した滑り出しのように思われた我々の任務も気を緩めることはできないと言うことだ。
「妙なアジア人がウロウロして我々の写真を撮っていました」次の隊員の報告は例のフリー・ジャーナリストたちの件らしい。隊員たちにはフリー・ジャーナリストの存在と行動上の注意事項を教育してあるが、早速、姿を現したところを見ると彼らもネタに困っているようだ。
通常は地元民から自衛隊の評判を聞き出し、少しでも批判的な情報を察知すると現場に行って証拠を抑えようとする。それがいきなり接触してきたのは悪評が見つからないのか、会話が成立しないかのどちらかだろう。
「そう言えば30代くらいの女がいました。サングラスをしていましたから顔は判りませんが中々の美人みたいですよ」これは若い大使館員が言っていた女性ジャーナリストのようだ。
彼の話では阿部真理と言う湾岸戦争以降に活動を始め、世界各地の戦場レポートが雑誌に載っている30歳代後半のフリー・ジャーナリストとのことだ。私もカンボジアPKOに関する記事を読んだことがあるが、「自衛隊=日本軍」「日本軍=悪」と言う先入観が大手マスコミ以上に強く、事実を自分の偏見で無理に解釈した内容だった。
「イスラムの女たちは民族衣装ですから何も判りませんが、その女は薄着なので久しぶりに胸や腰の線を見て興奮してしまいました」こちらは残念ながら証拠写真はなかった。ただイスラム教で女性に厚着をさせるのは肌を守る目的と同時に男性に性的刺激を与えることを避ける意味もある。日本人の男を興奮させるような服装で街中を歩き回っていることは不謹慎であり危険でもある。モロッコ大使館員を通じて注意をしておいた方が良いかも知れないが、このような忠告も「取材妨害」などと書き立てられる原因になりかねないので、彼が顔を出した時に雑談的に伝えることにした。
「子供たちがマイムマイムを踊っていましたよ」最後に帰ってきた隊員の報告は「ホッ」と心が和むものだった(飲酒ができないので帰隊は早い)。「マイムマイム」と言えばアメリカ民謡「オクラホマ・ミキサ」とロシア民謡「コロブチカ」と並ぶフォークダンスの定番だ。
「あれはアラビアの雨乞いの踊りだからね」「へーッ、そうなんですか」私は小学生時代、フォークダンスを徹底的に教えられていたので、次に外出した時には子供たちと踊りたくなった。
  1. 2016/10/24(月) 09:19:07|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ617

「モリヤ1尉は地鎮祭をやれないか?」井戸掘りと道路整備が同時進行で始まった頃、工事全般を統制している3科長から質問を受けた。
「やらないことはないですが何か?」「井戸を掘る中隊が事故防止に地鎮祭を催したいと言っているんだ」その説明を聞いて水が出るか出ないかの博打の必勝祈願のように思えた。
「それから道路の方も古代からの道路を掘り起こすことになるからお払いがしたいそうだ」それならば工事を始める前に言って欲しかったが無下に断ることもできないだろう。
「私が佛教式だけで実施するよりもイスラムの聖職者と合同にした方が良いでしょう」「イスラム教は一神教だから合同は受けつけないんじゃないか」今度は1科長が常識的な意見を述べた。
「あちらを主役にしてこちらは日本人の作業安全を祈ると言えば大丈夫だと思います。イスラムは寛大で柔軟な宗教ですから」私のイスラム教に対する見解に1科長と3科長は顔を見合わせた。やはりブッシュ政権が登場して以来、日本のマスコミが請け売りで広めているイスラムへのマイナス・イメージが払拭できないらしい。
「それでは神主さんへの依頼はモリヤ1尉に行ってもらおう。ただし、お布施はあまり出せないぞ」1科長は「神主」と呼んだが一般的には「ウラマー」がそれに当たるはずだ。

イスラム教の地鎮祭はやはりカルチャーショックだった。先ず生贄として山羊の頭を切り落とし、それを現場の起点に埋めるのだ。勿論、その前にウラマーが宗教儀礼を施し、ハラールにしてある。
続いて独特の節回しで祈りの言葉を唱え、白い帽子をかぶったウラマーは天を仰ぎながら両手を突き出して上に向けた手のひらでアッラーの慈悲を受け留めていた。
列席している各部族の長たちも厳粛な面持ちで祈りを捧げているが、自衛官は山羊の断末魔を聞いた上、血飛沫を上げるのを見てしまって少し気分が悪くなっているようだ。
続いて私が自衛官のための作業安全を祈願した。と言っても地鎮祭の定番である清めの日本酒はイスラム教の戒律に配慮して水と塩にした。
先ずはウラマーに合掌して深く頭を下げ、山羊の頭を埋めた場所に置いた祭壇に向かう。そして砂漠の砂を入れた湯呑に日本から持ってきた線香を立て、数珠を揉んだ後、読経を始めた。
「地蔵菩薩本願経地神護法品」これは地蔵菩薩の衆生済度を援けるため大地を司る堅牢地神が力を発揮することを説いた経典だ。延命能化地蔵願応尊は中国西域の井戸や湧水の神が佛教に吸収された菩薩なので地鎮祭には最適だろう。
ウラマーは私の読経と戒尺を興味深げに聞いていたが、儀式が終わってから声をかけてきた。
「ムスリム(男性のイスラム教徒)たちから貴方が祈りを与えると山羊が素直に殺されると聞いています。それも今日の儀式で納得できました」「そうですか。私の読経などはウラマーの祈りに比べればカラスの鳴き声のようなものですが」これは素直な感想だったがイスラム教徒には謙遜する習慣はないので優劣の自己評価と受け取ったのだろう。ウラマーは首を振った。
「貴方はアッラーの存在を確信して祈りを捧げている。だから山羊にもその祈りに魂を救済する力を感じさせるのでしょう」本当はアッラーではなくアミダーなのだが私は手を合わせて深く頭を下げた。実は同じ評価を前山老師から受けたことがある。しかし、それは宗教者として探求すべき命題になっていた。
儀式が終わると目の前で山羊の解体が始まり、塩をまぶした焼き肉になっていったが、自衛官たちの中で食べたのはこの作業を何度も見ている坊主の私だけだった。
何にしてもこの地鎮祭は自衛隊がイスラム教に対して真摯な理解を示し、その儀礼を尊重する姿勢であることを周知させる効果を生んだ。
  1. 2016/10/23(日) 00:00:43|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ616

北キボール派遣施設群は首都・トバラの市街地の道路整備と井戸掘りが主要業務になっている。
井戸掘りについては派遣前に北海道の専門業者から教育を受け、井戸用削岩機などの専用器材も調達して送っていた。
「難しいのは水脈の位置の判定ですね」市街地に点在する井戸を見学して帰ってきた担当中隊長は厳しい顔をして群長に報告した。
「確かに北海道では深さの違いはあっても場所の選定については足場の確保の問題くらいだったからな」群長も井戸掘りの研修を視察していたようだ。尤も防衛大学校で土木工学を学んでいるので基礎知識は十分だったはずだ。
「手掘りの井戸を見る限り、砂の下には固形化した土の層がありますからパーカッション工法が良いでしょう」パーカッション工法とは金属製の重りを叩きつけて岩盤を砕き、それをべーラーと言う器材でかき取って掘り進める工法だ。地盤が比較的軟らかく水の使用量が多い場合は回転式の器材で大きく掘削するロータリー工法を選択する。どちらにしても水脈を探る方法については専門家=地元民の助言を要するだろう。
「それにしても固い岩盤を手で掘るとは硫黄島や沖縄の日本軍みたいだな」3科長の感心に私は沖縄で見た海軍司令部壕を思い出した。石灰質の岩盤とは言え壕内の壁にはツルハシとタガネの痕が残っていた。
「何にしても各部族の抗争の主な原因は井戸の使用権のようだから、井戸を1つ増やせば争いの種子が1つ減ると言うことだ。究極の平和維持活動だと思って作業に当たってくれ」群長のこの激励に聞いていた者は「全くその通りだ」と全員揃って大きくうなずいた。

PKOが本格的に動き始めた頃、相変わらずホテル住まいしている若いモロッコ大使館員が嫌な情報を知らせてくれた。
「日本のジャーナリストが数人、連泊するようですよ」彼はUNTANKの司令部に勤務しているため週に1回くらいしか現場には顔を出さないのだが、今回はワザワザ来てくれたようだ。
「どこの社ですか?」「それがフリーみたいで外務省からも連絡がないんですよ」このネタの担当になる1科長が確認したが空振りに終わった。
確かに新聞社やテレビ局であれば外務省や防衛庁の記者クラブを通じて取材を申し入れ、ついでに必要な支援も要望してくるはずだ。
1994年12月6日にルアンダPKOの取材に向かっていたフジテレビの入江敏彦支局長と共同通信の沼沢均支局長が飛行機事故で亡くなって以降、日本のマスコミは社員を危険な地域には行かさずにフリーのネタを買うようになったと聞いている。今回も彼らが仕入れた不確定情報を自分たちに都合が良い事実として報道するつもりなのだろう。
「それにしてもフリーの連中は野良犬のように嗅ぎ回って誘導尋問のような取材方法も平気でやりますから要注意ですね」この若い外務省職員は意外にもマスコミの実態を知っていた。アラビア語を専門にしているくらいだから、やはり中東で嫌な経験をしているのかも知れない。
「そう言えば女性が1人いましたよ」「女性って女か?」これに1科長が妙なことを確認した。最近では「男性の女」もいないことはないが、それはあくまでも特殊な例だ。
「食堂で会っても挨拶がなかったので名前くらいしか判りませんが、雑誌で写真を見たことがある気がします」この口ぶりでは意外に若くて美人なのかも知れないと禁欲生活が長い小父さんたちが身を乗り出すと、彼は「男と同室のようですよ」と水をかけた。
「作業現場の警戒要員は武器などをあまり見せない方が良いかも知れませんね」「それは過剰反応でしょう。敵は武装勢力です」1科長の常識的な意見に私は普通科の幹部として反論した。
  1. 2016/10/22(土) 09:10:30|
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10月21日・東京と台北で出征学徒の壮行会が行われた。

昭和18(1943)年の本日10月21日に東京と台湾の台北で出征学徒の壮行会が行われました。
この他にも10月30日には朝鮮の京城(ソウル)、11月14日に満州国の新京・ハルビン・奉天・大連、11月16日に大阪、11月18日に仙台、11月19日に神戸、11月21日に京都、11月21日と22日に名古屋(併せて演習も実施した)、11月27日に占領中の上海、11月28日にはどう考えても寒い札幌でも行われているのですが(何故か九州の記録が見当たらない)、現在では明治神宮外苑で行われた壮行会の映像ばかりが有名なので、あの式典に全国の大学から出征学徒が集まっていたと誤解している人も多いようです。しかし、実際は日本国内のみならず海外の植民地や統治地、占領地でも有為な学生たちを狩り出し、戦場に送ったのです。
アメリカでは大学生の多くが奨学金を受けられる予備役に登録をしていたため戦時の動員で従軍しています。また大富豪の息子であるケネディ兄弟のように志願して従軍する者も多く、東條政権のような一律の強制はなかったもののやはり若い命を散らしてしまいました(=ケネディ大統領の兄もパイロットとして戦死している)。さらにヨーロッパではイギリスやドイツの貴族階級の青年たちは地位の責務と名誉に於いて自ら従軍しています。
それまでの日本の兵役法などでは大学、旧制高等学校、専門学校(=現在の私立大学の前身)の学生は26歳まで徴兵が猶予されることが定められていました。ところが陸軍では大陸だけでも正規に養成している士官だけでは足りずに予備役を動員し、有能な下士官から選抜して士官に昇任させる苦肉の策を講じていたところに対米戦が始まったことで戦線が爆発的に拡大し、人材不足は危機的状況に陥っており、陸軍大臣を兼ねていた首相・東條英機の命によって文部省が動きました。
先ず対米・英戦を開戦するよりも前の昭和16(1941)年10月に大学と専門学校の修学年数の3学期を削除して、卒業直後の徴兵検査で入営させました。続いて翌年には大学予科と高等学校を半年短縮して同様の処置を加えたのです。そして、この年の10月1日には将来の技術開発に役立つ理数科系と教職課程を除く法文科系の学生の徴兵延期を解除して検査を実施すると伝染性の結核罹患者を除く丙種合格者まで入営させることになりました。
明治神宮外苑(現在の国立競技場)で行われた壮行式典の映像は映画やテレビ番組などで何度も取り上げているため我々にも強く印象に残っていますが、冷たい雨が降りしきる中、関東・信越地方から集められた7万人もの学生と参集者を前に東條英機は「御国の若人たる諸君は勇躍征途につき、祖先の遺風を高揚し、仇なす敵を撃滅して、皇運を迂能く奉るの日が本日来たのであります。大東亜10億の民を同義に基づいて・・・」と訓示し、続いて「海征かば」の大合唱が起こりました。
続く観閲行進では陸軍分列行進曲「抜刀隊」が流れる中、大学別に軍旗や部隊旗ではなく学旗を先頭に受閲していきました。それを見守る参集者の多くは女学生で、歓声から手を振る動作まで揃っている様子は現在の北朝鮮のニュース映像のようです。
海軍では太平洋上での消耗戦により士官不足は生じていたものの、艦艇が撃沈されれば艦長から水兵まで一律に戦死し、乗り込む艦艇も減るので陸軍のような危機感はありませんでした。
このため出征してくる学徒から飛行専修予備学生を選抜して神風(しんぷう)特別攻撃隊の搭乗員に充て、離陸と編隊飛行だけを教える速成栽培を始めたのです。おまけに身体的な理由で搭乗員に慣れない者にも人間魚雷・回天や水上特攻・震洋などが用意されていました。
ちなみに陸軍は未熟な操縦員では戦果が期待できず、事故によって貴重な航空機を損耗することを避けようと基本的に学徒出身者は地上勤務に充てていました。
日本の場合、東條英機が陸軍大臣として策定した「戦陣訓」によって捕虜になることが許されず、玉砕戦と言う愚かな戦闘が繰り返されたことが、特別攻撃隊と同様に有為な人材=優秀な遺伝子を数多く失う原因になりました。戦後の日本に優れた政治指導者や文化人が育たないのは法文科系の遺伝子がないのでしょう(理数系は残ったので科学者・技術者は育つ)。
やはり山口陸軍閥の非人道的論理を国民にまで強要した東條はヒトラー以上の極悪人です。
  1. 2016/10/21(金) 09:29:48|
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振り向けばイエスタディ615

宿営地は北キボールの首都の空港であり、唯一の空軍基地のはずだが全く機能していない。確かに電波灯台・タカンの鉄塔は立っているが肝心の軍用機がないのだ。
時折、国連やオランダ軍の輸送機が着陸するもののタカンを使用しているかは判らない。そんな中、小牧からCー130が2機でやってくるとの連絡が入った。
「ランウェイ清掃をやっておいた方が良くないですかね」「ランウェイって滑走路のことか?」「はい、日本語ではそう言います」指揮所長を兼ねている副群長に提案すると居並ぶ各科長が顔を見合わせた。どうやら陸上自衛隊では航空自衛隊が定期的にランウェイ清掃をやっていることを知らないらしい(=大型の掃除機をかけることもある)。
「航空機は着陸速度が早いので小さな突起物でもパンクの原因になるんです。おまけにジェット・エンジンが異物を吸引するとFODを起こしかねません」「FOD?」「フォーリング・オブジェクト・ダメージ(=異物吸入損傷)の略です」懐かしい用語が飛び出して妙に心が湧き立った。すると3科の運用訓練幹部が的外れな反論をしてきた。
「ジェット・エンジンと言っても輸送機はプロペラじゃあないか」「あれはターボ・フロップと言ってジェット・エンジンでプロペラを回しているんです」説明が航空教育隊の新隊員課程レベルまで落ちてしまった。すると4科長が更に的を外した。
「モリヤ1尉はカタンも知っていたが、航空に知り合いでもいるのかね?」「それを言うならタカンです。確かに航空には知り合いが多いですよ」カンボジアでは航空自衛隊出身と言うことで異物扱いされたが、ここでの二の舞は避けたいところだ。
「まァ、モリヤ1尉は勉強家だから興味が航空まで飛んだんだろう」「完全な軍事オタクだな。森内閣の防衛副長官(=石破茂・後のゲル長官)と話が合うぞ」「それなら航空貨物の受領責任者はモリヤ1尉と言うことで決まりだな」結論は1科長が強行着陸させてしまった。

ランウェイ清掃は滑走路に2メートル間隔で横に並び、足元を見ながら前進する。考えてみれば陸上自衛隊でも空薬莢を紛失した時には似たようなことをやるため意外に慣れていた。
滑走路にはバケツに数杯分もの小石が落ちていて、金属片としては銃弾が数十発あった。これでもここに着陸した国連やオランダ軍の輸送機の勇気に感心すべきか、無謀さを呆れるべきかは判らないが、遠路はるばる来てくれる航空自衛隊に対する感謝の印にはなっただろう。
「おう、モリヤ」到着したCー130のロードマスターは曹候学生の同期・石山曹長だった。
「へーッ、曹長が現役で飛んでくるのか」普通、ロードマスターは2曹くらいまででベテランは重量バランス計算を含む貨物の搭載計画などのデスク・ワークに回るものだ。
「このスペシャル(特別便)は片道5日もかかるから若い奴らを使うとスケージュール(定期便)に穴が開いちゃうんだよ」これがアメリカ軍であればCー130に宮中給油して無理にでも飛ばし続けるのかも知れないが、航空自衛隊ではフィリピン、タイ、ニセコガルシア(インド洋上の孤島にある米軍基地)、ヨルダン経由の片道5日の長旅だ。
「それに俺はルワンダにも行っているからな」「へーッ、アフリカには馴れているんだ」1994年のルワンダ人道派遣で航空自衛隊はケニアとルワンダの輸送業務を担当した。その民間航空会社以上に正確なタイム・スケジュール(運行時間)と万全なサービスは国連関係者や海外マスコミを驚嘆させ、「国連軍として最後まで残って欲しい」と真剣な要望が出たほどだ。
「そう言えば救難隊の吉田ちゃんからカップ・ラーメンを大量に預かってきたぞ」石山曹長は意味ありげに笑いながら理美がBXで買ったらしいカップ・ラーメンの段ボール箱2つを手渡した。2つの箱には赤いマジックでハートを描き、その中には「ファイト!」「元気」と書いてある。しかし、お返しの品物が何もない。次までに探しておくことにしよう。
  1. 2016/10/21(金) 09:17:21|
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10月20日・「群青忌」=野村秋介が自決した日

本日「群青忌」は平成5(1993)年10月20日に反体制右翼と言う真の民族主義者の在り方を示した野村秋介さんが朝日新聞本社で拳銃により自決を遂げたことを記念する日です。
野村さんは街宣車や任侠右翼と呼ばれる暴力的なイメージが強かった民族主義者=右翼としては珍しく時事バラエティーや雑誌の対談にも積極的に登場して左傾文化人などを相手に論戦を繰り広げたため、教員やマスコミが押しつける反日的教育・報道に疑問を感じていた多くの若者の信奉を集めるようになっていました。当時のマスコミは従来の右翼と区別するため「新右翼」と呼びましたが、野村さんはこれを好まず文学界とは無関係な「新浪漫派」と自称していました。
とは言っても野村さんも若い頃、出身地である横浜を勢力下に置いていた不良集団(当時は「愚連隊」と呼ばれていた)に加わり、その中心人物だった出口辰夫さんと兄弟の盃を交わしていたと言われます。出口さんは稲川会の稲川角二会長の舎弟であり、薬物と賭博に絡む抗争に明け暮れた人物ですから、やはり任侠=極道から始まっていたようです。
そんな野村さんは網走刑務所での服役中に接した5・15事件の首謀者・三上卓(元海軍中尉・その時は台湾からの密輸事件で服役していた)の影響で思想に目覚め、出所後は民族主義団体である憂国道志会を結成し、昭和38(1963)年7月15日には自民党の重鎮の1人である河野一郎の私邸を焼き討ちする事件を起こしました。この事件そのものは当時の党内抗争に関与しただけで思想的な意味は見当たりませんが、宮沢内閣の官房長官として売国的談話を発表することになる息子・洋平(当時31歳)を狙ったのなら立派な愛国行動です。
この事件で懲役12年の実刑を受けて服役し、出所後には昭和50(1975)年8月にマレーシアのクアラルンプールで日本赤軍がアメリカとスウェーデン大使館を占拠し、服役中のメンバーの釈放を要求したことに三木内閣が全面的に屈服し、5名を釈放したことに憤り、2年半後の昭和52(1977)年3月3日に元盾の会の2名と大東塾の1名と共に経団連本部に押し入り、12名を人質にして11時間にわたって占拠する事件を起こしました。この時、コメントを求められた経団連の土光会長は「ワシも右翼だ。狙われる理由はない」と喝破しています。しかし、この年の10月に発生したダッカ日航機ハイジャック事件で福田内閣も日本赤軍に屈服して囚人を釈放した上、身代金600万ドルまで渡したのですから、野村さんの行動が実を結ぶことはなかったようです。
服役後はヤルタ・ポツダム体制の打倒や日米安保条約の破棄を行動原理として「反体制右翼」と言う新たな思想集団として注目を集めていくことになりました。
そんな野村さんは平成4(1992)年の参議院選挙に日本最大の行動派右翼団体が組織した「風の党」から相棒の西川某が参議議員になっていた漫才師の横山某と出馬したものの落選し、選挙期間中に「週刊朝日」の風刺漫画コラムで「虱(しらみ)の党」と揶揄されたことを公職選挙法違反として刑事・民事告訴しましたが受理されなかったのです。
この結果を受けて朝日新聞に対して自由と民主主義を守る社是に背いて右翼団体の政治活動を阻害する報道を行った真意を糺した上で抗議するため18歳の息子を連れて本社を訪問し、当時の社長と面談しました。
この席で謝罪を引き出すと息子に満足したように笑顔を見せ、「今まではお母さんがお前を守ってきた。これからはお前がお母さんを守れ」と遺言し、そのまま「皇尊弥栄=すめらみこといやさか」と3度唱えた後、「ヤッ」との気合いを発して拳銃で腹を撃ったのです。
おそらく野村さんはこの年の8月にかつて焼き討ちした家で育った河野洋平が朝日新聞の虚偽報道に追従して日本人の名誉を韓国に売り渡す官房長官談話を発表したのを見て、日本人が日本人足り得た時代の終焉を噛み締め、クリスチャンを妻にするような天皇を戴く「平成」と言う時代には生きる場所がないことを感じたのでしょう。つまり5年後の昭和天皇への殉死だったのかも知れません。
  1. 2016/10/20(木) 09:09:08|
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振り向けばイエスタディ614

「マミィ、大きな荷物が届いているよ」スクールバスの停留所から佳織と一緒に帰ってきた志織が玄関の前に山積みになっている箱を見つけて駆けだした。
アメリカの宅配便は宛先の住所に届けることまでが業務なので、日本のように受取人に手渡すのではなく玄関に置いていくことが珍しくない。そこで盗難にあっても届けた証拠として配達伝票がポストに残っていれば責任は回避できるようだ。
「お父さんが出発前に日本から送ってくれたんやね」「判った。ランドセルだ」志織の推理に佳織はうなずいた。志織が登校時に背負っていくランドセルが同級生の間で評判になり、小学校に父母からの問い合わせが殺到したため、佳織が注文を受けることになったのだ。
確かにランドセルは小学生が持っていく学用品が上手く収まるサイズであり、両手が空いているため動きが楽な上、背骨への悪影響が少ない理想の通学用鞄なのだろう。
「お父さん、札幌で買って送ってくれたみたいや」佳織から相談を受けたのは正月の休暇で訪米した時だったが、年明けからは北海道に行ったため札幌で買うことになった。
「でも、志織のよりも少し重いみたいやね」「私のは名古屋で買ったんだよ」箱を2人で手分けして家の中に運び終えると佳織がつぶやいた。箱に入った重さではあるが、北海道の製品であれば志織の物よりも革が厚く、頑丈な作りなのかも知れない。
「1個、箱から出しちゃあ駄目?」「駄目、志織の物じゃあないやろ」志織は疑問を感じれば確認する習慣が身に付いているので早速秤を持ってきた。
「箱から出さないと正確に比べられないよ」「もらった子は新品だと思ってるから箱に開けた痕があったら嫌やろ」「うん・・・判った」意外と素直にうなずいた志織に佳織は苦笑した。
「そう言えばお父さんに『届いたよ』って電話でけへんわ」「もう、アフリカだね」夫が北海道から出発する前夜に電話を受けて以来、声を聞いていない。距離は半分近くに縮まったが、連絡手段は手紙しかない。それも何日かかるか、無事に届くかは判らなかった。
「アフリカはどっち?」「日本の反対側や」志織が家族写真が入った額を持ってきたので、佳織は東側の棚の上に置いた。
「貴方、ありがとう。愛してるよ」「ダディ、サンクス。ウィズ ラブ」その頃、私は就寝中だったが夢の中で妻と娘の声を聞いた(気がした)。

「貴方、モリヤさんから簡易書留が届いたさァ」沖縄の玉城家では元義母が元義父に郵便局員から手渡された封書を見せていた。
「簡易書留?重要書類を入れる封筒だな」元義父は封筒を受け取ると小物入れからハサミを取り出して上辺を切った。中には家庭裁判所の親権変更申立書とモリヤと淳之介の戸籍謄本、そして千二百円分の収入印紙と便箋がある。元義父は便箋の書面を通読した。
「モリヤさん、アフリカに行ったみたいだ。それで何かある前に淳之介の親権を美恵子に渡す手続きに必要な書類を送っておくそうだ。手続きをどうするかはワシが決めてくれと書いてある」元義父の説明に元義母は「何かって?」と思いながらも黙ったままうなずいた。
「ただ親権を渡すことは今の奥さんが反対しているみたいだ」「奥さんが反対を?」続きを読んだ元義父の言葉に元義母は真意が計りかねて怪訝そうな顔をした。
「モリヤさんに何かあった時の相続権を奪うことになるからだって」「それは普通と逆さァ」元義母の胸に淳之介を引き取りに行った時に会った今の妻の顔が浮かんだ。あの時の毅然とした態度を思っても美恵子とはレベルが違い、幹部自衛官である元婿の妻には相応しかった。
「美恵子の息子に戻すことが淳之介の幸せなのかねェ」元義母の問い掛けに元義父は返事をしなかった。淳之介を引き取って半年、祖父母はまだ迷いを感じているのだ。
  1. 2016/10/20(木) 09:07:45|
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10月18日・ズィーボルトの命日

日本で元号が明治に代わる前年の1866年の10月18日に日本の精神風土や文化、自然などを広く正しく欧米に広めてくれたフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・ズィーボルト(日本ではシーボルトですが今回もドイツ語の読みにします)さんが亡くなりました。70歳でした。
ズィーボルトさんは由緒を示す長い名前でも判るように神聖ローマ帝国領だった現在のドイツ南部の医師の名門家系に生まれ、20歳の時に大学で医学を教えていた祖父と父の功績により貴族に列せられたことで「フォン」の称号が冠せられることになりました。
その父はズィーボルトさんが1歳の時に31歳で早逝した上、兄と姉も夭折しているためカソリックの聖職者である母方の叔父の下で育ちますが、幼い頃から血気盛んで友人たちと100回以上も決闘騒ぎを起こして剣を交え、顔だけでも大小33カ所の傷があったものの不敗だったそうです。
後年、日本でズィーボルトさんの蘭方医学者としての名声が高まると、2代藩主・光圀の時代から尊皇攘夷に凝り固まっていた水戸藩士に狙われることになったのですが、本当に襲撃されていれば日独流剣術の真剣勝負になり、その結果に興味が湧きます。
そんなズィーボルトさんは祖父と父が教鞭をとった大学の哲学科に入学しますが、「医学の名門を守れ」と言う親族の要望=命令に応えて医学部に転科します(この時期に貴族になっている)。
この大学在学中に持ち前の好奇心と探求心を発揮して医学だけでなく動物、植物、地理、民俗学なども幅広く学び、そのことで日本の国情調査を計画していたオランダに出島の商館付の医官として採用され、約1年をかけて長崎に赴任しました。
長崎では西洋医学の普及を名目に鳴滝塾を開設させ、全国各地から集まってくる俊才たちを教育しますが、その一方でオランダ語の課題として彼らに論文を書かせて日本各地の情報を収集し、さらに日本で発行されている書物のオランダ語への翻訳までやらせていたのです。
ズィーボルトさんが育てた蘭方医には塾頭まで務めた眼科医の高良斉さん(徳島出身・シーボルト事件で情緒不安定になり活躍できなかった)、稀代の天才・高野長英さん(岩手・水沢出身)、ズィーボルトさんの娘のイネさんを女医に育てた二宮敬作さん(愛媛・宇和島出身)、ナポレオンを日本に紹介し、旧・新約聖書を翻訳してしまった小関三英さんを始め、江戸で種痘を成功させた伊東玄朴さん(佐賀出身)や師事したイネさんをレイプして妊娠させた産科医の石井宗謙(岡山県出身・イネさんの娘・タカさんも別の医師にレイプされて妊娠している)、臨床医学の祖と呼ばれる戸塚静海さんなど。植物学者でも日本人初の東京帝国大学教授になった伊藤圭介さん(愛知県出身)がいます。
ズィーボルトさんの功績としては動物の剥製、植物の標本、浮世絵などの絵画や工芸品を大量に送っていたことがあります。この中には絶滅してしまったニホンオオカミやトキ、その可能性が高いニホンカワウソなども含まれ、その姿を我々が見ることができるのはジィーボルトさんのおかげです。
さらに現在の日本では西洋紫陽花(あじさい)と呼ばれている紫陽花はズィーボルトさんが持ち帰った苗木がヨーロッパで広まり、品種改良された結果生まれた品種です。
最近も剝製や標本の多くを収蔵しているオランダのライデン自然史博物館でランチュウなどの金魚のアルコール漬けの標本が見つかり、人間の手が加わって過去の形態が分かりにくい金魚の江戸時代の姿が確認できました。
ズィーボルトさんは国外追放によって帰国してからも「日本を平和的に開国させたい」と言う念願を抱き、日本の精神風土や文化などを詳細に記した大著「NIPPON」を出版しています。
そして日本が開国して日蘭通商条約が締結されたことで国外追放処分が取り消された安政6(1854)年には再来日して幕府の外交顧問に就任しました。しかし、相変わらずの好奇心と探求心からコレクションを増やしていることに幕府が不信感を抱き、江戸所払い=退去させられたため息子をイギリス公使館に就職させて帰国しました。
帰国後は収集品の分類と研究、公開に励み、3度目の来日を計画していましたが、風邪をこじらしたことから敗血症を併発し、この日を迎えました。 
ズィーボルトみなもと太郎作「風雲児たち」より
  1. 2016/10/19(水) 08:50:22|
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振り向けばイエスタディ613

「率先垂範」自衛隊の各級指揮官が共有するこの美風がイスラムの男たちに感銘を与えていた。
「貴方はオフィサーですよね」現場指揮官の中隊長が炎天下も立ったまま作業を監督していると雇用されている部族の中では長老格の男が不思議そうな顔で訊いてきた。各部族は自衛隊からの広報を受けて英語が話せる者を入れて推薦してくれている。彼もそんな1人だった。
「うん、この現場のコマンダー(指揮官)だよ」中隊長の返事を聞いて男は周囲の同族の者たちに説明した。すると全員が口々に何かを言い始め、それを男が通訳した。
「我が部族からはオランダ軍や国連に雇われている者がいるが、どこも仕事を命じるだけで、炎天下で働くのは我々だけだ。それなのに日本軍は我々と一緒に、むしろ我々よりも一生懸命働いている。何故だ?」中隊長は「何故だ?」と問われても答えに困ってしまう。中隊長自身はあまり英語が得意ではなく、国際問題になりかねない答えは避けたいのが本音だった。それでも思い浮かぶ英単語を組み立てて回答を作成した。
「これは我々の仕事であり、皆さんには手伝ってもらっているのです。しかし、国家を建設するのは皆さんの仕事であり、我々はそれをお手伝いするのです」男は中隊長の説明も興味を持って耳を傾けている部族の物たちに通訳した。すると全員が一斉に雄叫びを上げ、両手を天に突き上げ始めた。一瞬、中隊長は「暴動でも起こすのか」と不安になったが、通訳した男が力任せに抱きついてきた。
「我が同志、日本軍に偉大なるアッラーの慈悲あれ」男の叫び声に作業中だった他の部族の作業員たちも集まってきて興奮状態の男たちに事情を聞いた。すると雄叫びが伝染してしまった。
「アッラーに栄光あれ!日本軍に幸いあれ!」自衛隊では命令による「指揮」と同時に「統御(=薫陶)」も重視する。これを「統御」と言ってしまうと些か功利的になるが、少なくとも士気を大幅に高揚させる効果はあった。

宿営地の建設が一段落して市街地の道路整備が始まる前日、オランダ軍現地指揮官の大佐が群長を表敬訪問してきた。群長も英語が堪能なので通訳なしだが、向こうに大尉が1名ついてきたため暇そうにしていた私が随行することになった。
「日本軍は対人地雷禁止条約を批准しているから、この宿営地には警備用の地雷は設置していないね」「オランダも批准しているでしょう」群長はその策定・締結の現場にいたのでオランダ軍の大佐よりも詳しい。すると大佐は唇を歪めて話を続けた。
「ウチはクレイムアを設置しているよ」「クレイムアを?それは物騒ですな」クレイムアとはスイッチで作動させると金属片が一定方向に爆発・噴射される指向式地雷のことだ。これも対人用ではあるが作動が人間の操作によるため禁止条約では対象外とされた。
「日本では警備用の火器でさえ必要最小限に抑えられていますから、クレイムアなどは及びもつきませんよ」「それでは今回も警備はウチの仕事と言うことだね」「そこのところはよろしくお願いします」カンボジアよりも前進したことと言えば幹部用の武器が拳銃からMー6短機関銃になったことくらいだ。それも野党に配る派遣計画資料に外観上は拳銃と変わらないMー6の写真を添付して誤魔化したらしい。群長室での面談の後は宿営地内の案内になる。
「ふーん、肉を焼く匂いがするな。現地人に調理させているようだがハラールの肉を調達しているのか?」糧食班の傍を通る時、大佐は高い鼻を動かしながら呟いた。
「いいえ、独自に宗教儀礼を施しています」「それでイスラムの連中が納得しますか?」群長の答えに大佐は半信半疑の顔をして訊き返した。実は先日の佛教式宗教儀礼以来、私の読経で動物が静かに殺されることが評判になり、毎回のように呼ばれているのだ。
「まあ、ウチには秘技がありますから」そう言いながら群長は私を振り返って笑った。
  1. 2016/10/19(水) 08:48:57|
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10月18日・日露戦争の第4軍司令官・野津道貫元帥の命日

明治41年の本日10月18日は日露戦争における第4軍司令官の野津道貫元帥の命日です。
日露戦争では満州軍総司令官である大山巌元帥、総参謀長の児玉源太郎大将、第1軍司令官の黒木為禎大将、第2軍司令官の奥保鞏大将、第4軍司令官の野津道貫大将など第3軍司令官の乃木を除けば錚々たる名将が揃っていましたが(階級は日露戦争当時)、この各軍司令官の中で最も高く評価されていたのは野津元帥だったと言われています。
実際、陸軍首脳陣が日露開戦を想定した軍制・作戦を立案する中で満州軍司令官には野津大将を据える心づもりだったのですが、第1軍司令官に野津大将と戊辰戦争以来のライバル関係にある黒木大将を当てなければならないため両者と同郷で上位にある大山元帥が就任することになり、総参謀長も陸軍大臣に決まっていた児玉源太郎大将が降格されることになりました。
野津元帥は天保12年に鹿児島城下で下級武士の次男として生まれました。幼い頃から豪胆で、郷中の仲間と野稽古に出かける途中で泥棒を捕まえると、周囲が「役人に引き渡そう」と口を揃えるのを退け、褌を集めて縛り上げると木に吊るして稽古に向かったとの逸話が伝わっています。
また日清・日露戦争で満州に在った時、鹿や兎を狩りして「胆力がつくから」と生き血をすすり、それを勧められた部下たちが断ると「私の若い頃には処刑者があると聞くと飛んで行って、まだ温かい遺骸から肝を取り出して食べたものだ」と笑い飛ばしたと言います。
一方、京都の島津藩邸で勤めていた頃、上田藩士でありながら島津藩の兵学師範だった赤松小三郎から西洋兵学を学び、その赤松が尊皇攘夷派の中村半次郎によって惨殺されたことで仇討を決意したものの果たせず、後年の西南戦争で政府軍を率いて勇戦したのは中村半次郎=桐野利秋に対する仇討の気持ちがあったのではないかと推察されています(他の鹿児島出身者は躊躇したが)。
薩長土肥出身の政治家や軍人たちの多くは戊辰戦争での軍功を誇示していましたが、野津元帥は日本人同士が血を流すことを嘆き、「討つ人も 討たれる人も 哀れなり 共に御国の 人と思へば」と和歌に詠っており、宇都宮攻城戦では守備する指揮官が大鳥啓介であることを知ると戦わずして撤退し、そのことを非難されると「私は大鳥が翻訳した西洋の兵法書で学んだことがある。師を討つことはできない」と答えたそうですから、それは本意だったのでしょう。
そんな野津大将は同郷のライバルである黒木大将と同様に強襲・奇襲攻撃を得意として多くの戦争で武勲・軍功を重ねてきましたが、日清戦争まで戦闘の規模が拡大すると味方の損害も増大し、日露戦争では無理攻めは控え、敵の隙を探って集中攻撃する戦術に切り替えました。
ロシア軍司令官のアレクセイ・クロパトキン大将が決戦を避けて退却を繰り返しているのを「敵を引き込んで包囲殲滅する退却戦術である=ロシア軍にはナポレオンに対する戦例がある」と判断して深追いを避け、占領地域の確保に万全を期することで着実に勝利を引き寄せていったのです。
このため奉天戦を前にして、獅子奮迅の働きをしたとは言え相変わらずの強襲を繰り返した黒木大将の第1軍や旅順要塞への正面攻撃で貴重な戦力を消耗した乃木の第3軍に比べ、最も戦力を残していたのは野津大将の第4軍でした。
第4軍は奉天戦の主力を担いましたが、ここでも退却を開始したロシア軍に対して満州軍司令部が「予備兵力を充当するから待て」と追撃を留めたのには「予備兵力など不要、俺が行く」と拒否しています。やはり今が「決戦の刻」であることは間違いなく洞察していたのです。
野津大将の参謀長は後に「日本工兵の父」と呼ばれることになる娘婿の上原勇作少将(当時)でしたが、若し上原少将が第4軍ではなく乃木の第3軍の参謀長であれば、堅牢な旅順要塞を攻撃する困難さを正しく認識し、愚かな正面攻撃を繰り返して多くの将兵を殺すことはなかったでしょう。
それにしても日露戦争における満州軍の将帥たちは大山元帥、黒木大将、野津大将、大迫第2軍参謀長(後半)、伊地知第3軍参謀長が鹿児島出身、児玉大将と乃木が山口県出身、奥大将は小倉藩出身、落合第2軍参謀長(前半)が兵庫県出身、上原第4軍参謀長は宮崎県出身でしたから、陸軍閥の山口県としては乃木以外に軍神に祭り上げられる人物がありませんでした。
  1. 2016/10/18(火) 09:05:08|
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振り向けばイエスタディ612

翌日から宿営地の建設作業がカンボジアと同様に自衛官の手で始められた。先ずは地雷の探知と排除からになるので陸上自衛隊施設科の隊員としては日頃の訓練の成果を発揮することになり、緊張感と当時に施設科精神「技術に対する誇り」の発揮でもある。
その様子を幅広い年齢層の男たちが見に集まっており、成人男性は仕事を求めて声を掛けてくるが言葉が通じないのではどうしようもない。子供たちは隙を見つけて何かを持ち去ろうとしているようだが警備の隊員が目を光らしているのでこちらもどうしようもなかった。
海に近いとは言えやはり赤道に近い地域の日差しは焼け焦げるほどだ。おまけに舗装されていない市街地からは海からの風が砂塵を巻き上げ、マスクなしでは屋外にいられない。
「この地域を取り仕切っている部族は4つだそうです」夕方になって1科長が群長に報告した。
「4つか。それに均等割りすると10名ずつだな」「残り10名は?」建設作業従事者の雇用予定は50名だったので1科長は少し首を傾げた。
「10名は部族間の話し合いで決めてもらおう。そうすれば彼らの習慣を尊重していることになるだろう」「奪い合いでトラブルになりませんかね」「彼らのトラブルの解決法を見ておくのも今後の参考になるんじゃないか」1科長は日本的な事故=トラブル防止の観点から不安を述べたが、やはり群長は腹の座り方が違う。群長は対人地雷禁止条約の国際会議に参加した経験があり、外国人との交渉に関しては熟練しているらしい。
異文化の土地で仕事をする上で現地の風習を学ぶことはマイナス面でこそ必要なのだ。

指揮所ほかのプレハブが建ち、比較的快適な居住環境が整ってきた頃、糧食班長が相談にきた。
「モリヤ1尉にお願いがあるんですが」「私に何かできることがありますか?」私はここでも指揮所の自動翻訳機を兼ねた電話番に過ぎず、相談されても何かをする権限はない。
「判った!調理係りが足りないから手伝えって言うんでしょう。それならお安い御用だ」私のふざけた返事に糧食班長は真顔で首を振った。この様子では意外に深刻な問題のようだ。
「実は電力不足で肉類の冷蔵保存ができないので、ここで山羊を屠殺して解体しなければならないのですが、イスラムでは宗教儀礼を施した上で屠殺しなければハラール(=「許可された」の意)の肉にはならないと言うのです」確かにトルコ陸軍のアカイ少佐にもホテルにハラールの肉を用意するよう依頼した。しかし、我々はムスリムではないので関係はないはずだが、屠殺を現地の人にさせる以上、何らかの儀礼を行う必要があるのだろう。
「モリヤ1尉は坊さんと言うことなので、お経を唱えていただきたいのです」「それなら隊員が屠殺すればすむ話でしょう」「えッ?山羊を殺すんですか。可哀想じゃあないですか」私の提案に糧食班長は完全に腰が引けた。確かに訓練では蛇や鶏、兎や犬を殺すレンジャーでも山羊となると嫌がるかも知れない。仕方ないので引き受けることにした。
糧食班が入っている作業天幕の裏に行くと1頭の黒い山羊が現地の男性に抑えつけられていた。山羊は殺されることが判っているようで尿を漏らし、白目を剥いて逃れようとしているが、逞しい男に首を羽交い絞めにされては身動きもできない。
「よしよし、すまんな。我々も君を食べて力をつけないと任務が遂行できないんだ」私は山羊の鼻を撫でながら声をかけた。そして戒尺を取り出すと3度打ち鳴らし、そのまま大悲円満無碍神呪(曹洞宗では大悲神陀羅尼)を唱え始めた。カチカチカチと言う響きと観世音菩薩の救済を説く経文(ただし呪文)に山羊は鎮まり、やがて覚悟を決めたように膝をついた。
最後は「オン・アミリト・ドバンバ・ウンバッタ」と馬頭観音の真言の繰り返しだ。ここでうなずくと首を押さえていた男性が大きなナイフで頸動脈を切った。血飛沫を吹きながら山羊は息絶えたが、佛教の儀礼でハラールになっただろう。合掌
  1. 2016/10/18(火) 09:04:06|
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10月17日・GSG9がハイジャックを解決した。

1977年の本日10月17日にドイツ国境警備隊の特殊部隊であるGSG9(ドイツ語ではゲー・エス・ゲー・ノインと読む)がパレスチナ解放戦線の4名によってハイジャックされ、ソマリアのモガディシュル空港に駐機していたルフトハンザ機に突入し、3名を射殺、1名を逮捕して事件を解決しました。
野僧は浜松の警備小隊長時代、警備職種は航空作戦の1つ「基地警備」の専門職であり、戦闘技術の追求・練磨こそが本務であって警衛勤務はその技量を使う余技に過ぎないと明言していました。
このため具体的な練成目標を策定しようと元フランス防衛駐在官だった基地業務群司令(後の航空幕僚長)を通じてフランス外人部隊、イギリスのSASなどと一緒にGSG9の資料を入手し、苦労して日本語に翻訳したのですが、フランス外人部隊とSASは航空自衛隊の警備小隊にはそぐわないためGSG9の第1中隊を選択し、スクランブル機が強制着陸させた外国軍の大型機に突入して乗員を制圧し、再びハイジャックされた旅客機が浜松基地に着陸することがあれば(前回は1970年8月19日の全日空175=アカシア便事件)、同様に対処できる戦闘能力を追及していきました。
ドイツでは東西に分断されていた時期、国境線から同一距離内に軍隊を接近させない取り決めにより警察組織である国境警備群が編成されていましたが、ミュンヘン・オリンピック選手村の占拠、イスラエル選手射殺事件を受けてテロに対処するため設置された9番目の特殊部隊がGSG9です。
部隊編成としては都市テロ(拠点奪還、人質救出など)を担当する第1中隊100名、海上テロを担当する第2中隊100名、特殊技能(火器・爆発物処理、交渉、医療など)を有する第3中隊50名の3個中隊250名です。
入隊条件(当時)は年齢18歳から24歳、身長165センチ以上のドイツ国籍を有する警察職員経験2年半以上の者で、6ヶ月間の選抜訓練=テストを通過することでした。
選抜訓練の項目としては航空機、船舶、列車、大使館などの実物大の模型を使った突入訓練。格闘や銃器による制圧、テロリストが使用する武器に関する学科などの近接戦闘訓練。色々な姿勢からの射撃、隠蔽物を利用した射撃、暗夜などの視界不良下での射撃、人質がいる場合の精密射撃、移動している乗物からの射撃、さらに迅速な弾倉交換や故障排除などの射撃訓練。高高度から降下して低高度で落下傘を開くいわゆるスカイダイビング、高高度で落下傘を開くパラシュート操作、ヘリ降下、潜水、車両の高速走行操縦、そして爆発物解体処理、通信、衛生処置、科学警察、法律などの特殊技能教育・訓練などで、野僧としては色々な姿勢からの射撃や隠蔽物を利用した射撃、夜間を模したサングラスをかけた状態での射撃、射撃中の弾倉交換などは秘密裏(野僧が訓練指揮官=現場責任者だった)に実施したものの、同じ管理隊の輸送小隊員と一緒に滑走路を使って車両の最高速度を経験させる訓練は安全第1の輸送小隊の反対で実現しませんでした。
1977年10月13日に乗客85名と乗員6名を乗せて高級リゾート地であるスペイン領マルヨカ島からフランクフルトへ向かっていたルフトハンザのボーイング737がドイツ赤軍の指示を受けた男女2名ずつのパレスチナ・ゲリラにハイジャックされ、収監されているドイツ赤軍のメンバー11名の釈放と身代金1500万アメリカ・ドル(後述のダッカ日航機ハイジャック事件で相場が釣り上がった)を要求しながらキプロス、バーレーン、ドバイ、南イエメンを転々とした後、ソマリアのモガディシュ空港に着陸しました。
ここで閉鎖中の南イエメンのアデン空港に強行着陸したことで点検のため機外に出た機長の射殺死体が投棄されたことを受け、シュミット政権は交渉による解決を断念し、キプロスからハイジャック機に同行していたGSG9に突入作戦を命じたのです。
交渉役は「メンバー1名を釈放し、現在、ソマリアに向かっている」と嘘をついて機体の爆破期限を延長させソマリア政府の了解の下、イギリスのSASと協同で作戦を実行しました。
SASが1時的に視力を失う閃光弾を撃ち込んで破裂させ、同時にGSG9が機内に突入するとドイツ語で「伏せろ!」と叫び、それに反応せずに立っていたゲリラを次々と射殺していったのです。
この事件は2週間前の10月3日に終結したダッカ日航機ハイジャック事件で、日本赤軍に要求されるまま身代金600万ドルを支払い囚人6名を釈放した福田赳夫内閣を世界中が嘲笑する結果になりました。
  1. 2016/10/17(月) 09:32:49|
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振り向けばイエスタディ611

宿営予定地に到着するとその夜はテントでの野営になった。武器と弾薬は海上自衛隊の輸送艦で運んできていたので、周囲に実弾を持たせた歩哨を立てるのは当然のことだ。
「それにしても思った以上に英語が通じませんね」「そのようだな」群の指揮所天幕で群長・大川1佐に報告するとそこにいた全員がうなずいた。やはり各人が私と同様の経験をしたようだ。
「命により治安を担当しているオランダ軍の指揮所にも行ってきましたが、英語が通じないことが情報収集の大きな支障になっているようです」「歴史的な経緯から言えばスペイン語の方が通じるかも知れないな」私の報告に第12施設群の2科長が口を挟んだ。確かにスペインはジブラルタル海峡を挟んだ対岸であり、モロッコとは侵略の応酬を繰り返してきた。しかし、海峡の名称になっているジブラルタルはイギリス領の半島だから少しは英語も通じて良いはずだ。
「それから助言として聞いてきたのですが」私の一言に情報を渇望している隊員たちは一斉に身を乗り出した。
「現地の人を雇う時、個人で採用してはいけないそうです」「ほーッ、何故かね」現地人の雇用を担当する1科長が真顔でこちらを見たので聞いてきたまま説明を始めた。
「イスラム教徒は部族間の利害関係に敏感なので、各部族に広報して推薦させる方が良いそうです。その時、洩れなく広報しないと後から抗議を受けることになります」「広報って言われても言葉がな・・・」1科長は困惑した顔で周囲の幹部たちと呟き合った。問題は防衛庁が作成したアラビア語の一覧資料と会話帳が現地での必要事項をどこまで網羅しており、正確に翻訳しているかだ。何にしても外務省の現地窓口であるモロッコ大使館員はホテル住まいだ。
「ところでモリヤ1尉はカンボジアでもオランダ軍と関わっていたんじゃないのか?」「いいえ、タケオ地域はフランス外人部隊の担当でしたからオランダ軍と接触はありませんでした」3科の運用訓練幹部の質問には感情を交えず答えたが、実際は1993年5月4日に北西部バンテイメンチェイ州アンプル村で岡山県警の高田晴行警部補が殉職した時、オランダ軍がゲリラからの激しい銃撃に日本の警察車両を見捨てて退却したことが思い出されてはらわたが煮えくり返る思いだった。しかし、ここではUNTANKの同僚なので忘れることにする。
「それにしても冷えてきたな」「砂漠も夜は冷えるとは聞いていますが、海岸に近いのでそれ程でもないだろうと思っていました」群長の呟きに誰かが答えた。これは地図上の判断であり、風は気温が低い方から高い方に流れるので、夜間には寒気が吹くことを予測するべきだろう。
「こう言う寒い夜は人間の体温に蛇やサソリが寄ってきますから靴を履く前に中を確認し、夜中に用便した後は寝袋の中も点検しないといけません」これには第2次PKOで派遣された経験を持つベテランたちも「初耳だ」と顔を見合わせたが、カンボジアの経験ではなく沖縄の米軍から聞いた注意事項だから仕方ない。それでも注意事項として採用され、集合仮眠天幕ごとに伝令が巡回して注意喚起することになった。
「それでは伝令を兼ねて巡察してきます」「普通科の幹部の現地指導だな」「教育隊の再指導かも知れません」久居に赴任して以来、当直勤務は駐屯地当直幹部だったので夜間に徒歩で巡察に回ることはなくなっていた。久し振りの演習気分に少し心沸き立つ気分だ。
街灯りが全くなく、滑走路灯も点いていない宿営地の空には満月が光っていた。青白い月明かりで懐中電灯は必要ないくらいだ。
「止まれ、誰か」私の影を見つけて2名立っている歩哨の片方が銃を構え誰何してくる。
「巡察」「月」「駱駝」合言葉まで順調に行ったが、歩哨は日本語が通じた時点で味方と思ったのかも知れない。逆の場合はどうすれば良いのかを質問されても困るところだ。
「さっきから山羊や馬が歩き回っていて誰何を繰り返していました」「そうか、猛獣は出ないと思うけどコブラには気をつけてくれ」異境の地は歩哨への注意・指導も一味違った。
  1. 2016/10/17(月) 09:30:44|
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10月17日・朝鮮戦争で海上警備隊員が戦死した。

昭和25(1950)年の明日10月17日に朝鮮戦争の機雷掃海で海上警備隊の中谷城太郎隊員が戦死しました。
掃海部隊が属する海上警備隊は2週間後の11月1日から海上保安庁の中で分離・独立され、2年後の8月1日には独立した海上警備隊になっていますから中谷隊員は陸上自衛隊で言えば警察予備隊の隊員に当たります。
朝鮮戦争はこの年の6月25日に北朝鮮が38度線を越えて侵攻を開始したことから始まり、韓国は釜山にまで追い詰められました(山口県豊浦郡豊浦町に亡命政府を設立する計画があった)。
これに対して占領軍最高司令官・マックアーサー元帥は9月15日に朝鮮半島中部の仁川への上陸作戦を敢行して一気にソウルを奪還すると共に北朝鮮軍を分断して形勢を逆転させたのです。
仁川上陸に先立って北朝鮮軍は占領地域の沖合に大量の機雷を敷設しており、上陸部隊も被害を受け、その後も補給船などが危険に晒されていました。
しかし、連合軍が日本に派遣していた掃海用艦艇は極めて少数で(当時の掃海艇ではアメリカやヨーロッパから日本まで回航することが困難だった)触雷による被害が後を絶たず、このため占領軍司令部は日本政府に対して掃海部隊の派遣を要請=命令し、海上警備隊の掃海艇が集まられ、田中久三元海軍大佐を総指揮官とする特別掃海隊が編成されたのです。
連合軍は敗戦後、日本海軍の艦艇の廃棄処分を進めていましたが、掃海用艦艇だけは武装のみを解除し、乗員もそのまま維持して周辺海域の掃海作業に当たらせていました。
今でこそ陸上自衛隊の不発弾処理と海上自衛隊の掃海で事故が起こることはありませんが、掃海作業では現在に至るまで79名が殉職しており、その事故の教訓の積み重ねが現在の世界最高水準の技術と安全対策に結晶しているのです。
第2掃海隊は10月10日に担当海域である朝鮮半島南東部の元山沖に到着し、12日から作業を開始しましたが、その日にはアメリカ海軍の掃海艇2隻が触雷して沈没するのを目の当たりにしながらも3個を処理しました。その後、国連軍が北朝鮮軍に対して艦砲射撃を実施したため16日までは作業を中断し、再開した翌日に事故は起きました。
掃海艇MS14号が触雷して沈没、2名が重体、5名が重傷、11名が軽傷を負い、甲板下の烹炊場(ほうすいじょう)にいて逃げ遅れた烹炊長の中谷城太郎隊員が行方不明になったのです。
これを受けて第2掃海隊の指揮官・能勢省吾元海軍中佐は水面上を走る上陸用舟艇で先に浮遊機雷の掃海を行い、その後に掃海艇を進入させる作業方式を提案したもののアメリカ海軍の現地指揮官に拒否され、「7時に出港して帰国せよ。15分後に残っていれば砲撃する」と恫喝されたため下関に帰国してしまいました。それにしてもアメリカ軍の少将にも臆することなく筋を通した能勢元海軍中佐には感服してしまいます。
その後、第2掃海隊は指揮官を交代させて元山沖に派遣され、各掃海隊は仁川沖、鎮南沖、群山沖などで掃海を実施し、27個の機雷を処分する成果を挙げました。
この掃海作業に対して政治はこの上なく冷淡で、本来は連合軍の極秘事項であった日本の掃海部隊派遣がソ連、中国から社会党、共産党に伝わると「憲法違反」として吉田茂内閣を追及しましたが、「泣く子とマックアーサーには勝てぬ」ご時世だけに深入りはしませんでした。
助けられたはずの韓国の李承晩大統領は「日本軍が来ていることが判っていれば、共産軍に向けた砲門を海に向けて攻撃した」と演説しています。
それ以上に許し難いのは戦没者の慰霊を存在理由にしている靖国で、遺族が「戦争中の殉職であれば戦死である」と合祀を嘆願したのに対して、「政治問題に関与できない」とこれを拒否したのです。
靖国は安全保障関連法が成立した時にマスコミが行った公開質問でも「自衛官が戦死することになっても合祀はしない」と明言しており、国を滅ぼしたA級戦犯よりも貶めています。
要するに「自衛隊に対する指揮権限を有する政治屋(特に安倍晋三首相と稲田朋美防衛大臣)は参拝を止めろ」と言うことです。
  1. 2016/10/16(日) 08:51:18|
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振り向けばイエスタディ610

モロッコ南部のタンタン港に入っていた輸送艦から車両と施設機材を載せたトレーラーを下し、そのまま海岸沿いの道を南下する。運転する隊員は日本で国際免許の手続きを終えているが駐屯地と演習場で右側通行の訓練をしているだけなので少し不安そうだ。
ただ交通量は少なく制限速度も特にないため長い車列は順調に進行している。私は警備担当として先頭車両に武装をして乗り込んでいた。
「この風景なら塗装を砂漠仕様にしてこなければいけませんでしたね」海岸線まで砂漠のような大地が迫っているのを見て隣の席の2尉が言ってきた。確かに陸上自衛隊のオリーブ・ドラブ(OD)色は針葉樹を想定しているので、砂漠どころかカンボジアでも迷彩効果は低かった。
「うん、冬季用の白色迷彩の方が目立たなかったかな」「ここの砂は赤いですから微妙なところです」サハラ砂漠の西端に当たるモロッコの風景は夕方のように赤味がかっている。車両操縦の訓練は北海道の演習場よりも富士の赤い大地の方がリアリティはあったかも知れない。
「間もなく国境ですね」砂漠の風景は単調なのでそろそろ飽きてきた頃、ようやく第1関門が近づいてきた。北キボールはまだ独立を果たしていないが、国連の暫定行政機構・UNTANKの統治下に移行しており、その通過手続きも私の任務だ。
「国境の通関担当者が英語に堪能なら良いけどな」「国連でもそんな心配がありますか?」「日本人は国連を買い被っているんだよ。国連なんて各国の使い物にならない外交官の寄せ集めに過ぎないことを認識しておかないと裏切られるぞ」これはカンボジアでUNTACの司令部で勤務した佳織の経験談だ。日本では外務省のエリートを国連に送り込んでいるが、多くの国々では左遷先になっているそうだ。そんな組織だから世界中で余計な問題を起こして墓穴を掘っているのだ。
「タワクット!」国境の警備員は手を突き出して聞き覚えがない言葉を叫んだ。動作から見て「止まれ!」と言っているのは判るが、これが何語なのかは不明だ。そもそも軍人なのか警察官なのか、単なる警備員なのかも判らない。
「キャン ユー スピーク イングリッシュ?」先ずは中学校で習った質問からだ。しかし、彼は首を傾げただけだ。そこで挨拶で言語を確認することにした。
「ハロー」「ボンジュール」「ハアロ」「チャオ」「オーラー」英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語で「こんにちは」と言ってみたが反応がない。つまりヨーロッパ圏の言語ではないようだ。となればアラビア語だろう。私は駐屯地の書店に注文してギリギリ間に合った観光用アラビア語ガイドブックの知識を試すことにした。
「アッサラーム アライクム(こんにちは)」「アッサラーム」すると彼は笑顔になって挨拶を返した。こうなるとガイドブックを見ながら話すしかない。
「アーカニー ムカラマト ハチフィア(電話を貸してくれ)」完全に片仮名の棒読みになったが、それでも彼は理解したようで粗末な歩哨所に案内し、電話の受話器を差し出した。
「国連に電話がしたい」続いて用件を言いたいのだが、流石にこのような専門的な会話は載っていない。そこでゼスチャーで電話をかけさせた。
「ハロー、ディス イズ ジャパン アーミーズ PKO(こちら日本陸軍のPKO)・・・」相手が出ると同時に英語で捲くし立てると電話の向こうで相談する会話が聞こえ、その後、落ち着いた英語の返事が聞こえた。
「ハロー、ディス イズ ヘッド クオーター オブ ユナイテッド ネーション トラニショナル アドミニストレーション ノース キボール(こちら国連北キボール暫定行政機構司令部)」ようやく話が通じ、溜め息と同時に汗が噴き出した。本当は自衛隊の到着予定時間に英語ができる人間を配置しなかった不備を抗議したかったがそんな余力はなかった。
  1. 2016/10/16(日) 08:49:36|
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10月16日・出征学徒による早慶戦が行われた。

昭和18(1943)年の明日10月16日に早稲田大学の戸塚球場で徴兵免除・延期を受けて出征することになった学生の早慶戦が行われました。
学徒出征は戦争の長期化・拡大による慢性的な初級指揮官の不足を打開すべく、それまで徴兵を免除、若しくは卒業まで延期されていた大学生のうち技術開発に直結しない法文科系の者を対象外とすることを東條英機内閣が決定したのです。
一方、野球はアメリカの発祥であることから敵視され、やがては常軌を逸した締めつけを受けるようになり、当初は「ピッチャー」「キャッチャー」や「アウト」「セーフ」などの英語の用語を「投手」「捕手」や「良し」「駄目」などに置き換えることで許されていたのが、競技そのものを禁止されることになりました。
しかし、軍の立場から見れば反射神経を駆使して瞬時に全力疾走することや投球を中心とする野球の運動形態は兵士の戦闘動作の基本である発進・停止=早駆けと伏せや手榴弾の投擲などと共通性があり、将来の徴兵に備えて少年たちに推奨しても良いくらいではないでしょうか。
それが判らない昭和の軍部=東條政権により、甲子園球場で行われていた(旧制)中等学校野球や後楽園での都市対抗野球は昭和17(1942)年で中止され、当時は職業(=プロ)野球以上に国民の絶大な人気を博していた東京6大学野球も同年の秋季リーグが最後になり、翌年には文部省から東京6大学連盟の解散が命じられました。
それでも早稲田、慶応義塾大学の野球部員たちは練習を続けていたのですが、学徒出征の決定により、「最期の思い出に長年のライバルと試合をしたい」と切望するようになったのです。
この切望を慶応義塾大学野球部の主将が部長に、部長が小泉信三塾長に伝え、小泉塾長は「出征学徒への餞(はなむけ)として開催したい」と言う意向を解散直前の東京6大学連盟の理事で早稲田大学野球部の顧問に伝えましたが、そこからが困難を極めました。
先ず試合会場を6大学リーグが行われていた明治神宮野球場としたため文部省の許可が必要になり、東條内閣を恐れる官僚たちが難色を示したばかりか、中止に向けて妨害を始めたのです。
さらに対戦相手の早稲田大学も田中穂積総長が許可を下さず、野球部関係者の必死の説得にも一切耳を貸さない状況になりました。
これから35年後の昭和53(1978)年に小説「英霊たちの応援歌」が出版されて史実が広く知られるようになり、65年後の平成22(2008)年に舞台と映画の「ラストゲーム・最後の早慶戦」が上演・上映されると慶応義塾大学の小泉塾長を賛美し、早稲田大学の田中総長を権力におもねて学生の願いを踏みにじった卑劣漢として批判する雰囲気が醸成されましたが、野僧はこれには賛同できません。
当時の最高権力者であった東條英機首相兼陸相兼参謀総長は極めて狭量で陰湿な人物であり、自分に反抗する者を正規の権力だけでなく職務権限が及ばない相手にも影響力を行使して地位だけでなく生命までも抹殺していました。
高級参謀が東條の作戦指揮に影で疑問を述べていたことを耳にすると(密告を奨励していた)本人が不安視していた戦線に左遷させたり、戦争の否定的な将来展望を口にした50歳を過ぎた大学教授に徴兵令状=いわゆる赤紙を送って陸軍2等兵にした上で最前線に送ったりすることが常態化していたのですから、政権が敵性競技として否定している野球を文部省の命令に背いて公然と行えば、間もなく軍人となる学生たちにどのような類が及ぶかを慮る(おもんばかる)のは大学の長としての責任だったはずです。
その意味では小泉塾長は軽率な理想主義者であり、田中総長は深謀遠慮の現実主義者であったと逆の評価ができます。やはり同じようにアメリカ留学を経験していても経済学と法学では発想が違うのかも知れません。
試合結果は10対1で早稲田大学が勝ちましたが、試合後には慶応義塾の学生が早稲田の校歌「都の西北」、早稲田の学生が慶応義塾の応援歌「若き血燃ゆる者」を歌ってエールを交換したそうです。そのエールが与えた若き力が戦場で発揮されることになったのは言うまでもありません。
  1. 2016/10/15(土) 09:12:23|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ609

冬の間は顔を見せなかった太陽がためらいがちに光を送るようになった北海道の3月、我々は北キボールへ出発した。第12施設群の大型施設機材は足が遅い海上自衛隊の輸送艦で地球を半周させるため1カ月以上前に送っており、それには幹部2名が同行している。元海上自衛隊志望の私としてはそちらの役の方が好かったのだが、他部隊からの臨時勤務者は最後まで講習を受けさせられるのが陸上自衛隊の常識だった。
恵庭駐屯地で行われた壮行式典に総理大臣以下のお歴々が顔を揃えているところはカンボジアの時とは随分違うが、寒い中の挨拶が長くなるのはハッキリ言って迷惑だ。私の胸には講習の最後にPKOの臨時施設群長になる第12施設群長・大川1佐の訓示が深く刻まれていた。
「我々は初めてアフリカ大陸に足跡を記す(しるす)陸上自衛隊になる。アフリカが日本に対して抱く感情は我々が描くのだ。そのことを肝に銘じて最善を尽くしてくれ」その後、群長が「施設科精神」と音頭を取り、隊員たちが「施設科の隊員は使命に対する誇りと技術に対する自信を持ち、積極進取にして堅忍持久、沈着周密にして豪胆機敏、身を挺して職務を遂行しなければ・・・」と唱和した。やはり土建屋の社長の浪速節は日本人の心に染みるようだ。

新千歳空港からチャーター機のボーイング747でモロッコへ飛び、そこで車両と施設機材を受領して陸路で北キボールへ入る。時差ボケを防ぐには機内で熟睡することだが、マスコミが同行する公務移動では飲酒ができないため、眠れない者は趣味が合わない映画を見るか、雑誌を読むくらいしかやることがない。
「モリヤ1尉はカンボジアの1次派遣隊だったそうですが、宿営地の設営はどんな感じでしたか?」機内で隣の席になった施設群の剣物1尉が訊いてきた。群本部では外務省から提供された宿営予定地の資料を基に作業計画を立案し、担当者も指定しているようだが、素人の普通科の幹部は警備員だった。
「カンボジアは初めてだったこともあって設営作業は自衛隊だけでやったんですよ。今回は現地の人たちを雇うようですから、どう使うかが問題でしょう」「そこなんですよ。自分はイスラム教徒なんて会ったこともないですから」そう言って剣物1尉は唇を噛んだ。我々は全員がエコノミー席だが、幹部と陸曹・陸士では座る場所を分けているため弱気な顔も見せられるのだろう。周囲を見渡すと流石は陸上自衛官だけに熟睡を通り越して爆睡している者が大半で、どこからか鼾(いびき)も聞こえてくる。そこで私は音量を落として話を続けた。
「イスラム教徒は浄土真宗の門徒さんみたいなところがありますよ」これは佳織が連れてきたトルコ陸軍の留学生・アカイ少佐から受けた印象だ。
「ヘーッ、ウチも門徒ですがそんなもんですかね」「イスラム教は過酷な砂漠に生きる民に無理して戒律を守る必要はない。守れる時に守れることを守れと言う教えです。だから寛大なアッラーに感謝し、絶対の忠誠を誓うんです」「アッラーを阿弥陀佛に代えればウチの祖母さんが言っていることと一緒ですね」講習には中東の大使館勤務を経験した外務省職員が来てイスラム教の教育を行ったが、アメリカ式民主主義を信奉するエリート外交官の目から見ればイスラム教徒の行動様式は粗野で無法な集団に見えるらしく肯定的な話は聞けなかった。それは9月11日の事件以降、アメリカが推し進める反イスラムの戦争に同調している当事者なのだから仕方ないことではあるが、現地でイスラム教徒と働くことになる我々には何の役にも立たず、むしろ害がある先入観を植えつけただけだ。
「だから友人として心を開き、一緒に汗を流すことから始めれば良いのですよ」「それなら隊員に接するのと同じですね」剣物1尉は安心したようにうなずいた。率先垂範、苦楽を共にする自衛隊の気風はイスラムの民にも必ず通じると私自身も信じていた。
  1. 2016/10/15(土) 09:11:05|
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