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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月9日・実は優れた宰相だったのでは?・チェンバレン英首相の命日

ヨーロッパでは第2次世界大戦が始まって1年が過ぎていた1940年の本日11月9日はヒトラーを戦争に駆り立てた元凶と酷評されているアーサー・ネヴィル・チェンバレン英首相の命日です。
日本人の歴史マニアにとってチェンバレン首相とシンガポールが陥落した時の現地司令官・パーシバル中将の2人はイギリス貴族が弱いことを象徴しているように思われがちですが2人とも貴族階級出身ではなく、どちらも叩き上げの政治家と軍人でした。
そもそも貴族が弱い=卑怯なのは日本のお公家さんの話で、イギリスに限らずヨーロッパの貴族は騎士道を堅持している勇者ばかりであることを正しく認識するべきでしょう。
チェンバレン首相は日本で明治政府が成立した翌年の1869年にバーミンガム市で生まれました。父は地元の市長や閣僚を務めた政治家で異母兄もやはり外務大臣を経験し、ノーベル平和賞を受賞したほどの政治家でした。
名門・ラグビー校で学び、さらに現在のバーミンガム大学に進学しますが、専攻は理工系だったようです。
卒業後は父が経営するバハマの農園の経営に携わり、実業家としての評価を獲得すると1911年に地元のバーミンガム市議会議員に当選したのを皮切りにして、父と同じく市長、さらに下院議員(貴族ではないので上院には立候補できない)、再選後は閣僚を歴任していきます。
そして1937年に保守党の党首と首相に就任したのですが(イギリスは日本と同じく議院内閣制)、その頃のヨーロッパではイタリアのムッソリーニやドイツのヒトラーが台頭して急激な軍備拡張進めていたのに対してイギリスの軍備は世界中の植民地に拡散しているため本土の防衛力は脆弱で、対岸の他人事として傍観していることはできなくなっていました。
この時、チェンバレン首相が選択したのはヒトラーの関心をソ連に向けさせて、共産主義と全体主義を共倒れさせようと言う極めて戦略性に富んだものだったのです。
このためオーストラ併合に続きヒトラーが主張したドイツから多くの移民が居住していたチェコスロバキアのズデーデン地方の帰属問題を話し合うためイギリス、フランス、ドイツ、イタリアの首脳がミュンヘンに集まり、「これ以上の領土を要求しない」と言う約束と引き換えにズデーデン地方をドイツに割譲することを決めました。
これもヒトラーの野心が南で封鎖されれば強国・フランスではなく東に向き、やがてソ連と噛み合うことになることを見越しての判断だったのです(防衛力整備の時間稼ぎでもあった)。
しかし、ヒトラーが非武装中立に近い平和主義国・ポーランドを放置することはずがなく、ミュンヘン協定から1年も経たない1939年9月1日に侵攻を開始し、これにソ連が呼応して両者はポーランドを分割しました。
この事態を受け9月3日にイギリスが宣戦布告したことで第2次世界大戦が勃発したのです。
その後、ヒトラーの目は東に向いているようでしたがやがて北に転じ、1940年4月には目の前のバルト海を渡ってノルウェーに侵攻し、5月10日にオランダ・ベルギー・ルクセンブルクのベネルクス3国が侵攻を受けたことで首相の職を辞しました。
辞任後もウィンストン・チャーチルの挙国一致内閣に参加することになりましたが、第3党として力を持ち始めていた労働党の党首の反対で閣外の枢密院議長に就任しています。
それも5ヶ月間だけで10月3日には体調不良を理由に辞任して1カ月後に亡くなったのです。死因は胃癌だったそうですからかなりのストレスを抱えていたのでしょう。
現在の政治家や学者などはヒトラーだけを絶対悪とする前提で歴史を評価するため、それを否定しなかったチェンバレン首相の宥和政策を批判しますが、スターリンとヒトラーを見比べた時、奪った人命の数だけでも倍近く、巨悪として懲罰する相手としてはチェンバレン首相の方が正しかったようです。チャーチル首相も回顧録で「戦う相手を間違えた」と認めているのですから、そろそろチェンバレン首相を再評価しても良いのかも知れません。
  1. 2016/11/09(水) 09:09:14|
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振り向けばイエスタディ634

市内の目抜き通りの整備が進むとバザール(市場)も賑わいを見せてきて、日曜日の外出も楽しみになってくる。ただしアラビア語ができない以上、イスラム商人を相手の買物は要注意だ。
「ふーん、このアラベスクは美しいな」私は露店に並べられている骨董の金属器を選んでいた。今回は輸送機で小牧からラーメンやレトルト食品を送ってくれている吉田理美1曹へのお礼の品だが、帰国前に自宅の記念品を買う時の下見も兼ねている。
イスラム教ではアッラーだけでなく人や動物の姿をリアルに描くことが戒められているため、つる草やモザイクのような幾何学的な模様が発達した。その模様のことをアラベスクと言うのだ。それにしてもどうしてドイツのコーラス・グループがこの名前をつけたのだろうか。
「これはどの時代のものですか?」品物を並べた奥で水煙草をボコボコ吹かしている小父さんに英語で訊ねたがジロリと視線をよこしただけだった。
手にとって黒金柄の模様を見てみるとイランで16世紀から18世紀に栄えたサファヴィー朝のニエロ調のような気がする。イスラム教では「空間の恐怖」と言って隙間を作ることを避ける美学がある。これは日本の禅美術とは真逆だが細部にわたる技巧には感心してしまった。
「これは良いな。幾らだろう」理美に丁度良い小物入れを見つけ、値段を訊こうと観光用アラビア語辞典を開いていると後ろから背中を叩かれた。
「モリヤ1尉、買い物ですか?」それは梅田と名乗った曹候22期の元航空自衛官だ。
「おう、梅田くん、まだいたのか」梅田は私の返事を待って隣に並んだ。
「良い物を見つけましたね。奥さんにですか?」梅田が手で持っている小物入れを大袈裟に誉めてくれたので正直に答えることにした。
「いや、小牧のWAFにお礼だよ」小牧のWAFと聞いて彼の顔が一瞬緩んだ。そこでさらに話を続けた。
「救難隊の整備員で吉田1曹って言うんだがね」「理美かァ。懐かしいな」彼は口の中で独り言を呟いたが、異常に聴力が良い私には聞こえていた。
「今から交渉するところだけど、この小父さんは英語が判らないみたいだから・・・」「僕が通訳しますよ」思いがけず通訳を雇うことができたようだ。
梅田のおかげで比較的安く吉田1曹へのお礼と我が家用の金属製の鉢を買うことができた。お礼にバザールに店を出しているシーシュ・カバーブを御馳走することにした。
シーシュ・カバーブは日本ではシシカバブーと呼ばれているロースト肉を焼いた料理だ。日本で普及しているシシカバブーはインド風で、中東から北アフリカ圏内ではハラールでさえあれば材料や味つけにはこだわらない。ちなみにカバーブとはアラビア語で串のことだ。
「うん、美味い」「このスパイスがたまらんな」2人で長くまとめた肉に目が痛くなるほど香辛料を降りかけて揚げたシーシュ・カバーブを頬張るとビールが飲みたくなってきた。
「うーん、ビールが欲しい」「やはり自衛隊は禁酒ですか?」「内務生活と同じで本音と建前だね」自衛隊では基地内の飲酒は隊員クラブに限定されており(それ以外は基地司令の許可が必要)、それ以外での飲酒は意外に重い服務規律違反になる。しかし、実際は外出して安価なビールを買って帰り、内務班の冷蔵庫で冷やしておいて消灯後に飲むのが実態だった。
「中国軍は仕事が終われば酔っ払いばかりでしたよ」「あっちは市街地から外れているからイスラム教徒の目を気にしなくて済むんだろう」私の答えに梅田は笑ってうなずいた。確かにイスラムの慣習を兵士に尊重させるような躾が中国軍にできるとは思えないので私も納得した。
「今回はアフリカ進出の足がかりを作ることを目的しているので、事を荒立てるつもりはないようです」どうやら梅田は北キボール派遣隊内で危惧されている中国軍の妨害工作について内偵してきてくれたようだ。やはり梅田は・・・後輩だ。
  1. 2016/11/09(水) 09:06:50|
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11月9日・ベルリンの壁の破壊が始まった。

この出来事があった時、野僧は幹部候補生学校に入校中でニュースを見ることができなかったのですが、1989年の明日11月9日に「東ドイツ政府が出国規制緩和を決定した」との報道を受けて、ベルリンの壁の東側に市民が集まり、深夜から破壊を始めました。
しかし、実際は与党・ドイツ社会主義統一党の中央委員会が「翌10日から緩和する」ことを決定しただけで形式的に存在していた4つの野党(東ドイツは一党独裁ではなかった)への通知などの政治手続きは未実施だったのです。
ところが記者会見した政権の広報担当者が「現行の1988年11月30日旅行法は新旅行法が発効するまで適用されない」「それまでの間の暫定処置は次の通り」「外国旅行は旅行目的や親族の個人情報を提示することなく申請できる」「警察の旅券登録部門は国外移住のための出国査証を遅滞なく発給するように指示される」「国外移住に関して東西ドイツ国境並びにベルリンの壁の全ての検問所を利用できる」などと発表した後、記者から実施時期を確認されて「私の認識では直ちに遅滞なくです」と答えてしまったため、それを夜のニュースで見た東ベルリン市民たちがベルリンの壁の検問所に殺到し、その数は時間と共に膨れ上がり、深夜になってその圧力に屈した国境警備隊の現場指揮官が独断でゲートを開放したことで壁の存在意義は崩壊しました。
この東ドイツ政府の決定はあくまでも旅行法案であって、それまで極めて厳格に行われていたパスポートの発給用件を大幅に緩和する旅行の自由化なので通常の出入国審査は継続されるはずだったのですが、市民の圧力はそれさえも撤廃してしまったのです。
さらに夜が更けると市民の中には石などで壁を破壊する者が現れ、それが鏨(たがね)などの工具になり、夜が明けると重機まで持ち出して何カ所も穴が開けられていきました。国境警備隊や警察にはこれを制止する力はなく(軍は国境から一定距離に立ち入ることができなかった)、黙って傍観していたのです。
ベルリンの壁は終戦後、東西に分断されたベルリンでは西側へ移住する者が増加の一途だったため、これに危機感を抱いた東ドイツ政府とソ連が建設したものです。
1961年8月13日=日曜日の午前0時を期して突然、西ベルリンを包囲するように48キロの鉄条網が設置され、さらに東西ドイツ国境線の155キロが追加されました。やがては通常の人間では容易に乗り越えることが困難な高さ3メートルの壁が建設されたのです。しかも鉄条網には高圧電気が流れ、壁の頂部には手を掛けられないように割れたガラス片が隙間なく埋め込まれていたそうです。
それでも越境して西ドイツ、西ベルリンに亡命する者は後を絶たず、その数は23万5千人に上りました(このうち4万人は国境線を越えての逃亡)。
このため1970年には国境警備隊に対して「国境を侵す者には武器を使用しても、その行動を慎むように命じなければならない」と狙撃命令を出し、多くの市民が犠牲になりました(国境の川を泳ぎ渡ろうとして溺死した人も多数)。
この東ドイツ国境警備隊は西ドイツとの協定により軍隊ではありませんが、西ドイツのような警察組織ではなくベルリン市民以外で西ドイツに親戚がいない者が専門に徴兵され、約8千人の規模だったようです。ところがこの国境警備隊からも逃亡者が続出し、2人1組での勤務中に逃亡を図った同僚を射殺したり、逆に同僚を射殺して逃亡する者までありました。
結局、ベルリンの壁は東西冷戦の象徴であったことは間違いなく、その崩壊と共にソ連以下の東側も消滅しました。
余談ですがドイツ人は韓国人を軽蔑しているようです。ドイツ人は自分たちの力でベルリンの壁を破壊したのに対して韓国人は何の手も打たずに同胞との戦争状態を続けていることが許し難く、同情や理解を示す気にもならないそうです。そのことを言ったドイツ人たちには「ベルリンの壁を壊したのは東ドイツ市民だから、それは北朝鮮の国民に言え」と韓国の立場を野僧が代弁してしまいましたが、ドイツ人は東西分断そのものを認めていなかったのでしょう。
  1. 2016/11/08(火) 08:46:45|
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振り向けばイエスタディ633

突然、我々の活動に関する問題が日本で起きていた。これも日本の新聞記事がファックスで届いたのだが、回し読みしながらも理解するのに時間を要してしまった。
「自衛隊が現地人に技術教育」見出しは美談の紹介のようだが内容は完全に糾弾だ。つまり道路工事や井戸の掘削を手伝っている現地の人たちに機械の操作方法や作業手順を教え、時には機械を操縦させていることがPKO法で許されていない技術教育に当たると言うのだ。
「よくもまァ、こんな馬鹿げた内容を大手新聞が採用したもんだな」指揮所長である副群長はバインダーのコピーを通読すると半分の呆れと半分の怒りがこもった声で批評した。
「大手新聞だから採用したんでしょう」最近は私の時事放談にも慣れてきた指揮所の面々は苦笑した。しかし、採用担当の1科長と運用を統括する3科長は困惑した顔を見合わせている。
「折角、国土建設に役立つ技術が学べると優秀な若者が来るようになっているのに、それを取り止めるのは多方面に影響が及ぶ可能性があります」1科長の意見はやはり常識的正論だ。
「現在では隊員が見ていなくても部族の上位者の指揮で作業を進められるようなっています。作業効率を考えても彼らに任せられる仕事を増やす方が得策でしょう」3科長の説明で各部族との信頼関係が思った以上に強まっていることが判った。
「しかし、野党は国会で追及する方針だと書いてあるから政治問題になるとまずいな」副群長の危惧は現場の当事者とは別の場所で作られた問題であることを再確認させた。
幕僚たちの意見を聞いていた群長はバインダーを机の上に置くと立ち上がって全員の顔を見回した後、天の声を人が語った。
「現地の人たちへの技術教育は継続する。それはあくまでも作業能力を向上させることが目的だ」この言葉に1科の科長以下を除く全員が大きくうなずいた。
「今後、日本に送る作業実績報告には現地の人たちの実施分を別枠に数値で明示しろ」「それを技術教育の成果とするのですね」3科長の返事に1科長は科員たちの顔を見た。
「この記事では作業に来ている若者へのインタビューも載っていますが・・・」それはファックスなのでハッキリしないが笑顔で「機械の操作を学べて嬉しい」と答える若者の写真つきのインタビューだ。
「そんな記事は信用するに値しない。作業指揮官には『技術修得』などと言ないように徹底しろ。訓示はあくまでも作業に関する注意と評価だけだ」これで群長の天声人語は終わった。
これはおそらく先日の銃撃戦で我々の派遣用件が崩れたとする報道が予定した程の効果が得られなかったことで無理やり打った一手なのだろう。
それにしても日本と新たに建国する北キボールの友好を構築するための努力を邪魔することに何の意味があるのだろうか。10年前にカンボジアで味わった苦虫をここでも噛み潰すことになるとは憤怒を通り越して絶望に堕ちそうだ。

次の井戸を掘る現場でウラマー(イスラム教の聖職者)と地鎮祭を勤めていると若い女性が前に立ってカメラを構えた。それはウラマーが祈りを捧げている方向だ。あまりの非礼に私が下がるように強く手で指示すると彼女はその写真も撮った。
「イスラムの戒律に背くような服装で儀式の場に立ち入るな」ウラマーの祈りが終わり、私が読経を始める前に派手なTシャツにGパン姿の女性に注意を与えた。すると彼女は悪ぶれることなく質問してきた。
「貴方は日本人の僧侶ですか?」「自衛官だ」「ならば取材妨害ですね」読経・祈願の前に心を乱すことはできないので無視したが、迷彩服に絡子(らくす=略式の袈裟)を掛けた坊主がいるはずがない。これも挑発による作為的取材の可能性も否定できなかった。
  1. 2016/11/08(火) 08:45:31|
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11月8日・日本陸軍工兵の父・上原勇作元帥の命日

昭和8(1933)年の明日11月8日は日本陸軍の工兵を組織編成から教育訓練、技術、運用方法までを一手に制定・改革し、山口陸軍閥に対抗する鹿児島陸軍閥を再起させた上原勇作元帥の命日です。78歳でした。
上原元帥は1856(幕末は年号が入り組んでいるので西暦とします)年に現在の宮崎県都城市で生まれましたが、この霧島山麓の町は島津家の発祥の地であり、江戸時代から西南戦争まで島津藩領・鹿児島県だったので西郷南洲翁、大山巌元帥、野津道貫元帥、黒木為禎大将、川上操六大将などが名を連ねる鹿児島陸軍閥に属しました。
上原元帥は16歳で上京すると野津元帥の書生として自宅に寄宿することになり、3年後に陸軍幼年学校へ入営し、陸軍士官学校を卒業後は決して花形ではなかった工兵少尉になっています(陸軍も近代化に必要だとは判っていても歩兵、砲兵などの戦闘兵科を優先せざるを得なかった)。
そしてフランス陸軍のフォンテブロー砲工学校に留学してヨーロッパでの最新の工兵技術を学んで帰ると工兵の近代化に尽力することになります(騎兵における秋山好古大将のような存在です)。
当時の日本陸軍の工兵は江戸時代の手作業から発展しておらず、国内の小川に橋を掛けることはできても大陸の大河で渡河作戦を実施する器材・技術・兵力は全くなかったのです。このため朝鮮への進出に伴い清国との武力衝突が予想される中、手をつけられることから改革を進め、開戦後は陣地構築や交通網の破壊、被害復旧などで戦果を挙げました。
その後は工兵のエースとして次なる大敵・ロシアとの戦争に備え、ヨーロッパの最新技術と器材の導入や工兵部隊、指揮官、兵員の教育練成を進めましたが限られた予算では優先順位が低く、特に指揮官に対しては近代土木工学の基礎から教えなければならないため歯噛みするような思いを味わっていたようで、この時期には数多くの「雷親父」伝説を残しています。
日露戦争に当たっては満州軍第4軍の野津大将の参謀長に就任しました。この人事は勇猛果敢な戦争巧者の野津大将を側近として補佐できるだけの人材が見当たらず、結局、フランスから帰国してから書生だった時の縁で野津大将の娘と結婚していた同じ鹿児島県軍閥の上原少将(当時)を充てることになったのです。
この第4軍は満州軍の中でも抜群の軍功を挙げましたが、優秀な指揮官に優秀な参謀が付いていれば当り前な話で、むしろ第3軍の愚将を補佐させて無能さを補わすのが軍の人事でしょう。
ただ、上原元帥は日露戦争の反省点として第3軍が旅順要塞に地下坑道を掘って攻撃しようとしたものの間に合わなかったことを「工兵に坑道掘削技術を教えなかったのは手抜かりだった=手が回らなかった」と述懐していたそうです。
日露戦争後は大山元帥が内大臣になって事実上引退し、鹿児島軍閥の担い手であった川上操六大将は日露戦争前に早逝していたので野津大将が率いることになりますが、根っからの軍人であったため派閥抗争に熟練した山口陸軍閥の山縣有朋、桂太郎、寺内正毅などには敵わず、鹿児島陸軍閥はじり貧になって行きました。ところが元々実力がなくても人脈だけで引き上げて勢力を維持してきた山口陸軍軍閥も人材が払底し、そこに登場したのが上原元帥だったのです。
しかし、明治から半世紀が過ぎた大正では陸軍士官学校の卒業序列やその後の実績などで人事評価が行われるようになっていたため出身地だけで派閥を固めることは時代遅れになっており、陸軍を影響下に置くと言う意味の派閥に留まりました(その点、同時期の山口陸軍閥の田中義一大将はあからさまな身贔屓を続けていましたが)。
ところで日本陸軍で最も戦死する確率が高い兵科は工兵でした。歩兵は欧米に比べれば極めて不十分な砲撃で敵が残存している陣地に銃剣突撃を敢行することはあっても、銃弾を避けるための動作を取ることができるのに対して、工兵は歩兵が突撃する前に鉄条網を破壊し、地雷原を啓開し、敵の銃撃に身を晒しながら川に橋を架けるため、まさに人柱とならざるを得なかったのです。マレー突進作戦シンガポール突進作戦での工兵の活躍
  1. 2016/11/07(月) 09:27:30|
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振り向けばイエスタディ632

北キボールでは唯一の空港であるトバラ空港の整備はヨーロッパの建設会社によって進められている。と言っても限られた予算の中では規模は日本のローカル空港と大差がない。そんな空港ビルに国際電話が設置された。となれば早速、愛妻に電話になる。北キボールとアメリカのカンザスの時差は6時間だから、夕方に電話をすれば寝坊をしていても大丈夫だろう。
空港内の売店ではヨーロッパ直輸入の菓子や煙草などを置いているため旅客便が不定期でも、結構、賑わっている。そんな売店でテレホン・カードを買い、ややこしい国際番号を押してアメリカへ電話をした。
「ハロー」「もしもし」「貴方!」私の声を聞いて電話口で佳織が絶叫した。PKOに来て2ヶ月間、一度も電話ができなかったのだ。日本へは駐屯地に家族を呼んで自衛隊の通信回線で会話をさせているが、流石にアメリカへは無理だった。
「どうだ、元気か?」「うん、貴方は?」「おかげさまで元気でやってるよ。志織は?」「うん、春になってパワー全開や」佳織と志織は毎日手紙を書いてくれているが国際郵便の配達が滞りがちのため、まとめて読むことになっている。これは日本からも同様だった。
「ワシからの手紙は届いているか?」「うん、まとめて届くけど日付は毎日なんやね」「それじゃあ、こっちと一緒だな。毎日書けば郵便の事故が判って良いから維持しよう」今のところ郵便はUNTANKが現地人を雇って行っているが、海外では郵便が100パーセント届く方が珍しく、毎日書けば抜けた日数で送達の確率が判ると言う話だ。
「アメリカではテレビや新聞に北キボールのニュースは全く取り上げていないんよ。大学校でも話題にも出ないし、やっぱり米軍が参加していないと関心がないみたいやね」ここで佳織の不満が出た。尤も日本のマスコミのように業務妨害以外の何物でもない取材をやられるくらいなら取り上げてもらわない方が有り難いのかも知れない。
「こっちではイスラム教の勉強ができて嬉しんだけど、山羊を殺すのにお経を上げさせられるは閉口するよ」「ふーん、佛教式にハラールにするんやね」この話題は手紙に書いたのだが、即答したのには感心した。
「最近、志織がクラスのムスリマ(イスラム教徒の女子)の話し相手になっていて、色々な知識を仕入れて来てくれるんや」「ふーん、父子でイスラム教の勉強をしているんだな」「うん、こっちも佛教のことを教えるように勉強させてるから志織が1番やね」この口調では9・11から8カ月が過ぎて沸騰していたアメリカの世論も少しは沈静化しているようだ。それにしても同情して聞き手に回るだけでないところがこの母子なのだ。妙なことに感心していると佳織が深刻な話題を口にした。
「今、アメリカでは『アフガニスタンのタリバーンは壊滅させた。次はイラキ(英語の発音)だ』みたいな雰囲気になっているんよ」「イラクかァ・・・今度の口実は何だい?」ブッシュ大統領が父親のブッシュ大統領を超える野心を持っているとすれば、湾岸戦争で失脚させられなかったイラクのサッダーム・フセイン政権を打倒して身柄を拘束する。ヒョットすれば命を奪うことを狙うはずだ。しかし。戦争に口実が必要なのがアメリカの建前だ。
「『イラキが大量破壊兵器を製造して備蓄している』『少数民族の迫害に使用している』『その証拠がある』って言ってるんや」「大量破壊兵器って化学兵器や細菌兵器のことだろう。今のイランに旧ソ連の科学者を雇うような金があるのかな」私が掴んでいる情報では旧ソ連の科学者でも核に関する専門家たちはインド、パキスタンへ、ロケット開発は中国へ流れていると言う。この3国以上の高待遇で声を掛けなければイラクへの危ない橋は渡らないのではないか。
「あッ、志織が起きてきた。代わるね」「ハローッ、ダディ!」深刻な話題は寝坊した愛娘のおかげでチャンネルが替わった。
  1. 2016/11/07(月) 09:22:09|
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11月7日・念佛の傑僧・村田静照和上が遷化された。

昭和7(1932)年の明日11月7日に浄土真宗高田派の傑僧・村田静照和上(わじょう)が遷化されました。妙な偶然ですが和上の生年の嘉永7(1855)年とこの没年は5・15事件で殺された犬養毅首相と一致しています。
浄土真宗高田派は親鸞聖人が関東にいた頃の高弟・真佛さんを中心に栃木県真岡市高田にあった専修寺で起こった門派です。専修寺は親鸞聖人が毎度の夢告で開山したのですが、信州・善光寺の秘佛・一光三尊像を模して本尊としています。その後、京都に帰るまで7年間住んでいました。
宗教的には親鸞聖人の血統だけで法脈が継承されている東西本願寺の両派よりも正統派であり、聖人から直接与えられた教えの記録が多数伝承されているため、関東から親鸞聖人の下に参じた唯円さんが記した言行録「歎異抄」や蓮如上人の「御文章」は教義としては採用していません(敢えて否定はしていない)。
更に東西本願寺では漢文を独特の節回しをつけて読踊している「正信念佛偈」が訓読で、野僧はこれを習いに専修寺を訪ねたことがありますが、現在では三重県の山間部の門徒の間で口伝えになっているだけだそうです。
そんな専修寺は足利義政の時代に真慧(しんゆ)さんが関西・東海地方の布教拠点として伊勢・安濃津(あのつ=現在の三重県津市)の一身田に別院を造営するとやがて朝廷の祈願寺になり、浄土真宗の本山としての地位を確立しました。
やはり高田派は本願寺とは相容れず、加賀や越前、三河などの本願寺を中心とする一向一揆では対立する側に立って門徒の宣撫を行っています。
さらに眼前で繰り広げられた長島一向一揆でも本願寺側には不関与=中立の立場を維持したため織田軍の手を逃れた門徒たちを救済することができました。
そんな高田派に現れた傑僧が村田静照和上です。和上は名前こそ「静かに照らす」ですが、その念佛は「高唱」と評される大音声で延々と続けるものでした。
それは通りがかった人も立ち止まってしまう程だった言われていますが、和上が住持した妙覚寺を訪ねたところ田圃の中の一軒寺なので、かなりの大声だったことは間違いありません。
そんな和上の下には門徒だけでなく宗派を問わない多くの信者たちが集まり、それ程広くない本堂で一緒になって大声で念佛を唱えるようになったのですが、その声は「なんなん」「だーだー」「ぶーぶー」「みいみい」などと「南無阿弥陀佛」には聞こえず、その合間に和上が思い浮かんだままを語り、それを耳にした信者たちが得難い教訓としていることに本願寺を頂点とする宗務所から「異安心(=異端)」の嫌疑を掛けられたのです。
そもそも浄土真宗では「絶対他力」を表看板にしているため修行的な行為を全て「自力」であると断定し、念佛も「阿弥陀の救済を信じ、それに感謝するモノでなければならない」としており、西方浄土へ往生させてもらうことを願うことさえ宗旨に背くと言うのです。
ところが和上は審問の席で「念佛は南無阿弥陀佛のこと。南無阿弥陀佛とは御阿弥陀様のこと。御阿弥陀様とは我々を助けて下さること。そのお礼ご報謝に念佛申すこと。これだけでよろしいな・・・」とだけ答え、居並ぶ宗門の学者や高僧たちは一言も発することができなかったそうです。
和上は「我々は這い児(幼児)でその這い児が道理や理屈をこねまわすことはいらんことで・・・南無阿弥陀佛」と説いています。その教えを受けた人々は口癖のように念佛を唱え、一身田の街中には常に念佛が聞こえていたと言われています。
野僧が法衣や作務衣で参ると東西本願寺では「他宗派の坊主が来た」と警戒警報が発令されたように境内にいた僧侶から参拝者、売店の小母ちゃんまで身構えましたが、専修寺では会う人全員から「和尚さん、いらっしゃい」と明るく出迎えられました。これが和上の念佛なのでしょう。
現在、妙覚寺は無住になっていますから、野僧が居候して滑走路越しに号令を届かせた大音声で和上の高唱念佛を復活させたいものです。
・村田静照和上
  1. 2016/11/06(日) 00:11:53|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ631

岡倉は「24時間密着取材」と言う日本の報道バラエティ番組のような名目で、その夜は診療所に泊まることになった。高中尉としても勝手な断定で身柄を拘束し、憲兵に引き渡そうとした負い目があるので無碍に拒否することはできなかったようだ。
昼食後、廊下だけは自由に歩くことが許されている。そこで患者を観察しているとやはり3時と日没時間にはベッドの上でサラートを行っていた。その時、周囲に衛生兵がいないのを確認すると男性の患者が詠唱を始め、女性たちも苦しげに拜礼を繰り返していた。
「ミスター・島村」廊下に立っている岡倉を見つけるとキム軍曹が声をかけてきた。しかし、用件を伝えられるほどの英語力はないようで手つきで続行するように説明した。
キム軍曹は小隊長室に入るように指示し、ドアをノックすると中から高中尉が返事をした。
「島村です。ご用件だとか」「はい、どうぞお入り下さい」昼食を共にしただけで高中尉の敵意も随分和らいだようだ。むしろこの診療所ではただ1人の士官であるため対等に話せる相手がおらず、そこに現れた教養を共有できる客人として親近感を抱いた様子もあった。
「今夜は倉庫を開放しますからそこに寝て下さい」そう言うと高中尉は岡倉のリュックサックを運ぶようにキム軍曹に指示した。
「小隊長、急に友好的になったな。こいつに一目惚れしたかな」リュックを背負って前を歩いてゆくキム軍曹は韓国語で独り言を呟いている。しかし、カソリックのジアエは自分が奪うまでバージンだったのだから高中尉も同様なのだろうと1人で否定した。
消灯時間になり校舎内が暗い常夜灯だけになったため岡倉は棚の一番下に伸ばした寝袋に入って仮眠していた。するとドアの外の男女の話し声で目を覚ました。
「だって今夜は使えないんでしょう。駄目よ」その声は昼間に見かけた若い衛生兵だ。
「嫌だ。巡回に行く前に1発姦らせてくれ」こちらはペク上等兵だった。どうやら2人はこの倉庫を性行為を実施する場所にしているようだ。これは単なる性欲だけでなく、巡回中に殺害される危険性を感じながらの勤務が生命を継承させようとする本能を刺激するのだ。仕方ないので2人に協力することにした。
「さてトイレに行くか」岡倉は判り易い初級英語で独り言を口にすると寝袋を出る音を立てながら靴をはいた。その時、ドアの外では若い2人が身を隠す足音がしていた。
「ついでに小隊長にインタビューを申し込んでくるか」ドアを開けて廊下に出るとこれも初級英語で独り言を続ける。要するに「この時間に手早くどうぞ」と言うことだ。ただし、寝袋を汚されては困るが、それを注意することは無理なので諦めた。
暗い廊下を足音を忍ばせながら歩いて行くと小隊長室は小さな灯りがついている。立ち止まって耳を澄ますと高中尉の祈りの言葉が聞こえてきた。
「我が父なるカミよ。私は貴方の御心をこの異教の民にも伝えるため身を捧げました。どうか大いなる愛でか弱きこの娘を守りたまえ・・・」ここで祈りの言葉が途絶えた。そして音量を落としたかすれた声で再開した。
「怖いんです。どうして良いのか判らないんです。カミの意思が通じない相手をどうすれば目を開かせることができるのか教えて下さい」結局、ペク上等兵は女性兵士の肉体に救いを求め、高中尉はカミに同じことを求めている。その時、無人のはずの診察室から人の息遣いが聞こえたような気がした。さらに足音に気をつけ、衣擦れの音さえも抑えながら近づいた。すると窓から差す月明かりの下、キム軍曹がベテランの衛生兵を抱いていた。
戦場の緊張感がこれほど軍人・兵士の信仰心と性欲を昂揚させるのならPKOでもそれを抑えられている自衛官には戦争に対するリアイリティが足りないと言うことなのだろうか。岡倉は首を傾げながら外の空気に当たることにした。
  1. 2016/11/06(日) 00:10:27|
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振り向けばイエスタディ630

「これが入院患者の病室です」高中尉の案内で今度は中から見学することになった。すると病室内の女性兵士や患者たちは会話を中断し、最も上位者らしいベテランの女性兵士が高中尉の前に来て「負傷部位の処置中であります」と報告した。
「引き続き処置を実施せよ」「作業始め」高中尉の指示を受けて女性兵士が声を掛け、衛生兵たちは患者の傷口を消毒し、ガーゼや包帯の交換を再開した。
「これでは患者が休まらないでしょう」岡倉は軍隊生活そのままの診療風景に抱いた違和感をそのまま高中尉に問うてみた。
「彼らは文明社会の基本的ルールも学んでいないのです。ここでの体験を通じて正しい生活規範を身につけさせたいと願っています」そう答えて高中尉は柱の十字架に向かって祈りを捧げた。しかし、岡倉はそれを眺めている入院患者たちの冷たい視線を見逃さなかった。
すると窓からグランドにトラックが入ってきたのが見えた。グランドに張られている作業テントには先ほどのキム軍曹とペク上等兵が待っている。どうやら食事を運んできたようだ。
「食事は運搬食なんですね」「はい、米軍から供与されている材料を処理して配給しています」早い話が缶詰を開けて人数分にして食器に配るのだろう。そこで重大な問題に気がついた。
「肉類はハラール(イスラム教の儀礼の後、屠殺された動物の肉)ですよね」「そんな迷信を受け入れる必要はないでしょう。彼らは無料で診療を受けているのですから出された食事を喜んで食べています」岡倉には高中尉の説明が信じられなかった。敬虔なイスラム教徒たちがイスラム法を簡単に破るはずがないのだ。
次の病室でも軍隊式の規律にキリスト教の作法を加えて患者たちを躾けていた。これでは1日5回のサラート(礼拜)も許されているはずがない。
やがて配食が始まり、男性兵士がワゴンに乗せた盆を配ってくる。その匂いは明らかに豚肉だ。おそらくアメリカ軍は自国の兵士にはビーフ、残ったポークを韓国軍に回しているのだろう。
「貴方の食事は配分がありませんが」岡倉が報道関係者らしさを演じるため配色風景を撮影していると高中尉が声をかけてきた。
「大丈夫です」岡倉は拘束された時に取り上げられ、小隊長室に置いてあるリュックサックの中の登山用携帯食品を食べることにした。
「それでは小隊長室にどうぞ」そう言うと高中尉は先に立って最初に取り調べを受けた個室に案内した。個室には折り畳み式のベッドと事務机と椅子、そして折り畳み式の椅子がある。ここの壁にもカソリック式にイエスの磔像が施してある十字架が掛けてあった。
「それではご一緒に」高中尉はペク上等兵が運んできた自分の食事を受け取って机の上に置くと椅子を勧めた。つまり岡倉には食事を置く台はないのだ。
高中尉はジアエも見せることがあるカソリックの祈りの後、食事に箸をつけた。その時、病室から韓国語の罵声が聞こえてきた。
「何を我がままを言っているの!」「家ではこんな贅沢な料理を食べたことがないでしょう」「栄養をつけなければ傷が治らないわよ」やはりイスラム教徒たちはハラールではない肉は口にしないようだ。これが豚肉であることを知れば2重の意味で拒否することになるはずだ。
「こんなに美味しい食事を拒むなんてイスラム教徒の戒律を早くなくさないといけないわ」高中尉は粗末な携帯食料を食べている岡倉の前でアメリカ軍の肉のオカズとコンソメ・スープ、そして韓国式のコーリャン米の飯を頬張っている。そして食べ終わるとカップに作られてきたインスタント・コーヒーを飲みながら呟いた。
「お母さんのキムチが食べたいな・・・」韓国人にとってキムチが家庭の味であるようにイスラムの食事の流儀を尊重することができないのか。岡倉にはどうしても理解できなかった。
  1. 2016/11/05(土) 09:09:30|
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振り向けばイエスタディ629

「金(キム)軍曹、本部に連絡して憲兵に引き渡せ」高中尉は下士官に命令した。どうやら3人とも岡倉が韓国語を理解できないと思っているようで、命令・指示は単純明快だった。
「それで容疑は?」「この男はイスラム教徒だ。スパイの疑いがある」このあまりにも強引な断定に2人は顔を見合わせた。その前に岡倉は呆気にとられて口が塞がらなくなっている。
「判りました。それまで倉庫に監禁します」「その点はキム軍曹に任せる」高中尉は吐き捨てるように承認するともう1人の兵士に椅子を片づけるように指示して自分の席に座った。
「キム軍曹、日本人のプレスにこんなことをして大丈夫なんですかね」廊下に出て岡倉を前後に挟んで歩きながら前を行く兵士が訊いてきた。
「うん、まずいな。こいつの疑いが晴れて釈放されれば韓国軍を批判する記事を書かれるぞ」「それでは射殺ですか」前の兵士の声が引きつったところを見ると既にそのような経験をしているのかも知れない。
狭い校舎内の廊下の突き当りに倉庫はあった。これまで見たところでは入院病棟にしている教室が2つ、診療室にしている部屋が1つ、便所が1ヶ所、小隊長室にしている小部屋が1つ、そして兵士たちの待機室にしている部屋が1つ、そして倉庫だ。
兵士が建てつけの悪いドアを開けると中はコンクリートの床で壁には3段の棚があるだけで窓はない。岡倉は抵抗もせずに奥に入れられた。
「白(ぺク)上等兵、待機室から椅子を持って来い」キム軍曹はぺク上等兵に指示した後、ドアに立って温和な表情を作って韓国語で訊ねた。
「お前は本当にイスラム教徒なのか?俺たちの会話に反応しているところ見るとお前は韓国語が判るのだろう」。背後から観察していたキム軍曹が察知するような反応はしていないことを確信している岡倉はこの推理は単なるカマかけと判断して無視した。するとキム軍曹は唇を歪めて冷やかな表情に変わりM2小銃を構え直した。
やがてぺク上等兵が粗末な木製の椅子を持ってきた。どうやらアフガニスタンの学校だった頃の備品らしい。
「よし、お前はここにいて見張りをしろ」「軍曹は?」「俺は憲兵隊に連絡する」「やはり引き渡すのですか」「責任はお嬢さまが取ることになるだけだ」キム軍曹は冷淡に返事をすると隣の待機室に入っていった。
「診療所の警備分隊長のキム軍曹です。不審者を1名捕獲しましたので移送を願います」木造の板壁越しでは簡易電話の大声は筒抜けになる。しかし、キム軍曹は岡倉が韓国語を理解しないことを確認しているので構わず説明を始めた。
「はい、小隊長がイスラム教徒と断定しましてスパイの疑いがあると・・・本人は日本人のプレスだと言っています・・・はい、IDカードは確認しました・・・パスポートとも適合します・・・」次第にキム軍曹の口調が沈んでくる。どうやら電話相手の担当者から叱責を受けているらしい。
「えッ、小隊長に自分が言うのですか・・・はい、判りました」そこまでで電話を切り、キム軍曹が隣りの小隊長室のドアをノックして入って行ったのが判る。すると高中尉のヒステリックな怒声が廊下を越えて倉庫の中まで響いてきた。
間もなく倉庫のドアが開けられ、そこには無理して笑顔を作っている高中尉が立っていた。
「司令部から許可が下りましたので、当診療所の取材を行って下さい」「それでは自由に診療所内を見させてもらえるのですね」「質問をお受けできるように兵士を同行させます」「英語ができる方をお願いします」「それでは私ですね」高中尉は笑顔で返事をしながらも嫌悪感を最大出力にして全身から噴き出していた。
  1. 2016/11/04(金) 08:40:04|
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振り向けばイエスタディ628

「日本人のプレス(報道関係者)だ」岡倉が英語で自己申告をしても兵士たちは1名がK2ライフルを構え、もう1名が襟を掴んで引き倒し、腹這いにすると身体検査を始めた。これが外国人のジャーナリトであれば大声で抗議するところだが岡倉は黙ってされるに任せた。
「武器は持っていません」「ポケットの中を確認しろ」銃を構えている方が上官らしく、もう1名に韓国語で指示を与え、腹這いのまま胸ポケットと登山ズボンのポケットを探るとパスポートとプレスのIDカードを見つけた。
「パスポートとIDカードです」岡倉は自衛隊の習慣でIDカードは紐でズボンのベルトに固縛している。このため兵士は上官に手渡そうとしたができず舌打ちしながらそのことを韓国語で報告した。すると上官が歩み寄り、腹這いにしたままの岡倉の横に膝をつき確認した。
「パスポートとIDカードの氏名は一致するな。島村、ここで何をしている」韓国軍の兵士の凶暴性についてはベトナムで村を襲い、男性を虐殺し、女性は老婆から幼女までレイプしたことでも有名だが、文民である報道関係者にこれ程まで暴力的な対応をすることを見ても全く改善されていないようだ。尤も、韓国国内ではベトナムでの性犯罪や混血児(ライダンハン)問題を口にする者はいないので軍人に教育されているはずがなかった。
「小隊長のところへ連行する」上官に当たる兵士は「戦場取材だ」と言う岡倉の説明も無視して立ち上がらせると出入り口に向かって追い立てた。

「この診療所の責任者・高中尉だ。島村と言うそうだな」おそらく校長室であったのであろう個室に連行された岡倉の前にジアエと同年代の女性士官が現われた。これが高中尉であればジアエが学士士官の同期と言っていた高仁智(ゴー・インシ)であろう。しかし、岡倉はジアエとの関係を明かすことができないので黙ってうなずいた。
「それでここで何をしている」連行してきた兵士たちは英語が理解できないのか「戦場取材」と言う説明は伝えていない。仕方ないのでもう一度、英語で同じことを繰り返した。
「それならば軍を通して正式に申請すれば幾らでも協力する。それをスパイのようなことをするから兵士たちも警戒したんだ」ここで高中尉は入口で控え銃(胸の前で保持する姿勢)している2人に退室するように指示し、岡倉に椅子を勧めた。
「それで君は我が軍の活動を覗き見てどのような感想を持ったのか」高中尉は2人になっても口調が変わらない(「お前」「君」はどちらも英語の「you」)。自衛隊でも指揮官教育として女性自衛官に命令口調を強要しているので仕方ないが、あまり気分が良いものではない。
「全くなってませんね」岡倉の率直な感想に高中尉はあからさまに表情を変えた。先ほどまでは「ジアエとは違うタイプの美人だ」と思っていたが、それは間違いだったようだ。
「具体的に説明しろ。話だけは聞いておこう」高中尉の口調は更に厳しくなる。それでも机の上でノートを開き、ボールペンを握ったのは肯定的に捉えるべきかも知れない。
「男女の患者を同室にしておいて女性に薄着を強要するのはイスラムの戒律を無視した行為です」「衛生上、仕方ないんだ」「ならば男女は別室にするべきでしょう」「部屋数が少ないからそれは不可能だ」岡倉の指摘には現実を理由に反論してくる。要するに相手の立場に立って気を配る余裕がないのだ。
「何よりもイスラム教徒の部屋に十字架を掛けるのは間違っています」「カミの愛が入院患者を救うようにしているのだ」「それは貴方たちのカミであって入院患者にとっては異教徒が変質させた邪神ですよ」すると高中尉の顔から激昂が消え青く冷却された。
「お前はイスラム教徒なのか。その不潔な髭が証拠だ」「これは風呂に入れないからです」岡倉の弁明にも高中尉は納得せず廊下で待機している兵士を呼んだ。
  1. 2016/11/03(木) 09:34:52|
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11月3日=初めて「君ヶ代」が公式に唄われた。

明治13(1880)年の明日11月3日に現在は国歌になってしまっている「君ヶ代」が初めて明治天皇の誕生日=天長節で公式に唄われました。
国歌は明治新政府が成立した頃には国際儀礼の道具として確立しており、外国から公式に訪問した人物に対して演奏することが作法になっていたため、明治2(1869)年に島津藩軍楽隊(=幕末ドラマに出てくる鼓笛隊)の西洋式音楽の指導に当たっていたイギリス人の教官から制定の要望が軍首脳部に上申されたことが切っ掛けで決まったのです。
ただ、その手順は信じがたい程(「許し難い」とも言える)いい加減で、陸軍の大山巌・後の元帥が好きだった薩摩琵琶の歌詞を勝手に選び、それに軍楽隊の指導教官であるイギリス人が作曲したのです。
この曲は後の軍歌「海征かば」に似たユッタリとした優雅な曲調ですが、歌詞の57577の文節やイントネーションを全く無視していて唄いにくく(野僧は唄えます)、定着させることが困難であったため改作されることになりました。
しかし、西南戦争などが生起したため陸軍には余裕がなくなり、そこで宮内省の雅楽部が日本風の曲にして、それを海軍軍楽隊のドイツ人の教官が5線譜に直したのです。つまり歌詞については大山元帥の趣味に過ぎずそれを国歌にしたことだけでも、明治新政府を作った薩長土肥の連中が国家を私物化していた証左でしょう。
そもそもこの歌詞は古今和歌集に収められている詠み人知らず=作者不明の短歌で、上司に「長寿を祈っています」と胡麻を擂るオベンチャラか、想い人に対して永遠の愛を誓う口説き文句とされています。
大山元帥には先妻の沢子さんや後妻の捨松さんなどとの熱烈な色恋の逸話が残っていますから、後者として愛唱していたのかも知れません。
ところが国歌としては天皇の長寿と皇室による統治の永遠性を願う歌と言うことになり、天皇誕生日に披露されたのです。
ただし、古今和歌集の時代には天皇のことは「大君」であって「君」と呼ぶのは皇后さんだけですから(妾は「大君」)、やはり一般人同士のオベンチャラか、口説き文句のようです。
また曲についても雅楽と5線譜による西洋式ではかなり違いがあり(雅楽は長野オリンピックの開会式で演奏された)、国旗国歌法で5線譜のみを正式としたのは片手落ちでしょう。
それにしても暗く染みたれた陰調を日本風とするのは迷惑な話で、全国各地の祭礼で手拍子を打ち、合の手を入れながら踊る民謡も間違いなく日本風です。
野僧は世界の国歌を研究していたのですが大多数は気持ちを高揚させる勇壮な曲で、暗い曲調なのはイスラエルのヘブライ音楽の「Hatikvah」と分裂前のチェコ・スロバキアくらいでした。
アメリカの「Star Spangled Banner」やフランスの「La Marsillaise」、中国の「義勇軍行進曲」は完全に軍歌ですが、王制を維持している国は国王を称えるオベンチャラか、カミに加護を祈る歌詞が多いようなので、明治の時点の「君ヶ代」は急場凌ぎとしては及第点だったようです。
しかし、戦後は主権在民に変わっていますから「君ヶ代」の君は「You」になり、意味は口説き文句になってしまいました。本来は昭和26(1951)年の独立の時点でソ連・ロシアの「祖国は我らのために」やスリランカの「母なるスリランカ」のような祖国への賛歌に変えるべきだったのです。
1つ補足すると自衛隊では国旗降下の時、国旗が見えない場所でも隊員は直立不動で待ちますが、これは国旗ではなく国歌に対する敬礼です。何故なら国旗降下の時に流れるラッパの吹奏曲は制式に定められた「国歌・君ヶ代」と言う曲だからです(海上自衛隊は帝国海軍から踏襲している)。
龍笛譜「君ヶ代」雅楽・龍笛の「君ヶ代」の譜面
  1. 2016/11/02(水) 08:48:47|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ627

「あれが韓国軍の診療所だ」3日目に通りがかった街外れでカーンが空襲で破壊された建物を応急修理したらしい施設を指差した。そこには3本のポールが並び赤十字と国連旗、そして韓国の国旗・大極旗がはためいている。
「あまり患者がいないようだが」「韓国軍ではイスラム教徒には耐えがたい扱いをされるから、移動できる者はNATOの診療所へ行くんだ」カーンの説明に岡倉は具体的な事例を聞き出そうと思ったが、自分が取材に行った方が間違いないと考え直した。
「それではここで別れさせてもらうよ。どうも有り難う」そう言って岡倉が謝礼金を手渡そうとするとカーンは首を振った。
「こちらこそお前を利用させてもらった。助かったよ」岡倉は怪訝に感じながら行商隊のロバを見渡した。商品は随分売れて荷物は少なくなっているのだが、それでもロバは重い荷物を背負っているような顔をしている。
「まさか・・・」「そうだ。商品の中に武器弾薬が入っている。これを同志に届けるのが俺の任務だ。国境であいつらがお前を気にしてくれて助かったよ。ロバは返してくれ」そう言いながらカーンは岡倉のリュックサックを背負っていたロバの手綱を自分の束につないだ。
「帰りは徒歩になるが地雷には気をつけろ。轍(わだち)にも仕掛けるぞ」一般的に地雷原では車両が無事に通った痕である轍を進む。しかし、僅かな隙を狙ってそこに埋設すれば油断している分だけ確実に仕留めることができるのだ。
カーンの行商隊を見送ってから岡倉は韓国軍の診療所に近づいて行った。おそらく学校であったと思われる細長い木造の建物の前には校庭だったはずの広場がある。そこにも無数の弾痕が残り、そこを大雑把に土砂で埋めてヘリポートと駐車場にしていた。
確かに上空から見れば陸軍の駐屯地と判断することに無理はないが、それを必要最小限の確認もせずに空襲したアメリカ軍とNATOの行為は第2次世界大戦中の日本と同じだった。あの時、アメリカ軍は日本人を殺すことを戦果としており、陸軍航空隊はヨーロッパ諸国のような独立した空軍となるために陸海軍以上に日本人を殺戮するための作戦を実行していた。
「今回もイスラム教徒を滅ぼすことを目的として競い合っているのではないか」そんな恐ろしい推測が頭をよぎった。
岡倉がかつて教室だったらしい部屋の割れたままの窓から覗くとそこは入院病棟だった。中では並べた机にマットを敷いたベッドに怪我人が寝かされている。男女の区分はないようだ。
「貴女、またシーツを身体に巻いているのね」英語の罵声が響き、そちらを見ると迷彩服に赤十字の腕章を巻いた女性兵士が若い女性の患者を叱責している。
「ブルカを着られないのなら代わりにと思いまして」患者はアラビア語で説明しているが女性兵士には通じないようだ。すると激昂したまま乱暴にシーツを剥ぎ取った。
「アッラーに背かせないで!」患者は絶叫するが、そのまま肌着だけにされてしまった。その肩から背中には血が滲んでいた。気がつくと入院病棟になっているらしい教室のあちらこちらから英語の怒声とアラビア語の抗議が聞こえてくる。両方の言語を解する岡倉にはそれがイスラムの戒律を無視した行為を兵士が強制していることが判った。
教室の中を見回すと柱には十字架が掛けてある。ジアエがアフガニスタンに派遣されている同期がカソリックだと言っていたことが思い出された。
「動くな!」「お前は誰だ?」教室を離れ、歩き出そうとすると前方から銃を構えた兵士が2名、こちらに向かってきた。岡倉が韓国語と英語のどちらで答えるべきかを考えている間に銃を突きつけられ、跪かされてしまった。
  1. 2016/11/02(水) 08:47:12|
  2. 夜の連続小説8
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第49回月刊「宗教」講座は「世界真光(まひかり)文明教団」です。

野僧の高校への通学経路である駅前通りには「世界真光文明教団」の道場がありましたが、途中で「崇教真光(すうきょうまひかり)」に看板が替わり、信者と思われる小母さんたちがパンフレットを配るようになりました。しかし、高校生が宗教に興味を持つはずもなく、生徒たちが教室のゴミ箱に捨てるため、焼却するゴミの量が増えて学校としては大変に迷惑していました。
それでも教室で話題になると地元の生徒たちは「あんなのは超能力のマッサージだよ」と言いながら教団が施術する「手かざし」を実演してくれました。つまり地元では怪我をした時になど掛かる治療所として認知されていたのです。
その「手かざし」は念を込めるような動作の後、掌を痛い箇所の上にかざしながら「熱を感じるだろう」と訊くのですが、「うん」と答える者と「別に」で半々でした。
寺の孫である野僧はそのパンフレットを祖父(後の師僧)に見せたのですが、祖父は「うん、真光なら知っとる」と鼻で笑い、同級生が実演したような「手かざし」をやって見せましたが、やはり何も感じません。すると祖父は「お前は冷静だな」と妙に安心していたのを覚えています。
「手かざし」は本来、「世界救世教」の淨霊と言う施術で、病人の患部、傷者の負傷部位、あるいは病んでいる内臓に関係する「急所=ツボ」に念を加えることで治療すると言う宗教儀式なのだそうです。
これは現代医学でも「エネルギー療法」の一種に分類されているそうですが、それが宗教となると首を傾げてしまいます。それで首が痛くなった者が「手かざし」で治癒すれば信者になるのでしょうか。
この「世界真光文明教団」の母体である「世界救世教」と言う教団は創立期から分裂を繰り返しており、他にも「世界人類が平和でありますように」と言う看板や柱を全国各地に立てている「白光真宏会」や滋賀県の信楽の里にミホ・ミュージアムを設立している「神慈秀明会」、さらに宗教とは別の自然農法ではヤマギシなど多数の類似した教団=宗教法人が派生しています。
それにしても地元で「超能力のマッサージ」としてしか認識されていない「世界真光文明教団」や「崇教真光」とはどのような宗教なのでしょうか。
宗教法人として都道府県に登録するには「教義」「儀式・行事」「信者」「教団施設」の説明が必要であり、これ以外にやはり組織を維持・運営し、教勢を拡大していくための収入が問題です。
現在はこの収入が目的化した宗教法人ばかり乱立していますが、「世界真光文明教団」から分裂した「崇教真光」の本部も岐阜市方面から飛騨・高山に向かう途中に突如して現れる神殿のような建物ですから、何らかの方法で巨額の資金を集めたのは間違いありません。
「世界真光文明教団」を説明するには「世界救世教」を理解しなければならないので少し触れますが、教祖の岡田茂吉さんは元大本教の幹部信者で、大本教の「手かざし」を習得すると昭和十年に第2次大本教事件が起こる直前に独立、と言うよりも看板の掛け替えで教団を設立しました。
大本教は「地上天国」を標榜し、健康を害するのは神障なので、零能力を得た者が念を送ることで鎮めることができるとしています。
世界救世教もこれを踏襲・模倣しており、岡田茂吉さんは大本教の鎮魂帰神法の修行によって体内に光の玉が宿っていることを自覚するようになり、昭和6年に夢のお告げで千葉県の鋸山に登り、頂上で来光を仰いで、霊の世界が夜の時代から昼の時代に転換したことを感得したのだそうです。そして霊の世界で起こったことが遅れて現世でも起こるとする「霊主体従の法則」を「手かざし」の根拠として教団を確立していきました。ただし、戦前は医師ではない者が治療活動を行った罪で繰り返し検挙されたため、指圧の流派として活動せざるを得なかったようです。
ちなみに「世界救世教」は箱根と熱海、京都の嵯峨野に神殿を有し、箱根美術館と熱海のMOA美術館を経営しています。このMOAは公式には「ミュージアム・オブ・アート」の略になっていますが、実際は教祖の氏名である「茂吉・岡田・アソシエーション=教団」を意味していると言うのが常識です。
一方、「世界真光文明教団」の教祖=教え主は岡田良一さんと言い15歳の時、陸軍少将であった父親が病没したため、遺志を継いで陸軍士官学校に入りましたが、戦時中に胸椎カリエスと腎臓結石を患って中佐で予備役編入、妻の実家からの資金を元手にして名古屋で軍需工場を起こしましたが、空襲で全てを失い、敗戦を迎えました。戦後は色々な職業を転々とした後に建設会社で抜群の経営手腕を発揮しています。
同時に大本教や生長の家などに関わりながらも岡田茂吉さんの「世界救世教」に入信し、本格的に宗教家としての道を歩み出しました。
ここまで打ち込んだところを見ると「手かざし」で胸椎カリエスや腎臓結石が完治したのかも知れません。
また戦後は明治以降、国家神道による思想統制を推し進める政府によって加えられていた各宗教への統制・弾圧が解除され、多くの新興宗教が国民の不安心理に便乗して勃興しましたから、立身出世や一攫千金を狙う者には格好の舞台だったのでしょう。実際、岡田良一さんは「世界救世教」の教祖・岡田茂吉さんが昭和30(1955)年に亡くなると教団の内紛から逃れて(=に乗じて?)独立し、昭和34(1959)年の2月27日に5日間の高熱の後、「天の時到れるなり。起て、光玉と名乗れ、手をかざせ、厳しき世になるべし」と言う啓示を受けたそうです。ちなみに岡田良一さんは明治34年の2月27日生まれなので、教団ではこの明治と昭和を置き換えた年月日を特別な日としているようです。
それから岡田良一さんは光玉と名乗り、昭和43(1963)年には「世界真光文明教団」を創立しました。野僧が三重県の寺の春・秋の彼岸と盆を手伝っていた頃、近鉄が開発した大規模な住宅地には全国各地から大阪に働きに出ていた人たちが家を建てて住んでおり、中には1人息子と娘が結婚したため、親族の位牌をまとめているお宅もありました。その中に叔母さんが「世界真光文明教団」の信者だったと言う家があり、そこでこの宗教について詳しく聞く機会を得ました。
叔母さんから熱心に教えを受けたと言う檀家さんから聞いた「世界真光文明教団」の教義は極めて軽いもので、厳格な戒律や体系づけられた修業はなく、この世の不幸は霊障によって起こるのだから淨霊によって解決ができると言うことだけのです。
つまり生老病死の四苦に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五薀盛苦を加えた八苦も手かざしで解消できるのだそうですから本当に有り難いことです。確かに手かざしではなく手と手を合わせて「南無」と唱えれば、苦悩は全て解消しますから、あながち虚偽とは言えません。
その檀家さんは佛壇から叔母さんの遺品の紙片を取り出して見せてくれましたが、そこには「『地球は元一つ、世界は元1つ、人類は元1つ、万教の元又1つ』神の真の光のまくばり」との基本理念や「『感謝、ス直、心の下座』を3大徳目とする」「利他愛が基本であり、人々に与え、悩み苦しむ人々を救い、真の幸福へ導く」、「真の幸福とは『健=無病化、すこやか、狂いのない』『和=無争無対立、愛和の理念』『富=脱貧、経済的不安の無い』」との教えが書いてありました(借りてコピーしました)。
しかし、理想を掲げることは誰にでもできますが、それを実現する方法を説かなければ救済にはなり得ないのではないでしょうか。
また「世界真光文明教団」の葬儀・法要は神道の祭礼様式を準用しているそうです。葬儀は地区の責任者クラスは神殿で行いますが、それ以外の一般信者は葬斉場で済ませ、佛教のお経の代わりに「神向き讃詞」や「弔霊」と言う祝詞のような文章を唱え、合掌ではなく遺骸の上に手かざしするのだそうです。その手かざしに依って死者の霊が清められ、淨らかな神の世界へ送り出せると信じているようです。ただし、その旅立ちは49日後と言いますから閻魔大王の前での審理が7日に1回、7回目に結審と言う佛教の法要の考え方を踏襲していることになります。ところが霊前に食事を供える時には1拝、2拍手、1拝の神道式なので訳が判りません。
これほど軽い宗教でも苦悩から救われて、暗闇を迷うことなく人生を全うできる信者がいるのですからそれで良いのだろうと思っていましたが、この「世界真光文明教団」も母体である「世界救世教」と同じく、教え主の岡田光玉さんが昭和49(1974四)年に亡くなると分裂していました。
光玉さんの葬儀の席で教団は「2代教え主は関口さんにお願いしなさい」との遺言を発表して高弟だった関口榮さんが継承することを決定したのですが、そこに光玉さんの養女の恵珠さんが「死の十日前に光玉さんから教え主を継承している」と割って入り、一方的に宗教法人としての登記手続きを進めて公的には代表役員になったのです。
このため関口さんは代表役員の確定を求める民事訴訟を起こし、最高裁判所まで争って、昭和52(1977)年に「関口榮が代表役員である」と言う判決が下り、恵珠さんは教団を去って新たに設立したのが「崇教真光」です。つまり野僧が高校に入った翌・昭和53(1978)年に教団が分裂して、駅前通りの道場は養女・恵珠さんの側に与したのです。
それにしても佛教の悟りは、師によってその境地を証明されなければ無効ですが、明治以降に乱立した新興宗教の教祖たちは勝手に神託を得たとする自己申告ばかりで、それを疑うこともせずに信じる人々の軽率さは大変に危険です。
あの巨大な神殿の建設費用や美術館・博物館に収集した美術品・歴史的遺物の購入代金も信者から浄財として奪い取ったのでしょう。
合掌の代わりに手かざし(?)
49・世界真光文明教団飛騨高山の「崇教真光」の神殿
  1. 2016/11/01(火) 09:12:34|
  2. 月刊「宗教」講座
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振り向けばイエスタディ626

翌日、岡倉はアジズに紹介されたパキスタン領内のタリバーンの行商隊に同行してアフガニスタン国内に入った。
「島村、日本のジャーナリストならアメリカのヘリコプターや軍用車両で入国することもできたんじゃないか」ロバの背に荷物を載せて徒歩で山越えする行商隊を率いているカーンが訊いてきた。岡倉はこの男を紹介された時、プロレスラーのキラー・カーンを思い出してしまい、妙に親しみを覚えていた。ただし、キラー・カーンは本名を小澤正志と言う元力士の日本人だ。
「俺はイスラムの民の視線で事実を確かめたいんだ。今、世界中にはアメリカ側の情報しか流れていないからな」岡倉の返事を聞いてカーンは納得したようにうなずいた。
「アジズは韓国軍のことがエラク気に入らないようだったが、何か問題を起こしているのか?」
岡倉は自分の荷物を背負わせたロバの手綱を引きながら前を歩くカーンに訊ねた。すると聞こえない振りをした。岡倉は批判を始めれば声が大きくなるイスラム教徒にしては珍しい反応に困惑しながら可能性を考えてみた。
数時間歩いたところで行商隊はサフィが死んだ国境の検問所に差しかかった。そこには新たなプレハブの歩哨所が建っており、中からMー16を持った兵士が2人飛び出してきた。
「北部同盟軍だな」岡倉は見慣れない戦闘服と階級章を見て即座に判断した。正規軍の兵士にはそれがどれ程、低レベルの軍隊であっても一定の規律がある。しかし、この兵士たちの動作には統一性が全くなく基本教練を受けていないのは明らかだ。
「××(地名)のカーンだな。今回は何日間の予定だ」「売り物が無くなるまでです」兵士の質問に答えながらカーンは何かを握らせた。するともう1人に声をかけて通過を許した。
カーンが先頭のロバの手綱を引くと行商隊は移動を開始する。岡倉は2番目のロバを引きながら兵士の前を通ろうとした。その時、兵士が銃を構えて制止した。
「お前、パキスタン人ではないな」兵士は銃口を向けたまま歩み寄ってくる。流石の岡倉も引き金に指をかけた銃口を向けられるのは気分が良いものではない。少し汗がにじんできた。
「はい、日本人ジャーナリストです。入国するカーンさんに同行を許されました」アフガニスタンでも北部の部族には岡倉のアラビア語は通じないようでカーンに通訳を頼んでいる。
その間にもう1人の兵士が岡倉の馬に載せたリュックサックを銃で探って武器がないかを確認していた。その後、意味ありげな顔で前に立った兵士に岡倉はポケットの中にあったパキスタン・ルピーの紙幣を手渡した。するとカーンと話している兵士に合図して再び行商隊の通過が許された。この対応を見ても北部同盟軍の規律はタリバーンとは雲泥の差があり、おそらく住民の信頼は獲得できていないことが想像できた。

アジズと巡回した街は廃墟と化していた。道路には幾重にもキャタピラの痕が刻まれ、道路よりも高い位置に家を乗せていた石垣は砲撃で崩れている。道路脇には牛や山羊の骨が転がっており、空き地になった場所には無数の弾痕がえぐれていた。
あの時、アジズに向かって「タリバーン、アフガニスタンを守って」と叫んでいた子供たちがどうなったのかを想像するのが辛くなるような風景だった。
「キリスト教徒たちはラジコン機で攻撃してくるから動く者は皆殺し、建物は全て破壊するんだ」カーンはあえて感情を交えずに事実を吐き捨てた。アメリカのニュースでもラジコン機による誤爆の問題は指摘されているが、それは病院や学校が被害を受けた場合に限られる。しかし、第2次世界大戦でアメリカ軍は艦載の戦闘機で軍事施設が全くない農村や漁村を銃撃し、多くの女性や子供を殺してきた。それを今回は機械にやらせているだけのことなのだろう。
「日本も同じ経験をしているよ」岡倉の日本語の独り言にカーンは黙ってその横顔を見た。
  1. 2016/11/01(火) 09:10:22|
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