日露戦争から3年後の1909年の明日1月1日(ロシアのグレゴリオ暦では1月14日)はバルチック艦隊司令長官を務めたジノヴィー・ペトロヴィッチ・ロジェストヴェンスキー少将の命日です。
あれ程の大艦隊の指揮官が少将であることは意外ですが(=アメリカは職責に階級が連動し、日本は能力よりも今の階級を優先する)、皇帝の侍従武官だった時、太平洋艦隊が旅順港に逃げ込んだまま身動きできなくなっている対策にバルチック艦隊を回航して事態を打開することを提案したため、その場で抜擢されたのです。ちなみに回航の途中で中将に昇任しましたが、敗戦の責任を取って元の階級に戻されています。
野僧は現役時代、輸送幹部として戦史を研究する中で、戦艦8隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻、巡洋艦6隻など38隻ものバルチック艦隊を北欧のバルト海からアフリカ大陸の喜望峰を経てユーラシア大陸を周回し、対馬海峡まで至らせたロジェストヴィンスキー少将の指揮に注目しました。
先ずロジェストヴィンスキー少将の人物像については当時のロシア軍には珍しく貴族出身ではない海軍士官です。ただし、父親は軍医なので資産と教養は遜色なかったはずです。
次にロシア海軍は3つの海域に艦隊を保有しています(北極海にも面しているが当時は艦艇を運用できなかった)。1つは黒海艦隊、2つにはウラジオストックの太平洋艦隊、そしてフィンランド湾の奥のバルト海のバルチック艦隊です。
日本で明治新政府が成立する4年前の1864年に海軍幼年学校に入営し、卒業後は砲術士官の道を歩みました。1877年にトルコとの戦争に参戦して勲章を受け、1894年に黒海艦隊に転属すると後に日露戦争で戦死するステパン・マカロフ少将の下、装甲巡洋艦の艦長に就任しました。
1898年に少将に昇任するとバルチック艦隊の砲術教育支隊の司令官に就任しますが、この時、自分の経験を踏まえて士官の採用基準に貴族出身などの身分を持ち込んでいることを批判しています。
日本人は貴族と言うと宮中で権力争いと色恋にうつつを抜かす公家をイメージしてしまいますが、ヨーロッパの貴族は日本の戦国武将に近い存在であり、騎士道精神そのままの勇猛果敢にして学問にも秀でた人物が多かったので、軍の士官にしても不思議はないのですが、やはり色々な職務の集合体であり、多様な地域で活動する軍には幅広い価値観が必要なのは間違いありません。
続いて海軍参謀総長の後、皇帝の侍従武官に就任したことで日本海海戦に出陣することになったのです。
日露戦争が開戦すると緒戦の失態を挽回するため当時のロシア海軍では最も有能であった前述のマカロフ中将が太平洋艦隊司令長官に就任しますが、開戦2カ月弱で戦死してしまってからは完全に士気を喪失して旅順港内に引き篭もり、朽ち果てて行くのを待つばかりになっていました。
この難局に地中海方面で活動している黒海艦隊に比べ実動任務が少ないバルチック艦隊を回航させて太平洋艦隊を救出し、日本海軍を撃滅しようと言うのがロシア海軍の壮大な作戦でした。
ところがヨーロッパでは名誉ある孤立を気取っていたイギリスが日本と同盟を結んだため、アフリカから南アジアに連なるイギリスの植民地への寄港ができなくなり、さらにドイツなどの中立国に対して燃料である石炭の販売は国際法に違反すると圧力をかけたため、本国政府が闇で契約した質が悪い石炭で航行することになり、それでなくても壮大な遠洋航海が苦難に満ちた暗夜航路になってしまったのです。
司馬遼太郎先生の「坂の上の雲」では連合艦隊司令部がバルチック艦隊の到着が遅いことで疑心暗鬼になっていたことをドラマチックに描いていますが、石炭の不買や寄港地の拒否などの情報がもたらされていないはずはなく、野僧はあそこまで深刻な事態ではなかったのではないかと推察しています。
またロシア海軍では日本海軍の艦艇の多くがイギリス製であることから同様の遠洋航海を経験しているため、出撃してきて待ち伏せているのではないかと疑心暗鬼なっていて、イギリスの漁船団を日本の艦隊と誤認して砲撃し、多くの漁民が死亡させたドッガーバンク事件を起こしてしまい、これにより人種差別からロシアにシンパシーを感じていたイギリス国内世論も一気に反ロシアに傾いてしまったのです。
ロジェストヴェンスキー中将(日本海海戦の時点では)は旗艦・クニャージ・スヴォーロフ(=国親父座ろう)で重傷を負い、駆逐艦・ベドーヴイでウラジオストックに逃げようとしたのですが、たまたま私物の高級双眼鏡を覗いていた駆逐艦の中尉に発見され、捕獲されて佐世保海軍病院に収容されました。死因はやはりこの時の戦傷だったようです。
映画「日本海大海戦」やNHKの「坂の上の雲」でのロジェストヴェンスキー中将は高齢で貴族風の人物ですが、実際は56歳ですからあそこまで年老いてはいません。何にしても輸送幹部としては尊敬に値します。
- 2016/12/31(土) 09:13:47|
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「よし!良いぞ」淳之介の担任・比嘉は自宅で某左傾テレビ局のニュース番組を見て興奮していた。この話題の人物の息子は自分の手元にあり、マスコミが調べ切れていない個人情報を訊き出して新聞やテレビに流せば、戦争への道を突き進む自民党政権に打撃を与えることができる。それで自衛隊の海外派遣が終われば自分こそが世界の平和を守った偉人なのだ。
翌朝、少し早めに出勤した比嘉は鍵が掛かる引き出しに入れてある生徒指導簿を取り出して父兄の欄を吟味し始めた。しかし、淳之介の実父に関する情報は何も書いていない。これを作成したのは転校を受け入れた2年生の時の担任だ。比嘉は舌打ちすると職員室のテレビをつけて朝のニュースを見た。他の教師たちは何時になく早くから机に向かっている比嘉に怪訝そうな顔で挨拶したが、淳之介と話題の被告人・モリヤとの関係を指摘する者はいなかった。
「比嘉先生、校長室に来てくれ。先生のクラスのミーティングは教頭先生がお願いします」教職員の朝礼の後、校長は比嘉に声をかけた。学校では余程の急用でもない限り、朝のミーティングを前に担任の教師を呼ぶことはない。比嘉は困惑しながら校長について職員室を出た。
「モリヤ淳之介くんの父親の件は知っていますね」校長室に入ると通常なら校長は席に座り、教師は立ったまま机越しに話をするのだが、今日はソファーを勧められた。そして逃げられない状況にしてから校長が話を切り出した。
「はい、まさかアフリカで殺人を犯した問題の自衛官だとは思いませんでした」「しかし、まだ苗字が同じだと言うだけで親子関係なのかは判らないでしょう」比嘉の断定的な返事を校長は柔らかく牽制した。確かに本土で「モリヤ」と言う姓がどれ程の数なのか判らない以上、断定するのは早計だった。しかし、本人の日頃の態度が事実を物語っているはずだ。
「若し、モリヤくんが問題の自衛官の息子だとしたら先生はどうしますか?」比嘉は「反戦平和運動のために利用したい」と応えそうになったが、そこは踏み止まるだけの常識が働いた。
「先ず本人と面接して事実を確認します。その上で校長先生とも相談しながら対応を考えます」「なるほど・・・それを聞いて安心しました」校長はうなずいた後、本論を続けた。
「学校として最優先しなければならないのはモリヤくんを守ることですよ」「守る?」比嘉には淳之介を何から守るのかが判らない。この教師にとって反戦平和こそ生徒を守ることなのだ。
「若し、モリヤくんの父親があの問題の当事者だとすれば当然、虐めが始まるでしょう」「はい・・・」比嘉にとって学校は政治活動の場なので生徒間の問題への関心が薄い。それを指摘されて比嘉は返事ができなくなった。
「モリヤくん自身が思い悩んで自殺する可能性も否定できない」「まさか・・・そんなことはないでしょう」比嘉にとって淳之介は憎むべき自衛官の息子に過ぎず、虐められようと悩もうと自殺しようと関係ないのだが、そこは深刻な顔で応える演技を見せた。
「それでなくても受験生はストレスから精神が不安定に陥りやすい。そこに特異な者が現れればストレスの捌け口に虐めを始めても不思議はない。貴方も教師としての問題意識は持っているでしょう」「それは勿論」この返事を聞いて校長は少し身を乗り出し、比嘉も姿勢を正した。
「モリヤくんに若しものことがあれ先生にも懲戒処分があることを覚悟しておいて下さい」「どうして私にだけ?」比嘉が納得できない様子を見せると校長は追い討ちをかけた。
「先生がクラスだけでなく授業でも生徒に偏った思想を吹き込んでいることは父兄からも苦情として届いているのです。特にモリヤくんに父親の職業を批判させていることはクラスの生徒たちも『可哀そうだ』と親に訴えている。私が貴方に何も言わなかったのは受験に向かう生徒を動揺させないためで、貴方の思想に賛同しているからではないんですよ」比嘉の気持ちに杭のように太い釘が突き刺さった。しかし、この教師にとって淳之介が利用価値のある道具に過ぎないことに変わりはなかった。
- 2016/12/31(土) 09:12:13|
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「本日、北キボールで現地人3名を殺害した自衛官の名前などと犯行、失礼しました問題の詳細が公表されました」某左傾テレビ局の看板番組である夜のニュースでは定期記者会見で官房長官が発表した北キボールでの問題が大々的に報じられた。冒頭からメイン・キャスターはワザとのように読み間違えて悪いイメージを与えようとしたが、それは毎度お馴染みのパターンだ。夕方のニュースは幅広い視聴者が対象のため報道も常識的にならざるを得ないが、この番組は政府を非難・糾弾することを期待している人間が相手なのでやりたい放題だ。
「殺人罪などの罪で告発されている被告人は1等陸尉・モリヤニンジン、41歳。三重県久居市にあります第116教育大隊所属とのことです」「こんな危険人物が隊員教育に当たっていたんですね」原稿を読み上げる途中で隣の女性キャスターに相槌を求めると「若い隊員に何を教えていたのか、本当に心配になります」とリハーサル通りに応えた。
「問題は・・・視聴者の皆様には判りにくいかも知れませんが、政府から今回の件を『問題』と呼ぶように指導があったため番組としてもこの言葉を使うことにしました」自衛官が行った戦闘を凶悪犯罪にしようと手ぐすねを引いて待っていたこの局は政府の報道への介入を揶揄するために敢えて説明を入れたようだ。
「5月×日、北キボールで取材中に拉致された久米清さんと阿部真理さんを捜索するオランダ軍に連絡要員として派遣されたモリヤ被告は2人の遺体の発見を自衛隊の本部に連絡した後、オランダ軍のところに戻る途中で現地人と遭遇したため発砲し、射殺しました」これでは私が勝手に射殺したように聞こえるが、それが嘘にならないところがマスコミの狡猾さだろう。
「その銃声で銃撃戦が始まり、自分の方へ逃げてきた現地人を射殺したのです」「これで2人目ですね」合の手を入れる女性キャスターの顔は恐怖に引きつっている。言葉でなくても表情1つで事実のイメージを変えることは簡単なことなのだ。
「そして2名を射殺したことを報告するために無線機が載っている装甲車に戻った後、自分が殺した人間の遺体を見ている時、現地人が襲ってきたため刺殺したそうです」「今度は素手ですか?」女性キャスターの顔は凍りついた。それを見てメイン・キャスターは補足説明する。
「この被告人は殺人のプロとして特別な訓練を受けていたそうです」「えッ、まさか自衛隊にそんな人がいるなんて・・・」リハーサルで現行の読み合わせを終えているはずの女性キャスターが絶句したのは演技の範疇かも知れない。
「なお、政府はこの被告人の行動は正当防衛と緊急避難に該当すると説明しています」「戦争なら人を殺せば英雄ですが、PKOは非紛争地域に平和を守るために派遣されているのですから、これは完全に殺人でしょう」今度はコメンテーターと呼ばれるベテランの報道記者が評価した。
確かにその現地人が銃を構え、手榴弾を投げようとしたことを省略すれば敵だから殺した戦闘行為になる。それはマスコミが国民に植えつけようとしている自衛隊=戦争屋、自衛官=人殺しと言うイメージに合致するのは間違いない。
「ところで今日の記者会見では非常に気になる問題に関する質問があったようです」「当局の■■記者が『阿部真理さんが拉致されて殺害されるまでに受けた性的暴行の動画がヨーロッパを中心に流出していることにこのモリヤ被告が関与しているのではないか』と質問しました」「実際、その動画を撮影した携帯電話をこのモリヤ被告が持ち帰っていますから疑うのは当然ですね」女性キャスターが憤った顔で読み上げた原稿にメイン・キャスターが厳しい口調で補足する。この掛け合いもイメージ造りの一貫だ。アメリカではこのようなイメージ先行の報道を防ぐため、アナウンサーになるには大学で報道専門の学部を修め、インターンを終えてからレポーターなどの経験を積まなければニュース原稿を読む立場にはなれない。何にしろこの番組を見ている人にとって私は「凶悪な殺人鬼」と言うことになってしまった。
- 2016/12/30(金) 09:16:45|
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開廷を目前にして被告人=私が知らないところで事態が急展開を見せた。新聞の系列にない社会派週刊誌が私の実名を掲載したのだ。
「殺人犯?英雄?これが問題の自衛官の実名だ!」センセーショナルな見出しは電車の中吊り広告で売るための常套手段だが、テレビ局は放映権を握られているため政権批判には限度があり、新聞社は記者クラブに席を置いている以上、抜け駆けのスクープを躊躇するところがある。その点、売り上げ至上主義の雑誌は新聞やテレビが報じないことを前面に出してくる。
「社人党が流した情報をテレビのレポーターが口にしたのがまずかったな」政府首脳たちは閣議前の控室で雑談的にこの話題を議論していた。
「あの情報はやはり日本航空の搭乗名簿を労組が漏らしたんだろう」「ただ、政府内の秘密指定は民間企業の社員には適用されませんから漏洩を処罰することはできないんです」批判の矛先が自分に向かった国土交通大臣は先に逃げを打った。
「私もこちらに向かう途中のコンビニで買わしたが、1等陸尉・モリヤニンジンと明確に書いてあるな」「写真は流石にテレビの画面の流用だな」2人の大臣がそう言った途端、大半の閣僚が膝の上に今日発売の雑誌・ウィクリィ・センテンス・スプリングを置いて見せた。ウィクリィ・センテンス・スプリングはウィクリィ・ニュー・タイドと並ぶ社会派週刊誌で毎号スクープを競い合っており、販売数は他の新聞社系列の雑誌に大差をつけている。
「こうなっては自衛隊から内部情報が漏れるのも時間の問題だろう」「今のところは氏名と年齢、階級と所属までだが、官舎なんかで主婦にインタビューされれば個人情報は筒抜けだ」「その前に子供の学校で教師に取材されれば目も当てられないな」今回はPKO参加者名簿から探し出した私の氏名と年齢、階級と所属を紹介し、防衛庁資料の解説と写真で紙面を割いているが、各雑誌の記者が久居に行って取材合戦を始めれば隊員は兎も角として官舎の妻たちは得意気に暴露合戦を演じるかも知れない。実際、湾岸戦争の時、小牧のCー130が難民輸送に派遣されることが決まると記者たちは航空自衛隊の官舎に入り込んで通りがかる妻たちに片端からマイクを向けたが、そこで期待する反対意見が出ないと守山の陸上自衛隊の官舎で誘導尋問的に反対意見を引き出して「自衛官の妻も不安を訴える」と書き立てたのだ。あの時は子供たちが通う学校の教師も「子供の不安そうな顔を見るのが辛い」と殊勝なことを語っていた。そこに総理と官房長官が入室して全員が奥の閣議室に移動した。
「今日の午後の定例記者会見で官房長官が自衛官の氏名と階級、所属と共に事件の詳細を発表する」冒頭に総理が発した言葉を閣僚たちも予想していたのか全員が黙ってうなずいた。
「お手元に事件の詳細報告のコピーをお配りします。なお、これは部内秘ですから保管には厳重を期して下さい」官房長官の説明にも全員がうなずいた。問題は各省庁で行われる記者会見での雑談の中で「俺は秘密を知ってるぞ」式に断片情報を口にする不心得者が出ることだが、今回はその前に正式発表し、各閣僚が知っていることはないに等しい。
「法務大臣、今回の戦闘行為が合法であることに間違いはないな」「はい、訟務局の担当者の公式見解です。ただ検察サイドとしては無罪とすることには抵抗があるかも知れませんが」ここからは官房長官が担当の閣僚に懸案事項の検討内容を確認していくことになる。
「外務大臣、国連からは何も言ってこないのか」「はい、この事件が報道されているのは日本国内だけですから・・・」「事件ではない。今後は問題と言う表現で統一する」外務大臣の言葉を官房長官が訂正した。確かに「事件」では犯罪の色合いが濃くなってしまい、今後の展開に支障を及ぼす可能性がある。このような気配りが意外に重要な政治要素なのだろう。
「防衛庁長官、現地の隊員たちの士気は大丈夫か」「はい、任務は滞りなく進んでいますが、隊員たちの間で告発した人間への怒りが蔓延していようです」今度は総理がうなずいた。
- 2016/12/29(木) 08:41:37|
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ロシア革命の前年である1916年の明日12月30日に見た目からして容貌魁偉で、その異様な存在感もあり、帝政ロシアを滅亡させた元凶として今でも小説、映画、ドラマ、日本では映画「ルパン3世・ロシアから愛をこめて」にも登場するグリゴリー・ラスプーチンさんが絶対に人間とは思えない方法で暗殺されました。なおロシアのユリウス暦では12月17日です。
日本では「怪僧」と冠することが多いのですが、佛教の僧侶とロシア正教の聖職者は同一ではないので(死後になってロシア正教は聖職者であったことを否定した)、奇怪な人物として「怪人」と呼ばせてもらいました。
ラスプーチンさんは日本では明治新政府が成立した翌年・1869年にシベリアの寒村の農夫の5番目の子供として生まれました。父親は自作農のようなのでロシアの農奴ではないようですが、それでも貧しい上に子沢山だったのでまともな教育を受けることなく成長したようです。
18歳で結婚しますが5年後に突然「聖地巡礼に出る」と言い残して家を出て、そのまま行方不明になりました。その理由としてはラスプーチンさんを肯定的に描いている伝説では1人で畑仕事をしている時、降臨した聖母から啓示を受けたことにしています。
この家出中、修道院に寄宿していたようですが、そこで聖職者としての生活態度を身に付けたのか、家に戻っても酒は口にせず、菜食主義になっており、立ち振る舞いも敬虔な修道者らしかったそうです。
続いて日露戦争の前年である1903年に再び聖地巡礼に出て、黒海付近にまで足を延ばし、次第に高位の聖職者からも一目置かれる存在になっていきました。
ただし、ラスプーチンさんは教育を受けていないので文字が読めず(当時のロシアでは文字が読める者の方が少数派だった)、聖書についてはミサなどで耳にする言葉を自分の解釈で理解し、それを確信にしていたため聖職者たちの中で存在感を増し、やがて教会設立のための献金を求めるメンバーに加えられたことで貴族階級や皇室周辺に知己を得て、その流れで皇帝に謁見することになったのです。
この頃、ロシアはアジアの小国・日本との戦争を劣勢なまま終結する恥辱を味わっており(ロシアは敗北を認めていない)、陸海両軍の戦力の多くを失ったことで皇帝の権威は失墜し、国内の治安は乱れ、貴族や高級官僚たちは戦費を賄うための重税に喘ぐ国民を放置して私利私欲を追い求めていましたから、皇帝の苦悩は深いものがありました。
そんな中、皇太子は血友病を患っており、医師が手を尽くしても健康は快復せず、むしろ悪化の一途を辿っていたため、皇后は気を許している貴族や皇族の妻女たちから「霊験あらたか」と紹介されたラスプーチンさんにすがるように祈願を依頼したのです。
すると皇太子の病状は一時的に快復して頻発していた発作は収まり、普通に近い生活を送れるようになりました。このため皇后のラスプーチンさんへの信頼は絶対的なものになり、それが皇帝にも波及して信仰に発展するのに時間を要しませんでした。
こうして皇室に絶大な支配力を得たラスプーチンさんは政治にも介入するようになりますが、貴族や高級官僚たちは既得権益を奪われることを懼れ、有ること無いことを注進するものの皇帝は全く耳を貸さず、逆に反逆者として失職させ、追放するようになったのです。
ここまでくるとセックス・スキャンダルになるのは古今東西を問わぬ人間の性で、ラスプーチンさんの男根は通常でも33センチあるため(切り取られた標本がサンクトペテルブルグ博物館に展示されているそうです)、これで皇后を狂わしたと言う噂が公然と交わされるようになりました。
こうしていよいよ命を狙われることになったのですが、腹を刺されても死なずに落ちていた棒を拾って応戦し、この日も青酸カリを入れたドーナツ状の菓子を食べても変化がなく、焦った実行犯である貴族はラスプーチンさんを泥酔させた上で背中から拳銃で心臓と肺を射ちましたが、それでも倒れないので恐ろしくなって逃走し、代わりに皇族が拳銃で頭を射って絶命させたのです。
それでも凍りついた川に投げ込んだ遺体は肺に水が入っていたため死因を溺死とする説もあります。
尤もラスプーチンさんの暗殺に関する書類は翌年のロシア革命の混乱とソ連政府によって破棄されているため全て風説に過ぎません。更に言えば悪事の数々もラスプーチンさんを追い落とすために貴族や高級官僚が流した噂が残っているだけで明確な根拠は見当たらないようです。
通常で33センチ=腕並みの男根ですか?そんな一物が入る女性の穴もかなり大きそうですが、日本で言えば女帝・孝謙天皇を狂わせた(本当の)怪僧・弓削の道鏡のようです。
- 2016/12/28(水) 09:57:28|
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いよいよ「公判前整理手続き」が開かれたが裁判長、検事、弁護士は中々口を利かなかった。被告人は全く供述をせず、証拠はないに等しく、政府も態度保留のままになっていては整理する争点さえも存在しないのだ。おまけに告発した女性弁護士の野党党首が公務員労組を使って入手した事件の詳細記録を見ると「正当防衛」と「緊急批判」が成立する可能性が高く、毎度恒例の政府に対する強硬な情報公開の要求を放棄していた。
「検察、弁護双方の提出書類を見ても中身がなさ過ぎて裁判そのものが成立しないのではないかと心配になります」重苦しい沈黙に堪えかねた裁判長が口を開いた。
「いいえ、3名の命を奪った行為に殺人を適用しなければ日本は法治国家ではなくなってしまいます」検事の反論が虚しく聞こえるのは本人もこの行為が犯罪とは思っていないからかも知れない。
「確かに刑法199条『殺人』には『人を殺したる者は死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に処す』とありますから仰ることは判ります。しかし・・・」牧野弁護士はやはり民法的に話を進めようとしているようだ。
「違法性阻却事由に該当すれば人を殺しても罪ではありません」「君はそれを証明することができるのか」ようやく議論になってきて裁判長は安堵したようにカップの紅茶を口に運んだ。
「政府が事件の詳細を公表してくれれば大丈夫です」「それを待っている間に結審してしまったら有罪で良いんだな」「おいおい、そんな取り引きで判決を決めないでくれ」両者の言い分に裁判長が割って入った。
「ところで検察側としては93条(=『私戦の予備陰謀』)に関する証拠はないのかね」「近日中に追加申請します」裁判長の質問に検事は珍しく自嘲気味に答えた。
「被告人は陸上自衛隊の訓練基準を無視して勝手な訓練をやらせていたらしい。つまり以前から今回の犯行の準備をしていたようです」検事の説明に牧野弁護士は裁判長と顔を見合わせた。
「自衛官が訓練を創意工夫するのは当然でしょう」「いや、平和憲法下の自衛隊が実施する訓練には自ずから限度と言うものがある。それを逸脱する訓練は私的な戦闘準備に過ぎない」「貴方も苦労していますね」検事の無理な強弁に裁判長は皮肉なねぎらいの言葉を掛けた。この裁判が同業の野党党首の告発によって始まったことは常識として知っている。しかし、それ以上の報道は先入観を持つことを避けるため見ないのが裁判官としての分別だ。
「それでは『中立命令違背』は?」「『国際連合平和維持活動等に対する支援に関する法律(=PKO法)』では自衛のための必要最小限の武器使用しか認められていない。つまり法律自体が中立命令なのだ。その命令に基づき行動している自衛官が私的な動機により戦闘を実施することは明確な中立命令違反だろう」検事の説明がこじつけなのは本人も判っているはずだ。それでも有罪率99パーセント以上を維持するため何が何でも犯罪を立証しなければならないのが検察官の苦しい立場だろう。
「だったらPKO法違反の方が説得力はありますね」「それは弁護人としての公式見解か?」「いいえ、冗談です」裁判長が真顔で訊いたため牧野弁護士は大きく首を振った。
「いっそのこと告発者に任官してもらって検事を交代すれば良いですよ」「アイツを任官させれば検察への信頼が失墜してしまう」東京大学卒のやり手女性弁護士・徳島水子の所業は法曹界に身を置く者なら誰でも知っている。弁護士として相談を受けた権力者の男女間のトラブルを脅しのネタに使って今の地位まで伸し上がり、それを盤石に固めているのだ、
「それにしても某地検の事務職員の件は失策だったな」「女の方が言い寄って、断ったら徳島弁護士に相談したんですよね」「その噂をマスコミに流して事実にされてしまった・・・」最後は検事の辛い立場に裁判長と担当弁護士が同情して意思統一が成立したようだ。
- 2016/12/28(水) 09:55:38|
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私が逮捕・起訴されてからは意外にもマスコミの報道が止まってしまっている。それは政府が頑として事件の詳細を封印し、当事者の名前すら公表しない上、テレビの中継で声をかけた民間テレビ局に対して厳重な処分を臭わせたことで完全に腰が引けたのだ。
「何やこれ?」そんなある日、志織をスクールバスに乗せてから学校に向かう途中で若者が売っている新聞を購入した佳織は教場で読み始めて独り言を呟いた。そこには海外面白ニュースとして「英雄は殺人犯?」と言う題名で「日本の陸軍士官(=アーミーズ オフィサー)が戦闘でゲリラを殺害した罪で逮捕されたこと」が呆れたような文体で揶揄してあった。
佳織のところにも島田元准尉が第1報以降、定期便のように日本の新聞を送ってくれているが、夫が東京拘置所に収監されたこと以外の情報がなく、日本の司法の鈍足さに呆れているところなのだ。
その記事を読んでいくと「国のために戦闘を実施した軍人が殺人者扱いされては任務を遂行する者がいなくなってしまう。尤も告発した弁護士出身の女性党首は在日北朝鮮人だから日本の国防力を潰すことが目的なのだろう」と中々鋭い切り口で事件を茶化している。
佳織は今も次の戦争を進めているアメリカから夫の事件を直視しているのだが、オランダ軍を通じて知り得た戦闘の詳細はロウ・オブ・ウォー=武力紛争関係法に触れるところは全くない。それを殺人事件として告発できる日本人の異常性には戦争を軍事産業の利益追求のために繰り返しているアメリカとは別次元の疑問を感じている。
「メジャー(3佐)・モリヤ。このコラムに書いてあることは貴方の夫のことだね」始業間際に教場に這入って来たオランダ軍の少佐が声を掛けてきた。彼の手にも同じ新聞がある。
「はい、呆れて下さい。それが日本の現実です」佳織の返事を聞いて少佐は少し苦しげな顔でうなずいた。
「我が軍では貴方の夫は士官と下士官を守るために戦った英雄として高く評価されているようだ。私もそう思う」「ありがとうございます」少佐の言葉は佳織が胸の中で誇っている夫への賛成票になった。すると周囲に同じ新聞を持っている同期たちが集まってきた。アメリカの教官は開講時間になっても興味があるニュースをやっていれば見終えてからやってくるのだ。
「メジャー・モリヤ。日本では戦闘行為は犯罪なのか?」「日本が侵略されても米軍だけに戦闘をさせて日本軍は後方支援しかしないのではないか?」この記事の自衛官が佳織の夫であることを知らないアメリカ軍の同期たちが投げかけてくる言葉にはオランダ軍のような優しさはない。さらに相手が黙っていると嵩にかかって攻撃を強めるアメリカ人の悪癖が発症した。
「今回の不朽の自由作戦でも海軍の補給艦隊だけで地上軍は派遣しなかったな」「その見返りのPKOがこの様か」すると知らない間に教官が佳織の周りに群がる学生たちの後ろで話を聞いていた。この教官は復帰前の沖縄や座間の在日米陸軍での勤務が長い知日派だった。
「諸官らは大切なことを見落としているな」突然の教官の声に同期たちは一斉に姿勢を正す。
「日本に戦争をできないような憲法を押しつけたのはアメリカだ。マックアーサー元帥は日本が弱体化する施策を時限発火装置のように仕掛けたんだ」「しかし、日本の憲法にも改正手続きが定められているでしょう。それをしなかったのは日本人の選択です」「ドイツは立派に改正しています」この教官の説明に中佐の学生たちが反論した。
「ドイツ人とは違って素直な子供である日本人には絶対に改正できない高いハードルを設定したんだ。マックアーサーの後始末をするのもアメリカ陸軍の責務だろう」確かにダグラス・マックアーサー元帥は現在も破られていない高成績でウェストポイント=陸軍士官学校を卒業しただけにその名前を出されると出身者たちは弱い。しかし、佳織はこの異常性の背景には日本国憲法以上の民族性があることを噛み締めていた。
- 2016/12/27(火) 09:08:36|
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昭和62(1987)年の明日12月26日に開催された中山大障害レースでライバコウハクが「悉有佛性(あらゆるモノに佛の性質がある)」ことを証明するかのように悲痛で感動的な死に方をしました。
この大障害は通常のJRAのレースとは違い、コースに設けられている障害を跳び越しながら順位を競うものです。と言ってもオリンピックなどの馬術競技とも違いで疾走する距離も長く極めて過酷なものです。特に早い速度で飛び越えた後の着地の衝撃で騎手が落馬することが多く、人馬共に危険を伴うことも熱狂的なファンを集めている一因のようです。
このレースには平坦なコースでの成績が上がらない馬を転換させることが多く、ライバコウハクも昭和56(1981)年のデビュー以降、15戦に出走しながら1度だけ2位になったものの勝利を収めることができず、翌年の11月から障害に転向したのです。
障害ではデビュー2戦目で初勝利を挙げ、その後も常に上位を維持しますが(20戦で1位が6回、2位は8回)、勝利する時の圧倒的な大差により知名度が低い障害レースでは珍しいほどのファンを獲得していました。
それでも8歳と馬齢が高くなったこともあり、大きなレースに絞った調整が行われるようになりましたが、やはり障害レースとしては最高の人気を有し、ライバコウハクも得意とする春と秋の中山に向けて万全を期していたそうです。
こうして迎えた秋の中山の大障害では、大竹柵を跳び越えた後、続いてコーナーの中間に設置された高さ1.4メートルの土塁障害を先頭で踏み切った時に右後ろ足の手甲(蹄の付け根)を開放骨折してしまいました。
脚、特に後ろ脚は馬にとっては急所であり、激痛に暴れ狂うか失神してしまうことが多いのですが、ライバコウハクは着地ができずに転倒したため投げ出されて失神している大江原哲騎手と障害の間に立ち、身を盾にして後続の馬が大江原騎手を蹴って致命傷を与えることを防いだのです。
そのおかげで大江原騎手は無事に救急車で搬送されましたが、ライバコウハクは馬の運搬車が到着する前に倒れて絶命しました。
この日、野僧は愚息1が生まれて4日目の1人住まいだったので、テレビのニュースは見放題、翌朝には学生がいない教育隊でスポーツ新聞各紙を熟読したため、このニュースに深く感銘を受けました。
その後、警備幹部になって米空軍に国内留学して動物心理学を学びましたが、そこでは犬に限らず人間が動物の美談と受け留める行動の大半は群れ=集団の保全本能と帰巣本能、何よりも母性本能によるもので、愛情や忠誠心などと言う高度な思考能力はないと断定していたのです。
そこで野僧は忠犬ハチ公や日本の昔話に登場する動物の愛情や忠誠心の説話を英訳しながら紹介すると「それは単なる伝説に過ぎない」を一笑に伏されたため、日付が近いライバコウハクの話をしてみました。すると教官(大尉)は「馬は集団で行動するので負傷した仲間を守ろうとする本能がある」と言いながらも少し考え込んでいました(この教官は渋谷駅の忠犬ハチ公の話は知っていて「あれは餌がもらえたから通っていたのだろう」と言われてしまいました)。
確かに「人馬一体」と言うように馬から見れば人も群れの一員であり、それが倒れて動かなくなれば守ろうとする本能が働くのかも知れませんが、自分が致命傷を負って筆舌に尽くし難いほどの激痛に襲われている状況の中で立ち続け、後続の馬を阻止しようとする行動は本能だけでは説明できないと思います。公案に曰く「犬に佛性ありや」、野僧は云う「馬に佛性なきや」。
- 2016/12/26(月) 09:27:21|
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法務省では外からは窺い知れない難問を抱えていた。先ずは内閣府から命じられた北キボールで自衛官が実施した戦闘行為の違法性の検証である。防衛庁から届いた戦闘の一部始終を記録した詳細な報告を前に担当者は頭を悩ましていた。しかし、これは防衛秘密であるだけでなく政治的にも最重要秘密に指定されているため関係上司以外に相談できる人間もいないのだ。
「そもそも日本国憲法は国の交戦権を認めていないのだから戦闘行為は全て違法どころか違憲のはずですよ」「そうなると自衛権は放棄していないと言うこれまでの政府見解を否定することになるぞ」事件が発生してから時間が経過し、実行した本人が逮捕・起訴されてもこの問答が先に進むことがなかった。
「刑法上はこの自衛官の行為は正当防衛と緊急批判に該当することは間違いありません」「問題は最初に殺害した相手が本当にオランダ兵を銃撃しようとしていたかだな」正当防衛には相手がこちらに危害を加えてくることが明らかに予想される状況が必要だ。一方、緊急避難はさらに厳しく保護すべき対象を殺傷しようとしていることに疑いの余地がない切迫性と他に合理的な手段がない必然性が求められてくる。この場合、オランダ兵を守るための発砲であり、緊急避難になるのだが、銃を構えていただけでは切迫性と必然性として弱いのは間違いない。
「しかし、戦時国際法では合法な正当行為ですよ」「我々は国内法だけが所掌事務だ。話を広げても得る物はないぞ」結局、この場でも政府が求めるような結論は出なかった。
もう一件は訴訟の現場からだった。この日も東京地検から今回の事件を担当することになった検事が情報収集と同時に愚痴をこぼしに来ている。
「全く話にならん。あの被告人は神経が普通ではないぞ」「そんな変な奴ですか」親しくしている訟務局の事務官は社交辞令として興味を示した。
「兎に角、幹部自衛官と言う以外に人格がないみたいなんだ」「完全に洗脳されているんですね。オウムの事件でも聞いたような話ですよ」この話し相手の中途半端な理解に検事は首を振った。
「オウムの連中は教団内での地位や麻原の心証なんかを求める打算があったが、コイツには何もない空っぽなんだ」「それでも幹部自衛官だったら、地位とか生活の安定には興味があるでしょう。それで誘ってはどうですか」要するに「失職しないためには検察に協力しろ」と言う誘い水で証言を引き出す常套手段だ。
「それは最初に言ってみたんだが、失職したらカンボジアで坊主になるか、チベットで反政府ゲリラになるって言いやがる」「それなら死刑になるぞって脅してはどうですか」この事務官も少し興味が湧いてきたのか身を乗り出して話に乗ってきた。
「それも言ったが何て答えたと思う」「さァ・・・」事務官の常識的な人間理解ではこの質問には回答が出ない。
「死刑なら腹を切らせろ。それが今の第1希望だってよ」「ソイツは自殺願望があるんですね。拘置所に連絡しておかないと」そう言うと官僚は矯正局の友人に電話しようとした。
「そんな病的な感じは全くないんだ。何だか本物の侍に会っているような気分だよ」人間観察には熟練しているはずのベテラン検事が匙を投げたくなるような特殊な人間がノンキャリアの国家公務員に過ぎない事務官に理解できる筈はない。そこで話を中止するために話題を変えた。
「いくら任官同期だからって言って徳島弁護士が持ち込んだ案件を引き受けたりするからですよ」この検事は今回の事件を告発した某党首と同じ年度に司法試験に合格した同期のようだ。
「あいつには色々あってな・・・」「やはり女性問題で弱みを握られているんですか」某党首は女性の権利拡大を主張するやり手弁護士として名を売っていたため、上流階級の妻や愛人になっていた多くの女性からの相談を受けており、それを男性側への脅しに使って地位や資金を獲得してきた。それが失策にも揺らぐことがない異常に強固な政治基盤の裏事情なのだ。
- 2016/12/26(月) 09:25:10|
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本日は韓国の祝日である聖誕節(ソンタンジェル)です。この日付と使っている漢字を見れば何を祝っているかは一目瞭然ですが、現在の韓国は佛教徒や儒教信者よりもクリスチャンが多数を占めるキリスト教国なのです。ただ韓国の偉いところは人数で拮抗している佛教徒にも配慮して太陰暦の釋尊の誕生日も祝日にしているところです。
一方、日本の祝日は明治6(1873)年の太政官布告から神道一色で、1月3日の元始祭(ことはじめさい)、1月5日の新年宴会の宮中行事を祝日にしたことに始まり、1月30日は岩倉具視が毒殺した孝明天皇の命日である先帝祭、2月11日は実在が限りなく疑わしい神武天皇が即位したことになっている紀元節、4月3日はその架空の神武天皇の命日である神武祭、そして9月17日が稲の穂が垂れる頃の神嘗祭(かんなめさい)、11月3日は明治天皇の誕生日である天長節、11月の第2卯の日は全国から収奪した農作物が京都に届いたことを祝う新嘗祭でした。
ところが太陰暦から太陽暦に変更になると神嘗祭が9月17日では稲がまだ青いため1カ月遅らせて10月17日になり、新嘗祭もご都合主義な理由で11月23日に固定され、おまけで春分の日の春季皇霊祭と秋分の日の秋季皇霊祭が追加されたのです。
そして天皇が代替わりすると天長節は誕生日の8月31日になりましたが、祝われる天皇自身が病弱だったため涼しくなる10月31日に変更されました。さらに先代の天皇の命日である先帝祭は7月30日なのですが、こちらも暑いので誕生日の長年にわたり国民が慣れ親しんできた11月3日を明治節として残すことで形を整えました。
こんな宮中祭儀や神道の行事を祝うことを国民に強要していた祝日は敗戦後も、天長節は天皇誕生日、紀元節は建国記念日、新嘗祭は勤労感謝の日、春秋の皇霊祭は春分・秋分の日に呼称を変更して存続して現在に至っていますが、国民の最大多数を占める佛教の行事は1つもなく(神道の申告信者数は1億人を超えていますが初詣などの参拝者や祭礼の寄付に応じている家族の人数を合計しているのでしょう)、むしろ皇霊祭に佛教が便乗する形で春彼岸、秋彼岸と言う日本だけの祖先供養行事が行われるようになっているのです。このため現在では春分の日と秋分の日は佛教の祝日だと思っている人が多いのですが、それは勘違いなので気をつけましょう。野僧も寺に関わっていた頃は勘違いしていました。
ついでに言えば戦後にできた成人の日は武家の元服の儀が行われていた日、子供の日は端午の節句、敬老の日は岡山の自治体が初めて敬老の行事を行った日で宗教色はありません。
しかし、キリスト教と佛教を両立させている韓国の祝日が残念なのは、聖誕節を12月25日にしていることです。本当にキリスト教の開祖・イエスの誕生日を祝うのならヨーロッパの冬至の行事と混同しているカソリック、プロテスタントの12月25日ではなく、原始キリスト教と呼ばれているエチオピアやエジプトからギリシャ正教までの東方教会に合わせて1月7日にしなければ間違いです。
佛教の釋尊の降誕会をアジアの風習に合わせて太陰暦にするだけの配慮ができるのならローマ教皇に誤りの訂正を求めた上で、史実として正しい日付を祝日とすればキリスト教国としての韓国の地位と権威は世界に冠たるものになったはずです。
尤も韓国のキリスト教は日清戦争後、中国の影響から脱してから日本での布教に行き詰った欧米の宣教師たちが新天地として乗り込んだ結果であり、始めから舶来物なので無理に真実を追求する気などは端からないのでしょう。
何はともあれ自国を滅ぼす大罪を犯した国家神道の影響を排除できないでいる日本よりも立派な韓国の祝日でした。メリー・ソンタンジェル!?
- 2016/12/25(日) 09:26:48|
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拘置所でも被告人の取り調べは継続する。ただし、相手は検事と弁護人だ。拘置所では一般の面会は刑務官立ち会いでガラス越しになるが、この両者とは刑務官の面会室で1対1になる。先ずは牧野秀政弁護士からだった。
「モリヤさん、貴方の弁護をすることになった牧野です」「お世話になります。モリヤです」牧野弁護士は新聞などで何度か顔は見たことがあるが、やはり温厚そうな民事訴訟を専門とする調停型の弁護士のようだ。民法の訴訟は善意の者同士が正当な主張を譲らないことで生起するため争って白黒をつけるよりも丸く収めることを基本としているのだ。
「貴方は警察の取り調べに対して『防衛秘密に指定されているので答えられない』と証言を拒否しているようですが」「はい、誠に申し訳ないですが先生に対しても同様です」この答えに牧野弁護士が立腹することを心配したが、意外にも温和な顔のままうなずいた。
「私には詳細な話をしたとなると、警察での証言拒否が黙秘権の行使になってしまいますから、それならそれで結構です」そう答えて牧野弁護士は机の上に広げているノートに何かを書き込んだ。
「ただ問題なのは警察が提出した物的証拠はルミノール反応が出たナイフと北キボールで貴方が使用した弾薬数17発の記録だけで、それを覆すための反論の材料がないことです」「事件の詳細を話すことができれば正当防衛と緊急避難に該当して違法性阻却事由になることは間違いないのですが」「それを証言してくれる目撃者もいないのでは・・・」牧野弁護士はノートの上にボールペンを置いて腕を組んだ。
「先ほど物的証拠はナイフと発射弾数の記録だけと言われましたが」「はい、検察側が提出したのはそれだけです」検察側に押収した証拠物件を全て提出する義務はない。裁判を有利に進めるために不要な証拠を仕舞い込むことも法廷戦術の1つなのだろう。
「実は別に2つ逮捕時に提出した証拠物件があるのです」「ほう、それは?」牧野弁護士は両手を振りほどくと再びボールペンを取った。
「1つは日本人ジャーナリストが暴行され殺害された現場を撮影した動画が入った携帯電話です」「それは拉致された久米清(きよし)さんと阿部真理さんのことですね」牧野弁護士のおかげでようやく阿部さんの同伴者の名前が判った。
「もう1つは現地のイスラム法廷で無罪の判決を受けた証明書です」「イスラム法廷?」「イスラム教ではモスクで聖職者が裁定を下すのです。私には司法権は日本に属するとの地位協定がありますから法的拘束力を有する裁判ではありませんが、慰霊行事として参加した席で開かれたのです」「それはどちらも提出を求めて弁護側の証拠物件にしなければいけないな」牧野弁護士は少し自信を得たようにうなずいたが、私は少し水を掛けた。
「問題なのはその裁判の証明書はアラビア語で書かれていて内容が判読できないのです」「それはこちらで手配しましょう」私としてはウラマーの記述が本当に説明してくれた通りなのかが判らないと言いたかったのだが、牧野弁護士は単なる翻訳の問題と理解したようだ。
「それから動画は阿部さんのレイプシーンが詳細に撮影されていて厳粛な法廷にはそぐわないかも知れません」「それは大丈夫です。法廷ではレイプ事件の裁判も珍しくはない。最近ではレイプしている現場を撮影した画像が証拠物件として提出されていますから」牧野弁護士はそう言うが、日本国内でのレイプ事件で被害者の女性器に棒が差し込まれるシーンなどはないだろう。やはり心配したように民法の専門家には刑法の残虐性、ましてや戦場で繰り広げられる人間の狂気による惨状を理解してもらうのは難しいのかも知れない。
「モリヤさんの法律に関する知識はかなり高度ですね。私も安心しました」「いいえ、全てお任せします」牧野弁護士は微笑んでノートをアタッシュケースにしまい立ち上がった。
- 2016/12/25(日) 09:25:27|
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1980年の明日12月24日は根っからの軍人でありながらヒトラーの後継者にされてしまって栄光の軍歴を棒に振ったカール・デーニッツ海軍元帥、おまけでナチス・ドイツ大統領の命日です。
デーニッツ元帥はフルネームが短いことで判るように庶民階級の出身で、父親はドイツが誇る光学機器メーカーであるカール・ツァイス社の技師でした。母親が4歳の時に死んだため、父親は男手で2人の息子を育てたのです。この父親は庶民階級ながら技術者としての高等教育を受けているためプロイセン騎士道精神が身についており、息子たちを「皇帝と祖国への奉仕」「個人の幸福よりも義務を優先せよ」と教え導いていたと元帥自身が述懐しています。
19歳で海軍士官学校へ入校すると2年後に父親が病没し、両親を失ったデーニッツ候補生は分隊長であったレーヴァンフェルト大尉を尊敬するようになったようです。
卒業後は小型巡洋艦に配属されますが、その実習中に第1次世界大戦が勃発すると、当時、多大な戦果を上げていた潜水艦Uボートへの乗り組みを志願し、ここでもレーヴァンフェルト大尉が艦長を務めるUボートに転属できたのです(艦長にしては階級が低いようですが日本海軍でも佐久間艇長は大尉でした)。
大戦中にデーニッツ中尉自身も潜水艦長に就任しますが、機関の不具合で航行不能に陥ったため急浮上したところをイギリス海軍に捕獲され、捕虜になってしまいました。
当時、Uボートによる多大の損害に苦しめられていたイギリス軍は「艦長を見せしめのため処刑する」と言う噂があったため、デーニッツ中尉は発狂した振りをして病者扱いを受け、終戦後には送還されることに成功しています。
第1次世界大戦後は軍備縮小を受けたドイツ海軍に留まりましたが潜水艦の保有、製造は禁止されたため水上艦艇に乗り組み、水雷艇の艇長、駆逐艦の艦長、北海方面艦隊司令部参謀(当時のドイツ海軍にはこの艦隊しかなかった)を経て軽巡洋艦エムデンの艦長に就任すると遠洋航海で日本にも来ています。
その後、ヒトラーが政権を握るとヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄して軍備の増強に着手したため、海軍も本格的再建に動き始めることになり、デーニッツ大佐は潜水艦隊司令として潜水艦部隊の再建に努力することになりました。しかし、巨大なユダヤ資本を奪っているとは言え予算が無尽蔵であるはずがなく、陸海空3軍の間で予算の奪い合いが生起すると大陸国家のドイツでは海軍の優先順位は低く、その限られた予算も海軍首脳は対イギリス海軍を念頭に置いて大型艦艇の建造に注ぎこんでしまったため、潜水艦艦隊の再建は数、質共に遅々として進みませんでした。
こうして第2次世界大戦を迎えるとデーニッツ司令の潜水艦隊は数の不足(最低300隻が必要と見積もっていたが実際は26隻に過ぎなかった)を補うためモルトケ元帥が地上戦で行った通信機による組織的戦闘を潜水艦に応用して商船や輸送船を狙う通商破壊を行い、イギリス政府の心胆を寒からしめたものの魚雷や動力装置の不具合が頻発して、新規建造分は損失補てんに充てる状態だったのです。
意外なことに戦果が上がらなかった理由の1つには国際法を厳格に守ることに執着するヒトラーが商船への攻撃を制限したことがあります。これに対してデーニッツ司令は戦力の絶対的な不足や潜水艦と水上艦艇が対決した時の不利を説明したのですが、中々納得しなかったようです。
そんな戦闘の中、デーニッツ司令は潜水艦に乗り組んでいた次男、続いて潜水艇の乗員だった長男を失いました。これが日本であれば究極の愚将を名将・軍神に祭り上げる口実に使われるのですが、宣伝に長けたナチス・ドイツでもそんなお涙頂戴の猿芝居は打ちませんでした。
ドイツ海軍が主力艦の大半を失った頃になってデーニッツ大将は海軍総司令官に就任しますが、大戦末期になって小沢治三郎中将が連合艦隊司令長官に就任しても何もできなかったように手遅れでした。
こうして敗戦を迎える直前にヒトラーは自殺し、その遺書でデーニッツ元帥が大統領に指名されたのです。
その背景には陸海空3軍のトップであった空軍のゲーリング元帥がヒトラーに無断で講和に動いたことで解任されており、親衛隊のヒムラーも同様の立場になっていて、陸軍はヒトラー暗殺計画に連座して大物は残っておらず、残ったのは海軍のデーニッツ元帥だけだったのでした。
このため軍人としての本務を尽くしただけのデーニッツ元帥はA級戦犯の汚名を着せられ、懲役10年の判決を受けて1956年9月30日まで服役したのです。
ちなみにニュルンベルク国際法廷では通商破壊の違法性が問題になりましたが、チェスター・ニミッツ・アメリカ海軍元帥が出廷して「アメリカ軍も太平洋で同様の作戦を実施した」と証言しています。
- 2016/12/24(土) 09:45:38|
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「殺人」「私戦の予備陰謀」「中立命令違背」の3つの罪で起訴された私は葛飾区小菅の東京拘置所に収監され、被疑者から被告人であり未決拘禁者になった。警察としても被疑者の証言が得られず、証拠物件はないに等しいため立件は不可能なのだが、殺人についてはナイフから血痕を示すルミノール反応が検出されたことと私が使用した弾薬数を物的証拠とした。
結局、告発を受けた時、弁護士である某党首から法廷闘争に持ち込むことを臭わされ、交換条件として約束させられた起訴を見送ることはできなかったのだが、「立件できる」と言う確証を得てから逮捕に踏み切るのが本来の司法手順であり、政治上の取り引きで逮捕された私こそ良い面の皮である。
拘置所に移送されると最初に全裸にされて肛門の中まで検査される。普通の人はかなり屈辱に感じるようだが私は自衛隊の身体検査で何度も経験しているので慣れたものだ。ただし、これは危険物や薬物を持ち込ませないための確認で、未決拘禁者を精神的に圧迫することが目的ではない。
持ち物についても目の前で詳細なリストを作成しながら確認を受け、生活に必要な必要最小限の物だけを個室に持ち込める。その時も刑務官への攻撃に使用される刃物や棒状の固形物、さらに首吊り自死を防止するため電化製品のコードやズボンのベルトは許されない。
「何だ、この本は?」「それは岩波のコーランです」「これは?」「そちらは旧約聖書と新約聖書です」「こいつは?」「こちらは浄土三部経に大般若経、それから妙法蓮華経です」「それじゃあ・・・」「それは原始佛典でダンマパタとスタニパータです」私が北キボールから持ち帰った本を見て刑務官は唖然としていた。
「宗教色が強い本は持ち込み禁止なんだが、これは宗教書そのものだな」「私は坊主ですから宗教書を読むのは当然でしょう」「判った、上の確認を受ける」そう答えると刑務官は預かり品リストに本の名前と数量を記入し始めた。そこで感じた疑問を質問してみた。
「どうして宗教色が強い本は駄目なんですか?」「精神状態を平静に保つために有害だからだ」「そうですかァ、逆でしょう」「本音を言えば監督する側が何を読んでいるか理解できないからだな」確かにこの刑務官もリストに記入する時、本の名前が覚えきれず背表紙を見ながら書いている。それを眺めながら私は自分が理解できない本を読むことを禁じていた父親を思い出して少し腹が立ってきた。
「こちらは何だ?」「それはロー・オブ・ウォーの英語版です」「何だ、それは?」「日本語で言えば武力紛争関係法、一般的には戦時国際法の原典です」「また難しい本だな」刑務官は完全に試合放棄したような顔をして本を開いた。
「この印は何だ?」ところが刑務官は各条文に赤ペンで記入してある印を指差して質問した。その眼には職業人としての力が灯っている。
「それは翻訳する上で各条文のポイントを押さえるために付けたマークです」「翻訳って貴方がやるんですか?」突然、言葉遣いが丁寧になったが眼つきは変わらない。
「日本語版では訳者の主観が入りますからプロとしては原典を学ぶ必要があるのです」私の正直な説明にもこちらのプロは疑いを晴らしてくれないようだ。と言いながら条文を読むのではなく、印を記入している位置を数えているだけだった。
「この位置で何かを伝える暗号じゃあないだろうな」「暗号ですか?確かに暗号のプロとは肉体関係がありますから、こんな低レベルなやり方はしませんよ」どうやら未決拘禁者が外部と秘密の情報を遣り取りするのに差し入れる本を使うことがあるらしい。
「政治色が強い本も禁止だから、これも上の判断を仰ぐことにする」どうやら私の愛読書は全て要注意の問題図書のようで揃って一時預かりになってしまった。
- 2016/12/24(土) 09:43:39|
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昭和50(1975)年の明日12月24日に北海道・夕張線で蒸気機関車D51・通称デコイチのラストラン=最終運航が行われました。
デコイチは国産の蒸気機関車としては最も多く製造された機種で、昭和10(1935)年から昭和25(1950)年までの15年間に輸出した分を含めれば1184両が製造され(国鉄用としては1115両)、日本国内だけでなく植民地だった台湾や樺太でも運行されたのです。
デコイチはその前のD50・通称デコマルは重量が大き過ぎて線路や砂利などが十分に整備された東海道・山陽本線でしか運行できない欠点を補うため動輪をそれまでのスポーク式からボックス式に改め、鋼材の接続をリベットから電気溶接にするなど軽量化に努め、全国各地での運行を可能にしました。
ちなみにD51の「D」は動輪の車軸の数で、Dは4本、C56・通称シーゴローやデコイチの後継車両であるC62・通称シロクニの「C」は3本を現しています。このシロクニは当初、D52として動輪4本で設計されていたのですが、戦後の物資不足の中、闇物資の買い出しによる乗客の急造に対応するため旅客用の蒸気機関車を製造する必要に迫られた占領軍司令部、運輸省、国鉄が貨物用であったD51に代わる車種として設計していたD52の変更を命じたのです。
銀河鉄道999は動輪が3つですから「C」型であり、知名度のデコイチではなくシロクニのようですから、流石に乗り物マニアの松本零二先生はその辺りを正しく認識していたのでしょう。
そのデコイチには基本的に3つのタイプがあり、それは給水温め器と砂箱(重量が重く線路が滑る時に撒く砂が入っている)を煙突と一緒に覆ったカバーをつけているため「なめくじ」と仇名された初期型と煙突付近に水や砂を積んだことで重量のバランスが後方に偏ったため登り坂でスリップする欠点を解消するように水と砂の容器・装置を分けて設置した標準型、そして戦時下の金属不足によって車体前部に立っている除煙板などを木製に改めた戦時型です。
野僧が子供の頃には駅構内の貨車の移動などにまだ蒸気機関車が使われており、阿川弘之さんの「機関車やえもん」の愛読者だった野僧は煙突から立ち上る黒い煙を見て「あまり煙と出すと火の粉で火事を起こしてしまうよ」と声を掛けたものでした。
それから4分の1世紀が経ってからも愚息たちは「機関車トーマス」の大ファンで、浜松から大井川鉄道に乗りに行きました。実は野僧も蒸気機関車を見たことはあっても(津和野線や阿蘇ボーイなど)乗ったのは初めてでしたから子供以上に感激してしまいました。
あの吐息にように煙を吐いて走る姿は現代の電車とは全く別の生き物のようで、モクモクと煙の量が増えると息が荒くなっているようで、ポッポーと叫ぶ汽笛も機関車が気合いを入れているようで、思わず応援してしまったものです。
大井川鉄道の展望デッキで前もって教えておいた愚息たちと「汽車汽車シュッポシュッポ、シュッポシュッポ、シュッポッポ」と合唱していると野僧と同世代の親たちも参加してきて、習っていなかった子供たちもすぐに覚えて列車内は音楽室状態になってしまいました。それを見た車掌さんは大変に感激して、戻る時には最敬礼していきました。
しかし、現代社会では蒸気機関車はド田舎を観光目的で走っているから都会の人間も楽しんでいますが、これが都市部も通過するのなら「煤煙は環境破壊」「汽笛は騒音」などと忽ちのうちに反対運動が巻き起こり、裁判沙汰になるのでしょう。
何にしても大井川鉄道や津和野線の沿線に都会の人間が移住してこないことを祈ります。
- 2016/12/23(金) 00:06:08|
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私の予感は当たった。西口1佐が帰るのを待つように取り調べが始まったのだ。尤も司法警察員は逮捕後、48時間以内に書類と証拠を検察官に送致する必要があるため「弁護士との面会が終わってから」などと悠長なことは言っていられないのが日本の司法手順だ。
先ずは証拠の差し押さえからだった。証拠には証拠物=物証、証拠書類=書証、証人=人証があり、私は1名を刺殺した登山ナイフや携帯電話と一緒にイスラム法廷での裁判結果を提出したがこれは物証になる。何故なら書証とは司法警察員が作成する供述調書や実況見分調書、鑑定証のことであってそれ以外の書類は単なる証拠物に過ぎない。
「どうも供述してもらえないようですね」「はい、申し訳ありません」取り調べ室ではベテランの警部が机の向かい側に座り、若い警部補が部屋の隅の机で供述内容を記録している。外事課は国際犯罪を担当しているだけに刑事ドラマの取り調べシーンのような高圧的な態度ではなく話し振りにも冷静さを感じる(前科はないのであくまでもドラマのイメージだが)。
「弁護士は決まったそうだから裁判については一安心だろうけれど、こちらとしては『はいどうぞ』と言う訳にはいかないんですよ」「それはそうでしょう」本来は取り調べを開始する前には黙秘権や弁護人を選定する権利の説明が必要なのだが、こちらが警察の非を公判に利用する立場ではないことが判っているだけに手を抜いたらしい。
「先ずは事件の概要を説明してもらわないといけないんだが」「それは防衛秘密に属するため私の意思ではなく、守秘義務で供述できません」「それでは困るんだよ」流石に警部は少し苛立ってきたようだ。
「貴方の供述を受けて被疑者立ち会いの上で現場検証する。今回はアフリカまで出張になるからその人選などにも時間がかかるんだ」ここで警部は顔を背けて大きく息を吐いた。
「我々も親方日の丸だから貴方の立場は判るつもりだ。しかし、今回の告発者はその親方を困らすことを目的にしているから我々は板挟みになっているんだよ。その辺を少し考えて協力してくれないか」確かに弁護士でもある社人党の党首は「自衛官が現地人3名を殺害した」と事実だけで告発している。それは政府も公式に認めている以上、事実として認定されるだろう。しかし、5W1Hが不明では犯罪を立件するには無理があるのは間違いない。
「私の口からは供述することはできませんが、実はオランダ軍の軍事法廷に証人として参加したのです。そこでは政府から防衛秘密に指定すると言う通知が届く前だったので詳細に供述しました」「そうかね。オランダ軍だな」私の情報提供に警部は身を乗り出した。
「ただ、あちらも公判記録を軍事秘密に指定していれば情報提供は無理かも知れませんが」「それでも当たってみる価値はありそうだ。協力に感謝する」どうも私は被疑者と言う立場を踏み外して警察官とは同僚のような関係になってしまうらしい。ただ私自身も事件の詳細が判れば「正当防衛」と「緊急避難」の違法性阻却事由(違法行為を消却する事実)が成立して不起訴になる可能性を考えていた。
「それにしても軍事法廷では何を裁いたのかね」「オランダ軍の士官と下士官が現地人ゲリラを射殺したことの適法性と私に単独で無線機を使わせた秘密保全違反、そして拉致された日本人2人の暴行と殺害の映像を流出させた服務規律違反です」私の説明に警部は少し興味を持ったようで机の上で両手を結び、目で続きを催促した。
「判決としてはゲリラの殺害は正当な戦闘行為として無罪、ただ軍用車両と通信機を使わせたことだけが過失として士官が有罪になりました」「正当な戦闘行為ねェ」所詮、この警部も日本人であり、国際常識とは別の法体系・法習慣の中で生きているのだ。
「ところで被害者の暴行と殺害の映像って言うのは見られないのかね」「それを録画した携帯電話を提出したはずですが」「あれかァ」やはり今回は全てが後手に回っているようだ。
- 2016/12/23(金) 00:03:23|
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警視庁外事課の取り調べが始まる前、私は陸上幕僚監部法務官である1佐の面会を受けた。1佐は依然としてマスコミが張りついていることを察したのか背広姿だった。
「陸幕法務官の西口1佐です」「モリヤ1尉です」面会室では警部が1名立ち合っているが、半分同業者であり、相手は警視正に相当する1佐だけに態度は遠慮がちに見える。
「今回の告発を阻止できなかったことは遺憾の極みだ。君には申し訳なく思っている」私は1佐に頭を下げられて少し困惑した。それは立ち合っている警部も同様なようだ。
「いいえ、徳島水子議員が相手では仕方ないですよ。あの好戦的平和主義者に逆らえばマスコミを使って何をしかけてくるか判った物じゃあない」「そうか、告発者を知っているんだな」北キボールでは日本国内の情報を知ることができないと思っていたらしく西口1佐は驚いたような顔をした。
「そこで君の弁護士だが・・・」これから裁判となれば弁護士が必要になるが、美恵子との離婚も話し合いで決着したため弁護士との関わりはなく、大学の同級生たちで司法試験に受けった者の噂も聞いていない。つまり国選弁護士を依頼するつもりだった。
「基地騒音訴訟をお願いしている牧野秀政先生にお願いしてはどうだろうか」「牧野弁護士ですか?」牧野弁護士は全国の航空基地の周辺住民が続発させている騒音訴訟で自衛隊側の弁護を担当しているので新聞で何度も名前を見たことがある。年齢的には私と同世代のはずだ。
「しかし、牧野弁護士は民法が専門ではないですか。今回は刑法の裁判ですよ」「確かに損害賠償などが専門だな」私の指摘に西口1佐は黙り込んでしまった。やはり堅実に法令厳守で生きている自衛官に弁護士との縁はないようで数少ない知り合いだったようだ。
「どうもすいません。私も弁護士を自分で頼む伝手(つて)はありませんから牧野先生にお願いします」「そうか、実は既に内諾は得ているんだ。今更断ることができないから困っていたんだよ」私の了承に西口1佐は安堵したように口元を緩めた。
「ところでこれから私の取り締まりが始まりますが、どこまで供述しても良いのでしょうか?」「それは防秘(=防衛秘密)上の話だな」話題が取り調べになって警部は真顔でこちらを見た。裁判の展開に向けた相談であれば弁護士にするが、私は自分個人よりも自衛官として組織を守ることを優先する覚悟はできている。したがって供述も自分にとっての有利不利よりも防衛秘密上の可否で決めるつもりなのだ。
「これも誠に申し訳ないのだが君の現地での行動は全て防衛秘密に属している」「秘区分は?」「極秘だ」つまり戦略的影響が危惧されるほどの重要度だ。拉致された日本人の捜索と言う大義名分があったにしても国会の議決を経ずに内閣の政治判断だけで自衛官を外国軍の準戦闘行動に参加させ、実際に戦闘を実施させることになったのだ。その詳細は政府による検証がすむまで公表できないのは当然だろう。
「確かにマスコミの報道を見ていても『捜査関係者の話では』と言う暴露ネタが多いですから、秘密保全に関してはあまり信用できませんからね」私の警察批判に警部が険しい顔をしてこちらを見たが、これからの取り調べでは「非協力」に徹することになるのだからこれは序の口だ
「何にしても牧野先生に早く面会していただけるようにお伝え下さい。海外では弁護士との接見がすむまで取り調べは始まりませんが、日本では『知恵がつく前に落とせ』ってやられるみたいですから暮々もお願いします」「随分、君は警察や裁判に詳しいね」私の具体的な理由説明を加えた嘆願に西口1佐は困惑したようにうなずいた。
「そろそろ時間です」「家族への連絡は大丈夫かね」「妻は・・・」「大丈夫、モリヤ3佐へはこちらから逐次情報を入れることになっているから」警部が面会時間の終了を告げると西口1佐は締めくくるように訊いてきたが、親と縁を切っている私には不要だった。
- 2016/12/22(木) 09:02:13|
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「おバァ、土曜日、先生と出かけてくるさァ」その夜、淳之介は夕食を終えた祖父が居間に行くのを待って祖母に週末の予定を告げた。祖父母は淳之介に父親が逮捕されたことを言っていない。否、言えるはずがなかった。
「先生って担任のねェ」「うん、先生たちの集会に参加するんだ」淳之介の説明に祖母は担任の教師が生徒たちに反戦平和の名を借りた反米軍反自衛隊の政治主張を吹き込んでいることを思い出した。
「まさか自衛隊反対の集会じゃあないだろうね」「・・・うん、自衛隊が戦争を始めることに反対するんだ」「本当に参加するだけねェ」祖母の追及に淳之介は顔を背けた。
「それならおジィにも相談しないといけないさァ」「先生たちの前で挨拶するんだ。お父さんが戦争に参加するのは反対だって」淳之介は慌てて説明した。この話を祖父に知られれば反対されることは判っている。だから祖母にだけ言ってコッソリ行くつもりだったのだ。
「松栄さん、こっちに来るさァ」すると祖母は大声で祖父を呼んだ。淳之介は常に自分の味方だった祖母のこのような態度は見たことがなく完全に我を失ってしまった。ところが祖父は2人に居間へ来るように返事をした。丁度、夜のニュースが始まる時間だ。
「おジィ、何ねェ」「良いから座れ」淳之介が少し不満そうに声を掛けると祖父は黙って自分の横の座布団を指差し、ニュースが始まったテレビに視線を戻した。
「皆さんこんばんは。7時の□□□ニュースです」挨拶するアナウンサーの横にニュースの見出しが並んだ。その最上段には「北キボール事件の自衛官が逮捕」とある。淳之介は無意識に姿勢を正した。
「本日、午後2時前、成田空港に到着した日本航空の機内で北キボールで現地人3名を殺害した自衛官が逮捕されました」画面は原稿を読み上げているアナウンサーから空港ロビーを連行されてくる迷彩服姿の自衛官に替わった。
「お父さん・・・」映像は夕方のニュースに比べ遠距離から撮影したものになっているが、淳之介にはそれが父親であることは判った。
「なお、政府は被疑者の氏名や所属などは防衛秘密に属するとして公表を拒否しています。それでは取材に当たっている報道部の△△記者に話を聞きます」ここからは父の罪が殺人の他に「中立命令違反」と「私戦の予備陰謀」であることが紹介され、その聞いたこともない罪の説明が続いた。
「淳之介、お父さんは軍人なのさァ、軍人が敵を殺すことは仕事なんだ。それを忘れているのは今の日本人だけなのさァ」「でも、先生は・・・」今の淳之介には祖父の言葉の方が救いになっており、それ以上の抗弁ができなかった。
「先生は絶対に安全な場所にいて危険な場所で命をかけて働いている自衛官たちを批判している。それはとても卑怯なことなのさァ」「・・・」「若し先生が本気で戦争に反対するのなら、銃を構えている兵隊たちの間に立って止めるべきさァ」祖父が興奮状態になってきたため祖母は淳之介にテレビを見るように促した。テレビでは街頭インタビューになっている。
「本当に恐ろしいことです」「個人の勝手で戦争を始めることを許してはいけません」都会風の服装をした女性たちは父の行為を口々に批判している。ところが男性たちの意見は違った。
「自衛官が戦争をするのは当り前じゃないですか。そのための自衛隊でしょう」「外国だったらこの自衛官は英雄ですよ。それを殺人罪で逮捕するなんて異常なことです」この国営放送では賛否の声を同数にしているから実際の市民の意識は判らない。ただ、これが沖縄の放送局であればインタビューを受けた全員が徹底的に非難の声を上げるのだろう。淳之介もその1人、それも大声で叫ぶ役になるはずだった。
- 2016/12/21(水) 09:06:50|
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現在、日本の犯罪史上でも類を見ないほど悲惨な状態で遺骸が発見された鳥取大学生の誘拐・殺人・死体遺棄事件が急展開を見せていますが、昭和55(1980)年12月2日に発生した名古屋の金城学院大学生が誘拐・殺害・死体遺棄された事件の犯人の死刑が平成7(1995)年の明日12月21日に執行されました。
この事件が起きた時、野僧は大学1年で帰りの電車の中で小父さんたちが網棚に置いていった夕刊紙でゴシップ的な話題を仕入れたのですが、同級生たちも女子大生が巻き込まれた事件と言うことで興味を持っていて、法学科だけに刑法の適用など意外に専門的な議論になっていました。
金城学院大学は愛知学院大学と名古屋学院大学と一緒に「名古屋3学院大学」と呼ばれている中で唯一の女子大で、ミッション系と言うこともありお嬢様大学として知られていました。
そんな大学の4年生だった被害者がローカル新聞に「英語の家庭教師をやります」と告知したことで依頼を受け、待ち合わせ場所だった自宅近くの駅で行方不明になったのが事件の始まりでした。
その日の夜、自宅に誘拐したことを告げる電話が入りましたが両親は不在で受けたのは弟でした。続いて1時間後に2度目の電話が入り、父親が応対すると「身代金3000万円」を要求し、翌日の夕方に高速道路のインターチェンジ近くの喫茶店を受け渡し場所に指定してきたのです。
富裕層だった親が1000万円を用意して指定場所に行くと「東名阪高速に乗り、2つ目の非常電話ボックスに行け」と言う電話が入ったのですが、父親は「電話ボックス」と聞き間違えたため非常電話ボックス内にあった「そこから金を落とせ」と言う指示のメモを見ることができずに終わってしまいました。その後も金の受け渡しの指示や本人の無事を確認させる交渉が続きましたが、12月6日夕方の28回目の電話を最後に連絡がつかなくなったのです。
このため愛知県警は12月26日になって公開捜査に切り替え、犯人の電話の声も公開されたことで情報が寄せられ、翌年1月20日になって名古屋市内の30歳の寿司職人が逮捕されました。
この頃には全国ニュースの関心は薄れていましたが、地元では新聞やテレビが大々的に取り上げ、特に「女子大生は誘拐されてそのまま殺害されていた」との情報に殺しておきながら身代金を要求した犯人の残虐性に対する怒りと被害者が性的凌辱を受けていなかったことへの妙な安堵感が電車内で夕刊紙を読んでいる小父さんたちの顔にも見て取れました。
そんな愛知県民の気持ちを代弁したつもりなのか名古屋市内の爺さんが被害者を悼む歌を作詞してテレビで発表しましたが、「清き乙女の×××さん」を繰り返す内容で、「本当に清き乙女だったのかは判らないだろう」と同級生たちは周囲の女子大生を見ながら苦笑していたものです。
ところが犯人が(いわゆる)被差別者の出身であることが明らかになるとマスコミの論調も一転し、「幼少時からの周囲の迫害によって健全な精神の育成が阻害された」「常に家庭の実態を隠して生きなければならなかったことが負担になり、裕福な家庭に対する怨恨の情を抱くようになった」と言う同情論が前面に押し出されるようになると、庶民の関心も急速に冷めてしまいました。
しかし、犯人が「ビニール・シートにくるんで木曽川へ捨てた」と証言した遺骸は中々見つからず、発見されたのは5月5日になってからでした。
裁判は1名の殺害であり、犯人の生育過程に対する同情の余地があり、自分の子供に対する自責の念を表しているにも関わらず、名古屋地方裁判所の1審、名古屋高等裁判所の2審と誘拐殺人の最高刑である死刑判決が立て続けに下り、昭和62(1987)年7月9日に最高裁が極刑を確定させました。
犯人は2人の子供に最初で最後の手紙を書き残しています。「私のような人間を父親に持ったことは貴方たちにとってどれほど大きな不幸か。まさに千載の痛恨事と言うべきことでしょう。子供には親を選ぶことなどできません。父親が殺人犯であり、死刑囚であると言う動かし得ない決定的事実。いくら呪おうと、いくら悲嘆にくれようと自分が殺人犯・死刑囚の子供である言う事実。これほど過酷な事実を背負わされた人生が他にあるだろうか、と・・・。しかし、××君、△△君、これはとっても難しいことかも知れませんが、誰も怨まずに生きて欲しいとお父さんは思うのです。貴方たちに怨まれるのが嫌だから、と言うのではありません。怨まざるを得ないような人生を与えたのだから、お父さんは怨まれても構わないのです。お父さんは怨むことによって貴方たちが強く生きられるのであれば、お父さんはむしろ嬉しい位です。お父さんが誰をも怨まずに生きて欲しい、と貴方たちに言うのは、怨まれる人のことなんかより、人を恨んで生きなければならない、そのことが人間にとって何にもまして不幸なことだからです」
- 2016/12/20(火) 09:35:39|
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私は警視庁に到着する時、再びカメラの砲列に晒されることになった。しかし、犯罪者であることを自ら認めるような態度は見せたくないので姿勢は変えず、作業帽を深めにかぶっただけで正面を向いたままストロボの閃光を浴び続けた。その時、護送車が急停止した。
「全く危ないな」「はねても証人は幾らでも居るから大丈夫だ」全席で運転手と脇田警部が言い合っている。早い話が1人のカメラマンが正面に飛び出して私のアップを狙ったのだ。
そうと判っていれば指で「ピース(平和)・サイン」をしてやりたいところだが、新聞には「V(ヴィクトリー=勝利)・サイン」と書かれるのは目に見えている。余談ながらイギリスのチャーチル首相が始めた勝利のVサインは人差し指と中指を立てて手の甲側を見せていた。
側面のガラスにもカメラのレンズが当たり、「ガチッ、ガチッ」と音を立てている。私はこのような混乱を人気の尺度にしている芸能人の神経に恐れ入ってしまった。護送車を下りて警視庁の裏口から入る時にもマスコミは殺到して、空港と同じく罵声を浴びせてくる。
「貴方が殺した人たちに言うことはないのですか」「アンタがやったことで戦争が始まったらどう責任を取るんだ」「お前の家族は泣いているだろう。恥ずかしくないのか」今回は名前を呼ぶ者はいない。おそらく昼の中継を見た政府から抗議が入ったのだろう。しかし、名前を呼ばれるよりも気分が悪くなるような下卑た言葉の機銃掃射になった。
「おーい、勝子、テレビを見んねェ」沖縄の玉城家では居間で夕方のニュースを見ていた夫が夕食の支度をしている妻を呼んだ。妻は手をタオルで拭きながら小走りでやって来た。
「アフリカで戦闘に参加した自衛官が逮捕されたのさァ」夫の説明に妻はうなずきながら隣に座った。夫婦は3時のニュースは見ていなかったので初めて知った事実だった。
「本日、北キボールで現地人3名を殺した自衛官が逮捕され、先ほど成田空港から警視庁に到着しました。中継です。○○さん」キャスターが呼び掛けると女性アナウンサーが出た。
「午後2時前、成田空港に着いた旅客機内で逮捕された自衛官は10分ほど前に警視庁に到着しました」ここで映像は迷彩服を着た自衛官が警察車両の後席の中央に座っている姿から始まり、車両を出て建物の裏口から入っている様子が流れ始めた。
「モリヤさんさァ」「うん、間違いないな」夫婦は戦闘に参加したのが元婿である可能性は考えていたので驚くことなく画面を見ていた。そんなこととは無関係にテレビではアナウンサーが解説を続けた。
「到着した自衛官は相変わらず悪びれた様子も見せず車内では正面を向いたままでした。それでも成田空港で見せたような薄笑いはなく少し緊張していたのかも知れません」夫婦は元婿がどんな状況に直面しても緊張することがない人間性なのを知っているだけにアナウンサーの勝手な解釈に顔を見合わせた。するとスタジオのキャスターが追い討ちをかけた。
「やはり日本に帰ってきて国民の怒りを目の当たりにして自衛官も罪の意識が芽生えたのかも知れませんね」「はい、殺人ほか2件の容疑で逮捕されたのですから自分が犯した罪の重さは自覚しているはずです」元婿の行為はマスコミの論理で重罪に断定されていく。それを聞いていて夫が忌々しげに呟いた。
「軍人が敵を殺して何が悪いねェ。どう考えてもモリヤさんの手柄さァ」夫の兄は中学生の志願者で編成された鉄血勤皇隊として沖縄戦に従軍した。その兄も敗戦後にはアメリカ兵を殺した罪を非難されてきたのだ。夫は兄の無念を元婿に重ねて歯噛みした。
「淳之介を早くウチの子にしないといけないさァ」「うん、明日、手続きを急いでくれるように(家裁へ)頼みに行くさ」夫婦の結論と同時にニュースの話題も切れ代わった。
- 2016/12/20(火) 09:34:15|
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宝暦元(1752)年の本日12月19日(太陰暦)は名奉行としてドラマにもなっている大岡越前守忠相さまの命日です。
大岡さまは晩年になって禄高が1万石に達して大名になったため愛知県の西三河=岡崎市・豊田市と東三河=豊川市・新城市の間に位置する額田郡に西大平藩を与えられており、豊川稲荷に宝物を献上したとの記録があって現物を見ましたから縁がないことはないのです。
ただし、領地を訪れたことはないので「篤く信仰していた」と言う豊川稲荷の宣伝は毎度の虚構に等しく、その後も大岡家は130年、7代にわたり西大平藩主でしたが、参勤交代を免除された常在府扱いでしたから領民もあまり親近感は抱いていなかったようです。
大岡さまについては名奉行としての本人の事績を描いた「大岡政談」や吉宗公を主人公とする物語にも補佐役として登場するので(ドラマでも前者は「大岡越前」など、後者は「暴れん坊!将軍」や大河ドラマなど)、江戸町奉行としては最高峰に位置づけられているようです。
大岡さまは紀州藩出身の吉宗公に見出されたことから紀州徳川家に仕えていたと思われがちですが、実際は幕府直参の旗本の4男で、同族の大岡家の婿養子に入って当主になりました。ドラマ「大岡越前」では実父の忠高さんが登場しますがそれは間違いです。
家督を継いでしばらくは江戸城内で勤めていましたが、6代将軍・家宣公の時に伊勢の幕府天領の山田奉行になったことで、実力を発揮し、頭角を現すようになって行きました。
物語や子供向けの伝記では紀州藩の部屋住みだった吉宗公(当時は新之助)が幕府天領内の海で夜闇に紛れて密漁を繰り返していることに誰も手を出せないでいたところ大岡さまが舟で乗りつけて捕縛し、「無礼者」と叫ぶ吉宗公を殴打、「ワシを徳川・・・」と口にしかけたところを更に殴打して、「恐れ多くも親藩の名を罪人が口にするとは許せん!しかし、年端も行かぬ子供のようなので見逃すが二度とこのようなことはするな」と説諭したことになっています。そして、このことを覚えていた吉宗公によって引き立てられたと言うのが今の信じられている2人の出会いの名場面ですが、史実では大岡さまが山田奉行になった時、7歳年下の吉宗公はすでに紀州藩主になっており、藩主自ら密漁を働いたことになってしまうので信憑性はあまり高くはありません。
ただ山田奉行時代には天領と紀州藩の境界線争いや罪人の引渡し、伊勢から熊野への旅人と人足に関する訴訟などを紀州藩に便宜を図っていた前例に倣うことなく公正に裁定しており、吉宗公が藩主としてこの仕事振りに着目していた可能性は大いにあります。
山田奉行の任を終えて江戸へ戻ると普請奉行となり、江戸城の工事や武家屋敷の割り振りや普請を指揮しましたが、この時に吉宗公が8代将軍に就任したのです。
ここからはドラマなどで描かれているように名奉行振りを発揮しますが、多くの視聴者が誤解しているのは町奉行の担当業務が司法と捜査、防犯だけだと思っていることでしょう。実際は防犯の延長線上の風紀の取り締まりや防火と消防、さらに揉め事の仲裁、そして商人による流通などの経済活動にまで裁量を奮っていました。
町奉行は吉宗公の時代から南北(京都は東西)の月番交代制になり(それまでは中町奉行所もあり、3月番交代だった)、建物は現在の東京駅の北端と南端に所在していました。それも月番のため届け出る場所が離れていては不便であり、業務を処理する上で情報交換を密にする必要があったからです。
吉宗公は町奉行に限らず寺社奉行、勘定奉行などが行う司法に於いては奉行の個人的感覚によって裁定・量刑に差異が生じることを防ぐため主に量刑基準を定め、判例を記した「公方御定書」を制定し、大岡さまもその追加と改訂に参加しています。ただし、大岡政談で描かれている人の情の機微に通じた裁きの多くは後世の創作ですが、それに信憑性がなければ物語として成立せず、やはり庶民にとっても大岡さまは名奉行だったのでしょう。
大岡さまは町奉行を退任した後、寺社奉行になりますます吉宗さまに近く重く用いられるようになりますが、延亨2(1745)年に吉宗さまが将軍の座を長男の家重公に譲ってからもこの職に留まった上、奏者番(将軍への意見伝達係)を兼務し、大名になったのです。
大岡さまは吉宗公の翌年に後を追うように亡くなりました。75歳でした。
- 2016/12/19(月) 09:25:31|
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「こいつが現地の人を3人も殺した自衛官ねェ」待合席でテレビを見ている店長の大声に美恵子は客の顔を剃っていた手を止めた。沖縄の地元2大紙は北キボールで自衛官が戦闘に参加した事件が発生して以来、連日のように激烈に批判する記事を掲載しているが、政府は当事者の氏名や所属の公表を拒否しているため、最近はそんな「隠蔽体質」に対する批判も始まっている。椅子を倒して顔を剃られている客も店長の大声でニュースが気になったようだ。
「やっぱり自衛隊を海外に出してはいけないのさァ」美恵子と同世代=40歳前くらいの客は時事問題を語るのに相応しい難しい顔を作って呟いた。しかし、それを聞いている美恵子はニュースに興味がないので何の話題かも判らない。むしろ自衛隊からは目を背け、耳を塞ぎたいのだ。すると店長がリモコンで音量を上げたのか女性レポーターの声が響きだした。
「機内で逮捕された自衛官は間もなくここを通過して連行されていく模様です」テレビは成田空港からの中継を流しているようだ。女性レポーターの実況中継はスキャンダルを起こした芸能人の時と何も変わらない。美恵子は無表情に仕事を再開した。
「はい、頬を剃りますから顔を横に向けます」美恵子が客の顔を横に倒して沖縄の人らしく濃い頬の髭を剃り始めた時、テレビから歓声と言うよりも罵声に近い叫び声が流れ出した。
「モリヤさん、貴方が現地の人を3人も殺したんですね」この声を聞いて美恵子の手に力が入ってしまった。すぐに頬に塗られている泡が赤く染まってくる。顎を切ってしまったようだ。
「すみません。顎を切ってしまいました」「えーッ、俺、動いていないさァ」詫びている美恵子に客は自分に落ち度がないことを言い立てた。美恵子が救いを求めて店長を見るとテレビのニュースに夢中になっている。
「マスター、すみません」美恵子が声を掛けると店長はまだニュースに意識を残しながら歩いてきて、顔の泡をタオルで拭って傷口を確認した。それは頬骨の角を削ったような傷だった。
「どうしたねェ。美恵ちゃんにしては珍しいさァ」「はい、初めてです」美恵子の申告に店長もうなずいた。一方、客は仰向けに寝かされたまま2人の顔を大きな目で見比べている。
「傷口はこの秘伝の軟膏を塗ればすぐに治るけど、剃りかけの髭は困ったね」確かに揉み上げから顎にかけて剃っていく途中だったので半分も終わっていない。と言っても傷ができてしまうと続きができなくなる。2人にも解決策は浮かばなかった。
「料金は結構ですが、このままではみっともないので傷が塞がるまで待っていていただく訳には・・・」「いいよ、美恵ちゃんが舐めてくれれば」この客は思いがけず美恵子にとっては絶対に聞きたくない言葉を口にした。すると美恵子は店長の横で鼻をすすり始めた。
「そんなに反省しているんならもう良いさァ。これで帳消しだ」そう言うと客は椅子を立てられる前に自分で起き上がって、顔をタオルで拭いた。そして店長が塗った黒い軟膏と傷を鏡で確認すると美恵子の頬に口づけをして店を出て行った。
「美恵ちゃん、どうしたねェ。アンタとは思えないミスさァ」「さっきニュースで自衛官の名前を言いませんでしたか?」店長の質問に答えず、美恵子は待合席のテレビを見上げた。
「現在、逮捕された自衛官は空港事務室で取り調べを受けている模様です。なお、政府はこの自衛官の行動自体が防衛秘密に該当するため氏名や所属などは公表していません」ニュースでは女性レポーターが同じ説明を繰り返している。すると画面には先ほどの自衛官が連行される場面が再び流れ始めた。
「こいつ笑ってるさァ」周囲を警察官に取り囲まれている迷彩服姿の自衛官は不敵に笑っている。それを見て店長が憎々しげに呟いたが、美恵子の耳には入っていない。それは間違いなく前夫・モリヤなのた。美恵子の胸に家族のアルバムの中の不器用に笑っていた前夫の写真が1枚1枚浮かんできた。あの多過ぎるほどのアルバムも自分の手で捨ててしまったのだが。
- 2016/12/19(月) 09:23:18|
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昭和59(1984)年の明日12月19日を以って昭和33(1958)年に売春防止法が施行されて以来、性犯罪防止に多大の貢献をしてきたトルコ風呂がソープランドに改称されました。
野僧は間を開けずに彼女がいたためトルコ風呂=ソープランドのお世話になることはなかったのですが(=肉体関係がなくても浮気はできない)、F-4EJへの機種転換に伴う委託OJTで築城基地に行った時、同じ分隊の若い隊員たちに「3名で行けば割引になる」と小倉駅下の改名したばかりのソープランド街へ強制連行されて1度だけ入ったことがあります。そもそも有り余る体力=精力がありながら女性と出会う機会が少ない自衛官にとってその解消は意外に深刻な問題で戦前の兵隊たちが足しげく赤線に通ったのと同じくトルコ風呂に詳しい者は話題の中心になっていました。
野僧は「好き者」に見えるのか、それとも「堅物」に見えるのかは知りませんが、どこの職場でも先輩や学生たちが詳しく話を聞かせてくれたため膨大な情報が蓄積され、ソープランドへ行く際の心得(特にソープ嬢にサービスさせるためのテクニック)から全国各地のお勧めの店と料金、さらに美人ソープ嬢の名前まで詳細に熟知してしまい、やがてはソープランドの情報を伝授する側になってしまいました。
航空自衛隊の各基地とソープランド街の関係で言えば千歳なら札幌市中央区の「すすきの」、三沢の青森県内にはなくて松島なら仙台市青葉区の「国分町」、百里では茨城県土浦市の「桜町」か栃木県宇都宮市の「江野町」、熊谷では埼玉県大宮市の「大宮北銀座」か川口市の「西川口」(当時、熊谷には生徒隊があり、高校生なのにトルコ風呂へ通う者が後を絶たなかったそうです)。入間や府中となると東京都内へ出かけますが入間は西武池袋線の関係で「池袋」、府中は京王電鉄が新宿発のため「歌舞伎町」の人気が高かったようです。
さらに静浜と浜松にはトルコがないので西なら名古屋・岐阜・雄琴、東は東京へ新幹線で出かけていました。小牧は名古屋市内に遊びに出る者は中村区の「大門」ですが、岐阜市内の「金津園」の方が店数が多いので基地所属の隊員はこちらへ行くことの方が多いようでした。勿論、岐阜の隊員も同様です。小松は石川県内の温泉地にあるトルコ風呂巡りか滋賀県大津市の雄琴まで足を伸ばしていたようです。小松の教え子は「雄琴は田園の中にソープランド街だけがあるため近づくのが恥ずかしい」と言っていました。
そして美保は米子市の皆生温泉、防府にはなくて築城・芦屋は前述の「小倉駅前=正しくは船頭町」、春日は福岡市博多区の中州にある「南新地」、新田原は宮崎市の「樋通西」、那覇は「波の上」「辻」ときます。
防府市内にトルコ街はありませんが、三田尻3丁目と言う旧赤線街が残っていました。ただし、新隊員は帰隊時間が早いため利用できず、航空学生はもてるため素人女性が相手でした。
また小倉のソープランド街は鹿児島本線の線路に隣接している上、店はソープ嬢の写真が見えるように照明を点けているため、表通りの店から出る時に電車が通過すると乗客に顔を見られてしまうことになります。野僧はその経験者です。
そんなトルコ風呂の発祥は戦前の上海で本場トルコの垢すりの代わりに女性がマッサージをする蒸し風呂場が人気を博しており、それが戦後になって銀座で開店したのですが、買収防止法の施行で職を失った赤線の娼婦たちがマッサージ嬢に転職したため、単なるマッサージが次第に怪しくなり、やがてはそちらが主目的と化してしまったのです。
ただし、売春防止法の適用は受けますから、マッサージを受けている間に発情して肉体関係を持ったと言う手順は踏まなければならず、入っていきなり始めることは違法です(先輩の中にはいきなり1発、続いて1発、終わりに1発の計3発やることを自慢している人がいましたが危険です)。
そんなトルコ風呂はローマ帝国以来の風呂文化を持つトルコ人にとっては冒涜以外の何物でもなく、再三にわたり問題にされていましたが、1984年になって東京大学へ留学していたトルコ人学生が当時の厚生省に名称変更を訴える文書を送り、これを受けて東京都の特殊浴場協会が新名称を募集し、この日から「ソープランド(泡の国)」に改称されたのです。
ただし、ソープ嬢の技の1つである「泡踊り(トルコ嬢が身体に石鹸を塗り、客にこすりつけて全身を洗う)」は以前は石鹸を使っていたので本当に泡の中でしたが、石鹸は肌や性器を傷つけるため現在はローションになり泡は立たないそうです。野僧がテクニックを見学した昭和60(1985)年頃は既にローションでしたから「泡踊り」ではありませんでした。

博多のトルコ嬢(映画「刑事物語」の有賀久代さん)
- 2016/12/18(日) 09:59:51|
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午後には成田空港に到着した。ここから警察車両で警視庁に護送されるのだが緊急性はないのでサイレンは鳴らさないはずだ。私は機内にもカバンを持ち込んでおり、そのことを伝えると山本警部補は立ち上がって取り出した上で中を確認した。しかし、9・11以降、ハイジャック防止のために異常なほど厳格になっている手荷物検査を受けているのだから念を入れるにしても行き過ぎのように感じる。
機外に出るに当たり私はPKOの水色のベレー帽ではなく迷彩の作業帽にした。警視庁には記者クラブがあり、マスコミ関係者が常駐していることは知っている。私が逮捕されたとの情報が伝われば当然、写真を撮影するだろう。その時、PKOの名誉を傷つけることだけは避けたかったのだ。
間もなくドアが開き、キャビンアテンダントが他の乗客たちを機外に案内した。通路を歩いて行くビジネスマンたちは顔を背けているようだ。これが若者たちであれば携帯電話で写真を撮影してインターネットに投稿しかねない。ただし、脇田警部が正面から監視していた。
「では行きますよ」「カバンは自分が持つから脇田警部と機外に出なさい」2人に命じられて私は脇田警部と山本警部補に挟まれるようにして通路を進んだ。いつもであれば愛想よく挨拶してくれるキャビンアテンダントも前後の2人だけに黙礼をした。
「モリヤニンジンだな」機外にはさらに2人の警察官が待っていた。彼らの背広の胸には拳銃の膨らみが見える。ここまで盛大な出迎えを受けると自分が凶悪犯になったような気がしてくる。そのまま前に脇田警部、左右に1名ずつ、後ろにカバンを空港職員に手渡した山本警部補が取り囲み空港事務所に連行された。すると送迎通路に入った瞬間、一斉にストロボが光り、私は条件反射で微笑んでしまった。
「モリヤさん、貴方が現地の人を3名も殺したんですね」「この大量殺人をどう償うつもりですか」「国民に対する謝罪の言葉を」「ご家族に何と説明しますか」記者たちは一方的に質問を投げかけてくる。私は突き出しているマイクを受け取って立ったままの記者会見を始めたかったが、警察官たちが足を止めることなく進んでいくのでついて行くしかなかった。
「それにしてもどこでマスコミは嗅ぎつけたんだ」ロビーから職員専用の廊下に入ったところで、脇田警部が右側の警察官に話しかけた。
「政府からは記者クラブにも情報を漏らさないように指示されていたんですが」「おそらく航空会社の労組が社人党に通報して、そこからマスコミに広まったんでしょう」「そちらは公安の担当だな」確かに政府が秘匿しているはずの私の名前を記者たちは知っていた。つまり搭乗者名簿の個人情報が漏れたとしか考えられない。労組と左傾政党の癒着は私も苦々しく思ってきたが、今回は当事者になってしまったようだ。それにしても警視庁に到着した時に備えて作業帽を選んだことが早々に役に立った。PKO要員の写真が「殺人者」と言う見出しと一緒に使われてしまうと、それこそ左傾政党とマスコミの思う壺だ。あの時、作業帽を選んだのも「中隊長のお告げ」だったのかも知れない。手錠をはめられなくて本当に良かった。
空港事務室で預けた手荷物の引換券を渡して待っていると間もなくアフリカの土で汚れた私の衣納と大中の演習バッグが運ばれてきた。どうやら検疫で引っ掛からなかったようだ。
ここでも私の立ち会いの下、カバンの中身が点検される。衣類はポケットの中まで確認する念の入れようだ。
「事件の時、着ていた服はどれだ?」「袖と背中に血の染みがついていますから判ります」「背中に?」「遺骸を背負って運びましたからベッタリと」「遺骸をどこに運んだんだ?」迷彩服と下着は現地ではクリーニングに出せないため、洗濯機で洗っただけなのだ。それにしても警察は事件に於ける私の行動を全く知らないまま捜査を始めていることが判った。
- 2016/12/18(日) 09:57:14|
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「それにしてもモリヤさんは刑法に詳しいんですね」「一応、大学は法学科だったからね」「防衛大学校に法学部があるんですか?」どうやらこの警部補は自衛隊の幹部が防衛大学校出身者ばかりだと思っているようだ。
「ワシは一般大学だけど警察にもそんなコースがあるだろう」「はい、自分もそうです」気がつくと被疑者と司法警察員の会話とは思えないような口調になっている。私は前後の乗客が違和感を抱くと拙いと思い「職務上の話し方をしよう」と小声で注意した。
「それでは弁解させていただきますから録取手続きをお願いします」「どうぞ」私の申し出に山本警部補は腰のポケットから警察手帳とは別の小型ノートとボールペンを取り出した。弁解録取手続きとは逮捕後にそれを拒否する機会を与えるための手続きだが実際は形式に過ぎない。
「先ず刑法199条の殺人ですが、確かに3名の命を奪ったのは事実です。しかし、それは正当防衛と緊急批判に該当する状況だったので違法性阻却事由が適用されるでしょう」また専門用語が出たため山本警部補は漢字で悩んでしまい、そこで私が横から説明した。
「次に刑法94条の中立義務違反ですが、PKO法には中立を命じる明確な規定がなく中立義務までは付与されていないはずです」「PKO法ですか・・・」日本の文民警察はカンボジアで高田警部補が殉職して以降はPKOに参加しておらず個別に教官などを派遣することに留めている。このため海外で適用されるPKO法に対する関心が薄くても仕方ない。
「最後は刑法93条の私戦ですが、確かに日本は憲法で国の交戦権が否定されている以上、戦闘を私的暴力行為と看做す立場もありますが、私は自衛官であって戦闘は正当な公務のはずです・・・以上、3つの罪状に対して否認の弁解をさせていただきました」「判りました。それでは調書を読み上げますから発言との齟齬がないかを確認するように」そう断って山本警部補は前後の乗客に聞こえないように声を抑えて先ほど私が言った弁解の概略を読み上げた。
「はい、一部抜けている個所がありますが訴訟の調書ではないので結構です。ところで弁護人を選任できることの説明も抜けていましたよ」「そうでした。××警部は初めて見る罪状を申し渡すのに悩んでいましたから、それを先に言われて完全に舞い上がってしまったようです」確かに刑法93条の「私戦の予備陰謀」と94条の「中立命令違背」は戦後になって適用された判例はない(最近になってイスラム国へ参加するため渡航しようとした若者に適用された)。私は大学時代、刑法の条文を予習していて興味を持ち、教授に質問したため詳しかっただけだ。
この日から3日前、閣議の席で法務大臣が唐突に切り出した。
「北キボールで戦闘に参加した自衛官が刑事告発されました」思い掛けない報告に首相、官房長官、外務大臣、防衛庁長官は絶句してしまった。そこで法務大臣は続きを説明した。
「昨夜、社人党の徳島党首が警視庁に刑法199条の殺人、93条の私戦の予備陰謀、94条の中立命令違反の罪で告発文書を提出しました」「当然、不起訴にするんだろうな」ここで官房長官が少し声を荒げて質問した。
「警視庁は不受理にしようとしたのですが徳島党首は刑事訴訟法第239条2項に定める公務員の告発義務に基づく行為であると強硬に主張したため受理してしまったようです。後は書類送検、告訴に至ってしまうのでしょう」「それを阻止すれば我々を刑事訴訟法違反で告発して法廷闘争に持ち込みかねないぞ」閣議の空気が急激に重苦しくなった。
「結局、自衛官に任務を遂行すれば犯罪者になると思わせたいんだろう」「国民に戦争が殺人であることを広報する目的もありそうだ」ここで勝手な発言が始まり騒がしくなった。
「あの自衛官には腕が立つ弁護士をつけるんだ!」「東大出に負けないくらいにな」こうして本人が知らないところで私の法廷戦闘(闘争とは言わない)は始まっていたようだ。
- 2016/12/17(土) 09:24:57|
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映画「To Sir with Love(邦題・いつも心に太陽を)」の原作者であるイギリス人作家・エドワード・リカルド・ブレイスウェイトさんが12日に亡くなったそうです。104歳でした。
野僧はビデオ・デッキを購入して最初にレンタルビデオ店で借りた映画が「To Sir with Love」で、かつてアラスカ人の彼女から聞いていたアメリカ式とも違うイギリスの学校教育を学ぶことができました。
その時、先輩のビデオ・デッキと接続してダビングしたため自分でも所有することになり、愚息たちは幼い頃から繰り返し見ていたのですが、愚息1の恩師に貸したところそのまま贈呈することになってしまったのです。
一方、愚息2はスリランカの学校へ転校することになった時、現地の学校教育がイギリス式であること知り、「あの映画のサッカレー先生みたいな先生がいるかなァ」と期待してくれたので親としては助かりました。ただ、あの映画ではクロード・ポワチエさんが演じる主人公のマーク・サッカレー先生は優秀な教育者でも他の先生はやる気がないデモシカ教師ばかりなので、親としては不安も抱えていたのです。
心に残る名作を有り難うございました。冥福を祈ります。
- 2016/12/16(金) 10:23:27|
- 追悼・告別・永訣文
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昭和42(1967)年の明日12月17日に競馬ファンではなくてもニュースを見た者は大人から子供まで泣かせた情馬・キーストンが死にました。
キーストンは成績としては24戦18勝であり、クラシックの5レースの中では昭和40年の日本ダービー(東京優駿競争)で優勝しているだけで、牡馬(♂)のため牝馬(♀)が条件の桜花賞とオークスには出場しておらず、皐月賞は14着、菊花賞は2着でした。
それでも名前が残っているのはその最後のレースとなった阪神大賞典の最後の直線で突然、左前脚を脱臼して転倒、そのため落馬して地面に叩きつけられ意識を失っている山本正司騎手の傍へ歩み寄って様子を窺う姿を見せたからです。
馬にとって脚は急所であり、その骨折・脱臼は致命傷なので激痛は計り知れず、通常であれば狂ったように暴れて取り押さえることが困難なのですが、キーストンは何とか立ち上がると脱臼した脚を引きずりながらヨロヨロと歩み寄り、倒れている山本騎手に顔を近づけ、無事を確かめようとしているようでした。それで意識を取り戻した山本騎手もキーストンの顔を撫でましたが、それが告別の挨拶になってしまいました。
キーストンは典型的な先行逃げ切りタイプで3100メートルの阪神競馬場を2周回るレースで最大5馬身の差をつけて1位のまま最後の直線に入ったのですが他の2頭が迫る中、急停止して山本騎手が前に吹き飛ばされたのです。
山本騎手はキーストンのデビュー戦から騎乗してきた深い関係がありましたが、日本ダービーに続いて優勝を狙っていた菊花賞は2位に終わり、続く天皇賞では5位に後退したためオーナーが激怒して騎手を交代させていました。
ところがキーストンは非常に繊細な馬だったため自分の成績が振るわないと周囲が不機嫌になり、それを感じて痩せてしまうほどだったのです。
このため2週間前の阪神競馬創立60周年記念レースから山本騎手が再騎乗することになり、この日もかなり無理していた様子が見てとれます(=騎手の「勝たなければ」と言う気負い)。
結局、キーストンは予後不良=回復不可能と診断され、薬物注射によって安楽死させられました。
- 2016/12/16(金) 10:18:59|
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「只今、当機は日本の領空に入りました」私は海外旅行に慣れている訳ではないが、帰路の機内でこんなアナンスを聞いたの初めてだった。
平日の機内はビジネスマンが大半で満席ではなく、迷彩服姿の私は2人掛けの席に1人で座り、アメリカの空港で買った雑誌を読み終えてからは窓の外の雲海と太平洋を眺めていた。すると2人の男性が私の傍に立った。一見して屈強そうな身体つきで眼つきには独特の鋭さがある。
「モリヤニンジンだな」「君は?」高圧的な口調で確認してきたので、こちらは紳士的に問い返した。
「警視庁外事課の脇田警部だ」「同じく山本警部補だ」「それなら階級は同格だから言葉遣いには気をつけてくれ」2人が名乗ったので私も答える前に注意した。自衛官の1尉と3佐は警察の警部に相当するのだ。
「私が認めるにはその前に身分を証明する物を見せてもらわないといけないな」私に促されて脇田と名乗った男性が胸ポケットから警察手帳を取り出して見せた。
「はい、お手数さまでした。おっしゃる通りのモリヤです」ここでようやく認めたが、こちらの身分が判っているからキャビンアテンダントの案内もなく私の所へ来たはずだ。つまりこれも彼らの手順のようだ。
「貴方に逮捕令状が出ています」そう言うと脇田警部は警察手帳と一緒に取り出していた茶封筒の中の定型用紙に記入された文面を読み始めた。それにしても前後の席には一般の乗客が座っている。本来であれば逮捕が予定されている乗客は隔離した状態で席を用意するのだが、今日はそこまで空いてはいなかったらしい。
「モリヤニンジン、昭和36年7月1日生まれ、三重県久居市新町在住。間違いないな」「はい、どうぞ」返事が合いの手になってしまったが、隣で聞いている山本警部補は表情を変えない。
「罪状、刑法199条・・・」「ほう、殺人か」「その通り、殺人並びに・・・」また合の手になったが、脇田警部の方が少し反応した。
「刑法94条・・・」「今度は中立義務違背かね」「うん、中立義務違背及び・・・」まだ続くが愛知大学法学科で刑法だけは真面目に勉強していた私には予想ができた。
「刑法93条・・・」「私戦の予備陰謀ときたか」「はい、私戦の予備陰謀準だ。以上3つの罪で刑事告発されており、東京地方裁判所は告訴することが適当と判断し、貴方の身柄を拘束します」読み終えて脇田警部は何故か溜め息をつき、山本警部補に私の隣に座るように指示した。
「ところで私に黙秘権があることの説明と弁解をさせていないよ」「あッ、そうでした。貴方には供述を拒否し、質問への回答を忌避する権利があります。ただし、この権利を行使した場合、裁判に於いて不利に働く可能性があることを事前に説明しておきます」「弁解についてはこれから司法警察員の山本が聴取します」気がつけば何だか立場が逆転しているようだ。やはり被疑者は警察官を前にすれば緊張し、逮捕状の内容も耳に入らない状態になるのが普通なのだろう。それが落ち着き払って滅多に聞かない罪までスラスラ答えられてはベテランの司法警察員(司法手続きに於ける警部補以上の警察官、巡査部長以下は司法巡査と言って逮捕弁解録を作成し、書類送検する権限がない)でも焦ってしまうのは仕方ないことだった。
「2つ、質問を良いですか」「どうぞ」「1つ目は空港に車両で迎えに来ることになっている自衛隊にはこの逮捕の件は連絡がいっているのですね」「はい、それは大丈夫です」隣に座った山本警部補は私の方が上官であること知り、妙に丁寧な言葉遣いになっている。
「もう1つ、私を告発したのは誰ですか」「それは・・・」脇田警部は自分の席に戻ってしまったため山本警部補は答えに困ってしまったようだ。そして小声で「社人党の徳島水子議員・・・弁護士です」と答えた。
- 2016/12/16(金) 10:17:18|
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昭和20(1945)年の明日12月16日未明に近衛文麿元首相が服毒自死しました。近衛首相の名前は「あやまろ」と読むのが正しいのですが、軍部から「首相自ら謝罪しているようだ」と批判されたため「ふみまろ」と呼ばせていたそうです。つまり軍部に親から与えられた名前までも換えさせられるほど腰が引けていたと言うことでしょう。
近衛家は言うまでもなく五摂家の筆頭であり、後陽成天皇の末裔でもあって自身も公爵の高位にありましたが、明治政府は薩長土肥の下級武士が作った成り上がりの政権であって、その最も血生臭く猛々しい部分が増殖した軍部が相手では岩倉具視のような最下級の貴族出身でなければ到底太刀打ちできなかったようです。
近衛首相は明治24年に貴族院議長や学習院院長を務めていた近衛篤麿さんの長男として生まれました。実父の篤麿さんは野僧が中退した大学の前身・東亜同文書院の創始者の1人であり、名門出身でありながら明治の最初期にドイツ、フランスへ留学し、帰国後は貴族院議員となり、薩長土肥の藩閥政治には徹底的な批判を繰り広げていました。さらに学習院の院長に就任すると皇族や上流階級の子女の学問所に甘んじていることを打破し、欧米の貴族たちが「ノブレス・オブリージュ(選ばれし者の義務)」の精神で国難に立ち向かっていることを踏襲してリーダーの育成を目指す学制改革を進めたのです。
更に篤麿さんは「欧米から見れば日本人も中国人も同じアジア人である。欧米人とアジア人が敵対した時、共に闘わなければアジアは滅亡してしまう」と言う大アジア主義を唱え、この活動の一環として上海に設立したのが東亜同文書院でした。
そんな剛毅な父は近衛首相が12歳(明治37年=日露開戦の年)の正月元日に大陸で感染した病気で急逝してしまったため薫陶を受けるもことなく、おまけに幼い頃に生母が病没し、父の後妻=継母が「文麿がいなければ私が生んだ子が跡取りになれた」と公言してはばからないような女性だったこともあり、父親には似ても似つかぬ日本的公家の典型のような人物になってしまったようです(その性質は孫で後年の総理大臣・細川護煕に遺伝しています)。
ただし、後妻が生んだ秀麿さんは音楽家としてヨーロッパで活動中、反ナチスを露わにしていたことで執拗な妨害を受けても屈せず、終戦まで留まった硬骨漢ですから近衛家の後継者としてはこちらの方が相応しかったのかも知れません(近衛首相はヒトラーの信奉者・大島駐独大使から苦情を受けて「兄の立場を考えてくれ」と自粛するように頼んだそうです)。
政治家としての近衛首相は昭和天皇の意図を実現すべく努力を始めても軍部に脅されると簡単に挫け、挙句の果てに政権を投げ出すことを繰り返しました。その結果生じた政治の混乱に乗じて陸軍が政治への介入を強め、やがては東條英機が首相の座に就いたのですからやはりA級戦犯です。
また東條が独裁者となる基盤であった大政翼賛会を創設したのも近衛さんであり、更にスターリンが送り込んだスパイであるリヒャルト・ゾルゲの飼い犬・尾崎秀実(ほつみ=朝日新聞記者)を外交顧問に据えたことで、紛争不拡大の方針とは逆に「蒋介石を相手にせず」などの記事で和平交渉を妨害されたのですからその責任は大きく超A級戦犯になるはずです。
それでも本人には自覚はなく戦後の占領政策に参画する意欲満々で、マックアーサーを訪ねて「戦争責任は全て軍部にある」「天皇を排除すれば日本は共産主義化される」と持論を述べ、新憲法制定の草案を検討し始めていました。
ところが12月6日に占領軍司令部からこの日を期限とするA級戦犯としての逮捕命令が届き、入浴してから床の中で苦しまないで済む青酸カリを飲んで亡くなったのです。
近衛首相の自死の報を聞いた昭和の陛下は「近衛は弱い」と一言だけ呟かれたそうです。

かわぐちかじ作「ジパング」より
- 2016/12/15(木) 09:48:36|
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その夜、私たちは空港に近いラバト市内のホテルに泊まった。本当はツインの部屋に3人での宿泊を申し込んだためソファーセットが片づけられ、組み立て式のシングルベッドが置いてある部屋で、夕食後はボンヤリと時間を過ごしていた。
「すまないが妻に電話をしたいんで、ロビーに行かせてもらえないか」私は時差を計算して佳織が帰宅したであろう時間に護衛の名目の監視要員に声をかけた。
「部屋の電話でかけてはいかがですか」「それでは宿泊料金に加算されてしまう。私用で公費を遣う訳にはいかないよ」私の説明に人事班長はうなずき、レンジャーの陸曹に同行を命じた。その時、「護衛用に」と言いながら拳銃を渡したのは私が逃走する可能性への配慮だろう。
エレベータで1階に下り、ロビーの隅に置いてある公衆電話を掛けた。このテレホン・カードも遣い切らなければ勿体ないが、後ろで護衛に聞き耳を立てられていてはそれも覚束ない。
「ハロー」「ハロー、ユア ハズバンド スピーキング(貴方の夫だ)」このレンジャーの英語力は知らないが、日本語よりは難易度が高い英語で話し始めた。
「貴方?」「うん、マイ ハニー(我が妻)」ここでしばらく言葉が出なかった。事件以降、私はオランダ軍の宿営地に行く以外は軟禁状態に置かれ、手紙を書くことができなかったのだ。
「貴方から1週間も手紙が届かなかったから、どこかで身柄を拘束されているんじゃないかって心配してたのよ」「うん、常に監視がついていたから落ち着いて手紙も書けなかったんだ。すまん」そこからはオランダ軍のインターネットで当日のうちに情報を知ったこと。ワシントンの防衛駐在官から電話が入ったこと。守山の元中隊先任から手紙と新聞記事が届いたこと。そして志織の学校の様子などの報告が続き、私の方からはオランダ軍の軍事法廷に参加したこと。イスラム法の裁判を受けたことを説明した。
「それから沖縄の玉城さんに淳之介の親権を至急、移動させてくれってお願いしたの」「それは
何時だ?」「貴方の事件を知った夜だから1週間前になるね」佳織の返事を聞いて緊急事態における状況判断の的確さに感心してまた言葉が出なくなった。
「いけなかった?」「ううん、有り難う。日本本土は兎も角として沖縄では教員やマスコミが徹底的に批判するはずだからアイツを守るためには急ぐ必要があったよ」先ほどの佳織の説明では日本政府は現時点まで私の氏名・階級・所属を公表していないらしい。これが報道されるようになれば淳之介との関係も暴露され、どのような迫害を受けるかは想像に難くない。
「それで日本に帰ってからはどうなるの?」「空港まで自衛隊の車両が出迎えに来ているらしいけど、そのまま陸幕に連行されるんだろう。後は市ヶ谷に監禁されて連日の事情聴取だな」「まるで犯罪者みたいだね」佳織の口調が少し気色ばんだ。その時、佳織の向こうで志織の声がした。どうやら英語の会話のため私からの電話だと気がつかなかったようだ。
「ダディ」「おーッ、志織、アー ユー ファイン(元気か)?」普段は志織が帰国後の会話を忘れないように正確な日本語で話すのだが今日は英語のままだった。志織は一瞬、戸惑ったが私以上に流暢な英語で話し始めた。
「最近、お母さん、元気がないの。時々考え事しているよ」志織の話で気丈な佳織もやはり私の事件に心を痛めているのが判った。すると電話の向こうで佳織が「そんなこと言っちゃあ駄目」と注意した声が聞こえた。
「お母さんはお父さんが心配かけちゃったんだ。悪いのはお父さんだから志織がお母さんを励ましてあげてくれよ」「うん、判ったよ。まかせておいて」こんなところで最後のテレホン・カードが終わってしまった。振り返るとレンジャーが感心したように見ている。
「すごいですね。話の内容が全く判りませんでした」「そうかァ。中学生レベルの話もあったぞ」
「私は中学生から英語が苦手でした」そんなオチがついてアフリカ最後の夜は終わった。
- 2016/12/15(木) 09:46:36|
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夫が戦闘に巻き込まれたことを知った翌日、佳織に思いがけない人物から電話が入った。
「ワシントンの野中だが」それはワシントンの日本大使館の防衛駐在官・野中将補からだった。佳織はアメリカに着任したその足で大使館を訪ね、挨拶をして以来だ。
「今日は自宅からだ」野中将補は何故か最初に電話をしている場所を伝えた。つまり「秘匿装置が付いた電話ではないから秘密事項は口にするな」と言う注意だろう。
「どうだね。勉強ははかどっているか?」「はい、大変に充実した毎日を送っています」「そうか。それは何よりだ」佳織の社交辞令的な返事に野中将補も同様の相槌を打った。
「ところで北キボールで発生した事件は知ってるか」「はい、大変なことになりました」佳織はこれが本論であることを感じながらも敢えて他人事のように返事した。
「そうか。アメリカ国内で勤務している隊員に情報を周知しようと思って電話したのだが、確かに他人事じゃないな」「海外で勤務している自衛官には情報を知る手段がないので困ります」野中将補が遠回しに夫が当事者であることを伝えたので佳織は雑談的に不満を訴えた。何にしてもインターネットで海外向けに軍事情報を発信しているオランダ軍に比べ防衛庁の対応は歯がゆくて仕方ない。
「防衛庁は国内向けでさえ制約が多いのだから海外となると政治問題になる可能性もある。君には逐次、電話をするが不安に負けずに頑張ってくれ」「大丈夫です。私はキャプテン・モリヤの妻ですから」佳織の力を込めた返事に野中将補は溜め息をつきながら電話を切った。
それから4日後、佳織の下に日本から茶封筒の速達が届いた。差出人は第10通信大隊の無線中隊の先任だった島田信長准尉だ。佳織は連休明けに定年退官を迎えた准尉の送別会の幹事宛に寸志を送っていたが、その礼状にしては厚い封筒だった。封筒を開けると中には手紙と新聞のスクラップが入っている。
「馴れない英語で住所を書いたので無事に届くか心配です。それでも中隊長が読んでいると言うことは何とか届いたのですね」書き出しは軽妙で島田准尉らしい。中隊の先任として仕事は厳しく、躾は喧しく、生活は楽しくをモットーにして自分を支えてくれた准尉そのままだ。
「先日は退官行事に御厚志をお送り下さって有り難うございました。おかげで注がれるビールが増えて二日酔いになってしまいました」この冗談も佳織の重くなっている気持ちを軽くするための優しさのような気がした。
「送別会には中隊長の小隊先任だった久居の作野郁夫曹長も来てくれました」島田曹長の手紙はワープロで書いているので書体や筆圧は判らないが、少し身構えたような気配を感じる。
「作野曹長はご主人の中隊先任を務めていたそうで、モリヤ夫妻の話題で盛り上がりましたよ」佳織は2人が自分たちのことをどう語り合ったのかを想像し、久しぶりに口元が緩んできた。
「作野さんの話ではご主人は北キボールへ行って居られるとのこと、日本ではアメリカのニュースを輸入して流していますが、アメリカは日本のニュースを輸入することはないでしょう。ですから北キボールに関する新聞記事を同封します」この気配りが島田准尉の持ち味だ。佳織は分厚い新聞記事をテーブルの上に広げてから手紙を読み進めた。
「北キボールでは日本人のジャーナリストが拉致され、オランダ軍の捜索隊に幹部自衛官1名が参加しました。国会では連日のようにその問題が取り上げられていますが、政府は幹部自衛官の氏名・階級・所属を明らかにしていません」エアメールの速達とは言え日本からアメリカのカンザス州まで届くには3日は掛かるだろう。つまり曹長の説明と新聞記事はそれ以前の段階の情報になる。それでも想像に依るしかなかった日本政府の対応と野党の追及、マスコミの報道がどうなっているかを確認できた。

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- 2016/12/14(水) 09:44:01|
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