fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ720

今年の秋夕(チュソク)は1カ月遅れの9月15日だ。岡倉はアメリカの対イラク開戦の口実が完全な虚構であることを見極めたところで妻のジアエ(知愛)とハワイで待ち合わせた。
先にホノルル空港に到着した岡倉が入国ゲートで待っていると異様に騒がしい集団がやってきた。言葉が理解できない者にはまるで集団で口論しているようだ。そんな中にジアエがいた。
「貴方!」背が高いジアエは列の中ほどで夫に気づき手を振ったが、韓国人の集団行動は何をやるにも先を争い並んでいる人を押しのけることくらいは朝飯前である。ジアエはその中で割り込みを拒絶しながら順番を確保していた。
入国手続きを終えてゲートを出てくるとウクレレを弾く男性とレイを掛けてくれる女性が待っている。ジアエも南洋の花のレイを掛けられたので岡倉はその写真を撮った。しかし、そのレイは女性との頬ずりを終えると回収されるのだ(岡倉は独身と思われて頬にキスをされていた)。
「貴方、待ちましたか」「いや、1時間前に到着する便で来たからそれ程でもない」今回のジアエとの会話は英語になっている。やはり買い物などで英語を話すのに合わせているようだ。
岡倉はジアエの鞄を空港で借りた手押し車に乗せて寄り添って歩き始めた。これからホテルのチャック・インの時間までタクシーでホノルル市内の観光になり、最初はヌウアヌパリからだ。
「凄い絶・・・風」ジアエはヌウアヌパリの展望台で、眺めの感激を言いかけて強風に驚いてしまった。ジアエはいつものようにロングスカートなので大丈夫だが周囲の女性たちのミニは捲れ上がって一般公開になっている。岡倉はジアエの視線を感じながら目を反らした。
ヌウアヌパリは海抜361メートルの絶壁にある上、両側に続く600メートルを超える山脈が太平洋からの風を集中させるため強烈なのだ。しかし、眼下にカネオヘやカイルアの街を見下ろし、カネオヘ湾やチャイナマンズ・ハット島に続く眺めはまさしく絶景だった。
「ここは古戦場なんだよ。カメハメハ大王が数百人の敵兵をここから突き落として殺したんだ。だからその夜になると兵士の叫び声が聞こえるそうだ」岡倉が待ち時間に空港の売店で買った観光ガイドで仕入れたばかりの豆知識を披露するとジアエは笑ってうなずいた。
次は国立太平洋地区戦没者慰霊墓苑・パンチボールだ。パンチボールは古い火山の噴火口の中を芝生の広場にして第1次世界大戦から第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などの三万人に及ぶ戦没者の魂魄が鎮かに眠っている。アーリントンの国立戦没者墓苑のような十字架や他宗教の石碑ではなく氏名、階級、生没年、死亡した場所を刻んだ石板の墓碑銘が棺の顔の位置に埋め込まれているだけで、それが広々とした空間を演出していた。
「ここには朝鮮戦争で亡くなったアメリカ兵たちも眠っているんです」そう言ってジアエは墓苑の中央正面の女神像の前でセカンドバッグからロザリオを取り出してひざまずき、指で身体に十字を置いた後、深く祈りを捧げた。そんな妻の横で岡倉は日系2世の442部隊の戦没者に胸の中でお経を勤めている。そんな2人の姿をハネムーンの同世代のカップルたちは怖い物を見るような目で眺めながら通り過ぎて行った。
「今の日本の首相は我が国が抗議しても毎年のように靖国神社を参拝するけどあれはどう言う施設なの」パンチボールの墓苑を歩きながらジアエが珍しく政治的な問題を質問してきた。
「俺はあそこには参らないよ」「えッ、軍人なのにどうして?」この答えはジアエにとっては想定外だった。韓国では6月6日を「顕忠日(ヒョンチュンイル)=殉国兵士の日」として慰霊に勤めている。韓国内の偏った報道は別にして靖国神社がそれを行う施設だと思っていたのだ。
「俺の先祖は小倉の小笠原藩士なんだ。だから高杉晋作の奇兵隊と戦って死んだ。ところが靖国神社は高杉晋作の兵士の戦死者は英霊として祀りながら小倉藩兵は賊徒として蔑んだままだ。おまけに朝鮮戦争で戦死した自衛官の合祀を拒否している。そんな場所を参るはずがないだろう」岡倉の口調が厳しくなり、ジアエは興味本位で質問した自分の軽率さを後悔した。
  1. 2017/01/31(火) 09:25:37|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ719

佳織たちがアメリカに戻り、志織が9月からの新学年への準備を始めていた頃、次なる戦争への予兆が始まった。
「イラクの核脅威は予防的攻撃の正当性を有している」これは8月26日に発せられたリチャード・チェイニー副大統領の発言だ。予防的攻撃=先制的自衛権とは1981年6月7日にイスラエルがイラクが建設を進めていた原子炉を「核兵器製造のための施設だ」と断定し、アメリカから供与されたばかりのFー16で空襲して破壊した時に表明した時に用いた定義だ。今回、副大統領がこの定義を持ち出したのはブッシュ政権がアフガニスタンに続いてイラクを攻撃する野望の表明に外ならない。
その頃、岡倉たちは工藤が手配した日本の雑誌社事務所の看板を掲げたビルの1室のテレビのニュースを冷めた目で眺めていた。
「結局、大量破壊兵器が見つからないから核兵器と言うことにしたんだな」話の口火を切るのはいつも倉田だ。確かに国務省や国防省の担当者たちと接触しても化学兵器、生物兵器の製造プラントや保管場所が特定できたとの情報はなく、むしろ焦りの色が濃くなっているのだ。
「最近は『俺たちは集団で小説家に転業する』って言う笑えないジョークばかりだよ」杉本の報告は全員が耳にしているのか揃ってうなずいた。
「ブッシュ政権はアフガニスタン以上の虚構を作ってでもイラクを攻撃するようだな」「アフガニスタンでも9・11をタリバーンの犯行にして、彼らを引き渡さないことを口実にして攻撃を始めましたが、今回はそれ以上の無理がありますね」このような冷静な分析は松本の得意技だ。こうなると引き受けるのは工藤しかいない。
「始めに潤沢になった予算を軍事産業に流せって言う結論があって、そのためにクリスチャン馬鹿の大統領に『十字軍の再現でキリスト教の正義で世界を統一しよう』と吹き込んだのが飯女(=ライス補佐官)だ。大統領には父親を超えたいと言う子供じみた野望があるから『フセインを殺せば』とけしかければ簡単だったろう」これは全員が持っている認識の確認であり過去の話だ。そこで岡倉が議論を今後に進めた。
「問題は日本政府がどう動くかですね。首相がブッシュの盟友を気取って自衛隊を戦闘地域に派遣するようなことをすれば日本は未来永劫に悪事に加担した凶悪犯になってしまう」「日本には憲法の制約があるから戦闘中の派遣は後方支援でも難しいだろう」岡倉の問題提起を杉本が否定する。しかし、倉田が別の見解を口にした。
「国務省のアーミ・テージ副長官は外務官僚に『ブーツ・オン・ザ・グランド(靴であの地面に立て)』と命じたらしいから外務省がその方向で進めると危ないな」「奴らが机上で決めたことで危険な場所へ行くのは自衛隊だ」外務省職員は強面(こわもて)の副長官の発言だけに「アメリカがイラクに侵攻する時、陸上自衛隊も参加させろ」と言う命令と受け取り、平和憲法の下で何ができるのかに苦慮しているらしいが、自衛官たちはその人物像を知っているため日本の立場を理解した上での要望と理解している。つまり海上における給油活動で作戦に参加し、戦闘終結後にPKOと同様の民生協力をすれば良いと言うのが一致した意見だった。
「まあ、幕僚長もアメリカの開戦への工作が虚構であることは十分認識しておられるから、首相が毎度の軽いノリで命じても腹を切る覚悟で拒否させるだろう」工藤の言葉に納得したいのが同じ自衛官としての真情だが、岡倉はここに来てからそうではない現実を何度も見ている。そんな軽いノリでアフリカに派遣された自衛官が正当な戦闘行為を行ったことで刑事裁判に掛けられており、その自衛官が幹部候補生の同期であることは最近になって知った。
「アイツのことだから『死刑になるなら切腹で』なんて言ってないよな」その妻も同期であり、現在はCGSに留学していることを思い出したが、自分には何もできないことを噛み締めた。
  1. 2017/01/30(月) 10:01:25|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ718

翌日も佳織と志織が面会に来た。佳織はCGSで2年間も目黒基地の幹部学校に入校していた癖に東京の土地勘に乏しく、アメリカからホテルを予約するのにも小菅の位置が判らず、結局、防衛庁共済組合が経営しているグランドヒル市ヶ谷に連絡したらしい。
「市ヶ谷駐屯地の傍だからラッパが聞けるかと思ったけどあかんかったわァ」2日目となると会話も少しは気軽になる。気軽になると関西弁が出るのは我が家の慣習だ。
「志織、昨日はどこかに連れて行ってもらったか」「うん、ズーとミュージアムへいったよ」どうやら志織は動物園と博物館と言う日本語の単語を忘れてしまったようだ。
「パンダは見たかい」「夏休み中だから満員で、素通りみたいなもんやった。その分、科学博物館で剥製をみたけどね」代わりに応えた佳織は肝心なことを忘れているようなので思い出させることにした。
「パンダだったら兵庫に帰る時、和歌山まで足を延ばせば可愛い子パンダがゾロゾロいるだろう」「アドベンチャー・ワールドかァ。でも貴方に会いたいし・・・」パンダが見られると聞けば志織が興味を示すかと思ったが、意外にも佳織と顔を見合せて黙っている。そこで私から命令した。
「折角、帰国したんだからお盆の墓参りに行かなくちゃあ行かんぞ」「はい、帰りも成田だから伊丹へは日帰りで往復します」どうやら佳織は本当に私に会うためだけに帰国したようだ。両親だけで話が決まっていくのを志織が少し不満そうな顔をしているので話を振ってみた。
「志織、日本で行きたいところはないのか」「私、お兄ちゃんに会いたい」これは予想できていたが触れて欲しくはない希望だった。親権も譲り渡してしまった今では淳之介と志織の関係も細く薄くなっている。私はガラス越しに佳織と目で話し合った後、それを説明した。
「淳之介はもうウチの子供じゃあなくなったんだ。志織のお兄ちゃんなのは変わらないけど、会いに行くのは難しいな」「お父さんがここに入っているからなの」「うーん、それもあるけど、お兄ちゃんが自分からそうしたいって言ったんだ」私の説明に志織は下を向いた。そうすると顔がガラスの枠よりも下になり表情が見えなくなった。
「貴方は淳之介に手紙を書いていないの」「ううん、アイツがワシを捨てるって決断したんだから、その意志を尊重するためにもワシからは何もしないのが筋だ」これは家族の束縛と大嫌いな土地を捨てるため沖縄まで逃れながら父親の命令で帰省を余儀なくされた私自身の経験から導き出した結論だった。ましてや父親が刑事裁判の被告人になっていては接触することで迷惑がかかるのは間違いないはずだ。その時、突然のように佳織の手がモールスを打ち出した。
「― ―・― ―(あ)・―・(な)―・(た)・・― ―(の)両親が新聞とテレビでインタビューに応じました」自分の事件や裁判を報じている新聞や雑誌は読めないので、これは弁護士が見せてくれない限り知り得ない情報だ。牧野弁護士が見せなかったと言うことは余程、酷い内容だったのだろう。私も手を組み、人差し指で交信を始めた。
「・・―・・(と)・・(濁点)・―・―・(ん)・―・(な)内容だ?」「貴方に罪を認めて償って欲しいと訴えていました」父親の独り善がりには何度も煮え湯を飲まさせられているが、これでは我々が裁判で目指している方向とは逆の意見を親が表明したことになる。検察側が裁判を断念しないのは、これを世論操作に利用することを画策しているからなのかも知れない。しかし、モールスでの会話を記録係に知られる訳にはいかないのであえて反応はしなかった。
「貴方、ストロー・キスしましょう」そう言って佳織はセカンド・バックから取り出した短めのストローを会話用の穴から差し込んだ。そして2人で両端をくわえた。ところが2人が同時に息を吹き込んでしまったためストローをくわえた口から「プッ」と空気が漏れ、それを見て志織が笑い出した、やはり子供の笑顔が親にとっては万能薬のようだ。
  1. 2017/01/29(日) 10:05:46|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

1月29日・博多の名僧・七里恒順和上が遷化した。

明治33年の明日1月29日に博多で浄土真宗の門風を宣揚した名僧・七里恒順和上が遷化しました。
野僧は春日と防府で勤務していた頃、博多の明光寺僧堂に参禅していましたが、この地域では曹洞宗の専門僧堂である明光寺よりも臨済宗の聖福寺や浄土真宗の萬行寺の方が有名でした。
参考までに福岡県の県庁所在地である福岡市は武士の居住区である福岡と庶民の居住区である博多に分かれ、JRの駅名は「博多」ですが実際は福岡に位置し、逆に福岡空港は博多です。
この博多の名刹・聖福寺は栄西(ようさい)禅師が南宋から帰国して創建した日本最初の禅寺であり、藩主・黒田家の菩提寺として堂宇が拡張・整備され、とぼけた禅画でも有名な仙崖義梵禅師が住持したことで全国的に知られています。一方、萬行寺は蓮如聖人の命を受けて高弟・空性=俗名・七里隼人が普賢堂に開いた念佛道場が前身で、江戸時代になって櫛田神社に隣接する現在地に移転しました。そして聖福寺に仙崖禅師があるように萬行寺の名を高めたのが七里恒順和上です。
恒順和上は天保6年7月11日に越後・新潟の明鏡寺で生まれ、11歳で得度を受け、14歳で京に上って僧朗勧学に師事しました。その後は西日本各地の高僧の下での長い修行・学究を続け、幕末の混乱の中、30歳で萬行寺の七里家の養子に迎えられて住職に就任しました。
恒順和上が最初に行ったことは境内に「甘露窟」と名づけた私塾を開設し、廃佛毀釋の凶風に動揺する若い僧侶たちを集めて自分が先達たちから学びとってきた浄土真宗の真髄を伝授することでした。
その名声はたちどころに全国に響き渡り、西日本だけでなく全国各地から多くの僧侶たちが萬行寺に集まり、やがて「法を聞くなら博多の萬行寺、佛様を拜むなら京都の本願寺」と言われるまでになったのです。
余談ながら大音声の念佛で有名な浄土真宗高田派の傑僧・村田静照和上もこの私塾で学んでいます。
次に取り組んだのは社会の混乱の中で置き去りにされていた孤児の救済で、境内に「龍華孤児院」を開き、捨て子に限らず親が育てられない子供たちも積極的に受け入れて、例え引き取り手が見つからなくても衣食住を与え、学問を教え、立派に育てて社会に送り出したのです。
さらに刑務所の教誨師として受刑者の精神を安静にさせるよう教え諭し、死刑囚の迷いを除いて静かに刑に服するよう導きました。
そんな萬行寺は和上が本山の役職に就いて不在にしている時、火災で全焼してしまいましたが、和上が打ってきた電報は「人と宝物が無事なれば焼けても良し。心配に及ばず、私もすぐに帰る」と言うものだったそうです。
今も博多の地に伝わる恒順和上の人柄がにじみ出た逸話があります。それは恒順和上が萬行寺に入って間もない頃、3人組の押し込み強盗が侵入した時の実話です。
強盗たちは刃物を突きつけ「金を出せ」と脅しました。すると恒順和上は平然と手文庫を開けて中に在った43両を見せたので、強盗の1人が鷲掴みにして逃げようとしたのですが、その背中に「その内の3両は明日人に渡す約束があるから、それだけは置いて行ってくれ」と声をかけました。
強盗は仕方なく3両を置き、逃げようとすると今度は「お前たちは金子をもらいながら一言の礼も云わぬのは無礼だと思わないか」と叱ったので、強盗たちは頭を下げてから走り去ったのです。
それから数年後、恒順和上は役所から呼び出されました。それは「捕縛された強盗が以前、萬行寺に押し入って金を奪ったことを自白しているが間違いないか」と言う確認だったのです。
しかし、恒順和上は「それは彼らが奪い取ったのではなく拙僧がやったのだ。その証拠に彼らは厚くお礼を述べて立ち去った」と否定しました。
この証言もあって強盗たちは軽い罪ですぐに釈放されたそうですが、「あの時ほど空恐ろしい思いをしたことはない」と語り、正業に就いたそうです。
今の浄土真宗の坊さんは門徒さんに大切にされているためか人の好い世間知らずが多いようですが、常に衆生に寄り添ってきた先達たちの行跡(あんり)を学び、社会の歪みを自ら矯正する気概を発揮してもらいたいものです。「南無阿弥陀佛」
  1. 2017/01/28(土) 08:42:26|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ717

「モリヤ被告人、待ちに待った面会だよ」ドアの小窓から声を掛けられて私は読みかけていた有斐閣の法令解説書「刑法」を閉じた。
「今度こそ奥さんと娘さんみたいだね」「はい」「娘さんを拘置所に来させても大丈夫なのかい」「度胸が据わった子だから大丈夫でしょう」本来、面会室までの廊下での会話は禁止されているのだが、今回は刑務官の方から話しかけてきたので不問に付せられるはずだ。
「貴方」「ダディ」ドアの正面のガラスの向こうに愛おしい妻と娘が立っていた。佳織は多少やつれたようだが、セーラー服を着た志織は半年で随分と大人びて見える。
「帰ってこられなくてごめんなさい」佳織は椅子に座るとガラスに額を押しつけて詫びた。
「こちらこそ、入校中の君に余計な負担をかけるようなことになって申し訳なく思っているよ」「何を言ってるの夫婦じゃない・・・」私の返事に佳織は両目から涙をあふれさせた。
「志織、元気か」「イエス・・・元気だよ」「学校は楽しいか」「・・・楽しいけど戦争が始まってから嫌なこともあるよ」志織の顔を見ていると頭の中で日本語を組み立てているのが判る。アメリカの小学校の1年間で、すでに英語で思考するようになっているようだ。
「ダディ、オランダに行ってきたよ」「その服で行ったんだろう」「イエス・・・うん」志織は座高が低いので椅子に座ると胸から上しか見えない。そこで部屋の奥に立って全身を見せるようにリクエストした。
「ふーん、日本の中学生みたいな服だな」「私の神戸のインターナショナル・スクールの制服をママさんが送ってくれたんや」「それじゃあ、君のお下がりかァ」志織は母親似なので写真も見たことがない佳織の中学生時代を想像することができた。
「貴方、私を見詰めて」志織が隣に座ったところで突然、佳織がささやいた。言葉通りに見詰めると佳織の指が小刻みに上下し始める。それはモールスだった。
「貴方が救ったオランダ軍の大尉と軍曹の家族に会いました。何かできることはないかと問われたので、貴方の裁判が国際的に非常識であることを日本国民に訴えて欲しいと答えました。具体的に何をするかはこれからの相談です」会話を記録している刑務官の席からは佳織の手元は見えないので単に見つめ合っているようにしか見えないだろう。そこで私も肘をついて胸の前で組んだ両手の人差し指で返信をした。
「裁判は完全に政治目的になっている。検察は有罪にすることが難しいと考えたのか引き延ばしに走っている。長期戦になりそうだ」私の説明を読んで佳織は深く溜め息をついた。黙って見詰め合っている両親の隣で志織が鞄から取り出したパックのジュースを飲み始めた。
「貴方、暇で仕方ないって手紙に書いてあったけど時間つぶしの材料を上げましょうか」「今は弁護士さんから課題をもらって毎日大忙しだよ」私の返事に佳織は戸惑った顔をする。
「弁護士さんが司法試験を受けろって予想問題集をくれたんだ。毎日、受験生みたいな生活を送っているよ」「へーッ、私の卒論のテーマを教えて頑張ってもらうつもりだったのにな」「それはそれで引き受けるけど、ここでは資料が手に入らないから期待に応えられそうもないよ。大体、防衛秘密は大丈夫か」私の質問に佳織は肩をすくめて舌を出した。
「ダディ、ジュース飲む」「うん、この穴にストローを差してくれ」志織の提案に私は微笑んでうなずいた。それを見て佳織は志織から受け取ったパックジュースのストローをガラスの会話用の穴に差し込み、口にくわえて愛娘との間接キッスになった。すると佳織がパックからストローを抜き自分の口にくわえた。
「息を吹き込んで」「うん」ユックリと息を吹き込むと佳織は目を閉じ感動したような顔になる。
「貴方の吐息・・・貴方もどうぞ」今度は口の中に佳織の体温と匂いを感じた。こんな光景を刑務官はどのように記録したのだろうか。おそらく前例はないはずだ。
あ・星野飛鳥イメージ画像
  1. 2017/01/28(土) 08:38:25|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

1月27日・詩人で童謡作家の野口雨情の命日

昭和20年の明日1月20日は北原白秋先生、西条八十先生と共に童謡界の3大詩人と謳われている野口雨情先生の命日です。
野口先生は明治15(1882)年に茨城県多賀郡の廻船問屋を営む富豪の長男として生まれ、何不自由なく我がまま放題に育てられました。早稲田大学では富豪の息子なのに社会主義に染まりましたが、恩師である坪内逍遥から「どうか思い切ってローカルカラーを主とした歌か短篇に力を入れたし」との手紙をもらったことで大学を1年で中退してしまい民謡作家を目指して専門雑誌に投稿を始めました。この時代は手拍子や笛・太鼓と口伝えで唄い継がれていた民謡や童唄を5線譜に採録すると共に地方に残る伝説や逸話を元に新たなご当地ソングとして作詞作曲されることが盛んに行われていたので流行の先端を行く仕事ではありました。
その後は父親が事業に失敗したまま死没したため茨木へ帰って家督を継ぎますが、ボンボン育ちの野口先生に多大の借財を返却しながら家業を再建する才覚があるはずはなく、地元の名士の娘と結婚して援助を受けることになったのです。この頃、自費(と言っても妻の実家からの援助)で民謡詩集「枯草」を発表していますが全く売れませんでした。
ところが我がまま放題に育った野口先生は妻の実家の援助を受けながらの肩身の狭い生活は我慢できず、長男を産んだばかりの妻を残して単身樺太に渡りますがここでも事業の失敗を繰り返した上、有り金を芸者に持ち逃げされたことで北海道に移って「小樽日報」に入社して石川啄木と知り合います。ところがそれも長続きせず6つの新聞社を渡り歩いた後、一度は実家に戻りますが再び逃げるように東京へ向かい、詩人になることを宣言しました。結局、詩人=作詞家として成功を収めたのは民謡として発表した「枯れすすき」が歌謡曲「船頭小唄」として大ヒットし、人気女優・栗原すみ子さん主演で映画化されたことでした。
野口先生の作品としては本居長世先生が作曲した「青い眼の人形」「赤い靴」「七つの子」「十五夜お月さん」「俵はころころ」、中山晋平先生の「シャボン玉」「證城寺の狸囃」「雨降りお月」「黄金虫」「あの町この町」など子供の頃から愛唱し、今でも無意識に口から出る名曲ばかりです。
烏が夕方の空を鳴きながら飛んで行くと思わず「カラス何故鳴くの カラスは山に可愛い7つの子があるからよ 可愛い 可愛いとカラスは鳴くの 可愛い可愛いと鳴くんだよ 山の古巣へ 来て見てご覧 丸い目をした好い子だよ」とフルコーラスで唄ってしまいます。ただ、この歌詞は文字すれば理解できますが、耳で「ヤマノフールスヘ」と聞いても「フールス」を外国語かと勘違いする子供が少なからずいました。
「青い目の人形」は昭和2(1927)年に日米親善の証に交換された人形使節12,739体を歓迎した歌ですが、第2次世界大戦が勃発するとその大半が処分され、中には軍事教練の一環として子供たちに竹槍で突かれてボロボロにされた人形も少なからずあったようです。確認されている現存数は334体に過ぎません。アメリカでも日本から送られた市松人形を子供の目に触れないように撤去しましたが、今でも倉庫の奥から出てくることがあるそうです。
「赤い靴」については社会主義運動の実践事業として北海道に渡った夫婦が困窮な生活から1人娘をアメリカ人牧師夫妻に預けたのですが、帰国する時には娘が結核に冒されていたため孤児院に残し、そこで死んでしまった実話をもとに作詞されたと言われています(近年、異説が出ている)。つまり「横浜の波止場から船に乗って異人さんのお国に行くんだろう」と言う2番以降は娘の死を知らなかった母親の願いを唄っているのです。しかし、幾ら外国生活が長くなっても3番のように目の色は変わりません。
「シャボン玉」は最初の妻(2度結婚している)が産んだ娘が生後1週間で亡くなったことを唄ったと言われます。「シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで 壊れて消えた」は儚かった娘のことなのでしょう。それを知るとシャボン玉をしながらウキウキと唄う気分にはなりません。 
現在、野僧が一番好きなのは「證城寺の狸囃」です。これは千葉県木更津市の證証寺の伝説を元に作詞したのですが、久保田宵二さんが福岡県浮羽市の大生寺の住職の修行時代の逸話を元に作詞し、服部良一さんが作曲した「山寺の和尚さん」と共に坊さんが主人公なので嬉しくなってしまいます。
野口先生は「書いた人の名が忘れられ、その詩だけが残って100年も200年も歌い継がれていった時、初めてその作品が本物になるんです」と言っています。しかし、現在の学校教育は軽薄な流行を追うばかりなのでその願いが果たせるかは微妙です。
  1. 2017/01/27(金) 09:38:25|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ716

「モリヤ被告人、面会だ」8月のある日、牧野弁護士から渡された司法試験の問題集に取り組んでいると刑務官がドアの小窓から声をかけてきた。
「えッ、予定よりも早いですが」佳織からの手紙には「オランダで勲章を受け取ってアメリカに戻り、それから帰国する」と書いてあった。そうなると3日ほど早いのだ。
「面会者は男が2人みたいだ」拘置所ではゲートの受付で手続きすると収監者に準備をさせるため連絡が入る。と言っても冷房どころか扇風機もない収監房では短パンにTシャツが普通で、私は中村3曹に送ってもらった半袖半ズボンの作務衣=甚平なので準備は完了だ。
廊下を歩いて面会室の前に着くと記録係の刑務官がドアを開けた。するとガラスの向こうには小柄な茶山元3佐と巨漢の小椋1尉の凸凹コンビが座っていた。
「おう、モリヤくん、元気かね」茶山元3佐はにこやかに声を掛けてくれたが、小椋1尉は異様に緊張している。今回は小椋1尉の夏期休暇に合わせて茶山元3佐が上京し、東京駅で待ち合わせて小菅まで来てくれたらしい。
「はい、B級戦犯死刑囚の追体験を満喫していますよ」私のブラック・ジョークに茶山元3佐は黙ってうなずいたが、小椋1尉は完全に動転した。
「拘置所にも死刑囚がいるのか」「はい、死刑囚は刑の執行が罪を償うことですから刑務所ではなくここで順番を待っています」私の説明にその刑を執行している刑務官は妙な息遣いをした。
「それじゃあ、死んだ人間の幽霊なんか出るだろう」「出ますよ。夜中に巡回なのか幽霊なのか判らない人影が廊下を歩き回っています。足音がしなければ幽霊なので、お経を唱えると嬉しそうに挨拶して行きます」小椋1尉は意外にその手の話が苦手なようで完全に目が泳いでしまった。その時、2人の背後に立っている人影に気がついた。
「あッ、後ろに1人立っています」そう言って手を合わせると茶山元3佐は興味津々と言う顔で振り返り、小椋1尉は大きな身体を小さく縮み上がらせて固まってしまった。
「うーん、私には見えないが」「あれは身寄りがない死刑囚の霊でしょう。拘置所の中でも教誨師の坊さんが供養していますが、お盆の時期なので帰ってきても行き先がないんですよ」すると後ろで会話内容を記録している刑務官が「宗教の話題は控えるように」と声をかけた。
「申し訳ないけど我々は拘置所なんて来たことがないから何を差し入れられるかも判らないので手ぶらで来てしまったんだ」「まあ、外出禁止の営内生活みたいなものですから、なければないで何とかなりますが、許可された範囲で欲しい物を自分で買うことも可能です」隊員指導で間接的社会経験を積んでいる2人だが塀の中の生活は未体験なので、私の説明にカルチャーショックを受けているようだ。
「そう言えばおやつにビスケットを注文すると何故か春日井の汁粉サンドが届くんですよ」「春日井のねェ」拘置所内の裏話に以前は春日井駐屯地にいた小椋1尉が反応した。これはクッキーを注文しても同じ物が届き以前からの謎なのだ。
「それにしてもここでの話題を家族への土産話にする訳にはいかないな」これから愛妻が待つ自宅に帰る小椋1尉が独り言のように呟いた。確かに拘置所で刑事被告人に会ってきたことを告げられても奥さんや子供は何と答えれば良いのか困るだろう。そこで茶化すことにした。
「網走番外地なら映画になりましたがね。『私は貝になりたい』は巣鴨プリズンですよ」私の軽口に小椋1尉は困り果てた顔になった。すると茶山元3佐が腕時計を見て時間を確認し、小椋1尉を促して立ち上がった。
「最後にモリヤくんへの応援歌だ。1、2、3」「伊吹の峰の雲晴れて 朝日に匂う桜花 祖国の平和守るべく ここに集いし健男児 今沸き起こる雄叫びは 我ら第6施設群」確かにカンボジアを思い出して元気が出る。2人の熱唱に刑務官は注意を忘れて呆れていた。
  1. 2017/01/27(金) 09:37:20|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ715

授与式、懇談会、会食を終えてホテルに戻るとCGSの同期であるオランダ軍のぺイルマン少佐が待っていた。少佐の後ろには佳織と同世代の女性と年配の女性、そして子供たちがいる。
「メジャー・モリヤ、おめでとう」「ホロート・ぺイルマン、ありがとう」佳織は覚えてきたばかりのオランダ語の階級で答えた。それを聞いて少佐は「ニヤリ」と笑った。
「こちらは君の夫が救ったキャプテイン・モールスの妻と母親、それからサージャンムト(オランダ語の軍曹)・ノールデルメールの家族だ」本来は階級停止中のモールスを「大尉」と呼ぶのは誤りなのだが、少佐も家族に配慮したようだ。
「ホロート・モリヤ、貴方の夫のおかげで息子は命を落とさずにすみました」「私は喪服を着ないですみました」やはり挨拶は階級順、年齢順らしく、モールスの母、妻の順で佳織の手を取り、かなり癖がある英語で礼を言った。ただ2人とも佳織の階級がモールスよりも上であることに違和感(劣等感?)を抱いているのか握手しながら肩の階級章を注視していた。続くノールデルメール軍曹の家族は英語が不得手のようで少佐が通訳した。
「メジャー、旦那さんにお礼を伝えて下さい。貴方のおかげで子供たちは父親を失わずにすみましたと」軍曹の妻はそう言って3人の子供を前に出したが、子供たちは挨拶よりも佳織の横に立っている志織に声をかけた。しかし、オランダ語なので会話は成立しなかった。
「ホロート・モリヤ、貴方の夫は現在、裁判中と聞いていますがどのような罪なのですか」ホテルのラウンジに移動して茶話会になると早速、モールスの母親が質問してきた。このあまりに率直な質問に少佐は困惑した顔をしたが佳織は表情を変えることなく答えた。
「殺人、私戦の予備陰謀、中立命令違背の刑法犯罪です」「どうして・・・」モールスの妻は驚いたように呟きかけて絶句した。ノールデルメールの妻は少佐に目で通訳を求めたが、気づかない振りをされてしまった。
「日本では第2次世界大戦の反省から再び戦争に参加することは絶対に許されないのです。だから法律に戦時規定がないので、通常の戦闘行為も刑法で裁かれることになります」「ならば軍を海外に派遣していけませんね」モールスの母親の言葉に妻はうなずいたが、佳織と少佐は顔を見合せて返事をしなかった。
「貴方の夫はそれを承知で私たちの夫のために戦闘を行ったんですね」「夫を銃で狙っていた男を射殺したと聞いています」少佐がここで突然、通訳を始めたため子供たちの相手をしていたノールデルメールの妻は驚いて振り返った。
「私たちに何かできることはありませんか」「息子は現在、懲罰入校中なので何もできませんが、代わりに私たちが行動したいと思います」「はい、私も」モールス姑嫁の申し出にノールデルメールの妻も同調した。ノールデルメール軍曹も間もなく帰国するはずだがここは独断で良いのだろう。
「ありがとうございます。今、必要なことは夫の裁判が国際的に異常であることを日本の世論に訴えることです。それで告発した野党の党首への支持が下落すれば、政治的圧力を受けることがなくなった裁判所も常識的な結論を出せるでしょう」佳織の冷静な見解に先ほどまで息子よりも上位であることにあからさまな違和感を示していた姑嫁も納得したようにうなずいた。ここで少佐が茶話会本来の雑談に戻した。
「メジャー、これからの予定は」「明日の午後のKLMで一度アメリカへ戻って、ワシントンで勲章の報告を終えてから日本へ帰ります」本当はアムステルダムから直接、日本へ帰りたいのだがそこは組織の一員、管理職の辛いところだ。
「それでは今から街を散策しましょう」「ミッフィーを探しながらね」日蘭3人の母親の提案に子供たちは歓声を上げ、男性1人の少佐は少し困ったようにうなずいた。
3等陸佐3等陸佐
  1. 2017/01/26(木) 08:40:06|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

俳優・松方弘樹さんの逝去を悼む。

昭和の俳優たちの訃報が続きますが、今度は1月21日に数多くの時代劇と任侠(=ヤクザ)映画に出演して独特の存在感を発揮していた松方弘樹さんがなくなりました。それにしても癌とは言え74歳は早いでしょう。
野僧が松方弘樹さんの出演作品を初めて見たのはNHKの大河ドラマ「勝海舟」でした。ところが当初の主演だった渡哲也さんが病気で降板して、途中から松方弘樹さんに交代した途端、父親が(高倉健さん、菅原文太さん、梅宮辰夫さんと同様に)「ヤクザ映画に出ている役者だから教育上好ましくない」と視聴を禁止したため、土曜日に中学校から半日で帰って昼の再放送を見る羽目になりました。
それにしても父親は始まっていた歴史ドラマが「主演が変わったから」と言って内容が変わるとでも思っていたのでしょうか。おそらく予備知識不足で理解ができず、止める口実に利用しただけだと思います。
一方、超歴史マニアの中学生だった野僧は幕末の偉人としては小栗忠順さまの次に好きな人物だったため、かなり真剣に見たのですが、岡崎の小学校では同級生と大河ドラマ談議を楽しめたのにド田舎の中学校では相手がいませんでした。
ただ小学生時代に熟読していた偉人伝と氷川清話には貧乏旗本の息子で、父親は喧嘩三昧の無頼な毎日を送る極貧生活の少年時代を送っていたとありましたから、少し暗く、育ちの良い堅物に見える渡哲也さんよりもイメージが合っていたのは確かでした。大河ドラマでは「八重の桜」で京都の商人の役で再会しましたが、やはり気風(きっぷ)が良い江戸っ子の方が似合うようです。
野僧は大河ドラマでも若手俳優が主演する学芸会は嫌いなので徳川家康公を演じた「天地人」は見ていません。しかし、TBSの正月大型時代劇の「徳川家康」のスケベ親父振りは最高でしたから見るべきだったのかも知れません。と言ってもNHKがあの人物描写を許すはずがありませんが。
高校時代は後輩の女子と見に行った「野性の証明」の特殊工作隊の指揮官・皆川2佐でした。高倉健さんの味沢1曹との激闘は高校生には迫力満点でしたが、自分が自衛官になって考えると2佐があそこまで激しい戦闘を実施できる体力を維持できているかは疑問です。維持できているから特殊工作隊の指揮官に抜擢されたと言われればそこまでですけど。2佐=中佐と言えば「2・26」の伊集院中佐も渋かったです。
そんな自衛隊に入ってからは時代劇ファンの爺さん(定年目前の単身赴任者)の部屋のテレビや任侠映画ファンの先輩に連れられて行った映画館で会うことになりましたが、「修羅の群れ」の刺青は本当に迫力があり感心したものの、帰りに寄ったサウナで会った本物のヤクザ屋さんの刺青は妙にかすれていて(あの頃は刺青に関する入浴制限はなく腕に刺青を彫っている海兵隊の兵士なども入っていた)、「松方さんは肌が綺麗なのかなァ」「描く人が上手いんでしょう」と先輩と話し合ったものです。
また野僧は「人生劇場」が上映された時、アラスカ人の彼女を「地元出身の作家(尾崎士郎さん)の文芸作品だ」と言って連れて行ったのですが、濃厚な濡れ場の連続で「これはポルノなの」と激怒されてしまいました。確かに中井貴恵さんを相手に対面座位や後背位(風間杜夫さんは正常位)で責めまくる濡れ場は若かった自分自身を隠すのに困りました。
そんな中、仁科明子さんが「理想の花嫁ナンバー1」だった頃のファンだった親父がいて、松方さんの映画の話をしていると「アイツは純情可憐だった仁科明子さんを犯し、愛人にした許し難い奴だ」と激怒したのです。そこで「本当に純情な芸能人がいるはずない」と反論するとその親父は「はつ恋」と言う映画のビデオを借りてきて見せてくれたのですが、その映画の中の仁科さんの胸の乳頭はピンク色で確かに性交渉は未体験のようでした。しかし、その場面を見ながら「この乳をアイツは揉みやがったんだ」「乳首を噛んだに違いない」と興奮されてもどうしようもありませんでした。
ただ現役時代、何人も本職のヤクザ屋さんと知り合いましたが、金バッジ・クラスでは松方さんや高倉さんタイプの美男子はおらず、目は小さいか細く顎が張り、体系はずんぐりタイプが多かったようです。
松方さんは萩市で行われたトローリングの大会で2008年と2009年に出場しており、400キロ弱の大物の鮪を釣り上げて優勝しているため人気があります。その割に幕末ドラマで山口出身のテロリストは演じません(西郷隆永はTBSの正月大型時代劇「坂本龍馬」で演じている)。
それにしても実弟の目黒祐樹さんと顔立ちはよく似ていますがインタビューを聞いていても性格は真逆のようで、そのため役柄も真反対のキャラクターになっているようです。渡哲也さん渡瀬恒彦さん兄弟の方が顔は似てなくても性格は近いかも知れません。ご冥福を祈ります。合掌
  1. 2017/01/25(水) 09:05:57|
  2. 追悼・告別・永訣文
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ714

勲章授与式が終わると執務室の隣の小会議室でマスコミ関係者を交えた懇談会になり、女性士官が志織を連れ出してくれた。これなら雑談の中の質疑応答であって記者会見やインタビューではないので佳織が意見を発表することにはならないはずだ。おそらくオランダ大使館付防衛駐在官・井上1佐が申し入れてくれたのだろう。
「本日は北キボールにおいて自らの危険を顧みず、我が軍の士官と下士官の命を救い、敵を倒してくれた勇敢なる日本陸軍士官、キャプテイン(大尉・オランダ語も同じ単語)・モリヤに感謝と尊敬の気持ちを表するため外国軍貢献感謝勲章を贈呈した。しかし、この勲章を受け取ったのは妻のホロート(少佐)・モリヤだ。何故ならャプテイン・モリヤは刑法犯罪で告発されて現在は係争中なのだ。私はこの場を借りて正当に戦闘を遂行した士官を刑法犯罪で告発する日本の政治風土に対して強く遺憾の意を示したい」参謀長は外交マナーを破り、敢えて日本の政治風土を批判した。やはりオランダは問題の当事国でもあり、裁判についてはアメリカ以上の関心を持って報道しているようだ。そのため記者たちも揃ってうなずいた。
「ホロート・モリヤ、英語なら大丈夫ですか」「はい、どうぞ」佳織の話し慣れた英語の返事に記者たちは安心した顔で質問を始めた。
「日本では通常の戦闘行為で敵を殺傷することが刑法犯罪になるんですか」「日本政府の公式な判断は出ていないのですが、野党の党首が刑事告発したことで裁判になっています」最初の質問には井上1佐が答えた。どうやら自分を盾にして佳織を守ってくれるつもりのようだ。
「若し、有罪になればオランダ軍が英雄的軍人である貴方の夫を牢に送ったことになりますね。それでもオランダ軍を許せますか」「夫が裁判に掛けられたのは日本の特殊事情ですから、オランダ軍を非難するつもりはありません」佳織自身の返事を聞いて記者たちは顔を見合わせた。
「ところで今日はサムライ・サーベル(日本刀)を提げていましたが、あれが日本の儀礼用の軍刀なんですか」「あれは夫の護り刀です。今回は夫の代わりに連れてきました」「サムライ・スピリッツ(武士の魂)ですね」「はい」この答えに列席者の視線は後ろの棚の上に寝かせてある軍刀に注がれた。この軍刀は陸軍仕様ではなく海軍陸戦隊の拵えなのだ。
「ところで今朝も元捕虜たちが抗議のデモを行っていましたが、貴女はマレーシア、インドネシアにおける日本軍捕虜の問題をどう考えますか」この質問は明らかに政治問題であり、国民感情に直接関わるだけに答えが難しい。しかし、佳織は毅然として答えた。
「あくまでも私個人の意見でよろしいですか」「もちろん」佳織は政府問題化させないために予防線を張ってから説明を始めた。
「インドネシアでは人道主義者の今村均大将の指導の下、オランダ軍捕虜に対して極めて穏健な処遇を与えたとされています。捕虜の処遇が悪化したのは日本軍が制海・制空権を奪われて物資の補給が滞ってからで、その時は日本軍の将兵も同じように飢餓状態に陥りました。当時のロー・オブ・ウォー(戦争法)では現地の将兵と同じ糧食であれば栄養不足でも合法でした」「つまり元捕虜たちの主張は間違っていると言うのですね」佳織の理路整然とした答えに記者の1人が悪意ある質問を返した。
「間違いではなく認識不足だと言っています。現在は赤十字から提供される糧食を捕虜に与えますから現地軍が栄養失調で倒れても捕虜は元気ですが、当時は対策がなかったのです」「これはあくまでも懇談会での個人的意見です」佳織の発言を井上1佐が補足した。
「当時の国際法理と現地軍の状況を考えればオランダ軍の捕虜が栄養失調になっても仕方なかった。日本軍を飢餓状態に追いやったのは我が連合軍なのだから」さらに参謀長もあえて批判の対象になる発言をした。これでは記者たちの矛先も陸軍のトップに向けざるを得ない。結局、記事にはしないだろう。モリヤ佳織3佐は日本とオランダの高官たちに守られたのだ。
  1. 2017/01/25(水) 09:03:24|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

1月25日・日本最低気温が記録された。

明治35(1902年の明日1月25日に北海道旭川市で日本の最低気温・零下41・0度が記録されました。ただし、これは気象庁の測候所が測定したものに限定された公式記録で、昭和53年の同じ1月25日には近傍の北海道上川の母子里にある北海道大学の演習林で零下41・2度が測定されています。
ついでに言えば北海道の最高峰・大雪山系旭岳の山頂なら海抜2291メートルありますから、計算上は100メートル高くなるごとに気温は0・8度下がるので少なくとも18度半は低くなりますが、こちらも気象庁の器材どころか登っていた人物の記録もありませんので不明です。
ただし、この日に八甲田山に入っていた青森の歩兵第5連隊の第2大隊が集団遭難しましたから、若し旭岳に登っていれば命はなかったでしょう。
また100メートルごとに0.8度下がる計算で言えば日本で1番高く、しかも気象庁の測候所があった富士山頂が気になりますが、こちらは昭和56(1981)年の2月27日に零下38・0度を観測したのが最低記録のようです。
これも海抜3776メートルから計算すると麓にある駿河湾の海抜0メートルでも零下4度半になりますが、実際は強風によって暖気が吹き飛ばされることが気温低下の主因なのでここまでは下がっていないはずです。
野僧が経験した最低気温は青森県車力村での零下30度です。車力では愚息2が幼稚園児になって暇ができた同居人が出歩くのに車が必要なため朝夕に2キロの道を徒歩通勤していました(春から秋は自転車)。
零下30度ともなると同居人の暖房嫌いで使えなかった官舎の室内では、薬缶に入れてあった水が凍っているのでガスで沸かすのも溶かすところから始めることになりました。
屋外では手を握り開きしながら血行を維持しなければならず、鼻息が凍って霜が顎に降り落ち、鼻水が出ようものなら氷柱(つらら)になるので鼻の下と顎には髭を生やしていましたが、最終的には目と鼻と口だけを出した毛糸製の黒いマスクを買い、被っていたのです。その格好で暗くなった雪道を歩いて帰ると巡察に回ってきたジープのヘッドライトに照らされて、助手席で当直幹部が恐怖に固まっていたものです。
その意味では連日のように八甲田山の雪中行軍の模擬体験をしていたことになりますが、野僧は部下を全員無事に連れ帰った弘前の歩兵第31連隊の福島泰蔵大尉を尊敬していたので、あやかるならこちらでした。
一方、愚息1は旭川よりも北の名寄に駐屯する日本の最前線の防壁と謳われる陸上自衛隊第4普通科連隊で約8年間勤務しており、冬季はバイアスロンの強化合宿に入って同じく零下30度、風速20メートルの地吹雪の中をノルディックで20キロ滑っていたそうです。
愚息1は冬季オリンピックの代表選手が居並ぶ連隊の大会で毎年2位になっており、1位の陸曹(=オリンピックの常連)と共にソチ・オリンピックの強化選手に入る予定だったのですが、当時の北部方面総監が自衛隊生徒出身の防衛大学校卒で、陸曹の人数削減の対策として愚息たち陸曹候補士を一律に退職させる暴挙を行ったため、北の大地で流した汗と涙はダイアモンドダストと消えました。
それにしても過去の気象データを見ればこの時期に記録的な大寒波が襲来することは一目瞭然であり、毎年のようにセンター試験が豪雪に見舞われるのはこの日程を決めた文部科学省の官僚の失策以外の何物でもありません。
東京なら交通手段の選択肢は幾らでもありますが、地方ではそれでなくても本数が減らされている電車が不通になれば試験が行われる都市までも行けず、バスが遅れれば会場に辿りつけない生徒たちが多いのです。
官僚と結びついている東京近郊の大学当局の都合だけで決め、受験生は黙って従えと言う上から目線の行政は、無謀な計画で記録的大寒波が襲来した八甲田山中で196名もの将兵を殺した青森・第5連隊の首脳部と何も変わりません(理科教育の担当者は大学受験には不関与なのか?)
かく言う野僧もペイトリオット・ミソールの実弾を1月25日の夕方に三沢基地で受領したため、重量物を積載したトラックの車両隊を指揮して深夜に八甲田山を越えて車力まで運搬したことがあります。
それを計画して命令したのは東京の司令部で勤務する同期でしたが、若し、凍結した道路から滑落して実弾が爆発すれば野僧は殉職できますが奴はどうしたのか。このような記録も都会の人間には単なる知識に過ぎないのでしょう。
  1. 2017/01/24(火) 09:42:46|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ713

佳織と志織はオランダ王立陸軍参謀本部があるアムステルダムから約30キロ南の古都ユトレヒトのホテルに泊まった。ちなみにユトレヒトは兎のミッフィーの作者であるディック・ブルーナの出身地のため、市内各所にはミッフィーの展示物が並んでおり志織は大喜びしていた。
翌朝、佳織と志織が陸軍の車で駐屯地に到着するとゲートの前には50名ほどの高齢者が並び、手製のカードを掲げて何かを訴えている。
「日本軍の元捕虜かァ」オランダ語は英語よりもドイツ語に近く、カードに書かれている「JAPAN LEGRR(日本軍)」「POW(捕虜)」の文字は佳織には理解できないが彼らの年齢から推察した。防衛駐在官の井上1等海佐は早朝にアムステルダムを出て朝山警備官と一緒にこちらへ向かうらしいが、どちらが先になったのかは判らない。ただ、彼らのデモが紳士的であることに安堵した。
授与式は陸軍参謀長の執務室で行われる。これがアメリカ軍であれば派手派手しい演出過剰な式典になるのだが、オランダ軍は「王立」の名を冠しているだけに格式を尊重するらしい。
陸軍参謀本部は古びた中世の建物で天井が高く、床は石畳でキリスト教の修道院のようだ。廊下ですれ違う若い兵士の中には肩まで伸びた長髪の者もいる。そのあたりもヨーロッパ的だ。
「はじめまして井上です」「モリヤです。本日は御足労を煩わせまして」「いいえ、晴れがましい式に参列できて光栄です」遅れて控室に案内されてきた井上1佐は柔らかい物腰で挨拶した後、母の傍らに立っている志織に声をかけた。
「お嬢さんは本場オランダのチーズを食べたかな」「はい、美味しかったです」志織は返事をする前に一瞬、日本語を考えたようだ。やはり志織も英語が第1言語になってきているらしい。そこでドアがノックされ、女性士官が案内に来た。
参謀長室には貴族の部屋のような厚い絨毯が敷かれており、窓際にはオランダと日本の国旗が並んで立てられている。サイドボードの上には女王の写真だけで日本の天皇の物はなかった。尤も皇室嫌いの夫が受賞するのだから、ないことはかえって幸いだろう。そして室内には参謀本部の高級参謀たちが整列していて、その列の周りを数人の私服のカメラマンが歩き回っている。事前通知はなかったがマスコミの取材もあるようだ。
佳織と志織が井上1佐と並んで高級参謀たちの向い側に立つと「ゾーレ・ハッ(ZORGEN=気をつけ)と言うオランダ語の号令が響き、陸軍参謀長の大将が入室してきた。勿論、佳織と志織、防衛駐在官も姿勢と正した。参謀長は両者の中央、自分の机の前に立った。
「サルルト(敬礼・英語ではサルート)」室内ではあるが式典のため全員が着帽している。だから自衛官である井上1佐と佳織も挙手の敬礼をした(脱帽時は10度の敬礼で腰を折って頭を下げる)。参謀長は答礼しながら佳織と井上1佐の間で手を額に掲げている志織に微笑みかけた。
「メジャー・モリヤ」続いて司会者が佳織を呼んだ。オランダ語で少佐は「ホロート(GROOT)」なので、英語で呼んだのは佳織に対する配慮だろう。
列から歩み出た佳織の姿にオランダ軍の参謀たちは軽いざわめきを起こした。佳織は腰に日本刀の拵えの軍刀を提っている。カメラマンたちも一斉にストロボを点いて写真を撮り始めた。
WACの正装は本来、スカートなのだが今日の佳織は軍刀を提げるためにあえてズボンにしている。肩には草鞋のような儀礼肩章、ハット型の正帽の庇には佐官を示す刺繍が入っている。
その堂々たる態度に参謀長の横で勲章を載せたトレイ(日本のような漆器ではない)を持って立っている女性士官も息を呑んでいる。気がつくと朝山警備官はカメラマンと一緒に本格的な1眼電子カメラを構えて撮影している。これが今日の職務らしい。
佳織は式の前に司会から教えられた通りに参謀長の正面に立ち、その勲章を手渡されて佳織は席に戻った(本来は装着するのだが本人ではないので手渡すだけになった)。
  1. 2017/01/24(火) 09:41:43|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ712

「モリヤ佳織3佐ですね。在オランダ大使館の朝山警備官です」アムステルダム・スキポール空港には在オランダ大使館の在外公館警備官である1等海尉が制服で迎えに来ていた。出迎えられた佳織も制服を着ているため2人は立ち止まって敬礼し、その傍で志織も額に手を掲げた。
「この度はおめでとうございます」続いて朝山警備官は儀礼的に挨拶したが、本来の受賞者である夫が来られない理由を知っているので、それ以上は言わなかった。
「その長い箱は儀礼刀ですか」朝山警備官は佳織が空港の手押し車に載せている荷物の上の長細い段ボール箱に目を止めて質問した。
「はい、夫の代わりに連れてきました」「それでは明日、ウチの防衛駐在官も同席しますから合わせた方が良いですね」野中将補からオランダの防衛駐在官は海上自衛隊だと聞いているが、遠洋航海などで外国に行くため陸空よりも儀礼刀を提げる機会は多いようだ。
「それでは大使館に御案内してからホテルへ向かいましょう」そう声をかけると朝山警備官は佳織の手押し車を代わって押し、「志織さん、ついておいで」と声をかけて歩きだした。ロッテルダム・スキポール空港は単一ターミナル方式で設計されているため入国と出国のゲートが同一の建物内にある。その建物はオランダの表玄関の割には小規模だが移動するには便利で良い。
大使館の公用車は左ハンドルに改造した日本製のワゴン車だった。2人を後席に乗せて朝山警備官は車を発進させた。
「アムステルダムは空襲を受けていないため古い都市のままなんです。その上、運河が巡らされているので道路が狭くて困ります」朝山警備官はメインストリートから1本、奥の旧市街を走りながら観光案内をしてくれている。確かに窓から見える建物はレンガ造りで、前川原の頃、同期たちが見ていた観光ガイドのハウステンボスのようだ。ハウステンボスを作る時、日本的な綺麗で完璧な仕事をすると本物に見えないため煉瓦の色を不揃いにしたり、煉瓦の継ぎ目からコンクリートをはみ出せたりと逆の工夫をしたらしい。確かにそんな仕事の建物だった。
建物と建物の間には水路があり、大小様々な船が泊めてある。ただし、手漕ぎの舟はボート式でイタリアのヴェネツィア(=ベニス)のゴンドラではない。それにしても同じように空襲を受けなかった京都は寺や神社が残っていると言うだけで道路には観光バスとタクシーがあふれ、歴史を感じさせる街並みは裏通りを探さなければ見つからない。
「マミィ、フランダースの犬はここなの」街角に貼ってある民族衣装を着た少女の観光ポスターを見つけた志織が質問してきた。ここに夫がいれば即座にワンポイントレッスンが始まるのだが、ここでも佳織の代役になる。
「あれはベルギーのお話なんだよ。アニメのアロアはオランダの服装をしているけどね」「確かに観光ガイドも『ネロの家が見たい』『ルーベンスの絵が飾ってある聖堂はどこ』って言うお客がいるって困っていますよ」朝山警備官は絶妙の補足説明をする。それには佳織もうなずいた。
「それじゃあ、ベルギーにも風車があるの」「農業用の物があります」ルームミラーで佳織の顔を見ながら朝山警備官が答えた。この辺りの行き届いた気配りは前川原から行った江田島研修でも感心したが、陸空では遠く及ばないだろう。
「ここが大使館です」右側通行の道路で左折するためウィンカーを出して停車した朝山警備官が説明した。旧市街地を抜けた郊外は近代的なビル群になっており、そんな高層ビルに見下ろされるような形の6階建てに見える煉瓦色の建物が日本大使館なのだ。
「これだけ高い塀があれば警備は万全ですね」「まるで刑務所みたいでしょう・・・失礼しました」周囲の塀はビルの2階くらいの高さがあり刑務所のようだが、朝山警備官は佳織の夫が拘束中=塀の中の住人であることを思い出して失言を詫びた。しかし、海上自衛隊の正帽をかぶった朝山1尉を後ろから見ているとタクシーの運転手のようで佳織の方こそ失礼していた。
  1. 2017/01/23(月) 09:49:58|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ711

「モリヤ3佐、オランダ軍が君の夫に勲章を贈呈することを正式に申し入れてきたよ」志織が夏休みに入って間もなくワシントンの野中将補から電話が入った。
「はい、政府や防衛庁はそれを受諾したのでしょうか」「うん、拒否することは外交儀礼上、好ましくないからな」この口ぶりでは野中将補も手放しで歓迎しているのではないようだ。
「夫は現在・・・」「拘置所に収監中では出席はできまい。そこで君が代わりにオランダへ行って受賞してもらいたいんだ」これは佳織もオランダ軍の少佐から話を聞いた時から可能性を考えており、だから日本への航空券や都内のホテルの予約を延ばしてきたのだ。
「夫の名誉ですから代理を務めることは妻としても光栄ですが、裁判への影響が不安ではあります」「それは当然だな」佳織の返事に野中将補は一呼吸置いた。
「政府としても裁判が停滞していることを憂慮しているようだ。ここで国際常識を示すことで告発者に対する批判的な世論を喚起したいと言う思惑もある」夫の裁判は証拠調べが終わったところで検察側が「アフリカでの被告人を立ち会わせた現場検証の必要性」「犠牲者の司法解剖のカルテの請求」などの再検討を口実に動きを止め、弁論手続きに進めないでいる。これに裁判そのものの国際常識との乖離=異常性を強調して逃げ口上を封印しようと言うのだ。さらに弁護側の証人として出廷した在日オランダ大使館の駐在武官が「どうして軍人の正当な業務が犯罪になるのか理解できない」と批判したことを国家として追認することにもなるだろう。
「しかし、マスコミが思うように反応しますか」「マスコミと言っても反政府の立場ばかりじゃない。そこは政府に任せておくしかないな」野中将補もマスコミ報道への関与は思案の外のようだ。
「A日新聞やM日新聞なら『日本政府の要請でオランダ軍が』なんて書きかねないですよ」「まだ『要請』なら良いが、『圧力』とか『取引』とでも書きそうだな」「はい・・・」佳織は島田元准尉が送ってくれる日本の新聞の記事を思い出して苦笑してしまった。確かに左傾と右傾の新聞では同じ事実であっても野中将補が言った通りの食い違いがある。
「それでオランダへ行けば現地でインタビューを受ける可能性がありますが、保全手続きはどうしましょう」「おう、それだな」自衛官は新聞や雑誌、テレビやラジオなどで自衛隊に関する内容を発表する時、事前に秘密保全上の申請をして許可を得なければならない。オランダ軍から日本の自衛官が勲章を受章すれば、民間の新聞でなくても軍内の機関紙のインタビューを受けることは当然考えられる。佳織としてはこの機会に日本の異常性を訴えたいくらいだ。
「君は陸幕の所属になっているから早急に手続きをしよう。しかし、あの手続きは相手を明記する必要があったぞ」「はい、日時、場所、相手、内容などを具体的に記入しなければなりませんから予想される場合では無理です」秘密保全は通信幹部こそ本職であり、佳織も規則が定める手続きの非現実性は熟知していた。
「相手の欄は白紙で作成しておいて決済をもらっておくように担当者に言っておこう」「はい、お願いします」ここまでで野中将補は電話を切った。

CGS課程が夏期休暇に入るのに合わせて夫=キャプテン・モリヤ(モリヤ1尉)にオランダ陸軍参謀長から「外国軍貢献感謝勲章」が授与されることになった。
佳織と志織はニューヨークのジョン・F・ケネディ空港からKLMオランダ航空でアムステルダム・スキポール空港へ飛んだ。
「マミィ、どうして日本に帰らないの?ダディに会いたいのに」英語の機内アナウンスで目的地を知った志織が隣席から訊いてきた。オランダへ行くことは説明していたが、経由地だと思っていたらしい。やはり父親に会えることを楽しみにしていたようだ。
  1. 2017/01/22(日) 10:24:30|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

1月21日・超音速旅客機・コンコルドが商業運航を開始した。

1976年の本日1月21日に英仏共同開発の超音速旅客機・コンコルドが商業運航を開始しました。
東三河のド田舎には大の旅行好きの和尚がいて、盆と春・秋彼岸が過ぎると必ず海外旅行に出掛けたのですが生涯独身だった上、株で儲けていたこともあって南極以外は全ての大陸を踏み、地球を40周回る程だったようです(北極点はロシアの砕氷船クルーズで通過した)。
その和尚はコンコルドで大西洋を往復したことがあったので、「飛行機の話を判ってくれるのはアンタだけだ」と言われながら乗り心地などを実体験で詳細に聞くことができました。
1950年代後半には高速旅客時代の到来を予測して航空機大国であるアメリカをはじめ世界初のジェット旅客機コメット(気圧差に対する研究不足で高空での爆発事故が続いた)の実績を持つイギリスや強固な独自路線を標榜するフランスなどが開発を進めていたのですが、高額の研究費に見合う需要が確定できないことでイギリスとフランスも共同開発に方針転換したのです。
こうして1960年代前半から始まった共同開発では主導権争いやこれまでの研究実績の採用を巡って対立はあったものの完成前からエール・フランスとブリティッシュ・エアが採用を決め、パン・アメリカンや日本航空などのフラッグ・キャリア(国を代表する航空会社)からの100機を超える発注が集まりました。しかし、開発費の採算は250機程度だったので、早くも不安を感じさせるスタートだったようです。
続いて問題になったのが機体の名称で、双方が互いの言語による命名を譲らず、結局、綴りはフランス語の「Concorde(英語では末尾の「e」は付かない)」、読みは英語の「コンコード」とする妥協が成立しました。この単語の意味が「協調・調和」なのは自嘲なのか互いに投げ合った皮肉なのか判りませんが、いかにもイギリスとフランスらしいジョークのようです。
そして1969年に3月2日に初飛行し、10月1日は音速を突破して華々しいデビューを飾ると、アメリカのボーイング社は更なる高速度・大型化を目指して進めていた2707の開発計画を断念したのです。
その後、テスト飛行を重ねながら数々の改良を加え、1976年の今日、エール・フランスがパリ・ダカールからリオデジャネイロ線、ブリティシュ・エアがロンドンからバーレーン線に就航させたのです。
一方、ソ連もフラッグ・キャリアのアエロフロートや東欧諸国の旅客の運行状況から見て必要性がないにも関わらず超音速旅客機の開発を進めており、コンコルドよりも少しだけ大型なツボレフ144(コンコルドの座席は横4列だがツボレフ144は5列)を1968年に初飛行させていました。
ただし、この機体の外観はコンコルドの完全コピーで、西側では「イギリス、フランスから情報が漏洩した」との評価が噂以上の事実として広まっており、「コンコルドスキー」と仇名で呼ばれていました。
然も、あまり詳細な情報を入手していなかったようで機体の構造は軍用機の改良に過ぎず、コンコルドは三角形の主翼にフラップが付けられないため機体を立てて離着陸する対策として機体前部を屈折させることでコクピットからの視界を確保する機能を採用していますが、これも形だけで実際は視界ゼロで離着陸していたようです。
ちなみにツボレフ144は1975年から就航していますが、故障が頻発した上、公表されただけでも重大事故が続発し、特にコンコルドがデビューを果たすパリで行われた航空ショーでは乗員6名に地元住民10名を巻き込む墜落事故を起こしており、原型機1機と量産機10機、そして改良型が5機作られただけでした。
コンコルドはフラップがないため着陸速度が早く、長い滑走路を必要とすることが就航できる空港を限定した上、1973年にオイルショックが生起したことで旅客機にも燃費が求められるようになり、100名の乗客しか乗せられないコンコルドが約500名をジャンボジェット機よりも燃料を喰い、航続距離が短いため大西洋は横断できても太平洋は不可能と言う性能は大幅に需要を縮小させたのです。
さらに音速を超える時の衝撃波の環境への影響を過大に問題視する声が広まったことも市場を狭めました。結局、ブリティッシュ・エアとエール・フランスのコンコルドは多忙で時間を惜しむ金持ち専用便のようになりましたが、前述の和尚が言うには「狭くて乗り心地は悪かった」そうなので人気が高まることはなかったようです。
最終的にコンコルドは原型機4機と量産機16機が製造されただけで、日本へはデモ・フライトで1回、東京サミットと昭和天皇の大喪の礼で大統領機として1回ずつ、そしてチャーター便として1回来ただけでした。
  1. 2017/01/21(土) 09:26:55|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ710

「メジャー・モリヤ、貴方の夫はまだ拘置所に入っているのか」「はい、日本の裁判は長いんですよ」ある日、オランダ軍の少佐が佳織に声をかけてきた。佳織はCGS課程が夏期休暇に入れば日本に帰国して拘置所に面会にいくつもりだ。そのために旅客機とホテルを予約する下調べをしているところだった。
「実は我が軍の上層部がキャプテン・モリヤに勲章を贈るつもりなんだ。ウチの士官と下士官の命を救ってくれた恩人だからね」確かに戦闘を犯罪に堕とす日本とは違い、海外では自分の危険を顧みず任務を遂行した英雄的行動として評価されるのが常識だ。しかし、佳織には日本の政治風土にそれが通じるとは思えず難しい顔をしてしまった。
「やはり日本では色々と難しいよね」少佐も佳織の夫が野党の党首によって殺人犯として告発された事実を知っているだけにオランダ陸軍首脳の常識が逆効果になることを心配してくれた。

アメリカでも夏休みが始まった頃、佳織から不思議な手紙が届いた。勿論、手紙の内容は今回も拘置所の担当者の検閲を受けているが、そこには「貴方と私を結ぶ運命の糸」と称する赤い糸が同封してあったのだ。
「モリヤ被告人、何時までも熱いですね」若い刑務官は冷やかしながら手紙を渡したが、その赤い糸を窓からの明かりに照らして見て私は意味を理解した。
赤い糸には間隔を変えて黒で模様が入れてある。その間隔はモールス信号だった。早速、読んでみた。
「・――・・(カ)― ― ―・(ソ)・・(濁点)・・・―(ク)・・― ―(ノ)・― ― ―・(セ)・―(イ)― ―・―(ネ)・―・―・(ン)・―・・(カ)・・(濁点)・― ―・(ツ)― ・・―(ヒ)・・・・― ―・(半濁点)・・・・(ヲ)・・・(ラ)・―・―・―(ン)― ― ―・―(ス)・・―(ウ)―・―・(二)=家族の生年月日を乱数に」つまり私の1961年7月1日(=19610701)、佳織の1965年2月4日、淳之介の1987年11月22日、志織の1993年12月27日を乱数にして暗号を解読せよと言うことだ。
モールス式通信の暗号には乱数表と言う方法がある。これは日本語を換字表で数字化した上で、それを乱数と特殊な引き算(「非算術」と呼ぶ)をすることで傍受しても解読不能にするものだ。したがってモールスの最初では使用する乱数の番号を送達するのだが今回は固定式だった。
「さて乱数は良いけれど数字はどこにあるのかな」私はメモ用紙に家族の誕生日の数字を並べた乱数を作った上で肝心の通信文を探した。しかし、佳織の手紙には見当たらない。続いて志織の手紙を開くとそこにあった。
「2年生の学年末テストの戦果です」アメリカでは9月に学年が変わるため夏休み前のテストで学習成果が判定され、成績不良であれば留年もある。それを通信に利用すると言うことは問題がなかったのだろう。
「英語(日本の国語)はトータル1821点、フォニックス(英語の綴り方)が7760点、算数は1585点、社会は3979点、理科が0214点、何でトータルが0から始まるんだ。芸術(アメリカでは音楽と図工の選択式)0610点、これではアカラサマだろう。それで体育4662点、社会奉仕は4825点かァ」生年月日の乱数の下にこの数字を並べて佳織に習った非算術をすると文章が浮かび上がってくる。
「アナタニオランダグンガクンシヨウ・・・貴方にオランダ軍が勲章。へーッ」これを暗号化して伝えてきたと言うことは塀の中では判らない問題があるのかも知れない。それにしても佳織に普通科の基本戦術を教えた代わりに習った暗号作業を忘れていないことが判って夫婦の絆を確認できたように思った。久しぶりに私自身が起ってしまった。
  1. 2017/01/21(土) 09:24:02|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

1月21日・浜田国松と寺内寿一陸相の「腹切り問答」が行われた。

昭和12(1937)年の明日1月21日に衆議院で浜田国松議員と寺内寿一陸軍大臣の間で(いわゆる)「腹切り問答」が闘われました。
寺内寿一陸軍大臣は山口陸軍閥の1人である寺内正毅元帥の長男ですが、この頃になると出身地にこだわらぬ人材登用を進めて信奉者を獲得した上原勇作元帥を頂く鹿児島軍閥の再起により、陸軍を吉田松陰の狂気で染めてきたまま権力面では退潮が顕著になっていたのです。
そんな中、政友会の浜田議員は「近年の我が国情は国民の有する言論の自由に圧迫が加えられ、国民は言わんとするところを言わず、わずかに不満を洩らす状態に置かれている・・・独裁強化の政治的イデオロギーは滔々として軍の底を流れ、時に文武を隔てる堤防を破壊する危険すらある」と2・26事件と言う一大不祥事を起こしながら、逆に悪用して政治への介入を強める陸軍を批判する演説を行いました。
すると寺内陸相は「軍人に対しまして些か侮蔑されるが如きような如き質問を承りますが」と反論し、それに浜田議員が「私の質問のどこが軍を侮辱しているのか事実を挙げなさい」と詰問したため、「侮辱されるが如く聞こえた」と訂正したものの、それでも「速記録を調べて私が軍を侮辱する言葉があるなら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」と詰め寄ったのです。
これに対して寺内陸相は壇上から浜田議員を睨みつけ、議場には怒声・罵声が飛び交い大混乱に陥りました。
永野修身海軍大臣は海軍の予算を審議中だったこともあり広田広毅首相と協議して事態の収拾を模索しましたが寺内陸相の激昂・憤懣は収まらず議会の解散を要求し、さらに「解散しなければ辞職する」と言い放ったため、結局、「閣内不一致」を理由に広田内閣は辞職しました。
実は2・26事件以降の陸軍の政治介入を作り出したのは寺内陸相自身でした。2・26事件が鎮圧された後、陸軍大臣に就任すると「事件で追放された皇道派が復活できないようにするため」を口実にして、それまでは予備役でも可能だった陸軍大臣を現役であることを条件にしたことで、陸軍の意向に反する内閣には陸軍大臣を推挙しないことで組閣を阻止する手段を獲得したのです。この事例でも寺内陸相が辞職すれば後任を推薦しないことは明らかで広田首相としても他に選択肢はありませんでした。
さらに広田内閣を崩壊させた後、平和を求める天皇の意向を受けた元老が軍縮を進めた宇垣一成元陸相に白羽の矢が立てたのですが、これにも陸軍内で宇垣軍縮に対する反発が強いことを理由に大臣の推挙を拒否して、頓挫させました。
しかし、宇垣元陸相は軍縮によって予備役に編入されることになった寺内中将から「母の胎内にいる時から陸軍で育った私です。任地はどんな僻地・職務は閑職でも結構ですから一生陸軍に置いて下さい」と泣きつかれ現役に留めた恩人なのです。ここにも「恩人も利用するだけで使い捨て」「理で駄目なら情に訴える」と言う今も山口県人に色濃く残る県民性が見て取れます。
寺内陸相は中将で第4師団長を務めていた時、大阪市内の天神橋で信号無視した1等兵を警察の巡査が注意したことを「軍の威信を汚された」と政治問題化した「ゴー・ストップ事件」を起こしています。
結局、陸軍省と内務省の協議により、「軍服を着た兵が法令違反を犯した時は憲兵に引き渡す」と言う馬鹿げた決着を見ましたが、そのような話は山口県内では珍しくはありません。
それでも寺内陸相は下士官や兵にも気軽に声をかけるため意外に人気があったそうですが、それは政敵にならない下級の者を道具として手懐ける毛利藩士・山口県人の常套手段で、毛利家歴代藩主や各重臣、吉田松陰、高杉晋作、山縣有朋から乃木希典まで同様の評価が残っています。
寺内元帥は第2次世界大戦への参戦時は南方軍司令官でマレー半島突進作戦やシンガポール攻略を成功させたものの大戦末期のインパール作戦を裁可したのも本人です。
敗戦後、B級戦犯としてマレーシアでの拘禁中に病死したのは処罰としては軽過ぎるでしょう。やはり日本を軍国化した張本人である以上、A級戦犯として吊首刑にされて然るべきでした。
一方の浜田議員はこの問答の時点で議員歴30年(衆議院議長も務めている)、70歳の高齢でしたから2年後に没しました。
  1. 2017/01/20(金) 08:58:08|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ709

夏休みの始めに行われた県大会予選で淳之介の部活動が終わり、打ち上げ練習の帰り道、校門の外で見知らぬ男に声を掛けられた。
「モリヤくんだね」「いいえ、玉城ですけど」淳之介は今の姓を名乗った。手回しが良い祖母のおかげで制服の名札も「玉城淳之介」になっている。
淳之介の返事を聞いた男が振り返って「どうなってるんだ」と校門の中に声をかけると担任の教師・比嘉が早足で出てきた。
「改姓して玉城淳之介になっているんだ」その答えに男は軽くうなずくと、淳之介の腕を掴み「お父さんのことで訊きたいことがあるんだ」と言った。
「僕にはお父さんはいません。だから話すことはありません」先日、愛知県の祖父がインタビューを受けているテレビを見た淳之介は、この男が新聞記者であることを直感していた。あのテレビで祖父は祖母ではなく長兄の大伯父と2人並んで写っていた。公務員である祖母はマスコミで発言することを避けたのだが、事情を知らない玉城家の祖父母は「本土にもモンチュウがあるみたいさァ(=一族の問題は一族で対応する)」と誤解していた。
「お父さん、息子さんは裁判で頑なに罪を認めようとしませんが」「人さまを殺して許されるはずがありません。私は罪を素直に認めることが社会人としての責任だと教えてきました」祖父の答えは担任の比嘉が書いた台本のようだ。しかし、淳之介はモンチュウの長・玉城松泉さんの話を聞いて以来、元両親と叔父の自衛官と言う職業を考え直すようになり、そんな発言も親が息子を裏切っているように思えていた。
「学生時代まではそんなことをする子ではなかったんですが、自衛隊で危険な思想を植えつけられたんでしょう」インタビューに大伯父まで隣から口を挟んだ。大伯父が小心者の弟の晴れ舞台に駆けつけてきたのか、不安になった祖父が呼んだのかは判らないが、父が嫌悪していたあの家の異常性を再確認するようなインタビュー映像だった。
「君のお祖父さんが新聞とテレビで話したのは知っているんだろう。だから君も話すべきだよ」男=おそらく記者は淳之介が腕を振り払おうとしても放さない。そこで淳之介は今の気持ちをハッキリ口にした。
「父は自衛官としてやるべきことをやったんです。それが罪になるのならこの国がおかしいんです」「お前、俺が教えていることを忘れたのか」淳之介の答えに今度は比嘉が声を掛けてくる。
「それじゃあ先生は父がオランダ軍の人たちが殺されるのを黙って見ていた方が良かったって言うんですか」「だから自衛隊があんな所へ行ったのが間違いだと教えたじゃないか」「例え間違いでもそこにいたらどうするんですか」淳之介の反論に男は掴んでいた腕を放した。
「お前がA日のインタビュー以上の反対意見が聞けるって言うから来たんだぞ。どうなってるんだ」「お前の訊き方が悪いんだよ」突然、2人は口論を始めたが、そこへ女生徒に連れられた校長が走ってきた。校長は手前で立ち止まり2人の言い合いを聞いた後、声をかけた。
「比嘉先生、何てことをしたんですか」校長の叱責に比嘉は驚いて姿勢を正して向きを変えた。
「あれ程、淳之介くんを守るように言ったのに・・・」「比嘉先生がこの人を呼んだんです」淳之介の説明に比嘉は驚いたように顔を見る。飼い犬に手を噛まれた気分になったのだろう。
「個人情報の漏洩は懲戒処分の対象ですよ。そちらの方も警察を通じて連絡することになるでしょう」校長の言葉に男は妙に身構えて反論する。
「私は(M日新聞系列の)琉球タイムスの記者です。取材活動は正当な業務です」男はここで初めて自分の身元を明かしたが、校長は冷めた目で顔を見返した。
「未成年への取材には関係者の許可が必要でしょう」「担任の教師の許可を得ています」「てめェ、裏切る気か」校長と生徒の目の前で教師と新聞記者が掴み合いの喧嘩を始めた。
  1. 2017/01/20(金) 08:56:47|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

俳優・神山繁さんの逝去を悼む。

名脇役の神山(こうやま)繁さんが1月3日に亡くなったそうです。野僧は保育園児だった頃に好きだった「ザ・ガードマン(会社の守衛だった時、歩きながらテーマ曲を鼻ずさんでいた)」の榊隊員役以来のファンなのですが、あの頃は30代半ばだった割に髪が薄く、老けていたようでした。
その後は大河ドラマで何度も会いましたが、「樅の木は残った」の水野十郎左衛門、「黄金の日々」の安国寺恵瓊、「独眼龍政宗」の遠藤基信、「葵・徳川三代」の本多正信(「おんな太閤記」でも同じ役でしたが見ていません)などで斬れ者の重鎮と言う役柄で存在感を発揮していました。
神山さんの不思議なところは名優として芸術性が高い番組ばかりに出演するのではなく、愚妹が見ていた「刑事犬カール」や「スケバン刑事」などのアイドル系の番組や「太陽にほえろ」「西部警察」「特捜最前線」などの刑事ドラマにも数多く登場していたことです。
映画でも思い出した順に「南極物語」「連合艦隊」「海と毒薬」「ひめゆりの塔」「日本のいちばん長い日(白黒版)」「富士山頂」「激動の昭和史・軍閥」「激動の昭和史・沖縄決戦」「日本沈没」「八甲田山」「皇帝のいない八月」「二百三高地」「零戦燃ゆ」「ゴジラVSデストロイヤー」など数えきれません。
本当にお世話になりました。ご本人は葬儀・戒名不要と言い遺されたそうですから、「ザ・ガードマン」と「樅の木は残った」「独眼龍政宗」「葵・徳川三代」の主題曲を聴いて冥福を祈っています。
それにしてもお訣れを言いたい友人・知人も多いのでしょうから、自分の一存で葬儀を拒否するのは考え物です。
  1. 2017/01/19(木) 09:23:25|
  2. 追悼・告別・永訣文
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

1月19日・この人物が重用されていれば特攻はなかった?八木英次の命日

昭和51(1976)年の明日1月19日は今や日本のお家芸とも言うべき電子工学の先駆者である八木秀次博士の命日です。
野僧が何故、八木博士の名前を知っているのかと言うと博士を世に出したのが小学校の大先輩で第1回文化勲章受章者、東北大学総長だった本多光太郎博士だからです。
八木博士は明治19年の命日の前日になる1月18日に大阪市東区で両替商の3男として生まれますが、学校を終える前に父親が亡くなったため、株屋をやっていた長兄の援助で卒業しました。しかし、商都・大阪でも相場で儲ける株屋の評価は低く、卒業後は八木家の名誉を守るため分家して家督を相続しています。
その後、27歳で京都の旧制第3高等学校理科に入学し、30歳で東京帝国大学工科電気工業科に進むと無線に興味を持つようになりました。
卒業後は教授の紹介で仙台高等工業学校の講師になり、ここで本多博士と知り合ったことで、日本の物理学の第1人者で本多博士の恩師でもある長岡半太郎博士の推薦でドイツ、イギリス、アメリカの権威の下で研究を進めることができたのです。
この留学期間中に関心が無線に大きく傾くことになりましたが、当時の電気工学の研究・開発はモーターや照明などの強電が中心で(有線電話も強電)、無線などの弱電は実用化の目途も立たず完全に傍流でした。ましてや日本の立ち遅れた工業技術では実用化などは不可能で帰国後は妄想扱いされたようです。
本多博士が創設した金属研究所(東京都目黒区恵比寿の航空自衛隊目黒基地に隣接している)の研究会でも物理学者の立場から鋭い指摘を連発したため、困り果てた参加者は東京帝国大学で八木博士のゼミがある曜日に開催日を変えた程でした。
やがて長岡博士の要請を受けて大阪帝国大学理学部物理学科の主任教授として赴任し、ここで湯川秀樹博士を育て、念願の電気通信研究所を創設することができました。
この頃、八木博士は学生たちに「本質的な発明をするためには心眼で電波が見えるようにならなければ駄目だ」と語っていたそうですが、野僧は現役時代、レーダーが捉えられなくなった航空機を心眼で追い続ける神業を持つ達人に仕えましたから、この教訓が単なる精神論だとは思いません。
戦時下に入ると無線やレーダーの遅れが戦局を不利にしていることを自覚した海軍軍令部の要請を受け、無線誘導兵器の開発に着手しますが、ここで技術者だった井深深大さんと海軍技術士官だった盛田昭夫さんが出会い、戦後のソニーの創立につながりました。
八木博士と言えば指向性アンテナの「八木アンテナ(昔のテレビのアンテナのような形状)」ですが、Bー29を撃墜されてパラシュート降下して捕虜になった機上通信士がアメリカ軍の通信機材の尋問を受け、「YAGI」と言う名称を連発したためそれを英単語だと思った陸軍の取り調べ役が辞書を引いても見当たらず、本人に確認したところ「ヤギは日本人だ」と呆れたと言う逸話が伝えられています。
確かに八木博士は海軍の推薦で政府の技術院総裁に就任しているので陸軍が毛嫌いしていたと言う見方もできますが、単に陸軍が専門知識もないド素人に取り調べをさせていただけでしょう。
八木博士は昭和20(1945)年の衆議院予算委員会で「技術当局は『必死』ではない『必中兵器』を生み出す責任があるが、その完成を待たずに『必死必中』の特攻隊の出撃を必要とする戦局となり慙愧に堪えない」と証言しています。確かにナチス・ドイツはV-1、V-2ミサイルを無線誘導してロンドンを空襲しましたが、日本はV-1を搭乗員に操縦させる「桜花」にして神雷特別攻撃隊を編成しました。
若し、八木博士がヨーロッパから持ち帰った知識と技術を生かせる土壌が日本にあれば、特攻兵器などは必要とされなかったはずです。
余談ながら八木博士はヨーロッパ留学中からマルクス主義に興味を持ち、戦後は公職追放が解除されてからの衆議院選挙に右派社会党から出馬して当選し、晩節を汚すことになりました。
  1. 2017/01/19(木) 09:22:21|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ708

「モリヤさんは自分が無罪になるのは当たり前だと思っているんですか」「無罪ですか・・・」私としてはあらたまって質問されても困ってしまう。裁判など所詮は人間がやることなので有罪と無罪のどちらに転ぶか判らないのは史実が物語っているはずだ。
「全力を尽くせば結果は運次第と言うところでしょう」「それで有罪になればどうしますか」牧野弁護士は真意を探るような目で私の顔を覗き込んだ。
「戦争が終わった後のB・C級戦犯の裁判では多くの軍人が冤罪で死刑になっています。私が死刑になっても割腹なら本望です」「だから私が徳島弁護士への尋問で『死刑を求めるのが当然でしょう』と言った時も平然としていたんですね」確かに自分の弁護士の口から「死刑」を要求する言葉が出れば普通の被告人なら我を失ってしまうかも知れない。しかし、私の中には使命に対する冒涜を受けて生き恥を晒すくらいなら見事に腹を切って武人としての死に様(よう)を示したいと願っている自分がいる。ただし、条件は死ぬ前に佳織を思い切り抱くことだ。
「それが自衛官としての死生観と言うモノなんですか」「はい、航空自衛隊のパイロットたちが今も受け継いでいる武士道ですね」陸上自衛隊に移ってからも今回のPKOなど死線を潜ってきたが、やはり浜松で目撃したブルーインパルスの高島1尉、那覇のTー33Aの本江2尉の死に様が身を処す上での鑑(かがみ)だった。
「でも今回の裁判では無罪を勝ち取りますよ」「はい、よろしくお願いします」牧野弁護士の気合いを入れた言葉に私は立ち上がって深く頭を下げた。
「ところで裁判が長期化して今回の新聞のようなことが続くと、ご家族に余計な苦痛を与えることにならないかが心配です」「妻と娘はアメリカですから大丈夫でしょう。息子とは縁を切っていますが、沖縄の反戦団体は本土以上に手段を選びませんから不安ではあります」牧野弁護士には両親だけでなく息子とも絶縁している私の家庭が理解できないようだ。
「息子さんと絶縁したのは何時のことですか」「私が今回の問題で帰国を命じられた時に預けている沖縄の祖父母に連絡しました。その前に本人が希望すれば親権を移動させてくれと書類は送ってありましたけど」「それも後顧の憂いを断つと言う武人の嗜みですか」「そうです」牧野弁護士とはこれまでも事情聴取や尋問、裁判の進め方の相談を繰り返してきたが、家庭の事情についてはあまり触れてこなかった。それだけ余裕ができてきたと言えないこともない。
「息子さんのお名前は何て言われるんですか」「淳之介、吉行淳之介の小説を読んでいる時、生まれましたからもらいました」子供の命名で名前を無断でもらうことは著作権法などに触れないかを訊いてみたかったが、冗談にならないので止めた。
「ウチの息子は惟謙(いけん)です」「ほーッ、大津事件ですね」「ご存知でしたか」児島惟謙は来日中のロシアの皇太子・後のニコライ2世を警察官が斬りつけた大津事件で、皇族への暴力と同じ極刑に処すことを強く求めた政府に対し、司法の独立を貫き通した大審院長だ。
「弁護士としては尊敬すべき人物でしょうけど花札賭博で懲戒免職されませんでしたか」「あれは証拠不十分で不起訴になっていますが引責辞任はしています」私は単に愛知大学の何かの教授が熱弁を奮っていたのを覚えていただけだが、牧野弁護士は妙に感心した顔をする。
「モリヤさんの知識には我々も敵わないですね。特に法律の専門知識は素人の域を遥かに超えてプロ級です」「プロって弁護士のことですか」「今回、凌駕しているのは検察官ですが」それは少し誉め過ぎだろう。愛知大学の教授たちは司法試験に受かった卒業生が1名もいないことを嘆き、「君たちは何のために法律を学んでいるのか」と問いかけていた。その大学を中退した挫折者が司法試験に合格して任官した検察官に勝っているはずがないのだ。
「そんな冗談を言われると司法試験に挑戦する何て言い出しますよ」「そうですか。頑張って下さい」冗談のつもりの軽い一言に牧野弁護士は大賛成してしまった。あくまでも冗談です。
  1. 2017/01/19(木) 09:20:41|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

1月18日・江戸史上最大の明暦の大火が発生した。

明暦3(1657)年の本日1月18日(太陰暦)に「振袖火事」の別名がある明暦の大火が発生しました。
野僧は大学時代に防火管理者の資格を取得しているため火災には興味があり、それなりに勉強してきたのですが、この大火は関東大震災と太平洋戦争中の大空襲を除けば最大級の火災であり、集計によって2万人から10万人超の犠牲者が出たとされています。この火災は江戸城の他の城郭に比べて格段に広い外堀を越えて内側に類焼し、天守閣も焼け落ちてしまいました。
「振袖火事」と言う呼び名は小泉八雲も小説化している怪談的な原因で、江戸・麻布の裕福な質屋の娘が本郷の本妙寺を参詣した帰りに通りすがりの少年に一目惚れしてしまい、恋い焦がれて衰弱していきました。そこで心配した両親はなぐさめにと少年が着ていたのと同じ柄の振袖を買い与えたのですが、その着物を抱き締めて想いを募らせるばかりで、やがて死んでしまったのです。そこで両親はその振袖を棺桶に掛けて本妙寺で葬儀を出しましたが、当時の風習では埋葬する寺男が副葬品をもらえることになっていたため、その振袖は古着屋へ売られて町娘の手に渡ったのです。ところがその町娘も急病で死に本妙寺で埋葬されることになりました。その時も親族は生前に気に入っていた振袖を棺桶に掛けて寺男に渡したため再び古着屋に売られ、別の町娘が袖を通すことになったのです。そしてその娘も急死して本妙寺に埋葬されることになると寺男たちも気味悪くなり、護摩法要の炎の中に投げ込むと、一陣の風と共に人が立ち上がったような姿で舞飛び、寺の軒先に落ちて火災を発生させたと言うのが名前の由来になっている伝説です。
しかし、本妙寺も全焼してしまったため過去帳などが残っておらず本当に娘たちの葬儀が行われたのかを確認する術がなく、この時代の浄土真宗の僧侶でお伽草子の作者でもある浅井了意が綿密な調査の上で著した「むさしあふみ」の中では「作り話である」と断定されています。
この他にも江戸の急激な発展により市街地の抜本的な区画整理を迫られていた幕閣が、住民を立ち退かす手間を省くために起こした火災が想定以上に燃え広がってしまったとする説や近隣の譜代大名屋敷が本当の火元だが責任を逃れるため本妙寺に原因を押しつけ、寺に責任が及ばないように寺男の過失にしたと言う説(現在は本妙寺もこの説を主張しています)が当時から流れていたようです。
この火災では江戸城内の大奥も炎上しましたが、「知恵伊豆」と呼ばれた老中・松平信綱が城内の畳を大奥から二の丸まで縦に並べさせた上で男子禁制の大奥へ踏み込み、「荷物を捨て置き、身1つで庭の畳の上を逃げよ」と命じたため女中たちを含め全員が無事に避難できたと言われています。また、これまで大奥では古式に則り、女中たちも髪を結うことなく長く伸ばしていましたが、避難時に引っ掛かって転倒する者が続出したため、日本髪に結い上げることが許可されました。
さらに小伝馬町の牢獄では囚人を避難させる規定がなかったためそのまま焼死させるしかなかったのですが、奉行の独断で「鎮火すれば必ず帰ってこい」と言い渡した上で解放しました。すると鎮火後には全員が牢に戻り、死罪を含む全員の罪が軽減されてその後の慣習となりました。
大老・松平正之(会津藩初代藩主=2代将軍・秀忠の隠し子)を頂く幕府の対応も素晴らしく、逸早く兵糧米を供出して炊き出すと同時に江戸の米屋に多額の金を下げ渡して米を買い集めさせることで便乗値上げを阻止すると共に米価を意図的に下落させ、同時に材木等の材料価格と手間賃の統制を行ったことで、貧富の差もなく復興に着手できました。ただし、防火用に瓦屋根にすることを推奨したものの製造が間に合わず不徹底になり、明和、文化の大火の被害を極限することはできませんでした。
さらに復興に当たっては大名屋敷の再配置などの区画整理を実施したのですが、それがあまりに手際よく熟慮したような見事さだったため前述の「幕府が放火した」と言う風説が生まれたのです。ただし、道幅を広くして類焼を防ぎ、市街地に退避用の広場を設けるなどの防災都市の構造は戦時に敵を利することになるため、完全実施とはなりませんでした。
兵糧米は本来、攻城に備えて確保している戦時食であり、庶民のために供出するなど言うことは常在戦場を旨とする武士にはあり得ない話ですが、やはり会津藩の藩祖と知恵伊豆はやることが違います。
東京は関東大震災の時も後藤新平と言う卓越した人物が大きな被害を抜本的な区画整理に活用する復興を指揮しましたが、大空襲で一面の焼け野原になった敗戦後の首都再建はそれ程のことはないようです。
一向に復興が進まない東北地区太平洋沖大震災もそうですが、指導者に恵まれないと被災者の自力だけでは立ち直れないのでしょう。
  1. 2017/01/18(水) 09:35:43|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ707

「罪を償って欲しい・殺人自衛官の両親の願い」翌朝のA日新聞の社会面には異様に大きな見出しが躍っていた。写真は目の部分に線が入れてあり、記事でも名前は伏せてあるが、裁判を報じるのに「被告人・モリヤニンジン」と明記してきたのだから、これは無駄な隠蔽処置=自己弁護に過ぎない。本文では父親の発言が正確に記載されているものの「胸の中の苦悩を絞り出すように口を開いた」「被害者とその家族に詫びるように頭を下げた」「国民に申し訳ないと言う気持ちが伝わってくる」などと父親の表情・口調を補足説明しており、息子に代わって謝罪する悲痛な父親になっている。私は自分の裁判に関係する新聞や雑誌は目にすることができないものの面接に来た牧野弁護士が見せてくれたのだ。
「あの馬鹿が!」私は新聞を開いて見出しと写真を目にした瞬間にこの罵声を吐き出してしまった。父親は外見だけは一流企業の営業マンらしく紳士風なので、その印象を読者に与えながら息子の行為を詫び、罪を償うことを訴えればそのまま私は親不孝者=悪役になってしまう。
「ご両親との関係はどうなんですか」いつもは見せない私の険しい表情に牧野弁護士は感情を挟まないように訊いた。
「こちらからは断絶を通告しているのですが、それでも親子の腐れ縁は切れないようです」「モリヤさんがそうするくらいだから余程のことがあるんですね」私の冷たい口調に牧野弁護士もユックリとうなずいた。
「おそらく父親は会社を定年退職して注目を集める機会がなくなっているところに新聞社の取材を受けて、自分が何を演じれば社会で評価されるかを馬鹿な頭で考えたんですよ」「そこまで言いますか・・・」実の父親に対する酷評に流石の牧野弁護士も困惑した顔になる。
「ウチではA日新聞を取っていることがインテリの証明だと思い込んでいて、私が自衛隊で実際に経験したことよりもA日の記事が正しいと言って絶対に譲らないんです」「この記事を読んでいてもそんな感じですね」目を通し終わって新聞を返すと牧野弁護士は納得したように返事をしながら受け取った。
「A日新聞のことですから読者の投稿欄に『父親の苦悩に同情する』『被告人は自分が犯した罪を自覚せよ』『被告人が進んで罪に服すことを期待する』なんて注文したような意見が並んだ後に『天声前後』で『親の言葉を被告人はどう聞くのか。親を悲しませることなく罪を認めることが人の道だ』なんて教え諭してくれるんでしょう」私は中学時代からA日新聞を熟読しており、そんな紙面造りは嫌と言うほど見てきている。
「次は系列の雑誌とテレビ局ですね。夜の看板番組がインタビューに行くんじゃあないですか」「あそこならやりそうです」賛同を得て私の頭にはスーツにネクタイ姿で登場し、自分の言葉に酔って妄言を語る父親の画面が浮かび、肺活量の検査のような溜め息が出た。
「新聞が何を書こうと公判に影響はありませんが一番の問題は徳島弁護士がこの報道に勢いづいて告発を取り下げる可能性が低くなったことです」「でも殺人は申告罪(強姦や誘拐など被害者の刑事告発で成立する犯罪)ではないから告発を取り下げても裁判は終わらないでしょう」「それでも検察は戦意喪失、判事も目的不明になりますから無罪になる可能性が大きくなります」それは当然だ。言い出しっ屁のスポンサーが撤退してしまってはリング上に取り残された挑戦者や審判は困ってしまう。喜ぶのは対戦相手の我々だけだろう。
「確かに徳島弁護士は国民の支持を獲得したと思い込んで舞い上がりそうですね。やはり長期戦を覚悟しないと・・・」「モリヤさんて何があっても他人事みたいですよ」「へッ?」牧野弁護士の突然の指摘に私は返事ができなかった。
「弁護士は挫けて自暴自棄になる被告人を励まし支えながら公判に臨むのが普通ですが、今回はダブルスの裁判を楽しんでいるような気分になっています」私は机の上で両手を結んだ。
  1. 2017/01/18(水) 09:34:27|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

1月18日・「水師営の会見」の相手役・ステッセリ中将の命日

1915年の明日1月18日は軍歌「水師営の会見」で「旅順開城約なりて、敵の将軍ステッセル」と歌われたアナトーリィ・ステッセリ中将の命日です(うっかり「敵の大将」と歌うと間違いです)。
日本では無能極まりない愚将・乃木を英雄・軍神に祭り上げているため、何の工夫もせずに正面攻撃を繰り返して多大な犠牲を出したこともロシア軍の防備が頑強であったことにする必要が生じてしまい、司令官として振る舞っていたステッセリ中将を名将にしたのです。
ところが開戦半年後の明治37(1904)年8月の時点でクロパトキン大将の満州軍総司令部はコンスタンチン・スミルノフ中将との交代を発令しており、ステッセリ中将が第3シベリア軍団長への赴任を拒否して居座っていたため、わざわざ新設した関東方面軍の司令官として同居を許していただけでした。その理由としては自分が建設した要塞を実戦で威力を発揮させたいと言う名誉欲もありますが、妻が要塞戦の権威として配属されているロマン・コンドラチェンコ少将と不倫関係にあり、同行を頑なに拒否したことがステッセリ中将自身の悩みを綴った書簡など多くの証拠と共に伝えられています。ちなみにこの妻が要塞内の宿舎で弾いていたピアノは愚将・乃木に贈呈されて、最大の犠牲者を出した第9師団に譲渡されて司令部が在った金沢に現存するようです。
一方、愚将・乃木の第3軍が幾多の人命を失い、大量の流血を強いられたのはステッセリ中将が政治力で獲得した巨額の資金を投じて建設した難攻不落の陣地を無謀な正面攻撃を繰り返した結果ですから、ロシア側から見れば最大の功績を果たしたと言えるのかも知れません。
ステッセリ中将はクロパトキン大将と同じ1848年にサンクトペトルブルグでドイツ系男爵の息子として生まれ、16歳で士官学校に入営すると11年後に勃発した露土戦争には連隊長として出陣しています。この年齢・軍歴不相応な地位は実力よりも男爵家の権力による異例の昇進であったとしか思えません。
その後もシベリアからカムチャッカ方面の連隊長、旅団長を歴任し、第3シベリア狙撃旅団長だった時、北京で発生した義和団事件に派遣されています。義和団事件ではイギリス大使が列国公使館の館員や家族の避難と建物の防御、暴徒の鎮圧の総指揮を執ったのですが、現場で活躍したのは日本陸軍の柴五郎中佐とその部下たちで、その勇猛果敢な行動と厳正な規律が高く評価され、日英同盟の締結につながったと言われていますから北京に派遣されたステッセリ中将もその賞賛を耳にした可能性が高いでしょう。
明治36(1903)年に旅順要塞司令官に着任して前述の要塞建設を指揮しましたが、クロパトキン大将と同じく日本軍の力を正しく認識していたが故に当時の土木工学の粋を集めた要塞陣地を構築したと言う推察が成立します。仮に他の軍首脳のように日本軍を過小評価していればあそこまでの手間暇と資金を投じる必要はないはずです。
ところが愚将・乃木と伊地知幸介参謀長と言う最悪コンビは作戦を立案した段階から日清戦争で大山巌大将がわずか1日で陥落させたことから認識を変えておらず、乃木に至っては「ワシが行くまで落ちないでいてもらいたいものだ」とうそぶいていたと言われています。
ロシア軍の要塞戦については賛否が分かれている面も多く、例えば日本軍の攻撃が頓挫した後、陣地から出て攻撃を仕掛け、こちらも多大の損害を被っています。若し、旅順港に逃げ込んだ極東艦隊をバルチック艦隊が来航するまで守ることが任務であると認識していれば、旅順港への砲撃の観測地点になる203高地だけを死守し、それ以外は要塞に籠城して1日でも長く第3軍の主力への合流を遅らせるべきでした。ただし、攻勢を主張したのはステッセリ中将ではなくコンドラチェンコ少将だったようです。
逆に日本軍も旅順攻略の目的が「極東艦隊を旅順港から追い出して日本海軍に撃滅させることだ」と正しく認識していれば27サンチ要塞砲を受け取った時点で正面攻撃ではなく203高地の奪取を作戦の主眼に据え、目的を達した後は出てくるのを阻止する兵力を残置するだけでよかったはずです。
結局、第3軍は戦死者15400名、戦傷者44000名を出して勝者になり、ロシア軍は戦死者と戦病没者16000名、戦傷者30000名で敗者と言う結果になりました。このうちロシア軍は戦死よりも栄養不良による壊血症の蔓延での戦病死が多かったようです。
終戦後、ステッセリ中将は残存兵力がありながら降伏したことを罪に問われて軍事法廷で死刑の判決を受けましたが(存在を無視されたスミルノフ中将の告発・糾弾だった)、日本側の助命嘆願により10年に減刑され、釈放されるとモスクワで茶の販売を営みながら穏やかに過ごしていたと言われています。
  1. 2017/01/17(火) 09:09:40|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ706

私の問題に対する国民の興味は消えつつあるにも関わらず左傾マスコミは未だに報道を続け、裁判を有利に進める糾弾の世論を扇動しようと執念を燃やしていた。そんなマスコミの中でも社人党の広告塔の役割を果たしているA日新聞が絶好の攻撃材料を見つけたようだ。
「モリヤさんですね。ご子息は今、裁判を争っていますよね」愛知県豊川市の住宅街にある家の庭先で植木に水をやっている初老の男性に初対面の男2人が声を掛けてきた。
男性が目を向けると道路には軍艦旗のような「A日新聞」の旗を立てた車が停まっている。それを見た男性は「おい、お母さん」と家の中にいる妻を呼ぶと間もなく貫禄がある女性が現れ、「この人たちが××××(俗名)のことで訊きたいことがあるそうだ」と先回りして説明した。こうなれば取材を応諾されたことになる。
記者たちは1名が車を近所のスーパーマケットの駐車場に回し、1名は並んでこちらを凝視している夫婦に札入れから抜いた名刺を差し出した。
「A日新聞ですか。ウチもA日新聞ですよ」男性が意味のない説明をしたので記者は営業として「それはどうも有難うございます」と一礼した。しかし、この家が刑事被告人の実家であることを新聞社に通報したのはその新聞店なのだ。全国各地の新聞店は担当区域内の情報を収集しており、以前からこの家の息子が幹部自衛官であることは承知していて、氏名から割り出すのは簡単だった。
やがてもう1名が到着すると男性は「散らかっていますが、中へどうぞ」と招き入れた。記者たちはあまりに無防備な対応に困惑しながら後に続き、その後から女性が入ってドアを閉めた。
玄関の脇の座敷に通された記者たちは女性が茶を持ってくるのを待って用件を切り出した。
「実はご子息の裁判も中盤に差し掛かり、ご両親に於かれましても毎日ご心痛のことと思います」「そこで我々としては心の中に溜まっている悩みなどをお聞きして、少しでも負担を軽くして差し上げたいと思い伺った次第です」記者たちは練習してきたかのように美辞麗句を並べる。これは取材をする時の常套句であり、今までも同様の家族を取材する時に繰り返してきたので熟練しているのは確かだった。
「それは有り難いお心遣いに感謝します。私が父親です。こちらが母親です」男性は異様に緊張した顔で型どおりに自己紹介した。その様子を見て記者たちは裁判で全く動揺した様子を見せない被告人の本当の父親なのか疑問を感じてしまった。
「ご子息は現在、刑事事件で告訴されて公判中ですが、ご両親として何か声をかけることがありますか」ベテランの記者が質問を投げかけた隙にもう1人の若い記者は気づかれないように携帯電話の録画=録音のスイッチを入れる。これは昔のように目の前でメモを取ると相手が緊張し、本音が引き出せないことから編み出された取材方法だ。
「社会人として自分が犯した罪を償って欲しいだけです」「えッ?」思いがけない返事にベテランの記者も咄嗟に対応できなかった。現在、裁判では被告人の行為が罪であるか否かを争っている。然も検察側が追い詰められているのは明らかだ。それを被告人の父親が「罪」と認めたのだ。確かに取材では質問で意識を誘導して罪を認める失言を吐かせることはあるが、この父親は自分からそれを認めた。このまま取材を進めれば守勢に陥っている検察側が攻勢に転じる切っ掛けを獲得できるかも知れない。そう思って2人が横目を見合せた時、父親は更に有り難い言葉を提供してくれた。
「アイツを自衛隊なんかに入れたのが間違いでした。私が言った通りに大学を出て地元で就職していれば人殺しなんて恐ろしい罪を犯すことはなかったんです」父親が自分の言葉に酔い始めているらしいことが隣に座っている母親の困惑した表情から判る。記者たちは自分たちが書いている記事をここまで鵜呑みにしている読者いることに呆れる前に感激したくなった。
  1. 2017/01/17(火) 09:07:28|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

1月16日・日露戦争のロシア満州軍総司令官・クロパトキン大将の命日

1925年の本日1月16日は司馬遼太郎先生の「阪の上の雲」では感傷的な漢詩人・乃木希典と並ぶ愚将として描かれている日露戦争のロシア満州軍総司令官・アレクセイ・ニコラヴィッチ・クロパトキン大将の命日です。
野僧は現役時代、階級・年齢層・部内外を問わず周囲の人たちから「まるで帝国軍人の生き残りのようだが昭和じゃなくて明治のだな」と評されていたため戊申・西南の役から日清・日露の戦史を研究するようになったのですが、日本の軍人たちの人物像は研究者の過剰な思い入れで贔屓の引き倒し、痘も痕が顕著で、その研究者が嫌って批判している人物に関する書物も読んで双方を対比しないと実像が見えてきませんでした。
逆にロシア軍の方は愚将・乃木が無為無策な正面攻撃を繰り返した結果、不必要な犠牲を出した旅順要塞の司令官・ステッセリ(日本ではステッセル)中将を除けばバルチック艦隊司令長官・ロジェストベンスキー中将やクロパトキン大将は敗因を全て本人が無能であったことにされています。
しかし、乃木は少佐も務まらなかった軍人不適格者であり、そんな落伍者を大将にまで昇進させて軍司令官にしたのは山口陸軍閥の罪科なのですが、ロシア軍の将帥たちは近代的な巨大軍組織の中で才覚を発揮して昇任した逸材ですから乃木と同列に扱っては失礼です。その点は司馬先生に抗議したいと思います。
クロパトキン大将の不運は本来、軍政家としてこと能力を発揮できる資質を有しながら側近として仕えた皇帝・ニコライ2世の信任が厚過ぎたために軍総司令官の職を担う羽目になったことです。その経緯はロジェストベンスキー中将と共通しています。
クロパトキン大将は1848年にエストニアとの国境の古都であるプスコフで退役した陸軍大尉の息子として生まれ、陸軍の幼年団(日本の幼年学校にあたる)に入れられると16歳で軍学校(=士官学校)に入校しました。
卒業後は士官としてトルコ・インドの北方のトルケスタンに配属され、プラハ派遣や中央アジアのウズベスキタン攻略に出陣した後、参謀本部アカデミー(日本の陸軍大学校)に入校して首席で卒業しています。
その後はヨーロッパ各国に派遣され、フランス軍のサハラ遠征にも参加して見聞を広め、帰国後は中央アジア各地で頻発していた住民蜂起の鎮圧にあたりながら昇進を重ねていきました。そして1898年に陸軍大臣に就任すると皇帝の側近として宮廷にあって厚い信任を得るようになります。
実際、クロパトキン大将はヨーロッパ各国に豊富な人脈を有し、事務処理能力に優れ、抜群の調整力を発揮していたため皇帝の意図を徹底することに欠かせない存在になっていたのです。しかし、理知的な優等生であることが求められる軍政家と喧嘩屋としての闘争本能と直感が必要な指揮官の違いを皇帝は正しく認識しておらず、おそらく「優秀であれば何でもできる」とでも思っていたのでしょう。
クロパトキン大将は陸軍大臣在任中の明治36(1903)年=日露戦争の前年に日本を訪問し、陸軍首脳と交流していますが、この時、対露戦に向けて準備を進める陸海軍人の士気と戦力の充実度、それに1895年の三国干渉への恨みを忘れていない国民の憤怒の激しさに圧倒され、「対日戦の回避」を主張するようになっています。その点が日本の陸海軍を「ヨーロッパの猿真似をしているに過ぎない」と馬鹿にしていた他のロシア軍上層部とは大きく違ったのです。
クロパトキン大将の作戦指揮は撤退に次ぐ撤退で戦意が全くなかったと揶揄されますが、撤退はナポレオン戦争で勝利を勝ち取ったロシア軍の伝統的戦術でした。広大な平原で撤退しながら敵を追撃により奥深く引き寄せることで伸び切った補給線を騎兵部隊による襲撃で遮断して孤立させ、包囲殲滅するのです。
確かに日本軍でも猪突猛進型だった第1軍司令官の黒木大将は追撃を主張しましたが、日本の満州軍総司令部はこれを制止し、野津大将の第4軍と第1線を交代させました。
またロシア極東艦隊が兵員や物資を運ぶ輸送船を攻撃して補給路を断つ作戦も日本海軍の勇戦によって頓挫したことも誤算でした。
それでも鉄道を活用した軍事物資の大量輸送・補給と軍の機動展開は世界に先駆けており、これは通信網による指揮系統で組織戦を提唱したプロシアのモルトケ元帥に匹敵する頭脳の持ち主だったことを証明しているのかも知れません。
ロシアは日露戦争の結果を敗北とは認めていませんが戦争そのものの評価・総括は厳格に行っており、クロパトキン大将も他の将帥と同じように左遷・降格されています。
第1次世界大戦にも参戦していますがロシア革命後は退役し、故郷で教師として穏やかに過ごしました。
  1. 2017/01/16(月) 08:46:44|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ705

「弁護側から質問させていただきます」牧野弁護士は公判前の打ち合わせで「本当は貴方に直接、質問してもらいたいよ」と言っていたのだが、検察側が失敗したのを見て少しは自信を取り戻したようだ。
「質問の前に当方が提出しています物的証拠を証人に確認してもらいたのですが」「北キボールの判決証明書ですね」「反対!」牧野弁護士の申し出に検察官は即座に反対した。
「検察官、反対理由を説明して下さい」「証拠は被告人や関係者の個人情報に属する部分もあり、みだりに外部へ漏洩するべきではありません」検察官の主張はあくまでも建て前だった。何故なら証人は検察側が申請した人物であり、物的証拠はこちら側が提出したのだ。
「確かに尋問を円滑に進める上で証人に知っておいてもらうことは有益だと考えます。それではどうぞ」裁判長の許可を得て、牧野弁護士はアタッシュケースから取り出したアラビア語の判決証明書の複写に手渡した。ウラマー・カラハンは証人席の椅子に座って長文の証明書を読んでしたが、それを終えると黙って立ち上がった。
「読み終わりましたか」「はい、有り難うございました」ウラマー・カラハンは裁判長と牧野弁護士に会釈をしてから検察官に顔を向けた。その目を見た検察官は息を呑み、そんな両者を見て牧野弁護士は質問を始められないでいる。
「証人、言いたいことがあれば質問の前にどうぞ」「証人」裁判長も先ほどまでの温和さとは一変したウラマーの表情を見て特別に許可した。
「検察官は証人を依頼するに当たり、このような重大な事項を隠蔽しました」「それは法廷戦術と言うものであって・・・」「イスラム法の禁止事項第25条には『裁きの場で証言を求められた時に隠すこと』とある。貴方はイスラム法を破った」この圧倒的な気迫に、どんな時にも冷静であるはずの検察官が少し震えているように見える。
「私はイスラム教徒ではない!」「イスラム法の禁止事項第26条には『正義を故意に妨害すること』とある。明らかにこれに該当する」私と牧野弁護士は顔を見合せながら黙っているしかない。
「ここは日本だ!」「イスラム法の禁止事項第27条、『他者の中傷を流布し、嫌悪を扇動すること』。さらに第24条、『アッラーの言葉を故意に偽ることや偽証すること』。これだけの罪を重ねれば・・・」「ゴクッ」検察官だけでなく傍聴席からも生唾を飲む音が法廷内に響いた。イギリス人作家の「悪魔の詩」がイランの最高指導者の怒りを買い、1991年にそれを日本語に翻訳した筑波大学の教授が学内で惨殺された未解決事件の記憶もまだ新しいのだ。特に検察官はその残忍な犯行現場の写真を見ているだけに尚更だろう。
「私には日本で貴方を処断できる立場ではないが、イスラム法理学会に報告して結論を出すことにする」「これは脅迫だ!」「只今の検察官の意見は却下します」検察官の絶叫も裁判長は冷静に処理した。これでは質問するどころではないが、牧野弁護士は再び温和な雰囲気に戻ったウラマー・カラハンの前に立った。
「それではこの判決の正当性を証明していただいたと理解しても良いですね」「はい、私は以前から被告になっているキャプテン・モリヤの名を存じています。トルコ陸軍のハッサン・アカイ少佐からイスラム教に対する深い理解と共感を持つ佛教の僧侶の1等陸尉がいると聞いていました」佳織が三重県に案内したCGSの同期の留学生・アカイ少佐の顔が浮かんだ。やはりアカイ少佐もウラマー・カラハンのトルコ人のモスクへ通っていたらしい。
「そんな方が罰を与えた若者たちはアッラーに背く悪事を働いていたのでしょう。それ以上、罪を重ねないですむよう計らっていただいたことをアッラーに代わり感謝いたします」今回は佳織の援護を受けて一本取ることができたようだ。
  1. 2017/01/16(月) 08:45:20|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

1月14日・ソ連のロケット開発の立役者・コロショフ博士の命日

1966年の1月14日はソ連のロケット開発を実質的に1人で指導し、アメリカに勝る宇宙大国にした大天才・セルゲイ・パーヴロヴィッチ・コロリョフ博士の命日です。59歳でした。
コロシェフ博士は1906年12月30日に現在のウクライナでロシア人の父とウクライナ人の母の間に生まれましたが、当時は同じロシア帝国の国民であり、後にはソ連の同胞になり増すから現在ほどの違和感はなかったのでしょう。
成長するとオデッサで教育を受け、ロシア革命の混乱の中、20歳前にはキエフの航空研究会に所属してグラーダを設計しますが、ライト兄弟の動力式有人固定翼機の初飛行は1903年12月17日ですから、世界中を敵に回し、孤立無援だったソ連国内でも若者たちは飛行機の開発に興味を持ち、独自に研究を始めていたことになります。ちなみに日本人の二宮忠八がゴム動力による模型飛行機の飛行に成功したのは1889年のことです。
その後、20歳の年にモスクワの最高技術学校に進み、ジェット機を含む多くのソ連軍用機や旅客機を開発したアンドレイ・ツボレフ博士に学び、卒業後は爆撃機の開発に携わりながら、1930年代初頭にはジェット推進に着目し、研究グループに参加しています。やはり若い頃から天才だったのでしょう。
この研究グループは1933年には液体燃料ロケットの開発・実験に成功し、新設されたロケット研究所の所長に就任しますが、同僚の密告によりテロ組織へ関与と意図的な研究遅延、そして国家資源の浪費容疑で逮捕され、顎が砕けるほどの激しい拷問を受けて自白した罪で、懲役10年のシベリア強制収容所への流刑の判決を受けます。
シベリアでは鉱山労働に従事しますが壊血症に罹患し、心臓病も併発して死の一歩手前を彷徨い続けました。
そんな中、恩師であるツボレフ博士の「軍用機開発に必要不可欠な人材である」と言う嘆願が共産党に認められ、8年に減刑された上でモスクワの収容所内に設置された研究所に移送され、戦闘機や爆撃機の開発を再開したのです。結局、コロショフ博士の冤罪が免除されたのは1944年になってからでした(あくまでも免除であって無罪になったのではない)。
ヨーロッパでの第2次世界大戦が終結するとドイツに派遣されてV-2ロケットの情報を収集し、ソ連が強制連行した5000人の技術者(殆どは現場作業員)と共にロケット開発に乗り出したのです。ただし、ソ連の開発目的はあくまでも大陸間弾道弾であり、まだ宇宙開発と言う発想はありませんでした。
ところが1947年にV-2の改良型であるR-1を打ち上げたものの同年にコロシェフ博士が独自に設計したR-2がR-1の2倍以上の飛行距離を記録したため用済みになったドイツ人技術者たちは東ドイツに帰国できたのです。
その後もコロシェフ博士を冤罪に陥れた技術者が担当していたエンジンの開発が遅れたものの(冤罪も自分の仕事の遅れの責任をコロシェフ博士に押しつけたらしい)、R-5で1200キロ、R-7では模擬核弾頭を搭載して7000キロの飛行に成功し、北極海を越えてアメリカ本土を直接狙えるインター・コンチネンタル・バルチック・ミッソール(ICBM=大陸間弾道弾)になりました。
コロシェフ博士はR-5の発射に成功した頃から今後開発する弾道弾の性能なら核弾頭に代えて人工衛星を搭載すれば宇宙を周回させられることに気づき、必要性を訴えたのですが認められませんでした。
ところが1957年は国際地球観測年であり、アメリカが実現できていない人工衛星の打ち上げにソ連が成功すれば、国際政治でも優位に立てることをこの年に入党を果たしていた共産党で訴えて認められ、1957年10月4日に世界初の人工衛星・スプートニク1号の打ち上げに成功しました。
続いて有人ロケット用のボストークを開発し、さらに月への有人飛行を目指していたのですが、この日の癌の手術中に心臓が停止してしまったのです。
ソ連は宇宙開発の技術者の氏名を国家秘密にしていたため生前はその存在も噂の域を出ませんでした。しかし、死後はソ連の英雄として大々的に喧伝され、現在ではアメリカのヴェルナー・マグヌス・マクシミリアン・フライベル・フォン・ブラウン博士と並ぶ宇宙開発の両巨頭として崇敬を集めています。日本の糸川英夫博士は及びません。
コロシェフ博士のR-7は現在も使用され続けており、1500回以上も打ち上げに成功している実績から「ロケット界のフォルクス・ワーゲン」と呼ばれているそうです。
  1. 2017/01/15(日) 09:32:29|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ704

次の検察側の証人には意表を突かれた。それは東京都内のイスラム教モスクのウラマー(聖職者)だった。その通知を受けた時、牧野弁護士は困惑を隠さない理由を説明してくれた。
「裁判では霊的な体験やカミの奇跡などは一切受け付けませんから、宗教に関する証言は大学などの宗教学者に依頼するのが一般的なんです」つまり検察側は戦術的奇襲を仕掛けてきたのだが、私としてはワクワクするほど楽しみだった。
「日本語は判りますか?必要であれば通訳を用意します」裁判長は開廷して最初にこの確認をした。検察側からは「語学力に問題はない」と説明されているが念には念を入れたのだろう。
「はい、大丈夫です」「それでは氏名、国籍、住所を言って下さい」「氏名はアフメット・カラハン、国籍はトルコ共和国、住所は東京都台東区谷中の谷中モスクです」ウラマー・カラハンはイントネーションに少し癖があるものの美しい日本語を話すようだ。
「検察側から質問を始めます」検察官は一礼してから尋問を始める。ウラマーはイスラムのローブ(膝まである長い上着)を着て、頭には「フェズ」と呼ばれる頭頂部から房が下がった円筒形の帽子を被っている。日本ではトルコ帽と呼ばれているが、そのトルコでは大統領によって禁止された時期があり、意外に愛用者は少ないらしい。本来、法廷内で男性は帽子を被ることができないのだがイスラム教徒の正装として許可を取ったのだそうだ。
「イスラム教に於いて殺人は罪になりますか」「証人」「はい、イスラム教の戒律第8では『故意にアッラーが尊いとされた生命を奪うこと』が禁じられています」「なるほど。やはり学問として研究している人よりも言葉に重みがありますね」検察官は妙な誉め方をしたがウラマーは反応しない。
「そのアッラーが尊いとされた生命と言うのはどのような人を差すのですか」「証人」「敬虔なイスラム教徒は言うまでもありませんが、アッラーの恩恵によって生かされている動物などの生命も必然性がないのに奪うことは許されません」「ほーッ、イスラムの生命尊重は我々日本人と共通する面があるようです」今度の賛意にはウラマーもうなずいた。
「そんなイスラム教徒の若者の生命を異教徒が奪ったらどうなりますか」「証人」「罪人はアッラーの名を以って罰しなければなりません」予想されていた展開だが、私にはトバラ市内のモスクでの通訳を挟んでいた裁判よりも歯痒く感じてしまう。
「それはどのように」「証人」「命を奪えば命を、目を潰せば目を、腕を折れば腕を、足を失わせれば足を、被害者が失った物や受けた苦痛と同じ罰を受けなければなりません」「つまり目には目を、歯には歯をと言うことですね」「証人」「それはハムンムラビ法典なのでイスラム法とは違いますが、考え方は同じです」流石はイスラム法廷の判事を務めるだけのことはある。
「この裁判ではクリスチャンであるオランダ軍の軍人を守るためにイスラム教徒の若者3名の命を奪った行為が罪になるのかを争っています。これについてはどのように考えますか」「証人」「イスラムの土地にキリスト教徒が立ち入ることは仕方ありませんが、若し争乱になったのであればイスラムの側に立つのが、その土地でアッラーの恩恵を受けている者の義務です」「つまりイスラムの若者を殺害したことはアッラーへの背信行為と言うことですね」「証人」「はい、今聞いた話ではそうなります」検察官は私が受けたイスラム法廷の判決を説明していないようだ。要するにイスラム教とキリスト教の対立に私も同調したことにしたいのだろう。
「その若者たちはオランダ軍の軍人を銃で狙っていたらしいのですが、それについてはどうですか」「証人」「オランダ軍が現地でアッラーを冒涜するなどの罪を犯していれば罰するのは正当行為ですが、そうでなければ原因と経緯、状況によります」この答えはイスラム教を好戦的な宗教と思っていた検察官には想定外だったように見える。イスラム教に対する理解不足が戦果を不十分なものにしたようだ。
  1. 2017/01/15(日) 09:31:26|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

1月14日・明治政府が「(いわゆる)廃城令」を出した。

明治6(1873)年の明日1月14日に太政官布告「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」=「(いわゆる)廃城令」が出ました。これによって全国各地の城郭は悉く破壊されたと思われがちですが、それは少し短絡的な解釈です。
城マニアは歴史が得意な者が多いので、その知識から「旧藩主への忠誠心を否定するため、そのシンボルである城を破壊した」「平安以来の政権を握った公家たちが武士を傷つけるために心の拠り所を奪った」などと勝手な推理をして怒りを湧き起こしていました。
しかし、実際は幕藩体制の崩壊によって藩主と家臣の主従関係と領民からの年貢収入が消滅したことで城郭を維持する労働力と経費を確保することが困難になり(各藩は家臣の中に「小普請組」と言う土木建築専門の部署を配置していた)、特に名古屋城の尾張徳川家や熊本城の肥後細川家、福岡城の筑前黒田家、広島城の安芸浅野家などの巨大な城を有していた大大名の方が新政府に廃藩置県を要望し、明治4(1871)年4月7日(太陰暦)に実施されたのです。
この布告は戊辰戦争後、新政府軍が接収していた全国の城郭を陸軍の部隊の配置が整ったことで駐屯するため引き続き軍の管理下に置く城郭以外を大蔵省に移管して国家財産とした上で、地方自治体の役所や学校などに転用できない物を処分することを通達したものです。
ただし、明治新政府の主要メンバーは廃佛毀釋と言う許されざる凶行に走った品性下劣な連中でしたから文化財保護などと言う高邁な思想は持ち合わせておらず、不用品を処分するように元祖お役所仕事で破壊したのは間違いありません。
この当時の県は基本的に律令国が基準だったため、一覧表の区分は古い国名単位になっています。その中で陸軍の駐屯地として保存が維持されたのは北から陸中=岩手の盛岡城、陸前=宮城の仙台(=青葉)城、羽後=秋田の秋田城、羽前=山形の山形城、岩代=福島の若松城、磐城=福島の白河城、下野=栃木の宇都宮城、上野=群馬の高崎城、常陸=茨城の水戸城、下総=千葉の佐倉城、武蔵=東京と埼玉の東京(=江戸)城、相模=神奈川の小田原城、甲斐=山梨の山梨城、越後=新潟の新発田城と高田城、加賀=石川の金沢城、越前=福井の福井城、駿府=静岡の静岡(=駿府)城、三河=愛知の豊橋(=吉田)城、尾張=愛知の名古屋城、伊勢=三重の津城、近江=滋賀の彦根城(=特例で追加された)、山城=京都の二条城、摂津=大阪の大坂城(=当時の表記)、紀伊=和歌山の和歌山城、播磨=兵庫の姫路城、因幡=鳥取の鳥取城、出雲=島根の松江城、備前=岡山の岡山城、安芸=広島の広島城、周防=山口の山口城、讃岐=香川の高松城と丸亀城、伊予=愛媛の松山城と宇和島城、阿波=徳島の徳島城、筑前=福岡の福岡城、豊前=福岡の小倉城、日向=宮崎の飫肥城、肥後=熊本の熊本城、薩摩=鹿児島の鹿児島城、対馬=長崎の厳原城、琉球=沖縄の首里城でした。
このうち岩代の若松城は戊辰戦争で徹底的に破壊されたため建物が使用に堪えず全て撤去されて新たな兵舎が建築されました。豊前の小倉城も高杉晋作の攻撃を受けた時、退却に際して放火・焼失しています。
逆に播磨の姫路城は藩主が暮らした御殿が撤去されただけで他の建造物は残されたため現在の国宝としての姿を留めることができたのです。
逆に熊本城は西南戦争の時、政府軍が籠城したため西郷軍の攻撃によって天守閣が炎上してしまいましたが、これは元々の駐屯地であったからで近代陸軍が時代錯誤を犯して城内に入ったのではありません。
また周防の山口城は禁門の変に先立って藩主・毛利敬親が幕命で築いた萩城を捨てて領国の中央の山口に移った場所で城郭と呼べるような建築物はありません。
現存している12の城郭は全て国宝か重要文化財になっていますが、このうち陸軍の駐屯地になって国費で維持されたのは姫路城と松江城、宇和島城、それに特例として追加された彦根城の3つで、信濃(長野)の松本城は地方自治体が払い下げを受けて保存し、尾張(愛知)の犬山城は明治23(1890)年になって「旧藩主=城主には先祖伝来の財産である」として査定額で売り渡すことにした結果(略奪品を元の持ち主に売ったようなものですが)、個人資産として維持されたのです。
重要文化財の城郭は陸軍が保存した丸亀城、松山城、宇和島城の3つ、陸奥(青森)の弘前城、備中(岡山)の備中松山城、越前(福井)の丸岡城、土佐(高知)の高知城は前述のような経緯で残ったようです。
国家予算で保存されながらも第2次世界大戦の空襲で焼失した名古屋城や原爆で倒壊した広島城など勿体なかった城は数多いのですが、折角、再建するのなら史実に則って復元してもらいたいものです。
  1. 2017/01/14(土) 08:52:11|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ