太陰暦の2月29日は浄土宗の二祖として現在も最大勢力を有する鎮西派を開いた聖光房弁長上人の命日であり、鎮西忌が厳修されます。
弁長上人は平清盛さまが活躍していた応保2(1162)年(=この年に清盛さまは次男の基盛さんを亡くしています)に豊前国香月(現在の北九州市小倉西区)で生まれました。同年の生まれの人物としては石橋山で敗走して洞穴に潜んでいた源頼朝さまを見逃し、その功で御家人となり、平家追討では軍監して源義経くんの行状を批判的に報告した悪役として名を残した梶原景季(かげとき)さんや甲斐源氏の5世・武田信光さん(晴信=信玄さまの先祖)など源平争乱の役者が揃っています。
6歳で出家して13歳で太宰府にある観世音寺で受戒していますから伝教大師・最澄さまが比叡山延暦寺に設けた戒壇の日本だけでしか通用しない大乗菩薩戒ではなく鑑真和上以来の正式な佛戒であり、極めて正統派の僧侶だったことが判ります。
補足すれば日本国内で正統な佛戒を受けられたのは奈良の東大寺と下野の薬師寺、そして大宰府の観世音寺しかなく、現在の日本では奈良佛教など天台宗よりも古い宗派や海外で受戒した僧侶を除けば殆ど残っていないでしょう。
それでも21歳で比叡山に上って高僧たちに師事し、7年後に帰郷すると筑前国油山(現在の福岡市城南区)にあった僧院の学頭になったのです。当時、油山には360もの僧坊があったそうですが、若くして比叡山で学んだ弁長さんの教えを受けようと学僧たちが群れをなす状態であったと言われています。
そんな折、同じく佛門に入っていた異母弟の死を切っ掛けに世の無常を深く感じるようになったことで、当時、都を中心に広がり始めていた念佛に惹かれるようになり、現在の福岡県飯塚市にある延暦寺の末寺・明星寺(みょうしょうじ)の五重の塔の再建に当たり、本尊とする佛像の鋳造を発注するため35歳で再び京に上ると法然坊源空上人に入門しました。
それにしても無常感は佛教の基本中の基本であり、菩提心を起こす動機の中心ですから、修行を終えてから認識したと言うのは些か不可思議に思います。やはり当時の佛教は宗教と言うよりも学問であり、寺は高等教育を受ける場であって中央の最高学府で学んだ者には社会的地位が保証されていたのでしょう。
法然上人はそんな中で「知恵第一」の称号を得ていたのですが、その膨大な知識を「不要」と捨て去って念佛で救われると説いていたのです。
法然上人の下での修行は8年に及び、後継者としての允可・嗣法を受けて厨寺帰郷すると筑前・筑後・肥前・肥後を中心に念佛を広め、現在の福岡県久留米市高良山の麓にある厨寺(聖光院・安養寺)で千日間の不断念佛を務めて奇瑞の伝説を残すなどかつての弘法大師・空海さまのような存在になっていたようです。野僧も東北地区太平洋沖大震災の後、「死ぬまで」との覚悟で不断念佛を勤めたことがありますが、49日目に意識を失って成就できなかったものの佛神と会話できるようになりました。
その後、現在の久留米市に鎮西派の本山になっている善導寺を創建して鎮西=九州における浄土門の拠点としました。
浄土宗鎮西派=弁長上人の教えの特色は念佛門でありながら念佛以外の善行を認め、むしろそれを推奨していることです。この点は弁長上人よりも遅れて法然上人の下に入門した親鸞聖人の「悪人正機」説とは対極を為すようですが、弁長上人も念佛による阿弥陀如来の救済が遍く大衆に及ぶことは認めており、単に広大無辺の慈悲に甘えて身を持ち崩すよりも可能な限り身を正し、余力があれば慈悲を施せと諫めているだけでしょう。
日本人は何かと言えば「純化」を好みますが、社会常識を逸脱した純化は誤解を招くだけでなく、何らかの悪事をたくらむ輩に都合よく曲解して利用される危険が伴いますから不用意に口にしないことが責任ある態度なのではないでしょうか。
野僧は弁長上人の法脈を受けていますから閏年ではない今年は3月1日に報恩法要を厳修します。やはりカレンダーは2月を含め30日を基本に改めてもらいたいものです。
- 2017/02/28(火) 09:36:36|
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メジャー(少佐)・ライアン夫妻はアーカンソー州のキャンプ・ジョセフ・T・ロビンソン所属だった。アーカンソー州はカンザス州に比較的近く(四角形の南東角に位置する)、同期たちも卒業論文の作成を中断して葬儀に参列した。学校としても黙認と言う形だ。
「メジャー(3佐)・モリヤ。有り難う」「少しは落ち着いたみたいね」メジャー・マーガレット・ライアンは泣き腫らした目に厚化粧をして誤魔化している。大隊長である彼女の夫以下38名の兵士たちの遺体は昨日、空軍のCー130輸送機でアーカンソー州にあるビル・アンド・ヒラリー・クリントン記念空港に到着し、駐屯地内の礼拝堂の席をずらして設けたホールに安置されている。棺の顔の部分は開かれており、参列者が訣れを告げていた。遺族たちは棺の手前に並び挨拶を受けている。
「メジャー・モリヤ、貴女の夫の裁判はどうなっているの」参列者が途絶えたところでメジャー・ライアンは後ろ立って見守っている佳織に小声で訊いてきた。実は昨日、島田元准尉から新聞記事が届いたのだが、裁判は1年に差し掛かりながら相変わらず検察側の明らかな引き延ばし戦術で中身がない論戦が続いているらしい。
「まだ当分かかりそうね。私たちが帰国しても拘置所まで面会に通うことになるかも知れない」「日本の裁判って本当に異常ね」メジャー・ライアンが小声のまま語気を強めたところでまた参列者が挨拶にきた。
「マミィ、ケイトと外へいって良い」今回は葬送式までの間、ライアンの娘の相手をさせるために志織も学校を休ませて連れてきている。娘の名前はケイト、正式にはキャサリンだ。
「良いけど走り回ったり、騒いだりしてはいけないよ。静かにお話ししていなさい」「はい、ケイト、行こう」「うん、シオリ」2人は手をつないで礼拝堂の脇の通路から外に出て行った。
葬送式が終わり、メジャー・ライアンと佳織は陸軍参謀本部からの出席者である女性のルテナン・ジェネラル(少将)に呼ばれた。
「マーガレット、今回は本当に残念なことでした」「ありがとうございます」礼拝堂の控室は高い位置に小さな窓があるだけで薄暗い。ルテナン・ジェネラルは窓から差している日の光でスポットライトを浴びているかのようだ。
「マーガレット、私も夫をグレナダで亡くしたのよ」グレナダ侵攻は1983年、20年前のことだ。つまりルテナン・ジェネラルもマーガレットと同年代で夫を失ったことになる。
「それは知りませんでした。グレナダでのアメリカ軍の損害は19名だったと記憶していますが」「そう、空挺部隊の指揮官として降下中に銃撃を浴びて霊魂は天へ、肉体は地上へと別れたのよ」これはジョークなのだろうか?返事以前に反応に困り、マーガレットと佳織は顔を見合わせた。
「マーガレット、今回の不幸な出来事は貴女にとって大きな幸運をもたらす可能性があるのよ」「幸運を?」いくら自分も戦争で夫を失っているにしても葬儀を終えたばかりの妻に掛ける言葉ではないだろう。佳織は少し怒りを感じながらルテナン・ジェネラルの顔を見た。
「貴女は幸いにしてCGSを卒業する。そして軍に大きな貸しを作った。これからの昇任レースにライバルが出現しても貴女には対抗できないでしょう」「それは・・・」あまりにも現実的な助言にライアン少佐は困った顔で佳織を見た。するとルテナン・ジェネラルは佳織にも声をかけた。
「メジャー・モリヤ、それは貴女にも同じことが言えるのよ。夫は自衛隊が人を殺せる軍隊であることを証明したことで罪に陥れられた。それを精一杯利用しなさい」佳織の中でアメリカ人の血と日本人の血が別々の反応をしていた。

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- 2017/02/28(火) 09:34:26|
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1947年の明日2月28日に台湾で2・28事件が発生しました。日本のマスコミと学校教育は戦後一貫して毛沢東の中国共産党・中華人民共和国と金日成の朝鮮労働党・朝鮮民主主義人民共和国を礼賛し、その敵対国である台湾と韓国を軍部独裁の非民主義国であると断定してきましたが、韓国に於ける李承晩の圧政とこの事件を見る限り全てが虚構とは言い切れなくなります。
この事件は第2次世界大戦の終結後、台湾を統治していた日本からの行政の引き継ぎ事務と本格的な攻撃を受けず残存していた日本軍を武装解除するため送り込まれていた国民党の官僚と軍(外省人)が台湾土着の住人(本省人)に対して本格的な弾圧を始める発端になったものです。
台湾における日本の統治は帝国大学を設立し、学校教育制度を定着させるなど人材育成に努め、ダムや鉄道網、幹線道路、港湾を整備し、産業を誘致するなど中国歴代王朝からは化外の地(けがいのち=野蛮人が住む土地)として放置されていた台湾を急速に近代化するものだったのです。このため開戦前の時点では台湾の国内生産や国民所得は日本の地方を上回っており、中国本土などは足元にも及ばない豊かさでした。
そこに乗り込んできた国民党の外省人たちは仕事をそっちのけにして盗難や強姦、殺人事件を頻発させ、さらに本省人たちを敗戦国・日本に協力した中国の裏切り者として蔑み、蛮行は悪化の一途を辿るばかりでした。
そんな中、2月27日に台北市内で煙草を売っていた40歳の本省人の女性(夫を亡くして子供2人を女手一つで育てていた)を取り締まりの国民党の役人6人が暴行すると言う事件が発生したのです。
日本の統治下で煙草は塩や砂糖と共に行政機関による専売制度でしたが中国本土では自由販売であり、国民党の統治下に移った以上、制度も変わると思っていた本省人は多かったのですが、国民党は利益が上がる専売制度を踏襲してしまいました。
このことを差別と受け止めていた本省人たちは女性に対する同情も重なって怒りに火を点け、現場付近で抗議集会が始まると憲兵隊がこれに威嚇発砲し、その1発が集会とは無関係な男性を死亡させたことで抗議の声はさらに強まり、急速に台湾全土へ広がったのです。
翌28日に市の庁舎に向かって大規模なデモ行進が行われると憲兵隊は庁舎の屋上に機関銃を据え、無差別発砲を行い、多数の市民が死傷したのですが、それに飽き足らず国民党は台湾全土で始まった抗議集会やデモに参加する不満分子の殺害・処刑を始めました。
一方、本省人も対決姿勢を強め、日本の統治時代に全員が唄えるよう教えられていた「君が代」を合言葉にして、唄えない者には日本語や台湾語で質問し、答えられなければ暴行・殺害する行動に出たのです。
この事態を台湾の国民党の長官は原因を隠蔽した上で「台湾独立を目指す反乱」と報告し、スターリンとの協定締結で優位に立っていた蒋介石はそれを鵜呑みにして武力鎮圧を命じ、余剰兵力から1個師団と憲兵隊を台湾に送ると一斉攻撃を開始しました。この時に摘発された本省人のリーダーの多くは日本の統治下で高等教育を受けたエリートたちで、貴重な人材が戦後に失われる結果になったのです。
その後も国共内戦で敗れ、大陸を追われて台湾に逃げ込んできた蒋介石の国民党軍による本省人への弾圧は続き、犠牲者数は中国や朝鮮の歴史研究では御他聞に漏れず国民党政府の800人から反国民党活動家の10万人まで極端な差がありますが、民主化されてからの公式発表でも1万8千人から2万8千人ですから、当時の本省人の人口(現在の総人口が約2352万人で本省人は8割程度)を考えればかなり重大・深刻な被害でしょう。
と言っても毛沢東が中国本土で執拗に繰り返し、文化大革命で仕上げた大虐殺に比べれば可愛いものですが、(犠牲者数の桁が大きく違います)日本のマスコミと学校教育ではこちらの方が悪いことになっています。
- 2017/02/27(月) 10:14:00|
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佳織の同期であるアメリカ陸軍少佐のWACを悲劇が見舞った。その連絡は朝のミーティング中に届いた、ミーティング後には学生たちは卒論作成のため自由行動になるのだ。
「メジャー(少佐)・ライアン。廊下に出てくれ」連絡にきた学校本部の中佐に耳打ちされた教官が彼女を指名すると教場内には緊張が走った。3月19日の開戦以来、4月中旬にサッダーム・フセインが逃亡し、15日には西部地区の司令官が降伏した。その後は残党の掃討作戦に移っているはずだが、4月1日のラムズフェルド国防長官が記者会見で取り乱し、怒りを露わにしたことでも戦況がアメリカ版大本営発表ほど順調ではないことは誰も口にしないが明らかだ。すると廊下から彼女のすすり泣く声が聞こえてきた。
日本では夫の戦死の報に接しても取り乱すことなく毅然として振る舞うことが徴兵された一般の兵士の妻にまで強要されていたが、アメリカではそのような人間の感情を無視した演技は求められていない。それは陸軍少佐であっても同じだった。すると教官が静かな口調で中佐から聞いた事実を説明し始めた。
「メジャー・ライアンの夫のメジャー・ライアンは歩兵大隊長としてイラク西部の山岳地帯に残存するフセインの残党を相当するため輸送ヘリコプターで移動中、岩場から地対空ミサイルの攻撃を受けたようだ。機体は不時着したものの生存していた兵員は地上部隊に包囲され、全員殺害されたと言うことだ。それでは・・・」「西部地区アンパール県を防衛している軍司令官が先日、降伏文書に調印したはずですが、何故、そのような組織戦闘が行われたのですか」教官の黙祷の呼びかけを遮るようにアメリカ軍の中佐が質問を投げかけた。これは非礼・非情と非難するよりも軍人としての真剣な探求心と賞賛するべきだろう。
「すでにフセイン政権は内部崩壊していたのだ。だから司令官の指揮統制が末端部隊にまで届かず、現場の指揮官が自分の部隊を勝手に動かしている可能性が高い」「つまり司令官の降服は自分の身を守るための方便に過ぎなかったと言うことですね」教官の説明と中佐の理解に学生たちは一斉にうなずいた。
「それではメジャー・ライアンに英霊に黙祷を捧げる」教官の呼びかけに学生たちは黙って立ち上がる。そして直立不動の姿勢を取る者と胸の前で手を組む者に別れたが、佳織は両手を合わせた。
「サイレント(黙祷)」教官の指示で一斉に目を閉じ頭(こうべ)を垂れる。本来であれば自衛隊の「国の鎮め」に当たる鎮魂ラッパが吹奏されるのだが、この場は深い静けさだけだ。佳織は口の中で夫がするように念佛を唱えていた。
「カオリ・・・」おそらく夫の遺骸の出迎えと葬儀のための休暇の説明を受けてきたのであろうメジャー・ライアンは教場に入ってきてそのまま佳織の前に立った。彼女と夫はウェストポイント=陸軍士官学校の同期で、夫はCGSに合格できずにアフガニスタンからイラクへ転戦している。その点も佳織と共通しており、刑事訴追を受けた時には一緒に怒ってくれた。
「マーガレット、泣きなさい」佳織は何時もの通称「メグ」ではなく正式な名前で呼ぶと腕を背中に回し引き寄せた。メジャー・ライアンの方が身長が高いので頭に頬が乗る。佳織の髪に熱い水滴が流れ落ちたことが判った。
「貴女の夫が一緒にいてくれれば守ってくれたはず・・・でも貴女まで夫を失わせることはできないな」メジャー・マーガレット・ライアンは佳織の夫が北キボールで果たした役割を知っているが、イラクとは戦闘の様相が違うことを思い取り消した。
「私も娘を連れてくるわ。そうしたら志織と仲良くさせてね」メジャー・ライアンは自分の親に預けている娘を残り少ないCGSの期間、こちらに呼ぶと言うのだ。確かに娘が心に負った傷を思えば当然の処置だが、これからを考えればお互いに難しい問題だった。

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- 2017/02/27(月) 10:12:56|
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昭和11(1936)年の本日2月26日に発生した2・26事件で元首相で内大臣の斉藤実(まこと)海軍大将が殺されました。
斉藤実首相は岩手県出身と言っても盛岡城の南部藩ではなく県の南部・水沢にあった伊達支藩で藩医を務めていた家の出身でした。水沢と言えば幕末の村田蔵六さんと並ぶ江戸時代の天才蘭学者である高野長英の出身地であり、東北の地では銅山開発で平賀源内を招聘した秋田藩と共に蘭学が根を下していた土地柄です。そんな訳で斉藤少年は海軍兵学寮に入営すると「海軍の3秀才」と呼ばれました。
卒業後は10年余りで海軍駐在武官を兼務する形でアメリカに留学して4年間で抜群の語学力を身につけ、軍内外の人脈を作って帰国すると、軍令部勤務や2つの巡洋艦の艦長を経験してから日清戦争の賠償金で購入した戦艦・富士をイギリスからスエズ運河を通過して日本へ回航する特命艦長(肩書的には回航委員)になっています。
こうして迎えた日露戦争では海軍と政府の調整事務担当者として山本権兵衛海軍大臣を支えました。それにしても陸軍が鹿児島県と山口県の藩閥で不毛の主導権争いを繰り広げていたのに比べ、戊辰戦争の賊徒であった奥羽越列藩同盟出身である斎藤大佐を海軍次官に据え、次の海軍大臣へと育てた山本大将の人事は冴えわたっています。
その後、寺内内閣から山本権兵衛内閣まで8年間にわたり海軍大臣を務めましたが、ドイツのシーメンス社に巡洋艦・金剛を発注するに際して関係者が賄賂を受け取ったシーメンス事件が発覚したことで、海軍大将である山本首相に連座して辞職し、予備役に編入されてしまいました。
それでも5年後には岩手県出身の原敬内閣が朝鮮半島で独立運動に対して陸軍まで使った大弾圧を繰り広げ、完全に民心が離反してしまった山口県出身の長谷川陸軍大将の後任として朝鮮総督に抜擢したことで、政界に復帰することになりました。
斉藤総督の統治は治安の維持には厳格であっても朝鮮民族としての誇りを尊重して文化財の保護を進め、学校教育の充実や日本への留学を推進して人材を育成するなど前任者の悪評を挽回するのに十分なものだったようです。やはり徳川への忠誠に殉じたことで賊徒の汚名を着せられて日本国内で差別と迫害を受けてきた東北人として朝鮮民族の苦衷と憤怒は我がこととして理解できたのでしょう。
斉藤総督は第1次世界大戦後のジュネーブ軍縮会議の全権委員や枢密院顧問として一時中断した後も再任されて約10年間この職にありました(その間の総督は宇垣一成大将と山梨半造大将でどちらも陸軍の軍縮を推進した人物でした)。
昭和6年5月15日に犬養毅首相が海軍士官を中心とする暴徒に暗殺されると、公家出身の元老は政治の混乱を防ぐため与党単独での政権ではなく、当時の2大政党に属さない斉藤大将を首相に抜擢したのです。そこには右翼的な人物を嫌う昭和天皇の大御心もあり、やんごとなき公家らしく「表面上は八方丸く収める」「毒をもって毒を制す」式の発想があったのかも知れません。
こうして首相に就任したものの満州事変を起こした満洲軍の暴走は止まらず、それに同調する過激派将校の蛮声と不穏な動きを抑えられない陸軍の意向を受け容れる形で満洲国の建国を承認し、さらに「国際連盟が認めなければ脱退しても仕方ない」と言って送り出した松岡洋右全権大使が全体の流れを推察することなく表面的な批判を受けて脱退を宣言してしまったのです。
その一方で国内政治的には知米派として個人的にも親しかった高橋是清大蔵大臣の手腕によって昭和金融恐慌を収束させ、冷害による不作に悩まされている故郷・東北地方の窮状にも手を差し伸べるなどの成果を上げていたのですが、現代とは比べ物にならない財政規模では不十分であり、それが青年将校の憎悪を買う原因になったのでしょう。映画などでは首相を退陣して内大臣になったことで鈴木貫太郎侍従長と共に天皇に国民の窮状を伝えない「君側の奸」として処断されたことになっていますが、斉藤大将が就任したのは事件の2カ月前のことなので、仮にそれが理由であったのなら青年将校の愚かさは救いようがないレベルです。
斉藤大将の邸宅には150名の兵士が重機関銃4丁と軽機関銃8丁を持って襲撃し、ベットに奥さんと並んで座っているところを軽機関銃で47発の銃弾で蜂の巣にされた上、転げ落ちた後に銃剣と軍刀で10個所も斬り、刺されているのですから余程の憎悪だったようです。
この夜、斉藤大将は親交が深かったアメリカ大使と会食・映画鑑賞した後、千葉の別宅に向かう予定だったのですが話が弾んで遅くなったため自宅に帰り、遭難したのです。77歳でした。
- 2017/02/26(日) 09:35:33|
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翌日、私は駐在武官とモールス大尉夫人、ノールデルメール軍曹夫人の面会を受けた。これに立ち合うことになった中年の刑務官が面会室に向かう廊下で声をかけてきた。
「日本語の通訳がいるんだよな」「駐在武官がやってくれると思うけれど英語なら必要はないよ」私の返事を聞いて刑務官は立ち止まってしまった。
「会話の内容は記録しなければならないから英語では困るんだ」「英語で記録すれば良いでしょう。漢字混じりの日本語よりも筆記体の英語の方が手早く書けるはずだよ」「・・・そうかも知れないけれど綴りに自信がないな」刑務官が困り切った顔を見て私は苛めるのは止め「日本語にします」と助け船を出した。拘置所としてもこのために来日した外国人の面会を刑務官の語学力を理由に拒否すれば外交問題に発展しかねないのだ。
「キャプテン・モリヤ、ナイス・トゥー・ミーツ・ユー(はじめまして)」「サンキュー・フォー・セービング・アワー・ハズバンド(私たちの夫を守ってくれてありがとう)」いきなり婦人たちが英語で挨拶したので振り返ると、やはり刑務官は困った顔をしてこちらを見ている。しかし、この程度は中学生レベルなのでそのまま英語で返事をした。
「ナット・アット・オール(とんでもない)。サンキュー・フォー・カミング・ザ・ウェイ・トゥー・ファー(遠路はるばる来てくれて有り難う)」幸いにしてノールデルメール軍曹夫人は英語が苦手なので英会話はここまでだった。
「キャプテン・モリヤ。日本には軍事法廷がないので一般刑法で裁かれているようだが、余りにも現実から乖離しているのではないか」駐在武官が日本語で率直な感想を述べると後ろから刑務官が「裁判に関する話題は止めなさい」と声をかけた。この日本的な制限に駐在武官は驚いた後、怒りを込めた英語で「このような制限は人権問題だ」と言った。すると刑務官は「会話は日本語でするように」と声をかけ、更に問題を深くしていた。
同じ頃、検察官は社会人民党の党首・徳島水子弁護士と会っていた。
「貴女が言う通りここまで裁判を引き延ばしてきたが、もう限界だ。アメリカとイギリスがイラクに攻撃を始めても自衛隊は派遣されず、君の党が自衛官の家族宛に送った広告で政治目的は十分に果たしただろう」3月19日に国連の査察を無視してアメリカ、イギリス軍が「イラクの自由作戦」を開始した。それに先立って社人党が公務員労組の市役所職員を通じて入手した住所で送った「海外派遣拒否」を呼び掛ける広告のことは検察官も知っていた。
「何を言っているの!アメリカが日本の参戦を諦めたのは私たちの活動の成果よ。イラクの反撃で戦争が長期化するだろうからアイツは刑事被告人にしておかなければ駄目」「アイツって被告人に会ったことがあるのか」「証人として出廷した時に見たワ。戦闘服を着て神聖なる法廷を汚していたでしょう」この東京大学卒の弁護士が専門とする「人権」は自衛官には及ばないようだ。かつて那覇市職員の自衛官とその家族に対する業務放棄の問題について市長が「憲法違反の自衛隊に日本国憲法が与える人権はない」と答弁したが同じ認識なのだろう。
「それにしても都知事選挙では貴女が演説すると批判の声が上がるからって応援を拒否されたじゃあないか」「民権党が表面的な人気取りに走るから右翼の老人に200万票も水を開けられるのよ」4月13日に行われた東京都知事選挙で社人党と民権党が推薦した女性の大学教授は超保守派の現職に220万票の大差で敗れている。しかし、この野党党首の優秀な頭には「反省」と言う思考回路が欠落しているようだ。
「何にしても誣告罪で逆に告発される前に手を引くべきだと思うよ」「どうして私が刑法172条で告発されるよ」流石は弁護士だ。検察官が虚偽告訴罪の旧称を使っても正確に刑法の条文で答えた。何にしても関係者たちは意外に早く判決が出るように感じているのだ。
- 2017/02/26(日) 09:33:28|
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昭和11(1936)年の明日2月26日に発生した2・26事件で岡田啓介内閣の高橋是清大蔵大臣が殺されました。当時としては極めて長命の81歳でしたが、それでも本当に惜しい人物です。
高橋さんはペリーが来航した翌年の嘉永7年に江戸で生まれましたが父親は47歳の幕府の御用絵師(狩野派)、母親はまだ16歳でした。この母親は裕福な魚河岸の娘で行儀見習いとして奉公に上がっていたところレイプ同然に妾にされ、間もなく妊娠したため正妻が哀れに思い実家に帰して養育費などを届けるようになったのです。こうして母の実家で生まれた高橋さん(この時点では川村姓)は仙台藩江戸藩邸の足軽である高橋家の養子になり、両家にとっての厄介払いされてしまいました。実際、母親は商家に再嫁して異父妹を生みますが24歳で亡くなっています。
その後、江戸で成長しますが、やがて横浜にヘボン博士が開いた私塾(現在の明治学院大学)で学び、13歳でアメリカ留学を命ぜられました。
ところが旅費と学費を渡航手続きなどの世話をしたアメリカ人貿易商に搾取された上、預かったはすのアメリカ人に労働者として売られてしまったのです。この2年前に南北戦争は終わっていたので奴隷制度は廃止されていましたが事実上の奴隷でした。
それにしても一緒に留学した勝小鹿さん(ころく=・海舟さんの長男)は大学を経てアナポリスの海軍士官学校に入校していますから「どこで間違って、どうして救済の手を差し伸べなかったのか」と言う疑問が生じてしまいます。
こうしてヨーロッパ人社会であるアメリカの変わらぬ人種差別と過酷な労働契約と言う闇の部分を身をもって経験しながら語学力と一般教養、さらに欧米式経済観念や社会常識を身につけ、27歳で帰国するとサンフランシスコで知り合った明治政府の文教担当者で一橋大学の創始者である森有礼の勧めで帝国大学予備門や進学専門校で英語の教壇に立つようになりました。この辺りは司馬遼太郎先生の「坂の上の雲」で描かれています。
幕府を倒して政権を奪い取ったと言っても薩長土肥の田舎者だけでは国家の改革と言う大事業を担う人材が確保できるはずはなく、高橋さんは次々と新事業の責任者に抜擢されるようになり、やがては文部省、農商務省(現在の経済産業省と農林水産省を足したような部署)の官僚として存在感を発揮するようになりました。そして日本銀行の副総裁になった時、薩長の陸海軍閥はロシアとの戦争を画策するようになり、その巨大な戦費の調達を高橋さんに担わせたのです。しかし、古今東西の経済人は損得だけで投資を決めるので、当時は世界最大の軍事力を有していたロシアにアジアの弱小島国に過ぎない日本が勝てるはずがなく、資金は全く集まりませんでした。
高橋さんはそんな経済人を1人1人訪ねては日本が置かれている危機的状況と日清戦争で発揮した近代的な軍事力を説明していったのです。この時、ロシアでユダヤ人が迫害されていることに怒っているユダヤ人資本家から巨額の出資を受けたことも「坂の上の雲」に描かれています。ちなみに日本がこの時の債務を完済したのは昭和61年になってからです。
日露戦争が終わってからは貴族院議員、日銀総裁として政府中枢に加わり、山本権兵衛内閣で大蔵大臣に就任して以降は原敬内閣、田中義一内閣、犬養毅内閣、斉藤実内閣、岡田啓介内閣でも同じ席を占め、他にも加藤高明内閣では農商務大臣と組織改編後の農林大臣兼商工大臣を務めています。さらに原敬首相が暗殺された後は大蔵大臣兼務のまま首相に就任しましたが、与党総裁だった原首相を失った混乱による閣内不一致によって半年間で退陣しました。
これ程の人物が何故、青年将校に狙われることになったのか全く理解できないのですが(陸軍の予算削減で皇道派の首魁・荒木貞夫陸軍大臣を翻弄したことが原因と言われています)、強いて言えば第1次世界大戦で戦勝国になって経済を拡張しようとしている時に関東大震災が起こって巨額の復興予算が必要になったことで発生した昭和金融恐慌で、資本家に資金を供給する果断な経済再建を実行したのを貧困な農民や労働者階層を切り捨てたと曲解されたのかも知れません。
確かに高橋さんは資本家としての収入で建てた広大な邸宅に住んでいたので、貧困層の味方を気取る青年将校たちには貴族階級富豪=マルクス主義で言う搾取者に映っても不思議はないでしょう
青年将校たち=帝国陸軍は日露戦争を土台で支えた高橋さんの偉大な貢献を胸に射ち込んだ6発の銃弾で報いたのです。こう言う輩を日本では「忘恩の徒」と呼びます。
- 2017/02/25(土) 09:31:59|
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次の公判が開かれる東京地方裁判所には民放各局が中継に来ていた。裁判が始まって1年弱、最近は傍聴人がまばらになっていたので、構内を監視している警備員も戸惑っているようだ。
「あッ、裁判を傍聴するために来日したオランダ軍の奥さんたちが来られました」駐在武官と一緒にタクシーを下りたモールス夫人とノールデルメール夫人をカメラが追っている。昨夕のニュースでの反響は意外に大きく、朝のワイドショーで取り上げるらしい。
「通訳さん、何かコメントをいただけませんか」「通訳さん、一言お願いします」今日は背広姿の駐在武官=海軍大佐に女性レポーターたちが極めて失礼な声をかける。そこで駐在武官は立ち止まって数本のマイクの前で口を開いた。
「昨日は我が大使館で開いた記者会見の模様を正しく報道していただき有り難うございました。これから裁判を傍聴して検察側の弁論を確認したいと思っています。以上」それだけ言うと駐在武官は待っている2人を手でうながして建物に入っていった。
「本日は外国の傍聴者がいる関係で通訳の声が入りますが検察・弁護共に了解して下さい。それでは開廷します」裁判長の口上が終わり、弁論手続きが始まった。今日からは証拠調べに基づき求刑された量刑の可否が討議される。弁護側としては1名の殺人、1名の過剰防衛に対して懲役10年と言う量刑が重過ぎることを問題視するべきだが、量刑にこだわり過ぎれば有罪を認め服役することを前提にしているように誘導されかねない。
「被告人が犯した殺害行為は極めて残忍です」検察官は開口一番から殺人事件として私を断罪し始めた。それを駐在武官が通訳している声が被告人席にも届いた。
「何を狙っているのかも判らず銃を構えているだけの若者に8発もの銃弾を浴びせ、3発命中させて命を奪いました。さらに逃亡してきて銃を構えている被告人に気づいたため手榴弾を投げようとした若者に至近距離から9発を発射して5発命中させました」「異議あり。検察は2人目については正当防衛と認めています。したがって弁論に加えることは適当でありません」牧野弁護士の指摘を裁判長も認め、そこの部分は速記から削除された。
「そして3人目は月明かりの中、相手が刃物しか持っていないことが判っていながら前もって用意していたラブレス社製のナイフで急所を刺して即死させています。これも我が国の刑法の規定では過剰防衛ですが、短剣道5段の被告人と一般の若者との技量の差を考えれば果てしなく殺人に近いと言えるでしょう」「異議あり。両者の技量差を合理的に比較する根拠が示されていません。これは検察官の想像に過ぎないことを事実のように断定しているだけです」「弁護人の意義を認めます。検察官は合理的根拠を示した上で弁論して下さい」牧野弁護士の意見を採用して速記から削除させた。検察官はこれまでと違い裁判長が自分に冷淡になったように感じたのか次の弁論を始めなかった。そんな様子をテレビ局の記者たちは冷静に観察しており、ここでも新聞記者は傍流が置かれてしまっていた。テレビのニュースは系列新聞社の請け売りだと思われがちだが、最近は別の存在理由を発揮しているのだ。
「弁論を続けます。被告人は殺害したイスラム教徒の遺骸に佛教の経文を唱えて冒涜しました。それ以前にもイスラム教の儀礼で佛教式の法要を行っています。このような態度がイスラム教徒の反発を買って2人の日本人が殺害される原因になったのは明らかです」これは検察官自身も予定外の弁論だったようだ。本来は3名の殺害の残虐性を強調して懲役10年は軽過ぎるくらいであると印象づけるつもりだったらしい。あまりに中身がない弁論に牧野弁護士も指摘するのを忘れそうになっていたが、ようやく立ち上がった。
「被告人の行為が事件の原因になったと言う合理的根拠があれば提示して下さい」「・・・ありません」「それでは削除しますよ」「・・・結構です」牧野弁護士と裁判長に弁論を否定されて検察官は力なく肩を落とした。同時に傍聴席では低く嘲笑が起こった。
- 2017/02/25(土) 09:30:07|
- 夜の連続小説8
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小庵の猫・音子(ねこ)は娘の若緒(にゃお)の姿が見えなくなると周囲を鳴きながら探し回りますが、それで見つからないと柿の木に登って遠方を確認します。
最近はそれがほとんど枝がない最上部付近にまで行ってしまい、黒い身体が空に浮いているように見えます。考えてみればこの辺りにはカラスが止まっていることがあり、同じ色の音子は親近感を持ったのかも知れません。カラスが飛び立つのを見上げていることがありますから、ヒョッとすると野僧のように「空に憧れて」いるのではないでしょうか。
「空に憧れて、空を駆けて行く あの子の命は飛行機雲・・・」大空に浮かんでいるような音子を下から見上げながら野僧はこの歌(=荒井由美さん「ひこうき雲」)を口ずさんでいます。ただし、野僧の場合は「空(くう)に憧れて 空(くう)に賭けて逝く あの孤(こ)の命は非行期苦悶」ですが。

- 2017/02/24(金) 09:29:39|
- 猫記事
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「今回の来日の目的は?」3人の前に陣取ったテレビのレポーターは率直な質問を投げてきた。テレビは視聴者の反発を買えば即座に結果が出るため、定期購読契約と言う固定客に胡坐をかいた新聞のような慢心はない。だから取材に対する真剣味が違うのだ。
「はい、私の夫の命を救ってくれた恩人が刑事被告になっていると聞き、その裁判を傍聴しなければならないと思いました」駐在武官の大佐は記者の質問と妻たちの回答を通訳しているだけだ。しかし、テレビは軍服姿の駐在武官もアップで撮影している。
「つまりモリヤ被告人が命の恩人であると言うことですね」「はい、夫たちは敵に包囲されていて銃で狙われていたのです。キャプテン・モリヤが戦ってくれなければ射殺されていたでしょう」ノールデルメール軍曹の妻は真剣な目を質問した女性レポーターに向けた。
「モリヤ被告人は懲役10年を求刑されていますが、これについての感想をお願いします」「海外で味方を救うために戦ったことが犯罪になるのなら、日本の裁判所ではなく我が国のスフラーフェンハーフにある国際司法裁判所に提訴するべきでしょう」「告発者は提訴しようとしたけれど受け付けられなかったと聞いています」ノールデルメール軍曹とモールス大尉の妻が交互に熱弁を奮う。それを駐在武官は冷静に国際司法裁判所の所在地を日本で使われている地名の「ハーグ」に代えて通訳した。これはオランダの地名の末尾のハーフを正式に聞き取れなかったため、そこだけを英語風に表記したものだと言われている。
「この事件と裁判はオランダでも報道されているのですか?」「勿論です。告発者は人権派弁護士として活躍している政治家だと聞いています」「人権とは正しい人物を悪しき人物の暴挙から保護することが基本ではないのですか。正当な行為を行った人物を罪に陥れるのなら告発者は人権派と名乗ることを止めなければなりません」2人が交互に告発者の徳島水子弁護士を批判し始めたためその協力者であるA日新聞の記者が口を挟んだ。
「正当な行為と言ってもそれはオランダ軍側の勝手な言い分であってイスラムの立場から見れば、被告人は自分たちの土地に踏み込んだ異教徒を排除しようとした若者を殺した重罪人になるはずです」この指摘に端の席に座っている新聞記者たちは一矢報いたような顔でうなずいた。しかし、これに駐在武官が反論(反撃)を加えた。
「現地のイスラム教モスクのウラマーは死んだ若者たちは日本人ジャーナリストを拉致した上、女性を集団レイプして殺した重罪人であり、アッラーの名をもって処断すべきところを代行してくれたとキャプテン・モリヤに感謝状を贈っています。その事実を新聞は全く報道していないようですからテレビで紹介して下さい」「雑誌も書きますから資料をお願いします」このテレビを中心に据えた記者会見はモリヤ佳織3佐がぺイルマン少佐を通じて駐在武官に提案したものだった。
「貴方、今日は仕事を持って帰っていないんでしょう」「うん、ゆっくりテレビのニュースでも見るよ」裁判官は食事を終えた後、妻に声をかけてから居間へ移動した。
「貴方が担当している裁判に関するニュースはないようです」裁判官がソファーに腰を下し、テレビを点けると、間もなく妻はお茶と夕刊を持ってきた。裁判官は先入観を持たずに提出された証拠と論告や弁論だけで公判を進めなければならないため、妻は新聞のテレビ番組のページのニュースの欄で特集内容を確認しているのだ。裁判官は妻が運んできた夕刊を広げ、湯呑をすすりながらテレビのニュースを眺めた。
「本日、オランダ大使館で異例の記者会見が行われました」新たな感染症・SARSの話題の次は国際問題のようだ。そう思いながら耳ではニュース、目は新聞を読み始めると熱弁を奮う2人の女性の隣で軍服姿の男性が流暢な日本語を話している場面になった。
- 2017/02/24(金) 09:27:08|
- 夜の連続小説8
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「ホロート・ペイルマン。少し良いですか?」今日は珍しく佳織からオランダ軍の少佐に声をかけた。勲章の授与式で佳織はオランダ語で少佐は「ホロート」と言うことを知り、こちらでも使うようになっている。
「はい、モリヤ・サンサ(3佐)。何か?」すると少佐も日本語で返事をしたが、やはり声を掛けられたことに少し戸惑いがあるようだ。
「夫の弁論手続きが始まりました」「そうですか、随分と慎重に公判を進めているのですね」少佐は真面目にそう考えたらしいのだが、佳織は日本の裁判が遅々として進まないことを知っているだけに少し肩をすくめた。佳織の自宅には裁判の進捗状況についてワシントンの野中将補から電話連絡が入り、数日遅れて岐阜の島田元准尉から新聞記事が届いている。
「それにしても我が軍の軍事法廷が1週間で結論を出した事例が半年経ってようやく弁論手続きとは遅過ぎますね。そもそも刑事訴訟されたこと自体が理解できませんけど」少佐は佳織の表情を見て裁判への批判に切り替えたようだ。
「この裁判は日本の反日政党の党首が刑事告発したことで始まりました。つまり始めから政治目的なのです」「どうして日本国内に反日政党が存在するのですか。そんな政党が議員を当選させられるだけの得票を集めるなんて信じられません」少佐の疑問は至極当然だが、その説明を始めると休憩時間では足りなくなるので無理に本題に移った。
「問題は日本の裁判が前例主義であることです」「それはどこの国でも同じでしょう。法の不均衡は避けなければならないですから」やはり日本の司法の特殊性を説明しなければ理解されないようだ。
「日本では過去に任務中の自衛官が人を殺害した事例がないのです」「ほーッ、幸せな軍隊だね」「だから夫の裁判がこれからの判断基準になるため、判決も適法性だけで単純に出される訳ではないのです」この説明も厳格なドイツ的法運用に慣れているオランダ人には理解できないらしい。
「だから裁判所に圧力を加えなければならないと思います。そこで前に言っていたモールス大尉とノールデルメール軍曹の家族に・・・」「日本へ行って裁判を批判しろと言うのですね」欧米人が話の途中で切り返すことは珍しいのだが今回は少佐が先回りして結論を述べた。
「判りました。私が彼らの家族と在日オランダ大使館の駐在武官に連絡を取りましょう」少佐の返事に佳織は感謝のお辞儀を兼ねて深くうなずいた。
「モールスの階級剥奪と士官学校での再教育は終了しています。尤も、2人とも軍務を解かれて本国で本業に戻っているがね」佳織は家族たちとユトレヒトで過ごした時、モールス大尉は携帯電話販売店の店長、ノールデルメール軍曹はドイツ車の営業マンであることを聞いている。そんな日常生活に戻っている彼らを軍隊に引き戻すことになる依頼に躊躇がない訳ではないが、これも「ホロート(少佐=3佐)」としての戦術的判断なのだ。
日本での弁論手続きが社人党の「貴方の夫・我が子を殺人犯にしないために」と言う宣伝を邪魔しないようにユックリと動き始めた頃、オランダ大使館で記者会見が行われた。出席者は成田空港から到着したばかりのモールス大尉夫人、ノールデルメール軍曹夫人と通訳としての在日オランダ大使館の駐在武官だった。佳織が旅費を提供したため子供たちは民間人に戻っている留守番の夫が担当し、妻だけが来日したのだ。
「本日はご多忙な中、多数お集まりいただいて有り難うございます」駐在武官は日本人以上の丁寧語で挨拶した。大使館のロビーに設置された会見会場では新聞記者を押しのけてテレビ局と雑誌記者が中央に陣取っている。これも日本のマスコミの体質を考慮した陣容だった。
- 2017/02/23(木) 10:10:56|
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作曲家・船村徹さんの逝去を悼む。
2月18日に作曲家の船村徹さんが亡くなったそうです。昨年の11月3日に文化勲章を受章したばかりですが、意外に若くまだ84歳でした。
船村さんの作品は小中学校・高校時代から「気合いを入れる」「気分が沈んだ」時に唄う応援歌のような曲ばかりで、追悼のためにカセットテープを聴いていてもお悔やみにならず、かえって「頑張れよ」と激励を受けているような気分になってしまいました。それでも「柿の木坂の家」と「別れの一本杉」で何とかシンミリできましたが。
船村さんは5000曲以上もの作品を残したそうですが、野僧がカラオケのレパートリーにしていた曲だけでも、吹けば飛ぶような存在であることを実感した時に口ずさんだ村田英雄さんの「王将(法衣姿で通天閣を見上げながら唄っていると通りがかりの小母ちゃんがお布施をくれました)」、親の反対で結婚できなかった彼女からリクエストされた細川たかしさんの「矢切の渡し」、彼女と別れた後に1人で泣きながら唄った春日八郎さんの「別れの一本杉」、東京への修学旅行の観光バスで唄って超ベテランのガイドさんに呆れられた島倉千代子さんの「東京だよおっ母さん」、佐渡分屯基地の同期の十八番だった美空ひばりさんの「ひばりの佐渡情話」、津軽の部隊では極寒の地吹雪がリアル過ぎて唄えなかった北島三郎さんの「風雪ながれ旅」、親の命令で帰省させられた時の沈んだ気分で唄った青木光一さんの「柿の木坂の家(中学・高校でも帰宅時に唄っていた)」、それから釣りが趣味の奴は必ず唄う鳥羽一郎さんの「兄弟船」など幾らでも出てきます。
この他にも体育学校で宇都宮駐屯地から入校していた同期から習った「宇都宮(みや)の防人」と言う名曲もありますが、今回追悼に唄ってみようとしても体育学校校歌と格闘課程の歌が浮かんでしまって思い出せませんでした。
人生の機微に相応しい名曲の数々を有り難うございました。ご冥福を祈りながら今後も唄い続けます。合掌
ミッフィーの作者・ディック・ブルーナさんの逝去を悼む。
ウサギのキャラクター・ミッフィーの作者である作家でイラストレーターのディック・ブルーナさんが2月16日に出身地のユトレヒトで亡くなったそうです。89歳でした。
ユトレヒトについては拙作小説「振り向けばイエスタディ」でも描きましたがオランダ軍陸軍参謀本部が在る古都で、その歴史ある街中のあちらこちらには実寸大(本物のウサギ・サイズ)から巨大なものまでミッフィーの看板が立ち並んでいるのですが全く違和感がなく、それがかえって他を圧し退けない独特の存在感を際立たせているそうです。
日本ではディズニ―に代表されるアメリカのキャラクターばかりを愛好しますが(強いて言えばスヌーピーは許せます)、ネズミにしてもミッキー・マウスとイタリアのトッポ・ジージョでは品格がまるで違い、日本人が本来持っていた感性から言えばこちらを愛するはずだったのです。個人的趣味で「トムとジェリー」のジェリーなら少しは許せますが、これはキャラクターと言うよりもストーリーが好きなのです。
ウサギにしてもアメリカのバックス・バーニーとミッフィーでは「これで同じ動物なのか」と思うくらいキャラクターが違います。ただし、日本のサンリオのウサギのキャラクターであるキャシーはミッフィーに似ているのでまだ感性は生きているのでしょう。
ブルナーさんは東北地区太平洋沖地震に心を痛め、涙を流すミッフィーのメッセージを送り、甚大な被災地である岩手県釜石市にミッフィー・カフェをオープンしてくれました。それには日本での著作権を保有する会社や在日本オランダ大使館が全面協力したそうです。感謝を込めて心からご冥福を祈ります。

涙を流すミッフィー=「日本の皆さんへ心からの祈りを込めて」と記されている。
- 2017/02/22(水) 09:27:04|
- 追悼・告別・永訣文
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「モリヤさん、お見事でした」ようやく暖房なしの拘置所でも何とか過ごせるようになったある日、面接室で牧野弁護士はこう言って手を握ってきた。最近は事情聴取や公判の打ち合わせを名目にしていても実際は司法試験の個人授業になっているのでこの賛辞が1次試験の結果だと判る。
「「実は3年後から新旧試験制度の並立になるから、法務省が旧制度での合格者を抑えようとするんじゃあないかと心配していたんです」「これで悪運を使い果たさなければ良いのですがね」牧野弁護士は2次試験に向けて気分を盛り上げようとしてくれているようだが、あえて斜に構えた。
「法務省の本音としてはモリヤさんが司法試験を受けることは秘密にしたいようで、だから特例中の特例で拘置所内で受験させたんですよ」確かに本来であれば正規の手続きを踏んで刑務官の同伴=監視を受けて試験会場へ行き、特別室で受験するはずだ。それが拘置所内での受験になったのは司法試験と拘置所の両方が法務省の管轄であることによる配慮だと思っていたが、こちらが現実だろう。要するに法務官僚は刑事被告人が裁く側に立つ資格を得ようとしていることが与える影響を回避したいのだ。
「1次試験に合格すればこれからは2次試験からの受験になりますから、何度でもチャレンジして下さい」「いいえ、1度で合格します。裁判で無罪になれば自衛隊に復帰するので時間が取れなくなり、若し、有罪になれば懲戒免職されますから生きてはいません」私の口癖になっている台詞を今日の牧野弁護士は妙に深刻に受け止めたようだ。
「仮に有罪になっても控訴している間は懲戒免職にはならないでしょう。むしろその間に合格すれば退職しても転身する道が開けます」私はこの言葉を単なる激励とは受け止めなかった。
「やはり有罪になる可能性がありますか?」「証拠調べを見る限り検察側は有罪にするだけの物証や証人を提示できていません。しかし・・・」「しかし?」素人考えには証拠がないのなら無罪になるのが当然なはずだ。私は言葉を濁した牧野弁護士の顔を凝視した。
「今回の裁判は自衛隊が武力行使したことに関する最初の司法判断になります」「つまり判例として今後の判断基準になるんですね」被告人としては自分が関係した事実の可否だけで判決を出してもらわなければ困るのだが、司法を生業とする人たちは今後の仕事への影響も加味しなければならないらしい。
「果たして今回の裁判長に戦場で3名を殺害しても正当行為であるから無罪と言う判例を書く覚悟があるのか」「それでは双方が高裁、最高裁へと控訴を繰り返して十年近くの長期戦になる可能性があると言うことですね」私には牧野弁護士が司法試験を受験することを勧めた理由がようやく納得できた。しかし、自衛隊は定年が早いため私も残すところ10年に迫っている。どこかの段階で無罪になれば拘置所から出て自衛隊に復帰できるが、逆になれば塀の中で有り余る時間を空費しなければならなくなる。そう思った瞬間、私の胸に告発者である徳島水子への殺意が走った。すると「ガタン」と音を立てて牧野弁護士が姿勢を崩した・
「・・・モリヤさん、今、大魔神のような目をしましたよ。恐ろしくて逃げようとしても腰が抜けて動けませんでした」言われてみれば向いの席で牧野弁護士は仰け反って固まっている。どうやら自覚がないまま溜め込んできた怒りは既に危険な水準に達しているようだ。これで公判に徳島弁護士が顔を出せば恐ろしいことになりかねない。私が暴れ始めれば刑務官では手に負えず、素手で殺すことなど簡単なことだ。
「私は3人の人命を奪った修羅ですから凄まじい殺気だったでしょう」「法廷でやってはいけませんよ。今は温和な人物で売っていますから」それが牧野弁護士の法廷戦術ならば気をつけることにしよう。今後も「人殺し」には見えない穏やかな笑顔で臨みます。
- 2017/02/22(水) 09:24:50|
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1512年の明日2月22日は大陸や合衆国の名称「アメリカ」の由来になっているイタリアの探検家・アメリゴ・ヴェスプッチさんの命日です。
野僧は1976年にニューヨークで行われたアメリカの独立200周年を記念する国際観艦式と帆船パレードでソ連が誇る世界最大の4本マスト・バーグ型帆船・クルーゼンシュテルンと並ぶ存在感を発揮していた3本マスト・フリゲート型の帆船に興味を持って調べたところ(当時は海軍少年だったこともあって)、それはイタリア海軍の練習船で名称はアメリゴ・ヴェスプッチでした。
舳先を飾るフィギア・ヘッドは女神であることが多い中でこの帆船は宣教師のような服装をした男性で、今度はその人物に興味を持って調べることになったのです。
するとアメリカと言う地名の由来になっていることが判ったのですが、世界史では初めてアメリカ大陸に到達したのは1492(いよーッ、国が見えるぞ)年のコロンブスさん(こちらもジェノバ=イタリア出身)と習っているため、到達第1号を差し置いて名前を採用されたことの謎が謎を呼んで、探求心が毎度の暴走を始めてしまったのです。
しかし、県下有数の蔵書数を誇る図書室を探しても詳しくは載った本は見つからず、揚句の果てに隣の水産高校に電話したのですが、それでも知っている人はいませんでした。結局、市の図書館で海の男たちの伝記コレクションを見つけて解決したのです(この執念はかなり病的でしょう)。
それによるとコロンブスさんは「アメリカ大陸に到達した」と言っても、実際はカリブ海の島々まで行っただけで大陸には上陸していていませんでした。それよりも遥か前に北欧のバイキングがグリーランドなどを経て現在のカナダに辿りついていたとの伝承と痕跡があるようです。
コロンブスさんは現地人をインディアン=インド人と呼び、カリブ海の島々を西インド諸島と命名したように死ぬまでそこがインドであると信じ、西回り航路を開いたと思っていたのですが、一方、アメリゴさんはコロンブスが届かなかった大陸にまで足を踏み入れ、その全貌を解明していきました。
先ず1497年にはスペイン王の要請を受けてコロンブスさんがポルトガルによって派遣され、略奪と虐殺の限りを尽くしてきたカリブ海を探検し、1499年には2度目として南アメリカの大西洋沿いに南下し、現在のブラジルの北部まで行っています。
ところが同じ頃、ポルトガル王によってアフリカ大陸の南端・喜望峰を回る航路を開拓していた船団が偶然にもブラジルへ漂着し、これがアメリゴさんが報告していた土地なのか否かで領有権の問題が起こったのです。
そこで1501年から3度目の探検航海に出て、マゼラン海峡の手前である南緯50度にまで到達したことで(寒さ対策が不十分だったため引き返さざるを得なくなった)、「これはインドではない新たな大陸であること」を確認することになりました。
ちなみにこの航海でアメリゴさんはヨーロッパ人としては初めて南半球での天体観測を行いましたが、その記録・資料はスペイン王に国家秘密として没収されてしまいました。当時の航海は4文儀(現在は6文儀)と言う器材で位置を測定するため、その基準となる星の位置は重大な秘密だったのです。後にアメリゴさんは航海と探検の記録を地理学の専門書や「新世界」と言う本にしたのですが、その中で「あの時の記録・資料を返還して下さい」と何度も懇願しています。
つまりコロンブスさんはあくまでも西回りでインドへ行ったつもりでいたのに対してアメリゴさんはそれが新大陸であることを発見したのですから、「アメリカ(ラテン語読みの女性形)」と命名されたのも至極当然だったようです。
余談ながら南アフリカ大陸の北端にあるカリブ海と太平洋にまたがる国とアメリカ合衆国の州の「コロンビア」と言う名前はコロンブスさんに因んでいます。
- 2017/02/21(火) 09:32:57|
- 日記(暦)
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検察側は防衛庁に証拠として業務日誌の提供を求めていたが防衛秘密を理由に拒否され、オランダ軍に対する検屍や現場検証記録などの関係資料も同様の結果になり、証拠調べでの引き延ばしを断念せざるを得なくなった。いよいよ弁論手続きに進み、論告=求刑が行われるのだ。この頃、国連の査察団はイラク国内では大量化学兵器や生物化学兵器は見つからず、武装解除が進んでいることを評価する報告を提出し、それに対してアメリカとイギリスは「イラクはナイジェリアからが核兵器の材料であるウランを購入しようとした」「イラクが大量破壊兵器を隠し持っている証拠が見つかった」と独自調査の結果を発表していた。
そんな中、日本の首相はアメリカの主張を全面的に支持することを表明したため、これを受けて国内では「自衛隊が対イラク戦に参加するのではないか」と言う風説が流れ始めた。
そして社人党は「貴方の夫・我が子を殺人犯にしないために・イラク派遣を拒否しよう!」と言うスローガンに目だけを隠した私の写真を載せたチラシを自衛官の父兄・家族宛に送りつけたらしい。やはりこれが中身のない裁判をここまで引き延ばしてきた目的なのだ。
「それでは弁論手続きに入ります」次のステージも裁判長の口上から始まった。傍聴人席のマスコミ関係者も最近はまばらになっていたが、今日は幾分人数が多いようだ。
「検察官、論告をどうぞ」「はい」検察官は立ち上がると私の顔を一瞥してから論告を始めた。
「被告人・モリヤニンジンは2002年5月×日、午後4時頃に現在は独立していますが、当時は国際連合の暫定統治下にあった北キボールのトバラ市郊外の耕作地域で、現地の男性3名、被害者の氏名、年齢、住所等は不明です、を殺害しました」検察官の論旨は証拠調べを経ても進展していない。要するに「私戦の予備陰謀」と「中立義務違反」は諦めて私が3名の人命を奪ったと言う事実だけを犯罪として立件するつもりなのだろう。
「このうち2件目の殺害については手榴弾を投げ込まれるのを回避するための正当防衛と認められますが、3件目はあらかじめ用意していた殺傷能力十分のナイフで刺殺していますから、殺害を回避する努力義務を放棄した過剰防衛、さらに1件目は前方を見て銃を構えていた被害者を横から明確な殺意を持って銃撃しており、これは殺人と判断します」つまり私の罪状は1名の殺人と1名の過剰防衛と言うことだ。
「そうなると求刑はどうなるのか」被告人以前に司法試験の受験生としての興味が湧いてきた。
「また本公判での被告人の言動を見る限り改悛(かいしゅん=後悔・反省)の情は感じられず、したがって被告人に懲役10年を求刑します」これは判例から見て検察官が過剰防衛と判断した1名の殺害も殺人に加えたことになる重い求刑だ。今後も判決が出るまで私を「殺人犯」と書き立てられることになった社人党の徳島水子党首のほくそ笑む顔が浮かんだ。
「次は弁護人、弁論をどうぞ」「はい」今度は牧野弁護士が起立して裁判長に一礼した。
「本件は我が国も1911年11月6日に批准している1899年ハーグ陸戦規則の規定に基づいて行われた正当な戦闘行為であり、被告人による3名の殺害に違法性と過失はありません。また我が国の刑法に鑑みても小銃を構え、被防護対象であるオランダ軍の軍人2名を明らかに殺意を持って狙っていた者を射殺したのは緊急避難であり、その後の2件が被告人自身に対する危険を回避するための正当防衛であることに疑義を差しい挟む余地はなく・・・補足すればこの当該者たちは陸戦規則が定める戦闘員の要件を満たしておらず武力行使は違法です。したがって無罪です」裁判が始まったばかりの頃であれば「無罪」に不満を示す舌打ちが響いたはずだ。しかし、あれから半年が過ぎ、証拠らしい証拠もなく、私を断罪するはずの証人たちも徳島弁護士を除けばその役割を果たさずに終わってしまっている。誰が見ても私に「殺人犯」の看板を掛けるための裁判であることは明らかなのだ。
何にしても私は間もなく受験する司法試験の第1次試験の方が本番のような気分だった。
- 2017/02/21(火) 09:30:57|
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平成11(1999)年の明日2月21日は片手サイズのペンシル・ロケットから人工衛星を打ち上げられるラムダ、ミュー型に至るロケット開発を指揮して「日本のロケット開発の父」と呼ばれている一方で、晩年まで多種多様な可能性を追求していた糸川英夫博士の命日です(「たけしと逸見の平成教育員会」にも生徒役でレギュラー出演していました)。
野僧は小学生の頃にアポロの月着陸や大阪万博によって湧き起こった宇宙ブームの時、同級生がアポロのサターン・ロケットの開発しを指揮したヴェルナー・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル・フォン・ブラウン博士の知識を披露したのに対抗しようと日本の糸川博士のことを調べたため少し詳しいのです。
糸川博士は明治が終わり、大正が始まる10日前の1912年7月20日に東京の小学校の教師の次男として生まれました。この「英夫」と言う名前は父親が東京大学を首席で卒業した人物から採ったそうです。
成長期には大正デモクラシーが花開いたので現在で言えばバブル世代のような育ち方をしており、実際に(旧制)中学・高校では校内紛争を起こしていますが、成績は一貫してトップだったようです。
しかし、大正デモクラシー世代は一転、軍国主義と大陸での武力紛争の中で大人になっていきますが(=バブル世代の長期不況よりも悲惨)、糸川博士が航空工学を選んだ理由は受験に当たり東京帝国大学工学部土木科に入っていた兄に「どこが一番難しい」と質問し、「航空工学だ」と言われたことだそうで、学問的な興味や将来への夢、ましてや科学技術で祖国を守ろうとする愛国心などではなかったようです。
卒業後は中島飛行機(現在の富士重工=日本の航空機業界のトップ企業)に入社し、97式戦闘機や1式戦闘機・隼、2式単座戦闘機・鍾馗などの設計やドイツからもたらされたジェット・エンジンの研究に携わったものの軍の要求に基づき軍事機密の保持や予算の制約を受けながらの仕事に嫌気が差して退社すると東京帝国大学が千葉県に設立した第2工学部の助教授に就任し、敗戦後も在職しました。
ちなみに中島飛行機は初の国産ジェット戦闘機・橘花(事実上はナチス・ドイツのメッサーシュミット・Me262Aの改悪型)を飛行させており、その経験で戦後に初の純国産ジェット練習機T-1B(Aはアメリカ製のエンジンだった)を開発しています。
東京帝国大学第2工学部は敗戦によって休眠に入ったものの日本が独立してから本格再始動して糸川助教授は超音速旅客機の開発を目指したのですが、アメリカへ出張した時に目にした航空工学の本で、宇宙空間が人体に与える影響を研究した記事を読み、「アメリカは宇宙へ人間を送り込もうとしている」と発奮したそうです。この辺りもバブル世代に似た衝動的な行動原理だったようです。
そして帰国後は米ソ2大国がしのぎを削っている宇宙開発に敗戦国の日本が参入することを嘲笑する政治屋や官僚、さらに経営上の収益が期待できないと関心を示さない企業を説得して回り、1955年3月に東京都国分寺市の廃工場で全長23センチ、直径1.8センチのペンシル・ロケットの水平射実験を行ったのを皮切りにして開発を進め、本格的人工衛星打ち上げ用のミュー・ロケットの事前実験として開発したラムダ型でも人工衛星の発射が可能なことに気づいて実行したのですが4回連続して失敗、その責任を負って東京大学を退官して宇宙開発から身を引きました。
ここからの転身が理解不能なのです。教え子たちがラムダ4Sにより人工衛星・おおすみの打ち上げに成功して世間の評価が批判から賞賛に代わっても背を向けて、「逆転の発想」と言う本を出版してベストセラーにしたのは良いのですが(現在では普通に用いられているこの言葉はこの本の題名に由来する)、20年後の1990年代を予言する小説を発表するなど名誉を自ら貶めるような行動を続けていきました。
60歳を過ぎてから有名なバレエ団に入ると雑誌などがまだ初心者の段階なのに厚化粧をしてバレエの衣装を着た写真を掲載し、これは変態趣味なのか、天才の狂気なのかと物議をかもしました。
ただ、このバレエ団の経営者は作曲家の富田勲先生と知り合いで、ある日、シンセサイザーを研究して演奏したホルストの組曲「惑星」の録音テープを持ち込んだのに立ち会い、「この曲を使った公演でソロで踊りたい」と訴えたそうです。この頃はまだ初心者に毛が生えた程度だったので経営者は「無理だ」と思ったのですが富田先生は賞賛・応援し、本人は練習に励んで実際に演じたようです。
何にしても日本の宇宙開発が米ソやフランス、中国とは異なり純粋に科学と民間需要を目的に進められたのは糸川先生が先頭を引っ張って行ったからでしょう(自衛隊が地対空ミサイル=ロケットのナイキ・エイジャックスを導入したのは1962年のことでした)。
日本の小惑星探査衛星・はやぶさが到達した「イトカワ」が糸川博士に由来しているのは言うまでもありません。
- 2017/02/20(月) 09:12:38|
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岡倉と杉本はイギリスから引き揚げられなくなっていた。年が明けてからアメリカとイギリスによるイラクへの疑惑と非難が激化し、それがイギリス発の情報とされているため現地で事実を確認しなければならないのだ。
「誰がこんな嘘を報告しているんだ」2人の宿舎に来てもジェームズは怒りが鎮められないようだ。1月9日に国連の査察団が「イラクでは国連決議に違反した証拠は見つからなかった」と疑惑を否定する中間報告を提出すると、その1週間後には「イギリスの情報機関が化学兵器を搭載可能なミサイルを発見した」とアメリカが発表した。つまり「国連の査察団よりもこちらの情報を信用しろ」と2つの常任理事国が迫っていることになる。
「やはり嘘なのか」「俺の同僚が査察団に加わっているが、イラクは非常に協力的で思いつきで立ち入ろうとした場所も進んで公開していたそうだ」ジェームズの話では各種学術の専門家で構成されていた査察団にイギリスは諜報部員を潜り込ませていたようだ。「流石」と言うべきだが人材の厚みの違いを思い知れされる話でもあった。
「要するに大儲けをたくらむアメリカの軍産複合体の開戦要求をライスが『キリスト教の聖戦』と言い包めてブッシュを焚きつけ、それにブレアも同調しているんだな」これはアメリカ側に立った見解だがジェームズは厳しい顔をしてうなずいた。
「早く首相に偽情報を伝えている人間を特定して消さなければ、我が国は無用の戦争に加わることになる」「MURDER(殺害)」と言う単語を表情も変えずに口にしたジェームズに岡倉と杉本は先日の仕事振りを思い出して背筋に寒いものが走った。
「俺たちが見る限りブレアは直接アメリカの指示を受けているんじゃあないかな」「むしろ実際に偽(にせ)の情報がイギリス政府内に存在することを確認するべきだろう」2人が交互に見解を述べると立場が逆転していることに気づきジェームズは顔をしかめた。
「内向きの仕事は5の担当なんだ。イリヤたちは女王陛下が信任した内閣にも忠誠を尽くしているから裏切りの調査などは認めないだろう」確かに自国の将兵を他国の意向に従って戦場に送るのは「裏切り」以外の何物でもない。しかし、行政機関の一部として防諜を業務としているMI5と女王が君臨する国家に忠誠を尽すMI6では意識が違うようだ。これは日本でも同じことが言える。政府のために仕事をしている警察や公安調査庁は1955年の保守合同以降、長期単独政権が続いてきた結果、それが与党のためになっている部分があることは否定できない。
「俺たちとしてはアメリカとイギリスが主張しているイラクへの疑惑が虚構であることが確認できれば十分だ」「ニュースを見る限り、他のヨーロッパ諸国は今回のイラクへ疑惑には懐疑的のようだな」ここでも2人が口を揃えるとジェームズは不快そうに唇を歪めた。
「流石に無理があるんだよ。ただ軍事産業が戦争を期待するのはどこでも同じだから、アメリカとイギリスが提供した儲け話を拒否するのは難しいだろう」「それで死ぬのは軍人だ」杉本の嘆き節に岡倉とジェームズは顔を見合わせた。
「俺たちもイギリス政府の内情を探る必要があるな。それを手土産に帰らないと日本の参戦を阻止するのに間に合わなくなる」杉本の意見に岡倉もうなずいたが、ジェームズは思いがけない注意を与えた。
「政府関係者と接触するのに中国人と間違われないように気をつけろ。俺たちにとってはどちらもアジア人に変わりがないからな」若し、中国人が日本人を装っていると誤解されればMI5の出番になり、諜報機関の取り調べ(=拷問)を体験学習することになりかねない。
「本当に中国人が多いな」2人は街で頻繁に耳にする中国語に呆れていた。現在のイギリスでアジア人と言えば中国人を差すのかも知れない。
- 2017/02/20(月) 09:09:38|
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2010年の明日2月20日は朝鮮戦争・ベトナム戦争を経験した歴戦の勇士であり、北大西洋条約機構(=NATO)軍司令官で退役した後にはレーガン政権の国務長官に就任したものの今一つ活躍仕切れず、晩年は経済ニュースに出演していたアレクサンダー・メグス・ヘイグ・ジュニア大将の命日です。
ヘイグ大将は1924年にペンシルバニア州フィラデルフィァで生まれ、アメリカのカソリックの名門であるノートルダム大学に入学したものの第2次世界大戦中にウェストポイント=陸軍士官学校に転学しました。
卒業したのは1947年だったので第2次世界大戦は終わっていたのですが、3年後の1950年に朝鮮戦争が始まったため、若手士官でありながら日本で指揮を執っていたマックアーサー元帥の司令部要員になりました。そこでの担当業務は前線からの報告を受けて戦況図を最新の状態にすると共に質問にも答えることで、若手士官としては高い視点から戦争の実相を学ぶ好機になったようです。その後、参謀長だったアーモンド中将が第10師団長に就任するとこれに加わって前線に立ち、7つの作戦での軍功で勲章を受けています。
帰国後には陸軍参謀本部での勤務を命ぜられ、3年間の在籍で国防長官の補佐官にまで昇りました。
アメリカ軍がベトナム戦争に本格的介入を始めると中佐の大隊長として出陣し、ここでも勇猛果敢な指揮で3倍のベトコンを撃破して、アメリカ軍としては上から2番目の格式を持つ勲章を受けました。さらに1年間のベトナム在勤中に大佐に昇任して旅団長になっています。
帰国後はウェストポイントで学生隊の連隊長になりましたが、翌年にはニクソン政権の外交を取り仕切っていたキッシンジャー大統領補佐官の軍事顧問に選任され、そのまま大統領の大統領副補佐官としてベトナム戦争の一時停戦を実現し、その功績もあって陸軍参謀次長に抜擢されるとアメリカの役職に連動する階級制度で2階級特進して大将になりました。
軍務復帰で政権内の活動はこれで終わりかと思えば折しも大統領の犯罪=ウォーター・ゲート事件が発生したことで告発者の首席補佐官が辞任したため、陸軍在籍のままその後任になったのです。それは政権中枢が事件への対応に忙殺されている中で唯一機能している歯車と言う役割で「ニクソン大統領の辞任とフォード大統領への政権移譲までの政務を滞りなく進められたのはヘイグ首席補佐官の力であった」とする評価を受けています。フォード政権発足後まで務めた首席補佐官の後任は国防長官として2代目ブッシュ政権を対イスラム戦争=第3次世界大戦に引き込んだ元凶の1人・ラムズフェルドでした。
1974年に軍務へ復帰すると5年間にわたり在ヨーロッパ・アメリカ軍とNATO軍の最高司令官に就任しましたが、このヨーロッパでの勤務中、暗殺未遂事件に遭遇しています。
ヘイグ司令官が軍用車でベルギーの古都・モンスの橋を走行中に地雷が爆発し、本人は無事だったものの後続車に乗っていた警護官3名が負傷しました。これはドイツ赤軍の犯行と特定されています。
そして1979年に退役すると民間企業の社長を務めましたが、1981年に発足したレーガン政権では国務長官に就任したのです。ところが発足した間もない3月30日にレーガン大統領が狙撃されて入院すると、記者団の「大統領が死んだ時、誰が後継者になるのか」と言う質問に「ホワイトハウスは私が統制している」と発言して物議を醸してしまいました。ヘイグ長官自身としては「実務は」と言う意味のつもりだったようですが、記者たちは「国務長官が法の規定と手続きを無視した」と批判を始め、政治的失点となってしまったのです。
その後もフォークランド紛争の開戦直前にはイギリスとアルゼンチンの仲介・調停に失敗し、イスラエルとレバノンの紛争でも「イスラエルは開戦の口実を探している」と大統領に報告したことをイスラエルが「アメリカの承認を得た」と曲解して(本人としてはイスラエルに自制を求めたつもりだった)、失点を重ねてしまい、結局、国務長官を1年半で辞任しました。
76歳を過ぎてからCNBCテレビのワールド・ビジネス・レビューに番組の総括コメントを述べる役で出演し、これは82歳まで続けました。
それにしても激戦の中で銃弾を浴びることなく、地雷が爆発しても無事だったヘイグ大将が政治の場では不運の連続で、ブッシュ政権で同じ役職に就いたパウエル大将の不運と考え合わせると、騎士道の美学に生きた職業軍人は権謀術数が渦巻く国務省の濁り切った水には棲めないと言うことかも知れません。
- 2017/02/19(日) 08:58:30|
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連隊長・晩鐘1佐による戦時国際法の教育は駐屯地の体育館で行われた。隊員たちにはノートを取らせるため駐屯地業務隊に調達させたバインダーが配られている。
「座ったまま姿勢を正す。気をつけ」副連隊長の号令で隊員たちは胸を張った。連隊長自らの教育であれば通常は制服着用なのだが、今回は眠気防止のため暖房の設定温度を低くしてある関係で戦闘服に作業外衣だった。
「眠気防止に質問をドンドンするから答えられなくても返事はするように。逆に質問があれば階級に関係なくドンドンとしてくれ」連隊長の口上に連隊中に恥を晒すことを心配した陸曹たちは困った顔をし、陸士たちは「そんな奴がいるはずない」と顔を見合わせた。
「先ず戦時国際法で知らなければならないのは戦争を行う者の資格についてだ」「資格?」陸曹たちは陸曹教育隊で触れる程度には教育を受けているはずだが一斉に首を傾げた。隊員たちの困惑した顔を見て晩鐘1佐は第1撃目の質問を発射した。
「それでは君、戦時国際法が定める戦争をする資格とは何か」「はい、・・・2曹」壇上から指揮棒で差された隊員は困惑しながら立ち上がったが、返事の名前の部分は小声にしている。
「軍人であることです」「違う。はい、君」「はい、・・・3曹。自衛官もです」「違う。はい、君」「はい・・・3曹。警察官もですか?」「質問はこちらがしているのだ」基礎の基礎から全員戦死となり、流石の晩鐘1佐も困った顔した。その時、陸士、それも1士が手を上げた。
「何だ。質問か?」「陸戦規則と捕虜の待遇に関するジュネーブ条約が定める戦闘員の資格とは武器を公然と所持していること。明確な識別章を表示していること。そして指揮官によって指揮されている2名以上の部隊であることです」「・・・正解!100点だ」今度は晩鐘1佐の方が呆気にとられて言葉が出なかった。
「君は名前を言っていないが、所属と姓・階級を申告せよ」「重迫撃砲中隊の安川1士です」立ち上がっている安川1士を周囲の陸士たちは異物を見るような、陸曹たちはビックリ箱を開けたような、幹部たちは危険物を見つけたような目で注視している。それでも口火を切ってしまった安川1士は止まらなかった。
「1つ、質問を良いですか」「うん、何だ」「現在は戦時、平時の区分が明確ではないため『ロー・オブ・ウォー』の日本語訳としては戦時国際法ではなく武力紛争関係法を使うようになっていると思うのですが」この質問には防衛大学校出身の幹部たちだけが懐かしそうにうなずいた。すると防衛大学校出身の連隊長は驚いたように返事をした。
「それは防大の足立純夫教授の学説だぞ。どこで習った?」「新隊員教育隊です」「そうか、防大出の区隊長がいたんだな」安川1はあの中隊長の出身区分が判らず返事ができないまま席に座った。
「つまり諸官らが海外に派遣されて現地で攻撃を受けた時、敵が先ほどの資格要件を満たしていれば合法的に戦闘できる。逆に正規の戦闘員でなければ戦争犯罪者として取り扱うことも許されるんだ」「どう違うんですか」ここで陸曹の席から質問が飛んだ。
「どう違うか説明できるか?安川1士」「はい、安川1士。戦闘員であれば国際法が定める戦闘手段を合理的な範囲で行使できます。一方、非戦闘員なら復仇として同程度の国際法違反が容認されます。さらに戦闘員が身柄確保されれば捕虜になり、ジュネーブ条約に基づく処遇を受けられます。非戦闘員であれば戦争犯罪者として軍法会議に掛けられます」「正解!今度は120満点だな」その時、隣の席の陸士が安川1士がノートを広げているのを報告した。
「連隊長、安川はカンニングしています」「カンニングも何も、戦時国際法の専門書を持っていること自体が素晴らしい」「いいえ、ノートです」「それは尚更すごい」今回、晩鐘1佐にとっては第3普通科連隊の全隊員を安川1士のレベルに引き上げることが課題になった。
- 2017/02/19(日) 08:57:11|
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第3普通科連隊には鍛え抜いたバイアスロンで戦う体育会系の顔とは別に一般の国民があまり知らない一面がある。第3普通科連隊は樺太から稚内付近に着上陸したソ連の部隊を迎え撃つため迅速に展開する必要があり、全隊員が乗車できるだけの台数の装甲車を保有している陸上自衛隊唯一の完全装甲車化連隊なのだ。このため演習も装甲車で機動し、敵との遭遇戦闘が中心であり、内地の連隊のように陣地を構築して敵を待ち受けるような悠長な戦争は考えていない(勿論、スキーによる行軍で敵に遊撃戦を加える演習もやっているが)。ところが連隊長が交代して以降、演習の状況が少し変わってきている。
「安川、今日は先頭だ。停車したら俺と一緒に前方確認に出るぞ」「はい、安川1士」装甲車は視界が悪く、夜間の山道では敵の接近を早めに察知するため、分隊長が下車して双眼鏡で確認することがある。その担当を全ての陸曹に経験させるため先頭車両は交代制なのだ。
「停車」「よし、行くぞ」そう言って分隊長は装甲車の後部ドアを開けた。車内に暖房は効いていないが、少なくとも寒風は当たらない。それがドアを開けた瞬間、零下40度(夜間の山中のため駐屯地よりもかなり気温が低い)の冷気が吹き込んだ。
「お前はバイアスロン要員だからこの位の寒さは馴れたもんだろう」「はい、安川1士」分隊長は雪への照り返しで眩しいほどの月明かりの中、装甲車の横を通り抜けると切り通しの峠まで早足で進む。鼻息が白い粉になって風で舞い上がっている。足下の雪は完全なパウダースノーで踏んだ足跡だけが残り、すぐに風で消えていく。これが零下40度の世界なのだ。やがて安川1士は膝をついた分隊長の隣にしゃがんだ。
「前方の森に車両はいない」「はい、前方の森に車両はいない」分隊長は雪中の月明かりでは暗視眼鏡の受像装置が破損するため双眼鏡を覗いている。それでも下に広がる森林の中の道路を一本一本確認しながら安川1士に復唱させていった。若し、分隊長が狙撃されて戦死すれば安川1士が帰って報告するのだ。
「よし、歩兵もいない。戻るぞ」「はい、歩兵もいない。戻ります」冷気の中、装甲車に近づくとエンジンの熱が温かく感じる。排気ガスに手を晒したいが、その一瞬の快感の後にはそれ以上の苦痛が待っている。若し、排気ガスの熱で手が汗をかけば直ちに氷結して凍傷になりかねない。
分隊長が装甲車の後部ドアをノックすると中から「アンパン」と声が掛った。それには「マン」と答えたいところだが、誰でも思いつくような単語では合言葉にならないだろう。
「コーイチロ―」「よし、入れ」そう言いながら中からドアは開いた。すると合言葉を掛けた副分隊長である陸曹の横で陸士が銃を構えていた。これは安川1士も担当する仕事だった。
「よし、出発」「了解、出発します」分隊長が操縦手に声をかけるとエンジン音が強くなり、装甲車は動き始めた。ただし96式装甲車は装輪のため雪の下り坂には要注意だ。当然、スタッドレスタイヤを履いているが、車体の重量は14・5トンに及ぶためガードレールがない演習場の道では一瞬の油断、操縦ミスが命取りになる。
4個分隊の4両の装甲車が山道を下し始めたところで、山の上から発煙筒が投げ込まれた。同時に空包の乾いた発射音が凍りついた空気に響き渡る。
「敵襲!」「何で?ここは危険だから状況の対象外だろう」車内で分隊長は混乱していた。それは高機動車に乗っている小隊長や中隊長も同様だった。今回の演習では連隊長が統裁官として仮想敵を指揮しており、戦闘は各中隊長の指揮によって実施され、連隊指揮所は副連隊長が統制しているだけだった。
「状況付与が入りました。装甲車4両破壊、全員戦死だそうです」統裁官からの無線連絡を受け、安川1士の中隊は幽霊になってノルディックで駐屯地に帰ることになった。
- 2017/02/18(土) 09:29:55|
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「おい、銃剣道の訓練は取り止めになるらしいぞ」「だって師団の大会があるじゃないか」「棄権するんだってよ」本当の理由は秘匿されたまま事実だけが伝達されると隊員たちに波紋が広がった。第3普通科連隊でも冬季はバイアスロンと銃剣道の強化訓練が行われているのだ(バイアスロンは内地の連隊の射撃と持続走を合わせたような位置づけ)。
「そんなことが許されるのか?」「連隊長が言ったんだから本当だろう」第3普通科連隊では名寄で育った隊員はバイアスロン、内地から転属してきた隊員は銃剣道と役割分担が決まっており、若し銃剣道が中止になれば不得手なノルディックの訓練に励まなくてはならなくなる。
「銃剣道の代わりに徒手格闘を強化するそうだ」「徒手格闘の大会があるのか?」「それはないみたいだが」この話を聞くと入隊以来、銃剣道のプロとしてやってきた陸曹たちは存在理由を否定されたような気分になった。
「連隊長の思いつきで懸命に取り組んできたことを止めさせられては堪らんな」「でも、あの連隊長は将来の陸幕僚長候補のナンバー1らしいから、銃剣道の訓練そのものがなくなるんじゃあないか」銃剣道の猛者を自負している陸曹は仲間の見解にガクリとうなだれた。
営内班のソファーを営外者の陸曹たちに占領されている陸士たちは自分のベッドで昼休みを過ごしている。ベッドで彼女・白井聡美から届いた手紙を読んでいた安川1士は顔を上げた。
「中隊長が言っていたことと同じだな」安川1士が入隊した久居の教育隊では担当中隊長のモリヤ1尉が同じことを言っていて、他の中隊が銃剣道の防具の装着の仕方や直突を習っている時にも中隊長自ら徒手格闘を教えていた。その中隊長は現在、東京の刑務所(拘置所だよ!)に入っている。
「やっぱり中隊長って只者じゃあなかったんだな」若し陸曹たちが言っている通り今度の連隊長・晩鐘光一郎1佐が将来の陸上幕僚長候補のナンバー1だとすれば、あの中隊長も同じレベルのことを考えていたことになる。それならば2人が1佐の連隊長と1尉の囚人に別れた理由が判らなかった。安川1士がそんなことを考えていると更に疑問を深めるようなことを陸曹たちが語り始めた。
「そう言えば連隊長自ら座学をやるらしいぞ」「連隊長が?精神教育か」「そうじゃあなくて、戦時国際法の教育だってよ」これも久居で受けた教育内容だ。中隊長は精神教育の時間を使って武力紛争関係法=戦時国際法の講義をやっていた。
「おまけに学科試験もあるそうだ」「俺たちはそんな優秀な頭を持ってねェよ」「お勉強が大好きな防衛大学校のトップらしいな」陸曹たちは勝手な解釈で完全に連隊長を毛嫌い始めたが、逆に安川1士は楽しみになってきた。
「おっと時間だ」その時、安川1士は腕時計を見てベッドから立ち上がった。間もなく昼休みが終わり廊下で昼礼がある。その前に煙缶(えんかん)の吸い殻を捨て、水洗いしなければならないのだ。
「すいません。煙缶をよろしいですか」ソファーのところ行き陸曹たちに声をかけると銃剣道の猛者が不機嫌そうにうなずいた。
煙缶の吸い殻を営内班のドアの脇の集積缶に捨てると洗面所に小走りする。冬は水洗いの代わりにトイレット・ペーパーで拭くだけだ。手が濡れれば十分に拭かなければ屋外で凍傷になってしまう。これはそんな時間がないため身につけた知恵なのだ。
安川1士たちは午後からもノルディックの訓練なので中隊の訓練幹部が気象状況を説明する。今日も気温零下20度、風速20メートルの中を20キロ滑らなければならないようだ。しかし、そんな過酷な環境も慣れれば日常生活の場になってくる。
「聡美も慣れてくれるかなァ」安川1士の胸に正月に抱いてきた愛知県の彼女が浮かんだ。
- 2017/02/17(金) 09:34:27|
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日本では足利義政が8代将軍だった1450年の明日2月17日(太陰暦)に韓国で現在も聖王として崇敬を集め、1万ウォン札にも肖像が用いられている(ただし、本人の生前に描かれた肖像画は存在しないため20世紀になってからの想像画=国家標準肖像画を使った)李朝第4代国王・世宗陛下が崩御しました。
世宗陛下は前王・太宗陛下の3男ですが、長男の謙寧殿下が放蕩三昧だったことで廃嫡され、譲位を受けたのです。ただし。韓国では優秀な模範生である弟に嫉妬して逆の行動に出たと謙寧殿下を弁護・同情する分析もあるようです。
実際、世宗陛下は幼い頃から大の勉強好きで、両親が「根を詰め過ぎると健康を害するのではないか」と心配して本を取り上げた程だったのですが、屏風の後ろにあった本を見つけ、これを100回以上読んだため表紙が破れ落ちてしまい、縫って直しながら読み続けた逸話は今でも子供に勉強の大切さを教えるのに使われているそうです。
世宗陛下の業績としては何よりもハングル文字を制定したことでしょう。当時の韓国では中国(明の時代)を宗主国と仰ぎ、同じ漢字を用いることに強い誇りを感じていたのですが、韓国の言語を同じ音の漢字に当てはめる記述方式では効率が悪く、そこで測位後に王室内に設立したシンクタンク・集賢殿の若手の学者に研究させたのがハングル文字でした。勿論、王室内の守旧派の抵抗は強かったのですが「庶民用の文字」と説眼して納得させると、公式文書に用いさせたことでその便利さから忽ち普及して時間を経ずして国内に定着したのです(現在では漢字の廃止を進めているのですから本当に極端な国民性です)。
次に韓国独自の貨幣「朝鮮通宝」を制定して、それまで中国からの輸入貨幣に拠っていた流通を独立させることができました。
また租税制度を中国式の広大な大陸で安定した収穫が期待できる固定した徴税制度の請け売りから、新設した貢法詳定所に毎年度ごとの気象条件と収穫量に基づき算定させる柔軟な方式に改めています。
さらに世宗陛下自身が健康に不安を抱えていたこともあり、政務を担当する重臣の合議によって取り決め、それを国王に上奏して承認を受ける制度を導入して、権力の分散と負担の軽減を実現しました。
こうして国内で優れた改革を進める一方で、対外的には南満州に侵攻して女真族を駆逐するとそこに朝鮮人を入植させて領地化し(これにより満州族は南下することになり、明が倒れて清朝が起こったとも考えられる)、また足利幕府の倭寇に対する防止策に実効性がないことを口実にして対馬を攻撃したため、現在も韓国では対馬(独島=竹島ではない)を自国領と主張する学者や政治屋が存在します。
しかし、現在にまで禍根を残している失策もあります。例えば儒教でも朱子学に傾倒する余り、それまで王家が深く帰依してきた佛教を一転、迫害するようになりました。ただし、廃佛毀釋の凶風で日本を破滅に向かわせた明治政府と違って手加減することは知っていたようで、山奥の寺院の存続だけは認めたため古寺名刹も残っていないことはないのですが、観光名所にするには不便な場所ばかりです(野僧も参拜したことがありますがダムよりも上流だったので辿り着くまでが本当に大変でした)。
現在も韓国は儒教文化の国と言われますが、その頑なな国民性を作ったのは世宗陛下です。おまけにこの時期に破壊を免れるため日本へ渡された佛像や佛画、経典などを現在の韓国の佛教寺院や学者どもは「倭寇に略奪された」「豊臣秀吉の朝鮮侵攻で持ち去られた」と断定して返還を要求するだけでなく盗難した上、裁判所まで返還を差し止める判決を出しているのです。
それでいて晩年は佛教に救いを求めたのですが、山奥に追いやられていた僧侶は王宮まで呼ばれても困ったことでしょう。
結局、現在の韓国・北朝鮮の民族性を形成していたのは世宗陛下であり、あの国民が好きな人には偉大な聖王であり、嫌いな人には不倶戴天の敵になるのかも知れません。
- 2017/02/16(木) 09:08:19|
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名寄駐屯地・第3普通科連隊では12月に着任した新連隊長・晩鐘光一郎1佐が年明けから本格始動した。第3普通科連隊は元々が稚内からソ連軍が侵攻してきた時の防壁であり、隊員の中には冬季戦技教育隊出身で冬季オリンピックにバイアスロンの選手として出場した者が多く全国屈指の実力を誇っている。そこにこのタイミングで防衛大学校の期待の星が着任したのには特別な理由があるのは当然だろう。晩鐘1佐は着任早々に主要幹部を集めた。
「諸官たちも察しているとは思うが、私は陸上自衛隊がイラクに派遣されることになった時、指揮を執ることを命じられている」「やはり・・・」中隊長以上の幹部たちもこのことは予測していたのか動揺した様子はない。ただ、もう一度覚悟を決め直したようだ。
「従って今後は過去のやり方を取捨選択しながら戦場で身を守り、任務を遂行するための訓練を追及する。何よりも厳正な規律を保持しながら現地で活動し、1名の犠牲者も出さず無事に連れ帰ることを主眼とする」連隊長の言葉に幹部たちは揃ってうなずいた。
「具体的には戦時国際法の教育と護身術の訓練からだろう」「護身術、銃剣道では?」「今後、第3普通科連隊では銃剣道は実施しない」流石にこれには会議室にざわめきが起こった。
「しかし,師団の大会に向けて訓練が始まっています」「それは棄権しろ。そんな役に立たない体育訓練に時間をかけている暇はない。徒手格闘を中心に訓練内容を変更せよ」アンパンマンと仇名されている優しげな丸顔の中で目が鋭く光っている。中隊長たちは晩鐘1佐が言う「実戦的訓練」の意味を考え始めた。陸上自衛隊で「実戦的」と言うお題目を口にしない者はいない。しかし、前例踏襲を優先する組織風土の中で形骸化し、やがては周囲と歩調を合わせることを覚えて行く。確かに明治時代の長い30式歩兵銃と30年式銃剣を前提にした銃剣道が89式小銃の時代に通用するはずがない。そんな自明の理を考えもしなかった自分たちの怠慢に愕然とせざるを得なかった。
「次に戦時国際法の教育だが私自身が教官を務める」「連隊長自らですか」「そうだ」これも極めて異例なことだ。陸上自衛隊では幹部の知識拡充・能力育成の名目の下、学科教育は初級幹部に担当させることが一般的であり、中隊長以上は精神教育、連隊長と各科長は幹部教育と役割分担が決まっているのだ。
「この機会に若手幹部に勉強をさせては・・・」「それでは隊員がイラクで紛争に巻き込まれた時、合法的な対応ができるようにするだけの教育をやれる若手幹部がいるのか?」「・・・いいえ」3科長の提言に対する晩鐘1佐の回答は考えている次元の違いを思い知らせた。
「いないのなら私が責任もって実施するしかないだろう」この言葉には全員が肩を落とすようにうなずいた。
「それから教育は段階的に試験も行うから1科はその準備をしておくように」「学科試験ですか?」「理解度が確認できなければ派遣要員の選定に困るだろう」やはり晩鐘1佐は陸上自衛隊が自信を持ってイラクでの指揮を託す人材なのだ。
「ただし、イラクに向かうまでは北の防壁としての任務に変わりはない。通常の冬季演習・訓練にも遺漏がないように注意せよ」「はい」格の違いを噛み締めていた主要幹部たちもここの返事だけは自信があった。
「最後にイラク派遣の件はここに出席していない初級幹部以下の全隊員、さらに諸官らの家族にも他言無用だ。中央ではアメリカの対イラク戦が迫っていることで、アフガニスタンでは海上自衛隊で誤魔化せたがイラクには陸上自衛隊を派遣するのではないかと言う憶測をマスコミが書き立てている。無用の噂が先行して足枷を掛けられるのは避けなければならない」こんな注意事項まで次元が違う。幹部たちは最近の新聞が書き立てている「ブーツ・オン・ザ・グランド」と言う台詞を思い出していた。
- 2017/02/16(木) 09:07:07|
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同じ日、美恵子はスナックで客を相手に紅白歌合戦を見ていた。孝子叔母がママさんだった頃は客層がもう少し年長の家族持ちだったため引き上げる時間も早かったのだが、今は美恵子と同年代の独身者ばかりなので紅白が終わった後もカラオケで盛り上がっている。
「今年は若い子が多くて最高さァ」今回、美恵子は新聞の出場歌手一覧表をコンビニで拡大コピーして壁に貼っておいた。こうすれば見る客たちも気合いの強弱を調整できるはずだ。
「ところでBoAって何人(なにじん)だ」「テレサ・テンみたいに台湾だろう」「アグネス・チャンと同じ香港じゃなかったかな」「名前から言えば東南アジアだろう」紅組の2番目に唄う外国人歌手・BoAを巡って議論が起こってしまった。美恵子も理容店の有線放送で歌は聞いているが、歌手の紹介などは入らないので知識はない。すると司会の有働由美子アナウンサーが「韓国の御家族も見ておられますか」とインタビューしたので謎は解けた。
「藤あや子って好い女だよな」「こう言うのって秋田美人って言うんだってよ」次は演歌歌手の藤あや子だ。ここでいきなり美恵子に話が反れてきた。
「ママさんも明日は和服で出てよ。そうしたらボトルをキープするさァ」「俺もお年玉に1本、入れるさァ」美恵子の和服は前夫が幹部候補生学校に入る前の春のボーナスで(ご機嫌取りに?)買ってくれた物で、着付けは宝林寺の奥さんに習っているが髪を整えるための美容室は予約していない。ところが番組は第2部に入り、松浦亜矢、華原朋美、モーニング娘の連続登場になると和服の話はどこかへ吹き飛んでしまった。
「本当、今年の紅白は良いさァ」「俺、来年は受信料を払ってやろう」「NHKの受信料は未納分もまとめて請求されるぞ」「げッ、やっぱり止めた」アパートに1人では紅白を見ても馬鹿話はできない。その意味では美恵子も今夜の営業は少し遣り甲斐を感じる。その一方で、淳之介との親子の時間を犠牲にしていることには想いが至らないのが美恵子だ。
「長山洋子も良いさァ」「やっぱりママさん、和服を着るさァ」モーニングム娘に続いて若手演歌歌手・長山洋子が登場すると客たちは再びリクエストを始めた。ところがBIGINが「島人ぬ宝」を唄い始めると急に黙ってしまった。
「やっぱり最高さァ」「俺、泣けてきちゃったよ」「後でカラオケで合唱するさァ」若者たちにとってこの歌は沖縄を愛する気持ちを思い返させる郷土賛歌なのだ。
「おッ、夏川りみに島唄が続くさァ」第2部に入ると壁に貼ってある一覧表を再確認した客が声を上げた。沖縄出身の夏川りみは本人の名前、本土のバンドであるTHE・BOOMが唄う島唄が曲名なのはこの客の沖縄へのこだわりだろう。そんな客たちが意外な歌で反応した。
「風の中の昴 砂の中の銀河 みんな何処へ行った 見送られることもなく・・・」これは中島みゆきの「地上の星」だ。NHKの「プロジェクトX・挑戦者たち」の主題曲であり、昭和の男たちの懸命に仕事と向かい合う姿を描いたドキュメンタリーは沖縄でも真剣に見ている若者が少なくなかった。
「俺、この歌を聞いたら遊んでいられなくなった」「そうだ!沖縄も本土に負けていちゃあいかんのだ」「内地の政府の補助金なんかを当てにしないで自立するのさァ」「琉球独立だ!」美恵子は客たちの顔が急に熱血漢になっていることに驚いた。そんな客たちは白組の谷村新次が唄う「昴」の「われは行く 心の命ずるままに・・・」を聞きながら帰ってしまった。
急に静かになった店の中で美恵子が片づけをしているとさだまさしの歌が耳に入ってきた。
「去年の貴方の思い出が テープレコーダーから流れてきます・・・」この歌は前夫が愛し、美恵子が嫌った歌だった。その前夫は今夜も刑務所(拘置所だ!)で過ごしているはずだ。
「約束通りに貴方が嫌いな 涙は見せずに・・・」「私が泣くはずがないさァ」テレビで唄うさだまさしに言い返しながら美恵子は淡々と片づけを再開した。

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- 2017/02/15(水) 09:23:26|
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昭和35(1960)年の本日2月14日は海軍士官の昇任の根拠であった兵学校の卒業序列=ハンモック・ナンバーが絶対でないことを体現されていた木村昌福中将の命日です。
野僧は輸送幹部として木村中将が指揮されたキスカ島撤退作戦を研究したことから御子息の知遇を得て鎌倉市内の尼寺にある墓所に参った後、逗子市郊外にある御自宅にも伺ったのですが、残念なことに先年の2月24日に白血病で亡くなられました。
木村中将は明治24(1891)年に静岡市の弁護士と女子医学専門学校の舎監を勤めていた母の次男として生まれましたが、生後間もなく鳥取藩の漢学者の家系である母の実家の養子になったため戸籍登録は始めから木村姓でしたが、そのまま親元の近藤家で生育されたそうです。
静岡で旧制中学校を終えると海軍兵学校に41期生として入営しますが、この期には沖縄戦で海軍陸戦隊沖縄根拠地隊司令官として勇名を馳せた太田実中将(野僧の前世の上官であり、こちらは警備幹部として研究していました)、ルンガ沖夜戦でアメリカ海軍の心胆を寒からしめた田中頼三中将(ガナルカナル島への駆逐艦輸送で生起したこの夜戦も研究していました)や近代海軍の航空戦を剣術の発想で考えて真珠湾では再攻撃を止め、ミッドウェイでは魚雷を陸用爆弾に換装させる愚を犯した草鹿龍之介がいますが、これ程の名将が揃っている期の中で1番ハンモック・ナンバーが高かったのは草鹿、最後尾に近かったのが木村中将でした。このため海軍大学校にも入校していません。ただし、映画「キスカ」で木村中将の役(大村になっていた)を演じていた三船敏郎さんの「兵学校でドンケツ」の台詞が1人歩きしてしまっていますが、実際は後尾から両手辺りではあったものの「ドンケツ」ではなかったようです。
これは弁護士の父と漢学者の血統の母の間の息子だけに文科系が得意で、技術者育成のため理数系を重視していた兵学校の学科が苦手だったことも成績が低迷した理由であって頭が悪かった訳ではありません。
木村中将が指揮された「キスカ島撤退作戦」についてはその当日7月29日の「日記(暦)」で詳細に述べているので重複を避けますが、そこに至るまでの海戦でも奇跡のような成功・勝利を収めています(映画「キスカ」では「大した戦果をあげていない」と馬鹿にされていますがこれは誤りです)。
開戦時は大佐で重巡洋艦・鈴谷の艦長でしたが、ベンガル湾での通商破壊に於いて敵の民間輸送船を発見すると、乗員を退船させてから撃沈しただけでなく、血気に逸ってその救命ボートを機銃掃射しようとした若手士官を艦橋から「射っちゃあいかんぞォ」と怒鳴りつけたのです。この1カ月前のスラバヤ沖海戦で撃沈したイギリスの重巡洋艦と駆逐艦の乗員を救助した駆逐艦「雷」の工藤俊作艦長の美談は有名ですが、先に避難させていた木村大佐の方が手回しは良いようです。
ミッドウェイ作戦では陸戦隊を上陸させる作戦を担当する艦隊に参加したのですが、艦隊主力の空母が撃沈された混乱で中止命令が出ず孤立状態でミッドウェイ島の砲撃に向い、敵の反撃の中で軽巡洋艦が2隻衝突して1隻が大破してしまいました。このため艦隊司令官(レイテ作戦で謎の撤退をした人物)は2隻を見捨てて連合艦隊との合流場所へ向かった中、木村艦長は故障を理由に艦隊から離脱して救助に向かったと言う伝説がありますが、これについては御本人も認めていなかったそうです。
1943年3月初旬に行われたビスマルク海海戦では陸軍の輸送艦隊の護衛を務めましたが、制空権を握った連合軍の航空部隊に空襲されては打つ手がなく輸送艦隊は壊滅し、木村少将自身も左大腿部、右肩、右腹部に貫通銃創を受けました。しかし、通信士が「司令官重傷」の信号旗を揚げると「見た者が心配する」と叱責して「間違い」と言う訂正信号を揚げさせたと言う逸話が残っています。
この時の重傷のため入院加療しているところに白羽の矢が飛んできたのがキスカ島撤退作戦でした。
キスカ島撤退の後は1944年12月から翌年2月下旬まで行われたミンドロ島沖海戦に司令官として参加し、敵艦隊・上陸部隊に打撃を与える戦果を上げたものの戦力差が大き過ぎて致命傷には至りませんでした。ただ、撤退時に司令官の乗艦=旗艦が最後尾に位置し、海面を漂流している将兵を救助しながら敵の追撃を防いだことは木村少将らしい海軍の掟(=指揮官は常に先頭)破りと言えるでしょう。
敗戦時は現在の航空自衛隊防府南基地にあった海軍通信学校長でしたが、その後の木村中将らしい逸話については「戦士の戦史・あんたが中将・海軍編」で詳細に述べています。
それにしても野僧が御子息から伺った命日は2月13日なので小庵でも法要を勤めているのですが、書籍やインターネットでは14日になっているため多数決でこの日としました(日付が変わる頃に息を引き取られたため遺族の認識と医師が作成した書類が喰い違ったのかも知れません)。
- 2017/02/14(火) 09:34:54|
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今年も紅白歌合戦の日がきた。と言っても沖縄の家庭行事は太陰暦で行うため来年は2月15日なのでまだ先だ。淳之介は「貴方のキスを数えましょう」以来、ファンになっている小柳ユキが「LOVEN′YOU」を唄う上、島谷ひとみの「亜麻色の髪の乙女」も聞き逃せないので受験勉強は休業にしてテレビの前に陣取った。
「若い子の歌はよく判らないさァ」新聞の出場歌手一覧を見ている祖父母はお目当ての演歌歌手の前に続く若手の歌に少し飽きてきていたが、それでも紅組の田川寿美、藤あや子、白組の山本譲二、堀内孝雄が登場して機嫌を直した。ただし、淳之介は演歌歌手の堀内孝雄が父の青春の愛唱歌の多くを唄うアリスのメンバーだとは気づかなかった。
休憩コーナーの「憧れのTVヒーロー&ヒロイン・ショー」の中で北島三郎が唄った「詠人(うたびと)」を聞いて淳之介は涙ぐんでしまった。善通寺で父とこの歌の番組「おじゃるまる」を見ていた頃を思い出したのだ。その様子に祖母は怪訝そうな顔をしたが淳之介は「懐かしいさァ」と胡麻化した。
第1部の終わりになってお目当ての歌手が続々と登場すると祖父母は興奮気味になる。淳之介が待つ小柳ユキもここで歌った。しかし、余韻に浸る間もなく次の歌に感動してしまった。
「僕が生まれた この島の空を 僕はどれくらい 知ってるんだろう・・・」それは沖縄出身のBIGINの「島人ぬ宝(しまんちゅぬたから)」だった。祖父はタクシーのラジオで聞いて覚えたのか合わせて口ずさんでいる。
「でも誰より 誰よりも知っている 哀しい時も 嬉しい時も 何度も見上げていた この空を・・・」祖母も唄い始めたところを見ると、やはりラジオの歌番組を聞いているらしい。こうなれば淳之介も黙っている訳にはいかない。
「教科書に書いてある ことだけじゃわからない 大切な物がきっと ここにあるはずさ それが島人の宝」結局、3人で合唱になり、唄い終わるとブラウン管と自分たちに拍手した。その時、祖母は「ハナハナハナハナ・・・」と発声したが、これは沖縄の風習だ。
「若い人の歌も良いさァ」「これは今の島唄さ」祖父母はBIGINを口々に誉めているが、愛知の父の実家では考えられないことだ。おそらく歌の善し悪しよりも若い歌手と言うだけで祖父は不機嫌になり、唄っている間中、「くだらん」と言い続けるのだろう。
第2部は島谷ひとみの「亜麻色の髪の乙女」から始まったので淳之介が身を乗り出した。
「亜麻色の長い髪を 風が優しく包む 乙女は胸に白い花束を・・・」淳之介は唄よりも島谷ひとみの美貌に夢中なのだ。
「淳ちゃんの部屋に写真が貼ってある人さァ」祖母が声をかけても耳に入らない。実は夜中にこっそりオカズにしている胸の膨らみを強調した写真は引き出しの中にある。
「淳ちゃん、どうしたねェ」島谷ひとみが唄い終わると隣から祖母が心配そうに声をかけてきた。淳之介は胸元が開いたドレスで深く頭を下げた島谷ひとみの豊かな胸の谷間に目が焼き付いて「あそこに顔を埋めたい」と生意気な妄想を抱いているところだ。
「鼻血が出ているさァ」そう言って祖母がティッシュを手渡したが理由は言えなかった。
「おお、今度も今の島唄さァ」シマンチュウにとっては今年のトリである夏川りみの登場だ。
「古いアルバムめくり 『ありがとう』と呟いた いつもいつも夢の中・・・晴れ渡る日も 雨の日も 想うあの笑顔・・・」この歌は祖父母にとっても別格なようで真面目な顔をして聞き入っている。祖母は目を閉じて誰かを思い出しているようだった。
今回はアルゼンチンの歌手・アルフレッド・カセーロとTHE・BOOMも「島唄」を熱唱したので、祖父母も「今の島唄」にはまってしまった。その隣で淳之介は「昔の島唄」に興味を持ち、「お年玉でCDを買おう」と考えていた。

島谷ひとみさん
- 2017/02/14(火) 09:21:43|
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昭和59(1984)年の本日2月13日に登山家・植村直己さんがアラスカのデナリ(当時の呼称はマッキンリー=公式改称は2015年8月31日)で初の厳寒期単独登頂に成功した後、消息を絶ちました。
植村さんの名前は本来、先祖の「直助」さんから1字採り、それに巳年生まれであったことから「直巳」だったのですが、役場の戸籍係が「直已」と誤記入したためこちらになっていました。ところが後年、本人が「蛇の『巳』年よりも『己(おのれ)』の方が良い」と「直己」を用いるようになり、現在ではこちらが定着しています。ただし、「直己」と書いた場合は「なおき」と読むことが多いようです。
植村さんは昭和16(1941)年に岡山県豊岡市の農家の末っ子として生まれ、学校に入った頃から県境を隔てた隣町出身の登山家で日本アルプスの冬季縦走で有名な加藤文太郎さん(新田次郎さん作「孤高の人」の主人公)に憧れて但馬の山々を登るようになり、明治大学に進むと山岳部に入って登山に邁進するようになりました。
卒業後は社会人としての素養が欠落した本人の資質もあって、仕事の余暇として山を楽しむ一般的な登山愛好家とは異なり、登山や前人未到の地を踏破する冒険家を職業とするようになりました。
24歳の時、明治大学山岳部の一員として(中国に侵略されている)チベットのゴジュンバ・カン(海抜8201メートル)の登頂を果たし、翌年にはヨーロッパ大陸の最高峰であるモンブラン(海抜4810メートル)、続いて名峰マッターホルン(海抜4418メートル)、さらにアフリカ大陸の最高峰キリマンジェロ(海抜5895メートル)に単独登頂しています。それから2年後には南アメリカ大陸の最高峰アコンガグア(海抜6960・8メートル)へ単独登頂して、帰路はアマゾン川を筏で下ると言う冒険も行いました。
そして1970年に日本山岳会が創立65周年事業としてのエベレスト登頂計画に参加しますが、自己負担金=参加費用が捻出できず荷揚げやルート工作員として働きながらの登山になりました。ところがその抜群の体力を認められたことで第1次アタック隊に選ばれ、5月11日に日本人として初の登頂を果たしたのです。植村さんはこの時、下働きを経験したことで多くの労力を要しながら選ばれた者だけが栄光を浴びる組織的登山の方法に疑問を持ち、それからは単独登頂を専らにするようになりました。
この年の夏にはデナリの単独登頂にも成功し、これで世界初の5大陸の最高峰登頂者になったのです。
この頃から登山だけでなく極地踏破にも挑むようになり、グリーンランド北部でイヌイットと1年半も生活を共にして犬ゾリとアザラシなどの調理法を学び、1974年12月から1年半かけて北極圏を踏破し、1978年には犬ゾリによる北極点単独到達にも成功しました。
ところがスポンサーだった電通が撮影したカメラのフィルムを回収するためヘリコプターで接触した際、食料や交代の犬などを置いてきたことをマスコミから「冒険を語りながら最新の機材で支えられた偽物」と非難されることになり、元々がマスコミ対応どころか社会生活に適応力がない自然児である植村さんは深く傷つき、この頃から不運の連続になります。
厳寒期のエベレスト登山隊の隊長を務めたものの隊員が死亡した上、悪天候に見舞われて失敗。アルゼンチン軍の協力を得て目指した南極点到達はフォークランド紛争の勃発で断念。そんな傷心のまま青少年に大自然に親しみ、生きる術を教える野外学校の設立を模索するようになりました。
そしてアメリカの同様の施設を見学した帰りに立ち寄ったアラスカのマッキンリーに登ったのです。登頂成功は無線交信で報告し、山頂付近で上空の飛行機からも姿を確認されていますが、その直後に消息を絶ち行方不明になってしまいました。
デナリ山は海抜こそ6190メートルでエベレストの8848メートルよりも3000メートル弱低いのですが、麓は海抜600メートルの平地なので3700メートル程度あるチベット高原との高度差と比べるとはるかに巨大な岩塊であり、高緯度による強風や低温などの過酷な気象条件も合わせて(山頂では真夏でも零下20度、厳寒期には中腹4600メートル付近で零下73度を記録している)、実際には最も登頂が困難な山の1つです。カラコルムのK2(海抜8611メートルで世界第2位)とどちらが危険だろうか?
野僧のアラスカ人の彼女はクライマーだったため「一緒にマッキンリーへ登りたい」が口癖でしたが、このニュースで峻厳な山容を見ていたため「高所恐怖症では無理だ」と腰が引けていました。

弔意を示してアラスカの州旗
- 2017/02/13(月) 09:15:48|
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今年の淳之介の冬休みは受験勉強に専念するしかなかった。担任の比嘉は淳之介の個人情報を新聞記者に漏らしたことで懲戒処分を受けながらも、それを不服として沖縄県教員組合の力で校長の退任を要求する騒ぎを起こした。このため生徒への受験に関する指導は一切放棄され、一番大切な2学期は教頭が担任を代行する自習状態だったのだ。
「淳之介、お母さんは相変わらず仕事が忙しいみたいだから・・・ゴメンネ」祖母は日付が変わって就寝する前に勉強部屋へ様子を見にくる。この孫は玉城家のどの子供よりも熱心に勉強しており、そんなところは父親似なのだろうと納得していた。
「でも一言くらい応援してくれても良いのにな」淳之介が沖縄へ来て1年4カ月になるが、母親の美恵子の顔を見たのは毎月の散髪以外は夏・冬・春休みと学校行事の代休でアパートに泊った時くらいだ。やはり母は自分に会うことよりも仕事を優先しているようだ。
「あの子には私たちも裏切られっ放しなんだよ」「裏切られる?」祖母がポツリと呟いた言葉に淳之介は鉛筆を握って振り返った。すると祖母も真顔をして見返している。
「大好きなモリヤさんと結婚すれば仕事よりも大切な物を見つけられると思っていたけど、やっぱり思い切り仕事ができない不満ばかりを溜め込んでしまった」淳之介は幼い頃の記憶を辿ってみたが、富士では毎週のように東京へ出掛け、善通寺では派手な服装で目立っていたことくらいしか思い出せなかった。
「今度も淳之介が自分の元に来てくれたのなら仕事を減らしてでも会いにくると思っていたのさァ」祖母はそこまでで溜め息をつき、「無理しないで」と声をかけて部屋を出て行った。
「お父さん、刑務所で何をやっているのかな」祖母が襖を閉めると淳之介は机の上に肘をついて考えごとを始めた。中学生の淳之介には服役囚が入る刑務所と被告人が拘禁される拘置所の違いは判らない。勿論、その父もまた受験勉強に励んでいることを知るはずがなかった。
「モリヤさんの勉強は受験向きではないですね」裁判が停滞している間も私は牧野弁護士の指導を受けながら司法試験の受験勉強に励んでいる。
「確かに昔から学問は好きですが成績には全く反映されませんでした」私は得意な社会科系では満点に近い成績を取りながらも苦手な理数系は点があるのが不思議なくらいで、数学の教師だった叔父は教えていて「教師としての自信をなくす」と嘆いたものだ。
「モリヤさんの勉強は知識の探求なんですけど、受験勉強は情報の収集だけで良いんです。夏目漱石なら『吾輩は猫である』に『坊ちゃん』とだけ覚えれば内容を知る必要はない。ところがモリヤさんは全て読破してしまう。これでは無限に勉強し続けることになってしまいます」「でも本が好きで文学部に行くのでなければ、そこからの発展がないでしょう」「と考えてしまうことも受験生には不要です」司法試験は理数系の医師免許と並び文科系の最難関と言われてきた。その反省から今年になって司法試験法が改定されており、2005年からは新旧試験法の並立、2011年からは新司法試験に変更されるのだ。
「モリヤさんは大学の単位数が足りないから間もなく第1次試験を受けることになりますが・・・」「それまで裁判が続いていますかね」私の質問に牧野弁護士は顔を曇らせた。
「検察側は自衛隊に北キボールでの活動日誌の提出を要求したりして裁判の引き延ばしを図っています。徳島弁護士はイラクでの戦争が始まるまで判決を出させないで、国会での追及の材料にするつもりなんでしょう」それでは完全に裁判の政治利用だ。政府寄りの判決を批判して三権分立を声高に叫んでいる当事者がこれでは言うべき言葉が見つからない。
「おかげで受験勉強に集中できますから、収監中も試験を受けられるように手配をお願いします」「そう言う前向きさは受験に必要です」牧野弁護士の笑顔を見て受験勉強を再開した。
- 2017/02/13(月) 09:12:02|
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昭和44(1969)年の本日2月12日に福沢諭吉さんの曾孫でレーサーだけでなくファッションモデルとしても人気があった福沢幸雄さんが事故死しました。25歳でした。
福沢さんは1943年にナチス・ドイツの占領下にあったフランスで在フランス大使館に勤務していた父とギリシャ人ソプラノ歌手の間に生まれ、敗戦後に帰国すると曽祖父が創設した慶応義塾の中等科から大学までエスカレーター式に進学しています。
大学在学中からモーター・スポーツに興味を持ち、いすゞとレーシング・ドライバーの契約を結ぶとベレットGTで船橋サーキットを舞台に活躍しました。このため大学卒業にはトヨタに移籍して800スポーツ(通称・ヨタ8)、1600GT、2000GT、トヨタなどで好成績を収め、特に移籍3年弱で迎えた富士サーキットでの日本カナディアン・アメリカン・チャレンジカップ(略称=Can-Am)では外国勢の7リットル・クラスのレーシング専用車に3リットル・クラスのトヨタ7で互角に戦い、総合4位=日本人としては最高位を獲得しています。
それに先立つトヨタとの契約間もない頃にはトヨタ2000GTの高速走行試験に参加して、4人のドライバーで交代しながら70時間の連続走行によって速度記録を樹立して、個人としても2000GTを愛用するようになりました。
また身長170センチとモデルとしては小柄でもハーフ特有の甘い容貌もあってアパレルメーカーとモデル契約を結び、男性化粧品や家電メーカー、ファッション、何よりもトヨタのCMにも起用されていました。
この日、福沢さんは静岡県袋井市に新設されて3日目のヤマハのテストコースで5リットル・クラスのエンジンに換装したトヨタ7を試験走行していて、直線から第1コーナーに向かう途中でコースから飛び出し、標識に激突した後にコース外の土手で炎上したのです。消火活動と並行して救助されましたがすでに死亡しており、死因が頭蓋骨折であったことから最初の標識との衝突時に即死したと考えられています。
当時、福沢さんは歌手の小川知子さんと恋愛関係にあり、生放送の歌番組に出演中だった小川さんは訃報を聞きながらも持ち歌の「初恋のひと」を唄い、途中から号泣した姿が視聴者のもらい泣きを誘ったそうです。
この事故は日本の企業倫理に対する大きな問題を残しました。それは当時のトヨタは日産との間でモーター・スポーツの熾烈な開発競争を演じており、スカイラインGT-Rで優位に立つ日産に対する強烈なライバル意識を持っていました。
このため事故後の警察の現場検証でも「企業秘密」を言い立てて、事故車を回収しただけでなく同型の最新型車を見せずに別の古い車体を提出したのです。さらに別のドライバーが走行中に車体が振動して操作が不安定になることを証言しても車体の欠陥は認めず、「福沢さんの操縦ミスが原因」として一方的に断罪しました。
結局、この対応に激怒した遺族が名誉棄損を申し立てた民事訴訟を起こしましたが、この裁判は12年を要してトヨタ側が6100万円を支払うことで和解が成立したものの民事訴訟であるため事故原因の解明は行われていません。
トヨタは現在の社長が陣頭指揮を執ってモーター・スポーツへの再参入を目指していますが、トヨタのお膝元の小学校でこの事故の顛末を聞いていた野僧が応援する気になれないのは当然です。
当時、岡崎の小学校の同級生たちはトヨタ車を見ると「人殺しの車が来た」と指をさし、トヨタ車に乗っている教師に「そんな車に乗ってると死んじゃうよ」と言って困らせていました。地元ではそれ程の衝撃を与えた事故でした。
- 2017/02/12(日) 10:17:44|
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岡倉と杉本はイギリス側が用意した宿舎に泊まることになった。つまり常に監視に晒されることにはなるが、逆にイギリス側からの情報収集に関しては何も心配いらないと言うことだ。
「イリヤ、ブレア内閣を戦争に誘導している者は特定できているのか」「アメリカのライスのような目立った存在はいないが、外務省にそれらしい動きをしている官僚が数人いるな」イリヤも保全の心配がなくなったらしく島村の質問に明確に答えた。
「ところで日本の外務省はライスの言いなりらしいが、今度こそアーミー(陸軍)を対イラク戦争に参加させるんじゃないのか」ジェームズは「不朽の自由作戦」における海上自衛隊の給油活動も「戦争への参加」と言う意味ではアフガニスタンに地上軍を派遣したことと何も変わらないことを理解している。それに気づかないでいるのは日本の国民だけなのだ。その時、イリヤの胸ポケットの中で携帯電話が鳴った。
「この電話が鳴ると・・・」イリヤは表情を曇らせると窓際へ行って電話を受けた。
「はい、6の××も一緒です。日本人2名もいます」イリヤはジェームズの本名のところだけは受話器を抑え小声で話した。そこからは命令を受けているようで相槌だけになる。
「そうですか。それで良いのですね。判りました」やがてイリヤは妙な念を押してから電話を切った。携帯電話を胸ポケットに入れたその顔には冷たい微笑みが浮かんでいる。岡倉と杉本は背筋が凍りつくように感じながら顔を見合わせた。
「ジェームズ、例の『キツネ』がロンドン市内で見つかった。これから『狩れ』と言う指示だ」「お客さんは?」「ご同行願って現場研修させても良いと言う許可が下りた」イギリス人2人で話を決めて行くが、杉村と岡倉にはこの許可を誰が出したのかが判らない。ただイギリスの諜報部員の活動に関わってしまった以上、拒否すれば命がないことは想像できる。岡倉の脳裏にアフリカでの戦闘で3名を殺した同期の顔が浮かんだ。
「あの車だ」4人を乗せた車はロンドン市の広域環状高速道路M25で1台のドイツ車を見つけた。ジェームズは深夜で交通量がまばらな片側5車線の道路上で徐々に距離を詰めて行く。その間に助手席でイリヤが携帯電話型望遠鏡でナンバーを確認している。
「間違いない。いつもの手でいくぞ」「うん、(窓を開けると寒いから?)発砲は止めておこう。日本人も見ておけ」この2人が何をやろうとしているのかは想像したくない。しかし、想像しなくても現実の幕は切って落とされた。ジェームズは制限速度70マイル(110キロ)のM25で巧みにドイツ車をあおり、かなりの速度超過にした。
「間もなく橋だ。そこで殺るぞ」「うん、プリセンスの時のようにトンネルはないからな」2人は前を向いたままうなずくとイリヤはポケットからレーザー・ビームを取り出した。
イリヤが言うプリンセスとは5年前の夏にパリの高速道路の地下トンネルで事故死した「イングリッシュ・ローズ(=元皇太子妃)」のことなのか・・・岡倉には確認ができず黙っているとジェームズは速度を上げ、ドイツ車が衝突寸前に迫ったところで車線変更して並走した。
ドイツ車の運転手がこちらを見た瞬間、イリヤはその目にレーザー・ビームを浴びせ、ジェームズが車線に割り込んだ。ドイツ車の運転手は慌ててハンドルを切り、回転しながら橋の欄干を突き破り、川へ落ちて行った。イギリス人2人は深く溜め息をついたが、日本人2人は飲んだ息が吐けず、唇が紫になっていた。
「終わりました。救助を遅らせるように手配願います・・・はい、この季節ですから30分もあれば十分でしょう」イリヤは先ほど命令を受けた携帯電話で報告を始めた。水上警察の救助を遅らせ、冬の川での水死だけでなく凍死も狙っているようだ。これで島村と岡倉も手は下していないが共犯者になった。日本でなら同期と同じく裁判に掛けられるに違いない。
- 2017/02/12(日) 10:15:32|
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