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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月1日・アメリカの戦争犯罪=捕虜交換船・阿波丸が撃沈された。

昭和20(1945)年の明日4月1日に赤十字社の仲介で捕虜と拘束民間人の交換協定が成立したことに伴いシンガポールから日本に向かっていた貨客船・阿波丸がアメリカ海軍の潜水艦・クィーンフィッシュ(チャールズ・E・ラフリン艦長)によって撃沈され、乗船していた2004名から2130名のうち救助された=投降した1名を除くほぼ全員が死亡しました。
野僧は現役時代、輸送戦史を研究していた関係でこの事件については一般の自衛官よりも詳しいのですが、日本側にも違法行為があったとは言え、やはりアメリカ側の落ち度の方が大きいのは間違いありません。
第2次世界大戦も末期に入り、食料などが窮乏していた日本軍の収容所にいるアメリカ軍捕虜たちの処遇が悲惨を極めていたのを受け、1944年10月に赤十字社の仲介によって日米双方の捕虜と拘束民間人の交換と抑留されている捕虜への救援物資の送付に関する協定が成立しました(=アメリカ側からの申し入れ)。そこで当時は日ソ不可侵条約に基づき中立を維持していたソ連のナホトカで物資の交換が行われ、日本には白山丸で持ち帰りました。続いて日本に残っていた数少ない本格的貨客船の阿波丸が1945年2月17日にジャワ島やマレー半島の捕虜収容所への救援物資800トンを積載して門司港を出発したのです。
当時、この航路はアメリカ海軍の潜水艦による通商破壊が日常化していて極めて危険な状態でしたが、アメリカ政府が国際法の病院船に準ずる安導権(=無害航行権)を保障したため、阿波丸は病院船と同様に武装を撤去し、識別のため船体を緑色から灰白色に塗り替え、舷側と煙突、甲板には緑十字を描いた上、夜間も煙突の緑十字を照らすライトも設置していたのです。一方、アメリカ海軍も日本側が通知した航路情報を各部隊に伝達し、攻撃を禁ずる命令を発していました。
この時、実際は協定違反に当たる航空機や自動車の部品や弾薬などの軍事物資も積み込んでいたのですが、この時点ではグアム島が陥落し、10月下旬にはレイテ島にマックアーサーの奪還部隊が上陸する戦況でしたから日本軍としては「安全が保障されている輸送手段を利用しない手はない」と言う選択しかなかったのでしょう。
こうして台湾の高雄港で22トン、香港で41トン、シンガポールで562トンの物資を下し、無事に最終目的地のジャワ島へ到着しました。
そして帰路にも日本軍は協定違反を犯します。本来は空便で日本に帰るまでの安導権を与えられていたのですが、乗船が撃沈されて救助されていた民間船の船員480名、大東亜省の次官以下の公務員や三井物産の支店長以下の社員などの民間人(文民)600名、そして軍人・軍属820名の計1900名を乗船させ(記録により人数には差異がある。犠牲者数は乗組員を加えた人数)、さらにガソリンや重油、生ゴム、錫、タングステン、アルミニウムなどの金属類を計9500トン以上も積載したのです。
アメリカ軍は暗号解読によってこの事実を掴み、偵察機によって阿波丸の喫水が深く沈んでいて空船ではないことを確認すると太平洋軍司令官・ニミッツ大将に「協定違反による復仇=撃沈」の許可を求めました。
しかし、ニミッツ大将の司令部ではこの協定がアメリカ側からの申し入れによって成立したことや撃沈によって日本側が態度を硬化させ、捕虜への復仇を行うことへの危惧などを勘案して明確な返答をしなかったのです。
更にこの日は沖縄本島にアメリカ軍が上陸した開戦当日にあたり、阿波丸はアメリカ艦隊が周囲を固めている沖縄の周辺海域を避けようと事前に通知していた太平洋側の航路ではなく、台湾海峡を通過して東シナ海に入りました。午後10時頃にクィーンフィッシュの魚雷3本、若しくは4本を受け、約10分間で急速に沈没したのは、やはり船底に大量に積載していたガソリンや重油などが誘爆したのでしょう。
問題なのはラフリン艦長が潜望鏡で確認することなくレーダーで捕捉しただけで攻撃を加えたことと阿波丸への攻撃禁止命令書と予定航路の通知文書を見ていなかったことです。このためラフリン艦長は軍事法廷に掛けられ「不注意」として有罪判決を受けています。ただし量刑は「戒告」でした。
日本政府は重大な協定=国際法違反としてアメリカ政府に抗議し、賠償を請求しましたが、責任は認めたものの賠償については戦争終結後に改めて行うと回答され、これを受け入れざるを得なかったのです。
敗戦後、アメリカ政府に阿波丸と同程度の代船と6150万ドルの賠償請求を行いましたが、占領軍最高司令官になっていたマックアーサー元帥が反対したため、結局、有償食糧援助の価格を4億9千万ドル値引きする交換条件で請求権を放棄しました。
  1. 2017/03/31(金) 09:21:14|
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振り向けばイエスタディ779

「私、母と2人暮しなんです。だから男の人を家に入れることはできないんです。ごめんなさい」しばらくの思案の後、少女はもう一度頭を下げた。ところが今日の淳之介は引き下がらない。自分でも不思議なくらい熱い想いが胸に充満しているのだ。
「俺が悪いことをするように見えますか」「・・・私には見えません。でも声と体温は判ります。貴方は真面目で優しい人です」少女の返事を聞き、淳之介は手を取って腕に掛けさせ、再び「行きますよ」と声を掛けて歩き始めた。
国際通りに出ると雨は上がっていたが歩道のタイルが濡れている。少女は視覚障害者用のブロックの上を歩いていくが、国際通りでは放置自転車が遮っているので淳之介は気を配りながら誘導した。
「お名前を聞いていませんが」「はい、玉城淳之介です」淳之介の返事を聞いて少女の顔には困惑した表情が浮かんだ。
「沖縄の方なんですか」「はい、玉城村(たまぐすくそん)です」「言葉遣いを聞いていて本土の方だと思っていました」「沖縄水産高校の1年生です」淳之介に自己紹介に少女は口元をほころばした。
「それじゃあ同じ年ですね」「そうですか、嬉しいなァ」淳之介の返事に少女も嬉しそうに笑った。
「私は安里あかりと言います。県立高等盲学校の1年です」ようやく名前が判り、早速、呼んでみることにした。
「あかりさんもシマグチ(沖縄方言)ではないみたいですけど・・・・」「私の母は旅行社に勤めていて本土の人たちの相手をしますから標準語なんです。私は母に育てられましたから覚えた言葉は標準語でした」あかりの説明に旅行社で勤務しながら重い障害を持つ娘を女手一つで育てた母親の苦労が父子家庭になった時の父に重なって胸に迫ってきた。
2人で歩いて行くとレコード店の前であかりが足を止めた。店内からは夏川りみの「涙そうそう」が流れている。
「古いアルバムめくり 『ありがとう』って呟いた いつもいつも胸の中 励ましてくれる人よ・・・」あかりが静かに口ずさんでいるのを聞いて淳之介も合わせてみた。夏川りみが沖縄出身と言うだけでなく、胸に沁み渡ってくる優しい歌詞が気に入っているのだ。歌が終わったところで歩き始めると、あかりが意外なことを言い出した。
「私、ここで色々な歌を聞くのが好きなんです。でもこの歌は意味が判らなくて・・・」そう言われても淳之介には難しい言葉あるようには思えない。何せ自分が好きになるくらいなのだから。
「アルバムって何なんですか」「アルバムって写真が貼ってある・・・」「写真って盲学校で撮ることがあるけど、それが何なのかが判らないんです」あかりは少し語調を強めた。確かにこれは正しく盲点だった。視覚障害者にとっての写真はただの紙片に過ぎないはずだ。つまり盲学校で身分証明書用の写真を撮ることがあっても生徒には目的が判らないのだろう。
「写真って人や風景を写し取る紙なんです。だからそれをアルバムに貼っておけば後で見て思い出すことができるんです」淳之介の懸命な説明にあかりは笑顔でうなずいた。
「私は思い出を胸の中に仕舞っておくことしかできないけれど、淳之介さんの手の温もりと声は優しさと一緒に何度でも思い出せますよ」あかりの言葉は「涙そうそう」以上に胸に迫ってくる。淳之介は思わず鼻をすすってしまった。
「風邪ですか?雨の中、助けてくれたから」「いいえ、感激して鼻水が垂れたんです」「感激って何かありましたか」視覚による情報を持たないあかりには淳之介の説明から想像するしかないはずだ。そこで正直に自分が感激した訳を説明した。
「あかりさんが僕なんかを胸に仕舞っておいてくれるって言ったから感激したんです」「・・・いいえ、私こそこんなに優しくしてもらって感激しています」あかりは表情を確認することを知らないため前を向いたまま受け答えをする。それでも腕にかかっている手が伝導線になって気持ちが通じているような気がした。
「あッ 次の交差点を左に曲がります」「よく判りますね」「さっき川を渡ったでしょう。あそこから250歩で交差点なんです」確かに国際通りの首里側の突き当たりはT字交差点になっている。
「どうして川が判ったんですか」「風にのってくる臭いです」やはり視覚を失っているあかりは他の聴覚、嗅覚、味覚、触覚が格段に敏感なようだ。
  1. 2017/03/31(金) 09:19:49|
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3月31日・帝政ロシア海軍最高の提督・マカロフ中将が戦死した。

日露戦争が始まって間もない1904年の明日3月31日にロシア太平洋艦隊司令長官・ステパン・オーシボヴィチ・マカロフ中将が戦死しました。
帝政ロシアは大陸国家でありながら海軍の歴史は意外に長く1698年にまでさかのぼります。ステンパ=ラージンの名前で歌にもなっている大河・ボルガの川賊のスチェパン・チモフェエヴィッチ・ラージンが処刑にされたのは1671年なのでその頃の話です。
そんな長いロシア+ソ連海軍の歴史において「最高の提督」と評価されているのがマカロフ中将なのです。
と言っても人材がいなかった訳ではなく、ロシアにとっての海洋は太平洋とバルト海、黒海の3カ所に分かれているため早い時期から大航海を経験しており、日本に関係した人物だけでも国際社会に「イーポニア・マリーム=日本海」と言う呼称を認知させてくれたアーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン提督や外交交渉に失敗した憂さ晴らしに日本沿岸を荒らして回ったニコライ・ベトロヴィッチ・レザノフ提督、そのため長崎で捕縛されてしまったヴァシリー・ミルロヴィッチ・ゴローニン提督などがいます。
そんなマカロフ提督は1848年に帝政ロシアの領土であった現在のウクライナで海軍准士官の家に生まれました。10歳で航海士官学校(海軍軍人ではなく航海士を養成する学校)に入学し、7年後に首席で卒業すると父の希望で海軍士官候補生になりました。
2年の教育を受けて少尉に任官すると太平洋艦隊、バルト艦隊、黒海艦隊で実務経験を積み、1877年後に勃発したトルコとの戦争では水雷艇母艦の艦長として初陣を飾っています。この時点(=29歳)でマカロフ提督はロシア海軍の水雷戦術の権威の1人に数えられており、当時は新兵器だった魚雷を使ってトルコ海軍の警備艦を雷撃しています。戦果は不明ですが、記録上は世界初のことでした。
停戦後は何故か中央アジアの探検隊に加わり、その後は艦長を歴任し、海洋探査を兼ねた世界歴訪の遠洋航海を2度経験しながら「海軍戦術理論」を著しています。
この本は野僧も現役時代に読みましたが、アメリカのアルフレッド・セイヤー・マハン少将の海洋戦略理論と双璧を為す名著で、東郷平八郎元帥、島村速雄元帥、秋山真之中将も熟読していたと言われています。
1890年に少将に昇任すると史上最年少でバルト艦隊司令官に抜擢され、その後は日清戦争が終わった1894年から翌95年に掛けて新鋭戦艦に乗って極東へ赴任しました。
探求心が人の数倍強いマカロフ提督は新任地でも腰を落ち着かせることなく北極海探検に出掛け、そこで砕氷艦の着想を得て、艦艇や貨客船、バイカル湖の連絡船として実現させています。
こうして迎えた日露戦争では開戦時に日本海軍が実施した水雷艇隊による旅順軍港奇襲作戦の責任を問われて前任者が解任されると3月8日付で太平洋艦隊司令官に就任しました。
就任後には第4次旅順軍港攻撃を受けて自軍の水雷艇の危機が伝えられると自ら巡洋艦に乗り込んで救援に向かうなど前評判以上の活躍、特に勇猛な陣頭指揮に太平洋艦隊の士気は大いに上がったと言われます。
実際、マカロフ提督は気さくに下士官や水兵にも声を掛けて悩みなどを聞き出して即座に手を打ち、意識改革と処遇改善に努力すると共に日本海軍との交戦の準備をしながら旅順港外で訓練を繰り広げたのです。
これを脅威に感じた日本海軍は老朽船を旅順港の水路に沈める閉塞作戦を実施しますが失敗しました。戦後の日本人は旅順港閉塞作戦と言うと広瀬武夫中佐の英雄譚で有名なこの自沈作戦だけだと思っていますが、実際は老朽船では水路を閉塞できないことを認識した秋山作戦参謀は機雷の敷設に作戦を変更しています。しかも秋山参謀らしくロシア艦艇の航路を綿密に計算した上で敷設場所を決定していました。
こうしてこの日、旅順港外に偵察に出たロシアの駆逐艦が日本海軍の駆逐艦4隻と遭遇して攻撃を受けるとマカロフ提督は戦艦・ペトロパブロフスクに乗ると戦艦5隻と巡洋艦4隻を率いて日本艦隊を返り討ちにするべく出撃したのです。ところがそれ以上の戦力を有する日本艦隊を発見すると不利を覚って引き返したのですが、そこで機雷に触れて爆沈、マカロフ提督も非難できずに500名の乗員たちと艦と運命を共にしたのです。
マカロフ提督を失ったロシア太平洋艦隊は完全に士気を喪失し、日本海軍の前に203高地の観測点を奪取した日本陸軍の28サンチ要塞砲によって旅順軍港に停泊したまま壊滅しました。
それにしてもネルソン以来、「指揮官先頭」は世界の海軍の鉄則になっていますが、太平洋における第2次世界大戦でアメリカ海軍は「先頭艦を攻撃すれば指揮官を殺せる」と狙うようになっており、この名提督の死に際を日本海軍も教訓とすべきだったのでしょう。
  1. 2017/03/30(木) 09:56:46|
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振り向けばイエスタディ778

翌日、淳之介は那覇市内へ映画を見に出かけた。夏休みには「パイレーツ・オブ・カリビアンを見て船乗りの魂に火がついたが、今回は祖母からもらった小遣いで「マトリックス・リボリューション」を見る予定だ。国際通りの中央に当たる三越前でバスを下りて、平和通りの正面の横断歩道を渡ろうとした時、季節外れのスコールが降り出した。沖縄のスコールは真夏に降るものだが、晴天から豪雨に一変するため傘を差すよりも屋根がある場所へ非難する方が間違いない。淳之介も駆け抜けて平和通りのアーケード街へ逃げ込もうとした。
「あッ!」集団で駆け出した歩行者の影で少女の小さな叫び声が聞こえた。それでも歩行者たちはわれ先に走っていく。淳之介が振り返ると1人の同世代の少女が横断歩道の中央で道路に座り込んでいて、その前には白い杖が落ちていた。淳之介は慌てて駆け戻った。
「大丈夫ですか」「はい、杖が・・・私の杖が」少女は濡れている道路に腰を下ろしたまま手を伸ばして杖を探している。その時、見開いた眼は白濁していて視覚障害者であることが判った。
「はい、杖ですよ」「ありがとう、眼鏡もお願いします」白い杖を渡すと少女は目を強く閉じながら頼んできた。そう言われて探すとサングラスが踏まれて砕け散っている。
「サングラスは駄目です。とりあえず渡りましょう」そう言って淳之介は少女の脇の下に手を差し入れて立ち上がらすと信号が変わっても待ってくれていた車に頭を下げながら横断歩道を渡った。
平和通りのアーケードの入口は雨宿りする人たちでふさがっている。淳之介は少女の背中を押しながら奥へ連れて行った。
「濡れてしまいましたね。タオルを買いましょう」そう言うと淳之介は少女の手を引いた。ところが数歩歩いたところで少女が立ち止まってしまった。淳之介は怪訝そうな顔で少女を見た。
「私、手を引かれると怖いんです」「怖い?」「自分のペースでしか歩けないから引っ張られると転びそうで・・・」淳之介はこれまで全盲の人に接したことがなかったのだ。
「それではどうすれば・・・」「腕を組ませて下さい」そう言うと少女は淳之介の腕に手を差し入れて来た。女性と腕を組むのは沖縄に来て間もなく母と買い物に出かけた時、以来だ。
「行きますよ」「はい、お願いします」父であれば「前へ、進め」と号令をかけるのだろうが、淳之介は紳士的に声をかけて歩き出した。
平和通りの雑貨店でタオルを2枚買い、平和通りの中心にある小公園へ連れて行った。そこはアーケード内の交差点にあり、店一軒分の敷地に煉瓦で囲った花壇とベンチがあるだけの小さなものだ。淳之介は肩まで伸びた少女の黒い髪と白いサマーセーターの肩、そして背中を拭き、自分で拭かせるためタオルを手渡した後、もう1枚で自分も拭いた。普段であれば親切な振りをして胸元まで拭くくらいの悪知恵を働かせるのだが、そこは自制できた。
「ありがとうございました」「サングラスはどうしましょう」少女が差し出したタオルを受け取って淳之介は確認した。サングラスは価格差が大きいことくらいは知っている。その一方で視聴覚障害者がサングラスを掛けている目的が判らなかった。サングラスはファッションを除けば強い直射日光から目を守るために掛けるはずだ。ようやく確認することができた少女の顔はシーサー似が多い沖縄の女性にしては整っており、むしろサングラスで隠すのが惜しいと思っていた。
「サングラスなしだと目を閉じていなければならないんです。そうすると疲れるし、目を開いていても気づかないこともあります・・・小さな子供から『お化け』って言われることもあるんですよ」そう言って唇を噛んだ少女を見詰めながら淳之介は身体障害者が負っている健常者には知る由もない事実に自分も唇を噛んでしまった。
「サングラスは今度、母に買ってもらいます。今日は有り難うございました」しばらくの沈黙の後、少女はそう言って白い杖を両手で胸の前に持ち、一歩下がって頭を下げた。しかし、その方向は少しずれている。淳之介は黙って少女が頭を下げた方向に移動して挨拶を受けた。
「どうやって帰るんですか」「雨が降っていればタクシーですが、上がったみたいだから歩いて帰ります」少女に言われてアーケードのトタン屋根を叩いていた雨音が消えていることに気づいた。
「それでは送りますよ」これは淳之介にしては珍しい積極的攻勢だ。それも何の計算もなく自然に口から飛び出した。しかし、少女は困惑したように黙って考え込んでいる。その表情を正面から観察しながら淳之介の鼓動は急速に高まってきた。
安里あかりイメージ画像
  1. 2017/03/30(木) 09:55:16|
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振り向けばイエスタディ777

美恵子は今夜もスナックのママさんだった。客たちが唄うのは相変わらず「世界に1つだけの花」ばかりだ。この歌の発売は3月だったので、半年も聞かされ続けていることなる。おまけに有線でも流れるため最近では理容師の仕事をやっていても無意識に鼻歌が出てしまう。
「ナンバーワンにならなくてもいい もっともっと素敵なオンリーワン・・・」確かに客たちはカラオケで唄うことが練習になるのでかなり上達しているが、それを毎日聞いている側としては耳にタコを飼っているようなものだ。ところが今夜はタコが転げ落ちるような別バージョンを聞けた。
「ママさん、今日は外国の友達を連れて来たよ」馴染みの客・喜屋武(きゃん)がドアを開けて声をかけた。沖縄で外国人と言えばアメリカ兵と相場が決まっている。しかし、喜屋武は輸入雑貨店を経営していてアメリカ軍との取引の話をしたことはない。それでも美恵子は胸の中で「英語の挨拶は『ハロー』で良かったのか」と思案し始めた。すると客に続いて丸顔のアジア人男性が顔を出した。
「台湾の劉さんだ」「ニィハオ」「いらっしゃいませ」劉と紹介された男性の広東語の挨拶に美恵子は応じられなかった。ちなみに中国語の挨拶として知られている「您好(ニンハオ)」は丁寧語=敬語であって通常は「你好(二ィハオ)」と言う。
「ママさん、俺のボトルはまだあるよな」「はい、ございます」美恵子としては台湾の客が「一見さん(いちげんさん=一回だけの客)」であることは判っているが、国際交流を担っているような気がしていつになくよそいきの言葉遣いになっていた。
「ママさん、似合わないからいつも通りで良いさァ」「はい、かしこまりました」客の要望でも即座に反応できるほど美恵子は器用ではない。人並み以上に器用なのは手先だけなのだ。それでもグラスに水割りを作る前に「ストレートが好みではないか」を確認する気配りはした。
「カンパーイ」「カンペイ」乾杯の音頭は日台の変則合唱だ。そこで喜屋武は美恵子にウーロン茶を飲むように勧めた。飲み屋で女性が飲む缶のウーロン茶は1本1000円になることがあり、油断できないのだが、酒を飲めないママさんのこの店では原価の2倍弱・200円だ。
「劉さんは日本語も話せるんだけど聞く方が得意なのさァ」「ふーん、だったら返事がイエスかノーになるように話しかければ良いんだ」「イエス」劉は早速、美恵子のアイディアに同調した。
この方式は思いの外に意思疎通には有効で美恵子と劉=劉青然(リュウシャオゼン)は急速に親しくなった。確かに日本語的な曖昧さがないので、相手の気持ちをその場で確認できるのだ。数杯目の水割りを作っている美恵子に劉が声を掛けて来た。
「ママさん、とっても素敵な女性です」「イエス」美恵子の厚かましい返事を聞いて喜屋武が吹き出したが、劉は真顔でうなずいた。その時、有線放送がまた「世界で1つだけの花」を流し始めた。
「おう、シ―シェシャン・ウェイイ―デ・ホワですね」劉の広東語ではそれが正しいのか判らない。そこで美恵子はナプキンとボールペンを渡して漢字にしてもらった。
「世界上唯一的花」勉強が苦手な美恵子にもそれが「世界に1つだけの花」の漢訳であることは判った。劉がSMAPの歌に合わせて口ずさんでいるので、美恵子は自分で100円を用意してカラオケを操作した。間もなく「世界で1つだけの花」のイントロが流れ、美恵子はマイクを手渡した。
「一起種世界上 這唯一的花 我們全部 都是唯一 オンリーワン 在街角花店 司以看見花的笑■・・・」劉は画面に流れる日本語の歌詞は判らないようで真剣な顔で美恵子を見ながら唄っている。美恵子も応援するように小声で合わせていく。しかし、1番だけで記憶が途切れてしまったようで、劉は申し訳なさそうにマイクを返した。
「困ったように笑いながら ずっと迷っている人がいる 頑張って咲いた花はどれも 綺麗だから仕方ないね・・・」2番を美恵子が引き継ぐと今度は劉が小声で合わせてくる。隣りで喜屋武は1人で水割りを口に運んでいるが、不満そうな顔はしていない。接待としては成功なのだろう。
「太阳下風雨里天空于自己」「ナンバーワンにならなくても良い」「我們全部是唯一」「もともと素敵なオンリーワン」日台の変則デュエットはこうして大成功で終わった。すると劉が「ダイ・ライグァン」と繰り返し始めた。またナプキンに書かせたが「鄧麗君」では判らない。すると劉が曲を口ずさんだ。それは「時の流れに身をまかせ」、つまりテレサ・テンのことだ。
今夜は「我只在乎你(時の流れに身をまかせ)」「愛人」「つぐない(償還)」「空港(情人的■懐)」とダイ・ライグァン=テレサ・テンのヒット・パレードが繰り広げられた。
ん1・岡田奈々イメージ画像
  1. 2017/03/29(水) 09:23:33|
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振り向けばイエスタディ776

淳之介は希望通りに沖縄水産高校に合格し、糸満市で寮生活を送っている。入学時には玉城姓になっており、同じ中学校からの入学者は海洋技術科なので総合学科の淳之介と会うことはない。本来、玉城村からであれば通学も可能なのだが「早く自立したい」と言う思いから入寮を希望したのだ。
「おバァ、帰ったさァ」淳之介は2学期の中間テストが終わって久しぶりに帰宅した。
「おかえり。元気そうさァ」台所から飛び出してきて玄関まで出迎えた祖母は見るたびに大人びてくる孫の顔を驚いたように眺める。そんな祖母を淳之介は困ったように見返した。
「おジィは?」「釣りに行ってるさァ」祖父も高齢者ドライバーに入れるようになって仕事も淳之介の授業料と寮費だけを稼ぐ程度にしている。このため趣味の釣りを本格的に再開したようだ。
「グルクンを釣るって張り切ってでかけたよ」グルクンとは本土ではタカサゴと呼ばれる大衆魚で沖縄では「県の魚」と言われている。
「ふーん、僕も行ってくるかな。いつもの漁港でしょう」「多分そうさァ。淳之介の竿は部屋に置いてあるよ」祖母は笑ってうなずくと先に奥へ歩いて行った。

「おジィ、帰ったさァ」「おう、淳之介、おかえり」やはり祖父は家の前の坂道を下り切った漁港の防波堤で糸を垂らしていた。
「釣れるねェ」「うん、晩御飯のおかずは豪勢さ」そう言って祖父は横に置いているバケツを視線で示した。仕掛けを用意しながら覗くと30センチほどのグルクンやもう少し小さいベラ(スズキ)とエソ(ヒメ)が泳げなくなっている。
「大漁さァ」「これが海ンチュウ(海の衆)の腕さ」そう答えて祖父は自慢げに笑った。
「水産高校では釣りを習うねェ」「うん、船に乗っての沖釣りだけどね」「それで仕掛けも上手くなったんだな」「やっぱりプロの先生だからさァ」淳之介の返事は祖父のプライドを少し傷つけた。
「そんな良い先生がいるねェ」「うん・・・」祖父の顔色が一瞬、変わったことに気づいて淳之介は返事に困ったが、少し離れて腰を下すと話し始めた。
「普通の科目を教える先生(=教師)は中学とあまり変わらないけど、漁業を教える先生(=講師)は自衛隊に賛成なのさァ」「ふーん、それは良いことだな」祖父は透明度が高く、泳いでいる魚が見える海面を見ながら相槌を打った。
「先生は沖に出れば日本の船を守ってくれるのは自衛隊と海保(海上保安庁)だけだって言うのさァ」「それは当たり前なことだな」「実習を中国の漁船に妨害された時、海上自衛隊の飛行機が低空飛行してくれたら逃げて行ったって言ってたよ」「そんなことがあったのかァ」返事をした時、祖父の竿に当たりが来た。今回もグルクン、これで家族3人に3尾になった。

「淳之介、モリヤさんから入学祝いが届いたさァ」夕食の後、祖母が開封した現金書留を見せた。
「ふーん、それで幾ら入っていたのさァ」「それが50万円なのさァ」私は無罪判決を受けて、牧野弁護士に弁護料を払うために定期預金を解約したついでに贈ったのだ。
「あの人も無罪になって仕事を再開するから、お金に余裕ができってと言うことさァ」淳之介は受験の年に殺人罪で逮捕され、余計な悩みを与えた元父がまだ許せないでいた。そんな孫の口ぶりに祖母は哀しそうな目で横顔を見詰めた。
「モリヤさんは無罪になったんだから、もう無理に隠すことはないぞ」祖父の忠告に淳之介は黙ってしまった。中学校では父親が北キボールで集団的自衛権を行使したことを担任の教師が政治活動に利用したため父親との関係以前に存在そのものを否定してきた。その癖が身についてしまっているので、今更、父親に関わろうとは思えないのだ。
「今度、寮の友達を連れて来ても良いねェ」突然、淳之介が確認してきた。水産高校の寮は離島からの生徒が大半のため春・夏・冬休みと5月の連休くらいしか帰省ができない。そんな友人たちに家庭の空気を吸わせてやりたいと言うことなのだろう。
「勿論、メンソーレ(=歓迎)さァ。土曜日から泊まりで来ればいいよ」「うん、ありがとう」淳之介の笑顔を見ながら祖母は孫が負っている両親への複雑な感情を思い、自分のために沖縄へ来た息子に関心を示さないでいる美恵子に言い知れぬ憤りを感じていた。
  1. 2017/03/28(火) 10:11:00|
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3月28日・三ツ矢の日

明日3月28日は「三つ」「2(英語のツー)」「八(やっつ)」の語呂合わせで「三ツ矢」の日です。制定したのは言うまでもなく製造メーカーのアサヒ飲料ですが、少し強引なようです。
山口県の防府南基地に入隊した時、山口県出身の連中はBX(売店)や自動販売機コーナーで三ツ矢サイダーを売っているのを見て「三ツ矢サイダーは山口県人が作った」と断言しました。そこで理由=根拠を尋ねると「三ツ矢と言えば毛利元就さまが3人の息子に与えた教訓だ。それに因んでいるのなら山口県出身者が作ったに決まっている」と主張したのです。
当時はまだ山口県人の思い込みが異常に強い気質を知らなかったので「そこまで自信を持って言うのなら本当なんだろう」と反論もしませんでしたが、後年、転属で防府に行っても同様のことを言う輩がいたので、山口県人の間では常識なのかも知れません。
ところが幹部になって転属すると基地司令が大の「朝日(飲料品とは限らない)」嫌いだったため、基地の隊員クラブではアサヒ・スパードライは販売禁止、宴会でも幹事は店に使用禁止を伝えなければならなくなり、当然のように売店でもアサヒ飲料のジュースは姿を消し、基地内の自動販売機も撤去されることになりました。これに山口県出身者が抗議しなかったところを見るとそこまで深く考えている者はあまりいなかったのか、基地司令のお達しに反論する度胸がいなかったのでしょう。しかし、実際は全く違いました。
三ツ矢サイダーの始まりは明治の初期に海外からの賓客の接遇を担当していた宮内省(当時)が外国人向けの炭酸飲料を製造する原料水を探していて現在の兵庫県川西市(傑作飛行艇・2式大艇、PS-1、US-2を製造した新明和工業の所在地)の温泉の湧水を見つけたことでした。
ここは平安時代の中頃に摂津源氏の祖である源満仲さんが「3本の矢を放ち、それが落ちていた場所に居城を築け」と住吉神社のお告げを受けた土地で、その矢を見つけた家臣に「三ツ矢」の姓を与え、この土地を「三ツ矢」と命名したのです。つまり「三ツ矢」の由来は毛利元就には関係なく単に地名でした。この地に移り住んだ満仲さんが狩りに出た時、1羽の鷹が湧き水に足を浸し、傷を癒して飛び立つのを見て、効能を知り、以降は温泉として広く知られるようになったのです。
宮内省がイギリス人の科学者に水質を検査させたところ高濃度の炭酸が含まれており、「理想的な鉱水」と評価されたことで明治17(1884)年から炭酸飲料水の製造が始まりました。このような歴史を知る者の中には「三ツ矢サイダーを日本最古のサイダーだ」と思っている人もいますが、実際は慶応4年=明治元(1868)年に横浜で製造されたシャンペン・サイダーだと言われています。問題はこの炭酸飲料水にアルコールが含まれていればサイダーではなくシャンペンに分類されるので、それによっては最古の座が動くかも知れません。
製造開始後は炭酸水に砂糖を着詰めたカラメルやイギリスから輸入したサイダー・フレーバーを加えるなどの工夫をしたことで、皇室や上流階級に留まらず庶民からも人気を博すことになったようです。野僧は小学生の頃、「サイダーを作ってみよう」と思い立ち、砂糖水にドライアイスを入れて実験したことがありますが、その程度の濃度では味のない炭酸水で、逆にサイダーを沸騰させて飲んでみるととてつもなく濃い甘さであることが判ました。以来、沖縄に行ってアメリカ・ナイズされるまで炭酸飲料は飲まなったのです。
一方、その頃にはテレビのCMで「君と夢でさまよう 谷間の木陰に シュンシュワワ シュンシュワワ 泉が湧いていた 幸せの泉よ」と唄う三ツ矢サイダーと「恋はどんな色してるの 風が青く透き通る レモンレモン キリンレモン」と唄うキリンレモンが愛唱歌で、夏休みにサラリーマンの家へ遊びに行くとキリンレモン、農家の家では三ツ矢サイダーが出たものでした(あくまでも経験則の統計上)。
陸上自衛隊第13旅団の部隊章は毛利元就の3本の矢に由来しますが、防府南基地司令とは逆に「旅団の精神を表わす三ツ矢サイダーを飲むように」と言うお達しは出していないでしょう(多分)。
  1. 2017/03/27(月) 09:48:18|
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振り向けばイエスタディ775

「島村くん、松本くん、長期間の現地勤務、ご苦労だった」サマーワでの詳細な報告を終えるとワシントン市内のイタリア料理店で野中将補を交えた慰労会が開かれた。この料理店では常にイタリアの楽曲が流れており、客もラテン系民族が多く騒がしいため意外と密談に向いているのだ。しかし、今日は杉本が出席していない。
「あれ、杉本さんは?」「今は韓国へ出張中だ」岡倉の独り言に隣席に座っている倉田が説明した。岡倉は休暇をもらえば妻が待つ韓国へ行くつもりだったので、先を越されたような気がした。
「韓国で何か問題がありましたか」「うん、政権が交代して少し心配なことが起きているようなんだ」韓国では岡倉がイラクへ行く3カ月前に政権が交代している。しかし、盧武鉉新大統領の政治姿勢が明らかになる前に海外情報が入ってこない占領下のイラクへ行ったため政治情勢に関する話題は耳にしていない。そう言えば秋夕(チュソク)の休暇にタイのリゾートで会った妻の李知愛も大尉に昇任したこと以外、軍務の話はしていなかった。
「新政権に何か問題があるんですか」「今度の政権は金大中上に北の王朝に臣従しているようだ」その時、客の1人が立ち上がると流れている曲に合わせてカンツォーネを熱唱し始めた。こうなれば耳元に口を近づけて密談しても全く違和感がない。そこで倉田が「韓国軍内でも北を敵視する親米常識派が排除され、穏健な対北融和策を主張するハト派が幅を利かせるようになっている」と説明した。
「いよいよ南北統一ですかね」「東西ドイツの統一は経済格差が挽回不能になっていることを国民が知ったことで実現した。しかし、南北の経済格差はドイツほどには開いていない。おまけに南の情報が北には伝わっていないだろう」倉田の説明に岡倉は休暇中も現地調査をする必要性を確認した。その時、カンツォーネの熱唱が終わったため、野中将補が日本のサラリーマンの会合らしく仕事の評価を始め、出席者たちは姿勢を正した。
「今回の現地調査は実に具体的な情報を多数、入手できて成果が大きかった」上司に賞賛されれば恐縮して頭を下げるのが日本流だ。岡倉と松本もテーブルの上に頭を垂れた。
「特に子供たちがサッカー好きであることや日本のサッカー漫画の・・・」「キャプテン翼です」野中将補が題名を思い出せなかったので工藤が助け船を出したのも日本流だろう。
「うん、そんな話は外務省を通じてでは入手できない。しかし、それこそが現地の人々の心を掴む隠し技なのだ」岡倉と松本は日常生活の雑感を定期的に送っていただけのことが、ここまで評価されると作法ではなく本気で恐縮してしまった。
「実は我が社としてもサッカーとキャプテン司(つかさ)」「翼です」「・・・を売り込もうと工夫を凝らしているのだ」あくまでも自衛隊色を抜いた説明だが、要するに派遣部隊にサッカー経験者を加え、キャプテン翼の現地語訳のコミックを配るのかも知れない。
「ところでイラク人の日本への好悪感情はどうなんだ」「湾岸戦争では日本はアメリカの同盟国でありながら湾岸戦争に自衛隊を派遣しなかったことを肯定的にとらえている人が多いようでした。さらに海上自衛隊の機雷処理も本来はイラクに負わせられる後片づけを代行してくれたと感謝の声を聞きました。あくまでも南部地区での話ですが」工藤の質問には松本が答える。やはりペルシャ語が専門の岡倉とアラビア語に堪能な松本では会話による情報量が大きく違うようだ。
「そう言えばNHKの『おしん』が人気でしたよ」「あれはサウジアラビアだっただろう」「アチラは電波を遮断する地形ではないのでサウジの放送をイラクでも受信できるんです。おまけに字幕も同じアラビア語ですから」岡倉の説明に野中将補と工藤が小声でささやき合った。
「それも使えるな。給水車から『おしん』のテーマ曲を流せば、奥さん連中が喜んで集まってくるだろう」「それって『ロバのパン屋』方式ですね」野中将補の発案に珍しく工藤が反応した。
「ロバのパン屋」と言うのは昔はロバが引く荷車、その後はトラックで巡回して販売しているパン屋で、住宅街や団地に入ると「ロバの小父さん、チンカラリン・・・」と言う歌を流して、それを聞くと先ず子供たちが集まり、続いて主婦たちも家から出てくるのだ。突然、工藤が立ち上がって一息吸ってから歌い始めた。普段は目立たないように心掛けている工藤にしては極めて珍しいことだ。
「ロバの小父さん チンカラリン チンカラリンロン やってくる できたて 焼きたて いかがです チョコレートパンも アンパンも 何でもあります チンカラリン」この日本人でも小父さん世代しか知らない懐メロの熱唱に何故か客たちの拍手が起こった。
  1. 2017/03/27(月) 09:46:39|
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3月26日・犀星忌=室生犀星の命日

本日3月26日は文学界では犀星忌=昭和37年に詩人、歌人、小説家である室生犀星さんが亡くなった日です。
野僧は中学生の頃から室生さんの詩集を愛読していたのですが、その本の振り仮名には「むろおさいせい」とあり、さらに金沢の友人たちも「むろお」と呼んでいるのを耳にしてきたのですが、最近の研究者は「むろう」と言い出しています。尤も研究者の多くは東京などの都市部の住人なので、音声ではなく文字の情報だけで「俺はこう思う=間違いない」と断定しているのでしょう。
野僧は一般空曹候補学生として山口県の防府南基地の第1航空教育隊に入隊した時、親戚と中学校の教師、同級生に出した挨拶状には連絡先と室生さんの「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土(いど)のかたひとなるとても 帰るところにあるまじや(=故郷は遠くにあって思うもの そして悲しい思いで詠うもの 仮に落ちぶれて余所の土地のルンペンになり果ててしまっても 帰るところではない)」の詩だけを記しました。それは野僧にとって「故郷」は小学校までを過ごした岡崎市であって親が家を建てて住んでいる宝飯郡一宮町(現在の豊川市)ではない。現世の三悪道=穢土である一宮町には2度と帰らないと言う決別の辞として借用したのです(ところが中学校の国語の教師である伯父は「アイツは『藤村』の詩の意味を理解して書いたのか」とウチの親に訊いたそうです)。
これだけの名作を詠っているのですから「室生さんも故郷には強い怨嗟の念を抱き、2度と足を向けることはなかったのだろう」と想像していたのですが、実際は「グズグズと帰ったり、出たりを繰り返していた」と金沢出身の同期から聞いて大いに失望してしまいました。
そもそも犀星と言う号は金沢を流れる「犀川の西(西を「せい」と読んで星の字を当てた)」を意味しているのです。やはり故郷を捨てる覚悟は単なるポーズに過ぎないのでしょう。ついでに言えば墓は金沢市内にありますからポーズにもなっていません。
それでも地元の室生ファンは52歳になって文壇で名を遂げて以降は帰省しなかったことで「詩に詠った思いは本当だった」と評価しているようです。しかし、室生さんが「詩に詠った思い」と言うのは故郷への嫌悪なのですからそれを喜ぶ金沢の人たちはマゾヒスト=自虐趣味の気があるのでしょうか(前述の同期は「絶対に許せん」と出身者と認めていませんでした)。
それでは室生さんは金沢でどれだけ悲惨な目に遭ったのかと言うと、それなりに悲惨ではあります。
それは明治も22年が過ぎた1889年8月に江戸時代は足軽だった男が女中に生ませた私生児だったことから始まるのですが、生まれてすぐに近所の真言宗の寺の住職の妾の女性に引き取られましたもののこちらも正妻ではないため私生児扱いだったのです。この2重の劣等感は50歳を過ぎてから「夏の日の 匹婦の腹に 生まれけり」と言う句を詠んでいるように生涯克服できなかったようです。しかし、それは故郷・金沢に原因があるのではありません。
7歳になって義母(戸籍上は実母)を囲っていた住職の養子になって室生姓を名乗りますが、屈折した性分は改まることなく、折角、入れてもらった高等小学校を中退してしまい金沢の地方裁判所に雑役夫として働き始めました。ここでセミプロの俳人たちと出会ったことで句作を始め、後の詩人、歌人、小説家としての文学の道が開けたのです。
21歳の時に上京すると北原白秋に認められて詩作に励むようになり、ここで萩原朔太郎と知り合います。その後は帰郷と上京を繰り返し、どの辺りが「帰るところにあるまじや」なのかと腹が立ってくるような生活になっていきました。
昭和9(1934)年には小説に転進するに当たって「詩よ、君とお別れする」と言う決別宣言を発表しますが、実際は詩作を続けており、スローガンを美辞でぶち上げながらズルズルと引き摺るのは持って生まれた性分のようです。
戦後は小説家としての収入で食べていけるようになったようですが現在では「ふるさと」の詩で名を残しているのではないでしょうか。
野僧はポーズではなくボーズとして親が住む穢土とは決別しています。航空自衛隊でも父の実家に婿養子に入った祖父の出身県である山形県人会に参加していました。
余談ながら野僧は中学時代、詩や短歌が雑誌で何度も入選したのですが、教育員会の選考では「中学生がこんな古い言葉を使うはずがない。盗作だ」と落選でした。これが野僧が捨てた愛知県の東三河です。
  1. 2017/03/26(日) 10:12:18|
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振り向けばイエスタディ774

岡倉と松本は陸路、サウジアラビアに入り、そのままペルシャ湾に近い世界最大の面積を誇るキング・ファハド国際空港からロンドンのヒースロー国際空港へ飛んだ。
「うーん、残念ですね。もうすぐ航空自衛隊の先遣隊がくるから彼らにアドバイスできればと思っていたんですがね」「航空自衛隊はクウェートが拠点だからそれほど危険ではないだろう」窓から砂漠の風景を眺めながら松本が呟くと岡倉は慰めのように反論した。ワシントンからの情報では12月中に航空自衛隊の先遣隊が到着するらしい。それにしても海外派遣が恒常化している中で、いまだに中東まで数日掛かりで飛んでくるプロペラ機しか持っていないことに少し憤ってしまった。
「アフガニスタンに派遣されていれば携SAM(=携帯式地対空ミサイル)の目標にされたかも知れないが、イラク上空を飛ばない限り、それほど心配ないだろう」「だと良いのですが」そう答えて松本は大きな欠伸をした。やはりハイジャックと墜落の可能性を除けば安全圏である民間機に乗って、急速に緊張が解けたようだ。それは岡倉も同様で2人は久しぶりの深い眠りに落ちてしまった。

「イラクって暑いだろう。真冬の北海道から行くんじゃあ気温差は何度になるんだ」名寄の第3普通科連隊ではイラク派遣に向けた訓練も仕上げに入っている。ただし、それは寒さが本格化する年末から年頭に辺り、隊員たちのぼやきも至極当然なことだった。
「大体、給水車の訓練をやっても北海道仕様と現地仕様では機能が違うんだろう」「確かに派遣用には凍結防止機能がついていないですね」派遣先のイラク・サマーワでは道路整備や公共施設の修理と並んで川から汲み上げて浄水した飲用可能な水をタンク車で配ることも主要な任務になっており、それをマスコミは「わざわざイラクまで行って給水活動」と面白おかしく揶揄している。
「それでも砂漠の国ですから水を巡って殺人事件が起こることもあるって聞きますよ」「うん、だからこうして訓練するだな」陸曹たちはそう言うとタンク車のホースから1滴も無駄にしないように容器に注ぐ地道な練習を再開した。自衛隊の災害派遣では阪神大震災以降、取材の名目で監視しているマスコミ関係者による悪意の粗探しに晒されている。若し、彼らがイラクに来れば給水作業で1滴の水を零しても「命の水を無駄にした」「住民の怒りを買う無神経さ」などと徹底的に批判するのだろう。その細心の注意を払う意識で臨めばイラクでも信頼を勝ち取ることができるはずだ。
「おッ、ホースの中で水が凍ってしまった。状況中止」給水して移動、また給水と言う訓練の途中でタンクから伸びているパイプの中の水が凍結して水が出なくなってしまった。これが内地であれば凍結した時は温水をかければ良いが、北海道ではかけた温水がその場で凍結してしまう。結局、整備工場へ行って暖風を当てて解凍するしかない。陸曹たちはドライバーと車長を決めると小休止にした。
「確か一昨年にアフリカへ行った岩見沢の第12施設群も年明けの出発でしたよね」「そうかァ、俺たちだけじゃあないんだな」陸曹たちの雑談の輪から少し離れて聞き耳を立てているのが陸士たちの習性だ。その中に安田1士も入っている。安田1士は本来、1任期以上陸士と言う選抜基準の中で特別に派遣要員に加えられていた。第3普通科連隊を中核とする第2師団がイラクへ派遣されることが発表になった時、晩鐘連隊長が行った説明の場で安田1士は手を上げたのだ。
「どうして私たちは連れて行ってもらえないのですか。自分も自衛官として国際貢献に参加したいです」壇上の晩鐘1佐は黙って安田1士の顔を見詰めた。1人で立ち上がっている安田1士の周りでは隊員たちが小声でささやき合い、そのザワメキが場内に広がった時、晩鐘1佐は結論を出した。
「安田1士の国際法に関する知識は捨て難いものがある。あそこまで深く理解していれば現地でも迷うことはあるまい。ただし、名寄に残って留守を預かることも国際貢献であることを忘れるな。安田1士の参加の可否については所属中隊長と1科長で協議することとする」「はい、有り難うございます」安田1士は礼を言って頭を下げたが、連隊長は「連れて行く」とは言っていない。この早合点は減点対象だろう。
安田1士が選ばれた理由はもう1つあった。それは駐屯地のサッカー部に参加していることだ。ワシントン経由で陸幕に届いている(出所不明の)現地情報ではイラクの少年の間ではサッカーが人気で日本のアニメ「キャプテン翼」が大人気らしい。現地の子供たちとの交流に一役果すことを期待されたのだ。
車両整備工場では訓練に使っていない水タンク車に「キャプテン翼」のイラストを入れていた。
  1. 2017/03/26(日) 10:10:27|
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3月26日・「諸君喝采を。喜劇は終わった」ベートーヴェンの命日

1827年の明日3月26日はおそらく日本で最も有名な作曲家と思われるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンさんの命日です。56歳でした。
あえて「日本で」と断ったのは外国ではベートーヴェンさんと同じくらいヨハン・セバスティアン・バッハさんの評価が高いからです。ただし、ベートーヴェンさんの交響曲9番「合唱付き」は日本の山口五郎さんが吹奏する尺八曲「鶴の巣篭り」などと一緒にボイジャーに積まれて太陽系外に出ているので、宇宙人にも聴かれている可能性があります。
またドイツ人の友人によればドイツ語では「ルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン」と発音するそうです。さらにドイツの「フォン」はフランスの「ド」、イギリスの「サー」と同じく貴族家系を表わす称号のため「ヴァン」を「フォン」と読み間違えると「ベートーヴェンさんも貴族だったのか」と思ってしまいますが、こちらはネーデルランド(オランダ)を出自とする家系の姓にすぎず、日本では「ゴッホ」と呼ばれているオランダ人の画家もヨーロッパでは「ヴァン・ゴッホ」です。
ベートーヴェンさんは難聴、完全失聴になってからも数々の名曲を作曲したことで「不屈の芸術家」として子供向け偉人伝の常連になっており野僧も読みましたが、その頃、保育園児からオルガンで練習に励んでいたピアノを先生から「そろそろ買ってあげて下さい」と言われた途端、止めさせられてしまい、丁度、ベートーヴェンさんのピアノソナタ2番「月光」が課題曲になっていたこともあり、素直に共鳴できませんでした。
ベートーヴェンさんは1770年にボンの宮廷歌手の家系に生まれますが、祖父は楽団長を務めるほどの人物だったものの父親は酒浸りの放蕩者で、祖父が亡くなって収入が途絶えると逆に息子の才能に期待して突然のように英才教育を始めたので一時期は音楽を嫌悪するようになったそうです。
それでも愛する母親を助けるためには音楽での収入を放棄することはできずピアノ奏者として演奏会に参加した結果、次第に才能が評価されるようになり、やがて正式な教育を受ける機会を得たのです。
16歳の時、尊敬するヴァルフロング・アマデウス・モーツァルトさん(14歳年上)に会うためウィーンへ旅したのですが、旅先で母親の病状悪化の知らせを受けて帰郷、母親の没後はアルコール依存症の父親と幼い兄弟の生活を支えることになりました。それでも22歳の時、王室の招きでイギリスへ渡っていたハイドンさんが帰路にボンへ寄ったことで才能を見い出され、弟子入りしてウィーンへ同行することができたのです(この前年にモーツァルトさんは病没している)。
この頃の作風は古典的な形式を守り、明るく華やかな曲調ですが、あまり有名な作品はありません。しかし、20代の後半から難聴が始まると作風が変わり、それまでの古典的なメヌエット(舞踏用の優雅な曲調)からスケルツォ(突然の拍子外れ)を加えるなど独自性を表現するようになっていきました。
そして死の40歳くらいからは完全に聴力を失い、下痢や腹痛が慢性化した上、非行に走っていた甥を引き取ったことで生活面でも苦悩することになり完全に創作意欲を喪失してしまいました。それでも前述の交響曲第9番ほかの名曲を作曲していますから、やはり頭で創作する凡人とは違い、本人の意思に関係なく作品が心身の奥底から湧きあがってくるのでしょう。
ベートーヴェンさんは吹奏楽器に当てたナイフを口にくわえて音を感じ分けた。ピアノの鍵盤と歯を糸で縛ったなどの難聴・失聴者としての工夫も偉人伝の見せ場ですが、絶対音感で作曲していたと見るのが現実的なのかも知れません。
ベートーヴェンさんと言えばやはり交響曲5番ですが(農業指導者で童話作家・詩人の宮沢賢治さんは6番「田園」を愛していたそうです)、題名とされている「運命」は第1楽章の冒頭をベート―ヴぇンさんが「運命はこのように戸を叩く」と説明したとする風説に基づくもので根拠はありません(通常は楽譜に題名として書く)。むしろそれを主張している人物の著作物は虚構が多いので真に受けない方が正解です。
この運命が戸を叩く部分は指揮者の個性を聞き比べるのには最適で、カール・ベームさんは「ジャン ジャンジャン ジャーン」と1発1発を強調しているのに対してヘルベルト・フォン・カラヤンさんは「ジャジャジャジャーン」と流れるような連打です。
ベートーヴェンさんは臨終の3日前に甥のカールを唯一の相続人とするよう遺書を補足し、「諸君喝采を。喜劇は終わった」の言葉を遺したそうです。29日の葬儀にはフランツ・ペーター・シューベルトさんを含めた2万人の市民が参列したと言いますから生前から雑大な人気があったのは間違いありません。
  1. 2017/03/25(土) 09:13:07|
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振り向けばイエスタディ773

その夜、岡倉と松本はバグダード市内で車内泊することにした。バクダードの治安を考えると不安ではあるが、日本人外交官が射殺された状況を考えると夜間に郊外を走ることの方が危険なのは間違いない。市内の露店で食料品と水を買って車内で食べ、日没後に外観は携帯電話に見える秘匿通信機でワシントンの工藤に連絡を取った。秘匿を掛けた音声は少し変質するため数回、パスワードを交換してから会話を始めた。
「外交官の車両の銃撃に米軍が関与した可能性は否定できません」「どう言うことだ。手短に説明しろ」流石の工藤も少し困惑したことは音声ではなく口調で判った。
「並走した車から銃撃を受けたと言う情報はアメリカ発でしょう」「確かにそうだが」工藤の返事を聞いて岡倉と松本は顔を見合わせて唇を歪めた。
「車両を検証したところ前方から1発、停止を命じる銃撃を受けた弾痕がありました」「・・・」「つまり停車させた上で兵士が接近して誰何したものの外交官特権で対応しなかった。それで運転手がイラク人であることから敵と判断して発砲したと言う推理も成り立つのです」「あくまでも推理だな」この返事で工藤が冷静を保とうとしているのが判る。
「確かに並走している車両から発砲すれば同じ高さの窓ガラスに集中しますが、ランドクルーザーの車高では立って銃を構えた高さでもあるのです」「・・・」秘匿装置を通していては息遣いは聞こえないが、おそらく工藤の吐息は荒くなっているはずだ。
「さらに前後の窓ガラス全体に弾痕が広がっていて、並走して窓から射ったのではここまで正確な銃撃は困難でしょう」「・・・始めに結論ありきのように聞こえるが、現地で米軍と何かあったのか」工藤の質問は2人に再度、冷静な分析と思考を促す意味がある。しかし、2人は何の先入観も持たず、親近感を抱いていた同胞の死を悼みながら棺になった車両を確認した。その結果、気づいた疑問を組み立てただけのことだ。
「何にしろ日本政府はアメリカの発表を受け入れた。むしろ協力に感謝した上で犯人の拘束を要請している。この情報はあくまでも現場を見た君たちの推理として支局長(=在ワシントン防衛駐在官)の耳にだけ入れておこう」結論を伝えた後、工藤の口調が変わった。
「現在地はバグダード市街だな」「はい、車内泊しています」どうやら通信機に内蔵されている発信装置でワシントンにいながら位置が確認できるようだ。
「治安は大丈夫なのか」「夜間は外出禁止になっているようで人通りがありません。時折、イギリス軍の警戒車両が巡回していくだけです」2人は殺気立っているアメリカ軍ではなくイギリス軍が管轄している市の南部地区の大通りに駐車していた。
「これは指令だ。夜が明けたなら速やかにイラク国外へ脱出してアメリカへ帰国せよ」「えッ?自衛隊の先遣隊が展開するまで現地情報を探るのではなかったのですか」岡倉の質問に運転席の松本も驚いたように顔を向けた。
「はい、判りました。それでは外出規制が解ける7時に出発します」通信機を切って岡倉は国外へ脱出する理由を説明した。
「どうやらCIAがウィクリー・ジャパンと言う雑誌の存在を確認したらしいんだ」「昼間に会った検問の部隊が通報したんですね」「うん、そうだろう」松本の確認に岡倉はうなずいた。
「当然、見つからないから疑われる。そうなるとイギリス軍、ポーランド軍にも手配が回り、やがては逮捕・拘束されるだろう」岡倉自身はそうなった場合に自分が受ける悲惨な目を熟知している。力任せのアメリカと冷静に苦痛を与えるイギリスではどちらに捕まる方が良いかを考えかけたが、その前に首を振った。
「それにしてもアメリカ軍がここまで手早く捜索すると言うことは余程、治安の維持に苦労しているんですね」「そんな危機感が敵味方の確認もせずに銃撃する暴挙に走らせてたんだ」「銃撃どころか始めから射殺を目的にしていました」至近距離から銃弾を射ちこめば乗っている人間が死ぬのは常識だ。戦争慣れしているはずのアメリカ兵がそれをやって自国の外交官を殺害した。そんな事実も日本政府は不問に伏すつもりらしい。
「政府としては危険地帯になると自衛隊をブーツ・オン・ザ・グランドさせられないからな」「あくまでも個人の犯罪にするのでしょう」その時、また警戒車両が通り過ぎて行った。
  1. 2017/03/25(土) 09:11:47|
  2. 夜の連続小説8
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3月25日・「夭折」と言う表現が似合いすぎる天才画家・青木繁の命日

明治44(1911)年の明日3月25日に近代西洋画の傑作「海の幸」の作者である青木繁の命日です。28歳でした。
野僧は東京へ出ると必ず美術館・博物館と書店巡りに励んだのですが、「海の幸」や「わだつみのいろこの宮」などの青木作品には東京駅前・京橋のブリヂストン美術館で会うことができました。
「海の幸」との初対面は先ず迫力に圧倒され、その後からは潮の香と波濤の音が聞こえたような気がして、海軍少年の血が沸き起こってきたものです。「海の幸」は全体に薄塗でデッサンの素描が残っており、人物の姿を明確化してないことなどから未完と言われていますが、野僧にはそれが古代人の躍動感と息吹を表現しているように思われました。実際、青木さんは前述の「わだつみのいろこの宮」や「黄泉比良坂」など日本神話を題材にした作品が多いのですが、これは神話以前の原始日本人の野生の営みを描いているようでした。
ブリヂストン美術館には上野の国立西洋美術館と同等のモネやレンブラント、ルノアール、セザンヌ、ルオー、ドガ、コローなどの西洋画の名作や北の丸の国立近代美術館に匹敵する藤島武二さん、佐伯祐三さん、中村彜さんなどの近代日本画家の傑作、更に雪舟、円山応挙などの古典の収蔵品があり、私立の美術館では岡山県倉敷市の大原美術館や島根県安来市の足立美術館と並ぶ規模と内容でした。
そんなブリヂストン美術館が青木作品を収集している理由は創業者の石橋正二郎氏が福岡県久留米市出身であるため同郷の青木作品が散逸することを防ぐため資金を惜しまなかったからだとされています。勿論、同じく久留米出身で青木さんの盟友だった坂本繁二郎さんの作品も収蔵・展示していました。
青木さんは明治15年に久留米藩士の長男として生まれましたが、父親はまだ武士の気風と誇りが捨てられず、幼い頃から時代遅れな封建的教育を受けて育ったようです。
野僧も父親が没落した旧家の誇りが捨てられない極めて狭量な人間だったため、戦後育ちでありながら親孝行を子供の義務として絶対服従を強いられてきましたから、青木さんの苦悩と憤懣には同情以上の共感を覚えてしまいます。ただ野僧は母親が自分の立場を守るために父親への反抗を禁じたので、立てた志や描いていた夢、育てていた愛も全て諦めざるを得ませんでしたが、青木さんは自我の目覚めを強烈に発散し、勘当同然に久留米を出て上京したのです。この時も「美術がやりたい」と言う息子に父親は「武術ではないのか」と返答したそうですから、詩や短歌が雑誌で入選しても歌人である母方の祖母への嫌悪感から「時間の無駄」「くだらない趣味」と馬鹿にした挙句、受験の学年になると禁止した父親と共通しています(時代は80年の開きがありますが)。
東京で入門した美術学校でも無頼な態度を取りましたが才能は傑出しており、ほかの学生の製作途中の作品に勝手に手を加えるようになりました。
そんな折、前述の坂本さんと美術学校の後輩で恋人の福田たねさんと房総半島の布良(めら)へ写生旅行に出かけて坂本さんの目撃談に想を得て描いたのが「海の幸」だったのです。
「海の幸」では裸体の男性たちが大きな鮫を担いで歩く横向きの姿が描かれていますが、その中で1人だけこちらを見ている白い顔の人物はたねさんだそうです。たねさんは他の肖像画を見ても大変な美人で(明治の女性とは思えないほど現代的な)、やはり2年後には1人息子が生れています。
その頃、「父親が危篤」との連絡を受け、単身で帰郷しますが、田舎の旧家では本人の才能や可能性ではなく肩書や収入などの世間一般の常識だけが唯一の評価基準のため落伍者の烙印を押され、厄介者扱いでは妻子を呼ぶこともできず、結局、家を出て絵を売りながら九州一円の放浪の旅に出て寿命を縮めました。
青木さんは死の直前、姉に「静かに永遠の平安なる眠りにつきたい」と書き送っています。一方、盟友の坂本さんは「君の30年の生涯は、態態(わざわざ)悲惨なる運命を求め、演出する丈(たけ)の要事を以って、流星の如く現れたるものの様に思われてならぬ」と述べています。
野僧も家出として山口県の航空自衛隊に入ったものの次の入校先が親元の浜松になって頓挫、そこで沖縄へ赴任すると毎週のように電話が掛るようになって、母親の懇願で帰省を強制されるようになりました。おまけに親に押しつけられた嫁は「自衛隊は馬鹿か不良の集まり」「貴方の仕事なんて有っても無くても同じ」と言い放つような女で、この嫁の我がままによって健康を害し、退役に追い込まれたのです。その意味では短いとは言え自由な創作活動を果たし、傑作を残せた青木さんに羨望を覚えてしまいます。
  1. 2017/03/24(金) 10:16:07|
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振り向けばイエスタディ772

「どこへ行く」アメリカ軍の兵士の質問は同じ台本のようだ。陸上自衛隊の歩哨守則にある「誰何(すいか)」とは手順が違う。
「日本人の外交官が銃撃された現場の取材に行きます」松本の返事に兵士は一歩下がって傍らに立つ男に耳打ちをした。
「外国人であればパスポートかIDカードを見せろ」今回は自己申告の前に身分証明書の提示を求められた。それだけ緊迫度が高いのだろう。
「我が国のプレスか・・・アジア系にしか見えないが」「はい、2人とも日系人です」身分証明書の写真と顔を見比べながら発せられた質問に松本は助手席の岡倉と合わせて説明した。
「ウィクリー・ジャパン?聞いたことがない雑誌だな」「日系アメリカ人を対象にした雑誌ですから発行部数は多くないのです」岡倉の身分証明書を確認した兵士の質問には本人が答える。それにしても始めから事情聴取になっている。通常、アメリカ軍は国内世論を左右する自国の報道関係者には異常なほど気を使うのだが、ここでは違うようだ。
「兵士を1名同行させる。その条件で取材を許可する。車は道路の端に止めろ」やはり最初に車を停止させた兵士の傍らに立つ男が指揮官のようで、最後に近づいて許可を与えた。襟の階級章を見ると陸軍軍曹だった。
車を下りると岡倉側の兵士が銃を構えたまま続行してきた。今回は引き金の指を伸ばしている。つまり不審な行動があっても即刻射殺する訳ではないらしい。
日本大使館のランドクルーザーは道路の脇に停めた軍用車両の横にOD色のシートを掛けて置いてあった。日本大使館にはまだバクダードヘの運搬を手配する余力がないようだ。
「シートを剥がしても良いか」「イエス」岡倉の確認に兵士は無表情に答える。これが本当のアメリカの報道関係者であれば勝手にシートを剥がし、兵士が阻止しようとすれば「何か隠し事をしているのか」と追及を始めるはずだ。
「これは・・・」2人でシートを剥がし、傾き始めた日差しで車体を見るとその弾痕の異常さに前駆して顔を見合せてしまった。弾丸は車体の左側の窓に集中していて、ドアには数発だけだ。
「貫通した跡は見当たらないな」2人とも日系アメリカ人を演じている以上、会話は英語になる。それでも兵士に聞こえないように口を耳に近づけて小声で話した。
「やはり外務省としても危険を考慮して防弾性を強化した車体を送ったのでしょう」「だとすれば防弾ガラスのはずだが穴が開いている・・・かなりの至近距離から撃ったんだな」確かに右側の前後の窓には幾つも穴が開いており、その他にもガラスを削ったような弾痕もある。
「タイヤには命中していないぞ」タイヤは4輪ともパンクしておらず、弾痕がない左側から見れば新車のランドクルーザーだった。
「やはり並走する車の窓からサブ・マシンガンで連射したのだな」「サブ・マシンガンの拳銃弾だから反対側の窓は破れなかったと言うことか」そう言いながらボディに残っている弾痕を確認すると、やはり先端が尖った小銃弾ではなく丸い拳銃のものだった。
「写真を撮るぞ」外観の検証を終えて松本は監視している兵士に声を掛けてからライカのカメラを構えた。兵士はこれほど丁寧な報道関係者に会ったことがないようで困惑しながら「イエス・サー、ヒヤ・ユー・ア―(どうぞ)」と敬語を使った。
「中は血の海だ」「はい、助手席に井戸上さんが座っていたんですね」窓ガラス越しに車内の写真を撮っている松本が返事をすると岡倉の胸に1つの疑問が湧いてきた。
「待てよ。左側の防弾ガラスを撃ち破った拳銃弾で運転主が死ぬのは判るが、どうして助手席の井戸上さんまで即死するんだ」この推理力はシャーロック・ホームズの国・イギリスでMI5、MI6から学んだものだ。この思いがけない疑問に松本は正面に回って中を確認しようとした。
「あれ、ここにも弾痕があるぞ」驚いた松本が日本語を口にしたのを聞き、岡倉も前に回った。するとフロントガラスの下部の中央に車体正面で跳ね上がって当たったらしい弾痕があった。
「これは停止させるための警告射撃じゃあないか」「いきなり正面に発砲するなんて、かなり乱暴ですね」「ここは戦場だからな」疑問が疑惑になっていく。知らない間に会話が日本語になっている。
「プレス、取材を中止しろ」その時、兵士が銃を構えて2人に声を掛けた。
  1. 2017/03/24(金) 09:53:08|
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振り向けばイエスタディ771

「止まれ」岡倉と松本が乗った車がバクダード市内を抜けて100キロ、荒涼たる風景が広がる地域に入ったところで検問の兵士に停車を命じられた。松本が停車させると同時にテントから飛び出してきた4人の兵士が銃を構えて取り囲んだ。これでは検問所と言うよりも戦場の阻止線だ。
「氏名と国籍を述べろ」松本に窓を開けさせた兵士は迷彩服の柄や階級章から見てアメリカ兵のようだ。アメリカ軍とイギリス軍の担当地域はバクダードを境に南北で別れているらしい。
「我々はアメリカのプレスだ。これが私のIDカードだ」左ハンドルを握っている松本が説明しながら身分証明書を手渡すと兵士は傍らに立つ別の軍人に見せてから返した。
「どこへ行く」「ティクリートとの市境で起きた日本の外交官の銃撃事件の取材だ」今度は右側の座席に座っている岡倉が質問された。勿論、その前に身分証明を確認されている。
「どうしてアメリカのプレスが日本人の事件の取材に行くんだ」「日本の陸軍(=陸上自衛隊)がイラクに来ることへの影響を考えると興味深い記事なりそうだろう」岡倉の説明に知的水準が高そうではない兵士は不快そうな顔になって窓から離れた。
「あの現場周辺は現在、封鎖になっているから現地の検問で現場責任者の立ち入り許可を得るように」「ご親切に有り難う」「グッド・ラック」松本が胸ポケットから取り出した吸いかけのアメリカの煙草を渡すと兵士は表情を緩めて通過を許した。
「それにしても見たか?テントの横に止めてあった高機動車には重機関銃が積んであったぞ」「彼らも引き金に指を掛けていましたね」アメリカ軍では誤発射を防ぐため通常は銃を構えても指は伸ばしておくように教育されている。つまりここでは戦闘中と認識されているのだ。
「イラクの道路はセンターラインがないから、右側通行なのか左側通行なのか判らなくていかんな」「確かに真ん中を走ってます」イラク中央部はティグリス川流域から外れるとオアシスを中心に発展した地方都市以外に人家などはない。したがってバクダードからティクリートまでも赤い砂と岩の大地だ。そんな荒野に直線の道路が延びており、所々に破壊された車両が残骸を晒している。
「このトラックはロケット弾が命中したんだな」「武装勢力が乗っていると判断されたんでしょう」道路脇に放置されている黒こげのトラックの横で停車させて2人は窓から状況を確認した。
「しかし、荷台には商品が乗っているぞ。どう見ても業務用だろう」「おそらく通行制限を無視していたんですよ」「通行制限なんて出ているのか」松本の常識的な見解に岡倉は別の反応をした。2人は無届で入手した車両でティクリートに向かっているのだが、途中で通行制限を示す標識や案内は確認していない。占領軍が一方的に決定した制限はそれを周知徹底することなく住民に強制され、違反すれば敵対行為として殺害の理由にさえなる。これがイラクの現実なのだ。
おそらく次期イラク大使として赴任した前参事官は紛争が継続している北部地区の現状視察とアメリカ軍への挨拶のために井戸上書記官を伴って向かっていたのだろう。出発前に届いたワシントンからの情報では3人が乗ったランドクルーザーは右側から追い抜きを掛けられ、通過しながら銃撃を受けたらしい。しかし、センターラインがなく中央を走る車両を追い抜くのには道路ギリギリを走行しなければならず、然も高速度で並走しながら銃撃を加え、3名をほぼ即死させるだけの命中弾を与えるのは至難の業だ。
「どうも臭うな・・・」「やはりこれもアメリカ発の情報のようですね」松本も現地を見て、ワシントンからの情報に疑問を感じ始めているようだ。
「ブッシュが2日前に突然、バクダードへやってきた」「そうなればアメリカ軍は兵力をバクダードに集中させて防御に万全を記さなければならない」松本は前方だけでなく周囲にも気を配りながら返事をする。しかし、この辺りでは遊牧民や隊商には出会っていない。事件が起きた時も道路は貸し切りに近かったはずだ。
「ブッシュの訪問でイスラム過激派の怒りに火がついた」「それを察知したアメリカ軍も戦闘態勢に入った」「そこを前線に向かって走る日本車、それも黒塗りのランドクルーザーが現れた」「見方によって軍用車両・・・」2人の推理が形になり始めた時、前方に道路を塞いでいる迷彩服の一団が見えた。松本は壊れてしまっているスピード・メーターの中で何故か機能している走行距離計を確認した。
「バクダードから140キロ、ここが現場のようです」松本は速度を落とし、窓を開けながら手をかざしている兵士の前で停車させた。
  1. 2017/03/23(木) 10:05:41|
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3月23日・「最高の独裁者」と言うしかないリー・クアンユー首相の命日

2015年の明日3月23日は安定した長期独裁政権によって極小国・シンガポールに驚異的な経済発展を遂げさせたリー・クアンユー(漢字表記では李光耀)首相の命日です。
野僧はリー首相本人に会ったことがあります。それは1970年の大阪万博でのことで、昼間の暑い時間帯には長蛇の列の人気パビリオンを避け、人が並んでいないところを回っている時、たまたま入ったシンガポール館で視察に訪れていたリー首相に会ったのです。勿論、外国元首ですから一般客が接近することは許されず遠目で見ただけですが、全身から発する強いオーラを子供ながらに感じたことを憶えています。
しかし、日本のマスコミや教育者は教条主義的に分類してから勝手な評価をする傾向が顕著なので、長期独裁政権と言えばアドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニと類似した悪人のように断定して、その偉大な功績を紹介することは殆どありません。その癖に人類史上最悪の独裁者であるヨシフ・スターリンと毛沢東、さらに賛否両論分かれるフィデル・カストロ議長は別枠のようです。
リー首相は1923年に華僑の息子としてイギリスの植民地だったシンガポールで生まれましたが、中国の出稼ぎ移民の中でも裕福なエリート階層に属し、家族の間でも英語で会話していたため「中国人的な性質はあまり身につけていなかった」と自著で述べています。当然のようにイギリス系の一貫校で学んでいましたが、大学生だった21歳の時に日本が第2次世界大戦に加わると緒戦でシンガポールが占領されたため、連合軍の通信を傍受して翻訳する仕事で日本軍に協力したようです。
日本が敗北するとシンガポールは再びイギリスの植民地に戻りますが、それを利用してイギリスのケンブリッジ大学に留学すると弁護士の資格を得て、帰国後はイギリス人の弁護士事務所に就職しました。
そこの弁護士が植民地の国会に当たる立法院選挙に出馬したことで政界に関わるようになりますが、第2次世界大戦後のアジア諸国で高まっていた独立に向けた機運の中では旧宗主国の威光を誇示する政党に将来性がないことを見極め、労働運動に関する裁判の弁護をしたことを通じて中国人を中心とする労働者の政党に参加したのです。
1954年にシンガポールの中流階層の華僑たちと対岸のマレーシアで力を持っていた共産党とは一線を画す新たな政党を立ち上げました。この政党は下層労働者を中心とする「マレーシアに同調してシンガポールの独立を実現=共産主義国家を樹立する」と言う過激思想と毛沢東主義の蔓延に危機感を覚えて反共産主義の圧力を強める上流階級の双方を容認する政治主張を展開しており、この絶妙のバランス感覚で支持を拡大していったのです。
1950年代後半に入るとシンガポールの政局は保守政党と労働政党が連立すると言う日本の自社さ連立政権のような事態になっており、リーさんも野党の代表としてシンガポールの独立に向けた会合に出席しますが、その一方で与党の無能ぶりも厳しく批判していました。
独立が現実味を帯びてくるに従ってシンガポールでは毛沢東主義者による過激な活動が猛威を奮い始め、リーさんの野党にも影響を受けた者が続出しますが、そこは政治巧者のリーさんのこと摘発・弾圧は政府にやらせ、自分は裏で取引を繰り返していたようです。
1957年にマレーシアが独立すると1963年にはシンガポールも併合されてマラヤ連邦となりますが、マレーシア人のみを優遇し、シンガポールに残されていたイギリスの資産を奪い、他宗教を否定してイスラム教を強制するマレーシア政府のやり方に怒った華僑系シンガポール市民による暴動が生起しました。その後、マレーシア政府が1965年8月9日にシンガポールの追放を決議したことで独立を果たしますが、それは苦難の道の始まりでした。
シンガポールはマレー半島の先端の小島と周辺の群島からなり、面積は791平方キロメートルで東京都の3分の1=23区の都内分に過ぎませんが、人口は約540万人(2013年統計)に上ります。つまり資源が何もない国でありながら対岸のマレーシアからの軍事的脅威に晒され、国民の食糧や資源の大半は輸入せざるを得ないのですから、自滅するのは時間の問題だったのです。
ところが国民の絶大な支持を得たリー首相が長期独裁の安定した政権運営で卓越した手腕で振るったことで、インド洋と太平洋の中継基地=貿易の拠点として存在感を確立して現在のシンガポールを築き上げたのです。
これほどの人物を何故、学校教育で取り上げないのか文部科学省の見解を訊いてみたいものです。
  1. 2017/03/22(水) 09:02:55|
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振り向けばイエスタディ770

岡倉と松本がイラク南部に入って半年が経過している。5月1日に大規模戦闘終結宣言が発表されて以降は復興支援に移行したことになっているが、イラク国内ではフセイン政権によってこそ押さえられていた武装集団が「聖戦」の旗印を掲げて反キリスト教国の攻撃を開始し、欧米では「テロ」と定義される戦闘が頻発するようになっていた。そんな11月27日、突然にブッシュがバクダードを訪問し、アメリカ軍の晩餐会に出席したことが報じられた。
「ブッシュの奴、わざわざイスラム過激派を刺激しに来てどうするんだ」「まったくだ。自分の勝利を誇示する宣伝のために自国の兵士たちの危険が増すことも判らないなんて・・・」政治的には大統領自ら現地に乗り込むことで勝利を絶対化し、将兵の士気を鼓舞する効果が期待できるのだろうが、そんな世論の動向よりもイラクで起こっている現実を解決するべきなのだ。
「そう言えばバクダードの井戸上書記官は大丈夫かな」「何でもイギリスから次のイラク大使になる予定の参事官が来ているらしいぞ」井戸上書記官は2人がイラクに入って間もなく知り合った駐バクダッド日本大使館の若い書記官だ。今まで会ったことがないタイプの外交官だったため鮮明に記憶に残っている。
「最近はバクダード周辺でも自爆テロが続発しているからな」「銃撃なら日常茶飯事だよ」これらの情報はワシントンには報告していない。それは外務省が機能している地域の情報を送ることで存在が露呈することの危険性の方が大きいからだ。
「それにしてもサマーワは平和だな」「多分、国務省がブーツ・オン・ザ・グランドさせるのに最適な場所を選んでくれたんだよ」「国務省と言うよりもアミーテージ副長官だね」日本では国務省のアミーテージ副長官のことを「ブーツ・オン・ザ・グランド」と地上部隊=陸上自衛隊の派遣を迫る危険人物と報じているが、実際は日本の立場を十分に理解した上で実行可能な提案をしているのだ(流石に「怖いのは風貌だけ」とは言わないが)。
「そう言えば井戸上書記官の提案は名寄の陸上に伝わっているよな」「あの浄水の話だろう。秋夕(チュソク)で帰った時に工藤さんに言っておいたよ」この会話からも2人の関係が個人的に接近していることが判る。松本は名寄駐屯地の第3普通科連隊を「陸上」と呼んで航空自衛隊出身であることを露呈させており、一方の岡倉は帰省の理由を「秋夕」と妻が韓国人であることを申告している。これは諜報員としては危険な兆候であった。
「それにしても砂漠の北キボールでは施設部隊が井戸掘りに励んだけど、サマーワには川があるから浄水して配ろうって言うのは中々のアイディアだな」「ああ言う若手が育ってくれれば外務省とも協同で仕事ができるんだが・・・」2人は井戸上書記官の人懐こい笑顔に眼鏡の奥で鋭く光る眼を思い出した。あの身のこなしはかなり武道、それも空手に励んでいたはずだ。

11月29日の午後、衝撃的な事件がワシントンからの緊急指令として2人の元に飛び込んできた。バクダードの北西にあるティクリート郊外でイギリスから赴任していた前(まえ)参事官と井戸上書記官、25年間も日本大使館に勤めているイラク人運転手が乗った車両が銃撃され、3人が死亡したのだ。駐イラク日本大使館は業務再開に向けて準備中と言う状況のため現場に駆けつける余力がない。そこで「独自に情報を収集せよ」と言う指令だった。
「ブッシュが余計なことをするからいけないんだ」「それは話を広げ過ぎているな。あくまでも冷静に客観的に情報を収集・分析しなければ判断を誤るぞ」イラク人から買っていた中古車の中で現場に急行しながら2人で語り合った。松本は親しくなった井戸上書記官の死に強い衝撃を受けているようだ。岡倉も井戸上書記官の将来に期待してだけにその死を惜しみ、腹の底から湧き上がってくる怒りと悲しみの感情は抱いているが、イギリスで立ち会ったMI5の殺人と同じことが実施されただけのように冷たく考えている自分もいた。
「できれば日本大使館の連中には会いたくないな」「はい、奴らは遺体を日本に送ることを最優先するのでしょう。情報も警察から収集することからですよ」「そうだな。先ずは現場で攻撃の態様を取材しよう」ワシントンから送られてきた情報によると現場はバクダードから140キロの幹線道路で、トヨタのランドクルーザーで走行中に追いついてきた車から銃撃されたらしい。アメリカのマスコミ関係者と言う肩書が「敵」とされる可能性は考えないことにした。
  1. 2017/03/22(水) 08:59:39|
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振り向けばイエスタディ769

引っ越しを終えて慣れない仕事を始めた頃、家族全員で牧野秀政弁護士の事務所に出かけた。実は定期預金を途中解約して弁護料を一括で支払うことにしたのだ。
「先生、お世話になりました」「こちらこそ、おめでとうございます」牧野弁護士事務所は都下の住宅地にある3階建ての1階で2、3階は自宅になっており、1階には雇っている若手弁護士の部屋も設置している。その応接室で面談したのだが、挨拶は無罪判決の謝辞と司法試験合格の祝辞が交差してしまった。
「これは弁護料ですが」「あれッ?分割払いではなかったですか」アタッシュ・ケースから防衛省共済組合の封筒に入れた150万円(合格したため個人教授料を3倍増させた)を袱紗で包んでを手渡すと牧野弁護士は少し困惑した顔で受け取った。
「先生としては控訴がなかったところで経費を決算する必要があるでしょう」「これは相変わらずの御配慮、痛み入ります・・・失礼して確認させていただきます」そう言ったところに女性の事務員がコーヒーと志織のジュースを運んできたので、牧野弁護士は封筒を手渡して目で指示した。
「尤も、我々の業界では刑事裁判ではあまり収入を期待しないものなんですよ」「へーッ、そうなんですか」「刑事裁判は追い込まれて犯罪に手を染めた人が被告になることが多いから、多くの場合は指定弁護になりますし、仮に依頼でも知人の紹介が大半なんです」これは本来なら私にとって転職先の情報になるのだが、その道は遮断されてしまった。
「その分、金の奪い合いの民事訴訟ではガッポリといただきます」そう言って笑った顔はいつもの牧野弁護士ではない。やはり業務によって人格を使い分けるくらいの引き出しが必要なのだろう。
「しかし、モリヤさんは司法研修を受けられないようですね」「はい、有無も言わさず指定席に座らせられました」私は突然に法務官の仕事を与えられても法律に関係する仕事を経験してきた訳ではないので、部内移動した前任者に教えを受けている状態だった。
「まァ、モリヤさんは一発合格ですから私よりも優秀なんです。自信を持って能力を発揮して下さい」「まぐれ当たりも能力の内ですかね」「それって軍人さんの逸話にありませんでしたか」牧野弁護士に指摘されて私も思い出した。舞鶴鎮守府司令官と言う閑職についていた東郷平八郎大将を連合艦隊司令長官に移動させた理由を明治天皇に問われた山本権兵衛海軍大臣は「東郷は運が良い男でございます」と即答したのだ。
「私なんぞは3度目の正直ですからね」「それを言うならホップ、ステップ、ジャンプでしょう」牧野弁護士の自嘲気味の謙遜を私が言い直すと笑ってうなずいた。そこに先ほどの事務員が報告に来た。
「現金で150万円入っていました。領収書は弁護料として80万円と空欄の70万円で切ってきましたが」「それはすみません。請求額の倍近くですね」「個人教授料としては些少ですが」そう言って互いに頭を下げた後、牧野弁護士が事務員に次の指示をした。
「惟謙を呼んでくれ」「お坊ちゃんを?」「うん、この機会にモリヤさんの強運を分けてもらおう。ついでにお嬢さんとお見合いだ」事務員はこの話がどこまで真剣なのか測りかねているようだが、間もなく志織よりも少し年長らしい父親似の男の子を連れてきた。
「モリヤさん、息子と握手してやって下さい。惟謙、モリヤさんに握手してもらうと司法試験に一発合格できるんだぞ」そう言われて惟謙くんがズボンの尻で拭いた手を差し出したので、私は牧野弁護士の真顔を見て力を入れて握った。その後は即席の見合いになる。
「息子の惟謙です」「娘の志織です」「志織さんの中学校はどこ?」「ヨコタ・エアベース(横田基地)のジュニア・ハイスクール(小学校)です」やはり会話は弾まなかった。
ち・田島芽瑠イメージ画像
  1. 2017/03/21(火) 09:35:10|
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3月21日・神雷特別攻撃隊=桜花が実戦に投入された。

昭和20(1945)年の明日3月21日に神雷特別攻撃隊=桜花が実戦に投入されました。
現代人はパイロットが爆弾を装着した航空機を操縦して敵艦に突っ込む特別攻撃は、フィリピンを奪還するため上陸したアメリカ軍を撃滅するため発令された捷1号作戦に際して昭和19(1944)年10月20日に大西瀧二郎中将が命じた神風(しんぷう)特別攻撃隊が始まりだと思っていますが、桜花の開発はそれよりも早く、日本海軍の狂気は既に蔓延し始めていたようです。
桜花を提唱したのは大田正一特務少尉(機上偵察員の叩き上げ・山口県出身)で、その動機はナチス・ドイツのV1ロケットの情報を入手したことでした。大田少尉はV1ロケットが無線誘導でも戦果を上げているのは地上の固定した目標だからであり、海面を移動し、時には回避行動を取る艦艇では人間による操縦が不可欠であると結論付けたのです。こうして人類史上初の自爆用航空機である桜花の開発を始めたのですが、流石に海軍の上層部は難色を示しました。その理由は「無線誘導方式の開発を優先すべきである」と言う常識的なものでしたが、一方で「時期尚早」との見解も添えられていたため「戦局がこれ以上悪化すれば実用化もあり得る」と言う含みが残ってしまいました。
このため大田少尉は母機となる1式陸上攻撃機を製造している三菱重工に無線誘導方式のロケット爆弾=現在で言えば空対艦ミサイルの開発を依頼しましたが、機上無線の精度が低く実用化には至りませんでした。実はV1ロケットの資料を元にして陸軍も同様の兵器を中島飛行機に開発を依頼しており、こちらは要求する性能を満たす機体ができたのですが、陸軍としては艦艇の攻撃よりも激しさを増す都市空襲に使う防空戦闘機の確保を優先したため日の目を見ることがなかったのです。それにしても中島飛行機で成功していたのなら海軍が乗り換えれば良かったのですが、おそらく要求していた性能所元が異なった上、陸海軍で技術情報を共有する体制がこの時点でも確立できていなかったのでしょう。
兎に角、無線誘導方式が頓挫したことで大田少尉はいよいよ人間が操縦する空対艦ミサイルの開発にむけて奔走し、海軍首脳に認めさせました。この時、開戦時の連合艦隊首席参謀だった黒島亀人大佐が肯定的な立場を取ったため「特別攻撃隊を発案した首謀者」と言う湿った程度の濡れ衣を着せられています。
桜花の要求所元は「頭部に800キロ爆弾(=機体重量の80パーセント)を装着し、その爆弾は艦体を突き破り、内部で炸裂する徹甲弾とする」「極力高速として、航続距離は固体式ロケット(=事実上の大型ロケット花火)4本による可能な範囲、操縦が可能な程度の安定性を持たせる」「金属欠乏の折から材料は木製として極力単純な構造とする」と言うものでした。しかし、ロケットの推進力では800キロの爆弾を飛行させることには無理があり、実験を重ねた結果、約500キロにまで縮小されたのです。それでも零式艦上戦闘機などに装着された250キロ爆弾の2倍です。また木製の機体と言う要求は翼の付け根などの強度上の理由で一部に軽量なジュラルミンを使わざるを得ませんでした。
こうして開発された桜花は陸上攻撃機から切り離されて滑空する訓練だけを受けた搭乗員で編成された神雷特別攻撃隊(専門の護衛戦闘機隊も編成された)として実戦に投入されたのです。そしてこの日、硫黄島の組織的抵抗が終わって次の攻撃目標である沖縄本島を艦隊で包囲する前に本土の航空基地などを叩くため太平洋の日本近海を行動していたアメリカ艦隊に出撃が命じられました。
ところが護衛の戦闘機は度重なるアメリカ軍の空襲によって予定していた機数が確保できず、作戦の延期を上申する声があったのですが、指揮官である宇垣纏中将の「今、使わなければ使う時がない」の一言で発令されました。しかし、この作戦は母機である1式陸上攻撃機18機が20分程度の短時間に全て撃墜されたため、戦果以前に発進することさえもできずに終わってしまいました。
当初、アメリカ軍は1式陸上攻撃機の下に吊下げられている桜花を無線誘導式のV1ロケットのコピーのような新兵器と考えていたのですが、上陸した沖縄本島でカタパルト射出によって飛行する桜花を発見して、それが人間の操縦による自爆兵器であることを知り、コードネームを「ギズモ=小道具」から日本語の「バカ=馬鹿」に変更したのです。
その後、沖縄戦で神雷特別攻撃隊の出撃が繰り返されましたが、4本のロケットでは航続距離が短く、母機で接近しなくてはならなかったため、期待したほどの戦果は上げられませんでした。
漫画や小説などでは「桜花が音速を超えた」とする表現が見られますが、ロケット花火の推進力で重い爆弾を滑空させる飛行方法では不可能でしょう。何より主翼の構造が音速を超える衝撃波に耐えられません。
  1. 2017/03/20(月) 10:47:29|
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振り向けばイエスタディ768

結局、陸上幕僚監部法務官室の次級者だった3佐を幕内移動させて私の転属が発令された。私としては「何を焦っているんだろう」と首を傾げるような人事だが、考える時間を与えないで席に縛り付ける陸上自衛隊式の人員確保術のようだ。同時に2佐になってしまったが、こちらの方が違和感は大きい。
「またモリヤ2佐が2人になったね」引っ越しの手伝いに久居へ来た佳織は妙に高揚した顔をしている。そんな様子が私の困惑を更に大きくした。
「何だか喜んでいないみたいやな」「うん、キャップって呼んでもらうのが好きだったから、2佐なんて分不相応な階級は困るんだよね」「何言っているのよ、これから法律を使って攻撃してくる敵から自衛隊を守るんでしょう」そう言われても司法試験に合格したのはまぐれとしか思えない。それは合格者の出身大学を見れば一目瞭然だ。
「司法試験の合格者の出身大学の一覧表を見てみろよ。東大、京大、北大、東北大、九大、阪大、名大、神大、広大の国立の一流どころに早稲田に慶応、一橋大に中央、同志社、立教って私立の名門ばかりだ」「『めいだい』って明治大学の合格者がいたっけ」「失礼しました。『みゃーだい』です」私が手渡した一覧表を見ながら佳織が訊いてきた。確かに愛知県では名古屋大学を『めいだい』と呼ぶため、全国区の話をする時には名古屋弁で区分しなければならない。それでいて中京大学を「ちゅうだい」とは呼ばないのは中央大学への遠慮だろうか。
「そんな超エリートたちと同じレベルの人間だと思われると流石に荷が重いよ」「貴方にしては珍しく学歴で自己評価するんだね。実力勝負が貴方のモットーじゃないの」そう言った佳織の顔には2等陸佐の風格があるが私はどうだろうか。かつての義弟・松真は1尉になってからも「2尉ニ」と呼んでいたが、2佐なら「2ィ佐ん=兄さん」にするのかも知れない。
「もう1つ、残念なのは『モリヤさんさァ』って軽く呼んでもらう経験をしたかったな」「そうか、3佐は飛ばしちゃったもんね」これは佳織が3佐になった時に言っていた話だ。それを思い出して佳織も笑った。
「それで官舎は私のところで良いよね」「うん、守山のパターンだな」「あそこみたいに狭くはないけど、通勤には少し時間がかかるんや」陸上幕僚監部は全国各地の部隊からの問い合わせへの対応で日中は忙殺されてしまう。このため自分の仕事は残業で片づけるらしい。法務官室がどの程度、残業をするのかは判らないが、今は佳織が1人でやっている志織の送り迎えを交代できれば幸いだろう。
「東京かァ・・・我が岡崎市の植民地だな」「何や?それ」「だって江戸を作ったのは徳川家康公じゃあないか」これは岡崎市の少年たちが口にしていた極端な郷土愛の発露だ。それを言えば豊臣秀吉が作った大阪や加藤清正の熊本も名古屋市中村区の植民地になる。同様に仙台は山形県米沢市出身の伊達政宗だ。神戸は平清盛なので京都の六波羅だろうか。
「東京って住みやすい土地か」「うーん、ウチの好みやないね」ハワイ生まれで兵庫育ち、アメリカと日本を往復しながら生きてきた佳織には大都会の癖に閉鎖的な東京の気風は息が詰まるのかも知れない。そう言う私は中学校の修学旅行で一度、体育学校への入校で通過を含めて三度、佳織のCGSの卒業式で四度目と言う未知の土地なのだ。
「花咲き花散る宵も 銀座の柳の下で 待つは君1人・・・花の都 恋の都 夢のパラダイスよ 花の東京」これは修学旅行のバスの中で熱唱してベテランガイドさんに呆れられた藤山一郎の「東京ラプソデー」だ。ところがこれを受けて佳織も唄い始めた。
「踊り疲れたディスコの帰り これで青春も終わりかなって呟いた 貴方の背中を見詰めながら 痩せたなって思ったら泣けてきた・・・」今夜のBGMはBOROの「大阪で生まれた女」で決まった。
  1. 2017/03/20(月) 10:45:52|
  2. 夜の連続小説8
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俳優・渡瀬恒彦さんの逝去を悼む。

3月14日に俳優・渡瀬恒彦さんが癌による多臓器不全で亡くなったそうです。72歳でした。
渡瀬さんは言うまでもなく渡哲也さんの実弟ですが、兄の渡さんも癌を患っていますから「この訃報に力を落とされては」と本当に心配してしまいます。実際、渡さんは「余命1年と言う宣告を受けていたので今日の日が来る覚悟はしていたものの、この喪失感は何ともなりません」と悲痛なコメントをしています。
ところで今年の1月21日には同じく俳優兄弟の松方弘樹さんが亡くなっており、もう1組の岸部一徳、四郎兄弟は大丈夫なのでしょうか。尤も、こちらの兄弟は殺しても死にそうもない図太さがありますから、上白石萌音・萌歌さん姉妹や広瀬アリス・すずさん姉妹のスキャンダルを心配してしまう人の方が多いかも知れません。
渡瀬さんは映画「殺し屋人別帳」でデビューし、「仁義なき戦い」にも出演してように時代劇から任侠・アクション映画に路線転換を図っていた東映にスカウトされて、電通の宣伝部でのエリート街道を捨てて俳優の道に入ったそうです。その頃、3歳年上の渡さんは日活の青春映画で人気を獲得していましたが、当時は「他社の俳優は使わない」と言う鉄則があったため兄弟での共演はなかったようです。その分、清酒・松竹梅のCMで共演した時の演技抜きにしか見えない映像は鮮明に記憶に残っています。
ちなみに渡哲也さんの本名が渡瀬道彦と言うことでも判るように渡瀬さんの方は本名です。それは東映に入った時、甘たるくて気障っぽい芸名をつけられそうになったのを拒否したため、仕方なく本名でデビューしたのだそうです。
野僧が最初に見た渡瀬さんの出演作品は高校生1年生の時、後輩の女子中学生を連れて見に行った「皇帝のいない八月」です。この映画は陸上自衛隊がクーデターを起こす物語で、渡瀬さんはブルートレインを占拠して、乗客を人質にして東京に向かう決起部隊の指揮官の役でした。
物語自体はブルートレインの乗客程度の人質で政権の転覆・奪取を狙う想定自体がリアリティに欠けていましたが、俳優さんが着ると近所の駐屯地で見かける隊員と陸上自衛隊の制服の見栄えが違うのには感心しました。ただし、その制服の裾はサイド・ベンツの航空自衛隊式だったので微妙に仕立てが違ったのかも知れません。
その後輩とは1カ月後に角川映画の「野性の証明」、翌年の「戦国自衛隊」も一緒に行ったため「陸上自衛隊志望か」と誤解されましたが、海上自衛隊の映画をやっていなかっただけです。ちなみに「野性の証明」でも高倉健さんが1等陸曹の制服姿で退職を申し渡される場面がありました。
次に見たのは高校3年生の3学期公開で大学受験の帰りに寄った松坂慶子・杉田かおる版の「青春の門」で、渡瀬さんは主人公・信介の父である菅原文太さんと争いながらもやがては共鳴し合う朝鮮人労働者の頭目でした。
そして大学1年になって高校の後輩に誘われて行った「セーラー服と機関銃」は「野性の証明」でデビューした薬師丸ひろ子さんの出世作です。この映画では弱小ヤクザ屋である目高組の若頭ですが、久しぶりの任侠映画と言う訳ではなく任侠の世界を舞台にした青春物語でした。
目高組が解散した後に喧嘩の仲裁をしていて刺殺されてしまい、身元確認に行った薬師丸さんが口づけするシーンがありましたが、薬師丸ファンは「あれがひろ子のファーストキスだったに違いない」と断定して悔しがっていたものです。
そして沖縄でアラスカ人の彼女と見た「南極物語」ですが、この映画は3年前に高倉健さんが亡くなった時にテレビで追悼上映しましたから今回はないでしょう。渡瀬さんは夏目雅子さんの恋人役ですが、文部省推薦作品だけに濡れ場はおろか接触するシーンもない完全な色気抜きでした。
渡さんと渡瀬さんはテレビや雑誌で兄弟対談することが多かったのですが、渡瀬さんが兄と自分の演技の違いを「兄は剛速球を投げられるが、自分にはそれだけの力はない。だから変化球や癖球で逃げている」と謙遜すると、渡さんは「俺はストレート一本勝負なのでお客さんが飽きてしまう。その点、色々な見せ場を作っている弟は素晴らしい」と誉めていました。
しかし、兄弟の再開はもう少し先に延ばして下さい。渡瀬さんは再婚して幸せな家庭を築いていましたが、離婚して独り身で逝った先妻の大原麗子さんが「少し愛して、長く愛して(=サントリー・レッドのCM)」と言いながら待っているかも知れませんから。
  1. 2017/03/19(日) 10:50:15|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ767

久しぶりに自炊した夕食を終えてテレビのニュースを見始めると佳織から電話が入った。
「今日、貴方の件で人事部に呼ばれたんや」「人事部って幕のか」佳織にとって幕=陸上幕僚監部は現在の職場だが現場一筋の私にとっては雲の上の存在だ。そこの人事部に呼ばれたとなるとただ事ではない。ヒョッとすると蛇のように執念深い徳島水子が、衆議院選挙の大敗の欝憤晴らしに今回の判決を政治問題にしたのではないだろうか。
「それで何だって」「貴方は退職して司法研修を受けるつもりかって確認されたんや」「そうかァ、兼業はできないもんな」確かに自衛官は「他の職、事業への関与制限」が課せられている。そう言いながらも私自身は合格したことが実感できず具体的なプランは考えていなかった。
「だから貴方が自衛隊を辞めるなんてあり得ないって言っておいたわ」「うーん、それはどうかな」「えッ?」私の返事を聞いて佳織は驚いたような声を出した。
「まさか、自衛隊が嫌いになったの」「と言うよりも中途半端な立場で継続するよりは別の戦場に出陣したいって気分だよ」佳織には健康診断の数値程度は話してあるが、心配をかけないため深刻さは薄めてある。実際の検査結果は予想以上に悪く、不整脈があるためジョギングも始められないのだ。しかし、この「一心同隊」の妻は即座にこちらの真意を察知した。
「そんなに具合が悪いの」「うん、良くはないね」おそらく佳織は妻と上官の立場で状況判断しているのだろう。やがて受話器を握り直す音の後、次の展開を切り出した。
「人事部としては貴方を監理部の法務課に転属させたいって言ってはるんや」「監理部にそんな部署があるのか」私は雲の上のことは古巣の航空自衛隊に任せているのであまり知識を持っていない。それにしても陸幕が雲の上の職場なら我が妻は天女になってしまったことになる。
「戦前の陸海軍の法務官は司法試験に合格していることが資格要件やったんやけど、今の自衛隊では人材が集まらんから不問になっているんやって」「確かにあれだけ苦労して合格した人間が自衛隊に入ってくるはずがないな」こう答えておいて自分が苦労したのか反省して見ると、充実した時間つぶしを満喫してだけのような気がした。
「だから貴方が法務官になれば陸上自衛隊としては万々歳だし、それに司法試験に合格した法務官は指定階級で2佐になるんよ」自衛隊の医師や看護師は一般的な収入に相当する給与水準にするため階級が目一杯吊り上げられている。つまり国家公務員である判事や検事の給与に相当する階級は2佐なのだろう。しかし、航空自衛隊なら騒音や事故の賠償訴訟の頻度が高いはずだが、陸上自衛隊では重大な服務事故や官用車の交通事故くらいしかないのではないか。私が返事をしないでいると佳織は意外な助言をしてきた。
「貴方、『ア フュー グッド マン』って言う映画、見た?」「残念ながら見ていない」この映画は海軍の法務官であるトム・クルーズとデミ・ムーアが海兵隊大佐のジャック・ニコルソンと法廷闘争を繰り広げる作品だが、カンボジアに行っていた1993年の2月に公開されたため帰国後は上映が終わっていた。おまけに私は美恵子との離婚の問題で余裕がなく、そのままにしていたのだ。一方、佳織は守山でレンタルビデオを借りて見たらしい。
「一度、あの映画を見てから考えてみて」「早速、レンタルビデオで探してみるよ」本当は同期が勧めるリハビリの材料=今夜のオカズを探すつもりだったのだが、意外な作品を優先することになった。
「ア フュー グッド マン」を見た私は安川と聡美さんの訴訟騒動を思い出し、妙にやる気が湧いてきた、国際法が定める軍事法廷を自衛隊に設置できないのは日本国憲法第76条が「特別裁判所は、これを設置できない」と規定しているからなので、私が現役中に設置される可能性は低いが、ならば自衛隊の独自性を法廷で述べる存在が必要なのではないか。そう思うと自分がトム・クルーズになったような気がした。それよりも佳織はデミ・ムーアに似ている。
DemiMoore.jpg「A FEW GOODMAN」のデミ・ムーア
  1. 2017/03/19(日) 10:48:48|
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3月19日・最初の大老・酒井忠世の命日

寛永19(1641)年の明日3月19日(太陰暦)は土井利勝さまと共に最初の大老に就任した酒井忠世さまの命日です。
土井利勝さまは東照神君・家康公の隠し子と言う噂があり(当事者も否定しなかった)、豪胆にして政治力に長け、2代・秀忠公、3代・家光公への代替わりを支え続け、徳川264年の天下泰平の基礎を築き上げた功績が高く評価されていることに比べると同じ職にありながら酒井さまは少し影が薄いようです。
ただ組織には剛と柔、攻と守、叱責と擁護、威厳と柔和と言う2つの役割を果たす存在があった方が好いのは間違いなく、おそらく酒井さまも土井さまが居丈高に命令した後に別室に呼んで教え諭しながら激励するような役割を果たしていたのかも知れません。
と言いながらも酒井さまの孫に当たる酒井忠清さま(大河ドラマ「樅の木は残った」では北大路欣也さんが演じた)が伊達62万石を取り潰し、分家の伊達兵部に半国を与えようとした伊達騒動を起こしたのですから、「温和な人格者」と断定することは避けるべきでしょう。
ちなみにドラマで酒井さまを演じた役者は野僧が知っているだけでも、1971年の大河ドラマ「春の坂道」の石浜朗さん(土井さまは江守徹さん)、映画「魔界転生」の内田朝雄さん(土井さまは登場しないで知恵伊豆=松平伊豆守が成田三樹夫さんでした)、2000年の大河ドラマ「葵徳川三代」では岩崎ひろしさん(土井さまは林隆三さん)でした。野僧は見なかったものの1983年のフジ・テレビ系列のドラマ「大奥」と1985年のNHK「真田太平記」では「隠密同心・大江戸捜査網」で井坂十蔵を好演した嵯川哲朗さんだったようです。
そんな酒井さまは家康公が30歳(満年齢)目前の元亀3(1572)年に三河でも矢作川の下流である西尾を領していた酒井重忠さまの嫡男として生まれました。土井さまよりも1歳年上です。
元服後に家康公に仕え、秀吉が関白の威光を後陽成天皇と朝廷に見せつけるため催した聚楽第行幸に参加し、2年後に秀忠公が秀吉に初めて対面した時には腰物(=刀)役を務めています。その後も秀忠公の側近として父とは別に処遇されて、関東転封時には武蔵・川越城主になりました。
そして関ヶ原の合戦の時も秀忠公に従ったため、真田父子の計略にはまって上田城攻めで時間を浪費して治山する羽目になったのです。ちなみに秀忠公は酒井さまよりも7歳年下です。
33歳の時に秀忠公が2代将軍になると筆頭年寄りとなり(この頃は老中と言う役職はなかった)、2年後に家康公が完成を見た駿府城に移ると祝賀の使いに赴き、そこで雅楽頭(うたのかみ)の位階を与えられました。これ以降、酒井さまの系譜は「雅楽頭」を称し、出羽の大大名・庄内藩主の酒井家よりも家格は上でした。
大阪の陣を経て家康公の翌年に父の重忠さまが亡くなると自分の領地と合わせて8万5千石を有するようになり、家光公の後継が確定したことで年寄衆に加わりました。このことで幕政に参画した学者・新井白石は土井さまと青山忠俊さまと共に「三臣師傅説(家臣で師匠で傅役を務めた3名)」の1人としています。
大御所・秀忠公が亡くなって家光公が独り立ちすると隠居所だった西の丸の番として住むことが許されますが、家光公が両親の墓所である増上寺に参ったのに同行して中風で倒れ、療養によって復帰はしたものの次第に幕政の中心からは遠ざかって行きました。
そして家光公が上洛している留守中に火災が発生して、西の丸が焼失した責任を取って役職を退任、半年後に赦免されましたが、この日に亡くなったのです。65歳でした。
ついでに言えば後を継いだ嫡男の忠行さんも8カ月後に亡くなったため孫の忠清さんが12歳で酒井雅楽頭を名乗ることになったのです。
  1. 2017/03/18(土) 09:36:16|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ766

私は衛生隊に同期を訪ねていた。2佐の隊長でもある医官から健康診断を勧められたのだ。
「よう、モリヤ。無事に帰ったか。相変わらず悪運が強いな」「うん、検屍ではなく健康診断を受けにきたよ」「うん、お前が死刑になったなら検屍医を志願しようと思っていたぞ」この同期とはかなり過激な冗談を言い合える仲だ。
「そう言えば中村昌代3曹を長い間、お貸しいただき有り難うございました」「たっぷりと使ったか」「うん、仕事で大いに活躍してもらったよ」中村3曹の活躍は戦闘訓練で第1線救護をやらせた時に視察させている。それ以外に使わなかったのは当り前だ。
「健康診断の前に確認するが、何か気になる症状はあるのか」「それが・・・」実は同期とは言え男として告白しにくい自覚症状がある。拘置所から帰って久しぶりに佳織を抱こうとしたのだが、男性自身が戦闘態勢にならず果たせなかった。それが現在も継続しているのだ。
「お前が悩む顔を初めて見たぞ。余程、深刻な問題のようだな」「うん、貴様には一生関係なさそうな症状なんだ」私の沈んだ顔を見て同期はボールペンを取りカルテの準備をした。
「出所した夜、久しぶりに夫婦の営みをしようとしたんだが・・・起たなかった」「EDだな」EDとは「Erectile Dysfunction」の略で日本語では「勃起不全」と訳されるらしい。いつもなら何でも冗談にする同期が今回は真顔で聞いている。
「お前の年齢から言えば心因性の一過性のモノと考えられるが、拘置所内での生活で身体が変調をきたしたとなると話は難しくなるな」確かに40歳代の前半ではスケベ親父として援助交際などに走っている好色男も少なくない。その一方で拘置所の常に監視を受けている中で自慰行為をするストレスはかなりのモノがあった。
「しかし、ウチにはバイアグラの系統の薬品は置いていないぞ」「そりゃあそうだな。自衛隊でバイアグラを飲ませるのは性犯罪や不倫を助長しかねないからな」同期の話が少し冗談めいたことで私もようやく気分が軽くなった。
「しばらくは栄養価が高いものを食べてリハビリに励むことだ」「リハビリ?」「AVビデオでも借りて試してみろ」Hなビデオは佳織が単身赴任している時に入手した日活ロマンポルノ・コレクションがあったが、留守中に中村3曹が出入りすることになって全て処分していた。
「それにしてもお前が神経を病むほど塀の中の生活はきついのか」「自覚症状はなかったが、自衛隊とは違う煩わしさはあったよ」「それでは今日の検査は念入りにしないといかんな」そう言って同期は担当者の陸曹を呼んだ。
「不整脈があるな。それもかなり深刻だ」「不整脈?」「収監中に運動はできたのか」「うん、筋力トレーニングばかりだったが」「それだ!お前はジョギングを欠かさない生活を送ってきたのに、それができなくなって心肺機能が影響を受けたんだ」個室と屋上の狭い運動場では筋力トレーニング以外には体操くらいしかできる運動はなかった。それで自衛隊に入隊して以来20年以上継続してきた心肺への負荷が奪われる結果になったのだろう。
「あとは血糖値が高いな」「糖尿病か?」「その一歩手前だが、食後血糖だからハッキリしない。明日、朝食抜きで来てくれ」これは意外な結果だった。収監者の食事は厳格に栄養管理されていて、外で不摂生な生活をしている者も健康体になって戻っていくと言われているのだ。
「そんな高カロリーの食事はしていないんだが」「糖尿病は栄養過多や生活の乱れだけが原因ではない。ストレスもかなり深刻な影響を与えることが判っているんだよ」つまり規律正しい拘置所生活も私には継続したストレスが加えられ、身体がむしばまれる結果になったようだ。
「徳島水子に身体をボロボロにされたことになるが、アイツも今回の選挙で罰(ばち)が当たったからな」徳島が率いる社人党は今回の選挙で大敗して党首の座も危ういらしい。しかし、それは政治の問題であって私個人が受けた損害の賠償や謝罪にはなっていない。
  1. 2017/03/18(土) 09:34:57|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ765

私の司法試験合格は各方面に想定外の影響を及ぼし始めた。最初の被害者は第1部門担当主任からだった。午後になって第2教育団の1科長から電話が入ったのだ。
「吾妻、お前はモリヤ1尉には幹部としての資質が欠けていると言っていたよな」「・・・」主任の吾妻俊輔1尉は返事ができなかった。自衛隊生徒から部内で幹部になった主任は生徒から防衛大学校に進んだ現在の大隊長が着任すると、モリヤ1尉の常識外れな言動を告げ口して心証を害した上で、勤務評定の序列をA幹部(=防大・部外出身)で先任者でもあるモリヤと自分を引っ繰り返していた。その異例な処置の理由をこのように説明していたらしい。
「司法試験に合格するような人材が本当に幹部の資質が欠けているのか?団長閣下もお怒りだぞ」「・・・」主任は数時間前、モリヤが口にした「民事訴訟」と言う台詞が大きな岩盤になって自分の上に迫ってくるように感じた。
「大隊長の御意向を受けての処置です。何卒、穏便にお願いします」「いや、これは団長のところに陸幕から問い合わせがあったんだ。ワシの力では何ともならん。お前も首を洗っておけ」そう言って1科長は電話を切ってしまった。主任が力なく受話器を置くと同時に電話が鳴った。主任は科長が言い過ぎたことを反省したのかと思い、気を取り直して受話器を取った。
「はい、科長」「科長?陸幕人事部長の国城だが佐藤はおらんのか」悪い時には悪いことが重なるもののようだ。今度は陸上幕僚監部人事部長の国城将補からだったのだが、格下の肩書で呼んでしまった。言われてみれば先ほど大隊長室の電話が鳴っていた。
「はい、ただいま小用に出ておりまして・・・」「戻ったら私に電話をするように伝えろ」部長も一方的に電話を切ってしまった。おそらく陸幕は何らかのルートでモリヤが司法試験に合格したことを知り、人事記録を確認したのだろう。そうなれば異常な勤務評定が問題になるのは当たり前だ。
「自衛隊の不当人事を告訴」主任の脳裏に新聞の黒地に白字抜き出しの大見出しが浮かんでくる。先日までモリヤの裁判の記事を見て退職を申し出る日を指折り数えて待っていたのだが今度は逆だ。主任は受話器を置くと机の上で倒れるように伏せてしまった。

その頃、愛知大学の法経学部事務局でも思いがけない混乱が起きていた。全国各地の大学から祝辞と確認の電話が殺到していたのだ。
「誰かモリヤって知っているか?」「自衛隊の殺人事件の被告でしょう」「アイツがうちの大学の修了生だったとはな」法務省が発表した司法試験の合格者は朝刊に載っていたが、愛知大学から合格者が出たことはないので事務局の職員たちは関心を持っていなかったようだ。
「年齢から言えば20年前の修了生ですから、当時の教授先生たちは1人も残っていません」「ご存命なのは・・・」そんな話をしている時、また電話が鳴った。
「はい、愛知大学法経学部事務局です。あッ、大林教授ですか・・・」それは刑法を教えていた大林教授からのようだ。全員で注視していると職員の顔が次第に軽くなっていくのが判る。やがて職員は電話を切って謎の解説を始めた。
「モリヤって学生は2年で中退したそうです」「そうかァ、それで修了者名簿に載っていないのか」他の大学からの問い合わせが始まって事務局としても名簿を確認したのだが、どこにも名前が見つからなかった。
「1年の時から憲法と刑法、民法などの専門科目ばかりを取っていたそうです」「それでは卒業までに単位が揃わないだろう」「おまけに学費を稼ぐためのバイトに励んでいて、夜間の講義にも顔を出していたんで憶えていたそうです」これには感心よりも呆れてしまう。
「ウチの出身者に入れて良いのか難しいところだな」事務局長の言葉に全員が首を傾げた。
  1. 2017/03/17(金) 09:34:54|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ764

翌朝、出勤して大隊本部に顔を出すと昨晩、電話で話した藤山2尉がいた。藤山2尉は私が拘置・公判中に定年退官した村上2尉の後任として金沢の第14普通科連隊から来たそうだ。
「モリヤ1尉、久しぶりだな。君の国内外での活躍は新聞で楽しませてもらったよ」大隊長は佐藤芳夫2佐のままで第1部門担当主任も交代していない。むしろ完全に大隊長の飼い犬と化しているようだ。何にしてもこのコンビが私の処遇を決めずに放置していたのだ。
「長い間、ご迷惑をかけました。それで今後はどうなるのでしょうか」「先ずは当直の交代が終わってから3人で話し合おう」そう言うと主任は当直日誌に捺印して藤山2尉に手渡した。
「申告します。1等陸尉 モリヤニンジンは平成14年1月7日から国際連合平和維持活動に参加中のところ平成15年11月9日に帰隊しました」当直幹部の交代に続いて私の帰隊申告になったが、第1部門担当主任の即興の台詞はやはり変だった。しかし、大隊長の苦虫を口一杯に頬張ったような顔はそれ以上に変だ。
「うん、帰ってくるとは思わなかったよ」「やはり死刑になることを期待されていましたか」私は実際に死刑囚と同じ屋根の下で暮らしてきたので、この皮肉には迫力があったはずだ。
「先ずは今後のことを話し合いましょう」机を挟んで一触即発になっている私たちに主任が声をかけ、大隊長は目と鼻だけでソファーを勧めた。するとWACがコーヒーを運んできた。どうやらドアの外でお盆を抱えて待っていたらしい。
「それで君は今後どうしたいんだ」「妻も帰国したことですから普通科連隊に帰って実戦的な訓練を追及したいですね」私が久居に来たのは佳織の長期入校中、常日勤の教育隊であれば子供たちを育てることが可能だと言うのが理由だった。今は淳之介を沖縄へ送り出し、志織は佳織と暮らしているのだから演習がある勤務に戻っても良いはずだ。
「実はPKOから無事に戻れば名寄に転属させる調整が入っていたんですよ」「ワシも君の栄典だと思って期待していたんだがな」こんな台詞を大隊長の口から聞いても空々しいだけだ。
「北キボールに続いてイラクですか。それは惜しいことをしました」実は陸上幕僚監部での事情聴取の合間を利用して市ヶ谷駐屯地内の調査隊本部が保管している過去の新聞を閲覧させてもらい、不在間の情報を急速収集してきたのだ。
その時、ドアをノックして先ほどのWACが「モリヤ1尉に電話が入っています。法務省からです」と声を掛けた。私が立ち上がって第1部門室に行こうとすると大隊長は「こちらへ回せ」と指示し、間もなく机の上の電話が鳴った。
「はい、モリヤですが・・・そうですか・・・有り難うございます」後ろで大隊長と主任が聞き耳を立てていることは判っているが、どちらにしろ報告しなければならない内容なので自然に受け答えする。つまり1度目の受験で司法試験に合格すると言う奇跡が起きたのだ。
「はい、住所は自宅の方で結構です。よろしくお願いします」そう言って受話器を置いて振り返ると2人は怪訝そうな顔でこちらを注視している。そこでその場で説明を始めた。
「私は司法試験に合格しました」「司法試験?司法書士ではないのか」司法書士とは登記や裁判所・検察などに提出する書類の作成、さらに簡易裁判所での代理業務を行う国家資格だ。
「いいえ、拘束中に有り余る時間で猛勉強しました。確かに奇跡のようですが」私の説明に2人は絶句した。この大隊長は私を大学中退でありながら部外に紛れ込んだ特例のA幹部と侮蔑してきただけに、日本の文科系では最難関と言われる司法試験に合格されては自分の人物評価が間違っていたことになる。想定外の展開に2人は聞きかじりの知識で世間話を始めた。
「それでは退職して判事か検事になるのか」「弁護事務所を開くには相当な金がいるらしいですよ」「今のところ退役するつもりはありません。無理にでもと強要するなら民事訴訟を起こします」法律の専門家になった私の反撃に大隊長は恐怖に近い衝撃を受けたようだ。
  1. 2017/03/16(木) 09:18:03|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ763

事情聴取を終えて久居に帰ったのは衆議院選挙が行われた当日の夜だった。私は久居から選挙の投票所入場整理券を送ってもらったため東京で不在者投票をすませていた。
官舎に入ると留守中に中村昌代3曹が掃除に励んでいてくれたのが判る。その中村3曹も衛生隊に戻ったらしいが、それでも留守宅の掃除と自家用車の手入れは欠かさないでくれたようだ。テーブルの上には留守にしていた1年半の間に届いた私宛の書簡類が積んである。半年の予定が3倍の長期間になり年賀状も入っていた。
「さて、先ずは部隊の当直に帰宅の連絡からだな」1年半も別世界で暮らしていたため、自衛隊でやることも確認しながらでなければ抜けが出そうだ。その前に駐屯地の電話番号を忘れていた。警察に証拠物件として押収されていた身分証明書は返してもらったので、それに入れている連絡先で調べて電話をする。
「もしもし、116教育大隊当直、岩田2曹ですが」電話に出たのは知らない陸曹だった。
「116教育大隊付のモリヤ1尉です。只今、自宅の官舎に返りました」私の名前を聞いて岩田と名乗った当直陸曹が受話器を押さえて何かを報告しているのが判った。しばらくの間を置いてこちらも知らない当直幹部が出た。
「大隊当直幹部の藤山2尉です。元328中隊長のモリヤ1尉ですか」懐かしい肩書だ。しかし、この確認の仕方から考えれば復職後の私の配置はまだ決まっていないようだ。
「はい、そうです」「それは長いお勤め、御苦労さまでした」藤山2尉が掛けた言葉に私は東映ヤクザ映画で出所した組長を出迎える組員たちの挨拶を思い出してしまった。
「明日の予定については何か聞いていませんか」「金曜日の命令受領では特にありませんでしたが」確かに今日は日曜日なので金曜日の夕方に大隊本部で受ける指示では思い当たらなかったのだろう。その間延びした感覚がここの部隊風土なのだ。
「とりあえず帰隊報告はしましたから記録しておいて下さい」「はい、今後ともお手柔らかにお願いします」藤山2尉の声が妙に緊張していたところを見ると、留守中に妙な評判が広まっているのかも知れない。
次は官舎の階段の家々に帰宅の挨拶回りだ。通常はこのようなことはしないのだが、私の場合は特殊な状況になってしまったため転入に準じて実施することにした。
「モリヤさん、やっぱり帰ったんですね」私の顔を見て隣りの奥さんは1歩後ずさった。
「どうも急な事情で帰宅が遅くなってしまいまして」玄関で挨拶していても夫は顔を出さない。奥からテレビのニュースの音が聞こえてくるから居留守を使っているようだ。ここの夫は第33普通科連隊の中隊長で、守山時代からの顔見知りなのだが、この態度は理解できなかった。しかし、「ご主人は」と訊くような野暮はせずに用件をすませことにする。
「これからの予定は判りませんが、今後ともよろしくお願いします」「はい、こちらこそ」よそよそしい挨拶を終えてドアを閉めると耳を当てて中の会話を盗み聞きした。
「もう釈放されたんだな。やっぱり控訴されなかったんだ」「無罪でも人殺しでしょう。気味が悪いわ。幽霊を連れてきていないかしら」「お清めに塩を撒いておけ」夫の指示を受けて妻が玄関に歩いてくる足音がしたのでドアを離れた。
陸上自衛隊では憲法第9条が「国の交戦権」を否定しているため、あまり「戦闘」と言う単語を用いない。しかし、それは言葉の問題だけでなく、心理的にも命の遣り取りをする「戦闘」ではなく、単に武器を使用する「武力行使」を自分たちの任務としているのかも知れない。
私が奪った3人の若者の命が重いのは間違いない。その一方で彼らが奪った2人の命も同じように重いはずだ。さらに自分は兎も角として、オランダ軍人の命を救うためには彼らを殺すしかなかった。「武力行使」ではその片側しか表現できていないのではないか。
  1. 2017/03/15(水) 09:45:50|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ762

復職の手続きが完了したのは口述試験が終わった翌日だった。つまり陸上幕僚監部には知らせないまま転職につながる国家試験を受けたことになる。復職して最初の仕事は事情聴取だ。この頃には久居から冬制服を送ってもらったので「衣替え」違反の夏服は着ないですんだ。
事情聴取は陸上幕僚監部の小教場で行われたが、私の前には監察官室と監理部、人事部、運用支援・情報部、防衛部の担当者が並び面接試験のようだ。
「モリヤ1尉、君の北キボールでの行動を確認する。1年半前のことだから記憶が不明確になっていることは理解するが、可能な限り時系列に従って説明してくれ」担当者の中では最先任らしい人事部の1佐が口上を述べた。
「はい、先ず5月×日に現地で取材していたフリー・ジャーナリストの久米清さんと阿部真理さんが拉致されたとの連絡が国連暫定統治機構の外務省駐在員から入り、捜索に当たるオランダ軍に同行することを命ぜられました」この辺りまでは裁判前の事情聴取で検察と弁護の双方に説明し、公判でも確認を求められたので記憶が残っていた。
「2人の遺骸を確認したことを現地指揮所に連絡するためオランダ軍の車両に戻った帰りに溝の中で銃を構えている現地人を発見しました」出席者たちは内部資料である派遣隊の事例報告書を見ているため、説明は裁判での証言よりも詳細で具体的になった。
「そこで私が携帯しているMー6短機関銃と相手が持っているAKー74では銃撃戦に勝てないと判断して先制攻撃を加えることを決意しました」これはオランダ軍の軍事法廷に先立って憲兵隊に証言した内容の日本語訳だ。ところが第1部の担当者が口を挟んだ。
「流石の状況判断と言うべきだが、発砲が引き起こす影響については考慮しなかったのか」「それは戦場に言ったことがない人間が口にする戯言(たわごと)でしょう。その銃口が味方に向いていることを見れば余計なことを考える暇(いとま)はありません。条件反射で引き金を落とすだけです」これは1等陸尉が1等陸佐に対して暴言を吐いたことになるのだが、人を殺した経験は武人としての格を引き上げるらしく担当者は黙ってうつむいた。この調子で戦闘の詳細を説明した後、意外な事実を知らされた。
「社人党の徳島党首が控訴しようと動いているんだが、どうも全面拒否に合っているらしい」「そうですか。不屈の闘志を賞賛すべきなんですかね」私の皮肉に全員が黙って唇を歪めた。

判決が下りた翌日、検察官は参議院議員会館に徳島弁護士を訪ねていた。それは敗訴の報告であって謝罪ではない。ところが徳島は例の金切り声を張り上げて一方的に叱責を始めた。
「どうして3人殺した殺人犯が無罪になるのよ」「君だって違法性阻却事由くらいは知っているだろう」違法性阻却事由とは刑法の初級レベルの法理であり、この質問が東京大学から1度目の受験で司法試験に合格したこの弁護士にはかなり侮辱であることは間違いない。
「殺意を持って銃を発射したんだから殺人以外の何物でもないはずよ」「海土(かいど)くんも同じ意見なのか」「夫は関係ないわ」海土友一とは徳島弁護士の夫であり、東大の同期でもある人権派弁護士だが、2人は夫婦別姓を実現するために籍は入れていない。
「何にしろ俺はもう手を引く。控訴をするなら別の人間に依頼してくれ。こんな政治目的の告発を引き受けるお人好しが他にいればだがな」検察官はここに来る前に同僚たちと雑談したのだが、自分への同情と徳島に対する批判の声ばかりで賛同者はいなかった。
「待って!貴方も戦争には反対なんでしょう。平和のために・・・」急に懇願になった徳島の声に検察官は背筋が寒くなったのを感じながら部屋を出て行った。
控訴の期限は14日間、しかし、10月10日に衆議院が解散されており、参議院議員である徳島弁護士も党首として全国を駆け巡らなければならないのだ。
  1. 2017/03/14(火) 09:27:35|
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3月14日 浄土宗・善導忌=高祖・善導の命日

明日3月14日は中国浄土教の三祖にして称名念佛を創始した中国の終南大師・善導和尚の命日です。3月27日と言う伝承もありますが、日本の浄土宗ではこの日に報恩法要が厳修されます。
ちなみに善導和尚は孫悟空・沙悟淨・猪八戒の師僧である玄奘三蔵法師やインド大乗佛教の祖・龍樹菩薩とその弟子の提婆の3つの著書を基にした「三論宗」の大成者・吉蔵さまと同世代です。
古代中国では天竺=インドからシルクロードを越えて伝来してくる佛教が漢訳されて広まりましたが、やはり中国人の先祖だけに「欲を捨てて心の平安を得る」と言う教義の本質は意に留めず、権力者は「読経・法要によって功徳を得る」「大寺院の住職になる」「高僧になって皇帝を信従させる」、貧民は「寺に入れば衣食住の心配はない」などの功利的な目的になっていました。
日本では東大寺の華厳宗、興福寺や薬師寺の法相宗、元興寺・法隆寺・大安寺の三論宗、鑑真和上の律宗などの奈良佛教に続いて弘法大師・空海さまの密教と伝教大師・最澄さまの妙法蓮華経が伝来し、その最澄さまの天台宗・延暦寺から禅・念佛とおまけの法華宗の鎌倉佛教が派生しましたが、中国では学問的な初期佛教から佛教原理主義と言うべき禅宗が確立したものの出家して俗世を離れ、坐禅を中心とする修行によって悟りを得なければ救われない禅に対する不満に応えるために創始されたのが念佛です。
善導和尚の613年に現在の安徴省若しくは山東省で生まれ、理由はハッキリしませんが幼い頃に寺に預けられ、そのまま各地の寺を訪ねて教えを受けたようです。
そして長安の南にある終南山悟真寺に入り、その後、寺を出て641年に中国浄土教の二祖・道綽和尚に弟子入りします。道綽和尚からは浄土三部経の中でも主に観無量寿経の教えを受けたようです。
観無量寿経の前半は古代インドを舞台にした物語で、若き王が自分を冷遇した父王を城内に幽閉して食事や飲み物を与えず飢え死にさせようとしたため前王妃が身体に蜜を塗り、編み上げた髪に果実を隠して面会し、全身を舐めさせ、果汁を飲ませて命を永らえさせていました。
このことを知った王は母親である前王妃まで危めようとしたのですが重臣に諫められて思い留まり、嘆き哀しむ前王妃の前に釋尊が姿を現わしたところで後半に入ります。
後半では前王妃が父を殺そうとする我が子を妻として許せず、その一方で母としては救いたいとの相反する思いを訴え、これに対して釋尊が阿弥陀如来の広大無辺の救いを説き示します。さらに人の現世での生き様で上品上生から下品下生に分け、それに応じた阿弥陀如来と観世音菩薩・大勢至菩薩による救いを説き、これにより阿弥陀如来の衆生済度の本願にすがることの功徳を納得するのです。
法然坊源空上人は父の遺命によって比叡山に上り、当時は日本の最高学府であった延暦寺が所蔵する全ての経典を読破したとまで言われるほど学問に励み、「知恵第一」と評されていたのですが、それでも安心を得ることができなかったのです。と言うのも法然上人は朝廷の押領使(地方での防衛・治安の長)であった父が地元の豪族に襲われた時、幼い上人も弓を取って応戦して殺生の大罪を犯していたため、その罪人が救われる教えを探していたのでしょう。この動機は単に欲望を捨てられず破戒して妻をめとった親鸞聖人の罪の意識とは深刻さが違います。そして出会ったのが善導和尚の「観無量寿経疏」「往生礼賛」「法事讃」「般舟讃」「観念法門」などの著書だったのです。
法然上人の法門の本流は九州で花開きましたが、一部変質させた親鸞聖人の浄土真宗として広まっています。その親鸞聖人も著書「教行信証」の中で善導和尚の教えを引用して「罪深い自分のような人間が救われるには念佛しかないよ。だって善導さんがそう証明してくれているもん」と根拠としてします。
さらに親鸞聖人の子孫にして浄土真宗の教勢を著しく拡大させた蓮如上人も信者の長に教義の解説と信仰の手引を書き送った「御文章(真宗大谷派では御文)」の中で何度も善導和尚の口称念佛の意義を説明しています。
確かに「南無阿弥陀佛」と唱えることは仕事の手を止める必要もなく歩きながらでも勤められますから、これで救われるのなら出家して世捨て人になる必要もなく正しく衆生済度の法門としての易行です。
しかし、古代中国では「死んでから救ってもらっても有り難くない」と言う厚かましい要求が起こり、それに応えるため現世利益を説いた「妙法蓮華経」、さらに最新土木工学や天文学、医学まで網羅した密教が流行することになりました。つまり念佛による衆生済度を説く浄土教が完成し、根づいたのは日本なのであり、その報恩法要を勤めるのも日本が相応しいのでしょう。
  1. 2017/03/13(月) 09:50:32|
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振り向けばイエスタディ761

「モリヤさんは日本国憲法をどう思いますか」口述試験では知識を確かめた後、条文の解釈・理解について追い込むように質問されると聞いていたが、私には観念論が投げ掛けられた。
「はい、日本人の精神性に合致した名文だと思っています」「へーッ、自衛隊の人は自分たちを否定している憲法が嫌いなのかと思っていましたよ」受験者は職業・経歴に関係なく白紙の状態で臨んでいるはずなのでこの副査の所見はマナー違反だ。と言いながらも制服で来ているのでは反発はできない。
「いいえ、自衛官は入隊時に『日本国憲法並びに各種法令を順守し』と服務の宣誓を行いますから嫌いなはずがありません」私の建前論に2人は鼻を鳴らして苦笑した。
「それでは憲法第9条で戦力の不保持を謳っていながら世界有数の武器を保有する自衛隊の存在はどう考えますか」「文章上は憲法違反であると考えます」「文章上と言うことは法解釈上は合憲だと言いたいのですね」「そう言わないと怒られますから」私の本音に副査は呆気に取られた後、無理に笑いをこらえた。しかし、どこまでも作法通りに進む自衛隊の面接試験とは違い意外に雑談的な雰囲気になっている。おそら受験者の知識・思考だけでなく、心理面まで丸裸にして、法曹界に必要な人材であるかを見極めているのだろう。
「それでは違憲の自衛隊を保持することの正当性はどのように担保しますか」「正当性も何もそれが日本の精神文化でしょう」「どう言うことですか?具体的に説明して下さい」副査の好奇心一杯の顔を見て私は口述試験の空気が判らなくなり本音での勝負に出てしまった。
「日本の古典的法令である大宝律令では規範とした中国の律令にあった防衛と治安、災害に対する権能に関する規定を削除しました。それでも防人による防衛や検非違使や押領使による治安の維持は行われていた。つまり自衛隊が令外官(りょうげんのかん)であることは日本の精神文化に合致しているのです」「ふーん、1000年も昔の法制度を現代社会に持ち込んで正当性を主張されても納得できませんね」これは当然の答えだ。そこで第2弾を発射した。
「日本国憲法はアメリカとイギリスを中心とする占領軍によって制定を進められました」副査は私が保守派の常套句である「押しつけ憲法論」を始めるのかと思い顔をしかめた。
「日本の法学界はドイツで学んだ人たちが中心になって創始されたため大陸的な行動規範として解釈する傾向があります。ところが日本国憲法は海洋国家であるアメリカの影響が強いので解釈も禁止規定と理解するべきでしょう」「・・・それは法曹界と言うよりも法学界で行われるべき議論ですね。それだけですか」これまで副査が受け答えしていたが、ここで主査が確認した。雰囲気的には「不可」が宣告されたように感じられ、私は窮余の一句を口にした。
「要するに『違憲性阻却事由』としての正当防衛と緊急批判です。これは勿論行為(違法性が阻却されることに議論の余地がない行為)に該当すると思います」「だから自衛隊と言う訳ですね」「はい、そうです」これでは面白くも何ともない政府見解の請け売りだが、これが国家試験である以上、奇をてらっても仕方ない。それでも主査は「奇」の部分を見つけてくれた。
「『違憲性阻却事由』と言うのは中々面白い造語ですね。前もって考えてきたんですか」「追い込まれての言い間違いです」私の返事に主査と副査は顔を見合わせた。
「モリヤさんは論文も他の法科学生の常識的な模範回答とは違い読んでいて考えさせられる指摘がかなりありました」「人間に対する観察が深くて広くて高い癖に身近にいる感じです」「貴方が書いた弁論書を読んでみたいものです」ここで2人の方から口述試験を雑談にしてきた。しかし、これで油断するとボロを出しかねない。そう思って気を引き締めると主査が私の背後の壁に掛けてある時計を確認した。
「おっと時間延長が制限超えになってしまった。どうもご苦労さまでした」時間延長された受験者は疲れ果てて控室に帰ってきたが、私は妙に楽しい気分だった。
  1. 2017/03/13(月) 09:49:04|
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