1947年の明日5月1日にイブリン・マクヘイル(Evelyn Michale)嬢がエンパイア・ステート・ビルの86階にある展望台から投身自死して、路上に駐車していたキャデラックの上に堕ちて「世界で最も美しい自死遺体(原文でも“The most beautiful suicide”)」になりました。
野僧はこの話をアラスカ人の彼女の母親から聞いたのですが、衛生隊の少佐としての個人研究=「軍関係者の自死」の資料収集の中で経歴や遺体写真を入手したようです。
イブリン嬢は1923年9月20日生まれなので死亡時には24歳でした。カリフォルニア州で生まれ、7歳の時に銀行の審査役だった父の転勤でワシントン・D・Cへ転居したものの間もなく両親が離婚したため、子供全員の親権を取得した父親と一緒にニューヨークへ移りました。
高校を卒業すると陸軍の女性兵士となり(アメリカが第2次世界大戦に参戦した頃)、ミズリー州の部隊で勤務しました。退役後はニューヨークに戻り、簿記の資格を得て会社に就職し、陸軍航空軍=後の空軍を除隊して大学生になっていた恋人もできて婚約していたのですが、この日を迎えてしまったのです。
この頃、イブリン嬢はペンシルベニアに住んでいて地下鉄でニューヨークへ通っていたのですが、仕事を終えて帰宅しながらニューヨークへ戻るとエンパイア・ステート・ビルディングに上り、柵を乗り越えて身を投じました。
エンパイア・ステート・ビルディングの86階展望台は屋内ではなく露天式であることで風や車の音が直に体感できることで人気がありましたが、夕方だったため眺望を楽しむには遅く、夜景にはまだ早く、あまり人は多くなかったようです。
遺書は発見されず、心理学者のカウンセリングや精神科医への通院、さらに悩んでいた様子はなく原因は不明のままになっています。
この展望台の高さは320メートルあり、東京タワーの頂部よりも13メートル低いだけです(日本の飛び降り自死の名所である福井県の東尋坊は25メートルです)。この高さから飛び降りても身体が四散することなく、服装も大きくは乱れておらず、何よりも美貌を保っていたことには驚くしかないでしょう。
実際、野僧の友人は東尋坊から男性が飛び降りるのを目撃したのですが、海面に当たった衝撃で首が飛び、身体は浮いたものの頭だけは海中に沈んで見つからなかったそうです。
また日本で飛び降り自死の代名詞になっている佐藤佳代(芸名・岡田有希子)さんが飛び降りたサンミュージックの大木戸ビルは7階建ての30メートルの高さですが、後頭部を強打して脳が飛び散った悲惨な現場写真は雑誌で衆人の目に晒されてしまいました。
野僧は寺を手伝っていた頃、色々な亡くなり方をした方の法要に行きましたが、枕経ではまだ納棺しておらず、顔に「打ち覆い(=白布)」も掛けていないので死に顔を見ながら読経するのですが、高所からの飛び降り自死では重量の関係で頭から落下することになり(低ければ足から落ちることもある)、その回転で後頭部から落ちると衝撃で眼球が飛びしてしまうため目から上は包帯で巻いてあることが多かったのです。
逆に足から落ちて両足が胴体内にめり込み、身長が1メートルになりながら半日間も生きていた人も知っていますが、それに比べていくらキャデラックが緩衝材になったとしてもこれは美し過ぎます。ただし、生前の写真ではありふれたアメリカ人女性ですからアングルの効果なのかも知れません。

(30年前の拡大コピーからの画像化のため不鮮明で申し訳ありません)
- 2017/04/30(日) 09:59:07|
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日本からイラク入りしていたマスコミ各社は手詰まりに悩んでいた。先遣隊の地道な努力の成果もあり現地における陸上自衛隊の評判は非常に良く、期待しているアメリカ軍と同一視した反発の声は全く聞かれないのだ。幸いなことに絶妙なタイミングで市民のデモが発生したが、それも陸上自衛隊とサマーワ市民の一体感を印象づけただけだった。北キボールではフリー・ジャーナリストが自分で作った反自衛隊の横団幕を配ったが、大手マスコミの記者がそのような策略を巡らず訳にはいかず、誰ともなしにサマーワから首都・バクダットでの戦争全般に関する取材に切り替えるようになった。何故ならそこから先は外務省から立ち入り制限を受けているのだ。
「先ずは街角インタビューからですね」「うん、新政権に人脈はないからそれしかあるまい」到着した車内でカメラマンを兼ねたディレクターと若い記者は取材方法の相談をしている。それ程、急場凌ぎのバクダッド入りなのだ。
「夕方ではなく10時のNS(番組名の略称)に間に合えば良いんですね」「そうだ。夕方のニュースでは現地レポートを流している時間はないよ」「東京とバクダッドの時差は6時間でしたっけ」「早い話が4分の1日だよ」相談と確認を終えてドライバーを兼ねた英語への通訳と一緒に記者とカメラマンは車を下りて通りがかった男性に声をかけた。
「×××?」「インタビューに答えれば幾ら払うと訊いています」「インタビューも有料なのか」「当然です」通訳も日本人2人の困惑を無視して断言した。
「相場は幾らだ」「そんなことを聞けば吹っかけてきますからこちらから金額を言うべきです」この若い記者は英語力だけで選ばれ、日本から派遣されてきているのであまり海外事情に詳しくない。ましてや中東、イスラム圏に関しては派遣が決まってからの一夜漬けなのだ。
「君だけに訊くが相場は幾らなんだ」「それはケース・バイ・ケースです。それによってこちらの希望通りの台詞を吐いてくれます」通訳の説明を受けて記者はズボンのポケットの財布に手を伸ばした。ところがその瞬間、背後から突き倒され財布を奪われた。
「待て!何をする・・・ストップ、スネィチュリィ(ひったくり)、ロベード(強盗)、マガー(泥棒)!」記者は思い浮かぶ英語を叫んだが、逃げていくのは複数の少年たちで直ぐに人ごみに紛れて判らなくなった。財布にはサマーワの両替商で交換したイラクのディナールの紙幣と硬貨が入っていて当座の全財産だったのだ。一部始終を見ていた男は馬鹿にした顔で嘲笑しながら立ち去ってしまった。
「バクダッドではインタビューも難しいようですね」「あれ程、無防備では盗むなと言う方が無理です」車に戻ると記者はディレクターに戻ったカメラマンに泣き言を訴えようとしたが、それを遮るように通訳が揶揄した。
「兎に角、日本の番組編集時間までに画像を送らなければならん。昨夜の番組でサマーワでの現地レポートを予告してしまったんだ。それに代わるだけのインパクトがあるインタビューを何とかしろ」若い記者を叱咤してディレクターは自分の財布から50ディナール紙幣を何枚か渡した。ディナールの換算比率は1ドルが約1200ディナールなので、1円は約12ディナールと言うことになる。つまり1枚で5円弱の紙幣なのだ。
「かなりアメリカ軍の占領政策を批判する声が集められましたね」「うん、金も遣ったがな」その日の午後、街角インタビューを終えて車載の機械で画像を送信すると後席で2人は人心地ついた。
「何よりも自衛隊のイラク派遣がアメリカの命令であることを知って怒りを露わにした男性が多かったのは狙い通りでした」「しかし、有志連合の一員と言うのは虚偽になるから、これからは気をつけなければいかんな」「えッ、違うんですか?」「今回は編集でカットするだろう」記者はアメリカ軍の占領政策とゲリラ掃討作戦にたいる不満を口にした市民に自衛隊がサマーワで活動していることを教え、それがアメリカの命令による戦争への参加であると補足していた。
「これで自衛隊の宿営地に攻撃が加えられれば撤収せざるを得なくなりますよ」「今までは上手く綱渡りしてやがったが、今度こそ奈落の底へ落とせるな」この2人の日本人は異郷の地で任務を遂行している同胞たちに敵意以外は持ち合わせていないらしい。
「それを実況中継できるように俺たちは安全なサマーワに戻ることにしよう」「前線取材はフリーの仕事ですからね」ディレクターと記者は顔を見合せて笑い運転手にサマーワに戻ることを指示した。
- 2017/04/30(日) 09:56:53|
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「こんにちは」ある土曜日の午後、稲沢の安川家に若者が訪ねてきた。その時、父は仕事、母は主婦の会合で留守だったため嫁入り前の合宿中の聡美が出た。
「あれッ?白井じゃあないか」「間もなく安川になります」それは北尾張高校の先輩で和也の同級生の藤田だった。聡美はすでにこの家の人間になっているため敢えて結婚する予定を説明した。
「ふーん、高校生カップルがゴールインするんだな。おめでとう」藤田は優しく微笑むと素直に祝いの言葉を贈ってくれた
「義母(はは)は間もなく帰ってくると思いますが何か御用ですか」「用と言うほどのことでもないんだが、俺は今、小牧の1輸空で勤務しているんだ。この間、守山にいる同級生から和也がイラクに行っていると聞いてな・・・」ここで藤田は一息飲み込み、聡美は続きを待って身構えた。
「・・・ウチのクエート行きの定期便に手紙や小荷物を頼めるから声をかけようと思って来たんだ」思いがけない申し出に両親よりも先に聡美が感激した。
「手紙は何時お渡しすればよろしいんですか」聡美の言葉遣いが大人びていることを感じて藤田は少し困惑した顔をしたが「それが花嫁修業なのだ」と納得したようにうなずいた。
「明日の夜に部隊へ帰る前に寄るよ」「帰隊時限は何時ですか?」聡美の口から自衛隊用語が飛び出して藤田は呆気にとられながらも安川の教育の見事さに感心した。
「一度、部隊に帰って飲みに出るから晩飯のすぐ後だ」「ふーん、随分と小遣いを節約しているんですね」この後輩は自衛隊の裏話を完全に把握している。藤田は少し怖くなってきた。
「荷物のサイズはどの位まで良いんですか。移動期間は何日ですか」聡美の質問は完全に本職の物だ。素人なら旅客機の感覚で「何時間か」と訊くだろう。しかし、聡美はプロペラ機のCー130ではフィリピン、タイ、ニセコガルシアを経由して数日がかりなのを知っているようだ。
「ロードマスターの手荷物に入れてもらうのだから、このくらいかな」藤田は両手でサイズを示しながら説明する。それを見ながら聡美も両手でサイズを確認した。
数日後の夕方、安川士長は思いがけない荷物を受け取った。それは空になったティッシュの箱を梱包した物で、宛先に住所はなく可愛い文字で表に「陸上自衛隊第3普通科連隊 安川和也士長さま」、裏に「愛知県稲沢市××町 安川聡美」とだけ書いてある。
「聡美の奴、どうやってこれを送ったんだ」作業終了後、現地後方支援隊の需品係に呼ばれて手渡された荷物を見ながら安川士長は首を傾げた。
「何でも航空さんに頼んだらしいぞ」「航空って小牧から飛んでくるんですよね」「さてな、俺は空のことには詳しくないんだ」需品係の1曹は追及されて無知を晒すことを避けるため忙しそうに荷物の員数点検を始めた。
宿舎に帰って梱包を解くと箱の外に手紙が2通、中にはオリエンタルのレトルト・カレーと青柳ういろの白と抹茶が入っていた。レトルト・カレーは箱から出して中身だけにして詰め込んでいる。
「オリエンタルのカレーかァ、何時食べようかな」現地では派遣隊長以下、同じ物を食べているため自分だけがカレーを食べる訳にはいかないのだ。故郷の味を楽しませようとした母の心遣いだが、少し困った贈り物になった。
「ふーん、手紙は2通だな」宿舎は節電と狙撃を防ぐため灯火は必要最小限に制限されており、手紙を読むのなら日没までの太陽の光に限られる。そこで安川士長は手紙をポケットにしまって宿舎の裏に移動した。ここなら通路から外れているので誰にも気づかれないはずだ。
「ふん、ふん、聡美の奴、ウチで花嫁修業を始めたのか」最近の高校生はメールで意思疎通するため手紙を書くことは滅多にない。それでも聡美は可愛い文字で安川家での日常の様子を綴っている。どうやら安川の部屋で暮らしているらしい。
「何!」眠るところまで来て安川士長は絶句してしまった。そこには「何も身につけないで和也さんの布団にくるまれて眠ると抱かれているみたいで幸せな夢が見られます」とある。
「何も身につけないって・・・全裸か」呟きと同時に安川士長の頭で聡美の全裸が画像を結んだ。妻子持ちの陸曹たちも満月の夜には雑誌を抱えて部屋を出ていくことがある。月明かりで自家発電するのだろう。もっと若い安川士長・20歳はそうする暇(いとま)もなく鼻血を吹いてしまった。

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- 2017/04/29(土) 10:17:48|
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安川士長も先遣隊に対する送別デモへの隊歌対処に加わっていた。世代的には北海道の歌手と言えばGLAYなのだが、そこは北島三郎・細川たかし派の警衛司令の1曹と一緒に妥協した。
「巡る 巡る 時代は巡る 出会いと別れを繰り返し 今日は別れ恋人たちも 生まれ変わって巡り合うよ・・・」この中島みゆきの名曲は若い安川士長も好きな歌だが、始めは鎮圧されると身構えていたデモ隊の人たちも黙って聞いている。やはり感動は言葉の壁を越えて伝わるようだ。何よりも人の出会いと別れを謳った2番の歌詞はデモの趣旨に合っていた。
「ワシーマ!」「ワシーム!(発音的には「マ」と「ム」の中間)」唄い終えるとデモ隊からは拍手とこの歓声が上がった。しかし、隊員の中にはアラビア語が理解できる者がいない。すると妙な発音で「アンコホオル」と言う声が上がり一気に広がっていった。
「アンコールみたいですね」「それじゃあ第2候補をいきますか」合唱隊の陸曹たちが勝手に相談すると指揮者の警衛司令に決定事項を小声で伝えた。警衛司令は少し不満そうに指揮を執った。
「隊歌、『大空と大地の中で』用意。1、2、3」「果てのない大空と 広い大地のその中で・・・」今度は松山千春の北海道讃歌だ。陸曹たちの世代なら定番の御当地ソングでもある。
「凍えた両手に息を吹きかけて しばれた身体を温めて・・・」この曲を歌いながら目の前に広がるイラクの砂漠を眺めていると、白い砂が北海道の大地を覆う雪に見えてくる。確かに砂漠地帯の夜は北海道に負けず劣らず手が凍える寒さだ。陸曹たちも同じなのか声が少し湿っぽくなった。
「生きることが辛いとか 苦しいだとか言う前に 力の限り生きてやれ」 それでも最後に気合いを入れて唄い切ると再び拍手とアンコールになった。
「これでは切りがないな。ラッパ手に吹奏させよう」警衛司令は陸曹の中のラッパ手に指示を与え、警衛所にラッパを取りに行かせた。第3普通科連隊では本来は普通科である音楽隊から転入している隊員がラッパ手を勤めているため本当のプロなのだ。
一方、デモ隊は自衛隊側に動きがあったことを警戒してざわめき始めた。そんな様子を指揮所から来た幹部が逐次報告しているが、特に指導が入らないところを見るとこの方針で良いのだろう。
「遅くなりました。ラッパが砂をかぶっていて」そう言いながらラッパ手の2曹は呼吸を整える。そして「それでは実施します」と警衛司令に申告してからラッパを口に当て、自衛隊ラッパ・メドレーが始まった。
「日本の音楽も意外にうけますね」デモ隊が引き上げてから指揮所では反省会が開かれた。その席で派遣隊長・晩鐘1佐の発案で実施した隊歌がデモ隊に好印象を与えたことが話題になった。
「うん、あれなら給水車で音楽を流しながら回れば合図にもなって良いんじゃないか」「隊員の中にはラジカセを持ってきている者もいるだろう」話はやや暴走を始めた。しかし、宿舎の電源が確保できないイラク派遣にラジカセを持ってきているはずがない。多くの隊員は携帯式のCDプレーヤーで日本から持ってきた乾電池を節約しながら音楽を聞いて祖国を偲んでいるのだ。
「取り敢えずスーパーうぐいす穣作戦の一環として機会を見ては歌を披露することにしよう」「作業現場での休憩時間にも良いですね」こうなると本当に「ビルマの竪琴」のようだ。あの映画では日本軍が「埴生の宿」を唄い、それをイギリス軍が原曲である「ホーム!スイート ホーム」として聞き、共感し合ったのだ。その意味ではアラビアに限らず派遣先の人々が愛する歌をマスターすることは思い掛けない効果があるかも知れない。北部方面隊ならロシア民謡、西部方面隊なら朝鮮のアリラン、沖縄の第15旅団なら台湾の歌姫・テレサ・テンだろうか。本当は日本人も知っているフォークダンスの「マイムマイム」はアラビア民謡なのだがそれに気づく者はいなかった。
「親の血を引く兄弟よりも 固い契の義兄弟 こんな小さな杯だけど 男命を賭けて飲む・・・」学校での大工仕事の合間にも古参陸曹は得意ネタを披露している。これを唄っている北島三郎は北海道出身、歌詞の内容は派遣隊長の統率方針「義理・人情・浪花節」に合致するつもりなのだ、
「俺の目を見ろ 何も言うな 男同志の腹のうち 1人くらいはこう言う馬鹿が いなけりゃ世間の目は覚めぬ・・・うーん、酒が飲みたい」唄い終わって本音が漏れる。残念ながらイスラムでは酒は厳禁だった。
- 2017/04/28(金) 09:30:29|
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本隊の派遣前にイラク南部の軍事情勢を調査し、現地で治安維持に当たるオランダ軍と綿密な調整を行い、何よりもサマーワ市民に自衛隊派遣の目的が他の国々の軍とは違い、民生協力であることを説明して理解を得ることに多大な貢献をした加藤1佐以下の復興業務支援隊=先遣隊が引き継ぎを終えて撤収することになった。一般市民には特に発表はしなかったのだが、隊員たちが親しくなった市民に別れを告げたため噂は立ちどころに広まってしまった。そんな朝、宿営地の警備に当たっている歩哨から指揮所に通報が入った。
「デモ隊が接近してきます」日本では組織だったデモ行進には警察への事前申請が義務づけられているがイラクにはそんな法令自体がない。したがって何かに怒った市民が自然発生的に集まって示威行動に走る可能性は否定できないのだ。
「規模はどの位だ」「・・・100人程度です」歩哨は物見台から双眼鏡で確認して報告しているので即答とはいかない。それでも落ち着いて確認していることが伝わってくる。
「看板や旗を持っていないか」「はい、何人も日の丸を持っています」「日の丸?」今度は指揮所の幹部が絶句してしまった。宿営地にやってくるデモ隊は自衛隊の派遣に反対しているのは大前提なのだが、それが日本の国旗を持っていると言うのは想定外だった。
「日の丸に何か書いていないか。現地語では読めないかも知れないが書体だけでも確認しろ」「特にありません。多分、白い布に自分で赤い丸を描いた手作りです」歩哨の報告に指揮所は益々混乱してしまった。こうなると宿営地の門の前で火を点けて焼くことくらいしか使い道が想像できなくなる。その時、指揮所に派遣隊長の晩鐘1佐が入ってきた。
「デモ隊が接近しているようです」「ほーッ、デモ隊ねェ」晩鐘1佐は緊張よりも興味深そうな顔でうなずいた後、通信員に電話を指揮所内の放送に接続するように指示した。これで指揮所と現場はリアルタイムに対話できる。
「デモ隊は何か叫んでいます」「やはりシュピレコールか」「あまり怒りは感じません」歩哨からの報告を聞いて他の幹部たちが困惑している横で晩鐘1佐は一言だけ訊いた。
「デモ隊の表情は見えないか」「・・・哀しそうな顔の人と悩ましそうな顔の人、泣いている人もいます」歩哨からの報告の途中で指揮所から確認に向かった幹部が電話を替わった。
「デモ隊は100メートルまで接近しています。人数は約100名、半数が日章旗を掲げています。現地語で何かを叫んでいますが・・・カトーと言っているのは判ります」この報告にアラビア語のガイドブックで「カトー」と言う単語を探し始める者もいたが晩鐘1佐は感心したように笑った。
「カトーかァ、加藤1佐の見送りだな」晩鐘1佐の解説に全員が顔を見合わせる。確かに北キボールでも撤収時に感謝のデモがあったとは聞いているが、イラクではアメリカ軍のゲリラ掃討作戦に反発する過激派が各地でテロを頻発させており、そのように友好的な雰囲気ではない。
「つまり加藤1佐の浸透作戦はそこまで見事な戦果を挙げたと言うことだ」「そう言えば離任の挨拶に行った部族長からイラクの名前をつけられたり、宝物を贈られたらしいですね」「アイツは見た目からしてムスリム(男性のイスラム教徒)だからな」晩鐘1佐は防衛大学校の3期先輩の風を吹かせながら後輩を賞賛した。
「デモ隊はゲート前で『カトー、シュクアラン』と絶叫しています」「加藤、ありがとうか」晩鐘1佐は部族長との面会を重ねることでアラビア語も理解できるようになっているようだ。
「加藤たち先遣隊の尽力に応えるように我々も努力しなければならないな」「はい、隊員たちにも徹底します」「それよりもゲート前で歌でも合唱させたい」「ビルマの竪琴ですね」晩鐘1佐の思考はどこまでも幅広く柔軟なようだ。それでいてその場に必要なことを確認すると即座に実行する決断力も並外れている。今回はイラクの人たちの心意気に応え、理解を深めるための方策だった。
「待機中の歩哨はゲート内に整列して隊歌訓練を実施せよ。イメージはビルマの竪琴、曲目は自主選択。ただし不測事態に備えてヘルメットとアマーベスト着用のこと」こんな指示を受けて待機所内から完全武装の5名の歩哨が隊列を組んで駆け足してきた。デモ隊はそれを見て身構えてしまった。通常、この次は銃を構えて排除に移るのが占領軍の行動のはずだ。ところが自衛隊は違った。
「隊歌、『時代』用意。1、2、3」「今はどんなに悲しくて 涙も枯れ果てて もう二度と笑顔には なれそうもないけれど・・・」やはり今の北海道の歌と言えば松山千春か中島みゆきなのだ。
- 2017/04/27(木) 09:40:18|
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「海の音と匂い、それに砂浜の感触を憶えたわ」あかりは裸足になって砂浜を歩いた後、ビーチに下りる階段に並んで座ると潮風に髪をなびかせながら感激を口にした。
「でも本物の海はもっと大きいんだよ」「本物の海?」「うん、ここは人工的に作った砂浜だから海水のプールみたいなものさァ」これは水産高校の生徒土としての率直な見解だった。
「プールは学校の体育の時間に泳ぐことがあるけど、ここもそうなんだね」「ビーチがコンクリートの壁で仕切られているんだ」淳之介の説明にあかりは自分が知っているプールのイメージとこの海岸を重ね合わそうとしていた。
「いつか本当の海岸に連れて行くよ」「本当、次の約束ができたね」あかりははしゃいだように笑うと、また淳之介の知識を試すような質問をしてきた。
「ねェ、この歌も知ってるでしょう」「どんな歌?」淳之介は先ほど「ゆうなの花」で自分の記憶を当てられたため今回は回答を避けた。
「海に抱かれて男ならば たとえ敗れても燃える夢を持とう 海に抱かれて男ならば たとえ独りでも星を読みながら 波の上を行こう・・・」これは加山雄三の「海・その愛」だ。海が大好きな癖に陸上自衛官をやっている父の愛唱歌だった。したがって当然唄える。
「海よ 俺の海よ 大きなその愛よ 男の想いを その胸に抱きとめて 明日の希望(のぞみ)を 俺たちにくれるのだ」やはり3番まで歌詞カードなしで唄えた。
「この歌もお母さんが教えてくれたの?」「うん、淳之介さんのお父さんから習った歌の中でも一番好きなんだって」あかりの説明に淳之介は母の梢さんと父の交際や別れた訳が知りたくなった。しかし、そこまで立ち入ることが許されるのかが判らないので黙ってあかりの横顔を見詰めた。
「私の両親はお母さんが私を早産して目が見えなくなったことをお父さんに責められて離婚したんだ。でも早産したのはお父さんがお腹が大きくなってもお母さんを大切にしなかったからだってお祖母ちゃんが言ってたよ」「ふーん」これは淳之介が知りたい内容ではなかったが、あかりの家庭の内幕のようなので鼻息で返事をしながら聞くことにする。
「それでお母さんが私の世話に一生懸命になったら家に帰ってこなくなって・・・だから私はお父さんの記憶がないの」「それじゃあ、お母さんが1人で育ててくれたんだ」「ううん、お祖母ちゃんにも助けてもらったよ。だからマッサージ師の資格を取ったらお祖母ちゃんの肩を揉む約束なの」そこまで話してあかりは手で足の砂を払い、靴下と靴をはいた。払った後に手で砂が残っていないかを何度も確認するのは視覚障害者の工夫だろう。その時、海岸沿いの木立の中から三線(さんしん=蛇皮線)と指笛、手拍子の音が聞こえてきた。
「何だろう?」「楽しそうだね」2人は呟き合ってゆっくり立ち上がった。ウチナー正月なので公園で宴会を始める家族がいても不思議はないが、それにしては少し時間が早いようだ。
淳之介はあかりと腕を組んで誘導しながら木立の中に入って行くと、波の上宮へ続く木立の中に緋寒桜が植えられていて今が満開だった。どうやらその下にシートを敷いて花見をしながら正月を祝っているようだ。その中には先ほど「ゆうな」を教えてくれた小母さんもいる。
「お酒と料理の匂いで良く判らないけれど桜が咲いているでしょう」「うん、満開みたいだね」本土の桜を見慣れている淳之介には色が濃く、花弁が小さい緋寒桜は梅か桃に近いように見えるが、それでもウチナー正月を祝うには格好のタイミングに咲く花のようだ。
「私、桜に触れたい」「うん、判った」そう言うとあかりは杖を淳之介に渡して両手を伸ばして桜の枝を探し始める。淳之介は「右、右」「左、左」と誘導しようと思ったが、あかりには桜の声が聞こえているような気がして黙って見守っていた。
「あッ、いたいた・・・今年も甘酸っぱい香りで咲いたね」淳之介は低い枝の下で立ち止まり、鼻を向けているあかりの頬に垂れている細い枝を近づけた。
「待って眼鏡を外すから」あかりは花の香りが間近になったことで淳之介がやっていることを察したらしい。淳之介は枝を右手で持ち、左手で外したサングラスを受け取った。
「花びらが少し固いからまだ咲き始めね。香りもまだ若いもの」あかりは淳之介から枝を引き継ぐと頬ずりするように顔を近づける。それを見ながら淳之介は視覚で眼前の情景を理解する自分よりもあかりの方が花との間隔と感覚が近く、会話ができているのかも知れないと思った。

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- 2017/04/26(水) 09:07:40|
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昭和44(1969)年の明日4月26日は合気道の開祖である植芝盛平さんの命日です。昔の剣豪から近年の空手・拳法家まで武道の流派を起こすには「自分は神業の域に到達した」と喧伝しなければならないようで、それをしなかったのは講道館柔道の創始者・嘉納治五郎先生と日本拳法の沢山宗海先生くらいではないでしょうか(沖縄空手の諸流派は武勇伝レベルが多い)。さらにカリスマである創始者が亡くなった後、入門者を獲得して組織を維持するために門弟たちが輪をかけて誇張した神業と極端に美化した人間性を目撃・体験談として語ることで完全無欠の生き神さまになってしまうのです。
植芝さんも御他聞に漏れず生前から「自分は神である」と公言し、そのように振る舞っていたようですが、同時に政治権力に取り入る才覚も優れていたようで、後発の流派でありながら早々に陸・海軍士官や宮中(=侍従)の御用武術になっていました。
その流れを汲んでいるのか防衛大学校の合気道部は大学武道界の中では強豪で、陸空自衛隊の上層部にも高段者が多数います(海上自衛隊は武道を「個人の趣味」扱いしているので少数派)。野僧の沖縄時代の隊長も当時4段でしたから色々な「神話」を聞くことができたのですが、少林寺拳法と芦原会館空手で手一杯だったため誘われたものの入門はしませんでした。ただし、自衛隊の徒手格闘は戦前に陸軍戸山学校が合気道を導入していたこともあり関節技はその技法を踏襲していると言われていますから、ある程度の経験は積んでいます。しかし、徒手格闘の関節技は支点を決めて力学的に極める少林寺拳法の柔法に比べて効きが悪く、仮にこれが合気道の技法だとすれば優劣は明らかです。それでも防府では酒乱の気がある空曹がアルコールの匂いがすることを幹部に注意されて、殴り掛かったものの簡単にかわされ、激昂してハンマーを振り上げたところを逆に奪われて腹這いにされた実話がありますから馬鹿にするつもりは全くありません。
植芝さんは明治16(1883)年に現在の和歌山県田辺市の裕福な農家の1人息子として生まれました。父親が地元の名士・有力者だっただけでなく母親は甲斐源氏の血を引く名門の出身で、姉が4人続いた後に父親が40歳になってから生まれた長男だったため非常に可愛がられて育ちました。幼い頃は病弱で外で遊ぶよりも読書を好む内向的な子供だったそうです。それを危ぶんだ父親は近所の漁師の子供たちと遊ぶように命じ、これで強健な肉体を作ることができたと語られています。そうして中学校に進みますが1年ももたずに中退してしまい、珠算学校に転学・卒業して税務署に就職しています。やはり父親の政治権力は絶大だったようです。そんな金持ちのドラ息子として色々な問題を起こした揚句に父親の援助で東京に出て事業を起こし、ここで柔術や剣術を学びました。
ここから先は「相撲取りの誰を投げ飛ばした」「柔道家の彼に片手で勝った(弟子が木村政彦7段に勝ったことにもなっていました)」「打ち掛かってくる剣術の高段者の木剣を苦もなく奪い取った」「飛んでくる銃弾が判った」式の神話の世界に入ってくるので眉に唾をたっぷり塗って聞くしかありませんでしたが、語っている合気道の有段者たちも半信半疑と言うよりも虚構・迷信と思っているのが一目瞭然だったことが興味深かったです。
兎に角、日露戦争の前年に徴兵検査を受けて身長が1・5センチ足りずに不合格になり、それで発奮して武道の修業に励んで再検査を受けて合格すると忽ち頭角を現し、銃剣術の教官代理を務めたと言われても帝国陸軍が2等卒の初年兵にそんな特別扱いするとは到底、信じられません。そもそも入営して2年で伍長、3年で軍曹に昇任したことになっていること自体が人事制度上あり得ないでしょう。
その後、出口王仁三郎に心酔して大本教に入信すると神憑った言動は悪化(「深化」と言うべきか)の一途を辿り、武道の開祖と言うよりも合気神道の教祖、生きた主神である出口王仁三郎の脇に控える武の神のような態度で終の棲家として合気神社を創建していました。それも信じる人は信じれば良いので特に言うことはありません。
植芝さんには武道家として独特の美学があったようで、例えば当身技でも「足を使うことは相手を汚すことだ」と蹴り技を認めず、筋力トレーニングは「無駄な力みの原因になる」と禁じていたそうです。また無頼漢が技を使うことを避けるため軍人や警察官、官吏や政治家などの護身用としてのみ教授し、それでも3名以上の身元保証人がなければ入門だけでなく見学も許さなかったそうです。ちなみに合気道の袴は有段者のみに許されていますが、女子は乱れて肌が露出することを避けるため入門直後から着用しているようです。このような配慮も腕力を必要としない技と共に女性愛好者を惹きつけているのかも知れません。
- 2017/04/25(火) 09:44:42|
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「淳之介さん、これ『ゆうな』でしょう」あかりは花に柔らかく手を触れると鼻を近づけて匂いを嗅ぎ確認してきた。しかし、淳之介は花の名前を知らなかった。
「黄色いハイビスカスみたいな花だけど名前は知らないよ」「黄色?私、色は判りません」淳之介は特に考えもせずに答えたが、生まれた時から視力を失っているあかりが色を知らないのは当然だった。それにしても花の香だけで種類が判るとは驚きだ。そう思うと急に確かめてみたくなる。と言っても初詣の習慣がない沖縄でウチナー正月に出歩いている人は滅多にいない。そこに泡盛の一升瓶を両手に提げた中年の小母さんが通りがかった。
「すみません。この花の名前を教えて下さい」淳之介は小母さんと目が合ったところで訊いてみた。すると小母さんは本土風の淳之介の顔と口調、お洒落なサングラスをかけたあかりを見比べ、何かが判ったような顔で説明してくれた。
「これは『ゆうな』さァ、外国では変な名前で呼んでいるみたいだけどよく知らないさァ」それだけ答えると小母さんは通り過ぎてしまった。それにしてもあかりの推理は正しかった。
「やっぱり『ゆうな』だって、正解だね」「うん、この香りはお母さんに連れて行ってもらった公園できいて覚えているもの」あかりは淳之介の説明にも特別に反応することなくうなずいた。それにしても視力を失っている人の聴覚や嗅覚は格段に鋭いとは聞いていたが、これは驚異のレベルだろう。淳之介が感心しているとあかりは香りを満喫し終えたのかゆっくり振り返った。
「淳之介さんも『ゆうなの花』って言う歌を知ってるでしょう」あかりに訊かれて淳之介は首を振ったが、それでは伝わらないことに気づいて「ううん」と答え直した。
「ゆらゆら、ゆうな ゆうなの花は さやさや風の ささやきに 色香も染まるよ ゆらゆらゆら・・・」あかりの歌には何故か聞き覚えがあった。父が母と別れて2人で暮らしていた頃、添い寝しながら子守り歌として口ずさんでいたはずだ。
「ゆらゆら ゆうな ゆうなの花は しっとり露に 包まれて 色香も濡れるよ ゆらゆらゆら・・・」2番からはデュエットになり、あかりは淳之介の口元を見上げながら唄っていく。
「ゆらゆら ゆうな ゆうなの花は おーぼろ月に いだかれて 色香も匂うよ ゆらゆらゆら・・・」唄い終わってあかりは再び淳之介の腕に手を差し入れてきた。今度は視覚障害者の誘導ではなく、恋人同士のように腕を絡め、肘を胸に押し当てている。淳之介は「ドキッ」として固まってしまった。
「やっぱり知っていたでしょう。お母さんが優しい思い出の歌だって私にも教えてくれたのよ」それだけ言うとあかりが先に立って淳之介を引くように歩き出した。
「狭い海岸だなァ」波の上ビーチに到着して淳之介はガッカリしてしまった。ビーチとは名ばかりで、護岸工事された海岸の一角に100メートルほどの人口の砂浜が作ってあるだけなのだ。
「狭いって私には判りません」しゃがんで手で砂の感触を確かめながらあかりは答えた。
「部屋の中と外の違いみたいな感じかな」「家の中では歩けないけれど外なら歩けるね。広い海なら思い切り歩けるの」「海は泳ぐんだよ」淳之介の説明にあかりは顔を上げて首を傾げた。
「海には水があるから泳ぐんだ」「水かァ・・・」どうもあかりは水道や風呂のイメージから抜けられないようだ。そこで淳之介はあかりの手を引いて波打ち際まで連れて行った。
「これは海の音ね。風が潮の匂いがする」この海岸では潮騒と呼べるような音はしない。それでも砂の上を前後する波の音をあかりは聴覚と嗅覚で感じ取っているようだ。
「しゃがんでごらん。波で手が濡れるよ」そう言って淳之介は少しためらっているあかりの手を取って砂につけさした。するとその手の甲の上を波が洗った。
「本当、水だね。海には水が満ちているんだ」あかりは感激していたが淳之介は靴が濡れないかを心配していた。
「淳之介さん、タリバン先生みたい」「タリバン先生ってヘレン・ケラ―の?」その名前は淳之介も知っていた。父が実家から持ってきていた子供向け偉人伝で読んだのだ。
「タリバン先生は井戸の水に触れさせることでヘレンに水を理解させたの」淳之介もタリバン先生のようにあかりの世界を開いていきたいと願いながら手を取って立たせた。

ゆうな=アラマンダ
- 2017/04/25(火) 09:42:23|
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平成7(1995)年の本日4月24日は芦原会館の創始者である空手家・芦原英幸館長の命日です。師である大山倍達(本名・崔永宜)極真会館館長の逝去から363日後でした。
野僧は極真会館空手と芦原会館空手に接したことがあるので(とても「かじった」とは言えない)、その共通性と差異についてある程度は理解しているつもりですが、強いて言えば極真会館は剛対剛で勝つには相手を上回る力を身につけるしかないのに対して芦原会館は剛対剛を基本としながらも時には相手の力を利用して引き倒す柔の要素が含まれていたように感じました。芦原館長の高弟が総合格闘技・K1の創始者であることはこの感想が大きくは外れていない証左なのかも知れません。
その実戦空手の「柔」とは芦原館長が強調しておられた「さばき」で、これは力学的に相手を崩して技で制する柔道や関節技で極める少林寺拳法の柔法とも違い相手が攻撃に出てくる勢いを体さばきで引き込んで転ばしてしまう技法です。
野僧は体育学校の徒手格闘(=日本拳法)の試合稽古で知っている色々な武道の技を試してみたのですが、日本拳法の腰を支点とする突き方は体重が移動しないため「さばき」には馴染まないもののむしろ銃剣格闘の第3教習(試合形式)で相手が刺突してくるのをかわしながら片手で腕を掴み、後頭部を押してやると面白いように転がすことができました。
また他の伝統空手の型が沖縄の唐手(とうでい)のものを模倣に過ぎず実戦への応用は考えていないのに対して、芦原会館の型の下段蹴り(=ローキック)への受けから始まる一連の動作は実戦(=試合)を想定したシャドー・ファイティングでもありました。ただし、徒手格闘では防具をつけていない部位への蹴りを認めていない日本拳法のルールを踏襲しているため試合稽古でも下段蹴りを用いることはできませんでした。特に下段蹴りの受け方の1つである「ストッピング(相手がローキックを仕掛けてくる太腿を足の裏で蹴り止める)」の有効性を検証し、試合の中で練習できなかったのは残念でした。
芦原館長にいついては大山倍達館長の伝記劇画「空手バカ一代」に登場して数々の武勇伝が描かれていて、脇役と言うよりも準主役のような扱いになっていますが、梶原一騎先生の原作作品では物語を劇的にするための誇張・創作が多いのも確かで、芦原館長の直弟子である野僧の先生の話ではあの劇画で紹介されている逸話には他の極真会館の門弟のものの使い込みが多く、「話半分とは言わないまでも5分の4くらいにしておかないと某中国製拳法の開祖のように神格化してしまう」と窘めていました(その癖、大山館長の神格化については批判しなかった)。ただ先生は「館長は劇画みたいに空は飛ばないが超人であるのは間違いなく、何よりも劇画以上に魅力的な人物だ」と熱く語っていました。
芦原館長は敗戦間際の昭和19(1944)年の暮れに海軍の聖地・江田島で生まれ、中学を卒業して東京に出ると自動車整備工場で働きながら極真会館になる前の大山空手道場に入門したのです。
そこで天撫の才を発揮して極真会館設立後にはブラジルへ指導員として派遣されることになったのですが、その直前に喧嘩事件を起こして禁足処分(=出入り禁止)になっています(劇画では破門されますがこれは誇張だそうです)。ただし、頭を剃って屑鉄屋になったのは実話で、極真会館の会長=顧問だった衆議院議員のとりなしもあって禁則が解かれるのと同時に愛媛県で道場を開くことを命じられました。
しかし、四国は香川県の多度津に本部を置く(自称)中国製拳法の本場で地元・愛媛大学にも部がある上、空手部は松涛館流なので、そこの卒業生が教員になっているため学校教育などにも深く浸透していて、強さ=力だけでは根を下ろすことはできませんでした。この辺りの逸話は劇画のような武勇伝だけではない深みがあるのですが、野僧の先生からの伝聞情報の記憶が曖昧なので書くことは避けます。
そうして極真会館四国支部長として地歩を固めた頃、後にK1を創始することになる高弟を関西に進出させたことを「独立への動き」と見た大山館長によって永久除名処分を受けてしまいました。
それでも芦原館長は大山館長に対する敬慕の念を抱き続けていたようで、口では「(極真会館の本部がある)池袋のハゲ」などと呼びながらも自分を語る時には必ず「大山館長のおかげで」と感謝の意を表し、最後には「大山館長は凄かったんだぞ」と偉大さを熱く語りながら涙ぐんでいたそうです。また、ある昇級審査の時、「大山」姓の受検生がいて、芦原館長は「おい、大山」「大山、しっかりしろ」と呼んで面白がっていたのですが、審査が終わった後「大山と言う名前に愧じない、立派な空手家にならんといけん」と声を掛けたそうです。しかし、幾ら慕っていたと言っても50歳の若さで後を追ってはいけないでしょう。大山館長の意思を継ぎ、実戦空手をより発展させるのが芦原館長の役割だったはずです。押忍(某中国製拳法の流儀になるので合掌はしません)

「空手バカ一代」より(多少美化されているものの似ています)
- 2017/04/24(月) 09:04:26|
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沖縄では太陰暦の1月1日も「ウチナー(沖縄)正月」として官公庁や学校も休日になり、今年は1月22日の月曜日なので3連休だった。淳之介は実家で祖父母からもらったお年玉を持ってあかりに会いに那覇まで出かけた。玄関のチャイムを鳴らすと今日もあかりはすぐにドアを開けた。
「明けましておめでとうございます」「おめでとうございます。今年もよろしくお願いします」2人は年齢に合わない礼儀正しい挨拶を交わした。先週の月曜日の国際通りでは全国的に有名な新成人の乱暴狼藉が繰り広げられていたが、やはりこの2人は別種の沖縄県民のようだ。
「今日はお年玉をもらったからタクシーでどこかへ行こうよ」「私もお母さんからもらったから淳之介さんは仕舞っておいて」こうして国際通りを往復する運動デートをするようになって3カ月経つが、2人は相変わらずコース以外には行っていない。冬休みには普通のカップルのように映画を見たいと思ったが、かえってあかりを傷つけることになるかも知れないと考え諦めたのだ。
「それじゃあ往復のタクシー代を2人で出し合えば少し遠くまで行けるね」「うん、少しだけね」話が決まったところであかりは腰を下して靴をはいた。しかし、手探りでは急ぐことはできない。そのため少し苛立った表情になっていた。
「お母さんは今日も仕事なの。だから帰ってくるのは早くないから慌てなくても良いのよ」「それじゃあ、約束していた海へ行こうか」マンションの階段を下りると今日は国際通りではなくタクシーを拾うため安里通りに向かった。あかりは慣れていない道なので緊張して淳之介の腕に掛けた手に力を入れている。淳之介は路上に置いてある物を避けながらそれが何であるかを説明していった。こうしてあかりと一緒に過ごすようになって淳之介は情景を言葉にする能力が大幅に向上してきたようだ。父のように詩や短歌を始めれば意外な才能を発揮できるかも知れない。
「タクシーを止めるよ」「はい」休日の安里交差点の交通量は多いためエンジン音と風圧だけで状況を察知するしかないあかりはどこか怯えているような顔をしている。そこで淳之介は腕に掛っている手を外して握り、一歩踏み出してから手を上げた。すぐにタクシーは停まったが、運転手はあかりの白い杖を見て淳之介に目で「慌てなくても良い」と指示した。
「どこまで?」「海岸、砂浜に行きたいんですけど」「「那覇市内なら波の上ビーチくらいしかないさァ」淳之介の相談に運転手は優しく答えた。沖縄県は反米軍を訴えることで国を恐喝して毎年のように遣い切れない程の予算を受け取り、無駄な公共事業で浪費してきた。このため那覇市内の海岸はコンクリートで固められ、唯一残っている人口の海岸が波の上ビーチなのだ。
「あそこならついでに初詣もできるさァ」「はい、お願いします」淳之介の返事を聞いて運転手はタクシーを発進させた。と言われても淳之介は佛教原理主義・反国家神道だった父が神社に近づかなかったため初詣の経験がなかった。
安里通りから波の上までは数分、料金も数百円台だ。それでも運転手は身体障害者の半額割引を使うかを確認してきたが、あかりはチケットを持ってきていなかった。そのため淳之介があかりから渡された財布から1000円札を取り出して渡すと運転手はお釣りの金額を説明しながら手渡した。
「ここを抜けていけばビーチさァ、階段が多いから彼女は気をつけるさァ」「はい、有り難うございました」こうして2人は初めての小々々旅行である波の上に降り立った。
路地よりも少し広い程度の道路の角では対馬丸記念館が建設中だ。対馬丸の撃沈については中学校の平和教育の授業で習ったことがある。アメリカ軍の沖縄本島への侵攻が予想され始めた昭和19年8月、軍から「学童を疎開させよ」と言う命令が下り、教職員と共に九州に向かっている途中でアメリカ海軍の潜水艦の雷撃を受けて沈没して1476名が犠牲になったのだ。淳之介も海の男の卵として興味を持ったが建設中ではどうしようもない。開館予定が8月と言うことだけを確認して先に進んだ。すると道路から海岸に抜ける路地の両側に植えられている並木には黄色い花が咲いている。淳之介は大して興味も持たずそのまま通り抜けようとしたがあかりが立ち止まった。
「花が咲いているでしょう」「うん・・・咲いているよ。よく判ったね」「香りがきこえるの」そう答えてあかりが並木ナの方へ行こうとするので淳之介が誘導した。今、あかりは「香りがきこえる」と言ったが、父も同じ言い方をしていた。これが母=美恵子なら「臭いがする」と言うのだろう。こんなさりげない言葉遣いにも父とあかりの母・梢さんが共有する時間の深さが感じられた。
- 2017/04/24(月) 09:02:44|
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明治28(1895)年の本日4月23日に日清戦争の講和を取り決めた下関条約で日本が租借することになった「遼東半島を放棄せよ」と言うロシア、ドイツ、フランスの3国連名の勧告が届きました。これが「(いわゆる)三国干渉」です。
日本人はこの勧告を恨んで主導者であるロシアを敵と定め、艱難辛苦に耐えながら急速な国力の拡大を成し遂げて10年後の日露戦争に勝利したと言う勧善懲悪の三文芝居にしていますが、実際は「日本が清国の首都である北京と渤海の対岸である遼東半島を領有することは清国にとって深刻な脅威となり、国内を不安定化させる恐れがある。さらに朝鮮の独立も阻害しかねない。日本がこれを放棄すれば我々も友好関係を結べるであろう」と言う美辞麗句の外交文書でした。
外交は国益の貪り合いですからこの勧告が清国のためを思って日本を諫めたもののはずがなく、3国の清国進出の妨げとなる日本を排除し、逆に放棄させた遼東半島などの渤海周辺を領有しようとする野心であったことは間違いありません。ただし、この3国の狙いはあくまでも清国であってこれと言った資源や特産品がある訳でもない離れ島に過ぎない日本には大して興味は持っていませんでした。
この3国はイギリスがアヘン戦争で香港の割譲を受けたことに倣い、挑発によって戦端を開き痛撃を加えて領土を獲得しようとしていたのですが、香港割譲が中国人の敵愾心を燃え上がらせ、日本の幕末と同様の外国人に対する殺傷事件が頻発するようになっていたため勝手な紳士協定を結んで手を出さずに静観しながた機会を伺っていたのです。
そんな口を開けて「お預け」している3国の前で小型犬の日本が餌を横取りしたのですから、「ワンワン」と吠え立てたのは「当り前だのクラッカー」であり、日清戦争に勝利した段階の日本にはこの3国に対抗するだけの国力はなく、引き下がったのも極めて常識的な判断ですが、これを恨んで「臥薪嘗胆」なる古語を合言葉にして国民に重税を課し、世界有数の軍事大国・ロシアを仮想敵国とする滅茶苦茶な軍備拡張に狂進・暴走したのは、やはり文明開化で極端な欧化を推し進めながらも尊皇攘夷の狂気から抜け出ることができていなかったのでしょう。
3国からの勧告を受けて日本が引き下がると実際に動き出したのはロシアでした。と言うのも他の2国の思惑は別のところにあったのです。
ドイツとロシアは国境を接する(当時のポーランドは独露の属領だった)仮想敵国同士であり、ドイツが勧告に参加したことでロシアは極東への進出が可能になり、ドイツはロシアの関心が極東に向いたことで脅威が大幅に軽減されたのです。残るフランスとしてはロシアの脅威が軽減すればドイツの関心は自国に向くことになり、そのため勧告に加わることで独露2国の友好関係が発展することを牽制する狙いがありました。一方、イギリスとアメリカはロシアから勧告への参加を求められたもののイギリスは独仏に批判的な世論に配慮して拒否(実際はイギリス国王がドイツ皇帝と仲が悪かった)、アメリカもアメリカ大陸以外の地域への関与を嫌う国内世論で不参加でした。
つまり明治以降、現在に至るまで日本人が強弁しているような「日露戦争に勝利しなければ日本はロシアの植民地になっていた」と言う強迫観念は徳川幕府が極めて優れた外交交渉を行って日本の植民地化を防いでいたことも知らずに外国人が国内を歩くようになったことだけで国土を汚されたと怒って討幕した薩長土肥の反乱の口実の焼き直しに過ぎません。
日本は遼東半島の租借を放棄したことで代価を受け取り、八幡製鉄所の建設など国内産業の近代化に投ずる資金を得ることができました。この時点では仮に遼東半島を獲得しても進出するだけの経営力を持った企業はなく、その意味ではむしろ日本のための勧告になったようです。
それにしても日露戦争を経験しなければ世界史はどのようになったのでしょうか。少なくともソ連など言う凶悪な国家は成立していなかったはずです。中国は欧米各国の植民地として分裂したまま独立し、各民族ごとの小国の集合体になっていたかも知れません。何よりも日本は適度の防衛力を整備するまでに留め、むしろ生産と儲ける歓びに目覚めて殖産興業に邁進して戦後のような商人の国家になっていたでしょう。明治から戦前までの日本人は平田篤胤と吉田松陰の狂気に踊らされた突然変異であって、元来は血を流すことよりも腹一杯食べるために働く方が好きなんです。
- 2017/04/23(日) 10:35:01|
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今回の休暇は夫婦の営みが念入りになっていた。これまではカソリックの厳格な貞操観念を守り、控え目で慎ましやかだったジアエは普通の妻として岡倉が教えるままに性技を学んでいる。
「私、貴方の子供が欲しい」営みも終幕に近づく頃にジアエが口にする懇願に岡倉は躊躇してしまう。岡倉の戸籍はあくまでも日本にあり、失踪中の幹部自衛官なのだ。現在の職務や階級も陸上幕僚監部内でも極一部の将官だけが知っている闇の人事発令であって公になることはないはずだ。そんな自分が韓国陸軍の李知愛大尉を妊娠させることなどできるはずがない。
「俺だってお前に子供を産ませたいよ。しかし、俺のことを誰にも言えないことは判っているんだろう」「勿論、判っているわ」今回もジアエの身体の上に体液を放出して、それをティッシュで拭きながら岡倉とジアエは話し合った。
「私、未婚の母になるの」処置が終わって布団の中で腕枕するとジアエは目を見ながら宣言した。
「えッ?そんなことできるはずないだろう」岡倉は幹部自衛官の常識に基づいて回答する。しかし、ジアエは真顔のまま話を続けた。
「私が貴方と交際していることは駐屯地では知られているわ」確かに何度かジアエの駐屯地を訪れ、ゲート前で口づけをしたこともある。おそらく岡倉の身元が不明になっているだけで、休暇の度に海外に行くことも推理の材料になっているのだろう。
「それに私はカソリックだから中絶ができないことも判っているの」岡倉も次第にジアエの論理構成が掴めてきた。要するに「できちゃったけど堕ろせない」と言う日本の自衛隊でも時々ある状況にするつもりなのだ(自衛隊の場合は女性自衛官がそれを理由に結婚を迫るため人工中絶に応じないのが大半)。
「しかし、陸軍士官として服務違反にはならないのか」「それで懲罰を受けるなら退役するわ」ここで議論は休暇の初日にまで戻ってしまった。それにしても今回はどうしてここまで子供にこだわるのか不思議に思って訊ねてみた。
「どうして急に子供が欲しくなったんだ」そう訊いて口づけするとジアエも舌を求めてくる。こんなことも初めてで、その反応に岡倉の男性自身は再び臨戦態勢になった。40歳目前にしては中々の精力だ。こうなれば妻の求めに応えて第3ラウンドに入ることにする。
「貴方が危険な任務に就いているのは私にも判ります。私も軍人ですから覚悟もしています。でも・・・」説明の途中で乳首を吸うと喘ぎ声で中断してしまった。そこで再び掛け布団から顔を出して腕枕に戻った。
「でも貴方の血を受け継ぐ子供を産めるのは私だけです。それは妻としての責務であり、至高の幸福でもあるのです。女としての喜びが私も欲しいの」現在の日本にこのような考え方をする女性はどれほど残っているのか。おそらく夫の命が危ういとなれば独身に戻った時の自由を確保し、負担をなくすために妊娠していても中絶してしまうのではないか。逆にジアエは岡倉が中東で活動していることを察して、家族を尊ぶ韓国の儒教的倫理に立って子孫を残すことを考え始めたのかも知れない。確かに岡倉家のことを考えれば有り難い申し出ではあった。
「それで君の両親は何て言っているんだ」「子供はカミが夫婦に授け賜うた宝物だ。人間が作った倫理や法令などとは別の生命の営みだって言っています」カソリックでは避妊さえもカミの恩恵を無駄にする悪事としている。その意味では娘が妊娠することはカミの祝福を受ける光栄なのだろう。その時、唐突に岡倉の脳裏に前川原の同期が浮かんだ。
「俺にも未婚の母になろうとした同期が1人いたな」「それはWACの士官なのね」ジアエの確認に岡倉はうなずいた。
「あのPKOで敵を射殺した同期の妻だよ。アメリカのCGSに留学するくらいの才女なのに万年大尉の馬鹿に惚れてしまってな」「でも私とは違うみたい・・・」「彼女はアメリカからの帰国子女だから韓国人の君と感覚が違うのは当然だ」話が長くなって岡倉の男性自身は休戦状態になってしまった。ジアエもそれに気づき目を伏せて胸の上に頬を載せた。
「私も30歳、高齢出産になるのは目前なの。だから今しかないのよ」「うん、頑張るよ」と言って気合いにを入れても男性自身は意思通りには反応しない。ジアエが高齢出産なら岡倉は医学的な統計では男性の更年期は60歳前後だが、これから先細りしてくるのは間違いない。尤も、噂の同期は病的な使用不能になっているが。

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- 2017/04/23(日) 10:33:12|
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平成9(1997)年の本日4月22日にペルー海軍特殊部隊が「オペレーション=チャビン・デ・ワンタル」」を決行し、前年12月17日に発生したペルー大使公邸占拠事件が解決しました。
日本では「ペルー大使館占拠事件」と呼ばれることがありますが、反政府ゲリラ・MRTAによって占拠されたのは天皇誕生日の祝賀行事が開催されていた大使公邸であって大使館ではありません。
ペルーでは長年にわたり宗主国・スペインの統治の流れを汲む政権とキューバ革命の影響を受けた反政府ゲリラの抗争が繰り広げられており、日系人であるアルベルト・フジモリ大統領は就任後、強硬な鎮圧を実施していたことで日本大使館が標的にされたようです(フジモリ大統領を狙った可能性も高いですが、実際は母親が代理として出席していました)。
さらにアメリカのクリントン政権は好調な経済力を使って中南米に支援を行い政治的影響力を強化していて、これに危機感を抱いたキューバのカストロ政権が各国の反政府勢力を扇動したと言う見方もあります。
大使館が占拠された事件への対処としてはイランのアメリカ大使館が占領された時、カーター政権が実施した「イーグル・クロウ作戦」が思い浮かびますが、これは失敗に終わっています。一方、日本に関しては昭和50(1975)年8月4日にはマレーシアの首都・クアラルンプールにあるアメリカとスウェーデン大使館が日本赤軍の活動家5名に襲撃・占拠され、服役中の同志7人の開放を要求する事件が発生しています。これに対して当時の三木武夫内閣はマレーシア当局が強行突入による解決を主張していたのを抑えて全面屈服し、わざわざ該当する服役囚の希望調査をした上で「応じる」と回答した5名をリビアに送り、そこで合流させる超法規的処置を取ったのです。これは国際常識から言えば完全な敗北ですが、日本では人名が失われなかったことに安堵した国民が大半で、2年後の昭和52(1977)年9月28日に起こった日本航空機ハイジャック事件、いわゆるダッカ事件でも福田赳夫内閣は同様の対応を選択しました。そんな訳で橋本龍太郎政権も強硬策を決定していたフジモリ大統領に「人命尊重(日本的には犯人の生命も含まれる)」「交渉による平和的解決」を要望して釘を刺しています。しかし、これはダッカ事件から20年後の事件ですからこうなると最早、「敗戦で腰が抜けて、そのまま落ち着いてしまった民族」と揶揄される戦後の日本人の体質なのでしょう。
ただし、アメリカのマスコミでは「橋本政権が特殊部隊の派遣をアメリカ政府に要望する」と言う推測が実しやかに語られており、日本でもその賛否が論じられていました。実際、この可能性をゲリラも現実の脅威と受け止め、アメリカ軍に口実を与えないように先ずアメリカ人の人質が解放されましたが、ペルー軍は秘密裏に「オペレーション=チャビン・デ・ワンタル」と言う作戦を進めていたのです(=橋本政権の要望は無視した)。この作戦名はペルーの中部、リマから北へ250キロほど行ったブランカ山脈にある縦横に掘られた地下道が有名な古代遺跡の名前を採りました。
しかし、アンデス山脈の高地であるリマ市の地盤は固くても衝撃や爆発音で工事が発覚することを避けなければならず手作業でトンネル工事を進めたのです。このため包囲している警察隊では作業音を消すために大音量でペルー軍の行進曲を流し、行進曲が偽装であることを隠すため警察官は隊列を組んで行進していました。さらに日本政府から提供を受けた大使公邸の見取り図をもとに同じサイズ・同じ間取りの建物を造り、突入の訓練を開始していたのです。
そしてトンネルが完成し、後は床を爆破するだけになったこの日、作戦は実施されました。大使公邸にはリマ市内の日本料理店から出前が届けられており、占拠が長期化してゲリラたちも気が緩んだのか午後には1階ホールでサッカーを楽しんでいて、その間、人質たちは2階の自室に押し込められ、見張りは必要最小限になっていることが判っていました。
作戦はその時間帯に開始され、先ず警察隊が機関銃を連射しながら柵を破り、庭に突入を始め、ゲリラがそちらに気を取られた瞬間、床が爆破され、そこから指揮官・ファン・バレル中佐を先頭にベルギーFN社製・P90短機関銃を射ちながら邸内に突入し、15歳の少女を含む全てのゲリラを射殺したのです。
戦死した現場指揮官・ファン・バレル中佐がポケットに偲ばしていた遺書「この手紙が読まれると言うことは『私はもう生きていない』と言うことです。私はペルーを愛し、この国のためなら如何なる犠牲も払うことでも辞しません。私の使命は国を守ることであり、私たちが築き上げた平和を傷つける行為に対しては如何なる措置も取ります。私は誇りを持って作戦に加わり死んでいきました。皆さん、愛する士官学校で学び、一緒に戦ったことを思い出して下さい。私は平静にして任務につきます」涙・涙・涙・アーメン
- 2017/04/22(土) 09:30:33|
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「少し酔ったみたいだな」岡倉はジアエのグラスにマッコリを注ぐのは止めた。マッコリは穀類を乳酸菌で発酵させて造るため酸味と甘味が適度にあって幾らでも飲んでしまう。おまけに日本の濁り酒同様に意外に度数が高いため急激に酔いが回るのだ。
「ううん、大丈夫だよ。今夜は貴方の腕で眠れるのだから安心よ」そう言って微笑んだジアエの目は潤んできている。それはそれで色っぽいのだが酔った姿を知らないので少し心配でもあった。
「私の愚痴を聞くのは嫌い?」「そんなことはないよ。夫婦じゃないか」岡倉の答えを聞いてジアエは笑いながらグラスを差し出した。
「私が軍に入ったのはね・・・」「連行されてくる金賢姫の姿を見てカミを信じない暴君の国・北朝鮮から韓国を守るためだろう」「うん、正解」呂律が回らなくなってきたジアエに代わって岡倉が答えると笑ってうなずいた。どうやら腹が立っても笑ってしまう笑い上戸らしい。
「でも韓国のマスコミは金大中が訪朝してから『北朝鮮も同胞だ』って言い出して、軍は日本からの侵略に備えるべきだって馬鹿げたことまで書き始めたの」「日本でも朝日や毎日は似たようなことを書いているよ。日米安保があるから日本は戦争に巻き込まれるなんてね」岡倉はジアエを興奮させないために少しずつ水をかけるように受け答えをしていく。
「韓国のマスコミは日本の朝日新聞に同調しているんだから当たり前ね」「うん、軍事政権の頃に朝日が批判を展開したことで信頼を獲得して、政府が情報を制限した海外のニュースは朝日の翻訳で掲載していたらしいな」「うん、まだ私が幼い頃の話よ」ここで岡倉は立ち上がり、冷蔵庫からスポーツ・ドリンクを持ってきて空になったジアエのグラスに注いだ。これが血中アルコールを薄める目的であるのは言うまでもない。
「だから高仁智の一件も陸軍の不祥事みたいに書き立てているのよ」「日本ではよくある話だがな」怒りに火が点きそうな展開になったため早めに水を掛けた。
「でも自衛隊=軍の些細な不祥事を組織全体の問題にして反軍に結びつける手法は朝日の得意技そのままだな」「高仁智は海外留学の経験がないから韓国国内のやり方しか知らなかったのよ」スポーツ・ドリンクを口にしてジアエも酔いを覚まし始めた。
「軍や外務省の事前教育はなかったのか」「あったけどあまりイスラムに好意的な内容ではなかったみたい」日本でもアフガニスタン侵攻が開始された時点ではアメリカの反イスラムの報道を鵜呑みにして「時代錯誤で危険な宗教だ」と言う先入観を持っていた。熱心なカソリック教徒の高仁智であれば尚更、イスラム教を敵視する気持ちになっても不思議はない。
「以前の我が軍の首脳だったら派遣中に発生した問題を民事訴訟させることを阻止したはずよ。それが今ではマスコミの批判を懼れて仁智個人が起こした問題として切り捨ててしまった」これが先ほどジアエが退役を口にした理由のようだ。
「戦時に我が軍の指揮権を有するのはアメリカ大統領であって我々の大統領ではない。でも平時の海外派遣はあくまでも大韓民国大統領の専権事項のはずでしょう。ならば日本の首相のようにどんな理由を使ってでも自国の利益を守るべきなのよ。アメリカに言われるままに危険な任務を命じておいて、そこで起こった問題は個人の責任にする。今の我が軍の士官たちは本音では日本軍(自衛隊)に憧れているのよ」酔いが醒めてくると話が難しくなる。賢い嫁の酒癖は中々難しいようだ。
「犠牲になった田上等兵には女としても同情するけど、高仁智は昇任が遅れてしまってまだ中尉なのよ」ジアエの話を聞いて岡倉は人一倍プライドが高そうだった高仁智中尉こそ退役してしまうのではないかと余計な心配をしてしまった。ここでスポーツ・ドリンクを飲み干したジアエが真顔になって質問してきた。
「そう言えば日本ではアフリカのPKOで敵を射殺した大尉が殺人罪で告訴されたでしょう」「うん、あれは同期なんだ」岡倉も酔いが回っていたのか口を滑らしてしまった。
「だって貴方は少佐であの人は大尉じゃない。どうしてそんなに差がついているの?」「俺は1月1日付で中佐になったよ」今度は口を滑らしたことを搔き消すために意表を突いた返事をした。するとジアエは単純に喜んで空のグラスを持って差し出した。そして瓶に残っていたマッコリを注いだグラスを「チャン(乾杯)」と言って打ち鳴らした。しかし、岡倉はその同期・モリヤが司法試験合格による特別昇任で2佐(中佐)になっていることを知らなかった。

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- 2017/04/22(土) 09:28:57|
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昭和8(1933)年の本日4月21日は功罪ともに山口県人らしさを存分に発揮した長岡外史中将の命日です。
地元出身であれば歴史的に見れば亡国の徒に過ぎない人物でも偉人・英雄に祭り上げ、痘痕も笑窪式に長所を見つけ出し、それを過大に喧伝して罪を帳消しにした上で、国家権力を使って史実を歪曲することを常套手段としている山口県ですから当然「郷土の英雄」の1人にしたいころですが、長岡中将の最大の功績は「乃木は愚将である」と正しく評価したことなので、その愚将を英雄・軍神にしてしまっている山口県人としては同調し切れず、出身地である周南市限定の英雄になっています。
長岡中将は本当の名将である児玉源太郎大将と同じく毛利藩でも徳山支藩の出身で、6歳年下の安政5(1958)年に生まれました。戊辰戦争の頃はまだ10歳前後だったため藩校・明倫館で学んでいました。
薩長土肥の反乱が成功して新たな軍制が定まると明治11年に旧制度の陸軍士官学校を2期生として修了し、6年後には陸軍大学校の1期生として入校しました。こうしてエリート街道を突き進んだのには勿論、本人の実力もあったのでしょうけれど、あの乃木でさえ大将にしてしまった「山口陸軍閥の芋づる」も少なからず影響していたのではないでしょうか。
日清戦争には混成第9旅団の参謀として出陣し、終戦後から日露戦争の間には海軍大学校の教官を務めたこととドイツ(三国干渉の一国だった)に3年間の長期出張したことが注目されます。
そして少将として迎えた日露戦争では開戦直後に歩兵第9旅団長から参謀本部に配置替えされ、参謀総長の山縣有朋元帥、首相兼陸軍大臣の桂太郎大将以下の山口陸軍閥の側近・腹心として動くことになりました。そこで満州軍4個軍の司令官の中で唯一の山口県人である乃木の第3軍が旅順要塞の攻城に手間取り、多大な犠牲者を供じて満州軍の作戦全般を困難にしていることで山縣元帥・桂大将に乃木の更迭を意見具申したのです。参謀たちに能力を発揮させるよう叱咤激励し、それでも改善しなければ交代を要請するなどの処置を取るのが軍司令官たる者の役割であり、それができない乃木は更迭すべきであると断じたことは適切ですが、その一方で軍司令官に任ずるべき大将がいなかったから無能な乃木を現役復帰させて第3軍司令官とし、他の3個軍のように広大な満州を転戦させることなく旅順要塞の攻城だけを任務にした陸軍内の事情と配慮にまでは思いが至らなかったのでしょうか。この「自分が絶対に正しい」と思い込んで実現に暴走するのも山口県人気質です(山口県出身の現首相を見ても明らかなように)。
結局、「解任すればお気に入りの乃木が自刃する」と言う明治の愚帝の身贔屓で乃木は第3軍司令官に留まり、将兵を無駄死にさせるだけの正面攻撃を継続することになりましたが、ここで長岡少将は1つの貢献をしています。それは海軍の各根拠地に設置されていた28サンチ榴弾砲=要塞砲を旅順に送ったことで、やはり海軍大学校の教官としての経験が活きたようです。
ところが日露戦争において長岡少将は大罪も犯してしまいました。それは奉天が陥落して地上戦が膠着状態に入り、日本海海戦で圧勝したことを受けて、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が講話会議の開催を提唱し、これにロシアが応諾の返事をした後に樺太への侵攻を計画すると如何にも山口県人らしい策謀を巡らして実行したのです。この計画については政府や陸軍、さらに海軍も残存戦力と国際慣習を理由に反対しましたが、すると満洲軍参謀長である同郷の先達・児玉大将に手紙を送り、「戦略的意義を認める」程度の社交辞令を記した返事を受け取ると、これを根拠に上層部を説得して南樺太に出兵(主力は北海道に残っていた屯田兵だった)・占領したのです。山口県ではこの暴挙を「ポーツマス条約で南樺太を獲得できたのは長岡少将の英断の賜物」「ルーズベルト大統領も戦略的判断と絶賛した」と賞賛していますが、40年後に日本がポツダム宣言の受諾を表明し、玉音放送が流れた後にソ連軍が千島列島・占守島に侵攻を開始したことを「仕返しされた」と反省せざるを得ない禍根を残しました。
戦争以外にも長岡中将に関する逸話は数多く残っており、例えば軍用気球の二宮忠八さんがゴム動力の模型飛行機の実験に成功し、「これを大型化してエンジンを搭載すれば人間を飛行させることも可能である」と陸軍の協力を要請した時には一笑に伏して拒否してしまいました。この時に援助の手を差し伸べていればアメリカのライト兄弟が1904年に成功する以前に日本が人類初飛行を実現していたのかも知れません(二宮さんの模型を検証した航空工学の専門家の見解)。
また新潟・高田の第13師団長だった時、視察に訪れたオーストリア軍のレルヒ少佐からスキーを伝授され、これを将兵に訓練させたことが「日本のスキーの発祥」とされています。本人も「日本のスキーの父」と呼ばれていますが適切なのかは判りません。
- 2017/04/21(金) 09:06:43|
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久しぶりに2人で外食して帰って来てもジアエは李大尉の顔になって批判を続けていた。
「今の政府には軍人として忠誠心を抱けないわ」「韓国軍は北朝鮮と戦った経験があるから強固な国民の支持があると思っていたんだがな」岡倉は何度か韓国を訪れてこれが日本人の先入観であることは判っていたが、あえてこの見解でなだめた。
「韓国人にとって朝鮮戦争は内戦よ。だから反米思想を持っている人にとって北(北朝鮮)は南の同胞を解放しようとしてくれた存在なの」「日本で言えば戊辰戦争の時の官軍と幕軍みたいな感覚かな」岡倉の返事を聞いてジアエは「ボシン ウォー(=戊辰戦争)?」と呟いて首を傾げた。
「戊辰戦争と言うのは100年くらい前に徳川幕府を倒すために・・・」「日本の復元戦争ね」ジアエの返事に今度は岡倉が首を傾げた。結局、ジアエから「明治維新」の英訳が「MEIJI RESTORATIN(明治の復元)」であることを教えられてようやくこの話題は終わった。それにしても明治維新の意義を天皇の直接統治の回復にしたのはどこの誰なのか。それを放置しているのは職務怠慢だ。
話題が変わってジアエが土産に持ってきた韓国の濁り酒・マッコリを飲む準備をした。カソリックの敬虔な信者として赤ワインしか口にしなかったジアエも最近は少し緩んできたようだ。
「韓国も軍をイラクに派遣しているだろう」乾杯の前に岡倉は以前から関心を持っていた質問をした。
「ええ、北部のクルド人の支配地域に600人派遣したけれどアメリカから追加を求められて大統領は8000人を送るつもりだったのよ」「北部に?8000人?」岡倉は韓国がイラクでも実質的紛争地域に8000人もの人員を派遣していることを知り、絶句してしまった。アメリカのニュースや新聞ではヨーロッパ各国の派遣は大きく紹介しても日本や韓国については頭の中で英文を訳しながらでは見逃してしまう頬度の扱いなのだ。
「でも国会が強硬に反対して2800人に削減されたの」「ふーん、難しい判断だな」「そう、危険な地域なら大規模に派遣しなければかえって安全が確保できないわ」この辺りは幹部自衛官と陸軍士官の夫婦だけに見解は一致した。韓国は大統領を直接投票で決めるため与党が国会の多数派とは限らない。しかも2大政党制を取っているアメリカと違い少数政党が乱立しているだけに極端な少数与党になる場合もある。盧武鉉政権は始めから少数与党だった上、その小さな政党が分裂したため、国会の顔色を見ながらの政権運営にならざるを得ないのだ。
「それじゃあ盧武鉉政権が軍の弱体化を図っていると言うのは必ずしも大統領の意思とは言えないんだな」「そこは難しいところね。元々が反軍人政権の人権派弁護士だから我が意を得たりと言うところかも知れないよ」妻・李知愛大尉から軍人としての見解を聞き、杉本が調査してきた韓国国内の政治情勢とは別の切り口を知ることができた。
「ところで日本陸軍(陸上自衛隊)もイラクへ行ったんでしょう」「うん、2月3日に出発したな」「どこへ?何千名?」今度はジアエの方が矢継ぎ早に質問してくる。しかし、韓国が実質的な紛争地域に3000人近い人員を派遣していることを知ってからでは答えるのが辛くなる。
「南部のサマーワ県の県都・サマーワだよ」「サマーワってサウジアラビアとの国境でしょう。安全地帯じゃあない」「うん、のどかで良いところだったよ」妻の目が鋭くなったので岡倉はうっかり現地調査に行ったことを告白してしまった。
「そこへ1個連隊くらい派遣したの?」「ううん、1個中隊規模だ」おまけにやっていることは給水活動と公共施設の素人大工だとは言えなくなった。
「それでアメリカは納得したの」「うん、今回の要求はブーツ・オン・ザ・グランドだったから地上部隊を派遣すれば合格なんだよ」この違いにはジアエも怒る気が失せてしまったようだ。
「日本はベトナム戦争へも行かなかったよね」「うん、派遣要請は受けたんだが憲法の制約を理由に拒否したんだ。その憲法はマックアーサーが作ったものだからアメリカも『無視しろ』とは言えないんだな」「そこが日本人の賢いところね。相手の痛いところを見つけてそこを適当に打つ。我が国はいつでも喧嘩腰で拳を振り上げて怒鳴るばかり。日本は負けたように見せて後ろから突き倒す」ジアエがこんな言い方をするのは初めてだった。余程、韓国と日本に対するアメリカの要求の違いに腹を据えかねているのだろう。とりあえず乾杯をして酒の味見を始めた。
「私、軍を辞めて貴方と暮らしたいな。岡倉幸一郎の妻として、2人の子供の母として・・・」数杯の酒を味わった頃、ジアエは思いがけない言葉を口にした。
- 2017/04/21(金) 09:03:52|
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1979年の本日4月20日に現職だったジミー・カーター大統領が1人で池にボートを浮かべ、釣りをしている時に泳いできたウサギに襲われました。日本では「ジミー・カーター・ウサギ事件」と呼ばれている一件です。野僧はアラスカ人の彼女の父親から歴代大統領の笑い話としてこの件を報じた3年前の新聞記事のスクラップを見せてもらったのですが、英文の見出しでは「ジミー・カーター・エクスプレインズ・ラビット・アタック=ジミー・カーターのウサギによる襲撃の説明」とありました。
この日、カーター大統領は故郷のジョージア州ブレーンズに帰省しており、趣味である池釣りに単独で出かけていたのです。すると1羽の灰色の大きなウサギが猟犬に追われて池に飛び込み、大統領のボートに向かって泳いで来て、少し手前で「シュー」と言う声を上げながら歯ぎしりして威嚇を始め、大統領は危険を感じためオールで水をかけて追っ払っただけの話です。
大統領は自宅に戻って待機していた秘書官たちに恐怖体験と武勇伝を兼ねた説明をしたのですが、全員が「ウサギは泳げない」「ウサギは臆病で威嚇したりしない」何よりも「ウサギは人間を襲わない」と笑い飛ばし、大統領のジョークと受け取ったのです。
ところが4カ月後になって報道官がAP通信社の記者にこの出来事を話したことで意外な影響が起こってしまいした。先ず沼地ウサギと言う野生種は上手に泳ぎ、追い詰められると相手を攻撃することがあるとの専門家の証言が紹介され、続いて大統領が釣りをしているところを撮影していたホワイトハウスのカメラマンがウサギが池を泳いで大統領のボートに迫り、大統領がオールで水を浴びせて追い払う場面をビデオで録画していることが判明しました。
しかし、ここからが稀代の苛められっ子だったカーター大統領の面目躍如で、思いがけない批判の声が沸き起こってしまったのです。
先ずは大統領がウサギに恐怖を覚えたことを「精神が弱い」と資質を疑問視する意見が野党である共和党から上がり、続いて大統領が事実を説明しても補佐官などが信じなかったことを「スタッフとの信頼関係が構築できていない」と政権の脆弱性に結びつける指摘が行われました。
さらに単独で池にボートを浮かべて釣りをしていたことを「あまりにも無防備である」として「大統領としての自覚が足りない」と非難されました。とどめに大統領が猟犬に追われて逃げてきたウサギを追い払ったことを「弱者救済の意識が欠落している」と動物愛護団体まで非難したのですから同じように苛められっ子だった野僧としては心から同情してしまいます。
日本人の多くはジミー・カーター大統領が在任中、人権外交を提唱してかえってソ連のアフガニスタンへの軍事進攻を招き、イラン革命にも有効な手を打つことができずにテヘランの大使館を過激派に占拠され、人質になった大使館員を救出するための軍事作戦も失敗したことで「臆病者」「軍事音痴」だと思っており、おまけに同じ民主党のクリントン政権が北朝鮮の核開発に対して軍事作戦を計画しながらソウル市民への被害を理由に最終段階で躊躇した時には特使として金日成主席と会談して、核開発を断念する見返りに軽水炉を建設すると言う約束をした結果の今日を招いていることから「お人好しの馬鹿」「お節介な小父さん」との否定的な人物評が定着しているようです。
しかし、本人は元海軍大尉であり、原子力潜水艦の開発に加わっていた時には原子炉の暴走と炉心の溶解事故を自ら処置して被曝したほどの勇敢な軍歴を有しているのです。
それにしても現在の日本では狭いゲージの中に押し込まれて栄養過多の肥満体で飛び跳ねることもできない飼いウサギのイメージしかありませんが、昔の野ウサギは確かに野生動物でうっかり塀などに追い詰めるとこちらに向かって飛びかかってきました。
アメリカのアニメに登場するウサギはかなり戦闘的ですから、それ以上の凶暴性を持っているのかも知れません。何せ核ミサイルのボタンを手中に収め、自分の手で世界を破滅させられる人間に恐怖心を与えるくらいですから。
それにしても池にボートを浮かべて釣り糸を垂れている時がカーター大統領にとっては平穏な時間だったのでしょう。ならばリフレッシュだけを目的とする曹洞宗の黙照禅=只管打坐を教授して差し上げれば檀家さんになってくれたかも知れません。大統領は現在、牧師になって大統領経験者としては最高齢記録を更新中ですが、坊主になってもらえば記録更新ではなく初の佛教徒になったのです。
- 2017/04/20(木) 09:26:43|
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今年(2004年)の韓国の正月=ソルラルは1月22日だ。岡倉はイラクで日本の外交官が射殺された事件にアメリカ軍が関与していた疑惑を察知したことで監視対象になっていたが、在ワシントンの防衛駐在官・野中将補が国防総省と協力関係を確認してようやく自由に活動を再開できている。そんな訳でソルラルの休暇は愛妻・ジアエをニューヨークの新居=アパートに呼ぶことにした。
ニューヨーク・ダラス国際空港のターミナルは広い上、利用者が桁外れに多いため、仁川(インチョン)からの到着便の出向えもすれ違いにならないよう注意しなければならない。
「タイガー」「ジアエ」相変わらず韓国人の客たちは順番を守ることはせず、我先に出てくるため、その最後尾についてジアエは出てきた。
「ソウルも寒いけどニューヨークも冷えるぞ」「まだ外に出ていないもの判りません」ジアエが引いてきたキャリーバッグを受け取りながら話しかけるとやはり妻の方が一枚上手だった。緯度で言えばニューヨークは北緯39度51分、ソウルは37度30分だから日本で言えば秋田・岩手と新潟の違いがある。しかし、半島とは言え海に近いソウルと大陸の奥から寒風が吹き抜けるニューヨークではどちらが寒いのかは住み比べた経験がないので判らない。どちらにしても愛妻と一緒ならニューヨークどころかアラスカのアンカレッジでも温かく過ごせるだろう。
「そう言えば両親がタイガーは韓国でソルラルを迎えることはできないのかって訊いていました」ジアエの両親は最初に会った時に伝えた愛称をまだ使っているようだ。確かに1人娘であるジアエがソルラルとチュソク(太陰暦の8月15日)に帰宅しないのは寂しいはずだ。何よりも儒教の慣習をキリスト教式に勤めている韓国ではそれが祖先供養を軽視していることになるのは間違いない。
「一度、チュソクの墓参りに行きたいとは思っているんだがな」「私も日本の盂蘭盆会に大垣市のお墓に行こうと思っています」韓国では公的行事は太陽暦で行われるが、民間の伝統行事は太陰暦だ。おまけに社会全体で一昔前の日本のような勤労意欲を要求されているため、軍の士官がソルラルとチュソク以外にまとまった休暇を取ることは困難だった。
岡倉とジアエは手荷物を置くため一旦、アパートに帰った。ドアを開ける前に確認すると上部にテープでつながれた凧糸が張っている。これは出かける時には少し開けた隙間から糸を張るようにしているのだ。こうすれば不在中に侵入した者があれば察知することができる。古典的だが有効な対策だった。勿論、ドアノブも交換してある。
ジアエが荷物を開けて衣類をハンガーにかけて整理している間に岡倉はコーヒーを用意した。ただし、お湯を沸かしてペアのマグカップで作る日本製のインスタントだ。
「貴方、高仁智(ゴ―・インジ)をおぼえている?」ソファーに向かい合って座るとマグカップを持ってジアエが質問してきた。
「アフガニスタンに派遣されていた君の同期だろう」「うん、そうなんだけど・・・」言葉を途中で濁してジアエはコーヒーを口にした。その表情からは暗さと重さが同時に感じられる。
「実はアフガニスタンでの部下の親から民事訴訟を起こされたの」「彼女のやり方ならイスラム教徒に批判されるのは判るが、どうして部下に訴えられるんだ」確かにアフガニスタンの診療所での高中尉は入院患者にキリスト教の慣習を押しつけていたが、働いていた韓国兵たちもクリスチャンだったはずだ。岡倉の質問にジアエの顔は暗く重いまま強張った。
「田智賢(チョン・ジヒョン)と言うWACが現地の男たちに集団レイプされたんだけど・・・」「田上等兵が!」岡倉の脳裏に消灯後の病棟で白一日(ぺク・イルイル)上等兵と愛し合う場所を探していた田上等兵の芋娘っぽい顔が甦った。あの若いカップルがそのような悲劇を経験するとは予想もできなかった。
「田上等兵の親は『現地人が娘を襲ったのは高中尉がイスラム教徒の反発を買うような施策を行ったことが原因だ』と主張しているのよ」「うーん、確かに否定はできないな。それにしてもどうして軍内の問題が民事訴訟になるんだ」岡倉の質問にジアエの顔には憤りが加わった。
「現政権になってからは前政権以上に軍内では新米派が徹底的に排除されていて、同時にマスコミが軍の不祥事探しに血眼になっているの」「まるで日本のマスコミみたいだな」「日本軍(=自衛隊)はどん底から這い上がって来たけど韓国軍は誇りだけは高いから国民からの批判には意外に脆いのよ」ジアエがこのような不満を抱えているのであれば休暇は海外で過ごさせた方が良さそうだ。
- 2017/04/20(木) 09:20:34|
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朝日新聞は平成元(1989)年の明日4月20日の夕刊に取材者が自分で傷つけた青サンゴの写真を掲載しました。
野僧は沖縄の航空自衛隊で勤務していたため地元2大紙の悪意を以って事実を歪曲した紙面を日常的に見ていたのですが、友人(琉球大学教授と政治団体の代表)の紹介でその2大紙の記者たちと付き合い始めると「沖縄が本土に復帰した時、毎日新聞が琉球新報、朝日新聞は沖縄タイムスを兄弟紙化して極端に偏向した政治思想を持った記者を本土から送り込んで取材や編集の手法を伝授した」と教えられました。この話は事実だったようで、帰省して父親の実家に連行されると伯父は朝日新聞が大々的に在沖縄米軍と航空自衛隊の協同訓練に対する批判を展開している記事を取っていてそれを示しながら徹底的な叱責を受けたのです(吹けば飛ぶような3等空曹を責められても困りますが)。
結局、父親兄弟は野僧が操縦技術の向上と言う訓練の目的と沖縄周辺空域で起きている軍事的緊張の激化を説明しても一切耳を貸さず、酒席がお開きなるまで「朝日新聞が行っているのだから」と責め続け、父親は休暇が終わり沖縄に帰るまで朝日新聞の批判記事を見つけては叱責することを繰り返したのでした。
どうやら朝日新聞と言うのは読者の自己判断能力を衰退させ、自分の報道だけが事実であるかのように暗示をかける紙面作りをしているようで、中学校の教師であった伯父だけでなく小中学校・高校の教師たちの多くも朝日新聞の論調を鵜呑みにして、それをそのまま生徒に教え、「受験には朝日新聞の天声人語から出題される」と言って購読を勧めていたのです。
そんな朝日新聞が事実の歪曲や一部のみを取り上げて誇張する常套手段を越えて「沖縄で」やらかしたのがこの事件でした。
この日の夕刊の1面の連載記事「写‘89『地球は何色』」に6段抜きのカラー写真が掲載され、その上には「サンゴ汚したK・Yってだれだ」と言う大見出しが躍っていたのです。本文では沖縄でも八重山地方の竹富島の沖にある高さ4メートル、周囲20メートルの世界最大の青サンゴが『K・Y』と傷つけられていた」と言う事実と一度傷つけられたサンゴの傷が修復するには信じられない程の期間を要することを紹介しながら、「『K・Y』のイニシャルを見つけた時、しばし言葉を失った」と強い衝撃を受けたように述べ、最後は「将来の人たちが見たら、80年代日本人の記念碑になるかも知れない。精神の貧困と、すさんだ心の・・・それにしても『K・Y』って誰だ」とまとめていました。この記事を受けて早速、沖縄の2大紙では青サンゴがある海域は本土からのダイバーの人気スポットになっており、「犯人は本土の人間」と一方的に断定して毎度の反日キャンペーンを開始したのです。
ところが青サンゴを管理し、本土からのダイバーを案内している竹島島のダイビング組合(当時の組合長は野僧の友人だった)が「前日までは異常はなく、傷がついた日には朝日新聞の取材陣だけしか案内していない」と自作自演を告発したのです。組合長は朝日新聞に対して事実確認を求めたのですが「朝日新聞がそのようなことをするはずがない」と受け付けることもなく、さらに沖縄の2大紙は組合長が本土からの移住者であることから「保守系政治団体からの依頼で朝日新聞に不利になるような証言を行った」と得意の推測記事を事実のように書き立て始めました。
しかし、八重山地方ではサンゴ礁を埋め立てての新石垣空港の建設に反対する団体がこの事件を自分たちの運動に利用するようになり、さらに組合長が他の新聞社などの疑惑を持ち込んだため(この辺りが本土の人の行動です。沖縄には2大紙しかありませんから)朝日新聞は内部調査を実施せざるを得なくなり、1カ月が経過した5月15日になってようやく記者会見を開き、「こすっただけ」と弁明した上で翌日の朝刊で「うっすらと付いていた傷を擦って強調した」とあくまでも撮影効果を狙った工作だったと強弁したのです。それでも謂れのない批判に晒されていたダイビング組合と逆に活況保護を主張してきた朝日新聞の裏切りに怒り心頭に達した空港反対団体は納得せず、結局、5月19日になって「東京本社のカメラマン(本田嘉郎)が無傷だった青サンゴに文字を刻みつけた」と認め、本人は懲戒免職、編集部長と写真部長も管理責任を問われて更迭、そして朝日新聞の社長も辞任に追い込まれたのです。しかし、一緒に潜水して青サンゴを傷つけているのを見ていた(=消極的共犯)西部本社のカメラマンは停職3カ月の軽い処分だけでした。さらに当時は環境破壊に関する法令が未整備だったため実行犯や関係者は処罰を受けていません。
それにしても実行犯の本田嘉郎、共犯者の村野昇のイニシャルは「K・Y」ではありません。「K・Yってだれだ?」
- 2017/04/19(水) 09:17:00|
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「聡美さん、今夜は帰るからお母さんが帰ってきたら良く話し合いなさい」「待って、もうすぐ荷造りが終わるから」安川の父が階下から声をかけると聡美は自分の部屋のドアを開けて返事をした。どんやら本気で家を出るつもりらしい。
「安川さんが帰ると仰っているんだ。我がままを言うもんじゃない」白井は自分が追い返しておきながら、それが父の都合であるような言い方をする。この責任転嫁の巧みさも教師と言う人種の特性なのだろう。確かに教師と言う連中は何か問題があれば「生徒=本人が悪い」「家庭での躾が悪い」「環境が悪い」と弁明して学校と自分の責任は回避する。父は「1日でも早く聡美を引き取って息子の嫁に相応しい躾=人情を理解させるべきだ」と決意しながら白井家を後にした。
「シャワーを浴びます」荷造りが一段落ついたところで聡美はシャワーを浴びて眠ることにした。父親と2人で過ごす苦痛を思えば部屋の内鍵を閉めて眠ることが一番の解決策なのだ。それにしても母親も弟も帰宅が遅い。聡美は進学志望ではなかったため塾には通っていなかったが、東京の大学を目指している弟は1年生から進学塾で猛勉強に励んでいる。胸の中でそんな比較をしていると今日、卒業したばかりの高校が遠い別世界のように思えてきた。
「この下着を洗濯物にすると後が面倒だね・・・」浴室の脱衣所で聡美は脱いだ服と外した下着をまとめて部屋に持っていくことを決めた。私鉄の車掌である安川の父は曜日に関係なく明日も休日のはずなので電話をかけて迎えに来てもらうつもりだった。その時、脱衣所の引き戸が開けられた。
「まだいます」聡美は自分がシャワーを浴びに浴室に入ったと勘違いした父が洗面に来たのだと思って声をかけた。しかし、父親はそのまま入口に立ち、娘の裸を暗い目で眺めている。
「何を見ているのよ。出てって」聡美の声が怒気を含んでも父親は動かない。むしろ少しずつ近づいてきて肩に手をかけた。
「パパ・・・」聡美には何が起こるのか予想ができない。ただ、その眼鏡の奥の目に暗い炎が点ったのを見て悲鳴を上げようとした。しかし、父親は素早く娘の口を押さえた。
「お前も十分に大人だな。中学の頃から何人もの男に抱かれてきたんだから当たり前だな」娘を傷つける父親の言葉に聡美は何も言えなくなった。それを見越して父親は口を押さえた手を下げて乳房を掴み、聡美は硬直してしまった。
「アイツは残業なんて言っているが判ったもんじゃない。今頃、体育の教師とホテルで激しく運動しているのかも知れん」続いて父親は娘の乳房の大きさと弾力を確かめるように愛撫しながら妻=母親を侮辱する。これも父親なりの自己弁護なのかも知れない。
「その癖、アイツはあれ以来、俺には触れさせもしない。だから1年半もご無沙汰なんだ」そう言って父親は両手で乳房を掴んだ。聡美が中学生だった頃、両親の高校に進学した先輩から2人の不倫の噂を聞かされた。聡美は家庭での厳格な躾には反発を感じていたが、教師としての両親を尊敬していた。ところがその先輩から紹介された社会人の男の車に乗せられ、母が体育の教師と密会しているところを目撃してしまった。その夜、聡美はその男に純潔を奪われた。
「お前もパパが可哀想だと思うんだったら優しく慰めてくれ」父親はそのまま膝を曲げ、顔を乳房の高さにして口を開くと舌を差し出した。その瞬間、聡美は父親の顔面を力一杯殴っていた。これは安川に護身用として教えられた徒手格闘だ。父親は仰向けに倒れ、レンズが割れた眼鏡は吹き飛んで閉めていた引き戸に当たって床に落ちた。間もなく両方の鼻の穴から血が噴き出した。
「ざけんじゃねェよ。そうやって自分の生徒をモノにしたのかい」テレビ・ドラマのヒロインのような台詞を吐きながら聡美は父親の股間に蹴りを入れる。足の甲に硬くなったままの男根を感じた。
「グェーッ」父親は狭い脱衣所の床を転がりながらうつ伏せになって股間を抑える。聡美がその後頭部を足で押えると吹き出し続けている鼻血が床のマットを染めていった。
「パパのあそこは私の旦那さまに比べると随分小さいけど、ママが欲求不満になったのはパパのせいじゃないの。胸の愛し方も下手糞だったしね」攻守逆転、今度は娘が父親を侮辱する番になった。
その時、玄関から母親の「ただいま」と言う声が聞こえてきた。聡美は娘の声に戻してから「ママ、お帰りなさい」と返事をする。そして父親を放置して浴室に入った。
シャワーを止めると廊下からは「階段で転んで顔面を打った」と言い訳する父親の声が聞こえてきた。

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- 2017/04/19(水) 09:15:08|
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昭和20(1945)年の明日4月19日に帝国陸軍の船舶部隊(正確に言えば船単位の編制なので部隊ではない)の初代司令官を務めた鈴木宗作中将が第35軍司令官としてアメリカ軍を迎撃していたフィリピンのレイテ島から小舟で脱出してミンダナオ島に向かう途中で戦死してしまいました。
野僧が鈴木中将の名前を知ったのは海上自衛隊志望の高校生だった頃に毎月購読していた「世界の艦船」が揚陸艦艇を特集して、陸軍にも水上・海上輸送を専門とする船舶工兵(単に「船舶兵」とも呼ぶ)があり、その発展に貢献した人物として紹介されていたことによります。ただし、陸軍の海上輸送でも商船などを乗員まで徴用する場合は輜重科の担当になり、船舶工兵の任務はあくまでも戦闘を伴う着上陸です。
愛知県出身(市町村は不明)の鈴木中将は名古屋の地方陸軍幼年学校から中央幼年学校に進み、陸軍士官学校を明治45年に24期生として修了しました。その後、陸軍大学校を首席で卒業しています。大正期の軍人は日清・日露の戦争を終えて束の間の平和を満喫していた時代であり、第1次世界大戦後は世界的潮流として軍縮の気運が高まったため軍人の士気も低下していたと言われていますが、陸軍ではヨーロッパでの第1次世界大戦において飛行機、戦車、毒ガスなどの新兵器や通信連絡網による広範囲にわたる指揮・報告、塹壕陣地での攻防などの新戦術が発展したことでその情報収集に努めていました。
中でも地中海の島嶼やアフリカへの上陸作戦において力を発揮した上陸用艦艇については日本が島国であり、日清・日露戦争での朝鮮半島・仁川への上陸や青島要塞攻撃においても苦労した経験から強い関心を持ったのです。さらに陸軍はフィリピのアメリカ植民地軍(海軍は同じくアメリカ艦隊との太平洋決戦)を仮想敵としていた関係で上陸作戦を積極的に研究を進めることになりました。
それまでの陸軍では上陸作戦と言えば手漕ぎのボートで川を横切っての渡河を指し、本格的な船を建造する考えはなかったのですが、海軍が戦闘艦艇の拡充だけに執心している以上、独自に研究・建造する必要に迫られたのです。ところが軍縮の気運を受けた政府は軍事予算の削減に躍起になっており、その限られた予算を陸・海軍で奪い合っている中で艦艇の必要性を口にすれば海軍を利することになり、このため陸軍の上陸用艦艇の研究・開発は海軍にも秘匿されたのです。と言っても大手の造船会社は海軍がお得意さまであり、発注どころか研究を依頼すればたちどころに海軍の耳に入ることは明らかだったため、一定以上の技術力を有する中小の造船会社に相談していくしかありませんでした。と言うのも発注する側がズブの素人だったのです(漁師や船頭が徴兵されてくると優先的に配置していましたが士官は別でした)。
結局、港内で貨物船から荷物を積み替えて運搬する艀(はしけ)に毛が生えた程度のものから始まったのですが、これを一気に発展させたのは大陸戦線です。中国の河川の河幅は黒竜江(アムール川)で約10キロ、黄河で約18キロ、揚子江(現在は長河)は約40キロもあり、日本最大の湖である琵琶湖が22キロであることを考えれば敵弾雨飛の中で滔々と流れる大河を手漕ぎボートで渡河することは不可能です。こうして発動機付きの上陸用舟艇が建造されることになりました。
やがて前の扉を開けばそのまま着上陸できるアメリカ軍のLSDに相当する大発などが開発されますが、速度が極端に遅かったため護衛の戦闘艇が必要になったものの海軍との共同作戦を嫌う参謀本部の意向により、戦車砲と機関銃を搭載した護衛艇まで開発されたのです(中国の河川警備でも活躍した)。
鈴木中将は開戦時、山下奉文中将の第25軍の参謀としてマレー半島への上陸作戦やシンガポール島への渡航作戦を指導しており、翌年にはこの経験を持ち帰る形で陸軍兵器本部に転属し、続いて陸軍運輸部長、そして広島市の海田市に新設された船舶部隊の司令官に就任しました。
この時期に陸軍は独自の上陸用艦艇を次々と開発していきますが、中でも驚くべきは輸送用の潜水艦を実用化していたことでしょう。これはガダルカナルへの補給を担当する海軍が高速駆逐艦による輸送(=ネズミ輸送)が敵の迎え討ちを受けて損害が多くなったことから潜水艦によるモグラ輸送に切り替え、ある程度の成果を上げたため、陸軍も独自に使用できる輸送潜水艇を計画したのです。結局、この潜水艇は「ゆ号」と呼ばれ38隻が実戦に投入されましたが制海権を奪われている中での人員輸送(=高級将校の移動)などで活躍したようです。それにしても現在の海上自衛隊でも最高度の操艦技量を要すると言われる潜水艦を素人が使いこなして外洋でも航行していたことには敬意を表しなければなりません。
鈴木中将が司令官を務めた船舶部隊は大戦末期、日本海の隠岐島などの守備隊として配置されていたようです(拙作小説に登場する船舶工兵の子息である某1尉のモデルの父上の体験談)。
- 2017/04/18(火) 09:29:20|
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夕食を終えて安川の父が聡美を車で自宅まで送ると父親=白井が門の前で待っていた。父としては息子から告訴されそうになったことを聞いているのであまり好い感情は抱いていないのだが、そこは大人としての対応をすることにした。
「車はどこに駐車すれば良いのでしょうか」「裏通りは駐車禁止になっていません」窓を開けて質問すると白井は無愛想に説明した。そこで聡美を下して裏通りに車を止め、玄関に戻るとやはり白井と聡美が待っていた。
「始めました安川です」「白井です。娘がいつも押しかけましてご迷惑をおかけしています」白井はやはり教師として良識ある態度を演じた。型通りの挨拶が終わったところで白井が先に立って家の中に案内し、聡美と父が続いた。通されたのはやはり応接間だった。ここで久居の中隊長が大立ち回りをしたらしいことは息子から聞いているが、それは知らないことにする。
「まァ、どうぞお掛け下さい。家内は明日が試験なのでその準備で残業なんです。弟も塾の追い込みで遅くなります。聡美、お前がお茶をお出ししなさい」白井の指示に安川の父の隣に座った聡美は立ち上がり、台所へ歩いて行った。聡美がドアを閉めるのと同時に白井は話を切り出した。
「あのような不束な娘を可愛がっていただいて感謝しております」「いいえ、こちらにばかり来ていただいて親御さんとしては心配しておられるのではないかと案じています」安川の父としては聡美が隣りに座ったところで卒業の祝辞を述べるつもりだったのだが、白井が勝手に話を進めていくのでその機会を見失ってしまっている。ところが父親の話をその前段階を跳び越してきた。
「ところで本当にウチの娘を息子さんの嫁にもらっていただけるのでしょうか」「はい、本人同士の意思はそのように聞いています」「やはり・・・」安川の父の返事を聞いて白井は下腹の前で両手を組んだ。その顔にはこちらの真意を見抜いたような勝ち誇った薄笑いが浮かんでいる。
「やはり親御さんとしては高校に入る前から複数の男に抱かれたような娘を許す訳にはいきませんよね」「はッ?」「お断りになるのなら私の方から娘には言って聞かせますから心配しないで下さい」白井の一方的な話を聞いて安川の父は「この独善性が教師と言う人種の気質なのか」と今更のように納得してしまった。
「私どもとしてはむしろ逆で、今日の卒業を機会にして聡美さんをウチにもらい受けたいと思っているのです」「貴方は聡美が中学・高校で犯してきた非行をご存知ないのですか」どうやら白井は家庭でも生徒指導の教師としての仕事を実施しているらしい。その綺麗事と教え子を抱いた不祥事の落差を埋める努力を放置していることは聡美から不信・不満として聞かされている。
「いいえ、今日も卒業式の後、卒業生らしい男に脅されているのに立ち会ってしまいました」思いがけない話に白井は顔を強張らせ、結んだ両手に力を込めた。
「幸い私が間に立って収めましたが、早くウチの息子と結婚させて北海道で新生活を始めさせた方が聡美さんのためにもなると思うのです」その時、台所からケトルの沸騰を知らせる笛が聞こえてきた。つまり間もなく聡美が戻ってくるのだろう。
「それではお宅としてはご両親も全てを承知の上で娘を貰って下さると仰るのですね」「最終確認は息子が帰国してからになりますが」「帰国?ご子息は確か自衛官になったと記憶していますが、まさか・・・」「はい、イラクへ行っております」そこに聡美が3人分の湯呑と急須を載せたお盆を抱えて戻ってきた。聡美が茶を配り終えて席に着くと白井は命令口調で話しを始めた。
「聡美、パパはこの結婚の話には反対だ」「えッ?」唐突過ぎる結論に父と聡美は返事ができない。すると白井は湯呑の茶の湯気を吸ってから理由を述べ始めた。
「アメリカ軍が始めた戦争に加担してイラクの人々を迫害するような職業に就いている人間を義理とは言え息子にすることは我慢ならんのだ」父はこの極端に偏向した言葉を吐いている人間が県立高校の教師であることを忘れそうになってしまった。すると聡美が公然と反論した。
「そんな人を私もパパと呼ぶことはできません。今日、荷物を持って安川の家に帰ります。娘はいなかったと思って下さい。長い間、お世話になりました」一方的に話を終えると聡美は自分の荷物を片づけるためなのか部屋を出て行き、その背中を見送って白井は気まずそうな顔で話を締め括った。
「娘も卒業して気持ちが高揚しているのでしょう。今日のところはお引き取り下さい」白井が応接机に手を着いて頭を下げると流石に父もそれ以上の抗弁はできず今夜は引き上げることにした。
- 2017/04/18(火) 09:27:39|
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安川がイラクでの仕事に慣れてきた3月1日、日本では聡美が北尾張高校を卒業した。聡美の両親は高校の教師であり、自分の職場も卒業式なので出席できず、本人の懇願もあって安川の両親が出席することになった。
「F組の白井聡美の・・・」「ご両親ですね」「いいえ、舅と姑です」受付で案内の葉書を受け取って名簿に記入している教師の確認に父が正直に回答すると驚愕と怪訝が入り混じった顔を見上げた。
「シュウトって結婚相手の親と言うことですか」「それで不味ければ義父母予定者とでもしておいて下さい」「どちらにしても案内状がありますから受け付けます。本日はおめでとうございました」教師は列がつながってきたのを見て深入りを避けて処理したようだ。
「あの先生、和也の担任だった人よ」「自衛隊に入るのを反対した奴か」母が背広の胸に「保護者」のリボンをつけながら今思い出したかのように説明した。それを聞いて父は息子が自衛隊を受験したことを申し出た時、担任の教師が「それならば他の就職は推薦しない」と妨害したことを思い出してしまった。父としては息子も自分と同じ私鉄に就職させたかったのだが、高校の推薦なしでは受験資格すら与えられなかったのだ。
「まあ、忙しいところをからかわれて困っていたから許してあげましょう」「まだ足りないが仕方ないな」母の取りなしに父は渋い顔をしてうなずいた。
聡美は卒業式を終えてクラスでの談笑を切り上げると舅と姑が待つ駐車場に急いだ。自宅では明日から高校生になった弟の学年末試験が始まり、両親も同様なので聡美の卒業祝いをする余裕はないらしい。だから夕食は安川家で食べ、それから送ってもらうことになっている。
「おい、白井じゃあないか」聡美は玄関で靴を履き、上履きのサンダルをカバンに突っ込んで、裏口から出たところで若い男に声を掛けられた。その男は髪を金髪に染め、派手なスタジアムジャンバーを着て、裂け目が入ったダメージ・ジーンズをはいている。それは昨年の卒業生で入学直後に聡美を抱いたことがある男だった。男は無視して通り過ぎようとした聡美の腕を掴んだ。
「お前が安川の女になったから諦めたが、アイツは北海道へ行って帰ってこないって言うじゃないか。だったら俺が慰めてやるよ」そう言って男は聡美を引っ張って自分の車に連れて行こうとする。
「嫌―ッ」聡美はためらうことなく悲鳴を上げた。高校に入学した頃にこのような強引な誘いを受けた時には言われるまま身体を与えてしまっていた。しかし、今の自分は安川和也だけの物であると言う自覚が聡美の中で固まっているのだ。
「変な声を出すな!お前がそんな態度ならハメ撮り画像をネットにバラ撒いても良いんだぞ」そう言って男はジャンバーのポケットから携帯電話を取り出して片手で画像を操作し始めた。
「お前の画像は・・・これも違う・・・」どうやら男は聡美を狙ってきた訳ではなく、過去に抱いたことがある後輩を見つけて脅すつもりだったようだ。その時、大人の男性が声をかけてきた。
「聡美、遅いじゃあないか。待ちくたびれて缶コーヒーの自販機を探しに来たんだ」それは安川の父だった。男が手を放したため聡美は急いでその背後に隠れた。
「悪いが今の話は聞いてしまったよ」父の言葉に男は開き直ったように態度を変えた。
「それならその娘を貸してもらおうか。小父さんも痛い目に遭いたくないだろう」そう言って男は1歩踏み出して胸元を掴んだ。その瞬間、父はその男の手首を父は素早く捻り、同時に腕を背中に回して押し上げ、すると「ボキッ」と言う嫌な音を立てて男の腕が不自然に曲がった。
「ギャアーッ」今度は男が悲鳴を上げ、聡美も怯えたように父の背後後から様子を覗っている。
「肩の関節を外しただけだ。お前がその画像を消去すると言えばこの場で処置してやろう」「はい、します。します。・・・」男の返事に父は再び腕を捻ると「カクンッ」と言う音を立てて男の上では元に戻った。当然、2人の目の前で全てのエロ画像を消去し、背中を丸めて逃げて行った。
「大丈夫か」「はい、有り難うございました」聡美にはこの父=舅の顔が安川に見えた。
「あれは何の技なんですか」「私は車掌をしているだろう、だから護身用に合気道を習っているんだ」父の説明に聡美はうなずいたが、日頃の温和な態度からは想像できなかったのも確かだった。
「和也は聡美さんの全てを知った上で結婚を決めたんだ。ウチでは何も気にしなくて良い。北海道へ行けばここでの傷も癒えるはずだ」聡美は「お父さん」と呼んで腕を組んで歩き始めた。

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- 2017/04/17(月) 09:26:21|
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1790年の明日4月17日はアメリカでは今も絶大な人気があるらしいのですが、何をやった人なのかが判らなかったベンジャミン・フランクリンさんの命日です。
フランクリンさんと言えば野僧が子供の時には雷雲の中に鍵を着けた凧を飛ばして落雷させ、雷の瓶詰を作った科学者と習い、その後、100ドル紙幣や当時の半ドル硬貨に肖像が使われているのを見て「余程、偉大な発見か、発明をしたのだろう」と思っていましたが科学に関しては興味を持った程度に過ぎず、実験は本人ではなく異母弟(父親の愛人の息子)にやらせただけで、アラスカ人の彼女の両親の説明によると「無欲な政治家」として敬愛されているのだそうです。何よりも「他の政治家よりも可愛いらしい顔立ちが人気の秘密だ」と母(=空軍少佐の看護婦長)は言っていました。。
実際、フランクリンさんはトーマス・ジェファーソン第3代大統領、ジョン・アダムス第2代大統領、最も多くの政治家を輩出している家系の祖であるロジャー・シャーマンさん、そして憲法の制定にも関わったロバート・リビングストンさんと共にアメリカの独立宣言を起草しています。
この5人の中でもフランクリンさんは男女・階層を問わぬ人気があり、経済力も有していたので大統領の座は他の人物たちよりも近かったのですが、それをしなかったところにアメリカ国民は政治的な野心ではない高い精神性を見出しているのでしょう。
フランクリンさんはイングランドからの移民夫婦の子として1706年にボストンで生まれました。 ただし、父は亡没した先妻と4カ月後に再婚した後妻との間に17人の子供を儲けており(愛人との間にも子供がいた)、ベンジャミンくんはその15番目でした。
10歳で学校教育を終えると新聞を取材・編集・印刷・販売していた兄を手伝うようになり、マスコミとしての取材・文筆の能力と印刷工としての技術を並行して身につけました。
ところが兄の新聞の自由主義的な論調が植民地政府に問題視されて発行禁止処分を受け、兄が投獄されたため、12歳で発行人の代理を務めています。
その後、出獄した兄と新聞の発行を継続したものの再び発行禁止を受けたため17歳で発行責任者になったことから兄と対立するようになり、ボストンを出てフィラデルフィアへ移り、印刷工として働くようになりました。しかし、翌年には知事の勧めでロンドンへ行って腕を磨くことになり、2年後に帰国して印刷業を再開すると当時にいよいよ本格的に新聞の発行を始めたのです。
当時は植民地で最も購読者数が多かった新聞社を買収して、アメリカ(当時は東部13州のみ)では初となるタブロイド紙を発行するようになりました。ちなみにタブロイド紙とは現在の一般的な新聞の半分程度の大きさの小版で、ヨーロッパではこのサイズの新聞がスクープを連発していたため(紙面が小さい分、情報を集約できて速報に向いている)そちらの意味で用いられることもあります。その頃、発祥不明の結社(事業等の成功を社会奉仕などに投資している人物が多い)・フリーメンソンリーに入会しています。
それを実践するようにフィラデルフィアにアメリカ初の公立の図書館を建設し、日本の日々の情報や格言などを記したカレンダーのような「貧しいリチャードの暦」の発行を始め、やがてフィラデルフィアの郵政の責任者にも就任しました。補足すればフランクリンさんは当時の指導的立場にあった人物としては極めて珍しくアフリカ系奴隷制度には反対の立場でした。
こうして知名度が高まった頃、植民地の処遇を改善する交渉のためイギリスに派遣されますが、この時、前述の雷電の実験と避雷針の発明などの科学的業績に対してオックスフォード大学から名誉学位を贈与されています。
結局、この交渉は決裂して独立戦争に突入するのですが、フランクリンさんはイギリスを形成するために独立戦争を支持していた国王・ルイ16世のフランスを拠点としてヨーロッパ各地を奔走していました。
アメリカが独立を果たした後は再びフランスに渡り、パリで死去しました。84歳でした。
彼女の母から「ベンジャミン・フランクリン‘ズ 13 ヴァーチューズ(日本では『13の徳』と訳されることが多い)」と言う教訓を習いました。それは1、「TEMPERANCE(節制)」2、「SILENCE(沈黙)」3、「ORDER(規律)」4、「RESOLUTION(決断)」5、「FRUGALITY(倹約)」6、「INDUSTRY(勤勉)」7、「SINCERITY(誠実)」8、「JUSTICE(公正)」9、「MODERATION(中庸)」10、「CLEANLINESS(清潔)」11、「CHASTITY(泰然)」12、「CHASTITY(純潔)」13、「TRAQUILTY(謙譲)」で、軍の士官としての資質でもあると言っていました。その点、日本人は単純明快な「時は金なり」になりますか。
- 2017/04/16(日) 00:16:15|
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「君たちは慣れていないだろう。俺たちがやるから見ておけ」宿営地の外周沿いに杭を打ち終わると巻いた状態の鉄条網を運んで設置する作業が始まる。この作業は伸ばす者と送る者の呼吸が合わないと思いがけない動きをして怪我の原因になりかねない。そこで作業員たちに声を掛けた陸曹が別の陸曹と一緒に鉄条網の束を転がして伸ばし始めた。すると作業員たちが通訳を中心に騒ぎ出した。
「何だって?」「文句を言っているように見えるが」指揮官と先任陸曹は首を傾げながら顔を見合わせた。そこに各部族の通訳になっている作業員が一緒に歩いてきた。
「我々に仕事をやらせないのは雇用契約に違反する」「この分を給料から引かれては収入が減って困る」彼らの英語も習ったものなので使っている単語や文法は日本人と大差はない。そこで指揮官である部内出身の1尉が英語で説明した。
「ユー アー ノット ベテラン。アワ― ワーク ルッキング」これでは知っている単語を並べただけだ。そもそもベテランは退役軍人や老朽化を意味する単語なので「ノット」を付けられても言いたいことは通じないだろう。やはり通訳は首をひねって何かを質問したが、これも通じなかった。そこで指揮官は陸曹の作業を手伝っている安川士長を呼んだ。
「はい、安川士長」「お前、さっき見事な英語をしゃべったな。通訳してくれ」「えッ、自分がですか?」安川士長も英語が得意な訳ではない。ただ母親が英語の教師である聡美が得意だったため、部屋で過ごす時に英語の歌を聞き、字幕の洋画を見ながら習っていただけだ。しかし、ここは自衛隊、上官の命令には最善を尽くすしかない。安川士長は咳払いを1つすると怒ったような顔をして見ている作業員たちの前に出た。
「アワ― コマンダー セイド(我々の指揮官が言うには)」話が始まって作業員たちは身構えた。
「ユー アー アンスキルド(貴方たちは熟練していない)」「ウィ ドゥー ディス ジョブ(この仕事は我々が実施する)」「ビコーズ イッツ デンジャラス(何故なら危険だから)「ユー キープ ワッチ(貴方たちは見ていてくれ)」これもあまり高度な英語ではないが、先ほどの英語よりは通じたようだ。作業員たちはうなずきながらも1番の関心事=大問題を質問してきた。少し興奮気味の英語は早口になるので聞き取りにくいが、「マネー」を連呼しているので給料の心配を訴えていることが判った。そこで安川士長は振り返って指揮官に「給料のことを訊いています」と説明した。
「ウィ ペイ ユー ジョブ マネー(我々は貴方たちに仕事の金を払います)」本来は「サラリー」と言わなければ給料にはならないのだが、その単語が思い浮かばなかった。それでも相手の英語も似たようなものなので無事に交渉は成立した。
「そろそろ昼前の礼拝の時間だな」作業員たちが手順を理解したところで仕事は協力する形になった。こうなると進捗は早い。然も自衛官たちが率先して作業に当たっているため、作業員たちもやる気を出している。このためイスラムの人々が絶対に守らなければならない慣習である昼前の礼拝の時間が近づいても気づかないようだ。
「おーい、午前中の作業を終わろう」指揮官は腕時計を見て作業している隊員と作業員たちに声をかけた。すると隊員たちがそれぞれ「AM(午前?) ワーク フィニッシュ」と説明を始めた。やはり一緒に汗を流すと言葉ではなく意思が通じるようになるようだ。そこで指揮官は「サラー トタイム(礼拝の時間)」と大声を出した。すると各部族の最年長の作業員が太陽を見上げ、昼前であることを確認した後、敷物を探し始めた。礼拝は地面に直接ではなく敷物を用いて行うのが作法のようだ。
「毛布を使うように」指揮官は英語で説明しようと思ったが、「毛布」の「ブラケット」と言う単語が出てこなかった。そこで仕方なく「ヘア カーペット」と言う酷い誤訳をしたが、それでも通じたようで、トラックの荷台から負傷者と熱射病患者が出た時の応急処置用に積んである毛布を配り、各部族ごとに詠唱を始めた。
「アッラーフ アクパル(アッラーは偉大である)」年長の男が節をつけた詠唱を4回繰り返し、それに合わせて他の男たちはアラビア語で「礼拝の意思表明」を始める。自衛官たちは黙って帽子をとり頭を垂れている。日本では好奇の対象に過ぎないイスラムの礼拝もこうして人々の真剣な態度と荘厳な作法を目の当たりにすると自然に頭が下げてしまうのだ。
「ウチも安全祈願をしたいが坊主はいないかな」「北キボールにはいたそうですが、今回は残念ながら・・・」指揮官と先任陸曹の小声の会話を聞いて安川士長は久居の中隊長のことだと察知した。
- 2017/04/16(日) 00:14:40|
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サマーワでの活動は川の水を浄化してそれを水タンク車で配って回る給水と病院や学校などの修理、さらに医官による診療や防疫が中心だ。その前に宿営地の整備も進めなければならない。地元民の雇用は同じイスラム圏であるゴラン高原や北キボールで経験しており、加藤1佐は1カ月にわたって下地をならしていた。
「どうもサマーワ市民は自衛隊が大規模な土木工事をやって雇用が生まれると期待しているようです」「そう言われても我々は普通科だから日曜大工の延長程度の仕事しかできないぞ」サマーワでは加藤1佐が晩鐘1佐を出迎えた。2人は防衛大学校では1年と4年の後輩と先輩だった。
「その辺りは説明に努めていますが、部族間の駆け引きもあって一筋縄にはいかないのです」「我が薩摩と君の会津も郷中や什(じゅう)の教育で結束が強かったが、どこか似ているな」実は晩鐘1佐は薩摩隼人、加藤1佐は会津人なのだ。陸上自衛隊としては晩鐘幕僚長の次は中2年で加藤幕僚長と言うプランを描いているが、知名度が上がっている加藤には政権与党から誘いが来ているらしい。
「何にしろ北キボールの時のように部族に人数を割り振って作業員を推薦させる方式がよさそうです」「同じイスラム教徒だから北アフリカもイラクも変わりはないだろう」「サウジやイランのスンニ派とイラクのシーア派を一緒にはできませんが」ここで2人は冷えた日本製の缶コーヒーを飲み干して幕僚たちを呼んで状況の説明と引き継ぎを始めた。
「アジズのエアシク(一族)」「1(ワン)、2(ツー)、3(スリー)、4(フォー)、5(ファイヴ)。5人、良し」・・・「ニカイのエアシク」「1(ひー)、2(ふー)、3(みー)、4(よー)、5(いつ)。5人、良し」翌朝、各部族から差し出された作業員が集まると、先任の陸曹が日本語と英語とアラビア語を交えて点呼を取り始めた。イラクでは見渡して頭数が揃っていれば可とするため、日本的な人員の把握に戸惑った顔をしている。すると案の定、1名足らなかった。
「ネアヤ!」ここで先任陸曹がアラビア語で「気をつけ」と号令した。本人としては練習をしてきたのだが、やはりアラビア語ガイドブックで調べた片仮名では発音・アクセントが違うようで誰も反応しない。そこでいつものように日本語で「気をつけ」と号令をかけるとそれなりに姿勢を正した。しかし、北キボールでの教訓もあり各部族には英語を理解できる者を通訳として入れるように要請しているのだからアラビア語にこだわるのは日本的な過剰サービスなのかも知れない。
「報告します。本日の作業員、未到着1名を除き、49名、隊員との合計99名集合終わり」先任陸曹は自衛隊の点呼式に未到着の1名の部族名も報告しようと思ったが「恥をかかせた」と後で問題になる可能性を考えて省略した。それも先遣隊から受けたイスラム人気質に関する助言だった。
「バキア」作業指揮官もアラビア語で号令をかけたがやはり反応しない。そこで日本語で「休め」と言ってからゼスチャーで指示した。
「本日は宿営地の外柵として鉄条網を構築する」続いて作業指揮官は英語で説明し、各部族の者が通訳をしているが北キボールに比べてイラクはイギリスの植民地だっただけに英語の理解度は高いようだ。ただし、作業員たちは先に展開しているオランダ軍の宿営地の建設にも関わっているためあまり反応はしない。むしろ早く日本人が消えて好き勝手に仕事を進められるのを待っているらしい。
「鉄条網を取り扱う作業は怪我することが多いから現地の人たちも遠慮なく申し出るように」現地指揮官が細かい注意事項の最後にこう付け加えると作業員たちは自分の耳を疑ったかのように通訳に意味を訊きだした。どうやら彼らが参加した外国軍での作業では、現地人の作業員が負傷しても治療を請け負うことはなかったようだ。
「セフティ―・グローブ(=安全手袋)を渡す。これはレンタル(=貸与)だから後でバック(=返却)するように」作業を始める前、陸曹が段ボールに入れた安全手袋を配ると作業員たちは我れ先に手を伸ばした。その横で自衛官たちは「レンタル」「レンタル」「ノット プレゼント(プレゼントではないぞ)」と乏しい英語力を最大限に発動し始めた。それでも作業員たちは受け取った手袋を上着の中に隠し、もう1つ取ろうとしている。そこに少し高度な英語を口にした者がいた。
「ウィ ドント ギブ ユー ディス グローブ。バック トゥー アス。アフター ジョブ」これは「意味が通じないことはない」程度の初級英語だが、作業員たちの騒ぎは収まった。やはりバブルが弾けた後に入隊した安川はそれなりに勉強も励んでいたらしい。
- 2017/04/15(土) 09:46:49|
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本日4月14日は現段階では韓国限定の14日シリーズ第3弾であるブラック・デーです。
韓国では日本の菓子メーカーが作って流行させた2月14日のバレンタイン・デーと3月14日のホワイト・デーの風習をそのまま利用しており、本来はカソリックの祝日である2月14日も宗教儀式ではなく女性が男性にチョコレートを贈って告白し、1カ月後の3月14日には男性が承諾の証としてホワイト・チョコを返礼するそうです(若干の変質はあるらしい)。
日本では史実から言えば間違いである12月25日のクリスマスを加えた柳の下の4匹目の鰌(どじょう)として現在は仮装行列の後、お菓子を配るハロウィンを流行させようと画策していますが、韓国では第3弾が自然発生的に始まっているのです。
その4月14日に行われるブラック・デーは2月14日に告白されなかった男性と告白する相手がいなかった女性、さらに3月14日に応諾してもらえなかった女性、つまり「独り者の日」とされています。
発祥は1990年代の前半の4月14日に黒い服を着た若者が1人で豚肉と玉葱を黒味噌で炒め、片栗粉でとろみをつけた汁を麺にかけたチャンジョンミョンと言う料理を食べていたことが、妙に広まったことだと言われていますが、当然ながら確証はないようです。
ただ、どう言う訳かこの男性にあやかって4月14日に黒い服装で黒い面を食べる人が増え始め、やがて韓国中に広まり、気がつけば男女を問わず独り者同士で黒い服装を着て集まり、一緒に黒い麺を食べるイベントになってしまいました。
現在では黒い服装だけがマナー化して、口にするのは黒い麺だけでなくブラック・コーヒーやココア、さらにブラック・カレーなど黒いものならそれで良いことになっているようです。
この話を聞いて野僧はデート中にイカ墨スパゲティを食べて鉄漿(おはぐろ)を入れたようになり、舐めて取らせてくれたWAVES(海上自衛隊の女性自衛官)を思い出してしまいました。
実際、韓国のドラマや映画などでは「今年の4月14日は黒い服を着ることになりそう」と言う台詞が恋人がいないことを告白する意味で用いられているそうですからかなり定着しているのでしょう。
その一方で、この日に黒い服装をしているだけで「独り者」と言う看板を掲げているようなもので、恋人を探している者が声をかける好機にもなっているようです。確かにタイプの異性に会っても「彼氏(彼女)はいますか」とは訊きにくいものなので一目瞭然なら非常に便利です。
要するに黒い服装をしている者同士で意気投合すればその場でカップルが成立する訳でブラック・デーも恋人を見つける日と言うことになります。それでもカップルが成立すればその足で服を買いに行かなければマナー違反になりそうです。
余談ながら日本の4月14日は農協の愛媛支部が定めたオレンジ・デーなる夫婦の日ですが、蜜柑は夏から冬の果実であり、強いて言えば夏蜜柑になるので正確に言えば「ビター・サマー・オレンジ・デー(甘夏ならスウィートがつく))でしょう。
その点、韓国のオレンジ・デーは11月14日なので、恋人同士でオレンジを食べ、オレンジ・ジュースを飲み、無理なく味わうことができます。
日本の若者も菓子メーカーの画策に乗せられたマスコミの喧伝を追うだけでなく、自分たちで新たな風習を創設して企業に追従させるくらいの気概を発揮してもらいたいものです。
それをやったのは節分の日に巻き寿司を吉祥の方向を向いて無言で食べる「恵方巻き」くらいでしょう。あれは大阪は天王寺の寿司店が地域限定でやっていた風習が広まったのです。
現在は航空総隊司令部で警備戦術の研究をしている弟分が高校時代、その店でアルバイトをしていて初めて知り、東大阪市の自宅や学校で訊いても誰も知らなかったのが10数年後には全国的な風習になっていたそうです。
その前に佛教の伝統行事を守りましょう。現在も春彼岸の牡丹餅(ぼたもち)、秋彼岸のお萩(おはぎ)、盂蘭盆会の落雁(らくがん)が定番になっていますが、4月8日の花祭りを大々的に祝うようになれば生花業界には格好のイベントだと思います。2月15日の涅槃会には色とりどりの餅を配りますし、12月8日の成道会には乳粥に代えて甘酒を飲む風習がありますから業界の売り出し方次第です。
- 2017/04/14(金) 09:03:04|
- 日記(暦)
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安川は2月8日にイラク南部のサマーワに到着した。クエートのムバラク空軍基地までは何と政府専用機のジャンボ・ジェットだった。この機体は航空自衛隊が管理・運用していることになっているが、実際は外務省が統制しており、点検を超える整備は委託を受けている全日空が担当しているのだ。ところが今回は機内を一般の旅客機仕様に変更した上で輸送機として使用できた。つまり支持率が高い総理大臣の命令には独善的で自己満足な外務官僚も黙って従うと言うことを証明した形だ。
到着して早々に晩鐘連隊長は日本だけでなく欧米のマスコミにも取り囲まれて即席の記者会見に臨むことになった。先ずはイラク国民に向けたメッセ―ジからだ。
「我々は貴方たちの友人としてサマーワに来た。我々日本人も60年前の先の大戦で敗れ、国土は焦土と化した。全てが無に帰し、食料にも困る日々が続いた。そんな廃墟の中から我々の祖父母、父母の世代は立ち上がり、大変な努力をして日本を復興させた。そして、その結果、いまや世界第2位と言う日本を築き上げることができた。メソポタミア文明と言う人類にとって偉大な歴史を有する貴方たちイラク人は偉大な国民だ。貴方たちに同じことができないはずがない。我々は友人として貴方たちが立ち直るお手伝いをしに来たのだ」連隊長の流暢な英語でのメッセージにイラク人の記者は感激した表情を見せたが、欧米の記者たちは冷ややかな態度で舌打ちしたように見えた。日本の派遣部隊の指揮官が敵対国であるイラクを「友人」と呼んだことは、アメリカから受けた仕打ちを忘れず敗戦国同士の結束を訴えたとしか理解できないのだろう。そんな中で日本人の記者たちは通訳なしの英語であったことに困惑し、期待していたアメリカの飼い犬・軍人としての発言もなく、カンボジア以来続けてきた自衛隊の海外派遣を危険視する記事にならないことに落胆していた。
ここからは1月からサマーワで活動を開始している先遣隊が軽装甲機動車やトラックを連ねて迎えに来ており、前後をイラクに於ける多国籍軍に加わったオランダ軍が警護している。
「さて安川士長、スーパーうぐいす嬢作戦を開始するか」トラックのドライバーの陸曹は助手席に座った安川に声をかけた。「スーパーうぐいす嬢作戦」とは第3普通科連隊が編み出した秘策である。つまり日本の選挙の街宣車の助手席に座ったうぐいす嬢が沿道の人たちに愛想好く手を振るようにイラク市民を見かけたら笑顔で手を振り、合図も努めて手信号を使うと言うものだ。
「それはサマーワに着いてからでしょう」「いいや、ぶっつけ本番よりも練習を兼ねて実施して見ろ」「はい、実施します」新米士長の安川はベテランの陸曹の命令にうなずいた。
クエートからイランに向かう車窓から見える風景は砂漠ばかりだ。この風景を聡美にも見せてやりたいと思っていたところへイラン人の行商が視界に入ってきた。
「スーパーうぐいす穣作戦、実施!」「はい、安川士長」ドライバーの命令に安川は名寄で練習してきた通り、満面の笑顔を作り行商の小父さんに手を振った。すると前の車両も実施したらしく、呆れたような顔で手を振り返してくれた。
「続いてカメラマン発見、実施!」「奴らにもやるんですか?」「相手を選んで良いとは言われていないだろう。自己判断は禁止」「はい、実施します」沿道でカメラを構えている一団が近づいてくる。その向こうには日本製のワゴン車が見えた。つまり日本のテレビ局の記者とカメラマンだろう。
「聡美!」安川はニュースで自分が映ることを願いながら顔中で笑って両手を力一杯振った。
「お前たちはどうして全身に標的をつけているんだ?」休憩時間に警護のオランダ軍の上等兵が数少ない陸士である安川に声を掛けてきた。オランダ兵から見れば白地に赤い丸の日本の国旗は射撃の標的にしか見えない。自衛官たちはそれをヘルメットの正面、右胸、左肩、背中にまで装着しているのだから彼らに言わせれば「私は標的です」「狙ってくれ」と言っているようなものだ。
「うん、『日本の自衛隊であることをアピールした方が安全だ』と言う先遣隊からのアドバイスなんだよ」安川の英語もオランダ兵と同じレベルなのでそれ以上の質問と説明は成立しなかった。その陸上自衛隊の先遣隊長はゴラン高原PKOの指揮官(当時は3佐)としてイスラムの人々に愛され、親しまれた加藤正文1佐だ。加藤1佐はアメリカ陸軍のCGS課程を卒業している佳織の先輩でもある。
加藤1佐はシリアでの経験でイスラムの人々はアメリカが喧伝するような危険な民族ではなく、むしろ古き日本に似た精神風土を有していることを熟知しており、今回も鼻の下に蓄えたトレードマークの髭を大いに活躍させていた。
- 2017/04/14(金) 09:01:32|
- 夜の連続小説8
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慶長3(1612)年の明日4月13日に巌流島の決闘が行われて、敗れた佐々木小次郎さんが亡くなったことになっていますが、この多くの部分は吉川英治さんが小説「宮本武蔵」で描いた虚構で、史実としては佐々木小次郎とされている敗者の姓名や年齢、出身地や経歴などの大半は不明=謎なのです。
吉川作品での敗者は佐々木小次郎とされ、長身の美丈夫で稚児髷のまま赤い陣羽織をまとい、長さ3尺余の「物干し竿」と称する野太刀を背負っているように描かれてしました。また、生国=出身地は岩国とされ錦帯橋の下の錦川の川面を飛ぶ燕を相手に剣を振り、やがて斬り払うことができたことで活眼し、「厳流」と言う流派を開いたことになっています。
このため映画「宮本武蔵」では月形龍之介さん(戦前の公開)や鶴田浩二さん、高倉健さん、田宮次郎さんなど、テレビドラマでも木村功さん、仲谷昇さん、山崎努さん、東千代之介さん、村上弘明さん、宅麻伸さん、吉田栄作さん、松岡昌宏さん、沢村一樹さんなどの長身の二枚目俳優が演じることが多かったのです。
また山口県下では巌流島が目の前にある下関市では宮本武蔵を持て囃しているものの吉川作品で出身地とされている岩国市では佐々木小次郎さんを観光客誘致の材料にしています。しかし、錦帯橋は決闘から60年経ってから建設されたので錦川で剣術の修行をしただけなら兎も角、橋もセットにすると間違いになります。尤も、元々が歴史の捏造を得意とする県民ですがこの程度は全く気にせずに郷土の誇りとして子供たちに教え込むのでしょう(そんな例は幾らでもあります)。
それではこの日、巌流島で命を落とした敗者の実像はどこまでわかっているのかと言うと江戸時代から関係者が好き勝手を書き残しているため収拾がつかなくなっています。
先ず名前については剣術指南役として雇ったはずの小倉藩では細川家が熊本へ移封になり、宮本さんの養子で細川家から藩領を継承した小笠原家の家老になった伊織さんが養父の没後9年目に建立した顕彰碑に「岩流(がんりゅう)」と言う流派と号を兼ねていたらしい名前しか遺っていません。「佐々木」と言う姓と「小次郎」と言う通称は武蔵さん没後、1世紀半近く経ってから記述された読み物「二天記」からです。
この伊織さんが建立した顕彰碑は自己顕示欲の塊のような養父からの伝聞情報を堂々と記述しているため歴史的に疑問を禁じ得ないような内容に証拠を与える形になっているのです。
年齢も60歳を過ぎていたとするものから70代までかなり高齢だったことになっており、若し、当時の平均寿命を大幅に超えた60歳を過ぎていたとすればトレードマークの赤い陣羽織は還暦の赤いチャンチャンコになってしまいます。ただし、この年齢は剣術を学んだ師の年齢から推定したもので、生年を記録した文書が残っている訳ではありません。
なお伊織さんの碑文では18歳と言うことになっており、この辺りが歴史的信憑性に欠けると揶揄される所以でしょう。確かに高齢の剣術家を成年の宮本さんが倒しても自慢にはならず、逆に若く血気盛んな剣士を倒せば実力の差を誇示することになります。
出身地についても豊前国田川郡副田庄(現在の田川郡添田町=「青春の門」の舞台)とする地元説や遠く越前国宇坂庄(現在の福井市)とする説があり、越前説では錦川ではなく一乗谷で燕返しを編み出したことになっています。
また、吉川作品では敗者を精神的に興奮状態にして冷静さを失わせるため対岸の下関に宿泊し、刻限に遅れた上、長く邪魔になる鞘を捨てたことを「小次郎、敗れたり。鞘を捨てたのは再び収めることがないからだ」と挑発したことになっていますが、顕彰碑では刻限に尋常に勝負したことになっています。
試合の様相についても諸説があり、例えば宮本さん側が弟子を4、5名連れてきて取り囲み、動きを封じた上で撲殺したと言うものや木剣の一撃では即死にはならず宮本さんが退去した後、息を吹き返したのを残っていた弟子がとどめを刺したと言うものまであります。
そもそも決闘の経緯も小倉藩の剣術指南に雇われていた敗者に細川公が宮本さんとの対決を所望したと言うのが吉川作品ですが、江戸時代の歴史草子の中には細川公が京で宮本さんを雇い、それを横取りしようと敗者が挑戦してきたことにしているものもあります。
元々、決闘の地となった小島は関門海峡に浮かぶ船のような姿であることから「舟島」と言う名前で、決闘後、地元では死んだ敗者の名前から「岩龍島」と呼ばれていました。それが巌流島になったのですから、この敗者の流派と号を「岩流」ではなく「厳流」とする史実がどこかにあるのでしょう。
歴史小説は面白いですが、主人公を身贔屓せざるを得ない限界も踏まえて読まないと認識を誤ります。
- 2017/04/13(木) 10:03:30|
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1月12日の成人式を終えて安川は2月3日にイラクへ出発した。一面の銀世界の旭川で行われた壮行式には自衛隊の海外派遣では初めて総理大臣が出席したが、安川の両親も聡美を連れて駆けつけた。
聡美は学年末試験が終わっており、他の同級生たちは大学受験に立ち向かっている中で受験も就職もしない生徒が卒業生の両親と旅行に出かける不可思議な出来事に関心を払う余裕はないようだ。
「聡美、そのコート、よく似合っているよ」「うん、暖かくてよかった。ありがとう」安川は両親が聡美を連れてくると聞いて旭川市内の衣料品店で防寒用のコートを買って送った。防寒用衣類や靴はやはり北海道で買わないと袖口の密封性などが違うのだ。
「まったく親よりも恋人を優先するなんて間違っているぞ」「そんな風に育てた覚えはないよ」両親は2人の姿を見て、笑いながら怒っていた。
「それにしてもやっぱり北海道は広いな。旭川の空港へ下りる時に窓から見た大平原には感激したよ」父は札幌までは来たことがあっても旭川は初めてだった。一方、母と聡美は初めての北海道だ。それでは雪で細かい建物や工作物は埋もれているので一面の大平原に見えても不思議はない。
「でも折角の北海道を案内できなくて残念だよ」「ううん、名古屋から旭川へは1日1便だけ運行しているから、上手く時間を作って観光するよ」「どこかお勧めは」「美味しい物もね」こうして話していると知らない間に聡美は安川家に溶け込んでいて、どちらが子供なのか判らなくなる。それも安心ではあった。
「やっぱりお勧めは旭山動物園だね。後はアイヌ村へ行くと意外な物を見られるよ」「意外な物?」「うん、飯田線を作った時、旭川のアイヌの人たちが動員されたんだって」安川の説明に両親は意外そうな顔を見合わせたが、聡美だけはポカンとしている。愛知県でも真反対の東三河にまでは知識と意識が及ばないらしい。
「飯田線って豊橋から飯田につながっている電車(当時は汽車だった)だろう。意外なところでお世話になってたんだな」「貴方がここで頑張っていることが恩返しになっているのかもね」この能天気な反応が安川家の長所のようだ。だから聡美も自然に家族になれたのだろう。
「間もなく式典が始まります。隊員は式典の隊形に整列しなさい」その時、第2師団司令部の司会者がマイクを使って案内して、夫や兄弟、息子を囲んでいた家族の間から悲鳴に似た声が上がった。
「聡美、行ってくる」「うん、待ってるよ」安川は聡美を強く抱き締めて口づけをした。それを両親も黙って見守っている。母にとっては息子と恋人が主演している青春ドラマと言うところだ。
「お父さん、お母さん、行ってきます」そう言って後回しにした両親に敬礼すると「無事に帰ってこい」「元気で頑張ってね」と声をかける。安川はうなずいてから整列する位置へ早足で歩きだした。凍結した地面で走れば転倒する危険性があるため歩調を早めるしかない(このまま出発するため防寒靴ではなく通常の半長靴を履いていたこともある)。周囲の隊員たちも同じように歩いていくが、流石に転倒する者はいなかった。そんな光景を眺めながら父は感慨深げに呟いた。
「無事に帰って来いって言えることが有り難いな」「そんなの当たり前じゃない」「馬鹿、戦時中は立派に死ねと言わなければならなかったんだぞ」息子の背中を見送りながら両親は相変わらずの掛け合いを続けている。しかし、聡美は隣りで鼻をすすっている。
「聡美さん、旅立ちに涙は禁物だぞ」「そうよ、ここでは凍ってしまうわよ」父は見送る者が別れを哀しむ涙が未練を招くことの不吉を言ったのだが、この母はどこまでも能天気だった。
式典では首相以下の長々とした訓示が続いたため、北海道以外から来ている家族は凍えてしまった。特に東京から来ているマスコミ関係者は整列している隊員を狙って歩き回りながら転倒を繰り返していた。その時、乗車を支持するために回れ右をした派遣隊長=第3普通科連隊長・晩鐘光一郎1佐が一言発した。
「我々はこれからイラク国民の復興を友人として手助けするために出発する。指導方針は・・・」「義理・人情・浪花節!」隊員たちが大声で唱和する。それを聞いた家族は呆気に取られたように口をあき、一斉に白い息が霧のようになったが、テントに戻ってきたマスコミ関係者は嘲笑するような顔をした。
「義理・人情・浪花節か。日本人の美学で臨むって言うことだな」「少し古いんじゃないの」こんな会話に聡美は自分の教師夫婦である両親の小難しい知識の応酬を思い出していた。

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- 2017/04/13(木) 09:48:02|
- 夜の連続小説8
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