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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月1日・殉職自衛官合祀訴訟の最高裁判決が出た。

昭和63(1988)年の明日6月1日に最高裁判所が「大きな過ち」と断ずるしかない殉職自衛官の護国神社への合祀に関する訴訟の判決を出しました。この頃、野僧は現場である山口県の防府南基地に勤務していたので、全国版のニュースや新聞では最高裁判所の逆転判決を徹底批判しているのに地元版では全面支持だったことを鮮明に覚えています(これは現在の安倍政権に対する評価でも同様)。
この裁判は昭和43(1968)年1月12日に公務中に発生した交通事故で殉職した自衛官のクリスチャンの妻が、自衛隊のOB組織である隊友会が他の殉職者26名と合わせて護国神社に合祀を申請したことの無効を求めて提訴したものです。しかし、実際は妻の反対を受けて隊友会は申請を取り下げており、護国神社が合祀を強行したのですが、この問題を「自衛隊が犯した憲法違反」として政治利用しようとしたキリスト教会などの取り巻きにより隊友会の申請の可否を争点とする意味のない裁判になってしまいました。
朝鮮戦争当時、国連軍と一体化していた占領軍の命令で派遣された海上警備隊の掃海艇が触雷して沈没し、こちらも山口県出身の隊員が殉職したのですが、遺族は靖国神社に戦死者としての合祀を申請したにも関わらず受け付けを拒否されており、その後、在郷軍人会の復活を目指して設立された隊友会は各地にある靖国神社の分社の護国神社に合祀することを慣例化していました。しかし、野僧も元自衛官としてこの問題を考える時、同じように祖国を守るために身命を捧げた者を政治情勢で差別する靖国神社の態度は絶対に許せず、その分社に過ぎない「護国神社で我慢しろ」と言うのは屈辱以外の何物でもありません。
ましてやこの妻は唯一絶対のカミを信ずるクリスチャンであり、生身の人間として接してきた夫が「使命に殉じた」と言う一点だけでカミにする神道の教義が容認できないのは当然です。
更に言えば隊友会も他の活動を見る限り(建前では「自衛隊の活動を地域で支える」と言いながら、実際は現職の隊員にOB面を見せたいだけの迷惑な存在でした)前例踏襲、機会均等以上の意識を持って合祀を申請したとは思えず、妻の拒否を受けて問題が大きくなるのを懼れて取り下げる程度の単なる実績作りだったのでしょう。何よりも問題なのは戦前、戦後を通じて陸海軍省や厚生省が事務的に通知する戦死者の名簿を何の宗教的考察もなく一律に合祀する靖国神社の無味乾燥した体質(A級戦犯の合祀が外国人戦没者の遺族の反発を買ったことに代表ウされる)を子神社である護国神社が模倣したことですが、キリスト教VS神道の全面対決になることは原告側に対する国民の嫌悪感・批判が生じる恐れがありこれは避けたのです。
この裁判は1審の山口地方裁判所、2審の広島高等裁判所は共に隊友会と合祀に関する事務処理を担当した山口地方連絡部のうち現職の自衛官=特別職国家公務員である地方連絡部の行為は公務員の宗教活動を禁ずる憲法20条3項に違反するとして原告勝訴の判決を下しています。
ところが妻の告訴により法廷闘争になること恐れて合祀の申請を取り下げたはずの隊友会と地方連絡部は最高裁にまで上告し、原告の夫が殉職して20年が経過したこの日、極めて異常な判断が出されることになりました。最高裁の判断は信仰の在り方ではなく権利の有無・大小・強弱の問題として捉えており、まる使用権を巡る民事訴訟のように過失責任を前面に押し出した異常な判決でした。
最高裁はキリスト教を信仰しているのは妻だけで、葬儀は親の意向で佛式によって営まれたことを以って妻の原告としての資格は弱いと断じました。そして妻が遺骨の一部を他の家族に無断で持ち出して自分が通う教会に納めたことを独善的暴走として批判し、夫の実父が合祀後の護国神社に参拝していることを挙げて原告は慰霊を独占しようとしていると資格だけでなく資質にも疑問を呈したのです。
さらに社団法人である隊友会が慰霊することは憲法が禁ずる国の宗教行為には該当せず、それを支援した地方連絡部の行為には一定の制限はあるものの許容範囲内であるとしました(他の3名の判事は「地方連絡部の行為はいき過ぎであり憲法違反」とする意見を述べている)。
確かに慰霊は悲しみを抱く者が等しく営むことができれば良いのですが、信仰する宗教によっては他の宗教による慰霊行為を容認しない場合もあります。最高裁判所はこの本質的な問題を真摯に考察することなく表層的な権利論で悪しき判例を作ってしまいました。現在も厚生労働省は身元が判明した戦没者の個人情報を靖国神社に通知しており、本人や遺族の意向に関係なく事務的に合祀を行っているのです。
野僧が話を聞いた特別攻撃隊やインパール作戦、ニューギニア戦線からの生き残りの方たちは「死んでからまで軍隊生活を強いられる靖国なんかに行く気はなかった。家の墓で先祖の1人に加えられ、家族を見守るのが願いだった」と明言していました。やはり山口県は何かが狂っているようです。
  1. 2017/05/31(水) 09:56:04|
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振り向けばイエスタディ840

「貴方、大丈夫」それぞれの妻は自分の夫に同じ言葉をかけた。義父と岡倉は韓国の政治情勢と歴史文化について熱く語り合い、買い置きしていた少し高級な赤ワインも全て空にしてしまった。
「うん、大丈夫だ。タイガーに話しておくことはまだある」「うん、大丈夫だ。お父さんに訊いておきたいことはまだある」夫たちもほぼ同じ台詞を返した。リビングに移動してきてからは文民政権の問題点、特に現在の盧武鉉大統領と秘書室長の文在寅の親北以上の従北姿勢の危うさを日韓、韓日の立場から議論してきた。それがドンドン広がり、近代史に話が及んでいたまま揃って深酔いしてしまったのだ。
「結局、儒教の呪縛から脱することができない韓国人にはキリスト教の民主主義が理解できないんだ」「カソリックのお義父さんでもそう感じますか」そろそろ寝室に連れて行こうとしていた母娘の妻たちは議論が再開したことに呆れて顔を見合わせた。
「私はアメリカ人の神父に育てられたが、養父はいつも『アメリカのカソリックはバチカンとは色合いが違う』と言っていた。つまりプロテスタントの国で布教するためには対立よりも妥協を必要とすることもあるんだ」「それが儒教文化の韓国となると尚更と言う訳ですね」岡倉も実際にアメリカでプロテスタントとカソリックが対立と強調を繰り返しているのを見ているだけにこの見解には納得できる。今回のアフガニスタンとイラクへの侵攻も十字軍の前科があるバチカンは批判したが、ブッシュが叫ぶ十字軍の復活=反イスラムの聖戦の大義名分に酔うアメリカ国民を前にしてはカソリック教会もそちらに同調せざるを得ないようだ。
「妻とジアエは私の養父の教えを受けているからアメリカ的カソリックだが、今の我が国のカソリック教会は民族主義が根底にあり、日本をカミに背く邪悪な存在として断罪することを教義にしているように感じられてならないんだ」「金大中、盧武鉉大統領もカソリックだったよね」ここで難しい顔をしている母の横からジアエが補足説明した。
「我が国のキリスト教会は日本はキリシタン弾圧を行ったと批判するが、それは何時の話なんだ」「はい、400年ほど前です。その頃、ヨーロッパではカソリックがまだ魔女狩りをやっていました」ここで岡倉が会話に一滴の毒を落とす義父母とジアエは顔を強張らせた。
「実際は江戸時代のキリシタン禁令もあまり厳格ではなく、年貢さえ納めれば事実上は黙認されていたようです。だから明治になって神道にそそのかされた桂小五郎が弾圧を始めた時、村単位の隠れキリシタンが大量に捕縛されたんです」「ふーん、それは意外な話だな・・・うん、面白い。朝まで語り合おう」義父が身を乗り出すと母と娘は困ったように顔を見合わせた。
「韓国では日本の明治よりも前に佛教弾圧が行われたでしょう」「それは世宗の頃だね。我が国では聖王と呼ばれているが、満洲や対馬にも手を伸ばした点は評価できないな」韓国ではこの時期に移住した人たちが中国東北部に取り残されて朝鮮族・高麗族と呼ばれている。さらに現在の韓国でもかなりの人たちが「対馬は韓国の領土だ=日本に奪われた」と思っているのはこの世宗の侵略に由来する。歴史好きの岡倉には止めれらない対談になっているが、そろそろ酔いと睡魔が重なって思考の回転が急激に鈍くなってきた。そこで最後のつもりの質問を投げかけた。
「1つ、伺いたいのはカソリックが中世に犯した罪を今も認めないのは何故ですか」「罪?具体的に言ってくれたまえ」「例えば魔女狩り、例えばコーパニカス(コペルニクス)やガリレオの地動説に対する異端審判、十字軍による侵略と破壊、略奪、大航海時代の植民地獲得の口実など日本のキリシタン弾圧は秀吉が宣教師たちの言動に侵略者としての素顔を認めたことが理由です」「ヒデヨシ?それはタイコーヒデヨシ(太閤秀吉)のことだな。奴こそ我が半島に侵略してきた極悪人じゃあないか」先ほどは毒を落として苦味を与えたが、今度は煮え湯を口に注ぎこまれてしまった。
「誠に申し訳ないことです。あれはデメンチャが始まった老人の狂気です」「デメンチャ(認知症)?そんな奴に権力を握らせておくなんて日本はどうなっているんだ。大陸では権力者が隙を見せればたちどころに王座を奪われるぞ。日本人は甘いな」義父の攻勢に頭の回転が停止寸前の岡倉では対抗できない。どうやら今夜の日韓決戦はサッカー同様に韓国の国旗・大極旗が揚がりそうだ。その時、思いがけず韓国陸軍が協同作戦を始めた。
「何を言っているのよ。話にならない文民大統領を選んだのは我が国の国民じゃない」「うん・・・アーメン」実は義父も酔い潰れる寸前だったようだ。
  1. 2017/05/31(水) 09:54:40|
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6月1日・カール・ヴィンソン下院議員の命日

1981年の明後日6月1日は原子力航空母艦の名前になっているため日本でも知名度が高くなっているカール・ヴィンソン下院議員の命日です。
アメリカ海軍では1968年に就役した通常型航空母艦をジョン・F・ケネディと命名して以来、1975年5月に就役した原子力航空母艦としては2隻目のニミッツからは人物名を採用するようになっています。ただし、ニミッツは太平洋軍司令官として対日戦争を勝利に導いたチェスター・ウィリアム・ニミッツ元帥の姓だけなのですが、1977年10月に就役した同級2番艦のドワイト・D・アインゼンハワ―以降はフルネームになっています。
参考のため現在、アメリカ海軍が保有する原子力航空母艦を列挙するとニミッツ級としては1982年3月に就役した3番艦のカール・ヴィンソン、1986年10月の4番艦はセオドア・ルーズベルト、同年11月の5番艦はエイブラハム・リンカーン、1992年7月の6番艦はジョージ・ワシントン、1995年12月の6番艦はジョン・C・ステニス、1998年7月の7番艦はハリー・S・トルーマン、2003年7月の8番艦はドナルド・レーガン、2009年1月の9番艦はジョージ・W・H・ブッシュ(パパの方)、続いて2017年中に就役予定のジェラルド・R・フォード級では2番艦としてジョン・F・ケネディが建造中です。余談ながら初の原子力航空母艦・エンタープライズは1961年11月に就役して2012年12月に退役し、同名としては9隻目が建造中です。
これら艦名はニミッツ提督とカール・ヴィンソン、そしてジョン・S・ステニス以外は全て大統領から採っていますから、この人物の何が他の大統領よりも先に命名する功績とされたのかに興味を覚えます。確かにトルーマンやパパ・ブッシュ、フォードが出てくるようではネタ切れなのは明らかですが。
カール・ヴィンソンさんは第1次世界大戦が始まって3カ月後の1914年11月から第2次世界大戦後の朝鮮戦争、ベトナム戦争に至る1965年までの50年間も下院議員を勤めています。
1883年にジョージア州のボードウィンで生まれ、大学で法律を学んでから25歳で州議会議員になりました。2期目は当選したものの3期目は落選したため地元の裁判所の判事に指名されましたが、下院議員が急死したことによる補欠選挙に出馬し、1914年に31歳の最年少の下院議員になったのです。
当時のアメリカはヨーロッパの戦争には不介入の立場を取っていましたが、それでも議会では軍事関係の問題が討議されることがあり、その中で豊富な専門知識を披歴して頭角を現し、大戦終結後には下院海軍委員に指名されました。
ここで大戦後の軍縮の気運が国内外に蔓延している中、「今こそ世界に冠たるイギリス海軍と対等な海軍力を保有するべきである」と言う信念の下にパーク・トランメル上院議員と協力して建艦を推進する法案と予算を可決させています。この結果、ロンドンとワシントンでの海軍軍縮会議では英米に対する日本と言う図式が成立し、経済力に劣る日本側の譲歩を引き出すことになりました。
そして日本が海軍条約を脱退すると日米開戦を予見して、大西洋とインド洋はイギリス海軍に任せ、太平洋での決戦を想定した建艦を強力に推し進めたのです。
この助走があったからこそアメリカ海軍は真珠湾で主力艦の大半を失っても、それが老朽艦のスクラップ処分であったかのように続々と新鋭艦を投入し、開戦半年後にはミッドウェイ海戦で形勢を逆転させることができたのです。
第2次世界大戦後は下院海軍委員会が軍事委員会と合併したため、こちらの初代委員長に就任し、やはり海軍の近代化に尽力し、特に原子力航空母艦の実現を推進しました。
この実績を考えればアメリカ海軍が下手な大統領よりも先に艦名として感謝の意を表したのもうなずけます。
最後におまけとしてもう1名の大統領ではない艦名であるジョン・C・ステニスは40年以上にわたり上院議員を務め、1969年から1981年までの間、上院軍事委員長でした。
ただし、人種差別撤廃を目指す公民権法には反対し、ウォーターゲート事件ではニクソン大統領の犯罪を立証する側に回ったため自宅で暴漢に銃撃されて重傷を負っています。こちらはあまり「大統領を差し置いて」と言う感じはしません。
  1. 2017/05/30(火) 09:47:29|
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振り向けばイエスタディ839

「我が韓国は変質してしまったよ」食事と酒が進み、少し酔いが回り始めた頃、義父が沈鬱な表情で語り始めた。義母は心配そうに横顔を見ているが、ジアエはむしろ同感と言う表情をしている。
「軍事政権の方が良かったとは言わないが、文民政権は酷過ぎる」「ここで食事は終わりにしましょう」語気に怒りが加わったところで義母が声をかけ、ジアエが食後の祈りを先唱し始めた。
「父よ、感謝のうちにこの食事を終わります。貴方の慈しみを忘れず全ての人の幸せを祈りながら、私たちの主イエス・キリストによって・・・アーメン」「アーメン」祈りが終わると義母が目で促してジアエとテーブルの上の鉢を片づけ始め、岡倉は義父とリビングに移動した。義父は飲み終えた土産の代わりに未開封の赤ワインを持っている。どうやら今夜は飲み明かすつもりらしい。
リビングのソファーに腰を下ろすと義父はサイドボードからグラスを出し、苦労して開けたワインを注いだ。1口飲んでからラベルを確認するとやはりカリフォルニア・ワインだった。
「キム・ヨンサム(金泳三)やキム・デジュン(金大中)は駄目でしたか」「金大中はどう言う訳だか日本では評判が良いようだが奴は権力欲の化身だぞ」金大中大統領は野党の有力政治家だった頃、日本のホテルで軍事政権に拉致された事件があったため知名度が高く、同情的な世論が醸成されていた。ただし、北朝鮮を訪問して首脳会談を実現したその裏では元首一族に巨額の献金をしていたことが暴露されており、ノーベル平和賞も実際は金で買ったと言われている。
「それで今のノ・ムヒョン(盧武鉉)はどうですか」「話にならん」義父が吐き捨てるように言った時、義母とジアエが入ってきてそれぞれの夫の隣りに座った。
「問題なのは金大中以降、韓国人の意識が大きく変化したことだ」父の言葉にジアエも深くうなずいている。話が難しくなることを予測したのか義母がワインを勧めてくれた。
「以前は北朝鮮を我々の国を蹂躙した敵としていた。だから彼らの非人道的な悪事を糾弾し、祖国を守ってくれている軍を信頼し、尊敬していたのだ」この話は正月にジアエからも聞いたような気がするが、もう一度、義父の見解を確かめようと姿勢を正した。
「ところが金大中が北の元首と握手して以降、マスコミは報道姿勢を一転させて国民の民族意識を扇動するようになった。今では過去の歴史まで変質させているんだ」ここで義母は申し訳なさそうに顔を見たが岡倉は首を振ってワインを飲んだ。
「朝鮮戦争をアメリカに支配されている半島南部の同胞を解放するための戦争などと言い出している。今では韓国軍はアメリカの飼い犬、民族の裏切り者扱いだ」「だからイラン北部の激戦地に韓国軍を送ることにも反対しないのね」ここで教え子が派遣されているらしい義母も加わった。それにしても国家の近代化に功績も残した日本に対する怨嗟を絶対に忘れない韓国人が朝鮮戦争以降に北朝鮮が犯してきた悪逆非道の数々を簡単に捨てられるとは信じられなかった。
「特に今の大統領秘書室長はいかん」「ムン・ジェイン(文在寅)のことね」今度はジアエも参戦する。大統領秘書室長と言えば日本の内閣官房長官に当たる重要閣僚だ。その人物に問題があるとすれば事態はかなり深刻なはずだ。
「奴は戦争の時、北の咸鏡南道から逃れて慶尚南道の巨済島に移り住んだ脱北者だ。だから反共を表看板にしてはいてもそれ以上に民族主義者であって、韓国を踏み躙った日本やアメリカよりも中国に認められている北の王朝を敬慕しているんだ」この説明は流石に納得できない。反共産主義と絶滅寸前の共産主義国である北朝鮮に臣従すると言う矛盾が理解できないのだ。
「しかし、中国は共産党、北朝鮮は労働党の政権でどちらも共産主義を国是としているじゃあないですか。矛盾していませんか」「それは極めて日本人的な理解だね」ようやく岡倉が話に加わって義父はワイン・グラスを掲げて飲み干した。
「我々にとっては政治体制よりも民族の血が大切なんだ。日清戦争以降の歴史は民族の恥辱であって、李王朝の形に戻さなければならないと言うのが文在寅の政治信条なんだ」「150年前の日本のようでしょう」ここで義父の怒りを納めるため義母が教師らしいまとめ方をした。
「盧武鉉政権は国家機密だけでなくてアメリカ軍の機密情報まで北朝鮮に渡していることが判っているんだけど、相手が大統領府では軍も捜索に着手することもできないの・・・これは聞かなかったことにしてね」ジアエも酔っているのか軍内の問題を両親に漏らしてしまったらしい。どうやらイラク情勢の傍観者でいることよりも遣り甲斐がある仕事を見つけられたようだ。
  1. 2017/05/30(火) 09:46:20|
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5月30日・ジャンヌ・ダルクが火刑に処せられた。

1431年の明日5月30日にフランスでは聖女、イギリッスでは異端者であるジャンヌル・ダルクちゃんが火刑に処せられました。19歳だったとされています。
日本人は「ジャンヌ・ダルクは聖女だ」と思っていますが、死後44年で異端審問の無効が確定して無罪になっているものの教皇・ベネディクト15世によって列聖されたのは1920年5月6日になってからなので日本にフランスのカソリック修道女教団が進出してきた頃は単なる殉教者だったのです(列福されたのは直前の1906年)。
ジャンヌちゃんはフランスとイギリスが「百年戦争」を続けていた1412年にフランス東部にあるドンレミで農家の娘として生まれたとされます。この時代、戸籍制度が確立されていなかったため教会の洗礼の記録が発見されない限り、親か本人の申告によるしかないのです。ジャンヌちゃんについては異端審判で「19歳です」と証言しており、1月6日の誕生日と共に生年月日とされています。
幼い頃に村がイギリスの傭兵に襲われ、家族が殺されたことで強い敵愾心を持つようになったとされており(真偽・虚実不明)、13歳の時に大天使・ミカエル、アレキサンドリアのカタリナ、アンティキオのマルガリタの3聖女と出会い、「イングランドを駆逐して王子を援け、フランスの王位に就けろ」との託宣を受けたとされる聖女伝説は今風に言えば「幼時の精神的傷害」の結果と言うことになるでしょう。
この百年戦争はイギリス国内の対立とフランス王室の相続争いが複雑に絡み合い、時間の経過と共に戦争巧者のイギリスが優位に立ってフランスの王位そのものが風前の灯火に陥っていたのです。
何にしても窮地に追い込まれていたフランスの王子・後のシャッルル7世はこの田舎娘を利用することに決め、残り少ない軍を指揮させてイギリス軍に包囲されて陥落寸前だったオルレアンに派遣しました。
ジャンヌちゃんの指揮能力については古くから歴史家・軍人の間でも議論になっていますが、剣ではなく旗を掲げながら先頭に立って中央突撃した姿勢には士気を鼓舞する効果があったことは間違いなく、これまで劣勢から消極的な防戦に回っていたフランス軍が攻勢に転じて連戦連勝の奇跡を起こすことになりました。こうしてパリ解放の寸前まで迫り、シャルル7世の戴冠を実現したところでジャンヌちゃんの運命は暗転してしまいました。一度は成立していたイギリス、フランスの休戦は直ぐに破綻してイギリス軍に包囲されたコンピーニュの救援に向かったのですが、ここで捕虜になってしまったのです。
当時は捕虜になっても親族が身代金を支払うことで買い戻すことが可能だったのですが、何度も苦杯を飲まされているイギリスが放置するはずはなく、ジャンヌちゃんが「カミの託宣を受けた」と主張していることを理由に異端審判に掛けることにしたのは至極当然な処置です。この動きに戴冠させてもらった恩義があるはずのシャルル7世は何の手も打たず事実上の見殺しにしたのです。
こうしてジャンヌちゃんは当時のカソリック教会がその圧政に不満を露にする者を弾圧するために行うようになっていた異端審判で信仰の正当性と言動の真偽が審査されました。この時、最も問題になったのはジャンヌちゃんが男装をしていたことでした。何故ならカソリック教会は旧約聖書の創世記で男女の性別が定められていることを絶対化して気候や労働のための必要性は認めていおらず、男装をすることがカミに背く異端であると言う馬鹿げた論理を認めていたのです。実際、スイスの女性たちが山での仕事などでズボンを着用することを教会が禁じ、この不条理がプロテスタントで最も過激な反体制的主張を行うカルヴァン派(戦後になって日本キリスト教会も加入している)を生む原因の1つになったと言われています。
当然、フランス側がカミの声を聞いたジャンヌの指揮によって勝利を収めたのではイギリスの立場は絶対悪になってしまうので始めから判決は決まっており、異端との判定が下り、ジャンヌちゃんは救国の戦歴・軍功を自ら否定することになりました。ただし、当時の異端審問でも改悛すれば死刑になることはなかったのですが、ジャンヌちゃんは通常の女性被疑者のように女子修道院に収監されることなく一般の男性監視兵に預けられたため連夜のように性的暴行を受け(フランス、カソリック側は否定している)、女性用の服を奪われたことで再び男装したため改悛を虚偽と断定されて火刑になったのです。
そしてこの日、ルーアンの広場で柱に縛られたジャンヌちゃんは燃え盛る炎で焼き殺されましたが、遺骸が炭化する前に一度、薪を除去し、裸になった身体を聴衆に確認させ聖女の復活伝説などが発生しないように処置したと言われています。その後、再び薪を積んで火を点け、骨になるまで焼き尽くした後、遺骨と灰はセーヌ川に捨てられました。
フランス人はジャンヌちゃんの火刑をイギリスの悪事と言っていますが、自分たちが見殺しにしたのです。
Joan of Arc大西巷一作「ダンス・マカブル」より
  1. 2017/05/29(月) 10:36:47|
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振り向けばイエスタディ838

その頃、岡倉は韓国にいた。「イラクでの自衛隊を巡る動静を確認したい」と言う思いは強いのだが、前任の防衛駐在官であった野中将補が「事件に巻き込まれることで存在が明るみに出ることは避けなければならない」と判断したことを受けて傍観者にならざるを得ないのだ。ならば愛する妻が待つ韓国で夫として過ごそうと考えるのは当然のことだろう。
休暇の間、妻・ジアエ(知愛)の実家に泊まることになっている。ジアエの実家=李家はソウル市内でも旧市街にあり、教師の共稼ぎだけに思いのほか立派だった。
「タイガー、久しぶりだね」「ご無沙汰して申し訳ありません」玄関で出迎えた両親に岡倉は礼を尽くした挨拶をする。儒教の伝統を守る韓国の礼式は厳しく、岡倉が子供の頃に母方の祖父母と同居していた家庭で受けた躾通りに立ち振る舞うしかない。それにしても義父は初対面の時にジアエが説明した仇名で呼んでくる。これも少し困った気分だ。
「まあ、日本の実家に帰った気分でリラックスしてくれたまえ」「本当、遠慮しないでも良いのよ」リビングのソファーに通されて義母が紅茶を出すと2人は楽にするように言ってくれたが、この家の高級な雰囲気は遠慮ではなく少し緊張してしまう。しかし、2人が現在の岡倉の自衛官としての職務をどこまで知っているのか判らないが、少なくとも普通の日本人よりは信頼できるはずだ。
「ジゲゥム(ただいま)」岡倉が舅・姑との雑談に疲れてきた頃、ジアエが帰ってきた。一度、自分のマンションに寄り、私服に着替えて外出する偽装をしてきたのだ。岡倉が玄関に出るとジアエははにかんだように微笑んだ。
「貴方、おかえりなさい」「エォセォ(おかえり)」ジアエが日本語、岡倉が韓国語と互いの言語で話しかけるのは2人の作法だ。両親も2人だけにするためついてこない。従って遠慮なく抱き締めることができる。どうやら正月休暇でジアエが望んでいた妊娠は果たせなかったようだ。
ジアエと一緒に居間へ入ると両親もソファーからにこやかに声をかけた。これが大学時代に両親を失って以来、岡倉が忘れかけていた普通の家庭の姿なのだ。
夕食はジアエと義母が腕を奮っている。その間、岡倉はリビングで義父と雑談していたが、岡倉は秘密保全、義父は不関与を気にしながらなので話は全く弾まない。そんな重苦しい空気に2人が耐えられなくなった頃、ジアエが呼びにきた。
4人でテーブルを囲むと韓定食(色々なバンチャン=おかずを鉢に分けて並べ、好きな物を取って楽しむ)が並んでいる。岡倉が感心しながら見回すと義母とジアエは自慢と安心の顔を見合せた。
「お義父さん、土産はカリフォルニア・ワインの赤です。確かバーガンティがお好みだったはずですが」「ほーッ、イエスの血だね。これも父からの慈しみとしていただくこととしよう」食事の祈りの前に紙袋からワインを差し出すと義父は笑いながら受け取った。そして祈りが始まる。4人でテーブルの上で両手を組んで頭を下げ、義父に指名されたジアエが先唱した。
「父よ、貴方の慈しみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意された物を祝福し、私たちの心と身体を支える福として下さい。私たちの主イエス・キリストによって・・・アーメン」最後のアーメンの前に額、胸、両肩に十字を置き、全員で唱える。ジアエは岡倉と食事をする時にも必ず祈っているのでおぼえてしまっている。そんな岡倉の様子を義母は安心したように見ていた。
「本当はこの祈りは古いのよ。今は公教会式の祈りが一般的なの」食事が始まり、ワインでの乾杯がすむとジアエが李家の娘の顔になって何時になく熱弁を奮い始めた。
「へーッ、カソリックでも公教会って言う別の教団の祈りを採用するんだ」「いいや、公教会と言うのは天主公教会のことでカソリックの別の呼び方だよ」義父が説明してくれたが、折角、祈りの作法で安心させた義母を落胆させるような勘違い=知識不足を晒してしまった。
「軍でもカソリック信者のミサの後の会食では新しい祈りに変更しているのよ」それでもジアエは気に留めることなく熱弁を奮い続ける。この自己主張の強さは今まで見ることがなかった韓国人としての素顔なのかも知れない。
「もう食事をいただいてしまったが、雑談上の知識として新しい祈りを説明してみなさい」義父に促されてジアエは姿勢を正して深く息を吸った。
「主、願わくは我らを祝し、また主の御恵みによりて我らの食せんとするこの賜物を祝し給え。我らの主イエス・キリストによりて願い奉る」アーメンを唱えないところが知識の説明だった。
  1. 2017/05/29(月) 10:31:59|
  2. 夜の連続小説8
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イギリス俳優・ロジャー・ムーアの逝去を悼む。

5月23日に007シリーズのジェームズ・ボンド役で有名なイギリス俳優・ロジャー・ムーアさんが亡くなりました。89歳でした。
ムーアさんは4代目(3代目のジョン・キャビンさんの出演作は後述の理由で製作されなかった)のボンドのため初代のショーン・コネリーさんよりも若いと思われがちですが実際は3歳年上で、コネリーさんは第2次世界大戦には出征していないのですが(海軍に入ったのは戦後)、ムーアさんは陸軍の広報映画制作と娯楽演芸を担当する芸能部隊に奉職しています。
野僧は父親が「007シリーズにはジェームズ・ボンドとボンド・ガールの愛欲シーンがある」と誤解していたためテレビのロードショーで取り上げても見ることができず、中学生になってから映画館で見るようになったのでムーアさんのボンドが先でした。
自衛隊に入ってレンタル・ビデオが始まってからコネリー作品も見ましたが、先にムーアさんのスマートで洗練されたボンドのイメージを植え付けられていたため、その酷い訛りの英語や脂ぎった風貌・態度がイギリス人には見えず、全作品を借りてはきたもののあまり好きにはなれませんでした。
実際はコネリーさんの方が先なので、原作にはないジェームズ・ボンドの個性はスコットランド人で癖が強いコネリーさんによって作られたのだそうです。
例えば「アイ アム ボンド、ジェームズ・ボンド」と言う自己紹介はコネリーさんの口調になり、極端なスコットランド訛りからドイツ生まれで両親がフランス領アルプスでの山岳事故で死亡したためスコットランドに住む叔母に育てられたと言う設定が映画で付け加えられたのです。
この他にもボンドの愛用品である高級腕時計(ロレックスやオメガ、日本が舞台の「2度死ぬ」ではセイコー)やライター(ロンソンやデュボン)、愛車の1931年製ベントレー・ブロワー(前述の「2度死ぬ」ではトヨタ2000GT)、さらに紙巻き煙草(パーラメントやラーク、「2度死ぬ」ではしんせい)などもコネリーさん本人の愛用品だったと言われています。
そんなわがまま放題に振る舞うコネリーさんは集客力で配給元の支持は受けていても製作者とは相容れず、交代の可否を巡って両者が対立していた中、ジョージ・レーゼンビーさんを2代目ボンドとして製作した「女王陛下の007」が興行的に大失敗すると製作者側は前述のキャビンさんを3代目に建てたものの配給元はコネリーさんの復活を強く要求したため、1度きりの復活作品「ダイアモンドは永遠に」になってしまったのです。
実は人気小説「007シリーズ」の映画化が決まった時点でムーアさんはジェームズ・ボンド役の最有力候補だったのですが当時はテレビの人気番組に主演していたため応じることができず、コネリーさんが譲り受けることになったとジョークにしています。ただし2代目、3代目の時も同様の理由だったようですから本当にジョークなのかは判りません。
こうして4度目の正直で主演することが決まってからはファンが抱いているコネリー・ボンドのイメージを大きく崩さないように細心の注意を払いながら少しずつ原作で描いているボンド像に戻していきました。
先ずはコネリーさんの黒髪を尊重して2代目のレーゼンビーさん、3代目のキャビンさんも黒髪なので選ばれたと言われていますがムーアさんは自然な茶色です。紙巻き煙草も葉巻(モーランド)になりました。
何よりもスコットランド独立派であるコネリーさんの極端な訛りをクイーンズ・イングリッシュに近づけ、回を重ねるごとに訛りは消え、日本人には聞き易いイギリス英語になりました。
そしてコネリーさんのジョークはその毒々しい風貌から悪意を感じさせましたが、ムーアさんが温和な微笑みを浮かべて軽く飛ばすジョークはイギリス伝統のジョーク文化を堪能させてくれました。
非常に残念なのは昭和58年に公開された「オクトパシ―」とは別に「ピンク・パンサー5・クルーゾーは2度死ぬ」にそれまで主演していたピーター・セラーズさんが死去したのを受け、「クルーゾー警部補が整形手術を受けた」と言う設定で友情出演したのですが、沖縄では公開されず見られなかったことです。
何にしてもムーア作品から007シリーズを見ることができた野僧は幸運だったのかも知れません。ご冥福を祈ります。
  1. 2017/05/28(日) 10:14:16|
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振り向けばイエスタディ837

福岡地方検察庁での修習が本格始動した頃、私は北キボールで3名の命を奪った日、敵となった若者たちの3回忌を迎えた。昨年は拘置所内の教誨師のところで念佛を唱えさせてもらい冥福を祈ったが、今年も寺で読経させてもらいたいと思い仕事が終わってから博多に出た。博多の地下鉄の乗客たちは仕事帰りの疲れを全く感じさせない。むしろ帰りに寄る屋台や居酒屋の相談で盛り上がっているが、私は2年前の出来事を思い出して1人沈痛な思いを噛み締めていた。
「次は博多、博多でございます」車内アナウンスが流れる前から乗り慣れているらしい乗客たちは座席を立って昇降口に歩み寄った。私も遅れて立ち上がり、乗客たちの後ろに並んだ。念佛を唱える寺なら浄土宗か浄土真宗が良いのだが、博多の寺は仙厓義梵禅師の聖福寺と曹洞宗の専門僧堂である明光寺くらいしか知らない。駅前の派出所や観光案内で寺の宗派まで判るかは不明だが他に方法がないので仕方なかった。
博多で下車した多くの乗客の流れについて地上に出るとまだ明るい街にはビルの照明が点り独特の雰囲気が溢れている。その時、駅のーホルの正面で白い箱を抱えて募金を呼びかけているムスリマ(女性のイスラム教徒)たちが目に入った。彼女たちは頭から首にかけてネッカチーフで被い、長袖のTシャツとズボンの上にワンピースを着ている。呼びかけに耳を澄ますと正確な日本語だった。
「福岡にモスクを建設する募金をお願いします」「日本で学ぶ私たちに祈りの場を与えて下さい」「イスラム教は危険な宗教ではありません」どうやら福岡市内の大学の留学生たちのようだ。ただし、アラビア系ではなくインドネシア人かマレーシア人のような顔立ちだ。私はこの特別な日にイスラム教徒と出会ったことがアッラーと御佛の引き合わせのように感じ、胸ポケットから財布を取り出すと彼女たちの前に立った。すると眼鏡をかけたムスリマは遠慮がちに箱を差し出した。
「スプハーナッ=ラー」いきなり私がアラビア語で意志表明を唱え始めると彼女は驚いて箱を引き、両側のムスリマたちと顔を見合わせた。それでも私は北キボールで憶えた祈りの言葉を続ける。
「アシュハド アン ラー イラーハ イッラ=ッラー(アッラーの他にカミはないことを証言する)」・・・「アッラー アクパル(アッラーは偉大なり)」全てを思い出せた訳ではないが、それでも村田静照和上の念佛式の大音声で詠唱すると通行人たちが立ち止まり怪訝そうな顔で視線を浴びせ始める。私としては寄付による追善供養に先立っての詠唱なのだが、通行人にとっては珍しい見世物、ムスリマたちにも集客の広告になったのかも知れない。
「はい、これを役立てて下さい」私が財布の中から1万円札4枚を取り出して箱の中に入れると3人のムスリマは「サンキュー サー」と声を揃えて頭を下げた。それでも寄付を受けたムスリマが何か言いたそうな顔をしているので私から質問した。
「君たちは何時もここで募金しているのかね」「いいえ、平日は大学が終わってからです。休日は午前10時から12時までと夕方4時から6時までです」「その時間しか警察の許可が下りていないのです」私の質問に2人が答えたが、もう1人は私に倣ったらしい通行人の寄付を受けている。そこで質問の意味を説明した。
「今日はあまり持ち合わせがなかったが、次回はその時間に十分な金額を用意してくるよ」「でも・・・」「これはイスラムの人々への懺悔と感謝の献納なんだから気にしないでくれ」それだけ言うと私は派出所に向って歩き出した。するといきなり背後から「おい」と声を掛けられたので振り返るとそれは2名の制服姿の警察官だった。
「貴方は何かイスラム教徒を支援する理由があるのですか」これは職務質問と言う奴だ。警察当局としてはイスラム過激派のテロが世界各国で頻発するようになっているため警戒を強化しているのだろう。しかし、モスク建設の寄付を呼びかけているムスリマたちまで監視対象にしていることには納得できない。そのことを抗議する前に警察官は交代で質問を繰り出してくる。
「貴方の職業は・・・」もう1人が声をかけた時、上官らしい1名が慌てて姿勢を正した。
「これは司法修習生の方とは思いませんでした」どうやら襟のバッチに気づいたらしい。2人は取って付けたように敬礼をすると人ごみの中に逃げ込もうとしたが、今度は私が声をかけた。
「この辺りに浄土宗か浄土真宗のお寺はありませんか」「浄土真宗なら万行寺がそうです」イスラムの詠唱を唱えていた司法修習生が宗派限定の寺を訊くこと自体が警察官には理解できないはずだが、それでも丁寧に教えてくれた。ちなみにこの万行寺は村田和上が若い頃に学んだ寺だった。
  1. 2017/05/28(日) 10:12:53|
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連続企業爆破犯・大道寺将司死刑囚の病死について

昭和49(1974)年から50(75)年にかけて続発し、日本人の心胆を寒からしめた連続企業爆破事件の首謀者である大道寺将司死刑囚が5月24日に多発性骨髄炎のため東京拘置所内で死亡したようです。68歳でした。
この頃は海外では日本赤軍、国内では連合赤軍のテロやハイジャックが頻発していたため国民の多くは「この事件も連合赤軍の仕業=学生の共産革命ごっこだろう」と思っていましたが、こちらはアイヌ民族の解放と虐待者である日本人への復讐を目的とした「東アジア反日武装戦線」の犯行だったのです。
大道寺死刑囚は北海道釧路市の出身で道議会議員だった母方の伯父の影響で中学時代から政治に興味を持ち、アイヌ人の同級生の悲惨な生活や就職などでの差別を目の当たりにして強い怒りを覚え、彼らに代わって日本人に復讐することを決意したそうです。
その後、法政大学に進学すると浅間山荘事件やリンチ殺人事件により学生運動が国民の支持を喪失する前だったこともあって学内の活動家がヒーローになっており、これまでの共産革命とは別の反日闘争を主張する大道寺死刑囚は注目を集め、主催する研究会の参加者は100名を超えていたと言われています。この研究会は間もなく中国や韓国の反日活動家が強弁する戦前の日本の統治政策や軍事行動への批判と同化して、日本人の手で日本を誅殺する異常な過激派組織になっていったのです。
組織名の「東アジア反日武装戦線」は中国や韓国を同志とすることの表明であるため、大道寺死刑囚の組織は「孤高の野獣」を意味する「狼」を冠するようになりました。つまり赤軍派などの左翼過激派の意識の片隅には革命後の日本があったのかも知れませんが(実際、標的は政治権力とその配下であって一般市民を巻き込む無差別テロは行わなかった)、東アジア反日武装戦線は日本国そのものが敵であって、一般市民を殺傷することに躊躇はなかったのです。
こうした反日闘争の手始めは昭和46(1971)年12月12日のA級戦犯として刑死した松井石根大将が退役後に日中両軍の犠牲者を慰霊するために建立した東亜観音と刑死後に東條英機など他の刑死者と合わせた慰霊碑である殉国七士ノ碑の爆破からでした(東亜観音の爆弾は不発だった)。次に昭和47(1972)年4月6日に日本統治時代に朝鮮で死亡した身元特定不能の日本人の遺骨を納めた曹洞宗・総持寺の納骨堂を爆破し、半年後の10月23日には北海道旭川市の北海道100年を記念して建立された「風雪の群像」と北海道大学のアイヌ民族研究施設・北方文化研究施設を「アイヌモシリ(大和民族の侵略と搾取)」の象徴として爆破しました。
ここまでは人的被害はなかったのですが、建物や物品だけの破壊ではマスコミの扱いが小さく、その対象に歴史的意味があることも殆ど取り上げられなかったためいよいよ日本人を標的にした無差別テロに移行します。先ずは昭和49(1974)年8月30日に「狼」が防衛産業最大手である三菱重工の本社ビルでダイナマイト700本分相当の威力を持つ時限発火式爆弾を爆発させて8名が死亡、385名が負傷する大惨事(実行犯側としては戦果)を引き起こしました。続く10月14日には別動隊の「大地の牙」が三菱と同じく旧財閥系の三井物産の本社ビルを爆破して17名を負傷させ、11月25日には「狼」が帝人中央研究所を爆破しましたが人的被害はありませんでした。「帝人」と言う社名が帝国主義の象徴として狙われたと言う推察もありまする。さらに12月10日に「大地の牙」が大手ゼネコン・大成建設の本社ビルを爆破して9名を負傷させ、12月23日には別動隊「さそり」が同じく鹿島建設の資材置き場を爆破し、年が明けて昭和50(1945)年にも2月28日に「狼・大地の牙・さそり」が合同で間(はざま)組の本社ビルと大宮工場を爆破して5名を負傷させました。そして4月19日に「大地の牙」が金属加工大手のオリエンタルメタル社の韓国産業経済研究所を爆破しています。オリエンタルメタル社が狙われたのは社名のオリエンタルが東洋を意味し、韓国産業経済研究は日本の韓国支配の再現を企図していると決めつけたからだとする推理もあります。4月28日と5月4日には間組の京成電鉄の江戸川鉄橋工事の現場を繰り返し爆破していますが、警察の警戒が厳重になっている中での犯行は大胆不敵としか言いようがありません。
このような凶行に及べば死刑以外の判決はなく、87年3月には上告棄却(「上告」とは最高裁への控訴を言う)により刑が確定していましたが、それから30年以上も執行=懲罰を受けることなく病死したのは自ら引いた反日闘争劇の終幕だったのかも知れません。
大道寺あや子
妻で共犯者の大道寺あや子(ダッカ事件の超法規処置で釈放されて日本赤軍に合流している。同じく北海道出身)
  1. 2017/05/27(土) 08:59:41|
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振り向けばイエスタディ836

その頃の福岡地方検察庁は難問を抱えていた。その1つは昨2003年2月に博多区のホテル経営者の妻が殺害された事件だ。警察は5月になって夫を逮捕したが、事情聴取でも自白と否認を繰り返しており、起訴はしたものの供述内容に犯人しか知り得ない秘密の暴露がなく、日本の検察が誇る99パーセント以上の有罪率に傷をつけることにならないかと担当者は苦悩していた。
そんな6月に発生したのが一家4人が絞殺された上、鉄アレイをつけて博多湾に沈められていた事件だ。この事件では犯行に使われた鉄アレイと手錠を販売したホームセンターの防犯ビデオに被疑者が映っていたためすぐに特定できたのだが、それは中国人3名で2名は既に帰国していた。その2名も中国当局に逮捕されたものの中国とは犯罪人引き渡し条約が締結されていないため現地の裁判に委ねざるを得ない。さらに過去の裁判では条件が違う(中国には黙秘権がないなど)外国の捜査・司法当局による調書は「証拠能力なし」と却下されることが通例なので、日本での公判をどのように展開・維持するかに地方検察庁は総力を賭けている。
「モリヤ修習生、資料を読んでどう思ったかね」「どちらも修習の事例としては大変に興味深いのですが、『担当せよ』と言われると何歩か後退してしまいます」確かにどちらの事件も私自身の裁判とは関係ないため拘置所でも雑誌や新聞を読むことができた。然も資料として遺骸の検屍や司法解剖、現場検証の生々しい写真まで見せられては流石に昼食が進まなくなりそうだ。特に博多湾から引き揚げられた遺骸はまだ腐敗が始まっておらず、子供2人の死に顔は見ていて辛かった。
「1つ気になることがあるのですが」「うん、気がついたことがあれば言ってくれ」地検としても責任ある第3者の意見を求めているらしく指導担当の検事は少し身を乗り出した。
「中国当局の調書の日本語訳は少しニュアンスを和らげていませんか」「ニュアンスをかね・・・」私の指摘が事件そのものではなかったので検事は拍子抜けしたような顔をしながらこちらを見た。
「中国語の原文と邦訳を読み比べると誤訳ではないものの言葉遣いがかなり違うようなのです。こんな日本文だけを読んで犯行動機などを推察するとこれ程の凶悪事件を起こした犯人の実像が見えなくなるのではないでしょうか」「君は自衛隊が本業だったよな。やはり自衛官は敵国語として中国語を学ぶのかね」私よりも10歳くらい年長のベテラン検事は少し時代認識がずれているようだ。しかし、中退した大学の名前を出すのは嫌なので別の理由を説明することにした。
「実は私は坊主も兼務していまして漢文の経典を学んでいる間に中国文が読めるようになったんです」「ほう、従軍坊主だね」これでは益々時代認識がずれて行くがそれは仕方ないと諦めた。
「ところでこの裁判では被害者の家庭の内情を暴露する報道が問題になっていませんでしたか」「うん、親族が名誉棄損で民事訴訟を起こしているよ」「やはり死者の名誉を傷つけるような報道を許すべきではないですよね」「検察としては公判に直接、影響を及ぼすような内容ではないから黙過しているが、ある程度は市民感情も考慮しなければならない時代になってきているようだな」本来、裁判官と検察は市民感情=世論などに関わりなく事実を法令の規定に当てはめて罪を評価するべきなのだ。その点は世論を扇動して利用する弁護士とは立場が違う。私自身は検察側の背後にいた弁護士が世論を扇動していたのでこのような発言をしたのだが確かに迂闊だった。そこで無理に話題を変えることにする。
「こんなことを申し上げるのは分不相応なんですが、このホテル経営者を起訴したのは証拠固めが不十分ではないですか。私も元刑事被告人なので両方の立場で考えてしまいますが、物的証拠が乏いのに始めから有罪ありきの取り調べで起訴されては困ります」私自身はその証拠不十分な裁判によって健康と人生の悦びを奪われているだけにこの発言には格別の思いがある。それを感じたのか検事は真顔で反論してきた。
「君は現在、検察で修習していることを忘れては困る。司法に携わる者は公判に私怨を持ち込むことは許されないんだ」「私怨ではありません。今となっては教訓です」検事も法廷では打々発矢(ちょうちょうはっし)の激論を交わすので修習生の批判くらいは歯牙にもかけないはずだが、妙に高圧的だった。やはり難しい裁判が2つも重なっているため精神的に余裕がないのだろう。
「そんな訳で君には暴行事件や窃盗事件の事情聴取などを手伝ってもらうことにする」「判りました。お役に立てるように励みます」「いや、君の修習の目的を達成してくれ」地方検察庁が一丸となって戦おうとしている中で私は内なる敵に見られたのかも知れない。御配慮痛み入ります。
  1. 2017/05/27(土) 08:56:56|
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5月27日・美人モデル・蒲池幸子(=歌手・坂井泉水)の命日

平成19(2007)年の明日5月27日は美人モデルである蒲池幸子(さちこ)さん、歌手としては坂井泉水さんの命日です。40歳でした。
カメラ小僧だった野僧は春日基地の売店で蒲池さんの水着写真集を見かけ、衝動買いしてしまったのですが、いつもは佛教と軍事の専門書ばかり注文しているモリノ3尉が若い隊員用に仕入れていた写真集を購入したことに小母ちゃんは半分驚き、半分呆れていました。翌月、セミヌード写真集を市内の書店で見つけ購入しましたが、夜勤中の雑談で久留米出身の空曹が松田聖子さんの地元ネタに熱弁を奮っていた中で本名・蒲池法子が出たため、「蒲池幸子って言うモデルもいるな」と名前を出すと意外な話を聞かせてくれました。当時、蒲池さんはウィンクや中森明菜さんなどのカラオケのビデオに出演していてやはり福岡県久留米市の出身で従妹だと言うのです。実際は父親が久留米市出身で本人は神奈川県平塚市の出身ですが、久留米藩家老の蒲池氏が先祖であれば一族と言う可能性もあります。
その場は「どう見ても松田聖子よりも美人ですよね」と言うことで結論が出ましたが、「写真集を持っている」と言ったところ「売店に置いてあった写真集を買ったのはモリノ3尉だったんですか」と非難され、次の夜勤の時には回覧する羽目になりました。
余談ながら松田聖子さんの蒲池家は久留米藩の浄土宗の大寺院の住職を務めており、子孫から2人も歌手が出たのは読経の発声で喉と呼吸器系を鍛えたからかも知れません。兎に角、プロ歌手の肺活量は超人的で、口づけされるとこちらの肺の空気を全て奪われる程の吸引力のためうっかりすると首筋や肩、胸にキスマークではなく痣ができました。おまけに声が通るのでマンションの壁くらいでは喘ぎ声を防音することはできません。そんな肺活量で酷使すれば咽頭癌になるのも当然なのでしょう。
と言う訳で野僧は美人モデル・蒲池幸子さんとしか認識しておらず、その後は雑誌で見かけることもなくなり、「水着、セミヌードとくれば次は」と期待していた写真集が発売されることもなく記憶から消えてしまいました。ちなみにその写真集「も」防府南基地からの引っ越しで略奪されました。
野僧の頭の中で蒲池さんと坂井泉水と言う人気歌手が結びついたのは、この事件を報じする新聞記事とテレビのニュースでした。確かに浜松・防府南・車力の若い者たちはZARDと言うグループの楽曲をよく聞いていて、「ボーカルの坂井泉水は美人なのにテレビに出ない」「生を見たいのにコンサートをあまりやらない」と嘆いていましたが、テレビに出ないのでは尚更、顔を見る機会すらありませんでした。尤も、その頃の野僧は沖縄時代の彼女に生写しの小比類巻かほるさんや愛くるしい永井真理子さんに現(うつつ)を抜かしていましたから、CDの小さなジャケット写真を見せられても気づかなかったかも知れません。実際、坂井泉水さんになってからは蒲池さん時代の露出は影をひそめ、あの抜群のスタイルも普段着で隠してイメージ転換を図っているようでした。
余談ながら小庵の同居人(こちらも元モデルです)は坂井さんになってからの雰囲気に通じる点があって、坂井さんファン世代の連中が来庵すると「俺、奥さんのファンになりました」「一度、貸して下さい」「連れて帰って良いですか」などと申し入れる奴もいました。それでも流石に50歳を過ぎると(蒲池さんよりも2歳年上)ただの田舎の小母さんになっています。しかし、雰囲気同様に蒲池さんの性格も同居人に似ていたのならば独身で通したのは大正解でしょう。
蒲池さんは2000年以降、子宮・卵巣系の病気が次々と発見され、歌手、作詞家、作曲家としての活動と闘病に同じくらいの比率を費やすようになっていまいました。このためシドニー・オリンピックの中継主題曲に作品が採用されたこともあり、年末の紅白歌合戦に出演することにも前向きだったようですが、この病気による体調不安から辞退することになったそうです。その後も病気は続発して2006年には子宮頸癌を発症して摘出手術を受けています。ところがこの年の4月には肺への転移が確認され、再起に向けての入院・闘病中に病院の高さ3メートルのスロープから仰向けに転落し、後頭部強打による脳挫傷で死亡しました。当初は自死説も流れましたが、高さ3メートルでは普通なら死に至ることはなく、故意に仰向けで飛び落ちることはあり得ないので事故死と言うことで落ち着いたようです(現在なら倒れている姿がネット上に流出したでしょう)。
戒名は当初、「澄響幸輝信女」でしたが、「麗唱院澄響幸輝大姉」に変更されています。曹洞宗であれば数10倍の戒名料を支払ったのでしょう。
最後に妙な偶然を1つ。坂井泉水さんの本名は蒲池幸子、松田聖子さんの本名は蒲池法子、同じく福岡出身のアイドル・酒井法子、3人の名前の組み合わせはパズルのようです。
し・麻野理美この顔を見ても判らなかったでしょう。
  1. 2017/05/26(金) 09:59:38|
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振り向けばイエスタディ835

福岡地方検察庁は流石に大都会を管轄しているだけに事件の数がこれまで経験してきた福井、奈良とは比べ物にならなかった。2003年に開廷した主な刑事案件だけでも博多区妻殺害事件、一家4人殺人事件があり、殺害に至らない暴力事件や盗難、詐欺などを含めれば田舎の地検の数年分を一手に引き受けているかのようだ。
「貴方、久しぶりの福岡はどう?」電話での佳織の質問に一瞬、戸惑ってしまったが考えてみれば前川原駐屯地は福岡県久留米市だ。つまり1年間はこの県で暮らしたことになる。
「うん、すごく元気な街だね。奈良も気に入っていたけれど福岡も良いな」実際、福岡には奈良のような悠久の歴史の延長線で時間が経過する緩やかさとは逆の躍動的な波長が飛び交っている。
「ウチらの区隊長が久留米の連隊長をやってはるんや。この間、連絡したら4師団管内にいる同期で集まるって言ってたで」「ふーん、区隊長は連隊長かァ」前川原の区隊長・先園1尉は佐賀県出身の特科幹部だったので隣接する第4特科連隊長なら順当な人事だろう。そう言う私の人事は全く順当ではなかったが、どう言う訳か2佐になってしまった。これは分不相応だが仕方ない。
「ウチも一度、福岡に行きたいんや」「ワザワザ会いに来てくれるんだね」「うん、それもあるけど播磨武士が築いた城と城下町を見たいんよ」「それはそうだな。黒田武士の代表になっている母里太兵衛も本当は播磨出身だもんな」「栗山善助、井上九郎右衛門もそうや」どうやら愛知県岡崎市出身の私が三河武士の魂を規範にしているように兵庫県出身の佳織も姫路の領主に過ぎなかった黒田家を筑前58万石の太守に推し上げた黒田武士に誇りを感じているようだ。
「福岡は魚や肉も美味いし、豚骨ラーメンの本場だからな」「カロリーの摂り過ぎはあかんで」「はい、気をつけます」ここでも佳織の生活指導が入ってしまった。拘置所生活で壊れた身体は一向に回復の兆しを見せてくれないが、陸上自衛官でも法廷戦闘を任務とするのなら職責を遂行することも可能だろう。その意味では司法試験に合格したのは「天佑佛助」なのかも知れない。

「モリヤ2佐一家を歓迎して、乾杯!」私の修習は8月の夏季休暇の前までなので同期会は早々に開催された。佳織は区隊長だった先園1佐からの命令で志織を連れて出席した。同時に陸上幕僚監部の関係上司に手を回してくれたのでは断る訳にはいかなかったのだ。
会場は福岡市南区の老舗料亭で福岡駐屯地の第4師団司令部にいる同期が予約した。この同期はついでに他の部隊からの参加者を駐屯地の外来に宿泊させる手配までしていた。
「お前ら夫婦はどちらもモリヤ2佐だから女房の方は伊藤ちゃんにするぞ」酒が入って早々に同期の1人が言い出した。確かに名前を呼ばれるよりはその方が有り難い。
「モリヤは司法修習中ってことだが弁護士にでもなるのか」「本業は法務官だけど資格としては弁護士を兼務するつもりだよ」「ほーッ」私の説明に興味を持っていたらしい全員が相槌を打った。
「それにしても良く司法試験が受かったな。あれは生半可な勉強じゃあ無理なはずだぞ」「うん、1年以上も時間が有り余っていたからな」「それって・・・」「塀の中でな」法学部出身の同期の質問に私が答えると、何かを言いかけて口をつぐんだので自分でハッキリさせた。
「伊藤ちゃんもアメリカへ留学中で心配だっただろう」「佳織はオランダ軍まで動かして救援作戦を実施してくれたんだよ」「へーッ」佳織は子供用の料理を用意してもらった志織を気にしているため私が代わりに応えた。するとやはり同期たちが感嘆の声を上げた。
「お前ら夫婦は世界を股に掛けて活動しているんだな」「元々が帰国子女やからね」ここでようやく佳織も話に加わってきた。久しぶりに「伊藤ちゃん」と呼ばれたことで気分が候補生に戻ったようで表情もあの頃のようだ。ここで久留米駐屯地司令を勤めている区隊長が母校の説明を始めた。
「今の候補生は全課程が統一になって逆に競い合わせる教育をやっているようだ。それからB(防大卒)とU(一般大学卒)は韓国へ研修に行っているぞ」教え子たちは候補生に戻って姿勢を正した。
「海外研修ですか?羨ましいなァ」「モリヤが行ってたら危なかったな」酒が進んでくるととんでもない発言も始まるがそこは同期だ。私も遠慮なく言い返せる。
「うん、38度線で韓国兵を守るために敵を射殺したかもな」「お前が言ったら冗談にならないぞ」私も最近は口にすることがない酒=焼酎を飲んだため少し酔い始めているようだ。固まってしまった同期を笑わせる冗談を考えたがやはり浮かばなかった。
  1. 2017/05/26(金) 09:40:06|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ834

「そう言えば仲人を決めていないな」白井家に向かう車の中で父が思いがけないことを言い出した。
「結婚式もやらないんだから仲人なんていらないよ」安川はこのまま父の指導に従って行くと愛知県的な形式主義で塗り固められた結婚になりそうに感じてあえて反発して見せた。
「仲人と言うのは結婚式の媒酌人だけじゃないんだ。夫婦で揉め事があった時、中立な立場で話を聞いて仲裁してくれる役割もあるんだ」「ふーん、親じゃあ駄目なの」「親だと自分の子供の味方をしてしまうから他人が良いな」この理由ならば夫側の職場の上司でも不味いのかも知れない。
「お父さんとお母さんの仲人は誰にやってもらったんだ」「私たちは親戚の伯父さんよ。もう亡くなったけれど」今度は母が説明した。安川自身が部隊で結婚することを打ち明けたのは帰国してからなので先輩たちの結婚の体験談や教訓は聞けていなかった。このため「ついでに持って行く」と言われた結納が何なのかも良く判っていないくらいだ。すると父がその結納の話を始めた。
「結納は使い回しするのと縁起が良いと言われているから、お前は鶴舞のお古。白井家では弟さんの時に使うと良いな」愛知県の結納は全国屈指の大きさがあり横に並べると畳2枚分になる(東京では1枚分らしい)。これを弟の時まで使える状態で保管するのは迷惑なのではないだろうか。
「結納金は建て替えておいたから親の結婚祝いはなしだぞ」そう言われても結納金が幾らなのかも知らないのでは返事のしようがなかった。

翌日は婚姻届を市役所に提出に行って、帰りに聡美は美容院に寄った。そして帰宅すると母は姉が成人式で作った振袖を着させた。姉は独身が短かったため成人式と結納以外には着ていないので新品同様だ(普通は友人の結婚式にも着ていく)。
「聡美さん、似合っているわ」「うん、姉貴よりもズッと綺麗だ」母は着つけた自分の腕を誇るために誉め、安川は姉への皮肉で褒める。しかし、2人とも本当に鶴舞よりも似合っていると思っていた。それは聡美の整った顔立ち、愛らしい表情だけでなく、姉・鶴舞の性格に日本女性としての美風が欠けているからなのかも知れない。
「でも振袖は独身の時だけだから本当は間違いなのよ」すると姉が今度も襖越しに嫌味を投げつけてきた。安川の記憶では高校時代までの姉は朗らかで子供好きな魅力的な女性だった。それが短期大学の合コンで知り合った大学生とつき合うようになって以降、言葉に刺が生え、人の欠点ばかりを探すようになっていった。昨夜もイラクでの写真を見せると「自衛隊が作った宣伝用の写真だ」と断定して、写っているイラクの人々の笑顔も「代金を払った演技だ」と決めつけていた。
安川が携帯電話で聡美の写真を撮り始めると着物の包み紙を片づけ終えた母が声をかけた。
「ところで和也は着替えないの」「おっと忘れてた。だけど自衛隊の着替えは3分で完了だから大丈夫」そう答えて安川は母と新妻の前で下着になって制服を着ると確かに3分で完了した。

会食は父が勤める私鉄が経営している名古屋市内のホテルのレストランで行われた。白井家からは両親と弟が出席しており、大きな丸テーブルを囲む形で席に着いた。
「聡美、本当にこれで良いんだな」食事が始めるとワインが入った白井の父が娘の顔を見詰めながら確認してきた。隣りの席から母と弟も覗き込むようにして2人を注視している。
「はい、私はこれから和也さんの妻として生きていきます」聡美は顔を引き締めて答えた。
「聡美、幸せになるんだよ」「今日のお姉ちゃん、最高に綺麗だよ」返事ができない父に代わって母と弟が掛けた言葉に聡美は目を潤ませて指で拭い、それを見て安川がポケットから取り出したハンカチを手渡した。そんな姿を安川家の両親は安心したように見ていた。
「安川さん、聡美はわずか3カ月で生まれ変わったようです。私は父親としても教育者としても恥入るばかりです」「その教育者としてと言う考え方が父親としては邪魔になっていたのではありませんか」祝の席には相応しくない言葉を父親同士で投げ合った。すると弟が大きくうなずいた。
「お父さんに何か相談しても担任にしているのと変わらないもんね」「本当、家で職員会議をしているみたいよ」妻と息子に自分の欠点を指摘されて父は肩を落としてうなだれた。
「お父さん、頑張って」思いがけず聡美に励まされて今度は父が涙をこぼした・・・が妻からのハンカチはなかった。
お・葦田伊織イメージ画像(この絵は留袖です)
  1. 2017/05/25(木) 09:20:23|
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5月25日(太陰暦)・東海3県の大恩人である島津藩士・平田靱負の命日

宝暦5(1755)の明日5月25日(太陰暦)は琉球密貿易などによる巨大な蓄財を吐き出させるため島津藩が幕府に命じられた木曽三川の改修工事の担当者である平田靱負(ゆきえ)正輔さまの命日です。
野僧は愛知県岡崎市出身の三河武士なので悪徳公家と結託して武家の頭領たる将軍家に弓引いた薩長土肥の謀反を許すことはできないのですが、この工事をやり遂げた島津藩士には心から敬意を表し、犠牲者の冥福を祈らなければなりません(と小学校で習いました)。
木曽三川は木曽川、長良川、揖斐川の3本の大河が濃尾平野を引き裂くように縦断して伊勢湾に流れ込んでおり、この3本はそれぞれ異なる山脈を源流にしており、春の雪解け水や梅雨などの豪雨が集中的に流入するため大規模な氾濫が常態化していました。
おまけに川底の高さがで木曽川、長良川、揖斐川の順でそれぞれ4尺半(約1・3メートル)の高低差があり、最大の木曽川が氾濫すればたちどころに他の川の氾濫も誘発して被害を深刻にしていたのです。幕府としても御三家筆頭である尾張藩側には本格的な堤防を建設していましたが、美濃、伊勢側は放置と言うよりも手がつけられない状態でした。
余談ながら加藤清正公は隈本(「熊本」には清正公が改名した)に入った時、築城と同時に治水工事にも腕を奮いましたが、その高い技術力は尾張で盛んに行われていた河川工事の経験で培ったものだと言われています(出身地である名古屋市中村区には1級河川・庄内川が流れている)。
このような土地でも農民たちは先祖代々の耕作地を守らなければならず、長い年月の中で独自の対策=輪中(わじゅう)を行っていました。輪中とは農地を堤防で囲うと同時に住居を高台に設け、更に石垣を積んだ上に非常用食糧庫を兼ねた避難所を建てると言うものです。それでも木曽三川の氾濫には抗し切れず、犠牲者が絶えることはなかったのです(主に小作人)。
ところがこの治水工事を命じるに当たって幕府(9代将軍・家重公の時期)はあからさまに制約を課しています。先ず費用の全額を島津藩が負担し、大工や石工など専門の職人を雇うことを禁じ、作業の指揮は幕府が行い(責任者は老中・堀田相模守、作業指揮は勘定奉行・一色周防守)、そして工期は1年と言う無理難題でした。この条件を添えた命令が届いた時、島津藩では「断らせることで攻撃の口実を作るための宣戦布告」と受け止め、合戦準備を叫ぶ藩士が大勢だったと言われています。しかし、平田さまは「自分の代で島津家を滅亡させることはできない」と言う藩主・島津重年公の意を汲んで血気にはやる藩士たちを説得し、刀や槍ではなく鋤や鍬で水害と戦うために木曽三川に向いました。
当時の島津藩の財政状況は表と裏で全く違います。表向きは遠い薩摩から江戸までの参勤交代を77万石の家格に見合う形で行うだけでも膨大な資金を必要としたため70万両の借金があったと言われていますが、裏情報では琉球での密貿易や砂糖の独占販売で巨大な利益を上げており、博多や大坂(当時の表記)の商人からの借金は参勤交代や蔵屋敷の経費の現地調達分に過ぎなかったと言われています。
何にしても島津藩存亡の危機であったことは間違いなく、平田さまは資金調達や幕府との調整に駆け回り、その間に藩士たちは難工事に当たったのですが幕府の嫌がらせは念が入っており、工事に使う木材・石材・蛇かご(竹を編んで石を詰めるかご)・土俵・土嚢などは幕府の指定商人から割高に調達させられ、作業は粗探しで見つけた些細な問題でやり直しを命じられることが続きました。おまけに藩士たちは地域の庄屋などの家に分散して宿泊させられた上、衣食住の全てを有料として庄屋の方にも無料で食料や酒や茶などを提供することを禁じていました。
そのような非情な処遇に抗議して自刃する藩士が続出しましたが、平田さまはこれを「幕府への反抗」と看做されることを避けるため全て病死として処理しました。しかし、監視に当たっていた幕臣2名も諌死していますから、どれほど過酷な処遇であり、執拗な妨害であったかが判ります。何にしても犠牲者は自刃52名、病死22名に上りました(何故か事故死はいなかった)。
そして1年3カ月を要して工事が完成した直後に平田さまは急逝しました。死因は莫大な借財をせざるを得なかったことへの責任を取っての自刃と工事中から胃痛を訴えており、大量吐血して亡くなった病死の両説があります。野僧の祖父の出身地・山形でも鹿児島県人の人気は高く、「山口県人とは違う」と言う評価が定着していますが、愛知・岐阜・三重県でも感謝と尊敬を忘れていません。現地から平田さまの姓を拝領した「平田町」と言う地名が消えたのは平成の大合併の結果です。合掌(3つの河川の分流が完成するのはオランダ人技術者・デ・レーケによる明治大改修まで待たなければなりませんでした)
平田靭負みなもと太郎作「風雲児たち・外伝宝暦治水伝」より
  1. 2017/05/24(水) 10:15:00|
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振り向けばイエスタディ833

「ただいま」「おかえり、和也」土曜日の午後、安川が自宅に帰ると蒲郡に嫁いでいるはずの姉の鶴舞が出迎えた(=立ちはだかった)。その後ろで聡美が順番待ちをしているが姉は無視している。
「元気そうね。戦争に行ったって聞いた時は驚いたわよ」「戦争じゃない。平和復興支援だよ」姉は3歳年上で名古屋市内の短期大学を卒業して保母になったものの2年も勤めずに寿退職してしまった。短期大学時代には市内の大学生とつき合って反戦平和運動に参加するようになっていたが、結婚相手はその男とは別人だ。
「でも現地の人にミサイルまで射ち込まれたじゃない」「ミサイルじゃあない迫撃砲だ。それに射ち込んだのは現地の人じゃあなくて北部から来た過激派だよ」「抗議デモも起こされたでしょう」どうやら姉は喧嘩を売りに来たらしい。こう言う相手は無視するしかないので安川は手で横に押しのけて玄関に上がった。
「聡美、帰ったよ」「貴方、おかえりなさい」姉が腕組みをして見ているため聡美は少し引き気味だったが安川は構わず抱き締めた。すると聡美は小声で「おかえりなさい」と繰り返した。
「アンタ、国家公務員が人前で抱き合っても良いの」「人前ったって姉貴だろう。家の中じゃあないか」それでも聡美は義姉の心証を害することを懼れたのか肩で腕をほどいて離れてしまった。
「姉貴は何時帰るんだ」「明日の夜よ。昼にアンタたちの結婚祝いの会食をするって言うからワザワザ呼ばれたのよ」どうも話の順番が滅茶苦茶になっている。この姉とは自衛隊に入る時から険悪になっているが、折角の休暇には邪魔な存在であることは間違いない。
「だったら無理して出席しなくても良いから帰れよ。旦那さんも困っているだろう」「あの人は久しぶりに楽しい独身貴族を満喫するんでしょう。私も名古屋に遊びに出ようかな」「うん、そうしろよ。今夜は帰ってこなくて良いぞ」玄関での立ち話が長くなったため台所で待っていた母が痺れを切らして出てきた。
「和也、おかえり。鶴舞、久しぶりに会った弟に絡むんじゃないの」母に注意されて姉は不満そうに小さく舌打ちをして居間に戻っていった。

「これが婚姻届だ」最終と始発電車に乗務する泊まり番だった父は昼過ぎには帰宅した。遅い昼食を食べた後、安川と聡美を呼んで座敷の座卓の前に座らせると稲沢市役所の封筒から書類を取り出して見せた。その書類の赤い枠線からは妙に目出度い雰囲気が漂っている。
「聡美さんは未成年だからご両親の同意が必要になる。記入し終わったらお母さんと4人で挨拶を兼ねて伺うことにしよう」「えッ?」父の思いがけない提案に安川と聡美は声を揃えてから顔を見合わせた。そんな反応を予想していたのか父は穏やかに話を続ける。
「2人にはあまり行きたくない家かも知れないが、大人になれば嫌でも筋を通さなければならない場合がある。結婚はその第一歩だから避けて通る訳にはいかないんだよ」父の教えに聡美は素直にうなずいたが、安川はまだ納得し切れないで黙っていた。
「さて慎重に書きなさい。番地なんかも戸籍謄本を見ながら正確にな」父の指導に別の封筒から取り出した戸籍謄本を確認すると郵便では「×××―3」と書いている番地が「×××番地3」であることが判った。几帳面な父は自分で市役所に出向き、住民課の担当者から記入要領の指導を受けて来たらしい。そのため判りにくい役所用語が並ぶ書類も迷うことなく書き進めることができた(特に5項の「同居を始めたとき」。7項の「同居を始める前の夫婦のそれぞれの世帯のおもな仕事」などは意味=必要性不明の典型だろう)。
安川は自衛隊に入隊した時に書いた服務の宣誓や人事書類よりも緊張しながら書き終えた。続いて聡美だ。
「聡美さん、涙を拭きなさい。書類に落ちると困るから」婚姻届の氏名に続いて住所を書き始めた頃から聡美の目には涙が浮かび始めた。それで父は母にタオルを持ってこさせると手渡した。母は聡美の涙を見てもらい泣きしたように鼻をすすったが、隣りの居間から襖越しに姉が声を掛けてきた。
「結婚なんて地獄への片道切符よ。感激するのは結婚式でスター気分を味わうことだけじゃない。それもない結婚の何に感激しているのよ」「鶴舞、お前は緑の枠の書類を用意することにならないように気をつけろ」父が離婚届を例に引いて叱責すると姉が煎餅をかじる音が聞こえた。
  1. 2017/05/24(水) 10:11:50|
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振り向けばイエスタディ832

安川士長は帰国して間もなく休暇をもらい愛知県に帰省することになった。今回の帰省では聡美と入籍してくるつもりなのだが、名寄市内で家を探すなどの準備ができていないため呼び寄せるのは夏季休暇になりそうだ。その前に営内班長を通じて中隊先任に相談すると話はそのまま中隊長の田島1尉にまで届いた。
「安川士長、君は何歳だ」中隊長室のソファーで手前の1人座りの椅子に中隊長と直属上司の小隊長、向い側の長椅子に安川士長を挟んで営内班長と中隊先任が座る陣形で面接が始まった。
「はい、20歳です」「そうだよな。イラクで1任期継続の申告を受けたからな」この5人の中では中隊先任だけが残留だったので、この話にはうなずかなかった。
「確か実家は愛知県の稲沢市だったな」「はい、そうです」「稲沢かァ、行ったことはないが裸祭りで有名なところだよな」「中隊長、随分とお詳しいですが守山に近いのですか」ここで田島1尉の経歴を知っている中隊先任が質問する。名寄の陸曹の大半は道産子なので内地の知識に疎いのだ。
「うん、名古屋市のベッドタウンなんだが、これと言って何がある訳ではないから名古屋からワザワザ行かない街だよ」安川士長も田島1尉が守山から転属してきたことは聞いていたが直接話す機会はあまりなく、この説明で初めて親近感を覚えた。
「それから久居ではモリヤ2佐の教えを受けたんだったな」「中隊長は中隊長をご存知なんですか」安川士長は自分の質問が変なことに気づいたが、訂正する言葉が思い浮かばなかったため黙った。
「うん、俺は守山で教えを受けたんだ」「モリヤ2佐ってあの射殺事件の・・・」「確か1尉だったんでは」田島1尉が話題の人物の知り合いと判り、小隊長と分隊長が質問を浴びせた。
「モリヤ2佐はどう言う訳か裁判が終わった後、2佐に特別昇任されて今は幕(ばく)におられるはずだ」田島1尉も年賀状で2佐に昇任したことを知っているだけでそれ以上の情報は持っていないようだ。それにしても話が外れたままで安川士長の結婚の問題は置き去りにされっ放しだ。ここでようやく田島1尉が本題に戻した。
「相手は出陣式と歓迎式に来ていたあの娘(こ)だな。まだ若いみたいだったが何歳だ」「18歳、3月に高校を卒業したばかりです」安川士長の説明に同世代の娘がいる中隊先任は少し難しい顔をして安川士長の横顔を注視し、反対側では30歳過ぎの2曹になっても独身の営内班長が羨望と嫉妬、立腹と心配が入り混じった表情で睨んでいる。
「彼女は今、何をしているんだ」「はい、自分の実家で花嫁修業中です」「花嫁の新隊員課程と言う訳だな」田島1尉の意表を突いた表現に安川士長を除く3人が苦笑した。
「彼女が君の実家にいると言うことは彼女の両親も結婚に同意していると言うことだな」この理解は事実に少し反するが、関係上司にどう説明して良いのか判らず黙っていると中隊先任が口を挟んだ。
「若し、安川士長は婚姻届を提出すれば営舎外居住が許可されますが、駐屯地の官舎には現在、空き室がありません」「許可されるか否かは俺の承認がなければ手続きが進まないだろう」「勿論、そうです」田島1尉は中隊先任が手続きを進める上で段階を飛躍させたことを注意した。
「陸士長1号俸の安月給では官舎に入らないと生活するのは難しいな。そんな若い嫁さんでは熟練した奥さんたちに相談相手になってもらわないと心配だろう」これは大人の判断だが、若い安川士長は新婚生活を職場の上司に囲まれて始めることに少し嫌悪感を抱いた。
「入籍するにしても官舎が空くのを待ってから呼び寄せた方が良いな」どうやら本人抜きで結論が出てしまいそうだ。その時、安川士長の頭にモリヤ中隊長の大立ち回りが再生された。
「モリヤ中隊長は彼女の父親が淫行で告発すると言ってきた時、向こうの家に乗り込んで情け容赦なく徹底的に叩きのめしたんですよ」この一言に田島1尉は身体を起こして顔を引き締めた。
「あの人を怒らせたのか」「はい、情報収集して弱点を徹底的にあぶり出した上で自分からも秘密兵器を奪い取っていきました」「そうか・・・モリヤ1尉が応援してくれたんだな」田島1尉はこの秘話を聞いて真顔で黙り込んだ。そんな中隊長を中隊先任と分隊長は困ったように眺めている。やがて田島1尉は安川士長を直視して自分が出した結論を告げた。
「どうやら君たちが結ばれることはモリヤ中隊長のお告げのようだな。ならば言うことはない。頑張れ」どうやら田島1尉にとってモリヤ中隊長は「お告げ」を下す実在の武神であり、今も崇敬の対象らしい。
  1. 2017/05/23(火) 09:17:47|
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5月23日・ナチスの実直な悪鬼(?)・ヒムラーが服毒自死した。

1945年の明日5月23日にナチス(=国家社会主義ドイツ労働者党)の親衛隊長にして政治警察(日本で言えば特高警察)ゲシュタポの長官、更に強制収容所の所長でもあったハインリッヒ・ルイトボルト・ヒムラーさんがイギリス軍の収容所で服毒自死しました。
野僧はヒムラーさんの写真と映像を見た時、その実直そうな顔立ちと温和な表情からはナチス・ドイツの罪の面(政治的には貢の面もある)の大半を実行した凶悪な人物とは思えず、むしろ教師家系の伯父や叔父たちによく似ており、学校のトップとして君臨する校長ではなく誠実に校長を補佐し、教師たちにも気を配る教頭のようなタイプだったのではないかと思ってしまいました。
実際、ヒムラーさんは教師、それも地元領主(皇帝の下の王)の王子の家庭教師を務めたような優秀な教育者の二男として生まれ、本人も幼い頃から大学を卒業するまで極めて優秀な成績を収めていたようです。然も虫も殺せないほど温厚で情け深く、貧しい同級生に自分の食べ物を分け与えたり、盲目の老人のところに通って本を読み聞かせていたと言う美談も残っています。
その一方で生来病弱で運動神経は鈍く、騎士道精神を受け継いでいたドイツの男の子にとって決闘は自負=勲章だったのですが、運動神経が鈍く温和で真面目なヒムラーさんを相手にする卑怯者はおらず、顔に決闘の跡の傷がないことを恥じて、それを付けてもらうためだけに相手構わず決闘を申し込むような面もあったようです。結局、根負けした同級生に傷をつけてもらって本人は満足していたとも言われています。
第1次世界大戦が始まっていた15歳の時、2歳年上の兄と一緒にボーイスカウトのような青少年に軍事訓練を施す組織に参加して兄が従軍すると自分も出征することを熱望するようになりましたが、眼鏡をかけていたため希望していた海軍には入れず、父親の王室内の人脈で王立歩兵連隊の士官候補生として従軍したものの戦闘に参加する前にドイツが降伏してしまったため戦歴がなく、ヒムラーさんはそのことに劣等感を抱いてヒトラー政権で力を得るとこの時、戦闘に参加したように綿密な経歴詐称までしています。
そんなヒムラーさんは敗戦後、戦争に参加できなかった欝憤を過激な政治団体に走ることで発散しようとしました。当時のドイツではロシア革命の余波を受けてプロシア革命を画策する社会主義者が勃興し、ワイマール政権は民主主義の表看板を守るため容認せざるを得ず(戦後の日本と同様に)、逆にそれを阻止して同時に屈辱的なベルサイユ講和条約からの脱却を目指す国家社会主義=ナチズムが発生しました。しかし、マルクス主義はドイツが発祥だけに社会主義者の方が圧倒的に優位だったのです。
このためナチスはミュンヘン決起を鎮圧されるとヒトラーさん以下の主要幹部は逮捕・投獄されました。しかし、下っ端だったヒムラーさんはお咎めなしで、持ち前の実直さと優秀さでヒトラー不在のナチスの残党に重宝されるようになり、次第に実務担当者として地位を上げていきました。
そしてヒトラーさんの出獄後に突撃隊(社会主義者との抗争を行う実力部隊)の下部組織でヒトラーの警護を担当する親衛隊長に抜擢されると優秀な頭脳と誠実な努力を傾注して組織を充実させ、ナチスの支持拡大に歩調を合わせて次第に巨大な党内警察組織に変質させていったのです。1932年には親衛隊の制服を黒色の生地で髑髏の帽章のマニアの間では「史上最高」とされているデザインに変更しています。
1933年1月30日にナチスが政権を握り、ヒトラーさんが首相に就任しましたがヒムラーさんには何のポストも与えられませんでした。それも悪人特有のエネルギッシュな存在感に乏しく実務担当者としか評価されていなかったことが原因ですが、やがて親衛隊が国家組織化されたことで内務大臣に就任して警察も掌握下に置き、秘密警察・ゲシュタポも指揮するようになったのです。
つまり戦争と言う表舞台の影でユダヤ人の摘発から強制収容所での大量殺害までの抹殺処理や反ナチスの思想犯の逮捕などの裏方を一手に引き受け、それを自分の職責として誠実に遂行していったからあのように実直な風貌になったのかも知れません。実際、溺愛していた娘に自分の仕事場としてユダヤ人の強制収容所を見学させているくらいですから罪の意識は微塵も持っていなかったのでしょう。
ヒムラーさんは軍隊化した親衛隊を指揮して連合軍との戦闘を直視していたためヒトラー政権の末路を察知し、独断でイギリス・アメリカとの講和を模索し始めますがこれを拒否された上、ヒトラーさんが自死した後の降服の全権を託されていたデーニッツ元帥に追放されたためエルベ川を渡って逃亡してイギリス軍に拘束されたのです。収容所で全裸になっての身体検査を強要され、その時の担当者(曹長)の無礼な態度に激怒して義歯に仕込んであったシアン化カリウムのアンプルを噛み砕いて死にました。武人になり切れなかったヒムラーさんらしい最期だったのかも知れません。
ハインリッヒ・ヒムラー制服よりも背広姿で教壇に立っている方が似合いそうです。
  1. 2017/05/22(月) 09:31:58|
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振り向けばイエスタディ831

5月下旬、安川士長は3カ月間とは言え慣れ親しんだサマーワを後にして帰途についた。宿営地からの道には決して近くはない市街地から多くの市民が集まっており、市内の小学校も授業を中断したらしく子供たちが勢揃いで見送ってくれていた。
「最後くらい歩いて知り合いと握手でも交わしたいですね」装輪装甲車の後席からは外の様子が見えないため残念に思った安川士長がこぼすと向い側に座っている陸曹が首を振った。
「馬鹿、そう言う浮かれた気分でいる時が一番危ないんだ。迫撃砲を撃ち込まれたことを忘れた訳じゃあないだろう」「はい、すみません」確かに日頃、実施してきた「業務」は給水や施設の修理などの民生協力だったがそれが全てではない。そこが実力組織である陸上自衛隊が準・戦地であるイラクに派遣された意義なのだ。それでも天盤のハッチを開けて上半身を突き出している車長の方向から市民の歓声が聞こえてくる。その中にはサッカーを教えた子供たちの声も混じっているようだ。
「イラクが平和になったら女房を連れて会いに来るよ。それまで無事でいてくれ」安川士長は無意識のうちに手を合わせて祈っていた。
「祈るのって本当は真剣な気持ちでやるんだな・・・」安川士長にとって「祈り」とは神社の参拝や親戚の法事と墓参で形式的に手を合わせる作法に過ぎなかった。しかし、イラクを蔽う厚い戦雲を思えば人知を超えた力にすがるしか願いを叶える手段がない。そう言えば小牧の航空自衛隊を通じて届いた実家からの荷物には母が聡美を連れて犬山市の桃太郎神社にまで行って買ったお守りが入っていた。母と聡美は自分の無事を祈ってくれている。帰る時になってようやくその有り難さが判ったような気がした。

旭川駐屯地で行われた歓迎式には今回も両親と白井聡美が参加していた。
「只今、晩鐘光一郎1佐以下の第1次イラク派遣隊が到着しました」空港から駐屯地へバスで直行した派遣隊が到着すると一斉放送が流れ、家族の雑談で騒がしかった正門から中央グランドへの沿道は不思議な静けさに包まれた。やがて正門の方向から音楽隊が演奏する行進曲が聞こえ始めた。
「聡美さん、和也が帰ってきたよ」「全員が同じ服装をしているから見逃さないようにな」真ん中に聡美を立たせて両親は両側から声を掛ける。聡美は「愛する和也を見逃すはずがない」と思いながらも「はい」と素直に返事した。
「オーッ」「キャーッ」「ワーッ」と道沿いに歓声と拍手が沸き起こり迫ってくる。その声量は先頭を歩いてくる音楽隊の演奏を搔き消すほどだ。45名ずつ3個小隊で編成されている部隊が接近してくると出迎えている家族から「おかえりなさい」「ご苦労さま」と言う声が上がり始めた。その声を上げた家族の中にはそのまま泣き始める母親や妻もいる。
「おッ、和也だ」「和也ァ!」「貴方―ッ」3人は同時に安川士長を見つけて声をかけた。背が高い安川士長は第3小隊の前から2番目の右側を歩いていたのだ。ただし、隊列の右側は横列の間隔を維持しなければならないため視線を反らすことはできない。それでも3人は自分の声を聞いた瞬間、安川士長の表情が緩んだと感じていた。
「誰が誰だか判らなかったね」「あんな髭を生やしてちゃあ仕方ないよ」「真っ黒に日焼けちゃって前か後ろか判りゃしない」部隊が中央グランドでの歓迎式典の位置に行進していくのについて家族も移動を始めると中には見つけられなかったらしい家族が愚痴をこぼし始めた。確かに隊員たちの中にはイスラム男性を真似して3ヶ月間で立派な髭を蓄えている者も少なくないが、これは現地での儀礼上の必要性があったからだ。

「貴方、おかえりなさい」式典が終われば第3普通科連隊は名寄駐屯地に帰らなければならない。それでも観光バスに乗る前に30分間の面会時間が与えられた。聡美は3ヶ月間で日に焼け、少し痩せたが目つきは鋭くなった安川士長に妻として声をかけた。
「うん、心配をかけたな。何とか無事に帰ってきたよ」安川の返事は急に大人びたようだった。聡美は自衛隊に入って久居駐屯地に行っていた3カ月間にも同じような印象を持ったが、今回は遠くへ置き去りにされたかのような怯えも感じる。そんな聡美の表情を見て安川士長は一歩近づくと強く抱き締めた。一瞬の間を置いて聡美は声を上げて泣き始めた。
  1. 2017/05/22(月) 09:30:32|
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振り向けばイエスタディ830

5月中旬になり、安川士長たち名寄・第3普通科連隊を基幹とする第1次イラク派遣隊の交代時期が迫ってきた。日本では連休明けに当たる5月6日(イラクはイスラム暦なの日付が違う)には第1次派遣隊に対する感謝のデモが行われたが、過去の歪曲したデモ報道が思ったような世論の喚起につながらなかったマスコミは無視を決め込んでいた。
今日も安川士長は陸曹が運転する給水車で市街地へ飲料水の供給に出かけている。その量は1日平均200トン、サマーワ市民は「血よりも大切」と言われている清潔な水を重い壺を抱えて汲み出しに行くことなく手に入れることができるようになったのだ。
「始めはイラクまで来て給水かよって思っていたんだが、本当にやりがいがある仕事だよな」「はい、砂漠の人たちには命に関わる問題ですからね」まだ20歳の安川士長の大人びた返事に陸曹は感心したような顔で助手席を見た。今回の派遣部隊は幹部以外は1任期以上の陸士と陸曹ばかりで編成されているので急に大人になるのも当たり前だが、それ以上に素養があったのだろう。
「次は第11後方支援連隊だから大工仕事も少しは本格的になるかな」「規模も随分と大きくなるみたいですよ」第1次派遣隊は普通科だったので工作機械などの取扱いにはあまり熟練しておらず、水道や電気工事も素人仕事だった。次は後方支援連隊なので車両や武器の分解整備や輸送、補給、衛生の専門家が揃っている。この第2次派遣隊が施設の修理・復旧に目途をつけてくれればそれ以降は普通科でも大丈夫だろう。サマーワは平穏で親日的とは言え、イラクの北部ではシリアへ逃れた過激組織のハマスやヒズボラと新イラク・アメリカ連合軍が死闘を繰り広げている。だから「普通科連隊が来た方が良い」と言うのは陸士長の安川も感じている現実だ。
「ところで広報ビデオを作る話はどうなったんですか」今度は安川士長が質問した。この話は「自衛隊が有志連合の一員である」「アメリカ軍の手先の占領軍である」と言う誤った情報を解消するため派遣隊長・晩鐘1佐が提案したと聞いている。安川士長自身も実家から届く聡美の手紙で日本の報道が事実とは全く違っていることを知っているので期待しているのだ。
「何でも製作費を外務省と防衛庁のどちらが負担するかで揉めているらしいんだ。隊長は予備の予算で作れば良いと思っておられたんだが、東京の役人は外交問題になる惧れがあるって話を大きくしてしまったらしい」「出演しようと思ったんですが残念です」「出演しても日本では流れないぞ」安川士長の現代の若者らしい返事に陸曹は少し安心したように苦笑した。
「安川、帰ったら彼女に会いに行くのか?出陣式に来ていたけど可愛い子ちゃんだったな」この陸曹は独身だった。実は安川士長は帰国して休暇がもらえれば愛知県に帰省して入籍するつもりなのだ。2月上旬の出陣式の時、聡美はまだ高校生だった。あれから3カ月、自分の実家で過ごしている聡美がどこまで安川家の家風に染まっているのか楽しみではあるが心配でもある。
「何をニヤケているんだ。あれはどう見ても未成年だろう。下手に手を出すと淫行で逮捕されるぞ」陸曹の有り難い指導だったが、その件は入隊直後に起こっていた。あの騒動で安川と聡美は真剣に将来を考えるようになったことを胸の中で噛み締めた。
「それにしてもイスラム教はどうして女性の体形を隠させるのかな。俺もグラマーな可愛い子ちゃんがいれば嫁にもらって帰ろうと思ったのにな」「マジすっか。それじゃあ国際結婚じゃあないですか」安川士長が真面目に驚くと陸曹は舌を出して肩をすくめた。イラクではアラビア半島の目だけは出す全身黒づくめのアバヤよりも顔だけは露出するイランのチャドルやエジプト風にスカーフで髪だけを隠すニカーブの女性が多い。勿論、体形はこの陸曹のような男性の欲情を誘うため人前で晒すことは禁じられているのだが、これもフセイン政権がイスラムの戒律と女性を現代的解放することの両立を模索していた結果なのだ。
「さて次の給水ポイントが近づいてきたな。テーマ曲を流せ」「はい、安川士長」陸曹の指示で安川士長はCDラジカセで給水車の到着を知らせる日本の童謡「雨ふり」を流し始めた。
「雨、雨、降れ、降れ、母さんが 蛇の目でお迎え嬉しいな ピチピチ チャプチャプ ランランラン・・・」運転席で2人揃って口ずさんでいると市街地から子供たちが掛けてきて手を振り始めた。ここからはスーパーうぐいす嬢作戦の始まりだ。安川士長は助手席の窓を開けて子供たちに両手を振り始める。
「我々は軍隊ではなくてジエータイだ」これが安川士長がイラクへ来て3カ月で出した答えだった。
  1. 2017/05/21(日) 10:37:22|
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振り向けばイエスタディ829

佳織の休日出勤はそのまま職場泊になる。本来は情報課の交代勤務に加わらなければならないのだが子供を抱えているため免除されており、その分を返すために私が帰宅している時は一手に引き受けざるを得ないのだ。したがって帰宅するのも志織が寝てからだった。
「貴方、ごめんなさい。折角、帰ってきているのに一緒にいられなくて」階段を上る足音が聞こえて玄関で待っていると佳織はそう言いながらドアを開けて入ってきた。そのまま制服姿の佳織を玄関で抱き締め、お帰りのキスを交わしてから2人で寝室の志織の寝顔を覗いた。
「志織はお母さんの顔を何日見てないのだろうか」「連休になってから会ってないね」「アメリカン・スクールが休みじゃあなくて良かったよ。官舎の子供たちはお出かけでハシャギ回っているからな」アメリカ留学中も佳織が演習や討議で帰宅できない時は同期の妻に預ってもらったらしいが、その分、志織には逞しさ=ふてぶてしさが身についてきているような気がする。
「夕食は?」「駐屯地の食堂で食べたよ」「そうだろうね。疲れたろうから早く眠った方が良いな」私の性的不能は回復していないので、これは夫婦の営みへの誘いの言葉ではない。佳織も純粋に気遣いと受け取ったようだ。
「でも貴方と一緒に過ごす時間が欲しいのに眠ちゃったら勿体ないやん」「大丈夫、抱き締めて寝るよ」そう答えたがやはり私の一物は反応しない。東京拘置所での1年半が肉体と精神をどれ程、深く傷つけたのかを噛み締めると政治目的で告発した徳島水子への憎悪が湧き上がってくる。
「それじゃあ一緒にシャワーを浴びてよ」私に暗い光が点ったのを見た佳織が思いがけない提案をしてきた。以前ならそれを想像しただけで興奮状態になったものだが、今は妻の裸を見ても反応しない現実に恐怖を感じてしまう。それでも佳織は制服を脱いでハンガーラックに掛けると下着のままクロゼットから自分と私の下着とパジャマを出して浴室に歩いて行った。
「今の私は貴方に身体よりも精神のつながりを求めているんや」シャワーで身体を濡らし、お互いを石鹸で洗いながら佳織が今の心情を口にした。以前ならこんな言葉を聞けば素直に感激したものだが、今は慰めのように受け止めてしまう。早い時期に性的不能になることが男性心理にかなり深刻な打撃を与えるのは間違いない。
「ワシは佳織が欲しくてたまらないのに何ともならない自分が悔しくてならないよ」そう答えながら乳房を掴むと佳織は優しく手を重ねて押えた。
「手でなら私を愛せるじゃない。私も貴方の温もりを感じられれば幸せだよ」佳織は両手で私の頭を支え、胸元にいざなった。目の前には拘置所で夢に見ていた愛おしい乳房がある。それを口に含みたいと思いながらも、それが性行為の一部であることに怯えている自分がいる。これは精神が屈折したのではなく崩壊の始まりなのかも知れない。その恐怖に身震いした。

シャワーを浴び終えて布団に入ると約束通り腕枕をしながら眠りについた。私の肩に頭を乗せている佳織の吐息からは歯磨き粉とは別の匂いを感じられる。
「ワシはもう戦死してしまったのかも知れないな」これは拘置所を出て以来、抱いている実感だった。3人の命を奪っておきながら法的には「自分は無罪だ」と主張しなければならない自己欺瞞は精神性を殺していたのと何も変わらない。私が武人であることが認められているのならば何の迷いもなく戦闘の可否だけを争うことができただろう。しかし、武人として遂行した任務を一般人の立場で正当行為と主張する不条理は常に精神を蝕み続けた。
「やはり死刑判決を受けて表現の自由として処刑方法に割腹を要求する憲法裁判を起こした方がワシ好みだったな」天井を見上げながら呟いた独り言に佳織は返事をしない。それでも聞こえてくるのはまだ寝息ではないので話を続けた。
「こんなワシと一緒にいると疲れるだろう。手を放そうか」こんな独り言は自分を惨めにするだけだ。それを聞かせることが申し訳なくなって小声で確かめると肩で鼻をすすった。
「アメリカで同期のハズ(ハズバンド=夫)がイラクで戦死したんや」いきなり佳織は上に重なってきた。
「貴方は死んでへん。心臓が動いとる。息をしとる。心も必ず私が生き返らしたる」それだけ言うと佳織は胸の上で眠りに落ち、寝息を立て始めた。
は・鈴木京香イメージ画像
  1. 2017/05/20(土) 09:48:37|
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5月20日・「房州の列女」畠山勇子が自刃した。

明治24(1891)年の明日5月20日に戦前は「房州の烈女」と持て囃され、戦後は出身地だけが郷土の誇りにしている狂女・畠山勇子が自刃しました。25歳でした。
この狂女が何故、自死を決行したのかと言うと5月11日に発生した警察官によるロシア皇太子の暗殺未遂=大津事件が原因です。
狂女は幕末の慶応元(1865)年に現在の千葉県鴨川市で生まれましたが、この地は日本佛教に於ける異端の狂僧・是生房蓮長(一般的に用いられている僧名を書けば危険なことになりそうですから出家時のモノにしておきます)の出身地でもあります。
野僧はこの土地を訪れたことがありますが、房総半島の先端で眼前には広大な太平洋が広がる風光明媚な景勝地である反面、「ここから先がない行き止まり」と言う閉塞感を覚えたのも確かです。下関市出身で愚息2の工業高校の先輩である芥川賞作家も「山口県はここから先がない行き止まり」と評していますが、こう言う土地の住人は閉塞感の反動で社会に目を向けたがるものの断片的にしか入ってこない情報だけを頼りに考えを巡らせ、自分の主観だけで世の中が判っているつもりになった揚句に過激思想へ走ってしまうことが多いようです。ただし、鴨川は太平洋から朝日が昇りますが、山口県は東シナ海に夕日が沈むので閉塞感は更に大きく、この国を滅亡に追い込んだ幕末の反乱者たちが実例になっています。
この狂女の実家は江戸時代まで裕福でしたが幕末・明治の政変に伴う儲け話に巨額の投資をして失敗したため育っていく頃には貧窮していたようです。おまけに5歳の時に父親が亡くなり、17歳で隣村に嫁いだのですがこの性格では上手くいくはずがなく23歳で三行半(みくだりはん=離縁状)を渡され、東京に出て華族や資産家の家で女中奉公することになりました。
やがて伯父の紹介で府内(当時は東京府だった)の商家に住み込みの針子として働き始めましたが、父親は明治の政変が金儲けになると考えたように庶民としては時事問題に関心を持っており、幕末に武器の密輸で財をなした伯父も同様だったため狂女もいよいよ狂気を発して商家がとっている新聞を熟読するようになったのです。このため周囲からは変人扱いされていたようです。
そんな無学(文盲ではない)な女が読者を扇動する記事を読めば書かれていることを鵜呑みにするのは当たり前で、「大津事件が発生した」との一報に続いて強力なロシア艦隊が神戸港に停泊している事実と江戸時代に外交交渉の決裂の欝憤晴らしにロシア艦が日本の沿岸を砲撃して回ったレザノフ事件の例を引いて日本に脅威が迫っていると書き立て始めると狂気が炎上し始めたのです。
狂女は周囲に「日本の危機だ」と説いて回りましたが、日頃から新聞を読んでは時事問題に過剰反応していたため「毎度の悪癖」と誰も相手にせず、むしろ教養をひけらかしているように受け止められたようです。それでも冷静になることをせず狂気の火力を増加させ、「帰郷するから」と言って商家を辞めると伯父の下へ走り、「国家存亡の危機」を訴え、さらに新聞が書き立て始めた「皇太子が日本の病院での治療を中止してロシア艦に帰ったのは謝罪のため京都まで行幸した天皇に屈辱を与えた」と言う怒りを叫びました。伯父は興奮状態の姪を「庶民の女が国家の大事を案じても仕方ない」と冷静に諫めたのですが、狂女が聞く耳を持ち合わせているはずがなくそのまま列車に乗って京都へ向い、市内の寺社で国家鎮護を祈願した後、「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」と記した嘆願書を京都府庁に投げ込んでその場で自死を決行したのです。この時、遺体が見苦しくならないように両足を手拭いで縛り、剃刀で頚部と胸部を深くえぐった(頚部の傷は気管にまで達していた)のですが即死はできず、搬送先の病院で出血多量で死にました。
こうなると新聞が放っておくはずがなく、一夜にして狂女は「列女勇子」と言う忠君愛国のヒロインになり、京都は下京の末慶寺(浄土宗禅林寺派)に作られた墓は観光名所になったようです。
実家の菩提寺である観音寺(真言宗智山派)では今でも節句には遺品の雛人形を飾り、「烈女勇子」を顕彰して観光客誘致の材料にしようとしていますが(野僧はここで資料をもらいました)、どう考えても浅はかな狂女の暴走に過ぎず、「この行動がロシア皇室の胸を打ち、強硬手段に出ることを抑えた=日本を危機から救った」と言う説明は鴨川特有の論理展開にしても無理があり過ぎます。
確かに女性自衛官にも時々このような「強烈(狂烈?)な女性」がいましたが、迂闊に手を出すと惚れた炎が無制限に燃え上がり危険でした。
  1. 2017/05/19(金) 09:24:51|
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振り向けばイエスタディ828

志織のアメリカン・スクールは日本の祝日は関係ないので大型連休にはならない。一方、佳織もイラク派遣隊の交代が迫っており、平日の海外情報を分析する必要があって連休中も出勤になる。そのため家族で唯一、休日になる私が志織の送迎を担当することになった。
「志織、横田の学校はどうだ」「うん、勉強はカンザスと変わらないけど日本人がいるからあまり好きじゃない」私は軽い気持ちで質問したのだが、娘の返事は予定外に重かった。確かに横田基地のアメリカン・スクールには国内留学として子供を入学させている日本人がいるらしい。
「日本人が何か悪いことをするのか?」「ううん、悪いことはしないけど・・・カウワディスなんだ」いきなり中学1年(アメリカン・スクールは9月に進級する)の娘の口から「カウワディス=卑怯」と言う厳しい言葉が出て少し困惑していると志織が説明を始めた。
「日本人は正しいことを自分で決めないで仲間を作って何でもマジョリティ・ヴォウト(多数決)にするんだよ。それでリフテーション(反論)すると『みんながそう言っている』って始めから受けつけないの」「うん、それは日本人の嫌な面だな」要するに空気を染めて方向性を操る場の論理をアメリカン・スクールに持ち込んでいるのだ。本来、アメリカ人は正否を自分で判断し、意見が異なる相手とは正面から議論して決着をつけるものだ。そんなアメリカの学校に日本の恥ずべき百姓根性を持ち込まれては困ってしまう。
「それに私が仲間にならないと『日本人の癖に裏切り者だ』って言うから『それなら日本人じゃなくて良い』って言い返すの」「ふーん、志織は過激だなァ」感心と心配を半分ずつ抱えながら助手席を見ると志織は真顔でフロントガラス越しに広がる日本の風景を睨んでいる。これはかなりストレスを感じているようだ。この調子では進学、就職も外国ですることになるかも知れない。
「どうして日本人ってイエスとノーをハッキリさせないの」「昔の農家の仕事は共同作業だったからイエスと言って責任を負わされるよりも誰かが言うまで待っていたんだね」「ノーカってファーマーのことだね」「うん」志織には単語を英語に置き換えて説明した方が良さそうだ。ところで私の説明は理解できたのだろうか。
「マミィも日本に帰ってきて嫌なことが一杯あったんだって」やはり話が変わってしまった。この佳織の嫌な経験については本人ではなく伊丹のママさんから聞いたことがある。両親の離婚で帰国して転入した中学校で、色々と相談に乗ってくれていた教師から性行為を強要されたらしい。その教師は「アメリカ帰りなら奔放な生活をしていたのだろう」と御相伴に与かるつもりだったようだが佳織はバージンだった。そんな苦い過去と志織の将来を考え合わせながら運転していると助手席から歓声が聞こえてきた。
「ヨコタ・エアベースが見えてきたよ」「うん、ランナップ(飛行前点検)しているエンジン音が聞こえてくるな」私には懐かしいジェットの響きだが、地元住民にとっては迷惑な騒音に過ぎないはずだ。それが訴訟となれば法務官として対処しなければならない。急に意識が仕事に向かってしまった。それでも車内に流していたオールディーズのCDを止めてエンジン音を楽しんでいると志織が話の続きを始めた。
「そう言えば日本人たちの中には『アメリカは戦争をしている悪い国だ』って言う子もいるんだよ」「そう思うんだったら来なけりゃ良いのにね」「うん、本当に来ないで欲しいよ」おそらく日本人の子供たちは親が新聞やテレビを見ながら語り合うアメリカ批判を場所も弁えず口にしているのだろう。しかし、戦争に反対するのなら防衛力を強化する以外に道はない。アメリカン・スクールでそんな国際常識を学んでも基地の外は言霊の国・日本だから「平和、平和とお題目を唱えていれば戦争は起こらない」と言う馬鹿げた観念論に引き戻されてしまうはずだ。一方、志織はアメリカで9・11からアフガニスタン、イラク侵攻に至る道程を見てきた。だから半世紀以上前の戦争の敗北で腰が抜けて立ち上がれなくなったままの日本人とは次元が異なる戦争観・平和観を学んできているのだ。
「ここで志織のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんは出会ったんだよ」「だから私が生まれたんだね」「その意味では横田基地は志織の故郷なのかも知れないな」「だったらもっとヨコタ・エアベースを好きになろう」ゲートにつくと私服の私は窓を開けて陸上自衛隊の身分証明書と入門許可証を提示した。しかし、志織とは顔見知りらしい歩哨は笑顔で助手席に向かって敬礼した。
  1. 2017/05/19(金) 09:22:54|
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5月19日(太陰暦)・剣豪将軍・足利義輝が殺された。

永禄8(1565)年の明日5月19日(太陰暦)に剣豪・塚原卜伝の直弟子として奥義「一之太刀」を授かったと言われる13代将軍・足利義輝公が二条御所を襲撃されて殺されました。
歴史マニアにとって足利将軍と言えば初代・尊氏公、一休さんの「将軍さま」である3代・義満公くらいまでは許せるとして、政治に背を向けて恐妻の日野富子の言いなりになってやがては応仁の乱、乱世を引き起こした8代・義政公、そして陰湿な策謀を巡らして自分を擁立してくれた織田信長公を追い落とそうとした15代・義昭公まで亡国の暗君ばかりのような気がしますが、その中で数少ない体育会系の硬派である義輝公は一服の清涼剤に当たります。ところが実際は強気な割に立場は弱く、それを弁えずに体育会的な強引さで天下に君臨しようとしたことで抹殺されたのですから、やはり破滅型の暗君だったのかも知れません。
義輝公は12代・義晴公の嫡男として臨済宗の別格本山(京都と鎌倉の五山の上に立つ)である南禅寺で生まれ、元服前の11歳の時に父が自分の例に倣って将軍職を譲り、大御所(=後見)となりました。それにしても幼君を立てたことは足利将軍家が弱体化した原因の1つなのですから義晴公は何を考えていたのでしょう。実際、徳川幕府で家康公、秀忠公、吉宗公、家斉公が大御所となった時、新将軍は成人していました。また鎌倉幕府では頼朝公亡き後、政子さんが大御所役として息子たちを監督していたのです。
その義晴公は応仁の乱以降、急速に弱体化した将軍家と政治の実権を握った管領(かんれい)の立場逆転そのままに細川晴元(諱の1字は義晴公から受けているが)さんと度々争いながらも連戦連敗だったため近江で亡命政権を何とか維持していたのです。しかし、征夷大将軍とは武家の頭領である以上、武力でも諸将を圧倒しなければならないはずで、家臣に連戦連敗して京都に戻れない人物が何故、将軍の地位を維持できたのか全く謎です。おそらく宮中を絡めた日本的な権力構造が作用したのでしょう。
そんな父の下では義輝公も亡命生活を送らざるを得ず、将軍を譲られたのも京都の室町ではなく近江の坂本(後に明智光秀さんが城を築いた)でした。元服も同じ場所で行い、最初は義藤と名乗っています。
この諱(いみな)を4年間用いた後に義輝に改名しましたが、肥後・細川家の始祖である細川藤孝さまはこの時期に1字を受けたのです。余談ながら義輝になってからは越後の上杉景虎(謙信)さまに1字与えて輝虎に改名させ、中国の毛利輝元さんや伊達政宗さまの父・輝宗さまにも1字与えています。さらに島津義久さまや武田晴信(信玄)さまの嫡男の義信さんには義の字を与えていますが、こちらの方は源氏の血統であることが条件になり、謝礼金はかなり高騰します。江戸時代もそうですが有力大名の諱を見れば(有力でなければもらうことはできない)、どの将軍の時期に元服したのかが判ります。ただし、徳川家斉公は50年間も在位したため数代に渡って「斉」がつく藩主と言う場合もあります。
将軍となり元服を済ませた頃、義晴公が宿敵・細川晴元さんと和睦して京都に戻りますが、その晴元さんが家臣の三好長慶さんとの合戦に敗れたため一緒に亡命する羽目になりました。父の義晴公が亡命先で死ぬと義輝公は三好長慶さんを打倒しようとしますが、最早、手勢も十分に集まらず小さな城を築いたもののあっけなく落城してしまい、三好さんの訪問先を襲撃したりする征夷大将軍の名に恥じる戦いに終始していたのです。結局、細川晴元さんとは同族相討つ敵対関係だった細川氏綱さんを管領につけることを条件に三好さんと和睦し、ようやく京都に戻りました。
京都に戻ってからは武力ではなく、権威と言う理解不能な影響力で各地の武将を守護大名に任命し、武将同士の争いを調停するようになります。おそらく武将たちも打つ続く戦乱によって過去の価値観が崩壊していく中、武家の頭領たる将軍のお墨付きは領国経営の根拠であり、合戦を正当化するためには欠かすことができない道具だったのでしょう。
しかし、このような動きは自分の権威づけの道具にしようとしている三好さんとその家臣で主以上の悪だった松永久秀さんにとっては目障りな存在になり、やがて長慶さんが亡くなると統治権を完全掌握しようとする義輝さんと三好さんの遺臣たち=三好三人衆(三好さんの実子は先立っていた)との間で一触即発の緊張が生じ、松永さんが三好三人衆と共に義輝公の叔父の嫡子に当たる義栄さんを擁立して暗殺を企てたのです。こうして塚原卜伝さんから奥義を授けられた剣豪将軍も畳を盾に突き立てた剣で四方から刺され、絶命したのです。頼山陽が著した史書「日本外史」や講談では将軍家伝来の家宝の名刀を畳に刺し並べ、襲いかかる敵を次々と斬り倒した後に殺されたことになっていますが、襲撃発生当時の公式文書にはそのような記述はありません。
足利義輝石井あゆみ作「信長協奏曲」より
  1. 2017/05/18(木) 09:04:26|
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振り向けばイエスタディ827

学生隊隊舎の2階に尾柏1尉の2中隊はあった。それにしても階段の手前に加藤隼戦闘隊の加藤建夫隊長の木像が置いてあるところは流石に航空自衛隊だ(陸自・明野航空隊からの貸与品らしい)。
「立見教官、モリヤ2佐をお連れしました」尾柏1尉の案内で教官室に立見教官を訪ねたが、陸の前川原と違って建物の配置が複雑で候補生たちが部隊行動で移動するのには不便そうだ。
「これは始めまして立見です」「モリヤです」立見教官はノーネクタイでワイシャツの上にブレザーを羽織っただけの軽装だった。
「候補生たちの土曜日の教育は学生隊長の所定なので教育部は休みなんですよ」「それではワザワザ休日出勤を」「いいえ、こちらこそ折角の休日にお越しいただきまして有り難うございました」立見教官は自衛官ではないので理知的で温和な容姿だが、眼鏡の奥の目には武人らしい輝きがあるように感じる。背筋を真っ直ぐ伸ばしているところ見ると剣道を嗜むのかも知れない。
「それでは自衛隊法学の最高峰の知識を伝授願うことにしますか」「とんでもない。まぐれ当たりの奇跡の合格ですからこちらこそ御教授願います。尾柏1尉も一緒にどうぞ」挨拶が終わったところで傍らに立っている尾柏1尉に声をかけたが「学生が帰ってくる」と言って逃げてしまった。
「モリヤ2佐は北キボールで集団的自衛権を行使したことを殺人罪として告発されましたが、これについてどう考えていたのですか」各教官の机で囲むように置いてあるソファーで立見教官が入れてくれた茶を飲みながらの対話になった。
「告発自体は政治的な目的だったことが明らかでしたが、本来は軍事法廷で裁くべき戦闘行為を一般の裁判所で日本の国内法に基づいて合法違法の判断をされることに不安は感じていました」「やはり戦闘行為を正当化することは一般法の違法性阻却事由では無理ですか」立見教官は私の問題を受けて候補生から平時の基地警備における武器使用について質問されたとのことだが、「不審者が逃走したからと言って危害を加えることはできない」としか答えられなかったらしい。
「私の場合、政府やオランダ軍が関係書類を非公開にしましたから裁判自体が成立しなくなったのですが、現場検証や殺害までの経緯を詳細に分析されると正当防衛と緊急避難で押し切れたのかは判りません」「戦闘では先制攻撃を加えることが常識ですが、国内法ではそれは意図的殺人だ」立見教官の見解は制服を着ていないのが不思議なくらい自衛隊・軍の常識を理解している。そこで私は今回の修習で学んだ奈良県内での事例に触れることにした。
「自衛隊に限らず奈良県では警察官が正当な職務遂行を殺人罪で告訴されていますよ」「大和氷山警察官発砲致死事件ですね。あれもひどい事件だ」立見教官は表情には出さないが内心では怒っているらしく冷めかけたお茶を飲み干した。
「仮に発砲が過剰であったとしても目的は逃走阻止ですから殺人はおかしい。それを検察が受理して告訴に踏み切ったことが異常です」「確かに警察官の職務執行に制限を加えようとする政治的意図を感じますね」「それが検察官の法廷戦術だとしても無茶です。国家公務員としての職責を問われてしかるべきでしょう」ここまで言って自分がまだ奈良地方裁判所でこの公判を修習中であることを思い出した。そこで少し口が重くなった私に立見教官の方から結論を切り出した。
「やはり日本国憲法の非現実性に起因するのですかね」勿論、ここでの会話はオフレコだが私は個人的見解として護憲派なのだ。
「日本国憲法は日本人の精神文化の清華です。その主旨を保ちながら現実に対処するのが日本の武人の宿命です」「ホーッ、モリヤ2佐は護憲派ですか」「左翼ではありませんがね」立見教官が急須を取ったので私も湯呑のお茶を飲み干して注いでもらった。
「日本には言霊の思想がありますから、忌み嫌うべき災厄を文章にすることは避けなければなりません。だから日本国憲法には戦争だけでなく大規模な騒擾や災害に於ける政府の大権についても規定していないでしょう」「はい、確かに」立見教官は立ち上がって自分の机からノートを持ってきた。
「私は日本国憲法と大宝律令に多くの共通性を見出しています」「ふーん、こうなると高田教官の専門ですな」高田教官とは航空学の教官だが大の歴史好きで毎週のように候補生を連れて史跡巡りをしているらしい。
「要するに自衛隊は万葉集の防人と同様に令外官(りょうげのかん)なんですよ」「これで教育に新しい展開が生まれました」今回は年長の立見教官に教えを垂れる分不相応を深く反省した。
  1. 2017/05/18(木) 09:02:26|
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振り向けばイエスタディ826

私は大型連休を前に奈良地方裁判所での刑事裁判修習を終えて一度、東京の自宅に戻り、連休明けから福岡地方検察庁での検事修習に入る。修習は訴訟を取り扱う件数が多い都市部の方が勉強になるのは間違いなく、このため法務省は修習生を民事裁判、刑事裁判、検事、弁護の各修習で一度は主要都市に回るように振り分けている。私の場合は検事修習がそれのようだ。
「モリヤ2佐、ご苦労様です」4月中旬を過ぎ、大型連休に向けて荷物を自宅に送る準備をしている中、航空自衛隊幹部候補生学校で区隊長をしている教え子の尾柏1尉から電話が入った。
「これは区隊長、こんな休日に何事ですか?」今日は18日の日曜日、幹部候補生学校も大型連休で候補生を帰省させる前に一頑張りしているところだろう。
「実は候補生に休暇は与えられないので6、7日を代休にするため今週と来週の土曜日は通常勤務なんです」「ふーん、どこでもやることは同じだね」「曹候にはありませんでしたけど」尾柏1尉は曹候12期だけが連休の帰省がなかったと思っているようだが、我々の7期は体育大会が曹候1個中隊VS新隊員全中隊で行われたため岩国基地の航空祭研修もなく朝から目一杯に鍛えられた。
「ところでモリヤ2佐は奈良にはいつまでいらっしゃるんですか」「うん、候補生たちが帰省するのと同時に終わりだよ」「それではその前に一度、基地にいらして下さいませんか」唐突な依頼に困惑したが、合格だけはした航空自衛隊幹部候補生学校を見ておきたいと言うのは確かだ。
「お前は阿呆か。ワシは修習で来ているんだ。平日に時間がとれないのは候補生と同じだよ」「それでは来週の土曜日にでもどうでしょう」本音とは別に現実の問題として断ると意外に強硬だった。尾柏1尉はATC(航空管制)なので事態に反応する能力に長けているようだ。
「それで君を訪ねれば良いのか」「いいえ、教官室の法務担当の立見(たつみ)教官が是非お会いしたいと言ってまして」「立見教官かァ、何者かね」「空自幹候校の名物教官の1人です」「まさか、司法修習生のレベルを確かめるために口述試験を受けさせようなんて話じゃあないだろうな」これは推理の飛躍だった。それにしても修習の最終段階に半日潰すのは少なからず困ってしまう。

航空自衛隊幹部候補生学校がある奈良基地は変な場所だった。タクシーに乗って「奈良基地まで」と言ってもベテランの運転手は反応せずルーム・ミラーで制服姿の私を見て「幹候校ですね」と了解した。それにしてもパイロットも入校する基地であれば滑走路くらいありそうなものだが、奈良市内に飛行場はなく平城宮跡が航空基地並みの面積を占めている。そんな訳で車窓からあまり足を向けなかった市街地でも外れの街並みを眺めていると法華寺と言う聞き覚えがある寺の観光案内板が見え、道路が左に曲がっていく箇所を路地に直進して突き当りが基地のゲートだった。
タクシーを下りて辺りを見渡すとゲートの正面は天理教の教会、左右に堀のような物がある。ゲートに立っている歩哨を無視して歩き回るとそれはどちらも小ぶりな前方後円墳だ。
「へーッ、古墳に囲まれた基地かァ、面白いな」そう思いながらゲートに向かうと歩哨は黙ってこちらを見ているだけだ。陸上自衛隊であれば制服を着た幹部自衛官が接近すれば大声で「気をつけ」と号令をかけて警衛所に知らせるはずだ。ましてや幹部候補生学校がある前川原駐屯地では候補生に特別勤務の規範を植えつけるため殊更に厳正な勤務を見せていた。1士の歩哨は私が目の前に立ってようやく姿勢を正したが、敬礼をせずに「何か用ですか?」と訊いてきた。
「貴様、無礼にも程がある。警衛司令を呼べ」私は自衛隊の礼式を失した対応を注意したのだが歩哨は「ポカン」としたままだ。そこに警衛所から小柄で丸顔の1曹が出てきた。
「警衛隊長の花谷1曹です。歩哨が何か失礼なことでも」そう言えば航空自衛隊では警衛の長は警衛隊長だった。陸上自衛隊生活が長くなると業界用語の違いを忘れてしまうようだ。
「陸幕付のモリヤ2佐だ。幹部がゲートを通過できるのは陸海空共通だろう。それをこの陸士、元へ空士は敬礼もせずに『何か用ですか』と訊きおった。どう言う教育をしているのか」「だってウチの幹部じゃありませんから」幹部と警衛隊長との問答に空士が口を挟む。これで完全に切れた。
「話にならん!駐屯地、元へ基地当直司令を呼べ」「連絡するのは基地当直幹部にですか、それとも基地司令にですか」ここまで業界用語を間違えると自分に呆れるしかない。何だか自衛官服務規則に関する知識にも自信がなくなってくる。ところで間違いを正す時、「訂正」「誤り」と唱えるのは陸海空のどれだっただろうか。
奈良基地全景
航空自衛隊奈良基地全景(3つの前方後円墳に囲まれている)
  1. 2017/05/17(水) 09:20:00|
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振り向けばイエスタディ825

在ワシントン防衛駐在官が交代した。新たに影の指揮官となった井上将補は前任の野中将補とは真逆の人物だった。隠密に活動している集団なので表だって歓迎会などはできないが、工藤が不自然ではない名目をつけて数名ずつで集団面接を兼ねた会合を設けた。場所は日本人の商社員なども利用する台湾料理店だ。
「支社長、遠路はるばるの着任お疲れ様でした」工藤が乾杯の音頭を取るといきなり指摘が入った。
「お疲れ様と言うのは目上の者が目下の者をねぎらう言葉だ。この場なら歓迎の言葉で良いだろう」「はッ、失礼しました」工藤が謝ったためグラスを高く掲げていた杉本と岡倉もその姿勢で待つことになった。
「それではようこそお越し下さいました」「公式な人事発令で着任したのだから来ることを過度な丁寧語にするのもおかしいな」これでは杉本と岡倉は肘を伸ばしたまま姿勢を固定することになる。それでも妙に工藤は恐縮したような表情で音頭を取り直した。
「はい、よくいらっしゃいました」「うむ、ありがとう。よろしくたのむ」この一言を発してもらうために非常な労力を要した。これが「人間コンピューター」と仇名される所以なのだろう。ようやく工藤は安堵した顔になってグラスの金牌台湾ビールを珍しく一気に飲み干した。
「それでは今日、出席している社員を紹介させていただきます」「自己紹介で良いだろう。2名だけじゃないか」先ほどの言葉づかいに対する細かい指摘から「自己紹介では礼を失する」と考えた工藤の気配りがまたも外れてしまった。
「それでは先任順に杉本から」「先任順?それはどこの業界用語だ」工藤が無意識に自衛隊の用語を使うとこれも指摘された。しかし、これなどは指摘すればかえって奇異に受け取られるのではないかと言うレベルの誤りだ。これからこの人間コンピューターと面談して調整・報告することになる工藤は続けざまにビールを飲んで1本目を空にした。確かに少し頭を痺れさせないとやっていられないような気もする。
「東アジアの半島を担当している杉本です」「・・・うん」杉本の名前を聞いて井上将補は一瞬だけ間を置いて返事をする。どうやら防衛駐在官執務室の金庫内に納めてある人事記録などの本名と経歴を思い浮かべたようだ。
「君はダエポォが専門だったね」「はい」井上将補が掛けた言葉に杉本は困惑しながらうなずいたが工藤は意味が判らず岡倉の顔を見た。「ダエポォ」とは韓国語の「大砲」のことで杉本が特科出身であることを表している。それを英語や日本語ではなく朝鮮半島担当と言った杉本には判る韓国語で行うところが井上コンピューターのデーター処理機能のようだ。そこに注文してあった料理が次々と運ばれてきてチーフ・ウェーターの説明が入ったため自己紹介が中断した。
「台湾料理は一般的な中華料理とは違って山海の食材を福建料理風に調理していますから日本人好みのようです」黙ってしまっている工藤に代わり、自己紹介を終えた杉本が説明すると井上将補は同様の質問をしてきた。
「一般的な中華料理とはどの地方の料理を言っているんだね。北京、四川、上海、香港でも調理法が違うだろう」「はい、日本の中華料理店を基準にしています」杉本の答えに岡倉は失笑したが、井上将補は真顔でうなずき、工藤はその表情を窺っていた。人間コンピューターにとってはデーターを正確に入力することも必須の手順のようだ。ここで井上将補が視線を向けたため岡倉が自己紹介を始めた。
「中央アジアでもペルシャ語圏を担当している島村です」「君はミサイリだったね」「はい、そうです」岡倉にも韓国語で確認してきた。「ミサイリ」とは韓国語で「ミサイル」のことだが発音とアクセントが英語の「ミッソル」や日本語の「ミサイル」とは異なるため同一の単語とは思われないはずだ。やはり岡倉と韓国のつながり、妻が韓国陸軍士官であることも把握しているようだ。人間コンピューターとしては資料のデーターと本人が一致すれば確認作業は終わったようで、日本企業の管理職風の表情を演じ始め、そこで工藤が酒を勧めた。
「やはり紹興酒にされますか、それとも高粱酒を試されますか」「私は台湾の酒には詳しくないから必要なデーターを教えてくれ」「はい、紹興酒はもち米を麦麹で醸造した蒸留酒でアルコール度数は14度から20度、高粱酒は高粱米で醸造した蒸留酒で度数は40度から60度・・・」疲れる。
  1. 2017/05/16(火) 09:31:43|
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振り向けばイエスタディ824

迫撃砲の射ち込み事件で中断していたサマーワ市内の復興作業は再開されたが、隊員たちは連日の警備の強化で睡眠不足が続いており、重くて暑苦しい鉄帽や防弾チョッキを身に着けていることが苦痛だった。
「カズヤ(和也」、アー ユー タイアッド(疲れているみたいだな)」「うん、少し寝不足なんだ」作業現場では英語が比較的堪能な安川に声を掛けてくる者が多い。いつもなら若さを発揮して休憩時間にも作業現場の小学生たちを相手にサッカー教室を開き、同世代の作業員に日本の流行歌を教えている安川士長が今日は日陰で腰を下しているのだ。
「あんな事件があったからジエータイとしても警備を強化しなければいけないだろうからな」「うん・・・」警備態勢に関する話題は防衛秘密に属するため返事ができない。仕方ないので黙ってうなずいた。
「俺たちをガードマンに雇ってくれればジエータイも少しは楽ができるようになるだろう」「そんな話は俺じゃあなくて幹部の人にしてくれ」安川士長の返事に30代前半らしい作業員は肩をすくめて苦笑いした。
「お前たちは休憩中も横にはならないんだな」「うん・・・アイ キャント バッド マナー(悪い作法はできないよ)」作業員の英語の問い掛けに安川士長は「見苦しいこと」と答えようと思ったのだが相当する英語「アンサイトリィ」が思い浮かばなかった。このため作業員は首を傾げていた。
その時、給食が終わったのか校庭に子供たちが出てきた。子供たちはサッカーボールをパスしながら歌を口ずさんでいる。その不思議な歌声も聞き慣れれば日本語に聞こえるようになった。
「チョットアリミナ スルレモオゾマチュジュウサアグ・・・」これはイラクでも人気のサッカーのアニメ「キャプテン翼」の主題歌「燃えてヒーロー」だ。正しくは「チョッとあれ見な すぐれものぞと街中騒ぐ 蝶々サンバ ジグザグサンバ アイツの噂でチャンバも走る・・・」なのだが、耳で憶えているので多少の間違いは仕方ない。そこで安川士長は立ち上がり、大声で正しい日本語で唄い始めた。
「チョ―チョーサンバ チクダクサンバ・・・」今日はサッカー教室ではなく音楽の授業になったようだ。それにしても日本語の歌詞の意味を訊かれなくて良かった。何故なら安川士長もこの歌詞の「チャンバも走る」が「婆ちゃんも走る」の業界用語であるとは知らなかったのだ。おそらく再放送を見ていた安川士長と同世代の日本のサッカー少年たちも知らずに唄っていたのだろう。
「カズヤ、今日もリフティングを見せて」ボールを踏みながら唄っていた子供が安川士長にリクエストして蹴り上げた。安川士長はそれを胸で受けてそのまま両膝と頭を使って宙に上げ始める。子供たちは「ワヒード=1、イスナーニ=2、サラーサ=3、アルバア=4、ハムサ=5、シッタ=6、サプア=7、タマーニア=8、ティアス=9、アシャラ=10、ワハダアシャラ=11・・・」と数えていく。こうなると今度は算数の授業のようだ。
そんな校舎の日陰では隊員たちが相撲や柔道、合唱や詩吟まで自分が得意とする技と芸を披露しながら日本文化の普及活動に励んでいる。サマーワの人々の日本に対する関心に応えるためには睡眠不足などと弱音を吐いている場合ではないのだ。

「隊長、日本のマスコミが現地取材で誤った情報を流していることが確認できました」派遣隊指揮所で2科長が東京から届いた注意情報を報告した。これは推理として判っていたことだが、今回の誘拐事件の仲介を依頼して外務省が接触したイスラム聖職者から噂の出処を聞き出したと言う。
「それは予想されていたことだが、彼らも武力行使の原因になるとは思っていなかったんだろう」「しかし、虚偽の噂で同胞を危険に晒すとは仁義に反する非道な行為です」いつの間にか派遣隊長・晩鐘1佐の統率方針「義理・人情・浪花節」は隊員たちの心理に定着しているようだ。
「仕方ない。マスコミがばら撒いた虚偽の噂を消すにはこちらもマスコミを使って情報戦を展開するしかないな」「マスコミをですか?」傍らで1科長は頭の中で自衛隊に好意的な報道をしているマスコミを選択し始めた。しかし、ここでも晩鐘1佐の発想は並みの幹部の数段上をいっていた。
「イラクの放送局でCMを流す予算を要求しよう」「えッ?」放送局への人脈は以前に取材を受けているため確保している。後は予算の手当てだけだ。
  1. 2017/05/15(月) 09:46:00|
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5月15日(太陰暦)・水野忠邦に天保の改革の実施命令が下った。

天保12(1841)年の明日5月15日に12代将軍・徳川家慶公から老中・水野忠邦さんに天保の改革に着手するよう命が下り、享保・寛政に続く幕政改革が実行に移されました。
この水那忠邦さんは極めて変な人物で、普通は藩主として生まれれば領国経営に心を砕き、家臣・領民の安寧を図ることで満足するものですが、親藩として比較的安泰な肥前国の唐津藩主・8万5千石の地位をなげうって石高も6万石に減少する遠州の浜松藩への国替えを願い出たのです。
と言うのも唐津藩は島津、細川、鍋島、黒田などの外様大藩の監視と共に唯一の海外への窓口である長崎の警備の重責を負っているため中央政界に関与することは不可能であり、その点、浜松藩は徳川家康公の居城であった名誉を継承して歴代老中を輩出していたからです。
そんな水野さんが家慶公から幕政改革を命じられた時期は、それまで11代将軍・家斉公が歴代将軍の中でも最長不倒記録である50年の長きにわたって君臨しており、本人は比較的質素な生活態度だったものの大奥がとんでもないことになっていたのです。兎に角、近衛家からもらい受けた正室の他に確認できているだけでも16人の側室があり、男子26人、女子27人の計53人の子供を儲けたのです。将軍家は現代人が考えるほど裕福だった訳ではなく、天領からの年貢収入で中央政治を行っていたため多くの女性たちが華美な流行や派手な遊興を競い合うようになればたちまち財政は逼迫しました。
その放蕩が50年間も続いたのですから幕府の財政収支はかなり悪化しており、さらに沿岸各地への海外船の来航が相次いでいたため海防の充実も図らなければならず幕政改革は急を要していたのです。
当初、水野さんは「待ち」に徹していました。地位だけは順調に老中まで昇りながらも将家斉公が大御所として権勢を手放さないでいる間は自分よりも身分が低い大御所の側近にもへりくだり、人畜無害のノンポリ大名と思わせていました。そうして4年後に家斉公が逝去すると態度を一変させたのです。それまでは上役でありながら用件があれば隠居所である西ノ丸まで訪ねていた側近たちを呼びつけ、それまでに調査を終えていた汚職や職権乱用などの罪状を示し、解任、領地没収、左遷などの厳罰に処したのです。
こうして指揮権を確立するとノンポリを演じていた間に発掘していた人材を登用して練りに練っていた改革を具体化していったのですが、その内容は過去の幕政改革の焼き直しであり、質素倹約で支出を抑え、綱紀粛正を図って江戸市内と天領地の風俗を改め(老中に直接の指揮権があるのはここまで)、印旛沼を開拓して新田開発すると言う毎度のパターンでした。
水野さんの不運はこの自ら登用した人間のたちの中に江戸時代の幕閣の中で最悪の奸物・鳥居耀蔵がいたことです。鳥居は昌平坂学問所の塾頭を務めた儒学者・林述斉の妾の子で旗本・鳥居家に養子に入れられたことで、名門の血筋を誇りながらも、実際は妾の子で厄介払いのように養子に出されたと言う負い目を抱えた歪んだ人間性の持ち主になったのです。鳥居は水野さんの改革を厳格に実行することで信用を獲得すると、他の幕閣たちを陥れることでさらに地位を向上しようとしました。
水野さんの改革の中でも失策される風紀の取り締まりや経済政策などは鳥居の建策によるものと言われています。鳥居は儒教的倫理でのみ社会や政治を見るため偏狭な教条主義に陥ることが大半で、実際の商業活動や庶民の娯楽などは不道徳な悪事として敵視していました。
「人返し令」とは農地を捨てて江戸に出てきた農民を元の地所に強制送還するものですが、江戸での生業を奪われて困窮して捨ててきた土地に返されても生活が成り立たないことには思いが至らないのです。
「貨幣の改鋳」は銅の含有量を著しく下げたため同じ貨幣価値を付与しても、過去の同額の貨幣よりも多くを渡さないと通用しないことになりました。このため無能な人間を「あれは天保銭だ」と言う皮肉な比喩が生まれたのです。
「株仲間の解散」は田沼意次さまの近代的経済政策を全面否定した寛政の改革でも犯した暴挙で、同業者同士の調整機能を否定したことで著しく経済活動が混乱した結果、市場価格の高騰まで誘引してしまいました。
中でも最大の失策は「上地(あげち)令」です。これは全国の重要地域を天領として沿岸防備を直接行おうとしたものですが、その地域は経済の中枢でもあり、飛び地を獲得していた譜代・外様を問わぬ各大名や紀州徳川家からまで激しい批判を浴びて、解任に追い込まれることになったのです。
それでも明治以降の歴史教育では綱紀粛正と倹約が好きな保守系の政治屋からはそれなりに評価されているようです。何故なら幕府の改革を範として自藩の財政改革を成功させた島津と毛利が討幕を実現して政権を奪取したからです。
水野忠邦みなもと太郎作「風雲児たち」より
  1. 2017/05/14(日) 10:39:27|
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振り向けばイエスタディ823

迫撃砲が射ち込まれた事件をイラク人の自衛隊派遣に対する反発と決めつけたマスコミは日本人の誘拐だけでなく他のヨーロッパ諸国の誘拐事件まで合わせて断定的に報道するようになっている。そんな14日には新たに日本人2名が誘拐され、サマーワ市内で市民によるデモが行われた。
「今日もイラクのニュースからです」義父が帰ってきてテレビを点けても、やっているニュースはこの家の息子が赴いて働いているイランでは市民が派遣を批判していると言う話題ばかりだ。
「和也はイラクの人たちのために一生懸命頑張ってるんでしょう。どうしてそれが通じないのかしら」安川家では夕食になる前、居間には義父母と嫁候補生の聡美がテレビの前に集まるようになっている。そのニュースを見ながら嘆くのはやはり義母だ。その傍らで義父と聡美は硬い表情で画面を見入っている。
「自衛隊の撤退を求めるデモと言っても歩いている人たちの表情はそんな風には見えないな」「そうですね。逆に何かもっと別のことを訴えているみたいです」確かにデモ隊の人々は悲しそうな顔、怒った顔をして何かを叫んでいるが敵意は全く感じられない。何よりも画面は人々の上半身だけをアップにしていてプラカードや横団幕などが映っていないのだ。
「この映し方も変ですね。日本のデモ隊だと全体からアップになりますけど、このデモ隊は遠くからは見せたくないみたい」「確かに何かを隠しているようにも見えるぞ」義父と嫁候補が推理を働かしている時、廊下の電話が鳴った。
「あら、NTTの電話なんて珍しいわ」それには義母が反応して居間を出て行った。
「はい、安川でございます。はい、はい、そうです安川和也の母です」義母の妙に緊張した口調を聞いて義父と聡美は話を中断して聞き耳を立てた。
「そうですか、無事ですか・・・よかったァ。はい、はい、今、ニュースを見ていました。はい、はい、そうなんですか?判りました気をつけます。主人と嫁もいますが。はい、はい、北海道からでは遠距離電話になりますからこれで失礼します」どうやら相手は北海道の自衛隊らしい。サマーワ郊外の宿営地では携帯電話の電波は届かず、迫撃砲の射ち込みがあってからは単独で市内に出ることも難しいから安川は電話ができないのだろう。と言っても現地と部隊の家族用の電話は北海道でしか利用できない。そんな家庭の事情を考えて北海道の部隊が現地情報を知らせる電話をかけてくれたのかも知れない。案の定、義母は非常に安堵した顔をして居間に戻ってきた。
「和也の自衛隊の方が現地の情報を知らせてくれたの」それは言われなくても推理力が鋭い2人には判っている。しかし、少し義父がいらついた表情になっても義母は淡々と話し始めた。
「イラクの人たちも過激派が自衛隊を敵だと誤解していることには困っていて、サマーワ市民の力で自衛隊を守るって言ってくれてるんだって」「それではあのニュースのデモ隊は何だ?」義父の質問に聡美も同調して義母の顔を見た。すると義母は得意満面になって解説を続けた。
「現地の人たちは自衛隊の撤退反対のデモをやってくれたんだけど、日本の新聞社やテレビ局は撤退を要求しているって決めつけているんだって」「それならあのデモ隊の人たちの表情も納得できますね」「デモ隊の全体を映さないこともな」義父と嫁の鋭い推理はここでも発揮される。それでも義母は「自分が謎解きのヒントを与えた」と思っているのか得意そうな顔をしていた。その時、再び廊下の電話が鳴り、今度は聡美が出た。
「はい、安川です」「えッ、安川さん家(ち)よね。誰?」「はい、安川聡美です。どなたですか?」「聡美って誰よ」「和也さんの妻です。貴女は誰ですか」この混乱した会話に横から義父が手を伸ばして受話器を受け取った。
「はい、安川です。お電話変わりました・・・おう、鶴舞(つるまい)か」鶴舞とは和也の嫁いだ姉である。父が自分の勤める私鉄の延伸で開通した新路線名の美しさに感激して命名したらしい。
「うん、さっき出たのは和也の嫁になる予定の聡美さんだ。ウチで預かって花嫁修業させているんだ」考えてみれば聡美はこの家に来て1ヶ月になるが鶴舞さんは顔を出したことがない。名鉄の沿岸路線の終点である蒲郡に住んでいることだけは和也から聞いていた。
「和也のことか?今、北海道の自衛隊から電話があったばかりだ。現地では自衛隊の撤退反対のデモが起きているんだが、それを日本のマスコミが逆のデモだと報じているんだ。お前も鵜呑みにしないで弟を信じろ」やはり義姉も弟を心配しているのだ。何にしても紹介してもらうことができた。
  1. 2017/05/14(日) 10:35:32|
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振り向けばイエスタディ822

サマーワの宿営地に迫撃砲が射ち込まれた事件を日本のマスコミは確信犯的誤報で伝えた。現地の深夜に発生し、ある程度の状況が確認できた時点で文書を暗号化して市ヶ谷へ送る。それを市ヶ谷では逆の手順で文書に戻して関係部署の確認を受けてからマスコミへの発表になったため、数時間が経過していた。したがって第1報は昼のニュースになった。
「聡美さん、今日のお昼、何にしようかしら」「お義父さんがお仕事だから簡単にすませましょう」安川家で花嫁修業中の聡美は1カ月ですっかり家族の一員になり切っている。義母からは安川家の味付けだけでなく生活費を切り詰める主婦の知恵も学んでいるのだ。
「あッ、テレビを点けてニュースを見ないといけないから」「はい、今日もイラクが平和でありますように」義母の声に聡美はテレビの前で手を合わせてからリモコンでスイッチを入れた。
「昼のニュースの時間ですが、只今、防衛庁で緊急記者会見が開かれています。したがって予定していたニュースは後で時間が確保できればお伝えします。あらかじめ御了承下さい」男性アナウンサーの説明に聡美は台所にいる義母を呼んだ。
「どうしたの?」「防衛庁が緊急の記者会見をやっているんですって」「まさかイラクではないでしょう。また航空自衛隊の飛行機が落ちたんじゃないの」義母は自衛官の母となって2年になり、自衛隊のニュースの大半は航空自衛隊の墜落事故であることを学んでいる。ところがアナウンサーが記者会見の内容の概略を説明し始めるとそれはサマーワの宿営地攻撃だった。
「繰り返します。防衛庁の発表では現地時間の昨夜2時ごろにイラク南部のサマーワにある陸上自衛隊の宿営地に数発の迫撃砲弾が射ち込まれて爆発した模様です。隊員の死傷に関する発表はありません・・・」この表現では戦争映画のように大量の迫撃砲が射ち込まれ、隊員への人的被害が確認できないような惨状を想像させる。やはり義母は凍りついたように立ち尽くした。
「イラクではアメリカ軍が4月6日から武装勢力に対して猛攻を加えており、それに対する反発が一般市民の間にも広がっています。さらに4月7日には日本人のジャーナリストと市民ボランティア、大学生の男女3名が誘拐されて、アメリカ軍の協力者と見られている自衛隊の即時撤退を要求するビデオ・メッセージが流されたばかりです」アナウンサーの補足説明は記者会見の内容とは別にあらかじめ用意されていた原稿=台本のようだ。それを聞きながらも聡美は安川から届いた手紙に書いてあった地元の人たちとの温かい交流の成果を信じようと思った。
「記者会見の結果、判明した内容を説明したいと思います。ここからは長年、A日新聞記者として防衛庁を取材してきたT崎さんに解説をお願います」防衛庁での中継が質疑応答に変わったところで、アナウンサーが説明を始めた。画面の中ではT崎と紹介された初老の男性が席について会釈した。
「先ず射ち込まれた迫撃砲弾は3発と言うことですが、それでもかなりの威力なんでしょう」「はい、迫撃砲弾は爆風だけでなく破片の飛散によって人員を殺傷するのです。近くに落ちれば一溜まりもないでしょう」T崎の解説にアナウンサーはわざとらしく顔を強張らせる。それを見て義母は両手ですがる物を探し始めたため聡美が手を差し出した。
「ただし、着弾したのは空き地で死者や負傷者は出なかったと言うことですが」「運が良かったとしか言いようがないですね。不幸中の幸いでした」今度はT崎が安堵した顔を作ったが、かつて日航機墜落事故の誤報を指摘した航空幕僚監部の広報室長を面罵した人間だけに空々しいだけだ。
「日本人3名の誘拐に追い討ちをかけるような今回の攻撃を政府はどのように受け止めるのでしょうか」「いくら日本政府がアメリカの軍事行動とは別の人道派遣だと主張しても、イラクの人々から見れば有志連合が派遣している占領軍と何も変わりませんから、これ以上、事態が悪化する前に撤退を検討ずべきでしょうね」やはり結論はそこに行った。結局、何でも自分たちの政治主張に利用するのがA新聞と系列テレビ局の社風のようだ。
「聡美さんは冷静ね。不安じゃないの?」義母も人的被害がなかったと聞いて少し力を取り戻したようだが、自分と違って取り乱すことがなかった聡美の態度が不思議だったらしい。
「だって和也さんが私を1人にするはずありませんから。私たち結婚するんですよ」義母にはこの言葉が聡美の自己暗示に聞こえた。戦時中には全ての妻がそう信じて夫を見送ったのだが多くは悲しい結末を迎えている。しかし、今回も世界各国の妻たちが同じことを願って夫を戦場に送り出しているはずだ。聡美は知らない間に世界標準の「軍人の妻」になっているのかも知れない。
  1. 2017/05/13(土) 08:59:03|
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