「典子は再婚しなかったのか」スザンナの手料理を楽しみ、リビングに移動してから食後のコーヒーになると父が真顔で訊いてきた。これは父にとって長年の気がかりだったようだ。おそらく元妻の訃報もアメリカ本土と海外へのフライトの合間にハワイへ戻ってから目にしたのだろう。
「はい、独身のまま亡くなりました」「お前が大学生の時だったな」「ミシガン州の大学へ留学している時でしたけど最期は看取ることができました」「病名は何だったの」志織のジュースと大人たちへのコーヒーを配り終えて父の隣りに腰を下ろしたスザンナが質問を重ねてきた。
「子宮癌です。私の留学費用を作るため仕事に励んでいて自分の健康管理まで考える余裕がなかったのでしょう」「それでも大人の健康管理は自己責任のはずよ」佳織の娘としての自責をスザンナはアメリカ的に否定する。その隣で父は何かを考えながらコーヒーを口に運んでいた。
「お2人にお子さんは」父が立ち入った質問をしてきた以上、娘も遠慮を少し緩めた。今のこの家には夫婦以外の家族を感じさせる気配がしない。可愛がってくれた祖母も小さな遺影になって部屋の隅の佛壇に飾られているだけだった。
「息子がいたんだけど・・・」「空軍に入ったんだが・・・」両親の口が急に重くなり、表情が暗く沈んだので佳織は事情を察した。部屋の中を見回すとクロゼットの上に若者の写真が置いてあるのを見つけた。どうやらこれが息子=佳織の異母弟の遺影のようだ。佳織は目でスザンナの許可を取り、立ち上がると異母弟の遺影を手に取って眺めた。異母弟が着ているアメリカ空軍のパイロット・スーツは階級章を肩に縫いつけるため顔のアップの写真では階級は判らないが、年齢から見てまだ任官して間もない少尉のようだ。
「事故なのね」「いや・・・そうだ」佳織の確認に父は不可解な態度を取った。事故でなくパイロットが死亡するとなると戦争以外に考えられないが異母弟は佳織よりも10歳以上若いはずだ。そうなると湾岸戦争の時にはまだ中学生だったことになり、佳織は異母弟の年齢から参加できたであろうアメリカが行った戦争を思い出してみた。すると1995年のボスニア・ヘルツェゴヴィナ空爆、1996年のイラク空爆、98年のスーダン、アフガニスタン、イラク空爆、1999年のコソボ空爆など仕上げのアフガニスタン、イラク侵攻に至るまでにも幾らでも浮かんでくる。ただし、アメリカ空軍機が損害を受け、パイロットが戦死したニュースは記憶になかった。
「何にしても軍の任務に殉じてしまったのね。残念です」佳織は異母弟の写真をソファーのテーブルに置くと志織に「貴女の叔父さんよ」と声をかけた。すると志織は「叔父さん、志織です。会いたかったです」と言って手を合わせた。
亡くなった家族の話が続き、リビングの空気が重く沈んでしまった。佳織としては母・典子も帰省してきているようで違和感はなかったが、それに耐えられなくなったスザンナが台所から皿に盛ったクッキーを持ってきて、その間を使って父が質問を再開した。
「お前の夫は法務官と言ったが、私はモリヤってラスト・ネーム(姓)を聞いたことがあるぞ」「そうなの?私のハズ(ハズバンド=夫)も意外に有名人なのね」佳織のおとぼけにも父は真顔で見詰めてくる。こうなると空軍中佐と2等陸佐の腹の探り合いだ。
「アフガニスタン侵攻の後、日本がアフリカの平和維持活動に行って現地の過激派との戦闘に巻き込まれた大尉がいたよな。確か彼のラスト・ネームがモリヤだったはずだ」ここまで推理されてしまえば認めるしかない。すると佳織が口を開く前に志織が代弁を始めた。
「ダディは味方を守るために戦ったの。悪いことはしてないよ」「志織、ここは日本じゃあないから心配しなくても良いのよ。グランド・ダディもダディのことを判ってくれるわ」父は娘母子の会話が理解できないようで困惑した顔をしている。佳織自身も愛知の夫の父親が裁判中に弄した妄言については島田元准尉がオレゴンに送ってくれた新聞の記事で読んだだけだが、知らない間に志織も目にしていて、それが祖父への不信感になっているのかも知れない。
「戦後の日本のミリタリー・パーソン(軍人)は命を捨てるような激しい訓練をする癖に戦争で敵を殺す覚悟がない不思議な連中ばかりだった。そんな中でお前の夫は平然と敵を殺した。お前は自分の夫を戦国武将みたいだと言っていたが、国際標準のミリタリー・パーソンでもあるんだろう」「正月休暇で夫が来たら会ってね」「そうか、英雄に会えれば幸いだ。楽しみにしているぞ」父がようやく微笑んでくれて佳織も口元を緩めながら溜め息をついた。
- 2017/06/30(金) 09:11:28|
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佳織は11日の土曜日に父の家に招待され、志織を連れて出かけることになった。官舎までは父が迎えにきてくれる。
「マミィ、グランド・ダディの家って近いの」「うん、マミィが育った家だからよく見てね」出かけるための身支度を終えた志織は鏡台の前で化粧をしている母に質問してきた。
「ダディの家に行くのにどうしてお化粧をするの」「これは女性としての身嗜みなのよ。志織が髪をとかした続きでお化粧をするの」女の子にとって大人の女性が鏡の前に座ってする化粧は憧れであり、謎でもある。最大の謎はどうして化粧をすると顔立ちが映え、美しくなれるのかだろう。そんな好奇心で観察していると母は少し悪戯っぽく笑いながら胸元に香水をかけてくれた。
「それはダディのオーデコロンよ。男物だけど私はこの匂いが好きだからもらってきたんだ」「うん、ダディの匂いがする」志織は胸を引っ張って鼻に近づけるとジバンシーの柑橘系の匂いを嗅いだ。
その時、ドアの外で自動車のドアを閉める音がして、間を置かずにドアの呼び鈴が鳴った。
「グランド・ダディだね。志織が出て」「イエス、マーム(=「イエス、サー」の女性バージョン)」志織は化粧品を片づけている母に挙手の敬礼をすると玄関に向かって駆け出した。
「ハロー、マイ グランド・ドーター(私の孫娘、こんにちは)」「ウェルカム、マイ グランド・ダディ(私のお祖父ちゃん、いらっしゃいませ)」玄関からは友好的な挨拶が聞こえてくる。やがて志織に先導された父・ノザキ中佐が入ってきた。
「佳織、支度は終わったか」「はい、準備完了です」父は化粧を終えた佳織の顔を感慨深げに眺めた後、部屋の中を見回した。
「お前が式典で提げていた軍刀を見せてもらいたいんだが良いかな」「えッ?あれは真剣だから鍵が掛るロッカーで保管しているのよ」この説明にも父の顔が変わらないので佳織はベッド・ルームに行って軍刀を出してきた。父は両手で受け取ると拵えを注視した。
「これはエンペリアル・ネービー(帝国海軍)の装飾だな」「はい、海軍陸戦隊の拵え(こしらえ)です」佳織の答えに父はうなずきながら柄を握った。
「抜いても良いか」「抜くのならハンカチを口にくわえて下さい」父はもう一度うなずくとポケットからハンカチを取り出して口にくわえ、鯉口を切ることなく力任せに鞘を外そうとする。それを見ていて佳織は手を伸ばして受け取ると夫に習った作法で刀を抜いた。父は目の前に現れた刀身に感嘆したように見入った。
父が鑑賞を終え、軍刀を寝室のロッカーにしまえば出発になる。その前に父が質問してきた。
「この軍刀は典子の父親の物か」「いいえ、夫の愛刀です」「お前の夫も自衛官だろう。どうして軍刀を持っているんだ」「あの人は戦国武将が自衛官になったような人だから・・・」佳織が説明していると志織が家族写真を持ってきて父に渡した。その写真は佳織と志織がハワイに出発する前に自宅で撮った物で、今回も夫婦は迷彩服にPKOのベレー帽だった。
「これがお前の夫か」「うん、最愛の夫で最高の理解者だよ」「お前と同じ階級だな」やはりパイロットの父は視力が良く、老眼も始まっていないようだ。
「法務官の2佐なの」「ロー・オフィサー(法務官)かァ、その割に戦闘服を着ているんだな」佳織は家族の説明は昼食の時に父の現在の妻=義母を交えてするつもりだったので少し困ってしまった。ただし、アメリカでは女性に身支度する時間を与えるため30分程度遅刻していくのがマナーでもある。その割に早目に到着した父は空軍の感覚なのだろう。
24年ぶりに帰った我が家はやはり新しい妻・スザンナの趣味に塗り替えられており、母と暮らした頃の面影は残っていなかった。庭の草木も母が日本から持ってきて植えていた季節の花、この時期なら菊や桔梗、竜胆や撫子などは姿を消し、ハワイ風の南洋植物の花園になっている。ドアと窓の位置や台所の作りはそのままだが壁は塗り替えられていた。
「佳織さん、ようこそいらっしゃいました」「スザンナさん、お世話になります。娘の志織です」「こんにちは」スザンナは佳織にとっては義母、志織にとっても義祖母に当たるのだが、挨拶は他人行儀だった。佳織としては母・典子が亡くなる前に父と再婚していた女性だけに気持ちには複雑なものがある。それでも淳之介と自分自身に共通する関係なのだが。
- 2017/06/29(木) 09:09:08|
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アリゾナ記念館では日本軍の初弾投下の時間7時55分(「トラトラトラ」の打電の2分後)に黙祷を行うが、それが終了してから来賓が移動してくるパンチ・ボールでの式典は昼前に始まる。実はアリゾナ記念館での式典は海軍の独り舞台なので空軍もこちらに参加するらしい。
「モリヤ2佐は着任されて1カ月ですがハワイには慣れましたか」来賓席で隣りになった航空自衛隊の連絡官が少し心配そうに声をかけてきた。佳織が着任したのはブッシュが大統領選に勝利する直前で政権を継続することが決まった途端、イラクで攻勢に転じ、大規模な兵力でファルージャを包囲すると制圧を開始した。このため佳織としても現地の戦況と在日米軍=特に在沖縄海兵隊の派遣情報を収集し、これを精査して古巣の陸上幕僚監部運用支援・情報部へ送らなければならなかった。したがって歓迎会どころか自己紹介も済ませていないのだ。
「ハワイには始めから慣れていますよ。ここには祖父が眠っていますから」佳織は返事をしながら少し腰を浮かして祖父の墓所がある日系兵の区画を見た。
「祖父がって・・・お祖父さんはアメリカ兵なんですか」「まァ、アメリカ軍では戦死してから英雄扱いになっていますね」佳織は来賓として拝礼する時に経歴と肩書を紹介されると聞いているので、それ以上の説明はしなかった。
今回の式典はイラクで攻勢に転じたこともあり、ワシントンからの来賓は次官級が大半だった。太平洋軍司令部があるキャンプ・H・M・スミスの海兵隊の儀仗隊による捧げ銃、大統領のメッセージの代読など毎度お馴染みの儀式が進み、やがて来賓の参拝が始まった。司会者が紹介する順番に1名ずつパンチ・ボールの象徴である女神像の前に設けられた献花台に花を置いてくるのだ(日本では白菊、米本土では白バラが一般的だが、ハワイでは南洋の清楚な小花であることが多い)。
「続いて太平洋陸軍司令部付日本国陸上自衛隊連絡官、ルテナン・カーノー(2佐)・カオリ・モリヤ。ルテナン・カーノーはハワイ州出身、祖父のサージェント・ノザキは第442戦闘団第232戦闘工兵中隊に従軍してイタリア戦線カッシーノで戦死し、ここに眠っています」思いがけない佳織の紹介に会場にどよめきが起こった。おまけに佳織は日本軍式の軍刀を下げている。テレビ局のカメラが一斉に砲列を向けた(ニュースはアリゾナ記念館がメインなので数は少ない)。
そんな中、佳織は静かに歩を進め、係員が渡した花を右手で受け取ると祭壇の前に立ち、帽子を取って左脇に挟み、白布で覆われた台に花を置いた。そしてポケットから僧侶用の百八つ球の数珠を取り出すと音を立てて揉んでから合掌して頭を下げた。
通常、自衛隊の幹部は宗教儀礼に関する知識が乏しく習った通りにしか動作できない者が大半であり、例え信仰しているのが神道であってもこのような外国の式典で二礼二拍手一拝する者はいないだろう。それをこの女性自衛官はやってのけたのだ。会場には感嘆の声が響いた。
「続いて太平洋空軍司令部付日本国航空自衛隊連絡官、ルテナン・カーノー・・・」続いて紹介された航空自衛隊の連絡官は佳織とすれ違う時、何故か視線を避けるように反らし、異常に緊張した玩具の兵隊のような歩調になっていた。このため拝礼を終えて回れ右をする時、腰に提げている儀礼刀を抑えることを忘れ、鞘が跳ね上がってしまった。
「佳織、やはりお前か」式典を終えてホノルルの陸軍司令部へ戻る前に祖父の墓所に寄ると父が待っていた。軍服を着た父は70歳を超えているはずだが背筋は伸び、空軍中佐の風格を保っている。
「お父さん、お久しぶりです」佳織は一言だけ返事をすると姿勢を正して敬礼をした。すると父も踵を鳴らして姿勢を正し、空軍式の敬礼を返した。
「お前が陸軍のCSに入っていることはペンタゴン(国防総省)の友人から聞いたことがある」「はい、昨年に卒業しました」父が言うCSは空軍の課程名だが、陸軍のCGSと同等の位置づけなので敢えて訂正はしなかった。佳織の返事を聞いて父は誇らしげな顔で隣りに立つ女性を見た。
「それで現在は太平洋陸軍の連絡官なんだな」「先月、着任したばかりです」この答えに今度は意外そうに唇と尖らせた。2人の会話が続いていると横から佳織よりも15歳ほど年上の女性が小声で何か話しかけた。それを受けて父は女性の背中を前に押し出して顔を引き締めた。
「こちらが妻のスザンナだ。スザンナ、典子との間に生まれた娘の佳織だ」スザンナと紹介された女性も日系人なのだろう。しかし、顔立ちは母に似ておらず、雰囲気は完全にアメリカ人だった。
- 2017/06/28(水) 09:23:49|
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佳織は平成16年11月1日付でアメリカ軍太平洋陸軍司令部付連絡官に発令され、志織と共に24年ぶりのハワイに赴任した。任期は条件として提示した3年に少し満たない平成19年9月30日までとされたが、アメリカの会計年度が10月1日から翌年9月30日までなので仕方ない。
「これを向こうで聴いてくれ」私は空港まで見送りに行き、愛する妻と娘が搭乗者ゲートに入る時、1枚のCDを渡した。
「これは・・・」「うん、関西の歌手の曲だから多分気にいるよ」これは10月14日に発売になったばかりのコブクロの「永遠にともに」だが、CDにしては珍しく綺麗に包装してあるため曲名は判らない。私は弁護士事務所で聴いているのだが、佳織は知らない曲ではないだろうか。
「ダディ、私には」「志織にはこれだよ」志織には私が小学生の頃に愛読していた佛教説話集だ。カンザスの小学校では9・11によってキリスト教とイスラム教の宗教対立が起きてしまい、志織は第3者の佛教徒としての自分の立場に悩んでいたと聞いている。ハワイには佛教の寺院があるそうなので素直な気持ちで自分の信仰を考えることができれば幸いだ。
「貴方」「うん」「ダディ、ドーター・ファースト(娘優先)でね」「はい」搭乗手続きの刻限が迫り、ゲートに入る前、佳織が夫婦の作法である抱擁を求めると隣りから志織が割り込んできた。
「志織、元気で頑張るんだぞ。グランド・ダディ(祖父)に会ったら可愛がってもらうんだよ」しゃがんで抱き締めるには小学校5年生の身長は少し高くなっていて、娘の膨らみかかった胸に顔を埋めるようになってしまった。
「ダディも身体に気をつけてお仕事頑張ってね。マミィのことは任せておいて」佳織がCGSに入校した時には志織の成長を共有できないことを残念に思っていたが、最近は私の方が立ち会えないでいる。こんな大人びた言葉をかけられると娘の胸で泣きそうになってしまった。
「貴方、いつも私のためにごめんなさい」「ううん、向こうではお義父さん孝行するんだぞ」「はい、貴方も会いに来てね」今度は立ち上がって佳織だが、流石に私の妻だけにサイズはピッタリだ。それにしても佳織は公務移動のアメリカ軍人が軍服着用であることに倣って制服だが(空港での出迎えの目印でもある)、私は帰りに牧野弁護士事務所へ行くため似合わないスーツ姿だ。剃髪した頭にスーツでは危険な職業の人に見えるのかも知れない。先ほどから警備の警察官がこちらを注視している。そこでいつもよりも派手な動作で2等陸佐を抱き締めた。
赴任して1カ月が過ぎ、ハワイは12月8日の日米開戦記念日=ニイタカヤマノボレ1208を迎えた。この日はホノルル・マラソンの開催日でもあり市内には日本人も目立つが、日米の負の歴史から目を反らすには無邪気に浮かれるような行事の方が好都合なのかも知れない。
佳織は陸軍関係者としてアリゾナ記念館ではなくパンチ・ボール=太平洋地区戦没者墓苑での追悼式典に出席することになっている。実は父方の祖父は日系人部隊第442戦闘団第232戦闘工兵中隊に従軍してヨーロッパ戦線イタリアの激戦地・カッシーノで戦死していた。このため祖父の墓もここにあり、おそらく父も遺族の元軍人として出席するのだろう。佳織も両親が離婚して帰国するまでは父の母=祖母に伴われて出席していたのだ。
「マミィ、今日もダディを連れて行くの」「うん、ダディも出席したいはずだから一緒に行くわよ」出勤の支度をする佳織に志織が声をかけてきた。今回も夫の愛刀である海軍陸戦隊用の拵えを施した日本刀を持ってきており、これを腰に下げるため今日はズボンにしていた。志織はテーブルの上に袋に入れて置いてある軍刀を眺めながら話を続けた。
「マミィ、本当はダディがハラキリ(切腹)しそうだからこれを持ってきているんでしょう」「えッ・・・鋭いわね」「娘の勘よ」夫の性格から言えば自らを裁くような事態に直面すれば迷わず割腹してしまうだろう。北キボールでの戦闘を犯罪とされたことが今も夫を苦しめているのは妻としても十分察している。志織も父に息づく古武士の魂を感じられるまで成長したと言うことだ。
「心が今とても穏やかなのは 今日の日を迎えられた 意味を何より尊く 感じているから・・・」その志織の学校は戦没者追悼のため休日になっている。ハワイ州はアメリカ本土ほどうるさくないもののやはり子供を1人で家に残すことは児童虐待とされるためチャイルドシッターが来なければ出勤できない。志織は覚えてしまった父から送られた歌を口ずさみながら玄関に見にいった。

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- 2017/06/27(火) 09:07:39|
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牧野弁護士事務所での修習は完全な門外漢である企業の契約上のトラブルなので頭が疲れてしまう。それでも帰宅時間は比較的早いので、志織を迎えに行って夕食の支度をしながら待っていると佳織がおそろしく沈んだ顔をして帰ってきた。
「おかえり」「ただいま・・・抱き締めて」鍋の火を点けたまま玄関まで迎えに出ると佳織は私の首に両手を掛けてきた。そのまま抱き締めて頬に頬を当てると首筋に鼻息がかかった。
「ウチ、転属になったんや」制服をOD色のTシャツとGパンに着替えた佳織は一緒に台所に立って話を始めた。
「転属?また急だな。まだ幕(ばく=陸上幕僚監部)に来て1年だろう」「うん、太平洋陸軍司令部の連絡官が心筋梗塞で倒れて、急遽、後任を送らなければならなくなったのよ」「ふーん、戦争中だから日米自衛隊の連携を密にするためにも連絡官を欠員にする訳にはいかないだろうな」私の返事が変だったのか、佳織はしばらく口を開けたままになった。
「日米自衛隊かァ、やっぱり法律関係者は憲法違反になる軍よりも自衛隊の方が良いんやね」「まァ、そんなもんだ」妙なところで佳織の表情が少し軽くなった。
「しかし、人事としては欠員の補完に過ぎないのかも知れないけれど、モリヤ佳織2佐と言う伝家の宝刀を抜く以上は正式に3年間の任期で赴任させてもらわないとな」「そうかァ、宇津木2佐はウチが米留中に赴任したから任期は1年しかないんやね」流石の佳織も突然の海外赴任の調整にそこまで意識が回らなかったらしい。
「そうすれば志織も連れて行くんだったらハワイの小学校を卒業させられるじゃあないか」「あの子も横田は日本人の子供が嫌だって言っているから一緒に行くって言うんじゃないかな」志織は毎度の宿題の山に取り組んでいるので意思確認は夕食後にすることにした。
「でも、貴方が幕に帰ってきたら、また職場デートができるって楽しみにしてたんやで」確かに陸幕法務官室に移動して守山の再開のようだった職場デートは束の間の幸せだった。それでも意識は前に向けなければならない。
「ワシは佳織をハワイに帰らせたいって思っていたから一安心だよ。志織をお義父さんに会わせろよ」「貴方も来てハワイのウチのお墓でお経を挙げるんやで」どうしても話が軽くなるのは我が家の気風らしい。若し、義父・ポール・ヤスト・ノザキ中佐と対面できるとすれば、夫の私が万年1尉では流石に格好がつかないところだったが、私も何とか同じ階級になっている。
「ダディは来ないの」夫婦合作の夕食を終え、志織が風呂から上がったところで転属の話をした。すると志織の第一声は思いがけないものだった。考えてみると志織は保育園に上がる前の守山しか家族が揃って暮らした経験がない。それどころか久居から淳之介が沖縄へ行ってしまい、今回、ようやく3人家族の生活が始まると思っていたようだ。
「ダディはもうすぐ勉強が終わるけど、そうしたら東京で仕事が始まるから、ついて行けないの」「大丈夫、今度はジェイル(拘置所)に入るようなことはないから、休みの度にハワイへ行くよ」志織にはアメリカのCGS課程に留学する時にも「会いに行く」と言っていたのだが、北キボールPKOに派遣され、そのまま1年半も東京拘置所に収監されることになって約束は果たせなかった。その裏切りを経験している以上、私の約束が大して慰めにならないのは至極当然のことだ。
「ハワイにはお母さんのお父さん、志織のグランド・ダディがいるんだぞ。初めて会うんだろう」こうなれば奥の手を出すしかない。初めて会う身内なら志織も興味を抱くはずだ。ところがこれは逆効果だった。
「グランド・ダディってお兄ちゃんとお泊まりした家の小父さんでしょ。私、嫌い」淳之介も私の実家に嫌悪感を抱いていたようだが、志織までこれでは何をやったのか判ったものではない。こうなると佳織が単身赴任することが選択肢として重くなってくる。そこからは3人で黙ったしまった。
「そうだ、淳之介がハワイに来るぞ」「えッ」「えッ」突然、頭に浮かんだ窮余の一手に母子は同時に声を上げた。私は玉城家の祖父から届いた仕送りへの礼状で、淳之介が船乗りを目指して沖縄水産高校の総合科に進学したことを知っている。水産高校ならハワイへの遠洋航海実習があるはずだ。
「お兄ちゃんが来るの」「うん、志織が待っていたら驚いちゃうよ」これは何も確認をしていない空手形だが、多分、間違いはないだろう。

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- 2017/06/26(月) 09:42:55|
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明日6月26日は6=ロクと26=フロに引っ掛けて露天風呂の日です。本来であれば「10」が入って「テン」も引っ掛けたいところですが、6月10日では「ロテン」だけになり(露店の日?)、10月26日では「テンブロ」なので上手くいきません。
と言っても全国区の温泉や公衆浴場の協会が制定しているのではなく岡山県直庭市にある湯原温泉郷が観光キャンペーンとして提唱し始め、神事や各種サービスを繰り広げて話題を創出したことでそれなりの成果を上げているようです。ちなみに11月26日は日本入浴剤工業会が制定した「好い風呂の日」です。
野僧も転勤族の旅行好きだったため全国各地の温泉を巡りましたが、露天風呂は九州と瀬戸内海や関東以南の太平洋岸までで東北となると流石にあまりなく、青森県の津軽地方の温泉は殆ど入りましたが露天風呂があったのは稲垣温泉ぐらいで、そこも季節限定使用だったようです。
それでも最近では函館のホテルがベランダに設置して冬の夜景を見ながら入れることを売り物にしていましたが、北海道では温暖な函館とは言え気温は当然零下になるので、野僧なら頭皮が霜焼け、普通の人でも髪が凍りついてしまわないか心配してしまいました。
逆に九州の温泉もかなり入りましたが、こちらは露天風呂ではない方が珍しく春には鴬、秋には鹿の鳴き声を聞きながら、花びらや落葉が浮かんだ湯につかって情緒を満喫したものです。
記憶に残っているところでは阿蘇山の地獄温泉は、脱衣所は男女が分かれているものの湯船(石積みなので船ではない)は1つだけで、それもあまり広くはないためそれこそ素肌を触れ合わせる入浴でした。
そこには拙作の佳織のモデルになっているWACの幹部と愚息で行ったのですが、自衛官は集団で入浴することになれているので3人とも堂々と入ったのですが、すると若い娘の裸を目の当たりにした小父さんたちが逆に焦り出して慌てて視線を背けました。おそらく男性自身が妙な反応をすることを懼れたのでしょう。後から入ってきた女子大生たちは胸から下にバスタオルを巻いてきたのですが堂々と湯につかっている佳織(仮名)を見て、「何だ、普通に入れば良んだァ」と言うとバスタオルを外して何故かファッション・モデルのような歩調で入りました。野僧は見たことがありませんがストリッパーはあのような姿でステージに登場するのではないでしょうか。
こうなると小父さんたちは逃げるように出て行きましたが、長湯になっていたのか別の理由でのぼせそうだったのかは不明です。湯船には男性は野僧と愚息だけになり、多数派になると女性の方が強いらしく女子大生たちは佳織(仮名)に対抗すように肢体を見せびらかせ始めたのです。それでも心頭滅却すれば若い女性の裸にも無反応と言う荒行を成就できましたから、やはり色即是空、空即是色です。
ところで一時期、経済産業省が東京オリンピックに向けて「外国人の混乱を招くような地図の記号を判りやすくする」と言う馬鹿な検討をしたようですが、その中に温泉を意味する「♨ 」が入っていました。
意外に知られていませんが、この記号を採用したのは帝国陸軍で、明治17(1884)年から23(90)年に参謀本部陸地測量部が測量・作成した2万分の1の地形図の大阪地域に用いたのが最初でした(内務省が作成した地図の方が先とする説もある)。
当初は広く温泉を示していたのですが、明治33年から戦前までは浴場付き旅館での使用が増えたことで混乱を招くとして天然温泉を意味する鉱泉になり、戦後になって温泉と鉱泉の併用になりました。その一方で敗戦後の一時期にはこの記号の形から「さかさくらげ」と言う隠語が生まれ、性行為を目的に女性を連れ込む旅館を意味するようになったことでイメージが悪くなったため本来の温泉が使用を取り止める事態が生起したのです。
結局、連れ込み旅館の方の使用が禁止されて守られたのですが、それを(存在理由が判らない官公庁の筆頭と言われる)経済産業省の馬鹿な官僚が思いつきで劣悪な図案に変造しようとしたのですから、その暴挙が未然に終わって本当に良かったです。
このシンプルで湯船から湯気が立ち上る温泉の風情を感じさせる記号のモチーフはやはり露天風呂でしょう。どうせならこの日に温泉マークを(馬鹿な官僚から)守るアピールも加えてもらいたいものです。
- 2017/06/25(日) 10:13:50|
- 日記(暦)
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司法修習生は8カ月間の民事と刑事の判事、検察、弁護の各修習を終えると残りの2ヶ月はこれから進もうと決めている部署で仕上げを受けることになる。任官(判事と検事)を希望すればもう一度、別の地方裁判所と地方検察庁に赴くのだが、私は弁護士以外の選択はないので自己開拓として牧野秀政弁護士の事務所でお世話になることにした。
「やはり任官はされませんか」「確かに遣り甲斐は感じましたが、自衛隊が私を必要としている以上、制服を脱ぐことはできません」挨拶を兼ねた出勤初日に牧野弁護士は意外な言葉をかけてきた。私の適性や処遇の違いから自衛隊を退役して任官を希望すると思っていたらしい。
「ウチでは現在、刑事裁判は担当していませんが、離婚調停と企業の契約を巡る訴訟を数件抱えてまして・・・」「青森では離婚調停と法律相談ばかりやってきました」私の返事を聞いて牧野弁護士は黙ってしまった。青森県では男性の収入に対する不満や双方の浮気などから意外に離婚調停が多く、法律相談も離婚のための手続きの説明に近かった。しかし、青森での経験が情報過多で功利的な東京でどこまで役に立つかは判らないのだろう。
「それでは青森ではあまり経験できなかった企業間の民事訴訟を修習してもらうことにしましょう」「はい、助かります」牧野弁護士には離婚経験者であることも裁判の事情聴取の中で話しているが、私の性格から見て複雑怪奇な東京の夫婦の離婚争議で役に立つとは思わなかったようだ。
何にしても年明けから朝霞市の最高裁司法研修所(古巣の駐屯地に隣接している)で行われる集合修習までは自宅から通うことができる。
「モリヤ2佐、少し良いかな」突然、佳織は電話で運用支援・情報部長に呼ばれた。翻訳・分析業務としては戦闘の詳報よりも分析が中心になっており、緊急性は左程ではなくなってきている。
「モリヤ2佐、入ります」「どうぞ」部長室のドアをノックすると中から2人の返事が聞こえてきた。ドアを開けて部長の席に向かって正対すると横のソファーで手招きした。ソファーには人事部長も座っている。運用支援・情報部長と人事部長では同じ陸将補でも格は人事部長の方が上なので、こちらに赴くことは珍しい。つまり佳織の人事に関する用件のようだ。
「まあ、座りたまえ。忙しい中、急に呼び出したりして申し訳ない」人事部長が運用支援・人事部長の横に立っている佳織に声をかけ、佳織は会釈をすると両部長の向いの下位者の席に腰を下す。するとそこに部長付のWACの陸曹がノックをしてコーヒーを運んできた。部長室でコーヒーを出されると言うことは中座が許されないような話なのだろう。
「実は太平洋陸軍(アメリカ軍の地区単位編成内の陸軍)の連絡官である宇津木2佐が心筋梗塞で倒れたんだ」「宇津木2佐がですか」入校が長かった佳織は宇津木2佐と面識はないが、米軍に関する情報の経由者として名前と配置だけは知っている。その宇津木2佐が心筋梗塞で倒れたとなると米軍は戦争中であり、自衛隊もイラクへ派遣されている現状では大きな問題になるはずだ。
「それでだ・・・」本論を切り出す前に人事部長は運用支援・情報部長の顔を見た。しかし、この流れから見て佳織には本論は判っている。この間は「はい」と発声するための準備時間に過ぎない。
「後任として君を選ぶことになった」「準備なしで海外のアメリカ軍に行ける者は君以外にはいないだろう」「語学力は言うまでもなく予備知識や人脈も十分過ぎるほど持っているのは間違いない。よろしく頼む」佳織が返事をする前に両部長は畳みかけるように話を続けた
「やはり主人のモリヤ2佐とも相談させて下さい。あまりにも急なお話ですから・・・」「それはそうだな。君にも家庭があるんだから」人事部長は数少ないエリートと目している佳織には「はい」と言う即答を期待していたらしく、この態度保留に不満と困惑の表情をした。そこに運用支援・情報部長が助け船のように許可する言葉を掛けた。それにしても目黒でのCGSへの入校以来、アメリカ留学、夫の拘置所収監、司法修習、そして淳之介の沖縄行きと一緒に暮らせない事実が重なり続け、まるで家庭が空中分解してしまっているようだ。
「夫のモリヤ2佐も年度内には法務官室に復帰するのだから賛成するだろう。この相談は妻としての手続きだな」上司と部下が黙ってしまった重い空気に人事部長は軽口のような言葉を吐く。つまり「夫も陸上幕僚監部に籍を置く以上、組織の意向に反することは家庭の事情に関わりなく許されない」、そして「この夫婦はエリートである妻が主導権を握るべきだ」と言いたいようだ。
- 2017/06/25(日) 10:12:35|
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青森の秋は早い。陸海空自衛隊の秋の大演習と私の弁護修習が終わる10月上旬には冬物が欲しくなる。そんな季節、私は東京から佳織と志織を呼ぶことにした。
「突然、どうしたの」佳織は電話を自宅で受けた。つまり一時期ほど残業が続いてはいないらしい。
「弁護士事務所の人から『八甲田の紅葉は絶対に見て帰らないといけない』って言われているから1人で行くよりも家族で行きたいと思ってな」陸上幕僚監部でも佳織の運用支援・情報部は演習とは直接関係しない(防衛部系統は演習成果の取りまとめで超多忙だが)。ならば今年の10月10日の「体育の日」は日曜日なので振替えの3連休に家族旅行をさせても問題はないはずだ。
「うん、私も三沢のUSエアフォース(米空軍)を見てみたかったんや」「確かに横田よりも広くてアメリカっぽい風景になっているよ」「よし、お迎えを兼ねて行くわァ」私としては米軍のAFN放送などで佳織が担当しているイラクに関するニュースを見て、状況に動きがないことを確認した上で誘ったのだが佳織は意外と気軽に応諾した。
AFNのニュースによればイラクに於ける開戦からのアメリカ軍の死者は1000名に達し、負傷者は8000人を超えているらしい。その死因の大半は爆弾攻撃とのことなのでアメリカ兵たちは第2次世界大戦の末期、神風特攻隊を目の当たりした時に通じる恐怖を感じているのかも知れない。
「ところで青森には同期はいないの」「うん、AOCの同期は5普連(青森)と39普連(弘前)に1人ずついたから集まったけど、幹候校(幹部候補生学校)の同期はいないみたいだな」「ふーん、バブル入隊者は生き残るのが厳しくなってるやなァ」我々の期は典型的なバブル入隊であり、3年後のバブル崩壊以降の不況逃れの自衛隊人気で入ってきた連中とは学力が違うらしい。しかし、私は元々が大学中退の特例合格者であり、何かの間違いで2佐にまで昇任しただけなので「熾烈な生存競争」などと言う危機意識は持ち合わせていないのだ。
「でも志織の学校は月曜日は登校日だろう。だから来るなら9日だね。温泉を予約しておくよ」「はい、お願いします」実は久しぶりに会った曹候学生の同期である松森曹長から「八甲田山の酸ヶ湯温泉が良い」と勧められていたのだが、脱衣場は男女別々でも浴場は目印があるだけで事実上の混浴だと聞いて佳織の裸を一般公開する気にならず止めたのだ。したがって今回は三沢市内の古牧温泉になる。ここなら佳織が希望する三沢基地もユックリ見られるはずだ。
「すごーい、山が燃えているみたい」佳織に八戸駅まで来てもらい、そこから八甲田山、奥入瀬渓谷、十和田湖に向かった。すでに八甲田山や八幡平の山頂には雪が降っているくらいなので山の気温はかなり低く、紅葉も最盛期だった。関東以西の紅葉は風景の一部の楓や銀杏が赤や黄色に染まるだけだが、青森では視界の全てが燃えるようなオレンジ色になっている。私自身も青森市内で冷え込みが続いた翌朝に、前日までは緑色だった庭の木の葉が全て赤くなっているのを見て、東北の地には大いなる自然の力が息づいていることを実感したのだが、この紅葉は凄過ぎる。
「これはブナの木なんだって」「だから赤色が違うんやね。ほんま燃えるような赤やもん」前席の夫婦は相変わらず知識を深めているが、後席の娘は声を出せずに窓の外に見入っている。確かに息を呑むような風景とはこのことを言うのだろう。
八甲田山から奥入瀬渓流でも紅葉は燃え続けている。夏場であれば川風が快適なのだろうが、今日は写真を撮るために車から降りるのにも1枚羽織らないといられない。東京では今が運動会シーズンなので気温差は10度以上あるのではないだろうか。しかし、佳織たちは厳寒のオレゴンで愛用していた防寒服を着こみ、私の方は心頭滅却すれば寒気も自ずから暖かしなので、風邪を引くのはやはり私になるはずだ。
古牧温泉は基地と市街地がある高台から下った東北本線が走っている低地帯にある。建物は第1から第4グランド・ホテルまで横にとてつもなく長く、廊下には商店街のように土産物屋が並んでいた。
以前は旅行新聞の「行ってみたい観光地」アンケートで10年連続1位に選ばれたらしいが、地元の新聞によればバブル期のホテル建設が経営上の失敗で巨額の負債を抱えており、遠からず倒産すると断定的に報じられていた。私としては弁護修習の仕上げに経営破綻した企業の現場検証をするつもりだったのだが、家族をつき合わせたのは不味かったかも知れない。
- 2017/06/24(土) 09:39:57|
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私は青森でCDショップ巡りをしていた。探しているのは「伊奈かっぺい」と言う青森放送のDJと呼んで良いのかも判らない人物のトーク・ライブのCDだ。
私が伊奈かっぺいさんを知ったのは昭和62年の航空自衛隊総合演習で三沢に来た時、曹候学生の同期に内務班で聴かせてもらったテープが面白かったことが始まりで、その後も防府に入校してくる後輩たちに訊くと意外にテープを持ってきている者が多く、借りて楽しんできたのだ。しかし、美恵子が「言葉が判らない」と拒絶反応を示したため家では聴けなかった。
そして幹部候補生学校でも青森県出身の同期に訊ねると大喜びで色々な情報を教えてくれたので、今回の修習で青森に来ることになり、13日の金曜日に青森市内のだびょん劇場で開かれているらしいトーク・ライブに行くつもりだったのだが、チケットを探していて2000年10月13日で終わったことと聞き、おまけに伊奈かっぺいさんが昨年末に小脳梗塞を発症してライブ活動を無期限休止していると教えられた。こうなると何が何でもCDを買って帰らなければならない。
「すいません、伊奈かっぺいさんのCDを置いていませんか」青森市内でも大手のCDショップで訊ねると同世代の女性店員は「一杯あるよ」と答えて店内の隅の「伊奈かっぺい」コーナーに案内してくれた。CDはレコードとは違って棚に縦に並べてあるため1枚ずつ取り出さなければ品定めができない。一見しただけでも30種類以上ありそうなのでしばらく吟味が必要になりそうだ。
「これは前川原で貸してもらったな」「こちらは防府で借りたな」初期の「消しゴムで書いた落書き」や「にぎやかなひとりごと」はカセット・テープだった頃に聞いたおぼえがあった。
「『あっちこっちでござい』かァ、これも題名は知っているけど誰に借りたんだっけ」幹部候補生学校を卒業して20年になるのだから、その前の防府と記憶が明確にならないのは仕方ないことだ。
「うーん、予算的には5枚までだな。歌じゃあないから何を基準に選べばいいのか判らないぞ」独り言を呟きながら真剣に思案していると先ほどの店員が近づいてきて「お決まりですか」と声をかけてきた。
「トーク・ライブのCDって何を基準に選べば良いんですか」「お客さんは青森の人ではねェんだべ」突然の質問にも店員は意外に冷静な受け答えをした。ただし、東北弁になったところに多少の焦りが感じられる。伊奈かっぺいさんは九州限定で活躍している「ばってん荒川=お園ばあさん」と同じく地元以外にも熱心なファンが多く、青森に来たついでに購入する者も少なくないのだろう。そう言えば福岡地方検察庁での修習でばってん荒川さんのCDを買うのを忘れていた。
「だびょん劇場とよその会場ではトークの組み立てが違うんだども、それは好みの問題だがら・・・時期で分げるのも良いべさ」結局、店員も「責任は負いかねる」と言うことらしい。
「それじゃあ、CDを1列に並べさせてもらって目をつぶって5枚選ぶことにするけど良いかな」「それはまた乱暴な」「だって仕方ないべさ」まだ数日の青森生活で早くも方言がうつってきているようだ。私自身は津軽弁にどことなくシマグチ(沖縄方言)と共通する語韻を感じている。そのため昔、マスターしたシマグチを思い出すような感覚で津軽弁がうってきているのかも知れない。
「伊奈かっぺいのトーク・ライブのCDは35枚発売されていて全て店頭に置いてあります。それから歌のシングルCDは3枚でこれも置いてあります」「じゃあ、どこか並べる台がありますか」35枚プラス3枚のCDを一列に並べる台となるとレジでも狭いくらいだ。店員の許可を待たずに場所探しを始めると少し離れた棚に津軽三味線の巨匠・高橋竹山のコーナーがあるのを見つけた。
「高橋竹山かァ・・・」いきなり立ち止まったため心配して後をついてきた店員が背中に衝突しそうになった。しかし、私はその場で固まったようになってしまった。
私にとって津軽三味線の高橋竹山さんには伊奈かっぺいさんとは次元が違う深く、哀く、切ない思い出がある。それは沖縄にまでさかのぼる。那覇市国際通りにある地下ホールのジャンジャンで開かれた高橋竹山さんの津軽三味線のコンサートに梢と一緒に行ったのだ。
「高橋竹山もお探しですか」「ううん、予定外だったけどこれも是非欲しいね」怪訝そうな口調で店員が声をかけてきたので私はCDに手を伸ばしながら答えた。
あの時、沖縄の三絃(さんしん=蛇味線)の軽快な演奏をイメージしていた梢は竹山さんの大地に根を張ったような堂々たる風格と腹を揺さぶられる音色に圧倒され、通訳が必要な津軽弁であっても胸を打つ言葉に感激の涙をこぼしていた。
CDの高橋竹山さんの写真を見ていて梢の泣き顔が浮かび、私も鼻をすすってしまった。

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- 2017/06/23(金) 09:53:11|
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明治41(1908)年の明日6月23日はどう言う訳か山口県では「郷土の文豪」として過大評価されている作家・国木田独歩さんの命日です。36歳でした。
国木田さんは明治4(1871)年に現在の千葉県銚子市で生まれましたが、その経緯からして混乱を極めていた時代の落とし子と言えるでしょう。戸籍上の父親は生母の前夫になっていますが、状況証拠から推定される実父は北海道で五稜郭を制圧して帰ってくる途中に難破した軍艦に乗っていた龍野藩士(現在の兵庫県たつの市にあった藩・5万石程度)のようです。その実父は救助されて銚子の旅籠屋で療養していたのですが、そこに米屋を営んでいた前夫と離別した生母が子連れで奉公していたのです。
実父は国元に妻子を残しており、不貞を発覚させないため生母が前夫の子を妊娠して離別したことになりました。しかし、現在であればDNA検査、当時でも生母の性交渉の相手と期日を確認すれば判ることだったはずです。結局、実父は本妻に三行半(みくだりはん=離別状)を送って母子を引き取り(国木田姓は実父のもの)、3年後には上京して司法省に就職して旧江戸藩邸内の藩士長屋に住みました。それにしても士分の元本妻と見比べられ、寝盗ったと非難される庶民出身の生母は苦労したことでしょう。
国木田さんが5歳の時に実父が法務省官吏として山口県内に転勤して、以降は現在の山口市、萩市、広島市を挟んで岩国市で16歳まで育つことになったのです。
山口県では旧制中学まで進みましたが16歳の時に学制が変わったことで中退し、父親の反対を押し切って東京へ出ると東京専門学校(後の早稲田大学)に入学しました。しかし、中学校まで過ごした山口県で稀代のテロリスト養成者・吉田松陰の影響を強く受けており、入学してからも学生運動に熱中しただけだったようです。その後、国民新聞の編集者・徳富蘇峰と知り合ったことで文学に関心を示し、学生向けの雑誌に随筆などを投稿するようになりましたが、おまけにキリスト教会に通うになってやがては洗礼を受けてしまいました。
父の反対を押し切って入学した東京専門学校でしたが、当時の鳩山和夫校長に対する不信から学生の授業ボイコットを扇動したため、退学に追い込まれました。尤も、この鳩山校長はソ連に擦り寄ったことと保守合同で自民党を成立させたことだけが業績の鳩山一郎首相の父であり、悪夢の政権交代で日本を奈落の底へ落した鳩山由紀夫首相の曽祖父ですから不信感を抱いたことも卓見なのかも知れません(とも思えませんが)。
中退後は家族が寄宿していた山口県熊毛郡田布施町の素封家宅に身を寄せましたが定職に就くことはせず、小学校で英語を教えつつ吉田松陰の門下生と言う老人について学んで時間を過ごしたようです。
そんな中、家庭教師をしていた娘に手を出して恋仲になったのですが、国木田さんが極端に偏狭なクリスチャンであったため娘の親が強硬に反対し(山口県でも田布施辺りは安芸門徒の流れを汲む「固門徒=強信的な浄土真宗信徒」が多い)、結局、弟と一緒に再び東京に出てしまいましたが、それでもやはり山口県が好きなようで翌年から現在の山口県柳井市に舞い戻って2年間を過ごしています。
21歳になってようやく定職を求める気になったらしく徳富蘇峰に斡旋を依頼して大分県佐伯市の私立学校の英語と数学の教師の口を紹介されますが、ここでも極端に偏狭なクリスチャン振りを見せたため保護者と生徒の不信を招き(大分県は大友宗麟による寺社破壊と弾圧を経験しているためクリスチャンを嫌悪する人が多い)、2年もたずに退職しました。こうなると徳富蘇峰に雇ってもらう以外に道はなく、国民新聞の記者になると折から勃発した日清戦争では海軍に従軍して戦後にルポルタージュを発表して名を売りました。
そんなことをやっている間も女漁りは相変わらずで、キリスト教の女性信者の重鎮の娘と北海道への駆け落ちを計画しますが相手が親に監禁されて頓挫、それでも諦めすに娘が親の勘当を受けてようやく結婚したものの生活苦から山口県の親元に連れ帰ると今度は新妻が遁走してしまったのです。それで少しは懲りるのかと思いきや文筆活動の傍ら手をつけた下宿の大家の娘と再婚しています。
後は記者と作家の二足草鞋を履きながらの文筆活動に励むのですが山口県に関する作品は確かに多く、田布施で師事した吉田松陰の門下生をモデルにした「富岡先生」や田布施を舞台にした「酒中日記」「帰去来」、さらに柳井時代から28歳で東京の渋谷に居を構えて作家としての活動を再開するまでの日記「欺かざるの記」があり、これを以って「郷土の文豪」扱いされているようです。
野僧は中学生の頃に代表作の「武蔵野」を読んだのですが、航空自衛隊に入って入間基地や府中基地に出張しても一面の住宅地、朝霞駐屯地の体育学校に入校してようやく関東平野の名残りを見つけましたが、やはり時代が違うので国木田さんが描いたような渺茫たる原野の武蔵野ではありませんでした。
- 2017/06/22(木) 09:28:42|
- 日記(暦)
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憲兵隊士官たちとの質疑応答は通訳を介さなかったこともあって話が弾んでしまい、気がつくと昼食の時間になっていた。
「ルテナン・カーノー(2佐)も一緒にどうぞ」「続きは食堂でしましょう」男女の士官たちは先に立ち上がると私を案内しようとする。隊長は少し困惑した顔をしているが特に制止はしないで私と一緒に立ち上がった。自衛隊では給食通報がなければ他の駐屯地や基地の官品(かんぴん)食堂で喫食することはできないのだがアメリカ軍はそれほど厳格ではないようだ。
パトカーの後席に隊長と並んで乗ると今度はサイレンを鳴らさずに食堂に向かった。運転手は士官の中では一番若い少尉だが普通は下士官、兵が担当する仕事だけに不慣れな分、少し緊張気味だ。それでも無事に士官食堂に到着すると士官たちは整列して待っていた。
「私は横田の頃、警務隊本部との会食で市ヶ谷のジエータイの食堂で食べたことがあるが、メニューが健康的で感心したよ」席について全員で祈りを捧げた後、ハーバーライト中佐が話を切り出した。
「私は岩国のマリン・コー(海兵隊)の食堂で食べましたが、ボリュームがあって嬉しくなりましたね」あの時、私が行った下士官食堂では決まった数種類のオカズから自分で皿に選んで取り(士官食堂では係がのせる)、ローテーションやカロリーは自己責任で決めるようだった。
「我が軍も兵員の肥満が問題になっているのだから、ジエータイのように栄養価を管理すべきかも知れないな」「日本の食文化には主食と副職と言う区分がありまして米や麺類、パンなどのカーボハイドレイト(炭水化物)でカロリーは調整するんですよ」久しぶりに英語の中で時間を過ごしたおかげで「カーボハイドレイト」と言う難しい単語も迷わずに出た。やはり英語は習うよりも慣れること、憶えたら忘れないことなのだ。
「ところでそのエンブレムはマーシャル・アーツのインストラクターと言うことでしたが、ジャスダフ(航空自衛隊)にも経験者がいるんですか」食事が終わってコーヒーを飲み始めた頃、先ほどの座談会で「日本の武道に興味がある」と言っていた大尉が訊いてきた。最近のアメリカ空軍では航空自衛隊のことをジャパン・エア・セルフ・デフェンス・フォースの頭文字である「ジャスダフ」と呼ぶことが定着しているようだ。しかし、航空はそれで良いが、陸上はジェグスダフ(JGSDF)、海上はジェムスダフ(JMSDF)なのであまり格好が良くない。やはりジエータイだろう。
「エア(空)・ジエータイでも経験者はいるはずですがMP(警務隊)にいるかは判りません。むしろセキュリティ・ガード(警備)の方にいそうです」「我が隊でも犯罪捜査の担当者はケーム(警務)とつき合いがあるが、大半はケービ(警備)と一緒に仕事をしている。今度、訊いてみよう」航空自衛隊の警備は基地業務群の管理隊だったはずだが、那覇で増加警衛についていた頃は知り合いも多かったものの防府へ転属して以降は出勤・退庁時に挨拶を交わす程度になっていた。ここでも航空自衛隊が遠くになったことを噛み締めてしまった。
「それでは会食は終わりにするが、今日はルテナン・カーノー・モリヤから日本の法制度の教育を受けることができた。そのお礼に我が隊の施設を見学してもらおう。ファースト・ユニット・リーダー(第1小隊長)、案内してくれ」隊長に指名されて第1小隊長の大尉が「イエス・サー」と返事をした。私は陸上自衛隊での生活が長くなって「小隊」を「プラトーン」と呼ぶことが染みついてしまっているが、嘉手納基地の連中と飲み歩いていた頃には小隊がユニット、分隊はフライトなどの部隊単位を普通に聞き分けていたはずだ。そう言いながら空軍では編成単位部隊である「スコードロン」が陸軍では分隊なのには困惑したが。何にしても海上自衛隊や航空自衛隊であれば横須賀、佐世保、厚木、岩国、三沢の各基地でアメリカ軍と同居しているが、陸上自衛隊では富士は隣接、座間が同居、と言うよりもアメリカ軍に間借りしているだけだ。ウチの母子と能力格差が生じさせないためには英会話する機会を探さなければならない。
アメリカ空軍の憲兵隊は地上戦闘を担当しているだけに装備には陸上自衛官としても目を見張るものがあった。武器1つ取っても通常は拳銃、緊張の度合いによってMー16自動小銃に持ち替える。憲兵隊の駐車場には乗用車を改造したパトカーの他にイラク戦争に伴う国防総省からの指令で機関銃を車載したジープも並べられていた。この警備態勢の強化が横田基地も同様であるのなら志織が言っていた立ち入り制限や行動への注意なども決して子供の過剰反応ではないようだ。
- 2017/06/22(木) 09:26:34|
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三沢基地憲兵隊本部は独立した1階建ての少し時代を感じさせる建物で、隊長は空軍中佐だった。
「はじめまして。リクジョージエータイ・アスレチック・スタッフ・オフィシャル(陸上自衛隊幕僚監部)ロー・オフィサー・セクション(法務官室)のルテナン・カーノー(カーネル)=2佐・モリヤです」制服を着ている以上、自己紹介は自衛隊の所属になる。ところが憲兵隊長は昨日、電話で面会を申し入れた時点で中央勤務の法務官の2佐が自分を訪れることに困惑しており、現物の2等陸佐を目の当たりにしてアメリカ軍の士官にしては珍しく少し緊張した顔をした。
「はじめまして。三沢憲兵隊のコマンダー(指揮官・隊長)であるルテナン・カーノー(中佐)・ハーバーライトです。ところでモリヤ2佐は英語で大丈夫ですか」「はい、一応は海外勤務の経験もありますから」最初に英会話の心配をしてくれたが、発音を聞いて察してもらえないようでは拘置所生活と司法修習で使わなくなって英語力が低下しているのかも知れない。
「そう言えば貴方の顔を見たことがありますね」「はい、テレビのニュースでしょう」「そうか日本のジエータイで最初に敵を殺した士官だ」私の身元が割れて中佐の困惑は興味に一転したらしく映画スターにでも会ったような顔で握手を求めてきた。戦時下のアメリカ軍では日常的な業務に過ぎない敵の殺害で1年半も裁判を受けたことはそれだけで驚嘆すべき珍事なのだろう。
「まあ、座ってくれたまえ、ついでに士官も同席させたいが良いか」「はァ、結構ですが、それほど大袈裟な依頼ではありませんよ」「貴方は日本のジエータイを取り巻く日本の法制度の特異性を教えてくれた。士官たちも興味を持っているから質問させたいんだ」こちらからは「追突事故の被害者を探して欲しい」と言う実に軽い依頼なのだが、話が思いがけず広がってしまった。それでも憲兵隊の士官たちは一般の警備要員の待機室の他に武器庫と薬物保管庫(戦場パニック用の鎮静剤=LSDなどを保管している)、軍法会議の被告の拘置所と判決を受けた囚人の重営倉、さらに警備犬舎などは広い基地内に分散しており、各部署の長である士官が集まるのに数十分かかる。その間にソファーに腰をかけて用件を説明し始めた。
「日本人の車両に追突された米兵の車両が逃げに基地へ入ってしまい加害者も保険の手続きが取れず困っているのです。探していただけませんか」「「その依頼は以前、ジャスダフ(JASDF=航空自衛隊)を通じて寄せられていたが、基地のモータースに修理の依頼は入っておらず、基地内に該当するような事故車両はなかった」私の来訪目的が意外だったようでハーバーライト中佐は再び困惑した顔になる。普通の自衛隊の担当者であればアメリカ軍の憲兵隊長にこう言われれば黙って引き下がるのだろうがそこは私だ。
「その前に修理していない事故車が多過ぎませんか」実際、基地内で見かける米軍人の私有車は傷ついて塗装が禿げていてもそのままで、ライトやサイドミラーが壊れて日本の道路交通法に抵触するような欠陥車も少なくないのだ。
「アメリカ人にとって自動車は高級な靴と同じくらいの半分消耗品だから運行に支障がなければ金を出して修理する発想がないんだ」「それでも基地外では日本の道路交通法が適用されるでしょう。事故車両は事故現場に割れた方向指示機のライトが落ちていましたよ」私が英語で執拗に追及を始めると、ハーバーライト中佐は考え込むように口を結んだ。おそらく追突された米兵が飲酒などの違法行為の発覚を恐れて逃走したことを推察していたのだろう。
「ところでリクジョージェータイのロー・オフィサーが何故、この問題に関与しているんだ」沈黙の後の一撃は痛点を突いた。確かにこの件は陸上幕僚監部法務官室の担当業務としてではなく、司法修習の一環だった。それを説明するには私自身の個人情報を詳細に語らなければならない。今度は私の方が思案を始めると、外から数台のパトロール・カーのサイレンの音が聞こえてきた。それでもハーバーライト中佐は平然としている。パトロール・カーは憲兵隊本部の前の駐車場に停まったようで、間もなく迷彩服を着た数名の士官たちが入ってきた。
「こちらはリクジョージエータイ・チーフ・オブ・スタッフ、ロー・オフィサーのルテナン・カーノー・モリヤだ」ハーバーライト中佐と一緒に立ちあがると私を紹介した。先ほど私は幕僚監部の英訳で自己紹介したはずだが、ハーバーライト中佐は参謀本部と説明した。やはり日本語の組織名の直訳ではアメリカ軍の軍人でも理解しにくいようだ。その意味では陸上自衛隊をグランド・セルフ・デフェンス・フォースにしないでリクジョージエータイにしたのは正解だった。
- 2017/06/21(水) 09:46:25|
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私の弁護修習は青森県弁護士会でだった。この弁護士会に加盟している弁護士の下で実務を経験するのだが福岡地方検察庁の激務を経験してきた私から見ると係争中の刑事・民事の事案はあまりにも軽く、一般的な離婚調停や示談交渉、さらに法律相談がここでの実習になりそうだ。
「モリヤさんは自衛官だって」「はい、そちらが本職です」判事、検事の修習では官庁だけに私を呼ぶ時には「修習生」と肩書を付けていたが、個人経営の弁護士は「さん」付けで呼んでくれる。
「無罪を勝ち取ったから失職しないですんだんだね」「色々と失ったこともありましたが・・・」法務省管内で修習生の人事記録が回覧される裁判所、検察庁とは違い個人経営の弁護士事務所では自己申告しなければ修習生の個人情報はあまり知らないらしい。しかし、私は新聞に写真も掲載された有名人なのだから「単にとぼけているだけ」と理解した方が良いだろう。
「それじゃあ自衛官が関係したトラブルには同行してもらえると有り難いな」「自衛隊が何か問題でも起こしましたか」ここで本来の職務である法務官としての意識が反応した。
「いや、自衛隊ではなくて隊員さんの個人的な話だよ」仕事の説明も東北弁のアクセントではあまり身構える気にはならない。青森市は津軽藩領の港町だったはずだが、明治以降は県庁所在になっているため津軽弁と南部弁が混在しているらしい。私自身は防府南基地の航空自衛隊に入隊して以降、何故か西日本を中心に移動してきたのであまり東北弁の聴取力には自信がなかった。
「隊員個人と言われますと・・・」「離婚訴訟もあればサラ金での借金もある。若い隊員が上官の奥さんと不倫して2人して訴えられたこともあったべさ」妻の不倫なら私も経験者だが、あれは協議離婚だったので調停の参考にはならないかも知れない。むしろ客観・冷静・公正な立場で事情聴取することが不安になってくる。
「確かに青森県内には青森、弘前と八戸に陸、大湊と八戸に海、三沢と大湊に車力の空がありますから、これだけの人数がいれば個人的なトラブルがあっても不思議はないですね」「全部の基地をスラスラ答えるなんて流石は現職だな。オラたちじゃ地図と電話帳さ見なければ言えねェだよ」そこまで誉められたならば記憶している部隊名も披露したくなったが、青森の第5普通科連隊と弘前の第39普通科連隊以外は全て第9師団の9ナンバーなのでつまらないから止めておいた。それにしても八戸の海上自衛隊が第2航空群、三沢の航空自衛隊が第3航空団なのはおぼえているが、大湊のレーダーサイトや車力の高射部隊の部隊ナンバーは忘れてしまった。知らない間に航空自衛隊は遠くなったものだ。
「そう言えば三沢の米軍がからんだ民事トラブルがあるだよ」「米軍ですか?米軍は被害者ですか加害者ですか」これが刑事事案であれば弁護は被告=加害者側と考えて間違いないのだが、民事の場合は白黒ではなく灰色の濃淡を争う裁判・調停の性質上、相互に弁護士がつくことも多いので念のために確認した。
「交通事故を起こした兵隊が基地に逃げ込んだんだよ」「それでは加害者ですね」「んにゃ、追突された被害者なんだァ。追突した日本人が下りて謝ろうとしたら基地へ逃げ込んでしまったんだ」それは自衛官ではなかったんですか」「「追突した日本人がYナンバーを覚えてただよ」Yナンバーとは仮名の代わりにヤンキーを意味するYが入った在日米軍人のナンバーだ。
「日本人の加害者としては相手が見づがらねェと保険の手続きもできないべさ、それで米軍に依頼したんだども1カ月経っても見つかんねェんだよ」「しかし、追突されて損害を受けていれば簡単に見つかりそうですがね」「地位協定があるがらあまり強硬なことも言えねェんだ」これは訴訟と言うよりも調停の仲介のようだ。つまり「アメリカ空軍の三沢憲兵隊と交渉して被害者を探せ」と言う業務命令と理解した。
「それでは米軍基地に立ち入る上で便利ですから本件の業務中は自衛隊の制服を着用させていただきます」「んだな、そちらの方が似合うべさ」教官弁護士の許可は下りたが、司法修習生徽章を制服に装着することは自衛官服装規則違反になる。考えた挙句、襟よりは目立たない左胸の格闘徽章の上に装着することにした。
「それではアメリカ空軍の三沢基地に行ってきます」「やっぱり自衛隊さんはその格好が一番だべ」翌朝、三沢基地に向かう前に申告代わりの挨拶をすると、いきなりお誉めに預かったが確かに久しぶりの制服に身も心も引き締まったような気がする。やはり私は根っからの自衛官なのだ。
- 2017/06/20(火) 09:36:26|
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野僧は小学校6年生の学芸会の演目が「走れメロス」だった関係で太宰さんの原作を読んだのですが、その後も中学校の国語で「富嶽百景」を習って「富士は月見草がよく似合う」と言う冒頭をおぼえ、高校では太宰ファンで自殺願望を語る女生徒に「斜陽」や「人間失格」を勧められて目を通したものの「こんな本は読まない方が良い」と感想を述べて「会長なら判ってくれると思いました」と泣かれて困り、とどめに津軽半島の寒村・車力への転属が決まった時に青森県野辺地(津軽に敵対する南部領で合戦場にもなった)出身の群司令からの強制で「津軽」を開いたのですが、結局、好きにはなれませんでした。
特に「津軽」は赴任先である車力のイメージを大いに歪め、赴任するまでは重苦しく冷え切った空気に覆われた土地で、すれ違う人々は黙ってうつむいて歩いているような先入観を抱いてしまいましたが実際は真逆だったのです。津軽人は自然に手を加える農耕と共に規律を持ち込んだ弥生人とは異なり、沖縄人、鹿児島人と同じく大自然の恵みを享受する狩猟・収穫で生活していた日本列島の土着民族である縄文人であり、冬場は外で口を開けると地吹雪が入るため黙っていますが、家の中に帰れば火を囲んで大声で話し、酒が加われば三味線に手拍子で唄うところなどは沖縄人に酷似しています。
実際、津軽三味線の名手・高橋竹山さんやブルースの女王・淡谷のり子さん、版画・洋画家の棟方志功さんなどの生涯を描いた著作や番組、映画などでは貧乏のどん底の家庭に生まれ、周囲の差別や迫害の中で苦胆を舐め切って来たように描かれることが一般的ですが、御本人を知っている知人たちは「大地に深く根を下ろした巨木のような人物なので、あのように世間を恨むようなことは決してなかった」と明確に否定した上で「それは太宰を読んで津軽は暗くて辛い土地だと決めつけた都会の人間が勝手に捻じ曲げたんだろう」と怒りを顕わにしていました。
このため津軽地方での太宰さんに対する評価は必ずしも好意的ではなく、特に出身地である金木町の知人(町議会議員を含む)や友人たちは「観光客を集めてくれる有名人だから郷土の誇りにしなければならないが、故郷が嫌で出て言った奴だから子供たちに教えたくはない」と口を揃えていました。尤もこれは同じく金木町出身の歌手・吉幾三さんも昭和59(1984)年のヒット曲「俺ら東京さ行ぐだ」で「テレビもねェ ラジオもねェ 自動車もそれほど走ってねェ」と唄ったため金木町のイメージを著しく損なったと非難されて、その後は真面目な演歌で津軽の風物を賛美しなければならなくなったのです。
太宰さんは明治42(1909)年のこの日に「金木の殿様」と仇名される程の名門にして大富豪であった津島家の11人いる子供の10番目の6男として生まれました。このため地元ではペンネームの太宰よりも本名の津島の方が通りが良いようでした。父は多忙、母は病弱だったため乳母、叔母、そして3歳から小学校に入学するまでは10歳代だった女中に育てられたのです。
少年時代から成績は抜群で、旧制青森中学校の頃から小説を発表するようになりましたが、旧制弘前高等学校ではプロレタリア(共産主義)文学に染まり、その一方で芸者遊びを覚えるなど既に破滅型人生の前兆が現れていました。この頃、特高警察の摘発を逃れるため第1回目の自殺を図っていますが、その理由としては「僕は賎民ではなかった。ギロチンにかかる役の方だった」と美辞麗句で自己卑下しています。
弘前高校を76人中46番と言う不本意な成績で卒業しながらも全く人気がなかったため無試験に等しかった東京帝国大学フランス文学科に進学しますが、ここで弘前から呼び寄せた芸者との結婚を希望したことで父亡き後、跡を継いでいた兄から分家解消を宣告され、大学卒業まで生活費だけを受け取ることになったのです。ところが銀座のバーの美人ホステスと知り合い、鎌倉の海岸で心中を図って女性だけを死なせてしまいました。その後の酒と女と薬物にただれた生活は語るのも嫌になりますが、野僧が岩木川を挟んで金木町の対岸である車力村に住んでいた頃、太宰さんの大ファンを自認する友人がワザワザ生家である斜陽館を見にきたので「太宰のどこが好いのか」と訊くと「人間の苦悩とエゴを直視し、自分の弱さと淫らな本性をさらけ出していることだ」と答えました。それに対して野僧は「太宰などは社会への適応能力が欠落した旧家の御曹司が、端正の容貌と長身、難解な論理と甘言を弄して迷わせた多くの女性を巻き添えにして破滅しただけのことだろう」と率直に批判したのですが、それでも斜陽館へ連れて行くと階段の手すりを撫でながら「太宰もこれに触れていたんだな。ここでは太宰の存在を感じる」と完全に自己陶酔していました。
この日は太宰さんの誕生日であると同時に道連れにした山崎富栄さんと赤い紐で結んだ遺骸が発見された日なので、最後の作品名から「桜桃忌」と呼ばれる追悼行事が東京の墓所で営まれるようになったのです。
一方、金木町では生誕の地であることを強調するため「太宰治生誕祭」が行われています。
- 2017/06/19(月) 10:14:16|
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連隊長クラスの転属では駐屯地幹部会と地元名士の送別会が行われるくらいで、後は離任式を終えて見送りすれば終わりなのだが、晩鐘光一郎1佐はここでも型破りだった。それでなくても夏季休暇から月末の転属までの短期集中の挨拶回りで多忙な中、隊員食堂で全ての隊員との会食を設定させたのだ。
「連隊長殿は将来が期待されているから地元の連中も人脈を確保しようと挨拶が長引いているらしいんだがな」「夜の宴席の誘いも断るのが大変らしいぞ」「それでも俺たちと会食する時間を作るなんてやっぱりアンパンマンは違うな」会食の予定を聞いた陸曹たちは伝聞情報を寄せ合って得意の噂話を始める。それを遠巻きにして聞いているのが陸士たちだ。
「安川、お前はサマーワに行ったんだろう。やっぱり連隊長は向こうでも凄かったのか」陸士たちは陸士たちで噂話を補強するための情報収集をするのだが、連隊本部で勤務している本部管理中隊でなければ連隊長の素顔を知っている者はあまりおらず、ここの中隊ではイラク派遣要員だった安川士長に取材が集中することになる。
「はい、一緒にいると何があっても不安を感じさせない人でした」「迫撃砲弾が撃ち込まれたんだろう」「デモ隊も押し寄せたんだよな」古参陸士たちの質問は俄然熱を帯びてきた。
「はい、デモ隊には合唱隊を編成して日本の歌で感動させてしまったんです」この裏話はイラクから帰還した陸曹たちも語っていたが、あらためて聞くと晩鐘1佐の偉大さが再認識される。そこからは陸士たちも聞き飽きて耳にタコができているイラクでの逸話の再放送になったのだが、連隊長を中心に再構成するとそれなりに別の切り口があって盛り上がった。そんな陸士たちの中で最古参の士長が白けた顔で安川士長に助言を与えた。
「でも、お前は今の連隊長から特別に目を掛けてもらったから新しい連隊長には嫌われるかも知れないぞ。幹部連中ってのは新しい連隊長に取り入るために前の連隊長が可愛がっていた曹士を生贄にするからな。だからこれからは今の連隊長を尊敬しているなんてことは言わないことだ」古参士長は昇任試験に合格できないから陸士に留まっていることが普通なのだが、中には理が立ち過ぎて嫌われている者もいないことはない。この地元出身の士長も他に手頃な就職先がないから自衛官をやっているだけで、自衛隊にはかなり冷めた視線を向けているようだ。
そんな連隊長送別会食会が開かれた。駐屯地に所在する第2偵察隊や基地通信隊、駐屯地業務隊などの隊員は特別に「早飯」として11時30分から喫職し終えていた。
会食会と言ってもメニューは献立表通りだが連隊長のポケット・マネーで全員にブルベリー・ヨーグルトが追加されている。進行が自衛隊式になるのは仕方ないだろう。
「この席では本当に無礼講とする。私に言いたいことがあれば階級、役職を問わず遠慮なく話に来なさい。ただし、酒は入っていないから『酔ってしまって』と言う弁解は通用しないぞ」司会である1科長にうながされての訓示で連隊長は会食の趣旨を説明した。確かに固い訓示は離任式で述べれば良いのだから理には適っている。連隊長はイラクに派遣される時も「義理・人情・浪花節」を統率方針にしてマスコミから揶揄されたが、現地ではそれがイラクに到着した時の「友人として手助けに来た」と言う挨拶も重なって外国軍も驚嘆するほどの信頼を獲得する秘訣になった。安川士長も感謝と尊敬の気持ちを伝えように行こうと思ったが、先日の古参士長の助言が引っ掛かって席を立つことができなかった。
離任式を終えた昼過ぎ、官舎では奥さんたちによる見送りが行われていた。アンパンマン連隊長は子供たちにも大人気なのだが、北海道の学校の夏休みは内地よりも短いため参加できたのは就学前の幼児だけだった。聡美は近所の奥さんに誘われて官舎での見送りを初体験していた。
「貴女が安川くんの奥さんですか」連隊長官舎の階段の出口から建物の角に停めてある官用車までの間に奥さんたちが並ぶのだが、そこにも階級・年齢順と言う作法がある。したがって新米陸士長の妻・未成年の聡美は最後尾に立って待っていたのだ。
「はい、主人がお世話になりました」「うん、安川くんにはイラクでも大いに活躍してもらいました。本当に期待していると伝えて下さい。どうかお幸せに」そう言うと晩鐘1佐は聡美の手を握り、官用車に乗り込んだ。手を振って見送りながら聡美は眼から涙があふれて止められなくなった。
- 2017/06/19(月) 10:10:49|
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昭和60(1985)年の本日6月18日に悪徳商法で逮捕目前だった豊田商事の永野一男社長が自宅マンション前に集まっていた記者などの目の前で刺殺されました。
豊田商事は無作為に電話をかけて「金が高騰することは確実だから純金製の延べ棒を買いなさい」と勧誘し、巧みに家族構成や住所を訊き出すと社員を赴かせ、先ず佛壇に線香を上げると話し相手をしながら掃除、買い物などを親切に引き受けることで信用を得て、主に独居老人から金を集めていました。ところが購入したはずの純金の延べ棒の現物が届くことはなく、豊田商事が発行した「純金ファミリー契約証券」と言う紙が送られてくるだけで、会員は投資の実態が判らないまま社員との個人的信頼関係だけで老後の生活資金を預託していたのです。これを後に「現物まがいもの商法(=ペーパー商法)」と呼ぶことになりました。
そもそも豊田商事は永野会長が中卒で就職した大手自動車メーカーの系列会社(主に電子部品を製造している)でその信用力を目の当たりにしたことから自分の悪徳商法に利用しようと思い立って命名したのですが、他にも大手ゼネコンの鹿島建設の系列を装いゴルフの会員券で同様のペーパー商法を展開した鹿島商事も存在しましたから、現在も後を絶たない嘘電話詐欺の被害者はこの事件から何も学んでいなかったのでしょうか。ちなみに大手自動車メーカーの傘下には豊田通商と言う総合商社があるのですが、風評被害で取引に大打撃を受けたそうです。
永野会長は岐阜県恵那市の生まれで、15歳の時に島根県浜田市の叔父に預けられて現地の中学校を卒業したのですが、中卒で愛知県刈谷市にある前述の系列会社に就職したため数カ月だけ離れただけで東海地方にいたことになります。ところが系列会社は2年で退職してしまい、その後は職を転々としながら客から預かった金を遣い込む不祥事を度々起こし、昭和56(1976)年には大垣競輪場でスリを行って逮捕されました。それでも5年後の昭和56(1981)年に29歳で豊田商事の前身である大阪豊田商事を設立し、ペーパー商法で数千億円もの資金を集めていたのですが、この時の設立資金の出処などは不明のままです。
この日は「永野会長が詐欺容疑で逮捕される」と言う噂が流れていたため自宅マンションの前の廊下には多くの取材記者とテレビのカメラマンが詰め掛けていたのですが、午後4時30分過ぎに人相が悪い2人の男が現われて豊田商事が雇っていたガードマンに「永野に会わせろ」と申し入れたので会社に連絡しようと1階に降りた途端、記者たちに「被害者6人から金はもうエエから永野をぶっ殺してくれと言われた」と説明した上でアルミ製の窓の格子を蹴破り、自宅内に侵入して新聞紙に包んで持っていた日本軍の30年式銃剣(いわゆる牛蒡剣)で全身13箇所を刺したのです。
この頃、野僧は沖縄で勤務していたため民間放送はテレビ朝日とTBS系列しかなく、職場の先輩たちは「朝日よりは」とTBS系列局を見ていたので、夕方のニュースで詳細に知る羽目になりました。と言うのも犯行を終えて出てきた犯人に在阪TBS系列局の記者がインタビューを始め、警察が到着した時には「こいつが犯人だ。早く逮捕せいや」と命令口調で主張したため、犯人が「こいつとは何だ」と激昂して殴打され、その一部始終が放送されたのです。
それにしてもあれ程多くのマスコミ関係者が集まっていながら誰一人として犯行を止めようとする者はおらず、警察に通報したのも出てきた犯人に「警察を呼べ。俺が犯人や」と要求されてからでした。
豊田商事の犯行と被害を考えれば永野会長の自身に危害が加えられることは素人にも予測されるのですが、捜査は兵庫県警が担当していたため大阪府警は傍観者に過ぎず、現場からの通報を受けて、警邏中の巡査を急行させたから犯人を逮捕できたのであってマスコミ関係者が刃物に怯えて放置していれば、そのまま逃走させることになったかも知れません。
余談ながら永野会長自身は自分に危険が及ぶことを予測しており、「結婚すると妻に累が及ぶ」と独身を通して愛人を囲い、「顔を知られると殺される」と言ってマスコミを避け、役員や社員にも顔を見せることはなかったそうです。
何にしても豊田商事が騙し取った金額やその人情を操る犯罪手法とは別に殺害放置したマスコミが日頃から強弁する「正義」とは何なのかを考えさせられた事件でした。
- 2017/06/18(日) 10:18:17|
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夏季休暇になって安川和也士長はようやく新妻・聡美を名寄に呼び寄せることができた。所属中隊長である田島1尉の相談を受けて駐屯地司令を兼ねている連隊長が指示してくれたおかげで、予備に空けていた官舎に入ることができたのだ。これで何とか安い給料でも生活を始められそうだ。勿論、聡美は名寄市内での就職を探しから始めることになる。
「奥さん、名寄は夏でも寒いでしょう」家具は名寄で買うため引っ越しは宅配便の段ボールだけだった。それでも未成年の若妻に官舎の住人たちは興味津々で出会う度に親しげに声をかけてくる。
「はい、夜は冷えますが、昼間はサッパリしていて気持ち良いです」「寒ければ2人で温め合うことだね」聡美の返事に住人たちが与える助言は同じだ。安川はプライバシーに無頓着な官舎の住人たちに聡美が嫌悪感を覚えるのではないかと心配していたが、半年に及ぶ安川家での寄宿生活によって他人に接する上での手法を身につけており、むしろ営内生活とは別の作法に戸惑っている自分よりも上手に溶け込んでいるようだ。
「自衛隊の人って誰でも家族みたいに心配してくれるんだね」「うん、団体生活が基本だからね。家族もその団体の中に取り込まれてしまうんだよ」「それじゃあ、私も自衛隊のメンバーになれるんだ」思いがけない聡美の反応に安川は呆気にとられてしまった。高校に入学してきた時には新入生の中でも一番の美少女で学校中の男子生徒の注目を浴びていた。ところが同じ中学校の出身者から「簡単に姦らせる女=させ娘(こ)」と言う噂が流れて興味は性欲の対象に堕ちてしまった。そんな出会いから紆余曲折を経て結婚に至り、こうして北海道で新生活を始めることになった。しかし、苦悩に向き合ってきたことで聡美は成長し、人生の伴侶と呼ぶに相応しい存在になっている。
「そう言えば北海道大学の森林圏フィールドが補助の職員を募集していたよ」「森林圏フィールドって何?」北海道大学の森林圏フィールド名寄ステーションとは天塩、中川,雨龍の各研究林を統括する一方で、各山系の植生や森林管理を観察・研究してデータを発信・広報し、大学院の学生を専門家に育成する学術・教育機関だ。
「でも私は専門知識や経験がないから無理でしょう」「別にそこに就職しろって言ってるんじゃなくて愛知県の感覚とは違う仕事があるって言うことだよ」確かに愛知県出身の聡美にはまだ北海道の大自然を生活の場とする感覚が身についていないのかも知れない。とりあえず愛知県出身で自衛官の妻の大先輩である中隊長の奥さんに挨拶に行かなければならなかった。
「中隊長殿、色々お世話になりました」「別に俺とはお別れじゃあないぞ。転属されるのは連隊長だ」リビングに通された安川があらたまった挨拶をすると田島1尉は笑って茶化した。安川としては結婚に関する手続きや官舎を借りる上での助力に感謝したのだが、8月は自衛隊の転属の時期でもあり、実際、連隊長の晩鐘1佐は8月30日付で陸上幕僚監部の広報室長に転出するらしい。
「奥さんには出発と帰還の式典で会っているから『初めまして』ではないね」「はい、お顔はおぼえています」「奥さんこそ居並ぶ小母さんたちの中でピカッと光っていたよ」田島1尉の軽口に幹部自衛官=堅物をイメージしていた聡美を呆れて安川の顔を見た。そこに田島夫人が台所からケーキと紅茶を載せたお盆を運んできてリビングのテーブルに置いた。
「誰が小母さんだって」「安川の奥さんを基準にすれば十分に小母さんだろう。あッ、婆さんだったか」夫人の指摘にも田島1尉は益々軽口を叩く。夫人は聡美の顔を見ると納得せざるを得ないことを認識したのかそのままケーキと紅茶を配り、席に着いた。
「奥さま、これはつまらない物ですが名古屋の名物です」田島1尉への土産は中隊で渡しているため、今日は聡美が夫人に手渡した。
「何かしら、このサイズは・・・名古屋ァ、名古屋の名物は」「何はなくとも納屋橋の 納屋橋饅頭何よりも・・・正解です」いきなりCMソングで答えを合わせる。このローカルなCMソングは「どんぐり音楽会」と言う人気ローカル番組の途中で流れたため定着し、納屋橋饅頭を愛知県人にとってはういろうよりも支持者が多い名物に押し上げた。
「ありがとう。ういろうは何かのついでにもらうことがあるけど、納屋橋饅頭は愛知県にいても滅多に口に入らないから嬉しいわ」納屋橋饅頭は名古屋駅や空港、大手デパートくらいにしか出店しておらず機会がないと購入することができない。夫人はそんな納屋橋饅頭に喜んだが聡美は酪農の本場・北海道のクリームと地元産のブルーベリーを使ったケーキに目を輝かせた。

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- 2017/06/18(日) 10:16:47|
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1974年の明日6月18日はソ連軍の名将の筆頭であろうゲオルギー・コンスタンチノヴィッチ・ジューコフ元帥の命日です。77歳でした。
軍事大国だった帝政ロシアには貴族制度と言う制約はあったものの名将と呼ぶに値する将軍・提督が数多く出ていますが、ソ連になると貴族階層の将軍たちは排斥され、共産党支配が貴族制度以上の制約になり、スターリンの時代には軍内で自分を凌ぐ声望を集める人材は粛清の対象になったため名将が育つ環境ではなかったのです。また軍事に関する情報は徹底的に秘匿されていたため、作戦の司令官、上級指揮官の氏名や経歴が明らかになるのは死亡後に名誉を喧伝する段階になってからでした。そんな中でジューコフ元帥については野僧が中学1年の時に亡くなったおかげで毎晩欠かさずに聴いていたモスクワ放送の追悼特集で名前と軍功について知ることができたのです。
ジューコフ元帥は日清戦争から1年後の1896年にモスクワ郊外の田舎町で普段は農業、収穫後は行商に出るような貧農の子供として生まれました。幼い頃から頭脳明晰だったのですが第1次世界大戦の勃発を受けて19歳で招集されると1年後には下士官要員として騎兵連隊に配属されました。ここでも勇猛果敢な戦いぶりで2度も勲章を受章して下士官に昇任しますが、1917年の10月革命によって帝政が倒れると即座に共産党に加盟し、赤軍の一員として国内の反革命勢力の掃討や不満農民の暴動の鎮圧に活躍して赤軍の勲章を受章すると共に27歳で騎兵連隊長、34歳で騎兵旅団長に昇任しました。こうした軍功によって赤軍内で存在感を発揮し始める一方で、騎兵の近代化施策として馬を車両に乗り換える機械化とその運用の研究に励むようになり、騎兵師団長、騎兵軍団長を歴任していきました。この頃のジューコフ元帥(当時の階級は別)は緻密な作戦・計画の立案と厳格な規律指導、そして激烈な訓練で勇名だったので、内患外憂状態だったソ連にとっては欠かすことができない卓越した軍人だったのでしょう。
ところがレーニンの死後、実権を掌握したスターリンが大粛清を始めると軍の首脳陣も犠牲になりましたが、ジューコフ元帥は巧みに逃れ、数少ない安全圏とも言うべきモンゴルへ逃れたのです。当時のモンゴルは辛亥革命によって清朝への従属から解放され、独自の王朝が立ったもののやがて共産革命に同調する勢力が政権を奪取してソ連との軍事協定を結んでおり、日本の関東軍が画策した満州事変によって成立した満洲国との間で国境紛争が頻発していました。つまり関東軍にとっては最悪のタイミングで最強の敵将がやってきてしまった訳で、やがて勃発するノモンハン事件の結果はこの時点で確定したと言っても間違いではないのです。
ジューコフ元帥はモンゴルに赴任すると先ず兵站を確立するためシベリア鉄道を使って膨大な武器や弾薬、さらに戦車や車両までを運搬・集積し、まるでモンゴルの騎馬軍団を機械化するように格段の機動力を確保しました。特に車両を揃えたことで歩兵の進撃速度を戦車に随伴させるまで向上させただけでなく、補給物資を追従させられるようになり、馬と荷車で運んでいた日本軍とは時代が違いました。こうして準備万端整ったところで日ソ開戦になったのですから関東軍に歯が立つはずがありませんでした。
戦車による機動戦術と言えばナチス・ドイツ軍のポーランドやフランスへの侵攻時の電撃作戦として有名になりましたが、ジューコフ元帥はノモンハンにおいて既にその端緒を見せており、一般的にベルサイユ条約下で再軍備を進めるためヒトラーとスターリンの密約によってナチス・ドイツがソ連領内で戦車の製造と訓練を行ったことでソ連軍が学んだと言われていますが、実際はコサック騎兵の伝統を継承するロシア騎兵出身のジューコフ元帥以下が先に確立し、ドイツが学んだ可能性も否定できません。
その後、独ソ不可侵条約を破ってナチス・ドイツがソ連領内に侵攻すると連戦連敗だったソ連軍を見事な手腕で立ち直らせ、レニングラード、モスクワ、スターリーグラードなどの守備隊司令官としてドイツ軍を撃退し、最後にはベルリンを陥落させています。ただし、ジューコフ元帥の作戦指導には欧米の軍事常識とは異なる非情な原則がありました。それは目的達成を以って勝敗を判定し、敵味方の損害の多少は度外視していたのです。このため圧勝だったノモンハンは別にして独ソ戦では敵を撃破して目的は達成していてもソ連軍の犠牲者数はドイツ軍を遥かに上回っています。
戦後、ジューコフ元帥が「ノモンハンが最も困難な作戦だった」と語ったと日本のノモンハンの会の機関誌で紹介されていますが、別の機会には「ドイツ軍と日本軍では兵器の質、軍人の能力は比較にならなかった」と繰り返し述べていますから日本人得意の身贔屓でしょう。誰が見ても第1次世界大戦を経験して飛躍的に近代化していたドイツ軍と元亀・天正と大差がなかった日本軍では勝負になりません。
- 2017/06/17(土) 09:38:55|
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美恵子の店には1年前、最初に劉青然(リュウシャオゼン)を案内してきた喜屋武(きゃん)が1人で来ていた。あれから劉と美恵子が急接近し、来日した時にはアパートに泊めていることを知り、切っ掛けを作った者として責任を感じているようだ。
「ママさん、劉さんと出来ちゃったんだって」少し酒が入っている喜屋武の質問は大変に不躾だ。素面の美恵子としては一瞬、答えに戸惑った。
「うん、お互い大人だから自然の成り行き、時の流れに身を任せているのさァ」これは劉と美恵子が親しくなった始まりの歌「我只在乎你=時の流れに身をまかせ」に引っ掛けた洒落だ。
「ママさんも色々あったのは知ってるけど、簡単に客に身を任せるのは考えものじゃないかな」喜屋武は美恵子よりも一世代上なのだろう。親と言うよりも兄のような態度で説教を始めた。確かに美恵子が集団レイプされた頃には客たちも分け前を求めるような目をして通ってきていた。あれから5年近くが過ぎて自分の記憶からも消えかけている。だから劉に抱かれることができるようになったと言うのが美恵子の偽らざる気持ちだった。
「ママさんは劉さんには台湾に家庭があることを知ってるねェ」「・・・うん、あの人は正直に話してくれたよ」返事をした美恵子の声は暗く沈んだが、表情には妙な安心感がある。それは自分が日本の愛人に過ぎないと言う立場と事実を正直に語ってくれた劉への信頼が入り混じった気持ちが現れたのだろう。
「それで劉さんからは幾ら手当をもらっているねェ」「手当なんてもらってないさァ」喜屋武の率直過ぎる質問に美恵子は声を荒立ててしまった。普通、愛人と言えばマンションを与えられて旦那が通ってくるのを待ち、会えば快適に過ごせるように誠意を尽くし、その代金として手当をもらうのが相場だ。だから愛人を意味する「妾(めかけ」」と言う漢字は「女の上に立つ」と書くのだ。
「それじゃあ、無料奉仕ねェ」喜屋武の顔が呆れと羨望の2色染めになる。男が愛人を囲うには十分過ぎる程の経済力が必須条件のはずだ。それがないから多くの男たちは糠味噌の匂いが染みついた女房との暮らしで納得している。しかし、美恵子にとっては後夫の矢田は借金を抱えながらも若い娘と同棲を始めていた。あの時、矢田や愛人を恨んだ自分が今度は同じ立場になっているのだ。
ここで喜屋武のグラスが空になり、キープ・ボトルのホワイト・ホースで水割りを作った。スコッチでも安価なホワイト・ホースやカティ・サークをキープしているのではあまり上客ではない。
「ママさんも知っているように今の沖縄は内地以上に不況なのさァ」「うん、それはウチの売り上げにも響いているよ」バブルが弾けて不況になってからは沖縄の収入源である内地からの観光客は大幅に減っており、さらに企業も投資を止めてしまっている。このため淳之介を受け入れることが決まった頃にはスナックの売り上げから生活費と学費を実家に送るつもりだったのだが、そんな余裕はなくなっていた。喜屋武は「ならば愛人としての手当てを貰え」と言いたいのかも知れない。
「それで劉さんの仕事は大丈夫ねェ」この質問は劉が来日する頻度が下がり、疎遠になることへの不安から発している。喜屋武もそれを感じ取って率直に答えた。
「劉さんの仕事は中華食材の輸出が主だから観光客が減っても急に売り上げが落ちることはないはずさァ。むしろ中国から安い食材が大量に輸出されてくる方が心配だけど・・・」「中国製は危ないから使わないよ」「ママさんは一途だね。可愛いよ」美恵子の真剣な受け答えを聞いて喜屋武は皮肉に微笑んでグラスを口に運んだ。
その時、美恵子はレジから100円玉を取り出すとカラオケを操作してマイクを用意した。喜屋武が呆気にとられて見ていると聞きなれたテレサ・テンの「愛人」のイントロが始まった。
「貴方が好きだからそれで良いのよ 例え一緒に街を歩けなくても この部屋にいつも帰ってくれたら 私は待つ身の女で良いの・・・」熱唱しながら美恵子は何故か涙ぐんでいる。それを眺めながら喜屋武の胸には「この女には息子がいたはずでは」と男としての侮蔑が湧いてきた。
「・・・離れて恋しくて そして会いたくて このまま貴方の胸で暮らしたい」美恵子の思い入れは別として喜屋武は「この『待つ身の女』も『好きな貴方』から衣食住の生活費と手当をもらっているのだろうか」と考えながら醒め切っている。
「私は劉さんが好きなのさァ。沖縄(ここ)で愛される人として尽くしたいのさァ」そんな喜屋武に独り善がりな想いを告白した美恵子は淳之介の母親であることを完全に忘れていた。

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- 2017/06/17(土) 09:37:35|
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サイパン島にアメリカ軍が上陸を開始した昭和19(1944)年6月16日の深夜に中国大陸の四川省の成都から発進したB-29が八幡製鉄所を空襲しました。
アメリカ陸軍航空軍はそれまでのB-17に比べ航続距離が桁違いに長く(2832キロ→6600キロ)、爆弾搭載量も倍近い(5.1トン→9トン)B―29の実用化の目途がついた時点から中国の基地から日本本土を空襲する計画を立てており、それが実施に移されたのです。ただし、本来であればサイパン島などのマリアナ諸島を攻略する目的もB-29による日本本土爆撃の母基地獲得だったのですから、インドから中国内陸部の成都に大量の物資を空輸してまで作戦を強行する必要はなかったはずですが、サイパン島を攻撃しているのはニミッツ提督が指揮する太平洋軍であり、空軍としての独立を目指していた陸軍航空軍としては単独での戦果が欲しかったのでしょう。
この作戦については1943年11月に行われた3者会談の席でルーズベルト大統領からチャーチル首相、蒋介石総統に対して提案され、チャーチル首相がインドを補給基地とすることと東回りでインドに向かうB-29の編隊が大西洋を横断した後、イギリスを経由することを快諾し、蒋介石総統は成都地域に4つの航空基地を建設することを約束して実現に向けて動き出していました。
ところが中国でもチベットに近い奥地では建設機材はないに等しく工事は人力によるしかなかったので荷車や天秤棒で土砂を運び、手作業で整地するために30万人以上の労務者を雇うことになりました。
それでも1944年4月には工事が概ね完了したため5月にB-29がインドに進出し、同時に成都の各基地への補給を開始したのですが航空輸送以外の手段がない中、成都から日本本土への飛行に必要な1機分の燃料だけでもB-29で12往復する量(ドラム缶を搭載した上、燃料満タンの状態で飛行して往復に必要な量を除いた余剰分を置いてきた)だったのです。こうしてサイパン島が陥落して滑走路が建設されるまでに爆撃を実施しなければならない陸軍航空軍は補給飛行に全力を挙げましたが、同時にこの飛行が過去の爆撃機にはない機能を多用している新型機に完熟するための格好の飛行訓練にもなったようです。
そして6月13日にインドから成都に進出した75機(このうち1機は離陸に失敗して墜落、4機は機体の故障で基地に戻った)のB-29は16日の午後4時16分から離陸を開始し、八幡へ向かったのです。この日の爆弾搭載量は航続距離を確保するため500ポンド(=約227キロ)爆弾4発に抑えられ、飛行方法も各編隊が2機を先行させ、それに続行することにより統制と維持して気流を起こすなどの航続距離を確保するための工夫が凝らされていました。その一方でアメリカ軍は攻撃目標である八幡製鉄所に関する資料は殆ど持っておらず、航空写真はおろか施設の写真でさえ10年以上前の物で、ここからも功を焦って空襲したことが伺えます。
逆に日本軍はアジア地域内では諜報機関が十分に機能していたためインドにB-29の大編隊が到着した時点から存在を把握しており、4月26日には輸送中のB-29を1式戦・隼で待ち伏せして損害を与えています。したがって成都の基地を離陸したことも現地に潜伏していた工作員が無線連絡しており、飛行経路上の所在部隊から逐次連絡が入り、済州島にあったレーダーが捕捉していたのです。当然、陸軍は到着時間に先立って小月基地の2式双発戦闘機・屠龍や芦谷基地の3式戦闘機・飛燕を発進させていましたが、3式戦闘機は毎度のエンジン不調を起こして役に立たず、2式戦闘機のみでの迎撃になりました。結局、事前情報が十分に届いていた日本の灯火管制により八幡地域は漆黒の闇であり、靄もかかっていたため爆撃は全く効果を挙げることができませんでした(工場内の変電所に着弾・破壊しただけ)。それでも周辺の市街地が巻き添えになり八幡で69名、小倉で94名、戸畑で53名、門司で34名、若松で6名の計256名が犠牲になっています。アメリカ軍側は7機を喪失し(撃墜を認めているのは1機)6機が対空砲火により損害を被りました。
しかし、アメリカ軍は情報不足が爆撃の効果を挙げられなかった原因であると反省する一方で、日本軍の防空戦闘機や対空火砲では対抗できないことを確認したためB-29を使って日本全土と朝鮮半島、台湾の航空偵察を実施しました。逆に日本軍も防空体制の脆弱さを認識したものの簡単にはB-29に対抗できる戦闘機や高高度まで届く高射砲が開発できるはずがなく、マリアナ諸島が陥落して以降は全国の都市を空襲に供ずることになったのです。
八幡は8月20日にも中国からの空襲を受けており、終戦間際の昭和20(1945)年8月8日にも大きな損害を出しましたが、この煙が翌9日になっても空を覆っていたことで小倉に投下する予定だったプロトニウム爆弾の第2目標を逃れることになりました(小倉は悪天候で断念した)。
- 2017/06/16(金) 09:01:25|
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「今から会うのはお母さんたちを引き裂いたお父さんの両親じゃないのよね」新原ビーチから自宅に向かう道であかりが深刻な顔で訊いてきた。人間関係も言葉で理解するしかないあかりには淳之介を取り巻くモリヤ家と玉城家の登場人物は複雑すぎるのかも知れない。
「うん、あれは愛知県の人だから違うよ。こちらは僕を産んだお母さんの両親なんだ」淳之介も自分の身の上は詳しく何度も話しているはずだが、かえって混乱して不安を感じさせているらしい。
「お父さんとお母さんは離婚したんでしょ」「そうだよ。だから僕はお父さんと暮らしていたんだけど急に沖縄が恋しくなって1人でこちらに来たんだ」これも身の上話の復習だった。あかりは淳之介に引かれるようにしながら玉城村の街中を抜け、モンチュウ(門衆)の家が並ぶ坂道に差し掛かった。
「大丈夫、僕にとっては最高のおジイとおバアだからあかりにも優しくしてくれるよ」「うん・・・さァ、行きましょう」あかりは一瞬、立ち止まった後、表情を引き締めて自分から淳之介を引っ張るように坂道を登り始めた。
「おジイ、おバア、帰ったよ」「おかえり」「おかえり」祖父母の声は居間と台所から返ってきた。同時に「ガタガタ」「バタン」と立ち上がり、襖とドアを開ける音が響いてくる。音に敏感なあかりはそれを聞きながら半歩後ろに下がって淳之介の影に隠れようとした。
「淳之介、帰ったねェ」「あかりさん、こんにちは」祖父母はいつもより焦ったような口調で挨拶する。この祖父母にとって預かっている孫が彼女を連れてくることは自分の娘よりも大問題なようだ。それでもあかりは2人の声に悪意を感じなかったのか淳之介の横に出て姿勢を正した。
「はじめまして。安里あかりと申します。本日はお招きいただき有り難うございました」本土の礼式にかなった挨拶を聞き、祖父母は慌てて板の間に正座して両手をついた。
「これは御丁寧な御挨拶痛み入ります。本日は遠方からワザワザおこしいただき有り難うございました。むさ苦しいところではございますがどうぞ遠慮なくおくつろぎ下さい」どうやら祖父は正式な挨拶を勉強していたらしい。それにしても孫の彼女を迎えるのに何の必要があるのか判らず淳之介は呆れてしまった。
そこからは台所に通されてテーブルを囲んでの会話になるのが玉城家の流儀だ。あかりは台所に入った時から鼻を働かせて情報収集を始めている。
「何か気になるの」祖母は冷たい麦茶を勧めながらそんなあかりの顔を見て配そうに訊ねた。確かに女性としては自分の領分である台所を探られるのは気分が良いことではないはずだ。
「私、音と匂いでしか周囲の様子が判らないから、最初に入った場所では確認しないといられないんです。申し訳ありません」あかりの説明を聞いて祖母は自分の無神経さを反省した顔になった。祖母も客商売の経験はあるが障害を負った人に接した経験はなく、配慮が足りないと言うよりも理解が及ばなかったようだ。そんな祖母の顔を見て淳之介があかりに声をかけた。
「僕が隣りについているから心配しなくても良いよ。ここは僕の家なんだからあかりだって安心して良いんだ」「はい、ごめんなさい」淳之介の言葉に素直にうなずいたあかりを見て祖父母は感激を噛み締めていた。
「あかりさんは台所に立つことはできるの」夕食の準備を始めるに当たり、祖母は女性としての確認をしてきた。
「はい、母や祖母からも習っていますし、盲学校では調理実習があります。でも色合いなんかは判らないので材料は選んでもらわないといけません」「鮮度は匂いね」「そうです。あとは触感です」そう答えて両手の指を細かく動かしたあかりに祖父母は優しく微笑んだ。
「道具なんかはどうするの。刃物なんかは危ないでしょう」「はい、道具や器は決まった位置に置いておかないと困ります。それからガスではなくて電気ヒーターの方が安心です」それだけを確認すると祖母はあかりの手を引いて流し台の前に立たせ、俎(まないた)と包丁、そして野菜を手で確認させて支度を手伝わせ始めた。
「俺、あかりの手料理を食べられるなんて思わなかったよ」「手料理なんて立派なモノじゃないよ。お祖母さんの指導で切ってるだけだもの」あかりの調理は慎重な分だけ時間がかかるが危なさは感じない。これが書類選考のみのモリヤ家と生活力を確かめる玉城家の人間観察の違いのようだ。
- 2017/06/16(金) 08:59:40|
- 夜の連続小説8
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6月12日に沖縄を現在のように堕落させた元凶である大田昌秀元知事が死にました。ちなみに6月12日は大田がこの世に涌いて出た日でもありジャスト92年の生息期間でした。
大田は沖縄戦では旧制中学校の生徒を従軍させる鉄血勤皇隊に参加しましたが、多くの元勇士たちが「愛国心と郷土愛で志願した」と語っている中、「軍の意向を受けた教師による暗黙の強制があった」と全ての日本人が尊敬・感謝すべき沖縄県民の愛国心を否定・冒涜するような妄言を弄しています。
1990年の県知事選挙で大田を推薦したのは沖縄県教職員組合と全駐留軍労働組合でしたが、その理由は大田が琉球大学の教授だった時、文部省が歴史教科書の検定で沖縄戦の犠牲者の人数を戦没と確定していない者を除いて少なく修正させたことに学者の立場から強く抗議したため「戦後史の生き証人」として県民の尊敬を集めていると言う目算によりました。
その頃の沖縄県知事は3期連続で保守派が当選しており、政府と強調を図りながら常識的に米軍基地問題の改善や経済振興などを進めていたのですが、左傾一色に塗り固められている地元2大紙を中心とするマスコミは選挙が始まるかなり前から実務経験が皆無のこの学者を大々的に喧伝し、教職員は生徒・児童に学者としての偉大さを教え込んで始めから選挙運動は必要がない状態を作っていたのです。こうして社会党、共産党、地域政党である社会大衆党などの支持を受けた大田が当選すると、過去の保守県政が積み上げてきた政府や駐留米軍との信頼関係を完全に破壊し、敵対関係であることを公然化しました。
この頃から公立の高校、中・小学校では日本史ではなく県教組が製作した教育資料に基づいて琉球史を教えるようになり、言語学、民俗学、遺伝子学、考古学でも本土の人間と同一の民族であることが証明されている沖縄県民を中国に近い別の民族であると信じさせた上で、本来は戦国乱世の延長線上にある島津藩の占領を琉球王国への侵略と教え、その後の従属関係を植民地になぞらえた搾取として被害者意識を植えつけたのです。さらに明治政府が廃藩置県により琉球王も廃位されたことを「琉球処分」と断定し、本土の各県と同様に中央から県令が送り込まれたことも日本による支配として批判しました。おまけに自分たちの職業である学校教育さえも植民地での皇民化教育の先駆けであったかのように否定したのです。
そして沖縄戦を本土決戦に備えるための時間稼ぎに沖縄県民を犠牲にしたと吹き込んでいるのですが、硫黄島に続いて沖縄へ侵攻したのはアメリカ軍の戦略判断であって日本軍が「次は沖縄へどうぞ」と案内した訳ではなく、在沖縄米軍基地の設置では日本が相談を受けられる立場ではありませんでした。
この誤った教育は現在も継続されているのですが、県教組とマスコミが強固な連携を取っている以上、文部科学省は迂闊に立ち入ることができず、中国や韓国で反日教育を受けた世代が何かの切っ掛けで暴動を起こすように大田県政下の学校の教育を鵜呑みにしている知的水準が低い連中が辺野古に出かけて反戦平和を叫んでは戦争を防ぐための現実的な対応策である防衛力を阻害しているのです。
そして大田にとっては運が良いことに1995年にアメリカ兵による少女集団強姦事件が発生し、それまではアメリカ軍の存在が沖縄の経済的基盤であることを熟知しているため反基地運動とは距離を置いていた多くの県民も基地の撤去に同調するようになり、これに社会党の村山富市政権は何も手を打たず、ひたすら沖縄県民の顔色を窺う態度を取ったことで更に増長させて、地方自治体でありながらアメリカ国務省と国防総省に直接陳情させると言う悪しき前例を作ってしまったのです。これは日本の中央官庁に各県の代表が陳情するのと同様の担当者に意見を申し入れているだけなのですが、マスコミは「基地問題で沖縄県がアメリカ政府と交渉」と報じるため国民は沖縄県が日本政府と同格であるかのように誤解しています。
結局、自民党の政権に戻った橋本龍太郎内閣でも沖縄の顔色を窺うことは止められず、2期8年間の大田県政の間に沖縄は完全に日本のお荷物になってしまったのです。
そんな大田に見切りをつけたのは沖縄県民で98年の選挙で3選を目指したものの予想外の大差で落選したのです。理由としては大田個人の蓄財や親族が経営する企業への不当な優遇などの不祥事が県内で広まっていたのは勿論のこと何と言っても反戦平和・反米反日親中にうつつを抜かすだけで経済その他の現実の政策では無為無策であったことで沖縄県内の失業率が全国最悪の1割弱になり、バブル崩壊によって本土からの投資が激減したことでこれも全国最悪の不況に陥ったことでした(さらに米軍基地廃止を主張しながら基地労働者の再就職先は提示しなかったことで全駐留軍労働組合の支持を失っていた)。
数か月前、琉球大学の教授などの信奉者が「大田にノーベル平和賞を」と提唱していましたが、沖縄県民が異民族であり被害者であると言う虚偽が世界に広まらないですんだことを喜ぶべきでしょう。
- 2017/06/15(木) 10:28:43|
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夏休みも終わりに近づいたある日、祖父母との約束通りに淳之介はあかりを玉城村の自宅へ連れてきた。祖父は自家用車の「タクシーで迎えに行く」と言ったのだが淳之介はついでに海岸や街並みを案内したかったのでバスにした。
「バスが来たよ」バスターミナルで待っていると間もなく新原ビーチ行きのバスが来た。淳之介はあかりの後ろに立ち、腰を支えて階段を上らせる。普通の若い男なら女性の腰に触れるだけで興奮するものだが、淳之介はあかりを守ることを意識しているため自然な行為になっている。2人揃って席に座ると出発までの間に席の半分ほどが埋まった。
「このバスは新原ビーチ行きです。お乗り間違いはありませんか。それでは出発します」運転手の案内を聞いて窓際の席に座ったあかりは少し興奮気味の顔になった。本当は父と母の美恵子も付き合い始めた頃、このバスで新原ビーチと玉城家に行ったのだが、そんな思い出話は聞く機会すらない。その分、淳之介とあかりは自分たちの思い出を作ることができるのだ。
「白い夏帽子 膝の上に置いて 型崩れ直す振りしてうつむいている・・・」今のバスは冷房が効いているため窓を開けることができない。その点では楽しみも半減なのだが、あかりは脱いだ白い夏用の帽子を膝に置きながら鼻歌のようにこの曲を口ずさみ始めた。
「ふーん、聞いたことがある歌だなァ」「お母さんが貴方のお父さんに習った歌よ。夏になると唄うの」「お父さんも夏になると唄ってたね」これは岩崎良美の2枚目のシングル「涼風」なのでもう24年前の歌になる。
「お母さん、お父さんにこの白い帽子を買ってもらってデートでかぶったんだって・・・白ってどんな色なんだろう」あかりの説明には難しい質問が付いてしまった。視覚障害者にとって「色」は未知の領域だ。例えるにしても雲などの見えない物では説明にならない。
「白って何の色も塗っていない新しい紙の色だね」「それじゃあ、この間までの私と一緒だ」「この前までって?」「だって今は貴方色に染まっているもの」今日の会話はいつになくコロコロと転がるようだが嬉しい方向に進んでくる。淳之介は帽子の下であかりの手を握った。
「この歌、貴方も唄える?」「ううん、お父さんは無意識に唄うだけだからおぼえていないんだ」今にして思えば父にとっては梢さんとの苦い思い出の歌だったのかも知れない。
「ここが海だよ」バス停から新原ビーチまでは崖の下の道沿いにすぐそこだ。夏休み中の平日なのでいつもは家族連れで混んでいるビーチも地元の若者と子供たちばかりだ。
「淳之介、久しぶりさァ」「ハイサーイ、元気ねェ」「アッキサミヨーッ、彼女と一緒さァ」当然のように中学校の同級生たちも多いが、腕を組んでいるあかりを見て嬌声を上げた。しかし、今日のあかりは洒落たワンピースを着ているため、この海岸にはあまり似合っていない。
「お友だちなの」「うん、中学校の同級生だよ」あかりには声しか聞こえないが、周囲の賑やかな雰囲気に不安と興味を示した。そんな2人を遠巻きに眺めていた同級生たちはあかりの手の白い杖に気がついて顔を見合わせたが、軽率な言葉を吐く者はいなかった。
「靴を脱いで裸足になってみるかい」「うん、砂浜を歩けるんだね」本当であれば沖縄の海岸の砂は珊瑚の破片なので先端が尖っており素足では危険なのだが、あかりの歩く速度なら踏み締める形だから大丈夫だろう。アンボイナと言う猛毒を持つ貝もこの賑わいなら心配ないはずだ。
あかりは淳之介の腕からに手を放して自分で靴と靴下を脱ぎ、素足で砂浜に立った。
「砂が熱い、焼けているみたい」「火傷はしないと思うけど気をつけてな」そう言いながら淳之介もスニーカーと靴下を脱ぎ、2人の靴と靴下を持ってきた袋に入れた。
「海のところまで行ってみよう」「うん、足でも海に触れてみたい」淳之介はあかりの手を引いて波打ち際まで連れて行った。すると波があかりの足を洗った。
「きゃッ、水が来た」「うん、スカートの裾が濡れないようにあまり前に出てはいけないよ」歓声を挙げたあかりに淳之介は注意を与える。水浴びを楽しんでいる若者たちの中では完全に浮いた存在になっていたが、あかりとなら2人だけの世界になれるのだ。
「海って楽しい場所なんだね」「うん、気に入ってくれて嬉しいよ」次は水着姿も見てみたい。そんな願望が胸に湧いてきて淳之介も少し普通の若い男に戻ってしまった。
- 2017/06/15(木) 10:27:01|
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昭和23(1948)年の明日6月13日に今の基準でも美人になると思われる山崎富栄さんが作家の太宰治さんと玉川上水に身を投げて心中しました。28歳でした。
山崎さんが洗練された美人なのは至極当然で、戦前の日本の美容界の第1人者であり、日本初の美容専門学校であった「お茶の水婦人美髪美容学校」の設立者の次女だったのです。
当時の名門お嬢さま学校に通いながら父の下で美容の英才教育を受けて育ち、女学校を卒業してからはキリスト教女子青年会=YWCA(男子はYMCA)で聖書や英語、演劇を習う一方で慶応義塾大学にも聴講生として学んでいました。
その頃には兄嫁と一緒に銀座でオリンピア美容院を経営してしましたが(1940年には札幌冬季オリンピックを東京オリンピックが開催される予定だった)、戦争も敗色が濃くなっていた昭和19(1944)年になって三井物産の商社マンと結婚したのです。ところが夫は新婚生活10日でフィリピンに赴任させられて、そのままマックアーサーの上陸を受けたため現地召集されてマニラ方面の戦闘で行方不明になってしまいました。おまけにオリンピア美容院とお茶の水婦人美髪美容学校は空襲で焼失したため両親と一緒に滋賀県で疎開生活を送る中で敗戦を迎えることになったのです。
敗戦後は大半の日本人が生活に困窮していたため一流の美容師にも再起するだけの需要がなく、兄嫁と美髪美容学校の卒業生の3人で戦災を被っていなかった鎌倉で美容院マ・ソアールを開業しますが、半年後には同じく卒業生が経営する美容院に移り、そこでの勤務の傍ら進駐軍専用キャバレーの美容室での仕事も手掛けるようになりました。
そんな昭和22(1947)年3月27日に夕食のために寄ったうどん屋で酒を飲んでいた太宰治さんと出会ってしまったのです。山崎さんの次兄は旧制弘前高等学校(現在の弘前大学)で太宰さんの2年先輩であり、下宿が太宰さんの行きつけの小料理屋の筋向いであったこともあって急速に恋心が燃え上がり、その夜の日記には「戦闘開始!覚悟しなければならない。私は先生を敬愛する」と書いたのです。ただし、山崎さんは太宰さんの作品を読んだことはなく、その自堕落で破滅的な生活態度については何も知りませんでした。
お嬢さま育ちの美女でありながら夫との新婚生活は10日間しか経験しておらず、さらに日本では最高レベルの美容技術を身につけながらキャバレーのホステスの髪を扱わなければならない鬱屈が太宰さんの甘い巧言に籠絡されてヒョッとして初めての恋に火が点いたのかも知れません。
1カ月後の5月3日に太宰さんから「死ぬ気で恋愛してみないか」と口説かれると、その頃には太宰さんに妻子があることを知っていたので一応はためらった後、「でも、若し恋愛するなら死ぬ気でしたい」と答えてしまいました。普通の男性は女性を愛する時、雄(おす)としての独占欲・征服欲と当時に相手の幸福を願い、守り、慈しむ優しさも抱くものですが、人格破綻者の太宰さんにはそのような感情はなく、「死ぬ気で」と誘って応じた以上、殺しても構わない生贄と解釈したのでしょう。
その後は破滅に突き進み、5月21日には初めて肉体関係を持ちましたが、夫の戦死公報が届いたのは7月7日なので書類上は姦通=不倫と言うことになります。ところが11月12日に別の愛人が娘を産んだことを知ると、貯金や給料(付添いのため退職してしまった)を全て太宰さんの放蕩な生活と病気療養に使い果たしたことで捨てられる不安から太宰さんの自殺願望と競い合うように死を追い求め始めたのです。
実際、夫の戦死公報を受け取って1週間後には「太宰さんが生きてゐる間は私も生きます。でもあの人は死ぬのですもの」と言う両親宛ての遺書を書いており(未投函)、この日には娘を産んだ愛人宛てに「修治(太宰さんの本名)さんはお弱いかたなので、貴方やわたしやその他の人達までおつくし出来ないのです。わたしは修治さんが好きなので、ご一緒に死にます」と言う遺書を投函しました。そして深夜、北多摩郡三鷹町(現在の三鷹市)の玉川上水に身体を赤い紐で結んで飛び込んだのです。
18日になって約1キロ下流で発見された遺骸は恐怖に慄いたような見る者の背中が凍りつく程の表情だったと言います。美女が豹変する怪奇映画は怖いですが一体何を見たのでしょうか。
なお、今回は太宰ファンの友人(太宰さんの生家を見に車力まで訪ねてきた)からもらった資料を基に書きました。

昔の美人は本当に品が良いですよね。
- 2017/06/14(水) 09:47:01|
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本土から届く新聞では日本選手が活躍しているらしいアテネ・オリンピックも沖縄ではヘリコプター墜落事故一色になっているため、折角の夏休みが憂鬱になってしまっている。それでも部活動で糸満まで出た帰りに那覇へ行き、あかりの運動、最近はデート気分での国際通り往復だけは青春を実感させてくれていた。そんな夜、珍しく母の美恵子から電話が入った。
「もしもし、玉城ですが・・・あッ、美恵子ねェ」電話には祖母が出た。淳之介は夏休みも追い込みに入り、自室で宿題の仕上げに取り組んでいたが、「美恵子」と言う名前に耳をそばだてた。
「それはあかりさんのことねェ、淳之介が話してくれたからおトゥも私も知っているよ」どうやら母はあかりのことを知ったらしい。
「そんなことを言ったって淳之介が責任を持ってつき合ってるのさァ、むこうのお母さんにも会ってるんだから問題ないよ」祖母の口調が厳しくなっている。どうやら母はあかりとの交際に反対しているようだ。高校受験にも関心を示さず、入学した時も顔を出さなかった母が親らしいことを言っていると思うと淳之介は腹を立てる前に苦笑してしまった。
「今度、家に連れて私たちに会わせるって言ってるんだから心配なんてしてないよ」これは夏休み中に実現させようと思っている計画だ。バスで玉城村に来て、新原ビーチで本当の海に触れさせた後で家に連れてくるつもりだった。
「淳之介と替わるねェ、あの子は夏休みの宿題で頑張っているのさァ、つまらないことで邪魔してはいけないよ。うん、うん・・・」祖母の返事を聞いて自分の出番を察した淳之介は廊下に出て固定式電話の前で話している祖母の後ろに立った。その気配を感じた祖母は渋い顔で「お母さんから」と言って受話器を渡した。
「もしもし・・・」「淳之介ねェ」母は挨拶も抜きに大変な剣幕で喰ってかかってきた。
「アンタ、あんな娘(こ)をどこで引っかけたねェ」「あんな娘ってあかりのことか」「あかりって言うね、一人前の名前さァ」母の言葉には嫌悪感が満ちている。淳之介はどこであかりのことを知ったのか確認することから始めた。
「ところでお母さんはどこであかりのことを知ったんだ」「この間、国際通りで見たのさァ、白い杖を持っていたでしょう。あれは身体障害者の印さァ」「うん、重度の視覚障害があって県立盲学校に通っているんだよ」気がつくと祖母は3歩ほど離れた位置で母子の会話を確認している。普段はこのようなことはしないはずなので、替わるまでに余程のことを言われたようだ。
「あんな片輪(か■わ)の娘とつき合っても迷惑をかけられるだけさァ、そのまま『結婚してくれ』って言われれば足手まといになるのは始めから判ってじゃない」母が差別用語を口にしたことで淳之介は冷静でいられなくなった。1つ唾を飲むと受話器を握り直して祖母の顔を見ると淳之介の表情の変化を見て黙ってうなずいた。
「お母さんは結婚する時、お父さんが自分の親から何を言われていたか知らないのか。お父さんは『沖縄人は日本人じゃない』って反対されてもお母さんを守って親を捨てたんだぞ」これは守山にいる時、両親の片方が入校中、もう1人の演習で愛知県の祖父母宅に預けられた時に聞かされた悪口で知った事実だった。中学生になって父に確認したところ「会いもせずに勝手に決めつける親に愛想が尽きた」と言っていたが、その言葉をそのまま母に投げつけたい気分だ。
「お母さんはあかりに会ったこともないのに何が判るんだ。お母さんはそうして守ってくれたお父さんを裏切ったんだろう」淳之介は父が若い頃に心から愛した梢さんに会い、その高い教養と深い情感を知るにつれて自分を産んだ美恵子が父とは不釣り合いであったことを確信するようになっている。そして新しい母の佳織は梢さんでなければ最適の妻なのだと納得していた。
「大体、俺たちを見たんなら何で声をかけなかったんだ。またあの中国人と一緒だったんだろう」「えッ、どうして青然(シャオゼン)のことを知っているねェ」予想外の奇襲に母は電話口で絶句した。
「夏休みになってすぐお母さんのアパートへ行ったんだよ。そうしたら朝から好いことをしてたから、邪魔しちゃ悪いと思って黙って帰ったんだよ」「・・・」「母親としての勤めも果たさずにケチだけをつけるなんて愛知の祖父さん、祖母さんと同じだぞ」「・・・」淳之介が怒りにまかせて叱責を始めると母の方は絶句したまま電話を切った。
「言いたいこと言えたねェ」「ちばったな(頑張ったな)」気がつくと祖父母が並んで見ていた。
- 2017/06/14(水) 09:44:10|
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天正7(1579)年の明日6月12日(大陰暦)に稀代の軍師・竹中半兵衛重治さまが35歳で病没しました。
竹中さまについては2014年のNHK大河ドラマ「軍事官兵衛」で谷原章介さんが好演していたため鮮明に記憶に残っているのですが、他には野僧が見たものだけでも1973年「国盗り物語」では米倉斉加年さん、1996年「秀吉」では古谷一行さんが演じています。
航空自衛隊はアメリカ空軍の落とし胤であるため(海上自衛隊はアメリカ海軍と兄弟)、日本の武将に敬意を払っている者は少なかったのですが幕僚の間でも「軍師半兵衛」は別格で、史実は知らなくても「司令の軍師と呼ばれたい」と言う願望を抱かせていました。
最近では軍師と言えば官兵衛=黒田孝高さまですが当時の知名度はあまり高くなく、「国盗り物語」では江守徹さんが演じていたものの「秀吉」には登場していませんでした(痴呆が始まっている野僧の記憶にないだけかも知れませんが)。
史実では天文13(1560)年に斉藤道三さまが威勢を奮っていた美濃国大野郡(現在の岐阜県揖斐郡大野町)の大御堂城主の二男として生まれました。茶人大名・古田織部さんや伊達政宗公の父である輝宗さんと同じ年の生まれです。
父の重元さんは弘治2(1556)年に道三さまが息子の義龍さんに討たれた混乱の中で勢力拡大に乗り出し、南で交通の要衝である不破郡を攻略して城を築きましたが、16歳の重治さまが家督を相続することになりました(資料が余り残っておらず、その理由が死没か隠居によるものか、兄の重行さんがどの時点で死去または廃嫡されたのかも不明です)。
家督を継いでからはまだ若かったこともあり領主となった義龍さんに仕えて家を守っていきますが、その義龍さんが亡くなった後、跡を取った龍興さんは尾張を統一して美濃攻略の企図を明確にしている織田信長公に対して稲葉山城の防備と斉藤道三さまによって育成された家臣の力を過信して有効な対策を取らず、むしろ放蕩に逃避しており、その目を覚まさせるために起こした行動が軍師・半兵衛伝説の見せ場の1つです。
その逸話については講談や小説、ドラマなどで諸説が飛び交っていますが、一般的には稲葉山城内で催された龍興さんの酒席に招かれた竹中さまが体調を崩したため、弟の重矩さんが寝具などと称して武具・甲冑などを運び入れて占拠したことになっています。そしてこの報を知った織田公から譲り渡しを求められても「落ちない城などないことを主君に教えることが目的である」と拒否し、城は龍興さんに返して居城に帰り、「謀反の罪」を自らに課して蟄居・謹慎したと言う粗筋になっています。しかし、最近の歴史家は竹中さんがもう1人の重臣と共謀して謀反を起こしたものの思うほど同調者が集まらなかったため断念して自領に帰ったと言う身も蓋もない説を唱え始めているようです。確かに謀反の第1段階である城の占拠に成功して気分が高揚している中で冷静な状況判断ができることは軍師としての才覚ではありますが、物語としては失敗談になってしまいます。
何にしても秀吉さんに仕えるようになってからが軍師としての本領発揮で、2人の出会いは諸葛孔明(「亮」は諱のため入れない)と劉備玄徳の三顧の礼に重ねて描かれることが多いのですが史実は不明です。秀吉さんが信長公の下で頭角を現していく手柄の大半は竹中さまの軍略によるものと見て間違いないでしょう。
特に播磨の三木城攻めでは城主である別所長治さんの意図とは別に叔父以下の重臣の多くが毛利側に与することを望んでおり、籠城戦になる公算が大であると判断した時点で周辺の農民から米を買い集めており、城兵は木の皮や壁の土を喰い、糞尿を口にし、軍馬はおろか味方の遺体まで食べた「三木の干殺し(ひごろし)」と呼ばれる悲惨極まりない兵糧攻めにしました。
そんな三木城攻めの陣中で肺炎か肺結核を発症し、秀吉さんの命で京に帰って療養したものの死期を覚って戦陣での死を望み、播磨に戻って没したのです。この時期、黒田官兵衛さまは有岡城の地下牢に収監されており、それを裏切りと誤解した信長公から秀吉さんが人質として長浜に預けられている息子(後の長政さま)を殺すように命じられたため、死んだ子供の首を送って匿ったとの逸話も残っていますが、これも史実は不明です。
兎に角、超人的な活躍をした人物なので、後世の凡庸な人間には史実と創作の見分けがつかないようです。

石井あゆみ作「信長協奏曲」より
- 2017/06/13(火) 10:05:36|
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夜、テレビを見ていてもアメリカ海兵隊のヘリ墜落事故の話題ばかりだった。全国統一規格であるはずのNHKまで特別番組になっていて連続ドラマは後日の放送と言う案内で片づけられている。
「やっぱり普天間の基地は危険なのさァ」夕食後、祖母はテレビの前に集まっている3人の飲み物を用意しながら一般的な意見を述べた。すると出されたばかりの泡盛を口に運んだ祖父が思いがけない反対意見を吐き出した。
「普天間は元々が台地の上で川も湧き水もないから畑にもならない荒れ地で、戦争中は一番の激戦地になったから人家なんか一軒もなかったんだ。それが基地の兵隊目当ての店が建ち始めて、復帰後になって民家や学校ができたんだ。危険にしたのは住んでいる人間の方だぞ」「それはそうだけど・・・淳之介は余所でそんなことを言ってはいけないよ」祖母の注意は沖縄県民がこの事故によって反米軍、普天間基地撤去で思想統一されることを予測し、刺激しないことを意味している。淳之介は祖母が出してくれた麦茶を飲みながら見飽きたようにテレビを眺めていたが、声を掛けられて顔を向けて口を開いた。
「でもアメリカ軍はイラクに派遣される前の訓練をやっていたんでしょう。それなのにテレビは平和な日本の見方で批判してるんじゃない。それが許せないよ」淳之介がテレビでは触れていないイラク情勢との結びつきを指摘したことに祖父母は驚いた顔を見合せた。
「確かにニュースではNHKも民報も同じことを言っているけど、海兵隊が何の訓練をやっていたのかは言っていないな」「現場に日本の警察や消防を入れなかったことを悪く言ってるだけさァ」玉城家では夕刊を取っていないので新聞報道は判らないが、ニュースでは消火活動が終わった直後から現場付近をアメリカ軍が地位協定に基づいて封鎖し、日本の警察は消防の現場検証を拒否していることを問題として批判の声を上げている。淳之介は夕方にもあかりに電話してAFN放送の内容を確認したが、沖縄の放送局が情報を盗用していること察知したようで具体的な内容は報じなくなっていた。
「それに日本人は誰も怪我をしていなくてアメリカの兵隊は怪我をしたのに日本人が危険だった。学校が壊れたって言うだけさァ」「壊れたって言っても壁が焦げているだけに見えるがな」今回の事故は上空でエンジン不調を起こしたヘリコプターが基地に戻ろうとして3階建ての校舎に接触して墜落したのだが、ニュース映像を見る限り校舎は壁が焦げただけでガラス窓も割れておらず、事故の規模の割に損害は軽かったと見るべきかも知れない。何よりも搭乗していた海兵隊員は重軽傷を負ったが夏休み中だった沖縄国際大学の学生や職員に負傷者はいなかった。
「お父さんの裁判の時もそうだったけど日本のテレビや新聞はアメリカ軍や自衛隊が死ぬことを喜んでいるみたいだね」「お前にもそんな風に見えるようになったのか」祖父母は中学時代、反米反日親中の担任の教師に扇動されて反戦平和運動に共鳴しかけていた淳之介の視点が自衛隊的になっていることに「血は争えない」と納得した。しかし、本当はあかりとその母の影響=父の職業への再認識なのかも知れない。
「そんな風に思い始めたら新聞やテレビを信用できなくなるさァ」「嘘を信じるよりは良いだろう」「事件だけを情報として読めば良いでしょう。後は色々なチャンネルのニュースを見ることだね」祖母のボヤキに男性軍が反論したが淳之介の意見は完全に大人の物だ。
「問題は県がこれを利用して政府を脅すことだな」「大田知事みたいにねェ」大田昌秀知事は社会党や沖縄の地域政党である社会大衆党などの支持を受けて当選しているだけに反米反日親中を公然化していて、特に1995年に海兵隊員による少女暴行事件が起きてからは県民の被害者意識を煽り、公務員労組に大規模な反対運動を開催させることで政府を脅すことで巨額の予算を奪っていた。
「中学校の比嘉先生は沖縄人の怒りを日本やアメリカに訴えてくれていたって誉めていたよ」淳之介も担任の教師への尊敬とテレビの影響もあってその言葉を信じていたのだが、最近はかなり疑うようになっている。すると祖父はその疑問を確定させる意見を述べた。
「こんなことをやっていると沖縄は本土のお荷物になってしまうだけだ」「でもテレビはもう始めているよ」つまり沖縄のマスコミは常にアメリカ兵の落ち度に目を光らせており、それを見つければ沖縄に米軍が駐留していることが原因と決めつけて県民の怒りに火を点け、教師などが若者を焚きつけて騒ぎを広げ、知事がそれを県民の声として政府を恐喝する構造が完成しているのだ。
- 2017/06/13(火) 10:00:28|
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淳之介にとっては最高の夏休みも残り少なくなってきた8月13日、時差の関係で夜の放送になるアテネ・オリンピックの開会式を前に沖縄で重大な事故が発生した。本来は中国同様に大陰暦の4月8日の清明祭(シーミーサイ)で祖先供養を行う沖縄には関係ないのだが、部活動は金曜日のこの日から16日の月曜日まで休みで、淳之介は宿題を終えてテレビを見ていた。
「臨時ニュースです。臨時ニュースです。午後2時15分頃にアメリカ海兵隊所属の大型ヘリが普天間基地に隣接する沖縄国際大学のキャンパス内に墜落して現在も炎上している模様です。学生や学校職員に死傷者がいるかはまだ判りません」突然、再放送していたドラマが中断して何時もとは違うベテランのアナウンサーが妙に興奮した顔で一気にニュースを読み上げた。
「繰り返します。午後2時15分頃、アメリカ海兵隊所属の大型ヘリが普天間基地に隣接する沖縄国際大学のキャンパス内に墜落して現在も炎上している模様です。学生や学校職員に死傷者がいるかはまだ判りません。なお、放送中のドラマは中断してこのニュースをお送りすることになりますから御了承下さい」画面の中で横から紙が差し入れられてアナウンサーは補足する。そんな光景を眺めながら淳之介はこれが中学時代であれば担任の比嘉に呼び出されて反米軍の特別授業を受けさせられたのだろうと思った。その点、水産高校では沖縄近海の航海実習で中国船に遭遇することもあり教職員組合が主張するような反米軍・反自衛隊では我が身を守れない常識も教えられている。しかし、この事故は反米軍の活動家には格好の攻撃材料になることは高校生にも予想ができた。
「只今、視聴者の方から現場の映像が届けられました」アナウンサーが紹介するのと同時に画面は鉄筋コンクリートの校舎の間から炎と黒煙が上がっている光景に変わった。
「なお、新たな情報として墜落したのはアメリカ海兵隊の大型ヘリコプターのCHー53の模様です。もう1つ情報です。普天間基地の消防隊が現場に駆けつけて消火活動を開始していますが、宜野湾市の消防隊が現場に到着しているかは判りません」どうやらテレビ局は学生や周辺の住民から送られる携帯電話の動画と情報でニュースを構成しているようで単なる伝聞情報の紹介になっている。事故現場上空には取材のヘリコプターも接近できないのかも知れない。
その後もニュースでは現場から届く携帯電話の動画を入れ替えながら断片情報を並べるだけで、事故の分析などは始まらなかった。尤も、沖縄の放送局が解説を始めても「普天間基地の危険性は以前から指摘されている」と毎度の基地反対を強弁するだけだ。こんな時、父と新しい母がいればニュースでは知ることができない詳細な解説を聞けるのだが、それをする勇気が持てなかった。そこでニュースに飽きた淳之介はあかりの携帯電話に掛けてみた。
「あッ、貴方」あかりは電話でも「貴方」と呼ぶようになっている。夏の観光シーズンには梢さんの旅行社は多忙なため家には帰られないことがあり、今日は祖母の家で過ごしているのだ。
「ニュースを聞いていたかい」「うん、普天間の事故のことでしょ。ラジオの番組が中断してしまってずっと同じ内容を繰り返しているの」どうやらラジオも同様らしい。しかし、テレビなら画像などの新たな追加情報があるが、ラジオでは言葉での説明だけなので、代り映えしない点ではテレビ以上のモノがありそうだ。
「海兵隊もイラクへ派遣される前の最終調整中の事故で大変よね」「へッ、ラジオではそんなことを言ってるの?」「私はAFN放送を聞いているから」AFN放送とは1997年まではFENと呼ばれていたアメリカ軍の放送で那覇市内では聴衆可能なのだ。それにしても完全に英語であるAFN放送を聞いて理解できるあかりの英語力には感心するしかない。そう言う自分は英語が堪能な夫婦の息子として育ちながらも得意とは言えず本当に情なくなってくる。
「お母さんの会社でもイラクに派遣される軍人の家族がアトラス・エアに乗り切れなくて搭乗券の手配を頼まれているんだけど、観光客で満席だから無理なんだって。戦争に征く人の家族を最優先にしなければおかしいわ」アトラス・エアとは以前はフライング・タイガー・エアと言った在日米軍のために運行している民間航空のことだ。梢さんもあかりと同じ考え方だとすれば若い頃に父から影響を受けたのかも知れない。確かに戦跡で慰霊をするようなデートにつき合っていれば自衛官や軍人の任務を深く理解するようになっても不思議はない。それなのに最後まで父の職業や立場に関心すら示さなかった母の美恵子は何なのだろうか。淳之介は美恵子を守るために沖縄へ来たのだが、今では玉城家の祖父母の孫とあかりの恋人になることが目的だったような気がしてきた。
- 2017/06/12(月) 09:33:04|
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昭和45(1970)年の本日6月11日に吉永小百合さんが汚れ役を演じたことで有名な映画「天国の駅(昭和59年公開)」のモデルになった毒婦・小林カウさんの死刑が小菅の東京拘置所で執行されました。これは戦後として最初の女性の死刑執行です。
この映画を企画したプロデューサーの岡田裕介さんは小林さんが執行直前に「何か欲しいものはないか」と問われて「口紅」と答え、自ら死化粧をして死んだと言う逸話を聞いて興味を持ち、詳細な調査の末、映画化を決めたと言います。野僧は吉永さんが嫌いなので基本的に出演作は見ないのですが、単身赴任の小父さん世代には熱狂的なファンが多く、半ば強制的に映画館に連行されたのがこの作品でした。
野僧は中退した大学の刑法の教授は個人的趣味で死刑を研究していて、講義の中で死刑の豆知識を語ってくれました。このため戦後初の女性の死刑と言うことで事件の詳細や犯人の人間性、裁判の経過について予備知識を持っていたのですが、映画では運命に翻弄される悲劇の主人公になっていたため小父さんや観客(大半が叔父さん世代)が吉永さんの自慰や入浴シーン、濡れ場に興奮する中で1人白けていたのです。
犯人の小林さんは明治41(1908)年に現在の埼玉県熊谷市で農家の7人兄妹の5番目の次女として生まれましたが、近所でも評判の美人で早熟な女の子だったようです。しかし、家が貧乏だったらしく尋常小学校は4年生で止めてしまい5年ほど家事手伝いをした後(本当に貧乏なら働きに出るはずですが)、東京・本郷の旅館で女中奉公を始めました。
ここでも5年ほど務めて帰郷すると都会の華やかさを身に着けてきただけに田舎の男たちの憧れの的になったのですが逆に嫁としては敬遠されて、姉の仲立ちにより当時としてはやや行き遅れの22歳で新潟県柏崎市出身の27歳の男性(映画では中村嘉葎雄さん)と結婚をしたのです。ところがこの相手は背が低い上、胃弱と慢性的淋病を患っていて性的不能に近く、早熟だった小林さんは結婚当初から欲求不満に陥ることになりました。それでも熊谷市内で雑貨屋を始め、商売に行き詰ると生き残った娘(息子は死産)と3人で
東京に出たのですが、夫は30歳近くになった病気持ちであるにも関わらず徴兵され、熊谷に戻って帰りを待つことになったのです。結局、夫は生きて帰ったものの身体を壊しており、そのため気力を喪失して家で何もせずに過ごすようになりました(映画では性的不能になって嫉妬心だけが昂揚するようになっていた)。このため小林さんは働いて家族を養うようになり、欲望が強く自己中心な性格もあって雇われるよりも自分で事業を興すようになっていきました。手始めが闇商売で自転車のタイヤやチューブなどのゴム製品、さらに米や砂糖を手広く扱い始め、それで資金を確保すると菓子や漬物などを製造販売するようになったのです。
ところが闇商売を取り締まる若い警察官(映画では三浦友和さん)が自宅や工場を兼ねた店舗に現れるようになり、その警察官が夫とは違い長身の美男子であったことで小林さんの欲求不満に火が点いてしまったのです。色仕掛けで迫ると忽ち肉体関係を持ち、その不倫に気づいて嫉妬から暴力を奮うようになった夫が邪魔になって、最初の犯行として警察官から提供された青酸カリで夫を毒殺したのです。この事件では警察官が夫の健康状態について過大に重篤と報告をしたこともあり病死として処理されています。
夫の死後、警察官を家に住まわせて同棲を始めますが、これが問題になって懲戒免職になったことで若い男の気持ちを引きとめるため益々商売に励むようになったのです。しかし、若い男性にとって50歳が目前に迫った(磯野フネさんの年代)小林さんの肉体は性的魅力に乏しく、別の若い女性(映画では真行寺君枝さん)を家に入れて小林さんを追い出したのです。それでも小林さんは逮捕後の証言の中で「私は××(警察官)で恋を知った。今でも好きです」と述べていますから真剣な恋慕が生来の熱烈な激情となって凶行に及んでしまったのでしょう。
その後、漬物の売り込みで訪れた栃木県の塩原温泉に舞台を映します。塩原温泉の旅館内で店を始めるとそれが成功し、若い頃に東京で旅館に女中奉公した時の憧れであった女将になることを考えるようになりました。しかし、老舗の旅館ばかりの温泉地が余所者を受け入れてくれるはずはなく、欲求不満ばかりが鬱積していきました。そんな中、新規事業として開館した旅館が経営難に陥っているとの噂を耳にして小林さんは共同経営を持ちかけ、やがて旅館の経営者(映画では津川雅彦さん)の妻を殺害して夫婦となることを画策するようになります。その実行犯にしたのが知的障害者であった下男(映画では西田敏行さん)。結局、旅館の経営者も殺してしまい、3人の殺害で小林さんは死刑、下男も2名の殺害で死刑、しかし、最初の夫の殺害で青酸カリを渡した警察官は証拠不十分で無罪になっています。
映画では吉永さんが13階段を登った死刑台で吊るされる場面もありましたが、実際は構造が違います。
- 2017/06/11(日) 09:59:36|
- 日記(暦)
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「私の名前はこの歌から採ったんだよ」唄い終わるとあかりが意外な話をした。
「うん、僕もあかりって素敵な名前だなって思っていたよ」「私の目が見えないことが判ってお母さんが心の中に『あかり』が灯っているようにってつけてくれたんだァ」この説明で障害を持って生まれてきた娘の幸せを願う母親の気持ちが胸に響いてきた。
「でも、お母さんにこの歌を教えたのは貴方のお父さんなんだって」「えッ、だって沖縄の歌だろう」これはどう考えても変な話だ。父は沖縄を愛しているとは言えナイチャア(本土の人)であり、それがシマンチュウ(沖縄の人)の梢さんに沖縄の古謡を教えるとは信じられない。
「お父さんって沖縄の宗教を研究していて、ユタさんやノロさんを訪ねては教えを受けていたみたい。お母さんを連れて久高島にも行ったんだって」久高島とは沖縄本島南部の東に位置する離島で、古くからの霊的儀礼が受け継がれている神秘の島として有名なのだ(淳之介は知らないが)。
「それじゃあ・・・」「お父さんが私の名付け親ね」思いがけない話の展開に淳之介は「そんな馬鹿なァ」と呟きたくなったが止めておいた。
2人は龍潭池を回り終えると首里城に向かう坂道を登り始めた。観光客はガイドブックなどで大々的に紹介されている首里城や守礼の門を先に見て来たようで、ゆいレールの中で見た顔が坂道を下りてくるがただすれ違うだけだ。
「そう言えば2人で首里に来ると必ず寄ったところがあるんだって」「お母さんも一緒に?」うん、坂道を登り切る手前だよ」あかりは梢さんから詳細な説明を受けて来たようで頭の中ではイメージができているようだ。
「32軍の地下司令部壕の入口なんだァ」「げッ、何てところに行くんだよ。彼女を連れて行くところじゃあないだろう」この種明かしに淳之介は思わず父への暴言を吐き捨ててしまった。それでもあかりは表情を変えずに話を続ける。
「お父さんは沖縄戦で戦死した海軍陸戦隊士官の生まれ変りだからお母さんを連れて戦跡に行ってのよ。だからここの司令部壕でも戦没者の慰霊を欠かさなかったんだって」「海軍陸戦隊の生まれ変りって何?」息子である自分も知らない父の素顔を聞かされて淳之介は完全に混乱している。するとあかりは司令部壕の目印を説明した後で解説を始めた。
「お母さんと豊見城城址公園に行く途中の街外れで自分が戦死した場所を見つけたの。お父さんは小さい時から同じ夢を繰り返し見ていてそのままの風景だったらしいよ」言われてみれば父の沖縄に対する愛着と理解は前世の因縁がなければ理解できないほど強く深い。そんなことを考えている時、あかりが言っていた目印があった。道路を反れて歩いていくと斜面にトンネルの入り口のようなものがあり、塞いでいる鉄の網には「大日本帝国陸軍第32軍地下司令部壕跡」と言う小さな看板が掛けてあった。
「冷たい空気が出てくるね。ここではあまり人は死んでいないみたい」淳之介は奥まで見通せない地下壕の闇を不気味に感じていたが、あかりは逆の反応をした。それでもあかりにうながされて頭を下げ、戦没者を慰霊した。これが親子2代にわたるデートの作法になることは自覚せずに。
「今日は素敵な時間をありがとう」夕方、アパートに送るとあかりは玄関で話しかけてきた。
「私、キスって唇を合わせるだけだから何の意味があるんだろうって思ってたんだ」あかりはラジオのドラマや点字の小説に出てくるキス・シーンを読んでも理解できなかったらしい。
「それでお母さんに訊いたら気持ちがつながるんだよって教えてくれたの・・・でも信じられなかった」ここであかりは自分でサングラスを外して下駄箱の上に置いた。
「今は違うよ。私も貴方と気持ちがつながったって実感できているもの」あかりの閉じた眼から薄っすらと涙が湧いてきている。淳之介はハンカチを渡そうと思ったが、今日は首里駅から円覚寺、龍潭池、守礼の門、玉陵(玉御殿・たまうどゥん=琉球王家の墓所)、金城町の石畳を一日中歩いたため汗で湿っている。しかし、あかりはそんなことを期待してはいなかった。
「ねェ、もう一度、キスをして」「はい」淳之介は父譲りの返事をすると玄関に一歩踏み込み、あかりを抱き締めた。そして上から押さえるように唇を重ねた。円覚寺でのキスは唇を触れさせただけだったが、今回はしっかりと気持ちがつながったような気がする。本当に素敵時間だ。

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- 2017/06/11(日) 09:57:56|
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