今回の帰省では長年の念願だった極楽浄土に立つことができた。それはハワイ島の最高峰・マウロ・ケア火山の山頂だ。ハワイの知る人だけが知り、行く者だけが行く観光名所・キラウエア火山とマウロ・ケア火山、マウロ・ロア火山でも最高峰・マウロ・ケア火山は海抜4205メートルで富士山よりも430メートも高く、山の体積ではマウロ・ロア火山の方が大きく(海抜は35メートル低い)富士山の50倍以上ある。この2つには赤道に近い高峰と言う地理的条件から世界各国の天文台が設置されており、天文ファンは大幅な零下になる山頂で夜を過ごすらしい。私も山頂からの眺望を見てみたくて赴任直後から佳織に熱望していたのだが、それは観光ヘリコプターで3つの山頂を巡る遊覧飛行になった。
「ダディ、高いところ大丈夫」私の高所恐怖症を知っている志織が気を使って搭乗前に訊いてきた。確かに私の高所恐怖症を理由に高い位置にある観光名所を見逃してきたので、この質問には心配と皮肉の両面があるのだろう。
「これでも昔は航空自衛隊だったんだぞ。心配御無用」「ダディは落ちて助からない高さなら諦めがつくんだって」佳織が余計な説明をしたため志織よりも他の乗客が「航空自衛隊の人が落ちるって言ってるよ」と心配してしまった。
「まァ、飛行安全の加護がある迦楼羅天(かるらてん=ガルーダ)に祈っておくから大丈夫だよ。オン・ガルダヤ・ソワカ」少し大きめの声で航空自衛隊時代におぼえた迦楼羅天の真言を唱えたが、ここまでやれば他の乗客も安心したはずだ。それでも常に携行している数珠を鳴らしながら真言を繰り返すと高齢の日本人客たちが念佛を唱え始めて妙な宗教団体のようになってしまった。
その時、英語の搭乗案内が流れ、続いて日本語が流れた。私たちは英語で反応したため前からの席を独占できた。
「何ここ・・・」マウロ・ケア火山の山頂では佳織と志織が立ちつくしてしまった。海抜4205メートルの高地なので真夏のハワイでも気温が低く、防寒衣を羽織っても風は刺すように冷たいが、何よりもその風景だ。眼下は全面が雲海に覆われ、その向こうに青く巨大で緩やかな岩塊が影のように浮かび上がっている。経典に描かれている須弥山を目の当たりにしているような心持ちだ。天空には雲1つなく、広大無辺の空っぽな空間に取り残されたような強迫観念に似た孤独感が迫ってくる。
「私は何度か来たことがあるけど、こんな光景は始めてみたよ・・・ここに長くいると狂ってしまいそう」私は全てを脱却した禅の境地を風景にしたように思っていたが、佳織には生命を感じさせる存在が何もない空間には恐怖を感じるようだ。すると志織が手をつないできた。
「ダディはここをどう思うの」「空っぽで気持ち良いね。上にも横にも遮るモノは何もない。地平線、水平線すら見えない。綺麗も汚いもない。好きも嫌いもない。だけど大きな岩の塊が見守っている。
独坐大雄峰(どくざいだいゆうほう)、乾坤独歩(けんこんどくほ)、ここで大きな声で念佛を唱えれば佛さまが返事をしてくれそうだ」志織に説明しながら本気でやりたくなってきた。そこで頭陀袋から数珠を取り出すと風上に向かって立ち、数珠を鳴らして頭を下げた。そして高地で薄い空気を吸い込むと号令調整のような大声で念佛を唱え始めた。
「なーもーあーもーだー、なーもーあーもーだー、なーもーあーもーだー・・・」十念=10回唱えるつもりだったが、やはり高地だけに呼吸が苦しくなり7度で切った。すると強風が「ゴーッ」と音を立てて吹きつけてきた。
「本当に返事してくれたね」「うん、やっぱり極楽浄土なんだな。ここは」沖縄では海の向こうに「ニライカナイ」と言う南洋の楽園の浄土があると信じられていると梢から教えられたが、佳織にはこの高峰の浄土に案内してもらったようだ。
佛教の目的が自己解放であるのなら、この虚無に徹し切れる風景こそ私には浄土であった。
「独りで行っちゃあ駄目だよ」その時、佳織が手を握ってきた。完全に大自然の中の孤独を満喫している私を引き戻したようだ。放っておけばそのまま往生してしまうような風情だったのだろう。増上寺で管長猊下が生前往生を見極めたのもこんな雰囲気だったのかも知れない。
「モリヤさんのお経は随分、深くなったようですね」「言葉の意味が判らなくても涙が出ました」ノザキ家の盂蘭盆会の法要を終えると義父母は絶賛してくれた。やはり往生してしまったようだ。

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- 2017/07/31(月) 09:56:04|
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ハワイ行きも3度目となると流石に旅行よりも帰省としての気分が強まってくる。私は市ヶ谷駐屯地のPX(売店)に出店している旅行社に1年前から盆と正月の航空券を予約しており、大規模災害などで休暇期間中に災害派遣が発令されないことを願うだけだ。
「貴方、おかえり」「ダディ、ウェルカム バック」今回もホノルル空港に佳織と志織が迎えに来てくれている。私は今回も制服姿だが我が家の作法として佳織を抱き締め、熱い口づけを交わした。隣りで団体客が出迎えの女性に使い回しのレイを掛けてもらってキスされているので、それほど違和感はないだろう。
考えてみれば佳織にとってハワイは中学校までを過ごした故郷であり、父が住む地元でもある。志織にとっても母が生まれ育った土地で祖父母に囲まれての暮らしが快適でないはずがない。だから2人の顔にも日本にいた時以上に快活な元気を感じる。
「ダディ、今年のお盆はグランド・ダディのお墓でもお経を挙げて欲しいんだって」佳織は冬のボーナスで車を購入したため今回は駐車場に向かうことになる。右手にカバン、左手で佳織の手を握り、会うたびに身長が伸びている志織と並んで歩きながらノザキ家からの要望が伝えられた。こんなところでも志織がノザキ家で可愛がられていることが確認できた。
「ふーん、お盆の稼ぎ時に菩提寺さんは良いのかな」「ハワイには檀家制度がないから専属契約と言う訳ではないんや」「そうかァ、檀家は専属契約なんだな」「違うの?」伊丹の伊藤家も軍人だった祖父が敗戦後にそのまま家を購入しただけなので菩提寺とは縁が薄く、墓も公営墓苑にある。そんな環境で育った佳織にこれ以上の認識を要求するのは無理と言うものだ。
「寺院側としては責任を持って浄土に導く信者、檀家側としては祖先を人質に取られて強制加入している宗教法人ってところだね。勿論、どちらにも建前と本音があるがな」「ハワイのお墓はお寺じゃあなくて公園墓地を買うんだよ」この口ぶりでは志織はノザキ家の墓を参ったことがあるようだ。
「でも貴方は曹洞宗でしょう、浄土宗のお経を頼まれて迷惑じゃないの」母子が代わる代わる話してくるが、その呼吸も日本にいた時よりも合っている。やはり祖父母の存在が志織にも良い影響を与えているらしい。折角なので2人に日本で経験したことを話すことにした。
「実は日本でトンデモナイことがあったんだよ」言っていることは大事件っぽいが私の顔には悲壮感や困惑がないので2人は興味を持って覗き込んできた。
「芝の増上寺の黒阿弥陀さまの御開帳の拜観に行って念佛を唱えたんだ」「黒阿弥陀って話だけ聞いたことがあるわ」「全然、聞いたことないよ」ここでは母子の反応が別れた。志織は日本でもアメリカの小学校に通っているのだから文化財や史跡に疎くなっても仕方ないだろう。
「そうしたら浄土宗の管長猊下に声を掛けられてね」「カンチョーゲーカって何?」思いがけない質問が佳織から出た。言われてみれば宗派の最高位の役職である「管長」と敬称の「猊下」は業界用語だ。おそらく耳からの音だけでは漢字も当てはめられなかったはずだ。
「要するにトップ・オブ・浄土宗のことだ」「そんな偉い方から声をかけられたの」「うん、京都から来ていたんだって」これは左券に記されていた署名で調べたのだが、増上寺の住職だと思っていただけに「恐れ入谷の鬼子母神」だった。と言うことは副官=侍者をしていた若い坊主も京都から来ていたのかも知れない。つまり陸上幕僚長の副官となれば2佐になる。その割には・・・。
「それでカンチョー閣下はどんな言葉を掛けて下さったの」馬鹿なことを考えている間に建物から出て広い駐車場に入った。間もなく車に到着するらしく佳織は結論を急かすように訊いてきた。
「ワシの念佛は凄いって誉めてくれた上で『まともじゃない』って言う診断書をくれたんだ」「それを言うなら『普通じゃない』でしょう」「はい、そうかも知れません」流石は私の妻である。冗談めかした説明でも思いがけない栄誉を理解してくれた。
「前山老師から曹洞宗、田沼和尚から浄土真宗、今度は浄土宗と幅が広がるばかりだ。次はレンジャーに行く代わりに修験道に走れば真言宗だな」「真言宗はあかん。貴方のことだから穴に埋められて即身佛になりたいなんて言い出しかねないもん」やはりこの妻は宗教上の知識とは別に私の信仰に対する意識を見抜いている。ただし、即身佛は穴に入るまでに肝臓を収縮させ、皮膚を固め、体内の水分は極限まで下げる食生活を送らなければならず、それは真言宗の秘法なのだ。むしろやるなら小舟に乗って海に流してもらう「補陀洛渡海(ほだらくとかい)」の方だろう。
- 2017/07/30(日) 10:26:03|
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昭和22(1947)年の明日7月30日は蝸牛(かぎゅう=かたつむり)忌とも呼ばれる文豪・幸田露伴先生の命日です。蝸牛とは幸田先生が向島の自宅の庭に結んでいた庵の名前で、現在は夏目漱石先生の自宅と同様に愛知県犬山市の明治村に移築されています。また「、露伴」と言う号は自作の俳句「里遠し いざ露と寝ん 草枕」から作ったと言われています。
野僧の小学校は第1回文化勲章受章者である金属物理学者・本多光太郎先生の出身校であった関係で一緒に受賞した本多先生の師・長岡半太郎先生、地球物理学者の木村栄先生、歌人の佐佐木信綱先生、洋画家の岡田三郎助先生、藤嶋武二先生、日本画家の竹内栖鳳先生、横山大観先生の業績を学び、作品に触れる機会が設けられており、幸田先生も第1回の受賞者であったためその代表作である「五重の塔」を児童文学版で読むことになっていたのです(当然、遠足で明治村に行くと蝸牛庵を見学しました)。
野僧は「五重の塔」と言う題名を聞いて奈良や京都の古刹を舞台にした僧侶の物語と思ってしまいましたが、江戸の大工の師弟が主人公でした。
江戸随一と自他ともに認める腕を持つ川越の源太は谷中の感応寺から「五重塔を建立したいのだが」と言う発注につながる打診を受け、一生に一度あるかないか判らない五重塔の建立と言う大仕事に感激し、何が何でも成功させようと気合いを入れ物心両面の準備を始めたのですが、そこに思いがけない対抗馬が現れたのです。それは弟子の十兵衛ですが、源太も腕だけは認めているものの「のっそり」と仇名されるような間の抜けた性格のため割りの良い仕事は仲間に奪われてばかりで貧乏暮らし、誰からも馬鹿にされて腕前を発揮する機会が与えられていませんでした。そんな十兵衛が五重塔建立の話を耳にして急に「ムラムラ」とやる気を起こしたのです。
十兵衛はこの仕事が親方である源太に持ち込まれていることを知りながらも感応寺の朗月上人に会い、「大恩を受けている親方の仕事を奪いたいとは思わないが、鑿鉋(のみかんな)の腕で負けるとは思えない。源太さまだろうと誰だろうと後れを取ることは万に一つもないと言う自信を持っている。しかし、今は長屋の戸板のはめ替えのような仕事ばかりやっている。そのことは自分の不運と諦めているが、このような大仕事を自分よりも腕が落ちる大工が請け負うことは我慢できない」と訴えたのです。そして作ってきた五重の塔の雛形(ひながた=模型)を見せるとその見事な出来栄えに上人は驚嘆して源太と十兵衛が力を合わせて建立することを望むようになりました。そこで後日、2人を呼ぶと「兄弟が譲り合ったことで2人とも幸福になった」と言う佛教説話を聞かせたのです。
帰り道、十兵衛は「上人さまはどちらかが譲れと仰っているのだろう。しかし、この仕事を譲りたくはない。けれど相手は大恩ある源太親方じゃあないか。分際を忘れた俺が悪い。やはり俺が悪い」と思い詰めて、キッパリ諦めることに決めました。一方の源太は家に帰ると女房の吉に「弟を可愛がれば良い兄じゃあないか。腹が減った者には自分が辛くても飯を分けてやらねばならん。俺は十兵衛と仕事を分けて2人で五重塔を建てようと思う」と決意を告げたのです。
こうして源太は十兵衛の貧乏長屋を訪ね、「お前が欲のために仕事を奪おうとするなら脳天をカチ割ってやるが、お前の不幸を思えば俺は仕事を半分譲ってやっても好いと思う。しかし、俺もこの仕事はやりたい。だからお前を主として俺が助手として2人で建てようじゃないか」と申し入れました。この並みの職人ではあり得ない温情あふれる提案に十兵衛は首を振ったのです。
「情けない。2人でやるとは情けない。お慈悲のようで情けない。嫌でございます。私はもうキッパリ諦めています。もう五重塔を建てたいとは思いませんから親方がやって下さいませ」これを聞いて源太は立腹しますが、その一方で十兵衛の職人としての態度にも感服して、最後は十兵衛が五重塔を建てるのです。
この本の感想を話し合った時、担任の先生は「出藍の誉れ=藍は藍より出でて藍より青し」と言う古語を教え、「先生が答えに困るような質問をしてみなさい」と発破をかけました。
ところが家に帰ってこの本を読んで感激した話をすると粗筋を聞いた父親は(読んだことがなかった)「恩を仇でかえした」と激怒したのです。結局、第1回文化勲章受章者が描いた「職人の美学=男の生き様(いきよう)」の名作も我が家では単なる「忘恩の徒」「分不相応な野心」の話になってしまいました。
それにしても江戸城内の茶坊主(取次役)の息子の幸田先生がどうしてここまで具体性を以って臨場感あふれる職人気質を描けたのか、やはり文豪だったのでしょう。
- 2017/07/29(土) 10:05:56|
- 日記(暦)
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「今日は舵を握らせてもらったよ」夜、淳之介はあかりへの電話で今日の貴重な経験を説明した。
「舵って船を操る道具ね。すごーい」あかりは船に乗ったことがないので「舵」と言う単語や「操る」と言う動作も淳之介の説明で理解しているだけだ。それでも一緒に航海と操舵を経験したような高揚感が電話を通じて伝わってくる。淳之介には毎日の仕事で経験することがあかりと2人分のような気がしてきた。
「そう言えば今日は小浜島への航路だったんだ」「小浜島って・・・」「そう、お父さんとお母さんが旅行に行った島だよ」最近は「淳之介のお父さん」「あかりのお母さん」と言う区分けが曖昧になってきて2人が夫婦であるかのような表現になっているが、話している者同士は理解しているので問題はないだろう。
「あの時は平日のヤマハ・リゾートがキャンセルになったからお母さんが押さえて、お父さんに貯まっていた代休を取ってもらったんだって」「お母さんはそれで大丈夫だったのかな」淳之介としてはその頃の梢さんの親の気持ちや職場での立場を考えると単純に感心することはできなかった。それは今後、あかりが石垣島に来るようなことになった時に悩むための予習でもある。しかし、淳之介が石垣島にあかりを連れて行きたいと思って祖父母に相談した揚句、梢さんに申し入れてしまったが、今思えば完全な暴走だった。
「貴方はお父さんと考え方が全然違うってお母さんが言っていたよ」「全然?それって誉められているのかなァ」淳之介の声が心配そうになってあかりは電話口で小さく笑った。
「お父さんは何かを決める前に色々なことを考えてから踏み出すんだけど、それでも足元を手で触れて確認するような人だったんだって」「へーッ、それは俺が知っている親父とは別人みたいだね。ウチの親父はどちらかと言えば勝手に突っ走る暴走族のヘッドみたいな男だけど」「へーッ、お母さんが今でも愛している任人さんと別人なのかな」ここで2人とも黙って考え込んでしまった。確かに父は色々なことを深く考える人間ではあったが決断が早く行動も迅速だった。強いて言えば日頃から深く本質を考えていたから別の事例が発生しても応用動作で対処できたのかも知れない。そしてその思案の場には必ず母・佳織が同席していた。尤も、淳之介には母・美恵子と暮らしていた頃の記憶もあまりないので、その前の梢さんが語るイメージが浮かばないのは仕方ないことだ。
結局、いくら考えても梢さんが愛しているモリヤ任人が淳之介の父であることは紛れもない事実であり、結論が出ないことに先に気づいたあかりが話題を変えてきた。
「お父さんがアパートに来た時のことを話しかけたのを覚えてる」「うん、お母さんが途中で止めちゃったんだよな」それは淳之介が就職で石垣島に行くのにあかりを連れて行きたいと申し出た時のことだ。父が警備開けで梢さんのアパートに来て部屋で眠ってしまい、梢さんはそんな疲れ果てている父の寝顔を見ていて「ある決意をした」と言うところまでで話を変えてしまった。
「お母さん、お父さんの隣りで眠ちゃったんだって」「それって添寝って言う奴じゃあないか」「うん、お父さんの寝息が子守唄みたいで安心できたってさ」あの時、梢さんも父のことを「安心だからアパートに入れた」と言い訳していたが、その一方で「この人のモノになりたいと思った」とも告白したはずだ。
「本当に添寝だけだったのだろうか」そんなことを考えている間に出演者が父と梢さんから自分とあかりに代わってしまい鼻血が出そうになった。こうして会えなくなって純愛一筋だった若い淳之介のあかりへの想いは、いけない妄想にまで膨らみ始めている。キスをして抱き締めるところまで来ているのだから次は・・・そんな妄想を誤魔化すため今度は淳之介が話題を変えた。
「あかりの仕事はどうだい」「うん、今のところはマッサージだけで、鍼(はり)は練習に自分の腕に打ってるよ」「俺が疲れて帰ったら丁度良い練習台になるのにな」「本当、私も貴方の疲れを揉みほぐしてあげたいな」「・・・」淳之介は胸の中で(本当は下半身ではないか?)「俺が揉みほぐしたい」と思ったが、本当に鼻血を吹いてしまいそうなので控えた。
「鍼って血流が滞っている場所にワザと傷をつけて回復力を刺激する治療法なんだよ」「ワザと傷をつけるって鍼を刺すこと?」「うん、刺激して神経を目覚めさせることを『得気(とっき)』って言うんだね」今日のあかりは雄弁だ。やはり閉鎖的にならざるを得ない盲学校から社会に出ると発見の連続で何かを語りたい気分になるようだ。今はまだ純愛一筋でなければいけないぞ(父より)。

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- 2017/07/29(土) 10:03:24|
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7月24日に野僧の世代には忘れられない名曲を作詞された山川啓介さんが亡くなったそうです。72歳でした。
今回、山川さんと阿久悠さんの名曲の数々を思い出していると「この2人がいなければ昭和と言う時代はどれ程味気ないものになっていただろうか」と痛感させられてしまいます。そんな山川さんの作品はそれを唄った歌手の名前を並べるだけで驚愕してしまうことでしょう。
先ず女性アイドルとしては花の中3トリオの桜田淳子の「春のゆくえ(NHKのみんなの歌)」、山口百恵さんの「デイ・ドリーム」「センチメンタル・ハリケーン」などがあります。この2人に関しては代表曲とは呼べませんが、その前にデビューして美貌では3人を圧倒していた麻丘めぐみさんの「卒業」、同じく完全に凌駕していた岡田奈々さんの「賭け」、ついでに天地真理さんの「私が雪だった日」、おまけにアグネス・ラムさん(チャンではないところが味噌)の「雨あがりのダウンタウン」ときて、「初の昭和36年生まれのアイドル(=野僧と松田聖子さんと同年齢)」と言う不可解な売り出し方をされていた天馬ルミ子さんの「ミスター・シャドウ」、そしてマニアックなファンが多かった伊藤つかささんの「もう野うさぎじゃない」とくると昭和のアイドル史の検定試験のようです。しかし、何と言っても女性アイドルとしては岩崎宏美さんの代表曲である「聖母(マドンナ)たちのララバイ」が最高傑作でしょう。ちなみにこの歌は空母・ニミッツが真珠湾攻撃前日のハワイ沖にタイム・スリップする映画「ファイナル・カウントダウン」の挿入曲になっていたイギリス人作曲家のジョン・スコットさんの「ローレル&オウエンス」と「ミスター&ミセス・タイドマン」の盗作であることが発覚したため日本での賞は逃してしまいました(野僧は映画を先に見ていたため日本語の歌詞を付けたと思っていました)。
一方、男性アイドルでは新御三家の野口五郎さんの「グッド・ラック」と西城秀樹さんの「勇気があれば」ですが、西城さんのこの歌は今でも愛唱しています。そして芸能マスコミが新・新御三家として売り出したものの失敗に終わったあいざき進也さんの「ストー・ミー・ラブ」と荒川務さんの「青春前期」がありますが、もう1人の城みちるさんには作品を提供していないようです。この他にも太川陽介さんの「ビーナス・イン・ブルージン」がありますが、この世代になると野僧はテレビを見ていませんでした。
アイドル以外ではスポーツ青春ドラマがあり、「飛び出せ青春」の主題歌である青い三角定規の「太陽がくれた季節」と副主題歌「青春の旅」、河野先生を演じた村野武範さんの「いいじゃないか節」、石橋正次さんの「あいつ」、中村雅俊さんの「ふれあい」「時代遅れの恋人たち」などがあります。
ドラマで活躍した俳優としては松平健さんの「夜明けまで」、林隆三さんの「ピアノ・マン」、柴田恭兵さん(=元・東京キッド・ブラザーズの歌手)の「AGAIN」、尾藤イサオさんの「ワルのテーマ」に始まり、井上純一さんの「脱走列車」、堤大二郎さんの「ジャンクション」、時任三郎さんの「さらば夏の光」、羽賀研二さんの「とび色の瞳」ときます。
そして実力派歌手には三橋美智也さんの「もっとお話ししませんか」、森進一さんの「ふるさとのない秋」、系統が違う実力派としては尾崎喜代彦さんの「My Better Life」、沖縄出身の朱里エイコさんの「明日への願い」、しばたはつみさんの「Musician」、大橋純子さんの「ビューティフル・ミー」、加藤登紀子さんの「ペルシャの子守歌(NHKのみんなの歌)」、ハイ・ファイ・セットの「ブロードウェイで夕食を」、さらに大橋博堂さんの「青春は最後のおとぎ話」、大貫妙子さんの「みずうみ(ペールギュント2番・ソルヴぇイグへの作詞)」がありますが、ここから驚愕でH2Oの「Good by シーズン」、オフコースの「夜明けを告げに」、ゴダイゴ版の「銀河鉄道999」の主題歌、八神純子さんの「ミスター・ブルー・私の地球」、やしきたかじん(=家鋪隆仁)さんの「イージー・ダンス」、そして何よりも矢沢永吉さんの「時間よ止まれ」「チャイナタウン」も山下さんの作品なのです。矢沢さんと言うとキャロルのイメージが強烈でしたが、このバラードでイメージが大きく変わりました。それにしても「時間よ止まれ」で「このヒトに賭ける」と唄っているヒトが「女」なのは歌詞カードを見て驚く隠し技でしょう。
そう言えば冬の童謡の傑作「北風小僧の寒太郎」もあります。昔は「たき火」でしたが、現在は焚き火が禁止されているのでこちらです(田舎では無視していますが)。
野僧は仕事で落ち込んで飲みに行くと亡き妻が「聖母のララバイ」を唄って励ましてくれるので、お礼に町田義人さんの「戦士の休息」を唄って安心させたものです。どちらも山下さんの作品です。心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
- 2017/07/28(金) 09:34:26|
- 追悼・告別・永訣文
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「玉城、今日は沖に出たところで舵を握ってみろ」「アイ・アイ・サー」初夏(ウリズン)を迎えた八重山の海は真夏の焼けつくような光りではなく眩い神々しさを感じさせる。離島への連絡航路で実習を受けている淳之介に雇われ船長の西大浜は凪(な)いだ海と利用客が逞しい男性ばかりであることを考慮して次の段階への腕試しを許可した。ちなみに「アイ・アイ・サー(Aye Aye Sir)」とはスコットランド、アイルランド訛りの英語で「イエス」を意味する「アイ」を重ねた船乗り用語で、復帰前には在沖縄コースト・ガード(沿岸警備隊)で働いていた西大浜船長の好みだった。
石垣港の外は西表島との間に小島が点在しているが東シナ海と太平洋を行き来する海流が早く航海の難易度は外洋に近い。2人乗り組みの大型連絡船でも甲板員(セイラ)と機関員(エンジニア)、さらに接客係(アテンダント)を兼務したように忙しく船の中を動き回っているが、小型では船長以下の仕事を1人でこなさなければならないのだ。
「ニィニ、俺は一寝入りするから小浜に着く前に起こしてくれんねェ」「アイ・アイ・サー」淳之介の英語の返事に復帰前にはコースト・ガードの取り締まりを受けながら漁業を仕事にしていたらしい中年男性は懐かしそうに笑った。他の客も船内の床に救命胴衣を枕に雑魚寝しているが、これが日常的に利用している片道2時間の航海の過ごし方としては定番のようだ。
客室の安全確認、機関の目視点検、甲板の固定品とライスラフト(救命筏)の触手点検を終えて操舵室に戻ると航海は半分を過ぎ、前方には小浜島の丘が水平線に見え隠れしている。若い頃、父と梢さんはこの島に旅行に来たことがあると言う。今でもヤマハ・リゾートはいむるぶし(沖縄方言で南十字星)がある関係で本土からの若い女性客が多いらしいが、ゴールデン・ウィークまではそれ程でもないようだ。しかし、そんな大胆さは今の生真面目な梢さんからは想像できない。
「よし、この当たりで代ろう。ユー ハブ コントロール」「アイ ハブ コントロール」操縦の交代を自己申告しながら淳之介は操舵室の舵を握った。水産高校では漁船に毛が生えた程度の小型艇で操縦実習と検定を受けて小型船舶1級の免許を取得した。それに比べれば島々で放牧する牛や山羊などを運ぶこともあるこの連絡船は十倍近い大きさがある。その舵を握り淳之介は緊張で身体が硬直してしまった。
「どうした。この位置なら直進だけだから海流に合わせて柔らかくラダー(=舵)をキープ(=固定)していれば良いんだ」西大浜船長は簡単に言うが離島への航路は海流を横切る形になるため、船首を目標に向けるには微妙な調整が必要になる。かと言って大きく舵を切れば船体が傾き、乗客や貨物に損傷を与える可能性もある。この微妙な操船技術は新品ピカピカの初心者マークが貼りついている小型船舶1級所持者にはまだ無理だった。それでも西大浜船長は淳之介を実習生として厳しく個人教授してくる。
「速度は確認しているか」「あッ、現在13ノットです」自動車の運転で速度計は前方の次に視線を送る計器だが、道路のような速度制限がない船ではそれ程ではないもののやはり忘れていては拙い。
「周囲に航行している船舶はいないか」「左に大型貨物船1杯視認、確認できませんが交差する距離ではありません」「左ならこちらが優先だろう」「はい、そうでした」海上衝突予防法では互いの航路を横切る場合、右舷側に相手を見る側に回避義務がある。さらに海上交通安全法では全長50メートルを超える船舶に公定航路を航行する義務を課しており、航路を横切る船舶は航行中の船舶の進路を避ける義務がある。操舵しながらこのような錯綜する状況に判断を下すのも淳之介が選んだ職業であり、やはり憧れだけでできるほど甘いものではないようだ。
「バウ(船首)の方向がずれているだろう」「小浜港の位置は確認できませんが」「スターン(船尾)を振り返ってみろ、ウェーク(=航跡)が曲がっていればずれているんだ」「アイ・アイ・サー」西大浜船長に言われて振り返ると水平線には石垣島の最高峰・於茂登山が見える。帰路はあの海抜525メートルの山を目標にすれば良いようだ。と言っても帰りも舵を握らせてもらえるとは限らない。
「よし、そろそろ舵を返せ」「ユー ハブ コントロール」「アイ ハブ コントロール」水平線上の島影がハッキリしてきたところで西大浜船長は操縦を交代した。島が近づくと海流が複雑になり、小型船舶1級の免許などは役に立たない事態が起こる可能性が高まってくるのだ。
「チバッてはいたがナンクルあるな(頑張ってはいたが、色々と課題はあるな)」「はい、勉強になりました」普段は「ナンクルないさ」で片づけるシマンチュウもプロの仕事は別なのは当然である。
- 2017/07/28(金) 09:32:00|
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慶応4(1968)年の明日7月28日(太陰暦)に薩長土肥の反乱軍を迎え討つために会津藩の白虎隊以上に年若い二本松藩の少年隊が出陣しました。ちなみに少年隊(東山・錦織・植草のジャニーズ3人組とは別)は白虎隊のような正式な隊名ではなく49年後=50回忌に贈られた通称です。
白虎隊は16歳、17歳を対象として編成されましたが少年隊は12歳から17歳でした。白虎隊でも年齢を偽った15歳の少年や下働きとして加わった13歳の少年がいましたが、二本松藩では戦時には2歳さばを読むことが認められていたため満12歳でも元服の年齢になり、少年隊に参加できたのです(既に発行していたハーグ条約=陸戦規則では戦闘に参加できるのは18歳以上と定められていた)。
二本松藩は古くから会津の属領でしたが、豊臣の治世下で会津には越後から上杉景勝さまが入ったものの関ヶ原の合戦で西軍に加わって敗れたため大幅の減封で山形に追いやられ、次は蒲生氏郷さまでしたが継嗣がなく改易になりました。その後に会津に入ったのは賎ヶ岳七本槍の加藤嘉明さまで、その娘婿の松下家が入ったことで二本松藩として独立したのです。ところが松下家は上杉の時代からの圧政で領民の離反が相次いだため福島の三春へ転封され、代りに加藤家の3男が入ったのですがやはり領内は収まらず、むしろ会津の築城や江戸での請負工事のため増税したことで不満は爆発寸前になり、結局、二本松藩の加藤家も嘉明さまの孫の代で改易されてしまいました。
その後に入ったのが幕末まで続く丹羽家ですが、初代藩主は織田信長公の柴田勝家さんと並ぶ側近だった丹羽長秀さんの嫡子です(秀吉が木下藤吉郎から改名を許された時、2人から1字ずつ取って羽柴とした)。
丹羽家は関ヶ原の合戦で西軍について改易されていたのですが、東照神君・家康公と2代将軍・秀忠公の温情により家名は存続させてもらっていたため大名として復権することができたのでした。丹羽家ではこの大恩を忘れず城下に秀忠公と3代将軍・家光公の廟所を建立していたのです。一方、会津には蒲生家の後、秀忠公の隠し子であり、信州高遠の保科家に養子に出されていた松平正之さまが入っており、こちらも徳川家・幕府に対する絶対的な忠誠を藩の使命としていました。
そんな両藩は王政復古の大号令により、徳川家の裏切り者=水戸藩主の息子である15代将軍・慶喜公が朝敵の汚名を受けることを避けることだけに執着して大政奉還したため、天皇を利用した薩長土肥の反乱軍に対しても恭順の意を表していたのですが、その上申書を会津に私怨を抱く長州藩の桂小五郎が握りつぶし、征討軍参謀として乗り込んだ長州藩士の世良修蔵が「戦争を仕掛けて滅亡させるべし」と記した報告者が発覚したことで否応なしに戦乱に引き込まれ、その矢面に立たされることになったのです。
しかし、寒冷な気候にある東北の諸藩は年中作物が収穫できる薩長土肥など西国の諸藩に比べて格段に貧しく、然も長崎だけを海外の窓口にしていた時代では最新の学問も行きわたらず、ましてや貿易の機会などはないに等しい状況でした。その点、薩摩は琉球の砂糖の専売と密貿易、長州は北前船などに対する労役費や荷物の保管料、朝鮮との密貿易などで得た潤沢な資金でアメリカ南北戦争の終結で余剰になった武器を大量に購入していたため勝負は既についていたのです。
また二本松藩は会津以上に貧しい上、藩祖以来、善政を敷いてきた会津藩とは逆に上杉時代からの過酷な重税と圧政のため民心が武士階級から離れていて、完全に自滅するための戦いでした。
二本松藩の少年隊は23名で会津藩の白虎隊の343名に比べれば1割以下の少数ですが、白虎隊でも城下の煙を天守閣の火災と見誤り飯森山で自刃した2番隊だけが取り上げられることが多いように、西洋式射撃術を教えていた22歳の木村鉄太郎師範と33歳の二階堂衛守師範代に率いられて戦った大壇口への出陣者25名(師範と塾頭を含む)が有名です。この中には15歳の兄が病弱なため12歳の弟が代わりに志願して、それを聞いた兄も志願して共に戦傷死した久保兄弟のような例もありました。2人は共に戦傷を負って治療所になっていた寺に搬送されましたが、互いに収容されていることを知たないまま弟が先立ち、兄が後を追ってしまいました。さらに負傷して倒れているところを農民に助けられながら「師範が戦死され、仲間たちも大勢戦死したのに自分だけが生き残って恥ずかしい」と言って気がつかない間に姿を消してしまった15歳の少年もいます。
野僧は奥羽越列藩同盟と上野・彰義隊の絶望的な戦いを見るにつけ、東海道と中山道を侵攻してくる薩長土肥の反乱軍を何の抵抗もせずに素通りさせた沿道の枝胤、譜代列藩、それどころか新居の関所を守る重責を放棄して荷馬と人夫を差し出した枝胤の吉田藩、歴代老中を務めてきた譜代藩でありながら、尊皇攘夷に浮かれた領内の神職が朱色の弓を担いで先頭を歩くのを放置した浜松藩が絶対に許せません。
何にしても少年隊は靖国では賊徒として蔑まれたまま150年が経過します。
- 2017/07/27(木) 10:37:43|
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「チャーァーァー チャーァーァー チャーァーァー」結局、BGMは「仁義なき戦い」のテーマ曲になった。その警告音のような旋律を鼻ずさむと施設庁職員は「ギョッ」としたように姿勢を正した。しかし、彼の世代ではこの映画を知らないのではないだろうか。
「要するに相手は法廷闘争を仕掛けてきているんだから、防御だけではところ構わぬ攻撃で体勢を崩されて窮地に追い込まれるだけです」「はァ・・・」「試合なら試合のルールがありますが喧嘩なら喧嘩で応じないと駄目です」この辺りが「仁義なき戦い」を選曲した理由だ。
「それで具体的には?」「裁判所が夜間の緊急発進を容認したのならパイロットの技量維持のために夜間の飛行訓練は必要不可欠だとして飛行差し止め無効の訴訟を起こすことでしょう」「それで勝ち目がありますか」意外過ぎる提案に職員は困惑と関心が混在した顔になった。
「原告はパイロットの連名にします。それも『航空機事故が発生すれば本人だけでなく基地周辺の住民の生命も危険に晒すことになる。だから安全に飛行する技量を維持することに制約を加えることは許されない』と公共の利益と生命尊重を前面に出して、騒音被害を訴える個人の快適性の要求との優先順位を競い合うのです」「そう言われると勝てそうな気がしてきました」納得しかけたところで逆に反発させる。これも法廷闘争の練習だ。
「その前に騒音訴訟の原告団が基地周辺に転居してきた時期を確認して、現在の環境が家屋を選択した時点で既に常態化していなかったを明らかにするべきですね。つまり自己責任の論理です」「それって・・・」「やはり施設庁の仕事になりますね」この若い職員も役人気質を身につけているようで仕事が増えることにはアカラサマな拒絶反応を示した。
「そんなことは受けつけた時に裁判所が確認しているでしょう」「それが行政相手の民事訴訟では原告の資格審査については意外に無頓着で、被害の有無だけが確認できれば後はその実態の検証で裁判が進んでしまうんです」「へーッ、そんなもんですか」「行政相手の民事訴訟では国家権力は巨悪、被害者は迫害されている弱者と言う構図が始めから描かれてしまうんでね。特にマスコミが被害者側と結託するから行政側は叩かれっぱなしですわ」職員は呆れたように溜め息をつき、私が提供した缶コーヒーを飲み干した。
「ところで貴方もジェット機の騒音はドンドン酷くなるって思っていませんか」「へッ、違うんですか」ここで自分から話の腰を折るため元航空自衛隊の持ちネタを披露することにした。
「発着機数などの問題は別にして、機体単独の騒音としては新型機の方がエンジンの出力が高まっている分、騒音が低くなっている可能性が高いのです」「私も騒音測定に行きますが、昔を知らないので比較はできません」「昔のターボ・ジェットと今のターボ・ファンでは出力が格段に違う。だからエンジンにかかる負荷も低くなるから騒音も下がる。つまり昔の騒音を知っていながら家を買った人間には現在の騒音が我慢できないと言う理屈は成り立たないと言うことですな」話が元に戻って職員が困惑したところに室長が帰ってきた。
「おや、私の来客か?」「いいえ、モリヤ2佐に騒音訴訟のことで意見を伺いました」室長は自分の伝言の当事者が意外だったようで苦笑しながらソファーに腰を下ろし、すると監理部から配置換えになった事務職の陸曹がコーヒーを持ってきた。残念ながらここには女っ気はない。
「騒音訴訟も攻勢に転じるべきだと言う御意見でしたが・・・」「攻勢に転じるのではなく攻防自在、防御しながら相手の隙を狙ってクロス・カウンターを喰らわすくらいの戦い方をしないと判例で雁字搦めにされると言うことだ」私の説明で日頃の見解を聞いている室長は大意を理解したようだ。
「今までは委託した弁護士に代弁してもらっていたから自衛隊の立場を前面に押し出すことは無理だったが、モリヤ2佐が公判に参加してくれればそれも可能になるかもな」「それではパイロット連盟で判決無効の訴訟を起こすのですか」上司として室長が私の意見に賛同してくれると職員が驚いたように質問を返した。流石にこれは自衛隊の常識から逸脱しているようで室長が心配した「バランス感覚」の問題を自白したことになった。
数日後、防衛施設庁の職員が内偵に来た理由が判った。内局としては私に陸上自衛隊を退職させた上で事務官として採用して訴訟の担当部署に配属することを考えていたようだ。地方大学中退では上級職国家公務員=官僚にはできないため思いついた苦肉の策らしい。
それもバランス感覚が欠落しているようでは不採用になるはずだが私は始めから志望していない。
- 2017/07/27(木) 10:36:04|
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7月21日に作曲家の平尾昌晃さんが亡くなったそうです。79歳でした。
野僧の小学校では妙に歌謡曲が流行していて遠足の観光バスの中では女子が男子のリクエストでデビュー直後の花の中3トリオやアグネス・チャンさん、天地真理さん、キャンディーズなどのアイドルや小柳ルミ子さんや南沙織さん、あべ静江さん(三重県出身なので名古屋から売り出した)など、男子は女子のリクエストで新御三家や狩人(岡崎市出身で兄は担任の教え子)、森田健作さんや石橋正次さん、おまけに何故か(多分、親の影響)沢田研二さん、布施明さん、五木ひろしさんの歌を熱唱し、ベテランのガイドさんが心配して担任に「本当に好いんですか?」と訊くほどでした。それでも子供たちは下校時のデートでもデュテットしていたのです(女子の方が早熟なので「恋って何?」「私のこと愛してる?」などと意地悪な質問をされて困りました)。
ところが穢土の中学校では「恋」や「愛」はフシダラで恥ずべきことと言う道徳教育が徹底されていたため、歌謡曲を聴くこと自体が非難=苛めの対象になり、「お宅の息子さんは歌謡曲が好きなんだってね」と言われて親に禁止されてしまいました。こうなると仕方ないのでレコードを買うとそのまま寺に行って大の歌謡曲ファンの祖母のステレオで聴くしかなくなったのです。そんな時代のヒット曲は作詞が阿久悠さんか山口洋子さん、作曲は平尾さんが定番でした。
花の中3とリオでは山口百恵は「赤い絆」、桜田淳子さんなら「玉ねぎむいたら」とどちらもテレビ・ドラマの主題歌ですが(森昌子さんは1曲もない)、アグネス・チャンさんでは「草原の輝き」「星に願いを」、天地真理さんなら「ふたりの日曜日」と観光バスでも唄ったヒット曲で、小柳ルミ子さんも「わたしの城下町」「瀬戸の花嫁」「京のにわか雨」と代表作と言える名曲ばかりです。
一方、我々男子が唄った新御三家では野口五郎さんの「愛よ甦れ」だけで西条秀樹さんは豊橋市出身の馬飼野康二さん、郷ひろみさんは筒美京平さんが作曲した歌が多かったようです。狩人ではすでにヒットから遠ざかってしまった頃の「白馬山麓」だけですから、やはり初期の都倉俊一さんの作品には敵いません。
五木ひろしさんの「よこはま・だそがれ」「長崎から船に乗って」、布施明さんの「霧の摩周湖」、沢田研二さんの「あなただけでいい」も平尾さんの作品ですが、子供たちの間ではザ・ドリフターズの「ミヨちゃん」でしょう。これは「いい湯だな」に続く2曲目で、これ以降は「ズンドコ節(原曲は海軍小唄)」や「ほんとにほんとにご苦労さん(原曲は軍隊小唄)」「誰かさんと誰かさん(原曲は故郷の空)」などの替え歌になってしまいました。
平尾さんの作品で驚くのはそのジャンルが五木さんや小柳さんの演歌から布施さんや沢田さんのバラード、アグネスさんのアイドル・ソングまで多岐にわたっていることです。それでは平尾さん自身はどのような音楽的経歴を持っているのかと言えばアメリカ直輸入のロカビリー・バンド出身なのです(伯父はクラシックの作曲家ですが)。
昭和12(1932)年に東京の新宿で生まれますが、終戦後は神奈川県の湘南に移住して、典型的な翔南ボーイとして成長したそうです。小学生時代からジャズなどの洋楽に親しんで11歳で歌合戦に出場して英語の歌で合格点をもらうと、ジャズ喫茶で唄っているのを芸能最大手のプロダクションの社長が見てスカウトされました。こうして芸能界入りするとロカビリー・ブームに乗ってスター街道を邁進するのですが、ハワイでのアメリカン・ポップス大会に出場した時に拳銃を知り合いの暴力団の組長への土産として密輸したことが発覚し、警察に22日間拘束され、それを切っ掛けに人気は下降してしまったのです。
ところが歌手としての人気の低落と反比例するように過去に作曲した歌がヒットしたため作曲家として転身することに成功しました。
その後も重度の結核での闘病などの苦労はしましたが、東京の本校の他にも札幌、所沢、茨城、名古屋、大阪、福岡、鹿児島に分校を有する平尾昌晃音楽学校を設立して、狩人さん、川島なお美さん、石野真子さん、松田聖子さん、川崎真世さん、大沢逸美さん、森口博子さん、芳本美代子さん、倖田未来さんを発掘、育成しています。ついでに言えば「カナダからの手紙」でデュエットした畑中葉子さんも卒業生ですが、日活ロマンポルノでの活躍がめざまし過ぎて歌手としてのイメージは薄くなってしまっています。
そんな平尾さんはやはり作品で送るべきでしょう。それはささきいさおさんが唄った「銀河鉄道999」の主題歌です。「汽車は闇を抜けて光の海に 夢が広がる無限の宇宙へ・・・人は誰でも幸せ探す旅人のようなもの・・・きっといつかは君も出会うさ 青い小鳥に」ポー
- 2017/07/26(水) 09:49:15|
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「弁護士と言う連中はそんな政治目的で訴訟を起こしても問題にならないのですか」ここで施設庁の職員もそれなりの問題意識を披歴した。一般の国民にとっては法廷自体が覗き見る機会すらない暗幕の中であり、報道では結果と解説だけが流れてくるだけだ。傍観者としては裁判官や検事が国家公務員としての厳しい倫理規定を厳守しているのに弁護士ばかりが公然と反政府の政治主張を繰り広げていることが納得できなくても不思議はない。
「弁護士は判事や検事とは違って国家公務員ではないから法的な規制は受けないんだよ」「それでは国家試験に合格すればあとは好き勝手にできると言う訳ですか」「一応、日弁連に登録しなければならないが、それは事務手続きのようなものだな」「ふーん、何だか甘過ぎるように感じますがね」これは弁護の司法修習や集合研修でも強調されていた精神徳目「弁護士倫理」だ。基本は弁護士自身が被告人の有罪、無罪を確信できなければ依頼を受けてはならないと言うのだが、否応なしに国選弁護士になることもあり、それは建前と本音にせざるを得ない。結局、弁護士はあくまでも個人資格であり、職業倫理も個人の判断に任せるしかないのだ。
「一応は極端な反社会的活動を行えば日弁連から除名処分を受けることになるが、日弁連自体は反政府が多数派だから自衛隊を応援する弁護士の方が足をすくわれないように用心しているよ」騒音訴訟の話題から完全に外れてしまったが、法曹界の実情に技術屋の職員も興味を持ったようで熱心に聴いている。ただし、メモなどを取っていないから完全に雑談だろう。
「日本では戦後の大学の学生寮で共産革命の思想洗脳が徹底的に行われたから一流大学の出身者ほど反政府の呪縛に頭脳を固定されているんだな。弁護士と医者はその最たる職種だよ」これは司法修習中に検事から聞かされた話だが、私自身も戦後史を研究してきて同じ見解を持っていたため、むしろ賛同者を得た思いだった。
「でも中央官僚でもエリートたちは超一流大学出身者ばかりじゃあないですか」これは誰でも突き当たる国家権力の中枢と反政府の両極に分布するエリートたちの生息地域に関する謎だ。
「ワシも一流大学を出ている訳ではないから(その前に大学を出ていない)推理しかできないけど、彼らは権力志向が庶民に比べて極端に強いんじゃないかな」「権力志向ですか・・・」「自分が優秀であることは子供時から周囲に誉められて育てば十分過ぎるほど自覚している。その凡人とは違う自分の能力で高度なモノを造り、巨大な世界を動かしたいと思うようになっても不思議はないだろう」「・・・」どうも話が逸れ過ぎて修正がきかなくなってきた。こうなると無理にでもまとめなければいけないので3段跳びの2歩目=ホップ・ステップで着地した。
「それが現実志向になれば中央官僚や大企業の経営者、理想主義に走れば反政府活動家と言うことになる」「モリヤ2佐はあまり政府寄りではないみたいですね。幹部自衛官と話しているような気がしません」「だってワシは弁護士だもん」ここで私は立ち上がって冷蔵庫の中から缶コーヒーを2本持ってきた。法務官室では監理部法務課の頃から課長への来客以外には湯茶接待はしないことになっている。このため冷蔵庫に買い置きしている缶コーヒーを出すのだが今回は忘れていたのだ。
「ところで騒音訴訟に対する防衛庁側の対応に関する意見ですが」話に区切りをつけたところで担当者が本題に戻した。どこから話が逸れたのかも思い出せないが私としても一安心だ。
「相手が政治闘争として仕掛けてくるのならこちらも訴訟で対抗するしかないだろう」「へッ?」折角、本題に戻ってもこの若い職員には想定外過ぎる回答に今度は意識が飛んでしまったようだ。
「裁判所、特に最高裁の判決は判例として法令に準ずる強制力を持つことになる。原告側の弁護士が狙っているのは自衛隊や米軍の行動に判例で制限を加えて活動を妨害することだよ。国会で自分たちの支持政党が過半数を取ることができないから次の一手として編み出した姑息な政治手段だな」ここまで説明すれば素人にも理解できたようで安心したように缶コーヒーを開けて飲んだ。ちなみにこの缶コーヒーは後で私に代金を請求される。
「それで具体的な対策は」「裁判所は在日米軍に関しては日本の司法権の適用外として判断を避けるだろう。問題は厚木や岩国のような日米共同使用の基地で自衛隊だけが制限を受ける判決が出ることだ」「それで・・」ここで私も自腹の缶コーヒーを開けて飲んで間を作った。
「おそらく救難などの夜間の緊急発進は適用除外にして訓練飛行のみを禁止するのが常識的な判決だから、それを逆手に取って・・・」ここでこの場面のBGMに何が合うかを考えてしまった。
- 2017/07/26(水) 09:46:56|
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2006年度は「大混乱」と言うよりも「大忙し」の中で終わろうとしていた。3月の最終月曜日付で陸上幕僚監部が大幅に改編され、私の職場も監理部法務課から幕僚長直属の法務官室となり、課長は陸将補への昇任予定者として格上げ横滑りになった。このため1週間後の新年度に向けて責任者名の変更などを片づけなければならないのだ。
この背景には交代が目前に迫った小泉内閣が防衛庁を省へ格上げする法案の提出を準備しているらしいのだが、私は拘置所生活と司法修習で長期不在にしていただけに完全な門外漢になっている。それにしても総理府の外局から省になれば法案や予算要求も総理府の素人官僚への説明抜きで直接国会に提出できるようになり、最高の置き土産であることは間違いない。
「モリヤ2佐、幕長直属になったからには今後はより積極的に法廷に関わるつもりだろう」そう言われても組織は監理部法務課から直属の法務官室になったが部屋の引っ越しはない。これでは今一つ、実感が湧いてこないのだが、それでも上司が将官になれば目出度くもあり畏れ多くもある。
「実は空幕と施設庁から基地騒音訴訟についての相談が入っているようなんだ」「騒音訴訟は過去には空自の小松がありましたが、最近では横田、厚木、嘉手納、普天間、岩国と米軍基地ばかりです。三沢で訴訟が起きない限り空幕が出てくることはないでしょう。それは厚木と岩国に同居している海幕の間違いじゃあないですか」私自身も自衛隊の法廷闘争として航空基地の騒音訴訟には興味を持って調べており、思いのほかスラスラと知識を並べることができた。
「受け付けたのは監理部の人間だから騒音訴訟なら空幕と勘違いしたんだろう。これからは直接話が持ち込まれることになるから余計な手間は省けると言うものだ。何にしてもバランス感覚には気をつけてくれ」「はい、必ず御相談申し上げることにします」この「バランス感覚」を「常識」に置き換えて私の欠点を指摘しているのは明らかだ。確かに法務官としては部下である私が弁護士資格を有して実際の法廷に関与できるのに対して自分は書類上の管理をすることまでしかできないのだから取扱いに悩むところだろう。これは最初に釘を刺すための丁度好い材料だったのかも知れない。
間もなく防衛施設庁の在日米軍基地担当者が訪ねてきた。法務官は各部長の会議に初参加しており(直属なので同格になった)不在だったのでそのまま応接セットで話を聞いた。
「モリヤ2佐は現在、防衛庁が抱えている騒音訴訟についてはご存知ですよね」私よりも若く見える担当者は単刀直入でやはり技術者系のようだ。したがって雑談で相手の腹を探る事務屋的な深謀遠慮は見られない。そこで私の方がビン・ボール(危険球)を投げた。
「その前に施設庁は工事と維持補修、管理の担当だろう。訴訟関係は内局に専門部署があるんじゃあないのか」「それはそうなんですが・・・」いきなり「お前の担当ではないだろう」と指摘されて担当者は答えを濁した。やはり制服組に相談を持ちかけることは内局官僚としての誇りが許さず、下働き扱いされている施設庁が使い走りにされたようだ。そもそも内局であれば私の方が電話一本で呼びつけられただろう。尤も、こちらとしても施設庁の職員の方が腹を割って話せるので好都合ではある。
「確かに施設庁も騒音のデーター何かを提出させられるから部外者ではないな」「そうなんですよ」厳しい質問の後には助け船を出す。こんな気配りが身についたのは私も事務屋になりつつある証左かも知れない。それでも持ち込まれた仕事の話には簡単に乗らないのが事務屋の基本姿勢だ。
「在日米軍関係の訴訟なら騒音よりも空母の水兵が老女を襲った強盗殺人事件の方が研究対象だね」「へーッ、そんな事件がありましたっけ」こちらの事件は今年の1月3日の早朝に横須賀に入港していた空母・キティーホークの21歳の乗員(航空機整備員)が通りがかった56歳の女性の金品を奪おうと殴打した上、人目を避けるためそのまま路地に連れ込んで殺害した刑法犯罪だ。この事件が沖縄で起きていれば大きな政治問題になったはずだが、横須賀は現在の首相の選挙区でもあり、水兵個人の犯罪として身柄の引き渡しを受けたことで逸早く鎮静化している。ニュースでも大きく取り上げていたが、施設庁の職員としてはあまり興味がない他人の事件だったようだ。
「それではやはり騒音訴訟は専門外ですか」「基地騒音問題は損害賠償金と生活補償を目的とする正に民事訴訟としての面と飛行時間の制限を命じさせる行政訴訟、むしろ政治目的の訴訟と言った方が良いな。この両面がある。米軍相手の場合は後者が目的なのは間違いないな」これは常識的な見解なのだが現職の弁護士が語ると変に説得力を帯びるから不思議だ。
- 2017/07/25(火) 10:20:23|
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2006年の春、淳之介は沖縄水産高校を卒業した。小型船舶1級の免許を取得し、希望通り離島への連絡船を運航している会社に就職したのだが、沖縄県が陥っている深刻な不況のため本島での採用がなく石垣島から八重山の島々を結ぶ船会社になった。一方、あかりも針灸とマッサージ師の国家試験に合格し、那覇市内の鍼灸院に就職することが決まっている。
「俺、あかりと結婚して連れて行きたいのさァ」長い春休みに入り玉城家に帰った淳之介は祖父母に胸の内を告白した。あかりと出会って1年半、会うたびに気持ちは高まり、深まり、広がり、今では想いは胸に収まりきれなくなっている。しかし、就職して仕事は見習いの身で結婚することが許されるはずもなく、ましてや視覚障害者のあかりを連れての生活が成り立つとは常識的に考えられない。
「まだ無理だろう。先ずは仕事を覚えることからだ」こう言う問題は男親の出番だが、この家では祖父の担当になる。祖父の意見は予想していたらしく淳之介は冷静に受け止めた。
「向こうであかりさんと暮らすなら家事を任さなければならなくなるんだよ。炊事や洗濯はどのくらいやれているんねェ」あかりはあれから何度か家に来ているが、料理はできても手際が良いとは言えない。洗濯も手伝わせてみたが目で確かめられないことが危なかしく感じることもある。祖母としては家事だけは単独でやれるようになってもらわないと賛成できないようだ。
「何よりもお父さんの許しを得ていないんじゃないか」祖父の言葉に淳之介は驚いて2人の顔を見回した。本来であれば母・美恵子の許可を求めるように言うところだ。その美恵子は反対を拒否されて以降、何も言ってこなくなっている。今回の卒業にも無関心なままだった。
「やっぱりお父さんの許可が必要なのかなァ」「当たり前さァ」「自信ないねェ」淳之介の確認に祖父母は怪訝そうに訊き返した。しかし、淳之介は祖父母に言っていない秘密があった。父があかりの母親が梢さんであることを知った時、今のような寛容な態度でいてくれるのかに自信がなかったのだ。
春休みに入って淳之介は毎日のように運動デートに通うになっている。
「お母さん、あかりさんを僕の嫁さんにくれませんか」春の観光シーズンを前に家で過ごしていた梢さんに淳之介は切り出した。梢さんはあまりにも唐突な申し出に台所から運んできたロシアン・ティー(ジャム入り)を盆に載せたままサイドテーブルに置いた。
「それは随分と急な話ね。あかりは何時プロポーズされたの」「ううん、まだ受けていません」あかりの返事を聞いて梢さんはこれが淳之介の暴走であることを理解した。つまり淳之介はあかりに無断で祖父母と義母になる梢さんに結婚の許可を求めてしまったようだ。
「淳之介さんは石垣島に行けば今みたいに会えなくなるから、あかりを連れて行きたいって焦っているんだね」「・・・そうかも知れません」昨夜、祖父母から指摘されたことを考えて鎮めていた想いが、運動デートの帰りにキスをしたことで再燃し、ついつい口から飛び出してしまったのだ。
「貴方のお父さんは曹候学生として航空自衛隊に入ったから2年で3曹と言う階級に昇任したの。だけど航空機整備の仕事が中々上達しなくて本当に悩んでいた。『まだ努力が足りない』ってどこまでも自分を追い込んでしまって・・・」ここで梢さんが紅茶を配り、皿に盛ったクッキーを勧めた。しかし、淳之介とあかりは話の続きを期待して手を伸ばさなかった。
「そんな時、警備開けで私のアパートに来てそのまま眠ってしまったのよ」「アパートに来てたんですか」「だってあの人は安心だったもん」淳之介は梢さん不在の時には立ち入り禁止になっている自分よりも父の方が待遇が良いことに不満を感じたが、それは懐かしそうな笑顔で吹き飛ばされた。
「私は燃え尽きたような寝顔を見ていて『この人のモノになりたい』って思ったんだ」「ゴクッ」「・・・」その場面を想像して淳之介は生唾を飲んだが、あかりは固い表情のまま腕を組んだ。
「それで・・・淳之介さんもお父さんみたいな考え方をしろとは言わないけれど、今は仕事をマスターすることを優先すべきじゃあないかしら。それはあかりも同じよ」話は肝心のところで教訓に代わってしまったが今は納得するしかない。
「一緒に頑張ろうね。安心できる船長さんになって」あかりの言葉に淳之介はうなずき、「父が好きだった」と言うロシアン・ティーを口に運んだ。甘酸っぱい味が舌を楽しませ、湯気の中の果実に匂いが鼻をつく。するとようやく部屋に父が送ってきた香の匂いが聞こえていることに気がついた。何時の間にかこの部屋には父の存在が満ちてきているようだ。

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- 2017/07/24(月) 10:23:57|
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7月11日にNHKの「おかさんといっしょ」で体操のお兄さんとして活躍していた砂川啓介さんが亡くなったそうです。80歳でした。
テレビのニュースではドラえもんの声を担当していた大山のぶ代さんの夫として認知症を発病している大山さんを献身的に介護していたことばかりを感動的に紹介していました。
一方、野僧は「おかあさんといっしょ」での印象が鮮明に残っており、中国人と同様にドラえもんが好きでないこともあり大山のぶ代さんのことはあまり知りません。
砂川さんは白黒テレビで見ても判るほど色が黒く、大きな目を輝かせながら軽やかに動き回り、特に体操で見せるジャンプは周囲の子供たちの背丈よりも高く、しかも飛びながら両足を大きく開いて膝を手で叩くほどの滞空時間があり、体操を忘れて拍手してしまいました。何にしても極端に運動が苦手で不器用者の野僧にとっては「運動神経」と言う能力差を子供心に痛感させる人物だったのです。
その一方で保育園では砂川さんの高度な模範演技を真似して転倒する子供が続出したため(野僧は始めから諦めていたので無事でした)保母が「無理しないように」「出来なくても恥ずかしくないのよ」「体操のお兄さんさんだから出来るの」と注意していました。
その後はお昼のワイドショーの司会を務めていたそうですが学校に通っていては見る機会がなく、奥さんのおまけのように紹介されるだけになってしまいました。現在でも子供番組の体操のお兄さんは母親たちのアイドルになっているようですが、体操のお兄さんからワイドショーの司会に転身した砂川さんはその先駆けだったのでしょうか。
確かに幼い子供持つ親にとって子供番組の歌のお姉さんと体操のお兄さんは不思議な魅力があるようで、子供と一緒に見るふりをして自分が楽しんでいることも多いようです。野僧が奈良の幹部候補生学校に入校している時、街でNHKの「おかあさんといっしょ」の歌のお姉さんだった神崎ゆう子さんと会い、野僧は僧侶の法衣姿だったため丁寧にお辞儀をされて、そこから立ち話をしたのですが、基地に帰ってそのことを話すと子持ちの同期たちが異常に興奮しながら「何時だ」「何所で」「どちらに向かって行った」と事情聴取した後、「まだ間に合う」と一斉に外出していったのです。
あの時、正直に「両手で握手をした=顔を至近距離で見た=吐息は良い匂いがした」と告白していれば結局、会えなかった同期たちから袋叩きにされていたことでしょう。
砂川さんの病名は癌の転移・再発のようですが、最近、要介護の家族、特に夫を抱えた奥さんの同じ理由の訃報を相次いで受け取っています。素人的には夫について病院に通っているのだから身体に違和感を覚えればついでに検査を受ければ良いなどと思ってしまいますが、介護に当たっている家族には自分を顧みる余裕などはなく、日に日に進む家族の病状に悩むだけで時間を過ごすのが現実なのです。だから自分の痛みや苦しさも「こんなことをしている場合じゃあない」と我慢してしまい、病気と認識して診断を受ける時には手遅れになっていることが多いようです。
砂川さんは芸能人なのでオシドリ夫婦と呼ばれることも「人気取りの演技」との陰口があったようですが、大山さんが認知症を発病してからも献身的に介護し、「俺が先に死ぬことだけは絶対にできない」を口癖にしていたそうですから、同様に自分の病気はあえて無視してきてしまったのでしょう。野僧の親族にも認知症を発病している者がいますが、周囲の願いは「本人よりも妻が先に逝くことがないように」だけです。
認知症を発病した者に対する安楽死が許されないのなら、せめて延命につながる検査・治療・投薬を回避する処置を公的に認めるべき時期が来ているようです。大山さんは砂川さんの死が認識できているのでしょうか。
- 2017/07/23(日) 09:58:42|
- 追悼・告別・永訣文
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「淳之介、モリヤさんから小包が届いたさァ」1週間の連休の中間にあたる日、玄関で郵便局員から荷物を受け取った祖母が居間でテレビを見ている淳之介に声をかけた。
「随分、軽いけど何だろう」廊下を歩いて来ながら祖母は小包を揺すっている。どうやら「カサカサ」と粉状の物が入っている気配がするらしい。
淳之介が小包を受け取って座卓の上で梱包を解き始めると祖母も前に座って覗き込んだ。やはりモリヤがワザワザ送ってきた荷物には興味があるようだ。梱包の中には箱が入っており、その蓋を開けると強烈な匂いがした。箱の中には難しい漢字を記した小箱が詰めてある。
「これは何なのさァ」「これはお香みたいだね」「お香?」「佛さんの前で焚く香りの良い木の欠片のことさァ」玉城家にはまだ佛壇がないので体験できないが、淳之介も本土で寺院に参拜した時、父に倣って焼香したことがある。あの時、炭の上に降りかけた大鋸屑(おがくず)のような粉なのだろう。
「ふーん、何種類も詰め合わせにしているね。シーミー祭に送ってくれたのかな」父の性格から言って太陰暦の4月8日に行われるシーミー祭の期日を確認せずに物を送ってくることはあり得ない。おそらく別の理由があるはずだ。しかし、小包に書簡を同封することは違法なので手紙は入っていなかった。
翌日、父から葉書が届いた。郵パックは沖縄でも本島なら翌日配送だが葉書は2日がかりになる。このため説明が遅れてしまったようだ。今日も葉書を手渡した祖母は野次馬になっている。
「これをあかりに渡してくれだって」意外な話に淳之介は祖母と顔を見合せてしまった。昨日、確認したところでは箱の中には「伽羅(きゃら)」「羅国(らこく)」「真那伽(まなか)」「真南蛮(まなばん)」「佐曾羅(さそら)」「寸聞多羅(スモタラ)」と言う5種類の香木と蚊取りマットの機械の方が入っていた。先ず、この組み合わせが理解できない。
「何々、香は本来、炭の上に雲母(うんも)を敷いて焚くものだが、あかりさんに火を扱わせるのは危険だから蚊取りマットの機械で代用しろってか」父のワープロでの文面は業務連絡のようで詳し過ぎてかえって難しい面がある。早い話が「蚊取りマットのヒーターで香を焚いてみろ」と言うことのようだ。
「それじゃあ、ウチにじゃあないんだね。それにしてもどうして香なんて送ってきたのかしら」祖母は考えながら以前、高橋竹山のCDが届いたことを思い出した。
「耳の次は鼻って言う訳だね。流石はモリヤさんさァ」祖母の言葉に淳之介はそのCDを聞いている時、香りの話になって梢さんが父なら「香道だ」と断言していたことを思い出して、あらためて畏れ入ってしまった。
「これ、親父からあかりにってさ」土曜日の運動デートに行った時、淳之介は箱のまま父から届いた香のセットを手渡した。
「わーッ、色々なお香の匂いが聞こえる」「うん、5種類入っているよ」淳之介の説明にあかりが玄関に腰を下ろして箱を開けようとしたので手を伸ばして蓋を取った。
「本当は炭で焚くんだけどあかりが火傷しては危ないから蚊取りマットのヒーターでやりなさいってさ」「ふーん、色々と気を使ってくれたんだね。お母さんが言っている通り」あかりは感激して箱を抱き締めようとする。それでは中身が落ちるので取り上げた。
「帰ってから試してみよう」「うん、わかった」これもあかりには世界が広がる経験なので浮き立つような顔で立ち上がり靴を履いた。
「お父さんは帰省するとお祖父さんのお寺で焼香してくるから手からお香の匂いがしたんだって」今日は運動デートでも話題は「お香」になった。どうやら前回の「香道」の続きを母子で話していたらしい。それにしても梢さん以外にお香の匂いを喜ぶ若い女性がいるのだろうか。
「でも沖縄では手に入らないから休暇で帰った時、お寺でもらってきたんだよ」「それを2人で楽しんだんだね。変なカップルだな」確かに父と梢さんの思い出を聞くと漫画や小説、テレビドラマや映画に出てくる恋人同士とは全く違う。強いて言えば佳織とは似ているのかも知れない。
「そうしたらお祖父さんが『梢って言う名前だから木の香りを愛する気持ちが備わっているんだな』って誉めてくれたんだって」父は祖父との逸話はあまり話してくれなかった。最近、父の知らない素顔を知る機会が増えてかえって謎が深まっていくようだ。
- 2017/07/23(日) 09:57:06|
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結局、15日は玉城家のシーミー祭に参加した。モンチュウの家が並ぶ丘の反対側の中腹に玉城家の亀甲墓はあり、一族が揃って石畳の間から伸びた草を抜き、屋根に雑巾を掛けて苔を落とす。それを本家の松泉さんは腕組して監督していた。尤も、松泉さんは大正生まれなので既に高齢者に属するため無理はさせられない。
「淳之介、そこを開けて厨子甕(ジーシガーミ)を点検しろ」墓の掃除も仕上げに入ったところで松泉さんが一番若い淳之介に命令をした。厨子甕とは沖縄独特の装飾を加えた骨壺だが、古来、火葬ではなく風葬(洞窟などの中に放置して鳥やイタチ、ネズミなどに啄ばませ、腐食させた)だった沖縄では遺骨はそのままの形で残るため本土の骨壺よりもかなり大きい。亀甲墓の女性の下腹部に当たる位置にある扉を開けてその厨子甕が盗まれていないかを確認しろと言うことだ。
「はい・・・」モンチュウの長老の命令なので素直に返事をしたが、流石の淳之介も少し気味が悪い。全身の骨格が収められている骨壺は霊魂がそのまま篭っていそうだ。
「ほれ淳之介、手伝ってやるから開けろ」ためらっている淳之介に松慶大叔父が声を掛けてくれた。
「ハブに気をつけろ。そこは棲み家だからな」こうした注意も激励であることは玉城家の一員になって何年も経ているので理解している。淳之介が松慶大叔父に手伝ってもらいながら50センチ四方、2段の石を引き出すと真っ暗な中から冷たく黴臭い風が吹き出してきた。
「懐中電灯だ。中を照らして数えろ」「ウチの厨子甕は13個だったぞ」「13人だ」松泉叔父の息子たちは淳之介の母である美恵子の従兄に当たるのだが年齢的には祖父に近い。このため完全に命令口調になっている。その大従兄の1人から手渡された懐中電灯で中を照らしてみた。
「正面にオジィ、オバァとオトゥとオカァの4人、右にニィニとネェネの4人、左に子供たちが5人、合計13人だ。異常ないか」「はい、大丈夫です」沖縄戦では日本軍が亀甲墓をトーチカに使用したため中にあった骨壺が引き出され、侵攻してきたアメリカ兵はそれを拾って土産にしたと言う。このため玉城家も古い人たちの骨壷は残っていないようだ。淳之介は御殿型と呼ばれている屋根に鯱鉾が付いた蓋を置かれた骨壺を数えながら最近、考えている自分の家族について問いかけていた。
「自分にも玉城家の血が流れていることは間違いありません。でもう半分のモリヤ家の血についてはそれを伝えた父自身が嫌っています。これから俺があかりを愛し、子供を作るとすればその子にはどの血を受けがせて行けば良いでしょうか」そんな太平洋上で悩み続けていた自問自答を繰り返している間にも松慶大叔父が蓋を閉め、そこに松泉さんの家から奥さんたちが花と供物を運んできて祈願の準備が整った。今回は淳之介のマグロの刺身がメイン。ディッシュだ。
墓の前の花壷に南洋の花を差して飾り、前にはお盆のまま皿に盛った料理を並べ、泡盛とビールはその両脇だ。手前の石畳の上にムシロを敷き詰め、正面に松泉大伯父が座る。その後ろに本家の家族、さらに1列後ろに祖父・松栄と祖母・勝子、松慶大叔父とその妻、そして淳之介が座った。
「天(てぃ)ぬん知りみそち 月(ちち)ん知りみそち 里(さとぅ)が行き先や 照(てぃ)らちたぼり」松泉大伯父がロウソクに火を灯して沖縄線香(数本がくっついたように平べったい形をしている)に火を点けて供えると松慶大叔父が奏でる三弦に合わせて大伯父の妻が琉歌を唄い始め、続いて松泉大伯父が「南無阿弥陀佛」と唱え始めた。戦前まではノロやユタと言う女性霊能者やニンプチャア(念佛者)と呼ばれる男性坊主がオモロ(儀式の前に詠う沖縄の古謡)を唄い、祈りを勤めていたのだが、アメリカの占領下で減少し、今では離島にしか残っていないため念佛で代用しているらしい。
「南無阿弥陀佛」淳之介が父譲りの村田和上式の念佛を唱え始めると祖父は自慢そうに微笑み、モンチュウたちは感心したように顔を見合わせた。
「俺、自分がどこの誰の子供なのか判らなくなっているのさァ」「ふーん、それは難しいことに悩んでいるんだな」祈りの後の宴会が始まり、淳之介は隣りで泡盛を口にしている祖父に問いかけた。
「やはりお前はやはりモリヤさんの息子であることを大切にするべきだな。母はあの佳織さんだ」酔い始めていても祖父は真顔になって答えてくれる。その隣で祖母もうなずいた。
「お母さんは?」「美恵子がお前の親になってから母と認めてやればいい」「美恵子が自分よりもお前のことを大切に考えるようなったらね」淳之介の胸にハワイで会った佳織の顔が浮かんできた。祖母が言うように子供のことを大切に考える人が親ならば淳之介には美恵子よりも佳織が母だった。
- 2017/07/22(土) 09:53:16|
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5月中旬になって淳之介が帰港した。ハワイからはゴールデン・ウィーク前に戻っていたのだが、ハワイでの漁で獲ったマグロを清水港に陸揚げし、その後も小笠原諸島の父島や太平洋岸の港を巡ってきたのだ。次の土曜日からは代休も合わせて1週間の連休になった。
「オジィ、オバァ、帰ったさァ」帰港後も海邦丸5世の整備などがあり家に帰ったのは縁起でもないが13日の金曜日の夜だ。航海中はシマンチュウばかりと顔を合わせていたため本土と沖縄のハーフのはずの淳之介もかなりシマグチになっている。その口調を聞いて久しぶりに孫を出迎えた祖父母の喜びも数倍増した。
「淳之介、すっかりウミンチュウになったな」「元気なのが何よりさァ」代わる代わるに声をかけながら祖父母は涙ぐんで、淳之介ももらい泣きしてしまった。
「これはお土産さァ」「何ねェ、これは?」淳之介が抱えていた発砲スチロールの箱から腕ほどの大きさがある冷凍の塊を取り出すと祖父母は涙を吹き飛ばして身を乗り出した。
「俺たちが獲った黒マグロだからマーサイさァ(美味しいよ)」淳之介から固い塊を受け取った祖父は祖母に見せながら手で重さを計ってみせるが、自分の釣果とは比較にならないのは当然だった。
「これはすごいな」「明後日(あさって)までに解凍すれば丁度良いさァ」「丁度良いって?」「15日はシーミー(清明)祭だよ」沖縄では中国の風習を踏襲して太陰暦の4月8日に祖先供養を行う。モンチュウが墓に集まって簡単な祈りの後、親族の団結と繁栄を先祖に披露するため宴を繰り広げるのだ。この玉城松栄家にはまだ亡くなった者がおらず墓もないので、清明祭は本家の宴に参加するだけだが、このマグロを持って行けば淳之介の成長を印象づけることができるだろう。
「俺も出ないといけないねェ」淳之介は沖縄に来てから沖縄水産高校の黒潮寮に入るまでは祖父に連れられて本家の清明祭に参加してきた。酒が入った伯父たちから聞く沖縄の歴史や風習は興味深く、一緒に唄って踊る法要はむしろ楽しみでもある。ところが今回はあまり乗り気ではないようだ。
「どうした。何か用事があるのか」思いがけない淳之介の態度に祖父は困惑した顔で訊いてくる。実は僧侶の息子らしく法要でも真面目に祈りを捧げている孫が自慢だったのだ。しかし、祖母は既に真情を察していた。
「あかりさんに会うんだね。1月半も会えなかったんだから当然さァ」祖母の言葉に祖父は「一本取られた」と言う顔でうなずいた。
翌日の土曜日、淳之介は祖父の車であかりのマンションに送ってもらった。
「淳之介さん!」玄関を開けるとあかりが直立して待っていた。本当なら抱きついてきたいのだろうが視覚障害があるあかりには段差がある玄関は危険なので我慢しているようだ。淳之介が一歩、玄関に踏み込むとその気配を察したようで、あかりは両手を伸ばして倒れ掛ってくる。その手首を掴んで自分の首に回してから抱き締めた。あかりも夏本番の薄着になっていて、そんな身体の弾力が生々しい。淳之介は両手が背中を撫でるように上下させた。
「ただいま」「うん、ずっと貴方を待っていたの」玄関の段差であかりの顔は少し高くなっていてそのまま唇が重なった。淳之介は海邦丸5世のベッドの中で枕を抱き締めてキスをしていたが、それが本物になっている。
「淳ちゃん、私のファースト・キスをあげる」その時、ホノルル港を出航する時、志織が口にした言葉が胸に甦った。
明日は祖先供養を勤める清明祭だ。それは家族の有り難さを確かめる日でもある。淳之介にとっての家族は玉城村の祖父母、帰省してくる度に相談に乗ってくれる航空自衛隊の松真叔父までは間違いない。しかし、戸籍上の母である美恵子には不信感が強まるばかりであり、むしろ父にとって理想の妻になるはずだった梢さんとの間に割り込んだ存在として嫌悪感さえ抱いている。逆に思いがけずハワイで再会した佳織、今も兄として慕ってくれている志織、そして意外な素顔を知ることになっている父、この血のつながりとは別の縁(えにし)で結ばれている人たちが複雑すぎて評価の前に整理がつかなかった。
「私、もう貴方のモノよ」唇を離して胸に顔を埋めたあかりがかすれた声で呟いた。しかし、淳之介にはあかりとの将来を考える前に考えておかなければならないことが山積みのようだ。

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- 2017/07/21(金) 10:17:34|
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1944年の明日7月21日にヘニング・ヘルマン・ロベルト・カール・フォン・トレスコウ少将が自決しました。
ヒトラー暗殺未遂事件については既に述べているので重複を避けますが、その目的は政権奪取ではなく、早期講和にむけて交渉を開始するためにはユダヤ人虐殺などを行ってきたヒトラー政権とナチスが障害であり、これを自ら取り除くことで交渉での立場を優位にすることでした。したがって首謀者は不利な戦況を直視している貴族家系出身のエリート軍人たちであり、将官ではヒトラーとの距離が近すぎて躊躇するため佐官クラスが中心だったようです。その中でトレスコウ少将は抜群の能力と軍功により43歳の若さで少将になっていたものの現場の苦境とそれを顧みないヒトラーの周辺に対する絶望と怒りは人一倍強く、早い段階から暗殺を企図していたのです。
トレスコウ少将は20世紀が始まった1901年にプロシア貴族の息子としてドイツ中部のマグデブルグで生まれました。トレスコウ家は有能な軍人を輩出する騎士の家系で父親も騎兵大将になっています。
トレスコウ少将は父親の荘園で兄弟と共に家庭教師から英才教育を受けて育ちますが、ヨーロッパの貴族家系の子供たちを集めて上級学校への予備教育を行うギムナジウム(英国のグラマースクールに当たる)に進み、第1次世界大戦中の1917年には学位試験に合格したことで帝政ドイツ陸軍に入営して17歳の若さで少尉に任官しました。その時、第2級鉄十字勲章を与えられる軍功を果たしたもののドイツの敗戦に終わり、しばらく陸軍に留まりながら間もなく退役して大学に進んでいます。大学卒業後は銀行員となって株式取引を担当して個人的にも資産を蓄え、後に自分で工場を経営するようになります。この頃、第1次世界大戦中の陸軍参謀長だったフォン・ファルケインハイン大将の娘と結婚しています。
1924年に後の大統領・ヒンデンブルグ元帥の推挙を受けて新制陸軍に復職すると陸軍大学校に入学してエリート街道に戻ることに成功しました。この間、ヒトラーによるナチス政権が成立し、急激な軍備拡張などの動きに陸軍も同様しましたが、トレスコウ少将はあくまでも軍人としての本務に専念し、政治的な動きには関与しなかったようです。
第2次世界大戦が始まると歩兵師団の参謀長としてポーランド侵攻作戦を指導した軍功で第1級鉄十字勲章を受章し、さらに対ソ戦の主力部隊の参謀、首席参謀、参謀長を歴任しました。
この時点から優れた頭脳と軍人としての鋭い感性でソ連との戦争の不利を洞察し、早期に停戦するべきことを確信して、それを妨げるヒトラー政権に反対する活動を密かに進めるようになりました。
当初は伯父でありユダヤ人虐殺に反対していたボッツ元帥に同調を求めたのですが「ゲシュタポの組織力が健在である中では成功の可能性が低い」と拒否されています。
それでも1943年3月13日にヒトラーが東部戦線を視察した時に搭乗する航空機に爆弾を持ち込ませて自爆させる計画を実行したものの信管の不具合で失敗してしまいました。この時は爆弾を回収して発覚は免れています。
続いてマンシュタイン元帥の副官に自分の従兄弟を送り込んでヒトラー諸共に自爆させる計画を立てましたが、計画を察知した元帥に拒否されてしまいました。それでも主旨には賛同していたのか通報はされていません。
そして1944年7月30日に地下指揮所でカバンに詰めた爆弾を爆発させる計画が実行されましたが、ヒトラーの殺害に失敗したことを知り、この日、前線に出て手榴弾で自爆したのです。当初は戦死者扱いで軍人墓地に埋葬されましたが、事件への加担が発覚すると棺を掘り起こして、強制収容所で焼却処分されました。
トレスコウ少将の卓越した能力や高潔な人格については第1次世界大戦の時の上官(連隊長)は「君の将来は参謀長になるか、革命家として断頭台の露に消えるかだろう」。第2次世界大戦初期の上官(軍司令官)は「どれか1つなら珍しくないが、彼には善良、賢明、勤勉の3つの資質が刮目に値するほど揃っていた」。そして敗戦時の参謀総長までも「私にとって後任に値する人物は彼しかいなかった。彼の他には第2次世界大戦を何とか出来た人物はいなかった」と絶賛しています。
帝国陸海軍には2.26事件で真崎甚三郎の私怨と嫌悪を鵜呑みにして国家に必要な重臣たちを殺害しても東條英機を暗殺しようとした軍人は現れなかったのでしょうか?
- 2017/07/20(木) 09:58:43|
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帰りに通り掛かった佛具店で私は浄土宗の阿弥陀如来像を買うことにした。東照神君・家康公は桶狭間の合戦の後、大樹寺にある先祖の墓所の前で自刃しようとして住職に諫められ、「厭離穢土(最近は「えんりえど」と読むことが多いが大樹寺では「おんりえど」と教えている)・欣求浄土(ごんぐじょうど)」の言葉を与えられた。これこそ三河武士の末裔である自衛官の私が使命とするのに相応しい目的であり、その加護を祈るのはやはり阿弥陀如来像でなければならない。
「いらっしゃいませ」一見して門前の老舗と言った構えの佛具店のお婆さんは本人が佛像のような有り難い顔をしており、思わず手を合わせそうになったがそこは踏み止まった。
「浄土宗の阿弥陀如来さまが欲しいのですが」「御住職に檀家さんからの依頼ですか」丸坊主で絡子を外した作務衣姿の私をお婆さんは「住職」として応対する。
「まァ、そのようなものです。坐像よりも立像(りゅうぞう)がいいですね」「浄土宗では舟形後背の立像が普通です。浄土真宗では佛画にする方も多いですが」どうやら早くも化けの皮が綻びかけてきたようだ。何にしてもこちらから住職とは言っていないので職業詐称にはならないはずだ。お婆さんに案内されて店の奥の棚に並べられた阿弥陀如来立像を選ぶことになった。
「この太陽みたいに派手派手しい後背はセンスが悪いですよね」「そちらは門徒さんの光背です。浄土宗はこちらの舟形になります」商品の展示は売れ行きによって位置が決まる。この店の棚でも視線の高さには浄土宗と浄土真宗の阿弥陀立像が半々と言うところだ。身の丈も一般家庭の佛壇用の小振りなサイズから旧家の大きな佛壇向けの大き目まで手前と奥で分けてある。我が家に佛壇がないのでタンスの上に祀ることになるから大き目の中から選ぶことにした。
「ふーん、やはり手作りなのかお顔が一体一体微妙に違いますね」「はい、そこはお好みでお選び下さい」「それが御縁ですね。南無阿弥陀佛」この返事にお婆さんは「こいつは本職なのか、素人なのか」と困惑した顔をした。
結局、間近から見上げた黒阿弥陀さまに最も似ていると思う一体を選び、その佛像を捧げ持ってレジに行くと息子と思われる店主が合掌して迎えた。この態度も住職に対する儀礼だろう。
「本当は黒阿弥陀さまぐらいの見上げるような方をお向かえしたいんだけどな」「特注でよろしければお造りしますよ」阿弥陀如来像を薄い紙で包み、その上から新聞を被せ、レジの下の台の棚から出した箱に収めている店主に独り言を呟くと恐ろしい売り込みをしてきた。黒阿弥陀さまは背の丈80センチぐらいだからタンスの上になら祀ることは可能だが、あまりにも畏れ多い。
「この金色の肌が黒本尊さまのように黒く煤けるには何年くらいかかるのかね」それでも話を受けながら反らすことにする。黒阿弥陀如来像は本来、金色だったのが長年にわたり香を焚かれたため黒く煤けてしまったと説明を受けた。つまり妙源寺におられた頃は金色だったのかも知れない。
「あちらは恵心僧都の作だそうですから平安末期からですよ」「恵心僧都と言えば我が国の口称念佛の始祖・源信さまだね」「へーッ、そうなんですか」「そうです」どうやら店主は資料で仕入れた知識だけで説明したのだが、お婆さんは信仰として知っていたようだ。
「この佛像を黒阿弥陀にするつもりなら線香よりも香を焚いた方が良いですね。最近の線香はライト・スモークとか言って煙が少ないですから」私の冗談のような独り言も商売につなげるこの店主の商才も中々のものだ。しかし、これも私が寺の住職であることを前提にしているのは間違いない。密封性が高い現代の家屋では香を焚くどころか線香の煙まで敬遠されているからライト・スモークになっているのだ。それでも私は単身赴任中なのを好いことに角香炉と一緒に香木も買うことにした。
「いつもはどの銘柄を使っておられるのですか」お婆さんに線香と香木を並べた棚に案内されながら困った質問をされてしまった。確かに寺の住職なら好みの持香(じこう)くらいは決めているはずだ。
「毎日香かな、青雲かな・・・金鳥蚊取りも好いね。アースもあるぞ」苦し紛れの冗談にお婆さんは苦笑する。これで判定は果てしなく「素人」に近づいてしまった。
香の棚の前にはお試し用として小瓶に入れた香木が並べられており、1本ずつ蓋を取って嗅ぎながら選ぶ方式になっている。それにしても比較的鼻が鈍感な私では違いくらいは判っても良し悪しまでは決められない。そこで意識の固執と迷いを除くため般若心経の一節を唱えてみた。
「是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法・・・」目を閉じて香を聞きながら突然、淳之介の彼女であるあかりさんのことが思い浮かんだ(顔は知らないが)。
- 2017/07/20(木) 09:57:18|
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明治3年の明日7月20日(太陰暦)は「やはり為政者の出自・家柄は尊重するべきである」と痛感させる名門出身の逸材・小松清廉=帯刀(たてわき)さんの命日です。わずか34歳でした。
日本人は農民から天下人になった豊臣秀吉さんを代表格として明治でも農民・足軽から初代総理大臣になった伊藤俊輔(=博文)さん、そして戦後は貧乏農家から学歴もないまま総理大臣になった田中角栄さんなど妙に成り上がりが好きですが、豊臣秀吉さんは賢弟・秀長さんが先立ってからは主君・織田信長公の姪を愛人にした淀に溺れ、石田三成の専横を許したことで朝鮮出兵などの暴挙に走り、本人の代限りで自滅することになりました。伊藤修輔さんは比較的平穏でしたが最期は暗殺であり、田中角栄さんは金権と闇支配の悪しき政治形態を作った揚句にやはり本人の代限りで自滅しました。
成り上がり者が権力を握ると当初は庶民の真情を知っていることで巧みに人心を掌握する施策を講じるのですが、そうして手にした権力の私物化・独占に走り、やがては内部抗争による政敵の追い落としに陥ります。豊臣政権の後半がまさしくそれであり、明治政府も完全にそれでした。
特に明治政府は薩長土肥の下級武士(特に毛利藩は藩内抗争と長州征討で有能な重臣を殺してしまっていた)が元勲と呼ばれる権力者になり、身の程知らずに強大な政治権力を握ったため完全に慢心して日本を自分たちの論理で動かずべく藩閥を形成したのです。
一方、小松さんは島津家の重臣・肝付家の4男として生まれました。母は島津家の分家の出身です。生来、病弱でしたが元服目前の年頃から学才を発揮するようになり、元服後には御用漢学者について儒学を修めたものの無理な勉学がたたって病に伏すことが多くなりました。それでも学究心は衰えず静養に出た湯治場でも知り合った様々な身分、学閥、職業の人たちから知識を吸収し、学識の幅を広げていったようです。
安政2(1855)年、21歳で藩主・斉彬公の奥小姓・近習番勤めを命ぜられると間もなく江戸詰めになりますが2カ月で帰郷しています。その後、同格の名門である小松家に跡目養子に入り家督を相続すると共に小松家から他家に養女に出されていた実娘を妻に迎え足元を固めました。余談ながら小松さんの生家である肝付家は子沢山で有名な家柄で、跡取りができない名門に跡目養子を出すことが多く、藩主から下賜された側室の子と肝付家からの養子で家系を維持している例がかなりあるそうです。
安政5(1858)年に斉彬公が実父・斉興さまと妾の由良さんによって毒殺されると養子である茂久さまが藩主となり(斉彬公の実子も薬殺されていた)、小松さんは当番頭・奏者番に昇格し、斉彬公が創設した西洋式工場である集成館の管理責任者に就任しました。
ここからが有能な名門出身者の本領発揮で、島津藩が所有する蒸気船で長崎に出張してオランダ軍艦に乗り組むと操艦方法や新鋭兵器の知識を吸収して戻り、その国産化の研究を推進しました。その成果を高く評価されたことで、藩主の父・久光さんの側近として藩政改革の推進を命ぜられ、やがては家老に任じられたのです。
久光さまは公的には何の権能も有しない藩主の父親に過ぎなかったにも関わらず兄・斉彬公が老中・阿部正弘公の信頼も厚く開国に向けての政策に参画していたことを受け継ぐことに意欲を燃やしており、小松さんはその手足として江戸以西の各地を駆け回ることになりました。ただし、小松さんは武力討幕を主張する西郷吉之助さんを旗頭に担ぎ上げ、謀略を得意とする大久保一蔵(利通)さんに扇動されて暴走しがちな藩士たちを鎮め、最終的に目的を達する道筋を着実に進むべく各方面に働きかける役割を果たしていたのです。
こうして明治の政変が樹立すると当然、小松さんは新政権の中核を担うことになったのですが、生来、病弱な身体で無理を重ねた結果、多くの病気を発症して公職を辞して帰郷せざるを得なくなり、そのまま亡くなってしまいました。
軍事面を統帥した西郷吉之助さんは7歳年下の小松さんに心酔しており、経済面を牽引した五代才助さんをイギリスに留学させたのも小松さんでしたから、そのまま小松さんが政府の中核に留まっていれば、軍事と経済のバランスをとった政策が推進され、吉田松陰の狂気そのままに外国を全て敵視して自衛の名目で戦争を追い求めた毛利藩のを成り上がり者たちの出番はなくなり、もっと穏やかに近代化が進捗したことでしょう。要するに毛利藩なら周布政之助さん、長井雅楽さん、土佐藩であれば吉田東洋さんクラスの人材の生き残りだったのです。土佐藩の後藤象二郎さんも似たような立場でしたが少し癖がありました。
- 2017/07/19(水) 10:35:35|
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「そんな畏れ多い御冗談はあまりにも・・・」高位にある僧侶が自分の宗派の元祖=祖師の境地を他宗派の僧侶に認めるなどと言うことは考えられないことだ。私も僧侶の端くれとして猊下の言葉を悪い冗談として受け流すことにした。しかし、猊下は少し高揚した表情で黒阿弥陀様に向って手を合わせ、小声で念佛を繰り返しているだけだった。そこに席を外していた副官の坊主が早足で歩み寄ってきた。
「猊下、お客さまが先ほどからお待ちですが」念佛の途中で声を掛けられた猊下は口元に力を入れて振り返り、隣りで念佛を唱えていた私と向い合った。
「今日は僧侶冥利に尽きる経験をすることができました。本来であれば貴方が歩んでこられた佛道をジックリと伺いたいのですが、出家とは言え俗世に身を置く身なので今日は諦めます。またお会いできる機会があれば遠慮なく声をかけて下さい。ところで御尊名は?」「大空(だいくう)ニンジンと申します」「ほう、般若心経ですな」猊下の挨拶が長くなり、副官の坊主は背後でイライラした顔になる。私も迷惑をかけることが心苦しくなり(副官の立場も判るので)、返事もソコソコに合掌して頭を下げた。
内陣の外に出て猊下と副官の坊主の後ろ姿を見送った後、安国殿(黒阿弥陀さまが祀られている堂宇)の天井画を鑑賞し、「黒本尊」と墨書きして朱印を押した札をもらって外に出た。
続いて大殿(一般寺院の本堂に当たる)の阿弥陀如来と法然上人、善導大師三尊像を拜観してから三解脱門(一般寺院の山門)を出ようとすると先ほどの副官の坊主が待っていた。
「猊下からこれを」副官の坊主は法衣の胸元から取り出した袱紗(ふくさ)を開くと1枚の紙片を手渡した。
「これは?」「左券(さけん)だそうです」「左券って允可証明じゃあないですか」「そのようですね」副官の坊主は表情を変えずに認めた。むしろ強い不快感が伝わってくる。私は困惑しながら2つ折りにしてある紙片を開くと中央に墨で「無宗正統念佛者」と大書してあり、それを挟むように墨の両手形が押してあった。
「1つ、伺っても良ろしいですか」「はい」私が左券を押し頂いて作務衣の胸元に納めると副官の坊主が敵意をあからさまにした目で訊いてきた。
「貴方はどこの宗派の僧侶で、どこの寺で住持しているのですか」この言葉遣いは完全に坊主業界の作法に反している。猊下と呼ばれるほどの高僧の侍者(じしゃ=副官)を務めている僧侶であれば名門寺院の子弟のはずだ。それがここまで態度を硬化させると言うことはかなり重大な問題を犯してしまったようだ。
「野僧は雑炊宗の坊主で、リクバク(陸幕)寺の役僧です」「はッ?」「書類上は曹洞宗に僧籍を置いていますが、全国各地で宗派を問わず修行に回っています」「要するに各宗派の摘み喰いですね」「まァ、良いとこ取りというところでしょうか」相手の敵意に反論するよりも半分茶化して同意した。
「左券は本山で何年修行しても与えられるものではありません。猊下の傍で長年務めても同様です。それを初対面でいきなり奪い取るのはあまりにも・・・」どうやらこの副官の坊主は自分が席を外している間に私が猊下に取り入って左券を書かせたと思っているらしい。それは完全な誤解だが説明しても言い訳としか受け取ってもらえないのは判っている。
「それは誠にすまないことです。しかし、野僧が持っていても役に立つことはありませんから安心して下さい。強いて言えば『まともじゃあない』と言う診断書みたいなものです」私の説明に副官の坊主も「ここが落とし所だ」と認識したようで、目には敵意を残したまま表情だけを緩めた。
「そう言えば猊下が貴方のことを『命懸けの念佛を修めてきた人だ』と仰っていましたが、どこかでそんな修行を経験してきたのですか」それが北キボールでの経験と拘置所での生活のことを言っておられることは判ったが、これも説明することは無駄だろう。
「野僧も元祖大師や猊下と同じような経験をしているのです。その後、元祖大師が『たった今、首を斬り落とされる覚悟で』と仰った念佛を塀の中の個室に閉じこもって唱え続ける日々を1年半送りました。そのことを指しておられるのでしょう」「・・・やはり『まともじゃあない』ですね」それだけ言うと副官の坊主は合掌して山内に戻って行った。猊下は法然上人の念佛の根底にある「武人の気風」を私の中に見つけられたのかも知れない。
- 2017/07/19(水) 10:34:04|
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昭和47(1972)年の7月19日はガダルカナルの海軍設営隊長として知る人には知られ、敬慕する人には敬慕されている岡村徳長中佐の命日です。75歳でした。
野僧は中佐と同郷の同期からその破天荒な生涯をかなり「痘痕も笑窪」「贔屓の引き倒し」を込めた熱弁で聞いたのですが、感想は一言「馬鹿じゃないの」でした。その時は同期が怒っただけだったのですが、かわぐちかいじ先生のSF戦記劇画「ジパング」にも登場して妙に魅力的に描かれていたところを見ると意外に根強いファンがいるのかも知れません。
岡倉中佐は明治30(1897)年に現在の高知県安芸市で生まれ、海軍兵学校に45期生として入営しました。同期にはワシントン、ロンドン海軍軍縮条約に反対する艦隊派の神輿に担がれた馬鹿皇族・伏見宮博恭大将の息子で病弱な癖に軍人になった博義大佐(昭和13年病没)や最後の戦艦大和の艦長・有馬幸作少将、さらにラバウルの軍事法廷で戦犯(捕虜殺傷=アメリカ軍は脱出が確認されているパイロットの生死が不明であれば一律に現地指揮官を有罪にした)判決を受けて昭和22(1947)年に銃殺された岡田為次少将などがいます。
海軍兵学校を卒業した岡村中佐は当時としてははみ出し者が集まっていた飛行士官に進み、その中でも常識的な人格者・山口多聞中将よりも極論を弄して勇名を馳せていた大西瀧治郎中将に傾倒したようです。
飛行士官として教官を務めるようになると慎重さに欠ける暴走的な操縦を繰り返し、何度も命を落としかけるようになり、同乗者を死なすような大事故を起こしても懲りることなく、むしろ暴走するアクセルを踏み込んでいきました。この時期の危険行為が勇猛果敢な武勇伝になっているようです。
昭和7(1932)年に海軍の三木卓中尉一派が犬養毅首相を暗殺した5・15事件では同調者の1名であり、要注意人物として監視下に置かれると昭和10(1935)年には自ら志願して予備役に編入され、中島飛行機に入社して航空機開発に取り組むことになりました。しかし、海軍でもはみ出し者であった暴走人間が民間企業でまともに務まるはずがなく会社の首脳と衝突して退社、海軍の先輩や友人の財政支援を受けて「富士航空」と言う会社を立ち上げたのです。その頃は陸軍が大陸で戦線を拡大させており、そのままでは蒋介石を支援する英米と衝突することが必至であることを認識していたのですが、それを商売の好機ととらえて航空戦力の近代化と充実を説きながら売り込みを図ったのです。それだけなら企業家としての経営手腕として評価もできるのですが、そこは岡村中佐のことなので信じがたい方向に暴走をしました。
真珠湾攻撃目前の昭和16(1941)年11月に充員応集として現役復帰すると第3艦隊第11航空艦隊司令部(名称は「艦隊」でも地上基地の航空部隊です)に配属されて開戦を迎え、半年後の昭和17(1942)年5月に第13設営隊長(=土木工事を任務とする陸軍で言う後方工兵部隊)としてガダルカナルに派遣され、飛行場建設に当たりました。
ガダルカナルから撤退して中佐に昇任すると旧オランダ領東インドの第21警備艇司令になり、昭和19(1944)年9月に帰国してからは築城航空基地の富高分遣隊長、岩国航空隊司令を歴任して敗戦を迎えました。ちなみに海軍兵学校50期生の実弟は海軍航空隊の名戦闘機パイロットとして勇名を馳せて大佐で鹿屋基地司令を務めています。
ところが暴走は敗戦後の方が全開で、帰郷するとそのままマルクス主義を信奉するようになって運送会社などを経営しながら昭和23(1948)年には合法化された日本共産党へ入党し、当時の執行部とも親交を持ち、高知県での組織作りや赤旗の販路拡大に努力しながら暴走の生涯を終えました。
当時の共産党は天皇制の廃止を主張していたのですが、それでも岡村党員は昭和天皇の全国巡幸に際しては赤旗を手に持って「天皇陛下万歳!」と絶叫したそうです。
土佐っぽの同期は岡村中佐の破天荒な逸話を並べて坂本龍馬に通じる人間的な魅力を強弁したのですが、坂本龍馬は「どうだ!魅力的だろう」と組織ぐるみで圧しつけてくる史実の曲解が目立ちますが、岡村中佐となると「こいつは馬鹿だろう」と断定せざるを得ません。型は破れば良いと言う物ではないのです。

かわぐちかいじ作「ジパング」より
- 2017/07/18(火) 09:49:00|
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「猊下、次のご予定が・・・」黒阿弥陀さまは開帳されていても一般拜観者は内陣の手前の柵までしか入れない。そのお坊さんは私を本尊の前に案内しようとしたのだが、それを副官らしい若い坊主が制止した。猊下と呼ばれるお坊さんは禅宗であれば禅師、浄土宗なら大僧正になる。そんな雲の上の高僧だと判り、流石の私も少し気を引き締めた。尤も私は幕僚長閣下の前でも緊張しない無神経な人間なのでそれ以上の反応はしない。
「次の予定は人間相手だろう。ワシは佛さまを佛さんに引き合わせようとしているんだ。それを邪魔することは許されんぞ」猊下の口調が厳しくなり副官の坊主は黙って数歩後退した。
「こちらが黒阿弥陀さんです。東照神君・家康公が守り本尊としておられたのですが、元々は岡崎の明眼寺(みょうげんじ)の本尊だったのです」「妙源寺(みょうげんじ)と言えば岡崎市大和(だいわ)町桑子にある浄土真宗高田派の寺ですよね」私の返事を聞いて猊下は呆気に取られたような顔で副官の坊主を見た。しかし、副官の坊主は無表情に視線を落しただけだった。
「その通りです。禅宗の方なのによくご存知で」「桑子には私の小学校がありまして妙源寺ではよく遊びました」「ほーッ、やはり特別な御縁がお在りのようだ」猊下は妙に納得してくれたがこれは単なる偶然ではないだろうか。ちなみに「妙源寺」は江戸時代になって漢字を替えた寺名で、親鸞が関東から京に戻る途中に滞在した記録がある。
「それでは家康公が拜領された経緯もご存知ですね」「はい、郷土史の授業で妙源寺に行った時、御住職から三河一向一揆で苦しんでおられた家康公が『武力鎮圧はしたくない』と祈願されて、それが成就したので岡崎城に遷座されたと聞きました。それが増上寺の御本尊になっておられるとは存じませんでしたが」「ふーん、やはり三河武士の魂が呼び寄せられたようですな」話が長くなることを察したのか副官の坊主は猊下に会釈すると小走りで場を離れた。おそらく次の予定者に遅れることを連絡をしに行ったのだろう。2人だけになると猊下は真顔で質問をしてきた。
「私は貴方のお顔をお見受けしたことがあるのですが・・・」「はい、テレビのニュースでしょう」「やはり・・・」猊下の濁した返事に私は黙って次の言葉を待った。
「アフリカで任務を遂行されて、日本では罪に問われて、全く御苦労なことでした」「日本の法律などはどうでも良いのですが、坊主としては不殺生戒を保てなかったことだけが残念です」これは誰にも明かさなかった本心だ。坊主は諸法無我の世界に生きており、保つべきは佛戒のみである。
「私も戦争中には徴兵されて大陸戦線に従軍しました。機関銃手として敵に銃弾を浴びせましたから、何人も殺傷しているでしょう。銃剣突撃で逃げようとしている敵兵を背中から刺殺したこともあります」これは思いがけない告白だった。戦時中の成人男性であれば誰もが経験したことではあるが、僧侶として最高位に上った方の口から聞くのは特別な衝撃がある。
「だから貴方が敵を殺したと聞いて私自身に重ね合わせてしまいました。ニュースや新聞を見て若し怯えた様子があれば拘置所に面会に行って念佛の教えを説こうと思っていたのです」「それは格別な御配慮痛み入り・・・」一応は礼を述べたが、猊下はそれが終わる前に言葉を続けた。
「ところが貴方には全く迷いがなかった。むしろ判決後の記者会見では阿弥陀佛と一体になっているかのような雰囲気を全身から醸し出していた。それで是非お会いしたいと願っていたのです」猊下は「会いたいと願っていた」と言いながらも防衛庁・自衛隊に面会を要請した様子はない。それを「縁に任せる他力本願」と理解するか「単なる社交辞令」と喝破するかは私の勝手だが、猊下が全身から醸し出している雰囲気が前者と納得させた。
「実はアフリカで若者3人を殺害した後、遺骸を安置して南無阿弥陀佛を唱えましたら西の方角から強い光が差して彼らを包んだのです」「ほう、私も中国戦線で戦死者の遺骸に念佛を唱えましたが何も起こりませんでしたよ」「単に夕日が差しただけかも知れませんが」「いや、佛が佛を念じたから来迎を賜ったのでしょう」猊下の言葉を聞いた瞬間、私は背後から巨大な腕に羽交い絞めにされた感覚に全身を硬直させた。その腕は全身の骨格を砕くように締め付けてくる。ところが骨格が粉微塵になるとそのまま大きく暖かい存在に取り込まれ、一体になった恍惚感に包まれた。
気がつくと猊下は合掌して深く頭を垂れていた。内陣の柵の向こうにいる参拜者たちも黙って手を合わせている。
「元祖大師と同じ境地に達せられましたね」猊下の言葉は黒阿弥陀さまの口から聞こえたようだった。
- 2017/07/18(火) 09:44:37|
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2007年の明日7月19日にアフガニスタンで布教を行っていた韓国のキリスト教団体「大韓イエス教長老会」の宣教師ほか23名が集団拉致されました。
アフガニスタンは長くイスラム原理主義組織であるタリバーンによって支配されていましたが、十字軍の再現を標榜するアメリカのキリスト教原理主義者と軍事産業が結託した侵略によって表面上は排除されたため、キリスト教によるイスラム圏支配の先駆けになろうと乗り込んだのがこの団体だったのです。
アメリカを中心とする欧米先進国はイスラム教の教義・戒律を徹底するタリバーンをキリスト教的民主主義を否定する抑圧として批判してきましたが、実際のイスラム教の戒律は砂漠で暮らす民がモーセの十戒を守っては生きていけないことを憐れんだアッラーが無理なく守ることができるように緩和したものですから、キリスト教的民主義の染まって奔放な自由や自己主張を求める一部のインテリ層などがキリスト教国の人権団体などに訴えていただけで、アフガニスタンの大衆にとってはソ連の侵攻によって余るほどの武器を入手して山賊紛いの略奪・暴行・殺害をはたらくようになった犯罪集団を排除し、治安を回復してくれた信頼すべき組織だったのです。
またタリバーンは行政組織ではないので(全土でイスラム教原理主義を実践・徹底していたので統治はできていた)アメリカが状況証拠だけで9・11などのテロの犯罪組織と断定した過激派組織であるアルカーイダを引き渡すことはできず、それを侵略の口実にしたのは日本を第2次世界大戦に引き込んだハル・ノート以上の暴挙です。
つまり韓国のキリスト教団体はアメリカが自己の侵略を正当化するために流布したタリバーンの圧政と住民の不満、戦争の勝利とタリバーンの壊滅を鵜呑みにしてアメリカやヨーロッパのキリスト教団体に先じて現地に乗り込んで実績を上げ、優位な立場を奪取しようとしたのでしょう。
半島の民族は古来から強力な後ろ盾を持って他国に乗り込んだ時、常軌を逸した振る舞いを繰り広げることが珍しくありません。例えば元の命令により日本に侵攻した元寇では対馬、壱岐に上陸すると武士だけでなく全ての住民を捕獲すると掌に穴を開けて縄を通し、海岸に引き出して男性と子供と老女は皆殺しにして、女性はその場で集団レイプした上、気に入った者を船に乗せて飽きるまで性行為を繰り返した後、海に投げ捨てたのです。
アメリカの要請でベトナムに派遣された時も韓国軍はゲリラ捜索の名目で村を取り囲むと対馬、壱岐で行ったのと同じように夫や父、兄や弟、恋人の目の前で少女から老女までを集団レイプし、それに反抗した男性を残酷に殺害しました。このためベトナムにはライダイハンと呼ばれる韓国兵との混血児が少なくとも5千人、多ければ3万人程度も存在しています。
日本ではアメリカ軍による住民やゲリラの虐殺として報じられていた遺骸写真の多くは韓国軍人によるものであるとされており、野僧もベトナム戦争に参加した韓国軍人は北ベトナムのゲリラの遺骸から削ぎ取った(本人は「生きているままやった」と自慢していました)鼻や耳を壁飾りにしているのを見たことがあります。
これらと同じようにこのキリスト教団体も邪教による圧政によって虐げられていた子羊たちを導く救世主になったような気分でアフガニスタンに乗り込み、イスラムの戒律に基づく風習や作法を一方的に否定してキリスト教の教義を広めようとしたのでしょう。
この事件を受けてタリバーンとアメリカの傀儡政権の間で交渉の席が設けられましたが、「人質の解放と引き換えにタリバーンの兵士の釈放」を要求してきました。ところが成立して6年が経過していても傀儡政権には単独で政治判断する権能はなく、アメリカに連絡する窓口以上の機能がなかったため交渉は長引き、3度の回答期限の延長の後、7月25日になってリーダー格の42歳の牧師が殺害されました。続いて4度目の延長回答期限が過ぎた31日にも29歳の男性が殺害され、翌8月1日からは韓国政府が直接タリバーンと交渉することになったのです。
この頃からタリバーンの要求はアフガニスタンからの韓国軍の撤退に変わり、実際はイラクへ派遣するため数カ月前に決まっていた撤退を発表したことで8月13日に女性2名、28日に女性10名と男性2名、30日に男女7名の全員が解放され、一応の解決を見ることになりました。
この団体を含む韓国のキリスト教団はアメリカやヨーロッパの教団が治安の不安などを考慮して派遣を躊躇している中、政府の制止を振り切って強行していたため同情よりも批判を受ける結果になったのです。
- 2017/07/17(月) 10:59:08|
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年末年始休暇でハワイに行って以降、私はノザキ家の宗旨である浄土宗の研究に励んでいる。私と佛教の関わりは中学時代に預けられていた祖父が曹洞宗の僧侶だったことで坐禅から始まったのだが、
得度を受けた時に祖父からは鈴木正三道人の勇猛禅の教示を受けた。その後、防府で田沼和尚に出会って浄土真宗の知識も加わり、久居での勤務中に浄土真宗高田派の村静照和上の大音声の念佛に傾倒して今ではそれが宗旨のようになっている。その一方で自らの手で人を殺め、拘置所で過ごす中、公家出身である親鸞の机上の空論のような教義には同じく公家出身の道元の暇つぶしの坐禅に通じる疑問も感じ始めていた。
そんな研究の手始めに読んだ行跡(あんり=伝記)によれば、法然上人は武家である押領司の嫡男として生まれ、父が赴任先の美作で土豪に襲われため、まだ10歳だった上人自身も弓を取って戦ったとあった。これこそ私には最も相応しい宗門ではないかと意を強くした次第だ。
「浄土宗と言うとやっぱり京都だな」行跡によれば上人は比叡山を下りて京都の東山で念佛を広めたとある。総本山も京都の知恩院だ。伊丹市にある伊藤家の墓参ついでの観光で知恩院と永観堂=禅林寺くらいには行ったが坊さんには会っていない。
「そう言えば久留米にも本山があったぞ」ここで突然、妙なことを思い出した。前川原の幹部候補生学校に入校して最初の外出の前、同期たちが地元の観光名所を調べていて、水天宮の総本社と並んで浄土宗鎮西派の大本山・善導寺の名前が出たのだが、その時は松田聖子の実家が住職を務めている梅林寺(藩主・有馬家の菩提寺)の話題で消えてしまった。尤も、大学出たて若者たちが古風に寺社参りに行くはずもなかった(古都・奈良にある航空自衛隊の幹部候補生学校でも大卒組は観光にはあまり関心がないとのことだ)。ただし、佳織なら私が誘えばついてきただろう。
そんな5月15日、都内にある浄土宗の大本山・増上寺の御開帳に参って本尊の黒阿弥陀立像と対面した。ゴールデン・ウィークは佳織と志織が休みではない上、ハワイ便はツアーで押さえられていて個人では航空券が手に入らず、これはその代わりのイベントであった。
「ふーん、これが徳川家の守り本尊さまかァ」愛知県岡崎市出身で三河武士の末裔を自負している私にとってはこの「黒阿弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来立像との対面には格別の思いがある。そんな感動を胸に手を合わせると隣りで高齢の夫婦が念佛を唱え始めた。
「なもあみだぶ あもあみだぶ なもあみだぶ なもあみだぶ、なもあみだぶ あもあみだぶ あもあみだぶ あもあみだぶ、あもあみだーぶ あもあみだーぶーつなー」聞き耳を立てていると「南無阿弥陀佛」を「なもあみだぶ」と4度ずつ2回繰り返した後、新たに2度唱えていた。そこで周囲の参拜者たちの念佛にも耳を澄ますと同様の作法で唱えている。つまりこれが浄土宗の念佛のようだ。
浄土真宗の門徒たちが「なまんだーぶ」と崩して唱える念佛よりも端正で妙な抑揚もなく、姿勢を正して阿弥陀如来に対峙している武士の礼節のように感じた。
そこで私も姿勢を正して少林寺拳法式に肘を張って手を合わせると深く息を吸って今覚えたばかりの作法で念佛を唱え始めた。
「なもあみだぶ なもあみだぶ なもあみだぶ・・・」4度目で切ることを忘れないよう指に順番に力を入れていく、そこで半呼吸置いて次の4度に移る。そして新たな呼吸で2度唱えた。つまり法然上人が勧めておられた「十念」だ。
「ほう、これは見事な念佛ですね」念佛を終えた時、後ろから声を掛けられた。気がつくと周囲の参拝者たちは呆気にとられてこちらを見ている。日頃は屋外で唱えているため気にならなかった村田和上式音声念佛も堂内ではかなりの騒音だったのかも知れない。そのことを注意されたのかと思い振り返ると高齢のお坊さんが微笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「貴方は作務衣を来て威儀細を掛けておられますが・・・それは禅宗の絡子(らくす)ですな」お坊さんは先ず私の服装点検から入った。お坊さんも禅宗で言う改良服(女性の小袖を参考にした袖が小さい法衣)を着て首にはエプロン型の略式の袈裟を掛けている。これを浄土宗では「イギボソ」と呼ぶようだが漢字は思い浮かばない。ただ禅宗の絡子には袈裟の紐を止める縛る輪が形式的に付いているが、浄土宗の威儀細にはないらしい。
「ウチの坊主でもそれ程の念佛を唱えられる者はいません。よろしければお話を聞かせて下さい」お坊さんの言葉に後ろに控えていた若い坊主が驚いた顔をした。つまり副官付きの偉いさんのようだ。
- 2017/07/17(月) 10:58:02|
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中国の文学者で2010年のノーベル平和賞受賞者である劉暁波さんが多臓器不全のため強制収容所から移送されていた遼寧省潘陽市内の医療刑務所(公的には「病院」と発表されていますが患者ではなく受刑囚として処遇されていました)で13日に亡くなったそうです。61歳でした。
野僧は反イスラム、反共産主義などヨーロッパの価値観の押しつけに過ぎないノーベル平和賞には全く権威を認めていないのですが、劉さんの受賞に関する中国当局の対応は「些か(いささか)」どころか徹底的に常軌を逸しており、その過剰反応に若干の存在理由を感じています。
野僧は天安門事件が発生した時、奈良の幹部候補生学校に入校中だったのですが、事件後に報じられた犠牲者や逮捕者の中には大学時代の恩師や留学生たちが所属していた北京外語学院の関係者も多数含まれていたためこの事件をかなり深く研究するようになったのです。
大学を中退して航空自衛隊に入ってからも帰国した恩師や留学生たちとは時候の挨拶を交わしており、当時はソ連が仮想敵であって鄧小平が民主化を進めていた中国には世論が友好的であったため中国から書簡が届くと保全係幹部が簡単な事情聴取をすることはあってもそれ以上の問題になることはありませんでした。
ところが事件後は中国当局が情報統制=事件の密封に完全を期すようになり、日本からの手紙や小荷物は私人から私人の一般郵便であっても漏れなく開封され、荷物を梱包している新聞の内容まで確認していたようでした。それは「事件に巻き込まれていないか?」と言う心配さえも対象になり、その一節を書いた書簡は相手に届きませんでした。結局、幹部候補生学校では職種の決定に中国人との文通が秘密保全上の問題になる可能性があるから「止めた方が良い」と助言=指導を受けて、返信が遅れるようになったまま疎遠にして縁が切れてしまいました。
劉さんは1955年に吉林省長春市で生まれましたが、文化大革命で都市部のインテリ階層やエリートたちを農村部の開拓に強制従事させる「上山下郷運動」が起こると親は地元の行政組織に入れて身の安全を図り、その後、吉林大学で文学を学び、北京師範学校に入って修士号を取得するとそのまま教職に就いたのです。
この頃から中国文壇で注目を浴びる存在になりましたが、まだ中国では文化面の価値が認められておらず、一部の学者や学生の支持を集めただけでした。続いてノルウェーのオスロ大学やアメリカのハワイ大学、コロンビア大学で客員教授を務めるようになり、その頃になって鄧小平の経済政策の成果で豊かさを実感するようになった中国人民の中に民主化を求める声が高まってきたのです。
1989年に北京で大規模な民主化要求デモが起こると即座に帰国してこれに加わりました。しかし、中国当局が態度を硬化させて武力鎮圧が確実になると、学生たちを解散させることと引き換えに逃がす時間的猶予と経路の確保を軍の幹部に要求し、その交渉中に流血の惨事が起きてしまいました。この時の運動の指導的立場にあった劉暁波、候徳健、高新、周舵の4人は「四君子」と呼ばれており、文化大革命の江青、張春橋、姚文元、王洪文の「四人組」とは真逆の評価がされているのですが日本では全く報じられていません(朝日・毎日新聞が文化大革命を礼賛していた時には「毛沢東の意志を受け継ぐ中国の若き指導者」扱いでしたが)。
事件後、この四君子は反革命罪で逮捕・投獄されますが、他の3人が外国からの圧力で釈放後に国外へ宗っごくしている中、劉さんだけは1991年に釈放されてからも中国に留まり、民主化を要求する文筆活動を続けたのです。その結果は言うまでもなく逮捕・投獄の連続であり、2010年には「国家政権転覆扇動罪」で逮捕され、懲役11年の判決を受けました。この年にノーベル平和賞の授与が発表されたのですが、中国当局にとってはこれによって劉さんを国外に出すことができなくなり、収監によって人民の目に触れることなく抹殺する以外の方法がなくなったのかも知れません。
実際、中国当局の劉さんを隠蔽しようとする処置は狂気の沙汰で、劉さんのノーベル賞受賞の記事が隅に小さく載っている新聞で陶製の佛像を梱包して送ったところ検閲で新聞が抜かれて割れてしまい、そのことを知らせてきた手紙の返事に劉さんの記事の件を述べるとその書簡も届かなかったのです(それも「最近、中国では劉と言う作家の問題で検閲が厳しくなっているようだから」と書いただけです)。
多分、劉さんは服役中に発癌物質を投与され続け、その結果の病死だったのでしょう。心から冥福を祈ります。
それにしても国連の人権委員会は日本を非難する前に常任理事国・中国の実態を解明するべきではないでしょうか。
- 2017/07/16(日) 10:23:30|
- 追悼・告別・永訣文
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「マミィ、お兄ちゃん、私のこと嫌いになっちゃったのかなァ」その夜も佳織が帰宅するのを待っていた志織が真剣な顔で問い掛けてきた。今日、志織が祖父に連れられてホノルル港に淳之介をで迎えに行ったことは知っている。5年ぶりの兄との再会は待ちに待った希望が実現する最高の時間だったはずだ。それがこれ程、落胆しているのはかなり冷淡なことを言われたのかも知れない。
「淳之介は喜んでくれなかったの」「うん、あまり・・・私が抱きついたら抱き締めてくれるって思ってたのに」志織の願望は少し早熟なのではないかと心配になるが、恋い焦がれている兄に再会した妹の感情の爆発なのだからと理解することにした。
「それにお兄ちゃん、マミィのことを佳織さんって呼んだの」「佳織さん?」この他人行儀な態度に佳織は淳之介の真意が判ったような気がした。沖縄へ行って5年の間に父は殺人犯として告発され、1年半も長い裁判の間を徹底的な批判を受け、最終的に無罪になったとしてもそのことを知らせる報道はないに等しかった。ましてや沖縄の学校教育は反戦平和の美名に塗り替えた反自衛隊教育が常態化しており、戦争犯罪者=刑事被告人の父を持つ事実を抹消しなければ高校進学もままならなかったことは想像に難くない。そうして入学した高校で今更、妹の存在を暴露することは淳之介の立場ではできないのだろう。問題はそのことを志織にどう理解させるかだ。
「志織、淳ちゃんは沖縄で大変な目に遭ったのよ」「大変な目?」「うん、沖縄ではお父さんがアフリカでやったことを犯罪だって決めつけられて、学校でも先生に悪く言われたはずよ」これは陸上幕僚監部時代に読んでいた沖縄の地元2大紙の記事からの推察だ。
「だってダディは味方を守るために戦ったんでしょ」「それが世界の常識だけど、沖縄では自衛隊がやったことは全て悪いことになるんだよ」ここまでくると流石に佳織も自身がなくなってくる。ところがこれが淳之介が経験した沖縄の学校教育の実態だった。
「でも自衛隊は沖縄も守っているんじゃあないの」「確かに自衛隊は沖縄を守っているんだけど、沖縄で反対する人たちは自衛隊があるから攻められるって思っているんだよ」「変なところだね」志織は納得はしないが呆れてはしまったようだ。
「そんな学校に通っているから、淳ちゃんは私たちの家族を止めなければいけなくなったんだね」「自衛隊の子供だから?」「うん、だから志織のことも内緒にしなくちゃいけないんだよ」「私、お兄ちゃんのこと大好きなのに」そう言って涙ぐんだ志織を佳織が抱き締めた。
ハワイでの漁業実習を終えた海邦丸5世がホノルル港を出航する朝が来た。この日は平日だったが、佳織は半日の休暇を取り、志織も学校に事情を話して半日だけ休ませて見送りに駆けつけた。
「玉城、ハワイの親戚と挨拶しておけ。次にいつ会えるか判らないからな」今日も沖縄出身の日系人会の見送りの式典が行われたが、それが終わると生徒たちとの談笑が始まった。そんな中、主任教官が声をかけて背中を押した。淳之介は主任教官が何を察しているのか困惑しながら佳織、志織、ノザキ中佐の許へ歩み寄った。
「淳之介くん、気をつけて帰ってね」母であった佳織の挨拶は他人のものだった。到着した時に志織にとった態度で自分の立場を察してくれたことを推理できる程度には淳之介も成長している。
「淳之介、安全な航海を祈る。グッド・ラック」不思議な縁ができたノザキ中佐とはここでも握手した。佳織が来ている自衛隊の制服とノザキ中佐の軍服の階級章を見比べて元自衛官の息子としての知識をつけ加えた。そんな大人たちの横で志織は唇を噛み締めながら順番を待っている。ノザキ中佐の念入りな握手を終えて前に立つと意を決した目で口を開いた。
「淳ちゃん、私のファースト・キスをあげる」志織はそう言って目を閉じた。両手を胸の前で結び、祈りを捧げる乙女のような姿勢だ。佳織は驚いた顔で2人を見比べたが、淳之介の冷めた目を見て固く口を閉じた。
「志織、それは駄目だ」淳之介の返事に志織は驚いたように目を開けた。
「淳ちゃん、私のこと嫌いなの」「俺には沖縄で待っている人がいる。キスは帰ってその人にするんだ」志織の目が驚きと幼い嫉妬の色に変わった、
「志織もファースト・キスは好きな人に出会うまで大切に取って置きなさい」最後にようやく兄らしい言葉をかけることができた。
- 2017/07/16(日) 10:22:02|
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16日強の航海で淳之介たちはハワイのホノルル港に到着した。観光や旅客を目的とする船であれば到着時間も誤差なく調整するのだが、実習船は数時間程度は許容範囲内なので海邦丸5世は夕方近くに入港した。港では沖縄出身の日系人たちが歓迎してくれており、生徒たちは海軍の登舷礼(とうげんれい)に倣ってデッキに整列してそれに応えた。
海邦丸5世が接岸するとキャプテンと主任教官、そしてクラス委員長の順番で上陸して首にレイをかけられた。それに続いて生徒たちがラッタルを下っていくと淳之介は高齢者が多い日系人たちの横で少女が誰かを探すようにこちらを注視しているのに気がついた。
「志織・・・まさかな」淳之介にはそれが久居で別れた妹の志織に見えた。
「ウチナー(沖縄)水産高校とシィーナン(翔南)高校のウミンチュウ(海ん衆)の卵の皆さん、ハイサイ(こんにちは)、ハワイにメンソーレ(いらっしゃいませ)さァ」生徒が整列すると日系人代表が挨拶を始める。高齢の代表は無理にシマグチ(沖縄方言)にしているが昔の実習生たちはこの挨拶で急性のホームシックになるほど感激したらしい。しかし、淳之介は日系人たちの影でこちらを見ている少女が気になって仕方なかった。
「いた!淳ちゃんだ」すると少女が歓声を上げた。その視線は完全に淳之介を向いている。少女はこちらを指さしながら隣りに立つ航空自衛隊の夏制服を着た老人に何かを報告しているようだ。それでも日系人代表に続いてキャプテンとクラス委員の挨拶が続いているため、余り視線を反らすことはできない。仕方ないので淳之介は話を上の空にして頭の中だけで思案した。
「やっぱり志織かァ・・・どうしてハワイにいるんだ」新しい母の佳織がハワイ出身であることは知っているがこの場には来ていない。然も、志織は紺色のズボンに水色の半袖、肩に紺色の階級章を付けた初老の日本人男性と一緒にいる。
この後、淳之介たちは2001年2月10日にアメリカ海軍の原子力潜水艦・グリ―ンビルに衝突されて沈没し、教官と生徒9名が犠牲になった愛媛県の宇和島水産高校の実習船・えひめ丸の慰霊碑に参拜に行くだけのはずだ。そこで淳之介は観光バスが到着するまで志織と会う許可を教官から取った。
船内に戻る同級生たちと別れて淳之介が歩いていくと志織は手を振って駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん」志織が迷わず淳之介の胸に飛び込んでくるとデッキの上で同級生たちが歓声を上げた。志織は5年間会わない間に身長が伸び、小柄な同級生の女子とあまり変わらないから恋人との対面に見えても不思議はない。しかし、あくまでも兄妹の再会だった。
「どうしてハワイにいるんだ」「マミィが転勤になったの。今日はグランド・ダディに連れてきてもらったんだよ」志織の紹介を受けてノザキ中佐が横に立った。
「君が私の孫のジュンノスケかね。ハワイにようこそ」ノザキ中佐の日本語は少し癖があるが、理解できないほどではない。淳之介は縁が切れている義理の祖父・ノザキ中佐が差し出した大きな手を握った。こうして考えてみると新しい母の父はアメリカ空軍の軍人だったはずなので、これは航空自衛隊ではなくアメリカ空軍の軍服なのだ。ただし、日本の水産高校ではえひめ丸の事故を受けてアメリカ海軍を敵視する教員もいるので要注意だが空軍なら許されるだろう。
「佳織さんは?」淳之介としては元母をどのように呼ぶかで迷ったが、やはり他人行儀になった。
「マミィはイラクの戦争が激しくなっているから中々帰ってこられないの。それでもお兄ちゃんの船が到着する時間を港湾事務所に訊いてくれたんだよ」「ふーん、やっぱりアメリカ軍の仕事をやっているんだね」淳之介の記憶では佳織が3佐になっていても父は1尉のままだった。その後、志織を連れてアメリカに留学したことまでは知っている。つまり自衛隊の国際派としてエリート街道を走っているようだ。
「お兄ちゃんには休みはないの」観光バスが港に入ってきたのを見て志織が真顔になって訊いてきた。
「あるけど単独行動は認められていないんだよ。教官に言えば相談には乗ってくれると思うけど、俺だけわがままは言いたくないんだ」淳之介の返事に志織は泣きそうな顔になった。しかし、淳之介としては高校に入学した時点では玉城姓になっており、中学校の配慮で父親の身上は隠したまま入学しているので、この妹の存在を明らかにすることはできないのだ。
「出発の時、見送りに来るよ。良いでしょ」淳之介は手で返事をしながらバスに向って歩き出した。
「ハワイ在住の従妹」バスの中で同級生たちから質問攻めにされたがこれで通した。

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- 2017/07/15(土) 09:27:43|
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「今夜は日付変更線突破祭りだ!」往路も後半に入ったある日、生徒を集めて教官が発表した。日付変更線はイギリスのグリニッジ天文台を起点とする緯度の180度にあたる日付を変更する基準線で、この線を越えた瞬間に日付が1日戻ることになる。それを盛大に祝うのは実習船の伝統なのだ。
本来であれば午前0時に越えれば完璧なのだが緯度15度ごとに1時間ずつ遅らせている時計で丁度午前0時になるようにするのは少し難しい。逆に緯度に関係なく日付で祝う実習船もあるが、この船では船橋(ブリッジ)からの連絡で祭礼が開始される。
「出し物のくじ引きをするぞ」浮かれて騒いでいる同級生たちにクラス委員がこよりで作ったくじを瓶に入れて持ってきた。今夜は生徒の勤務は免除され、全員で船乗り気分を満喫できるのだ。
「俺、裸踊りは嫌だな」「風呂に一緒に入ってるんだから今更、関係ないだろう」「でも写真が残るんだぞ」生徒たちは先輩から体験談を聞いており、中でも全裸で墨を塗って南洋人に扮して踊る出し物は写真も見せられたが、やはり羞恥心が先に立ってしまう。先輩の中には男性自身を勃起させて踊った剛の者もいたらしいが、今期にはそこまで度胸が据わった奴はいそうもない。
「ほれッ、くじを引けよ」クラス委員が背中を向けてヒソヒソ話をしている同級生の輪の中にくじを立てた瓶を突っ込んだ。それでも生徒は誰も手を出さない。そこで淳之介が意を決して1本引いた。
「よし、俺は歌だ!」そう言いながら淳之介が捩った紙を広げると「当選!ヌード・ダンサー」と言う赤い文字が目に飛び込んできた。それを覗き込んでいたクラス委員は安堵したような顔で全員にくじを引かせ始めた。
夕食後、生徒たちは食堂で日付変更線を突破する時間を待った。本当の瞬間は船橋にいる者にしか判らないので、そこはパーティーの準備が完了した時間を見計らってのことになる。
「間もなく日付変更線、緯度180度を突破する。乗員は時計を1時間戻し、日付を1日戻す準備をせよ」そこにチョフサーの声で船内放送が入った。続いて「1分前」「30秒前」「10秒前、9、8、7、6、5、4、3、2、1」とカウントが流れ、「時間」と言った瞬間、生徒たちは教えられた通りに立ち上がり、意味不明の「万歳」を叫んだ。
「それでは航海の安全を祈願して海神(わだつみ)に楽しんでいただく演芸を披露してもらおう」主任教官の音頭で伝統行事の日付変更線突破祭りの幕が開いた。これが水産大学や商船大学の実習船であればこの夜だけは飲酒が許可されるのだが未成年の高校生では炭酸飲料だけだ。それでも若い教官が弾くギターに合わせて歌が始まった。
「僕が生まれた この島の海を 僕はどれくらい 知ってるんだろう・・・」これは八重山出身のグループ・BEGINの「島人(シマンチュウ)の宝」だが、海を唄った2番からだった。
「汚れてく珊瑚も 減ってゆく魚も どうしたらいいのかわからない・・・」ステージの上ではくじで当たった生徒が熱唱しているがこれは生徒の愛唱歌なので全員のコーラスになっている。
「・・・テレビでは映せない ラジオでも流せない 大切な物がきっと ここにあるはずさ それが島人ぬ宝」祭りは最初から盛り上がった。こうなればくじで決める必要もなく勝手にステージに上がって唄う者が次々と現れる。その中にはキャプテンまで入っていた。
「われは海の子白浪の 騒ぐ礒辺の松原に 煙たなびく苫家(とまや)こそ わが懐かしき棲家(すみか)なれ」ここで拍手が起こったがキャプテンは無視して唄を続けた。
「産まれて潮に湯浴みして 波を子守の歌と聞き 千里寄せ来る海の気を 吸いて童(わらべ)となりにけり・・・いで大船を乗り出して われは拾わん海の富 いで軍艦に乗り組みて われは護らん海の国」運輸省(当時)の海員学校出身のキャプテンには「この歌を若い船乗りに唄い継いでもらいたい」と言う強い思い入れがあるらしい。
この歌の間に淳之介たちダンサーは食堂への通路で互いの身体に墨を塗り(特に男性自身は念入りに)、頭に棕櫚を編んだ冠をかぶって準備していた。
「ここで南洋からの来客です」歌が切れ目になったところで若い教官が紹介した。同時に淳之介ほか5名のダンサーが乱入する。これも大学の実習船では本格的に南洋の打楽器演奏を流すのだが、この船では若い教官がギターでカチャーシを弾いて、それに合わせて腰を前後に振り始めた。その時、何故か淳之介の男性自身が起ってしまい場内には盛大な拍手喝采が沸き起こった。
- 2017/07/14(金) 09:20:00|
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「玉城、交代だぞ」淳之介が海邦丸5世の生徒居室の2段ベッドで仮眠していると同級生が起こしにきた。この実習航海では航海を選択している生徒は交代で船橋(ブリッジ)や甲板員(セーラー)、機関なら機関室での勤務に当たっている。船橋での勤務は昼間なら見渡す限りの大海原の中で船を走らす醍醐味にウミンチュウの血が騒ぐが、深夜の当直は灯火を抑えた船橋で真っ暗な海ばかりを眺めているので睡魔との闘い以外の何物でもないのだ。このため淳之介も夜勤用に配られている缶コーヒーを飲んでから船橋に向かった。
「チーフ・オフィサー、玉城、交代します」「おう、まだ寝起きが良いな」淳之介が船橋の先任士官であるチーフ・オフィサー(=1等航海士)に申告すると妙な誉め方をしてくれた。航海が長期化してくると交代勤務の生活リズムに慣れる一方で疲労と睡眠不足も蓄積し、起こされてもそのまま眠ってしまい拳骨で起こされる生徒が出るらしい。
「お前はワッチ(見張り員)だ」船橋で生徒の指導に当たっている教官が双眼鏡を渡しながら命令する。淳之介は船橋の窓際に歩み寄って双眼鏡を目に当てて前方を注視し始めた。その時、船体が大きな波に持ち上げられて落とされるような感じがして「ドーン」と言う音を立てた。これは巨大な海流に逆行して航海していることで起きる現象だが、これで参ってしまっている者も数人いる。
「玉城、お前は船酔いしないのか」「はい、今のところ大丈夫です」「一度、嵐を経験しないと本当に大丈夫かは判らんが、1週間経っても吐かないようなら安心して良いな」淳之介は幼い頃、父に連れられて小豆島に渡ったのが初航海だったが、あの時も船酔いはしなかった。シマンチュウ=沖縄県人は本土の農耕人よりも海洋民族の血統が濃いので半分はシマンチュウの血が流れている淳之介にとっては当たり前なのかも知れない。
「テンパ(操機長)、定時点検、異常ありません」そこに機関を選択している生徒が報告に来た。船ではそれぞれの役職をイギリス伝来の英語で呼ぶことが多いが色々な略語もある。ただし、略語は船ごとの癖があるので生徒には正式な英語名で呼ぶように指導していた。
「おう、お前も1人前のエンジニア(機関士)になったみたいだな」エンジンなどの機関を操縦する操機長は生徒を冷やかすように注意した。この船では操機長をテンパと呼ぶが、それならチーフ・オフィサーはチョフサーと略す。流石に船長は敬意を込めて正式にキャプテンだが、食堂の主・司厨長は日本語でシチュージとなり、ハワイに入港する時、同乗する水先案内人=パイロットはパイラだ。こうした雑談を交わしながらも神経は持ち場を守っている。そんな船乗りの気構えを学んでいることが淳之介には感激だった。
「前方に灯火が見えます」双眼鏡で前方を監視していた淳之介はチョフサーに報告した。
「レーダーで捕捉していた船団だな」「かなり大きな船団ですね」暗い船橋内で乗組員同士の確認が始まった。その間にも深夜の太平洋には不似合いな強い照明が肉眼でも確認できるほどハッキリしてきている。
「ここ数年の航海で遭遇している中国の漁船団ですね」「奴らには武装した警備船が同行しているから接近しないように少し迂回しよう。面か―じ。赤10(右に10度)」「面かーじ。赤10」チーフ・オフィサーの命令に操舵員が復唱した。それでも急な操舵ではないので船体が傾くことはない。
「船の間隔が狭すぎて隻数は確定できません」「1隻が大きいから席数が少なくても根こそぎの乱獲なのは間違いないな」「ここの海域で乱獲されては日本近海の漁場は先細りになりますね」チーフ・オフィサーと指導教官も双眼鏡で確認しながらそれぞれの見解を述べ始めた。淳之介にとってはそれも生きた学習だ。尤も、それは航海と言うよりも国際情勢だろう。
「捕鯨のキャッチャーボート並みの大型船ですから、かなり巨大な網を深海から一気に引き上げて一網打尽ですよ」「おまけに武装警備船が来ているのだから国家ぐるみの乱獲と言うことだ」中国は好調な経済を背景に海軍を急速に強化しており、東シナ海から南シナ海まで全ての海域を太平洋に進出する海路にしようとしていることが玉城家でとっていた本土の新聞に載っていた。
「こちらの所属確認の電文が入ったら『リューキュー(琉球)』って答えた方が安全じゃあないですか」船橋の空気が重くなってきたので通信員が冗談を口にした。琉球王国は大陸と日本に朝貢して臣従していたので、両方から属国と思われてきた。この通信員の冗談はそんな琉球人の悪知恵の名残なのかも知れない。
- 2017/07/13(木) 10:14:05|
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こちらは野僧が13年前に幽霊の団体しか住んでいなかった築250年の古民家に開庵する前から棲んでいた野良婆さんです。
この建物は野僧が入るまで25年以上も空家であったため雨戸を開けると中から蝙蝠(もうもり)の群れが飛び出し、懐中電灯を点けて踏み込むと足元を野良猫が集団で駆けて行きました。おまけに土間では蛇=青大将がトグロを巻き、浴室では巨大なヒキガエルが鳴いていました。
その後、内装の工事が始まると蝙蝠は天井裏に移動し(「となりのトトロ」のススワタリ=真っ黒くろスケ状態)、野良猫は床下に住むようになったのですが、この野良だけは室内に忍び込み、食べ物は出していないのでビニール・ゴミに残っている食べ物のカスを舐めるようになったのです。
仕方ないので水鉄砲やBB弾で何度も追い出しましたが効果がなく、それで深夜に天井裏から忍び込んだところを待ち受けて撲殺するつもりで叩きまくると命からがら逃げ出しました。
その後、しばらく姿を現さなかったのですが老齢を迎え、走ることもできなくなると猫も昔の棲み家に戻りたくなるらしく、最近は縁側の上でボーとしているのを見かけるようになりました。
流石に雨戸の戸袋をよじ登ろうとして落ちてしまうところや追いかけても走れずに必死に歩く姿を見てしまうと老人介護の対象と考えるようになり、最近は要求すれば餌を与えるようになっています。
幸いなことに飼い猫の音子(ねこ)と若緒(みゃお)も存在を無視していて至近距離を素通りし合っていますから、高齢猫虐待は起きないでしょう。
ところで若い野良猫の世園子(よそのこ)とこの野良婆さんは毛の色分けが同じなのですが、生息期間13年を超えた高齢猫が出産することが可能なのか?孫だとすれば母猫はどこに?相変わらず下らないことに頭を悩ませています。
- 2017/07/12(水) 09:48:01|
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