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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月1日・サハリン上空で大韓航空機が撃墜された。

昭和58(1983)年の明日9月1日に当時はソ連領だったサハリン上空で大韓航空007便のボーイング747が撃墜されて乗客と乗員269名が死亡しました。
この日、野僧が勤務していた那覇基地でも早朝4時に非常呼集が発令され、戦闘機に搭載する弾薬を搬出する作業員に当たっていたため弾薬作業所に急行したのですが、その非常呼集のラッパに長音2回の訓練冠譜が付いていなかった=実動であることには誰も気づいていませんでした。
通常の訓練非常呼集であれば弾薬を搬出すれば待機になり、訓練が終了して機体から卸下した弾薬が戻ってくるのを待つのですが、この日は弾薬だけでなくミサイルも搬出し(これは野僧を含めて専門の教育を受けた隊員のみが実施する)、それが終わった時点でそれぞれの職場へ送り返されました。つまり全戦闘機が完全武装した状態で待機する異常事態だったのです。
また後年、野僧は兵器管制幹部として小牧の第5術科学校で教育を受けることになったのですが、同期には稚内や網走で勤務していた警戒管制員がいて、この事件の一部始終の目撃談を語ってくれました。
007便はニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港から韓国の金浦空港に向かう予定で、8月31日の午後1時5分(日本時間)に離陸し、途中で給油のためアラスカのアンカレッジ空港に着陸して乗員の交代を行ってから午後10時に離陸したのです。なお、その5分後には大韓航空015便のボーイング747も離陸しています。
007便は離陸直後から進路に誤差が生じていたのですが、アラスカの各管制ポイントや空軍はそれを察知していながら風の影響などによる通常の誤差の範囲内と判断して警告などは行わなかったようです。ところが007便は誤差を修正することなく飛行を続けたため、飛行計画で申請していた航空路=R(ロメオ)20を外れ、日付が変わってからカムチャッカ半島の通過する形で領空・領土を侵犯しました。この時、ソ連軍は防空レーダーで探知して戦闘機を発進させたことになっていますが、「当時のソ連軍の防空レーダーは稼働率が極めて低く、24時間の連続運用はできていなかった」と言うのが我々の中では定説であり真偽は判りません。
そして午前2時30分過ぎに樺太に接近したのですが、航空自衛隊では北海道東部・北部の各サイトのレーダーが007便を飛行経路から外れた位置で探知したため国籍不明機として重点監視していました。それでも飛行計画上は2機が接近してこなければならない大韓航空機が1機しか確認できず、「この国籍不明機が大韓航空機ではないか」との仮説の下に北部航空方面隊を通じて米軍にも通知したのですが何故か回答はないままだったそうです。
野僧は退役後も守秘義務に該当する経緯からこの時、アメリカ軍と自衛隊が傍受していたソ連軍の防空指揮所と戦闘機のパイロット(中佐だった)の更新記録を聞いたことがありますが、ソ連のパイロットは「コーションランプを点滅させている」「大型機だ。747だろう」「客室のライトが見える」と地上に報告していたので、防空指揮所は「民間の旅客機である」ことは認識しており、それを知った上で撃墜したようです。しかもパイロットは火を噴いた瞬間に「ウラー(万歳)」と歓声を上げ、空中分解しながら落ちていく様子を興奮気味に実況中継していましたから、ロシア語がある程度判る者は憤怒すると同時に恐怖すると思います(しました?)。
ソ連軍としては大韓航空015便が正規の航空路を飛行しており、その前を同じくアラスカから現れた機体が接近してくるのをアメリカ軍の偵察機と判断して軍事行動を取ることを決定したと言われています。
事件の直後にソ連軍は民間旅客機を撃墜した事実を認めず、これに対して日本政府(中曽根内閣)が「傍受した交信記録を公表する」と脅しをかけると日本の領空に攻撃態勢で接近する威示行動を繰り返しました。このため航空自衛隊は事実上の戦闘態勢に入り、日本政府が交信記録の一部を公表してソ連が撃墜を認めるまで弾薬とミサイルを搭載した戦闘機が緊急発進を繰り返していたのです(当時は通常の緊急発進ではミサイルを搭載していなかった)。
各レーダーサイトでは明らかにミサイルを発射する態勢で迫ってくるソ連軍機を監視しながら「本当に射ってくるのか、そんなはずはない。しかし、奴らは旅客機を撃ち落とした」と自問自答しながら「殺るなら殺れ」と腹を括っていたそうです。
この事件は発生直後から航法装置の入力ミスやアメリカの陰謀などの諸説が出ていましたが、ソ連が崩壊して密かに回収されていたブラック・ボックスなどの物的証拠が提出されても完全には解明されていません。
  1. 2017/08/31(木) 09:27:02|
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振り向けばイエスタディ932

その日の午後、李大尉は師団司令部の法務官から呼び出しを受けた。用件は言うまでもないが、その経緯は監理部長からの相談なのか、連隊から報告を受けた師団司令部の指示なのかは判らない。
「李大尉、入ります」「おう、素行不良になった自慢の娘が来たな」中佐は妙な軽口を叩きながらアフガニスタンでの部下を迎え入れた。
「まあ、座れ」中佐は敬礼も省略して応接セットのソファーを勧める。李大尉は腹部を圧迫しないように気をつけながらユックリと腰を下ろし、中佐はそんな姿を黙って見守っていた。
「君の妊娠について連絡を受けた。3カ月と言うことだったな」「はい、そのように診断されました」中佐も子供が数人いるはずなので妊娠期間の計算方法はある程度知っているはずだ。起算日(=妊娠1日目)は性交渉があった日ではなく最終月経の初日であり、1カ月は28日で計算する。これが判っていればアフガニスタンで妊娠したことは明らかだろう。
「相手はやはり牧村なのか」「はい、そうです」中佐は生真面目な李大尉であれば未婚の母になったことに自己嫌悪を感じて返事をためらうと予想していたらしく、ハッキリ即答すると困惑した顔になった。しかし、今日の李大尉は自信に満ち、むしろ母となる覚悟をかもし出している。これは「この妊娠を待っていた」と言うことのようだ。
「その様子では彼にレイプされた訳ではなさそうだな」「はい、合意の上で・・・むしろ私からの希望で関係を持ちました」ここまでアカラサマに回答されると中佐としては事情聴取と言う大上段に振りかぶった態度が維持できなくなる。
「彼の素性についてはどこまで知っているんだね」「はい、ほぼ全てを知っていますが、お話しすることはできません」「それは服務規律上の審問に対する陸軍士官としての報告義務であってもかな」これは口調こそ固いが法務官としては世間話的な質問なので李大尉も同じように答えた、
「はい、今回の件が問題に・・・」「だったら退役すると言ったんだそうだな」「はい・・・・」中佐の口調が少し厳しくなったのを感じた時、李大尉の喉には胃液がこみ上げてきた。
「失礼します」それだけ言うと腰のポケットから密封できる袋を取り出し、開くのと同時に中に嘔吐を始めた。普通の男性であれば顔を背ける光景だが、中佐は立ち上がると李大尉の背後に回り、背中をさすり始めた。
「私としては君をこのようなことで退役させたくはない。おそらく牧村も軍人、アメリカ軍で情報に関する特殊任務についている中級士官ではないかと考えている。だから君は彼の素性をあきらかにできないんだろう。返事はしなくても良い」その手と同じ言葉の温もりに李大尉は涙を浮かべたが、この件が服務規律上の問題になればアフガニスタンでの上官だった中佐にも責任追及が及びかねない。その迷惑を思うと感謝の代わりに謝罪していた。

「私、妊娠しました」その夜、李大尉は実家へ帰って両親に報告をした。すると2人は顔を見合せて絶句したままだった。その沈黙を払うように母に目で促された父が質問を返した。
「タイガーとはどこで会ったんだね」「アフガニスタンで外交部の推薦を受けた通訳として働いていたのよ。本当は今回の交渉が成功したのはあの人の力なんです」娘の説明に両親はうなずきながら真顔になり、教師らしく質問責めを開始する。
「それで軍は入籍していないお前の妊娠についてどう言っているんだ」「夫婦と言ってもアメリカの教会で愛を誓っただけでは認められないでしょう」アメリカでは教会で正式に結婚の契約書類に署名すれば神父・牧師が手続きを執り、公的に結婚が認められるのだが、2人は個人で祈っただけなので手続きは何も踏んでいない。しかし、仕事で本名も明かせない夫にそれを求めることは妻として自分が許せない。両親の心配に娘も深刻な顔になり、答えが出ない問題を考え始めた。すると両親は呼吸を合わせたように笑顔になった。
「一人娘が孫を産んでくれるんだ。これほど嬉しいことはない」「待ちに待った孫が抱けるのね。カミよ、この御恵みに感謝します」呆気にとられている娘の前で両親は勝手に感激を語り始めた。
「今のままならその子に『李』の姓を名乗らせることができるんだろう。ありがたい」韓国では儒教が社会制度にまで影響しているため、結婚しても夫婦は親の姓のままで子供は父親の姓になる。それが未婚であれば母=李知愛の姓になるのだ。意外なところで未婚の母も歓迎を受けてしまった。
ち・李英愛イメージ画像
  1. 2017/08/31(木) 09:25:38|
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振り向けばイエスタディ931

アフガニスタンへの派遣から戻った李知愛大尉は外交部で行われた事件の詳細報告の作成を終えて2カ月ぶりに連隊本部に戻ると今度は留守中に溜まっていた書類の整理に追われることなった。日報的な書類については部下の下士官が作成しているが、その事務処理の代行機能が働いていない。同僚の士官たちは自分の業務が多忙であることを示すため公務不在者の業務を平気で放置している。これが金大中政権以降の韓国軍の現状・体たらくなのだ。
「李大尉、君からの書類が滞っていて困っている。早急に提出してくれ」監理部長も不在間の業務代行を指導しなかった自分の責任は棚に上げて李大尉本人に処理させるつもりのようだ。
本来であれば留守中の業務処理の状況を確認した時点で休暇を与えられるはずなのだが、現在の韓国軍では民間企業が韓国バブルで社員を酷使しているのに合わせて兵士の休暇を制限する方向で指導されており、ましてや士官が私的理由で休暇を申請することが許されるはずはなかった。
「それではお先に」「大尉、お先に失礼します」「後はよろしく」書類の山が幾分、低くなってきた頃、課業時間終了後も残業をしていた同僚たちが一斉に帰っていった。窓に目を向けるとブラインドの向うの空はすっかり日が落ちて暗くなっている。李大尉は小休止するため廊下の自動販売機で缶コーヒーを買いに行こうと立ち上がると軽いめまいと同時に悪寒が背中を走った。李大尉は椅子に座り直すと今度は吐き気が起こり、口を押さえてトイレに向かった。
「ゲーッ、ゲーッ、ウェーッ」便器に吐いたが夕食を取っていないので出てくるのは胃液だけだ。したがって嘔吐はすぐに終わったが、悪寒は続いている。疲労からくる体調不良の可能性も考えられるが、李大尉の胸には別の期待が湧き起こってきた。
「月経はアフガニスタンで1回、あれから・・・」女性としての知識を1つずつ確認していくと期待は確信に変わってくる。長年の念願だった夫・岡倉幸一郎の血を受け継ぐ子供を身篭ることができた。その歓喜は何故か涙になって目から溢れて来た。

「部長、高陽病院に通院したいのですが」翌朝、李大尉はモーニング・レポート(毎朝の業務連絡・予定報告)の後で通院許可を監理部長に申し出ると困惑した顔で質問してきた。
「どうした。疲労で体調が悪いのか。それなら衛生隊で良いだろう」「いいえ、衛生隊の医官では専門外です」李大尉の返事を聞いて部長は深刻な病気を考えたのか今度は顔を少し強張らせた。
「報告は結果が出てからにさせて下さい。よろしくお願いします」いつもは従順であまり自己主張をしない李大尉が強引に許可を求めてきたため流石の陸軍中佐も押し切られてしまった。

「李大尉、これはどう言うことだ」妊娠3カ月(起算は最終月経日)と言う診断書を見せられて監理部長は声を荒げて確認してきた。李知愛大尉は敬虔なカソリック教徒の法務士官として品行方正、一点の非の打ちどころもない模範的陸軍士官だった。それが未婚の母になったと言うのだから、部長にとっては自慢の娘が世間に顔向けできない不祥事を起こしたような衝撃なのだ。
「はい、私は妊娠しました」「相手は誰だ」「申し上げることはできません。それは軍においても法的に保護されている個人情報の範疇です」この回答を聞いても部長にとっては聖女が悪魔に身を売り、魂まで奪われたように思われてくる。
「それで処分するんだろうな」「私はカソリックです。カミが与え給うた生命を殺すことはできません」こうなるとこの部下が手強いことは部長も熟知している。内心では「この場で突き倒して流産させたい」と言う正に悪魔のような考えがよぎったが、そこは常識として押さえた。
「若し、軍がこの件を不祥事として処理すると言うようなら私は退役して親元で育児に専念します。民事訴訟は起こしません」「ご両親は君が未婚の花になったことを知っているのか・・・その前にカソリックの信徒が結婚前に性交渉を持つことが許されるのか」「はい、籍を入れていないだけでカミの祝福を受けている相手ですから、両親も喜んでくれるはずです」韓国では日本と同様に結婚は役所が受けつけて成立する。その点が教会や寺院などの聖職者が証明するアメリカとは違う。
「つまり海外で結婚したと言うことなのだろう」部長は自分が着任してからも年に数回は海外旅行に出ていたことを思い出し、勝手に相手を推定した。その時、李大尉が口を押さえた。
「失礼します」手の下から断ると李大尉はトイレに早足で歩いて行った。これは悪阻(つわり)だ。
  1. 2017/08/30(水) 08:57:49|
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振り向けばイエスタディ930

「ただいま」「おかえり」聡美のアルバイトは夕食までなので和也の方が帰宅が早く自宅で出迎えを受けることになっている。靴を脱いだ聡美が台所を抜けて居間に入ると和也は座卓で緑色の表紙の本=陸上自衛隊教範を開いて勉強をしていた。
「夏は観光客が増えるから遅くなってごめんね」「大変だったろう。ごくろうさん」お互いの仕事の話題は食事の時の楽しみなのでここは黙って服を着替え、和也の後ろを通り過ぎて台所に立った。
「今日も昼のセットの残りをもらってきたからメインはこれで良い」「うん、有り難いなァ。家計が助かるし、お前の手間も省けるからなァ」まだ22歳の割に和也の台詞が随分と年寄り臭くなっているような気がする。それを「頼もしい」と思うところが聡美の長所でもある。
「次の演習は何時だっけ」「うん、当分は持続走の大会に向けて強化訓練だな。雪が降ったら今年は冬戦教かも知れないからな」北海道でも名寄の9月は朝夕の冷え込みが始まっている。大雪山系では山頂付近で紅葉が始まっているらしい。昨年の今頃は和也が陸曹候補生として東千歳駐屯地の北部方面教育連隊に入校したため千歳市内のアパートで独り暮らしをしていたが、今年は名寄で秋を迎えることになる。しかし、演習があれば和也は帰ってこないから暖房をつけても気持ちが凍えてしまいそうだ。やはり聡美にとっては「亭主、元気で一緒が良い」なのだ。
レストランでもらってきたオカズを皿に盛りつけ、レンジで温める前に手早く洋食に合うスープとサラダを作った。本当は「容器を持ってくればスープやサラダもやる」と言われているのだが、それでは味気なく、何よりも妻として手抜きのような気がして遠慮している聡美だった。
「貴方、できたよ」「おう、良い匂いだな」2人の食事は台所ではなく座卓で食べるので移動するのは聡美の方だ。トレイにオカズを載せて運ぶ間に和也は勉強道具を片づけて急須にポットのお湯を注いでおいてくれるのが役割分担だ。そんな夫婦の場面を22歳と19歳の2人が演じているのも日常風景になってきている。
「いただきます」「いただきます」共同作業が終わってようやく手を合わすことができた。ここからが夫婦の会話の開演だ。
「俺は名寄に来てからノルディックをおぼえたんだけど、サッカーで脚を鍛えていたからスキーを蹴り出す力が強くてすぐに上達したんだ。だから陸曹になったら冬戦教に入校するのが夢なんだ」この話は何度も聞いているが、熱弁を奮う和也の自信と希望に満ちた顔が好きなので聡美は黙って耳を傾けていた。
「でも冬戦教には色々なコースがあるんでしょう」これも知っている内容だが和也が喜ぶのであえて質問した。すると案の定、得意満面の表情になって一口茶を飲んだ。
「うん、冬季遊撃戦集合訓練に入りたいんだ。上級スキー指導官ではただの体育の先生だからな」実はこの上級スキー指導官集合訓練は冬季オリンピックの選手要員を選考する目的もあるため希望者が多いのだが、そこは価値観が違うらしい。
「でも入校になったら今度は冬の名寄で独り住まいだね」「また真駒内に来れば良いじゃないか。そうすれば少しは寒さも緩いぞ」和也の意見はその通りなのだが、今日の聡美には逆の相談をしなければならないことがある。そこで語り終わって満足したらしい和也の前で今度は聡美がお茶を一口飲んだ。
「貴方」「はい」箸を置いて姿勢を正した聡美を見て和也も条件反射で座ったまま「気をつけ」をして返事をした。
「私、店長からある正社員として就職してくれないかって言われたんだけど」「ホテルのレストランにか」「うん、貴方と相談して決めてくれって」得意の英語を活かすことができる今のアルバイトは聡美も遣り甲斐を感じているのは知っている。そんな聡美の生き生きとした顔を見て暮らすのは和也としても幸せなことだった。問題は今後も長期の転地演習や入校の時に聡美の居場所が固定されてしまうことだ。だから官舎でも正社員として働いている奥さんは地元出身で結婚前からの仕事を継続している人だけに限られている。和也が返事をしないと聡美が顔を曇らせた。
「駄目なの・・・」「俺の入校の間、アルバイトなら辞めて一緒に来られるけど正社員だとそうはいかないだろう」「冬戦教の次の入校の予定は」言われてみれば後は幹部候補生に合格するまで予定はなさそうだ。その前に合格する可能性は・・・果たして前川原が待っているのか。
く・葦田伊織イメージ画像
  1. 2017/08/29(火) 09:10:26|
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振り向けばイエスタディ929

安川和也と聡美の新婚生活は順調だった。聡美は市内の観光ホテルのレストランでのアルバイトに励み、3等陸曹1号俸の安月給の夫との生活を支えている。それでも取っておいた2年満期の満期金で中古の4WADの軽自動車を買って行動範囲を広げ、今年の夏はテントと寝袋を持って聡美を北海道旅行に連れて行った。この軽自動車を雪国では必須の4WDにできたことだけで満足できるところがこの若い夫婦の成功の秘訣だろう。何もなくても一緒にいられればそれで幸せなのだ。
聡美のバイト先では夏になると外国人の観光客が増える。と言うのも2005年に知床半島一帯が世界自然遺産に指定されたため海外での知名度が上がり、ヨーロッパなどからも観光客が押し寄せて、自動車での北海道一周旅行を楽しむようになっているからだ(中国や韓国はまだだった)。
「ディデュ ディサイド ザ オーダー(注文は決まりましたか)?」聡美は外国人の客には自然に英語で声をかける。これは英語の教師である母親の個人レッスンの成果ではあるが、中学・高校で英会話クラブに入っていた努力の方が大きい。
「イエス(はい)、ユアー イングリッシュ イズ ベリーグッド(貴女は英語がとても上手いです)」「イッツ エクセレント(素晴らしい)」客たちは注文の前に聡美の英語を誉めてくれる。聡美は教師としての体面だけの父親への反発から大学進学は放棄していたが、勉強が嫌いなわけではなかった。実際、英会話クラブの余技としてフランス語やドイツ語にも興味を持ち、シャンソンやオペラを原語で唄えるくらいにはマスターしていたのだ。その成果もここでは発揮できる。
「ビテ サグ エスミァ」初老の夫婦を席に案内すると突然、夫から英語ではない言葉で話しかけられた。これは意図的な嫌がらせではなく母国での癖で口にしてしまったようだ。
「ジェ、ビテ トゥン」それに聡美が即答すると夫婦は驚いたように顔を見合わせた。要するに「少し教えてくれ」とドイツ語で声を掛けられたので「はい、どうぞ」と答えたのだが、日本国内でドイツ語が通じることは希(まれ)であり、ましてや東京から遠く離れた田舎町のホテルでそれが即答されるとは想像もしていなかったようだ。しかし、聡美は仕事として失敗を防ぐために予防線を張った。
「イチュビンニッチ セァ グッ アゥトゥ デゥッチ(私はドイツ語があまり得意ではありません)。ウェンモグリッチ ブレゲン シー アゥフ エングリッシュ(できれば英語でお願いします)」すると夫婦も聡美のドイツ語の発音が初級であることを察してうなずきながら返事をした。
「ジェ、イチ ベレステへァ(はい、判ったよ)」「ノー(違う)! アイ アンダースタンド」どうやら夫が「判った」と言いながらドイツ語で返事をしてしまったため、妻がたしなめながらあまり得意ではない英語で言い直したらしい。それでも注文の他にドイツ語を話せるようになった経緯などを質問され、和やかに談笑できた。
「安川さん、君を正社員にしたいんだが」外国人の客たちの注文を取り終えるとこの店の責任者が手招きで呼び寄せ、真顔で話しかけてきた。
「君がウチで働き始めて半年、正直なところ『未成年なのに結婚した』と聞いて長くは続かないだろうと思っていたんだ。ところが本当に真面目に働いてくれるし、何よりも外国からのお客さまに対する接客は誰にも真似ができない。是非、正式に就職してもらえるように御主人とも前向きに相談してくれないか」仕事の合間の立ち話にしては重たい内容だが、聡美にとっては嬉しい要望だった。自分の英会話能力を高く評価してくれた上、正社員として採用したいとスカウトされたのだ。ただし、問題もあった。
「ネェちゃん、高校生?」「可愛いね。遊びに行こうよ」「そうだ。この街を案内してよ」次の客はバイクで北海道一周しているいわゆるミツバチ族の若者たちだ。彼らは高校生にしか見えない聡美を本気でナンパしてくることも珍しくないのだ。そのため責任者の許可を得て左手の薬指には結婚指輪をはめているのだが(通常は不衛生になるため認められない)誰も信用しなかった。
「こちらがメニューでございます。お決まりなられましたら、そちらの呼び出しボタンを押して下さい」このような客にはマニュアル通りの台詞を並べ、動作を演じるしかない。一通りの説明を終えたところで若者の1人が開いたメニューで料理の説明を求めたため、身を乗り出すと別の若者の手が尻を撫でた。アルバイトを始めた頃には悲鳴を上げ、後で泣いたものだが、今では無視することができるようになっている。しかし、それは大人になっていくと言うよりも少女としての感受性を失っているように受け止めている自分を聡美は知っていた。
  1. 2017/08/28(月) 09:16:20|
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8月28日・実在の剣豪らしい荒木又右衛門が突然死した。

寛永16(1638)年の明日8月28日(太陰暦)に講談や文庫本、時代劇と言うよりもチャンバラ映画で剣豪として大活躍していた荒木又右衛門さんが39歳で突然死しました。
荒木さんと言えば鍵屋の辻の決闘が有名なのですが、野僧は三重県上野市(平成の大合併前は伊賀郡青山町)の寺に入ることが決まっていたため伊賀上野城外の小田町にある鍵屋之辻史跡公園を訪れたことがあり、檀家の郷土史研究者たちから話を聞く機会を得たのです。
荒木さんは上野城下の伊賀同心(=公儀隠密)・服部半蔵の出身地でもある服部郷荒木の生まれで、父は慶長13(1608)年に藤堂高虎公が伊勢に入ると臣従しましたがやがて出奔して、淡路で浪人しているところで備前岡山藩の池田忠雄公に召し抱えられています。ちなみに藤堂公は近江の浅井(あざい)家を始めとして7人の主君に仕えた苦労人のため家臣の出奔・脱藩にも寛大で、暇乞いに来た本人を茶などでもてなしながら愛用の品を記念に渡した上で「上手くいかなければ何時でも戻ってこい」と言って聞かせたそうです。そして実際に戻ってきた者には元の家禄を与えたため「不忠者を何故」と不満を口にする家臣には「人は禄(給与)だけでは臣従はせぬ。情けをかけて初めて心を開くのだ」と説いたと伝わっています。
父が池田家に仕えたため兄も出資することになり、二男である荒木さんは12歳の時、三河譜代の本多家の家臣で伊賀以来の知己である服部家に養子に入りました。しかし、どう言う訳か本多家が姫路城主になっていた28歳で養家を離れて浪人となり、伊賀へ戻ってしまいました。
この辺りから史実と講談などが語る英雄譚の区分がつかなくなると郷土史家が嘆いていましたが、父から手ほどきを受けた中条流を基礎として叔父から神道流を学び、かなり嘘っぽいところで柳生但馬守さまやその子息の十兵衛三厳さんの門弟となり新陰流を身につけたことになっています。何はともあれ荒木さんは剣名を買われて大和郡山城主だった松平家に剣術指南役として召抱えられることになりました。
世は天下泰平、荒木さんの生活も安定していた寛永7(1630)年、ある事件を切っ掛けに荒木さんは剣豪劇・英雄譚の主役の座と引き換えに波乱の人生に入ることになります。父の友人で妻の父親でもある池田藩士・渡辺内蔵助さんの息子で美男子として有名だった源太夫くんが同僚の河合又五郎に同性愛を求められて断ったため殺される事件が起きたのです。実は源太夫くんは小姓として仕えている主君の忠雄公のお気に入りでもあり、当然、又五郎くんは逃亡しましたが、やがて江戸の旗本・安藤家に匿われていることが発覚したため事態は想定外の展開を見せることになりました。池田家としては殺人犯の引き渡しを要求しましたが旗本側は拒否しました。泰平の世には事務手続きを担当する旗本の差配に外様大名も従わざるを得ず、両者の間には確執が生じており、面子と面子が正面衝突することになったのです。
結局、幕府が仲裁に入り、旗本は謹慎、又五郎は江戸所払いとなったものの忠雄公はその決定の報を聞く前に疱瘡で急逝しており、然も「又五郎を討て」と遺言を残していました。さらに池田家は代替わりを機に鳥取に転封となりましたが、藩主の遺命は果たさなければならず、源太夫くんの兄・数馬さんがその役を担うことになりました。当時の武家の慣習としては目上の兄が弟の仇を討つことはなく異例でしたが主命でもあったため脱藩と言う形を取って仇討ちの旅に出ることになったのです。しかし、その数馬さんは剣の腕前に自信がなく、妹婿である荒木さんに助太刀を頼みました。
こうして寛永11(1634)年11月7日、又五郎くんが大和郡山藩の元剣術指南役(荒木さんの前任者なのかは不明)である叔父の屋敷に潜伏していたことが判明し、追及が迫ったことを察知した叔父が護衛をつけて逃亡させようとしたところを待ち伏せて仇討ちとなったのです。
講談などでは「荒木又衛門の36人斬り」などと派手に語っていますが、記録に残っているところでは又五郎側の護衛は10名、討っ手は荒木さんと数馬に助太刀2名の計4名で、荒木さんは又五郎くんの叔父を馬に乗ったまま脚を斬り、落ちたところを殺害し、又五郎の叔父の妹婿で尼崎藩の槍術指南役を他の2人に包囲させて刀による斬り合いの上で殺害した2名だけです。
又五郎くんは数馬さんに任せましたが、5時間にわたる斬り合いでも勝負がつかず、両者に疲れが見えたところで数馬さんが傷を与えたため、荒木さんがとどめを刺しました(公式記録では3人目にはならない)。
仇討ち本懐を遂げた2人は講談並みの賞賛を浴び、現場となった藤堂藩の客分となりましたが、鳥取藩の要請を受けて出仕するため移動したものの呼び寄せた妻子が到着する前に突然死したと言われています。
前藩主の醜聞を隠蔽するための毒殺や又五郎の叔父やその妹婿の門弟などからの報復を恐れて身を隠したなどの風説がありますが、ここでも講談と史実の区分がつきません。
  1. 2017/08/27(日) 08:34:20|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ928

「淳之介くん、あかりのことを大切に思うなら焦らずに1つ1つ手順を踏んで進んでいって下さい」父からの葉書が届いた翌日、あかりの母・梢さんからも葉書が来た。父の返事も「焦るな」だったのでやはりこの2人はどこかで通じ合っているように感じる内容だった。
「焦るなって言われても本島と八重山では会えるのは年に3回、だったら一緒に暮らすしかないじゃないか」この発想の飛躍が「焦り」なのだが、若い淳之介には判らないようだ。ただし、親の反対を無視して同棲を始めようとはしないところがこの2人の場合は救いである。
「お父さんのメール・アドレスが書いてあったよな。打ってみるかな」アパートの6畳一間のベッドに寝転がりながら父と梢さんの葉書を見比べていて、突然、そんなことを思った。
一緒に暮らしている頃には圧倒的な存在感に押しつぶされそうな気がして逃れることばかりを考えていた父だが、政治と言う大きな力によって立場が危うくなるとその前に自分を守るための手段を講じてくれた父に感謝と敬意を感じ始めていた。そして何より梢さんから聞く、悩み迷い、もがき苦しんでいた父の青春時代の姿は今の自分に多くの教示を与えてくれている。
「それにしてもお父さんの文章は固いようで冗談も入ってるし、笑わせながら考えさせる不思議な手紙だなァ」淳之介には夏・冬休みの宿題を一緒にやってくれた思い出がある。父は休みに入ると土・日曜日の度に自由研究から読書感想文や詩、さらに図画工作まで楽しそうに手伝ってくれた。特に淳之介の学年のレベルに合わせて描いてくれる絵には担任の教師も気がつかない程の巧妙さがあった。
「それにしてもどうして梢さんじゃあなくてお母さんと結婚したのかな」やはりメールを打つ勇気が湧かず携帯電話を枕元に置くと、淳之介は両手を頭の下で組んでいつもの疑問を考え始めた。
「どう考えても愛知の祖父さん、祖母さんに負けたとしか思えないな」答えはいつも同じだ。これが判るようになれば結婚が一歩近づくのかも知れない。

「お母さん、どうして淳之介さんのお父さんに抱かれたの」本島の安里家ではあかりが母に真剣な質問を投げ掛けていた。
「あかりも淳之介さんに抱かれたいの」「ううん、私、『抱かれる』ってどう言うことなのか判らないの」あかりの返事を聞いて梢さんは視聴覚障害者に対する性教育のあり方の限界を感じた。視聴覚障害者の場合、口頭でなければ教材は点字による文章かラジアなどからの音声情報に限られるのだが、文部科学省と厚生労働省の両者が介在しているため互いに問題化すること恐れ、常識をさらに圧縮したような内容になっている。特に性教育は「障害者は守られる立場」と言う前提で内容が構成されているので、性行為そのものの具体的な説明は回避されているようだ。
「あかりは淳之介さんとキスした時、どう思ったの」「お母さんが言っていたように気持ちがつながったって感じたよ」そう説明したあかりの顔が懐かしさと恥じらいで緩みながら赤くなった。
「キスは言葉を語る口を重ねるから気持ちがつながるんだよ。これは淳之介くんのお父さんの意見だけどね」「ふーん、なるほどォ」あかりの素直な返事を聞いて梢さんは微笑みながら話を続けた。
「抱かれるのには段階があって、先ずは抱き締められることからかな」昔であればAはキス、Bは愛撫、Cが性交と説明したものだが今では死後になっているのだろう。
「あかりはもう抱き締められたでしょう」「うん、ギュッとね」「どう思った」母の問い掛けにあかりは自分の胸を両腕で抱きながら答えを探し始めたのだが、思いがけない逆質問が返ってきた。
「お母さんは何時、淳之介さんのお父さんに抱き締められたの、それから何処で、どうやって」これでは抱擁の5W1Hだ。それでも娘の質問には誠実に答えるのが母の務めだと考えている梢さんは隠すことなく説明を始めた。
「お母さんが初めて抱き締められたのは首里の円覚寺でキスをした後よ。あの人はギュッじゃあなくてフワッて感じで優しく包み込むみたいだったわ」梢さんは「初めて抱き締められた」の前に主語を置かなかった。つまりその行為自体が初体験だったようだ。それにしても何だか母と娘の惚気合戦になりそうな雰囲気だ。実際、あかりは自分の身体を抱き締めていた腕を緩めると「フワッ」と言う感覚を確かめ始めた。
「その時、私はこの人の温もりに溶け込みたいって思ったんだよ。だから抱かれることは命が1つになることだったんだね」「命かァ・・・」この母の教えを娘は「ギュッ」と受け止めていた。
  1. 2017/08/27(日) 08:31:44|
  2. 夜の連続小説8
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今こそ「空戦規則」を制定するべきだ。

人類が正義に固執する限り決して逃れ得ない業(ごう)である戦争を野蛮な無制限の相互殺戮から文明人の行為の範疇に納めるための道具として陸戦規則、海戦規則があります。
このうち陸戦規則が1899年にオランダのハーグで開かれた第1回万国平和会議で採択された国際的武力紛争関係法規であるのに対して海戦規則は同時期まで主にヨーロッパの海軍の間で順守されてきた慣習法であり、その後、艦船の発達や戦術の開拓により新たな法規が必要になると紳士協定として追加されるのと同時に国際社会に普及する自発的努力が継続されてきたため同様に国際的武力紛争関係法としての機能を果たしていました。なお1970年に設立された人道法国際研究所が独自の研究成果を加えて体系化した条文を提唱し、現在はこちらを海戦規則とするようになっています。
この陸戦規則により戦闘員と文民の分別基準と行動規定が定まり、戦争は交戦意思を有する戦闘員同士が銃先を向け会うことで正当行為となり、明らかに文民と識別できる相手に意図的な攻撃を加えることや規定通りに降服の意志表示をしている者を殺傷することは戦争犯罪とされました。戦争に使用する戦術や武器は相手を殺傷することを目的としていても苦痛は必要最小限としなければならず、損害も戦術上の必要最小限としなければならないとされました。
海戦規則はより実用的で、軍用艦艇と商船の区分を陸戦規則ほどには明確にせず、商船が軍事目的使用されている可能性が排除できない限り攻撃目標にすることが許され、降服に関しても「われ降服」の旗立信号と移管されたことを示す敵国旗を掲揚すると共に機関を停止しなければなりません。その一方で戦闘能力を喪失して退艦している乗員を攻撃することが戦争犯罪になるのは陸戦規則と同じ趣旨です。
ところが第1次世界大戦で初登場した航空機は驚くほどの速度で発達し、始めは上空からの偵察機としてしか使用していなかったはずが、エンジン出力の向上により搭載量に余裕ができると手投げ爆弾を積むようになり、やがては上空で敵機の操縦者を拳銃で撃ったことから空中戦が始まり、それが爆撃機や戦闘機になって終戦を迎えたのです。
当然、この新兵器による戦闘方法を規定する国際法規の制定を求める声は起きたのですが、新たな産業である航空機メーカーの開発競争は軍用機だけでなく平和利用を名目にした航空機全般で熾烈を極めており、国際法によって性能に制限を加えることで航空機全体の発達の可能性を阻害することになり、むしろ兵器としての可能性を追求する声の方が高まり、空戦規則案が作成されて1922年のワシントン海軍軍縮会議に提出されたものの審議を尽くすことなく保留となりました。したがって現在も空戦規則案は案のまま存在し、それに代わる機能を果たしているROE(交戦規定=紛争当事国が自国軍に与える戦闘の実施基準。自衛隊では訓練実施基準)の根拠的扱いを受けることも多いようです。
しかし、この空戦規則がないまま第2次世界大戦に突入してことで人類にとって戦争は野蛮な残虐行為に堕してしまいました。ドイツやフランス、ドイツに学んだ日本では法令を行動規範として理解するため空戦規則が存在しなくても、陸戦規則や海戦規則の趣旨から類推して戦闘行為に自己規制を加えていましたが、イギリス、アメリカは法令を禁止規定とするため国際合意を経た法規がない以上、戦闘行為の限界の設定はあくまでも紳士協定に過ぎず、陸戦・海戦では実施できない大量殺戮を航空機を使用して繰り広げるようになったのです。
イギリスがドイツの古都・ドレスデンに加えた明らかに文民を狙った無差別爆撃やそれを踏襲・模倣したアメリカが陸軍航空軍が独立した空軍となるために陸海軍以上の戦果を上げる必要に駆られ、日本全国の軍事目標ではない都市に無差別爆撃を繰り返して大量の文民を殺害したことも違法とは認めていません。
同様に表向きは海戦規則を順守していたアメリカ海軍も航空母艦から発艦した航空機は別物で、軍事施設がない農村や漁村の文民、しかも女性や子供たちを低空飛行から機銃掃射して殺傷したのですが、これも戦争犯罪にはなっていません。逆に坂井三郎中尉などの日本のパイロットたちも脱出して落下傘で降下しているアメリカ軍のパイロットを上空で銃撃して殺害していますが、戦争犯罪として訴追されていません。
現在、航空機の開発はステレスなどの付加的能力での競争になっており飛行性能に関する画期的な新技術は出ていないようです。ならば今こそ空戦規則を制定して空戦にも戦闘員と文民の分別を厳格に規定すると共に無差別爆撃や過剰な威力の爆弾の使用・製造を禁止し(対北朝鮮用は除く)、さらに飛行に人間の判断と意志が働きにくい無線誘導機、戦闘行為の確認が困難になるステルス機も禁止するべきです。これらの技術開発で後れを取っているロシアや中国などの常任理事国は賛同するのではないでしょうか。
  1. 2017/08/26(土) 09:21:26|
  2. 時事阿呆談
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振り向けばイエスタディ927

ハワイから帰り、部隊は演習最盛期に入る9月、私の単身寮=官舎に淳之介から葉書が届いた。
「お父さん、お久しぶりです」書き出しはあまり上等ではないがメールの様式のようだ。
「卒業祝いに大金をありがとうございました」これは半年前の話であり、あからさまに「大金」と書くのは下品に類するが挨拶が丁寧なので許すことにする。
「僕は石垣島で離島便の上務員として頑張っています」これは「乗務員」の間違いだろう。思わず赤ペンを取り出して訂正してしまった。
「夏の観光シーズンが終わって休暇がもらえたので、本島に帰ってあかりと会うことができました」「あかり」と言われても顔を知らないので「封筒にして写真を送れ」と怒りながら葉書を裏返して見ても写真が隠されているはずはない。
「僕はあかりと結婚したいと思っているのですが、オジィとオバァは『だったら本土へ連れて行ってお父さんに会わせろ』と言います」母である美恵子の名前が出てこないことが気になったが、私としては思い出したくない名前でもあるので、そこは無視して先に進んだ。
「僕の次の休暇はウチナー正月の後になります。だけど本土の冬にあかりを連れて行くと風邪をひかせそうで心配です」淳之介も中々思慮深くなったものだと感心しながらもウチナー正月(=太陰暦の1月1日)が判らなくては話にならず、カレンダーで確認したが最終日の12月31日でも11月20日なので計算する羽目になった。答えは2月9日だ。
「その後の休暇は5月の観光シーズンと夏の観光シーズンの間か、今頃になってしまうので1年後です」この話題は沖縄で梢とつき合っていた頃、2人で頭を悩ましていたことだ。大手旅行社に勤める梢も春夏冬の観光シーズンが終わらなければ休暇が取れず、逆に私が特別に休暇を取らなければいけなかった。そこで休日に警衛や当直の特別勤務について代休をため、2泊3日の小旅行を楽しんだものだ。久しぶりに梢の顔を思い出しながら読み進めると結論はとんでもないものだった。
「僕が本土に行くのは無理なのでお父さんが来て下さい。そうすればお金もかかりません」この厚かましさは完全に美恵子の性格だ。先ほどは「思慮深くなった」と感心したが、私が沖縄へ行けるはずがないことや休暇の度にハワイへ行っているので金に余裕などないことに考えが及ばないのでは完全に美恵子のレベルだ。
「本土はもう秋でしょう。お仕事がんばって下さい。PS・あかりに線香をありがとう」最後の2行は葉書のサイズを考えなかったのかかなり余白が大きい。これだけ余っていれば文章を書けるはずだが親父に言いたいことはないようだ。それにしてもカレンダーでは9月になっても東京の残暑は厳しい。何よりも抹香と線香の違いが判らなくて大丈夫なのかと心配してしまったが、美恵子のレベルならこの程度だろう。
手紙を読み終えて美恵子の顔を打ち消すために佳織を思い出そうとしたが何故か写真もない梢になってしまった。あの日、警衛明けでアパートに行って初めて抱いた梢はバージンだった。それなのに「どうして腕枕で眠って誘うようなことをしたのか」梢に関する謎が久しぶりに頭を占拠した。
「うーん、沖縄か・・・何か公務の出張はないかな」作務衣に着替えてからパソコンを立ち上げて返事を打つことにしたが、その前に内容をまとめなければならない。私的な用件で公務出張を利用することが違法なのは判っている。しかし、嘉手納と普天間の基地騒音訴訟の現場あることも事実なのだ。問題は陸上幕僚監部法務官室所属の私が担当外の米軍基地を視察する理由だ。あれこれ思案したが2人の年齢を考えても「1年くらい待たしても大丈夫」との結論を出した。
「お手紙ありがとう。とても判り易い文章で君らしさを感じました」始まりから嫌味だ。ただし、それを察知する程、深読みするような賢い息子ではない(残念ながら)。
「あかりさんは結婚に同意してくれているのか?あかりさんのご両親は賛成してくれているのか?」考えてみればあかりさんが視覚障害者であることは聞いていても、家族構成については知らされていない。しかし、あまり書類選考的な態度をとると自分の両親になったようなのでそれは控えた。
「そもそも父が沖縄へ行っても君が本島に帰って来られなければ役者が揃わないじゃないか。それとも父が君抜きで勝手に会いに行っても良いのか」キーを打っていて何だかそちらの方が楽しそうな気がしてきた。要するに「焦るな」と言う文面になった。
「君の仕事は乗務員です。正しい漢字を覚えましょう」そして結論もやはり嫌味になってしまった。
か・鳥居かほりイメージ画像
  1. 2017/08/26(土) 09:19:37|
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振り向けばイエスタディ926

旅行最終日前夜の木曜日、佳織は島田元准尉夫妻を父であるノザキ中佐宅へ招待した。
「これはワラント・オフィサー(准尉)と奥さま、我が家へようこそ。私が佳織の父のルテナン・カーノー(中佐)・ノザキです」今回も父に借りた車で到着するとノザキ中佐と妻のスザンナは今回も玄関先で出迎えていた。2人もアロハとムームーなので島田夫妻とお揃いになっている。
「本日はお招きいただきまして恐れ入ります。陸上自衛隊でお嬢さまの中隊の先任陸曹を務めさせていただいていた島田です」今日の佳織は通訳係だが、ここまで丁寧な日本語を英語に翻訳するのは簡単ではない。尤も父はある程度、日本語が判るので義母は後回しにして家に入った。
「明日、お帰りとのことですがハワイは楽しめましたか」「はい、私は阿蘇育ちなのでキラウエア火山には感激しました」「この人は阿蘇山のカルデラが世界最大って自慢してたんですけど、息子に北海道の屈射路湖の方が大きいって教えられて悔しがっていたんですよ」息子さんの話題が出たため佳織が空軍のパイロットだった義弟が事故で殉職したことを小声で伝えると、元准尉と妻は表情を強張らせて中佐に頭を下げた。しかし、この作法は日本式なので中佐は困惑して佳織の顔を見ただけだ。
やはり部屋の空気が少し重くなったが、そこにスザンナと志織が料理を運んできてホーム・パーティーが始まった。
「そう言えばワラント・オフィサーはローカルFM局のDJをやっておられるとか」「はい、昭和の歌の番組を担当しています」食事の後、男たちは酒を酌み交わしながらの談笑になる。元准尉も始めはアメリカ空軍の中佐に敬意を表して最高級の敬語・丁寧語を使っていたが、酒が進むに従って3尉当時の佳織の父親と言う感覚になってきたらしい。
「実は私はカラオケで日本の歌を練習しているんですけど、ハワイではあまり本格的に唄える人がいなくて困っていたんです。是非、御教授を願います」どうやら父は佳織の夫が「ミュージカル歌手」であることを知らないらしい。それでも父の申し出に身を乗り出した元准尉にまかせることにした。
「どんな歌からいきましょうか」「母が好きだった『ここに幸あり』をマスターしたいですね」そう言って中佐は立ち上がり、部屋の隅に置いてある本格的なカラオケ・セットの電源を入れ、レーザー・ディスクのリストを持ってきた。
「『ここに幸あり』ですか、大津美子の名曲ですね。あれは長く伸ばすところで音程を上下させるから素人には少し難しいんですよ」中佐がディスクの番号を確認している間にも元准尉の講義が始まる。話を聞いている佳織は「これなら私も唄える」と思っていた。準備が整ったところで小父さん2人が中佐の愛機=大型輸送機のパネルが貼ってある壁の前に並んでデュエットを始めた。
「それではいきます・・・あーらしィも吹―けばー雨ェもォ降るー おーんなァのみちィよォ なぜェけェわァしィ きーみをーたよりーにー 私は生きるー ここにさーちィあーりー あァおーいィそーらー」流石に元准尉はよく透る声が無線でも重宝していただけのことはあるが、演歌のコブシとも違う独特の節回しには中佐は手こずっているようだ。
「次も1番でいきましょう」「イエス・サー」間奏で元准尉が呼びかけるとアメリカ軍の中佐が敬語で応える。これも島田元准尉の歌唱指導がプロのレベルであることを認めた証のようだ。その時、熱唱している小父さんたちの前で志織も一緒に唄い始めた。
「嵐も吹けば 雨も降る 女の道よ なぜ険し 君を頼りに 私は生きる ここに幸あり 青い空・・・これ1番だね」小父さん2人をバック・コーラスにして見事に唄い切った志織に佳織とスザンナは盛大な拍手をした。考えてみると佳織はオレゴンやハワイへ志織を連れて単身赴任した時、夫を思いながらこの歌を口ずさんでいるのだから志織が憶えても不思議はない。
「スザンナ、ごめんなさい」3人がソファーに戻ってくると佳織は義母に謝罪した。すると義母が困惑した顔で「ワット(何が)?ワァイ(何故)?」と訊いてきた。
「ダディ、1つ質問があるんだけど」「何だ」「お母さんは時々、石田あゆみの『ブルーライト横浜』を口ずさんでいたけど何か思い出があるの」佳織は前妻の話題を出すことをスザンナに詫びたのだが、これも日本式の作法なのだ。父は遠い目をして何かを考えてから答えた。
「そうか・・・典子が神戸を懐かしがっていたからデートではよく横浜へ行ったんだ」この返事で次の曲目は決まり、今度は佳織がポスターの前に立ってマイクを握った。
「街の灯りがとても綺麗ね、横浜 ブルーライト横浜 貴方と2人幸せよ・・・」涙・涙・涙・・・
  1. 2017/08/25(金) 09:43:24|
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銃剣道は刺又道(さすまたどう)に全面変更すべきでは

夏休み中も色々な研修で木銃を突いている生徒たちの記事を見かけます。それにしても銃剣術は戦時中に「Bー29を落とすつもりで突け」と児童・生徒に精神主義を教育し、本土決戦が現実味を帯びてくると「竹槍で米兵を突き殺せ」と国民皆兵のための訓練にした軍国日本の狂気の象徴なのですが、復活させても良いのでしょうか。
欧米の軍制を模倣することで近代化を図っていた日本陸軍は普仏戦争でプロシアに敗北するまではフランスを規範としており、士官用のフェンシングと合わせて兵士用の格闘術として銃剣術を導入しましたが、体育の研究を行う戸山学校の教官に久留米藩の槍術師範がいたため、宝蔵院流槍術と混ざった不可解な格闘術になってしまいました。その最大の弊害はフェンシング的な刺突のみの技法に陥り、突撃で正面の敵を刺突することはできても陣地内に突入してからの敵味方の混戦では十分な間合いが確保できず、かえって格闘術を知らない敵兵の当たり構わず小銃を振り回す乱暴な攻撃で撲殺される日本兵が続出しました。
それでも日本は戦国末期に世界最高性能の火縄銃を実用化して最高度の射撃戦術を編み出していたにも関わらず徳川の二百六十余年の間に弓、刀、槍に逆戻りし、それを武士の表芸として内向きに技を極め続けた民族ですから、実戦の役に立つかは二の次にした銃剣術の演練を兵士に強制しました。結局、その前時代的な発想が第2次世界大戦になっても改まらず、機関銃に手を焼いた旅順要塞以上の近代兵器を前に戦国時代でも既に廃れていた正面攻撃を繰り返し、玉砕の美名の下に多くの将兵が斃れて逝ったのです。
本来であればそのような呪われた武術である銃剣術などは敗戦と共に廃棄処分しなければならないのですが、何時の間にか武道連盟に加わって銃剣道を名乗るようになってしまい、陸上自衛隊では公職追放が解除されて再登板することができた帝国陸軍の生き残り=死に損ないたちが体育種目として銃剣道を復活させ、陸軍航空士官出身者たちが陸上自衛隊以上に帝国陸軍化していた航空自衛隊でも導入されたのです。
しかし、陸上自衛隊は警衛勤務などで歩哨に木銃を携行させていますが、刑法上の正当防衛と緊急避難でしか格闘による制圧が許されていない平時の通常警備では相手が鉄パイプでも使用していない限り、長い木銃で相手を負傷させた場合は過剰防衛で訴追されることになります。民間の警備保障会社でも通常は警棒までで原子力発電所や空港でのみ尺杖(長い木製の棒)が認められているのです。
それでも各都道府県銃剣道連盟は陸空自衛隊の退職者の再就職を受け入れており、段位を販売することで利益を上げ、部隊側は訓練実績、連盟側は会員確保で互いに甘い汁を吸い合っています。
さらに銃剣道連盟は中国の学校教育への売り込みに成功していますから、その手土産に自衛隊の訓練実績の情報を提供した可能性は高く、早急に関係を絶つべきでしょう。
そんな自衛隊にとっては百害あって一利もない銃剣道でも学校教育では役に立つかも知れません。最近は不法侵入者を捕獲するのに長い棒の先にU字型の金具を取り付けた「刺又(さすまた)」と言う道具が用いられるようになりました。ところが教職員などでは使用方法が未熟で、不法侵入者役が顔見知りだから大人しく捕まりますが、興奮して暴れ回り、刃物を持っていてはとても壁際に抑え込むことは不可能です。
刺又の使用方法は銃剣道の刺突動作とほぼ同じで、間合いの取り方も大差ないようです。更に現在は手だけで突き出しているようですが、それでは簡単に振り払うことができるので、銃剣道のように下半身の踏切で体重を掛けて突き出す技法を演練すべきです。
試合方法も銃剣道の公式戦では団体5名の中に1名は短剣道の短竹刀を用いる者を加えることになっており、これを主とすれば刺又で刃物を持った暴漢を取り押さえる技法になります。
問題は銃剣道連盟が槍術の継承者を標榜しながら木銃の形状を直線にしなかったこだわりを捨てられるかですが(「手首を負傷する」と言うのが主な理由だった)、先細りの自衛隊市場に見切りをつけて新たな大口の顧客を獲得するためならば平気で前言撤回するのが銃剣道連盟の常套手段です。知らない間にフランス式格闘術の史実を消去して宝蔵院槍術の直系にしているくらいですから。
  1. 2017/08/24(木) 09:23:06|
  2. 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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振り向けばイエスタディ925

「まだチェック・インには時間がありますね・・・そうだ。ハワイに来たんだからお2人にはハワイの制服に着替えてもらいましょう」ヌウアヌ・パリからホノルル市内に戻ってくると佳織が妙な提案をした。これには助手席の志織も呆れて母の横顔を見た。
「制服ってこの格好ではおかしいですか」「いいえ、相変わらずお洒落で素敵です。だけど少し堅苦しいみたいです」元准尉の確認に佳織は悪戯っぽく笑いながら答え、ワイキキ通りにあるコンビニ店「ABCストア」の駐車場に車を止めた。
「これでコンビニですか。随分、洒落ていますね」駐車場から見た店構えは日本のコンビニエンス・ストアよりも重厚な雰囲気があり、高級品が置いてありそうな雰囲気が漂っている。
「ここはABCストアって言うハワイで最大のコンビニ・チェーン店なんです」「その名前は聞いたことがあります。ハワイ旅行に行った友達がお土産にくれたマカデミアン・ナッツのチョコレートが入っていた袋にこのマークが入っていたのよ」今度は妻の順子が反応する。やはり買い物は女性の方が喜ぶようだ
「日系人のコササさんが始めたミスターKが始まりで、今ではハワイ州内に56軒もあるんですよ」「ABCって言うのは何の略なのかな」元准尉のこの質問は佳織も想定していたので下調べは万全だ。
「本当は電話帳の最初に来るようにABCを並べたそうですけど、今では『アロハ ブリングス カスタマズ』=『アロハがお客を連れてくる』の略だと言われているようです。ついでにワイキキ通りでは『全ての区画にある』=『オール ブロックス カバード』とも言われるくらい狭い範囲に何軒もあるんですよ」店の前での観光ガイドが長くなったが、妻と志織が待ちくたびれているので揃って店に入った。
「アローハー」店内の挨拶はやはりハワイ式だ。しかし、ハワイでもローソンやセブンイレブンなどのアメリカ本土資本のコンビニでは挨拶をしないからこの「アロハ」がお客を連れてくるようだ。
「土産もここで揃うみたいね」「はい、お酒や香水は免税店の方が良いですけど、お菓子や小物、絵ハガキなどはここで十分です」店内を一回りしながら佳織は奥の衣類売場へ誘導した。
「ハワイでは男性はアロハ、女性はムームーが正装なんです。プレゼントしますから選んで下さい」突然の申し出に元准尉は妻と顔を見合せて黙ってしまった。
「志織、小父ちゃんにはどれが似合うかな。貴女が決めて」日本人の遠慮につき合っていては時間の無駄だ。佳織は「プレゼントするのはこちらだ」と言うアメリカ的な割り切り方で志織に決めさせようとした。すると元准尉は志織が派手な柄のアロハを手に取るのを見て慌てて自分で選び始めた。
「小母ちゃんは・・・」志織が決める前に妻は店の壁の鏡の前でアロハを自分に合わせている。やはり買い物は女性が主役だ。
「どうします。ここで着替えてアロハでチェック・インしますか」「いいえ、部屋に入って休む時に着ることにします。本当に有り難うございました」妻は着替えたそうな顔をしたが、元准尉が決定した。これが日本の夫婦の呼吸なのだろう。ハワイの両親も似たようなところはある。
その時、同世代のアメリカ人女性がビキニの水着をレジに出したため妻は驚いて身を乗り出した。
「あの女性(ひと)、あの年齢(とし)であんな水着を着るのかしら」妻の呟きに元准尉はそちらに驚いて1歩下がった。
「はい、ここでは珍しくないですよ。奥さんもどうです・・・」「お前は日本人だぞ。慎みを忘れるな」佳織が勧める前に元准尉は禁止した。妻としては日本では楽しめない開放感を満喫しようとしていたのだろうが、古典的日本男児の前では断念せざるを得ないようだ。
「マミィが買ったら良いのに。ダディも『見たい』って言ってたよ」今度は志織が母に矛先を向けてきた。確かに家族で軍人専用ビーチに行った時、夫は若い女性兵士や家族のビキニ姿を見て羨ましそうに溜め息をついていた。佳織はと言えば伊丹駐屯地で買ったスポーツ水着のままなのだ。
「よし、2等陸佐、モリヤ佳織、38歳、初ビキニに挑戦します」佳織の決意表明に志織は拍手し、元准尉と妻は呆れて口を開けている。2人の中では違う意味で「2等陸佐」=通信大隊長のイメージが崩れていくようだ。
それにしても島田元准尉は愛妻・順子さんのビキニ姿を見たことがあるのだろうか。ここで見逃したことが生涯の不覚にならないことを念願が叶った私が祈っている。
ん3・鈴木京香イメージ画像
  1. 2017/08/24(木) 09:15:08|
  2. 夜の連続小説8
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8月24日・「日本海」と命名したロシアの探検家・クルーゼンシュテルンの命日

1846年の明日8月24日は世界一周の大航海を果たして出版した航海記「アレクサンドル1世陛下の命により、1804年、1805年、1806年、1807年にナジェージタとネヴァ(どちらも艦名)によって行った世界周航の記録」の中で「MER DU JAPON=日本海」の名を初めて用いたロシアの探検家であるイヴァン・フョードロヴィッチ・クルーゼンシュテルン(ロシア語名)提督の命日です。
野僧はクルーゼンシュテルン提督の名前を早くから知っていたのですが、それはアメリカ独立200周年を記念してニューヨーク湾で開催された国際観艦式と世界帆船パレードにソ連が送り込んだ世界最大の4本マスト・バーグ帆船の名前がクルーゼンシュテルンだったことで興味を持ち、調べ始めたところにモスクワ放送が紹介したからです。
ちなみに帆船のクルーゼンシュテルンは1927年にドイツで建造されてパドゥアと言う船名だったのですが、第2次世界大戦でソ連が戦利品として略奪してそのまま海軍の練習船として使用し、現在はロシアに引き継がれています(船齢は90歳になります)。
尤もクルーゼンシュテルン提督自身もプロイセンがバルト海沿岸に版図を広げていた頃に移り住んだドイツ人の末裔で、後にスウェーデン王家に仕える貴族になり、エストニアがロシアに割譲されてからも領地に留まった家系の出身です。このためアーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンと言うドイツ語名も持っていました。
1787年にロシアの海軍士官学校を卒業してそのまま海軍に入り、1793年から6年間もイギリスに留学しています。帰国後の1803年、アレクサンドル1世に謁見し、アメリカ大陸でのロシアの貿易や開拓事業を行っていた国立企業の支配人であるニコライ・レザーノフ男爵の出資で、ナジェージタとネヴァの2隻からなる艦隊で世界一周の航海に出ることを命じられました。ただし、この航海の目的は仙台藩領の寒風沢から出航して遭難・保護されていた津太夫、儀兵衛、左平、太十郎の4人の流民を日本に送り届けて、大黒屋光太夫を送り届けた時に受け取っていた日露国交樹立の信牌(しんぱい=外交文書)の実施を迫る外交使節であり、このため全権大使としてレザーノフ男爵が同行し、クルーゼンシュテルン提督の立場はあくまでも艦隊の指揮官に過ぎませんでした。それでもロシア始まって以来の世界一周の大航海だけに博物学者や天文学者、さらに画家などが乗り込んだのです。こうして1803年6月16日にバルト海のクロシュタント軍港を出航してデンマーク、イギリスに寄り、大西洋を渡ってカナリア諸島、ブラジルに寄港した後、南アメリカ大陸の南端・ホーン岬を回って太平洋に出るとマルケサス諸島、ハワイ諸島経由で太平洋を横断して1804年7月2日にカムチャッカ半島のペトロパウロスクに寄港しました。その後、千島列島沿いに南下してから八丈島、薩摩沖を通って9月4日に長崎に入港しました。この時、日本側がオランダの艦船が入港中、艦砲と砲弾を預けていることを踏襲するよう要求したため、海軍軍人であるクルーゼンシュテルン提督が「それは捕虜に対する処置だ」と激怒したと言われています。
結局、外交交渉は日本側が「信牌の取り消し」と言う国際常識ではあり得ない回答から譲らず、恥をかかされたレザーノフ男爵はカムチャッカに帰る途中で日本の沿岸を砲撃した「レザーノフ事件」を起こしますが、クルーゼンシュテルン提督がどこまで関与したのかは不明です(本人の著書では触れていませんが不関与と言うことはあり得ないでしょう)。
カムチャッカ半島に戻ってからレザーノフ男爵はアメリカ大陸で地元民の反乱などが生起したため別れてアラスカ経由でカリフォルニアに向い、クルーゼンシュテルン提督が2隻を指揮してオホーツク海、日本海を探検した上で朝鮮半島、中国大陸、東南アジア、インド、ペルシャ、アラビア、アフリカ大陸=喜望峰を巡ってバルト海に帰ったのです。こうして皇帝への報告として作成したのが前述の航海記です。
この世界の海と大陸を探検して回ったクルーゼンシュテルン提督ですが1つ重大な誤りを犯し、日本人に覆されています。それは「千島は半島である」としていたことで、間宮林蔵が徒歩で一周して島であることを確認し、それを記した日本地図をシーボルトがヨーロッパに持ち帰ったことで「マミヤ セト=間宮海峡」の名が世界地図に記載されることになりました。
何にしてもバルチック艦隊の極東回航と言いロシア海軍がやることはスケールが違います。
余談ながら日本人初の世界一周を経験した津太夫は長い取り調べを終えた文化3(1806)年になって13年ぶりに帰郷し、文化11(1811)年に亡くなりました。
クルーゼンシュツルンみなもと太郎作「風雲児たち」より
  1. 2017/08/23(水) 08:54:19|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ924

「これがカメハメハ大王の像です」ホノルル市内を案内しながら旧ハワイ裁判所前に立つ銅像を説明した。ただし、この辺りには有料駐車場がないので通過するだけだ。
「まァ、随分と男前の王さまだったのね」後席でも自分の側になった妻の順子が感心したように呟いたが、一方の元准尉はシートベルトをはめたまま姿勢を変えている間に通過してしまった。
「本当のカメハメハ1世は小錦と曙を足したような太った丸顔だったんですが、西洋人の画家が肖像画を描こうとしたら美男子で逞しい若者にモデルを勤めさせたらしいんです」「今でも別人みたいに厚化粧して写真に写る人はいるけれど他人じゃあねェ」順子の呆れに元准尉も同感とうなずいた。
「キャプテン・クックのハワイ上陸100周年を記念してイタリアで銅像を製作したんですけど運搬していた船が難破してしまって、これは再製作された2代目です。初代は海から引き揚げられて今はカメハメハ1世の出身地のハワイ島のカパアウ・シビック・センター(市民会館)の前に立っています」「ハワイ島ってここがハワイじゃあないの」「ここはオアフ島です」順子の勘違いに今度は志織が答えた。
「そうかァ、大隊長はハワイの出身だから私が岐阜を案内するみたいに詳しく説明できるんだね」「貴方が岐阜に詳しいの」「元へ、小倉だった」「やっぱり阿蘇でしょう」後席の夫婦の掛け合い漫才は元准尉が移り住んだ土地の解説になっている。元准尉は小倉生まれの玄海育ちだが口も気も荒くはない。ところが戦時中は親元を離れて母の実家がある阿蘇に疎開していて、戦後も小倉が復興するまでそこで暮らしていたらしい。そして中学、高校の頃には小倉に戻り、そこから警察予備隊に入隊したことは小隊長として確認した身上票ではなく本人の口から聞いた話だ。
ホノルル市内から太平洋地区戦没者墓苑・パンチボールを参拜した後、郊外の観光名所であるヌウアヌ・パリ展望台に向かう車内で順子が思いがけない思い出を語り始めた。どうやら佳織の2世部隊で戦死した祖父の墓に参り、胸に迫ってきたモノがあるようだ。
「実は伊藤3尉が着任されてからこの人は家でも小隊長のことばかり考えていて不思議に思っていたら大学出たてのWACさんだって判って、変な下心でも持っているのかって勘ぐったことがあるんですよ」妻は志織に判らないように佳織の旧姓で呼んでいる。確かに志織にとって伊藤の姓は家族で参る母と祖父母の墓の名前なので、自分と結びつけて考えないかも知れない。むしろハワイではノザキが祖父母の姓なのだ。
「その伊藤3尉が未婚の母になったらこの人は『相手の男を殺す』って怒り狂ってしまって、私は『自分が殺人犯の妻になるんじゃあないか』って本気で心配しました」その未婚の母が生んだのが志織なのだがそのことには誰も触れなかった。
「根っからの幹部嫌いの癖にそんな真剣に小隊長のことを心配するなんておかしいでしょう」「お嬢さんがいるんだ。その辺にしておけ」順子の話が佳境に入りかけたところで元准尉が制止した。
「一時期は伊藤3尉ってこの人の隠し子じゃないかって疑ったこともありました」これは夫に制止された順子が話に付けようとした「落ち」らしい。
「阿呆か、本当に隠し子だったら俺の何歳の子だ」「だってウチの子だって自衛隊に入っていたじゃない」「アイツは高卒で曹学に入ったんだ。大卒で幹部候補生学校に通信学校を出てきた小隊長とは違う」「私は留学しましたから大学4年に2年を足した小母さんでした」ここは順子のボケに2人で突っ込むしかない。おまけに佳織の突っ込みは半分自分を落としながらの離れ業だ。何はともあれ、島田先任が愛娘を見守るように新米幹部を育てていたことが判り、佳織はルーム・ミラーに映っている顔に頭を下げた。
ヌウアヌ・パリの駐車場はそれでなくても狭い山上の一角に無理に造ってある上、観光パスの区画が大半を占め、乗用車のエリアはほとんど空いていない。
「オー、ミリタリー・オフィサー(軍の士官)」交通整理係のアルバイトの若者は事務的にあふれた車を追い払っていたが、佳織の制服を見て肩から吊ったトランシーバーを耳に当てた。
「イエス、イエス、アナザーカントリーズ アーミー(外国の陸軍です)・・・」どうやら外国軍の士官が来たことを本部に報告しているようだ。窓を開けて待っているとアルバイトが大声で階級を確認してきたので、佳織は「ルテナン・カーノー(2等陸佐)」と答えた。するとアルバイトは異様に緊張した顔でそのまま奥に誘導した。これが軍服=制服を着ている特典なのだ。
  1. 2017/08/23(水) 08:50:30|
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振り向けばイエスタディ923

真夏の日本からワザワザ常夏の島・ハワイに行く者の気が知れないが、その夏季休暇でやってきた夫・父=私との家族の愛と絆を確かめた佳織・志織の母子は夏休みが明けたところで意外な人物の来訪を受けていた。それは佳織の守山時代の中隊先任陸曹で定年退官後は木曽三川と庄内川の河川パトロールに再就職している島田信長元准尉夫妻だ。島田元准尉が還暦を迎えるのを記念して夫妻でハワイ旅行と洒落込んだらしい。
「センニーン(先任)!」ホノルル空港に土曜日の午前の便で到着した島田元准尉夫妻を出迎えた佳織は若き3等陸尉に戻って元気に手を振ってしまった。しかし、着ているのは2等陸佐の制服だ。
「これは大隊長、お出迎え恐れ入ります」島田元准尉は佳織の階級章を見ながら相当する役職で挨拶する。そこに佳織の隣りから志織が元准尉と妻の首に手製のレイを掛けた。
「アローハ、ハワイ。これがツアー客なら頬にキスをするんだけど先任はハネムーンだからパスします」佳織の説明に元准尉が隣りで挨拶するタイミングを量っている妻の顔を見ると、それを合図に半歩前に出て佳織と志織に正対した。
「島田の家内の順子と申します。主人が在職中は大変にお世話になったそうで・・・」順子と名乗った妻は陸上自衛官としては洗練された紳士である島田に似合う品の良い美人であり、挨拶も丁寧なので志織に礼式の教科書=模範演技として見るように軽く背中を押した。
挨拶が終われば日系人のガイドが観光客の点呼を取って騒がしい歓迎ロビーから駐車場に向かうことになる。このメンバーの中で男性は元准尉だけなので荷物は自分で運ぶことになり、キャリー・バッグを「ゴロゴロ」と音を立てながら押して少し遅れてくるが、その前を女3人は楽しそうに談笑しながら歩いていった。
「機内で眠りましたか」「いいえ、私は外国旅行が初めてなので中々眠れませんでした。あの人は室内灯が消えたら爆睡でしたけど」そう言って妻が振り返ると元准尉は顔で「何だ」と返事をした。
「先任は演習では眠らない私につき合って起きているんですけど帰りの車の中では爆睡でした」「そうなんです。私は『貴方は演習の帰りに事故に遭っても安楽死だ』って言っていたんですよ」妻の冗談に佳織は若い3尉の頃のようにのけ反って笑ったが、そんな母の姿を見たことがない志織は驚いて口を開けていた。
「それにしても演習中に眠らなくて車でも起きているのなら家に帰ったら熟睡ですね」「はい、夫の腕枕で朝までグッスリでした」佳織のおのろけに志織が隣りから「この間もでしょ」とひやかした。
女3人は話が弾みながら父から借りた自家用車に到着したが、ホノルル空港の駐車場は観光バスを優先して区画されているため乗用車のエリアはかなり遠く、流石の島田元准尉も腰を曲げてキャリー・バッグを押すのに少し疲れたようだ。自家用車の後席に座ると左ハンドルなのに少し戸惑っただけで額の汗をハンカチで拭き始めた。
「寝不足で連れ回すのは申し訳ないのですが、ホテルのチェックインの時間までは観光案内させて下さい」「はい、申し訳ありませんが、よろしくお願いします」元准尉の返事をルーム・ミラーで確認すると洒落たハンカチが目に入った。そのセンスも流石は島田元准尉だが、実は妻の好みなのかも知れない。名古屋は服飾メーカーの競合地帯なので意外に流行の先端の衣類が出回っているのだ。
「それでは出発します。シートベルトを装着して下さい。ハワイ州では後席も義務付けられています」観光ガイド風の佳織の案内に夫妻は顔を見合せて笑い始める。それでも助手席の志織にとってはこれが父の前の素顔であり、先日まで普通に見ていたため特別に反応しなかった。
「それにしてもどうして今日も制服なんですか。やはり呼び出しに備えているんですか」車が高速道路に入ると後席の元准尉が座席の間から顔を出して質問してきた。
「確かにそれもありますけどハワイに限らずアメリカでは軍服を着た軍人には色々な特典があるんです。何かあった時に便利だから夫もハワイでは制服か作務衣です」「そうかァ、モリヤ2佐は坊さんでしたよね」元准尉が退官した時に夫は万年1尉だったが、隊友会(戦前の在郷軍人会)の役員も務めているため飛び級で2佐になったことも知っていた。
「そうかァ、だったら私も制服を持ってくれば良かったな」「先任は60歳になったら予備自衛官も定年でしょう。それは商標虚偽表示の軽犯罪ですよ」「流石は法務幹部の奥さんですね」冗談に佳織が真面目に反対すると元准尉は現在の職務まで知っていることを披露してくれた。
  1. 2017/08/22(火) 09:49:20|
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振り向けばイエスタディ922

「牧村さん、一緒に我が国に来てもらえませんか。政府に交渉の経緯を報告するのに貴方の証言が必要なのです」解放された人質たちと一緒にジアエたち代表団も韓国政府が差し向けた特別機で帰国することになり、参事官は岡倉も同行することを求めてきた。
「それはお断りします。現地軍と交わした契約ではこの事件が解決するまでの通訳だけでしたから、これで業務終了です」岡倉が公式に韓国へ立ち入れるはずがない。たまたまパスポートは韓国への渡航用を持っているが、政府に関係する業務に加われば詳細な身元調査を受けることになるだろう。
「君の活躍を報告すれば勲章の授与もあり得る。そうなれば我が国政府の要人とも面識ができて記者としての仕事にも役立つんじゃあないか」今度は中佐の甘い誘惑だった。今回の突然の勧誘の背景には金田=杉本の愛人である人気ジャーナリストが外交部の上層部に働きかけたらしいことは判っている。岡倉自身が韓国政府に人脈を構築することになれば今後の情報収集で有益なのは間違いない。
「私としてはアメリカに帰ってレポートを作成しなければなりませんから、これ以上の拘束は御免こうむります」岡倉の拒否が頑ななのを知り、中佐と参事官は表情を変えて注意を与え始めた。
「レポートと言っても我が国の国家機密に属するような内容の公表は困るぞ」「勿論、君が関与した程度の内容は国際社会では常識の範疇内だが、ジャーナリストは事実だけを書くとは限らないからな」2人の態度が変わると背後で聞いていた外交部の随員とジアエとは別の大尉が立ち上がって身構えた。下手をすれば身柄を拘束されて強制連行されるかも知れない。そうなれば一巻の終わりだ。
「はい、判っています。私も韓国には個人的に特別な思いを抱いている者です。その点は安心して下さい」この弁明がどの程度の効果を生むか判らないが、逃げの一手しかなかった。
「そうか、失礼した。同じ立場にある方にこれ以上の無礼は働けないな」岡倉の目を見て中佐は手を差し出して岡倉と握手した。最後の一言は岡倉が軍人=自衛官であること、階級は自分と同じ中佐クラスであると推察していることを告知したものだ。岡倉は韓国領事館が手配してくれた市内のホテルに移動した。
ホテルでの夕食を終え、部屋で密かに書き留めていたメモを整理しているとドアがノックされた。
「貴方・・・」手早くメモを隠してドアを開けるとそこには迷彩服姿のジアエが立っていた。ジアエは最終的に解放された男女7人の事情聴取をしていたはずなので少し困惑しながら中に入れた。
「どうした。事情聴取は良いのか」「男女に分けて男性は君(クン)大尉が担当するように中佐が命じたわ」確かにジアエはこれまでも解放された女性信者たちの事情聴取を重ねてきているので、個人の経験に特別なことがなければそれ程の時間はかからないはずだ。
岡倉は軽く溜め息をつくとシングルの部屋には1脚しかないソファーを勧めた。しかし、ジアエはその前にズボンのポケットから封筒を取り出した。
「これを中佐と参事官から貴方にって・・・」「ふーん、謝礼金かァ、大分、入っているな」手渡された封筒は現役時代に受け取っていた1等陸尉の冬のボーナス以上の重さと厚味がある。ウォンからドルへの換算は得意ではないが口止め料としても適切な額だ(十分とは言わない)。
「これは2人のポケット・マネーなのかな」「私たちは幾らかの工作資金を持ってきているからそこから出したんだと思うわ」岡倉は同業者の自腹が痛まなかったことに安堵するとサイド・テーブルに置いてあったカバンに封筒を納めた。するとジアエがベッドに腰を下して仰向けになった。
「私、どうしても貴方の子供を生みたい」ジアエは困惑している岡倉の顔を注視しながら呟いた。
「どうしたんだ、唐突に」以前にもこの希望は聞いたことがある。しかし、今夜のジアエの申し出はあの時とは比べ物にならない程の圧力がある。そこには何かの決意があるようだ。
「絶対に貴方の血筋は守らなければいけない。この優秀な軍人の血、愛する夫の血を私の血と合わせて形にしたいの・・・私たちの子供を抱きたい」今は岡倉も激務の後の高揚感で即応態勢だ。ジアエが伸ばした手に飛び込み、背中に手を回して抱き締めて口づけを交わした。いつもは営みの前には必ずシャワーを浴びているので、ジアエの汗の匂いを初めて嗅いだ気がした。
迷彩服を脱がすには半長靴の紐を解くところから始めなければならない。靴の次には革の匂いが染み込んだ靴下、上衣のボタンを外し、ズボンのベルトを外して脱がしても、これでようやく下着の段階だ。この手間がかかる作業の間に岡倉の野性的興奮は妻への深い愛情に代わっていった。
気がつけばジアエが危なく帰隊遅延になる直前まで愛し抜いていた。
そ・李英愛イメージ画像
  1. 2017/08/21(月) 09:27:27|
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振り向けばイエスタディ921

「最初に貴女たちが解放されたのには何か理由があったのですか」牧師と青年信者が処刑に至った経緯を確認したところで李大尉は話を後半に進めた。この質問の裏には「タリバーンと何か取引をしたのか」と言う意味合いも感じられ、2人の口は再び重くなった。
「それでは同じ女性として誠に訊きにくいことを伺いますが・・・」2人の態度を見て李大尉はさらに重い質問を投げかけた。2人は李大尉の顔を凝視しながら質問を待っている。
「拘束中に彼らから性的暴行を受けることはなかったのですか」先ほどまでのタリバーンの対応はあまりにも紳士的であり、単純に信用するべきではない。男性が野性動物と化す戦場に於いて女性が常に性欲のはけ口にされることは古代から変わらぬ節理であり、韓国軍こそがその常習犯なのだ。
高中尉がアフガニスタンでイスラム教を冒涜した怒りの代償を若い田上等兵が肉体で支払うことになった。同じことがイスラム教徒の国でキリスト教の布教に乗り込んだ彼女たちの身に降りかかっても不思議はない。むしろそう考える方が自然だろう。しかし、2人は顔を見合わせた後、冷静に答え始めた。
「私たちは女性として尊重されていました。確かにイスラムの戒律を強要されましたが、それもこの土地で生活する上では自然な生活習慣であって苦痛は感じませんでした」「服装もイスラム女性の物を貸与され、男性が部屋に立ち入ることは点検と力仕事で呼んだ時だけでした」2人の説明はジアエが夫の岡倉からイスラムの戒律や信仰の実像を聞いているから納得できるが一般的なキリスト教徒であれば絶対に信ずることができず洗脳や脅迫を疑うはずだ。李大尉もそれを踏まえて確認する。
「彼らに有利な証言をしなければ、まだ拘束されている人たちに危害を加えると言われているんですか」この確認は自分たちの証言が信用されていないことになり、2人の顔には困惑と不満の色が現れた。つまり「嘘はつていない」と言うことになる。
「タリバーン自体が宗教組織であってアルカーイダや他のテロリストとは別なんです」「イスラム教は女性の純潔を尊重すると言って指導者は男性の兵士が接触することを禁じていました」「タリバーンは私たちがイエスの教えを広めて人々を救おうとしているのと同じようにイスラムのカミの守りを教え広めていたんです」「私たちはアメリカの宣伝を鵜呑みにしていました」2人が代わる代わるに訴える内容は夫・岡倉から聞かされているタリバーンの実像そのままであり、この女性たちは自分たちの信仰は捨てていないようなので洗脳を施されている訳ではなさそうだ。
「結局、貴女たち2人が選ばれたのは」「イスラムの教えでは女性を守る義務が男性に課せられているんです」「だから最初に開放するのは女性だと決まっていたそうです」「女性の中で一番年長の私と一番若い彼女が選ばれたに過ぎません」「そうですか。判りました」思いがけず簡単に李大尉が納得したため2人は押し相撲ではたき込みを喰らったようにうつむいた。
「実は私もタリバーンの実態を熟知する人物からアメリカの宣伝とは逆の素顔を聞いているのです。だから貴女たちの話を信じることができます。しかし、帰国した後、我が国のマスコミは洗脳や脅迫を受けていると決めつけ、キリスト教団からは裏切りと責められるはずです」「しかし、私たちはカミへの信仰を捨てた訳ではありません」若い信者の目には怒りと同時に哀しみの色がある。タリバーンはそんな純粋さを奪うことなく返してくれたのだが、韓国社会が深く傷つけ、やがてはボロボロにしてしまう気がした。場の空気が重くなったので李大尉は未来志向の話題に変えた。
「現在、韓国政府とタリバーンの間で人質の返還交渉が進められています。タリバーンの要求はカルザイ政権に対しては捕虜との交換でしたが、我が国には韓国軍の撤退と身代金です。こちらは政府内で前向きに検討が行われているので、今月中に解決できるのではないかと考えています。かなり希望的観測ではありますが」2人に李大尉は手短に現在の状況を説明した。「今月中」と言うのはこちらに向かう車内で岡倉が口にした見解だった。岡倉が独自の情報を仕入れているのか、単なるプロとしての勘なのかは判らないが、それだけで李大尉は確信を持っていた。
かつて学校教育ではイスラム教の異教徒に対する姿勢を「『剣か、コーランか』の二者択一だ」と教えていたが、実際は「納税」と言う選択肢もあり身代金はこれに当たる。
結局、身代金の金額を巡って多少の攻防はあったものの28日には女性10名と男性2名が解放され、これを受けて韓国政府がアフガニスタンからの撤退を正式に発表した翌日の30日に男女7名の全員が解放されて一応の解決を見ることができた。
  1. 2017/08/20(日) 08:46:58|
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振り向けばイエスタディ920

「拉致された時に暴行などは受けなかったのですか」身元確認に続き李大尉の事情聴取は事件の核心に入った。2人は互いの顔を見合せては回答を譲り合い始めたが、これでは話が進まないので年上の女性を指名して回答を求めた。
「はい、暗闇に突然、乱入してきたのですが懐中電灯で照らしていたから武器を持っていることは判りました。だから抵抗はせずに英語での指示に従いました」「怖かったですね」「怖かったよりも何が起こっているのか判りませんでした」李大尉としては「その時、カミに祈らなかったのか」を訊きたかったが、それは個人的な興味なので控えた。
「それで車に乗せられて・・・」「コンテナの荷台に押し込まれました」「外が見えなくて不安でした」「激しく揺れて乗り心地は最悪でした」韓国人女性は一度口火を切ると後は一方的に話し続ける癖がある。この女性たちも安心感が身体に染みてくるとそんな民族性が高まってきたようだ。
「どのような収容所に収監されたのですか」「場所は判りませんが、小さな食品加工の工場だったみたいな建物の倉庫に作業机をベッドにして押し込まれました」「窓には手製の鉄格子がはめてあって、カーテンはありませんでした」「床は剥き出しのコンクリートでした」ここまで早口の説明が続くと記録も速記でなければ間に合わない。李大尉はハングルの速記を学んだことはないが、大学時代にノートを取るため独自の早書き方法を編み出している。それでも追いつかなければ話を中断して再確認することにした。
「トイレは」「部屋と部屋の間の廊下の突き当りにあって監視の兵士の許可をもらって行っていました」「同行はしなかったんですね」「全ての窓に鉄格子がはめられていたので脱走は不可能なんです」李大尉としては女性の用便に男性の兵士が同行することが性犯罪につながる可能性を考えての質問だったが、この様子では問題はないようだ。
「食事は」「私たちが当番を決めて作っていました」「材料は彼らが提供しましたが野菜が中心でした」「韓国の調味料がなくて料理に困りました」証言に深刻さがなく、何だか全寮制の学校の生徒が帰宅して親にする生活の報告のようになってきた。しかし、ここから深刻な問題を確認しなければならない。李大尉の表情が暗く重くなると2人も快活な表情を消し、姿勢を正した。
「牧師さまと若い信者さんが殺害された時のことを伺わなければなりません」予想はしていたはずだが2人は背中に電気が走ったように全身を引きつらせた。
「2人が殺害されることを、若しくは殺害されたことを知ったのは何時ですが」先ほどまでの雄弁さは影をひそめ、2人の重くなった口は唇も心なしが紫色を帯びているようだ。
「それでは年長の貴女が答えて下さい」「はい・・・牧師さまは刑場に連れて行かれる時、窓越しに私たちに別れの挨拶をされました」「それで私たちは賛美歌を唄ってお送りしたんです」ここまで話すと2人の目に涙が溢れ出した。それでも質問は続けなければならない。
「彼らはその賛美歌を妨害しなかったのですか」「いいえ、最後まで唄わせてくれました」「アーメンも唱えることができました」これは意外だった。タリバーンはイスラム教の原点回帰を追及する宗教組織で、厳格な戒律を一般市民に強要することが欧米キリスト教国の批判の理由だったはずだ。それが死に逝く者を送る時には他宗教の儀礼を認める寛大さがあると言うのだ。
「それで★★さん(=青年信者)の時は」「彼は処刑の宣告の呼び出しを受けると大声で泣き叫び始めたから別の部屋の私たちも知ってしまいました」「どうして彼が選ばれたんですか。推測や噂でも結構です」裁判では噂=伝聞情報や推測は証言として認められないが、これは今後の交渉材料にするための情報収集だった。
「彼は脱走の機会を窺っては何度も逃亡を繰り返していました」「態度も反抗的でした」「下着の中に隠し持っていた携帯電話で救助を求めるメールを打ったみたいです」2人もこちらの青年の死についてはあまり同情していないようで、再び雄弁になった。
「それでは暴力を加えられていたのですね」「暴力よりも猿グツワを噛まされ、手足を縄で縛られていました」「食事は同室の男性が与えていたようです」やはり人道的な処遇である。
「それでは刑の執行は」「ベッドにしていた作業台に括られて運ばれたそうです」「銃声しか聞いていません」文民を処刑すること自体が重大な戦争犯罪ではあるが、アフガニスタン国内で繰り広げられた無差別攻撃に比べれば軽微な罪に思えてくる。李大尉も敬虔なクリスチャンでありながら。
  1. 2017/08/19(土) 09:27:47|
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8月18日・日本最大の作曲家・古関裕而の命日

平成元(1989)年の8月18日に作品名を列挙すれば誰もが「日本最大」と言う評価に納得するであろう作曲家・古関裕而さんが亡くなりました。80歳でした。
古関さんの凄いところは他の有名作曲家と違って音楽大学を卒業しておらず、福島市内の生家で音楽好きの父親が常にかけていたレコードを聞きながら育ち、尋常小学校に入ると自然に絶対音感が身につき、正式な教育を受けることもなく作曲を始め、その完成度の方が先行して仕事が後から追いついてきたことでしょう。ちなみに古関さんは作曲する時、楽器は使わず自分の音感だけで譜面を作成していたそうです。
しかもそのジャンルはクラシックからマーチ、映画音楽などの曲だけの作品から軍国歌謡、隊歌、校歌、球団歌、大会歌にラジオ・テレビ番組の主題歌、童謡や歌謡曲まで幅広いと言うよりも枠がなく、その数は戦災や盗難などで焼失、散逸したものを除いても7千曲に迫ると言われています。
有名なところだけでもクラシックでは日本人として初めて国際的音楽コンクールで入選した管弦楽のための舞踊組曲「竹取物語」や関東大震災を音楽で表現した「大地の反逆」など多くの傑作があり、竹取物語では打楽器だけで演奏する楽章もあったのだそうです。
マーチでは有名な作品だけでもNHKのテレビ中継のテーマ曲として親しまれていた「スポーツショー」、1964年の東京オリンピックの開会式で演奏された「オリンピックマーチ」などがあります。
映画音楽としては戦前の戦争アニメ「桃太郎 海の神兵」、戦後では戦争孤児が逞しく生きる姿を描いた「鐘が鳴る丘」、永井隆博士のお涙頂戴の駄文を映画化した「長崎の鐘」、大河内伝次郎さんが山本五十六長官を演じた「太平洋の鷲」、そして何よりも小人に扮したザ・ピーナッツが「モスラ~や、モスラ~」と唄った「モスラ」など数多くの作品を手掛けています。
軍国歌謡では「露営の歌」「愛国の花」「暁に祈る」「海の進軍」「若鷲の歌」「ラバウル海軍航空隊歌」「嗚呼神風特別攻撃隊」などがありますが、この中の昭和12(1937)年に発表された「露営の歌」は物悲しい歌詞と悲壮感溢れる曲調が愛する者を戦地に送る家族と送られる兵士の共感を呼び、2年後に「出征兵士を送る歌」が製作されてからも出征する兵士を送る壮行行進で唄われ続けました(それまでは軍歌「日本陸軍」が一般的だった)。このため古関さんは自分の作品が生きて帰れぬ者たちの送別の歌になっていることに苦悩していたようです。
戦後に新制された自衛隊の隊歌としては陸上自衛隊歌「栄光の旗の下に」と海上自衛隊歌「海を征く」があります。残念ながら航空自衛隊歌「蒼空遠く」は作詞が老海根達さん、作曲は高山実さんです。この他にも創立10周年を記念して制定された名曲「この国は」や今も愛唱者が多い「君のその手で」もそうです。
校歌については御自身が卒業していない割に早稲田・慶應義塾両大学を始めとする有名大学の大学歌、学生歌、応援歌、全国各地の小中高校の校歌を300曲以上も手掛けています。
驚くべきは球団歌で、双璧と呼んでも差し支えがないであろう阪神タイガースの「六甲おろし」と読売ジャイアンツの「闘魂込めて」はどちらも古関さんの作品なのです。ついでに「ドラゴンズの歌」も作曲していますが、こちらは「燃えよ!ドラゴンズ」の方が定着してしまっています。
大会歌では夏の甲子園の「栄冠は君に輝く」は古関作品で、この歌が制定されて30周年を記念する式典に出席した後、母校の福島商業高校の試合を観戦し、大会初勝利を飾ったためこちらも自分の作品である校歌を聞くことができたそうです。
テレビ・ラジオの主題歌や童謡、歌謡曲としては前述の「鐘が鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」、二葉あき子さんのけだるい声が似合うヒロシマ原爆犠牲者の鎮魂歌(と二葉さんは語っていたらしい)「フランチェスカの鐘」、同じく藤山一郎さんが美声で唄い上げた長崎原爆犠牲者の鎮魂歌「長崎の鐘」、アイヌ民族の祭礼を唄った「イヨマンテの夜」、岸恵子さんと佐田啓二さん主演で映画化され、放送時間には銭湯の女湯が空になったラジオ・ドラマの主題歌「君の名は」、知る者(マニア?)にとっては人生訓・応援歌である戦史アニメンタリー「決断」の主題歌、そして現在では出身地である福島駅の在来線ホームの発車メロディーになっている「高原列車は行く」などの名曲が並びます。
これだけの比類なき作品を残しながら文化勲章の候補になることはなく、没後に竹下登内閣から国民栄誉賞の授与を打診された遺族はこれを拒否しました。やはり文部省(当時)は学閥・学会・学界の推薦で予算配分から名誉に至るまでの利権を差配しているので、大学を出ていない古関さんの功績を認めることは学校教育の成果を否定することになるとでも考えたのでしょう。甲子園球場ではプロ野球でも高校野球でも作品が流れますからそれで満足されているのかも知れません。
  1. 2017/08/18(金) 09:40:10|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ919

岡倉の私有車で女性2名が保護された町に向かった。出発に当たり領事館員から車両のフロント・ガラスに貼る国旗に英語とペルシャ語で「韓国領事館」と入ったプラスチック製の札を手渡された。これを装着すれば準公用車扱いになるらしい。尤もアフガニスタンの路上では有志連合軍側であればタリバーンから、不審車両と見なされれば有志連合軍から攻撃されるので公用車よりも廃車寸前の中古車の方が安全なのかも知れない。
折角、夫婦2人のドライブになってもジアエは黙って窓に映る風景ばかりを見ている。日中は韓国の真夏以上の日差しが照りつけているのだが、舗装されてない道路では窓が開けられないのだ。
カブールに来て以来、ペルシャ語ができないジアエは交渉には参加できず、ようやく与えられた出番で夫との逢瀬に舞い上がって失策を犯すことはできないのだろう。岡倉は妻の思い詰めている横顔を見てあえて声をかけることにした。
「今回の解放は韓国政府がタリバーンの要求に応じる態度を見せたことへの褒美だとすれば、これからは一歩前進するごとに数名ずつ取り戻すことができるんじゃあないかな」岡倉の見解はそれを目指して努力している者にとってはあまりにも平凡だ。これまで見てきた卓越した交渉に比べあまりにも表面的な認識にジアエは夫の意図を測りかねる顔をした。
「でも我が国が軍の撤退を決めていたことが漏れればタリバーンは態度を硬化させて人質たちは危険な状態に陥ることになるわ」「そうなんだ。だから警察軍だけでなく解放された2名にも『奇跡が起こった』と言う態度を見せないといけないな」岡倉の胸の中にはニュースで見た大統領秘書室長・文在寅の名演技が再放送されている。ジアエは夫の見解が注意喚起につながったことでようやく納得したようにうなずいた。
「それにしても今回の町は牧師の遺骸が見つかった××××と若い信者の△△△△と合わせると地図上の位置関係では正三角形になるな。普通は三角形を描けばその中心に所在地があると推理するものだが、タリバーンともあろう者がそんな初歩的なミスを犯すはずがない。お前はどう考える」突然の質問にジアエは困惑と同時に「一緒に仕事をしている」と言う意識が胸に甦り、少し感激した。
「アフガニスタンはアメリカ軍が偵察衛星で全土を監視しているから夜間の車両での移動はかなりのリスクがあるはずよ。何かの演出のために払うリスクと存在を暴露するリスクでは・・・」ジアエが答え終わる前に岡倉は車を止めた。周囲は赤い岩が剥き出しになった荒野であり、ここで停車する理由は見当たらない(用便なら話は別だが)。
「うん、お前の分析は正しいな。おそらくタリバーンはアメリカの監視能力を十分に認識しているから1つの目的だけにとらわれて墓穴を掘るようなことはしないだろう・・・これは正解の賞品だ」そう言うと岡倉は自分を注視している妻の顎を指で固定して唇を重ね、同時に迷彩服の胸ポケットの上から乳房を掴んだ。ジアエは自分の中で心が急速に落ち着いていくのを感じた。仕事のパートナーとしての夫は心を舞い上がらせる存在ではなく安心を与える楯であり、勇気を支える柱であることを確かめた。

「よし、ここだ」ジアエが助手席で熱中症になる前に解放された2人の女性信者が保護されている町に到着した。警察軍の施設に入る前に岡倉はここでの愛車を止め、ガラスの内側に札を貼って韓国領事館の準公用車に仕立て上げた。
「途中ですれ違った羊飼いがいただろう。俺たちを見て携帯電話で連絡していたから、若しも韓国の国旗を見られていればゲリラに狙われたかも知れないな」運転席に戻った岡倉の説明にジアエは単なる異国の情景と見過ごしていた場面の中に潜んでいた危険に驚き、それを察知していた夫の軍人としての資質に敬意を感じた。
警察軍の取調室を借りてジアエは2人の女性信者の事情聴取を始めた。その交渉は岡倉が実施し、同行目的が単なるドライバーにならずにすんだ。
窓枠1枚分の狭い個室でジアエは机を挟んで2人と対面して座った。2人はアフガニスタンの女性の装束であるブルカを着ているが頭からかぶって顔を隠す布は取っている。それにしても1月近くも拉致・監禁されていたとは思えない程、表情には精気があり、インターネットに流出したアメリカ海兵隊キャンプ・グアンダナモ内にある捕虜収容所の劣悪な環境よりも良好な待遇を受けていたようだ。
  1. 2017/08/18(金) 09:39:06|
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8月17日・インドネシアが独立を宣言した。

日本が無条件降伏を表明し、正式な手続きを踏む直前の1945年の8月17日にインドネシアが独立を宣言しました。
オランダのインドネシア(東インドと称していた)に於ける植民地支配は過酷を極めていたため、解放を旗印にする日本軍の上陸は熱烈な歓迎を受け、完全試合の様相を呈しました。占領後の日本軍はスカルノ(=デビ夫人の夫)やモハマッド・ハッタなどの独立運動の指導者を解放して統治の実権を与え、さらに自治政府の官吏にも努めてインドネシア人を登用し、オランダの統治下では一切認められていなかった学校教育が始まりました。その一方で自治政府の要望で日本軍が武器を供与すると自衛組織が編成されて、日本軍の指導で近代的な軍隊としての体裁を整えると1943年10月にはインドネシア人自らが率いるペタと呼ばれる防衛義勇軍が編成され、さらなる激しい訓練によって急速に実力を蓄えていったのです。ただし、インドネシアの石油資源を確保したい東條政権は独立については確約を与えようとはしませんでした。
ところが戦局は悪化の一途を辿り始め、1944年9月3日には東條の後を受けた小磯首相が「日本の統治下にあるアジア各国の将来の独立を承認する」との声明を発表すると(=宗主国からは「日本の敗北後の独立運動を扇動した」と見られている)、インドネシアでもスカルノとハッタによる独立準備調査会が設置され、憲法草案の審議などが始まりました。
こうして迎えた1945年8月7日には調査会はスカルノを主席とする独立準備委員会に格上げされ、8月18日には第1回会議が開催されることが決定していたところに飛び込んできた日本の敗北の報でした。
この事態にスカルノとハッタなどの政治指導者たちは日本の軍や政治顧問に真偽を確かめたのですが明確な回答はなく、それでも噂は広まったため「日本軍と敵対してでも独立を勝ち取るべし」と叫ぶ過激な活動家たちに2人は拉致されてしまったのです。この時、2人は「日本が敗れればオランダが再び植民地を奪還するためにやってくる。無傷の日本軍とは戦うべきではない」と説得し、8月17日までの準備を整え正式に独立を宣言することを約束して解放されました。
解放された2人はその足でジャカルタに向い、16日の深夜になってから日本の海軍少将の公邸に50人ほどが集まり、すでに起草されていた憲法前文の独立宣言に基いた文章を承認しました。そして、と翌17日の午前10時にスカルノ邸に参集していた約1000人の群衆を立会人にして、「宣言 我らインドネシア民族はここにインドネシアの独立を宣言する。権力委譲その他に関する事柄は完全、且つ出来るだけ迅速に行われる。ジャカルタ、45年8月17日 インドネシア民族の名において スカルノ ハッタ」との独立宣言が発表されたのです。この宣言は現在もオランダを始めとする旧連合国=欧米帝国主義国は「無効」と否定していますが、日本の敗戦手続きが行われたのは9月2日でした。
しかし、日本の敗戦後にはスカルノとハッタが危惧した通り、オランダは植民地奪還のために全軍に近い18万人の大軍と協力するイギリス軍の3万人を派遣してきたため1949年12月27日までの長期戦を繰り広げることになりました。ちなみにインドネシアでは8月17日を開戦にしています。
日本軍は連合国側から独立運動への武器の譲渡を厳禁されて、オランダ軍が上陸するまでの保管を命令されていたのですが、独立派が武器庫を襲い警備の日本兵を殺害して武器を強奪する事件が発生したほか、指揮官が戦犯に問われることを覚悟した上で武器の譲渡を命じることも珍しくはなく、歩兵銃3万丁以上、野戦砲100門以上とトラック100両以上、十分な弾薬、夜戦糧食が独立派の手に渡り、さらに数千人もの日本兵が脱走して独立戦争に参加したのです。独立派の襲撃を受けて殺された日本兵は壁に自分の血で「インドネシア独立万歳」と記して死んでおり、現地の日本軍将兵が心からインドネシアの独立を願っていたことは間違いありません。
今の天皇はオランダ王室が来日するたびに謝罪を繰り返しますが、オランダはアフリカの植民地で史上最悪と言われる住民の大量虐殺を行っており、インドネシアでも全ての住民を奴隷として酷使するため教養を身につけさせることを禁じてきました。そのようなオランダに媚を売り、誠実に人材を育成し、独立に身命を賭して協力した日本軍の行為を全て罪悪と決めつけて謝罪するような天皇に日本を代表する資格はありません。
  1. 2017/08/17(木) 09:25:27|
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振り向けばイエスタディ918

「3000万ドル?馬鹿な。それでは1人幾らになる計算だ」タリバーンとの交渉は身代金の金額を巡る攻防になっている。こうなると若手外交官は普段の経済交渉の感覚に戻っているが、ここで取り引しているのは人質の命であって、相手が見せしめに殺害するところまで追いつめてはならないはずだ。果たしてそれが判っているのか不安になるような口調でもある。
「我が国としては1人当たり幾らで算定しているんだ。君たちが2人を殺害したのだから、その分目減りするのは当然だろう」これでは「人の命は幾ら」と言う値切り交渉にしか聞こえない。日本でもバブルの世代の思慮の浅さが問題になっているが、韓国バブルと呼ばれる好景気に育った世代はやはり何かがおかしいようだ。
「切れました」外国官の報告に両代表は呆れたように顔を見合せる。特に外交部の人選の責任を感じている参事官の顔は恥入って赤くなり、申し訳なさで青くなり、まだら模様になっているようだ。
「それで我が軍の撤退については何も言ってこないのか」「はい、今回は身代金の要求から始まりましたから、その交渉で終わりました」外交官が悪びれる様子もなく報告すると中佐は隅の席に黙って座っている岡倉の顔を注視した。
「次の電話は牧村くんが出てくれたまえ。政府としてはタリバーンが我が軍の撤退を望んでいる度合いも知りたいはずだ。この連中では経済交渉はできても外交交渉は話にならん」中佐の厳しい口調に外交官は自分の上司の反論を期待したが黙ってうなずいただけだった。それを見て外交官は同僚と一緒に嫉妬を燃え上がらせた憎悪の目で岡倉を睨んだ。

「そろそろ良いでしょう」「そうですね。タリバーンからも苛立ちが伝わってき始めていますから」岡倉が電話に出るようになるとタリバーンは率直に条件を申し入れるようになり、交渉は急速に進展した。あれから1週間が過ぎ、身代金の金額は人質1人につき100万ドルを超えるか超えないかの綱引きになっている。そのやり取りの中でタリバーンは「軍の撤退が実現するなら譲歩する」と口にし始めている。ここで「韓国政府がタリバーンの圧力に苦慮してアフガニスタンから軍を撤退させようとしている」との情報が漏れれば韓流ドラマ「迷った挙句」の序幕が上がる。
「よし、本国政府に『そろそろウッカリ口を滑らすように』と意見具申しろ」参事官は領事館員に通信用の起案用紙を持ってこさせると外交官に指示した。同時に中佐は現地軍の連絡官に「兵士たちに『もうすぐ撤退するらしいぞ』と噂を流せ」と命じた。
間もなく韓国から文在寅大統領秘書室長が取り囲んだ記者に「タリバーンが軍の撤退を要求きており、これ以上、人質を殺害させないために応じざるを得ない」と発言するニュース映像が流れた。その顔は苦渋に満ち、インターネットのニュース映像で見ていても名演技に拍手したくなるほどだ。実際、岡倉は派手に拍手してしまい隣りにいたジアエに注意されてしまった。

「女性2名を保護しました。本人たちは韓国人だと言っています」8月13日、突然に人質2名が解放された。解放方法は前々回の牧師、前回の清年の遺骸と同じく夜間に市街地に置き去りにして、自分たちは逃走している。偵察衛星で監視していれば、交通量が少ないアフガニスタンで夜間移動する車両の発見は可能だったのだろうが、人質と捕虜の交換が条件でなくなった時点でアメリカは急速に無関心になっており、クレイトン中佐もほとんど顔を出しておらず、カルザイ政権の警察軍からこの通報も自発的な蚊帳の外だった。
「それでは李大尉に身柄の引き渡しと事情聴取に行ってもらおう。ジュネーブ条約の文民保護規定への違反があれば詳細に確認の上、報告してくれ」中佐の命令をジアエは姿勢を正して受けた。
「現地警察軍との交渉には通訳が必要だな。領事館から1名同行させよう」参事官の指示を遮るようにジアエと岡倉が声を上げた。
「牧村さんにお願いします」「私が行きます」申し出てから2人は顔を見合わせたが、陸軍中佐と外交部の参事官が簡単に受け容れるはずがない。
「どうしてかな」「・・・」「私の本業である取材を兼ねています」返事ができないでいる妻に代わって岡倉が即答した。すると外交官たちが「悪意」の応援をしてくれた。
「彼がいなくても我々だけで十分です」「そうです。お任せ下さい」これで決定だ。
  1. 2017/08/17(木) 09:23:15|
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月刊「宗教」講座・番外編・普通のお盆

当・長門地区でのお盆は日本の標準から完全にかけ離れているので、確認の意味を込めて紹介したいと思います。
先ず、お盆に入ると縁側などに盆棚を設け(卓机で代用することも多い)、そこに佛壇の中身を並べて年に一度の風通しをします。これは寺の坊主がお盆に檀家を回る本当の目的はキリシタンの取り締まりだったため漏らさず回らなければならず、草鞋を脱いで家に上がることなく庭から確認できるようにするためのものでした。ついでに言えば隠れキリシタンが家が中を点検させないための予防策とするうがった見方もあります。そして何よりも浄土から帰って来られた祖先たちが気軽に宿ることができるようにする心配りなのでしょう(当地ではやっていません)。
また割り箸を使って胡瓜の馬と茄子の牛を作りますが、これはご先祖さまが早く帰って来られるように馬、ゆっくり帰って往くようにと牛なのです。昔はお盆が過ぎると川や海に流したものですが、最近は環境破壊になると禁止されている地域も多く(昔は七夕の笹も川に流していた)、「どうか快適な旅を」とミニカーを盆棚に供える家も珍しくなくなっています。それどころか「天から帰ってくるのだから」と飛行機やスペースシャトルの模型だったりしますから形式化と同時に楽しんでもいるようです(当地でも昔はやっていたそうですが、今は絶滅しています)。
そしてお盆の入りの夕方に門の前や玄関先で家の目印に迎え火を、お盆明けの夕方には送り火を焚きます。送り火については「煙に乗って魂魄が天に昇って行く」「振り返ったご先祖さまが判るようにする目印」などと説明している坊主もあります。さらに本州の最北端の大間では迎え火に代えて墓地で花火大会を繰り広げ、留守になった墓石の上でドラゴンを噴射させ、花筒に打ち上げ花火を入れて大騒ぎします(当地ではやっていません)。
こうしてご先祖さまを迎えると子孫=家族は精進潔斎して過ごし、料理は「お盆菜」と呼ばれる殺生につながる肉魚を使わない献立になります(添付した献立表を参考のこと)。ただし、姑から家伝の精進料理を習っていない奥さんたちは椎茸や昆布の出汁で作った麺汁の野菜の天婦羅を載せた素麺でお茶を濁しているようです(当地ではやっていません)。
お盆と言えば坊主の檀経=檀家回りですが、佛祖以来の伝統では施餓鬼供養と祖先供養の2つの法要を勤めるものです。施餓鬼供養ではお洗米(水の子とも呼ぶ)と言う洗った米を蓮や里芋の葉の上に置き、呪文で念を入れてから庭に撒いて餓鬼に施します。中には室内に撒く坊主もいますが、それも掃除機ではなく箒で塵取りに集め、庭に撒かなければなりません。ただし、節分ではないので投げ捨てるのではなく池の鯉に餌を与えるように撒きましょう。ところが当地の浄土真宗の寺院は「念佛で必ず極楽往生できるのだから餓鬼などは存在しない」と言う屁理屈を弄して施餓鬼供養はやっていないのです。しかし、街を見れば欲望に囚われた餓鬼たちが溢れ、実際に小庵には姿を現すこともあります。佛祖は「そんな餓鬼たちにも慈悲を与えよ」とこの呪文を教え、法要を勤めるように勧めたのですから、それを拒否できるほど親鸞は偉いのでしょうか。当地の曹洞宗でも施餓鬼供養(曹洞宗では施食供養と呼んでいる)の呪文「甘露門」の後には祖録と呼ばれる「参同契(さんどうかい)」「宝鏡三昧(ほうきょうざんまい)」を勤めるのが作法ですが、普段は使わないお経を覚える手間を省くため法事で勤める「修証義」第2章「懺悔滅罪」で誤魔化しているそうです。
もう1つの祖先供養については初盆の家では親族も集まり、49日や1周忌のような法要になります。そうして坊主の読経が終わり、送り出すとその足で墓参りになるのです。ところが当地ではこの習慣さえなく、「墓を管理するのは年寄りの仕事」とばかりに暑い中、高齢者が草を抜き、掃除をして、1人でお参りしています(高齢者が管理している墓は日頃から手入れが行き届いているのでそれほど時間はかからない)。
普通、田舎の方が伝統の継承として古くからの宗教儀礼が残っていたり、独自の発展を遂げているものですが、当地では祖先供養の必要性そのものを認めておらず快楽に溺れ切っています。この地域の住民の大半は門徒なのですから浄土真宗の責任は大きいはずです。
何にしてもこのような宗教意識の持ち主たちが国家権力を握ったのですから「廃佛毀釋」で国家を破滅に引き込んだのでしょう。
盆棚
  1. 2017/08/16(水) 09:15:05|
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振り向けばイエスタディ917

「身代金?それが新しい交換条件なんだな」数日後、タリバーンからの電話を受けた外交部の若手外交官は興奮気味に応対していた。先日の電話に岡倉が出て独断で助言を与えたことからペルシャ語ができる2人は手柄を奪われたくない一心で常に電話から離れず、ベルと同時に手を伸ばして奪い取っている。どうやらこれまで固執してきた捕虜と人質の交換と言う条件の変更を申し入れてきたようだ。部下の興奮した大声を聞きながら外交部の代表は軍の代表である中佐と顔を見合わせた。
「うん、うん、韓国軍の撤退も要求すると言うのか、それは・・・」この外交官が何かを言いかけたのを見て横から岡倉が電話を奪った。
「それでこの2つの条件のどちらを優先するつもりだ。うん、軍の撤退だな」岡倉に電話を奪われた外交官は殺意に似た感情を露わにしながら横から睨んでいる。しかし、代表の2名は岡倉の行動の真意を理解して黙って聞き耳を立てていた。
「切れました」そう報告して岡倉が電話を置くのと外交官が肩を掴むのは同時だった。この続きが暴力になるのは間違ない。そんな外交官の興奮に冷水を浴びせるように上司である代表の2人が交互に声をかけた。
「牧村くん、君の適切な対応のおかげで我々は交渉の糸口を掴むことができた。感謝する」「うん、我が軍の撤退を交渉材料にするには秘匿することが第1だ。不用意な告知を防いだ君の反射神経には感心するよ。まるで軍人だな」この言葉に外交官は自分が既に決定している韓国軍の撤退を口にしそうになっていたことに気づき、掴んでいた肩を放すと、きまり悪そうにその場を離れた。
韓国軍は2003年からイラクに600名程度の部隊を派遣していたが、盧武鉉政権はアメリカから要請と言う形の追加派遣命令を受け、翌年にザイトゥーン部隊と言う8000人規模の派遣を実施している。この部隊の規模を維持するためには交代要員を確保しなければならず、アフガニスタンとの2正面への派遣は無理と判断して撤退を決定していた。つまり相手が既に決定している事項を最優先とする交渉材料にしてくれたのだ。
「問題はこの決定事項を外部に漏らさないように保全することと政府首脳が苦悩しているような演技ができるかだ」「主演は大統領秘書室長の文在寅だな」代表同士の雑談的対話で随員たちも状況が掴めてきたようだ。こちらには全く苦痛がない要求を韓国政府が衝撃を受けているかのような迫真の芝居を打ち、苦悩の末に応じる韓流ドラマを演出しなければならない。勿論、その前に決定していた事実を秘匿し、撤退を打診していたアメリカ政府の関係者にも緘口令を敷かなければならないが、実務を取り仕切る文在寅の能力には疑問があった。
「文在寅は第2次南北頂上会談(=首脳会談)には熱心だが、それ以外にはあまり関心を示さないからな」政権への批判を口にしたのは中佐だった。韓国軍は自国政府の管理と在韓米軍の戦時の指揮を受けており、その二元性ゆえに国家に対する忠誠心が弱い面があることは否定できない。

「貴方、良い?」今夜は岡倉とジアエの仮眠時間が重なった。岡倉が男性用宿舎の外で夜風に当たっているとジアエが近づいてきた。カブールは海抜1800メートルの高地であっても北緯34度の低緯度であることから日中の気温は30度近くなる。日没後には20度前後になりヒマラヤから吹いてくる風が心地よいのだ。ジアエはそんな月光に浮かんだ影を夫だと察したらしい。
「お前も眠れないのか」「うん、貴方と一緒に仕事しているとそれだけで安心できるんだけど、我が国の外交官たちの無能ぶりが際立ってしまって絶望的な気分になるの」そう言うとジアエは岡倉の隣りに腰を下ろした。夫婦としては極自然な情景だが、その事実を知らない者が見ればこの上なく奇異な場面だ。男性宿舎にはこの時間、両代表と外交官の1名、さらに領事館職員がいるはずだ。
「外交官たちはプライドばかりが高くてそれが空回りしているようだな」「それに貴方への対抗意識が加わって外交交渉の基本を踏み外しているみたい」そう言うとジアエは月明かりに照らされた顔を向けた。迷彩服が影を集めて顔だけが浮かび上がっている。人目がなければ口づけを交わしたいところだがこの場では控えることにした。その代りに手を握った。
「今まで貴方の実力は成果だけでしか見ることができなかったけれど、今回は目の当たりにすることができて感激しているわ。やはり私の上司と同じ中佐、それ以上のニトーリクサ(2等陸佐)ね」ジアエは人目と言う危険を冒してこのことを言いに来たようだ。
  1. 2017/08/16(水) 09:13:15|
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8月15日・生き方も曲技飛行だったパイロット・源田実が死んだ日

平成元(1984)年の8月15日に稀代のスタンドプレイヤー、自己演出の巨匠である元参議院偽員・源田実が死にました。84歳の生き恥でした。
野僧はこの日、航空自衛隊幹部候補生学校に入校中でしたから暇つぶしに同期の間で源田に関する評価を討論しました(防衛大学校出身者の卒業前試験があった関係で夏季休暇が1週間早まっていた)。すると比較的年齢が高い者たちは「特攻隊に反対して松山に紫電改の部隊を作って戦果をあげた」「自らF-104とF-11を操縦して機種選定に結論を出した」「航空幕僚長としてブルーインパルスを結成し、東京オリンピックで大空に五輪を描かせた」と肯定的な意見を述べ、逆に戦史を熱心に研究している若い連中は「真珠湾やミッドウェイの時に作戦指導を誤った」「最新鋭機の紫電改を四国の松山に配備して中央の大都市の防空に役立てなかった」と否定的でした。そんな中、野僧が「源田を嫌って海軍航空隊の生き残りのパイロットたちは航空自衛隊には入らず、航空自衛隊が陸軍航空隊=帝国陸軍の色に染められてしまった」と言う意表を突いた見解を述べると「それじゃあ、源田がいなければ銃剣道をやらずにすんだのか」と思いがけない結論に至ってしまったのです。
野僧はそれまでも戦史の資料を読み解きながら海軍航空隊出身者(=敗戦時の中佐クラス)から話を聞いてきたのですが、源田は上役の顔色を窺うだけの究極の胡麻擂り野郎で、映画や戦記小説では真珠湾の時は第2次攻撃を強く主張する同期の淵田中佐に「司令部は逃げることに決めた」と南雲司令官や草鹿参謀長が臆病風に吹かれたような描き方をされていますが、実際は山口多聞第2艦隊司令官から「再攻撃の要あり」との意見具申を受け、迷う南雲司令官に草鹿参謀長が一刀流の奥義に基づいた反対論を強弁しているのを怖々と見ているだけだったようです。ミッドウェイでも軽巡洋艦・利根の偵察機から「アメリカ艦隊らし、見ゆ」の通報を受け、草鹿参謀長が同じく一太刀流の発想で陸上基地を攻撃するため陸用爆弾を装着していた艦上攻撃機を魚雷に換装するよう命ずるのに同意し、結局、その作業中にアメリカ軍の攻撃を受け、爆弾と魚雷が次々と爆発して大きな損害を出したのです。
さらに松山に紫電改の第343航空隊を編成して司令になりましたが、これも「自分の出身地である広島を守るには太平洋から北上する経路上に基地を置く必要がある」との私的理由を隠しながら得意の綺麗事を並べて軍首脳を籠絡したとも言われています。この時、「特攻に強く反対した」ことになっていますが、本当は優秀なパイロットを第343航空隊に集めるように人事担当者に圧力をかけただけで、軍の方針、特に海軍航空隊の重鎮・大西瀧治郎中将に反抗するような発言は一切しなかったようです。
源田の卑劣なところはこのような失策を敗戦後に軍記小説を執筆している作家に「貴重な証言」として巧妙に弁明し、さらにその作品が映画化されたことで、「敗」戦犯のはずが英雄に自分を演出したことです。
このことを嫌って海軍航空隊出身者の多くは戦闘機を持たない海上自衛隊に流れ、逆に航空自衛隊は「帝国陸軍憎し」の世論に慮って陸上自衛隊が帝国陸軍色を排除している中、帝国陸軍を復活させたかのような組織になってしまいました。幸いにして航空部隊はアメリカ空軍から組織造りを学んでいますが、幹部候補生学校、航空教育隊、高射部隊は完全に時代遅れな帝国陸軍式であり、陸上自衛隊の幹部が航空教育隊を見学して「古臭い教育をやっているなァ。まるで戦前の陸軍みたいだ」と呆れていたほどです。
源田は航空自衛隊に入ってしまった後も公私混同とスタンドプレイを続け、前述のF-104とF-11を乗り比べたのも事実上は機種が決定していたにも関わらず記者を同行させてアメリカへ行き、自分の雄姿を誇示したのです。この時点で源田は退役が迫っており、自民党から参議院議員選挙への出馬を要請されていたので、その宣伝であったのは間違いないでしょう。実はこの時、ロッキード社とグラマン社から派手な接待攻勢を受けており、賄賂を受け取っていた可能性も高く、事実が解明されていれば元祖ロッキード事件になっていたのかも知れません。
源田は浜松での評判も最悪で、愛犬のシェパードを司令官車の後席の左側に座らせて出勤していたため、警衛隊員は「お犬さま」に敬礼させられている気分だったそうです。さらに部下の新人女性事務官(当時は女性自衛官がいなかった)を愛人にして使い捨て、その女性は美貌を保ったまま高齢化していましたが、頼めば誰でも抱かせてくれる慰安婦になっていました。
何にしても職業軍人として戦争を経験した世代の大半が亡くなり、文書や記録画像、映画などで戦争を学ぶしかなくなると情報操作を鵜呑みにする者が増え、源田のような品性下劣な人間でも卓越したスタンドプレイと巧みな自己演出で英雄であるかのように信じられてしまうから本当に困ります。
  1. 2017/08/15(火) 07:43:10|
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振り向けばイエスタディ916

翌日のタリバーンからの電話を受けたのは岡倉だった。このメンバーでペルシャ語ができるのは外交部の随員2名と岡倉だけなので確率は3分の1でもこれが初めてだ。
「こちらの兵士の解放は決定したか?」タリバーンは電話の時間を短くするため単刀直入に確認してくる。こちらでも目の前でクレイトン中佐が電話の発信源の捜索を指示しているのでそれは納得せざるを得ない。
「韓国は北朝鮮に軍事情報を漏洩した負い目があるからアメリカに強談判(こわだんぱん)はできないんだ。交換条件を考え直した方がいい」この台詞に外交部の2名だけが顔を見合せてからこちらを睨んだ。しかし、本気で人質を取り戻すつもりなら事態を進展させるための打開策を講じなければならないはずだ。この独断はジアエから聞いている外交部と軍の認識の違いに投じた一石でもある。
「お前のペルシャ語はいつもの2人とは違って日常会話用だな。話していて信頼感を覚えるよ」タリバーンも岡倉の助言に関心を持ったのか珍しく世間話を始めた。それを聞いてクレイトン中佐は表情だけで快哉を叫んだ。
「ありがとう。俺にはタリバーンに友人がいるんだ」「ほう、誰だね」「□□□村のサファとアジズだ」「うん、知っている。サファは残念なことをした」このままいけばアメリカ軍の特殊部隊が電波の発信源を特定し、偵察衛星を向けて移動する人物の行き先まで追跡することになる。
「君の適切な助言に感謝する」「アジズによろしく」やはり電話はここまでで切られた。所要時間は2分少々、発信現場の特定までには十数秒足りなかった。クレイトン中佐は残念そうな顔で時計と岡倉を見たが、本人は逆に安堵していた。岡倉が今回の依頼を受けたのは人質の解放だけが目的であり、タリバーンの壊滅などは阻止したい暴挙に過ぎなかった。
「牧村、私は君の顔をペンタゴンで見たことがある」「そうですか。取材で何度も行ったことがありますから当然でしょう」クレイトン中佐は先ほどの電話のやり取りで興味を持ったのか岡倉に声を掛けてきた。一方、岡倉には記憶がない。
「日本大使館のルテナン・ジェネラル(将補)・野中に関係する仕事ではなかったか」「ルテナン・ジェネラル・野中?そちらは知りませんが」おそらくこれは情報要員の常套手段であるかまかけのようだ。クレイトン中佐としては紹介を受けた肩書きに疑念を抱き、本当の身分を確認しようとしているのだろう。それにしてはあまり巧妙とは言えないようだ。
「タリバーンに知り合いがいると言っていたようだが」「それも取材です。アメリカがアフガニスタンに侵攻する前に取材に入って逮捕されました。ところで中佐はペルシャ語ができるんですね」今度は岡倉が反転攻勢に出る。タリバーンとの電話はペルシャ語で行っており、その内容はまだ説明していない。つまりクレイトン中佐は電話での会話で内容を理解したことになる。するとクレイトン中佐は無理な笑顔を作り、話題を変えてきた。
「なる程、だから君のペルシャ語は相手に親近感を与えるんだな。会話があと十数秒続いていれば場所が特定できて特殊部隊を急行させられたのに本当に惜しかった」「それで電話をしていた人間を捕獲して韓国の人質と交換するのですか」岡倉の質問にクレイトン中佐は思わず顔を背けた。アメリカ軍は韓国人の人質の安危などに大した関心は持たず、タリバーンを壊滅することだけを考えているのはカルザイ政権が人質と捕虜の交換を申し出ても頑なに拒否したことでも明らかだ。岡倉が言った北朝鮮への秘密漏洩を逆手に取り、盧武鉉政権にアフガニスタンに続いてイラクへも大規模な部隊を派遣させたことは国家としての自業自得だとしても、実際に戦地に派遣される軍人たちにとっては尻拭いを押しつけられた不条理以外の何物でもない。その時、外交部の随員2名が厳しい顔をして声を掛けてきた。
「先ほどの会話で我が国を貶めるようなことを言っていたが」「君は通訳であって交渉する権限は与えられていないはずだ」このような台詞は日本の外務省職員からも聞いたことがある。官僚と言う人種の民族性は国籍にあまり関係がないのかも知れない。
「そうですか、ご不満なら私は退席させてもらいましょう。こちらとしても取材の方が本業なのでね」そう言って岡倉が立ち上がると2人は慌てて制止した。うろたえた2人の韓国語を聞く限り、岡倉を推薦したのは外交部の上層部のようだ。こうなると益々謎が深まってくる。何はともあれ八方塞り、万策尽きている中、タリバーンが先ほどの助言をどう受け止めるかの結果待ちになった。
  1. 2017/08/15(火) 07:41:23|
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8月15日・韓国の祝日・光復節

明日8月15日は韓国の祝日・光復節(栄光を回復した日)、つまり独立記念日です。実は同じく日本の統治下にあった台湾や北朝鮮でも光復節を祝っているのですが、どちらも日本政府と軍が降伏文書に署名し、正式に敗北した9月2日であり、韓国だけが日本に合わせて天皇による無条件降伏の告示である玉音放送が流れ、政府が関係機関に通達した8月15日としています。
戦争そのものは千島列島や樺太、満州で継続されており(千島の占守島では激闘を交えたものの満洲や樺太では侵攻してきたソ連軍による略奪と住民の殺害、婦女子の強姦が繰り広げられた)、8月15日と言う日付にそれ程の意味はないのですが、朝鮮半島ではこの日に総督府政務総監と独立運動活動家の代表との間で行政権の移譲に関する会談が行われ、日本側からは在朝鮮日本人の帰国までの安全と財産の保証、朝鮮側からは政治犯の釈放と食料の提供の条件が提示され一応は妥結しました。
翌日、代表がラジオで行政権の移譲=独立を宣言すると朝鮮半島各地では歓喜した民衆による日本が建てた神社の破壊や焼き討ちが相次ぎ、さらに日章旗を引き下ろして現在の韓国国旗の4隅にある「大韓民国」の略字が入っていない大極旗が掲揚されたそうです。
この事態を受けて最後の朝鮮総督である阿部信行元首相(陸軍大将)は日本側の誠意を見せるため合意事項を直ちに実行したのですが、政治犯の大半は共産主義者の革命家だったため、日本の官権が帰国した後に共産主義政権の樹立を標榜する地方自治体が発生し、帰国が遅れていた日本人に対して略奪と迫害を加え、その後のアメリカによる統治にも大きな障害になりました。
実は連合国側も朝鮮の戦後統治についてはヤルタ会談で38度線を境界とする米ソ英中(=蒋介石政権)の分割で合意していたのですが、ソ連は8月24日には満洲へ侵攻させる予定だった軍の一部を38度線付近にまで進撃させ、日本の占領を優先していたアメリカの機先を制しました。しかし、ソ連軍も独ソ戦で戦力を消耗し切っている中、ヨーロッパでは東欧にまで版図を広げていたため、多正面作戦を行う余力はなく、8月26日には朝鮮半島北部の中心地である平壌にまで軍を引き、そこを拠点とすることに方針転換しました。
一方、アメリカは日本の敗戦手続きが完了した9月7日になってから進駐を開始し、9月11日に38度線以南(当時は緯度の通りの直線だった)を軍政下におくことを宣言したのです。ところが朝鮮半島では独立活動家が完全な独立国の樹立に向けた構想を発表していたため軍政下に置かれることは後退に映り、さらにアメリカ軍は日本で警察組織を戦前のまま存続させた例に倣って朝鮮でも同様の処置をとったため、朝鮮の警察組織は日本が設立したものであり、思想弾圧を担当する特高も警察組織であったことから朝鮮人の反発が湧き起こり、それを各地に分散していた政治犯が扇動したことで騒乱状態に陥りました。
やはり政権の移譲は敗走する日本と政治的位置づけが確立していない独立運動の活動家のドサクサ紛れの2者会談ではなく、占領軍を交えてヤルタ会談での合意事項の説明・確認を行って上での責任ある形で決定しなければならなかったのです。
結局、本当の意味の光復節は1948年8月13日の大韓民国、同年9月9日の朝鮮民主主義人民共和国の独立を待たなければなりませんでした。さらに真実の光復節は南北統一なのでしょう。
  1. 2017/08/14(月) 10:14:12|
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振り向けばイエスタディ915

8月2日、李知愛大尉を含む韓国の交渉団がアフガニスタンの首都・カブールに入った。韓国政府が用意した特別機はビジネス・ジェットに過ぎず、パイロットは予備役の空軍軍人とは言え地対空ミサイルで狙われては一溜まりもない。そこでパキスタンからは米軍のヘリでの移動になった。
外交部と軍の代表2名がカルザイ政権の首脳と面会し、これまでの交渉への感謝と経緯の説明を受けている間、随員たちは韓国領事館の会議室でアフガニスタン政府から渡された記録の確認をしていた。そこに現地に駐屯している韓国軍士官が思いがけない人物を引き合わせた。
「こちらが今回、通訳として協力してもらうことになった牧村ハンゾウさんだ。牧村さんは日系アメリカ人の記者だが英語だけでなく韓国語とペルシャ語にも堪能で、戦争前のタリバーンにも知り合いがいたとのことだ」紹介を受けた牧村=岡倉は迷彩服を着た軍人2名とラフな服装の外交官2名の顔を見まわしたが、その中に妻を見つけて一瞬、顔を硬直させた。それは李大尉=ジアエも同様だ。
「私は以前、韓国軍の衛生隊が医療活動を行っているのを取材したことがあります」岡倉は士官に促されて自己紹介を兼ねた挨拶を始めた。
「そこでは敬虔なイスラム教徒たちにキリスト教の戒律や教義を押しつけていました。私はそれを見てアフガニスタンの人々の間に韓国に対する反発が生まれるのではないかと心配していましたが、それが今度は・・・」ジアエを除く随員たちの目が厳しくなり、岡倉は言葉を選ぶように話を中断した。
「兎に角、他の人質たちが無事に戻ってくるように最善を尽くしますから、よろしくお願いします」結局、岡倉は話を続けることなくまとめてしまったが、妻のジアエには夫が言いたいことは十分過ぎるほど理解できる。岡倉は「韓国人特有の独善性と狭量が今回の事件の原因だ」と随員たちに理解させたかったのだ。
その時、薄い壁を通して廊下を歩いてくる数人の足音が聞こえてきた。現地軍の士官が廊下に出ると踵を鳴らして姿勢を正し敬礼をした。どうやら中佐と外交部の代表が帰ってきたようだ。しかし、足音はもう1人いる。士官が開いていたドアを押し、同時に中佐とビジネス・ジェットで一緒だった外交部の代表が入ってきた。その後からもう1人、それは金髪で迷彩服姿のアメリカ軍の中佐だった。
「こちらはアメリカ国防総省から派遣された連絡官のクレイトン中佐だ。交渉に当たってのアドバイスを受けることになる」これでここには韓国軍の法務官、ペンタゴンの連絡官、そして陸上自衛隊の岡倉と3人の中佐が揃ったことになる。ただし、岡倉の身分は秘密だ。

タリバーンとの交渉は先方からかかる電話で行われている。その電話は時間予告なしで、発信場所も毎回、大きく変わっており、通話中に場所を特定されることを避けるために細心の注意を払っていることが判る。
「君たちの同士の解放については現在、我が国政府とアメリカ政府の間で交渉が行われている。うん、うん、アフガニスタンの臨時政府よりも我が国政府の方が同盟国としての立場があるから期待できるんじゃあないかな」今度のタリバーンからの電話を受けたのは外交部の若い役人だった。その役人は学校で習ったのが明らかな正式で上品なペルシャ語を操るが、経済交渉の経験しかないようで人質の返還に関する対話とは思えない軽さが感じられる。
「回答期限と言われても交渉を引き継いだばかりだから今日の明日と言う訳にはいかないよ。若し必要なら食料を提供するから・・・切れました」連絡官の中佐は対話中にもアメリカ軍の特殊部隊に電波の発信源を捜索させ、場所が特定でき次第、捕獲に向かわせる作戦を実行しているが、タリバーンはそれも警戒しているようで長電話にはしない。ただ、数時間後に海外からの入力で電話を補足する内容がインターネットに掲示されることがあり、随員たちは机の上のパソコンを操作し始めた。岡倉は画面を覗くふりをしてジアエの隣りに座った。
「カタールのサイトに載ることが多いですよ。パキスタン、マレーシアのこともあります」「そうなんですか。それでは検索してみます」夫婦の対話もここでは他人行儀だ。2人の立場を考えれば当然のことだが、ジアエにはこの特殊任務の重要性を考えても少しもどかしかった。
これが高仁智中尉なら布教のために赴いた異郷の地で異教徒に拉致されたクリスチャンへの同情と
怒りで激昂し、任務中にも夫との逢瀬に仄かな喜びを感じている同期を許さないだろう。しかし、ジアエの中では異教徒の土地に踏み込んだ教団側の責任を考える冷静=冷淡さが芽生えていた。
  1. 2017/08/14(月) 10:12:26|
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日本映画を救った大監督・西村昭五郎さんの逝去を悼む。

深刻な低迷に陥り、崩壊の危機に瀕していた日本映画を救った偉大な監督・西村昭五郎さんが8月1日に亡くなり、近親者のみでの葬儀が終わってから訃報が発表されました、
西村さんと言えば日活ロマンポルノの始まり「団地妻・昼下がりの情事(1971年)」から終わりの「美味しい女たち(1987年)」までの84作品の監督を務め、無料で見られるテレビに奪われた庶民を映画に呼び戻し、「一般大衆の欲望を満たす=面白くなければ金を出して見には来ない」と言う本来の姿を思い返させた功績は大なるモノがあります。
当時の映画界は深作欣二さんや山田洋二さん、大島渚さんに代表される国民を左翼思想に洗脳するための道具としか考えていないマスコミ好みの監督や芸術性ばかりを追求して圧倒的な美で見る者を疲れさせる名作を生み出した黒澤明さんや山田清順さんなど海外好みの監督たちによって庶民の娯楽として存在意義を失っていました。そんな中、経営難を打開するため日活が打ち出したのが「エロ映画」路線であり、自嘲を込めて「日活ロマンポルノ」と命名されたのです(「ポルノ」と言う名称自体は新東映が先に使用している)。
野僧は高校で友人たちが回し読みする週刊プレイボーイや平凡パンチなどの雑誌で宮下順子さんや片桐夕子さん、志麻いずみさんや田中真理さん、風祭ゆきさんや伊佐山ひろ子さん、原節子さんや泉じゅんさんなどのポルノ女優を知ったのですが、生徒会副会長・会長と言う立場上、他の同級生のように年齢を偽って映画を見に行くことはできず、航空自衛隊に入って配属された那覇基地ではビデオが普及するのと同時に内務班で上映会が始まり、その題材は何と言ってもポルノ映画だったのです。
その頃は若くて可愛いアイドル的なポルノ女優(岡本麗さん、飛鳥裕子さん、寺島まゆみさん、美保純さん、山本奈津子さん、小田かおるさん、高倉美貴さん、杉原光輪子さんなど)と年齢を重ねて容貌が劣化した有名女優(五月みどりさん、高田美和さん、黛ジュンさん、天地真理さん、今陽子さん、新藤恵美さん、児島美ゆきさんほか)が出演する映画が次々と発表されている時期で、ビデオ・デッキを持っている先輩の部屋に若い隊員は前者を、中年の単身赴任者は後者を持ち込んで上映会を盛り上げていました。
そんな中、単身赴任者の1人が「これを見なければ日活ロマンポルノは語れない」と言って持ってきたのが、西村さんの作品である「団地妻・昼下がりの情事」でした。物語としては白川さんが演じる団地住まいの主婦が仕事に集中する夫が性行為を放棄するようになり、その欲求不満から浮気して、そのことを人妻の売春を仲介している別の団地妻に知られてことで、売春組織に引き込まれていくと言うものです。
当時の日活ロマンポルノでは実家の自分の部屋と変わらない寝室で電車などの生活音をBGMに女性を抱く自然だからこそリアルな性交シーンが一般的になっていて、主演女優の白川和子さんが初めて夫以外の男に抱かれる衝撃を背景や音楽で強調し、白川さんの艶技もアクション映画のように不自然極まりないこの作品は理解不能でした。
実は西村さんは京都大学出身の優秀な頭脳の持ち主であり、日活ロマンポルノを通じて現在では名優と呼ばれる演技派の俳優や優れた娯楽作品を生み出している若手監督を育てています。意外な名前ばかりですが山本昌平さん、内藤剛志さん、蟹江敬三さん、風間杜夫さん、竹中直人さんは多くの女優と濡れ場を演じた元ポルノ俳優であり、神代辰巳さん、鈴木潤一さん、藤田敏八さん、村川透さんは元ポルノ作品の監督でした。
日活ロマンポルノは「10分に1回性交シーンを入れる」「上映時間は70分程度」「モザイク、ボカシは使わない」と言う基準さえ守れば表現・演出は自由だったので若手が伸びたのでしょう。若手俳優たちも主役である女優を引き立てる脇役としての存在とリアリティを出すために本当に快楽におぼれさようとする性技で演技力を磨いたと元ポルノ俳優の1人が述べています。また、冬の屋外での撮影では裸になった女優が「こんなに寒いと本当に入れてくれなきゃ感じられない」と言って本番になることがあったそうです。
最後に余談ですが、日活ロマンポルノの他にもピンク映画と言う類似した路線の作品群がありますが、こちらは中小の映画製作会社が撮影し、新東宝などが配給したものです。代表的な女優としては小川美那子さん、吉行由美さん、林由美香さん、風見怜香さんなどがいますが、日活ロマンポルノに対抗するのは難しかったようで、やがてゲイ=同性愛やSM=加虐趣味などの特殊な嗜好を持つ人を対象にした作品に主軸を移したようです。
若し、文化勲章が国民投票で選ばれるのなら西村さんは候補に挙がった時点で男性票が集中すると思いますが、文部省が選ぶと日本映画を劣化させた元凶たちになってしまいます。心よりご冥福を祈ります。合掌。
  1. 2017/08/13(日) 09:35:02|
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振り向けばイエスタディ914

翌日、李知愛大尉は第1歩兵師団司令部の法務官に呼ばれていた。普段は法務士官と言う職種でありながらソウル近郊の高陽市に駐屯する歩兵第11連隊の監理部で務めており、法務官に呼ばれることは法務士官としての講習の時以外にはないことだ。
到着して応対を受けた師団司令部でも特別な動きはなく李大尉だけが呼ばれたらしい。法務官室の秘書官を通じて許可を得ると礼式通りの作法で入室した。
「李大尉、アフガニスタンで我が国のキリスト教団が拉致されたことは知っているな」法務官の中佐は敬礼を終えると単刀直入に用件を切り出した。李大尉とは何度も会っているので互いに気心は知っているのだ。
「はい、7月19日に発生し、被害者は大韓イエス教長老会だったと思いますが」李大尉が即答すると法務官は満足したようにうなずいた。しかし、李大尉としては韓国国内のニュースでは要領を得ず、インターネットで少しでも幅広く情報を収集しているところだ。
「実は2人目の犠牲者が出たことで、カルザイ政府に代わって我が国が直接交渉に当たることになったんだ。軍の代表として私が指名された。そこで君にも同行してもらいたんだ」突然の思いがけない命令に李大尉も今度は即答できなかった。人質の解放交渉に軍の法務官が当たるのは常識的な決定だろう。中佐が選ばれたのは外務部の代表との均衡を図ったのは間違いない。問題はタリバーンが要求しているのは捕虜になっている兵士との交換であり、アメリカ政府がそれに応じないたことだ。韓国が直接交渉に当たることになったとしても、アメリカが捕虜の解放に応じなければ事態は何も変わらず、むしろ人質の殺害が続くだけだ。
「先ずは君の返事を聞いておこう」「はい、軍人として命令に従います」李大尉は思案の方が先になっていた自分を反省しながら了承の返事をした。
「私としては人質の半数以上は女性であるから、そちらの視点から交渉に当たることができる君を選んだんだ。彼らはプロテスタント、君はカソリックだが、解放に成功した時には同じクリスチャンとして救いの手を差し伸べて欲しい」「判りました。同期の轍は踏みません」李大尉は無意識に冷淡な言葉を吐いていた。学士士官の同期である高仁智中尉は現地の人々の信仰を無視して墓穴を掘った。その点、自分は夫である岡倉から現地の人々のイスラムの信仰の深さ、強さを学んでいる。この冷淡な台詞で今回の任務に向けての自信と覚悟を表現しているのだ。
「それでは明日、政府の特別便でパキスタンに向かう。朝6時に法務官室事務室に来てくれ」具体的な指示を与えると法務官自身も準備を始めるのか、敬礼も省略して李大尉に退室を促した。
師団司令部の廊下を歩きながら李大尉は両親に伝える言葉を考えていた。両親に不安を与えることは避けなければならないが、軍人の家族としての覚悟も決めてもらわなければならない。一方、岡倉がいつもの長期出張に出ていることは2人の暗号で知っているが、それがアフガニスタンなのかは判らない。ただ、夫から与えられた知識が役に立つ任務であることを思えば、危険もそれ程気にはならなかった。

「貴方が牧村か?」2人目の人質の遺骸が発見された街で取材と言う形の情報収集を実施していた岡倉は現場に駆け付けていた韓国軍の士官から英語で声を掛けられた。確かに今回は韓国軍との接触が予想されたため「牧村」のパスポートとビザ、プレスのIDカードを使用している。しかし、まだ韓国軍と直接の接触はしておらず、名前が知られていることに危険な臭いを感じた。
「イエ(=はい)、ムウォンガ(=それが何か)」「確かに韓国語も堪能なようだ」岡倉が韓国語で返事をすると士官は妙に納得したような顔でうなずいた。この様子では先ほどから現地人とペルシャ語で対話しているのも観察されていたらしい。つまり相手は自分の身元を知った上で能力を探っていたことになる。
「何か御用ですか。私はジャーナリストとしての取材がありますから邪魔をされては困ります」「実は外交部から貴方を人質解放交渉の通訳として協力してもらうよう指示があったんです」「韓国軍のかね」「いいえ、韓国政府です」これ以上、韓国語の会話能力を計られるのを避けるため英語に切り替えると率直な説明になった。国際ニュースでタリバーンとの交渉がカルザイ政府から韓国側に移ったことは知っているが、自分がスカウトされることになった経緯は判らなかった。
た・モリノ理美イメージ画像
  1. 2017/08/13(日) 09:33:27|
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