fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月1日・中華人民共和国の国慶節(こっけいせつ)

10月1日は中華人民共和国では新年を迎える春節(=太陰暦の1月1日)と並ぶ祝日である国慶節です。
国慶節は漢字の意味としては日本の2月14日の紀元節や韓国の10月3日の開天節のような建国を祝う日なのですが、この日は1949年に毛沢東さんが国共内戦に勝利として中華人民共和国の成立を宣言しただけです。ちなみに台湾に逃れた国民党の中華民国も武昌で辛亥革命の武装蜂起が始まった10月10日を国慶節、若しくは双士節として祝日にしています。しかし、その後の血塗られた歴史を考えると中国人民にとっては酷刑切(こっけいせつ)、若しくはそれを反省することなく「盛大に祝え」と強要している中国共産党の態度と単なる大型連休として楽しんでいる人民の姿は滑稽拙(こっけいせつ)の方が似合いそうです。
その一方で中国の歴史は世界4大文明の1つであるだけに悠久過ぎて韓国の開天節の檀君が即位した西暦紀元前2333年や日本の神武天皇が即位した西暦紀元前655年どころの騒ぎではなくなってしまうので同様の建国記念日は設定不可能であり、手頃な出来事だったのかも知れません。
尤も韓国の開天節と日本の紀元節も科学的・記録上の証明はできておらず、韓国は日本が敗れて統治が終わった8月15日を光復節の方を重要視しているのですから日本もサンフランシスコ講和条約を締結した9月8日を独立記念日にするべきです(日本が公式記録に初めて登場する魏志倭人伝は西洋暦280年頃の成立であり、その時点では統一国家になっていませんでした)。日本の皇室とは違い史実で紀元前500年頃からシンハラ王朝の存在が証明できているスリランカでさえイギリスによって王家が廃位されているため1948年に植民地支配から解放された2月4日を独立記念日にしています。
野僧が中退した大学は中国史の研究では日本の最高峰を自負しているだけに冷やかし入学でも少し詳しいのですが、史跡や甲骨文字などの遺物で存在が証明できている最古の国家は「殷」で、西暦紀元前1050年頃に河南省の黄河下流域に成立したようです。初代は湯王とされ邪馬台国の卑弥呼と同様に神託や卜占で統治を行っていたとされています。しかし、3代の紂王の時に長安を本拠地とする「周」の武王によって滅ぼされてしまいました(武王の軍師は今でも釣り人の代名詞になっている太公望さんです)。それ以前にも伝承としては西暦紀元前2000年から1500年頃に山西省で成立して17代にわたって王が君臨した「夏」、さらに三皇五帝が君臨した古代帝国などに遡ります。
ところが世界史の四大文明となるとインドのインダス川流域では西暦紀元前2600年頃、エジプトでは4200年頃、メソポタミアに至っては9000年頃にまで遡るのです。これは中国だけが後発と言う訳ではなく他の3つの文明は石造建築だったため大規模な遺跡が残っているのに対して東アジアでは木造建築であったため礎石か遺物を発見するしかなく、放射線測定などによる年代特定が困難なのです。
そんな太古からの歴史を有する国家が70年に満たない新体制の成立を誇示しているのですから日本も謙虚になって神道だけの宗教的虚構を国家の祝日にするのは止めて下さい。
  1. 2017/09/30(土) 09:27:39|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ962

「何をやっているんだ」「大衆(だいしゅ=仲間の僧侶たち)はどうしたんだ」若い僧侶たちは軍用車両で遮られているため状況が見えないことに苛立ち始めた。そして互いに目配せをすると揃って歩きだしたが、倉田はこの状況の重大な危険性を察知していたので1人だけ立ち止まっていた。それに気がついた僧侶の1人が振り返って声をかけようとしたが違う言葉を吐いた。
「何だ、何事だ」倉田も驚いて振り返ると背後の道路に広がった背後から数名の警官が迫ってくる。警官たちは即座に拳銃を取り出せるように右手でホルスターの蓋を外した後、両手で警棒を握り直した。つまり完全な戦闘態勢だ。こうなっては逃れようがない。迂闊に抵抗すればそれを理由に暴行を受け、下手をすれば射殺されることになる。
「トウシャン(投降=降服します)」倉田は両手を上げて北京語で申し出た。それを見て警官たちは顔を見合せて嘲笑し、倉田の正面の1名が腰から手錠を取り出しながら歩み寄った。武力紛争関係法では投降した捕虜に手錠をかけることは犯罪者扱いにした侮辱となり、逃走する可能性が高い場合以外には許されていない。中国ではこのような場面でも国際法は通用しないらしい。
自分たちよりも年齢が高い倉田が素直に逮捕されたのを見て若い僧侶たちもそれに倣って手錠をかけられた。こうして4人は手錠を紐でつながれて軍用車両の位置まで連行された。
「これは・・・」車両の影になっていた僧侶たちの遺骸を見て若い僧侶が叫んだ。無造作に転がされている遺骸は紅色の袈裟と黄色い僧衣を赤く血で染めている者がいれば死亡理由が判らない普通の状態の者もいる。ただ血と遺骸から漏れ出た尿や便の異臭が漂っていた。
「封鎖中の地域に不法侵入した現行犯を逮捕しました。暴動の共犯者である疑いがあります」4人を指揮官のところへ連行した警察官は北京語で報告した。これが手錠をかけた理由と言うことだ。つまり警察当局としては僧衣を着た暴徒たちが商店を破壊し、店主を殺害した行為を重大で凶悪な犯罪と断定することで、チベット佛教自体を日本のオウム真理教と同様の凶悪な犯罪組織に仕立て上げようとしているのだ。このため暴動は徹底的に残虐でなければならない。
「封鎖中と言っても阻止線がなく、立ち入りを禁止もされていない。封鎖と言う事実を知ることができなかった我々を犯罪者扱いするのは不当ではないか」突然、倉田が北京語で抗議すると指揮官だけでなく周囲の警察官たちも唖然としてしまった。このような場合、軍人や警察官の心証を害することは避けるのが常識だが、先ほど目にした僧侶たちの遺骸からは武器での無差別な攻撃・暴行だけでなく、薬物などによる殺害の可能性も濃厚に感じられる。であれば自分の生命も風前以上のシャワーの下の灯火であり、その前に筋を貫き通すのが武人の死に際だろう。
「お前はどこで我が国の言語を覚えた。チベットの僧侶でここまで完璧に北京の標準語を使いこなす者はいなはずだ」「そんなことはない。ここにいるじゃあないか」おそらくこの現場指揮官の階級は少校(3佐)程度だ。2等陸佐の自分よりも下位の者を圧倒することくらいは命を捨ててかかれば容易なことだった。他の僧侶たちは倉田の堂々とした態度を修行の結果の境地だと理解したようで、すがるような視線を投げかけてくる。しかし、倉田は自分と同じ運命を辿るであろう若い僧侶たちの顔を振り返ることができなかった。
「お前たちは封鎖地区に警備を配置しなかったのか」「はい、昼食の時間も迫っていましたので交代で喫食させていました」指揮官の詰問に最上位の警察官が決まり悪そうに答えた。それにしてもこれだけ残酷な大量殺人を犯しておきながら平気で食事ができる中国人の神経には恐れ入るしかない。日本人であれば血の臭いを嗅いだだけで食欲は吹き飛んでしまうはずだ。
「そろそろ飯時かァ。早く片づけて我々も食事にしよう」やはり指揮官こそ中国人だ。指揮官用車両の壁の時計を見ると横に立っている私服の男と小声で話し合った。この光景を見て倉田はホテルのフロントでの共産党政治局員を思い出した。このような暴動鎮圧の現場にさえ政治局員が立ち合い最終的な承認権を持っているのだ。
「お前たちの逮捕容疑である不法侵入は嫌疑不十分と判断する。したがってこのまま僧院に送ってやろう」この温情判決に謀略が隠されていることは間違いない。倉田は拒否する理由を考えていたが、通訳のチベット語での説明に若い僧侶たちは安堵の表情を浮かべている。
「待ってくれ。我々はこの事件の実態を確認して長老に報告しなければならない」「それは我々の仕事だ」折角、思いついた理由は指揮官によって簡単に否定されてしまった。
  1. 2017/09/30(土) 09:25:45|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ961

警官隊の発砲は致命傷にはならなかった。本来はゴム弾を発射するための空気圧で鉄球を射っても重さで飛翔速度が下がり、比例して威力も落ちる。それでも負傷させて苦痛を与えるには十分なので、僧侶たちはその場に倒れて呻き声を上げていた。
そこに10トンのコンテナ・トラックを緑色に塗り、側面に赤十字を入れた大型軍用アンビランス(=救急車)が入ってきた。これは戦闘・災害などで負傷者が同時多数に発生した時の専用車両なので、このような事態をあらかじめ想定していたとしか思えない。
アンビランスは僧侶たちが倒れている商店街の前に停車し、荷台から多くの衛生兵たちが下車して担架を持って駆け寄ってきた。その後をカメラを持った中国人の兵士が追ってくる。
「你還好嗎(ニィハイハオマ=大丈夫か)?」衛生兵たちは負傷者=僧侶を落ち着かせるように北京語で確認してくる。その口調は訓練通りなのかも知れないが目には敵意が満ちており、むしろ「ゾッ」とするような冷たさを感じさせる。何よりも北京語では意味がよく判らない。
「私は後で結構ですから店内で暴行を受けた人たちを先に・・・」僧侶が答え終わる前に脇の下と足を抱えられて担架に乗せられ、僧衣に入り込んでいた数個の鉄球が落ちて音を立てた。
アンビランスの周りでは僧侶たちが医官の応急処置を受けている。重傷なのはガス弾の直撃を受けた者で頭部なら脳挫傷、上半身でも鎖骨や肋骨が骨折している。鉄球の者は比較的軽傷だがそれでも医官と看護兵が僧衣をはがすと全身に発疹のような青あざが広がっていた。
「これは無駄だ。捨てて担架を開けろ。次」医官は手早く負傷者の生死を確認すると事務的に指示していく。指示を受けた衛生兵は少し離れた位置に遺骸を運ぶと転がすように捨てたが、その遺骸の中から弱い呻き声が聞こえていた。
「痛み止めの注射を打つ」「はい、医官」医官が処置を決めると看護兵(看護師の資格を持っている衛生兵)はアンビランスから下ろした金属製のケースの中から注射器を取り出して手渡した。医官は無表情に試し打ちをした後、看護兵が消毒した上腕の筋肉を摘むと機械的に注射をする。それにしても鎮痛剤が静脈注射ではなく、あらかじめ一体化した注射器であることに違和感があるが負傷者には何かを言う権利もない。その処置の様子をカメラマンは何枚も写真に納めた。
数分後、僧侶は意識を失ったのか動かなくなり、他の遺骸と同じように処理された。
その隣りでは路上に散らばったガラスを踏んで足の裏を怪我した僧侶が手当てを受けている。麻酔もかけずにピンセットで破片を取り出す苦痛に僧侶は歯を喰いしばって耐えていた。
「化膿止めを塗っておけ」「はい、上尉」医官は看護兵に指示を与えると立ち上がって次の担架に向い、カメラマンも同行した。その背中を見送った看護兵はゴム手袋をはめてから別のケースから取り出した丸い瓶に入った黄色い軟膏を傷口に塗った。すると僧侶は痛みの代わりに痺れと冷たさを感じ、それが足から下半身、そして胸、頭へと迫ってきて・・・やがて意識が消えた。

倉田が徒歩で会場になっているはずの広場に到着すると異様な光景が広がっていた。広場の中央には動物用の檻が置かれ、中には男女・年齢に関係なくチベット人の民衆が立ったまま押し込まれている。それは立ったままと言うよりも座るだけの広さがないのだ。
広場の入り口を見渡すと大通りの石畳みには多くの血痕が残っており、ここで鎮圧に名を借りた暴行が繰り広がられたことが判った。僧衣姿の倉田はオート・リクシャーを拾うことができず、デモ行進に合流するつもりで経路を逆行してきたのだが各所に配置されているはずの警官や歓声で迎える民衆の姿はなく、気がつけば抗議集会の会場に到着してしまったのだ。
「それで坊さんたちは・・・」広場の中には何台もの人民解放軍の車両が停まっているが、その向うで何が行われているのかを確認することはできない。大型のアンビランスがあるところを見ると負傷者が多数出たことは判る。その割に負傷者を搬送するアンビランスには会わなかったのは不思議だ。この状況に倉田は重大な危険を察知してこのまま徒歩でチベットへ脱出することを決めた。そのためにはもう一度、宮志瑛の家へ向かわなければならないがそれも危険だ。
そこに数名の若い僧侶が駆けつけてきた。僧侶たちは倉田の横で立ち止まり、嘆き声を上げ始めた。
「まさか本当に・・・」「何てことを・・・」「長老・・・」どうやら街中で自分は参加しなかった集会の会場で起こった事態を知り、確認のために来たらしい。
  1. 2017/09/29(金) 10:39:06|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ960

イギリス英語で暴動を実況中継している外国人の中にジェームズもいた。勿論、暴力を奮っている現場を至近距離から撮影している国営放送の社員たちに加わることはできないが、怪しまれないように細心の注意を払いながらカメラマンや記者の姿を撮影して回っている。
「この店でも中国人に対する暴行が始まったようです。私たちとしては助けに入りたいのですがチベット人、中でも僧侶たちの怒りは激しいようで、迂闊に制止すれば私たちにも暴力が及ぶかも知れません。このため2008年のチベット民族蜂起記念日にラサ市内で起こっている事実を世界に伝えることを使命といたします」ジェームズの胸には同胞が吐く虚構に満ちた母国語に怒りがこみ上げてきたが、同じ理由を自分に言い聞かせながら「使命」を続けた。
「酷い、酷過ぎる。どうしてここまで残酷になるのでしょうか」この食堂の店主は調理場にあった仕事道具の肉切り包丁で刺殺された。興奮気味に解説している記者の横でカメラマンは店主の遺骸が床を血で真っ赤に染めている惨状を撮影しているが、テレビでは流せないだろう。
「仕方ない。警官隊に鎮圧してもらおう」この集会を指導していた僧侶たちは同じ僧衣を着た暴徒が破壊を始めた現場に駆けつけていたが、その残虐さに説得による制止が無意味であることを覚り、本来は敵である中国の警官隊に鎮圧させることを決めた。
「この騒ぎを聞いて集まっているはずです。若い者を走らせてこの連中が偽物であること説明させましょう」「うん、その方が良いな」責任者がそう答えた時、広場に集まっていた民衆が叫び声を上げた。振り返ると広場に数台の警官車両が乗り入れ、同時に大通りは横一列になった警官隊によって封鎖されている。警官隊は集会の後に行う予定だったデモ行進の経路上に配置されていたはずなので、それをかき集めたとなるとかなり手回しが良い。
「このままでは我々も暴徒として逮捕されてしまいます」「しかし、大衆たちを残して逃げることはできない。若し逮捕されてもBJFがその事実を世界に発信してくれるはずだ」責任者の1人が協力者への期待を口にした時、破壊と商品の略奪を終えた一団が店から出てきた。
「見て下さい。あのカメラにはBJFと記されています」僧侶が暴徒に同行している外国人たちが手にしている機材を指差して叫んだ。それは気づいてはいたが認めたくない事実だった。
警察車両から指揮官のマイク放送が流れ始めた。どうやら鎮圧に向けた攻撃態勢が整ったらしい。
「今よりこの暴動を鎮圧する。お前たち僧侶は店を破壊し、商品を略奪しただけでなく、多くの中国人を殺害した。我々は1名も逃すことなく逮捕し、適切な刑に処する・・・やれ」指揮官の指示を受けて警官たちは先ず広場の隅に立っていた民衆に襲いかかった。それは逮捕ではなく抵抗しない人間に対する一方的な暴行である。警官は家族や仲間を守ろうと立ちはだかる男性を片っぱしから警棒で殴り倒し、逃げ惑う女性も襟首を掴んで引き倒すと足で踏んで地面に押さえつけた。母親に抱かれていた幼子でさえ足を掴んで振り回し、同僚に投げ渡した。
「BJFはこれを撮影しないのか」指導者の呟きに僧侶たちは周囲を見回したが、暴行を働いていた僧侶に扮した暴徒と外国人たちは姿を消しており、広場は完全に封鎖されていた。
「これでは大衆が犠牲になるだけです。我々が楯にならねば・・・」僧侶の1人が自己犠牲を呼び掛けた時、警察車両から下りた部隊が太い鉄製の筒が付いた銃を構えて広場の中央に展開した。その銃口はもう抜けの殻になった商店街に取り残された僧侶たちに向けられている。
「ガス銃だな。催涙ガス弾を発射するんだ」「2503(=1959)年の時には実弾でしたから随分と大人になりましたね」こんな緊迫した事態に陥っても僧侶たちにはどこか達観したところがあり、その皮肉に全員が口元を緩めた時、指揮官の号令でガス弾が発射された。
通常、ガス弾は上方から暴徒の中央に弾着させて催涙ガスの効果をいき渡らせるものだが警官たちは銃口を僧侶に向けて水平射撃してきた。目の前で頭部に直撃弾を受けた僧侶が倒れた。
「大丈夫か・・・」傍らの僧侶が膝をついて手で首に触れて脈を確認したが、力なく首を振った。それにしても催涙ガス弾だったはずなのに足元に転がっている弾頭からガスの噴出音はなく、特有の刺激臭もしない。何よりも警官たちは防毒マスクを装着していないのだ。
「パンッ」「パンッ」ガス弾に続いて警官たちは軽い音を立てる銃を発射しながら横一列になって前進してきた。どうやら治安用ゴム弾を発射する空気銃のようだ。しかし、それはゴム弾ではなく鉄球だった。僧侶たちは地面に腰を下して合掌したまま倒れて行く、これでは銃殺刑だろう。
  1. 2017/09/28(木) 09:59:30|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ959

3月14日のラサ市内は朝から異様な雰囲気が満ちていた。外国人たちはホテル内に足止めされ、窓に近づくことさえ禁じられた。それでも眼下の市街地から聞こえてくる叫び声に引き寄せられて窓際に出ると外から監視している警察当局の指導が入り、フロントから電話で注意を受けた。
そんな中、倉田は宮志玲の家に泊まり、激しい性交を終えて深く眠っている志玲をベッドに置いたまま僧衣に着替えて、僧侶たちが抗議運動を起こすラサ市内の大通りに向かっていた。
この日もラサ市内の中心地にある普段は市場になる広場で僧侶たちが集会を開いている。多くの僧侶たちを中心にして遠巻きに民衆が注視している前で急ごしらえの壇上から指導者である僧侶が肉声で演説をしていた。
「佛教暦2503(=西暦1959)年の本日3月10日に我が民族を守り慈しむために現れられた肉身の観世音菩薩であるダライ・ラマ14世猊下を殺害しようとする中国共産党の謀略に大衆(だいしゅ)が決起し、武器を前に身を盾にして猊下を救い、ヒマーラヤを越えてインドへ遷座していただいた」通常、僧侶の集会ではシュピレ・コールや拳を振り上げるような戦闘的な行動は取らないのだが外側に輪を作っている若い僧侶たちは興奮したように蛮声を上げ始めた。それを見て壇上の指導者や僧侶たちは驚いたように顔を向けたが叱責する者はいなかった。
「猊下も今は73歳になられている。お元気な間にこの御佛が鎮座する聖なる街・ラサのポサラ宮にお戻りいただくのは我ら民族の悲願であり、我々僧侶の責務でもある」この言葉に民衆たちは両手を天に挙げて嘆きの声を漏らしたが、居並ぶ若い僧侶たちは雄叫びと共に拳を突き上げている。
「すでに猊下がこの地を離れられて59年目となった。60年になるまでに必ずお帰りいただくよう決意を・・・」「ガシャーン」演説が呼びかけに変わった瞬間、背後でガラスが割れる音が響いた。女性たちが悲鳴を上げると数名の僧侶が次の石を拾って広場の奥に連なる中国人が経営する商店に投げ、それを合図にして外側に立っていた僧侶たちが一斉に石を拾い商店に向って投げ始めた。
「バリーン」「ガチャーン」「バリーン」「ガシャーン」広場の周辺の商店の窓は次々と粉々に砕け散り、展示してあった商品にも石が当たり倒れていく。
「止めなさい。暴力は佛祖の御教えに背く行為だ」「我々の抵抗運動を非暴力とすることは何度も申し合わせているじゃあないか」壇上の指導者だけでなく中央に集まっていた僧侶たちも声を上げるが止める気配はない。むしろ下手なチベット語で民衆たちを扇動し始めた。
「お前たちも実力を以って中国人を追い出せ」「圧政を許すな。今こそ報復の力を示すのだ」しかし、敬虔な佛教徒である民衆たちは手を合わせて怖れ慄くばかりだ。すると僧侶の中でも先頭に立って石を投げていた数人が顔を見合わせた後、路上に落ちていた棒を拾って商店に向かって走り出した。それに一緒に石を投げていた僧侶たちも続き、さらに数人の外国人カメラマンが後を追う。このカメラマンたちは外国人が外出禁止になっている中でも何故か許されているらしい。
僧侶たちは破壊した店内に乱入すると手当たり次第に商品を叩き壊し始めた。そんな情景をカメラマンは間近から中継し、記者が正調のイギリス英語で解説している。
「チベットの独立を求める集会に参加していたチベット佛教の僧侶たちの怒りが爆発したようです。会場付近にある中国人が経営する店舗の破壊を始めました」そんなカメラの前で高価な腕時計や装飾品を肩から提げている頭陀袋に押し込む者も現れた。
「とうとう略奪も始まりました。これが佛教の聖地から世界に向かって信仰を説いている宗教者の姿なのでしょうか」記者は暴動に民衆が参加していないことを隠すように僧侶の行動を強調する。チベットとロンドンの時差は約5時間なので朝のニュースまでに編集を終えてスクープとして流すのだろう。そのためには更に衝撃的な場面を演出しなければならない。するとそこに2階の住居から店主が下りてきた。
「止めてくれ。私は貴方たちに何もしていない」「そうだ、僧院に布施をしていないな」「お前は御佛への信仰を持たない守銭奴だろう」そう答えた僧侶2人が棍棒で交互に背中を打ち、店主は前に倒れた。その首筋を草履で踏んだ僧侶の顔を見上げて店主が驚いたように呟いた。
「貴方は蒋2級士長(下士官の階級)・・・」その言葉が終わる前に僧侶は棍棒を振り下ろし、店主は頭から血と脳髄を吹き散らして痙攣を始めた。カメラマンは1歩踏み込んで遺骸になったばかりの顔を大きく撮影したが、記者はマイクを握り締めて絶句していた。
  1. 2017/09/27(水) 09:47:24|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

9月27日・昭和天皇がマックアーサー元帥を訪問した。

昭和20年の明日9月27日に昭和の陛下が占領軍最高司令官であったダグラス・マックアーサー元帥を訪問されました。
マックアーサー元帥は8月30日に専用機「バターン(ダグラスCー54の改装機)」で神奈川県の厚木基地に降り立ち、9月2日に戦艦ミズーリ甲板上での降伏文書への調印式を終えてから東京入りしていました。東京では最高司令部を置いた皇居の前の第1生命ビルに陣取っていましたが、堀を隔てた皇居との距離は果てしなく遠く、着任から1カ月が経過する直前のこの日になって御召車両が正面玄関に横付けしたのです。
この時、マックアーサー元帥はムッソリーニのファシスト政権を支持していたイタリア国王・ヴィットリオ・エマヌエーレ3世がイタリアの国土を舞台にしたナチス・ドイツとの戦争に勝利した連合軍に命乞いと王制の維持を懇願したように陛下も助命と皇位の保障を要請するのだろうと思って出迎えもせずに自室から冷やかに到着を見下していたそうです。敗戦時のイタリア国王が76歳だったのに対して陛下は44歳であり、65歳だったマックアーサー元帥にとっては国を滅ぼした惨めな若き皇帝にしか見えなかったのも当然でした。そのためマックアーサー元帥は正装で訪れた陛下にそれまで宮中では行うことがなかった握手を強制してから記念写真を撮影したのですが、普段着(軍服としても略式=陸・空自衛隊で言う第2種夏服)の元帥は腰に手を当ててふんぞり返り、一方の陛下は呆然としたように半分口を開けた顔で写っておられました。実はこの時、写真は3枚撮影されていたのですが、1枚はマックアーサー元帥が目をつぶっていたため却下、もう1枚は2人とも肩の力が抜け過ぎていて不採用になったそうです。それでもこの写真を見た東久邇宮首相は発禁処分にしようとしたのですが占領軍は許さず、国民は天皇を上回るマックアーサーの威勢を実感し、皇族内閣は退陣したのです。余談ながらこの頃から「朕(ちん=天皇の1人称)の上」を意味する「マックアーサーはへそ」なる珍語が流行しました。
写真撮影を終えた後の雑談でもマックアーサー元帥は通訳に「テル・ザ・エンペラー(天皇に言え)」と命じるような傲慢な態度でした。ところが通訳だけを残して日米の随員を退室させてからの懇談になると陛下はこう切り出されたのです。「私は日本国を代表する天皇としてこの身を貴方たち占領軍の手に委ねるためにやってきました。私自身はいかなる処置をも受け容れる覚悟でおりますが、国民に対しては何卒、格別のご高配をいただけますようにお願いいたします」この言葉を聞いてマックアーサー元帥は冷水を浴びた想いがして、「今、自分はこの国で最高の紳士に会っているのだ」と震えるような感動を味わったと自身の回想録で述べています。
占領軍内では明らかにファシズムに加担したイタリア国王と違って昭和の陛下が軍部を抑制しようとしていたことは周知されており、日本での共産革命を企図していたソ連と国内戦の恨みを抱く中華民国を除けば陛下の戦争責任については否定的でした。つまり大人しくしていれば現状を維持できる可能性は高かったにも関わらず自ら負う必要がない責任に言及し、その代りに国民への救済を要望する国家元首はヨーロッパにも例は思い当たらなかったのでしょう。再び随員たちが入室するとマックアーサー元帥の態度は一変していて、通訳には「ユア・マジョリティ=貴方の陛下」と最高の敬語を使っていたそうです。
この日を境に占領政策は食糧・衣類の配給と医療の充実など国民の救済に重点が移り、マックアーサー元帥自身がアメリカ国内における救済物資のヨーロッパ方面との奪い合いを演じました。
  1. 2017/09/26(火) 09:28:42|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ958

3月10日が迫るとラサ市内では不穏な動きが際立ってきた。異様に屈強な若い僧侶が急増し、僧侶たちが集会を行っている場所を遠巻きにして発言者を注視しているのだ。
その頃になると倉田も宮志玲を通じて入手した僧衣を着て僧院内で「民族蜂起記念日」の抗議運動を指導している僧侶に接触し始めていた。勿論、志玲にここまで協力させるためには連夜のように激しく抱いて快楽に溺れさせ、男根の注射で薬漬けにしている。
「老師、共産党が今回の抗議活動を黙認しているのは謀略の可能性が高まっています。自制して下さい」「それは手遅れだ。猊下が御存命のうちに帰還していただくのは我々だけでなく、チベット民族の悲願なのだ。この機会を逃すわけにはいかない」普段は静かな僧院内には興奮した若い僧侶たちが溢れている。彼らは10日の朝にラサ市内の大通りに集まって独立に向けたデモ行進を計画しており、それをBJF(イギリス報道陣連盟)が中継して世界に配信する手筈になっているらしい。
「仮に我々が暴力で弾圧されてもBJFによってマハトマ・ガンジーの無抵抗不服従の再現として紹介されるんだ。それが独立への推進力になるのならこの身を傷つけられることを厭う者などはいない」指導者も自分の言葉に酔っている。チベットの僧侶たちは真摯な信仰と現世の苦悩の狭間で日常を送っているため、そこに投じられた一石の波紋は他に影響する物がない分、激しく増幅して躊躇することなく行動に移してしまうのかも知れない。
「そこまでBCCを信用して良いのですか。イギリスのマスコミの株が中国人によって買い進められていて報道に対する介入が問題になっているのです」これは夕食やホテルのバーでの世間話としてジェームズから聞いたイギリスの国内事情だ。しかし、指導者は唇を歪めて予想外の反応をした。
「尊公(僧侶の敬称)はそのような遠い俗世の話を何処で聞いてきたんだ」僧侶は世俗とのしがらみを一切断って佛道に身命を投げ入れなければならない。ヨーロッパの事情を知っていること自体が社会への執着に他ならず、僧侶として不信感を抱かれても仕方ない。倉田は今、ここで本当の身分を明かして自制を強く求めるべきか、それとも僧侶の1人として活動の中で事態を見極めるべきか迷ったが後者を選んだ。
「街で拾った外国の雑誌で読みました。英語は出家前にインド人から習いました」「そうかね。それでは世俗との関係を断つと言う最初の佛戒も保てていないことになるぞ。この事態が収まったならもう一度、やり直しだな」「はい、老師」倉田が合掌して退出すると外で場違いな殺気を漂わしている若い僧侶が鋭い眼光を投げかけてきた。

ジェームズはBJFの記者と中国共産党の政治局員の接点を追っている。すでに両者が会っている現場写真は撮影しているが、会話の内容までは確認できていない。そして何よりも市内の緊張感が増すに従ってホテル内の警戒も強化されて倉田との情報交換が不可能になっていることが活動の大きな障害になっていた。
「これは・・・」軍用車両を追って市街地の裏通りを歩いていると中国人の商店の倉庫から話し声が聞こえてきた。その内容は軍隊用語だ。かつては階級がなく役職だけで部隊を編成していた中国人民解放軍も現在では階級制度を採用しており、相手を呼ぶ時には姓の下に階級をつけるようになっている。倉庫の中の会話でもそれが飛び交っているのだ。
「林4軍士長、これでどうですか」「馬鹿、この布の巻き方が違う」どうやら人民解放軍の下士官と兵が着替えているらしい。
「朱上士、靴下を脱がんか」「えーッ、素足では冷たいですよ」「それがアイツらの服装だから我慢しろ」「全く時代遅れな生活をやってやがって」この会話で中の様子が掴めてきた。その確証を得るためジェームズは姿を隠し、望遠レンズで倉庫の入り口を狙った。
やがて倉庫の扉が開き、1名の僧侶が顔を出すと裏通りに人がいないのを確認して中に声をかけた。すると十数名の僧侶が姿を現した。
チベット佛教では特別な理由がない限り托鉢は行わないが、3月10日の「チベット民族蜂起記念日」での抗議運動の周知のために現在は多くの僧侶たちが街中で市民の施しを受け、参加を呼び掛けている。それに紛れ込めば僧院へも立ち入ることは容易だろう。それにしても人民解放軍は兵士に僧侶の紛争を起こさせてどうしようと言うのか。答えは判っているが認めるのが怖くなった。
  1. 2017/09/26(火) 09:25:43|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ957

2人で紹興酒の600cc1本を空にするまで飲んでも別段、何も起こらない。すると酔いが回り始める頃、志玲の方が内面から沸き起こる衝動を必死に押さえているような表情になった。その額には低めの室温では不自然な汗がにじんできている。
「ジィリン、悪酔いしたのか。少し飲ませ過ぎたのかも知れないな」倉田が声をかけても志玲は黙って首を振るだけだ。その表情はイギリスのMI6から入手した自白剤を試した時の同僚たちと同じだ。であればこの女をどのようにも操ることができる。倉田は立ち上がると椅子に座り両腕で自分の身体を固く抱き締めている志玲の背後に立ち、顎を掴んで顔を向け肩越しに口づけした。
倉田は放心している宮志玲を抱き上げると居間と寝室をし切っている壁のドアを開け、ベッドに横たえた。そしてベッドに背中を向けて座り、逆ハニー・トラップの用意を始める。セカンド・バッグから杉本を通じて入手した媚薬を入れた100円ライターを取り出して底の蓋を開け、すでに臨戦態勢に入っている男性自身にかぶせた避妊具の上に塗った。後は世界の要人たちを虜にしている中国のハニー・トラップで久しぶりにアジア人の女を堪能するだけだ。
「ジィリン」恋愛感情を演出するために優しく声をかけてから掛け布団をめくり、仰向けになったまま人形のようになっている志玲を全裸に剥いた。つれ合いの黒い肉体とは別の生物のような艶やかな肌で覆われた芸術作品が現れた。ルーム・ライトで映し出されたその肌は真珠のような光りを放つ。乳房は美しい円錐形を描いており、その頂部には肌色の小さな乳頭が飾られてある。
倉田は志玲の腰の上に膝を立てて座ると両手で乳房を掴んだ。肌が掌に吸いつくようで、弾力も重みよりも柔らかさを感じる。倉田は大学時代、そして自衛官の頃に抱いた日本人女性たちの顔を1人1人重ねながら念入りに身体を弄んでいった。それでも動かない志玲の唇を吸い、舌を差し入れると突然、火が点いたように反応し始めた。
「ウォ・デ・ヂュウレン(我的主人=ご主人さま)」そう言いながら上になり、倉田の首筋から胸、脇の下から腰に唇を這わす。志玲の長い髪が滝を下から見上げているように顔にかかってくる。しかし、口腔性交で避妊具を外されることはできない。倉田は志玲の腰を手で持ち上げると下から男性自身で深く突き上げた。

倉田はホテルに帰ると自白剤を投与された時の軽度の薬物中毒者を演じた。本当はホテル付の政治局員がしかけたハニー・トラップ=宮志玲の方がナチス・ドイツが開発した現代の媚薬に酔わされて人格が破綻したのだが、まだそれを感づかせる訳にはいかない。
「お客さま、気分が悪そうですが大丈夫ですか」「うん、酒を飲み過ぎたのかも知れない。紹興酒って言うのは度数の割に効くんだな」一般的な紹興酒である元紅酒の度数は17度前後だが、薬物を投与されたことに気づいていない振りをするにこれしかないだろう。
「そうですか。医師は帰ってしまいましたから、備えつけの酔い覚ましの薬をお出ししましょうか」「大丈夫、酔いくらいは朝まで眠れば醒めるだろう。明日の撮影の時間を遅らせればすむ話だ」「それでは朝食の時間はお客さまだけ延長しておきます」このホテルに滞在して初めて行き届いたサービスを受けているような気がする。倉田はフロントの申し出を強がりのような口調で断ると少しふらついたような歩調でエレベーターに乗り部屋に戻った。このホテルは室内にまで防犯名目の監視カメラが設置されているので演技はベッドに入るまで続けなければならない。
倉田は媚薬の効果で悶え狂った志玲を堪能し終えた後、ホテルの政治工作員に電話をさせていた。
「砂狐です。仕事を終えました」どうやら珍獣・チベットスナギツネが宮志玲の陰名のようだ。
「自白剤を飲ませて寝物語で尋問しましたが、山岳写真家以外の素性は出てきませんでした。はい、はい。間違いないようです」志玲の表情が冷静に戻りかける度に倉田は背後から身体を刺激した。今回の逆ハニー・トラップで性感帯は知り尽くしている。志玲は身悶えしながらも声は平静を保ち、報告を終えた。それがフロントの対応につながったようだが、それにしても薬物で酔わせられながらも正気を呼び戻して報告した宮志玲の精神力には驚くしかない。逆にナチス・ドイツが化学技術を結集して開発した媚薬の効果も緩和させる予防薬を中国が開発しているとすれば全ては発覚する。そうなれば中国の拷問が待っているのは間違いない。その恐ろしさを考えると逮捕される前に自ら命を絶つ方が賢明だ。倉田は飛び降りられるように窓の鍵を開けて寝ることにした。
お・宮志玲イメージ画像
  1. 2017/09/25(月) 10:31:44|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ956

「この僧院は外国人には解放されていません。ですが私と一緒なら門前までは許されます」これが単独行動なら直接僧侶たちから事情を聴取し、警告を与えることができるのだが監視付ではチベット語を使うことさえできない。.むしろ一見して漢見族の宮志玲と一緒にいるところを見られれば不信感を与えてしまうはずだ。そこに僧侶が1人出てきた。
「何か質問があれば通訳しますが」「うん、この寺院では外国人の修行希望者を受け入れるつもりはないか訊いてくれ」「それは出来かねます」この答えは予想されたものだ。最初のガイドはダライ・ラマの名を出すことを禁じたが、実際にはチベット佛教と外国人の接触を禁じているのだ。そもそも南方佛教では僧侶が女性と話すことさえ戒律に触れるはずなので始めから連れてきた意味がない。やはり志玲は午前中に倉田が僧侶と直接接触したとの報告を受けた政治局員から僧院内に不信感を醸成する任務を与えられたらしい。
結局、オート・リクシャーでラサ市内を回り、中国人が経営する店での買い物を楽しんで夕方が近づき気温が急に下がってきた頃、帰ることにした。
「よろしければ私の手料理でも如何ですか。ホテルの食事に飽きた頃でしょう」倉田がオート・リクシャーを拾うと志玲が誘ってきた。
「独身の女性が恋愛の対象外とは言え男を家に入れてはいけないよ」しかし、倉田は断った。これは日本の相撲的には「はたき込み」と言う決まり手だろう。すると試合巧者の志玲は清純派を演じながらの攻勢に転じた。これまでも志玲は外国の要人の通訳としてラサ市内を案内し、若く清純な乙女を演じることで中年男性を「萌え」させ、半ばレイプのような形で性的関係を持ってきた。このため処女膜再生手術や乳首の脱色処理を繰り返し受けている。
今回は政治・経済に影響力を持つ要人や傘下に引き入れるべき著名人ではないが、中国共産党が何らかの重大な事業を起こそうとしている時期に入域し、素性が在アメリカの華僑の情報網でも確認できない人間として監視対象になっている相手だ。ホテルでの行動も常時監視しているが疑わしい点が全くなく、むしろその完璧さが疑惑を深めているのだ。
「私のこと嫌いですか・・・やっぱりチベットを愛する貴方には私たち中国人が許せないんですね」今度は「かぶり寄り」だ。こうなれば両まわしに手を掛けての「引き倒し」しかない。
「そんなことはないよ。それではお言葉に甘えることにしよう」そう答えると2人は後席に乗り、志玲がチベット語で行き先を指定した。
志玲の住居はホテルに近い一軒家だった。オート・リクシャーを下りると吸い込まれそうな深い目で見詰めてくる。並みの要人なら特別に好色でなくても忽ち籠絡されてしまうだろう。
倉田は運転手に料金とチップを手渡すとパスポートと財布を入れたセカンド・バッグを持ってオート・リクシャーから下りた。
「この家に男性を入れるのは初めてなんです。暖房が効いていなくてゴメンナサイ」玄関を開けると志玲は窓から射している月明かりで息が白くなるような部屋の空気に上着を脱ぐのをためらいながら謝った。一軒家と言っても石垣を積んで壁にしたチベット式の造りではなく、鉄筋コンクリート平屋の人民住宅なので外の気温は大きめの窓から直接影響してくる。すると志玲は突然、上着を脱ぎ落して倉田の前に歩み寄った。
「温めて・・・」志玲の言葉は白い息になって足元に落ちていく。そのまま映画で使えそうな場面だが、それでも倉田はとぼけて「それじゃあ、暖房はどこだ」と訊き返した。

志玲の手料理はおそらく自宅で作って冷凍しておいたもので、電子レンジで加熱するためホテルの料理よりも美味かった。次に志玲は食後酒を用意した。ここからがハニー・トラップの開始だろう。
倉田はテーブルに2つ並んだグラスに細心の注意を払う。若し薬物を投与するのなら怪しまれる酒ではなくグラスに塗布するのが常識だ。おそらく飲む時に口にする縁(ふち)に自白剤や精神を誘導する特殊な薬物が塗られているに違いない。
志玲が紹興酒を注ぐと倉田はつまみを要求した。そうして志玲が立ち上がっている間にグラスに触れて軽く音を立てたが何もしなかった。すると志玲は乾燥した木の実を小皿に盛って来て、皮を剥いて勧めながら本当にさりげなくグラスを交換した。
  1. 2017/09/24(日) 00:25:25|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ955

翌日、今度は単独で市内に出た。フロントは通訳の同行を勧めたが倉田はアメリカから持ってきたチベット語(=ウー・ツァン方言)と英語の対訳辞書を見せて断った。ただし、この辞書はアメリカのダライ・ラマ14世を支援する団体が発行している国内限定版なので手にとって見させる訳にはいかない。こうなれば当然、尾行がつくことになるがそこは諦めるしかない。
ラマ市内では気温が零度を超えた頃から市場が始まる。郊外の農家が野菜や果物を持ってきて路上に並べ市内の住民たちも手工芸品を売っている。観光客相手の土産物の露店もあるがやはり佛教関係の商品は置いていない。そう言えば時々中国人の警官が巡回してくるが掏摸(すり)や引っ手繰り(ひったくり)、置き引きなどの犯罪だけでなく並べている商品を監視しているらしい。
そんな粗末な露店の奥にはそれなりの店構えの商店が軒を連ねている。しかし、その看板は漢字で書かれており、ウィンドウの中で暖房に当たりながらこちら覗いている店主や店員は全て中国人だ。
倉田はこの対比をカメラに収めようと思ったが「買い物」と言ってホテルを出ているので仕事用の機材はフロントに預けており、不鮮明にはなるが携帯電話で撮影した。撮影しながら振り返ると尾行もこちらの様子を動画で撮影しているようだ。
「おう、BJF(ブリティッシュ・ジャーナリスト・フェデェケーション)×××」その時、背後から声を掛けられた。振り返ると法衣の襟元にマフラーを巻いて毛糸の手袋をはめたチベット僧だった。どうやら昨日、通訳を使って声をかけた托鉢中の僧侶の1人らしい。本当は直接話したいのだが、尾行に察知されると面倒になるため辞書を引いて単語を見せる形で対話を始めた。
「貴方はBJFと関係しているんですか」辞書を見せながらも一緒に覗いている僧侶にだけ聞こえる声量で質問する。すると僧侶も事情を理解したようで辞書に見入るような演技を始め、辞書を開きながら小声で質問に答えた。
「今年は北京オリンピックが開催されるから中国共産党も海外からの批判を恐れて手を出せない。だから私たちがチベット民族蜂起記念日に抗議行動を起こせば貴方たちBJFが世界に向けて発信してくれることになっているでしょう」「そうでした。しかし、その情報が中国共産党に漏れている可能性があります。あまり早計な行動は危険です」倉田の助言に僧侶はうなずきながら手を合わせて対話を終えた。背後の尾行が動画撮影しながら近づいてきたのに気がついたようだ。
「オン×××」僧侶は手を合わせると短く唱えた。この「オン」はマントラ(=真言)から変化した漢字の「南無」に当たる言葉だ。倉田も手を合わせると実家の浄土真宗式に「ナマンダーブ」と唱えた。これで尾行には佛教に関する質疑応答だったように見えたはずだ(だと良いが)。

昼食を取りにホテルへ戻り、再び外出するためフロントに行くと昨日の女性通訳・宮志玲(ピン・ジィリン)が待っていた。志玲は倉田の顔を見ると嬉しそうに手を振り、駆け寄ってきた。
「昨日は有り難うございました。これは昨日のお金で買いました。ずっと欲しかったんです」通訳はそう言いながら防寒ジャンバーの前を開け、首に巻いている洒落た色の長いマフラーを見せた。
「ふーん、よく似合うね。素敵だよ。だけどワザワザそれを見せに来たのか」若い女性と親しげに話していると英語しかできないアメリカ人の役柄を忘れて得意の中国語で話しそうになる。それに寸前で気がついて英語に徹した。
「実はお礼に仕事ではなく個人的に市内を案内させていただこうと思いまして」「それじゃあデートじゃあないか」倉田の返事に志玲はハシャイダようには笑ってうなずいた。そのあまりにも無邪気な態度の向こうにハニー・トラップが控えているのかと思うと倉田の背中にはヒマラヤの冷気が流れ込んだかのように寒さが走る。しかし、それに対抗するための準備はしてあった。
「ジィリン、どこへ連れて行ってくれるんだ」ホテルを出ると志玲は現代の若者らしい積極性とアジア人女性としての恥じらいを織り交ぜながら案内し始めたが、まだ行き先は言っていない。
「貴方が関心を持っている史跡です。貴方もカメラを持っていないから仕事ではないんでしょう」「うん、今日はただの観光客、ジィリンの少し年を取った恋人かな」倉田の返事に志玲は嬉しそうな歩調で先に立って歩き出した。やはり中国の田舎では日本のように人前でも平気で腕を組んだり、肩を抱いたりするようなことはしないようだ。
途中でオート・リクシャーを拾って倉田は昨日。托鉢僧たちに出会った寺の門前街に案内された。
あ・宮志玲イメージ画像
  1. 2017/09/23(土) 08:40:01|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ954

夕食時、ジェームズが同席した。2人が親密になっていることはホテルの従業員も認識しているが、警戒対象である外国人ことに変わりはない。満席の時間帯を狙ってきていても従業員が各テーブルを回りながら常に会話に聞き耳を立てているのは明らかだ。
「旅行客を魅了するような場所を発掘できましたか」「立ち入り禁止の場所が多くて新発見は難しいですな」このような日常的に過ぎる会話では情報交換が難しい。それでも互いに有益な情報をまぶしながら会話を続けた。
「そう言えば貴方の他にも金髪の人たちが取材をしていましたよ」「ほう、どこの社の人たちかな」自分の話が虚構であることを倉田は目で知らせる。するとやはり背後の従業員が早足で店外に出て行った。おそらくカウンターの共産党政治局員に通報したのだろう。
「私の方は市街地とヒマラヤの組み合わせを狙っているのですが、やはり立ち入り禁止が多くてインパクトがある風景に出会えません」「これで本当に観光客を誘致する気なのかな」2人の会話が進む前に次の従業員が回ってきている。これでは警戒に念が入り過ぎており、かえって漏洩して困るようなことが計画されているのではないかと疑わせそうだ。
「それにしても海抜が高い関係で過熱が不十分になるから、あまり美味い料理はありませんね」海抜が高くなると沸点が下がるので野菜は芯が残り、肉は生臭さが抜けない。富士山頂と同程度の海抜にあるラサ市での日中の沸点は90度を切るはずだ。
「貴方の母国の刺身や生野菜の料理でも広めたらどうですか」「川魚では刺身は作れませんよ」2人の会話が談笑になると従業員も他のテーブルへ巡回する。やはり多くの外国人客の中でも警戒対象としての重要度を高くされているようだ。
「それではお先に」倉田は従業員が離れた隙にテーブルの下で紙片を渡して立ち上がった。それはトイレットペーパーに片仮名のみの日本文で手書きした今日の調査概要だ。片仮名にしたのは漢字や英語では中国人に読解され、平仮名は日本語としての認知度が高いからだ。何よりもジェームズが日本語に熟達していることはアメリカで聞いている。後はジェームズが読んだ後、トイレで流せば証拠は残らないと言う寸法だ。

翌日は中国人の女性通訳だけだった。つまりラサ市内であれば立ち入り禁止地区だけ判っていれば十分と言うことだ。若い女性をつけたのはハニー・トラップの可能性もある。倉田はアメリカ国内で中国や朝鮮系の移民が繰り広げている政治工作の実態を熟知しているのでアジア系の女性は避け、中国や韓国、日本とも接点が薄いアフリカ系の女性をつれ合いにしている。その意味では久しぶりにアジア人の女性を抱けるハニー・トラップには少し期待してしまいそうだ。
オート・リクシャーを拾ってチベットの伝統的な建物が残る市街地の外れを走り回るが、かえって撮影禁止の場所が多く、寒い中をバイクでツーリングしているような雰囲気になってくる。すると前方に長い列を作って托鉢してくる僧侶たちが見えてきた。
「ほう、この寒いのに随分と薄着なんだね」運転手が速度を落としたので間近に見ることができた僧侶たちは法衣の下から素肌の腕が見えており、裾からは毛脛が出ている。それにしてもラサ市内は赤道に近いため2月でも日中は10度近くまで気温が上がるが、日没後は零下10度近くまで下がるのだ。
「あれが彼らの信仰の形ですから当たり前でしょう。嫌なら止めて近代的な生活を送れば良いのです」女性ガイドの見解も極めて冷淡だ。これでは聞いている方の寒さが増して凍えてしまいそうだ。
「本当に寒くないか確かめてみたいな」「それは困ります」「だって貴女は通訳するためについてきているんだろう。仕事をしなさい」倉田は口では責めながら財布から取り出した紙幣を押しつけた。これは逆ハニー・トラップと言うものだ。その金額は女性の欲望をかなえるには十分な額だったらしく、チベット語でオート・リクシャーを止めさせて僧侶に声をかけた。
「お坊さま、このアメリカ人が僧衣で寒くないかと質問している。答えなさい」チベット語では僧侶については敬称になってしまうので仕方ないのだが、その他は完全に命令口調だ。その時、倉田は僧侶と話しているガイドの背後でカメラバッグのポケットから「BJF
(イギリス報道人連盟)」と書いたプレートを出して見せた。すると周囲の僧侶たちの目の色が変わった。
  1. 2017/09/22(金) 09:45:10|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ953

翌朝、倉田がフロントに向かうとガイドのチベット人と英語とチベット語の通訳が待っていた。昨日の話し合いでは案内人としてガイドを紹介することだけで通訳までは聞いていない。
「2人とは聞いていないぞ。料金はどうするんだ」倉田の抗議に昨日とは違うフロントは同じ若い男を振り返って指示を仰いだ。
「どうやら2人分の料金を払うのが惜しいと値切っているようです」この理解はいかにも中国人らしい。すると共産党の政治局員らしい若い男は「1人分で良いと言え」と答え、馬鹿にしたような薄笑いを浮かべた。
「英語を話せるガイドを用意していなかった当ホテルの責任ですから料金は1人分で結構です」そう言われて2人の顔を見るとガイドは一見してチベット人だが通訳の方は明らかに漢民族だ。つまり外国人が直接チベット人と会話しないための監視役のようだ。実は倉田もチベットでは最も一般的なウー・ツァン方言も初級程度なら話せるのだがそれは隠しておかなければならない。
倉田が大通りに出てオート・リクシャー(陸車?後部に3人分の座席を付けた3輪オートバイのタクシーのインドでの呼称)を拾おうとすると通訳は玄関前に入ってきたタクシーを勝手に止めた。ラマ市内で流しのタクシーは珍しいのでホテルが手配していたらしい。ここでもチベット語ができることを明かす訳にはいかず素直に倉田が乗り込むとガイドは黙って助手席に乗った。通訳は運転手に「ヒマーラヤ(現地での発音)の写真を撮れる場所へ」とガイドを無視して指示した。
「先ずは名前から聞いておこう」タクシーが走りだすと倉田は左隣に座った通訳に質問した。
「私はサンポです。彼に直接話すことはないので良いでしょう」通訳の名前まで秘匿しようとする。どうやら「名前が判らなければ呼びかけられない」と念を入れたらしい。確かにサンポは「善良」を意味するチベット人の名前だが宗教色がなく、何よりも発音に北京語の臭いがした。
タクシーをネパールへのスカイラインに向かわせると間もなく街を抜けて前方にはヒマラヤの山々が見えてくる。山岳写真家と言う役柄としてはその麓まで行くべきなのだが今回の目的が違う。あまり料金がかさむ前に止めさせて怪訝そうな顔をしている通訳に理由を説明した。
「私は何度もネパール側からヒマラヤを撮っている。だから今回はチベットの風景の背後にヒマラヤの峰が入るような場所に案内してくれ」倉田の要望に通訳は「ガオディアン・シュオウ=早点説(それを早く言え)」と舌打ちしたがこれは北京語だ。やはり冬季には派遣されている共産党員も縮小されるためレベルが低下するらしい。

「チベットの寺院と僧侶を入れたい。やはりチベットと言えば佛教の聖地だからな」ラマ市内の住宅や市場などで撮影した後、倉田は通訳に次の場所を指示を出した。
「チベットは中国共産党によって法王の封建的圧政から解放された中華人民共和国の領土です。佛教などは人民を意のままに操るための麻薬に過ぎません」興奮させるとガイドの英語が怪しくなる。それにしてもここまで簡単に馬脚を現してくれると、かえって別の謀略を心配しなければならなくなる。それでも予防線を張るために形式的な言い訳をした。
「そうかァ。アメリカで読んだガイドの解説とは違うようだね。それが君たちチベット人の意識なのか」突然、チベット人と言われて通訳は一瞬答えに詰まった。倉田はその機を逃さず追い討ちをかける。
「その圧政を強いていた法王と言うのが1989年にノーベル賞を受賞したダライ・ラマ14世なんだな」すると「ダライ・ラマ」と言う名前にガイドが反応した。ガイドは目を潤ませてチベット語で何かを言いかけたが通訳は目を引きつらせてそれを遮断した。
「当地で法王の名前を出すことは止めなさい。我々は友好的に貴方たち外国人の観光を演出しているのだ。貴方たちにはその厚意に感謝してこちらの命令に従う義務がある」他の国であれば国際常識で反論するのだがここは中国だ。国際常識とは世界の中心である中国が作るものなのだ。これ以上は危険水域、と言うよりもチベットだけに冬山登山なので倉田も安全圏に引き返した。
「そうですか。それは失礼しました。私はアメリカで読んだ本の記述内容との違いを確かめたかっただけです。貴方たちの配慮には感謝していますよ」結局、今回は通訳の正体が判ったところまでにしたが、謝罪のために多額の別料金を渡す羽目になったのは言うまでもない。
  1. 2017/09/21(木) 09:27:05|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ952

倉田がホテルから通りに出て振り返ると自分の部屋の窓に人影が見えた。部屋の小さな灯りを消さずに来たのはこのためだった。この時間にルーム・サービスが入っているはずはないのでフロントから連絡を受けた係員による手荷物の検査なのだろう。このようなことは北京や上海のホテルでも当たり前に行われているが、やはりチベットでの警戒は特別なようだ。
倉田はカメラを片手に持ちながら市内を歩き回った。ところどころで立ち止まって撮影するのだが、写された人物は必ず歩み寄ってモデル料を要求してくる。やはりチベットの人たちが中国国内の他の地域以上に貧窮しているのは明らかだ。
倉田が角を曲がってカメラを構えながら確認するとやはり同じ人間がついてきている。早い話が尾行されているのだ。中国共産党の統治手法から考えてチベットに入域している外国人全員に尾行がついているのかも知れない。
列車の中で指定された待ち合わせ場所に到着するとジェームズは報道記者らしく雑踏にカメラを向けて写真で撮っている。その背後にはやはり注視している中国人が確認できた。
「おっと失敗した」突然、ポケットに手を突っ込んだジェームズが舌打ちをした。同時に尾行の中国人は視線を反らして無関係を演じ始める。逆に子供たちがジェームズを取り囲んで手を伸ばし、何かをねだり始めた。
「予備のフィルムをホテルに置いてきてしまったな。これでは今日の仕事は終わりだよ」ジェームズの独り言は台本通りだ。倉田は適当な距離を取って出番を待っている。
「困ったな。今時、カメラのフィルムなんて売っていないだろうから・・・」助監督がいればここで背中を押すはずだ。
「どうしましたか」倉田もカメラを片手に歩み寄った。2人の会話が英語なのは当然だ。
「折角、絶好の被写体を見つけたのにフィルムが終わってしまったんですよ。今時、フィルム式のカメラを使っているような者はいないでしょうから・・・」「私の日本製で良ければお分けしますよ」ここからは会話が成立する。互いに背後を確認するとそれぞれの尾行たちも違和感なく監視を続けているようだ。
「それで幾らですか」「いいえ、日本製を試してもらえばスポンサーも喜ぶでしょう」「それはあまりにも申し訳ない。それなら今夜、酒でも奢りましょう」これで接点が創作できた。ここから先は親しくなった者同士として接触しても疑われことはない・・・と思いたい。

2人は夕食の席で一緒になるとそのままホテルのバーに入るとカウンターに座った。ボックス席では周囲の装飾品や椅子の中に監視カメラや盗聴マイクが設置されているため丸見え・筒抜けである。その点、カウンターなら実は数ヶ国語を操るのであろうウェイタ―にさえ注意すれば良いはずだ。
「今日はありがとう。おかげでチベットの風俗を紹介する写真を撮ることができました」ここでもジェームズの台詞は報道記者の役柄のままだった。
「いいえ、『困った時はお互いさま』と言うのが私の母国の流儀です」「ほう、母国はどちらですか」「日本です」ここまで話したところで店内に流れているムード音楽がピアノ曲になり、ジェームズの指がビアノを弾くように動き始めた。ジェームズが視線で中指を指定したので動きに注目するとモールスを打ち始めた。倉田も日米協同訓練のために学んだことがあるので理解はできる。この動きであれば監視カメラで見られても察知されることはないだろう。
「―(T) ― ― ―(O) ― ―(M) ― ― ―(O) ・―・(R) ・―・(R) ― ― ―(O) ・― ―(W) ― ―・(G) ― ― ―(O) ―(T) ― ― ―(O) ―(T)・ ―(E) ― ―(M) ・― ―・(P) ・―・・(L) ・―(E)」要するに英語で「明日は寺に行く」と言ったのだ。勿論、これは技量テストである。
倉田も色々な地域での諜報活動に従事してきたが、中国ほど気疲れする国はない。中国の恐ろしいところは古代から社会に張り巡らされ、毛沢東時代に組織化された相互監視と密告制度だ。毛沢東時代には親子・兄弟・夫婦の間でさえ危険思想の疑いがあれば当局に密告することが常態化しており、それが文化大革命の悲劇につながった。中国では自分以外の全てに監視され、常に裏切られる危険性を自覚しておかなければ任務を遂行するどころか生きて還ることもできないのだ。
  1. 2017/09/20(水) 10:12:06|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

9月19日・苗字の日

明治3(1870)年の9月19日(この時は太陰暦でした)に太政官布告「平民苗字許可令」が出されたので「苗字の日」にしています。ところが手続きをする者が極めて少なく5年後の2月13日に「平民苗字必称義務令」が布告されて義務化したのでこちらは「苗字制定記念日」にしています。
野僧の頃は学校の社会科=日本史の授業でも庶民にも苗字を許したことを「身分制度の撤廃」に無理やり結びつけて明治新政府の業績の1つとして紹介していましたが実際は義務化しなければならないくらい不必要な行政命令だったようです。
歴史の授業ではそれまでの苗字は公家や武士などの支配階級か、功績があった庄屋や名主などが名誉として与えられたものと教えていましたが、実際には地主や店主なども屋号として姓を持っていました。その一方で小作人や下働きの職人、奉公人などには屋号がないので「××郷の△△」と地名と個人名の組み合わせでしたがそれで十分でした。
また明治新政府が特別な事情の有無を無視して例外なく強制するのは毎度のことなので、出家して佛道に身を置いている坊主も姓を名乗らなければならなくなり、僧侶としての道号をそのまま使用した浮世離れした苗字ができました。これはチベットやブータン、ネパール、タイやカンボジア、ミャンマーなどの南方佛教の国々でも言えることで、佛弟子や羅漢の名前を姓にしている人物に出会うと思わず「末裔ですか」と訊いてしまい、佛弟子は独身なので子孫はいないので失笑されてしまいました(流石に「オウム真理教のホーリー・ネームのようだ」とは言えなかったのですが)。
しかし、田舎では一族が集落を形成していることが多く、苗字を呼んでも隣近所が全て同姓なので名前になり、他の地域で人物を指定するのにも結局は「××郷の△△」になっています。
江戸時代には年貢・徴税収入を確保するため各藩・領主は庶民を定住させることを促進していたので、260年余りも顔を突き合わせていれば通称としての名前させ知っていれば、どこの誰かは家系から縁戚、個人情報まで熟知しており、苗字などは全く必要なかったのでしょう。
最近、当地で同姓の陶芸家さん(こちらは浄土真宗の寺の息子)と知り合い妙な交流が始まっていますが、どちらも自分の姓が大嫌いで「こんな苗字の家に生まれて可哀想に」と同情していたのです。
野僧の姓は関西の人には上方落語の大名跡「森乃福郎」と呼ばれ、関東の人には次郎長一家のお調子者「森の石松」を仇名にされてしまい、子供たちからは「ある日、森の中、熊さんに出会った」と唄われることになるので嫌だったのですが、アラスカ人の彼女の父親に「イタリア人の姓だ」と教えられてからは大のスパゲティー好きとして少しだけ嬉しくなりました。イタリアの「モリィノォ」姓はイタリア半島付け根のアルプスの山間の街の地名が発祥なので、やはり「森林」と「野っ原」のイメージなのかも知れません。
愚息たちには結婚の条件として相手の姓を名乗り、この忌まわしい姓を断絶することを要求していますが、今のところ予定がないようなのでしばらくは存続することになりそうです。このまま独身でいけば血統が断絶できますがこちらは本人の勝手です。
ところで最近は「苗字」ではなく「名字」と書くことが多くなりましたが、文部科学省あたりから通達でも出たのでしょうか。歴史的には「名字」は平安時代、「苗字」は江戸時代の初期あたりから用いられている言葉ですが明治の通達は「苗字」で出されていますからこちらが正式だったはずです。
  1. 2017/09/19(火) 09:49:23|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ951

倉田は2006年に全線開通した青蔵鉄道(チンツァン・ティエル―)を利用してチベットの首都・ラサに向かった。この鉄道の外国人の乗車券は全席がツアー指定になっているためアメリカの旅行社で申し込み中国入りした。客車はアメリカの航空機メーカーに製造させたものなので機密性は十分だが、それでも平地の酸素量を維持している訳ではないので高山病の心配はある。
「貴方はクライマー(=登山家)ですか」車内では1人旅の者同士の会話の花が咲いており、倉田も同席になった男性客に声を掛けられた。その金髪で同世代の客はアメリカのツアーに参加している割にアメリカ人的なバタ臭さがなく、むしろヨーロッパ人の品の良さを感じる。
「いいえ、私は山岳写真家です」そう答えながら倉田は荷物の中から日本の登山雑誌「山と渓谷」を取り出して冬山の写真を見せた。勿論、これは別のプロの作品なのだが漢字を読めない外国人なら倉田が撮影した写真だと勝手に思い込んでくれるだろう。
「素晴らしい。しかし、ヒマラヤに比べると縮小サイズのようですね」「はい、海抜はヒマラヤの半分以下です」実際、青蔵鉄道の最高峰であるタングラ峠は海抜5000メートルを超えている。しかし、倉田は現役時代、空挺部隊で勤務していたため高高度に対する耐久力には自信があった。
「それではチベットには何度も来ているんでしょう」「はい、3度目になりますか」チベットに入るには中国政府が発行している入域許可証が必要なためここは事実を語らないと不要な疑惑を抱かせることになる。実際、倉田は同じ肩書きでチベットには問題が起きる度に3度入っていた。
「ところで貴方こそ登山家ですか」今度は倉田が男性客に尋ねた。登山家にしては日に焼けておらず身体も逞しくはない。それでいて観光客のような気楽な雰囲気でもないのだ。
男性は倉田には躊躇なく質問してきた割に自分の身元を明かすことには慎重な様子を見せている。余り知られると困る職業なのかも知れない。しばらくの沈黙の後、男性客は口を開いた。
「私は報道記者でジェームズです」倉田はこの名前に反応したが表情には出さない。この車両は満席なので前後と隣りにもアメリカ人の客が座っており、何よりも中国の鉄道に盗聴器や監視カメラが備え付けられていると考えるのは常識だ。
「ほう、それでは青蔵鉄道の見どころを紹介する旅行案内の取材ですか」これは報道を使命=存在理由と考えているマスコミ関係者に対しては侮辱になる言葉だが、中国で政治的な話題に触れることには細心の注意を払わなければならないことは互いに判っているのでそこは苦笑してうなずいた。するとジェームズは手帳の余白に2つの文字を記して見せた。
「メイ(=3月) 10」これは1959年に中国共産党がダライ・ラマ14世を拉致して殺害しようとしていることを察知した民衆が蜂起して、ヒマラヤの国境を越えてインドへ亡命させた日付である。つまり取材目的は59年間のこの日を迎えるラサとであり、これが依頼のあった情報活動を意味しているのは言うまでもない。そこからは当たり障りがない世間話で過ごしていたが、その会話の合間に文字を記して見せ、必要な情報を交換した。

ツアーに組み込まれているラサ市内の外国人用ホテルに入ると倉田は早速に「街の写真を撮りに行く」と言って出掛けることにした。するとフロントはカウンターの上に市街地の地図を広げ、英語で外国人の立ち入りが制限されている地区の説明を始めた。その地図自体が人民解放軍の施設や観光用に開放していない寺院は削除されてあり、中国による支配がどのようなものであるかを如実に表している。
「今年はオリンピックが開催されるんだろう。観光地として売り出すつもりなら絶景の写真が撮れる場所を案内したらどうだ」一方的な説明が終わったところで倉田は不快感を露わにしながら親切な助言を与えた。するとフロントは背後に立っている同じ制服を着た若い男に中国語で話しかけた。
「良い風景写真が撮れる場所を教えろと要求しています」「この男の職業は何だ」「日系アメリカ人の山岳写真家のようです」「そうか、明日、案内すると答えておけ」どうやら若い男は共産党から派遣されている政治局員で政治的な判断はこちらが下すらしい。
その指示をフロントは頭の中で翻訳すると流暢な英語で「明日、係員に案内させましょう」と説明した。要するに「単独行動はさせない」と言うことだ。
  1. 2017/09/19(火) 09:48:16|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

9月19日・ソ連をロケット大国にしたツィオルスキー博士の命日

1935年の明日9月19日はソ連をアメリカに比肩し、現在までの信頼性では凌駕しているロケット大国にする基礎を作った超天才・コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキー博士の命日です。
野僧は中学から大学を中退するまで毎晩のようにモスクワ放送を聴いていたのですが、当時のソ連にとって宇宙開発は国家機密に属していたためその指揮を執っていたセルゲイ・パーヴロヴィチ・コロショフ博士の名前や業績は明らかにできず、アメリカの新型ロケットの発射や宇宙開発の成功が報道を賑わせるとこれに対抗するためツィオルコフスキー博士の伝記を紹介していました。
日本人のイメージではアメリカが世界最先端の科学技術を独占しており、ソ連は第2次世界大戦後にナチス・ドイツから連行した技術者によって模倣した物真似に過ぎず、その後もスパイによって盗み出した西側の技術で改良を加えているに過ぎないと信じられていましたが、実際はツィオルコフスキー博士が基礎を造り、その上にコロショフ博士が構築した独自の技術だったのです。
ツィオフスキー博士は日本がまだ江戸時代だった1857年にロシアでもヨーロッパとアジアの境界線であるウラル山脈の麓にある街で生まれ、10歳の時には猩紅熱で聴力を失う不幸に遭いましたが(アメリカのヘレン・ケラーも同じ病気で聴力・視力・発声を失った)、独学で数学や天文学を探求・研鑽して、まだ19世紀だった1897年には「ロケットの噴射と速度の公式」=ツィオフスキーの公式、46歳の1903年には「反作用利用装置による宇宙探検」と言う論文を発表したのです。その理論はロケットの噴射と速度の相関関係を推定する公式を中心とするものでナチス・ドイツが開発したV2ロケットでも実用化されていなかった多段式ロケットによる地球の引力からの離脱を提唱しており(強力な1段目で浮上させて高空に射ち上げ、ここで重い1段目を捨てて軽量な2段目で加速して大気圏外に出る)、これを利用した宇宙船や人工衛星による宇宙利用や旅行を示唆していました。
1903年と言えば12月17日にライト兄弟が「最初の継続的に操縦を行った空気より重い機体での動力飛行」に成功した年ですから、ツィオフスキー博士の頭脳は人類のレベルを完全に超越していたようです。しかし、古くからの帝政を維持していたロシアでこのような超天才が理解されるはずはなく、本人も出身地で過ごしたため埋もれたまま忘却されてしまったのです。尤も理論が認められたとしてもようやく木製布張りのライトフラーヤー号が飛んだ程度の科学技術ではどうしようもなかったのでしょう。
次の大天才・コロショフ博士によって長年にわたって妄想扱いされていたツィオフスキー博士の理論は実現されることになりますが、多段式のボフォース・ロケットによって人工衛星・スプートニク1号が射ち上げられた1957年はツォルコフスキー博士の生誕100周年に当たりました。
  1. 2017/09/18(月) 09:29:15|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ950

「ジェームズから妙な依頼が入っているんですが」岡倉よりも先に韓国からアメリカへ戻った杉本が工藤に私信(個人的な書簡)を見せた。ジェームズと言えば以前、杉本と岡倉が敵対勢力の殺害の実戦教育を受けたイギリスの対外諜報機関・MI6の工作員だ。私信と言う形は取っているが、2人だけで作っている暗号によって解読できる別の内容が記されているのは言うまでもない。
「訳文は口頭でお伝えします」杉本の言葉を受けて同席していた倉田がテレビの音量を上げ、盗聴装置の電波を探知する装置を起動させる。
「ご存知のように中国は北京オリンピックを前にして対外的な横暴を控えているのですが」中国と聞いて担当の倉田が杉本の隣りに歩み寄った。
「BJF(ブリティッシュ・ジャーナリスト・フェデェケーション=イギリス報道陣連盟)の記者がチベット佛教の僧侶たちを『今なら中国共産党は動けないから独立に向けた運動を起こすチャンスだ』と扇動しているそうなんです」チベットは1950年に中国の侵略を受けて以来、敬虔な佛教徒として忍従の歴史を刻んできている。特に1959年には中国共産党がダライ・ラマ14世法王を拉致して秘密裏に殺害しようとしていることを察知すると丸腰で人民解放軍に立ち向かい、インド国境への道を人の楯になって守り、亡命させたことは日本では全く知られていないが国際社会では有名な事実だ。
「それがその記者たちの背後に中国の工作員の姿が見え隠れしていると言うのです」「BJFと中国の工作員の接点が判らないな」「今のイギリスには数多くの中国企業が進出していて、その中には当然、工作員が紛れ込んでいるんです」杉本の説明に工藤が疑問を呈すると代わって倉田が説明した。中国の場合、日本のように自分で企業を立ち上げるのではなく経営難に陥った企業を買収して乗っ取ることを常套手段にしているためあまり表沙汰にはなっていないが、中国人が筆頭株主として実権を奪い取っている企業がかなりの数に上るらしい。
「しかし、どうしてこのタイミングでチベット人に決起をさせようとするのかな。それこそオリンピックのボイコットに発展すれば共産党の面子は丸潰れじゃあないか」説明しているはずの杉本も中国の国内事情には詳しくないようだ。こうなるとやはり倉田の解説になる。
「あまり知られていませんが欧米だけでなく世界のマスコミ産業のかなりの部分は中国資本に握られているんです。おまけに中国共産党はオリンピックの放映権を餌に誘いをかけて自分たちに有利な国際世論を作ろうとしています。だからオリンピックを前に批判の理由になるチベットの問題に何らかの抑止を加えようとしているんじゃあないでしょうか」普段は九州人らしく大まかで暴言を吐くことも多い倉田だが、流石に専門分野となると知識・分析・見解はかなり高度だ。つまり中国には日本的事勿れ主義とは逆の解決法があると言うことだ。
「それでMI6は何をしてくれと言ってきているんだ」「BJFの記者と中国の工作員の接点を確認したい。しかし、ヨーロッパ人ではチベット社会に入り込んでの情報収集に限界があるから協力してくれって言うんです」杉本の説明を聞き終えて工藤は倉田の顔を見た。
「これはかなり危険な臭いがするから断るならそれでも良い。中国の国境の中では国際常識どころか国際法や条約すら通用しないんだ。イギリスとの貸し借りは危険を冒してまでとは言わないからな」どうやら工藤は断る方を選択しているようだ。しかし、倉田の顔を見れば逆の選択をしているのは明らかだった。
「杉本くんにとって北朝鮮の拉致家族の救出が個人的な命題であるように私には中国の少数民族問題の平和的解決はライフワークなんです。このシンボリックな問題に関与できるなら個人的にも応じたいと思っています」思いがけない申し出に工藤は机の上で両手を結んだ。その指には力がこもっていて手の甲に喰い込んでいる。ベトナム戦争の頃からこの活動に関わっている工藤には毛沢東と言う人類史上最悪の狂人によって創造された中国共産党=中華人民共和国と言う帝国は個人の意志などが影響を与えるような構造にはなっていないことが十分過ぎるほど判っている。その中国が画策した政治的暴挙の渦中に部下を送り込む決心がつかないのだ。工藤が握っている両手が変色し始めた時、重い口調で命令を下した。
「杉本くん、その書簡を見なかったことにしてくれたまえ。君のアパートでも郵便物の盗難は珍しくないだろう。普通に読めばただの近況報告じゃあないか」「確かに・・・」「こればかりは工藤さんの命令でも従う訳にはいきません」杉本が同調しようとすると倉田は珍しく公然と反抗した。
  1. 2017/09/18(月) 09:27:36|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

9月18日・「坂の上の雲」トリオの1人・正岡子規の命日

明治35(1902)年の明日9月18日に俳人・正岡子規さんが亡くなりました。34歳の若さでし
たが正岡さんの生涯については司馬遼太郎先生の名作「坂の上の雲」で詳細に述べられている上、NHKが3年越しで放映したドラマの記憶もまだ鮮明なので、素人があまり深く立ち入ることは避けたいと思います。
ただ野僧は地方歌人だった祖母の影響で小学生の頃から俳句、短歌、詩作を嗜んでおり、正岡さんの作品についても慣れ親しんでいました。そのためなのか文学を趣味にしていることが変人扱いされていた中学校では国語の資料に掲載されている正岡さんの写真が野僧に似ていると指摘され、「こう言う顔の人間は俳句を詠むのかァ」と国語の教師までからかっていたのです。
野僧が正岡さんの句が好きなのは松尾芭蕉さんに代表される正統派の俳句が禅的な単純化を志向して一点だけを注視しながら簡潔に描写しているのに対して、与謝蕪村さんにも通じる季節の出来事に動いた心を素直に表現しているのびやかな作風です。そして何よりも田舎俳諧と見向きもされていなかった小林一茶さんを発掘して高く評価してくれたことも後進として感謝しなければなりません。
松尾さんの「奥の細道」には野僧の出自である出羽を詠んだ秀作が数多くありますが、正岡さんが同じ場所を詠むと別の味わいがあり、その対比で風情が数倍増するのは確かです。例えば我が祖父の出身地を流れる最上川を松尾さんが「五月雨を 集めて早し 最上川」と詠んだのに対して正岡さんは「ずんずんと 夏を流すや 最上川」ときます。最上川の急流は「早し」と言う客観的な説明よりも「ずんずんと」と空気までを詠み込んだ方がその雰囲気が伝わるのですが、その一方で松尾さんの時代は太陰暦なので五月雨は梅雨の時期に当たり、その豪雨が集まれば最上川は激流になるのですが、正岡さんの時代には太陽暦なので五月雨は梅雨入り前の春の雨になり、模倣・踏襲することができず「夏を流すや」になったのかも知れません。また水の在り様を「ずんずん」と表現したのは与謝さんの「春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな」にも通じる擬音的手法でしょう。
正岡さんの秀作の中で最も有名なのはやはり「柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺」なのではないでしょうか。野僧は奈良の幹部候補生学校に入校中、自転車で斑鳩に行ったのですが、作務衣姿だったため途中の畑で柿をもらい、法隆寺で夕方の鐘が鳴るのを待って山門でかじってみました。すると観光客たちが「ほう、正岡子規だな。風流だな」「『柿くえば』だね。ワシも喰いたい。どこに売ってたんだ」「坊さん、鐘が鳴ってから食べていなかった?」と口を揃えていました。そのくらい有名な句であり、本当に法隆寺に似合う句でもあります。
日本人的には情感を込めて詠うはずの秋の句では「虫の音や 踏み分け行くや 野の小道」「名月や どちらを見ても 松ばかり」などがあり、与謝さんの「西吹けば 東にたまる 落葉哉」、小林さんの「麦秋や 土台の石も 汗をかく」「大根(だいこ)引き 大根で道を 教えけり」と並べれば笑ってしまうような秀作が揃っています。
それにしても日本人はどうしても水墨画や詫び寂びの方向へ進みたがるようで与謝さん、小林さん、正岡さんの句の博多の名僧・仙厓義梵禅師の禅画にも通じる味わいは松尾さんよりも一段低く見られるしかないようです。
病床で「糸瓜(へちま)さいて 痰のつまりし 佛かな」「痰一斗 糸瓜の水も まにあわず」「おとといも 糸瓜の水を とらざりき」の句を遺し、弟子の高浜虚子さんは死に際して「子規逝くや 十七日の 月明に」「桐一葉 日当たりながら 落ちにけり」と詠みました。
  1. 2017/09/17(日) 09:35:46|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ949

1月中は雪中山岳基礎訓練(雪山登山と言うよりもスキーを担いで山を越え、滑降で襲撃する)で鍛えられていた安川3曹たちは2月になると北海道の東部・矢臼別にある大演習場での遊撃基礎訓練に入っていた。大阪市の3分の2に相当する広大な演習場を使って1日数10キロに及ぶスキーでの移動、盛り上げた雪山に横穴を掘って作った雪洞での宿泊、そしてモッティ戦術の実戦訓練である戦車部隊の襲撃などを繰り返している。
「安川レンジャー、次はお前もアキオを引け」「えッ?はい、安川レンジャー」ノルディックでの移動では交代で荷物を積んだ艝(そり)=アキオを引く。荷物と言っても軽迫撃砲や110ミリ個人対戦車弾とその砲弾などの重量物があり、スピードを競っていた連隊での訓練とは肉体的な負担がまるで違う。このため分隊長役の同期は牽引要員を1名追加したのだが、その指示に一瞬だけ困惑してしまった。やはり心理的限界に追い込まれれば「綺麗事」を保つ理性が薄らぐようだ。
「よし、出発だ」「おーッ、レンジャー」分隊長が先頭に立って滑り始めると安川を含む牽引要員が曳き始めるが、体重よりも重いアキオはノルィックでは簡単に進み出さない。
「ぐッ、糞―ッ、レンジャー」「この野郎、レンジャー」「チクショウ、レンジャー」アキオと身体をつないだ紐が胸元を締めつける。それに耐えながら気合いを入れる呪文は「レンジャー」だ。
「レンジャ」「レンジャ」「レンジャ」「レーンジャーァ」声を揃えてこの呪文を唱えながら曳き続けるとようやくアキオは滑り始めた。こうなれば次の休憩まで進み続けるしかない。しかし、矢臼別大演習場には目印になるような高い山がない代わりに緩やかな丘陵が続いており、行く手には長い上り坂が待っていた。

冬季戦技教育隊の遊撃課程で問題なのは夏季のレンジャー課程では比較的容易に確保できる食料の発見と調理だ。厳寒の北海道の原野で活動している野生動物と言えばウサギと鹿くらいで、これを発見しても人間がノルディックやカンジキで追いかけて捕獲できる相手ではない。かと言って巣で冬眠しているヒグマを殺して調理するのは実弾を携帯していない以上、危険が大き過ぎる。このためペットショップで買ってきたウサギを教材にするしかないのだ。
「設想、ウサギ捕獲」潜入に入って3日目の夕方、雪洞造りが終わったところで助教が声を上げた。助教の手には先ほど管理班のスノーモービルが届けに来たダンボール箱がある。ウサギは鳴かないため悲壮感は薄いが、これからペット用のウサギを殺して調理しなければならない。
「各分隊、1匹ずつ。処理方法は座学で教えた通り。以上、各分隊から1名受領に来い」助教は感情を見せずに指示したが、逆にその方が訓練として淡々と手を血に染めることができるのだろう。
「夏季レンジャーなら蛇やニワトリだからウサギよりも心が痛まないだろうな」「しかし、蛇よりはウサギの方が美味いぞ」分隊長に指名された1名が犠牲者を受領に行っている間、流石のレンジャー要員たちも罪の意識を誤魔化すための戯言を交わしている。そこに同期が1匹の白ウサギを抱えて帰ってきた。目が赤いところを見るとやはり飼いウサギのようだ。ウサギも自分の運命が判っているのか固まったように動かない。すると分隊長は同期からウサギを受け取るとナイフを抜いて首筋を深く抉り、足もとの雪に真っ赤な鮮血が飛び散った。
殺すまでに要する時間が躊躇になるのは間違いなく、交代制とは言え指揮官の任務を負っている者として自ら手を下したのだ。命を奪えば後は単なる解体作業として調理は終わった。

「零下20度でも外気から遮断されていると暖かく感じるものだな」宿営地で安川たちは歩哨に立つまで寝袋に入って束の間の仮眠を取る。この雪洞は2人用だが、積んだ雪山を円匙(えんぴ)で叩いて固めた後、側面に穴を掘って作るのでサイズも個人用天幕と同じようなものだ。
「このまま熟睡してしまいそうだよ」「それは命取りだぞ。見ろよ、ランタンで溶けた水がその場で凍っているじゃあないか」相棒はガス式のランタンを指差した。確かにホヤの上の雪の天井からは暖められた空気で溶けた水滴が垂れているが、そのまま凍りついて氷柱(つらら)になっている。やはり携帯式温度計の表示は間違っていないようだ。
「安川レンジャー・・・何だ眠っちまったのか」すぐに安川レンジャーは声をかけても返事をしなくなった。仮眠でも夢は見る。夢の中では聡美が体を温めてくれていた。
け・葦田伊織イメージ画像
  1. 2017/09/17(日) 09:32:30|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

9月17日・果たして芸術家で良かったのか(?)・高島野十郎の命日

昭和50(1975)年の明日9月17日に東京帝国大学を首席で卒業し、学術者としての王道を与えられながらも本人の意志で画家としての生涯を選び、それを貫徹した高島野十郎(やじゅうろう)さんが亡くなりました。艱難辛苦を重ねた割には当時の平均寿命を大きく上回る85歳でした。
高島さんは明治23(1890)年に現在の福岡県久留米市で醸造業を営む裕福な家庭の男6人女2人兄姉妹弟の5男として生まれました。このため5男でありながら恵まれた教育を受けることができたのですが、旧制中学校を卒業するに当たっての進路で父親と対立してしまいました。と言うのも12歳年上の長兄が家業を継がずに詩作と禅の修行ばかりに現(うつつ)を抜かした挙句の果てに詩人になってしまったことに懲りていた父親は学業優秀なこの5男には堅実な正業に就いてもらいたいと考えており、画家と言う文学と美術の違いはあっても不安定な破滅型の人生を認めることができなかったのです。このため本人が志望していた美術学校ではなく旧制高等学校に進学することを命ぜられましたが、九州・熊本の第5高等学校ではなく新設されたばかりだった名古屋の第8高等学校を選んだのはささやかな抵抗だったのでしょう。
名古屋へ行って間もなく進学を命じた父親が病死しましたが、それでも東京帝国大学への進学が決められており、帝大の農学部水産学科でも人並み外れた学才を発揮して学費免除の特待生に選ばれた上、首席で卒業しました。ただし首席の者に天皇から与えられる銀時計は辞退しながら恩師から贈られた金時計は受け取っています。
卒業後は助手として大学に残りましたが翌年に母親が病死したことで絵画への傾倒を強め、喪が明けた大正10(1921)年に初めての個展を開き、大正13(1924)年にも回を重ねました。
昭和4(1929)年からの4年間、兄弟たちの援助で北米とヨーロッパを旅行して絵画芸術に対する思索を深めましたがあくまでも独学で、帰国後は久留米の実家に戻って画業を再開したものの戦争の影響もあり、東京の青山と福岡を往復する生活になったのです。
そして敗戦後の昭和23(1948)年に上京してまたも青山に住み、本格的に画業に打ち込みますが、東京オリンピックによる都市整備のため立ち退きを強いられ、70歳になってから千葉県柏市にアトリエを構えました。そのアトリエには電気やガス、水道がなく周囲の空き地で自給自足しながらの生活でしたが、本人にとっては自由を満喫し、作画に専念できる「パラダイス」だったようです。
しかし、ここも終の棲家にはならず、昭和46(1971)年には転居を余儀なくされて知人の屋敷内に移り住み、最終的には千葉県野田市の特別養護老人ホームで亡くなりました。
貧困生活を送っていた高島さんの作品はモデルを必要としない静物と風景画が多く、中でも野僧は「月」を描いた作品が好きです。高島さんは「描きたいのは暗闇で月はそのために開けた穴だ」と語っていますが、野僧には暗黒の現世に開いた穴から天上の光が漏れているように見えます。
それにしても同郷の青木繁さんのように「天才」との評価を受けることがなく、同じく坂本繁二郎さんのように文化勲章を与えられることもなく、人知れず貧窮の中で死んで逝くくらいなら作画は趣味・副業に留めて学究生活を送り、比類なき頭脳で学術的業績を遺した方が世の中のためにも本人にも幸せだったのはないかと無能過ぎて坊主しかできることがない野僧は愚考してしまいます。
それでも本人は生前、「世の画壇と全く無縁なる事が小生の研究と精進です」と言っていますから納得ずくではあったようです。
  1. 2017/09/16(土) 09:20:32|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ948

岡倉は今年も一家団欒の新年を迎えることができた。自分が負っている特殊な任務を考えると信じられないことだが、ジアエと言う妻を得られたことで手にしたカミの恵み、佛の慈悲のような気がしている。大学生の時に両親を交通事故で失って以来、味わうことがなかった家族の温もりを異国で思い出している自分に戸惑いを感じながらも、この妻と生まれてくる我が子を連れて岐阜と福岡の先祖の墓に報告に行きたくなった。
「タイガー、昨夜のソンニョンフェ(送年会)には君も招待したかったよ」学校がソルラルの連休に入っている義父は昼前まで寝ていたが、義母が用意した遅い朝食を食べた後、居間に来て娘夫婦の談笑に割り込んできた。
「何か日本の話題でも出ましたか」岡倉は不満そうな顔をしたジアエとは逆に義父の機嫌を損ねないよう丁寧に応対する。すると義父は向いのソファーに腰を下ろして話を続けた。
「最近の我が国は民族主義が蔓延していて独立してからの現代史が根本的に覆されているんだ」この話は昨年の正月にも聞いたような気がする。つまり金大中が北朝鮮を訪問したことを切っ掛けにして中国を宗主国と仰ぐ長年にわたる民族意識が復活したため、朝鮮戦争をアメリカによる支配から同じ朝鮮民族を解放するために金日成が起こした救国行動とするものだ。だから中国の軍事介入もアメリカによって敗北寸前に追い込まれた金日成を救うための宗主国としての恩恵にされている。
「若い教師たちもそれに同調していて、公共の場でもアメリカを敵視して北朝鮮を讃えるようなことを平気で口にするようになっている。そんな情けない現状を君にも見せておきたかったんだ」義父の出身地である済州島では朝鮮戦争前に共産主義を待望する住民が李承晩政権によって送り込まれた右翼団体に虐殺される事件が起こっている。その意味では若い教師たち以上に北朝鮮と戦った李承晩政権を敵視しても良いはずなのだが、そこはアメリカ人の神父に育てられた人物は違うようだ。
「このままでは時代を逆行して中華帝国の膝元で忠誠を尽くしていることだけを誇りにする属国に戻ってしまうよ」今日の義父は酒が入っていないので言葉を慎重に選んでいるのは察せられる。
「折角、儒教の呪縛を捨て去って民主主義を手に入れたのに、まだ昔に逆戻りになってしまうのね。この子をそんな国に生まれさせたくはないわ」義父の言葉に娘のジアエが反応した。自分の腹を撫でながら我が子に語りかけている顔は真剣だ。それにしても日本の若い女性たちの中に国家の形態が自分たちに影響を与えることを真剣に考えるような人がどれ程いるのだろうか。少なくとも思い当たるのは前川原の帰国子女の同期だけだ。
「日帝が我が国を占領している時に行っていた学校教育の修身では儒教の教えがかなり色濃く投影されていたが、やはり儒教が社会規範の基本なのかね」娘の顔に少し翳りが漂ったため義父は話を婿に向けてきた。しかし、この質問は回答するのが難しい。何故なら日本の封建社会は武士と庶民の二重構造になっており、明治以降の歴史教育ではその武士の部分だけを取り上げているのだ。加えて父の言葉には韓国で反日的な意味で用いられる単語が混在しており、あまり好意的であるようには思えなかった。
「日本は儒教を信奉していたのは武士だけで庶民は現状肯定で逞しく生きていました」「ほう、日本には庶民にも道徳があったのかね」「はい、道の文化は武士だけの専売特許ではありません」思いがけない展開に義父は頭の中の先入観を再確認したようだ。
「商売には商道、職人には匠(たくみ)道、農家は耕(こう)道、芸人は芸道、ヤクザでも任侠道、全ての職業が自己完成の道なんです」これは幼い頃から薫陶を受けてきた松念院の住職の教えの請け売りだったが、義父は深く考え込んだ。そう言えばジアエは「松念院の住職とは年賀状を交換するようになっている」と言っていたから後で見せてもらうことにしよう。
「我が国では庶民の識字率が低くて口述以外に学習する手段がなかったんだ。ハングルが普及したと言ってもそれは商売なら店主、職人なら棟梁くらいまでが仕事の記録と契約書を記すために学んだ程度だ」義父は自分の見解を口にしてから苦虫を噛み締めた顔になった。昨夜の送年会では若い教師たちが韓国民の優秀さを強弁しながら熱狂するのに歴史的実態を説明して水を浴びせたのだが、それは自己卑下にもなり、愛国者として不味い酒をあおることになったようだ。
「お前がタイガーと結婚してくれて本当に良かった。我が孫は国内外の現実を冷静に客観視できる人間になるだろう」ジアエは父の言葉をアフガニスタンでの体験に重ねながら深くうなずいた。
つ・李英愛イメージ画像
  1. 2017/09/16(土) 09:18:47|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ947

ウチナー正月は韓国のソルラル(新年)だ。岡倉は妊娠したジアエをアメリカに呼ぶことができず、かと言ってアフガニスタンで韓国への同行を拒否した以上、当局の疑惑を抱いている可能性も考慮しなければならず、極めて慎重に入国した。今回はアメリカから直接、仁川(インチョン)国際空港に向かうのではなくフィリピンで経由してニノイ・アキノ国際空港からフィリピン航空で釜山国際空港に下りた。そこからは高速鉄道(KTX)・セマウル号に乗れば3時間弱でソウルだ
「アンニョンハセヨ(こんにちは)」2度目の李家の玄関で声をかけると今日は義母が出迎えた。ジアエは安定期に差し掛かったとは言えやはり初産であり急激な動きは控えているのだろう。
「これはタイガー、よくいらっしゃいました」「妻がお世話になっております」妻の実家での挨拶としては妙ではあるが夫の立場ではこうなってしまう。
「いいえ、私たちに孫を与えて下さって本当に感謝していますよ」「ジアエは」「居間で貴方を待っています。早く安心させてやって下さい」そう言って義母は早足に先導して居間のドアを開けた。
「ジアエ・・・」義母が声をかけると既にジアエは立って待っていた。岡倉は短くした髪から全身を確かめるように眺めたが、まだタップリとしたワンピースの腹は膨らんではいないようだ。
「貴方、おかえりなさい」「うん、お前も大変だっただろう」岡倉の言葉にジアエは微笑んで首を振った。その表情には今まで見せなかった強い自信を感じる。それが妻から母に脱皮した女なのだろう。
岡倉は義母が飲み物を用意するために台所へ向かったところでジアエを抱き寄せたが、両手を下腹部の前で組み防御の姿勢を取った。以前であれば身を任せるように胸に溶け込んできたのだが、ここでも妻よりも母であることが勝っているのだ。岡倉は軽めの口づけの後、しゃがみながら顔を下してジアエが手で押さえている腹部に唇をつけた。
「お父さんだよ。元気に育っているかい。お母さんに似て賢くて美しい人になるんだよ」我が子に話しかけている夫の頭を両手で支えながらジアエは少し笑った後、鼻をすすった。
「軍では問題になっていないのか」ソファーに座り、義母が用意してきた紅茶とクッキーを口にしながら話題は近況報告になった。
「勿論、法的には処罰の対象にはならないんだけど、士官の婚外妊娠は絶対に容認できない不祥事だ。相手を究明しろって言う上級幹部はいたわ」深刻な事態を説明している割にジアエの顔は平静なままだ。それを不思議に思いながら見詰めていると種明かしを続けた。
「でも父親が誰であるかを知っている人物が師団司令部にいるから、それ以上の話にはならなかったのよ」「中佐だな」「はい、他にはいないでしょう」ここでもジアエはドッシリ構えている。
「でも中佐は貴方のことをアメリカ軍の情報部員だと思っているみたい」「ふーん、それにはお前にも回答できないな」「中佐も私に答えなくて良いって言ってたわ」中佐のあまりにも寛大な態度に岡倉はジアエを人質として韓国軍への情報提供を求めてくる=二重スパイにしようとしているのではないかと懸念してしまった。2人の会話に一応の区切りがついたところで義母が立ち上がった。
「そろそろ夕食の支度をしましょう。ジアエも手伝えるよね」「はい、夫の好物を知っているのは妻ですから」そう返事をして立ち上がるジアエの動作はやはり慎重だ。しかし、介助しようと差し出した岡倉の手を柔らかく拒んだのは「妊娠は病気ではない」と言う自覚の表現なのかも知れない。
「ところでお義父さんは」母子が台所に向おうとしたところでようやく義父の不在に気がついた。
「学校のソンニョンフェ(送年会)に行っています」「そうかァ、マンニョフェ(忘年会)もソルラルの前にやるんだ」韓国だけでなく日本以外のアジアの国々ではカレンダー通りなのは公共行事だけで、個人としての催しは太陰暦で行っている。さらに韓国では「忘」の字は「心を亡くす(『忙』も同様)」に通じるため年末の宴会は「送年会」と呼ぶことが多いようだ。
今夜のメニューは流石に刺激物を控えており、岡倉にとっては日本料理に近いような気がする。食前の祈りはジアエが唱えてから十字を置き、岡倉だけが佛教式に手を合わせて頭を下げた。食事が始まるといきなりジアエが大きめの鉢に山盛りにしているキムチに箸を伸ばした。
「おい、キムチは刺激物だろう。食べて良いのか」妊婦が刺激物を食べると妊娠中毒を起こすと言うのはアメリカで読んだ妊娠解説書の請け売りだが一応は妻に注意した。
「キムチに刺激なんてないわよ」「そう、食欲が出るから沢山食べなさい」すると母子が口を揃えて反論した。この激辛な反論を聞いて岡倉も父の出身地・北九州の辛子明太子が食べたくなった。
  1. 2017/09/15(金) 09:42:34|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ946

「いらっしゃいませ」常連たちが引き上げて美恵子が店じまいの準備を始めようかと思っていた頃、客が来た。店の構造上、中に入ってくるまでそれが誰なのか判らないため反射的に声をかけたが、余程の馴染み客でなければ断ろうと思っていた。
「ネェネ、少し良いねェ」それは松真だった。先ほどは店を開けて早々だったが、今度は締める直前だ。これまで淳之介と姉の息子・勇邦を連れて飲んでいたのだろう。
「何ねェ、もう店じまいする時間なのさァ」美恵子は松真の来店目的が説教・叱責であることを察して追い返しにかかる。しかし、松真は真顔のままカウンターに座った。
「オールド・パーの水割りをグラスで」美恵子が何も言う前に松真は注文した。「自分のキープ・ボトルもこのようにして処分されたのだろう」と言いたいのかも知れない。美恵子はカウンターの奥に並んでいるキープ・ボトルの端から疎遠になった客のスコッチを選んで水割りを作った。それもミネラル・ウォーターではなく水道水だ。
「オールド・パーはないからホワイト・ホースさァ」「それじゃあ、料金は半額だな」松真は原価から断定したが、グラスの代金は美恵子の気分次第なので迷惑料を加えて最高額にしたいくらいだった。
松真は氷でグラスを鳴らしてから口に運んだ。そんな仕草からも本土でそれなりに遊んでいることが判る。この弟も30代半ばになっている。
「ネェネはどうして淳之介を引き取ろうとしたんだ」松真はグラスのホワイト・ホースを2口舐めたところで本論を切り出した。本当は淳之介を交えた思い出話の中で真情を探ろうとしたのだが、美恵子の態度が敵意丸出しだったため断念したのだ。それでも美恵子は視線を合わせようとしない。その頑なな態度に松真は口の中が苦くなってきたためグラスを半分空けた。
「店ではプライベートな話はしないのさァ」重い沈黙に圧し潰されそうになってようやく美恵子は答えたが、それは逃げ口上だった。実際の美恵子は理容店の客をこの店に誘うなど昼と夜の顔を使い分けてはいない。だから先ほどの客=台湾人の劉青然との通い同棲を始めることになっている。
「店って言っても俺と2人だけだろう。弟の真剣な質問に答える気がないのか」松真は少し言葉を荒げた。この店を出てから入った居酒屋で淳之介に聞いた美恵子の態度に感じていた怒りも加わって冷静でいられる自信がなくなりそうだ。
「アンタも自衛隊だな。私にはそんな真剣さが重いのさァ」「だったら淳之介にも軽い気持ちで引き取るって言ったのか」「子供が『来たい』って言うんだったら『来い』って言えば良いじゃない。何が悪いのさァ」姉でなければ殴りたくなるような暴言だが、目の前の女がそんな軽い感覚で生きてきたことは弟として見てきた。問題なのはその経験から何も教訓にしていないことだ。
「ネェネはどうしてニィさんと結婚したんだ」「義兄さんってどっちのねェ」松真は淳之介の父親を階級の2佐にかけてニィさんと呼んでいるのだが、美恵子にとっては前夫と次夫・矢田の2人がいる。会話の流れで相手の意図が読めない鈍感さも他の姉たちとは全く違う。そこに悪意がないだけに善意で守ろうとする身近な者を深く傷つける結果になってきたのは確かだ。
「それは淳之介の父親の方さ」「あの人は私の仕事を理解して応援してくれていたからさァ」「それじゃあ仕事のために結婚したのか」「少しは優しさも感じていたよ」ここでようやく美恵子は松真の顔を見たが、その真剣な目に再び顔を背けた。
「ニィさんの仕事のことはどう思っていたんだ」「自衛隊なんてあってもなくても変わらない仕事さァ、アンタみたいに飛行機が好きな人間は触って飛ばして喜んでいるだけはない。あの人は防府に行って戦争ごっこが好きになったのさァ」この極めつきの暴言に松真の腹の中は完全に煮えたぎってしまった。それを冷却するためグラスに残っている水割りを氷と一緒に飲み干した。
「ニィさんの優しさに応える気はなかったんだな」「あの人は優しくするのが趣味だったんだよ。だから職場でも部下のことを馬鹿みたいに真剣に考えていて家族にだけじゃあなかったのさァ」義兄がまだ若い頃、「国を守ることは家族を守ることだ。だから命を賭けることにも躊躇しない」と語っていた。この姉にはそんな義兄の家族になる資格がなかったようだ。
「やっぱりネェネはモリヤニンジン2佐の妻になってはいけなかったんだよ。勿論、淳之介の母親にも。俺はモリヤ2佐の義弟になれて幸せだけど今は申し訳ない気持ちの方が強いよ。せめてこれからは淳之介に関わらないでやってくれ」そう言うと松真は1万円札を置いて店を出て行った。
  1. 2017/09/14(木) 10:40:02|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ945

「この店だ」2次会、3次会で夕食を済ませた淳之介は従兄弟の勇邦と一緒に叔父の松真に那覇市内の58号線沿いにあるテナント・ビルの2階のスナックに連れてこられた。店のドアの横に掲げてある看板には「カッチン」とある。これは祖母の祖母が始めた当時は漁港だった那覇港で水揚げされる魚を使った小料理を出す店の名前で、沖縄方言の「いただきます=カッチーサビタン」から命名したものだ。つまり今は母・美恵子が経営しているスナックだ。
「いらっしゃいませ」松真に促されて淳之介がドアを開けると案の定、中から聞き覚えはあるが最近は聞いていない声が聞こえてきた。
「淳之介、何ねェ」美恵子はドアの内側にあるカウンターを仕切る壁から顔を出した淳之介を見て怒ったような声を出した。美恵子は勇邦が言っていたように和服のままで、雰囲気は映画などで見る高級クラブのママだ。むしろ披露宴会場よりも合っているような気がする。
立ち止まっている淳之介の背中を松真が押して入ると状況を察したのか、美恵子は無表情にボックス席に案内した。普通であれば遠方で働いている息子が訪ねてくれば商売気抜きでカウンターに座らせて親子水入らずの会話を楽しもうとするだろう。そうしないところが勇邦の母たちが嫌っている美恵子の「情」を解さない性格ではあるが、商売に徹している割に美恵子は愛想笑いもなしでボックス席にお絞りを持ってきて注文を取った。
「ビールで良いねェ」「俺のボトルは残っているよね」「アンタは帰省しても店には来ないから処分したさァ」要するに客のボトルが終わった時のつなぎに提供したと言うことだ。それが美恵子流の経営方針なのだろうが、弟のボトルを他の客と同列に扱う姉に松真は立腹よりも呆れた顔をした。
「そうかァ、ボトルがあれば安くおごれると思ったんだが当てが外れたな。仕方ないから島を変えるか」松真としては両親や姉たちから美恵子と淳之介の親子関係が冷え込んでいることを聞いており、この機会に互いの胸中を話し合わせてわだかまりを氷解させようとしたのだが、原因を確認しただけになってしまった。
「タオル代とサービス料金として御1人様1000円ずつ頂戴します」立ち上がった弟と息子、甥に美恵子は代金を請求し、松真は流石に怒った顔をして胸ポケットから財布を取り出した。
その時、ドアを開けて別の客が入ってきた。容姿は丸顔で肥満体だが、着ているスーツは一見して高級そうだ。すると美恵子は黙ったまま少し後ずさった。
「美恵子、帰ったよ」その客は明らかに外国人の日本語で話しかけた。ところが淳之介はその声にも聞き覚えがある。
「シャオゼン(青然)・・・おかえりなさい」「おーッ、今日は着物だね。私が来るのが判っていたのかな。丁寧な歓迎、どうもありがとう」客は黙って見ている3人を無視して歩み寄るといきなり抱き締め口づけをした。その様子を見て淳之介はこの外国人が母のアパートに泊まり、朝から性行為に及んでいた相手だと確信した。あの時も母は「シャオゼン」と呼んでいたはずだ。
松真は母親と知らない男のキスを見せられた甥を気遣ったが、淳之介はむしろ自分よりも落ち着いている。やがて唇を歪めて冷たい笑顔を作ると淳之介は外国人に声をかけた。
「はじめまして。美恵子の息子の淳之介です。母が色々お世話になっているようで有り難うございます」突然の挨拶に外国人は腕の中の美恵子の顔を見た。すると美恵子は激しく首を振った。
「嘘よ。この人はただのお客さん、酔ってふざけているのよ。私が独身なのは貴方も知っているでしょう」美恵子の弁明に客は半信半疑の顔で淳之介を見返した。どうやら美恵子は自分のことを未婚の独身と説明しているらしい。その嘘に疑惑を抱かせればここは十分だろう。淳之介は父親譲りの戦術判断で撤退の一撃を放った。
「お母さん、何だか都合が悪いみたいだね。ごめんなさい。お母さんがそう言うなら僕はそれで良いよ・・・はい、ただのお客です。失礼しました」「この子が『お母さん』って呼ぶのは『ママさん』のことなのよ、判るでしょう」淳之介の痛烈な皮肉に美恵子は苦しい言い訳を始める。この続きは見ないで想像した方が面白そうなので、淳之介は抱き合ったままの客と美恵子の横を抜けて店から出た。松真は財布から取り出した3000円をボックス席のテーブルに置いて後に続き、最後になった勇邦が「お邪魔しました」と意味不明の声をかけてドアを閉めた。
「叔父さん、ありがとうございました」淳之介は店の外で何故か松真に深く頭を下げた。
ん0・岡田奈々イメージ画像
  1. 2017/09/13(水) 09:44:10|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ944

今年のウチナー正月は2月7日の木曜日だ。ウチナー正月の前の日曜日に母の長姉である日出子伯母の娘が結婚するため入社10カ月の新人とは言え少し長めの休暇がもらえた。
昔の沖縄の結婚式は公民館やモンチュウ筆頭の屋敷を会場にして来賓以外には招待状も出さず、ネクタイさえ締めていれば通り掛かりの者でも参加して料理や酒を楽しむことができたらしい。しかし、最近はホテルで開かれるため本土と大差なく、若者もスーツを着ていかなければならなくなってきた。そんな中、淳之介は父親が卒業祝いに送ってくれた金ボタン、ダブルの船乗りの制服だった。と言っても海上自衛隊の制服なのだが、袖には3等航海士を意味する1本の金筋が入っている(本当は3等海尉の階級章)。
「淳之介、服装だけは一人前の船乗り見たいさァ」「うん、まだ見習いだけど船長の次だからこんなもんだよ」披露宴が始まると淳之介は隣りの席の2歳違いの従兄である次姉の夕紀子の息子・勇邦(ゆうほう)と談笑を始めた。本土での結婚式には出たことはないが沖縄では出席者の数でモンチュウの団結と繁栄を誇示するため、ホテルになってかなり減ったもののそれでも従兄弟用の隅の席からは新郎新婦が見えないほどの大広間だ。
「結婚式ってお金がかかるんだよね」「そりゃあそうだけど、予定もないのに余計な心配をしなくても良いのさァ」祖父母は淳之介があかりと交際していることは話していないようだ。
「ところで美恵子叔母さんは和服なんだな。やっぱり本土帰りは違うねェ」勇邦は自分の母親が座っている席を見ながら呟いた。沖縄では和服の着付けができる者がいないので洋装が一般的らしい。
「あの人は目立つのが好きだから姪の披露宴でも自分が主役なんだよ」「あのまま夜の仕事に出れば本土の高級クラブのママさんみたいだな」淳之介の説明に勇邦も同調した。勇邦の母=淳之介の伯母たちにとって美恵子は不倫の末に離婚し、その原因になった相手と再婚しながら再び離婚、おまけに集団レイプ事件の被害者にもなった恥ずべき存在であり、本音では晴れがましい席には呼びたくなかったのだろう。実際、伯母の日出子は祖母の指導を受けてようやく招待状を用意したのだ。
「それで淳之介は八重山で楽しんでいるんねェ」「楽しむって言っても何もない街だからね。観光客でなければやることはないよ」「ダイビングは始めないねェ」「見習い航海士にはそんな余裕はないよ」どうやら勇邦は自分で船を操縦して沖に出られると思っているのかも知れない。その船を借りるのにお金がかかることまでは考えないのが沖縄の人間だ。石垣島は観光地としての見どころは多いが住民にとっては日本の外れの離島に過ぎない。映画や買い物をするにも不自由なのでパソコンを買ってからはインターネットばかりやっている。その時、2人の間に立ってビール瓶を突き出した人物がいた。
「淳之介、何時から海上自衛官になったんだ」それは松真叔父=玉城1曹だった。
「これは船乗りの制服です」「嘘つけ、モリヤニィさん(2佐ん)に買ってもらったんだろう」「はい、正解です」それでも袖の階級章の桜はつけてないので正式な制服ではないはずだ。この念が入った気配りを梢さんは「深い優しさ」と言っているが母親の美恵子には重かったようだ。
「あれッ、叔父さんのところの子供たちは」「3学期が始まってるから1泊2日の沖縄旅行は無理なんだ」「そろそろ受験じゃあないですか」「うん、上のは高校受験だよ」松真の子供たちには淳之介が玉城家に住むようになってからは毎年のように会っているが、上の娘は「ニィニ」と呼んで慕ってくれていた。その点では同じように帰省してくる立場の勇邦よりも「親(ちか)しい」はずだ。
「それにしても本土での受験は大変ですね」「そう言うお前は沖縄でだったじゃあないか」淳之介の心配を松真は皮肉で返した。しかし、淳之介の受験は学科ではなく、反自衛隊活動家だった担任教師の嫌がらせと父がPKOで起こした武力行使の問題で極めて大変だったのだ。そんなことを思い出しながら淳之介は松真が注いでくれたビールを飲み干した。
「おう、その飲みっぷりは一人前だな。今夜は飲みに連れて行ってやろう」淳之介のグラスが空になったのを見て松真は感心したように大きくうなずくと勇邦と一緒に飲みに連れて行くことを約束した。沖縄ではそのまま新婚旅行に出かけるのではなく、披露宴の後は2次会、3次会が続くのだが、そのどこかで抜けて2人を歓待してくれるようだ。
「でも俺、まだ未成年ですよ」就職したとは言え淳之介はまだ19歳だった。沖縄でこのようなことを気にする者はいないが叔父は自衛官なのだ。それを聞いて松真は感心したように苦笑した。
  1. 2017/09/12(火) 10:11:13|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ943

冬季戦技教育隊での遊撃集合訓練は夏のレンジャー課程を雪中でやるようなものだ。レンジャー課程では基礎体力作りから始まり、開けても暮れても乙武装で走っては腕立て伏せや腹筋、鉄棒での懸垂を繰り返す。一方、遊撃集合訓練では走る代わりにノルディック・スキーで滑りまくるのだが、こちらはストックを使うため凍りついた鉄棒にぶら下がって懸垂をするまでもなく上半身の筋力も強化されると言う寸法だ。
「札幌の雪は重いから思ったよりもきついね」「確かにスキーが引っ掛かるような気がするな」今回の専修生は北部方面隊の各普通科連隊と東北方面隊からの31名、3曹になって1年の安川は下から2番目の先任順だが陸曹教育隊の同期が2人おり、この同期は網走から来ている。
名寄では「海に近い分、網走の方が暖かい」と言っているが冬のオホーツク海は流氷で覆い尽くされるため寒さの質が違うだけで平均最低気温は零下13度と10度の違いだ。その点、札幌はやはり暖かい分、雪も水分が多く重いようだ。
「名寄では日にどのくらい滑るんだ」「毎日、20キロがノルマだね」「機動連隊の割に頑張るな」
同期は意外そうに言ったが、確かに現在の名寄・第3普通科連隊は全隊員が乗車できるだけの装甲車を装備している。しかし、第3普通科連隊ではかつて稚内から上陸して南下してくるソ連軍を音威子府で阻止する「捨石」と言われていた頃からの伝統が維持されており、その誇りは安川自身も抱いている。だからこの集合訓練で挫折すれば生きては帰らない覚悟なのだ。
「それにしてもここで使っているスキーは具合が良いな」「うん、試作品らしいが、そのうち部隊にも回ってくるだろう」冬季戦技教育隊では冬季用装備品の研究も任務としていてスキーやカンジキ、雪中用迷彩外衣などの試験を専修生で実施しているようだ。
「これから冬季山岳訓練、2月からは大演習場へ移動して遊撃訓練(本当はどちらにも「基礎」がつく)、頑張らないとな」「俺たちは集合訓練で雪中レンジャーになる最後の精鋭だからな」来年からは現在の冬季遊撃集合訓練が正式の課程になるのだ。課程としては格上げではあるが伝統に幕を引く者として修習生は気合いを入れ、教官たちも最後の一花を咲かせるため全力を尽くすのだろう。

滅多にない座学で安川は不可解な過去を思い出してしまった。テーマは「モッティ戦術」だ。
これは1939年11月30日にソ連のスターリンが盟友だったヒトラーの領土拡大に同調して隣国フィンランドに侵攻を開始した時、弱小と言われていたフィンランド軍が展開し、これを撃退したゲリラ戦術だ。フィンランド軍は全土にある数多くの湖沼が凍結して降り積もった雪で存在が判らなくなっていることを利用して、ここにソ連軍の戦車部隊を引き込み、立ち往生しているところを包囲撃破し、さらに雪原では車両以上の機動力を発揮するノルディックで補給部隊を襲撃したため、前線は糧食と燃料が欠乏して壊滅したのだ。これが冬季遊撃集合訓練の目的であるのは言うまでもない。
意外なのはこの教育内容が新隊員課程にまでさかのぼってしまうことだ。北海道の普通科連隊ではこの戦術は常識であり、中隊長の精神教育の定番になっている。田島1尉も熱弁を奮っていたが、その内容がより詳細に安川の新隊員課程の時の精神教育のノートに書いてあったのだ。そこで陸士としては分不相応な質問をしてみた。
「フィンランド軍はソ連軍の戦車の6541両のうち2268両を撃破していますが、戦車は30両しか持っていなかったはずです。雪の中でどうやって対戦車砲を運搬したのですが」この時も陸曹たちは自分たちが知らない軍事知識を1等陸士の安川が持っていることに不快感を示していた。
「お前、そんな高度な専門知識をどこで仕入れた」ところが田島1尉は回答の前に思いがけない確認をしてきた。
「はい、新隊員課程の中隊長の精神教育で習いました」「モリヤ1尉だな」田島1尉は身上票で安川が久居の教育隊に入隊した時の担当中隊長がモリヤ1尉であったことは知っている。それを確認して意外な種明かしをした。
「俺の今の教育内容は守山時代の中隊長だったモリヤ1尉の請け売りなんだ。モリヤ1尉はモッティ戦術をバイクでの機動で市街戦に応用できないかを研究しておられてかなりの権威だったぞ。新隊員に北海道を希望させるために得意の説法をしたんだな」イラク派遣に参加する切っ掛けもこのノートだった。安川3曹は聡美との結婚を含めて自分がモリヤ中隊長の手造りのような気がしてきた。
  1. 2017/09/11(月) 10:00:40|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

9月11日・奄美大島を描いた孤高の画家・田中一村の命日

昭和52(1977)年の明日9月11日に晩年を過ごした奄美大島を美しくも気高く描き切りながら中央画壇からは無視され続けた田中一村(いっそん)さんが亡くなりました。69歳でした。
野僧は愛知県の穢土から逃れ、佛教を守る戦闘に参加するためスリランカに移住することを決めたのですが外務省と国防省の間で調整がつかず(本当に大臣同士で議論になったそうです)、それを待っている間に健康を害して断念せざるを得なくなりました。それで次の移住先に選んだのが奄美大島だったのです。
奄美大島は明治初期に起きた廃佛毀釋の凶風の最大の被災地で、鹿児島本土でも藩主の菩提寺まで破壊される程だったものの入れ替わるように禁教されていた浄土真宗の隠れ門徒たちが雨後の筍のように現れ、多くの寺院が建立されました。ところが島津藩にとっては植民地のような土地であった奄美大島では藩士がそのまま新政府の役人になったこともあり、一切の妥協を許さず佛教寺院だけでなく地元民が信仰していたお堂や祠なども徹底的に破壊したのです。このため村民に新たな信仰を与えようと考えた村長によって島を訪れた外国人宣教師の洗礼を受けさせられて村中がカソリックになってしまった地域まで存在します。
野僧は「この地で佛教を再生させよう」と発願して海上自衛隊の基地がある瀬戸内町に移住の相談を申し入れたところ多くのパンフレットが届き、その中に田中さんの作品が紹介されていたのです(瀬戸内町は歌手の元ちとせさんの出身地なので電話の待ち受けは「ワダツミの木」でした)。
野僧は沖縄生活が長く、本島のヤンバルや西表島などの原生林に分け入った経験もあるのですが、描かれている南洋の鳥や蝶、花、果実などは同じでも視界に占める植物の割合は微妙に違い、やはり鹿児島と沖縄の中間に位置する島であることを再認識しました。その一方で妙にスリランカの高地のジャングルに似た雰囲気を感じたのも確かです。
田中さんは明治40年に現在の栃木県栃木市で彫刻家の長男として生まれました。幼い頃から父に呉昌硯風の南画を習うと各種展覧会で入選を重ねるようになり、中学生(旧制)だった大正15(1925)年に発行された全国美術家年鑑に名前が掲載されるほどだったのです。つまり作品が売買されていた=プロの画家だったと言うことでしょう。18歳で東京美術学校日本画科に入学して東山魁夷さんや橋本明治さんと同期になりますが、父が病気になったため学費が払えず3カ月で退学することになりました。父が病没すると母と5人の兄弟の暮らしを支えるため南画を描いて売るようになりますが、やがて注文に応えるだけの作画には飽き足らなくなって自分の画風を模索するようになっていきました。30歳の時、千葉市に家族を連れて移住すると力仕事をして生活費を稼ぎながら絵を描き、39歳で日本画家の川端龍子さんが主宰する青龍社展に出品した「白い花」が入選しますが、肝心の川端さんと意見が合わず関係は消え、その後は日展や院展などに出品しても入選することはできませんでした。
そして50歳で西日本一巡のスケッチ旅行で訪れていた奄美大島(本土復帰して5年後)に移住して現在の奄美市名瀬有屋町に一軒家を借り、庭で自給自足しながら大島紬の染色工として働いて貯金を始めたのです。こうして60万円が貯まったところで職を辞め、高価な画材を購入すると「資金が尽きるまで」の覚悟で一連の傑作を描き始め、この日を迎えてしまいました。
野僧はパンフレットで知ってからこの巨匠に興味を抱き画集などを購入したのですが、本土にいた頃の作品も傑出しており、どうして多くの展覧会が落選にしたのか理解できませんでした。おそらく南画の高踏気韻と琳派の華麗さを融合させた斬新で画期的な画風が門閥の中でしか生きられず、師の名声を足掛かりに地位を獲得した審査員たちには脅威であり、「出る杭は地面に叩き込むに限る」とばかりに徹底的に排除し、本人が奄美大島に移住したことで無視を決め込んだのでしょう。
田中さんの作品が世に知られるようになった切っ掛けはNHKの「日曜美術館」で取り上げられたことでした。作品だけでなく生き方も知られるようになると南の島に移住したことから「日本のゴーギャン」と呼ばれるようになりましたが、田中さんの傑出した画力はゴーギャンを凌駕しており、これは失礼です。ちなみに墓所は栃木市の真言宗・満福寺にありますから野僧が移住していても墓参はできませんでした。
余談ながら野僧は二紀会の北久美子さんの西洋画に似たような空気感を覚えているものの芸術家にとって「誰かに似ている」と言われることは個性の否定=侮辱になりますから断言はしません。
  1. 2017/09/10(日) 09:38:05|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ942

安川3曹は希望通り冬季戦技教育隊に入校できて年明けから真駒内駐屯地に単身赴任する。小隊長や中隊先任陸曹は陸曹候補生を終えて1年での入校を心配したが、中隊長の田島1尉は強く後押ししてくれた。ただし、1つだけ問題がある。今年は聡美が成人式を迎えるのだ。
「真駒内から名寄の帰宅は2泊3日では厳しいな」入校に当たって面接した中隊長もこのことが気掛かりなようだ。現在はハッピー・マンデーなる妙な制度で成人の日は第2月曜日になっているため3連休にはなるが、札幌市南区の真駒内からでは金曜日の帰宅は難しく、土曜日は異動で潰れ、月曜日も成人式が終わればその足で電車に乗らなければならない。然もこの集合教育はレンジャー課程に準ずる扱いを受けているため(2009年から正式な冬季遊撃=レンジャー課程になった)休日も自主トレが課せられるのは間違いない。
「はい、入校中に帰宅するつもりはありません。妻もその覚悟でいてくれています」安川は自分自身の決意を確認するためにそう言い切った。入校が決まった時、聡美とも話し合ったのだが、身内が誰もいない名寄よりも愛知県の地元での成人式に出席するように勧めたものの正社員となったレストランがあるホテルはスキー・シーズンの連休は満室で休暇を取れるはずがなかった。
「大丈夫、貴方と結婚して未成年は卒業したんだから記念品をもらいに行くだけよ。連休中に仕事を休む方が困っちゃう」聡美の言葉は入校を控えた夫に余計な心配をかけないための強がりにしか聞こえなかった。
「まあ、ウチの女房が娘の予行演習として面倒を見るつもりでいるから、その点は安心してくれ」「はい、お願いします」あまり深く考えずに踏み出す。歩きながら考えるのが陸上自衛隊の思考法だ。聡美もその気風に染まりつつあるような気もするが、やはり安川の自己弁護だろう。

「聡美さん、とっても綺麗よ」「本当、こんなに綺麗な娘さんは滅多にいません」成人式の朝、中隊長の妻に付き添われて美容院に出かけ、髪のセットと着物の着付け、そして化粧を終えた聡美を見て田島夫人は店主の美容師と一緒に感嘆の声を上げた。そう言われて聡美も鏡に映る自分の姿を見たが、いつもの自分が着物を着て立っているだけだ。これが夫に誉められれば胸一杯に感激が湧き起こり、泣き出してしまうかも知れない。
「それにしてもお嬢さんは成人式でも留袖なんですね」田舎の美容師は無神経に立ち入ったことを口にした。これは安川の母が結婚披露の時の義姉の鶴舞のお古の振袖を既婚でも着られるように直して送ってくれたものだ。それにしても田島夫人が名寄に来て3年、数カ月に一度の来店だから個人情報に詳しくないのは仕方ないが、年齢から見て成人式を迎える娘がいるはずがない。
「この人は主人の部隊の隊員さんの奥さんなんです。だから留袖なのは当然でしょう。ねッ、聡美さん」「はい、そうです」聡美にはこの微妙に不機嫌な遣り取りの原因が自分であることに困惑したが、薬指の結婚指輪を見せることで収めた。
「それにしても名寄市も馬鹿正直に1番気候が厳しいこの時期に成人式をやることないのに何を考えているのかしら。スキー・シーズンで忙しい新成人も多いはずよ」今度は田島夫人の逆襲だ。地元出身の店主に名寄市役所への批判を聞かせれば少しは溜飲が下がると言うものだ。確かに新成人の出席率の低下が問題になってからは5月の連休や夏休みの8月、さらに正月3カ日中に行っている地域が増えている。零下20度になる1月中旬にワザワザ着物姿で集める必要はないはずだ。
「でも夏場の成人式では着物じゃあなくなるから着付けの仕事がなくなってしまいますよ」「そうよね。浴衣じゃあ商売にならないわね」・・・「やはり幹部の妻は恐い」成人の日に聡美は大人としての経験を1つ積んでしまったようだ。

「君、可愛いね。帰りに成人祝いをやろうよ」式典会場で聡美は新成人の男たちから代わる代わる声を掛けられた。どうやら成人式の後に着物の駒回し(帯を引いて脱がす)をするのが目的らしい。
「これは安川3曹の奥さん。ご苦労様です」すると制服姿の自衛官たちが周囲を取り囲んだ。その態度は警衛勤務につく時そのままで屈強のボディー・ガードを従えている王女の気分になる。これも田島1尉の特別命令なのだが、式が終わった後に携帯で記念写真を撮るところは現代っ子だろう。勿論、聡美もホテルの結婚式の写真係に頼み、正式な記念写真を撮った。
お・葦田伊織イメージ画像
  1. 2017/09/10(日) 09:36:35|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ941

夕食の後、台所で食器を洗っていると寝室に入っていた佳織がバスローブを着て出てきた。その後には志織がついている。私は水道を止めるとタオルで手を拭いて向き合った。
「本当は一緒に海へ行って披露しようと思ったんやけど・・・」そう言うとバスローブの腰紐を外し、前を開いて脱ぎ捨て、ビキニ姿の佳織が現れた。
「もうエエ年やから恥ずかしいやけど、志織がどうしてもって言うから」「うん、お父さまの夢をかなえてあげたんだよ」志織は佳織の足元のバスローブを拾いながら説明する。寝室でこの水着ショー=ストリップの練習をしてきたらしい。伊丹駐屯地でのPKOの集合教育の時に見たスポーツ水着の若い肢体も麗しかったが、40歳に差し掛かっても体型を維持している努力への敬意を加えて感激が湧き起こってきた。ここで一物が反応すればメデタシ・メデタシなのだが日本昔話ではないので現実はそこまでは目出度くはない。されでも佳織の前に立って愛おしい肉体を観察する。堪能ではなく観察なのはやはり私の身体の反応の問題だった。
「これは少し早いお年玉かな」「うん、中身は後で見せてあげますよ」佳織は伊丹の時のイケナイ台詞を再現してくれた。

ノザキ家の新年は英語の字幕を入れる関係で1月1日に放送される紅白歌合戦を見ながらの宴になる。佳織とスザンナが腕を奮ったお節(おせち)料理を肴に酒を酌み交わす。沖縄ではオードブルだったが、日系人が祖国の風習を守っているハワイのお節の方が本格的なようだ。
「今年は歌が充実していたな」これが乾杯の後の父の今年の所見だ。その意味が理解できない私が晴れ着(=和服)姿の佳織の顔を見るとスザンナが先回りして説明してくれた。
「佳織の友人のシマダさんがハンド・メイドのスペシャルなCDを送ってくれたのよ。そのおかげでヤスト(義父)も私も持ち歌が倍になったわ」つまり守山で中隊先任だった島田曹長(私の記憶では)が、どう言う経緯かは判らないものの日本の歌を録音したCDを送ってくれたらしい。
「それじゃあ日本でカラオケのCDを買って送りましょうか」「それも送ってくれたよ」今度は義父が答える。ここまで気を遣ってくれたとなると佳織の転属、島田曹長の退官後も親密な交際があったのかも知れない。その点では指揮官としての資質は佳織の方が優れているのだろう。
「おっと始まったな」正面に座っている義父の声で全員が画面を向いたがオープニングは毎度同じだ。しかし、今年は異例な企画が幾つかあると聞いている。
「今年は紅組の司会がSMAPの仲居くんみたいですよ」「男性が紅組の司会なの」「はい、落語家の笑福亭鶴瓶が白組の司会で、ステージの両側に分かれずに掛け合いで進行するんだそうです」これは民放が年末になって紹介していた情報だが、舞台のセットも紅白両組を左右に分けていないようだ。
それからはいつも通りの展開になったが、開始早々、白組の伴奏を聞いて義父が身を乗り出した。
「おッ、この歌はCDに入っていたな」「兄弟船ですね」義父はマイクを持って来て一緒に唄おうとしたが私以外の女性陣が視線で禁じたため小声で合わせていた。
前半の最後は5月に亡くなった坂井泉水を追悼して大阪で行われているZARD のフィルム・コンサートの中継だった。この時、紅組司会の仲居が「紅白初出場です」と説明していたが、本当によく練られた演出だ。
「へーッ、これは綺麗な人だな」その映像を見て義父が感嘆したが、亡くなったことを説明する英語の字幕が流れると顔を曇らせて「勿体ない」と呟いた。全く同感である。
今回は全員で戯れるアトラクションや応援合戦などがなく、歌だけを楽しむことができて中々の企画・演出だった。その中で今度は佳織がマイクを持って来たそうな顔になった曲がある。それはクールファイブの「そして神戸」だ。
「神戸 泣いてどうなるのか 捨てられた我が身が 惨めになるだけ・・・」確かに佳織の故郷を歌った名曲だが、それでも娘の情操教育にはあまり好ましくはないようだ。
「へ―ッ、阿久悠が死んだんだ」「阿久悠ってソングライター(作詞家)の」「はい、戦後のヒット曲のほとんどは阿久悠の作品です」最後は8月に亡くなった阿久悠の追悼コーナーで和田アキ子、森進一、石川さゆり、五木ひろしが作品を披露した。するとスザンナがマイクを持ってきて唄った。
「上野発の夜行列車 下りた時から・・・」この「津軽海峡・冬景色」は持ち歌なのだそうだ。
ん・鈴木京香イメージ画像
  1. 2017/09/09(土) 09:50:04|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

月刊「宗教」講座・別編=魂魄さんの夏の帰省はお盆か?秋夕か?

今年の夏は不可解なことがあって坊主として頭を悩ませています。3・11の東北地区太平洋沖大震災が発生しても健康と金銭上の理由で何もできなかった野僧は本州の西の端に住んでいることに気づき、「命尽きるまで犠牲者の魂魄を西方淨土に案内しよう」と発願し、24時間絶え間ない読経と念佛を開始しました。結局、49日目に意識を失って3日間眠り続けたため死に損いましたが案内はできていたらしく、その年の盆の時期からは西方浄土から帰省する魂魄さんたちが寄っていくようになったのです。
特に16日の送り火で西方浄土に戻る前には集合場所になっているらしく、来庵した人が「他にお客さんがいるのですか?」と訊くほど賑やかになります。おまけに魂魄さんがいるとヒンヤリとするため冷房がない小庵でも快適なので助かります(今年の炎暑は1人や2人では効果不足でしたが)。
ところが今年の夏は妙なことになっていました。毎年、東京を中心とするカレンダーの7月15日の盆に帰省する魂魄さんは皆無なのですが、8月15日の地方の盆では男性の声で「おい」と呼ばれたり、佛間から口笛が聞こえたりしていたのです。例年は(当地には習慣がない)送り火を焚けばそこままで静かになるのですが、今年は9月上旬になって再び女性の声の話し声が始まったのです。
確かに亡くなって西方浄土に向かう魂魄さんや朝夕の鐘で呼び寄せられた無縁佛さんが「もう1回、お経を聞かせて」と立ち寄ることも珍しくないのですが団体さんなので少し違うようでした。九州の豪雨災害の犠牲者は位置関係から当地を通らないのでこれも違うでしょう。そこで思案しながらカレンダーを確認したところ、今年の太陰暦は閏月がある関係で9月5日が7月15日で韓国の祖先供養の秋夕(チルソク)に当たることが判りました。
つまり男性は日本式の8月15日(明治政府の命令で太陽暦の7月15日にしたお盆では季節感が合わないと1カ月遅らせた)に、女性は本来の太陰暦の7月15日に帰省したことになります。やはり男性は職場と社会の中で生きてきましたからカレンダー通り、女性は地域の伝統や家風を守って生きてきたので往生した浄土でご先祖さまから「お盆は7月15日だ」と言われれば素直にそちらに従うのかも知れません。それともこの女性たちは生前、韓流ドラマのファンだったのかも知れませんが。
もう1つ考えられるのは小庵では8月15日以降も継続した戦闘の犠牲者を加えるため戦艦ミズーリの甲板で降伏文書に調印した9月2日に敗戦の戦没者慰霊法要を勤めていますが、やはり全国企画の8月15日に合わせて戦死した魂魄さんが集合している可能性です。
どちらにしても盂蘭盆会の法要を8月15日にするのか、太陰暦の9月15日にするのか。戦没者慰霊行事はこのまま9月2日で良いのか。来年の夏まで野僧が生きていれば答えを出しておかなければなりません。
明治政府が「欧米が太陽暦なのだから」と大した思慮もなく改暦し、それを徹底するために太陽暦を禁止した暴挙をそろそろ見直さなければなりません。これは尺貫法でも問題になり、「メートル法では日本建築や和服が作れなくなる」と言う関係業界からの陳情を受けて「黙認」と言う形で復活しました。明治政府は尺貫法を禁じてメートル・キログラム法に統一しましたが、欧米にもヤード法、フィート法、ポンド法などがあることは知らなかったのでしょうか。その程度の政策決定では太陰暦と太陽暦の使用分布も勘案しなかったのでせう。
日本以外のアジアの国々では公的行事は太陽暦、私的行事は太陰暦を用いるのが常識で(イスラム圏のヒジュラ暦は閏月を設けないので別)、明治政府の欧化政策の誤りは明白です。ご先祖さまが帰省していない太陽暦の7月15日に盂蘭盆会を勤める虚構が祖先供養と言う宗教儀礼を形式に堕し、実家のお盆の8月15日に帰省する矛盾した二重構造を作っているのです。
  1. 2017/09/08(金) 10:27:10|
  2. 月刊「宗教」講座
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ