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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ974

イギリスにスクープを抜かれた欧米のマスコミ各社は苛烈な取材合戦を繰り広げているが、そんな一部の取材陣がインド最北部のヒマラヤの裾にあるヒマーチャル・アラデー州ダラム・シャーラーのチベット亡命政府を訪ねていた。
「ダライ・ラマ14世はアメリカのシアトルの地方紙のインタビューで自分の穏健路線に不満を持つ過激派の僧侶が起こした暴動だと認めていますが、それが亡命政府の公式見解と理解しても良いのですね」記者に対応した亡命政府の高官は英語に堪能なのだが一つ一つ言葉を選んで回答している。ただし、欧米のマスコミはインタビューの一部だけを取り上げてそれが真意であるかのように歪曲するストローマン方式と言う報道手法を常套手段とするため回答に慎重を要するのは間違いない。この高官も苦渋を舐めさせられた経験があるようだ。
「猊下は可能性の1つとして仰ったのであって断定した訳ではありません。当方が現地から入手している情報では最初に猊下が述べられた暴徒が僧侶に化けていたと言う可能性も排除はできないのです」ダライ・ラマ14世は事件発生直後、1959年に人民解放軍がチベットに侵攻した時、兵士が僧侶に化けて僧院や王宮に入り込み、破壊や略奪を行った事実を例に引き、今回も兵士が僧侶に化けている可能性を指摘したのだが「現地を見てきた」と称するイギリス人記者が「僧侶たちが漢民族と回教徒だけを狙って暴行を加え、殺害していた」と反論したことを受けて自分への不満の可能性も認めたのだ。さらに1959年の事件を描いた映画の人民解放軍が僧侶に化ける場面を写した写真を証拠として流した者があり、その写真が虚偽であることが発覚したことで「人民解放軍が化けた」と言う事実は完全に否定されてしまっている。
「つまり亡命政府としては今後も必要であれば暴力革命を扇動する意志があると言うことですね」これは右左の二者択一ではなくイエスとノーの答えを求める質問を繰り返すことで自分が意図する方向に引き込む取材手法だ。本質的に善人である高官はこれに乗せられてしまった
「我々は始めから暴力革命などは求めていない。チベットの独立さえも諦めて中国の一部としての伝統に基づく高度の自治権を求めているのだ」これだけ長い回答を引き出せば、部分・部分を抽出することで幾らでも過激な発言に脚色することができる。記者は心の中で舌舐めずりをした。
「それでは誰が犯人であるにしてもあのような暴動は認めることはないのですね」「はい、佛教に基づく非暴力の運動が我々の基本です」「それを僧侶が破ったなら」「当然、許されませんが、そんな者はいないと信じています」ここで記者は仕上げの質問をした。
「ヨーロッパでは今回の暴動の責任を取ってダライ・ラマ14世は1989年に贈られたノーベル平和賞を返納せよと言う声も起こっていますが、それに応じる気持ちはありますか」「あれは猊下が指導してこられた非暴力の独立運動が評価されたものであって、今回の事件とは無関係ではないでしょうか」「要するに返納に応じる必要はないと言うことですね」「私が猊下のお考えを勝手に代弁することはできませんが、私個人の意見としてはそう言うことです」このインタビューが全て紹介されるのなら極めて常識的で穏健な見解なのだが、記者がストローで吸い上げると全く違う趣旨になっていた。
「これが佛教界の実態か!チベット亡命政府高官に独占インタビュー」翌週の日曜日の報道バラエティーではこのような言葉で特集コーナーを紹介していた。
「ダライ・ラマ14世は自分の穏健路線に不満を持つ過激派の僧侶が起こした暴動だと認めていますが」「暴徒が僧侶に化けていたと言う可能性も排除できないのです」先ず亡命政府は映画を使った写真を証拠として主張していた「偽物の僧侶の犯行」と言う見解に固執していることになった。
「チベットの独立さえも諦めて中国の一部としての伝統に基づく高度の自治権を求めているのだ」「あのような暴動を認めることはないのですね」「はい、佛教に基づく非暴力の運動が我々の基本です」「それを僧侶が破ったなら」「当然、許されませんが」今度はチベットの独立を求める僧侶たちの運動を亡命政府=ダライ・ラマ14世は否定したことになる。
「ノーベル平和賞を返納せよと言う声も起こっていますが」「今度の事件とは無関係ではないでしょうか」これでダライ・ラマ14世は暴動の責任を認めず、ノーベル平和賞の名誉と高額の賞金を着服したかのようなイメージができあがった。勿論、この内容を伝える出演者たちの嫌悪する表情と侮蔑した口ぶりがイメージを強調していたのは言うまでもない。
  1. 2017/10/12(木) 09:59:47|
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振り向けばイエスタディ973

その日のうちに工藤は報告のためワシントンの日本大使館に井上将補を訪ねた。前任の野中将補の頃には自衛隊が外交問題に関与することを嫌う外務官僚たちの敵意に配慮してペンタゴン内で会うことが多かったが、外務省では世代交代が進み、湾岸戦争を契機として自衛隊を海外で活動させることの必要性を学んだ同志のような雰囲気さえ感じられるようになっている。
「閣下、ウィクリー・ジャパンの工藤編集長が来られています」最近は防衛駐在官の副官(=秘書)のような扱いになっている在外公館警備官の1尉は顔なじみの工藤を気軽に案内した。廊下で待っている工藤も通りがかる外務省の役人たちに愛想よく会釈している。
「失礼します」しかし、警備官が開けているドアに入って頭を下げると上げた顔は一変していた。それを見て井上将補は来訪の用件の重大性、深刻さを察して表情を引き締めた。
「できれば音楽をお願いします」工藤は盗聴を妨害するための音楽を流すことを要求した。これも異例なことだ。井上将補は立ち上がるとソファー・セットの手前のサイドボードへ行き、CDプレイヤーのスイッチを押し、グスターヴ・ホルストの組曲「惑星」が流れ始めた。
「村田達郎2佐が死亡しました」「事故か」「いいえ、殺害されたようです」工藤が本名と官職を使ったことで井上将補は倉田の任務が終了したことを理解した。組曲「惑星」の1曲目は「火星・戦争をもたらす者」で、その「ダダダ・ダンダン・ダダダ・ダン」と言う5拍子の連続が村田2佐の死を感性で訴えてくる。当然のことながら井上将補は倉田をMI6の要請でチベットに派遣することの報告を受けているが、その調査対象であるBCCは今朝もチベットでの暴動の様子を独占報道しており、その内容は新華社通信のような中国共産党の宣伝媒体になっていた。これだけあからさまな報道規制を強いている以上、現地ではアメリカなど他のマスコミの取材を排除し、住民には苛烈な弾圧が繰り広げられているであろうことは想像に難くなかった。
「村田2佐が最後に送ってきた動画がインターネットに掲載されています」「ウチ宛てに送ってきたのか」「いいえ、今のところ投稿者は不明ですが、杉本に調査を命じています」井上将補は人間コンピューターにしては珍しく状況判断を誤っている。「インターネットに投稿されている」との報告で第3者の手に渡ったことを察知するべきであり、仮に工藤たちの事務所に送られていれば組織保全のために一般公開することはできず別の方法を講じたであろう。
工藤はブレザーの胸ポケットから金属製の名刺入れを取り出すと防護=自動破壊機能を解除してから小型ディスクを渡し、その間に井上将補は愛用のパソコンを作動させた。
「これは倉庫のようだな」「背の高い棚が並んでいるところを見ると書庫でしょう」井上将補は自分の席でパソコンを見ているが工藤は何度も繰り返し見ている動画なので場面は想像がつく。
「この狭い書庫にこれだけの人数を押し込まれてガスを噴射されれば忽ち窒息するな」「噴射音を分析したところ重迫撃砲弾型のガス弾が4個のようです」「重迫型と言えば天安門で使用したタイプだろう。あれはガスの量が半端じゃあないから事実上のガス室だぞ」井上将補は今まで見せたことがない怒りの赤い閃光を目に走らせた。
「それにしても村田2佐の姿や声は入っていないが、何を根拠に本人の物だと判断したのか」「最初の部分に低く呻き声が入っていまして、それで判明しました」「やはり運命共同体の戦友には理屈を超えた直感が働くのかも知れないな」井上将補の口からこのような神懸かった言葉を聞くとは思っていなかった。やはり人間コンピューターであってコンピューター人間ではないようだ。
「村田2佐のパスポートと身分証明書は日系アメリカ人の山岳写真家であるテツロー・クラタ、倉田哲郎なんだね」「はい、携帯電話の登録も同様の名義になっています」「それではチベットで死んだのは日系アメリカ人の倉田哲郎と言うことで万全を期す。ただし、中国側の動きの直前を遮る形で手を打ち、決して先走らないことだ」この動画の状況から見て倉田はチベットの僧院に潜入していて僧侶たちの大量殺害に巻き込まれたようだ。であるならばパスポートや身分証明書は持ち込んでいないと見るのが常識である。携帯電話を発見されても本体の登録番号からアメリカで所有者を特定することはかなり困難な作業になるだろう。
工藤の報告が終わると井上将補は再び動画をさせた。いつもはこのような時間の浪費はしないはずだ。
「村田2佐が形見を託した相手を中国よりも早く発見して保護しなければならないな」思いがけない言葉に驚いている工藤の前で井上将補はパソコンの画面に向かって手を合わせ深く頭を下げた。
  1. 2017/10/11(水) 09:51:31|
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10月11日・博多祇園山笠と静岡茶の祖・弁円(べんねん)が遷化した。

元寇の前年である弘安3(1280)年の10月11日(太陰暦)に博多祇園山笠と静岡茶の祖である聖一(しょういち)国師・円爾弁円(えんにべんねん)さまが遷化しました。弁円さまは出家後の道号を円爾、僧名は弁円としていましたが、朝廷で教化した時、天皇から道号で呼ばれてからは円爾とだけ名乗るようになり、それからは弁円の名を用いなくなったので正確には聖一国師・円爾と呼ぶべきかも知れません。
弁円さまは建仁2(1202)年に現在の静岡市葵区で生まれ、当時は寺だった久能山で奈良佛教の倶舎論と天台教学を修め、18歳で天台宗の円城寺で得度を受け、東大寺で受戒しています。天台宗でも比叡山には伝教大師・最澄さまが創始した(生前には実現しなかったものの)日本独自の大乗菩薩戒の戒壇がありますが、これは佛教としての正式な戒律を継承したことにならず、海外に出るためには東大寺と筑前・太宰府の観世音寺、下野の薬師寺の佛戒を受けなければならないのです。その後、宋から来日していた多くの禅僧が鎌倉幕府の庇護を受けて中国直伝の臨済禅が宣揚していた関東へ移り、ここでの修行を経て宋に渡り、允可・嗣法を受けて帰国しました。この時、上陸の地である博多に承天寺を建立し、ここで従持していたことが博多祇園山笠につながるのです。
当時、大陸との窓口であった博多では度々疫病が流行していて有効な治療法がないため住民たちも困り果てていました。そこで相談を受けた弁円さまは施餓鬼棚(盂蘭盆会の施餓鬼法要の時に屋外でうごめいている餓鬼に施す供物などを載せる台)を住民に担がせ、その上に立って水を撒きながら疫病退散の祈祷を行ったのです。これが現在の「曳山(ひきやま)」を担いで疾走する「舁き手(かきて)」に気合いを入れ、体温を下げるために「力水(ちからみず)」をかける風習になりました。
こうして京都の祇園祭の山鋒と同じように疫病退散の宗教儀礼として継承されたのですが、豊臣秀吉の時代になって焼け野原になっていた博多に再建のための自治組織として「流(ながれ)」が設置されると、華美に飾るようになった施餓鬼棚を「山(やま)」と呼び、それを披露しながら練り歩く博多的な発展を遂げていきました。ところが江戸時代に入った貞享4(1687)年に順番に回るはずの「山」を「舁き手」が休憩中に他の「流」が追い抜く事件が起こり、これを切っ掛けに「流」対抗で「山」の速さを競う現在の博多祇園山笠が始まったのです。博多祇園山笠は何時の間にか櫛田神社の祭礼になってしまいましたが、それでも承天寺でも「飾り山(競走用の『曳山』と違って派手に装飾した山)」の奉納が勤められていることで祭礼としての意義を保っています。
余談ながら春日時代に「舁き手」への掛け声「おっしょい」が「弁円和尚」に由来しているのかを各「流」の親分(本職のヤクザ屋さんだった)たちに訊いたのですが「判らない」とのことでした。
弁円さまは博多を去ると京都で東福寺を創建し、臨済宗の高僧として活躍しますが、その一方で東大寺の大勧進職に就任し、さらに真言宗、天台宗とも交流を保つなど臨済禅を日本の佛教界に認めさせ、定着させることに大きく貢献しました。
晩年は静岡へ戻り、鎌倉臨済禅とは一定の距離を保ちつつ独自の禅風を広めたのですが、同時に宋から持ち帰った茶の栽培を勧め、現在の静岡茶の始祖とされています。このため静岡市では弁円さまの太陽暦の誕生日である11月1日を「静岡市お茶の日」に指定しています。
  1. 2017/10/10(火) 09:43:14|
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振り向けばイエスタディ972

涙が枯れるまで泣いたジェニファーは愛するパートナーの遺志を受け継ぐための行動を開始した。動画を世界に向けて発信するためにはインターネットに投稿するのが早道だ。大手マスコミに売り込んでも画像の信憑性や撮影者の身元、投稿者が入手した経緯などの審査に手間取り、かえって大株主の中国系移民=華僑に情報が流れる危険性があることはパートナーの徹郎に日頃から聞かされていた。何よりジェニファー自身も夫婦同然のパートナーでありながら徹郎の本名は聞かされておらず「浦田徹郎と呼べ」としか言われていないのだ。
「インターネットの動画サイトなら・・・」ジェニファーはアフリカ系女性向けファッション雑誌の編集者であり日常業務でインターネットを利用しているが、動画の投稿となると初めての経験だ。それでも動画をパソコンに取り込み、画面に字幕を挿入した上でディスクにコピーすると窓から早朝の光りが差し始めていた。

「工藤さん、これは倉田さんの映像ではないですか」インターネットの投稿サイトを確認していた杉本が驚きの声を上げた。工藤と松本が立ち上がって画面を見ると薄暗い画面に紅い布をまとった男性たちが折り重なって倒れている光景に「シュー」と言うガスの噴出音だけが流れている動画だった。その男性たちは全員が短髪で(剃っていないため髪が生えた)、手を合わせながら倒れている者も多いので南方佛教の僧侶たちと判断した。
「どうして倉田の動画だと考えるんだね」「ここでは判りませんが、録画し終えてから再生してお見せします。何よりも『今、チベットで行われている事実』と言う字幕が入っています」杉本の説明に工藤はうなずきながら動画に視線を戻した。すると数十秒に1回の間隔で杉本が言った字幕が流れている。しかし、動画には何の変化もなく身動きしない男性たちがガスによって死亡していることだけを雄弁に語っていた。
「動画の最初の部分に呻き声が入っていて、それが倉田さんの声のようなんです」10分近くの録画を終え、杉本は予告をしてから再生した。すると動画の冒頭には男性の苦しげな呻き声が低く入っている。それは言葉ではなく荒い息遣いのようだが、聞きなれた者には判る倉田の声だった。やがて深い溜め息のような音がしてガスの噴出音以外は何も聞こえなくなった。人間は死亡すると肺の空気が抜けて最期の溜め息をつくと言う。この時、倉田は死んだのだ。
「何てことだ。ナチのホロコーストでもあるまいにガス室で殺されるなんて・・・」「僧侶たちに化けて情報収集していたんだな。それはあまりにも無謀だ」松本と杉本の胸には倉田を失った悲しみと怒りが交錯しているようで泣きながら声を荒げている。工藤はそんな2人の姿を無表情に眺めていたが言葉が途切れたところで口を開いた。
「倉田のような死は自衛隊の対外情報収集が始まった頃には日常茶飯事だった。インドシナ紛争の戦況を確認するために陸軍中野学校出身者たちがホーチミンの組織に潜入して殺されている。ベトナム戦争でもアメリカ軍の依頼を受けて軍事境界線を越えていたのは我々の先輩たちだ。君たちもその覚悟を持って任務を遂行しているんだろう」「はい」「・・・」松本は即答したが杉本は顔を強張らせてうなずいただけだった。ここに岡倉がいればどのような反応をするのかを知りたいところだが、今はイランの核開発に対するアメリカ軍の動きを探るためペンタゴンに詰めている。
「むしろ私が心配しているのはこの動画を投稿した人物に中国側からの危害が及ばないかだ。仮にそれが事件になれば倉田との関係が発覚し、我々の活動にまでマスコミが関与してくる危険性も否定はできない」つまり工藤は倉田が最後の成果を託した人物の安全を考えているのではなく、その結果、生じる自分たちの活動への影響を危惧しているようだ。この乾き切った状況判断が対外情報収集=諜報と言う職務を指揮する上での必須条件なのだろう。
「この動画サイトへの投稿者の個人情報は外部からは確認できません。ただし、在アメリカ中国系移民は株主として内部から影響力を行使してきますから御指摘の危険性は十分にあるでしょう」「倉田さんのパスポートや身分証明書が中国当局の手に渡ればアメリカ国内でも調査が始まります。何よりも動画を撮影していた携帯電話は遺体と一緒にありますから、送信履歴で投稿者の氏名と連絡先は知られる、むしろすでに知られていると考えるべきです」冷静になった2人の意見は適切だった。工藤は安堵したように表情を緩めたが目元には涙が光っていた。
  1. 2017/10/10(火) 09:41:45|
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10月10日・明治の日本を描いた風刺画家・ビゴーの命日

1927年の明日10月10日に明治15(1882)年から明治32(1899)年までの長期間にわたって滞在して、鋭い視線と卓越した描写力で日本を描いた風刺画家のジョルジュ・ビゴーさんがフランスで亡くなりました。
ビゴーさんは1860年に官吏の父と名門家庭の令嬢で画家だった母の間にパリで生まれました。母の影響で幼い頃から絵を描き始め、少年になるとスケッチ・ブックを持って街を歩き回っては事件写真のような絵をものしていたようです。12歳でパリの名門美術学校であるエコール・デ・ボザールに入学しますが、8歳の時に父が亡くなっていたため4年間で退学して挿絵画家として家計を助けることになりました。そんな中、1878年のパリ万博で浮世絵を見たことで日本に強く憧れるようになり、フランスに留学した帝国陸軍首脳と日本の陸軍士官学校に派遣されたフランス人教官の人脈で来日して長く活躍することになったのです。
野僧の時代は中学校や高校の社会・歴史の教科書には日清戦争前後の国際情勢を描いたビゴーさんの風刺画が載っており、それは「川に釣り糸を垂れて朝鮮と言う魚を狙っている日本人と中国人、そして橋の上から釣った魚を奪おうと待ち構えているロシア人」と言う日清戦争前の作品や「ロシア人が焼いている栗を日本人に奪わそうとけしかけているイギリス人とそれを後ろで眺めているアメリカ人」と言う三国干渉・日英同盟締結後の作品などでした。前者の日本人は和服に下駄履き、月代を剃って刀を差し、苦み走った顔をしているのに対して中国人は中国服で辮髪(べんぱつ)、しゃがんで無表情、ロシア人は髭面で軍服姿、欲望を隠そうともせず涎を垂らして虎視眈眈と狙っていると言う3者の国民性を巧みに表現していて、川の中の朝鮮魚は上目使いに両者の様子を窺っていながらロシアには気づいていないところも絶妙でした。後者は髭面で薄笑いを浮かべているロシア人を前に日本人は小柄な少年が西洋式の軍服を着ていて緊張した顔をしながら紳士を気取るイギリス人に背中を押されて危険を承知で立ち向かおうとしていて、それをアメリカ人が同情しながらも他人事として冷笑していると言うものでした、
日清戦争は朝鮮王朝内の「日本に倣って近代化を進めるべきだ」と言う改革派の若手と「これまで通り宗主国・清朝の下で伝統を堅持していけば良い」と言う守旧派の対立から生起し、守旧派が清朝に派兵を求めたため呼応するように日本も出兵して朝鮮半島から中国東北地区を舞台に戦闘を繰り広げたのでした。その意味では日本人は戦意丸出し、中国人はあまりやる気がないのは当然で、朝鮮が両者の背後でロシアが狙っていることに気づいていなかったのも事実でしょう。日露戦争前夜は日清戦争の勝利によってようやく欧米に近代的文明国の一員として認められた日本を軍服を着た少年として描き、その高揚感と緊張を表情で描き出していました。イギリス人にとっては極東でのロシアの権益が拡大することを阻止したいものの陸路からシベリア鉄道で兵力を派遣できるロシアに対抗するにはインドや中東の部隊を転用しなければならず、独立の気運が芽生えている時期だっただけにそれは避けたい。このため東洋の小国に過ぎない日本を一人前扱いすることでその気にさせて試してみた。この時点のアメリカは関心はあるけれど介入する気はなく(後に講和を仲介してくれましたが)、日本が痛い目に遭うことを同情しながら冷笑を浮かべていたのでしょう。
ビゴーさんが日本人の妻と離婚してまで帰国した理由は条約改定によって治外法権を喪失すると表現の自由が制約される可能性を危惧していたからだと言われています。これだけ日本人の本質を見極めてていた人物の危惧なのですから、昭和に入ってからの言論封殺の予兆を感じていたのかも知れません。
  1. 2017/10/09(月) 08:48:57|
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振り向けばイエスタディ971(かなり事実です)

「ガラスを割れないか」倉田は数少ない活路を探したが経蔵の中には使えるような棒や固形物はない。こうなれば熱を帯びているガス弾を叩きつけることだ。倉田は本棚を下りると床に伏せて咳込んでいる僧侶たちの間を抜けて音をたよりにガスを噴出し続けているガス弾を手に取った。両目は涙が止まらず視力は失われていた。
「ジュッ」掌がガス弾に貼りつき肉が焦げる嫌な臭いを立てた。ガス弾自体は天安門でも使用した重迫撃砲で発射して大規模な暴徒の中央で炸裂させる軍用らしくかなりの重量がある上、手の激痛に耐えながらでは持ち上げることはできない。倉田は数十年ぶりに空挺魂を燃え立たせた。
「クーテー(空挺)、セイエイ(精鋭)」口の中で気合いを入れる呪文を唱えながらガスを噴出して掌を焼き続けているガス弾を脇に抱えると片手で棚を持って上に登り始める。脇の下でも皮膚が焦げる音がして激痛は脊髄から脳を貫いた。それでもこの呪文を唱えれば生命さえも超越した力と勇気が湧き起こり、あらゆる苦痛や困難、恐怖をも打ち砕くことができる。
「クーテー、セイエイ」その間にも僧侶たちは床に倒れ、もがき、動かなくなっていく。倉田自身も気管から胸部に激痛が走り、意識が遠くなっていくのを感じていた。
「クーテー、セイエイ・・・」あと数段と言うところで倉田は崩れるように下に落ちた。脇の下から離れたガス弾は床に倒れている僧侶の背中を直撃したが動かない。すでに命が尽きてしまったようだ。倉田も数人の僧侶の背中の上に落ちたが何の反応もなかった。
「ハツコーカー(初降下)、二―(2)コーカー、サン(3)コーカー・・・」落ちる時、無意識に空挺降下の番号呼称をしていた自分に気づき、僧侶たちの背中に座りながら倉田は自嘲していた。
倉田はアメリカの第101空挺師団で業務研修した時、同じ機体から飛び降りた兵士の傘が開かず烽火(のろし)を上げて(=長い布を引いて落ちる姿からの隠語)落下するのを目撃した。無事に降下している仲間たちは「無駄だ」と判っていても必死になって両手を伸ばし、烽火を掴もうとする。そんな仲間の間を抜けて落ちていく兵士を見送った時のやり切れない気持ちを思い起こした。
あの時の木っ端微塵に砕け散った遺骸が空挺隊員の死に様なのだとすればガス室で殺される自分は幸せなのかも知れない。そう思った時、倉田は僧衣の下に隠していた携帯電話を思い出した。そして室内の様子を動画で送信することを決めた。送信先はアメリカで帰りを待っているつれ合いのジェニファーだ。僧院内では携帯電話を充電できないためどこまで送信が続くか判らないが、多分、命が尽きる方が先だろう。

ニューヨークでは9時間の時差で深夜に倉田の送信が届いた。それでもジェニファーは倉田からの着信曲「空の神兵」で目覚め、むしろ嬉しそうに枕元から携帯電話を取った。
「ハロー、ダーリン」しかし、それはメールだった。ジェニファーは枕元の灯りを点けると携帯電話を操作する。すると「TETSURO」と言う名前の後に文章が表示された。
「この動画を今、チベットで行われている事実として世界に向けて発信しろ。アイ・ラブド ユー」短いメールに続く動画は受信継続中の表示が出て現時点では再生はできない(当時のアメリカ製の携帯電話では)。それを待っている間にジェニファーはささやかだが重い1つの言葉の意味を考え込んでいた。徹郎は「アイ・ラブド(愛していた)・ユー」と過去形を使っている。これが一般的な男女であれば「別離」を意味するだけなのだろうが、決して明かさない徹郎の仕事を考えると「死」を告げたことになる。その前の「チベットで行われている事実」と言うのもニュースで報じている僧侶による暴動のことではないはずだ。
ジェニファーは動画の送信が終わるのを待ち続けたが、やがて徹郎の携帯の電源が切れたことを表示して停止した。これも停止の操作ができなかったことに他ならず現実は確定的だ。
それでもジェニファーは胸に一縷の望みを抱きながら動画を再生してみた。すると薄暗い部屋の中で紅色の布をまとった僧侶たちが折り重なって倒れ、その向こうで「ガスが漏れる」、と言うよりも「噴き出す」ような音が入っている。徹郎の声が入っていないところを見ると送信の操作を終えたところで倒れたのかも知れない。
「テツロー、アイ・ラブ(愛している)・ユー」ジェニファーは徹郎の過去形が「自分を解放する」意味であることを察して携帯電話を頬に当てながら泣いた。
JenniferBeals.jpgイメージ画像
  1. 2017/10/09(月) 08:47:43|
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振り向けばイエスタディ970

僧院が封鎖されて1週間、食糧は必要に足りない程度が与えられているが、それ以上に過酷な取り調べが始まっている。それは取り調べと言うよりも棄教を迫る拷問だった。僧侶は各居室から無作為に連れ出され、帰って来た時には倒れるように床に入り、多くはそのまま意識を失っている。
「大学時代、遠藤周作先生の『沈黙』を読んだっけなァ」倉田の宿舎に指定されている僧堂の裏手でヒマーラヤの峰を仰ぎながら日本語で独り言を呟いた。英語版の「沈黙」はカソリック教徒と交際している島村(=岡倉)にやってしまったが、今は日本語の方を読みたくなった。
「痛か、痛か、踏み絵を踏んだ足は痛かよ」倉田は「沈黙」の後半で転んでしまった(=棄教した)切支丹が叫ぶ言葉を真似して見た。しかし、ここでの棄教は踏み絵を踏まさせられる訳ではなく、僧院を退去して市民に対する佛教批判を行うことを誓約するらしい。
「その前に俺はチベット語が下手なことを怪しまれてそちらの拷問を受けることになるな」これは我が身に降りかかるであろう災難だが、妙に他人事のように思える。中国の拷問の残酷さは映画「西太后」でも見たが、その前に命を絶った方が幸せかも知れない。実際、取り調べを受けた僧侶が何人も体調急変で運び出されて戻ってこないのだ。
「それにしてもこのまま殺されるとなると俺は倉田・・・いやチベット僧として死ぬんだな。チベットには戒名はないみたいだからツェリンのままかな」アメリカの工藤の下に集まっている情報要員は本名を名乗っていない。倉田も本名の語感を残した偽名だ。今回はチベット僧に化けた時に丁度目にした現地人の名前を借用している。それがツェリンだった。ちなみにツェリンとは「長寿」を意味する言葉なので今となっては皮肉な選択になった。

とうとう倉田の順番がやってきた。僧院の中でも狭い部屋を選んで取調室の体裁を整え、そこに尋問と記録担当の警察官が2名、それにチベット語への通訳が1名いる。したがって僧侶でありながら狭い机を挟んで椅子に座っていた。
「お前の名前は」「ツェリン」「ツェリンだそうです」倉田としては尋問の警察官が話す北京語の方が理解できるのだが、チベット僧を演じるためには判らない振りをしなければならない。その一方で説明を強いられればチベット語ができないことが判ってしまう。その狭間で悩みながら回答することになった。
「お前はあの暴動に参加したな」「いいえ」「それでは暴動が起きた時間はどこにいた」「どうした、言えないのか」「いいえ」「ならば言え」「ウォ・フィ・ヴァオチン・シェンモォ(我会保持沈黙=黙秘します)」追い込まれた倉田は北京語で「黙秘」を宣言した。それを聞いた3人は一瞬、呆気に取られた後、顔を見合せて苦笑いをした。

高齢者=長老を除く僧侶たちの取り調べが終わった翌日、屈強な警察官たちが僧堂に踏み込んできた。
「お前だ」「お前だ」指揮官らしい警察官は若い警察官を指示して連行する者を指名していく。それは日頃の雑談でも過激な反中国的発言を口にしていた者ばかりだった。どうやら中国民族の生活習慣である密告がこの僧院でも行われたらしい。
「お前だ」指揮官の指示を受け、いきなり巨体の警察官が倉田の肩を掴んだ。チベット語ができない倉田は雑談には参加していなかった。それを誤魔化すため日本で学んだ坐禅を組んで時間を過ごしていた。それなのに反抗的不満分子の中に加えられることは納得できない。しかし、ここは中国共産党が支配する中華人民共和国の一部になっているチベットなのだ。
倉田を含む僧侶たちは経蔵の中に押し込まれた。経蔵に保管してあった経典は運び出され、壁の両側には空になった本棚が立っているだけの狭い空間に、立ったまま身動きができない状態になった。
するとそこへ数発のガス弾が投げ込まれた。その金属製の弾から鼻を突くガスが音を立てて噴き出している。どうやら催涙ガスらしい。
「これは拷問なのか・・・」倉田が考えていると周囲の僧侶たちが激しく咳き込み、やがて苦しそうにもがき出した。経蔵の窓は本棚の上の高い所にしかなく充満しているガスはすぐに人間の身長を超えた。つまり窒息し始めたのだ。倉田は本棚に足をかけて上り、小さな窓を確認した。するとガラス窓には目張りがしてある。最早これまでだ。
  1. 2017/10/08(日) 08:57:14|
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振り向けばイエスタディ969

安定期に入ってから李知愛大尉は休日には実家に帰るようにしている。韓国では2005年から官公庁や多くの企業では週休2日制が導入されているため宿舎で2日も1人で過ごすよりは気持ちが落ち着くのだ。夫の岡倉はアフガニスタンから帰国して以降、ペルシャ語を活かしてイラクの核開発問題を担当しているらしい。それでも「出産予定日の初夏には帰ってきて欲しい」と言うのは妻よりも生まれてくる子供の母親としての願いだった。
「ジアエ、チベットで大変な事件が起こったな」土曜日の昼、マタニティ姿で居間に入ってきた娘に父はいきなり重大な話題を持ち出した。ジアエも職場で3月10日にチベットで始まった抗議運動のニュースは見ているが、やはり佛教徒の話題なのでクリスチャンとしてはあまり興味を示さず、詳細は知らないままだった。一方の父は休日の朝から居間に陣取り、新聞とテレビの両方から時事問題を仕入れているからニュースの前に字幕を読んだようだ。
「チベットでは3月10日が民族蜂起記念日だから市民が中国の支配に抗議する運動をやっていたんでしょう」ジアエが答えたところでテレビがイギリス発のニュース映像を流し始めた。
「僧侶が暴力を奮うなんて驚きだな」父は僧衣を着た男たちが拳大の石を拾って店舗に投げつけている場面で先ず驚いた。しかし、ジアエは返事をせずに画面に見入っている。
「今度は店を破壊し始めたぞ。下手な同時通訳などはいらん。英語の解説を流せ」暴徒たちがウィンドウを叩き割り始めたところから記者は格闘技の中継のように興奮した声で説明を加え出した。それに韓国語の同時通訳が重なっているのだが、英語を理解する者にとっては雑音にしか聞こえない。ジアエも同感なのでリモコンで音声を切り替えた。
「僧侶がここまでやるのか。佛教の僧侶は刃物を突きつけられれば手を合わせて首を差し出すように教えられているはずだがな」父も教師として韓国民を2分するクリスチャンと佛教徒の生徒を教えているため佛教の倫理や教義についても研究しているのだ(これは日本の法然上人の教えだが)。テレビではそんな素人でも疑問を感じるような状況が繰り広げられている。そこに母が入ってきた。どうやら昼食の支度にジアエを誘いに来たらしいのだが、2人が熱心に見ているニュースに興味を持ってジアエの隣りに腰を下ろした。
「ここからは残酷なシーンになりますから子供や妊婦、気の弱い方は視聴を避けて下さい」ここで画面が一度止まり、アナウンサーが注意喚起した。母は当然のようにジアエが視線を反らすことを確認したが軍人の職務としての必要から注視したままだった。
「我が国でも佛教の僧侶は抗議活動を起こすことが多いけど、あそこまで暴力的ではないわね」遅くなった昼食を始めると母がニュースの感想を述べた。ただし、食事中に相応しい話題ではない。
「どうも違和感がある。あれはどう見ても熟練した軍人の戦闘行動だ」「確かにリーダーの指揮を受けて一斉に行動しているのは軍事訓練の基本通りだわ」父も若い頃、兵役の経験があり、国民皆兵の訓練も受けてきたためジアエと同様の疑問を感じているようだ。
「それにアナウンサーの実況が台本を読んでいるみたいだった。次に何が起こるのか前もって判っていたわ」これは父がリモコンで同時通訳を消して生の英語を聞いて感じたことだ。通常の実況では次の展開に移った時、その状況を判断するため一瞬の間が入る。ところが台本を読んでいれば同時進行で言葉を続けることができる。今回はまさにそれだった。
「と言うことはこの暴動は・・・」「うん、政治的な策略の臭いがするな」「そうね、チベット佛教を貶めるための」母のまとめに父娘が結論を出した。
「でも我が国ではキリスト教と佛教の対立に利用されるんでしょうね」食事が終わったところでジアエが韓国内での反応に対する見解を述べた。
「そうだな。クリスチャンとしてはアフガニスタンでの集団拉致事件で政府の制止を無視して出発したことを手厳しく批判されているから佛教の失態は願ったり叶ったりだろう。ここぞとばかりに佛教を非難する宣伝を始めるぞ」キリスト教に対する批判的な意見を聞いて父以上に敬虔な信者である母は不満そうな顔をした。
「そんな風に国内事情でしか見ないから我が国は国際情勢を見誤るのよ」父に同調してジアエ=李知愛大尉まで自国の批判を始めたため、熱烈な愛国者でもある母は黙って出て行ってしまった。
「貴方のお父さんの意見が聞きたいね」ジアエはお腹の子供に話しかけながら片付けを始めた。
  1. 2017/10/07(土) 10:17:26|
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アーサー・ヤノフ博士の訃報に感じる疑問

アメリカの精神科医で心理学者でもある(精神医学会と心理学会が厳しく対立している日本ではあり得ない経歴です)アーサー・ヤノフ博士が10月1日に亡くなったそうです。93歳でした。ヤノフ博士は第2次世界大戦と朝鮮戦争後に復員兵の精神治療を担当した経験から現在は日本でも日常的に用いられるようになっている「サイコロジカル・トラウマ(心的外傷)」と言う概念を提唱したことで有名です。
十数年前、野僧は内科に入院しながら検査結果が予想外に深刻だったことを説明する担当医に「生者必滅、死ぬ時期の早い遅いに大した意味はない。むしろ早く楽になれるのなら有り難いことだ」と答えたことを「自殺願望」と判断されて精神科に転科させられたため、巡回に来る精神科医師や看護師を毎度の質問責めにして(最後には科長が専属の担当医になりました)、この症例にもかなり詳しくなりました。
医師の説明によると欧米ではこの症例の研究に医学的な分析手法が加えられていて、トラウマ(=「傷」を意味する古代ギリシャ語で19世紀に活躍したフランスの精神科医で心理学者のピエール・ジャネ博士が採用した)が起こる原因は「ストラスによってアドレナリンの分泌量が過剰に増大し、それが脳内の扁桃体を刺激して強く記憶させている」と解明されているそうです。このため脳内に深く刻まれた過去の記憶が突然甦り、それを現実のように思い込んで回避行動に走り、原因を決めつけて攻撃し、時には自己喪失に陥るフィードバックが生起すると言うのです。さらに戦場パニックを予防・鎮静化させるために使用される覚醒剤に含まれるアテロールやリタニンにもアドレナリンの分泌量を増加させる効果があるため「戦争からの帰還兵には大規模災害などを経験した一般人よりもトラウマを抱える者が多い」としており、アメリカでは打ち続く戦争の帰還兵の加療処置としての研究が並行して進められることになりました。
しかし、このような医学的研究や統計的分析に関する取り組みが日本の精神医学会には欠けており、実際、阪神淡路大震災や東北地区太平洋沖大震災の被災者の追跡調査を大々的に実施すれば1つの現象によってトラウマが生起する確率の検証できるのですが、そのような根性や能力はないようです。本来は精神風土の差異による発現比率の相違を検証するべきでしょう。
事勿れ主義を国是とする日本では医学に限らず予防を過度に重視するため、何かの切っ掛けで「心的外傷」が問題になればその原因を回避することに躍起になり、その対策を行政に求め、やがては過剰な粗探しを始めます。実際、災害や犯罪に遭遇すれば子供が受けた心的外傷を軽減させるため心理カウンセラーなる専門家が送り込まれますが、その災害や犯罪の重大性は次第に軽くなり、最近では団体生活の目的の1つである自己解決能力の養成を放棄して専門家に任せることが常識化しています。これは日本的な機会均等の権利意識により「同じ過酷な経験をしたのなら同じ対策を受ける権利がある」と決めつけている市民と「何かあった時の言い訳のために万全の対策を取れ」と命令する行政府の長が生半可な知識に基づいて対応しているから生起している愚挙ではないでしょうか。
問題なのは前述したように同一の事象を経験しても必ずしも全員がそれをトラウマ化してしまうのではなくむしろ発現率はかなり限定的であり、ヤノフ博士も「復員兵の中には」と限定を前提にして心的外傷の存在を認め、世に提起したのであって「復員兵は必ず心的外傷を負っている」と断定した訳ではありません。何よりもヤノフ博士はトラウマを解消するための対策の研究にも取り組んでいたのですから、それも日本の精神医学会に伝えて欲しかった(日本では単なるストレス発散法として紹介されています)・・・ご冥福は祈ります。
  1. 2017/10/06(金) 09:42:08|
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振り向けばイエスタディ968

チベット民族蜂起記念日から4日目に始まったラサ市内での「廃佛毀釋」の嵐はBJFを通じて世界に配信された自作自演の暴動の映像に対する各国の反応を見極めるまで台風の目に入っている。それでも中国当局は事件を知って取材を始めた各国のマスコミに暴動の凶悪さを印象づけるための演出に抜かりがなかった。翌15日は土曜日であり、先進国の多くの職場では休日である。家でテレビを見ている視聴者にその残虐さを見せつければダライ・ラマ14世に代表されるチベット佛教への同情は裏切りによる嫌悪と憤怒に変わるはずだ。
そのため現場となった店舗は何も手をつけることなく公開し、商品の破片が飛び散っている床には殺害された店主の血痕が広がっている。
「・・・」そこでは遺族になった犠牲者の妻子たちが沈痛な面持ちで弔っていた。線香を上げて手を合わせているところを見ると佛教式だが、経文や念佛は唱えていない。これは「僧侶は佛教徒の中国人も殺した」「もう佛教は信じられない」と言う演出のようだ。
「ワダフゥ(我が夫)」「パァパ(お父さん)」おまけに店ごとに泣き崩れる妻、怒りに震える息子、抱き合って泣き叫ぶ母と娘などの様々な舞台が開演されており、ご丁寧に家族写真や故人との思い出の品まで持ち込まれている。これを先進国では「インテンショナル(わざとらしい)」と言うのだが、中国の大道芸ではお涙頂戴の場面らしい。
半ば呆れた顔で各店舗を撮影して回っているマスコミ関係者に案内の中国人の役人は怒りを露わにした口調で熱弁を奮っている。酒を呑んだように顔まで紅潮しているようだ。
「我々にとって3月10日はチベット民族が暴動を起こした忌むべき日なのですが、同じ中国人民になっている以上、民族としての特別な感情に配慮して集会を黙認しました。ところが1日では飽き足らず連日のように集会を繰り返し、市内の漢民族が経営する店舗に投石するようになり、次第に集会の規模も拡大してこの暴動に発展したのです」これが中国共産党の公式見解のようだ。
「14日に我々をホテルに監禁したのは、この暴動を取材されては困ることがあったのではないか」アメリカの記者の質問はここでも容赦がない。ラサ市内に到着して以来、外では常に尾行され、ホテルの部屋もルーム・サービスを演じた無断で荷物を開けていることは小型の留守番カメラで撮影している。しかし、それは帰国後の特集番組で使う予定だ。
「それはあくまでも皆さんの安全を確保するためです。先ほど説明したように集会の規模が拡大し、過激な行動が目立つようになっていたための止むを得ない処置でした」「それでも窓に近づくなと言う命令はやり過ぎだろう」「それも投石による被害を防止するためです」このアメリカ人の記者は中国の古典「戦国策」を読んでいないようだ。中国では有史以来、論戦に勝利する屁理屈の巧者は時の権力者たちに重宝がられており、弁が立つことは世に出るための才能の1つだ。
「それにしてはBJRだけは取材していたようだがそれはどう言う理由なのか」「イギリスの労働党政権と密約があったのだろう」今度はヨーロッパの記者たちが気色ばんで質問を投げつけてきた。アメリカのマスコミは全社がスクープを逃しているので優劣はないが、ヨーロッパではイギリスのBJRだけが暴動の現場を撮影していたことで本社から激しい叱責を受けていた。
「BJRの取材陣は早朝にホテルを出ていたので外出禁止の指示が間に合わなかったんです。当局としては安全確保のため行方を探しましたが、すでに集会の現場で撮影を始めていました」「要するに取り逃がしたと言うことだな」「はい、ホテルの責任者には党中央から懲戒処分を与えています」これでは事件現場の取材ではなく案内人へのインタビューになってしまうため、記者たちは質問を終えてそれぞれの中継場所を探しながら歩き始めた。

その頃、郊外の荒野では「廃佛毀釋」の炎が燃え上がっていた。広場に転がされていた僧侶たちの遺骸を人民解放軍のトラックで運び、荼毘に伏せたのだ。
チベットでは釋尊以来、火葬の風習がある佛教の伝統とは別に鳥葬が一般的である。これは遺骸を荒野に放置して肉体を鳥や獣に与えることで最期の施しの功徳を積ませるものだ。つまり僧侶たちはその功徳の機会さえも奪われたことになる。
当初は広場で民衆が見ている目の前で火葬にして佛教者としての理想を否定する予定だったのだが、遺骸を人前に晒すことを嫌う欧米人の目を避けて人知れず屈辱を与えることになった。
  1. 2017/10/06(金) 09:40:31|
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振り向けばイエスタディ967

ロンドンとハワイでは11時間の時差があるため佳織はイギリスの夕方6時のニュースは3月14日金曜日の朝、出勤した職場で見ることになった。
「ルテナン・カーノー(2佐)。とんでもない事件が起きましたね」佳織の執務室で雇っている日系人女性の事務員がテレビのニュースを見ながら悲痛な顔で声を掛けてきた。佳織は新聞には載っていないニュースのようで黙ったまま画面を注視した。
「チベットで僧侶たちが大規模な暴動を起こしました」とアナウンサーが説明した後、僧衣姿の男たちが投石し、棒でウィンドウを叩き割り、店内に乱入して商品を壊しながら高級品を夫が愛用している物とは形が違う頭陀袋に押し込んでいる場面が始まった。
「この後、店主が殺害されるんです」この映像は繰り返し流されているようで事務員は先回りして説明してから自分は顔を背けた。するとアナウンサーも見る者への注意喚起を行い、モザイクが掛った殺害の様子が映し出された。
「これは佛教の僧侶ではないわね」「えッ?でもどう見ても僧侶の服を着ていますよ」「僧侶の服装はしていても動作が作法に適っていないもの、これは偽物よ」日本とチベットの佛教の作法がどこまで共通しているのかは判らないが、夫の家での立ち振る舞いは修行僧なので動画として目に焼きついている。この男たちは棒を振りかざして店舗に駆け寄る時に袈裟の裾がはだけて毛脛(けずね)を剥き出しにしていた。正式な僧侶は絶対にそのような見苦しいことはしない。さらに店内では袈裟を陳列棚や調度品に引っ掛けていたが、袈裟は釋迦に許された佛弟子としての証であり、用便の時も汚さないように脱いでいる。それ程、尊重している袈裟を身につけたまま暴力行為の現場に行っていることでも偽物なのは間違いない。
「それを聞いて安心しました。私もブディスト(=佛教徒)ですから・・・失礼して家族に知らせてやります」事務員はそう言うと立ち上がって携帯電話をかけながら廊下に出て行った。確かに佳織も学校でクリスチャンの軍人の子供たちに囲まれている志織と佛教徒であっても知識を持たない父親に教えるべきかも知れないが、そこは幹部自衛官として公私のケジメを保つことにした。

ロンドンと東京では8時間の逆の時差があるため私がこのニュースを知ったのは翌3月15日土曜日の昼のニュースだが、年度末の報告と計画の作成のため休日出勤しておりPXの食堂で見た。
「これは酷いなァ」「チベットでも一向一揆って起きるんですね」「どちらかと言えば比叡山の強訴だろう」食事中には不適切な映像を眺めながら同様に休日出勤している陸海空の幹部たちが時事解説を始めている。私は残酷な画面よりも僧衣を着た人間の蛮行から目を反らしながら毎度の精進料理を口に運んでいた。すると私を知っている人事担当の3佐が振り返って声をかけてきた。
「モリヤ2佐は同業者としてこのニュースをどう思いますか」「同業者かァ、副業ではそうなるが本業は・・・」そう答えながらテレビを見ると唖然としてしまった。確かに僧衣を着た人間が暴れ回っているがどう見ても僧侶ではない。むしろ本格的に訓練された兵士と見るべきだろう。
「君たちにはこれが坊主に見えるのかね」「いいえ、比叡山みたいな僧兵ではないかと思っています」「どちらかと言えばモリヤ2佐のような戦争のプロの坊さんですね」そう言われてしまうと困ってしまう。私は僧侶でありながら3人もの人命を奪った殺人鬼だ。しかし、それは極めて特殊な例であって普遍的な僧侶の在り様ではない。その誤解を解くための判り易い説明を思案した。
「佛教で最も重要な戒律は不殺生だ。僧侶は人命だけでなく動物や鳥、魚、虫に至るまで命を尊ばなければならない。だから僧兵や一向一揆なんて言うのは許されざる悪業(あくごう)だぞ」この説明に説得力がないことは自覚しているが、聞いている同僚たちは私の経験と考え合わせてくれたのか顔を強張らせてうなずいた。宗教講座としての体裁が整ったところで自分の見解を続ける。
「これは坊主に化けた兵隊の仕業だな」「でも中国は徴兵制を採っているんでしょう。軍隊経験者の僧侶たちかも知れませんよ」流石に極論だと思ったのか若い1尉が遠慮がちに疑問を呈した。
「どうも日本人は戦時中のイメージを焼き付けられ過ぎているんだが、徴兵制と言っても全員が兵隊になる訳じゃあないんだ。平時に必要な人数が集まれば十分だから反抗的な少数民族にまで割り当てないだろう」「つまり募集先を好みで選べるんですね。羨ましい」どうも話題が事件の本質から外れてしまったが、平和な日本では武力組織のトップでもこの程度なのかも知れない。
  1. 2017/10/05(木) 10:09:06|
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声優・槐(さいかち)柳二さんの逝去を悼む。

9月29日にテレビ・アニメ「天才バカボン」でレレレのおじさんを演じた声優の槐柳二(さいかち・りゅうじ)さんが亡くなったそうです。89歳でした。
野僧は当地に来る前は比較的市街地の寺・借家に住んでいたため門前は通学路で、毎朝、庭の掃除をしながら登校する児童や生徒に「おはよう」と声をかけ、返事が小さいと何度も「おはよう」と繰り返し、そのまま通過した時には後を追いかけて「おはよう」の連続射撃を浴びせていました。これは自転車の中学生も同様で竹箒を持ったまま隣りを走り、「おはよう」と声をかけたため、いつしか近所の人たちからは「関所」と呼ばれるようになってしまいました(野僧は愛読していた禅書から「無門関(むもんかん)」と自称していましたが)。
子供たちにはそんな調子でも小父さん、小母さん、爺さん、婆さんの場合は「お出掛けですか」になり、気がついた頃には「レレレの和尚さん」と変更されてしまったのです。こうなると年齢に関係なく「レレレのおじさんに似ていない」と文句を言われるようになったのですが、野僧は少年マガジンに連載されていた「天才バカボン」の原作は読んでいてもテレビのアニメは見ていなかったので、口調は全く知らず独り研究することになりました。と言う訳で野僧にとって槐さんは挨拶の規範だったのです。
尤もレレレのおじさんは釋迦10大弟子には入っていないものの人気では必ず上位に喰い込む周利槃陀伽(チュラパンダカ)尊者がモデルと言われていますから、野僧には些か僭越ながら願ってもない敬称でした。周利槃陀伽尊者は極めて頭が悪く、兄と一緒に弟子入りしても釋尊の教えが全く理解できず、他の弟子たちとの問答にも応えられず、優秀だった兄が恥じて帰宅するように命じたのですが、それを聞いた釋尊が呼んで「この布で僧院に来る者の履物を拭いなさい。ただし、その時、塵垢を払えと唱えなければ駄目だよ」と言いながら1枚の布を渡されたのです。それから明けても暮れても僧院に来る者の履物を拭いながら「塵垢を払え」と唱えていたのですが、ある日、「本当に払わなければならないのは心の塵垢ではないか」と気づき悟りに至ったのです
野僧も頭の悪さでは遜色がありませんから通る人に「お出掛けですか、レレレのレー」と声をかける点も真似していたのですが、当地では庭前を通るのは鹿と猪、猿だけなので立ち止まるだけです(散歩に出掛ける猫と上空を通過する鴉は返事をしますが)。
槐さんは38歳で「ジャングル大帝」や「魔法使いサリー」に出演した時から老人役で、その後も「ゲゲゲの鬼太郎」のぬらりひょんや「サイボーグ009」の博士や長官、「ワンザくん」の帽子爺さん、「ド根性カエル」の校長(町田先生ではない)などの高齢者の役ばかり担当したため、声優仲間の間では「ご先祖さま」と仇名されたそうです。
あの独特の声は戦時中に健康を害したことと軍事教練で大声を強制されたことが原因だと言われています。自衛隊では号令調整と言う大声を出す訓練がありますが、こちらは腹式呼吸を身につけ、喉を鍛える効果があり野僧の人並み外れた声量はこの訓練のおかげです(サッシを締め切って茶の間でテレビを見ていても托鉢の大声がうるさくて必ず立ち退き料を払いに出て来た)。
余談ながら槐さんは井上ひさしさんも所属していた劇団・テアトル・エコーの所長を務めていました。
現代の日本では早死にかも知れない89歳、「お出掛けですか。レレレのレー」合掌
  1. 2017/10/04(水) 09:00:55|
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振り向けばイエスタディ966

イギリスの夕方6時からのニュースは5時間の時差があるニューヨークでは一般企業の昼休みが終わった後になる。ところが今日は昼休みの娯楽番組の画面に字幕のニュース速報が流れているため多くの職場では切らずに見ることになった。
「中国のチベット自治区の中心都市・ラサ市内で僧侶による大規模な暴動が起こった模様です。イギリスのジャーナリスト連盟からスクープ映像が届きました」アナウンサーは新聞の見出しのような台詞だけを言うと自分も黙って映像を見た。
映像はチベットの僧侶たちが集まって何かを叫んでいる場面から始まった。すでに字幕がつけ加えられているためそれがチベット民族蜂起記念日の集会であることが判る。ここで場面は一転、僧侶たちが叫び声を上げながら投石を始め、続いて都合よく落ちていた木の棒や鉄パイプを振りかざして店舗に駆け寄り、ウィンドウを叩き割って店内に侵入した。この様子を映しながら店舗の看板が漢字であるのを見せ、字幕での「中国人が経営する店舗」と言う説明を強調している。最後は店内の商品を破壊しながら高級品をポシェット(=頭陀袋)に入れて略奪している現場をハッキリと映したところで画像が止まり、アナウンサーが注意を与えた。
「ここからは残酷な映像になりますから子供や気の弱い人たちに見せるべきかは慎重に判断して下さい」これが終わって映像が再開すると全面がモザイク処置されている向こうで抗議と罵声、悲鳴と嬌声が交錯し、床に倒れた人物を映しているモザイクが紅く染まった。
当然のことながら工藤以下、杉本、岡倉、松本もこの映像を事務所のテレビで見ている。
「この映像が流れたと言うことは倉田さんの活動は失敗だったんですかね」少し長めにソルラル(新年)の休暇を取っていた岡倉には倉田の出発は留守中の出来事だった。出発に至る経緯や目的の説明は受けているが、やはり当事者としての理解には至っていないようだ。
「倉田くんはこの映像をBJFが撮影することになった背景を探りに行ったんだから阻止することが目的ではない」「それにしてもこの日のことは中国の少数民族への抑圧に批判的なアメリカのマスコミこそ注目していたはずなのにBJFの映像を流したと言うことは撮影に失敗したんではないでしょうか」工藤の説明に松本が自分の推測を加えて話の方向を変えた。
「おそらく現地には乗り込んでいても何らかの理由をつけられて撮影には行けなかっただろう」「新華社通信は共産党の宣伝媒体ですから海外メディアに報じさせなければ信用されない。その悪魔の誘いにBJFが応じた理由が明らかになればブラウン政権は成立して1年も経たずに窮地に陥るな」「労働党政権は中国に甘いと言う前提で国民に見られているからな」4人はあえて倉田のことには触れなくなった。倉田はこれまでも単独行動を好み、今回と同じく山岳写真家の肩書で中国国内でも辺境の地を回ってきた。ただ、自衛隊時代の経験なのか危険を懼れない大胆さがある反面、妙に諦めが早く、平気で生命を棄てようとするところもある。工藤が今回の任務を倉田に与えることを躊躇したのは今回の政治的策謀の中に投げ込むことに不安を感じていたからだった。
「ところでこの暴動を起こした坊主たちは妙に軍人的ですね」ニュースを録画した映像にモザイクを消す処理をした杉本が思いがけない指摘をした。
「ふーん、そんなところがあるのか」他の3人もテレビを見ると杉本が巻き戻して再生した。
「先ずは号令を受けてから一斉に投石を始めているでしょう。このタイミングの取り方は何かを切っ掛けに雪崩を打ってと言うのとは違うと思うんです」鋭い指摘に工藤以下の3人はうなずいた。
「人数分の棍棒や鉄パイプが足元に落ちているのも不自然ですが、ここでも走りだすタイミングも号令で一斉です。これでは『突撃に進め』ですよ」ここでは自衛隊の話題は禁句になっているため工藤が顔をしかめると杉本は肩をすくめ、それでも岡倉と松本は顔を見合せて笑った。
「そして木製の棒で頭部への1撃で叩き殺している。これは急所を知っていなければできない芸当です。おそらく棒術に類する格闘技の訓練を受けた人間なのではないでしょうか」「つまり僧衣を着た兵隊と言うことだな」「確かに言われてみれば体格も僧侶のものではないな」短時間のニュース映像を繰り返し確認すると投石する時の腕の振り方は野球ではなく手投げ弾の投擲式であることが判った。また袈裟を掛けていない右腕や肩の筋肉は鍛え抜いた戦闘員のもので最初に映っている僧侶たちの肉体労働に向かない身体とは明らかに違う。果たしてこの事実にニュースを配信された世界各国の軍人たちも気づくのだろうか。
  1. 2017/10/04(水) 08:57:05|
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「PLAY BOY」の創刊者・ヒュー・ヘフナーさんの逝去を悼む。

9月27日に男性向け雑誌の代表である「PLAY BOY」を創刊したヒュー・ヘフナーさんが亡くなったそうです。91歳の老衰による自然死だったと言うことです。
野僧の母校は明治創立の県立の普通科高校だったのですが、所在地の土地柄から他の同様な高校が大学受験の予備校と化している中、それらには完全に背を向けていて生徒は青春を謳歌しながら3年間を過ごしていました。何せ野僧が会長・副会長などの生徒会の役員を歴任するくらいですから詳しく説明する必要ないでしょう。
その一方で教師たちも「教えたいことを教える」と言う教師冥利を満喫していて、日教組の教師は反戦平和=反米親中を唱え、保守系の教師は教育勅語を教材にするなど独特な校風が醸成されていたのです。
そんなある日、英語の教師(副担任)が授業でアメリカ版「PLAY BOY」を見せると滔々とこの雑誌の素晴らしさを語り始めたのです。いきなりヌード・グラビアを開いてプレイ・メイトの魅力と選考基準についての持論の熱弁を奮い始めたのですが、グラビアの女性の陰毛が修正として傷つけられていることを徹底的に批判し、以前、アメリカのPLAY BOY社に「女性美を理解しない役人たちによって我々日本の読者は官能を味わう権利を奪われている。世界に冠たる影響力を有する貴社の論説で、是非とも日本政府に圧力を加えてこの暴挙を撤廃させて下さい」と雑誌を添えて書簡を送ったことを説明しました。その話は女生徒もいるためそこまででにして男子の希望者のみに回しましたが、全員が舐めるように見たのは当然です。
そしてヘフナーさんの経歴を紹介しながらこの雑誌がある程度の教養を有する標準的なアメリカ青年を読者としており、このため記事も左右に偏らずアメリカが世界中で関わっている政治・軍事・経済などの社会問題やファッション・スポーツ・芸能などの流行の紹介を幅広く取り上げ、性的欲望と知的欲求の両方を満足させること目指していると言いながら、むしろPLAY BOYが流行を作っているとも付け加えました。
その後、野僧は大学を中退して自衛隊に入りましたが、ヘフナーさんは逆に第2次世界大戦中は従軍し、帰還後に大学へ復学しています。つまり知的レベルは似たようなものだったらしく野僧も沖縄でアメリカ版PLAY BOYを愛読するようになり、アラスカ人の彼女の父親を通じて入手した無修正のグラビア本を土産として副担任に届けると他の男性教師たちも目を輝かせて欲しがったため、毎回、数冊ずつ持ち帰る羽目になりました。
ヘフナーさんがこのような発想を持つようになったのには結婚を前提に交際していた妻が従軍中に浮気したことを告白したことで一般的な規範に押し込められる倫理観が破綻し、社会人としての道徳と男性としての欲望を共に肯定してそれらを追及することが人生の喜びであると自覚したことだと言われています。このためグラビアを飾った豊満で金髪のプレイ・メイトたちは完全に自分の好みで選考しており、かなりの数を愛人にしていますが、それを批判ではなく憧れにしてしまっていたことでも社会的影響力の大きさが判ります。
ところがヘフナーさんはアメリカ社会で同性愛が話題になった1971年には自分も実体験しており、女性と関係を持つことが単なる性的欲求だけではなかったことも証明しています。
ちなみにPLAY BOYが雄ウサギをシンボル・マークにしているのは「哺乳類で最も性欲が強いからだ」とアラスカ人の彼女の父親から聞きました。あの世でも先に亡くなったプレイ・メイトたちに囲まれて自分の天国にするのでしょう。感謝を込めて御冥福を祈ります。
  1. 2017/10/03(火) 09:15:04|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ965

ジェームズは僧衣を着た暴徒たちを追っていた。中国人が経営する店舗を破壊し、数人の店主を殺害するところをイギリス人のマスコミ関係に撮影させた後、本物の僧侶たちが近づくのと入れ替わるように現場から立ち去り、今は大通り沿いにも立ち並ぶ中国人の店の裏手にある倉庫に入っている。ジェームズは自分の容貌が典型的なイギリス人であることを利用して怪しまれることなく動き回り、望遠レンズで僧衣を着た暴徒たち全員の顔写真を撮影していた。そんな暴徒たちがこの倉庫でやっているのは早急に服装を改め、犯行を繰り広げた僧侶の存在を消し去ることしかない。
ジェームズは望遠レンズを遠距離用に交換すると気づかれない距離から倉庫の出入り口にピントを合わせて待っていた。やがて興奮気味に話しながら人民解放軍の軍服を着た兵士たちが出てきたのでその顔を逃さず撮影した。狙いは言うまでもなく僧衣と軍服の人物の照合である。
おそらくBJFは僧侶たちの集会の模様に続いて、その周辺にいた僧衣を着た人間たちが罵声を上げ始め、やがては投石し、店内に乱入して店主を殺害する場面を撮影していたはずだ。この両者をつなげれば視聴者には集会に参加していた僧侶による暴動に映り、宣伝の仕方によっては中国政府によるチベット佛教への弾圧にも正当性が認められる可能性がある。
それを暴くにはその暴徒たちの正体を明らかにしてBJFの報道自体の虚偽を世界に周知させるしかないだろう。勿論、イギリス国内での中国共産党の工作員とBJFの記者の接触についてはMI5(イギリス国内の防諜組織)が捜索している。
これが共産党の宣伝媒体である中国の国営放送が国際社会での信用を得られないことに対する打開策として逆に最も信用度が高いイギリスのジャーナリストを狙ったのだとすれば情報戦略として見事と言うしかない。
この陰謀が記者個人と中国の関係によって画策されたものなのか、イギリスの労働党政権も関与しているのかはMI5の調査を待たなければならないが、不正はあくまでも処断しなければならない。問題はジェームズが無事に中国から脱出できるかだ。

「シュポサォ(起歩走=前へ進め)」軍服に着替えた兵士たちは隊列を組んで歩き始めたがパレード用のグース・ステップではなく普通の歩調だ。ジェームズが距離を置きながらついて行くと人民解放軍の敷地内にある長い2階建ての建物についた。
「リーティー(立定=止まれ)」行進の指揮は次級者が執っているようで、部隊を停止させると左に向けて自分が右端に立った。
「さて、お前たちの労をねぎらうためにもう1つ作業を命じる」指揮官の下士官は横隊に並んだ兵士たちの中央で前置き口上を述べ始めた。しかし、兵士たちはこの施設の使用目的が判っているようで目を血走らせながら鼻息を荒くしている。
「以上、順番を守って任務を遂行せよ」「チェイ(就位=気をつけ)」兵士たちの顔を見て短めに切り上げた指揮官の指示が終わると次級者が号令をかけて敬礼した。
ここで兵士たちが命じられた作業とは「民族浄化」だった。中国共産党はチベット民族をこの世から消すために生理が始まったばかりの少女たちを駐留している人民解放軍の兵士たちに犯させて妊娠させている。こうすることによってチベットには半分は漢民族の血が流れる子供しかいなくなり、それを繰り返していけば遠からず純粋なチベット民族は消滅するのだ。チベットの男性たちは子供を抱えた女性しかいないので、それを受け容れなければ結婚ができない。そして、「1人っ子政策」で効果は決定的になる。これは決して表沙汰にはならないチベット民族の悲劇だった。
ジェームズは辺りが薄暗くなるのを待って外柵を乗り越えて建物の傍に近づき中の様子を窺った。
「嫌、許して」「止めて、お願い」「お父さん、助けて」灯りが点いた部屋の窓からは少女たちの懇願の声が漏れてくる。兵士たちに褒美として与えられた「民族浄化」の作業が始まったらしい。一方、兵士たちの雄叫びは暴動を演じて同胞を殺した時と同じだった。おそらく党と国家に捧げられた生贄を屠る(ほふる)恍惚の表情をしているのだろう。
間もなくどの部屋からも身体の一部を引き裂かれ、純潔を奪われた少女たちの断末魔のような悲鳴が響き出した。その後は兵士の獣のような息遣いと寝台がきしむ音、そして少女たちの泣き声が続く。
「これがオリンピックを開催する近代国家なのか」ジェームズの身体はヒマーラヤの寒気ではなく沸き起こる怒りで震えだした。
  1. 2017/10/03(火) 09:12:48|
  2. 夜の連続小説8
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10月3日・東ドイツが西ドイツに加入して統一国家になった。

1990年の明日10月3日に東ドイツ=ドイツ民主共和国が西ドイツ=ドイツ連邦共和国に加入して統一国家になりました。
日本人の多くは1989年11月9日からベルリンの壁が崩壊した後、1年を経ずして第2次世界大戦後のドイツ人の悲願であった国家統一が成し遂げられたことに唖然としており、「どのような強引な手法が取られたのであろうか」と首を傾げていたのですが、野僧がドイツ人の友人たちに聞いたところでは他の社会主義国家とは異なる東ドイツ独自の政治制度による事務的な手続きだけで本当に淡々と統一が実現したのだそうです。
ベルリンの壁の崩壊は旅行申請の審査基準の緩和を出国の自由化と早とちりした市民の要求に警備責任者が押し切られたことが原因で始まると数日のうちに実現してしまいましたが、こちらは東西ドイツの政治手続きが同時進行的に進められていたことで完了してしまったのです。
先ずはベルリンの壁と国境線の防護壁が撤廃された翌12月1日に東ドイツは一党独裁ではなかったものの実質的に独占的な強権を奮っていたドイツ社会主義統一党による国家指導を定めた規定が憲法から削除され、年が明けた3月に実施された総選挙で統一を主張するドイツ連合が大勝して東ドイツ側の準備が整いました。一方、西ドイツ側は統一後に憲法を制定するまでの国家の在り方を定めた基本法の規定を無視して仮に東ドイツの各県が独自に西ドイツへの加入を申請してくればこれを受け入れることを政治決定しました。こうして準備が整うと後はドイツ的几帳面さを発揮して手続きを進め、5月5日には東西ドイツとアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の関係国(ここにイギリスとフランスが入っていることでドイツの敗戦国としての立場が判ります)による6カ国協議が行われて統一が承認され、7月1日から東ドイツでも西ドイツの通貨が流通することになり、7月17日には統一後も北大西洋条約機構(NATO)に再加入することが承認され、7月23日に西ドイツと同様の地方自治組織するため県を州にした上で1カ月後に人民議会(国会)で西ドイツへの加入が決議されたのです。こうして8月31日にドイツ再統一条約(一度目の統一は1871年のドイツ帝国の成立)が調印され、この日に発効しました。
一般的には東西の経済格差が3倍に達していたため買い取ったようなものだと言われていますが、東ドイツは他の社会主義国家と比べれば人民が貧窮に喘ぐ程ではありませんでした。
政治的には東ドイツは反ファシズムを党是とすることを条件にした4党による複数政党制を敷いており、これが41年後に統一への動きを円滑に進める力になったのです。法制度でも欧米式の陪審員制度などを導入して国民の不満のガス抜きにしており、中でも徴兵拒否した若者を丁寧に調査・審理して宗教上の理由などによる「善意の拒否」を認めて社会奉仕による代替役務制度を採用した点では西ドイツと競い合うような人権面への配慮を見せていました。経済的には世界規模ではないものの社会主義圏内では最高品質の製品を生産しており、別格の繁栄を遂げていました。実際、統一前の東西ベルリンはどちらも高層ビルが建ち並び、よく整備された道路網や公共施設などでは遜色がなかったのですが、やはり比較対象が世界有数の経済大国になっていた西ドイツが相手では見劣りしてしまい、ある程度の生活水準があったが故に普及していたテレビによって西ドイツの自由で豊かな生活を見ることで不満が蓄積していったのです。しかし、西ドイツは東ドイツとの格差解消のために経済力の大半を注ぎ込まざるを得なくなり、日本のバブル崩壊以上の長期不況に陥ることになりました。
同じ分断国家でも韓国と北朝鮮ではこのような事務的な手順のみによる平和的な統一は無理でしょう。
  1. 2017/10/02(月) 10:05:44|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ964

その日のうちにラサ市内の3つの大僧院は警官隊によって完全に封鎖された。チベットの僧院では僧侶たちが托鉢して回るタイやミャンマーとは違い、スリランカやブータンと同じく近隣の信者たちが食事や必要品を持ち込んで供養する。このため僧侶たちは僧院内で禅定(ぜんじょう=坐禅)や観経(かんぎょう=経典の読書)に専念して時間を過ごすことができるのだが、周囲と遮断されれば修行生活そのものが崩壊してしまう。
境内や回廊にはガス弾発射銃を持った警察官が配置され、日頃、起居している僧堂に押し込まれた僧侶たちを監視している。その間にも捜査官たちは経蔵に保管されているチベット民族の宝物・遺産とも言うべき経典まで証拠品として乱暴に運び出しており、それを制止した僧侶が暴行を受けた上で逮捕・連行された。
「断食かァ、釋尊は断食の苦行を止めて禅定に入って悟りを開かれたんだろう」「スジャータから乳粥の供養を受けられてな」自分の居場所で禅定をしながら1人が口を開くと別の者が即座に返事をした。南方佛教では食料が傷む前に食べるようにしているため1日1食が基本だ。だから空腹には慣れているのだが、その1食がなければ流石に堪えてくる。それを紛らわすために口数が増えるのは修行の長短・難易に関係ないらしい。それにしても人民解放軍がチベットに侵攻してきて以来、過酷な弾圧を受け続けてきたにも関わらず僧侶たちにはそれほど深刻な危機感がないようだ。
「日本の友人に聞いたんだが、あちらの真言宗では『即身成佛』と言って修行の完成として生き埋めにされて食を絶ち、そのまま死んでしまう者がいるらしいぞ」「真言宗は日本の佛教でも我々に近い真剣な信仰を守っている宗門だろう。少しやり過ぎだな」日本で一般的な鎌倉佛教の各宗派は戒律が異なるため海外では佛教とは認められていないのだが、真言宗は古くからチベット佛教と交流を持ち、現在もダライ・ラマ14世猊下への支援も積極的に行っている。僧侶の中には旅行者としてチベットを訪れ、僧院を見学する者もあるが、やはり中国政府による監視下では心ゆくまで交流を深めることはできないのだ。
「そろそろ晩課(ばんか=夕方の勤行)の時間だな。法塔(はっとう=本堂)へ行こう」僧堂内には時計がないのだが、窓から射し込んでいる日の光の位置で時間を察したベテランの僧侶が声をかけ、他の僧侶たちも顔を見わせて立ち上がった。
「歓鐘(業務用の鐘)が鳴らないな」「それも禁じられているんだろう」通常の生活の形に戻れば気分も僧侶に返る。僧侶たちは妙に高揚感を噛み締めながら僧堂から出ようとした。すると外の石廊下を巡回してきた警察官の足音が立ち止まった。
「ビィズイ(閉嘴=黙れ)」警察官はゴム弾発射銃で板製の扉を打ち、叱責してきた。
「フィ タァオ ファオンジャン(回到房間=部屋へ帰れ)」回廊の向こうでは厳しく叱責する声が聞こえてくる。警官隊は僧院の宗教施設としての機能まで停止させようとしているのかも知れない。そのような暴挙も他人事のように素通りさせるのが僧侶たちの感覚だった。

富士山頂並みの海抜にあるラサ市内は夕方から急激に気温が下がる。広場で鉄製の檻に入れられた民衆たちも身体を寄せ合って暖を取るようになってきた。
こう言う状況になると男女の肉体の構造の違いは野外での活動の適否の証明になってくる。尿意をもよせば男性は檻の端から外に向かって放尿することができるが、女性は尻を突き出しても足元を汚さざるを得ない。大便は自分の手で受けて投げるしかないが、その手を拭く紙や洗う水がない。このため周囲には異臭が充満し始めている。
すると1台の小型消防車が檻の前に横付けして、助手席から監視を担当している警察官が下りた。
「今から水をまいてやるから汚物を洗え」警察官は北京語で一方的に説明すると運転席から下りた消防士に放水を始めるように促した。消防士は後部のタンクのスイッチを押してポンプを作動させると車載式のノズルから檻に向って放水を始めた。冷え込みが始まっている空気の中での放水は身体を破壊するように叩きのめす。女性が上げた悲鳴、男性が叫んだ罵声も顎の震えがかき消し、ただ母親に抱かれた子供の泣き声だけが残った。
これからラサ市には零下まで気温が下げる。ずぶ濡れになった衣類が奪う体温を防ぐ手段は何もない。そう覚った人々は手を合わせ、祈りを唱え始め、それが合唱になって夕空に響いていった。
  1. 2017/10/02(月) 10:03:45|
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第60回月刊「宗教」講座・カソリック教団

日本人のカソリックに対する認識は欧米に比べて極めて特異です。現在、全人口の中でカソリックとプロテスタントが占める割合は、ヨーロッパではカソリックが半数なのに対してプロテスタントは30パーセント程度、北アメリカではカソリックが50パーセント超、プロテスタントは40パーセント超です。ところがスペインとポルトガルの植民地であった中・南アメリカやフィリピンでは90パーセント超になっています。そして現在のローマ教皇はアルゼンチン出身です。一方、日本ではクリスチャン自体が0・3パーセントに過ぎませんからわざわざカソリックとプロテスタントに分類するほどの数字ではなく、本来は「そんな人もいるのか」と存在を忘れてしまっても良いはずなのです。ところが日本人に染みついている舶来物を有り難がる気質を狙っているのか京都の寺の梵鐘よりも長崎の教会のチャペルを「異国情緒」などと売り出す観光業者が後を絶たたず、おまけに日本人は宗教と儀式を同義語だと思っているところがあり、ステンドグラスが美しい聖堂でパイプオルガンの伴奏で女性聖歌隊が合唱する賛美歌に陶酔してしまいがちです。その異常な観光事業を知事や市長が率先して推し進めている長崎でもカソリックの信者は全県民の4パーセントに過ぎないことを再認識するべきです。
ヨーロッパでも宗教改革が勃興し、プロテスタントが発展した北部の国々ではカソリックはカミの名を用いて人間の尊厳を踏み躙った悪の宗教と処断されています。人間を戒律で縛り、14世紀から17世紀にかけて異端審問と呼ぶ魔女狩りが横行した時には残酷な拷問によって自白を強要しただけでなく、水の中に投げ入れてカミの救いがあるかを確かめ、運よく浮き上がれば逆に悪魔の仕業として処刑する宗教裁判によって中世を暗黒の時代にした大罪を忘れるべきではありません。それだけではなく自分で作った身分の上下の中の最高位にある者として広大な荘園を領有し、その巨大な財力と権力の争奪を闘争を繰り広げた堕落した宗教なのです。実際、20世紀に入ってからもバチカン内の不正を検証し、組織改革に着手しようとした教皇は状況証拠から見て暗殺されたことは明らかなのですが、バチカン自体が独立国であるため闇に葬られています。さらにカソリックはイスラム教徒の手に陥っている聖地・エルサレムの奪還を企図したローマ教皇の命により、十字軍を派遣して経路上に在ったイスラム教徒の都市、集落、住宅を破壊し、財物を奪い、婦女子を凌辱する非道の限りを尽くしました。これらの罪をローマ教皇が認め、謝罪したのは20世紀最後の年になってからでした。また、大航海時代の幕が切って落とされ、ヨーロッパ諸国が世界各地を植民地化していった際の大義名分はカソリックの布教でした。
ところが日本では九州で宣教師の中心人物と面会した豊臣秀吉が、「布教のために来日した」と言いながら乗ってきた船は重武装した事実上の軍船であることを確認した上、領主から庶民までが宣教師を主君のように臣従していることを目の当たりにしたことで、その本当の目的である侵略的意図を察知して、禁教したことで難を逃れたのです。おまけに島原などでの殉教者を聖人扱いして強固な信仰を崇敬するようになっていますが、人数で言えば加賀や石山、長島などで繰り広げられた一向一揆での門徒の方が遥かに多いのですが歴史教育では無視しています。
日本でカソリックが禁じられている間にヨーロッパでは宗教改革の嵐が吹き抜けてカソリックも重大な危機感を持って自己改革に取り組んだのです。このためキリスト教が解禁になった明治の時点のカソリックは宗教改革で糾弾されたような政治権力や利権の争奪に明け暮れていた姿は影を潜め、むしろ日本人の目には厳格な戒律を守る伝統に基づいた正統派のキリスト教に映ったようです。このため全国各地にカソリックの修道院が作られ、その修道院での清廉で真摯な生活を踏襲した大学も設立されていくのですが、その人気を不動の物にしたのは神道のトップの後継者であるはずの皇太子が結婚した相手が幼稚園から大学までカソリックの一貫校で学んだ女性だったことでしょう。
なお、ローマ・カソリックは三国軍事同盟の一角であるイタリアのベニト・ムッソリーニ統領と強調しいたため、日本のナチズムである国家神道も弾圧・迫害を遠慮したようです。今回も北から順番に紹介していきます。
○藤(ふじ)女子大学 
この大学は札幌市北区と北海道石狩市に所在します。1925年にカソリックでもドイツの「聖ゲオルギオの聖フランシスコ修道会」から派遣された3人の修道女によって設立されました。当初は高等女学校だったのですが、敗戦後の学制改革で女子中学校と女子高等学校になり、1950年に短期大学を設立、1961年から4年制を併設し、2000年からは4年制大学と中学校・高等学校の一貫教育に移行しています。
○天使大学 
この大学は札幌市南区に所在します。敗戦後の1947年にローマの「マリアの聖フランシスコ修道会」によって設立されましたが、その名の通り「白衣の天使」を専門的に教育しており、全国唯一の看護栄養学部で看護師、栄養士、管理栄養士を育てているだけでなく大学院には「助産研究科」を設置して高度な専門知識を有する助産婦も養成しています。※函館にあるトラピチヌス修道院はフランスに本部を置く「厳律シトー会」に所属していますから、この2つの大学とは直接の関係はありません。
○仙台白百合女子大学
この大学は仙台市泉区に所在します。その名の通り1992年になって後述する東京の白百合女子大学の仙台分校として設立されました。ただし、前身の仙台女学校は1893年の設立であり、戦前の一時期は文部省管轄の高等女学校になっています。
○上智大学 
この大学は東京都千代田区に所在します。日本のカソリック系としては珍しく男子修道会である「イエズス会」を母体としています。イエズス会と言えば初めて日本に来た宣教師であるフランシスコ・ザビエルが所属していた会派であり、教皇庁に対して「日本人には他のアジア人にはない真摯な信仰の資質があり、首都に神学・医学・法学を教える高等教育機関を設立するべきである」と提言していたことから、上智大学もその歴史の起源をザビエルが来日した1549年としています。ただし、実際の大学設立は1906年になってローマ教皇がイエズス会に対して日本への総合大学の設立を要請し、2年後にドイツ人、フランス人、イギリス人の宣教師が来日したことから始まりました。そして戦前から私立大学として認定されており、敗戦後も早々に新制大学になっています。
野僧の友人が入学していたため、東京へ行った時にシャワーを借りに行ったことがあるのですが、野僧が中退した大学は旧陸軍の師団司令部跡だったため広大な敷地に鉄筋コンクリートの3階建てまでの校舎と古びた旧兵舎が点在していたのに比べ、狭い敷地に所狭しと高い校舎が建ち並び、テニス・コートは皇居の石垣の下や校舎の間に設置されていて、「都会の大学って窮屈だな」と言うのが感想でした。我が山形県出身の故・渡辺昇一先生が教鞭を取っておられたことを補足しておきます。
○聖心女子大学 
この日本で最も有名なお嬢さま大学は東京都渋谷区に所在します。1916年にフランスの女子修道会「聖心会」が設立した高等女学校を前身として敗戦後の1948年に4年制の女子大学に移行しました。国際連合難民高等弁務官だった緒方貞子さんはその1期生だそうです。
この会派は世界各地で活動しており、42カ国に170の姉妹校があるそうです。しかし、神道のトップの妻は幼稚園から大学までここで学び、カソリックに染まり切っているはずなので、夫がトップに就いてから異常な頻度で大規模災害が続発しているのは土着の八百万の神々がお怒りなのでしょう。
○清泉女子大学 
この大学は東京都品川区に所在します。母体としているのは「聖心侍女修道会」ですが、こちらは1877年にスペインのマドリードで設立され、現在はローマに本部を置いていますから「聖心会」とは別の組織です。1932年に来日した3人の修道女が東京府の麻布に高等女学校を修了した女子を対象として設立した寮制の学校が敗戦後の1950年に大学になりましたが、空襲で校舎が消失していたため当初は神奈川県の横須賀で始まりました。現在の場所に移転したのは1962年になってからです。
○白百合女子大学 
この大学は東京都調布市に所在します。前述の仙台白百合大学の本校に当たります。1881年にフランスの「シャルトル聖パウロ修道女会」から派遣された3人の修道女によって設立された高等女子英和学校が前身とされますが、フランスから来た修道女が何故、英語を教えたのかは謎です。敗戦後の1950年に短期大学になり、1965年に4年制に移行しています。
この大学で興味深いのはジャンルダルクの白百合を模した学章です。欧米諸国では聖者に列せられていてもジャンヌダルクはやはり血生臭い武人であり、信仰の対象としては敬遠されているようですが、やはり母体である「シャトル聖パウロ修道女会」がフランスの組織であるため認識を異にするのでしょう。
○東京純心大学 
この大学は東京都八王子市に所在します。カソリックにとっては殉教者を出し、禁教を受けても信仰を捨てなかった隠れ切支丹が住む聖地である長崎で初めて日本人の司教が誕生した時に設立された「長崎純心聖母会」が母体になって、一九六三年に東京純心学園として設立されました。当初は高等女学校でしたが、1967年に短期大学、1982年に4年制大学、そして1986年に中学校を開校して中高大学の一貫教育の学校となっています。
○聖マリアンナ医科大学 
この大学は神奈川県川崎市宮前区に所在します。この大学の特色としては日本でカソリックを母体とする医療活動を展開するために設立された「聖マリアンナ会」が開戦間際の1941年に横浜市中原区に設立した東横病院を起源としていて、その後、川崎市宮前区に移転した東横病院(現在の東横恵愛病院)が開学したことでしょう。このように民間の病院が開学した医科大学は同じ川崎市の川崎医科大学と埼玉医科大学だけなのだそうです。ところで開学当初の名称は東洋医科大学でしたが、中国伝来の漢方式医療やインドのアーユルヴェーダーを教えていた訳ではないでしょう。
○清泉女学院大学 
この大学は長野市に所在しますが、東京の清泉女子大学と同じ「聖心侍女修道会」を母体として2003年に設立されました。主に看護系の教育を行っているようです。
○南山大学
この大学は名古屋市昭和区と愛知県瀬戸市に所在し、野僧が高校生だった頃には「愛知県内の私立大学では最もレベルが高い」と言われていました。ところがここの学生たちは妙に「上智大学と兄弟校である」ことを自慢していて「お前たちには県下トップとしてのプライドはないのか」と腹を立てていた記憶があります。愛知県から東京であれば距離、交通の便を考えてもそれ程の遠方ではなく、そこまで上智大学に憧れるのなら本家本元の方に入学すれば良いのです。それも愛知県人特有の異常な地元への執着に原因があるのかも知れません。
1932年にドイツの修道士会「神言会」から派遣された宣教師が現在の所在地の近傍に設立した南山中学校を発祥としています。この校名はこの土地が「南山(みなみやま)」と呼ばれていたことに由来します。ただし、当初の経営母体はカソリック名古屋教区でした(上智大学とはカソリック同士と言うことで兄弟校になっている)。戦時下にはこの中学校を名古屋市に移管させられますが、敗戦後には取り戻し、新制高等学校、外国語専門学校を併設すると同時に経営母体を「神言会」に移し、1949年に4年制の南山大学を開学したのです。ちなみに人文学部キリスト教学科は司祭養成コースになっているようです。
○京都ノートルダム女子大学 
この大学は京都市左京区に所在します。1833年にドイツの修道女が女性の教育確立と向上を目的に設立した「ノートルダム教育修道女会」のアメリカ支部が派遣した4名の修道女によって1852年に設立されたノートルダム女学院中学校が発祥です。それから1953年に女学院高等学校、1954年に女学院小学校を設立し、1961年に4年制大学を開設しました。
○神戸海星女子学院大学
この大学は神戸市灘区に所在します。1951年に「マリアの宣教者フランシスコ修道会」を母体として設立された海星女学院を前身とします。その後、1955年に短期大学、1965年に4年制大学を開学しました。経営母体である「マリアの宣教師フランシスコの会」は1877年にローマで設立された修道女会「マリアの贖罪会」がインドでの宣教に失敗して帰国し、1882年に最大の宣教師会である「フランシスコ会」と合併したことで誕生しました。その後、1900年に中国で発生した義和団事件で7人の修道女が殉教しています。
余談ながら長崎市と三重県四日市市にある海星高等学校もカソリック系で三重の方は一時期、南山大学の付属高校でした。
○ノートルダム清心女子大学 
この大学は岡山市北区に所在します。1886年にフランスの「ナミュール・ノートルダム修道女会」を母体として設立された私立岡山女学校を前身としています。その後、校名を清心高等女学校に変更し、敗戦後の1949年に4年制のノートルダム清心女子大学を開学しました。
○エリザベト音楽大学 
この大学は広島市中区に所在します。「イエズス会」を母体と1963年に開学していますが、学名はカソリックの聖人ではなく後援者であったベルギーの王太后に由来します。それにしてもベルギー王室はアフリカの植民地で人類史上他に類を見ない原住民の大量虐殺を行っていますが、そんな家系の人物の名前をキリスト教系と名乗る大学に用いても良いものなのでしょうか。
○聖カタリナ大学 
この大学は愛媛県松山市に所在します。「聖ドミニコ宣教修道女会」が1966年に短期大学を設立し、1988年に4年制の聖ドミニコ女子大学を開学、2004年に男女共学に移行したため現在の名称になりました。この経営母体である「聖ドミニコ会」は1206年の設立で「聖フランシスコ会」と並ぶ長い歴史を有する修道士会ですが、厳格な戒律保持を自己に課すと共に信者にも強要したため中世の異端審査、宗教裁判では検事兼判事兼拷問の立会人を務めることが多く、カソリック内でも表では畏敬を受けても裏では敬遠され、プロテスタントでは「カソリックの悪事の実行犯」として忌み嫌われています。ちなみに愛知県岡崎市の生徒が「聖女生徒」と呼ばれナンパが禁じられていたカソリック系の女子高も「ドミニコ会」傘下であり、この大学の姉妹校になっています。
また学名の由来となっている聖カタリナは14世紀に実在した女性で、6歳の時にイエスに会ったと信じ込み、7歳でイエスの母・マリアに「私の処女は貴女の息子に捧げます」と誓い、18歳でドミニコ修道会に入信したのです。その後は食べた物を吐いてまた食べるなどの極端な禁欲生活を送り、奇跡とされている異常行動を繰り広げたのですが、教皇とイタリアの諸侯との権力抗争に利用され、苦悩の内にイエスと同じ年齢の33歳で死にました。果たして日本の若き女性たちをこのような人生に導いて良いものなのでしょうか。
○聖マリア学院大学 
この大学は福岡県久留米市に所在します。1915年に久留米市太刀洗(隠れ切支丹の潜在地域)で医院を開業していた信者が地元カソリック教会の援助を受けて1953年に設立した聖マリア病院=「雪の聖母会」を母体にしています。2006年に看護師養成を専門にした短期大学として開学し、2010年に4年制に移行しました。
○長崎純心大学
この大学は長崎市に所在します。母体は東京純心大学と同じく「長崎純心聖母会」ですが、こちらの方が古く1935年に設立された純心女学院を前身としています。
1945年8月9日にカミの名を以って投下されたプルトニウム爆弾によって壊滅的打撃を受けますが、敗戦後の10月には大村市の海軍工廠で再開しており、1947年に改編した純心女子専門学校を1950年に専門学校を短期大学にしています。そして1994年に4年制の長崎純心大学を併設しました(後に短期大学は廃止)。
○鹿児島純心大学 
この大学は鹿児島県川内市に所在します。カナダの「ホーリー・ネームズ修道会」が1933年に設立した聖名高等女学校を前身にしていますが、1940年に「長崎純心聖母会」に移管されたため鹿児島純心高等女学校に改称しました。敗戦後の1948年には鹿児島純心女子高等学校となり、1961年に短期大学を開設し、1994年になって4年制の鹿児島純心女子大学を開学しました。
鹿児島県は島津藩主が禅宗に深く帰依していた上、一向一揆の波及を恐れたことで浄土真宗を禁教したため切支丹と同様の探索と弾圧が行われていました。したがって明治の解禁は「隠れ門徒」に歓迎され、キリスト教が入る余地はなかったようです。強いて言えば廃佛毀釋で土着の信仰まで禁止されたことで島を訪れたカソリックの宣教師に村長が騙されて村中を入信させてしまった奄美大島の龍郷町なら入学希望者がありそうですが川内市では離島との交通の便が悪いのでどうでしょう。
60a・上智大学昭和57年当時の上智大学(テニスコートは堀の跡)
60b・正田美智子この女性に日本人は騙された?(本人に罪はないが)

  1. 2017/10/01(日) 08:51:56|
  2. 月刊「宗教」講座
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振り向けばイエスタディ963

倉田は先頭を行く人民解放軍のトラックの助手席の中央に乗せられ、隣の席から指揮官が拳銃を突きつけていた。倉田自身はこのような状況に慣れているが、他の3人の僧侶たちも別のトラックの同じ席に座らされている。彼らは銃口を突きつけられただけで恐怖に慄き、生きた心地がしていないだろう。尤も、どちらにしても長い命ではないのだから死亡時間の前後に大した意味はない。
「お前の僧院はどこだ」出発して間もなく指揮官が訊いてきた。ラサ市内には大中小様々な僧院が数多くあり、倉田はそのどこかの指導者だと思われているようだ。
「私の僧院はラサ市内ではない」「別の街から来たと言うのだな」「今日のために遠路はるばるやって来たのだ」倉田の答えに警察官は疑わしいそうに顔を覗き込んだが表情を変えなかった。
「仕方ない。市街の中心にある大僧院に向かえ」「はい、指揮官」運転手は返事をすると即座にアクセルを踏んで速度を上げた。大通りの歩行者などは引き殺すつもりのように見える。
「僧院で何をするつもりなのだ」「それを私に言わせるのか。お前は我々の動きを完全に見抜いているらしいじゃないか。世間知らずな僧侶にしては中々の鋭さだと評判だぞ」確かに言われなくても判っている。僧侶たちを凶悪な犯罪者に仕立て上げれば、籍を置く僧院を居住地・所属組織として捜索することは当然の処置である。それが捜索だけで済まないことはトラック4台に乗った警察官の人数と武装でも判り切っていた。
倉田が無表情なまま前を見ていると指揮官と呼ばれた警察官は脅しを掛けるためなのか拳銃を脇腹に喰い込ませてきた。しかし、この至近距離で発射すれば倉田の身体を貫通した後、運転手にも致命傷を与えるだろう。つまり射てないと言うことだ。やはり倉田は表情を変えなかった。

「これで本国への送信は完了した」僧衣を着た暴徒たちとその模様を撮影した外国人たちは破壊現場から逃亡した後、裏通りに停めていた中国の放送局から借りた専用車両で画像と音声を母国に送っていた。チベットとイギリスの時差は約5時間なので朝のニュースの準備には間に合っただろう。ただし、この凄惨な映像をどこまで放送できるかは判らない。むしろ地上波のニュースよりもインターネットで流した方が残酷な場面も閲覧者の自己責任にできる上、迅速に世界中へ拡散できるはずだ。おそらく自分たちのチベット入りの背後に中国共産党からの誘いがあったことを察知しながら容認した経営陣もそのように処理するはずだ。
「我が国の人民も14人犠牲になってもらったが、これでマオ・タオシィ(毛同志)の言葉の正しさが証明できたな」「マオ・タオシィと言うのはマオ・ツォトン(毛沢東)のことか」「そうだッ、敬称をつけて呼べ」送信作業を見ていた僧衣を着た男は人民解放軍の下士官の顔に戻って叱責した。
「その毛同志は何と言ったんだ」「宗教は人民を酔わす麻薬だと言ったんだ」「それはマルクスがヘーゲル哲学批判・序説の中で『宗教はアヘン』と言った台詞だが・・・」インテリの記者に指摘されて下士官は言葉に詰まった。同じ台詞をスターリンも演説の中で引用しており、毛沢東はどちらかの請け売りだったようだが、人民解放軍の下士官では上官の教育以上の知識を有しておらず反論できるはずがなかった。
「それでもアイツらがやっていることを見れば末期の麻薬患者みたいなものじゃあないか」「麻薬患者?」「そうだろう。時代をさかのぼるような生活を送って好きな物を食べず、楽しみは全て否定する。まともな神経では考えられないことだ」下士官の断定を聞いて記者は「命令を受ければ罪も恨みもない同胞を迷わず殺害できるお前たちの方が狂っている」と思いながらも、自分の方こそ命令ではなく勧誘を受けてその「犯罪」の協力者になったことを噛み締めていた。

「この僧院を閉鎖する。ここを中央広場で我が国人民14名の殺害と店舗の破壊、商品の略奪を伴う暴動を起こした僧侶たちの居住地として家宅捜索し、お前たちを共犯として取り調べる」指揮官の一方的な宣告に応対した高齢の僧侶は即答できなかった。先ずはチベット佛教の僧侶がそのような暴力行為を犯したことが信じられず、何よりその集会への参加者が誰も返っていないのだ。
「したがって捜索と取り調べが終わるまでの僧侶の居場所を指定せよ」指揮官の北京語をチベット語に翻訳している僧侶はあまりにも一方的な命令に怒りを露わにしたが、高齢の僧侶に目で窘められて感情を抑えた。倉田もチベット人の僧侶としてこの僧院に収監されることになった。
  1. 2017/10/01(日) 08:47:58|
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