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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ994

「名前を決めなければいけないな」病室で産後の眠りから覚めたジアエに父親が声をかけた。
「旦那さまの意見は」「電話で訊いてみたんだけど、こちらの候補が決まったらもう一度、連絡をくれだって」母親の説明にジアエは少し申し訳なさそうな顔をした。これまでの話し合いでも両親の主張が強過ぎて夫の本音は聴けていないような気がする。母親の希望で「聖」の字を入れることが決まったのだが、夫にはそんな文字はないのだろうか。ジアエははしゃいだようにうなずき合っている両親の横顔を黙って眺めていた。
「男の子だったんだから『聖』は決まりとしても下はどうしましょう」母親は自分の希望がかなって誇らしげに仕切り始める。
「うん、朝の陽射しが眩しい時に生まれたんだからセオングワン(聖光)なんてどうだ」「それならセオンイル(聖日)でも良いわよ。イ・セオンイル(李聖日)なんて素敵じゃあない」母親は自分の意見に同調させようとジアエの顔を見たが、その哀しげな目に気づいて口をつぐんだ。
「ジアエは何か意見でもあるの」「言いたいことがあれば言いなさい」しばらくの沈黙の後、両親は娘もこの喜ばしい話し合いに引き込もうと声を掛けてきた。
「私としては旦那さまに決めてもらいたいの。例え日本人の名前だとしてもそれが良いわ」ジアエの真剣な目を見て両親は互いの顔を見詰めながら押し黙ってしまった。
まだ立ち上がれないジアエは携帯電話をかけ、両親はその様子を固唾を飲んで見詰めていた。
「やっぱり私たちの子供の名前は父親である貴方に決めて欲しいの」ジアエは岡倉の意見を求める。
「ご両親は何て言っているんだ」「母は聖の字を使う名前ばかりで、父もそれに同調しているわ」ジアエの説明に両親は気まずい顔をしながら視線を床に落とした。すると電話口で夫は意外な意見を言い始めた。
「聖と言う漢字を日本では『ひじり』と読むんだ。全国を旅しながら庶民の中で生きた坊さんのことだ。俺も世界を旅する人間だから似たようなもんだろう。だから我が子に聖と言う字を使うのは賛成だよ」夫の希望を聞きジアエは両親の顔を見たが内容が判らないのでは反応のしようがない。
「下の漢字は」「聖の字を俺の希望として下はそっちで決めてくれ」ジエアには夫の声が本音を言っているように聞こえた。岡倉としてはチベットで僧侶として死んだ村田2佐のイメージも重ねていたのだがジアエが知るはずはない。
「タイガーは何て言っていたんだ」「やっぱりこの間の日本人の名前が良いって」両親の質問にジアエは首を振る。そして両親が息を吸ったところで自分の意見も加えて発表した。
「セオングヤ(聖也)、ジャスト・セイントよ」この「グ」は発音せずに口の中で間を置くため「セオンヤ」に聞こえる。「李聖也」これなら全員の希望が叶った満場一致の名前だろう。

日本では「お七夜(初七日ではない)」「お宮参り(浄土真宗ではお寺詣り)」「お喰い初め」などの出産と成長を祝す行事があるが韓国では出産から100日目に盛大なお祝いを行う。それはキリスト教徒も佛教徒も変わりなく韓国人としての伝統的な儀式なのだ。
この日は親戚が祝いの品を持ち寄り、子供の披露目と祝宴を催すのだが、ジアエの父親は済州島での迫害を逃れてアメリカ人の神父に預けられて育ったためソウルには親戚はおらず、母親もすでに両親や兄弟を亡くしているので訪ねて来る者はいない。ただ師団司令部から法務官、連隊本部から同僚たちが駆けつけささやかな祝いの席になった。
「李大尉はチマチョゴリ姿も素敵だね」「うん、凛々しい軍服とは違った魅力がある」監理部の若手士官たちは主役の聖也を放っておいてジアエを肴に祝いの餅を頬張り始めた。100日目の祝いに清淨を表わす白の餅と邪気を祓う小豆餅(粉をかけて作る)を花や果物と一緒に祭壇に飾り、来客たちに振る舞う。そんな華やいだ雰囲気の中でも職場の人間たちは子供の父親の話題には触れられないようだ。すると法務官が中央のベビー椅子に座らされた聖也の顔を見ながら声をかけた。
「セオンヤ(聖也)くんは父親似だな。細い目と太い眉毛、立派な顎がそっくりだ」「そうですかァ、嬉しいです」法務官の言葉にジアエは満面の笑顔になる。その横で若手士官たちは驚いて顔を見合わせた。連隊では未婚の母になったカソリックの士官として非難を浴びても決して明かさなかった子供の父親を法務官は知っているのだ。しかし、好奇心だけで追求できる相手でなかった。
て・李英愛イメージ画像
  1. 2017/10/31(火) 09:52:30|
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振り向けばイエスタディ993

「タイガーはどうしようかな」病院に連絡がつき、岡倉がジアエを車の後席に乗せていると運転席のドアの前で義父が意外なことを言い出した。これには義母も困惑している。
「ジアエは父親の名前を申告しないで診断を受けているんだろう。そこに本人が現れてはまずいんじゃないのか」確かにこれは盲点だった。本来であれば岡倉が気がつかなければならない秘密保持のための配慮だ。やはり岡倉も妻の初めての妊娠・出産に舞い上がっているらしい。
「私は大丈夫だから貴方は残って。本当は1人で産むつもりでいたんだからこうして来てくれただけで十分過ぎる激励よ」岡倉が判断に困っているとジアエが毅然として制止した。岡倉としては「兄」として立ち会うことができないかを思案していたのだがそれを未練と言うのだろう。
「そうですか、それではよろしくお願いします」「まかせておいてくれ」「十字架は私たちの寝室にありますから主に無事な孫の誕生を祈っていて下さい」義父母の返事にうなずいてドアを閉めようとするとジアエが手で押さえた。
「貴方、激励のキスを・・・」岡倉はジアエの言葉が終わる前に両手で頬を挟んで口づけをした。

「初産ですから子宮口が固いのでしばらくかかりますよ」医師の言葉にジアエは静かにうなずいた。
これは母親からも聞かされていることなので覚悟はできている。ただ父親は緊張した顔になった。やはり妻と娘では同じ出産でも感じる不安が違うらしい。何にしても男には何も出来ることがない。それは岡倉がこの場にいても同じだったはずだ。
先に病室に案内されて待機することになり、母親とジアエは分娩室での注意事項や出産までの経験談と質疑応答を繰り返しているが父親は1人で天井を見上げている。間もなく日付が変わる時間なのでテレビをつけても気を紛らわせる番組などはない。すると同時に陣痛が始まった。
「スースーハーハー」生真面目なジアエは教えられた通りの呼吸法を始める。母親は腰をさすりながら一緒に声を出してリズムをとり、するとジアエの額に汗がにじんできた。これを繰り返すうちに陣痛の間隔がさらに短くなり、やがてジアエは分娩室に連れて行かれた。
「スースーハーハー、ウウン」分娩室では看護師が腰をさすっている。真面目に呼吸法をしながらもジアエは呻き声を上げるようになった。苦痛に耐えながら顔をゆがめ、汗と涙がにじんでいる。その間にも看護師たちは手際よく出産と胎児の計測や洗浄の準備を進めていた。
「お前の時もこんなに苦しんだかな」「貴方はオロオロして何も言えなかったじゃない」分娩室まで付き添った両親は小声で話し合っているが、こんな時も母親は経験者として落ち着いていても父親は単なる見学者以上の場慣れはしていないようだ。
「そろそろご両親は廊下に出て下さい」と医師に言われ母親は「頑張りなさい。カミの御加護を」と娘に声をかけたが、父親は逃げるとように出て行ってしまった。
「よろしく、お願いします」母親が医師や看護師にも頭を下げてから廊下に出ると父親は分娩室の前に置いてある長椅子に座っていた。母親が隣りに座ると父親は深い溜め息をつく。その緊張し切った横顔を眺めながら母親は「自分の時もこうだったのか」と言う懐かしさと「娘だからなのか」とのかすかな嫉妬を感じていた。
子供は中々生まれない。分娩室からはジアエの呻き声と看護師の励ましの声が聞えてくる。その時,ジアエが「貴方」と絶叫したのが聞こえ、同時に「生まれた」と言う看護師長の声と赤ん坊の泣き声が響いてきた。初夏の眩しい朝日が窓から射し始める時間だった。
「立派な男の子だよ・・・」看護師が言葉の後半を濁したのはこの子が父親似だからかも知れない。病院に申告できない父親のことを出産直後の女性の耳に入れるのは心理的にも好ましいことではないのは当然だ。しかし、ジアエにとってそれは本当に喜ばしいことだった。
「旦那さまにそっくり。嬉しい」娘の喜びの声にも両親は心配になってくる。両親は岡倉の韓国人にはあまりない顔を思い浮かべながら顔を見合せて互いの内心を確かめ合った。
「生まれたよ。元気な男の子よ」母親が自宅に電話をすると岡倉はしばらく出なかった。やはり奥の寝室で祈りを捧げていたのだろう。すると父親が奪うように受話器を取った。
「タイガー、素晴らしい孫を有り難う」やはり父親としての貫録は婿に発揮されるもののようだ。その癖、涙ぐんでいるのを隠して鼻水をたらしているのは男の見栄なのかも知れない。
  1. 2017/10/30(月) 09:28:00|
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10月30日・余りにも大きかった失われた人材・高野長英が殺された。

嘉永3(1850)年の明日10月30日(太陰暦)に江戸時代最大の蘭学者であり、幕府が重用していれば歴史を変えたことは間違いない高野長英さんが殺害されました。
高野さんは文化元(1804)年に現在の岩手県水沢市にあった伊達藩の支藩の藩士の3男として生まれ、支藩医の高野家に養子に入りました。この養父は若い頃、江戸で杉田玄白に蘭方医術を学んだことがあったため家には蘭方の医術書が山ほどあったのですがあまり優秀ではなかったため殆ど読めず、聞きかじりの蘭方医術を学びながら憧れだけが膨らんでいったと言われています。
そうして17歳の時、頼母子講で引き当てた資金で勝手に江戸へ出て同じ伊達藩の一関支藩から杉田玄白の養子になっていた杉田伯元さんの天真楼塾に入門します。ところが下宿先で知り合った吉田長淑さんの学識に感服するとアッサリとこちらに乗り換えたのです。この非礼さが高野さんの欠点でありますが、当時としては日本最高の蘭学者だった吉田さんにとっては得難い後継者であり、名前の1字を与えられて「長英」と名乗っています。その後は長崎の医師が江戸に出てきた折の借金の取り立てを引き受けて長崎に遊学し、ここでズィボルトさんの鳴滝塾に入門しました。日本最高の蘭学者の愛弟子である高野さんは鳴滝塾でも忽ち頭角を現し、二宮敬作さんなど共にシーボルトさんの片腕として本当の目的である諜報活動の手助けとして日本での文書の翻訳などを行うようになりました。こうしてオランダ語と蘭方医術に磨きをかけ、さらに海外情報を収集した頃、持ち出しが禁止されていた武具や地図などを送ろうとしたオランダ船が台風で難破したことで発覚したシーボルト事件が起こりますが、高野さんは抜群の嗅覚でそれを察知して長崎を後にしており、手配を逃れて江戸へ赴いたのです。
江戸では田原藩の江戸家老でありながら蘭学に傾倒していた渡辺崋山さんと出会い、やがては尚歯会と言う蘭学の研究会を結成して、それまでは徒弟制度の枠の中で縦に伝えられていた蘭学の知識や海外情報を共有し、議論によって見識を広め深めることに指導的役割を果たすようになったのです。
尚歯会の存在は外国船の出没が頻発化する中で将軍の耳にも届き、内々に意見具申する機会を与えられることになったのですが、それを旧来の儒学の危機と考えた鳥居耀蔵が策略を巡らし、存在しない罪を捏造した上で関係者にその虚構を流布・周知して摘発させた蛮社の獄が起こりました。この時の高野さんの罪状は友人たちの間で回し読みした書物で幕府の対外政策を批判したことですが、これはあくまでも私文書であり友人たちが又貸ししたことで拡散したに過ぎませんでした。尤も、渡辺さんも同様に未発表の私的論文で摘発されていますから鳥居の根回しがどれほど周到であったかが判り、それはそのまま尚歯会に対する強い敵意の表れでもありました。渡辺さんは無実の罪で田原藩国元での蟄居となりやがて自刃、高野さんは伝馬町の牢獄につながれることなりました。それから5年にわたり投獄生活を送りますが、やがて手懐けた牢人足に命じて放火させ、その火災による解き放ちに乗じて逃亡したのです。
しかし、この時には鳥居は数々の悪事が発覚して失脚しており、町奉行には尚歯会に理解を示していた遠山景元さん(=金さん)が就任した直後でしたから、このような非常手段を用いなくても無罪放免されることは決まっていました。
結局、脱獄と言う重罪を負うことになり、逃亡生活は壮絶になりましたが、それでも二宮さんが藩医を勤めていた宇和島藩に匿われて西洋式砲台を設計し、故郷にも帰り、やがて協力者により死亡情報が流れると硝酸で顔を焼いて人相を変え、江戸で町医者としての生活を送るようになりますが、伝馬町で同じ牢だった人間の証言で捕り手に踏み込まれ、撲殺されたとも自害したとも言われています。
高野長英(佐藤耕雲)
若き日の高野長英(有名な肖像画と比べると壮絶な後半生が偲ばれます)
  1. 2017/10/29(日) 00:24:06|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ992

「私としては聖人の名前に漢字を当ててもらいたいな」翌日も子供の名前の話題が続いている。義母の意見はカソリックの信者としては当然だが、外国人の名前に漢字を当てはめるのは日本では軽薄な若い親が好む命名方法なので岡倉としては賛成できない。
「韓国でもアルファベッドの名前は認められていないのですか」岡倉は日本の戸籍法ではアルファベッドは認められず外国人も片仮名にしなければならないことを知っていたので義父に確認してみた。
「うん、漢字でなければハングルでなければならない」どうやら韓国の法律は独立時に日本の統治下で制定された法律を踏襲しているため意外なほど共通しているようだ。
「それでお義母さんはどの聖人の名前が希望なんですか」岡倉はカソリックの聖者の名前に詳しい訳ではないが隣りにジアエが控えているので説明は受けられる。それを踏まえての質問だった。
「私としては聖アウグスティヌスだけど・・・」「教会博士と呼ばれている聖人なのよ」やはり教師である義母は教育者の聖人が好みらしい。
「しかし、それに漢字を当てはめるのは無理じゃあないか」「それはそうね」義父の意見に義母も素直に同意する。これは順当な判断だろう。
「ジアエは誰かいない」自分の意見が却下されたところで義母はジアエに振ってきた。自分だけが失敗するよりは娘も巻き込みたいと言う不可解な女性心理のようだ。
「私ならやはり聖セバンアヌスよ」「発想は同じだな」この義父の説明では岡倉には判らない。そこでジアエが「兵士の守護聖人」と補足した。
「セバンだけなら漢字が当てはまりそうですけど。イ・セバンってどうですか」岡倉としてはジアエの希望には賛同したいので義父に意見を求めた。すると義父は手元の紙に音から漢字を並べ始めた。
「もう1人あるの。良い」そんな父親の姿を見てジアエは希望を追加した。
「聖ヨサファット、これなら旦那さまにも納得してもらえるでしょう」「なるほど・・・」義父はうなずいたが義母は首を傾げている。この反応の違いに戸惑って岡倉はジアエの顔を見た。
「聖ヨサファットはアジアの王子だった身分を捨てて荒野で瞑想に入ってカミの啓示を受けた聖人なの。カソリックの神学者の多くは釋迦の生涯の事跡がエルサレムにまで伝わって聖人に加えられたとしているわ」「そんな聖人もいるのかァ、日本ではキリスト教のカミも八百万の神々の一柱になっているけど佛陀がカソリックの聖人になっているとはね」岡倉にはジアエが自分のためにこの聖人を見つけておいてくれたように思え、黙って手を握った。
「今のジアエの説明はカソリック教会としての定説ではなくて一部の神学者の見解なのを間違えてはいけないわ」やはり義母は納得していないようで、あえて否定してきた。
「それでは男の子には聖(セオン)の字を入れる名前を考えることにしよう」議論が煮詰まってきたところで義父が妥協案を示す。これも順当な判断のようだ。
「女の子はどうする」「私は韓国女性の名前は女優や歌手、あとはプロゴルファーぐらいしか知らなくて」義父の質問に岡倉は正直に答えた。アメリカでは韓流ドラマは放送されていないので、本当は女優や歌手もあまり知らずお手上げだった。
「女優かァ、若手ならチョン・ジヒョン(全智賢)の名前が良いね」義父もやはり教師らしく優等生になりそうな名前が好みのようだ。
「そう言えばプロゴルファーの李ボミの名前は漢字ではないですけど、どんな意味なんですか」李ポミはアメリカ・ツアーに参加した時に少しジアエに似た美貌で記憶に残っただけだが、そのままでは同姓同名になってしまう。
「ボミは春の暖かさを意味する言葉だよ。音だけで普美と言う漢字を当てることもあるな」「良い名前だけど使えませんね」「本当だ」岡倉の答えに家族が声を揃えて笑った時、ジアエが腹を押さえた。
「痛い」どうやら笑いながら背中を反らした拍子に胎児が反応したようだ。
「貴方、トイレに連れてって・・・破水もしたみたい」ジアエは股間の濡れた感触に顔をしかめながら岡倉の肩にすがって立ち上がった。それを見て李家は急に慌ただしくなる。
「先ずは病院に電話だ」「貴方はまだお酒は飲んでいないわね。ドラーバをお願い」「入院の時に持って行く物を入れたカバンはジアエの部屋にあります。後で取りに行きます」出産する本人以外はそれぞれが自分の役割を確認しながら出産の準備を始めた。
  1. 2017/10/29(日) 00:22:36|
  2. 夜の連続小説8
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この際、世界統一の暦を採用しよう。

天皇の地位を職業と考えているらしい今上さんが息子と交代するのが1年半後の2009(平成31)年3月になりそうです。改元も同時の行われるようなので今後は元号と西暦の換算がますますややこしくなり、公的には元号、日常的には西暦を使う応用動作=国民は迷惑を被っている状態が完全に定着することになるでしょう。
元号では改元された年が元年=1年になるため昭和のように5年単位で容易に換算できるようにするには2011年まで待たなければなりませんが、今上さんは明日をも知れぬ重篤な病気を患っているのではないようですから元号制度を維持するためにもあと2年くらい頑張ってもらうべきです。それが無理=嫌なら改元だけを遅らせれば良い話でこれは幾らでも前例があります。
戦前に使っていた皇紀は存在すらあやふやな神武天皇の即位を紀元とする上、日本にはなかった文字による中国の記録では明らかに年代が誤っているので採用は御免蒙ります。尤も野僧は有史以来、皇室=朝廷が繰り返してきた東北に対する武力侵略と搾取、その仕上げとして幕末の動乱で忠義を尽くしていた会津を代表とする東北諸藩を薩長土肥にそそのかされるまま賊徒として踏み躙ったことへの謝罪がない以上、全く敬意を払っていないので元号や皇紀などは消えてなくなれば良いのですが、イエスの生誕年を紀元とするキリスト教の暦である西暦(=グレゴリオ暦)を使うのにも内心では嫌悪感を抱いているのです。それにしても西暦ではイエスが生まれて0歳だった年をAD1年としており、紀元前も同様にBC1年にしているため紀元0年が存在しません。この空白の1年の間に重大な出来事があったことが確定すれば西暦の正当性に疑問がつくかも知れませんが、歴史学者はAD1年かBC1年のどちらかにしてしまうのでしょう。
野僧は年賀状などでは佛歴を用いていますが、こちらは釋尊が入寂した西暦紀元前544年を紀元としているもののスリランカやミャンマーではその年を元年=1年、タイやカンボジア、ラオスでは0年を設けるため翌年を元年にしています。この差異を解決しないと国際標準にするのは難しいようです。
イスラム教では預言者・ムハンマドがマッカを追われてマディナへ移った西暦622年を紀元とするヒジュラ(聖遷)暦としています。ただし、月を重要視する教義から太陰暦を堅持しており、しかも太陽暦との誤差を修正する閏月を認めず、月の満ち欠けの周期に合わせて29日と30日を交互に繰り返しているため1年が354日になり、3年で1カ月のずれが生じ、18年で季節が逆転してしまいます。日常生活では聖なる月を基準としていることに異存はなくても農業では種をまく時期、収穫する時期などを決めるのに不便なので特例的に太陽暦も使用してきたようです。
ここまで宗教的な紀元・暦が不完全ならば、いっそのこと最も天体の本質、宇宙の起源に迫っていたマヤ暦でも1年を365日としていたハアブ暦を採用してはどうでしょうか。これは西暦紀元前3114年8月11日を紀元として20日間の月を18回重ねた後に5日間を加えるもので、1月「ボブ」2月「ウォ」3月「ジプ」4月「ソッツ」5月「シュク」6月「ヤシュキン」7月「モル」8月「チェン」9月「ヤシュ」10月「サク」11月「ケフ」12月「マク」13月「カンキン」14月「ムアン」15月「パシュ」16月「カヤブ」17月「クムク」18月「ワイェブ」(この呼び名はペルー人の友人に口頭で聞いたため正確ではありません)の順で「ワイェブ」に加える年末の5日間は何もしないのが原則です(日本で言う「凶」に当たるため)。これならローマ皇帝のわがままで生じた2月が28日間と言う変則的な暦も解消できます。
  1. 2017/10/28(土) 09:15:45|
  2. 時事阿呆談
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振り向けばイエスタディ991

岡倉はジアエの予定日である6月に入り、韓国に帰宅した。今回の名目は担当しているイランの核開発問題でロシアと中国が最新鋭の地対空ミサイルを売却して、イスラエルによる専制的自衛権の行使=奇襲的空爆を阻止している情報を韓国の貿易会社を通じて調査することだった。
「貴方、やっぱり来てくれたのね」ジアエは予定日が直前に迫ってからは実家に戻っており、大きな腹で嬉しそうに玄関まで出迎えた。
「うん、元気そうで安心したよ」「だって妊娠は病気ではないもの」そう言った妻を抱き締めて口づけをしたが腹がつかえていつもとは距離感が違った。
「予定日は明日だけど全く兆候がないの」廊下を歩きながらのジアエの報告に予備知識を持たない岡倉は少し不安になる。考えてみれば現在の職場で子供を持つのは岡倉が最初だ。
「ふーん、医者は何て言っているんだ」「大丈夫、母子とも健康です」岡倉の声を聞き、台所から義母が顔を出した。この義母も間もなく祖母になる。日本では「お祖母ちゃん」と呼ばれることを嫌う妊婦の母親が多いと聞いているが、儒教精神が根づいている韓国では子孫を得ることは女性の誇りであり、義母もどことなく貫禄がついたように見える。
「タイガー、わざわざ有り難う。これでジアエも安心して孫を産めます」「でも仕事として来ているんだからこの子が父親の予定に合わせて生まれないとね」「それが親孝行の踏み絵、親子の絆の証明になりそうだな」「そんなプレッシャーを掛けないで」自分が言い出した出産の条件を岡倉が具体的にするとジエアは腹を撫でながら拒否した。そんな母親になり切っている妻の姿を見ながら岡倉の胸には何故かジェニファーの顔が過った。

「この子の名前だけど」夕食の席でジアエが訊いてきた。どうやら岡倉が義父と酒を酌み交わし、酔ってしまう前に質問したらしい。
「俺は韓国での命名の作法を知らないから1人では決められないよ」岡倉は尊敬に値する韓国人が思い当たらず本当に白紙だった。
「確かにそうだろうが希望があれば言ってみなさい。韓国語としての語感が美しければそれで良いだろう」義父の助言を聞いて岡倉は1つだけ考えていた名前を言ってみた。
「タツローと言うのはどうだろうか」「どんな字を書くんだね」義父に訊かれて岡倉は義母が差し出した紙にボールペンで書いて隣りのジアエに渡した。これは言うまでもなく先日、チベットで死んだ村田達郎2佐の名前だ。村田の人生が幸福だったのかは判らないが見事であったことは間違いない。その雄々しい魂を我が子が受け継いでくれればと言う願いを込めた選択だった。
「タチェウだな。イ・タチェウ(李達郎)か・・・何かを達成する人と言う意味だね」義父の反応は悪くない。しかし、義母は女性らしい心配をした。
「でも韓国人にはあまりない名前だから日本人の子供だって知られると苛められないかしら」「そうですか?」アメリカ在住の岡倉は最近の韓流ブームを知らないが、帰省する度に空港や列車では日本人の中・高年女性が増えている。彼女たちの若い娘のようなハシャギ振りに今までの物見遊山と異なる熱い憧れを感じていた。
「今は一過性のブームになっているが遠からず政治が反日に舵を切るだろう。それが子供の入学時期と重なれば格好の苛めの対象になる懼れはあるな」義母の意見に義父は手のひらを返すように同調した。するとジアエがきまり悪そうに口を挟んだ。
「それじゃあ、私が考えていた名前も駄目ね」そう言ってジアエは岡倉の前の紙を引き寄せ、3つの漢字を書いた。それは「李周作」だった。
「ジュジャク、イ・ジュジャクかァ、少し語感が合わないな」「これも日本人の名前だね」やはり両親は難色を示す。しかし、岡倉にはその名前の由来は判っている。
「遠藤周作の名前だな」「ええ、カソリックとしての私の目を大きく開いてくれた本の作者だもの」それは村田からもらって渡した英語版の「沈黙」と「深い河」のことだ。この名前なら村田の思い出とも重なる。そこで岡倉は応援の見解を述べた。
「遠藤先生なら世界的カソリック作家ですから韓国の信者が名前を取っても不思議はないでしょう」「まあ、男の子とは限らないからな」義父がオチをつけてこの場はお開きなった。
  1. 2017/10/28(土) 09:14:09|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ990

私はロウソクに火を点けて香炭を焼き、焼香の準備を整えた。角香炉の抹香は綺麗に揃えてあるが所詮は素人の仕事で、微妙な盛り上げ方の作法は判っていないようだ。
「この方のお名前は」「ここでは必要ないだろう」「それでは御宗旨は?」「浄土真宗のようだ」私の確認には人事部長が答えたが氏名や階級を教えないところを見ると難しい立場の隊員らしい。本来であれば法要の功徳を回向する相手の名前は必要なのだが遺影を見ながら念ずることにする。
浄土真宗と聞いて頭の中で段取りを組み立ててみたが似て非なる点も多く、詠み慣れている浄土宗の四誓偈=浄土真宗の重誓偈(ちょうせいげ)と佛説阿弥陀経を勤めることにした。
やがて副官がドアを開け、参列者は自動的に姿勢を正した。やはり法要の場に「部隊、気をつけ」の指示と号令は場にそぐわない。
幕僚長は厳粛な空気をさらに重くしながら列の右に立ち、その隣りに副長、以下各部長と監察官、法務官、刑務管理官が並び、副官は退室した。私は自衛隊式に「実施します」と申告するべきか迷ったが失笑を買いそうなので黙ったまま合掌し、節度なしで45度の敬礼を行った。
法要は香を焚くことから始まる。浄土宗に回数の決まりはないが浄土真宗は1回なのでそれに従った。
「願我身浄如香炉 願我心如智恵火 念念梵焼戒定香 供養十方三世佛」そして香偈を唱える。
「奉請十方如来 入道場 散華楽、奉請釋迦如来 入道場 散華楽、奉請弥陀如来 入道場 散華楽、奉請観音勢至 諸大菩薩 入道場 散華楽」続いて佛さまと菩薩さんを招く四奉請だ。そして佛さまを讃える歎佛偈を唱えると前置きは終わる。それにしても鐘や木魚などの鳴らし物がないので今一つ調子が出ない。せめて戒尺を持ってきていればと残念に思った。
「それではご焼香をどうぞ。それぞれの宗旨の作法で結構です」勤経、回向が終わり、中央を外して並んでいる偉いさんたちに声をかけると幕僚長が私に向かって手を合わせて深々と頭を下げた。やはり気分では「お導師さま」になっているようだ。
こうして全員が焼香を終えたところで再び中央に出て焼香すると、念佛を唱えて合掌、低頭(ていず)する三礼、そしてお招きした佛さまと菩薩さんに亡くなった者を連れてお引き取りを願う送佛偈などを唱えて法要は終わる。それにしても亡くなった人物について教えてもらえなかったので阿弥陀佛さまに紹介もできなかった。その点だけが気がかりな法要になってしまった。

「それでは失礼します」「ちょっと待て」法要を終えて会議室から退室しようとすると幕僚長に引き留められた。確かに法要の後には供養として食事接待などを受けることが多いが、これはあくまでも私のワンマン・ショーだったはずだ。各部長たちは窓際で談笑しているがそれに加わることができる身分ではない。すると監理部の陸曹たちが入室してきて手早くソファーを元の位置に戻した。
そうして参列者全員が自分の席に着くと私は法務官に手招きされて幕僚長の正面対角位置の席に座らされた。この席は正面に裁判長、両側に検察・弁護が並んでいた法廷の被告人席を思い出させる。続いて2人のWACがコーヒーを配り、上座から順番にそれを飲んだところで開廷だ。
「モリヤ2佐、君が善光寺の聖火リレーの拒否を扇動したらしいな」やはり裁判、と言うよりも軍事法廷のようで、裁判長の代わりに幕僚長が罪状認否を始めた。
「いいえ、私は僧侶たちに実際の出来事を説明して資料を提供しただけです」「それを扇動と言うんだろう」私の弁明を隣りの副長が否定する。これから2等陸佐が政治的活動に関与した規律違反の事情聴取が始まるのかも知れない。しかし、私は軍事法廷が開かれた時、判事を務めるために陸上幕僚監部に配置されているはずだ。ならばこれは裁判官の罷免の可否を審議する弾劾裁判だろう。
誰も言葉を発しないため部屋の中が急に暗くなったように感じる。すると幕僚長が口元を緩めた。
「何にしても良くやってくれた。今日の法要の前に彼の供養をしたようなものだな」「はい、彼の無念も少しは癒えたことでしょう」突然、幕僚長と副長は私を誉めてくれた。両側の各部長たちもうなずいているところを見ると供養したのは中国に関係する事件で死亡した人物のようだ。
「ところで趣味で坊主をやっているモリヤ2佐がどうやって善光寺の若い坊さんたちを扇動したんだ」「君の宗教は曹洞宗だったはずだろう」監理部長と人事部長が連続攻撃を仕掛けてきた。
「そうでした。うっかり宗旨を変更した手続きを忘れていました」やはり雑談のような雰囲気の中で事情聴取が行われている。これは裁判での攻防戦の訓練になりそうだ。
  1. 2017/10/27(金) 09:35:24|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ989

「何か質問はありますか」ジェームズの説明が終わったところで工藤がジェニファーに訊ねた。ジェームズは自分の雑誌社と村田の契約内容、取材目的、現地での行動などを「自分もチベットへ取材に行っていた」と断った上で説明を始めたが、中国当局の監視が厳しかったためは別行動だったとも言っていた。これは事実なのだがジェニファーが信じるかは別の話だ。
「あの人が最後に送ってきた動画は倉庫のような暗くて狭い部屋でした。それに倒れている人たちの服装はチベットの僧侶のものです。どうしてそんなところにいたのでしょうか」これは予想された疑問だった。少しでも想像力が働く者であれば動画に映っている場面で撮影者が置かれている状況を推理するはずだ。ましてやジェニファーは雑誌編集者と言うジャーナリストの一員なのだ。工藤はこれまでの発言を思い起こしながらカップに残ったコーヒーを飲み干した。
「貴女の夫の本当の名前は村田達郎と言います。貴女がその村田が最後まで愛し、信じた女性だからあえて質問に答えるのです」工藤の言葉にジェニファーは表情を引き締めて膝の上で手を結び、ジェームズは空になった自分のカップをもてあそびながら視線を反らした。
「村田は以前から中国によるチベット人の迫害に憤っていて今回の蜂起記念日に大規模な抗議行動を起こすと聞いて実態を探るために潜入すること決めました。彼の会社からの取材依頼は格好の理由になったのです」工藤が無難な落とし所を作ったのを聞き、ジェームズは横顔で安堵の表情を見せた。しかし、ジェニファーはやはりジャーナリストだった。
「実態を探るためにチベットの僧院にまで潜入する必要があるものでしょうか。そこまでやるからにはもっと重大な任務があったと見るのが自然です。例えばCIA(中央情報局),例えばNSA(国防総省の国家安全保障局)、例えばBDS(国務省の外交保安局)・・・私は日本のそれに当たる部署だったのではないかと考えています」これは村田が身分を漏らしたのではなくジェニファーのジャーナリストとしての研ぎ澄まされた直感と取材力が発揮された結果だろう。若し、人格に信用が置けない判断すればこの場で命を奪うしかなくなった。ジェームズは冷たい目で工藤を見たが、横顔の表情は変えていない。
「そうです。村田は個人資格で情報活動を遂行していたのです。日本には公的な情報機関はありませんから」工藤の答えを聞いてジェニファーは自分が負った責任を自覚したように重くうなずいた。
「するとやはりエアボーン(空挺)だったんですね。彼が好きだった歌は日本のエアボーンのものですから」そう言ってジェニファーは携帯電話で村田専用の着信曲を再生して聞かせた。それは日本の戦時歌謡曲で第1空挺団の部隊歌にもなっている「空の神兵」だった。
「この女性を戦力化できれば・・・」工藤はジェニファーをスカウトしたいとの衝動を抑えながら面談を終えた。

「モリヤ2佐、今から殉職者の供養はできないか」突然、法務官に声を掛けられた。自衛官の宗教行為は憲法第20条の末尾「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」の一文によって事実上は禁じられている。それが陸上自衛隊の法務を統括する最高責任者から要望されたのだ。私としては遠回しに予防線を張るしかない。
「できないことはないですが、あくまでも個人的な趣味の披露としてです。副業になりますからお布施は受け取れません」「誰もお布施を出すとは言ってないぞ」法務官の呆れたような返事に少し気分が楽になる。そんな私の顔を見て法務官は打診を命令に変えた。
「それでは幕長室で頼む」「へッ?幕長室でですか」「うん、今から一緒に行くから準備をしろ」私としては市ヶ谷駐屯地にある殉職自衛官慰霊碑の前で読経するつもりだったのでこれは驚きだ。それでもアタッシュケースから数珠と香合、略威儀、そして浄土宗の経本を取り出してポケットに入れるとドアの前で待っている法務官の後に従った。
供養は陸上幕僚長室の隣りの応接兼会議室で行われる。ソファーの半分を部屋の隅に運んで参列者が立つ空間が作ってあり、そこには部長たちが集まって沈痛な表情で黙って待っていた。
正面の白いシーツを被せた台には殉職自衛官の慰霊行事で使われる香炉(基本的には献花だが遺族の要望によっては焼香を行う場合もある)やロウソクまで持ち込まれていて、その中央には人事記録用の写真を拡大コピーした胸に空挺徽章を着けた若い幹部の遺影が飾られていた。
  1. 2017/10/26(木) 09:36:13|
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振り向けばイエスタディ988

「貴方、善光寺での反転工作、お見事でした」長野での聖火リレーの翌日、佳織が電話をしてきた。
「アメリカでも報道されたのか」「始めは台湾が拒否したのに日本は受け入れたって失望したような論調だったけど、善光寺がスタート地点を拒否したことで急に大きく取り上げるようになったのよ」佳織はハワイのニュースを見ているので佛教徒である日系人に配慮した番組編成になっているのだが、一般のアメリカ軍人を対象とする座間や横田の米軍放送ではそれほど大きく取り上げられておらず、むしろ「当然」とする評価だった。
「あれはテレビで大々的に扇動した何とか言うジャーナリストの手柄だよ。ワシは地ならしと後押しをしただけだ」これは謙遜ではなく希望だった。善光寺の聖火リレーのスタート拒否がここまで政治問題化してしまうと、自衛官としては関与した事実を抹消しなければならない。そのためにも世論の批判を恐れず正論を吐いた某ジャーナリストの勇気に敬意を払うべきだろう(日頃の言動には賛成できない面も多いが)。
「まァ、パール・ハーバーの攻撃に成功したのは空母艦隊の功績か航空部隊の手柄かって言う議論やね。貴方は表舞台には立たない空母艦隊なのよ」「その例えなら特殊潜航艇・甲標的の方が好みだね」最近では日本人でも真珠湾攻撃に5隻の甲標的が参加したことを忘れ、続く1947年5月31日にはオーストラリアのシドニー軍港を3隻で攻撃して2隻撃沈の戦果を上げていたことは知識の欠片も持っていない。そんな風に陰の存在である方が有り難いのだ。
「これで貴方も断食して自死する必要はなくなったやろ」「それはこのニュースが南方佛教の連中にどう伝わるか次第だね。不十分とは言え一応は筋を通したことは間違いないがな」私が明確に否定しなかったため佳織は不満そうに溜め息をついたが、健康を害し、陸上自衛官としての本来の職務=戦闘員に復帰することが難しい現状では私の「見事散りましょ願望」はどうしようもない。

ジェームズが訪米し、工藤と一緒にジェニファーの職場を訪ねた。今回は話が機密事項に及ぶ可能性がある以上、第3者の目があり、何よりも防犯カメラが設置されているレストランやホテルは避け、あえて彼女の職場を選んだ。
「編集長、お客さまが来られました」今回は事前に連絡してあるので若い編集員の応対も社交儀礼に適っている。何よりもイギリス紳士の雰囲気を全身と服装から発散しているジェームズを意識しているらしい。2人は編集長室の隅に置いてある長テーブルの前でジェニファーと対面した。
「はじめまして。浦田の妻、ジェニファー・ビーンズです」ジェニファーは自分のことを明確に「ワイフ」と紹介した。ジェームズには村田がこの女性の前では浦田と名乗っていたことは説明してあるので、何の違和感も見せずにうなずいた。ジェニファーはアフリカ系ではあるがヨーロッパ系の血も混じっているようで鼻筋が通り、巻き髪と言うよりもウェーブが掛かったような黒髪だ。
「ロイヤル・ワールド・トラベル社のジェームズ・コネリーです」「ウィクリー・ジャパニ・レポートの工藤です」2人は交代で自己紹介するとそれぞれ名刺を差し出した。ジェニファーはそれを受け取るとテーブルの上に置いてあった自分の名刺を返した。
「どうぞ」「失礼します」ジェニファーが席を勧め、3人が揃って腰を下ろしたところに先ほどの編集員がコーヒーを持ってきた。やはりジェームズを意識しているようでアメリカ人女性としては目一杯上品にコーヒーを置いた。
「本日、伺いましたのは貴方の御主人、浦田徹郎氏にチベットでの取材を依頼した立場上、今回の悲報に対して我が社としても長年にわたる協力に感謝の意を表したく弔慰金をお持ちした次第です」ジェームズのクイーンズ・イングリッシュは使っている単語こそアメリカ英語と大差はないが、語感が上品なので日本語の敬語・丁寧語を聞いているような気がする。ジェニファーもそれを感じたのか表情を改めて静かにうなずいた。
「奥さんは浦田さんがチベットに行く目的をどのように聞いていましたか」ジェームズが弔慰金の小切手を手渡した後、コーヒーを片手に工藤が用件を切り出した。これは雑談としての質問になる。ジェニファーは自分のカップのコーヒーで唇を湿らせると工藤の目を見詰めながら口を開いた。
「夫はヒマラヤの写真を撮りに行くと言っただけでした。それがあの人の立場だったのは判っています」この答えに工藤の目が柔らかくなった。ここで鋭く光らせるようでは素人の反応なのだ。
  1. 2017/10/25(水) 09:16:40|
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振り向けばイエスタディ987

チベット問題は北京オリンピックの出場選手の話題が報道番組の中心を占めるようになると急速に鎮静化してしまった。
「MI6のジェームズから会いたいとの連絡が入っているのですが」杉本が工藤に報告すると倉田=村田2佐を死なせる原因を作った人間の名前に元同僚たちは複雑な反応をした。
「用件は何だ」工藤も感情を押し殺して答えたが、胸の中では村田を引き留められなかった自責の念と危険な任務に巻き込んだMI6への怒りが交錯しているのが判った。
「若し、村田2佐に遺族がいるのなら雇用関係を結んだマスコミとして弔慰金を手渡したいと言うのです」杉本の説明に岡倉と松本はジェニファーの顔を思い浮かべて顔を見合わせた。
村田の遺作となった動画をジェニファーが投稿した後を引き継いだ杉本はそれを捏造とする投稿を詳細に分析し、両者を比較する解説記事を掲示して情報工作であることを明らかにした。
一方、イギリスに帰ったジェームズも暴徒とされる僧侶の顔とラマ市内で撮影した人民解放軍の兵士の顔を比較する画像を投稿してイギリス・ジャーナリスト連盟の批判報道の虚偽を証明して見せた。その結果、北京オリンピックの聖火リレーはヨーロッパ各地で激しい抗議運動に晒されたのだが、それでも参加拒否にまで至らなかったのはインターネットの個人投稿と大手マスコミの影響力と信頼度の違いだろう。
「そう言えば日本も善光寺が聖火のスタートを拒否しましたね」「右翼の過激なジャーナリストが『国辱だ』って騒ぎたてたことで抗議の手紙や電話が殺到したんで、寺としても動かざるを得なくなったみたいです」「そうですか?私は若手の坊主たちが『佛教に対する弾圧を許すな』と決起したと聞きましたけど」アメリカでは台湾が聖火リレーの通過を拒否したニュースが先行しており、日本がそれを受け入れたこと自体を否定的に報じていたため長野での出来事はそれ程の大きな扱いはされていなかった。話が完全に反れてしまったところで工藤が元に戻した。
「弔慰金を受け取るのは良いが、パートナーに村田2佐の死をどう説明するつもりなんだ」「それは自分とジェームズで詰めて思想統一を図ります」杉本の返事に工藤は反応しなかった。まだこの話を受けることを決めておらず、担当者を指名していないのだ。
「要するにジェームズの雑誌社の依頼でヒマラヤの撮影の経験がある山岳写真家の倉田哲郎がチベットへ行った。そこで暴動に見せかけた弾圧に巻き込まれたことにするんだろうが、僧院の倉庫の中で死んだことの説明がつかないぞ」「死んでいたのは全て僧侶でしたから・・・」「村田さんも僧侶に化けていたと考えるのが普通ですね」工藤と岡倉、松本の意見を杉本は黙って聞いている。どれ程知恵を絞っても「僧侶に化ける」と言う異常な行為の必然性が思いつくはずはない。
「それに村田2佐が出発前にどのような説明をしていたのかも判らないでしょう」「氏名は浦田徹郎と名乗っていたようです」「パートナーはアフリカ系女性専門のファッション雑誌の編集長ですが、雑談をしていてもガードが固くてむしろ村田2佐が秘密保全について指導していた可能性があります」村田がどのような形で軍事的な秘密保全を語っていたのか判らない以上、組織を守るためには弔慰金だけを送らせて顔を知られている岡倉と松本が届けるのが無難な線かも知れない。
「よし、私がジェームズに同行しよう。相手の女性の人格を見極めた上で話せる限りの真実を説明する。信用ができない相手なら黙って金だけを置いて帰ることにする」突然、工藤が結論を出した。工藤は困惑している3人に独り言のように理由を説明した。
「インドシナ紛争の時には陸軍中野学校出身者たちが自衛隊に籍を置かないまま情報任務に就いていた。そして北ベトナムの戦力や兵員の練度、基本戦術に関する情報を収集してアメリカに送っていた。そして多くが還らなかった」この話は何度か聞いたことがある。しかし、「時代が違う」と若い3人は思っていた。
「その時も相手によっては真実を教えて協力者に取り込んだんだ。それが現在の広範な人脈につながっている。村田のパートナーがジャーナリストなら利用価値はあるんじゃあないか」この冷徹な計算を聞いて3人は工藤が情に溺れたように誤解していたことを心の中で詫びた。
実は工藤は遠からずこの職を退任し、後は村田に譲るつもりだった。それが頓挫した以上、老骨に鞭を打たざるを得ず、しかもソ連が崩壊してからは最大の軍事的脅威となっている中国の専門家を養成しなければならない。その人選について東京からは何も言って来ていなかった。
  1. 2017/10/24(火) 09:00:43|
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振り向けばイエスタディ986

いよいよ4月26日がやってくる。東京では中国人留学生の組織である学友会がジャーナリストの徐静派や東洋学園大学教授の朱建栄の指導の下に「2000人を動員して聖火を守る」ことを名目にして中国大使館が提供した巨額の資金で都内だけでなく近傍の観光バスを独占しているようだ。このため警視庁も機動隊を派遣して警備に当たるらしいが、政府からは「中国人の逮捕は控えるように」と中国に配慮した指示が出ていることを防衛部防衛課の同僚から聞いた。
私も長野に乗り込んで善光寺で厳修されるチベット事件の犠牲者を供養する法要に参加したいと思ったが、非常呼集に対応できない遠出をするには日帰りでも上司である法務官の許可が必要だ。
「先週も長野へ行ったが親戚でもあるのかね」法事を目的にした私の旅行申請を見て法務官は重い口調で質問してきた。最近は仕事もせずに携帯電話をして時間を過ごし、世間の注目を集めている現場へ繰り返し出掛けては上司として放置できないのは当然だ。
「法要のついでに中国共産党の国家国防動員委員会が2005年に提出している国防動員法の実態を見ておこうと思いまして」「あれは日本の戦時中の国家総動員法のような法律だから中国国内だけに適用されるんだろう」やはり法務官もこの法律の存在については知っていた。
「いいえ、対象は全ての中国籍を有する人民ですから外国に居住していても適用されます」「そんな馬鹿な!国内法を外国に適用できるはずがないじゃあないか。それは重大な主権の侵害だ」法務官の認識は国際常識だが、中国は「自分たちの論理こそが新たな国際常識である」と公言している。この法律はまだ成立していないとは言えそれは手続きに過ぎず、若し、戦争になれば外国に居住している中国人には外から妨害・攻撃する義務が課せられているのだ。
「ふーん、それが事実であるとすれば日本政府の対応は甘いと言わざるを得ないな」「先週、長野に行った時には右翼団体が聖火リレーの阻止を叫んでいました。両者の行動によっては衝突する可能性もあります。その時には警察も逮捕しない訳にはいかないでしょう」ここまで職務上の興味を強調すれば印鑑を押してもらえるだろう。と思ったが意外な展開になってしまった。
「ところでモリヤ2佐は善光寺の坊さんたちが聖火リレーのスタート地点になることを拒否した運動とは無関係なのかね」「へッ?・・・」図星過ぎる質問に流石の私も即答できない。そんな顔を見て法務官は事実を察したように苦笑した。
「テレビでは威勢の良い物言いで坊さんたちをけしかけている言論人がいるが、モリヤ2佐がやるとすればもっと巧妙に火を点けるんだろうな」「そう見えますか」「うん、見える」ここで即答されては身も蓋もないが、これは自衛官が制限されている「政治的活動への関与」に抵触しないことはない。つまり上司としては許可できないはずだ。
「仮に今回の聖火リレーの首謀者が中国側に漏れているとすれば、チベットの坊さんのように殺される危険性もある。身に覚えがあるんだったら今回は休日出勤して職場で中継を見ていろ」「・・・御意」私個人としてはここで殉教するのも一興だが、殺人事件となれば警察が捜査を開始することになり、そこで幹部自衛官がこの問題に関与したことが発覚すれば事態は多方面に影響するのは間違いない。やはり上司の指示に従って駐屯地内で謹慎しているべきだろう。

当日、長野市内には東京だけでなく名古屋や新潟などからも5000人を超える在日中国人が動員されており、赤いTシャツを着て中国の国旗を掲げた人間が沿道を埋め尽くしていた。そんな彼らに押しやられているようにチベットや台湾の国旗も見えるが、日本人の観客が振る五輪旗や日の丸はテレビのカメラが探さないと判らない状態だった。
「ふーん、やはり在日中国人は戦闘員なんだ」私は自分の席からテレビが放送している異様な光景を眺めていたが、華やかな聖火リレーを中継するはずが道路越しに飛び交う罵声と沿道で頻発する揉め事の映像が続く報道番組になっている。確かに正体が知られればこの興奮して殺気だった人間たちに取り囲まれて撲殺される危険性は十分にあった。
「日中戦争が起こればこいつらが自衛隊の駐屯地や基地を襲うんだな」沿道には数メートルごとに警察官が立っているが、興奮した観客が批判の声を上げると警察官よりも先に反応して集団で取り押さえている。それは暴力を奮わない圧殺だ。法治国家である日本は戦争になっても国籍だけで拘束することは不可能だから駐屯地や基地だけでなく官舎の家族までも攻撃対象になるはずだ。
  1. 2017/10/23(月) 10:04:47|
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10月22日・ばってん荒川=お米ばあさんの命日

平成18(2006)年の10月22日は九州で絶大な人気を集めていた肥後俄(ひご・にわか)の名手・ばってん荒川=お米ばあさんの命日です。
「俄(にわか)」は泰平の世になった江戸時代から明治にかけて街頭で行われた素人の大道芸や宴席で酔客が始める即興芸を指したため「俄に始める」で「俄」の名がついたのです。また素人芸であることから茶の間の他愛のない演芸と馬鹿にして「茶番」とも言います。しかし、現在は遊郭・料亭などで本職の幇間(たいこ)が演じた宴席芸の要素も取り入れており伝統文化に加えられています。
歴史については酒があるところならどこでも自然発生する芸能なので発祥の地などは明確ではありませんが(同様の芸能が伝承している地域は20以上あるとされています)、大阪俄は8代将軍・徳川吉宗の享保年間には街中で芸能が行われており、田沼意次さまの宝暦・明和年間には職業化して、松平定信さんの寛政年間には江戸へ進出したと言われています。しかし、松平定信さんの寛政の改革では風紀の取り締まりが強化されていたので町人の街・大坂(当時の用字)では許されても江戸では公演の場所さえ見つからなかったのかも知れません。
一方、福岡の博多俄(「仁和加」とも書きます)は「黒田長政公が藩主になった時、播磨の一宮である伊和大明神の『悪口祭』を模倣させたことに始まる」と言う説とお家騒動を引き起こした馬鹿殿の悪評が高い2代藩主・忠之さんの放蕩の中で生まれたとする説などがありますが、幕末になってから芸人の名前が記録に残るようになり、明治12(1879)年になって幾つかの専門の芸能集団が旗揚げしています。
博多俄は「ぼてかずら」「にわか面」と呼ばれる目の部分だけの面をつけるのが特徴で、演目としては1人で演じる「一人仁和加」、複数で演じる「掛け合い仁和加」、(他の芸などの)借り物にかけて演じる「借り物仁和加」、客からお題を頂戴して演じる「即興仁和加」、(歌舞伎などを模して)芝居形式で演じる「段物仁和加」があります。
九州では荒川さんが発展させた熊本の肥後俄もありますが、こちらは日清戦争以降に盛んに興行されるようになったと言われています。特色としては話芸に優れ、舞台だけでなくラジオでも人気を博していたことです。現在でこそ九州最大の都市は博多を有する福岡市ですが、江戸時代から敗戦後までは熊本が中心地とされており、博多俄とどちらが先に始まったのかには議論の余地があります。やはり酒があるところには自然発生する芸なので同時多発・相互影響と見るべきなのかも知れません。
この他にも佐賀俄や鹿児島俄がありますが、幕末には存在したものの明治の間は新政府の中枢に人材を送り込んだ立場上、風紀の取り締まりが厳しくなって途絶えてしまい、大正になってから博多や熊本の俄を模倣する形で復興しています。
野僧は福岡県の春日基地で勤務していた頃、偉いさんの退官パーティーだったように記憶している大きな宴席で荒川さんの芸を見たことがありました。当時は「俄(にわか)と言われてもお菓子の「二和加煎餅(にわかせんべい)」に使われている両目の面の宴席芸であることくらいしか知りませんでしたが、九州弁丸出しの掛け合いと珍妙な仕草に会場は大爆笑になりました。小休止の後、舞台に和装の老女が現れると会場には割れんばかりの拍手が起こり、「待ってました。お米さん」とあちらこちらから声がかかりましたから実はこの老女が主人公だったようです。
荒川さんはこのお米さんを18歳の頃から演じていて(計算上、青島幸男東京都知事が「いじわるばあさん」で女装する12年前になります)、代名詞だったそうです。
会費はやや高かったけれど荒川さんの芸とお米さんの和服姿が見られたので満足です。
  1. 2017/10/22(日) 00:07:02|
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振り向けばイエスタディ985

4月12日の土曜日に日帰りで長野市へ出かけた。主たる目的は言うまでもなく善光寺参りだ。
善光寺は北陸新幹線の長野駅で下りて長野電鉄に乗り換え、2駅目の善光寺下で下りれば歩いて行ける距離だ。留袖式の略衣(曹洞宗で言うところの改良服)に浄土宗の略威儀を掛けて歩いて行くと山門脇の案内所の若い僧侶が立ち上がって合掌して頭を下げた。
「こんにちは」歩み寄って声をかけると彼は驚いた顔をした。どうやら電話で話した相手らしい。
「善光寺の若い方が聖火リレー反対運動を始めていることはテレビで見ていますよ」「やはり・・・」私が自己紹介の代わりに参詣目的を説明すると彼は黙ってうなずいた。最近、テレビの報道バラエティーでは善光寺の若い僧侶たちが聖火リレーのスタート地点となることを拒否する運動を起こしたことを取り上げ、それを「善光寺決起」と呼んで賛否両論の立場で報じ始めている。さらにチベットでの事件についても海外で飛び交っている情報を紹介するようになり、ようやく国際標準に半歩近づいた感じだ。周囲を見回すと受付に用事がある観光客はいないようなので頭陀袋から大き目の茶封筒を取り出して中の資料を彼の前の台に広げて見せた。
「これは・・・」「南方佛教の仲間たちから届いた資料です。説明は私が日本語に翻訳しました」すると彼はもう一度、周囲の状況を確認した後、資料を手にとって読み始めた。
「酷い、こんなことが行われていたなんて」チベットの僧侶たちの遺骸が山積みになっている写真みて顔を強張らせた後、それが治療に名を借りた薬殺であったことを読み、驚きや怒りを通り越して絶望的な顔になった。
「この写真はチベットの若者が携帯電話で撮影して警官隊に捕縛される前に亡命者の友人に送信したものです。説明については徒歩でヒマラヤを越えて国外へ逃亡したチベット人に写真を見せての証言です」どの資料にも僧侶の悲惨な遺骸と市民への弾圧の写真と証言がつづられており、それを見ている若い僧侶の顔は受付の営業用にはならなくなってくる。すると彼は更にもう一度周囲を確認してから声をひそめて説明を始めた。
「実は寺の幹部たちと私たち納所(雇われている僧侶)の間で聖火リレーに関する意見交換の場がもたれているんです。寺には私たちを支持する書簡や電話が殺到していて幹部たちも県や市の担当者との板挟みになって困り切っているようです」「観光客の獲得と佛教への弾圧を同次元で考えること自体が大間違いでしょう」私の賛同に彼は意を強くしたように頬を引き締めた。
「この資料の他に3月10日からラマ市内で繰り広げられた破壊の時、指揮官役の僧侶が北京語で指示している音声や軍隊式の姿勢で団体行動している様子を撮影した動画のディスクも入っています。意見交換会で幹部の方たちに見せることができれば結論は1つしかなくなるでしょう」そう言って彼の前の資料を茶封筒に納め、中のディスクを取り出して確認させてから手渡した。
すると山門の外が騒がしくなってきた。どうやら右翼団体の街宣車が山門前の参道の入り口に停車して演説を始めたようだ。私は歩いてきた道を逆戻りして街宣車の前に立った。
街宣車は黒塗りの車体に鮮やかな軍艦旗を描き、黄色く太字で大きく「日教組壊滅!」と書き殴ってある。屋根の上には4方向に大きなスピーカーが付いており、街宣車の前でマイクを持って喋っている黒づくめの服装の代表の声が大音響になって噴出している。
「我々は毛沢東によって侵略されたチベットで中国共産党が繰り広げた大虐殺を決して許さない。今回、その中国が開催する北京オリンピックの聖火リレーが当地・長野市から開始されることを日本民族の恥辱と考えていたが、善光寺の僧侶たちがそれを拒否した壮挙に心から喝采を叫びたい」言っていることは私が扇動していることと大差はないが、そもそも右翼団体は国家神道の再現を主張しているので佛教への弾圧は批判の材料にはしていない。しかし、右翼にこれをやられてしまうと平和主義の参詣者たちに逆の感想を与えかねないのではないか。
最近、東京や名古屋では26日の聖火リレーのスタート当日に在日中国人を動員して長野に向かう計画が発令されているとの情報もある。幹部たちが寺をこのような政治問題に巻き込んだ責任を納所たちに押しつけて沈黙させれば、聖火リレーは予定通りに拜殿前からになってしまうだろう。それが日本の佛教界的には「波風が立たず丸く収める」方法なのだ。
それでも4月18日に善光寺はスタート地点の辞退とその時間帯に中国人とチベット人の犠牲者の追悼の法要を行うことを発表した。
  1. 2017/10/22(日) 00:05:42|
  2. 夜の連続小説8
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10月21日・「豊橋の偉人」になっている詩人・丸山薫の命日

昭和49(1974)年の10月21日は豊橋市在住で愛知大学の客員教授を務め、近隣の学校の校歌を数多く作詞した詩人・丸山薫さんの命日です。
野僧の出身中学校の校歌も丸山さんの作詞で、最初の国語の授業で校歌を習い(教師は詩の作品として冒頭の「白雲」を「しらくも」ではなく「しろくも」と唄うことを強調していました)そこで名前を知ったのです。その後、書店で丸山さんの詩集を見つけて購入したのですが、海に憧れて東京高等商船学校に入学した頃の船や海を詠った作品に海軍少年としては大いに感動し、海上自衛隊生徒を目指す受験勉強の合間に口ずさんでやる気を高揚させていました。「・・・風下当番という 若い顔した風がいる 点鐘を鳴らし 号令をふれ歩く 二人の風が船尾に立っている 風上当番(ウェザアヘルム)と風下当番(リイヘルム)と・・・(詩集『点鐘鳴るところ』の『風』より)」 
結局、海上自衛隊生徒の合格通知を父親に破り捨てられ、自宅から最も遠い海辺の高校に入学することになりましたが、その高校の校歌も丸山さんの作詞でした。「東海の蒲郡 雲淡紅(くも・ばら)に輝きわたり よせ来(きた)る春の汐 ふるさとの良き朝を・・・(蒲郡高校の校歌)」ちなみに母親の出身校である豊橋市内の商業高校の校歌も同様でした。
丸山さんは明治32(1899)年に有能な国家公務員の息子として現在の大分県府中市の公務員官舎で生まれました。翌年には父親の転勤で長崎に、4歳でまた東京の丸ノ内に、さらに6歳で韓国のソウルに移り住み、そこで小学校に入っています。そして9歳の時に父親が島根県知事になったため東京経由で松江市に引っ越し、同時に転校しました。ところが12歳の時に父親が病気にかかって退官したので東京の西大久保に身を寄せた後、夏に父親が死亡したのを受けて、母方の祖父が住む愛知県豊橋市に預けられることになりました。豊橋市ではトップとされている旧制中学校(現在は愛知県のベスト10に入っていない)に入学すると愛読していた海洋冒険小説にロマンを掻き立てられ船乗りに憧れるようになり、周囲の反対を押し切って東京高等商船学校を受験し、1度失敗したものの翌年には合格しました、身体を壊したことで除籍になり、はかない夢と終わってしまったのです。傷心の丸山青年は志(こころざし)が定まらぬまま第3高等学校の文科丙類に入学しますが、やはり勉学への意欲が湧かず出席日数不足で留年し、このことで三好達三さんや桑原武夫さんと同級生になりました。こうしてようやく文学への意識が確立すると作品が校友会の雑誌の文芸賞に選ばれ、いよいよ文筆家への道を歩み始めたのです。
大正15(1925)年に27歳で東京帝国大学文学部国文学科に入学しますが、29歳で結婚したため中退し、詩作に専念するようになります。この頃の作品が前述の船(東京高等商船学校の実習船であった帆船の日本丸や海王丸が舞台)や海を謳った詩です。戦中・戦後と山形県西村上郡西川町岩根沢に疎開してそこで代用教員を務めた後(ここにも記念館があります)、昭和23(1948)年に豊橋市へ帰り、ここに定住することになりました。豊橋では中国の上海にあった東亜同文学院が帝国陸軍の駐屯地・練兵場跡に移転して開設した愛知大学の客員講師になり(この頃の学長は山形県出身でしたが前述の経歴と関係あるかは不明です)、後に客員教授となって東三河地区では数少ない文化人として尊敬を集めるようになったようです。
丸山さんは数回の転居の後、静岡県との県境に近い山間部に居宅を構えています。この家には三好達三さんや城山三郎さんなどの高名な詩人や文筆家が訪ねてきたそうですから文化過疎地の豊橋市としては得難い存在だったのは間違いありません。
  1. 2017/10/21(土) 09:05:43|
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振り向けばイエスタディ984(前半はほぼ事実です)

携帯電話を切った私は前もって調べておいた善光寺内の電話番号のダイヤルを押しまくった。
「はい、××寮です」「私は日本人の南方佛教の僧侶ですが・・・」色々な現場の係を担当している若い僧侶を相手に猊下の名前を使うのは避けた。むしろ質疑応答で理解を深めたいのだ。
「貴方はチベット暴動の実態をご存知ですか?」「えッ、あれって過激派の坊さんが暴れたんでしょう」どうやらテレビのニュースも見ておらず雑談の中で先輩たちの話を聞いて鵜呑みにしているようだ。こうなれば扇動するのは簡単だ。そこで判り易く大筋だけを説明することにした。
「実際は中国の軍隊の兵隊が法衣を着て坊主に化けたんです。そうして坊主が暴動を起こしたように見せかけてチベット佛教を悪者に仕立て上げたんです」「どうしてそんなことを・・・」相手は初めて聞く話に言葉を失ってしまったようだ。そこで機を逃さず追い討ちをかける。
「中国は以前からチベットでの民族弾圧で国際社会から批判を受けているので、オリンピックの前に弾圧される側を悪者にする必要があったんです」「それは酷いですね」本来であれば暴動で行われた破壊と殺人についても詳しく語りたかったのだが時間の関係でそれは控えた。
「何よりも中国は多くの僧侶を殺害しておきながらそれを隠蔽して中国人の被害者の数だけしか公表していません」「そんなことができるんですか」「現地の戸籍では寺の僧籍簿を破棄さえすれば済むことです」これは最近、手紙で知った情報なので日本の新聞やニュースでは報じていない。
「そんな北京オリンピックの聖火リレーのスタート地点が善光寺になることは世界中に日本の佛教界がチベットでの弾圧を認めたと思わせてしまうことなんです」「確かにそうですね。何だか腹が立ってきました」そう言いながら受話器を握り直した音がした。
「善光寺のお偉方は観光客を集めることしか考えていないようですから貴方たち若い方たちが声を上げないと善光寺は世界の佛教徒から非難を浴びることになりますよ」「確かに・・・貴重な話を聞かせてくれて有り難うございました」やはり仕事中の長電話は許されないようで、ここまで電話を切った。おそらく今の相手は一番の下っ端だろう。それでも上役の顔色を窺い、世間の常識に迎合する功利的な古参よりも純粋な若者たちの怒りが燃え上がることの危険性を今の上層部は70年安保の学園闘争で体験しているはずだ。
「はい、△△係です」「私は日本人の南方佛教の僧侶ですが・・・」こうして午後の課業時間は完全に副業の用件に使ってしまった。今日だけでも年齢層、立場を分けず十数人の僧侶にチベット問題の実態を訴えることができた。何にしても私が幹部で良かった。陸曹では許されないことだ。

夜、テレビの報道バラエティーを見ていると意外な援軍が出現していた。それは保守系過激派の人気言論人で善光寺が聖火リレーの出発地点になっていることを「国辱だ」と手厳しく批判していたのだ。私の電話よりも効果は大きいはずだが、このような番組を若い僧侶が見るかは疑問だった。

「モリヤ2佐、最近は少しも席に座っていないようだが何か問題でも抱えているのかね」そんな1週間が過ぎた金曜日の午後、トイレで会った法務官から声を掛けられた。秀吉が家康公に関東転封を命じた「坂東の連れ小便」ではないが放尿中は途中で逃れることができないので、詰問するには絶好のタイミングだ。
「はい、重大な案件が飛び込んできまして各方面に説明と働きかけを実施しているところです」「各方面と言うと陸自内の問題なのか」これはウッカリしていた。「色々な立場の人物」と言う意味で使った「各方面」を法務官は陸上自衛隊の北部・中部・西部の方面隊と受け取ったらしい。
「君が弁護士資格を持っていることを聞いて全国の隊員から私的な法律相談が来ていることは承知しているが、あまり仕事の幅を広げ過ぎるとイザと言う時に動きが取れなくなるからその辺りは気をつけてくれ」確かに最近は離婚の調停や借金の返済などの隊員の個人的な法律相談が届くようになっている。私としては民事の事案は得意分野ではないのだが、弁護士の資格を有している以上、応じなければならず、時折、牧野弁護士に質問の電話をするようになっていた。
「報告と改まることはないが、適時適切な説明を頼むぞ」どうやら私の方が長小便のようで法務官は小父さんらしく腰を振って便器から離れた。
「説明と言われてもこればかりはなァ・・・」私もようやく放水が終わりトイレを出たが、今日は席に座って演習中に妻が浮気をした隊員からの相談への助言を作成することにした。
  1. 2017/10/21(土) 09:02:23|
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10月20日・連合艦隊首席参謀・黒島亀人少将の命日

昭和40(1965)年の10月20日に山本五十六長官が連合艦隊を務めている間の首席参謀だった黒島亀人少将が亡くなりました。黒島少将は作戦を考え始めると素っ裸で自室にこもり、食事や入浴を忘れても煙草だけは吸い続けたと言いますから死因はやはり肺癌です。
黒島少将は日清戦争の前年である明治26年に広島県呉市で石工の息子として生まれますが、3歳の時に父親(亀太郎さん)が出稼ぎ行っていたロシアで急死したため母親は離縁されて実家に戻り、亀人少年は石工と鍛冶屋を営む叔父の養子になりました。小学校を卒業してからは養父の仕事を手伝いながら地元の夜間中学に通いますが、成績が良かったこともあり広島市の私立中学の夜間部に編入しています。ここでも成績が良かったため(当時は家庭の事情で昼間部に入れない苦学生も多く成績に遜色はないでしょう)養父母は「医師にしたい」との夢を抱いたのですが、本人は「一生喰うに困らない軍人になろう」と対岸にある海軍兵学校を受験し、大正2(1913)年に入校しています。この頃の日本では日清・日露戦争によって脅威となる敵がいなくなったことで平和を謳歌する気分が充満していて軍人の人気も急落しており、黒島少年の志望動機も決して不謹慎なものではなかったのでしょう。兵学校では坐禅と哲学に熱中していたそうですが、これが周囲から奇人変人扱いされていた原因なのかも知れません。卒業後は大正8(1919)年に水雷学校、翌9(1920)年に砲術学校に入校しており、最終的には砲術士官=鉄砲屋としての道を歩み始めます。
昭和14(1939)年10月に大佐で海軍大学校教官(担当は戦略)から連合艦隊首席参謀になりますが、この人事は8月に司令長官に着任していた山本五十六大将の引き抜きだったと言われています。
山本大将は旧来の海軍的常識に凝り固まった参謀長の宇垣纏少将とは馬が合わず、型破りな発想力と徹底的な探求心を持ち、思いついたことを直言する黒島大佐を重宝するようになり、参謀長を飛び越して指示・報告を交わすようになってしまったようです。
日米開戦が避けられない事態に陥ると山本大将は海戦史上に前例がない空母機動部隊による空襲でハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊を撃滅する構想を抱き、大西瀧治郎少将に航空攻撃の具体的な実施案を作成させた上でそれを黒島大佐に手渡して作戦計画を立案させたのです。
当初の黒島案では日系人の蜂起を期待して航空攻撃に続き艦隊主力による砲撃を加え、その後に陸戦隊を上陸させてハワイを占領すると言う破天荒なものでしたが、占領後の補給が困難であることを理由に山本大将から却下され、空襲による艦隊の撃破のみに絞られました。
続くミッドウェイ作戦は北太平洋アリューシャン列島のアッツ島・キスカ島とミッドウェイ島の占領も企図する壮大なものでしたが(敵艦隊の撃破は副次的な目的だった)、あまりに壮大過ぎて作戦計画に瑕疵が生じており、結局、大きな損害を被っただけて戦果はなく(アリューシャン列島の占領だけが成功した)失敗に終わってしまいました。
当時、黒島少将は日本海海戦における連合艦隊の秋山真之作戦参謀と並び評されることがあったのですが、秋山参謀は海軍兵学校をトップで卒業した上(黒島少将は95人中34番)、アメリカ留学の経験を持ち(黒島少将にはない)、連合艦隊司令部ではそれ以上の天才・島村速雄参謀長の薫陶、時には叱責も受けていますが、黒島少将の頃には日本海軍の体質が硬化してしまっていたこともあり、山本大将以外に作戦・発案に異論を差し挟める者がおらず、連合艦隊から軍令部に移動してからは特攻兵器の開発などの暴走を始めてしまいました。
黒島少将の罪科としては敗戦後、遺族や関係者を騙して借用した宇垣中将の私的業務日誌と所感集「戦藻録」の自分に不利な部分を無断で削除して廃棄したことがあります。これで晩節を汚しました。
  1. 2017/10/20(金) 09:14:12|
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振り向けばイエスタディ983(ほぼ事実です)

長野からの聖火リレーは4月26日のことなので阻止に向けた内部工作は緊急を要する。通常であれば礼を尽くして書簡で連絡を取るのだが、今回はその場で返事を聞けるよう電話を掛けるしかない。先ずは相手が話を聞くだけの肩書を用意するところからだ。
「猊下、お久しぶりです」課業時間中に抜け出して允可を賜った管長猊下の自坊(自分の寺)に電話をした。善光寺は天台宗と浄土宗が交代で住職を務めているため浄土宗の元管長の弟子となれば粗略に扱うことはできないはずだ。これまでは管長猊下に迷惑がかかることを懼れては電話をしなかったのだが、ここは利用させてもらうしかないだろう。
「おう、念佛者か。初めて電話をくれたな。お主のことだから用件はチベットの問題と聖火のことだな」「はい、その通りです」やはり猊下も善光寺からの聖火リレーには納得していないようだ。ただし、管長を引退して息子さんに後を譲っているため表舞台に立つことを控えているらしい。
「チベットの暴動は中国軍の兵隊が僧衣を着た偽物なんです」「ワシも元兵隊だ。そんなことは判っておる」やはり見る者が見ればあれが軍隊式の指揮統率の下で行われたことは一目瞭然のようだ。
「それでワシの代わりに善光寺に談判してくれると言うのだな」「はい、お名前をお借りしたいのです」「残念ながら今は天台宗が住職をやっているから余り効き目はないだろうが、上手く使って佛教徒として採るべき態度を判らせてやれ」「はい、身命を賭して遂行します」若し、善光寺からの聖火リレーを阻止できなければ法衣姿で境内にいて山門をくぐる前にランナーからトーチを奪い、隠し持ったガソリンをかぶって聖火で焼身するつもりだった。どうしても発想がそちらへ向かってしまうのは職業病と言いたいが、他の自衛官はそうでもないので私個人の持病のようだ。

「浄土宗の前管長・司馬萬応の徒弟でモリヤニンジンと申しますが上人(住職)さまは御在山ですか」流石は猊下の名前は威力がある。電話の向こうで侍者が姿勢を正したのが判った。
「誠に申し訳ありませんが、住職は他出(外出)しておりまして代わりに寺務担当者がお話しを伺います」「もしもし、代わりました寺務の××です。浄土宗の方なんですね」寺務担当者はこちらが返事をする間もなく電話を替わったが、この口ぶりは「今は天台宗が取り仕切っている。面倒な話は自分たちが担当している時にしろ」と言いたいらしい。
「実は4月26日に行われる北京オリンピックの聖火リレーの件なんですが」「ああ、檀家さんを連れて見学に来られるから宿房を確保したいと言うんですね」やはり寺務=庶務の担当者だけに発想はサービス業になるようだ。しかし、私は真逆の用件を投げつけた。
「ご存知ように中国はチベットで佛教の僧侶を弾圧しました。その中国が開催するオリンピックの聖火リレーに善光寺が使われることは日本の佛教が中国に膝を屈したと言う印象を世界中に発信することになります。どうか拒否して下さい」この強烈な一撃に庶務担当者は絶句してしまった。このような時ば電話口を押さえて周りにいる者と対応を相談するものだが、それもせずに荒い呼吸だけが聞こえてくる。やがてかすれた声で反論を始めた。
「新聞やニュースではあの事件をダライ・ラマの穏健な抵抗運動に不満を持った過激派の僧侶が、中国人が経営する店を破壊して中国人とイスラム教徒を殺害したと言ってるじゃあないですか」これが私にとっては飛んで火に入る夏の虫の答えであることを電話の相手が知る由もない。
「実は私のところ(寺とは言わない)にはタイ、スリランカ、カンボジア、ブータンの僧侶たちから事件の詳細と中国の世論工作の実態を知らせてきているんです。それによると中国は人民解放軍の兵士を僧侶に変装させて暴動を演出したんです」庶務担当者は再び絶句してしまった。その待ち時間に私は缶コーヒーを一口飲んで次の弁論の準備を整える。
「それもチベット側が公開した証拠写真が偽物だったと・・・」「それを公開した人間が中国の工作員だったんです。どちらにしろ世界中が善光寺に視線を注いでいます。共産主義側に立つか佛教側に立つか答えは1つでしょう」流石にここまで追い詰めると相手が哀れになるが生命まで奪わないだけでも幸いとしてもらおう。ところが敵もサル者、引っ搔く者で予想外の粘り腰で喰い下がった。
「県や市からは『この機会に中国からの観光客を誘致したい』と協力要請を受けているんです。我々としても参拜者を増やしてから浄土宗に引き継ぎたいと考えています」事態を全く理解せずにこのような低次元な理由で拒否するのも日本の佛教界の一員としては至極当然な対応だった。
  1. 2017/10/20(金) 09:13:00|
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10月20日・松根油等緊急増産対策措置が決定した。

大日本帝国が燃料枯渇に苦しむ中で迎えた昭和19(1944)年の明日10月20日に最高戦争指導会議で松根油等緊急増産対策措置要領が決定しました。最高戦争指導者会議と言うのは東條英機内閣の退陣を受けて成立した小磯国昭内閣がこれまでの大本営政府連絡会議を改称したもので、内閣総理大臣、外務大臣と陸軍大臣、海軍大臣、そして参謀総長(陸軍)、軍令部総長(海軍)の6人で構成されていましたが、このうち陸海軍大臣は政府側とは言え軍の代表でもあり、小磯首相も陸軍大将でしたから本当の文官は重光葵外務大臣だけです。
松根油は樹齢10年以上の木の根の部分を掘り起こして木片にした上で蒸留用の缶に入れて加熱し、その蒸気から得た水滴を精製して製造します。ただし、元来は水を弾く性質から漏水防止用に継ぎ目の補強材として使用されており、「これを燃料に転用しよう」と提案したのは同じく燃料不足に悩んでいたナチス・ドイツから噂程度の情報を得た海軍でした。日本はベトナムやインドネシアからの輸入航路がアメリカ海軍の潜水艦によって遮断されていたのですが、ナチス・ドイツはルーマニアなど東欧からの陸路輸送だったはずなので、このような窮余の策を研究するほど追い詰められたのは近代戦では機械力の発揮が不可欠なため燃料の使用量が日本とは違うのでしょう。
しかし、これは松根油の実用化の確証もないままの決定であり、こんな対策を本気で採用しなければならないほど日本は追い詰められていたと言うことです。実際、航空燃料として使用すると配管が詰まってエンジンが停止してしまい、戦後に占領軍がジープで試しても同様の結果になったような発動燃料として使い物にならない代物でした。おまけに樹齢10年以上(若木では含有量が半分以下になる)の松の根1本で精製できる松根油は飛行時間20秒以下の分量です。松根油は樹液や松脂(まつやに)と混同されることが多いのですが、樹液は根が吸った水分が幹を通って枝葉に流れる糖などを含む液体で全くの別物です。松脂は松明(たいまつ)の燃料になり、松根油も精製できますが含有量はわずかなので燃料としては期待できません。
この決定を受けて翌年の3月16日に植樹を含む(「緊急」と謳いながらも大変に長期的な対策措置だったようです)松根油等緊急増産対策措置要領が閣議決定され、全国規模で松の伐採と根の掘り起こしが開始されましたが、その労働力は国民に勤労奉仕として科されたのです。ちなみに学徒動員されて航空機搭乗員としての教育を受けていた予備学生たちもこの作業に参加させられており「自分たちが乗る航空機は松の根っこの油で飛ぶのか」と聞いて愕然としたそうです。
さらに乏しい金属を使って2320個しかなかった蒸留用の缶を20倍以上の46978個も製造して全国に配り、こうして始まった松根油の製造は現地での第1段階として軽量油を精製し、これを三重県四日市市と山口県徳山市にあった海軍工廠に集めて水素化合物などを混合する第2段階の工程を経て航空燃料にする計画でした。ところが両海軍工廠は空襲による被害が深刻で本格的な製造には至らず、「徳山で500キロリットルが製造されただけだ」と言われています。その一方で「製造量は20万キロリットルに達した」との証言もあり、報告用の数字と記録用の数字が大きくかけ離れていたようです。
余談ながら仙台市御立場町の当時は有名だった松並木は全て伐採されてしまったそうですから戦争が長引いていれば日本三景の松島や羽衣伝説の美保の松原、旧東海道の御油の松並木も危なかったかも知れません。これが松ではなく杉根油で全国の杉を大量伐採していれば花粉症対策にはなったでしょう。
  1. 2017/10/19(木) 09:01:19|
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振り向けばイエスタディ982

中国大使館には六本木に防衛庁・陸上幕僚監部があった頃に前を通ったことがある。「麻布」の看板を見て昭和60年代に流行していた「雨の西麻布」を唄いながら歩いていたのだが大使館前の場違いにド派手で巨大な掲示板に呆気にとられて絶句してしまった記憶があった。
「あまり人通りは多くなかったから時間帯だけ気をつければガソリンをかぶって火を点けても迷惑をかける心配はないな」私はこんなところでも冷静なのだ。問題は歩いていける範囲に携行缶に購入できるセルフのガソリン・スタンドがあるかだ。どう考えても法衣姿とガソリンの携行缶の組み合わせは怪しいので、警察官に職務質問されないためには目立たない場所でなければ困る。そう思って地図と黄色い電話帳を広げたが、まだインターネットで地図を検索すれば簡単に確認できることを知らなかった。
「うーん、近くにガソリン・スタンドはないな。携行缶を持って地下鉄に乗るわけにはいかないから両方とも現地調達するしかないんだが」タウン・ページで麻布にあるガソリン・スタンドを探し、地図で番地を確認する作業をしながら鼻歌がでてくる。それにしても遠足のような気分で実施計画を立てている自死者は他にいないのではないか。北キボールの戦闘では冷静に迷うことなく引き金を落とし、ナイフで急所を突いた。死ぬのも殺すのも私にとっては自然な営みの一部に過ぎないのかも知れない。その時、電話が佳織専用の着信音・アロハ・オエを奏でた。
「ハロー」「貴方、何か変なことを考えているでしょう」佳織は大変な剣幕で捲くし立ててくる。以前からこの妻とは電波・電話線要らずの通信網で接続されてはいたが、佳織が単身赴任すると感度が向上することがここでも証明されたようだ。
「いや、日本の僧侶として中国に抗議するための行動を考えているだけだよ」「それってディック・クアン・ドックみたいにやろう」佳織は目標としている先達の名前まで言い当てた。こうなると官舎の室内に監視カメラが設置されていることを疑うべきかも知れない。
「昼休みにインターネットで貴方が見そうなページを確認していたらドックの焼身の画像があったんや。それを見て妻としての直感が働いたんだよ」確かに私が計画を実施すれば佳織と志織は母子家庭になってしまう。しかし、北キボールの時のように殺人犯として刑事裁判の被告になるのではなく日本にも佛教者がいることを内外に示し、中国の暴挙を糾弾するために殉教するのだ。
「他に日本の佛教徒の怒りを表現する手段がないんだよ。君も武人の妻なら見事に散らさせてくれ」これが自己陶酔の勝手な妄言であることは判っている。しかし、佳織は私以上に冷静だった。
「でも靖国の桜にはならないんでしょう」「うん、浄土の池の蓮だね」思わずそう答えたが3人もの生命を奪っておいて極楽浄土に往生しようと言うのは虫が良すぎる。少なくとも修羅、やはり地獄に堕ちるのが閻魔大王の判例だ。あとは阿弥陀如来のお迎えで三途の川や閻魔大王の法廷を飛び越えて直接、浄土へ連れて行ってもらうしかない。
「武人なら割腹、僧侶なら焼身って言うのね。志織が『軍刀をハワイに持ってきて良かった』って言っているよ」言われて見れば「抗議の割腹」「佛教界への諌死」と言う手もあった。そのためには佳織に軍刀を送り返してもらわなければならない。それを口にする前に佳織が妙な提案をしてきた。
「日本の僧侶なら焼身よりも餓死でしょう。テレビで『抗議のハンガー・ストライキ』って報道されればインタビューにくるから、考えていることを自分の口で説明できるじゃない」「それは良いな。実はガソリンを入れた携行缶を提げて大使館の前まで行くのが難しいって悩んでいたところだったんだよ」今度は感謝の言葉を口にする前に思いがけない事実を教えた。
「貴方は長野の善光寺の件はどう考えているの」「善光寺って牛に曳かれて行く寺だろう。何かあるのか」最近は新聞やテレビでもチベットに関する記事やニュースばかりを探していて他の話題には無関心になっている。どうやら重大な問題を見逃していたらしい。
「4月26日に北京オリンピックの聖火リレーを前回の冬季オリンピックの開催地である長野からスタートさせるんやけど、そのスタート地点が善光寺の拜殿前なんだよ」「何だってェ!」これは私の個人的な焼身くらいでは何ともならない日本佛教界の恥辱だ。
「どうやら死んでる場合じゃあないな」「それが貴方の使命だよ」この得難い妻のおかげで「命の使い道=使命」を見誤らないですんだ。
  1. 2017/10/19(木) 08:59:36|
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振り向けばイエスタディ980

本業の方は年度が替わって気分も新たにしたいところだが、副業の方は追い討ちをかけるような事態が生起した。3月31日に佛教国であるネパールでチベットから亡命してきている僧侶や難民が中国大使館の前で大規模な抗議活動を行ったところ警察部隊が武力による鎮圧を加え、当日に259名、翌日にも96名が拘束されたのだ。私は31日の就寝前のニュースで第1報を見て怒りが心頭に達し、佳織が心配した心臓発作の前に脳卒中になりそうだった。
ネパールの国王が暗愚であり、中国から提供される豪華な献上品に目がくらみ、佛教の理想に基づく理想の国造りを目指しているブータンとは逆に中国に擦り寄っていることは以前から聞いているが、各国の佛教教団が中国に対する抗議とマスコミの誤報を修正させるべく動き始めた直後にこのような暴挙を行えば中国の「僧侶による暴動」と言う世論工作を肯定・助長することになる。
「これではネパールの王家は遠からず倒れるな」出勤しながら買った新聞各紙でこの記事を読み、人徳が欠片もなさそうな国王の顔写真を見て私の中に妙な確信が芽生えた。確かにこの愚王はブータン国王やチベットのダライ・ラマ14世と比べるのが申し訳なくなるような醜悪な顔立ちだ。
それでも大半の新聞はチベットの対応を「チベットでの暴動を受け」と表現し、完全に中国の主張を肯定している。これでは新年度早々に殉職してしまうかも知れない。それを防ぐためささやかな抵抗だが新聞社の編集部に僧侶の肩書で抗議の電話をしておいた。

「チベットに続くネパールの暴挙に日本の佛教界も怒っていることだろう」「我々と一緒に国際社会に向けて抗議の声を上げて欲しい」「我が国でも中国大使館に抗議声明を提出した。日本ではどのような活動を行っているのか」「我々はネパール国王の裏切りを許さない」案の定、ネパールの暴挙を受けて南方佛教の僧侶たちから激烈な手紙が届いた。電話番号を教えていないので手紙ですんでいるが、教えていればベルが鳴りっ放しになって近所に迷惑が掛るところだった。そんな中で日本の実情を熟知しているタイの僧侶の手紙には辛い言葉がつけ加えられている。
「やはり正式な佛戒を受けていない日本の僧侶たちは佛教への弾圧に無関心なのか」確かに日本の僧侶が受けているのは釋尊以来の佛戒ではなく伝教大師が創始した大乗菩薩戒なので、海外では正式な佛教僧とは認められていない。おまけに明治の太政官布告で妻帯、肉食、蓄髪が認められたため、正式以前に僧侶とさえ見られていないのだ。
「これは何とかしないと・・・」そんなどうにもならないことを考えながらようやく閲覧の仕方を覚えたインターネットで佛教徒の抗議行動に関連する記事を見ると衝撃的な画像が掲示されていた。それは第2次インドシナ紛争当時の1963年の6月11日に南ベトナムで熱心なカソリック教徒だったゴ・ディン・ジエム大統領の佛教弾圧に抗議して焼身遷化したティック・クアン・ドック師の画像だった。ドック師は結跏趺座=坐禅の姿勢のままで火に包まれている。
「最早これしかないな。日本の僧侶が焼身遷化すれば海外でも大きく取り上げられるだろう。声明はテレビと新聞社に当日に届くように送ればニュースでも目的を変質されることもない」北キボールPKO以来、私の中で燃え上がることがなかった使命感の炎が噴き上がってきた。やはり武人にとって死処を得ることは無上の慶びであり、存在理由でもある。
「自衛官としては不動の姿勢の方が良いな。立ったままならガソリンをかぶって火を点けるだけだから数秒ですむ・・・なもあみだぶ、なもあみだぶ、なもあみだぶ」整列休めをしている自分が炎を包まれる姿が頭に浮かび、その恍惚の中で自分を弔う念佛が口から出る。覚悟が決まったところで具体的に実施計画を考え始めた。
「問題は警備をしている警察官も外国の佛教界が抗議行動を起こしていることを知っているだろうから大使館前まで近づけるかだな。ガソリンを発見されればその場で身柄拘束だ」まさか法衣姿でガソリンの携行缶を提げて行く訳にはいかないので他の金属製の容器に詰めていくことになるが、職務質問のついでに所持品検査を受ければ一巻の終わりである。
「中国大使館の隣りは消防署だったぞ。つまり消防車が駆けつける前に手がつけられないほど炎上する程度のガソリンとなると少量では駄目だな。するとやっぱり携行缶になるか」これは自ら命を絶つ計画なのだが、本当に冷静で気楽に思考が回転していく。私の中には「死に対する恐怖」と言う感情が存在していないようだ。ところで「熱い」と感じている時間は長いのだろうか。
  1. 2017/10/18(水) 09:11:06|
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10月18日・フラフープ記念日

明日10月18日は1958年にフラフープが日本で発売開始されたことを記念して「フラフープ記念日」とされています。
フラフープは発売の年の間に腸捻転などの症例が報告されたことで禁止する自治体が続出したため「急速に流行は終息した」と言われていますが、実際は意外に長かったようで1961年生まれの野僧が小学校に入った頃でも母親の実家の寺に帰省すると当時は中学生だった叔父たちが挑戦しておりそれを見学した記憶があります。ただし、ド田舎では入手困難だったようで、下の叔父は裏の藪で切ってきた竹を割って紐で縛って輪を作ったのですが、その節とつなぎ目が引っ掛かるのと微妙にバランスが狂ってしまうため中々上手くいかず、兄である上の叔父の知恵を借りて工夫をしているところで終わりました。ところが次に帰省するとスポークを外した鉄製の自転車の車輪で練習をしていてそれなりに上達していたのですが、やはりプラスチック製に比べて重いため汗をかきながら必死になって腰を振っていました。そして夏休みに帰省するとお盆の檀家回りでもらった小遣いで市販品を買ったそうで自慢げに回して見せてくれたのです。ところが妹が真似しようとして「腸捻転になる」と禁止されたため叔父も自粛して折角のフラフープは地面で転がして遊ぶ玩具になってしまいました。
輪を使って遊ぶこと自体は古代エジプトの壁画にも描かれているほど長い歴史があり、当時はブドウなどの蔓で作っていたようですから竹に着目した叔父の知恵も古代エジプト人と遜色なかったようです。その後もギリシャ、ローマで肥満予防の運動として継承され、ヨーロッパでは子供の遊び「フーピング(=イギリスでの呼称)」として定着していたのですが、日本ではそのような遊戯・遊具は思い当たりません(=野僧の趣味の民俗学の知識では)。おそらく日本の場合、男女とも腰に帯びを締めるため輪を滑らすように回すのには不向きであり、全ての作法は腰を安定させることを基本とするため腰を振る動作はあまり上品に見られなかったのでしょう。
一方、欧米では18世紀の前半にハワイを訪れた船乗りがフラダンスを見て腰の滑らかな回転運動が子供の頃に遊んだフープ(輪)遊びに似ていることに気づき、両者を合成して「フラフープ」なる造語を思いついたと言われています。そして1957年になってアメリカの玩具メーカーであるワーム・オーの創業経営者2人が友人から「オーストラリアでは体育の授業で竹製のフープを腰で回している」と聞き製品化したのが現在のプラスチック製のフラフープです。ちなみにこのワーム・オーは枠にはめたゴム紐で物を飛ばすパチンコやフィリスビーを開発しましたが、どちらも発明とは言えないので特許は取れずフラフープとフィリスビーについては商標登録で独占権を確保しています。このため他のメーカーが製造した同様の商品は単に「フープ」、動作することを「フーピング」、愛好者は「フーパー」と呼ぶことが一般的になっているようです。ついでにフリスビーも商品名を避けて「フライングディスク」と呼ぶことになっています。
フリスビーは妙に愛好者が多く、最近では犬を参加させる競技会までありますが、フラフープの方も美容や手軽な運動として復活しているようです。
ところで1970年代に突然、大流行して顔面打撲や指の骨折、眼球破裂による失明などの事故が頻発したことで一気に終息したアメリカン・クラッカーはどうなったのでしょうか。あれはワーム・オーの商品ではないようで、アラスカ人の彼女は知りませんでしたから日本製なのかも知れません。
  1. 2017/10/17(火) 09:39:01|
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振り向けばイエスタディ979

福井、奈良、福岡、青森での司法修習を通じて知り合った僧侶たちに確認しても日本の佛教界ではチベット佛教との交流を持っている真言宗が寺院単位で抗議運動を起こしているだけで後は全く無関心であることが判った。その一方で私の元には「カンボジアのマンジュー和尚の紹介」と言うスリランカやタイの僧侶からも手紙が届くようになり、何だか日本の代表のような状態になってきている。そこでハワイの佳織に電話をしてアメリカでの報道について確認することにした。
「貴方はチベットのニュースを見て怒っているんでしょう。年度末の仕事は大丈夫?」私専用の着信音で電話に出た佳織はいきなりこちらの現状を言い当てた。アメリカの予算年度の期限は10月1日なのだが、佳織は日本式に3月で報告しなければならないらしい。
「こちらではインターネットの投稿で激論になっていて大変な状況になっているんや」「ふーん、それは興味深いな」「だったら貴方もそちらでアクセスすれば良いのに」私はあまりインターネットを利用しないので知らなかったが、最近は日本でも海外の記事を閲覧できるようだ。
「始めにチベットの僧院の倉庫で僧侶たちがガスで殺される現場の動画が投稿されたんや」「ふーん、日本では報じられていないな」「ところがすぐに『それが捏造だ』って言うメイクビデオが公開されたのよ」「それはかえって怪しいぞ」舞台裏を暴露するのにも適切な時期がある。仮に視聴者を失望させることが目的ならば、ある程度の反響が起きてからだろう。これではかえって動画自体が不都合な者の仕業であることを自己申告しているようなものだ。
「すると両方を比較して分析した検証の投稿が載るようになって、ガスの噴出音や画面に差している光の強さと向きの違い、何よりも背中の動きで遺骸が呼吸していることを証明して信頼性を逆転させてしまったんや」「それは凄腕の情報要員が登場したものだな」それを大手マスコミではなくインターネット上で個人がやっているところがネット先進国・アメリカの恐ろしいところだ。実はこの凄腕の情報要員が我々の同僚、然も同期が加わっているとは私と佳織は想像もしなかった。
「それにタイミングを合わせるようにイギリスからも暴動を起こした僧侶とチベットに駐屯している中国兵が同一人物だって言う画像の投稿が入って大変なことになってるのよ」どうやら日本を除く先進国では事件の実像を巡る情報戦が始まっているらしい。
「ところが大手マスコミは投稿自体の信頼性に疑問を示すばかりで判断を避けているのよ」「それじゃ日本のマスコミが取り上げないのも判るな」日本のマスコミの海外への目は直接乗り込める中国と韓国を除けばアメリカを通してしか見えていない。だからアメリカが態度を保留してくれれば、これ幸いとばかりに中国が否定していることを採用しているのだ。
「日本では情報を捻じ曲げるまでもなく報じていないだから国民は何が起こっているのかも知る手段がないんだ」「ウチは貴方がこんなニュースを見て、また心臓発作を起こさないかって心配していたんよ」「チベットの弾圧は勿論だが、ワシはそれ以上に日本の佛教界の無関心さに怒っているんだよ」ここからはカンボジアやタイ、スリランカの僧侶から届いた手紙と日本の佛教各宗派の友人に対応を訊ねて失望したことを説明した。
「ところで志織は9・11の時のイスラム教徒みたいに苛められてはいないのか」志織が通っている軍人たちの居住地域の学校の同級生にはクリスチャンが多いと聞いている。9・11の時にはアメリカが直接被害を受けたので怒りの炎が爆発的に燃え上がったのだが、クリスチャンの異教徒に対する偏見は妙なところで発火する恐れもあるので要注意だ。
「一時期は聖職者が暴力を奮って一般市民を殺害したことを非難されたみたいだけど、中国の謀略って言う暴露情報が流れだしてからは反共産主義で一致しているみたい」他の敵を作って対立を解消するのは兵法としては下の下だが、それがアメリカと言う国家の体質なので仕方ない。
「それにしても中国はどうしてこの時期にこんな謀略を起こしたんやろう」これは佳織の職務上の必要性から見解を確認するための質問のようだ。
「早い話がオリンピックで海外の人間に国内を見せる前にチベット佛教への弾圧が正当な行為であると言う既成事実を作ろうとしたんじゃあないかな」「やっぱり、太平洋軍の情報担当者も同じ意見だよ。あくまでも個人的見解だけどね」これが当たっていれば中国ならでは深謀遠慮なのだが、世論工作として大手マスコミだけを抑えたのはネット社会の到来で個人の発信力が増大している先進国の現状を読み間違えていたのかも知れない。
  1. 2017/10/17(火) 09:34:43|
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10月17日・2・26事件の時の首相・岡田啓介海軍大将の命日

サンフランシスコ講和条約が締結され日本が独立を果たした昭和27(1952)年の明日10月17日は2・26事件で首相として最大の標的になった岡田啓介海軍大将の命日です。
2・26事件を描いた研究書・小説・映画・ドラマなどでは冷害に苦しむ農村、金融恐慌以降の不況の中で酷使される労働者と財閥の贅沢三昧な生活や政争に明け暮れる政治屋たちとの対比でクーデターに正当性があり、純粋に国家を憂いていた決起将校たちを賛美するような表現になっていましたが、それは東條英機に代表される帝国陸軍主流派への怨嗟に基づく史実の歪曲であることは明らかです。実際、2・26事件で襲撃された閣僚たちの多くはむしろ常識的な国際人で大正デモクラシーによって都市部に浸透した自由主義を容認しており、だからこそ若き日のヨーロッパ歴訪で同様の空気に触れ、それが日本に定着することを願っていた昭和の陛下の信頼を得ていたのです。
考えてみれば岡田首相や鈴木貫太郎侍従長、殺害された斉藤実内大臣の3人は海軍大将であって決起将校たちが盲信・盲従していた真崎甚三郎や荒木貞夫などの陸軍大将と収入に大差があるはずはなく、貴族趣味で西洋かぶれの豪奢な生活などと言うは陸軍軍人の勝手な極めつけに過ぎず、結局、山口軍閥が患っていた国粋主義に凝り固まって時代を逆行することのみを正義と信じ、それに反する者は全て悪と断じて排除しようとする吉田松陰の狂気から脱し得なかった帝国陸軍の病理が凶行の原因なのです。実際、岡田首相は政治家に転身してからは政治資金の捻出に苦労しており、首相の給与の半分をこれに当てていたため一般の公務員よりもはるかに貧窮な生活を送っていたようです。
ただし、岡田首相自身にも決起将校などの国粋主義過激派に憎まれる原因がありました。それは首相在任中に生起した東京帝国大学法科学長の美濃部達吉博士が唱えた「天皇機関説」問題で国会が紛糾した時、一貫して容認姿勢を取り続けたため同じく東京帝国大学の上杉慎吉博士の「天皇主権説=神授説」を主張する国粋主義者たちの批判を浴びたのです。この時、「日本の国体をどう考えているのか」と追及されて「憲法第1条に書いてあるとおりです(=大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス)」と答えたため、「憲法第1条にはどう書いてあるのか」と再質問されると「憲法第1条に書いてあるとおりです」ととぼけた答えを返したそうです。しかし、国会で多数派だった野党が内閣不信任案を提出したため解散で応じ、その選挙で逆転勝利して多数派を占めた6日後に事件が勃発しました。事件では秘書として首相公邸に泊まり込んでいた妹の夫であった松尾伝蔵陸軍大佐が身代りに殺されたことで奇跡的に脱出に成功しましたが、事件が終息した3月9日に内閣は総辞職したのです。
首相を退任してからは政治の表舞台に立つことはなかったのですが、本来は常識的だったはずの東條英機首相が国家主義者に変貌し、強気に戦争を推し進める一方で国内では特高警察を使って思想統制=弾圧を加えるようになったのを見て倒閣に動き出し、ミッドウェイ海戦での敗北とガダルカナルでの消耗戦を切っ掛けにそれを公然化させるようになったのです。粘着質な東條首相がこれを放置するはずがなく、首相官邸に呼び出して恫喝したのですが岡田元首相は逆に即刻退陣を求め、「逮捕拘禁するぞ」と脅迫しても全く意に介さなかったと言われています。
サイパン島の陥落を受けて東條内閣が総辞職すると小磯国昭内閣に米内光政大将を海軍大臣として送り込み、さらに鈴木貫太郎大将を首相に据えて自分は終戦に向けての工作の裏方として尽力しました。
ポツダム宣言の受諾が決まった時、岡田元首相は娘婿の秘書官に「私たち軍人が降伏を決意する時の気持ちはお前たち軍人ではない者には決して判らない」と語ったそうですが、軍人にとって「降服」は「敗北」に他ならず自己を責めるしかない事実なのです。
  1. 2017/10/16(月) 09:33:40|
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振り向けばイエスタディ978

受付の修行僧に描いてもらった地図を頼りに下手な航空基地並みに広い總持寺の山内を探しながら維那寮に辿り着くと電話で来訪を知っていた修行僧が待っていた。
「老師、お客さまが来られました」修行僧は襖の外から声をかけ返事を待って中に案内した。私としては阪神大震災での出会い以来、軽快な議論を楽しませてくれる前山老師との再会を楽しみにしていたのだが、座卓の向こうに座っているのは魂が抜けてしまったような別人だった。
「お久しぶりです。覚王山以来ですが、こちらにいながら御挨拶にも伺わず申し訳ありません」合掌して深く頭を下げ、勧められた向い側の座布団に座ると今日は私の方から話を切り出した。
「そう言えば拘置所に収監中は面会にも行かず申し訳ありませんでした。こちらに着任したばかりで・・・」やはり前山老師らしさは全く感じられない。あの「隙あらば」とこちらの心底を見通しているような鋭い光りを放つ目も消灯までいかなくても減灯してしまっているようだ。
「本日はチベット問題の見解を伺おうと思って来たのですが」「チベット問題と言うと僧侶が暴動を起こした事件ですね」「それが実際は違うと言う情報があるんですよ」以前ならこのような持ち出せばたちまち矢継ぎ早に質問を投げかけてきて秘密保全が心配になるような質疑応答が始まったのだが、今日の前山老師はあまり関心がないような様子だ。
「あの事件は中国人民解放軍が僧侶たちに化けて破壊活動を行い、それを口実にして弾圧を加えたと言うことです」「それは一時期、ダライ・ラマが述べていた見解ですが、最近では否定する証拠が出てきて過激派による犯行と言うことで決着を見ているでしょう」「それを情報工作とする逆の証拠も出てきているのです」ここまで話しても反応は変わらない。むしろ襖越しに聞こえてくる維那寮付の修行僧たちが話し合っている声が大きくなってきているようだ。それにしても来客に茶も出さないのはどう言う訳なのか。これでは受付の態度を持ち出すまでもない。
「それでタイやミャンマー、カンボジア、スリランカとブータンなどの南方佛教界は中国への批判と誤解の訂正のための運動を始めると言うのですが、日本の佛教界、その中でも曹洞宗としては何か動きはありませんか」結局、雑談の中で触れるつもりだった本題を単刀直入に持ち出すことになった。すると前山老師は見たこともない困惑した表情になった。
「今の拙僧にそう言う問題を持ち込まれるのは困るんです。何せ駒澤大学の学閥に属さず、本山での修行の経験もないから孤立無援・四面楚歌、一切に背を向けて坐っている時だけが安楽なんです」「それでは野僧の念佛と同じですね」愚痴まで始まってしまうと諦めるしかないようだ。
「そう言えば尊公は浄土宗で允可を受けたそうですが宗旨替えされたのですか」「猊下からは『佛道に於いて正統な』と評されましたから宗派などは関係ありません」「他宗を信ずるようになった人が曹洞宗の僧侶のままでおられるのは・・・」あれほどの人材をここまで圧殺してしまうような宗派が国際社会に目を向けているはずがない。私は「曹洞宗は駄目だ」と言う結論を出すと「崎陽軒のシュウマイを買いに来た」ことにして帰宅した。

間もなく広島県でも島根県との県境の山奥にある寺に住んでいる田沼元准尉から手紙が届いた。内容は言うまでもなくチベット問題への浄土真宗の対応に関する質問への回答だ。
「テレビのニュースで見て我が宗の石山本願寺が信長の武力による圧迫に僧侶たちが立ち上がった一向一揆と同じだと思っていました」この見解はPXの食堂で隊員たちが述べていたのと同様で、日本人がこの事件に海外ほど驚かないでいる理由のようだ。
「貴僧が指摘された僧侶たちの行動の中の軍事訓練の影響については全く気づきませんでした。長年、教育隊で勤務していながら恥ずかしいことです」確かに航空教育隊では訓練の内容を戦闘行動として認識している者の方が少数派だろう。ましてや田沼元准尉は総務特技の事務職だ。
「御質問にある我が宗派としての対応については宗務所や本山からは全く何もありません。寺院の寄り合いでも一向一揆と同一視されることを迷惑がっているだけです。日本の佛教には現実の社会に対する問題意識などはなく、ましてや海外のことなどは完全に無関心なのです」浄土真宗はかつて未開のヒマラヤに分け入った大谷光瑞探検隊を派遣した宗派だけに多少の期待をしていたがやはり駄目だった。檀家・門徒の数では日本の佛教界の双璧をなす両宗派がこれでは世界の佛教界に顔向けができない。私は悶々と悩む日々を始めることになった。
  1. 2017/10/16(月) 09:32:25|
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10月16日・ニュルンベルク裁判のA級戦犯の死刑が執行された。

1946年の明日10月16日にナチス・ドイツの戦争責任のみを裁いたニュルンベルク裁判で死刑判決が出ていたA級戦犯12名のうち前日に服毒自死したヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング国家元帥と行方不明のまま告訴されていたマルティン・ルードヴィヒ・ボルマン官房長官(後に1945年5月2日にヒトラーの遺体を運び出して荼毘=焼却処分した後、青酸カリで自死していた遺骸が発見された)の2名を除く10名の死刑が執行されました。
ニュルンベルグ裁判にA級戦犯として起訴されたのは前述のボルマン官房長官、ゲーリング国家元帥の他にヒトラー総統から死に際して大統領に指名されたカール・デーニッツ海軍元帥、ハンス・フランク法律アカデミー総裁、ヴィルヘルム・フリック内務大臣、宣伝省の新聞及びラジオ局長だったハンス・フリッチェ、ヴァルター・フンク経済大臣、ルドルフ・ヘス総統代理(=副総統)、アルフレード・ヨ―ドル陸軍上級大将、エルンスト・カルテンブルンナー国家保安本部長官、ヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥、重工業企業グループの総帥であるグスタフ・クルップ、労働戦線指導者だったロベルト・ライ、開戦前のコンスタンティン・フォン・ノイラート外務大臣、フランツ・フォン・バーベン副首相、エーリッヒ・レーダー海軍元帥、開戦後のヨアヒム・フォン・リッペントリップ外務大臣、ナチス党の外交政策の指導者だったアルフレート・ローゼンベルグ、フリッツ・ザウケル労働力配置総監、ヒャルマン・シャハト経済大臣、ヒトラー・ユーゲンスの指導者だったパルドゥール・フォン・シーラッハ、オーストリアにおけるナチスの指導者で首相にも就任したアルフトゥル・ザイス=インクヴァルト、アルフレッド・シュペー軍需大臣、そして反ユダヤの新聞社を経営していたユリウス・シュトライヒャーなどの手当たり次第状態でこのうちホフマン官房長官、フランツ法律アカデミー総裁、フリッツ内務大臣、ゲーリング国家元帥、ヨードル陸軍上級大将、カルティンブルンナー国家保安本部長官、カイテル陸軍元帥、リッペントロップ外務大臣、ローゼンベルク党外交政策指導者、ザウケル労働力配置総監、ザイス=インクヴァルト(オーストリア)首相、そしてシュトライヒャー新聞経営者の12名に死刑判決が下ったのです。
日本の東京裁判で死刑になったのは東條英機首相(陸軍大将)、土肥原賢二陸軍大将、松井石根陸軍大将、武藤章陸軍大将、板垣征四郎陸軍大将、木村兵太郎陸軍大将、広田弘毅首相(開戦前)の7人で文民は広田首相だけなのと比べるとナチスの罪は国家ぐるみであったと見るべきなのかも知れません。
ただし、ニュルンベルグ裁判は近代法学の総本山であるドイツで行われていただけに公判中の段階からその正当性に疑問が示されていました。その問題点とは連合軍側の戦争犯罪を不問に伏したことや勝者側のみの判事の中立性への疑念もありますが、何よりも法学上の不可逆性の原則(新たに制定した法律で過去の行為を罪として裁くこと)に背くことが大きく、ニュルンベルクと東京の両裁判で被告人たちを訴追した「平和に対する罪」「人道に対する罪」は開戦時にはどこの国家でも提起されておらず、敗戦国の政治と軍の最高指導者を裁くために急遽、創作した口実に過ぎないのは明らかです。
ニュルンベルグ裁判では弁護側がこの問題を強く主張したのですが、「ナチスの罪を裁く」と言う大義名分の前に押し切られ、東京裁判では日本陸軍に同様の罪を科すため南京事件が捏造されることになりました(存在した人数よりも多くの人間を大量殺害することは絶対に無理です)。
野僧は国内留学した横田基地の米空軍憲兵隊で個人的に両裁判の死刑囚の執行前後と遺骸の写真を見たことがありますが、落ち着いて刑を受け、穏やかな死に顔だった日本側に比べてナチスの戦犯の方は悲惨でした。
  1. 2017/10/15(日) 00:31:34|
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振り向けばイエスタディ977

私の元にカンボジアの僧侶の友人・マンジューから手紙が届いた。この同世代、同業の友人とはカンボジアPKOの時に知り合い、多少は英語が理解できることで佛教上の時候の挨拶を交わしていたのだが、私が拘置所に収監されてからは交流が途絶えていた。
「ふーん、マンジュー老師かァ。久しぶりだな」マンジューとは日本で言う文殊師利菩薩のことで、南方佛教の国々では男女を問わず人気がある名前だ(ペットにもつけている)。それにしても私の後に入居した人が部隊で現在の所属を確認してまで転送してくれたことには感謝しなければならない。マンジュー老師の判り辛い筆記体の文面を読んでいて私は激怒してしまった。
「チベットで暴動を起こしたのは人民解放軍の兵士が化けた偽の僧侶です。イギリス人のジャーナリストが僧侶たちをそそのかして独立運動を始めさせ、それに同調する形で破壊と殺害を繰り広げて、治安警察隊が武力制圧として僧侶たちを殺害しました」あの僧侶たちが偽物であることは私も気づいていたが、その背後に西側のジャーナリストがいたこととは思っておらず、それが中国のチベット政策に批判的だった論調を一変させた理由だとすれば、佛教徒として(全くない)怒髪が天を突く思いになった。ところがその続きは憤怒の炎を完全に鎮火させ、意気消沈させてくれた。
「カンボジア、タイ、スリランカ、ミャンマーとブータンの佛教界は中国の謀略を告発して、国際社会の誤解を解き、抗議する運動を起こすことを決定しました。当然、日本も佛教国として同調してくれますね」それを私に言われても困ってしまう。私は僧侶と言っても所詮は副業であり、允可を受けたことが口コミで知られるようになってからは所属する曹洞宗では「裏切り者」「異端者」と呼ばれ、猊下の浄土宗からは「横取り」「不法侵入者」と非難されているのだ。日本の佛教界の反応は部外者として新聞やニュースなどで調べるしかないが、今のところ高僧が声明などを発表したことを報じる記事は見ていない。しかし、この友人の言っていることが事実であるのなら佛教界に身を置く者として行動を起こさなければならない。
私が決意の鼻息を吹いて顔を上げると周囲の陸曹と事務官は危ない物を見るような目を向けていた。

次の土曜日、私は横浜市鶴見区にある曹洞宗の大本山・總持寺に出かけた。実は守山時代にお世話になった前山老師が總持寺で維那(いの=山内の規律維持・修行僧の躾指導を担当する役)を勤めており、雑談を兼ねて曹洞宗内の反応を調べようと言う魂胆だった。
總持寺の巨大な山門を守る金剛力士像は若き日の横綱・北の湖がモデルを務めたものだ。それを抜けると巨大で真新しい和風建築物がある。これが地方からの参拜者の宿泊・会合施設の三松閣だ。
どう見ても場違いな自動ドアを抜けるとホテルか都市部の役所のような全面絨毯の広いロビーに出る。その中央を仕切っている長いカウンターの受付に近づくと黒の作務衣を着た若い僧侶は無愛想に顔を向けた。ところが私も黒の作務衣を着て黒の略威儀(浄土宗の略式の袈裟)を下げているため修行僧だと思ったらしい。受付につく程度の準古参の修行僧が絶対服従しなければならない古参の顔は知っているので、それ以外は新入りになるのだ。
「あのう、維那の前山老師に面会したいのですが取り次いでもらえませんか」用件を告げても受付の修行僧は仲間と雑談を続け、私は完全に無視している。
「用があるなら勝手に行け」それでも立ち去らないと面倒くさそうに命令を吐き捨てた。一応は下手に出たが、大学を出てそのまま修行に入った若造なら1年を過ぎているとして23歳だ。45歳を過ぎた私に対する態度としては酷過ぎる。そこで少し態度を上方修正することにした。
「私は東京弁護士会のモリヤニンジンと申しますが、勝手に訪ねても良いんですね」そう言って略威儀につけているヒマワリ型の弁護士の徽章を見せると準古参は転がるように姿勢を正した。
「失礼しました。弁護士さんとは存じませんで・・・」曹洞宗は表沙汰にならない不祥事を抱えており、マスコミ対策を含めてそれを揉み消すため弁護士の力を借りている。つまり絶対に喧嘩を売ってはならない相手に醜悪なサービスを売ってしまったのだ。
「維那老師に弁護士さまが面会においでです。あのう、御尊名をもう一度お願いします」「モリヤニンジンですが」「あのう、アポは取っておられますか」「飛び込みですが」「あのう・・・」焦って電話をしている準古参は受け付けとしての基本を完全に忘れている。これでは雑談のネタは前山老師の職務への苦言になってしまいそうだ。
  1. 2017/10/15(日) 00:30:20|
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10月15日・ナチス・ドイツのゲーリング国家元帥が服毒自死した。

1946年の明日10月15日にナチス・ドイツのナンバー2であったヘルマン・ヴェルヘルム・ゲーリング国家元帥(ドイツ軍としての最高位)が刑務所内の独房で服毒自死しました。
ゲーリング国家元帥は1893年に外交官の息子として生まれ、7歳の時からは母親の愛人であった大地主の居城で生活するようになり、上流階級の富豪としての日常の中で育ちました。12歳で幼年士官学校に入校しますが、これはわがまま放題に育った息子の性格を矯正するため父親が決めたのだと言われています。ゲーリングくんも素直で真摯な理想的な軍人になって21歳で歩兵連隊に配属されました。その年に第1次世界大戦が勃発すると陸軍少尉として部隊を指揮しますが健康を害して後送されると創設されたばかりの陸軍航空隊に転換して観測員として飛行機(まだ航空機と呼べるレベルではなかった)に搭乗することになりました。そうして1年の経験を積んだ上で戦闘機の操縦員として空中戦に加わるとエース・パイロットとして知られるようになり、勲功章を授与されます。さらにドイツ空軍最強のレッド・バロン=リヒトホーフェン大隊の指揮官になり、エース・パイロットたちを率いて多くの軍功をあげましたがドイツの敗戦で終わりました。
戦後は右翼団体に参加したものの共産主義がドイツ社会に蔓延したことで北欧に逃れて曲技パイロットとして人気を博しました。28歳で帰国するとミュンヘン大学に入学したのですが、翌年にヒトラーの演説を聞いて魅了されてしまい、即座にナチスに入党すると英雄として知名度から重宝がられ、突撃隊の指揮官に任じられたのです。この時の出会いについてヒトラー総統は「素晴らしい!勲功章を受章した戦場の英雄だ。これ以上の宣伝材料はない。おまけに彼は金持ちで私は金の心配をしないで済むようになるんだ」と語っています。しかし、翌年に起こしたミュンヘン蜂起で銃弾を腰に受けてオーストリアに逃亡しますが、その摘出施術の時に注射されたモルヒネで中毒症状を起こしてしまい、これが後年の過食と肥満につながることになりました。34歳の時に政治犯の釈放が決まるとようやく帰国して、翌年の選挙で当選したため国会議員として政治の表舞台に立ち、後はナチス党=ヒトラー総統の躍進に歩調を合わせて最高権力者の最側近としての地位に登りつめたのです。
第2次世界大戦前夜にはベルサイユ条約で禁止されていた空軍の再建に着手し、航続距離は短いが爆撃精度に優れる急降下爆撃機や中型爆撃機を中心とする開発と製造を推進したため地続きのポーランドやフランスへの侵攻では陸軍の援護として実力を発揮したものの英国へのバトル・オブ・ブリテンでは航続距離や爆弾搭載量の能力不足を露呈することになりました。
戦争末期、自死を決意したヒトラー総統が「ゲーリング国家元帥を後継者に指名した」との情報を聞くと先走って「国家権力を自分に譲るのか」と言う確認の電報を打ったため、これをボルマン官房長官が「ゲーリングが反逆を起こした」と讒言したことで解任されてしまったのです。
結局、デーニッツ海軍元帥が大統領になって降服に関する手続きが開始されますが、ゲーリング国家元帥は単独でアイゼンハワー元帥と面談しようと自分からアメリカ軍を探しに出て避難民の渋滞に巻き込まれているところを拘束され、ニュルンベルク裁判で死刑の判決を受けました。
ゲーリング国家元帥は死刑が確定してからは「軍人としての銃殺刑」を要請していましたが却下されており、執行の前日であるこの日に妻と最期の面会をした際、「連合軍は私を吊るすことはできない」と予告しており、就寝後に奥歯に仕込んだ青酸カリのアンプルを噛み砕いての自死でした。
ゲーリング国家元帥は単純で猪突猛進な空軍パイロットとしてのレベルを超えられなかったようで、惚れたヒトラー総統一筋にあくまでも忠誠を尽した結果の大罪と死だったようです。
  1. 2017/10/14(土) 08:55:47|
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振り向けばイエスタディ976

岡倉と松本は杉本が調べた村田2佐がパートナーの女性と暮らしていたと言う街で写真を見せながら訊き込みを始めた。
「この男性を見たことはありませんか」その街は村田2佐が自宅として借りていたマンションからは少し離れているが、アフリカ系の人たちが多く住んでいる地域なので東洋人の村田2佐のことを覚えている人はすぐに見つかった。
「この男性ならあのアパートに出入りしているのを見たよ」そう答えながら指差して教えてくれた女性に多めのチップを渡すと浮き立つようにスキップしながら去っていく。この独特の雰囲気は南九州出身の村田2佐には似合っていたのかも知れない。
「ふーん、倉田さんのマンションの方が高級なのにどうしてこちらに住んでいたのかな」「それは相手の女性に会ってみないと判らないよ」岡倉と松本がアパートの入り口で立ち話をしていると年配の女性が出てきたので逃さず声をかけた。
「この男性を見たことが・・・」「これはビーンズさんのステディじゃない」その女性は今では死語になりつつある単語で答えた。これでパートナーの名前は判った。後は管理人を言いくるめて(=謝礼金で)部屋の番号を調べ、職場を探り当てれば任務は完了だ。この間にもパートナーが自分の動画が偽造であるかのように投稿された「メイクビデオ」を見て反論などをしないとは限らない。2人は顔を見合せて気分を引き締めてからアパートの1階の管理人の部屋を訪ねた。

「テツロー、貴方の動画が否定されているわ」ジェニファーは編集長室のパソコンでインターネットを確認して悔し涙を流していた。ただしテツロー・ウラタと名乗っていたつれ合いはマスコミに身を置くジェニファーに情報社会の危険性を語っており、悪意による情報操作には即座に反応しないように注意を受けている。これは単なる悪戯と言うレベルではなく、より大きな組織による情報の揉み消しとそれに反発して投稿させるための挑発であることは明らかだ。ジェニファーは引き出しを開けて中に寝かしている額縁の写真を手にとって眺めた。
「貴方の相手は国家だったのね」そう呟いた時、誰かが背後から抱き締めた。ジェニファーは椅子に座っているのだから背もたれ越しに抱き締めることは不可能なはずだ。しかし、確かに胸の前の太い腕に引き寄せられている。それがテツローの腕であることはすぐに判った。
「テツロー・・・会いに来てくれたのね」「んにゃ、帰ってきたたい」耳元でテツローが少し癖がある英語をささやいた。こんなやり取りをしているとジェニファーの中で少し意地悪な悪戯心が芽生えてくる。そこで抱き締めている見えない腕を押さえながら質問した。
「ドゥ ユー コンテニュウ トゥ ラブ(私のこと愛し続けている)?」「イエス、アイ ラブ ユー」テツローが即答するとジェニファーも「ミー トゥ(私も)」と答えた。やはりあの日、テツローが送ってきたメールの「ラブ」の過去形はやはり自分を解放するためだったのだ。
「アイ ワズ ハッピー(私は幸せだった)、アンド、アイ ウィル ビー ハッピー(そして、幸せになる)」これがジェニファーが出した結論だった。すると抱き締めていたテツローの感触が身体に溶け込んで一つになるのを感じた。それは2つの肉体として愛し合った時以上の一体感を与えている。これなら幸せになれそうだ。その時、ドアがノックされた。
「カム イン(どうぞ)」「編集長に来客です」ジェニファーの返事にドアを半分開けた若い女性の編集部員が声をかけた。中小の雑誌社では編集長と言えども専属の部下はおらず、受けつけた編集部員が案内することになる。迎えるジェニファーの編集長室にも応接セットなどはなく会議用を兼ねた長テーブルで代用している。すると編集部員と入れ替わって2人の東洋人が顔を出した。
「お忙しいところを申し訳ありません。私は倉田哲郎さんに山岳写真を依頼していましたウィクリー・ジャパンの杉本と申します。こちらは同じく松本です」杉本と名乗った男の説明には一箇所だけ誤りがあるが、テツロー・ウラタ(浦田徹郎)と言う名前自体が偽名であることは判っていたのでそこは素通りさせた。
「ウェルカム」そう言って2人を招き入れると長テーブルの隅の席を勧め自分は角に座った。
「さっきの復習だよ。動画のことはコイツらにまかせておけ」2人の来訪の目的が「死の告知」であることを覚悟して身構えているジェニファーの耳元で本人がささやいた。
  1. 2017/10/14(土) 08:53:38|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ975

「おい、こいつは佛像みたいな死に方をしているぞ」遺骸を運び出すため経蔵に入った警察官たちは奥の壁際で坐禅を組んだまま死んでいる倉田、本名・村田達郎を見つけてそれぞれの反応をした。
「ふーん、真面目に修行していた坊主なんだな」そう言って帽子を取って頭を下げる者がいる。
「死ぬ時まで目が覚めなかったんだよ。骨の髄まで麻薬中毒になっていたんだ」馬鹿にしたように冷笑する者がいる。
「こんな姿勢で死んでいては運び出すのに困るぞ」他の僧侶の遺骸を担架に載せながら口を尖らす者もいる。どちらにしても佛教の儀礼で手を合わせる者は1人もいなかった。
「こいつは携帯を持っているぞ」死後硬直が始まっている村田の遺骸は無理に伸ばすと「バリバリ」と嫌な音を立てた。警察官は手が握っている携帯電話を見つけたが引き離すことができない。
「使えるか。確かめろ」「電源が切れている。これは中国製ではないよ」「それじゃあ充電はできないな。一緒に焼いてしまえ」中国の警察官は幹部以外は人民解放軍の兵士を同じく徴兵として臨時雇いされているためプロ意識は弱く、証拠物件として確保するよりも余計な仕事を増やさないために処分する方向へ思考が進むようだ。
その頃、北京ではインターネット上に掲示された僧院でのガスによる殺害の動画が問題になっており、現地指揮官に捜索が命じられていたのだが、治安警察と共産党の2系統から指示が届いたため、権限と責任の所在、捜索に関する必要な情報、報告先と期限の確認などに時間を要して搬出と運搬、荼毘=焼却処分の作業に間に合わなかったのだ。

村田が所在不明になって1週間が経ち、宮志玲にもホテルの共産党政治局員から呼び出しがきた。
「暴動と一緒に姿を消したのだからあの男はCIAに違いない。どうしよう」電話を切った志玲も政治局員に疑惑を持たれた先に拷問が待っていることは熟知している。中国の拷問は肉体だけでなく精神にも徹底的な苦痛を与え、命が助かっても廃人になり果てることは間違いない。その疑惑を避けるためにはどう振る舞えば良いのかを短時間で真剣に考え始めた。
「アイツが置いて行ったアメリカのパスポートと身分証明書を証拠として渡せば任務を遂行していたと思ってもらえるはず・・・でもあの男のことは何も調べられていない」志玲の背中に冷気が走る。自白剤を飲ませて寝物語に本当の身分を訊き出すはずが、逆に肉欲に溺れさせられてしまった。快楽と恍惚の中で任務を忘れ去っていた自分が信じられなかったが紛れもない事実なのだ。
志玲は政治局員に定時報告してきた内容を思い出してみたが、ここ数日は「1人でトイレから抜け出したまま帰ってこない」と嘘をついてきた。そんな意味のない思案は現実の先送りにしかならない。
結局、志玲は政治局員によって全てを察知されてしまった。ただし、拷問は受けず、その交換条件としてホテル職員の慰安婦を兼ねた専属のコール・ガールとして飼われることになった。

「何だ、これは」この日も事務所のパソコンでチベット関連の投稿記事を確認していた杉本が声を上げ、工藤と松本、岡倉は一緒に立ち上がって背後から画面に見入った。
「何だ、これは」すると3人も声を揃えて同じ台詞を吐いた。画面には「今、チベットで行われている事実・メイクビデオ」と言う先日と同じ書体の字幕が流れ、僧院の経蔵のようなセットの中でチベットの僧衣を着た男たちが英語で演技指導を受けながら床に寝転んでいく姿が映っている。
「お前は上を向いて苦しそうに口を開けろ」「もっと力を抜け、死んでいる演技なんだから」監督役の指導であの日の動画と同じ姿になった。すると見えない位置に置いてあるダイビング用ボンベが映り、係がコックをひねって空気を噴出させ始めた。
「よーい、スタート」画面から消えた監督の声が響くと倒れている僧侶たちとガスの噴出音だけの映像が始まった。
「これであの動画が捏造だと言うことにしたいんだな」「ついでに投稿者が名乗り出ることも期待しているんでしょう」工藤と松本の見解に岡倉もうなずいた。
「その前に村田のパートナーを発見して保護することだ」「はい、村田さんが居住していた地域は特定できています」杉本の返事を聞いて工藤は松本と岡倉の顔を見回した。
う・宮志玲イメージ画像
  1. 2017/10/13(金) 10:14:33|
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東京ロマンチカのボーカル・三條正人さんの逝去を悼む。

ムード歌謡の人気コーラス・グループ・鶴岡雅義と東京ロマンチカのボーカルを務めたこともあった三條正人さんが10月5日に亡くなったそうです。74歳でした。
野僧の母方の女性陣は大の歌謡曲好き揃いで、祖母は美空ひばりさんに橋幸夫さん、舟木和夫さん、五木ひろしさん、細川たかしさんなどの演歌を中心に世代を問わず、母親は橋幸夫さんと舟木和夫さんから沢田研二さん、さだまさしさん、大塚博堂さん、サザン・オールスターズなどと子供の影響も受けつつ幅広く、上の叔母は橋幸夫さんと舟木和夫さんからあおい輝彦さん、フォーリーブス以降のジャニーズ系統(特に50歳を過ぎてからは香取慎吾さんの追っかけを始め、テレビのファン選手権に出演して優勝しています)、そして下の叔母は橋幸夫さんと舟木和夫、西郷輝彦さんの御三家から西条秀樹さん、郷ひろみさん、野口五郎さんの新御三家へ走り、ミーハー路線をまっしぐらでした。
そんな中、4人ともムード歌謡が大好きで中でも鶴岡雅義と東京ロマンチカは娘たちの注文で祖母がレコードを買ってカセット・テープに録音して配るほどでしたから家で聞く羽目になっていた野僧も小学校時代には愛唱歌にしていました。
野僧の場合、高校時代から親の反対と厳命でつき合っていた彼女と引き裂かれることを繰り返していたため、勉強をしながら「愛しながらも親(本当は『運命』)に負けて 別れたけれど心は一つ・・・ああ今でも愛している 君は心の妻だから」と唄って泣いていました。現在は人を愛することができない同居人を押しつけられているので愛蔵しているカセット・テープで三條さんの甘いボーカルを聴くと亡き妻の面影がよぎり涙をこぼしてしまいます(この歌には限りませんが)。
東京ロマンチカは作曲家の鶴岡雅義さんが結成したコーラス・グループで当初は専属のボーカルなしでゲストの歌手の後ろで鶴岡さんがギターを弾き、メンバーがコーラスを唄って作品を発表する演出でしたが、昭和42(1967)年に「小樽のひとよ」が大ヒットすると三條さんをボーカルに迎えて独自のグループとして活躍するようになったのです。その翌年に「君は心の妻だから」も大ヒットして人気は不動になりましたが、自分自身が火をつけたムード歌謡ブームによってコーラス・グループが乱立するようになると次第にヒット曲に恵まれなくなり、そんな昭和49(1974)年、前年に女優の香山美子さんと結婚していた三條さんがソロに転向してグループから離脱するとサブ・ボーカルとしてコーラスとは別に三條さんとデュエットしていた浜名ヒロシさん(2008年没)がボーカルを務めることになりました。ところが昭和53(1978)年に三條さんは出戻って再び浜名さんとデュエット状態になりますが、この頃になると母方の女性陣も「後ろ足で砂をかけるようなことをしておいてよくも」と歌とは別の理由で嫌悪するようになり、高校になっていた野僧も深夜放送では聴くこともなく縁は切れてしまいました。
実際は昭和57(1982)年に再び三條さんがソロになり、浜博也さんが加入したそうですが、野僧が赴任した沖縄のカラオケでは復帰前のヒット曲はあまり知られておらず、北海道から来ている先輩が時折、「小樽のひとよ」を唄うくらいでした。しかし、流石に沖縄で「逢いたい気持ちがままならぬ 北国の街はつめたく遠い・・・小樽は寒かろう沖縄も(本当は『東京も』) こんなにすばれる星空だから」と言われても実感が湧叶ったのは当然です。
実は今年に入ってから再放送の「開運!何でも鑑定団」にゲストとして出演しているところを見たのですが、あまり調子が良いようには見えずやはり死因となったマントル細胞リンパ腫は進行していたのでしょう。ご冥福を祈ります。
  1. 2017/10/12(木) 10:01:19|
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