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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1055

本土では晩秋でも沖縄、特に八重山では「秋(あち)」の始まりの頃、少し出遅れ気味の台風が接近してくる。海洋天気予報を見て社長の具志堅さんは旅客での運航は中止したが、郵便物や新聞、食料品など生活に不可欠な貨物については社員のみで出航させた。
八重山貨客船専用港の防波堤から出ると海は表情を変えている。空に広がる灰色の雲を映したかのように鉛色に染まり、いつもよりも波が重く打ちつけてくるようだ。
「玉城、お前は台風の仕事は何度目だ」「こんなに大きいのは初めてです」ブリッジで船長の比嘉が声を掛けてくるが、船が激しく動揺しているため返事も操縦装置にしがみ付きながらになる。
「いつもならお客がいなければお前に操舵させてやるんだが今回ばかりは駄目だな。積み荷の管理をしっかり頼むぞ。ただし、危険からの回避を優先しろ」そう言って比嘉は押し寄せる波に船首を向けるように舵を切っていく。外洋で横波を受ければ忽ち転覆してしまうのだ。
「それじゃあ貨物のロープを確認してきます」離島への中間地点で淳之介は点検を申し出た。先ほどから船体は大きく前後左右に揺れ、持ち上げられて落ちることも繰り返しているので貨物を固定しているロープが緩み、シートがはがれている可能性を感じていた。
「その前にライフジャケットを確認しろ」比嘉の指示に淳之介は手早くライフジャケットの留め具を確認すると「異常なし」と報告した。
「いってきます」「命綱を忘れるな」就職して2年が経過して、そろそろ単独での航行を任せてもらいたいと思っているのだが、やはり荒天の海では自信が持てなかった。
淳之介がブリッジから出ると階段にも波が打ちつけている。まだ台風は台湾の南を北上中なので波も前兆段階なのだが、それでも恐怖を感じさせる。命綱は階段を下りた1番下の手すりに固定することになっているので、ここは手で身体を支えるしかない。
肩から命綱の輪をかけて両手で手すりを掴みながら下りると、上から波が流れ落ちてきて安全靴を押し流そうとする。下に落ちるだけならまだ大丈夫だが、外に転落すれば一巻の終わりだ。
何とか甲板に降り立ち、手すりにフックで命綱を固定すると淳之介は貨物の状態、特にシートとロープを確認する。その間も船体は激しく動揺し、時には船体が捻られるように軋(きし)む音を立てている。そんな感覚に淳之介は幼い頃、父に連れて行ってもらった四国のレオマ・ワールドのジェット・コースターを思い出した。
点検すると比較的重量がある冷凍のコンテナを固定しているロープが緩んでおり、それを足を踏ん張って締め直すと背中に波を浴びながらブリッジに戻った。
「点検、終わりました」「よし、無事に帰ったな」ここでも比嘉は前を向きながら返事をする。一州の判断ミスが船体の安定を損ない大事故につながりかねないのが荒天時の航海なのだ。
「この揺れでは落ち着いてコーヒーも飲めないだろうが何としてみろ」そう言うと比嘉は両足の間に固定しているカバンに視線を落した。どうやら中に缶コーヒーが入っているらしい。
「はい、いただきます」淳之介は返事をすると床を這ってカバンに辿り着いた。チャックを開けると中には缶コーヒーが4本入っている。確かに離島では自動販売機でも輸送料が加えられて割高になる。淳之介がコーヒーを選んでいると波が乱れたらしく比嘉は身体を捻って舵を切った。
「ウッ」「プッ」口の声と尻の音が同時に聞こえた。淳之介は顔にガスを直接噴射されてしまった。

「船長は嵐の海の経験は」「うん、毎年のことだから普通さァ」無事に離島への荷物の配送を終えて八重山貨客船専用港に戻ると台風に備えて船体を固定しながら比嘉に訊いてみた。
「それで危険を感じたことは」「ウチの社長は安全を優先してくれるから危険な目には遇ってないな」淳之介としては島で荷物を下ろし、次の島に向かう時、船体の揺れが続くと固定状態の確認に行くことになった。その度に身の危険を感じたのだが比嘉はそれほど危険だと思っていないようだ。
「何だ、お前はヤックワン(金玉)が縮まったんねェ」「いいえ、それほどでも」淳之介は語調を強めて否定しながら自分の股間を手で確認した。
「お父さん、やっぱり俺は海ンチュウになったのさァ」淳之介は困難な仕事をやり遂げた達成感に満足していたが、父が説いた「あかりを守る」と言う責任に対する想像力は働いていないようだ。
  1. 2017/12/31(日) 09:39:41|
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振り向けばイエスタディ1054

「チアズ(乾杯)」工藤とジェニファーはバドワイザーの缶を大皿の上で打ち合わせた。しかし、グラスではないので「カツン」と鈍い金属音がしただけだった。それを見てジェニファーは愉快そうに笑い、工藤はその顔を見ながら哀しそうな顔をした。
「クドーさん、どうしたの」ジェニファーは思いがけない反応に顔を覗き込みながら訊いてきた。
「うん・・・何でもない」工藤の胸の中ではジェニファーの可愛らしさに接して、この魅力的な女性を残して逝った村田の無念さがこみ上げていたのだ。
「クド―さんは立派な大人だから私が思いつかないような深いことを考えてしまうのね」ジェニファーは彼女なりにその理由を考えたようだがやはり日本人の情感には想いが及ばないらしい。
「立派な大人かァ・・・確かに貴女のお父さんと変わらない年齢だろうな」食前の会話は短めにするのがマナーなので工藤は当たり障りがないオチを付けようとした。
「いいえ、父は私の年齢までも生きていませんでした」ところがオチが深みにはまってしまったようだ。ここでジェニファーは右手のビールを一口飲んだ。
「それは失礼した。何はともあれ折角の料理が冷めてしまうからいただくことにしよう」そう言って工藤が佛教式に手を合わせるとジェニファーはクリスチャン式に指を組んだ。
「いただきます」「アーメン」2人は声を揃えて違う祈りを捧げた。
「美味しいですか」「うん、とても」英語での質問には日本語的な謙譲語はないので回答も楽だ。
ジェニファーのソウルフードは大豆と日本で言うホルモンをコンソメとケチャップやソースで煮込み、隠し味にタバスコも加えていることが判る。少し辛めのモツ煮込みを食べて工藤は日本のモツ鍋にも唐辛子の味付けがあったことを思い出した。
「ふーん、これが貴女のソウルフードなんだね。お母さんの得意料理だったのかい」2人のビールが空になり、大皿の底が見えてきた頃、工藤は会話を味わう時間に切り替えた。
「いいえ、母も私の年齢まで生きていませんでした。2人とも路上で射殺されたんです」「ふーん、それは酷いな」「その日はボーナスが出てクリスマス・プレゼントを買いに行く予定だったから楽しみに保育所で待っていたのに・・・」ここまで告白してもジェニファーは涙ぐむことはなかった。幼い頃に両親を失ってそれが人生の形になってしまったのかも知れない。
「それは辛いことを思い出させてしまったね」そう言って工藤がテーブルの上で両手を組むとジェニファーが手を伸ばして上に重ねてきた。
「だから私、1人には慣れているけどやっぱり怖いんです」ここで一呼吸を置いたので手の上に手を重ねると安心したように口元を緩め、話を続けた。
「自分の力で解決するしかないのは判っていても、それができなかった時、支えてくれる人がいないと・・・頑張ってそれを誉めてくれる人が欲しくて・・・」それが村田だったのだろう。すると今度はジェニファーが質問をしてきた。
「クドーさん、結婚は」今度はこちらの辛い過去だ。工藤が目で空になった2人の缶を見たのでジェニファーは立ち上がって冷蔵庫から缶ビールを2本持ってきて1本を渡した。
「うん、離婚したよ」工藤が日本で暮らしていた頃は離婚を恥とする感覚があり、それを告白させる質問をした者は詫びたものだがアメリカの精神文化にはそれがなく、ジェニファーも単なる事実として受け取った様子だ。
「仕事が理由で」「ううん、あちらが浮気をしていたんだ」夫婦の浮気は相手に満足できないことが理由になることもありそれこそ恥なのだが、やはり事実として聞いている。
「それで裁判になって」「いや、大学時代からの関係だったから相手の人間性は判っていたんで簡単に手続きをして別れたよ」ここで工藤は一気にビールを半分飲んだ。
「でも大学時代からの恋人なのに・・・」「いや、私の大学時代は日本の道徳を打破することが民主主義の実現だなどと言う馬鹿げたことが信じられていて、その手始めが性モラルの破壊だったんだ」「日本人のイメージに合いませんね」「今の若い世代は真面目だからね」工藤の説明に区切りがつくとジェニファーは立ち上がって背後に回り、ゆっくりと両手で首筋に抱きついてきた。
「今夜は泊まっていって」「でも、村田に・・・」工藤のためらいをジェニファーは唇で遮る。その夜、工藤はジェニファーを女として愛することで亡き村田2佐を供養した。
JenniferBeals2.jpgイメージ画像
  1. 2017/12/30(土) 09:39:34|
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12月30日・隠れた三河武士団の名脇役・平岩親吉の命日

慶長16(1612)年の明日12月30日(太陰暦)は東照神君・家康公に「厭離穢土・欣求浄土」を実現させた三河武士団の中でも表舞台ではなく舞台袖で重要な役割を果たしながらもあまり評価される機会がなかった平岩親吉(ちかよし)さんの命日です。大河ドラマ「女城主・直虎」ではコメディアンのモロ師岡さんが平岩さん役で登場したので驚きましたがこれまで役者さんが演じたことはなかったのではないでしょうか。
野僧は小学校の裏にある妙源寺に大先輩である第1回文化勲章受章者・本多光太郎博士の墓があったため当番で掃除に行く時、墓苑の入口にある墓の前を通って名前を知り、郷土史の三河武士列伝で事績を習いました。ただ、その墓石=いわゆる五輪の塔には名前が刻まれておらず傍らに教育員会が設置した案内の石柱があったものの小学生なので「親吉」を「おやきちさん」と呼んでいたのです。
平岩さんは家康公と同じ年に東海道線で蒲郡から岡崎へ向かう途中の幸田で生まれ、家康公が織田から取り戻されてそのまま今川へ送られる時には小姓として同行しています。つまり一緒に成長していったのですが田楽狭間(一般的には桶狭間)の合戦で今川義元さまが敗死して家康公が岡崎に戻ると三河再統一や遠州進攻などで武功を上げ、家康公の嫡男の信康さまが元服すると傅役に任じられました。つまり信康さまが「神君・松平清康公(=家康公の祖父・岡崎では家康公は東照神君としている)の再来」と称されるほどの名君に育ったのは平岩さんの卓越した養育・指導が得難い玉(ぎょく)に磨きをかけたからでしょう。しかし、信康さまが放つ眩いばかりの輝きを脅威に感じた舅の織田信長公の命により冤罪で自刃に追い込まれますが、この時、平岩さんは「身分違いなれど、それがしの首で代わりにならぬものですか」と懇願しと伝わっています。「直虎」のモロ師岡さんは高齢者のような役作りをしていましたが実際は37歳だったので白髪頭ではなかったはずです。
その後、信康さまの菩提を弔うべく自ら謹慎・蟄居しますが、絶大な人望を集めていた信康さまを失った岡崎城勤の家臣たちの動揺を抑えるため家康公の命で家老職に復帰しました。
本能寺の変で真の仇敵・信長公が横死すると武田家滅亡後に送り込まれていた織田家家臣に不満を抱いていた信濃・甲斐の国衆や旧臣が一斉に蜂起したため家康公が鎮圧に乗り出しますが、平岩さんは武田家の本拠地である甲府に築城して完成後は城主となり、武田家旧臣の宣撫工作と領民の保護を進めます。これも「直虎」では井伊万千代が行っていましたが手柄の横取りです。
こうして家康公の天下が定まると9男・義直公の後見人となり、尾張への入府に同行して犬山城を与えられて12万石の大名になりますが、子供がいなかったため名古屋城二の丸内で没した後を継いだ甥は尾張徳川家の家臣になって藩主の座は1代限りになりました。
平岩さんは徳川家の由緒を記した「三河後風土記」の編者とされていますが、その書名が幕府の記録に出てくるようになった時期から実際の成立は3代将軍・家光公の頃と推定されていますから、その馬鹿正直な人間性と優れた知性から権威付けのために名前を借用されたのでしょう。
「三河後風土記」は野僧も小学校の郷土史の授業で習いましたが、三河松平家の初代・親氏さまは上野国の新田源氏の末裔・得川(とくがわ)家の出身で時宗の遊行僧として三河の山間部・松平郷に流れついて領主・松平信重さんの養子になったと言うことで「徳川家は源氏の家系である」と述べています。しかし、徳川家の家風を見ると武勇ばかりで冷酷非情な源氏よりも政治性に富んで情実を重視する平家に通じる点が多く(平家一門や北条執権など)、単に征夷大将軍になるため源氏の系譜にあることを証明しようとした創作(虚構)のようです。
  1. 2017/12/29(金) 09:28:18|
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振り向けばイエスタディ1053

「那覇の情報保全隊ではどうだ」「確かに任務としては打ってつけですが、監視対象が隊員を殺害しようとしている北朝鮮の工作員と言うのは荷が重すぎませんか」井上将補の意見に工藤が珍しく疑問を呈した。情報保全隊の名目上の任務は部内の秘密保全を啓蒙し、管理状況を監督すると共に取扱い者の身元確認をすることになっているが自衛隊に対する諜報活動への警戒も行っている。しかし、公安警察や警務隊のように職務質問・逮捕や立ち入り調査する職務権限を有していないため本当に監視しているだけにならざるを得ず、逆に危害を加えられる可能性もある。
「やはり公安調査庁に情報を漏らして東京から要員を派遣させると言うのが現実的でしょう」「いっそのこと1名で実習して身元不明の遺骸を沖縄県警に突きつけると言うのも有効なのでは」工藤と杉本の意見は苦し紛れの極論のようだ。その時、何度目か忘れた「軍艦」が始まった。
「とりあえず米軍に位置を知らせて監視を依頼しておきましたが」完全に後手に回った岡倉の説明に今度は3人揃って溜め息をつく。やはり日本国内での問題は東京に下駄を預けるしかないようだ。

その夜、工藤は亡き村田2佐の事実上の妻・ジェニファーに呼ばれていた。あれからジェニファーは村田に相談していたのであろう仕事上の悩みや人間関係の苦労を酒を交えて打ち明けるようになっている。工藤としては村田2佐が不慮の死を遂げた時、ジェニファーには危険が及ばない範囲で事実を告げてある以上、真摯に対応はしている。ただ、一緒に飲んでいても工藤が決して警戒心を緩めないため第3者に接触する場所は避けて今夜はアパートで手料理を振舞われる予定だ。
「クドーさん、今日は疲れているみたいですね」ジェニファーはキッチンで手料理を作りながらテーブルで待っている工藤に缶ビールを手渡して声を掛けた。確かに最近は外務省が興味を持たない自衛隊に関係する情報を収集するだけでは済まなくなっている。今回の対テロの問題も「自衛隊が単独で何かをするようなレベルではないのではないか」と言う疑問が胸から離れないのだ。
「うん、色々と八方手詰まりでね。そう言えば村田2佐の後任も中々決まらないな」工藤の口から村田の名前が出てジェニファーは少し怒ったような顔で振り返った。
「今日はクド―さんのために料理の腕を奮っているのよ。村田のことを思い出させないで」「うん・・・ありがとう」この場合、「すまない」と謝るべきか、「どうして」と真意を問うべきか迷うところだが、あえてジェニファーの気持ちに感謝を返した。
実は工藤は独身だった。日本で自衛官をしていた時には結婚していたのだが1尉で中隊長になった頃、以前から話を決められていた海外での情報要員に指定されて書類上は退職し、子供がいなかったこともあり、大学の同級生だった妻とは離婚した。
理由は幸いにして妻が作っていた。演習に出かけている間に浮気を重ねていたのだ。
「でも私の得意料理はアフリカンのソウルフードばかりだから口に合うか心配よ。クドーさんは豆や動物の内臓は好き?」ソウルフードとはアメリカ大陸に奴隷として連れてこられたアフリカの人々が始めはヨーロッパ人の残り物や野生動物を使い、やがてはアフリカから持ってきた種で栽培を始めた野菜を使った料理のことだ。このため家畜の飼料用の大豆やヨーロッパ人が食べない内臓が材料の中心になる。
「うん、日本にもモツ鍋って言う九州人のソウルフードがあってね。昔はよく食べたよ」その後、日本ではモツ鍋が全国的に流行して九州人のソウルフードとは言えなくなっているのだが、それは工藤がアメリカに来てからの話だ。
「材料が同じなら味付けを教えて下されば作りますよ」「ジェニファーのソウルフードを食べるのは初めてだから材料が同じなのかは判らないね。ただモツ鍋に豆は入れないな」返事をしながら工藤はモツ鍋を思い出してみたが、ホルモンとニラ、白ネギが大量に入っていたことくらいしか思い出せない。ましてや味付けや調理法は霧の彼方だ。
「はい、お待たせしました」ジェニファーが大皿に盛った料理を運んできた。天井の薄暗い蛍光灯に照らされている料理はホルモンと豆が赤黒い汁で煮られている。鼻を突く匂いがするのでケチャップやソースなどの調味料と大量の香辛料が入っているらしい。日本で言う主食はコンソメの匂いがするピラフだ。ジェニファーはエプロンを外して空いている椅子に掛けると工藤の向かい側の席に座った。そして工藤はテーブルの上のバドワイザーの缶を1本渡して自分も開けた。
  1. 2017/12/29(金) 09:26:19|
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振り向けばイエスタディ1052

アメリカでは対テロ要員の訓練でイギリスに行っていた杉本と沖縄で北朝鮮の工作員=暗殺者の居場所を探っていた岡倉が帰国して工藤と共に日本大使館を訪ねて井上将補に報告していた。防衛駐在官室では日本大使館内とは言え盗聴の可能性を警戒してCDで陸海空自衛隊のマーチを流している。曲順は当然、陸上自衛隊の分列行進曲「抜刀隊」からだ。
「対テロ要員には全員に実技を経験させました」「うん、当初の予定通りだな」井上将補はその実技が「殺人」であることを噛み締めながらうなずいた。
「4人が別々の方法で実施して所期の目的を達しました」今日も面会の名目は日系人対象の雑誌「ウィクリー・ジャパン」の取材にしているのだが、2ヵ月も現職の自衛官に接していたため杉本は言葉遣いが戻ってしまっており、それを聞きながら工藤が渋い顔をしていた。
「それにしてもイギリスにはそんなに多くのテロリストが潜入しているんだな」「はい、ドバー海峡の海底トンネルで地続きになったため列車で入国できる上、漁船程度の小型船でも海峡を渡ることができるので南部と東部は厳戒態勢を敷いても限界があります」杉本はイギリスの現状を説明したのだが、それを聞いている岡倉は沖縄の地理的条件に重ね合わせていた。
「問題はその手段が日本国内でも実施可能かだな」「特に沖縄では本土と事情が違いますからその選択には慎重にならざるを得ません」井上将補の見解に工藤が補足した。確かにイギリスのMI5やMI6が常用する高速道路で事故を起こさせる方法は沖縄の貧弱な自動車専用道では無理がある。逆に市街地での交通事故は常に混雑・渋滞している道路事情ではこれも不可能だろう。
「彼ら自身にも技法を研究させなければなりませんが、日本国内では薬剤の入手すら困難なのではないでしょうか」杉本が言うように日本の社会に深く浸透した警察力で完全過ぎる治安を維持していることは犯罪の防止と摘発までは有効でも戦闘に類する殺人行為に対する非合法な手段に制約を加え、実行不能にしているのだ。
「それが可能な場所は・・・」「航空自衛隊のレーダー・サイトがある離島の分屯地(正確には分屯基地)などはどうですか」工藤の言葉を岡倉が受けたが、そこに井上将補が畳みかけた。
「自衛隊だけが存在する手頃な離島があるのか」「・・・」この質問に陸上自衛官3人が回答できないのは仕方ない。そもそも井上陸将補も知らないから質問したはずだ。
「レーダー・サイトでは一般の隊員の目に留まることになる。やはり在日米軍の基地の中しかないな。それは意見具申として東京に報告しておこう」結局、結論は井上将補が出した。続いて岡倉の報告の番になる。
「工作員は那覇市でも外れの空きビル内に居住空間を与えられているようです」「与えられていると言うことは日本人の協力者がいるのか」急に井上将補の目が険しくなった。
「はい、沖縄には本土での職業を定年退職した70年安保の活動家たちが退職金を持って移住してきており、学生運動を捨てて就職して以来、胸の中でくすぶっていた反米・反自衛隊闘争を再開させようとしているようです」70年安保と言えば工藤が自衛隊に入隊した頃には裕福な家庭の子供たちが大学に進学させてもらいながら学園闘争に明け暮れていることに反発している先輩たちがいて、治安出動の訓練にも気合が入っていた。
「さらに自治労の活動家が沖縄県庁内で中心的地位に就いているため、知事が誰になっても行政は反米反日親中にしか動かないようです」ここでBGMの曲は航空自衛隊行進曲「空の精鋭」が終わり、再び「抜刀隊」が始まった。議論が進むのはやはり海上自衛隊の「軍艦」らしい。
「そして今回、中国からの指令が沖縄県庁内の工作員に送られていることが確認できました。県庁が予算と人事を握っているため沖縄県警もこれに臣従せざるを得ないと言うのが実態のようです」「沖縄を経験している空軍や海兵隊の連中もゲリラの支援者の中で生活していたベトナムのようだと言っているがあの状況に近いんだな」井上将補は膝の上で両手を組むと深く溜め息をついた。やはり人間コンピューターも冷静ではいられない状態なのだ。
「問題は工作員の監視ですが、県警に漏らせば県庁を通じて中国へ報告されてしまいます。今回も私を韓国の工作員として報告していました」このまま放置すれば警戒して潜伏場所を移動させることは常識だ。と言ってこちらの要員を交代で派遣することはアメリカ軍以上に存在を秘匿する必要がある以上、選択肢に入れることはできない。4人は呼吸を合わせたように深くうなだれた。
  1. 2017/12/28(木) 09:25:37|
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12月28日=最後のイタリア国王・ヴィトーリオ・エマヌエーレ3世の命日

1947年の明日12月28日は第2次世界大戦終結後に退位した最後のイタリア国王・ヴィトーリオ・エマヌエーレ・フェルディナンド・マリーア・ジェンナーロ・ディ・サヴォイア3世の命日です。
イタリア国王と言うと学校であまり上等とは言えない歴史(日本史・世界史ともに)しか習っていない我々は古代西ローマ帝国と神聖ローマ帝国のつながりさえも良く判らず、スリランカのシンハラ王朝のようにその皇統を継いでいるのかと思ってしまいますが、イタリアは1800年代初頭に神聖ローマ帝国が滅亡してからは群雄割拠の状態が続き、その中でイタリア半島の付け根の辺境の領主が多少の戦いと政治的立ち回りで国家統一を成し遂げた結果、1849年に祖父のヴィトーリオ・エマヌエール2世(1世は自領で国王になっていた)がローマ教皇から認定されて成立した王家に過ぎません。それでも家系としては名門でヨーロッパ各国の王家と縁戚関係にありました。余談ながら最後の神聖ローマ帝国の皇帝・ナポレオーレ1世はコルシカ島出身のナポレオン・ボナパルトのことで王位しか認められていなかったフランスで皇帝になれたのにはこのような裏技があったのです。
エマヌエーレ3世は1869年に王太子だったウンヴェルト1世の長男として生まれました。父王は息子を厳格に育てようとしたようで、王国が成立して半世紀近くが経過しても未だに臣従しない地域の爵位を与えて統治させ、ヨーロッパの王族の慣習として軍の士官学校に入校させるのにも初代国王が設立した学校ではなく、それ以前からの伝統校に進ませています。ただし、エマヌエーレ3世はヨーロッパ人男性としては極めて短躯な身長153センチ程度であったことや母親が病弱で愛情に飢えて育ったこともあり無愛想で気難しい性格だったと言われています。
1900年7月29日に父王が無政府主義者によって暗殺されたため30歳で王位に就き、そこから46年間の長きにわたって君臨することになりました。1915年にオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻が暗殺されたことを切っ掛けとして第1次世界大戦が勃発するとオーストリアとの間に重大な外交問題があることを理由に不介入=局外中立を宣言しますが、オーストリアからの参戦の要望を受けて議会は賛否に分かれ、国民も「オーストリアと敵対する側に参戦すれば外交問題も解決する」と言う意見と「神聖ローマ帝国以来の同盟関係を有するオーストリア側につくべきだ」と言う意見、さらに「財政難の折から中立を守るべきである」との意見に3分されており、敵対する側への参戦を主張していた首相を解任する決議が可決されました。ところがエマニエーレ3世はこれを拒否して敵対する側で参戦するとアルプスの山岳地帯でオーストリア軍と激戦を繰り広げました。そしてドイツ軍の介入で甚大な損害を受けたものの最終的に勝利者側に立つことができたのです。
ところが終戦後、イタリアは後発の参戦だったため獲得した利益が乏しく経済的には苦境に陥ることになり、次第に国民の不満が高まってしまいました。さらにソ連の成立に呼応して共産革命を目指す動きがヨーロッパ全土に広がってイタリアでも暴動が頻発するようになりました。これを暴力で押さえようと登場したのがベニート・ムッソリーニが率いるファシスト党です。国王は国内の治安を維持するために利用するつもりで支持したのですがムッソリーニの政権奪取があまりに狡猾で迅速だったため気がつけばファシズムの上に君臨する国王にされていたのです(薩長土肥に担がれた明治天皇のようなものです)。結局、エマニエーレ3世はファシズム政権によってエチオピア皇帝、アルバニア国王、モンテネグロ国王、クロアチア国王の地位を得た代償に敗戦後の国民投票によって廃位させられました。敗戦時に王位を息子に譲りましたがローマ教皇の認定は受けていません。
この日、エマニエーレ3世は亡命先のエジプトで亡くなったのです。78歳でした。
  1. 2017/12/27(水) 10:34:20|
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振り向けばイエスタディ1051

小松基地の第6航空団整備補給群整備統制班(メンコン=メインテナンス・コントロール)で勤務する玉城松真2曹は調べ物があって群本部のTO(技術指令書)ルームに行った。TOの中には秘密指定を受けている物もあり、ドアの鍵をQC(品質管理)班で借りなければならない。そのため松真が部屋の前を通ると室内には総務人事班長を除く各班長の幹部たちが集まっていた。整備補給群本部でも総務人事班だけは航空機整備と無関係なので蚊帳の外に置かれることが多いのだ。
「それにしても困ったことになったな」入室をためらって音をたてないようにドアを少し開けると幹部たちの会話が聞こえてくる。この声は補給隊の総括班長が兼務している補給統制(マテコン=マテティアル・コントロール)班長だ。
「大体、年訓(年度訓練計画)の課題論文を民間企業の懸賞論文に投稿させることが無茶だったんだよ」QC班長の神経質そうな声が険しくなって聞こえてくる。松真たち空曹には関係なかったが、幹部たちが現在、テレビや新聞を賑わせているアマグループの懸賞論文に応募したらしいことは噂で聞いている。実際、メンコン班長も5月の連休明けからパソコンに向かって必死に文章を作成していたが、机の上には歴史物の本や雑誌が積み上げてあったので仕事をしていないことは明らかだった。幹部の課題論文は毎年のこととは言え今年は妙に気合いが入っていたようだ。
「そうだよな。いつもは仕事の中で考えるようなテーマだろう」「うん、『服務の厳正を指導する上での着意事項』とか『部隊の精強化を図るための具体的方策』なんてな」メンコン班長が仕事と同じようにQC班長と連携するとマテコン班長が同調した。要するに気合いが入っていたのではなく、頭を悩ませていたらしい。確かに例年の課題論文は現場管理職である幹部自衛官として日常の勤務の中で考え、幹部学校や幹部候補生学校で作成した論文を参考にしながら「指揮幕僚勤務の参考(帝国陸軍の作戦要務令に相当する)」にある言葉を適当にあしらえばできるようなものなのだ。
「それが『真の近現代史観』だろう。そんなものは精神教育でもやらないよ」各部隊長が実施する精神教育のテーマは自由裁量に任されているのだが数年前に「精神教育」教範が出て以来、それの朗読のようになりつつある。しかし、その教範も航空自衛隊の多岐にわたる各職種に通じるように抽象的な内容にしているため精神教育の意義を薄めて逆効果になっていた。
「司令も懸賞論文に投稿したんですかね」「我々に強制したんだから率先垂範だろう」「それこそ精神教育ですな」団司令を皮肉で揶揄して3人は噛み殺した笑い声を立てた。
「祟神が団司令だったのは10年も前のことだろう」「うん、素人の癖にでかい面して変な口頭指示ばかり出してたってさ」航空団で言う「素人」とはパイロットや整備幹部などの航空機に携わる職種ではない高級幹部のことだ(補給幹部は部品と燃料で関係する)。祟神司令が高射幹部出身の素人であるにも関わらず手前勝手な指示を練発したことへの悪評は今回の論文で再燃しているようだ。
「高射部隊なんて適当な訓練をやるだけだから後は待機で暇なんだってよ」小松基地近郊には高射部隊は存在しないのでこれは防衛大学校や幹部候補生学校で聞いた話のようだ。実際、高射部隊の訓練は空を飛び、墜落すれば命を失う航空団とは違い地面に足をつけているだけでも緊張感が違う。おまけにシフト勤務の待機もスクランブルがかかる訳ではないので単なる暇つぶしだ。そこを無意味に過ごさないで勉強していたことだけでも祟神空将を誉めるべきだろうか。
「その暇つぶしに研究した知識で論文を書いて1等賞かァ」「賞金300万円ももらったんだろうな」「おまけに懲戒免職ではないから退職金も6000万円丸儲けらしいぞ」これはメンコン班長がこの場にはいない総務人事班長から聞いた話だが、盗み聞きしている松真も驚いた。
「それにしても幕長の首が飛んで俺たちにもお仕置きってことにはならないだろうな」「『月に代わってお仕置きよ』なら好いけどな」日頃、気難しそうな雰囲気を漂わせているQC班長がセーラー・ムーンのネタでボケたのに松真も失笑してしまった。するとその声を耳にして3人が声を上げた。
「誰だ」この状況では逃げるしかない。松真は隣りのトイレの向こうにある格納庫外への通用口のドアまで小走りに移動し、そこから入ってきたかのように歩いて行った。
するとTOルームの前ではメンコン班長とマテコン班長が顔を突き合わせて小声で話し合っており、やがてトイレから出てきたQC班長が「誰もいない」と言った。
松真にも幹部の立場と言うものが判らない訳ではないが、縁が切れてしまった義兄に比べて肝が小さいように感じた。何にしても祟神問題は現場にこそ負担と不安を与えていたのだ。
  1. 2017/12/27(水) 10:32:49|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ1050

祟神(たたりがみ)問題が始まって以来、ハワイから毎週1度の定期連絡をしてくる佳織の機嫌は悪化の一途だ。
「今の空幕長は反米主義者なの」定時に掛かった電話に出ると気候(時候ではない)の挨拶、互いの健康や生活の心配、愛娘・志織の様子などの必要手順を飛び越して本題に入る。こちらは夕方だがあちらは朝だ。朝から機嫌が悪くては折角の休日も不快になってしまうのではないだろうか。
「今のって言ってもさかのぼって10月30日付で退官しているから前のだね」この不可解な人事は事務次官の第1報を受けて大臣は即座に解任を決定したにも関わらず本人が「懲戒審査に臨む」と拒否したため1週間保留されていたのだが、結局、作文が最優秀論文に選ばれる前日付けにすることで問題そのものを打ち消したのだ。おかげで次の次の空幕長と目されている幕僚副長が1週間、将来の職務を実習することになった。
「航空自衛隊はアメリカ空軍が作って陸軍航空士官学校出身者が崩した組織だから反米と言うことはないだろう」これは私が古巣にせざるを得ない航空教育隊の体質を言っている。航空自衛隊はアメリカ空軍式の最先端の組織でありながら新入隊員に対する基本教育は陸上自衛隊以上に部隊の必要性を無視した復古趣味なのだ。
「強いて言えば高射幹部らしいから帝国陸軍の系譜にある人間なのは間違いないな」「帝国陸軍かァ、私のお祖父ちゃんも陸軍士官やったけど優しくて頼りがいがあったんやで」それは私の身内も同じだ。元近衛騎兵の曾祖父の弟は自衛官になった私に「秋山好古大将が作ろうとした日本の騎兵は未完成のままだった」と率直に語ってくれていた。要するに個人ではなく「長州の陸軍」が狂っていたのだが、祟神空将については個人の資質の問題のようだ。
「こっちでも論文の英訳が新聞に載ってから大騒ぎなんよ。空の連絡管なんて質問責めの振りをした吊るし上げにされて可哀想なもんや」そちらも可哀そうだが愛する妻から吊るし上げられている私も同情してもらいたい。そこで少し話の腰を折ることにした。
「ところでその訳は正確なのか」「あッ、それは確認してなかった」日本の新聞やテレビの字幕でも海外要人の日本に関する発言の翻訳はかなり意図的に歪曲されている。テレビの同時通訳でもそれが行われることがあるのでマスコミの翻訳担当には熟練した工作員が送り込まれているらしい。
「それじゃあ貴方が年末に来る時、日本の新聞を持ってきてよ。私はこちらの新聞を用意しておくから一緒に研究しましょう」「その前に送った方が良いんじゃあないか。誤訳があれば空自の連絡管を援護してやれるかも知れないだろう」佳織の話を聞いて孤立無援のハワイで事情が判らないまま袋叩きに遭っている航空自衛隊の連絡管が拘置所に収監された裁判を受けていた頃の私に重なって妙な同情を抱いてしまった。
「その連絡管にはアメリカでは堂々と反論する必要があるって教えないといけないな。どうせ日本人的に黙ってうなだれているんだろう」「うん、反論したくても資料がないから私のところに情報収集に来たついでに愚痴をこぼしていくだけや」私は東京で空幕の小川1尉の相手をしているが、これでは太平洋を隔てて夫婦で航空自衛隊の愚痴を聞いていることになる。
「ところでアメリカでは自衛官の私的論文が政治問題になることについての論評はないのか」これは私の方が訊きたい問題だった。日本の戦後の民主主義はアメリカ式なのでその本家マスコミの見解には興味がある。それが自衛官には基本的人権が認められていない実態にまで踏み込んでくれていれば幸いだ。
「うーん、『航空自衛隊のトップが第2次世界大戦の開戦はルーズベルトの謀略だと言っている』ってことが衝撃的過ぎて人権問題にまで意識が及んでいないみたいや」「それじゃあ毎度お得意の『戦争責任の放棄』と言う非難が湧き起こっているんだな」アメリカのマスコミは大きなニュースでは先ずセンセーショナルに話題を打(ぶ)ち上げて続報で詳細な事実を紹介した後、冷静に論評する報道手法を常用する。その第1段階では大半のアメリカ人が抱いている戦前の日本に対する敵意と戦後の日本への友情の両方を刺激するための殊更な批判を繰り広げている可能性もある。
「それが単なる海外の話題扱いで記事は小さいのよ。ハワイは日系人が多いから独自に紙面を作ってるけど」やはり海外では私的論文が政治問題になる異常事態を一般の読者に理解させるには解説記事で紙面を浪費しなければならなくなるため深入りはしないようだ。
「せめてお義父さんの見解が訊きたいな」「うん、今から行くんや」これは来週のお楽しみだ。
  1. 2017/12/26(火) 09:46:35|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ1049

マスコミの報道を見ていると祟神空将の売り込み戦略は予想外の成果を上げているようだ。かつてのマスコミは「政治権力を監視する公器」「社会の誤りを正す木鐸」と言う表看板の下、野党を弱者である国民の味方、与党は企業と結託して国民を搾取する仇敵と言うマルクス主義そのものの喧伝を繰り広げていたのだが、阪神・淡路大震災以降は国民の意識が自衛隊を評価するように定着したため一部の野党に同調する報道では支持が得られなくなっている。そして今では野党第1党の民政党も自衛隊や日米同盟を認め、テレビの報道バラエティでその在り方を巡る論戦を臨むことで国民の信頼を得たように見える。それならば航空自衛隊のトップが政権を敵に回して解任されることが保守化した大衆に「英雄の出現」と受けとめられても不思議はない。ただ、私個人としては栗栖弘臣統合幕僚議長にその役を演じてもらいたかった。
「モリヤ2佐、どうも祟神空将の論文は占領軍に押しつけられた自虐史観を明確に否定する正論だったみたいですね」今日は小川1尉の来訪がないと安堵していると同室の1曹が声を掛けてきた。祟神空将を解任されることが決定的になってマスコミの取り上げ方は左右で極端に分かれてきている。自衛官は基本的に保守系の局のニュースや報道番組を見るので肯定的な意見を吹き込まれやすい。この1曹もそのようだ。でなければ「自虐史観」などと言う専門用語を口にするはずがない。
「そうかね。確かに勝者の論理で日本の全ての行為を一方的に断罪した東京裁判には問題があるが、逆に全てを肯定することも正しいとは言えないよ。少なくとも国を滅ぼしたんだからね」私の否定的な見解に妙な国家主義に染まりつつあるらしい1曹は不満そうな顔になった。
「それにしても自衛官が発言することを許さないって言う山田大臣には失望しました。私はお父さんのヤマコーさんの豪快なところが好きだったんですが、息子には遺伝しなかったんですね」陸上幕僚監部でこの調子となると航空自衛隊では祟神空将に共鳴して今回の解任を不満に思う隊員が増えていても不思議はない。それを民生党への期待に誘導すれば次の総選挙では政権交代が実現してしまう可能性も出てくる。
「私も論文を読んでみたんですが、学校で習った歴史よりも納得できるように思えるんですがね」これは理解できないことはない。学校で教えている日本史は戦前の尊皇攘夷と徳川否定の自己弁護から戦後は一転して日本断罪の「自虐史観」に反転しながらも明治維新を「革命」と位置付けて徳川幕府を農民から搾取した圧政者にしている。学校で教師から否定されながらも愛国心を抱いて自衛隊に入った隊員には祟神作文の方が納得できるはずだ。
「先ずは論文と言いながら主張している説の根拠が不明確な点が多過ぎる。ルーズベルトの周囲にソ連が送り込んだ工作員がいたと言うことは通説では常識だけど学説とするには個人も特定できていないよ」テレビを見て思い込んでいるだけの1曹に専門的な反論をしても意味がないと思いながらもここは水を浴びせなければならなくなった。
「でもルーズベルトは真珠湾攻撃に向かう日本海軍の艦隊に気づいていながらハワイには連絡させなかったんでしょう」「気づいていながらと言う記録は発見できていない。要するに噂を集めて自分の意見を補強しているんだ」「それの何が悪いんですか」国民の世論などはこのレベルのものだろう。耳触りが良いマスコミ報道に同調して支持者に回り、批判に賛同すれば糾弾の声を上げる。これまでは野党の綺麗事が机上の空論であることを国民の大半は見抜いており、マスコミに盲信することなく保守政権を維持させてきたのだが、今回は殊更に保守的な雰囲気を漂わす民政党が相手なのだ。一方、私は弁護士会の人脈で民政党の弁護士出身者の思想傾向を把握しており、その実態が大衆の支持を失った社会党が看板を掛け替えただけの左翼政党であることを熟知している。
「要するに軽い気持ちで読むには手頃で面白くても、少しでも勉強している者には幼稚で杜撰な内容なんだ。君に歴史をジックリ語ってみたいけど徹夜になりそうだな」「確かにモリヤ2佐の解説を聞かせてもらわないといけませんね。私たちではテレビで専門家が賛成していると『やっぱりそうなんだ』と思ってしまいます」それでもテレビや新聞では専門家が論説している上、本人の氏名や肩書も明示されており、新聞社やテレビ局が責任を負っている。ところが最近、流行のインターネットでは匿名希望の素人が個人的好悪で過激な意見を無責任に打(ぶ)ち上げているらしい。
「それはウチの幕長がされるだろう。むこうも幕長なんだから」これは組織防衛の基本的対処だ。しかし、今回の政府の対応を考えると実施には危険を伴うことも間違いない。
  1. 2017/12/25(月) 09:48:37|
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12月24日・沖縄が生んだ人間国宝・金城次郎の命日

平成16(2004)年の12月24日に沖縄が生んだ初の人間国宝・金城次郎さんが心筋梗塞で亡くなりました。92歳でした。
野僧は金城さんとは面識がありました。沖縄でつき合っていたアラスカ人の彼女と自転車で残波岬から万座毛にかけてサイクリングに出かけた時、読谷飛行場の滑走路で競走してそのまま座喜味城(ざきみぐすく)へ寄ろうとした途中で陶芸の窯があるのを見つけたのです。覗いてみると小柄で白髪の四角い顔の小父さんが焼き上がった陶器を積み上げて1つ1つ吟味していました。小父さんが金髪の彼女に気がついて手招きしたので一緒に入っていくと蓆(むしろ)の上に壺や皿、鉢や茶碗、そしてグイ呑みが分けて並べてあり、どれにも踊るような魚や海老、そして巻き貝(沖縄には巻き貝しかいない)の絵が描かれていました。小父さんの説明を彼女に通訳していると非常に感心した様子になったので「分けてもらえませんか。お値段は」と質問すると「気に入ってくれたねェ。それじゃあ1つあげるさァ」と言って彼女に茶碗を1つ手渡してくれました。彼女は大喜びして小父さんの頬に顔をすりつけて感謝の意を表したのですが、隣りで野僧が羨ましそうな顔をしていると「ニィニにもあげるさァ」と言ってグイ呑みを1つくれました。その時はそこまでで「人の好い小父さん」としか思っていなかったのですが、それから数カ月後に「沖縄初の人間国宝に」と言うニュースが流れ、テレビにあの小父さんが映り、作品として同じように踊るような魚が描かれた壺や皿が紹介されていたのです。驚いて彼女に電話すると米軍放送でも紹介されていたようで大喜びしていました(おかげで人間国宝=ヒューマン・ナショナル・トレジュアと言うややこしい単語を思い出さないですみました)。あの時は恩納(おんな)村伊武部(いんぶ)ビーチでキャンプして地名通りの行為をしたのですが割ったり盗まれないで本当に良かったです。おそらく今でもアラスカで沖縄と野僧の思い出の品として大切にしているでしょう。
金城さんは大正元(1912)年に那覇市首里の壺屋で陶工の子供として生まれ、12歳の時に新垣栄徳さんの窯に入って修業を始め、沖縄戦が終結した後、激戦地として廃墟になっていた壺屋に自分の登り窯を築いて独立すると、それまでは絵付けしかなかった壷屋焼きに白化粧土を被せた上に針金で絵を描く「線彫り」と言う手法を編み出したのです。そうして昭和31(1956)年に国展で新人賞を受賞して以来、ルーマニアの国立民族博物館に泡瓶(だちびん)と大皿が永久保存されたほか、県内、国内、海外の賞を受け、昭和48(1973)年には国展会員になり、昭和60(1965)年に前述の重要無形文化財=人間国宝に指定されました。
金城さんが描く魚の躍動感を「魚を笑わせる男」と評されていますが、野僧のグイ呑みの小魚でも泡盛を注ぐと喜んで飛び出しそうです。金城さんが師事した濱田庄司さんや河井寛次郎さんからは「お前は絶対に本土や外国(=中国や朝鮮)の技巧を真似してはいけない。沖縄の焼き物を独自に発展させろ」と言われていたそうですが、その通りの作風です。
そんな金城さんは昭和47(1972)年に沖縄が本土復帰して壷屋地区の周囲も宅地造成されるようになると「登り窯の排煙が公害になるのではないか」と懸念が起こり、他の作家がガス窯に切り替える中で読谷に新たな登り窯を築いて自分の技法を守りました。そのおかげで出会うことができたのです。
金城さんのグイ呑みは気軽にもらったため入れ物がなく、長らくプラシック製の円筒のケースに収めていたのですが、最近、地元の名工の卵・ムクロジ木器さんに特注の共箱を作ってもらいました(写真では台になっている)。大きな材を刳り抜いて木目まで景色に見立てた秀作ですから金城さんも気に入ってくれたことでしょう。
金城次郎作・ぐい呑み
  1. 2017/12/24(日) 09:39:38|
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振り向けばイエスタディ1048

案の定、男気がある政治屋の息子は自己の保身と内閣の維持を最優先に考えていた。尤も、内閣の維持は自分の大臣としての地位を守ることでもあるから保身に含めるべきかも知れない。
小川1尉の話によると祟神空将は受賞が決まった10月31日に防衛大臣と副大臣、事務次官、統合幕僚長や陸・海上幕僚長を訪ねて論文を配って回ったらしい。おまけに事務次官に「賞金は300万円だった」と自慢したと言うから、本人の中ではこの論文が政治的な問題になるとの認識は欠片もなかったようだ。
「吉山閣下は若い頃にコロラド・スプリングス(空軍士官学校)の教官をやっておられて横田や三沢の中堅士官には教え子が多かったので総隊司令部を横田に移転させることを決定できたんです」最近、小川1尉は祟神空将への愚痴をこぼすのに前任者の吉山空将の人間性や業績を持ち出すようになっている。それにしてもウェスト・ポイントの陸軍士官学校、アナポリスの海軍士官学校に比べて知名度が低いコロラド・スプリングスを補足説明もなしに使うのはいささか乱暴だ。その小川1尉が空幕に転属してきたのは吉山空将の時代の最終段階で仕事を覚えたところで祟神空将に代わってしまったことになる。その祟神空将は吉山空将の1期後輩らしいので、どう言う経緯で幕僚長になってしまったのかは判らないが、始めから短期政権であったのは間違いない。
「何でも事務次官が論文を読んで千葉に帰っていた大臣に電話をかけて御注進申し上げたみたいです」このような上層部の裏事情がその他大勢の隊員にまで広まっていると言うことは組織内にとして困惑を通り越した不満が蓄積しているようだ。
「昔は海原治って言う警察官僚出身の糞野郎がいて制服を叩き潰すことを徹底的に若い防衛官僚に教え込んでいたらしいが今はそうでもないだろう」「やはり政治的な問題になることは一読すれば判るような論文ですよね」小川1尉も吉山空将を懐かしむことで祟神空将と距離を置く立ち位置を作る技を身につけたらしい。それにしてもここまで嫌われていては航空幕僚長としての職務を遂行できないのではないか。同業他社とは言え少し心配になってくる。
「幕長は来年の1月21日で定年退官する予定なんです。そこまで逃げ切れば退職金を6000万円ももらって第2の人生ですよ」ここまで来ると航空自衛隊は「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略並びに間接侵略に対して我が国を防衛する」任務をほったらかしにして愚痴をこぼし合っているのではないかと疑いたくなってくる。ただし、航空自衛隊では航空総隊が実動部隊を一括指揮する組織になっているので幕僚監部の位置づけが陸上自衛隊と多少は異なっているのかも知れない。そこで思わず歌が出てしまった。
「虚しかる栄枯の夢は 醒めて我らに惑いなし ああ爆音も高らかに 雨を颯を友として 翼はばたく陸上自衛隊・・・」「おッ、それは我が航空自衛隊の歌じゃあないですか。それも4番でしょう」それを言うなら「航空自衛隊歌・蒼空遠く」であり、これは3番だ。私は防府で隊歌係として曹候学生の後輩たちに隊歌を教えていたのでこの歌の他にも「浜松航空隊歌」や映画「今日もわれ空にあり」の挿入歌「大空の歌」などを唄うことができる。それにしてもこれは不用意な個人情報の漏洩だった。こうなると誤魔化すしかない。
「へーッ、ワシは体育学校で聞いて憶えていた歌が口から出ただけだよ。そう言えば航空自衛隊の同期が唄っていたのかなァ」「航空自衛隊の隊員がそんな歌を唄いますかね。私は幹部候補生学校で習って以来、唄ったことはありませんよ」小川1尉は私を気分転換に使い始めたようだ。
「ワシのことは良いから君のところの社長の話をしよう。そのために来たんだろう」「そうですかァ・・・モリヤ2佐の追及も法務幹部としては勉強になると思うんですが」この世代の若者は「素」であることを恥としないところがある。年齢と階級が上の相手を教材に使うことにも遠慮がないのには呆れる前に感心するべきだろう。
「結論的には大臣と事務次官の間では辞任させる方向で決まっていたんですが幕長がそれを拒否したんです。それで隊法46条(=隊員として相応しくない行為)による懲戒免職にされる前に依願退職するように勧告しても懲戒審査に応じるって譲らないんです」「この作文で隊法46条は乱暴だろう。個人的な意見が政府の見解に反していても思想信条の自由の範疇だよ。それじゃあ蛮社の獄の鳥居耀蔵と水野忠邦だぞ」私にはこの一連の騒動は祟神空将が定年後に華々しく保守派の論客としてデビューするための布石に思えてきた。
  1. 2017/12/24(日) 09:37:47|
  2. 夜の連続小説8
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12月24日・法廷で東條英機の頭を叩いたA級戦犯・大川周明の命日

敗戦後10年以上が経過していた昭和32(1947)年12月24日に東京裁判の被告人席で前に座っていた東條英機元首相の頭を叩いた元A級戦犯・大川周明先生が亡くなりました(実際は音がするほど何度もだったので始めは笑っていた東條も怒ったそうです)。東條ほかの6名のA級戦犯の死刑の執行は昭和23(1948)年12月23日の未明なので9年と2日遅れたことになります。
大川先生は東京裁判では唯一の民間人でしたが、おそらく連合国側としてはナチス・ドイツのニュルンベルク裁判に於いて反ユダヤ主義を思想的に推し進めた新聞経営者であるユリウス・ストライヒャーを訴追していましたから(有罪になり翌年の10月16日に吊首刑された)、日本側にも同様の被告が必要だったのでしょう。ただし、大川先生は日本の軍国主義とは異質の思想家で、代表的な著書である「日本二千六百年史」では「日本はアイヌ民族の国土であり、皇室を中心とする外来民族はそれを忘れて高天原と言う架空の土地から降り立ったことにしている」「カソリックの修道女や佛教の尼僧が貞淑を忘れたように伊勢神宮の皇女も処女ではなくなってゆくのかも知れない」「井伊大老が岩瀬忠震を使って外交交渉をしたおかげで日本はアメリカとの無謀な戦争を避けることができた」「ロシア革命は専制君主を打倒したが、日本は明治天皇を専制君主に祀り上げた」「米騒動に於いて日本軍は外敵から国民を守る軍隊から国民に剣を向け、弾丸を放つ軍隊に変質した」などと述べており、「不敬罪」に問われて37カ所もの削除が加えられていましたから完全に的外れな訴追だったのです。
日本の軍国主義を裁くのであればナチズムに相当するのは国家神道であり平田篤胤がその元凶ですが、敗戦の102年前に死んでいます。江戸時代であれば遺骸を掘り起こして刑罰を加えることがありましたが流石にそれは無理でしょう。次に昭和の軍国主義を形成した山口陸軍閥に狂気を植えつけた狂気の指導者・吉田松陰ですが、こちらも86年前の安政の大獄で刑死していました。さらに昭和の軍部に強い影響力を持っていた北一輝と西田税(みつぎ)も8年前に2・26事件に連座して銃殺刑に処せられています。つまり日本の軍国主義はナチズムのような扇動ではなく、幕末の反乱によって平田や吉田が唱えた尊皇攘夷の選民思想・排他主義の神道が権力を得たことによって発生したものですから神道そのものを解体しなければならなかったのです。実際、現在も国家神道の再興を狙っていますから。
そんな大川先生は明治19(1886)年に山形県酒田市の医者の家庭に生まれ、庄内地方では精神教育の教本となっている「南洲翁遺訓(西郷吉之助さんの教示録)」を熟読しながら育ち、長じては東京帝国大学で印度哲学を学び、一時期は当時の流行に乗ってマルクス主義に染まりそうになりましたが弁証法的唯物論(理論と物的証拠のみで事象を根拠づける)に疑問を抱いて離れ、逆にキリスト教系の新興宗教に加入しました。大正2(1913)年にはこの宗教団体の意向を受けて歴代天皇の事績を明らかにする歴史書を出版しようとしましたが許可が下りずに頓挫しています。このような交流によって思想を広め深め、国粋主義者からは憎悪の対象になりながらも大アジア主義者と評価されるようになって戦争と敗戦を迎えたのです。
東京裁判所には水色のパジャマ姿で出廷し、前述の行動や「イッツ コメディ」などと意味不明の発言によって裁判長から「精神異常」として診断を受けることを指示され(野僧の頭も東條と同じスキン・スタイルですが幹部学校の階段教場で後ろから見ていると叩きたくなったそうですから異常ではないのでは?)、医師から「梅毒性の精神異常」との診断書が提出されたことで裁判からは外されて入院することになりました。そのまま東京裁判が終わるまで入院は続き、この間にクルアラーンの翻訳を完成させました。閉廷後に退院して神奈川県愛甲郡中津村の自宅で過ごし、この日を迎えたのです。
  1. 2017/12/23(土) 09:32:46|
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振り向けばイエスタディ1047

祟神(たたりがみ)空将の作文問題は日を重ねるごとに、時間が経つにつれて、テレビを点ける度に話が深刻に見えるように演出が加えられていた。
本来は航空幕僚長がレベルな作文を懸賞に投稿して航空自衛隊の恥を晒しただけで違法性は全くないのだが、それが「制服のトップが勝手に自分の思想を公言することは文民統制に反する」と言う強引な批判が野党から沸き起こり、それをマスコミが支援するような報道を繰り広げ始めている。
「モリヤ2佐、ウチの幕長はどうするべきなんですかね」訴訟でもないのに空幕の法務官室の小川1尉が相談に来た。このバブル後入隊の若い小川1尉は一流大学の法学部出身なのだが司法試験には通らず、まぐれとは言え合格している私に尊敬の眼差し向けてくれているのだ。そんな小川1尉の話では空幕にはこの問題の取材と称する記者たちが関係のない部署にまで入り込み、留守にしている机の上の書類などを写真で撮ったりしているらしい。こうなると早めに決着を付けるべきなのだが、祟神空将に違反行為があった訳ではないので退官を促す者がいないようだ。
「まだマスコミは嗅ぎつけていませんが、空自からは幕長以外にも96人が投稿していて、中でも幕長の古巣の6空団からは62人もいたんです」「だって自衛隊に関する意見発表には保全手続きがあるだろう」「それが5月に幕長の指示を受けて教育課長が全部隊に懸賞論文の応募要領をファックスしていて、6月には人事教育部長が投稿を促す書簡を送っているんです」こうなるとかなり怪しい臭いが漂い始める。ホテル・グループでは利権の授受は考えにくいが、個人的な人間関係を自分の職務権限を利用して支援するようなことは法には触れなくても公人として許されることとは思えない。やはり本当に「から将」のようだ。
「このままでは大臣に首を切られることになるんじゃあないかな」「でも今の大臣は男気の政治家・カマコーさんの息子ですよ」「そんなもの当てになるものか。政治屋にとって自衛官は選挙の固定票以上の価値なんてないんだ。邪魔になると思えば意図も簡単に切り捨ててくれるよ」ここで毎度の政治不信、反自民党の発言をしてしまった。案の定、陸曹は小川1尉の後ろでこちらを向いて首を振っている。しかし、自民党政権は参議院では与野党逆転の苦境に陥っており、批判を避けるために忠実な飼い犬であるはずの官僚を叩くことを繰り返すようになっているから自衛官などはもっと手軽な人身御供だろう。
「それにしても野党が文民統制を持ち出したのは想定外だったな。憲法が保障する基本的人権を制限する理由が文民統制とはね」「でもその論理にも無理がありますね」「確かに憲法が尊重する人権を法的にはどこにも規定していない文民統制と言う概念で制限することができない。つまり無理を承知で自民党政権の失策にしようとしているんだろう」現在、マスコミは世論調査の手法でこの問題のアンケートを取って批判的な声を集めようとしたが、戦後70年に迫る中、国民の意識はマックアーサーの洗脳教育の影響からは脱しつつあり、意外に祟神支持者が多かったようだ。問題は男気の政治屋の息子がどこまで腹をくくれるかだが、おそらく2世議員では飼い犬に手を噛まれた気分で怒っているのではないか。
「それであの幕長の部内での評判はどうなんだい」「これはオフレコでお願いしますよ」何だかこの1等空尉までマスコミ恐怖症になっているようだ。それでも陸曹や事務官経由で発言が流出・拡散する危険はあるので耳を近づけて内緒話にする。
「前任の吉山閣下は本当に優秀な方で、度量も大きくて仕えていて安心だったんですが・・・」「『それに比べて今度のは』と言う訳だね」私の理解に小川1尉は返事をせずにうなずいた。
「吉山閣下は退官される時の式典で見ただけだけど全く雰囲気が違ったね」「吉山閣下は防大時代から将来の幕僚長と言われていてパイロットになってからも危険な戦闘機ではなくて輸送機に回された方なんです」小川1尉は私が元航空自衛官であることは知らないが、あの頃の航空自衛隊は年に10人のパイロットが殉職することがノルマと言われていた。そして航空幕僚長になる絶対条件は「生き残ること」と言われていたから優秀な人材を守るため輸送機に進ませたと言う話は理解できる。そんな人物の後任がこれでは幕僚監部の隊員たちにはたまったものではないはずだ。
「何にしても規則違反は犯していないんだから野党やマスコミの不当な要求は断固拒否するように進言することだね。裁判になったら弁護人は引き受ける・・・とは言わないが」これが尊敬してもらっているまぐれ合格者としての助言だった。
  1. 2017/12/23(土) 09:30:53|
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12月23日・スターリンから「私のヒムラー」と呼ばれたベリヤが処刑された。

1953年の明日12月23日にスターリンさんがヤルタ会談に出席するためソ連を訪れたルーズベルトさんに「私のヒムラー」と紹介したラフレンチ・ベリヤ・パーウロヴィチさんが銃殺されました。
ハインリッヒ・ヒムラーさんはユダヤ人や反対派の大量虐殺の指揮を執った人物ですから人類史上、毛沢東に次ぐ大量殺害を行ったスターリンさんがそのように例えたのならリベラさんはそれ以上の粛清を実施したことになります。実際、ベリヤさんはスターリンさんの側近・ニコライ・エジェフさんが繰り広げていた粛正を引き継ぐ形(地位は奪い取った)で継続し、より陰湿で徹底的に推進し、犠牲者は少なく見積もっても数百万人に上ったと言われています。
ベリヤさんは帝政ロシアがまだ健在だった1899年に黒海沿いのグルジア(現在は独立してジョージア)の少数民族・ミングル人の小作農の息子として生まれました。戦後の日本の学校教育ではロシア革命を「悲惨な生活をしていた農奴からの解放を目的にしていた」と肯定的に評価していましたが、ベリヤさんも小作人の息子であれば革命の恩恵を受けたことになります。と言っても気候が温暖なグルジアのベリヤさんはそこまでは悲惨な生活ではなかったようでロシア革命直前の1917年3月に工業高校を卒業すると、そのまま共産主義革命を目指して活動を激化させていた組織・ボリシェヴィキ(後のソ連共産党)に入党しました。ところがボリシェヴィキと帝政側との対決が迫るとどちらに転んでも立場を確保できるように反革命勢力にも参画して様子窺いの態度をとったのです。
10月に革命が勃発するとこの保険が災いして内戦でボリシェヴィキが勢力を拡大するとやがて裏切り者として訴追されることになりました。革命直後の興奮状態の中では銃殺刑に処されても不思議がなかったのですが、「秘密の工作活動を行っていたが成果を上げるだけの時間がなかった」との弁明が認められて投獄だけですみました。この投獄中に貴族階級出身の女性を誘惑して出所後に逃避行しています。
その後、レーニンさんが創設した秘密警察に参加すると混乱が続くグルジアで反革命勢力の抹殺に手腕を発揮するようになり、ここでグルジア出身のスターリンさんに目をかけられるようになりました。
1924年にレーニンさんが死ぬとスターリンさんは権力奪取に乗り出し、本来はレーニンさん以上に革命の成功に貢献し、ソ連政府内で指導力を発揮したため支持者が多かったトロッキーさんなどの政敵を追い落とすことに成功しますが、その陰で暗躍したのは間違いありません。
スターリンさんがソ連帝国に君臨することになると先ずエジェフさんが反対派の粛清を担当しますが、何者かが公私混同や権力乱用をスターリンさんに密告したことで失脚して銃殺刑に処せられます。
それに代わったのがリベラさんですが、エジェフさんの公私混同や職権乱用を密告していながら自分も同様の行為を常態化して、特に女色の凄まじさはナチスの悪役などは足元にも及びません。
連日のようにモスクワ市内を公用車で巡回し、気に入った女性がいると本部に連行して性的暴行を加えるのです。特に十代の美少女が好みだったと言われています。被害者の女性は秘密警察に目をつけられることを怖れて泣き寝入りするので発覚はせず、リベラさんの死後とソ連崩壊後に告白した被害者は中国の南京大虐殺や韓国の(いわゆる)従軍慰安婦と同様に単純には信じられないような人数になっています。
そして再び何者かがリベラさんの悪業をスターリンさんに密告したことで本人が政敵を抹殺する時に用いたように「スパイ容疑」で告発されて死刑判決を受け、即座に銃殺されました。54歳でした。
ヒムラーさんは実直な地方公務員のような風貌でしたがリベラさんは真面目な優等生のような容姿でした。人は見かけに寄らないことの教材のような人たちです。
  1. 2017/12/22(金) 09:36:49|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ1046

祟神空将の論文は簡単に手に入った。この時点ではアマグループのインターネットのサイトに掲載されただけのはずだが私に読ませたいと考えている人間が大勢いたらしく、そこから印刷したらしい同じ書体のコピーが何枚も届いたのだ。おまけに法務官まで「読め」と言って渡してくれた。
それにしても一読して呆れてしまった。これは大人の論文ではなく高校生の宿題の作文のレベルだ。高校時代から小説を書いていた私から見れば高校生にするのも誉めすぎだろう。
「どうですか。やっぱり航空幕僚長が書かれた論文は凄いですか」ほんの数分で通読してしまった私に同室の陸曹たちが声を掛けてくる。あれからニュースや時事番組でもこの作文の内容を問題化するための粗探しに励んでいるから関心はあるらしい。
「うん、これは重大な国家機密の漏洩になるね」「そんな危ない内容があるんですか」「いいや、馬鹿が航空幕僚になっていると言う機密だよ」これはアメリカン・ジョークなのだが陸曹と事務官は意味が判らず顔を見合わせた後、肩をすくめて席に戻った。
ここまで中身がないと政治問題にするのは難しいかも知れないが、このような「から将」は早々に解任してもらった方が組織のためだ。その前にこれで最優秀になる懸賞なら私も応募すれば良かったのかも知れない。そう思いながら賞金は副収入になるのかを考えた。
「モリヤ2佐、法令規則上の問題事項は見つかったか」今度は法務官が入ってきた。陸将補閣下の入室なので本来は私が「気をつけ」を掛けてドアまで歩み寄り、現在の業務内容を報告しなければならない。用件があれば自室に呼ぶのはその手間を省くためでもある。しかし、今回は気軽に出入りして下さるので基本動作を守ることができない。
「法令規則の問題と言われても私的論文を部外に発表する時に保全上の審査手続きが必要になるのは『自衛隊に関する事項』が含まれている場合だけでしょう」この作文でも自衛隊に関する内容が含まれていないことはないが、それは一般論であって秘密漏洩には該当しないはずだ。
「ワシも同じ意見だ。逆にこれを政治的に問題化しようとすればどうする」考えてみれば陸将補の法務官を立たせたまま2等陸佐の私が椅子に座っているのは礼式上の問題がある。そこで私も立ち上がって立ち話にした。やはり陸上自衛隊は気配りが第一だ。
「憲法を頑なに守れと主張している野党やマスコミとしては憲法21条が保障する『言論と表現の自由』を自衛官だけに否定する合理的理由が難しいところですね」「それでもやるのが奴らだ。どんな手でくる」立ち話でも熱を帯びてくると同室の観衆たちの視線も強くなる。どうやら法務官は部長会議でこの話題が出た時の想定問答を期待しているらしい。
「強いて言えば政府の見解との齟齬の指摘と追及ですが、かなり無理がありますね」「そう言えば太平洋戦争はルーズベルトの陰謀だと書いていたな。これは日米同盟に悪影響があるかも知れないぞ」法務官の回答に観衆たちは生唾を呑み込んだ。どうやら航空幕僚長がアメリカ批判を繰り広げたと思ったようだ。陸上自衛隊から見ると航空自衛隊はアメリカ空軍の子会社のようなイメージがあり、これは「積木くずし」のような展開を期待しても仕方ない。しかし、私は話を難しい方向に進路変更してしまった。
「そのような個人的な歴史観の問題ではなくて、もう少し政治的な政府見解についてです」「政府見解と言うと・・・」ここで法務官は困惑した顔になった。考えてみると戦後の日本国政府が第2次世界大戦について公式な見解を発表したのは村山自社連立内閣の時の戦後50年談話くらいではないか。あの談話では日清・日露戦争から始まってシベリア出兵、第2次世界大戦まで全て日本侵略だったと謝罪していた。今回の論文はこれらを否定することを主旨にしているのは間違いない。
「最近では村山談話、古くはサンフランシスコ講和条約があります」「サンフランシスコ講和条約かァ、それは古いな。ワシが生まれる前だ」日本が独立を回復したサンフランシスコ講和条約は1951年に調印され、1952年に発効した。50代になっていても法務官が生まれる前らしい。
「あの条約で日本は東京裁判の判決を受け入れています。つまり帝国政府と日本軍が犯した平和に対する罪も公式に認めることを条約に調印した国に約束したのです」「ワシも東京裁判には賛同できないがな」法務官は祟神空将に同調するような顔になり、それに観衆たちもうなずいた。
「本来は日本人の手で自分の国を滅ぼした原因を徹底的に究明して、根こそぎ処断しなければならなかったのです」どうやら私は法務官が考えている仮想敵役には最適なようだ。
  1. 2017/12/22(金) 09:34:48|
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12月22日・家康公の生涯最大の危機・三方ヶ原の合戦

元亀3(1573)年の明日12月22日(太陰暦)に東照神君・徳川家康公が自ら生涯最大の危機と言われる三方ヶ原の合戦を起こしました。家康公にとっては今川義元公に随従して本隊よりも前の砦に入っている時、義元公が討たれて取り残された田楽狭間の合戦(一般的に桶狭間の合戦)と忠誠無比を謳われていた三河武士団や領民を敵にすることになった三河一向一揆との3つが三大危機なのですが本当に命の瀬戸際を味わったのはこの三方ヶ原の合戦でした。
ただし、この合戦は武田信玄公に攻撃されたのではなく、家康公の方が浜松城から討って出たことで起こりました。その理由は多くの歴史研究者が独断で解釈し、色々な小説やドラマでは勝手な演出をしていますが、遠江国に侵攻してきた信玄公が浜松城を攻撃せずに素通りしたことでプライドを傷つけられた若き家康公が血気にはやって討って出たと言う短慮を揶揄するものが大半のようです。
一方、我々三河武士の間ではもう少し現実的な理由が語られています。信玄公の天竜川を南下する侵攻を受けてその武威に恐れを為した国衆たちは次々と寝返ったため、この時点では浜松城に籠る岡崎以来の三河武士以外には味方がなくなっており、岡崎と浜松の間に楔を打ち込まれる状況に陥っていました。ここで信玄公を素通りさせてしまえば家康公の信頼は完全に失われて、例え生き残ったとしても徳川家は消滅することになります。つまり他の選択肢はなく仮に罠であったとしても突き進むしかありませんでした。
そして家康公が討って出た判断も決して血気にはやった短慮ではなく一度しかない絶好の機会を窺っていました。三方ヶ原は浜松城から見れば西方に広がる台地でここを通り過ぎると一端、低地に向って坂道を下らなければなりません。この時、大軍も細長い隊形にならざるを得ず、数で劣る徳川軍も坂落としに蹴散らすことができるはずです。ところが流石の信玄公は台地の上で準備万端を整えながら待ち構えており、その懐に飛び込むように徳川軍は突入してしまったのです。
野僧は浜松市内での忘年会の後(丁度、この時期の)、三方ヶ原を徒歩で通って帰ったことがありますが(約20キロ)、いたるところに供養の石佛があり、鬨(とき)の声やうめき声を聞き、鎧姿や首なしの武者、そして血だらけの足軽たちに会いました。
この時の武田軍は27000人から43000人、織田信長公からの増援を加えた徳川軍は11000人から28000人の戦力だったと言われていますが、損害は武田軍が双方の記録で数百人なのに対して徳川軍は徳川側では数百人、武田側は数千人と大きく幅があります。仮に徳川軍の戦力が11000人として数千人の損害を出したとすればほぼ全滅であり、こうなると再起不能でしょうからここまでの惨敗ではなく、戦闘時間が1刻(=約2時間)と言われていることを考えても始めから撤退を想定していのではないでしょうか。この撤退では本多平八郎忠勝さまが後詰めを務めましたが、まだ若い甥の命を惜しんだ叔父が楯になって喰い止め、逃がしたと言われています。
浜松市内には逃げる家康公にまつわる伝説が数多く残っており、民家で粥を少し御馳走になった土地が「小粥」、小豆餅を買ったのは「小豆餅」、ところが追手が迫ったので逃げ出し、婆さんが追いかけて代金を取り返した場所が「銭取」と地名にもなっています。
城に戻った時、家康公は脱糞しており、それを家臣が指摘すると「握り飯につけた味噌だ」と誤魔化したと言う伝承もありますが、家康公はこの敗戦を自戒するため情けないしかめ面を肖像画にしていますから脱糞していては袴を履き替えないと臭くてなりません。
この合戦の後、信玄公は甲斐に帰り、寝返った国衆は徳川側に戻っていますから意味はあったのです。
  1. 2017/12/21(木) 09:41:38|
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振り向けばイエスタディ1045

11月に入って同業他社である航空幕僚監部が妙なことになっている。建物が違うので直接は影響していないが窓から見ても人の出入りが増え、我が社=陸上自衛隊に関係する公判の報告に行った統幕で会った航空自衛官たちは他の幕の人間の目を避けるように小声でささやき合っていた。私としては古巣ではあるが、先日の祟神(たたりがみ)空将を頭に戴く組織に関わりたくはないと言うのが本音だ。ところが問題はその祟神空将が起こしたらしい。
「モリヤ2佐、昼のニュースを見てみろ」昼休みになる前の民間放送のニュースが始まる頃、法務官が自室から出てきて声をかけた。それを受けてテレビのリモコンを管理している陸曹がスイッチをいれると丁度始まったところで、法務官も部屋には戻らず立ったまま画面に見入った。
「防衛省航空自衛隊のトップである祟神航空幕僚長の大手ホテルチェーン・アマグループの懸賞論文で最優秀になった私的論文の内容が問題になっています」ニュースを伝えるアナウンサーは無表情なのでテレビ局としての評価は決まっていないらしい。これが批判に決すれば露骨に嫌悪感を示し、賛同すれば笑顔になる。特に隣りに座っている美人女性アナウンサーの演技が見どころだ。
「この論文はアマグループが『真実の現代史観』と言うテーマで公募したもので、祟神航空幕僚長は『日本は侵略国家であったのか』と言う題名で最優秀藤城誠志賞を受賞したようです」ここまで聞いただけでも危険な臭いが立ち込めてくる。「真実の現代史観」と言う用語は左右のどちらにしても極端な立ち位置からの視点だろう。先日、会った祟神空将の言動から見て右なのは間違いなく、そこに日本の侵略を否定する論文を応募して最優秀になったのならば政治問題化するのも時間の問題ではないか。
「モリヤ2佐はこの間、祟神さんとやり合ったそうだが手応えはどうだったかね」まだ取材が不十分なのかトップ・ニュースの割に早く終わると法務官は振り返って質問してきた。
「率直に申し上げてもよろしいですか」法務官にとっては防衛大学校の先輩に当たるはずなのでここは手続きを踏まなければならない。すると法務官は「余程辛辣な批判をするのか」と腕を組んで身構えた。
「航空自衛隊には頭が空っぽな『から将』と言う階級があって、祟神閣下はそれなのではないかと思いました」「それは陸だとどうなるんだね」「陸ですかァ・・・」法務官の絶妙なフェイント攻撃に私も陸=リクで人物を表現する洒落に興味が移ってしまった。
「陸・・・苦を離れるリク将では誉め言葉だな」「それで具体的には何が問題だと思うのかね」馬鹿なことを真剣に考え始めた私を笑いながら質問をかぶせてくる。フェイントで意識を反らしておいて今度は引き戻す。私との付き合いが長くなって法務官も腕を上げたようだ。
「あの閣下は自分の知識だけで一面的に物事を捉えるだけで、他の見解を受け入れることをしないようです」これは靖国を戦死者の慰霊施設として最大限の崇敬を払わなければならないと思い込めば、それを否定しなくても疑問を持つことさえ許さない言動でも明らかだった。
「うん、確かにそんなところはあるな」この答えを見ると法務官は祟神空将を知っているようだ。
「法務官は祟神閣下をご存知なんですか」「うん、統幕学校長の頃に会って話したことがある」これは意外な経歴だ。統幕学校と言えば佳織たちが卒業した幹部学校の指揮幕僚(CGS)課程の続編のような学校で1佐、2佐クラスを集めて教育と言うよりも豊富な資料の中で自主研究をさせていると聞いている。そこのトップを務めたくらいならそれなりの頭脳の持ち主のはずだが、とてもそうとは思えなかった。
「何にしても公表された論文を入手しないと内容が判りませんからこれ以上の所見は申し上げられません」「それでは早急に入手して所見をまとめるように。勿論、それは法令・規則上の問題になる可能性を検証するものだ」それだけ言うと法務官は自室に戻ってしまった。ところが私は先日から気になっていることを思い出して後を追いかけた。
「祟神閣下はパイロットではないようですが、航空自衛隊のどの職種の出身なんですか」「確か高射特科だったはずだぞ」席についてテレビをつけていた法務官はぶっきら棒に答えてくれた。陸上自衛隊の高射特科は高射機関砲から地対空誘導弾・ホークまで多岐にわたるが航空自衛隊ではナイキ、今ではペイトリオットになる。私の曹候学生の区隊長はナイキ出身だったが祟神空将を知っているのだろうか。現在の所属を確認するには渦中の空幕へ行かなければならない。
  1. 2017/12/21(木) 09:39:47|
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12月21日・前線で最も人気があった軍艦・間宮が撃沈されてしまった。

昭和19(1944)年の明日12月21日に南方戦線の将兵に絶大な人気があった軍艦=給糧艦・間宮が撃沈されてしまいました。
野僧は間宮の存在を海軍少年だった中学生の頃から知っていました。と言うのも当時の軍事月刊誌「丸」には帝国陸海軍の軍艦と軍用機の写真の大型ポスターが付いていて、その中で部屋に貼っていた1枚に呉軍港で最終艤装中の戦艦大和の背後に間宮が写っていたのです。何でも疑問を持てば調べなければいられない野僧は「丸」の編集部に問い合わせて撮影日が大和の就役3カ月前の昭和16年9月20日であり、隣りに写っている空母が鳳翔、奥の商船風の艦が間宮であることを知り、もう1つ定期購読していた「世界の艦船」で間宮の名前を見つけると熟読したのでかなり詳しくなっていきました。ちなみに艦名の間宮は公儀隠密にして探検家だった間宮林蔵の個人名ではなく樺太とシベリアを隔てる間宮海峡の地名から採ったようです。外国の海軍では個人名から命名することが多いのですが、日本では戦艦は律令国名、重巡洋艦は山岳、軽巡洋艦は河川、輸送艦は半島、島などと命名の基準が決まっているため存在しません。海上自衛隊の砕氷艦・しらせも南極探検の先駆者・白瀬矗陸軍中尉から採ったと思われがちですが、ニュージランドの南極地名委員会が正式に命名している南極大陸の白瀬海岸に由来します(そもそも海上自衛隊が陸軍中尉の名前を採るはずがない)。逆に海上自衛隊では一律に護衛艦しかありませんが、艦名を見れば何に相当するかが判るでしょう。
間宮は当初、給油艦として計画されたのですが各艦の食糧倉庫と艦内での調理能力ではアメリカを相手にして太平洋上を転戦する長期間の航海に支障をきたすことを懸念した海軍の要望により、その予算で建造が決まったのです。間宮はその外観の通り北米航路の貨客船・はわい丸の設計を踏襲していて当時の給糧専用艦としては世界最大であり、艦内には1万8千人が3週間喫食できる食料が保管できる巨大な倉庫や冷蔵庫だけでなく調理加工場、そして積み下ろしのための大型クレーン、さらに生きたままの牛や豚を飼う部屋やそれを屠殺して解体、食肉加工する施設まで備えていて、洋上で乗組員が釣った魚も見事に調理されたのです。然もそれらの屎尿や便、血液や内臓などを衛生的に処理する洗浄装置まで設置されており、食品の加工、保管、運搬、販売を一手に引き受けるまさに洋上の食品メーカーでした。当然、乗員も海軍軍人は艦の運行に当たる航海と通信要員が中心で、大半は内地の食品会社から採用された腕の良い熟練工・調理人ばかりだったので間宮が製造する菓子類、特に羊羹は「間宮羊羹」の名前で絶大な人気を博し、入港すると勝手に小舟で漕ぎ寄せて購入を希望する者まで現れたそうです(愚息1が呉で買ってきた複製品も確かに美味かった。まさか本当に口にすることができるとは!涙涙涙)。
そんな間宮は設備が過重だったため速度が遅く艦隊に随伴することはできず、単独で航海して洋上で接触することが多かったため後方支援艦には不釣り合いな最新鋭・大型の無線通信装置を搭載していました。
海軍としても前線の将兵に絶大な人気を誇り、希望の星になっているこの艦を失えば深刻な士気の低下を招くことは明らかであり、後方支援艦としては異例に強固な護衛艦隊を随伴させていましたが、戦局の悪化は日本の海軍力では押さえきれないところまで来ており、間宮もこの年の5月5日にパラオ諸島から門司港に向かう途中の東シナ海・男女群島沖でアメリカ海軍の潜水艦の雷撃を受けて損害を受けて佐世保に入港、修理を終えてベトナムに向い、ハノイからフィリピンのマニラに向かう途中の南シナ海・海南島沖で再びアメリカ海軍の潜水艦の雷撃を受けて日付をまたいで前後2回計6本が命中して沈没しました。救助は深夜だったため思いのほか難航し、護衛の駆逐艦に収容された乗員たちの多くは南シナ海でも12月では低体温症を起こしており、生き残ったのは6名だけでした。
給糧艦・間宮大和の主砲と間宮(トリミングしました)
  1. 2017/12/20(水) 09:11:21|
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振り向けばイエスタディ1044

「これがワインだよ」翌日、梢は赤と白のワインの小瓶を2本買って帰ってきた。と言っても年代物の高級品ではなく途中の酒屋に置いている国産の家庭向きワインだ。
「ワインって葡萄酒のことね」ソファーでクラシックのCDを聞いていたあかりに両手を出させて渡すと先ず頬に当てて冷たい感触を楽しんだ。
「ふーん、2本だね」「種類が違うのよ」あかりには色による識別は意味がないのでそれは自分に任せることにした。確かに一般的には白と赤に分けるが、どう見ても白ではなく透明なはずだ。
「ワインには皮を剥いて醸造する白とそのまま醸造する赤、それから途中で皮を剥くロゼがあるんでしょう」あかりの酒の予備知識にはワインの項目も入っているらしい。あかりは文字で記録することはできないので視覚障害者用の事典サイトで検索して音声を丸暗記するしかない。それにしても視覚障害者用の割に色の区分をそのまま採用しているのは配慮が足りないのではないか。
「今日は初めてだから舐める程度にしておかないとね」「お母さんも飲んでくれる」あかりの希望に梢は黙ってしまった。谷茶(たんちゃ)と結婚することになった原因である酒を口にすることには抵抗以上の嫌悪感がある。
「それじゃあ、少しだけね」梢はワインを飲んだ振りをして誤魔化すことにした。視覚障害者である娘をこう言った形で騙すのは心が痛むが「今回は仕方ない」と自分に言い訳をした。
「夕食後にシャワーを浴びてから飲みましょう」「白は冷蔵庫に入れて冷やすと美味しいのようね」ここでもああかりの予備知識が発揮される。ただし、どちらが白であるかは判らないので、梢が受け取って冷蔵庫に入れたが、あかりは嬉しそうに後ろについてきた。
「こちらが赤」「ふーん、やっぱり渋い匂いがするね」このワインは家庭向けなのでモリヤと楽しんだチリ産の赤ワインよりも香りは抑えられているのだが、あかりには強い刺激のようだ。
「アルコホールの匂いも鍼(はり)を打つ時に使う酒精綿よりも自然な感じだね」あかりの嗅覚では葡萄の芳香と同時に天然と化学合成のアルコホールの違いまで識別できるようだ。
「少し舐めてみなさい」そう言って梢は家にある一番小さいグラスの底に赤ワインを注いであかりの前に置いた。この勧め方はモリヤと初めてスナックへ飲みに行った時、自分のキープボトルのスコッチを試させたのと同じ流れだ。あかりはおそるおそる唇にグラスをつけ、本当に舐め始めた。そんな娘の姿を梢は黙って見詰めている。それは保護者としての観察ではなくあの日の自分に重ねていたのだった。
「舌がピリピリする。何だか痺れてきたみたい」あかりの感想に梢はホッと溜め息をついた。
「味は」「うん、葡萄の味だけど甘さが強くなっているみたい」「美味しいの」「美味しいけど不思議な味」そう答えてあかりはグラスを傾けてもう一度舐めた。
「もう1杯、飲む」「ううん、白も試したい」「それじゃあ、口をすすぎなさい」これでは利き酒のようだが、あかりの鋭い味覚を保つためには必要な処置だ。梢はあかりが洗面所へ行っている間に冷蔵庫から白ワインを出してきて準備していた。
「今度は白よ」「もう冷えてるのかなァ」あかりの質問に梢は瓶を手の甲に当てて確認させる。
「時間が短かったからあまり冷えていないね・・・美味しくないの」「それは口当たりだけで、そんなに違わないわよ」少し心配そうになったあかりに梢はあまり自信がない説明をした。
「違いが判る」「うん、皮の匂いと味は消えてるよ」あかりの感想を聞きながらモリヤは「白はモーゼル」と決めていたことを思い出した。モリヤは大学時代、教授の家に呼ばれてドイツでの学会に出席した時に買ってきたと言うワインの味身をさせてもらったのだがそのまま1本空けてしまったらしい。飲んで酔うと毎回その話をして「清水先生すみません」を謝っていた。
「うん、こっちの方が飲みやすいね。だけど赤の方が後に余韻を引く見たい」こんなウンチクを肴にする酒はモリヤと同じだ。梢の中で懐かしさが充ち溢れ、遠い昔の日々が甦ってきた。
「お母さんも飲んでる」「うん、赤は終わっちゃったよ」気がつくと梢はあかりには舐めさせておいて自分は20数年ぶりの酒を楽しんでしまっていた。
「あかり、ニンジンさんに抱き締められてどう思った」「うん、胸の中に溶け込ましてもらったみたい」「駄目、貴女は淳之介さんの胸に溶け込みなさい」あかりはこんな可愛いらしい話しぶりにモリヤが言っていた母=梢との楽しい酒が判ったような気がした。
け・純名里沙イメージ画像
  1. 2017/12/20(水) 09:09:24|
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振り向けばイエスタディ1043

放尿を終えてトイレット・ペーパーで拭くとそこには固まった精液が残っていた。谷茶(たんちゃ)は体内で射精したらしい。これで梢の意識は完全に醒めた。毅然たる解度で谷茶に抗議して部屋から追い出した後、上司に報告しなければならない。羞恥心で躊躇してはつけ入れられるだけだ。
覚悟を決めてドアを開けるとそこに谷茶が立っていた。濃い胸毛から腹毛に続く陰毛のジャングルの中で男根が立って砲口を向けている。
「裸でいるところを見るとここで姦って欲しいみたいだな」谷茶はそう言うと右手に持っていた小型カメラを向けて写真を撮った。至近距離からのストロボの閃光に梢が目を反らした隙に谷茶は腕を取り、トイレに連れ込んで強引に後背位から犯した。
「何を驚いているのさァ、お前のヌード写真は昨日、フィルム1本分も撮らしてもらったよ」梢の腕を引いてベッドに戻ると谷茶は撮影済みのフィルムを指で摘んで見せた。このカメラは添乗員に旅行社が与えている記録用のものだ。そのカメラで梢を脅迫するための写真を撮影した。結局、会社も一緒に梢の決意を封殺したことになった。
「今度はお前のテクニックを見せてもらおうか」ベッドに腰を下ろした谷茶は卑猥な笑いを浮かべると梢を前に曳き据える。そして頭を両手で掴んでまだ戦闘継続態勢になっている男根の前に顔を固定した。これは梢に未経験の行為を要求しているのだ。
その日、谷茶は勝手に合い鍵を作ると梢のアパートに荷物を運び込み同棲を始めた。そして梢が部屋に残していた別れた本土の男(私)との思い出の品を目の前で叩き壊してから捨てた。

「今度のツアー客の東京の女たちはうまそうだったなァ。水着になっているのを見ると我慢するのが辛かったぜ。やっぱり都会の女は違うぞ」結局、旅行者の上司の強い勧め=命令で谷茶と結婚することになったが、アパートに帰ってくる目的は梢の肉体で欲望を晴らすことだけだった。谷茶は梢を性玩具扱いして責め立てるだけで夫婦としての愛情を感じさせることはなかった。
そんなある日、谷茶が夕食に自分の好物を作らせるため買い物に連れ出したダイナハで別れた本土の男と通った居酒屋・ウチナー屋のママさんに会った(=会ってしまった)。
「あれッ、梢ねェ」梢が少し離れて谷茶が分厚いステーキ肉を選んでいる姿を眺めているとママさんが背後から声を掛けてきた。その声に谷茶が反応した。谷茶は一瞬のうちに添乗員としての営業用の顔を作ると困惑している梢に代わって返事をした。
「これは家内がお世話になりました」「梢、結婚したねェ」「・・・はい」今の梢は別れた本土の男との交際を見守り、応援してくれていたこのママさんだけには会いたくなかったのだ。
「あの人に『助けに来て』と伝えて欲しい」梢の胸にはこの言葉以外に何も浮かんでこない。そんな梢の隣りで谷茶は饒舌に語り、ママさんのご機嫌を取っていく。梢もあの夜までは谷茶のこの顔を見て会社の同僚として好感を抱いていた。しかし、この顔を作るためのストレスを抱えた陰湿な素顔を隠していたことを知るべきだった。

やがて梢は妊娠したが、谷茶は仕事から戻っても帰宅せず、女遊びするようになった。ところが酔ってアパートに帰ってくると妊娠7カ月で腹が大きく膨らんでいる梢を抱こうとした。
「金がなくなったんだ。今夜はお前で我慢してやるよ」妊婦として横向きに寝ている梢を無理やり仰向けにすると谷茶はマタニティー用ネグリジェの前を開いた。
「乳はでかくなったが、乳首が黒くなって興醒めだな」そう言って両手で乳房を鷲掴みすると乳頭から白い水分が飛んだ。
「何だこれは・・・甘い、母乳だな」」谷茶は手についた水滴を舐めると口を歪ませて笑った。
「それじゃあ、味見しながら姦らせてもらおうか」谷茶は梢の腹を邪魔そうにしながらも上からのしかかってくる。これが胎児に良いはずがない。
「お腹(なか)には子供がいるのよ。気をつけて」梢が注意してもこの性欲の野獣に聞く耳があるはずがない。いつも以上の激しさで肉体を弄ぶとそのまま挿入してくる。
「浅く、ゆっくりと・・・」梢の願いも虚しく谷茶は強引に抱き上げると深く突き上げた。それが陣痛を誘発し、あかりは早産児として生を受けた。これが梢の娘には語れない結婚生活だった。
  1. 2017/12/19(火) 09:33:38|
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振り向けばイエスタディ1042

「お母さん、お酒の飲み方を教えて欲しいの」安里家ではあかりが母・梢に思いがけないお願いをしていた。東京から帰ってからのあかりは自信に満ちて急に大人びたように感じていたが飲酒となると話は別だ。
「どうして・・・淳之介くんに誘われたの」「ううん、お父さんに」「お父さんってニンジンさん」「うん」最近は梢も私が出家して僧名を使っていることを知り、それに合わせてくれている。
「お父さんと淳之介さんがお酒を飲んで、私もどうって訊かれんたんだ」久しぶりに父子が再開したのだからそれは自然なことだろう。その場に息子の恋人がいれば誘うのも礼儀なのかも知れない。
「でも私はお酒を飲んだことがないし、お母さんも飲まないって言ったらお父さんの声が本当に哀しそうになって・・・」あかりには視覚情報がないので口調で相手の感情を推測するしかない。しかし、その正確さは取り繕った表情に騙される健常者以上のものがある。
「あかりとお酒を飲むことを楽しみにしていたのかなァ」梢の答えにあかりは首を振った。
「ううん、お母さんがお酒を飲まなくなったことが哀しいみたい」「私が・・・」梢がその説明に戸惑っているとあかりは話を続けた。
「お父さんはお母さんと飲んだお酒は本当に幸せだったって言っていたよ。楽しいことも嬉しいことも哀しいことも悔しいことも一緒に飲んで酔わせてくれたって」この言葉はあかりには表情が見えないものの梢には辛く感じていた。その酒の思い出を踏み躙る許せない経験が心に深く突き刺さっているのだ。
「どうしてお酒を止めてしまったの」「・・・それは貴方を傷つけることになるから言えないの。ごめんなさい」母が自分の質問に答えなかったことはない。それだけにこの質問が母にとって自分が考えている以上に重く、深かったことを察してあかりは押し黙った。

20数年前、1月15日の成人の日で冬の観光シーズンが終わって梢の旅行社では打ち上げが行われた。それは新年会も兼ねているので強制参加に近い。当然、梢も参加しなければならなかった。
「安里さん、失恋の痛みはお酒で忘れれば好いさァ」「泣き上戸になってもつき合ってあげるよ」「俺の胸で泣かんねェ」宴席では梢が真剣に愛し合っていた本土の男(=私)と別れたことを聞いている男性社員たちが周囲を囲み、グラスが空く暇(いとま)がないほど酒を注いできた。
「私、そんなに飲めません」「大丈夫、酔い潰れたらアパートまで送ってやるよ」旅行社の男性社員の多くはツアーの添乗員なので宴席での対応にも熟練しており、言葉巧みに酒を飲ませられて梢は酔い潰れてしまった。別れた本土の男との飲酒は梢のペースを尊重して心地好い酔いを楽しむまでの節度があり、ここまでの泥酔は初めてだった。
翌朝、梢は喉の渇きで目を覚ました。それでも意識は回復しない。何よりも頭の芯を突き刺すような痛みに顔をしかめた。
その時、カーテン越しの日差しで隣りに男が眠っていることに気づいて梢は悲鳴を上げそうになった。これを夢と信じるために周囲を見回すと間違いなく自分の部屋であり、自分のベッドの上だ。しかし、掛け布団の中の梢は全裸だった。
「どうして・・・」梢は頭痛を忘れて考えたが状況が理解できない。手で身体に触れてみると唾液を塗りつけられたような違和感がある。特に乳頭には噛んだような感覚が残り、周囲の肌はかすれてかなり念入りに口で弄ばれたようだ。
梢が隣りに寝ている男の顔を見るとそれは添乗員の谷茶(たんちゃ)だった。谷茶も昨夜、自分に酒を勧めていた。つまり酔い潰れた自分を送りながら部屋に上がり込み、そのまま抱いたのだ。
梢は別れた本土の男以外との性交渉の経験はない。これからはその思い出を守りながら、同じように愛することができる相手に出会うまで独りで生きていく覚悟をしていた。
谷茶の寝顔は濃い鬚が伸びて口の周りが黒くなり、獣のような体毛が胸や腕を覆っている。意識がないままこの男に抱かれたのかと思うと梢は絶望的な気持ちになった。
梢がトイレと水を飲みに行こうとベッドから下りると床には昨日着て行ったジャケットとスカート、ブラウス、そして下着が乱暴に脱がせ散らかっている。ベッドの上に畳んで置いてあったパジャマは谷茶が枕にして開けた口から涎を垂らしている。仕方ないので梢は全裸でトイレに向かった。
く・水島裕子イメージ画像
  1. 2017/12/18(月) 09:34:32|
  2. 夜の連続小説8
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12月18日・帝国海軍による非人道的戦闘=重慶爆撃が始まった。

昭和13(1938)年の明日12月18日から蒋介石総統の国民党政権の首都であった重慶に対して日本軍による空襲が始まりました。
昭和12(1937)年の第2次上海事変に続いて日本軍は国民党政権の首都だった南京を攻略したのですが蒋介石総統は漢口に遷都し、そこも占領されると内陸の四川省・重慶に移って戦闘を継続していたのです。この状況に対して大本営は「航空侵攻によって敵の戦略中枢を攻撃すると共に航空撃滅戦を決行せよ」との指示を下したのですが、当時の日本軍には占領地域から重慶を攻撃するには航空戦力が不十分であり、これまでの戦闘でも国民党軍の対空砲火や戦闘機による迎撃で多大な損害を受けていたため中々実行に移されませんでした(国民党軍は第1次世界大戦で敗れたドイツの軍人を顧問に招聘し、武器を大量に購入していたため日本軍よりも近代的だった)。
中支那方面軍の腰が重いことに痺れを切らした大本営は陸軍に最新鋭の97式重爆撃機を送り、新型の96式陸上攻撃機を揃えている海軍にも攻撃を要請したのです。こうした始まった重慶爆撃では当初、軍事拠点や政府中枢施設のみを戦略目標として攻撃していましたが、四川省はパンダが生育している地域だけに多雨で濃霧や厚い雲に覆われていることが多く、視界を確保するため高度を下げると対空砲火の被害を受けるので次第に無差別爆撃と化していきました。
特に海軍は井上成美支那方面艦隊参謀長が「ヨーロッパでの戦争が勃発する前に支那事変を早期終結させるためには重慶の陥落が不可欠である」との判断からこれを強く推進したと言われています。
一方、陸軍は都市への無差別爆撃は陸戦規則や海戦規則の主旨から勘案して明確な戦争犯罪であるとの判断から始めから消極的であり、早期に中止を決定していました。
重慶爆撃は海軍が主体=事実上の単独で昭和18(1943)年8月23日まで4年半も継続されましたが国民党軍を弱体化することはできませんでした。海軍では爆撃が長期化したことで国民党軍の迎撃態勢が整備され、陸上攻撃機単独での攻撃では撃墜されることが増えたため護衛戦闘機を随伴させたいと考えていたのですが、当時の96式艦上戦闘機では航続距離が1200キロしかなかったため不可能でした。そこでまだ試作機だった12試作艦上戦闘機=後の零式艦上戦闘機を制式化を待たずに投入すると13機で国民党軍戦闘機27機を全滅させる戦果を上げました。この頃の国民党軍では多くのアメリカ人の義勇パイロットが参戦しており、真珠湾の前に直接対戦していたことになります。
敗戦後の東京裁判に於いて弁護側が日本側戦犯への非人道的行為の訴追に反論して「アメリカ軍による日本の各都市への無差別爆撃を武力寸僧関係法に違反する重大な戦争犯罪である」と主張したのに対して検察側はこの重慶爆撃を持ち出して「日本軍の戦争犯罪に対する復仇(違反行為を同程度の違反行為で処罰する権利)である」と弁明しました。ただし、復仇は紛争当事国にしか認められておらず、数年が経過してから連合国を結成したとしてもアメリカに中国・国民党政権に代わって復仇する権利はありません。結局、武力紛争関係法には空戦規則がないため航空機による戦闘行為に戦争犯罪は成立しないので、アメリカ側の違反行為と相殺して日本側のこの重慶爆撃も不問に伏されました。
また井上大将は日米開戦に反対し、海軍の空軍化(航空母艦も止め島々の基地を拠点に制空権と制海権を確保する)を主張していたので「不戦の提督」「航空作戦の先駆者」と評価されることが多いのですが、例え支那事変の早期終結を目的としていても陸軍も躊躇した戦争犯罪を推進し、効果が薄い作戦を継続させたことを考えれば手放しには賞賛できません。
  1. 2017/12/17(日) 00:17:04|
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振り向けばイエスタディ1041

沖縄では岡倉が目標=北朝鮮の工作員の特定に懸命になっていた。この日も那覇市内の映画館で在沖縄米軍キャンプ内にあるDIA(国防情報局)の支局長と会っている。沖縄では米軍基地やキャンプには反対派が常に監視の目を光らせているため迂闊に訪ねることはできないのだ。
「ルテナン・カーノー(2佐)、君の地道な探索が効果を発揮したようだ」那覇市内の映画館で前後の席に座って小声で話し始めると支局長はいきなり本題に入った。平日の昼間に上映されている洋画では観客は少なく周囲に人はいないからこれも許されるようだ。
「先日、那覇市内から中国の対外工作機関に向けての発信電波が確認された」映画の台詞の音声に合わせて話をするため途切れ途切れの説明を頭の中で編集しなければならない。
「口頭での暗号は隠語の組み合わせだから翻訳は簡単だった」これは支局長が自分の手柄を伝えようとしているらしい。イギリスのジェームズやイリアにはこのようなところはない。それだけアメリカ軍の諜報要員は「甘い」と言えるのかも知れない。
「それによると那覇市内に韓国の工作員が潜入した。対処を頼むと訴えていた」それはおそらくコンビニエンス・ストアでキムチを買っていた吊り目の男だろう。あの夜、路地の入口に立っていた男は恐ろしい程の殺気を発していた。その殺気は自分を守るための自己防衛本能の強さでもある。
「一方、中国の混乱ぶりはお笑いだった」今回の台詞は意外に短かったため話は途中で切れた。それで出演者たちが互いの心情を語り合う場面を待って話を再開した。
「始めは沖縄県警に不法入国者として逮捕させると言って県首脳に命令を送ったんだが、それでは北朝鮮の殺し屋も見つかってしまうから取り止めた」思わず苦笑してしまいそうな失敗談だが、会話をしている訳ではないので画面に集中しているふりを続けた。
「次は見つけ次第、殺害しろと命じたのだが、那覇市内で殺人事件を起こせば同じことになるからと県首脳が反対した」その殺害されるのが自分であるかと思うとアメリカ人の無神経さに怒る前に呆れてしまった。
「結局、韓国政府内の政治工作員に事情を確認するから待てと言うことで保留になった」こうなると岡倉としてはジアエに連絡を取って韓国側の動きを探りたいところがまだ産休中だった。
「それで電波の発信位置は特定できたのか」次の台詞では岡倉が話した。しかし、前の席では声が後ろに届きにくいので少し音量を上げなければならない。そこで携帯電話を取り出して日本語の独り言として話した。
「うん、場所については地図を君の座席の下に置いて先に帰る」ここで岡倉は支局長の独り言が耳障りだったかのように振り返って睨みつけた。これは対話を終える合図だった。

「やはりあのコンビニに徒歩で行ける距離だな」地図には何も目印が付いていなかったが、アメリカで使用している特殊なライトで照らすと4カ所のビルに星のマークが印してあった。どうやらこのビルの屋上で中国に連絡を入れ、返信もここで受けたようだ。吊り目の男と接触してからはあの地域には立ち入らないようにしているが、数棟の空きビルが建ち並んでいる場所であることは判る。おそらく最初に感知した電波で那覇市内に潜伏している同士に連絡したのを追跡し、応答した電波も把握したことで4人全員の所在地を特定したのだ。
「中国の連中はアメリカ軍の通信傍受能力を舐めていちゃあいけないな」岡倉は中国が県首脳に命令を送った件を思い出し、冷やかに笑った。日本軍はアメリカ軍の通信傍受と暗号解読によってミッドウェイ作戦の失敗や山本五十六連合艦隊司令長官の待ち伏せなどの苦杯を飲ませられている。敗戦後、新たに設立された海上警備隊は同盟軍として情報を共有するようになり、戦時中にアメリカ軍が解読していた帝国海軍の通信文を見せられて愕然とした。それは完全に筒抜けであり、唯一、有効に機能していたのは鹿児島出身の通信員を配置して文章を鹿児島弁にしたことくらいだった。
「後はこのビル付近で目標が確認できれば俺の仕事は終わりだ」今回の任務では杉本はイギリスへ行き対テロ要員の実技講習に立ち合っている。自分も経験した目標の抹殺処理を名前や顔、氏名や所属も知らない同僚たちが経験しているのだ。
「帰りは聖也(セインヤ)の顔を見に寄りたいよ」岡倉は陰鬱になっていく自分の気持ちを救うため叶うはずもない願いを呟いてみた。
  1. 2017/12/17(日) 00:15:28|
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US-1の退役に贈る惜別の辞

12月13日に海上自衛隊岩国基地の第71航空隊で救難飛行艇US-1の最後の1機・90号が退役を迎えました。元海軍少年としては憧れの機体であり(何度も岩国基地に会いに行きました)、この日を迎えたことには惜別の念を禁じ得ません。
US-1は対潜飛行艇PS-1として1960年には開発が始まっています。当時、海上自衛隊はアメリカ海軍から供与を受け、川﨑重工がライセンス生産していたP-2Vを使用していたものの投下式のソナー=ソノブイの性能が低く、ソ連海軍の潜水艦の性能向上と極東艦隊の増強に対する対潜哨戒の運用に不満を抱いていたため、戦前には世界最高性能の2式大型飛行艇を製造していた川西飛行機の後継会社・新明和工業の技術者の提案を承認する形で開発に着手しました。
その開発構想としては飛行艇で着水した海面に吊下げ式ソナー=ディッピング・ソナーを下して海中の音響情報を直接探知すると言うものでした。これは当時としては画期的な発想でアメリカ海軍も興味を示したのですが電子装置の進歩によってソノブイの信頼性が飛躍的に向上したことと離着水するため機体重量に制約されて武装が不十分になること(最大で短魚雷4本、対潜ミサイル6発、ロケット弾)などの理由で採用には至りませんでした。グラマン社は共同開発の意向を伝えてきたそうですが。
それでも日本では開発に予算を投じれば採用するしかなく、川﨑重工にはP-2Vのレシプロ・エンジンをターボ・フロップに換装して機体を延長したP-2Jの開発をさせながらも1965年に新明和工業にも試作機の製作を指示したのです。
こうして1967年10月24日に初飛行したのですがここからが苦難の道でした。先ずゼネラル・エレクトリック社のターボ・フロップ・エンジンは通常の滑走路での離着陸しか想定しておらず、海面の抵抗を受けながらの離水では負荷が過重になり、さらにプロペラが波を叩く衝撃や塩分を含んだ水滴をエンジンが吸入することで損傷し、信頼性は著しく低下しました。また着水時に海面の水を機体内に引き入れ、中央部付近から噴射することで波頭を飛散させる波消し装置の強度が不十分だったため試験飛行で離着水を繰り返す間に機体が変形・破損することもありました。
それでも防衛庁・海上自衛隊はPS-1を採用することを前提に各種計画を策定し、予算要求していたため1968年には岩国基地に配備して運用試験を開始し、1970年から制式化して23機が製造されました。ちなみにP-2Jもこの年から採用・導入されています。
ところがアメリカでは1968年には現在も第一戦で活躍しているP-3が初飛行しており、採用の時点で既に時代遅れになっていたのです。このため海上自衛隊は早々にP-3Cの採用を希望するようになり、P-2Jをそれまでのつなぎとしたため性能に不安があるPS―1の出番はなくなってしまいました。そんな中、新たな活躍の舞台になったのが救難機と言う役柄です。救難機であれば対潜哨戒用の電子装置や武装を搭載する必要がなくなるため医療関係機材に替えても機体の重量は軽くなり、これは問題があったエンジンへの負荷の軽減につながりました。ただし、救難要請がある海域は通常の対潜哨戒の探知よりも荒天であることが常識であり、飛行と離着水に関する改善・工夫を繰り返しながら971回にも及ぶ出動を遂行したのです。
US-1はヘリコプターよりもかなり航続距離が長く、水上艦艇よりもはるかに速度が早いため太平洋沖で発病した急患の搬送や墜落したパイロットを救出することで能力を如何なく発揮しており、世界にその名を知られていました。長い間。本当にご苦労様でした。是非、搭乗員になりたかったものです(航空身体検査で落ちましたけれど)。後継のUS-2は頑張ってな。
  1. 2017/12/16(土) 09:21:48|
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振り向けばイエスタディ1040

「それでは失礼します」「ちょっと待て」法要を終えて会議室から退室しようとすると今回も我がボス・陸幕長に引き留められた。確かに監理部の陸曹たちが入室してきて手早くソファーを元の位置に戻しているが、このメンバーに加わることができる身分ではない。すると初対面の空幕長が気さくに声を掛けてきた。
「さっきのお経は英語に聞こえたが、あれも般若心経なのかね」この空幕長はかなり小柄だが、胸にウィングマークを着けていないのでパイロットではないようだ。確かにこの身長ではコクピットでもラダー・ペダルに足が届かないだろう。
「はい、あれは般若心経の英訳です」「そんなものを何に使うんだ」空幕長の胸ポケットの名札を見ると「祟神(たたりがみ)」とある。この苗字なら宗教に興味を持っても不思議はないので、丁寧に答えることにした。
「妻の実家はハワイにありまして、そちらで法要を勤める時、義父母に判るように英語で唱えているんです」「ほーッ、君の奥さんはアメリカ人なのか。陸上には珍しい国際派なんだな」どうやら祟神空将は私のことを知らないようだ。それならそれで結構なことだが、空幕長の相手をしていては引き留めた陸幕長に申し訳なくなる。
するとソファーのセットが終わり、参列者全員が自分の席に着くと私はようやく名前を思い出した朝山3佐の隣りに座った。そこから下座には陸海空曹が階級順に並んでいる。
続いて2人のWACがコーヒーを配り、上座から順番にそれを飲んだところで話が始まるのだが、私は黙っているのが作法だ。
「朝山3佐、これで君たちが処理作業の供養はできた。各海曹たちも安心して艦に帰ってくれ」統幕長の言葉はあくまでも海上自衛隊用だ。案の定、陸曹と空曹は意味ありげに目配せをした。
「本当は靖国神社でお祓いの方が良かったのかも知れないが、無料で使える坊さんがいるからそちらで間に合わせたと言う訳だ。希望者は自前で行ってくれたまえ」ここで再び空幕長が口を挟んだ。どうやら防衛大学校の卒業期別が陸海幕長よりも上のようだ。
「それは折角、法要を勤めてくれたモリヤ2佐に失礼でしょう。モリヤ2佐、祟神さんは冗談が好きなんだ。笑って聞いてくれ」陸幕長は先輩らしい空幕長に苦言を一刺ししてから私にまで気を使ってくれた。しかし、この一言で私の悪癖が目覚めてしまった。
「閣下は靖国を認めておられるのですか」予期せぬ私の質問に祟神空将だけでなく統幕長以下の最高幹部たちは顔を見合わせた。その中で陸幕長だけは妙に期待したような顔をしている。
「それは軍人として当り前だろう。君は坊主だからそんなことを言うんだな」どうやら祟神空将は私が航空自衛官だった頃に先輩たちから聞いていた「将(まさ)に頭が空っぽな『空(から)将』」らしい。むしろ体育学校の時に同期たちから言われた「空中分解幕僚長」なのかも知れない。
こなれば廃佛毀釋の恨みを八つ当たりして不発弾処理を失敗したように暴発させるしかない。
「閣下は占領軍の命令で朝鮮戦争に派遣された海上警備隊の掃海艇が、触雷して戦死した乗員の合祀を靖国が拒否したのをご存知ですか」私の説明に統幕長と海幕長の海将2人が顔を見合わせた。気がつかなかったが実は私も隣りの朝山3佐と向かいの海曹の注目を浴びていたようだ。
「それは知らなかったがこの国に命を捧げた英霊たちを守っているのが靖国神社じゃあないか。その跡を継ぐ我々が崇敬の誠を尽くさないことは許されないだろう」「それだけでなく靖国は同じように国を思って皇室に忠義を尽くしいた会津などの奥羽越列同盟や彰義隊、小倉藩兵をいまだに賊徒として冒瀆しています。そんな施設に英霊を守る資格などありますか」すると統幕長が祟神空将に「お前は会津出身じゃあなかったか」「いいえ、私は郡山です」とささやき合ったのが聞こえ、それに斜め前の空曹が「俺は須賀川です」と呟いた。
ここまで来ると自分で掘った墓穴を北キボールで地鎮祭を担当した井戸のようにするしかない。
「私は特攻隊の生き残りの方やインパール作戦からの生還者のお話を聞いてきましたが、皆さん、戦死したら家に帰って家族を見守るつもりだった。先祖代々の1人なるのが夢だったと語っておられました」「なる程。兵隊さんは戦死してからまで軍隊に残りたくなかったんだろうな」黙ってしまった空幕長の横で統幕長が同意してくれた後、我がボスが適切な指導を与えた。
「それでも政権与党は靖国神社参拝を踏み絵にしているから公言はするなよ」問題はそこだった。
  1. 2017/12/16(土) 09:20:42|
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振り向けばイエスタディ1039

「モリヤ2佐、またお弔いをやってくれないか」秋の演習中に起こった死亡事故の管理責任と賠償問題で頭を悩ましている時、また法務官から要望形式の命令が下った。
「今回も幕長室の応接室ですか」「うん、依頼主は統幕なんだが、あちらは内局に近いからウチ(=陸幕)が式場を提供することになったらしい」現在の統合幕僚長は海将なのだから海幕に頼めば良さそうなものだが、どうやら執行者が私のため陸幕にお鉢が回ってきたらしい。
「それで弔う相手はどのような人なんですか」「今回は前回以上にガードが固くて全く知らされていないんだ」前回は遺影で空挺出身の若い幹部らしいことは判ったが今回はブッツケ本番のようだ。
「できれば前日に言っていただきたいものです。坊主として最小限の法具は持ち歩いていますが、やはり使いたい専用の道具もありますから」こんなことを法務官に言っても何ともならないことは判っているが、上司として理解はしておいてもらいたかった。
ここまでで話は中断してアタッシュ・ケースから浄土宗の経本と略威儀、数珠と香合を取り出した。やはり音響効果とリズムを考えれば戒尺か持鈴が欲しいところだ。

陸上幕僚長室に隣接する応接室には3色の制服が揃っていた。まだ夏服の着用期間だが、陸と空は第1種夏服のためは冬服と変わらないが(実際は少し色が薄い)海は白の詰襟だ。ところがその中に第1種夏服の陸曹が2名と白の学生服のような海曹が1名、そして長袖のワイシャツのような第2種夏服でネクタイを第2と第3ボタンの間に突っ込んでいる空曹が1名いる。陸海空幕僚長と陸海空曹の組み合わせに私は困惑を通り越して唖然としてしまった。
祭壇は前回と同様に正面の白いシーツを被せた台だ。そこに香炉やロウソクが並べられているが今回は遺影がない。私はロウソクに火を点けて香炭を焼き、焼香の準備を整えた。角香炉の手入れは前回の後、担当者を特訓したので随分と上達しており手直しは必要なかった。
「そろそろだな」見覚えがある3等海佐が腕時計を見て独り言を呟くと陸海空曹たちはその横に整列した。号令をかけなくても「右にならえ」をして隊列を整えるところを見ると一緒に訓練を受けてきたようだ。その訓練と今回の弔いに何に関係があるのか興味が湧いたが、法要の前に俗っぽいことは控えることにする。黙って正面を向いて香を聞いていると背中に妙な気配を感じた。
「これは・・・」その暗い気配は重い唸り声を上げているようにさえ感じる。このような気配を感じたのは北キボールで阿部さんと久米さんの遺骸を発見した時だった。つまり人の「死」に強く関わった者がいるようだ。会場には私を中心にして正面に向かって右側に陸海空幕僚長、左側に3等海佐と陸海空曹4名が立っている。その気配は左側で強く感じるので、この4名がやってきた訓練が人の死に関わっているようだ。これで何となくこの法要の意味が理解できた。
「統幕長が入室されます。『気をつけ』をお願いします」その時、今回は司会進行を担当するらしい陸幕監理部の2佐が声をかけた。葬儀屋的な口調にしているのは適切な処置だ。統合幕僚長は基本教練よりもやや遅い歩調で列の右に立ち、その踵(かかと)が鳴る音で法要を始めた。
法要は香を焚くことから始まる。角香炉で焼香してから数珠を揉んだ。ここからは前回と同じ流れで進めることになる。先ずは合掌して節度なしの45度の敬礼を行い、そして香偈を唱える。
「願我身浄如香炉 願我心如智恵火・・・」続いて佛さまと菩薩さんを招く四奉請だ。
「奉請十方如来 入道場 散華楽・・・」そして佛さまを讃える歎佛偈を唱えると前置きは終わる。やはり鳴らし物がないので今一つ調子が出ない。これからは戒尺も持ち歩こうと決めた。
「佛説阿弥陀経」このお経で背後に立ちこめている「死」の気配が消さなければならない。それにしても誰を弔っているのか判らなければ『念』の込めようがないではないか。
「・・・舎利弗。於汝意云何。彼佛何故。號阿弥陀・・・」私は背後の「死」に極楽へ往生することを勧めるように佛説阿弥陀経を唱えているがどうも通じていない。これは宗旨違いと言うよりも異教徒なのかも知れない。それ以前に言葉が理解できないようだ。そこで予定を変更した。
「摩訶般若波羅密多心経・・・カンゼオンボサツ(観世音菩薩) ウェン プラクティシング ザ プロファンド プラジィナ‐パーラーミータ・・・」英語になって聞き耳を立てた気配がする。  
「南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛・・・」回向を終えて念佛を10回唱えるのが浄土宗の作法だが、今回は村田和上式の大音声で「死」の気配が消えるまで唱え続けることにした。
  1. 2017/12/15(金) 09:52:10|
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振り向けばイエスタディ1038

国する前夜、陸海空曹たちはイリアとジェームズから差し入れられた高級品のスコッチを飲んでいた。実技が始まった頃は寝酒の量が日に日に増えていたが、今は落ち着いて味を確かめることができている。それでも実技の話題は酒が不味くなるので誰も口にしない。まだ老人たちの戦友会のような気分にはなれていないようだ。その時、外からトランペットの音が聞こえてきた。
「おッ、この曲は何だ」「勘解由さんじゃあないですか」「そう言えばイラクで戦死したMI6の隊員の遺品の中にあったトランペットを借りていたな」「追悼の曲のつもりでしょう」隼人から始まった分析は小弥太、主水、佐門の順で一回りする。仕事の話題には触れず個人情報は秘匿したままなので無言の酒になっていたのだが、指揮官が思いがけない話題を提供してくれた。
「これってアメリカの何とか言うグループの曲でしょう」「かなり古い曲だよな」出だしからトランペットのソロで舞い上がるような吹奏が始まり、間奏の小刻みなリズムの後に胸の底に訴えかけてくるようなアップ・テンポな曲が続く。1970年代のこの曲を生で聞いたのは主水くらいだが、その後も吹奏楽の定番にもなっているので若い世代でも知っているようだ。
「確かキャント ギブ ユー エニィシングだったな」「それが曲名か。俺は日本語の曲名しか知らないが『愛がすべて』だったぞ」「キャント ギブ ユー エニィシング=愛がすべて」はアメリカの1968年に結成されて現在も活動しているスタイリスティックスの代表曲だ。何にしても珍しく議論が白熱して心地好い酔いになった。
「今度はこれか・・・」次の曲は全員に効き覚えがある。早い話が「必殺仕事人」の主題曲だ。これもトランペットのソロが続くから吹奏者の技量を誇示するのに適した曲ではある。何にしても勘解由のトランペットの腕前が相当なレベルであることだけは確認できた。
「おっとこれは困るな」3番目の曲は隼人だけが反応した。それが自衛隊の号音ラッパなのは判るが陸と空では使われていない曲だ。それにしても物悲しい曲調はどこか郷愁を誘う。航空自衛隊では警備職がラッパを担当するため小弥太が関心を示した。
「これは何のラッパなんだい」「うん、巡検ラッパだよ」「巡検って点呼のことじゃあないのか」主水の中途半端な理解に隼人は困った顔をしながら首を振った。
「陸と空では営庭に整列して点呼をやるみたいだけど海ではベッドに寝ているところを確認して回るんだ。このラッパが鳴れば『お休み』なんだよ」「早い話が消灯ラッパだな」小弥太の理解で一同は納得した。
「そう言えば陸と空では朝は起床って言うんだってね」「起床以外に何て言うんだ」「海では『総員の起こし』って言うんだ。それも『5分前』に号令が掛かるんだぞ」「戦争映画で見たことがあるな」思いがけずラッパの話題から内輪ネタに広がってきたが、その時、ドアがノックされた。
すると全員が反応してソファーに身を隠し、腰に下げていたナイフを抜き完全に戦闘態勢に移行した。そして目で互いに打ち合わせ、結局、小弥太がドアを開けた。
「おーッ、小弥太。貴方に会いにきました」それはシェリーだった。小弥太は自白剤の効果で記憶力だけが高揚しているため就寝後には酷くうなされていた。マンバの毒素を注射したのは暗闇の中だったので死に顔は見ていないが、その前に飲み屋で隣りに座っていた金髪の青年の姿は目に焼きついている。あの時、こちらを睨んだ白い顔と青い目が夢の中にも浮かんでくるのだ。
シェリーは夜になると足音を忍ばせて部屋に入り、枕元に座って観察していた。そうしてうなされている小弥太の手を握り、時には口づけをして落ち着かせていた。それは研究者としてではなく女としての母性本能による行動だった。
「小弥太・・・シオヤニソー、少し2人だけで話がしたいの」シェリーに促されて小弥太は3人に一瞥すると一緒に廊下へ出た。
小弥太の中ではシェリーを犯した記憶は鮮明に残っている。眠っている時、そちらを思い出せば悪夢ではなく淫夢になり、下手すれば夢精してしまうかも知れない。
するとシェリーは小弥太の手を執って建物の外に連れ出し、人目が届かない裏手に向かった。そこからは悪夢を淫夢にするための新たな記憶の入力になる。
「イエス、イエス、プッシュ、プッシュ、イエス、イエス・・・オーッ」建物の影から聞こえてくるこの悩ましい声に外で月見をしていた勘解由は苦笑いを浮かべて溜め息をついた。
SherylLee・・イメージ画像
  1. 2017/12/14(木) 09:31:51|
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12月13日・平家物語の最終章を演じた建礼門院徳子の命日

建保元(1214)年の12月13日(太陰暦)に平清盛さまの娘で高倉天皇の皇后、そして安徳天皇の母である建礼門院徳子さんが亡くなりました。59歳だったようです。
徳子さんの名前は大河ドラマなどでは「とくこ」と呼んでいますが、当時の作法では音読に訓読を続ける重箱(じゅうばこ・逆は湯桶=ゆとう)読みは避けていたので別の呼び方があったようで、一部の小説などでは現代の男性の名前の読み方から「のりこ」としているものもあります。野僧個人の見解では最も古式を堅持している天皇家の次の当主の名前「徳仁」を「なるひと」と読むのですから「なるこ」なのではないでしょうか。尤も次の当主の娘の「愛子」は曾祖母に当たる柳原愛子さんは「なるこ」なのにこちらは「あいこ」ですからあまり確信はもてません。
徳子さんは平清盛さまが権力者の座に上る切っ掛けとなった保元の乱の前年に生まれています。したがって平家の昇進と同時進行で成長していくことになり、その頂点が承安元(1171)年の高倉天皇への入内でした。しかし、その頃から父・清盛さまと舅の後白河法皇の確執が始まっており、6年後の治承元(1177)年には鹿ケ谷事件が発生し、その2年後の治承3(1179)年には清盛さまが法皇の幽閉に踏み切ったことを受けて夫である高倉帝が3歳の安徳帝に譲位して院政を敷くことになります。
ところが同じ年に法皇の傍系の御子である以仁王が全国の源氏に平家追討の令旨を発したことを受けて平家の権勢が揺らぎ始め、治承5(1181)年に高倉帝が崩御すると幼帝を支える立場になりますが、養和元(1181)年に清盛さまが亡くなったことで平家の栄華は「春の夜の夢」の如く終焉に向かってしまいました。それにしても感心するのは仇敵・平家に連れ去られた安徳天皇を廃位にせず、自分の院政を復活させることで皇室の権威を維持した後白河法皇の政治的判断力です。その辺りが南北朝と言う異常事態を招き、その後の皇室の正当性に疑義を与えた後醍醐天皇とは格の違いを感じます。
元暦2(1185)年3月24日の壇ノ浦の海上合戦では実母の時子さんが我が子・安徳天皇と三種の神器の1つである天叢雲(あめのむらくも)の剣=草薙(くさなぎ)の剣を抱いて身を投ずるのを見届けた後、自分も続きますが沈めずにいるところを武具である熊手で引き寄せられ、三種の神器の1つ八咫(やた)の鏡を守った叔父の平時忠さんと海中に身を投じながら泳いで逃げ回っていた平宗盛・清宗父子と共に京に送られます。宗盛父子は斬首、時忠さんは能登に流されますが徳子さんは前国母=天皇の母と言うことで出家を許されて後に京の北東・大原の寂光院で安徳天皇と平家一門の慰霊に勤める暮らしを営みます。平家物語では後白河法皇が寂光院を訪ねて思い出を語り合う中で世の無常を噛み締めて終わります。ちなみに安徳天皇を祭神とする水天宮には徳子さんも合祀されています。
ここまでであれば一門の盛衰に翻弄された悲劇の女性ですが、徳子さんには当時からセックス・スキャンダラスが存在しました。例えば平家物語の異本である源平盛衰記では兄の宗盛さんに弄ばれ、近親相姦の関係にあったため瀬戸内海を渡る船内でも寝所を共にしていたとされています。さらに壇ノ浦で救われた後、母親の常盤御前さんを清盛さまの妾にされたことを恨む源義経さんに強姦され、このことを後白河法皇に「畜生道に身を堕した」と告白したと平家物語では綴られています。尤も、その常盤御前さんも我が子・義経さんの下に逃れようと東国に向かう途中の関ヶ原で盗賊に集団レイプされ、その恥辱に耐えきれず懇願して殺されたと言う伝承が残っています。
平成12(2000)年の寂光院の放火で徳子さんの木造も焼失してしまいましたから没後まで多難な女性です。
  1. 2017/12/13(水) 09:47:43|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ1037

「最後になったな」数日後、イリアに呼び出された左門は意外な言葉に困惑してしまった。おそらく唯一の幹部であり、指揮官であるはずの勘解由も順番を決めるマカレルには参加しているのだが、自分が最後と言うことは1人だけ手を汚さないつもりなのか。日頃から主水=田中1曹が口にする幹部への不信感が伝染したように胸に湧き起こってきた。
「勘解由さんは?」「彼は経験済みだから今回はもう良いんだ」イリアの説明に背後で勘解由が1歩後ずさったのが判った。すると背後でジェームズが代わって説明を始めた。
「彼は以前、NATOのつながりで我々の活動を研修していてテロリストとの銃撃戦に遭遇して1名を射殺している」「勿論、記録は一切残していないから戦績はゼロだが、経験者なのは我々が証明する」2人の説明に左門は最近のニュースを思い返してみたが、ヨーロッパでのテロは遠い異国の話題だった。気がつけば自分が当事者になり、いよいよテロリストの殺害に手を下すのだ。

左門の目標はロンドン市内に潜伏しているアラブ人の若者だった。目標がテロを実行する指示を待っているビルと部屋を教えられて廊下に張り込んだ。ただし、佐門の任務はあくまでも殺害だ。
深夜、その部屋の住人が廊下に出て来たのを察知して左門は階段に身を隠した。若者は携帯電話を片手に持ちエレベーターの前に立った。左門はその様子を監視していたが、顔を出すのは人間の顔の高さではない床からだ。若者が押したボタンの位置は屋上だ。そのまま階段を駆け上がった。
屋上にはエレベーターと階段の小さな建屋がある。そのドアを音がしないように開けると身体を建物の影に滑り込ませた。若者がプロであれば常に接近経路から目を離さないはずだが、携帯電話での話に夢中で見逃している。つまり十分な訓練を受けたテロリストではないようだ。
月のない暗夜に若者の声が聞こえてくる。どうやら中東の言語のようだが左門には識別できなかった。
やがて電話を終えて若者がエレベーターに向かって歩き出した。そして建屋の中に入り、エレベーターのボタンを押そうとした瞬間に左門が踏み込んだ。
「グシャッ」驚いて振り返った若者の鼻が佐門の右拳で折られ、手袋をはめた中指に前歯が喰い込んだ。続いて仰向けに倒れた若者の側頭部に強く蹴りを入れて脳挫傷で殺害、少なくとも昏倒させた。ここまでは訓練通りだが、この先が今日の実技=処理方法だった。
左門は若者の鼻と口にタオルを巻いて止血すると肩に担いだ。この時間にMI5が若者の部屋で偽装しているように自殺してもらわなければならない。つまり飛び降りたように演出するのだ。
「待て」ビルの端に立って左門がそのまま投げ落とそうとすると闇の中から声が掛った。それは日本語で、声の主が勘解由なのもその場で判った。
「飛び降り自殺する時は前を向いて踏み切るものだ。それでは逆向きになる」確かに肩に載せた状態で投げ落せばビルの方を向いて落ちていく。下に目撃者がいて警察に事情聴取されれば疑いを持たれる可能性は高い。
「このビルの高さではそのまま足から落下するが、顔面の傷を隠すには水泳の飛び込みのように頭から落とす必要がある」この口ぶりでは勘解由もこの処理方法の経験があるのかも知れない。
「それでは手伝ってやるからビルの端に立たせて頭から落とせ」遺骸を肩に乗せたまま淡々と処理手順を習っているのは異常な光景だが、これは単なる作業に過ぎない。
「靴は脱がさなくても良いんですか」「馬鹿、あれは日本だけの風習だ」最後に不謹慎な落ちがついたところで実施した。しかし、投げ落した時、若者の身体はまだ温かく遺骸にはなっていなかったようだ。

こうして全員がテロリストの殺害を経験したところで5人は帰国することになった。実は左門が実施するまですでに手を下した者たちは自分が手を染めた殺害について語ることはなく、教育としてイリアが詳細な事実を説明されるだけだった。ところが全員が同じ殺人者になると呪縛が解けたように誇らしげに教訓を語り合うようになっている。
「そう言えば祖父さんたちの戦友会もこんな感じだったな」隊員たちの顔を眺めながら勘解由は一人呟いた。出発前に会ったモリヤ2佐から聞いた「修羅道に堕ちれば修羅に馴染む」と言う教示が胸に甦り、自分の経験を思い出していた。
  1. 2017/12/13(水) 09:46:18|
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12月13日・会津が生んだ名将の1人・柴五郎大将の命日

昭和20(1945)年の明日12月13日は義和団事件で紫禁城内に押し込められた各国公使館員を守って奮戦した日本陸軍守備隊の名指揮官・柴五郎大将の命日です。
野僧は小学生の頃、スペインで撮影したハリウッド映画「北京の55日」を見ていたのでこの事件には詳しく、中学校の歴史の授業で教科書に載っている連合軍の兵士の集合写真を見ながら教師が「この端っこに立っているチンチクリンで貧相なのが日本兵だ」と馬鹿したことに猛烈な反論をしたものです。
柴五郎大将は会津藩士・柴家の5男で、7歳の時に起こった戊辰戦争の会津攻城戦では祖母・母・兄嫁・姉妹が自邸で自刃して果て、城に立て篭もった男子だけが生き残って下北半島斗南への転封と現地での生き地獄を味わうことになりました。五郎少年は斗南に移設された藩校・日新館で学んだ後、青森県庁で下働きをして13歳で陸軍幼年学校に入校、17歳で陸軍士官学校に進学して19歳で砲兵少尉に任官しています。士官学校では工兵の父・上原勇作元帥や騎兵の父・秋山好古大将と同期でした。
任官後は大阪鎮台、近衛砲兵大隊、参謀本部を経て北京に派遣され、4年間駐在することになります。帰国後は近衛連隊や参謀本部、陸軍省、陸軍士官学校教官など中央での勤務が続きますが明治27(1894)年からイギリス公使館に派遣され、翌年に帰国して大本営参謀として日清戦争に参加した後、少佐としてイギリスに戻っています。明治31(1898)年にはアメリカ・スペイン戦争の勃発を受けてアメリカに派遣され(この時、海軍の秋山真之中将も派遣されている)、アメリカ軍の訓練・演習から上陸作戦、停戦交渉から降伏手続きまでを視察しました。
明治32(1899)年に帰国して中佐に昇任すると翌年の3月に清国大使館の駐在武官として北京に赴任し、その5月に義和団事件が発生したのです。義和団とは諸葛孔明や趙雲などを神格化して、これを念じながら奮う拳や蹴りは西洋人の近代兵器に勝つことができると信じていた過激宗教集団でした。兵力は20万人に達しましたが武器は連合国から奪っただけでしたが、それでもこの圧倒的多数の武力集団に北京市民が同調したため兵力の投入が遅れていた(日本以外はアジアの植民地軍を派遣した)連合国は劣勢に陥り、さらに目の前で展開されている自国民の攻勢に西太后が興奮して連合国に宣戦布告したため在北京の連合国公使館は紫禁城内に閉じ込められることになりました。この時、各国公使館の駐在武官や守備兵は戦利品の獲得、個人資産の確保と自国民の保護以外に関心を示さず、最高責任者になったイギリス公使の指揮には何かと理由をつけて従いませんでした。
ところが柴中佐はイギリスと清国での駐在を経験したため英語や中国語だけでなくフランス語やドイツ語にも堪能で、各国公使館員やその家族などの声に耳を傾けて意思疎通を図り、さらに義和団による迫害から逃れて紫禁城内に集まっていたクリスチャンの中国人たちも味方につけることに成功しました。こうして柴中佐の指揮の下、日本軍は担当地域以外にも出動して果敢に戦い、時には敵の攻撃に全く反撃をせずに突撃を誘い、城内に引き込んで包囲殲滅する奇策まで用いて守り抜きました。おそらく柴中佐は幼い頃に経験した会津・鶴ヶ城での苦闘を思い起こしながら指揮を執っていたのでしょう。
この日本軍の勇猛な戦いと厳正な規律は各国公使館員とその家族たちに深い感銘を与え、清国の弱体化を目の当たりにして下方修正していた日清戦争の勝利に対する評価を一転、近代的国家と認めさせる結果をもたらしました。特にこの時のイギリス公使が帰国して日英同盟の締結を強く後押ししたと言われています。
なお柴大将は第2次世界大戦での敗北を見届けて9月15日に割腹を図りますが85歳の高齢のため死ぬことができず、この日まで長引いてしまったのです。昭和の戦争には関与していなかったのですがやはり最期まで会津人でした。
  1. 2017/12/12(火) 10:05:16|
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