「ダーリン、祝杯をあげましょう」工藤は年末年始をジェニファーの部屋で過ごしている。ジェニファーにとって2009年は記念するべき年だった。初のアフリカ系大統領が誕生するのだ。そんな浮かれた気分からなのかジェニファーは工藤を「ダーリン」と呼ぶようになった。一方の工藤はそんなジェニファーの変化に亡き村田への罪悪感を隠せないでいる。
「祝杯って何に対してだ」「勿論、バラク・オバマ大統領への祝意と期待を込めてよ」オバマ大統領の就任式は1月20日だからジェニファーだけでなくアフリカ系の人たちはこれから3週間は祝杯の連続になるのだろう。
「まァ、今日はつき合うけど、あまり肩入れし過ぎると政治の実態が見えなくなるぞ」工藤はテーブルの上にグラスとナッツを盛った皿を並べ、村田の飲み残しらしいスコッチを注いでいるジェニファーに注意を与えた。
「オバマ大統領に何か気になることがあるの」席に着いた工藤の前にグラスを滑らせながらジェニファーが訊いてきた。その表情には同じアフリカ系アメリカ人として歓喜していることに水を差された不満と同時に工藤の見識に対する敬意と信頼が見える。
「オバマ政権の閣僚候補を見ると政治的な能力ではなくて選挙への貢献度で選んでいるみたいだ」工藤としてはある程度は話してあるとは言え情報戦の渦中にジェニファーを巻き込むことを避けるため本来の職務で掴んでいる事実とは別次元の一般的な疑問を提示した。
「それはギブ・アンド・テイクと言うものじゃあないの」「日本では論功行賞と言うがね」「ロン・コー・コー・ショー?」工藤の英語に日本語の単語を入れた説明にジェニファーは首をかしげる。そんな仕草を愛らしいと思いながら工藤はグラスを持って乾杯を促した。
「チアーズ」「ア・トースト・トゥ・プレジデント・オバマ(オバマ大統領に乾杯)」乾杯の発声の長さがずれてしまったが、グラスを打ち合わせるタイミングは工藤が調整した。
「本当は別の問題があるんでしょう」「・・・そんなことはないよ」スコッチも2杯目に入るとジェニファーはマスコミ関係者らしく取材を始めた。しかし、工藤は酔って口が軽くなるような素人ではない。
「強いて言えばブッシュ政権は軍産複合体に操られていたが、オバマ政権は中国の影響下にあるようだ」「中国の」「うん、今回の大統領選挙でマスコミは前回賞賛していたブッシュ政権の対テロ戦争を批判して共和党を劣勢に追い込んだが、これは中国の意向だろう。今やアメリカの主要メディアの株式は中国資本に買い取られているから世論操作などはお手の物なんだ」これはジェニファーもマスコミ関係者であることを考えて与えた注意喚起でもある。
「言われてみれば私の雑誌の親会社もアメリカ人とは思えない名前の人物の投資を受けているわ」「リーとかウォンなんて簡単には見分けがつかない名前だろう」「うん、そんな名前よ」ジェニファーは返事をしながら工藤のグラスにスコッチを注ぐ。これは酔わせて話を引き出そうとしている訳ではない。単に村田の形見のスコッチをこの機会に飲み終えたいだけだ。
「それじゃあ上から中国製の服を紹介しろって言ってきていないか」「ウチの雑誌はセンスが売り物だからアフリカ系の女性に似合わない服は取り上げないわ」ジェニファーの答えに工藤としてはもう1度乾杯したい気分になったが、考えてみれば白人社会で強く生きるアフリカ系女性を対象にしている雑誌なら社会への不満を煽るのに利用価値があるかも知れない。
「中国は孫子の兵法を継承しているから世論操作を重視しているんだ。自由主義の国では目に見える利益を上げないマスコミに投資するなんてことは考えられないが、中国は報道機関や学校を買収して自分に有利な報道と教育を展開する。これはアメリカだけじゃあなくてヨーロッパや東南アジアもやられている」少し酔ってきたジェニファーにとって工藤の説明は少し難しい。それでも身近に迫る問題なので懸命に考えようとしている。
「オバマが長期政権になればアメリカは国際社会から退潮して、代わりに中国が拡張路線を繰り広げてくるだろう」そう説明しながら工藤の胸には中国の専門家である村田を失った痛手が迫ってきた。東京が懸命に後任を探していることは井上将補から聞いているが、語学力や諜報員としての資質・能力だけでなく人物としての信頼性の見極めが困難で具体的な選考に踏み出せないらしい。確かに候補者に声をかけること自体が秘密組織の存在の自白なのだから「慎重」と言う表現では弱い臆病さが必要になる。
「オバマ大統領が中国の利用価値を発揮するようだとブッシュが国際秩序を破壊したことが中国を利する結果を招いてしまうな」ジェニファーは工藤がこれでも抑えた説明をしていることは分かっているが少し怖くなってきた。
「でもオバマ大統領がブッシュの反対のことをやるんだったら、ダーリンの同僚たちが危険な目に逢わなくなるんでしょう。私にはそれが嬉しいわ」この言葉は完全に妻のものだった。

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- 2018/01/31(水) 09:39:17|
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「玉城さん、ウチとしてはこれ以上、貴女を雇っておくつもりはありません」警察での事情聴取が終わって夕方になって出勤した美恵子に店長が解雇を通告した。店内では店長の妻が美恵子の馴染み客の髪を切っている。しかし、その客も鏡に映った美恵子の顔を冷ややかに眺めているだけで交代を要求しない。会釈をしても無視された。
「玉城さんのことは夕刊に載っているのさァ、だから隠すことはできないよ」そう言って店長は待合室のソファーの上に置いてある地元紙の夕刊を開いて渡した。そこには美恵子の氏名と職業が明記されている。確かにこれでは隠すことはできない。
「前回のレイプ事件の時は被害者だったからウチとしても守るつもりでいたけど今回はね」そう言って店長は冷ややかに皮肉な笑いを浮かべた。それは整髪中の妻と客も同様で店内の空気まで敵意に満ちて黒い霧が漂っているように感じた。
「それじゃあ退職金をいただきくさァ。15年も務めたんだから相応の金額を請求します」これは「これ以上の議論は無駄」などと言う高度な情勢判断ではなくる流れだけで美恵子が口にした意外に正当な要求だった。すると店長は振り返った妻と顔を見合わせた。
「アンタは自分の不始末でウチに迷惑をかけていることを何とも思わんねェ」妻は客に小声で断った後、店長に歩み寄り怒気を含んだ声をかけてきた。この理容店との雇用契約に退職金に関する約定はない。かと言って「今回の事件が店の営業に悪影響を与えた」とする解雇理由には無理があり、本来は猶予期間を与えない解雇も不当なのだ。
「わかった。それは後日、給料の口座に振り込むから今日は帰ってくれ」店長は店内での金を巡る争いを避けて追い出した。これは迂闊に交渉を始めれば何を言い出すか判ったものではないと言う警戒に基づく行動だ。
美恵子に対する信用もあの醜態を見せられれば完全に消え去っても不思議はないだろう。
「松栄、美恵子は何をやっているねェ」夕方、美恵子の実家にはモンチュウが集まってきた。
「何って何ねェ」玄関で応対する父の松栄は何のことか判らず訊き返した。この家では本土の新聞を取っているので夕刊は読んでいないのだ。
「美恵子が台湾の男を殺したって新聞に書いてあるのさァ」「殺したとは書いてないが腹上死させたって言ってるぞ」「腹上死じゃあなくて腹下死だよ」玄関でモンチュウの討論が始まり、その騒ぎに夕食の支度をしていた母の勝子も出てきた。
「美恵子が台湾人の金持ちとつき合っているのは知っているけど最近は家に連絡もしてこないから何も判らないのさァ」勝子の説明にモンチュウたちの勝手な討論はようやく収まった。
「この間の強姦事件の時もモンチュウに挨拶がなくて、今回は台湾人の妾になっていたなんてモンチュウの恥さァ」これには両親としても返す言葉がない。
「本土から引き取った息子はどうするねェ。こんな母親の息子じゃあ可哀そうさァ」今の両親にはこの言葉が最も堪えたようで顔を見合わせた後、揃って首を落とした。
朝礼が終わって淳之介が船の点検と準備に波止場へ向かおうとすると社長が手招きした。
「はい、何でしょうか」「うん、チョッとくるさァ」社長は他の社員たちが打ち合わせを兼ねた雑談している待機室から廊下へ連れ出した。淳之介としては1月26日前後のウチナー正月休暇をベテランが取る間に単独航行を許可されるのかと期待しながら後をついていった。
「玉城美恵子って言うのはお前のお母さんじゃあないのか」「はい、そうですが」「住んでいるのは那覇市安謝のアパートか」「確かそうだと思います」「やっぱり・・・履歴書に書いてあるからもしやと思ったんだ」社長の質問だけでは何が何だか判らないが、母が何か問題を起こしたらしい。淳之介の胸に先日の光景が甦って朝から少し不快になってしまった。
「お前、新聞は読んでいないのか」「はい、島から戻って手が空いた時に待機室で読むようにしています」「そうか、お前のお母さんの記事が載っているから先に読んでおけ」それだけ言うと社長は先に待機室に戻ると事務机の上に置いてあった新聞を手渡した。
「台湾人男性 腹『下』死」社長が小声で教えた最後のページを開くと隅にこの見出しを見つけた。淳之介にとっては母の相手が台湾人であることは知っているので立ったまま読み始めた。
「周さんは沖縄県内での商談で来日すると玉城さんのアパートに宿泊していたようで・・・」淳之介は記事を読み終えると社長に会釈をして新聞を事務机に戻し、深く溜め息をついてから波止場に向かった。すると今日の船長に当たっているベテランが「出遅れているぞ、走って行け」と声をかけてきた。
- 2018/01/30(火) 09:51:00|
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制服姿の警察官は劉の遺骸を運ぶのと同時に警美恵子に対する事情聴取を警察署で行うことを告げてからそのための情報収集としての質問を続けた。
「この男性は」「リュー・シャオゼンさんです」「ほーッ、中国人ですか」「いいえ、台湾人です」美恵子の説明を警察官はバインダーに挟んだ紙にボールペンで走り書きしていく。その動作には事に美恵子は見覚えがある。あれは那覇市内で集団レイプを受けた時だ。結局、あの事件の犯人たちは見つからなかった。
「漢字ではどう書くんですか」「判りません」考えてみると美恵子は劉が自己紹介した時に耳で聞いた名前しか知らなかった。これだけでも美恵子と劉の関係の希薄さは明らかであり、警察官は難しい顔をしてメモを取った。
「部長(階級の巡査部長であって役職ではない)、パスポートがありました」その時、美恵子と巡査部長、そして店長とは別に劉の遺骸が寝ている布団の枕元に置いてあるアタッシュ・ケースを背広の胸ポケットにあった鍵で開けた若い警察官が声をかけてきた。
「ほーッ、どんな字だ」「周囲の周に、志望校の志、辰の竜です」「タツと言うのは」「子丑寅の次の辰です」若い警察官の説明を聞きながらメモをした警察官はそれを見ながら首を傾げた。
「名前を何て言いましたっけ」「リュー・シャオゼンです」「これでリュー・シャオゼンと読むんですかね」そう言って警察官が見せたメモには「周志竜」とある。日本語の音読みでは「シュウ・シリュウ」であってとても「リュー・シャオゼン」とは読みそうもない(中国語では「チャン・ジーロン」)。
「どうやら偽名を使われていたようですね」警察官の言葉に美恵子は返事をしなかったが、店長は冷ややかな目でその横顔を眺めていた。
美恵子が警察署の取り調べ室に入るのは2度目だ。前回は強姦事件の被害者と言うことで女性警察官を話し相手にするなど細やかな配慮があったが、今回はアパートにきた2人が聴取と記録を継続している。
「貴女と貴女がリュー・シャオゼンと呼んでいた男性の関係は」「・・・」美恵子はこの質問には答えない。巡査部長はそれを恥じらいと受け取ったが実際は説明する言葉が浮かばなかったのだ。しばらくの沈黙の後、美恵子は感情を交えずに口を開いた。
「スナックのお客です」「ほーッ、スナックのお客にあそこまでサービスするんですか。代金を取っていれば売春防止法違反で逮捕することになりますよ」「セックスの代金は取っていません」美恵子の率直過ぎる説明に巡査部長は調書を記録している巡査に目をやった。しかし、証言内容については後で確認しなければならず言葉を置き換えることはできない。したがって巡査はそのままを記入した。
「それで周さんが死んだ時は何をやっていましたか」美恵子のアパートには先に救急車が到着して2人の合体は解除されていたが、警察官も周志竜の遺骸の状況を見れば何をやっていたかは判るはずだ。それが事情聴取と言うもののようだ。
「セックスしていました」美恵子の答えはますます率直になる。それでも巡査部長は手順通りに質問を進めていく。
「その時の体位は」「私が上になっていました」「いわゆる女性上位と言う奴ですな」「私は騎乗位と習いましたが」巡査部長は美恵子が繰り返す率直な説明に「この女性には恥じらいと言う感情がないのか」と胸の中で首を傾げた。
その時、取調室のドアがノックされたので、巡査が立ち上がってドアを開けるとそこには若い男性巡査が立っていた。
「遅くなりましたが1件だけ被害歴がありましたのでお届けしました」この巡査の説明に巡査部長が顔を向けると筆記係の巡査が受け取ってそのまま手渡した。するとそれは強姦事件の被害記録だった。つまりこの女性=玉城美恵子は数人の男性から強姦された経歴があるのだ。巡査部長は女性としての感情が欠落したような態度の理由が得心できたような気がした。
地元紙ではその日の夕刊と翌日の朝刊の最後のページの隅に「台湾人男性、腹『下』死」と言う見出しが載っていた。記事は小さいが読者が興味を引く見出しであることは間違いない。
「1月××日夜、那覇市安謝の理容師・玉城美恵子さん(42)のアパートで台湾の食材卸業者・周志竜さん(58)が死亡した。(中略)周さんは性行為中に心臓発作を起こした模様。那覇市警では周さんの死因などに不審な点があるため細部の調査を継続するとしている」
- 2018/01/29(月) 09:32:41|
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沖縄が本土に復帰して5年後の昭和52(1977)年の明日1月29日に沖縄が生んだ不世出の芸術家にして摩文仁ヶ丘に鎮座する沖縄平和祈念像の作者である山田真山(やまだしんざん)さんが亡くなりました。72歳でした。
野僧は亡き妻との南部戦跡巡りのバス旅行で摩文仁ヶ丘の沖縄平和祈念堂に入って高さは12メートル、全体に沖縄の伝統的漆塗りである堆錦(すいきん)が施されているその圧倒的な存在感に感動し、頭部が如来像のような肉髻(にくけい)ではなく髪の髷(まげ)のように見えたため観世音菩薩と考えて祖父(当時は出家していなかった)から習った延命十句観音経を大声で繰り返し勤めました。しかし、沖縄の宗教を研究するようになってこの像が「沖縄」と謳っている以上、観世音菩薩ではなく沖縄のニライカナイ浄土を司る弥勒世果報(みるくゆがふ)ではないかと考えるようになりました。
山田さんは本名を渡嘉敷兼槙(とかしきけんしん)と言い明治18(1885)年に首里近傍の壺屋村(=陶工の集落)で士族の儒学者の5男として生まれました。ところがその6年前に琉球藩が廃止されて沖縄県が設置されていたため(沖縄を被害者とする歴史家たちは「琉球処分」と呼んでいる)士族としての俸禄を失って生活は困窮していたのです。このため父親は家族を連れて八重山で採掘が始まった石炭の鉱山の労働者になりましたが(沖縄の歴史家は「明治政府による強制があった」と言っています)マラリアに罹患して病没してしまいました。やはり士族の学者には炭鉱での重労働は過酷だったのでしょう。
こうして八重山に取り残された家族を支えるため山田さんは炭鉱の給仕として働くようになり、そこで建築作業を請け負って来島していた本土の大工の棟梁に手先の器用さを見出されて弟子になり、14歳で一緒に東京へ行って養子になりました。ところが柱材の裏側に人面を彫ったのが見つかり、破門・勘当されてしまったのです。その後は日比谷公園で野宿しながら牛乳配達で生活費を稼いで、21歳で東京美術学校に入学して彫刻を高村光雲さん、日本画を小堀鞆音さんから学ぶと首席で卒業しました。そして教授陣の推薦で清国の北京芸徒学堂の彫刻と図案の教授として赴任したのですが、山田さんの作品に中国を題材にしたものが多いのはこの時の経験によるものでしょう。沖縄の歴史家たちが言うように中国を賛美して日本を嫌悪したためではないはずです。
帰国後は第8回文展で日本画作品が、第1回帝展で彫刻作品が入選して比類なき実力を発揮しましたが、40歳の時、明治神宮聖徳記念絵画館に「琉球藩設置図」を描いたことで郷土愛に目覚め、戦争が迫っていることも知らず昭和15(1940)年に帰郷し、昭和20(1945)年4月1日からの沖縄戦に遭遇することになってしまいました。
戦後、山田さんは占領軍の機関紙・デーリイー・オキナワンの挿絵を依頼されますが、旧敵国に協力することに躊躇したものの破壊され尽した沖縄の風景を後世に残すために筆を取ったのです。この作品は「オキナワ・バイ・ヤマダ(日本語題・沖縄絵物語)」として米軍を通じて世界に流布されました。
この不世出の芸術家に何故、文化勲章が贈られず、人間国宝にさえなっていないのか?本土の美術界の推薦がなかったからでしょう。
- 2018/01/28(日) 09:35:40|
- 日記(暦)
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劉は沖縄での仕事の行き詰まりを沖縄の女である美恵子を責めることで発散しようとしている。シャワーから出て身体を美恵子に拭かせながら濡れたままの髪を掴んで顔を股間に持って行った。せり出した腹の下で男性自身が勃起している。これで要求していることは明らかだ。
美恵子はためらうことなくそれを口に含む。最初の男であり夫でもあったモリヤが「美恵子を汚すことになるから」と避けていた口腔性交を浮気相手の矢田に教えられた。
今では沖縄の現地妻とも言えない愛人として劉の命ずるままに口を開いて舌を使っている。これが劉にとっての美恵子の存在理由であり、美恵子にとっては「自分の店を持つ」と言う目的を達成するための奉仕であった。
「美恵子、上になれ」布団に入ると劉は意外なことを命じた。儒教の作法を尊重する台湾の外省人の間では性行為は男性に主導権があり、女性は命じられるままの玩具にならなければならない。だから女性が上になる騎乗位は特別な場合以外にはハシタナイこととして嫌われている。美恵子も劉に抱かれるようになって初めての経験だ。
「はい、ご主人さま」それでも美恵子は困惑しながらも仰向けになっている劉の下腹部の上を跨いで座った。美恵子の秘部が劉の男根を探した後、ようやく結合した。
「おうッ」その瞬間、劉が呻き声をあげた。美恵子にとっての性の歓びは矢田に教えられた。遊び慣れていて体力も十分な矢田は毎晩のように美恵子を責め立て、快感の渦に引きずり込んでいた。それに比べると劉はしつこいばかりで快楽には程遠い。それでも他に性的関係を持つ相手がいない美恵子は劉の上で腰を振り始めた。
「おうッ、おうッ、おうッ」相変わらず劉は呻き声を上げている。美恵子には「女が声を出すのははしたない」と禁じておきながら自分が我慢する必要はないらしい。美恵子はその不満を腰の動きで表現する。前後、左右の横の動きに上下、深い浅いの縦の動きと絞め緩めを加えた複雑な動きで劉の男根を弄んだ。
窓から射す月明かりに映し出される劉の顔には快楽と息苦しさが交互に現われている。美恵子は唇を歪めて笑うとさらに矢田に調教された技を駆使して劉を追い詰めた。
「おーッ、おーッ、おーッ」呻き声が強くなり、息苦しさの方が優勢になっていくのが判る。
その時、美恵子の身体の中で炎が燃え上がった。これは矢田に女の歓びを教えられ、夫を裏切ることの罪悪感を忘れた瞬間にも感じたことがある。美恵子は自分の手で乳房を掴み、乳頭を指と指で挟んで刺激し始めた。同時に腰をさらに複雑に振り、劉を責め立て続ける。
「うッ、うッ、うーッ」美恵子が見下ろすと劉は顔を歪め、苦しそうな声を上げている。この声は射精する時にも発することがある。美恵子は劉の命令で避妊薬を飲んでおり妊娠の心配はない。だから迷うことなく自分の快楽を追い求める。やがて美恵子は中途半端ながら絶頂を迎え劉の上に崩れ落ちた。
「ご主人さま!」劉の上に倒れ伏していた美恵子は顔を乗せている胸が冷たくなったのに気づいて声をかけた。しかし、劉は反応しない。それどころか呼吸をしていない。
「劉さん、劉さん」劉の男根は勃起したまま冷たくなっている。美恵子にとっては身体の中に冷たい肉棒を突っ込まれているようなものだ。
美恵子は身体を起こすと腰を引いて肉棒を抜こうとしたが上手くいかない。そうしている間にも横向きになった劉の口からは涎(よだれ)が流れ落ち、腹を圧迫したためなのか脱糞した悪臭が漂ってきた。
結局、美恵子は出勤しない上、電話にも出ないことで心配して訪ねてきた理容室の店長に発見された。アパートの鍵は管理人が持ってきたため公私で世話になっている男性たちに究極の醜態を晒してしまった。
管理人の通報で救急車とパトカーが駆けつけてきて、ようやく劉の男根は抜けたが、40歳を過ぎた裸体をさらに多くの男性たちに公開することになった。
「貴女のお名前は」劉の死亡を確認した救急隊員たちが引き揚げた後、後に残った警察官が身支度を整えた美恵子から事情聴取を始めた。
「玉城美恵子です」「職業は」「理容師です」「いいえ、スナックを経営しています」付き添ってくれているはずの店長が美恵子の説明を横から否定する。
「本当はどちらですか」「確かにウチでアルバイトはしていますが収入はスナックの方が多いはずです」「それでは健康保険は」「・・・ウチです」警察官の確認に店長は美恵子が従業員であることを認めざるを得なくなった。どうやら店長は事件で店の評判に傷がつくことを惧れ、この機会に厄介払いするつもりらしい。
- 2018/01/28(日) 09:33:04|
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薄暗くした店の中では美恵子がボックス席で中年男と熱い抱擁をしていた。男の手は美恵子の服の襟元から胸に差し込まれ、乳房を愛撫しているのが見える。息子としては母親のこのような痴態を見ることは耐えがたいはずだが、淳之介はこの2人の性行為の声を聞いており、母親から口腔性交も受けているので冷静なものだ。
「お母さん」客を追い返し、性行為を始めるつもりの2人は有線放送の音も重なって淳之介が入ってきたことに気づいていない。仕方ないので少し大きめの声をかけた。
「ジェ・シィ・シェイ(誰だ?)」先ずスーツを着た丸顔で肥満体の中年男が日本語ではない言葉をかけてきた。
「えッ・・・淳之・・・いらっしゃいませ」続いて顔を向けた美恵子は困惑したように声をかけた。実は淳之介が幼い頃、美恵子は善通寺の官舎前の道路に泊めた車の中で再婚相手になる矢田に口づけされながら胸を愛撫されているところを前夫だったモリヤに目撃されていた。つまり父子に同様の淫ら(みだら)な姿を見せたことになる。
「お母さん、話があるんだ」「お母さんと呼んでいるぞ。お前の息子か」淳之介の呼びかけに台湾人と聞いている男の方が反応した。すると美恵子は男の首に両手をかけて弁明を始めた。
「この子はママさんって言う代わりにお母さんって呼んでるの。お母さんがいないだって」この言い訳は単語の共通性を利用した絶妙なものだ。それにしても理由にするためとは言え平然と自己否定できるところは流石の美恵子だ。淳之介としてはあくまでも息子と言い張って自分を捨てた母親を窮地に追い込む復讐と素直に客になって用件を済ませて帰る親孝行の選択に迷ったが煩わしさだけで後者を選んだ。
「お母さん、俺、結婚しますからもう来ません。お世話になりました」それだけ言うと淳之介は頭を下げて店から飛び出した。しかし、小走りに階段まで来たところで美恵子は驚いた様子を見せなかったことが胸に甦り、引き返してドアに耳をつけた。
「イー・ブー・シュオ・マ(鍵をかけなかったのか)。ヤォシィ・シュ・オゥ(鍵をかけろ)」中からは中年男の声が聞こえてくる。その言葉が終わる前に中から鍵がかけられたところを見ると2人は続きを始めるらしい。善通寺の時も美恵子はフロント・ガラス越しに夫と目が合ったにも関わらず愛撫を続行した。それが性分のようだ。
美恵子の愛人・劉青然は沖縄での営業に苦労していた。これまでは沖縄本島内の中華料理店やスーパーマーケット、さらに学校給食からの需要があった。しかし、最近は中国の企業が安価な食材を売り込み始め、県や市の推薦を受けたことで乗り換える店が続出しているのだ。
「ウォ・フィラィレ(ただいま)」美恵子のアパートに帰ってきた劉は疲れ切った顔をしている。美恵子は玄関に出迎えると狭い台所で巧みに入れ替わって後について居間に向かった。劉は右手に古びたアタッシュ・ケースが提げているが、劉は外省人(中国本土から台湾に移住した人)なので金品や重要書類が入ったカバンを他人に任せるほど人間を信用していない。
「夕食は」「すませてきた」以前であれば取引先を接待して劉が高級店に案内していた。しかし、今ではそのような投資も回収する見込みが立たないようだ。
「それじゃあシャワー浴びて寝ましょう。どうぞご主人さま」劉は儒教の礼節には厳しい。そのため美恵子は夫たちからは強制されたことがない絶対服従に努めている。夫を亭主関白にさせなかった美恵子が劉にへりくだるのには理由がある。劉が美恵子に理容店を開かせる約束をしているのだ。
美恵子が那覇市内の理容店に務め始めて15年が経つ。以前は育児に専念するため専業主婦になっていた店長の妻も理容師の資格を活かして店を手伝うようになっており、次第に美恵子の給料を削減=解雇することを考え始めている気配を感じていた。
「美恵子、背中を流してくれ」シャワー・ルームから劉が声をかけてきた。劉が脱いだわスーツとズボン、ネクタイをハンガーに掛け、ワイシャツと下着、靴下をシャワー・ルーム内の洗濯機に入れるため抱えていた美恵子は「はい」と返事をした。
裸になって髪を後ろにまとめた美恵子がドアを開けると劉はシャワーを胸にかけている。その背後で劉と自分の下着を洗濯機に入れると美恵子はボディ・ソープを両手に受け、泡を立てて背中をこすり始めた。
「お前の身体で洗ってくれ」劉の命令に美恵子は後夫である矢田のことを思い出してしまった。遊び人だった矢田は美恵子にソープランド嬢のテクニックを教え、自宅でやらせていた。これは矢田命名の「立ち姿ボディ洗い」だ。美恵子は自分の身体にボディ・ソープを塗りつけた。

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- 2018/01/27(土) 09:35:37|
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「モリヤの母ですか。すごい女性(ひと)ですよ」淳之介が姿勢を正したのはこの母を語るには敬意を表する必要を感じているからだ。
「父なんて問題にならないくらい優秀で、とてつもない大物です」あかりはモリヤの義母のことを聞くのは初めてなのか淳之介が握っている手を強く握り返してきた。
「陸上自衛隊の幹部なのよね」「はい、父とは幹部候補生学校の同期だったそうです」梢は航空自衛隊のことはモリヤから聞いてある程度は分かるが、陸上自衛隊については完全な門外漢なので幹部候補生学校がどこにあるのかも知らない。
「母は元アメリカ人なんです」「アメリカ人でも自衛隊に入れるのね」「いいえ、ハワイの日系人の娘として生まれたんですが中学生の時に両親が離婚して日本に帰ってきたそうです。それでも大学はアメリカへ留学しています」この経歴を聞いただけでも優秀で大物なことは想像できる。問題はそんな特別な女性が何故モリヤと結婚することになったかだ。
「それでお父さんとお母さんはどうして結婚したの」「これは信じられないことですが母が父に惚れて奪い取ったと言っています」「奪い取った」「はい、玉城の母からです」淳之介の沖縄の母についてはウチナー屋のママさんまで「馬鹿な女」「沖縄の女の恥」と酷評していた。つまり釣り合わない馬鹿な女との結婚生活に疲れたモリヤが魅力的な女に迫られて乗り換えたと言うことなのだろうか。それでは大切な息子をその女に返した真意が理解できない。
「母は両親が離婚する前に妹を妊娠しています。それも母が父を押し倒したって言うんです。モリヤの母もお母さんと同じくらい美人ですから俺には信じられません」娘の恋人から美人と言われて梢は困ってしまった。ここはホロ酔いになることだ。そう思ってグラスの泡波を2口ほど飲むと適度に頭が痺れてきた。
「お父さんはお母さんのことを愛してるんでしょう」「はい、ぞっこんです。夫婦で熱愛していて子供が寝るのが待ち遠しいみたいでした」「昔は私がその相手だったのよ」酔い始めた梢の本音に淳之介をあかりは握り合った手で互いの困惑を伝えあった。
「お父さんとお母さんってどんな夫婦なのかな」今夜の梢は酔えば酔うほど父への想いがつのるようだ。あかりは初めて聞く母の女としての本音に何かを学ぶように聞き入っている。
「今の両親は腕を組んで1、2、1、2と歩調を合わせながら歩いているみたいです」「ふーん、1、2、1、2かァ」淳之介の絶妙な説明に梢にもモリヤ夫婦の姿が見えるようだ。すると淳之介は意外な方向に話を展開した。
「お母さんと父は並んで歩いていて肩が触れ合うと互いに見つめ合って笑う。そんなカップルだったんでしょう」「うーん、そうかなァ」とぼけてはみたが言われてみればその通りだ。おそらく淳之介はあかりと自分を重ねて想像したのだろう。
「玉城の母は好き勝手に走っていって父がついてこないと文句を言うような人でした。だから父がカンボジアに行っている間に別の男性(ひと)のところへ走ってしまったんです」後半の部分は愛知の祖母から聞いた話だ。それ以上の醜態を淳之介自身が目撃しているから否定することはできない。
「淳之介さんも大変だったんだね」話し終えて泡波を飲み干した淳之介にあかりが話しかけた。これまでは自分の身の上の恥になる部分には触れないできたので、あかりは初めて聞いたことばかりだったかも知れない。
「人生ってそんなものよ。だけど好きな人と一緒だったら苦しい時は励まし合い、哀しい時はいたわり合い、嬉しいことは倍増させられる。だから幸せな人生を送るためには好きな人と結婚できることが必要なの」やはり酔っても梢の言葉は格調高い。このことをウチナー屋のママさんは「何が嬉しいのか解からない固くて難しい話で盛り上がっていた」と評したのだ。しかし、結婚を「する」ではなく「できる」と言ったことが梢と父の人生の差異だった。
安里家を後にした淳之介はタクシーを拾って1人で2次会に向かった。那覇市内の58号線沿いにあるテナント・ビルの前で下りると観光客向けのステーキ・ハウスの端にある階段を上って行く。そこは従兄の結婚式の後、叔父の松真に連れてこられた母のスナック「カッチン」だ。
淳之介は明後日に石垣島へ帰る前にあかりとの結婚を宣告するつもりなのだ。
「それじゃあね」「ごゆっくりどうぞ」「今度は俺にも姦らせてね」淳之介がドアの前で深呼吸をしていると客たちが出てきた。どうもあまり好意的な様子ではない。
「ニイニ、この店に入るねェ、止めとけ」「ママさんは愛人になっちゃったのさァ」どうやら例の台湾人が来ているらしい。淳之介はもう一度深呼吸するとドアを開けて店に入った。
- 2018/01/26(金) 09:36:15|
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2009年の明日1月26日からオランダのデン・ハーハ(日本での通称はハーグ)にある国際刑事裁判所でアフリカ・コンゴの武装組織・コンゴ愛国者同盟が15歳未満の少年兵を戦闘に参加させた事実を戦争犯罪に問う裁判が始まりました。
国際刑事裁判所は1998年にローマで開かれた「国際刑事裁判所の設立に関する国際連合全権外交使節会議」で7月17日に採択され、2002年7月17日に批准国が発効に必要な60ヶ国に達したことで設置されました。この採択では賛成120カ国、反対7カ国でしたが日本は第2次世界大戦後のニュルンベルグ・東京裁判の趣旨に反する点があるため難色を示していたアメリカ(現在も署名しただけで批准はしていない)とは逆に積極的に賛成し、裁判官を1名出しています。ただし、亡くなった前任者は東京外国語大学卒、現任者は東京大学教養学部卒の外務省職員=外交官で法律の専門家ではありません。尤も、間もなく皇后になる元外交官の父親も国際連合大使の後、主に外交問題を取り扱う国際司法裁判所(第1次世界大戦後の1921年に設置された)の裁判官になっていますから、日本の法曹界は司法試験に出題されない国際法には無関心=無知なので外交官でなければ務まらないのでしょう。
国際刑事裁判所の管轄事項=対象犯罪は不可逆性の原則から2002年7月17日以降に生起した事案になっており、「集団殺害犯罪=ジェノサイド」「人道に対する犯罪」「戦争犯罪」「侵略犯罪」です。このうち「侵略犯罪」については2010年に採択された管轄権行使のための条件が満たされないと受けつけられず、関係当事国の同意を必要とすることなどの国際司法裁判所の限界を補完する期待を裏切る結果になってもいます。ちなみに中国が尖閣諸島に武装漁民を上陸させて占拠しても中国はこの設置条約を締結していないので「侵略犯罪」として告発することはできません。
この事案は1990年代にコンゴ国内で分裂を繰り返していた反政府組織が北朝鮮経由で中国製の武器を手に入れて内戦を起こし、その中のコンゴ愛国者連合の武装組織のコンゴ愛国者同盟が15歳未満の少年兵を戦闘に参加させたことで指導者であったトマス・ルバンガさんが告発されたのです。コンゴ愛国者同盟は東部の荒野にある金鉱山を抑えていたため軍資金は潤沢であったものの人的資源は枯渇しており、その補給源に地元部族の少年たちを狩り出しました。裁判は2012年に結審し、ルバンガさんには禁固14年の判決が下りました。元少年兵への賠償については本人に財産がないため空手形になっています。
国際法では「ジュネーブ諸条約第1追加議定書(1977年採択)・77条」「同・第2追加議定書(日本は批准していない・1977年採択)・4条」「児童の権利に関する条約(1989年採択)」「子どもの権利及び福祉に関する条約(1990年採択)」などで18歳未満の少年を戦闘への参加の有無に関係なく兵士にすることを禁じています。
日本は第2次世界大戦末期、兵力不足に悩んだ帝国陸海軍は少年兵や学徒動員として若年者を戦闘に参加させましたが、この当時の武力紛争関係法では禁止規定がなかったため戦争犯罪にはなりませんでした。だから自衛隊生徒と言うこの時点でも違法な制度を作ったのでしょう。よくも恥ずかしくもなく条約を批准したものだ。
- 2018/01/25(木) 10:32:08|
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「オバア、今度の休暇にはあかりを家に泊めたいんだけど」今年の成人の日は1月12日だったため淳之介はウチナー正月の26日までの間に4日間の休暇をもらえることになった。そこで帰省の前に玉城村の祖父母に電話してきた。
「むこうの親御さんは知っているのかい」祖母としては当然の確認をするしかない。淳之介の父から結婚の許しを得たとは言えあかりは視覚障害者であり、母の保護者としての意識は健常者の子供とは比べ物ならないほど強いはずだ。
「実はあかりにも言ってないんだ。ウチに連れて行って話が弾んでいる間に時間が遅くなって泊めることにすればお母さんも無理にとは言わないだろうと思って」要するに淳之介の悪巧みとは言わない計略らしい。それにしても日頃の淳之介からは考えられない大胆不敵な犯行(?)だ。祖母としてはそちらの方が気になった。
「アンタにしては随分と軽率なことを考えたね。何を焦ってるのさァ」祖母の返事に淳之介は黙ってしまった。このような計略は実行段階まで黙っているのがイロハのイだ。そこを馬鹿正直に許可を得ようとした淳之介はやはり悪にはなれない性分のようだ。
「あかりに会っても時間が限られていて毎回、話し足りない気分をこっちに持ち帰っているんだ」「ふーん。それは分かるよ」祖母の理解を得て淳之介は電話口で軽く溜め息をついた。
「それに最近、酒の練習をしているって言うから一緒に飲んでみたいんだ」これも理解はできる。淳之介があかりと那覇市内で酒を飲んでも安里家に泊まることができない以上、ホテルを取っておかなければならない。結婚に向けて貯金に励んでいる淳之介には帰省の旅費の他にホテルの宿泊代まで出費することは少し無理があるかも知れない。
「大体、那覇市内の飲み屋なんて知らないしさ。だからウチで飲まそうかなって思ったんだ」未成年で石垣島に行った淳之介が那覇市内に行きつけの店がないのは当然だ。強いて言えば美恵子がママをしている。かつては祖母がママをしていたスナックがあるが、そこでの腹立たしい出来事は松真から聞いていた。
「それじゃあ、ホテル代はオバアが出してあげるからあかりさんの家で飲ませてくれないか訊いてみなさい」「えッ、オバアだってお金ないだろう」「そんな高級ホテルは駄目さァ。安いビジネス・ホテルを予約しなさい」これが最善の解決策だろう。あかりの母も時間を気にしないで話す機会を得ることに異存はないはずだ。実は祖母のところには今年もモリヤから多額の送金が届いており、全てを淳之介に渡すつもりだったがホテル代だけ目減りすることになる。それだけのことだ。
帰省した淳之介は梢の仕事が休みになる前夜に安里家に呼ばれた。2人の手料理を食べた後、そのままテーブルが酒席になった。
「乾杯」「カチンッ」あかりはグラスを顔の前に突き出すだけなので淳之介がグラスを合わせて音を鳴らせた。あかりも乾杯でグラスを鳴らすことを母から習っているらしくその音色に笑顔を見せる。淳之介はそんなあかりの笑顔に酔いそうだった。
「お土産の泡盛・・・泡波かァ」今回は土産に八重山の泡盛をリクエストされた。あかりは梢と一緒にワイン、スコッチ、ヴォーヴォン(バーボン)の色々な銘柄を飲み比べており、今は泡盛で島から島を巡っているそうだ。
「それは・・・」「波照間島のだね」淳之介が説明する前に梢が言い当てた。それにしても梢が酒豪=泡盛通であるとは意外だ。ところが梢はストレートで味わいながらもう目尻を赤くしている。そして少し潤んだ目で独り言をつぶやいた。
「任人さんも好きだったな。泡波・・・あれは初めて旅行・・・・」どうやらあかりは淳之介に任せて自分は思い出に浸るつもりらしい。それでも思い出は父と過ごした青春のようだ。
「お母さんはお父さんと飲んだお酒の味を忘れないようにズッと止めてたのよ。だけどお父さんがお母さんがお酒を止めたことを残念がっていたって言ったら私に教えてくれることになったの」これがあかりが梢から受けた説明らしい。
「ふーん、お父さんは今のお母さんとよく飲んでいたけどな」これはパジャマ・ミーティングのことだから仕事の延長で会話絵を円滑にするために飲んでいたのだが(本当か?)、子供だった淳之介に判るはずがない。すると目尻をますます赤くした梢が口を挟んだ。
「今のお母さんってどんな女性(ひと)なの」その口調は少し攻撃的でそれだけを耳に入れたあかりは驚いて手で淳之介を探した。淳之介はあかりの手を取ると自分のグラスの泡波を口に運んでから姿勢を正した。それを見て梢も胸を張る。沖縄の冬の装いであるサマー・セーターに形の良い胸が盛り上がった。今もナイス・ボディを維持しているのが判った。

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- 2018/01/25(木) 10:30:41|
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昭和24(1949)年の明日1月25日は昭和の国粋主義の凶風の中で8度も標的にされた牧野伸顕伯爵の命日です。
野僧は牧野伯爵については2・26事件で湯河原の伊東屋旅館の別館に逗留中に陸軍航空士官学校の河野大尉の襲撃を受けたことで名前を知っていたのですが、牧野姓の華族と言えば長岡藩主・牧野家の出身なのかと勝手に思っていたところ幹部候補生学校に入校中に公開された映画「2・26」が話題になった時、鹿児島出身の同期から意外にも鹿児島県出身であり、それも大久保利通さんの2男であることを教えられました。
山口県人ほどではないにしても幕末の反乱を誇示しがちな鹿児島県人でも大久保さんについては嫌っている人が多いようです(山口県人は倒幕派であれば無条件に賞賛している)。理由としては何よりも征韓論の時、桂小五郎さんと結託して西郷南洲翁を追い落とし、政治権力を一手に握ろうとした裏切りが挙げられますが、それ以外にも島津久光さまを嫌う人が多い中、自分の野心を実現するため取り入った政治的な立ち振る舞いが単純明快・直情径行を好む薩摩隼人には許し難く、さらに目的を達成するためには平気で同志を見殺しにする非情さや手段を選ばない陰湿な権謀術なども人望とは真逆に働いているようです。数少ない大久保さん贔屓の鹿児島県人は「政治的に有能過ぎて単純な人間には理解できない」と擁護していますがやはり好人物とは言えないでしょう。
一方、牧野伯爵も同様の人間性だったから青年将校に嫌われたのかと思ってしまいますが、真面目に語っても冗談になってしまう独特の存在感を持つ麻生太郎首相が曾孫(=吉田茂首相に嫁いだ長女の孫)になるので少し違うのかも知れません。ちなみに2・26事件で襲撃された時、玄関で応対した孫娘(=麻生首相の母)が前もって警護の警察官と女中に声を掛け、牧野伯爵に頭から女性の着物を羽織らせて裏口から逃がしたのは有名な話です。
牧野伯爵が国粋主義の狂気に洗脳された青年将校たちに憎悪された理由についてはその経歴を見れば明らかになります。牧野伯爵は大久保さんの二男として生まれながらもそのまま子供がいない母の兄に養子に出されて牧野姓になりました。ところが養父は戊辰戦争の長岡攻城戦で戦死したため牧野姓のまま大久保家に戻って育ち、11歳の時に実父が岩倉使節団の一員として欧米諸国を歴訪するのに兄と同行し、アメリカの中学校に留学しました。帰国後は開成高校と東京帝国大学に進みますが、明治13(1880)年に中退して外務省に入り(この2年前に大久保さんは暗殺されていた)、ロンドン大使館に赴任します。ここで憲法の調査のため滞在していた伊藤博文と知り合いその後の人脈にしました。帰国後は福井県知事・茨城県知事を含む各省の要職を歴任して再びイタリア公使、オーストリア公使としてヨーロッパへ赴任しています。こうして日本有数のヨーロッパ通になったことで皇太子時代に訪問してヨーロッパ的な皇室を目指すようになっていた昭和の陛下の信頼を得ることになりますが、これが国粋主義者には許しがたい売国行為であり、神聖な皇室に卑しいヨーロッパの気風を持ち込む君側の奸以外の何物でもなかったのです。
何はともあれ戦後まで生き延びて娘婿の吉田茂首相の第2次内閣の間に亡くなりました。
- 2018/01/24(水) 09:43:12|
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「パワハラですか・・・」服務指導を担当する人事部の課長は独り言のように呟いて表情を固くした。パワハラ=パワー・ハラスメント(上司からの強制による嫌がらせ)は2000年代に入ってからセクハラに続く職場での問題として脚光を浴びるようになっている概念で、何故か東京のコンサルティング会社が言い出した。
「セクハラも厄介だったが、パワハラなんてものは自衛隊に限らず組織がピラミッド式になっていれば必ず発生するはずだ」本来は問題を把握して対応を提言する立場の監察官が吐いて捨てるように言った。すると法務官が目で私に発言を促した。
「何にしてもハラスメント(嫌がらせ)と受け取るのは個人の主観ですから刑法に抵触する行為にまで踏み込まない限り犯罪とはなり得ないでしょう」ところが実際は合意で肉体関係を持ったにも関わらず後から「強制わいせつ罪(ホテルなどで行為に及ぶと強姦罪は成立しない)」で告発する事例が増えている。つまり性犯罪が女性の復讐の手段になっているのだ。
「そう言えば小倉駐屯地で当直司令の3佐に当直室でレイプされたって訴えたWACがいただろう」「あれは女の方が迫って拒否されたため腹いせに虚偽の告発をしたんです」私の解説は周知の事実だったのか全員に無視された。
「セクハラの問題が騒がれ始めた頃、社人党の徳島水子が女性の人権を守ると言う名目で檜町(旧・防衛庁の所在地)の陸海空幕の婦人自衛官と対談したことがあったでしょう」「あれは月刊・朝風の企画だったな」課長の話に法務官が応えた。これは私もパジャマ・ミーティングの話題にした記憶があるので、佳織と一緒に暮らしていた守山時代の話だろう。
「あの時、WACが『男性隊員が廊下で着替えているから困る』って愚痴をこぼしたら徳島が『それはセクハラだ』っていきり立ったんです」「うん、それでWACが『幕には男性用の更衣室がない』ってオチをつけたんだったな」防衛予算に難癖をつけて更衣室を作れなくしている当事者を皮肉った痛快な寸劇だったが、ここで私の頭が不時作動してしまった。
「考えてみるとハラスメント被害を煽っているのは昔の社会主義運動をやっていた連中です。つまりマルクス主義の『労働は資本家による搾取』と言う被害者意識を現代に適応させて市民の不満を社会運動化しようとしているんじゃあないでしょうか」「その調子でトーク・ショーをやったんだな」部下が真面目に見解を披露したにも関わらず上司がそれを茶化した。これもパワー・ハラスメントになるのだろうか。すると監察官が話を引き取った。
「私が知る限り現在は警察が標的になっているようだ。これが陸上自衛隊に波及することだけは何としても避けなければならん」私が知る限りでもマスコミで取り上げているのは若手警察官の内部告発が目立つ。過去の報道手法では先に他の官公庁や米軍の不祥事を取り上げておいて「やはり自衛隊でも」式に飛び火させてくることも珍しくない。
「名寄の件がマスコミに嗅ぎつけられるとまずいな」「妻が新聞に投稿する可能性も否定できません」どうやら私以外の参加者たちはマスコミの視点が北海道の北部にまでは届いていないことや安川3曹の妻・聡美の世代が新聞を読まないことを認識していないようだ。
「私は被害者を知っているのでその点は問題ないと思いますが」私の説明に盛り上がりかかった会合が急に白けてしまった。しばらくの沈黙の後、2人の将補が同時に顔を上げた。
「この際、陸上自衛隊全体への注意喚起に利用したいものだが」「かと言って各級指揮官が隊員指導に躊躇するようになっても困るぞ」2人の意見が分かれたように見えたが、おそらくこれも台本通りだろう。やはり2人の意見を両立させる提案は中々出ない。そんな時、今度は課長の頭が正常に作動し始めた。
「名寄の連隊長に東1尉の件が幕まで上がっており、首都圏で問題になっているパワハラに波及することへの懸念から放置できないと伝えましょう」「ふーん、嘘はついていないな」先ず監察官が反応したが、やはり職務上、「虚偽」が気になるようだ。
「おそらく中隊長を解任して連隊本部の誰かと交代させるでしょう。その異例の人事で幹部たちが襟を正せば教訓にはなると思います」「それはどうかな」「生徒の連中は陸上自衛隊を少年工学校出身者だけで制覇することを目指していますから、東1尉がやったことの是非には関係なく生徒への攻撃として防大へ行った将官から陸曹まで使って擁護しようとするんじゃあないですか」今度は法務官と私が疑問を呈したが、これも実態なので課長も渋い顔をしてうなずかざるを得ない。
「そもそも自衛隊生徒は武力紛争関係法に違反していますから廃止しなければならないんです」ここで私の頭は不時作動から暴走を始めてしまった。武力紛争関係法が18歳未満の少年を兵士にすることを禁じているので事実だが、これは陸上自衛隊では禁句になっているのだ。
- 2018/01/24(水) 09:41:59|
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ハワイから帰って日本の冬にもようやく慣れてきた頃、私は法務官に声をかけられた。
「モリヤ2佐、もうすぐ監察官室で会合があるから同席してくれ」「監察官室ですか」陸上自衛隊の監察官は内局の統括監察官(背広組)の下にあり、幕僚長の指揮系統から離れている。ただ、各方面総監部や師団司令部、旅団司令部などに配置されている監察官との間では指導と報告を交わす密接な関係も存在しており、私が呼ばれたと言うことは下部組織からの問題提起ではないだろうか。その前に会議ではなく会合なのも気になる。
監察官室には我々法務官室の2名の他に人事部からも課長の1佐が来ていた。応接セットの1人掛けの椅子に監察官と法務官の両将補から座り、続いて課長、私が長椅子に座った。法務官室よりも若い女性事務官がコーヒーを配り終えたところで会合が始まる。
「今日の話題は事案としては比較的軽いんだが、影響を考えると慎重を要すると考えて忙しいところを集まってもらった」監察官の口上に人事部の課長は白紙を挟んだバインダーを膝に乗せ、ボールペンを握ってメモの用意をした。それにしても「会議」の「議題」ではなく「会合」なので「話題」と言うところまで配慮が行き届いているのは流石だ。
「つまり統括には上げないと言うことですね」「うん、本当に事案としてはそれほど大袈裟なモノではないんだ」法務官の確認に監察官は「集めたことが申し訳ない」と言う顔をする。
「実は2師団の監察に名寄駐屯地の衛生隊長から中隊長による隊員への虐待の相談が寄せられたんだ」「当該隊員の階級は」「3曹とのことだ」これは少し信じられない話だ。私も中隊長を経験しているが若手幹部を鍛えるためにはかなり厳しい指導を行ったものの陸曹・陸士に対しては一線を画していたので虐待=苛めができるような接触を持たなかった。幹部と陸曹・陸士の間には一般社会の労使関係に通じる区分があり、幹部は管理職として監督するところまでにとどめなければ陸曹の自治が機能しなくなるのだ。
「それで具体的な事態は・・・」どうやら将補同士の掛け合いで会合は進んでいくようだ。私としては1佐の課長が黙ってメモを取っているので余計な口を挟めない。
「先ずは昨年の夏に銃剣道の合宿に強制参加させて半月板損傷の体育事故を起こしたんだ」私の頭の中で先ほど出た名寄の地名とこの事例が結びつき、それが田島1尉経由で関与した久居の教え子・安川3曹の問題であることを確信した。
「しかし、普通科の陸曹であれば銃剣道は本業でしょう。それがそこまでの重傷を負うとは・・・」ここで初めて課長が口を開いた。
「名寄は番匠1佐の頃から銃剣道は止めていてこの陸曹は名寄に着任して以来、合宿は経験していないんです」「その通りだ」私の説明に監察官が同意した。どうやら夏の事例に私が関与したことを法務官から聞いているようだ。
「その時は本人は公務災害認定を受けて、加害者である陸士長が退職して片づいたんだが、中隊長は自分の過失にされたとその陸曹を毛嫌いするようになっったそうだ」「それは指揮官としての資質に欠けると言わざるを得ないですね。名前が分かれば人事部で調べてきますが」課長は当該中隊長の氏名をメモしようと準備した。
「東(ひがし)俊助1尉、生徒の××期、部内の△△期ですよ」「少校(少年工科学校=生徒)出身の部内ですか。ありそうな話ですね」ここでも先回りして情報を提供したが、人事部の課長ともなると会話の端々で相手の立場を見抜くのはお手の物のようで、すでに私が関係者であることを察しているようだった。
「それで今回はリハビリ中の3曹にノルディックの訓練を強要したことで。転倒して半月板損傷が再発する事態を招いたらしい」「でも彼は冬戦教の遊撃訓練に参加している冬季レンジャーでしょう」「訓練もできないならレンジャー徽章を剝せと言ったそうだ」私としてはここまで詳細な事情を聞き出した医官に感心してしまった。おそらく夏の負傷の時に親身な対応をして信頼を勝ち取ったに違いない。
「医官は連隊長の耳に入れたらしいんだが、やはり中隊長からの自己弁護を信用して何も手をつけないのだそうだ」これで師団司令部の監察に相談した理由もわかった。連隊長としては編成単位部隊の長である中隊長が失態を演じたとなると組織全体に及ぼす影響が大きく、若手陸曹を切って捨てた方が得策なのだ。
「少工出身者は上に取り入る術(すべ)は4年間で徹底的に身につけていますからね」課長の言うことは私も久居で生徒出身の人事担当主任と大隊長に煮え湯を呑まされたことがある。
「しかし、これは最近問題になっているパワハラに発展する危険性がありますね」ここで法務官が本題を持ち出した。これが私まで参加させた理由のようだ。
- 2018/01/23(火) 09:18:54|
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大正6(1917)年の明日1月23日は日露戦争における旅順要塞攻撃を実施した時の第3軍の参謀長・伊地知幸介中将の命日です。
伊地知中将は司馬遼太郎先生の代表作「坂の上の雲」で柔軟性がない作戦指導で無用の大損害を出しながら何も工夫をしなかった無能な参謀長に描かれており、多くの読者が寄せる司馬先生個人への信頼もあって完全に史実とされています。しかし、例え司馬先生であっても小説では読者を意識して史実を脚色せざるを得ず、その代表例が土佐の悪徳武器商人・坂本龍馬でしょう。坂本は司馬先生の小説「竜馬がゆく」が世に出るまで高知市内では子供が言うことをきかないと親が「龍馬さんがくるよ」と脅すような忌み嫌われた存在だったそうです。伊地知中将の場合は「坂の上の雲」以前から作戦の全責任を負うべき第3軍司令官・乃木が明治天皇に殉じたことだけで軍神=名将にされたため旅順での失策の数々と多大な犠牲の原因を全面的に押し付けられていました。
伊地知中将の軍歴は山口陸軍閥のおこぼれで大将にしてもらった乃木などとは比べ物にならない超エリート・コースです。安政元(1854)年に鹿児島で島津藩士の長男として生まれ、戊辰戦争での目立った活躍はなかったものの明治新政府が御親兵=近衛兵を創設すると上京してこれに参加しました。そのまま新設の陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入校しますが、途中で西南戦争が勃発したため大山巌大将の指揮下で郷土の英雄・西郷南洲翁を討つことになり、終戦後に卒業して砲兵少尉に任官しました。任官して1年後にはフランスへ留学して、その4年間の間にドイツ参謀学の最高権威であるモルトケ元帥の直弟子の大尉から教えを受ける機会を得ています。なお、この大尉のところには乃木も来て教えを受けていますが、伊地知大尉(当時)は通訳と身の回りの世話などを親身に行って信頼を得てしまったようです。明治22(1889)年に帰国して少佐に昇任すると野戦砲兵第1大隊長に就任し、5年後に日清戦争が勃発すると大山巌大将が指揮する第2軍の参謀副長として有能ぶりを大いに発揮しました。終戦後は大本営参謀、参謀本部第1部長、イギリス駐在武官副官などを歴任して日露戦争を迎えましたが、当初は在京城公使館付として朝鮮半島に日本軍が侵攻するための工作活動に従事し、ロシアでの明石元次郎大佐に匹敵するほどの成果を上げています。ところが旅順要塞攻撃のために第3軍が編成されると参謀長に抜擢され、旧知の乃木の補佐をする羽目になってしまいました。
伊地知中将の不運は旅順要塞に辿り着くまで遼東半島で繰り広げた戦闘でロシア軍の防御陣地が強固であることを認識し、兵糧攻めに近い長期戦を考えているところに早急な攻略を要求する山縣有朋元帥の意向が伝えられたことです。山口陸軍閥には一切反論できない愚将・乃木を軍司令官として戴くからにはその意図を実現することが参謀長の任務であり、それが柄にもない無理押し強襲(当時はドイツ南部・バイエルンの砲兵将校・フォン・ザウエルが提唱した強襲戦術が流行していた)の繰り返しになって無用の血を旅順の大地に吸わせる結果になりました。ロシア軍が降伏した後は旅順要塞司令官に転任して奉天決戦を後方から傍観することになっています。
- 2018/01/22(月) 09:00:47|
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「エッジ(先端)が埋もれていた石に引っ掛かったみたいで・・・」「また膝か」訓練係の渡辺1曹が安川3曹のスキーを外している間も先任陸曹は状況確認を続ける。
「はい、少し捻るような状態になりました」「前回と同じような感じか」「いいえ、そこまでは痛くありません。膝の中で骨に何かが挟ったみたいでした」先任陸曹は話を聞きながら自分の身体状況を冷静に観察している安川3曹に感心してしまった。それは渡辺1曹も同様だったようで外したスキーを持って立ち上がると先任陸曹と顔を見合わせてうなずいた。
「何にしろ上官に対して反抗的な態度を取った結果だな。同情には値せん」すると東1尉が安川3曹を叱責するような言葉を投げた。ここまでくると毛嫌いを超えて憎悪を抱いているようにしか思えない。しかし、日頃の安川3曹は東1尉の挑発的な言葉も黙って聞いている。今回は負傷した原因を作った東1尉自身から侮辱され、何よりも誇りとしている冬季レンジャーを頭ごなしに否定されたことに耐えられなくなったのだ。
「アンビ(アンビランス=救急車)を呼ばないで大丈夫か」渡辺1曹が作業外衣の胸ポケットから私物の携帯電話を取り出し、手袋を外して声をかけた。私物の電話では駐屯地にかけて交換を通じて衛生隊につなげてもらうしかないが適切な処置ではある。
「自分で戻ります。駄目でも誰かが通るでしょう」「それなら帰れ。訓練の中止と衛生隊の受診は許可してやる」安川3曹の返事に東1尉はドライ・アイスを投げつける。ドライ・アイスの温度はマイナス79度だから今日の気温零下20度の中でも冷たく感じるはずだ。
「使い物ならん奴は放っておいて訓練を再開するぞ。渡辺1曹は訓練係として先導しろ」東1尉は携帯電話をしまい手袋をはめた渡辺1曹に一方的に命令を与えた。渡辺1曹は心配と不満が入り混じった顔をしながら先頭に立って滑り始めた。その後に東1尉が続き、最後尾を行く先任陸曹は心配そうに振り返りながら何故か軽く頭を下げた。おそらくこの中隊長を制御できない自分の不甲斐なさを詫びたのだろう。
「安川3曹、訓練は平坦な場所でのリハビリからだと言っておいたはずだぞ」「すみません。はやる気持ちを抑え切れませんでした」衛生隊の診察室で安川3曹の状態を確認した医官は訓練に入る前に与えていた指導を守らなかったことを叱責した。
「ここまで歩いてこれたんだから今回は半月板の損傷ではないだろう。縫合した箇所の断裂でもなさそうだ」衛生隊にもX線撮影する機材はあるが、膝の内部組織を画像化するためには専用の造影剤を注入した上に空気で膨張させて骨の接合部を離さなければならない。やはり外部の医療機関への通院が必要になる。
「それにしても半月板損傷は完全に回復するまで無理は厳禁だと言うことは病院でも十分に説明を受けてきただろう。今回、君がやった滑走はどう考えても無茶だぞ」医官は旭川市内の整形外科医院の跡取り息子から採用されているのでノルディック・スキーの経験はある。これがレースであれば下り坂でも滑走して速度を上げることはあるが、通常は普通のスキーのように滑り降りるだけだ。今回の事故は突き滑らせたスキーのエッジが石に当たって反れたため膝がねじれる状態になったようだ。
「また、中隊長に何か言われたのか」「いいえ・・・自分の思慮が足りませんでした」医官の胸には前回の銃剣道の訓練の事故の時に中隊長の東1尉が見せた常軌を逸した冷淡な態度が甦ってきた。その後も名寄駐屯地の幹部会で会うことがあるが、かなり好き嫌いが激しい性格なのは見てとれる。しかし、どんな極端な癖がある人物でも部内選抜では学科試験に合格し、身体検査と体力測定に合格すればあとは面接だけで幹部になれる。性格などは面接で審査するのかも知れないが、試験官は精神科医でなければ心理学者でもない。合格してしまえば後は幹部候補生学校の成績で昇任の序列が決まるだけだ。
「君のプライドが傷つくかも知れないが、また訓練で無理をするようなら激務休の診断を下させてもらうよ」「激務休では演習にも行けなくなります」「演習へは管理要員で行けるだろう」管理要員とは食事の支度などの後方業務を担当する係で、体調不良の隊員が充てられることが多いが現場長として若手の陸層も必要なはずだ。
「それでは冬季レンジャー徽章を着けていられなくなります」安川3曹の思いがけない反応に医官は真情を読み取ろうと正面から顔を見つめた。
「どうしてだい。その徽章は冬戦教を卒業していれば資格があるんだろう」「でも中隊長が・・・」先ほどは否定したが、やはり東1尉が原因のようだ。
「言われたことを話してみなさい」医官の言葉に安川3曹は何故か怯えた表情になった。
- 2018/01/22(月) 08:58:21|
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年が明けると名寄・第3普通科連隊はノルディック・スキーのプロ集団になる。それは他の普通科連隊が実戦の役に立たない銃剣道だけに打ち込んでいることを揶揄する「銃剣道のプロ」とは違い、来年に迫ったバンクーバー冬季オリンピックの代表になることを本気で目指す国内最高レベルの訓練だ。しかし、例年の訓練ではオリンピック経験者や冬季戦技教育隊の上級スキー指導官養成訓練を卒業してオリンピック要員に手が届いている隊員たちにも引けを取らない体力と滑走技術を発揮する安川3曹だったが今回は全く調子が悪い。平坦な訓練場では見事なまでにスキーを前に突き滑らせ、後ろへ蹴り滑らせていても外周走路の上り下り坂になって膝関節に負担がかかると激痛が走るのだ。これから演習場に移動すると不安はさらに深刻になる。
「大丈夫か?夏に手術してからリハビリに励んでいたのは知ってるが、冬場には何年か前の古傷でも痛むんだ」スキーを履いていてはしゃがむこともできず、コースから外れてストックで体を支えている安川3曹に冬季オリンピックを経験している川守田1曹が付き添って声をかけてきた。吐く息が凍りついて2人の間に降りしきる。「春になると冬に凍って積もった声が溶けて騒がしい」と言う冗談もこの情景を見ると本当のようだ。
「古傷の痛みくらい精神力でカバーできます。自分はレンジャーですから」そう言って身体を起こした安川3曹の胸には冬季レンジャーの徽章が縫いつけてある。本当は衛生隊の医官からは平坦な場所でのリハビリ的な滑走しか許されていないのだが、冬季レンジャーの誇りで限界を追及しているのだ。
「痛みをこらえながらだとフォームを崩して腰や逆の足に負担がかかる惧れがある、今年は諦めてリハビリのつもりで軽く滑るんだ。絶対に無理をするな」川守田1曹はそう言うと「身体が冷える前に」と先に滑り始めた。確かに零下20度の野外では滑走でかいた汗が急速に体温を奪い首筋や袖口から入ってくる冷気で凍りそうだ。安川3曹も身体を温めるためにゆっくりと滑り始めた。
「シュッ、シュッ、シュッ・・・」スキーが雪をこする音が同じテンポで続いていく(スキーを雪に滑らせるのだから音はしそうもないが実際に聞こえてくる)。この調子で滑るだけなら痛みはない。身体も適度に温まり心地良いくらいだ。今日は「試し運転」と言うことで納得することにした。
「何だ、落後者か」その時、後ろから選手要員ではない隊員たちが追いついてきた。この声は一番聞きたくない負傷の原因を作った中隊長の東1尉だ。東1尉は着任して以来、ローラー・スキーで練習してきたが思うように技量が向上せず結局、冬季戦技教育隊の初級幹部集合訓練には参加できなかった。
「はい、膝に痛みを感じまして調子を見ながら滑っています」安川3曹の説明に東1尉は苦しそうな息遣いで皮肉を返してきた。
「お前、公務災害になったのを良いことに訓練を免除してもらおうと考えているんじゃあないか」「中隊長、それはあんまりです」少し後ろを滑っている先任陸曹が穏やかに注意を与えたが聞く耳を待つ東1尉ではない。
「初心者の俺と同じ程度にしか滑れないなら冬季レンジャー徽章を着ける資格はないな。俺が良いと言うまで徽章をはがせ」どうも東1尉は半年前に安川3曹を前任者に可愛がられていた人間として問題視して以来、自分が作った原因で負傷して面目を失わせた邪魔者、足を引っ張る不用品に嫌悪感を増強・深化させているらしい。
いたたまれなくなった安川3曹は無理をして速度を上げた。ここからは緩い下り坂なので膝の負担もそれほど気にしなくて良いはずだ。
「そんなに滑れるのか。要するに職務怠慢だな」東1尉は呼吸が苦しくても嫌味を言うことはできるらしい。下り坂で距離が開いていっても聞こえるような大声で叫んできた。
安川3曹は下り坂でも加速するため敢えてスキーを突き滑らせた。すると右のスキーの先端が雪に埋もれた石に当たって外側に反れた。
「グッ」古傷とも言えない半年前の右膝の負傷箇所に激痛が走る。今度は立っていられずに右脇を下にしてコース外に倒れた。しかし、体重をかけなくしても痛みは続いている。やはり縫合した半月板に衝撃が加わり、何かが起こったらしい。
すると再び中隊長一行が追いついてきた。東1尉は倒れている安川3曹を冷ややかに見ている。
「何だ。今度は転んで立ち上がれないのか」「どうした。大丈夫か」嫌味以外に語彙(ごい)を持たない東1尉に代わって先任陸曹が声をかけてきた。
- 2018/01/21(日) 09:35:30|
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慶応2(1866)年の明日1月21日(太陰暦)にわずか79年後にこの国を滅亡させる結果を招くことになった日本史上最大の凶事・薩長同盟が成立しました。
最初に余談ながら野僧は島津家が薩摩と大隅、毛利家は長門と周防の律令国を領有していたため基本的に薩摩藩、長州藩と言う呼称は用いませんが、この「薩長同盟」は歴史用語になっているので仕方ありません。やはり「島毛(しまもう)同盟」では変ですな。
この頃の日本はペリーの浦賀来航によって海外の脅威に対する危機意識が拡散する中、徳川家の悪性腫瘍=水戸藩が唱える「尊皇攘夷」なる机上の空論が「尊皇によって攘夷が達成できる」と言う怪しい新興宗教の教義のようになって大流行していました。しかも自分が総大将になって敗れた関ヶ原の逆恨みを忘れない毛利藩の狂人・吉田松陰の扇動に洗脳された門弟に各藩の「尊皇攘夷」教信者たちも同調して江戸や京都、さらに外国人居留地でテロを繰り返して幕府の足を引っ張り、現実の世界情勢には無知な癖に「尊皇攘夷」教を焚きつける公家たちは天皇の意向の悪用で幕府の手足を縛り、その焦りが失政を招いて政務が立ち行かなくなったのです。その毛利藩は天皇を拉致する陰謀が発覚して公職を解任・追放されたことを逆恨みして禁門の変を起こしため「朝敵」の烙印を押され、勅命により毛利藩征討が行われる直前でした。ところがこれを商売の好機と見た土佐の悪徳武器商人・坂本龍馬は武器の調達ができない毛利藩に代わって島津藩名義でアメリカ南北戦争の終結により余剰になった武器・弾薬を大量に購入して暴利をむさぼり、それを横流しすることで恩を売り、その結果、薩長同盟が成立して毛利藩の吉田松陰の狂気は残ってしまい79年後にこの国を滅ぼすことになったのです。
「薩長同盟」の最大の誤りは立場と戦力のどちらにも格段の差があった両者が対等の立場で同盟を結んだことです。島津藩はトップ名君・斉彬公によって元来の尚武の土壌の上に開明の気風が植えられており、新たな時代を担う人材が育っていました。しかも毛利藩の松陰門下に当たる「尊皇攘夷」教信者の過激藩士たちを寺田屋事件で切除する自浄作用が発揮されており、その点でも準備は整っていました。一方の毛利藩は「尊皇攘夷」を巡って藩内で血みどろの抗争を繰り広げた中で有為な人材は相互に殺害されて、生き残ったのは武士としての作法も弁えず、人の上に立つ度量もない癖に「尊皇攘夷」を叫ぶ声ばかりが大きい愚かな下級藩士ばかりだったのです。
この対等同盟の結果、明治新政府と陸海軍では真の実力がある島津藩士と倒幕の志士とは名ばかりの人脈だけで割り込んだ成り上がり者が同一の権力を握ることになりました。それは政治中枢だけでなく官公庁の管理職や県令などの地方自治体の長にまで及んでいます。
明治期の歴史を研究していくと明らかに失策と言うべき決定の多くには桂小五郎の毛利藩閥が関与しており、日露戦争で活躍したのも陸軍であれば大山巌元帥、黒木為禎第1軍司令官、野津第4軍司令官、海軍であれば山本海軍大臣、東郷連合艦隊司令長官と島津出身者が大半を占め、毛利藩出身者で役に立ったのは児玉源太郎満州軍参謀長くらいです。
そして山形有朋以降の山口陸軍閥が軍国主義を発生させ、日本を滅亡に追い込みました。
- 2018/01/20(土) 09:24:31|
- 日記(暦)
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「アンタたちの話をした時、モリヤはカラオケを唄って泣いていたのさァ」くに子の思い出話に梢は急に表情を緩めた。
「カラオケを?」「ほらッ、マリーって言う歌さァ」くに子のあやふやな説明に梢も考え込んでいたが、やがて一気に顔を上げた。その仕草には見覚えがある。モリヤと難しいことを話し合っている間にどちらも判らなくなって考え込み、先に思い出した時に見せていた仕草だ。
「五番街のマリーね・・・五番街へ行ったならばマリーの家へ行き どんな暮らししているのか見てきて欲しい」梢は低く口ずさみながら目に涙を浮かべた。
「五番街で噂を聞いて 若しも嫁に行って 今がとても幸せなら寄らずに欲しい・・・これがあの人の気持ちだったんだね」ポツリとつぶやいた梢の顔を眺めながらくに子はモリヤに夫の間違った印象を伝えたことを後悔していた。あの時のモリヤは美恵子との結婚を決意する前に梢とやり直すことを考えていたはずだ。そこにくに子が梢の幸せな姿を伝えたことが結果的に2人を不幸してしまった。しかし、くに子には別の見解があった。
「梢もモリヤも余計なことを考え過ぎるからいけないのさァ」久しぶりにモリヤが「沖縄の母」と呼んでいた頃の口調が戻った。梢もかつての「息子の嫁」に戻って真顔できいている。
「梢はモリヤと一緒になりたいんなら『親を捨ててでも私をもらって』って言わなけりゃいけなかったのさァ。モリヤが苦しんでいたら『親のことは忘れて私だけを見なさい』って抱かれれば良かったんだよ」本来は2人が悩んでいる時にこのj助言を与えなければならなかったはずだ。すると梢が意外なことを説明した。
「あの人は同じことを娘に言ったんですよ」「へーッ、モリヤがねェ」くに子が見ていた2人はモリヤの方が考え過ぎて深みにはまり、その苦悩が痛々しくなって梢が諦めたようだった。
「モリヤも美恵子とのことがあったから吹っ切れたんだね」「美恵子さん・・・」くに子が漏らしたモリヤの前妻の名前に梢は少し身構える。やはり自覚のない敵意を抱いているらしい。
「あの人が結婚した相手はどんな女性(ひと)だったんですか」この質問にくに子は自分の迂闊さに舌打ちしてから答えた。
「馬鹿な女さァ。私は『沖縄の女の恥だ』って思っているけど娘の旦那になる男の母親だからね」やはり話し始めてから人間関係に気づいたのかも知れない。
「息子はモリヤが引き取って育てたそうたから血よりも育ちで大丈夫だよ」梢は自分の目で淳之介の人間性を確認しているので何も心配していなかったのだがくに子は勝手に弁解を始めた。あの頃は頼りになるママさんに見えたが年齢が追いつくと普通の小母さんのようだ。
「でもどうしてそんな女性とあの人が・・・」「それが押し掛け女房だったのさァ。モリヤは迷っているのに美恵子が勝手に話を進めて気がついたら嫁になっていたんだよ」それでも梢には何事も慎重なモリヤが強引に結婚させられたことが信じられない。そんな梢の顔を見てくに子は補足説明する。
「モリヤは梢のことが心に残っていたから美恵子も同じように真剣に考えているって信じてたんだね。ところが美恵子は思いつきだけで押しかけてくるから気がついたら逃げ場がなくなっていた。私も『こんなにモリヤのことが好きなんだから』って思ってたけどそれは間違いだったよ」つまりくに子は梢とモリヤの結婚相手に間違った理解をしていたことになる。尤もモリヤの実の親の方が重大な過ちを犯しているのだから責めることはできないだろう。
「私はモリヤに謝ったことがあるのさァ」「謝った?ママさんが・・・」梢が知っているモリヤとくに子=ウチナー屋のママさんの関係で謝罪が発生することは考えられない。
「モリヤが美恵子とつき合い始めた頃、私は「もう沖縄の女を泣かせたら許さないよ」って言ってしまったのさァ」「それは私のことですね」梢の理解にくに子は顔を曇らせてうなずいた。おそらくモリヤはこのくに子の言葉を真剣に受け止めて、その美恵子と言う女性に対する責任を必要以上に重く考えてしまったに違いない。
「その美恵子さんとあの人はどうして別れたんですか。あんな優しい人と別れるなんて私には理解できません」「うん、ダブル不倫だったみたいさァ」くに子は双方から話を聞いているが、両者の言い分を考え合わせても結論はこうなる。
「あの人、よっぽど無理をしていたんですね」「やっぱり梢もそう思うねェ」普通であれば昔の恋人が不倫をしていたと聞けば「信頼を裏切られた」と失望し、怒りを露わにするはずだ。ところが梢はモリヤと言う人間の本質を体得しており、「妻以外の女性に救いを求めたのだ」と理解した。そんな梢にくに子は自分を含めて「誰が」「何を」間違ったのかを考え始めた。
そこに客が来たため梢は立ち上がって頭を下げ、他の店での買い物に向かった。
- 2018/01/20(土) 09:22:41|
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「それで両親は元気ねェ」仕上げの肩揉みになるとくに子の舌は滑らかに動き始めた。沖縄では本土では常識になっている「個人情報の保護」と言う概念はまだ伝播していないのだ。
「私、父に会ったことがないんです」思いがけない答えにくに子は複雑な顔をしたがあかりも荒くなった息遣いでその様子を察した。
「お父さんは亡くなってしまったねェ」「いいえ、両親は私が生まれてすぐに離婚しました。私が障害を持って生まれたことを聞いて嫌気がさしたみたいです」本当はその原因になった早産は父親の責任なのだが梢はあかりには話していない。
「そうねェ、優しそうな人だと思ったんだけどね」「それは間違いでしょう。母は父の話はしませんが祖母は『別れて良かった』と言っています」親が離別を望む夫婦がどのようなものなのかは想像に難くない。くに子は梢に会って話を聞いてみたくなった。
「それで梢、お母さんはまだ旅行社に務めてるねェ」「はい、今は空港窓口の責任者になっています」くに子は国際通りの裏手にあった貸しビルの地下でウチナー屋を経営していたのだが、高額なテナント料に追われて余裕がなく、梢の旅行社を利用したことはなかった。そのウチナー屋も市街地の再開発でビルが取り壊されたことで閉店した。
「お母さんにウチナー屋のママが会いたがっていたって言って頂戴、今は平和通りの公設市場で雑貨屋をやっているから会いにおいでって」その時、タイマーがアラームを鳴らし始め、話が切れ目になるのとマッサージの終了時間が重なった。
「私も一緒に行っても良いですか」「お母さんには貴女に聞かせたくない話もあるだろうから、今回は遠慮した方が良いんじゃあないかな」くに子の返事にあかりは少し落胆した顔をしたが、すぐに気を取り直してマッサージの終了を伝えた。
健常者の鍼灸師であればここで医師のカルテに当たる施術記録を書くのだが、あかりの場合は受付まで同行して口頭で説明することになる。それを知っているくに子は立ち上げるとあかりを促しながらカーテンを開けて待合室の受付カウンターに向かった。
数日後、くに子の雑貨店に梢が訪ねてきた。普段着のところを見ると平日の今日が休みらしい。
「ママさん、お久しぶりです」「あれ、梢ねェ、ハイサイ」公設市場の奥の狭い空間に棚を並べて日常雑貨を売っている店なのでくに子は商品に埋もれている。それでも聞いていたラジオのスイッチを切ると商品棚の裏に立てかけてあった折りたたみ椅子を出して勧めた。
「娘から話を聞いて本当に驚きました。お元気でしたか」「それだけが取り柄なのさァ」今日のくに子との対話はカウンターを挟んでいない分、距離は近いが調子は変わらない。
「梢は苦労したみたいだね」「娘が『父親の話をした』と言うので一度、会って私の口から説明した方が良いと思いまして・・・」梢は説明の最後を濁らせた。これは話の深刻さを暗示している。くに子は生唾を1つ呑み込むと椅子を梢に向けて姿勢を正した。
「結婚は幸せじゃあなかったねェ」「私はあの男と結婚したとは思っていません」くに子は再び生唾を呑んだ。かつての梢はモリヤと店に来るとカウンターに並んで座り、他人が聞いていると何が嬉しいのか解からないような固く難しい話で盛り上がり、快活に振舞いながらも礼節を忘れることはなかった。その梢がかつての夫をここまで強く否定するのには娘にも話せない過酷な理由があったに違いない。
「私は職場の宴会で酒を無理強いされて酔い潰れてしまったんです。それであの男はアパートに上がり込んで眠っている私を犯しました」確かにこれは娘には話せない出来事だ。流石のくに子も素直に信じられなかったが、話している相手が他ならぬ梢なので黙ってうなずいた。
「あの子が障害を持って生まれたのもあの男が妊娠している私を激しく犯したから陣痛を誘発してしまったんです。それなのに『障害児は足手まといになるから』って離婚届を送りつけて会社も辞めたんですが、経費の使い込みが発覚して私が弁済することになりました」梢は淡々とした口調で説明しているが胸の中には激しい憎悪が沸き立っているのかも知れない。
「でもダイナハで会った時は礼儀正しくて優しそうだったさァ」くに子はあかりから話を聞いて以来、抱いている疑問を投げかけてみた。すると梢は唇を歪めて皮肉に笑い、見たことがない冷たい目で答え始めた。
「あれがあの男の営業用の顔なんです。あの時、私はママさんに『あの人に助けて欲しいって伝えてくれ』って言いたかったんです」ここまで話して梢は唇を固く結び視線を自分の膝に落とした。その相変わらず聡明そうな額を眺めながらくに子の胸には梢と夫に会ったことを伝えた時のモリヤの姿が甦った。

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- 2018/01/19(金) 09:07:55|
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長禄3(1459)年の明日1月19日(太陰暦)は暴れん坊ではない8代将軍・足利義政公の乳母で妾でもあった今参(いままいり)の局が割腹自刃したとされる命日です(現代人的常識で乳母を妾にしたことを否定する研究者もいますが性癖は個人の趣味では?)。
昔の高貴な家柄の女性は乳房を晒すことになるので我が子への授乳も避けており、乳が張ると女官などの手を借りて絞り棄てていたため乳児には乳を与える乳母(うば)が雇われていました。乳母となるには妊娠・出産している必要があり、我が子と権力者の子供が乳兄弟にもなるためにはそれなりの家格が必要だったのでしょう。実際、今参さんは足利家の重臣であった大舘家の娘で、源氏の英雄・新田義貞さんの曾孫に当たります。乳母から権力を手中にした女性としては3代将軍・徳川家光公の乳母から後に設けられた大奥を取り仕切り将軍の私生活にまで介入した福さん=春日の局(明智光秀さまの重臣・斉藤利三さんの娘)がいますが、こちらは母親代わりであって妾ではありません。
その点、今参さんは妾ですから義政公とは肉体関係があったはずで、乳児の頃には空腹で吸いついていた乳首に大人になってからも性欲で吸いつける感覚は全く理解できないし、考えただけでも気持ち悪くなります。しかも年齢的には義政公が生まれた時点で出産できる年齢になっていた訳ですから少なくとも15歳以上は年上だったはずです。とは言っても義政さんは今参さんと同族の女性を側室にしただけでなく、実母を大叔母とする日野富子さんは正室なのですから爛れ切った性生活だったようです。
ところが義政公は今参さんにゾッコン惚れ込んでいたようで、福さんとは違い表向きの政治にまで口出しさせていました。尾張の守護代の人事を巡って義政公の実母と抗争を繰り広げ、守護である斯波氏に織田一族(信長公の先祖)内での挿げ替えを命じたのです。この政争に敗れた実母は出奔しますが、その大叔母の恨みを正室である富子さんが時間をかけて晴らしたのがこの自刃だったようです。
この年の正月に富子さんが生んだ嫡男が早逝するとそれが今参さんの呪詛によるものであると言い出して、さらに富子さんに臣従する権力者たちもこれに同調したため愛妾家である以上に恐妻家になっていた義政公は琵琶湖に浮かぶ沖の島への「島流し」を命じました。
ところがその途中で出奔していた実母、若しくは富子さんが送った刺客に襲われたため自刃したと言うのが講談的伝承になっています。
この時、今参さんは腹を切ったと言われていますが女性の筋力では無理でしょう。野僧は自分自身も割腹願望が強いため詳細かつ具体的に研究を重ねていますが、腹を切ることで死に至るには腹腔内の大動脈を切断して大量出血を起こす必要があります。ところが腹筋にはかなりの強度があり、これを斬り裂いた上で腹腔内の大動脈まで切断するにはかなりの切れ味を有する刃物を上腕の力で大きく勢いよく引く必要があるのです。野僧は4名の割腹経験者を知っていますが、4人とも出刃包丁を腹に突き刺しても横に引くことができなかったため3名は入水と建物から飛び降りて亡くなり(枕元に立った魂魄に聞いた証言)、1名は家族に発見されて救急搬送されています。高貴な女性には無理です。
- 2018/01/18(木) 09:37:25|
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那覇市内の鍼灸院で働いているあかりが不思議な常連客に困惑していた。その常連客は上原くに子と言い、揉んだ筋肉の具合から考えて70歳代前半くらいの年齢層=オバアのようだ。何よりも長時間立ち放しの仕事をしていたようで下半身の筋肉が発達しており、逆に腰痛の持病があってあかりの施術を受けに通っている。
「安里さんは自分の顔が分からないから言っても判らないだろうけど、とってもチュラカーギ(美人)なのさァ」「私も手で触れさせてもらえば顔の凹凸、鼻や目や口の形と位置関係、肌触りくらいはわかりますよ」くに子はこの説明にうつ伏せのままうなずいたが声を出して返事しなければ腰に鍼を打っているあかりには判らない。
「それで不思議なのは私が昔、知っていた女の子にそっくりなのさァ」あかりにとって「そっくり」と言うのは土台になる顔の形が同じで鼻の高さや目の大きさ、口の幅と唇の厚さが近い者同士のことを意味する。色白・色黒や目つきなどの表情の違いは判断基準にない。
「何だか声やしゃべり方も似ているような気がするのさァ。声は昔だからハッキリ覚えてないけど、シマグチ(沖縄方言)じゃない綺麗なナイチャアグチ(内地言葉)なのは同じさァ」「私の話し方はラジオのアナウンサーから習いました」本当は母の梢から基礎を受け継いでいるのだがラジオのアナウンサーの標準語で学んだことにしておいた方が無難だろう。
「そうかァ、安里さんがラジオを聴くのは私たちがぼんやりとテレビを眺めているのとは違って真剣だもんね」くに子の返事を聞きながらあかりは背中に滲んできた汗をタオルで拭った。ツボに鍼を打つことによって血行が促進され体温が上昇する。その血行促進には眠気を誘う効果もあるためくに子は大きな欠伸をすると急に口数が減った。
「しばらくお休みになっても結構ですよ。時間が経てば鍼を抜く前に起こしますから」「うん、気持ち良いさァ・・・」とは言っても鍼を打っている時間は長くはないので本格的に昼寝をされては困る。それでもくに子は軽い寝息を立てて眠りに落ちてしまったようだ。一応はタイマーをセットしたもののあかりには機械よりも正確な体内時計があった。
「その娘(こ)も安里って言ったはずさァ」目を覚ませたくに子は記憶力も甦ったらしい。鍼を打った背中のツボが記憶力に効果があるのなら認知症対策にも応用できそうだ。
「へーッ、そうなんですかァ、偶然の一致ですかね・・・痛くはありませんか」この確認にもくに子は黙ってうなずいたが、今度は背中に触れていたため背筋の動きで返事を察した。
「その娘もチュラカーギで頭が良くて素直で明るくて本当に素晴らしい女の子だったよ」チュラカーギの部分は判らないが「頭が良くて素直で明るくて」の人間性は理解できる。
「あんな素敵な女の子と愛し合っていたのにモリヤも勿体ないことしたさァ」「えッ・・・」くに子の口から思いがけない人物の名前が出て、あかりは絶句して固まってしまった。
「本土の親は大馬鹿者さァ、息子の幸せを考えれば良い娘と結婚させることを願うはずさァ。それが会いもしないで反対、反対、息子が苦しんでいることも考えずに引き裂いたんだから」どうやら先ほどから絶賛していた娘と言うのは母のことらしかった。つまりくに子は2人の恋人時代を知っていることになる。
あかりは平常心を取り戻してマッサージの仕上げに肩を揉み始めた。くに子も脱いでいた上衣を着ると施術台から椅子に移り、背後に立っているあかりに身体を任せた。
「上原さんは母をご存知なんですね」「えッ・・・安里さんは梢の娘ねェ」くに子は驚くと絶句ではなく頭の中で回路がつながるようだ。急に「梢」の名前を思い出した。
「母から若い頃の話は聞いています。モリヤのお義父さんと一緒に行った居酒屋の・・・」「ウチナー屋さァ」この時、くに子の顔が誇らしげに弾けたのだがあかりには見えなかった。
「今、モリヤのお義父さんて言ったねェ、安里さんはモリヤとどんな関係なのさァ」くに子は遠慮なく核心に立ち入ってくる。それでも隠す必要はないと考えたあかりは正直に答えた。
「私が結婚を考えている人のお父さんです。この間、会ってきて結婚を許してもらいました」話がここまで想定外の展開を見せれば普通であれば絶句するか固まってしまうものだが、ウチナー屋のママとして実戦経験を十二分に踏んでいるくに子は一向にたじろがなかった。
「モリヤは息子に願いを叶えてもらうんだね。2人はどうやって知りあったんねェ」この納得の仕方はいささかくに子の独断だが敢えて否定はしなかった。
「それが本当に偶然で、まるで運命の出会いでした」「天のお引き合わせだったんだね」「はい、佛さまのお導きです」あかりの返事を聞いてくに子は若い癖に信仰心が篤く、梢を連れて戦跡や御嶽(うたき=沖縄の神霊を祀る立派な祠)巡りに励んでいたモリヤを思い出して、この娘が嫁に相応しいことを確信した。
- 2018/01/18(木) 09:35:13|
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昭和19(1944)年の明日1月18日は日産自動車の前身であるダットサンの創業者である橋本増治郎さんの命日です。ただし、日産にはグロリアやスカイラインを製造していたプリンス自動車も吸収合併されており、一時期は高級車としてダットサンのセドリックとプリンスのグロリアを並行して製造・販売していました。
愛知県岡崎市と言うと市の名称を私企業・トヨタ自動車から採った豊田市に隣接していますからトヨタの地元のように思われますが、トヨタ自動車と豊田自動織機の創業者である豊田佐吉さんは静岡県湖西市の出身であり、日産の橋本さんの方が岡崎市出身なのです。
野僧は小学校の郷土史の授業で橋本さんの業績を習った時、教師が児童に家の車を確かめたところ意外に日産車が多く郷土出身の橋本さんが理由なのかと思いましたが、実際は「(父親が)ブルーバードが好き」「スカイラインが好き」「サニーが好き」とのことで単に車種の問題でした。ちなみに岡崎市には三菱自動車の主力工場もありますが、これは「愛知県内に広がるトヨタ系列の部品メーカーなどを利用するためだ」と言われています。
橋本さんは明治8(1875)年に旧岡崎城下の街外れで生まれ(現在は中心市街地に入っている)、子供の頃から頭脳明晰で研究心旺盛だったため「舶来頭(物が良い外国製の頭)」と仇名されていたため、明治28(1895)年に東京工業学校(現在の東京工業大学=菅直人元首相の出身大学)の機械科を卒業しました。卒業後は兵役ついて名古屋城に駐屯していた第3師団工兵大隊に入営したものの3年間で満期除隊すると住友工業に就職して四国の新居浜工場で働きました。さらに明治35(1902)年に農商務省の海外実業練習生に選ばれてアメリカに留学し、蒸気機関メーカーのマッキントッシュで働きくことになりました。ところが明治38(1905)年には日露戦争による召集を受けて帰国し、技術士官に任官すると東京砲兵工廠で機関銃の国産化に取り組み、功労章を受けています。
終戦によって軍務が解除されると中島鉄工所の技師長になり、その後は九州炭鉱汽船の技師長と炭鉱の所長になりました。そんな明治44(1911)年、これまで培ってきた自分の経験を生かしたいとの志から「改進社」と言う機械工場を創立し、明治45(1915)年に国産初の自動車を製造したのです。
当初、この自動車の名称は同郷の支援者である田健治郎さんの「D」、青山禄郎さんの「A」、竹内明太郎さんの「T」から「DAT」とし、これに英語の子供の「SON」とつけて「DATSON=ダットサン」に決めたのですが、英語は読めても発音ができない人たちの中から「だっと損するみたいだ」と言う反対意見が出て、同じ発音で太陽を意味する「DATSUN」で落ち着いたそうです。余談ながら「DAT」は「脱兎の如く」にも通じるため改進社の製造車両は「脱兎」号の名称を冠していた時期もありました。
その後も現在は農業機器・建設機器のトップ企業になっている小松製作所の初代社長に就任し、タクシー会社やバス会社を創設するなど自動車を製造するだけでなく用途の幅を広げる努力を続けていました。戦後日本の国産ロケットを製造したのも日産自動車でした。
- 2018/01/17(水) 11:09:07|
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片づけを終えてリビングに戻ってきたスザンナと志織をソファーに座らせると義父と私が今、話し合った内容を説明した。
「志織、来年の秋でお母さんは連絡管の任期が終わるから日本へ帰ることになるのは知ってるな」「オフ・コース(勿論)」何故か私ではなく義父が志織に話し始めた。
「そこでお前をこのままハワイに残すか、一緒に日本へ帰らせるかを話し合っていたんだ」「それはグラダディ(グランド・ダディ=祖父)やマミィとも話してるわ」志織には大人のあらたまった話し合いと日常の歓談の違いがよく理解できていないらしい。
「うん、今は正式にお前の意思を確認しようとしているんだ。それは社会人が大切なことを決定する上での手続きのようなものだ」義父のこのような態度は信頼できる。私の父親であれば「口答えするな」の一言で片づけられるだけだ。
「スザンナさん、お義父さんにはお願いしたのですが私たち一家をノザキ家のアドプテッド・チャイルドにしていただけませんか」志織が思案し始めたところで今度は私が重要な検討要素を補足した。それを聞いてスザンナは驚き、志織は納得した顔になった。
「佳織はそれで良いの」「私はスザンナが許してくれるならダディの娘に戻りたいわ」ハワイで過ごした2年半で佳織も「ここが故郷」「これが家族」であることを確認したようだ。
「勿論、私たちがハワイに来るのは自衛隊を退官してからになりますから私は10年後、佳織は14年後ですが」「貴方も14年後でしょ。もう単身赴任はさせないわ」ここで思いがけない横槍が入った。やはり佳織も夫婦の間に生じている感覚の喰い違いに気づいているようだ。しかし、それでは私は4年間だけ日本で再就職することになる。それも佳織のことだからヒモにしてくれるつもりなのかも知れない。
「そんなことも合せて志織の気持ちはどうなんだ。これはお前の気持ちを確かめているだけで決定はお父さんとお母さんが下す。それは保護者としての権利と責任だからな」私の極めて日本的な親子関係の説明に義父母も納得したようにうなずいた。この日系ハワイ人の家庭には戦前、それも明治・大正の古き良き日本の気風が美しいまま息づいている。だから佳織も「戦後生まれの明治男」と仇名される私の妻が務まっているのだろう。
「私、日本があまり好きじゃないの。自分で決めることをしないで仲間を作って集団でなければ何もしない。だから自分がやった失敗も周囲の責任にする。私はダディから教えられたお経の言葉が好きなの」「えッ、お経って念佛か」確かに私は志織の物心がついた頃から毎朝夕にお経を勤めていたが、子供の記憶に残るような理解容易な文言はなかったように思う。強いて言えば「なもあみだぶつ」の念佛くらいだが、志織が家にいた頃は両禅宗のお経だったのでこれも違うようだ。
「ダディがお経の終りに唱える言葉があるじゃない。おのれこそおのれのよりべ・・・」「おのれをおきてたれによるべぞ。よくととのへしおのれこそ・・・」「まことえがたきよるべなり」思いがけず志織、私、佳織の3人交代で唱えてしまった。これは南方佛教の法句経の第160句「自己心為師 不随他為師 自己為師者 獲真智人法」の訓読・意訳だ。これは私は得度を受けた時、祖父から「佛教の本義」として与えられた言葉なのだ。
「自分が信じられる自分を作ることが佛教なんでしょう。だけど日本では正しいか間違ってるかじゃなくて周りと同じでなければ否定されてしまう。私、日本じゃあ息が詰まってしまいそうなの」志織は小学生の時からアメリカ空軍・横田基地の小中学校に通わせていたが、佳織がCGSに入校してアメリカでの学校生活を経験して以来、横田基地の学校に紛れ込んでいる日本人の子供たちを嫌悪するようになっていた。それは私自身も噛み締めていることなので同意するしかない。
「でも9・11の時、志織はムスリマの子供たちが教師からも苛められるのを見て怒っていたじゃない。あれもアメリカの顔なのよ」ここで佳織が別の視点を与える。それは必要な助言ではあるが、日本では周囲と違う視点を持つこと自体が否定されている。それが批判につながる事実の発掘であれば所属する社会からも排除されてしまうのが偏狭な国民性だ。
「あの時もクリスチャンとムスリムで自分の立場がハッキリしていたわ。日本は自分の立場は隠しながら周囲に合わせて加担するの。そんなの独立した自己じゃあないよ」何だかこの娘はとてつもない大物に育ちそうな気配だ。尤も、佳織の遺伝子を受け継ぎ、幼い頃からアメリカ式の教育を受け、国際社会の荒波の中で成長してくれば普通の日本人の子供とは生きている世界が違ってくるのも至極当然だ。結論は口にしなくても出てしまった。
「秋からは私と貴方だけのスイート・ライフやね」ところが佳織の感想は少し違っていた。
- 2018/01/17(水) 11:07:41|
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安政2(1855)年の明日1月16日は欧米列強の来航が相次ぐ中、幕府の対外政策を国際常識に則って適切に、しかも毅然とした態度で実施して植民地にされることを防いだ最大の功労者である江川太郎左衛門英龍さまの命日です。なお、江川家は鎌倉時代から伊豆の領主を務めてきた家柄で代々「太郎左衛門」の名を継承しており、英龍さまは第36代目になります。ちなみに地元では忌み名を呼ぶことは避け、号の「坦庵(たんなん)」の方が通りが良いそうです。
江川さまは欧米では19世紀の幕が開け、日本でも陰陽五行説に基づき改元が行われたた享和元(1801)年に伊豆・韮山で生まれました。父の英毅さんは64歳没と当時としては長命だったため35歳まで見習いとして過ごすことになり、この間に剣術に励み、さらに儒学を修め、十分な準備期間を経て後を継いだ翌年にはヨーロッパでの戦争が日本に飛び火したモリソン号事件が起こりました。幕府は11代将軍・徳川家斉公の治世の頃から日本近海に姿を見せ始めていたヨーロッパの船に対して「異国船打ち払い令」を発令しており、長崎港内でオランダ船を襲って乗員を拉致しようとしたイギリスの軍艦に対しても青銅式の旧式砲を発砲したのです。しかし、このことを知った江川さんは伊豆半島警備を担当する責任上、強い危機感を抱いて蘭学を学ぶことにしました。そこで友人の川路聖謨さんの紹介で田原藩江戸家老・渡辺登さんや奥州水沢の医師・高野長英、出羽庄内の医師・小関三英などが開いていた尚歯会に参加したのです。尚歯会では蘭学を単なる学問・知識とするのではなく西洋の思想にまで踏み込んで国際事情を考察する白熱した議論が行われており、江川さんは渥美半島の警備を担当している渡辺さんと共に海防の研究に取り組むことになりました。そんな折、長崎の町年寄・高島秋帆さんが西洋砲術を研究しており、海岸防備の名目で西洋式の鋼鉄製の野砲を購入して独自の砲術流派を起こしていることを知りましたが、幕府内では江戸・昌平校の林術斉の妾の子・鳥居耀蔵さんが儒学の権威を守るため蘭学の弾圧を画策して虚偽の罪科による尚歯会の廃絶に動いたのです。結局、アヘン戦争で中国が敗れたとの情報を受けて高島流砲術に入門できたのですが、その優れた用兵技法に感服した江川さんは高島流を幕府に正式採用させることを働きかけ、徳丸ヶ原で西洋砲術演習を展示させました。こうして幕府の近代化に努力することになりましたが、江川さんは自領では砲術だけでなく農民を兵士とすることも始めていました。そのことを幕府から「武士と言う身分の否定になる」と指弾されると江川さんは「作法と言う形の中で生活している武士には野戦を行う体力がない」「弓刀槍にこだわって銃を使うことを嫌う」と理由を説明しています。実際、嘉永2(1847)年にイギリスの軍艦・マリナー号が無断で江戸湾の測量した時も銃を持たせた農兵を警護に同行させており、外交交渉も見事に成功させました。
その後も西洋式の戦術や兵器の研究取り組みますが、とうとう西洋を追い越してしまうことにもなりました。江川さんが開発した爆裂弾をオランダ商館長に見せたところ当時のオランダ製よりも優れており、それをオランダに送ったことで「時代遅れな青銅製の砲と金属製の弾しかない」と見下していた日本に対する認識が大きく変わったのです。
江川さんは韮山に鉄鋼を製造する反射炉を建設しましたが(完成は没後の37代・英敏さんの時)、それを模倣したに過ぎない萩市の反射炉を一緒に世界遺産にしたことは許しがたい侮辱です。そんな八面六臂の活躍で過労死したのは本当に残念です。尚歯会が存続していればもう少し負担は軽減できたのでしょう。

みなもと太郎作「風雲児たち」より
- 2018/01/16(火) 22:38:22|
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おせち料理は明日のお楽しみで今夜はジャパニーズ・ソバ・ヌードル、つまり年越し蕎麦だった。日本では日付が先行しているのですでに新年になっているがハワイではこれから大晦日だ。
「志織の天麩羅も上達したね」「へーッ、これは志織が揚げたんだ」スザンナの説明に紙を敷いた大皿に盛ってある天麩羅をあらためて見た。先ほどカボチャを食べたがハワイ産は皮がオレンジ色なのでコロモとの色合いは今一つだった。そうと分かっていればもう少し味わって食べれば良かった。
「志織は勉強も優等生だけど家の手伝いも好きで本当に良い娘だな」祖父に褒められて志織ははに噛んだ顔になる。今の日本の中学生に「はに噛む」と言う感情は残っているのだろうか。朝夕の通勤・帰宅に利用している列車の中で会う高校生を見る限り、そのような姿は思い当たらない。
「ダディは料理が得意だもん。ダディが歌いながら料理しているのって楽しそうだからお兄ちゃんも私も台所が好きなのよ」志織の説明では私の影響のようだ。しかし、私としてはノザキ家の前向きで開けっ広げな雰囲気が家事を楽しむことを教えてくれたように思う。
「お兄ちゃんって言うと遠洋航海に来たあの若者か」義父は私とは違うことを気に留めた。佳織から淳之介が水産高校の遠洋航海でハワイに来たことは聞いている。その時、義父が志織を港まで連れて行ってくれたことも思い出した。
「彼は好い男だったな。船乗りになればきっと海が似合うだろう」「私も会いたかったわ」夫の思い出話に妻のスザンナが少し不満そうに答える。その傍らで私は「亡くなった義弟も空が似合うパイロットだったのだろう」と胸を痛めながらサイド・テーブルの上の遺影を眺めた。
「うん、美味かった。これで寿命が延びるだろう」「そうね、貴方は長生きしないといけないわ」食べ終わって全員で手を合わせると義父は年越し蕎麦の由来を兼ねた感想を述べた。そこでスザンナと志織が片づけのために立ち上がった。私と佳織は義父と真顔で向かい合う。これからノザキ家と我が家にとって重大な話し合いを始めるのだ。
「モリヤさん、実はお願いしたいことがあるんだ」義父は湯呑の日本茶を飲むと両手をテーブルの上で結んで話を切り出した。今日は酒宴にならないことでも話の重さがわかる。
「話は佳織からも聞いていますが・・・」「うん、この秋で佳織の任期が終わって帰国する時、志織を私たちに預けて欲しいんだ」義父はその願いが娘の家族を引き裂くことなのは十分に承知しているらしく決して強制力は感じさせない口調で話し終えた。
「先ずは志織の気持ちですが・・・」「志織に決めさせるのは少し酷じゃあないかしら」私の意見を珍しく佳織が否定した。しかし、私が淳之介に沖縄の美恵子の下へ行くことを決めさせたのは志織よりも学年が下だったはずだ。男の子と女の子の違いはあるとしても人生の分岐点で自分の意見を言わせる機会を与えることは私の親としての信条なのだ。
「私は志織よりも1学年下でダディとマミィが離婚したから自分の気持ちに関係なく日本へ帰ったわ。それであんなことに・・・」佳織が言いかけたことは私には判った。佳織は伊丹の中学校で帰国子女として陰湿な苛めを受けていた時、親身に相談に乗り、優しく激励してくれていた教師に肉体・純潔を奪われた。それも仕方なく帰国したことで周囲を恨むことができた。それが自分の判断であれば自己責任になってしまう。
「何にしても志織の気持ちだけは確認しないとな。『お前はこの家の子になりなさい』なんてワシには言えないよ。だってワシだって志織と暮らすのを楽しみにしているんだ。それが志織の意思なら諦めもつくがね」この微妙なニュアンスが英語でどこまで伝わったかは判らない。ただ手放しで賛成している訳ではないことは説明できたはずだ。
「ところでこちらからもお願いがあるんですが」今度は私がマグカップの日本茶を飲んで話を切り替えた。この家には日本式の湯飲みは夫婦の分しかないので私たちはコーヒー用のマグカップでお茶も飲むことになっている。佳織は私がこれから話すお願いを知っているが現実的に検討を要する点があるのは事実だ。
「実は私たち家族をノザキ家のアドプテッド・チャイルド(養子)にしていただけないでしょうか」「アドプテッド・チャイルドって言うのは君たちがノザキ家に入るっていうことか」義父は想定外の急展開に咄嗟に返事ができないようだ。
「そうすれば志織を預かっていただくにしても我々の実家になります」「それで佳織は良いのか」「ウチを出戻り娘にしてくれるなら・・・」それを言うなら「ワシをノザキ家の息子にしてくれるなら」だろう。佳織の返事を聞いて義父は急に大きな両眼から涙をこぼした。
- 2018/01/16(火) 22:35:43|
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慶応2(1866)年の1月14日に坂本龍馬さんの闇武器商社・亀山社中を実質的に取り仕切らさせられていた近藤長次郎さんが自刃に追い込まれました。29歳でした。
近藤さんは2010年放送の「龍馬伝」では大泉洋さんが好演していたので先天性認知症の頭にも鮮明に記憶に残っています。大泉さんは現存する写真にも似ているのでかなり本人に近かったのでしょう。
近藤さんは天保9(1838)年に土佐・高知城下の饅頭屋の息子として生まれ、成長すると家業を手伝って饅頭を売り歩いていたようです。大河ドラマでは店売りしていましたが、当時は地方の饅頭屋程度の経営規模ではあれ程大きな店舗を構えるのは無理だったのではないかと推察しています。
幼い頃から頭脳明晰だったようですが、土佐・山内(やまのうち)藩では関ヶ原の合戦までの領主である長宗我部家の旧臣たちを郷士と言う有名無実の地位に落としていましたから身分制度は極端に厳格であり、商人が家業意外に能力を発揮する機会はありませんでした。ところが藩士=上士で御用絵師と学者でもあった川田小龍さんに学んだことで参政として藩政改革を推進し、人材発掘に努めていた吉田東洋さまの知るところとなり、異例の抜擢で江戸遊学を許されたのです。
江戸では朱子学者で西洋事情にも精通していた安積艮斉先生に師事したこともあり藩主・容堂公に認められて苗字・帯刀を許され、幕府が神戸に設置した海軍操練所に入所しました。ところがここで土佐の頃から見知っていた坂本龍馬さんと親しくなってしまったことで運命は暗転します。
先ずは海軍操練所が解散になっても帰国せずに長崎に同行したため脱藩扱いにされ、郷士と言いながら実際は商家の放蕩息子である坂本さんが「武器の輸入の仲介をすれば儲かる」と気がついて設立した商社・亀山社中に参加することになりました。おまけに坂本さんの兄は商才に長けた人材でしたが本人は思い付きで行動するだけの軽率・無責任な人罪であり、他の参加者もそれぞれの事情で土佐に帰れないから同行しただけでしたから実際の仲介業務は近藤さん1人が担うことになったのです。
この頃には幕府が米英蘭仏露と通商条約を締結していたため各藩が開港した長崎や横浜、函館に窓口を設置し、商才がある藩士や商人を武士の身分に取り立てて派遣するようになっており、土佐も貧乏郷士でありながら吉田東洋さまの私塾で学んだことで発掘された岩崎弥太郎さんを送り込んでいました。そのような状況では脱藩浪士が経営する私設の闇商社が介入できるのは正規の輸出入ができない相手に限定され、それは禁門の変で朝敵の烙印を押されていた毛利藩だったのです。
江戸で剣術修行していた坂本さんはテロリストにも顔が広く、その黒い人脈で毛利藩の倒幕過激派と結びつき、勅命による征討が迫る中、何が何でも手に入れたがっていた西洋式最新鋭の武器=アメリカの南北戦争の終結で余剰になった武器を島津藩が毛利征討用として大量に輸入して横流しする秘策で提供することに成功しました。その交渉で近藤さんは英語には堪能でも商売は素人の毛利藩士とイギリス人武器商人の間で仲介の役割を見事に果たしてしまいました。
そんな近藤さんの活躍を島津藩から派遣されていた五代才助さんが認め、島津藩の紹介でイギリスへ密留学できることになったですが、それを問題視した坂本さんによってこの日を迎えてしまったのです。一部には坂本さんの留守中の出来事だったため他の参加者たちが嫉妬と身分に対する侮蔑から勝手に行ったことだとする説がありますが、坂本さん自身が「自ら播いた種」と書き残していますからこの無責任な人罪によって生きていれば明治の経済界で五代さんや岩崎さんと並ぶ活躍が期待された人材は殺されたのでしょう。商人出身の近藤さんが武士だけに許される割腹=自刃を選んだのは坂本さんを含む郷士たちに「自分は元山内家家臣=土佐藩士であること」を見せつけたのかも知れません。
- 2018/01/14(日) 09:40:43|
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夕方、佳織が運転する車でノザキ邸に出かけた。酒を飲むための訪問に車を利用するのは宿泊することを前提にしているのは言うまでもない。今夜は義父が作ってくれた志織の部屋の床に佳織が見つけて購入したダブルの寝袋で眠るつもりだ。陸上自衛官同士の夫婦で過ごす時間だけでも本来の自分を取り戻したいものだ。
「志織、ただいま」「ダディ、アローハー」おせち作りは終わっているのか志織は義父母と一緒にリビングで日本の歌を聴いていた、これも岐阜の島田信長元准尉が送ってくれたものらしい。
「へーッ、コブクロかァ」島田元准尉は来年は日本に帰ることになる志織が周囲の話題についていけないことがないように時折、日本の流行歌のCDを送ってくれているそうだ。コブクロはハワイに赴任した時にもCDを渡したが関西出身なので佳織の感性とも合うはずだ。
「ダディもこの歌、知ってるの」「うん、轍(わだち)だろう。応援歌みたいで好きだな」ギターをかき鳴らす出だしだけで曲名を言い当てた私に志織は意外そうな顔をする。どうやら娘が抱いている父親のイメージとは合わないのかも知れない。そこでCDに合わせて歌い始めた。
「そんなに遠い目をして 君は何を見ているの 一秒ずつの未来が 今も通り過ぎているのに・・・」佳織の話では島田元准尉は「フォークは反体制だから嫌いだ」と言っていたそうだが、美空ひばりが小椋佳の「愛燦々」を大ヒットさせたように歌謡界の大物たちがフォークのシンガーソングライターの曲を歌うようになると区分することが難しくなっているのだろう。
「轍さえもない 道をただ進め 抱え切れない夢が 不安に変わりそうな気がしたら・・・」これは確かに応援歌だ。私が教育隊の中隊長だったら25キロ行軍で歌わせたくなる。応援歌のような「轍」の次は少し物悲しいオルゴールのような出だしだ。
「今度は『蕾』かァ、これも好きだな」「これはツボミって言う字なんだァ」島田元准尉は曲名を手書きしてくれているが、アメリカの中学校では漢字を習わないので志織は読めなかったようだ。
「涙こぼしても 汗にまみれた笑顔の中じゃ 誰も気づいてはくれない だから貴女の涙を僕は知らない・・・」この歌は今年の3月に発売されたので佳織に渡したCDには入っていない。そのためなのか佳織は真顔で聞き入っており、私は歌うのを控えた。
「消えそうに咲きそうな蕾が 今年も僕を待っている 掌じゃ掴めない 風に踊る花びら 立ち止まる肩にヒラリ 上手に笑って見せた貴方を思い出す 1人」私は日本でもこの歌が好きで歌番組を録画しておぼえたのだが、「貴女を思い出す」のは隣にいる佳織だけではないような気がしていた。するとテレパシーでつながっている佳織も何かを感じたらしく私の背中に回ってもたれかかってきた。そこにリクエストしたような曲が始まった。
「心が今とても穏やかなのは この日を迎えられた意味を 何よりも尊く感じているから・・・」この「永遠にともに」は2004年の曲なのでCDに入っている。私は振り返ると佳織の肩を抱いて低く口ずさみ始め、すると佳織も音量を合わせてデュエットにしてきた。
「共に歩き 共に探し 共に笑い 共に誓い 共に感じ 共に選び 共に泣き 共に背負い 共に抱き 共に迷い 共に築き 共に願い そんな日々を描きながら・・・」これはこれで問題を解決させたが、昔なら佳織のリードでダンスを踊ったはずだ。別居を始めて8年、やはり努力だけでは埋められない溝が生じていることを実感した。
勤経・念佛を終え、女性陣が夕食の支度にかかっている間、私は義父とソファーで世間話をしていた。
「ルテナン・カーノー(2佐)」義父が階級で呼んでくるのは自衛隊に関する質問か、国際軍事情勢に対する見解を求めてくる時だ。今日の話題は想像できる。
「イエス(はい)、ルテナン・カーノー(中佐)」「ジャパン・エア・フォースのトップは何故、開戦責任をルーズベルトに押し付けるような論文を発表したんだね」ハワイの新聞に掲載された論文の英訳は誤訳ではなくてもかなり歪曲した表現になっていたことは佳織から聞いている。しかし、義父には佳織が説明しているはずではないか。
「やはりお腹立ちですか」「公私で感想が違う」私の確認に義父は明確に答えた。真珠湾のルーズベルト陰謀説は本人が死亡し、対日戦が終結した直後からアメリカ国内でも論じられていたらしい。ただ、アメリカの軍人としてはそれを認めることはできないが、ハワイ在住の日系人としてはアメリカ人の一方的な断罪に抗弁するための歴史の暗部にもなっているようだ。
- 2018/01/14(日) 09:38:53|
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明治41(1908)年の1月13日は明治以降の日本の美術界において油絵などの西洋画に対して伝統的な絵画様式である日本画を対等な地位に堅持し、さらに発展させた最大の功労者であり、自身も巨匠であった橋本雅邦さんの命日です。
野僧が最初に橋本さんの作品を知ったのは小学生の頃に切手収集が大流行しており、下校の途中で郵便局に寄って購入した「政府印刷事業百年記念」の図柄に代表作の「竜虎図」が用いられていたのです。
残念ながらこの切手は野僧が航空自衛隊に入って留守の間に親が急ぎの郵便を出すのに勝手に使ったらしく(気に入っていたので最初のページに挟んでいた)竜虎が対になって2組残ってはいるものの竜が左と下、虎が右と上の原画とは似ても似つかぬ状態になっています。その後、掲載されている画集などは購入していますが、実物は三菱財閥の岩崎弥太郎・小弥太父子の収蔵品になっており、東京都世田谷区にある静嘉堂文庫で見られるとは聞いていていたのでSOCに入校中に行ったのですが折悪く展示されていませんでした。東京の美術館は地方への貸し出しで意外にこう言うことが多いようです。
橋本さんは江戸狩野派の重鎮である川越藩の御用絵師の息子として天保6(1835)年に江戸・木挽町の狩野家の屋敷内で生まれました。当時の作法として12歳で家元の弟子になりましたが、その師は1ヶ月後に亡くなっているので事実上はその後を継いだ息子の弟子なのでしょう。この時(同日なので本当に「この時」です)、長府毛利藩の御用絵師の息子の鼻たれ小僧である狩野芳崖さんも入門しており、以来2人は好敵手として競い合うようになったと言われていますが、実際は7歳年上で都会育ちの橋本さんが田舎者丸出しで我まま邦題に振る舞う狩野さんの面倒を一手に引き受けていたようです。ただし、画技は両者とも傑出していて江戸狩野門下では「ニ神足(にしんそく)」と呼ばれ、門弟たちの作品を競い合う絵合わせでは赤白源平の旗頭の座を務めていました。ところが戊辰の役が起こると反乱軍による江戸総攻撃の噂が流れ、反乱軍側だった狩野さんは長府に戻ったものの橋本さんは川越に逃れるしか術がなく、そのまま時代の変革を傍観していたところ木挽町の江戸狩野本家が火災で焼失したため邸内の住居に残しておいた財産を失ってしまったのです。
さらに尊皇攘夷=「天皇を中心にした国家を樹立して外国を排除せよ」を旗印にして成立したはずの明治新政府は手のひらを返したように文明開化を喧伝し始めたため、世の中は西洋風の物ばかりが持て囃され、日本古来の伝統的な芸術は見向きもされなくなってしまいました。こうして橋本さんは兵部省と海軍兵学寮の図係学の製図技官として奉職することになり、糊口をしのぐことができたのですが、狩野派としての画技を発揮する機会はなく、依頼を受けて油絵を描く屈辱を味わっていたようです。
そんな橋本さんに復活の機会を与えたのは日本人が見向きもしなくなった伝統的芸術を認め、その保存の必要性を新政府に訴えていたアメリカ人の哲学者・東洋美術史家であるアーネスト・フェノロサさんでした。フェノロサさんは狩野さんと橋本さんの画技を高く評価しており、後進の育成を要望するとともに伝統の枠を打破するための東西芸術の混合昇華を勧め、2人とも西洋の遠近法や光線の強弱・陰影の濃淡の技法などを取り入れ、西洋の顔料を用いた作品を発表するようになりました。その代表作が狩野さんの絶作「悲母観音」であり、前述の橋本さんの「竜虎図」でしょう。ちなみに狩野さんは「悲母観音を完成させて没した」とされてはいますが実際は橋本さんが最終的に仕上げています。
橋本さんはフェノロサの要望によって設立が決まった東京美術学校では本来は狩野さんが就任するはずだった絵画科の主任となり、岡倉天心さんの思想面の指導と共に実技と精神面において横山大観さん、岸田春草さん、下村観山さん、川合玉堂さん、寺崎広業さんなどの俊英を育成したのです。

組み合わせに苦労しました。
- 2018/01/13(土) 10:08:18|
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「日本は二重国籍を認めていないし、自衛官は日本国籍が絶対条件だから私たちがアメリカ国籍を取るのは定年後にするしかないけど・・・志織はどうするの」やはり所詮は不時作動の提案だ。細部まで検討していない分、たちまち矛盾点を指摘された。
「そうだなァ、志織を養女に出さないとアメリカ国籍は申請できないな」「ノザキ志織にするのは良いにしても私の両親の養女なら妹になってまうで」確かにその通りだ。やはり国籍とは別に養子縁組して孫として養育してもらうしかないようだ。
「でもウチはノザキの姓はアルファーベッドで綴る癖がついているから漢字の『野崎』には違和感があるんや」「と言って日本ではアルファーベッドの戸籍登録は認めていないから片仮名になってしまうな」拙作では便宜上、「森野」を「モリヤ」にしているが、振り仮名ではないのだから正式の姓が片仮名表記では違和感を与えるのは間違いない。
「貴方が弁護士として行政訴訟を起こしてよ。ウチらだけじゃあなくて外国から帰化する人たちの中は先祖代々の名前の表記を否定されて納得できないでいる人も多いんじゃあないかな」佳織から「弁護士として」と言われるとやる気になってしまうが、私も一応は特別職国家公務員なので行政訴訟を起こすことには問題がありそうだ。国家公務員であれば公的手続きで業務の改善を図るのが建前なのだが、自衛官が総務省の所管業務と根拠法令に口を挟む手続きなどはない。
何よりも英語を認めれば「フランス語も国際連合で認められている国際語だ」とケチをつけてくる輩が現れ、それがロシア語、ドイツ語、アラビア語にまで広がっていけば収拾がつかなくなる。しかし、母国での所在を証明する根拠書類と表記が異なることに疑問があるのも確かだ。
話が煮詰まったところで急に睡魔が襲ってきた。日本とハワイの19時間の時差は意外に厄介だ。移動の飛行機の中で寝てきても座席に腰掛けてでは仮眠にしかならない。つまり体内時計は日付とは別に昼夜が7時間=約4分の1ずれてしまうのだ。
演習に行っていた頃ならば体内時間を補正することくらいはお手の物だったが、定時出勤・定時退庁生活が5年を超えると流石に深刻な悩みになっている。
「忘年会は夕方からだからそれまで昼寝しなさいよ」「うん、一緒にな」佳織の添い寝はハワイに来ている最大の目的かも知れない。ただし、クリスマスは終わっており、まだ年は越していないのでお年玉でもない。強いて言えば大晦日に届いた笠地蔵の贈り物と言うところだ。
「淳之介の彼女はどんな娘(こ)だったの」ベッドで腕枕をしながら横になると佳織が母としての質問をしてきた。書類上は親子関係が消滅してしまったが、私も先日の来訪で気持ちは再び繋がったように感じている。
「うん、素直で可愛くて一緒にいると安らぐ感じの娘だったね」正直に印象を語り始めたが佳織が梢の存在を知っていること思い出してここまでにした。私があかりに抱いている好感が梢に重なっているのは事実なのだ。
「視覚障害のハンディは大丈夫」やはり母としては結婚後に息子の負担になるであろう障害が気になるようだ。その意味でも佳織は母として淳之介を気に掛け続けている。
「全てに慎重にならざるを得ないから手早くはできないけど一通りの家事はできるね。物の置き場所を決めておいて、その記憶で作業を進めていくんだ。暗夜の作業手順としては自衛隊が学ばないといけないな」そんなことを言いながらも私は北キボールのPKOを最後に野営は経験していない。今の健康状態を考えると陸上自衛官ではなく顧問弁護士と言う役職の方が適任なのだ。
「それじゃあ結婚を認めたんやね」「志織のお姉さんになってくれれば最高の姉妹になりそうだよ」しかし、肝心の淳之介とは音信不通になっているので2人の交際がどこまで進展しているかは判らない。普通の若い男女なら些細な行き違いから喧嘩別れすることもあるはずだ。
「貴方にとっては淳之介の嫁の前に自分の娘みたいな存在だもん。志織と同じように愛してあげれば良いよ」これが他の女性=普通の妻ならば昔の恋人の娘に対する嫉妬と皮肉として受け取るべきかも知れないが佳織に限ってそんなことはないはずだ。
「貴方はウチだけの物やで・・・」少しかすれた声で呟きながら佳織が胸に顔を埋めてきたので抱き締めた。手を背中から腰、そして前に回って腹から乳房に這わしたが何も起こらない。最早、安らぎだけを噛み締めて眠りに就くしかないようだ。
- 2018/01/13(土) 10:04:45|
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1958年の1月12日にイヌイットから尊敬と感謝をこめて「アラスカのサンタクロース」「ジャパニーズ・モーセ」と呼ばれ、新田次郎さんの伝記小説「アラスカ物語」の主人公になったフランク安田さんが亡くなりました。89歳でした。
野僧は中学・高校時代に新田さんの山岳作品を愛読して舞台になった国内の山々=駒ケ岳・八甲田山・槍ヶ岳などに登ることに憧れていたのですが、そんな中、「アラスカ物語」の舞台は遠く離れたアラスカなので、単に現地民=イヌイット(当時はエスキモー)から崇敬されている日本人の伝記として読んだのです。まさか5年後にアラスカ出身の登山家の彼女ができるとは思ってもいませんでした。
安田さんは日本では慶応4年と明治元年に当たる1868年に宮城県石巻市の医師の息子として生まれました。この小説や他の伝記資料では「両親ともに医師であった」とされていますが、当時の医師は国家試験があった訳ではなく師からの免許で資格を得ていたので本格的に医術を学んで夫と共に開業していた才媛と言うことでしょう。その両親は安田さんが15歳になるまでに亡くなっています。
安田さんには兄がいましたが(妹は早逝している)、自立するために三菱の船で働き始め、太平洋を横断してアメリカ本土へも渡るようになると22歳でカリフォルニアへ移住したのです。
安田さんはアメリカでも船乗りになろうと知り合った船長に頼み込み、沿岸警備隊の「ベアー」号に雑役夫として乗り込むことができました。ところが1893年に北部太平洋で寒波と海面の凍結で身動きが取れなくなったためアラスカに救援を求めに派遣されたものの村に辿り着く前に過労と寒冷で意識を失っていたところをイヌイットに救われたのです。安田さんはアラスカで捕鯨会社と交易所を経営しているアメリカ人の誘いを受けて一緒に働くようになり、仕事仲間たちからイヌイット語を学ぶと同じアジア人であることで信頼関係が芽生え、やがては酋長の娘と結婚して一族に加えられることになりました。イヌイットは信頼の証に妻や娘と一夜を共にさせる風習があり、小説では安田さんに1人娘が与えられた場面が描かれていましたが2人で一緒に寝袋に入ったところまでで色気は抜き出した、それが生涯の妻になりました。しかし、麻疹が流行したことで村は壊滅状態に陥り、新たな村を建設することを決意した安田さんは妻と生き残った村人の中の希望者と共に金鉱山を探してアラスカを旅している鉱山師に同行して出発したのです。ところが途中で立ち寄った村で「新たな金鉱山の発見は無理である」との説明を受けた鉱山師がイヌイットの村人だけを連れて分かれると安田さんと妻はレストランで働きながら村にできる土地を探し続け、やがてアラスカ中央部のシャンダラー川沿いにその場所を見つけました。ところがそこはイヌイットと対立するネイティブ・アメリカンの支配地域だったのです。それでも安田さんは持ち前の人間性で酋長の信頼を獲得し、ここに新たなビーバー村を建設したのです。
こうして安住の地を得た安田さんたちはビーバーやミンクの毛皮の事業を始め生活に基盤を固めましたが、第2次世界大戦に日本が参戦したことで同じようにイヌイットの女性を妻にしているジェームズ・ミナノさんやジョージ大島さんと共に日系移民と見なされて強制収容所に収監されてしまいました。こうして指導者である安田さんが不在になっていた3年間で村は衰退し、帰ってきた時には妻と動けない老人と置き去りにされた子供だけが残っていたようです。
アラスカ出身の彼女もアラスカ州の地元史の授業でフランク安田の名前と業績を習ったことがあるそうで、ルーズベルト政権が日系移民だけを強制収容所に収監する暴挙を行わなければ安田さんの指導によりアラスカのイヌイットはネイティブ・アメリカンと共に伝統文化を守りながら自立していただろうと残念がっていました(「そうあるべきだった」とは言いませんでしたが)。
- 2018/01/12(金) 09:55:18|
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色々あった2008年も終わりを告げ、私は今回も年末年始をハワイで過ごすことにした。ところが今回はハワイでも波乱含みだった。
「あれッ、志織は」半年ぶりの帰宅=再会なのに愛娘・志織は空港に出迎えに来ていない。
「ダディのところでスザンナとおせちの準備をしてるんや」少なからず落胆したが理由を聞いて「志織も大人になってきたな」と納得することにした。
取り敢えず佳織の官舎に行き、時間が合わない昼食を取ることにした。するといきなり食べ物が喉に詰まるような話題を切り出した。
「ダディが志織をハワイに残してくれないかって言っているんや」この件は伊丹のママさんから遠回しに聞いたことはある。予定通りに行けば佳織は来年9月で任期が終わり日本に戻ってくることになるのだが、空軍のパイロットになっていた息子を不慮の事態で失っていた義父母の前に孫娘が現れ、2年半を一緒に過ごせばこれからも手元に置きたくなるのは自然なことだ。
「ふーん、それで志織は何て言っているんだ」「あの娘(こ)はダディとスザンナから十分過ぎるほどの愛情を注がれているからその気になってきてるみたい。それに2人に恩返しがしたいとも言ってるんや」これは以前から感じていることだが、ハワイに来てからの志織は日系人の祖父母から古典的な薫育を受けているため日本で過ごす以上に日本的な娘に成長しているようだ。
「何よりも志織は来年が高校進学やろ。ハワイなら義務教育のまま受験なしやけど、日本だとインターナショナル・スクールでもハイ・スクールに進学する審査があるはずや」これは現実絡みになってきた。考えてみると日本でも「子供を国際人にする」と言う何の必要性があるのか不明な理由で横田や厚木などの米軍基地の小中高校から大学にまで国内留学させる親が増えているらしい。入学定員を巡ってそんな子供たちと受験戦争を戦うことになれば学力ではなくテクニックにおいて不利なのかも知れない。
「それに貴方もウチも市ヶ谷でずっと勤務できる訳やないやろ。次の任地に米軍基地がないと志織を1人で残すことになるねん。それを考えるとこのまま両親に預けるのも悪くないと思うんよ」これでは結論が出てしまうが問題は別にある。
「しかし、ワシとしては志織と一緒に過ごせないできた時間が長いから、娘として花開く瞬間を目の当たりにしたいと言う気持ちは人一倍強いな」この話をしながら何故か胸に淳之介の嫁になる予定であかりの顔が浮かんだ。と言ってあかりを志織の代役にできるはずがない。しかし、あれから淳之介は何も言ってこないが交際は結婚に向けて順調に進んでいるのだろうか。
私の娘の幸いよりも自分の感情を優先した本音を聞いて佳織は何故か感激を噛み締める顔をした。
「貴方の気持は良く解るわ。やっぱりウチ親に諦めてもらうしかないね」佳織は私のグラスに冷えたグアバを注ぎながら自分が出した結論を口にする。ところが私の頭が最近の持病になっている不時作動を始めた。おまけに時差ボケが加わっているから発想が制御不能気味だ。
「ワシの本音を言うとな」「貴方は何時だって本音やんか」あらためて話を切り出すと佳織が茶化す。おそらく表情に危険な気配を感じたのだろう。
「ワシらがノザキ家に家族養子に入るってのはどうだろうか」「えッ・・・ウチらがノザキ家に入るの」流石のテレパシー回線でつながっている佳織も不時作動には反応できないようだ。
「要するに定年後はハワイに来てアメリカ国籍を取得する。そうして就職すればハワイに永住だ」私としては先日の義弟の借金騒動でモリヤ家にはトコトン愛想が尽きており、この際、苗字を変えたいのだが、それだけが理由ではない。
「最近、日本が変質しているのを感じることが多いんだ。『平成』と言う時代は『明治』とは違った意味で日本人の精神を破壊してしまったようだ」確かに明治は日本史上で極めて特異な時代だ。
一方、敗戦後の日本を創ったマックアーサー元帥の息子であるマックアーサー・ジュニア駐日大使は退任後に「(昭和)天皇が壮健な間は日本人が民族の魂を失うことはないだろう。あのお姿を見るだけで日本人の身体を流れる血には民族の魂が熱く甦る。しかし、危険なのは陛下を失って10年が過ぎてからだ」と語っているが正にそれが現実になっているようだ。
さらに父親のマックアーサー元帥は手記で「日本には民族を破壊する時限爆弾を仕掛けてきた。それは50年で爆発する」と予言していたがそれとも重なるのだ。
- 2018/01/12(金) 09:53:10|
- 夜の連続小説8
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