私が牧野弁護士、滝沢弁護士と傍聴していた首席法務官・境1佐の4人で法廷を出て自衛隊の公用車が待っている駐車場に向おうとすると建物の前ではマスコミが通路をふさいでストロボの一斉射撃を浴びせてきた。しかし、最近は事前の要請を受けていない取材は拒否できるようなのでこれには抗議することにした。
「我々は取材要請を受けていない。取材と写真撮影は拒否するからデジカメのソフトを渡しなさい」そう言って手を差し出すとカメラマンの前に録音用の携帯電話を突き出した記者たちが割り込んで遮った。その間に写真撮影した者たちは逃走を図る。つまり紳士協定を有名無実化するための共同作戦、否、自衛隊用語は使いたくないので共謀犯行のようだ。
「どうして取材を拒否するんですか。貴方は海難審判で有罪の判決が出ている被告人の無罪を主張した。国民に説明する義務があるはずだ」真ん中に陣取った大手マスコミの記者らしい男性は恫喝するように詰め寄った。それにしてもこの記者は喧嘩を売る相手を間違っている。私としては「取材拒否」の宣言通りに無視して駐車場に向かうべきかここで即席の記者会見を始めるべきか迷ったが、自衛官には公的に自衛隊に関する意見を発表するには関係上司の許可が必要であり、この場で許可を与えることになる首席法務官も巻き込みかねないので前者に決した。それでも置き土産は残すことにした。
「取材には応じないが君の誤りは訂正しておく。海難審判では罪には問わない。あくまでも有責だ。それに判決ではなく裁定だ。さらに私には説明する義務はない。強いて言えば責任だろう。文筆を職業にしているのならもう少し勉強しなさい」本来はこの記者の所属と氏名を確認するべきなのだが取材に応じない以上、一方的に嫌味を言って立ち去ることにした。
「はい、通してくれ。前を開けてくれ」そう言いながら人垣をこじ開けると境1佐と牧野弁護士、滝沢弁護士も続行する。ただし、やや肥満気味の滝沢弁護士は我々が通過した幅では肩がつかえて少し遅れてしまう。そのため私が立ち止った時、人垣の中から声が掛かった。
「アイツはアフリカで現地人を3人も殺した自衛官だぞ。3人殺しが2人殺しの弁護をするんだ」こうなると再び置き土産を提供しなければならない。私は基本教練通りの動作で両足を揃えると回り右をして振り返った。それを見て首席法務官と牧野弁護士は背中で人垣を押して前を開ける。すると記者たちは何かを期待して一斉に携帯電話を向けた。
「今の発言にも誤りがあるので訂正する」これでは間違った発言をすれば答えることになるが、マスコミの悪意に満ちた虚構を少しでも和らげるためには必要な処置だろう。
「検察側の告訴事由は業務上過失致死であって殺人ではない。したがって私が3人を殺したことは事実だが、被告人2人は人殺しではないぞ」「それでは何て言えば良いんだ」ここで質問に応ずれば取材が始まってしまう。
「事故によって思いがけず同業者を死に至らしめた不運な人たち」この答えを捨て台詞にして滝沢弁護士が追いついたことを見計らって歩き始めた。
「軍服を着た弁護士がすでに確定している罪を大声で高圧的に否定する光景は、まるで軍法会議のようでした」首席法務官室で見た夕方のニュースでは取材に来ていたらしい記者がかなり主観を加えた解説を始めた。このスタジオに私がいれば「軍服ではない制服だ」「大声と言うが何ホーンだったか測定した数値を示せ」「高圧的と断定する言葉づかいを具体的に示せ」、何よりも「現在の法律用語では軍法会議ではなく軍事法廷が適切だ」と訂正を要求するところだ。
「自衛官の弁護士がいるんですね」「はい、それが結構、有名な人なんですよ」メイン・キャスターの合槌に記者は変な方向に話を振ってきた。
「7年前にアフリカの北キボールで自衛官が現地人を3人も殺した事件があったでしょう」「はい、オランダ軍の兵士2人を守るために3人殺した事件ですね」時間が経過すると「事件ではない」とした政府の公式見解も風化するようだ。そう言えば国際法上は武力紛争に過ぎない満州事変や支那事変も最近では日中戦争と呼ぶようになっている。
「あの殺人を犯した自衛官が弁護士資格を取って今回の裁判に参加しているんです」「そんな殺人鬼に弁護をさせても良いんですか。それでは自分の3人に比べれば今回の2人なんて軽いものだ何て言い出しかねないでしょう」ここまで徹底的に批判してくれると裁判自体から目を反らさせようとする戦術は成功だったようだ。それにしても無罪判決を受けている人間を殺人鬼呼ばわりしても放送倫理規定には抵触しないのだろうか。
「あッ、時間がなくなりました。裁判の解説は次の公判の時にお願いします」結局、このニュースでは裁判の話題にはほとんど触れずに時間切れになった。まさしく「トラトラトラ」だ。
- 2018/04/30(月) 09:46:17|
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淳之介とあかりの結婚式がジューン・ブライドで大安吉日の6月29日の月曜日にハワイ・オアフ島南東部のラニカイ・ビーチで行うことが決まった頃、いよいよ法廷戦闘が始まった。本当はもっと早く開廷するはずだったのだが、検察・弁護の双方が証拠申請していた海上保安庁の事情聴取のメモが紛失していることが発覚したため、その経緯の説明と他と資料による補完の可否の再検討を要した結果、ここまで伸びたのだ。
「それでは冒頭手続きを始めます。被告人、中央へ」裁判長に促されて被告の前潟啓一郎3佐と大浜智人1尉は弁護人席から法廷の中央に並んで立った。マスコミはこの裁判を「国民の強い関心を読んでいる」と報じていているが既に海難審判の裁定が下りており、傍聴人はマスコミ関係者とテレビで見たことがある遺影を抱いた女性2人、そして一見して漁民を判る男たちだけで一般人の関心は低いようだ。それにしても遺族の「故人にも裁判を見せたい」と言う心情は理解できるものの判決に同情による先入観が影響する可能性も否定できず被告側弁護人としては禁止を申し入れたいところだ。
「貴方の氏名、本籍地、住所を言いなさい」「氏名は前潟啓一郎、本籍地は兵庫県神戸市灘区△□町××番地、現住所は京都府舞鶴市○●町××です」「氏名は大岩智人、本籍地は・・・」「両名とも被告人本人であると認めます」裁判長は顔を検察官に向けて次の手順を示した。
「起訴状、本件は被告人・前潟啓一郎が海上自衛隊舞鶴基地所属の護衛艦・あまごの当直士官として勤務中、平成20年2月19日午前3時40分頃、千葉県南房総市野島崎沖の太平洋上で右方向に漁船・軽特丸を発見しながら必要な回避処置を怠り、そのまま十分な引き継ぎもせずに同時45分頃に勤務を交代し、その結果、午前4時7分頃に北緯34度21分5秒、東経139度48分6秒で衝突して沈没させ、乗り組んでいた千葉県の新勝浦市漁業組合川津支所所属の岸西(きしせい)丸夫と岸西節広を死亡させたものです」ここで検察官は一度、呼吸を整え、大きく息を吸うともう1人の被告人の罪状の説明を再開した。
「被告人・大岩智人は同じく護衛艦・あまごの当直士官として前潟被告から十分な確認をせずに当直士官の業務を引き継いで漫然と航行を継続し、海上衝突予防法14条の回避義務があるにも関わらず必要な回避行動を取らずに同地点で衝突、2名を死亡させたものです」検察官は次の台詞を際立たせるためさらに間を置き、当然、弁護人と被告は身構えた。
「両名とも刑法211条の業務上過失致死並びに海上衝突予防法第5条の見張り、同7条の衝突のおそれ、同8条の衝突を避けるための動作、14条の行会い船の各条に違反するため横浜地方検察庁は告訴しました」これは被告人が誰で、何時、何処で、どのような犯罪を行ったことの裁判を行うのかを明らかにするための手続きだが、起訴状は前もって弁護士を通じて見せられるため被告人と我々弁護人にとっては単なる確認に過ぎない。後半の海上衝突予防法については海難審判ですでに有責の裁定を受けているので、その責任を犯罪として処罰するための追加処置になる。それは重大な過失を印象づけるための法廷戦術なのも間違いない。
「なお被告人には証言に対して黙秘を行う権利があることを伝達しておきます」ここからが裁判の本格的な幕開けなのだ。開廷に先立っての公判前整理手続きで会った検察官は、海難審判で有責を獲得した理事官から引き継いだ証拠と資料で同様の有罪を勝ち取れると踏んでいるらしく妙に自信ありげだった。い。
「それでは罪状認否に移ります。弁護人どうぞ」ここが最初のハードルだ。私も裁判の時、牧野弁護士から「罪状認否で罪を認めてしまうと後で覆すことは難しい」「多少の違和感を覚えても明確に否定するように」と釘を刺されていたが、妙な正義感や緻密さは控えなければならない。その一方で今回は遺族側の傍聴人が背後に陣取っているため圧迫感もかなりのものだ。
何よりもニュースや新聞が「被告人は罪を認めなかった=全く反省がない」と揶揄するのはこの場面なのだが、今日は悪役を引き受けるため陸上自衛隊の制服を着てきた。
「確かに被告人2名は現場海域を航行する海上自衛隊の護衛艦・あまごの当直士官として操艦の指揮を執っていましたが、漁船・軽特丸を発見した時の位置関係から相互が安全に交差できる状況と判断したのであり、事故は発光信号や警告音によるによる位置の明示を実施したにも関わらず軽特丸側が護衛艦の後方を通過することを避けて面舵を切って進路を変更したことが原因で発生したものです・・・以上、本件の過失は死亡した2名のうち操船していた側にあり、無罪を求めます」私の弁論に傍聴人席からは怒りの声が起こったが裁判官に静止されてすぐに収まった。ただ、私の弁論は過去に前例がない現職自衛官の法曹参加であり、マスコミが徹底的に批判するのは目に見えている。日本では法廷内の写真撮影は許されていないので私の制服姿が視聴者の目に触れることはないが、本来であれば軍事法廷のように振舞い、被害者への同情を被告人への怒りに替える報道手法を私に向けさせられれば出足としては上々だ。
- 2018/04/29(日) 09:46:18|
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4月17日に往年の宝塚歌劇団のトップ・スターの順みつきさんが亡くなりました。70歳だったそうです。
順さんは意外にも自衛隊の愛唱歌「ひそかな祈り」と「男の群れ」の2曲唄っておられ、自衛隊音楽祭にも出演されました。
ひそかな祈り
1、貴方はまだ若いから 自由がどれほど大切なのか 見えずに暮らしていても良い 判る時がいつか来るだろう 平和のために 汗を流す 若者たちがいることを アイ プレイ ザ ピース ピース オブ ザ ワールド フォーエバー
2、お前はまだ小さいから 命がどれほど大切なのか 知らずに遊んでいれば良い 判る時がいつか来るだろう 平和の影で汗を流す 父の努力があることを アイ プレイ ザ ピース ピース オブ ザ ワールド フォーエバー
3、誰でも今自由なら この世がどれほど美しいのか 考えなくてもそれで良い 判る時がいつか来るだろう 平和の花が咲き続ける 豊かな大地あることを アイ プレイ ザ ピース ピース オブ ザ ワールド フォーエバー
男の群れ
1、男がいる 男がいる 泥に紛れた 男たちがいる 平和を願う 男の群れだ 誰もが生まれた故郷の 幸せ支える 男の群れだ
2、男がいる 男がいる 潮に焼けて(い)る 男たちがいる 平和を守る 男の群れだ 愛する妻や父母の 幸せ見つめる 男の群れだ
3、男がいる 空を駆けて(ゆ)く 男たちがいる 平和を築く 男の群れだ はるかな友達故郷の 幸せ守る 男の群れだ
野僧はそのミュージック・テープを持っていましたが、歌詞のレベルの低さは順さんの責任ではないものの演歌調の「男の群れ」は似合わないように思いました。また「ひそかな祈り」の英語のフレーズの「プレイ」を日本人的に発音していることは良いのですが、普通の自衛官の英語力では折角「R」の「プレイ=祈る」と唄っても「L」の「プレイ=遊ぶ」と聞き分けることはできす、「私は平和で遊んでいる」と誤解しそうでした。ただし、自衛隊が守っているのは「セイフ=安全」であって、それも「プレイ」ではなく実力による「キープ」でしょう。
感謝をこめてご冥福を祈ります。
- 2018/04/28(土) 11:33:11|
- 追悼・告別・永訣文
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2013年の明日4月29日にウクレレを弾きながら「ああやんなちゃった。ああ驚いた」のフレーズを唄うボヤキ漫談で一世を風靡した牧伸二さんが自死してしまいました。
牧さんは昭和9年に東京都目黒区の板金屋の5人兄弟の末っ子として生まれましたが、間もなく転居した向島の中学校の1年後輩には落語家の立川談志師匠がいます。
中学卒業後は温度計を製造する会社に就職して夜間高校に通いますが、1年の時に映画評論家で芸人でもあった牧野周一さんの漫談をラジオで聞いて浅草で開いていた「話術クラブ」に入門して弟子になりました。当初の得意ネタは声帯模写だったそうです。
高校卒業後にラジオの「しろうと寄席」で7週連続の名人になったことで牧野さんに正式に弟子入りして牧伸二の芸名をもらいました。
この頃からウクレレ漫談を始めますが、日本では「やんなっちゃった節」と呼ばれているあの曲は「ハワイアン ウォー チャント=ハワイの戦争聖歌」と言うハワイアンの軍歌で、野僧はアメリカ空軍嘉手納基地の下士官クラブで開かれたハワイアンのコンサートで聞いたことがありますが、あのような軽い雰囲気ではありませんでした。
牧さんが司会を務めていた「大正テレビ寄席」は野僧が2歳から高校1年まで続いた長寿番組でしたが、ウクレレ漫談は政治問題から夫婦・親子関係などの日常生活の話題を幅広く取り上げながら政治への批判でも庶民の視点を踏み外すことがなく、諦めが先に立ってても「嘆くのは嫌だからボヤイてやるぞ」と言う気概を感じました。また夫婦・親子の話題は本当にありそうで、「同じ場面に出くわした時には使ってやろう」とメモしたくなるような痛快な皮肉でした。また「テレビ寄席」では「マキシンのバーゲンセール」と言う名物コーナーがあって、収益金をあゆみの箱に寄付していたので、野僧が生徒会役員になってから各種募金に取り組む切っ掛けになったようです。
現在でも世相や日常生活を皮肉に語る芸はインテリ気取りの落語家や楽器をギターに替えたお笑い芸人に模倣され続けていますが、最近のネタは新聞やテレビの記事の摘み喰いのようで上から目線の不遜さがあって溜飲を下げることはできません。その点、牧さんのボヤキは茶の間で親父が独り言で呟いている台詞を軽いメロディにのせて唄っているようで素直に笑えました。
そんな牧さんは前日も午後1時半には上野広小路亭に出演し、午後4時過ぎからは浅草東洋館の仕事が控えていたのですが、付き人に「チョッとお茶でも飲んでくる」と言い残して楽屋を出て、実際に喫茶店には寄ったもののその後の足取りが判らなくなり、この日の深夜0時15分頃に東京都大田区と神奈川県川崎市の境界を流れる多摩川に架かる丸小橋から投身して亡くなったのです。
芸人の投身自死と言うと2005年4月22日に自宅マンションから投身した指パッチン芸の熈林一道(きりんいちどう・曹洞宗の僧侶でもあった)=ポール牧さんを思い出しますが、こちらも牧野周一さんの弟子でした。ただし、最初にもらった芸名を勝手に変えて破門されています。
- 2018/04/28(土) 09:24:39|
- 日記(暦)
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「貴方の快復を願って。チアーズ」シェリーは業務としての接待のような顔でグラスを掲げて発声した。昨夜、それどころか先ほどの夕食までの妻のような表情は完全に消えている。
塩谷はグラスを眺めながら3ケ月間の夫婦生活の場面を一つ一つ思い出していたがやはりそれが演技であったとは思えない。そこでグラスを取ると唱和した。
「2人の永遠の愛を誓って。乾杯」塩谷の思いがけない言葉に平静を装ってグラスに口をつけていたシャリーは咳き込んでしまった。
「私は貴方の症状を確かめるために妻を演じていただけよ。貴方に自然体で接してもらうためには家族になるのが一番でしょう」酒が進んでもシェリーは「業務用」と言う立場を変えようとしない。確かにイギリスの諜報機関の職員として開発中の自白剤の人体実験に使ったシェリーが数回の肉体関係と3ケ月間の同棲生活で愛情を芽生えさせたと考えるのはあまりにも楽観的な期待かも知れない。逆に言えば3ケ月の長期開演を見事に演じ切った女優としての才能に感心するべきなのだ。
「そうか、俺は君に来てもらったことで本当に救われていたよ。だから真剣に愛してしまったんだ。これが夢なら覚めても幸せな余韻に浸れる本当の癒しだな」塩谷の答えにシェリーは表情を硬くしてグラスを口に運んだ。今日は少しピッチが早いようだ。
「貴方はどうして我々の行為を責めないの。友軍の兵士である貴方を人体実験に使ったのよ。貴方自身はその後遺症と疑われても仕方がない症状に悩まされてきた。それなのに突然、訪ねてきた私を受け入れてくれた」「だって追い返したら行く当てがなかったんだろう」塩谷の返事に硬くなっている顔に不似合いな赤みが加わってくる。
「今、私が業務として奉仕してきたと告白しても永遠の愛を誓ってくれる。まるで聖職者みたい」ここまで話してシェリーはグラスのサントリー・ホワイトを飲み干した。それに合わせて塩谷も飲み終えたが、もう少し飲んで酔わなければ眠れそうもない。
しかし、2人で布団に入るとシェリーが夜の営みを求めてきて、今まで決して口にしなかった言葉「アイ ラブ ユー」を繰り返した。
翌日、塩谷2曹は前回と同じ要領で沖縄の朝山3佐に電話を掛けた。今回も訓練場の中央に立って待っていると携帯電話が鳴った。
「本日の天候は」「雲一つない快晴です」本当は雨が降り出しそうな重い雲が空を覆っているのだが、そこは周囲の状況を説明する隠語だから仕方ない。
「おかげさまでイギリスからスコッチが届きました。3ケ月間楽しみましたがPTSDと言う銘柄でした」「ふーん、PTSDか・・・」珍しく朝山3佐は会話の内容を繰り返した。
「本場のスコッチを楽しむのなら東京の真ん中に行けって言ってるんですよ」これで通じれば大したものだが、後半の部分は理解したらしい。
「・・・判った。俺が何とかしよう。君は勧誘の連絡があっても断っておけ」今日の電話はここまでで終わった。今頃、アパートではシェリーが帰国の準備を進めているはずだ。塩谷2曹は自分の気分を描いたような曇り空を見上げながら携帯電話をポケットにしまった。
数日後、沖縄の海上自衛隊から業務用の郵便が届いた。茶封筒の下部には「訓練資料(秘区分なし)在中」と書いてある。隊本部の庶務係は「本当に勉強熱心だね」とだけ言って疑いもせずに手渡した。
草刈り作業で誰もいなくなった待機室の自分の机で広げると中には数枚のコピーと英文の袋に入った錠剤が入っていた。英文を読むと「カデナ・ミリタリー・ホスピタル」とある。つまり嘉手納基地の軍病院で処方された薬のようだ。
コピーの束の中にあった英文の説明書を読むと「アンチデプレッサント」と言う単語が出ている。待機室の本棚から英和辞典を持ってきて調べると「抗欝剤」とあった。つまり朝山3佐はアメリカ軍からPTSDの症状を抑える薬として抗欝剤を手に入れたと言うことだ。アメリカ軍の病院だけに患者に処方する薬物に関する説明は詳細だが、全てを読むだけの時間はないのでノーテス=注意事項だけに目を通した。
「これは・・・」説明書を読み終えて同封されている沖縄の地元紙のコピーを見るとそれは慶良間諸島沖での漁船の炎上事故の記事だった。自宅や職場で読む本土の大手新聞では社会面に1行だけだった事故だが、朝山3佐がこれを送ってきたことで何を意味しているのかは想像できた。塩谷2曹が苦しんでいる間にも仲間たちは職務を遂行し始めている。この事実は塩谷2曹のPTSDには劇薬の特効薬になった。

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- 2018/04/28(土) 09:20:33|
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食事が終わり、シェリーの洗い上げが終われば一緒に風呂に入るのが習慣になっている。始めは外で身体を洗ってから浴槽につかることに戸惑っていたシェリーも最近では機能的な日本式浴室がすっかり気に入っており、塩谷よりも長湯になっている。
「先に出るぞ。のぼせないうちに出ろよ」そう声を掛けて先に出たが、シェリーは浴槽の湯に鼻までつかって返事をしなかった。
短めのオールバックにしている塩谷はバスタオルでこすれば髪は乾く。そこで湯上りに始める寝酒の晩酌の準備をした。と言ってもウィスキーの本場であるイギリス人はアルコホール度数が高いスコッチを水で薄めることはあっても値段と利き酒の結果、選んだサントリー・ホワイト(スコット・ランド帰りの竹鶴政孝が開発した)の40度程度ではストレートだ。さらに氷を入れる習慣は全くなく、むしろ室温で立ち上る匂いを楽しむのが通らしい。
「コーイチ、話があるの」風呂から上がり、洗面所のドライヤーで髪を整えてきたシェリーは座卓に向かい合って座ると真顔で切り出した。日本女性であれば正座するような重々しい雰囲気だがシェリーにはまだ無理だ。それでも塩谷は腰を浮かして座り直した。
「私は貴方が投与した薬の副作用で苦しんでいると言う連絡を受けてここに来ました」それはあらためて告白してもらわなくても塩谷自身が依頼したことなので判っている。勿論、シェリーが自ら乗り込んでくることまで期待していなかったが、こうして目の前に座っている。
「私は貴方を未完成の自白剤の人体実験に使った責任を感じていたし、その副作用の症状も確認したかった」それもイギリスの諜報機関に所属する薬物研究者のシェリーとしては至極当然な理由だ。ここで塩谷は手を立ててシェリーの言葉を遮り、2つのグラスにサントリーのホワイトを注いだ。氷なしのストレートだから準備は簡単だ。
「チアーズ(乾杯)は待って」グラスを手渡そうとすると今度はシェリーがそれを遮った。塩谷がそのまま置いて膝の上で手を握るとシェリーは息を大きく吸ってから口を開いた。
「でもここで貴方を観察していて原因は薬物ではないと考えるようになったの」シェリーの専門は薬学のはずなので症状についての分析は別の専門家に助言を仰いだはずだ。そのためのインターネットであり、東京に行くのもそれが目的なのかも知れない。
「でも私が来てからは症状が出ていない。薬物による副作用であれば大脳皮質への影響は生活環境の変化くらいでは大きく症状が改善することはないはずなのに」塩谷としては「それはお前に癒されたおかげだ」と言いたかったが、シェリーから「単なる業務だった」と言う答えが返ってくると傷つくので止めておいた。今のシェリーは妻のように振舞っていた時の愛くるしさは消え、イギリスで会った冷徹な研究者の顔に戻っている。
「結論を言うわ」「ゴクリ」塩谷の喉が音を立てる。それでもシェリーは表情を変えない。
「貴方は薬物の副作用ではなくてPTSD(心的外傷後ストレス障害)の可能性が高いの」PTSDと言う症状名は阪神・淡路大震災の頃から聞くようになった。精神に戦争や天災、事故や犯罪、虐待などの生命に危険が及ぶような強い衝撃を受けることで神経的な苦痛や生活機能の障害などの症状が出るらしい。塩谷もイギリスでは交通事故を装ってテロリストを殺害する一部始終や自ら手を下した殺害を経験している。これがトラウマ(心的外傷)になっても不思議はないはずだ。
「我が軍では新入の兵士たちには戦場で実際に撮影した遺骸や負傷した部位の画像を見せて免疫を与えてから動画に進み、目の前で弾丸に当たって血を吹いて倒れるところや砲弾が炸裂して身体が吹き飛ぶ悲惨なシーンを見せて戦場でのトラウマを軽くするようにしているわ。士官クラスには人体解剖や死亡事故の現場を見学させたりもする。日本軍(=自衛隊)ではやっていないの」そう言われても塩谷2曹が経験した航空教育隊の新隊員課程や初任空曹課程ではそのような特別なビデオを見せてもらった記憶はない。精神教育の時間に本当は著作権に引っ掛かるらしい戦争物の映画を見せられたくらいだ。
「それで貴方の治療だけど東京の我が国の大使館付駐在武官とも相談して日本軍の医官と心理カウンセラーを頼めるように参謀本部に手配したわ。近いうちにミリタリー・セントラル・ホスピタル(自衛隊中央病院)に行くことになるでしょう」仮にPTSDの治療を受けることになればトラウマの原因の説明もしなければならない。存在すること自体が秘密区分のない最高秘密である自分の経験を自衛官とは言え医官や心理幹部のカウンセラーに話して良いはずがない。これは朝山3佐に相談するしかないようだ。
「任務が終われば私は母国に帰らなければなりません。明後日に出発します」そう言ってシェリーはグラスに手を伸ばした。塩谷もそれに合わしたが何時になくグラスが重く感じた。
- 2018/04/27(金) 09:45:23|
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小弥太=塩谷2曹がシェリーと同棲生活を始めて3ケ月が経った。最近ではアパートや近所だけでなく百里基地でも「国際結婚した」と言う飛躍した噂が公然とささやかれ始めている。
「塩谷2曹、やっぱり外人の女って好いですか」世間では草食系男子と呼ばれる体力・気力、何よりも精力(性力?)が弱い優しさだけの男性が増えているらしいが、自衛隊では相変わらず年中発情期の若い隊員どもが無礼もわきまえず声を掛けてくる。
「まあ、反応は日本人よりもストレートかな」若い隊員たちのギラギラした目に取り囲まれると流石の塩谷2曹も少し引き気味になり説明は控え目になった。確かにシェリーには抱かれることを「一緒に楽しむ」と言う感覚があり、積極的に快感を求めてくる。寝ていてもシェリーの方から迫ってくることも珍しくないのだ。
以前は夜中に悪夢で激しくうなされて、朝に目覚めると布団に身体の跡が残るほど寝汗をかくことが多かったが、シェリーが来てからは眠る前に性行為を持つことで性欲による興奮状態が解消され、適度の疲労も加わって熟睡できるようになっている。そんな平穏な日常を噛み締めている塩谷2曹の顔を見て若い隊員が勝手に興奮し始めた。
「外人の女の乳ってでかいんでしょう。柔らかいんですか」「うーん、重いな」「オーッ」塩谷2曹の答えにさかりがついた隊員たちは雄叫びのような歓声を上げる。言われてみれば塩谷2曹も若い頃、ハリウッド女優のグラマーなヌードをオカズに自慰行為に励んだことがあったが弾力までは妄想しなかった。その点、この隊員の妄想力は無駄な探究心も加わっているのかも知れない。やはり昔に比べてお勉強が得意な若者が入るようになっているようだ。
「奥さん、金髪じゃあないですか。ナニの毛も金髪ですか」「薄い茶色かな」「グォッ」あまりにもリアル過ぎる説明に1人が鼻血を吹いた。今時、エロ話で鼻血を吹くような若者がどれほどいるのだろうか。この辺りは昔と変わっていないことが判った。
「やっぱり絶頂の時なんか『ワォー』なんて絶叫するんですか」「馬鹿、お前は変なビデオの見過ぎだ」「でも、最近は日本製の方が外国物よりもリアルでハードだぞ」若い隊員どもの話題が別の方向に流れたので、塩谷2曹は静かに後退ってその場を離れた。
「アイム ホーム(帰ったよ)」「ウェルカム バック(おかえりなさい)最近では帰宅の挨拶も英語だ。その一方でシェリーは主婦として日本式の家事を覚え、得意になった日本食の献立も随分と増えている。
これがアメリカ人であれば帰宅した夫は台所に立つ妻の傍らに近づき、キスをするところだが、イギリス人でも知的階級のシェリーはそこまでアカラサマな愛情表現は求めないようだ。そのため塩谷2曹は居間へ行くとテレビを点けて夕方の民放のニュースを流してから、寝室に入って制服をトレーナーとジャージに着替えた。
座卓に戻るとシェリーが持ち込んだパソコンが電源を切って置いてあった。インターネット・ケーブルがつながっているところを見ると今日も絶対に明かさない仕事をやっていたらしい。
時折、シャリーは日帰りで東京に出かけている。東京に行っていることは隠さず、土産も買ってくるが、やはり行先は言わない。それは塩谷2曹も同様の隠し事があるのであえて訊くことはしなかった。
「今日の夕食はシュリンプのフライとけんちんヌードルよ」夕方のニュースが終わり、NHKの天気予報に替えた時、シェリーがトレイに載せた料理を運んできた。今夜の献立は海老フライと茨城の郷土料理・けんちん蕎麦のようだ。やはり茨城の片田舎では金髪女性は珍しく、「自衛官と国際結婚した新妻」と言う評判が広まると共に商店街の小母ちゃんたちが気軽に声を掛け、食材の選び方や調理方法を教えてくれるようになっている。その意味ではシェリーは街のアイドルと化しているらしい。
「ふーん、茨城の郷土料理だな。味付けは難しいだろう。よく覚えたね」「うん、商店街の八百屋さんが教えてくれたの」けんちん汁は大根、人参、牛蒡などの根菜に葱や蒟蒻、さらに大豆などを入れるのだが、鎌倉・建長寺の精進料理が起源なので汁は鰹節ではなく椎茸や昆布を使うのが基本だ。そこに蕎麦を入れるから茨城の郷土料理になっている。
「いただきます」「イタダキマス」最近、食前の祈りは宗教色抜きになっているが、日本の「いただきます」は生けとし生ける物の犠牲とそれを提供してくれた人々の労力に対する報恩のる言葉なのでキリスト教の人間以外の物は全て与えてくれたカミに対する感謝と誓いの祈りよりも普遍的な意味がある。シャリーもその意義をどこかで調べて来てからはこちらに合わせるようになった。確かに言葉も6文字と簡略なので覚えるのは簡単なはずだ。
前置きを終えて箸を伸ばすとシェリーの手料理は基地で食べるプロ=調理師免許が必須の基地業務群業務隊給養小隊員の仕事と比べても遜色はなかった。
- 2018/04/26(木) 09:48:30|
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慶長18(1613)年の4月25日(太陰暦)は出自不明の不審人物でありながら東照神君・徳川家康公に重用されて幕閣にまでなった大久保長安さんの命日です。
通説では大久保さんは春日大社専属の猿楽(=能)師の家系で父の代に播磨国に移り住んで猿楽の大蔵流を創始したとされています。その後、父は甲斐国の武田家に仕えるようになりましたが、息子である大久保さんは信玄公から才気を認められて家臣に取り立てられ、土屋家の養子になったと言われているものの、この辺りは自己申告なので信憑性は不明です。
武田家では土地の区画割りや土木建築、さらに金山開発などを担当しており、武将としての活躍はなかったようです。このため信玄公の没後に起こった長篠の合戦には参陣せず、実兄や養家・土屋一族の多くが討ち死にしたにも関わらず本人は無事でした。
天正10(1582)年に武田家が滅亡すると「山形の赤備(あかぞなえ)」を始めとする子飼いの家臣を召し抱えた家康公に仕えるようになりますが、ここでも甲斐国に侵攻した家康公に急造の仮陣所を提供し、その出来栄えに感心したことで取り立てられたと言う肯定的な伝説や自ら金山開発や土木建設の才覚を売り込んだと言う否定的な異説、さらに武田勝頼さまに疎まれて出奔し、三河国で猿楽師をしている時に家康公に見出されたと言う風説があります。それでも徳川家では側近・大久保忠隣さまの与力になり、ここで大久保姓を与えられました。
同じく天正10(1582)年に織田信長公が本能寺の変で斃れると甲斐国は家康公の所領となり、ここで釜無川の信玄堤の修復や新田開発、金山の再開などで手腕を発揮し、実務家として頭角を現すことになりました。それは小田原征討時の板東の連れ小便で決定した家康公の関東移封で遺憾なく発揮され、野僧の縁戚である青山忠成などと共に奉行として検地による土地台帳の作成や江戸湾の干拓と埋め立てを伴う城下町の区割りや土木工事などで中心的役割を果たしたと言われています(忠成の活躍は?)。
このため家康公の所領250万石のうち家臣に分け与えた150万石を除く100万石の経営を一手に引き受けるようになり、表向きの禄高は八王子の8000石でも実際は周辺地域を含む北条氏親の旧領9万石を全て与えられていたようです。
このような土木建築の専門家が治めることになったため武蔵国の山間部に過ぎなかった八王子は急速に整備され、現在の発展の基礎が築かれました。さらに江戸で騒乱などが発生した時に駆けつける常備兵力である「八王子五百人同心(後に千人に拡充される)」を創設し、これに武田家の旧臣を当てて無禄の浪人生活から救済しています。
江戸幕府が開かれると佐渡や石見を始めとする全国の金山・銀山の開発と経営を一手に担い、所務(後の勘定)奉行として幕府の財力を支えましたが、その裏で莫大な利権も着服したと言われています(大変な女好きで妾を80人も抱えていたそうです)。
このため本人が痛風で病没すると徹底的な不正の追及が始まり、10人の男子は全員が切腹死、娘が嫁いでいた信濃国・松本の石川家(三河武士・数正さんの息子)などの大名も改易の憂き目に遭う一大政治スキャンダルに発展しました。

安彦良和作「三河物語」より
- 2018/04/25(水) 09:44:03|
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草を揺らさないように気をつけながらの匍匐前進でようやくヒグマ丘に到着した。そこで立ち上がったりすれば30分の匍匐前進が無駄になる。安川3曹と森田士長は第4匍匐のまま斜面を登り、繁った木立の中で背中合わせに腰を下ろした姿勢になった。
「こちら側は異常ありません」「うん、こちらも異常なしだ」互いに前方を確認し、情報を交換する。今回は対抗演習ではないので仮想敵は連隊本部の統裁部から派遣されるフェーカーが状況を付与するだけだ。したがって第4中隊が前進して攻撃を開始する時には反撃を演出するはずだが現時点では誰も見ていないことになる。それでも一切手を抜くことなく1人芝居を演じ切るのが陸上自衛官の美学だ。
「それでは検索を始めるぞ」「はい、森田士長」安川3曹の指示に森田士長は返事をしながらユックリと腰を浮かして屈身姿勢になった。
このヒグマ丘には演習の度に歩哨壕を掘り、陣地を構築している。いわば子供時代の秘密基地のような場所だ。どこに何があるか判っているのだが、そこは状況として初めて乗り込む緊要地のつもりで確認して回らなければならない。
「人間は歩いていると視線が足元に行きがちになる。敵はそれを狙って木の上に潜んでいることがあるから必ず枝を見るように心掛けろ」「はい、気をつけます」安川3曹は森田士長に注意を与えると小銃を腰だめにして低い姿勢で歩き始めた。
ヒグマ丘には演習で歩き回る獣道ならぬ隊員道がある。それを辿っていけば各要点を巡回することは簡単だ。それをワザワザ外して歩くのは無駄なのでここは建前を放棄した。
「着剣しろ」その時、安川3曹は5メートル後方についてくる森田士長に小声だが鋭く指示を与えた。森田士長が戸惑っている間に安川3曹は低い姿勢のまま腰から銃剣を抜き、銃口に取り付けた。「カチン」と言う装着音が2回響く、それを確認した安川3曹は一瞬振り返って足元を指差して再び歩き始めた。森田士長がその地点に通りがかると足元には巨大な動物の糞が落ちている。足跡と内容物から見てヒグマの物だ。先ほどから悪臭がしていたので予想はしていたが間近に見ると木の実の皮や小動物の骨片が混じっている。
ヒグマに限らず冬眠する熊類は長期便秘状態になるため、目覚めてからは生え始めた草を大量に食べて食物繊維で腸を刺激して排便を促す。この時期では冬眠から覚めて数週間は経っているのでこれは本格的に活動を再開したヒグマの置き土産だろう。
それにしても安川3曹は空砲では威嚇効果しかないので運悪く遭遇した時には銃剣格闘で戦うつもりのようだ。確かに短い89小銃で銃剣道の刺突をしてもヒグマの堅い体毛と厚い皮下脂肪、さらに強い筋肉を貫いて致命傷を与えることは不可能だ。やはりなりふり構わず突いて殴って斬る一連の動作の中で射撃する銃剣格闘の方が実戦の役に立ちそうだ。
「ただいま、貴方、おかえりなさい」金曜日の夕方、聡美は心躍らせて帰宅した。月曜日からの演習を終えて今日は夫・和也が帰っているはずだ。専業主婦であれば家で帰宅を待ち、持ち帰った衣類を洗濯しながら労をねぎらい、希望を訊いて手料理に腕を揮うのだが、そこは共働きの辛いところだ。ところが家の中からは返事がない。玄関の鍵は開いているのに留守なのか。聡美は靴を脱ぐと居間に入って部屋の灯りを点けた。
「あーあ、寝ちゃってる」居間にはまだ布団が仕舞えないでコタツになっている座卓があり、和也はそこに腹まで突っ込んで仰向けに寝ていた。余程、疲れているのか何時もなら足音にも敏感に反応する和也が大口を開けて熟睡している。
「久しぶりに燃え尽きた顔をして・・・」聡美は膝の負傷以来、中隊での留守番、管理要員として雑用で演習を過ごし、欲求不満を抱えて帰宅していた夫が完全燃焼した炭の白い燃えカスのようになって眠っている顔が愛おしくなった。もう少し上の世代であればスポ魂劇画の金字塔「明日のジョー」のラスト・シーンを思い浮かべるところだが残念ながら夫婦共にかなり若い。それに夫の和也は漫画を愛読しているが優等生の聡美は文字の方が好きだ。
そんな陸上自衛官・安川和也の妻になって4年が過ぎてもその仕事にどのような意味があるのかはまだ理解できないところがある。夫から聞く部隊での出来事も人間関係には興味を抱いても訓練に関しては体育会系の肉体派の鍛錬自慢にしか聞こえないのも本音だ。それでも日々の訓練で自分の限界を追及し、辛いはずの演習に嬉々として出かけてそれを試し、戻ってくればさらなる向上を目指して頑張り続けている夫の姿を尊いと思うようになっていた。
「・・・お疲れさま」聡美は静かに腰を下ろすと唇は大口を開けているので鼻をかじった。口の周りには薄く無精髭が伸びている。
- 2018/04/25(水) 09:39:59|
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1792年の明日4月25日に処刑用具であるキロチンが革命勃発から3年後のフランス議会で正式に採用されました。
野僧が中退した某大学の刑法の教授は死刑の研究を趣味にしており、講義の合間に古今東西の死刑に関する知識を与えてくれましたが、「ギロチンによる斬首がおそらく最も苦痛を与えず確実に死なせられる処刑方法であろう」と結論づけていました。
それまでのヨーロッパにおける処刑方法は庶民が吊首刑=縊(い)首刑、貴族階級以上は斧か刀による斬首刑でしたが、執行人の技量が未熟だと頸骨を切断できず苦悶することになり、革命以前から「あまりにも残酷である」と言う声が上がっていたようです。
ところが革命により身分による差別が否定されたことを受けて処刑方法が一律に斬首となり、その一方で人民裁判が始まると多くの死刑判決が予想されたものの熟練した執行人の確保が革命政権にとって難題になりました。
この問題を解消するべく内科医で憲法制定国民議会の議員だったジョセフ・ギヨタンさんは外科医であるアントワーヌ・ルイさんに設計を依頼しました。ルイさんはスコットランドで13世紀には実用化され、正式には1564年から1708年まで150名以上に使用されたスコッチ・メイデンやイングランドで正式には1541年から1650年まで53名に使用されたハリファックスを参考にして三日月形の刃を高い位置から落下させ、自重で下部に固定された死刑囚の首を切断する装置を設計したのです。
ところが試作品を受注したドイツの楽器製作者が「刃は斜めの直線の方が斬れる」と提案したため(処刑されるルイ16世が提案したと言う伝説もある)、遺体を使った実験を行った結果、直線で斜めの刃が採用され、約5メートルの高さの溝を刻んだ柱の上部から約40キロの重量がある直線で斜めの刃を落下させ、地上から約37センチの台に身体を固定された死刑囚の首を落とすと言う機械になりました。
ギヨタンさんは国民会議に「単なる機械の作用によって人道的に処刑を行う方法」としてギロチンの採用を提案したのですが、当初は真面目に受け取られず議場では嘲笑が起こったそうです。それでもギヨタンさんが再度の提案を行い、人道的処刑の意義と大量執行が可能になる現実的な利点を力説したためこの日、採用が決定したのです。
ただし、前述のように装置としてはすでにスコットランドとイギリスが実用化していたため盗作とは言わないまでも模倣とするべきでしょう(刃は斬首用の斧を取りつけていた)。
フランスでは反革命罪の国王・ルイ16世や王妃・マリーアントワネットさんの処刑に使用されたことで定着し、1977年9月10日まで使用され続けました。またナポレオン・ボナパルトさんの支配を受けたドイツ、ベルギー、スウェーデンや植民地だったベトナムでも使用され、中でもベトナムでは1975年まで第1次インドネシア紛争やベトナム戦争のゲリラの公開処刑が行われたと言う説もありますがこれは真偽不明です。
野僧は映画「暗黒街のふたり」でアラン・ドロンさんがギロチンに掛けられる前、邪魔になるワイシャツの襟を切られるリアルなシーンが今も強烈に記憶に残っています。
- 2018/04/24(火) 10:09:10|
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「中隊長から何か指示はあったか」出発の申告を受けた小隊長が確認してきた。安川3曹としては防衛大学校出身で新任の小隊長が定年前で老獪な中隊長をあまり好ましく思っていないことを聞いていたので多少の躊躇はあったが、そこは正直に説明した。
「私が負傷を再発させるようなことがあれば森田士長だけを帰らせて私は現場で待機しろとのことでした」この配慮に小隊長は少し不満そうな表情を浮かべた。やはり若い小隊長としては「斥候として出す以上、実戦のように万難を排して任務を遂行することを命令するべきだ」と服務の宣誓にある「身を挺して職務の完遂につとめ」の建前を考えているようだ。
「安田3曹としてはレンジャーのデビュー戦と負傷からの復帰第1戦になるから、あまり無理をするなと言う意味だな」「はい、自分もそう受け取りました」小隊先任の助け船に安田3曹が同意すると小隊長は何故か安堵したようにうなずいた。どうやら一端は天野1尉の配慮に反発したものの負傷から復帰したばかりの隊員に対する指導としてはこちらが正しいことに気づいたらしい。
「2人とも熟知した演習場だろうが、この季節には冬眠から覚めたオヤジ(ヒグマ)と出会う可能性もある。十分に気をつけろ」回れ右をして1歩目を踏み出そうとする2人に黙ってしまった小隊長に代わり小隊先任が注意を与えた。
これから片道10キロの斥候に出発する。今日は雲が重く低いから雨が降り始めるかも知れない。この時期ではみぞれが混じる可能性もある。冷え込みは膝の負傷には辛いが、中隊長の配慮を実施することにならないように気をつけながら前進を開始した。
安川3曹と森田士長は前後25メートルの距離を維持しながら前進している。25メートルと言う距離は手投げ弾や対人地雷が爆発した時の破片の飛散距離から割り出した2名が同時に死傷しない間隔だ。斥候は敵の制圧圏内に潜入するため行動は秘匿を徹底する。したがって道路を歩くことも努めて避けなければならない。
ヒグマ丘の周囲に広がる平地に出て安川3曹は手信号で後方の森田士長を呼んだ。平地は春先で草はまだ伸びておらず視界は十分過ぎるほど届く。若しヒグマ丘に仮想敵が潜在していればたちまち発見されて包囲、捕獲されるだろう。
「森田士長、来ました」森田士長は足音どころか衣擦れの音も立てずに接近してきて間近から低く声を掛けた。それでも安川3曹はかすかに聞こえる呼吸の音で察知していたので前を向いたままうなずいた。
安川3曹は小隊本部で借りてきた野戦用小型双眼鏡でヒグマ丘を確認している。森田士長は隣りで周辺を警戒している。この動作を見ても森田士長が陸上自衛官として熟練してきているのは明らかだ。曹候補士は4年以上7年未満で3曹に昇任させる契約で採用されているのだから、このレベルがあれば今年には陸曹になるはずだ。
「樹木の中を何かが動いている気配がする」「フェーカー(仮想敵)ですか」「オヤジや鹿だとたまらんが、ゲリラの可能性が高いな」安川3曹の見解に森田士長はユックリうなずいた。
「ここからは匍匐で接近する。草の高さから言えば第4だ。あそこの木の影から15メートルの間隔を開けて前進だ」「はい、第4匍匐だと30分くらいかかりますね」「うん、そんなところだな」距離的には数百メートルと言うところだろう。
かつてレンジャーは「現代の忍者」と表現されていたが、それがかえって文庫本の忍術物と混同されて奇想天外な戦闘技術を有していると誤解されていることがあった。しかし、実際のレンジャーは水の上を走り、垂直の壁を手足だけで這い登り、100メートルを5秒で駆け抜ける超人技を持っている訳ではない。ましてや火遁の術や分身の術が使えるはずがない。
実際のレンジャーは一般人よりも体力や精神力が強い普通の自衛官(海外であれば兵士)の上をゆく身体能力と耐久力で困難な任務を遂行するのだ。普通の自衛官が消灯から警備を始めるのであれば日没後には潜入し、破壊を命じられた時間まで待ち続ける。普通の自衛官が歩くところを走り、姿勢を低くして歩くところを匍匐で前進する。したがって数百メートルと言う距離を第4匍匐で前進してヒグマ丘に辿りつくのは基本動作の範疇だ。ただし、それを命ぜられる普通の自衛官・森田士長こそ賞賛されるべきであろう。
「よし、行くぞ」「はい、続きます」平地の手前の森の中から2人は第4匍匐を始めた。地面に伏せると腰までの草でも視界が遮られてヒグマ丘が見えない。逆に言えばそれが潜入の遮蔽物にもなる。問題は仮想敵もレンジャーであればこの潜入手段がお見通しであることだ。若し、そうであればヒグマ丘の森の中で笑いながら到着を待ち構えているはずだ。しかし、安川3曹は自分を信じてついてくる森田士長だけを気にしながら両肘と膝で前進を続けた。
- 2018/04/24(火) 10:08:08|
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昭和44(1969)年の4月23日に神奈川県川崎市にあるカソリック系の名門高校で新入生が同級生を殺した上、頭部を切断した「高校生首切り事件」が発生しました。
1997年に同様の猟奇的殺人事件である神戸児童連続殺人事件が発生した時、「犯人の酒鬼薔薇聖斗はこの事件の影響を受けているのかも知れない=模倣犯ではないか」と主張する評論家もいましたが、事件そのものが完全に風化しており、むしろその評論家の記憶力や下調べの綿密さを誇示しただけだったようでした。
この事件は男子生徒A(実際の名前はI)が日頃から嫌がらせを受けている同級生Bと授業を抜け出して裏山へ行き、脅そうと思って2日前に盗んだ登山ナイフを見せたところ予想に反して平然としたままで、逆に「お前の顔は豚に似ている(実際に身長158センチの肥満体で大きな丸顔が豚に似ていた)」と馬鹿にしたため腹を立てナイフで刺し、仕返しされることを懼れて倒れたBの首を切り落とした後、他人からの犯行を偽装するために自分の左肩を2箇所切ってナイフを目の前の畑に埋めて学校に戻ったのです。
学校では保健室に駆け込んで処置を受け、連絡を受けてやってきた教師に「通りがかりの不良3人に襲われた。Bは殺されたかも知れない」と証言しました。そこで教師が警察に連絡すると既に一部始終を目撃していた男性の連絡で警察は現場に向かっており、教師を案内してきたAは逮捕されたのです。
警察では目撃者の証言はあっても被疑者は15歳(昭和26年12月15日生まれ)の未成年だったため慎重に取り調べを行い、2日後になって担当者が「これまでの供述は矛盾だらけだ。そろそろ本当のことを言いなさい」と諭して、ようやくBの殺害を自供したと言います。
ところが当時の法令では刑事責任を問えるのは16歳以上だったため15歳のAは「精神治療を受ける」と言う名目で医療少年院に収監され、出所後は父親の愛人の養子になって姓を「石川」に変えました。そうして慶応義塾大学法学部に進学して1978年に卒業した後、学習院大学に再入学して現在の皇太子と同じ1982年に卒業しています。つまり4年間、同じ大学内で過ごしていたことになります。
ここまででも信じ難いのですが、このAの頭脳は優秀だったらしく文科系の国家試験では最難関とされる司法試験に合格し、弁護士になったのです。勿論、司法試験では「犯罪歴がないこと」が受験資格になっていますが、Aは刑事責任を問われておらず、治療目的で医療少年院に収監されていたため書類審査を通過してしまいました。
Aは2003年のニュース・ステーションで久米宏さんのインタビューを受けていますが(野僧も見ました)、「未成年でしたから前科なんてつきませんよ。私が弁護士をしているのは私の能力だし、その収入は私と家族のために遣います。法的に見て全く何の問題もありません(Aは被害者Bの家族への賠償責任を放棄している)。幸せに暮らしています。少年事件は匿名性が極めて高いから、誰もこのことを知りませんね」と答えています。
おそらくこれが人権派の人間が理想とする少年犯罪者の更生・再出発なのでしょう。
- 2018/04/23(月) 09:55:14|
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北海道北部の雪が解けて第3普通科連隊の演習の状況も雪中から通常の野外戦闘に変わっている。久しぶりに第4中隊の一員として参加した安川3曹は演習が実働に入る直前に中隊本部の天幕に呼び出された。小隊長は実働準備に掛かっているため引率しなかった。
「安川3曹、入ります」業務用天幕の裾をめくって中に入ると野戦用ランタンの薄暗い灯りに照らされて中央にストーブが置いてあるのが目に入った。それを挟むように向かい合わせて置いた長机には中隊本部の上級陸曹たちが老眼鏡をはめて書き物をしている。
「安川3曹に斥候を命じる」天幕の奥の椅子に腰かけた中隊長の天野1尉の前に歩み寄ると白髪交じりの無精髭が伸びた顔を向けて命令を下した。
「君は半月板損傷のリハビリ中だから無理なら断っても良いんだぞ」長机の1番奥の席の先任陸曹が声を掛けてくる。先任陸曹としては前中隊長がリハビリ中に無理な訓練を強要して再発させたことを踏まえて選択の余地を与えたようだ。
「君の自転車でのリハビリや再開した持久走などを見る限り、むしろレンジャーとしての実力を発揮したいと念願しているんじゃあないかと思うんだが」天野1尉は先任陸曹の配慮を否定するのではなく緩やかに牽制した、確かに春になって雪が解けてからはマウンテン・バイクで駐屯地の周りを何十周も走りまくり、温かくなってからの競歩に始まり、現在ではジョギングになっている。今回は久しぶりの演習なので無理はしないつもりだったが身体の内側から湧き起こるレンジャー精神を抑えるのに実は苦労していたのだ。
「はい、バディ(相棒)は誰でしょう」「うん、森田士長をよろしく頼む」「森田ですか。判りました」森田士長は安川3曹よりも2歳年下の曹候補士の士長で、同じ小隊に配属されてからは新隊員出身の安川士長を慕い、「陸曹になれば自分も冬戦教に入校したい」と熱望している(この年度から正式な課程になった)。斥候の経験はあまりないはずだが、ノルディックの強化訓練でも活躍しているので体力的に足手まといになることはないだろう。
「それで目標地点と行動範囲は」「うん、地図を貸してくれ」天野1尉が訓練係の1曹に声を掛けると長机の上を滑らせて先任陸曹の前に届いた。安川3曹は自分が影を作っていることに気づいてランタンと机の間を避けて覗き込むように身をかがめた。
「連隊本部からの指示ではウチの中隊は今日中にこのヒグマ丘まで徒歩で前進して占領する。したがって事前にヒグマ丘に仮想敵が潜伏していないかを確認したい」中隊長は地図を指でなぞって経路を示しながら説明する。安川3曹にとってこの演習場は自宅の庭のようなもので、指がたどった場所にある岩や生えている樹木、道路のくぼみまで目に浮かぶ。それでも初めて乗り込む前戦であると自分に暗示を掛けた。
第3普通科連隊は陸上自衛隊唯一の完全機動化連隊で全隊員が搭乗できるだけの装甲車を保有している。しかし、実戦ともなれば燃料の不足などにより装甲車が動かない事態も考えられ、徒歩による移動を演練する必要はある。これぞ当にレンジャーの本領発揮だ。
「それで森田士長に連絡は」「うん、君の呼び出しの際に小隊本部に準備を命じてある」訓練係の返事に天野1尉もうなずいた。本来であれば冬季戦技課程を終えてからの演習で斥候として技能に磨きをかけるつもりだったのだが、思いがけない負傷で1年間を無駄にしてしまった。しかもその原因を作った前中隊長からは「レンジャー・バッチを外せ」とまで言われていた。それを思い出すと安川3曹の胸には熱い炎が噴き上がってくるようだ。
「ただし、途中で負傷が再発するようなことがあれば君は現場で待機して森田士長だけを連絡に返せ。これはあくまでも演習であって君に今後、自衛官として十分に活躍できないような後遺症を負わせることは本意ではないんだ」この行き届いた配慮が天野1尉の熟練の技なのだ。自衛隊では「演習を実戦のように」と訓示する幹部が多いが、隊員を実戦で使えない故障品にしてしまっては本末転倒である。だからと言って安全に配慮して限界まで遠く届かない地点で立ち止っていては実戦で全滅することになる。将来、幹部を目指している安川3曹にとってはこの中隊長から学ぶべきことが多いのは間違いない。
小隊本部の天幕へ行くと森田士長が待っていた。鉄帽からのぞく顔にはドーランを塗り、肩には小銃を吊っている。腰の弾帯にも弾納(弾倉を収納する布製の袋)と銃剣、水筒、さらに防毒マスクをつけた完全武装だ。
「安川3曹、お願いします」「うん、俺も1年間のブランクがあるから十分な模範演技は見せられないかも知れないが、よろしく頼む」安川3曹の返事に森田士長はそのブランクの原因と経過を思い出して唇を噛んだ。そんな2人を見ながら小隊長は顔を曇らせた。
空気が重苦しくなった小隊本部天幕の中で安川3曹は隅に置いてある銃架から自分の小銃を取り、補給係から受け取った空砲30発を詰めた弾倉6本を腰の弾納に入れて準備を整えた。
- 2018/04/23(月) 09:54:06|
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文久2(1862)年の明日4月23日(太陰暦)に松下村塾で吉田松陰よん(「さん」と呼ぶ程ではない)の狂気を盲信した過激派藩士に主導権を奪われていた毛利藩とは逆に島津藩が藩父(藩主の父)の意図に背く不忠者を粛清した寺田屋騒動が発生しました。
そもそも吉田松陰よんが門弟たちを扇動していた「尊皇攘夷」は東北への脱藩旅行の途中に立ち寄った水戸藩で感染した狂気で、大国・清さえも屈服させた圧倒的な武力を有する欧米列国を相手に万国公法に基づく外交交渉を展開していた幕府の功績も「外国人に国土を踏ませたこと」だけで屈辱・敗北と断ずる完全な亡国思想です。つまり現在では「勤皇の志士」と呼ばれる過激派は現実的な戦力の比較や戦争の見通し、停戦の時期と交渉の糸口に関しては何の腹案も持たずに西洋人の殺戮を繰り広げ、それで戦争に立ち至れば斬り死にすれば良い。神国・日本の窮地には神風が吹くなどと言う論理にもならない妄言を信じ込んで欧米に屈従した幕府の打倒しようとする危険な集団である以上、これを断固粛清したのは島津久光さまの英断として賞賛するべきです。
この時、久光さまは公武合体の推進を命ずる勅状を幕府に伝達するために1000名の藩士を率いて京都の島津藩邸に滞在しており、島津藩だけでなく京都で暗躍していた過激派たちはこれを倒幕のための出兵と信じて参加しようとしていました。ところが久光さまは厳格な秩序を好み、家臣の暴走は絶対に許さない性質だったため過激派を取り締まることを考えていたのです。実際、事件に先立って京都で尊皇攘夷派公家との交渉に当たっていた西郷吉之助さんほかの指導的立場にある藩士たちを捕縛しており、過激派の藩士たちはその真意に気づくべきだったのですが、倒幕実現の熱気にのぼせ上っていた愚か者たちの目は冷めなかったようです。
藩邸で江戸への出立を控えていた久光さまは孝明天皇の意図を尊重する常識的な公家から過激派たちの動向を聞くと「自分を倒幕の道具にしようとしている」と受け止め、激怒しました。しかし、そこは流石に藩父の器は大きく過激派藩士たちを藩邸に出頭させ、自ら説得した上で処置を決定することにしたのです。
そこで側近の大久保一蔵(後の利通・本当は過激派の首領)よん、海江田武次さん、奈良原喜左衛門さんを交代で過激派藩士たちが集結していた島津藩の定宿・寺田屋に派遣して召喚を命じたものの拒否されたため、藩士の中でも剣の腕が立つ8名を選抜して最後のチャンスを与えようとしました。寺田屋乗り込んだ鎮撫使(=討手)は過激派の代表に召喚命令を伝え、反論には「仔細は久光さまに直接訊いてくれ」と説明しましたが、強硬に拒否したため薩摩示現流同士の死闘が始まりました。
この結果、鎮撫使側は1名が死亡、1名が重傷、4名が軽傷。過激派側は6名が死亡、2名が重傷(後に切腹)でしたが、寺田屋で捕縛された他藩の過激派は自藩に引き渡され、浪人者たちは鹿児島に向かう船の上で斬殺され、遺骸は海に投げ捨てられました。
この久光さまを敵に回して徳川幕府を終わらせた将軍・徳川慶喜公は所詮、亡国の元凶である水戸藩主の息子です。
- 2018/04/22(日) 10:13:42|
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予定外の来客である法務官が帰ってから李家では聖也の初節句が始まった。リビングのソファーの正面に置いたベビー・チェアーに聖也を座らせてサイドテーブルにトックの大皿とファチェの鍋と小皿を並べる。今回の飲み物はファチェが兼ねているらしい。
祝いの前に祈りがあるのは李家の作法で、こうなると張り切るのは義母だ。義母は聖也の横に立つと両手を振って指揮を始めた。
「救いの君なる 主イエスの巧を 御民よ歌え 心の限りに 力の極みに 歓び歌え」これは初めて聞く讃美歌だ。岡倉が顔を見るとジアエが「讃美歌204番・救いの君なる」とささやいた。どうやら祝いの讃美歌のようだ。
その後の祈りは仕草を合わせて佛陀に願う。何にしても息子の無事の成長を祈願する気持ちに変わりはないはずだ。ただし韓国では立身出世を願うのかも知れない。
「貴方、日本には初節句の歌があるんでしょう」祈りが終わってソファーに腰を下ろすと隣りからジアエが妙な質問をしてきた。韓国では5月5日が「こどもの日」であっても初節句と言う習慣はないようなので、これは岡倉から聞いた話を自分なりに調べたらしい。
「初節句の歌と言う訳じゃあないが『こどもの日』の歌は幾つかあるよ」岡倉の答えに義父母はトックを千切っていた手を止めて顔を向けた。この視線のリクエストを受けて岡倉は座ったまま姿勢を正すと歌い始めた。
「甍(いらか)の波と雲の波 重なる波の中空を 橘薫る朝風に 空を泳ぐや鯉のぼり・・・屋根より高い鯉のぼり 大きな真鯉はお父さん、小さい緋鯉はお母さん 面白そうに泳いでる・・・柱の傷は一昨年(おととし)の 五月五日の丈(たけ)比べ 粽(ちまき)食べ食べ兄さんが 計ってくれた背の丈 昨日比べりゃ何のこと やっと羽織の帯の丈・・・」突然の要望にうろ覚えで歌ったため歌詞には自信がない。「こいのぼり」の「小さい緋鯉」は「子供たち」だったような気がするが、やはり夫婦が揃わないと変なのでこちらにした。柱の丈比べは毎年の習慣のはずなので歌いながら「昨年の」にしようと思ったが、「きょねんの」では曲に合わないので取り止めた。今思えば「さくねんの」なら合いそうだ。
実は「背比べ」の作詞者・海野(うんの)厚は7人兄弟の長男だったが、早稲田大学に入学するため上京してからは故郷の静岡には帰省せず、実家で待ち侘びている弟たちの気持ちを思いばかってこの詞を書いたのだと言う。
「ふーん、鯉のぼりと言う行事はソウル市内でも日本企業なんかで見ることがあるな」「あれは大漁を願う漁師のお祭りじゃあないの」歌い終わると歌詞の説明になるが、義母の誤解は訂正が難しそうだ。鯉のぼりは日本による統治下では韓国の尋常小学校でも校庭で泳がせていたらしいが家庭には普及せず、戦後の日本文化の否定を受けて消滅してしまったそうだ。
「丈比べと言う習慣は良いな。我が子の成長を家に刻んで確かめられるなんて喜ばしいことだ」そう言って義父は聖也の顔を見たが掴まり立ち、伝い歩きの段階では直立して頭に定規を当てるのは無理ではないか。強いてやるなら寝かせて身長を測り、柱に印をつけるしかない。それでは味も素気もないが。
夕食は突然、2週間前倒しの聖也の「トルチャンチ」になった。トルチャンチとは直訳すれば「回転祝い」になるが早い話が1歳の誕生日だ。つまり無事に1年分の歳月を過ごして同じ日付に戻ってきたことを感謝しつつ祝うのだ。
本来は親戚や知人を招いて盛大に宴席を設けるのだが、岡倉と会わせることを避けたジアエの意思で両親と祖父母と本人の5人だけで盛大に祝うことにした。
「聖也、韓服が似合うね」義母は盛大なトルチャンチを期待していたらしく衣装や記念品、贈り物の準備を進めていたようだ。このためチマチョゴリを着たジアエに抱かれた聖也を自慢が半分、残念が半分と言う顔で眺めている。
「聖也、これはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんからだよ」そう言って祖父は箱から金の指輪を出して聖也の親指にはめた。トルチャンチに金製品を身につけると一生金に困らないと言う言い伝えがあるらしい。
「あとは鉛筆だよ」今度は義母が鉛筆を握らした。本当は金と鉛筆と糸でトルシャブイ(どれを握るか)させる。これは金を選べば金持ち、鉛筆なら学者、糸なら衣装持ちになる占いだ。
最後は白い餅と果物を分けて4人がそれぞれ「トクッタム(=徳談・良い言葉)」を贈って儀式としてのトルチャンチは終わった。
明日にはアメリカに帰る岡倉には無上の感激を与えてくれた休暇だった。

イメージ画像(トルチャンチ)
- 2018/04/22(日) 10:11:38|
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「タイガーも最近は小まめに帰ってくれるけどやっぱり聖也(セオングヤ)の顔が見たいのね」夕食になっても義母は雄弁だ。やはり子育てとなると経験者である女親は教官として発言力が増し、自信を強めてくるものらしい。
「いいえ・・・はい、何よりも最近は仕事が落ち着いているんで休暇が取れるんです」ここが正否をハッキリ返事する外国語の難しいところだ。「いいえ」では「聖也の顔が見たい」を否定したことになる。しかし、本当の理由は仕事の都合なのだから「はい」では間違いだ。日本のように微笑んでうなすくだけで察してもらう曖昧さは通用しない。
「貴方が帰って来てくれるから私と聖也は幸せよ」隣りの席でジアエが聖也に離乳食を与えながら微笑んだ。ただし、これはお惚気などではなく生命を賭した任務を果たしている夫の無事を噛み締めている軍人である妻の真情だった。
「ところで聖也の離乳食って随分とボリュームが豊富だな」岡倉は育児に詳しい訳ではないが、日本では「消化が良い」が鉄則で、薄いお粥から雑炊になって徐々に具を増やしていくように聞いている。ところが聖也が食べている粥には南瓜と細かく刻んだ牛肉が入っている。
「牛肉は鉄分が豊富だから離乳食を始めて3日目から食べさせるのよ」「成長には欠かせない栄養素が取れるから早目に沢山食べさせないとね」ここでも母子が師弟関係になっている。岡倉は万全の育児体制を確かめて安堵の溜め息をついた。
「李大尉、初節句のお祝いを持ってきたぞ」祝日である5月28日の朝に師団司令部の法務官が訪ねてきた。これは予告なしの奇襲攻撃だったようで出迎えたジアエも玄関で戸惑っている。リビングで岡倉も焦っていた。法務官とはアフガニスタンで一緒に仕事をしただけに再会することには問題がある。ところが玄関から軍人らしく良く通る声が響いてきた。
「牧村、いることは判っているぞ。私の可愛い部下の息子の父親なら出て来て挨拶しろ」法務官はアフガニスタンで名乗っていた韓国用の偽名で呼んだ。それを聞いて義父母は怪訝そうな顔をしたが、その事情説明はせずに立ち上がって玄関に向かった。
「おう、牧村。帰っていたか」法務官は韓国陸軍大佐の軍服姿で両手には花束と派手な包装紙で包んだ箱がある。軍服には不似合いだが本人は気にしていないようだ。
「その節はどうもお世話になりました」「いいや、こちらこそ我が国のために尽力してもらいながら何も報いることができず残念に思っている」法務官は先ほどまでの軽いノリから一転して陸軍大佐としての風格を見せる。ここでもジアエの生活環境を確認できた。
「大佐、どうぞ。我が家では奇襲攻撃に対処する体制にはありませんが」ジアエは足下にスリッパを揃えてから案内した。大佐は靴を脱いで上がるとスリッパを履いて勝手に歩き出し、それを夫婦が両側から挟んで随行した。
「聖也、大きくなったな。まだ1歳にはなっていないけどな」リビングに入ると法務官は義父には会釈しただけで義母が抱いている聖也に歩み寄った。要するに今日の主役は聖也と言うことだ。法務官は聖也の誕生100日の祝いにも来ている。つまり半年ぶりの再会なのだが、流石に聖也は覚えていないようで怯えたように祖母にすがりついた。それを見て法務官は祖父の優しい顔をして少し後退さった。
「これは聖也にお祝いだ。こちらは李大尉とお母さまに」そう言ってから法務官は両手を広げて荷物を岡倉とジアエに手渡した。アフガニスタンの緊張状態の中でも感じていたことだが、どうもこの人物は韓国には珍しい豪放磊落な性格のようだ。そんな様子を見て義母は聖也をジアエに渡し、部屋を出ていった
「どうぞ。トックとファチェです」昼になる少し前、義母が料理を運んできた。トックとはヨモギやチョウセンヤマボクチ(菊科の多年草)を練り込んで車輪状にした餅であり、ファチェはユスラウメを浮かべた冷たい甘いスープで、どちらも端午(タノ)の名節の伝統料理だ。
「タイガーは初めてでしょう」「はい、とても美味しそうです」勿論、岡倉は初めてだ。それでも「韓国料理は辛い」と言う先入観を打ち破る繊細な伝統料理には日本の京料理を思い出させる風情があり、その意味ではどこか懐かしさを感じていた。
トックを摘み、皿のファチェを飲みながら談笑していると法務官は寄り添って聖也をあやしている岡倉とジアエの姿を眺めながら声を掛けた。
「君はここではタイガーと呼ばれているんだな。今日は不在の父親に代わって聖也の初節句を祝いに来たんだが、李知愛が陸軍少佐の地位に相応しい堅実な家庭を築いていることが判り安心したぞ」韓国陸軍でもようやく未婚の母である士官が受け容れられたようだ。
- 2018/04/21(土) 09:29:02|
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1945年の4月2日に第2次世界大戦でナチス・ドイツ軍が劣勢に陥った時、見事な防衛戦を指揮して「ヒトラーの火消し役」と賞賛されたオットー・モーリッツ・ヴォルター・モーデル元帥が自決しました。
野僧は航空自衛隊に入隊して防府の一般空曹候補学生基礎課程で戦闘訓練や歩哨訓練を学んでいる時、その内容が陸上自衛隊の模倣に過ぎず「基地を守る警備戦闘の役に立たないのではないか」との疑念を抱いて以来、古今東西の篭城や要塞戦の戦史を研究するようになり、その中で防衛戦巧者であるモーデル元帥の存在を知りました。
ドイツ軍は中世以来、騎兵による侵攻・突撃を美学としてきて第1次世界大戦では馬を戦車と航空機に乗り換えたものの用兵思想は踏襲しており、陣地に立て篭もっての防衛戦=塹壕戦は実際の戦闘の中では実施していても一段軽く見られていました。
そんなドイツ軍で防衛戦を得意としたモーデル元帥は第1次世界大戦が迫る1909年に士官学校に入営し、大戦では歩兵少尉として西部戦線で参戦しています。そして大戦も半ばに差し掛かった1915年に現在の自衛隊で言えば幹部普通課程=AOCに相当する急速練成を受けた後、中尉の中隊長として前戦に出て重傷を負います。そのため最高司令部に転属して大尉に昇任すると後備師団の次席参謀として敗戦を迎えました。
敗戦後も軍に留まり、参謀や中隊長、大隊長、教官などを経験しながら少佐・中佐に昇任し、1934年に大佐になると歩兵連隊長、陸軍参謀本部の部長として勤務し、第2次世界大戦が勃発する前年の1938年に少将に昇任して第4軍団参謀長に就任しました。
第2次世界大戦では1941年に独ソ戦が始まるとモスクワ地域で攻勢を仕掛けてきたソ連軍を巧みな防衛戦で遅滞させ、その後もソ連軍の反撃を阻止する戦功によりヒトラー総統の信任を得ました。しかし、独ソ戦の失敗によりナチス・ドイツの敗色が濃くなると燃料不足や軍需工場の破壊によって戦力が先細りになり、モーデル元帥(1944年3月に昇任した)の卓越した指揮でも東西から迫る連合軍を支え切れなくなりました。
それでもイギリス軍の存在感を誇示するためモントゴメリー元帥が強行したマーケティング・ガーデン作戦(映画「遠すぎた橋」で描かれた)を失敗に終わらせましたが、天才・ヒトラー総統の閃きが上滑りしたバルジ作戦(連合軍の盲点を突いたものの自軍の弱体化した戦力・能力を見誤った)では戦果を上げることができず信任は薄れました。
モーデル元帥はドイツ西部の大工業地帯・ルールでアメリカ軍を中心とする連合軍に包囲されており、当初は徹底抗戦の姿勢を見せていましたが、この日になって指揮するB軍団に降伏ではなく解散を命令し、近傍の森の中に1人で入って拳銃で自決したのです。
日本の離島を守備していた将軍・提督たちも同じような身の処し方をしていれば「玉砕=全滅」などと言う無用の悲劇を繰り返すことはありませんでした(沖縄第32軍の牛島満中将は壕内での雑談の中でこのことを語っていたと矢原高級参謀は証言していますが)。
モーデル元帥は連合軍がマーケティング・ガーデン作戦で空挺部隊による奇襲を加えてきたのは自分の拉致が目的ではないかと思っていたそうです。自意識過剰でしょう。
- 2018/04/20(金) 09:13:29|
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今年の5月28日=太陰暦の5月5日は岡倉にとって特別な日だ。息子・聖也(セオングヤ)の初節句なのだ。
日本では「こどもの日」と呼んでいるが、5月は干支の午の月であり、5日の午の日と重ねることで端午とした中国の五節句の1つだ。韓国でも「タノ」と呼び、太陰暦の正月(ソルラル)、同じく8月15日の秋夕(チュソク)、冬至から105日目の寒食(ハンシッ)と並ぶ四大名節の1つになっている。ただし、タノは本来、山の神、土の神を祭り、五穀豊穣を祈願する祭りだが、子供が主役の行事があるため「こどもの日」化したらしい。
「ただいま」「おかえりなさい。聖也、お父さんだよ」5月24日の日曜日の夕方に帰宅するとジアエは聖也を抱いて玄関まで出迎えてくれた。
「随分、大きくなったな」「貴方が大柄だからそれを受け継いで骨格がしっかりしているみたい」ジアエは少し重そうに聖也を抱き上げて全身を見せた。聖也は少し驚いた顔をしたが、すぐに落ち着いて1月28日だったソルラルから3カ月ぶりの父親に成長を確認させた。
聖也の誕生日は6月13日なのでまだ10ヶ月半だが、ベビー服からのぞいている両脚はしっかりしている。すでに掴まり立ちから伝い歩きまでできるようになっているらしい。
我が子の成長を確認すると岡倉は先に立って長い廊下を歩き始めた。聖也を抱いたジアエはカバンとは反対側の左脇をついてくる。この長い廊下で伝い歩きの練習をしているようだ。
「そう言えば顔はお義父さん似だな」「何を言っているのよ。貴方似で見解は一致しているわ」ここで「一致している」と言われても岡倉が父親であることを知っているのは李家の3人だけではないか。早い話が家族会議の議決だろう。
「ところで韓国には端午の節句には特別な風習があるのか」リビングのドアを開ける前に岡倉は予備知識を求めた。変に悪戯好きで少し意地悪な義父母のことなので、風習の違いで戸惑う姿を期待しているのかも知れない。
「私たち女の子はクネ(=ブランコ)に乗ったけど男の子はシルムね」シルムとは日本では韓国相撲と呼んでいる格闘技だ。日本のような土俵ではなく1尺ほど掘った柔らかい砂場で、サッパと言う腰に巻いた帯を両手で持った所から始まり、主に投げ技により5分間3本勝負で決着をつける。残念ながら伝い歩きの聖也では無理だ。
「後は菖蒲を煮出した汁で髪を洗うの。これは厄除けよ」「ふーん、日本の菖蒲風呂みたいなもんだな」中国発祥の風習も韓国と日本では微妙に変化しているようだ。
その時、ドアの前で長話をしている娘夫婦を急かすために中で義父が咳払いをした。
「お久しぶりです。ジアエと聖也がお世話になっています」ドアを開けて中に入ると岡倉は傍らに立った妻子に視線を送りながら挨拶した。
「おかえりなさい。今年は孫の初節句が祝えて祖父母としては最高の幸せを味わっています」日頃は儒教の夫唱婦随を守っている義母が珍しく先に声を掛けてきた。改まって挨拶されたのでリビングを見回したが日本のような五月人形や鎧甲冑は飾っていない。そう言えば庭にも鯉のぼりは泳いでいなかった。
「日本では端午を男の子の節句にしているようだが根拠は何だね」ジアエは聖也を義母に預けて岡倉のカバンを自分の部屋に運んで行った。取り残された岡倉は義父の隣りに座ることになり、こうなれば難しい質問攻撃が始まるのがこの家の歓迎方法だ。
「あれは日本語では端午のチャングポ(菖蒲)とサングム(尚武)の読みが同じなので男の節句にしたんだと思います」「同じとはどう読むんだね」「ショーブです」どちらも漢字を使う似て非なる言語の韓国語と日本語の説明は時に英語よりも難しい。しかし、義父は理解したようで例の意地悪な笑顔を見せて質問を重ねてきた。
「ショーブと言えばファイトもそう読むだろう」「へッ・・・」英語の教師の義父は「勝負」を英語にする捻りを加えてきた。それには時差ボケが始まっている岡倉は反応できなかった。
尤も、英語の「勝負」は漢語のように単一ではなく表現する状況によって単語が違う。ファイトは当に闘う勝負だが、競い合うならプレイになる。同じ競い合うでもゲームと言う場合もある。つまり反応できなかったのは義父の不適な設問が原因とも言える。
「ところでタイガーは聖也を抱いたの」「あッ、まだでした」早速、餌食になっている婿に義母が声を掛けてきた。これが絶妙の助け船であるのは間違いない。
「聖也、お父さんにおいで」岡倉はソファーに座ったまま聖也を膝の上に立たせている義母の前に膝で座ると両手を伸ばして聖也を抱きかかえた。
「ショッ、ブー」その時、聖也が息を吸ってから唇を尖らせて吐いた。それが「勝負」に聞こえたのは親馬鹿の思い込みだろうか。
- 2018/04/20(金) 09:11:35|
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裁判についての作戦会議が佳境に入った頃、八重山の淳之介から自宅に電話が入った。
「もしもし、モリヤですが。ハロー、モリヤ、スピーキング」最近の我が家では日米からの電話に対応するため挨拶は二カ国語になっている。
「ハイサイ、淳之介さァ」すると相手はシマグチ(沖縄方言)だった。淳之介とのやり取りはメールが基本なので声を聞くのは結納以来だ。
「おう、どうした。結婚に関しての連絡か、それとも何かの相談か、苦情は受けつけんぞ」日中は弁護士たちと議論を戦わしているため家に帰っても質問が矢継ぎ早になっている。これではあまり饒舌とは言えない淳之介には対応ができないかも知れない。そこで返事をさせるために間を置いた。
「社長も結婚式に出てくれるんだって」「うーん、それは良かったな」「それで家族連れで行っても旅費を出してくれるのかって」何と厚かましい要求だろう。招待した側が来賓の旅費を支払うのは当然だが、家族まで声を掛けた覚えはない。考えてみると沖縄時代につき合いがあった陸上自衛隊第101飛行隊の友人は「救急患者の空輸で離島へ行くとヘリに年寄りから子供まで家族一同がつき添いで乗り込んできて困る」と嘆いていた。
「社長にはビジネス・クラスで来てもらうつもりだったけどエコノミー・クラスにしてもらうしかないな。ところで家族は何人なんだ」「うん、親子で7人だって。これでもオジイとオバアは遠慮したってさ」受話器に当てた口が開いて塞がらなくなった。この厚かましさは淳之介の母親にも共通しているが、お人好しがつけ入られることは間違いない。
「却下、社長にはビジネス往復の1人分だけ送るから、どう使うは自分で決めてくれって説明しておけ」「えーッ、俺が断るのォ」やはり淳之介もお人好しのようだ。結婚する相手があかりだったから良かったものの私のようにババを引いていれば先行きが不安になるところだ。
「それにしてもお父さんは随分とお金に余裕があるね。弁護士になるとそんなに給料が上がるの」ここで淳之介が現実的な質問をしてきた。確かに玉城家の祖父母には台湾への旅費と宿泊代にするには十分な額を渡している。これに松真一家4人分と淳之介のエコノミー・クラスとホテルの宿泊代、さらに結婚式と披露宴の代金も私持ちだ。
「ワシは1年半も塀の中で合宿生活を送っていたのは知っているだろう」「うん・・・刑務所の話だね」これは拘置所の間違いだが訂正するのは別の機会にする。
「あの間も休職分の給料は出たんだ。使う所もないからそのまま貯金できたって訳だ」「ふーん、少し安心したよ」淳之介が納得したところで実に腹立たしい昔話をすることにした。
「ワシはお前くらいの頃、懸命に貯金に励んでいたぞ」「俺だって少しはしているよ」「23歳の時には400万円あったな」「げッ・・・」20歳で自衛隊に入ってから3年間で400万円貯めていたと聞いて淳之介は絶句してしまった。
「何で貯金に励んでいたのかって言うとな」「はい」ここで無理やり返事をさせる。これも結婚資金を出してもらっている弱味かも知れない。
「母親が結婚資金を自分で用意すれば相手については何も言わないって約束していたんだ」「それって嘘じゃん」「そうだ。大嘘だった」淳之介も私と梢の悲恋については熟知しているので一緒に怒ってくれた。
「ところでワシが結婚式に出られなくなったらすまないな」「そんなことがありそうなの。身体の具合が悪いねェ」やはり淳之介は孝行息子だ。
「今度、海難審判の裁決を受けた刑事裁判が始まるんだ」「それって去年の冬に起きた海上自衛隊の護衛艦と漁船の衝突事故だね」やはり淳之介も海の男なのだ。ただし、民間の船舶会社の乗組員である以上、漁船側の立場で見ているのではないだろうか。
「裁判が始まらないと日程は定まらないけど、休暇が取れなければ欠席しなければならなくなるよ」「あの海難審判は滅茶苦茶な冤罪だから裁判も簡単に終わるんじゃあないの」これは意外な見解だった。民間の船乗りでも海難理事官の強引な主張に疑問を感じる者がいるらしい。
「ウチの離島便の大型船クラスでも簡単に転舵できないのは当り前だし、逆に小型の漁船は大型船の後方だと波に巻き込まれるから無理に前を突っ切ることがよくあるんだ。あの事故も暴走族みたいな漁船が7700トンの大型護衛艦の前を無理やり通過しようとして衝突したんでしょう」これは私が考えている事故原因そのものだ。不思議な感動が湧き上がってくる。
「それでもマスコミは小さい方が弱者、だから正しい。大きい方は力任せに押し通るって決めつけるからお前も大型船に乗る時は気をつけろ。見張り員でも過失致死罪で訴えられるぞ」「それってお母さんと同じ罪だね」残念ながらオチは最悪になってしまった。
- 2018/04/19(木) 09:20:53|
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4月19日(太陰暦)は寛政13(1800)年に伊能忠敬さんが全国実測の始まりである蝦夷地(北海道)への旅に出発した日であることに由来する「地図の日」と「最初の一歩の日」です。
伊能さんは本来、関東地域の水運の拠点として繁栄していた現在の千葉県佐倉市の豪商の名主だったのですが、仕事の息抜きの趣味は天体観測と測量、そして地図の作成でした。そのため50歳で家督を息子に譲ったのを機に江戸へ出て幕府が改暦のため大坂から招聘した学者の高橋至時さんと町人の間重富さんに師事して本格的な勉強を始めました。ところが独学である程度の知識を得ていたので、やがては子午線=北極から南極に引いた直線の距離について高橋さん(間さんは商売のため帰坂した)と議論するようになり、天体観測の結果、佐原と江戸・浅草の緯度の差が1度であることを知って測量したものの、さらに正確性を期すために江戸から蝦夷地への実測を思い立ったのです。
これがメートル法であれば元来が北極から赤道までの子午線の1000万分の1を1メートルとして定められているので何の問題もないのですが、当時の尺寸法は腕の肘から手首が1尺、中指の第1から第2関節が1寸と身体を基準にしているため実測して検証するしかありませんでした。ちなみに国際標準としてメートル法の採用が決議されたのは1867年のパリ万博に集まった学者によってです。
こうしてこの日に江戸を出発した伊能さんですが幕府は各藩に協力を命ずる実施許可を与え、通行手形を交付しただけで経費は自己負担でした。
測量法として距離は歩数によりましたが、自衛隊では基本教練で速足(徒歩)の1歩は75センチ、駆け足は85センチと定められているため、長年その基準で歩く生活をしていると無意識でも75センチになり距離を測るのに使えます。なお、僧侶の歩幅は2尺なので縦6尺の畳の縁を踏まずに1歩目を出せば最後までそのまま通過できます。
この他にも各種の羅針盤で方位を確定した上で高い山の頂を起点に角度によって位置関係を測定していきました。西洋式の測量用具の輸入には制限や手続きが多く、多くは蘭書の図面から自作した物でしたが、それでも使いこなせば立派に役に立ったようです。
こうして蝦夷地の測量を終えて江戸に戻ると地図にして幕府に提出したのですが、その出来栄えに感服した幕閣から「他の地域の測量を願い出るように(=経費は自己負担)」と勧められることになり、その後は伊豆半島から東日本東岸の第2次、東北西岸の第3次、東海・北陸の第4次と続き、西国については将軍の命令となったため経費も幕府負担になったものの隠密的な任務も加えられることになりました。
こうして近畿・中国の第5次、四国の第6次、九州の第7次と第8次(屋久島・種子島を含む)、そして伊豆諸島の第9次と江戸府内の第10次で55歳から72歳までの長過ぎる旅を終えたのです。しかし、17年にわたる実測量の集大成である「大日本沿海地輿全図」を完成させる前に亡くなってしまいました。明治になってスパイ的目的で全国測量を申し入れたイギリス人技師はこれを見せられて辞退しました。
- 2018/04/18(水) 09:52:23|
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4月21日に横浜地方検察庁が事故直前に上下番した護衛艦・あまごの当直士官2名(水雷長と航海長)を「業務上過失致死罪」などで告訴することが決定した。
海難審判ではこの2人の他に組織として護衛艦・あまごが所属する第63護衛隊(現在の第3護衛隊群第3護衛隊)、個人ではあまごの前艦長と戦闘指揮所(CIC)監督責任者も指定海難関係人として事故責任を問われていたが今回はマスコミが「事故の主犯(法的には犯人ではない)」と断定していた当直士官2名に絞ったようだ。
「それでは統幕に顔を出してきます」「うん、今日は依頼する弁護士も来るようだから思想統一を万全にしてくれ」統合幕僚監部首席法務官・境1等海佐からの連絡を受けて出かける前に法務官に挨拶したが、まだ出向の命令は出ていないので申告はしなかった。尤も自衛隊に出向と言う人事用語はないので臨時勤務の個別命令になるのだろう。
「陸幕からモリヤ2佐、まいりました」統幕で借りていた事故の詳細報告と海難審判の公判資料のバインダーを両手で持ってきたので、それを脇に抱え直してからドアを少し開けて声を掛けた。そう言えばノックを忘れたような気がする。
「おう、入ってくれ」中から随分と聞きなれた境1佐の声がした。そこでドアを押し開けて入ると壁際の5人掛けのソファーに境1佐とスーツを着た男性が2人座っている。
「モリヤさん、お久しぶりです」3人掛けの長いソファーで振り返っているのは私を弁護士にしてくれた恩師・牧野秀政弁護士だ。どうやら今回の裁判でも依頼を受けたらしい。境1佐の隣に座っているもう1人も隊員が関わった刑事裁判で顔を見たことがある。
「滝沢先生、陸上幕僚監部弁護士事務所のモリヤ2佐先生です」すると牧野弁護士が冗談めかした紹介をした。これで姓だけは判った。視線が合ったところで会釈を交わした。
「モリヤ2佐も席についてくれたまえ」「はい、失礼します」境1佐に進められて私は牧野弁護士の隣りに腰を下ろし、抱えてきたバインダーはサイドテーブルの上に静かに置いた。2人はファイルに興味を持ったようで覗き込むようにして背表紙を確認した。
「この文書は部内秘に指定されているんで複写して渡すことはできません。閲覧についてはこの部屋をお使い下さい」「それは大丈夫です。審判記録は国土交通省に情報公開請求で入手します。問題は海上自衛隊の事故調査報告ですが」境1佐の説明に滝沢弁護士は即答した。この呼吸が民事専門の牧野弁護士とは違うようだ。
「事故報告は専門用語が多過ぎて陸上自衛官では理解不能でした。先生方もここで法務官に質問しながらの方が間違いないかも知れません」「いや、この裁判専従と言う訳ではないから資料読みに拘束されるのは困るんですよ」滝沢弁護士の即答を黙って聞いていた牧野弁護士は私の前のバインダーに手を伸ばすと事故調査報告を開いて内容を確認し始めた。
「モリヤ先生はすでに攻撃するべきポイントを見定めているんでしょう。ズバリどこですか」牧野弁護士は明らかに政治目的だった刑事裁判を一緒に闘ってきて私の戦争屋としての状況判断力を熟知している。今回も私が狙ったポイントを重点的に読破しようと決めたらしい。
「やはり証拠である航跡の不公正な採用です。海上自衛隊側の証拠は至近距離から機械が測定したデーターであるにも関わらず審判長は不採用にしています。逆に合理的根拠がない理事官が推定した航跡を採用して裁決を下した。この航跡が理事官の捏造であることが立証できれば日本海海戦、真珠湾攻撃並みの大勝利でしょう」どうもこの裁判に関わるようになってから気分は海上自衛官になっている。譬え話も帝国海軍ばかりだ。
「なるほどモリヤ先生らしい正面突破ですね。僕としては被告人の選定が狙い目のような気がしています」この意見に私の方こそ「牧野先生らしい」と思った。確かに操舵することが衝突事故の加害行為である以上、見張りを担当していて護衛艦の操縦していない当直士官に刑事責任を問うことは交通事故の原因を運転手ではなく助手席で前を見ていた同乗者の不注意とするのと同じではないか。その意味では極めて異常な裁判と言える。
「問題は海難審判とは言え防衛大臣が公的に過失を認め、事実上の引責辞任をしていることです。ご存知のように裁判では責任を認めることは罪を自白するのと同じですから、それを覆すには防衛大臣の言動も否定しなければなりません」「そうなるとマスコミは『クーデターを起こした』『シビリアン・コントロールから逸脱している』と批判するんだろうな」滝沢弁護士の見解に応えた境1佐の推察に弁護士3人は揃って溜め息をついた。
判事は自分が担当している裁判に関する報道に触れることを避けるのが原則だが、マスコミが世論を感情面で扇動して被告を断罪する空気を蔓延させ、判決を好き勝手に確定させているのが日本の司法の現実なのだ。
- 2018/04/18(水) 09:51:19|
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1956年の明日4月18日にハリウッド女優のグレース・ケリーさんがモナコ大公のレニエ3世と結婚しました。
結婚=引退したのは野僧が生まれる前なので女優としての活躍は古典映画好きの亡き妻と通った地下の小劇場で鑑賞した西部劇の「真昼の決闘」、クラーク・ゲーブルさんとの共演作「モガンボ」、アルフレッド・ヒッチコック監督の「ダイヤルMを廻せ!」、アカデミー主演女優賞を獲得した「喝采」くらいしか知りません。
このうち「真昼の決闘」は正義のヒーローである保安官が家族や市民の協力を受けて苦難に耐えながら凶悪犯を倒すと言う西部劇の定型を覆し、ゲイリー・クーパーさんの保安官自身が恐怖におののき、協力者は真っ先に逃げ、妻からも見放され、市民も協力を拒否する不可解な物語です。グレースさんはその妻を演じていましたが、「毅然」「孤高」「冷静」なイメージを表す「クール・ビューティー」が「薄情」になっていました。
その一方で同時代のマリリン・モンローさんのようなベタベタとした粘着質の色気ではなく容姿は気品を感じさせ、立ち振る舞いは優雅であり、カンヌ映画祭で出合ったレニエ3世が恋に落ち、交際期間1年を経て結婚したのも理解できます。ただし、私生活では貞操を重んじるカソリック教徒の割に共演した俳優や監督、デザイナーなどと浮名を流していましたが、それは女としての成長の糧であって気品を損なうことはなかったようです。
外務省の友人によると間もなく日本で同じ立場になる元外交官の女性も当時は事務次官だった父親の力で花形と言われる職場を渡り歩いていましたが、行く先々の上司たちと肉体関係に発展することで有名だったそうです。このため「お嬢さまを抱くことができればエリートの証」との羨望や嫉妬を酒の肴にしていたそうですが、外務省の人間には興味を引くようなネタを「ポロリ」と漏らして反応を探る癖がありますからあくまでも真偽不明の噂話の類なのでしょう。
1月15日に婚約が発表されるとアメリカ国内では洗礼を受けた教会で挙式するカソリックの伝統に則り、出身地であるペンシルベニア州フィラデルフィアでの式を望む声が上がりましたが、レニエ3世は1949年に即位した国家元首だったのでモナコ公国で行われました。なお、18日に行われたのは婚姻に関する公的手続きで、式は19日にモナコ大聖堂で催されました。ちなみに1956年の4月19日は大安吉日です(18日は仏滅)。
その後は大公妃としてイギリスの前プリンセス・オブ・ウェールズ(通称・ダイアナさん)王太子妃の先駆け以上の広告塔として活躍しましたが、1982年9月13日に南フランスの別荘から帰宅する車を運転中に脳梗塞を発症してガードレールに衝突し、助手席の娘と共に崖を40メートル転落して死亡しました。死に方まで先駆けのようです。
グレースさんは男性遍歴も気品を損なう原因とはなっておらず、むしろ女優として見事に大公妃の大役を演じ切ったのですから、次の天皇さんも最初の希望通りにアイドルの柏原芳恵さんと結婚させてあげれば多産(若さと体型からの推察)で安心だったのかも知れません。
- 2018/04/17(火) 09:46:24|
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それから数日間は陸幕法務官室の自分の席で事故の詳細報告書と海難審判の公判記録を熟読しながら資料室で借りてきた海難審判に関する新聞記事を対比していた。すると詳細を伝えているはずの新聞記事でさえ自分たちに都合が悪い内容を巧みに削除している情報操作の実態がハッキリしてきた。
海難審判では最も至近距離で護衛艦と漁船の動きを機械的に記録しているレーダー画像のデーターでさえ「指定海難関係人(裁判の被告・弁護人に相当する)側の物件であり、変造の可能性がある」との理由で証拠採用せず、海難審判理事官(裁判の検察官に相当する)が作成した護衛艦と漁船の航跡図のみを採用している。しかし、その航跡図はレーダー画像のデーターや海上自衛隊側の証言とは完全にかけ離れていたため両者の間で厳しい論戦が起こったのだが新聞やテレビでは全く触れておらず、むしろ審判で漁船側の無理な前方通過の可能性が強まってくると死んだ漁民の遺族の声を掲載して感情面でその追求を妨害していた。
「これは日本の法曹史上、他に類を見ない暗黒裁判だな」熟読に集中していた意識が途切れた瞬間にこの嘆きの言葉が漏れた。戦前の軍事裁判やこの海難審判を法曹史に加えることの可否には議論の余地があるが、映画などでは「暗黒裁判」と断定している2・26事件の非公開、弁護人なし、控訴なしの軍事裁判でさえ公判の内容は証拠調べに始まる正当な手順を踏んでおり、被告人たちの動機の身勝手さと犯した罪の重大さを考えれば正当な判決だったことは間違いない。むしろ敗戦後に証人の認定も不十分なまま通常の裁判では採用しない被害者の主張のみを根拠に多くの被告人を処刑したB・C級戦犯の軍事裁判の方が真っ暗闇だ。しかし、この海難審判はこれら以上に中世ヨーロッパの魔女裁判にも匹敵する暗黒裁判と断じて良い。その時、珍しく女性事務官がコーヒーを出してくれた。
「あんまり夢中になっておられるから少しは休憩をと思ったんですよ」そう言って女性事務官は労わるような目で微笑みかけてくる。確かに夢中になり過ぎて気がつかなかったがシャツの背中が汗で少し湿っているようだ。そんな自分の身体の状態を確かめて有り難くコーヒーを口に運んだ。それを見て女性事務官は一歩近づくと私が机の上に積んでいるファイルの背表紙を覗き込んだ。その表題の上下には赤の「秘」のスタンプが押してある。
「これは護衛艦の衝突事故の資料ですか」「はい、今度は刑事裁判になるようなので私も弁護人として参加することになりそうなんです」女性事務官にも守秘義務があるのでこの程度の内部情報の説明は許容範囲だろう。ところが女性事務官は思いがけない反応を示した。
「あの事故は海上自衛隊が見張りを怠ったから漁船の発見が遅れて、回避義務を放棄したため巻き込んで起こした事故なんでしょう」これはコーヒーを飲んでいなければ私の頭脳が不時発火するような暴言だ。それでも意識は裁判モードになっているので冷静に反応した。裁判中に感情的になれば墓穴を掘ることになるのは大学で習うまでもない。
「それは完全な事実誤認ですね。新聞が書いている虚偽を鵜呑みにすると海上自衛隊に掛けられている冤罪も認めてしまうから気をつけて下さい」佳織と梢を除く女性は優しく対応すると優位に立った気分になるものらしい。女性事務官もお盆を胸に抱えて防御姿勢を取ると挑発のような暴言を続けた。
「新聞やテレビも海上自衛隊の過失で仲の良い働き者の親子が犠牲になったって非難していましたよ」「海上自衛隊の乗組員だって働き者ばかりだ。あの事故は漁船が法令を無視して護衛艦の前を突っ切ろうとしたから起きたんだ。小さな漁船は大型船の後方ではスクリューが起こす波で操縦が困難になるから無理にでも前を横切ろうとするものなんだ」ここで少し口調が厳しくなったため女性事務官は危険度を計算したようだ。
「でも、ボル長官も自衛隊の過失って認められて内閣改造の留任を断ったじゃあないですか。自衛隊のトップが責任を認めているのに部下がそれに反対しても良いんですか」ボル長官とは軍事マニアの間で用いられている当時の岩場登防衛大臣の愛称だ。50歳代に達しているはずの女性事務官までこのような愛称で呼ぶほど人気は広まっているらしい。
「アイツは与党内では全く人望がないのにマスコミが総理候補なんて持ち上げるから主張の代弁をしているんだ。所詮は自分の人気取りのために平気で部下を売り渡す元銀行員だよ」2等陸佐が元防衛大臣の与党の政治屋を批判するのを聞いて女性事務官も困惑を通り越して驚愕したようだ。そのまま礼もせずにお盆を流しに置いて自分の席に戻った。
「しかし、彼女がここまでこだわるところを見ると岩場防衛大臣の影響力も無視できないな。こちらも政治的な背景を調査しておいた方が良いのかも知れないぞ」私はコーヒーを飲み終えてカップを流しで洗いながら独り言をつぶやいた。凶器は1つでも「イザッ」と言う時に使えることは北キボールで実証している。これは裁判ではなく完全に戦闘モードだ。
- 2018/04/17(火) 09:44:38|
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明日4月17日は昭和22(1947)年に職業安定法が施行されて公共職業安定所が発足したことを記念して現在はハローワークの日です。
ちなみにハローワークと言う通称は一般公募によって1989年に命名されたそうで、大半の公共職業安定所の電話番号の下4桁は「8609=ハロー輪ーク」なのだそうです(NTTの都合でこの番号を取得できない場合を除く)。
学校を卒業して順当に就職した人などはハローワークと聞くと「求人情報を探す場所だ」と思ってしまいますが、意外に失業保険の手続きのために利用する人が多いようです。
要するに就業意欲があることを証明してもらうために顔を出している訳で、そうなると企業を紹介してもらって面接を受けることになっても困るため「そんな仕事があれば俺がやりたい」と思うような採用条件や絶対に就職が困難な家庭の事情を申告したりするので、真摯に対応している職員にとっては失業保険の申請要件にされていることが迷惑なのではないでしょうか。
日本では江戸時代から口利き業と言う商売がハローワークの機能を果たしていました。
当時は世襲制の正業以外は仲介者を通して大店(おおだな)に丁稚や女中として奉公したり、棟梁の下で職人として修業する見習いからの独立が基本でしたが、大規模な工事の人足集めや祭礼などの臨時募集、適当な仲介者がいない場合などは口利き業者に依頼したようです。中でも意外なのは大名行列で、格式で定められている人数を正規雇用の家臣や奉公人で揃えることは財政的に無理があるため多くの場合は口利き業者を通じて集めた素人に衣装を着せただけの水増しだったようです。
そんな雇用制度は明治以降も維持されていましたが学校教育や徴兵制度の確立で企業の求人が学校や軍隊に届くようになると職業紹介は下火になっていきました。ところが敗戦の混乱の中で陸海軍が解体され、海外からの引揚者が多数同時に発生したため、求人と求職に応じる職業紹介の機能を厳格・公正に運営する必要が生じたのです。
野僧も同居人の不都合で管理人をしていた寺を追い出された時、托鉢では借家を見つけることができずハローワークで仕事を探しました。
先ず隣りの市の火葬場の職員の募集があったので申し込むと、それを聞いた近傍の坊主たちから「火葬の読経を頼めるのか(火葬場は郊外にあるので負担が大きい)」との問い合わせが殺到したので面接で確認したところ不採用になってしましました。特別職地方公務員なので業務中の宗教活動は禁止されており、合掌までが許容範囲なのだそうです。
次に地元では大手の葬祭業社に応募すると先方は大喜びで採用してくれたものの同じ坊主たちが「東京のように雇った坊主に葬儀だけをやらせることになると檀家制度が崩壊する」と圧力を掛けたため内定が取り消されてしまいました。
結局、警備保障会社に就職すると即座に幹部扱いになって会社の守衛の責任者として勤めたのですが、当地の古民家で古志庵を結んだため退職しました。ハローワークさんにとっては野僧の求職そのものが無理難題だったのでしょう。お世話になりました。
- 2018/04/16(月) 10:03:34|
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3月末で統合幕僚長は海将から陸将に交代していたが今年の1月30日に海難審判の裁定が確定して以降、総力戦の体制は構築されている。私は気合を入れて首席法務官室に向かった。
「陸幕法務官室からモリヤ2佐、まいりました」「切り札の登場だな。天気は暴風波浪警報発令中だぞ」顔見知りの統合幕僚監部首席法務官は大阪大学卒の1等海佐なのでやはり心中に「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と「Z旗」を掲げているようだ。
私は席を離れて出迎えた首席法務官に敬礼すると勧められるままにソファーに腰を下ろした。
「刑事事件として告訴されれば司法試験に合格した君しか公判に参加できない。しかし、制服を着た者が加わることは非常に心強い。活躍を期待しているよ」「はい、私としてもこのために現在の席をいただいているように思っています。色々と勝手な意見を述べるかも知れませんがそこは島村参謀長のように宜しくご指導を願います」この言い方では自分が秋山真之作戦参謀になったかのようだが、少しは帝国海軍の知識を持っていることを伝えただけだ。
それにしても陸上幕僚監部の法務官は陸将補の指定職だが統合幕僚監部と海上・航空幕僚監部の首席法務官は全て1佐配置なのは不思議だ。むしろ海空の方が事故による損害賠償などで裁判になる事例が多いはずなのでその辺りの組織の構成要件に興味が湧いてくる。ただし、そのような余計な探求に手をつける余裕はない。
「現時点では横浜地方検察庁が起訴の準備を進めていると言う情報を入手しているだけだ。おそらく君の出向の発令は告発と同日付になるだろう」首席法務官の状況説明も私にはそれまでに実施しなければならない準備の期限を切られたようなものだ。
「今回は急な下命ですから準備不足なのは否めません。事故の詳細報告書と海難審判の公判記録を見せて下さい」「そうか。早速手配しよう。統幕の部内秘だが陸幕まで持ち出し許可を得ることにする」本来であれば私が統合幕僚監部に出向してからの業務にすれば余計な手続きは不要だが、裁判までに熟読して内容を十分に咀嚼(そしゃく)・反芻(はんすう)しておかなければならないのだ。
「私も報道では今回の海難審判を注視していましたが、理事官(裁判の検察官に相当する)はかなり明確な悪意を以って事実を歪曲していましたね」「実際、海の上で暮らしている者の目から見ればあり得ない状況が事実と認定されてしまった。同じ国家公務員としては疑いたくはないが、やはり悪意の存在を否定できないな」私は新聞報道の審判の記録だけを熟読して自分なりに研究したに過ぎないが、実際の審判に立ち会って海難審判理事官と指定海難関係人(裁判の被告・弁護人に相当する)の論戦を聞いていた首席法務官はより強く不審感を抱いているはずだ。表現の過激度は1佐と2佐、大阪大学と愛知大学中退の格の違いかも知れなくても言っていることは首席法務官の方が厳しいのだろう。
「私も若い頃、航空自衛隊で墜落事故を何度も目撃したことがありますが、運輸省の事実を無視した悪意に満ちた裁決には怒り心頭に達したものです」「ほう、元航空自衛隊なのかね。それは凄いな」海上自衛官の首席法務官は自分が知らない自衛隊を2つ知っている私に妙な敬意を示した。本当は海上自衛隊の生徒、航空学生、一般海曹候補学生を4回も受けて2次試験で落ちているのだがそれは黙っておくことにする。
「浜松のブルー・インパルスの墜落事故ではパイロットが民間への被害を回避するために空き地を選んで突っ込んだ自己犠牲を回復努力の放棄と断定しました。那覇のTー33の激突事故では運輸省の管制官の飛行停止命令によって滑走路端のコンクリートに衝突して停止させたことをパイロットの判断ミスと断定しました。どちらも許し難い事実誤認です」これで個人的に私怨を抱えていることを告白してしまった。こうなれば本領を発揮するしかない。
「どうですか。ここは1つ海難審判庁と海難審判理事所の政治的背景を調査しませんか。検察側が海難審判の裁決の採用を強硬に要求してくるようならその事実を暴露してやるんです」「ふーん、これがモリヤ弁護士得意のボクシング殺法なんだね」首席法務官の反応に私が戸惑ってしまった。確かに私は普通科連隊の中隊長だった頃から武道的な一本狙いよりもジャブやフックのような連打を継続する攻撃方法を常用していた。それをボクシング殺法と呼んで統合幕僚監部にまで知られているとは意外だった。
「何にしても今回の裁判の勝機は検察側が根拠とする海難審判の裁決の否定の一点です。マスコミの扇動に同調した反自衛隊の裁決を覆すためにあらゆる手を打つことです。世論は敵に回すまでもなく始めから敵なんです」「君は本当におそろしい人物だね」「はい、3名の命を奪っていますから人ではなく悪鬼羅刹(あっきらせつ)ですよ」そう言えば年度末の多用にかまけてこの手で殺めた若者たちの供養にモスクへ行っていなかった。
- 2018/04/16(月) 10:02:26|
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昭和52(1972)年の明日4月16日は分野を問わず人並み外れた才能は全て叩き潰す土地柄の愛知県豊橋市で生まれてしまった日本画家・中村正義さんの命日です。
愛知県でも静岡県との県境に位置する東三河は古くから豊かな穀倉地帯で、農民は隣り近所と歩調を合わせて耕作に励み、田植えと稲刈りは共同作業と言う生活を送っているため何よりも周囲との和を大切にする空気が醸成されました。また流れている河川も他の大河のように雪解けや集中豪雨による氾濫が起きにくく領主の政治も前例踏襲で十分であり、個性を発揮する者は異端として排除される土地柄が出来上りました。
中村さんは大正13(1924)年にそんな東三河の豊橋市内で蒟蒻工場を営む両親の息子として生まれました。幼い頃から病弱で市内の商業学校に入学しても16歳で中退し、意を決して京都市立絵画専門学校の願書を取り寄せたものの入学資格が「(旧制)中学卒業以上」だったため断念しました。これが隣接する岡崎や浜松であれば才能を見出した実力者が現れ、強力な支援をしてくれたはずですが、豊橋では画才などは単なる趣味としか見られず、兵隊にもいけない癖に親の脛をかじる不用品扱いだったのでしょう。
その後、日本画の重鎮であった中村岳陵さんの画塾に入門するとすぐさま才能を発揮して、昭和21(1946)年の日本美術展覧会(日展)で初入選を果たし、敗戦後の昭和25(1950)年には特選を獲得し、大正期に出現して数々の傑作を発表しながら昭和10(1935)年に腸チフスに罹患して40歳で急逝した天才・速水御舟の再来と謳われました。なお、この時の作品「谿泉」は現在、豊橋市立美術館の所蔵になっています。
ところが28歳の時に肺結核を発症し、4年間の療養生活を送ることになると復帰後は画風が一転し、昭和35(1960)年には日展の審査員に選ばれながらも伝統への挑戦としか思われない前衛的な画法を公然化したため師の岳陵さんと袂を分かってしまいました。
画壇に限らず日本の社会は実力よりも人脈が評価の根拠であり、師弟関係が崩壊してしまうと師に関係する者は一斉に距離を置くようになりますから中村さんの作品を取り扱う画廊はなくなり、百貨店などでの発表・展示会も次々と断られることになったのです。これは岳陵さんの圧力と言うよりも周囲の忖度でしょう。
それでも中村さんは既成概念の破壊に突き進み、伝統的な日本画の顔料だけでなく蛍光塗料や油絵の具、ペンキやエナメル、灰などをボンドで固定するなどを用いた画法の追及に明け暮れました。その一方で映画製作や雑誌にも関わり、小林正樹監督の「怪談」では耳なし芳一を象徴する「壇ノ浦の合戦」5部作を正統派の日本画で描き、逆に雑誌・20世紀の表紙には福田赳夫さんや大平正芳さん、平岡公威(三島由紀夫)さんや堤清二さんなどの似顔絵を「日本を動かす人たち」として原色を使った抽象画として連載しました。
さらに「太陽と月のシリーズ」と題する写真のよりも精密な風景画や水俣病を題材とする怪奇絵「何処へいく・呪詛、世界に告ぐその目」を発表したりしました。
結局、50歳頃に発症した直腸癌が肺に転移してこの日を迎えました。岡崎であれば村山魁多さんのように「郷土の偉人」として尊敬されるのですが東三河では無視されています。
- 2018/04/15(日) 09:45:19|
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私としては2009年度を淳之介の結婚、ノザキ家への養子縁組、志織を残して帰国する佳織との新婚生活、若しも奇跡が起きれば毎夜の官能と私的に満喫するつもりだった。ところが法務幹部としてZ旗を掲げて世紀の一戦に出撃を命じられた。
「モリヤ2佐、君に統幕法務官室への出向を命じる」年度が変わって間もなく法務官室に呼ばれた私は唐突な人事発令を伝達された。3月末に仲人を頼んでいる元義弟・松真が浜松に転属してきているので、大型連休にはお礼を持って訪ねようと考えていたところだった。
「統幕と言うことは海か空の裁判ですね・・・ヒョッとして護衛艦・あまごの刑事裁判ですか」私の確認に法務官は深くなずいた。イージス護衛艦・あまごは2008年2月19日に千葉県の房総半島沖の太平洋で漁船と衝突して沈没させ、乗っていた親子を死亡させる事故を起こした。海上自衛隊は詳細な調査の上で「護衛艦は事故を回避するために可能な限りの対応を行ったが漁船が直前を突っ切ったために衝突した」と報告したのだが、当時の防衛大臣がそれを無視してマスコミに全面的に自衛隊側の過失として責任を認め、謝罪したため世論は海上自衛隊批判一色に塗り固められてしまった。
「今年の1月末で海上自衛隊の有責の裁定が確定しましたから、それを受けて検察が刑事事件として提訴するのですね」「そうだ。今回は海上自衛隊も全面対決するつもりらしい」法務官の顔には厳しさの向こうに闘志も燃え上がっているのが見て取れる。
「私は元航空自衛隊ですから雫石事件についてはかなり研究してきました。それに幹部候補生の試験の直前に発生した潜水艦・なだしおの事故では海上幕僚長と防衛庁長官の態度の違いに真逆の尊敬と憎悪を感じました」「つまりは君にとっても待ちに待った出番と言うことだな」私の返事を聞いて法務官は安堵したように少し表情を緩めたが、どれほど重要な任務であっても息子の結婚式を忘れられるほどの仕事馬鹿ではなくなっている。公判中に海外渡航が許可されるかは微妙なところだが、日本の間延びした裁判であれば必要最小限の強行日程で無理押しすれば何とかなるかも知れない。
「折角だからモリヤ弁護士の法律講座を聞かせてくれ」立ったまま考えごとを始めた私の顔を見て法務官はソファーを勧めた。おそらくこれは裁判に臨む私の予備知識と姿勢を確認する意味もあるのだろう。とりあえず法務官の右脇の1人掛けの椅子に腰を下ろした。
「雫石事件は万博の直後だったな」「はい、1971年7月30日です」当時、私は小学4年生の夏休みだったが法務官は防衛大学校の学生だった頃だ。
「あの事故は昼過ぎに起こったんだが体育訓練の準備中に一斉放送が流れて航空要員の連中は衝撃を受けてパニックになっていたよ」「そうですよね。あの事故ではマスコミの追及を受けた空幕副長が責任を認める発言をしたことで事故原因が確定してしまいました」結局、自衛隊の事故はマスコミの罵声に等しい質問に抗し切れなくなった人間が責任を認めたことで、事実に関係なく世論上の判決が確定してしまうのだ。
「実際は訓練飛行中のFー86Fの編隊に旅客機としては高速度のボーイング727が追突した可能性が高いのですが、空自のパイロットは2人とも脱出して生還したのに旅客機は乗員・乗客162人の全員死亡したんですから袋叩きにするには格好の口実だったはずです」「ふーん、空自ではそんな意見もあるんだな」法務官は陸上自衛官なので航空機事故に関しては門外漢にならざるを得ない。その点、私は空曹時代にも有罪判決受けて失職した教官パイロットの再審請求の署名と裁判費用の募金をしたことがある。
「なだしおの方はどうなんだ」「あれも遊漁船・第1富士丸の乗客たちが『潜水艦だ』と歓声を上げた直後に舵を切って接近していったと言う証言もあるんです」これは複数の雑誌に掲載されていた情報だ。私は前河原の幹部候補生学校でもこの事故の研究に取り組んでいたので、関係する記事は全て読んでいるはずだ。
「あの時は海上幕僚長が事故原因は不明と記者の謝罪要求を拒否していたのに防衛庁長官が一方的に謝罪して、海幕長に制服を着させて遺族への謝罪と負傷者の見舞いに連れ歩いたんです」「それが今回と同じだって言うんだな」ここで法務官は苦虫を噛み締めた。
「今回は謝罪には連れ歩きませんでしたが、あのキャラですからベラベラと余計なことを喋りまくりました」思わず防衛大臣批判を口にしてしまった。しかし、当時の岩場登(いわばのぼる)防衛大臣は軍事オタクとして有名で、戦争マニアや若い隊員からは「同好の士」「好き理解者」として人気を集めていたが、所詮は「次の総理候補」と喧伝するマスコミに迎合して部下である現場の隊員たちを売り渡した元銀行員だ。
ここで私の闘争本能に火が点くと淳之介とあかりの結婚式を忘れてしまいそうだ。
- 2018/04/15(日) 09:43:43|
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ここで夫の顔を見て順子が立ち上がった。選曲が進んだところで「晩酌を始めよう」と言う気分になったのを察したのだ。
九州人の島田元准尉はやはり焼酎が好きだ。最近は大分の麦焼酎「いいちこ」か「二階堂」を愛飲している。この時期はお湯割りと水割りのどちらにするかで迷うところだが、そこは独断で一番手が掛からない氷なしの水割りにした。
「本当なら球磨焼酎が良いんだけど」「オテモヤンとしてはそうだろうな」順子は火の国・熊本は阿蘇の出身だ。薄く作った1杯でご相伴しているが熊本で酒と言えば球磨焼酎(=米焼酎)なのだ。ところが可児市内の酒の量販店には白岳の「しろ」くらいしか置いていない。そうなると割安な「いいちこ(=麦焼酎)」に手を伸ばしてしまう。
「今日はあまり飲まないから濃い目にしてくれ」「そう言って飲み始めたら止まらないんでしょう」夫の水割りも順子が作るのだが、それは濃度を調整して深酒を防止する妻としての健康管理法でもある。確かに飲み始めの時間から言えば長酒はできないはずだ。
「おい、メールだぞ」順子が食卓の上で2つ並べたグラスに焼酎を注いでいるとクローゼットの上の携帯電話がメールの着信の曲を流し始めた。
「メールなら後でも良いでしょう。はい、お待ちどおさま」順子はそう言って水割りのグラスを差し出してから自分の携帯を確認した。
「あらッ、信繁からだわ。若い世代の選曲ね」夫婦で乾杯するためグラスを持って待っていた島田元准尉も「依頼していた息子の回答」と聞いて一先ず食卓に置いた。
「ふーん、なるほどね」「何だって」携帯電話の画面を見ながら感心している順子に島田元准尉は少し不機嫌そうに声を掛ける。今回の依頼を受けたのは自分であって順子と信繁は協力者に過ぎない。「主役を外して話を進めて行くことは指揮系統を犯す行為」と自衛官的発想で立腹していた。
「信繁がね・・・」ここで唾を1つ呑むくらいの間を置くのが順子の癖と言うよりも作法だ。
「沖縄の若い世代なら民謡じゃあなくてもキロロやビギン、夏川りみや石嶺聡子の曲で良いんじゃあないかって」「ふーん、なるほどな」少し立腹していたはずの島田元准尉も息子の素晴らしい意見に感心して同じ台詞を吐いてしまった。確かにフォーク嫌い、沖縄嫌いでもこれらの歌手の曲は嫌いではない。何よりも沖縄民謡のレコードやCDはラジオ局にもそれほど所有していないが、これらの歌手のCDなら揃っているはずだ。
「曲名も並んでいるけど書き移したら」「うん、そうしよう」順子が差し出した携帯電話を受け取るとグラスを脇にずらして紙を中央に戻し、ボールペンを取った。
「『未来へ』『長い間』『ベスト・フレンド』かァ、これがキロロだな。『島人ぬ宝(しまんちゅうのたから)』『恋しくて』これはビギン。それで『花』『シャイン』は石嶺聡子だな」流石にラジオ番組のパーソナリティーを務めているだけのことはある。あまりヒットしたとは言えないマイナーな曲も完璧に言い当てた。順子は今度は夫に感心した。
「キロロの『ベスト・フレンド』は『ちゅらさん』の主題歌だけど石嶺聡子の『シャイン』は知らないわ」「『シャイン』は『知ってるつもり?』のエンディング・テーマだよ」夫の説明を受けても順子には曲が浮かばない。考えてみれば夫は最後まで番組を見終えるが順子は立ち上がって片づけを始める。そのためエンディング・テーマは片手間で聞くことが多いのだ。
それにしても三沢基地で勤務している信繁が何故ここまで沖縄の歌手に詳しいのか。そんな余計な思案を抑えるため順子は自分の水割りを作って先に飲んだ。
次の作業は選んだ曲をCDにダビングする前に順番を決めることだ。信繁の提案を受けて沖縄の歌手の曲をあらためて聴いてみると家族、親子、夫婦、恋人への深い情愛に満ちており、夫婦揃って気に入ってしまっている。したがって沖縄からの出席者には親しみがある歌手の曲が並ぶことになりそうだ。
「ほーら足元を見てごらん これが貴方の歩む道 ほーら前を見てごらん あれが貴方の未来 母がくれた沢山の優しさ・・・」今日も家事をしながら順子はキロロを口ずさんでいる。
「悲しくないのに泣いた 幼い日のこと・・・勝気なのに涙もろい そんな私がいる ひたむきに生きている 貴方こそ私の理想(ゆめ)」一方の島田元准尉は石嶺聡子の「シャイン」だ。男として愛する女性の口から「ひたむきに生きている 貴方こそ私の理想」と言う台詞を聞くことができればこれ以上の感激はないだろう。
「始めと終わりはこの2曲だな」先ずリストの最上段と最下段が曲名で埋まった。
- 2018/04/14(土) 09:24:36|
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島田元准尉が昭和歌謡の番組を担当しているFMラジオ局にも市民からのリクエストに応えるためある程度はレコード、ミュージック・テープ、CDを揃えている。今日はそのジャンル別曲名リストを食卓の上に並べて順子と相談を始めた。やはり男性と女性では好みが違うので独断で決めるよりは遠慮のない意見を求めた方が良いのだろう。
「やっぱり結婚式には『ここに幸あり』は外せないな」いきなり昭和31年の懐メロが出た。確かに新郎の父・ニンジン2佐は大学時代、コンパの帰りに教授に連れられて豊橋市内の大津美子の姉が経営する焼鳥屋に行ったことがあるが(いきなり雀の丸焼が出た)、ファンと言う訳ではない。おそらくハワイの教え子・ノザキ夫妻の好みと推理したのかも知れない。
「私は結婚式なら『世界は二人のために』だと思うけどな」順子の意見は昭和42年の相良直美のヒット曲なので一気に10年前進した。これがディック・ミネの「二人は若い」だと昭和10年までさかのぼってしまう。
「そんな甘い歌ばかりでは締りがなくなりそうだ。やはり村田英雄の名曲も入れないとな」「また『無法松の一生』でしょう」これは北九州出身の島田元准尉の十八番だ。
「いや、若い2人のために『夫婦春秋』だよ」「うん、『王将』みたいに家庭を顧みない夫じゃあ困るもの」このままでは島田元准尉の番組そのままに昭和の懐メロのヒット・パレードになりそうだ。そこで順子が得意の気配りを見せた。
「ノザキさん夫婦が出席するんだったら、やっぱり英語の歌も必要じゃあないの」「カラオケでは昭和歌謡を熱唱していたが、少しはオールディーズも入れるべきかな」そう答えて今度は曲名リストの中の外国曲の紙を探して手に取った。
「エルビス・プレスリーにフランク・シナトラ、ポール・アンカにニール・サダカ、ベンチャーズにビーチ・ボーイズ。俺も結構、洋楽を知ってるんだな」「軍歌ばかりじゃあないのね」順子の皮肉に島田元准尉は苦笑いしからリストに目を戻した。順子は日頃から「1人息子が自衛官になったのは腹にいる時から軍歌を聴かせて胎教になったからだ」と夫の軍歌好きに嫌味を言っている。ただし、赤ん坊の前で「軍国子守唄」は禁止だった。
「それにしても古今東西を問わず歌謡曲には別れ歌が多いんだな」島田夫妻は洋楽の歌詞をそのまま理解できる訳ではないが曲調と単語で雰囲気くらいは判別できる。そこで2人で頭を突き合わせてハッピーエンドの歌にハート・マークを記入し始めた。
「そう言えばエルビスには『ハワイアン・ウェディング・ソング』ってなかったっけ」夫が目を通した曲名リストを見ながら順子が思い出したように言った。
「うん、確かブルー・ハワイって言う映画の挿入歌だったな。『ラブ・ミー・テンダー』と『好きにならずにいられない』にもう1曲だぞ」島田元准尉が紙に片仮名の曲名を書き加えると順子は自慢そうに顔を覗き込む。結婚前、軍歌と懐メロしか歌わない島田3曹(当時)に洋楽を教えたのは順子なのだ。
「日本なら加山雄三の歌なんかハワイの雰囲気じゃあないの」「うん、『君といつまでも』と『お嫁においで』は入れるつもりだ」ここで新郎の淳之介が船乗りであることに気づいてもらいたかったが、意識は年齢層に向いているので仕方がない。
「そう言えば貴方が大好きなスーちゃんの歌は良いの」「そうだなァ、キャンディーズのヒット曲で結婚式向きなのは・・・」実は島田元准尉はキャンディーズの田中好子の大ファンなのだ。考え始めた時点から頭の中ではキャンディーズの曲がメドレーになっている。先ずデビュー曲で田中好子がメイン・ボーカルだった「あなたが夢中」は捨て難いがこれは片想いの少女の歌なので外さなければならない。大ヒットした「年下の男の子」も半年違いで新郎が年上なので駄目だ。1曲1曲フルコーラスで歌詞を思い出している夫に順子が提案した。
「私は『アン・ドゥ・トロワ』が好きだな」この一言で島田元准尉の頭の中のプレイヤーには「アン・ドゥ・トロワ」のドーナッツ盤レコードが載って回り始める。
「うん、結婚式にはピッタリだな」夫の同意を聞いて順子は別の問題を提起した。
「でも新郎新婦から出席者まで沖縄の人たちばかりだから沖縄民謡も入れなきゃいけないんでしょ」「沖縄民謡かァ、俺は苦手だな」九州人の割に生真面目な島田元准尉は沖縄の無秩序な大らかさが嫌いだった。そのため知っている沖縄の歌は田端義夫の「十九の春」と若い頃にヒットした喜納昌吉とチャンプルーズの「ハイサイおじさん」くらいだ。
紅白歌合戦でも歌ったザ・ブームの1992年のヒット曲「島唄」が浮かばなかったのは世代の問題なのか沖縄嫌いが原因なのか判らない。何にしても沖縄民謡は依頼主の夫であるニンジン2佐に相談するしかないようだ。
- 2018/04/13(金) 10:33:56|
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最近、島田信長元准尉は頭を悩ませている。それは陸上自衛隊退官後も親しくしているモリヤ佳織2佐からハワイで行う息子・淳之介の結婚披露パーティーで流す歌のCDの作成、つまり音楽プロデュ―サーを依頼されたのだ。
依頼の書簡には佳織2佐らしく出席予定者のリストには年齢、職業、出身地などが記入されていたが、それは参考資料と言うよりも難問の出題になっている。
「問題なのは出席者が国籍から世代、職業までバラバラなことだな」夕食を終えた後、食卓の上にリストを広げて腕組みしている夫の前に洗い上げを終えた妻の順子が座った。
「佳織さんからの手紙にはリクエストは書いてなかったの」順子は夫の元上司である佳織のことを名前で呼んでいるらしい。それはハワイ旅行で実家にまで遊びに行っただけに夫の仕事上の関係ではなく自分を含めた友人にしたいからのようだ。
「小隊長が『任せる』って言えば俺の好きにすれば良いんだが、お目出度い晴れの席に味噌をつけるようなことになると一生の悪い思い出になってしまうから、万全を期さなければならないんだ」自衛官の頃と変わらない夫の返事を聞いて順子はいつもの晩酌ではなく頭が冴えるようにコーヒーを入れた。それを見て島田元准尉はうなずいて一口飲んだ。
「ノザキ中佐夫妻と新婦の両親は俺たちと同世代だから昭和歌謡で良いんだが、小隊長夫婦や新婦の母親、それに新郎新婦の叔父さん伯母さんは2世代若いからフォークかアイドルものになるな」島田元准尉は長年来の趣味を活かして地元のFMラジオ局で昭和歌謡番組のパーソナリティーを勤めている。そのため昭和の曲なら戦前から高度経済成長期ぐらいまでは専門的に詳しい。その一方でフォーク・ソングは当初、反戦歌=反自衛隊歌だったこともあって嫌悪し、政治色を抜いたニュー・ミュージックに変わってからも聴くことはなかった。
「小隊長世代でも困るんだが新郎新婦や従姉兄たちになるとお手上げだな」「新郎新婦が若いって言ってたけど平成生まれなの」今年は平成21年なのでそれでは新成人結婚になってしまう。日頃は思慮深い順子がかましたボケに夫は苦笑しながら答えた。
「新郎の淳之介くんが昭和62年11月生まれ。新婦のあかりさんは63年3月生まれ、昭和の最終世代だな」「それじゃあ聴いて育ったのは平成の歌ね」流石にここまで来ると曲どころか歌手の名前を聞いても顔が浮かばない。
「若い人向きの曲は信繁に相談すれば良いじゃない」信繁と言うのは現在、航空自衛隊で航空機整備員をしていて36歳で空曹長になった島田夫妻にとっては自慢の息子だ。
「信繁かァ・・・アイツは小隊長と年があまり変わらないはずだから新郎新婦じゃあなくて両親向けだな」「でも若い隊員たちと話す機会があるから貴方よりも詳しいはずよ」順子の意見に島田元准尉も納得して出席者リストの年齢欄を見直した。
「そう言えば小隊長が着任してウチの息子の名前が信繁って言うのを発見してな」順子にとって夫の自衛隊時代の思い出話は耳にタコができるほど聞き飽きているが、このネタは初めてだったので食卓に両肘を突いたまま身を乗り出した。
「第一声が『真田幸村の本名ですね』だったんだよ」「へーッ、昔から歴史好きの女子大生っていたんだ」当時の女子大生はバブルに踊り狂って遊び呆けている馬鹿娘と言うイメージだったが伊藤佳織3尉は幹部嫌いの夫が気に入っただけに特別な存在だったらしい。
「おまけに『それとも典厩さんですか』と来たんだぞ」「テンキューさんって誰」やはり順子の知識は伊藤佳織3尉には敵わないようだ。
「典厩と言うのは武田信玄の弟の信繁のことだ。大河ドラマで見ただろう」「同じ名前だったんだね」この大河ドラマとは昭和63年に放送された「武田信玄」のことだが考えてみると真田家は武田家に仕えていたはずだ。それなのに家臣が主君の弟の名前を次男に与えることは非礼にはならなかったのだろうか。ちなみに真田家の嫡男は信之だった。
「そこから歴史談義が始まってな、俺が勉強させられたよ」「それを私に教育してるのね」ここで順子が「請け売り」と言わなかったところが島田家の節度だろう。
「小隊長が言うには織田家は信長と父親の信秀以外に大した人物はいないから真田家に移ったのは正解だってよ」「そう言えば信長の息子って名前を聞かないもんね」確かに島田元准尉が息子を信繁と命名したのは戦国武将のように「信」を通り字にしたいと言う理由だったが、その信繁は父親の縁故募集で陸上自衛隊に入って守山の第35普通科連隊に配属されたものの一般曹候補学生で航空自衛隊に転換してしまった。その意味では航空自衛隊の航空機整備員から一般幹部候補生で陸上自衛隊に転換して第35普通科連隊に所属していた佳織2佐の夫・ニンジン2佐とは逆コースだ。
- 2018/04/12(木) 10:53:46|
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