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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月1日・アメリカの魔女狩り・メアリー・ダイアーが処刑された。

1660年の明日6月1日に新大陸・アメリカでクエーカー教徒のメアリー・ダイアーさんが処刑されました。49歳だったと言われています。
クエーカー教はキリスト友会、若しくはフレンド派の俗称で、直訳すれば「貧乏ゆすり教」です。1650年初頭にイギリスで始まった信仰で他の教団のように組織を作らず、教義や戒律も設けず、祈りの儀式は行わず「内なる光」と呼んでいる神秘体験によって強固な信仰を堅持することが特色です。この神秘体験を受けている間、自然に身体が揺れ動くとされ、最初の指導者(教団ではないため教祖とは呼ばない)が神名冒涜罪の裁判を受けている時にこの揺れを始め、裁判長から注意されても止めず「このクエーカーが=この貧乏ゆすり野郎が」と罵られたことから俗称になりました。
現在も組織としての教団は持ちませんが集会への参加者と言う形で信者は確定しており、また迫害を受けていた時期に設立された留守家族や出獄した信者の救済組織は存続しているため情報の周知や社会的活動はこれによって実施されています。また現代では強く平和主義を標榜し、アメリカにおける良心的兵役拒否の先駆けになってきました。
このような信仰がカソリックとイギリス国教会の血みどろの対立に続いて清教徒=ピューリタン=カルヴァン派による革命(1641年から1649年)でオリバー・クロムウェルが実権を握っていたイギリスで認められるはずがなく、徹底的な弾圧が加えられたのは言うまでもありません。
そんな時代背景の中でメアリーさんはアメリカのイギリスの入植地・マサチュ―セッツで暮らしていた26歳の頃に「信仰至上主義=カミは聖職者を通じてではなく直接、人間に語りかける」と言う教えに共感し、その集会に参加して既成のキリスト教団に批判的な宗教思想を学びました。ところがこの集会が摘発の対象になり、夫と共にマサセッチューから追放されると他の入植地を転々としながらロードアイランドに移住し、ここで同様の信仰を持つ有力者に出会いました。1652年にその有力者たちと一緒にイギリスに帰ると始まったばかりのクエーカー教に参加し、たちまち伝道者として活躍を始めたのです。そして1657年に再びアメリカに戻ってロードアイランドを中心に布教を始めましたが新たにクエーカー教禁止令が制定されていたため逮捕されて追放されました。この時、夫は入信していなかったため対象になりませんでした。
それでも「内なる光」に突き動かされて追放先で布教を続け、逮捕・追放を繰り返す間に裁判で死刑判決を受けたのです。その時は州知事と知り合いだった夫の要望で他の2人の信者が絞首刑になったにも関わらずメアリーさんは追放刑ですみました。
しかし、自分だけが死を免れたことはメアリーさんにとっては内なる光に背を向けることに他ならず、クエーカー禁止法に抗議するため追放されていた入植地・マサセッチューに乗り込み、そこで逮捕されて2度目の死刑判決を受けたのです。
判決の翌日、1656年のアン・ヒビンズさん(女性)や2人の同志などが処刑されているマサセッチューのボストン・コモン(現在は公園)で吊首刑に処せられました。
  1. 2018/05/31(木) 09:11:39|
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振り向けばイエスタディ1205

「お母さん、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、無事に帰ってきました。淳之介は素敵なお嫁さんをもらいました。志織はハワイでハイ・スクールに入りました」掃除を終えて水と花とハワイ土産を供え、線香を焚いて曹洞宗のお経を唱えてから佳織は手を合わせて祈り始めた。声は出していないが口元がブツブツと発する音で報告している内容は推理できる。最後に深く頭を下げた後、佳織は亡くなった人たちを交えているような相談を持ち出した。
「こちらに来る前にノザキの父との親子関係の復活と貴方の入籍の手続きをしてきたんや」それは帰ってから聞いているので私に向かって言っているのではない。
「だから自衛隊を定年まで勤め終えたらハワイに帰るつもりや」この説明にうなずいている義母と義祖父母の影が見えてきたような気がする。
「そうなるとこのお墓もハワイに持っていかないと無縁佛になってしまうんよ」魂魄さんたちは顔を見合わせて相談を始めたようだ。
「問題はお母さんがお父さんと新しい奥さんの傍に行って静かに過ごせるかやろうけど・・・」他人が見れば妻の独り言を傍らの夫が黙って聞いているようだが、私たちには自然で日常的な魂魄との対話だった。
「でも大丈夫や」ここで佳織は説得を始めるのかと思っていると意外にも結論を切り出した。
「ウチかてこの人の昔の恋人、って言うより事実上の奥さんと意気投合して姉妹の杯を交わしてきたんや。お母さんかて絶対にスザンナと上手くやれるわ」すると目の前で3人の影が顔を見合わせた後、うなずいたような気がした。
「それでエエやろう」ここで私に話を振ってきたが「はい」以外の返事はない。佳織は1佐になったので定年が延びるのだが4歳年上で定年も早い私はその間、日本で仕事をして待つのだろうか。大人になった志織と2人暮らしなら悪くないがノザキ夫妻と同居ではあまり居心地が良くないかも知れない。
墓参の帰りはママさんのスナックに寄るのは我が家独自の宗教上の作法だ。今日は佳織と2人きりなので酒も楽しむことができる。
「佳織、お帰り」「ただいまァ」「モリヤさん、お待ちどうさま」「待ちかねました」これからの帰省は2人になるのでボトルをキープするとママさんが作った水割りで乾杯した。
「佳織の留守中もモリヤさんは本当にまめに墓参してくれていたから典子も安心だったと思うよ」いきなりママさんが私を持ち上げてくれたがそれは定期連絡で報告していることだ。
「本当は伊丹のついでに神戸に行くところがあるんですよ」「神戸に・・・」「イスラム教のモスクや」ここで佳織が代わって説明した。今日も墓参の後、佳織を連れて神戸のモスクへ行き、北キボールで命を奪った若者たちに慰霊の祈りを捧げてきた。モスクの礼拝所は男女別になっているのだが男性用に女性が入ることは許されているため、佳織もイスラムの香が強く聞こえる礼拝所で床に五体投地しての礼拜を経験してきた。
「ふーん、アフリカでの慰霊をまだ続けてるんやね。でもそんな風に過去を抱え込んで行ったら何時か重さで潰れてしまいそう。モリヤさんにはそんなところがあるから心配や」ママさんの言葉に佳織は黙り込んだ。梢が「収監中に若者の命を奪った罪を自分に科して苦しんでいたことが健康を害した理由だ」と言っていたことを思い出したのだ。
佳織や家族の前では困難に立ち向かう強者を演じている夫も梢の前では悩み苦しむ弱者、むしろ挫折した敗者の素顔を晒していた。そんな夫が愛唱していた歌を教えてもらっている。そこでママさんにカラオケの準備を頼んだ。
「貴方に唄ってもらいたい歌があるんや」「俺にか。あまり新しい歌は知らないぞ」「先ずは吉田拓郎で『流星』や」佳織のリクエストに私は絶句してしまった。これは高校時代の愛唱歌で、梢と星空を眺めていて流れ星を見つけた時に唄って以来、毎週のようにカラオケで唄っていた。しかし、梢と別れてからは胸の奥にしまって封印している。
「大丈夫、梢さんの許可はもらっているから」私の困惑を見通しているように佳織は説明し、マイクを手渡した。やがて25年ぶりに聞く前奏が始まった。
「たとえば僕が間違っていても 正直だった悲しさがあるから owowow 流れて行く・・・確かなことなど何もなく ただひたすらに君が好き・・・」梢は「ただひたすらに君が好き」の部分が好きでここだけは自分も唄っていたが、佳織も同じことをした。
「・・・流れる星はかすかに消える 思い出なんか残さないで 君が欲しいものは何ですか 僕の欲しかったものは何ですか」唄っている間に涙がこみ上げて止められなくなってしまった。佳織は立ち上がって私の顔を胸に抱くと「ウチが欲しいものは貴方や」と呟いた。
  1. 2018/05/31(木) 09:07:16|
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5月31日・特殊潜航艇・甲標的がシドニー港を攻撃した。

昭和17(1947)年の明日5月31日に特殊潜航艇・甲標的3隻がオーストラリアのシドニー港を攻撃しました。
甲標的はワシントン、ロンドン海軍軍縮会議によって水上艦艇の保有数に制限が加えられたことを受けて条約に該当しない兵器の開発を検討している中で発案されました。当初は実質的に人間魚雷でしたが、当時の帝国海軍では旅順軍港閉塞作戦の教訓から乗員の生還を兵器・作戦の絶対条件にしていたため魚雷を発射する小型潜水艇として開発に着手したのです。
構造としては全長23・9メートル、潜航時の排水量46トン、高さは司令塔を含めて3メートルですが幅は約1・8メートルしかなくそこに乗員は2名、前方の射出塔に魚雷2本を縦に装填しました。電池による推進で浮上時(司令塔のみを水面上に出した状態)には19ノットで航続距離は18海里(33キロ)でした。この短い航続距離は戦艦の主砲の射程距離外まで母艦に搭載されて接近し、そこで発進して肉薄攻撃すると言う洋上での艦隊決戦での使用を想定していたことによります。このため実戦に投入する段階になって敵の港湾基地を奇襲攻撃すると言う任務が与えられると多くの点で性能不足であり、特に司令塔から突き出した潜望鏡以外に外界を確認する手段がなかったため攻撃だけでなく航行においても大きな制約を受けました。結局、真珠湾で5隻、シドニー港で3隻、マダガスカル島のディエゴ・スアレス港で2隻、ガダルカナル島のセブ停泊地で8隻を投入して帰還した艇は1隻もありませんでした(真珠湾で捕虜になった1名を除き全員が戦死)。
このシドニー港攻撃では真珠湾と同じく潜水艦に1隻ずつ搭載され、護衛の2隻を加えた5隻の戦隊を組んでトラック島を出発して5月30日にシドニー沖に到着しました。そして31日の午後4時21分から逐次、発進しましたが、最後に伊27から発進した艇はシドニー港の入り口に張られていた潜水艦侵入防止網に引っ掛かり自爆しています。
伊24から発進した艇はアメリカ海軍の巡洋艦・シカゴを発見して魚雷2本を発射しましたが外れ、そのうち1本が岸壁に衝突して爆発したためオーストラリア海軍の宿泊艦が沈没し、オランダ海軍の潜水艦も損傷しました。しかし、この艇は引き上げる時にシカゴの攻撃を受け撃沈されています。
伊22から発進した艇は戦闘態勢に入ったオーストラリア海軍に発見され、攻撃を受けて損傷したため自爆しました。母艦となった潜水艦は警戒を厳重にした敵に発見される危険を承知の上で帰還を待ちましたが6月3日に撤退しました。
この攻撃にイギリス海軍少将のシドニー港司令官は最大限の敬意を払い、引き揚げられた甲標的から収容された松尾大尉、中馬大尉、大森1等兵曹、都竹2等兵曹の海軍葬を行いました。このことを非難する世論に対しては「このような鉄の棺桶で出撃するためには最高度の勇気が必要に違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人がこれらの人が払った犠牲の10分の1のそれを払う覚悟をしているだろうか」と真意を説明しています。
  1. 2018/05/30(水) 10:51:44|
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振り向けばイエスタディ1204

伊丹市には昼過ぎに着いた。市内で昼食を取るのに佳織は記憶がある店を選んだ。
「ここってあの時一緒に入った店じゃあないか」「うん、覚えていたんやね」空いていたあの時と同じ席に座りながら佳織は安堵したようにうなずいた。「あの時」とは佳織と一緒に市内の病院で妊娠の検査を受けた帰りに寄ったことだ。
佳織はメニューを持ってきた女性店員にそれを開かずにあの時と同じ料理を注文した。いつもは私の記憶力を感心する佳織の記憶力に今更のように感心してしまう。店員が置いて行ったグラスの水を少し飲んだ後、佳織が話を再開した。
「あの時、貴方は私の幸せを第1に考えようと言ってくれた。まだ離婚できていなかったのに・・・」自分が吐いたこの台詞には記憶がある。お腹の子を生みたいと言った佳織にその可否を答えた返事だったはずだ。美恵子との離婚が決定的になっている中で佳織の妊娠が確認できたのであれば「再婚相手が確保できた」と言う計算が働くのが自然だ。しかし、佳織にはそのような功利的な判断ではなく率直に「幸せ」を求めていたように思う。
「あの時、ウチは未婚の母になる覚悟を決めてたんやで。だから貴方に『自分で処理する』って言ったのは『勝手に産んで育てます』って意味だったんや」「そうだったのか。そこまでは見抜けなかったな」今は佳織の人間性を熟知しているからこの説明も納得できるが、あの頃は「女性が計算抜きで自分から苦労を買うはずがない」とどこか冷めた気持ちを抱いていた。それは多分、そんな計算抜きで愛し合っていた梢と引き裂かれ、そうしていると信じていた美恵子に裏切られたことが心を歪めていたのだろう。
「だから子供の父親になる貴方に『どうして私を抱いてくれたのか』を確かめたんだよ」「うん、その答えに嘘偽りはない。それは今も変わらないよ」あの時、佳織の質問に私は「俺も君が好きだからだよ」と答えた。あの素直な気持ちが自然に口にできたことが佳織と梢の違いかも知れない。梢の時には幼い頃から親に教え込まれていた「責任」が先に立ってしまい、言うべきことを胸に溜めるばかりだった。ところが佳織には私が胸の中に仕舞い込んでいる本音・真情まで吸引してしまう不思議な力がある。だからそうなる以前のかすかな心の動きまで察知されてしまうのだ。
その時、店員が佳織の料理を運んできた。やはり私の和食セットは時間がかかるようだ。
「冷めてまうからお先にいただくで」「どうぞ遠慮なく」私の返事を待つことなく佳織は手を合わせてスプーンを取った。そして夏場には不似合いなドリアを一匙すくうと息を吹きかけてから口に運んだ。その瞬間、佳織の顔が若い娘のようになった。
「あの時は口の中に涙が溢れていて味が判らなかったけどやっぱ高校時代と変わんないわァ」どうやらこのファミリー・レストランは高校時代からの行きつけらしい。するとハワイでハイ・スクール時代を過ごす志織はどのような思い出を作るのかと胸が切なくなった。
目の前で嬉しそうに食べている佳織の顔を鑑賞していると私の料理も運ばれてきた。それを覗き込みながら佳織は苦笑した。
「貴方と久留米で一緒にレストランに入ってもお祖父ちゃんと同じような料理ばかり頼むから本当は何歳なんやろうって思ってたんやで」「うん、同じことを言われたことがあるな」「梢さんにやろ」大正解だ。梢は一緒に入る居酒屋で私の好物を発見すると店の人から材料や調理方法を聞き出してアパートでも作ってくれた。それにしても梢の名前を口にした佳織の顔が妙に親しげなのは何故だろう。
ファミリー・レストランを出ると花屋で墓参の定番である白い菊ではない洋風の花を買い、タクシーで市営墓苑に向かった。運転手はルーム・ミラーで制服を着た私たちを見ながら「駐屯地ですか」と訊いたが不正解だ。
「君はその手に花を抱えて急な坂を昇る 僕の手には小さな水桶、君の後に続く・・・」墓参と言えばBGMに「僕にまかせてください」が出てしまう。この曲にはクラフトとグレープの2つの形式がある。作詞作曲したのはグレープのさだまさしだがレコードとしてはクラフトが先で、グレープはコンサートで唄ったライブ・アルバム「三年坂」に収録されているだけだ。
クラフトは最後に「集めた落ち葉に火をつけて・・・貴方の大事な人を僕にまかせてください」と2番のサビの部分を繰り返すが、グレープは「両手を合わせた傍らで・・・・貴方の大事な人を僕にまかせてください」と1番を繰り返している。私は両方のレコードを持っていたのだが、この墓苑には落ち葉があまりないのでグレープ版になっている。そう言えばクラフトの別のヒット曲「さよならコンサート」でも同じことになっているが聴き比べたことはない。
「草を摘みながら振り返ると泣き虫の君がいた・・・」こう口ずさんで佳織を振り返ると満面の笑顔を見せた。やはりBGM通りにはいかないようだ。
  1. 2018/05/30(水) 10:50:39|
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5月30日・東郷平八郎元帥の命日

昭和9(1934)年の明日5月30日は日露戦争時の連合艦隊司令長官で日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎元帥の命日です。86歳でした。
野僧が生まれ育った愛知県岡崎市で「平八郎」と言うと本多平八郎忠勝さまを指しますが、中学時代に海軍少年になってからは東郷元帥の方も認識するようになりました。
東郷元帥が西郷南洲翁などと同じく鹿児島城下の加治屋町出身なのは有名な話ですが、人脈と策謀だけで無能な人間(児玉源太郎大将以外)を政府・軍首脳に担ぎ出した山口県に比べ、鹿児島県は政治・経済・軍事の全てに優秀な人材を輩出しており、日露戦争に勝利したことも陸・海軍に鹿児島県出身者の将帥が存在しなければ有り得なかった奇跡でした。
東郷元帥は14歳で元服して平八郎実良と名乗りました。つまり明治の戸籍登録では通り名を選んだのです(明治の将帥で他には児玉源太郎大将くらいでは)。その年、薩英戦争が起こると従軍して初陣を飾り、戊辰戦争では島津藩の軍艦・春日丸に乗り組んで榎本武揚さんが率いる逃亡幕府艦隊と交戦して海軍軍人としての経験を積みました。
明治になると鉄道技師を志望してイギリス留学を申し出ますが、実現したのは海軍軍人でした。ただし、ダートマスの王立海軍士官学校ではなく海軍予備校から商船学校に進むことになり本人としては不本意な留学だったようです。イギリスでは東洋人に対する蔑視から執拗な苛めを受け「快活で多弁な性格が寡黙になってしまった」と回想しています。
帰国後は海軍軍人として海上暮らしを続け、明治27(1894)年に日清戦争が生起すると巡洋艦・浪速を指揮して活躍しますが中でも交戦海域で停船命令に従わなかったイギリス船籍の商船・高陞号を撃沈した処置ではイギリスを懼れる日本政府は処罰しようとしましたが、イギリスの国際法学の最高権威が「東洋の日本人にも国際法が正確に周知されている」と激賞したため一転、英雄にされてしまいました。
その後の10年間は健康を害したこともあって艦から下りて佐世保と舞鶴の鎮守府司令長官に就きますが、明治36(1903)年に山本権兵衛海軍大臣の人事の妙で常備艦隊司令長官に抜擢され、2ヶ月後に連合艦隊に改編(常備艦隊を基幹に鎮守府所属の艦艇を統合する)されるとそのまま司令長官として指揮を執ることになりました。
日露戦争の東郷大将(元帥府に列せられたのは大正2年)については司馬遼太郎先生の傑作小説やNHKドラマの「坂の上の雲」と映画「日本海大海戦」では微妙な違いがあります。「坂の上の雲」ではロシア・バルチック艦隊が対馬海峡を通るか太平洋を迂回するかで思い悩むのは秋山真之作戦参謀ですが「日本海大海戦」では東郷長官でした。敵前回頭=丁字ターンも「日本海大海戦」では東郷長官の独断と言うことになっています。
問題なのは老齢に達した第1次世界大戦後で世界的な軍縮の気運の高まりを受けて開かれたロンドン、ワシントン海軍軍縮会議で日本の艦艇保有数がイギリス、アメリカの6割に制限されたことに反発した艦隊派の焚きつけに同調して神託を連発してしまったのです。世界的英雄だった東郷元帥は生きながら軍神になっていましたからその影響力を対英米強硬派に政治利用されたとことは完全に晩節を汚してしまいました。
  1. 2018/05/29(火) 09:25:42|
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振り向けばイエスタディ1203

翌日は新幹線に乗って墓参旅行に出かけた。考えてみると結婚後、佳織と2人きりで旅行するのは初めてだ。その意味では熱愛気分を満喫したいのだが、祖父母と母に礼を尽くすため第3種夏服のペア・ルックなので人前でいちゃつく訳にはいかない。
「貴方・・・」新幹線が愛知県に入って豊橋駅を通過すると窓際の席に座っている佳織が何かを言いかけて口ごもった。顔を向けると窓の向こうには私が「現世の三悪道」と忌み嫌っている東三河の風景が広がっている。特に魔の山・本宮山は相変わらず圧し掛かるような姿で迫ってくる。あの山の麓に両親を含めて修羅、畜生、餓鬼のような人間たちがうごめいているのだ。
「まだ存在しているんだな。早いとこ中央構造線が分離して消滅してしまえば好いんだ」中央構造線は新潟から伊豆半島に続くフォッサマグナ=中央地溝帯とずれがあり、東三河を縦断している。小松左京の日本沈没が流行した頃、東三河では「東海地震が起きると中央構造線で日本は折れてしまう」との噂が語られていて私は密かに現実になることを期待していた。
「でも雄馬くんや聡馬くんも住んでるんやで、2人ともエエ子だったやんか」「アイツらこそワシみたいに就職家出すれば良いんだよ。あんな土地に住んでいてはロクな人間になれんぞ」流石に佳織は「そこまで言うか」と言う顔で黙ってしまった。しかし、私は実家から一歩でも遠い場所と言う基準で蒲郡の高校を選んで開放感を味わっていたのだが、本宮山が見える豊橋の大学に入ると2年しか耐えられなかった。そこで意を決して航空自衛隊に就職家出したものの航空機整備員として浜松基地に入校したのが運の尽きだった。そんな最悪の気分で吐きそうになっていると反対側の窓に海が見えてきた。
「おう蒲郡の海だァ」急に明るい声を挙げた私に佳織は驚いたように顔を覗き込んだ。私は高校時代、通学の電車から見える海に元気をもらい、帰りに見える本宮山に全精力を奪い取られ地の底に落し込まれていた。今回も往路は蒲郡の海に救われたようだ。
「もうすぐ我が母校・蒲郡高校のすぐ裏を通過するぞ」短いトンネルを抜けたところで佳織にも顔を向けさせると間もなく懐かしい校舎が目に入った。新幹線と蒲郡高校は道路一本しか隔てておらず、慣れるまでは騒音が気になって仕方なかった。それでも列車の窓から母校を訪ねられるのなら悪くはない。そのまま次のトンネルを抜ければ我が故郷・岡崎だ。矢作川を渡れば窓から地平線が見えてくる。
「そう言えば依佐美(よさみ)送信所ってどこに在ったの」新幹線が小学校1年の春の遠足で行った二子山古墳を通過した頃、佳織が訊いてきた。
「依佐美送信所って帝国海軍の長波ビーコンの潜水艦用電波灯台だろう」これは小学校の社会の時間に習った知識のうろ覚えだ。正確に言えば昭和の最初期に建設された高さ250メートルの鉄塔8本から長波ビーコンを発信して潜水艦に位置を知らせる電波灯台で、戦後はアメリカ軍に接収されてそのまま1993年まで運用されていた(実際は短波による長距離通信にも併用されていた)。翌年、日本に返還されて解体されてしまったが、子供の頃には夜になると地平線にそびえ立つ鉄塔の航空障害灯が点滅しているのが見えていた。
「依佐美送信所は2007年に日本の機械遺産、2008年には国立科学博物館の未来技術遺産にもなったってアメリカ海軍の人が教えてくれたんや。そしたら今年の5月にIEEE(アイ・トリプル・イー=世界電子工学会)のマイルストーンに指定されたんやで。すごいやろ」そう言われても通信幹部の佳織には常識的な話題なのかも知れないが、門外漢の私には未知の領域だ。仕方ないので依佐美送信所の住所だけ説明することにした。
「確か小学校の授業では刈谷市高須町にあるって習ったな。刈谷なら左の方向だよ」私の説明に佳織は左の窓を注視したが、鉄塔自体は撤去されているので見えるはずがない。
「そう言えば対馬のオメガ局も解体されてしまったんや」見えるはずがない依佐美送信所の電波塔を諦めたと思ったらまたも未知の領域の話を持ち出した。今まで私の前では通信の専門的な話はしなかったが、通信学校に勤務することになってどこか興奮気味なのかも知れない。
「あっちも凄かったんやで、高さは455メートルもあって(正確には454・83メートル)、日本一だったんや」「ふーん、東京タワーが332メートル70センチで日本一だって習ったけど上があったのか」せめてもと実際には公称よりも30センチ低いと言う豆知識を加えたが、全く関心は引けなかった。所詮は素人の雑学のようだ。
「あそこも2000年の3月に姿を消してしまった。GPSが普及して高い塔を維持する予算が無駄だったって言うんやけど観光名所にできんかったのかな」対馬のオメガ局の概要は海栗島のレーダー・サイトで勤務している教え子から聞いたことがあったが、航空自衛隊の記憶と同時進行で存在が消えていたようだ。
  1. 2018/05/29(火) 09:24:38|
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5月の最終月曜日・アメリカ戦没将兵追悼記念日=メモリアル・デー

5月の最終月曜日はアメリカの戦没者追悼記念日=メモリアル・デーです。ちなみに午後3時が追悼時間になっていてアメリカ全土や海外のアメリカ軍基地内では教会の鐘が鳴り響き、追悼曲やアナウンスが流れるため大多数の国民は立ち止って黙祷を捧げます。そうしないと「反戦派」と思った愛国者に取り囲まれて糾弾されることもあるそうです。
また各国、各地方時間の夜明けから正午までは国旗が半旗で掲揚され、国立墓地では市民有志による奉仕活動で全ての墓碑の上に国旗の小旗が置かれます。
そんな戦没将兵追悼記念日は当初、5月30日でしたが1968年にリンドン・ジョンソン政権が後に日本の馬鹿な総務官僚と政治屋が祝日・記念日の意義を踏み躙るハッピー・マンデーとして模倣することになる理由で現在の最終月曜日になったのです。
この時、対象になったのはジョージ・ワシントンの誕生日である2月18日のプレジデント・デー(=大統領の日)、コロンバスが1492年10月12日にアメリカに到達したことを祝うコロンバス・デー、第1次世界大戦の終戦の日である11月11日の復員軍人の日ですが、やはり意義が失われたことで有名無実化して現在では休日にしていない企業が過半数を占めているそうです(調査方法によって差異はある)。それを請け売りした日本の総務官僚や政治屋はこの弊害をどこまで認識しているのやら。
アメリカで戦没者慰霊記念日が設けられるようになったのは南北戦争からで終戦の5月13日に敗れた南軍が戦没者を追悼する儀式を行ったことが始まりでした。独立戦争でないことが意外ですがフランスやスペイン、オランダなど外国軍の支援を受けていたのでアメリカの行事とすることに抵抗があったのかも知れません。
この南軍の儀式を見た北軍の将軍が同じように戦没者を追悼する儀式を行うことを呼びかけて実現したのが5月30日でした。当然、南軍側であった各州はこれに反発して当初の5月13日に慰霊行事を続けていたのですが、第1次世界大戦に南部出身者が多かったことで容認する者が増え、やがては国の行事として定着していったそうです。
ちなみにこの日の呼称でも南北の対立があったようで、北軍側は戦没者を称えるデコレーション・デーと呼んでおり、これが南軍側の感情を逆撫でしていたため1882年になって追悼のメモリアル・デーとしたのです。
ちなみに日本では昭和の陛下の玉音放送が流れた8月15日を敗戦の日としており、戦没者慰霊式典が行われていますが、それ以降も千島列島や樺太、満州では戦闘が継続しており、多くの戦没者が出ているのですから国際標準の第2次世界大戦・対日戦争の終結の日である9月2日にするべきでしょう。
小庵では日清戦争の終戦の日である4月17日、日露戦争の開戦の2月8日、旅順要塞開城の1月2日、日本海海戦の5月27日、終戦の9月5日、第2次世界大戦に参戦した12月8日、沖縄慰霊の日の6月23日、広島と長崎の原爆の日である8月6日と9日、前述の9月2日、そして5月18日のスリランカ内戦終結の日に戦没者慰霊供養を勤めています。第1次世界大戦については日本として適当な日が思い浮かびません。
  1. 2018/05/28(月) 11:43:51|
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振り向けばイエスタディ1202

9月4日、佳織が帰国して武山に単身赴任してしまった最初の週末がやってきた。本来であれば私が武山に泊まって鎌倉でデートを楽しみたいところだが、この土・日曜日に1泊2日で伊丹に墓参に行く予定なので佳織が帰宅する。
統幕と陸幕の二足草鞋を履いている私はこの日も帰宅が遅く、消灯ラッパが鳴る時間になって自宅に着いた。官舎の階段を昇っていくと階段に空腹に沁みる美味しそうな匂いが漂っている。
下から見上げて自宅の窓に灯りが点っていることだけでも幸せな気分になったがこれは堪らない。思わず駆け上がってしまった。
「ただいま」そう叫びながら鍵が掛かっていなかったドアを開けて飛び込むと佳織が待っていた。勢い余って抱き締めてしまう。まさに感動の一瞬だ。
「おかえりなさい。お疲れさまでした」腕の中で佳織は返事をする。やはり感動を共有しているようだ。しかし、そうは問屋が卸さないのが私の持って生まれた星の運行らしい。
「あッ、料理が焦げちゃう」佳織は身体を振って腕を解くと台所に戻ってしまった。
「冷蔵庫の中には豆腐と納豆と卵しかないから材料を買いに出直したで」料理を運んできながら佳織は文句を言った。確かに最近は木綿・絹・厚揚げ、高野の各種豆腐と納豆だけをオカズにしている。その分、野菜と果物、和風・洋風のドレッシングは買い揃えているはずだ。
「こんな坊さんみたいな食生活してて自衛官が務まるの」「いや、今は弁護士だからな」そう返事をした私の前に山盛りの野菜炒めが置かれた。私が作ると沖縄のチャンプル風に粉末の出汁の素で味をつけるのだが、佳織は洋風にコンソメ味になる。この匂いでも佳織の手料理であることを噛み締めた。
「ご飯も玄米じゃあない。どこで手に入れるの」茶碗を持って蛍光灯に照らしながら佳織が訊いてきた。確かに白米のように光輝いてはいない。
「うん、新潟で屯田兵をやっている知り合いができて送ってもらっているんだ」屯田兵とは明治期に北海道で開拓と国防を担った兵制だが早い話が兼業農家をやっている隊員のことだ。私が陸幕法務官室で開設している法務相談で知り合った。
「玄米も栄養の吸収が悪いからでしょう。そこまで気にしてるんだったらインスリンの接種を始めた方が良いんじゃあないの」前に座った佳織は一方的に意見を言い始めた。これは中央病院の同期の医官も言っていることだが、私自身は「糖尿病は贅沢病=乱れた生活習慣が原因」と言う日本人の偏見が我慢ならず、その病名を受け容れることができないのだ。
時間が遅いので久しぶりのパジャマ・ミーティングは食事と一緒に始まった。本来であれば風呂に入ってパジャマに着替えてから飲むのが作法なのだが、これでは安心して差しつ差されつを満喫できそうもない。
今日の酒は佳織の地元である灘の生一本シリーズで揃えてみた。私も陸幕勤務が長くなって駅から官舎へ戻る途中にある酒屋の親父さんと親しくなっており、佳織が兵庫県出身だと知って推薦してくれたこだわりの9本だ。
「ふーん、大関に菊正宗、剣菱、櫻正宗、沢の鶴、道灌、日本盛、白鶴、白鹿かァ。有名どころやね」座卓の隅に親父さんが取り寄せてくれた灘五郷の銘酒の300ミリ・リットルの小瓶を並べると佳織は興味深そうに名前を読み上げた。
「全部、飲み比べたいけど酔っ払ってしまいそうや」「大丈夫、お姫さま抱っこで布団まで運んでやるよ」そう言いながら最近は腕力にも自信が持てなくなっている。
「それじゃあ開けるで。今夜はカロリーを気にしないで貴方も飲みなさい」やはり佳織もお姫さま抱っこは期待していないようで私にも御相伴を命令した。こうなると寝床までは匍匐前進だろう。そう言えば着替えに入った寝室には佳織が布団は敷いてくれていた。
「武山はどうだい」「うん、私がアメリカ帰りだから最新の通信機材の情報を持ち帰ってるんじゃあないかって変に期待してるんや」酒が入ればミーティングも始まる。これが私たち夫婦の形だ。それが欠落した半分の期間は本当に勿体ない。
「今じゃあ通信機材は日本の方が進んでいるんじゃあないのか」「軍事分野は基礎研究の土台が違うからやっぱり敵わへんのや」確かに指揮所当直につくと昔、見た特撮ドラマよりも近代的な通信機材に感動するが時代を逆行する生き方をしている私には馴染めない。やはり武田軍団の騎馬伝令であるムカデ衆の方が好みだ。これでは仕事の話相手にはなれそうもない。むしろ映画「個人教授」のナタリー・ドロンとルノー・ヴェルデーになりたいものだ。
結局、全ての瓶を半分だけ飲んでほろ酔い気分で一緒にシャワーを浴び、歩いて布団に入り、抱き合って眠った。それにしても300ミリ・リットルは絶妙な分量だ。2合では多過ぎる。
  1. 2018/05/28(月) 11:39:10|
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振り向けばイエスタディ1201

9月1日付で転属が発令されて現地を昼過ぎに出発しても、日本に着くのは翌2日の早朝になる。私は午前中だけ休暇を取って成田に迎えに出るつもりだったが、この日は水曜日なので公判の打ち合わせがあり、公務を優先せざるを得なかった。
「モリヤ2佐、今日、モリヤ1佐が帰ってくるんだろう」「はい、朝の6時過ぎに成田着の便ですからそろそろこちらに到着する頃でしょう」私が公判に意識を集中させるよう努力しているのに首席法務官が佳織を思い出させるような話を持ち出した。淳之介の結婚式で休暇を取って以来、私は刑事被告人になっている海上自衛官たちの無念の想いを慮る(おもんばかる)ようになっている。我々が当たり前に過ごしている平凡な時間さえも奪われている彼らの気持ちを共有できるのは同じ経験をしている私だけなのだ。
「それにしても東京と武山では近いようで遠いな」「いいえ、太平洋を挟んでいないだけでも至近距離ですよ」確かに横須賀市でも太平洋岸の武山駐屯地へは東海道線で大船駅に行き、そこで横須賀線に乗り換え、さらにバスを利用しなければならないから地図上で見る以上に遠い。それにしても私の集中力を妨げるのは止めてもらえないだろうか。
「いよいよ証人尋問ですが海難審判の理事官に対しては私の担当でよろしいですか」ここは無理にでも仕事の話に持ち込むことにした。海難審判の理事官は裁判の検察官に当たり、今回の事故の責任を一方的に海上自衛隊に押しつけた張本人だ。身分は国土交通省の職員だがこの一方的な断定と立証は明らかに自衛隊に対して敵意を抱いている。ならば自衛官が受けて立つのが武力紛争関係法の定める正当な戦闘行為ではないか。
「モリヤ2等陸佐の攻撃的追及を見てみたいのは確かだが、初っ端(しょっぱな)から戦闘モードになるのは避けたいな」「そうですね。審判記録を読んでもかなり強引な論法を用いる人物のようですから逆に受け流しながら墓穴を掘らせる方が得策かも知れません」首席法務官の意見に滝沢弁護士も同調した。しかし、この口ぶりは「自分がやる」と立候補した訳ではなさそうだ。早い話が牧野弁護士の出番らしい。
昼休みになり陸幕の自分の部屋へ戻ってドアを開けると中から女性事務官の「帰ってこられました」と言う声が聞こえてきた。どうやら待ち人来たる=佳織が待っているようだ。勢いをつけて部屋の中に踏み込むと佳織はソファーに座ってこちらを向いていた。
「おう、お帰り」「お仕事、お疲れさま」私はいつものように熱い抱擁をしようと両手を広げて歩み寄ったのだが、佳織はソファーで立ち上がると1等陸佐の貫録を見せて待っている。
曹長と1曹は昼食や買い物に出ていて部屋には女性事務官しかいない。「ならば遠慮なく」と実施したいところだが、ここは日本なのを思い出した。仕方ないので静かに歩み寄ると1歩の距離で向かい合って立ち止った。
「迎えに出られなくてすまなかったな」「公務優先なのは当然よ。気にしないで」何だか2週間前にハワイで会ってきた愛妻とは別人のような気がしてくる。ハワイで勤務していたのは佳織であって私ではない。それなのにアメリカン・フィーリングになっているのは私の方だった。
「ご飯これからでしょう。一緒に行こう」「そうか。今日は弁当じゃあなかったな」最近は運動によるカロリー消費の時間が十分に取れず、駐屯地の中央業務支援隊の衛生科で受けている定期検査の血糖値が上昇気味で低カロリー食の弁当を持参している。そんな中、今日は佳織が帰国後の申告に来ることが判っていたのでPX食堂での会食にしていた。
「貴方、チャンと食べてるの。ハワイに来る度に痩せていって志織も心配していたよ」「うん、炭水化物を減らしているんだけど血糖値に反映しないんだよな」糖分は淡水化物だからそれを減らせば血糖値は下がると言うのは単純な論理だが私の膵臓の機能障害=糖尿病は生活習慣が原因ではないので同期の医官も「症例が乏しい」と言って頭を悩ませている。
以前、佳織に送ってもらったアメリカの糖尿病の資料では「インスリンの分泌若しくは作用の不全が原因である」と明記してあり、日本の医学界が主たる要因としている生活習慣の乱れはそれを誘引する理由の1つと位置づけられていた。要するに粗食だった日本人の間では贅沢な食生活や過度の飲酒をしている者が罹る低級な病気と決めつけてきたのだろう。
「本当なら貴方と暮らして身心ともに健康的な生活を守らせたいんだけど」「大丈夫、裁判は横浜地裁だから鎌倉でデートしよう」そう答えながら先ほど首席法務官に言われた「近いようで遠い」感覚を噛み締めた。同じ神奈川県内でも横浜から横須賀は決して近くない。
「うーん、日本食かァ。久しぶりにカツ丼でも食べようかな」PX食堂に入ると佳織は壁に並んでいるメニューを見て大胆なことを言い出した。ハワイにもトンカツ店はあるが懐かしいのも理解できる。ちなみに私は日本食でも冷や奴と野菜の煮つけに味噌汁だ。
  1. 2018/05/27(日) 08:15:06|
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振り向けばイエスタディ1200

日本では悪夢の政権交代が現実になりそうな9月1日付でモリヤ佳織1佐が帰国する。次の補職は神奈川県横須賀市にある通信学校の副校長兼企画室長だ。本来であれば幕僚と部隊長を交互に経験していくのがエリート・コースなのだが佳織の通信職種の経験は守山での中隊長までなので1佐職の部隊長に配置することは避けてこの人事になったようだ。しかし、横須賀では念願の同居生活を再開できない。
裁判所に公式な夏期休暇はないのだが、事実上は8月15日を含む1週間は公判が開かれないらしい。ところが今年の15日は土曜日のため私も13日の木曜日から16日の日曜日までハワイに行くことにした。
「ルテナン・カーノー(2佐・中佐)、父と夫はこのスーパー・ウーマンにサルート(敬礼)しなければならないな」志織の引っ越しを終えてリビングでの休憩になると義父は缶のビッグ・ウェーブ(ハワイの地ビール)を手渡しながら声を掛けてきた。佳織は7月1日付で1佐に昇任したので、義父と私は下位と言うことになる。
「イエス、アテーン、ハッ(アテンション=気をつけ)、デリケー・ガッ(デリケーテッド・ガン=捧げ銃)」私が冗談で号令をかけると義父も一緒になって背筋を伸ばし、缶を顔の前に掲げて映画「パットン」で聞き覚えがある栄誉礼のラッパを口ずさみ始めた。それを見て佳織は呆れた顔をしながら手を額に掲げて答礼した。父も夫も娘で妻が上位になったことを素直に喜んでいるから冗談も成立する。私にとっては本当にスーパー・ウーマンなのだ。
「佳織も残り2週間はここから通勤して官舎の荷物は日本に送ってしまうんだ。それで良いんだろう」アメリカに限らず海外の借家は家具付きなのが一般的で自衛隊の連絡官の官舎もその方式を採用している。そのため引っ越しは宅配便の延長で済む。問題は帰国してからの私は裁判の再開に向けて連日の残業になり、届いた荷物を受け取られない上、久里浜の官舎についての説明を受けていないので運び込むこともできないことだ。
「志織の荷物はほとんど運んであったから片づけは早いものね」そこに義母のスザンナが佳織を昼食の支度に呼びに来た。ハワイで過ごした3年で母子の関係も完璧に構築できたようだ。こうして女性陣が出払うと義父と2人でビールを飲みながらの雑談になる。ここでは志織の学校についての質問をすることにした。
「アメリカは高校まで義務教育だって聞いていますが受験はないんでしょうか」これは愚問に近い。義務教育であれば小中学校と同様に地域の学校に自動的に進学するのだろう。
「受験、それは何だね」私は乏しくなってきている英語の知識でハイ・スクール・エントランス・テストと言う造語を捻り出したがやはり通じなかった。
「アメリカでは義務教育をグレード1から12に分けて9から12をハイ・スクールと呼んでいるんだ」この説明は佳織からも聞いたことがあるが、私立のハイ・スクールも存在する以上、やはり受験制度はあるはずだ。要するに私の誤訳らしい。ここで質問は核心に入った。
「日本では高校から普通科、商業科、工業科、農業科、水産科などに分かれますがアメリカでは専門教育はどのように選択するんですか」私の中学校では生徒を成績で輪切りにして江戸時代の身分制度のように普商工農に振り分けていた。適性などは二の次で手先が不器用な者も成績次第で工業科、引っ込み思案の人間嫌いな奴が商業科、サラリーマンの息子が農業科などと信じられない進路指導が行われていたのだ。
「ハイ・スクールでは単位が選択制になるから将来の希望に応じて生徒が自分で決めるんだ。日本のように高校で別れてしまうのでは途中で希望が変わったらどうするんだね」この逆質問は痛いところを突いている。要するに現在の学校教育制度を作った文部官僚が専門科目の教職員や関係設備と教材を必要最小限に抑えるために高校を選択するようにしたのではないか。
最近、自民党政権を追い落とすためにマスコミが繰り広げていた官僚制度の問題点を報じる番組を見過ぎて全ての問題点が縦割り行政と省益優先の体質が原因と思うようになっている。私のような人間でもここまで影響を受けるのだから普通の市民が政権交代を期待して圧倒的な票を民政党に投じるのも想像に難くない。
「志織はESLに入れなくても大丈夫だろう。できればAPで先行的に単位を取得させたいものだ」私が長年抱えてきた疑問が解決したと思っていると義父が理解不能な略語を口にした。これも自分の仕事が忙しいことと淳之介の結婚を理由にして志織の教育に十分な関心を注いで来なかった結果だ。そこで遅れ馳せながら略語の意味を質問した。
「ESLは英語を母国語にしない生徒の特別コースのことだ。APは成績優秀者に先行的に大学の一般教養の単位を取得させる制度だ。日本にはないのか」私自身は普通の県立高校出身なのでそのような特殊な制度の恩恵にあずかっていない。何にしてもアメリカ恐るべし。
  1. 2018/05/26(土) 09:04:48|
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振り向けばイエスタディ1199

話し合いであかりが残ることが決まったところで3人は来賓として結婚式に出てくれた社長のところに挨拶に出かけた。アパートから会社までは歩いて行ける距離なのであかりに経路の感覚を教え、顔見知りの住人たちに事情を説明して保護と支援を依頼した。
「うん、任せておくさァ。淳之介の嫁さんならウチらの娘みたいなもんさァ」「困ったらその場で叫べば誰かが飛んでいくさァ」「嫁さん、料理はできるねェ」大声の小母さんたちに囲まれてあかりは驚いて淳之介にすがったが、梢が引き離して小母さんたちの前に立たせた。
「あかりです。よろしくお願いします」「お願いします」梢に合わせてあかりも頭を下げたが方向が少しずれている。小母さんたちは視覚障害者と接する上での違和感を確認したように顔を見合わせた。あかりが持っている白い杖が八重山の強い太陽の光で浮き上がって見える。地域社会に身体障害者を受け入れることには自然な流れだけでは済まない覚悟も必要なのだ。
「あかり、日に焼けてしまうさァ。これをかぶっていきなさい」すると衣料品店の小母さんが店の中に入って麦わら帽子を持ってきた。
「えッ・・・」突然の申し出にあかりが戸惑っていると小母さんは勝手に頭に載せた。
「すごく似合うさァ」「うん、可愛いねェ」「淳之介、ほめてあげんねェ」また大騒ぎになってしまった。沖縄本島でも田舎や市場の小母さんたちは似たようなものだが迫力が違うようだ。
「風が通って涼しいです」「とても素敵だよ」あかりの笑顔を見て淳之介は心からほめた。
淳之介の会社につくと社長は控室のソファーに座ってテレビを見ていた。座卓の上には開けたオリオン・ビールの缶が置いてある。梢は慌てて立ち上がった社長の前で深く頭を下げた。
「社長さん、先日はこの子たちの結婚式に遠路はるばるご出席いただきまして誠に有り難うございました」この営業用の口上に社長は極まり悪そうに頭を下げた。
「いよいよ嫁さんが来ましたかァ。淳之介とあかりは幸せでも、お母さんはシカサーソーラーね」焦っているらしく社長は理解不能な言葉を口にした。どうやら八重山方言らしい。
「シカサーソーラーですか」「さみしいねってことです」梢の返事に社長は自分の失敗に気がついて飲みかけだったオリオン・ビールを飲み干した。これでは勤務中の飲酒まで自己申告しているようなものだ。しかも社員である淳之介の目の前でだ。
「ところで社長さん、不動産屋さんを紹介してもらえませんか」梢は営業のキャリア・ウーマンらしく相手の失策には気づかないような顔で用件を切り出した。
「淳之介はウチの寮のままだったのかァ。何で言わんねェ」社長は梢の後ろに立っている淳之介に声を掛けたが、その隣に寄り添っているあかりを見て止めてしまった。勢いだけで突き進むところが淳之介が敬愛する船乗り出身の社長の気風(きっぷ)なのだ。
その後、社長に紹介された石垣市内の不動産屋に向かい、梢がアパートの情報を尋ねた。
「お探しの物件は息子さん夫婦のアパートですね。間取りは2DKでよろしいんでしょうか」この店にも情報収集に来ていたが今回は社長からの紹介であり、やはり店長は若い淳之介よりも真剣に対応していているようだ。
「お嫁さんは・・・こちらの方ですか」そう言ってあかりの白い杖に目を止めた店長の顔が少し険しくなった。やはり身体障害者を入居させることにあまり積極的ではないらしい。
「息子は会社の独身寮に入っているので急いでいるんです」「やはり港に近い方が良いですね。新しい物件でなくてもよろしければ・・・」「市内でも良いですよ」店長がアパートの簿冊をめくりながら迷っているのを見て淳之介が声を掛けた。生活が落ち着いたところであかりが就職することを考えると淳之介が市内から通勤するのは当たり前だ。
「判りました。近日中に連絡させてもらいます」そう言って簿冊を閉じた店長に梢が「お願いします」と美しく優雅に頭を下げる。そんな態度はやはり大手旅行社の管理職のものだ。店長は見とれていたが、梢が客であることに気がついて慌てて立ち上がって頭を下げた。
「それじゃあ、あかり、チバリヨー(頑張れ)」「淳之介、ナンクルナイサ(どうってことないよ)」夕方の便で那覇に帰る梢を空港まで送った。搭乗口に入る前、梢は寄り添って見送っている2人に力を込めて声を掛けた。気がつけば梢は淳之介を呼び捨てにしている。それは梢自身も母親としての意識を確立した証のようだ。さらに滅多に使わないシマグチにもなっている。これは八重山の土地に腰を据えろと言う教えなのかも知れない。
「お母さん、ありがとう。チバリマス」「マダンメンソ―レ(また来て下さい)。オジイ、オバアにもよろしく」2人の挨拶もシマグチだった。こずえはあかりを嫁がせたことでマンションに住む理由がなくなり、近日中に両親の家に転居する予定だ。あかりを抱えて仕事と両立できたのには両親の支援があった。その恩返しに励まないと罰(ばち)が当たりそうだ。
し・安里あかりイメージ画像
  1. 2018/05/25(金) 10:02:54|
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振り向けばイエスタディ1198

「ふーん、2階なのね」「はい、もう少し広い部屋を探しているんですが、本土からの移住者が多くて中々手頃なところが見つからないんです」梢がモリヤと暮らしていたアパートよりも老朽化した建物の階段を昇りながら淳之介は決まり悪そうに説明した。近年、本土で定年退職を迎えた人たちが気候温暖で物価が比較的安い沖縄に移住することが流行していて石垣島でもマンションの建設が増えているが、その工事の作業員の寮としてアパートがまとめて借り上げられているので個人で申し込んでも手頃な物件を紹介してもらうのは難しくなっている。
「でも部屋は1間でしょう。あかりの荷物を置くところがあるの」建物の大きさから見て6畳一間のシャワー室とトイレ、台所付きと言うところだ。これではあかりの荷物を入れる家具を買う訳にはいかない。
「あかりを呼ぶならアパートが見つかって準備が整ってからにしてもらわないと困るわ」「はい・・・」初めて梢に叱られて淳之介は素直に反省した顔になった。これは親子になって最初の教育的指導になる。確かにアパートが見つからないのは淳之介の責任ではないかも知れないが。視覚障害者であるあかりを呼び寄せるには健常者以上の慎重さが必要なことは判っているはずだ。おそらく新婚初夜を経験したことで男性本能が高揚して手元に置きたい気持ちが抑えられなかったのだろう。梢の口調に怒りを感じ取ったあかりは狭い通路の最後尾を歩いてくる淳之介の足音が重くなったことに心配そうな声で話しかけた。
「貴方、そんなに私を呼びたかったの」「うん、会いたくて我慢できなかった・・・」淳之介が説明しかけた時、梢が部屋の前に着いた。すぐに3人が追いつくと淳之介がカギを開けた。
「ふーん、表札は替えてあるんだね」梢はドアの右の柱に掛かっている真新しい「安里」と言う表札に気がついた。こんな手回しでも淳之介のあかりとの暮らしを待ち望んでいた気持ちは理解できるが準備の遅れは別問題だ。
「それは仲良しの離島の人がお祝いに作ってくれました」そう言って淳之介はドアを大きく開けるとあかりの手を引いて玄関に入れた。玄関も大人の靴が3足並べば一杯になる狭さだ。
「あかり、狭いからつまずかないように気をつけなさい」初めての空間に入るあかりに梢が後ろから注意を与える。上がってすぐに流し台を含めて2畳分の台所、その奥がシャワー室、反対側がトイレのようだ。板の間の向こうに襖があり、多分、居間兼寝室兼客間の6畳一間だ。
このアパートは淳之介が勤めている船会社が独身社員の寮として借りているので敷金・礼金なしで入居できた。しかし、独身用だけに新婚生活を始めるには完全に手狭だ。その上、港に近いだけに市街地からは遠く、あかりが1人で買い物に出るのにはかなり不便だ。将来、石垣市内の鍼灸院や病院などに就職するのにも通勤が問題になりそうだ。
梢が居間に入るとあかりと淳之介は並んで立っている。部屋の中を見回すとシャワー室は半畳のようで半畳の押入れがある。壁にはファンシー・ケースと子供用の小さなタンスが置いてあり、上にはテレビが載っている。そして足を折り畳む座卓があるだけだ。その開いた畳の上には先日送ったあかりの荷物が積み上げてある。つまり大人3人が腰を下ろす空間がない。
「あかり、貴女が寝るだけの隙間がないのよ」再び母の声が厳しくなってあかりは淳之介にすがるように近づいた。そんな姿を見るとモリヤと暮らした頃の自分に重ねてしまうが、ここは思い出を噛み締めている場合ではない。
「淳之介さん,今日はあかりを連れて帰るから。部屋が見つかってから連絡を頂戴」これは順当な判断だと思う。このまま置いて帰れば淳之介が仕事に出かけた後、あかりはこの狭い部屋で1人帰りを待つことになり、荷物を整理するにも収納する家具がないのだ。
「嫌よ。私は淳之介さんの妻なんだから一緒にいるのが当り前じゃない」突然、あかりが反論した。あかりは淳之介の手を探り当てて固く握った。先ほどは「淳之介が男性の本能によって無理にあかりを呼び寄せようとした」と推理したが、これも女性の本能なのだろうか。
「あかり、どうしたの。お母さんが言っていることが判らないの」「だってお義父さんが自分のこうしたいって思っていることは正直に言いなさいって教えてくれたんだもん」あかりの説明に梢は言葉が返せなくなった。自分は淳之介の母親になったつもりで叱責し、教育したのだが、あかりはモリヤの娘として教えを守ろうとしている。梢の胸に先日、ハワイで会ったモリヤの顔が浮かんできた。結局、ここは2人の自己責任に任せるしかないようだ。
梢は大きく息を吸うとまだ手を握り、身を寄せ合っている2人に母親としての助言を与えた。
「部屋の中を小まめに片づけないとあかりがつまずいて転んでしまうから気をつけてね」「はい、気をつけます」「私も気をつけます」若い2人が呼吸を合わせたように代わる代わる返事をしたので梢は何故か安堵したように胸の中に残っている息を吐き出した。
  1. 2018/05/24(木) 09:00:58|
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5月23日・盧武鉉大統領が飛び降り自死した。

2009年の5月23日に韓国の盧武鉉大統領が飛び降り自死しました。盧大統領は1946年の光復=独立後に生まれた初の韓国大統領ですが、北朝鮮の金日成政権以上に反日を前面に押し出して実際に武力行使や工作員を潜入させてテロを行っていた李承晩政権下で育ちましたから根っからの反日感情の持ち主だったのは間違いありません(実際、朴槿恵大統領が繰り広げた「告げ口」外交の先駆けでした)。
その上、家は貧しい農家だったので6歳で漢文を読みこなすほど頭脳明晰でも、小学校では「貧農・下層民の子供=将来性なし」としか評価されなかったそうです。
ところが優秀な息子・弟を惜しんだ父と兄の勧めと援助で釜山の商業学校に進学して銀行員を目指しますが金融機関は一般的に家庭の経済状態を重視するため採用されず、漁具を製造する小さな工場に就職したものの劣悪な待遇に我慢できずに退職して弁護士になることを決意しました。韓国でも弁護士は大学卒業以上が受験資格でしたが、元々が優秀な頭脳の持ち主なので20歳で受験資格を得るための試験に合格し、兵役を挟んで29歳で司法試験に合格したのです。
弁護士としては釜山に事務所を構え、商取引を専門にしましたが学生運動の弁護を引き受けたことから政治・社会運動に強く関わるようになり、この頃に現在の文在寅大統領と合同弁護士事務所を開設して、その後も一緒に行動していくことになりました。
1988年に後の金泳三大統領の勧誘を受けて選挙に出馬して当選すると国会内でも労働運動の代弁者として活動し、軍事クーデターで政権を奪取した全斗煥政権の不正を裁く不正調査特別委員会の委員として注目を浴びたことで国民の圧倒的な支持を獲得したのです。
こうして政界での基盤を固めつつあった盧議員は恩師である金泳三議員が盧泰愚大統領と統一会派を樹立したことに反発して政敵であった金大中議員との合同に走ったことで執拗な追い落としに遭いながらも、やがては後継者として大統領の地位に昇り詰めました。
しかし、大統領としては絶大な人気を確保していても与党は国会内の少数派だったので政権運営は困難を極めました。その結果、反米活動家や労働・人権団体を支持基盤にしながら政権運営上の取引でアフガニスタンやイラクの激戦地に韓国軍を派遣するなど保守派に妥協を強いられることになり、これによって支持者の反発を買い、理想と現実と言うよりも支持基盤と政権運営の狭間で苦しみ続けただけで5年間の任期を終えたようです。実際、死の数カ月前に記した文章では「政治では得ることよりも失うことの方が遙かに大きかった」「大統領になろうとしたことが間違いだった」と真情を吐露しています。
退任後、李明博保守政権はいち早く盧政権の不正献金疑惑の解明に着手しました。盧政権は任期途中で弾劾を受け、2ヶ月間職務を停止していましたから叩く前から埃は立っており、側近や親族が相次いで逮捕されました。特に自分を商業学校に進学させてくれた兄の逮捕は大きな衝撃だったようです。
起訴されることが確実になり、在宅か拘置所送致かの決定を待っていたこの日、慶尚南道金海市の自宅の裏山にある断崖絶壁から飛び降りて亡くなりました。62歳でした。
  1. 2018/05/23(水) 10:27:38|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ1197

あかりは鍼灸院を7月一杯で退職して毎日通ってくる祖母に手伝ってもらいながら荷物の箱詰めに励んでいた。
「この一番右の箱がその他の小物だね」「うん、そうだよ。真ん中が生活雑貨、左の3つが衣類だって」梢はあかりの寝室に段ボール箱を並べ、順番で入れる物を指示している。勿論、箱の蓋にはマジックで記入してあるのだが祖母はあかりの認識を確かめたようだ。
「これから服は淳之介さんに選んでもらうんだね」「ううん、東京で買い物した時は店の女の人が選んでくれたよ。でも私は淳之介さんに選んでもらいたいな。淳之介さんの思う通りの妻でいたいから」タンスの引き出しから取り出した服を畳みながらあかりは幸せそうに答えた。その笑顔は少女ではなく女性のものになっている。祖母の胸に娘の梢が初めてモリヤに抱かれたことを察した日の驚きが甦ってきた。あの日の帰宅した梢の笑顔にも少女の清らかさが消え、大人の女の匂いが漂っていた。それを察するのは母親の女としての本能なのかも知れない。
「向こうには梢がついて行くんでしょ」「うん、仕事が忙しいから1人で行くって言ったんだけど、お母さんはどうしてもついて行くってきかないんだァ」梢としては視覚障害者であるあかりに対する保護責任があるのだが、これから自立するための第一歩として単独行動させたい気持ちもあった。実際、空港まで送れば日本トランスオーシャン航空が万全を期して送り届けてくれるはずだ。その一方で淳之介が婿入りした以上、梢は母親であり、息子に対してそこまであらたまるのは他人行儀な気もしていた。

夏の観光シーズンで日本トランスオーシャン航空の石垣島行き・ボーイング737ー400は満席だった。あかりは身体障害者、梢は付き添いの保護者としての特別枠で搭乗申請しているので最後に案内された。
「出発準備は整っておりますが、本日は視覚障害者の方が搭乗されますのでもうしばらくお待ち下さい」搭乗タラップの階段を昇っていくと開いているドアの中でキャビン・アテンダントが機内放送で説明しているのが聞こえてきた。すると観光客の中から舌打ちと不満の声が聞こえてくる。それでも白い杖をついたあかりと梢が機内に入って深く礼をすると後悔したようなささやきが機内に広がっていった。
「よく席が取れたね」話し声と空気で満席であることを察したあかりが感心すると梢は「うん、特別枠だからね」と自慢げに答えた。
「何か裏技を使ったでしょう」と言う追及にも「エヘヘヘ」と笑って答えない。あかりはどんな技を使ったのか興味あったがキャビン・アテンダントが座席ベルトの確認に来たのでそれ以上の追及は止めておいた。今日は2人とも何時になくウキウキしている。
そのうち737ー400はタクシング(移動)を始め、窓からは那覇基地が見えた。今日も整備格納庫では整備員たちが戦闘機に取りついて仕事をしている。梢はそんな光景を黙って見ていた。モリヤと旅行に出かける時、機内で戦闘機の説明に熱弁を奮い始めるため周囲の観光客が興味を持って質問されたこともあった。兎に角、根っからの航空自衛官だったはずなのに今は陸上自衛官になっている。何があったのかは本人も佳織も教えてくれないが、これからつき合いが再開すれば知る機会もあるだろう。
石垣空港には淳之介が出迎えていた。飛行機から降りるのも最後になったためロビーには満席の観光客の人ごみができて姿は見え隠れしているが、何故かあかりはその存在を察知した。
「貴方ァ」あかりの叫び声に観光客たちは驚いて一斉に振り返った。先ほどまでの喧騒が一瞬にして消えている。その停止した情景の中から淳之介が飛び出してきた。
「あかりィ」背が高い淳之介の顔が人と人の間を縫うように近づいてくる。やがて2人の前に立つとあかりを抱き締め、白い杖が床に倒れた音が意外に大きくロビーに響いた。
「会いたかったよ」「私も・・・会いたくて待ち切れなかった」「迎えに飛んで行きたかった」生活に視覚を用いないあかりだけでなく淳之介まで周囲を気にしていない。梢にとってはモリヤと見た映画の一場面を息子と娘が演じているようなものだが、リゾートに来ている観光客たちには感動的な演出に映ったようで拍手が起こった。それでも2人は気にしないで再会の感動に浸り切っている。あかりは淳之介の胸に顔を埋め、髪を撫でられながらサングラスの奥で涙をこぼし始めた。
「そろそろ好いでしょう。続きは今夜にしなさい」そのまま動かない2人に梢が半ば呆れながら声を掛けた。流石に観光客たちもロビーから出て行って3人だけが取り残されている。思い出してみればモリヤも時間・場所に構わず抱き締めてくれたがここまで熱烈ではなかった。
「すみません・・・恥ずかしい」すると案の定、周囲を見回した淳之介が赤くなった。
  1. 2018/05/23(水) 10:25:28|
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振り向けばイエスタディ1196

「衆議院が解散したんやろ。本当に政権交代するの」結婚式も無事に終わって1ヶ月弱、定期連絡してきた佳織は興奮気味だった。衆議院は当時の変人総理大臣が争点を1つに絞ると言う政治的虚構で圧勝した郵政選挙から4年が経過する9月10日で任期満了を迎えるのだが、それに先立って改選された参議院が野党が多数派を占める捻じれ状態になっているため政権運営もお手上げ状態に陥り、とうとう7月21日に解散に追い込まれたのだ。
「起こるだろう。今回はマスコミの政権交代を待望させる世論操作が周到で徹底的だから宮沢内閣の自滅で成立した細川政権とはレベルが違うよ」「こちらのニュースでも日本で政権交代が起こるって断定的に報じているんよ。それでも日本の野党に関する情報は持っていないみたいで解説は日本の請け売りになってるわァ」独自の取材力と分析・評価を競い合うアメリカのマスコミが海外の報道を請け売りするのは珍しいが、それだけ長期安定状態できた日本の政治に関心を払ってこなかったようだ。
「野放しの新聞は兎も角として電波法で政治的中立を義務づけられているテレビまで公然と政権交代を扇動しているからな」ここで佳織は電話の向こうで苦虫を噛み潰したようだ。
「私がこちらに来た頃はアメリカがイランで戦争中やったけど、帰る頃になって今度は日本が大混乱なんてエライ目に遭ってばかりや」「お主は嵐を呼ぶ女だな」私の悪い冗談に佳織はさらに大きな苦虫を口に入れたらしい。
「今回の民政党は前回のイメージだけで売り出した日本真党とは違ってマスコミと連携して自民党を相手に政策論争を繰り広げてきたから少しは政治を考えている国民も騙されてしまいそうだ」「『マスコミと連携して』と言うのは貴方らしい見解やね」妙なところで「貴方らしい」と言われても困るが先ほどの冗談の意趣返しかも知れない。
「君がハワイに行った頃から報道バラエティーでは日本の官公庁の縦割り行政や省益優先の体質を全て自民党の長期政権を原因にしていたんだ。そうなると民政党が官僚を叩きのめすだけで支持を集めることができる。要するにマスコミがと言う舞台をセッティングして民政党はそこで下手な素人演技を披露するだけで聴衆が拍手喝采する茶番劇だな」実は私は大学時代から政権与党に投票したことはないのだが今回は迷っている。それは野党に投票することが政権を奪取することが確実な民政党に対する支持と同じ意味を持つからだ。
「今回は隊員の中にも民政党に投票する者が出るんやないの」「と言っても投票行動をアカラサマに指導することはできないからな」この点は日本の司法の偏向と言うべき事例だ。過去に自衛隊で幹部が隊員に政権与党への投票を呼び掛けたことが外に漏れて告発され、自衛隊の政治的中立性を根拠に違法とする判決が出ている。しかし、当時の野党は非武装中立=自衛隊の廃止を主張していたのだから自分の職業を否定する政党に投票して失職させないためには何処に投票するべきかを指導するのは至極当然なことではないか。逆に日教組や自治労、官公庁労組が公然と選挙活動を実施していることと公平性が担保できない。
「幕(=陸上幕僚監部)ではかなり危機感を持ってるんやろう」「と言っても前回の政権交代、細川馬鹿殿内閣では元陸幕長が法務大臣になったからね」「そうだっけ」細川内閣が成立したのは守山で夫婦生活を始めた直後だ。私は四国の田舎から名古屋に来て数倍増になった情報を満喫していたが、佳織は初体験の連続でそんな余裕はなかったのだろう。
その陸幕長は宮永スパイ事件の責任を取って辞任していながら退役直後から選挙準備を開始して当選したのだが佐川急便問題で所属していた派閥ごと自民党を離脱した。ところが就任直後の新聞取材で南京事件を否定して政治・国際問題化されたためわずか11日間で辞任に追い込まれている。何にしても戦前の日本や韓国の軍人政治家に比べてセンスがないと言うよりも器が小さいのは間違いない。
「それにしても総理大臣は可哀想だったよ」「今は誰だっけ」ハワイ勤務3年とは言え特別職国家公務員の幹部自衛官・モリヤ佳織1佐が総理大臣の名前を忘れている。実際、その3年間に3人の総理大臣が交代しているのだから外から眺めていては判らなくなっても仕方ない。
「吉田茂首相の孫で牧野伸顕伯爵の曾孫の血統書つきなんだけど漢字を読み間違えただけで馬鹿だと決めつけられて、名前に引っ掛けて阿呆総理なんて呼ばれていたよ」「ウチかて漢字は苦手や。それだけ頭の中に英語が詰まってるんやろう。ヒョッとすると英語で考えてはるのかも知れへんで」若し佳織が日本にいてこの総理大臣への誹謗・中傷を聞いていれば私以上に怒り心頭に達したのかも知れない。兎に角、「漫画好き」と言うだけで文化人と呼ばれる解説者たちは自分の学歴や教養を披歴して見下すような態度をアカラサマにしていた。こうなると私がハワイに転属したくなってくる。
  1. 2018/05/22(火) 09:53:46|
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振り向けばイエスタディ1195

マスコミは基本的に検察当局は公的権力の代弁者、弁護士は庶民=弱者の味方と言う報じ方をするのだが自衛隊が告発された裁判では立場を逆転させるようだ。
今回の裁判でも4カ月が経過して読者・視聴者の関心が薄れ、マスコミの報道も自民党の長期政権で生じた官僚の縦割り行政と省益優先の弊害を暴き出し、それに民政党が具体的解決策を提示することで政権交代を待望する世論を扇動しているが、自衛隊の問題が政権与党への批判につながるのは間違いないので風化させないように取り上げている。それでも海難審判の時ほど熱心ではないため冷静な公判で真摯に弁論を闘わせることができそうだ。
「本裁判では検察、弁護双方から提出された事故当時の航跡図について詳細に検討した結果、この航跡図を証拠採用することを決定し、今後の公判はこの航跡図に基づいて進めていくこととする」証拠調べの最終回になる公判で裁判官は事前に配ってあった新たな航跡図を示して宣言した。傍聴人でもマスコミ関係者には複写が渡されているらしく一斉に紙を開いて確認し始めたが法廷内の証明は薄暗いのでよく見えないらしい。
「どう違うのか全く判らんな」「検察と弁護の航跡図と併記してもらわないと比較できないじゃあないか」マスコミ関係者は声をひそめても取材での追及の癖が出るのでどうしても声が大きくなる。案の定、法廷内では雑談のような声が響き始めた。
「静粛に」裁判官が身を乗り出してマイクに向かって注意を与えると今度は一斉に紙を畳んでしまう音が始まった。その無作為の妨害が収まったところで公判が始まった。
「検察は本証拠品について疑義はありませんか」やはり裁判官側が提出した物的証拠でも証拠調べの手順は踏むようだ。
「はい、この位置では海難審判で採用された僚船の乗組員である××△□の証言と差異が生じてしまいます。その点はどのように考えますか」やはり検察官も同じ点を逆の立場で心配しているようだ。すると裁判官は平然としたまま答えた。
「それは誤差の範疇と考えます」「誤差ですか、判りました」裁判官と検察官は同じ法務省に所属する国家公務員同士なので法廷外でも情報交換する機会がある。この質疑応答も事前にすり合わせを済ませている台本通りのようだ。結局、前半は差し障りがない三文芝居を見る羽目になった。
次は弁護側の質問になる。制服を着た私が追及すると裁判官が変に身構える可能性があるため今日は滝沢弁護士の担当だ。確かに滝沢弁護士は肥満体に度が強いメガネを掛けた柔和な顔つきで刑事事件が専門とは思えない。質問者は事前に通知してあるが、滝沢弁護士が立ち上がると裁判官も安心したように表情を緩めた。
「それでは弁護人として質問をさせていただきます」前口上に続いて滝沢弁護士は会釈した。この辺りが戦闘モードになる私とは違うところだ。
「先ず始めにこの航跡図を証拠採用すると言うことは検察側が提出した航跡図に基づいて海上自衛隊所属の護衛艦・あまごの有責裁定を下した海難審判は効力を失ったと考えてもよろしいのですね」質問内容も裁判官には通知してあるが検察官には伝わっていないはずだ。やはり検察官の表情が極端に険しくなった。
「国土交通省所管の海難審判と法務省が所掌する裁判では法的な存立意義や態様が異なることは御承知かと思います。したがって本件の告発自体が海難審判とは別の法的手続きによって行われており、裁定の効力に影響を与えるものではありません」要するに裁判官の質問に対する回答は判断ではなく回避したのだ。
「なるほど苦しいお立場はお察し申し上げます。次にあまごと軽得丸の位置関係ですが、弁護側の航跡図ではあまごの後方を通過することが予測されたため回避義務は発生しないと言う見解に至りました。一方、検察側はあまごの側面に達するため回避義務が生じていたと言う立場でした。今回の位置ではあまごの直後を通過することになりますが、回避が必要なのでしょうか」これは海幕の航海科士官に入れ知恵された疑問点だ。これは航海を経験していなければ解答できないはずなので裁判官は誰か専門家に質問したはずだ。打ち合わせ通り牧野弁護士は裁判官、私は検察官の表情を注視した。
「その件はこの場で結論を出すべきではないと考えます。今後の公判の中で適切な解答に至るものと信じております」この回答に検察官は安堵した表情を見せた。それをどのように分析するべきなのか。検察官を通じて海難審判の関係者と接触して入れ知恵されたとなると裁判の公平性に重大な瑕疵が生じるのは間違いない。逆に判断を示さなかったことに安堵したとすれば検察側は不利であることを自覚していることになる。裁判も戦闘として中々面白いものだ。
  1. 2018/05/21(月) 08:59:58|
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振り向けばイエスタディ1194

帰路はハワイを29日の夜8時過ぎの便で飛び立って成田に着くのは翌30日の夜11時過ぎになる。これは時差と偏西風に逆行するため約8時間の飛行になるからでハワイでは日帰りで結婚式に出席しても実質的に2日間の休暇を取ったことと変わらない。
帰りは第3種夏制服を着ていたが平日の夜間の便なので満席ではなくそれなりの酒を飲んで熟睡してきた。これから官舎に戻っても眠られるのは数時間になる。制服を着ているのを幸いに職場で仮眠することにした。実は陸上に限らず各幕僚監部は課業時間中は全国各地の司令部や部隊からの問い合わせへの応答に忙殺されて仕事に手がつけられず残業で処理するのが一般的なので職場で仮眠する隊員は珍しくはなくシャワー室も意外に混んでいるかも知れない。
「あれ、法務官室も残業ですか」「いや、時差ボケで寝過ごすと困るからこちらで仮眠することにしたんだ」都営新宿線の曙橋で下りて途中のコンビニエンス・ストアで買ってきた夜食と朝食のカップ麺とパンを抱えて自動販売機コーナーによると先客になっていた他の職場の3佐が声を掛けてきた。法務官室は問い合わせも即答を要するものは珍しく、残業も数時間程度なので職場に泊まることは年度末くらいだ。その意味では少し困惑されても不思議はない。
「尤も、これから裁判が本格化するとこちらが定宿になるかも知れないから、その時はよろしくな」「例の海幕のイージス艦と漁船の事故ですね。健闘を祈ります」そう言うと3佐は飲み終わったコーヒーの空き缶をゴミ箱に捨てて職場に戻っていった。
時計を見るともう日付が変わっている。これは早くシャワーを浴びて仮眠しなければこちらに来た意味がなくなってしまう。私は足元のカバンを取ると自分の職場に向かって歩き出した。
「モリヤ2佐、おはようございます」翌朝、テレビを点けて朝のニュースを見ながら朝食のパンを食べていると意外に早い時間に庶務係の1曹が出勤してきた。
「うん、ドゥーブラエ、ウートゥラ」こんな時に素直に返事しないところが私の悪癖だ。今回はロシア語にした。1曹もそんなことには慣れているので笑ってうなずいた。
「あれッ、このコーヒーは」「それは毎度おなじみ現地調達のハワイアン・コナだ。冷蔵庫にはハワイアン・ホスト(マカダミアン・ナッツのチョコレート)とアメリカ版コカ・コーラが入っているからみんなでどうぞ」今回の結婚式では日本式に引き出物はつけなかったので土産は佳織のところへ行く度の定番になった。本来であれば料理は兎も角として記念品くらいはつけるべきだったかも知れないが、それは各人が自費で購入してもらおう。
「公判中に私用で2日間も休暇をお願いして申し訳ありませんでした」課業が始まって統合幕僚監部首席法務官室に顔を出すと先ずはお礼を兼ねた謝罪から始まった。
「まあ、息子さんの結婚式だから当然だよ。私も同じ海の男の結婚を祝福したかったのだから気にしないでくれ」境1佐の返事を聞いて私はホッと溜め息をついた。
「それで留守中に何か動きはありましたか」「2日間では表立った動きはなかったが、滝沢弁護士の知人からの情報によると判事は我々と検察の航跡図の中間位置を航跡とする方針を固めたらしい」検察と我々の航跡図では約800メートルのズレがあったので間を取ると400メートルになるのは算数ができない私でも判る計算だ。
検察側の航跡図の位置であれば進路を変更しなくても前を通過できるため右側から直進し、あまご側に回避義務が在ったことになる。一方、我々の航跡図では直進してもあまごの後方を通過するので回避義務は生じない。
もう1つの問題は検察側が航跡図の根拠としている「左、北西7度方向、約3マイル(約5・5キロ)の位置にあまごを視認していた」と言う僚船の証言と齟齬が生じないかだ。何だか時差ボケを強制的に解消させられているような状況になってきた。これはもう一度、海上幕僚監部の航海科士官を交えて航跡図の検証を行う必要がありそうだ。
「ところでハワイに行く口実にしていた例の航海実習船と潜水艦の衝突事故の件は現地で何か新情報は得られたのかね」ここで痛いところを突かれてしまった。現地には約14時間しか滞在していない上、その大半は結婚式と披露宴だったのではアメリカ海軍関係者と接触する余裕などあるはずがない。首席法務官も冗談で訊いているようで薄笑いを浮かべている。
「義父に雑談の中で確認したところでは・・・」「君の義父はアメリカ軍に人脈を持っているのかね」「はい、アメリカ戦略輸送軍の中佐パイロットです」佳織の父がアメリカの軍人であることは陸幕ではある程度知られているが海幕・統幕では初耳らしい。
「義父の説明ではあの事故はアメリカの有力政治家が乗艦中に起こったのでその実態が明らかになるのを防ぐため情報公開義務が伴う軍事法廷を避けたと言うのが現地の軍人の間の常識なのだそうです」これは披露宴の途中で父を壁際に連れ出して立ち話で訊いた話だ。
「その話は海上自衛隊では部内秘の常識だよ。反米軍の世論を起こさないために君も部外秘だぞ」「アイアイ・サー」海軍式英語で応えた私に境1佐は苦笑いした。
  1. 2018/05/20(日) 10:12:02|
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西城秀樹さん・星由里子さんの逝去を悼む。

西城秀樹さんの逝去を悼む。
5月16日に実は野僧も長年来のファンである歌手・西城秀樹さんが亡くなったそうです。「秀樹、カンレキ!」過ぎの63歳でした。
野僧の世代は小学校の高学年の頃に花の中3トリオやアグネス・チャン、キャンディーズ、そして新御三家などがデビューしてアイドル・ブームが始まりましたが、自宅では父親が「ひろみって奴は男か女か」と郷ひろみさん、「こいつはA級戦犯の真似をしているのか」と西城さんを毛嫌いしたため新御三家は話題にできませんでした。ところが穢土を離れて高校に入るとツッパリ兄ちゃんがロック、トッポイ奴はフォークでもその他大勢の女子は新御三家ほかのアイドルのファンをやっていたので妙に詳しくなりました。そんな中で覚えた「ブルー・スカイ・ブルー」には本当に感激し、それからは秘かなファンになったのです。
特に高校3年の卒業間近に発売した「勇気があれば」は生徒会モリノ内閣の書記(拙作「完成した素描画」に登場している)が同時期に流行した郷ひろみさんの「マイ・レディー」を唄うと野僧がこちらを唄うのがクラスの昼休み定番の出し物になっていました。
こうして覚えた2曲を航空自衛隊に入って赴任した沖縄のカラオケで披露すると女の子たちに大人気で、特に「勇気があれば」は「私が励まされているみたい」と感激して泣き出すこともありました。
西城さんの歌は歌詞だけでなく歌声にも元気を与える力があるようで、今もカセット・テープに録音した2曲を聴いていますが、追悼のはずが逆に励まされているようです。

星由里子さんの逝去を悼む。
5月17日に女優・星由里子さんが亡くなったそうです。74歳でした。
職場の小父さんたちは星さんのことを「若大将シリーズの水着姿に欲情した」と言っていましたが、野僧は1976年の大河ドラマ「風と雲と虹と」の平将門の叔父・平良兼の妻=源護の娘で男たち以上の武闘派の詮子役で知りました。その後、ドラマでも気位が高く冷酷な社長夫人の役が多くそのイメージで固まっていました。
ところがレンタル・ビデオが始まり、戦争映画を借りてくるようになると「太平洋の翼」で若き日の星さんと対面することができて(小父さんたちの水着ではないものの)弟の戦死の真相を加山さん=若大将の滝中尉に確かめに来た姉の美しさに感動してしましました。
さらに「刑事物語3・潮騒の詩」では沢口靖子さんの母親で逃亡犯である夫・夏木陽介さんを待つ旅館の女将役でしたが沢口さんと同じ顔をした看護婦の彼女と一緒だったので、星さんにまでは意識が回りませんでした。
しかし、考えてみると星さんは「ゴジラ対モスラ」にも出演していましたから「風と雲と虹と」が初対面ではありません。おそらく前者では「モスラ~やモスラ・・・」と唄っていたザ・ピーナッツの印象が強過ぎて記憶に残らかなったのでしょう。
御2人の活躍に敬意を表しつつ御冥福を祈ります。
星由里子「太平洋の翼」の星由里子さん
  1. 2018/05/19(土) 09:45:27|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ1193

「それでどうなったの」佳織の告白が幕間になると梢は身を乗り出して質問してきた。
「後藤先生が学校で私をLL教室に呼び出して話を聞いてくれたの」「後藤先生って古河・・・の恋人ね」梢も流石に古河を「先生」と呼ぶのは避けたらしい。
「それから後藤先生が母と祖父母に事情を話してくれたから学校に抗議したんだけど無駄だったのよ」「無駄、どうして」この展開は理解できない。自分の生徒に性行為を強制した上(佳織は15歳であり、相手の部屋の布団の上なので強姦罪は成立しない)、その後も強要を継続した悪質な教師が処罰せられないとは考えられない。
「古河は県教組の地区代表だったから教育員会も迂闊に手出しできなかったの」「県教組って沖縄で言えば沖教組のことね。それなら判るわ」梢が納得するところを見ると両親も沖縄県教職員組合を問題視しているようだ。
兵庫県の教職員組合は県内の国公立大学が京都大学の学閥のため完全に左傾化している。京都大学はドイツに官費留学した理科系の学者たちが現地で大流行していたマルクス主義に染まって帰り、教え子を洗脳したため日本国内での共産主義運動の発信源になってきたのだ。
「結局、祖父が自宅を売って資金を作ってくれたから私は神戸の私立中学校に転校できてアメリカの大学に留学できたけど、祖父母はアパート住まいから老人ホームに入れて死なせてしまったし、母も懸命に働いてたから病気に気づくのが遅れて亡くなってしまった。私のために家族が犠牲になったのよ」その原因を「古河」とは言わないことで梢は佳織がモリヤの妻であることを実感した。どちらも出来事の原因を自分に負わせるがモリヤは反省に後退し、佳織は対策に前進する。つまり2人が一緒にいてこそモリヤ家の機能は完全になるようだ。
「こんな話、先生の娘の梢さんには信じてもらえないでしょうけど・・・」話し終わって佳織がグラスを口に運ぶと梢もコースターに置いていたマンゴをかじって話を引き継いだ。
「沖縄が本土復帰した時、それまでのアメリカ式の学校教育を日本式に修正するため各都道府県から教員が派遣されてきたのよ」「どちらかと言えば本土の学校教育をアメリカ式にしてもらいたかったわ」佳織の皮肉に梢は軽く吹き出してから残り少なくなったカクテルを舐めた。
「そうしてやってきた教員たちは『沖縄は島津に侵略されて植民地になり、明治政府に琉球王朝を滅ぼされた揚句、戦場にされた犠牲者だ』って言い出して復帰前の本土復帰運動を完全に否定したの」「それは古河よりも上の60年安保の世代ね」岸内閣が推し進めた日米安全保障条約の全面改定に反対して世論が沸騰した60年安保と10年後の自動改定を控えて学生たちが過激な反対運動の再現を狙っていた70年安保は大学を扇動と闘争だけを教える革命戦士の養成所と化していた。しかし、その時期に大学に進んだ無能で危険な人間たちでも教師に採用されれば生徒の「先生」にしなければならないのが現実だ。
「おまけに道徳などは権力者が人民を支配するための道具だって自分中心の考え方を広めたから、今の沖縄の子供たちは家庭と学校で教えられることが矛盾してしまう。それでもテレビを見ると教師と同じことを言っているからどうしようもないわ」「多分、淳之介を産んだ女は沖縄の学校教育を素直に身につけたようね。やっていることを見ているとそんな沖縄の教育を体現しているもの」ここで佳織が美恵子を誹謗した。
「夫はあの女の身勝手な行動で幹部自衛官としての将来を潰されたのよ。だから貴女がやり直したいって言えばきっと・・・」佳織は梢の人間性に触れ、夫にとっての幸せな人生を考え合わせたことで自分を否定するような言葉を口にしてしまったようだ。
「それは駄目よ。私だってモリヤさんと別れてから・・・」それから始まった梢の告白も女性として耐え難い屈辱と苦労の悲話だった。梢の元夫は恋人と別れた傷心につけ入って酔い潰し、意識を失った梢を送ってアパートで肉体を奪った。その時の写真で脅して結婚させながら家庭を顧みず、妊娠中の梢を強引に抱いて早産に至らせ、あかりから視力を奪った。
佳織はそれでも無事に娘を育て上げ、今日の日を迎えさせたこの女性に心からの敬意を抱いた。
「そう言えば私、貴女の名前は20年前から知ってたのよ」「へーッ、どうして」「あの人、幹部候補生学校の宴会で酔って帰ると寝言で『コズエ』って叫ぶって評判だったの。本当に愛されていたのね」最後を過去形にしたのは無意識だが冷静に考えてみると現在進行形では困るのは確かだ。ここで締め括りの乾杯をしてカクテルを飲み干すと梢が涙を流し始めた。
「ありがとう・・・ごめんなさい」佳織は泣きながら同じ言葉を繰り返している梢を立たせると優しく抱き締めた。背は佳織の方が5センチ高いので違和感はない。
「何だか私が愛してしまいそう」佳織は何故か宝塚の男役を演じ始めた。
  1. 2018/05/19(土) 09:42:34|
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5月19日・エリザベス1世の母・アン・ブーリンが処刑された。

482年後に同じイギリスの王孫が結婚式を挙げる1536年の明日5月19日にバージン・クイーン・エリザベス1世の生母であるアン・ブーリンが処刑されました。
日本の皇室は男女を問わず子供たちを続々と留学させているように(今上さんの娘は除く)イギリス王室に妙な親近感を抱いているようですが、その歴史を見ると血に塗られた殺戮や不倫、凌奪の連続で男子は兎も角として女子については再考した方が良さそうです。
アンさんのブーリン家はグレート・ブリテン島東部のノーフォークの農民でしたが曾祖父が絹織物の工員見習いとしてロンドンに出たことで巨額の財産を築き、ロンドン市長にまで成り上がったのです。その息子である祖父も事業を発展させたためサーの称号を与えられました。こうして上流社会の一員になると貴族の娘を嫁に取り、娘を国王の妾に差し出すなどの血縁関係によって地位を強固に、領地を拡大していきました。
そんなブーリン家の3代目であり、フランス大使になった父も国王・ヘンリー8世の即位前の妾であった伯爵令嬢と結婚して1男2女を儲け、その娘の1人がアンさんでした。
アンさんは幼い頃から貴族の子女としてフランスで学校教育を受け、フランスの宮廷でデビューを飾るとヘンリー8世に再嫁する王女の侍女に選ばれたのです。この時、アンさんにはスコットランド貴族との縁談があったのですが実現しませんでした。
こうして王妃の侍女として帰国すると深刻な問題が生起しました。それは王妃とヘンリー8世の間に女子しか生まれず、強く男子を望むヘンリー8世はアンさんに妾になることを強要したのです。しかし、敬虔なカソリック教徒であったアンさんは妾に甘んじることは拒否し、肉体関係と引き換えに王妃の地位を要求しました。
実はヘンリー8世も熱心なカソリック教徒だったため離婚を許さない戒律の特例を認めるようバチカンに談判しましたが、王妃と叔母と甥の関係であった神聖ローマ帝国の皇帝の圧力もあって拒絶され、アンさんからは肉体関係を拒否されたヘンリー8世は窮鼠が猫を食むようにカソリックから離脱して現在のイギリス国教会を創設したのです。
こうしてカソリックの呪縛から逃れたヘンリー8世は王妃を離別・幽閉して1533年3月に妊娠中のアンさんを正妻に迎えたのです。ところがヘンリー8世の早逝した兄の妻でもあった前王妃は国民に広く親しまれていて人気が高く、成り上がり貴族の娘であるアンさんの立場は始めから危うかった上、9月に産んだのが女子だったことでヘンリー8世の執着も急速に冷めて行きました。
そうしてヘンリー8世が今度はアンさんの侍女に目をつけたため結婚から約1000日で国王の暗殺、不義密通の罪で断頭台にかけられることになりました。
それでもヘンリー8世はアンさんが生んだ娘・エリザベスを王位継承者に指名し、前王妃が生んだ娘・メアリーを庶民に落とした上でエリザベスの侍女にしたため義姉妹の間には深い怨嗟が生じ、本人の没後にブレディ(血塗れ)・マリーVSバージン・クイーンの王権とカソリックVSイギリス国教会の宗教を巡る血みどろの抗争が発生しました。現在の王家とは血のつながりはないとは言え嫌になるほど恐ろしい家柄です。
  1. 2018/05/18(金) 09:34:51|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ1192

その日、顧問をしている部活動の試合で不在にしている古河のアパートに同僚の女性教師・後藤圭子が訪れていた。最近はドライブに出た途中でカー・ホテルに寄って関係を持つようになっているため、この部屋に来るのは半年ぶりになる。
おそらく古河自身も渡してあることを忘れている合い鍵でドアを開けると中からはカビと煙草、生ゴミと男性特有の臭いがする。
「相変わらず無精ね。これでよく生徒に身嗜みを指導できるよ」後藤は留守の間に大掃除をして、帰ってくれば手料理に腕を揮うつもりだった。したがって掃除の手始めに万年床を干すことにした。後藤は居間兼書斎の奥の寝室の襖を開けた。
そこには自分が何度も抱かれた布団が敷いてあるが、これまでとは違う臭いがする。やはり女の嗅覚は敏感なようだ。後藤はカーテンを開けると掛け布団をまくってみた。
「何これ・・・」敷布団の腰の位置に血痕が残っている。女性であれば予定外の月経によって汚してしまうこともあり得るが、男性の布団では処女を抱いた時の破瓜(ロスト・バージン)の出血以外に考えられない。普通であれば嫌悪感を覚えて敷布だけでも洗濯するはずだが、男性の中には破瓜の血を征服欲が達成された証明と考える者もいるらしい。
「この長い髪の毛は誰の物なの・・・」後藤が膝をついて枕元を確かめると自分とは違う長い直毛が何本も落ちていた。物的証拠から考えられる結論は1つ、古河はこの布団で髪の長い処女を抱いたのだ。
後藤は居間兼書斎に戻り、机の引き出しを確認すると書類の上にノートが載っていた。
「伊藤佳織・・・あの人のクラスの帰国子女じゃない」表紙には氏名だけが記されている。後藤の胸に自分も英語を教えている伊藤佳織の顔が浮かんだ。アメリカ帰りと言うこともあって後藤には扱い辛い生徒ではあるが、授業では気を使って恥をかかすような質問はしない。帰国子女を受け入れた古河が担任として指導事項を記録するノートを作っても不思議はない。後藤は古河の教師としての取り組みを覘くつもりで開いてみた。
「×月○日初日。未開発のため乳房を揉み、乳首を吸っても反応せず。愛液の分泌もなくかなり痛がった。出血あり」見慣れた古河自筆の文字で綴られている内容に愕然とした。
「×月□日第2回。愛撫の途中で乳首を噛むと身体を硬直させた」「□月■日第4回。後背位に移行。圭子よりも足が長いため高さが合わない。突き上げ気味に挿入すると反応した(頭を上げた)」今度は自分と比較している。あの伊藤佳織がここで何を教えられているのか。
「□月○日第6回。正常位から一気に対面座位に移る。入ったまま深く突き刺さったため悲鳴を漏らした。しかし、それは苦痛ではなく喘ぎ声だろう。開発されてきたのかも知れない」「△月◇日第8回。横臥した上に腰を下ろす座位を教えた。腰の動きはぎこちないが今後の調教で上達するだろう」「☆月★日。第10回記念にフェラを教えた。かなり抵抗したが口に押し込むと大人しくなった。噛まれないように注意を要する。舌の使い方を教えても従わないため深く押し込むと嘔吐した」「☆月△日第12回。相変わらずフェラを拒否する。圭子は喜んで飲むのに同じ女でも違うらしい」国語の教師である古河の記述は具体的で詳細だが、これでは自分の生徒を性玩具として調教していく過程の記録に他ならない。最後のページには「性感帯」と書いた一覧表があり身体の各部位と刺激した方法、反応が羅列されている。
読み終って後藤は女としての嫉妬ではなく教師としての怒りで身体が震えだした。

母の典子は定年退職した後、病気がちになっている父と母、そして佳織との生活を支えるため、日中は会社の事務員、夜には英会話教室の講師として働いている。今日も児童、生徒に続きサラリーマン相手の授業があるため遅くなるようだ。勉強が一段落した佳織は先にシャワーを浴びることにした。
古びた伊藤家の浴室は薄暗い。脱衣場で服を脱ぎ、浴室の電灯を点けて中に入ると少し眩しく感じる。佳織は縦に長い浴室の奥にある湯と水の2つのバルブを調整して蛇口からノズルに切り替えようとした時、鏡に映った上半身が目に入った。
「こんな・・・」佳織は自分の裸身に言葉を失った。乳頭は赤み帯びて白い肌に浮き上がり、乳房は以前よりも大きく柔らかくなったように感じる。それはハワイの中学校でも早熟で奔放に男性遍歴を重ねていた同級生たちと同じ肉体だった。佳織自身は彼女たちを軽蔑し、心の底から愛せる相手に純潔を捧げることを誓っていたのだ。
「こんな身体、もう誰にも愛される資格はないわ・・・」佳織は床に座り込んだ。まだシャワーを浴びていないのに頬からは水滴が滴り落ちている。目の前では風呂桶から湯が溢れていた。
  1. 2018/05/18(金) 09:33:04|
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5月18日・スリランカ内戦が終結した。

2009年の明日5月18日に反政府ゲリラの首魁・ヴェルピライ・プラバカランの死亡が確認され、我が祖国・スリランカが25年間にわたり苦悩してきた内戦が終結し、佛国土としての平穏を取り戻しました。
ただし、この内戦の実態は欧米や日本の人権団体やその宣伝媒体に堕しているマスコミ、一部のインターネットなどが説明していることとは大きく喰い違っているのでスリランカ政府軍に関わった(日本の刑法第93条「私戦の予備陰謀」その他に該当するので「参加した」とは言いません)野僧が当事者たちの証言を代弁したいと思います。
インドはイギリスとの独立交渉の中でセイロン=スリランカを自国領と主張したのですが、1815年にイギリスによって廃位させられるまで2千3百年にわたりシンハラ王朝が統治していた独立国であったことから実現しませんでした。このため独立後のヒンドゥー教のインド、イスラム教のパキスタン(バングラデシュの独立は1971年)の分離などの混乱が落ち着いた時点から間接侵略を開始し、それが内戦に発展したのです。
スリランカには古代から国民の約70パーセントを占めるシンハラ族と30パーセント弱のタミル族(サラリーマン英会話のウィッキーさんはこのタミル族)、その他の少数部族が住んでいたのですが、イギリスが植民地にした時、紅茶農園の労働力として新たにインド南部からタミル族を大量に強制移住させたことで内戦の原因が生じました。古代からのタミル族はシンハラ族と対等な地位を得て共存共栄していたのに対して後発のタミル人はインドでも奴隷的な地位(カ-ストにおけるスードラ)であったため教養や倫理観に欠けており、独立に際してイギリスが無責任にもそのまま残置したことで不満分子としてスリランカ国内で犯罪を頻発させるようになりました。
インドはそんなタミル族の不満分子でも指導的立場にある人間に軍事教育を施した上で武器を与えて帰国させると現地で不満分子を集めて反政府ゲリラを組織させました。この反政府ゲリラ組織は「タミル・イーラムの虎」と自称していましたが、このイーラムはタミル語の「スリランカの地」を意味する単語であってイスラム教とは関係ありません。
こうして始まった内戦ではイギリス軍式の厳正な規律を学んでいる政府軍への国民の信頼は絶大で、反政府ゲリラは急速に北部へ追い詰められていくと戦闘を放棄して国宝寺院や重要施設の爆破テロや民族融和のため必ず入閣することになっているタミル族閣僚や地方首長の暗殺を繰り返すようになったのです。
それでも圧迫が強まると村落を占領して婦女子や老人を人質にして男性を戦闘に参加させるようになり、撤退時には口封じと見せしめのため残虐に皆殺しにしました。ところが欧米と日本の人権団体はこれを政府軍の凶行と一方的に断定し(証拠に撮影した写真を戦利品と曲解するなど)、国際会議などで批判を繰り広げていたのです。
しかし、スリランカ政府は2008年に国際連合に強要された停戦合意を破棄すると海軍・空軍も投入した総力戦を開始し、反政府ゲリラの拠点を空爆するのと同時にインドからの海上補給路を遮断して息の根を止めました。ここでは正義が勝ったようです。
  1. 2018/05/17(木) 09:44:51|
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振り向けばイエスタディ1191

「伊藤、お前はキスをしたことがあるのか」図書室での個人授業が長引き、他の教員たちが引き揚げて2人きりになった時、突然、古河が訊いてきた。
机の上には国語の教科書と国語辞典、和英辞典が開いて置いてあり、そのページを窓から差し込む夕日が赤く染め始めている。
「はい・・・あります」佳織はためらいがちに答えた。佳織は帰国する直前、ボーイフレンドに最後のデートに誘われ、ホノルル市内で過ごした後、人気のない海岸で肩を並べて夕日を眺めていてキスをした。それがファースト・キスだった。しかし、古河にとっては中学生がキスを経験していると言うことだけでベテラン教師の見解を肯定する根拠になった。
日本の女生徒であればこのような告白をすれば恥じらいに赤面して泣き出してしまうはずだ。しかし、この生徒は平然として表情も変えない。つまり特別な出来事ではないのだろう。
そう推理した古河の頭には生徒指導の責任者であるベテラン教師が口にした「フリー・セックス」と言う単語が浮かんできた。古河自身も大学時代、学生運動の集会の後には学内の集会場に戻って同志たちとの乱交パーティーで若い血を燃え立たせていた。このため教師になってからも同僚の女性教師との肉体関係で性欲を解消しているものの同じ相手との決まり切った行為では満足できていないのが本音だ。そう思うと目の前に座っているこの垢抜けした美少女がアメリカで経験してきた性の技法を試してみたくなってきた。
「伊藤、そろそろ図書室を閉める時間だ。続きは僕のアパートでやろう」「でも・・・」「日本には中間・期末テストと言う制度があるんだ。その成績が高校受験に直結するから疑問は早目に解消した方がいいぞ」佳織は古河の言葉を教師としての責任感と生徒への愛情として受け取り、机の上に広げていた本と文房具をカバンに詰めて一緒に立ち上がった。

佳織は古河の車で郊外にあるアパートに連れて来られた。2Kのアパートの書斎兼居間にしている部屋の机に向かって勉強を再開した。古河は背後に立って肩越しに助言を与えていたが、新出の漢字の説明を終えた切れ目で雑談を始めた。これは気分転換のために授業でもよくやることなので佳織も気軽に応じた。
「アメリカはキスの本場だろう。どんなやり方をするんだ」突然、古河の声が妖しくなった。先ほどまでは授業の時以上に熱心な口調だったのだが、この声は佳織を硬直させた。すると古河は両手で佳織の頬を押さえ、椅子を回転させて自分の方に向けさせると唇を重ねてきた。
古河の唇は煙草の臭いがして唾液は粘り気が強い。そんな嫌悪感を抱いたところに舌で前歯を開けて奥に差し入れてきた。
「舌を使うんだろう。やってみろ」しかし、佳織にとっては2度目にキスであり、前回は軽く唇を重ねただけだった。古河はしつこく口の中を舐め回した後、唾液を吐き入れた。
「俺じゃあ嫌か・・・それなら燃えさせてやるぞ」、そう宣言すると今度はセーラー服の上から両胸を掴んだ。すると思いがけない手応えに唇を歪めて好色な笑いを浮かべた。
「うん、やはり大人の身体だな。好く仕上がっている」古河は日本人の女生徒に比べて発育が良い佳織の乳房を確認するように揉み始める。それにしてもこの口調は身体検査をしている時のようで教師としての逃げ口上なのかも知れない。
「どうだ感じるだろう・・・感じていないみたいだな。だったら・・・」国語の教師である古河が理科の実験をしているような手順で佳織を追い詰めていく。佳織の前に膝立ちになるとセーラー服の裾から手を入れて、直接、乳房を掴んできた。
やがて佳織は奥の寝室の万年床に押し倒され、全裸に剥かれた。その時も古河は「制服がシワになっては困るだろう」と教師らしい配慮を口にした。こうした言い訳が通用すると思い込んでいるところが「先生」と呼ばれる日本の教師の病理なのだが、佳織は帰国・転校が決まった時にハワイの中学校の教師から与えられた注意を思い出していた。
「日本の学校では教師が絶対的権力を持っていて生徒の人格はその手の中にあるそうだ。日本に行ったら絶対に教師に逆らってはいけないよ」佳織も帰国後の学校生活でそれが真実であることを確信している。日本の学校では教師に指名されるまで発言は許されず、質問さえも教師の不備を指摘する行為として嫌われるのだ。
そうして始まった佳織にとっての凌辱、古河にとっての実験の間も授業のような1人芝居は続いた。部屋の明かりで照らし出された佳織の身体を長々と観察し、全身を手で撫で回して反応を確かめ、それが唇、舌になる。
古河は佳織の未開の身体に触れ、吸い、舐めながら「感じろ」「感じろ」と呟いている。しかし、佳織には「感じる」と言う命令の意味すら判らなかった。
ん13イメージ画像
  1. 2018/05/17(木) 09:40:53|
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振り向けばイエスタディ1190

「私・・・そうだったわよ」梢は答えてからグラスのカクテルを飲み干した。それを見て佳織も残り少なくなっていたグラスを空にしてバーテンダーに次のカクテルを注文した。
「今度はブルー・ハワイアンにしてちょうだい。梢さんも同じで好いでしょう」梢がうなずいたのを確認してバーテンダーはグラスを下げ、シェイクの準備を始めた。ブルー・ハワイアンはレモン・ジュースをココナッツ・ミルクに替えたカクテルなので酸味よりも甘味が増し、色も白濁した青になる。
カウンターの中でバーテンダーがシェイクを振り始めると会話は中断してその妙技を鑑賞するのがマナーだ。佳織と梢も日系人の中年バーテンダーが肩の上でシェイクを振る姿を感心したように注視している。やがて細かく砕いた氷を入れたグラスの中に青い液体が注がれ、上に今度は薄く切ったマンゴが飾られた。
「マダム、ブルー・ハワイアンでございます」グラスがコースターに載せられると2人は息を合わせたように取り、顔の前に掲げて乾杯した。
「でも夫と知り合ったのは21歳の時でしょう」「うん、奥手だったんだね。父が八重山の離島に赴任して母が家を守っていたから私も心配をかけることができなかったのよ。だけど今度は母が名護に転勤になって教員宿舎を出たからアパート暮らしを始めたの」梢の説明に佳織は陸上自衛隊と同様に個人の事情を無視した人事に困惑したが教員には労働組合があり、不当な人事に抗議する手段があるはずだ。そんな佳織の顔を見て梢は補足説明をした。どうやら夫と一体化している感性はその妻にもつながるらしい。
「両親は本土復帰後に乗り込んできた本土の教育員たちに服従しなかったから県教組に嫌われて冷遇されていたの」「その連中が沖縄教職員組合を作って学校教育を大きく左に捻じ曲げたのね」佳織が嫌悪感をアカラサマにすると梢もうなずいた。つまり梢の両親は教員でも反戦平和に名を借りた反米反日親中の政治闘争とは距離を置いており、むしろアメリカによる統治により明治政府では打破できなかった琉球王朝時代の旧弊を解消して近代化を成し遂げたと肯定的に評価していたのだ。
「母は私に男性との性行為は子孫を得るための生命維持の活動だと説明した後、だからこの人の子供を産みたいと願える相手にだけ抱かれなさいって教えていたの。だから・・」「そう願ったのね」佳織の言葉に梢は21歳の処女のような顔になって頬を赤らめた。
「でも好きな人にバージンを与えられた女性は幸せよ・・・」佳織は急に表情を暗くしてグラスの上のマンゴのスライスを口にした。佳織の歯型がマンゴに刻まれてやがて消えた。
「あかりは望んで産んだ子供じゃあないのよ。勿論、今は掛け替えのない娘として命がけで愛しているけど」佳織の言葉を女性の立場で追及することはできないため梢は自分の辛い経験を先に語ることにしたようだ。それは佳織も同様らしく黙って互いの目の奥を見つめ合っていた。
「私は中学2年の時、両親が離婚してハワイから母の実家がある兵庫県に帰国したのよ」やはり発端を作った佳織から告白することにした。

佳織が転校した中学校では初めて受け入れた帰国子女に教師たちも好奇心を駆り立てていた。
「先生、伊藤佳織はどうですか」担任の古河は職員室でも同僚たちの興味本位の質問を浴びせられて少し食傷気味になっている。
「意外に真面目な生徒ですよ。母親が日本人ですから日本式に躾けたのでしょう」古河の答えに同僚の男性教師は軽い口調で別の見解を示した。
「しかし、別れた父親はアメリカの軍人だって言うじゃあないですか。アメリカ兵を追ってハワイに行ってしまうような女性がまともな躾なんてできないと思いますよ」その会話を聞きつけて別のベテラン男性教師が加わってきた。
「今は真面目そうに振舞っていますが、アメリカ人として自由奔放な学校生活を送ってきた生徒ですから注意して下さい」このベテラン教師は生徒の生活指導の責任者だ。
「今流行りのフリー・セックスを持ち込まれても困りますよ」「そうですか。今の態度は模範生を演じてるんですかね」古河はベテランから断定的に注意されると他の日本人の生徒以上に真面目に見える伊藤佳織がアメリカ映画で描かれているような平気で恋人と外泊を繰り返す無軌道な女の子に思えてきた。
実は国語担当の古河は今日も放課後、図書室で佳織に個人授業をすることになっている。他の科目では優等生と言って良い成績を収めている佳織だが国語だけは苦手なのだ。
「今日はアイツの本性を暴いてやろう」そう決意すると古河は午後の授業の準備を始めた。
お・純名里沙イメージ画像(21歳の梢)
  1. 2018/05/16(水) 09:36:53|
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振り向けばイエスタディ1189

佳織と梢は私をダニエル・E・イノウエ空港に送った後、ホテルの最上階にあるバーで飲んでいた。佳織も普段着になって同世代の女性同士で本音を語り合う酒になりそうだ。
「今回は遠慮なくご主人に接してしまってスミマセンデシタ」注文したカクテル=ブルー・ハワイで乾杯した後、梢は真面目な顔をして詫びてきた。実は空港への見送りに誘ったのは佳織の方で梢は断っていたのだ。
「いいえ、夫と梢さんは呼吸をすると自然に息が合ってしまっているように見えました」佳織の率直な所見に梢は顔を曇らせてグラスを口に運んだ。ブルー・ハワイはホワイト・ラムとブルー・キュラソー(リキュールの1種)にパイナップルとレモンのジュースを入れたカクテルなので甘酸っぱい味がする。グラスにはデンファレ(食用ラン)が飾られていたが、それはコースターに載せている。
「それでも遠慮しなければいけなかったんですが、隣りにあの人が立っていると無意識に話し掛けてしまうんです」「それに夫も無意識に応えてしまう。それじゃあどうしようもないですね」
佳織は少し唇を歪めて笑うとグラスのブルー・ハワイを半分ほど飲んだ。
「でも安心して下さい。あの人はもうセックス・レス(性的不能)ですからジャラシーを感じることはありません」思いがけない説明に梢は飲みかけていたグラスを口から外した。モリヤの年齢から言えば男性の更年期になるにはまだ早い。ましてや自衛官と言う身体を鍛える職業であれば体力と精力は一般の同年代の男性よりも強く維持されていても不思議はないはずだ。
「どうして・・・」「あの人は拘置所に収監されている間、極度のストレスと生活環境の変化で自律神経に変調を来してしまって身体機能を害しているんです」納得できていない顔をしている梢にここでも佳織はありのままを説明した。それを聞いて梢はコースターに載せたデンファンを指で摘み、カウンターの照明にかざして眺めながら思案した。
「あの人のことだから裁判では無罪を主張していても命を奪った人たちへの罪の意識を強く感じて自分を責めていたんでしょう。再会した時、お坊さんみたいな雰囲気になっていて驚いたけど今の説明で理由が判ったわ」梢の理解は夫と言う人間の本質を間違いなくとらえている。それは深く温かい気持ちで夫と言う存在を包み込んでいるからなのだろう。
「梢さんは夫とはどのくらいつき合っていたんですか」「2年よ。貴女に比べたら一瞬みたいな短時間だけど私には一生分の愛情を味わえたわ」先ほどまでは遠慮がちだった梢の口調に少し対抗意識が加わったように感じた。
「2年のつき合いでどうしてそこまで深く愛し合えたんですか」「貴女だって深く愛し合っているんでしょう」「オフ・コース」梢の質問に佳織は英語で即答した。その力がこもった口調に梢は何故か安心したように微笑んだ。
「私は貴女があの人をあそこまで育てたって思っているのよ。私にできるのは寄り添って支えることだけ。貴女のように一緒に前へ前へと突き進む力はないわ」「そんなこと・・・」確かに一緒にいる夫と梢は2本の線が支え合っている「人」と言う文字のように見えた。若し、夫が梢と結婚していればどのような人生を歩んだのだろうか。おそらく航空自衛隊の部内選抜で幹部になって、今頃は3佐の編成単位部隊の長として自分の隊を育成することに全力を傾注し、家に帰れば好き夫、父親として和やかな人生を送っているのかも知れない。
「あの人がセックス・レスになったって言ったけど貴女にもそんなことあまり意味ないんじゃあないの」「どうして判るんですか」「若し、私が同じ立場になってもあの人の胸に顔を埋めて鼓動と吐息を聞いていられればそれで十分だもの」梢の答えは佳織も同感だ。しかし、この女性に接していると胸に抱いている苦悩を口にしない訳にはいかなくなった。
「でも私はそんな掛け替えがない人との大切な時間を仕事のために何年も空費してしまったんです」佳織が自衛隊の指揮幕僚課程に入校して2年、アメリカ陸軍の指揮幕僚大学院に留学して2年、そしてハワイの太平洋陸軍連絡官になって3年、その間、夫は不本意な閑職に身を置き、愛していた息子を手放し、ようやく与えられた海外での任務で殺人容疑に問われ、その裁判で身心を消耗したのだが妻として寄り添うことはしなかった。9月に志織を残して帰国すれば初めて2人だけの生活が始まる。それが近づくつれて佳織の中では期待と不安が交錯し、何よりも夫婦として暮らす自信が持てないでいるのだ。
「大丈夫、あの人は貴女が帰ってくるのが待ち遠しくて今から何をするか計画を立てて楽しんでいるはずよ」それは間違いないはずだ。それでも佳織は梢の何倍もの期間を夫婦として過ごしていながらどうしても届かない何かがあることを噛み締めていた。
「梢さんは夫に抱かれた時、バージンだったんですか」唐突な質問が佳織の口から出た。
  1. 2018/05/15(火) 10:16:16|
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振り向けばイエスタディ1188

結婚式が終わって夕食前には母と同室だったあかりと愛知からの従兄弟とトリプルだった淳之介がダブルに移り、新婚初夜を迎えることになった。
あかりは純潔だが、実は淳之介も同様だ。結納の夜、仲人の松真叔父と父の3人で夕紀子伯母のかっちんに行った時、バージンを抱く時の具体的で詳細な心得を習ってはいるが自分もバージンでは自信が持てない。夕食を終えて戻ってきても話は上の空になっていた。
「あかり、シャワーを浴びよう」突然、淳之介が声をかけた。若い男性としての欲望と初体験に対する期待と不安が胸の中で交錯し、不整脈と呼吸困難が同時に発生しそうなのだ。
ハワイのホテルには日本のように浴衣はなく、あかりはウェディング・ドレスを脱いでからは淳之介が買ってくれたムームーを着ている。それは淳之介のアロハとお揃いと言うことだがあかりには判らない。ただ木綿の肌触りが心地よいのは確かだった。
「はい・・・」あかりはためらいがちに返事をすると部屋の籐製の椅子からユックリと立ち上がり、先ほど位置を確認した旅行カバンの中から下着とパジャマを探し始めた。すると淳之介が手を取った。
「下着は枕元に置いておこう。素肌にムームーで好いだろう」「貴方・・・」それがこれから始まる儀式の装いなのだ。羞恥心であかりは顔が火を吹いたように熱くなった。
この部屋の間取りは母と泊まっていたダブルと同じなのであかりにもバス・ルームまでの経路は判っている。それでも淳之介に引かれている手に大きな安心感を抱きながら後に従った。
「脱がせるよ」バス・ルームに入ると淳之介は入口の内側にあかりを立たせて声をかけた。
あかりが黙ってうなずくと淳之介の手がムームーの裾を持ち、両手を伸ばした頭上に引き上げる。肘が引っ掛かったので手で曲げさせると脱がして手早く畳んだのが判った。
流石に下着は自分で背中に手を回してホックを外し、下も自分で脱いだ。気がつけばあかりは全裸になっている。それは母以外には見せたことがない姿だった。
「あかり・・・」前に立っている淳之介は何かを言いかけて言葉を失ったようだ。自慰行為のオカズにしている雑誌などのヌード写真でも清純さを感じさせるモデルは珍しくない。スタイルだけで比べればあかりが彼女たちに勝っている訳ではない。それでも張りがある丸い乳房と薄い桜色の小さな乳頭は見ていることが現実ではないような気がしてくる。
「貴方」声を掛けられて我に返った淳之介は急いで裸になるとあかりの手を引いて浴槽の中に立たせ、シャワーの温度を確認すると背中を流し始めた。洗いながら触れたあかりの乳房は想像していたよりも固かった。
「あかり、疲れただろう。マッサージをしてやるよ」シャワーを終えてドライヤーで髪を乾かしたあかりを抱いて運んだ淳之介はベッドに横たえると意外なことを言い出した。あかりにとっては盲学校でのマッサージの実習で同級生と互いに試し合って以来のことだ。
「背中が痛かったんだ。よろしくお願いします」そう答えてあかりはうつ伏せになる。素直に応じたのを見て淳之介はユックリ大きく鼻息を吹き出した(鼻血を吹くぞ)。
淳之介は両親のどちらかが演習から帰ってきた夜に父が母=佳織の全身をマッサージするのを見ていたが、その後、子供たちの寝息を確かめてから何かを始めることも知っていた。今になって考えるとあのマッサージは両親の愛撫・前戯だったのではないだろうか。
淳之介はあかりムームーを脱がして裸にした。健常者の女性であれば「明かりを消して」と恥じらいを口にするところだがあかりにはその変化が判らない。むしろ淳之介の中には「この肉体を自分の物にする過程を観察したい」と言う残酷な嗜好が芽生えている。
淳之介は黙ってあかりの上に座ると父がしていたように手のひらで背中の筋肉の上を擦り始めた。これは少林寺拳法の整法の見よう見まねだが血行を促して筋肉のコリをほぐし、緊張を和らげる効果があるらしい。そうして首筋から足の裏までを揉みほぐすとあかりを仰向けにして口づけをした。あかりは覚悟を決めているのか目を閉じて素直にそれを受け容れた。それでも淳之介の唇と手が全身を這って行くと驚いたように身体を硬直させる。
やがて両方の乳房を揉み始めると眉間にしわを寄せて未知の感覚に耐えているような顔になった。時折、指で乳頭を刺激するとあかりは衝撃が走ったかのように顎を上げる。そうした反応を確かめて淳之介は乳頭を口にふくんだ。その瞬間、あかりは「アッ」と声を漏らした。
「痛かっただろう。ごめんな」夫婦になる儀式を終えた淳之介は破瓜の痛みに耐えて脱力しているあかりに声をかけた。健常者の女性であれば性器が結合する瞬間にもその大きさを見て心の準備ができる。しかし、性的に未開発のあかりは皮膚の感覚だけで身体の一部が裂傷を負う苦痛を味わったのだ。だから身心の疲労はより大きかったはずだ。
「命がつながったね」しかし、あかりは手で淳之介の顔を探すとそう言って口づけしてきた。
李暁剛イメージ画像(李暁剛作)
  1. 2018/05/14(月) 10:05:35|
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振り向けばイエスタディ1187

仲人の松真の次は淳之介とあかりに声をかけた。あかりは無事にハワイアン・ステーキとフルーツ・サラダを食べ終えており、手探りでグラスのグアバを口に運んでいる。そんな様子に安堵の溜め息をつくとそれを当たり前にしている淳之介は不思議そうにこちらを見た。
「あかりさん、ラニカイ・ビーチはどうだった」「はい、潮の香りが甘くて驚きました。風は力強いのに波は優しいみたいでした」眼に映る情景を除くと海はこのように感じるらしい。言われてみれば梢と八重山の離島に泊まって夜の海岸にハイムルブシ(南十字星の最上部の星)を見に行った時も似たような感想を持った覚えがある。あの時は海鳴りの響きが何かを訴えているように聞こえたものだ。すると雄馬が私を見つけて席を立って近づいてきた。
「伯父さん、この間は法律相談に乗ってくれて有り難うございました」このような礼儀を弁えているところは淳之介よりも2歳年長だけのことはある。雄馬は工業高校の機械科を卒業して地元の工場に技師として勤めているはずだ。あかりも雄馬の声に親しげな笑顔を浮かべたところを見るとハワイに来てから会っているようだ。
「ところで淳之介と飲んだ時、嫁さんのお母さんは伯父さんの元カノって聞いたんだけど本当ですか」これはこの場でする質問ではないだろう。先ほどの感心は取り消さなければならない。
それでもあえて答えることにした。
「うん、本当だ。お前らの祖父さん、祖母さんが無理やり引き裂いたんだ。帰ったらその相手がどんなに素敵な女性だったのか判らせてやれ」こんな調子では折角の結婚式が積年の恨みを晴らす修羅場と化してしまう。しかし、淳之介と松真は黙って顔を見合わせている。
雄馬はテーブルの対角線に座っている梢とあかりを見回した後、息を呑んでから口を開いた。
「あかりさんのお母さんは本当に素敵です。僕には伯父さんの苦しみがよく判りました」あかりを見ると眼を閉じて下を向いているが、それは何かに耐えているのではなく私と雄馬の言葉を受け留めようとしている態度のように見える。淳之介がすでに縁の切れていた従兄弟を自分の結婚式に呼んだのはあかりの夫としてこの話に決着をつけるためだったのかも知れない。
「悲しくないのに泣いた幼い日のこと 花に憩う朝露見て 何て綺麗なのと あれから時が経っても 変わっていないの 勝気なのに涙もろい そんな私がいる・・・」すると島田准尉手造りのBGMから私が好きな曲が流れ始めた。これも沖縄出身の石嶺聡子の「シャイン」だ。
「・・・ひたむきに生きている 貴方こそ私の理想(ゆめ)」あかりも聞いたことがあるのか小さな声で口ずさんでいる。この曲のレコードを買ったのは守山に住んでいた頃だ。沖縄で梢も買ったのか興味が湧いたが、ここで島田元准尉のCDは終わったらしい。
すると社長が知らない間に持ち込んでいた蛇味線を片手に司会者のマイクの前に立った。
「それでは御指名により新婦さんにこの歌を贈ります。そう言えば淳之介も安里さんになったんだったね」この「御指名」とは結婚式の前の立ち話で私が冗談めかしてお願いしたことを言っている。蛇味線を用意していたくらいだから船会社の経営者だけに「渡りに船」だったに違いない。そんな口上の後、蛇味線の軽い音色が響き始めた。
「さァ、安里屋ぬ クヤマにゆ(よ) サーユイユイ あん美(ちゅ)らさうん 生(う)りばしゆ マタハーリヌ チンダラカヌシャマヨ」これは「安里屋ユンタ」の原曲「安里屋節」でも登野村古謡で、梢と一緒に行った竹富島で聞いた歌だ。席に戻るとやはり梢が「懐かしいね」と呟いた。親によって人生そのものに負った深手は全てに後遺症を及ぼしているようだ。
社長の独演会が終わったところに結婚式で「カナホナ・ピリ・カイ」を唄ったハワイアンの歌手が入ってきた。歌手は社長の蛇味線に興味を持ったようで2人で音合わせを始めた。
ウクレレの甘くどこか切ない音色と蛇味線の軽く賑やかな音調は対照的なようで絶妙のハーモニーになるようだ。やがて2人は「カナホナ・ピリ・カイ」と「涙そうそう」を唄い始めた。
「パ ハヌ マイ カ プア エフ オ ケ カイ」=「古いアルバムめくり」 「エー ホル ナペ アナ イ カ ラウ キ」=「有り難うと呟いた」 「メ ヘ レオ ア・アラ イ マプ マイ」=「いつもいつも胸の中」 「エ ヒアヒア マウ ネイ」=「励ましてくれる人よ」ここまでの曲はほぼ同じなのだが先が少し違ってくる。
「アロハ エ アロハ ノー」=「晴れ渡る日も雨の日も」 「アロハ ア カ ハリ アリア マウ」=「浮かぶあの笑顔」 「ヘ ナニ ユ ヘ ナニ ノ」=「思い出遠くあせても」 「ヘ ナニ カ ノ ホナ ピリ・カリ」=「面影探して甦る日は涙そうそう」ここから先は社長が知っているハワイアンを蛇味線で弾き、歌手がウクレレで合わせてジョイント・コンサートになった。そして最後は沖縄らしく蛇味線とウクレレ、指笛の「カチャ―シー」になり、あかりも淳之介に手を引かれて踊り、陽気に楽しく幕を下ろすことができた。
  1. 2018/05/13(日) 09:36:18|
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作曲家2人(井上堯之さん・木下忠司さん)の逝去を悼む。

作曲家・井上堯之さんの逝去を悼む。
5月2日にザ・スパイダーズの元メンバーで大ヒット刑事ドラマ「太陽にほえろ」の主題曲を手掛けた作曲家・井上堯之(たかゆき)さんが亡くなったそうです。77歳でした。
井上さんはグループサウンズ人気が下火になっていた1971年に中心的バンドが相次いで解散するとザ・タイガースの沢田研二さんと岸部一徳さん、ザ・テンプターズの萩原健一さんと大口宏司さん、同じザ・スパイダーズの大野克夫さんと共にPYG(ピッグ)を結成してリーダーになりました。しかし、ザ・タイガースが所属していた大手プロダクションは沢田さんをソロ・デビューさせることを前提に解散させた経緯もあり、PYGをバック・バンド扱いしたのですが沢田さんはグループでの活動を尊重していたため、1972年から始まった「太陽にほえろ」に出演していた萩原さんが参加できる時はPYG、不在の時は「沢田研二と井上堯之バンド」と言う呼称で活動するようになりました(野僧は高校時代、地元で開かれたコンサートに行ったので井上さんの生演奏を聴いています)。
この人間関係で井上さんが「太陽にほえろ」の主題曲、大野さんが沢田さんのヒット曲の大半を手掛けることになったのです。
ちなみに井上さんには意外なところでカロリーメイトのCMで満島ひかりさんが唄って有名になった中島みゆきさんの「ファイト!」があります。この歌はどん底を突き抜けて落ちたくらい陰惨な歌詞ですが曲だけを聴いていると元気が湧き立ってきます。

作曲家・木下忠司さんの逝去を悼む。
5月4日に野僧が大好きな日本映画の主題曲・歌の多くを生みだした作曲家・木下忠司さんが亡くなったそうです。102歳だったそうですから天寿を全うされたのでしょう。
木下さんは映画監督・木下恵介さんの弟なので当然、静岡県浜松市の生まれです(地元では有名でした)。現在の浜松北高校を卒業後に上京して日本では数少ないクラシック式音楽の専門家・諸井三郎さんの下で音楽理論を学びながら現在の武蔵野音楽大学に入学しますが、卒業して音楽活動を開始する間もなく招集を受け、中国戦線で敗戦を迎えました。
帰国後は兄の紹介で松竹映画に入社し、当時は娯楽の中心だった映画の音楽を担当して数多くの名作を手掛けました。野僧が見た映画だけでも古い順に「カルメン故郷に帰る」「海軍兵学校物語・あゝ江田島」「二十四の瞳」「野菊のごとき君なりき(有田紀子版)」「喜びも悲しみも幾歳月」「白蛇伝」「点と線」「二等兵物語・死んだら神様の巻」「人間の条件」「安寿と厨子王丸」「路傍の石」「あゝ零戦」「大怪獣決闘・ガメラ対バルゴン」「人間魚雷・あゝ回天特攻隊」「あゝ予科練」などがあります(松竹作品に限らない)。
中でも「喜びも悲しみも幾歳月」の主題歌は小学生時代からの愛唱歌で、遠足で灯台に行った時、大声で歌っていて本物の灯台守=海上保安官に感激されました。
また車力で勤務している時、「トラック野郎」の主題歌を十八番にしている小隊員(拙作「どさ?江戸さ」の主人公のモデル)がいて映画は見なかったものの覚えてしまいました。
お2人に感謝と敬意を込めて冥福をお祈りします。
  1. 2018/05/12(土) 09:58:46|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ1186

マイクロ・バスでホテルに帰ると披露宴になった。出席者は19人なので普段は会議に使っているような中途半端な広さの会場だ。テーブルも会議用の丸テーブルで奥に新郎新婦、その両隣に仲人夫婦、対角線の中央に私、両側に佳織と梢、そうして佳織の隣りに志織、ノザキ夫妻、梢の隣りに安里家の両親、後は適当に席が設けてある。尤も日本のようにケーキカットやキャンドル・サービスなどの演出はなく乾杯の後は料理と酒を楽しむだけなのでこれで十分だ。
「先ずは媒酌の労を執られます玉城松真さんから新郎・玉城淳之介さんと新婦・安里あかりさんの紹介とお祝いの言葉を頂戴したいと思います」このホテルでも日本人の結婚式を開いているようで司会者は日本語に堪能で進行も心得ているようだ。指名を受けて松真が緊張した顔で立ち上がるとテーブルの上に置いてあったマイクを取った。
「ではご指名により新郎新婦の紹介をさせていただきます・・・」考えてみれば松真にとって淳之介は甥とは言え姉が離婚した相手との間に儲けた息子だ。出席者でそれを知らないのは雄馬と聡馬だけとは言え、紹介には困るだろう。したがって松真は淳之介については「ご存知の通りです」で終わらせてしまった。ところがあかりの方も実父とは離別している。玉城家の人間には説明する必要があっても淳之介を省略いた以上、詳しく話すことはできない。そんな訳でこちらも「ご覧の通りの素敵なお嬢さんです」で終わってしまった。
何はともあれ後は淳之介の会社の社長の来賓祝辞と義祖父・ノザキ中佐の音頭の乾杯で前置きは終わる。古今東西を問わず宴会の挨拶と女性のスカートは短い方が喜ばれるのだ。
「ほーら、足元を見てごらん これが貴方の歩む道 ほーら、前を見てごらんあれが貴方の未来・・・」無事に乾杯が終わって宴席に移ると会場にはキロロの「未来へ」が流れ始めた。キロロは言うまでもなく沖縄のコーラス・グループであり、私個人としては先ほど唄った「てぃんさぐの花」の現代版のように思っている愛唱歌でもある。私がホテルの配慮に感心していると佳織が小声で「BGMは島田先任に頼んだ」と説明した。それにしても島田元准尉は自衛隊時代、通信員であって音楽隊員=普通科ではないはずだ。この幅広い知識と選曲のセンス、何よりも企画力には感心するしかない。
「どうぞ」その時、右隣から梢がビールを差し出した。一般的にアメリカでは宴席で酒やビールを相手のグラスに注ぐ習慣はないのだが、このホテルでは日本製の大瓶のビールが並んでおり、日本式の接待ができるようだ。それでも流石に銘柄はオリオンではない。
「うん」私がグラスを持ち上げると梢は慣れた手つきでビールを注いだ。そして注ぎ終わると自然な流れで私が瓶を受け取り、梢のグラスに注ぎ返した。この一連の流れは20年前に刻み込まれた感覚で無意識に行っている。つまり私たちの関係は作為不要の自然な呼吸なのだ。
「奥さんにも」ここで梢が促した。言われなければ佳織の存在を忘れるところだった。瓶を持ったまま反対を向くと佳織は暗い目をして待っている。そしてグラスに注ぎ始めると当たって「カチン」と音を立てた。私は自分の中で何かが狂っていることを感じた。
料理を食べ終えて義父に礼を言いに行くと唐突に意外なことを申し入れてきた。
「ルテナン・カーノー、あの軍刀だけど・・・」これは以前、佳織からも聞いている話だ。
「私たちもノザキ家の人間に加えていただくのですから記念にお贈りしますよ。勿論、将来は私が相続しまずが」私の返事を聞いて義父は義母の顔を振り返って笑いかけた。
「私は幼い頃から母に『父は最期までサムライ・スピリッツ(侍の魂)を失わなかった』と教えられてきたんだよ。442(=2世部隊)の兵士たちもアメリカ軍の軍服を着た日本兵だった。だからサムライ・サーベルを手に入れたいと願っていたんだ」「あの刀は私の代わりの志織のお守りにもなるでしょう。手入れ道具は送りますから時折、打ち粉をして真剣としての姿と力を維持して下さい」義父は「打ち粉」と聞いて首を傾げた。日本であれば時代劇で見ることがある刀の手入れもハワイでは未知の作業のようだ。これでは詳細な手順書も同封しなければ手入れ中に怪我をしかねない。
次は来賓に挨拶に向かった。歩きながら朝、聞いて驚いた八重山地方の挨拶を思い出した。
「クヨナーラ」「おーッ、流石ですね。クヨナーラ」社長は立ち上がって挨拶を返した。そんな2人の様子を淳之介は何故か心配そうに見ている。
「淳之介は『お父さんは本土生まれのシマンチュウ』って言っていますが本当ですね」「顔は完全にナイチャアですが魂はシマンチュウですよ」私の返事に社長は納得したようにうなずいた。
「今の沖縄本島は反戦平和の政治利用ばかりが前面に出て観光客にとっては楽しい場所ではなくなっています。八重山をハワイのような楽園として売り出して下さい」結婚式とは関係がない挨拶に社長は淳之介を振り返ったが当り前な顔をしてこちらを見ていた。
  1. 2018/05/12(土) 09:56:27|
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絵本作家・加古里子先生の逝去を悼む。

5月2日に「だるまちゃん」シリーズや科学絵本の作者の加古里子(さとし)先生が亡くなりました。92歳だったそうです。
野僧は0歳の頃から絵本が大好きでしたから愚息1が生まれると読み聞かせをするのを楽しみにして、本屋へ行くと軍事・宗教・哲学・法学・政治などの専門書を立ち読みするついでに絵本コーナーも回って絵本選びを始めました。
そんな中でお気に入りだった「だるまちゃんとかみなりちゃん」と「だるまちゃんとてんぐちゃん」を見つけて早速、購入して帰り、生後間もない愚息1の枕元で読み聞かせを始めたのです。その後も野僧の頃にはなかった(1970年代の作品)「だるまちゃんとうさぎちゃん」「だるまちゃんととらのこちゃん」を見つけて購入すると、愚息1も自分で愛読するようになりました。
5年後、愚息2が生まれると同じ事を始め、今度は加古さんの作品でも「ならの大仏さま」「まさかりどんがさあたいへん」を買ってくると小学生になっていた愚息1まで懐かしがって愛読したものです。
愚息たちが絵本を読まなくなると野僧が趣味で集めていた膨大な絵本は幼児を抱える隊員の奥さんたちの間で絵本図書館=無料貸本屋として評判になり、「だるまちゃん」シリーズはまた貸しされている間に転属したため行方不明になってしまいました。
実は加古さんは2000年代に入ってからも「だるまちゃんとだいこくちゃん」「だるまちゃんとでんじんちゃん」「だるまちゃんとやまんめちゃん」「だるまちゃんとにおうちゃん」「だるまちゃんとかまどちゃん」「だるまちゃんとはやてちゃん」「だるまちゃんとキジムナちゃん」「だるまちゃんとりんごちゃん」「だるまちゃんしんぶん」などのやや宗教色を帯びた作品を発表していたのですが、残念ながら保育士の短大に入って絵本と作家の研究をした愚息2が見つけるまで知らないでいたのです。
加古さん作品の魅力は何よりも登場するキャラクターが愛くるしいことですが、物語の展開にボケと突っ込みがあり、読み聞かせていて思わず吹き出してしまい愚息たちから「何が面白いの」と質問されてギャグのポイントを説明することになりました。
加古さんは「だるまちゃん」シリーズなどでも少し科学的な色合いを醸し出していましたが東京帝国大学工学部応用化学科卒の工学博士で、日本化学会に所属していました。それを知っていれば愚息たちにも科学絵本シリーズを買い与えたのですが手遅れでした。
加古さんの作品には科学性と同時に玩具や装束、遊びや風習などで日本の伝統文化が民俗学的に描かれており、今でも愚息たちに読ませて本当に良かったと思っています。
ちなみに加古さんは東京大学や東京都立大学、横浜国立大学、山梨大学、玉川大学の非常勤講師でもあり、絵本製作の方法論「絵本への道」や日本の伝統・土着の遊戯を民俗学的に論説した「絵かき遊び考」「石けり遊び考」「じゃんけん遊び考」「鬼遊び考」などの著書も読み応えがありました。
親子2代にわたり本当にお世話になりました。感謝を込めて御冥福を祈念いたします。
  1. 2018/05/11(金) 09:38:40|
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