1997年の明日7月1日にイギリス式民主主義社会だった香港が共産党による一党独裁国家の中国に返還されました。
香港は第1次アヘン戦争の講和条約である1842年の南京条約で香港島が割譲され、続く1860年には第2次アヘン戦争の北京条約で大陸側の九竜半島も加えられ、さらに清国との緩衝地帯として市街地が広がった新開地まで事実上の支配地域になりました。
この無秩序にイギリスと中国の人や資本、財産が混在する状況に双方が問題意識を持ったことで1898年に展拓香港界此条約が締結されて99年間の租借期間が決まったのです。
ところが1941年に日本が第2次世界大戦に参戦すると初頭から香港の攻略作戦を開始したのです。しかし、イギリスはヨーロッパから北アフリカでの激戦に軍の主力を投入しており、独立の気運が高まっていた最大の植民地・インドにも治安維持の軍を置かなければならず、さらにアジアへの海路の要衝・マラッカ海峡を守るためにはシンガポールとマレー半島にも余力を割かなければなりませんでした。したがって香港地域の守備隊は余りモノの寄せ集めに過ぎず、日本軍は上海事変で苦しめられたヨーロッパ式塹壕要塞による堅固な防衛線と見ていたジン・ドリンカーズ・ラインも少数の将校斥候によって突破される始末でした。こうして18日間で香港は日本軍に占領され、それは1945年9月2日の日本の敗戦まで続いたのです。
日本の敗戦を受けて蒋介石総統の国民党政権はヨーロッパ諸国に清朝が譲渡した沿岸植民地の返還を求めましたが、東南アジアでは日本の大東亜共栄圏の建前によって形式的に独立を果たしていた各地で独立の維持と完成を要求する声が上がっており、これに応じるはずがありませんでした。こうして香港は再びイギリスが統治することになり、蒋介石総統が台湾に追い落とした毛沢東主席の共産党によるマルクス主義国家・中国とは異なるイギリス式民主主義の社会制度を維持・発展させることになったのです。
ところが1976年の毛沢東主席の没後、政権に返り咲いた鄧小平さん(権力者としての肩書がない)は一国二制度を掲げて文化大革命の狂気の払拭と同時に日本を代表とする西側の企業の誘致など資本主義の導入を進めたため、欧米と日本ではこれを西側の民主主義への転換と思い込んでしまいました。さらに資本主義経済の導入によって発生した中国人資本家たちが香港の不動産を買収するようになり大きな社会問題になっていったのです。
こうしてイギリスは香港の今後を話し合う交渉の開催を提案しましたが中国は展拓香港界此条約に基づく返還で譲らず、結局、1982年2月に鉄の女・マーガレット・サッチャー首相が訪中して鄧小平さんとの直接会談で交渉の開始が決定しました。この時、中国側は一国二制度を香港にも適用し、50年後の2047年まで共産党による支配も行わないことを確約しましたが、人生を100年単位で考える中国人には自分が生きている間に共産党の支配を受けることになり、アメリカやカナダへの移民が大量発生したのです。
現状を見る限り、中国に資本主義的契約の履行を期待したイギリスの大失策であることは明らかであり、この時、移民した人たちには先見の明があったようです。
- 2018/06/30(土) 09:57:14|
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いつもは原付で通勤している淳之介も今日はタクシーでの殿さま出勤になる。ただし、身体障害者のタクシー料金は全国一律に1割引きだ。そのためには乗車時に身体障害者手帳を提示しなければならないのだが、あかりの場合は白い杖で運転手が先に判っていた。
「あかりさんは無料で好いぞ」業務開始前の朝礼をあかりも遠くから聞いていたが、解散になった後、社長が声を掛けてきた。石垣島から雲島は往復2000円プラスアルファで身体障害者割引は特に設定していない。淳之介としては砂川直美に請求することも考えたが、今回は個人的な小旅行のつもりなので朝礼後に社長の意向を確認するつもりだった。
「本当に良いんですか。せめて半額だけでも」「社員の家族に仕事を知ってもらうことは会社としても必要な厚生活動だ。第一、あかりさんは雲島で奉仕活動をしてくるんだろう。それで感謝してもらえば我が社の宣伝にもなる」社長の説明で淳之介も納得できた。するとあかりが白い杖を使って歩み寄ると声で位置を確認した社長に頭を下げた。、
「社長さん、有り難うございます」「うん、初めての船旅だから船長の注意をよく聞いて安全を第一に海と島を満喫してきなさい」社長に「船長」と呼ばれて淳之介は少し胸が熱くなった。今日は夫としてよりも船長としてあかりを雲島に送り届けなければならない。
「間もなく竹富島、小浜島、雲島を巡回します島間航路の出港です」朝の出港では離島に向かう乗客は少ない。むしろ各島に届ける新聞や食料品、時には郵便物や宅急便などの貨物が中心だ。それでも石垣島の親族や知人の家に泊まった島民は乗っている。そんな乗客たちは島が違っても顔見知りであり、出発までも話が弾んでいるのだが今日の話題はあかりのことだった。
淳之介は階上の操舵室の足元から見下ろせば判る席にあかりを座らせたが、座席は空いているにも関わらず乗客の老人たちは周りを取り囲むように陣取っている。
「出港します」淳之介がマイクに向かって声を掛けてエンジンのレバーと舵を操作すると「ガクンッ」と言う少し強い衝撃の後、エンジン音が高まり、船体が振動を始めた。
「嫁さん、旦那さんの仕事で船が動き始めたよ」前の席のお婆さんが振り返って声を掛けた。あかりにとっては初めて乗る船の中で身体に感じる未知の振動や健常者よりも大きく聞こえるエンジン音、そして窓から伝わってくる船体が波をかき分ける不思議な音と振動に興味と不安を味わっていたので、突然、声を掛けられても返事ができなかった。
「あれ、気分が悪いのかね。船は初めてねェ」お婆さんはサングラスを掛けているあかりの顔を覗き込むようにして確認してきた。エンジンの騒音で2人の会話は隣席には聞こえないようだが、下手すれば船酔いと早合点されて洗面器を渡されるかも知れない。
「いいえ、船は初めてですけど大丈夫です」「ネエネは玉城船長の嫁さんでしょう。それで今日は雲島に行くんだよね」船酔いではないと判ってお婆さんは安心して雑談を始めた。それを聞いて隣席のお爺さんとお婆さんも通路側に近寄ってきたがあかりには見えない。
「はい、今日は島の診療所で保健師の砂川さんに会ってきます」「それでもマッサージをしてくれるんだろう。バー(私)も楽しみにしてるのさァ」今度は隣りからお爺さんに声を掛けられた。あかりも出港前に乗船してくる人の気配を確認していたが、エンジンの騒音と振動で普段のようにはいかなかった。このため他の乗客が3人であること以外はハッキリしない。
「私が船酔いしないで元気に島に着ければそのつもりです」これが正直なところだ。すると先ほどのお爺さんの向こうからお婆さんが声を掛けてきた。その声の方向からお爺さんの前に身を乗り出したのが判った。
「船乗りの嫁さんが船酔いするはずがないさァ」「確かにお前は船酔いしないもんな」どうやら隣席の2人は老夫婦らしい。やはり離島の男は専業でなくとも小舟くらいは操るようだ。
「あかり、大丈夫か。大丈夫なら手を触れ」そこに淳之介の声がマイクを通して客室に響いた。あかりは振り返ると笑顔を見せて手を振った。船は港から入江を抜けて竹富島との水道に入っている。竹富島までの所要時間は15分程度だ。それでも波止場で荷物の揚げ下ろしと確認や受け取りの手続きなどで小一時間はかかり、出港前の点検後に出港すると直行なら30分を切る次の小浜島まで1時間弱になってしまう。そうして目的地の雲島に向かうのだ。
「でも雲島ばかりじゃあずるいさァ。小浜島に来てくれんねェ」前の席のお婆さんは小浜島の島民のようだ。と言うことは途中で下りるのだろう。それにしても口コミでマッサージの評判が広まれば本当に離島を巡回して開業することになるかも知れない。
「雲島だって来てくれる時だけさァ」「その言い方は嫁さんを責めているように聞こえるぞ」「嫁さん、ぐりしみほーりゃよー(ごめんなさい)」お婆さんの言葉が理解不能になった。やはり頭の中で八重山方言を本島のシマクチとナイチャーグチに翻訳しながら話しているのだろう。
- 2018/06/30(土) 09:55:26|
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夏の観光シーズンが終わって淳之介はあかりを離島巡りに連れて行くことにした。連れて行くと言っても仕事で乗務する船で一緒に雲島まで行き、以前マッサージの依頼をした保健師の砂川直美に波止場で待っていてもらい、診療所で希望者に施術をして帰りに連れて戻る計画だ。
この日程であれば行きに船酔いしても診療所で保健師つきの休養ができるから帰る時までに回復できるだろう。前夜、雲島の砂川直美から確認の電話が入った。
「クヨナーラ、雲島の砂川です」やはり挨拶は八重山方言だ。流石に淳之介は慣れているがあかりは「さよなら」と聞き間違えるかも知れない。
「嫁さん、今、出られるねェ」「はい、お待ち下さい」観光シーズンが終われば帰宅時間も提示になり、夜は夫婦水入らずで過ごせている。
「あかり、雲島の砂川さんからだよ。クヨナーラって言うのは本島のハイサイと同じ挨拶さァ」方言の説明をすると語尾は沖縄式になってしまう。あかりは振り替えって棚の上のラジオを止めると身体の向きを替えて受話器を受け取った。
「はい、こんばんわ。安里です」あかりの返事を聞く限り、砂川は八重山方言を使わなかったようだ。相手を見て態度を切り替える機転は船内での雑談でも感じることがあるが、やはり頭が良い人のようだ。
「はい、大丈夫です。今回は鍼灸の道具は持っていきませんから手でのマッサージだけになりますが・・・はい、はい、専用のカルテをお願いできますか・・・」あかりも久しぶりの仕事に気合いが入った声をしている。鍼灸の道具でも特に鍼は衛生管理が難しく、家では使用しない状態で保管しているので事前に殺菌処理が必要になることはあかりから聞いている。今回はあくまでもマッサージ師が観光に訪れたので好意で施術をしたと言う設定なのだ。
「はい、はい、筋肉の有痛性硬結の度合いによりますが・・・はい、はい、今回は被施術者の特性を確認すると言うことで・・・はい、1人当たり15分を基準に・・・」やはり保健師とマッサージ師のプロ同士の会話は後ろで聞いていても理解不能な点がある。それにしても「ユーツーセーコーケツ」とは何だろう。淳之介はカラー・ボックスの本棚から高校時代に父に送ってもらった広辞林を取り出して引き始めた。父は一般的に辞書の代表と目されている広辞苑は「発行元の岩波文庫は左に偏っているから」と三省堂の広辞林を選んだらしい。しかし、高校生の淳之介にとっては国語の教師が使っている広辞苑と言葉の意味や解釈が微妙に違っていることがあり、このこだわりはあまり有り難くなかった。
「ユーツーセ―かァ、載ってないな・・・コ―ケツもないぞ。ヒョッとして英語の単語なのかな」分厚い広辞林でも載っていないようでは日本語ではないのかも知れない。淳之介は頭の中で「YOU TO SAY」と言う英文を考えたが続きの「コ―ケツ」が浮かばない。仕方ないので後からあかりに訊くことにして電話の会話に耳を傾け直した。
「確かに灸なら艾(もぐさ)で施術しなくても軽易な市販品がありますから・・・はい、はい、雲島に行くことが決まった時、買っておきましたから持って行きましょう」余計なことをしている間に話はかなり具体的になっている。最近はあかりも1人で薬局へ出かけて生理用品などを買ってくるようになっているのでせんねん灸も自分で用意したらしい。ただし、鍼灸の開業には保健所の認可が必要なので今回は有料での施術はできない。つまり奉仕活動になるから代金も回収不能だ。
「はい、はい、余り時間がありませんから人数制限と優先順位を・・・はい、お任せします」やはり島民たちの間であかりの施術は評判になっているようだ。田舎の集落でも口コミ情報は新聞やテレビよりも迅速で詳細になるが島民の総員220名の雲島では尚更だろう。
「そうですか。65歳以上の方は50人くらいなんですね。と言っても半日で50人は無理ですから・・・」どうやら砂川は220名の全島民のうち高齢者を優先的に施術させるつもりのようだ。鍼灸の施術は医師が診断書に「治療や健康維持に必要である」と明記すれば健康保険が適用される。とは言え船旅初体験で無料奉仕のあかりに過剰な期待しているのではないか。淳之介は少し心配になってきた。
「ラジオの天気予報では波は穏やかって言ってますけど初めて船に乗りますから・・・」やはり砂川もあかりが体調を崩すことを心配していることが判った。これならば無理な仕事をさせるはずはない。淳之介は余計な心配をしたことを黙って詫びだ。
「いいえ、夫が操舵する船だから安心です・・・一緒にいられるんですから」電話を切る前のあかりの言葉を聞いて淳之介は島民の期待を担っているこの妻を無事に雲島に送り届け、船旅を満喫させることを考え始めた。するとあかりは受話器を置くと両手を握って腕に力を入れた。初めての船旅と離島での奉仕活動に向けて気合いを入れたようだ。

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- 2018/06/29(金) 10:19:07|
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私は陸幕へ戻る前に空幕に寄った。顔見知りの法務官に今聞いた情報を伝えよう考えたのだ。
「おう、モリヤ先生、何事だね」通常、1等空佐に面談を求めるには事前に調整をしておくのが常識だが今日は完全な飛び込みだ。それでも一応は事務室に顔を出し、困惑している先任空曹と一緒に入室したので法務官は呆れたような顔で声を掛けてきた。それを聞いて先任空曹は退室し、私は法務官の執務机の前に立って敬礼をした。
「今日は法務に関する話ではないのですが、お耳に入れておきたいことがありまして」そう言って身を乗り出して顔を近づけると法務官は表情を硬くして下から見上げた。
「実は先ほど内局に呼び出されまして」「例の海難裁判だな」用件を切り出す前に法務官が反応した。随分と省略した表現だが空幕の法務官も注視していることは判った。
「君の証人尋問での質問内容は自衛隊に批判的な新聞に詳しく載っているが、我が空自に対する航空事故調査委員会の報告の誤りを率直に指摘してくれて個人的には喜んでいるよ」確かに私は元航空自衛官として質問をしているのかも知れない。その意味では空自の不信感と怨嗟の念を代弁しているのだろう。何にしても自衛隊に関する詳細な情報を知るには批判的な新聞を読む方が確実だ。徹底的に粗探しするので嫌になるほど詳細な記事で紙面を割いてくれる。
「その裁判で国土交通省所管の海難審判の信頼性を損ねるような質問を控えるようご指導を受けたのですが」「ほう、政権を獲得して早々に司法に介入してきたのか。それにしても被告人側の組織を通じて圧力を掛けてくるとはやり方が姑息だな」流石に法務官はその圧力の発信源は明言しない。この言わずもがなを相手に察知させるある種の語学力は最近の佳織からも感じる1佐と2佐の人間力の違いかも知れない。
「今日、伺ったのは裁判の件ではないんです」ここでようやく本題に入ることができる。考えてみれば顔を突き出すのはここからで良かった。案の定、法務官は首が疲れたようで一度背もたれで伸びをしてからこちらを向き直した。
「内局を見学していて官僚たちが妙な話をしているのを耳にしたんです。社人党の議員からの請求で空自ノレーダー・サイトの機材の性能諸元を渡すと言うことです」「そうか・・・」ここでも私とは反応が違う。この間(ま)を使って色々な可能性を考え、自分なりの方針を策定しているようだ。私としてはこれ以上の情報はないので用件は終わりだ。しかし、法務官が目で引き止めているので私も黙ってつき合った。
「それは防衛秘密に関する法規類が自衛隊限定になっているのが本質的な問題だな。おまけにそれを取り締まる自衛隊情報保全隊まで職務権限は名前の通りだ」法務官は愚痴のように今回の事態の原因を語った。結局、内局の官僚たちの立場では政治的目的に基づく防衛秘密の漏洩によって隊員が危険に陥ることになってもそれは職務上の義務に過ぎず、良心の呵責は全く感じないらしい。下手をすれば戦争が起きてもそれは自衛隊の責任であって、内局は早々に敗戦処理の準備を始めるのではないか。
「ありがとう。航空自衛隊を代表してお礼を言うよ」法務官は立ち上がると大袈裟な謝辞を述べて頭を下げた。勿論、私は上官に先に敬礼をさせないように航空自衛隊式のマッハの敬礼をする。脱帽時の10度の敬礼は頭を下げると言うよりも腰を引くのでぎっくり腰になりそうだ。
「これで下駄は預けたから後は空自次第だが果たしてどうするのかな・・・」陸幕に戻る道中で私は考え事をしていた。昭和51年9月6日に発生したミグ25亡命事件でヴィクトル・ベレンコ中尉は航空自衛隊のレーダーの低空の探知能力が低いことを熟知しており、海面ギリギリを飛行して男鹿半島付近にまで接近した。スクランブルしたFー4EJ戦闘機のレーダーにはルック・ダウン能力(上空から海面上を飛ぶ目標を識別する解析能力)がなかったため結局は函館空港に強行着陸されてしまった。しかし、現在は空中警戒管制機・AWACSや空飛ぶ移動警戒隊・Eー2Cがあり、Fー15Jには極めて優れた機能(探知した反射波の中で動体と固定体を分類する)が備わっているので過度に心配しないことにする。
「モリヤ2佐、帰りました」「おう、意外に時間がかかったな」ウチの法務官に戻ったことを報告すると秘書課を出た時とは逆の評価をされた。確かに道草を喰い過ぎたようだ。
「どうやら借りてきた虎になって暴れまくったようだね」法務官の口調は呆れているが目は笑っていない。おそらく大臣の副官から電話で報告を受けたらしい。
「君が弁護士として不当な圧力に抗弁するのは当然だが、組織人としては面従腹背でお茶を濁すことも選択肢だったな。内局としては伝達して相手が従わないのは責任を回避できる最善の落とし所だろう。『はいはい、うけたまわりました』と返事しておいて回れ右をして舌を出す。これだよ」やはり単なる戦闘員に政治的立ち回りはできませんでした。
- 2018/06/28(木) 09:16:01|
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「モリヤ2佐が言われることは同じ自衛官として全く異論はないのですが、今の大臣は民政党内でも数少なく理解者ですから閣内での立場を危うくするようなことは控えなければなりません」副官は職場に充満している背広の臭いの中で制服を着ていることが苦しそうに重い言葉を吐いた。やはり同じ市ヶ谷駐屯地で勤務していても天井の上に顔を突っ込んでいると見える世界が違うようだ。
「要するに被告人2名は大臣の立場を守るための人柱にしろと言うんだね」「それも政治統制を受けている自衛官の義務じゃあないか」すると若造が形勢逆転を狙ったような台詞を口にした。ここで「文民統制」ではなく「政治統制」と言ったところは絶妙な選択だ。国際常識では軍は政治の統制を受けることが「シビリアン・コントロール」であって、日本のように自衛隊が文民=内局の下に置かれている制度が極めて異常であることは認識しているらしい。つまり自分を含めた背広組ではなく「自衛官が政治のために犠牲になるのは当然だ」と言っているのだ。
「それは貴方の個人的意見ですか。それとも国土交通省の友人の要求ですか」「あくまでも一般常識の範疇です」その政治は航空幕僚長が個人資格で投稿した私的論文を問題化して事実上の解任処分にした。現在の防衛大臣があの時、どのような言動を取ったのかは知らないがマスコミを使って批判を繰り広げたのは共産党や社人党ではなく民政党だった。尤も、私もあの低レベルの論文の発表は自衛隊の最高幹部の知的水準と言う機密の漏洩と考えているから反論には使えない。
「我々も上官を選ぶことはできませんがそれでも一定の水準を認められた人物が任命されています。その点、、貴方たちは能力や人格に関係なしで政治の都合だけで上司、飼い主が決定される。それがどんな人物であっても忠誠を尽くさなければならない。本当に大変な立場ですな」結局、呼び出された用件に対しては何も回答せずに引き上げることにした。
「本当に嫌味な奴だな」「強烈な皮肉屋ね」「ストレートな人が多い自衛官にしては完全に屈折しているわ」退室する時、ドアを閉めるのを少し遅らせると中から私を批判する男女入り混じった声が聞こえてきた。どうやら全員がソナー手のように聞き耳を立てていたようだ。
「あれは弁護士としての論法でしょう。そんな評判は聞いていませんから」副官のやんわりとした反論を聞いてドアを閉めた。
秘書課でのご指導が予定よりも早く終わったので私は陸幕に戻る前に内局なる伏魔殿の探検に回ることにした。気分は昔懐かしい「川口探検隊」になっている。内局には陸幕から提出する裁判に関する報告類を持ってくることはあるのだが今回は招待を受けてきたので私も少し気楽になっているようだ。とりあえず自動販売機コーナーで売っているジュースの銘柄を確認することからだ。
「何だ、ウチと変わらないなァ」自動販売機のメーカーが共通していれば並んでいる銘柄も同じなのは当たり前だ。私としては高学歴の内局の官僚たちは我々のような肉体労働者とは嗜好が違うのかと思っていたのだがやはり舌の感覚に大差はないようだ。それでも陸幕では休み時間に運動した後に買うスポーツ・ドリンクはなかった。
とりあえず缶コーヒーを買って飲み始めると後ろから若手の官僚たちがやってきた。私は壁際に下がり背を向けて聞き耳を立てた。頭の中では「川口さん、川口さん」と連呼する探検隊員の声が響いている。2人はそれぞれに代金を投入してコーヒーと野菜ジュースを買った。
「与党・社人党の議員先生は何の資料を要求してきたんだ」わざわざ「与党」とつけるところに官僚たちが受けている圧迫感が理解できる。
「うん、空自のレーダー・サイトが使用している機材の性能諸元だってよ」「それを何に使うんだ」「何でも機材の必要性を検証して自民党政権の業者との癒着を解明するんだそうだ」航空自衛隊のレーダー・サイトは防衛秘密の塊のはずだ。その機材の性能諸元を簡単に手渡すこの官僚は何者なのか。私は飲み終えた缶を捨てるために2人の前を横切りながら脇に抱えている茶封筒に印刷してある部署名を確認した。すると「整備計画局」とある。要するに防衛施設庁の主要業務を吸い上げて新設された「地方協力局」とは別組織の根っからの防衛官僚らしい。
私は空き缶を捨てると制服姿が目立たないように微妙に身体の角度を替えて通り過ぎて、死角になる廊下の壁に身を隠した。この動作で久しぶりに普通科の隊員に戻った。
「何にしても与党さまになっちゃうと、予算折衝の時に嫌がらせを受けないように尻尾を振るしかないよ」「昨日の敵は今日のご主人さまってことだな。尻尾を振るついでに靴を舐めたらどうだ」この自虐ネタに苦笑しながら2人は呼吸を合わせたように缶を飲み干した。
2人が歩いてくるのを窓際で携帯の着信を確認している振りをしてやり過ごした。
- 2018/06/27(水) 10:16:20|
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昭和6(1931)年の明日6月27日に昭和12(1937)年12月の南京城攻略に際して日本軍が住民と捕虜を虐殺したとされる(いわゆる)南京事件の遠因とされている中村大尉事件が発生しました。
この事件は南京の国民党政府に合流した満州の軍閥・張学良くんが父親の張作霖を爆殺された怨嗟から日本が委任統治していた朝鮮を含む異民族の排斥を公言し、満州鉄道包囲網を設定するのと同時に満州地域内で朝鮮人を迫害し、旅順・大連の租借地の返還と満州鉄道の強制移譲、さらに日本軍の撤退を要求するようになったことが原因です。
これに危機感を抱いた陸軍参謀本部は部員の中村震太郎大尉に満州の最北部・興安への潜入と軍用地誌の調査を命じました。中村大尉は現地に赴くと奉天の領事館で偽名によるパスポートの発給を受けますが、そのパスポートには蒙古地区への旅行禁止の条件が附せられていたためハルビンで再度、発給を受けています。
こうして農業技術者の肩書で助手の井杉延太郎退役曹長(この時は軍属になっていた)と通訳のハルビンの日本旅館の主人、さらに交渉役のソ連人と案内のモンゴル人の5名で目的地に向かいました。ところが日本が発給したパスポートには中国側が設定した立ち入り禁止地域への許可を与える効力はなく、現地の中国官憲に身柄を拘束されて提示しても受けつけられず、持ち物検査で多額の金銭が発見されるとそれを目当てに全員が射殺され、遺骸は焼却処分の上、原野に埋められたのです。
中村大尉が消息を絶ったことを察知した関東軍は満州内の日本関係者に厳重な緘口令を敷き、ハルビンから特務機関員3名を派遣して調査に当たらせましたが本国の政府は外交交渉による解決を選択しました。しかし、中国側は速やかな調査を約束しながら回答を引き延ばし続けた挙句に事実無根と否定し、それでも追及されると所持品の測量機、地図、日記などからスパイであることが発覚し、逃亡を図ったため正規軍の兵士によって射殺されたと説明したのです。
関東軍はこれに不満を抱き、直接交渉を要求しましたが政府はあくまでも外交交渉による解決に固執して拒否したため、特務機関の調査結果を新聞に報道させて幣原喜重郎外務大臣を弱腰と批判する世論を扇動しました。
関東軍だけでなく陸軍内では参謀本部から派遣された将校が殺害されたことを重大な挑発行為であると断定し、対中強硬派の暴走が始まることになりましたが、当時の武力紛争関係法でも戦闘員の要件を満たさないで戦闘行為に準ずる諜報活動を行うスパイについては厳罰に処することが認められており、中村大尉が偽名のパスポートを使用しながら農業技術者に変装して(出発時の写真を見る限り一見して軍人的風貌ですが)立ち入り禁止地区に潜入した以上、銃殺に処せられたことは当然の刑罰だったと言えます。
ただし、その処刑は軍事法廷の判決に基づかなければならず、遺骸は可能な儀礼を尽くして埋葬場所を記録することが義務づけられています。その点は批判に値しますが、関東軍が武力によって張学良くんを排除する口実に利用したと見る方が適当でしょう。
- 2018/06/26(火) 09:21:16|
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「まァ、いくら陸上自衛隊唯一の戦争経験者でもいきなり戦闘モードに入らないで下さい」そこに先ほど視線が合った2等陸佐が立ち上がって歩み寄ってきた。あらためて顔を見るとこの2佐にはニュースや新聞で見覚えがある。防衛大臣が出張する際、後ろに控えている副官だ。
「貴様が舐められているから官僚の若造が年長者の自衛官を見下した態度を取るんだ」そう言う非難が腹の中で湧き上がっていたが、副官の自衛官とは思えない穏やかな笑顔を見て無理に鎮めることにした。
「私と係長は同世代でして普段から友達感覚でつき合っているんです。だから同じ制服を着て同じ階級章をつけたモリヤ2佐にも親しみを抱いて気楽な口調で話してしまったのでしょう」副官の説明に両者の顔を見比べたが確かに同世代のようだ。私としても制服と背広が仲良くしていることを批判することは避けたい。そこで副官が提供した落とし所に着陸することにした。
「それで用件は何ですか」「はい、ご多忙中のところワザワザお呼び立てしましたのは・・・」係長と呼ばれた官僚も急に言葉遣いが丁寧になった。始めからこのような年長者に対する礼節を弁えた態度を取っていれば私も借りてきた猫を演じたはずだ。
「実はあまごと漁船の衝突事故の裁判でモリヤ2佐の証人尋問が・・・」どうも係長は過度に言葉を選ぶようになってしまい話が途切れ途切れになりだした。
「海難審判とそれを所管する国土交通省を誹謗していると大臣が不快に思っておられるようで・・・」要するに国土交通省の同様の部署から苦情の電話が入ったようだ。それにしても雀山内閣の国土交通大臣は民政党内では保守派と目されている前川誠治のはずだ。政権交代前には報道番組に出演して自民党のタカ派と同調するような発言を繰り広げて自衛官の中でも人気が高い。大臣就任後は大規模公共工事の白紙からの再検討を公言して、関東圏のダムなどを視察している映像が連日のように流れている。それで国土交通省が被告にも原告にもなっていない裁判にまで関心を示す余裕があるのだろうか。
「ほーッ、防衛省の秘書課では国道交通大臣にまで気を遣うのですか。ご苦労なことです」先ほど仲裁に来たまま話を聞いている副官は私の皮肉に顔を強張らせた。しかし、これは国土交通省の官僚が防衛省よりも優位に立つため人気・有力者である大臣の感情を慮った振りをして捏造した苦情を申し入れたとしか考えられない。
「それで私にどうしろと言われるのですかな」この質問は事実上の拒否である。裏での影響力の行使は別として三権分立による相互監視を建前にしている日本では行政の司法への介入が許されないことはこの官僚も判っているはずだ。その代弁者になれば官僚が最も忌み嫌う責任を問われることになりかねない。
「やはり防衛省と国土交通省は共同して国土や領海と領空の安全を守らなければならないのですから・・・」「その共同戦線の同盟者を裏切る内なる敵は徹底的に撃滅しろと言うんですな」「・・・」今度は会話が途切れる位置が逆転してしまった。
「・・・ですから・・・したがって・・・」中々言葉が見つからないらしい同僚の横から副官が援護の介入をしてくる。
「政権交代が現実になった以上、防衛省としては政権内でも有力な閣僚の心証を害することは避けるべきだと思うんです。ましてや現政権の外交や安全保障の政策方針は明確になっていませんから、ここで敵を作るべきではありません」この発言に今度は同じ制服を着ている同僚に切れてしまった。私は薄笑いを浮かべると半ば左向け左をして正面から向かい合った。
「君は何の過失もない、むしろ相手の不法な操舵で起こった事故を捏造した証拠で有責の裁定を下し、有能な艦乗り2名を刑事被告人にしているこの不当な裁判を政治的判断で有罪を甘受しろと言うのか。それが内局の意向だと言うんだな」これは完全に戦闘モードだ。流石に自衛官である副官は追い詰められたような表情は見せなかったが、それでも顔は青ざめた。
それにしてもここまで簡単に戦闘モードに入ってしまうのは私にとって法廷が戦場だからだろう。その意味では法廷には制服ではなく被告の時のように迷彩服で出席したいものだ。
「・・・」「・・・」今度は2人が黙り込んでしまった。一般社会の作法では相手が黙ればこちらもつき合って呼吸を測るものだが、戦闘では敵が弱体化すれば殲滅する好機として集中砲火を浴びせるのが基本動作だ。
「最後に確認しますが、それは本当に国土交通省から連絡があった指導なんですね」「・・・はい・・・いいえ・・・」今度は係長が曖昧に返事をする。そこでトドメの砲弾を打ち込んだ。
「公判で国土交通省から圧力を受けたと申し立てれば極めて有利な材料になります。身内の無罪を勝ち取るためにもそこはハッキリ答えて下さい」「黙秘権を行使します」この若造の官僚も意外に機転が効くようだ。ここは座布団を1枚提供して笑うしかない。
- 2018/06/26(火) 09:20:05|
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1941年の6月25日にフィンランドとソ連の間で第2次ソ・フィン戦争=継続戦争が始まりました。ただし、旧ソ連ではこの戦争を対独戦争=大祖国戦争の一部としており、一方のフィンランドは前回の1939年11月30日から1940年3月12日にかけてソ連が侵攻した冬戦争の継続としています。
冬戦争は第2次世界大戦の勃発を受けてナチス・ドイツがヨーロッパ全土に侵攻したのを目の当たりにしたスターリンうん(一応、敬称)がフィンランドに食指を伸ばしたことで発生したのですが、破竹の勢いでヨーロッパ各地を制圧していくナチス・ドイツを前に連合国はスターリンうんまで敵に回すことはできず、再三の要請にも関わらずソ連と戦ったフィンランドに支援の手を差し述べることはありませんでした。
それでもソ連の脅威は弱まることはなくフィンランドは自国の防衛のためにナチス・ドイツと軍事同盟を結ばざるを得なくなり、フィンランド国内にナチス・ドイツ軍が駐留しましたが、あくまでも軍事同盟に留めユダヤ人迫害などに同調することはありませんでした。
その後、スターリンうんの本性を察知したヒトラーさんが1941年6月22日に専制攻撃に踏み切って独ソ戦が始まったためフィンランドからもナチス・ドイツ軍がソ連領内に侵攻し、フィンランド軍も冬戦争で奪われた領土を奪還しようと参戦したことでこの戦争が始まりました。
当初、フィンランド駐留のナチス・ドイツ軍は軍主力を南西部に指向していたソ連の側面を突く形になり、北方の都市を攻略していきましたが補給線が延び切ったナチス・ドイツ軍が冬の厳寒の中、燃料不足から機械力を発揮できなくなるとソ連軍は補給路を遮断して孤立した部隊を各個撃破していく戦術に転換したため戦力に余裕が生じたのです。これを受けてスターリンうんは北からの脅威を除去するのと同時に冬戦争で失敗したフィンランドへの侵略を企図して反転攻勢に転じました。
特に1941年9月8日から44年1月8日までの包囲戦でレニングラード(=サンクトペテルブルグ)の攻略に失敗したことでナチス・ドイツ軍の劣勢は明らかになり、フィンランドは侵略を受ける前に講和する道を模索したのです。しかし、スターリンうんの要求は講話に応じる気がないことを示しており、「フィンランド国内に駐留しているナチス・ドイツ軍を戦力的に劣るフィンランド軍の手で壊滅せよ」と言う実施不可能な項目までありました。このためフィンランドは戦争を継続することになり、連合軍から提供された兵器で戦力が格段に充実したソ連軍の圧倒的な攻勢を得意のゲリラ戦で遅滞させながら進攻に併せて国境線に構築していた塹壕陣地の線まで撤退しここで熾烈な攻防戦を展開しました。結局、ナチス・ドイツと同盟を結んだ政権が全責任を負う形で退陣し、1944年9月19日に賠償金を伴う講和条約を締結しましたが、連合国はナチス・ドイツと同盟を結んでソ連と戦ったフィンランドを枢軸国と見做し、第2次世界大戦後に国際連合が結成された時にもドイツや日本と同様の「旧敵条項」を適用することが検討されました。しかし、実際はソ連だけではない連合国の身勝手さの犠牲者なのです。
- 2018/06/25(月) 10:03:09|
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やはり藤沢弁護士は地元の高校の生徒が起こした傷害事件の弁護を引き受けざるを得なくなったようで、解約は解除しないものの現在の裁判は補助的な形での参加になった。私としては別の弁護士との再契約を提言したが、これまで自衛隊に関係する裁判の弁護を依頼してきた経緯もあり、こちらから打ち切る=解雇することはできないらしい。
そんな折、私は内局から呼び出しを受けた。一介の2等陸佐ふぜいが内局の官僚に名前を覚えられていること自体が異例だが、呼び出したのは私には最も縁が遠い大臣官房の秘書課なのだ。尤も業務上の関係がある訟務管理官も大臣官房ではある。
「モリヤ2佐、君の今度の大臣に対する評価はどうだね」呼び出しの電話は陸上幕僚監部の法務官室で受けたため出かける前に報告すると法務官が雑談を仕掛けてきた。最近は統合幕僚監部の臨時勤務の方が本業になっているので法務官に会うのは久しぶりだ。
「はァ、北沢大臣は国旗国歌法の採決では賛成しておきながら政局では批判しましたから大丈夫かなと心配していましたが中々順調な政務運営をされておられるのではないでしょうか」どうやら法務官は私の時事阿呆談が聞けなくなって手持ち無沙汰になっているようだ。
北沢大臣は小渕内閣が共産党の提案を受けて国旗国歌法を提出した時の採決では賛成票を投じておきながら、森首相が神道政治連盟の会合に出席して「日本は神の国である」と挨拶した時には「国旗国歌法の制定は21世紀の日本にとって危険な兆候だ」と批判した。私自身は君が代を国歌とすることに反対なのでこの採決には強い関心を持って各党の議員の投票行動を調べていたのだが、今思えばテレビの報道番組などで保守色を前面に押し出して国民の信頼と期待を集めていた人間の大半は反対票を投じており、それが雀山政権の中核を占めていることには違和感を抱いている。その点、北沢大臣の矛盾した言動にも少なからず首を傾げているのだ。
「何にしてもいよいよ内局デビューを飾るんだからあまり衝撃的にしないように気をつけなさい」「はい、借りてきた猫のように大人しく振舞います」「それは無理だな」統合幕僚監部の首席法務官はサイレント・ネービーの紳士だけに私の破天荒な言動に困惑しているようだが、元は大砲屋の法務官は私の砲声くらいは笑って聞き流せるらしい。むしろ普通の人間が通り過ごす些細な出来事でも調べないといられない私の性格を利用して雑談のネタを収集しているのかも知れない。裁判でもその悪癖が前面に出ているのではないだろうか。
「モリヤ2佐入ります」陸上自衛隊では市ヶ谷駐屯地、海上自衛隊では市ヶ谷地区、航空自衛隊では市ヶ谷基地と呼ばれている防衛省の庁舎群の中でも本社ビルと仇名されている内部部局に立ち入るのは初めてだ。私は内局の大臣官房秘書課と言う名称から企業の社長秘書室に相当する師団司令部の副官室のようなイメージを抱いてきたが実際は総務・人事を担当する師団司令部の第1部のような部署だった。
「おう、君がモリヤ2佐かね、遠慮しないでこっちに来たまえ」秘書課の比較的広い事務室には各係ごとの机が並び、その中の一角の席に座っている官僚が顔を挙げて顎で私を招いた。しかし、どう見ても40歳にはなっていない若造だ。そもそも呼び出しておいてこの態度はない。私の腹の中では国土交通省と同様に入隊以来貯めてきた内局に対する不信感と怨嗟の念に火がつきそうだ。机の間を通って呼び出した官僚の席に向かうと部屋の隅の席に座っている制服を着た2等陸佐と視線が合って笑顔で会釈してきたので立ち止って10度の敬礼を返した。その踵を打ち合わせる音に部屋中の人間は驚いたように顔を向けた。
「ここでは自衛隊式の教練は必要ないよ。気軽にしてくれ」官僚は前に立った私を見上げながら諭すように声を掛けてきた。それにしてもこの態度は舐め切っている。私の頭に写真とテレビの画面で知っている防衛官僚を欠陥品にした元凶・海原治の悪人顔が浮かんできた。
「最初に伺いますが、貴方の年齢はお幾つなんですか」こう言う質問をする時、私の顔には薄笑いが浮かぶらしい。この時も同様だったのではないか。
「僕は39歳ですが・・・」「ほう、それは随分とお若い。ワシは48歳だ。今時の若造は年長者に対する礼節を弁えなくても許されるようですな」声の音量は必要最小限まで落としているが圧力は最大に強めている。それでも自分が上位に立っている思い込んでいる人間は高圧的な態度で形勢逆転しようとするものだ。
「ここには君と同じ2等陸佐も勤務しているが何も言わないで仲良くやっているぞ。それを今更・・・」「貴方たち官僚が電話で話を決め、机の上で書いた命令で自衛官は戦地に赴き、そこで命のやり取りをする。ワシもこの手で3人の命を奪ってきた。ワシが殺人罪で裁判を受けている時、貴方たち内局は何をしてくれたんだね」そう言って手のひらを突き出すと官僚は顔を反らして周囲を見回した。多分、これは借りてきた猫の挨拶代わりの猫パンチだ。
- 2018/06/25(月) 10:01:45|
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「貴方たち国土交通省の役人は自衛隊法第80条の規定をご存知ですか」後ろから突き倒すのは脅しだけで控えたが、私の中では航空自衛隊時代から胸の中に蓄積してきた運輸省=国土交通省に対する不信感と怨嗟の念に火がついて消せなくなっていた。浜松基地で目撃したブルーインパルス174号機の墜落事故では引き起こし不能に陥った高嶋1尉が唯一の空き地であるホンダ自動車の駐車場を目指して突っ込んで行ったことを運輸省の事故調査委員会は「パイロットが事故を回避するための努力を放棄した」と結論づけた。しかし、浜松基地の周辺はかつての原野が大都市になっており、墜落方向には東名自動車道が通っている。あれ以外にどのような選択肢があったと言うのか。那覇基地で目撃したTー33Aの衝突事故ではポットから漏れたチャフを発煙と誤解した管制官が機体が浮揚し始めていたにも関わらず発進中止を命令し、本井2尉は那覇市内への墜落を回避するためテトラポットに突っ込んで停止させたのだ。その時も調査委員会は運輸省の管制官のミスを隠蔽するため故障が原因と結論づけている。
「証人」「自衛隊法は専門外なので承知しておりません」この証人の答えに私は思わず舌舐めづりをしてしまったかも知れない。私は薄笑いを浮かべて手を挙げた。
「弁護人」「海事の専門家に対して私が申し上げるのは誠に僭越ですが、条文としては『内閣総理大臣は第76条第1項、これは防衛出動です。又は78条第1項、これは治安出動です。の規定による自衛隊の全部又は一部に対する出動命令があった場合において、特別の必要があると認められるときは、海上保安庁の全部又は一部をその統制に入れることができる』と言うものです。これでも専門外ですか」証人は青ざめて検察官の顔を見た。すると検察官は一呼吸を置いて手を挙げながら立ち上がったが、本来は指名を受けてから立ち上がるのが作法なのでこれはマナー違反だ。しかし、裁判官は慌てたように指名しただけだった。
「検察官」「先ほどからの弁護人の質問は本件との関係が不明です。これは私の個人的な推察ですが、意図的に海難審判に対する信頼性を傷つけ、公式に下された裁定を否定する政治目的の誹謗のように見受けられます」この申し立ては急ごしらえだったのか、論理構成にはかなり無理がある。通常は合理的根拠や物的証拠に乏しい弁護側の論述を「勝手な推察に過ぎない」と非難するのが検察官の常套句なのに今回は自分がそれを犯している。流石に裁判官も返事に困っていたが、しばらくの沈黙の後、説明を求めてきた。
「弁護人、ここ数回の尋問の主旨を説明して下さい。確かに本件の審理に直接関係する内容とは思えない点があります。弁護人」二度目の指名で私は立ち上がった。
「証人は被告人の過失責任を裁定した審判官です。その裁定に基づいて被告人は訴追され、本裁判が始まりました。であるのなら証人がどの程度まで海上自衛隊の内部事情や艦艇の運航について理解しているかを確認することは本件を過失致死事案であると判断した検察の根拠を明らかにする上で必要であると考えます」これはあくまでも建て前だ。本音は検察官が言った通り海難審判に対する信頼を傷つけ、公式に下された裁定を否定しようとしているのだ。
「趣旨は判りましたが、時間も限られていることですから早めに本件の審理に関わる質問に移っていただくことを要請します」勿論、そのつもりだが滝沢弁護士の代打に指名されたのは昨日なので準備不足なのは間違いない。そんな事情もあって得意ネタで攻めるしかない。
「弁護人」「それでは本論に入る前の質問はここまでにします。これは海難審判所ではなく旧・運輸省と検察に関係する問題ですが証人の認識を聞かせて下さい」「異義あり。証人に関係しない問題の認識を証言させるのは証人尋問の目的から逸脱しています」ハッキリ言ってこれは検察官の方が正論だが裁判官には「質問を替える」と言う貸しを作っているのでここはそのまま認められた。
「昭和46年7月30日に岩手県の雫石上空で発生した航空自衛隊松島基地所属の2機編隊の練習機と全日本空輸57便の衝突事故の刑事裁判では旧・運輸省航空・鉄道事故調査委員会の報告を受けて検察側は位置関係を問わず小型の航空自衛隊機側の方が回避は容易だったと主張しています。あの事故では全日本空輸のボーイング727は最大離陸重量77110キログラムなのに対して航空自衛隊のFー86Fは6300キロ、ところが今回の事故の海上自衛隊の護衛艦は7750トンなのに対して軽得丸は7・3トン、果たしてどちらの回避が容易だったのでしょうか」「異義あり。この質問の内容については既に判例として確定しています。海難審判官の認識を確認する必要はありません」やはり検察官は激昂したような演技を見せる。しかし、ディベートである法廷では演技は兎も角として実際は常に沈着冷静、相手を観察し、言葉尻を捉え、僅かな隙を突いて理が通っているような印象を演出しなければならない。その点、ここまでの尋問はディベートの範疇を逸脱していたのは確かだ。
- 2018/06/24(日) 08:56:19|
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イージス艦・あまごと漁船・軽得丸の衝突事故の裁判が始まって半年が経過したが想定していたよりも証拠調べに時間が取られ進捗はかなり遅れている。それも検察側が証拠申請した海難審判の証言記録を含む証拠を我々が全面否定して激しく対立したことが原因なので批判することはできないが、この裁判で無罪判決を勝ち取れば本来は何の過失責任もない有能な艦乗りたち2名を訴追した検察当局に対して国家賠償請求訴訟を起こしたくなる。
「滝沢弁護士は都合が悪くなったそうなので、明日の証人尋問はモリヤ2佐に代行してもらわないといけなくなった」最近、首席法務官は私に証人尋問を任せることにあまり乗り気ではない雰囲気だ。滝沢弁護士は刑事事件が専門なので最近、頻発している暴力事件などで手が離せなくなり、3名の弁護士が共同で臨んでいるこちらの裁判よりも優先したのかも知れない。
「前回は滝沢先生が審判官の裁定が推定による点が多過ぎることを追及したはずですが、今回もその継続でよろしいのですね」「うん、航跡図も不採用になっているから審判官としても足元はかなり揺らいでいるはずだ。ここは手で押して揺すってみてくれ」早い話が喧嘩腰で言葉での殴り合いにしてはいけないと釘を刺されたようだ。滝沢弁護士は刑事裁判が専門だけに物的証拠の検証には熟達しており、理事官と審判官の共同謀議とも言うべき口裏合わせの存在を浮かび上がらせた。ここは2ラウンド目にも出場してもらって追い討ちを掛けてもらいたいのだが余程重大な裁判が始まるようだ。むしろこちらの裁判から手を引かれるようなことになると未熟な私には荷が重い。
「それにしても滋賀法務大臣は意外にやりますね」私が前回の裁判記録を熟読し始めると牧野弁護士と首席法務官は雑談を始めた。滋賀大臣が就任した時には元社人党であり、厚木基地の騒音訴訟や病院職員の過重労働などの追及で名を売っただけに徳島水子同様の反国家的人権派弁護士かと思っていたのだが、加入していた死刑廃止議員連盟を「法務大臣の職務である死刑の執行命令を阻害する」と脱会したのだ。こうなると下手な自民党時代の法務大臣よりも法曹関係者としての見識に期待できるのかも知れない。
「やはり帰化した在日朝鮮人と日本人では自己の思想信条を職務のために抑制する精神性が違うんでしょう」分厚いフェイルに顔を向けたまま呟いた私の所見に2人は顔を寄せて「大丈夫だろうか」「多分、大丈夫でしょう」とささやき合った。
「弁護人」横浜地方裁判所での証人尋問は後攻の私の出番になった。裁判官に指名されて証人席に歩み寄ると海難審判官は私の制服を注視した。前回までは夏冬服の併用期間だったので特別注文の半袖ワイシャツ型3種夏服にネクタイ着用だったが今日は冬制服になっている。やはり海上保安官の黒ダブルの制服とはかなり雰囲気が違うらしい。
「前回も指摘しましたが、航跡図の策定根拠になった僚船の船長の証言にある自船の左前7度800メートルを軽得丸が先航していたとの証言は多分に推定であって証拠採用するには合理的客観性に欠けるのではないですか」近代裁判ではマルクス主義の基本原理でもある弁証法的唯物論と断じても良いほど物質的な証拠と論理的な説明を重視する。逆に物質的に証明できない証拠は参考にとどめるのが常識なのだ。しかし、この海難審判では僚船の船長が方位を測定する器具も使用せずに目分量で証言した「左前7度800メートル」を唯一の根拠として推定航跡図を作成している。この点は裁判官も疑問視していて今回は検察・弁護の双方が主張する航跡の中間を航行したことを前提に自ら作成した航跡図を証拠採用した。
「証人」「その点につきましては海難審判の権威、失礼、信頼性に関わる問題を生ずる懼れがありますので証言を控えたいと思います」やはり「三十六計逃げるが勝ち」の遁走戦術を選択したようだ。ここで牧野弁護士であれば逃げる背中を優しく押して前のめりにするのだろうが、私には突き倒さないといられない過去がある。
「弁護人」「信頼性を根拠に証言を拒否するようですが運輸省、失礼、国土交通省の海難審判に限らず航空・鉄道事故調査委員会に信頼性がありますか。私はこの場でその実態を披歴する用意があります」これは完全に暴走だ。私は航空自衛官の頃、空曹と言う立場にありながら何故か幹部であるパイロットたちと親しくしており、酒を飲みながら過去の航空事故の事実と運輸省の事故調査委員会の滅茶苦茶な裁定を聞かされてきた。その後、幹部になってからも研究は続けており、法廷で披歴できるだけの知識は蓄積している。
「弁護人、ここで国土交通省の事故調査委員会の裁定の実態を披歴することには本裁判の進行に直接的な必要性があるのですか」流石に裁判官も政治問題化することが明らかな私の宣言には腰が引けたようだ。当然、検察官と証人も青ざめて乾いた唇を固く結んでいる。
「判りました。取り下げます」今日は滝沢弁護士の代理なのでこの辺りが引き際だろう。
- 2018/06/23(土) 10:05:28|
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島田元准尉は隊友会名簿の中から大垣市内在住の会員を選んで連絡を取ってみた。この人脈探しには地方連絡部の広報官としての経験が役に立つ。若者としてはどこか恐ろしげな自衛隊に入るのに仲間と一緒であった方が安心なのは至極当然で、そこから人脈を手繰り寄せ「入隊は道連れ世は情け」と一網打尽にできるようになれば広報官としても上級者に仲間入りできる。
「もしもし、隊友会岐阜支部でお世話になっております島田です。ご無沙汰しております」この会員は元航空自衛官なので面識はないに等しい。それでも総会で会って名刺を交換していれば「知人」としての挨拶から始めることになる。
「先日、大垣市在住の小杉准尉の四十九日法要に出席しましたら遺族の方から隊友会で貴方と親しくしていたと伺いまして・・・」これは半分以上ハッタリだが葬儀の受付けの列で顔を見ているので外れてはいないはずだ。
「はい、納骨をすませました・・・菩提寺ですか・・・□■町の松念院です」これで当たれば宝くじを買いたいくらいだが、自衛隊の場合、勤務地に夫婦で新たに家を建てることが一般的なので菩提寺を決めていない者の方が多い。
「はい、臨済宗妙心寺派だそうです。そうですか墓苑はそれほど広くありませんから行けばすぐに判ると思います」結局、墓参の案内になってしまったが、これで諦めるようでは広報官は務まらない。それにしても「何故、この人物のことをここまで執念深く調査するのか」島田元准尉自身が判らなくなっていた。
「どう言う経緯かは判らないんだけど島田先任が岡倉くんが私たちと同期であることを知ってるのよ」10月中旬に帰宅した佳織は酒が入るパジャマ・ミーティングの前に意外な問題を持ち出した。官舎で食事をした時には洗い上げも住人の担当なので私は台所に立っていたが、水道を止めて手を拭いている時だった。
「ふーん、岡倉かァ。音信不通になって10年は経つんじゃあないかな」「うん、私たちが守山にいた頃だったよね」リビングに戻りながら返事をすると佳織は意外に深刻な顔をしている。岡倉は前河原の幹部候補生学校で私への不倫の恋に悩む佳織を励まし、略奪作戦を共同謀議してくれた恩人だ。その意味では仲人のような存在なのだが、突然、所属不明になってそのまま音信不通になってしまった。
「あの時、陸幕の運用支援情報部で勤務していただろう」「うん、そんな気がする」頭脳明晰な佳織でも記憶が薄れているくらいなので過去の存在になってしまっているようだ。
「そう言えば前河原の同期名簿からも削除されて不可解な処理がされているよな」「うん、触れてはいけない存在になってるみたい」アンタッチャブルと言う単語を日本人は気軽に使っているが実際はインドのカースト制度の不可触賤民を意味する差別用語でもある。しかし、そんなタブーで表現したくなるような危険な存在になっているのかも知れない。
「どうして島田さんが岡倉に関わることになったんだ」「先任は隊友会の岐阜支部の役員をやっているからそこで名前が出たらしいの」幹部候補生学校の同期名簿からも削除されている岡倉の名前が隊友会に残っているはずがないが、人の記憶までは消去できないのだろう。
「実はハワイで勤務している時、アメリカを拠点に情報活動に従事している隊員の噂を聞いたことがあるのよ」思いがけない話題に私は返事をしないで座ったまま姿勢を正した。
「軍事情報はミリタリー・トゥ・ミリタリーが鉄則でしょう。だから外務省の外交官では紛争地域の現場情報が入手できない。それを実施しているのが自衛隊では員数外になっている隊員たちだって言うの」佳織の説明に私の頭には北キボールで会った「曹候学生の後輩」と自己紹介した梅田の顔が浮かんだがハワイで再会した時には別の名前を使っていた。佳織が聞いた噂が真実であれば梅田も秘密組織の一員と言うことになる。
「確かに岡倉が音信不通になった頃から自衛隊の対外情報が妙に具体的で詳細になったような気がしていたんだ」「うん、それまでは新聞からの引用ばかりだったもんね」「テレビの請け売りもあったぞ」ここで話の腰を折っても仕方ないがそれは私の悪癖である。しかし、守山の時に発生したペルー大使公邸占拠事件の制圧の模様は現場に立ち合った者にしか知り得ない臨場感があった。外交官やマスコミ関係者が聴取・取材をしてもペルー軍関係者はあそこまで詳細には説明しないはずだ。若し、岡倉がそのような任務についているとすれば同期としてできる援護は1つしかない。
「『知らぬが佛、君子危うきに近づかず』だな。島田さんには深入りの前に関わるなって言っておけよ」「だよね。そう言っておいたわ」要するに同調者の確保が目的だったらしい。
- 2018/06/22(金) 10:40:43|
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昭和59(1984)年の6月21日の午前9時14分頃、那覇空港で運輸省(現在の国土交通省)の管制官の判断ミスによって航空自衛隊のパイロットが殉職しました。
この日、空中戦における対電子戦の訓練のため本井哲雄2尉(当時30歳・群馬県高崎市出身)が前席、後に西部航空方面隊司令官になる2尉(同29歳)が後席に乗り込みチャフ(レーダー波を拡散する細断したアルミ箔)を詰めたポットを翼の下に装着したT-33A連絡機で那覇基地を北に向かって発進しようとしました。ところが管制塔の運輸省の管制官はチャフポットから漏れ出たチャフを発煙と誤解して、T-33Aは滑走路の中央付近にまで進行し、機体が浮揚し始めていたにも関わらず「発進中止」を命じたのです。野僧はエプロン(駐機場)で一部始終を目撃していました。
那覇空港の北側には大型フェリーも入港する那覇港やホテル街が広がっており、離陸に失敗して墜落することになれば大惨事を引き起こすことは明らかであり、しかし、速度から考えて停止することが無理である以上、選択肢は1つでした。本井2尉は滑走路のノース・エンド(北端)に並べられているコンクリート製のテトラポットに突っ込んで停止させたのです。その瞬間、本井2尉は「すまん」と呟いたそうです。
T-33Aは発火・炎上し、即座に消防隊と場内救難隊が出動しましたが燃料がフル(満載)常態だったため爆発の危険性が高く、完全に鎮火するまで救助に掛かることができず、飛行隊の整備員を主力とする救助隊員たちは「俺たちが死んでもかまわないから救助に行かせろ」と指揮官に詰め寄っていたそうです。結局、鎮火が確認されてから救助を始めましたが強化プラスチック製のキャノピー(風防ガラス)は熱を帯びて柔らかくなっており、大ハンマーで叩いても割ることができず、黒煙が充満していてパイロットの位置が確認できないまま斧で打ち砕いて救助しました。
本井2尉は酸素マスクから火が噴出したらしく口の周りが黒焦げになっており、担架に移す時には足がラダー・ペダル(方向舵のペダル)に固定されていたため焼けた靴が足と一緒に千切れて骨が剥き出しになりました。
ところが那覇空港の運輸省は一方的に記者発表を行い、原因は「パイロットの操縦ミスの可能性が高い」と断定し、昼のニュースからはそれが公式見解扱いになったのです。運輸省から派遣された航空機・鉄道事故調査委員会もこの前提で調査を始め、野僧も航空機整備員として機体の検証に立ち合いましたが、本井2尉のステッキ・グリップ(操縦桿)のスイッチは「テイク・オフ」になっていました。
ところが生き残った後席の2尉の意識が回復して筆談による事情聴取で管制官の発進中止命令を証言すると事態は一転し、事故調査委員会は「機体の故障の可能性」を指摘して結論としたのです。確かにチャフが漏れていたことを故障と言えばそれが原因ではありますが、責任を全て航空自衛隊に押しつけ未熟な管制官の判断ミスを隠蔽した運輸省の体質は国土交通省になっても全く変わっていないようです。
部隊葬の日、基地前の道路沿いに集結したデモ隊は本井1尉(殉職により特別昇任した)の奥さんが火葬を終えた遺骨を抱いて乗っている車に向かって「馬鹿野郎」と罵声を浴びせましたが、奴らが掲げる赤い旗の中には「空港職員労組」もありました。

「琉球新報」昭和59年2月21日の夕刊より転用
- 2018/06/21(木) 10:05:55|
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精進落としは辞退していた島田元准尉は法要が終わると車を運転して自宅に向かった。知人が誰もおらず遺族とも交流がない宴席に出席しても周囲が気を使うだけなのは判っている。それならば法事と納骨に立ち合えばそれで隊友会役員としての職務は完了したはずだ。
「行方不明になっている隊員の奥さんが子供を抱いて墓参りに来るなんて有り得ないことだぞ」今日は模範ドライバーの島田元准尉にしては珍しく運転しながら考えごとをしてしまう。しかし、どう考えてもあの韓国陸軍の少佐は本物であり、子供は1歳半くらいの乳児だ。つまり10年前に行方不明になっている幹部自衛官が韓国陸軍の女性士官との間に子供を儲けたことになる。結局、行方不明なのは日本国内だけのことで、海外では堂々と活動しているのではないか。頭の中では謎が深みにはまっていく一方だ。
「このままでは運転に意識が行かなくなってしまうぞ」島田元准尉は赤になっている信号でブレーキを踏む反応がいつもよりも遅れた。そこで途中にあった自動販売機で買ったブラック・コーヒーを一口に飲んで気分を替えた。
「考えごとは帰ってからにするにしてもアイツに話す訳にはいかないな」今頃、夕食の支度をしているのであろう妻の順子に話すにはこの事実は謎が深過ぎる。通信員として自衛隊の公然とは語れない影の部分にも触れてはきたが、やはり飼い犬視している政治の統括を受け、悪意を持ったマスコミに衆目監視されている公的組織であり、目につかない影はあっても映画や漫画で描かれているような闇はないはずだ。そう考えようとしても今日の体験は理解を越えている。
「先ずは隊友会の会員名簿で岡倉って言う幹部がどのような扱いになっているかを確認することからだ」そう胸の中で呟いた時、信号が青に変わり、今度は順調に走りだした。
自宅に帰り、順子が用意していた夕食を食べ、風呂に入って晩酌を始める前、島田元准尉は2階に上がった。2階は子供たちの部屋がそのまま残してあるのだが、その一角の倉庫には警察予備隊に入隊して以来、保安隊、自衛隊時代に着用してきた新旧・冬夏の制服から雨衣、外套、戦闘服、迷彩服、作業外衣、作業帽に中帽(ライナー)、鉄帽、短靴、半長靴、弾帯、吊りバンド(サスペンダー)、官給品の下着やOD色の軍手まで秘蔵しており、武器が揃えば何時でも自衛隊博物館を始められるのだが、島田家ではここを「秘密基地」と呼んでいる。
さらに(多分)秘密指定を受けていない資料の本棚もあり、その中から分厚い役員用の隊友会岐阜支部の会員名簿を取り出した。
「どこにもないぞ」名簿の索引は陸海空を分けて入隊年次と氏名順の2重になっているのだが、「岡倉」姓の陸上自衛隊の幹部は全員、所在地、年齢、職業などの身上に顔写真まで揃っている。念のため陸曹・陸士と海上自衛隊、航空自衛隊の項目も知らべてみたが結果は同様だ。
「所在不明者だけの名簿があったな」それは行方不明になっている隊員の捜索と情報提供を目的に陸海空幕僚監部が作成して全国の地方協力本部と隊友会支部に配布しているものだ。こちらには会員名簿以上に詳細な個人情報が記載されているがやはり見当たらない。
「うーん、やっぱりないな。こうなるとパソコンで最新情報を検索するしかないぞ」パソコンは電話機からのインターネットのケーブルに接続してあるため1階の居間に置いてある。自分に続いて風呂に入った順子はそろそろ出てくる頃だ。こうなると今夜は止めておいた方が良さそうだ。島田元准尉の胸に久しぶりに「秘密保全」と言う懐かしい言葉が甦ってきた。
居間に下りてソファー代わりのテーブルの席についてテレビを見ていると浴室から順子が髪を乾かすドライヤーの音が聞こえ始めた。パソコンを立ち上げて隊友会岐阜支部のサイトを検索するくらいの時間はかかりそうだが、判断に迷うところだ。
「貴方、何か探し物でもあるの」案の定、思いのほか早く順子は出てきた。揃いのパジャマは結婚して何十年経っても変わらない習慣だ。夫の口で言うのも変だが本当に「好い女」である。
「どうしてだ」「風呂から出てきてそのまま2階に上がったからまた秘密基地かなって思って」そう言って順子は晩酌の用意に台所へ向かった。初秋の酒は日本酒の冷か、ブドウの季節でワインにするか。世間では11月15日(現在は第3木曜日)のボジョレー・ヌーボの解禁を喜んでいるがあのような深みがない味は熟成された夫婦には似合わないと思っている。
「岡倉って男もあの少佐と夫婦なんだろうか」島田元准尉の頭に墓苑で会った少佐の顔が浮かんできた。軍人としての凛とした佇(たたず)まいもさることながら、咄嗟に我が子を守った動作や威圧するような眼差しには元自衛官であってもたじろいでしまった。そんな女性を愛し、自分に代わって墓参までさせている岡倉に対して単なる好奇心を越えた関心が湧いてきた。
「そうか、あの寺の檀家に岡倉家のことを訊けば何か判るかも知れないな」やはり通信と言う職域には情報的素養が含まれているようだ。そこに順子が冷酒を載せた盆を運んできた。
- 2018/06/21(木) 10:03:16|
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平安中期・堀河天皇の頃に比叡山の僧侶が編纂したと言われる歴史書「扶桑略記」に引用されている「純友追討記」の記述に拠れば天慶4(941)年6月20日に瀬戸内海から博多にかけてを制圧した海覇王(カイパーワン)・藤原純友さまが死んだとされています。
昭和51(1976)年のNHK大河ドラマは純友さまと平将門さまを主人公とする「風と雲と虹と」で海軍少年だった野僧は本当に楽しみにしていたのですが、軍事分野に関心を持つこと自体を嫌う父親が母親から「海賊と海軍を重ねているようだ」と聞いて「受験生がテレビを見ていてどうする」と中学2年の3学期の放送開始から全面禁止されてしまいました。そこで父親不在の土曜日の再放送を盗み見して原作を調べると昭和44(1969)年の大河ドラマ「天と地と」と同じ海音寺潮五郎さんの作品で昭和32(1957)年発刊の「平将門」と昭和42(1967)年の「海と風と虹と」を合成したドラマであることが判り、早速、町立図書館で探して読むことにしたのです。
ところがその頃から小説を読むのと同時進行で歴史を調べる悪癖があった野僧は海音寺先生の原作には思想的意図があり、史実とかけ離れた点が多々あることを察知しました。
史実と海音寺先生の作品の最大の相違点は純友さまと将門さまが連携して東西で反乱を起こしてことになっていることで、作品が連載されていたのは60年安保と70年安保の3年前で社会の水面下に革命を待望する気運が広がり始めていた時期です。
実際、作品の端々に中央の権力者の傲慢と地方に対する搾取と圧迫が強調されており、純友さまは反乱によって公的権力を抹殺しようとした革命家であり、逆に将門さまは圧政に堪え切れなくなった庶民の蜂起に応えて決起した解放者として描かれています。
確かに作品には取り上げられていない伝承では両者が比叡山に登り、足元に京都を眺めながら純友さんが「将門殿は王家の血筋、私は藤原家の血筋、ならば天下を奪い取ったあかつきには貴方が帝王、私が関白になりましょう」と言って約束を交わしたとされていますが両者が同時期に京都に滞在していた記録はありません。
つまり朝廷の中央集権が形骸化したことで貴族の私的財産である荘園が拡散し、贅沢な暮しと政争のために過重な収奪が横行したため租税との二重の負担を押しつけられた地方の怒りが同時に火を噴いたと言うことなのでしょう。
純友さまは伊予沖の日振島を拠点とする海賊団の首領となり、瀬戸内海の西半分から関門海峡を越えて博多湾にまで勢力を伸ばしましたが(この時期は菅原道真さんの献策で宋との交易は停止されていた)、博多に到着した朝廷の追討軍と地元の豪族の連合軍と合戦になり船団の大半を失って伊予に逃れたものの、ここでの戦いで討たれたとも捕縛されて入牢中に病死したとも南海に出奔して消息を絶ったとも言われています。
それにしても将門さまの反乱は関東の豪族自身の手によって2ヶ月間で鎮圧されて朝廷の追討軍の手を煩わせることなく終息しましたが、純友さまは2年を要しました。
伊予・瀬戸内の海賊は江戸時代になるまで活躍を続け、その水軍戦術は日露戦争において愛媛県出身の秋山真之作戦参謀が策定した運用原則にも踏襲されています。
- 2018/06/20(水) 09:40:58|
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「和尚さま、お身体の具合は如何ですか」李知愛=イ・ジアエ少佐は庫裏の奥にある小方丈に介護用ベッドを置いて寝かされている住職を訪ねていた。実は先ほど玄関で取り次いだ副住職から「意識がある間に話がしたいから先に墓参りを済ましてくるように」と伝言されたのだ。
「うん、間もなく遷化・示寂(坊主の死を意味する単語)だな。ワシは禅僧の端くれだがそれはこの寺の子に生まれた宿命で、本当は『南無阿弥陀佛』で簡単に極楽往生させてもらって広い世界で思い切り仕事がしたかったのじゃ」住職は身体が衰弱しているのは明らかだが頭脳と精神はまだ元気溌剌のようだ。それにしてもカソリックの聖職者が絶対に口にしない本音を語りながらも宗教者としての威厳を保っているこの住職にジアエは心の底から敬意を抱いた。
「おう、それが信一郎の息子か。可哀想に父親似じゃな」住職は身体を起こそうとしたが背中も上がらず顔を向けてユックリ手を伸ばしたので聖也(セインヤ)に触れさせた。
「聖也、モングケウ・プングよ」「おう、和尚さまって教えてくれるのか」住職は韓国語も理解できている。最近は韓国でも頭脳が先に活動停止する高齢者が増えているのだが、こうして思考力がある間に生命が尽きることが幸せなような勿体ないような複雑な気持ちになった。
「こうして我が子を得られて信一郎も安心して任務に邁進できるのじゃな。例え何があっても生命は受け継がれる。生命と言う器に意志も宿る。それが人が子を為す意義なのじゃ」住職の言葉にジアエは胸が熱くなった。それがジアエが「未婚の母」になった決意なのだ。
「それしても秋夕(チルソク)に嫁に参ってもらって岡倉家の人たちも喜んでいるじゃろう」「和尚さまは今日が秋夕なのをご存知だったんですね」秋夕の中日は太陰暦の8月15日だ。壁に貼ってある大きなカレンダーには太陰暦が記されているかも知れないが寝たきりになっていては確認できないのではないか。すると住職は種明かしをした。
「ワシは素英(ソヨン)の供養を秋夕に勤めているんじゃ。おそらく生きてはいまいが命日を知る術(すべ)はないからせめて韓国の祖先供養の日にと思ってな。だから介護の人に太陰暦の8月15日と訊いて調べているんじゃが、今年の秋夕は素英が帰って来てくれたようで嬉しかったよ」素英とは住職が戦時中、憲兵士官として韓国に赴任している時に知り合った韓国人の慰安婦のことだ。住職は素英を心から愛し、日本人女性・寺院の嫁としての嗜みを教え、本土に帰る時には同伴して結婚するつもりだった。しかし、そんな思いも敗戦の混乱の中で引き裂かれ、歴史の渦の中に消え去ってしまった。
「大体、ワシは春と秋の彼岸って言う行事は気に入らんのじゃ」どうやら住職が秋夕を大切にしているのは素英の供養のためだけではないらしい。
「春と秋の彼岸は元々は皇霊祭と言う宮中祭儀で神道の行事なんじゃ。ワシは国家神道の狂気に苦しみ尽くしてきたから神道の行事を佛教に押しつけられたことに我慢できん。それを布施集めに利用して有り難がっておる坊主どもは許せんぞ」住職は少し興奮気味になったようで話し終えて激しく咳き込みだした。そこでジアエは聖也を足元に這わせると住職の身体を横に向けて背中をさすった。
「和尚さまはご結婚されたのでしょう」咳が収まり、再び仰向けになった住職に気分が替わるような質問をしてみた。人生の終幕を迎え、過去の悲恋の思い出が強く甦っていたとしても、玄関で伝言を取り次いでくれた副住職を務める息子を得ているのだから先ほど熱っぽく語っていた生命を受け継ぐ者を得た喜びも忘れてはいないはずだ。
「うん、檀家が選び、親が決めた相手じゃ。松念院の大黒(住職の妻)としては申し分がない女だし、ワシの妻としての勤めも卒なくこなしてくれた。しかし、全てが仕事じゃった」住職は入れ歯を外している土手で唇を挟んだ。これを「無念の土手噛み」と言うのかも知れない。
「だから息子は僧侶を仕事と思っていて私の意志を宿す器にはなっておらん。ワシが秋夕と清明(中国の祖先供養の日=太陰暦の4月8日)に勤めていた祖先供養を地元の佛教会に気を使って春秋彼岸に戻してしまいおった。そんな表面上の撫で合いで動いているのが今の日本じゃ。平成は日本人を堕落させて腐敗させた時代だった。ワシは大正、昭和を日本人として生きてきたからそんな情けない時代にはおさらばしたい。こうして素英の代わりのような貴女に会えただけでもう満足じゃ」すでに住職は人生の総括を了えているようだ。
「李少佐、お願いがあるんでありますが」住職は顔を上に向けたまま目をジアエに向けてあらたまった依頼を口にした。今の階級は軍服に関心を示したので階級章を説明したのだ。
「自分は陸軍中尉でありますが、軍人としての人生の餞(はなむけ)に挙手の敬礼をしていただけませんか」住職の口調は帝国陸軍式になっている。横たわったまま手足を伸ばして直臥不動の姿勢になっていることに気がついた。ジアエは畳の上で座っている聖也の横に直立すると帽子をかぶって敬礼をした。同時に住職も全力で手を眉の横に運んだ。
- 2018/06/20(水) 09:39:52|
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1937年の6月19日は日本でもファンタジー物語として人気が高い「ピーター・パン」の作者であるジェームズ・マシュー・バリーさんの命日です。
現在の大半の日本人はウォールト・ディズニーの漫画映画で「ピーター・パン」を知るだけですが、野僧は小学校の低学年の時には分厚い原作の邦訳本を読破していましたからディズニーのような単純で軽薄な冒険ファンタジーだとは思っていません。
何よりも邦訳本の挿絵は原書からの転用だったようで、ピーターが着ていたのは枯葉で作った粗末な服でディズニーのような若葉色の格好良い衣装ではありませんでした。
バリーさんは1860年にスコットランド東岸のキリミュアの機織り職人の父と石工の娘である母の間の3人の兄姉弟の末っ子として生まれましたが、晩年に学長を務める名門・エディンバラ大学を卒業していますから職人家庭の子供でありながら支援者を得るほど優秀だったのでしょう。大学を卒業後はグレート・ブリテン島でも北端に近いノッティンガムの新聞社に就職します。そこで執筆活動を始め作品を雑誌・新聞に投稿するようになり、25歳の時にロンドンへ出て執筆活動に専念することになりました。
3年後、キリミュア(作品中では「スラムズ」)の貧しい機織り職人の家庭を痛快に描いた短編「オールド・リヒト物語」を発表して脚光を浴び、続いて「小さな大臣」「マーガレット・オギルヴィー」などの母親を描いた短編で人気作家に加わりました。この「小さな大臣」は戯曲・歌劇化されてバリーさんは台本も手掛けて劇作家としても認められるようになり、「クリッチトン提督」や「小さな白い鳥」「親愛なるブルータス」「トミーとグリゼル」「あっぱれクライトン」などの秀作で名声を不動のものにしていきました。
バリーさんは34歳の頃からケンジントン公園で知り合ったデヴィス夫妻との交流が始まり、後に「夫妻の5人の男の子たちが『ピーター・パン』のモデルだ」と語っています。
「ピーター・パン」は1904年に戯曲としての「ピーター・パン・大人になりたがらない少年」に始まり、1906年には「小さな白い鳥」のピーター・パンが登場する幕だけの「ケンジントン公園のピーター・パン」を発表して大成功を収め、そうした連作の後に1911年に小説の「ピーター・パンとウェンディ」を発表したのです。なお、1909年にはデヴィス夫妻の死亡により子供たちを養子にしました。
バリーさんがピーター・パンで人々に問いたかったのは「子供が成長して大人になることで失うもの」の存在でしょう。バリーさんは「ピーター・パンとウェンディ」の中で2歳のウェンディが母親に摘んだ花を手渡した時、「ああ、どうして貴女はこのままの姿でいられないのでしょう」と嘆かせています。やはりキリスト教では無垢な子供は天使なのです(佛教では欲望のままにふるまうガキ=餓鬼ですが)。
これは全く必要がない余談ながらバリーさんは153センチの子供のように低い身長にコンプレックスを抱いていたそうです。
なお、ピーター・パンの印税はロンドンの小児科専門病院=グレート・オーモンド・ストリート病院に永久に寄贈されています。野僧からも些少ながら届いたのでしょう。
- 2018/06/19(火) 09:02:41|
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秋の演習は無事に終わり、統合幕僚監部での臨時勤務に専念できるようになった頃、佳織から妙な話が持ち込まれた。それは先日お世話になった島田元准尉からの問い合わせについてだった。
10月初旬、隊友会岐阜支部の役員を務める島田元准尉は盆の前に亡くなった大垣市内在住の会員の四十九日法要に招かれ、菩提寺にある墓所への納骨にも立ち会っていた。
「大悲円満無礙神呪、南無喝羅夜耶南無阿唎耶婆盧獦帝擽爍・・・」納骨を終えて墓石を整えた後、副住職が手鐘(しゅけい)を打ちながらお経を唱え始めた時、島田元准尉は墓苑では一番奥の列に陸上自衛隊の制服を着た女性が子供を抱いて祈っている背中が目に入った。今時のWACが制服で墓参するのは珍しいので元地方連絡部の広報官として話をしてみたくなった。
やがて読経を終えた副住職の指示で合掌・礼拜(らいはい)して他の出席者たちと一緒に墓苑から出ると丁度、祈りを終えた女性が歩いてきた。するとその女性の制服は自衛隊のものではなかった。襟には陸上自衛隊の礼服のような刺繍が施され、ネクタイはリボン・タイだ。帽章は陸上自衛隊よりも複雑なデザインであり、編んだ金モールの顎紐がついている。
「あのォ、何か」その女性は目の前に立ち塞がった島田元准尉に日本語で声を掛けた。抱いているのは1歳半くらいの男の子のようだ。
「御用ではなければ通して下さい」女性はもう一度、声を掛けると子供を抱き直して狭い通路で横を通り過ぎようとした。そこでようやく島田元准尉は我に返った。
「すみませんでした。その制服はどちらの組織のものなのでしょうか」唐突な質問に女性は即座に身構える。子供を抱えた左腕を後ろに下げ、右腕を立てた半身になっている。この反応は生半可な警備保障の社員などではない。この制服の生地と仕立ては自衛隊の官給品よりも上等で明らかに軍服としての品格がある。
「失礼しました。私は自衛隊隊友会岐阜支部の島田と申します。先ほど後ろからお参りしておられるのを拝見していました。最後に挙手の敬礼をされましたので女性自衛官なのかと思っていたのですが・・・」「私は韓国陸軍の李少佐です」女性は島田元准尉が身元を明かしたことでようやく自己紹介に応じた。島田元准尉は「少佐」と聞いて自然に姿勢を正して十度の敬礼をしていた。韓国軍では脱帽時も挙手の敬礼をするので女性は一瞬困惑したが、それでも基本教練通りに姿勢を正して挙手の敬礼を返してきた。
「どうも有難うございます。陸軍少佐に対して大変失礼いたしました」そう言ってもう一度、十度の敬礼をしたが今度は微笑んで軽くうなずいた。
通路を開けると李少佐と名乗った女性は背筋を伸ばして片手で子供を抱いたまま前を通り過ぎて行った。島田元准尉は李少佐の後を追って墓苑から出て行くのを確認すると先ほど参っていた墓石の前に立った。
「岡倉家かァ・・・」墓苑の中でも大き目の墓石には「岡倉家先祖累代の墓」と刻まれている。その古びた書体と側面に刻まれた多くの文字が並んだ戒名は岡倉家が格式の高い旧家であることを無言のうちに語っていた。
島田元准尉が本堂に戻ると出席者たちは副住職との茶話会を始めていた。亡くなった会員は航空自衛隊岐阜基地で勤務していた航空機整備員の元准尉なので島田元准尉とは面識はなく、隊友会の会合などで合ったことがあるのかも知れないが記憶にはない。したがって遺族と一緒にいても話題に困っていた。
「島田さん、先ほどの女性はやはり自衛隊の方ですか」出席者たちも前方の墓で李少佐が祈っていたのには気づいていたようだ。すると島田元准尉と同世代の副住職が代わって答えた。
「あの方は岡倉さんの奥さんで韓国陸軍の大尉さんですよ」「大尉って言えば幹部自衛官じゃあないですか」「お父さんよりもエライさんだ」遺族たちは流石に自衛官の妻子だけに中途半端に軍隊と自衛隊に関する知識を持っているようだ。それにしても副住職が階級を間違えたのか女性の方が嘘を言ったのか。多分、前者だろう。
「ウチの住職が高齢で寝たきりになったと聞いてワザワザ子供を見せに訪ねて来てくれたんですよ。住職は岡倉さんを子供の頃から可愛がっていましたから」副住職は父親であっても檀家の前では住職と呼ぶようだ。それにしても「岡倉」と言う人物と韓国陸軍の少佐が結婚した経緯が判らない。島田元准尉の中で広報官的な好奇心が騒ぎ出した。
「折角、子供さんを見せるのなら岡倉さんも一緒に来れば良いのに。よほど忙しいお仕事なんですね」「・・・」島田元准尉の質問に副住職はしばらく返事をしなかった。
「岡倉さんは陸上自衛隊の幹部だったんですが10年ほど前から行方不明になっているんです」思いがけない話に2人の関係は結びついたが逆に謎は深まってしまった。

韓国陸軍のWAC(ただし、尉官)
- 2018/06/19(火) 09:01:38|
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1987年の6月18日は宗祖や高僧・名僧の著作や法語を注釈して信者に広める一般的な僧侶兼務の宗教学者とは少し毛色が違う学究を成し遂げた高橋梵仙先生の命日です。
高橋先生は明治37(1904)年に岩手県で生まれましたが、僧侶としては陸前高田市気仙沼にある真言宗でも弘法大師・空海さまを始祖と仰ぎながら修験道との融合を図った覚鑁さまを開祖とする新義・智山派の金剛寺の住職でした(金剛寺は東北地区太平洋沖地震と津波で倒壊しましたが2017年に一段高い裏山に本堂が建立されています)。
高橋先生は宗教学ではなく日本経済史や社会経済史、人口史などを専門にして儒教教育を設立目的とする大東文化大学の教授に招聘され、その後、名誉教授になっています。
さらに昭和35(1960)年には「近世諸藩の人口と人口増加政策」の学術論文で専修大学から経済学の博士号、翌年には「かくし念佛の歴史と教義・教団組織とに関する一研究」で東洋大学から文学博士号を贈られています。
この他にも「堕胎・間引きの研究」などの民俗学的な著書も多いのですが野僧が高橋先生の著作を読むようになったのは「かくし念佛」の研究が切っ掛けでした。
野僧は小学生の時に愛知県岡崎市の昔話の研究を始めたことで中学時代には秘かに(知られると同級生から変人扱いされて苛められたため)伝説や史実の収集を進め、それが高校時代には民俗学に発展し、交通の利便性で他校よりも広範囲から通ってくる同級生たちから地元の祭礼や風習などを聞き取り、記録するようになったのです。
そんな中である地域では「寺には内緒で秘かに集まって生きながらに極楽往生する儀式がある」と聞き、これに強い興味を持った野僧は早速、禅僧である祖父に話してみると「それは真言宗の『かくし念佛』か浄土真宗の『秘事法門』だな」と言いながら高橋先生の著書「かくし念佛考」を貸してくれました。
その後、航空自衛隊に入ると調査対象地域は全国規模に広がり、宗教学・民俗学の枠から外れて諜報活動のようになりましたが、高橋先生の学説が必ずしも全容を網羅していない=未完であることも確信するようになったのです。
浄土真宗では教義の混乱が生じていた関東に派遣された親鸞聖人の嫡男である善鸞さんが「父から夜中に秘かに教えられた」として伝えた「秘事法門」をまるで勝手に捏造した虚偽のように完全否定しています。しかし、野僧が調査した西は九州の離島や四国(宗教学・民俗学界では「かくし念佛」と「秘事法門」の分布は広島以東の本州と北海道のみとしている)から東北までの儀式はほぼ共通しており、その意味では末端の創作ではなく上位の高僧から正式に伝えられた秘事である可能性の方が高いでしょう。
実際、親鸞聖人自身は「現世利益」や「首楞厳経(=楞厳呪)によりて大勢至菩薩和讃したてまつる」などの和讃を作っているので呪文的な経典の知識も有していたことは間違いなく、むしろ自分よりも正統な嫡流の存在を懼れた妾の子である蓮如さんとその末裔が「秘事法門」の抹殺に血道を挙げたのかも知れません。
高橋先生には真言宗・学者の立場から更なる学術的探究を進めていただきたかった。
- 2018/06/18(月) 09:28:50|
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「雲島って遠いの」「ウチの船で直行すれば30分くらいだけど他の島に寄りながらだと3時間くらいかな」あかりはまだ船に乗った経験がなく、3時間と言う時間は正確極まりない体内時計で推測できるが、その間に受ける負担については想像できなかった。
「船に乗っている3時間って大変なの」「うーん、あかりには辛いかも知れないな」淳之介は正直に答えた。普通の乗客であれば刻々と変化する海や島影を眺めているだけで多少は気も紛れるのだが視覚障害者のあかりでは日差しと風や音、匂いしか刺激はない。その音もエンジンが立てる騒音であり、匂いはオイルの悪臭である。それに波の動揺とエンジンの振動が加われば決して快適な船旅ではないはずだ。
「でも私に我慢できないような辛さではないんでしょう」「あかりが船酔いするかも知れないからそれは判らないな」どうやら淳之介はあまり勧めたくはないらしい。最近のあかりは家事に慣れてきて帰宅すれば洗濯物は片づけられ、掃除が行き届いた部屋での夕食の準備ができている快適な夫婦生活が営まれている。しかし、それも時間が十分にあるからできていることは淳之介にも判っていた。
「折角、私を必要としてくれている場所があるのなら行って役に立ちたいな。私みたいな身体障害者が社会の迷惑にならないためにはできることをやらないと駄目なのよ」そう言ってあかりは目を閉じたまま顔を淳之介に向けた。その固く結んだ唇が強い意志を示している。淳之介は少し圧倒されて視線を反らした。
「あかり、オカズが冷めてしまうよ。食べながら話そう」「はい、ごめんなさい」あかりは表情を緩めると手探りで箸を取り、汁椀を持って口に運んだ。
「本当、冷めてしまったわ。本当にごめんなさい」あかりは「温め直してくる」とは言わない。その作業に要する時間が健常者に比べれば長くなってしまうことを知っているからだ。
「ううん、夏だからこのくらいの方が飲みやすいよ。そう言えば親父は冷汁って言う味噌汁を作ることがあったな」話の腰を折るのに丁度良いネタが見つかった。久居の官舎では父が家事に励んでいたが、どこで習ってきたのか料理は得意だった。夏場に作る冷汁は山形県の郷土料理で塩揉みや一夜漬けにした胡瓜や茄子、キャベツを入れて一晩冷蔵庫で冷やした味噌汁だ。発汗した塩分の補給を兼ねているが喉ごしが心地よかった。
「貴方が作り方を知っているんだったら今度教えて下さい。貴方が好きな料理はドンドン覚えたいの」あかりは微笑んで汁椀を置いた。
「今はあかりに家を守ってもらいたいんだ。もうしばらくは俺に独占させてくれよ」この答えは反応の計算が難しい。あかりの意思が社会への貢献である以上、それを否定して家に縛りつけることは反発を招く恐れがある。その一方であかりなら自分との生活を最優先してくれるのは間違いないはずだ。やはりあかりは料理に箸を伸ばすこともなく動かなくなった。淳之介もつき合って動かずに片道通行の睨めっ子を始めた。
「判りました。私は淳之介さんの妻ですから貴方の仕事を支えるのが役目です。離島の人たちの生活を支える貴方の仕事を通じて私も離島の人たちのために働くんです」これは100点満点の150点の答えだ。おそらく父は梢さんから常にこのような言葉を聞いていたのだろう。それは今の母・佳織も同様だ。淳之介はこの妻を守るために為すべきことを考えながら料理を食べ始めた。
「それでも夏の観光シーズンが終わったらお前を離島に連れて行きたいな。船に慣れておけば何かの役に立つこともあるだろう」「うんうん」淳之介としては将来的に保健師・砂川直美の要望に応える可能性を確保した伏線だったがあかりは生返事をしながら料理を口に運んでいる。一度、結論を出してしまえば後は迷わないのが梢さんからも感じる安里家の気風のようだ。気がつくとあかりは料理を食べ終えてビールを口に運びながら待っている。確かに盛りつけは淳之介よりも少なめだが、余計な考えごとをし過ぎたらしい。
夕食を終えて一緒にシャワーを浴び、並んで歯を磨けば後は淳之介が布団を敷いて眠るだけだ。
この時期であれば毎夜のように夫婦の営みに励みたいところだが早朝出勤なので夜更かしすることはできない。それでも抱き締めて髪の匂いを嗅いでいると意思に背いて身体が反応する。
淳之介の手が乳房を掴んだことであかりも身を任せてくる。ただ必要最小限・至短時間の刺激で最大の効果を生む前戯・愛撫を実施するには経験不足だ。
「あかり、ここを押せば一発で感じちゃうようなツボはないか」「馬鹿、ある訳ないでしょう」それを言うならツボではなく性感帯だ。ならばあかりよりも意外にその道に熟練しているらしい父に訊いた方が正解だろう。

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- 2018/06/18(月) 09:26:56|
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2008年の6月17日に埼玉県と東京都で4人の幼女を誘拐・殺害・屍姦した宮崎勤(流石に敬称はつけない)の死刑が東京都葛飾区小菅にある東京拘置所で執行されました。これは死刑が確定してから2年5カ月で鳩山邦夫法務大臣が執行命令を下した13人のうち10から12番目です。と言うのもこの日、東京拘置所では3人の死刑が執行されており順番は発表されていないからです。
このニュースを受けて報道番組では死刑の確定から執行まで平均して8年間の猶予が持たれていることから「執行が異例に早い。鳩山法務大臣の『死刑は確定から業務とし自動的に執行されるべきだ』と言う持論を確定するために利用したのではないか」などと批判や理由を詮索する声もありましたが、一緒に執行された3人のうちもう1人も確定から2年8カ月での執行でしたから異例と言う指摘は当たりません。実際、鳩山法務大臣が執行命令を下した13人は10年以上が3人なのに対して5年以下が10人とマスコミが言う8年間の平均猶予期間を外したような選択になっています。
この一連の事件は1989年7月23日に宮崎が東京都内で6歳と9歳の姉妹に「写真を撮らせて」と声を掛け、妹を山林に連れ込んだため姉が家に戻って呼んできた父親に取り押さえられ、逮捕された警察で自供を始めたことから発覚しました。
その前年から埼玉県内で幼女が誘拐されて行方不明になる事件が続発しており、マスコミも独自捜査のような取材を展開していたのですが、誘拐された日時が通常の会社員が勤務している平日の日中であったため「近傍の航空自衛隊入間基地でシフト勤務している自衛官の変質者ではないか」と言う無責任な推測まで流れていました。
その後、3番目に誘拐された女児の遺骸が葉書での通知通りに山林で発見され、父親がテレビのインタビューで「死んでも見つかってよかった」と語っていたことを契機に最初の被害者である女児の骨片や遺骸の写真が自宅に届けられ、今田勇子の名で朝日新聞に事件の詳細を記した犯行声明が届くようになったのです。
宮崎・は1988年8月22日に4歳の女児、1988年10月3日に7歳の女児、1988年12月9日に4歳の女児、1989年6月6日に5歳の女児を絞殺、屍姦(7歳の女児については「性行為の間、ふくらはぎの筋肉が動いていた」と証言している)しており、供述通りに遺骸が発見されたことで事実上、本人の犯行であることが確定しました(それでも宮崎が付属中学・高校の出身である明治大学の木下信男名誉教授は「冤罪」説を唱え、市民団体を結成しています)。
自宅の捜査では5763本ものビデオと多数の猥褻雑誌の中から女児の全裸遺骸の写真や屍姦している動画が発見され、その異常・変質性と生い立ちが注目を浴びましたが、当時の後藤正夫法務大臣は「死刑ぐらいでは収まらない残酷な出来事だ」と評価しています。
死刑が確定した後、宮崎は「吊首刑には恐怖感があるから薬物注射が好い」と語っていたそうですが希望に反して首を吊られて死亡し、母親は遺骸を確認した後、処理を拘置所に依頼して引き取らなかったようです。
- 2018/06/17(日) 07:49:23|
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淳之介の船会社では観光シーズンにも離島の住民のための定期便は通常通り運行している。この日、淳之介は竹富島、小浜島、雲島(くもじま・仮称)、新城島を巡航する中型船の助手だった。最近では石垣島と西表島に挟まれたこの半分内海の航路では小型船なら単独で操舵させてもらえることもあるのだが、今回は新城島に届ける軽トラックを積むため船が大きくなり、助手=乗組員に戻ってしまった。
「船長、乗船と積み荷の点検終わりました」「よし、やっぱり安里が乗っていると安心だな」今日の船長は見習いの頃から世話になっている西大浜だ。淳之介としてはこの中型船に熟練した西大浜の出港時の操舵を見学したいのだが、これから船体が不安定になるので乗客の安全と積み荷の状態を監督しなければならない。西大浜がエンジンの出力を操作して船体が振動を始めたところで操舵室から階段でデッキに下りていった。
「本船は只今から竹富島に向かって出港します。船体が揺れますから座席に座って手荷物は床に置いて下さい」エンジンの音が大きく響き始めた客室内に声を掛けたが、今日の客は全員が顔馴染なのであらたまった注意は必要ないはずだ。やがて船は岸壁を離れて舵を切り、離島ターミナル港から沖に向かって出発した。
「貴方、安里さんになったのね。結婚したの」船体が安定したところで淳之介が客室内の乗客の様子を確認に回ると雲島の診療所の保健師の女性が声を掛けてきた。この女性は石垣市内の八重山病院で行われる各離島の保健師の会議と講習や島民が入院する時に乗船してその度に声を掛けてくれる。そのため「玉城淳之介」と言う名前と年齢だけは教えてあった。
「はい、6月に結婚しましたがどうしてそれを」「さっき船長と話しているのが聞こえたのよ。船乗りの声は大きくて良く通るから下のデッキにいても聞こえるわ」返事をしながら淳之介は客室内を見回したが用件がありそうな客はいないようなのでそのまま話を続けた。
「安里って言う家ならお嫁さんは沖縄の人ね」「はい、あかりって言います」嫁の話題になると周りの客たちも興味を示したようで一斉に視線を浴びせてくる。
「貴方は宮水出身じゃあないわよね」「はい、沖水です」宮水とは宮古島にある水産高校の旧名で現在は宮古総合実業高校になっている。
「まだ若いのに結婚したって言うことは高校時代の彼女でしょう。沖水には女生徒が多いの」確かに沖縄水産高校は本土の水産高校のように学科が細分化されておらず、総合科の中で選択するため同級生には女生徒もいた。しかし、保健師の推理は事実から外れている。
「妻とは同じ年ですが学校は違います。妻が県立盲学校の生徒だった時に知り合いました」淳之介は相手が保健師と言うことであかりの障害のことを明かすことにした。すると想定外、と言うよりも想定以上の反応が返ってきた。
「盲学校出身って言うことは視覚障害者なのね。それじゃあマッサージと鍼灸の免許を持っているんでしょう」「はい、結婚するまでは那覇市内の鍼灸院で働いていました」淳之介の返事を聞いて保健師は黙って考え込み始めた。その間に淳之介は広くはない客室内を一周して保健師の前に戻ってきた。すると保健師は待ち構えていたように話を切り出した。
「ウチの島も高齢化が進んでいるからマッサージの要望が高いのよ。だけどプロがいないから素人の按摩、指圧でお茶を濁しているの。貴方の奥さんが時々島に来て開業してくれると助かるな」保健師の提案に同じ島の住人の客たちも一斉にうなずいた。淳之介としてもあかりに仕事を再開させることを考えてはいるが、夏の観光シーズンが終わるまではハロー・ワークや市内の病院、鍼灸院を回って求人を確認することができないのだ。
「やはり僕が勝手に決めることはできませんから今夜、妻に訊いてみます。連絡先を教えてくれますか」自分で調べれば雲島の診療所くらいは簡単に判るのだが、そこは保健師の本気度を測るためにもあえて訊いてみた。
「はい、この番号に電話してくれれば不在でも携帯に転送されるようになっているから何時でも大丈夫だよ」「砂川直美さんですかァ・・・」保健師に渡された名刺を見ながら淳之介は困惑した。雲島は島の形から「ハート・アイランド」と呼ばれているのだが人口は200人程度で牛の頭数の方が多いはずだ。そんな島内で携帯電話が使えるとは意外だった。
その夜、アパートに帰った淳之介は遅い夕食の時、あかりに訊いてみた。
「今日はお前の仕事の話があったんだよ」「仕事・・・鍼灸師のこと」あかりは乾杯をして口に運んだグラスを止めて訊き返してきた。意識が質問に向いたため見開いた両目には白濁した角膜が見えている。淳之介は慣れているがそれだけ驚いたと言うことだ。
「うん、雲島の保健師さんから『時々診療所に行って島の人たちに施術して欲しい』って頼まれたんだ」淳之介の説明にあかりはグラスを座卓に置いて身を乗り出した。
- 2018/06/17(日) 07:47:30|
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1969年の6月16日は第2次世界大戦においてアメリカのドワイト・デビット・アイゼンハウアー元帥のカウンター・パートナーとして西側連合軍の作戦を指揮・指導したイギリスの名将中の名将・ハロルド・ルパート・レオフリック・ジョージ・アレグサンダー元帥の命日です。
日本がイギリスと正面から交戦したのは第2次世界大戦の緒戦でマレー半島からシンガポールと香港で圧勝したあたりまでですが、あの相手は植民地軍であってイギリスの正規軍を帝国陸海軍よりも劣ると考えるのは大間違いです。この先入観からヨーロッパ戦線でもアメリカ軍の活躍によってナチス・ドイツに勝利したと思いがちですが(アメリカの戦争映画を鵜呑みにして?)、これも不当な過小評価であることは否めません。
そもそも日本の貴族=公家は宮中で卑劣極まる政治的謀略のみを弄してきた連中なので戦争に自ら出陣する気概などは持ち合わせていませんが、イギリスに限らずヨーロッパの貴族は騎士=武将であって「ノブレス・オブリージュ」の精神そのままに地位が高くなるほど先陣を切って戦う責務が課せられているのです。
アレグサンダー元帥もアイルランドの名門貴族の生まれなのでその気風を色濃く受け継いでおり、ましてや3男ですから立身出世のためにも武名を馳せる必要がありました。
そんな訳で王立陸軍士官学校を卒業して3年後に第1次世界大戦が勃発するとアイルランド近衛連隊の士官として前戦に赴き、重傷・軽傷を繰り返し負っていますがこれも危険を顧みず任務を遂行していた証左でしょう。
終戦後は独立を果たしたポーランドに置かれた連合軍監理委員会で勤務しますがラトビア独立戦争に参加するとソ連軍との戦闘でまたもや負傷しています。1920年には帰国してからも順調に昇任を重ね、1934年には准将になり、植民地であったインド北西部の現在で言えばアフガニスタン付近の武闘派山岳民族の討伐に当たることになりました。
1937年に帰国して少将に昇任しますが、その2年後に勃発した第2次世界大戦では敗戦続きで、ベルギーでナチス・ドイツの侵攻を阻止するはずが失敗。それでも中将、大将に昇任してミャンマーの首都・ヤンゴン防衛に派遣されたもののここでも失敗。続いて中部の第2の都市・マンダレーの防衛にも失敗します。
ところが本国に召還されても解任されることなく敗走を続けていた北アフリカ戦線の最高司令官に任命され、知名度ではイギリス第1の名将?バーナード・モントゴメリー大将を使ってナチス・ドイツ軍に逆転勝利を収め汚名を挽回することに成功しました。
それからは反抗に転じた西側連合軍の最高司令部でアイゼンハウアー大将と共に作戦の指揮と指導だけでなく英米両軍の多岐にわたる調整にも手腕を発揮し、1943年7月のシチリア島占領、9月からのイタリア半島侵攻、そして1944年6月からのノルマンディー上陸作戦、そして勝利に大きく貢献しました。
終戦後は新たな貴族として子爵家(日英の爵位の序列=公侯伯子男)を起こすことを許され、最終的には生家と同格の伯爵・アレグサンダー家の初代当主になっています。
- 2018/06/16(土) 09:17:39|
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9月になって淳之介とあかりは不動産屋の紹介で石垣市内の2Kの鉄筋コンクリート3階建てのアパートに移ることができた。しかし、淳之介は夏の観光シーズンは秋分の日まで続くため相変わらず早朝に家を出て、帰港して船の清掃と点検を終えると家に戻るのは9時近くになる。
その間、あかりは淳之介と買ってきた家具の収納場所を確認しながら衣類や食器、雑貨を1つ1つ片づけて待っている。それでも健常者が手早くすませる仕事に比べれば時間がかかるので淳之介の不在を紛らわすには丁度良い仕事だ。
「ただいま」淳之介が帰ってくるとあかりは玄関で待っている。原付バイクのエンジンの音で淳之介の帰宅を察知し、階段を上る足音に合わせて立ち上がって歩いてくるのだ。
「お帰りなさい、貴方」そう言って微笑むあかりを淳之介は抱き締める。原付バイクで風を切って走ってはきてもフルフェイスのヘルメットをかぶっているので頬は汗ばんでいる。抱擁を終えるとあかりの髪が頬にくっついていた。
「今日は私の冬服をファンシー・ケースに吊ったんだけど、おかしくないか貴方が着替える時に見ておいて」「うん、わかった」あかりは玄関から台所に向かい、居間に移動する淳之介に確認を依頼した。あかりとしてはクリーニングから返った状態で段ボールに詰めた服を手触りで識別してハンガーで吊っているのだが色や上下の組み合わせは判らない。以前は母に依頼していた手順だがこれからは夫の担当になる。
「うん、大丈夫だ。石垣島で冬服を着ることは滅多にないけれど那覇に帰る時には必要になるな。早い話がウチナー正月の頃まで仕舞いっ放しだ」「このアパートなら冬も寒くないわね」あかりは下ごしらえを終え、温めるだけにしていたオカズを順番に電子レンジで加熱していく。その間に淳之介は夏用の作業服を脱いでタンスの引き出しからTシャツと短パンを取り出して着替えた。後はシャワー室に置いてある洗濯機の脱衣籠に投げ込むだけだ。その洗濯機も全自動にしたのであかりの負担は軽くなっている。
「貴方、ビールを飲むんでしょう」「うーん、シャワーを浴びてからにしようかな」「今夜のオカズはグルクン(タカサゴ=スズキ科の沖縄の県民魚)の刺身とヒージャー汁(山羊肉が入った汁)にフーイリチー(麩入りのチャンプル)だからビールに合うんじゃあない」最近はあかりも晩酌につき合っているので助言も適切だ。旅客航路の乗組員である淳之介は酒気帯び状態で出勤することは許されないため日中に大量に発汗した水分補給とは言え酔うほどビールを飲むことはできない。ならばあかりの助言に応えても良いだろう。
「うん、頼むよ。お前もつき合ってくれるだろう」「はい、貴方」あかりの返事が明るくなった。一緒に暮らし始めて1ヶ月経って夫婦としての呼吸も完全に合致したようだ。
淳之介はシャワーが後になることが決まったので洗濯物を籠に入れにいくと交替にあかりが料理とビールを運んできた。台所には物を載せる台として1人掛けの小さなテーブルが置いてあるが、それは手で確認しなくても素通りしている。
こうして2人が居間の座卓に向かい合って座ると遅い夕食になる。手を合わせて「いただきます」と丁寧に唱えて頭を下げる作法は淳之介は父から受けてきた躾、あかりは同一人物から習った母の教えだ。安里姓になってもこの家にはモリヤの文化が流れているのだ。
「カリー」「チアーズ」乾杯の音頭は沖縄方言と英語になった。これも2人の父と母の教育だが、淳之介の父は気分で方言、外国語を使い分けるのでそこを受け継いだに違いない。
「ビールはオリオンで良いんだよね」「最も新鮮、オリオン・ビール、最も古いサッポロ・ビール」「何それ」これも父の口癖だ。沖縄時代、テレビで流れていたオリオン・ビールの宣伝文句に千歳から来ていた職場の先輩が付け足した台詞らしい。
「グルクンは痛むのが早いから刺身は漁港の近くじゃあないと食べられないんだよ。石垣漁港で仕入れることができるから市内の鮮魚店では普通に売っているけどな」淳之介が食事中にもウンチクを語るのも父親譲りかも知れない。これは水産高校で学んだ知識だ。
「私が買い物に行くと商店の人たちが『ウチは何屋だよ』って声を掛けてくれるんだよ。それでオカズの予定を話せば必要な材料を渡してくれるの。最近は店の人が大声でオカズを言ってくれると他の店の人が材料を持って集まってくるようになったんだ」このアパートに転居して最初の頃にはあかりが白い杖を持って店に入ると店主が身構えたことが判ったらしいが、最近は支援体制が完全に出来上っているようだ。
雨の日には傘と杖で両手が塞がるため買い物に出られなくなるが、そうすると近所の小母さんたちがオカズの余りを届けてくれるようになっている。これも重度身体障害者であっても快活で素直なあかりの性格のおかげだろう。これも母が与えてくれたものだ。
- 2018/06/16(土) 09:14:08|
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1671年の明日6月16日に日本でもロシア民謡「ステンカラージン」で有名な大水賊・スチェパン・チモフェエヴィッチ・ラージンが4つ裂きの刑に処せられました。
この曲名にあるステンカはスチェパンが訛った呼び名で愛称・蔑称に近い用い方をされているようです。なおスチェパン=ラージンが活躍したのはヴォルガ川や世界最大の湖であるカスピ海なので海賊ではなく水賊です(「カスピは海だ」と言われると困りますが)。
野僧が中学・高校時代に聴いていたソ連当時のモスクワ放送のロシア民謡のコーナーではでは歌詞の説明と共にスチェパン=ラージンを帝政ロシアに反抗した英雄として詳しく紹介した後、「ステンカラージン」を流していました。ちなみに「ボルガの舟歌」の時は過酷で悲惨な労働に従事していた船曳奴隷についてでした。
野僧も中学校の音楽の授業で「ステンカラージン」を習っていたのでロシア語の雄大で朗々たる歌声に感動してしまいました。ただし、ロシア語の歌詞の意味は学校で習った史実不明のステンカラージン讃歌や一般的に知られている与田準一さん訳のボニ―・ジャックス版よりも具体的でドラマ・チックです。それはペルシャの貴族の娘と船に乗せていたコサックの娘を交換したことを非難する水賊たちの声を聞いたスチェパン=ラージンはその娘を散々抱いた後、ヴォルガ川のカミに捧げる貢物として舳先から投げ込み、カミを祭り、娘を弔う酒宴を始めると言うものです。
スチェパン=ラージンは日本では江戸幕府が開かれて四半世紀が経過していた1630年にドン・コッサクの集落の長(おさ)の子として生まれ(兄がいた)、30歳頃から部族の指導的立場にあったことがロシアの古文書に記録されています。30歳代の後半から湿地帯で暗躍する盗賊団の首領になり、やがて当時は帝政ロシアとペルシャの主要交易路であったヴォルガ川を荒らしまわる水賊になったとされています。それにしてもコサックと言えばロシアの広野を縦横無尽に駆け巡り、ナポレオン・ボナパルトを破った世界最強の騎馬軍団をイメージしますが水戦にも優れていたようです。
その頃のロシアは帝政が確立するのと同時にポーランド、スウェーデンと相次いで戦争を起こしており、庶民には重税が課せられたため南に逃れる者が後を絶たず、それらを吸収してスチェパン=ラージンの盗賊・水賊団は一大勢力になっていきました。そうしてカスピ海にも侵出してペルシャの都市を襲撃し、自信を深めたスチェパン=ラージンは帝政ロシアに戦いを挑んだのです。
しかし、流石の盗賊軍団も実戦経験が豊富なロシア軍には敵わず敗退を重ね、配下の裏切りも加わって最後に立て籠もっていた砦でロシア軍に捕縛されてしまいました。
こうしてモスクワに連行され、拷問の末に赤の広場で生きたまま手足に縄をつけて馬で引かせる四つ裂きの刑に処せられました。この時、首を千切ってしまうと簡単に死んでしまうためそのままにして逃れようがない恐怖と先ず四肢の関節が抜け、続いて腱や筋肉、血管が引き千切られる激痛を味あわせた後、苦悶させながら出血多量で死なせる残酷な処刑法です。だから四つ裂きなのです。

刑場に運ばれるスチェパン=ラージン
- 2018/06/15(金) 08:56:46|
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「戦前は山口陸軍閥出身の田中義一首相の腹心だったそうだ。田中義一は知っているな」「確か張作霖爆殺事件の時の総理大臣ですよね」「うん、正解だ」どうも学校ではやらない日本の現代史の授業が始まったようだ。気がつけば岡倉、杉本、松本も席について話を聞いている。
「それで第1次世界大戦の後のロンドン、ワシントン海軍軍縮会議では条約締結に反対したんだがその理由がふるっているんだよ」「ゴクリッ」工藤の授業の進め方は素人とは思えない絶妙のリズムがあり、その間(ま)で本間は生唾を呑んで身構えた。
「内閣が海軍の軍備に口を出すのは憲法が定める統帥権を干犯する越権行為だと言うんだ」「その時、雀山は政治家ですよね。それなのに政治が軍に介入することを否定したんですか」「そうだ」意外過ぎる話に本間の後ろで3人は顔を見合わせている。
「その後も軍国主義を推進する立場で謀略を繰り返したそうだが詳しいことは知らん。ただ、利権漁りにも励んでいたらしく疑獄事件には必ず名前が出ているな」「それで今の豪邸を手に入れたんですね」本間も日本のマスコミが報じている雀山の人物紹介の記事は熟読しており、東京都文京区音羽にある音羽御殿の写真を見て明治以来の藩閥政治家の家系なのかと思っていた。ここで工藤は冷めてしまったコーヒーを飲み干した。
「ところが戦後は実に不可解な動いを見せるようになったんだ」「ゴクリッ」本間は工藤が間(ま)を置く度に生唾を呑むのが条件反射になっている。
「戦後第1回(通算では第22回)の総選挙では自由党が第1党になって総裁として組閣準備を始めていると公職追放の対象になったんだ。やはり占領軍から軍国主義者と断定されたんだろう」それは今までの話を聞いていれば納得できる。
「それで吉田茂内閣が成立したんだが、それから5年間の謹慎生活の後に復活すると妙な同情が集まって雀山ブームが起きたそうだ。これは聞いた話だがな」「戦後の日本人も馬鹿だったんですね。私たちの世代を悪く言う資格はありませんよ」本間の極めて率直な感想にその馬鹿の息子になる工藤は後ろで苦笑している3人の顔を見回して渋い顔をした。
「そんな保守本流、と言うよりも生き延びた軍国主義者がどうして仇敵のソ連と国交回復したんですか」まだ手を挙げなかっただけ踏み止まってはいるが本間の質問は学生の口調になっている。本間が最後に学生になったのは1尉で入校した輸送学校のAOCではないだろうか。
「それについては私が就職してからも上司や先輩から色々教えられたが、1つには政界に復帰するのに吉田政権のアメリカ一辺倒の外交とは真逆の政策を打ち出す必要があったと言うことだ。もう1つは謹慎中に国民の意識を遠望していてサンフランシスコ条約を締結した時の全面講和と単独講和の虚構を信じている人間が多いことに気づいたんだろう。何よりも保守政権の手でソ連との講話を実現すれば社会党や共産党の出番がなくなると言う計算もあったはずだ」ここまでの解説では雀山由紀夫の変節が妻の祝1人の影響と言うことになってしまう。しかし、由緒正しい政治家の家系に生まれた人間が幾ら何でもそこまで軽薄ではないはずだ。
「雀山威一郎外務大臣はどんな人物だったんですか」突然、松本が質問をした。確かに講義の流れから言えば祖父の次は父親になるのが筋道だ。そこで工藤は4人を手で制した後、立ち上がってコーヒーを汲みに行った。男性3人は女性として全く気配りを見せない本間の後頭部を後ろから睨みつけている。間もなく戻ってきた工藤はコーヒーを一口飲むと質問に答え始めた。
「鳩山外務大臣は福田内閣だから私は就職していたが在任1年だったから記憶に残っていないよ。衆議院議員も3期しか務めてないんじゃあないかな。むしろ田中内閣の時の大蔵事務次官で日本列島改造論の実現のための超巨大予算を組んだのは新聞で読んでよく知っているよ」ここから先は本間を含め自分たちも投票行動で参加してきた政治の問題になる。その背景は理解できたものの保守本流の家系の中で雀山由紀夫だけが極めて特異な人間性の持ち主であることが判った。原因は別の機会に探求するとして中国がその軽薄さを利用しようとしている以上、海外からも監視の目を離す訳にはいかない。
工藤の授業が終わると岡倉が立ち上がって体験談と思われる重大な問題を語り始めた。
「今回も社人党が政権与党になってしまったから村山政権の時のように内局から秘密文書が持ち出されるのは間違いない。あの時は内部規則と計画関係の文書だけだったが、今回は防衛施設庁がなくなって内局が管理している施設や装備の性能諸元まで中国の手に渡ることになるぞ」防衛施設庁は海原が植えつけた反自衛隊意識が抜け切らない内なる敵=内局とは違って現場で自衛隊と密接に連携していたため共通認識を構築できていた。その防衛施設庁もマスコミが火種を見つけて油を注いだ談合疑惑によって潰されてしまった。日本での政権交代祝賀騒ぎの影で本間3佐が知らなかった情報戦の闇が間近に迫ってきているようだ。
- 2018/06/15(金) 08:53:46|
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4月24日に元歌手で1983年の引退後は専業主婦だった森田童子さんが心不全で亡くなったそうです。逝年は66歳とのことですがそれでも本名は公表されませんでした。
森田さんは大学から一部の高校(野僧の出身校も該当する)に70年安保闘争の暴風が吹き荒れた時期に高校生だったため同級生が逮捕されたことで中退して就職もせずにフラフラしていたのですが、20歳の時にその友人が死んだことを切っ掛けに当時の想いを歌で表現するようになったのだそうです。したがって歌で描かれている登場人物たちは学生運動の活動家のようですが実際は高校生と言うことになります。
野僧が生徒会長だった3年の2学期、後輩の女生徒が通学の東海道線の車内で譜面を見ながら1人で唄っているので声をかけると「夏休みに東京へ遊びに行って憧れの森田童子のコンサートを聞いてきました。感動して買ってきたレコードから自分で採譜した歌を憶えているところです」とのことでした。間もなく文化祭の準備が始まって生徒会では体育館と音楽室で演奏するフォーク・グループとロック・バンドを受付けましたが、そこに彼女が1人でやってきたのです。
「会長に」とご指名だったので話を聞くと1つ目は「パーマをかけさせて欲しい」と言う生徒指導部への嘆願の依頼でした。しかし、本来は真面目で大人しい生徒であり、何よりも長い黒髪が清楚で似合っていると思っていたので諦めるように説得すると持っていたカバンから森田さんのレコード「さよならぼくのともだち」を取り出して写真を見せました。確かにその不鮮明な白黒写真ではカーリー・ヘアに黒のサングラスを掛けていましたが、本人は面長なので丸顔の彼女には「似てないぞ」と助言したのです。2つ目は「地下ホールの雰囲気で歌いたいので体育館や音楽室以外の場所を使わせて欲しい」と言う要望でした。しかし、話しだけでは判断できないので彼女に唄わせてみると周りにいた執行部員たちは一斉に「暗い」と拒絶反応を示したものの元々がネクラな野僧はすっかり気に入ってしまいました。そこで一緒に演劇部へ行ってカーリー・ヘアのカツラを借りて、古い鉄筋コンクリートの校舎の薄暗い階段の踊り場で唄うことを許可しました。ところが演奏時間を周知しても聴衆は野僧と担任だけでセーラー服にカーリー・ヘアのカツラをかぶり、サングラスを掛けての熱唱を独占することができました。
その後、彼女が持っているシングル・レコード「さよならぼくのともだち」「ぼくたちの失敗」「たとえばぼくが死んだら」を借りてカセット・テープに録音し、そのテープをダビングし直すことを繰り返しながら現在も愛聴しています。
彼女とは「会長が大学へ行ってからでも近くでコンサートがあったら連れて行って下さい」と約束していたのですが実現しませんでした。
ところが1993年に放送されたテレビ・ドラマ「高校教師」で「ぼくたちの失敗」が主題歌になりましたが、それ以上に桜井幸子さんが彼女に似ていて驚きました。
あれから40年が経過していますが森田さんはどのような人生を送っていたのでしょうか。心から冥福をお祈りしながら青春の思い出に浸っています。

この髪はかつらではないでしょうか?絶対、美人です。
- 2018/06/14(木) 10:13:36|
- 追悼・告別・永訣文
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本間と陳文麗は雀山夫婦が歓迎晩餐会に向かったところで2人の宿泊先の最高級ホテルに近いレストランで夕食にした。席はベルマンが案内するので選べないが、靴に着けた鏡を使ってテーブルや座席の下に盗聴器が仕掛けられていないことは確認している。
「貴女たちのプライム・ミニスター(内閣総理大臣)の実像を晒してくれた協力に感謝しているわ」周囲を見回してアジア系の客がいないことから会話は中国語になった。保全性と言う意味では中国語と日本語では選択に迷うところだが陳文麗は日本語が得意ではないのだ。
「こちらこそ国務省の職員に同行していることでチェックが甘くなって助かりました」互いに皮肉を言い合っている間に料理が運ばれてきた。
「それにしても中国共産党の監視要員があそこまで気を緩めていると言うことは今回の政権交代にかなり自信を持っているようね」「ええ、日本の上下院、衆参両院で自民党のお株を奪う絶対過半数を獲得したんだから4年間は安泰なのは間違いないわ」改選前、自民党は郵政選挙で獲得した300議席だったが選挙後は119議席になって半減以上の大惨敗だった。一方、民政党は113議席が303議席になったので逆転以上の大勝利だ。これを見て自民党が半世紀にわたって維持してきた日本式一党独裁体制を民政党も踏襲できると考えている可能性もある。ただし、中国には選挙制度がないため西側諸国の選挙に対する分析・評価が的外れになることも多い。マスコミが喧伝する都市部の反政府世論を過大評価して野党に乗り換える失策を犯すことも珍しくはないのだ。
「それにしても日本のマスコミが権力に対する監視機能を放棄してアカラサマに中国共産党に媚を売っているのには呆れてしまったわ」本間も自分が日本人として常識がある方だとは思ってはいないが、雀山の妻の奔放な行動には愕然としてしまった。ところが日本の取材陣は首相の妻をアメリカ大統領の妻と同様にファースト・レディと呼びながらも芸能人のように軽薄な賞賛だけの報道をしていた。要するに民政党=非自民党の政権が実現しただけで十分であって、実態は虚飾で塗り固めれば視聴者も満足すると考えているらしい。
「それにしてもトラスト・ミー(私に任せなさい)なんて大見得を切ったけど一体どんな落とし所を考えているんだろう」食事が始まって会話も途絶えがちになったが、主菜の合間にサラダを口に運びながら陳文麗が呟いた。本間は日本人的な軽い社交辞令と受け取っていたが、外交官にとっては重い意味を持つ宣言になるようだ。
「沖縄のマスコミは『民政党政権がアメリカ軍を完全撤退させてくれる』って大々的に報じているから今更公約の撤回は無理でしょう」答えているだけで折角の食事が不味くなってしまう。要するに国際常識が欠落した成績優秀なお調子者が思慮分別もなく格好をつけて自分が起こした最悪の事態を更に収拾不能にしてしまったと言うことだ。
「ところで雀山の祖父ってソ連と国交を回復した人物らしいけど容共派なの」陳文麗の唐突な質問に本間は飲み込みかけていたライスが喉に詰まりそうになった。日本の学校の日本史は明治までで終わってしまうため戦後の現代史に関する知識は与えられていない。雑学的に耳にする戦後の政治家でも吉田茂と岸信介、池田隼人くらいで雀山一郎の名前は聞いたことがなかった。
「悪いけど知らないわ」「どうして、貴女は大学を卒業しているんでしょう。現代史は知的社会生活を営むのに必須の知識じゃない」陳文麗に呆れられてもそれが学校教育なので仕方ない。しかし、この問題を解決しなければ雀山政権の本質を理解できないのかも知れない。
「工藤さん、雀山一郎って人物について教えて下さい」翌朝、ウィクリー・ジャパン編集部に出勤した本間は取材成果=収集した情報の報告を省略して最年長の工藤に質問を投げ掛けた。
「なんだい唐突に。孫の取材に行って祖父に興味を持ったのか」工藤は今日の当番である岡倉が入れたコーヒーを飲みながら本間の興奮を鎮める間を置いた。
「雀山家の政治信条を理解しなければ首相になっていまったあの人間が考えていることが判らないんです」本間の「首相になってしまった」と言う表現で昨日の取材で見た雀山の妻の実像が推察される。男性陣は夫の取材に出ていたが、こちらは外交官が下ごしらえしているだけにそれ程の失態は演じていなかった。
「雀山一郎は私が子供の頃の政治家だからあまり詳しくはないが、知っている範囲で質問には答えるよ」そう言って工藤は本間に目の前の席に座るようにうながした。そこに岡倉2佐がコーヒーを注いだマグカップを持ってくる。自衛隊であれば佐官ばかりが揃っている職場なのだが、ここでは互いの階級や年齢は捨てて平等な立場で働いているのだ。
「雀山一郎は時期によって全く矛盾した言動を繰り返していたから大きく評価が分かれる政治家なんだよ」工藤は岡倉に頭を下げている本間に学校の教師のように語り始めた。
- 2018/06/14(木) 10:10:17|
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9月23日、就任して1週間の雀山由紀夫首相が元宝ジェンヌらしい妻を連れて訪米した。本来はアメリカを拠点に外国の情報を収集することを任務としている自衛隊の対外情報要員たちはこの自国の首相夫婦の動向を監視することになった。
特に今田(こんだ)菊子こと本間郁子3佐は国務省の陳文麗(チェン・ウェンリー)と協力しながらファッション雑誌・アジアン・ビューティーの記者として妻・祝(いわい)の周辺に張り付き接触する人間を洗い出すことになっている。
「トラスト・ミー(私に任せなさい)」雀山首相は会見前の対面でオバマ大統領と握手しながらこう宣言した。アメリカ国内では日本でも誕生したデモクラティック・パーティー(民主党)の政権に対する期待と共に雀山が沖縄で行った米軍の国外移転と言う公約への不信感が混在しており、アメリカのマスコミ各社も黙視している。一方、妻の祝は全く無名だったものの宝塚歌劇団に所属していたこともあり、日本のマスコミは首相夫人としては眉をひそめたくなるような破天荒な服装態度・言動を持て囃すような報道を繰り広げている。したがってファッション雑誌の記者が密着取材していても違和感はなかった。
「菊子、この女は何者なの。どう見ても非常識で国の品位を貶めているとしか思えないのにマスコミは芸能人を取材しているみたいな態度じゃない」陳文麗は日本のマスコミの女性記者たちが中継現場で解説している内容を本間に通訳してもらって憤りを露わにした。
「確かに日本では有名な芸能学校を卒業して劇団に所属していたことがあるから元芸能人なのは間違いないわ。問題は生まれが上海と言うところよ」雀山祝はアメリカの市民権を持っていた上海在住の富豪の二女で、幼い時に戦局の悪化で日本に帰国してからも中国とのつながりが続いているとの噂を本間も掴んでいる。本間の出身大学は戦前に大アジア主義を中国で広める拠点として上海で創設されたのだが、1921年には同じ上海で中国共産党が設立されており、日本の敗戦で抑留された学校関係者の多くは現地で共産主義の洗礼を受けたと言われている。このため日本で再開してからは一転して毛沢東主義を教える大学と化しているのだ。
「つまり元々は保守本流の御曹司だった雀山が中国共産党の下僕になってしまったのはこの妻の思想誘導によるものなのね」「雀山はエンジニア志望の工学部計数工学科卒だから人間としての情緒・思考は意外に単純なのかも知れないわ」本間もウィクリィー・ジャパン編集部に帰って以来、日本の政権交代に関する情報を分析してきたので、雀山の公私についてもかなり詳しくなっている。雀山はスタンフォード大学の博士課程に留学中、サンフランシスコで日本料理店を経営する日本人の夫の指示で身の回りの世話を見ていた祝と不倫関係になり、駆け落ちする形で略奪結婚したのだ。
「日本人って離婚や不倫に対して嫌悪感を抱いているのかと思ってたけど意外に寛大なのね」「それは・・・」この口ぶりでは陳文麗は男女の貞操観念には厳しい見方をしているらしい。その点、本間も見かけによらず自衛隊に入って以来、男性遍歴を重ねてきた。ただし、妻子持ちだけは対象外にしてきたので不倫の経験はない。
「待って・・・中国語が聞こえる」本間は小声の英語で陳文麗の言葉を止めると神経を声がする方向に集中させた。それは雀山祝を遠巻きにしている日本人のカメラマンと撮影スタッフ、女性レポーターたちの集団の外からだった。ごった返している人々の頭の間に異質な風貌の2人の男性が目に入った。2人は一見してアジア人だがマスコミ関係者ような無秩序さはなく軍人のように冷徹な雰囲気を発している(本間がそれに該当するかは別問題だが)。
本間と陳文麗は周囲に追いやられたように2人に接近していった。本間はどう見ても中国人には見えないが、逆に中国風の顔立ちの陳文麗は背中を向けながら後退した。
「うん、人民の味方と言う演出には成功しているな」「今までの首相夫人のような品格がないことを逆に利用している。三流とは言え流石は元女優だ」2人は子供を対象にした日本文化の教室を訪問している雀山祝が周囲が組み立てている視察順序を無視して勝手に子供と戯れている姿を評価しているようだ。その言葉は北京の中国語だ。
「日本のマスコミは自民党政権を否定できれば我が党の指示に適うから型破りであればそれだけで満足なんだろう」「それにしてもどうして自国の利益よりも我が党への忠誠心を優先できるのかね。私だったら愛国心が傷ついて耐えられないけどな」2人は目の前にいるアジア人は全員が日本人であると高を括っているらしい。だから中国語で話すことが秘匿処置であり、警戒心を抱くこともなく本音を語り合っているようだ。
「山田さん、一息ついたらもう一度取材に入るわよ」本間は陳文麗に日本語で声をかけると人ごみに分け入っていく。2人は無表情にその背中を見送った。
- 2018/06/13(水) 09:55:19|
- 夜の連続小説8
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1996(平成8)年の明日6月13日に福岡空港でガルーダ航空機がオーバーラン=滑走路から飛び出して乗客3名が死亡する事故が発生しました。
2代目ブッシュ政権のラムズフェルド国防長官はアメリカ海兵隊普天間基地を「世界で最も危険な米軍基地」と評しましたが、航空自衛隊の輸送幹部であった野僧は両方の基地と周辺地域を実際に見比べた上で普天間基地よりもアメリカ戦略輸送軍イタヅケ基地(通称・福岡空港)の方がはるかに危険性は高いと考えています。
確かに普天間基地周辺は本土復帰後に沖縄県と宜野湾市が意図的に建設・誘致した小・中学校と大学があり、児童・生徒・学生が騒音による劣悪な学習環境と航空事故の危険に晒されていますが滑走路に並走する国道58号線や県道320号線、沖縄自動車道などの主要幹線道路は滑走路の延長線を至近距離で横切ってはいません。
一方、イタヅケ基地=福岡空港は滑走路の延長線上を博多港、新幹線、JRの在来線、都市高速道路、国道3号線など陸海空の交通の大動脈が横切っているだけでなく住宅密集地でもあり、若しも大型旅客機が離着陸に失敗して事故が発生すれば世界でも最大規模の被害が出ることは間違いなく、この事故はその一歩手前までいったのです。
それにしても対岸の火事=朝鮮戦争の輸送拠点として建設されたとは言え、戦時中までは東洋最大の航空基地であった久留米市の大刀洗を選ばなかったのは何故でしょう。
この日、インドネシア・ガルーダ航空のDC-10は乗客260名、乗員15名を搭乗させて福岡発、バリ島、デンパサール経由でジャカルタ行きの865便として午後0時過ぎに南に向かって離陸を開始しました。ところが機体が浮揚を始めた直後に右第3エンジンが故障したため機長は離陸を断念し、緊急停止を試みたのです。
しかし、滑走路上では停止できず延長線上にある県道45線を突っ切り、緑地帯に突入・擱座して炎上しました。この時、右の脚が破損して胴体=客室を直撃したため2名はそれで死亡し、もう1名は衝撃で意識を失って焼死したと検屍推定されています。
事故の原因は右第3エンジンのタービン・ブレードが金属疲労による破断とされていますが、その故障を感知した後の機長の判断と処置については運輸省の航空・鉄道事故調査委員会は毎度お馴染の現実を無視した処断を行いました。
それは「機長が離陸を断念した時点で機体は浮揚し始めており停止は無理であった」「DC-10には3発のエンジンがあり、1発が停止しても離陸可能であった」と言うものですが福岡空港の南側には筑紫山脈がそびえており、外国人の機長がエンジン2発の推力でそれを超えることに不安を感じるのはむしろ自然であり、墜落していれば大野城市や九州自動車道の太宰府インターチェンジが大きな被害を受けた可能性もあります。この運輸省の事故調査委員会は那覇基地を離陸中のT-33Aからチャフ(レーダー妨害用のアルミ片)が漏れているのを発煙と誤解した運輸省の管制官が離陸中止を命じた結果、発生した事故でも「停止は無理であった」とパイロットの過失にしようとしましたが、生き残った後席のパイロットからこの事実が明かされると慌てて機体の故障と推定したのです。
また「乗客向けの注意書きと乗員の誘導が英語とインドネシア語のみだった」とマスコミを使って批判した日本人もいましたが外国の航空会社を利用すれば至極当然なことです。
なお、ロッキード事件の時、マスコミ各社は「全日空がロッキード社のL1011(テンイレブン)・トライスターを選定したのは賄賂の結果である」と断定していましたが、元航空機整備員の目で見比べると日本航空やこの事故を起こしたマクダネル・ダグラス社のDC-10の方が全ての点で劣るのは明らかで(実際、世界各地で事故を続発させている)、むしろ全日空の見識を賞賛し、名誉回復するべきでしょう。

殉職自衛官の追悼法要の位牌にしているJ79エンジンのタービン・ブレード
- 2018/06/12(火) 09:17:14|
- 日記(暦)
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