1997年の明日8月1日に19歳で何の怨恨もない4人を射殺した凶悪犯・永山則夫死刑囚の死刑が執行されました。
野僧が某大学の法学部に在籍していた頃、永山死刑囚は東京拘置所で存命しており、刑法の教授は死刑の可否と現在も裁判所が死刑を選択する上で参考にしている判例=永山基準を考えさせるため事件を詳細に解説してくれました。
永山死刑囚は昭和43(1968)年10月8日にアメリカ海軍横須賀基地に侵入して拳銃と弾丸50発を盗み、同年10月11日に東京都港区芝公園の東京プリンスホテルに侵入したところを綜合警備保障(ALSOK)の27歳の警備員に発見され、2発を発射して殺害しました。続いて同年10月14日に京都市東山区祇園の八坂神社で巡回してきた69歳の守衛に向かって6発発射して殺害しました。そして同年10月26日に北海道函館市内で38歳のタクシー運転手に後部座席から2発、同年11月5日にも名古屋市内で22歳のタクシー運転手にも6発を発射して殺害したのです。この何の怨恨もない4名を殺害したことを司法当局ではなくマスコミが永山基準として報じるようになっており、逆に「死刑を適用するにはここまでの凶悪性が必要」と言うハードルにしています。
さらに永山死刑囚は翌昭和44年4月7日に東京都渋谷区千駄ヶ谷の専門学校に侵入して警報装置が作動したため駆け付けた日本警備保障(SECOM)の警備員に向かって2発を発射したものの命中せず、その隙に逃走を図りましたが逮捕されたのです。
永山死刑囚は未決だった獄中で昭和46(1971)年に発表した手記「無知の涙」を執筆し、発表されるとベスト・セラーになったため、以降は作家として活動を続けました。
永山死刑囚は昭和24(1949)年に北海道網走で腕の良い林檎の剪定師の8人兄姉弟妹の7番目の4男として生まれましたが、父親は稼ぎの大半を博打につぎ込む放蕩者だったため母親は永山死刑囚が5歳の時に家出をして青森県板柳の実家に逃げ帰ってしまいました。翌年に下から4人の兄妹が児童相談所の手で母親の元へ送り届けられますが、母親の行商で営む生活は貧乏で中学卒業後には集団就職で東京に出ています。
永山死刑囚は「社会から疎外された生い立ちが人生を狂わした」=「放置した国家の責任」と「無知の涙」の中で主張し、弁護団も裁判で犯行当時19歳=未成年だったことと悲惨な生育環境に対する情状酌量を主張したものの集団就職した東京では雇い主に可愛がられ、むしろ本人がその期待を裏切るように退職を繰り返しており、同じような境遇の兄たちは正業に就いて健全に生活しているため採用されなかったようです。
結局、裁判では1審で死刑、2審では「無知の涙」の印税を遺族に支払ったことが真摯な謝罪と認められて無期懲役に減刑されましたが、1990年に死刑が確定しました。
死刑が確定した時、面会した弁護団に対して「生きる望みがなかった者に生きていられるような希望を与えて置いて、結局、殺すのか」と逆恨みするような発言を弄したそうです。一方、「執行されるまで全力で抵抗する」と宣言して実際に刑場で激しく暴れたと漏れ伝わっっています。なお、遺骨は本人の遺志でオホーツク海に散骨されました。
- 2018/07/31(火) 09:41:32|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
2人でシャワーを浴びてパジャマに着替えるとモリヤ家伝統のパジャマ・ミーティングが始まる。尤も、今夜はすでに出来上がっているので渋い緑茶をすすりながらの茶話会になった。
「アメリカでは通信網の構成形態自体が大きく変化しているんや」いきなり専門的な問題が提起された。通信は運用面、技術面のどちらも高度なので素人は聞き役に回るしかない。
「今までの指揮通信は上級司令部の指示や命令を下級部隊に伝達して、下級部隊が統括する通信系統で現場部隊に行き渡らせることが基本やったんやけど・・・」「いわゆる上意下達って言う奴だな」門外漢の私としてはこの程度しか合槌が打てない。それでも佳織はうなずきながらお茶の湯気を吸って話を続けた。
「それが湾岸戦争以降、上からの命令の伝達よりも現場の状況報告を上げてそれに対する判断を返す相互交換の通信が重視されるようになっているんや」「それは航空自衛隊の戦闘機とDC(防空指令所)の交信みたいな感じかな」私自身はA&W(エーシャンダブリュー=警戒管制)出身ではないので詳しい訳ではないが、沖縄時代に友人のパイロットたちと飲んで具体的な交信内容まで聞いていたので完全な素人でもない。
「うん、あんなイメージやね。現場での敵に関する情報を下級部隊に判断させると背後に潜む大規模な動きに気づくことなく場当たり的な処置になってしまうから上級司令部まで伝達させて総合判断するんや。でも通信回線としては上からの片道通信の数倍の容量が必要になるし、おまけに保全処置も加わるから・・・」「確かにとんでもないことになるな。戦闘機に搭載しているラジオ・システム(通信装置)一式を地上部隊に携帯させるなんて始めから無理な相談だ」ここで佳織が茶を飲み終わったので急須を持って湯呑に注いだ。猫舌の私としては冷めかけた今の温度が丁度良いので自分にも追加した。
「アメリカ軍でも試行錯誤している段階だから自衛隊が導入するのはそれが固まってからになるんだろうけど通信課程の中で下地を整えるために教育内容の検討と情報収集を始めるべきだってウチの幹部連中に提案したんやけど・・・」佳織の顔が渋くなったので増上寺で買ってきた三つ葉葵の寺紋が入った和三盆を干菓子として勧めた。
「ところが通信幹部の発想は私がBOCに入っていた頃から全く進化していないんよ。口では私に期待するなんて言いながらアメリカ軍の情報よりも民間の通信会社から最新の国産機材を導入して通信関連予算を獲得することばかりや」「そう言えばAOCの時も怒ってたもんな」この合槌は火に油を注ぐようなものかも知れない。それでも佳織の怒りには別の続きがあった。
「基地通信なら最先端の民間通信を研究するのは当然だけど、野戦通信ではその前に手をつけることがあるのよ」再び素人には話が難しくなってきた。陸上自衛隊でも各駐屯地の固定局=基地通信と実戦下で通信網を構成する野戦通信では機材、任務だけでなく隊員の資質=人事管理も全く違う。実際の通信業務を担当する基地通信では民間と共有できる面が大きいのかも知れないが野戦通信は違うのかも知れない。
「それは保全よ。今は携帯電話やインターネットの普及で盗聴やハッカーの技術と機材が社会に当り前に広まってしまってるじゃない。おまけに民間の通信技術は軍事を追い抜いているから、民間の携帯の電波を盗聴できれば軍隊の通信機材に応用するなんて簡単なことよ。暗号解読だって趣味で研究している人間が山ほどいるんだから」「そう言えば昔、警察無線の盗聴が流行っていたな」「あの頃とは機材の性能や普及規模が桁違いになってるのよ。アメリカ軍ではハッカーに対処する専門部隊が機能しているけど受け手に回っていて保全にまでは届いてないんや」佳織はAOCを終えて中隊長を経験してからは通信から遠ざかっていたが、その分、アメリカ軍で勤務して最新鋭の軍事技術と最高度の運用思想に触れてきた。これでは浦島太郎が竜宮城から戻ったらこちらの世界は時代が逆戻りしていたようなものだろう。
「陸上自衛隊では最先端を行っている通信でもそんなんだったら、元亀天正(銃剣突撃に固執する日本陸軍を自嘲する比喩)の我が普通科はどうなってるのかな」そう言えば私も佳織のCGS入校で久居の教育隊に転属してから普通科とは縁が切れている。陸上自衛隊の組織はソ連の崩壊と東西冷戦の終結を受けてヨーロッパで始まった軍縮を中国が急激に軍事力を拡張している現実を無視して日本にも適用させた野党とマスコミによって大幅に解体整理・縮小されている。元々、師団の規模がなかった乙師団を旅団にしたのは当然としても、十分な検討もなしにその場凌ぎで編成された多くの部隊は果たして機能しているのか。
「胸の中につかえていた不満を貴方に聞いてもらったら闘志が湧いてきたわ。陸上自衛隊はやっぱり徒歩の速度で進めて行くしかないよね」「うん、電波って訳にはいかないな。通信も基本は伝令だろう」久しぶりに時代錯誤な運用論が出て佳織は懐かしそうに笑った。
- 2018/07/31(火) 09:40:14|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
ママさんが渋い顔をしながら曲の番号を確認した。それにしても昔はLPレコードのようなレーザー・ディスクを機械のターン・テーブルに載せたものだが今は番号を打ち込むだけだ。
やがて聞き覚えがある前奏が始まった。陸上自衛隊分列行進曲「抜刀隊」は前奏の「扶桑曲」と軍歌「抜刀隊」の2曲で構成されており、この前奏の方が長く勇壮であるため「抜刀隊」の方が付け足しのように思えてしまう。それでも流石にカラオケでは短めで軍歌に入った。
「我は官軍、我が敵も天地容れたる戦友ぞ・・・」三河武士の私にとって討幕は毛利と島津が結託して関ヶ原の恨みを晴らした反乱に過ぎず、西南戦争などは反乱軍の内部分裂と同志討ちであって歴史上の善悪・正否の評価などは目糞が歯糞を揶揄するようなものだ。したがって歌詞は私流の替え歌になる。
「・・・鬼神に愧じぬ勇あるも 仲間割れして大喧嘩 起こせし者は昔より、栄えしためしあらざるぞ・・・」私がこの曲が嫌いになったのには別の理由がある。防府の航空教育隊では基地開庁記念日の観閲行進には陸上自衛隊の分列行進曲であるこの曲を使っていた。私がそのことを指摘すると山口県出身の幹部、空曹たちは「それの何が悪い」と自分たちが山口陸軍閥の末裔であることを誇示した。やはり奴らが作った大日本帝国は78年間でこの国を滅ぼしたのだ。折角のデュエットだったが私が勝手に替え歌にしたため途中から佳織は聞き役になってしまった。それでも嫌な顔はせずに次をリクエストした。
「次はこれや」「今度は元寇だな。福岡研修だね」こちらは良く覚えている。前川原から太宰府の水城跡や元と高麗軍の再襲撃に備えて鎌倉幕府が築いた博多湾の石塁を研修した時、朝礼前に隊歌係だった私が教えた歌だ。こちらは今も愛唱している。むしろ中国との軍事的緊張が高まっている中ではCDを発売して流行させたいくらいだ。
「これって歴史の歌じゃあないの」「うん、そう言う見方もあるかな」私と同世代のママさんは戦後生まれなので軍歌の知識は自衛官の客が唄うこと以外に持ち合わせていない。したがって「元寇」と言う単語は歴史の教科書で見ただけなのも当然だろう。
「今度はデュエットにするよ」「うん、隊歌、用意」前奏が始まったところで確認すると佳織は口元を引き締めて気合いを入れた。
「四百余州を挙る 十万余騎の敵 国難ここに見る 弘安四年夏の頃・・・」歌詞の背景の画面は何故か21世紀最初のNHKの大河ドラマ「北条時宗」だ。しかし、私は実際の主人公は奥田瑛二が演じた日蓮だったこの番組は政権与党になった公明党に対するNHKのゴマスリのようで見なかった。このため歌詞は完全に暗記しているので画面も楽しみながら唄った。
「・・・天は怒りて海は 逆巻く大波に 国に仇をなす 十万余の蒙古勢は 底の藻屑と消えて 残るは唯三人(ただみたり) いつしか雲はれて 玄界灘月清し」今回は音程も見事に合って重厚なデュエットになった。佳織も満足そうにグラスを持ち、私も合わせて乾杯をした。
「やっぱり歴史の歌だね。学校で習ったの」「うん、教えたのはワシだけどね」この店には自衛官の客が多いのでママさんは内部組織や人事制度の予備知識は豊富なはずだが私の説明には軽く首を傾げた。しかし、幹部候補生学校の隊歌演習と言っても説明が長くなるだけだ。
「歴史の歌って言えば貴方が教えてくれた平家物語の歌があったじゃない。神戸の歌だって」「青葉の笛だな」「うん、感激したなァ」軍歌オンパレードになるはずが突然、路線変更になった。確かに武人の美学を詠ったこの歌も教育隊で隊歌として教えることはできそうだが、士気は高揚しそうもない。それでもママさんは興味深そうな顔をしてカラオケを操作した。
「一ノ谷の戦(いくさ)敗れ 討たれし平家の公達(きんだち)憐れ 暁寒き須磨の嵐に 聞こえしはこれか青葉の笛」この歌は前川原での何度目かのデートの時、「神戸は平清盛が築いた福原の都だ」と言う話になって唄ったはずだ。
「更くる夜半(よわ)に門を叩き 我が師に託せし言葉(ことのは)憐れ いまわの際(きわ)まで持ちし箙(えびら)に 残れるは花や今宵の歌」今回も佳織は聞き役に回ったが、歌が終わると少し涙ぐんだ。するとそこに男2人連れの客が入ってきた。その顔は官舎で見たことがあるので同業者のようだが予定ではこれでお開きになる。
「それじゃあ最後の曲にします」「折角、良い歌が出たのに残念」ママさんとしては路線変更を歓迎しているような口ぶりだ。私は期待に応えながら裏切ったリクエストをした。
「『武田節』をよろしく」「ふーん、三橋美智也の懐メロだね」ママさんは歌謡曲と受け取ったが、これは私が勤務・入校した防府、前河原、久居で隊歌として教えてきた歌なのだ。
「甲斐の山々・・・祖霊ましまずこの山河 敵に踏ませてなるものか 人は石垣人は城 情けは味方仇は敵 仇は敵」佳織も真剣に合唱しているからこれで気合いが入っただろう。

イメージ画像
- 2018/07/30(月) 10:03:19|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1958年の7月29日にアメリカで航空宇宙局(NASA)が創立されました。
当時のアメリカではソ連が1957年10月4日のスプートニク1号(58年1月4日に消滅)、11月3日の同2号(58年4月14日に犬を乗せたまま消滅)、58年2月3日に失敗した後の5月15日に3号(同60年4月6日に消滅)と立て続けの打ち上げ成功を受けて「宇宙空間を支配される」「(1948年8月29日に実験に成功していた)核兵器が宇宙から降ってくる」との強迫観念が支配しており、通常は政府の新事業による予算の増額を厳しく制限する立場をとる議会が早急で有効な対応を促す議決を行ったのです。
終戦後、アメリカでは陸海空軍がそれぞれにナチス・ドイツがドーバー海峡越しにイギリス本土を攻撃したV2ロケットの発展型の大陸間弾道弾の開発に取り組んでいたものの予算規模が制約され、研究者の分散や互いに秘密を保持したため技術的交流も行われず、それが国家事業として推進したソ連に後れを取った原因でした。
このためドワイト・アイゼンハウアー政権は指揮系統の一本化と新たな専門組織の設置を決定し、この日に議決への署名を行い航空宇宙局が創設されました。
アイゼンハウアー政権はナチス・ドイツのロケット開発で中心的役割を果たし、アメリカ陸軍で研究を継続していたヴェルナー・フォン・ブラウン博士とドイツ人技術者たちを新組織の中核に据え、それにアメリカ国内の大学などの研究者を加えた陣容でソ連との技術格差を縮小・解消・超越するべく全力投入し始めたのです。
しかし、ソ連は全てを秘密裏に進めながら実験も成功した場合のみ発表することができますが、アメリカは予算や実験の経過と結果などを素人のマスコミが興味本位で注視し、さらに議会への報告の義務が課せられていました。このためソ連が成功を重ねたように思われている人工衛星の打ち上げにも失敗したことでドイツ人技術者に対する不信感を扇動する報道が湧き起こり、動き始めたマーキュリー計画は大きく足を引っ張られました。
それでも1961年4月12日にソ連がユーリー・ガガーリン飛行士をボストーク1号で地球周回飛行に成功したのを受けて1961年5月5日にはアラン・シェパード飛行士をフリーダム7号で宇宙空間まで打ち上げる弾道飛行をさせ、1961年8月7日にソ連がゲルマン・チトフ飛行士をボストーク2号で24時間以上地球を周回させると1962年2月20日にジョン・グレン飛行士をフレンドシップ7号で周回飛行させて必死に追いすがったのです。
そうしてジョン・F・ケネディ大統領がアポロ計画を発表したことで巨額の予算が投入されることになり、ジェミニ計画を経たアポロ計画により人類の月面着陸を実現しました。
その後も宇宙ステーション・スカイラブやスベース・シャトルなどで人類の夢を実現してきましたが(実際は中国ほどアカラサマではないにしても日本を含め軍事目的を帯びない宇宙開発などは有り得ない)、現在はアメリカ単独ではなくロシアや日本、EUほかの諸外国との共同事業になっています。確かに宇宙に向かい合うのに国家などと言う地球上の区分は不要なのかも知れません。ただし、中国は除外しましょう。
- 2018/07/29(日) 09:00:34|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
副校長・モリヤ佳織1佐は通信学校の企画室長も兼務しているので学校教育全般の方向性を検討・策定することも担当業務だ。着任して3ケ月が経過し、実情を把握したところで周囲もその手腕に期待を高めつつあるのだが、そんな佳織が私の官舎に帰ってきた。
「何だかくたびれてるな。副校長ってそんなに激務なのか」私自身もイージス護衛艦と漁船の衝突事故の裁判に加え、秋の演習中に発生した官用車の交通事故の処置が重なって残業になり、今回は横須賀から帰ってくる佳織と新宿駅で待ち合わせていた。
「うん、副校長の方は席に座って印鑑を押していれば良いんだけど企画室長の方が難問なのよ」こんな時は関西弁で話してもらった方が佳織らしいのだが、神奈川では東京以上に気取った感覚があるようで「浪速のオカン」になる訳にはいかないらしい。
「それで今夜は私服着用なんだな」「うん、外食して飲んで帰ろうね」実は昨夜、佳織から帰宅時の私服着用を指示するメールが届いていたのだ。
「それじゃあ晩飯は新宿で食べて、飲むのはいつものスナックにしよう」「うん、酔っ払っても歩いて帰れるようにね」今夜は行き当たりばったりで夜の街を徘徊することになった。それなのに作務衣を着てきたのは失敗だったかも知れない。
「その服装だからって精進料理なんて言わないよね」「新宿に豆腐料理専門店なんてあるのかな」私は茶化したつもりだったが、新宿では豆腐と湯葉の名店が数多く営業しており、外国人にも人気があると聞いている。ただし、くたびれた夫婦の元気回復に豆腐では効果が薄そうだ。
「どちらかと言うとイタリアンが食べたいな」「と言っても貴方のイタリアンはスパゲティーかピザでしょう」「うん、他にあるのか」料理研究家の間では南北に長く地理的条件が大きく異なるイタリアでは地方単位で料理が発展しているためイタリア料理と呼べる共通した特徴はなく、スパゲティーのソースにしてもクリームやチーズなどの乳製品は北部の山岳地帯、トマトや海産物は地中海に面した南部の食材なのだそうだ。考えてみれば先日の鎌倉でのデートでも鎌倉駅前のスパゲティー店に入り、佳織はイカ墨のスパゲティーを食べてお歯黒の上、口紅の代わりの口墨を塗ってしまった。その失敗があるので今日は許可してもらえそうもない。
「それなら近いところでギリシャ料理にしましょう」「イエス・マーム」結局、地中海を渡ってギリシャに漂着した。
ギリシャ料理店で赤ワインを1本空けて電車を乗り継ぎ、福生駅からタクシーで官舎前のスナックに到着した頃には佳織はかなり上機嫌になっていた。夫婦2人の生活が始まってから毎週末に開拓した官舎の近くのスナックと居酒屋の中で伊丹のママさんの店に似た雰囲気の一軒が佳織のお気に入りだ。
「いらっしゃいませ」「こんばんは」「毎度」酒が入ると佳織は関西弁が出るらしい。この方が佳織らしく少し胸がときめいてくる。
「あらッ、今日は奥さん、随分とご機嫌ね」「うん、少しエーゲ海ワインを飲ませ過ぎたんだよ」スナックのママさんと言えば沖縄にしても防府、久留米、善通寺にしても「年上の女性」と言うイメージで来たが、流石に私自身が40歳代も後半になると同世代になっている。その意味では伊丹の今も現役のママさんは何歳なのだろうか。
「ワインかァ。保管が難しそうだからウチには置けないな」「うん、ここではウィスキーで十分です」そう言いながらカウンターの席に座るとママさんは棚から私たちのボトルを取り出して水割りの準備をした。沖縄時代はストレートで飲んでいた私もカロリー計算を気にするようになって以来、水割りになっている。その分、ボトルが終わるのが遅くなって助かってはいた。
「ママさん、今夜はカラオケを歌うで。他のお客さんが来たらお開きや」「それならすぐにお開きになっちゃうよ。お客が来なけりゃウチは大弱りだもん」女同士で突っ込みと突っ込みをしながらママさんはマイクとカラオケのメニューを手渡した。
「ウチ、今夜は軍歌を唄いたい気分なんや。軍歌は前川原で貴方に教えてもらった思い出の歌でもあるんよ」「ムードがないメモリアル・ソングだなァ」「うん、うん」私の返事にママさんもカウンターの中で腕を組みながら呆れた顔でうなずいている。確かにこれでは他の客がきたところでお開きだが、右翼が貸し切りにしていると思われて他の客は来ないかも知れない。逆に官舎の住人が通りがかれば歌手を確認するため顔を出す可能性もある。
「先ずはこれや」「いきなり抜刀隊か」「うん、観閲行進の時に教えてくれた歌だよ。あれから唄いながら歩いてたんや」折角、佳織は思い出の歌の筆頭にしてくれているが、私はこの歌が好きではない。この曲を陸軍分列行進曲に選定したこと自体が西郷南洲翁を賊徒として蔑むことで島津軍閥の再興を阻止しようとした毛利軍閥・山縣有朋辺りの策謀としか思えないのだ。尤も、これは海上自衛隊の「軍艦」と同じく陸上自衛隊分列行進曲として踏襲されている。
- 2018/07/29(日) 08:59:35|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1945年の明日7月29日にアメリカ海軍の戦艦・サウスダコタ、マサチューセッツ、インディアナとイギリス海軍のキング・ジョージ5世の戦艦4隻ほか21隻の艦隊が遠州灘(米戦艦の16インチ砲の最大射程は40キロ弱)から浜松を艦砲射撃しました。
浜松で大規模な土木工事で発見される不発弾には空中投下された爆弾と艦船からの砲弾の両方があり、他の地域から移り住んでいる自衛官たちは「爆弾の読み間違いではないか」と思ってしまいますが、この時70分間にわたって2169発もの砲弾が撃ち込まれたのですから不発弾が見つかっても不思議はありません。
それにしても日本列島の中央部に位置し、東西を結ぶ主要幹線が通り、大規模工場が集中している浜松沖の遠州灘に大規模な艦隊が来襲し、長時間の砲撃を加えられていながら何もできなかった日本軍は完全に戦力を喪失しており、それでも中央で本土決戦を叫んでいた若手将校たちや東條英機大将はどのような戦略を描いていたのでしょうか。
実は日本本土に対するアメリカ海軍の艦砲射撃は7月中旬から始まっており、北海道から東北、関東の太平洋沿岸で大損害を出していたのです。
7月14日の釜石ではサウスダコタ、インディアナ、マサチューセッツの3隻の戦艦に重巡洋艦2隻と護衛の駆逐艦9隻による艦隊が製鉄所を主目標として砲撃を加え、市民423名が犠牲になり、応戦に出撃した日本海軍の駆潜艇が撃沈されました。
なお釜石は8月9日にも同規模のアメリカ海軍と軽巡洋艦2隻と駆逐艦3隻のイギリス海軍との合同編成による艦隊の攻撃を受けており、この時は艦砲射撃後に硫黄島から発進した戦闘機による機銃掃射も加わって一般市民271人が犠牲になりました。
続く7月15日の室蘭ではアイオワやミズーリなどの戦艦3隻と重巡洋艦2隻と駆逐艦8隻の艦隊が襲撃して1時間にわたって860発の砲撃を加えたため、沿岸地区を中心とする重工業地帯や鉄鉱石と石炭の鉱山、さらに充実した港湾設備も破壊され尽くし、軍人と市民を合わせて485人が犠牲になりました。室蘭では前日の釜石の艦砲射撃を受けて警戒態勢を取っていたようで海軍は海防艦を出撃させたものの2隻が撃沈され、陸軍が配置していた15サンチ砲も艦隊には無力だったようです。
そして7月17日の日立ではアメリカ海軍とウィスコンシン、ミズーリ、アイオワ、ノースカロライナ、アラバマの戦艦5隻とイギリス海軍を加えた軽巡洋艦2隻、駆逐艦9隻の艦隊が夜間に日付を跨いで1時間にわたり870発の砲撃を加え、6月10日の空襲の被害を逃れた日立製作所の工場施設を破壊し尽くしました。犠牲者は77人でした。なお、日立には7月19日にも2度目の空襲が行われています。
そうして浜松では6月28日の大空襲で破壊が不十分であると判断された日本楽器=ヤマハ(飛行機の部品を製造していた)には257発が撃ち込まれて9発命中、国鉄の車両工場があった浜松駅では270発中36発が命中し、170人が犠牲になりました。
これらの艦砲射撃の目的は残存している重要施設の破壊や日本人への威圧も大きかったのでしょうけれど何よりも終戦を前に砲弾を消費することだったのではないでしょうか。
- 2018/07/28(土) 09:51:34|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「ただいま。貴方、帰ってるの」ホテルから戻って玄関を開けた聡美は部屋の中に声を掛けた。今日は夫・和也が演習から返ってくる日だ。しかし、部屋の中は灯りが点いておらず暖房も入っていない。名寄では10月下旬ともなると日没後には冷え込んでくる。演習の疲れでうたた寝していると風邪をひきかねない。
玄関に脱いである自衛隊の短靴(たんか)の隣りに仕事用のスニーカーを並べると聡美は部屋の中に入った。すると和也は座卓の横に2人分の座布団を並べて仰向けに寝ている。枕元に立って覗き込むと引いたカーテン越しに差す夕日に照らし出された寝顔にはいつものような達成感ではなくどことなく喪失感が漂っているようだ。
「どうしたのかしら・・・何か辛いことがあったのかな」聡美は秘密の習慣・寝顔へのキスは止めて寝室に着替えに入った。
着替え終って居間に戻っても和也は目を覚まさない。普段は自衛官としての本能が恐ろしいほど鋭いのだが、今回の演習は冬季レンジャー・安川和也3曹が精根尽き果てるような厳しい内容だったのかも知れない。それにしてもこの寝顔はまるで死者のようだ。聡美は枕元に坐ると無精髭が伸びた寝顔を黙って見詰めた。いつもなら愛おしさがこみ上げてくるのだが今日は不安が先に立ってくる。この感覚は和也がイラクに行っていた時にも噛み締めていた。.
食事の準備ができて声を掛けると和也は何もなかったのように目を覚ました。むしろ快活な笑顔を作って聡美が運んでくる料理に小さく歓声を挙げている。そんな不器用な気遣いがかえって不安を深めていった。
「何かあったの」食事が終わって晩酌になったところで聡美は率直に訊いてみた。和也もこの妻の鋭い勘には抵抗はしない。聡美は常に和也だけを見詰めているのだ。
「うん、演習でな」「演習って富士山の麓まで行ったんでしょう」「そう、東富士演習場だよ」これは話の腰を折ったのではなく重い本論に入る前に置いた間(ま)の一呼吸だ。
「俺は戦死したんだ」「だって貴方はいつも戦士じゃない」これは重過ぎる説明を軽く受け流すために話の腰を折ったのだろう。
「斉藤って2士をかばって代わりに俺が撃たれたんだよ」「斉藤くんって夏に配属になった新人さんでしょう」「うん、俺が面倒を見ているよ」ここまで話したところで聡美は焼酎のお湯割りが冷める前にグラスを持って乾杯をうながした。
「乾杯、おかえりなさい。御苦労さま」「うん、ただいま」ここで酒が入れば愛する夫の死をツマミにせざるを得ない。しかし、和也が胸の中に溜めこんでいる苦しみや悩みを共有することも聡美には妻としての務めであった。
「それで斉藤くんは無事だったんだね」「ところが斉藤も戦死してしまったんだ。俺が命を捨てて守っても戦争では死ぬのを少し遅らせただけなんだな」これは教師である両親が夏休みなる子供たちに語っていた平和教育を思い出させるような見解だ。同じように演習で戦死の判定を受けた隊員はいるはずだが、ここまで真剣に受け止めているのは和也だけかも知れない。
「貴方は敵を殺さなかったの」「否、俺も2人殺した。あそこで死ななければもっと殺したはずだ」「だったら殺す側と殺される側を交代しただけじゃない。それが戦争でしょう」この冷徹な見解は両親に教えられた戦争観を自衛官の妻と言う立場で再評価したものだ。和也は思い掛けない意見に半分呆れ、半分感心しながらお湯で薄めた焼酎を飲んでいた。
「そう言えば久居の中隊長は実戦経験があるんだよな」「実戦経験って殺し合いのこと」「うん、アフリカで3人殺したんだ」和也は中隊長がアフリカに出発する前に旭川で会っている。若し、中隊長が殺される側に回っていればあれが永遠の訣れになったのだ。
「中隊長は戦争は命のやり取りだから人間の行為だ。一方的な殺戮は人間の所業ではないって言っていたな」今にして思えば新隊員に対する精神教育としては内容が高度過ぎるようだが、こうして陸曹になって噛み締めると実に含蓄に満ちた教示だ。
「私、貴方の子供が欲しい」突然、聡美が思い掛けない台詞を口にした。その目は潤んではいても真剣だ。和也は困惑しながら焼酎を飲み干した。
「俺が幹部になるまで子供は作らないって決めてるじゃあないか」和也としては幹部候補生学校に入校する時には聡美を連れて行くつもりなので子連れになることは避けたい。
「若し、貴方に何かあったら思い出だけじゃあ駄目なの。貴方の命を受け継ぐ子供を守ってなら強く生きていけるわ」聡美の発想は一般的な現代女性とは真逆だ。殉職した航空自衛隊のパイロットの妻が今後の生活費や育児の苦労、さらに再婚する時の条件などを計算して両輪の懇願を無視して初めての子供を中絶してしまった事実がある。それが現代女性なのではないか。
- 2018/07/28(土) 09:50:35|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
7月26日の午前中にオウム真理教事件の確定死刑囚で7月6日に未執行だった6名にも死刑が執行されました。
今回の執行は同一の犯罪によって死刑が確定した者については一律に執行すると言う不文律が拘置支所の設備の関係で実行できず、今回は前回の東京、大阪、福岡拘置所に続き東京、仙台と名古屋拘置所で執行されたのですが、異例に短期間だったことで一律執行と言う印象は保つことできた上、「執行を待つ死刑囚への配慮」と言う大義名分も立てられたようです。何にしても極めて官僚的な決定に見えます。
野僧は今回の豊田亨死刑囚、広瀬健一死刑囚、岡﨑(宮前に改姓)一朗死刑囚、横山真人死刑囚、瑞本悟死刑囚、林(小池に改姓)泰男死刑囚のうち林死刑囚以外の5名については主導的立場にあった前回の7人と同列に考えることに疑問を感じています(あえて否定はしない)。
岡﨑死刑囚については幼少時からの過酷な生育環境は他の凶悪事件でも情状酌量に相当するものであり、さらに坂本弁護士殺害事件では自首しているのですから教団を断罪する世論の中で司法も冷静さを失っていたのではないかとの疑問を禁じ得ません。
横山死刑囚については地下鉄の車内でサリンを散布したものの死者は出ておらず、共同正犯として死刑が確定したのです。しかし、その論理で死刑になるのであれば70年代に頻発して多くの犠牲者を出した過激派テロについても政治的に支援を行った日本社会党を含め更なる厳罰を適用しなければ法の均衡性が確保できません。
瑞本死刑囚については教団内でも極めて従属的な立場で裁判でも「本人に確定的な殺意があった」とは認められておらず、むしろ十分な説明を受けることなく警備担当者として実行犯に同行し、犯行に立ち合ったに過ぎないのです。その犯行で死者が出たことで殺人犯と認定されたのも司法が怒りに駆られた世論に迎合したと言う側面があったのではないでしょうか。
広瀬死刑囚と豊田死刑囚は共に極めて優秀な科学者であり、それだけに入念な精神支配=マインド・コントロールが施されていたと言われ、刑法39条の「心神喪失者の行為は罰しない」「心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する」に該当する可能性について冷静に検証する必要があったのではないでしょうか。
やはり弁護団も余りにも多数の被告人と膨大な犯罪資料に直面し、きめ細かい分析と個別の反証弁論に取り組むことができなかったのかも知れません。
これまで在任期間中に死刑の執行を命じた人数としてはH山邦夫法務大臣の14名が最多でしたが今回の執行でK川陽子法務大臣は16名になりました。
現場で執行を担当する拘置所の職員も辛いでしょうけれど、それを命ずる法務大臣も重い職責であることに代わりはありません。かつて宗教上の理由(自民党・愛知県岡崎市が地元)や度胸がなくて(民主党・山口県岩国市が地元)執行を命じなかった法務大臣がいましたが、それならば打診を受けた段階で断れば良いのです。

いしいひさいち作「のんき大国」より
(林死刑囚のホーリーネームは「ヴァジラチッダ・イシティンナ」だった)
- 2018/07/27(金) 09:20:37|
- 追悼・告別・永訣文
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
安川3曹と斉藤2士は補佐官が手配した車両の荷台に乗せられて普通科教導連隊の戦死者と一緒に隊舎に移動した。ところが安川3曹と斉藤2士は1階にある待機室に連行され、案内した普通科教導連隊の2名は自分の中隊に帰っていった。つまり演習の主役は第3普通科連隊であって普通科教導連隊はその相手役と言うことだ。そのため戦死しても次の役柄を与えられれば別人として舞台に上がることになる。
普段は教場として使っているらしい部屋のドアには「情況外待機室」と言う貼り紙がしてある。やはり「霊安室」「遺体安置所」などと書くほどくだけてはいないようだ。
「入ります」安川3曹は灯りが点いている部屋のドアをノックしたが返事はない。中には昼間に戦死した平塚2尉や別の中隊の小隊長がいるはずだ。そこでドアを開けて中に入ると誰もいない。広い部屋には長机と椅子が整然と並んでいるだけだ。
「昼間に戦死したのは指揮官の幹部ばかりだから部屋が違うのかな」陸上自衛隊では食堂や浴場を幹部、陸曹、陸士用に分けてあることが一般的なので霊安室も同じような方式でも不思議はない。すると斉藤2士が部屋の中を見回して隅の長机の上に電気ポットと紙コップ、そしてインスタント・コーヒーと顆粒乳剤、個別の袋に入った砂糖が置いてあるのを見つけた。
「安川3曹、コーヒーを飲みませんか」これは気を遣ったのではなく自分が飲みたいから誘っただけだろう。安川3曹としては部隊が状況中に戦列から外されて連行された霊安室で呑気にコーヒーを飲む気にはなれない。これは斉藤2士にも教えておくべき心構えだ。
「仲間たちはまだ演習を戦っているんだ。途中で抜けた俺たちがコーヒーを飲んで良いはずがないだろう」安川3曹の語気には叱責の圧力がある。斉藤2士は怯えたように長机から離れた。
その時、ノックもなしにドアが開き、黄色い腕章をはめた補佐官が1人入ってきた。流石に視力が良い安川3曹でも教場用の広い部屋の対角線では階級までは判らない。ただ迷彩の戦闘帽の帽章が幹部用であることは判った。そこで「気をつけ」と号令をかけた。
「第3普通科連隊、安川3曹以下2名、状況付与によりこの部屋で待機中」前後に10度の敬礼を挟んだ安川3曹の申告に補佐官はうなずきながら歩み寄った。どうやら1尉のようだ。
「戦死は残念だが、それを次回の教訓にして別命あるまでここで休んでいなさい」補佐官はそう言うと部屋の隅で固まったように姿勢を正している斉藤2士の肩を叩いた。
「ただし、トイレ以外はこの部屋から出てはいかん。顔のドーランは・・・」「状況終了まで落としません」安川3曹は分不相応であることは判っていたが補佐官の言葉を遮って回答した。
「消灯後も電気を消すことはできん。不定期に在室を確認に来るからな」「はい、判りました」安川3曹はここで再び分不相応な質問をした。
「先に状況外になった指揮官2人はどちらにいますか」本来であれば状況外になった者の中で上位者・先任者の指揮・掌握下に入らなければならない。その意味では至極当然な質問ではあるが、3曹が1尉に直接声を掛けること自体が身分制度が厳格な陸上自衛隊では越権行為なのだ。
「幹部2名は統裁部で情況策定の補助をやってもらっている。だからこの部屋に来ることはないだろう。安川3曹だな」「はい、安川3曹」ここで補佐官はさらに歩み寄るとサスペンダーで隠れた迷彩服の名札を確認した。
「現時点では君が指揮官だ。今後、戦死者が増えてくれば逐次交代してくれ」そう言って補佐官は部屋を出ようとして長机の上のコーヒーセットに目を止めた。
「あのコーヒーは自由に飲んでもらって良いから・・・」「いいえ、部隊が状況中に嗜好品を口にするとはできません。片づけて下さい」再び言葉を遮ってしまった。しかし、補佐官は不快感ではなく感心したような顔をして部屋を出て行った。
「これから僕たちはどうなるんですかね」ドアが閉まって補佐官の足音が遠ざかると斉藤2士は急に不安げな顔になって質問してきた。
「昔は演習で戦死すると自分で墓穴を掘らされて顔以外は埋められたらしいな」「えッ・・・」これは古参陸曹たちから聞かされた体験談だから嘘や冗談ではない。
「おまけに整列した中隊に捧げ銃をしてもらってラッパ手が『国の鎮め』を吹奏してくれるんだぞ」ラッパ曲「国の鎮め」は「葬送の譜」と言う別名でも判るように帝国陸海軍から陸海空自衛隊に継承されただけでなく警察や消防でも殉職者の慰霊式典で吹奏される曲だ。
安川3曹個人としては消灯ラッパの方が胸に迫るような気がするが、現在の3普連では第2師団音楽隊の隊員が本来の職種である普通科を経験させる人事交流として配属されているため、集中訓練した素人とは比べ物にならない芸術的な吹奏が聞けている。墓穴に埋められてそんな音色を聴けば未亡人にしてしまった聡美や家族を想いながら号泣してしまいそうだ。
- 2018/07/27(金) 09:17:54|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1908年7月26日にアメリカ司法省内に捜査局・BOIが設立されました。この組織が1935年に連邦捜査局=FBIとなったのです。1908年は明治41年に当たり、日本の戊辰戦争と同じくアメリカが国家を二分して銃火を交えた南北戦争が終わって43年目でした。
入植時のアメリカ合衆国地域ではイギリスからの移民が最大多数を占めていたため社会制度もイギリス式を踏襲することが一般的で、治安も各地域、各集落、各家族が自衛する隣保制度(=近所隣り保安制度)によって維持されていました。
ところが国家の基盤が固まって社会が大きく発展すると色々な矛盾も発生し、そんな荒んだ気分が凶悪犯罪を誘発し、銀行強盗や身代金目的の誘拐などが続発するようになったのです。しかし、隣保制度の延長線上に定められた各州ごとの自治警察組織では被疑者が州境を越えて逃走した場合、逮捕権が及ばず当然のように捜査権もありませんでした。
さらに各州の独立を尊重する国家の成立理念によって個別犯罪の司法権は州単位であり、刑法も各州単位で異なっており、他の州で凶悪事件を起こした人間であることが判っていても警察は手出しできない異常な状況が生起し、それが凶悪犯罪の組織化や大規模化につながっていったのです。
勿論、連邦政府にも独立直後から国家レベルの犯罪を捜査・摘発する組織=連邦保安官制度はあったのですが、各州の独立を尊重する建前が強過ぎて機能不全・活動停止状態に陥っており、新組織の創設が計画されました。
しかし、当時のアメリカの連邦議会では戦後の日本の国会に蔓延していた防衛力の整備=軍国主義の復活、自衛官=帝国軍人の亡霊と言う先入観と同じように連邦政府の権限拡大=自治の否定、連邦の警察組織=政権の手先と言う現実を無視した反対意見が圧倒的で、セオドア・ルーズベルト政権が提出した司法省内に警察組織を創設する計画はことごとく否決されたのです。
結局、セオドア・ルーズベルト政権は財務省内の脱税などを捜査するシークレット・サービスの権限を強化する苦肉の策で連邦警察組織を創設することに成功しましたが、広範囲に及ぶ捜査活動が各州の自治権を侵犯していると言う批判の声が起こり、議会が新たに創設した連邦警察の職務権限を財務省管轄の違反事項に制限する議決を行ったことで元の木阿弥になってしまいました。
すると不屈の人・セオドア・ルーズベルト大統領は当初の計画通り、司法省内に警察組織を創設することを決定し、財務省のシークレット・サービスを移籍させて準備を整え、この日を迎えました。その後、関係法令の整備と捜査員の質の向上、綱紀粛正を進めたことで実績を挙げ、禁酒法によってかえって闇組織の強大化を招いた1935年には現在の連邦捜査局=FBIとなりました。
現在では大規模な犯罪よりも外国からのアメリカの国家に大きな影響を及ぼす不正行為や大統領を含む連邦政府内の違法事案の捜査などで力を発揮しているようです。
- 2018/07/26(木) 09:08:44|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
補佐官は戦闘に決着がつくまで判定を下さないつもりらしく敵が銃撃してくる草むらの後方に立って傍観しているだけだ。そのため安川3曹のバトラーはブザー音を響かせ続け、壕の中の森田士長と斉藤2士の後ろに下がってもかえって苛立たせてくる。
「斉藤、お前は右の草むらを監視して動く者がいたら構わず射て」「はい、タ(単射)で射ちます」「3点連射にしろ」「僕は3点連射で射ったことがありません」戦闘中にクダラナイ議論を始めた2人の頭を手に提げた鉄帽で殴ってやりたくなるが、すでに遺骸になってしまった安川3曹は黙っているしかない。
「単射で良いから敵のブザー音が鳴るまで射ち続けろ」この指示では敵が伏せている場合、無駄弾を浪費することになりかねない。それでも遺骸は亡霊として眺めているしかないのだ。
そのまま2人は身体を壕の中に沈め、左肘を堆土(たいど)に立てて小銃を構えた。2脚部を使った方が安全性と命中率は高まるが、敵の動きに応じた射撃には支障がある。
「敵です」その声と同時に斉藤2士が射撃を開始した。しかし、それは銃口を向けると照準、見い出しもせずに引き金を一気に引く完全な盲射ちのガク引きであり命中するはずがない。一方の森田士長は日頃の訓練で磨いている基本動作を守っているが、左側の敵が2手に分かれていることに気づいていないようだ。安川3曹は「左手の草むらの中を敵が動いているぞ」と喉まで出かかっているのを必死でこらえていた。ここで迂闊に教えれば補佐官に察知され、演習の講評で不正事項として指摘を受ける可能性がある。何よりも指揮官の戦死と言う状況とその対応の検証・演練はレーザー交戦装置・バトラーを実用化して以来、陸上自衛隊が真摯に取り組んでいる命題の1つなのだ。
その時、背後で連射の銃声がして左側に潜伏していた敵の位置からブザーが鳴り始めた。安川3曹が立ったまま振り返ると3名の隊員がこちらに向かってくるのが見えた。どうやら佐藤1曹が派遣した増援部隊が後方から森田士長たちの背後に回り込もうとしている敵を発見して先制攻撃を加えたらしい。それでも陸士2人には状況が判っていない。
「森田士長、どうなちゃったんですか」「俺にも判らん。今は敵を1名でも多く倒すことだ」そう言って森田士長は再び射撃姿勢を整えた。いつの間にか周囲はかなり暗くなっている。若し、敵だけが暗視眼鏡を装備していれば増援部隊を加えた5名全員はなぶり殺しだ。
安川3曹は久居での新隊員課程の精神教育で中隊長が見せてくれたアメリカ軍の湾岸戦争の記録映像の背筋が凍りつくような光景を思い出した。アメリカ軍は高性能の暗視眼鏡を装備しており、砂漠の低地に身をひそめるイラク兵たちの体温を探知して銃撃を加えていた。それは体温が消える=死ぬまで続けられる消去作業に過ぎなかった。
「よし、暗視眼鏡を装着しろ」数メートル後方で聞き覚えがある陸曹の声が聞こえた。どうやら増援部隊も暗視眼鏡を携行してきたようだ。こうなれば勝負は互角だろう。するとこの機を逃さないように敵が銃撃を浴びせてきた。
辺りが暗くなって前方左右の草むらで銃口が光るようになっている。森田士長はその光に向かって射撃したが、普通科教導連隊の隊員の射撃後の防護動作は驚くほど迅速で命中させることができない。斉藤2士は敵が射ってきても反応せずに銃を構えている。肩から上を壕から乗り出した射撃姿勢は精密に照準すれば標的になり得る。安川3曹は自分を犠牲して救った斉藤2士を守りたい衝動に駆られながらも遺骸としての分を守った。鳴り続けているブザー音に紛れ込ませて注意を与えることは可能だが、そこは演習に対する真剣味として踏み止まった。
「ターン」「ビー」やがて右側の草むらから銃声が響き、斉藤2士のバトラーのブザーが鳴り始めた。これで周囲で鳴っているブザーは4つになる。完全に日が暮れた野外で響くブザー音は一段とやかましい。その意味ではそろそろ補佐官に作動の解除を願いたくなってくる。
「斉藤2士、お前に敵が射った弾が当たったんだ。情況外として鉄帽を脱いでこちらに来て立っていろ」安川3曹はいきなりなり始めたブザーに我を失っている斉藤2士に先に死んだ亡霊として指導を与えた。それでも動かない斉藤2士に森田士長が「お前は死んだんだ」と声を掛ける。それを聞いて斉藤2士は完全に意気消沈した様子で歩哨壕から這い出ると安川3曹の隣りに立った。夜目が効く安川3曹にはその頬に涙が伝っているのが見えた。
「敵が逃げたぞ」「追っても無駄だ。射て」ここで敵は攻撃を諦めて逃走したようだ。早い話が今回の寸劇は決着がついたことになる。
増援部隊が数発射ったところへ戦闘帽を被って黄色い腕章をつけた補佐官が歩み寄ってきた。
「誰か」「補佐官」「京都」「先斗町(ぽんとちょう)」「御苦労さまです」増援部隊は暗夜と言うことで一応は誰何を行った。ここで補佐官は懐中電灯を点け、ブザーを鳴らしている戦死者を集めた。安川3曹と斉藤2士は至近距離からの頭部銃創による即死だった。
- 2018/07/26(木) 09:06:17|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1950年の明日7月26日にハリー・S・トルーマン大統領が法案に署名し、国家安全保障法が発効しました。この法律によって国家安全保障会議=NSC、国家軍政省=現在の国防総省、中央情報局=CIAが新設されたのです。
国家安全保障会議はそれまで大統領の意向で出席者が決められていた戦争指導会議の法的制度を確立したもので、当初は大統領、副大統領、国務長官、国防長官、陸軍大臣、海軍大臣、空軍大臣を正規のメンバーとして必要により中央情報局長官も加わることになっていました。1949年からは政治主導を強化するため軍服組の各大臣は排除され、逆に運用のトップである参謀総長が加えられました。現在は大統領を議長として副大統領、国務長官、国防長官、エネルギー省長官が正規のメンバーで、軍事アドバイザーとして参謀総長、情報アドバイザーとして中央情報局長官が参加することになっています。
安全保障会議の設置目的は「大統領への政策助言」「中長期的な安全保障政策の立案」「各省庁の調整」とされており、迅速な意思決定を優先して正規のメンバーを必要最小限にしたとも言われています。
安全保障会議は「Council=会議(直訳すれば協議会)」と呼ばれていても安全保障担当大統領補佐官を事実上の長として国務省と国防省からの出向者を中心に200名の職員が勤務している政府機関ですが、存在そのものが国家機密に属するため事務局や会議が開かれる場所は明らかになっておらず、「ホワイトハウスの地下に巨大な会議室があってそこに設置されている」と言う風説に基づいて映画などが製作されています。
一方、国家軍政省はそれまで日本と同様に陸軍省と海軍省、それに統合参謀会議で構成されていた国防・軍政組織を第2次世界大戦も終幕に近づいた1944年から統合することが検討され、この法律の成立を受けて1947年9月18日に移行しました。
ちなみに国防総省と言う名称は現在も陸軍省、海軍省、空軍省が内部に存在していることを意味していると説明されていますが、実際は国家軍政省=ナショナル・ミリタリー・エスタブリッシュメントの略称「NME」の読み「エヌミー」が敵を意味する「エネミー」に似ているため「デパートメント・オブ・ディフェンス」に改称されたと言うことです。
中央情報局は国務省に属していますが事実上は国家安全保障会議の直轄組織で、国防省の下部組織である国防情報局とは別格の位置づけをされています。
日本では戦後、自衛隊が発足して2年後の昭和31(1956)年に国防会議が設置されましたが、正規のメンバーは内閣総理大臣を議長として大蔵大臣、外務大臣、防衛庁長官、経済企画庁長官及び副総理相当の大臣とアメリカとは随分趣を異にしていました。昭和61(1986)年に中曽根内閣が安全保障会議に変更しましたが、総理大臣を議長に外務大臣、大蔵大臣、通産大臣、自治大臣、通産大臣、防衛庁長官、内閣官房長官、国家公安委員長と閣議と大差ない大所帯になっており、「出席者が集まるまでに戦争が終わっている」と揶揄されていました。そして現在の国家安全保障会議は総理大臣を議長に内閣官房長官=副総理、外務大臣、防衛大臣と名称と同様にかなりアメリカに近づきました。
- 2018/07/25(水) 09:06:52|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
警戒を厳にした接敵行進で50キロ歩いて到着した富士の音威子府は最初の展開地から余り離れていなかった。やはり広大な東富士演習場でも50キロの距離を設定するには折り返し方式を取らざるを得なかったようだ。
「安川3曹、ここにも同様の歩哨壕を設営してくれ」「はい、安川3曹」「メンバーも同じで良いな」「はい、安川3曹」「今回も作業終了後はそのまま歩哨の任務についてもらう」「はい、安川3曹」平塚2尉は戦死したので引き続き佐藤1曹が小隊長代行として指揮を執ることになった。安川3曹にとって佐藤1曹はレンジャーの先達であり、質問することもはばかれるような敬意を抱いている。それでも叱責されるとは思いながら「業務上」の質問をした。
「状況が始まって4日間が過ぎましたから通常の演習なら後半戦です。そうなると敵の動きはかなり活発になると思うんですが」この質問は演習を実戦ではなく演習と考えていることを自白しているようなものだ。通常の演習では移動と野営準備で1日、1週間程度の状況が始まり、終了後は撤収と移動になる。その状況の後半ではゲリラが陣地の襲撃を繰り返して仮眠を阻害する。そうして隊員たちの疲労が蓄積したところに本格的な攻撃が開始され、それを迎え撃って状況終了と言うのが定番だ。今回の演習の般命(一般命令)でも演習期間は移動の往復4日を含めて12日間なので状況は5日間と考えるのが経験則だ。前哨長としては腹案を持っておくためにも先達の意見を聞いておきたかった。
「今回の演習の展開は今までの経験では予測できないぞ。いきなり50キロ行軍が入ったことでも明らかだろう。有事即応の気構えで指揮してくれ」「はい、安川3曹」確かに佐藤1曹の意見は別の意味で参考になった。安川3曹は佐藤1曹を見送ると状況開始の時と同じように森田士長と斉藤2士を使って歩哨壕の構築を始めた。
「今回は敵の侵攻が迫っているから作業は迅速に進めなきゃいかん。斉藤2士も要領が判ったんだから頑張ってくれ」「はい、森田士長」「はい、斉藤2士」2人は声を揃えて返事をすると前回と同じ要領で歩哨壕を掘り始めた。先ずは安川3曹が円匙(えんぴ)で寸法を測りながら地面に設計図を描き、それを掘っていく。今回の現場は少し石が多く、時折、十字(じゅうじ)=鶴嘴(つるはし)も必要になる。安川3曹は十字を使う時には隣りで作業をしている森田士長に声を掛けて安全を確保してから実施することを指導してから実技を教えた。
歩哨壕が完成して連絡路、待機場所に取りかかるところから前回も歩哨に当たった陸士長2名が通信員の有線の敷設を手伝いながら増援に来る手はずになっている。すると突然に安川レンジャーのセンサーが危険を探知した。
「その場に伏せ」その号令に森田士長は掘り終えた壕に身を伏せたが、斉藤2士は茫然と立ちすくんでいる。安川3曹は壕の外に伏せた態勢から両手足を使って跳ね上がり、斉藤2士を壕の中に押し倒した。同時に50メートルほど離れた草むらの中から乾いた空砲の連射音が聞こえてきた。銃声は2丁から発射されている。
「敵襲、銃を執れ」安川3曹は第5匍匐で銃が置いてある位置に移動し、脚を畳んで手渡した。しかし、斉藤2士は硬直したままで受け取ろうとしない。森田士長も作業のため外して置いてあった弾帯から弾倉を取り出すことに必死で斉藤2士を指導する余裕はないようだ。
真っ先に射撃準備を終えた安川3曹は少し姿勢を高くすると銃声が聞こえた草むらを確認した。すると背の高い草が複数の人間が移動しているのに合わせて揺れている。そこで安川3曹は銃を構え、切り替え軸をレ(連射)に合わせた。
「タッタッタッタッタッタッ」草むらに向かって5発連射した。この銃声は小隊本部への緊急連絡も兼ねている。しかし、バトラーは反応しない。草むらの中で伏せているのかも知れない。
ようやく壕の中で弾倉の装填が終わった森田士長も銃を構えた。しかし、安川3曹は逆方向を指さして射撃命令を与えた。
「森田は違う方向を監視しろ。あちらが陽動だとすると次は逆から来るぞ。発見次第、射撃しろ」「はい、森田士長」森田士長が振り返ったのを目で追うと斉藤2士が立ち上がって外して置いてある弾帯に手を伸ばしたのが見えた。
「馬鹿、姿勢が高い」安川3曹はそう叫ぶと再び両手足で跳ね上がり、斉藤2士に飛びかかった。同時に逆方向の草むらから連射音が響いた。
「ビー」安川3曹の弾帯のバトラーのブザーが鳴り始めた。腹の下になっている斉藤2士は無事なようだ。安川3曹はその場に立ち上がると鉄帽を脱いで補佐官の状況付与を待った。
「聡美を戦争未亡人にしてしまったな・・・」黒い影になった富士山を縁取りながら沈む夕日が安川3曹の全身を照らし、血塗れになったかのように朱(あか)く染めている。
- 2018/07/25(水) 09:05:27|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「ビー」「ビー」2人分のブザーを聞きながら連行するのはかなり苦痛だ。尤も、戦死した上、腰に装着したバトラーのブザーを響かせながら歩かされる狙撃手たちこそ拷問のようなものだろう。そんな4人が草むらから姿を見せると路上では後続の第2中隊が対応に困惑していた。ブザーが鳴っていると言うことは命中弾を受けて戦闘能力は喪失しているのだから無視しても問題はないはずだ。と言って敵味方のどちらが殺られたのが判らない以上、放置することもできない。
「止まれ、誰か」「4中隊、田中2曹以下2名と遺骸2体」田中レンジャーが草むらから姿を見せた時点で銃を構えた陸曹が誰何してきた。しかし、この田中レンジャー式の回答に遺骸になった富士レンジャーたちも失笑した。
「動くな」陸曹は傍らの陸士を手招きすると「小隊長と補佐官を呼んで来い」と指示した。本来であれば誰何の後には合言葉などの確認手順が決まっているのだが、これから部隊に帰る戦死者に合言葉を漏らすことを避けたようだ。
「おう、ご苦労さん」そこに黄色い腕章をはめて戦闘帽をかぶった2尉の補佐官が現れた。これは先ほどの陸士が呼んだのではなく銃声とブザー音を耳にして状況を察したらしい。
補佐官は田中レンジャーと安川レンジャーに挟まれているギリースーツを着た狙撃手と観測員を路肩から上げると無線機で連絡と確認を始めた。
「先に状況を付与するが最初に撃たれた方が頭部銃創で即死、次は後背部銃創で重傷と言う判定だ。ただし、次の方も負傷後の救護措置がなかったから出血多量の戦傷死で良かろう」事務的に「戦傷死で良かろう」と言われても死ぬ方は堪ったものではない。ただし、ここで2人を死亡扱いするのには第3普通科連隊に仮想敵側の情報を収集するための尋問をさせないことも理由に含まれている。
昔の演習では帝国陸軍上がりの古参隊員が捕獲した仮想敵に拷問に近い取り調べを行いそれが技法として継承されていた。実際、狙撃兵は標的となる全ての将兵に多大の恐怖心を与えるため、発見・捕獲された時には残酷な拷問を受け、惨殺されることが戦争の実相なのだ。第1次イラク派遣に派遣された第3普通科連隊がそのような蛮行を行うとは思わないが、ここは戦場であり、敵対する両者は陸上自衛隊で最精鋭の名を競い合う普通科連隊である以上、闘争心が暴発する危険性も否定できない。用心するに越したことはないのだ。
「ブザーを止めるぞ」補佐官は腰の図納から拳銃のようなバトラーの警報解除用具を取り出すと富士レンジャーたちのギリースーツの上から解除のレーザーを浴びせてブザーを止めた。
「ほい、2人は最後尾を霊柩車が着いてくるからそちらに連隊へ乗って帰りなさい。3普連の2名は任務続行だな」人員輸送用のトラックを霊柩車と呼んだ補佐官も田中2曹と同類のようだ。するとそこに第2中隊の先任小隊長と先ほどの陸士がやってきた。
「おう、田中2曹、平塚の仇を取ったようだな」「はい、大変な敵でした」ここでも田中2曹は狙撃手と観測員の耳に入るように説明した。おそらく田中2曹が誰何していれば間違った合言葉を問いかけて答えられなければ真顔で捕獲したかも知れない。そうすることで仮想敵の普通科教導連隊に誤った情報を漏らすことができる。
「これからお前たちがウチの中隊に同行できるように許可を取るよ。今から4中隊に追いつくのは大変だろう」「いいえ、合流地点は指定されていますから走ってでも追いつきます。我々が抜ければウチの中隊の戦力が低下するんです」田中2曹は小隊長の厚意に吊れ銃(つれつつ)での敬礼で感謝を示し、安川3曹と一緒に走り始めた。
「指定時間まで残り10分だな」「はい、連行されるのにわざとユックリ歩いて遅らせたようです」「まったくどこまでもずる賢い奴らだ」先任小隊長の小隊は第2中隊の最後尾だったようで、路上には2中隊の他の小隊が接敵行進を続けている。基本通り左右に分かれて轍(わだち)の上を歩いている隊員たちの間を突き抜けるように2人は走っていく。対人地雷を踏めば一貫の終わりだが、そこは本音と建前だ。
「それにしても狙撃手は1組だけ何ですかね」「うん、まだ油断はできないぞ。相手は普通科教導連隊だ。普通の普通科連隊では考えつかないような手を使ってくるだろうからな」それにしても田中2曹の冗談好きには感心してしまう。レンジャー教育で自分の限界を見極めた時、厭世的な虚無感に陥る者と逆に弾けて人生を嘲笑するようになる者がいると言われているが田中2曹は後者なのだろう。田中2曹は実戦に臨めば昭和20年8月17日に侵攻してきたソ連軍を迎え撃った千島列島最北端の占守島の守備隊長・池田末男大佐が戦車の砲塔から上半身を乗り出して両手で日の丸を広げながら突撃したような死に方をするのかも知れない。
- 2018/07/24(火) 09:56:38|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「確かにここからなら後続の中隊を狙撃して次に移動するには最適だな」田中レンジャーもこの木立の特性を考えながら見解を述べた。後続部隊は2小隊が狙撃を受けたことは承知しているだろうから対応は早くなる。事前に捜索要員を指定しておいて銃撃を受ければ即座に出発させることも十分あり得る。こうなると狙撃手は捜索要員を狙撃して殺害するか逃走するかを選択しなければならない。その点、この木立の周囲は雑草が茂っているため木から下りてそこに逃げ込めばレンジャーとは言え捜索要員をやり過ごすことも可能だろう。
「よし、狙撃可能な高木(こうぼく)を確認していく」「はい、安川レンジャー」安川レンジャーは返事をすると89式小銃の切り替え軸をア(安全)・レ(連射)・3(3点連射)・タ(単射)の3=3ショット・バースにした。
「あの幹には土が着いているな」2人で前後の距離を置きながら木立の中の狙撃可能な高木を見て回り、3本目の手前で田中レンジャーは立ち止った。この時、安川レンジャーは少し離れた位置から高木に銃を向けて敵を発見すれば即座に射撃する態勢を取っている。田中レンジャーも上からの視界が届かない枝葉などを利用して接近しているのは言うまでもない。
「実戦なら下で枯れ草でも焚いて焙り出すんだが演習ではそうもいくまい」田中レンジャーは安川レンジャーと同一照準外の距離3メートルを取って小声で指示を与えた。
「俺が銃を構えながら向こうに移動するから、それに反応すれば射殺しろ」要するに田中レンジャーが囮になるからそれで敵を確認して処置せよと言うことだ。
「89式の発射弾数は・・・」「180発です」「使用弾数は弾倉1本、30発までだな」この発射弾数とは演習に於いて1丁の89式小銃のバトラーが発射可能なレーザーの照射回数のことだ。これは隊員が30発入り弾倉6本を携帯していることから設定されている。一方、20発入り弾倉6本だった64式小銃では120発だった。
「よし、行くぞ」田中レンジャーは黙ったまま顔で合図すると立ち上がって幹の下から上に銃口を滑らせながら高木から離れていった。安川レンジャーは灌木の影に身を潜ませながら高木の全体を監視する。すると15メートル上方の大きな枝で人影が動いたのが見えた。
「タッタッタッ」安川レンジャーが引き金を絞ると3発を連射して銃が指を押し戻した。これが3点連射の機能なのだ。同時に上からバトラーのブザーの音が鳴り響いた。しかし、その音は1つだ。若し、狙撃手が2名で行動していればもう1名は生き残っている。
安川レンジャーは姿勢を低くしたまま藪の中を走り、別の灌木の下に身をひそめると先ほどの枝に向かってもう一度3点連射した。すると枝の上からも空砲の発射炎が光り、銃声が響いた。これは富士レンジャーとしてはあきらかに失策だ。地上にいる安川レンジャーは移動可能だが樹上では発射炎で位置が判明すれば固定目標も同然になる。
安川レンジャーはもう一度走って移動して枝に向かって銃を構えた。すると枝の葉が音を立てて動いているのが判る。ブザーが鳴っているバトラーは動いていないのでおそらく生存している1名が逃走を図っているのだ。確かに敵は木の幹を利用して死角になる方向に身を隠していく。この猿のような身のこなしは猿がいない北海道の冬季レンジャーでは未経験だ。
その時、高木の裏側の地面から空砲の連射が響き、同時にバトラーのブザーが鳴り始めた。
「2名とも射殺した。ここには補佐官はいないから下りてきて我々に同行しろ」銃声がした方向から田中レンジャーの声が聞こえてくる。安川レンジャーが交戦している間に高木の反対方向に回り込んで待ち構えていたらしい。
「早く下りてこい。こちらも2人ともレンジャーだから陸上自衛隊最高峰を誇る富士レンジャーでも恥じることはないぞ」「はい、レンジャー」田中レンジャーの呼び掛けに返事をするとようやく2人は枝を伝って下りてきた。やはり顔まで覆ったギリースーツを着ており、1名はMー24狙撃銃、もう1名は89式小銃を持っている。Mー24狙撃銃は高い命中精度を目的に開発されているため第2次世界大戦中の歩兵銃と同様のボルト・アクションであり、敵が接近する前に遠距離で狙撃しない限り自動小銃に対抗することは難しい。このため同行する観測員が応戦用の89式小銃を携行しているようだ。
「それにしてもブザーを止められないのは困るな」「はい、レンジャー」田中レンジャーが声をかけると弾帯の耳障りなブザーが鳴り続けている2人が答えた。ドーランを塗り、その前をギリースーツの頭巾が遮っているので顔は判らないが年齢は20歳代の後半くらいに見える。
「捕虜であれば武装解除しなければならないが、遺骸になっていれば一緒に運んで行くから自分で持ってきてくれ」「自分たちは遺骸扱いですか」「うん、ウチの小隊長と同じく戦死だ」ここでも狙撃手の戦果を教えて気分を和らげている。レンジャーの中には殺伐とした冷淡な人物も少なくないが、田中レンジャーは一風変わっている。
- 2018/07/23(月) 08:53:30|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1951年の明日7月23日は第2次世界大戦の緒戦でナチス・ドイツの侵攻を受けるといち早く降伏することでパリその他の国土が破壊されることを防ぎ、国民に犠牲を強いることを回避し(おそらくこれが日本人好みの対応でしょう)、フランス降伏政権=ヴィジ―政権の主席を務めたフィリップ・ペタン元帥の命日です。
日本人の大半は開戦から2年に満たない1940年春にフランスが降伏したことをナチス・ドイツの完全勝利と誤解していますが、実際は極めて政治的な取引に基づく停戦合意であって、パリを含む北西部を占領下に置くことを認めただけで(1870年の普仏戦争でも占領されている)、中央から東ではヴィジ―地方に首都を置く正統なフランス政権を維持した上、分け前に与ろうとしたイタリアには寸土も渡していません(日本はフランスの植民地だったベトナムに進攻して御相伴に与っています)。
ペタン元帥は1856年にフランスの北端・ドーバー海峡に面するパード=カレー州(加齢臭ではない)で生まれ、1887年に名門の陸軍士官学校を卒業しています。卒業して4年後から6年間、陸軍士官学校や陸軍大学校で歩兵学の教官を務めていますが、特別にエリート・コースを突き進んだ訳ではありませんでした。実際、1914年に第1次世界大戦が勃発した時には58歳の大佐で歩兵連隊長だったのです(後のド・ゴール大統領はこの時の部下だった)。ところが教官時代に説いていた用兵理論が当時の陸軍総司令官に採用されたことにより、4年間で少将、中将、大将に昇任すると旅団長、師団長、軍団長、軍司令官、陸軍総司令官を歴任することになりました。
ペタン元帥の用兵思想とは攻勢時には鉄道や道路網を利用して物資と兵員を続々と前線に投入し、長期戦にならないように交代で戦闘を遂行させると言うもので、これにより部隊・兵員の士気は大幅に向上し、激戦が続いていたドイツとの西部戦線で勝利を収めることができたのです。一方、防守時には敵に陣地を突破されることを事前に想定し、巧妙に誘導して自陣内の奥深く引きこんでおいて包囲殲滅すると言うものでした。こうして第1次世界大戦が終わると「英雄」の称号と国民の絶大な人気を得て元帥に昇任しました。
しかし、第2次世界大戦までの間、陸軍最高顧問となったペタン元帥は後に「壮大な無駄」「ヨーロッパの万里の長城」と仇名されることになるドイツとの国境線の要塞陣地・マジノ・ラインの建設を推進しますが、これも本来は突破された上で誘導・殲滅することを想定した障壁であって、これに立て籠もって撃破する絶対防衛戦ではなかったはずです。
ただし、ペタン元帥自身も「兵器の急速な発達に十分な関心を払ってこなかった」と反省の弁を述べていますから、やはり時代の趨勢を見誤っていたことは確かなようです。
第2次世界大戦後は戦争犯罪人となりますが、フランス国民に対する世論調査では「処罰すべし」と回答したのは32パーセントに過ぎませんでした。このため占領軍による軍事法廷で死刑判決を受けても執行は免れ、流刑地の離島でこの日を迎えました。95歳でした。
そんなペタン元帥は第1次世界大戦の英雄であり続け、墓所には献花が絶えないそうです。
- 2018/07/22(日) 07:35:19|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
路上を外れて草むらに身をひそめた2小隊では小隊長代行になった佐藤1曹が次々と指示を与えている。遺骸として路上に取り残された平塚2尉は佐藤1曹が自分に気を使って能力を隠していたことを噛み締めていた。むしろ部外出身で幹部としては未熟な自分の指揮・指導をイライラしながら見ていたのかも知れない。
「安川3曹、中隊本部から指示が出次第、捜索に向かってくれ。敵は狙撃手と観測手の2名で行動している可能性が高い。誰かもう1名・・・」「私が行きましょう」佐藤1曹が安川3曹に命令を与えると傍らにいたレンジャーの田中2曹が立候補した。普段の任務であれば森田士長を指名するところだが富士レンジャー相手の戦闘行動となるとまだ荷が重いのは確かだ。
「ワガヨ、ワガヨ、こちらホヘト、ホヘト、送れ」「こちらワガヨ、送れ」そこに中隊本部から連絡が入った。この時間から考えて連隊本部の判断を仰いだ上での指示のようだ。
「2名で捜索を行い、小隊は警戒を厳にして行軍を続行せよ。捜索に向かう2名には合流地点を指示した上で出発させろ」「了解、捜索隊は田中2曹と安川3曹です」「2名ともレンジャーだな」佐藤1曹の即答に中隊本部の訓練係の1曹も安心したような声になった。捜索隊が差し向けられたことを察知した狙撃手は捕獲を逃れるため場所を移動しようとするから次の狙撃はできなくなる。その間に部隊は前進を継続し、一歩でも目的地に近づくと言う判断らしい。
「捜索所要時間は60分間、それが経過すれば成果の有無に関わらず合流地点に向え。合流地点は・・・」佐藤1曹は平塚2尉の遺骸から受け取った地図を開き、行軍予定経路上の場所を示した。接敵行進とは言え小隊が1時間前進した距離に追いつくには道路ではない不整地を走るしかない。それがレンジャーの本領だ。
「それでは出発しろ」「はい、田中と安川、出発します」田中2曹は草むらに座ったまま佐藤1曹に申告した。
「おそらく狙撃手はギリースーツを着ているから樹上に要注意だな」ギリースーツとは色彩だけで周囲に溶け込ますことを狙った通常の迷彩服とは違い、木の葉に類似した布片を装着することで迷彩効果を最大限に高めた戦闘服装だ。以前の陸上自衛隊ではかえって目立つ迷彩服だったこともあり偽装網で鉄帽と身体を覆い、そこに木の枝や草を差し込んで偽装していたが、藪の中では枝に引っ掛かり、時間の経過で葉っぱがしおれるため交換を要するなどの問題があった。その点、現在のギリースーツは化学繊維で作られているので長時間の潜伏にも十分に耐え得るはずだ。
「問題は狙撃手が場所を変えていることですが、どこを想定していますか」山梨県側の富士山麓にある2つの演習場は深い森林と関東ローム層の荒野が広がっている。このため姿勢を低くすれば存在を隠せる草むらは余りない。相手にとっては庭のような富士の演習場でも次の狙撃地点に移動するのに経路の選定には苦心しそうだ。
「先ずは小隊長を狙撃した場所を特定してそこからウチの連隊の行軍経路上の狙撃要地を割り出すことだ。狙撃手の気分になろう」「はい、安川レンジャー」安川3曹は久しぶりに「レンジャー」の自称を口にしたことで胸に熱いモノが湧き上がってきた。
「この木の上から狙ったな」「距離は500メートってところですね」安川レンジャーと田中レンジャーは平塚2尉が狙撃された時に確認した丘に到着すると最も枝ぶりがしっかりした立ち木に登ってみた。私物の小型双眼鏡で確認すると路上には後続の中隊が行軍してくるのが見える。確かに指揮官は目立つので狙い撃ちだ。
「それでは次の狙撃ポイントですが」「うん、敵もレンジャーだけに足跡や草の踏み跡は残していないな」立ち木から下りて地上を確認しながら田中レンジャーが呟いた。
「よし、道路とこの距離を維持しながら先に進もう。狙撃適地を発見したら・・・」「上からだと遠方が見渡せますから接近には要注意ですね」安川レンジャーの返事に田中レンジャーもうなずいた。相手の銃は狙撃専用のMー24なので弾丸はかつての64式小銃と同じ7・62ミリNATO弾だが、さらに照準眼鏡=MK4も装着しているなると一般の隊員の89式小銃の5・56ミリNATO弾では太刀打ちできず射程距離に入る前に狙い射ちだ。
「田中レンジャー」幾つか目の木立を抜けた時、安川レンジャーが前を行く田中レンジャーを呼び止めた。すると田中レンジャーは周囲を見回して確認してから戻ってきた。
「どうした」「人間の小便の臭いがしますね」「そうかァ・・・」田中レンジャーは安川レンジャーが指差した草むらで臭いを嗅いたが首を傾げている。
「人間の心理から言えば狙撃に入る前に用便を澄ましたんですよ。つまりこの森にいるのでは」安川レンジャーの意見に田中レンジャーはもう一度、周囲を見回した。
- 2018/07/22(日) 07:34:09|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
7月18日に19年に渡り日本アニメの金字塔「まんが日本昔ばなし」で市原悦子さんと2人だけで全ての役柄からナレーションまでを演じ続け、映画やテレビ・ドラマでも独特の存在感で脇役どころか端役でも鮮明に記憶に残っている名優・常田富士夫さんが亡くなってしまったそうです。81歳でした。
野僧が俳優としての常田さんを記憶しているのは昭和48(1973)年の大河ドラマ「国盗り物語」の第1話で妙覚寺の坊主だった若き日の斉藤道三さんの野望を聞き、共に還俗して家臣となる猪子兵助さんからです。猪子さんは斉藤さんが最期の合戦に出陣する前に我が子を京都の妻に送り届けるように託されました。
その一方で野僧は生まれついての映画好きで、中学を飛び越して高校でも後輩の女生徒と出かけている間に病みつきになり、その後、亡き妻も大の映画好きだったので新旧を問わず常田さんの出演作はかなり見ています。
野僧の高校時代は角川書店の横溝正史さんや森村誠一さんの作品をシリーズ化する販売戦術を受けて東宝も映画をシリーズ化しており、その中で昭和52(1977)年の「悪魔の手毬唄」と昭和53(1978)年の「女王蜂」を見に行ったと思います。どちらも立ち止った通行人のような端役でしたが、登場している場面が終わってからも何故か記憶に残っていました。
大学に入ってからは自衛隊が絡む作品として見に行った「戒厳令の夜(清純派女優だった樋口可南子さんのヌードで評判になっていた)」と井上靖さんの原作を読んで感激していた「天平の甍」、そして今も大好きな「水のないプール(内田裕也さん主演)」を見ていますが、これらの作品では少し存在感を増した程度でした。
そうして航空自衛隊に入ると新作としては「刑事物語・りんごの詩」や「ビルマの竪琴」を見ましたが、後者では同じビルマ人の物売り役だった北林谷栄さんの圧倒的な存在感で少しかすれていたようです。
一方、国際通りの映画館の地下の名作劇場で見たのは主に黒沢明監督の作品でしたが、時代をさかのぼっているので役柄は軽くなり、「天国と地獄」では誘拐犯に潜伏した麻薬街の通行人に近い役で、「赤ひげ」でも町にたむろするヤクザ者でした。ちなみに黒沢監督の失敗作と言われている「夢」では最終話の「水車のある村」に出演していたそうですが笠智衆さんと寺尾聡さん以外は葬列のその他大勢なので流石に確認できませんでした。
俳優としての常田さんはテレビ・ドラマでもレギュラーではなく、むしろ凶悪になれない情けない犯人や家族に苦労をかける惨めな父親の役が多かったようですが、その独特の存在感で物語の展開を支えていたのは間違いありません。
象徴自ら日本人の精神性を破壊してきた平成と言う時代が終わるに当たって、それを復興するためには「まんが日本昔ばなし」の発展的再開が必要ですが、常田さんを失って実現不可能になってしまいました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
- 2018/07/21(土) 10:00:14|
- 追悼・告別・永訣文
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
演習での部隊行動は夜間に実施されることが多いが、今回は自衛隊側の管理地域内と言う想定なので明るい中での移動になっている。銃迫撃砲中隊と本部管理中隊を除く各中隊が小隊単位で歩いており、道路の両端に縦に長く列ができていた。
「轍(わだち)の上を歩け。路肩の草に足を踏み入れるな」「轍って何ですか」「タイヤの跡だ」行軍が始まっても安川3曹はすぐ後ろをついてくる斉藤2士のことを気に掛けている。あえて轍の上を歩くのは対人地雷を警戒してのことだ。対人地雷にはワイヤー式の起爆装置が用いられてことも多いが、それでも車両が通過した轍の下に残置しているとは考えられない。
「安川3曹、日本は対人地雷禁止条約に署名して国会が承認したはずだろう」安川3曹の指導を聞いて前を歩いている2曹が振り返ることなく質問してきた。安川3曹は若手とは言え冬季レンジャーであり、晩鐘連隊長に能力を認められてイラク派遣にも参加しているため上下関係・先輩後輩に関係なく一目もニ目も置かれているのだ。
「日本は批准しましたがアメリカとロシア、中国は加入していません」「そうだったな」2曹自身も判っていたことらしく感情を交えず合槌を打った。
「アメリカが加入していないんだったら協同作戦の時はどうするんだろう」道の反対側の轍を歩いている森田士長が独り言を呟いた。行軍とは言え戦闘行動の一環としての接敵行進である以上、雑談が許されるはずがない。したがって安川3曹は現地に到着してから議論しようと回答を頭の一部で考え始めた。
確かに日米協同作戦で陣地を構築した時、アメリカ側は敵の接近を防止するために対人地雷を設置できるが自衛隊は許されない。逆に日本に侵攻した敵が陣地を攻撃して対人地雷を踏んだ場合、勝者による軍事法廷では戦争犯罪として訴えられることもあり得ないことではない。
考えてみればイラク派遣の時もサマワ市内で対人地雷を踏んで片足を失った老若男女たちを見てきた。オタワで対人地雷禁止条約の署名が行われたのは1997年なので12年前のことだが現実と理想の隔たりはかなり遠いようだ。
その時、1発の空砲の銃声が響き、同時に小隊長・平塚2尉のバトラーのブザーが鳴り始めた。
「その場に伏せェ」小隊内の陸曹たちが口々に号令をかける。その号令を聞いて周囲の陸士たちも道路に伏せて顔を赤土=関東ローム層の地面につけた。そんな中、平塚2尉は弾帯のバトラーを鳴り響かせながら道路の中央に座って手を挙げた。
「2小隊の指揮を佐藤1曹が執る。各人は周囲を確認、平塚2尉の近くにいる陸曹2名は救護を実施、各分隊長は異常の有無と確認状況を報告せよ」小隊長が狙撃されて弾丸が命中したため指揮権を継続行使することはできない。このため小隊先任の佐藤1曹が指揮を代行した。
「1分隊、上位者から異常の有無を報告せよ。その間、周囲の警戒を怠るな」佐藤1曹の指示を受けて各分隊長は自分の分隊の掌握を始めた。
「胸部に命中、即死だな。したがって救護処置は不要とする」平塚2尉の後ろを歩いていた陸曹2名が第3匍匐で近づくと先に歩み寄っていた補佐官は無線機で統裁部と連絡を取り、状況を判定した。バトラーは発射した銃と命中した部位まで統裁部のコンピューターに記録されるため一切の妥協はない。ただし、弾丸代わりのレーザー波は距離が長くなると拡大するため5・56ミリ弾がかつての重機関銃の口径くらいの大きさなっている可能性もある。
状況を付与した補佐官が拳銃のような解除器具の光線を当てたことでブザー音は止まった。
「ホヘト、ホヘト、こちらワガヨ、ワガヨ、感明送れ」「こちらホヘト、ワガヨ、送れ」佐藤1曹は遺骸になった小隊長から無線機を受け取ると中隊本部に連絡した。
「2小隊の佐藤1曹です。1123頃、小隊長が狙撃されて戦死しました。佐藤1曹が指揮を代行しています」「このまま待て」本来であれば狙撃してきた敵兵を捜索して捕獲するか殺害しなければ損害が続くことになる。問題は行軍と捜索のどちらを優先するかの判断だ。先頭を歩いている中隊本部と2小隊の間には1小隊が入っているので数百メートルの距離がある。銃声は聞こえたにして射撃した方向については察知していなかったようだ。
「狙撃銃がMー24なら有効射程は800メートルだな。銃声が聞こえた方向から言ってあの丘の立ち木から撃ったんだろう」レンジャーでもある佐藤1曹は曹長に昇任した時点で小隊長に任命されると噂されているだけに状況判断は迅速で適切だ。
「グズグズしていると狙撃兵は次の射撃位置に移動してしまうぞ・・・よし、安川3曹」佐藤1曹は中隊の指示を待たずに捜索の準備を始めた。狙撃手も当然レンジャーであり、普通科教導連隊であればレンジャー教育の最高峰である。そうなると捜索要員は最も新しい冬季レンジャーである安川3曹しかない。
- 2018/07/21(土) 09:51:25|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
7月13日に劇団四季の元代表で演出家の浅利慶太さんが亡くなったそうです。85歳でした。
野僧が初めて劇団四季を知ったのは大学を中退する直前で、乗り換える駅ビルのエスカレーターに貼ってあった劇団四季のミュージカル「エビ―タ」を題材にしたカネボウ化粧品のポスターでした。そのポスターではレオタード姿の久野綾希子さんの乳頭がハッキリ写っていて、まだ人並み外れた煩悩があっただけに鼻血を吹きそうになりながら何度もエスカレーターを往復したものです。ただし、化粧品店を兼ねていた薬局で久野さんの広告チラシを入手したところで劇団四季への興味は急速に消えていきました。
その後、航空自衛隊に入って沖縄へ赴任すると野僧と亡き妻は揃って大の映画好きだったため古今東西の名作をかなり鑑賞しましたが、それが後年の劇団四季との再会に大きな負の影響を与えることになりました。それは職を失って愛知県に住む羽目になった時、地元の民放では劇団四季の名古屋公演を中継していたのですが、それを見て原作になっている映画と舞台で演じている日本人俳優の実力差に非常に落胆してしまったのです。
例えば「ウェスト・サイド・ストーリー」の若者たちが大通り一杯に広がって踊る場面ではハリウッド映画のリズミカルでダイナミックな迫力は微塵もなく日本人の足の短さと股関節の固さだけが目立っていました。それは「コーラスライン」でも同様で化粧の厚塗りで無理に西洋人の顔を作っていても体型を胡麻化すことは不可能で、足を振り上げた時に残る軸足の低さと横からの視点で見た脚の線の近さは笑ってしまうしかありませんでした。
それほど踊りがない「オペラ座の怪人」や「ジーザス・クライスト・スーパー・スター」も嘆かわしい限りでしたが、所詮、劇団四季=浅利さんの演出は西洋人の精神文化と肉体表現を模倣にも届かない猿真似に過ぎないのでしょう(「ライオンキング」は「ジャングル大帝」の盗作とする評価が常識になっているにも関わらず採用した不見識は国辱です)。
そんな浅利さんの許し難い失策は橋本龍太郎首相の意向を受けて担当した長野オリンピックの開会式の演出です。やはり浅利さんは海外で評判になった演劇や映画を日本人の実力の範囲内で猿真似することを専らにしていた演出家であって日本の伝統文化への理解とそれを十分に消化した上での独創的展開を期待することには無理があったようです。
開会式は善光寺の鐘の音で始まり、会場内で諏訪大社の御柱(おんばしら)を立てたり、大相撲の土俵入りがあったりと和風を無理やり押し込んで国歌としての君ヶ代も雅楽の演奏でしたが、翌年に成立した国旗国歌法によって雅楽による君ヶ代は国歌として認められなくなりました。おまけにそこまで和風で来たにも関わらず突然、海外での知名度がありそうもない森山良子さんがガキドモと一緒に誰も知らない主題歌を唄いながら入場したのですが、あまりに陳腐な演出にNHKを除くテレビ各局は失望の声をアカラサマにしていました。
ちなみに同居人は誰かに「キャッツ」へ連れてもらったそうですから、冥福は青春の思い出を胸に「メーモリー(=キャッツの挿入歌)」とでも唄いながら祈るのでしょう。

カネボウ化粧品の久野綾希子さんの「エビータ」
- 2018/07/20(金) 09:50:33|
- 追悼・告別・永訣文
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「何だ、この状況命令は」状況開始から3日が過ぎた時、思い掛けない状況を付与する命令を受け取って4中隊本部の天幕でも騒然となっていた。現在の陣地を捨てて50キロ行軍を実施して新たな陣地を構築して配置につけと言うのだ。陸上自衛隊の演習・検閲では困難な状況を付与して部隊の実力を証明させる一方で、最後は期待通りの成果を発揮させて万々歳で収めることが常識だ。確かに普通科連隊の演習では最初に50キロから100キロの行軍を実施することで「徒歩で敵を迎撃する場所へ移動した」と言う演出をすることもある。その点、第3普通科連隊は即応部隊として装甲車などの機動力を付与されているため徒歩による行軍は冬季の雪中演習以外はあまり経験していない。今回はあえてその能力を検証するのかも知れない。
「こんな地面を行軍するなんて久しぶりだな」「そうっすね。やっぱりスキーを履いていないと雰囲気が出ませんよ」突然の命令に隊員たちは個人用天幕を畳み、寝袋などを背嚢に装着して行軍の準備を始めた。しかし、そこに突然のように付与された状況に対する不満はなく、むしろやきに似た口調で雑談をしている。
「何でも夏場に富士で演習をする普通科連隊は登山を行軍の代わりにするんだそうだ」「それって何キロくらいあるんですかね」「御殿場からだと片道35キロ弱だそうだ」距離的には往復で70キロ弱だが往路は登り、帰路は下りばかりになる上、低酸素なので100キロ行軍よりも疲労しそうだ。
「富士登山は7月から9月に限定されているから今回は免除されたが、一度、登ってみたかった気もするな」「そうですね。土産話には最高でした」話が弾んできたことろで2人の荷造りは終わった。こうなると同じ小隊の陸士たちの準備状況を確認しなければならない。
陸曹たちは陸曹候補生の履修前教育や陸曹教育隊で100キロ行軍を経験しているが陸士たちの多くは新隊員後期課程の50キロ行軍以来のはずだ。10月とは言え気温は名寄に比べてかなり高いから熱中症対策も指導しなければならないだろう。
「それにしても今回の50キロ行軍は陸士たちの経験を配慮したんですかね」「いいや、名寄から音威子府の距離だそうだ」音威子府とは名寄と稚内の間にある村で、稚内から南下する国道40号線が山間部を通過してから開けた狭い盆地だ。つまりかつてのソ連軍が得意とした機甲部隊による進撃も山間部の一本道で縦に長く引き伸ばされることになり、盆地に展開した陸上自衛隊は各個撃破できる最適の要地なのだ。
「つまり名寄で迎撃するつもりだった上級司令部が敵の侵攻が遅れているから音威子府まで前進しろと命令を変更したんだな」「燃料の補給が追いつかず徒歩で行軍って言うところですか。そうなると状況が難しくなりそうですね」背嚢を背負って宿営地を歩き始めた2人の雑談は陸士に聞かせるには少し高度になってきた。
「敵の主力は侵攻していないにしても事前に潜入した遊撃部隊は活動を開始している可能性がある。そうなると我々の徒歩行軍も標的になる。普通科教導連隊が得意にしていそうな状況じゃあないか」「そうなると単なる徒歩行進ではなくなるな」「50キロの接敵行進ですよ」単なる徒歩行進なら味方の管理下にある地域内を目的地に向かって規律正しく徒歩で進行すればそれですむが、接敵行進では敵の攻撃に最大限の警戒を払い、敵の存在を察知すれば速やかに戦闘に移行しなければならない。当然、身心の疲労は大きくなる、
「どうだ。準備はできたか」「身体の具合が悪い者はいないか」陸士たちが天幕を張っていた場所に到着すると陸曹2人は作業手順を監督しながら声をかけた。今回の50キロ行軍は東富士演習場内で実施されるのだが、中隊本部からの情報では「季節外れの高温になる」との予報が出ているらしい。状況が始まって3日間、生活は不規則になり睡眠も十分には取れていない。その中で炎天下の行軍となれば体調を崩す者も出るはずだ。
出発準備が終わった各中隊は連隊本部の宿営地だった広場に集まって連隊長に報告した。想定外・未経験の展開に幹部たちの顔にも困惑と焦燥の表情が浮かんでいる、そんな中で最年長の4中隊長・天野1尉だけはいつもの好好爺(こうこうや)然した顔で富士山と抜けるような青空を見上げていた。
「第3普通科連隊はこれよりB地点に向けて50キロ行軍を実施し、現地に陣地を構築して敵の侵攻を阻止する。行軍の実施要領については第3科長を通じて達するが、この行軍が戦闘の一環として実施されることを肝に銘じておくように」各中隊長から出発準備完了の報告を受けた連隊長は行軍の主旨を再確認した。それでも流石に目標地点を音威子府とは言わない。
案の定、出発に先立ってレーザー光線装置・バトラーの作動が指示された。各中隊には黄色の腕章をはめた補佐官が同行する。敵の銃撃を受けて命中した時、警告音を解除するためには補佐官が専用の器具で停止用の光波を照射しなければならないのだ。まさに状況開始だ。
- 2018/07/20(金) 09:47:02|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「斉藤2士、歩哨守則は憶えているか」「はい、斉藤2士」前哨長としては立哨の合間の待機中も教育は欠かせない。その前に斉藤2士の返事が大きかったため手で口元を押さえて遮った。
「大きな声を出さずに言ってみろ」「はい、絶えず敵方を監視し、併せて四周を警戒し、全ての兆候に注意する。敵に関し発見したならば前哨長に報告する」「俺に知らせる方法は」「はい、手元のスイッチでライトを点灯させます」そう答えて斉藤2士は安川3曹の前に置いてある小さなライトを指差した。昼間は低音で鳴るブザーだったが先ほどの交代で切り替えたのだ。
「近接する少数の敵兵は捕獲するか刺・射殺する」「ここでは射殺はない。あくまでも刺殺だ」歩哨が夜間の野外で発砲すれば数キロの範囲に存在を暴露することになる。あくまでも敵兵は黙ってやり過ごすのが原則だ。この指示に斉藤2士は黙ってうなずいた。
「出入りを許す者は味方の部隊、幹部、斥候、巡察、伝令とし、その他の者については前哨長の指示を受ける。近づく者は銃を構えて確かめ、彼我不明な時は誰何する」「斉藤2士は連隊の幹部の顔は憶えているか」「いいえ、連隊長と副連隊長、それから4中隊の中隊長と小隊長4人ぐらいです」一般的に普通科連隊の中隊には3から4個の小銃小隊と迫撃砲小隊と対戦車小隊があるのだが最近は有能な曹長を小隊長に任命することも増えており、第4中隊でも小銃小隊長の2名は曹長が勤めている。
「それでは暗い中で人影が幹部だと名乗っても本物か偽物か判らないな。その時はどうする」「はい、前哨長の指示を仰ぎます」「うん、それで良い」安田3曹としては「森田士長」と答えなかったことに安堵した。新隊員は指揮系統や職務権限と言う認識はまだ持っていないので頼りになる先輩の判断を仰ごうとすることも多いが所詮は陸士であり、ここでは前哨長に確認させなければならないのだ。
「残りは最後まで言ってみろ」「3度誰何して答えない者は捕獲するか刺・射殺する」ここで斉藤2士が「刺殺のみですか」と訊ねたのでうなずいた。
「車両は停止させて取り調べる。銃を手から離してはならない。夜間は着剣する。歩哨は喫煙せず。また許可なく座臥してはならない」斉藤2士は淀みなく最後まで言い切った。しかし、ここで一件、指導しなければならないことがあった。
「1つ、歩哨守則の通りにいかないことがある。危害予防のため夜間の着剣は禁止だ」「へーッ、マジっすか。熊が出たら銃剣で突くしかないって思っていました」考えてみれば斉藤2士も道産子であり、熊はヒグマしか知らないはずだ。確かにツキノワグマも強暴ではあるがヒグマほど攻撃性は強くなく、人間の存在を察知すると逃走して接触を回避すると聞いている。それにしても富士山麓にも熊が出没するのだろうか(※出没します)。
そんな余計なことを考えていると腕時計が交代時間を指していた。息を揃えて立ち上がると森田士長が斉藤2士に暗視眼鏡のケースを手渡した。周囲はかなり暗くなっている。明るいうちに教育しているので多分、間違えることなく装着できるはずだ。
「そうだ、ベルトの緩みを確認しろ」やはり森田士長には斉藤2士にも気を配る余裕がある。
「うん、ナイト・スコープをそのレールにはめて下にずらしてみろ。カチッて音がするのを確認しろ。そうして固定しないと動作中に外れて落して壊してしまうぞ。これは1台×十万円するんだ」どうやら森田士長は教育の合間の話した雑学まで記憶しているらしい。
「前哨長、ナイト・スコープの作動点検はどうしますか」森田士長は自分の後に斉藤2士のナイト・スコープの装着状態を確認してから訊いてきたが周囲なまだ薄暮だ。
「まだ早いな。スイッチ・ONはこの信号を短く3回点灯させる。2人とも立哨中の動作には気をつけろ」「はい、森田士長」「はい、斉藤2士」2人の返事を聞いて交代に出発させた。その時、信号のライトを3回、長く点滅させて交代を知らせたのは言うまでもない。
やがて歩哨壕では交代が始まった。歩哨の交代では無駄な音声は努めて避ける。このため到着の合図も背中を叩いて知らせる。そうして1名ずつ下番する歩哨の前に回り込んでユックリと立ち上がり同じ姿勢になる。背後に立った歩哨は上番した歩哨が脇に抱えた小銃の床尾(しょうび)を手で持って方向を示す。その動作も努めてユックリだ。
「監視区域、右、一本杉から左、カラカラ川まで」「監視区域、右、一本杉から左、カラカラ川まで。確認」申し送りは極力低音で毎回同じでも確実に行わなければならない。
「重点監視地点、前方の道路」「重点監視地点、前方の道路。確認」森田士長は後方で待機している斉藤2士に模範演技を見せるつもりでいつも以上に基本動作に忠実に実施している。
「敵に関する情報、現時点では、なし」「敵に関する情報、現時点では、なし。了解」「味方の動向、現時点では、なし」「味方の動向、現時点では、なし。了解」次は斉藤2士の番だ。
- 2018/07/19(木) 09:26:30|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1995年の7月18日は好嫌・賛否・正邪・善悪・清濁の評価は別にして戦後社会の巨魁だったことは間違いない笹川良一さんの命日です。
実は野僧の小学校には笹川さんの弟の孫にあたる同級生がいたのです。普通の子供は親戚がテレビに登場していることをからかわれると嫌がるものですが逆に誇示していたため、通学・帰宅しながら日本船舶振興会のCMの歌を合唱する羽目になりました。
それは「戸締り用心火の用心、戸締り用心火の用心」と唄った後、「一日一回良いことを ニコニコニッコリ日曜日」「月に一度は大掃除 ゲンゲン元気な月曜日」「火には用心火の用心 肝心要の火曜日だ」「水は命のお母さん スイスイスイ水曜日」「木や草花は友達だ もっともっと増やそう木曜日」「お金は世のため人のため ちょきちょき貯金の金曜日」「泥んこ風の子元気な子 どんどん出てこい土曜日だ」と日替わりの歌詞になり、最後に笹川さんが子供たちと一緒に「一日一善」とスローガンを唱えて人差し指を突き上げる極めて道徳的なCMでした。
笹川さんは明治32(1899)年に大阪の箕面市の造り酒屋の長男として生まれ、大正3(1914)年に尋常小学校高等科を卒業しましたが文豪・川端康成さんと同級生だったそうです。尋常小学校を卒業すると飛行機乗りに憧れて岐阜県に在った陸軍の各務原航空隊に入隊しましたが、江戸時代から名字帯刀を許されてきた名門庄屋家の長男が危険極まりない飛行機乗りにしてもらえるはずもなく、除隊して地元に帰ると父親の遺産を相続したのを機に村会議員選挙に出馬して当選しました。それだけでなく芸能興行や株取引で資産を倍増させたそうです。こうして政界と財界に進出すると関西で活動していた右翼団体を掌中に収めて代表に就任しました。戦後も右翼の大物として暗躍した児玉誉士夫雄さんはこの時の部下だったそうです。この頃、笹川さんはイタリアのベニート・ムッソリーニ統領を崇敬していて、右翼団体の制服としてファシスト党を真似た黒シャツを着せていました。ちなみにヨーロッパでは第2次世界大戦が開戦目前だった昭和14(1939)年には空路でヨーロッパへ飛び、ムッソリーニ統領との対面を果たしています。
そんな笹川さんは戦前の歴史の教科書に登場する人物の大半と関わりを持ちながら存在感を増していきますが東條英機内閣の戦争拡大方針には反対の立場を取っており、これが敗戦後にA級戦犯として拘束された時に役立ちました。ただし、笹川さんは巣鴨プリズンに収監中にもABC級戦犯に極めて幅広く、強固な人脈を構築したそうですから階層・思想・信条を問わず人を魅了する魔力があったのは間違いないようです。
敗戦後、占領軍は日本国内の共産主義勢力の拡張を抑えるためアメリカに協力的な右翼を利用するようになり、笹川さんはその筆頭的扱いを受けるようになりました。
その行動の基盤となった日本船舶振興会は笹川さんが巣鴨プリズンに収監中に読んだアメリカの雑誌で見たモーター・ボートに興味を持ったことから出所後に各方面を動かして新たな公営ギャンブルとして成立させたものです。この日本船舶振興会は全国各地、それもド田舎に「B&G」の名を冠する体育館やプールも設置しています。
- 2018/07/18(水) 09:33:40|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
歩哨壕が完成し、小隊先任陸曹の点検を受けると安川3曹はそのまま前哨長に指名された。新たに陸士2名が追加配置され、陣容は前哨長以下5名だ。待機所には小隊本部から有線が敷設されJTAーT8が置いてある。1970年代から中部方面隊では今も使われているJTAーT1は交換機や他の野外電話機に接続する単回線だけだがJTAーT8はプッシュ式ダイヤルで野外電話機同士の通話も可能だ。ただし、JTAーT1の呼び出し音は内蔵されている共鳴板を叩くので意外に自然の物音に紛れ込んでくれるが、JTAーT8はベルの電子音なので敵味方の境界線が不明確な場所に配置されている前哨としては存在の秘匿に不安がある。それでも無線を傍受される危険と会話に必要な声量を考えれば有線の方が安心なのだ。
「斉藤2士、ナイト・スコープを使ったことはあるのか」安川3曹は監視が始まって最初の交代で待機所に戻ってきた斉藤2士に確認した。
「いいえ、新隊員課程では教えてもらいませんでした」「そうか、スイッチ類は明るい時に教えておいた方が良いから食事の前にやっておこう」そう言って安川3曹が待機所の壕の隅に置いてあるケースから暗視装置=ナイト・スコープを取り出すと斉藤2士は興味深そうに身を乗り出して見入った。
「これは装着具で頭に固定すれば両手を自由に使うことができる優れ物だ」説明しながら隣りの森田士長に装着具をはめさせると後頭部のベルトの緩みを確認した。
「このベルトが緩んでいるとナイト・スコープの重みでずれる可能性がある。激しい動きをすると外れることもあるからベルトの確認はシッカリやれ」「はい・・・」ここで森田士長は手で装着具のベルトを確認して見せた。やはりこの隊員は単なる展示品では終わらないようだ。
「接続してしまう前にスイッチの位置を教えておく。はめた状態で手だけで操作するんだからシッカリ憶えておけ」「はい・・・」何時もは元気よく返事をする斉藤2士も初めて触る機材に意識がいって生返事になっている。それでも集中しているのを顔で確認して先に進めた。
「これが電源だ。ただし、明るい中で電源を入れるとハレーションを起こして機材が壊れるから指示を受けてから実施するように」周囲を見渡すと東富士演習場は西側にそびえる海抜3776メートルの富士山が遮るため日没から暗くなるまでは驚くほど短時間で急なようだ。それでも薄暮で使用すると受像装置が焼きつきを起こして壊れてしまう。市街地の街灯が入った風景で継続して使用すると、そこが黒い点になって画像が欠落してしまうこともある。特に冬季の北海道では満月の明かりが凍りついた雪に反射して光度が強まり、思った以上の負担をかけていることが多いのだ。
「こちらが明度を調整する摘まみだ。これである程度は月明かりなどの照り返しを調整できる。市街地に近い演習場では一般道の自動車のヘッド・ライトの照射を受けた時に役に立つんだが顔をそらす方が手っ取り早いな」「視線をそらしてもスコープはライトを捉えているから顔をそらすんだぞ」ここで森田士長が適切な補足説明をした。そこでナイト・スコープを手渡して斉藤2士に摘まみを操作させてみたが電源を入れていないので効果は確認できない。
「こちらのスイッチは赤外線スポットの照射だ」「斉藤にはまだ不要だけどな」ここでも森田士長がからかうように口を挟んだ。斉藤2士はその言葉の意味が判らないようで怪訝そうな顔をして2人を見回した。そこで安川3曹は目で森田士長に叱責を加えた。
「赤外線スポットは暗夜に地図を確認する時などに使うんだ。後は鉄条網を破壊する時に手元を確認するのにも役に立つぞ。その意味では斉藤2士が使う可能性がないとは言えん」安川3曹の説明に森田士長は黙ったまま目で謝罪する。
「ただし、敵がナイト・スコープを使用している時に不用意にスポットを照射するとかなり遠距離でも探知されるから要注意だ。森田士長はそのことを言ったんだな」「はい、そうです」安川3曹の代理の弁明に森田士長は安堵したようにうなずいた。
「使うのは俺が指示してからだが、次の立哨からは必要になるだろう。森田士長、食事が終わってから装着具を付けてやってくれ。俺は立哨中の2人が戻ってからにするから先に食べておけ」安川3曹は2人に指示を与えると連絡用のライトのスイッチを3度長く押す接近の合図を送り、連絡路を姿勢を低くしながら歩いて立哨中の士長2人の確認に行った。
「前方、異常ありません」「道路、異常ありません」背後から接近し、背中を叩くと2人は低く抑えた声で報告してきた。この時も前方の監視は緩めず、姿勢も動かさない。2人は片足を深く掘った底部に下ろし、もう一本の片足は左右の一段高い段に乗せて前方を監視している。夜間に至近距離の敵の発見した時には声を出さずにこの重ねた足で合図し合うのだ。
その時、富士山の方向から冷たい風が吹き下ろしてきて日中の作業で汗をかいた背中に沁みた。
- 2018/07/18(水) 09:32:07|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1792年の明日7月18日はアメリカ独立戦争で活躍し、イギリスのホレーショ・ネルソン提督、日本の東郷平八郎元帥と並んで3名提督の1人とされているジョン・ポール・ジョーンズ提督の命日です。ただし、何が何でも日本を貶めたいらしい日本人や周辺大陸国の住民の中には東郷元帥に替えて豊臣秀吉さんの朝鮮出兵で兵糧を運ぶ日本側の輸送船団に攻撃を加えた李舜民さんや日清戦争で敗れた丁汝章提督を加える者もいるようです。しかし、ネルソン提督のトラファルガーの海戦に比肩し得る艦隊決戦は東郷元帥が指揮した日本海海海戦であり、むしろジョン・ポール・ジョーンズ提督の戦績の方が少し見劣ります。
ちなみに世界3名記念艦としてはネルソン提督の乗艦・ヴィクトリーと東郷元帥の三笠、そして独立戦争で活躍したコンスティチューションとされていますが、こちらはジョン・ポール・ジョーンズ提督が使用した艦ではありません。
ジョン・ポール・ジョーンズ提督は1747年にスコットランド南部の庭師の息子として生まれましたが、その時の名前はジョン・ポールでした。その後、海軍に入るとカリブ海のドバコ島で反乱に加わった水兵を殺害したことでアメリカ大陸のバージニア州に逃れ、そこでジョン・ジョーンズと言う偽名を使うようになったのです
1775年にアメリカ独立戦争が勃発すると名前をジョン・ポール・ジョーンズに替え、独立軍が創設した海軍に加わりましたが、1777年からはフランスを根拠地にしてイギリス本土の周辺海域での襲撃を開始しました。
先ず手始めに船乗りとしての腕を磨いたアイルランドとブリテン島の海峡=アイリッシュ海の奥にあるホワイトヘブン(オーストラリアにある同名のリゾートとは別)を攻撃しましたが、水兵たちはパブで酒盛りを始めてしまったため戦果を上げることはできませんでした。この作戦は本土への攻撃に慣れていないイギリス国民の喉元深くに損害を加え、大きな衝撃を与えることを狙ったベンジャミン・フランクリンの指示だったと言われています。この日は続いてアイリッシュ海の奥のセント・メアリー島も襲撃して領主の貴族を捕虜交換の材料として拉致することも狙いましたが、不在だったため果たせませんでした。さらに翌日、同海域でイギリス海軍の小型軍艦に遭遇してこれを捕獲しました。自国の周辺海域で軍艦が捕獲されたニュースはホワイトヘブンの焼き打ちと共にイギリス国民に大きな衝撃を与えたとされています。
その後、イギリスの船団を襲撃した時、護衛の大型軍艦と接近戦になり、勝利を確信したイギリスの艦長に降伏を勧められると「I have not yet begun to fight(まだ戦いを始めていない)」の名台詞で返答したと言われています。結局、この戦闘にも勝利しました。
これだけの名声を獲得しながらも独立戦争終結後はアメリカに渡ることなくロシアでトルコとの戦争の指揮を任せられています。
晩年はロシア、そしてフランスで過ごしてこの日にパリで亡くなり、フランス革命によって遺骸の所在は不明になっていたものの1905年に密封した棺にアルコール漬けした状態で発見され、1906年にアナポリスの海軍士官学校内に改葬されました。
- 2018/07/17(火) 10:08:38|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
今回の舞台である東富士演習場は本州では最大だが、北海道には矢臼別と大演習場のそれ以上の規模を有する演習場があるので特別な感慨はない。ただ目の前に富士山がそびえ立っているのを見上げながら本州に帰ってきたことを実感し(北海道出身の隊員は旅行気分)、演習場内でアメリカ海兵隊が訓練に励んでいるのを目の当たりにすると異国情緒まで味わえる。
「安川3曹、森田士長と斉藤2士を使ってこの位置に歩哨壕を構築せよ」「監視方向は」「この道路とその向こうの斜面だ」状況開始早々、安田3曹は小隊長から第4中隊が担当する阻止線の外に歩哨壕を設置する作業の指示を受けた。本来であれば相棒・森田士長と2人でも十分な作業だが、配置されたばかりで演習初参加の斉藤2士に対する教育も任せられたようだ。
それにしても陣地構築から始まるのは陸上自衛隊の演習の台本になっている。第3普通科連隊は稚内付近に着上陸した敵の南下を阻止するため戦闘車両を駆って迅速に展開することが任務だ。その意味では陣地構築で準備万端整えるのには多少の違和感を覚える。尤も、他の普通科連隊では各中隊の担当正面の阻止線上に個人用の掩体壕を並べて掘り、掩体蓋(えんたいがい)を被せて埋め、数日間を過ごす居住空間にすることもあるらしい。
「斉藤2士、後期では個人掩体の構築を習っただろう」「はい、斉藤2士」斉藤2士は返事をするついでに姿勢を正した。後期課程を終えて中隊に配属されて以来、普通科の隊員としての日常生活を教育してくれている安田3曹に対しては特別な敬意を抱くようになっている。確かに安川3曹の胸に冬季レンジャー徽章が輝いているだけでも憧れの的ではあった。
「歩哨壕は2人用掩体に連絡路の溝を接続する。後方には待機所も構築するから結構、大変な作業になるぞ。兎に角、頑張れ」「はい、斉藤2士、頑張ります」斉藤2士がまた姿勢を正すと森田士長が横から円匙(えんぴ=シャベル)を手渡した。
安田3曹が円匙を使って(サイズを測るのにも利用する=全長約100センチ、刃の部分約30センチ)地面に歩哨壕の位置を図示すると森田士長が手本を見せる。基本的は最初に深さ30センチほどの掘り込みを作り、そこに向かって崩すように穴を広げていくのが手順だ。
「これって塹壕戦では武器になるんですよね」隣りで斉藤2士がもう1つの壕を掘り始めると森田士長は得意の軍事ネタを語り出した。森田士長の場合、喋りながらでも作業の手が遅くなることはないので逆に精神教育として続けさせることにした。
「うん、敵が突撃してきて塹壕の中で遭遇した時は銃剣よりも役に立ったって聞いたことがあるぞ」森田士長は曹候補士とは言え陸士であり、陸曹よりも軍事知識を持っていることで敬遠されているところがある。その点、安田3曹は新隊員課程で軍事オタクの中隊長から種子を蒔かれて以来、名寄でも実はその弟分らしい田島1尉の薫陶を受けたので退けを取らない。
「塹壕の幅では昔の歩兵銃は長過ぎてつかえるので、足元の円匙を掴んで殴っても突いても斬っても十分な殺傷力を発揮したそうです」「こらッ、斉藤2士は手を止めるな」斉藤2士も興味を持ったのか話に聞き入り始めたので現場監督として注意した。
「それにしても富士の土は本当に軽いですね。ザックザック掘れますよ」そう言いながら森田士長は掘った土を振り返って後ろに捨てている。これは前に捨てれば土の色が変わり、発見されやすくことを防ぐためだ。勿論、掩体として盛土するには壕を越えて運ぶ余計な手間がかかるが、前線の歩哨壕としては隠蔽の方が優先される。
「しかし、これだけ軽いと雨が降れば一溜まりもなく崩壊してしまいます。土を盛って固めても掩体としての強度は期待できないのではないですか」ここまで高度な見解を示されては並みの陸曹では太刀打ちできない。やはり曹候補士として早めに陸曹になってもらうべきだろう。
「斉藤2士、遅いぞ。ここの土で手間取っているようでは凍りついた雪に雪洞は掘れんぞ。もっと頑張れ」気がつくと森田士長は自分が担当する壕は掘り終っている。一方の斉藤2士は円匙の使い方が悪いのか片足を踏み入れる中央の底部と1段上の台との段差が崩れてしまっている。これでは手榴弾が投げ込まれた時に底に掘った穴に蹴り入れても噴き出した破片を避けることができない。安田3曹は斉藤2士から円匙を受け取ると修正を始めた。
「そうかッ、田島中隊長が銃剣道をやらない理由として話していたんだ」安田3曹は円匙を振っていて先ほどの「円匙が武器になる」話の出処を思い出した。それは着任した晩鐘連隊長が銃剣道の合宿を認めなかったことに反発した陸曹たちに田島1尉が実戦的訓練のあり方を教育した時に聞いた言葉だった。
「斉藤2士は後期で銃剣道をやっていたよな」「はい、初段を取りました」後期課程の新隊員が銃剣道をやっていたのは見ている。斉藤2士は今度は胸を張ったが安田3曹は銃剣道が嫌いだ。
「晩鐘連隊長の時代は遠い昔になってしまったんだな」安田3曹は渋い顔をして斉藤2士の作業の未熟な部分を修正し終えた。
- 2018/07/17(火) 10:06:23|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
大雪山系には雪が舞い始める10月に入って安田3曹の第3普通科連隊は富士の普通科教導連隊との対抗演習に向かうことになった。安田3曹自身は2師団内や北部方面隊内の普通科連隊との対抗演習は経験しているが存在そのものが普通科の教範である普通科教導連隊となると初体験だ。しかし、名寄の第3普通科連隊にも北海道の最前線を固める防壁として「最強の普通科連隊」との評価と自負があり、やすやすと負ける訳にはいかないのだ。
「ただいま」「おかえり」今日も後期課程を終えて中隊に配属されてきた2等陸士たちの基本訓練の指導に励んできた安川は居間の座卓でテレビを見ながら聡美を出迎えた。
「「貴方、膝は大丈夫」秋用の薄手のコートを脱ぎながら居間に入ってきた聡美は少し心配そうな顔で声をかけてきた。
「うん、夏の間中、自転車とサーキット・トレーニングで大腿筋を鍛えてきたから普通に走っても痛みを感じなくなったな」安田は答えながらジャージの上から太股をさすった。聡美は奥の寝室に着替えに入っているため顔は見えないが多分、安堵の笑顔を浮かべたのだろう。
「今度の演習は少し長いんでしょう。山梨まで行くんだもん」「うん、富士は山梨なんだよ。愛知県で富士山って言えば静岡だと思い込んでいるけどな」「愛知の人たちは新幹線や東名高速から見るだけだから静岡側って思ってるけど富士五湖は山梨側じゃあない」やはり車掌の息子で体育系の自分よりも教師の娘の聡美の方が頭は良いらしい。それを少し悔しく感じた安田は聡美の間違いを見つけたつもりで強気に指摘した。
「でも芦ノ湖は箱根だから静岡だろう」心の中では手拍子を打って囃し立てている。すると着替え終って寝室から出てきた聡美は呆れたような顔で安田を覗き込んだ。この表情は授業で偉そうに意見を言った生徒に誤りを指摘する時の教師に見える。
「芦ノ湖は富士五湖ではありません。富士五湖は本栖湖、精進湖、西湖、河口湖、山中湖の5つです。それから箱根は神奈川県です」どうやら1つの問題で2重の間違いをしてしまったらしい。それにしても富士五湖の名前がスラスラ出てくるのには感心するしかない。どうやら聡美の頭は知識を詰め込むだけではなく引き出すのも自由自在の柔構造になっているようだ。
そう言えば最近は英会話だけではなく来店する外国人の客の母国語を書店が買ってきたテキストとCDで勉強し、NHKの語学講座も録画して見ている。この優秀な頭をレストランのアルバイトだけで終わらせるのは惜しくなってくる。やはり大学の通信課程を受講させて更に本格的な勉強に挑戦させることも考えさせるべきではないだろうか。
「でも山梨は盆地性の気候だから季節の変わり目のこの時期は服装が難しいよね」聡美は居間を出て台所に立っても地理の授業を続けている。
「北海道に比べれば暖かいだろうから防寒衣がいらない分、荷物が少なくて済むよ」確かにこれからの演習は日没後の気温は氷点下になり、寒風も強まってくるので防寒用衣類だけでも大荷物になる。その点、富士では夏場の演習程度で十分なはずだ。逆に盆地だけに蒸し暑くなると内地道産子の安田としては寒さ以上に堪えそうだ。
「でも初冠雪の時期は富士山頂と大雪山系では余り変わらないんだよね。空気の比重は低温の方が大きいから冷気が吹き下ろしてこないかしら」今度は理科の授業になったようだ。
「富士に何度か行ったことがある陸曹たちは特に寒さのことは言っていなかったから、それ程のことはないんじゃあないかな」「ふーん、自衛隊の経験則には敵わないわね」聡美の返事には少し皮肉の気配がある。それでも手早く仕度を終えた料理を運び始めた顔には心配色が塗り込めてあった。それはまるで迷彩にドーランを塗った演習中の自分の顔のようだ。
「貴方、まだビールで良いの」「うん、運動して帰った時にはやっぱりビールだな」料理を運び終わって聡美は最後に確認してくる。この時期の晩酌は焼酎のお湯割りと水割り、熱燗と冷や酒、そしてビールの5択になる。幹部候補生の試験問題も5択だが(陸曹候補生への昇任試験は4択)、このような楽しい出題はないはずだ。
「いただきます」2人で手を合わせて料理を食べ始めたところで安田は聡美に訊いてみた。
「どこで富士のことを勉強したんだ。英語が抜群なのは知っていたけど社会も得意だったとは思わなかったよ」こう言われても聡美は黙ったまま安田が差し出すグラスにビールを注いでいる。安田がグラスを口に運んだところで答えた。
「だって貴方が行くところがどんな場所なのかを知っておかないと準備の手伝いができないじゃない。だからウチのホテル・チェーンの富士五湖のリゾートに確認したのよ」安田は口の中で急にビールが甘くなったような気がした。結婚した時から聡美は「一緒に生きている」と言う意識を頑なまでに守り続けている。今回も気持ちは富士へ一緒に行くつもりのようだ。

イメージ画像
- 2018/07/16(月) 10:03:15|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
元治元(1864)年の明日7月16日(太陰暦)は稀代の剣豪たちが名を連ねていた幕末に抜群の技量と高潔な人格から「剣聖」と称された男谷精一郎信友さんの命日です。ちなみに男谷さんが勝麟太郎=海舟さんの義叔父であることは歴史好きの間では常識です。
男谷家は旗本・幕臣とは言え由緒はかなり怪しく、精一郎さんの曾祖父は越後の盲人の貧農でしたが雪の日に奥医師の籠の前に行き倒れているところを助けられ、恵んでもらった1両2分を元手に商売を始めたところ忽ち莫大な資産を貯めることになり、盲人としての高位である検校の株を買い、大名相手の貸金業を始めたと玄孫である海舟さんが「氷川清話」や「海舟座談」の中で述べています。
その後、4男・彦四郎さんが旗本である男谷家の株を買い与えられて幕臣として出仕すると父親譲りの金絡みの才覚を発揮して勘定奉行にまで昇進しました。男谷さんの父親はその4男の長男で、海舟さんの父親の小吉さんは3男です。
男谷さんは寛政10(1798)年(文化7=1810年とする説もある)に彦四郎さんの従兄弟の子供として生まれますが、20歳の時に彦四郎さんの婿養子になりました。男谷さんはこの妻が先立っても後添えを娶ることはなく生涯の伴侶としたようです。
8歳の頃から鹿島発祥の直新陰流の直系12世の団野源之進さんに入門し、さらに兵法、宝蔵院流槍術、吉田流射術(弓)を修めていきます。そうして27歳で直新陰流の免許を許されると麻布で道場を開きました。
直新陰流では他の流派が型の稽古のみで技法は秘伝としていた時期から防具を着用して竹刀(当時の竹刀は布で覆った袋竹刀)で行う打ちもの稽古を採用しており、他流試合も積極的に受け入れていたためその実力は当代随一であり、その直系免許を受け、技量も筆頭格だった男谷さんが最強の剣豪だったのは間違いないようです。
しかし、男谷さんは剣豪と言う呼び名とは真逆の極めて温和な人格者であり、道場破りが乗り込んできても懇切丁寧に対応し、いざ立ち合いとなると「3本勝負を約束して最初の1本を相手に与えた後、立てつづけに2本を取って実力の違いを判らせていた」と門弟で海舟さんの師匠でもある島田虎之助さんが語っています。このため「君子の剣」と呼ばれていたのですが、それでも「江戸中の剣客で敗れなかった者はいない」と言われるほどの実力者だったのです。
酒はかなり好きだったようで酩酊することも珍しくなかったのですが決して乱れることはなく、酔い潰れて眠っても翌朝は必ず定時に起床して日課である道場の掃除を欠かすことはなかったそうです。
そんな男谷さんも西洋船の来航が相次ぐ中、泰平の世に慣れた旗本・御家人の弱体化には危機感を抱いており、何度も幕閣に建白書を提出してついには幕府直轄の武術道場の講武所が開設されると頭取並に就任し、流派を問わない竹刀による打ちもの稽古で若者たちを徹底的に鍛えると同時に剣術の改革を図りました。ちなみに現在の竹刀の全長=3尺8寸を定めたのは男谷さんです。

みなもと太郎作「風雲児たち」より(珍しく全く似ていない)
- 2018/07/15(日) 09:37:23|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「君は日本の政権交代をどう見ている」台湾の現政権に対する批判的見解が出尽くしたところで王中校は日本に話題を戻してきた。しかし、本間としては先ほど熱弁を奮った以上の解説を期待されても太平洋を隔てたアメリカから遠望しているに過ぎないだけにネタ切れだ。むしろ隣国である台湾から間近に見ている王中校の見解を聞きたくなる。
「私はアメリカ生活が長いので日本のことには本当に疎いのです。ですから逆に中校の見解を伺いたいものです」本間の正直な申し出に王中校はカウンターの中の板前の服装をした若い男性の店員に酒の追加を頼んだ後、話し始めた。
「名門・雀山家兄弟でも弟の方は政治家として評価できる点もあるが、兄の方は意味不明の言動が多くてまともな人間ではないように感じている」「しかし、そちらが首相になってしまいました」本間が嘆きに近い返事をした時、店員がカウンター越しに同じ菊水を差し出して置いた。この動作は少し無作法で衣装は板前でもやはり台湾人の若者のようだ。
「うん、今夜は酒が進むな。やはりコンダくんと話していると楽しくてついつい飲み過ぎてしまうよ」そう言いながら王中校は栓を抜き、2人のグラスに注いだ。
「結局、あの兄弟は分裂しただろう。その弟が抜けた後に思想も経歴も異質な連中が群がっている。そんな政党のどこに過半数の日本人は信頼を置いて票を投じたのか全く理解できんよ」王中校は先ほどまで台湾の総統選挙で国民党が政権を奪還した背景を詳細に分析していたため、その前の本間の解説は忘れてしまったらしい。
「今後、日本はアメリカから中国へシフトするはずだ。我が民国も同様に人民共和国に接近する。フィリピンは既に手中に収められている。つまり東シナ海から南シナ海だけでなく西太平洋まで中国の内海になってしまうんだ」「それは日本と民国の親中政権が長期化した場合ですね」本間の異論を聞いて王中校はグラスを捧げて賛同の意を表した。
「我々国軍が今、最も懸念しているのは雀山が提唱している在沖縄米海兵隊の県外移駐の問題だ。実現は不可能だと確信しているが、雀山が我々が考えている以上の愚か者であれば首相としての権力を使って無理やり押し通す危険性もないとは言えない」「トラスト・ミー(私にまかせておけ)と宣言しましたからね」本間の皮肉に王中校は唇を歪めて冷ややかに笑った。
「在沖縄米海兵隊の存在理由は知っているね」この質問は2重の意味で解答が難しい。1つは本当の理由を知っている日本人は皆無に等しく、本間は沖縄方面の第15旅団を統括する元西部方面総監部で勤務していたからその真実に触れる機会を得たのだ。もう1つはそれを明かすことで元自衛官と言う経歴を自白することになり、現在の任務の継続は不可能になってしまう。それだけでなく潜入した諜報員として民国刑法第2章・外患罪の103条から第107条で摘発されれば最高刑は死刑である。こうなれば当然、素人を演じるしかない。
「在日米軍は日米安保条約に基づいて駐留しているんですから、在沖縄米海兵隊も沖縄の防衛のための部隊でしょう」「それでは敵領域への着上陸を任務とする海兵隊が主力なのは何のためだね」この質問も意図を測りかねてしまう。念を入れて本間の知識を試そうとしているのか、それとも教授として次の解説に移るための前置きなのか。結局、本間は個人授業の受講生として素人との意見に徹することにした。
「それは沖縄には離島が多いですし、先に本土が占領されてしまった時に奪還してくれるのかも知れません」「なる程、先ほどの政権交代の背景についての具体的で客観的な解説に比べると国防に関してはまだまだのようだね」王中校は少し不満そうに酒を口に流し入れた。
「在沖縄米海兵隊はアメリカの1979年台湾関係法に規定する我が民国居民の安全、社会・経済制度を脅かす武力行使または他の強制に対抗し得る軍事力として存在しているんだ。だから沖縄以外に所在すべき地域はないんだよ」「へーッ、そうなんですか。知らなかったなァ」本間は驚いたように素っ頓狂な声を上げた。その声を聞いて深刻な顔で話し合っている祭検事と宮弁護士は怪訝そうにこちらを向いた。
「つまり雀山が何を言って、沖縄県民がどう騒いでも在沖縄米海兵隊は日米安保条約だけを根拠にして駐留しているのではない以上、日本の勝手で動かすことはできないんだ」「はい、それにしても雀山はどうトラスト・ミーするつもりなんですかね」本間は遠からず雀山政権が息詰まり、おそらく政権を投げ出すことも確信できた。しかし、日本のマスコミがそれをアメリカの横暴として中国への接近を求める世論誘導に利用するのも判っている。
「日本には軍隊の保持を禁じる平和憲法がありますから日米安保条約以外の根拠でアメリカ軍が存在していることは絶対秘ですよね」「だったらコンダくんは知らなかったことにしてくれたまえ」これが今夜の結論になった。
- 2018/07/15(日) 09:35:01|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「コンダ(今田=本間)に通訳を頼んで事情聴取してきたのか」「うん、ようやく本来の手順を踏むことができた」祭検事は陳江河=宮弁護士のグラスに酒を注ぎながら判り切っていることを確認してきた。確かに検察・弁護双方とも裁判に先立っては被告人からの事情聴取を念入りに行い、事件の背景や特殊事情を確認した上で弁論を組み立てるのが基本手順だ。それが今回の被告・玉城美恵子(ユーチャン・メイファイスー)は台湾語=広東語が判らない日本人である上、宮弁護士も話すことができる英語もできないので打つ手がなかったのだ。
「コンダに通訳料を幾ら払うんだ。ユーチョンには裁判費用を工面する当てはないだろう」祭検事としては裁判に勝っても沖縄への出張経費や現地の情報を提供してもらった関係者への謝礼金などの裁判費用を被告人の玉城美恵子から回収できる見込みが立っていない。
「それはボランティアだから心配ない。尤も俺の従妹の紹介で来た人だから色々と面倒を見なきゃならん。その意味ではギブ・アンド・テイクだな」「その面倒で今夜は酒に誘ったって言う訳か」祭検事は皮肉を言って笑うと隣りで盛り上がっている王中校と本間を見た。
「それにしてもコンダは妙に軍人慣れしているな。普通、あの世代の女性なら軍人にはある種の恐怖心を抱くものだが」「そこは国軍と日本のジエータイは違うんだろう。今日、ユーチャンもジエータイは馬鹿と不良の集まりだって言っていたよ」宮弁護士は本来なら対戦相手である検事には洩らしてはならない接見の内容を口にした。祭検事の目も一瞬、鋭く光ったが単なる雑談と理解して意識を同業他社の人間同士の会話に戻した。
「ところでこれは随分と先走った話だが、多分このままでは裁判はお前の勝ちだろう」宮弁護士は返杯として祭検事のグラスに酒を注ぎながら話を切り替えた。
「もう白旗を揚げるのか。折角の援軍を獲得した割には弱気だな」祭弁護士が酒に口をつけている間に宮弁護士は寿司を摘まむ。ついでに本間の皿を確認すると半分食べたところだ。
「うん、ここまで追い込まれては新たな事実が判明しても有罪を覆すことが不可能なことは俺にも判っている。全てが後手に回ってしまったんだな」実際、裁判では玉城美恵子の奔放な男性関係は両親の教育と生まれ育った環境、そして日本人が欲望に走っていたバブル景気と言う時代背景に原因があるとすることで事実上の結論が出ている。宮弁護士としてはその原因を強調することで玉城美恵子の責任を軽減し、むしろ被害者的な印象を与える戦術を選択していた。
「ところで判決には執行猶予がつくだろう」「今回は初犯だから間違いないな。判決は通姦罪と過失致死罪の両方が有罪で2年と1年の徒刑(懲役)、それの8掛けで2年5カ月の徒刑、執行猶予は2掛けで6年と言うところかな」祭検事は食べてばかりいる宮弁護士の横顔を睨みながら自分の見解を述べた。すると宮弁護士は酒で寿司を流し込むと反論してきた。
「通姦罪の有罪には法令以外の問題がある。過失致死も予測不能な行為による突然死だから無罪、原告を納得させるために徒刑半年と言うところだろう。相手は日本人だぞ」この最後の言葉は受け取り方によって意味が大きく変わる。法曹界の常識としては「本来は通姦罪が存在しない日本の国民を台湾に呼び寄せて訴訟を起こした原告の手法の問題点を考慮せよ」と言うことだが、しかし、政治的には正式な司法上の協力関係がない日本との外交問題に発展する可能性を考えれば台湾の判例を基準にすることは適当ではないと言うことになる。
「判決は裁判長の職権だから我々はそれぞれの業務を遂行するだけだが問題はその判決が出てからだ」ここで寿司を食べ終えた宮弁護士はグラスを持って少し体の向きを変え、祭検事と斜めに向き合った。祭検事の瓶には酒が残っていないので宮弁護士が2人のグラスに注いだ。
「執行猶予がついた場合、我が国の国外に行かせることはできないはずだな」「それは当然だ」祭検事は一言で回答すると酒に口をつける。宮弁護士もそれに合わせた。
「そうなると広東語や英語ができない日本の女をどのように生活させるんだ。街角に立って女を売るような事態になれば執行猶予は取り消しだろうが、そこまで身を落とした原因を司法が作ったと批判されることもあり得る話だ」「・・・うん」祭検事は押し黙って一気にグラスの酒を飲み干した。宮弁護士もグラスを両手で持ったまま黙り込んだ。
「ユーチャンは理容師だったな」「それは日本の国家資格で民国では通用しない。何よりも言葉ができなければ客商売は無理だ」苦し紛れ打開策も所詮は酔い始めた頭で考えたことだ。
「もう1つのホステスでは執行猶予中の仕事としては不適切だな。執行猶予中の生活は原則として自己責任だが、事情が特殊過ぎるから過去の事例が思い浮かばん」「いっそのこと執行猶予なしで実刑のみにすれば必要最小限の生活保障を付けてやれるが、それではこちらが量刑不当で控訴しなければならなくなるぞ」この口ぶりでは宮弁護士は控訴して裁判が長期化することを避けるつもりのようだ。酔えば酔うほど深刻になっていく宮弁護士と祭検事の隣りで、本間と王中校は完全に意気投合している。
- 2018/07/14(土) 09:43:54|
- 夜の連続小説8
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
次のページ