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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1358

翌朝、あかりは家にいるのと同じ時間に起き出して台所へ向かった。台所では祖母と母が朝食の支度を始めたところだ。
「おはようございます」「あかり、早いのね」「今日は私たちが用意するからユックリ寝ていなさい」祖母と母は視覚障害者のあかりが慣れていないこの家の台所で働くことに不安も感じているため近づく前に制止した。
「うん、お母さんは仕事だから忙しいのよね。私がいたら邪魔になるから今日は甘えさせてもらいます」そう言ったあかりが手でテーブルの椅子を探したので祖母が引き出して座らせた。
「伯父さんのお墓に持っていく御馳走は」「伯父さんが好きだった料理を作っていくんだよ。材料は切って下ごしらえまでしてあるから後は焼いたり揚げたりするだけ」あかりの伯父=梢の兄の恵昇(けいしょう)は東京の大学の卒業直前に交通事故で亡くなった。そのため本土の料理も好きだったようで祖母と母は料理の幅が広がったらしい。それはあかりも島ナイチャアである淳之介の妻として大いに役立っている。
「あかりは何時に起きて朝食の準備をしてるの」「時間がかかるから早起きなんだろうね」昔から祖母と母は質問が連続技になるが、その呼吸は同居を再開して益々絶妙になったようだ。
「ううん、今朝起きてきたくらいだよ。淳之介さんは出勤が早いけど朝はあまり手が掛かるオカズは食べないの」石垣島では味噌汁は夕食の時に作っておいて朝は温めるだけだ。オカズも淳之介は生卵が好きなので手を加えることはない。おまけに父から習って自家製納豆まで作っている。
それにしても昨夜の祖父と淳之介は妙に盛り上がり、何時もよりも深酒していた。小型船舶の操縦と自動車の運転の免許には直接の関係はないが酒気帯び運転で捕まるのは困る。多少は遅れても目を覚ますまで寝かせておいた方が良さそうだ。
昼前に首里郊外にある安里家の墓に参った。今日は清明祭の当日だけに公園墓苑は家族連れで混雑している。本来、学校の公休日ではないのだが、どう見ても児童・生徒なのが明らかな子供たちも家族と一緒に掃除をしたり、神妙な顔で手を合わせて祈っている。やはり学校も祖先供養を尊ぶ沖縄の伝統を認めているのだ。
祖父と淳之介は墓石の屋根や側面を水で洗って雑巾で拭いている。公園墓苑は建売住宅のように墓石も設置した状態で分譲したので沖縄の墓としては必要最小限の大きさだ。一方の祖母とあかりは前に敷いてある石畳の目地から生えている草を抜いて行く。あかりも手で撫でながら草を見つけている。あかりにとってはこの作業をすることに意味があった。
それが一段落すれば祈りの時間になる。先ず祖父が沖縄の板状の線香を焚いた。花は昨日、梢が生けた花がまだ新しいのでは水を換えるだけだ。まだ温かい料理を供えるとレジャー・シート(安里家では御座ではない)を敷き、そこに祖父母、淳之介とあかりの順番に並んで座り、祖父の号令で一斉に手を合わせて頭を下げた。するとあかりが小声で唄い始めた。
「赤田首里殿内(あかたすんどぅんち) 黄金灯篭提げて(くがにとぅろうさぎてぃ)・・・」これはあかりの名前の由来になった首里の子守唄だ。確かに坊主である父も「御詠歌として唄っている」と言っていたが、やはり祈りを終えてからにするべきだろう。
「突然にどうしたんだ」淳之介は怪訝そうに顔を向けている祖父母の視線に促されてあかりに声をかけた。あかりはサングラスを外した顔を正面に向けて誰かに聴かせているかのようだ、
「・・・うかきぶしぃみしゅり 弥勒世果報。私にこの歌をリクエストしての貴方じゃあないの」あかりは淳之介に声をかけられて2番の終わりまで唄ったところで返事をした。
「あかり、どうした」祖父は祖母と淳之介の影から頭を突き出して声を掛けてきた。
「若い男の人がこの歌を唄ってくれって頼んだの。でもそれは淳之介さんの声じゃあなかったみたい」あかりの説明に祖父と祖母は顔を見合わせた。
「はい、貴方は誰ですか」またあかりが不思議な言葉を口にした。どうやら祖父母と淳之介には聞こえない声があかりには聞こえているらしい。
「恵昇さんって伯父さんでしょう。はい、梢の娘です」あかりの独り言は会話になっている。ヒョッとして亡くなった伯父の恵昇と話しているのかも知れない。
「伯父さんって淳之介さんと同じくらいの年頃なんですね。はい、22歳です」こうなると普通の人間は黙って聞いているしかない。ところが祖母はあかりの方を見て大声で話し掛けた。
「恵昇、ここにいるのかい」「伯父さんが『はい、います』って」あかりの返事を聞いて祖母が身を乗り出したため間に座っている淳之介は遠慮して後退さった。この理解不能な情景に祖父と淳之介は顔を向け合って首を直角に傾げた。
  1. 2018/10/31(水) 10:25:21|
  2. 夜の連続小説8
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やはり陸上自衛隊高等工科学校は国際法違反だ!

今年は10月14日に朝霞駐屯地で自衛隊中央観閲式が行われましたが(海上自衛隊担当の自衛隊観艦式と航空自衛隊の航空観閲式のローテーション)、そこで看過できない国際法違反を発見しました。
それは防衛大学校と防衛医科大学校に続いて入場した陸上自衛隊高等工科学校です。この学校は以前、少年工科学校=自衛隊生徒と呼ばれていた帝国陸軍の陸軍幼年学校を模倣した教育機関で、高校に就学する年齢層の少年を神奈川県横須賀市の武山駐屯地に集めて憲法違反の負い目を抱え、内心では敗戦後の日本に怨嗟の念を抱いている陸上自衛隊の屈折した精神で純粋培養していましたが、アフリカの内戦で反政府軍が食事を求めて志願する少年たちを兵士とするようになり、さらにイスラム過激派が警備側の目を逃れ易い少年を自爆テロに使うようになったことで18歳未満の少年を戦闘に参加させることが世界的問題になり、関連する決議の採択や国際条約の締結が相次ぐ中、「日本の自衛隊生徒も該当する」との批判を受けて廃止されたのです。その時、海上自衛隊と航空自衛隊は廃止したのですが、陸上自衛隊の少年工科学校では成績が優秀な生徒に特別な受験勉強を課して防衛大学校に入学させているため帝国陸軍の幼年学校・陸軍士官学校出身者と同様の特殊な人脈が形成されており、その組織力を総動員して制度の存続を図り自衛隊の定員外の専門学校(一般高校の通信課程で高卒の学歴は与えられる)として新設したのが陸上自衛隊高等工科学校なのです。したがって生徒たちは自衛官ではなく未成年の民間人であり本物の武器を取り扱い、ましてや実弾射撃が許されるはずがないのですが防衛省がやった仕事なので法的には特例を設けているのでしょう(調べた限りではどう見ても不備ですが)。
しかし、国内法上の問題はクリアしても国際法上には明確に違反しています。何故なら国際法の戦闘員としての認定基準は「武器を公然と携行している」「指揮官の指揮を受けている」「一見して識別できる徽章を装着している」の3項目であって自衛官=軍人としての身分は関係ないからです。高等工科学校の制服は帝国陸軍の幼年学校と同様に縁に赤線が入った肩章が着いた詰襟で襟に階級章代わりの学年章が入っています(一部の素人は海軍兵学校の軍服を模倣している防衛大学校のコピーと言っていますが間違いです)。したがって国際法上の戦闘員であることは間違いなく早急に廃止しなければなりません。
少年工科学校から防衛大学校に進んだ人物としては北部方面総監を務めた千葉徳次郎陸将(生徒15期、防大21期・岩手県出身)がいますが、北部方面総監に着任した時、隊員の階級構成で陸曹が陸士よりも人数が多いことを知ると「これでは指揮系統が維持できない」と陸曹を削減することを命じました。その具体的方法は自衛隊生徒=高等工科学校出身者と新隊員から選抜される陸曹候補生だけを昇任対象として既に制度が廃止されていた陸曹候補士については昇任年限に達しても認めず一律に退職に追い込んだのです。しかし、陸曹候補士は4年以降7年未満で陸曹に昇任させて定年までの終身雇用を保証して採用していたのですから完全な契約違反なのですが、生徒出身者の独善性の前には社会常識などは全く通用しないのです(防衛大学校の同期の西部方面総監を共犯にしました)。
  1. 2018/10/30(火) 09:27:16|
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振り向けばイエスタディ1357

本土の政治の混乱などは沖縄で暮らす庶民にとっては他人事に過ぎない。今年も太陰暦の4月8日、太陽暦の5月10日に沖縄県民にとって最も大切な祖先供養の行事である清明(シーミー)祭がやってきた。後輩が入社しないため何時までも一番の下っ端から卒業できない淳之介も清明祭だけは沖縄本島に帰るように休暇を与えられている。これも祖先供養と親孝行を尊ぶ沖縄ならでは配慮だろう。今回、淳之介は婿養子として先ず安里家の墓に参ることにした。
「淳之介、ウチのお墓には伯父さんしかいないから南城市の方に行けば良いのよ」日曜日の日本トランスオーシャン航空の最終便で到着した2人をターミナルで出迎えた梢はすでに決定している予定の変更を口にした。梢自身は部下を清明祭に出席させるため休みだった今日のうちに墓参をすませたようだ。
「伯父さんに挨拶するのはあかりの夫の僕にとっては最優先の勤めなんです」淳之介は梢にあかりの誘導を任せてスポーツ・バッグを両手に持ち替えながら答えた。
「それに玉城家の清明祭に参加すると祖父母がモンチュウに母のことを訊かれて困るから遠慮した方が良いんですよ」淳之介の説明に梢は忘れかけていた生母・玉城美恵子の特殊事情を思い出して唇を噛んだ。美恵子は台湾で執行猶予3年の判決を受け、拘置所と刑務所での散髪と清掃や洗濯などの雑務で給料を得て暮らしているらしい。執行猶予中でも台湾の国外に出ることは許されていない。それでも書簡や電話の制限はないのだが何も言ってこないのが美恵子だ。先を歩いて行った淳之介はターミナル前のタクシー乗り場に着いて助手席を開けさせて乗り込んだ。これは後席に梢とあかりを乗せるための配慮のようだ。
「淳之介、あかり、おかえり」自宅マンションで安里家の祖父母は標準語で出迎えた。これが玉城家であれば「ハイサイ(こんにちは)」「メンソーレ(いらっしゃい)」と賑やかにシマグチでひと騒ぎが起こるのだが、その点は元教員夫婦の家庭は気風と作法が違う。
「御無沙汰しています」淳之介とあかりはリビングの応接セットの3人掛けの長椅子に並んで腰を下ろすとテーブルに手をついて挨拶をした。
「あかり、随分と女らしくなって。もう立派な若奥さんだな」「とっても大人びて娘時代は卒業してしまったわね」あかりにも祖父母の誉め言葉が容姿のことだけではないのは判っているが実感できないだけに反応するのは難しい。そこで淳之介が代わって頭を下げた。
「先月、土産にもらった東北の日本酒はとても美味しかったよ」「日本酒って口の中で粘つく感じがするから好きじゃあなかったけど本当に美味しかったわ」どうやら祖父母は差し向かいで楽しんだようだ。それは淳之介とあかりも同様だった。
「茶山さんに頼めばまた送ってくれるそうですから、こちらの住所を伝えて直接届くようにしましょう」本当は東京の父に頼めば全国各地の日本酒を手に入れることはできるのだが、東北の地酒でも銘柄に高級感が加わると値段が跳ね上がる。その点、茶山元3佐が地元の酒屋で自分の舌で選んだ酒なら送料を加えても割安になるはずだ。
「2人は夕食は石垣島で食べてきたんだからシャワーを浴びなさい。その後は5人で飲みましょう」「はい・・・2人一緒で良いですか」梢の指示に淳之介は妙な確認をした。確かに東京の父の官舎では子供の頃から両親が一緒にシャワーを浴びながら何かをしているのを見慣れているので抵抗がなかったがこの家では勝手が違う。そんな淳之介の顔を見て梢が少し意地悪な返事をした。勿論、これは梢らしい悪戯心による。
「それじゃあ、あかりは久しぶりにお母さんと一緒に入ろう。髪も身体も綺麗に洗ってあげるよ」「嫌、貴方、シャワーを浴びる準備をして頂戴」思い掛けないあかりの態度に祖父母と梢は顔を見合わせた後、娘夫婦の絆の固さを確認して満足そうに微笑んだ。
家族全員がシャワーを浴び終えると残った夕食のオカズを肴にして島酒を飲んだ。この島酒は淳之介が土産に持ってきた波照間島の泡波だが、祖父も八重山の離島の校長をしている時から気に入っている。本当はモリヤの父も好きなのだが淳之介は知らない(梢は知っている)。
「今の沖縄を見ているとお前たちは八重山に住んでいた方が良いな」酒が入ったところで祖父が難しい顔で意外なことを口にした。普段の祖父は場を和ませるように気をつかいながら酒を飲むのでこのように空気が重くなるような話をするのは珍しい。
「普天間基地を辺野古へ移設すれば『もう事故は起こらない』と感謝していたはずが今では『米軍を沖縄から追い出せ』と騒いでいる。復帰以来の反米反日教育で育った連中は真剣に本土からきた活動家に同調しているんだ。もう手遅れかも知れないな」そう言って祖父は苦そうな顔をして土産の泡波を飲んだ。それを見て淳之介は4月中旬に本土に行った時の父の顔を思い出した。土産の酒を飲んだ父は「民政党の実態は中国の工作機関だ」と吐き捨てていた。
  1. 2018/10/30(火) 09:26:18|
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振り向けばイエスタディ1356

翌週は月曜日から陸上幕僚監部法務官室でもテレビが点きっ放しだった。幹部、陸曹を問わず雀山内閣の命運が時間の問題であることは口に出さないだけの共通認識だったが、そこまでに至る過程とそこからの展開を正確に予測できる者はいないから目を離せないのだ。
「先ずは社人党の連立離脱からだろうな」課業開始後も出勤時にキオスクで買い集めてきた新聞を読み比べている私の独り言に陸曹2人は即座に顔を向けた。幹部は社会情勢の確認も職務に含まれるため政治情勢が大きく変化する時には新聞を読むこともある程度は許される。ましてや私は普通の自衛官では有り得ないような特殊な人脈を持つ人間なので発言にはテレビのニュース解説並みのインパクトがあるのかも知れない。
「それでもこのタイミングで連立から離脱すれば村山内閣の後の凋落を繰り返すことになりませんか」「アイツらも馬鹿じゃあないですから懲りることは知っているでしょう」やはり陸曹の発想は現実的=功利的だ。確かに損得ずくで考えれば長期凋落が止まらない社人党が政権から離脱すれば存在そのものが埋没することは間違いなく常識的には有り得ない。
「あの党首は隣りの半島の人間だぞ。あの民族は一度怨んだらそれだけを行動原理にするから罷免されれば離脱以外の選択肢はないだろう」以前、自衛隊情報保全隊司令部の田中2佐に見せてもらった国会議員の本当の出自の一覧表でも社人党は前・現党首を含む有力女性議員の大半は朝鮮からの帰化人か在日朝鮮人だった。
「あッ、テレビに字幕の速報が入りました・・・社人党は全国幹事長会議を開いて連立離脱を決定する模様・・・やはりそうなりますか」「そうなると筋元清美国土交通副大臣も辞任ですね」曹長の一言で私は重要なことを見落としていたことに気がついた。現在の裁判の原因である海難審判の大元締めである国土交通省の副大臣は、阪神淡路大震災の炊き出し給食の現場に押しかけて「その食事は自衛隊の宣撫工作だ。食べてはいけない」と演説した猿面の刈り上げ女だった。防衛省でも内局から防衛秘密が漏洩しているのだから公務員労組が工作組織化している国土交通省からは漏洩どころか蛇口全開で海上保安庁の組織・装備・行動や自衛隊やアメリカ軍が航空局に提出している飛行計画などの内部情報が流出しているはずだ。
「これで社人党は国政から消えていくことになるが、地方組織は自治労や県教組と結びついているから簡単にはいかないだろうな」これで第1段階は確定した。次は雀山首相の退陣表明と次の総理大臣の決定だ。そのような根回しもなく総理大臣の職を投げ出すとすれば孫として祖父である近衛文麿首相に倣った肥後熊本藩の馬鹿殿と似たようなものだ。
6月2日、民政党の緊急両院議員総会で雀山首相が退陣を表明した。退陣の理由としては普天間問題の迷走と自分の政治資金を巡る疑惑を挙げたが、前日には個人的には聞いていた外務省がアメリカで実施した「対日世論調査」の結果が発表され、「アメリカにとってアジアで最も重要なパートナーは中国」と25年ぶりに逆転されたことが判明していた。敗戦後の歴代政権が営々と築き上げてきた日米同盟の信頼関係をここまで急激に傷つけたのでは外交的にも退陣するしかないのは当然だ。
「へーッ、雀山首相は尾沢を道連れにするんだ」今日も点けっ放しのテレビで始まった雀山首相退陣のニュースを見ていた1曹が嬌声を上げた。曹長の方は尾沢が自民党の大物だった頃の記憶が消せないようでいまだに虚しい期待しているようなところがあるが、曹侯学生の後輩である1曹は私の批判を素直に聞いてアンチ尾沢になってくれている。
「ふーん、尾沢と一緒にマドンナ議員を辞めさせるんだ」民政党の尾沢ガールと呼ばれる女性議員たちは有能な人材も少しはいた小泉チルドレンと比べて軽薄な人気取りなのが明らかなので嫌悪しているが首相と幹事長に道連れにされる大物がいるとは驚いた。
「雀山首相も辞め方だけは立派だったみたいだな。尾沢が権力を握った時の実態を目の当たりにしていたから悪性腫瘍は除去したんだろう」私の解説に1曹だけがうなずいた。女性事務官は関心だけ示して反応はしない。すると曹長が忌々しげに口を開いた。
「これでカイワレ大臣が総理になるんですか」やはり曹長は市民運動出身の缶直人が嫌いらしい。私も好きなはずがないが「尾沢よりもマシ」と言うだけだ。
「こうなると総理大臣に指名される前に民政党の代表選挙があるはずだけど何日くらいかかるのかな。自民党だと2週間くらいだから・・・」私が質問しても3人が答えるはずがない。顔を見合わせて呆気に取られている。
「4日に代表選挙を兼ねた両院議員総会を招集するみたいです」テレビの音量は低くしているので1曹が拡声器になってくれている。それにしても随分と軽く次の総理大臣が決定するするようだ。私の生徒会長の方が余程本格的な選挙だった。
  1. 2018/10/29(月) 09:50:42|
  2. 夜の連続小説8
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10月29日・天台宗寺門派の開祖・円珍が遷化した。

朝廷では菅原道真さんが活躍していた寛平3(801)年の10月29日(太陰暦)に天台修験の大成者にして円城寺=三井寺を本山とする天台宗寺門派の開祖である智証大師・円珍さまが遷化しました。
比叡山で勤められる千日回峰行をマスコミが取り上げるため天台修験が密教の本家である真言宗よりも知名度を得ていることがありますが、天台宗の宗祖の伝教大師・最澄さまは唐へ官費留学した際、すでに時代遅れになりつつあった法華教学だけを学んで帰ったため最新だった密教を学び、恵果阿闍梨の法を継承して帰った弘法大師・空海さまから学ばなければなりませんでした。ところが煩悩=欲望を社会の浄化と衆生を済度する原動力とする教えを説いている大楽金剛真実三摩耶経=理趣経の貸借を巡って確執が生じたため天台宗は密教を取り入れることはできなかったのです。しかし、社会不安から現世利益を求める朝廷や貴族の要望は高まる一方だったので天台宗としても密教の導入を急ぐ必要が生じ、慈覚大師・円仁さまを唐に派遣して遅れ馳せながら比叡山でも修験が行じられるようになりました。
そんな天台修験を大成した円珍さまは妙な経歴の持ち主なのです。先ず弘仁5(814)年に生まれた場所が空海さまの生誕地である讃岐の国の善通寺(現在の香川県善通寺市)から4キロほど北東の金倉郷(同じ善通寺市内)なのです。普通は同じ道を志すのなら郷土の偉人を慕って真言宗に向かうと思うのですが何故か数えの15歳の時、比叡山に上って天台宗で得度を受けています。
ところが修行者を学僧と呼んでいるように教学の研鑽を主とする比叡山の宗風(まだ円仁さまは留学していなかった)に飽き足らず、30歳を過ぎた頃から修験道の祖・役の行者=小角に憧れて大峯山や葛城山、熊野三山を巡拜するようになりました。そして帰国した円仁さまが天台座主に就任する前年の仁寿3(853)年、遣唐使に加わって唐へ留学したのです。円珍さまの頭は巨大な卵をそのまま首の上に載せたような形でこれを唐の異端派の密教では「霊蓋(れいがい)」と呼んで予知能力を授かる秘宝として求める者が多く、殺されて首を奪われないように周囲は非常に気を使ったと言われています。また唐への留学中に皇帝・武宗が道教に傾倒して廃佛を命じたため還俗させられていますが同時期に天台宗から留学していた円載さんが妻を娶って破戒したのに対して円珍さまは密かに修行を続けていたと本人の体験記で自己申告しています。
天安2(858)年に唐との貿易船で帰国するとしばらくは故郷に寺を建立するために滞在し、その後、比叡山に戻ると貞観10(868)年には天台座主になりました。ところがその頃の比叡山は僧兵が占拠しており、これを苦々しく思っていた朝廷から円城寺を与えられるとここを伝法灌頂の道場としたのです。こうして比叡山延暦寺を山門派、円城寺を寺門派と呼んで分裂、対立するようになり、それは平安末期まで尾を引き、平清盛さまが比叡山で得度を受けたのに対して後白河上皇は円城寺を選ぶなど権力者たちもその対立を利用しつつも振り回され続けました。
  1. 2018/10/28(日) 09:31:40|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ1355

この土・日曜日はパジャマ・ミーティングではなく新聞とテレビを材料にした時事阿呆談になっていた。それは土曜日の夜に2人で飲みに出かけた時も同様だった。
JRと京浜急行の2本の線路と両方の久里浜駅に挟まれた通りは飲み屋街になっている。その中でも通信学校の隊員があまり利用しない店が行きつけになっている。若い隊員が行かない店と言えばママさんがお婆さんで色気抜きと相場が決まっていて夫婦で通うには丁度良い。
「あら、副校長先生、いらっしゃい」そんな小料理屋に入るとカウンターと呼ぶのが似合わない和風の台の向こうで割烹着の小母さんが声を掛けてきた。そう言えば善通寺で勤務していた頃、寿司屋のカウンターは「付け台」、割烹では「盛り台」と呼ぶと聞いたことがある。
「今日も旦那さんと一緒なのね。お熱いこと」そう言って盛り台越しに熱い絞りタオルを差し出しながら小母さんは冷やかしてきた。この小母さんは佳織の母・典子さんと同級生だった伊丹のママさんと同年輩に見えるからそろそろ70歳と言うことになる。これでは若い隊員たちにとっては祖母に会いに来るようなものだ。
「今日も奥さんは魚、旦那さんは豆腐料理で良いのね。本当のお坊さんでも御精進だけって言う人はいないよ」「でも般若湯(はんにゃとう=酒)は飲むから誉めてもらう訳にはいかないよ」小母さんの誉め言葉が皮肉にならないように自分から破戒を告白した。
小母さんは盛り場(調理場)に入る前に酒の用意を始め、前の棚から私の泡盛「菊の露」のボトルを取り出した。この店では始め九州の焼酎だったのだが飲みながらのウンチクで泡盛の詳細な説明を始めたため特別に酒屋で取り寄せてくれたのだ。本当は石垣島の「宮の鶴」か波照間島の「泡波」の方が嬉しいのだが流石に本土では入手困難と断られたらしい。
「旦那さんの泡盛のボトルは酒屋に取り寄せてもらわないといけないからそろそろ注文しても良いかしら」小母さんは水割りを作りながら半分になったボトルを見せた。
「次は一升瓶にしてよ。キープ料はそのままで」「一升瓶は置き場に困るからキープ料は割り増しだよ」私も慣れているので対話も掛け合い漫才に近づいている。隣りの佳織は笑って聞いているだけだから夫婦漫才ではなく親子漫才だ。
小母さんが盛り場に移動したところで泡盛のグラスで乾杯した。昔はストレートだったが今では身体と家計に優しい水割りになっている。
「それにしても雀山はワザワザ金曜日に閣議決定したけど土日の報道番組で酷評されることを考えていたのかしら」一杯、飲んだところで佳織の話題はいきなり時事問題に入った。昨夜のテレビ朝日の報道番組で司会者は「国民は期待を裏切られた」と扱き下ろしていたがプロレス中継の口調なので日本人レスラーが外国人の悪役に追い詰められているようだった。
「それでも朝日や毎日新聞やテレ朝やTBSは批判をしながら一応の理解は示していたじゃあないか。最終的には追い詰められての苦渋の決断と言うことにして悪いのはアメリカと自民党政権と言う毎度のオチで締め括るんじゃあないのか」私も薄まった菊の露を飲みながら阿呆な放談を始めた。今朝は官舎から近くはないコンビニまで出かけて新聞各紙を買い集めて2人で回し読みしたが朝日新聞と毎日新聞の広報紙は政権の苦しい立場を代弁しているような論調だった。逆に産経新聞と読売新聞は政権公約自体の矛盾を指摘・批判しているものの衆議院選挙前に「一度やらせてみれば」と同調していたことへの反省の弁はなかった。
そこへ小母さんが佳織の焼き魚の皿と私の揚げ出し豆腐の小鉢を持ってきた。この料理にはやはり割烹着が似合う。エプロンでは変だ。
「ところで尾沢一郎が辺野古周辺の土地を買い進めていることは知ってるか」「うん、噂では流れ始めてるよね」私は先週、自衛隊情報保全隊司令部の田中2佐から「法的に問題がないか」との確認を受けたついでに聞かされた情報だ。あえてここで漏らすのは一般人にも広めて尾沢の首相への野望を阻止するための一石にもならない砂の一粒でもある。小母さんは聞かない振りをしているが「陸幕勤務の幹部自衛官が言っていた」と信憑性を加えるべきだ。
「いくら民政党が腐っていても尾沢の利権のために政権公約を破棄するようなことはないだろうけど来週の首相の辞任表明後の動き次第でどう転ぶか判らないところが問題だな」私のあからさまな政権批判に小母さん流石には少し困惑した顔をした。
「やっぱり来週だよね。彼は政権公約を破棄しても居座るような図太い神経は持ってなさそうだもの」「その点が山口県人の缶とは違うところだ」「エエところのお坊ちゃんだからね」佳織はそう言うが同じ「エエところのお坊ちゃん」である弟の方は政治屋然としていて神経も太そうだ。兄と袂を分かって自民党に復帰した点も政治屋としては適切な判断と言える。
それでも私としては次の内閣の法務大臣が一番の気がかりだ。勿論、始めから期待はしていない。
  1. 2018/10/28(日) 09:30:21|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ1354

「ただいまァ」佳織の官舎に着くと夕食の支度中だった。と言っても作り終えた料理を温め直しているだけだが、副校長兼企画室長殿はエプロンをして台所で腕を奮っている。
「おかえりなさい。変なニュースをやってるね」そう答えた佳織の向こうではテレビがNHKのニュースを流している。NHKのニュースは左右両方からの批判を避け、誤報を犯さぬように確定した差し障りのない事実だけを流すためその前の時間帯の民放のニュースの後から見ても面白くも何ともないのだが家事をしながら聞き流すのには丁度良い。
「早い話が自分で掘った墓穴を深く広げてから中に入って生き埋めにされたってところだな」本来、辺野古への移設が決定した時点での沖縄県民はまだ沖縄国際大学へのヘリコプター墜落事故の記憶が生々しくその危険除去が実現することに安堵していた。そこに乗り込んで普天間基地が果たしている機能も考えずに県外移設を公約したのは自分で掘った墓穴以外の何物でもない。おまけにオバマ大統領に「トラスト・ミー」と大見得を切って深く掘り下げ、名護市市長選挙で反対派を公認して横に押し広げた。その後にオバマ大統領から不信感を言い渡されれば自分で穴に入って土をかけてもらうしかないだろう。
「まだ政権はもつのかな」「時間の問題なのは間違いないが、雀山が辞めても政権の返上はしないだろうね」日本の議院内閣制では衆議院で多数派の政党の党首が総理大臣になるのが原則だから今年の7月に予定されている参議院選挙で民政党が大敗しても政権交代は起こらないのだ。そのためには野党が衆議院を解散に追い込むしかないが、野党になっている今の自民党総裁の神経質そうな顔に政権奪還への気迫は見当たらない。
「次の総理はどちらになるんだろう」「トロイカの残り2人かね。消去法で缶直人の方かな」私が佳織の官舎に置いている作務衣に着替えて食卓につくと同時に料理が運ばれてきた。そのタイミングには食欲を失わせる最悪の話題だった。缶直人は厚生大臣の時、カイワレ大根がO157による食中毒の原因と発言して風評被害が発生すると「大好物」と言いながら大口を開けて頬張って見せたが購買意欲を誘う効果はなかった。鳥インフルエンザの時は焼き鳥だったが結果は同様だ。それが尾沢一郎となると調理に腕を奮った佳織に申し訳なくなる。
「缶直人は山口県出身だったよね」「そうだったかな。ワシは防府に3年間住んでいたけど記憶にないぞ」そうは言ったが私が防府に住んでいたのは昭和62年から平成2年まででも最後の1年は前川原の幹部候補生学校に入校していた。当時はまだ自民党が健在で市民運動の活動家出身の缶直人の名前が保守の総本山・山口県で出るはずがなかった。
「若し缶直人が総理大臣になったら山口県出身では何人目になるの」「本当に多いよな。名前は憶えていても人数は判らないよ。言うから数えろよ」折角の料理が目の前に並んでいるのに会話の方が忙しくなってきた。ましてやテレビのニュースはほったらかしだ。
「先ずは戦前で伊藤俊輔(博文)、山県狂介(有朋)、桂太郎、寺内正毅、田中義一」「ここまでで5人だよ」佳織は指を折って握った拳骨を突き出したがパンチではない。
「続いて戦後は岸信介、佐藤栄作、安倍晋三、以上」「合計8人だね。本当に大量生産だわァ」「粗製乱造とは言わないけど芋づる式なのは間違いないな」話に区切りがついたところで2人で手を合わせて箸を取った。今夜のおかずはジャンルなしの家庭料理だ。こんな日常生活に帰れるところも近距離別居の夫婦ならではだろう。
「ところが兵庫県出身の総理大臣はいないんや」地元の話題になって佳織は関西弁になった。私としてはこちらの方が肩がこらないので助かる。
「確かにそうだな。大阪からは偉大な総理大臣が2人も出ているけどね。戦前最後の鈴木貫太郎大将に戦後2番目の幣原喜重郎」どちらも混乱の極地だった日本を卓越した行政能力で救った名宰相だ。その点、愛知県出身となると加藤高明と海部俊樹になってしまう。
「そう言えば兵庫県出身で総理大臣になった政治屋がいたぞ」「えッ、そうなの」流石の佳織も私が思い出した政治の裏話は憶えていなかった。
「ワシらが前川原に入校していた時の参議院選挙で社会党が圧勝して土肥たか子が首班指名を受けたじゃあないか。あれから衆議院で海部が指名されるまでは暫定総理だったんだよ」「そうだったかな。あの時も人材がいなかったけど今ほどじゃあないよね」ようやく話が弾み、食事が進みだした。もうテレビは切っても好さそうだ。
「でも今回、徳島水子が罷免されたじゃない。社人党が離脱すると政権が弱体化して、やっぱり時間の問題かもね」「いいや、山口県人の権力への執着は普通じゃないから総理の椅子に座ったら最後、日本を滅ぼしても離れないよ」これは尾沢一郎ではなく缶直人が総理大臣になると言う消去法的前提だが、来週には田沼和尚に手紙を書いて現地情報を探ってみよう。
  1. 2018/10/27(土) 09:29:28|
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振り向けばイエスタディ1353

「私は政治屋ではないので知っていることは皆さんと大差はありませんよ。特別に知っていることと言えばアメリカ国民の日本への信頼感は急激に低下していて『アジアで協力すべき国』と言うアンケートでは25年ぶりに中国に逆転されたそうです」これは外務省がアメリカで実施した意識調査の結果で、まだ日本では報じられていないが私は外務省人脈で聞いていた。PKOは外務省が所管するためその任務中の出来事で裁判にかけられ、1年以上も拘束された私に対する負い目を抱いてくれているようで個人的に交流を保っている。
「ふーん、それは問題ですね。そうなると雀山政権としてもアメリカ側に歩み寄るしかない訳だ」自衛官と言う立場では日米同盟は我が国の安全保障上の基盤であり「歩み寄る」と言う感覚はないのだが民間人はアメリカの圧力に屈したように受け留めるようだ。
「それでも沖縄県民に期待を抱かせておいて裏切ったんですから支持率は急落するでょうね」「と朝日新聞は警告していましたね」この答えは2紙を読み比べた成果だ。すると男性は「どうぞ」と席を譲って立ち上がった。車内を見回すと立っていた乗客たちもこの駅で下りるようなので私も座ることにした。
「勉強になりました。ニュースを見ながら家族に教えてやりますわ」そう言って笑顔で会釈した男性は多くの乗客と一緒に下車していった。席に座ってようやく落ち着いた私は前もって「私的発言」と断ってはおいたが内容の自己診断を始めた。最近はマスコミの取材でなくてもインターネットなる情報共有媒体に他人の会話の内容を書き込む輩が急増しているらしいので「私的発言」と言う保険も意味を失くしている。
「すみません。お2人の会話を聞いてしまいました」私が反省を始めたところに隣りの席のもう少し若い男性が声を掛けてきた。この男性もスーツにネクタイなのでサラリーマンのようだ。
「はァ、あれは全て個人的見解です」今回は相手に判る用語に変更した。すると男性はうなずきながら迷惑な要望を口にした。
「私も質問させてもらっても良いですか」ここは「間もなく下りる」と嘘を言っても拒否したいところだが久里浜駅にはまだしばらくある。仕方ないので渋々と言う顔で応じることにした。
「これからの発言も全て個人的見解ですよ」「はい、判っています」私としては無駄とは判っていても保険を掛けざるを得ない。男性はもう一度うなずいてから話を切り出した。
「私は横須賀の海兵隊員の友人がいるんですが非常に真面目な連中で、同じ海兵隊員が沖縄で犯罪を繰り返していることが信じられないんです」これは意外に安心できる相手かも知れない。それでも油断することなく回答した。
「横須賀の海兵隊は大型艦内の保安業務を担当していますから特に規律心が厳格なんです。それでも沖縄には約15000人の海兵隊員がいるんですから犯罪の発生率は他の業種と比べても極めて低いんです。むしろ観光客が起こす凶悪犯罪の方が圧倒的に多いんですがマスコミは全く報道しません」これは現在の職務から言えば専門分野だ。本当は具体的な数字を上げて説明しても良いのだが余計なことは控えておく。
「それで納得できました。本土でも自衛官の軽い事件や事故を大々的に取り上げますからね。沖縄のマスコミならやりたい放題でしょう」「あそこには2大紙しかありませんから互いに反米報道を競い合っているんです。だからどちらもブレーキが効かないでアメリカ軍の粗探しにばかり力を入れている。困ったものです」これは政権批判ではないので多少は言い過ぎても問題にはならないはずだ。それでも私としてはかなりブレーキを効かせているのではないか。
「今日の閣議決定に反対した社人党の徳島水子が大臣を罷免されたでしょう。貴方たちには敵だから喜んでいるんではないですか」突然、反対側の席の男性から話し掛けられた。こちらの男性は私よりも年長で着ているサマ―・スーツには高級感がある。それでも電車通勤していると言うことは企業の重役ではないのだろう。この質問には罠の危険を感じた。
「政治的な立場で政策に関する見解が分かれることは民主主義の基本ですからそれで敵だ、味方だと言うつもりはありません」これは自分でも呆れるほどの綺麗事だ。しかし、徳島水子はPKOの任務中に遭遇した敵対者を殺害した私を殺人者として告発したことは政治見解に基づく行動だとしてもその影響で性的能力を喪失したことには私怨がある。佳織との夫婦生活の快感=悦楽=至福はもう戻ってこないのだ。
「どうやら私は警戒されてしまったようですね。質問が拙かったのかな」そう言うと年配の男性は反対側を向いて黙ってしまった。このように相手の心理を読めるのはそれなりの部下を扱っている管理職であることは間違いない。それを見て続きを求めた男性も口ごもった。ようやく静かな時間を過ごせるようになったものの今回の帰宅は妙に気疲れしてしまった。
  1. 2018/10/26(金) 09:25:35|
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10月25日・アルバニア決議で中華人民共和国が国連に参加した。

1971年の10月25日にアルバニア、アルジェリア、ルーマニアなど23カ国の共同提案による「国際連合における中華人民共和国の合法的権利の回復」議案が可決され、国際連合の成立以来、蒋介石総統=国民党政権の中華民国が保持してきた安全保障理事会の常任理事国の地位を中華人民共和国が取って代わり、さらに中華民国は国際連合から脱退してしまいました。ちなみにこの議案は「restoration(復元)」から始まっていますが中華人民共和国が国際連合に席を占めた事実はなく「get(取得)」と言うべきでしょう。
「国際連合」は日本では意図的に誤訳していますが英語名の「United Nations」を直訳すれば「連合国」であり、第2次世界大戦における勝者が新たな世界支配のために設立した機関なのです。このためアメリカ、イギリス、何故かフランス、ソビエト連合と共にナチス・ドイツとイタリアの同盟国だった日本と戦っていた中華民国にもこの機関の指導的立場=安全保障理事会の常任理事国の地位が与えられたのですが、1950年5月1日に毛沢東主席が中華人民共和国の建国を宣言したことで蒋介石総統の中華民国は台湾への亡命政権に過ぎなくなりました。こうして中華民国と中華人民共和国が台湾島と大陸に併立することになると国際連合としては常任理事国の資格の問題に直面し、当然、ソビエト連邦は同じ社会主義国家である中華人民共和国に入れ替えることを主張し、アルバニアなどの東欧諸国に議案を提出させていたのですがアメリカ、イギリスは連合国としての貢献を理由にこれを拒否していたのです(フランスは得意技の様子見だった)。そんな中、1950年代後半から中ソ対立が生起するとソビエト連邦も入れ替えには消極的になりますが、独自に東欧諸国へ食指を伸ばしていた中華人民共和国の指示を受けたアルバニアなどが提案を継続して次第に支持国を増やしていきました。
1960年代後半に入るとアメリカは泥沼化するベトナム戦争の停戦を模索するようになり、そのためには北ベトナムの後ろ盾以上の直接介入をしていた中華人民共和国との対話と協調が必要不可欠なため入れ替わりを容認するようになったのです。
しかし、アメリカは常任理事国の地位を中華人民共和国に譲り、国民党の中華民国は加盟国として留まる2国併立を考えており、蒋介石総統を説得したのですが大陸の奪還を諦めない老政治家(1972年に危篤状態に陥り、1975年に亡くなった)が納得するはずがなく、中華人民共和国側も「1つの中国」を絶対条件にしていたためアメリカの折衷・妥協案は実現しませんでした。結局、中華民国は名誉を守って「脱退」したのですが罪科を背負ったように「追放」と表現されてしまい、このため中華民国は現在に至るまで不名誉な負い目を課せられ続けることになりました。また国連憲章の常任理事国の国名は現在も「Republic of China(中華民国)」であって「People‘s(人民)」は入っていません。ソビエト社会主義共和国連邦もまだ入っていますが。
ちなみに中華人民共和国は1964年10月16日に核実験に成功しており、常任理事国の条件である核保有国になっていました。
  1. 2018/10/25(木) 11:36:28|
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振り向けばイエスタディ1352

横浜地方裁判所での護衛艦と漁船の衝突事故の公判が検察側の内部調整を理由に先延ばしになったままなので私は陸上幕僚監部での業務の整理に励んでいる。おかげで金曜日には国旗降下を待って佳織の官舎に直行することできる。
「何だい、これは」佳織が住む神奈川県横須賀市久里浜までは鉄道の乗り換えが多いのでその度に駅売店・キオスクの前を通る。すると店頭に並んでいる夕刊一面の見出しが目に入った。
「辺野古移設を閣議決定」「政権公約を破棄」異例に大きな見出しなので新聞各社がこの問題を重大視していることが判る。私は帰宅ラッシュの雑踏から離れてキオスクに立ち寄り、いつもの習慣で反体制の朝日新聞と体制寄りの読売新聞(残念ながら産経新聞には夕刊がない)を取ると小銭入れから出した500円硬貨を店員の小母ちゃんに手渡そうとした。
「はい、有り難うございます」小母さんは忙しそうに客の対応をしながら流れ作業的に私の500円硬貨を受け取ると釣銭を渡そうとして顔を向けた。その瞬間、制服姿の私を見て動作が止まった。最近は都市部でも制服で通勤する隊員が増えたが2等陸佐の制服を間近で見たのは初めてなのかも知れない。確かにこの方面で自衛官と言えば海上自衛隊だ。
「えーと、何々・・・」満員の電車の中で新聞を読むには4つに畳んで片手で眺めるしかない。これは陸上幕僚監部勤務になって電車通勤するうちにサラリーマンたちがやっていることを見て学んだ。私は演習用に多めに持っていた下着類の一部を佳織の官舎に置いているので手荷物はアタッシュ・ケースだけですんでいるからこの技が使える。
新聞によると雀山内閣は結局、普天間基地の沖縄県外移設と言う政権公約を破棄し、自民党政権が決定していた辺野古沖に新たに建設する基地に移動させることを閣議決定したようだ。当然、朝日新聞と読売新聞では評価は真逆だった。
「あのォ、自衛隊の方ですよね」横浜駅で京浜急行に乗り換えると車内は少し空いてくる。それでも制服を着ていると目の前の席が空いていても全員が座るまで腰を下ろさないのは曹侯学生の時に受けた躾だ。それを守って立っている私に座っている同年輩の男性が声を掛けてきた。これでは見おろす形になるがそれは仕方ない。どうやらサラリーマンのようで吊るし売りのスーツに自己主張がないネクタイを締めている。中堅企業の中間管理職と言うところだろう。
「はい、そうですが。陸上自衛隊です」「やはり・・・」男性は遠慮がちに自分の正解に満足したような顔をした。しかし、緑色の制服にベレー帽をかぶっている職業は他にないはずだ。むしろ迷彩服の方が軍服マニア・軍事オタクと思われそうだ。
「その新聞の記事で質問させてもらっても良いですか」男性はそう言うと私が脇に挟んでいる新聞の見出しを視線で示した。
「私的見解であることを御理解いただいた上でなら結構ですよ」ここは「個人的」と言うべきだったかも知れないがいつもの癖で法律用語を使ってしまった。私の返事を聞いて男性は悩んでいる疑問を解決するため教授を掴まえた時の学生のような顔で質問を切り出した。
「普天間基地と言うのは本当に県外に移設することが可能なんですか」マスコミは「普天間基地は世界で最も危険な基地だ」「沖縄県民にばかり負担を押しつけている」との一方的な断定で民政党の「最低でも県外」と言う公約を手放しで絶賛しているが、ある意味の他人事である本土の一般人には現実的な疑問が解決できないらしい。
「普天間基地は在沖縄アメリカ海兵隊の輸送拠点ですから実動部隊と一緒になければ無意味です。県外移設するなら実動部隊とワンセットでしょう」私の声は読経と号令で鍛えているため人並み以上に良く通る。そのため小声のつもりの説明に車内の乗客たちが顔を向けた。
「富士の海兵隊キャンプと厚木の海軍基地とセットと言う選択もなきにしもあらずですが、選挙公約としては支持を集められないでしょうね」早速、墓穴を掘ってしまった。
「やはりアメリカ海兵隊は沖縄になければいけないんですか」「日本の本土が侵略を受けた時に奪還する兵力を近距離の離島に隔離しておく意義があります。さらに台湾やフィリピンに中国が侵攻した時の緊急展開も容易であり、その存在が周辺の軍事大国への抑止力になっているんです」ここでロシアや中国と名指ししなかったのは自衛官的常識だ。
「それで辺野古に新たな基地を建設するんですね」「新たなと言っても辺野古にはキャンプ・シュワブがありますから敷地を拡張するだけで新基地の建設ではありません」考えてみれば今は民政党政権なので私の説明は政府見解の否定になる。それは極めて拙いが始めに「私的見解」と保険が掛けてあるので「不妄語戒=虚言を弄さない戒律」を保つことにした。
「今日、雀山内閣が辺野古への移設を決定したでしょう。どうして今更、そんなことをしたと思われますか」これは益々拙いが「もう、どうにも止まらない」と山本リンダの懐メロだ。
  1. 2018/10/25(木) 11:35:18|
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10月25日・帝国海軍の悪性腫瘍・三上卓中尉の命日

昭和46(1971)年の明日10月25日は5.15事件で犬養毅首相を射殺しながらも戦前は軍国主義者として暗躍し、敗戦後も大物右翼として活動した三上卓中尉の命日です。没年は66歳でしたから事件当時はまさしく「青年将校」だったことが判ります。
三上中尉は日露戦争が終わった明治38(1905)年に佐賀県本庄村(現在の佐賀市本庄町)で生まれ、旧制佐賀中学校を卒業後、大正15(1926)年に海軍兵学校に54期生として入営しました。当時は明治の近代化の土壌にようやく民主主義が花開いた大正デモクラシーを民族の堕落、弱体化として嫌悪・否定する右翼たちが時代錯誤な復古主義の声を上げ始めていて、元来がそのような気質を持つ佐賀県出身の三上中尉も疑うことなく骨の髄まで染まっていったようです。実際、海軍兵学校を修了して間もない昭和5(1930)年には「昭和維新の歌」として有名な「青年日本の歌」を作詞しています。
海軍は占領地の行政を担当するため組織風土として政治性を帯びている陸軍とは違い俗世を離れた海を戦場とするため政治に関与することを嫌うのですが、三上中尉は陸軍の過激派青年将校や右翼の大物たちと交際し、海軍には迷惑な存在感を発揮していたようです。
この頃の政治は大正12(1923)年に発生した関東大震災によって国家財政が破綻寸前まで追い込まれ、それから立ち直りつつあった昭和2(1929)年には世界恐慌が起こり、さらに東北地方を襲う冷害などによって国民は貧困の極地に陥っていました。
これを共産革命につなげようとする偽右翼たちは「幕末の倒幕で天皇親政になった結果、日本の近代化と富国強兵が実現したように党利党略・私利私欲に走り国民の窮状を顧みない政党政治家を排除することで『昭和維新』を実現するべきだ」との美辞麗句を弄して単純な青年将校たちを扇動していたのです。三上中尉が作詞した「青年日本の歌」には吉田松陰くんが弟子たちを扇動した独善的狂気が模倣されています。
こうして昭和7(1932)年5月15日に「昭和維新」の先陣を切り、海軍にも憂国の士がいることを知らしめるために凶行に及んだのが5.15事件でした。この日、三上中尉は同志として手懐けた山岸宏海軍中尉、村山格之海軍少尉、黒岩海軍予備少尉と陸軍士官学校の後藤映範学生、八木春雄学生、石関栄学生、篠原市之助学生、野村三郎学生の9人で首相官邸を襲い、休日を過ごしていた犬養首相を射殺しました。
三上中尉は横須賀での軍事法廷で反乱罪による死刑を求刑されましたが懲役15年の判決を受けて小菅刑務所で服役しました。昭和13(1938)年に仮出所すると作家として活動を始めながら「皇道翼賛青年同盟」を結成すると何故か近衛文麿首相の側近になり、敗戦の2年前には大政翼賛会傘下の日本翼賛壮年団の理事に就任しています。
敗戦後も意気消沈することなく台湾からの密輸事件で逮捕されて服役し、昭和28(1953)年の参議院選挙に出馬して落選、そしてトドメに昭和36(1961)年の「三無(さんゆう)事件」の首謀者の1人として逮捕されましたが起訴猶予になりました。
それにしても大杉栄・伊藤野枝殺害事件を起こしながら満州国建国を取り仕切った甘粕正彦大尉と同様に軍事裁判で有罪になった前科者とは思えない活躍ぶりです。
  1. 2018/10/24(水) 09:34:10|
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振り向けばイエスタディ1351

結局、クミコはこれまでの受け身ではなく燃え上がった欲望のままに杉本を酷使した。杉本を仰向けに寝させると騎乗位になり、絶頂を追い求めて腰を激しく振り、上下させて暴走する。戦闘態勢を維持できず途中で使用不能になれば怒りのままに絞殺されかねない危惧を抱かせるような鬼気迫る性行為だ。杉本はクミコの欲望がこれ以上、燃え上がらないように刺激を避け、悶え狂うクミコの顔を黙って眺めながら戦闘態勢を維持していた。
「ウッ・・・」数度目の絶頂を迎え、クミコは声にならない叫びを上げて倒れ伏した。杉本の胸に汗ばんだクミコの潰れるほどの膨らみがない乳房が重なった。
流石の杉本もこれ以上は戦闘態勢を維持することはできない。急速に収縮した男根が抜けるとクミコを下ろしてベッドの掛布を背中に掛けた。そうして立ち上がるとベッドの周りに脱ぎ、脱がせ捨ててある2人の服を拾い集めてハンガーに掛けた。
杉本はそんな似合わない後片づけをしながらクミコへの官能剤の効果について考えていた。この部屋で切れたように欲情を爆発させるまでクミコは普通に振舞っていた。一方、過去にこの薬を実験した女たちは杉本の存在を知った瞬間に理性が吹き飛び、周囲が見えなくなってその場で抱かれることを求めてきた。この違いはどこからくるか。出会った時、安楷林(アン・ヘリム)に使ったのは古いタイプの官能剤だったが、知性派のジャーナリストが羞恥心を忘れて燃え上がった。それは今も後遺症的に余韻を見せることがある。その時、我に返ったらしいクミコが罪の意識に囚われたような顔で声を掛けてきた。
「私、狂ってしまったみたい。国防部の正門前で貴方に会った時から身体の芯が熱くなって抱かれたいって言う衝動が込み上げてきたの。こんなこと初めてよ」クミコの告白を聞きながら杉本はベッドに腰を下ろした。クミコは這ってその脇で半身になった。
「でも私は海軍士官、軍務中にそんなことを考えるのは合衆国に対する背信行為なの。だから祖父から習った『平常心(びょうじょうしん)』と言う言葉を唱えながら忘れようとしてたんだけど・・・」それも限界に達したのか、それとも杉本が壊したのか。結局、クミコはこれまで日本人特有の強固な自制心で薬がもたらす性的衝動を圧殺していたようだ。薬物による異常心理まで抑制できる極度の自制心を有するのはおそらく日本人だけではないか。
「クミコのお祖父さんは日系2世なんだろう」「うん、442部隊ではなくて通訳として太平洋戦線に従軍したから生き残ったのよ。戦後、日本に進駐している時、祖先の墓に参って知り合った菩提寺の住職から坐禅を習って帰ったから家でもよく坐っていたわ」「平常心是道(びょうじょうしんぜどう)だな」思いがけず杉本の口から禅語が出た。これは公案集「無門関」の第19則だ。このように公案をからめて坐禅に励むのは臨済宗だろう。この意外な知識は何故か禅に詳しい岡倉から聞いたものだ。
「でも欲望が燃え尽きれば平常心が取り戻せるのね。今は心静かに貴方に愛された余韻を味わってるもの」クミコはそう言うが今回の性行為は愛情などが介在する余地などない戦闘そのものだった。杉本は普段は抑制を美徳としている日本人が興奮状態に陥った時、欧米人には到底理解できない狂気の行動に出ることを思った。第2次世界大戦末期の組織的自死がまさにそれだ。
「汗をかいただろう。シャワーを浴びてこよう」「そう言えば化粧が落ちていないわ。私、シャワーも浴びずに抱かれてしまったのね」ようやくクミコも自分の欲望の爆発の凄まじさを自覚したようだ。その責任は杉本に帰すべきものではあるが。
5月24日、李明博大統領自身が記者会見を開き「対国民談話」を発表した。その内容は20日の記者発表と変わりはないが、記者たちには北朝鮮が売り込み使っている魚雷・CNTー02Dのカタログに回収された部品の写真を重ねた資料が配布された。
大統領と側近たちは記者発表で公開を要求された魚雷の部品を写真で明示することで納得を得られると考えたようだが、すでに公式発表自体を虚構とする報道が準備されていたので「苦し紛れの証拠固めのビラ」として利用されることになった。
「この国のマスコミはどうなっているんだ」在韓アメリカ軍司令官は夕刊から始まった「北朝鮮の潜水艦による雷撃」と言う政府発表を疑問視する報道に怒りを露わにしていた。
「同盟国の技術者が検証した事実を何故そのまま報道しないんだ」「オキナワも同様ですがこちらは規模が大きい分、影響は深刻ですね」確かに沖縄の2大紙の偏向報道はこれ以上のものがあるが講読者は沖縄県民だけだ。一方、韓国のマスコミも思想統制を受けているかのように同一の論調で報道を始めるが、それが世論を扇動し、外交に大きな影響を与えることもある。
「大統領としては自国の海軍の艦艇が撃沈されて、多くの軍人が戦死すればマスコミの親北朝鮮報道も改まると考えているんだろうが・・・」そう言って司令官は苦虫を噛み潰した。
  1. 2018/10/24(水) 09:33:08|
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振り向けばイエスタディ1350

食事が終わればバーに移動して酒を楽しむのが中年カップルのデート・スケジュールだ。これはそのまま肉体関係に発展しても「酔っていた」と言う弁明を成立させるために必要な手順でもある。しかし、杉本にとってトミタ少佐との関係に弁明の必要はなく、むしろ性行為のための部屋へ行く前に官能剤の効果を確認する目的があった。
「今日の酒は何にしようか」「前回はアメリカのボウボンだったから今回はイギリスのスコッチかフランスのブランデーってところかしら」カウンターの席に着くとバーテンダーが回ってくる前に相談を始めた。周囲には親密な中年カップルに見えるはずだ。
「ネルソン提督の遺骸を漬けたのはラム酒だったよな」酒を選ぶのにも海軍のネタを振るのは杉本なりの気配りだ。案の定、トミタ少佐はウンチクを傾け始めた。
「それでラム酒のことを『ネルソンの血』って呼ぶようになったって言われているけど実際はブランデーだったみたいよ。戦艦・ヴィクトリーの記録にも『ブランデーって書いてある』って王室海軍の士官から聞いたことがあるわ」この盛り上がり方であればデートとしては上出来だが、もう1つの懸案である効果の確認からは遠ざかってくる。
「そう言えばジョン・ポール・ジョーンズ提督(=アメリカ海軍の名将)の遺骸もアルコホール漬けだったんじゃあなかったか」「記録上はアルコホールとしか書かれていないみたい。パリで死んでいるからこちらもブランデーかも知れないわ。遺骸はアナポリスに埋葬されているから調べれば判るんだけどそこまでする必要はないようね」このまま盛り上がってくるようでは「官能剤の後遺症的効果はない」と判断せざるを得なくなる。
そこにバーテンダーが来たのでグラスのブランデーを注文した。銘柄は日本では贅沢な高級品のイメージがあるレミー・マルタンだ。前回は金浦市に長期滞在する予定だったためボトルをキープしたがソウル市内のホテルに宿泊するのは特別な夜だけだ。
「それにしても公式発表の場でアメリカ海軍の潜水艦が原因じゃあないか何て言い出すとは滅茶苦茶な連中だな」いきなり仕事の話題に変わってトミタ少佐は戸惑った顔をした。記者発表で即意答妙な対応を見せた有能なスポークスマンとは別人のようだ。
「この国のマスコミは自分の主張のために情報を使うだけだから事実も利用価値だけで選択するし、歪曲変造も当たり前なのよ」「それは日本も同じだし、アメリカも大差ないじゃあないか」雑誌記者であるはずの杉本のマスコミ批判にトミタ少佐は黙ってしまった。
「ところで今日の記者発表の質疑応答で言っていた『韓国の平和を維持するために日本が果たしている貢献』って具体的に何のことだい」これはトミタ少佐の仕事を見ていたことを証明するための質問だ。するとトミタ少佐は少し誇らしげな顔になって口を開いた。
「我が在韓アメリカ海軍は第7艦隊隷下の第78任務部隊でもあるの。だから艦艇の整備は日本の基地で日本の優秀な技術者が行っている。消耗品以外の補給物資も韓国製ではなく日本で調達しているのよ。勿論、そんなことは韓国国内では言えないけど空軍や海兵隊も軸足を日本に置いていることに変わりはないわ」ここまで話した時、バーテンダーがグラスのレミー・マルタンとチェイサーの氷水を置いて行った。そこで今回は英語で「チアーズ」と乾杯した。
それにしてもブランデーは手のひらで温めて香りを楽しみながら飲むと言う作法は本当なのだろうか。この室温であればグラスを近づけるだけでむせるような甘い香りが鼻を突く。手で温めてしまうよりもチェイサーで冷えて冴えた口にブランデーを少し流し込んで舌を痺れさす方が杉本の好みだ。トミタ少佐も同じことをやっているから作法違反ではないようだ。
30分ほどかけてグラス1杯のブランデーを飲み終えると2人は席を立った。ホテルのバーで飲んでいたのでフロントに行かなくても部屋のカギは持っている。そのままエレベーターで今夜のダブルの部屋へ向かった。ここからが効果を確認する手順の最終段階だ。
エレベーターの壁にもたれながらトミタ少佐は視線を床に落としている。このホテルにはエレベーター・ボーイがいるので何もできない。杉本も少し離れてトミタ少佐の横顔を眺めていた。
部屋に入るとそのままベッドに突き倒した。そうしてサマ―・ジャケットを脱ぐと上に重なる。
これで燃え上がらなければ「効果はない」と判断し、もう一度試みなければならない。
「強引なのね・・・」唇を塞がれる前、トミタ少佐はかすれた声で呟いた。唇を舌で押し開き歯茎を愛撫しながらブラウスの上から乳房を掴んだ時、トミタ少佐の反応が変わった。腕を首に回し、強く抱きついてくる。鼻息が荒くなり、差し出している舌に風が当たる。
「早く抱いて、激しく狂わして」唇を話すと潤んだ目で見詰めながら猥雑な言葉を口にした。その顔からはアメリカ海軍少佐の面影は消え、欲望が燃え上がった1人の中年女性が現れている。その瞳に点った赤暗い炎を見て流石の杉本も一瞬、背筋に冷気が走った。
  1. 2018/10/23(火) 10:12:28|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ1349

杉本は記者発表の中継が終わるとテレビを消して出かけることにした。行き先は龍山(ヨンサン)区にある国防部だ。おそらくトミタ少佐は国防部とは道路を挟んで向かい側の龍山基地の在韓アメリカ軍司令部に宿泊しているはずだ。であれば基地に入る前に接触を図らないと連絡を取るのは難しくなる。龍山区はソウル駅もある中心地なので足には不自由しない。
杉本が国防部の正門前から中を窺っていると龍山基地から夕方の国旗降下のアメリカ国歌「スター・アンド・ストライプ・バナー」が流れて間もなく中央玄関から白い半袖の軍服を着た女性が出てきたのが見えた。アメリカ軍の公務の移動は基本的に軍用車両だ。杉本はアメリカと同様に右側通行、左ハンドルの韓国の交通事情を考え、トミタ少佐の目に入りやすい正門の右側で待つことにした。すると間もなく迷彩服の兵士が運転するアメリカ軍のライトバンが出てきて助手席に白い軍服の女性が乗っているのが見えた。やはり少佐ではドライバーの後ろの席に座るVIP待遇は受けられないようだ。
ライトバンが公道に出る前に一時停止するのに合わせて杉本は歩み寄り、驚いたように転倒した。その時、車体を手で叩いて大きな音を立てた。
「グウェンチャン・エウルッカ」「アー・ユー・OK」すると衛兵とライトバンから下りたドライバーが歩み寄り、座ったままの杉本に韓国語と英語で「大丈夫か」と声を掛けてきた。
それに杉本は「グウェンチャン・ア」「シュド・ビー・ファイン」と韓国語と英語で「大丈夫だ」と答えて立ち上がろうとしたが痛そうに腰を下ろした。これは言うまでもなく演技だ。
「大丈夫ですか」そこに助手席からトミタ少佐が下りてきた。トミタ少佐は制止するドライバーには構わず膝をついて様子を確認する仕草をみせる。これで目的は達した。
「腰を打っただけで大事ありません」杉本は英語で説明した後、顔を近づけたトミタ少佐の耳元で「2時間後にソウル鉄道公社の時計台の前で」と日本語でささやいた。その瞬間、トミタ少佐の目に赤い炎が点ったのが判った。
ソウル駅には鉄道公社と空港鉄道の駅舎があり内部ではつながっているが入口は分かれている。時計台のモニュメントがあるのは鉄道公社の駅舎でも東口ではなく正面入り口だ。
「お待たせ」今日もトミタ少佐は遅れてきた。予定外に記者発表に出て質疑応答を受けることになったことを司令部に報告するための時間的余裕を考慮して2時間後と伝えたのだが、まだ足りなかったようだ。その割に化粧は念入りなので本当はこちらに時間を掛けたのかも知れない。
「うん、今日の記者発表はテレビで見ていたよ。急な出演で驚くかと心配していたけど流石はアメリカ合衆国海軍のサンディ・クミコ・トミタ少佐だ。立派だったよ」杉本の誉め言葉にトミタ少佐ははにかんだように笑った。このはにかみが日本人女性特有の感性らしい。
杉本は韓国政府の公式発表が近いとの情報を受けてこちらに来てから安楷林(アン・ヘリム)のマンションに連泊して毎晩のように抱いているが、日本人としての感性を色濃く残すトミタ少佐には不思議な郷愁を覚えている。
「君は夕食は」「それが国防部の海軍連絡官と基地の食堂で会食することになって済ませてしまったの。ごめんなさい」「それじゃあ、俺が食べるのを見ながら酒でつき合ってくれよ」「はい、よろこんで」杉本の提案にトミタ少佐は安心したようにうなずいた。そんな平静を保っている様子を見ながら杉本は心の中で首を傾げていた。
服用させることで性欲を劇的に高める媚薬は別として性器に吸収させた官能剤は後遺症的に効果を持続し、それが体内に入った直後に快感を与えた相手に接触するだけで興奮状態になるはずだ。郷愁を味わっている場合ではなくなった。今夜はそのために予約しておいたホテルで確認しなければならない。杉本はトミタ少佐の手を取ると宿泊するホテルへ向かった。
ホテルのロビーに面したレストランに入って杉本は韓国料理のセット・メニューを頼んだ。韓国のホテルのレストランも海外からの客に合わせて各国の料理を揃えているが、日本ほど本場志向が強くない上、自己主張が強い国民性のため味つけが微妙に違うとの悪評を耳にすることも多い。ならば逆に海外に誇示したいはずの韓国料理を頼む方が賢明なはずだ。
「やっぱりクミコも女性としてダイエットを気にしてるのかい」「軍人としての勤務や訓練に必要なカロリーは取るようにしているけど毎日体重計には乗ってるわ」アメリカ軍では肥満の将兵には階級に関係なく罰金を科していることは聞いているがトミタ少佐は関係ないだろう。考えてみれば本間も一応は女性自衛官のはずだが貧相と思えるほど細身だ。その点は他国の女性の軍人とはどこか体質・気質が違うのかも知れない。これは官能薬の効果とは別件だが。
そこに杉本の料理と一緒にバドワイザーの小瓶が運ばれてきた。トミタ少佐はそれを取ると栓を開けて顔の前に掲げてから一口飲んだ。
  1. 2018/10/22(月) 10:27:39|
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悪夢の政権交代の影の主役・仙石由人元官房長官が死んだ。

10月11日に民主党政権では人材不足を埋めるように多くの役職を渡り歩きましたが、やはり尖閣諸島で中国漁船が巡視船に衝突してきた時の対応が記憶に残る仙石由人元官房長官が肺癌でなくなったそうです。見た目よりも若い72歳でした。
野僧は仙石由人と言う名前は警備幹部として日本国内のテロ事件と裁判を研究していた中で昭和44(1969)年から昭和46(1971)年にかけて4回続発した爆弾送付事件(特に昭和46年12月18日の土田國保警視庁警務部長宅に送った爆弾で奥さんが亡くなった事件が有名)の裁判で被告人の無罪を勝ち取った辣腕弁護士として知りました。
仙石元官房長官は徳島県の父親は地方裁判所の職員、母親は日教組の熱心な活動家である教員と言う公務員家庭に生まれました。昭和39(1964)年に東京大学に入学すると60年安保で湧き上がった国民の怒りを高めて共産革命を実現しようとする学生運動・全共闘に参加して名を売りますが、在学中に司法試験に合格したため中退して弁護士になりました。弁護士としては日教組や労働組合、そして学生運動の活動家が被告になった裁判を専門として前述の実績を上げています。なお、福島瑞穂(本名・趙春花)議員はこの時に所属していた弁護士事務所の後輩です。
多くの日本人は誤解していますが学生運動でも共産革命を標榜する過激派(日本赤軍を含む)は選挙による政権奪取を目指すように方針転換した共産党とは分裂・対立しており、旧社会党こそ庇護者なのです。このため仙石元官房長官も十分に名を売った1990年の衆議院選挙に社会党から立候補して当選しています。ところが仙石元幹事長は影で自民党から資金を渡されて政治案件を取引している社会党の実態に失望して離党すると、別の看板での政権奪取を目指すようになって市民ネットワークを経て民主党に参加しました。
その後は素人集団の民主党の中では数少ない実務派として存在感を発揮する一方で、全く不似合いな保守色を演じるようになり、自主投票になった国旗国歌法では賛成票を投じただけでなく党内右派の前原派に加わっています。
しかし、実際は民主党と言う政党自体が旧・社会党と同じく日教組や国家公務員労組、自治労を母体とする連合が支持基盤であり、これらの組合員の多くは学生運動の活動が理由で民間企業に就職できなかった元革命戦士なので政治に求めていることに変わりはなく看板を掛け替えただけの亡国政党なのです(今度は「立憲民主党」に掛け替えています)。おまけに当時のマスコミ各社は国民に実態を知らせることなく民主党の宣伝媒体と化しており、その虚構を信じ込まされた日本人は民主主義が持つ危険な構造的欠陥を自ら発動させて戦後史最大の悪夢を現出してしまいました。
仙石元幹事長の罪科は学生運動の活動家の感覚で国政を取り仕切っていたことに尽きますが、実際、首相官邸への立ち入り許可証を公安調査庁や警察当局が危険人物として監視対象としていた元全共闘の多くの活動家たちに発給しており、彼らが官房長官の黙認の下で国家の最高機密を持ち出し、どこかに流していたことは間違いないでしょう。
共産主義者は宗教を信じていないので祈ることはしません。勝手に消えてなくなりなさい。
  1. 2018/10/21(日) 10:20:28|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ1348

「私は在韓アメリカ海軍のスポークスマンのトミタ少領です。只今、国防部に派遣されているアメリカ海軍の連絡官は青瓦台(大統領府)の調整会議に出席していて不在なので私が質問を受けることになりました」トミタ少佐の韓国語を杉本は初めて聞くが日本語と遜色がない流暢さだ。ここではルテナン・コマンダー=海軍少佐を韓国軍式に「少領」と言っている。
「大衆週刊誌である衝撃スクープの白(パク)です。先ほどの質問は聞いていませんか」流石の雑誌記者も若い女性が相手では口調が多少は紳士的になる。テレビでは他のマスコミ関係者がそれを嘲笑するような声が聞こえてきた。
「ここまで来る間に概略は聞いています。今回の事件の1週間前に鎮海区の基地から出港した我がアメリカ海軍の潜水艦が2週間経過しても帰港していないと言う事実と事件の関連についてでしたね」「はい、それで答えて下さい」トミタ少佐はスポークスマンらしく毅然とした雰囲気を保ちながらも場を和らげるための微笑を浮かべている。会場に居並ぶマスコミ関係者は次に言葉を発する口元を注視し、テレビもそれをアップにしている。
「御承知のように潜水艦の行動は軍事秘密に属しますからこの場で答えることはできません。それは事件との関連の有無についても同様です。むしろ貴方にその情報を漏らした人物を教えてもらいたいものです」この答えに雑誌記者だけでなく期待を裏切られたマスコミ関係者はアメリカで言うブーイングの声を上げた。
「つまり否定はしないと言うことですね。そうなると我々としては政府発表とは別にアメリカ海軍が関与している可能性についても報じることになります。それで良いんですね」雑誌記者はこの回答を利用して自分の雑誌を含むマスコミ各社が政府の公式発表とは別の可能性を報道することの責任をトミタ少佐に押しつけるつもりらしい。
トミタ少佐は会場内のざわめきが収まるのを待っていたが、その間に国防部の担当者が立ち上がって歩み寄るとマイクの電源を切って何かを話しかけ小声での話し合いが始まった。その様子に意識が移ったマスコミ関係者が黙るとトミタ少佐はマイクの電源を入れて口を開いた。
「韓国の憲法でも報道の自由は保障されているようですから貴方が正当な権利を行使することを制限する権限は平時の我々にはありません」これは見事な回避行動だ。マスコミ関係者には「権利の行使」を認めながらもそれが「正当」であることを要求している。しかも国連軍でもある在韓アメリカ軍には戦時おいて報道を統制する権限があることも再確認していた。杉本は前回の逢瀬でトミタ少佐が見せた機知に富んだ受け答えを思い出した。
「アメリカ海軍の潜水艦はハワイで日本の遊漁船に衝突して沈没させているじゃあないか。今回も協同訓練をやっていて衝突したんだろう」トミタ少佐からの痛撃に気色ばんだ雑誌記者は本性を現したが知識不足も露呈させたようだ。2002年2月にハワイ沖で急浮上したアメリカ海軍の潜水艦・グリーンビルが衝突したのは宇和島水産高校の練習船・えひめ丸であり、1988年7月に遊漁船・第1富士丸と衝突したのは海上自衛隊の潜水艦・なだしおなのだ。当然、トミタ少佐はこの誤りを詳細に訂正した。
「ところで貴女は韓国系ではなく日本系ですね」ここで突然、質問が余談に移った。雑誌記者としては自分で掘った墓穴に落ちてしまっては無理にでも話題を変えるしかないのだ。
「それはこの場で行われるべき質疑応答ではないように思いますが」「我々としては在韓アメリカ海軍のスポークスマンが日帝の血を引く人間であるならば少なからぬ違和感を覚えます。我が国国民のアメリカ軍に対する信頼にも影響を与えると思うのですが・・・答えて下さい」この回答者個人の血筋を問題視する暴言は日本であれば即刻中止させられるのだが、韓国では「日帝(イルジェ)」と呼べばそれだけで日本と言う国家だけでなく日本人までも悪役にできる。杉本もテレビに映っているトミタ少佐が平静を装っている姿が痛々しく感じた。
「確かに私は日本人移民の子孫です。しかし、アメリカ海軍の軍人であり、合衆国から海軍少佐の階級を与えられて在韓アメリカ海軍の立場を説明する職務を遂行することを命ぜられているのです。私の存在が韓国国民の信頼に影響を与えると言うのなら韓国の平和を維持するために日本が寄与している役割を正しく認識するべきでしょう」「今回の事件に関する質問はないようですから、これで3月26日に発生した我が国海軍のコルベット・天安沈没事件に関する国防部の記者発表を終了します」トミタ少佐の発言が終わったところで進行役は間髪を入れず終了を宣言し、同時に国防部の担当者は専門家たちの退室を待たずにトミタ少佐を連れ出した。テレビは取り残された記者たちが机の上を片づける様子と一斉に席を立って歩き始めた専門家たちを映しながら「終了」を意味するハングル文字が浮かび上がった。
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  1. 2018/10/21(日) 10:17:55|
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10月21日・トラファルガーの海戦でネルソン提督が戦傷死した。

1805年の10月21日に行われたトラファルガーの海戦で狙撃を受けて重傷を負ったホレーション・ネルソン提督が戦傷死しました。47歳でした。
ネルソン提督はアメリカのジョン・ポール・ジョーンズ提督、日本の東郷平八郎提督と共に世界三大提督とされていますが、ジョーンズ提督は武功で見劣りし、東郷提督は生前から神格化されていたが故に晩節を汚したためやはり別格と見るべきでしょう。
ネルソン提督は1758年にグレートブリテン島東部のノーフォークで牧師の6番目の子供として生まれましたが、父が病に倒れて家計が逼迫したため口減らしとして12歳で海軍軍人だった伯父を頼って入隊し、それからの人生は艦の上で送ることになりました。
16歳の時、東インド方面に赴任しますがマラリアに罹患したため帰国し、19歳で士官昇任試験に合格すると21歳にして軍艦の艦長になりました。26歳の時、乗艦の配置換えによりカリブ海にある植民地の鎮守府に転属し、独立直後のアメリカ商船の取り扱いを巡って施政官などと論争を巻き起こしましたが、その一方で弁務官の若妻への勝手な横恋慕を含む多くの恋愛を繰り広げ、最終的に28歳で夫を亡くした子連れの富豪の女性と結婚しています。これらの恋愛劇でも後の海戦で見せた積極性が随所に現れておりネルソン提督の人間性を知ることができます(後年には有名モデルの友人の妻を寝取っている)。
1793年にフランス革命が勃発してイギリスが戦争に突入すると艦長として地中海に展開し、革命軍の指揮官として頭角を現してきたナポレオン・ボナパルトさんと対峙することになり、1794年にはコルシカ島攻略作戦に参加して片目を失いました。1796年にフランスの支配下に入ったスペインの艦隊と対戦し、司令官の命令を無視して逃亡する敵艦を追撃すると2隻を拿捕する軍功を上げて少将=提督となりました。ちなみにこの年のカナリア諸島での戦闘で右腕を失い隻眼隻手がネルソン提督の代名詞になり、その後の海賊の頭目のイメージにも投影されています。
そして1798年にナポレオンさんがエジプト遠征を企てると荒天のため出港は阻止できなかったもののアレキサンドリアに停泊中のフランス艦隊を襲撃し、後に得意技となる敵艦隊の中央を突破して陣形を壊し、各個撃破する戦術で大勝利を収めました。
こうして迎えたトラファルガーの海戦はナポレオンさんが数的に優位であったフランス・スペインの連合艦隊でイギリス侵攻と同時に北海の制海権を奪取しようと起こしたものです。しかし、陸戦の天才も海戦では歴戦のネルソン提督の敵ではなく「英国は各員がその義務を果たすことを期待する」の信号旗を掲げて自らが先頭に立っての前述の戦術によってイギリス側は33隻(小型艦を含む)の全艦が残存し、戦死者449人の損害だったのに対して連合艦隊は41隻(同前)のうち22隻を大破、捕獲・破壊し(当時の海戦の火砲では撃沈できなかった)、戦死者4480人と言う大勝利を収めたのです。
惜しむらくはこの指揮官先頭、艦隊決戦で勝敗を決する美学が世界の海軍に与えた影響が過大で第2次世界大戦で日本海軍が自滅していく遠因にもなりました。ネルソン提督自身も指揮官先頭を見越してマストの上に配置されていた狙撃兵の銃撃で命を落としています。
  1. 2018/10/20(土) 09:23:51|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ1347

大手新聞による質疑の内容と追及は共に常識の範疇に留まっている。同時通訳をイヤホーンで聞いている各国の専門家たちも安堵の表情を浮かべていた。
「それでは時間も迫っていますのでそろそろ・・・」進行役が記者発表の終了を告げようとした時、後ろの席に座っていた男が手を上げた。この男は服装も他のマスコミ関係者がスーツにネクタイを締めているのに比べてラフなジャンバーにGパン姿で会場に入る時も廊下で警備員に呼び止められて身分証明証と記者証の確認を受けていた。
進行役は困った顔を国防部の担当者に向けたがこちらは渋い顔でうなずいて指名を許可した。
「衝撃スクープの白(パク)です」この雑誌は大手新聞の記事の中から大衆が関心を持ち、怒りの声を上げそうな出来事を選び、その背景を取材して扇動することで購読者を獲得している。したがって質疑が常識から逸脱するのは始めから予測できた。
「今回の発表では始めから北韓の潜水艦、若しくは小型潜水艇による攻撃で天安が撃沈されたと結論付けているように感じます。言い換えれば北韓の攻撃であることにするための証拠固めをする目的で合同調査団が編成され、その結論の権威づけに利用されたと見ることもできます」この指摘に他国の専門家たちは顔を赤らめて怒りを露わにし、逆に韓国の専門家は青ざめている。それでもこの雑誌記者は挑発するような口調で質問を切り出した。
「今回の事故の1週間前に昌原市鎮海区の在韓アメリカ海軍基地から出港した潜水艦が1隻、2カ月が経過した現在も帰港していません。通常の航海は長くても1ヶ月程度と言うことですから異常な事態でしょう。この天安の沈没と何らかの関係があるのではないですか」これは新聞ではなく事故が発生して間もなくインターネット上で注目を集めた投稿者不明の記事だ。この雑誌は単なる推理マニアの戯言として見過ごすことはせず詳細な裏づけを取ったらしい。
国防部としてはかなり広範にわたる想定問答集を作成して回答を準備していたのだが流石にこれは予測していなかったようだ。担当者はマイクの電源を切って進行係を呼び寄せて指示を与えると足早に退室した。杉本が見ているテレビはこの一連の動きを中継し続けており、国防部の焦燥感が強く印象づけられた。
「只今、国防部の担当者は質問内容に関する確認のため一時的に退室しました。しばらく待って下さい」「それではこの時間を利用して専門家の皆さんに質問させてもらいます」雑誌記者は時間を無駄にする気はないようだ。日本の官公庁の記者クラブでは新聞とテレビ局だけを加盟させており雑誌は基本的に除外されている。したがって大臣や首長の定例会見は記者クラブを対象としているため蚊帳の外に置かれており、まれに雑誌社が参加できても指名は新聞やテレビが優先されるため残り時間に割り込むしかない。韓国には記者クラブなどと言うマスコミの本務である取材を放棄した制度はないが、やはり内容が即座に購読数にはね返る雑誌記者の情報に対する貪欲さは新聞やテレビの比ではないようだ。
「専門家の皆さんに同時通訳しているのは我が国の言語での質疑応答を英語に翻訳しているだけですから直接の質問と回答には応じかねます」進行役は苦し紛れながら絶妙な弁明をした。すると雑誌記者は不敵に笑うと流暢な英語で質問を始めた。
「オーストラリアの貴方の専門は何ですか」「造船工学です。▲△大学では機械工学を教えています」雑誌記者と進行役の会話は同時通訳されていなかったようで質問をされたオーストラリアの専門家は素直に答えてしまった。先ほどの侮辱的発言に対する怒りも英語で直接質問してきたことで忘れてしまったらしい。
「イギリスの貴方は如何ですか」「私は○×★☆造船所の技師長です。なお、当造船所は王室海軍の艦艇の建造も請け負っています」韓国人の英語は戦後の日本と同様にアメリカ式英語なのでオーストラリア人の発音には近いが、本場クイーンズ・イングリッシュと聴き比べると品格が落ちるように感じる。それでも構わず質問を繰り出すところが雑誌記者だ。
「スウェーデンの専門家も英語には堪能でしょう。そうでなければ英語と韓国語で進められる現場での仕事はできませんから」「はい、大丈夫です。私も◆◇▼▽造船所の技師長です。我が造船所も王室海軍の艦艇を建造しています」ここまでくると雑誌記者のペースにはまりそうだが、流石にアメリカの専門家は踏み止まった。
「私は韓国政府からの要請で合同調査団に加わっているのですから公的資格を有してこの席に座っています。したがって進行役の指名を受けていない貴方の質問に答えることはできません」この回答に他の専門家たちは自分の軽率さに気づき顔を見合わせた。そこに国防部の担当者が白い半袖の軍服を着た女性を連れて戻ってきた。
「クミコ・・・」杉本は大写しになった女性の顔を見て独り言を呟いた。それは在韓アメリカ海軍のスポークスマンであるサンディ・クミコ・トミタ少佐だった。
  1. 2018/10/20(土) 09:22:24|
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10月20日・敗戦後の偉大なる宰相・吉田茂の命日

昭和42(1967)年の10月20日は敗戦後、占領軍を相手に卓越した国内外交を展開した偉大なる宰相・吉田茂総理の命日です。89歳でした。
吉田総理は高知県出身と言うことになっていますが(戦後は選挙区で選定する)、実際は父親が土佐藩士であったこと以外はあまり縁がなく母親は長崎の芸者であり、明治11(1878)年に父親が反政府謀議の嫌疑で投獄されたため逃れた東京で生まれています。
生まれて間もなく父親の親友で旧福井藩士の吉田家の養子になりましたが、養母は幕府の御用儒学者の娘であり、武士の子として厳格に躾けられたようです。ところが11歳の時に養父が40歳で早逝したためアメリカの貿易会社の横浜支社長として築き上げていた莫大な資産を相続することになり、この辺りで後年、「貴族趣味」と揶揄されることになる庶民感覚から外れた独特の生活形態を身につけたのかも知れません。
そんな富豪少年であったため勉学は自由奔放で、高等商業学校(現在の一橋大学)に入りながらも「商人は性に合わない」と退学し、慶応義塾や東京物理学校(現在の東京理科大学)も同様に中退して、結局、学習院の高等科・大学科に進みました。ところが大学科が閉鎖されたため無試験で東京帝国大学法科に編入して日露戦争が終わった翌年の明治39(1906)年に卒業しています。卒業後は志望通り外交官になりましたが任地は満州でした。吉田総理と言うと「軍隊嫌い」の印象が強いため満州でも軍の暴走を抑える役柄を演じたと思ってしまいますが、実際は軍人以上の強硬派で後の満州国樹立につながる「満蒙分離論」を主張していました。ところが欧州情勢については第1次世界大戦の敗戦から立ち直りつつあったドイツに対しては強い警戒感を持っていて英米との外交調整と同時進行での満州の支配権の確保を模索していたようです。
その後、昭和3(1928)年に田中義一内閣の外務次官を務め、昭和5(1930)年にイタリア大使、昭和11(1936)年からはイギリス大使に就任しています。イギリスではナチス・ドイツに心酔する大島浩大使の過大宣伝を訂正する報告を送って日独伊三国軍事同盟の阻止に努力しましたが力及ばず、昭和15(1940)年に同盟が締結されたのを受けて帰国すると外務省を退官して政界に活躍の場を移しました。昭和20(1945)年4月には近衛文麿元首相などとの終戦工作が露見して特高警察に拘束されましたが、これが敗戦後に「反軍国主義者」としての身分証明になったのです。
敗戦後は東久彌宮内閣、幣原内閣の外務大臣を務め、昭和21(1946)年5月から先ず1年間の政権を担いますが日本国憲法の制定に伴う選挙で第一党の座を社会党に奪われたため下野して政権の混乱を傍観しながら昭和23(1948)年10月には政権への復帰を果たし、昭和29(1954)年12月まで長期政権を維持しました。
吉田総理の偉大さは新聞や学者たちがソ連や共産党政権の中国を含めた「全面」講和を扇動する中、昭和27(1952)年に実際は当時の国連加盟国60カ国の大多数である49カ国が署名したサンフランシスコ講和条約の締結に踏み切ったことです。さらに同日に調印した日米安全保障条約には次代の政治家に傷をつけないため単独で署名しています。
  1. 2018/10/19(金) 10:02:53|
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振り向けばイエスタディ1346

5月20日、韓国ではアメリカ、イギリス、オーストラリア、スウェーデンの民間人によって編成された合同調査団の検証結果が発表された。当然、杉本は韓国入りしているがソウルの国務総理・国防部で行われた記者発表に出席する資格はない。そうなると安楷林(アン・ヘリム)のマンションでテレビ中継を見ているしかなかった。
中継では国防部の担当者が中央の席に座り、その隣りに韓国の専門家、この2人の両脇にヨーロッパ人の専門家たちが並んで座り、机の上には国名と名前を記した札が置かれている。
「3月26日午後9時45分頃、これは我が国の標準時間です。韓半島(=朝鮮半島)西方の黄海上の北方限界線=NLL付近で我が海軍のコルベット・天安が爆発・沈没した原因を究明するべく我が国とアメリカ、イギリス、オーストラリア、スウェーデンの民間の専門家によって編成された合同調査員会の検証結果を発表します」この前置きはアメリカよりも日本に近い。アメリカでは文書で配布している内容は知っている前提で会見が始まり、日本のように文章を補足・説明することもなく読み上げるのは時間の無駄と非難されるのだ。
「先ず外観上の破損について説明します」ここで発表している国防部の担当者の背後のスクリーンに引き揚げられた天安の艦体の画像が映され、それを撮影するデジタル・カメラの仮装シャッター音が一斉に響き始めたため収まるまで会見は中断した。
「艦体への損傷孔については中央の艦橋の下部の水面下に1つです。これは外部から固形物が強く衝突して艦体の側舷を貫通したことを示しています」振り返った担当者はレーザー・ビームで説明した個所を示した。杉本はこの現物を見ているが嘘は言っていない。
「この衝突孔から内部に入った直径30インチ(76センチ)程度の円筒状の物体が艦内で爆発を起こし、それが燃料タンクを誘爆させたため艦体が2つに破断して急速に沈没したものと推察されます」ここまで担当者はその爆発部が何なのかを明確にしていない。やはり出席しているマスコミ関係者も少し苛立ち始めた。それでも質疑応答は説明後と言うことになっているらしく不機嫌そうな顔で隣席の同業者と小声で話し合っているのが画面に映し出されている。
「これらの検証結果から戦闘艦である天安に衝突して一瞬にして艦体を断裂させて沈没させた物体は魚雷だったと断定します」ここで待ちかねたようにマスコミ関係者はざわめき始めた。要するに政府発表に対する不審感を表現するための演出らしい。
「なお、艦内と沈没海域で回収された部品の分析からこれが東側で使用されている魚雷であることが判明しました。結論的には北韓(=北朝鮮)の潜水艦、若しくは小型潜水艇によって発射された魚雷により天安は撃沈されたものと推断します」ここまでくれば質疑応答は目前だ。マスコミ関係者は一番乗りを勝ち取るべく肘を曲げて挙手の準備を始めた。
「以上ですが何か質問が・・・」「はい、大韓日報の金(キム)です」大手新聞社は存在感を見せつけるためなのか指名を待たずに一方的に名乗り、これで質問権を奪取した。
「東側の魚雷の破片が回収されたと言うことですが具体的にどの部分が発見され、どのような特徴から東側の物であると断定したのですか」流石に大手新聞社だけに質問は常識的だ。質疑については隣りに座っている韓国の専門家が答えるようで、映像にはハングル文字でこの専門家の肩書が流れたが□■大学の造船工学の教授で工学博士らしい。
「魚雷の前部は爆発によって艦体に付着している火薬類の微細な粉末しか回収できませんでしたが分析の結果、西側では使用していない火薬であることが確認できました。また推進部の部品は艦内に残っており、海底からも多数回収できましたが専門家の鑑定により北朝鮮が後進国(=発展途上国)に輸出しているCHTー02Dであることが解明できました」この言葉だけの説明では結論を証明することはできていない。大韓日報の記者も不満を露わにしている。
「その部品の現物を公開するべきでしょう。この魚雷は東側では標準的に使用されているはずなので北朝鮮による攻撃と断定することに国民は納得しないはずです」これは質問ではないため国防部の担当者は無視することに決めたらしく進行役に別の質問者を指名させた。
「半島日報の朴(パク)です。燃料タンクに誘爆したと言いましたが火災は起こさなかったのですか。先ほどの天安の写真を見る限り焼け焦げた跡は認められないんですが」これも中々に鋭い突っ込みだ。韓国のマスコミも政権が秘密裏に検証を進めている間も無為に過ごしていた訳ではなく独自に調査を進め、可能性を考察していたのだ。ただし、信頼性は確保できていない。
「一瞬のうちに断裂して沈没したため炎上はしていないようです」「これは生き残った乗組員の証言とも一致します」ここは専門家と国防部の担当者が代わる代わる答えた。艦体や魚雷の検証と生存者からの事情聴取では担当が違うようだ。しかし、映像からはマスコミ関係者の後ろ姿に何故か白けた空気が漂っていることが伝わってきた。
  1. 2018/10/19(金) 10:01:30|
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10月20日・まさしく天変地異になった台風23号が上陸した。

2004年の明日10月20日に国土の防災工事が進んだ昭和55年以降としては最大規模で2011年の台風12号と並ぶ98名の犠牲者を出した台風23号が高知県土佐清水市付近(航空自衛隊の分屯基地がある)に上陸しました。
九州・四国・本州・北海道に上陸した台風としては1990年11月30日に和歌山県白浜町に上陸した28号、昭和42(1967)年に愛知県の34号、2017年10月23日に静岡県掛川市付近の21号に続く4番目の遅さでした。
この台風は沖縄近海を北上している時には超大型に成長していたものの海水温が下がっていたため徐々に衰え、通常の大型で高知県に上陸したものの梅雨前線を引き摺り込む形になったことで広範囲に豪雨と暴風の被害を及ぼしたのです。
さらに四国に上陸してから大阪を通過して北陸に抜ける定期路線を外れ、四国を斜めに横切って大阪を直撃し、そのまま岐阜県、長野、群馬の山岳地帯を抜けて茨城県から太平洋に出る異例の進路を取りました。このため高山を越えることによる負荷で急速に勢力を衰えさせたのですが、速度が上がらないことで長時間にわたって暴風が吹き続け、さらに豪雨によって土石流や山体崩落を引き起こし、特に富山県では台風に備えて投錨・停泊中だった帆船・海王丸が強風と高波によって漁港の波消しブロックに衝突・座礁する事故を起こしました。この他にも山間部を走る鉄道が大きな被害を受けています。
しかし、何と言っても天変の台風に続いて地異を経験することになったのは新潟県でした。台風一過で安堵したのも束の間の10月23日の午後5時56分に阪神・淡路大震災に匹敵する震度7、マグネチュード6.8の中越地震が発生したのです。不幸中の幸いだったのは震度が大きかった地域は比較的人口が少ない田園地帯であり、しかも豪雪地帯のため家屋の構造が堅牢だったことで阪神・淡路大震災ほどの被害は発生しませんでした。
また関東大震災が昼食の支度をしている昼前であったため大規模な火災が発生したのに対してこちらは夕食の準備をしている時間帯であったにも関わらず火災は9軒だけでした。これも家にいた高齢者の多くは昭和39(1964)年6月16日の新潟地震を経験していたため沈着冷静に対応したことが大きかったようです。
その一方で山間部では台風では持ち堪えていた山体の崩落が発生して中小河川を堰き止めたため折からの増水(山間部では森林が雨水を抑えるため増水は遅れる)が氾濫して各地で洪水が発生しました。また上越新幹線が初めて脱線(死者・負傷者はなかった)するなど鉄道は鉄橋の崩落、線路の歪曲や破壊、架線の切断などの甚大な被害を受けました。
ちなみにこの地震は2011年3月11日に発生した東北地区・太平洋沖地震に思い掛けない禍根を残しました。この地震によって新潟県の柏崎原子力発電所では水没を避けて高い棚に置いてあった非常用電源の蓄電池が落下して破損したため東京電力は低い位置に移設させたのです。その結果、福島原子力発電所では津波によって水没した蓄電池が全て使用不能になって非常電源が確保できない事態に陥りました。
それでも順番が逆の地異天変=地震の次に台風でなくて本当に助かりました。
  1. 2018/10/18(木) 09:16:14|
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振り向けばイエスタディ1345

「お父さん、大発見があったんだ」裁判の日程変更への対応の打ち合わせが長引いて帰宅したのは消灯ラッパが鳴る時間帯だった。すると待ちかねたように淳之介から電話が入った。どうやら留守中に何度も電話してきていたようだ。
「そこまでして伝えたいこととなると・・・あかりが身籠ったのか」これは期待を込めた回答だがやはり外れだった。仮に妊娠していたとすれば無理な日程で旅行を計画するはずはない。何よりも梢が許さないだろう。
「俺やお父さんと山形の関係が判ったんだよ」「山形と・・・何か関係があるのか」想定外の展開に打ち合わせで疲れている頭の思考が追いつかない。私は幼い頃から父親やその長兄の伯父から「モリヤ家は」と言う中身のない講釈を聞かされ続けてきたが山形については全く聞いたことがない。父親や伯父は「モリヤ家は幕府天領地で代々庄屋を務めてきた由緒正しい家柄だ」と誇示していたが、父親の祖父は生まれて死ぬまで一度も仕事をせず、年貢を納めるのに自分の土地だけを通って代官所に行けたと言う田畑を切り売りしては白い馬に乗って遊郭に通って家を没落させたとも聞いている。おまけに中学時代に郷土史を研究すると父親の実家がある集落は三河・遠江・信濃への交差点でもあり、松平・牧野(吉田=豊橋の領主)・今川・武田が繰り広げた合戦の後、多くの武将がここで消息を絶っており、落ち武者狩りに遭ったのではないかと推察していた。つまりモリヤ家の先祖がその首謀者だったと言うことになる。
「お父さんのお祖父さんは集団就職で山形県の角川村から中部電力に入って婿養子になったんだって」「それは本当か」まさしく大発見だ。思い掛けない吉報に私は一気に力がみなぎってきた。それが本当であれば私には母方の祖父の旧尾張藩士の陸軍少将の血と父方の祖父の東北人の血が流れており、生まれて以来、悩まされ続けてきたモリヤ家の血と東三河との悪縁が半減することになる。これほど悦ばしい事実はない。
「雄馬兄ちゃんに頼んでお祖父ちゃんに訊いてもらったんだ。お父さんは知らなかったの」「うん、あの親父のことだから自分の父親が東北から集団就職してきたことを恥だと思っているんだろう。億尾にも出さなかったな」これは夫婦・親子の間に秘密がない家庭で育った淳之介には理解できない説明だったようだ。
「東北って素晴らしい土地だったけどな」「うん、ワシも航空自衛隊時代の演習や司法修習で青森県に行ったことがあるが、大自然と佛神の世界に人間が間借りしているみたいに感じたな」実は同じ神秘性を沖縄の離島でも感じていたのだが、その大自然を掌って(つかさどって)いるのは沖縄では海洋の佛・ミルクユガフ、青森では大地の神・アラハバキだった。要するに東三河の賤しい功利主義の価値観でしか物を見ない連中には大自然の豊穣の恵みや人の心の清らかさ、優しさ、温かさを感じ取る至福は理解できないのだ。
「でも、俺は沖縄でも八重山に住んでいるから山形のことを調べられないんだ。お父さん・・・」「オフ・コース(勿論だ)、ナッタ セイ(ノット ア セイ=何も言うな)」この返事は志織用だった。 電話口で淳之介が反応しないので日本語で言い直した。
「判った。仕事の合間を見て調べるから楽しみに待っておけ」「はい、お願いします。おやすみなさい」気がつくと時計は11時を指している。淳之介も出港準備があって出勤時間が早いようだが私もシャワーを浴びて寝なければ明日が心配になる。と思ってカレンダーを見ると明日は土曜日なので休みだった。明朝は佳織の官舎に出かける予定だ。
「公務御多用中のところに掛かる私的問い合わせの書簡をお送りするご迷惑をお許し下さい」翌朝、途中のコンビニで買ってきた往復葉書で山形県最上郡戸沢村の役場に照会の書簡を書いた。インターネットで調べたところ山形県角川村は現在、最上郡戸沢村に統合されていることが判ったのだ。ついでに観光案内を見ると戸沢村は最上川の川下りで松尾芭蕉が下船した場所であると紹介されている。つまり「五月雨を 集めて早し 最上川」の句を物した舞台である。少なくとも芭蕉は東三河を流れる豊川で俳句を詠んではいない。
それにしても祖父の名前が永之進と言うことくらいしか知識がないので受け取る側には大変な迷惑なのは判っている。それでも糸口を掴むためには思いつく手段を全て使い尽くすしかないのは情報戦のイロハだ。しかし、自分の父親の出身地や旧姓を隠蔽し続けているモリヤ一族の異常性には言葉も出ない。おそらく私自身も父親の意向に背いて家を捨てた不孝者として存在を消去されることになるはずだ。本当は航空自衛隊に入った時点でそうしてもらえれば梢に哀しい思いをさせることもなく幸せな人生を送れたのだが、それでは淳之介とあかりの結婚がなくなってしまう。人の縁(えにし)とは面白くも難しく不可思議なものだ。雄大な急流・最上川を見て育った祖父は貧弱な豊川を眺めながら何を思っていたのだろうか。
  1. 2018/10/18(木) 09:15:18|
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振り向けばイエスタディ1344

自宅についてコンビニの弁当で夕食を始めたところに愛知県の従兄・雄馬からメールが入った。雄馬には茶山邸から白石川で2人が感じた蔵王山=山形県からの不思議な呼びかけについて説明し、祖父に思い当たることがないかを訊いてくれるように頼んでいた。
「兄ちゃんからだ。随分と早いなァ」淳之介は蓋を開けた弁当をそのままにして携帯電話を手に取った。あかりも箸を置いて興味深そうに顔を向けている。
「何々・・・祖父さんのお父さんは山形から婿養子に入ったんだってさ・・・かァ」何も考えずにメールを読み上げるとあかりが驚いたような顔をした。考えてみれば淳之介も安里家に婿養子に入っている。山形県から愛知県に婿養子に入るのと首都圏在住の親の子が沖縄に来るのではどちらが遠距離なのか。地図が頭で描けないあかりには答えが出なかった。
「集団就職で中部電力に入ってそのまま結婚したんだってよ・・・かァ」雄馬のメールは完全に口語体のようだ。この従兄は昔から勉強よりも体育が好きだったので会話を文章化するような面倒なことを期待する方が間違っている。
「山形県でも角川村って言う場所の出身だってさ・・・なるほど」これは父に知らせるべき情報だろう。父には淳之介とあかりが蔵王山に呼びかけられた話はしている。すると父も航空自衛隊に入って以来、曹侯学生基礎課程の区隊長から浜松・第1術科学校の航空機整備電機課程の教官、さらに沖縄の職場の先輩まで山形県出身者ばかりで自然に山形弁を憶えたと言っていた。この情報を伝えれば持ち前の情報網で祖父の没後は音信不通になっているらしい実家を探り当て、親族と連絡を取るはずだ。
「ド田舎から都会の愛知県に逃げて来たんだってよ・・・何だとォ」読み上げておいて淳之介は怒ってしまった。名古屋市の郊外とは言え守山から見れば祖父の家がある宝飯郡一宮町(当時)こそド田舎だった。逆に父はそのド田舎を「この世の物とは思えないくらい酷い土地だ」と言っている。おそらく自分の祖父が山形県出身だと知れば感激して号泣するのではないか。
「祖父さんが急にどうしたって疑って困ったぞ。お詫びに洋酒を送れ・・・てか」オチは謝礼に減税の洋酒の要求になっている。雄馬もハワイで免税の洋酒の値段=原価を知り、沖縄もそこまでではないにしても特例処置で減税になっていることを聞いて以来、機会を見つけては「送れ」と要求してきている。確かに今回は口止め料を兼ねて送るべきかも知れない。淳之介は雄馬から祖父があかりとの結婚に反対していたことを聞いて父に倣って縁を切っているのだ。
「と言うことだ。お待ちどおさま」淳之介は礼の返信は後回しにして携帯の電源を切ると目の前で待っているあかりに声をかけた。
「はい、いただきます」「いただきます」もう一度、手を合わせて弁当に箸をつけた。
「何だかご飯が甘くないように感じる」「うん、歯応えも違うなァ」1口食べたところで2人とも不満を口にしてしまった。確かに東北で食べたご飯は茶山家で奥さんが炊いているものを含めてオカズなしでも食が進むくらい美味しかった。だから父には悪いが東京で食べたご飯もあまり美味く感じなかったのだが沖縄のご飯はさらに落ちる。
「でも何時もはこれを食べて満足してたんだから元に戻りましょうよ」「うん、そうだな」あかりの言葉に淳之介も同意してさらにもう一度、手を合わせてご飯を食べ始めた。
「お手数掛けました。そのうち洋酒を送ります。銘柄は何が良いですか」食後にお礼のメールを送った。沖縄では洋酒は減税になっているが石垣島では沖縄本島から運んでくる輸送料が加算されるため割高になる。だから今年は5月21日の清明(シーミー)で帰った時に送るつもりだ。勿論、義母に頼めば手配してくれるはずだが急ぐ必要はないだろう。祖父と叔母の好悪だけに振り回されているあの家では何も考えないことが処世術なのだ。
「そろそろシャワーを浴びませんか」メールを打ち終わって溜まっていた新聞に目を通しているとあかりが声を掛けてきた。考えてみれば旅行中の5日間はあかりの身体に触れていない(腕枕は除く)。それを思い出すと鼻血が噴き出しそうになった。
「よし、浴びよう。服は俺が脱がしてやるから待ってろ」淳之介は立ち上がるとトイレに向かい、あかりが交代で入っている間に全裸になった。尤も、あかりには見えないのでそこは安心だ。
「はい、お待たせしました」戻ってきたあかりは淡々と淳之介の前に立った。その前に淳之介自身も起っている。以前は恥らった顔が興奮を誘ったが今では日常の出来事になっている。淳之介ははやる気持ちを抑えながら優しくあかりの服を脱がした。
「湯船につかるのって気持ち好いよね」狭い浴室でシャワーの水が温かくなるのを確認しているとあかりが話しかけてきた。あかりは茶山邸で初めて湯船につかり、翌日は大河原の温泉も経験した。あの快感を満喫してしまうとシャワーでは物足りなくなる。
「ババンババンバンバン・・・好い湯だな」淳之介は父に習った入浴の歌を口ずさみ始めた。
  1. 2018/10/17(水) 09:49:04|
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振り向けばイエスタディ1343

「お母さん、これは東北のお土産です」翌日の全日空で那覇空港に帰った淳之介とあかりはゲート前で待っていた梢に大きな紙袋を手渡した。
「こんなに沢山もらうと困っちゃうさァ、私は仕事中なのよ」紙袋の中には色々な大きさの箱が見える。どうやらお菓子だけではなさそうだ。
「笹蒲鉾は醤油と山葵(わさび)で食べるとオカズになるし、そのままでも美味しいよ」「お父さんが『ディープキスの味』だって言っていました」夫婦の説明はハシャギ気味だ。まだ旅行の興奮が収まり切れていないらしい。確かに笹蒲鉾の形と大きさは突き出した舌のようだが、梢はそれほど濃厚なキスをしたことはない。かと言って佳織でもなさそうだ。実はモリヤはアメリカ海兵隊のジェニーとの経験で言っていたのだがそれは誰も知らない。
「『萩の月』は私が今まで食べてきたお菓子の中で一番美味しかったよ」「一番大きな箱を買って来たけど多分、すぐに終わっちゃいます」今度は興奮ではなく舌舐めずりしそうな顔になった。実は仙台市内には「萩の月」の自動販売機があって1個ずつバラで買うことができる。淳之介とあかりは茶山元3佐が買ってくれた「萩の月」を車の中で食べて非常に感動したのだ。梢も2人の顔を見ていて家に帰って開けるのが待ち遠しくなってきた。
「5合パックは東北の地酒です。オジイは島酒専門だけどたまには日本酒も味見してもらって下さい」やはり酒は淳之介が説明する。そう言う淳之介も沖縄で酒を覚えたため島酒専門のはずだが、ワザワザ土産に買ってくるくらいだから東北の地酒は気に入ったようだ。
「あッ、あまり長話してちゃあいけないんだった。私は仕事中なのよ」そこで梢は自分の珍しいウッカリ・ミスに気がついた。最初の台詞を繰り返すと踵(きびす)を返して琉球ツーリストのカウンターに向かって早足で歩き始めた。
「お母さん、ありがとう。本当に楽しかったよ」母の足音を耳で追ったあかりが声を掛けると梢は歩きながら「それなら良かった」と返事した。
「お礼にアンガマの面を送ろう」石垣島に帰るとタクシーの中で淳之介が思いついたように言い出した。アンガマとは老夫婦の面で爺さんのウシュマイと婆さんのンマ(ウンマーと発音する)の一対だ。太陰暦の8月15日の夜にこの面をかぶった2人を先頭に顔を隠して笠をかぶり、蓑などを着けた集団で家々を回り、ウシュマイが位牌を拜んだ後、家の主人に祝辞を述べ、酒などの饗応を受けている間に玄関先や庭、家の中であの世の語りや歌、踊りを披露するソーロン(祖先供養)アンガマや新築のお祓いである家造りアンガマなどで用いられる。
「私、アンガマって判らないんだけど」あかりは八重山独自の儀式そのものを知らない。この面は郷土玩具として観光客相手の土産物店にも飾られているのだがあかりには見えないのだ。
「うん、オジイとオバアの面なんだけどシマンチュウとは思えない顔なんだよ」確かにアンガマは角ばった顔が多い沖縄の人たちにはあまりいない面長だ。それは本土にいた頃、父の本棚にあった何かの本で見た高砂の老夫婦に似ている。
「取り敢えず家に帰る前に市内で買って行こう」「民芸品を買うならやちむん館だね」淳之介の話を聞いていた運転手が客引きなのか店の名前を言ってきた。淳之介としても土産物店で買うよりも専門店の方が安心できるので案内してもらうことにした。
「アンガマの面ですかァ。ウチは踊りで使う本物しか置いていませんから大きいですよ」やちむん館の店主はナイチャーが沖縄でも八重山に移り住んだヤイマンチュウ・ナイチャア(八重山本土人)だった。その点では沖縄本島の人にもなれなかった父より一枚上手だ。
「その方が良いんです。土産物店で売っているミニチュアじゃあ玩具みたいですから」「はい、判りました」そう返事をして店主は奥に入っていった。あかりはアーケード街の一角の狭い店内に所狭しと小さな民芸品が並べられているため入ることができず店の前で待っている。淳之介はあかりのところまで出てきて説明した。
「茶山さんは桃太郎を育てたお爺さんとお婆さんの子孫だって言っていただろう。だからアンガマを家の神さまにしてもらえば丁度良いって思ったんだ」「流石ァ」ようやく淳之介の考えが判ってあかりも納得した。あかりも母に読み聞かせてもらった日本の昔話で桃太郎は知っているが「山に芝刈りに」「川に洗濯に」と言う情景は理解できていなかった。それが今回の旅行でその現地を歩くことができたためお爺さんとお婆さんをとても身近に感じるようになっている。その時、店主が奥からアンガマの面と掛けて飾る額を持って出てきた。
「これでよろしいでしょうか」「妻に触れさせてやって下さい」淳之介の依頼に店主が面をあかりの前に差し出すと指で顔を撫でた。
「顔中に皺が刻まれてるね。やっぱりオジイとオバアさァ」あかりも満足してくれた。
アンガマアンガマ
  1. 2018/10/16(火) 09:20:55|
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10月15日・女スパイの代名詞?マタ・ハリが銃殺された。

1917年の10月15日に第1次世界大戦下のヨーロッパで暗躍して女スパイの代名詞になったマタ・ハリ(本名・マルガレータ・ヘールトロイダ・シェレ)さんがフランスのサンラザール刑務所内で銃殺されました。41歳でした。
マタ・ハリさんは1876年にオランダで人気帽子店を経営しながら投資によって巨大な資産を有していた裕福な家庭の4人姉弟の長女で1人娘として生まれました。長女で1人娘だったことで父親に溺愛され、我がまま放題に育ちながらも13歳までは上流階層の子女としての教育を受けましたが父が投資に失敗したことで没落して両親は離婚、姉弟も別々の親族に引き取られて一家は離散してしまいました。このためマタ・ハリさんは十代半ばにして経済的に自立することを迫られ、幼稚園の教員になるために進学したものの美貌に魅せられた学長のお手つきになったことで教職員や他の学生の嫉妬を買い、退校を余儀なくされたのです。
19歳の時、新聞の結婚相手募集の広報に応募して21歳年上のオランダ軍の大尉と結婚すると当時はオランダの植民地であったボルネオ、スマトラ、ジャワ(現在のインドネシア)に赴任しました。現地では2人の子供を得ながらも生来の派手好みの生活がさらに進み、軍人の家庭としての自制を求める夫との間に軋轢が生じ、夫の浮気や暴力もあって息子の死を機に離婚してしまいました。この時、残った子供は夫が引き取ったためマタ・ハリさんは完全な独身に戻ることができたのです。
離婚後はオランダに帰国して間もなく職を求めてフランスに移住しますが、そんな折、友人のパーティーで余興として披露した見よう見まね(正式には習っていない)のジャワの舞踊が大喝采を受けたことでダンサーとして活躍するようになりました。こうしてマレー語で「太陽の眼」を意味する「マタ・ハリ」の芸名を名乗り、異国風の容姿を活かした「ジャワ島から来た王女」「インドの寺院に仕える踊り巫女」との触れ込みで社交界に売り出し、その妖艶な魅力で多くの男性たちを籠絡していったのです。
マタ・ハリさんの相手はフランスだけでなく興行で訪れたヨーロッパ各国に広がり、中でもフランスとドイツの多くの政治家や軍の高級将校たちはその肉体に溺れ、寝物語に軍事機密を漏らしていたと言われています。このため1914年に始まった第1次世界大戦で苦境に陥っていたフランスは国民の不満の捌け口として元凶を作る必要に迫られ、マタ・ハリさんを人身御供に仕立て上げたと言うのが現在の定説です。
戦時下の銃殺刑の模様については記録も非公開だったため数々の憶測が独り歩きして伝説を作っていますが、その多くは「死をも嘲笑うような態度を取っていた」「銃殺を担当する兵士までがその魅力に迷わされた」と言う有りそうで有り得ない虚構のようです。
確かにマタ・ハリさんは現存する写真を見ても恐ろしいほどの色気を発する美貌と肉体の持ち主であり、多くの男たちが術中にはまるのは至極当然でした。それは清朝の王女で日本の大陸浪人・川島浪速の養女になって満州国建国に関わったことで勝手に「東洋のマタ・ハリ」と称された川島芳子とは比べ物になりません。
  1. 2018/10/15(月) 09:01:57|
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振り向けばイエスタディ1342

淳之介とあかりが帰ってくる日も私は半日の休暇を取って東京駅で出迎えるつもりだったが、担当している裁判の日程変更が通知されたため諦めざるを得なくなった。
司法と政治の間には相互不干渉の原則があり、司法は政治を法的に監視する立場にあるが、実際は人事権・予算権を政治に握られている以上、影響を受けることは避けられない。
検察側は明らかに不利に陥っているこの政治色が強い裁判を反自衛隊だけが存在理由の社人党が加わっている雀山政権の後押しで逆転勝訴に持ち込むつもりだったらしいが、雀山内閣の支持率急落で様子見を決め込んだのかも知れない。
「すまん、随分と遅くなったから時間を潰すのに困っただろう」それでも課業が終了した直後に市ヶ谷を出て携帯電話で待ち合わせた東京駅に向かうと帰宅ラッシュの中、2人は寄り添って待っていた。本当は市ヶ谷も中央線の経由駅なのでこちらまで来させれば帰宅には便利なのだが、この時間帯に東京にあまり詳しくない淳之介にあかりを連れて来させるのには不安もある。
「いいえ、お忙しいのにすみません」私の声を聞いて淳之介に代わってあかりが礼を言った。
「カバンは取って来てあるんだな」「うん、茶山さんから預かった土産もあったから荷物は倍になったよ」そう言って淳之介は前屈すると両足の間に置いているカバンと紙袋を持った。最近は足元の荷物を持ち逃げする窃盗が増えているため私が指導していた。
「その紙袋は持とう」「はい、1升パックの地酒が2本も入っているから重いんだ」淳之介は素直に荷物を渡した。本来はカバンも受け取ってあかりだけに意識を向けられるようにしたいのだが制服を着た幹部自衛官が夜逃げのような大荷物を抱えて歩くことは控えた。
中央線の新宿駅で下りて夕食を取り、その後は家に戻った。2人は明日、沖縄へ帰らなければならないから東京の夜を満喫させる訳にはいかないのだ。幸い明日の裁判の打ち合わせは牧野弁護士と滝沢弁護士の都合で午後3時になったため羽田空港に送ることはできる。
「お母さんに電話させてもらっても良いですか」自宅に着くとあかりは真っ先に申し出た。その顔には「母の心配を解消したい」よりも「感激を報告したい」と言う高揚感がある。
「うん、今掛けるから待っていなさい」我が家の電話は今時珍しいダイヤル式のためあかりに掛けさせるには無理がある。そこで壁に貼ってある電話番号一覧表の一番下に書き加えた安里梢の自宅に電話をした。
「もしもし、おバアねェ。お母さんは帰ってるの。うん、お願い」電話が呼び出したところであかりに受話器を渡すと間もなくく遠慮のない口調でまくし立て始めた。やはりあかりにも内と外で態度の使い分けがあるようだ。
「お母さん、今、お義父さんの家に帰りました」どうやら梢が出たらしい。そこで私はリビングに移動してカバンを開けて整理を始めている淳之介と傍聴人になった。
「驚かないで聞いてね。私、桜だけじゃあなくて色々な初体験をしたんだよ」私は夕食の時、今回の報告は聞いているがやはりあかりが興奮して熱弁を奮う様子には驚いた。
「私、鹿と猿と雉に会っちゃった。うんうん、すぐ傍の木や草の中にいたんだよ。始めは少し怖かったけど話したら友達になれたんだ」やはりあかりには神秘的な感性があるのだろう。
「それから雪に触ったんだよ。お母さんはまだ触ったことないでしょう」こうなると自慢話だ。それにしても2人が蔵王山に登ってくると言うのは完全に想定外だった。茶山夫妻の最大限のもてなしには心から感謝しなければならない。
「それから温泉につかってェ・・・」この凝縮した初体験の数々は梢が私と結婚していれば経験することができたはずだ。そう思うと聞いていて少し胸が痛んできた。
「あッ、大事なことを忘れてた。仙台って青葉城恋唄の舞台なんだよ。だから青葉通りを歩いてきたんだ」この話は聞いていなかった。おそらく梢にこの歌を教えたのは私だ。2人で奥武山(おうのやま)公園から漫湖(まんこ)の岸を歩いて国場川に差しかかった時、私が「国場川流れる岸辺」と替え歌にしたのが始まりで、その後、カラオケで愛唱するようになった。
「うん、すごく感激した。日本って広いんだね」こんなに無邪気に話すあかりを初めて見た。淳之介もそのようで少し呆れたような顔で背中を眺めている。するとあかりが振り返って受話器を差し出した。
「お義父さん、母が話したいって」今日は私にとって息子夫婦、梢にとっては娘夫婦の前だから昔に戻って話すことはできない。そこで軽く咳払いをしてから電話に出た。
「もしもし」「ウウ・・・グスンッ」電話口で梢は泣いている。これもまた想定外だ。
「あかりがこんなに興奮して話すのを初めて聞きました・・・有り難うございました」この言葉をそのまま茶山家に転送したいがダイヤル式では不可能だ。後で手紙に書きます。
  1. 2018/10/15(月) 09:00:57|
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10月15日・バチカンがグレゴリオ暦に移行した。

1582年の明日10月15日にバチカンのグレゴリウス13世が改暦を命じ、それまでのユリウス暦から現在も多くの国で採用されているグレゴリオ暦に移行しました。
それまでのユリウス暦は紀元前45年にローマ帝国の執政官であったガイウス・ユリウス・カエサルが採用した暦で、1年を365日と4分の1日として4年に一度の閏年に1日を加算するものです。ところが実際の地球が太陽を回る公転周期は4分の1日=6時間よりも短い365日と5時間48分45秒179であり、これを修正するため「4年に1度の閏年のうち、キリスト暦の100で割り切れて400で割り切れない年を平年とする」ことにしたのがグレゴリオ暦です。このため1900年と2100年は閏年でも365日ですが、我々が経験した2000年は普通に閏年の366日でした。
その発端はキリスト教の重要な儀礼である復活祭=イースターが春分の日を起点に設定されるのに対して暦上の日付と実際の太陽が上る方向が春分の日とずれていることに気づいた宗教関係者の指摘でした。これによりニコラウス・コペルニクスを含む天文学者を交えた検討が重ねられ、前述の改暦が発令されることになったのです。
ただし、この布告がバチカンによって発せられたため当初はカソリック教会に限られ、ギリシアやロシアの正教会では現在も故事の日付にはユリウス暦を使用しています。また、この改暦の時点ではすでに宗教改革が始まっていましたが、こちらの教派の多くは科学的に正しいグレゴリオ暦を採用しているようです。
一方、日本を除くアジア圏では公共機関の業務は太陽暦=グレゴリオ暦に基づいているものの民間行事は太陰暦のままです(日本は明治5年の改暦に関する太政官布告によって太陰暦の使用が認められなくなったため宗教行事などが滅茶苦茶になっている)。
太陰暦では1月(ひとつき)を29日の小の月と30日の大の月の2つに分け、これを交互に繰り返すことで1年を354日としています。しかし、これでは地球が太陽を公転する365日と毎年11日の誤差が生じるため十年弱で四季がずれることになり、これを補正する閏月の設定が必要になります。
古来、東アジアと大陸の東南アジア諸国では中国皇室が天文観測と暦の作成を行っていたためそれに従っていたのですが、日本は江戸時代に幕府が独自の暦を作成にすることになりました。閏月は農業などの仕事の段取りに直結するため季節感の中で違和感がない位置に設定する必要があり、権力者にとっては殊のほか重大な問題だったのです。
ちなみの東アジアの太陽暦の要素を取り入れた太陰暦を太陰太陽暦、イスラム圏のヒジュラ暦のようにずれを補正しないものを純粋太陰暦と呼びますが、イスラム圏では農業の段取りなどではユリウス暦を流用することが黙認されているようです。
余談ながらユリウス暦が採用されて太陽暦に移行するまではヨーロッパ圏でも月の満ち欠けによる太陰暦を採用していたため真っ暗な新月の次に姿を現した朔(ついたち)を意味するラテン語の「カレンデ」が現在では簿冊式の暦を意味するカレンダーになっています。
  1. 2018/10/14(日) 09:30:36|
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振り向けばイエスタディ1341

帰りには蔵王山で冷えた身体を大河原町の日帰り温泉で温めた。勿論、あかりは初体験だが残念ながら日帰りでは家族風呂はなく奥さんにお願いすることになった。
「これが温泉なのね」「うん、俺は山口や三重では何度か入ったけどユックリと浸かってシッカリと温まるのがコツだってよ」当然、淳之介は父と一緒だったが母と志織は長湯なので早く出て湯冷めしないための教育だったのかも知れない。考えてみれば父は家では「クロウ・テイク・ア・バス=カラスの行水」だったはずだ。
「それじゃああかりさん、入りましょう」浴室の前で奥さんが声を掛けてきた。あかりは廊下でも杖を突くので「コツ、コツ」と言う音が響く。すると奥さんが歩み寄って手を取ると中に連れて行った。下着の替えは持って来ていないがそれは仕方ない。
「ほれ、我々も入浴だぞ」今度は淳之介が声を掛けられた。茶山元3佐の口調はどこか父に似て自衛隊の号令的だ。淳之介が父と入浴したのは小学生まででナニに毛が生え始めてからは避けるようになった。それでも高校時代は寮生活だったので抵抗はない。この際、背中を流してこれまで受けた過分の厚情への感謝を示そうと思いながら後に続いた。
「あかりさん、髪は自分で洗っているの」「はい、母がしてくれる感覚を憶えて1人でもできるようにしました。ただチャンプーが落ちているか判らないので洗いは多めにします」奥さんはあかりの隣りに座って手を貸そうと待ち構えていたが慣れた手つきで自分で始めていたのだ。ここでもあかりの母が娘を自立させるために知恵を絞って試行錯誤しながら教えを施してきたことが理解できた。確かにあかりの長い黒髪は手入れが行き届いていて美しい。それは慎重で丁寧に髪をいたわっているからなのだろう。
「あッ、すみません。泡が飛んでいるかも知れませんね。私には見えませんから御迷惑がかかったら言って下さい」あかりは手で確認しながら髪を洗い終えるとシャワーのお湯の温度を手で確認しながら声をかけた。この気配りも母から教えられたものだ。奥さんは会ったこともないあかりの母に心から敬意を抱き、安心して自分も髪を洗い始めた。
「お湯に浸かる時には髪が長い人はタオルで巻くのよ」いざ湯船に入ることになると未経験のあかりは奥さんの手をわずらわすことになった。沖縄では自宅でもシャワーが中心で湯船に浸かる習慣があまりないため流石にこれは教育されていないようだ。
「お湯につかるってどうするんですか」健常者であれば周囲を見れば判ることも視覚障害者は言葉で説明されなければ行動に移すことができない。奥さんは淳之介が何かにつけて具体的で丁寧に説明していたことを思い出した。
「先ずこの手桶で中のお湯を汲んで下半身にかけるの。次に肩から背中、最後に首にかけて身体を温度に慣らしたら・・・」そう説明しながら奥さんは手桶を渡し、それを手で湯船の中に誘導し、自分で汲ませた油を下半身にかけさせた。後は言葉で説明した通りにやるはずだ。
「次はこの湯船の枠をまたいで中の段に足をかけて中に入るのよ。枠に引っ掛からないように気をつけてね」「はい、気をつけます」あかりは返事をすると手で湯船の枠の高さを確認してからおそるおそるまたいだ。こうして湯船に浸かる初体験をした。
「おーい、あかり、湯船につかったか」「はーい、今入りました」男湯と女湯をし切っている壁越しに淳之介が声を掛けてきた。茶山元3佐は古いタイプの男性なのでこのように人前で気軽に声を掛けてくるようなことはしない。その点には奥さんは少し羨望を感じた。
「本当にお世話になりました」「有り難うございました。色々な初体験ができて本当に感謝しています」翌日は最寄りの白石蔵王駅から「やまびこ」に乗った。駅のホームまで茶山夫妻が送ってくれたが今回も駅員が付き添っている。
「いいえ、こちらこそ一緒に楽しめましたよ」「若いお2人の絆を見て私も・・・グスンッ」奥さんは最後に鼻を詰まらせた。こうして考えてみると茶山元3佐は決して場当たり的な思いつきで連れ回したのではなくご本人が言う自衛隊式業務実施計画まではいかなくても少なくとも腹案を立てていたはずだ。でなければ短期間にこれだけ充実した体験ができるはずがない。
あかりにとっては念願の花吹雪だけでなく鹿や猿、雉との対面や雪に触れ、温泉につかるなどの初体験の連続だった。淳之介自身も山形との不思議な縁(えにし)の発見があった。
「それでは間もなくやまびこ×××号が参ります。よろしいですか」その時、ホームに列車の接近を知らせるチャイムが響き、駅員が声を掛けてきた。茶山元3佐は表情を変えず後退さったが奥さんは逆に前に出てあかりの手を取った。
「元気でね。また遊びに来て下さい」あかりは片手には杖を提げているので両手で握り返すことはできない。ただ少し低い位置にある奥さんの顔の位置を推定して顔を近づけて頬を重ねた。その背後に新幹線が入ってきた。
  1. 2018/10/14(日) 09:29:22|
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振り向けばイエスタディ1340

「あの山は」千本桜のトンネルを抜けたところで淳之介は正面にそびえている山に目を奪われた。新幹線は進行方向の右側の席だったので視界に入らなかったが、まさに「鎮座している」と言う表現が相応しい巨大な存在感は本土で住んだ山口県、愛知県、三重県では見たことがない。さらに山頂付近は残雪が青空に白く浮き上がっている。
「あれは宮城県の象徴(?)の蔵王山だよ」「蔵王山ですか・・・」淳之介はこの名前をどこかで聞いた記憶があった。勿論、東北に来るのは初めてだがもっと幼い頃に聞いたはずだ。
「確か愛知県の渥美半島にも同じ名前の山があったな」答え合わせは茶山元3佐がしてくれた。淳之介が守山に住んでいた頃、両親の片方が入校中の夏休みと冬休みに残った片方が演習に出かけると志織と2人で豊川の祖父母の家に預けられたのだが、その時、飽きないように車で連れ回してくれた場所の1つだった。
「田原の蔵王山は標高250メートルだけど宮城の蔵王山は1841メートルだからね」茶山元3佐が補足説明してくれたが、この口ぶりでは豊川で勤務していた頃、名前に惹かれて訪ねてみたのかも知れない。すると淳之介の胸には不思議な懐かしさが湧き上がってきた。初めて見る風景にこの感情が合わないのは判っているが身体に流れる血が騒ぎ始めているのだ。
その時、白石川の川面を撫でるように冷たい風が吹いてきた。風があかりの帽子を飛ばし、長い髪を吹きあげた。淳之介は小走りに帽子を追い、拾うとあかりの手に持たせた。
「今言っていた山が貴方を呼んでいるよ」「へッ、蔵王山が俺を」2人の会話は普通の人には理解できないだろう。しかし、茶山夫妻もあかりの感性の不可思議さを確信しているので黙って聞いている。あかりは片手で髪を整えてから帽子をかぶると続きを語り出した。
「貴方に『帰ってこい』って呼んでいる大きくて重い声が胸にズーンと響いてくるの」それは先ほどから淳之介も感じている不思議な懐かしさとも共通する何かの呼びかけではないのか。それでも淳之介は自分と山形の縁(えにし)について父から何も聞かされていない。
「そう言えばモリヤくんに初めて会った時、『山形の友人に似ているなァ』って思ったんだ。色の白さ、肌が綺麗なところも東北人そのものだったよ」それを言われれば淳之介もその血統なのだが、やはりシマンチュウとのハーフの母親似になると容姿は違っているようだ。
「それじゃあ昼からは蔵王を越えて山形へ行くとしよう」「でも、蔵王ハイラインの開業は4月29日よりも後じゃない」今回も茶山元3佐の発案を奥さんが制止した。茶山元3佐は昨夜の酒席で自分の前のめりな性格を自覚しているため何でも綿密な計画を立てないと安心できないと言っていたが、奥さんもお目付け役を担っているらしい。
「取り敢えず山形自動車道で山形市に抜けて時間があればロープウェイで山頂付近まで行こうじゃないか」「でもお2人は冬物を持っていないのよ。山頂は雪が残っているくらいだから寒いんじゃないかしら」2人の議論を聞いていて淳之介も迷ってしまっていた。あかりに雪を触れさせたい気持ちは極めて強いが、Gパンとトレーナーにサマー・コートを羽織っただけでは未経験の寒さに対する不安は拭えない。
「それじゃあお前の防寒着を貸して上げなさい。コートの下に着るのなら多少は短くても大丈夫だろう」「はい、そうします」これが結論のようだ。
「あかり、雪に触れられるかも知れないぞ。花吹雪だけじゃあなくて本当の雪にだぞ」淳之介の説明を話いたあかりは何故か唇を噛み、少し冷たくなった手で淳之介の手を握ってきた。未知なる体験も大きくなり過ぎると歓びよりも惧れが先に立つのかも知れない。
昼食は千本桜の沿道に出店している屋台と露店で買い喰いをして済ませると一度、奥さんのセーターと手袋を取りに家に戻って即刻、出発した。ただし、淳之介には茶山元3佐の軍手だ。
蔵王温泉からのロープウェイには蔵王スカイケーブルと蔵王中央ロープウェイ、そして蔵王ロープウェイがあるが前の2つは眺望・絶景が売り物なのであかりには意味がなく、蔵王ロープウェイで地蔵山の山頂に行った。昨冬は大寒波による豪雪だったため山頂付近の残雪は茶山元3佐も驚くほど深かった。運動靴では足の指先が凍えそうだがそれも貴重な体験になる。
「冷たい。これが雪なんだね」頬を赤くしたあかりは白い杖を足元に置きながら両手で雪をすくってみせた。吐く息も白くなっているのだがそれを見せることはできない。
「うん、それが雪だ。雪を投げるから驚くなよ」そう断ってから淳之介は手で固めた雪玉をあかりの額に軽く投げた。恋人同士の楽しい悪戯もあかりには事故の原因になりかねない。
「キャッ、冷たい」「痛くなかったか」「ううん、驚いただけ」「これが雪合戦だよ」淳之介の説明にあかりは心の底からの嬉しそうな笑顔をほころばせた。
「貴方・・・グスンッ」「うん・・・グスンッ」それを見て茶山夫妻は一緒に鼻をすすっていた。
  1. 2018/10/13(土) 09:33:51|
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振り向けばイエスタディ1339

翌朝、淳之介とあかりは春眠暁を覚えなかった。昨日は茶山元3佐の秘密基地=桃爺夫婦の住居跡まで歩き、建設中と言っても廃品の建材を運んだだけの庵を見学して帰った後、そのまま入浴し、奥さんの手料理・温麺(うーめん)と油麩を食べてから淳之介は残ったオカズを肴に男同士で酒を飲み、父親と同格の酒豪につき合って珍しく酔い潰れている。そんな酒臭い吐息を腕枕で嗅ぎながら眠ったあかりもホロ酔になっていた。
「モリヤくんたちはまだ起きてこないのか」「貴方が呑ませ過ぎたのよ」「ふーん、親父は底なしだったからその息子の船乗りならいけると思ったんだがな」茶山夫妻は朝から庭の手入れをすませテレビの前で茶を飲みながら朝食を待っていた。すると奥の客間で物音がし始めた。
「貴方、起きて、もう朝みたいよ」あかりには時計は見えない。このため家では目覚まし時計で眼を覚ますのだが旅行には持って来ていなかった。
「あかりさん、あわてなくても大丈夫よ。必要なら手伝いましょうか」その声に奥さんが立ち上がって客間の襖の前まで歩いて行くと外から声を掛けた。
「すみません、寝坊してしまいました」中からはあかりの声はするが淳之介は何も言わない。
「入るわよ」奥さんが襖を開けるとあかりはパジャマのままカバンの中を手探りで自分の服を探していた。普段は眠る前に順番を決めて枕元に並べておくのだが、昨晩は夕食のまま酒席が始まったため淳之介の助けが得られなかったのだ。
「服を選ぶのね。今日は少し歩くからスラックスの方が良いかしら」「はい、今日は転んでも良いようにGパンとトレーナーにします・・・その前に肌着を」あかりに請われて奥さんはカバンの中から女性としての服装を揃えて足元に並べた。あかりはしゃがんでそれを手で確認するとパジャマを脱いで下着から着け始める。奥さんは手助けしようと思ったが意外なほど手慣れた様子で着替え、脱いだパジャマを畳む余裕もあった。
「髪をとかすブラシをお願いします」「鏡は・・・」ここで奥さんは自分の失言に気がついた。あかりには鏡は必要ない。電灯さえも不要なのだ。それでもあかりは何事もなかったようにブラシを受け取ると手で確かめながら髪を整えた。
「貴方、起きないと寝かせたまま行っちゃうわよ」これだけ物音がしても目を覚まさない淳之介にあかりは呆れながら寝息で位置を察した鼻を片手で摘まんだ。奥さんはそんな若い夫婦の姿を同情よりも感動の眼差しで見ていた。
「ここが船岡城址公園だよ。白石川の堤防はあっちだ」淳之介がパジャマのまま朝食を終えて着替えたところで花見に出かけた。白石川の堤防は茶山邸からは北に歩いて奥州街道と東北本線を越えて400メートルくらいだが、千本桜がある場所は上流に向かって2キロ弱ほど歩かなければならない。夫妻だけなら散歩=デートを兼ねて徒歩や自転車で出かけるのだが今日は大河ドラマ「樅の木は残った」の舞台である船岡城址公園まで車になった。
「わァ、空気に甘酸っぱい香りが満ちている」車を降りたあかりは詩的な歓声を上げた。目では花の美しさを愛でるのだがあかりは香りを味わったようだ。船岡城址公園も堤防に並ぶ千本桜とは別で一緒の桜の名所であり、小高い丘全体が満開の桜で埋め尽くされている。
「ここが原田甲斐の屋敷だったんですか」そんな妻とは別に外の冷気に当たって酔いが醒めたらしい淳之介は父が繰り返し見ていたビデオを思い出して質問した。
「うん、そうだよ。流石はモリヤくんの息子だね」茶山元3佐の横で奥さんも感心している。それでも歴史の授業はここまでで終えてすぐ隣りの堤防に向かって歩き始めた。
「風も甘酸っぱい。でもこちらの桜の方が若いのかな。少し酸味が強いみたい、」垂れ下っている桜の枝に顔を近づけて新たな感動を味わっているあかりの隣りで淳之介は黙っていた。淳之介にとって桜並木は幼い頃に見た防府南基地が最高だと思っていたのだが比べ物ならない。ここの花の密度は高くなってきた日差しに輝いて眩しいほどだ。
「東北の桜は寒さに耐えていて咲ける気温になると一斉に咲くから全ての枝が満開になるんだよ」そんな淳之介の複雑な顔を見て茶山元3佐が説明した。その時、少し強い風が吹き、一斉に花吹雪を降らせたため堤防を歩いている人たちが歓声を上げた。
「花びらが頬を撫でてくれました。これが桜なんですね」花びらを帽子や肩に積もらせたあかりは花びらが触れていった頬に手を当てて感動したような顔で呟いた。すると再び風が吹いた。
「そんなに吹いたら桜がなくなっちゃうじゃない。私はもう良いよ」あかりは風を吹かせている何かに話しかけているらしい。すると風は止んだ。昨日も秘密基地からの帰り道であかりが姿を見せない猿や鹿に話しかけると騒ぐのを止めて遠巻きに見守り始めた。
「あかりさん、イタコになった方が良いね」そう言いながら茶山夫妻はうなずき合った。
そ・安里あかりイメージ画像
  1. 2018/10/12(金) 09:53:06|
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