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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月1日・モンゴメリー・バス・ボイコット事件が発生した。

1955年の明日12月1日にアラバマ州モンゴメリー市でアメリカ公民権運動の発火点と呼ばれるバス・ボイコット事件が発生しました。
当時、アラバマ州を含む南部の州ではジム・クロウ法と呼ばれる人種分離法規が定められており、公共交通機関には人種による座席の区分が設けられていました。この日、百貨店での裁縫の仕事を終えた42歳の女性・ローザ・リー・ルイーズ・マコーリー・パークスさんは通勤時に利用している市営バスに乗車してアフリカ系の人たちの優先席の先頭に座ったのです。ところが市営バスでは運転席のすぐ後ろの前方数列に設定されているヨーロッパ系の人たちの優先席が混んでくると運転手が後方に拡大してアフリカ系の人を立たせることも横行しており、この時も立っているヨーロッパ系の客が出たため運転手が後方に拡大したためすでに座っていた3人のアフリカ系の客は黙って移動したもののローザさんだけは座り続けたのです。
ルーム・ミラーでそのことに気づいた運転手は「何故、立たないのか」と詰問し、それにローザさんが「私は立ちません」と返事すると「よろしい。立たないんだったら警察に通報して逮捕させるぞ」と恫喝したため「どうぞ、そうしなさい」と回答しました。このため運転手は警察に通報し、ローザさんは市条例違反の現行犯として逮捕されたのです。
この時、ローザさんは警察官に「どうして私が連行されるのか」と逮捕容疑を確認したのですが「知るもんか。法は法だからお前は逮捕されるんだ」とまともに回答はしなかったようです。結局、ローザさんは警察署で逮捕手続き受けて市の拘置所に収容された後、即日釈放され、市役所内に設置されている簡易裁判所で罰金刑の判決を受けました。
実はローザさんの理容師である夫が全米有色人向上協会=NAACPの会員であり、ローザさん自身も第2次世界大戦の終戦後に入会していたためこの事件が報じられるとアフリカ系市民の公民権運動を刺激することを恐れるヨーロッパ系の人たちの間で事件を中傷する噂が流れました。それは「疲れていたため立てなかった」「高齢者なので若いヨーロッパ系の客に席を譲るのが嫌だった」などと公民権とは別の個人の感情に基づく反抗とするものでしたが、ローザさん自身は「その日の仕事は楽だった」「私はまだ42歳で高齢者ではない」と否定した上で「屈服させられることに我慢ができなかった」と人間としての尊厳に対する侵害への抗議だったことを認めています。
この逮捕を地元の公民権運動の活動家たちが利用したのは至極当然で、モンゴメリーの教会に転任してきたばかりのウィリアム・アーサー・キング牧師は市営バスのボイコットを呼びかけ、利用者の4分の3を占めていたアフリカ系の市民がこれは応じたためモンゴメリー市は経営上大打撃を受けました。続く法廷闘争でもアラバマ州地方裁判所はジム・クロウ法の憲法違反を認め、1956年には連邦最高裁判所もアラバマ州地方裁判所の判決を支持する判断を下し、ジム・クロウ法が違憲であることが確定しました。
しかし、法律上の人種差別が撤廃されるのは1964年7月2日のリンドン・ベインズ・ジョンソン政権による公民権法の成立を待たなければなりませんでした。
  1. 2018/11/30(金) 09:28:49|
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振り向けばイエスタディ1388

本土の学校の夏休みが終わって観光シーズンも収まってきたところで淳之介とあかりは雲島の診療所での出張施術を再開させた。保健師の砂川直美の要望で始めた出張施術も1年が経過しつつあり乗客たちともすっかり顔馴染みだ。
「今日は安里さんの出張マッサージがあるのかァ。今日帰ったのは正解だったな」あかりが指定席になっている客室の最後尾(操舵室の淳之介から見える)に座ると昨夜は石垣島に泊ったらしい高齢男性の乗客が声を掛けてきた。
「はい、西大浜さんですね。待ってますよ」あかりは声だけで名前を言い当てる。それを聞いて乗客は満面の笑顔を浮かべたが残念ながらあかりには判らない。
「それでは出港します。今日の天候は良好で海面も静かですが急に揺れることがありますから座席に座ってお過ごし下さい」「旦那さんも貫禄が出てきたね」「うん、立派な船長さんさァ」出港前の淳之介の放送を聞いて乗客たちはあかりに誉め言葉を寄せてきた。確かに初めて淳之介が操縦する船で雲島に渡った頃に比べて船内を歩いて出港準備している足音も随分と円滑になったように感じている。放送の声も自信に満ち、言葉遣いが本土で乗った東北新幹線の車内放送に似てきているようだ。
「ガクンッ」小さく揺れると定期船は順調に波止場を離れ、石垣港を出て八重山群島の水路に向かう。これから竹富島、小浜島に寄ってから雲島、新城島を巡るのだ。
「グッ・・・」淳之介だけでなく乗客たちにも竹富島の姿がハッキリ見えてきた頃、あかりは突然吐き気をもよおした。これまで月2回の渡海で船酔いになったことがないため手元に洗面器は置いていない。しかし、乗客たちはエンジンの音と振動の中で接近してきた竹富島を見ているため最後尾の席のあかりの変調に気づかないでいる。
「オェ・・・ゲゲゲェ・・・」あかりが足元に嘔吐すると流石に中年女性の乗客が気がついた。
「安里さん、大丈夫」女性は前屈して床に胃液を吐いているあかりの背中をさすりながら声をかけた。その様子に気がついた別の中年女性が操舵室の淳之介に声をかけた。
「船長さん、奥さんが船酔いだよ」「えッ、まさか」淳之介としては波止場に入る直前の最も注意を払わなければならない場面なので手を放すどころか意識を向けることもできない。
「すみません。放っておいて下さい。停船してから片づけます」淳之介が船内放送で返事したため全ての乗客があかりの異変に気づいてしまった。
「安里さんが船酔いなんて珍しいさァ」「夏の観光シーズンの間は乗ってなかったから身体が忘れてしまったのかね」「そんなことがあるはずないだろう」男女混成の乗客たちの議論を聞きながらあかりは別の女性が手渡してくれた洗面器の中に口を入れて嘔吐を繰り返していたが、胃の中身が出尽くしてしまったようで胸と背中が痙攣するだけだった。
雲島に着いて淳之介は迎えに来ていた砂川にあかりの変調を説明した。このため診療所に向かう車内で砂川は問診を行い健康に異常がないことを確認すると女性としての可能性を考えた。
「安里さん、最終月経日はいつ」「はい・・・日付は判りませんが7月の終わりだったと思います」確かにあかりはカレンダーや新聞を見る生活をしていないため健常者ほどは日付を意識できない。砂川もその辺りの事情は周知しているので壁に貼ってあるカレンダーで週を数えた。やはり5週間を過ぎている。
「月経周期は・・・生理不順じゃあないよね」「はい、順調です。そうじゃあないと処置が遅れてしまいますから困ります」視覚障害者の女性は下腹部の痛みなどの前兆で生理の時期を予測して下着や生理用具などを用意しているため生理不順の影響は健常者よりも深刻なのだ。
「ご主人との性交の頻度は」「セーコーって・・・」「抱かれるのは何日に一回くらいかってこと」あかりもこの質問には即答できなかった。あかりの妊娠に関する知識は結婚が決まった時、母から教えられた基本的な注意事項だけで診断を受ける時の質問の内容までは知らなかった。このため夫婦の生活に立ち入った砂川の質問に当惑していた。
「はい、私が生理の時以外はほとんど毎晩です」答えてあかりは真っ赤になった。実は独身の砂川も赤面したのだが、それは誰にも見られていない。
「避妊は」「夫が気を点けてくれていますが」「性交が終わった後、貴女の性器をティッシュで拭いたりすることは」「何回かありました」この返事に砂川は「若い淳之介であれば失敗することも仕方ない」と若い日の数少ない経験を思い出しながら納得した。
「残念ながらこの診療所には妊娠の検査薬がないから確認はできないけど、オメデタの可能性が高いようね。石垣島で専門医に受診しなさい」「オメデタって妊娠したって言うことですか」あかりはあまりにも唐突な診断に今度は顔面を蒼白にして言葉を失った。
  1. 2018/11/30(金) 09:27:53|
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11月29日・沖縄・玉城村で民警察官の射殺事件が起こった。

アメリカ軍による占領政策が始まって半年に満たない1945年の11月29日の沖縄で日本人民警察官がアメリカ兵に射殺される事件が発生しました。野僧は玉城村の友人の祖父からこの事件について詳細な説明を受け、現場にも案内してもらいました。
沖縄は6月23日に帝国陸軍第32軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が自決したことにより組織的戦闘は終結しましたが、9月7日に日本が降伏するまでは本土決戦に向けての前線基地でした。そんな状況下で沖縄県民は武力紛争関係法に基づいて設置された文民保護施設に収容されていました。これを現在の沖縄の歴史教育と本土の左翼勢力では「強制収容」と呼んで沖縄県民が味わった戦争被害に加えていますが、当時はアメリカ軍が上陸した読谷村から第32軍が司令部を移した糸満市摩文仁までの地域は沖からの艦砲射撃と空襲、そして激烈な地上戦によって徹底的に破壊尽くされていて、家屋や田畑もなく食糧を確保することも不可能だったのですから自由は制限されても衣食住と医療まで提供される施設への収容が必要不可欠だったことは間違いありません。
それでも戦争そのものが終結したことでアメリカ軍は住民を元の居住地に帰し、農作業による食糧の自給を再開させる施策を講じたのですが、そこで問題になったのは支配者として振舞うアメリカ軍兵士による犯罪でした。
アメリカ軍も対策として住民の居住地域を指定して兵士の立ち入りを禁じたのですが、治安の維持はアメリカ軍の憲兵隊だけが担任していたため監視が行き届かず不法侵入による犯罪が頻発していたのです。このためアメリカ軍は住民の自衛組織を拡充した民警察隊を組織させたのですが、占領下の住民に武装を許可することはできず丸腰で凶悪犯罪に対処させざるを得ませんでした。尤も、沖縄では島津藩に支配されている時代も狩猟用を除く武器の所持は禁じられており、そのため素手や鎌などの農具で戦う唐手(とうでい=空手)が発達したのです。ただし、時代が違いました。
中でも女性が強姦される事件が日常化していて、1人で畑仕事や川で洗濯をしているところを襲われるため集団での作業になり、それを丸腰の民警察官が護衛するようになっていました。
この日、沖縄南部の玉城村(現在の南城市)の芋畑で農作業をしていた女性が拉致されたため通報を受けた民警察官が駆けつけると兵士2名が襲いかかっているところでした。当然、民警察官は制止して1対2で乱闘になりましたが、劣勢になった兵士が拳銃を発砲し、射殺したのです。この民警察官は当時27歳で1ヶ月前に結婚したばかりでした。
これを受けてアメリカ軍は民警察隊の武装を認め(名目上は「日本軍や略奪したアメリカ軍の武器を使用した日本人の凶悪犯罪に対処すること」を理由にした)、拳銃とカービン銃を貸与しましたが常時携帯は許さず民警察隊に一括保管するなど使用には多くの制限が加えられ、厳格な手続きが定められたため現在の航空自衛隊の対領空侵犯措置で緊急発進した戦闘機と同様に相手が発砲してくるまでは「こっちも武器をもっているぞ」と威嚇することしかできなかったようです。
  1. 2018/11/29(木) 10:22:29|
  2. 沖縄史
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振り向けばイエスタディ1387

最終日は熊本市内の観光だ。この点もレンタカーを移動手段にしたのは正解だった。現在の日本人は九州の中心は福岡市と北九州市と言う人口100万人の大都市を有する福岡県だと思っているが、小倉や門司、戸畑、若松、八幡の各市が合併して九州最初の政令都市・北九州市が成立するまでは熊本市が最大であり、国の出先機関も先ず熊本に設置されていた。
また熊本の領主は加藤清正のイメージが強いが、加藤家は清正の没後21年で改易されており、以降、明治4年に廃藩置県が行われるまでの239年間は細川家の所領だった。尤も、広島も福島正則が19年間、浅野家が252年間にわたって治めていたが、いまだに毛利家を主君と仰いでいる。ただし、こちらは明治以降に毛利藩出身者が握った政治権力のおこぼれを狙った過去の地縁の自己申告に過ぎない。
熊本観光と言えば先ずは熊本城からだ。熊本城には東西南北の4カ所に駐車場があるが宗教観ではなく歴史的暴挙を理由とする神道嫌いとしては東側の熊本城稲荷の駐車場は避けた。
「ここが熊本城です」車を下りて天守閣を指差して説明すると義父母は感動したように仰ぎ見た。義父母も京都から福岡に向かう新幹線から遠目に姫路城と広島城、小倉城、間近に福山城を見ているはずだが、通り過ぎるのと仰ぎ見るのでは印象は全く違うようだ。
「この城の天守閣は西南の役の攻城戦で焼失してしまったんです」「西南の役と言えば我が野崎一族の男子が戦死したはずだ」義父は私の英語の解説に反応した。確かに久留米の住職は太刀洗の土豪だった野崎家は明治以降の西南の役と佐賀の乱に従軍して男子が戦死して家運が傾き、残った子供たちも成長した頃に起こった日清戦争と日露戦争で戦死して義父の一家以外は途絶えてしまったと言っていた。
「西南の役は鹿児島の西郷南洲翁の私軍が攻めて政府軍が立て篭もりましたから野崎家の男子は守備隊側でしょう」これは根拠がない勝手な推察だが、久留米の土豪が下野した西郷南洲翁を慕って鹿児島に開設した私学校に入門したとは考えにくい。とは言え山形で薫さんに案内された酒田市の南洲神社は戊辰戦争の際、敗軍となった庄内藩を西郷南洲が丁重に扱ったことに感激した藩主が藩士の子弟を鹿児島の私学校に入門させたことが由緒とあった。
「つまりここで祖先の魂が私を待っているんだな」義父は表情を引き締めて歩き始めたが、西南の役における最大の激戦地は田原坂であり、敗走する西郷軍を追撃して宮崎県内でも戦闘を繰り広げていた。したがって野崎家の男子がどこで戦死したのかは不明だ。
結局、義父は熊本城と田原坂では先祖の魂に会えなかったようだが非常に満足して帰路についた。
ちなみに熊本観光のもう一つの目玉である阿蘇山は「ハワイでキラウエアを見慣れている」と言う意見で省略したが、カルデラの大きさは阿蘇が南北25キロ、東西18キロなのに対してキラウエアは南北4.7キロ、東西3.1キロとかなり小さい。それでも座席が右側だったため熊本空港を北に向かって飛び立てば眼下に阿蘇山が見えた。
「ダディの先祖のお墓はどこにあるの」佳織と私がそれぞれの官舎に別れる前に寄った横浜のレストランで志織が訊いてきた。3人は明日の飛行機でハワイに帰り、私は勤務なので見送りはできない。今回はこれが最後の父娘の対話になる。
「伊丹のお墓はマミィのお母さんとお祖父さん、お祖母さんが眠っているんでしょう。先祖は姫路のサムライだったって聞いてるわ。私はダディのご先祖さまのお墓にお参りしたことがないよ」今回の来日はかつての人気ドラマ「ルーツ」でアーネスト・ヘイリーが奴隷としてアメリカに連れてこられたクンタ・キンテの出身地であるアフリカのガンビアまで祖先を訪ねたような旅になった。その感動に立ち合った志織が自分のルーツに関心を持つのは当然だ。
「お父さんの祖先は山形県最上郡戸沢村の角川って言うとても綺麗な村に住んでいたんだよ」私の説明に義父母が関心を示したので佳織が通訳した。志織には日本語を忘れないために私たちとは日本語で話すように言ってある。
「お父さんは行ったことがあるの」「うん、お母さんと行ってきたよ」「とても素敵なところだったよ」それは数週間前の話だ。思い掛けない説明に志織が顔を見たので佳織が補足した。
「私が小さい頃、お兄ちゃんと行っていたお祖父ちゃんとお祖母ちゃんは誰なの。お兄ちゃんの結婚式にも雄馬くんと聡馬くんが来てたじゃない」守山で勤務していた頃、私と佳織が入校中に演習があると2人を愛知の実家に預けていた。
「そんな人がいたかなァ。雄馬と聡馬は幼馴染みたいなもんだ」「人間は色々で複雑な出会いと別れを繰り返しながら大人になるものなのよ」佳織は私が誤魔化そうとするのを遮った。今の佳織は梢との交流で両親に人生を踏み躙られてきた私の苦悩を知り、縁を切って憎悪することを避けている真意を理解している。佳織の厳しい目を見て志織も黙ってうなずいた。
13・JunJiHyunイメージ画像
  1. 2018/11/29(木) 10:18:58|
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11月29日・初の日本軍捕虜・酒巻和男少尉の命日

1999年の明日11月29日は真珠湾作戦に特殊潜行艇・甲標的で出撃しながら第2次世界大戦における初の日本軍捕虜となった酒巻和男少尉の命日です。
酒巻少尉は大正7(1918)年に徳島県で生まれ、68期生として海軍兵学校に入営しました。同期には一緒に甲標的で出撃した広尾彰少尉、敗戦間際に紫電改を駆って活躍した鷲淵孝大尉、戦後は戦記作家となった豊田穣(みのる)中尉がいます。
連合艦隊は真珠湾攻撃では空母機動部隊による空襲と同時に甲標的による雷撃も計画していました。このうち甲標的による攻撃は映画「トラ・トラ・トラ」で進入前に発見されて撃沈されたとする描写によって「失敗だった」と誤解され華々しい艦載機による空襲ばかりが脚光を浴びていますが、実際は軍港内に侵入することに成功した艇が複数存在し、戦艦・ウェストバージニアとオクラホマに魚雷を命中させたとされています。
酒巻少尉の艇は出撃前に羅針盤の故障が確認されたため出撃中止を命ぜられたのですが、本人の強硬な希望で許可されたものの編隊からはぐれて珊瑚礁に座礁するとアメリカ海軍の駆逐艦に発見されて攻撃を受けたため、爆薬を作動させた上で同乗の稲垣清2等兵曹と艇を捨てて泳いで離脱を図ったのですが、低体温症で意識を失って打ち上げられた海岸で拘束されて捕虜となったのです。なお、稲垣2曹は行方不明のまま戦死扱いとなり兵曹長に特別昇任しています。
捕虜となった酒巻少尉は艦載機による真珠湾空襲直後で興奮状態にあったアメリカ軍軍人により煙草の火を顔に押し付けられるなどの拷問を受けましたが、その後は次第に増えてきた捕虜たちの説得や助言などを担当するようになり、異常な絶望感に陥っていた多くの日本軍捕虜を救ったと高く評価されています。
一方、日本では真珠湾攻撃成功の大々的な報道の中で艦載機による空襲の前に先陣を切った甲標的にも脚光が当てられ、5艇全てが未帰還であるため各艇2名ずつで10名が戦死したとされていたのですが、アメリカ軍のラジオ放送で酒巻少尉が捕虜になったことが報じられたため事実を伏せたまま9軍神として祭り上げられました。
その一方で海軍による厳格な緘口令にも関わらず酒巻少尉が捕虜になったと言う噂が広まり、戦時中は家族・血縁者だけでなく恩師や同級生などの関係者まで「国賊」との非難を浴びせられ続けたようです。
敗戦後の昭和21(1946)年に復員を果たすと中日新聞の記者になっていた同期の豊田中尉(99式艦上爆撃機でガダルカナル島を爆撃中に撃墜されて捕虜となっている)の取材を受け、それが談話として掲載された縁でトヨタ自動車に入社し、その後は卓越した英語力を活かして輸出部次長を務め、昭和44(1969)年からはブラジルの現地法人・ブラジル・トヨタの現地法人の社長に就任しました。
野僧はこんな酒巻少尉の活躍を見ると日本軍が自国民に対して犯した罪の大きさに抑え難い怒りを覚えます。玉砕戦で無駄死にさせた多くの将兵たちが武力紛争関係法が認める捕虜となって生還していれば戦後の日本はもう少しまともな国になっていたはずです。
  1. 2018/11/28(水) 10:40:20|
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振り向けばイエスタディ1386

天草へは交通手段が2つある。久留米駅から熊本駅までは鹿児島本線としても、そこで三角線に乗り換えて終点の三角駅からフェリーで天草市の本渡港へ渡るか、バスで天草五橋を巡って天草市へ向かうかだ。ところが佳織が意表を突いた選択をした。
「バスで渡れるんだったら駅前でレンタカーを借りて自力で行けば良いよ。どうせ島内の移動があるんでしょう」確かにその通りだ。鬼海姓の発祥の地である下田南の鬼海ヶ浦は天草下島の西岸にあり、タクシーで行くには少し離れている。
「問題は熊本市内で借りたレンタカーを天草で返せるかだな」「何で返すの。2日間借りておけば良いじゃない」私自身は車嫌いのためレンタカーを借りたことがない。ところが佳織は日本国内だけでなくアメリカでも手軽に利用していたようだ。
熊本駅で下りると駅の観光案内でレンタカーの店を訊き大きめの乗用車を借りた。大柄でアメリカ車に乗り慣れている義父は普通の日本車では狭く感じるらしい。
佳織の選択は正解だった。島と島を形が違う橋でつなぐ天草五橋の景観はハワイでは見られないものなので義父母も感心している。バスとは違って気に入った場所で車を停めて記念写真の撮影も任意だ。こうして90キロ弱のドライブを満喫できた。
天草市から島の中央の山岳地帯を越えて海岸線の砂浜を眺めながら走ると間もなく下田南の集落に入った。目の前に広がっている海が鬼海ヶ浦だ。下田南は背後に山が迫った狭い平地で連絡を取った隣岳寺はその集落の奥にある。
「随分と立派な寺だな」門前の駐車場で車を下りて私は感嘆の声を上げてしまった。大きくはない集落の寺なので防府の宝林寺のようなひなびた山寺を想像していたのだ。ところが隣岳寺は斜面の石段の上には立派な山門が待ち構え、その脇にはこれも立派な鐘楼もある。さらに2重になった屋根を持つ立派な本堂には特別な趣がある。
「頼みましょう」この寺は禅宗なのでと意外に小さな庫裏との渡り廊下が玄関だった。引き戸を開けて声をかけると私よりも少し年配の日に焼けた筋骨逞しい住職が出てきた。
「ご連絡をいただいたノザキさんですね」声をかけられて義父がうなずいたが、ここでの用件はスザンナの方だ。ただし、電話での確認ではハワイに移民した鬼海家は見つからなかった。
「あれから過去帳を調べてみたんですが、この集落には鬼海姓が多い上、明治になって熊本や長崎、福岡に移り住んだ家も珍しくないんです。そこから移民に応募しても菩提寺に連絡は入らなかったようです」立ち話で説明が終わってしまった。禅宗の門風としては玄関で問答を交わすのも作法だが、これでは門前払いだ。尤も「挨拶」の語源はこの問答の「押して迫る」を意味するので間違いではない。
「取り敢えずご本尊とご開山に拜登させていただけませんか」私が土産の紙袋から取り出した威儀細を首にかけて申し入れると住職は驚いた顔をしてうなずいた。
「これは・・・」本尊さまに続いて本堂の奥の開山堂(通常は位牌堂を兼ねている)に入った瞬間、私は異様な衝撃を感じて立ち止ってしまった。
「こちらは石平道人・鈴木正三和尚の開山ですね」私の質問に今度は住職が驚いて立ち止った。開山堂の正面には開山和尚=初代住職の彫像が祀られているのだが、私はその顔に見覚えがあった。三河武士出身の正三和尚の風貌はいわゆる坊主顔ではなく古武士の風格がある。
「正三和尚をご存知なんですか」「はい、受業師(得度を受けた和尚)は愛知県豊田市の出身で、得度に際して『武人として勇猛禅を探求せよ』と示されたんです」私の説明に住職は異様に感激した。これで態度は急変し、斜面沿いに広がっている墓所の手前にある交流が絶えてしまった家の墓石をまとめた無縁佛の台に案内してくれた。
「昔の墓石ですから家の名前は彫ってありませんが鬼海さんの物もかなりあります」住職の説明を佳織が通訳するとスザンナは人ごみの中で親を探す子供のように1つ1つ見詰め始めた。
「この集落は漁村ですから長崎から逃れてきた隠れキリシタンも多くて、それを取り締まる寺としても色々と大変だったようです」住職が4人と話している間に私は持ってきた線香に火を点け、台の中央の地蔵さまの前の線香立てで炊いた。
「お経はやはり浄土宗で・・・」「いいえ、延命地蔵菩薩経偈でお願います」私の答えに住職は困惑した顔になった。延命地蔵菩薩経偈は宗派不問で舎利礼文と同じくらいの手頃な長さなのだが曹洞宗の経本に入っていないので意外に知られていない。結局、舎利礼文を勤めた。
「それにしても曹洞宗で得度を受けながら浄土宗に宗旨替えしたのは何故ですか」「わが南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛と言うは放下着、放下着(ほうげじゃく=投げ棄てよ)と申すなり」住職の質問に鈴木正三和尚の法語で返答した。久しぶりに禅問答を交わした気がした。
  1. 2018/11/28(水) 10:39:11|
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振り向けばイエスタディ1385

土曜日の久留米市巡りは先ずノザキ家の墓参からだ。朝食を終えてホテルから7人乗りのワゴン式タクシーで望空寺に向かうと初デートで佳織と訪ねた太刀洗飛行場跡の広大な田園が見えてきた。その一角にある林が望空寺のようだ。
「前川原の時にはあの寺を探さなかったな」私は振り返って日本語で佳織に話しかけた。車内では私が助手席、佳織と志織が中央の2人席、義父母は後部の3人席に座っている。
「だってまだお父さんと仲直りしていなかったから久留米にいても調べようって気にならなかったのよ」こんな告白も夫婦の会話であれば日本語で違和感はないだろう。
「お義父さん、この辺りには帝国陸軍最大の航空基地があったんです。帰りに慰霊碑に寄ってみましょう」続いて後部座席に英語で声をかけた。それを聞いて運転手が驚いたようにこちらを向いた。私は戦前の陸軍を英語ではインペリアル・アーミー(帝国陸軍)と呼ぶようにしている。それが素人には難しい英語を使っているように聞こえるらしい。本当はPKO以来、ジャパン・アーミー(日本陸軍)と呼んでいる陸上自衛隊との区分なのだ。
「それでは携帯で呼んで下さい。帰りもご案内しましょう」義父が関心を示したことをルーム・ミラーで確認した運転手が貸し切り営業を売り込んだ。確かにワゴン式タクシーを呼ぶのは面倒なので悪くはない。話を決めたところに寺の山門が見えてきた。
「頼みましょう」浄土宗の寺院は禅宗と多少構造が違うようで庫裏に玄関があった。夏だからなのか開けっ放しになっている玄関で声をかけた。ところがその前に警報装置が作動したようで奥でチャイムンが鳴っている音が聞こえてきた。
「これはノザキさまで」スリッパの足音で廊下を鳴らしながら出てきた住職は私と同世代で、禅僧とは違い柔和な丸顔に笑ったような目が嬉しくなる。
「はい、こちらがヤスト・ノザキ中佐、こちらが奥さんのミセス・スザンナ・ノザキです」私に続いて玄関に入っていた義父母を紹介すると住職は「中佐」と言う階級に怪訝そうな顔をした。
「ノザキ中佐はアメリカ戦略輸送軍のパイロットなんです」ここまで詳しく説明したのには訳がある。久留米は幹部候補生学校があるので自衛隊には親近感を抱いてもらっているが、太刀洗飛行場への大空襲の被害を受けているため反戦平和運動が盛んな土地でもある。
「これがハワイ移民になられたノザキさんの墓です」本尊さまに拜登し、庫裏で茶話を交わした後、住職の案内で本堂の裏手の墓所の片隅にある野崎家の墓に参った。ハワイに移民して100年近くが経っているはずだが草むらの中に2段造りの小さな石塔が3基立っている。苔むした墓石に夫婦の戒名が並べて彫ってあるのは判るが文字まではハッキリしない。
「檀家からは無縁佛に移動させて新たな墓地として分譲するように言われていたんですが、浮羽町のエリソン・オニヅカさんが墓参された話を聞いて同じように訪ねて来られるかも知れないと思って取り止めました。その勘が的中したようですな」住職は満足そうに笑ったが我々としても有り難い直感だった。しかし、先ほど渡した可漏(金一封)には相見(対面挨拶)としては過分な10万円を入れておいたが、これでは永代供養料になってしまう。
「こちらに残っている野崎家の一族はいないのですか」住職の読経が終わった後、義父の英語の質問を佳織が通訳した。
「元々、野崎家はこの辺りの土豪だったんですが、佐賀の乱と西南戦争で男性が次々に戦死して、残っていた子供たちも日清・日露戦争で戦死したので最後の一家がハワイに移民したと言うのが経緯のようです」住職も前もって下調べをしておいてくれたようだ。それにしても青山寛少将、庄司永之進憲兵の血を引く私以上に義父と佳織のノザキ一族の武門としての系譜は凄い。
「ここが太刀洗飛行場の慰霊碑です」墓参の後、先ほどのワゴン式タクシーを呼んで佳織とも参った太刀洗飛行場の慰霊碑に向かった。あの時は新品同様だった慰霊碑も私たちと同時進行で年月を重ねたのか随分と古びている。あれから20年余りが経過しているのだ。
「貴方、あの時と同じ歌を唄いましょうよ」慰霊碑の前の土に線香を立てて黙祷を捧げようとした時、佳織が提案してきた。しかし、あの時と言われても記憶にない。
「唄えば判るわ。はい、サイレント・プレイ(黙祷)」3人の軍人・自衛官の中では階級が1番上の佳織の号令で参列者は頭を垂れて眼を閉じた。
「海ゆかば 水漬く屍、山ゆかば 草蒸す屍・・・」佳織が口ずさみ始めたのは日本軍や自衛隊の慰霊行事の定番曲「海ゆかば」だった。ここで私も佳織が言う「歌」を思い出したので合唱=デュエットにした。
「・・・大空の果てにて死なむ かえりみはせじ」これは平成になって「大君の辺」で死ぬことが嫌になった私が作った替え歌だ。ただし、陸海空に適用できる秀作ではある。
  1. 2018/11/27(火) 09:40:40|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ1384

午後から統合幕僚監部首席法務官室で公判の作戦会議が行われるため出勤した金曜日の午前中に衝撃的なニュースが流れた。滋賀法務大臣が東京拘置所内の死刑を執行する処刑場を公開したのだ。昼前の民間放送のニュースでそれを見た事務室の3人の顔は青ざめていた。
「以前、モリヤ2佐から聞いていたのと同じ構造のようですね」1曹は顔をひきつらせたまま死刑の執行がある度に説明していた処刑場の構造の正確さを賞賛してくれた。
「うん、ワシは東京拘置所に収監されていた元殺人犯だからな。死刑判決を受ければあそこで吊るされることになったんだ」本当は懲役10年を求刑されていたので完全に冗談なのだが、3人は私が吊るされる姿を想像したようで顔を背けて席に着いた。
「滋賀大臣の英断ですな」午後から始まった会議でも話題は処刑場の公開からだった。牧野弁護士と滝沢弁護士は個人経営だけにテレビを見ることに制限はなく、最初のニュースから注視していたそうだ。その点、お役所勤めの境1佐と私は昼のニュースからだ。
「日本人は13階段を登るって言うイメージが抜けませんから必要な情報公開でしたね」「うん、これからの映画は描写に困るな」この境1佐の言葉に私は映画「天国の駅」で吉永小百合が吊るされた場面を思い出した。日本映画では死刑の残酷さを強調するため13階段を登る場面を描いているが、今後は姿が消えることで「死刑の執行」を表現するのかも知れない。
私は仕事を終えると羽田発の民航で福岡に向かった。この便であればそれ程遅くならず佳織たちと合流できる。飛行機は搭乗手続きが面倒だが福岡となると移動時間の差が際立ってくる。
「貴方、お疲れさま」空港にはノザキさま御一行で迎えに来ていた。昨日は伊丹から戻る形で京都のホテルに泊まり、今日は京都観光を楽しんで先ほど福岡に到着したはずだ。
これから博多駅に移動し、そこから鹿児島本線で久留米まで行かなければならない。ホテルに入るのは10時を過ぎるだろう。それにしても福岡空港は築城基地での委託OJTの時、沖縄から遊びに来た美恵子を迎えた思い出したくない思い出がある。私は先に立って歩き始めた。
「久しぶりにベース・イタヅケ(板付)を見たよ」鹿児島本線の車内で義父が声をかけてきた。アメリカ軍の板付基地は滑走路の向こう側なので空港ターミナルの展望台からは見えにくいはずだがパイロットである義父には着陸してくる旅客機のライトで十分だったようだ。
「ベース・イタヅケには私がまだ中尉でコパイ(副機長)だった頃、ベトナムへの物資を受け取るために寄ったものだ」義父が中尉と言うことは1960年代の後半ぐらいだ。ベトナム戦争が激化し、日本も医薬品や食料などの供給源になっていた。
「ベース・ナハへも行きましたか」当時、沖縄はまだ本土復帰しておらず、私が勤務していた那覇基地もアメリカ軍と民間航空の共同使用だった。すると義父は何故か顔を曇らせた。
「うん、ナハにも頻繁に行ったが哀しい記憶が強いな」会話は英語なので周囲の乗客には通じないはずだ。私は3種夏服を着ているが4師団司令部の福岡駐屯地がある南福岡駅は通り過ぎている。私と佳織が視線で続きを促すと義父は重い口を開いた。
「ナハからはベトナムへ送る生きた兵士を乗せて飛び、帰りは戦死した兵士の棺を乗せていた。中には往復とも私が運んだこともあった」私も那覇基地で勤務している時、補給隊が使用していた巨大な倉庫が遺骸安置所だったと聞いたことがある。若き日の義父は輸送機のパイロットとしてその辛い任務を遂行していたのだ。
「ベトナムからナハへ運ぶ遺骸は戦死したままの状態で防腐処置などはしていないから機内に腐臭が充満して必要がないのに酸素マスクをはめたものだ」確かに軍用輸送機の換気装置に防臭機能はついていないから熱帯で収容された遺骸が発する腐臭は耐え難いものがあったはずだ。しかし、私は北キボールで殺した3人の若者の遺骸を思い出して唇を噛んだ。
「だから仕事から帰ってもお父さんは家族と打ち解けることができなかったのね。私はお父さんの怖い顔しか憶えてないもの」本来であれば帰宅はそのような過酷な軍務で疲れ果てた精神を救ってくれる憩いの場のはずだが、義母の典子も異国で姑と暮らす生活に疲れており、夫の立場を思いやる余裕がなかったのだろう。義父が軍事秘密に属する軍務について家族に説明しなかったのは言うまでもない。そのため久しぶりに帰宅しても不機嫌に過ごす夫に嫌悪と不信を募らせた結果が離婚だったのだ。
「典子は許してくれたかな」「大丈夫、娘が許しているんだから妻なら間違いないわ」佳織の返事を聞いて義父は窓の外に見え始めた街の灯りに視線を移した。この夜景も前川原に入校している時、月に一度、不機嫌な美恵子が待つ防府に帰宅して戻る車内から眺めたものだ。
何だか今回の来日はノザキ夫妻だけでなく佳織や私も心に負っている傷、抱えている重荷を1つ1つ片づけるために旅しているような気がする。
  1. 2018/11/26(月) 09:57:10|
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11月26日・もっと高く評価されるべき人物・小村寿太郎の命日

明治44(1911)年の明日11月26日は足元もおぼつかない新生日本の外交を一手に引き受けて奇跡的な成果を上げながら今も変わらぬマスコミの不当な世論操作によって低く評価されている偉大なる外交官・小村寿太郎さんの命日です。56歳でした。
小村さんは安政2(1855)年に日向国の飫肥藩(現在の日南市と宮崎市の一部)で産物方を務める藩士の長男として生まれました。9歳になると幕末の混乱は対岸の火事だった飫肥藩の藩校に入りますが、政変後の明治2(1870)年には藩費で長崎に遊学し、英語を学びました。翌年、藩の推薦を受けて後の東京帝国大学に入学すると国費でアメリカのハーバード大学法学部に留学することになったのです。
帰国後は司法省に入省して大審院(=最高裁判所)の判事などを務めますが、明治17(1884)年に外務省に移り、いよいよ外交の表舞台に立ちました。その切っ掛けは父親が事業に失敗して作った巨額の借金を抱えて給料では生活もままならなかった小村さんが、外交を取り仕切っていた陸奥宗光さんに副業として励んでいた翻訳で学んだ紡績の専門知識を進講する機会を得て、その博識を誉められると「私をここにいる原敬(後の総理大臣)くんほどに用いて下されば相当のことを致します」と答えたことで気に入られたのでした。
外務省では明治26(1893)年から清国代理公使を務め、日清戦争から日韓併合の発端となった乙未事件=閔妃殺害事件を現地から外交的解決に導きました。その後も在韓弁理公使、駐米、駐露公使を歴任し、明治33(1900)年の義和団事件では講和全権として活躍しています。翌年、第1次桂太郎内閣で外務大臣に就任すると義和団事件で各国大使や職員とその家族を暴徒から守り抜いた柴五郎中佐以下の日本軍人の軍規と勇気に感銘を受けていたイギリスとの同盟の締結を実現しました。
こうして日露戦争を迎えるとアメリカの仲介による早期講和を目指してこれまでの人脈を駆使してセオドア・ルーズベルト大統領への接近を試み、奉天回戦と日本海海戦での勝利と言う絶好の機会に帝政ロシアを講和会議に応じさせることができました。
しかし、日露戦争は軍事的には未決着で講和会議も単なる停戦交渉に過ぎず、むしろ帝政ロシア側には陸海軍共に十分な経戦能力が残存しているのに対して日本側は戦力が尽きており事実上は降伏に近い状況だったのです。そのことは帝政ロシアの全権代表・セルゲイ・ヴィッテも認識しており強硬な態度を取り続けましたが、小村さんの粘り強い交渉とルーズベルト大統領の助力で千島と南樺太の領土の割譲と南満州の権益を勝ち取ることができました。
ところが日本国内では平民新聞を除く大手新聞各紙が連日、勝利を喧伝しており、日清戦争以上の巨額の賠償金を期待する世論を扇動していたため小村さんは「売国奴」扱いされ、それを現在も引き摺っているらしく司馬遼太郎先生の「坂の上の雲」以外の時代小説や歴史の教科書では陸奥宗光さんよりもはるかに軽く扱われています。日本への貢献度から言えば明らかに小村さんの方が格上なのですが申し訳ないことです。
  1. 2018/11/25(日) 11:38:03|
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振り向けばイエスタディ1383

木曜日、私も1日だけの年次休暇を取得して京都へ同行した。水曜日は上野の博物館・美術館巡りを終えた後、私の職場=ジャパニーズ・ペンタゴンと横田基地に寄り、義父の元部下に会ってきたついでに佳織は両親が出会った場所を教えてもらったらしい。
「京都は明日回ることにして今日は奈良へ行きましょう」新幹線が京都駅に近づいたところで私は4人に今日の予定を提案した。今夜は京都市内のホテルに宿泊し、佳織は京都の方が詳しいようなので案内を任せ、司法修習で大好きになった奈良を訪れたかったのだ。
「ナラ、聞いたことがないわ」ところがスザンナは意外なことを口にした。確かに国際的な知名度で言えば「キョート」に比べて「ナラ」は格段に落ちる。むしろ「キョートナラ」と一組にされて紹介されていることが多い。
「奈良にはグレート・ブッダがいるんです」取り敢えず「大佛」を直訳してみたが通じたかは判らない。佳織が鎌倉で高徳院の中佛を見せていれば「あれよりもでかい佛像」との説明で興味を引けたかも知れないが志織の希望で買い物を優先したようだ。
「いや、私は典子の墓に参りたい」すると義父がもっと意外な希望を口にした。日本の夫婦では夫が「別れた前妻の墓に参りたい」と言うのは今の妻にとって嫉妬の対象にもなりかねないが、アメリカでは過去と現在の割り切り方が少しドライなのかも知れない。
「でも乗車券と指定券は京都までですからここから先は自由席になってしまいますよ」「いいの、ダディの言う通りにしてあげて」私が制止しようとすると佳織が父親に同調した。どうやら父子で過ごす間に今回の来日での希望を本音で聞いているようだ。
「そうですか。それでは車掌が通ったら乗車券の延長を申し込みましょう」伊丹には大阪空港があるため新大阪駅で下りて北大阪急行に乗り換え、千里中央からは大阪モノレールで合わせて30分だ。新大阪駅からは空港行きのリムジン・バスもあるが墓苑に向かうには少し不便だ。
「お父さん、ここが私を生んだ母が眠っているお墓です」通い慣れた墓苑の伊藤家の墓の前で佳織が静かに説明した。ここで「私を生んだ」と断ったのはスザンナが現在の母であることを暗示している。私の両手には掃除用と(佛さんの)飲用の水を入れた2つの水桶と水道の脇に干してあった雑巾、志織は途中のコンビニで買ってきたお供物の饅頭、佳織は花束を抱いている。
私が水桶に雑巾を入れて掃除の準備を始めた時、義父が墓石の最上段の搭を両手で挟み額を押し当てた。義父は身長が高いので顔は石搭の「伊藤家」の位置にある。
「典子、すまなかった」義父は英語で語り掛けた。私は水桶を足元に置くと頭陀袋から常に携帯している数珠と線香を出して読経の準備を始めたが佳織が隣りで首を振った。
「私はお前が苦しんでいることを知らずに軍務のことだけを考えていた。病んでいたことも知らずにいた。死んでも墓に参ることができなかった。後に遺された佳織に援助の手を差し伸べることをしなかった。お前の夫だけでなく佳織の父親も失格だ」義父の大きな背中を見詰めながら私は胸が熱くなってきた。若し梢が先立つことになれば私も墓前で同じ台詞を吐くことになる。ただし、沖縄の墓を抱き締めることはできない。
義父の供養の懺悔が終わったとことで私は日本式の墓参の手順を始めた。雑巾で墓石を拭き清め、暑さでしおれている目地から生えた草を抜き、最後に上から水をかけて水受けに注いだ。
その間に佳織は花を生け、志織が饅頭を供えた。その様子をノザキ夫妻は手をつないで見ていた。
火を点けた線香を立てて数珠を揉み始めた時、私の胸の中に迷いが生じた。久留米・太刀洗にあるノザキ家の菩提寺・望空寺は浄土宗だが鬼海姓の発祥の地である天草・下田南の隣岳寺は曹洞宗だった。モリヤ家はどうでも好いが伊藤家と庄司家まで曹洞宗であり、多数決ではこちらの圧勝だ。仕方がないので心を空にして成り行きに任せることにした。
「えんみょう~じぞお~ぼさつきょうげ~(延命地蔵菩薩経偈)」今日はこのお経が口から出た。つまりこれが私に寄り添う佛・菩薩が選択なのだ。
「善哉善哉 延命菩薩 有情親友 衆生生時 為其身命 滅為導師 衆生不知 短命無福・・・」延命能化地蔵願応尊は天道、人間、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄に在って苦患に堕ちた衆生を救って下さる菩薩なので宗派に関わりなく信仰の対象になっている。浄土宗の阿弥陀さまも頼りにしておられるはずだ。そう言えば平泉の中尊寺・金色堂の本尊は阿弥陀如来だが脇侍は観世音菩薩と大勢至菩薩ではなく六道=6体の地蔵尊だ。 
「なもあみだぶ なもあみだぶ なもあみだぶ なもあみだぶ×2回・・・な~もあみだ~ぶつ な~もあみだ~」最後は浄土宗式の十念になった。これが佛・菩薩のお示しのようだ。
「ダディ、スザンナ、私たちがハワイに行く時には伊藤家の墓を移すつもりだから。良いでしょう」佳織の申し出にスザンナが「オフ・コース(勿論)」と即答した。
  1. 2018/11/25(日) 11:35:44|
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振り向けばイエスタディ1382

翌週の月曜日から水曜日は佳織がノザキ夫妻と志織を連れて東京都内で買い物を楽しんでいる。特に志織はハワイで習い始めた茶道と居合道の先生や同門の先輩たちから本場の道具類を買ってくるように頼まれているため専門店巡りをしなければならないようだ。
一方、私は監理部総務課で借りてきた久留米市と天草市のNTTのタウン・ページから寺院の項目を抜き出してノザキ夫妻菩提寺の探索の準備を始めていた。それにしても久留米市にはタウン・ページに載っているだけでも150ヶ寺あるのに宗派を明記している寺院は少数派だ。こうなると1軒ずつ確認するよりも浄土宗の宗務所に電話して絞り込むしかない。
「もしもし、浄土宗久留米市宗務事務所の西方寺でございます」民間人には怒鳴っているように聞こえるらしい自衛隊とは違って坊主の口調は柔らかくて「ホッ」とした気分になる。
「もしもし、拙僧は東京市ヶ谷のリクマク寺と申します。ご多用中のところを申し訳ありませんが、お教え願いたいことがありましてお電話差し上げました」私としては同じ業界の人間らしく話しているつもりだが不妄語戒(嘘をつかない戒律)を破ってしまった。今にして思えば本師の弟子と名乗っても良かったのだが、その方が相手は身構えてしまうだろう。
「実は明治時代にハワイに渡った久留米出身の移民の子孫の方が来日していまして、先祖の墓に参りたいと相談されてきたのです」「はい、それで」突然、声が重くなった。どことなく拒否する準備をしているように感じる。これでは先ほどの好印象が台無しだ。
「宗旨は浄土宗と判っているのですが菩提寺の名前が判らないので調べようと思います」「ほーッ、そうですか」今度は少し軽くなった。坊主の反応も中々難しい。
「そこで市内の浄土宗の寺院名をお教え願えないでしょうか」「はい、判りました。少しお待ち下さい」用件を聞き終えて坊主は何故か元の口調に戻って丁寧な対応になった。
「久留米市内に浄土宗の寺院は30ヶ寺ありまして・・・電話でお知らせするのは大変ですからファックスでお送りしましょう」「申し訳ありませんがここにはファックスがないので寺名だけを教えて下さい」折角の申し出だがリクマク寺が陸上自衛隊幕僚監部法務官室であることを暴露するのは拙いため手間がを掛かる要望をした。
「考えてみれば久留米には鎮西派の本山である善導寺さまがありますからね。30ヶ寺あるのは当然でしょう」「はい、さようです。それではどうぞよろしう」寺院名を2度読み上げてもらってタウン・ページのコピーに印を入れ終えると、お礼の代わりに久留米が浄土宗の聖地であることを賞賛して電話を切った。要するに盆が終わって一息をついているところに面倒な「探索」を依頼されると思ったようだ。この業界では雑用の押しつけ合いが当たり前なのだろう。
「もしもし、自分は東京の陸上自衛隊のモリヤと申します。ご多用中のところを申し訳ありません」それから電話を掛けまくったがやはり不妄語戒は保つことにした。
しかし、空振りが続いて大嫌いな野球のバットの素振りをしているような気分になってきた。それでもコピーに印を入れた寺院も残り少なくなった頃、ようやく住職が反応した。
「ハワイに移民した野崎さんでしたらウチにも墓が残っていますよ。この辺りには野崎姓が多いので断定はできませんが、この辺りでハワイに移民した野崎さんは他に聞かないので可能性はあるでしょう」考えてみれば日系人宇宙飛行士のエリソン・オニヅカ中佐も久留米に隣接する浮羽町からの移民の家系だ。前川原での初(不倫)デートの時、佳織が太刀洗の飛行場跡に誘ったのもそこが祖先の土地であることを知っていたからではないか。そこで寺院の住所を確認すると間違いなく太刀洗だ。
「おそらくそちらの野崎家で間違いないと思います。本人に細部を確認してもう一度電話させていただきます」結局、他の寺院には該当する野崎家はなく久留米の調査は終わった。
「もしもし、天草市教育委員会ですか。私は東京弁護士会のモリヤと申します」続く天草市は宗派が判らないので史跡として寺院を管轄している教育委員会に電話した。ここならスザンナの旧姓・鬼海(きかい)についても訊くことができるはずだ。ただし、教育委員会の職員は文化財を担当する学芸員以外は学校の教員が大半なので用心のため「自衛隊」と名乗るのは避けた。それでも不妄語戒を保っている=嘘をついていない私は何者なのだ。
「実は明治時代にハワイに渡った天草出身の移民の子孫の方が来日していまして、祖先の墓に参りたいと言っているんです」「ほーッ、当地出身のハワイ移民ですか」こちらの反応は個人的な興味のようだ。こんなところは「先ずは断る」一般の公務員とは違う。
「鬼海さんと言うんですが・・・」「それは当地の方ですね。下田南の鬼海ヶ浦と言う地名に由来する苗字です」いきなり謎が一つ解けた。私としては墓参ツアーが出発するまでにつき止められる自信はなかったのだが、やはり御佛の助力があったようだ。「南無阿弥陀佛」
  1. 2018/11/24(土) 10:15:24|
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11月23日・「ダラスの熱い日」ケネディ大統領が暗殺された。

1963年のアメリカ東部では11月22日12時30分=日本の23日午前3時30分にテキサス州ダラスでジョン・フィッシュランド・ケネディ大統領が暗殺されました。
この事件については連邦最高裁判所のアール・ウォーレン長官を責任者とする政府の調査委員会の公式な報告書が元海兵隊の狙撃手・リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と言う結論以外は2039年まで75年間非公開とされたこともあり、色々な立場の人たちが独自に調査し、推理を巡らせて見解を発表しています。
中でも1973年に公開された映画「ダラスの熱い日(原題の直訳は『執行措置』)」は原作が事件直後から真相究明に取り組んできたマーク・レーン弁護士ですから非常に説得力があり、「大統領の暗殺は政府中枢の陰謀によって組織的に実行され、実行犯の1人だったオズワルドさんの単独犯行とするためにジャック・レオン・ルビーさんに口封じさせた」と言う展開が事実であるかのように思ってしまいました。
あと21年後に公開されるウォーレン委員会の報告書がどこまで真実を述べているかを野僧は知ることができませんが、少なくともケネディ大統領は在任中から日本で喧伝され、多くの日本人が信じ込んでいるような清廉潔白で理想的な大統領でもアメリカの民主主義の体現者でもなかったことは間違いないようです。
野僧の小学校ではケネディのファンが多く図書室の伝記や少年マガジンに連載されていた「Let’s Go ケネディ(旭丘光志作)」を回し読みしていました。続く一宮中学校ではそのような高度な話題は許されなかったものの蒲郡高校ではベニト・カストロやチェ・ゲバラの方が人気があり、ここで厳しい批判的な評価を知ることができました。
日本人の多くはケネディ大統領が若くてテレビ映りが良いためニュースで見るだけでファンになってしまい、政策の可否=アメリカ国内の評価などには関心を示さず同じく若くて美しい妻(野僧の好みではない)と並んでいると芸能人夫婦と同じ感覚で見惚れてしまったのでしょう。実際は兄弟揃って異常に性欲が強く、金と権力で次々にモデルや女優、さらに人妻までを愛人にして夫婦仲は破綻寸前だったそうです。
また第2次世界大戦で魚雷艇・PT109の艇長だった時に日本海軍の駆逐艦・天霧に衝突されて負傷した部下を抱えて島まで泳いだ武勇伝に妙な親近感と敬意を抱いていたようですが、その魚雷艇が沈めたのは多くの日本軍将兵が乗った輸送船だったのです。
野僧がケネディ大統領の政策で肯定的に評価しているのはアフリカ系市民の権利拡大だけで、キューバ危機についてはソ連があそこまで強硬な態度を取った背景にはケネディ政権の弱腰な外交姿勢があり、日本人は戦争を回避したことだけで賞賛していますがベトナムに軍事介入したのもケネディ政権である事実も考え合わせなければなりません。
マフィアの強力な支援で当選しながら弟の司法長官が撲滅に着手するなどこの独善的で軽白な大統領を抹殺したい人物・組織は幾らでもあり、その原因は本人が作っていたのでしょう。日本では奴隷解放で絶賛しているエイブラハム・リンカーン大統領がネイティブ・アメリカンの大虐殺者であることなどと同じく実像を語るべき時期に来ています。
  1. 2018/11/23(金) 10:19:52|
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振り向けばイエスタディ1381

感激の連続だった山形旅行を終えて東京に戻り、都会での日常生活を2週間過ごすと今度は愛しい娘と義父母が太平洋を越えてやってきた。これは佳織の夏季休暇に合わせているのだが私の方も公判の状況を見ながら1日単位で年次休暇を取得する予定でいる。
「ダディ、マミィ」土曜日の午後、佳織と2人で成田空港の到着ロビーで待っていると真っ先に志織が出てきた。志織もハイ・スクースの1学年を終えて少し大人びてきたように見える。
「おかえり。元気そうだな」「ハイ・スクールの単位は取れてるの」出迎えた両親は掛ける言葉が違う。やはり本当のエリート・コースを歩み続けている佳織と本来は叩き上げの中級幹部として一段ずつ階級を上がっていくべき私では娘に向ける意識にも差があるのかも知れない。
「うん、元気で頑張っているよ。単位は全てトップ・クラスで取得しました」志織が両親に異なった報告を終えたところにノザキ夫妻が出てきた。ハワイではアロハとムームー、軍服とドレスしか見たことがない義理の両親も今日はポロシャツと地味目のワンピースで日本の標準的高齢者夫婦になっている。志織が前を開けたので私と佳織は姿勢を正して出迎えた。
「ロングタイム ノー シ―(ご無沙汰しています)。シオリ イズ インデブテンド(志織がお世話になっています)」「ダディ、ようこそ。スザンナは初めての長旅で疲れていない」私の挨拶は日本式の直訳なので佳織のように自然な会話になっていない。久居の頃は佳織の指揮幕僚課程の同期の留学生との交流があったため英語力が維持できて、そのまま北キボールのPKOにも行けたのだが、拘置所生活と現在の陸上幕僚監部法務官室での勤務では英語を使う機会がほとんどなく年齢による頭脳の衰えも加わって退化するばかりだ。
その一方で私は今回の旅行で今まで聞いたことがなかった祖父の人間像を知り、ようやく自分に流れる血を肯定できたような気がしていた。私が自衛官になったのも母方の曾祖父である青山寛少将の血統と言うよりも応召して憲兵に選抜された庄司永之進がそのまま軍に留まった場合の人生を孫が再現しているように思われていた。おそらく私の前世である沖縄戦で戦死した海軍陸戦隊の中尉も海軍兵学校出のエリートではなく叩き上げの特務士官だったのだろう。
「息子よ。ボンヤリしてどうした」ノザキ夫妻が佳織と志織の母子と談笑を始めている横で黙っている私にノザキ中佐が声を掛けてきた。確かに日頃は人の6倍喋る「六口(むくち)な奴」、喋りが制御できない「逆口下手」と呼ばれている私が会話に参加しないのは珍しい。
「この人は色々な出来事があって頭が少し飽和状態なの」佳織の説明にノザキ夫妻と志織のハワイの家族は顔を見合わせてから「珍しいこともあるもんだ」と言って歩き始めた。
旅行中、ノザキ夫妻と志織はホテルに泊まる旅行以外は久里浜の佳織の官舎に滞在することになる。今回は私も同行してスケジュールの打ち合わせと九州で墓参するために必要な情報を収集することにした。一応、京都と久留米、天草のホテルは予約してあるが別に希望があれば早急に変更しなければならない。
「今回の来日ではお2人のご先祖の墓に参ることを中心に考えて良いんですね」佳織の官舎で人心地ついたところで私が会議を招集した。
「うん、それが子孫としての務めだな」義父の返事に今の私は心の中で大きくうなずいた。
「墓がある寺を探しますから何か知っていることがあれば教えて下さい」「その前にスザンナの旧姓を教えて」今度は横から佳織が質問を補足した。確かに寺に電話してハワイの移民になった檀家がいないかを確認するにも姓が判らなければ手掛かりがない。
「私の実家は・・・キカイって言ったのよ」スザンナは何故かためらった後に説明した。
「キカイってどんな字を書くか判る」私はスザンナの何かを恐れるているような顔を見て深入りを避けたが佳織は事務的に確認した。
「うん・・・デーモンズ シー(鬼の海)と書くって聞いているわ」「ふーん、不思議な苗字ね。それならすぐに見つかるかも知れないわ」佳織は日常会話でもあまり感情を介在させない。そんな日本人的には冷淡な反応にスザンナは安心したように「イエス」と答えた。
「実家の宗旨なんかは判りませんか」私の知識では天草の寺は曹洞宗と浄土宗だけのはずだったが、その後、調べてみると浄土真宗と日蓮宗の寺が増えていてかなりの数になっていた。
「いいえ、祖父母はハワイでカソリックの洗礼を受けたんだけど、すぐに病気で死んでしまったから両親が佛教に戻したのよ。でもあの頃はまだ日本の佛教寺院があまりなかったから頼めるところにお願いしたみたい」この話は佳織も初耳だったようだが私としては天草と言う土地柄から「実際は隠れキリシタンだったのではないか」と推察した。
「判りました。皆さんが出発するまでに調べてみます」そうは言ったが流石の私も自信はない。
  1. 2018/11/23(金) 10:18:49|
  2. 夜の連続小説8
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11月22日・反戦自衛官・小西誠3曹が自衛隊法違反で提訴された。

昭和44(1969)年の11月22日にベトナム戦争反対運動が支持を集めていた時期には反戦自衛官としてマスコミに持て囃されていた小西誠3曹が自衛隊法第64条「団体等結成の禁止」3項違反の扇動罪で提訴されました。
小西3曹は昭和24(1949)年に宮崎県で生まれ、中学校卒業後は航空自衛隊に少年術科学校=自衛隊生徒の10期生として入隊しました。ちなみに漫画家の本宮ひろ志さんと原作者の武論尊=史村翔さんは1期先輩の9期生です(本宮さんは中退している)。
生徒課程を修了して佐渡島のレーダー・サイトに配属されると離島での余暇を紛らわせながら一般(部外)課程の幹部候補生を目指したのか法政大学の通信課程に入学しました。
ところがスクーリングで東京の大学の構内に足を踏み入れると当時は60年安保闘争の狂気を引き摺って共産革命を実現しようとしていた学生運動の活動家たちと対話することになったそうです。すると中学校を卒業して以来、軍国思想では一般部隊よりも過激だった帝国陸軍航空隊出身の教官たちの精神教育で純粋培養されてきた小西3曹とは相容れないものの目的を達するために自己を捨てる覚悟には共鳴し、独自に自衛隊の改革を追及することを決意して部隊に帰ったのです。折しも自衛隊では学生運動の激化を受けて治安出動訓練が始まり、小規模な警察署しかない佐渡島でも本格的に実施されることになりました。当然、小西3曹はこれを拒否し、逆に分屯基地内に大量の反戦ビラを掲示したのです。昭和44(1969)年10月の治安出動訓練では運動場に集合している隊員たちの前で朝礼台に登壇すると治安出動訓練への参加拒否を宣言し、反戦演説を始めました。当然、部隊は身柄を確保し、処罰する方法を検討した結果、自衛隊法第64条「団体等結成の禁止」の3項の扇動に該当することが判り、派遣された警務隊に引き渡されました。
こうして始まった裁判では全国から100名を超える大弁護団が結成され、反自衛隊の憲法学者や軍事評論家なども加わって小西3曹の遺志とは無関係に自衛隊の合憲・違憲を争う憲法裁判にしてしまったのです。ところが当時の裁判所は賢明にも高度の政治問題となる司法判断を避け、新潟地方裁判所は「証拠不十分で無罪」、東京高等裁判所によって差し戻された再審でも「表現の自由の範囲内で無罪」として検察側が控訴を断念したことにより昭和56(1981)年に無罪が確定しました。
これを受け小西3曹は「命令違反」として受けた懲戒免職処分を無効とする民事裁判を起こしましたが、裁判所はこれも絶妙の回避行動を取り、27年後に本人が定年退職する年齢になってから却下の裁定を出しました。
野僧は教師の伯父が送りつけてきた新聞記事で小西3曹の寄稿文を何度も読んだことがありますが、本人はあくまでも国民に銃を向ける治安出動とアメリカの戦争に加担することに反対しているのであって自衛隊員の多くが「裏切り者」と憎悪していることは不勉強による誤解と小西3曹の存在を利用するマスコミや反戦平和活動家の画策です。
  1. 2018/11/22(木) 09:39:56|
  2. 自衛隊史
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振り向けばイエスタディ1380

墓参から帰ると優子さんが食事の支度を終えて居間の座卓に料理を並べていた。私は困惑しながら腕時計を見ると午後4時だ。と言うことはこれはオヤツなのだろうか。
「ごっつぉ(御馳走)はねェけどけれ(け=食べて)」タツ子さんは茶碗に飯を盛りながら勧めてきた。オカズは山菜や茸の煮物や揚げ物が並んでいるが、東京で売っているのと同じ種類の植物とは思えないほど立派で美味しそうだ。
「おづけもどうぞ」遅れて優子さんが鍋を提げてきてお盆の上でお椀に味噌汁を入れた。
「それでは遠慮なく」私たちは新庄駅での乗り合わせの時間があったので途中下車して駅の食堂で昼食をすませてきた。すると田舎の食堂らしくご飯が大盛りで日頃が小食なだけに満腹になった。したがって4時とは言えまだあまり腹は空いていないのだが、これが歓迎のもてなしなら喜んでいただくしかない。
「いただきます」2人で手を合わせ、声を揃えて頭を下げると箸を取って漬物を口に入れた。それは蕪と昆布の塩漬けだった。
「美味しい」いきなり佳織が感嘆の声を上げた。確かに美味しい。蕪の甘さと昆布の食感に塩加減が絶妙でこれだけでオカズになる。私たちの顔を見て山形の4人は顔をほころばした。
「おさいもあがってけらっしゃい(オカズも食べて下さい)」漬物だけでご飯を食べた私たちに優子さんが声をかけてくる。そこで煮物を持った小鉢から茸を取って食べると肉厚で初体験の味と歯応えだった。考えてみればこのオカズは極めて低カロリーなので私には丁度良い。
「もう腹くっついんか(お腹一杯なのか)」急須の茶を湯呑に注ぎながらタツ子さんが訊いてきたが、やはりオヤツは茶碗一杯で十分だった。私たちは手を合わせてうなずいた。
「永之進は上から2番目でオラは6番目、タツ子の夫の永衛門は7番目の末っ子だったんだ」食事が終ったところで庄司家の説明になった。永さんが座卓の上に裏が白い広告を広げてボールペンで家系図を書き始める。それによると庄司家では男子には「永」の字を使った名前がつけられていて歴代当主は屋号の「永衛門」を名乗っていたそうだ。それでは末っ子が永衛門になったのは不思議だが、長男が跡を継いで屋号を引き継いだものの子供がないまま亡くなってしまい、二男の祖父・永之進から永さんまでの5人兄弟は他家に養子に出ていたので曾祖父母が高齢出産覚悟で作ったのが永衛門さんなのだそうだ。そんな家系の男子が40歳代で子作り不能になっているとは情けない。もう一度、墓参して生殖能力の快復を祈願をしたくなる。
「モリヤさんの階級は何なんですか」私と佳織が完成した家系図を覗き込んでいると永さんが訊いてきた。永さんの年齢は90歳の手前と言うことなので軍隊の経験があるのかも知れない。
「はい、私は2等陸佐、昔で言えば陸軍中佐。家内は1等陸佐、大佐です」私の説明に永さんだけが呆気に取られた。考えてみれば薫さんは終戦直前の生まれなので軍隊の知識は乏しく、タツ子さんとようやく薫さんの妹と判った優子さんは対象外だ。
「奥さんが大佐ですか。連隊長殿ですね」「今は通信学校の副校長をしています」「伯父さんだって校長先生だったじゃない」佳織の答えに感心している永さんの隣りから優子さんが口を挟んだ。薫さんの補足説明によると永さんの5番目の兄は新庄市の小学校の校長だったそうだ。
「軍隊の学校の校長は今で言えば大学の学長のようなものだ・・・それでモリヤさんは」「私は昔で言えば陸軍参謀本部で勤務しています」「へーッ、エリート将校ですね」薫さんも戦争映画くらいは見るようで私の説明にようやく相槌を打った。
「永之進は大正の頃に応召して朝鮮半島で勤務していたんですよ」「そうなると岩手県出身の斎藤實大将が朝鮮総督だった頃ですね」私の回答に今度は永さんが驚いたような顔をした。確かに私の世代では歴史の教師でも歴代朝鮮総督を知っている者はいないだろう。実は守山で勤務していた1994年に国連の人権委員会で従軍慰安婦の問題が取り沙汰されていた時、その悪の根源とされていた日本の朝鮮統治について調べたのだ。
「流石は中佐参謀ですね」永さんにこう言われると自分が陸軍将校になったような気分になる。
「それで祖父の兵科は何だったんですか」ここは永さんの感心よりも私の関心を優先したい。少し真顔になって質問してしまった。
「歩兵だったんですが憲兵に選ばれたんです。休暇で帰ってきた時に軍刀を提げていて驚きましたよ」その頃、永さんは子供だったはずなので兄が軍刀を提げて帰ってくれば嬉しかっただろう。ただし、憲兵は特務上等兵=兵長から軍刀を提げ、皮脚絆を着用することができた。
「それは凄いですね。憲兵に選ばれるのは品行方正で頭脳明晰な模範的兵隊だけですから」永さんは思いがけず孫が戦後は悪役にされている憲兵を正しく理解していることに感激したようで鼻をすすった。実際、私自身も祖父の軍暦を知って非常に感激していたのだ。
  1. 2018/11/22(木) 09:38:58|
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11月22日・航空自衛隊のF-15による僚機撃墜事故

1995年の明日11月22日に航空自衛隊第6航空団のF-15J戦闘機が空中戦闘機動訓練中に攻撃側が誤って空対空ミサイル・AIM-9Lサイドワインダーを発射して敵役の僚機を撃墜する事故が発生しました。なお、撃墜されたパイロットは脱出して打撲などの軽傷、水没した機体は5日後に発見され、翌年2月末に引き揚げられました。
F―15は湾岸戦争など数多くの実戦で使用されていても敵機に撃墜されたことがなく、メーカーのマグダネル・ダグラスは宣伝文句にしているのですが、1機だけは味方機に撃墜されたことになります。一方、航空自衛隊は人間が搭乗する戦闘機を撃墜したのはこの1機だけですが、硫黄島で用途廃止になった戦闘機をラジコンで飛ばして撃墜しているので無人機は経験済みです(意外なことにラジコンでは地上走行できないため滑走路の端まで人間が運転していって離陸させる)。
この日、2機は朝8時23分に小松基地を離陸して山陰沖の日本海上の訓練空域に向かいましたが、緊急発進の予備機(増強が発令された時の対象機)だったためバルカン砲の20ミリ弾と空対空ミサイル2発を搭載していたのです。
訓練としては対向して擦れ違ったところから空中戦に入る形式で2度それを繰り返した後、3度目として攻撃側が敵役の背後を取り、射撃の手順を踏むため操縦桿のトリガーを圧したところミサイルが発射されてしまいました。
1度目、2度目も同じ動作を行ったはずですが2回とも火器管制装置でバルカン砲を選択したため不時発射は起こらなかったようです。ところが3度目は対向する前に入間基地の防空管制隊の兵器指令官に火器管制装置のメイン・スイッチがオフになっていることを確認・通知していながら、訓練に入って2分後に背後を取ったため同様の操作をしたところ空対空ミサイルが発射されたのです。AIM-9Lは熱源探知式なので敵役の水平尾翼の付け根=ジェット・エンジンの噴出口付近に命中しました。
攻撃側は発射の申告から56秒後にエマージェンシー・コール(緊急事態通報)を発し、その7秒後に敵役のベイル・アウト(脱出)を報告しています。ところが事故発生から2分後の確認では「火器管制装置がオフ状態なのにミサイルが発射された」と報告しており、これが後に大きな問題を引き起こすことになりました。
基地に帰還した攻撃側のパイロットは直ちに事情聴取を受けますが「火器管制装置はオフ状態だった」「トリガーは引いていない」と強弁したため原因は機材の誤作動=電気信号の誤発信と推定され、当時の杉山蕃航空幕僚長や村山富市首相にもそのように報告されました。ところが引き上げられたヘッド・アップ・ディスプレー(前方ガラス板への情報投影装置)の記録で火器管制装置はオン状態、トリガーが引かれていたことが判明し、攻撃側のパイロットの人為的過失であると認定されたのです。
これを受けて翌年6月に攻撃側パイロット(防衛大学校出身)は停職10日間とパイロット資格剥奪の処分を受けて退職しました。一方、撃墜された敵役の航空学生出身のパイロットは現役を継続し、いよいよ定年目前です。
  1. 2018/11/21(水) 10:09:10|
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振り向けばイエスタディ1379

「んじゃあ先に墓参りにあべ(行こう)」「んだな。優子にままづまえ(食事の支度)を頼んであべ」、私が坊主の端くれと判ると永さんとタツ子さんはそちらの仕事を優先し始めた。それにしても優子と呼ばれた私によく似た女性の関係は不明のままだ。何はともあれ菩提寺で先祖累代の墓に参れば山形まで訪ねてきた目的は達成される。
話が決まるとタツ子さんは居間の入り口の棚に置いてある墓参用の袋を持って庭に出ていった。どうやら花を切りに行ったようだ。その間に私はスポーツ・バッグから土産の菓子と用意してきた可漏(かろ)を取り出した。可漏とは坊主が金銭を遣り取りする時に使う世間一般の祝儀袋のようなもので、4つ切りの和紙を2つ折りにしてから右、左から3分の1に畳む。そうして上になった面の中央付近に「上」と書き、中になった面の中央には「金○○円」と記す。さらに拜表と呼ばれる短冊状の紙の上部に「謹上」と趣旨(今回は相見=しょうけん)、下部に寺院名(私にはないので△△徒弟)と僧名、そして九拜(高僧や師僧の場合は百拜)と書いて間に挟む。要するに坊主の世界では銘菓や特産品などよりも金を手土産にするのだ。
佳織に風呂敷に包んだ土産を渡し、私は頭陀袋に数珠と可漏を入れて永さん、薫さん父子と一緒に立ち上がった。その間に優子さんは広い和室の奥にある台所に向かった。
薫さんのパジェロには永さんが助手席に乗り、後席にはタツ子さんが中央で私と佳織が左右から挟んだ。普通は夫婦を隣り同士に座らせるものだがここが指定席では仕方ない。
菩提寺は庄司家の前の田圃の中の道を山に向かって約200メートルのところにあった。ここならタツ子さんも歩いて通えるはずだ。古びた山門は歴史を感じさせるが庭は意外に殺風景だった。やはり冬場の豪雪で木の成長が遅いため凝った庭園にはできないようだ。
「はいっとー(こんにちは)」禅寺の玄関は本堂と庫裏を結ぶ渡り廊下にある。ここでは永さんが声をかけると薫さんと同世代の住職が出てきた。
「これは庄司の永さんじゃあ。ご無沙汰しています」「こちらこそご無沙汰しています」永さんは角川の庄司家の出身なので住職とは顔見知りのようだ。ただし、年齢から言えば先代の住職の親と遊び友達になるはずだ。時候の挨拶が終わったところで永さんが振り返って私を紹介した。実は2人で会話している間も住職は私を見ており、対応に困っていたのだ。
「こちらは愛知県に養子に行った兄の永之進の孫でモリヤさんだ。こちらが奥さんで今日は東京から先祖の墓参りに訪ねて来てくれたんだ」紹介を受けたところで合掌し、45度の敬礼をした。坊主的には90度の敬礼だが、正式な挨拶は上がってからにする。
「取り敢えずどうぞ」住職に招かれて玄関から上がることになった。勿論、坊主としては本堂に回って本尊さまと開山和尚に拜登(はいとう=挨拶)するのが先だ。
庄司家の墓は寺の裏山に広がる墓所の一番奥にあった。住職が同行したのでタツ子さんと佳織が花を生け、薫さんが墓石を掃除している間も引き止められて質問に答えることになった。
「その絡子(らくす)は少し形が違うようですが・・・」「これは浄土宗の威儀細です。僧籍は曹洞宗に残していますが本師は浄土宗なので」庫裏での茶話会で私が自衛官であることと得度を受けた経緯までは説明していたが、僧侶としての経歴まで話す時間はなかった。
「まァ、寺の跡取りでなければ好きな宗旨で修行すれば良いんでしょう。ある意味では羨ましいですな」普通、坊主のこの手の言葉には皮肉を感じるのだがこの住職にそれはない。
「終わったようですね。それでは参りましょう」墓参の準備が整ったところで住職に促されて墓の前に整列した。線香は薫さんが焚いてある。
住職が手鐘(しゅけい)を3度打ち「カチッ」と音を立てて止める。ここで大きく息を吸う。
「しゃりらいもーん(舎利礼文)・・・一心頂来 万徳円満 釈迦如来 真身舎利 本地法身 法界塔婆 我等礼敬・・・」住職としては60年ぶりの子孫の墓参に感動して出張サービスしてくれたのかも知れないが、その割にお経は短い。
住職はユックリと3度繰り返して勤経を終えると「願わくはこの功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に佛道を成んことをォ~。十方三世一切佛・・・」と普回向で締め括った。
文句ばかり言って申し訳ないが私は普回向なら臨済宗式に「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成佛道」と漢文の音読の方がスッキリしていて好きだ。
それよりも墓参であれば浄土宗の「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」の総回向の方が適切ではないか。しかし、こんな罰当たりなことを考えていてはご先祖さまからお叱りを受けそうだ。そこで合掌して前屈運動をした。
「庄司家は代々弁が立つ者が多かったからお城へのお願いや隣り村と交渉する時の代表を務めていたんだ」墓参の後の永さんの説明に私にもその血が流れていることを実感した。
  1. 2018/11/21(水) 10:05:24|
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10月20日・長寿では完勝?宇喜多秀家の命日

明暦元(1655)年の明日11月20日(太陰暦)は関ヶ原の合戦に於いて最も勇戦しながら敗北し、八丈島流刑の第1号となりながら同時代の武将たちの中で最後まで生き抜き、長寿では完勝した宇喜多秀家さまの命日です。83歳でした。
宇喜多さまは元亀3(1572)年に備前国・岡山城主であった西国の奸雄・宇喜多直家さまの次男として生まれました。直家さまは交通の要衝である岡山の地の利を生かして上方と西国の大名や土豪の動向に関する情報収集に努め、持ち前の冷徹な分析・計算と大局的な判断によって最終的に優位に立つ者を見極めて接近を図りましたが、その慧眼に適ったのが当時は織田家の武将に過ぎなかった羽柴秀吉さんだったのです。直家さまは天正9(1581)年に病没する際、正室を妾に差し出して9歳だった宇喜多さまの将来を託しました。この申し出に実子がいなかった秀吉さんも大いに喜び、我が子のように愛育し、天下人になってから元服した時には「秀」の字を与えています(通常、家来筋には下の字を与える)。このため本来は外様である宇喜多家は加藤清正さまや福島正則さまなどと同格の一門衆扱いを受けることになりました。さらに死期を自覚した秀吉さんが合議によって政務の運営する5大老制を策定すると東照神君・徳川家康公や前田利家さん、毛利輝元さん、上杉景勝さんと共に任命されています。しかし、秀吉さんが病没すると大老による合議制は機能せず、群を抜く実力・人望を有する家康公が決定権を揮うようになり、それを5奉行の石田三成さんが危険視しますが、結局、慶長5(1600)年9月15日(太陰暦)の関ヶ原で雌雄を決することになったのです。
この時、宇喜多さまは西軍の主力として1万7000人の将兵を率いて東軍の先鋒(先陣は前線視察に出た井伊直政さんが鉄砲を撃って横取りした)の福島正則さんと互角以上に渡り合いましたが、戦いに疲れてきたところに寝返った小早川秀秋さんに側面を攻撃されたため陣立ては大混乱に陥り、立て直すことはできませんでした。関ヶ原の敗戦後は伊吹山に逃れ、東軍の落ち武者狩りに発見されたものの殊勝な態度を同情されて匿われ、島津領に逃れましたが「行方不明になった宇喜多は薩摩にいる」と言う都市伝説が広まったことで引き渡され、護送した藩主・島津忠恒さまと義理の兄(正室は前田利家さんの娘)に当たる前田利長さまの命乞いによって慶長11(1606)年に八丈島に流刑されました。八丈島では浮田久福と名乗って温暖の気候と妻が戻った前田家から送られてくる米などによって安穏に暮し、長い長い余生を過ごしたのでした。宇喜多さまは八丈島を愛するようになったのか家康公の没後に赦免され、前田家が屋敷を用意しても島を離れず、現在も子孫=浮田家が住んでいるそうです。
同じ5大老の徳川家康公は元和2(1616)年に73歳、前田利家さんは慶長4(1599)年に60歳、毛利輝元さんは寛永2(1625)年に72歳、上杉景勝さんは元和9(1623)年に67歳に亡くなっており、関ヶ原で戦った福島正則さんは寛永元(1624)年に63歳、裏切った小早川秀秋さんは慶長7(1602)年に20歳でしたから圧勝です。
宇喜多秀家みなもと太郎作「風雲児たち」より(実際は関ヶ原の当時は28歳だった)
  1. 2018/11/20(火) 09:35:15|
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振り向けばイエスタディ1378

旧角川村は細長い盆地で高くはないが深い森になっている山の間に美しい水田が広がり、山沿いに人家や学校などが建っている。
「先ずは永衛門さんの家へあべ」また薫さんの方言が通じなくなった。「永衛門さん」が祖父の実家であることは役場からの案内で知っているが「あべ」と言う苗字とのつながりが判らない。
それでも薫さんは標準語を話すように心掛けてくれているはずなので日常的に使う言葉のようだ。私は黙って意味を思案し始めた。
「言葉の最後に出てきたんだから動詞だろうな」日本語の構造から言えば最初に名詞が出て、続いて形容詞、最後は動詞で締め括る。こうなると「あべ」は「行こう」と考えるのが適当ではないか。黙り込んだ私の隣りで佳織は薫さんの説明を聞きながら窓の外を眺めている。ハワイ生まれで関西育ちの佳織にとって東北の農村の風景は初体験なのに懐かしい不思議な日本の原風景なのかも知れない。
「あれが永衛門さんの家だ。親父は先に送っておいたから待っているよ」祖父の実家は古びているが特殊な設計で建てられているようで外観は和洋折衷に見える。
「はいっとー」庄司家の玄関前に車を止めると薫さんは先に立って引き戸を開けて声をかけた。普通、このような場面では「ごめんください」と声をかけるので多分それなのだろう。
「モリヤさんを連れて来たぞ」薫さんの声の大きさから推理するとかなり広い家のようだ。勿論、待っている人が高齢で耳が遠い可能性も高い。何にしても佳織と2人で車を下り、薫さんが上がってしまった家の中に入った。すると玄関の奥は10畳以上ある和室だ。部屋の中央には備えつけにしているらしい大型のストーブが置いてある。
「あがってけらっしゃい」佳織と感心しながら薄暗い部屋の中を見回していると一段高くなった奥の部屋から女性が呼ぶ声が聞こえてきた。そこで靴を脱いで奥へ向かった。
「はいっとー、よくござってくれたなす」「こわくねェか」奥の部屋に高齢の男性と女性、それに薫さんともう少し若い60歳代後半くらいの女性がいた。どうやら高齢の男性が永(ながし)さん、女性が亡くなった当主の妻・タツ子さんのようだ。もう1人の女性は判らないが何故か私によく似ている。と言うことは血のつながりがある人物なのかも知れない。
奥の部屋は6畳の居間のようでタツ子さんの生活感が充満している。布団を掛けていないコタツの奥に案内されたので佳織と並んで正座すると手をついて挨拶をした。
「はじめまして。永之進の孫に当たりますモリヤニンジンと申します。こちらは妻の佳織です」「佳織です。よろしくお願いします」2人揃って頭を下げると返事の代わりに女性同士の品評会が始まった。こうなると頭が挙げられない。
「あれェ、永衛門にそっくりだァ」「やっぱり血は争えないんだなァ」一般的に「血は争えない」はあまり肯定的な意味には使わないが、こちらでは単純に血縁を表現する言葉のようだ。
「すみません。佛壇にお参りさせてもらえませんか」女性陣の品評会が一段落したところでスポーツ・バックの中から土産を取り出してタツ子さんに声をかけた。今日も私は作務衣姿なのでこの申し出に違和感はないはずだ。
「あれェ、あどァつまに参ってくれるんだべか」そう言うとタツ子さんは奥の襖を開けた。そこは4畳半の佛間だが布団が万年床になっている。先に立ったタツ子さんは手早く布団を2つに畳んで座るスペースを作ると居間の座布団を運んだ。それにしても「あどァつま」とは誰のことなのか(正解は「佛さま」)。何はともあれ威儀細を首に掛けた私が正面、佳織が少し下がった横に座り、土産を供えた佛壇の蝋燭に火を点けて持ってきた線香を焚き、数珠を揉んだ。その間に位牌の戒名を確認すると曹洞宗のようだ。
「まかーはんにゃーはらみたしんぎょー(摩訶般若波羅蜜多心経)」先ず本尊さんに暗記しているお経では2番目に長い般若心経と消災吉祥陀羅尼のセットを唱えた。
「いやァ、おっさまだとは知らながった」本尊さんへの般若心経に続き、記憶しているお経では一番長い妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈を先祖のために唱えると永さんが感心したように声をかけてきた。「おっさま」は坊さんの呼び名としては一般的だ。
「モリヤさんは自衛隊って聞いていたけどおっさまもやってるんですか」今度は薫さんが訊いてきた。順番が逆になったようだがようやく自己紹介が始められる。
「僧籍は持っています」「今のは曹洞宗のお経だべ」やはりタツ子さんの信仰心も篤いようだ。
「確かに得度は曹洞宗で受けました」本当は「でも宗旨替えしました」と続けたいのだが、山形県も曹洞宗王国だが豊川稲荷の商売繁盛に毒されている東三河とは違って真面目な檀家が多いと聞いているので期待を裏切るようなことは言い出せなかった。
  1. 2018/11/20(火) 09:32:08|
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11月20日・人間魚雷・回天が実戦に投入された。

昭和19(1944)年の明日11月20日に人間魚雷・回天による特別攻撃が実施され、この狂気の殺人兵器の発案・推進者である仁科関夫大尉も出撃しました。
現在の日本人は特別攻撃隊=特攻隊と言うと連合艦隊が残存艦艇の大半を動員して実施したレイテ湾突入作戦に先立って大西滝次郎中将が昭和19(1944)年10月17日に編成した海軍の神風(しんぷう)特別攻撃隊などの爆装した航空機による体当たり攻撃しか思い浮かべませんが、悪しき前例を作ってしまえば蛮勇の競い合いを始める日本人の愚かな精神性に火が点いた以上、後は脇目も振らず「国家心中」に突き進んでいたのです。実際、航空機でもドイツのV-1ロケットを人間に操縦させる「桜花」、ベニア製のモーターボートである「震洋」、さらにアクアラングをつけて海上を漂い敵艦艇が通過すれば機雷を作動させる「伏竜」などの戦果よりも人間を殺すことだけを目的にしたような兵器が自殺志願の軍人自身の手によって開発されていました。
そんな中で回天は、真珠湾やシドニー港の攻撃で戦果を挙げた特殊潜行艇・甲標的は作戦上では帰還・回収することを前提としていても搭乗員たちは決死の覚悟を持っていた出撃しており、戦果の分析が進んでいくに従って搭載した魚雷を至近距離から発射しても命中率が低いことから「自ら魚雷を操縦すれば間違いなく戦果が挙がる」と考えるようになったことが始まりでした。ミッドウェイ海戦での敗北を機に戦況は逆転し、ガダルカナル島攻防戦が最終局面に入った昭和18(1943)年には前線の潜水艦の艦長たちから人間魚雷の必要性が意見具申されるようになったのです。同時期に甲標的の搭乗員だった黒木博司大尉と仁科関夫大尉も待機場所(出撃の機会がなくなり延々と待機が続いていた)で93式酸素魚雷を改造した人間魚雷の構想を練っていました。
回天は直径61センチの93式酸素魚雷を人間が座って搭乗できるように100センチまで大型化して最低限の操縦性を加えただけの代物で、生還は考えていないため安全性や信頼性は度外視され、実戦では発射できても目標まで航続できずに途中で海底に沈没したり、火災・爆発や窒息によって搭乗員が死亡するなどの事例が続発したようです。
さらに回天自体が未完成のまま訓練に使用し、そこで判明した欠陥を修正していたので、黒木大尉も昭和19(1944)年の9月7日に悪天候の中、樋口孝大尉と共に出港したものの操縦不能に陥って沈没、窒息により殉職しています。
しかし、回天の問題は本体の構造上の欠陥よりも、射程距離内まで運搬する潜水艦が過大な重量によって速度が低下し、艦体を通り抜ける水流が乱れて雑音を発するため敵艦のソナーに探知されて撃沈されたことです(桜花も同様だった)。
結局、回天は49機=49名が発射されて輸送艦や給油艦、上陸用舟艇などを3隻撃沈、1隻大破、4隻小破させただけで訓練中の殉職や撃沈された潜水艦の搭乗員を合わせた多大の犠牲から見れば「戦果2パーセント」と言うのが防衛研究所の算定です。
野僧は山口県の徳山沖に浮かぶ大津島にある回天の訓練基地に2度行きましたが、死ぬための訓練に明け暮れていた軍人たちの怨念・無念の霊気が満ちていていました。
  1. 2018/11/19(月) 10:15:57|
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振り向けばイエスタディ1377

夏季休暇は本来、3日連続で取得するのだが私の場合は公務上の理由なので特例が認められている。そんな訳で6日の金曜日と9日の月曜日に取得して間の7日と8日に山形へ出かけることにした。佳織は疲れたままの仕事になるが、そこは3歳年下の健康優良児なので耐えてもらうしかない。とは言え金曜日は旅行の準備、月曜日は片づけで終わることになる。
「これが最上川かァ。やっぱりな雄大な眺めだね」鉄道の窓から見え始めた最上川の風景に佳織が歓声を挙げた。確かに緑が深い東北の山を押し割るように流れる最上川は守山時代に見慣れていた木曽三川や坂東太郎・利根川のように平野を流れる大河とは違った迫力と趣がある。
「時間があれば川下りも楽しみたいけど今回は無理だな」「うん、私が今の配置の間は駄目だね」佳織が申し訳なさそうな顔になったので私は小さく首を振って最上川に視線を戻した。
実は車嫌いで隠れ鉄道マニア(飛行機、船、バスでの旅行も大好き)の私は今回の旅行は山形新幹線「つばさ」で新庄駅まで行き、陸羽東線で戸沢駅に向かう計画を立てた。戸沢駅までは祖父の弟である永(ながし)さんの息子の薫さんが迎えに来てくれることになっている。
「この流れなら松尾芭蕉が『集めて早し』って感嘆しても不思議はないね」佳織は中学2年まではハワイだったので日本の国語は途中からのはずだ。奥の細道を習ったのは何年生だったのかを思い出してみたが担当の女性教師の顔しか浮かばない。
「あの句の五月雨は太陰暦だから今で言えば6月の雨、梅雨のことなんだよ」「そうかァ、季節外れの大雨じゃあないんだね」これは授業の請け売りだが佳織は素直に感心してくれた。そこで毎度の悪癖を発揮して雑学をオマケした。
「ワシは最上川を詠んだ句なら正岡子規の方が好きだな」「ふーん、どんなの」「ずんずんと 夏を集めて 最上川」この句は文学児童だった小学生の頃に愛読していた正岡子規や与謝蕪村、小林一茶の句集を中から見つけたのだが、こうして最上川の圧倒的な水量を見ていると「ずんずん」と言う表現が言い得て妙で改めて感心してしまった。
「あれェ(これは)、モリヤどれへェ(モリヤさんですね)。よくござったなす(よくいらっしゃいました)」戸沢駅で下りると改札口の前にやや年配の男性が待っていた。それが薫さんだった。考えてみれば永さんが祖父と兄弟なのだから薫さんは父親と同世代、又叔父(またおじ)にあたる。それにしてもこの挨拶は何と言っているのか理解できない。沖縄のシマグチでさえ自然に習得できた私が本場の山形弁には驚いた。
「庄司さんですね。モリヤです」取り敢えず標準語で挨拶したが薫さんは黙ってうなずくと駅前広場に駐車してある三菱の4WDに案内した。これは陸上自衛隊でも採用しているから乗り慣れた車種ではある。したがって自衛隊の要領で安全確認をしてから両側から乗車した。
「今日は無理をお願いしてスミマセンでした」「んねず(いいえ)、それより長旅でこわかったでしょう」ここで「こわかった」と訊かれるのは私の高所恐怖症を察して最上川を見下ろしてきた気分を確認していると理解するしかない。それにしても鋭い洞察力だ。
「いいえ、素晴らしい風景でしたから怖くはありませんでした」「本当に感激しました」後席から2人で返事をすると薫さんは一瞬、黙った後、困ったように説明した。
「『こわかった』って言うのは『疲れた』って意味だす」「そうなんですか。それは大丈夫です」ここまでの会話で山形弁の難解さを痛感して曹侯学生基礎課程の区隊長や航空自衛隊時代の同僚の山形県人たちが揃って堅苦しい標準語を使っていたのも納得できた。その点、関西弁や九州弁を誇示するようなところがある西日本の人間とは逆だ。
戸沢駅から角川までは深い木立の中を流れる川沿いに道路が続いている。8月とは言え気温が低く、冷たい風が吹いてくるので窓を開けていれば快適だ。
「この道は冬場には雪で封鎖されてしまうから峠を超えないと角川には来れねェんだ」薫さんの説明では除雪しようにもブルドーザーなどが氷が張って雪が積もった川に転落する危険があるため手がつけられないのだそうだ。それにしても薫さんの標準語には少し無理がある。この独特のイントネーションは山形人の同僚が酔った時の喋る方に似ている。
「やっぱり雪が積もりますか」「うん、4メートルくらいだな」薫さんは当たり前な顔をして答えたが冬の北陸すら知らない私たちには4メートルの積雪は想像もできない。
「冬場はあの木が人の背の高さくらいになるんだ。だげど積もった雪に埋もれるのは危険だから輪カンジキかスキーを履いて来なけりゃ駄目だァ」何だか昔話で読んだ雪国の生活が実感できてきた。戸沢村に到着してわずかな時間だが、私自身は会ったことがない祖父が育った土地を目の当たりにしてすでに胸が熱くなるような感激を味わっている。
やがて巨木の根元の古い石碑の道標が見えてくると急に風景が開けた。ここが旧角川村らしい。
  1. 2018/11/19(月) 10:13:50|
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11月18日・次は都知事か?仲谷義明元愛知県知事が自滅した。

陛下の病状が重篤に陥っていた昭和63(1988)年の11月18日に現在の東京都知事と同じく特に問題も起きていないのに余計なことに手をつけて結果的に失策を犯した仲谷義明元知事が首を吊って自滅しました。63歳でした。
仲谷元知事は大正14(1925)年に名古屋市で生まれ、名古屋の旧制中学校、金沢の旧制高校を終えて東京帝国大学法学部政治学科に進学し、敗戦後の昭和23(1948)年になって卒業して自治省に入りました。昭和35(1960)年からは愛知県庁に移り、桑原幹根知事の下で水道部長を皮切りに労働部長、教育長、副知事を歴任し、昭和50(1975)年に知事に選出されました。桑原知事は昭和26(1951)年から昭和50(1975)年までの長期にわたって愛知県の顔でしたがやはり山梨県出身であり、選挙では愛知県出身の対立候補に脅かされることもしばしばありましたが、その点、名古屋出身の仲谷元知事の支持は盤石だったのでしょう。
しかし、野僧の世代の優等生たちは仲谷元知事が教育長時代に犯した余計な仕事の迷惑を被っていました。それは学校の学力格差を解消して加熱していた受験戦争を鎮静化しようと愛知県と東京都、千葉県、岐阜県、福井県だけが採用していた学校群制度です。
愛知県の学校群制度は名古屋市内とそれ以外の地域では態様が異なりますが、名古屋市内では隣接する県立高校2校を1組にして受験生は志望校ではなくその組を受験して合格すれば本人の遺志に関係なくどちらかに振り分けられると言う方式でした。一方、それ以外の地域では県立高校でもいわゆる進学校と呼ばれる名門校と新設校と組み合わせて同様の制度を適用するのですが(我が蒲郡高校は大半が卒業生である市民が強硬に反対して単独受験を死守した)、生徒を受験の成績で均等に振り分けても名門校には「優秀な後輩を育成しよう」と言う意欲を持った出身者の教員が集まっており、大学受験の結果には格段の差がありました。また大学を終えて就職する時の人脈も名門校と新設校では比べ物にならず生徒だけが犠牲になった完全な失策でした。おまけに仲谷元知事自身が学校群制度を嫌って子供は私立の進学校に入学させたため批判に晒されました。
もう1つの余計な仕事は名古屋オリンピックの誘致です。これは昭和63(1988)年に開催される夏季オリンピックでしたが1任期の半ばである昭和52(1977)年に立候補を表明し、2期目の知事選挙の争点にして正式に立候補しましたが、結局、昭和56(1981)年のIOC総会で韓国のソウルに敗れました。2016年の誘致で東京が敗れたのはブラジルでしたが、愛知県は韓国だっただけに県民の失望と怒りは凄まじいものがあったそうです。その心労が大きかったのか仲谷元知事はソウル・オリンピックが閉会するのを見届けたように自分の事務所で首を吊ったのです。
愛知県には東海3県だけを市場とするローカルな大企業(かつての東海銀行、名鉄、松坂屋、オリエンタル食品、敷島パンなど)が極めて多く、しかも独自に高い技術水準を維持していることもあり、大阪の有名企業が通産省の圧力で本社を東京に移しても県内に留まって巨額の法人税を納めているため名古屋市と愛知県の財政は潤沢なのです。
  1. 2018/11/18(日) 10:57:14|
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振り向けばイエスタディ1376

夏季休暇もハワイに帰省できそうもない。やはり佳織は副校長として校長の休暇期間中は職務を代行しなければならず自分は8月下旬になる。一方、私も陸上幕僚監部法務官代行の重責を担うのだが、裁判の事実上の休廷(正式には年末年始のみで夏季はない)は一般的な官公庁の夏季休暇期間中なので公判の日程を見ながら前後に分散させて申請するつもりだ.。このうち佳織と日程が合うどこかで山形県最上郡戸沢村の祖父の実家を訪ねて父の兄弟は誰も訪れたことがない先祖の墓に参りたいと考えている。そんな中、今年は義父母のノザキ夫妻が志織を連れて来日してくれることになった。
「お義父さんは何年ぶりの来日なんだ」帰宅した佳織とのパジャマ・ミーティングも今回はノザキ一家来日対策会議になっている。
「うーん、お母さんと離婚した後も軍務で横田や三沢、嘉手納や板付に来ていたかも知れないからハッキリ判らないけれど、旅行としては私が小学生の時に家族で帰省したのが最後じゃあないかな」「すると20年ぶりかァ」「・・・阿呆」私の中では佳織を30歳で固定しているので小学生以来ではこの計算になる。実際は46歳の熟女だ。それでも夏になって短パン・Tシャツでランニングをしてストレッチをやっていると男子学生たちが妙な目で見ていくそうだ。本当は得意の水泳にも励みたいのだが若い女子学生が水着姿を披露している時間に紛れ込んでいるらしい。私個人の好みで言えば20歳代の女子学生よりも佳織の色気の方が勝っていると思うのだがそこは本人の判断だ。勿論、裸は私個人の秘蔵品である。
「志織は兎も角としてお義父さんとお義母さんは案内が必要だろう。行き先の希望は訊いているのか」実際は35年ぶりの、しかも盂蘭盆会の時期の来日であれば当然、先祖の墓に参ることになるだろう。義父の祖父母は福岡県の久留米、義母は熊本県の天草からの移民だと聞いているが、具体的な住所や菩提寺の名前は聞いていない。
「スザンナは初めてだから京都と大阪に寄ってから福岡と熊本の先祖の墓参りに行けば良いんじゃないかな」「それに佳織は同行できるのか」私は1泊2日までだが、佳織は校長と重なる土、日曜日を除けば7日間になるので頑張れば遠出も可能なはずだ。
「お父さんは板付に来る度に先祖の土地の上空を通過するから『墓参したい』って思っていたみたいだから、今度こそ実現させてあげたいね」「板付は風がどちらでもテイクオフ(離陸)かアプローチ(着陸)で必ず久留米を通過するから上空から手を合わせていたんだろうな」アメリカ戦略輸送軍の板付基地は福岡空港の向かい側にある。若し、そのまま駐機して翌朝の出発の便があれば久留米に墓参することも不可能ではないが、現在の大型輸送機を格納するだけのハンガー(格納庫)がないため(Cー130程度なら可能)空港利用者の目に機体を晒すことになり、社会的影響を考えて貨物と人員の配送だけになっている。
「ところでハワイの盂蘭盆会は太陰暦と太陽暦のどっちでやるんだ」考えてみればノザキ家の墓はハワイにある。8月の中旬に一家揃って来日してしまってはノザキ中佐の祖父母と両親、息子の盂蘭盆会が営めないことになる。以前は自衛隊の夏季休暇で太陽暦の8月中旬に帰省していたが、それは次いでの墓参でもあった。
「ハワイの盂蘭盆会は早い地区は6月、普通は7月から始まって9月まで続くんだよ。その間は寺の持ち回りでボン・ダンス・フェスティバル(盆踊り大会)が催されるから浴衣を着て踊りまくるの」その話は前川原の盆踊り大会の時に聞いた覚えがある。だから佳織は浴衣を着慣れていて寺の孫である私が感心するほど盆踊りが上手かったのだ。
「それじゃあハワイは心配ないな。問題は久留米と天草の菩提寺だぞ」私は自衛官のまま得度を受けて以来、三河武士から僧侶となり、勇猛(ゆうみょう)禅を提唱した石平正三道人を研究しているが、道人は島原の乱の後、甥の鈴木重成が荒廃した天草の代官となったのに協力して貧窮する領民を救済するための公共事業として寺院を数多く建立したが、その中に徳川家の宗旨である浄土宗が一箇寺あったはずだ。尤も浄土宗はノザキ家の宗旨であって義母のスザンナの実家が同じとは限らない。クリスチャンであればカソリックとプロテスタントが結婚するとは考えにくいが日本の佛教で変にこだわっているのは浄土真宗と日蓮宗ぐらいだ。
「仕方ない。得意のNTTのタウン・ページで調べて片っ端から確認してみよう。ところでスザンナの旧姓は何て言うんだ」「うーん、判りません」佳織もスザンナが若い頃に両親を亡くしたため独力で働きながら生活していてノザキ大尉(当時)と知り合ったことはハワイで聞いていたが、実家がないだけにそれ以上は深入りしなかったようだ。
「他にも引っ掛かっていることがあるな・・・そうだ。志織が今度帰省した時には淳之介に会いたいって言っていたぞ」これでは行動計画の立案は始めから組直しになってしまう。
ん・森野佳織イメージ画像(確かにアブナイ)
  1. 2018/11/18(日) 10:51:31|
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11月18日・「日本マラソンの父」金栗四三の命日

昭和58(1983)年の明日11月18日は日本が初めて参加した明治45(1912)年=大正元年の4日前までの第5回ストックホルム・オリンピックの代表となり、その後も大正9(1920)年の第7回アントワープ・オリンピック、大正13(1924)年の第8回パリ・オリンピックに出場しただけでなく(第6回ベルリン・オリンピックは第1次世界大戦のため中止された)、現在も新年早々の恒例行事として継承されている東京と箱根を往復する大学駅伝やそれよりも長い歴史を有しながら陸上自衛隊が活躍するためマスコミは取り上げない富士登山駅伝の創始者として「日本マラソンの父」と称されている金栗四三(かなぐりしぞう)さんの命日です。92歳でした。
金栗さんは明治24(1891)年に熊本県玉名郡で生まれ、旧制玉名中学校を卒業後には東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学しました。
金栗さんは出場が決まったストックホルム・オリンピックの代表選考会に足袋を履いて出場し、当時の世界記録を27分も上回る2時間32分48秒で優勝しました。ちなみに当時のマラソンの走行距離は25マイル=40.225キロでした。こうして団長の嘉納治五郎先生や短距離の三島弥彦さんと共にユニフォーム姿でプラカードを持って入場したのです(国旗は三島さん)。
しかし、選手団の移動は船でウラジオストックに渡り、そこからシベリア鉄道と言う過酷なもので、さらに夏のスウェーデンは白夜のため安眠できず、しかも米や調味料を大量に携帯できなかったことで日本食を十分に喫食することはできず、そうした体調不良の中で迎えた競技当日は40度を超える高温になったため出場選手68名の半数が倒れて棄権する状況になり、金栗さんも意識を失って途中の農家に収容されることになってしまいました。ところが農家は組織委員会に通報せず金栗さんが意識を回復したのは翌日だったため行方不明の失踪として扱われ「消えた東洋人選手」と言う謎の伝説として語り継がれることになりました。
そうとは知らずに失意のうちに帰国した金栗さんは心機一転マラソンの普及と同時に近代的な長距離ランナーのトレーニング方法とコンディション管理などを指導していたのですが、昭和42(1967)年になってスウェーデンのオリンピック委員会が開催したストックホルム・オリンピック55周年記念大会に招待され、競技場のトラックをユックリ回ってゴール・テープを切り、54年8カ月6日5時間32分20秒3の公式記録が認定されました。
(長年、河野洋平よんが会長を務めていた)陸上競技連盟は毎回繰り返されるマラソンの代表選考のゴタゴタを見れば明らかなように他のスポーツ団体に比べて極端に学閥と派閥意識が強く、金栗さんの東京高等師範学校の後輩に当たる「暁の超特急」吉岡隆徳さんの指導を受けて29年ぶりに100メートルの日本新記録を塗り替えた飯島秀雄さんは早稲田大学出身でありながら6大学に教職を得ることができませんでした。そんな陸上競技連盟も競技そのものの扉を開いた重鎮の言うことには素直に従ったようです。
  1. 2018/11/17(土) 09:54:15|
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振り向けばイエスタディ1375

間延びしたような日時を置いて始まった大岩3佐の被告人尋問でも検察側の追及は同様だった。海上自衛隊が法令を厳格に順守していることを認めた上で周囲の漁船たちの行動を無視した独善性が事故の原因であり、それもある種の過失であることを印象づけようとしてくる。結局、これまでの証拠調べと証人尋問で海難審判では採用され、被告人となっている2人に有責の裁定を下した根拠がことごとく虚構であることが明らかになってしまった以上、有罪を勝ち取るには悪印象を演出するほかに手段がないのだ。
「被告人に質問します」大岩3佐に対する本人確認が終わって先攻の検察官が質問を始めた。
「貴方の普段の職務は水雷長と言うことですが間違いありませんか」「被告人」「はい、そうです」日本有数の私立進学校から防衛大学校に進んだ前潟3佐の温和な丸顔に比べて大岩3佐は精悍で彫りが深い日本人離れした顔立ちで簡単な返事にも妙な迫力がある。
「水雷長と言うのは戦闘艦の武器を取り扱う職務だと聞いていますがそれで間違いありませんか」「被告人」「はい、それにソナーの探知や対潜ヘリも担当しています」このように認めさせる質問を繰り返してくる時には自分に不利な質問に誘導されて気がつかないで認めてしまう危険性もある。私と牧野弁護士は顔を見合わせた後、内容を慎重にメモし始めた。
「つまり貴方は航海に関しては専門外と言うことですね」「被告人」ここで私は弁護人席で大きく顔を振った。すると大岩3佐は大きく息を吸いながら時間を作り、言葉を選んで返事をした。
「職務としては対潜戦闘が専門ですが、艦橋で当直士官の勤務につく幹部は基本的に艦艇の運航に関する基礎知識を学んでおり、質問された意味において専門外とは言えません」咄嗟の回答としては見事な回避行動だ。おそらく検察官は多くの漁船が行き交っている海域で当直士官を交代して航海の専門家である航海長の前潟3佐から素人である水雷長の大岩3佐に引き継いだことを過失にしようとしたのだろう。我々が申請した艦長に対する証人尋問でも事故発生時に艦長が自ら指揮を執っていなかったことの責任を追及していた。
「それでは水雷長である貴方も今回、事故を起こした戦闘艦を操縦する訓練を受ける機会を与えられているんですか」「被告人」「1つ、検察官は誤解、と言うよりも不勉強なようなので補足説明したいのですがよろしいですか」思い掛けない申し出に裁判官も一瞬迷ったようだが、「手短に」と断ってから許可した。
「我々の護衛艦に限らず大型船では船長や航海長が自ら操舵することはあまりありません。我々の艦でも操舵は見習い中の若手士官や海曹、信頼が置ける海士長が実施することが多いのです。その意味では管理職としての指揮能力の練成を受けていれば職務遂行上は問題ありません」検察官はこの説明の中に質問に対する回答も含まれていることに気づいていないようだ。今度は私が代わって補足説明したくなるが法廷の作法に於いてそれはできない。
「それで質問に対する回答はどうなったんですか」案の定、検察官は墓穴を掘った。一方の裁判官は大岩3佐の回答を思い起こしながらそこに回答が含まれていることに気づいたようで、嗜めるように私がしたかった説明を始めた。
「要するに大岩さんは実際の操縦は熟練した部下が担当するので自分はそれを指揮するだけだと言っているんでしょう。検察官はその辺りを踏まえて質問しなさい」「はい、ご説明いただき誠に有り難うございました」検察官は掘った墓穴に裁判官に突き落とされたように感じたのか無理に平静を装って異様に丁寧な謝辞を述べた。
「逆に言えばそのような大型の戦闘艦に乗務している貴方には1名か2名で小型の船を操りながら漁場を探し、見つければ先を争ってそこに向かう漁民の気持ちや操船の実態は理解できないのではないですか」滅多に目の当たりにすることがない検察官の追い詰められた顔を見ていると「窮鼠猫を食(は)む」ならぬ鼠が猫を食もうとしているようだ。
「被告人」「確かに我々は自分の船を操って生活の糧である漁場を奪い合う漁民の操舵については理解できないかも知れませんが、戦術的に優位な位置を確保するための操舵は通常の民間船の比ではありません。また海上自衛隊は40ノットを超える高速ミサイル艇も保有していますから速度については熟知しています」元海軍少年の私も海上自衛隊が近海の防御用に魚雷艇や水中翼船型ミサイル艇を保有し、不審船に対する海上における警備行動を受けて新たなミサイル艇を建造していることは知っていたが流石にここで持ち出すとは思っていなかった。
「そのように実際の漁船のことは何も判っていないのに自分たちの経験を無理に当てはめて理解しているつもりになっている傲慢さが事故を引き起こす遠因になったは思いませんか」検察官はあくまでも海上自衛隊の独善性を実証することに執着しているらしい。
「被告人」「思いません」そう言い切った大岩3佐の顔には何故か微かな笑いが浮かんでいた。
  1. 2018/11/17(土) 09:53:03|
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振り向けばイエスタディ1374

「裁判官、検察官は不規則発言で被告人の動揺を誘おうとしています。止めさせて下さい」牧野弁護士が要請した。私は前潟3佐であればこの程度の妨害に動じることなく間違いのない回答をしてくれると信じていたが常識的には中止を申し入れるべきなのだろう。
「検察官、被告人が考えている間は黙りなさい」「えッ、私が何か口にしていましたか。それは申し訳ありません」検察官のとぼけた回答に前潟3佐も苦笑した。やはり動揺していない。
「被告人」裁判官は休めの姿勢で思考していた前潟3佐が踵を引きつけたのを見て指名した。
「道路交通法では暴走している車両と順法速度で走行している車両が衝突事故を起こし、暴走していた車両に乗っていた人が死亡しても順法速度で走っていた車両の運転手の罪は問われません。それと同じ理屈で私には過失があるとは考えません」この理路整然とした回答に漁民だけでなくマスコミ関係者も顔を見合わせた。
「貴方は亡くなった岸西(きしせい)丸夫さんと節広さんが暴走族だと言うんですか。それは思い上がり以前に死者への冒涜ではないですか。海上自衛官である貴方には死者を悼む気持ちはないのですか」「被告人」「勿論、亡くなったお2人のご冥福を祈り、遺族の皆さまには心よりお悔やみを申し上げます。しかし、事実は事実であって悲劇的な結果で本質を歪めることはできません」やはり前潟3佐は海上自衛官であり、海戦の原則である先制と積極攻勢による決戦主義が身についている。これまでは海中で息をひそめる潜水艦だったようだ。
「このような人物が乗務する戦闘艦艇が漁師たちの生活の場である海域を航行しているとは恐ろしくなります。これで検察官の尋問を終わります」検察官は前潟3佐の厳格な法令順守の運航を現実を無視した独善性と印象づけることで尋問を終えた。
次は我々弁護側の番だが、自衛官が自衛官を擁護することで同業者同士の独善的な理屈との印象を与えるのを避けるため今回は牧野弁護士が担当する。
「それでは弁護側の尋問を始めますが、その前に少し時間をいただきたいと思います。被告人と一緒に事故で亡くなった岸西丸夫さんと節広さんのご冥福を祈らせて下さい」「許可します」裁判長の承認を得て牧野弁護士は被告席に歩み寄り2人で頭(こうべ)を垂れた。私は第1種夏服の腰ポケットから坊主用の数珠を取り出して軽い音を立てながら口の中で念佛を唱えた。それを見て遺族は胸の遺影を腕で抱き締め、他の漁民たちも手を合わせて頭を下げた。中には「南妙法蓮華経」と題目を口にした人もいる。やはり千葉県の漁民には日蓮宗の信者が多いようだ。そもそも日蓮上人は房総半島の突端の漁師の息子なのだ。
「有り難うございました」牧野弁護士が裁判官に礼を言って頭を下げると傍聴席の遺族と漁民たちも頭を下げた。これで先ほどまでの対決の場面には幕が下りて回り舞台が情景を換える。
「前潟さんはこれまでに道交法違反で摘発されたことはありますか。速度超過や追い越し違反、一時停止の不履行など些細なものを含めてです」「異義あり。被告人の道交法の違反歴の確認は本件とは関係ありません」常に冷静さを堅持する検察官が珍しく最初から意義を申し立てた。
「先ずは尋問の流れを見ましょう。弁護人、どうぞ続けて下さい」裁判官の言葉に牧野弁護士は振り返って丁寧にお辞儀をした。この辺りが何をやっても基本教練になってしまう私とは違う。
「全くありません。自家用車を運転する時も道路交通法を厳守するように心がけています」これは私も同様だ。自衛官は一般の人たちが日常的に犯している交通違反でも新聞やテレビに重大犯罪のように取り上げられて一巻の終わりになる。私以上に優等生風の前潟3佐であれば他人が余計な心配をしてしまうくらい細心の注意を払って運転しているはずだ。
「しかし、高速道路では取り締まりの対象になる速度までは超過している車両が大半ですから、制限速度で走行していればかえって煽られたりしませんか」「被告人」「はい、そう言うことはよくあります。それでも法は法であって守るために定められているんですから危険を回避することも考えながら運転しています」流石に検察官も自衛官の順法精神が身に染みているだけでなく血肉となって身体その物を作っていることを理解したようで呆れたように溜息をついた。
「なるほど自家用車で高速道路を走っている時も危険な運転に対処できる心の準備をしてハンドルを握っている。私的な運転でさえそこまで厳格に順法しているのなら公務で海上に出ている時には一点の非も打ちようがないような操艦をしているんでしょう」「被告人」「そのような仕事ができるように日々努力していますが相手があることですから完全と言う訳にはいきません」「その相手と言うのは」「天候気象や海面の状況、さらに僚艦、そして他の船などです」本来であれば海上自衛官=海軍軍人にとって人的な相手とは敵艦隊と艦艇のことだ。そこは阿吽の呼吸で事故の当事者に置き換えた。最後に牧野弁護士はこう締め括った。
「私は日本国民として貴方が1日でも早く国防の現場に復帰されることを願って止みません」
  1. 2018/11/16(金) 09:29:10|
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振り向けばイエスタディ1373

「要するに今回の衝突事故の加害者、失礼しました。当事者と呼ばなければいけませんね」検察官は皮肉な言葉を並べ始めた。こうなると質問はその皮肉の行きつく先になるはずだ。
「ここでは刑事被告人である貴方は自分たちこそシーマン・シップの体現者であり、全ての船乗りたちは自分たちを模範とせよと言いたいのですね」流石の私もここまで毒が塗り込まれた皮肉には即答し難い。私自身が刑事被告人になった裁判では相手が犯罪者であったことが認定されていたため私との優劣に関する質問はなかった。
「被告人」「はい、我々海上自衛官はシーマンの模範足る行動を取るように日々努力をしています。それは順法精神が基本であり、全ての船乗りが我々と同様に法を厳格に順守してくれれば不幸な事故はかなり減少するはずです」前潟3佐は自信を持って言い切ったが、それでも死んだ父親と同世代の漁民と遺族の女性しか残っていない傍聴席は特に反応しない。
「そこまで思い上がっているとは呆れる前に感心してしまいます。そんな独善性は軍が尊敬されている海外では通用するかも知れませんが、日本の自衛隊は・・・立場が違います。貴方は自衛隊も外国軍と同じだと考えているのではないですか」「異義あり。この質問は本件の審理と関連がなく、いたずらに政治的な思想傾向を告白させようとしています」ここは牧野弁護士が立ち上がった。おそらく検察官は「憲法違反である自衛隊は外国軍とは違う」と言おうとしたのだが裁判の位置づけが変質してしまう政治問題を持ち込むのを避けたのだろう。
「異義を認めます。検察官は質問の意図を明確にして下さい」裁判長の指示に検察官は軽くうなずくと陸上自衛隊の制服を着ている私を見てから背広姿の前潟3佐に視線を送った。
「貴方たちは自分が法令を厳格に順守していると思い上がっているから、そこまで厳格には順守していない民間人の危険を無視するようなことが起きるのです。もっと謙虚になれば一刻も早く漁場に向かおうと先を争う漁師の気持ちを理解して、前を突っ切るかも知れないと予見して対策を講じることもできたはずです。一度、思い上がりを捨てて謙虚になってみませんか」「異義あり。検察官は正当に職務を遂行していた被告人を冒涜し、過失、違法行為を発生させた側の立場を尊重しろと誘導しています」今度は私の番だったが、発言を終えて傍聴席を見ると高齢の漁師たちは一斉にうなずいている。
これをどのように解釈すれば良いのか。おそらく高齢の漁師たちは取材に来たマスコミに扇動された若者たちとは違って海上自衛隊が法令を厳格に順守していることは熟知しており、逆に自分たちの方が合法と違法の境界線上で船を操っていることも自覚しているのだ。問題は漁師たちよりも前の席で取材しているマスコミ関係者だ。大した内容がない証拠調べと証人尋問が長くなり、かなり目減りしていたマスコミも被告人尋問になって再び人数が増えている。彼らの視線からは缶政権の政治姿勢を追い風にして勝訴を勝ち取ろうと言う熱気を感じる。
「異義を認めます。検察官は被告人が法令を順守していたことを認めるのですね」「それは次の質問で訂正します。質問を続けさせて下さい」検察官の申し出に裁判官はうなずいて質問を続けさせた。これでは意義が本当に認められたのかが判らなくなる。
「被告人は事故が発生ル直前まで艦長不在時の責任者である当直士官でした。それで間違いありませんね」「被告人」「はい、そうです」検察官は前潟3佐の返事を聞いて軽く咳払いをした。
「7750トンの大型艦が多くの漁船が出漁している海域を航行する場合、厳格に法令を順守することだけが正当な業務ではないことは認めますね」「被告人」「はい。認めます」これでは私が意義を申し立てた問題の言い回しを替えただけの焼き直しだ。
「結局、貴方は法令を順守しただけで海面で発生している複雑な状況には適切に対処しなかった。これを過失と言わないで何としましょう」「異義あり。これは明らかに誘導です」「同じく異義あり。これは質問の体をなしていません」考えてみると検察官1人に2人がかりで攻撃するのは武人としての美学に反する。私の裁判では牧野弁護士が孤軍奮闘してくれたのだから私が黙っていれば良いのだが、それが仕事なので許してもらおう。
「後の意義を認めます。検察官は質問を明確にして下さい」牧野弁護士の意義だけが採用された。
「それでは質問します。貴方は法的には正当でも実際は存在を認識していた漁船に関する情報を十分に伝達することなく勤務交代で被告人・大岩智人に引き継いでしまい、結果的に貴方のフネ(この場合は「艦」)は回避行動を取ることなく衝突して漁師の親子を死亡させてしまった。これを過失とは思いませんか」この質問が今日の検察官の極め技のようだ。「誘導である」と意義を申し立てることも可能だが少し弱い。
「謙虚になりなさい・・・思い上がってはいかん・・・」質問の重大さが判っている前潟3佐も黙って思案をしているが、そこに検察官は題目のように小声で独り言を繰り返していた。
  1. 2018/11/15(木) 09:11:40|
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振り向けばイエスタディ1372

「異義あり。検察官は被告人の回答を遮って勝手な断定を行いました」「これは被告人の答弁を変質させるものであり、再度の回答と検察官の発言の訂正を要求します」私と牧野弁護士の連続攻撃に今度は傍聴人席からブーイングを超えた罵声が湧き起こった。
「馬鹿野郎。お前らは人殺しの肩を持つのか」「自衛隊なんて戦争屋の人殺しじゃあないか」「本当は漁船を体当たりで撃沈したって喜んでいるだろう」死んだ息子と同世代の漁師と思われる傍聴人は立ち上がって絶叫を始めた。おそらくマスコミや政治団体の扇動を鵜呑みしているのだ。これを見て法廷警備員たちは低い仕切り柵沿いに並んで身構えている。私も久しぶりに血が騒いできた。今では半病人の私も沖縄時代にはデモ隊対処で活躍したものだ。
「今、立ち上がっている傍聴人を退廷させなさい。必要であれば警察官を呼ぶように」裁判官の命令に漁民たちの興奮は急速に収まった。法廷警備員たちが歩み寄って手で促すと意外に素直に傍聴席の後ろにあるドアから退室していった。
「先ず弁護人が申し立てた意義を確認します」ドアが閉まったところで裁判官は何事もなかったような口調で我々が申し立てた異義の確認をしてきた。しかし、こちらとしては台本があった訳ではないので速記者の公判記録と齟齬があると拙い。そこで牧野弁護士と小声で話し合った。
「2人で手分けして1つの意義を申し立てました。要するに検察官が被告人の回答を遮って勝手な断定を行ったことは回答を変質させるものであり、再度の回答と検察官の発言の訂正を要求しました」ここは牧野弁護士にまかせた。すると裁判官は一段低い席の速記者に小声で何かを確認してから正面に立っている前潟3佐に声をかけた。
「前潟さんは先ほどの検察官の質問は憶えていますか」「はい、あまごの安全な運行に関する全責任を負う航海長として多くの漁船が航行している海域を通過する上で特別に心がけていることを聞かれたように記憶しています」ここで前潟3佐は検察官の顔を見たが前を向いたまま無視しているので我々に視線を回してきた。そこで2人揃って大きくうなずいた。
「それではもう一度、答弁を始めて下さい。言いかけたまま時間が経過していますから多少の表現の違いは仕方ありません」裁判官の寛大な言葉前潟3佐は会釈してから口を開いた。
「はい、私は検察官が言われたことに誤解があるようなのでそれを指摘しようとしました。海上自衛隊では艦の運航と運用に関する全責任は艦長が負っています。我々はそれぞれの持ち場で艦長を補佐するため最善以上の努力を傾注します。したがって自分の職務に関する業務上の責任は負っていますが、検察官が言われるような結果としてあまごに生起した事故に関する責任とは別次元なのです」この説明は自衛隊の指揮権限と責任の概念に基づいているので同業者である私は納得できても裁判官に理解できたのかは判らない。そのため小声で牧野弁護士に訊いてみたがやはり「難しい」と答えた。
「それで質問に対する答えですが、我々は艦に乗るようになる以前から『シーマン・シップの体現者足るべし』との教えを受けてきました。それが海上自衛官としての精神の基盤だからです」裁判の尋問に対する回答としては異例に長かったが途中で遮られた分、説明が丁寧になったと受け取ってもらえそうだ。すると検察官は薄笑いを浮かべながら尋問を続けた。
「長々と丁寧な説明をしてくれましたが、やはり私が遮ったくらいが受け答えとしては適切だったようですな。ところで今の説明にあったシーマン・シップとは何ですか」思いがけず検察官は被告人・前潟3佐の美学に深入りしてきた。このように検察側が被告人に歩み寄る時は罠を仕掛けてくる場合が多く、発言の一字一句にも細心の注意を払わなければならない。
「被告人」「シーマン・シップとは海上自衛隊では『スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ艦乗り』と表現されています」「ほーッ、見た目が良くて先回りした仕事を漏れなくこなし、負けを認めないのが海上自衛官なんですね」これは前潟3佐に対する挑発なのか、海上自衛隊の基本精神をかなり曲解して冒涜している。
「異義あり。検察官の解釈は表面的な印象だけで意味を曲解しています」私としては海上自衛隊に対する侮辱であることも抗議したかったが、ここは軍事法廷ではないので控えた。
「この意義は参考に留めます。被告人に本当の意味の説明を許可します」「はい、有り難うございます」この指示に前潟3佐は裁判官に10度の敬礼をしてから口を開いた。
「スマートとは動作に熟練して無駄がないこと。目先が利くとはあらゆる事態に対処する物心両面の準備をしておくこと。几帳面は抜けがない綿密な仕事、そして負けじ魂はあらゆる困難に打ち勝つ精神です。艦乗りは人間の力を超えた大自然の猛威の中で職務を遂行しなければなりません。それは小さな漁船を操り大海原に漕ぎ出す漁師の皆さんも同じだと思います。だから私も多くの漁船が航行していた周辺に対する警戒には最善を尽くしました」この完璧な説明に検察官は2呼吸の長めの間を置いて質問を被せてきた。
  1. 2018/11/14(水) 10:17:09|
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11月14日・日本共産党の初代議長・野坂参三の命日

1993年の明日11月14日は日本共産党の創設期からの指導者で敗戦後は初代議長に選任された野坂参三さんの命日です。何と101歳でした。
野坂さんは明治25(1892)年に日本のテロリストの聖地・山口県萩市で商家の息子として生まれました。誕生日が3月30日だったため3と3を重ねて「参弎」と名づけられ、9歳で母の実家の野坂家に養子に出されたことで野坂参三になりました。
萩の旧制中学校を卒業後、神戸商業学校に進学しましたが在学中に「社会主義を論ず」と言う論文を発表したため教師から手厳しく叱責されたようです。しかし、この時点ではまだ大正デモクラシーは起こっておらず、やがてロシア革命を引き起こす社会主義運動も日本では京都帝国大学のヨーロッパ留学を経験した理数系の教授陣が講義の中で余談的に紹介していた段階でしたから、どうして商業学校の生徒が論文を書けるほどの知識を有していたのかは不明です。それでも明治45(1912)年に商業学校を卒業して慶応義塾に進学すると労働運動に参加するようになりましたが、当時は社会主義革命を目指すような過激な組織ではなく労働者同士の相互扶助や学生が労働の実態を学び、支援する穏健な団体でした。ところが大正8(1919)年に幹部になっていた労働団体からイギリスに派遣されたことで本場ヨーロッパの社会主義運動に染まり、グレートブリテン共産党(1991年まで無議席で存在していた)に入党し、帰国後は日本共産党の結成に参加しました。しかし、大正12(1923)年には当局の検挙が及ぶことを察知してロシア革命から6年目のソビエト社会主義共和国連邦に密航しています。
ほとぼりが冷めて帰国すると日本では大正14(1925)年に治安維持法が制定され、昭和3(1928)年3月15日には全国の共産党の一斉摘発が実施され、野坂さんも検挙されましたが釈放後は昭和6(1931)年に妻を伴って密かにソ連に亡命し「ここでスパイ教育を受けた」と最晩年になって告白しています。
戦時中はソ連のスパイとして訪米するとアメリカ共産党に終戦前、対日ラジオ放送で「天皇を戦犯として処刑する」と言わせて日本の降伏を妨害するなどの影響を与え、中国では毛沢東さんに合流して現地で抑留されていた在中国日本人や日本軍捕虜の洗脳教育に当たりました。こうして敗戦を迎えると英雄として帰国し、合法化された共産党に参加しましたが「新憲法下では選挙によって政権を奪取することが可能である」とする野坂さんはあくまでも武闘革命を堅持しようとする山口県光市出身の宮本顕治さんと対立することになり、党内抗争に敗れると象徴的存在に祭り上げられていったのです。
国会議員としての珍事としては日本国憲法第9条を巡って野坂さんが「自衛権を有さない国家は存在しない」と批判したのに対して吉田茂首相が「全ての戦争は自衛を口実に行われている」と答弁した立場逆転の問答が記録されています。
野坂さんは最晩年の手記で自分がソ連のスパイであったことを告白し、まだ宮本さんが権勢を奮っていた共産党から除名と全ての名誉の剥奪、年金の支給停止などの処分を受けていますが、多くの日本人は「やっぱり」と納得しただけではないでしょうか。
  1. 2018/11/13(火) 09:46:14|
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振り向けばイエスタディ1371

「これより当法廷は被告人尋問に入ります」「異議なし」「・・・」法廷では裁判官が次の段階に移ることを宣言し、検察・弁護双方が同意したことを返事で回答するのだが検察官は聞き取れないくらい小声だった。それでも唇が動いたことは薄暗い部屋の対角にある弁護人席からも見えたので裁判官も問題にはしなかった。
「被告人、前潟啓一郎さん、被告人席へ」「はい、前潟被告人」指名された前潟3佐が自衛隊式に返事をして基本教練の要領で立ち上がったため裁判官は一瞬、呆気に取られていた。それでも前潟3佐は胸を張り、前45度、後ろ15度に手を振りながら歩幅75センチ、1分間に120歩の歩調で裁判官の正面にある被告人の証言席に向かった。
「被告人確認を行います。前潟さん、氏名と生年月日、本籍地と勤務先を申告して下さい」裁判官としては被告人の感情まで尊重させる人権派弁護士とマスコミの主張に合わせて場違いに丁寧な言葉遣いをしているが、自衛官である前潟3佐としては命令口調でなければかえって調子がでないのではないか。どう考えても裁判官の職務命令を「強要」と批判する弁護士の方が間違っている。私は弁護人席で裁判官が「前潟さん」と呼んだ直後に小声で「佐」を付けて「3佐」にして自己満足していた。ただし、法廷で遊んでいる訳ではない。
「はい、結構です。本人と認めます」前潟3佐の本人確認が終わり、いよいよ検察官の被告人尋問が始まる。これは罪状認否で「無罪」を主張した場合にのみ行われる手順だが、有罪率99パーセント超の日本の裁判では検察側の詳細で執拗な証拠調べの段階で被告人本人が事実を明らかにすることを諦めて罪を認めてしまうこともある。それを励まして最後まで法廷闘争を継続させる気力を与えることも弁護士の果たすべき役割の一つだ。
「検察から被告人に質問します。貴方は起訴状にある通り海上自衛隊舞鶴基地所属の護衛艦・あまごの当直士官として勤務中、平成20年2月19日午前3時40分頃、千葉県南房総市野島崎沖の太平洋上で右方向に漁船・軽特丸を発見しながら必要な回避処置を怠り、そのまま十分な引き継ぎもせずに同時45分頃に勤務を交代し、その結果、午前4時7分頃に北緯34度21分5秒、東経139度48分6秒で衝突して沈没させ、乗り組んでいた千葉県の新勝浦市漁業組合川津支所所属の岸西(きしせい)丸夫さんと岸西節広さんを死亡させましたが、その罪を認めますね」「異義あり。この起訴状にある事故の発生状況を示す航跡図は証拠調べの中で不採用になり、新たに本法廷独自の航跡図が証拠採用されました」「同じく異義あり。質問の最後を『認めますね』とすることは誘導に該当します」開戦初頭から私と牧野弁護士の連続攻撃が始まった。検察官も私が指摘したことは十分に自覚しているはずだから、あえて持ち出したのには今後の展開への伏線の可能性もある。これが事前に相手の出方を念入りに推理する理由なのだ。案の定、我々の意義を聞いても検察官は顔色を変えていない。
「異義を認めます。検察官は本法廷が証拠採用した航跡図に基づく事故の発生状況を前提にした質問に心がけて下さい」「はい、わかりました」検察官が裁判官の方を見て頭を下げると今日も遺族と同業者が詰めかけている傍聴人席では舌打ちが続き、不満をささやき合う小声が広がっていった。遺族は最近、消極的に認められるようになった父子の遺影を抱えている。これは山口県で起こった母子殺害事件の被害者の夫=原告の要望に法務省が応えた結果だが、近代的司法では精神性を排除して弁証法的唯物論で合理的に事実を明らかにしていくので「死者の魂魄に立ち合わせる」と言う発想を認めること自体が極めて異例だ。おそらく他の先進国では被害者側の印象操作として却下されるはずだ。
「それでは質問を続けます。被告人は海上自衛隊が誇る最新鋭イージス艦・あまご、7750トンの航海長として安全な運航に関する全責任を負っていた訳ですが、このような痛ましい事故に遭遇してしまった」ここまで言って検察官は裁判官の顔を窺った。要するに「事故に遭遇した」と言う表現で裁判官が認めた異義に応じていることを示したつもりらしい。
「巨大な戦闘艦が多くの漁船が生活の糧を得るために早朝から航行している海域を通過する上で何か特別に心がけていたことはありますか」「被告人」指名を受けて前潟3佐は姿勢を正すと基本教練の方向転換ではなく足を踏み変えて検察官の席を向くと回答を始めた。
「先ず一件、誤解があるようですが海上自衛隊では艦の運航・運用に関する全責任は艦長が負っています。私は航海長として艦長を補佐して・・・」「つまり、貴方は事故の責任を負わないと言うのですね」検察官は前潟3佐の回答を遮って質問を被せてきた。それを聞いて傍聴席では厳粛な日本の法廷では有り得ないブーイングが起こった。
「静粛に願います。静粛に願います・・・指示に従わない傍聴者には退廷を命じます」海外の裁判であれば木槌でガベルを打つところだが裁判官は呼びかけを繰り返して何とか収めた。
  1. 2018/11/13(火) 09:45:07|
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