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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月1日・長男とは真逆で剛毅な貴族・近衛篤麿公爵の命日

2月8日から日露戦争が始まる明治37(1904)年の明日1月1日はやんごとなき旧五摂家の筆頭でありながら本来は騎士=武門であるヨーロッパの貴族のような剛毅さを発揮して活躍した近衛篤麿(あつまろ)公爵の命日です。
日本の貴族と言うと源氏物語の世界そのままに遊芸と色恋にうつつを抜かしながら地位を権力に代えて姑息な政争に繰り広げている印象が強く、幕末にも毛利藩士を中心とする尊皇攘夷を叫ぶ過激な浪士たちを利用するつもりが利用されて国難に苦慮している幕府の足を引っ張っていた三条実美さんや昭和になって強まった軍部の政治介入を阻止する切り札として登場しながら優柔不断な態度に終始し、最後には無責任に政権を投げ出した近衛文麿(あやまろ)首相のような人物ばかりかと思ってしまいますが、近衛公爵は全く異質な貴族だったようです。ただし、真逆のような近衛首相は長男ですが二男、三男は父親譲りの剛毅な人物なので近衛公爵の長男に対する教育が厳し過ぎたのかも知れません。その近衛首相と二男、三男の生母は違いますが同じ加賀前田家の五女と六女ですから母親の性格を受け継いだとは言い切れないでしょう。
近衛公爵は文久3(1863)年に左大臣であった父と島津斉彬公の養女(実娘として腰入れしていた)の間に嫡男として生まれましたが、明治6(1873)年に父が家督を相続せずに病没したため祖父の養子=6男として10歳で当主になりました。明治12(1879)年に大学予備門に入学したものの病を得て中退し、その後は独学で和漢学や外国語を習得したとされていますが、名門貴族の御曹司で当主なのですから選りすぐりの学者の個人教授を受けたと言うことでしょう。明治17(1884)年に新制度に基づいて公爵(日本の爵位は公・候・伯・子・男の順で最上位)に列せられると翌年にはフランスとドイツに留学してボン大学とライヴィツ大学(どちらもドイツ)を卒業しています。
明治23(1890)年に帰国すると前年に開設された貴族院の議員になり、日清戦争後の明治28(1895)年からは学習院の院長になって皇族や貴族、上流階層の子弟の教育に当たることになりました。近衛公爵はヨーロッパで「ノブレス・オブリージュ」の精神に強く共鳴していて「上流階層に生まれたからには選ばれた者としての責務がある」との信念の下に将来は外交官や軍人として国家のために尽力する人材の育成を進めました。
その一方で政治家としては国家を私物化する薩長土肥に抵抗し、衆議院では表沙汰にすることさえできない政治の問題点を貴族院で徹底的に追及したため、それを抑えようと歴代藩閥政権は入閣を要請しましたが断固拒否しています。
さらに日清戦争後は日本の国力は進展する一方で凋落の一途を辿る清朝の姿に「アジアの一体化を進めなければ欧米の植民地になる」との危機感を抱き、上海に設立した東亜同文院(後の愛知大学)を拠点に相互理解の推進と清朝の内部改革を建策しましたが、日本では「尊皇攘夷」の発想で外国を敵視する薩長土肥の藩閥政治家たちが大陸進出を推し進め、清朝には時代の潮流を見極める眼力がなく、成果を上げる前に大陸で感染した伝染病により47歳の若さで急逝したのです。「日本の新しき朝の光が・・・(愛知大学学生歌)」
  1. 2018/12/31(月) 10:18:00|
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振り向けばイエスタディ1419

金曜日の定期便は朝一番に入間を発って那覇に来るため搭乗開始は10時過ぎだ。そのおかげで梢を本店経由で空港ターミナルに送りながら那覇基地に向かうことができた。
「佳織によろしく」「うん、色々お世話になったね。また来るよ」「貴方の飛行機をここから見送ってるからね」やはりタクシーを下りる前の会話が長くなってしまった。ルーム・ミラーの運転手の目が険しくなったので梢は名残を振り切るように下りてその場で手を振った。
那覇基地の送迎ターミナルに証3佐が来ていた。手には分厚く厳重に梱包した封書がある。これは沖縄地方検察庁での外務官僚と検事たちの問答を録音したCDのようだ。
「モリヤ2佐のおかげで司令に誉めていただける資料を作成できました」搭乗手続きを終えた私に証3佐は顔を近づけて小声で感謝の意を伝えてきた。周囲は航空自衛官ばかりなので陸上と海上の制服は異様に目立つ。その意味では内緒話にしたのは正解だ。そこに搭乗案内に来たロード・マスターが近づいてきた。
「市ヶ谷から指示があった資料をお預かりします。第2輸送航空隊の機上運航員の赤崎誠3曹です」自衛隊情報保全隊は存在自体が秘密に属するためロード・マスターも名前を出さない。その代わりのように受領者である自分の所属と姓名、官職は名乗った。すると証3佐は胸に提げたIDカードを確認した後、封書を乗せていたバインダーを差し出して署名と捺印をさせた。このような手続きを要するのなら私自身が司令部に乗り込んで証言すれば良さそうなものだが肉声でなければ価値は半減以下になってしまうのだろう。
Cー1の中には見たことがない小型の金庫が設置されていた。赤崎3曹はその中に預かってきた封書を収め、施錠してからダイヤルを回した。若しこのCー1が墜落すれば捜索は生存者と金庫のどちらが優先されるのか。興味はあるが訊くのは野暮なので黙って安全ベルトを締めた。
「貴方、お帰りなさい」「おう、お帰り」入間から私有車で官舎に帰ると金曜日で帰宅していた佳織が出迎えた。入間基地への到着が課業終了直前だった上、週末の帰宅ラッシュに巻き込まれたため予定よりも大幅に遅れたのだ。
私は台所で夕食の支度をしている佳織の背後に立つと脇の下から突っ込んだ両手で乳房を掴んだ。佳織は一瞬、身体を固くしたがされるままに任せる。私はユックリ柔らかく揉む。それは既婚者には妻でなければできない性本能による愛情表現だった。
「やっぱり元気を回復してるね。そんな生き生きした顔を見るのは久しぶりだわ」向かい合って夕食を始めると2人の湯呑に熱い茶を注ぎながら佳織が呟いた。
「うん、若い頃のような時間を過ごして気分まで昔に戻ったみたいだ」佳織が抱いている悩みについては梢から聞いているので、そこに至る会話には細心の注意を払うべきかも知れないが、私はむしろ真情のまま自然の流れに任せることにした。
「やっぱり梢さんじゃあないと駄目みたいだね。こんなに長い間、遠く離れていても貴方の気持ちを癒す力を失っていないんだもん」「梢は別格だよ。運命の赤い糸どころか本四架橋の吊り橋みたいな太くて赤いケーブルで結ばれているからな」この大げさな表現に佳織は苦笑しながら自家製豆腐ハンバーグを口に運んだ。私も自分で作って冷蔵庫に保存していた豆腐ハンバーグを食べてみた。毎回、混ぜてこねるパン粉や炒めタマネギ、そしてミックス・ベジタブルの量、下味を変えているが、今回は豆腐の水の切り方が不十分だったようでまとまりが悪い。
「でもな梢は親の反対に苦しんでいるワシを見て身を引くことを選んでしまったが、佳織は好き勝手に振舞う美恵子に悩んでいるワシを略奪して救ってくれたじゃあないか」「でも奪っただけで妻として何もできていないわ」ここが悩みの核心だ。私は急速に食事が進まなくなった佳織の顔を見ながら失敗作の豆腐ハンバーグを口に運んだ。
「実は今回、梢とキスをしてしまったんだ。25年ぶりにかな」「梢さんが求めてきたの」佳織は嫉妬ではなく敗北感を目に漂わせている。私は猫舌でも大丈夫なくらい冷めた茶をすすった。
「いいや、深く呼吸するように唇が重なってしまったって言う感じだったな。だから舌は入れてないし、乳も揉んでないぞ」本当はいつもの習慣で無意識に乳房に手が伸びたのだが触れただけに留めた。それでも弾力が懐かしかった。私としては真面目に事実を告白しているのだが佳織は呆れたように鼻で息を吸うと食事を再開した。
「若しも梢と寝て男として復活したりしたら嬉しいやら困るやらだな」これが冗談であることを表現するため私は満面の笑顔で語った。すると佳織も無理に笑顔を作って返事をした。
「そうなったら貴方を梢さんに返すわ。私の敗北だもん」「大丈夫、今夜にも逆転勝利のチャンスはあるぞ」最後まで冗談で押し通したがそれが正解だったはずだ。
その夜は冗談のまま一緒にシャワーを浴び、裸で抱き合って寝たが勝負すら成立しなかった。
し・モリヤ佳織イメージ画像
  1. 2018/12/31(月) 10:16:48|
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振り向けばイエスタディ1418

「こんばんは」「いらっしゃい」首里でも史跡がある丘陵地帯から少し外れた儀保に安里家のマンションはある。ドアを開けて玄関に入ると奥から両親が声をかけてきた。
「今夜はお世話になります」「いいえ、よく来てくれました」リビングのソファーの手前で正座して床に手をついて頭を下げると両親は椅子に座り直して深くお辞儀をした。
「先ずお兄さんにお参りさせてもらいたいんですが」「やっぱりモリヤさんだ。よろしくお願いします」私の唐突な申し出を両親は予測していたように快諾すると席を立って奥の部屋へ案内してくれた。奥の部屋は和室になっており、角の箪笥の上に沖縄式の佛壇が置いてあった。
儒教の流れで祖先崇拜を宗旨とする沖縄では本土のように戒名をつける風習がないため、佛壇には死者の名前を記した木の札を並べる。父が分家した安里家では兄の恵昇だけだ。
「私は浄土宗ですが阿弥陀如来の代わりに弥勒世果報で念佛を唱えさせてもらいます。お経は宗旨に関係ない奈良佛教の華厳経唯心偈にしましょう」安里家の3人が後ろに並んで座ったので坊主が檀家の法事を勤めるように説明した。そうしてカバンの中の頭陀袋から数珠と線香を取り出して母が灯してくれたロウソクで火を点け香炉に立てた。沖縄の線香は板状なため立てずに寝かして焚く。だから後で灰の中で燃え残った下部を回収しなければならない、
「華厳経菩薩説唯心偈・・・心は工(たくみ)なる画師の如し 種々の五陰(ごうん)を描き 一切世界の中に 法(もの」として造ざるなし・・・」数珠を揉んだ後、読経を始めた。これは奈良での司法修習の時に親しくなった東大寺の学僧に教えてもらった経文だ。手渡された紙には漢文で記されていたが学僧は音読ではなく訓読で唱えていた。
「南無弥勒世果報(なむむるくゆがふ) 南無弥勒世果報 南無弥勒世果報・・・」最後は浄土宗式に名号を十念してお参りは終わった。すると梢は夕食の支度に立っていった。
「今夜は貴方の希望通りにフーチバ・ジューシー(蓬の雑炊)と中身汁(豚のモツの吸い物)、メインはナーベラ(糸瓜)の味噌炒めよ」ソファーで両親と勤めた経文の質疑応答をしていると梢がお盆に載せた料理を運んできた。梢は「希望通り」と言うが希望を述べてはいない。しかし、つき合っていた頃から私は梢に希望を口にする必要はなかった。一緒に買い物に行っても私が手を伸ばそうとする物を先に取っていたのだ。
「はい、全問正解です。マーサイさァ(美味しそうだ)」目の前に並んだ好物を見ながら私は深くうなずいた。そうして向かい合って座ると一緒に手を合わせる。
「カッチーサビタン」「いただきます」口上は相変わらず本土の私がシマグチ(沖縄方言)、シマンチュウの梢が標準語になっている。昔と変わらぬ不可解さに両親も苦笑していた。
「最近、佳織は電話で貴方の話していると『私ならどうする』って訊いてくるの・・・何だか自信を失っているみたい」夕食を終え、父と私が石垣島で買ってきた島酒・宮の鶴を飲んだ後、ベランダで夜風に当たりながら梢が意外なことを口にした。確かに今回の沖縄出張が決まった時、佳織は「癒されるため」に梢に会うことを強く勧めてきた。そして実際にこの1週間で私は生気を取り戻ることができた。
「ハワイで佳織と飲んだ時、折角、貴方と結婚したのに仕事を優先せざるを得なくて一緒に暮らすことができない。それが貴方に申し訳ないって言っていたのよ」言われてみれば私と佳織は結婚してから一緒に暮らしたのは守山での5年間と陸幕勤務になった半年だけだ。守山では2人が交代で半年間のAOCに入校しているから合計1年を引かなければならない。
「ワシは佳織と一緒に頑張っているつもりだけどな」「それは判っていても、貴方が苦難に直面した時も傍に入られなかった。それで自分が許せなくなったみたい。拘置所に収監されている時はアメリカだったんでしょう」この台詞は別の人間が口すれば佳織を揶揄しているように聞こえるが梢が逆なのは誰よりも私が判っている。
ここまで言えば私がその先を真剣に考え始めることを理解しているのが梢だ。そんな沈黙の中、梢が夜空を見上げながら懐かしい希望を口にした。
「ねェ、あの歌を唄おうよ」あの歌で通じるのが私たちだ。この絆は佳織も超えられていない。何よりもこの絆を引き裂いたモリヤ一族は絶対に許せない。
「見上げてごらん夜の星を 小さな星の小さな光が ささやかな幸せを唄ってる・・・」この「見上げてごらん夜の星を」は作詞の永六輔、作曲のいずみたく、歌唱の坂本九が夜間高校で学ぶ生徒たちに贈った名曲だ。私は生徒会長だった時、文化祭の準備などで遅くなり、夜間部の生徒が登校してくるとカセット・テープでこの歌を流して出迎えた。以来の愛唱歌だ。
「・・・手をつなごう僕と 追いかけよ夢を 2人なら苦しくなんかないさ・・・」唄いながら本当に自然な流れで手を握り、抱き寄せ、四半世紀ぶりの口づけを交わしてしまった。 
お・純名里沙四半世紀前の梢
  1. 2018/12/30(日) 10:21:29|
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振り向けばイエスタディ1417

私は休日出勤させてしまった証3佐と那覇基地に向かい地方自衛隊情報全隊の隊長室で録音してきた外務官僚と検察官たちの話し合いの内容を再検証した。
「結論的には外務省としては官僚としての分を守らざるを得ないから、不当な命令も我が身に引き受けて強く要望すると言うことですね」4時間にわたる録音を聞き終えて証3佐が結論を披歴した。この音声でも裁判の要領で法令や法慣習を根拠に不当性を指摘する検察官に対して外務官僚は外交上の影響を説明して納得させようとしている。しかし、その口調と声質からは内心で抱えている憤怒の激情が伝わってくる。小会議室に入った時、検察官たちが放心状態で動かなかったのも音声以上の静かな激論が戦わされていたことを示していた。
「さっき富永検事が言っていたダッカ事件の時には福田赳夫内閣の福田一法務大臣が強硬に反対したんだ。今の缶内閣では首相には反論できても千石に逆らえる奴はいないだろうな」私は基本的に政治不信だが、ここまで危機感を覚えた政権はない。おそらく缶内閣は今も全共闘の行動原理を堅持している千石由人官房長官が思うままに動かしているのだ。
「この録音はウチから東京に送達します。自衛隊には影響がないので業務報告にはできませんが、参考資料として司令の元に届くように処置しますから任せて下さい」この説明を聞く限り証3佐も先ほど嫌悪していた幹部自衛官=官僚としての分を脱することはできないようだ。
今日は少し遅れ気味に梢の空港カウンターに行ったが休日は利用者が多く、丁度、仕事を終えたところだった。本店に旅券の申し込みと発券の収支報告書を提出して着替えた梢と国際通りの歩道を並んで歩き出すと思い掛けないことを口にした。
「貴方、今夜は久しぶりに私の手料理を食べて」「今からじゃあ遅くなるぞ」腕時計を見ると8時を過ぎている。これから食材を買って首里のマンションに行って調理するのでは食べる頃には消灯ラッパが鳴ってしまう。
「大丈夫、そのつもりで食材は家に用意してあるわ」「そうか。それなら楽しみだ」私の返事を聞いて梢はかつての若い娘に戻ったような笑顔を見せた。その時、前から歩いてきた家族連れの夫が立ち止ってかぶっているメジャー・リーグの野球帽で挙手の敬礼をした。私も条件反射で答礼すると夫は号令のような声で「お久しぶりです」と言った。
「矢田か・・・」野球帽のかぶり方が自衛隊式だったのでかえって記憶が甦った。それは善通寺で美恵子を奪った矢田3曹だった。隣りにはかなり若い妻と男女混成・年齢格差の子供たちが4人並んでいる。どうやら再婚して築いた家庭らしい。
「今はどうしてるんだ」「駐屯地業務隊で雑用係をやっています。階級は3等陸曹のままです」私は守山から久居に転属して普通科の枠から外れてしまったので人の噂も届かなくなっていたが、あれから20年が経過していて昇任していないと言うことは善通寺で中隊長が書いた身上票にかなり厳しい内容があり、それが勤務評定に直結したとしか考えられない。それでもこうして家族と一緒にいる矢田は妙に穏やかな顔をしていて不満や焦燥は感じられない。
「そうか、普通科からは遠ざかってしまったんだな」「はい、それも自分自身が播いた種ですから仕方ありません。かえって今の仕事の方が気楽で性に合っています」表情を見る限りこれも強がりではなさそうだ。すると就学前に見える末娘が妻の片手を引っ張って歩き出したのを見て矢田が話をまとめた。
「仕事の内容を考えれば多過ぎるほどの給料をもらえて決まった時間に帰って来られる仕事なんて沖縄ではそうはありません。これ以上を望んだら贅沢です。そんな訳で失礼します」矢田は一方的に喋ると姿勢を正して挙手の敬礼をした。家族を追いかけて行く後ろ姿を見送ると体型は崩れていない。やはり陸上自衛官としての鍛錬を怠ってはいないようだ。
「あれが前の奥さんを奪った人なのね」歩道に取り残された形になった私に一緒に残っている梢が訊いてきた。梢には美恵子との結婚から離婚に至る経緯は詳しく説明していないが、昔から私の心理を感じ取る高感度のセンサーを装備しているので言葉は不要だ。
「奪ったと言うよりも廃品回収してくれた屑屋だな」先日、「かっちん」で美恵子の行状を聞かされている梢も私の冷たい表現を黙って聞いていた。矢田が回収した廃品の美恵子を破棄し、あのように若い後妻をもらった経緯は知らないが今はとても幸せそうなのは確かだ。
「さあ、タクシーを拾って家に帰りましょう。お腹が空いたでしょう」「うん、やーさんさァ」これは海部内閣によって非合法組織にされてしまった業界の人のことではない。ナイチャー口(標準語)で言えば「おなかすいたー」になる。かつて自衛隊も「憲法違反=非合法組織」と呼ばれ、同様に「人殺し」と決めつけられていた。その意味では職業で人格まで否定される「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」は感情的に容認することはできない。
  1. 2018/12/29(土) 09:06:26|
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12月28日・「八百屋お七」物語の発端になった大火が起こった。

年の背も押し迫る天和2(1683)年の12月28日(太陰暦)に井原西鶴さんの「好色一代女」に取り上げられたことで歌舞伎や文楽から映画、新国劇、さらに講談や落語、小説(流石に漫画では見たことがない)などになった「八百屋お七」物語の切っ掛けとされる天和の大火が起こりました。野僧が子供の頃にはテレビの劇場中継で「八百屋お七」が放送されていたので意味も判らず眺めていましたが、火の見櫓に上って鐘を打つ名場面を演じているのがババア女優だったので物語の設定を誤解していました。
この物語は前述の各分野でさまざまに脚色されていますが、比較的信頼性が高いとされる実録本の「天和笑委集」の記述では天和の大火で焼け出された江戸本郷の八百屋一家が菩提寺の正仙院に避難し、そこで娘のお七は寺小姓の生田庄之介と恋仲になりました。ところが母親が避難に際して持ち出していた貯えで店舗兼住宅が再建できたため思いの外早く寺を出ることになったのです。恋愛の免疫がないままの初体験で火が点いて燃え上がったところでの別離は妄想も加わって消しようがなくなるもので、お七は家に帰っても何も手につかず食事も喉を通らず庄之介を恋焦がれるばかりでした。こうして恋する娘の浅慮で「もう一度、火事になれば正仙院に避難して愛おしい庄之介と一緒に暮せるようになる」と考えるようになり、それを実行してしまったのです。
お七は自宅に放火しましたが大火の後では町衆も警戒を強化していたため発見が早く小火(ぼや)で消し止められたものの放火の罪に代わりはなく捕縛されて奉行所での裁きを受けることになりました。この時の奉行とお七のやり取りも物語の見せ場の1つです。、あまりに年若く可愛らしいお七を憐れんだ奉行が「15歳を過ぎれば火炙り、15歳未満であれば罪一等を減じて遠島」と言う定めを用いて命だけは救おうと「年齢は14歳であろう」と問い、それにお七が「15でございます」と正直に答え、「見た目も幼い。14であろう」と誘導尋問にかけても「いいえ、15でございます」と言い張り、「それはソチの思い違いだ。14であろう」「いいえ、15でございます」と馬鹿正直に墓穴を掘ったのです。ただし、15歳の年齢によって罪一等を減ずることが定められたのはこの事件から概ね40年後の8代将軍・吉宗公の時代の町奉行・大岡忠相さんの手による「公事方御定書」からであり、同時期に13歳の少年放火犯が火炙りになった記録がありますから後年の創作です。
こうして天和3(1683)年3月28日(太陰暦)にお七は現在の東京都品川区南大井にあった鈴ヶ森の刑場で火炙りになったのですが、演劇などではここでも奉行の温情で振袖を着ることが許されたことになっています。
それにしても今風に言えば「勝手な恋心で自宅に放火した馬鹿娘」であり、昔でも「親の苦労を弁えない不孝者」のはずなのですが、当時の人々はお七の娘心を憐れみ、その同情を強める脚色を加え、悲劇の主人公にして舞台を見ながら涙を流したのでしょう。
天和の大火そのものは駒込の大円寺が出火元とされ、28日の正午頃から翌朝の5時頃まで燃え続け、死者は最大で3500人とされています。
  1. 2018/12/28(金) 10:45:25|
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振り向けばイエスタディ1416

翌日は朝一番の便で那覇へ帰ることになっている。秋の観光シーズンの旅行客は短期滞在が多いため石垣空港と那覇空港を往復する便も搭乗率が高く、秋分の日では行動するのに都合が良い時間帯では航空券が取れなかったのだ。
「あれ、モリヤ弁護士じゃあないですか」それでも賑わっている石垣空港の搭乗ロビーでいきなり声をかけられた。沖縄では自衛隊の制服を着ていて声をかけられることはないので戸惑いながら振り返ると沖縄地方検察庁石垣支部で対応してもらった富永検事だった。やはり自衛隊ではなく弁護士と言う肩書で私を理解したらしい。
「昨日はどうもお世話になりました。今日は那覇へ行かれるんですか」「はい、ニュースでも言っていた外務省の説明に同席するように命じられまして、朝一番で行って最終便で戻ります」外務省の官僚も朝の便で東京を立ち那覇へ向かうようだ。こうなると明日の航空自衛隊の定期便で本土へ戻るのが勿体なくなる。
「説明会が終わってからお話を聞けませんかね。地方検察庁の彼でも良いですが」「それなら地検で待っていれば良いですよ。どうせマスコミも入れない密談でしょうからせめて参加者の顔を見てやって下さい」こうなると役者を揃えなければならない。私は搭乗手続きに向かう検察官とは別れてロビーの隅で那覇基地の交換を通じて自衛隊上保全隊当直に電話をかけ、証3佐に私の携帯電話に連絡するように伝言を依頼した。
那覇空港の離島便ターミナルで待っていた証3佐の私有車で那覇地方検察庁に向かうと先日の若い検事の案内で説明会が行われる小会議室を見学した。この狭い部屋で顔を突き合わせて激論が交わされるようだ。証3佐は私が話しかけた一瞬の隙に机の裏の金具の影に盗聴器のマイクを仕掛けた。これで説明会の内容を傍受し、録音できる。
「外務省の木村です。本日は内閣官房長官の承認を受けて今回の事件を巡る日中相互の立場と主張について説明させていただきます」私と証3佐は地方検察庁の小会議室がある階の喫煙ホールのソファーで待っていた。証3佐も私に合わせて制服を着てきているので廊下を行き交うマスコミ関係者に怪しまれないように傍受をイヤホーンで聞きながら談笑を演じていた。
「承認と言ったって実際は命令されて来たんだろう。千石弁護士先生は何て言っているんだ」やはり喧嘩腰になっている検察官がいる。検察官は法廷でディベート式に討論するのが仕事だが、外務官僚は外交交渉が本業だ。どちらも頭脳明晰で雄弁なのは間違いないが毛色が違う。
「我々としても今回の中国の不法な行動には断固たる態度で臨みたいんです。しかし、政府は中国の意のままに収めることしか考えていない。官僚は政治の方針と決定に背くことはできませんから仕方ありません」声しか聞いていないがこの台詞を吐いた外務官僚の苦渋に満ちた顔が浮かんでくる。これもマスコミを立ち会わせなかったから口にできる本音だろう。
「石垣支部から被疑者の証言内容を説明させます」ここで地方検査庁の長である検事正が富永検事を指名したため証3佐がカバンの中で盗聴器に接続している録音機を確認した。
話し合いは昼食も取らずに4時間に及んだ。その間、煙草を吸いに来る取材記者たちが陸と海の制服姿の私たちに声をかけてきたが「知り合いの検察官に法律相談だ」と誤魔化した。
「腹が立ったと言うべきか疲れた言うべきか・・・大変でした」話し合いが終わり、外務官僚と首脳陣が会食に向かった後、会議室に入ると検察官たちは渋い顔をして動かなかった。取材記者たちは外務官僚と首脳陣を囲んでいったのでここは安全なはずだ。
「結局、外務省は中国に擦り寄る政権の意向を呑めと迫ったんですか」話し合いの激しいやり取りは全て聞いていたのだが、あえてとぼけるのも偽装工作だ。その間に証3佐は現場を確認するような顔をしてマイクを回収した。
「外務省も2004年5月に上海領事館の同僚が自殺に追い込まれた事件を忘れていないようだ。そこにこの不法行為だから怒り心頭に達する・・・怒髪天を突く気分らしい」富永検事は私の「髪」がない顔を見てあえて言い直いした。こんなジョークのセンスは外交官向きだ。
「つまりチャイナ・スクール(本来は外交官研修で中国語を専攻した者とその語学閥)は中国の手先と言うのは保守派の時代遅れな先入観と言うことですか」私の理解に富永検事は深くうなずいた。この顔では富永検事も私と同様に時代遅れな先入観を抱いていたようだ。
「後はウチの検事正が検察首脳会議で黙ってうなずけば有罪釈放と言うことだ。ダッカ事件の超法規的処置並みの暴挙だね」富永検事は千石官房長官を日航機をハイジャックした日本赤軍の要求に屈した福田赳夫首相になぞらえて揶揄したが私は賛成できない。ダッカ事件で釈放されたのは服役中の刑法犯6名であり、今回釈放されることになる中国人船長は立件・告訴もされていないのだ。別に千石弁護士先生を擁護するつもりは毛頭ないが私には「毛」がない。
  1. 2018/12/28(金) 10:43:54|
  2. 夜の連続小説8
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12月28日・武将の適性がなかったことが幸運?今川氏真の命日

江戸時代が始まって10年以上が過ぎていた慶長19(1615)年の明日11月28日(太陰暦)に守護大名・今川家を継ぎながらも武将の適性がなかったため早々に戦国バトルのリングから退場してここまで優雅に生きながらえた今川氏真さんの命日です。
2017年の大河ドラマ「女城主・直虎」では2代目・尾上松也さんが氏真さんを好演して多少はイメージが上がりましたが、1988年の「武田信玄」では神田雄次さんが思慮分別や度量胆力がない暗君風に演じていました。実際、武田信玄公や徳川家康公が主人公のドラマや小説、漫画などでは格の違いを見せつけるための餌食として描かれることが多いようです。
氏真さんは天文7(1538)年にこちらも死に方が悪かった故に貴族趣味の馬鹿殿の烙印を押されている守護大名にして戦国武将の今川義元さまと信玄公の同母姉である正室の間に生まれました。天文23(1554)年に駿相甲3国同盟が成立すると各家の嫡男と姫を娶(めあわ)せる約定が決められ、氏真さんも北条家の姫を迎えることになりました。
ドラマなどでは義元さまが上洛を企図して西に向かう途中、田楽狭間で織田信長公の急襲を受けて討ち死にしたことで急遽、家督を継ぐことになったようにしていることが多いのですが、史実では弘治2(1556)年に駿河を訪れた公家の接遇を氏真さんが担当しており(公家の道中記では和歌や蹴鞠の才を賞賛している)、永禄元(1558)年には駿河・遠江に対して発刊した文書も現存しているため義元さまは上洛を前に家督を譲り、政務の経験を積ませていたと見るべきであり、実際、桶狭間の直後には動揺を鎮めるため三河の寺社や国人・土豪・商人などに安堵状を送っています。
しかし、氏真さんには乱世の趨勢を見極め、激流を泳ぎ切るだけの適性がなく指南役の祖母も所詮は公家の娘に過ぎず、圧倒的な武力に裏打ちされた守護大名の権威に服従していた領内の国人たちの離反を抑えるには力不足でした。結局、永禄11(1568)年に信玄公の侵攻を受けると国人だけでなく重臣までも寝返り、這う這うの体(ほうほうのてい)で掛川城に逃げ込んで抵抗したものの翌年には家臣と城兵の助命を条件に開城して大名としての今川家は滅びたのです。
ここからが氏真さんの本領発揮で、先ずは妻の実家である北条家を頼り、北条家が武田家と和睦すると掛川城を開城する時の約定で徳川家に移り、家康公の駿河侵攻の旗印になっています。ただし、その後は政治的な文書・記録は残っておらず、天下が収まった天正年間になって浜松城を訪問した公家などの饗応の陪席者に名前が出てくるだけです。それでも泰平の世になれば氏真さんの出番で京都に上って歌人としての評価・地位を得ると子供たちを徳川家に仕官させて最終的には江戸で亡くなりました。
同じように中国・九州北部地方の覇者である大内家を継ぎながら文芸にうつつを抜かして重臣の謀反で殺された大内義隆さんと比べると適性を活かしながら後半生を過ごした氏真さんは幸運だったように思われます。近世では乃木希典愚将も卓越した漢詩の才と謹厳実直な人間性を活かせる教育者になるべきで適性と能力がない軍人として生きざるを得なかったことは本人だけでなく無駄死にさせられた部下にも不運だったのでしょう。
  1. 2018/12/27(木) 09:29:22|
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振り向けばイエスタディ1415

「親父、『ばすきなよお』へ飲みに行こうよ」夕食を終えてあかりが洗い上げを始めた時、淳之介が唐突に提案してきた。流石の私も「ばすきなよお」と言う単語の意味(「忘れないで」)が判らず「お好きなようって何だ」とボケをかました。飲みに誘うくらいだから居酒屋の名前だろうか。
「親父が若い頃にお義母さんと飲みに行っていたスナックだよ。ママさんも少しずつあの頃のことを思い出しているから連れて行ったら完璧になると思うんだ」淳之介の説明に私の方こそ記憶を辿ってみたがやはり思い出せない。石垣島には八重山の離島に単身赴任していた梢の父親に会うために何度も来ていたが夜遊びをした記憶はない。それにしてもどうして淳之介がその店「ばちさよお」に通うようになったのか。
「あかり、親父と『ばすきなよお』に行くけどお前も一緒に行くか」「でも、明日は仕事でしょう。飲んで大丈夫」あかりは洗い終わった食器の表面を指で撫でて脂分と洗剤が残っていないかを確認しながら訊いてきた。最近は道路交通法の改悪(=自己管理が及ばないアルコール濃度を判定基準とすることは机上の論理である)の影響で乗務前のアルコール検査が一般的になっているので淳之介も乗務前夜の飲酒は控えているのだろう。
「うん、親父をママさんに会わせるだけだ。水割りをグラス一杯飲むだけで帰ってくる」「だったら私も行く。お義父さんに教えてもらいたい歌があるから」どうやら話が決まったらしい。ところで私はあかりが制服を洗濯してくれたのでパジャマ代わりのOD色のTシャツとジャージのバミューダ―・パンツだがこの格好で良いものか。
「おーりとーり(いらっしゃい)」「くよなーらー(こんばんわ)」淳之介が(多分)八重山方言で挨拶して入ったスナック「ばすきなよお」には確かに来たことがある。あれは梢とハイムルブシ(南十字星)が見える場所を探しながら街明りが届かない海岸沿いの道を歩いていてここまで辿りついたのだ。
「ママさん、親父を連れて来たよ」あかりにつき添いながら店に入ると淳之介はカウンター越しに初老のママさんと話していた。この内装にも見覚えがある。ただし、ママさんはもっと若くて美しかったはずだ。するとママさんは私よりも先にあかりに声をかけた。
「あかり、髪を切ったねェ。よく似合ってるよ・・・そうだ。お母さんにそっくりさァ」どうやらママさんはあの頃の梢の顔を覚えているようだ。
「ママさん、これが親父です」「モリヤです。息子がお世話になっています」「こちらこそお久しぶりです」あかりをカウンターの席に座らせると淳之介が紹介したので挨拶を交わした。
「久しぶり」と言いながらもやはりママさんは怪訝そうな顔をしている。おそらくママさんも20歳代前半だった青年が50歳目前の中年オヤジになっていることに私以上に困惑しているのだろう。それでも体型だけは糖尿病の関係で細身なのであまり変わっていない。
「あの頃もスポーツ刈りだったけど今はツルツルに剃ってるんだね。本当は禿げたねェ」3人が席につくとママさんは絞りタオルを配りながら話しかけてきた。ママさんとしては私のイメージが変わってしまった理由を自分なりに探っているのかも知れない。
「ママさんは相変わらずお美しいですね」「嘘、隣りの彼女ばっかり見ていて私なんて眼中になかったじゃない」その彼女の娘は母と義父の熱愛ぶりを想像して微笑みながらうなずいた。
「そうだ。ワシに教えて欲しい歌って何だ」私はママさんが淳之介の注文で薄い水割りを作り始めたところであかりに訊ねた。明日は淳之介は仕事であり、私も昼前の飛行機で那覇へ帰らなければならない。あまり長居はできないのだ。
「今日、お父さんがマタニティーの安産のお願いに唄って下さった島唄です」どうやら「童神(わらびがみ)」のようだ。この歌は子守唄なので2人に教えるのは丁度良い。
「それじゃあ古謝美佐子の『童神』をお願いします」「やっぱり島唄ねェ。ナイチャァ(本土の人)なのに本当に不思議な人さァ」ママさんは突然、現れた観光客ではないナイチャアが次から次に島唄を熱唱したことで記憶に刻まれたのかも知れない。
「天からの恵み 受きてくの世界に・・・」あかりは聞きながら歌詞を頭に刻んでいるようだ。そこで私は2番も1番の歌詞で唄うことにした。
「もう一度、1番を唄うよ。憶えなさい」短い間奏の間にあかりに声をかけると1番を繰り返した。しかし、レーザーの画面は2番の歌詞を流しているので完全に記憶だ。
「・・・泣くなよーや ヘイヨー ヘイヨー 太陽(てぃだ)の光受きてぃ ゆういりヨーや ヘイヨー ヘイヨー 勝さてぃ給り」結局、1番を3回唄った。
「これって『ちゅらさん』で恵達の子供が生まれる時に流れていた歌だね」拍手しながら淳之介が確認してきた。やはり沖縄に来ることを決めたドラマの記憶は鮮明なままのようだ。しかし、私がこの歌を知ったのは2002年春の「みんなのうた」での山本潤子バージョンだった。
ばちさよお若い頃のママさん
  1. 2018/12/27(木) 09:28:03|
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振り向けばイエスタディ1414

あかりが夕食の支度をしている間、私は那覇と石垣市内のコンビニで買い集めてきた新聞各紙を読み比べていた。本土の一般紙が早朝の旅客機で沖縄に届くのは昼前になるため出発に間に合わず、それを離島便に積み替えて送る石垣島では昼過ぎになって朝刊が店頭に並ぶ。
「ほう、沖縄の2大紙も中国の釈放要求は取り上げてるんだな」那覇市で買ってきた沖縄の2大紙はどちらも22日の早朝に発表された中国首相による船長の釈放要求を大きく報じていた。
これまで漁船による衝突事件については中国側の主張に同調した紙面づくりをしてきたので、このニュースもその路線上で肯定的に紹介している。
「日本政府は沖縄の固有領土に関する問題に介入することは止めろってか・・・」2大紙は「日本政府」と他国のように呼んでいる。つまり沖縄を「独立国」とする立場で論じているようだ。
「沖縄であれば中国との長年にわたる友好関係によって相互の利益を共有する平和的解決を実現できる・・・なるほど」確かに琉球王国は中国の明朝、清朝に臣従の礼を尽くして朝貢には過分の返礼を受けてきた。つまり中国の属国になることで逆に独立を保証してもらい、尖閣諸島も資源だけ譲れば自由に使わせてもらえると言う論理だ。
「日本政府は政権交代が実現しても自民党政権とアメリカ軍が沖縄を軍事力で支配してきた占領体制を継続している。これは日本政府が大陸を侵略した帝国主義を堅持していることを自ら暴露していることに他ならない」ここまで来ると読んでいるのが「人民日報」ではないか確認したくなる。しかし、間違いなく2大紙「沖縄新報」と「琉球タイムス」だ。要するに雀山内閣が辺野古移設を閣議決定したことを「裏切り」と断定し、徹底批判に転じたに違いない。
続いて地方協力本部石垣事務所の傍のコンビニで買った朝日新聞になる。これは買ってきた順番で選択した訳ではない。
「何々・・・あまりにも一方的な要求に政府は対応に苦慮しているかァ。随分とまともなことを書いているじゃあないか」沖縄の2大紙の後では東京で読むとそれこそ日本版人民日報としか思えない朝日新聞が正論を吐いているように見えてくる。
「3権分立を尊重しなければならない以上、24日に招集される検察首脳会議で司法が国際情勢にも目を向けて大局的な判断を下すこと期待する・・・つまり司法も外交をやれって言いたいんだな」この朝日新聞的な論法にやはり腹が立ってきた。朝日新聞は綺麗事を目一杯飾り立てて読者の目を眩ませながら本音へ誘導する狡猾な紙面づくりを常用している。社説では建前を述べておいて人気コラムである天声人語で皮肉として本音を漏らす。読者は小難しい社説は読まなくても天声人語には目を通すので世論誘導としての効果は絶大なのだ。
その時、テレビの衛星放送が驚くようなニュースを流した。それは休日である23日に千石官房長官の承認を受けた外務省の高級官僚が沖縄地方検察庁を訪問し、今回の事件の外交上の影響と中国の対応を説明すると言うものだ。
早い話が千石官房長官の命令を受けた外務官僚が政権首脳の厳命を伝達しに来るのだ。それにしても民政党政権は千石官房長官が「日本版文化大革命」と自賛した事業仕分けで外務省の在外公館の社交に関する経費も無駄遣いとして断罪していたはずだが、外務官僚たちは「司法への政治介入」と言う不当な命令に抵抗する気概も奪われてしまったのだろうか。
「ただいま。親父は来てるかァ」あかりが立っている台所の窓から淳之介の声が響いてきた。それにしても今まで「お父さん」だった淳之介に「親父」と呼ばれると尻がこそばゆい。
「お帰り、お世話になってるよ」そう答えながら玄関を見ると淳之介があかりを抱き締め、熱いキスを交わしていた。モリヤ家では日常的な光景なのであえて目を反らしたりはしないが、お腹を圧迫しないか心配するほど熱烈な抱擁だった。
「中国漁船の衝突事件は変なことになってるね」モリヤ家以上に折り目正しい礼式の後、夕食を始めると缶発泡酒を一口飲んだ淳之介が時事阿呆談を切り出した。
「変なって何か判ったのか」現場の船乗りの意見に私の内面心理は脱いでいた制服を着直した。
「ぶつけられた巡視船が修理に向かうところを見たんだけどあれは衝突事故じゃあはなくて体当たり攻撃だな」記録映像の存在は事件が発生した直後からマスコミが報じているが政府は公開に応じていない。このプロの見解は大いに参考になるはずだ。
「衝突事故なら側舷が接触するはずだけどあれは船首から突っ込んでいる。漁船の方も海側から見たけど船首の左側が破損していたよ」今日、会った3等海上監(2佐に相当)も暗に「政府から緘口令が敷かれている」とほのめかしていたが、そこまで悪質な事件であれば当然だ。
「多分、あの船長は軍人だな。漁なんてやっていなかったんだろう」「うん、俺もそう思うよ」この話題であれば公務出張の目的に合致する。我が息子ながら大したものだ。
  1. 2018/12/26(水) 09:45:06|
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12月25日・ソビエト社会主義共和国連邦が崩壊した。

1991年の12月25日に核だけでなく通常兵器でもアメリカと肩を並べる強大な軍事力を保有し、自由主義に対抗する社会主義国家の盟主だったソビエト社会主義共和国連邦が信じ難いほど短期間で崩壊しました。
ソビエト社会主義連邦は言うまでもなく第1次世界大戦末期の1917年の10月革命で帝政ロシアが倒壊したことで成立し、広大なロシア各地で繰り広げられた貴族階層の領主たちの制圧・排除・抹殺や共産党内の路線対立と主導権争いによる血みどろの内戦を経て1922年12月30日に建国が宣言されました。
それからは世界共産革命を国家戦略として自由主義諸国が自縛されている国際法慣習や秩序道徳を無視する巧妙卑劣な謀略によって勢力を拡大して下地を作るとスターリンの指示を受けた工作員による破壊活動によって政権を奪取したヒトラーのナチス・ドイツと同じく工作員と協力者(=大手マスコミ)の世論誘導で大陸進出に躍起になっている日本の軍部をイギリス、アメリカと衝突させることで第2次世界大戦を生起させ、その疲弊と混乱の中で東ヨーロッパと中国、北朝鮮、ベトナムを手中に収めることに成功したのです。
ところが経済面ではマルクスが資本家による労働者の搾取の手段と断じた企業を介在させない計画に基づく効率的な経済活動の方が有利だったはずが(少なくとも学校ではそう習っていた)、労働力の提供が賃金報酬に反映されない社会制度は無気力を蔓延させて慢性的な品不足に陥り、生産力を向上させるためのノルマが過酷になることで国民の不満が鬱積し、それを取り締まるための思想統制や反対者の弾圧が横行するようになり、労働者の楽園だったはずの社会主義国家は暗黒の警察国家に堕していきました。
科学技術に於いても自由主義国家が企業間の競争原理によって革新的発明と改善を繰り広げたのに対して閉鎖的な環境下で政治的制約を受けながらの研究では次第に先細りになるのは必然で軍事情報だけでなく産業技術の獲得もスパイの任務になっていました。
そんなソ連の長期低落を世界に向けて明らかにしてしまったのが1990年8月から91年2月にかけて行われた湾岸戦争でした。イラクのサダム・フセイン政権は莫大な石油収集でソ連製の最新兵器を大量に購入し、軍の士官の大半はソ連に留学して高度な軍事教育を受けていたにも関わらず91年1月17日に開戦すると苦もなく壊滅され、兵器の性能だけでなく軍の運用手法にも厳然とした時代格差が存在することを思い知らされました。
戦後のミハイル・セルゲ―エヴィチ・ゴルバチョフ大統領はソ連でも中国のような自由主義的経済の限定的導入による国家の再建を模索しましたが、ソ連に統合されていた国々の独立が相次ぎ、EUを模倣した独立国家共同体の締結に反対する守旧派の中央委員会がクーデーを起こしたもの失敗、さらにソ連は中国ほど情報・思想統制が完全ではなかったため国民は早々に共産党を見限ってしまい12月13日には解散に追い込まれたのです。この事態を受けて12月25日にゴルバチョフ大統領が辞任してソ連に幕を引きました。
ゴルバチョフ大統領には90年にノーベル平和賞が贈られていますが今となっては本当の受章理由はソ連の解消による東西冷戦構造の終結なのでしょう。
  1. 2018/12/25(火) 11:22:24|
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振り向けばイエスタディ1413

この日は最初の検察支部では昼休みを延長してもらって話を聞き、続いて海上保安部へ出向いて事件の実態を確認し、取り調べが終わる時間を見計らってもう一度、検察支部へ寄ってきた。
その後は地方協力本部石垣事務所で課業時間が終わるのを待って帰宅する所長の私有車で淳之介のアパートに送ってもらった。
「それにしてもあの定期船の船長がモリヤ2佐の息子さんだったとは驚きました」所長の1等空尉は今日1日で知り合いになったように話しかけてくる。この人懐っこさも広報官には必要な素養なのかも知れない。広報官は石垣島内だけでなく離島でも広報活動を行っているので淳之介の定期船を利用することもあるようだ。ただし、離島には高校がないので隊員の募集はない。
「うん、婿養子に入ったんで今は安里姓になっているけどね」「そう言えば顔見知りの乗客から安里くんって呼ばれることがありますよ」こんなところで淳之介の仕事ぶりを聞かせてもらって親として嬉しくなる。この所長が曹侯学生17期生の後輩であることは先ほどの雑談で聞いているが職種は教育幹部で防府南基地から転属してきたと言うのはいただけない。尤も、航空教育隊に嫌気が差して陸上自衛隊に逃れた者がいつまでも毛嫌いしているのは大人げないから、そろそろ記憶を消去して同業他社の赤の他人になるべきかも知れない。
「あかり、来たぞ」淳之介のアパートの部屋のドアのチャイムを鳴らし、開いている窓の網戸越しに声をかけると中から「お義父さん、いらっしゃい」と言うあかりの返事が聞こえてきた。
「あわてなくても良いぞ。ユックリ来なさい」視覚障害者の上、妊娠初期である嫁を心配して注意したが手慣れた様子でドアを開け、チェーンを外してあかりが顔を見せた。本当はここで抱き締めたいところだが、それは淳之介の許可を受けての作法なので不在時は実施できない。
「元気そうだな。お腹は順調か」「はい、毎週、通院して確認を受けています」佳織と美恵子はこの時期から3カ月までは2週間に一度だったように記憶しているが、あかりは障害のこともあり主治医も特別に注意してくれているようだ。
「どうぞ上がって下さい。散らかっていますが」「おう、お邪魔するよ」気がつくとあかりは裸足でドアの外まで出ている。やはり少し慌てて草履が履けなかったに違いない。
「髪を切ったんだね」「はい、吐く時に邪魔になりますから」あかりは長い髪を切って全くイメージが変わっている。やはり長い髪ではつわりで吐く時、便器に入ったり、吐瀉物がかかったりするため仕方ない処置なのだろう。
「よく似合ってるよ」「淳之介さんもそう言ってくれます」これはお世辞ではない。実はつき合っていた頃の梢もショート・ヘアだったのその記憶と重ねているのだ。
「そう言えば預かっている物を渡す前にやることがあった。蚊取り線香を焚く皿を貸してくれ」私は居間の座卓に腰を下ろす前に部屋の隅に置いてある蚊取り線香皿を見つけて台所の冷蔵庫に来客用の缶コーヒーを取りに行っているあかりに声をかけた。兎に角、梢に約束した安産祈願を済まさなければ母の想いがこもったマタニティーを渡すことができない。
私はいつも携帯している坊主グッズをカバンから取り出し、線香に火を点けて蚊取り線香皿に寝かすと数珠を揉みながら経の選択を御佛に任せる。今日もあらためて竹林寺に行ってみたがやはり地蔵菩薩には会えなかった。するとこんな子守唄が口から出た。
「天(てぃん)からぬ恵み 受きてぃくぬ世界(しけ)に・・・ゆういりよーやー ヘイヨーヘイヨー 勝(まさ)さてぃ給(たぼ)り」これはNHKの連続ドラマ「ちゅらさん」で紹介されて有名になっ古謝美佐子の「童神(わらびがみ)」だ。歌詞の中では子の生育を願う親心が切々と語られていて「父母恩重経」にも通じる趣がある。
 「オン・マイ・タレイヤ・ソワカ・・・願以此功徳 普及於一切 授与守加護 母子共安産」唄い終って沖縄の守護佛・弥勒世果報=弥勒如来の真言を唱え、祈願の趣旨を回向した。咄嗟に普回向を改作できるのも御佛の意思に任せているからに他ならない。
手を合わせて数珠を揉み、深く頭を下げると後ろで大きく息を吐く音が聞こえた。下げた頭で目を開けると知らない間にあかりが後ろで正座し、一緒に手を合わせて頭を下げていた。
「ほい、これは安里家とモリヤ家のお母さんたちからのお祝いだ」私は座卓の上から紙袋を取ると線香の煙に燻(くゆ)らせてからあかりに渡した。
「これは・・・」「2人が使ったお古のマタニティーだよ。ワシの安産祈願つきになった」紙袋から4枚のマタニティーを取り出したあかりに説明するとそれを胸に抱いてうなずいた。
今日のあかりはユッタリとしたワンピースだがまだ腹が膨らんでいないので圧迫さえしなければこれで良いのだろう。これから腹の中の初孫が成長していくとこのマタニティーが活躍することになる。そんな姿を想像しているだけで幸せな気分になるが今は公務出張中だ。
た・安里あかりイメージ画像
  1. 2018/12/25(火) 11:20:03|
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12月25日・ルーマニアのチャウシェスク大統領夫婦が銃殺された。

1989年の明日12月25日にルーマニアで24年間にわたって独裁者として君臨したニコライ・チェウシェスク大統領と夫の権力を完全に私物化して女帝として振舞った妻のエレナ・チャウシェスク第1副首相が銃殺されました。
日本ではルーマニアはモントリオールの白い妖精・ナディア・コマネチさんの母国と言う印象が強く(コマネチさんがチャウシェスク夫婦の息子の愛人にされていたことはアメリカに亡命した本人が告白している)、またソ連の植民地であった東ヨーロッパ諸国の中で西側とも積極的に関係を持つ独自の外交を展開していたこともあって肯定的な認識を持っていたので、時差の関係で26日の朝に流れたこのニュースは前夜のクリスマスの酔いを吹き飛ばす強い衝撃を与えました。
何よりも日本ではポーランドでの民主的政権の成立に始まる東ヨーロッパで相次ぐ政変は自由と民主主義を求める市民運動の高まりと報じられていたため最高権力者夫婦が逃亡先で拘束され、不正規の裁判で死刑判決を受けて即座に執行された事実とその一部始終が映像として公開されたことは市民の怒りの根深さと激しさを見せつけられました。
チャウシェスク大統領は1918年にファシスト政権下のルーマニア南部の農家の10人兄弟姉妹の3男として生まれ、11歳の時にブカレストの工員として就職しました。
1932年に14歳で非合法組織であったルーマニア共産党に参加したため翌年には逮捕され、逮捕を繰り返す間に警察から「危険な共産主義の扇動者」「反ファシストの活動家」との烙印を押されたようです。
その後、地下に潜伏して反ファシズム運動を継続しましたが1936年に逮捕・投獄されました。ここで後に妻となる2歳年上のエレナ第1副首相と出会い、終戦後の1946年に結婚しました。ちなみにエレナ第1副首相もルーマニア南部の農家の娘で、幼い頃から活発ではあるものの勉強は全く駄目で、小学校4年の時に12科目中9科目が落第点だったため退学してブカレストの工場に就職し、そのまま共産党に入っています。
このような経歴を持っていれば第2次世界大戦後にソ連に占領されれば頭角を表すのは至極当然で、1947年に共産党が政権を握ると早速、農業次官、国防次官を歴任し、1952年に親ソ連派が追放されると空席になった要職に就き、1954年には党内序列第2位まで登り詰めていきました(ルーマニア共産党は1948年に社会民主党を併合してルーマニア労働党に改称している)。
1965年3月に盟友であった書記長(事実上の国家元首)が急逝すると党内では後継者争い・権力闘争が起こり、両者の妥協の結果、チャウシェスクさんが後任に選ばれ、ここからは自己の権力の基盤固めを進め、やがては独裁者として君臨し続けることに成功しました。余談ながらエレナ第1副首相に政治への関与を勧めたのは訪中時に会談した毛沢東夫人の江青▲(=「さん」欠く)だったと言われています。
死刑判決の後、刑場に向かう映像では夫の大統領は悄然としていたのに対して妻の第1副首相は最期まで当たり散らし、そんなところも江青▲に似ていました。
  1. 2018/12/24(月) 10:39:39|
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振り向けばイエスタディ1412

22日の水曜日に石垣島に向かう予定の私を引き止めるような事態が発生した。早朝に中国の温家宝首相が日本政府に対して逮捕・送検されている船長の引き渡しを公式に要求したのだ。
発足して3カ月足らずで日本共産党以上に中国に従属していることをアカラサマにしている缶政権がこれを拒否するはずがなく沖縄地方検察庁に圧力が掛かってくるのは明らかだ。しかし、個別命令の出張先は沖縄地方協力本部の石垣島事務所なので私は所長の確認印をもらってこなければならない。所長の氏名と階級を確認して署名と押印を偽造することは容易だが、まさか陸上幕僚監部所属の法務幹部が違法行為を犯す訳にはいかない。やはり予定通り朝の日本トランスオーシャン航空で石垣島に行くことにした。
「貴方、おはよう」離島便の空港ターミナルのホールで梢が待っていた。制服を着ているところをみると仕事中に抜けてきたらしい。
「うん、おはよう。ワザワザの見送りか」そう答えながら歩み寄ると梢は紙袋を差し出した。その手つきから見て中身は土産物の菓子よりも軽そうだ。
「これをあかりに渡して欲しいの。私が使ったマタニティーよ」梢の説明に受け取った紙袋を覗くと薄い生地の服が2枚入っているのが見えた。
「佳織からも2枚預かってきているからこれで4枚になるな」「マタニティーは妊娠中にしか着ないから新品を買うのは勿体ないのよ。でも佳織のがあるなら私のは止めた方が良いわね」そう言って梢が手を伸ばしてので私は背中に引っ込めた。
「あかりだってお母さんのお古の方が嬉しいだろう。佳織のは淳之介の時の物じゃあないしな」私の理解は所詮男のモノだった。梢は表情を固くすると真意を説明し始めた。
「私があかりを産んだ時は安産じゃあなかったの。妊娠と出産は女にとっては命賭けの戦いだから少しでも縁起を担ぐようになるものよ」梢が早産になった理由はあかりの視覚障害の原因であることから早い段階に説明を受けている。それは夫が性行為を強要した上、欲望のままに激しく責めたため陣痛を誘発したのだった。
「大丈夫、渡す前に安産祈願のお経をあげておくから安心しなさい」私の返事に梢は安堵したようにうなずいたが安産の加護を祈る石地蔵さまが沖縄にはいない。石垣市内の日本最南端の禅寺・竹林寺には仁王門はあっても境内で地蔵さまには会わなかったはずだ。
「それじゃあ明日の午後には帰ってくるよ」「明日の夜は私の家に泊ってね。流石に連休中はホテルが取れなかったのよ」言われてみれば秋の観光シーズンでもある秋分の日に直前の飛び込みで那覇市内のホテルを取るのには大手ツーリストの力を持ってしても無理がある。
「貴方が野宿するって言うならつき合うけどウチの父も会いたがっているからお願いね」今夜は淳之介のアパートに泊めてもらい明日は梢の家となると出張の宿泊費は大幅な節減になる。しかし、既婚者が元カノの家に泊っても良いものなのだろうか。
石垣島では空港からは地方協力本部石垣事務所へ直行し、昼休みの時間を見計らって那覇地方検察庁石垣支部へ向かう。地方支部の検察官は1人だけのことが多く、仕事時間は拘束中の中国人船長の取り調べに当たっているはずだ。そうなると折角の昼休みに割り込むしかない。
「はじめました。陸上幕僚監部法務官室付法務幹部で東京弁護士会所属のモリヤです」沖縄地方検察庁石垣支部へは先週末に電話で申し入れていた昼休みの時間に訪れた。案の定、検察官は仕出し弁当を食べながらの応対になった。
「モリヤ弁護士がウチの地方庁(沖縄地方検察庁)に来られたことは後輩から聞いています。用件も想像がついてます」30歳代の後半から40歳代の前半くらいに見える検察官は私がソファーのテーブルに並べた自衛隊用と弁護士用の名刺を見比べながら説明した。
「今日の昼のニュースでは中国の釈放要求を受けて東京で検察首脳会議が招集されるそうですが、こちらでも何か動きがありますか」この質問は検察側の立場の者でなければ何かの取材としか受け止められないはずだ。それでも検察官は表情を変えずに弁当を頬張っている。
「やはり政治の司法への介入を阻止する決議をしたくても道理が通じる相手ではないですから、建前を捨てて屈服するしかないんでしょうな」相手が無反応では独り言を続けるしかない。
「おそらく被疑者は日本が屈服することを見越して今回の暴挙に出たんじゃあないですか」すると弁当を食べ終えて茶を飲んだ検察官は深呼吸をした後、口を開いた。
「被疑者は釣魚群島(チィアォユーチュンダオ=尖閣諸島)どころか石垣島は中国領だと譲らないんです。海上保安庁の取り締まりは侵略行為とも言っています」「それは漁民の発言ではありませんな。軍人が偽装しているんじゃあないですか」私の中に人民解放軍の兵士が僧侶に化けて起こしたチベット暴動の真相が思い出されてくる。この事件からも同様の臭いが漂ってきた。
  1. 2018/12/24(月) 10:38:27|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ1411

久しぶりのカレーを食べ終えてビルを出ると本土に比べて日没が遅い沖縄でも暗くなっていた。考えてみれば明後日は秋分の日なのだ。こうなると昨日と同様に飲みに行くしかない。ただし、自衛隊の制服で行ける店となると選択が難しい。
実は玉城家の義母の家系の女たちが受け継いできた小料理屋、今はスナックになっている「カッチン」は日航ビルと58号線を挟んで向かい合わせになる。今日はここに決めた。
「いらっしゃいませ」ドアを開けて店内に入ると聞き覚えがある声が聞こえてきた。声はカウンターの中からではないのでボックス席に客がいるようだ。
「淳之介の伯母さん、ご無沙汰しています」カウンターとドアを遮っている壁を抜けて顔を出すと制服姿に困惑している夕紀子に声をかけた。
「モリヤねェ、本当に久しぶりさァ」夕紀子は相手をしている客に断ってから立ち上がると営業用に少し親近感を加えた笑顔で答えた。私に続いて梢が店内に入り、夕紀子に会釈をした。
「こちらは淳之介の嫁さんのお母さんねェ。どうもご無沙汰しています」今度はあらたまって挨拶をした。夕紀子は私や梢と同じ年齢だが三者三様に老けてはいるようだ。
「貴方たちはカウンターで良いでしょう」夕紀子は手で席を勧めると再び客に断ってから中に入った。この礼儀と節度が妹とは違う。
「あの時、松真が入れたボトルは残っているのかな」「あの子が帰ってきて飲んでしまったさァ」どうやら予定していたボトルは当てが外れたようだ。
「それじゃあ松真と淳之介用にボトルをキープしよう。スィヴァ―ス・リーグルゥをよろしく」「はい、1万5千円です」この辺りの呼吸は孝子ママに近く妙に懐かしくなった。
夕紀子は奥からシーバース・リーガルを持ってくると棚の隅の釘に掛けてあった松真の札を掛けて栓を開けると水割りを2杯作った。そうして小さくお辞儀をするとカウンターを出てボックス席に戻っていった。
それから1時間後、夕紀子はボックス席の客が帰るとようやくカウンターに戻ってきた。ただし、私たちも話が弾んでいたから「大歓迎」とは言い難い。
「今日は淳之介の嫁さんのお母さんと一緒ってことは・・・」「安里梢です」夕紀子がややこしい呼び方をするので梢が自己紹介した。2人が会ったのはハワイでの結婚式だけだから記憶に残っていないのは仕方ない。
「うん、ワシが沖縄出張で来たから最愛の女性と再会したと言う訳だ」私は夕紀子に詮索される前に自白した。実は先ほどもボックス席の客たちに私との関係を訊かれて答えに困っていたのが聞こえていた。確かに「(前のママである)妹の別れた夫」とは言いにくかったはずだ。
「へーッ、嫁さんに言いつけてやろう」夕紀子の意地悪そうな顔を見て私は苦笑した。今回の逢瀬は佳織の黙認どころか半ば命令なのだ。
「それにしてもこんなに素敵な彼女がいたのにどうしてウチの馬鹿な妹になんか乗り換えたんねェ」やはり中年女になっている夕紀子は妄想を暴走させた。玉城家の3姉妹の中では二女らしく冷めて鋭いところがある娘だと思っていたが随分と鈍っているようだ。
「親に引き裂かれたところにオタクの妹さんから遠慮のない集中攻撃を受けたんだ。典型的な押し掛け女房だったじゃあないか」ここまで説明して美恵子とつき合い始めた頃、この店で夕紀子の面接試験を受けたことを思い出した。
「あんな妹を押しつけてしまってワッサイだったね」ここで久しぶりのシマグチ(沖縄方言)を聞いた。「ワッサイ」とは正確には「ワッサイビーン」で「スミマセン」と言う意味だ。
ここで夕紀子が目で「飲みたい」と訴えたのでうなずくとグラスに水割りを作って一口飲んだ。
「美恵子は贔屓客と寝ていたみたいで交代した私にも同じことを言ってくる客がいたのさァ」このおぞまし過ぎる暴露に流石に梢も顔をしかめた。
「だから小料理屋だった頃からの常連客は来なくなって変な連中が集まる店になってたのよ」それを夕紀子が建て直したと言うことだ。やはり冷めて鋭い二女らしい。
「あの頃、美恵子は離婚して独身だったから倫理的な問題はないけど、枕営業は一般的にヤクザ屋が経営している店の雇われママがやるものでこの店では関係ないだろう」「結局、美恵子も男が欲しくなったのさァ」これは私ではなく略奪して快楽に溺れさせた矢田の責任だ。
「淳之介もそのことで悩んでいた時期があったのよ。あの母親の血が流れているって・・・」これは初耳だ。私は唇を噛んでいる梢の横で夕紀子とカウンター越しに睨めっこを始めた。その時、別の客が来店した。平日でもこの客足ならなるほど繁盛しているようだ。
0・桑江知子イメージ画像
  1. 2018/12/23(日) 10:48:07|
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12月23日・日本共産党スパイ査問事件=党員殺害事件が起こった。

昭和8(1933)年の明日12月23日に1988年2月6日の衆議院予算委員会で浜田幸一委員長が一方的に朗々と持論を述べて再認識された日本共産党スパイ査問事件でも中心的犯行である特別高等警察のスパイとの嫌疑を受けた中央委員の小畑達夫さんが殺害されました。ただし、日本共産党は事件そのものを「特高警察による捏造」「司法への政治介入の結果」と否定し、小畑さんは「特異体質による突然死」と主張しています。
当時、日本共産党は治安維持法の改定と特高警察の強化により主要幹部が逮捕・投獄され、厳重な監視と苛烈な摘発によって事実上の活動停止に追い込まれていたため、この閉塞状態を打開しようと入獄していない数少ない中央常任委員であった宮本顕治さんと袴田里見さんは組織内の相互監視を厳格化して党員には「スパイを行った場合は党規約に基づく査問=リンチを受ける」ことを承諾する文書に署名させていました。
事件は宮本顕治さんと袴田里見さんが中央委員である小畑達夫さんと大泉兼蔵さんが「特高警察のスパイなのではないか」と疑ったことから始まりました。この日、2人は「会合がある」との連絡を受けて渋谷区のアジトに呼び出されるとその場で査問に掛けられたのです。2人は両手を針金で縛って猿轡を噛ませられた上で先ず大泉さんが査問に掛けられました。ところが大泉さんは棍棒で袋叩きにされて気絶したため、それを見ていた小畑さんの順番になりました。
同様に棍棒で袋叩きにするだけでなく錐で太股を突き刺し、さらに濃硫酸をかけるなど共産党が特高警察(憲兵にしていた時期もある)の残虐さを示す証拠としているプロネタリア作家の小林多喜二の遺骸の写真と同様、おそらくそれ以上に凄惨なリンチが加えられたようです。その結果、小畑さんは外傷性ショックで死亡したので床下に隠され、その間に意識を取り戻した大泉さんに再開されました。すると再び気絶したため小畑さん同様に死亡したと考えた宮本さん以下の査問委員たちは大泉さんの自宅に向かい、同棲していた女性も共犯者として査問に掛けました。この翌日の機関紙「赤旗(当時は「せっき」と呼んでいた)」には「2人をスパイとして除名し、党規約に基づき極刑を以って断罪する」との記事が掲載されました。
ところが2人の前に査問に掛けられていた党員が監禁場所から逃走して特高警察に駆け込んだことで事件が発覚し、宮本さん以下の所在地も暴露されたために一斉検挙されることになったのです。裁判で宮沢さんと袴田さん以下5名は治安維持法違反、監禁、監禁致死(殺人ではなかった)、監禁致傷、死体遺棄、銃砲火薬類取締法施行規則違反(監禁中の監視役が拳銃を持っていた)の罪で訴追されて、宮本さんは無期懲役、袴田さんは懲役13年の有罪判決を受けましたが、敗戦による占領政策の中で治安維持法などが廃止され、それらの法律に基づく裁判で有罪になった者の犯罪の取り消しと名誉回復が行われたことで宮沢さんは復権を果たし、日本共産党に於いて独裁的権力者になりました。
山口県人である宮本さんにとってはこの程度のリンチ=粛清は幕末の毛利藩で日常的に行われていた凶事の再現ではあります。
  1. 2018/12/22(土) 09:59:12|
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振り向けばイエスタディ1410

翌日は特に動きはなく那覇基地内の自衛隊情報保全隊に終日居座り、テレビと新聞で情報収集に当たった。それにしても私がいた頃の沖縄の民放はニュースと報道番組については「本土の常識から取り残される」とそのまま流していたはずだが、現在は自分たちに都合が悪いニュースに地元のローカル・ニュースをかぶせることで巧妙に隠蔽するようになっている。
特に中国漁船の暴挙である今回の事件は「単なる衝突事故」と言う印象を与えるように本土の報道を脚色して流している。そもそも尖閣諸島が日本の領土であり、沖縄県の一部であることを明確にはせず「中国との共同使用・開発を推進するべきだ」と言う論調なので海上保安庁が中国漁船を取り締まっていること自体が説明できないようだ。
「沖縄でも離島には衛星放送を見る人が多いから事実が正しく認識されているんでしょうけど、本島では沖教組の洗脳教育とマスコミの偏向報道に塗りつぶされているからどうしよもありません」衛星放送の国内ニュースが終わったところで証(あかし)3佐が苦虫を噛み潰したような顔で沖縄県の現状を論評した。
「それにしても缶政権がここまで右往左往している理由は何だろうか。中国の報復措置だって長期化すれば向こうだって損失を被るのは明らかなんだから、腹を括って根競べに持ち込めば良いじゃあないか」私の政治的な発言に証3佐は少し困った顔をしてユックリうなずいた。
中立と言うよりも当たり障りなく左右の見解を切り捨てているNHKのニュースでも政府が中国の報復措置への対応に苦慮していることが強調されていた。記者の囲み取材に応じている缶首相は完全に仇名の「イラ缶」になっている。政府の対応に疑問を呈するような質問を口にした記者にはブチ切れて怒鳴りつけそうな表情と口調だ。
「沖縄のAFN(昔のFEN)も取り上げているんじゃあないか」「そうかも知れませんがあれは生の英語で字幕は入りませんよ」日本のテレビでの情報収集が中休みになったところで私が米軍放送を要望すると証3佐は変な諌め方をした。どうやら私が元航空自衛官であることを調べておきながら陸上自衛隊ではPKOに指揮所要員として2回参加し、妻はハワイの太平洋陸軍司令部の連絡官であったことは見落としているらしい。尤も英語が堪能に見えないのは私自身の不徳の致すところだ。どう見ても坊主では仕方ないのかも知れない。
今日も夕方には那覇空港へ向かった。昨日よりも時間が早いのでロビーは少し混んでいる。そんな中を陸上自衛隊の制服で歩いていくと観光客は驚いて路を開けてくれるから不思議だ。
「貴方、洗濯物」カウンターから離れて立っている私に接客を終えた梢が声をかけてきた。その声に通行人たちが驚いて2人を見比べた。
「うん、有り難う」私は歩み寄ると梢がカウンター越しに突き出している紙袋を受け取った。それにしても昨夜、梢が帰宅したのは日付が変わる直前だったはずだ。紙袋の口から見える制服にはアイロンが掛かっている。これは果たして夜更かしをしたのか、それとも早起きをしたのか、どちらにしても申し訳なくなる。しかし、明日は午前の便で石垣島に飛ぶので世話女房も出番はないはずだ。代わりにあかりがやってくれそうな気もするが。
今日の夕食は58号線沿いのバスターミナルとは国場川の対岸にある日航ビル(あの頃は外壁に鶴丸が描かれていた)の2階のカレー屋だった。国際通りにも浜松市内の有名店だったボンベイのようにインド人のナン(インドのパン)造りの実演を看板にしているインド料理店があったが、若い客層が好きではなく静かで上品なこの店が2人の行きつけだった。
この店には長いカウンターと普通のビルの3階ほどの高さから全面のガラス窓から広いロビーを見下ろす席があるが、カウンターの奥から並ぶのが2人の決まりだ。
「この店にもあかりを連れて来たのよ」「ここも落ちつけるからな」注文と言ってもビーフとポークの2者択一を終えてから梢が説明した。どうやらあかりはこんなところでも私の気配を体に染み込ませていたようだ。本当に愛おしい嫁であり義理の娘だ。
「それにしても貴方はどうやって美味しい店を見つけていたの。那覇で生まれ育った私でも知らないような隠れた店に連れて行ってくれたじゃない」唐突に梢が今更な質問をしてきた。
確かにこの店も私が案内したのだが情報源は基地に常駐する団体保険のお姉さんだった。アルデン亭の店長以外にも相手構わず話が弾む六口(むくち=人の6倍口がある)さで聞き出したグルメ情報の確認に梢をつき合わせていたのだ。
「あの頃みたいにしても良い」「うん、よろしく」2人のカレーがきたところで梢が訊いてきた。私たちはカレーを2つ頼むと梢のライスを私に分けて量を調整していた。
考えてみればこの店にも美恵子は連れてきていない。美恵子とカレーを食べる時は那覇ショッピングセンターの地下の安くて大盛りの食堂だった。美恵子はそんな女だったのだろう。
  1. 2018/12/22(土) 09:54:55|
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12月22日・九州南西海域工作船事件が発生した。

2001年の明日12月22日に一連の北朝鮮の工作船事件の中でも最も激的(「劇的」と言うよりも)な九州南西海域での追跡・銃撃戦・自爆沈が発生しました。
1990年代後半になると朝鮮総連や社会党の圧力を恐れて口をつぐんでいたマスコミも「北朝鮮による日本人拉致」問題を取り上げるようになり、1999年3月23日に能登沖で発見された不審船に対処するため海上自衛隊に初の「海上における警備行動」が発令されたことでようやく日本近海での工作船の暗躍が国民に認知されました。
そんな12月18日に在日アメリカ軍から「北朝鮮から工作船が出港した」との通報を受けて自衛隊は全国各地に設置している無線調査隊=ラジオ・サイトに傍受の強化を指示し、奄美諸島の喜界島のサイトが探知したため海上自衛隊が東シナ海での哨戒を開始したのです。そうして12月21日の夕方に奄美大島の北北西150キロの海域で船体に「長漁3705」と記した不審船を発見し、その哨戒機が鹿屋基地に帰還して画像を分析した結果、「北朝鮮の工作船の可能性が高い」と判断した自衛隊・防衛庁は翌22日の深夜に政府に報告するのと同時に海上保安庁に通報したのです。
これを受けて海上保安庁も東シナ海に鹿児島と那覇から巡視船艇24隻と航空機14機を派遣し、同時に海上自衛隊も佐世保から護衛艦2隻を現場に急行させ、政府からは海上自衛隊の臨検・捕獲(・制圧)の専門部隊に出動待機命令が発令されました。
夜が明けた朝6時30分に海上保安庁の多用途プロペラ双発機が奄美大島の北西240キロを航行する不審船を発見したのに続き12時半過ぎには巡視船が船影を確認したのです。20分後、海上保安庁は不審船が国籍旗を掲揚していない国際法違反で航空機と巡視船から停船を命じましたが無視して西進を続けたため拡声器と無線、旗旈(きりゅう)信号と発光信号、汽笛などによる停船命令を継続しながら追跡したのです。
これを受けて海上保安庁は「立ち入り検査忌避」の容疑に切り替え「停戦に応じなければ警告射撃を行う」と通告した上で14時半過ぎから警告射撃を開始しました。
すると不審船は船員が中国国旗を広げて見せたものの逃走を続けたため船体に向けての警告射撃に移行して火災の発生などで一時的に停船しても鎮火すれば逃走するイタチごっこを繰り返し、その間に不審物を海中に投棄するなどの行動を始めたのです。
そして22時頃、海上保安庁が2隻の巡視船で挟んで強制停船させた上での武装した乗員による臨検を試みると不審船側から発砲が始まりました。当然、海上保安庁側も応射しましたが銃撃戦が激しくなると不審船側は携帯式対空ミサイルまで発射したのです。
結局、22時13分に不審船は火柱を上げて爆沈し、海面上には6名の生存者が発見されましたが巡視船が投げ込んだ浮輪を拒否して暗夜の海に姿を消しました。
当時の小泉純一郎首相は日本国内の反対を無視して引き揚げを決断し、船体の検証の結果、驚くべき構造を持つ北朝鮮の工作船であることが確認されました。
海上保安庁はやはり警察機関であり、犯罪行為の停止と違法行為を行った者の逮捕が行動原則であってこのような戦闘には対応し切れないことが露呈した事件でもありました。
  1. 2018/12/21(金) 10:49:10|
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振り向けばイエスタディ1409

シーメンズ・クラブのバーは映画などで見るアメリカの飲み屋のような作りで大きなカウンターの他に席はなく、年代物のジューク・ボックスがオールディーズを流している。ホールの中央に置かれたビリヤードの周りにはビールをラッパ飲みながら打珠している若い兵士たちが歓声を上げている。その奥はスロットルが並ぶカジノになっていてこの店の敷地が日本の法令が適用されないアメリカ領であることを実感させられる。
「何を飲む」「貴方は」カウンターの席に座ると私の階級を察した兵士たちはグラスを持って立っていってしまった。そうして静かになった空間で四半世紀ぶりの2人の時間が流れ始めた。
「やっぱりこの店に来ればボウボンじゃあないとな」私の発音を聞いて注文を待っている金髪のウェイトレスは妙な顔をした。普通の日本人はアメリカのトウモロコシ臭い洋酒を「バーボン」とカタカナ式に呼ぶが実際は「ボウァボン」であり、微妙なイントネーションが難しい。
「ボウボンかァ、貴方と一緒の時にしか飲まなかったな」どうやら梢は私がアメリカ軍の友人に教えられて飲み始めたボウボンにつき合ってはいたが、あまり気に入っていなかったようだ。
「梢が好きなのはスコッチ、それもシーバース・リーガルだもんな」「貴方はジャック・ダニエルでしょう」やはり互いの好みは憶えていた。こんな会話でも酒の名前の発音は正確なのでウェイトレスも理解できたようで「スィーヴァース・リーグゥとジャック・ダニュゥですね」と癖のある発音で確認してきた。この時も名称の前半だけで後半は流すだけだ。そこで私は「シーバース・リーガルは水割りで」と補足した。
アメリカ軍の兵員クラブであるこの店では日本の飲み屋のようなボトルのキープ制度はなくカウンターの奥の壁には高級に分類される銘柄から安物までのボトルを逆さまにして突っ込んだ金属製の器具が並んでいてウェイトレスはそれを操作してグラスに注ぐ。代金はボトルの上に掲示してあり、水割りはストレートの半額で受け取りながら手渡す。水割りは本当にミネラル・ウォーターで割ってかき混ぜただけで氷は入っていない。
「カンパーイ」「カンペイ」2人向き合ってグラスを鳴らしたが発声も昔に戻っていた。あの頃の私は大学を中退してまだ1年だったため学生のコンパの「乾杯」で中国式に発声していた癖が抜けず、それが梢に受けたのでそのまま使っていたのだ。
「毎朝、空港に出勤するのに奥武山公園の前を通るじゃない。この店を見ると入ってみたくなるのよ。だから今日は実現できて幸せ」グラスの酒を口に含んだところで梢から話し始めた。
「うん、岩国や横田、三沢の兵員クラブにも入ったことがあるけど、ここまでアメリカ・ナイズされてないんだ。少しかしこまったファミリー・レストランみたいな感じだな。料理には大差ないけど」私の説明を梢はあの頃と同じように眼を輝かせて聞き入った。岩国の兵員クラブには曹候学生の引率でエア・フェスタに行った時、三沢は航空自衛隊総合演習と司法修習の時で横田だけは佳織や志織の家族連れだった。このシーメンズ・クラブには梢としか来ていない。美恵子を連れて来なかったのは英語力が皆無なことだけが理由ではなく、私の中で無意識に梢との思い出の聖地に踏み入れさせたくなかったのかも知れない。
その時、ジューク・ボックスからグレン・ミラー少佐のムーン・ライト・セレナーデが流れ始めた。するとホールでは私たちと同世代のアメリカ人夫婦がダンスを踊り始めた。どうやらこの夫婦がコインを投じて選曲したようだ。
「貴方も部隊のダンス講習で習ったって私を練習台にしたよね」「うん、ご協力ありがとうございました」私は冗談で返事をしたが、そのまま立ち上がると梢の手を取った。
「シャル・ウィ・ダンス」「イエス、ウィリング(はい、喜んで)」私のダンス・パートナーは佳織なのだが梢の方が先なので許してもらえるだろう。2人で手をつなぎながらホールの中央に進むと先に踊っている夫婦がにこやかに笑いながら軽くうなずいた。同時にビリヤードに興じていた下士官クラスの青年たちが拍手してきた。しかし、熟練したアメリカ人夫婦と比べられるとパートナーに「踊る基本教練」と呆れられている私としては極めて拙い。
初日は軽く飲んでタクシーでホテルに帰ると何故か梢も一緒に下りてロビーについてきた。私の部屋はシングルだったはずだがホテルに手を回してツインにしているのではないか。酔った頭で馬鹿なことを考えていると梢が質問してきた。
「服の洗濯はどうするの」なるほど相も変らぬ世話女房だ。昔、梢のアパートでシャワーを浴びると脱いだ下着や靴下をその場で洗濯機に入れていた。
「うん、陸上自衛官は演習に行くから1週間分くらい下着は持っているんだ。制服は3着しかないから2日ずつ着ることになるな」「だったら洗ってくるから脱ぎなさいよ」梢も少し酔っているのかトンデモナイことを言い出した。それでもお言葉に甘えることにした。
  1. 2018/12/21(金) 10:47:37|
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振り向けばイエスタディ1408

「あまり高カロリーの物は食べられないんだよな」梢の職場を出て国際通りを歩きながら私はアルデン亭を選ぶ理由を健康上の食事制限にした。シーメンズ・クラブでもランチ・タイムにはサンドウィッチなどの軽食もあるのだがディナーになるとやはり牛肉やロブスターなどの高カロリーな料理のオンパレードだ。
「そうね。貴方の病気のことは聞いているからそれで良いけど、そろそろ医者が言うように糖尿病と認めて適切な利用を受けた方が良いんじゃないの」そう言って梢は私の左手を握った。
私は血糖値が高い状態が続いているため診断としては糖尿病なのだが発症したのは1年以上にわたって拘置所に拘禁されていた時期だった。拘置所では栄養計算された食事を取り、規則正しい日常生活を送っていたので「生活習慣病」と呼ばれる糖尿病の原因とされる暴飲暴食や不摂生には該当しない。強いて言えば中身のない裁判に拘泥されるストレスが原因だった。
私は世間一般だけでなく生活習慣病と名づけた日本の医学会までが糖尿病患者に向けている「だらしない人間」と言う偏見を受け入れることはできないのだ。
「しかし・・・」「お願い。私のために健康で長生きして」私の拒絶を梢は手を両手で握ることで遮った。かつて私は自衛官として使命に殉ずることを美学としていたが、梢は戦争映画を見た後に「俺も死を恐れない」と言うと真顔で「だったら私も死んじゃうよ」と諌めた。それを思い出して梢の両手を両手で握り返したが歩きにくくなって困った。それにしても梢は私服に着替えているが自分は制服姿なのを忘れそうだ。
「いらっしゃいませ」超久しぶりのアルデン亭に入ったが流石に店長は代わっていた。あの店長には和洋食の店や色々な飲み屋に案内してもらい舌を鍛え、マナーを教えてもらった。
「店長さんは5年くらい前に交代したのよ」私の少し落胆している顔を見て気持ちを察した梢が説明してくれた。この店には美恵子を連れてきたこともあったが、あの店長のことなので梢が傷つくようなことは言わなかったはずだ。
「相変わらずクリーム系が好きなのね」自分は相変わらずトマト系を頼んだ梢は私がカルボナーラを選んだのを見て懐かしそうな目をして微笑んだ。
「うん、クリーム系はイタリア半島北部の山岳地帯の乳製品のソースだからな。北部の山岳地帯にはモリヤ(本当はモリノ)って土地があるんだぞ」「その話、あの頃に貴方から聞いたことがあるよ」と言うことは店長からの請け売りだ。
「この店はあかりも好きでね。何度も連れて来たけど店長は本当にきめ細やかに気を使ってくれたのよ」「うん、判る気がする」店長は調理師ではなく東京の企業のビジネスマンだったが、沖縄支店の開設に伴う店長募集に応募して採用されたと聞いている。私を一皮むけた自衛官にしてくれたのはあの店長だったのかも知れない。
「淳之介もあかりを大切にしてくれているから私も本当に幸せ。だけど・・・」梢は何かを言いかけたところにスパゲティ―が運ばれてきた。
「さっき言いかけたことは何だ」アルデン亭を出てタクシーで奥武山公園に向かう車内で私は野暮な確認をした。梢の性格なら口にしかけて中断したことでも必要な話題であれば続けて言うはずだ。それをしなかったのは取るに足らない軽い話題だったのか、話すのが躊躇われることに後から気づいたのかだ。私はあの時の梢の目に後者を感じ取っていた。
「うん・・・私が貴方と結婚していたらあんな風に優しさに包まれて暮らしていたんだろうなって羨ましくなることもあるのよ」梢の答えに今度は私から膝の上に置いている手を握った。ルーム・ミラーに映る運転手の目が意味ありげに笑ったが梢が鼻をすすったので下衆の勘ぐりは解けたはずだ。
「ルテナン・カーノー オブ ジャパン グランド セルフ ディフェンス フォース」「イエス」シーメンズ・クラブは玄関にレジがあり、ウェイトレスが交代で立っているのだが制服で入店した私に少し身構えて確認してきた。流石に陸上自衛隊を正確に英訳している。
「プライベートな入店だから気にしないでくれ」ウェイトレスが責任者に報告に行こうとするのを引き止めて事情を説明した。アメリカ軍での士官の地位は自衛隊とは比べ物にならないほど高く「中佐」が軍服で来店すればエスコートがついて公式晩餐会のようになる。
ただし、軍服に関する国際常識では半袖の夏服はあくまでも略衣であって公式な場では着用せず、逆に着用していれば公式ではない。アメリカ軍人の家族のウェイトレスも勉強不足のようだ。
「今日はバーに行くんだ。妻同伴だから放っておいてくれよ」そう言って私の上達した英語に感心している梢を連れて奥のバーに向かった。それにしても本当の妻が一緒にいればVIPの「大佐」なのでこの程度ではすまなかっただろう。
  1. 2018/12/20(木) 10:04:58|
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振り向けばイエスタディ1407

「モリヤ2等陸佐もそう思いますか」検察官は名刺に書いてある階級をそのまま敬称にしてきた。これが弁護士用であれば「モリヤ弁護士」になるところだ。検察官は嫌味でない限り弁護士を「先生」とは呼ばない。
「滋賀景子法務大臣は弁護士や国会議員としての活動は私的行為として一線を画した上で法務大臣としての職務を誠実に遂行しておられましたが、今度の法務大臣は法制に関わった経験は全くないじゃあないですか」先週の金曜日に行われた缶内閣の改造、と言うよりも退陣した雀山内閣を引き継いだ閣僚を自分好みに交代させた新内閣では民政党の人材不足が完全に露呈し、法務大臣には工業・技術系の経歴が中心の人物が就任した。
「全く同感です。まさか自衛隊の人が滋賀大臣を評価しているとは思いませんでしたよ」本当は自衛隊でも元社人党の滋賀前大臣を評価しているのは極少数派なのだが、私は是は是、非は非であって経歴にはあまり拘らない。
「問題は法務大臣が素人となると司法が一部の勢力にはやり手と評されている弁護士に牛耳られることです。あの敏腕弁護士は検察の天敵じゃあないですか」私としては遠回しに千石官房長官の暗躍の可能性を指摘したのだが、検察官は千石弁護士が当時の警視庁警務部長宅に送りつけられた爆弾が爆発して妻が死亡した事件などの刑事裁判で容疑者とされた過激派の無罪を勝ち取った1985年の判決は生まれる直前だったようだ。
「それは千石由人官房長官のことですか・・・すでに始まっていますよ」意外に簡単に目的を達してくれた。ここで間を取るためコーヒーを飲みたいところだが検察官の個室にはそのようなサービスをする事務官は割り当てられていないらしい。
「7日の尖閣諸島で巡視船に漁船が衝突してきた事件以来、中国から圧力が加わる度に『送検するのか』『拘留延長するのか』『告訴するのか』と訊いてくるんですよ。これが単なる質問じゃあないのは判るでしょう」その電話を受けているのは那覇地方検査庁でも上層部にはずだが若手にも批判が伝わるほど高圧的な態度なのだろう。
「しかし、検察も司法の独立は死守しているんでしょう」私の質問に検察官は視線を反らした。実は私自身が徳島水子の政治的目的による刑事告発で殺人犯として裁判に掛けられている。その意味でも司法の独立は定義が難しい。
その夜、私は梢に会った。目的は水曜日に石垣島に向かい、木曜日に帰る民間航空の搭乗券を受け取るためだ。夏の日差しが弱まり始める9月中旬は23日の秋分の日が祝日のため夏の観光シーズンとは別の賑わいがあり、予約なしの飛び込みで搭乗券を取るのが難しく梢の手を煩わすしかなかったのだ。
「貴方、久しぶり」「うん、色々無理を言ってすまなかったな」地検から那覇基地の地方自衛隊情報保全隊に戻り、専用電話で東京に状況報告を終えた後、空港に寄ると梢も仕事を終えるところだった。沖縄では日没が遅いので気がつかなかったがとっくに課業時間は終わっている。やはりパソコンではなく手書きで報告文書を作成したことに時間を使ったようだ。
「それにしても制服のまま外出して来たのね。全く変わっていないわ」ツーリストのカウンターの前で待っていると梢は陸上自衛隊の制服を着ている私を見て呆れたようだ。確かに私は空曹時代に夏服が灰色から青色に変わったの機会にBXで私物の1種夏服を仕立てて、普通はスーツやブレザーを着るような時にはそれで通していた。梢とのデートでもネクタイを締めていくような高級感がある店には制服だったのだ。ただし、沖縄では有り得ない制服姿に多くの人はアジア系のアメリカ兵と思っていたようだ。今回は公務なので当然制服になる。
「でもその服装じゃあお酒を飲みには行けないわね」梢はカウンターから出てくるともう1度私の服装を見直して首を傾げた。
「1軒だけ大丈夫な店があるだろう。一緒に通ったじゃあないか」「そうかァ、自衛官じゃあないと入れない店ね」話を決めて背中を押すと自衛隊とツーリストの制服を着た中年カップルは客がまばらになった那覇空港国内線のロビーを歩いて外に向かった。これから梢は本店に戻り、空港カウンターからメールで通知した旅券の申し込みと発券の収支報告書を提出する。
その後は夕食になるが先ずはデート・コースを再現して国際通りのなみさとファッション・ビルのアルデン亭でスパゲティを食べる。次は奥武山公園にあるアメリカ軍のシーメンズ・クラブで酒を飲むのが今日のプランだ。尤も、制服でアルデン亭に入ることが拙いようならシーメンズ・クラブで夕食も悪くない。シーメンズ・クラブでは本場のアメリカ料理も楽しめるので(本来はレストラン)、頭の中で厚さ3センチのビーチサンダルのようなニューヨーク・ステーキが「ジュー、ジュー」と音を立て始めた。
す・純名里沙イメージ画像
  1. 2018/12/19(水) 10:36:14|
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12月19日・「嵐が丘」の作者・エミリー・ブロンテの作者

1848年の明日12月19日は現代的には傑作に分類されるイギリスの長編小説「嵐が丘」の作者で「ジェイン・エア」のシャーロット・ブロンテさんの妹であるエミリー・ブロンテさんの命日です。30歳の若さでした。
野僧は小学校の高学年の時に初めて「嵐が丘」を読んだのですが、物語の場面どころか時間までも分散・跳躍・往復していて頭の中では整理できず、読書ノートを作成して登場人物や場所を記録することにしたのです。実際、発表当時はこの複雑過ぎる展開に困惑した読者から「物語史上、最悪の構成」との批判を受け、評価が高まってからは読み易く時系列に編集し直した改定版も出版されました。
さらに「嵐が丘」では登場人物が劇的な証言をしておきながら「それは嘘だった」と翻すこともあり、小学生の手には負えずに投げ出すような本のはずですが文学少年だった野僧は少なからず影響を与えられているのかも知れません。
エミリーさんは日本では徳川家斉公の長期治世の下、化政の庶民文化が開花していた1818年に大ブリテン島の中央部であるヨークシャで牧師の4女として生まれました。前述のシャーロットさんの他にも兄と長姉、次姉、妹がいました。
1920年に「嵐が丘」の舞台のモデルにもなっているハワーズに転居しますが間もなく母が病没してしまいました。6歳の時に姉3人が西海岸のランカシャーの学校に進んだため一緒に入学させられましたが、内陸との環境の違いから長姉と次姉が相次いで病死し、シャ―ロットさんと2人で呼び返されました。家に戻るとシャーロットさんが私塾で学ぶようになり、幼いエミリーさんが家事と年子の妹の育児を任せられ、帰宅した姉から教えを受けるようになったのです。やがてシャーロットさんが私塾の教師に採用されるとエミリーさんは生徒として入塾しますが3カ月で妹と交代して自宅に戻り、家事と詩作を始め、18歳でウェスト・ヨークシャーの教師になったものの半年で退職し、24歳の時は姉と一緒にベルギーの寄宿制の学校に留学しますがやはり半年で単身帰国してしまいました。
2年後、姉が帰国し、エミリーさんと妹が書いた架空の土地を舞台にした詩を発見するとこれを自費出版しましたが全く売れなかったようです。そこで姉はエミリーさんの文才を活かそうと小説の執筆を勧め、こうして書き始めたのが「嵐が丘」でした。
「嵐が丘」は1801年に都会での生活に疲れた男が田舎の嵐が丘にあるスラッシュクロスと言う屋敷を借りて暮らすことにして、遠く離れた隣家である嵐が丘の邸宅を訪ねる場面から始まります。そこで出会った男2人と女1人の奇妙な同居人たちに興味と疑問を持った主人公が召使いの老女からこの屋敷と嵐が丘にまつわる物語を聞くことで複雑怪奇な長編小説が展開するのです(1939年公開の映画「嵐が丘」の主人公の想い人の霊魂が嵐が丘や屋敷を彷徨い歩くラスト・シーンは幻想・怪奇的で恐ろしかった)。
この小説はエミリーさんの生前には前述の批判に晒され、イギリス文学史の影に埋もれかけましたが20世紀になって小説の構成手法が発展したことで再評価され、やがては「リア王」「白鯨」と共に「英文による3大悲劇」とまで称されるようになりました。
  1. 2018/12/18(火) 10:49:11|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ1406

とりあえず沖縄地方自衛隊情報保全隊の事務所で時間を潰すことにしたが、実際は今後の予定の再検討と組み直しの相談になった。
「今回は飛び込みの特命だったから場当たり的なプランニングになっていて、ここに向かう輸送機の中でようやく落ち着いて考えられたんだ」私の正直な反省の弁に証3佐は苦笑いしながらうなずいた。実際、法務官の承認を受けて関係部署に配布した行動計画も佳織の指摘で変更し、電話で通知するお粗末さだった。
かつての私はどのような事態になっても精神的には拘泥されず客観視できていた。やはりまぐれで当たった弁護士と言う職務が能力の限界一杯で余裕を持てなくなっているようだ。その前に適性がないような気もする。やはり検事向きなのではないだろうか。
「今日は地検に行くんですよね」「うん、アポは取ってあるからこちらからキャンセルするのは失礼に当たるよ。しかし、今思えば状況を傍観してから乗り込むべきだったかも知れないな」那覇地方検察庁への面談の申し込みはその日の夕方に石垣島へ飛ぶ予定だった時に実施したのでこのようなことになった。しかし、石垣島へは水曜日に向かい1泊2日で帰ってくることにしたので今となっては那覇で情報分析と状況判断をする暇(いとま)ができている。
「地検の方からキャンセルを申し入れてこないかな」「はい、政府が焦って何か言ってくればあり得るかも知れません」ここで証3佐は隊長室のテレビを点けたが本土の報道番組の時間に沖縄では地元の行事や買い物、グルメなどの街角情報を流していて状況が判らない。
「相手に再訪問することを了承させれば顔見せも無駄にはならないでしょう。上手くすれば石垣支部の担当者を紹介してもらえるかも知れませんよ」証3佐は随分と楽天的で前向きな性格のようだ。「用意周到」「動脈硬化」の陸上自衛隊では事前に余計なことまで考えて間違いのない範囲でしか行動しない。その点が「スマートで目先が効いて几帳面、負けじ魂これぞ艦乗り(同一の4字熟語なら「伝統墨守」「唯我独尊」)」の海上自衛隊の気質との違いなのかも知れない。それでも私自身は「勇猛果敢」「支離滅裂」の航空自衛隊で育ったはずだ。
「そう言えば給食通報を業務隊に出してないな」給食通報とは他の駐屯地や基地に入校や出張、経由する時の食事を依頼する通知書だ。勿論、事前に連絡しておく必要がある。
「幹部食堂で空自の給養小隊員に渡せば良いでしょう」「うん、そうだな」証3佐の意見に賛同してカバンから茶封筒に入った給食通報を取り出すと表に「那覇駐屯地業務隊長殿」とある。つまり陸上自衛隊那覇駐屯地の業務隊長宛だった。陸上幕僚監部で勤務する選りすぐりの陸曹も余りにも唐突で目的不明な出張で、個別命令の起案や旅費請求、おまけに経験が乏しい輸送機の搭乗申請などが集中すればポカ・ミスが続出しても仕方ない。私の現状も似たようなものだからむしろ同情したいくらいだ。
「駐屯地まで送りましょうか。後で迎えに寄りますよ」「いや、ブルーコーラルかハイビスカスに行くことにしよう」「流石に詳しいですね。元空自だけのことはある」思い掛けないところで自衛隊情報保全隊に私の経歴を把握されていることを確認してしまった。
午後から自衛隊情報保全隊の官用車で那覇地方検察庁に向かった。那覇地検は国際通りから奥武山公園に向かう近道の途中なので梢と何度も前を通ったことがある。
「本日はご多用なところに無理をお願いして申し訳ありませんでした」地検で対応したのは任官して間もないような若い検察官だった。それでも襟には「秋霜烈日(検察官徽章の公式呼称)」を誇らしげに着けている。私も制服の胸の格闘徽章の上に弁護士のヒマワリの徽章を着けてはいるが誇示する気分にはなれない。
「はい、ご存知のように本庁は大変に混乱していますから長い時間はお相手できかねます」検察官はこれ以上ないくらい素っ気なく迷惑であることを説明した。
「それで本日のご用件は何ですか。まさか横浜地検の弱点を探りに来られたとか」ここまであからさまに拒絶されると逆に居座ってやりたくなるのは弁護士化した私の性格だ。
「法廷では法理に基づいての正面勝負しかありませんから検事個人の弱点を介在させる必要はないでしょう」これは完全に綺麗事だが若い検察官は神妙な顔をして軽く頭を下げた。
「本日は弁護士と言うよりも陸上自衛隊の法務幹部として参りました」ここで名刺を差し出しながら来訪の趣旨を説明する。私の名刺は陸上自衛隊、弁護士、坊主の肩書別に3種類あるのだが今回は法曹関係者には珍しく陸上自衛隊の物を渡した。
「率直に言って現政権は近代国家の基本である3権分立が理解できていないようなので、法務大臣が交代すれば司法への介入が懸念されます」こちらが先に禁句を口にすることで相手に気を許させるのは誘導尋問の常套手段だ。案の定、この若い検察官は目の色を変えた。
  1. 2018/12/18(火) 10:47:55|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ1405

月曜日は車で入間基地へ向かった。朝、8時前には搭乗手続きが始まる定期便に間に合うように入間基地に着くには中央線、山手線、西武池袋線と電車の乗り継ぎでは無理なのだ。そもそも池袋駅から稲荷山公園駅までだけでも30分以上かかる。本来は入間基地に宿泊を申し込むべきなのだが航空自衛隊の輸送機を利用することに慣れていない担当者が電話連絡を忘れていた。おかげで基地内に5日間、私有車を駐車する手続きに手間取り遅刻しそうになった。
「本日は陸上幕僚監部法務官室のモリヤ2佐が搭乗されています」久しぶりに搭乗したCー1が誘導路を走り始めた時、機長による機内アナウンスでいきなり紹介されてしまった。通常、このような紹介はVIP待遇を受ける1佐以上なのだが、飛び込みの搭乗手続きだったので名簿に何か普通ではない記述がされていたのかも知れない。それでも流石に私を知っている隊員は同乗していないだろう。航空自衛隊も遠くなったものだ。
私は折角、特別席を用意してもらっているので家に届いていた朝刊を読むことにした。19日の日曜日に石垣簡易裁判所が逮捕・送検された船長の拘置期間の10日間延長を決定したことを受けて中国は以前から公言していた報復措置を実行に移している。昨晩のニュースでは「日本との閣僚級の往来の停止」「航空路線増便の交渉中止」「石炭関係会議の延期」「日本への中国人観光客の規模縮小」と解説していたが追加措置も臭わせており、この閣僚級の往来の停止が長引けば日本で開催される国際会議のボイコットにつながり、石炭関係会議ではレア・アースの輸出量も議題になっていると佳織が言っていた。
その前に中国は「日本による尖閣諸島の実効支配は侵略である」と主張するようになっている。中国が確保している安全保障理事会の常任理事国と言う立場を考えれば、この滅茶苦茶な理屈が正当化される可能性も決して低くはない。
しかし、中国がここまで矢継ぎ早に強硬な圧力を加えてくればアメリカに代わる宗主国と仰いでいる民政党政権は惧れ慄いて即座に命令の実行を約束するはずだ。そうなると私は混乱の渦中に飛び込むことになり、臨場感は味わえても情報収集としては成果を上げられそうもない。ここでも状況判断を誤ったのだろうか。確かに最近、思考の振り子がぶれることが多く、以前のように外観を突破して本質に到達することができなくなっている。
「やはり佳織が言う通り癒しが必要なのかも知れないな・・・だったらお前が休暇を取って一緒に過ごせよ」私は読み終えた新聞を畳みながら独り言を小声で呟いたが、佳織が私的に休暇を取れない立場であることを思い出した。やはり思考は間違いなくぶれている。
そう言えば最近は最終局面が迫った裁判と片手間になっている恒常業務の処置に追われて北キボールで殺(あや)めた若者の供養のためにモスクへ行くことも怠っている。
「モリヤ2佐、お迎えにまいりました」那覇基地のターミナルでは白い制服を着た海上自衛隊の3佐に出迎えられた。私としては懐かしい那覇基地を歩いてゲートに向かうつもりだったのだが今回の待遇は妙に階級不相応になっているようだ。
「私は井上将補の直属部下で証(あかし)3佐と申します。今回のご協力に関して全面的に支援するように指示されております」証3佐が説明通りに自衛隊情報保全隊の所属であれば那覇基地に存在していること自体が秘密なのでこのような説明になるのも納得できる。証3佐はターミナルの駐車場に先導すると私有車と思われる沖縄ナンバーの旧式な中級セダンに乗った。ここで後席を勧められれば完全にVIP待遇だが流石にそれはなかった。
「この時間ですと何かと中途半端になってしまいますね」私有車を運転しながら証3佐が話し始めた。入間から那覇への直行便でも国土交通省が定めた航空路を飛行して来るため2時間程度かかる。つまり何かを始めるには足りないが、何もしないのは勿体ない時間なのだ。
「地検(地方検察庁)へのアポ(アポイントメント)は午後に入れてありますが、東京はかなり混乱しているようですから時間を取ってもらえるかは・・・」ここまで言って証3佐は私が東京から来たことに気づいたのか途中で止めた。
「元々が招かざる客だからアポを受けてもらえただけでも御の字だよ」「こちらとしてはあくまでも陸上幕僚監部法務官室所属の弁護士として申し入れたんですが、あちらは護衛艦と漁船の裁判の担当者であることを知っていました」つまり2重に「御の字」と言うことだ。
「折角だから証3佐も海難の専門家と言うことで同席してもらおう」「はい、相手がどのような立場の人物に対応させるかは判りませんが顔を見るだけでも参考になります」これも既定路線だったようで証3佐は当然のようにうなずいた。
「そうなると乗って行く車が難しいですね。東京から同行した人間が沖縄ナンバーの私有車では疑惑を抱かれてしまいます」流石にプロの配慮はぶれた私の思考を超えている。まいった。
  1. 2018/12/17(月) 10:37:18|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ1404

「モリヤ2佐、沖縄へ出張してくれないか」9月中旬、唐突に法務官から命令を受けた。私としては担当している護衛艦・あまごと漁船・軽得丸の衝突事故の裁判の最終弁論が迫っており、短期間とは言えここで席を外すことはできない。
「私は現在、あまごと漁船の・・・」「君の言いたいことは判る。確かに担当している公判の最終段階で出張を命ぜられては納得できないのは当然だ。しかし、これは自衛隊情報保全隊からの強い要望で統幕長、ウチの幕長も了承されている特別な任務なんだ。よろしく頼む」私の遠回しの拒否に法務官は事情を説明した。自衛隊情報保全隊司令の井上将補は佳織がハワイで勤務している時の間接上司で私も話したことがある。
「判りました。それで何をすればよろしいのでしょうか」私の承諾に法務官は少し表情を緩めて手で「(楽に)休め」を促した。私は基本教練の姿勢だけではなく気分も「休め」に移行した。
「海上保安庁は尖閣諸島での中国漁船の巡視船への衝突事件で逮捕された船長を地検の石垣支部に送検したんだが・・・」「容疑は公務執行妨害だけですよね。どうせなら不法侵入と器物破損、海上衝突予防法違反も一緒にすれば良いんです。こちらの弱腰は中国に見透かされているんですから」私の補足意見に法務官は苦笑いした。実際、中国は日本の検察が告訴に向けての手順を進めていることに対抗措置の発動を示唆して脅しをかけてきている。
「缶政権には中国の圧力に抗する考えはない。それがどんな形で那覇地方検察庁や石垣支部に及んでいるかを知りたいんだ」法務官の説明に私も興味が湧いてきた。考えようによって現在の自衛隊にとって政府と与党は信頼するに足りない内なる敵と言うことだ。
「問題は私が現在、同じような海事事件の裁判で検察と一戦を交えている仇役であることです。相手が身内を守るために情報開示を拒むことは大いに考えられます」「確かにその点には不安材料でがあるが司法試験に合格した自衛官と言うセールス・ポイントを目一杯売り込んでくれ」これで話は決まった。あとは沖縄本島だけでなく石垣島にまで出張する個別命令の口実をどうするかだ。運悪く石垣島を含む八重山群島に自衛隊は配置されていない。沖縄地方協力本部の石垣出張所に法務上の確認事項を捏造するしかないようだ。
「丁度、滝沢弁護士の裁判が終わったところだから君が抜けても心配はいらないよ」続いて統合幕僚監部の首席法務官に挨拶に行くと意外に冷淡な反応だった。滝沢弁護士は地元で頻発している暴力事件での相談が殺到して手が離せなくなった上、法律顧問の委託を受けている学校で傷害事件が発生したため実際は戦力外になっていた。
「牧野弁護士がいますから引き継ぎは必要ないですね」「それでも君が独自に調査していることがあれば申し送ってくれ」この口調では私の方が戦力外通告を受けているようだ。おそらく今回の出張の要望が出される前に自衛隊情報保全隊司令から首席法務官に確認があったはずなので、そろそろ持て余していたのかも知れない。何はともあれこれで妊娠したあかりに会える。初めて淳之介夫婦の生活ぶりも確認できるのだ。その意味では任務に困難が予想されても有り難い出張=官費旅行ではある。
「それじゃあ梢さんに会ってきなさいよ」その夜、週末で帰宅した佳織とのパジャマ・ミーティングで沖縄への出張の話をすると内心は願っていながら口にできなかったことを命じた。
「残念ながら那覇には行きと帰りに地検(地方検察庁)に寄るだけで宿泊は石垣島なんだ」今回の出張では政府から現場に加えられる圧力の実態を確認することを目的にしているため石垣島を中心に活動する予定だ。このため月曜日に航空自衛隊の輸送機で那覇へ飛び、夜には石垣島に向かう。帰りも金曜日の朝の民航で那覇へ戻り、午後の輸送機で入間基地へ帰る予定だ。これでは梢に会っている余裕はない。すると佳織が行動予定そのものに疑問を示した。
「政府が圧力をかけてくるなら那覇地方検察庁を通じてしかあり得ないじゃない。検査庁だって指揮系統は機能しているでしょう。官房長官が石垣島の下っ端検察官に『千石だ』って電話してくると思うの」確かに状況判断を誤っていたようだ。今回の出張は民間航空を利用する予算根拠がないため急ごしらえの苦肉の策になった。そんな行動計画を確認した法務官も首を傾げていたが、それでも承認印を押したのは私なりの目算があると考えたのだろう。
「判った。梢に予定の変更を連絡して移動と宿泊の手配を頼もう」「それなら梢さんの家に泊めてもらえば良いじゃない」ここまで来ると冗談としても悪質だ。私が性的能力を喪失していることを前提にしているとしても、真剣に愛し合った者同士に精神的浮気を挑発しているようではないか。私は少し立腹しながら自分のグラスに冷や酒を注いだ。
「今の貴方には癒しが必要なのよ。それには梢さんが一番でしょう」佳織はそう呟いて自分のグラスを口に運んだ。私にはその目がどこか寂しげに見えた。
  1. 2018/12/16(日) 10:43:28|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ1403

盧暁春(ルー・シァォチェン)が乗ったタクシーは外国人への開放地区を出て間もなく黒塗りの要人専用車の追跡を止めて路地へ入った。運転手は盧の制止には答えず表通りから見えない奥に向かう。すると数名の男たちが道を塞ぐように立っていてその前でタクシーは停車した。
状況を察した盧は指を口の中に突っ込んで奥歯に仕掛けてある猛毒のアンプルを割ろうとしたが、その前に運転手が振り返り、座席越しにスプレーを噴出すると意識を失ってその場に崩れ倒れた。運転手はドアを開けると先ず深呼吸をした。
盧が意識を回復したのは窓がない地下室のような部屋だった。壁は砕石とコンクリートが剥き出しで照明も古びた蛍光灯だけだ。盧は両手を縛られた状態で木製の長机に寝かされている。足にも紐がついているが何故か自由に動かせるように緩めてある。顔を左右に向けると壁際に数人の男が立っているのが目に入った。
「チェリー・チャン、また会ったな」そのうちの1人が近づくと顔を覗き込んで声をかけた。蛍光灯を遮って影になっているが声と口調には聞き覚えがある。上海国際博覧会の会場で声をかけてきた漢事典(ハン・シディェン)だ。
「チャールズ・チンじゃあない。またデートに誘ってくれるの」盧の皮肉に顔の影は笑い声を漏らした。盧は舌で奥歯を確認したがアンプルは取りのぞいてある。こうなれば舌を噛み切るしかないが漢が手で顎を押さえた。致命傷にするには前歯で舌の動脈を噛み切る必要がある。死因は口内での大量出血による窒息死だ。しかし、それも果たせない。
「顎を外せば自死予防としては完璧だがその美貌が台無しだ。仕方ないからマウス・ピースをはめることにしよう」そう言うと漢は盧の口を押し開けてポケットから取り出したゴム製のマウス・ピースを前歯にはめた。用意してあったのだから始めからそのつもりだったのだろう。
「君が香港で反共産党暴徒を扇動していることは知っている。2重スパイにするには身中の虫になる危険が大き過ぎる。そうなると・・・」漢が続きを言わずに振り返ると別の若い男が歩み寄った。手前で立ち止ったので顔は見えるはずだが盧はあえて視線を向けないでいる。
「用意しろ」「はい」男は漢の命令に答えると盧が着ているワンピースの襟元にハサミを差し入れて裾まで切り裂いた。それを左右に開くと下着とストッキングも切り剥した。仕上げに袖を切ると布を取り去って盧を全裸にした。それを見て壁際の男たちが一斉に生唾を飲み、鼻息を吹いた音がした。
「それでは盧暁春くん。ここは本名にしよう。鄭祖賢(デン・ウェンリー)くん、ここからは君と我が屈強の戦士たちとの戦いだ。快楽に溺れた方が負けだ」漢はそう言って後退さった。盧は数年前にこの任務に就いて以来、使うことがなくなっていた本名まで把握されていることを知りマウス・ピースで唇を噛んだ。最初の男はその唇に吸いついた。
それから盧は途切れることなく男たちに抱かれ続けた。漢が言った勝ち負けなどは始めから存在しない。あれは犯す側への叱咤だったようだ。
「いくら好い女でも流石に飽きがくるな」漢が席を外すと男たちは盧が寝かされている長机を取り囲んで勝手なことを言い合い始めた。その間にも1人が盧を抱いている。盧の全身は男たちの唾液が塗り込まれ、股間と口には精液が溢れている。こうなれば前戯で潤滑液を分泌させる必要もない。だから男たちは順番が来ると長机に上がってそのまま盧の中に入り、腰を前後させてノルマとして果てるだけになっている。
「香港からの情報ではこの女は後ろから腰骨を掴まれると興奮するそうです」この男は香港の盧の部屋に仕掛けた盗撮カメラの映像と盗聴器の音声を確認している担当者に聞いたようだ。確かに盧には腰骨に手をかけて後背位で責められると興奮する性癖がある。
「そうか試してみる価値はありそうだな」部屋に残っている男たちの中では上級者らしい1人が賛同すると盧は腕の縛め(いましめ)を解かれ長机から下ろされた。そうして長机に手をついて尻を突き出させられた。順番に当たっている男が背後から腰に手を伸ばした。
その瞬間、盧の後ろ蹴りが男の下腹部をとらえた。前のめりに膝をついた男の後頭部の急所・盆の窪(ぼんのくぼ)に体重を乗せた肘打ちを振り下ろすと床に倒れて痙攣を始めた。
「この女(アマァ)」全裸になっている男たちは功夫(カンフー)の構えを取ると一斉に拳と蹴りを突き出してきた。功夫の攻撃は急所を狙ってくる。盧は全身の力を抜いて攻撃に身を任せた。そのうちの数発が致命傷になった。
翌日、盧の遺骸は粗末なムシロに包まれて北京市のゴミ焼却場に持ち込まれた。漢は係員に共産党での肩書を名乗り、党内序列を示すバッチを見せた後、口止め料を手渡した。こうして盧暁春の美しい肢体=死体は悪臭を放つ大量のゴミの中に投げ込まれ、それと一緒に火葬された。
盧暁春8イメージ画像
  1. 2018/12/15(土) 10:06:24|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ1402

天安門を抜ければ中国皇帝の宮殿である紫禁城だ。本来であれば青い空にそびえる大屋根の色瓦が映えて歴史絵巻になるのだが今日は風がないせいか灰色に曇っている。それでも多くの観光客の中には上海国際博覧会のついでに回ったらしい外国人も目立つ。盧は周囲の会話に耳を傾けると北京語や広東語の他に英語やラテン系の言語と日本語や韓国語が聞こえてきた。
「ここからは故宮博物院の係員の案内に従って下さい。紫禁城内は見るべき場所が沢山ありますが午後1時の集合時間に遅れないようにお願いします。1人が遅れると全員が豪華な料理を食べられないことになります」ガイドは天安門の手前で客たちに声をかけた。先ほど2人組の男に拘束されそうになった男性客は簡単に許されたようで何もなかったような様子で合流している。ガイドに促されて短いトンネルのような天安門の通路を抜けて入場した。
「紫禁城は先ず元朝が建設し、それを明朝の永楽帝が1406年から改築して1421年に遷都してからは皇帝の宮殿として使われてきました」やはり博物院の係員は日本で言う学芸員のようで説明に年号を加えている。それを聞いている側が必要としているかは問題外のようだ。
「1644年に起きた農民革命の先駆けである李自成の乱で焼失して明朝は滅びましたが、李が建国した順は1年で満州族に滅ぼされてしまい1949年の同志・毛沢東による中華人民共和国の建国まで清朝によって支配されることになりました。現在の紫禁城は清朝が建てたものです」1911年の辛亥革命で清朝が滅びてから1949年の中共の建国の間には中華民国の38年があったのだが故宮博物院としては説明から削除しているらしい。
「紫禁城は南北に961メートル、東西に753メートルの広さがあり、城壁は高さ12メートル、南に正門である午門、北に神武門、東に東華門、西に西華門があります」この説明をしているところで午門を潜ると映画「ラスト・エンペラー」でも見た宮殿正面が広がっていた。すると映画を見たらしいヨーロッパ系の観光客たちはカバンから本格的なカメラを取り出し、日本人と韓国人は携帯電話で記念写真を撮り始めた。
ここからは建物内の見学になるが台湾の故宮博物院ではガラス・ケースの中に展示してある絵画や彫刻、焼き物などの文化財や宝物を見て回るのだが、こちらは清朝皇帝が生活した建物と贅を凝らした装飾や調度品を鑑賞する。当然、手で触れることはできない。周囲を見回しながら歩いて行くと日本人が「京都のお寺の拝観みたい」「少し装飾過多じゃあないの」「かえって落ち着かないわよね」と言い合っているのが聞こえてきた。
その時、制服を着た警備員が廊下に走り込んで来てロープを張って客たちを壁際に押しやった。
ヨーロッパ人たちは「ノー(英語とスペイン語)」「ノン(フランス語)」「ネイン(ドイツ語)」と文句を言い韓国人は「ムエオセウル(何をする)」と怒ったが日本人は素直に従った。大多数の中国人は当局には逆らわないので機械的に壁際に移動した。
「観覧中のところ申し訳ありませんが、外国の要人が見学することになったので警備の必要上、そのままでお待ち下さい」係員が北京語、英語、韓国語で説明し、最後に日本語をつけ加えた。やはり今回の政権交代でアメリカとの同盟関係が揺らいでいる日本は完全に舐められているのが判る。するとそこにアジア人の男性が案内されてきた。
「あれは・・・」盧はその男性の顔を見て喉まで出かかった名前を呑みこんだ。それは馬英九政権の首脳陣の1人で閣僚ではなく高級官僚として実務で権力を揮っている。そんな人物が外国要人として処遇されていることに盧は疑問以上の疑惑を抱いた。
「誰と接触しているのか確認しなければ」その人物は待たされている客の冷たい視線を避けるように見学とは思えない早足で通り過ぎていく。盧は目の前の警備員に「トイレに行きたい」と声をかけた。トイレは進行方向とは逆だ。警備員は顎で許可を与えた。
盧はトイレに入ると周囲を確認した。警備員や職員は要人警護に動員されているようで人影はない。盧は徒歩としては最高速度で入口から天安門に向かった。
外国の要人であれば天安門の前まで専用車を乗り付けているはずだ。ならば広場の外でタクシーを拾って追跡させなければ目的は達成できない。勿論、料金は支払い可能な限度額を提供することになる。それを経費で落とすことはできないが使命感の前では考慮に値しない。
盧は客待ちしているタクシーを拾うと間もなく通過した外国要人専用車両を追跡させた。その時には北京語を話し、一般市民を演じているのは言うまでもない。
「あれは政府の車じゃあないか。お客さんは何者なんだい」追跡を命じられた運転手はルーム・ミラーで盧の美貌を眺めながら質問してきた。
「私はネット・ニュースサイトの編集者なの。あの車がどこに向かうのかを確かめたいだけよ」盧の答えに運転手は「もうすぐ開放地区を出ます」と説明して前を向いた。
  1. 2018/12/14(金) 10:02:35|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ1401

3日目は北京市内観光だった。朝の国営民間航空で上海浦東国際空港を経てば約2時間20分で北京首都国際空港に着く。日本の新幹線を盗作しておきながら中国製としてアジアへの輸出を画策している高速列車では国土が広いだけに最速でも約4時間半かかる。
「空気が悪いわネ」旅客機から下りて空港ターミナルにむかうパッセンジャー・ボーディング・ブリッジ(搭乗橋)を歩きながら乗客たちは一斉に喉を押さえた。中には咳き込む者もいる。このツアーは大都会である香港からなので大気汚染には慣れているはずだが北京のそれは免疫が効かない深刻さだ。北京オリンピックの時には暖房を使わない夏季の2週間と言う短期間だったため原因となる工場を停止し、自動車の運航を制限していたが、今回の国際博覧会は上海で開催しており、半年間と長期なため無理に抑えることはできなかったようだ。
「エアコンが効いていれば少しは好いみたいね」「でも今日は夕方まで市内の観光なんでしょう。大丈夫かしら」「だから万博のみ3日間のツアーにすれば好かったのよ」ターミナル・ビルの通路に入ってエアコンを通した空気になって少しは改善されたがツアー客たちの不安と不満は払拭できない。当然、国内線のため荷物だけを受け取ってロビーに出ると売店に殺到して奪い合うようにマスクを買った。売店がマスクを詰め込んだ大箱を用意しているところは何でも商売につなげる中国の人民気質そのものだ。
北京首都国際空港は北京市の中心の外国人への開放地区でも北東の外れにある。そこからはバスになるが広大な国土では1時間かかる。これでは夜の便で香港に戻るまでに観光できるのは天安門広場と故宮博物院ぐらいではないか。尤も、盧暁春は台湾の故宮博物院を見ているので北京の方にはそれほど興味はない。国共内戦が劣勢になった頃から蒋介石は中国の至宝と言うべき貴重な文化財や宝物を台湾に送ったため所蔵品や展示物は北京を凌駕している。北京の売りは中身の展示品ではなく本物の建物である容器の方だ。それでも香港人を演じている以上、期待に目を輝かさなければならない。
「こちらが天安門広場です」バスの駐車場は天安門から離れているため広場の移動には時間と労力を要する。それも中央の門に着くまでは生け垣と鉄製の柵で隔てられた広場を歩くだけなのでガイドも点在する石塔や彫像で立ち止って説明する以外は時間を潰すのに苦労している。
「明朝と清朝の時代の帝宮だった紫禁城の第1門でした。ただ正門はこの内側にある第2の門の午門を指します」歴史の話題は中華民族の血を受け継いでいる以上、耳を傾けなければいけない。それでも周囲の雑踏の騒ぎにかき消されてあまりよく聞き取れない。やはり中国人民には声の音量調整の機能は着いていないようだ。
「1949年10月1日に我が偉大なる指導者・毛沢東同志が中華人民共和国の建国を宣言したのはあの門の楼上でした。そのため我が中華人民共和国の国章にも描かれている国家の象徴と言えます」天安門が近づくとガイドの解説にも力が入る。中国人は香港がイギリスから返還されたことで住民までも同胞になったと思っているようで共産党の歴史を誇示れば相手も感激すると期待しているのは明らかだ。
「この広場は我が中華人民共和国の重大な転換を期する事件の舞台にもなりました」天安門の前に流れる堀の石橋の手前でガイドが客を広場側に向かせて意外な話を始めた。民主化を要求する学生を鄧小平が武力で鎮圧した「天安門事件」は中国では絶対的なタブーになっていると聞いている。客たちは何かを期待して携帯電話で動画の撮影と音声の録音を始めた。そんな様子を眺めながらガイドは頭の中の台本の朗読を始めた。
「1976年1月8日に亡くなった周恩来同志の清明節(中国と沖縄の祖先供養の祭礼)に人民が捧げた花輪を江青、張春橋、姚文元、王洪文の4人組が撤去したのです。それが4月5日、だから45事件です」中国当局は天安門では海外からのツアー客に1989年6月4日の武力弾圧を思い出させてしまうため別の事件を詳細に語ることで糊塗しようとしているらしい。
「これを切っ掛けにして人民の怒りが爆発して高齢になっておられた毛沢東同志を裏切って国家を私物化していた4人組は失脚して、鄧小平同志が復権を果たしたことで今日の繁栄が実現しました」ここまで解説しながらもガイドは文化大革命の評価に触れなかった。海外から見れば文化大革命は経済機能を破壊し、優秀な人材を抹殺し、多くの国民を殺害した凶事なのだが、中国では「毛沢東の行ったことに誤りはない」と言う絶対化が徹底されている(それでも中国人は「4人組の罪」を語る時、手を広げて「4人組と毛沢東」と言う実態を表現している)。
「ふーん、そっちの天安門事件で来たかァ・・・」盧の後ろで解説を聞いていた男性客が小声で呟くとツアー客ではない私服の男2人が腕を掴んで引き離した。実は盧も同じことを言い掛けていたのだ。若し、本間郁子を同行させていれば本当に危ないところだった。
  1. 2018/12/13(木) 09:51:25|
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12月12日・尼崎連続殺事件の主犯・角田美代子が死んだ。

2012年の12月12日に下手な小説家でも書かないような滅茶苦茶な展開で報道番組も収集がつかなくなっていた尼崎連続殺事件の主犯である角田美代子▲(「さん」かく)が兵庫県警本部の留置場で誰が考えても他人の手を借りなければ不可能な方法で死亡しました。それでも公式発表は自死であり、記者発表以外は報じない大手マスコミだけでなくスクープを売り物にしている雑誌まで真相を追究しない不可解な決着になっています。
民放各局が脈絡もつかないまま報道していたところによると角田▲は昭和23(1943)年に左官業の親方だった父親と家業を手伝っていた母親の間に生まれましたが、物心がつく頃には家庭は破綻していて8歳の時とも中学卒業後とも言う時期に離婚したようです。その結果、本人は非行少女になって「(いわゆる)スケバンとして手下の男子生徒を引き連れて街を闊歩していた」と言う証言は繰り返し紹介されていました。
それでも高校へ進学したものの間もなく退学し、10歳代でスナックを開店して女性を雇い、19歳の時には16歳の少女に売春をさせて逮捕されたと言われています。
その後、尼崎市内でブランド商品の輸入代行業を始めたとも友人の誘いで横浜へ出て後に共犯として逮捕される女と共同で飲食店を始めたとも報じられていました。
結婚については10歳代で1回、20歳代で1回経験し、3度目は事実婚でこれが一番長く20歳代から共犯として逮捕されるまで続きました。
角田▲の罪状は報道している側も説明に困るような複雑な人間関係と異常な犯行ですが、自分で手を下すことはほとんどなく手下にした人間を精神的に追い込んで「殺らなければ」「殺れば」と言う切迫した感情から解放されるために親族などの命を奪わせています。
難関の就職先であるマスコミ関係者は基本的に児童・生徒・学生時代を優等生として過ごしているため非行少年に対してはある種の偏見があるようです。角田さんが中学校でスケバンとなって同じような男子生徒を手懐けていたのも暴力で優越的地位を獲得したと言う一方的な見方しかしていませんでしたが、実際の非行少年や暴走族、さらにヤクザ屋さんの業界で君臨するような人物には暴力で屈服させる恐怖心とは別のある種のカリスマ性を感じることがあります。そのカリスマ性は普通の人間には到底、犯すことができない残虐性などの常軌を逸した狂気であることが多く、角田▲にもそのような他を圧するような迫力が備わっていたのかも知れません。
そんな角田▲にも人間らしい面があったようで例えば大変な料理好きで毎日のように料理の腕を揮って同居人たちに振舞っていたそうです。また写真好きで家宅捜査ではパソコンから関係者を写した大量の画像が発見されています。
それにしても兵庫県警本部の留置場内で3人並んで寝ていて自分のTシャツを脱いで首に巻き、両端を引いて窒息・絶命するまで誰も気がつかないなどと言うことがあり得るものなのでしょうか。柔道の絞め技で落ちた経験から言えば窒息と脳貧血で意識を失えば脱力してしまい引き続けることは不可能です。それでは誰が何を隠蔽しているのか?何故黙っているのか??そして謎とすることさえないのか???
  1. 2018/12/12(水) 09:38:34|
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振り向けばイエスタディ1400

盧暁春(ルー・シァォチェン)は香港の旅行社が募集した上海国際博覧会と北京市内観光のツアーに参加していた。ツアーであれば添乗員の監視下で行動するため当局に疑惑を持たれることもなく、逆に中国人特有の身勝手な行動を演じて離脱するのも容易だと考えたのだ。
「何これ・・・警備員は全て人民解放軍の兵士じゃない」万博会場で自由行動になって盧は各パビリオンや通路に立っている警備員たちに軍人の臭いを感じ取った。彼らは夏の炎天下でも長袖の制服を着ているが肩から腕、腰から脚にかけての線は鍛え抜いた筋骨が透けて見える。
「えッ、誰」盧は立ち止ったまま周囲を観察している自分を雑踏の中で撮影している男を見つけて思わず後退さった。確かに美女を見つけると断りもなく望遠レンズを使って撮影する男は珍しくないが、その手の趣味を持つ連中とは明らかに容姿が違う。こちらも軍人風に浅黒く日に焼け、望遠レンズを装着したカメラを構える姿勢は小銃射撃の要領だった。
「取り敢えず移動することね」盧は秘かに厳戒態勢を取っている警備員=人民解放軍の目を避けて周囲の客たちに同化することにした。
本来であればツアーで知り合った相手と一緒に歩き回れば良いのだが申し込んだ段階で相手が決まっているようで自由行動になった時点で解散になっていた。やはり王中校が言ったようにキクコに同行を求めるべきだったのかも知れない。雑踏に合流するように歩き始めた盧に同世代の男が自然な歩調で近づいてきた。
「お1人ですか」気がつくと隣りに並んで歩いている男は紳士的な口調で話しかけてきた。台湾や香港ではいわゆるナンパも珍しくないが、人民にまで軍人と同様の規律が教育されている中共(中華人民共和国)では毛沢東が軍規として婦女暴行罪を死刑と定めたように男女関係には特に慎重でなければならない。盧が無視して歩調を早めると男はそれに合わせて歩幅を広げ、穏やかな笑顔を浮かべて話を続けた。
「私は民国から上海に進出している貿易会社の漢事典(ハン・シーディェン)です」中共では「1つの中国」との金科条が徹底されているため「中華民国」と言う台湾の国名を口にすることはない。男性がこうして名乗った以上、女性が粗略な態度を取ることは儒教の礼式に反する。
「私は香港のチェリー・チャンです」これは香港映画「五福星」でサモ・ハン・キンポーの相手役を務めた美人女優の名前の盗用だ。これで男には本名を明かす気がないことと香港人であることが伝わったはずだ。しかし、男はそれをジョークと受け取ったように朗らかに笑った。
「私は太っていないのでチャールズ・チンと言うところですね」チャールズ・チンは五福星の中では2枚目気取りでチェリー・チャンに言い寄るが相手にされなかった役柄だった。
このような絶妙の受け答えを繰り返しながら昼食を共にすることになり、結局、その日は一緒に過ごしてしまった。
翌日も万博見物だった。香港からのツアー客たちの中には「2日間でも足りない」と不満を口にする者もいるが3日目は北京市内観光の予定だ。盧としては北京市中心部の外国人への開放区域から脱出して共産党幹部の居住区に踏み込んで実態を確認するつもりでいる。
「台湾に郵送できるの」盧は売店で土産を買うと郵送カウンターで質問した。
「はい、可能です」「国際便よね」「はい、割高になりますが」係員の女性は絶対に禁句を口にしない。迂闊に国際便と認めてしまえば台湾は外国と言うことになり「中国は1つ」と言う共産党の強弁に背くことになる。それを見逃すほど中国当局の監視は甘くない。
「送る荷物はこちらの商品でよろしいですね」「うん、箱とテープをくれれば自分で梱包するわ」係員は困惑した顔で振り返ると責任者らしい少し年配の女性に事情を説明した。盧は北京に向かう前に業務用の携帯電話を台湾に送るつもりだった。業務用の携帯電話は外見こそ何も変わらないが、通常の機能の他に特別な周波数で通話できる。北京で拘束された時に押収されれば周波数の全面変更が必要になる。
「申し訳ありませんが通関の指導で梱包は係員が実施することになっていますので協力をお願いします」若い係員を別の客の応対に当たらせて責任者の女性が拒絶の説明をした。要するに盧のような目的に万博の商品を利用されることを防止しているようだ。
「それじゃあこれを台湾の親戚の子供に」「こちらに住所と氏名に電話番号をお願いします」盧が紙袋に入ったままのセンスのないぬいぐるみと通関のエコー検査で携帯電話を隠蔽するために買った中国製の安物を渡すと責任者はカウンターの上で郵便の伝票を差し出した。
郵送に失敗した盧はトイレで携帯電話を分解し、電子機能の部品を取り出してハイヒールのかかとで踏み潰した後、手で引き千切って細分化した破片をトイレに流した。そうして組み立てた携帯電話をセカンド・バッグに入れて集合までの時間つぶしを再開した。
  1. 2018/12/12(水) 09:37:18|
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12月12日・密教的浄土教の大成者・覚鑁が入寂した。

平安時代末期の康治2(1144)年の明日12月12日(太陰暦)にあまりにも巨大な教組を戴いたが故に教学が発展しなかった真言宗に於いて密教と浄土教の融合を図ると共に退廃の極に堕していた金剛峯寺の再生を目指したものの命まで狙われて結局、後の修験宗の本山になる根来寺を創建した興教大師・覚鑁さまが示寂しました。
覚鑁さまは嘉保2(1095)年に肥前国にあった京都・仁和寺の荘園を管理する役職にあった下級貴族の3男として生まれ、8歳の時には出家の志を立てていたそうです。10歳で父親が亡くなるとその人脈を辿って13歳で仁和寺に入り、元服の年齢になった16歳で得度を受け、20歳の時には東大寺の戒壇院で正式な佛戒を受け(比叡山の戒壇は日本限定の大乗菩薩戒)、覚鑁の僧名を得ました。その後、高野山に上って修行・修学に入ると35歳で全ての伝法の灌頂を受け、「弘法大師以来の偉才」と呼ばれるようになりました。鳥羽上皇の病気平癒を祈祷して験(げん)があったことで篤い帰依を受け、高野山内に建立された不動院の開山になっています。
ところが当時の高野山には衣食住が保障される生活のために頭を剃っているだけの(現代では標準的僧侶)下級僧や朝廷や貴族に取り入って高位や権力を獲得することだけを考えている上級僧が跋扈しており、それを宗門のみならず日本の佛教の危機と感じた覚鑁さまは真言宗の再生を決意し、長承元(1132)年に鳥羽上皇の推挙を得て金剛峯寺の座主に就任すると宗制の改革を断行したのです。ところが長年にわたって安穏と暮らしていた僧侶たちは猛烈に反発し、先ずは覚鑁さまの自坊を焼き討ちし、それでもひるまないと今度は生命を狙いました。ある夜、暴徒たちが自坊を失って移り住んでいた不動院に押し入ると1体しかないはずの不動明王が2体になり覚鑁さまの姿はありませんでした。そこで暴徒たちは法力で不動明王に化身していると考えて膝を錐で刺して確認したのです。すると2体とも血を流し、同時に後背の炎が火となって燃え上がり、暴徒たちは惧れ慄いて退散しました。これが有名な「きりもみ不動」の伝説です。
この事態に苦悩した覚鑁さまは保延6(1140)年に弟子と不動明王を連れて高野山を下り、やがて根来寺を成立させます。
覚鑁さまは法然坊源空上人の口称念佛が衆生に広まっている様子を見て密教の立場から浄土教と共生する教義を模索するようになり、それは「阿弥陀如来は密教の根本佛である大日如来が衆生済度の発願に依って化身した姿である」との見解(けんげ)で結実しました。確かに阿弥陀如来は無礙光佛(=無限の光の佛)と言う別称があるように「落日の輝き」を象徴していますから太陽を司る大日如来と融合することには論理的に無理はありません。
覚鑁さまの入寂後、その法脈は高野山とは相容れぬまま修験宗として独自に発展していきましたが天正5(1577)年の秀吉の紀州征討で徹底的に破壊され、江戸時代に復興したものの明治の廃佛毀釋と修験道禁止令で壊滅的打撃を受けました。それでも欧米の憲法にある「信仰の自由」を模倣した大日本帝国憲法の成立により明治33(1900)年には新義真言宗として正式に登録を受理され、現在に至っています。
  1. 2018/12/11(火) 10:57:07|
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