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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月1日・大審院が翼賛選挙を無効とする判決を下した。

敗戦も時間の問題になっていた昭和20(1945)年の明日3月1日に現在の最高裁判所に相当する大審院が昭和17(1942)年に実施された衆議院選挙で非大政翼賛会の候補者・富吉栄三さん(後に洞爺丸で遭難死した)が選挙妨害を受けたとして訴えていた裁判で訴追事由を認め、選挙を無効とする判決を下しました。
戦後に製作された映画やドラマ、歴史番組、発表された小説、何よりも学校教育では戦前の昭和史をナチス政権下のドイツのように国家機能の全てが戦争遂行のために統制されて、反対する者には徹底的な弾圧が加えられていたかのように描かれていますが、そのような暗黒の時代は極めて偏狭で猜疑心が強く、陰湿な性質だった東條英機大将が首相と昭和17(1942)年から無任所国務大臣や内務大臣に抜擢された配下(陸軍士官学校は6期先輩)の安藤紀三郎中将によって演出され、昭和19(1944)年7月22日に東條内閣が瓦解するまでこの国を覆い尽くしましたが、その中でも立憲君主制=法治主義を維持する気概を有する法曹関係者たちが存在していたのは間違いありません。
昭和17(1942)年4月に投・開票された衆議院選挙ではドイツのナチス党やイタリアのファシスト党(ソビエト連邦の共産党も?)のような一党独裁体制の樹立を目指して結成された大政翼賛会内の最大会派である翼賛議員連盟の推薦候補と非推薦候補の対決と言う様相を呈しており、このうち鹿児島2区(定数4名)では非推薦候補である富吉さんだけが落選し、推薦候補4名が当選する結果になりました。これに富吉さんは「推薦候補を当選させるために政府や軍の主導による露骨な干渉や選挙妨害が行われた」として選挙を無効とする訴えを起こし、同様の選挙無効の提訴は鹿児島1区と3区、長崎1区、福島2区でも起こりました。当時の司法制度では選挙無効の提訴は大審院による1審制と決まっていたため法廷を運営する4つの民事部に分割して対応に当たらせたのです。
このうち鹿児島2区を担当した第3民事部は5名の裁判官が鹿児島に出張して鹿児島県知事(鹿児島県内の3つの選挙区で提訴が起きていた)を含む187名を尋問しました。
この時期はミッドウェイ海戦で敗北し、ニューギニアのゴマの守備隊が全滅(=玉砕)するなど形勢逆転が始まっていましたが、どちらも海軍のことなので東條内閣の危機感は弱く、それほど強引な司法介入は行わなかったようです。
それから3年後のこの日、大審院第3民事部は鹿児島2区で推薦候補を当選させるために不法な選挙運動が行われたことを認定し、これを「自由で公正ではない規定違反の選挙は無効となると定めた衆議院選挙法第82条に該当する」として選挙の無効とやり直し選挙を命じ、さらに「翼賛選挙は(大日本帝国)憲法及び選挙法の精神に照らして大いに疑問がある」と国を批判する論評を付した判決を下したのです。この判決を受けて鹿児島2区では3月20日の投票で再選挙が実施されました。ただし、これ以前に他の民事部はそれぞれの担当選挙区の提訴を棄却しており、必ずしも司法の独立が堅持されていたとは言い切れません。実際、この裁判長は判決の4日後に辞職して中央大学の教授になりましたが、特高警察の監視下に置かれたそうです。
  1. 2019/02/28(木) 11:07:45|
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振り向けばイエスタディ1477

夕食後、佳織はスザンナに洗い上げをまかせて志織と一緒に宿題に取り組んだ。判らない振りをして志織に説明させるのが目的だ。こうすれば勉強の知識は受動態ではなく能動態になる。期待通り志織は母に説明するため知識を頭の中で整理し、確認する作業を繰り返していた。
宿題をやり終えてからは志織との会話を楽しんで居間に戻ってくると父と義母は晩酌を始めている。テーブルの上には義弟の遺影が載っているが佳織も加わることにした。今夜の酒はマリブと言うココナッツのリキュールを牛乳で割っている。マリブの香ばしい甘さが冷たい牛乳に良く合い、このカクテルは飲み過ぎてしまいそうだ。
「夏に日本でモリヤさんに接していて感じたんだが、彼には自分の主張と言うモノがないみたいだな。むしろ自分そのものがないと言った方が適切なようだ」佳織がセルフ・サービスで2杯目を作ったところで父が夕食時の対話の続きを始めた。
「やっぱりハワイで会うのとは印象が違ったの」「彼は以前はソート―宗、今はジョード宗の僧侶とのことだが、久留米の浄土宗の寺でも天草の曹洞宗の寺でも変わりなく自然に振舞っていたな」「どちらのプリースト(僧侶)とも長年の友人のように親しくなっていたわ。ハワイにも日本の色々な宗派の寺院があるけど、やっぱり心の底では互いに対抗意識を抱いていることを感じてしまうのに」佳織の質問には夫婦が交代で答えた。佳織としては夫が佛教だけでなくカソリックの司祭や神父、プロテスタントの牧師、おまけにイスラム教のウラマーまで友人にしてしまうことを知っているので、ここまで感心されると困ってしまう。唯一、神道の神職だけは「廃佛毀釋と国家神道の大罪を悔い改めていないことが許せない」と関わらないが、若い頃には日本神話と古事記・日本書紀について教えを受けたことがあるらしい。
「夫は周囲、特に上司からは自分の考えを曲げない独善的で頑固な人間だと思われているけどそれは間違いなの。自衛官としての彼には職務以外に何もないのよ。中隊長の時は中隊長としての最善を、法務官になってからは法務官としての最善だけを考えているだけ。家庭でも夫として父としての理想だけを追求していて自分の感情は介在させていない。本当なら淳之介や志織を手元に置いて育てたいはずなのに子供にとっての最善だけを考えて許した。そんな人なのよ」佳織の説明に父と義母は顔を見合わせて納得したようにうなずいた。
「おまけに彼には信仰みたいな使命感があるから自分を捨てることに全く躊躇しないの。北キボールでの戦闘の裁判の時に若しも死刑判決が下っても『はい、そうですか』と言って気軽に処刑されてしまったと思うわ」本人は秘かに「死刑になるなら武人らしく割腹が好い。執行方法の表現の自由を求めて提訴しよう」と考えていたのだが求刑は懲役10年であり、佳織はアメリカに留学中で拘置所への面会もままならなかったから本心を聞くことはなかった。
「モリヤさんがそんな人間性になったのはやはり佛教の僧侶として修行をしたからなのかな」父はテーブルの上の義弟の遺影を見ながら質問してきた。アメリカ空軍の飛行服を着て誇らしげに微笑んでいる義弟も死の直前には「マミィ(お母さん)」と叫んでいたことが交信記録で判っている。その死の真相は軍事秘密として明らかにされていない。
「勿論、それもあるけど夫は中学時代から両親に自分を否定するような言葉を浴びせられながら成長してきたみたい」この説明をすると甘いはずのマリブが苦味を帯びてくる。阪神大震災の災害派遣で支援を求めたことを契機に交流が復活した時、それを喜ばない夫を問い詰めると初めて胸の中に抱えている両親と実家がある土地に対する怨嗟の念を吐露した。それは両親が離別した佳織にも信じられない内容だったが、実際に家族に加わってみると日常の中で自覚もないまま繰り返される納得せざるを得ない事実だった。
「モリヤの実家は没落した旧家だからプライドばかりが高くて財力はない。そんな家の次男として育った義父は極端な内弁慶で家族には絶対服従を強いていたの」同じように没落してハワイに移民した家庭の子供である夫婦は表情を硬くして続きを待っている。
「おまけに父親は妹を溺愛していたから鬱憤は全てあの人に投げつけていて『お前が悪い』と言うのが口癖だったみたい」「お母さんはそれに抗議しなかったの」流石にスザンナが質問した。妻であるのと同時に母でもあるスザンナには信じ難い家庭の構図なのだ。
「母親は逆に息子が自分を庇おうとするのを利用したのよ。『貴方が我慢してくれるからお母さんは本当に助かる』って言われれば暴君に使える母親を守ろうとする息子は我慢するしかないじゃない」勿論、これら登場人物の誰にも計算は働いていない。
「そんな夫は禅僧である祖父の弟子になった。陸軍少将の息子でもある祖父の教えで人格を形成したんだから、夫が普通ではない自衛官で僧侶になっても不思議はないのよ」そんなモリヤに惚れた佳織も普通ではない。ここで3人はようやく肩の力を抜いて談笑を始めた。
ま・モリヤ佳織イメージ画像
  1. 2019/02/28(木) 11:06:24|
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2月27日・陸上自衛隊山口射場で小銃乱射事件が起きた。

野僧が防府南基地での空曹候補者課程に入校していた昭和59(1984)年の2月27日に3日前に実弾射撃を実施してきた陸上自衛隊山口射場で小銃乱射事件が発生しました。
山口射場は駐屯地から少し離れた宮野下にある屋内射場で、この日は第17普通科連隊の60名が実弾射撃訓練を実施しており、昼前の射群(一緒に射撃する集団)だったカネノブシンイチ2士が「立姿から寝射ち」の射法のため立ったまま実弾を渡され、装弾した直後に横を向いて小銃を乱射し、実弾と小銃を持ったまま逃走したのです。この乱射によって4人が負傷し、翌日に隣りで射たれた陸士長が収容先の山口赤十字病院で死亡しました。
カネノブ2士はキーを着けたまま駐車してあったジープを奪って逃走し、午後4時40分になって捜索に当たっていた警察官によって山口市郊外の山中の草むらで発見・逮捕されたのです。この時、警察官は放置してあったジープに小銃が残っていたので安心して付近を検索しており、枯れた草むらの中に緑色の草が生えていることを不審に思い近づいたそうですからOD色の戦闘服で基本通りに「伏せ」の姿勢をしていたようです。
動機については「日頃から馬鹿にされて鬱屈が溜まっていた。『どうにでもなれ』と思って射った」と証言しており、重度の鬱病=心神耗弱状態と診断されて入院したのです。このため精神病患者に実弾射撃を実施させていたことが問題になりました。
野僧は身近で発生したこの事件に強い関心を持ち、防府南基地に転属してからは山口駐屯地の隊員に話を聞くなど本格的に研究を始め、幹部になって射撃訓練の指揮官を担当する団司令部訓練班や管理隊警備小隊長として深化させた結果、多くの問題点が判明しました。
先ずカネノブ2士が小銃を乱射した時、指揮官は「伏せろ」と叫び、自分も地面に伏せて逃走を見逃しました。指揮官は実弾を装填した拳銃を持っており、ドアを開けるまでに背後から射撃することは可能でした。同様にドアの外で入出者を監視していた警戒要員も中から飛び出してきたカネノブ2士を素通りさせており、訓練場の通用門に立つ門衛が鉄製の門を閉めて衝突させればジープでの逃走は阻止できたはずです。
何よりも問題なのはカネノブ2士を指導していた営内班長の2曹が日誌を中隊事務室に提出していたところ隊員が不在中に立ち入った新聞記者がそれを読み、無断で持ち去って「情緒不安定であることを認識していた」とのスクープ記事にしたことです。
この記事が「精神障害者に実弾射撃を実施させていた」との批判を激化させる結果になったため第17普通科連隊は責任を営内班長1人に押しつけ、「兆候を察知していながら必要な報告と処置を怠った」との懲戒処分を下し、自死に追い込んで2人目の犠牲者にしたのです。実際は「お前が余計なことを書いたからだ」と連日のように厳しく叱責されていたと聞いています。つまり加害者はサトナカ連隊長以下の幹部たちです。
ちなみに日誌を無断で持ち去った新聞記者も公品横領(窃盗ではない)で告発されましたが、「正当な取材活動」と言う手前勝手な主張が認められて事実上の無罪でした。
余談ながら記者会見したワタナベケータロ-陸上幕僚長は渡されたメモでカネノブ2士の大学中退と言う学歴を見て「これは優秀な隊員じゃあないか」と発言しています。
  1. 2019/02/27(水) 09:51:57|
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振り向けばイエスタディ1476

後段休暇でハワイに行った佳織は父のノザキ中佐と義母のスザンナと一緒にノザキ家、キカイ家の墓所とパンチボールの442部隊の区画にある祖父の墓碑銘に参拜した。ノザキ中佐はパンチボールを訪れる時には軍服を着用するので佳織も制服にした。ただし、この服装では佳織の方が上官になってしまう。
その後は志織の下校時間に合わせてハイ・スクールに行って担任の教師と面談したが、ここでも制服に対しては最大限の敬意を表される。志織は極めて優秀な模範生とのことだった。
「佳織、モリヤさんはあまりハワイのことが好きではないんじゃあないか」志織が居合の道場から帰るのを待って始まった夕食の席でノザキ中佐が訊いてきた。唐突な質問に佳織は困惑しながら志織の顔を見ると首を傾げている。
「そんなはずがないじゃない。今回も一緒に来たがってたんだけど、裁判の方が重要な段階に入るからどうしても抜けることができなかったの。日本からの電話で説明したでしょう」佳織の説明を志織は顔を注視しながら聞いている。
「あの人はいつも『今の志織を一瞬でも見逃すのが惜しい』って残念がってるわ。その大事な志織をハワイに預けているんだから嫌いな訳ないじゃない」説明が長く強くなるほど逆に自信が弱いように感じるのは意地悪な見方かも知れない。
「それはハワイへの好感ではなくて志織に対する愛着だろう。そんなことを言っているんじゃあないんだ」父はコンソメ味の炒め飯を口に運んでいたフォークを置くと真顔になって佳織を見た。それを志織と一緒に見返した。スザンナは黙って3人を見比べている。昔の柱時計があれば「コチコチコチ」と言う音がBGMになるような時間が過ぎていく。やがてノザキ中佐が口を開き、3人は鼻で息を吐いた。
「夏休みの祖先を訪ねる旅で我々は生命の源流に辿りつくことができた。その2つの生命は家族としてハワイに移り住み、新たな流れを発生させている」今日の話題は現実主義者のノザキ中佐にしては珍しく哲学的だ。それでも佳織と志織は宗教哲学者のような夫・父と暮らしていたので違和感はない。ここでノザキ中佐はグラスの水を一口飲んだ。
「モリヤさんにはヤマガタ県に同じような源流があると聞いている。最近になってそれに辿りついたとも言っていた」これは山形県最上郡戸沢村角川の庄司家のことだ。佳織は父の野崎家、義母の鬼海家の菩提寺と墓所を訪ねる旅の前に夫と2人で行ってきた。
「ようやく自分のルーツ(根)を見つけたのに、それを捨ててハワイに来させればモリヤさんは根なし草になってしまわないか」これが父の言いたかったことのようだ。野崎家と鬼海家は二世代の夫婦と子供たちを連れてハワイに移住し、ここで新たなノザキ家とキカイ家を作り、今では合流している。母は伊藤家を捨ててハワイに来たが自分の流れを作ることはできなかった。父はモリヤも同様の苦しみを味わうことを懸念しているようだ。
「確かにあの人は山形へ行ってようやく自分の存在を自覚したような顔になったわ。今までは自分自身が存在していることが許せないでいるようなところがあったから私も安心したの」志織は山形へは同行していないのでこの説明が理解できない。志織にとって父は常に自信に満ちて果てしなく寛大な誰よりも信頼し、尊敬する人物なのだ。
「お前と志織にはノザキ家の血が流れている。だからハワイに永住することも自然な流れだ。モリヤさんが淳之介を沖縄に返したのも彼には沖縄の血が流れているからじゃあないのか。そうなるとモリヤさんはどうなる」父の結句は禅問答の「作麼生(そもさん)」のような鋭い刃となってで佳織の喉元に迫ってくる。そうして止めた息を吐いた時、何故か梢の顔が胸をよぎった。夫は沖縄への出張で梢と過ごした数日間で完全に生き返ってきた。本来は運命の出会いだった梢との人生に先ずは淳之介の母親が割り込み、その母親から奪い取った佳織が割り込んだ。佳織自身は梢以上に夫を愛するつもりでいたのだが職務がそれを許さなかった。おそらく今後も夫婦として人生を共有することは不可能なのではないか。
「私が定年になってハワイに帰ってくる頃には志織は大学を卒業しているから社会人として独り立ちしているわね」ここでも志織には母の唐突な言葉の意味が理解できなかった。日常会話であれば母が定年退職するまでの年数を自分の年齢に加えて快活に同調すれば良いのだが、この言葉には不思議な重みを感じる。志織の身体に流れる母から受け継いだ血がこの言葉の意味を語り始めた。しかし、それを受け入れることができるはずはない。
「そうなればダディとマミィと一緒のファミリーに戻れるんでしょう」「うん、そうなると好いね」志織の返事を聞いて佳織は自分の中で芽生えた選択を胸の奥深くに仕舞い込んで曖昧な笑顔でうなずいた。ここでようやく会食が再開した。
  1. 2019/02/27(水) 09:49:55|
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2月26日・ウルトラマンの実父・成田亨の命日

2002年の2月26日はウルトラマンと登場した怪獣の実父(ウルトラの父ではない)=制作担当者だった成田亨さんの命日です。72歳でした。
成田さんは昭和4(1929)年に神戸で生まれましたが、間もなく父の実家があった青森市内に転居したため青森県出身になっていることが多いようです。
1歳になる前に囲炉裏の火を掴もうとして左手に大火傷を負う野口英世博士のような経験をしています。左手は数度の手術を繰り返しても完治しませんでした。8歳の時に兵庫県に戻り、こちらで14歳まで学校教育を受けますが青森訛りと火傷のことで苛めを受け、右手だけで描くことができる絵画に救いを見い出し、画家を志望するようになりました。こうして武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)の西洋画科に入学したのですが、ここで上野駅前の広小路口に設置されていた彫刻「みどりのリズム」(現在は上野公園内に移設されている)の作者である清水多嘉示さんに傾倒して彫刻科に転科すると在学中に映画「ゴジラ」の制作に参加したことで円谷英二監督の知遇を得て、1966年放送の特撮ドラマ「ウルトラQ」の特殊美術を担当することになったのです。
「ウルトラQ」は高視聴率を上げながらも半年で終了し、新たな特撮作品として「科学特捜隊ベムラー」が企画されたものの主人公がカラス天狗のような怪人だったため却下され、続く「レッドマン」も不採用になり、最終的に「ウルトラマン」に決定しました。
「ウルトラマン」のデザインについては成田さんが佛像好きだったこともあり、没個性で無表情な顔になりましたが、実際の型取りとしては「ウルトラQ」でケムール星人の演技で絶大な評価を得て、ウルトラマンに決定したスーツ・アクター(着ぐるみを装着して演じる役者)の古谷敏さんに合わせたのです。ちなみに古谷さんは「ウルトラセブン」にはアマギ隊員役で出演しています。
成田さんはウルトラマンだけでなく登場する怪獣も手掛けましたが、その際、3つの条件を自分に課していたそうです。それは「過去にいた。または現存する動物をそのまま作り、映像演出の巨大化だけを頼りにしない」「過去の人類が考えた人間と動物、動物と動物の同存合成表現の技術は使うが、奇形化はしない」「体を傷つけたり、傷跡をつけたり、血を流したりはしない」と言うもので、おそらく「ウルトラQ」でこのような怪獣を登場させたことで子供たちに過度の恐怖感を抱かせたことへの反省があったのでしょう。
その最高傑作がセミと人間にハサミをつけたバルタン星人であり、他には武将・黒田長政公の兜をモデルにしたゴモラやオニヤンマのドラコなどがありますが、確かにウルトラマンの八つ裂き光輪やウルトラセブンのアイスラッガーで首が飛んでも血は出ません。
テレビの特撮の仕事は「ウルトラセブン」と「マイティジャック」の途中で降板し、その後は昭和45(1970)年の大阪万国博覧会のシンボル「太陽の塔」の内部に設置された生命の樹の製作に関わるなど芸術家として活動していました。
晩年は尼崎市内にウルトラマンとウルトラセブンなどの実物大の像を建てる運動に取り組んでいましたが多発性脳血栓を発症して逝去したため実現しませんでした。
  1. 2019/02/26(火) 10:27:22|
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振り向けばイエスタディ1475

「モリヤは大学中退で入隊したから20歳だったな。法学部だったから防衛関係法の座学では法律の解釈を巡って区隊長と口論になって煙たがれてたよ」父の昔話に森田曹侯補士は「それでは安田3曹と同じではないか」と呆れながら残り少なくなったお湯割りを舐めた。
「おまけに高校時代は生徒会長だったそうで妙に存在感があって、階級は2士でも現自組(現職自衛官からの入校者)を完全に喰ってたぞ」父の口調は尊敬や羨望ではなく敬遠に近いようだ。確かにそのような同期は周囲も扱い辛かったはずだ。
「運動神経は決して良くなかったが、大学時代は土建屋で働いて学費を稼いでいたみたいで体力と言うよりも馬力が凄くて、陣地構築ではプロの技を見せていたよ」「だったら職種は施設に行ったんだね」森田曹侯補士は航空自衛隊の職種には詳しくないが、入隊前に暮らしていた官舎には父と同じ基地業務群の施設隊の隊員の息子がいたのでそれだけは判った。
「いいや。アイツは文科系が得意だからって通信でも暗号を希望したんだ。ところが色診で引っ掛かっていたから駄目で、希望者が少なくて欠員ができていた航空機整備になったよ」父は航空自衛隊の職種の選定は適性検査を優先するため隊員の能力が偏ると批判していたが、話を聞く限りモリヤ曹侯生が職人である航空機整備員に向いているようには思えない。やはり傾向としての見解なのだろう。
「結局、航空機整備じゃあモノにならなくて教育隊に転属したところまでは同期の噂で聞いている」つまり安川3曹が教えを受けた新隊員教育隊の中隊長の前に航空自衛隊で班長を経験していたと言うことだ。
「ところが何を思ったのか部外で陸上自衛隊に行っちまって今は2等陸佐になっているそうだ」言われてみればエアコンが効いた職場で民間企業にも通じる仕事をやっている航空自衛隊から演習場では野性化しなければならない陸上自衛隊に転換するのはかなり変わっている。
「おまけにアイツが陸へ行ったばっかりに幹部候補生の俺たちの期は定員180名に欠員ができて179名になっちまったんだ。当直学生が集合を報告するのに計算がややこしくって迷惑したぞ」180名と179名なら総数から1名を引けばすむ話のようだが、欠員を理由別に分類しながらの計算には余計な手間ではある。森田曹侯補士が上番する当直士長が連隊当直幹部に報告することはないので実感は湧かないが想像はできた。
「アイツは陸に行ったからアフリカで敵を殺すことになって、帰国して殺人犯にされて刑務所に入ることになった。その一方で司法試験に受かって今では2等陸佐の法務幹部だ。ついているのかいないのか理解不能な奴だよ」正確には裁判中にモリヤ被告が拘束されていたのは東京拘置所であって刑務所ではない。しかし、この家族にはその間違いに気づく者はいない。
「貴方、さっきからアイツ、アイツって言ってるけどモリヤさんは2佐で2つ年上じゃあないの」ここで母が父を嗜めた。母にも3佐で2歳年下の父が見下して良い相手ではないことは判るようだ。この辺りで酒は終わり、話も尽きた。後は酔いに任せて熟睡することにする。
「僕は静岡に住みたいんだ」翌朝、森田曹侯補士は食事中に突拍子もないことを言い出した。どうやら目覚めから起床までの間に考えたらしい。
「静岡って浜松なの」四国出身の両親にとって静岡県は警備小隊長の3年弱を過ごした浜松以外に知識はない。あの時、暮らしたのは引佐郡細江町にあった官舎だった。
「ううん、富士の教導連隊の即応予備自衛官になりたいから住むのは静岡市だね」森田曹侯補士にとって富士の普通科教導連隊は対抗演習で戦死させられた宿敵だ。北の防壁・最強を自負する第3普通科連隊の隊員としては即応予備自衛官として身を置くのはこの部隊しかない。
「静岡に就職したい会社でもあるのか」ここで辛子明太子をのせて口に運んだ飯を飲み込んだ父が訊いてきた。昨夜、思いつきで言った計画に寝ていて発展があるはずがないが、単に自衛隊の進路相談の質疑応答の定型を踏んだようだ。
「僕は子供の頃から『制服を着たお父さんは格好良いなァ』と思ってきたから民間の仕事には興味がなかったんだよ。入間で生まれてからはお父さんの転属で浜松から八雲、那覇から小牧を回って色々な土地に住んだけど、仕事は浜松の小学校で工場に行ったくらいしか見てないよ」この説明に両親は苦くした顔を見合わせた。森田曹侯補士は学力が全国でも極端に劣る沖縄で中学時代を過ごししたため小牧に転属して受験した愛知県の公立高校は全滅で、地元では「恥」と陰口を叩かれている私立高校に入学することになった。それでも曹侯補士に合格できたのは、それ程自衛隊への憧れが強かったからだ。おそらく本土の中学校で学んでいれば順当な高校に進学して大学受験などの選択肢も生まれたかも知れない。何だか全てが裏目に出ているように思えてきて折角の朝食が進まなくなってしまった。
  1. 2019/02/26(火) 10:25:44|
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2月26日・2.26事件で松尾伝蔵陸軍大佐が身代わりになった。

昭和11(1936)年の明日2月26日に発生した2.26事件で襲撃された岡田啓介首相の義弟でもある総理秘書官の松尾伝蔵陸軍大佐が首相官邸で身代わりになって射殺されました。
松尾大佐と岡田首相は共に父親が福井藩士だったこともあり、岡田首相の妹が松尾大佐に嫁ぎ、その後は陸軍と海軍の違いはあっても心底尊敬の念を持って接していたようです。
松尾大佐は明治5(1872)年に福井県福井市で生まれ、陸軍士官学校の6期生として入営すると日清戦争が終結した明治28(1895)年に卒業し、5月に金沢の歩兵第7連隊で歩兵少尉に任官しました。明治30(1897)年からは台湾の歩兵第3連隊、金沢に新設された歩兵第35連隊に移動し、明治33(1900)年には戦術と体育、音楽を教育する戸山学校に入校しています。明治34(1901)年に歩兵第35連隊で中隊長に就任すると明治37(1904)年に勃発した日露戦争に出陣し、旅順要塞攻囲戦や奉天会戦に参加して戦功を揚げました。日露戦争後の明治40(1910)年に少佐に昇任して金沢の歩兵第7連隊の大隊長になり、以降は中佐、大佐への昇任に合わせて福井県の鯖江や宮崎県の都城、栃木県の宇都宮に転属し、大正8(1919)年には宇都宮から歩兵第59連隊長としてシベリア出兵を命ぜられています。
1年半のシベリア出兵を終えて帰国すると大正10(1921)年に予備役に編入されたため福井に戻って福井市議会議員や社会教育長、在郷軍人会会長などを務めていましたが、昭和9(1934)年に尊敬する義兄の岡田啓介大将が内閣総理大臣に就任したため総理秘書官として影で支えることになりました。
岡田首相は常識的に政権を運営していましたが、美濃部達吉東京帝国大学名誉教授による天皇機関説が政治問題化したことで、これを強く批判しなかった岡田首相個人も支持者と看做され、皇道派の過激派将校たちから敵視されることになったのです。
そうして迎えた2.26事件での最期は小説、映画やドラマによって描写が異なっていますが、生還した岡田首相の回想録では栗原安秀中尉が指揮する襲撃部隊は警護の警察官4名を殺害した後、日本間にいた松尾大佐を発見して中庭に引き出すと機関銃で射殺したとのことです。事件後の検屍では全身に弾痕無数、15発以上の弾丸が残っていて即死状態だったにも関わらず頸部を切りつけてトドメを刺してあったと言います。
射殺後、襲撃部隊には遺骸が岡田首相本人なのかを確認できる者がおらず、「深夜に首相官邸に滞在している老人は岡田首相しかいない」と言う推察で断定し、さらに居間の欄間に掛けてあった岡田首相の写真を下ろすのに銃剣で突き刺したため額が割れて顔の中央部が判別不能になり、それで事実誤認のままになって翌日の脱出が成功したのです。
実際は岡田首相が慶応3(1868)年、松尾大佐が明治5(1874)年生まれと6歳差でも岡田首相の頭は5分刈り、松尾大佐は禿げあがっており、容貌も岡田首相は下膨れなのに対して松尾大佐は頬が締まった丸顔なので似たところはなかったのですが、襲撃目標の顔すら確認していなかった計画の杜撰さを露呈する結果になりました。
  1. 2019/02/25(月) 10:09:11|
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振り向けばイエスタディ1474 (かなり実話です)

「貴方はこんな目に遭わされたのに、まだ謙作に自衛隊を続けろって言うの」父の提案を受けて母は再び厳しい表情で反論した。森田曹侯補士としては松山3佐が言っていた2番目の秘策である北部方面総監が交代するまで退職を拒否して士長のまま勤務を続けることを考えているのだが、新隊員でも3選抜=4年以内に陸曹候補生になれなければ将来性を危ぶまれる陸上自衛隊では決して得策とは言えない。
「勿論、それは謙作自身が決めることだ。20歳を過ぎてしまえば俺たちは保護者ではなくてただの親に過ぎないからな」この父の理解は法律によっては間違いがある。少年法では20歳未満の者を少年としているが、児童福祉法では18歳未満を児童として監視する保護者を設けている。さらに精神保健福祉法では精神障害者は年齢に関係なく保護対象だ。
ここで父のお湯割りのグラスも空になったが焼酎は終わっている。そこで母は流しの下から料理酒に使っている飲み残しの日本酒を取り出して父の湯飲みに注ぎ、電子レンジで燗をつけた。
「おう、有り難う。これでビールに焼酎、酒のチャンポンだな」「だから飲み過ぎは駄目よ」父の感謝の言葉に母は表情を緩めた。そんな様子を見て森田曹侯補士は個人的な独断がどれ程大きな影響を他方面に与えるかも弁えていない人物が方面総監と言う要職を占めている陸上自衛隊と言う組織に対して不信感を抱いてしまった。
「僕は即応予備自衛官になって一般社会で働きながら国防の任務を遂行したい」唐突に息子が出した結論に父はむせてしまった。航空自衛官である父は陸上自衛隊の即応予備自衛官の制度については門外漢に近い。業務調整で小倉駐屯地に行った時、予備自衛官の集合訓練を見たことがあるが、かなり激しく鍛えられていてOBが昔取った杵柄を忘れないように体験させているだけの航空自衛隊とは全く違った。しかし、何よりも現役の曹侯補士が即応予備自衛官に転換することが可能なのかには疑問がある。
「それはよく考えて出した結論なのか」「・・・ううん、今思いついた」テーブルの向かいで父子の対話を聞いている母は息子が一般社会で働くと言い出したことに安堵していたが、この答えに少し困惑したようだ。確かに流れから言えば熟慮したとは思えないが、結論としては落とし所を心得ているように思える。
「何かやりたい仕事があるの」即応予備自衛官について考え始めた父に代わって母が確認した。本人が単なる思いつきと告白している割には追及が厳しい。それだけ両親にとっても重大で深刻な問題なのだ。森田曹侯補士も考え込んでしまった。
台所のテーブルに座った3人を中心にBGMなしの重苦しい時間が流れ始める。考える材料を抱えている父子と違って母は2人の顔を見比べること以外にできることがない。やがて父が顔を上げて冷めてしまった燗酒を飲んでから口を開いた。
「兎に角、ここにいる間によく考えて思ったことを話し合うことにしよう。それを持ち返って中隊長に相談しなさい。松山3佐なら何とかしてくれるはずだ」どうやら父は電話で話しただけの松山3佐を全面的に信用しているらしい。森田曹侯補士もそれは変わりないが、中隊の仲間たち、中でも陸曹は年齢と階級が上に行くほど言葉の端々に嫌悪感を漏らしている。やはり陸上自衛隊の常識から逸脱した言動と訓練で先頭に立つだけの運動神経を持ち合わせていないことが許せないようだ。それは精鋭部隊であるが故の筋肉質な体育会系の感情論ではある。
「安川3曹って言う先輩のことは話してるだろう」「うん、同じ小隊の冬戦教に入校した3曹だな」「奥さんが若くてすごく綺麗なのよね」「そうなのか」自宅に電話をすれば話す相手は母が専門だが、それで父に伝える内容には母なりの取捨選択があるようだ。
「安川3曹の新隊員課程の中隊長は松山3佐が3尉の時に仕えた中隊長なんだ。僕が赴任する前の中隊長も一緒だったから陸軍モリヤ学校の同窓生って言われてるんだよ」これは陸曹たちの噂話の聞きかじりだが、つなぎとしては適当なところだ。
「安川3曹は新隊員課程の時の中隊長の精神教育で認められてイラク派遣に選ばれたんだったよな」父の記憶は妙なところで正確だ。これは安川3曹と知り合った頃の人物紹介で母に伝えた内容だが、最近も滋賀方面総監の遺書作成の指示でも同様のことが繰り返されて安田3曹が秘蔵する新隊員課程の精神教育ノートの威力を実感している。
「ところでモリヤって航空から陸に転換した奴じゃあないか」「うん、そう聞いてるよ」「それなら俺の曹侯の同期だぞ」これは意外過ぎる事実だ。父は航空自衛隊で言う曹侯、陸上自衛隊で言う曹学の7期生で部内の1選抜で幹部になったことは聞いている。
「アイツは本当に変な奴だったぞ。使いようによっては比類なき逸材だが、使えない奴には取扱不能の危険物だ」本題からは離れるがこれは安田3曹への土産話になりそうだ。
  1. 2019/02/25(月) 10:07:39|
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「人に佛性有りや、無しや」

「猫に佛性有りや、無しや」これは碧厳録63則、64則と無門関14則の「南泉斬猫」に出てくる公案です。
その顛末は「ある日、現在の安徽省池州市にあった南泉普願和尚の禅院の東堂と西堂の雲衲たちが猫を巡って争っていました。猫は経典や佛具をかじる鼠を捕るため重宝がられていたのです。そこに和尚がやってきて猫を片手で掴み上げると逆の手に持っていた刃物を突きつけて雲衲たちに『猫に佛性有りや、無しや』と問い、『答えなければこの猫を殺すぞ』と迫りました。しかし、誰も答えることができず和尚はその場で猫を斬り殺したのです。ところが夕方、高弟の趙州が帰ってきてこの話を聞くと脱いだ靴(日本の禅寺では草履にすることが多い)を頭に載せて退室したので、それを見た和尚は『お前がいれば殺生を犯さずにすんだのに』と嘆いた」と言うものです。
公案は理屈ではなく感性で答えるため臨済宗の雲衲たちは公案になり切ろうとします。したがってこの公案が与えられると雲衲たちは「ニャー、ニャー」と鳴き始め、中には四つん這いになって歩き回る者もいますが、それも演技のうちは不自然=不徹底です。
余談ながら野僧の従弟が京都の宇治にある曹洞宗の僧堂で安居している時、典座(調理場)に忍び込んで捕まった野良猫を古参の修行僧たちが門前のダム湖に沈めて殺そうとしたので、猫好きの従弟が止めると「禅寺では猫を殺しても良いんだ」と答えて猫を入れた網を投げ込んだそうです。公案を知らない曹洞宗の聞きかじりの悪用は殺生になります。
小庵の飼い猫の若緒(にゃお)が事故死して1週間が過ぎましたが、その後も母猫の音子(ねこ)は天気に関わりなく若緒の行動範囲を探し回り、声が嗄れるまで呼び続けていました。庵内も納戸から天井裏まで探し、閉めてある部屋の障子の前で鳴いて開けさせると若緒が潜り込んだ家具の隙間や押し入れの布団の間まで確認し、中でも若緒を産んだ段ボールは蓋を擦って「開けろ」と要求し、何時までも底の臭いを嗅いでいました。
そんな4日目には若緒が下りられなくなった隣家の倉庫の屋根に上がって念入りに確認し、最後は事故現場の方向をかなり長時間眺めた後、ようやく区切りをつけたようです。
若緒の方も事故死は病死と違って「死んだ」と言う自覚がないため明け方には生前のように野僧の布団に乗っていて(体重と足の動きを感じた)、音子が不在時も庵内で首輪の鈴の音が響いていましたが、こちらも音子に合わせて収まりました。
ところで若緒は悪友の野良猫と遊び回っていたため藪で毛に絡みつく草の種を全身につけて帰ってきて、最近は音子も同様のことになっていたのですが、若緒の死後にはそれが全くなくなりました。つまり音子は若緒に付き添うために藪に入っていたのであって本猫としては嫌だったのでしょう。
このような音子の母性を佛性と呼ぶかは宗教だけでなく動物心理学まで介入してきそうですが、最近のニュースで連日のように報道されている人間の皮をかぶった獣のような親たちによる我が子への虐待を見ていると、そのような人間よりも音子の方が母性は強く、愛情が深いことは間違いありません。果たして「人に佛性有りや、無しや」
は・音子・19・2・18この姿勢で5分以上動かなかった。
  1. 2019/02/24(日) 10:55:06|
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振り向けばイエスタディ 1473(かなり実話です)

「お前の中隊長は松山3佐って言ったかな。中々喰えない人間みたいだね」焼酎のお湯割りが少し効き始めた頃、父はようやく本題を語り始めた。森田曹侯補士としては父の意外な一面を知って息子と同時に自衛官としても敬意を抱いたのだが、この問題を避けて通ることはできない。
「うん、東京6大学出身のエリートだけど自衛隊に染まる気は全くないみたいだ。中隊の陸曹たちもおっかなびっくりで仕えてるよ」この説明に父も納得したように苦笑した。
「俺が『民事訴訟を起こす』って脅しをかけたら『待ってました』みたいな口調になって、えらく具体的な段取りを説明し始めたんだ」今度は呆れたように話を続ける。森田曹侯補士は着任して早々に今回の問題の説明を受けた時の松山3佐の意見を思い出してうなずいた。
「それでお父さんは本気で訴訟を起こす気があるの」ここでグラスのお湯割りを飲み干したは森田曹侯補士は息子として父の本意を確認した。本来は固唾を飲むべき場面かも知れない。
方面総監の独断によって将来を奪われる曹侯補士とその家族が民事訴訟を起こせばマスコミが飛びつくのは至極当然で、現在の民政党政権が自衛隊側に立つことはなく逆に厳しく批判し始めるのは目に見えている。ところがそうなって責任を問われるのは北部方面総監・滋賀徳次郎陸将ではなく部下に訴訟を起こさせた第4中隊長であり、第3普通科連隊長なのだ。息子の質問に父の森田3佐はお湯割りを口に運んでから答えた。
「俺が民間人だったら迷うことなく弁護士を雇って民事訴訟を起こすぞ。誰がどう考えても採用時の雇用契約違反だし、不当人事なのは確かだ。そうなれば職権乱用での告発も可能になる」父は「民間人だったら」との前提で語りながらも興奮気味だ。
「民事訴訟で今回の人事が取り消されればお前は予定通りに3曹になれる。陸上自衛隊を相手に訴訟を起こしたことを瑕疵にするのは法的に許されない・・・あくまでも建て前ではだ」ここで父は口ごもった。父も自衛隊生活が20年に迫っており、必ずしも綺麗事だけではないことは十分に噛み締めている。それは先ほどまで語っていた自分自身の経歴・人事も同様だ。
「しかし、俺は3等空佐だ。第3術科学校7科長の職にある。例え北部方面総監の不当人事に抵抗するために起こした訴訟でも自衛隊的には航空自衛隊の幹部が私的な理由で陸上自衛隊の将官を告発したことになる」ここで森田曹侯補士は父の目が潤んでいることに気がついた。それが無念の悔し涙であることは4年間の自衛隊生活を通じて森田曹侯補士にも理解できるようになっている。ところが母が真顔になって口を挟んできた。
「それじゃあ貴方は自分と部隊の立場のために謙作に泣き寝入りしろって言うの」これは母親の本能的な怒りのようだ。日頃の母は良き家庭人でもある父に全幅の信頼を置いて絶対服従している。このように厳しい表情と激しい口調で感情を露わにしたところは見たことがない。
「それは違うよ。自衛隊って組織は最大多数の利益のために少数を犠牲にすることに躊躇しないんだ。今回、僕はその少数になってしまっただけだよ。だけどお父さんは3等空佐、7科長と言う立場にある以上、最大多数の陸上自衛隊と航空自衛隊の関係悪化の原因になることはできないのは当然じゃあないか」「・・・そんなのって変じゃない」やはり自衛官の妻生活20数年の母にもこの不当人事に従おうとする夫と息子の判断は理解できないらしい。
「そう言えば中隊長は僕を3曹にするためのアイディァを考えてくれていたんだ」森田曹侯補士は母の自衛隊不信を和らげるため松山3佐が提案してくれた昇任への方策を説明し始めた。ここで母がお代わりを作ろうとすると飲みかけだった焼酎の5合ビンが残り少なくなっている。母は夫である父の承諾を得て最後までグラスに注ぎ、お湯で割った。
「中隊長は僕を西部方面隊以外の他方面隊に転属させようとしてくれたんだ」「どうして西空は駄目なの」母は聞き慣れている西部航空方面隊の略称を口にしたが陸上自衛隊では「西方」だ。
「それは西方も同じ人事をやろうとしているからだ」森田曹侯補士の前に父が説明した。それで父も下調べをしていたことが判った。
「それにしても若い割に松山3佐は肝が座ってるな。陸は四角四面の型通りに考えられない癖にハッタリばかりが強くて、それでイザとなると腰砕けになる連中ばかりだと思っていたが、平気で方面総監に逆らうんだから大したもんだ」ここで父はあえて息子が所属する組織を揶揄した。演習場での訓練を本業とする陸上自衛隊には24時間態勢で対領空侵犯措置と言う実戦を遂行し、墜落すれば生命を失う航空自衛隊のような覚悟がないのは確かだ。あるのは組織内の常識の中で相互監視しながら自分の野心を実現するための駆け引きだけのように見える。
「お前、陸を辞めて航空に入り直すか。年齢としては22歳だから大卒で入隊するのと変わらない。警備教導隊に配属されればこれまでの経験が活かせるから3曹昇任も遅くはないぞ」意外な提案に森田曹侯補士は母と顔を見合わせて小さく首を振った。
  1. 2019/02/24(日) 10:52:58|
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2月23日・ロシアの「男性の日」

ロシアの2月23日は「男性の日」なので女性が男性に記念品を手渡し、感謝の言葉を贈る習慣があります。
日本のこの手の行事はヨーロッパやアメリカの風習を企業が販売促進に利用しようとして喧伝したことで始まったものが大半ですが、これは歴史的経緯が全く違います
この日はソ連時代の1949年までは「赤軍(=ソ連共産党軍)の日」、1991年にソ連が崩壊して2年後まで「ソビエト陸海軍の日」、それ以降は「祖国防衛の日」と呼ばれ、1918年の2月23日に前年のロシア革命から各地で皇帝派との国内戦を繰り広げていた赤軍がエストニアとの国境に近いプスコフから55キロ付近で侵攻していたドイツ軍との間で戦闘になり、これを撃退した日とされています。つまり赤軍が初めて外国軍に勝利した日だからソ連にとっての「祖国防衛の日」なのですが、独ソ両軍の公式資料にはこの時期に当該地域に部隊が存在した記録はなく、「戦闘が発生した」と言う報告もありません。雑兵の集団だった赤軍は兎も角として参謀制度が確立していたドイツ軍にも記録がないことから見てこの戦闘は虚構の可能性が高いようです。
ところがヨシフ・ヴィサリオヴィッチ・スターリン書記長がアドルフ・ヒトラー総統と手を組んで第2次世界大戦に向かう20年の間に史実として定着し、戦後には第2次世界大戦での勝利を加えて「赤軍による対独戦勝利の切っ掛け」と位置づけられるようになり、それが現在まで継承される中で発展したのが「男性の日」です。
当初は主に軍人に敬意を表し、感謝を捧げる意味合いが強かったのですが(野僧がモスクワ放送を聴いていた頃はそのように説明していた)、ソ連が崩壊してロシアと西側の交流が盛んになったことで1975年に国際連合が採択した3月8日の「国際女性デー(IWD)」が導入されたため、これに対する全ての男性の日に変化したようです。
ちなみに「国際女性デー」は1904年にアメリカの女性労働者たちが参政権を求めるデモ行進を起こしたことを記念したものです。一方、11月19日の「国際男性デー」は11月を「男性の健康と病気に関心を持つ月間」としている団体があること(世界保健機関ではない)と1999年のこの日にトリニダード・ドバコで記念行事が始まったこと以外に特別な由来はなく、記念行事も36カ国の非公式な団体が主催しているだけです。
このためロシアでは2月23日の方が国民に定着していて男性たちは至福の1日を過ごすようです。確かに自然環境が厳しいロシアでは逞しい男性の存在なくして社会生活は維持できず、家族が生存することも難しいため感謝の想いを捧げるのは当然なのかも知れません。
この記念日が好ましいのは由来が赤軍の戦勝であるにも関わらずソ連やロシアではお決まりの軍事パレードが開催されないことです。やはりソ連共産党や現在のロシア政府と軍当局も根拠のいい加減さを認識しており、ドイツに抗議された時に反論できないことを自覚しているのでしょう。
日本で同じように男性の存在の大きさを女性・社会が自覚し、感謝するような史実はないかと考えてみましたが、「元寇」でもオチは神風になっていますから思い当たりません。
  1. 2019/02/23(土) 09:46:27|
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振り向けばイエスタディ1472(かなり実話です)

森田謙作曹侯補士は年末年始休暇で3年ぶりに親元へ帰省した。ただし、入隊した頃、父の森田1尉(当時)は小牧基地の管理隊長だったので福岡県の芦屋基地へ行くのは初めてだ。
「謙作、おかえり」福岡空港には両輪が迎えに来ていた。今回は少し早めに休暇をもらった関係で航空券は取れたが、やはり大学の冬休みで帰省する若者たちで混雑している。
「ただいま。ご無沙汰しています」到着ロビーに出ても後ろがつかえるため立ち止って挨拶もできない。父は母を促してロビーの隅の人の流れから外れた場所へ移動した。
「元気そうだな」「少し背が高くなったんじゃあないの」両親は息子の成長を確かめているが息子は「両親が小さくなった」と感じていた。来年は父が48歳、母は44歳になる。
その日は自宅での夕食の後、父と酒を飲みながら今回の問題を話し合った。父には部隊から電話して今回の人事についての説明はしてある。父も中隊長の松山3佐に電話して質疑応答をしたようだ。したがってここからは建前なしの本音で進めていく。
「陸上自衛隊と言う組織は人間が戦力だから、航空自衛隊が航空機やレーダーを大切にするように隊員を守り、器材を使いこなすみたいに鍛えるのかと思っていたが、それは完全な買いかぶりだったようだな」互いにグラスに注ぎ合ったビールで乾杯した後、父から切り出した。父は松山3佐にも同じ台詞を言ったらしい。
「俺は『人は城、人は石垣、人は堀』と言う武田信玄公の家訓は陸上自衛隊にも通じると思っていたよ」そう言って父は1杯目のビールを飲み干すと手酌で2杯目を注ぎ半分飲んだ。
父はバブル景気の末期で究極の募集難だった頃に浜松基地で警備小隊長になり、質が悪い隊員たちを抱えて相当な苦労をしたようだ。だから父は知能や性格傾向などの適性検査で事務的に職種を決める航空自衛隊よりも陸上自衛隊、それも最前線の北部方面隊を勧めたのだ。
「陸上自衛隊では自己判断が規律違反のように扱われるんだ。だから上の人間が間違ったことを命じると幹部たちは黙ってその間違った命令を下にやらせる方法を考えるだけ。それを上級陸曹が受け給わって組織として間違ったことに万全を尽くしている。そんな組織なんだよ」これは今回の件だけでなく以前、安川3曹に対する吾妻1尉の仕打ちを見ていても感じた疑問だ。あの時は吾妻1尉個人の感情に基づく安川3曹に対する執拗な嫌がらせを制止する者は誰もいなかった。むしろそれに反発する者を探し出して吾妻1尉に御注進する陸曹が多かったように思う。そのため吾妻1尉が解任されなければ森田曹侯補士自身も標的になり掛けたのだ。
「航空自衛隊だって大差はないぞ。俺だって空曹時代はA&W(エーシャン・ダブリュー=警戒管制員)だったがお母さんの弟が大学に入って妙な組織に加入したから特防秘(特別防衛秘密取扱者適格性審査)が通らなくなったんだ。だから移警隊(移動警戒隊)で勤務した経験を活かせる輸送幹部になったんだが浜松で不祥事を押さえられない警備小隊長が解任されて交代することになった」この辺りの経緯は森田曹侯補士が小学生の頃なのであまり記憶にない。それでも叔父が大学で共産党の下部組織である民主青年同盟に入って反自衛隊のデモに参加していた話は母の実家に行った時の酒席で聞いたことはある。
「ところが警備小隊を警備戦闘の専門部隊、対テロ部隊にすることに目覚めて研究と訓練に明け暮れたんだが、空幕輸送室は輸送小隊長を経験しなければ管理隊長にはしないと言ってきて八雲の高射隊の管理小隊長になったのはお前も憶えているだろう」父は浜松では60名の小隊員を抱えていたが八雲では12名になった。それが輸送幹部の人事を取り仕切る空幕輸送室が「経験しなければ管理隊長にはしない」と言う輸送幹部配置の小隊長だったのだ。
「貴方、そろそろ焼酎に。謙作は」「うん、俺も焼酎にする」そこで黙って話を聞いていた母が立ち上がって焼酎の5合ビンと大き目のグラスを持って来るとテーブルの上の電気ポットでお湯割りを作って2人の前に置いた。やはり冬場にビールは身体を冷やしてしまう。
「今だから言うが俺は空幕長と決めていた人事計画があったんだ」お湯割りを口にした父は少し安堵した顔になり意外な秘話を語り始めた。それにしても部内出身の3等空佐に過ぎない父が航空幕僚長と直接つながりがあったとは驚きだが真顔なので事実のようだ。
「その幕長は浜松時代の基群(基地業務群)司令だったんだが、俺が進める警備小隊対テロ部隊化訓練に賛同してそれを全空自に普及させる構想を2人で立てていた。先ず俺の職種を警備幹部に変更して1尉になったら在外公館警備官として海外勤務を経験して帰国すれば幕長の下で警備の改革と教育に力を注ぐはずだった」思い掛けない壮大な秘話に森田曹侯補士は父の顔を凝視した。若しそれが実現していれば中学校は海外で過ごすはずだったのだ。
「それでも空幕輸送室は『管理隊長になれば警備小隊も指揮できる』と言って職種変更を認めなかった。それが自衛隊の人事と言うものだ」そう言って父は冷めかけた焼酎を一気飲みした。
  1. 2019/02/23(土) 09:45:25|
  2. 夜の連続小説8
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2月22日・生まれる場所を間違えた俳人・富安風生の命日

昭和54(1979)年の2月22日は生まれる場所を間違えた故に地元では全く評価されていない俳人・富安風生さんの命日です。94歳でした。
富安さんは明治18(1885)年に野僧が修羅・畜生・餓鬼の三悪道のような中学時代を過ごした当時の愛知県宝飯郡一宮町の大字金沢、現在の豊川市金沢町で生まれました。
生まれた頃の金沢は現在の豊橋市だったこともあり、旧制中学校は旧吉田藩の藩校を前身とする現在も東三河で君臨しながら愛知県では上位10位にも入っていない某進学校に入り、そこから旧制第1高等学校、東京帝国大学に進み、卒業後は逓信省に就職しました。
俳句を始めたのは比較的遅く、その切っ掛けは34歳だった大正7(1918)年に福岡貯金支局長として赴任した時、地元の俳人の手ほどきを受けたことでした。翌年、高浜虚子さんが福岡を訪れた時に面会したことで「ホトトギス」に投句するようになり、大正8(1919)年に本省に戻ると東京帝国大学俳句会の結成に関わりました。
その後も作句と投句を続け、昭和3(1928)年には逓信省内の俳句雑誌「若葉」の選者になり、さらに主宰になっています。なお逓信省は後の郵政省なので全国各地に多くの職員を抱えており、省内の雑誌とは言え規模が大きく富安さんの指導によって俳人として世に名を知られることになった人物も少なくありません。ちなみに逓信省=郵政省の俳句雑誌「若葉」の主宰は亡くなるまで富安さんが続けていました。
昭和4(1929)年には「ホトトギス」の同人になり、その頃には逓信次官の要職に就きながらも句作は続け、昭和11(1936)年に職を辞してからは俳人としての生活を始めました。
そんな富安さんの俳句は優等生的であまり個性がなく面白みに欠けると言われていますが、師に当たる高浜虚子さんは「中正・温雅」「穏健・妥当な叙法」と評価しています。早い話が教科書的作風と言うことでしょう。その一方で文芸評論家の山本健吉さんは「山口誓子や中村草田男らは仕事の傍ら行っていた俳句への打ち込みによって余技の域を脱していたのに対して富安風生のそれはどこまで行っても余技として嗜む遊俳の感じがつきまとう」と酷評とは言わないまでも没個性、定型性を揶揄しています。
野僧が中学生だった頃には富安さんは存命でしたが地元では全く名前を知られておらず、中学校の図書室にも出身地近くを流れる用水の川岸に立つ「里川の 若木の花も なつかしく」の句碑の拓本と顔写真が飾られ、富安風生全集が書棚に置いてあるだけでした。野僧はその頃から俳句や短歌、詩が趣味だったため興味を持って借りて読みましたが、図書カードの第1号でした(卒業時に確認すると野僧だけのままでした)。
野僧が高校時代に亡くなっても地元では追悼式や顕彰行事は開かれず、「郷土の偉人」にする気は更々ないようでした。おまけに愚息2の小学校が出身校だったためPTA役員だった野僧が「富安風生記念俳句大会」の開催を提案すると「選者がいない」とにべもなく却下されたのです。余談ながら野僧が持っていた富安風生句作集はスリランカの大学の図書館に寄贈して日本語学専攻の学生たちの俳句研究の教材になっているようです。
  1. 2019/02/22(金) 10:53:21|
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振り向けばイエスタディ1471

「最終弁論までは何とか所望の戦果を上げることができたが問題はここから先だぞ」最終弁論の翌日、統合幕僚監部首席法務官室に集まった私たちに向かって首席法務官・境1佐は厳しい顔をして見解を披歴した。昨日は境1佐も傍聴人席で最終弁論を見ていたのだが、問題は公判そのものではない。日本の司法制度の構造的欠陥は判事と検事が共に法務省の職員=国家公務員であり、弁護人だけが個人経営の私人であることだ。だから法廷では判事を裁判官、検事を検察官と「官」を付けるのに対して弁護士は弁護人と呼ばれている。その点、私は自衛官だがこの「官」は法廷では何の権能も持たない。
「今回、検察官は裁判官の信頼を失墜しましたが、それでも千石官房長官からの圧迫を訴えて同情を買うなどして全面無罪ではなく過失を一部認めさせるように仕向けるんでしょう」「おまけに大阪地検の不祥事がありましたから苦しい立場を訴えるには格好の材料です」確かに本来、公正中立であるべき判事が同じ法務省の職員である検事に同僚的な親近感を抱き、立場を慮る(おもんばかる)ことが横行していると聞く。判事と検事、弁護士が公判に関する話し合いを持つ機会は平等に与えられ、三者が同席するのが原則だが、検事は口実を作って判事に会い、自分の苦しい立場を訴えることで判決や量刑に手心を加えてもらうこともあるそうだ。
「わずかな過失でもマスコミは『有罪』と書き立てて事実化します。そうなれば前潟3佐と大岩3佐の職務復帰は2審、最高裁の判決まで延期になりかねません」牧野弁護士、滝沢弁護士の後に私が補足的な見解を述べたが、これだけは自衛隊の内部事情に関係している。
「やはり判事と検事の接触を監視しなければなりません。阻止はできなくても問題化することで影響を削ぐことは可能でしょう」「流石は陸上自衛官、発想が政治的だな」私の提案に境1佐が変な賛辞を与えた。確かに帝国陸軍では山口陸閥が政治権力の奪取と行使を専らにして日本を軍国化する元凶になっていたが、陸上自衛官は「政治的活動に関与せず、強い責任感を持って専心職務の遂行に当たり」の服務の宣誓に忠実なのだ。
この手の話題はやはり個人経営の私人である弁護士2人は門外漢のようで黙って境1佐と私の顔を見ている。こうなると若干は政治色を帯びた作戦会議になってしまう。
「この場合、情報収集が目的ではありませんから威示行動として存在を誇示するべきでしょう。横浜地裁に入庁する者に自衛隊が見ていることを認識させるためには制服を着た隊員を玄関付近に張り付けるだけで十分です」「その隊員に検事たちの顔写真を持たせて指名手配するんですね」刑事事件が専門の滝沢弁護士は警察の捜査手法を模倣すると考えたようだ。
「そこまでやれば完璧ですが隊員を長期間拘束する公的根拠がない。だから噂として法務省に漏らした上で数週間だけ実際に張り付けて、それを見た人間が検事に伝えて接触を躊躇させれば十分でしょう」「確かに接触するのは検事からのみだから地裁に立ち入れなければ事実上は阻止できますな」流石に牧野弁護士とはつき合いが長いので私の思考形態をよく理解している。
「やはり陸上自衛隊には帝国陸軍以来の政治的風土が残っているんだね。その点、我が海上自衛隊は海が職場だから陸(おか)の上のことは門外漢だ」私の作戦私案を聞いて境1佐は皮肉に笑いながら自分の指摘が正しかったことを得心していた。
「陸上自衛隊に限らず陸軍と言うのは占領地の行政も任務に含まれますから海空よりは政治性があるのかも知れません。しかし、戦前の名宰相・鈴木貫太郎大将と米内光政大将は海軍でしょう」「うん、特に米内閣下は別格だったね」私は元来、海軍少年だったので帝国海軍に関する知識は並みの海上自衛官に引けは取らない。この反論に境1佐も黙ってしまった。
早速、私はハーグにある国際法裁判所の公判記録の入手先の1つである法務省の知人に電話をした。国際裁判所は外務官僚の天下り先になっているため法務省は積極的には関わっていないのだがやはり疎遠にはできないらしく、外務省よりも詳細な資料を提供してくれる。
「モリヤ弁護士のことだから虚偽告訴罪での告発を考えているんだろう」電話口でいきなり知人はこちらが秘かに考えていることを指摘してきた。こうなれば占めたものだ。
「うん、向こうが控訴するなら対抗措置として発動するかも知れないな」これは無罪判決を前提に言っているのだが知人は指摘しなかった。
「・・・同じ国家公務員同士なんだから、あまり事を荒立てないでくれよ」知人は平静を装いながらも懇願するように答えた。やはり法務省内ではその可能性を危惧しているようだ。
「その前に検事が判事に接触しないかを監視して、確認すれば政治問題化することにしたよ・・・おっと口が滑った」「自衛隊にはプロが揃っているからな」演技としては非常に臭かったが知人は重く受け止めたらしい。この二滴が波紋になって検事の耳に届くまでに何日かかるのか。今日から横浜地裁の前では某機関の隊員が制服姿で立哨している。
  1. 2019/02/22(金) 10:51:48|
  2. 夜の連続小説8
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左翼映画人・佐藤純弥監督を追悼する。

戦後の日本映画を娯楽性無視の反日思想を喧伝する道具にしてきた左翼映画人の1人である佐藤純弥監督が死去していたことが2月9日に公表されました。86歳だったそうです。
野僧の世代で佐藤監督の作品と言えば角川映画の森村誠一シリーズの「人間の証明」と「野性の証明」でしょう。この2作品は映画と本の両方で儲けようとする角川出版の経営戦略が功を奏して大ヒットしましたが、これらでも左翼映画人が主張する反日反米親ソ親中感情が色濃く塗り込まれていて、「人間の証明」では占領下で進駐軍兵士の子供を身籠った日本人女性の悲劇と言う演出で全編が統一されていました。見どころとしては再会を果たした母親に刺されたジョー山中さん(主題歌も唄っていた)の壮絶な演技と殺害容疑で逮捕される前、母親役の岡田茉莉子さんが谷底に向かって麦わら帽子を投げ、それが空気力学的に有り得ない長時間飛び続ける場面くらいでした。
続く「野生の証明」では原作には全く出てこない陸上自衛隊と主演の高倉健さんの死闘の物語にしていました。早い話が陸上自衛隊は仇役でした。野僧は後輩とこの映画を見に行きましたが、自衛隊志望を知っている彼女は「こんな恐ろしいとことに入らないで」と涙を浮かべて訴えましたから映像効果は十分だったようです。
尤も、原作者の森村誠一さんは中国戦線で衛生業務に当たっていた関東軍防疫給水部本部=通称・731部隊(指揮官・石井四郎中将)が毒ガスや細菌兵器の開発を行い、捕虜や住民を人体実験に使っていたとする虚構の「悪魔の飽食」をノン・フィクションとして日本共産党の新聞赤旗に連載していましたから同志のような関係なのでしょう。
その一方で佐藤監督は東映任侠映画シリーズを数多く手掛けていて、それらの作品の主演俳優だった高倉健さんとは1970年代の脱任侠路線の「ゴルゴ13」「新幹線大爆破」「君よ憤怒の河を渡れ」でも一緒に仕事をしています。
この中の「君よ憤怒の河を渡れ」は無実の罪で投獄される高倉さんの迫真の演技が文化大革命で同様の苦衷を味わった中国の大衆に大きな感動と共感を与え、佐藤監督の名は日本映画界の巨匠として知れ渡ることになりました。
そうして手掛けたのが日中国交10周年記念作品の「未完の対局」ですが、ここでも日本陸軍を任侠映画の悪役暴力団のような描き方をしていて、特に三国連太郎さんが預かった中国人棋士の息子と結婚した紺野美沙子さんを取り調べた憲兵が拷問として凌辱を加えたような表現は元憲兵の孫である野僧には絶対に許せない虚構です。残酷な拷問は特高警察の常套手段であって憲兵が民間人を逮捕・拘束・取り調べるのは主にスパイ容疑ですから、紺野さんを取り調べる必然性がありません。
「男たちの大和」についても同様で、個性的な古参乗組員たちの男気と勇姿を打ち消すようにお涙頂戴の母親の苦衷を挟んで反戦を際立たせる構成になっていました。
そんな佐藤さんには「敦煌」や「空海」などもありますが、所詮は宗教心がない人間の作品でした。この冒涜に佛罰が下らないと良いのですが閻魔大王の裁きは厳正ですからどうでしょう。大人しく因果応報、自業自得で決められたところへ逝って下さい。
  1. 2019/02/21(木) 10:33:21|
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振り向けばイエスタディ1470

「続いて弁護側の最終弁論を行います。弁護人、意見陳述をどうぞ」裁判官に指名されて牧野弁護士が立ち上がった。今日の担当が牧野弁護士であることは席順から見ても明らかなのだが取材記者たちは不満そうな顔をしている。どうやら現職自衛官である私が法務省職員の検察官を批判する対決劇を期待していたらしい。
「本件につきましては本来、平成21年1月30日付で確定した横浜地方海難理事所による裁定から論じなければなりませんが職務権限から逸脱しますから控えます」昨日までに最終弁論の内容については十分に協議しているので熟知しているのだが、こうして改めて耳にすると痛烈な初突だ。やはり検察官たちは重苦しい表情で互いに目配せをした。
「先ほど検察官は海上自衛隊の護衛艦・あまごに海上衝突予防法第14条で規定されている回避義務があったと申し立てましたが、それは証拠採用されなかった虚偽の航海図に基づく見解であって、当法廷で裁判官が認定した航海図においては護衛艦・あまごと新勝浦漁協所属の漁船・軽得丸は相互に進路と速度を維持していれば通過できるの位置関係にありました」私であればここで検察側の虚偽の証拠の捏造を指弾して大阪地方検察庁と同様の犯罪行為であることを示唆するのだがその点、牧野弁護士は民事訴訟の専門家だけに控え目だ。
「それは検察側が軽得丸との距離や方位を偽証させようとした僚船の船長の当法廷における証言でも明らかです」ここで牧野弁護士の意見陳述はやや攻撃性を帯びてきた。
「漁船に乗っていた2人が死亡しているためこれはあくまでも当法廷における公式な推定ですが、おそらく大型船の後方を通過するとスクリューによって生じる波で小型船は大きく動揺するため軽得丸は前方を横切ろうとしてあまごに接近してから面舵を切って右に転舵し、自ら艦首に突入したと考えるのが合理的かつ科学的な衝突原因です」最終弁論では検察・弁護双方が意見陳述中の問題点の指摘をしないため内容はさらに厳しくなる。
「確かにあまごの洋上監視は艦橋内から窓ガラス越しに実施していましたが、艦橋内の照明は極限されており、窓ガラスも防曇性(ぼうどんせい)の物を使用しており、同様の双眼鏡を使用していましたから視程距離に大差がないことは証拠採用された検証実験の結果でも明らかです」ここからは検察側が主張したあまごの過失に対する反論になる。先ずはあまごの洋上監視が艦橋内で行われていた問題だ。我々はこれを過失と指摘された時の反論を根拠づけるため実際にあまごを同じ月齢の夜間の洋上に出して軽得丸と同様の照明を点けた小型船を発見できる距離を測定した。境1佐の要請を受けた海上幕僚監部は「あまごを現場海域に回航させて測定する」と言っていたが証拠として提出する時間的事情でこうなった.。それでも証拠採用されている。
「次に被告人・大岩智人と被告人・前潟啓一郎の当直士官交代時の引き継ぎ、自衛隊では申し送りと呼んでいますからこちらを用います。被告人・前潟啓一郎は護衛艦・あまごの航海長であり、複数の漁船の存在と行動を確認した上で被告人・大岩智人に交代しても問題はないと判断して十分な申し送りを実施して交代しています。その内容の適切性については被告人2名の証言に齟齬がないことでも事実と認定されて証拠採用されています。なお被告人・大岩智人は護衛艦・あまごの水雷長であっても航海中は24時間態勢で操艦機能を維持する護衛艦の士官として指揮には熟練しており、専門職の隊員たちとの共同作業ですから通常の航行には何も支障はありません」公判が始まった頃であればこのような反論に漁民たちが興奮して騒ぎ始めたものだが、傍聴を重ねる間に同じ海の男として海上自衛隊側の法令を厳守する艦艇運航を理解し、どちらが正論であるかを判断しているらしい。
「したがって被告人・大岩智人、被告人・前潟啓一郎には本件における原因となる過失はなく、海上衝突予防法第14条の回避義務違反と行会い船の順守事項は無罪、海上衝突予防法第5条の見張り不十分は無罪、海上衝突予防法第7条の衝突のおそれの防止は無罪、海上衝突予防法第8条の衝突を避けるための動作は無罪、そして刑法211条の業務上過失致死は無罪であり・・・以上により被告人・大岩智人並びに被告人・前潟啓一郎は無罪であることを陳述いたします」牧野弁護士は検察官とは違い、あまり間(ま)を空けずに結論を述べた。
「被告人、この場で陳述したいことがあればどうぞ」ここで裁判官は弁護人席の隣りに座っている2人の被告人の顔を見ながら声をかけた。すると前潟3佐が手を上げた。
「前潟被告人」「はい、失礼します」指名を受けた前潟3佐は規律すると自衛隊の教練で方向転換をして10度の敬礼をした。法廷内に靴の踵が鳴る音が響いた。
「検察官は我々に『謙虚になれ』と繰り返しましたが、その言葉をそのままお返しします。我々は事故以来3年間も一瞬の油断も許されない国防の任務から遠ざけられてきました。我々を1日でも早く元の職務に復帰させて下さい」これを聞いて裁判官は深くうなずいた。
  1. 2019/02/21(木) 10:31:45|
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スイス人俳優・ブルーノ・ガンツさんの逝去を悼む。

2月16日に2004年公開の傑作「ヒトラー・最期の12日」で記録映画かと思わせるようなリアリティがあるアドルフ・ヒトラー総統を演じ、2015年には母国の名作「ハイジ・アルプスの物語」で日本のアニメを現物化したようなアルムおんじを見せてくれたスイス人俳優・ブルーノ・ガンツさんが亡くなったそうです。77歳でした。
野僧はドイツの映画会社に勤めている友人が送ってくれるDVDでドイツ映画を鑑賞していますがガンツさんの主演作品についてはこの2作品だけです。友人はガンツさんの作品の中では「Der Himmel Uber Berlin・邦題=ベルリン・天使の詩」がお勧めのようですがまだ届いていません。ただし、字幕が入っていないので「ハイジ・アルプスの物語」は宮崎アニメの台詞を場面と重ねながら鑑賞しました。「ヒトラー・最期の12日」については日本語版を入手してようやく理解できました。
ガンツさんはヨーロッパでは第2次世界大戦が始まっていた1941年にスイスで生まれましたが、父親はドイツ人、母親はイタリア人の枢軸国出身者同士の夫婦だったようです。
「ヒトラー・最期の12日」では身長の低さに劣等感を抱いていたとされるヒトラー総統そのままにガンツさんも背が低く適役でしたが、実際のヒトラー総統は175センチだったのに対してガンツさんは168センチといささか強調し過ぎていたようです。
野僧が印象に残っているのはヒトラー総統が老眼鏡をかける場面で、56歳で死んでいるので照明が不十分だった当時なら有り得る描写でしょう。
その後、ヒトラー総統を演じた役者と言えば2015年公開の「帰ってきたヒトラー」のオリヴァー・マスッチさんがいますが、こちらはガンツさんが出演当時62歳だったのに対して同46歳なのでかなり若く精力的な印象がありました。
容貌についてはヒトラー総統自身が髪型や髭、表情などで個性を強調していただけに役作りに関係なくどちらもよく似ていました。
一方、「ハイジ・アルプスの物語」はスイスとドイツの共同制作であるにも関わらず登場人物が何故か宮崎駿監督のアニメ「アルプスの少女・ハイジ」に似ていておんじの衣装は灰色の上着に焦げ茶色のチョッキと茶色のズボン、クララの青いワンピース(生地には細かい柄が入っている)、眼鏡を掛けていないロッテンマイヤーの濃紺のワンピースなどの服装はそのままでした。ただし、ハイジの赤いワンピースと黄色いシャツ(冬は長袖になるものの)やペーターの一張羅は実際のスイスの子供たちは着ていないようでもう少し個性的です。
それにしてもこの作品はハイジ役のアヌーク・シュテフェンが可愛ゆ過ぎてガンツさんのおんじを喰ってしました。むしろクララ役の正統派美少女・イザベル・オットマンの方が記憶に残っています。
ハリウッド映画ばかりが持て囃される日本でドイツ映画の存在感を教えてくれたガンツさんに感謝しつつ冥福を祈ります。
Heidi.jpgドイツ映画「Heidi」より
  1. 2019/02/20(水) 10:31:41|
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振り向けばイエスタディ1469

佳織がハワイへ行っている1月14日、横浜地裁でイージス護衛艦・あまごと漁船・軽得丸の衝突事故に関する裁判の論告求刑が行われた。
法廷の傍聴席には航跡図の捏造が発覚するなど検察側の劣勢が明らかになって以来、激減していた取材記者や漁協関係者が顔を揃え、久しぶりに満席になっている。その一角には黒のダブルの制服を着た幹部と海曹の海上自衛官たちが座って存在感を発揮していた。
取材記者たちは被告人が入廷する前に席についている裁判官と検察官、弁護人の写真を撮影することが許されているのだが、今回の弁護側意見陳述は牧野弁護士の担当なので私は影になって写らないはずだ。その点は期待外れだったかも知れない。
「只今から刑事訴訟法第293条に基づき最終弁論を行います。検察官は事実及び法律の適用について意見を陳述して下さい」裁判官に促されて検察官が立ち上がった。これから検察官が行う意見陳述を論告と呼ぶ。本来はここまで行ってきた証拠調べや証人尋問によって明らかになった被告人の罪状をどの法律に適用させ、どの程度に評価するかを述べるのだが、この裁判で検察側は罪状を明らかにできていない。立ち上がったままうつむいている検察官の異常に長い間(ま)は不利を突破するための気力を貯めているようにも見える。
「最終弁論として意見陳述を行います」大きく息を吸った検察官は顔を上げると妙に力を込めた声で弁論を始めた。傍聴席の原告側応援団も一斉に身構えた。
「本件は平成20年2月19日午前4時7分頃に房総半島野島崎沖、北緯34度31分5秒、東経139度48分6秒の太平洋上でハワイでの艦対空ミサイルの装備試験を終えて海上自衛隊横須賀基地に寄港するために航行していた舞鶴基地所属の護衛艦・あまごが三宅島周辺海域での操業に向かっていた新勝浦漁協所属の漁船・軽得丸に衝突し、同船は現場に沈没して船長の被害者・岸西(きしせい)丸夫と乗組員の被害者・岸西節広を死亡させたものです」ここまでは事故の概要だ。ここからが検察側の罪状の見解になる。私と牧野弁護士、滝沢弁護士は正面の検察官席に座っている同じ人数の検察官と睨めっこを始めた。ここで顔面芸を披露して笑いを取れば代表で意見を陳述している検察官の気合が削がれるのだが、残念ながら地顔が変なだけで芸はない。勿論、冗談だ。
「事故の原因は当直士官として当該護衛艦を指揮していた被告人・大岩智人が被告人・前潟啓一郎から十分な申し送りを受けずに業務を引き継いで漫然と航行を継続し、海上衝突予防法14条が規定する回避義務があるにも関わらず必要な回避行動を取らずに同地点で衝突したことにあります。また、またあまごは寒冷であることを理由に洋上監視を艦橋内から窓越しに実施しており、月齢14のほぼ満月とは言え日の出前で暗く視界が十分に確保できない状況で安全運航に関する配慮を怠っています」これがあまご側の過失と言うことのようだ。
「しかし、被告人2名は当法廷において自己の過失によって2名の尊い人命を奪った責任の重大さを説明されても反省の態度を見せず、弁護人と共に無罪に固執し、過失は死亡した被害者側にあるかのような弁論を繰り返してきました」要するに裁判官の心証を害する以外に有罪を勝ち取る術(すべ)がないようだ。それにしても検察側は被告と弁護人が自分たちの主張を受け容れないことを「反省の態度を見せない」と断ずることを常套手段にしているが、それでは裁判にならない。特に今回は海難審判の理事官と一緒に刑法第172条の虚偽告訴罪で告発したいくらいだ。果たして検察当局は大阪地方検察庁のエース級の同僚たちが厚生労働省の女性官僚を捏造した証拠で告発した罪で刑事告発されたことを教訓にしているのだろうか。
「したがって本件における被告人・大岩智人、被告人・前潟啓一郎の過失責任は重大かつ同等であり、海上衝突予防法第14条の回避義務違反は有罪、海上衝突予防法第5条の見張り不十分は有罪、海上衝突予防法第7条の衝突のおそれの防止は有罪、海上衝突予防法第8条の衝突を避けるための動作は有罪、海上衝突予防法第14条の行会い船の順守事項は有罪、そして刑法211条の業務上過失致死は有罪であり・・・」ここで検察官は一度、呼吸を整え、大きく息を吸うと被告人席の2人の顔に視線を送った後、裁判官に正対した。
「以上の罪状により被告人・大岩智人に禁固2年、被告人・前潟啓一郎に禁固2年を求刑します」求刑を終えて代表の検察官は裁判官に一礼すると腰を下ろし、机を向いて大きく息を吐いた。かなりの疲労感が見て取れる。裁判が始まった頃であれば検察官の追及に傍聴席の関係者たちも反応し、無言でも荒くなった鼻息や口の中で息む声で応援していたが、今回は静かなままだ。
刑法第211条に定められている量刑は5年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金だから、2名が死亡した事故の量刑としてはかなり抑えている。ここにも検察側が自信を喪失いる様子が窺えるが、ならば告発を取り下げてこの2人を職務に戻させてもらいたい。
  1. 2019/02/20(水) 10:29:22|
  2. 夜の連続小説8
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2月19日・イージス護衛艦・あたごと清徳丸の衝突事故

2008年の2月19日午前4時7分頃に舞鶴基地所属のイージス護衛艦・あたごと新勝浦漁業所属の漁船・清徳丸が房総半島沖の太平洋で衝突して沈没、漁師の父子が死亡する事故が発生し、衝突前に交代した当直士官である航海長と水雷長が刑事被告人として裁判にかけられました。
この時、あたごはハワイ沖でのイージス・システムの装備認定試験を終えて横須賀基地に寄港する途中、清徳丸は三宅島北方海域で漁を行う予定で航行中に衝突したのです
事故発生直後からマスコミは「原因は海上自衛隊側にある」とする断定的な報道を開始し、死亡した漁師父子の遺族の悲しみや漁協の仲間たちの怒りを大々的に報じながら海上自衛隊側の過失と喧伝できる材料を見つけるとそれを根拠に世論を感情的に扇動しました。
そうして激化した世論をマスコミでの人気だけを拠り所に首相の座を目指している石波茂防衛大臣に突きつけて謝罪させると「防衛省が過失・責任を認めた」とする一方的な報道を展開し始めたのです。この手法は昭和63(1988)年7月23日に発生した潜水艦・なだしおと遊漁船・第1富士丸の衝突事故の模倣で、東山収一郎海上幕僚長が「事故原因が不明な段階では謝罪はしない」と拒否していたにも関わらず世論におもねる瓦力防衛庁長官が全面的に謝罪した結果、「船長以下の乗組員は乗客の避難を放棄して救命ボートに乗り込んだ」「遊漁船が乗客の要求に応えて接近した」と言う事実が発覚しても海難審判は全面的に潜水艦側の過失とする裁定を下しています。結局、石破防衛大臣は防衛問題に精通しているかのように紹介されていますが、それはあくまでも航空機や護衛艦、戦車などのマニアに過ぎず、自民党の防衛族がいざとなれば平気で自衛隊を売る連中であることを隊員たちに刻み込んだ悪しき教訓さえも学習していないことが判明しました。
この事故の報道ではなだしおの時と同じく「2隻以上の船が交差する場合は相手を右に見る側に回避義務がある」の一点で海上自衛隊を断罪しましたが、基準排水量7700トンのあたごと総重量73トンの清徳丸を同一に扱い「回避義務は観光バス側にあったのだから接近する自転車に衝突した責任は重大」式の非現実的な解説が繰り返されました。
海難審判もその非現実的な論理で海上自衛隊側の全面的な過失とする裁定を下しましたが、それを受けての刑事裁判で事実認定自体の捏造が判明することになったのです。
事故発生時間の現場海域は月齢14=ほぼ満月とは言え暗夜で、小型漁船ではレーダーの探知にも限界がありました。それでもあたごは数隻の漁船の存在を認識しており、相互の位置関係と速度から勘案してこのままの進路を維持して行けば回避できると判断したのです。ところが海難審判の理事官と刑事裁判の検察が提出した航路図は実際の位置よりも清徳丸があたごの進路の前方に向かって接近していたかのように捏造したものでした。さらに清徳丸は大きく波が立つ大型船の後方を通過することを避け、前を横切ろうと無理に転舵したため自爆的に衝突したのです(あくまでも公判上の推定)。
検察側は2011年1月14日の論告求刑で禁固2年を求刑しましたが同年5月11日に無罪判決が下り、2013年6月11日の二審の無罪判決を受けて上告を断念しました。
  1. 2019/02/19(火) 10:41:29|
  2. 自衛隊史
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振り向けばイエスタディ1468

色々あった2010年も師走を迎えている。この日本人の愚かさが蔓延しているような世相に身を置いていると4桁で判り易いキリスト教暦よりも「平成」と言う安っぽい年号の方が雰囲気を適切に表現できるように思うが今の皇室は嫌いなので止めておく。
「年賀状は書き終ったの」今回は私の官舎に帰宅している佳織は書きかけの年賀状を山ほど抱えてきた。やはり陸上自衛隊通信学校の副校長ともなると人脈の幅は拡大の一途のようだ。佳織の場合、外国の友人にはクリスマス・カードの返事もあるので日本からも外れている。それでも裏表を印刷にすることは避けて相手と自分の氏名は手書きにしている。
「弁護士を開業している訳じゃあないから去年の年賀状を見ながら書けば終わりだよ」牧野弁護士や滝沢弁護士を見ていると面談する人とは必ず名刺を交換している。それが個人経営の弁護士の営業なのだそうだが、おそらく年賀状も膨大な枚数を出しているのだろう。その点、私は隊員限定の法律相談だけなので解決すればそこで音信不通になることも珍しくない。
「そう言えば淳之介は来年が年男じゃあない」「あかりは早生まれで竜年だけど淳之介は猫だったな」佳織は年賀状の隅に印刷してあるパックス・バーニーの絵を見ながら指摘したのだが、私は妹も兎年なので淳之介が同じにならないように東南アジアの干支の猫年にしている。東南アジアでは虎と猫、竜と蛇を前後に組み合わせているらしい。
「ノザキ家は佛教徒だからクリスマス・カードじゃあなくて年賀状なんだよな」「うん、ダディは真面目な人だからクリスマス・ツリーは飾らないで門松を立てていたわ」それなら我が家も大差はないから志織も違和感はないはずだ。
「後段休暇は休めるの」腕が疲れたのか手を止めて伸びをしながら佳織が訊いてきた。実は今年の新年もハワイに行けそうもない。私と佳織は後段休暇なので時期は重なり、志織はハイ・スクールが始まっているので日中は不在でも夜は一家団欒を満喫できるはずなのだが、1月中旬に担当しているイージス艦と漁船の衝突事故の論告求刑が行われることが決定したのだ。
「休暇出勤になりそうだよ。もっと早く決まっていれば前々段で12月中旬に休んで志織に会いに行ったんだけどな」今年は尖閣諸島近海での中国漁船による巡視船衝突事件の内偵調査で石垣島へ行き淳之介とあかりに会ってきた。志織とも夏休み会っているので我慢できないことはない。しかし、志織は会う度に大人びて父親としてはその変化を見逃すのは口惜しい。
「私としてはこっちで貴方と長期休暇を過ごすのも希望だけど、年に2回くらいは顔を見て相談に乗ったり、助言したりしてこないと志織の母親としての責務が果たせないのよ」やはり佳織の方が前向きな姿勢を保っているようだ。互いに1佐と2佐、46歳と49歳になると若い頃のような求道的な使命感は薄れ、穏やかな時間を共有したくなってきている。これが年齢の差なのか将来性の残り具合の違いなのかは判らない。佳織も来年度には移動になり、幹部名簿の序列から言えば私が定年退官する前には将補に昇任するはずだ。
「そう言えば尖閣諸島の漁船衝突映像をネットに投稿した海上保安官が妙なことになってるわね」署名を再開した佳織は住所一覧表で漢字を確認しながら座卓の上に置いてある新聞の見出しに目を止めて時事問題を語り始めた。それでも最近は軽い時事阿呆談になってしまう。
「始めは守秘義務違反、秘密漏洩で告発したんだが、あの映像自体が部内では誰でも自由に見られる状態だったから秘密に該当しないことが判って形式的に書類送検したんだよ」私としても同業他社のような組織で起こっている我が社でもありそうな事態には強い関心を持って注視しているから阿呆談とは言え軽口ではない。缶政権、実質的に千石政権は中国の不当な要求に屈して加害者の船長を釈放した苦労を無にしたこの海上保安官・センゴク37を絶対に許さず、可能な限りの重罪を課して服役させるつもりだったようだが法治国家の壁に阻まれた形だ。
「海上保安官が自首して取り調べを受けた後、依願退職を申請したのも受理せずに懲戒免職にしようとしたでしょう。やっていることが滅茶苦茶過ぎるわァ」この醜態も衝突させた加害者である中国人船長は「始めから釈放ありき」だったこととは真反対に「可能な限り厳罰に」が先に立ち、法令の規定を無視しても内閣官房長官の強権で実現できると考えたのかも知れない。その意味では憧れのスターリンや毛沢東になれなかった元全共闘の鬱憤が透けて見える。
「それにしても年末の業務一掃みたいに書類送検して同時に依願退職を受理するんだから支離滅裂、あの千石官房長官は本当に弁護士なのかね」千石官房長官は「弁護士なのかね」どころか辣腕弁護士として知られている。1971年12月18日に土田警視庁警務部長宅に届いたお歳暮が爆発して妻が死亡した事件を含む一連のピース缶爆弾事件の犯人として元全共闘の活動家が逮捕された裁判でも無罪を獲得しているのだ。弁護士と政治屋では必要な能力が違うのか、権力を握った驕りが眼を眩ませているのか。来年には終わって欲しいものだ。
  1. 2019/02/19(火) 10:40:33|
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2月18日・名天領代官・寺西封元の命日

文政10(1827)年の2月18日(太陰暦)は現在の福島県内にあった幕府天領の代官として卓越した行政手腕を発揮した寺西封元(たかもと)さんの命日です。
寺西さんは寛延28(1749)年に安芸国・浅野藩士の息子として現在の広島県三原市で生まれたと伝わっています。生家の格式・禄高が低かったのか幼い頃に寺に入れられましたが(名門・裕福な家柄であれば養子の口がある)15歳の時に還俗し、田沼意次さまが老中として人材登用を勧めていた安永元(1772)年に西ノ丸(=隠居した前将軍や世継の控え居住区)勤めの幕臣になりました。そうして田沼さまを追い落として後釜に座った白河藩主・松平定信さんが推し進めていた寛政の改革が頓挫する前年の寛政4(1792)年に陸奥国白川郡塙(はなわ=現在の福島県東白川郡塙町)にあった6万石と小名浜(現在の福島県いわき市)の3万石の天領の代官に任命されました。
江戸時代の代官の職は当初、所領の禄高が1万石以上の大名に届かない領主を指しており、大名に準ずる扱いをされていましたが、幕府の行政組織が整備された寛政年間からは勘定奉行配下の任期制になり、比較的小禄の旗本を抜擢するようになりました。小禄の旗本が大名並みの地域を差配する権限を持つため、時代劇では私腹を肥やし、権力を乱用する悪代官が仇役の定番になっていますが、失策や悪評によっても解任されることがあり、そのような悪徳人物は存在し得ない制度になっていたようです。
代官として着任した寺西さんは天明の大飢饉の惨状から立ち直れていない領民を救済するため全力を傾注することになりました。先ず精神面の安定を図るため「天はおそろし」「地はたいせつ」「父母は大事」「子は不憫(可愛)」「夫婦むつまじく」「兄弟仲よく」「職分と出精(=収入と出費)」「諸人あいきょう」からなる「寺西八カ条」と「堕胎と間引きの禁止」「小児育成の解説」を記した「子孫繁盛手引草」を配布すると共に庶民を対象とした寺小屋や塾を開設して教育を進めました(松平さんの白河藩内では庶民の教育・勉学は禁じられていた)。さらに公共事業を実施して給与を分配し、公金貸付によって商工業者に事業を起こさせて大きな実績を揚げました。この民生政策は周辺諸藩の注目を集め、文化8(1811)年と同12(1815)年には水戸藩などが参集して「民風改正要綱」の策定・改定会議が開催されています。
寺西さんは代官としての手腕は幕府にも認められため文化11(1814)年には陸奥国伊達郡桑折(現在の福島県伊達郡桑折町)の3万石の陣屋天領地(藩ではないが城郭を有する)と領内にある半田銀山の管理運営を追加され、さらに川俣の2万石の天領地まで任されることになり、旗本としての家禄は小身ながら松平さんの白河藩11万石を超える14万石の差配を担当していたのです。
その後、文政元(1818)年に勘定組頭に就任して江戸に戻りますが、2年後に桑折の代官に再任され、その地で没しました。78歳の享年は当時としては長命の方なので過労死ではないのでしょう。学校の歴史教育では「江戸時代の農民は搾取されていた」と習いますが、そろそろ討幕を正当化するための虚構は排除するべきです。
  1. 2019/02/18(月) 09:27:32|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ1467

「小隊長は岡倉信一郎と言う同期をご存知ですよね」島田元准尉は好奇心で始めた謎の幹部自衛官の探究の仕上げとして同期であることが判明したモリヤ佳織1佐に電話してみた。モリヤ1佐には松念院で初めて岡倉の妻である韓国陸軍の李少佐と会った頃にも同様の質問をして「立ち入るな」と釘を刺されたことがある。
「先任はまだ岡倉くんのことを調べているんですか」「いいえ、彼に関する情報が私のところへ集って来るんで少し気になっているだけです」この説明に嘘はないが信じてもらえそうもない。
「自衛隊の資料では岡倉信一郎の名前は幹部候補生学校の同期にはないはずです。だから存在しません」この回答は新任の3尉の頃から打てば響いていたモリヤ1佐にしては歯切れが悪い。
「判りました。単なる噂話で小耳に挟んだけのことですから気にしないで下さい」「先任の家の電話の通信保全は大丈夫ですか」電話を切ろうと思った時、モリヤ1佐が思い掛けないことを確認してきた。要するに「盗聴などを受けていないか」と言う意味らしい。
「元プロとしては問題ないと思っていますが」「それでは10分後にこちらから電話しますから確実に先任が出て下さい」「はい、判りました」ここで一度電話を切った。
「もしもし、島田ですが」「モリヤです」ストップ・ウォッチで計ったように10分後に電話がかかってきた。モリヤ1佐はその間に何らかの方法で電話回線の保全状態を確認したのかも知れない。陸上自衛隊通信学校の副校長と言う立場であれば通信機材を納入している企業や通信サービスを委託している事業所などのそれを可能にする人脈を有していても不思議はない。
「先任の性格から言って気になることは探究しなければいられないはずです。でもこの件だけは立ち入ってはいけないんです」島田元准尉の受話器を握っている手が少し汗ばんできた。
「先任は警察予備隊に入隊してから陸上自衛隊で定年を迎えるまで正規の組織で勤務されてきました。しかし、防衛と言う任務の本質は戦争であって用いる手段は表舞台で正規の役者が演じる場面だけではすまないんです」モリヤ1佐が言いたいことは島田元准尉にも理解できる。しかし、それが現実であるとは到底信じられない。
「私は海外駐在の勤務を経験したから国際社会での情報戦の実情は目の当たりにしましたが、同じ舞台に立つ日本の自衛隊だけが目を閉じて耳を塞ぐことが許されないことは理解できますか」「おっしゃることは理解できない訳ではないんですが、自衛隊と言う国家機関は人事にしても予算にしても厳格に管理されていて不正規の組織が存在できる余地はないでしょう。ましてや自衛隊には常に反対派の監視の目が注がれていますから外国軍のようにはいかないはずです」この反論が島田元准尉を含め一般の隊員たちが自衛隊の諜報活動を架空の物語にして真面目に考える者を嘲笑している理由だ。するとモリヤ1佐は声を落として重くした。
「だから別の人格になって裏舞台で独り芝居を演じている同僚たちを白日に晒すようなことは許されないんです。これ以上の深入りは身を滅ぼすことになりますよ。愛する奥さまを哀しませるようなことは止めて下さい」最後は脅迫だ。島田元准尉としては法治国家・日本の国家機関である自衛隊が超法規的活動を行っているとは信じ難いが、3尉時代から人間性を熟知しているモリヤ1佐のある意味では危険な説明を受け入れることにした。何よりも興味本位で私的な探偵ごっこであり、危険を冒してまで継続する理由は全くないのだ。
「あッ、盗聴が入った。これで失礼します」モリヤ1佐は最終結論を聞く前に一方的に電話を切った。やはりモリヤ1佐の官舎の電話には特殊な通信保全の装置が設置されているようだ。
「貴方は岡倉くんのことに詳しいんでしょう」今回は私が久里浜へ行く番だった。官舎に到着すると夕食の支度をしながら佳織が唐突に訊いてきた。
「岡倉は君の作戦参謀だったんだからそっちの方が詳しいだろう」「うん、そうだったね」佳織は前川原の幹部候補生学校で当時は妻帯者だった私を攻略するための作戦を岡倉の助言で立案し、応援を受けて遂行したと聞いている。その意味では恩人ではある。
「島田先任が岡倉くんのことに興味を持っているらしいだけど何か接点があるのかな」私が着替え終って座卓についたところに料理を運んできた佳織が話を続けた。
「確か岡倉は父親が小倉の出身だって言っていたぞ。そう言えば岐阜地連から入隊してたじゃあないか。これで接点は2つある」「そうかァ、先任は小倉出身で岐阜在住だから岡倉くんの知人や友人に会っても不思議はないわね」これで話に区切りはついたが2人共通の同期である岡倉には格別な思いがある。あの有能な人材が突如として組織を去り、その痕跡さえも抹消されている特別な処置には私たちが立ち入ることができない事実があるはずだ。
「彼のことだから私たちの想像が及ばないような仕事をしているんでしょう」「うん、間違いない。殺しても死ぬような玉じゃあないからな」食前の合掌は岡倉の「武運長久」祈願になった。
  1. 2019/02/18(月) 09:25:57|
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振り向けばイエスタディ1466

島田元准尉は隊友会の所用で大垣市に行ったついでに初めて韓国陸軍の李少佐に会った松念院を訪ねてみた。先ず墓苑に向かい岡倉家の墓を確認する。石塔の側面に刻まれている戒名を携帯電話のカメラ機能で撮影した。
「この賢の字が入っているのが高浦賢一郎の戒名だな。隣りが奥さんか・・・命日が同じじゃあないか」最近は石塔とは別に石板の墓碑を作る家も増えているが、岡倉家は旧家らしく周囲よりも高く大きな墓石のため戒名と没年月日が側面に刻まれている、それを見ると最後の2人の年月日は同じ、つまり一緒に亡くなったようだ。
「これでは事故か何かで一緒に亡くなったことになるな。図書館でこの日付の翌日の新聞を閲覧すれば何か手掛かりが見つかるかも知れんな」これは今の仕事には全く関係がない。地方連絡部時代の業務には情報機関的な要素があったがそれは幹部の受け持ちだった。
「それにしてもあの一流企業の管理職の息子が防大に入るとは思えんし・・・命日から言えば大学在学中に両親が死んで卒業後に部外で入隊したってところかな」所詮は素人が演じる実話版推理小説の調査の場面に過ぎない。推理は地連時代の経験だけを根拠に展開させていく。ところがそれが正解なのを島田元准尉が知る術がない。
「さてご住職のお会いして伺う話は・・・」ここで島田元准尉は見ず知らずの岡倉家の内情に興味本位で立ち入ったことを詫びる気持ちを込めて墓に向かって合掌し、深く頭を下げた。
「ごめん下さい」禅宗寺院である松念院の玄関は名前を忘れた小倉の寺と同じように本堂と庫裏の渡り廊下にある。引き戸を開けて庫裏の方向に大き目に声をかけた。
「どーれー」奥の方から聞き覚えがある声の返事が聞こえ、何度も襖を開ける音が近づいてくる。やがて渡り廊下の板戸が開けられ、中から隊友会の会員の四十九日法要を勤めた副住職が出てきた。とは言え会ったのは1回だけなので面識はないに等しい。
「お久しぶりです。私は可児市の島田と申します。以前、こちらの檀家の今井さんの四十九日法要と納骨でお邪魔しました」「ああ自衛隊さんですか。ご無沙汰しています」島田元准尉と同世代に見える副住職の記憶力は十分に機能しているようだ。
「実はあの時、副住職さまから・・・」「今は住職になりました」副住職は言葉を遮って現状を説明した。坊主にとって住職と副住職の違いは大きいのかも知れない。
「それでは先代のご住職は」「2月前に遷化(せんげ)しました」島田元准尉は「遷化」と言う業界用語は知らないが質問に対する回答としては「逝去」と解釈するしかない。
「そうですか、遷化されましたか」「父に何か」島田元准尉の落胆した様子に今の住職は怪訝そうに顔を覗き込んだ。確かに先ほどまでは冴えわたる推理に高校時代に愛読していたシャーロック・ホームスになったような気分だったがいきなり頓挫してしまった。
「ご住職からお話が出た岡倉さんの息子さんのことでお訊きしたいことがあったんですが」「岡倉の信一郎ですか」今回も今の住職は少し斜めに構えたような言い方をする。これは明らかに腹に一物を抱えている者の態度だ。
「私で判る範囲ならお答えしますよ」「それではお願いします」島田元准尉の答えに今の住職は渡り廊下の奥の襖を開けて座卓に迎え合わせに座布団が敷いてある狭い面談室に案内した。
「岡倉の信一郎は子供の頃からウチに入りびたりで先代も可愛がっていて実の祖父と孫のようでした」今の住職は電気ポットのお湯で茶をいれながら説明を始めた。本当はこのような生い立ちは必要ないのだが話の腰を折ると口が重くなりそうなので黙って拝聴することにする。
「そのうち坊主になりたいと言い出して先代もその気になって子坊主にしていました」以前、ある坊主から「寺に生まれたばかりに他の職業を考えることも許されずに坊主になった者から見ると在家から出家する奴らは許せない」との偽らざる本音を聞いたことがある。今の住職も岡倉少年に同様の敵愾心と嫉妬を抱いていたのかも知れない。
「ところが大学2年の冬に両親が交通事故死して一人っ子だったから天涯孤独の身になってしまったんです。私立大学の高い学費は保険金で何とかして卒業しましたが、何故か陸上自衛隊に入ってしまったんです。先代は元軍人でしたからそちらの影響を受けたのかも知れませんな」これで図書館に行って調べる手間が省けた。しかし、墓石にあった命日の年次から逆算すると岡倉信一郎なる幹部自衛官はモリヤ佳織1佐と同期と言うことになる。
「ところが突然に所在不明、音信不通になったところに韓国軍の嫁が訪ねてきた。こちらとしては訳が判りません。自衛隊には何か秘密の仕事があるんですか」それはモリヤ1佐が「立ち入るな」と言っていた危険領域だ。島田元准尉も自分が人生の大半を過ごし、息子も奉職させた組織に対する疑念を払拭したいだけで命は惜しい。
  1. 2019/02/17(日) 10:56:22|
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振り向けばイエスタディ1465

12月になって早々に島田元准尉は年末大掃除に取りかかっている。島田元准尉は自衛隊の退役後に再就職した河川パトロールの仕事を定年退職してからも地元のFMラジオ局で「昭和歌謡曲」の専門番組のDJを勤めながら自治会や隊友会の役員として八面六臂の活躍をしているため大掃除は長期戦にせざるを得ないのだ。
「先ずは秘密基地の整理だな」久しぶりの休日に妻の順子の手料理を食べ終えた島田元准尉は自分が立てた作業実施計画を発声確認した。担当場所は子供たちが家を出て空いた部屋のうち自分専用に使っている部屋と庭の手入れだ。今日の天気予報では冷え込みが厳しいと言うことなので屋外作業は午後にした。
「使わない資料は整理して下さいよ。貴方に何かあった時、処分に困るような物は捨てるなり誰かにあげるなり・・・」洗い上げを終えた順子は居間に戻って新聞を広げている。その席を譲って2階の廊下の突き当たりの倉庫に向かう島田元准尉に顔をかけてきた。
「俺は使わなくても信繁が先任になった頃に役立つ資料ばかり残してあるんだ。何かあったら信繁に渡せば良い」島田元准尉は順子が反論してくる前に廊下に出て階段を昇っていった。
「確かに形見にしても困るような物が多いなァ」島田元准尉の秘密基地=倉庫は左右の壁に棚を立ててあり、格段に衣類を積めた衣装ケースと資料のバインダー、それに関係図書が並べてある。DJ・昭和太郎としての仕事部屋にも年代物のレコードからカセット・テープ、MD、CDと歌謡史や分野別の歌詞集、芸能人の評伝などの書籍が山積みになっているので一筋縄ではいかない。先ずは衣装ケースの衣類の点検から始めた。
「うん、カビは生えてないな」衣装ケースの中には警察予備隊のアイゼンハウアー・ジャケットから保安隊、自衛隊草創期、そして中曽根康弘防衛庁長官の肝煎りで更新された灰茶色の制服と正帽・略帽、さらに各時代の作業服、戦闘服、迷彩服が詰まっている。クリーニングから戻った状態で収納しているのでカビが生える可能性は低いが湿気を帯びれば皆無とは言えない。
「そう言えば何でも鑑定団って番組があったな。あれに出したら幾らになるのかな」岐阜県ではテレビ愛知が放送している「開運!なんでも鑑定団」は好きな番組だが、ごく稀に帝国陸海軍の遺物が出品されることがある。自衛隊関連の品物としてはプロレスラーの大仁田厚が航空自衛隊の戦闘機のスティック・グリップを出品したくらいだが、あの鑑定額は分野別の市場価格のようなのでこれほどの貴重品であれば思い掛けない値段がつくかも知れない。
「それよりも昔の嵐山美術館みたいに日本軍の軍服を展示する施設があれば無料で貸し出すんだけどな」年に一度だけの懐かしい衣類との再会で島田元准尉も独り言が増えてくる。京都嵐山美術館は1991年に閉館した私設美術館だが武具・武家工芸品が表看板だったものの実際は帝国陸海軍の武器や軍装コレクションが有名でそれを目的にした入場者が多かった。帝国陸海軍の軍装を歴史資料として展示しているのなら自衛隊の被服を加えても良いはずだ。軍隊経験者が高齢化していることを考えれば自衛隊経験者を狙った展示も悪くはないだろう。それにしても個人で秘蔵しているのは惜しい品揃えではある。
衣類に続いてバインダーのカビの点検になった。すると守山時代の雑資料のバインダーに見覚えがない冊子がとじてあることに気がついた。表紙には玄会(げんかい=玄海)とある。
「ふーん、玄会かァ。確か無法松の会と合同で親睦会をやったんだったな」それは守山駐屯地と愛知地方連絡部で勤務する北九州市出身の隊員の無法松の会と名古屋市在住者の玄会が合同で開催した親睦会で配られた会員名簿だった。
「この名簿は地連で勤務している時、人脈探しで読んだ以外はとじ放しだったな」とじ放しだっただけに表紙の色は変わっていない。島田元准尉は何気なく名簿を開きアイウエオ順に並ぶ会員の名前と年齢、就職先に目を通し始めた。
「待てよ。高浦賢一郎・・・どこかで聞き覚えがあるな」見知らぬ人の名前を素通りしていくと何故か一カ所で目が止ってしまった。年齢を見ると自分と大差はない。職業は大手企業の課長になっている。あの親睦会で話した記憶はなかった。考え込みそうになったが時間を浪費する訳にはいかない。バインダーを閉じると次に手を伸ばした。
「そうかッ、高浦は小倉で井手先生の墓参りした時に韓国のWACが来ていた墓の名前だ」この昔懐かしい連想ゲームのような記憶回復機能は棚に並んでいるバインダーの背に表題が書いてある光景が墓苑に結びついたのかも知れない。
「住職は高浦家の息子が岐阜の岡倉家の養子に入ったと言っていたな。その岡倉家の息子の嫁が韓国陸軍の少佐なんだ。つながったぞ」島田元准尉の頭脳は全く衰えていない。自衛隊に在籍したこと自体が抹消されている岡倉と言う隊員に対する興味は推理小説の域に入っていった。
  1. 2019/02/16(土) 10:12:29|
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ウチの若緒が事故死しました。

2月13日から14日の夜、ウチの飼い猫の若緒(にゃお)が事故死しました。2015年4月下旬の生まれなので4年弱の生涯でした。
若緒は黒猫の音子(ねこ)の1匹娘ですが性格は全く違いました。音子は野僧の勤経を膝の上で聴いているくらいなので人間の言語を完璧に理解し(口頭で指示するとそのように行動する。しかも「×時に帰ってこい」と言えば体内時計で数分の誤差で戻ってくる)、逆にこちらを誘導するように動作するなど自己主張も明確ですが若緒は普通の猫でした。
そのため音子と比べると天然ボケに見え、その野放図で本能の赴くままの生活態度が魅力でした。このため音子に叱責されることも多く、最近は野良猫の友達ができたらしく寒空の中、夜遊びに出かけることが日常化していたのです。
ところがその野良猫が先月末に同じ道路上で事故死して、しばらくは探しに出かけていたものの諦めたらしく最近は人間が就寝する頃には帰って外よりは温かい庵内で過ごすようになっていたのですが昨夜に限って戻らなかったのです。
以前、野良猫と夜遊びしていた頃には朝帰りも珍しくなかったので放置していたのですが、9時過ぎになって突然、音子が「若緒を探しに行こう」と誘い庭前まで出て声をかけたのですが反応はありませんでした(時には走って戻ってくることもあった)。
ところが夜が明けても定位置に戻っておらず、今までは腹が空くと「ニャー、ニャー」と鳴きながら姿を見せるのに朝の鐘を打っても同様でした。
音子は朝から若緒の行動先を探し回っていましたが手掛かりがないようで戻ってきては「一緒に探そう」と誘うのです。そこで探しに出たところ小庵から100メートル程の位置を通っている道路脇の歩道に倒れている若緒を見つけました。はねられたらしく身体に目立った傷はありませんでしたが、死後硬直が始まっていて眠る時の丸まった姿勢にしてやることはできませんでした。
遺骸を佛間に寝かせたところに音子が帰ってきたので見せて臭いをかがせたのですが若緒とは認めず、外に飛び出して狂ったように駆け回り、若緒を探し始めたのです。しかし、1時間程して帰ってくると若緒の定位置に倒れるように横になり、そのまま半日は身動きしませんでした。
その後、戒名をつけて同居人の帰庵を待ち、晩課と一緒に葬儀を勤め、こちらに来て間もなく死んだ犬のカルルの隣りに埋葬しました。
今朝も音子は墓石の上に座って事故現場の方向を見ていた後、呼び掛けながら若緒の行動範囲を確認して回っています。戻ってきてからは佛間の座布団の上で丸くなっていますから野僧が勤めた涅槃会の勤経を聴いて「生者必滅」「会者常離」の教えを得心したのかも知れません。
小庵では音子と若緒の母子が家族なので食器から首輪まで一対で揃えていますが、これからは音子1匹だけになります。若緒は何故か花に撒く水を入れたバケツの水を飲む癖がありましたが、それを見ることもありません。死とは喪失であることを噛み締めています。
小音子・15・5・22に1・母親譲りのカーテンレール歩きは・母子抱擁・15・12・25生後1週間の若緒・カーテンレールの平均台・母子の寝姿
  1. 2019/02/15(金) 09:27:58|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ1464 (かなり実話です)

森田士長との面接を終えて間もなく松山3佐は副連隊長に呼ばれた。そこには1科長も同席している。こうなれば思い当たる用件は1つしかない。
「松山3佐、森田曹侯補士は退職に同意したのかね」副連隊長はすでに森田士長を依願退職させる腹積もりらしい。陸上自衛隊と言う組織では上意下達・絶対服従が鉄則であり、上官の意向の是非を考えることが反抗と受け取られる。
「本人としては父親に相談したいと言うことなので正月休暇で帰省させることにしました」副連隊長としては父親に相談してもこの決定がくつがえる訳ではないのだから時間の無駄・余計な手順のように感じていた。すると1科長が連隊長と副連隊長の側近らしく補足説明した。
「森田曹侯補士の父親は航空自衛隊でしょう。北部方面隊の人事に関する問題を漏らすのは避けた方がよろしいのではないでしょうか」これを聞いて副連隊長の顔が険しくなった。
「曹侯補士は陸海空共通の制度だ。陸でも我が北方だけが実施する特殊な人事処理を外部に漏らすのは好ましくないな」どうやら副連隊長は西方も同様の不当人事を実施することは知らないようだ。松山3佐が状況判断する時に可能な限り広範囲の情報を収集することを学んだのは守山の第35普通科連隊の中隊長からだった。その中隊長は大学中退の癖に一般(部外)で幹部に任官した変わり種だったが、下手な大学を複数卒業したような幅広い専門知識に精通していた。松山3佐が必要性に関係なく興味を持ったことを徹底的に追及する異常な好奇心を見につけたのは本人として認めたくないがその中隊長の影響だ。
「しかし、陸士の退職には保護者の同意が必要ですから事情説明は避けようがありません」「確かにな・・・」松山3佐の反論に副連隊長と1科長は渋い顔を見合わせた。
「ならば父親が本人を説得してくれるようにこちらの事情を説明するのか得策ではないかと考えますが」「うん、父親の階級は何だ」「確か3等空佐です」1科長の提案に副連隊長も同調しながら妙な確認をした。どうやら説明して理解させられる相手であるかを階級で判断するつもりらしい。松山3佐はすでに森田士長の父親についても調査しているが曹侯学生出身の部内で、輸送幹部から警備幹部に職種転換して現在は芦屋基地の第3術科学校に新設された警備課程の課長を務めている人物だ。曹侯学生出身の部内は守山の1小隊長で前の前の前の4中隊長だった田島1尉も同様だ。不思議に頭が柔らかく議論する相手としては手強い面もある。
「説得を依頼するのは無理かも知れませんが、同意してもらえるように説明します」心にもないことを口にできるだけでも松山3佐は陸上自衛隊に染まっている。本当は父親に徹底抗戦を叫んでもらい、問題を陸海空自衛隊に飛び火させて政治問題化することで北部方面総監・滋賀徳次郎陸将に痛撃を与えたいところだ。
「説明するにしても総監閣下に傷がつかないように細心の注意を払ってくれ。飛行クラブの連中は階級の序列を尊重する気持ちが弱いから要注意だ」航空自衛隊を「飛行クラブ」と呼ぶのは主に陸上自衛隊が用いる蔑称だ。副連隊長は航空自衛隊に対して腹に一物あるようだ。防衛大学校では2年次に進む時に陸海空に分けられるのだが、航空を熱望していながら陸上になった者の中には殊更に毛嫌いする人間もいるようだ。しかし、度が強い眼鏡をかけている副連隊長がパイロット志望だったとは思えない。はそうなると陸上幕僚監部で勤務中の予算の争奪戦で煮え湯を飲まさせられた場合もある。どちらにしても松山3佐の好奇心は反応しなかった。
「ところで松山3佐は青森から冬戦教の初級幹部戦技訓練に参加したのかね」森田士長の話に区切りがついたところで副連隊長が質問してきた。このような経歴は1科の人事記録を確認すれば判明することであり、実際は質問の形式を取った強制案内だ。
「いいえ、部隊でのスキー合宿には参加しました」「5普連は八甲田の雪中登山訓練があるからスキー訓練には力を入れているんだろう。しかし・・・」一度引いて追い討ちをかけるのも陸上自衛隊式討論の基本技法だ。しかし、副連隊長と中隊長の対話が討論になること自体があってはならない掟破りだ。
「ウチの隊員には冬季リンピック選手や強化要員が揃っている。指揮官として求められる技量は部隊の合宿程度では心もとないだろう」副連隊長にここまで言われれば松山3佐は集合訓練への参加に同意するしかない。1科長は集合訓練の説明をするための息を吸った。
「僕は頭脳労働者として陸上自衛隊で勤務しています。部隊に置き去りにされるようでは困りますが先頭に立つ必要はないでしょう」いきなり松山3佐が言ってはならない台詞を吐いた。副連隊長は想定外の反論に唖然として我を失い、1科長は顔面蒼白になって硬直した。
守山時代の中隊長は副連隊長に嫌われたことでCGSの受験から除外されて人事的に不利益を被ったのだが、大学出たてで駆け出しの松山3尉には興味がない他人事だった。
  1. 2019/02/15(金) 09:23:59|
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振り向けばイエスタディ1463 (かなり実話です)

「森田士長を連れてきました」松山3佐が着任して最初の仕事は北部方面総監の指示による曹侯補士の切り捨て問題だ。2小隊長が森田曹侯補士を中隊長室に連れてきた。
松山3佐は内線電話で中隊先任陸曹を呼んだ。立って呼びに行っても数メートル歩いてドアを2つ開けるだけ。2小隊長に行かせてもすむ話だが電話を使うところが松山3佐らしい。
「お呼びでしょうか」「うん、2小隊長と一緒に森田士長と面接をするから立ち合ってくれ」「それではやり掛けの仕事を片づけてきます。3分下さい」どうやら先任陸曹には事前に根回ししていなかったようだ。本当に3分で先任陸曹は戻ってきた。
「森田士長、今日呼ばれた理由は判るか」松山3佐は唐突に本題を質問した。これには2小隊長と先任陸曹は困惑した顔を見合わせた。しかし、森田士長は顔を向けて冷静に答えた。
「はい、曹侯補士はもう3曹になれないと言うことですね」この答えを聞いてソファーの正面の席の松山3佐は無表情に小さくうなずいた。2小隊長は斜め前から森田士長を観察したが目が赤い。やはり眠られない夜を過ごしてきたようだ。
「北部方面総監が陸士よりも陸曹の人数が多いことを問題視して曹侯補士を排除しようとしたんだ。調べてみると北方(北部方面隊)では生徒から防大に進んだ総監が2代続けいている。これは現在の総監の独断と言うよりも申し送りの可能性が高いな」「中隊長、森田士長に聞かせるような話ではないのでは」松山3佐の具体的な説明を2小隊長が制止した。目の前で先任陸曹もうなずいている。それでも森田士長は表情を変えずに松山3佐を見返していた。
「これは森田士長の人生に関わる問題なんだ。だから発端から結論に至る経緯を全て知る権利がある。それを知った上でなければ最終的な判断を導き出すことはできないだろう」「はい、有り難うございます」森田士長は座ったまま姿勢を正すと腰に手を当てて頭を下げた。
「今後については僕なりに考えてみた」意表を突いた話の展開に2小隊長と先任陸曹は身体を固くして生唾を呑んだ。天野1尉から説明を受けた時、立ち合った者は誰も森田士長をどのように説得するかを思い悩んだだけで対抗策などに想いは至らなかった。
「どうやら西方(西部方面隊)も同様の不当人事を行うつもりらしい。今の西方の総監は防大の20期だから先代の総監の1期後輩、今の総監の1期先輩に当たる。この2人に籠絡されたと見るべきだろう」これも本来は陸士に聞かせるような話ではない。それでも森田士長は姿勢を正したままだ。森田士長は会ったばかりの松山3佐を信頼し始めているようだ。
「そこで対策だが」ここで松山3佐は少し間を置いた。2小隊長と先任陸曹は鼻で息を吸って止め、森田士長は生唾を呑み込んだ。
「森田士長を西方以外の他の方面隊に転属させてそこで陸曹になってもらう」この案に3人は感服したような顔をしたが松山3佐は無表情だ。何か問題があるらしい。
「しかし、陸士、陸曹の転属は交代要員を確保しなければ進めることができない。しかも同程度の階級の人間が前提だ。森田士長は曹侯補士の4年目でバイアスロンの有望株だ。これだけなら欲しがる部隊は幾らでもあるはずだが交代要員となると難しくなる」2小隊長と先任陸曹は感服の反動の落胆が大き過ぎて「ガクッ」とうなだれてしまった。
「4年目は新隊員なら任期満了退職するか陸曹候補生に入校している時期で移動の対象にはなりにくい。転属前、青森の連隊の士長に声をかけてみたが駄目だった。何よりも名寄の環境と訓練の厳しさを知らない者はいないから北方内の移動なら兎も角、他の方面隊から希望する者は滅多にいないんだ」「はい、判ります」森田士長はここでも感情を交えずにうなずいた。
「そうなると依願退職を拒否してここに居座り、滋賀徳次郎陸将が転属するか退職するのを待つつ長期持久戦しかない」「しかし、それでは中隊長のお立場が・・・」この提案は先任陸曹が制止した。方面総監の指示を連隊長が伝達すれば現場の人間は黙って従うしかない。それは対象者を説得して依願退職に応じさせることだ。ところが松山3佐は自ら指示に背くことをそそのかしている。東京6大学を卒業して陸上自衛隊に入隊した松山3佐は間違いなくエリートのはずだ。それが3度も中隊長としてタライ回しにされているのはこのような自衛隊の常識を逸脱した言動が原因なのかも知れない。
「一応、父に相談しても良いですか」話に区切りがついたところで森田士長が確認した。森田士長の父親は航空自衛隊の幹部で芦屋基地にある第3術科学校警備課程の課長だったはずだ。
「それは待ってくれ」「構わん。局線なら電話代を気にせずに話せるだろう。必要なら休暇を与えるから帰省してジックリ話し合ってこい」ここでも松山3佐は自衛隊の常識を逸脱、と言うよりも放棄した。問題化する恐れがある事案は努めて部内に留め、関与する者を極限するのが常識だ。この時、3人の中で松山3佐の真価を理解したのは森田士長だけだった。
  1. 2019/02/14(木) 09:51:24|
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2月14日・新皇・平将門が討ち死にした。

天慶3(940)年の明日2月14日(太陰暦)に中央の収奪に苦しんでいた坂東(ばんどう=関東地方)で武力蜂起し、独立を果たしたとして新皇を名乗った平将門さまが坂東武士団との合戦で討ち死にしました。
平将門さまについては歴史の授業でも素通り状態になる平安時代で「平将門の乱」「藤原純友の乱」と言う名前だけ教えられる扱いだったのでほとんど知識がなかったのですが、昭和51(1976)年の大河ドラマ「風と雲と虹と」で取り上げられたことで藤原純友さんと並んで関心を持ち、毎度の悪癖で研究を始めたのです。「風と雲と虹と」で将門さまを演じたのが気品ある二枚目の加藤剛さんだったためあまり武将としての猛々しさが出ていませんでしたが、将門さま自身も桓武天皇の玄孫に当たりますから血筋から言えば高貴な家柄であり、坂東には似合わない貴公子であっても不思議はありません。
将門さまの生年は記録がないのですが没した年齢が数えの38歳=満37歳とされていることから菅原道真さんが死んだ延喜3(903)年の生まれと推定されています。
父親は前述の通り桓武天皇の曾孫で跋扈する盗賊集団を鎮圧するため坂東に派遣され、下総国佐倉の領主になった平良将さまです。母親は現在も馬追い祭りで有名な相馬(現在の茨城県南部)の豪族の娘で将門さまはこちらで育ったと言われています。
元服した15歳頃、平安京に上って摂関家に仕えたとされていますが、血筋だけで君臨していた公家たちの中では臣籍降下したとは言え桓武天皇直系の貴種なら優位に立てそうなものですが、藤原氏の権勢が確立されていたため単なる田舎者扱いされて12年間も仕えても目ぼしい官位を得ることなく坂東へ帰ったようです。
ところが将門さんが不在にしている間に一族の叔父たちが領土を横領していて、その解決が長引いたことが対立を生み、叔父たちに娘を嫁がせていた関東源氏の暗躍もあって武力での衝突に発展してしまったのです。しかし、将門さんの軍は良質な馬の産地を拠点にしているため機動力に優れ、近代の縦深突破戦術にも通じる奇襲と迅速な方向転換を多用して連戦連勝を重ね、武名は坂東一円に響き渡りました。結局、この抗争は中央の取り調べと仲介で鎮静化したものの度重なる都からの徴税と労役に苦しむ人々を救うため国府の不動倉(年貢を収める倉庫)を襲撃した友人を匿ったことで中央から反逆者と断定されることになったのです。
これを受けて将門さまも坂東の解放を決意し、各律令国府に置かれていた印鑰(国府の公印と年貢を収める不動倉の鍵)を奪い、都落ちしてきた皇族にそそのかされて新皇を名乗りました。ところがそれから2ヶ月後、中央から派遣される追討軍と将門さまが正面衝突すれば戦乱が長期化し、現在の領地を奪われることを危惧した坂東武者たちが自分たちの手で葬り去ろうと追討軍の到着前に合戦を挑んだのです。将門さまは優勢に戦いを進めていながら風に乗って飛んできた矢で額を射抜かれて死んだと言われています。
江戸に幕府を開いた徳川家康公は京都からの独立を目指した将門さまを崇敬しており、祭神とされている神田明神を手厚くの保護したようです。
風と雲と虹と「風と雲と虹と」の討ち死にの場面
  1. 2019/02/13(水) 10:45:15|
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振り向けばイエスタディ1462

12月上旬、天野1尉が定年配置になったのと同日付で松山3佐が着隊した。転出入幹部の紹介は駐屯地朝礼で行われるが今年の冬は早めに降雪が始まっており、グランドに整列している隊員たちの帽子と肩には雪が積もっている。そんな中、朝礼台の下に立っている松山3佐は制服の上に外套を着て襟には白いマフラーを巻き、両手には官給品ではない防寒用手袋をはめている。通常の幹部自衛官は痩せ我慢することが忍耐力の強さを誇示する手段と考え、厳寒の中でもあえて薄着をする者が多いのだが松山3佐はハッタリをかます気はサラサラないようだ。
「駐屯地司令入場、部隊気をつけ」司会の1科長の指示で「気をつけ」の号令が響いた。駐屯地朝礼の時の連隊長の肩書は「駐屯地司令」になり、第3普通科連隊は副連隊長が指揮を執る。
本部庁舎の正面玄関から徒歩で出てきた連隊長は隊員たちと同じく迷彩服の上に外衣を羽織っているが、外套を着ている松山3佐の後ろ姿を見て一瞬立ち止ってしまった。流石に連隊長も外套を着て朝礼に臨んだ幹部自衛官は初めてだったようだ。
「駐屯地司令登壇、駐屯地司令に敬礼」「頭ーッ、右」「直れ」「部隊休め」「休め」朝礼の流れはどこでも変わりはない。問題は次だ。
「転入幹部紹介、転入幹部登壇」1科長の進行を受けて松山3佐が朝礼台上に姿を現わすと居並ぶ隊員たちからザワメキが起こった。特に中央から向かって右側に位置する4中隊は湿気が凍るような寒さの中で口を開けている。
「転入幹部を紹介する。12月×日付で3普連4中隊長に着任した松山千秋3佐だ。前任は青森の第5連隊本部管理中隊長・・・挨拶を一言」ここで連隊長がマイクを譲った。
「只今、ご紹介いただいた松山3佐です。同日付で業務隊厚生班に配属された松山裕美2曹は私の妻だからよろしく頼みます」「以上か」「以上です」服装が型破りなら挨拶も同様だ。陸曹の転入者は部隊単位なので妻の松山2曹は駐屯地業務隊の朝礼で紹介される。厚生班は駐屯地全体を相手にするので周知しておくに越したことはないがついでにやって良いはずがない。松山3佐は入隊して13年目になるが自衛隊の常識は全く身についていないらしい。
「相互に敬礼」「敬礼」各指揮官の号令で隊員は各個に敬礼する。松山3佐の紹介は流れこそ定型通りだが衝撃的なデビューになった。
松山3佐の歓迎会は駐屯地隊員クラブで陸曹以上が参加して実施された。松山3佐も午前中は連隊本部各科による新着任者の導入教育、午後からは4中隊での現状報告を受けて疲労気味だが、「これも仕事のうち」と言う風情で奥の壁際に設けられた席に座っている。
「それでは中隊長、松山千秋3佐の歓迎会を開催します。先ず訓練幹部、歓迎の挨拶をお願いします」司会は2小隊長の担当だ。小隊長は2人とも部内出身で前任の天野1尉は3尉候補者(准尉・曹長からの幹部選抜)だった。その意味では一般(部外)出身の松山3佐は扱いにくい。
「この度はグッと若返った中隊長をお迎えして我々も大いに期待しております。お名前も我が北海道の大スターと季節違いと言うことで親しみを覚えています。色々と難問が山積しておりますがその優秀な頭脳で解決していただけますようお願い致します」1小隊長としては「松山千秋」と「千春」にかけた冗句(ジョーク)で笑いを取ろうとしたようだが、次の「難問」のところで参加者たちは顔を強張らせてしまった。すでに曹侯補士の切り捨ての噂は秘かに広まっており、第3普通科連隊だけ公表されていない理由も陰で周知されている。つまり誰が見ても陸曹になって当然の人材であり、将来のオリンピック要員と期待されている森田曹侯補士を救うのはこの松山3佐の手腕に掛かっているのだ。
「有り難うございました。それでは中隊長、ご挨拶をお願いします」自衛隊では挨拶の冒頭で「挨拶と女性のスカートは短い方が喜ばれる」と断るのが定型句なのだが松山3佐はそのようなタイプではない。少し気が効いた幹部なら先ほどの「松山千春」に引っ掛けた挨拶を受けて1曲披露するところだがそれも期待できない。参加者たちは期待よりも好奇心がこもった目で立ち上がった松山3佐を注視した。体型は小太りで精悍とは言い難い。広い額の丸い顔に細い目は根暗そうだ。松山3佐は周囲を見回すこともなく無表情に口を開いた。
「私が松山千秋だ。名前に秋がついているが寒いのは苦手なので名寄は希望外の人事だった」古参から若手までの陸曹たちも着任の挨拶で「希望外の人事」と明言した中隊長は初めてだ。それでも陸上自衛隊は挨拶に限らず下手糞なカラオケまで上官の言葉は謹んで拝聴するのが作法なので黙って聞いている。すると意外な方向に話は進んでいった。
「ソ連の崩壊によってロシアは自由主義圏に加わり脅威ではなくなったと言われているが、脅威であるか否かは政治体制ではなく保有する軍事力で決まる。その意味でロシアは依然として強大な脅威であり、名寄が最前線であることに変わりはない」この挨拶=訓示を聞いていた安川3曹は何故か久居で聞いたモリヤ中隊長の精神教育を思い出した。
  1. 2019/02/13(水) 10:41:50|
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2月13日・東條由布子=岩根淑枝が死んだ。

2013年の明日2月13日に東條由布子なる偽名でマスコミに登場して支離滅裂な発言を繰り返しながら東京裁判を全面的に否定してA級戦犯の名誉回復を訴えている政治団体に利用されていた岩根淑枝さんが死にました。73歳でした。
岩根=東條さんは実際にA級戦犯の筆頭・東條英機首相の長男の娘=孫なので経歴詐称ではないのですが、実父と東條首相は近親憎悪の関係にあり、軍人になることを拒否して満洲国政府の官吏(最終的には鴨緑江ダムの発電所の職員)になった時には関東軍参謀長だった東條首相が「自分のコネで就職した」と思われることを嫌って早期免職に追い込むか、永久に昇進・昇給させずに嫌気がさして退職するよう仕向けたそうです。このため東條首相がA級戦犯として巣鴨プリズンに収監されている時、死刑判決を覚悟して面会を求めても「何を未練がましいことを言うか」と一蹴し、訣別の言葉を交わすこともなかったのです(野僧も同様に親とは絶縁しているので理解できます)。したがって朝鮮半島で生まれた岩根=東條さんは祖父に会ったことは殆どなく人物像を語るような記憶はないはずです。
また岩根=東條さんが言論活動を始める際、夫の親族から「A級戦犯を擁護するような主張をするのなら岩根姓を名乗ることは許さん」と厳命されたため東條由布子と言う偽名を用いたのです。ところが東條家からも絶縁していた不孝者の長男の娘である岩根さんが東條姓を名乗り、敗戦時に6歳だった本人が東條首相の人間性を知るはずがないにも関わらず親族の立場でマスコミに登場することを厳しく非難されていたようです。ちなみに東條首相の2男は三菱重工の技師で堀越二郎さんと共に零式艦上戦闘機の開発に携わり(宮崎アニメ「風立ちぬ」には本庄の名前で登場している)、3男は敗戦時には陸軍士官学校の学生で敗戦後は航空自衛隊に入隊して第3高射群司令などを務めています。
岩根=東條さんがマスコミに登場した頃にはまだ戦争を体験している人たちが現役だったため東京裁判の否定やA級戦犯の復権を表立って主張しませんでしたが、A級戦犯や自分の祖父の罪を「敗戦」に限定し、東京裁判も敗戦国に課された刑罰であったと述べて遠回しに批判していました。そうして補足するように東條首相の素顔を訊かれると「連隊長の頃、入営して来る新兵を全員、顔から家庭、経歴まで覚えていて、営門で出迎えても必ず氏名で呼び、家族の心配までした」「大陸へ行った時、兵員の防寒用具が不足していることを知り、私費で毛布を大量に購入して配布した」などの美談を披歴したのです。
しかし、東條英機首相の罪は英才だった父親に対する劣等感から人一倍狭量で陰湿、異常に猜疑心が強い人間性に合わない大将・首相の座に昇ってしまったことであり、戦略的視野が欠落した政治判断で第2次世界大戦に参戦し、その後も場当たり的な戦争指導で敗戦と言う結果を招いたことだけではなく、陸軍大臣時代に告示した「戦陣訓」によって降伏・投降が許されずに多くの将兵を無駄死にさせ、何よりも同類の安藤紀三郎中将を内務大臣にして特高警察による思想統制とマスコミや自治体を使った世論誘導を徹底することで日本を戦争賛美に塗り固め、「戦争を終わらせる」希望さえ許されない暗黒社会を作ったことです。東條首相の名誉が回復される機会は永遠にないでしょう。
  1. 2019/02/12(火) 09:31:09|
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