1960年の明日5月1日にソ連領内の大陸間弾道弾基地を成層圏から監視していたアメリカのU-2ドラゴンレディ戦略偵察機が撃墜されました。
ロッキード社製のU-2は製造が終了した現在も実任務についているため構造と性能は国家機密になっています。
野僧は那覇基地で勤務している時、U-2やSR-71戦略偵察機が嘉手納基地に着陸するところを何度も見ましたが、沖縄に近づいた段階から自衛隊機や民間航空機を含む他の航空機は接近を禁止され(那覇空港も事実上の閉鎖状態になった)、嘉手納から飛び立ったアメリカ空軍のF-15戦闘機が編隊を組んで護衛し、レーダーによる探知から隠蔽するため順不同で離着陸を繰り返しながらそれに紛れ込ませるように着陸していました。特にU-2は薄くて長い主翼の端が地面を擦るため車両が伴奏しながら速度が落ちたところで補助輪になる作業(サンダーバードの高速エレベーターカーのイメージ)を必要とするので銃を持った兵士が滑走路と誘導路の周辺に配置され、機関銃を構えた兵士を乗せたジープが走り回る緊迫した光景が展開していたそうです。
事件当時、宇宙ロケット開発でソ連との技術力の格差を見せつけられていたアメリカが開発の本来の目的である大陸間弾道弾でも立ち遅れていることに危機感を抱き、その動向を常時把握するためCIAの航空機による偵察を決定したことで始まりました。
当時、ロッキード社は高高度を飛行できるF-104戦闘機の開発に成功しており、これを基礎にしながら大幅に手を加えた空軍用の偵察機を提案して、これが採用されたことでCIAにも同じ機体を売り込むことに成功しました。その後、U-2はCIAと偵察機と気象観測機としてアメリカ空軍、さらに同型機をオゾン層測定用にNASAが運用し、中国大陸の偵察のために台湾空軍にも供与していましたが、現在はアメリカ空軍だけがCIAと同様の目的を含む偵察と観測飛行を行っているようです。
CIAはこの機体を気象観測用としてトルコ国内のNATO軍基地に配置し、カスピ海周辺にあるソ連軍の大陸間弾道弾基地の偵察を始めたのです。ソ連軍もレーダーで領空侵犯されていることを察知しましたが、ソ連軍の戦闘機では高度82000フィート=25000メートルの成層圏まで上昇しての迎撃は不可能なため無念の歯噛みを繰り返していました。そんな折、新型地対空ミサイル・S-75が配備されたのです。
そしてこの日、パキスタンを離陸したU-2はアフガニスタン、トルクメニスタン、ウズベキシタン、タジキスタン、カザフスタンを超えてモスクワと同緯度にあるスヴェルドロスク州の基地から発射されたS-75ミサイルによって撃墜されました。フルシショフ首相はメーデーの軍事パレードの後、この報を聞かされて小躍りしたと言われています。
パイロットは脱出したものの住民に捕えられ、武力紛争関係法の規定に反してスパイとして人民裁判にかけられましたが、容疑を認めたため(アメリカ政府は気象観測飛行中に計器の故障により領空内に迷い込んだと説明していた)シベリアへの10年間の流刑の判決を受け、1962年2月10日にスパイ交換によって帰国しています。
- 2019/04/30(火) 08:40:32|
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「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」読経と念佛が終わり、私が総回向を唱えると老女が大半の観客たちも手を合わせて頭(こうべ)を垂れた。
振り返ると周囲には立ち見客も集っていて一緒に手を合わせていた。中には「ブツブツ」と口の中で念佛を唱えている人もいる。するとその間から姿を見せた足立2曹が声をかけてきた。
「モリヤ2佐、良いんですか」足立2曹は妙に不安そうな顔をしている。その隣には受付をしていた市の女性職員もいる。こちらもかなり不安そうだ。私は涙を流して手を合わせている老女に合掌・一礼してから立ち上がると2人と一緒に人垣を抜けて受付に戻った。
「政府から公務員の宗教行為を禁止する行政指導が出ていると思うんですが、モリヤさんは大丈夫なんですか」女性職員は「私の立場を心配している」と言うよりも無知な特別職国家公務員に教育するような態度で説明してきた。その隣りで足立2曹もうなずいている。
それにしても私も随分と舐められたものだ。ここが防府南基地の第1教育群なら「舐めとると舐めさすぞ」と毒づくところだが平成の時代には通じない冗談だ。
「私も東京で勤務していますから政府が言うことは間近で聞いて承知はしています。しかし、日本国憲法が定める政教分離は第9条の『宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は教育上、これを尊重しなければならない。国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない』と第20条の『信教の自由は何人に対してもこれを尊重する。いかなる宗教団体も国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない』の2カ条であって、判例では公立学校などで特定の宗教の布教に当たる教育を行うことと公的予算を地鎮祭や慰霊行事の謝礼として使用することは該当しても、今のように無報酬で勤経することは善意に基づく私的行為であって憲法の規定にも反しませんよ」私が憲法の条文まで何も見ずに一気に説明したので女性職員はあらためて名札と格闘徽章の上に縫い付けてあるヒマワリの形の弁護士バッチを注視した。今更、本物の弁護士であることを理解したらしい。
「しかし、仙台市だけでなく他の自治体でもその行政指導を受けて遺体安置所で職員が手を合わせて祈ることや線香を焚くことも禁止しているんですよ」「隊員も遺体を運び出す時、頭を下げるだけで合掌は禁止されています」足立2曹の補足説明は震災から1週間くらい経過した頃に大手新聞の1面に掲載された写真を見たキリスト教の牧師が問題視したことから始まった缶内閣の過剰反応だった。それは缶内閣の体質と言うよりも平成と言う時代が漂わせている低次元で独善的な利己主義が緊急事態の中で現出したのかも知れない。
「今の勤経を問題視する人がいたら、仙台駐屯地の統合任務部隊司令部の私宛てに申し入れるように言って下さい。私も憲法裁判を楽しみにしていますよ」長話をしていると避難所内を歩き回っている被災者が口を挟んできそうなので適当なところで話を切り上げ、足立2曹も会釈をして一緒に外に出た。次も市街地の学校だ。
「一寸(ちょっと)、止めてくれ」市の中心部から少し外れた住宅地の路上で私は停車を命じた。足立2曹は速度を落としながら路肩に寄せて停車させた。唐突な命令なのでこれも仕方ないが、用件がある地点を通り過ぎてしまった。
「地蔵さんが倒れっ放しじゃあないか」車から下りた私は数十メートル戻ると路地の出口だったと思われる瓦礫の中に倒れたまま放置されている石地蔵に歩み寄った。
「この辺りは自衛隊が被災者の捜索と家屋の撤去作業を終えていますが、先ほどの行政指導を受けて石地蔵に触れることは避けたようです」足立2曹の説明に周囲を見回すと地震で倒壊したコンクリート・ブロック製の塀も通行の邪魔にならないように土台部分を残して片づけてあり、敷地の中の家屋も建材を分解して整然と積んである。
「地蔵さんには災害除けの功徳があるんだ。こんなことをしていては復旧が遅れるばかりだぞ」そう説明しながら私は台を基盤の上に固定し、石地蔵を両手で抱き抱えようとした。しかし、古い石地蔵は意外に重く、長年の食事制限で弱っている私では持ち上がらない。すると足立2曹が両手を差し伸べ、2人で台の上に立たせた。
「延命地蔵菩薩経偈・・・善哉善哉 延命菩薩 有情親友・・・」今回は線香だけを焚いて手を合わせて読経を始めた。斜め後ろで足立2曹も神妙な顔で手を合わせている。その向こうで停止した車の窓から携帯電話を突き出して写真を撮っているのが視界の隅に入った。
- 2019/04/30(火) 08:38:17|
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翌朝、総務部の指示を受けて庁舎の正面玄関前で車両を待っていると白のカローラのバンの業務車2号が目の前に横づけし、迷彩服を着た2等陸曹が助手席の窓を手で開けて声をかけてきた。
「モリヤ2佐ですね」業務車2号でも駐屯地業務隊が保有している車両はOD色が多いので地方協力本部のようだ。それにしても広報官が迷彩服姿と言うのは珍しい。
「統任隊司令部から指示を受けました宮城地本の足立2曹です」私がドアを開け助手席に乗り込むと運転手の2曹は簡単に自己紹介した。早速、昨日の私の助言を実行したようだ。
「今日は仙台市内の避難所を回るように言われていますがモリヤ2佐は場所をご存知でしょうか」「いいや、私は仙台は初めてだ」そう答えて私は肩から提げた図納(野戦用ポシェット式書類入れ)から相談に来た被災者の一覧表を取り出して足立2曹に確認させた。
「これで判りました。先ずは市内の学校の体育館から回りましょう」そう言って足立2曹は車を走らせた。足立2曹の本業は仙台市内にある霞目駐屯地のヘリコプター整備員とのことだ。
一覧表の上位に名前がある相談者たちは仙台市内の中学校の体育館にいた。私は受付の市の職員に迷彩服に縫い付けてある刺繍の弁護士バッチを示し、その老女に引き合わせてもらった。
「それで東京の弁護士は何と説明したんですか」老女は私の質問に黙り込んだ。一覧表の相談内容の欄には「自衛隊が無断で撤去した建材の賠償請求を勧めた」とあるが、説明が高度で専門的過ぎてそれを思い出すこと自体が困難なようだ。私は坊主の顔に切り替えて話を続けた。
「貴女の壊れた家の柱や梁なんかを黙って片づけたから自衛隊に弁償させろって言ったのかな」これが民事訴訟で常用される陳述書であれば訴訟代理人(通常は弁護士)が作成して当事者に確認させて日付と署名・押印すれば良いのだが、こちらが先に相手の発言を代弁するのは誘導と看做され陳述書の信頼性を著しく低下させる。それは公判では双方の訴訟代理人が追及する攻撃要点でもある。しかし、今回は説得なので問題はない。
「はい、壊れていても家の所有権は私にあるって教えてくれました。だから建材なんかも買い手が付けばお金になるからそれを弁償させようって言うんです」これは予想された内容だ。そこで私はしゃがんでいた膝を床に下ろし、老女の視線に合わせて姿勢を低くした。それでなくても迷彩服を着た自衛官が老女と対話していれば内容に関係なく高圧的に見える。半長靴を履いていなければ正座したいところだ。
「仮に貴女が壊れた家の建材の所有権を主張するなら逆に管理責任が発生します。若しも近所で火災が発生して放置してある建材に燃え移って火の勢いが強くなって被害が大きくなれば、貴女にも責任が及ぶ可能性があります。秋になって台風が通過した時、強風で建材の欠片が吹き飛ばされて周りに被害を与えても同様です。貴女には自力や自費で壊れた家の柱を片づけることができますか」私の質問に老女は顔を強張らせて首を振った。その様子を娯楽飢えた被災者たちは全神経をこちらに向けて注視・注聴・注感している。
「だったら自衛隊が無料で片づけた方が売れるかも判らない廃材の代金を弁償させるよりも得だったんじゃあないですか」損得勘定が不得手な私も民事訴訟となると悪徳商人のようになってきた。すると老女は急に目から涙をこぼした。
「私は自衛隊さんに感謝しているって言ったんです。自衛隊さんは私が逃げる時に持ち出せなかった佛壇のご本尊さまやご先祖さまの位牌を見つけて届けてくれました。だから・・・」「それなのにテレビ局の人と弁護士の先生が自衛隊を訴えて金を取り返せって命令したんだよ」言葉に詰まった老女に代わって観客の老女が事情を説明した。本来であればここで「訴訟意思がないこと」を口頭で確認し、誓約書に署名・捺印させるのが業務手順だ。しかし、私は坊主の顔のまま別の手順に移った。
「それでご本尊さまとお位牌はどちらにおられますか」「はい、ここです」私の質問に老女は枕元に置いてあるカバンから阿弥陀立像と古びた位牌を取り出して膝の前に並べた。
「これは門徒さんの阿弥陀さまですね。折角のご佛縁ですから手短に読経を勤めましょう」私はそう言って図納から威儀細と数珠、引鐘(いんきん=携帯用の鐘)、線香筒、携帯用香炉(=皿型蚊遣り)、100円ラーターの法要用具一式を取り出して準備した。予想外の展開に観客たちはにじり寄り、新たな観客が増えて周囲には人垣ができた。
チーン、チーン、カチ。小さくても高い引鐘の音が響くと避難所内の雑談の声も鎮まった。老女と周囲の観客たちは息を止めたようだ。
「阿弥陀如来根本陀羅尼」チーン「のうぼうあらたんのうたらやーやー・・・」これは浄土真宗では勤めない経文だが被災者たちは手を合わせて頭(こうべ)を垂れている。
「なーまんだーぶ、なんまんだぶ・・・なーもあみだー」念佛は門徒式にすると合唱になった。
- 2019/04/29(月) 11:44:41|
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私は仙台駐屯地に着くと今は司令官の肩書になっている東北方面総監に着任の申告をして、そのまま廊下伝いに小会議室に連行された。小会議室の長机には肩書不明の1佐、2佐が並んでいるが入浴もあまりしていないらしく狭い部屋には加齢臭が充満している。
「こちらが陸幕法務官室付の弁護士のモリヤ2佐です」申告に立ち合った人事部長が私を紹介したが相手の紹介はない。仕方ないので一礼をしてから席について見渡すとどの顔も目の下に隈を作っている。この様子では「指揮官は不眠」と言う演習の習慣で横になることもなく半月以上を過ごしてのかも知れない。本来であれば被災状況を把握した時点で長期戦を前提とした交代制の勤務態勢を確立するのが常識だ。それを言い出す者がいないのが陸上自衛隊ではある。
「先ずは弁護士による民事訴訟の勧誘の状況について説明しよう」最初に身嗜みを整えている1佐が口を開いた。この雰囲気から推察すると対外事案を担当する総務部長ではないだろうか。
「大手マスコミは震災発生直後に被災地を動き回っていたフリー・ジャーナリストから買った現地情報を元に下調べをして、確認した当事者のところへ弁護士を連れて行っているようだ」要するに「主犯は大手マスコミ」と見ていることになる。私もPKOや阪神大震災ではマスコミによる執拗で悪質な妨害に苦労したが、奴らはあくまでも実行犯に過ぎず、背後で指示を与えている黒幕は日本国内の組織・勢力とは限らない。
「活動範囲は道路の復旧が進むにつれて拡大している。先ずはマスコミが取材に入ってインタビューで情報を収集して、次に自治体への取材で身元を割り出す。そうして水戸黄門のように弁護士先生が登場して被災者を被害者に仕立て上げると言うところだ」今度は髪を短く刈った1佐が説明した。こちらは防衛部長か情報部長なのかは判らない。陸上自衛隊の情報担当者の中には偵察出身も珍しくないのでそうなると機甲レンジャーだ。その点は情報を知的作業と考えている海空自衛隊とは認識が違う。
「今までのお話では伝聞情報と推理ばかりのように聞こえますが、具体的な事例はないんですか」ここで私から質問した。市ヶ谷で法務官から今回の任務を命令下達された時はかなり切羽詰まっているような口ぶりだったが、この説明ではそれほどの緊急性は感じられない。
「マスコミや弁護士たちは我が方が撤去した被災家屋の所有者に接触しているだけで、司令部や現地部隊には何も言ってきていない。しかし、逆に被災者が弁護士に言われたことを部隊に相談に来て具体的に証言してくれているんだ」再び総務部長と思われる1佐が発言した。やはり目の前で被害復旧に汗を流している自衛隊の姿を見ている被災者たちは東京から乗り込んできたマスコミや弁護士に批判的な見解を吹き込まれても鵜呑みにはせず、むしろ自衛隊に事実確認をしてくるらしい。この強固な信頼関係が自衛隊と国民の間に構築されることを反対派は最も恐れているのだ。
「それで相手の活動状況は判りましたが、自衛隊が収集した情報は何かありませんか」「我が方からの情報は住民から相談を受けたと言う現地部隊からの報告と被災地でマスコミや弁護士が動き回っていることを確認していることだけだ」私の質問には短髪の1佐が少し憮然として答えた。早い話が「そんな余裕があるか」と言いたいらしい。
航空自衛隊時代からゲリラ戦の研究をライフ・ワークにしている私の目から見れば攻撃目標が疲労している時こそ攻撃の好機だ。つまり敵が攻勢に転じた以上、こちらの守備態勢も可能な限り強化しなければならない。
「これは単なる業務妨害ではなく反自衛隊闘争の政治工作の前兆であることは明らかです。もっと危機感を以って対処するべきではないですか」これは弁護士としての助言ではない。それを感じたのか目の前に座っている1佐たちは身の程知らずな発言に不快感を示した。
「モリヤ2佐は(自衛隊)情報保全隊に調査を要請しろと言うんですか」黙って睨みつけ始めた1佐たちに代わって末席に座っている2佐が質問してきた。やはり1階級分年齢が若いだけに思考機能にも余裕があるようだ。
「これは(自衛隊)情報保全隊よりも(自衛隊)地方協力本部が適任でしょう。地方協力本部は陸海空の共同機関とは言え陸の方面隊の指揮下にあります。自衛隊の活動を広報すると言う目的で避難所への立ち入り許可を得て頻繁に巡回するようにすれば被災者も心を許してマスコミの取材以上に情報は集るはずです」この提案を身嗜みが良い1佐がメモし始めた。やはり広報活動も所掌している総務部長のようだ。
「お手元に置いてあるのは当司令部が把握している被災者が弁護士から勧誘を受けた民事訴訟の内容です」ここで別の2佐が私の前に置いてある資料を説明した。これから内容を吟味して明日からは避難所巡りを始めることになる。
- 2019/04/28(日) 12:16:14|
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「先ずは石巻市にお住まいの工藤由紀子さんからのリクエストで西条秀樹の昭和53年のヒット曲『ブルー・スカイ・ブルー』です。津波で亡くなったお姉さんは西条秀樹の大ファンで失恋した時もこの歌を聴いて元気を取り戻していたそうです。私もこの歌は今の工藤さんに響くのではないかと思っています。それではどうぞ」島田元准尉の語りの途中から伴奏が始まった。これは私の中学・高校時代のようにラジオからカセット・テープに録音をしている場合には非常に迷惑な番組構成だがCDの時代はどうなのか判らない。
「あの人の指に絡んでいた ゴールドの指輪を引き抜き この僕と共に歩いてと 無茶を言ったあの日・・・」私も祖母に似て大の芸能好きの叔母の影響で西条秀樹のファンになり、高校3年の頃には郷ひろみが得意な同級生と教室で「勇気があれば」と「マイ・レディー」で歌合戦をやったものだ。だからこの歌も知っているのだが歌詞は完全には憶えていない。
「・・・振り向けばあの時の 目に染みる空の青さを想う 哀しみの旅立ちに 眩し過ぎた空 思い出した・・・」絶唱型の歌が多い西条秀樹にしては淡々とした曲調のまま歌詞を重ねていく。
「・・・少しだけ時が行き もう過去と言える恋の日々を 青空が連れてきた もう2度と逢えぬあの人だろう・・・」これは失恋を唄っている曲のはずだが、島田元准尉が言う通り亡くした姉の思い出の歌として聴くにも歌詞が相応し過ぎるくらいだ。
「・・・青空よ心を伝えてよ 哀しみはあまりに大きい 青空よ遠い人に伝えてよ さよならと・・・」最後は西条秀樹らしく胸に響く絶唱になった。今日の青空を見上げながらこの歌を口ずさんでいると亡き人への永訣の言葉になるだろう。
「西条秀樹は郷ひろみ、野口五郎と新御三家と呼ばれていました。私の地元の岐阜は野口五郎の出身地なのでこちらのファンが多いのですが、全国区では・・・私も帰らないといけないのでコメントは避けます」この絶妙な間と落ちは流石に準プロの島田元准尉だ。ドライバーが噴き出すと3尉が「運転に集中しろ」と言いたげに睨みつけた。
「新御三家とくれば橋幸夫、西郷輝彦、舟木一夫の本家・御三家の曲を紹介しない訳には行きません。ついでに言えば御三家の3人に三田明が加えて四天王として売り出したこともありました。それでは昭和39年の舟木一夫の曲で『君たちがいて僕がいた』をお送りします」これは意表を突いた選曲だ。リクエストの葉書を紹介していないところを聞くと(ラジオなので)島田元准尉のセンスらしい。すると無関心なはずの3尉が助手席で身構えた。
「清らかな青春 爽やかな青春 大きな夢があり 限りない喜びがあった・・・」私は初めて聴く曲に耳を傾けたが、若いドライバーは無視して運転に集中している。すると何故か3尉も目を閉じて聴き入っていた。
「・・・心の悩みを打ち明け合って 眺めた遥かな山や川 言葉は尽きて去りかねた・・・」気がつくと3尉は口の中で唄っているようだ。
「・・・そんな時も離れずに ああ君たちがいた僕がいた」島田元准尉は歌が終わっても余韻を味わせるように終奏(=イントロの反対のアウトロ)まで言葉を発しなかった。
「舟木一夫と言うと『高校三年生』や『学園広場』、それから今でも警察官がカラオケで唄っている『銭形平次』の主題歌が有名ですが、当時のヒット曲は映画とセットになっていたのでこの曲も学園青春映画になりました。主演は舟木一夫と本間千代子でしたが私も愛くるしい本間の笑顔に一目惚れしてしまいました」この思い出話も島田元准尉の番組の魅力のようだ。しかし、この3尉は40歳代後半くらいなので昭和30年代は乳幼児だったはずだ。すると3尉は決まりが悪そうに弁明を始めた。
「実は自分の亡くなった母は舟木一夫の大ファンでして家事の合間にレコードをかけては口ずさんでいたのであります。だから最近では聴かなくなったこの曲も自分には懐かしのメロディ―なのであります」妙な軍隊口調での説明になったが理由は判った。
「それも亡きお母さんのお引き合わせだね。ワシがこの車に乗って3尉と一緒にならなければこの番組を聴くこともなかった。この番組では亡き人の思い出の曲を流しているようだが、それは被災者に限ったものではないんだろう」「はい、有り難うございました」3尉は初めて神妙に頭を下げて前を向いた。
「ところで舟木一夫は愛知県一宮市の出身でアイドル歌手の岡田有紀子さんと同郷です。昭和61年の4月8日は岡田さんの命日でしたから『くちびるネットワーク』を聴いて下さい」意外過ぎる展開に3人は同時に「へッ」と相槌を打った。
「岡田有紀子は自衛官募集のポスターのモデルでしたよね」再び3尉が反応し、ドライバーもうなずいた。島田元准尉は地連でも勤務をしていたので感謝と追悼の選曲なのかも知れない。

岡田有希子の自衛官募集のポスター
- 2019/04/27(土) 12:25:49|
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東北に出発するに当たり、私は衛生隊で持病の注射器を処方してもらわなければならなかった。沖縄で梢と約束した以上、世間の偏見に対する抗議行動は中止し、検査結果を受け入れて糖尿病の診断を受け、インスリンの注射による血糖値のコントロールを始めたのだ。こうして注射によるコントロールに移行すると無理な食事制限を自分に課す必要がなくなり、衰えていた体力も徐々に回復してきている。やはり持つべきは愛する心の妻かも知れない。
そんな2カ月分のインスリンの注射キットを底に忍ばせて数年ぶりに演習バッグに野営用の荷物を詰め込んだ私は中央業務支援隊の業務車1号=クラウンのバンで出発した。妻のモリヤ佳織1佐がトモダチ作戦に出発する前には陸上幕僚長に申告に来たので熱く見送ることができたが、今回は電話連絡だけだ。その代わりではないが何故か女性事務官が涙ぐんでくれた。
「モリヤ2佐、後部が荷物一杯で窮屈でしょう。申し訳ありません」中央業務支援隊車両科の陸曹のドライバーは公判資料が多い時に横浜地裁への移動を頼むこともあるので顔見知りだ。今回は仙台駐屯地の統合任務部隊司令部に陸上幕僚監部と統合幕僚監部から送る資料を施錠できる金属製の箱に詰めて後部荷台に積載している。それでも助手席の3尉は拳銃を携帯していないので防衛秘密の重要書類ではなさそうだ。
「今夜は新発田泊で明日の昼過ぎには仙台に到着する予定です」「ところで君は震災後に仙台へは行ったことがあるんかね」横浜地裁への往路は緊張をほぐすため、帰路は疲労を癒すために会話を楽しんでいる。それに馴れているドライバーも気軽に応じてきた。
「はい、何度も今回と同じような荷物を運んだことがあります。あとは震災直後にトラックで救援物資を運びました」「それなら道路の被害状況も判っているな」「日本海側は無事でしたが東北山脈を越えると被害を受けていましたね」「それを言うなら奥羽山脈だよ」「ゴホン」話が弾んできたところで初老の3尉が咳払いをした。一見したところベテランのドライバーから3尉候補者=特幹で輸送幹部になった人物らしく、「走行中は黙って運転に集中せよ」と指導したいらしい。ルーム・ミラーを見るとドライバーの目が険しくなっている。私は明確な根拠もなく自分の経験を教義のように押しつける人間は好まないので3尉の僭越な指導を否定することにした。勿論、ドライバーが職場の上官の心証を害さないように注意を払った。
「ドライバーの仕事には色々なバリエーションがあるよな。道交法を厳格に守っての安全運転だけでは戦場の銃火の中を突破することができない。エライさんを乗せている時と若い者を運んでいる時でも心がけが違う。ワシなんかはドライバーが黙って運転していると霊柩車に乗せられているような気分になって来るんだ」痛烈な皮肉だが3尉は黙って前を向いたままだ。ただドライバーはルーム・ミラーの中の目で笑った。
翌日は山形県の鶴岡市から山形自動車道に乗り、山形市を抜けて仙台市に向かった。もう少し遠回りして最上川沿いの経路であれば我が故郷・最上郡戸沢村を通過するのだが公私混同はできない。昼食は途中のサービス・エリアで取り、いよいよ宮城県に入った。
「カー・ラジオをつけてくれ」昨日、3尉の指導を受けてからは黙ってしまっているドライバーに私は命令を下した。これにも3尉は無言の拒絶を示したが2佐の命令では従うしかない。
「周波数を合わせていないので・・・」「停車して合わせなさい。FMを頼む」私の指示にドライバーが3尉の顔を窺うと無表情に手を伸ばしてラジオをつけた。しかし、ベテラン・ドライバーの3尉も官用車のカー・ラジオは扱ったことがないらしく中々電波が拾えない。しばらくの試行錯誤の末、ラジオから時報が流れた。どうやら番組を受信したようだ。
「昭和一郎の昭和・歌のアルバム。チャンチャンチャーン チャンチャンチャ―ン チャラチャラチャンチャンチャン・・・」いきなり景気が良い「青い山脈」の伴奏が響き始めたが、私には最初の声に聞き覚えがあった。昭和一郎と言うDJ名は知らないからラジオではないが、電話で話し、直接会話をしたことがあるような気がする。すると伴奏だけで番組が始まった。
「今日も昭和の名曲の数々をお送りしながら思い出を語っていきたいと思います」この声色と口調は間違いなく島田元准尉だ。確かに島田元准尉は可児市の地方FM局の番組のDJをやっていると聞いたような気がするから、仙台にまで進出してきたのかも知れない。
「番組が始まって以来、震災で亡くなった方が好きだった歌のリクエストが多数寄せられています」ラジオの島田元准尉の声が重くなった。これだけでも島田元准尉が被災地でラジオ番組を始めた理由が判ったような気がする。電気が復旧しない被災地ではラジオが娯楽の中心であり、避難所から動けない高齢者に懐かしい歌を届けて励まし、遺族になった人にも思い出の歌を捧げて追悼の機会を与えているのだろう。これも島田元准尉にしかできない災害派遣のはずだ。私は「仙台で島田元准尉を訪ねてみよう」と考えながらラジオに耳を傾けた。
- 2019/04/26(金) 12:09:03|
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1719年の4月25日にイギリスで「ロビンソン・クルーソー」が刊行されました。
野僧の友人の中には40歳代の前半くらいまでカヌーで無人島に渡り、テントを張って孤独を楽しむ輩が少なからずいました。また野僧の小学校ではゴムボートで矢作川の中州に渡って漂流ごっこをするのが流行しましたが、このような冒険に憧れるようになったのはテレビのアニメ「冒険ガボテン島」を見て図書室で借りて読んだ「ロビンソン・クルーソー」や「十五少年漂流記」などの影響が大きかったのでしょう。
「ロビンソン・クルーソー」の正式な題名の直訳は「自分以外の全員が犠牲になった難破で岸辺に投げ出され、アメリカの浜辺、オルーノクと言う大河の河口近くの無人島で28年もたった1人で暮らし、最後には奇跡的に海賊船に助けられたヨーク出身の船乗りロビンソー・クルーソーの生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記録」と粗筋の説明になっています。
実はこの物語には実在のモデルがいるようです。その人物はスコットランド人の船乗りで1704年に南北アメリカ大陸に沿って大西洋から太平洋を航海していて船長と喧嘩になり、チリ沖のフェルナンデス諸島のマス・ア・ティエラ島に置き去りにされたのです。それから太平洋にまで進出していたカリブの海賊に救われるまでの4年4ヶ月間を自給自足で暮らし、帰国後に手記が新聞に載ったことで週刊誌を発行していたダニエル・デフォーさんが知り、58歳での長編第1作としてこの物語を執筆したようです。ただし、デフォーさんはロビンソン・クルーソーの体験記と思わせるように前述の題名のみの著者名なしで出版しています。このあたりは流石は雑誌を手掛けている書籍販売のプロです。
出版後は大評判を呼んで続編・続々編が刊行されて同時代のイギリスの作家であるジョナサン・スウィフトの「ガリバー旅行記」に大きな影響を与えました。さらに19世紀のドイツの哲学者のカール・マルクスは「資本論」の第1篇・商品と貨幣、第2篇・商売の中で「ロビンソン・クルーソーは自分の欲望を満たすためにあらゆる工夫を行った。道具を発明して狩猟を行い、魚を漁った」と労働と工夫が商業的価値の発生につながる例として引用し、19世紀から20世紀に活躍したドイツの哲学者のマックス・ウェーバーも「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中でロビンソン・クルーソーの合理主義はプロテスタントの倫理観を基盤としていると指摘しています。
一方、「十五少年漂流記」はフランスの小説家であるジューヌ・ヴェルヌが1888年に発表した少年向け小説で原題の直訳は「2年間の休暇」です。
こちらはニュージランドの寄宿舎で暮らすイギリス人とフランス人の少年14人と水夫見習いのアフリカ系の少年の15人が乗った船が突然、操舵不能になって流され、未知の海岸に漂着します。そこからは「ロビンソン・クルーソー」の生活と情景描写を模倣しながらもイギリス人とフランス人の国民性の違いを際立たせながら少年たちが体験を通して社会性と政治力を身につけていく姿を描いています。「冒険ガボテン島」はこれを模倣していますが、野僧としてはウィリアム・ゴールディングの「蝿の王」の方が好みです。
- 2019/04/25(木) 11:14:16|
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「モリヤ2佐、君に東北へ行ってもらうことになった」モリヤ佳織1佐が気仙沼大島でのトモダチ作戦から戻って1週間が経った頃、私は法務官から災害派遣命令を言い渡された。通常、このような命令は本人に問題が生起した時の責任を自己に転嫁するため打診と言う手順を踏むのだが、それを抜いたのは有無を言わせるだけの余裕がないほど切迫した事態に陥っているのかも知れない。確かに現地部隊からの法律相談は一向に減っておらず、折角、佳織が帰宅できるようになっても官舎に戻れないため夫婦の時間を持てないでいる。
「それは判りましたが、統幕首席法務官室への臨時勤務はどうしましょうか」これは異論・反論ではなく質問だ。統幕首席法務官室への臨時勤務で担当しているイージス護衛艦と漁船の衝突死亡事故訴訟の第1審の判決は5月11日の予定だ。約3年間にわたって担当してきた裁判の最終段階であり、ここで外されることが不本意なのは間違ない。しかし、上層部がそれを承知の上で命じたことも判っている。
「今回の派遣先は統合任務部隊司令部だから間もなく命令処理されるはずだ」確かに統合任務部隊は「陸海空自衛隊のうち2つ以上を単一の司令部の指揮下に置く」と定義されているが、それは本来、統合幕僚監部の機能であり、組織としての位置関係には不明確な点がある。
「それでは仙台駐屯地での勤務になりますか」私の確認に法務官はユックリ首を振った。ここに今回の唐突な派遣の理由があるようだ。
「知っての通り、被災地の復旧作業が本格化してようやく現場への立ち入り制限も緩和されているんだが、そうなるとマスコミに続いて東京の活動家がボランテイアとして姿を見せるようになっているらしい」「彼らの妨害活動については仙台市内の派遣部隊からも相談を受けています」早い話が自衛隊側の被害地域が拡大していると言うことになる。
「ところが最近は東京の弁護士も同行していて自衛隊が所有者に無断で撤去した物品の損害賠償を要求する民事訴訟を起こすように扇動していると言うことだ」災害派遣部隊としては弁護士である杖野官房長官が記者会見で同様の問題をマスコミに指摘されて出した行政指導を守って自治体の担当者に確認をするなどの対応をしているはずだが、行政指導では民法などの規定を除外するだけの効力はなく、訴訟となると少し苦しいかも知れない。その一方で政治的には左傾の弁護士が尊敬する千石弁護士が代表代行を務めている民政党を支持しているはずなので、裁判で足を引っ張るところまで踏み込むのかには疑問も感じる。
「マスコミは阪神大震災以降、自衛隊が災害派遣で国民の支持を獲得していることを問題視していて、今回の災害派遣で自衛隊が活躍することに何としても失点を付けるつもりらしい。それも単なる粗探しにならないように弁護士に協力させて違法性を指摘する高等戦術も画策しているようだ」「東京のテレビや新聞は相変わらず福島原発の放射能漏れの問題ばかり報じていますが、目を背けさせた影で準備を進めておいて、災害派遣が終わった頃に民事訴訟を続発させて自衛隊の活動の違法性を批判する戦術ですね」ここまで来ると怒りよりも呆れてしまう。私の場合、沖縄で反自衛隊の活動家たちと対峙し続けてきたので予防接種を受けているが、自衛隊を敵視する活動家たちの執念には恐れ入るしかない。
私が勤務していた頃の那覇市長は市議会で市役所の職員や市立小中学校の教員たちが自衛官とその子供たちに公然と嫌がらせをしていることを批判されて「憲法違反の自衛官には日本国憲法が保障する基本的人権はない」と公言したが、それが今も変わらぬ共通認識なのだ。
「君には弁護士たちが住民を扇動している地域に赴いて自衛隊の立場を説明してもらいたい。弁護士が法的問題と賠償責任を説明していればそれにも反論を加えて諦めさせて欲しいんだ」これが任務付与のようだ。しかし、それを1人で担当するのは多勢に無勢ではないか。何よりも弁護士としての能力と経験が違い過ぎる。
「私としては彼らの戦術はあまりにも稚拙に見えます。私が(反体制側の)指揮官であれば逆に災害派遣の活躍に感謝する報道を大々的に繰り広げて国民には災害救助隊と言う認識を与えて、自衛官にも国民に感謝される任務に遣り甲斐を感じさせるように意識を誘導する。こうすれば災害派遣を入隊理由にする若者が増えて防衛任務を人殺しの訓練として拒否することも期待できる。同じ弁護士バッジを付けている者として現地で助言しましょうか」これは本気なのだが法務官は皮肉と受け取ったようで渋い顔で視線を反らして大きく息を吸った。
「現地部隊からの情報では弁護士たちは津波で被害を受けた学校のPTAにも『避難要領に落ち度があるから過失責任を問える。市町村を相手に損害賠償訴訟を起こせ』と言い回っているらしいな」この情報は私のところには届いていない。結局、3権分立によって行政・立法から隔絶している弁護士は政治的信条とは関わりなく反日本国が活動目的のようだ。
- 2019/04/25(木) 11:13:05|
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昭和60(1985)年の明日4月25日に一連の北朝鮮の工作船による日本への接近事件の1つである日向灘不審船事件が発生しました。
この日の午前9時頃、宮崎県水産課の漁業取締船が日向灘で不審な動きをする船を発見して通常の職務権限の行使としての臨検を実施することにしました。そこで停船命令を発しながら接近すると漁船とは思えない高速度で逃走を開始したため追跡を断念した漁業取締船は第10管区海上保安本部に通報したのです。この時、確認していた船体の「第三十一幸栄丸」と言う船名は宮崎県の漁業協同組合に船籍を置いていても「漁船用としては大き過ぎるレーダーや方向探知機」を装備していることから不審船と断定して拿捕するべく他の管区に応援を要請して巡視船23隻、航空機4機を出動させました。
そうして約40時間にわたり全力で追跡を続けましたが40ノットを超える異常な高速度には太刀打ちできず、4月27日未明になって中国領海目前の東シナ海でレーダーからも消えたのです。この動きを察知していた韓国軍は強力な警戒態勢を敷いて不審船の動きを追い、その結果、中国領海をかすめるように北上して最終的には黄海を横切って北朝鮮の軍港・南浦に入港したことが判明しました。
この時期は朝鮮労働党の下部組織である日本社会党がまた健在で、朝鮮総連がマスコミに絶大な影響力を持っていたためニュースでも大きく取り上げられることはなく、一般国民が疑問を感じることもなく消えてしまいましたが(野僧は自衛官だったため防衛事例として教育を受けた)、日本海側であればまだしも九州を迂回して四国との内海・海峡とも言うべき日向灘にまで侵入された事態は重大かつ深刻であり、その後、発覚した昭和63(1988)年の宮崎県での日本人拉致の前兆として周知させるべきでした。しかし、自治労と日教組の労働闘争を指揮していた地方の社会党は中央からの指示で怠業や内部告発、情報漏洩などで知事に圧力をかけることを常套手段にしており、その反発をおそれて宮崎県や県警も迂闊に断定はできなかったのでしょう。現在も公式には「国籍不明の不審船」になっています。
ただし、海上保安庁だけは当時、保有している最新鋭の巡視船を投入しても追いつけなかった失策を最大限に利用して高速巡視船の導入に成功しました。この高速巡視船の最高速度は35ノットなので不審船には追いつけないのですが、強力なレーダーを装備しているため海上では先回りして待ち構えることができるのです。実際、2001年12月22日に発生した九州南西海域不審船事件では高速で逃走する不審船に執拗に追いすがったため、かえって銃撃を浴び、携帯型地対空ミサイルを発射されています。
この時は中曽根康弘政権なので小渕恵三政権が1999年の能登半島沖不審船事件で同様の事態に陥って初めて海上自衛隊に対して海上における警備行動を発令したのを先取りすれば良かったように思いますが、マスコミがニュースで「北朝鮮」と言った後、「朝鮮民主主義人民共和国」と言い直している時代でしたから無理はしなかったのでしょう。その前に警察官僚出身の後藤田正晴官房長官が反対したのかも知れません。
- 2019/04/24(水) 10:47:24|
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ホテルでの夕食後、昭和一郎=島田元准尉は仙台FMに戻って小会議室でタイム・スケジュール表を作成していた。毎日定時の番組を担当することになったため明日までに準備を整えなければならない。それでも番組終了後、仙台FMには聴取者から感想を伝える電話が少なからず入ったらしく、そのメモの束に目を通していると番組に内容も反映したい内容もあった。
「亡くなった家族の思い出の歌でしたと言う声が多いな」今日、流したのは昭和24年の「青い山脈」、昭和9年の「丘を越えて」と藤山一郎が2曲、その後は「青い山脈」と仙台の「青葉城」をからめた「青色」特集になって昭和42年の「ブルー・シャトー」でジャッキー吉川とブルーコメッツのグループ・サウンズ、そして昭和55年の「青い珊瑚礁」でアイドル歌手の松田聖子と昭和を15年ごとに刻んだ配分だった。
「震災で亡くした家族だったら、藤山一郎なら祖父さん・祖母さん、ブルーコメッツは両親、松田聖子は兄弟姉妹なんだろうな」実は今日の番組は準備時間が取れなかったため昭和一郎は聴取者が大震災の被災者であることを考える余裕がなかったのだ。そんな急ごしらえの番組でも聴取者は自分が負っている心の傷の癒しに役立ててくれたようだ。
一方、「青色」特集の中でも「ブルー・シャトー」についてはあまり知識がなかったため「シャトーはフランス語だからブルーではなくブルウと発音しなければいけない」と得意ではない語学ウンチクを語ってしまった。この情報源はモリヤ佳織1佐、当時は伊藤佳織3尉だったはずだ。
「何だって・・・」思い掛けない感想に昭和一郎は呆気にとられてしまった。これも「亡くした家族の思い出の歌」と言う悲しい便りだが結びつきが意表を突いている。
「漁師だった祖父は海と船の歌なら何でも好きで私が唄っていた松田聖子の青い珊瑚礁も気に入って漁に出る時、唄っていました・・・凄いセンスだな」文面から想像するにこの祖父は昭和一郎と同世代だろう。しかし、昭和一郎は子供や若い隊員が唄っている今風の歌を覚えて愛唱したりはしない。何となくこの祖父のために1曲流したくなってきた。
「海と船の歌か・・・」思案してみると海洋国家である日本には海と船の歌は山ほどある。昭和一郎は白紙のタイム・スケジュール表を裏返してメモを用意した。
「何と言っても『おやじの海』だな」この歌は昭和47年に会社の同僚だった作詞・作曲の佐義達雄と歌手の村木賢吉が自主制作で500枚作ったものの全く売れず、昭和53年になって釧路の有線放送で流れたことで評判になり、昭和54年にレコードが再制作された。それでも紅白歌合戦には出場していない。このネタは使えそうだ。
「次は『兄弟船』か」こちらは昭和57年の発売だが、唄っている鳥羽一郎は三重県の漁師と海女の息子で本人も遠洋漁業の漁船に乗り組んでいたことがある。演歌歌手の山川豊は実弟だが、こちらは漁師の経験はないので兄弟船ではなかったようだ。
「シャンソンの『誰もいない海』も良かったな。だけどあれは誰の持ち歌なんだろう」演歌2曲に続き今度は意外な曲が頭に浮かんだ。「誰もいない海」は昭和43年のシャンソン歌手の大木康子のレコードが最初だったが全く売れず、昭和45年の同日に発売した越路吹雪とトワエ・モアのものが大ヒットしたためシャンソンとフォーク・ソングの両方のジャンルで広まった。そう言えば作詞の山口洋子は「よこはま・たそがれ」の作者とは同姓同名の別人だ。
「サブちゃんの『なみだ船』を忘れちゃあいかんな」これは演歌の大御所・北島三郎を全国区にした歌だがレコードとしては2枚目だ。この歌でレコード大賞の新人賞を取った
昭和一郎自身は陸上自衛隊出身の地に足をつけて暮らす人間であり、ラジオ番組も海なし県・岐阜の可児市で放送しているため海とは縁が薄いのだが、海や船の歌のリクエストは少なくない。
気がつくと演歌、シャンソン、フォーク・ソング、歌謡曲、アイドル曲から文部省唱歌、童謡、民謡まで思い浮かぶ歌をメモしただけでもB4の紙にギッシリ埋まってしまっていた。
「こうなると選曲が難しいな。亡くなったお祖父さんが好きだった歌をリクエストしてくれれば一番良いんだが・・・」縦書きに曲名を隙間なく並べた紙を眺めていると経典に見えてくる。考えて見ると島田家の宗旨である日蓮宗の宗祖も千葉県は房総半島の先端の漁師の息子だ。しかし、日本の公共放送では宗教ネタと軍歌は禁じ手なので使うことができない。
「そう言えば今夜の担当は熊本の水前寺亜紀さんだったな」壁の時計を見ると夜の番組が始まる時間だった。熊本は妻の順子の出身地で水前寺は若い頃に似ていないことはない。熊本には何故かハーフを思わせるような彫りが深い濃い顔立ちの女性もいるが、順子と水前寺は石川さゆり風の正統派美人だ。持ってきた携帯ラジオをつけると軍歌を思わす景気が良い伴奏が響いた。
「水前寺と言えば清子、水前寺清子と言えば365歩のマーチか」どうやら水前寺は昭和一郎の「青い山脈」と同様に「365歩のマーチ」を主題歌にしているらしい。
- 2019/04/24(水) 10:46:29|
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1965年の4月23日は空飛ぶ円盤を信じる熱狂的な支持者からは教組のように崇敬されていたジョージ・アダムスキーさんの命日です。74歳でした。
以前は学校、職場、酒席だけでなくテレビや雑誌から国会でも空飛ぶ円盤の存在を巡って大真面目な論争が繰り広げられていましたが、証拠写真として紹介されていたのは小型の「アダムスキー型」か、巨大(研究者は母船と説明していた)な「葉巻型」でした。そんな空飛ぶ円盤と地球外生物の存在を世に広め、多くの人々にこの「アダムキー型」を信じさせたのがポーランド系アメリカ人のジョージ・アダムスキーさんです。
アダムスキーさんは1891年にドイツ帝国に領有されていたポーランドで生まれ、2歳の時に家族でアメリカのニューヨーク州に移住しました。
アダムスキーさんは宗教家気取りだったこともあり、経歴は真偽不明と言うよりもかなり胡散臭いのですが、8歳から12歳までチベットへ留学してダライ・ラマ13世(在位は1879年から1933年)に師事したと自称しています。しかし、当時のチベットは鎖国しており、それでなくても目立つヨーロッパ人の子供が立ち入ることは考えられず、ヒマラヤの峰を越えて入国するのは成人した探検家でも遭難することが多く、何よりもチベット語が話せなくては修行どころか生活も不可能です。ただし、この期間のアメリカでの足跡は抹消されているらしく、1913年にアメリカ陸軍に入営して騎兵隊に配属されたことが次の経歴です。しかし、1913年では22歳であり、当時は徴兵制が敷かれていたことを考えると不可解な経歴ではあります。
1916年に軍を除隊してから10年間はイエローストーン国立公園の管理人やポートアイランドの製粉工場、ロサンゼルスのコンクリート工事業などで真面目に働いたものの、その後はカリフォルニア州に移り、そこで東洋風オカルティズム(霊媒や除霊などのオカルト的相談業)を始めたことでチベット留学の経歴が必要になったようです。
同時期にロイヤル・オーダー・オブ・チベットと言う宗教団体を立ち上げましたが、実態は禁酒法の「宗教儀式での飲酒は除外する」と言う規定を悪用して「信者に酒を飲ませて金を取る商売だった」と本人が白状しています(佛教には不飲酒戒がありますが)。
そんな宗教団体が息詰まると第2次世界大戦終結後の1949年には「宇宙のパイオニア」と言うSF小説を発表しますがそれほど評判にならず、いよいよ切羽詰まったアダムスキーさんは1952年11月20日に「円盤状の飛翔体に遭遇した」、同年12月13日には「宇宙人と面会した」と言い出して新聞やラジオで紹介されました。そして1953年に「空飛ぶ円盤実見記」、1955年に「空飛ぶ円盤同乗記」を発表するとベスト・セラーになり、世界中に空飛ぶ円盤=未確認飛行物体と地球外生物=宇宙人を信じる者を発生させ、映画やテレビ・ドラマ、SF小説や漫画の定番にしてしまいました。
しかし、ノストラダムスさんの「1999年の7の月」の人類滅亡の予言が外れたことを契機にテレビや雑誌はオカルトから手を引き、同時に多くの人が語っていた神秘体験談も消滅したので、遠からずカップ焼きそばの「UFO」の商品名も意味不明になるでしょう。

アダムスキー型空飛ぶ円盤
- 2019/04/23(火) 10:30:38|
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「チャンチャンチャーン チャンチャンチャーン チャラチャラチャンチャン チャンチャンチャーン・・・若く明るい歌声に 雪崩は消える花も咲く・・・」その日の午後、仙台市を中心とする東北地方のFMに合わせたラジオからは軽快な「青い山脈」が流れ出した。
「東北の皆さん、はじめまして。仙台FMに臨時勤務中の昭和一郎です。これからしばらく、毎日この時間に私の番組『昭和・歌のアルバム』をお送りすることになりました。最初の曲は私の番組の主題歌にしました藤山一郎の『青い山脈』でした」仙台FMのスタジオの設備はやはり可児市の地方FM局とは比べ物にならないくらい立派だ。ガラスの向こうにはアシスタントとチーフ・プロデューサー、その隣りには歓迎会に出席していた副社長も視察している。普通は出演者を緊張させないために重役などの視察は控えるものだが今回の企画に対する期待の大きさがそのような配慮よりも優先されたようだ。
「青い山脈は戦後間もない昭和24年に第1作が上映されて、その後も昭和32年、38年、50年、そして1988年にも繰り返し上映されている青春映画です。このため主演も当時の若者が胸を時めかせた美人女優ばかりで第1作から原節子、司葉子、吉永小百合、片平なぎさ、柏原芳惠が演じています。まァ、皆さんにも好みがありますから賛否両論があるとは思いますが」これが寄席や劇場であれば冗談も客の反応を確かめられるのだがラジオでは「うけたつもり」で言い放つしかない。おまけにガラスの向こうの重役は厳しい表情を崩さないから始末に悪い。ここで昭和一郎は時計を見て話を続けた。
「少し昭和史を語りましょう。この第1作の製作が決まった頃の東宝は左翼映画人の巣窟になっていて、労組は資本家が労働者の搾取する資本主義の実態を描いた作品や日本の軍国主義を徹底的に糾弾する反戦映画以外は認めないと強硬に反対したそうです」この意外な裏話に重役は興味を持ったようで身を乗り出して腕組みをした。
「それで今井正監督が戦時下には禁じられていた男女交際が自由になり、通学にも一緒に歩いて青春を謳歌できることを描くだけでも意味があると反論して製作に同意させたのです」敗戦直後は軍国主義による言論弾圧以上に左翼文化人たちの革命待望論による言論統制が激しかった。そのことを当事者だった高齢者たちに思い出してもらい、若い世代に語り伝えてもらいたいと願って紹介した歴史秘話だった。
「続いてもう1曲、藤山一郎の明るい歌声をお送りしましょう。これは戦前の昭和6年の古賀政夫の作品、いわゆる古賀メロディ―です。『丘を越えて』をどうぞ」これで戦前も1曲になる。昭和の60年間を15年ごとに区切って1曲ずつ選べば各年齢層に楽しんでもらえると言う計算だ。しかし、NHKの紅白歌合戦はこの方式を採用したことで、かえって全ての年齢層に不満を与える結果になっているからそこは注意しなければならない。
「チャチャチャチャカチャカチャンチャンチャーン・・・丘を越えて行こうよ 真澄の空は朗らかに晴れて・・・」軽快なマンドリンの音色が響き始めたが、この曲の伴奏と間奏は長過ぎて好きでなければ飽きてしまう。この時間を利用して昭和一郎はマイクが音を拾わないように横を向いてペット・ボトルのお茶で喉を潤した。
「昭和6年と言いますと9月18日に満州事変が起きていますが、日本国内ではまだ大正時代の自由で明るい空気が残っていたようです」この曲も映画「姉」の主題歌なのだが知名度が低いので歴史の話題でつなぐことにした。今では大正を関東大震災や世界恐慌が起こり、昭和の軍国主義につながった陰鬱な時代だと思っているが、世界恐慌は昭和4年のことであり、むしろ第1次世界大戦後に欧米で花開いた民主主義を謳歌する空気が日本にも伝播した大正デモクラシーを庶民も満喫していたのだ。
「したがって昭和6年には1月に雑誌・少年倶楽部で漫画・のらくろの連載が始まり、4月には明石原人(現在は年代特定が不可能なため『明石人』と呼ばれることが多い)の腰骨の化石が発見され、11月には大阪城の天守閣の再建が竣工しています。明石原人の化石が発見されるまでは日本人は縄文時代になって大陸から移住してきたと想われていたそうです。大阪城の天守閣は地上に露出している鉄筋コンクリート製の建造物としては世界最古だそうです。ちなみに大阪城の天守閣は戦災ではなくて江戸時代に落雷で焼失したんですよ」この話題は可児市のFM放送でこの歌を流した時に使った情報ノートを読んでいるだけなので手間は掛かっていない。それでもガラスの向こうの面々は感心したような顔で見ている。
「流石だな。他のDJたちはリクエストとメッセージがなくては番組にならないと苦労しているが、これなら1曲を起点に幾らでも膨らませていけそうだ」「若い人にも聴かせたいですね」昭和一郎の第1戦は見事な初一本だったが、聴取者の反応は果たしてどのようなものか。
- 2019/04/23(火) 10:26:52|
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2007年の明日4月23日は退任して20年、没後12年が経過しても未だに実像不明になっているロシアのボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン大統領の命日です。
エリツイン大統領が在任した時期のロシアはアメリカに対抗する超大国だったソビエト社会主義共和国連邦がアレヨアレヨと言っている間に消滅して統治機構は崩壊、経済は破綻、軍は機能停止状態で国家の体を為しておらず、外交に於いても「自由主義の一員になったロシアを守るための支援」を要請する物乞いになり果てていました。こうなれば外交の常識として日本は支援と引き換えに北方領土の返還を要求すべきところでしたが、宮沢喜一死に体内閣と肥後・熊本の馬鹿殿が天下人ではどうしようもなく善意と同情による助け合い募金のような甘い甘い対応に終始していたのです。
日本では憐れな姿ばかりが焼きついているエリツィン大統領ですが、その経歴は意外に派手な役どころを演じています。1931年にヨーロッパとアジアの境界線であるウラル山脈の麓の独立農家の息子として生まれました。30歳でソビエト共産党に入党するとブレジネフ派として順調に昇任し、1976年にモスクワ南方のスヴェルドロスク州の党第1書記に就任すると同州内にあるニコライ2世一家殺害現場の屋敷を改装した歴史博物館を西側の歴史研究者やマスコミが取材して「ロシア革命の残虐性を示す史跡」として紹介していることを問題視した党中央の命令で解体しています。このような活躍を評価されて1981年には党中央委員になり、保守派からは同年齢のゴルバチョフさんの対抗馬と目された時期もありましたが、1985年にゴルバチョフさんが書記長に就任すると保守派への押さえとして重用されることになりました。ところが西側との国力の格差を自覚したゴルバチョフ書記長がペレストロイカを提唱するとソビエト共産党内ではペレストロイカの推進を主張する若手と共産主義体制の整備によって国家は再生できるとする保守派の対立が激化し、かつてであれば権力者によって粛清が行われるような事態に陥りました。しかし、西側式の情報公開もペレストロイカの眼目の1つだったこともあり、それを鎮静化する手段がないままゴルバチョフ体制は前のめりになって突き進んでいったのです。
そんな1985年にエリツィンさんは首都・モスクワ市の党第1書記に就任するとベレストロイカの推進を主張する改革派の頭目となり、西側のマスコミにはペレストロイカの遅滞を批判する急進的反体制派として登場するようになりました。
その後、ペレストロイカに不満を抱く保守派の批判の的になり、1987年にはモスクワ市の党第1書記を解任されたものの1989年の人民代議員選挙にモスクワ選挙区から出馬して当選、1991年6月にはロシア共和国の大統領選挙でも当選し、8月に保守派が起こしたクーデターでは鎮圧を陣頭指揮して名を売り、国民の絶大な支持を受けてソ連崩壊後に成立したロシア連邦の国家元首に横滑りしたのです。
これだけの実績の持ち主が虚栄心を捨てて物乞い同然の外交を行ったのは「自分がソ連を崩壊させた」と言う自覚があったからでしょう。そこが厚顔無恥な日本の旧・民主党の政治屋どもとは逆に尊敬に値します。
- 2019/04/22(月) 11:57:17|
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番組初日は葉書やメールによるリクエストがないので昭和一郎=島田元准尉個人の企画力が試される。しかし、ホテルは停電で自家発電による暗い室内灯しか点(つ)かず、最年長者と言うこともあって代わる代わる酒を注がれたため思案しながら気がつけば眠っていていた。したがって今朝は仙台FMの打ち合わせ用小会議室で番組のタイム・スケジュール表と格闘している。収録中は仙台FMの係員がレコードをかけるので予定時間と曲名に注意事項を添えた詳細なタイム・スケジュール表を作成しなければならないのだ。
「やっぱり古い順に紹介して行くのが無難だよな」可児市の番組では昭和初期から古い順に曲を紹介し、時代背景や当時の風俗・流行を説明することで懐メロの愛好者だけでなく歴史マニアの市民の支持も獲得している。
「問題は今回の番組は短期決戦だってことだ。あまり念入りにやっていると戦前だけで終わってしまうよ」昨日のチーフ・プロデューサーの提案で午後の番組を毎日担当することになったが、それでも2週間では14回だけだ。
「それに昭和初期の曲を聞いていた人は100歳に近いはずだから、あまり力を入れるとかえって敬遠されそうだ」気がつけば今年は昭和に換算すれば86年になる。家庭でラジオの歌謡番組を聴いていたのが15歳以上だとすれば若くても100歳過ぎだ。戦後も昭和の間は「懐かしのメロディ―」特集の番組は繰り返し放送されていたが、昭和一郎自身も両親が聴いていた曲を思い出して、少年時代を振り返っていたに過ぎなかった。
「俺にとって懐かしい曲となると・・・やっぱり戦後歌謡だな。ハワイアン歌謡やグループ・サウンズなんかも紛れ込ませれば戦中生まれ世代にはうけるだろう」ハワイアンは西日本を中心とする困窮農家が明治政府の公募で移民したことでハワイへの関心が高まり大正期に流行した。それが進駐軍によって再び流行したことを受けて結成された日本人バンドの楽曲が戦後のハワイアン歌謡だ。リーダー自身が日系2世のバッキ白片とアロハ・ハワイアンズや女性ばかりの横江美代子とフラワー・シスターズ、慶応ボーイのバンドのボス宮崎とコニー・アイランズ、後にグループ歌謡に移行した山口銀次とマヒナズターズ(グループ歌謡ではリーダーが和田弘になっていた)、その弟の山口軍一とルアナハワイアンズなどが一世を風靡した。この他にもジャズをハワイアンの楽器で演奏した大橋節夫とハニーアイランダーズや同様にロックン・ロールを持ち込んだダニー飯田とパラダイス・ハーモニーも捨て難い。
「ハワイアン・バンドが戦前も活躍していたことを紹介すれば学校で教えられている外来文化禁止と言う思想弾圧が誇張だってことも伝えられるな」実際、これらのハワイアン・バンドは大正デモクラシーの中で学生たちが結成していたハワイアン愛好会に昭和の戦時色が濃くなった時期に入会し、戦時中もハワイへの遠洋航海を経験している海軍に招かれ、官憲の目が届かない地方で慰問を行っていたと言う。学校教育だけでなく映画やドラマでは英語を敵性語として徹底的に排除していたように描いているが、うるさい者の目を盗んで秘かに楽しむ人間の逞しい性(さが)は特高警察をもっていても抑え切れなかったようだ。
「問題は仙台FMにどのくらい古い音源が保管されているかだな」そこで昭和一郎はチーフ・プロデューサーから渡されたレコード、カセットテープ、MD、CDの保管リストを確認した。
「初回は番組のイメージを知ってもらうのが眼目だから昭和のヒット曲を流して世相を語ることになるが、昭和は62年間もあるから聴取者がどの年代に分布しているのか知りたいところだな」昭和は64年で終わっているが元年と64年はどちらも1週間しかなかった。その時代を歌で追う番組を始めて数年、今では昭和一郎の芸名通りの生きた年表になっている。
「番組冒頭の主題曲はやっぱり藤山一郎の青い山脈の伴奏だな。俺のDJ名とも重なるしね」島田元准尉は可児市のFM局からの依頼で番組を引き受けるに当たり、芸名=DJ名を決めるのに昭和太郎と昭和一郎の選択でかなり迷った。音としては昭和太郎の方が昭和の大スター・東海林太郎と重なるため覚えてもらえそうだが、イメージとしては直立不動で無表情に唄う東海林太郎よりもにこやかに明るく唄う藤山一郎の方が好感度は高いと考えてこれに決めた。
「青い山脈と言えば映画の主題歌だな」選曲すれば忘れないうちに番組で紹介する内容を確認する。島田元准尉は小会議室の奥の壁に設置してある本棚から自分の歌謡史の資料を閉じたバインダーを持って来て歌手別に分類してある中の「ふ・藤山一郎」のページを開いた。
「なるほど。第1作は昭和24年で原節子主演だったな。小倉で見たぞ。第2作は昭和32年で司葉子、第3作が昭和38年で吉永小百合、続いて昭和50年の片平なぎさ、そして最新が1988年の柏原芳惠かァ。やっぱり司葉子は綺麗だったな」ここまで語るネタがあれば初回は伴奏だけでなく全曲を流すことにした。
- 2019/04/22(月) 11:55:43|
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全国の地方ローカルFM局の人気DJを集めた仙台FMの震災被災者激励特別番組が始まる。北から北海道は旭川の雪うさぎ、東北は盛岡の石川賢治、関東は宇都宮のとちおとめ、中部は岐阜の昭和一郎、近畿は神戸の福原都、中国・四国は松山の正岡昇、九州は熊本の水前寺亜紀、そして沖縄は宮古島のハイサイ兄さんと言う芸名か本名かも判らない面々だ。昭和一郎=島田元准尉が最年長で他は40歳代から30歳代の男女だ。
全員が揃ったところで仙台市が宿舎として確保したホテルの1階ロビーのラウンジで歓迎会が開かれた。市内の飲食店は電力が復旧するまでは衛生上の問題で営業再開が許可されていないため、持ち込みの酒類と自宅の晩酌よりも質素なつまみでの宴席になった。
「今回はご多忙な中、当市の依頼に応じてくださり誠に有り難うございます(中国地方には断られましたが)。本当にささやかな宴席ですが、これが大震災で被害を受けた東北最大の都市・仙台の実情でございます。私以下の市の職員は業務の途中で抜けてきていますのでアルコールを口にすることはできず、乾杯が終わり次第退席させていただきますが、皆さまは気楽に親交を深めて下さい」宴会の冒頭は主催者である市の災害復興本部長の挨拶だった。大都市の自治体の上層部となれば宴席には慣れていて場の空気を盛り上げる要領も心得ているはずだが、本部長は沈痛と疲労の色を隠さず、事情説明に終始しただけで挨拶を終えた。
「それでは乾杯を行います。発声は仙台FMの副社長にお願いします」司会進行は仙台FMの社員だ。指名を受けた副社長は目の前の日本茶の缶の栓を自分で開けると目の前に掲げた。
「それでは皆さまのご活躍によって被災者の活力を取り戻すような素晴らしい番組の放送を願いまして・・・乾杯」「乾杯」結局、アルコホールを飲むのは集ったDJだけのようだ。仙台FMは24時間態勢で放送を続けており、大きな余震などがあった場合、緊急放送を実施する。このため社員は3交代勤務に組み込まれており、副社長には空き時間もない。本当はこの人たちにこそ酒を飲ませてストレスを軽くさせたいのだが、それが許される状況でないことも判っている。結局、30分後にはDJたちとチーフ・プロデューサーだけになった。
「昭和一郎さんの番組は高齢者が聴取対象になるでしょうから放送時間は午後に固定と言うことでどうですか」チーフ・プロデューサーはここでも放送ローテンションの話題を持ち出した。地方ローカルFM局のDJは本業の傍ら副業・余技・趣味として勤めている者も多く、今回の人選も「仕事の都合がついた者」と言う側面も否定できない。中国地方が断った理由もそれだ。このため集合完了は番組開始の前日になり、明日は先に到着した者に割り当てている。
「そうですね。高齢者は現役世代が仕事に出ている時間でも聴けますからそれで良いでしょう」昭和一郎もこの提案に同意した。すると松山の正岡昇が口を挟んだ。
「高齢者が対象なら昭和さんの番組は午後の定時にして1名ずつ休息するようにしませんか」西日本では「松山の人間は計算高い」と言われているが、ここでも数式を働かせてきた。
到着後に各人の希望は確認しているが、地元での放送時間と同じく夜間を選ぶ者が大半だった。地元では仕事を終えてから局に向かい短時間で打ち合わせと準備を行って本番を迎えている。その点、仙台では番組だけが仕事なので時間的制約はないはずだ。それを説明しても「午前では調子が出ない」などと首を縦に振らなかった。
「この放送が予定通り2週間で終われば良いですが、電力の復旧が遅れて延長になれば急速の問題は考えなければいけません。その意味では昭和さんが了承して下されば一考に値する提案ですね」今回の企画は「電力が復旧してテレビの視聴が可能になるまで」と言う予定で依頼されている。島田元准尉としては自衛隊の災害派遣が長期化している以上、自分も可能な限り続ける覚悟だが、その前に番組を維持するのに不安もあった。
「ところで郵便が再開しなければリクエスト葉書が届かないでしょう。そちらはどうなっていますか」急に話が変わってチーフ・プロデューサーと正岡は顔を見合わせたが、島田元准尉の両隣りの雪うさぎとちおとめはそれが気になっていたようで身を乗り出した。
「最近はメールが中心ですが、東北では充電ができない関係で携帯(電話)を使うのを控えているそうですね。そうなると葉書を待つしかないでしょう」「聴取者との対話が番組を構成する上での基本ですからとても気になっています」島田元准尉は若い2人に考えていることを代弁してもらって黙ってうなずいた。
「個人情報の問題で郵便や宅配便が配達できなくなったのは個人宛で、リクエスト葉書のような当社宛ての書簡は届きますから安心して下さい。ところで皆さんは番組の構想をまとめるのにどのくらい時間をかけますか」チーフ・プロデューサーの質問は放送ローテーションを策定する上での参考でもある。やはりボランティアを組織が使うのには特別な苦心があるようだ。

イメージ画像(人気DJ・千倉真理さん)
- 2019/04/21(日) 11:25:08|
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4月17日に野僧は梶原一騎さんの作品以上に愛読していた時代劇画の原作を執筆していた小池一夫先生が亡くなったそうです。82歳でした。
小池先生は昭和11(1936)年に秋田県大曲市(現在の大仙市)で生まれ、幼い頃から近所の旧家に入り浸り、蔵の中に積んである文庫本を読み漁って仕入れた知識を小中学校で同級生に教えるのが快感だったとそうです。秋田県内筆頭の進学校を卒業すると法科私大では最高峰と言われていた中央大学法学部に入学し、在学中に「桃太郎侍」の作者である歴史小説家の弟子になり、弁護士と小説家の二兎を追ってどちらも失敗、雀荘の店員から外国航路の船員、農林省の職員まで堅軟・高低・難楽の職業を転々としている中でさいとうプロが原作者を募集していること知り、応募したのが天職への入り口でした。
野僧が小池先生の作品を読み始めたのは叔父が購読していた少年マガジンの「無用ノ介」からですが、片目なので右手を失う前の丹下左膳が主人公だと思っていました(小学校の低学年では台詞はあまり理解できていなかった)。続いて橋幸夫さんファンの祖母に「子連れ狼」のレコードを聴かされたことで劇画にも興味を持ち、本屋で見つけて小遣いで買ったところ父親にエロ・シーンがあることを知られて没収されてしまい、その反動から中学生になって秘かに段ボールの中に全巻揃えていましたが、自衛隊に入って留守にしている間に捨てられました(沖縄へ持っていていた3冊だけ残っています)。
その後も愛読していた劇画の多くも小池先生の作品でしたが、劇画は描く人が変わると雰囲気がまるで違ってしまい、読み終って本を閉じる時、背表紙で名前を見つけて気がついたと言うことも良くありました。
例えば小池先生の原作でも「無用ノ介」は「ゴルゴ13」のさいとうたかおさん、「実験人形ダミー・オスカー」は「ヒットラーの息子」の叶精作さん、「傷追い人」は「男組」や「男大空」の池上遼一さん、「長男の時代」は「いなかっぺ大将」や「巨人の星」の川崎のぼるさん、「花っ平バズーカ」は「けっこう仮面(『ハレンチ学園』は読んでいない)」の永井豪さんが作画なので描かれているキャラクターのイメージの方を強く感じてしまいます。それは野僧が好きな時代劇でも同様で小島剛夕さんの「子連れ狼」「人斬り朝」「半蔵の門」と神江里見さんの「弐十手物語」、神田たけ志さんの「御用牙」では登場人物の個性や物語の展開まで違うようです。
出家して星舟の僧名を有する小島先生は「男はそれが好きだから」とエロ・シーンを描くことが多く、前述の色々な作画家が描く美女が強姦され、愛欲に溺れる場面は毎晩のオカズとして下手な写真エロ雑誌の比ではありませんでした。中でも最高傑作は「子連れ狼」の「乞胸おゆき」で別式女の主人公が闇中の果たし合いで気絶させられて強姦されるシーンでしょう。これは片桐夕子さんが主人公を演じて映画化されましたが「題名が差別用語に当たる」と言うことでシリーズ化したDVDからも削除されているようです。
歴史マニアの知的欲求と性力(精力と言うよりも)が燃え上がっていた年頃に美味しいオカズを提供していただいたことを感謝しつつご冥福を祈ります。坊さんなので三拜。

「子連れ狼」乞胸おゆきの強姦シーン
- 2019/04/20(土) 10:56:14|
- 追悼・告別・永訣文
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島田元准尉は自家用車で仙台に向かった。それは気仙沼大島への災害派遣を経験したモリヤ佳織1佐や三沢基地で勤務する島田曹長=息子の信繁からの「仙台市内は電気や流通、公共交通機関が復旧していない」と言う現地情報と番組を編集するのに必要な昭和歌謡史の資料を可能な限り持っていくためだった。岐阜から仙台までは中央道で長野県を東進し、諏訪湖で長野道に乗り換え、そのまま北上して妙高山を迂回するように新潟県に入る。後は北陸道を山形県まで北上して山形県から出羽三山に守られながら宮城県に向かう。本来は新潟から磐越自動車道に乗り、郡山で東北自動車道に合流する方が一般的なのだが、自動車専用道は大震災以降の交通規制に関する情報が錯綜しているため一般道を選択した。
「岐阜県可児市の島田信長さんですね」仙台市役所の大会議室に設置されている災害復興本部に入るとドアの内側に置いた机の受付け係の女性に届いた案内書を示し、担当者を呼び出してもらった。待っている間に広い部屋を見回すと電話が鳴り続け、各部署の机では職員たちが固まって深刻そうに議論をしている。そんな各部署の間を手に書類を持った職員が歩き回っている。島田元准尉は自衛隊時代は通信員であり、色々な規模の演習やCPX(コマンド・ポスト・エクスサイズ=指揮所演習)などの指揮中枢にも立ち合ってきたが、この緊迫感はやはり実戦であり演習とは違う。間もなく本部の奥の方から担当者と思われる40歳代の男性が近づいてくると声を掛けて丁寧に一礼した。
「これは島田さん、遠路はるばるお越しいただきまして誠に申し訳ありません」陸上自衛隊では演習中も髭を剃り、身嗜みを心がける紳士と帝国陸軍の「戦地髭」に倣って無精髭を伸ばし、黒くなるのを自慢する豪傑気取りがいるが、この職員は前者のようだ。それでも防災服の襟元から見えるワイシャツのアイロンは消えかけており、ネクタイもくたびれている。
「はい、可児市の地方FM局から参りました島田です」簡単な自己紹介の後、島田元准尉が10度の敬礼をすると復興本部の一角にいる迷彩服姿の自衛官たちが困惑と驚嘆の表情を見せた。一方、担当者には島田元准尉の経歴を電話で説明してあり、避難所でも炊き出しや救援物資の配給、医官の派遣などで自衛隊と関係を持っているため特別な反応はしなかった。
「電話でお知らせしたように今回は北海道から沖縄の地方FM局で活躍しておられるDJの皆さんに集まっていただいて充実したラジオ番組を仙台から岩手、福島の北部にまで届けようと言う企画です。今から市内のラジオ局へご案内します。すでに到着しておられる方は仙台FMの番組製作者と打ち合わせを始めているようです」担当者はそう言って自分の机に戻り、周囲の職員に何かを説明した後、戻ってきて島田元准尉を連れ出した。
仙台市役所から仙台FMまでは1キロもなく自衛官なら徒歩で移動する距離だ。それでも職員は公用車のキーを持っており、同乗させて行くつもりらしい。十数分の移動時間も無駄にできないほど業務多忙なのは復興本部の雰囲気を見れば理解できる。
「これは昭和一郎さん、仙台FMへようこそ。私はチーフ・プロデューサーの片倉五十郎(ごじゅうろう)です」担当者は50歳代後半のチーフ・プロデューサーに引き合わせるとそのまま帰って行った。官公庁や企業が打ち合わせに使っている小会議室と同程度の部屋には折り畳み脚式の長机が2つ並べて置かれ、向かい側には30歳代の女性が2人座っている。
「こちらは北海道は旭川の雪うさぎさん、あちらはは宇都宮のとちおとめさんです」片倉と名乗ったチーフ・プロデューサーは島田元准尉に続きこの2人もDJ名=芸名で紹介した。昨今は個人情報の保持がうるさいだけにこれで通すつもりなのかも知れない。
「どうぞそちらへ。それとも女性2人に挟まれて座りますか」片倉は3人がけの外れの席を勧めたが悪戯っぽい笑顔を浮かべて中央の席に視線を送った。島田元准尉も男である。妙齢の美女に挟まれれば嬉しくないはずがない。しかし、そこは紳士らしく椅子を少し離してから手前に座った。すると片倉はコピーした資料を数枚、島田元准尉の前に滑らせた。
「雪さんととちさんには繰り返しになってしまいますが、今回は午前と午後と夜間と深夜に1時間ずつ4回、皆さんの番組を放送する予定です。深夜放送が入りますから負担が掛からないようにローテーションを組まなければなりません」この説明に島田元准尉は一番上での四角い枠が並んだ資料を注視した。これには演習で隊員の勤務割を作成した頃を思い出してしまう。
「そこは深夜担当者を固定した方が生活のリズムが変化しないだけ負担が軽くなると言う考え方もあります」これも演習場で実験してみたことがある。深夜勤務者を目が覚めるまで仮眠させ、十分な休養を与えておくと連日の徹夜でも朝まで睡魔を感じないと言う結果だった。
「流石ですね。それも自衛隊時代の経験ですか」片倉は皮肉そうな薄笑いで質問したが、若い女性たちは尊敬を込めた視線を送ってきた。これも自衛隊に対する感情の世代格差だろう。
- 2019/04/20(土) 10:53:44|
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4月11日に「ルパン三世」の作者である漫画のモンキー・パンチさんが亡くなったそうです。81歳でした。
パンチさんは昭和12(1937)年に北海道の根室半島の付け根・厚岸郡中浜町の漁師の息子として生まれ、高校時代から手塚治虫先生の作品に親しみ、アルバイト先の医院でも漫画雑誌を読みふけり、時には自作の漫画で患者たちをなごませていたそうです。高校を卒業すると直ちに上京し、貸本専門の漫画を執筆しながら実力を蓄え、その頃にアメリカの漫画の影響を受けて「ルパン三世」にも見られる独特の異国感が作品を彩るようになりました。特に「トムとジェリー」が好きでアニメ版のルパン三世を巡る人間関係の描写にも影響を与えていると自ら語っています。
そんな中、漫画ストーリーの編集長の目に止まり、雑誌デビューすることになったのですが、その編集長が強要したペン・ネームがモンキー・パンチでした。ちなみに妖艶で日本的な女性が魅力のバロン吉元さんやケン月影さんも同じ編集長の命名だそうです。
「ルパン三世」がテレビで放映され始めた時、野僧は岡崎の小学生でしたが同級生たちは熱狂的に支持し、放送翌日の放課の話題もルパン一色になっていました。ところが野僧は運悪く父親が見てたため「泥棒が主人公の漫画など許さん」と禁止され、仕方がないのでモーリス・ルブランさんの推理小説「アルセーヌ・ルパン」シリーズを読んで会話に加わりましたが相手にされず、帰省した折に中学生の叔父が買っていた漫画アクションを読ませてもらって原作の知識を仕入れましたが、原作はアニメに比べて「悪者」としての面が濃かったため完全に浮いてしまいました(エロ・シーンもかなりあった)。
その時、同級生の間で激論になったのが「次元大介の髪型」でした。初回から見ている同級生たちも次元が帽子を取った場面は記憶になく、「だから禿げている」と主張する者と「後ろに流した長髪」に意見が分かれ、それぞれがノートに想像図を書いてさらに議論を白熱させていきました。ちなみに同じ議論は高校時代、宇宙戦艦ヤマトの沖田十三艦長でも湧き起こりましたが、禿げた顔は徳川彦左衛門機関長と見分けがつかず、逆に白髪ではアルム・オンジになってしまうため結論は出ませんでした。
次がルパン三世の愛銃・ワルサーP38と次元のスミス&ウェッソン・コンバット・マグナムに関する知識自慢で、軍隊少年だった野僧はこの話題だけは中心になれました。
そんな「ルパン三世」熱も文化過疎地である宝飯郡一宮町の中学校には全く届いておらず時間の経過と共に忘れてしまいました。
ところが小学生になった愚息2が唐突に「ルパン三世」に熱狂するようになり、映画化作品は全て録画して繰り返し見るようになったのです。野僧も一緒に見ながら「昔は緑のジャケットだった」「これがマグナムだ」などと余計な解説を加えても無視されました。
すると中学生の愚息1が峰不二子に魅了されて同席するようになり、それぞれ熱中する場面は違っても同じ作品を鑑賞する時間を共有していたのです。そんな父子の時間を作ってくれたことに感謝しつつ冥福を祈ります。
- 2019/04/19(金) 11:05:48|
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被災地・仙台の復興が本格化し始めた頃、島田元准尉にボランティアとしての出演依頼が入った。島田元准尉は昭和一郎の芸名で可児市の地方FM局で懐メロの歌謡番組を持っており、電波が届く名古屋など東海地方一円でも多くの愛聴者を獲得している。その評判を耳にした仙台市の避難所の担当者から「ラジオで被災者を元気づけて欲しい」と要請されたのだ。仙台市に限らず東北地方では発電所の破壊による停電が長期化しており、テレビの視聴は難しく、乾電池で聴けるラジオが被災者の娯楽になっているのだ。
「小隊長、私も仙台に行くことになりました」トモダチ作戦から戻り、新年度の業務に取り掛かっている副校長・モリヤ1佐のところに島田元准尉から内線電話が入った。どうやら岐阜市内の地方連絡部事務所に寄ったついでに電話を借りたようだ。
「隊友会も復興ボランティアに参加するんですか」現段階では本当に人的戦力を必要としている三陸海岸の市町村は宿泊場所の確保や食料の提供が困難なため受け入れることができず、自己完結能力が高い自衛隊の活躍に期待するしかない。このため首都圏からを中心とするボランティアも仙台市に集中している。そんな中、岐阜の島田元准尉が参加するのなら「自衛隊OBの組織である隊友会として」と考えるのが順当だろう。
「いいえ、個人的に災害派遣要請が届きまして。小隊長も東北地区に出動されたのでしょう。準備をするのに現地の様子を伺おうと思って電話させてもらいました」島田元准尉にしては珍しく口調は奥歯に物が挟まっているように聞こえる。しかし、「個人的に災害派遣要請が届いた」と言われても事情が推理できない。
「現時点では気仙沼大島へ派遣されただけですよ。仙台駐屯地には業務調整で1回行きましたけど統任隊(統合任務部隊)司令部にはコンタクト・オフィサー(連絡官)が常駐していたので必要なかったんです」当てが外れて落胆するかと思ったが島田元准尉は逆に好奇心を示したのが伝わってきた。モリヤ1佐としては「流石は情報通の島田先任だ、トモダチち作戦を知っている」と期待したのだが意外な芸能ネタに落ちてしまった。
「小隊長はご存知ないでしょうけど気仙沼大島は『欽ドン』って言う番組の気仙沼ちゃんの出身地なんですよ」これにはモリヤ1佐の方が呆気にとられた。「欽ドン」が放送されていた時、夫は中学生で静岡ちゃんのファンだったらしいが、すでに自衛官だった島田元准尉は鮮明に記憶しているようだ。そこでモリヤ1佐は重要な情報を提供することにした。
「気仙沼ちゃんの白幡美千子さんに会いましたよ。とっても元気でした」「そうですか。無事でしたか」話題が完全に反れてしまったのでモリヤ1佐の方から本題に戻した。
「仙台市は海沿いの宮城野区や若林区、太白区にあった火力発電所や都市ガスの工場が津波で破壊されたのでライフ・ラインが完全停止していました。市の中心部も地震の被害が大きくて避難所も衣食住を提供する機能以外は何も果たせていない状況でした」「と言うことは暖房などはないと考えた方が良いですね」電話口で島田元准尉がメモを取った音が聞こえる。
「食事も流通は機能し始めても保管する冷蔵施設や取り扱う販売店が確保できていないので必要量を受け入れてすぐに調理して提供する状態でした」「なるほど。インスタント麺やレトルト食品を大量に持っていった方が良いですね」メモを取りながら「荷物が増えるな」と呟いたのが聞こえた。どうやら仙台市には長期滞在の予定らしい。
「それで郵便などは再開していますか」「先ずは黒ネコが動き始めて、次に郵便も後を追うように再開したようです。黒ネコはトラックが入れないので荷車を押して荷物を届けたそうですよ。ただ受取人の避難先の情報を市役所が教えたことを取材に来たマスコミが『個人情報の漏洩だ』と批判したので行政指導で機能停止されてしまったようです」「それは要注意だな」ここでも意外な反応が返ってきた。そこでモリヤ1佐は長電話になる前に疑問を確認することにした。
「それで先任は仙台でどのような活動をするつもりなんですか。単なる慰問ではないでしょう」島田元准尉の元気なら土木作業に参加しても不思議はない。隊友会の参加者たちも元気な準・老人が多いから人的戦力として計算できるはずだ。
「実は仙台で被災者を激励するラジオ番組を担当することになりまして。でもこちらでは届いたリクエストを元に下調べをして番組を編集しているのにあちらでは半ばブッツケ本番になるので不安なんです。本当は辞退しようと思ったのですが、現役の隊員たちが頑張っているのにOBが逃げる訳にはいかないと出動することを決めました」ここでようやく事情が呑み込めた。
「先任の声は無線でも相手に元気を与えると言われていましたから大丈夫ですよ。レコードが確保できなければのど自慢の番組にしてしまえば好いじゃあないですか」「そのアイディアはいただきます」今回の大震災に立ち向かう自衛隊の総力戦にはOBたちまで参陣し始めている。
- 2019/04/19(金) 11:04:46|
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1955年の4月18日は大正13(1924)年にドイツから東北帝国大学の哲学の講師として来日して昭和4(1929)年に帰国するまで弓道に精進し、帰国後に禅と武道の真髄を体験的に語った「弓と禅」を著したオイゲン・ヘリゲルさんの命日です。
野僧は高校時代から柔道、日本拳法、少林寺拳法、短剣道などの武道に励む一方で、多くの武道家が語る「剣禅一如」「拳禅一如」の境地を学ぶため沢庵宗彭禅師の「不動智神妙録」や宮本二天の「五輪の書」などを愛読していましたが、師僧から「理論の一辺倒のドイツ人が弓道を通じて禅を極めた」と推薦されて読んだのがこの本でした。
ヘリゲルさんは来日を好機として日本の文化を学びたいと考え、当時の弓道界では「弓聖」と謳われていた仙台在住の阿波研造さんに師事したのです。すると阿波さんは「立てぬ的、放たぬ矢にて 射る弓は 当たらざるとも 外れざるけり」と言う道歌を示しながら心で射ることを命じました。万事を理論で認識するドイツ人にとって弓道はアーチェリーと同じく目で的を見て、腕と手で矢を引き絞り、狙いを定めて放ってこそ命中するもので、心が介在するのは集中力くらいです。ところが阿波さんは「矢を的に当てるのではなく、的が矢に当たっていくのだ」「的と自己が一体になれば矢は自己に向かって放てば良い」と断言し、ヘイゲルさんは技を習得する手前で立ち往生してしまいました。
そんなある暗夜に阿波さんは自宅にヘイゲルさんを招くと庭の道場に的を立て、その下に蚊取り線香を焚き、矢を2本射たのです。暗夜ですから当然、的は見えず蚊取り線香の小さな光の点が位置だけを示していたのですが1本目の矢は的の中央に命中し、2本目は矢自体を射抜いて2つに引き裂いていました。
阿波さんは驚愕しているヘリゲルさんに「こんな暗さで一体何を狙うと言うのか。それでも貴方は狙わなければ当てられないと言うのか」と問いました。こうして弓道の真髄を見たヘリゲルさんは一切の疑問や迷いを捨て「射る」のではなく「射られる」弓道を追及していったのです。帰国前、ヘリゲルさんは目を閉じて射た矢を的に命中させる境地に至ったと言われています。
野僧は弓道の経験はありませんが、射撃の強化訓練に参加したことがあります。それ以前は銃声と衝撃、銃口から噴出する閃光が恐ろしくて目を閉じていたのですが、毎日数百発の実弾を撃ち続けると次第に恐怖心が薄れ、意識と計算で動作していた照門の中央に照星を合わせて狙い、引き金を第1段階まで絞り、第2段階を落とすことが無意識で行うことができるようになり、やがて狙うことも忘れて照門と照星、的の中央が1つになった時、引き金を落とし、飛んでいく黒い弾丸を目で追うようになりました。射撃の名手・村田経芳少将は「引き金は 心で引くな 手で引くな 暗夜に霜の 降る如く引け」と詠んでいますが、その神髄の入り口を覗き見ることができたようです。
その後のヘイゲルさんはナチス政権下で大学教授に就任し、大学人として活躍したことで敗戦後は協力者との嫌疑を持たれ、苦渋に満ちた晩年を送ったようです。ヘイゲルさんは「苦難の中で私自身を支えたのは『葉隠』だった」と語り遺しています。
- 2019/04/18(木) 11:22:14|
- 日記(暦)
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外国人特派員協会が要求した自衛隊の災害派遣の取材は終わったが、帰国したのは中国と韓国の記者団だけだった。要するに欧米の記者たちは日本駐在の特派員であり、団体でなくても現地に入ることはできるのだが自衛隊を取材するのに有利な方法を選択したと言うことだ。
朝山3佐、山田1曹、寺田2曹、塩谷2曹、根本3曹の隠密仕事人と杉本、本間の外国組も解散になる。その前に横田基地で慰労を兼ねた反省会が開催された。
「中国と韓国の記者は全員が軍人でしたね」「受けつける段階で身元調査はできないのですか」今回は陸海空曹が先攻で意見を述べることになっている。先ずは陸の山田1曹と空の塩谷2曹が口火を切った。それを聞いて杉本と本間は視線を合わせて苦笑した。国際舞台での情報戦に参加している2人にとっては平時のみを前提にしている日本国内の保全態勢が軍事諜報機関には全く機能しないことは常識だ。総務省が担当する取材の参加者を防衛省・自衛隊が独自に審査して、問題があれば断ると言う当然の処置がお役所仕事では許されない。仮に秘密保全を理由に拒否すれば日本のマスコミが黙ってはいない。
「担当は総務省だから調整は内局が実施する。その当事者に保全意識が欠落しているんだから期待するのは虚しいだけだ」2人の意見には今回の自衛隊側の担当者らしい3等陸佐が答えた。これは内局に派職務権限が及ばない自衛隊の防諜機関としての愚痴も混じっているが、この場で肩書は明かしていない。この回答に陸空曹2人は不満そうに黙り込んだ。
「問題なのは中国の調査活動に日本のテレビ局が協力していたことです。幸いレンジャー出身の中村1曹と私が脅しをかけて撃退しましたが、やっていたことは指示を受けての情報収集でした」次は根本3曹が体験を語った。中国の取材者が興味を持ちながら途中で阻止された新型の3+2分の1トン・トラックを日本のテレビ局が調査していた。それを山田1曹と根本3曹が撃退した。それでも懲りずに翌日の仙台市内の取材にも同行していたのは協力以上の命令による任務付与があったのではないか。
「あれから内局を通じて写真で身元を調査できないか問い合わせがあったよ。その写真は遠距離で撮影した小さな画像を超拡大したものだったから不可能だと回答したが、記者クラブまで利用して内部情報を収集しているらしい」「それをここまで公然とやるようになったのは政権交代以降、特に現在の内閣になってからだ」3等陸佐の説明に肩書不明の陸将補が補足した。実際、缶内閣では千石官房長官が学生時代以来の全共闘の同志たちに首相官邸への常時立ち入り許可証をばら撒いたため国家機密の中枢も秘密保全が機能していない。首相官邸がその体たらくであれば防衛省記者クラブが外国の諜報機関の手先になることは驚くに値しない。そもそも防衛省担当の記者は「粗探し」を任務としているのだ。
「仙台ではアメリカ海兵隊が実施したトモダチ作戦について質問していたようですが、市民どころか陸自の隊員も全く知りませんでしたね」最後は海の寺田2曹が締め括る。海上自衛隊陸警隊は艦艇乗り組みの海兵隊と交流があるので関心を覚えたようだ。
「あれは日本政府がコンフィデンティアリティ(秘密保全)を発揮したんだ」すると通訳を介して陸海空曹の意見を聞いていたアメリカ空軍少将が口を挟んだ。その皮肉を込めた口調からも在日アメリカ軍がこの日本政府の態度に強い不満を抱いていることが判る。すると陸将補が苦笑しながら反論した。
「それを日本ではインペー(隠蔽)と言うんだ。秘密保全なんて高尚なものではないよ」陸将補の見解は英語だったが「インペー」の部分が判らなかった空軍少将は通訳に訊ね、「ハイディング」と説明を受けて納得したようにうなずいた。
「やはり私たちは日本に立ち入ってはいけませんね」陸海空曹が終われば後攻の幹部の番になる。最初に私服姿の本間が体験から導いた教訓を語った。
「これだけ大規模な派遣ですから私もその他大勢になれると思って引き受けたんですが・・・知人に会ってしまいました」本間はその窮地を救った朝山3佐の顔を見ながら説明した。
「敵対する者を抹殺するのは任務ですが、恩人を口封じのために消すのは遠慮したいものです」この意見に今回の任務に2人を呼んだ井上陸将補は表情を少し固くし、本間がすでに殺害を経験していることを実感した。
「確かに私も仙台の司令部では知人に会わないか不安でした」次は杉本が同調する。杉本は特科なので普通科が主力の災害派遣部隊とは無縁だが、司令部では前川原や富士学校の同期や顔見知りと会う可能性がないとは言えなかった。
「2人とっては久しぶりの母国も危険地帯に過ぎないと言うことだな」3等陸佐の総括で隠密仕事人たちは自分たちとは別次元の環境下で任務を遂行する同僚の存在を再認識した。
- 2019/04/18(木) 11:20:32|
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1997年の明日4月18日(19日説もある)に日本の劇画の原作者である梶原一騎さんの実娘で台湾の中学生(日本の高校に当たる)だった白暁燕さんが誘拐され、人類史上最も残酷とされる拷問の末に殺害されました。16歳でした。
暁燕さんは台湾のアイドル歌手の白冰冰さんがテレサ・テンさんに続く輸入スターとして売り出すため日本の芸能プロダクションに呼ばれた時に梶原一騎さんと結婚して生まれた娘です。その後、梶原さんの家庭内暴力を理由に両親が離婚したため台湾に帰国(暁燕さんは渡航)し、人気歌手になった冰冰さんの手で育てられました。
この頃、冰冰さんは警察当局の暴力追放キャンペーンの大看板的活躍をしていて、市民の多くがそれに賛同して反暴力組織に転じたため逆恨みを受けたと言われています。
暁燕さんは4月14日の朝、通学途中で誘拐され、そのまま犯人が借りていたアパートに拉致されました。周囲は「冰冰さんは大スターであり、金銭目的の誘拐の危険がある」と自動車での通学を勧めていたそうですが、「普通の学校生活を送らせたい」と言う冰冰さんの意向と「友達と通いたい」と言う暁燕さんの希望で徒歩通学していたそうです。
アパートでは鼻だけを残して顔に黄色のガムテープを巻きつけ、縄で縛った状態で左乳房を露出して写真を撮り、針金で止血した上で小指を切断しました。この時、暁燕さんが激痛で絶叫すると犯人たちは殴打して黙らせ、そのまま放置して帰宅しました。
翌日、犯人から冰冰さんに「娘を誘拐した。身代金500万台湾ドルを要求する」との電話が入り、冰冰さんは犯人が指定した霊園の管理棟の近くで写真3枚と小指、身代金の金額を記した紙が入った紙袋を見つけ、誘拐が事実であることを確認したのです。
冰冰さんは警察に通報すると共に身代金を工面し、18日と19日、23日に犯人と決めた引き渡し場所で待ちましたが現れませんでした。その原因としては事件を嗅ぎつけたマスコミ各社が半ば公然と取材を展開し、身代金の受け渡し場所に競って取材陣を送り込み、明らかに場違いな人間が目立つ状況になっていたことが指摘されています。
この間に暁燕さんは輪姦の後(司法解剖で体内から犯人全員の体液が検出され、それまで処女だったことが確認されている)、、毛髪を数十本まとめて丸坊主になるまで引き抜き(頭皮も付着した状態で)、手の爪を全て引き剥がし、前歯を引き抜き、手の指の骨を全て折り、舌先を切り落とし、両方の乳頭を切り取り、肌に煙草を押しつけ、掌をライターで炙り、両耳の鼓膜を破り、顎の骨、肋骨が折れるまで暴力を揮うなどの拷問によって内臓破裂と体内の出血多量で死亡したのです。遺骸は4月28日になって新北市内のドブ川で発見されました。
身代金の奪取に失敗した犯人は逃亡し、海外逃亡の費用を確保するための誘拐事件などを続発させ、この事態に李登輝総統は「犯人どもを発見したら問答無用で射殺せよ」との命令を下し、実際に警察隊と銃撃戦を繰り返しました。結局、南アフリカ大使館駐在武官の公邸に立て篭もった1名のみが投稿しましたが、死刑5回、懲役59年9カ月の判決を受け(各罪状別の刑罰)、1999年10月6日に執行されました。
梶原さんは晩年、好んで美女の拷問シーンを描きましたが1987年に亡くなっています。
- 2019/04/17(水) 09:47:33|
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飯盒会食は周囲が暗くなるのと同時進行で晩酌会に移行した。九州人が多い自衛隊で酒と言えば焼酎が定番だが、東北人のOBたちはやはり日本酒だ。それもパック酒を冷やでいく。
「久しぶりの飯盒飯は格別でしたね」「うん、あれなら毎朝、3食分を炊いて朝昼晩に食べるようにすれば好いな」元3佐同士の雑談で話が決まりそうになって元1尉が制止した。
「問題はこの時期の気温で衛生面の問題を生じないかです」「そろそろ桜の季節だから日中の気温は2桁になるな」元1尉の懸念に言い出しっ屁の元3佐も同調した。
「飯盒は水入れておけば明日は手で擦りながらすすげば大丈夫でしょう。昔は洗いを兼ねて米を研ぎましたが今は無洗米なので手を抜きます」「水も節約しないといけないからね」焚火の向こうで元曹長2人が食後の処置について説明した。これで夕食は終了して晩酌に移行する。元1尉と一緒に酒が入った段ボールを運んできた元曹長が新山元群長に缶ビールを手渡した後、車座の両側にも回した。先ほどの話ではないが缶ビールはかなり温い。
「それではビールがお手元に届いたところで乾杯とします。発生は・・・茶山元3佐にお願います」司会進行が本業の元1科の元1尉がいきなり指名してきた。茶山元3佐にとって船岡は定年配置で在籍しただけなので知り合いが少なくOB会でも控え目に振舞ってきた。それが唐突に指名されても心の準備ができていない。
「突然のご指名ですが、僭越ながら不肖・茶山が乾杯の音頭を実施させていただきます」車座は新山元群長を中心に両側に船岡OBの元3佐、その両脇に元1尉と茶山元3佐、その後は元准尉と元曹長たちが並んでいる。立って見回すとその顔を焚火の炎が照らしていた。
「栓を抜いて下さい。準備はよろしいですね」「準備よし」施設基礎作業のような前置きにOBたちも唱和した。最近のビールは温まっていても泡を吹かないようだ。
「初日、ご苦労さまでした。乾杯」「乾杯」茶山元3佐の発声で一斉に缶ビールを高く掲げ、一口喉に流し込んだ時、突然のように冷たい風が吹き抜け、焚火の炎を激しく揺らした。
「おい、呻き声が聞こえないか」風が収まって再び缶に口をつけたところで元曹長の1人が隣りの元曹長に声をかけた。その声が届いた範囲の元曹長たちは動作を停めて耳に全神経を集中させた。すると別の元曹長が引きつった顔になって答えた。
「俺には子供の泣き声が聞こえる」「男たちの怒鳴り声だ」その発見報告は逓伝(ていでん)訓練のように車座を広がり、元幹部のところまで届いた。
「この時間帯を逢魔が刻(おうまがとき)と言うからな。市の職員が言っていたお客さんが来訪したのかも知れないぞ」両隣の元3佐は動揺と怯えを察知されないように平静を装ったが新山元群長は自然体のまま答えた。
「集団で歩いてくる足音がする」「うん、数十人はいるな」「取り囲まれているぞ」元3佐たちにもこの声と音が聞こえているので流石に背中に冷や汗が滲み始めた。
「本当に聞こえますか。私には全く何も」すると茶山元3佐が不思議そうな顔で周囲を見回し、両隣りの元3佐と元准尉に確認した。
「茶―さんは並みの神経じゃあないから亡霊も恐れを為して接触してこないんだよ。ワシには1個中隊が一斉に雑談しているように聞こえるぞ」元3佐の見解に茶山元3佐も納得せざるを得ない。豊川駐屯地は東洋最大の軍事工場と言われていた海軍兵器工廠の一角に当たり、敗戦直前の8月7日に爆弾の在庫一掃処分のような大空襲を受け、動員学徒を中心とする2500名が犠牲になった。駐屯地内には海軍工廠時代の建物が残っていて巡察や警衛、不寝番での幽霊の目撃談が絶えなかったが、それでも茶山元3佐は一度も会ったことがない。子供の頃から祖母に「お前は座敷童子さんに会えないな」と言われていたがそれを実感している。
「これでは落ち着いて酒が飲めないか。それでは私が何とかしよう」茶山元3佐を除くOBたちの缶ビールが止まったのを見て新山元群長が立ち上がった。普段であれば姿勢を正すところだが近くに座っている元幹部たち以外はそれどころではない。
「始めまして。自分は陸上自衛隊の退役少将の新山巌であります」新山元群長は街灯がなく焚火だけが照らしている闇に向かって話しかけた。
「今夜は皆さまの安息の地に立ち入って申し訳ありません。自分たちは今回の大震災で破壊された街の復興のための奉仕活動で参りました。どうか1夜の宿をお貸し下さい」ここで再び風が吹いてきたが先ほどのように冷たくはなく軽く炎を揺らしただけだった。
「本来であれば盃を交わして今の思いなどをお聞きしたいところですが、自分らのような凡人には適いません。どうぞ静かにお見守り下さい」ここまでで新山元群長は深く頭を下げた。それに合わせて全員で揃えるはずだったが、茶山元3佐は魂魄を探していて出遅れてしまった。
- 2019/04/17(水) 09:46:09|
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夕食は予定通りに飯盒炊飯だ。今回は月から金曜日の4泊5日を予定しているが、外食は勿論、食材の現地調達も難しそうなので米とレトルト食品、そして缶詰は大量に購入してきた。水については曹洞宗の寺が売れ残った区画を買い叩いて造成した墓苑に水道ぐらいはありそうだが、仙台市と共同運営している上水道の被害は新聞でも報じているため水タンクを持ってきた。
「無洗米なら水を入れるだけで良いから楽だな」「水も携行タンクだけだから節約しないといけないぞ」「市役所の水道は出ないのかな」炊事の準備は元曹長たちがやっている。駐屯地からの運搬食は不可能な演習場では自隊給養になるので元曹長たちも陸士たちを指揮して腕を揮っていた。その間に元3佐と元1尉は廃材の木端を集めて焚火を始めた。ダイオキシンが発癌物質として社会問題になった頃には各自治体が競うように焚火を禁止したが、ガスと電気が届かない被災地では暖房や調理に欠かすことができない。それでも東京のマスコミが発見すれば「元自衛隊員たちが条例を無視して焚火」などと勝手な論理で問題化するかも知れない。
「今夜のオカズは鯖缶、カップ味噌汁もあります。漬物の缶詰も見つけてきました」元1尉は自分の車から段ボールを抱えて戻って来ると焚火を中心に車座を作っているOBたちに配って回った。昔は自衛隊独自の銘柄だった漬物の缶詰も最近は市販品が出回っている。OB世代には食事に漬物は欠かせないが、その後の晩酌の摘みとしても重宝する。
「自衛隊でも野外炊具が普及してからは飯盒炊飯をやらなくなりましたね」「飯盒炊飯なんて警察予備隊の時代くらいじゃあないか」「あれは行軍訓練の時だったな」元曹長たちの思い出話も古くなり過ぎると参加者が限定される。野外炊具1号とは昭和37年から陸上自衛隊が装備している野外炊飯専用トレーラーだ。帝国陸軍も昭和初期に同様の自走炊事具を開発して大陸戦線で使用していたが、6基の大釜戸で600人分の同時炊飯が可能だ。しかし、昭和60年代に入って更新された現行型(名称は野外炊事具1号・改)は操作を容易にするため電気化したことでかえって堅牢さが損なわれ、雨天時には屋外での使用が制限されただけでなく、整備にも専門知識を必要とするため野外=野戦用とは言い難い欠陥品になっている。このため多くの部隊では旧型を手入れして温存し、継続使用しているようだ。なお、警察予備隊・保安隊当時に創立した部隊では独立設置式の野戦釜も保有していて現在も副食の調理に活躍している。これで飯を焚くのには飯の固さの好みでお玉を使って湯の量を調整するなど独特の要領があるが今の隊員たちに継承されているかは判らない(何故か筆者は知っている)。
「閣下、鯖缶を温めましょうか」鉄パイプを焚火に架け、飯盒を並べて提げた両隣りには大きな薬缶と水を入れた飯盒も温めている。元曹長の何人かは鯖缶を入れているので新山元群長にも気を配ったようだ。すると元1尉が代わって手渡した。
「シュー・・・」やがて飯盒が空気の噴出音を立て始め。あたりに飯が炊ける匂いが漂い始めた。この匂いで急速に腹が空いてくるのは日本人の民族的条件反射だろう。
「よーし、好い音だ」元曹長の1人が短い棒を持って飯盒ににじり寄った。日没時間の6時12分を過ぎて、あたりが暗くなってくると焚火の明りが飯盒を照らし出す。噴き上がった蒸気が飯盒の側面に白い水滴の筋を描いている。
「もう、そろそろかな」元曹長は棒を飯盒の蓋に当てると逆の端を耳に近づけた。こうすると飯盒の中で米が炊き上がっている音と振動が伝わり、中の様子が判るのだ。
「もう、好いですか」そんな声を掛けながら6つの飯盒の蓋を順番に軽く叩いた。飯盒は1個で3人分(=個人では3食分)、15人分にお代わりを3食分と言う計算だ。明朝は若い隊員たちのように菓子パンと缶コーヒーになる。現役時代、駐屯地の食堂で台に積んだ菓子パンに群がるように奪い合っているのを見て「あんな物では昼まで腹がもつのかな」と思ったものだが、第2次世界大戦では必ず水と火を必要とする日本軍の飯食は弱点となり、アメリカ軍は湧き水を見つけると狙撃兵を配置して水を汲みに来る日本兵を狙い撃ちにしたと言う。その意味ではパン食に身体を慣らしておくのも悪くはない。今更ながら。
「よし、炊き上がりだ」いつの間にか炊事長になっている元曹長の判定を受けて別の曹長2人が鉄パイプの両端を持ってコンクリート・ブロックを積んだ台から下ろした。同時に軍手をはめた元曹長たちが飯盒を抜いて逆さまに伏せる。さらに底を手で叩いて行く。そして最後は集めておいた青草で擦り始めた。こうすると炊けた飯が底から離れてこびりつくのを防げるのだ。それにしても警察予備隊以来、やったことがないはずの飯盒炊飯の手順が完璧に身についている。やはり食事の準備は人間の生存本能に直結する作業だからなのかも知れない。
「俺は焦げ飯が好きなんだ」「うん、電気炊飯器では焦げ飯は作れないからな。釜戸で炊いていたお袋を思い出すよ」元曹長たちの思い出話は少年期にまでさかのぼった。
- 2019/04/16(火) 11:56:57|
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「流石ですね。自衛隊OBの方の実力を見せていただきました」夕方、作業の終了を伝達に来た若い職員は倒壊した家屋を分解して木材と瓦、壁などの合成材、さらに屋内に残っていた食器類や家具に分類して集積したOBたちに心からの敬意を表した。
「これを工事用器材でトラックに搭載すると言うことですが、器材は何台あるんですか」積んである柱材の本数を数えている職員に元曹長の1人が声をかけた。
「市内の建設業社の機械は津波で塩水を被って大半は使用不能になっています。市の西側にある業者は被害を免れたので作業を発注していますが、機械も人手も不足していて思うようにはかどっていないのが実情です」それを聞いて元曹長は少し胸を反らして言葉を返した。
「私はブルドーザーやパワー・シャベルの操縦を本業に30年以上勤務してきました。ですから器材を貸してもらえば今日以上にお役に立つと思いますよ」この売り込みは掛け値なしにお買い得だ。この元曹長は演習だけでなく災害派遣や部外工事でも卓越した操縦技術で難工事を成し遂げてきた達人なのだ。しかし、若い職員は残念そうな顔で首を振った。
「お申し出は有り難いのですが、当市内には稼働状態にある工事用機械は数台だけで、操縦する社員と同数なんです。仙台のメーカーに修理を依頼しているんですが、整備工場が地震と津波で被害を受けて機能停止になっていて、故障個所が不明では部品の発注もできないそうです」この説明に操縦の達人は黙ったが、別の元曹長が一歩前に出た。
「その壊れた器材を見せてもらえませんか。私は施設機材の整備が本業なのでメーカーの従業員が工場でやるくらいの仕事は何時、何所ででもやれます。陸上自衛隊の整備は野戦で実施しますから任せて下さい」次の売り込みもお買い得だ。この元曹長は器材中隊の整備班長を務め上げている。まさしく被災地での工事用器材の点検・整備・修理、そして応急処置のプロだった。すると若い職員は何故か渋い顔をしてうなずいた。
「判りました。お申し出の件は担当者と相談して回答させていただきます。ただし、建設会社の機械は所有権の問題がありますから、整備した結果、不具合が発生すれば賠償責任が問われます。そのあたりを慎重に検討しなければなりません」自衛隊も国の機関である以上、お役所だが意識をここまで責任の回避には使わない。放置しておけば壊れて動かない器材を正式な国家資格を持った人間が整備して災害復旧に役立てようと言う提案を事実上、門前払いする論理が聞いていたOBたちには理解できなかった。それも大卒で地方公務員になって数年くらいの若者が相手を刺激しない言葉遣いを身に着けていることにも違和感を覚える。それだけ住民からの苦情に対応することが日常化しているのだろう。
若い職員がバインダーに廃材の数量を記録して次の区画に向かおうとした時、次級者の元3佐が呼び止めた。すると今度は迷惑そうな顔で振り返った。若者だけに感情表現は正直なようだ。
「我々は明日も参加することにしているが、市役所の駐車場に宿泊しても良いかね」明日も集合場所は市役所なので、そこで宿泊すれば移動時間が不要になる。
「待って下さい。上の許可をもらいます」若い職員は即答せず側面に白字で災害用と書いてある携帯用無線機で交信を始めた。
「はい、自衛隊のOBの方たちがウチの駐車場で宿泊したいと・・・市役所の建物内で寝るつもりですか」「車中泊だよ」上に伺いを立てるには事前の確認が不十分だ。この様子ではまだ採用されて1年の新人なのかも知れない。
「車中泊だそうです・・・ワンボックス・カーが3台です・・・はい、はい」次第に若い職員の口調が重くなり、落胆した顔で無線を切った。思いがけず交渉は不調に終わったらしい。
「市役所としては部外者を敷地内に宿泊させた前例を作ると災害発生時に市民が押し掛けて収拾がつかなくなる可能性がありますから申し訳ないですがご遠慮下さいとのことでした」説明しながら若い職員は罵声を浴びせられることを覚悟したように身構えた。確かに一般市民が同様の対応を受ければ怒り心頭に達して大声で抗議するはずだ。
しかし、自衛隊は不条理な扱いには馴れている。特にOBたちの世代は制服で外出すると「憲法違反」「税金泥棒」「人殺し」と老若男女を問わず罵詈雑言を浴びせられ、戦争未亡人と言う老婆は「戦争反対。アンタたちも国に帰って働きなさい」と涙目で訴え、意味が判らない子供たちまで「ケンポーイハン」と言いながら石を投げてきた。今回は「反自衛隊」を理由にしていないだけでも救いがある。
「そうですか。仕方ないですね。明日の作業現場が判ればそこで宿泊して待っていますよ」「明日もここの予定です」元3佐が不思議な苦笑を浮かべながら納得すると若い職員は拍子抜けした顔をして説明した。顔だけは本当に正直な若者だ。
「でもここは・・・幽霊が出ますよ」最後は本気で怯えた顔で頭を下げて歩き出した。
- 2019/04/15(月) 10:45:47|
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4月8日に我が山形県最上郡最上町(野僧の祖父の出身地の隣り町)が生んだ漫談師・ケーシー高峰さんが亡くなったそうです。85歳でした。
ケーシーさんと言えば医師に扮して病名で世相を切る医事漫談ですが、これは世間を賑わしている出来事を人間が患っている心の病いとして客席を巻き込みながら診断する風刺劇であり、落ちの病名が本質を突いていて野僧もファンでした。
そもそもケーシーと言う芸名は日本では1962年から64年まで放送されていたアメリカの医療ドラマのベン・ケーシーから取っていて、舞台に登場する時に流れる出囃子もドラマの主題曲でした。また屋号の「高峰」は子供の頃に映画の撮影で最上町に来た女優の高峰秀子さんに一目惚れしていたので借用したそうです。
ケーシーさんの母の実家は先祖代々が医師で、祖母は死ぬまで診察を続けた産婦人科医だったそうです。一方、父は商社マンで海外出張の度にレコードを大量に購入してくる収集家としてマニアの間では有名な人物だったようです。
ケーシーさんの兄弟は母の血統が濃かったのか医師や歯科医師になっていて本人も日本大学医学部に進学しています。しかし、教授から風貌と訛りを馬鹿にされたことで嫌気が差し、遊びにうつつを抜かす間にモダン・ダンスやラジオに夢中になって芸術学部へ転部してしまいました。この時の同級生には宍戸錠さんがいたそうです。
在学中からナイト・クラブのステージの司会兼漫談師として活躍したそうですが、この時の芸名「坊られい」もイタリアの歌手・ドメニコ・モドゥーニョさんのヒット曲の英題「ヴォラーレ(日本語訳でも『ぼられた』)」から取っているそうなので並みの芸人とは教養が違います。
1957年に大学を卒業すると下ネタ専門の漫談コンビを結成しますが、東京の漫才界の抗争のあおりを受けて解散することになり、1967年にケーシー高峰として単独で舞台に立つことになりました。その後は「大正テレビ寄席」の常連になり、その一方でお色気映画にも性病科か産婦人科の医師役で出演するようになって、名脇役として独特の存在感を発揮するようになったのです。
石田えりさんの豊満なヌード・シーンが話題になった「遠雷」では主人公の愛人宅で暮らす父親役でしたが、悩み多き中年親父を好演していました。
2005年に舌癌を発症した時には手術後で発声がままならない中で舞台に上がり、「私の病名は・・・子宮癌です」「病室でも・・・何時女が抱けるかと考えていた」「顔は悪性です」などの貼り紙とホワイト・ボードへの走り書き、それに身ぶり手ぶりだけで爆笑を湧き起こしたそうです。
1988年から福島県いわき市に住み、東北地方太平洋沖大震災と福島第1原子力発電所の事故で東京のマスコミが危険を煽っても転居せずに地元民の支援と復興に尽力してきました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
- 2019/04/14(日) 12:29:22|
- 追悼・告別・永訣文
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「今日はこの通りを片付けます。後で建設業者がトラックとクレーンで回収しますから廃材を道路沿いに積んでおいて下さい」若い職員はボランティアたちを整地だけされている売れ残りの空き地に駐車させるとハンド・マイクで説明した。どうや人数割りすることもなく参加単位で実施させるつもりらしい。これも作業中の些細な行き違いから口論に発展することを防ぐのと同時に仲裁に入る職員の負担を避けるための予防策のようだ。何にしても平成の時代の災害派遣は過剰な気配りで身体よりも気分の方が疲れる。
15人と言う大所帯のOB隊は数軒の家屋が折り重なって倒壊している区画を割り振られた。ここまでは市役所が配った杭打ち用木槌や十字(=つるはし)、柄つき鉈(=まさかり)などの道具に自分たちが持ってきたチェインソーも手分けてして運んできた。
「それでは準備運動から始めよう」作業現場に到着すると先任順=定年順1位の元3佐が声を掛け、一番若い元曹長を指名した。指名された元曹長は抱えてきたチェインソーを地面に置くと整列し始めた部隊の前に走り出た。この時も両脈処(みゃくどころ=手首)を腰につけた基本教練の駆け足の姿勢だ。ただし、基本教練の教範では「両手は自然に振る」とある。
「気をつけ」元曹長の号令に新山元群長と茶山元3佐を除く元幹部3名は一瞬戸惑った。本来は定年退官して制服を脱げば階級による序列は解消されるのだが、元幹部にとってはそれを継続できることも自衛隊OBの集りに参加する理由の1つだ。その点、茶山元3佐は定年と同時に気分は新隊員に戻っているので何の抵抗もなく列員(その他大勢)になり切れる。
「自衛隊体操、実施します」指揮官の元曹長が新山元群長に申告するとOBたちは顔を見合わせた。この元曹長は数年前まで自衛隊体操をやっていたが、退官して10年以上経過していると順番は覚えていても流石に動作は怪しくなっている。
「それでは遅めに番号を賭けますからユックリ合わせて下さい」指揮官になった元曹長の気配りにOBたちもうなずいて身構えた。整列していないので各人の間隔は体操隊形になっている。
「自衛隊体操、用意。その場駆け足の運動から」この元曹長の自衛隊体操はかなり本格的だ。
「1、2、3、4、5、6、7、8・・・」卒寿(77歳)の新山元群長と還暦(60歳)過ぎの茶山元3佐、そして元曹長たちの半分はテンポを遅らせた自衛隊体操を始めたが、古稀(70歳)を過ぎた元幹部と元曹長たちは関節が固く跳躍になっていない。
第2動作の「脚前屈腕斜上振」から第3「腕回旋膝半屈」第4「腕水平振側開」第5「首の運動」第6「片膝屈伸」第7「胸の運動」くらいまでは何とかなるが第8動作の「体の前後屈」あたりからは身体的危険を感じる。施設職種は重量物を運ぶことが多いため若い頃に痛めた腰の故障が高齢化による筋力の衰えで再発することも少なくないのだ。
「ここからはラジオ体操にします」指揮官の元曹長もOBたちの動作を見て途中で止めた。このまま続けていれば作業を始める前に半数は戦力外になるところだ。
指揮官の元曹長はラジオ体操と言うよりも膝屈伸や体の前後屈などの柔軟運動を繰り返した後、姿勢を正した。本当は自衛隊体操の象徴である第12「統制運動」と第16「開脚跳躍」を加えたいところだが無理はさせられない。
「自衛隊体操18番から。腕前上脚後振。1、2、3、4・・・」結局、無難にまとめたところで次級者である元3佐が作業分担を指示して撤去作業にかかった。
「閣下まで手を出す必要はありません。安全な場所で作業を監督していて下さい」新山元群長が元曹長たちと一緒に倒壊した家屋のスレート式の屋根瓦を取り外し始めると元1科の元1尉が慌てて声をかけた。その後ろでは茶山元3佐を除く元3佐たちが困惑した顔で見ている。元3佐たちは現役時代と同様に現場監督になるつもりらしい。
「いくら私が高齢者だからと言って見学するだけだったら現場には来ないよ。これでも施設職種だったんだから施設基礎作業ぐらいは習っているんだ」新山元群長は説明していても作業の手は止めない。防衛大学で土木建築を専攻した新山元群長は卒業後には施設学校で施設基礎作業も経験している。その点、部内出身者は1選抜で陸曹、幹部になっていて陸士を3年9カ月、陸曹は4年経験しているの昔取っていた杵柄は実用だったはずだ。それを目の前で元曹長たちの先頭に立って動き回っている茶山元3佐が証明している。
「船頭は5人も必要ないな。ワシらも作業員になろう」「体が動く限り頑張るぞ」「無理はしないで下さいよ」元3佐2人の決意表明に3尉候補者=特幹出身の元1科の元1尉が注意を与えた。
「重材料運搬、腕に」「1、2。思ったほど重くないな」「今の建材はそんなものだ」「強度は計算してたのかね」施設職種の熟練者たちの手にかかれば倒壊した家屋は迅速に建材になった。その運搬の施設基礎作業で土木工学の見解が混じるのは元幹部なので仕方ない。
- 2019/04/14(日) 12:28:21|
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文化15(1818)年の4月13日は北海道、本州、四国、九州だけでなく主要な離島の全周を踏破して科学的な測量を行い「大日本沿海與地全図」を完成させ、初めて日本の形を明らかにした伊能忠敬さんの命日です。
伊能さんは裃(かみしも)、袴姿で傍らに大刀を置いた肖像画が有名なので士分かと思ってしまいますが実際は町人の名主でした。このため髪型は町人髷です。
名主は農村の庄屋と同じ格式で中でも伊能家は当時の河川を利用した水運の拠点として大変に繁栄していた佐倉の豪商でもありました。
当時、伊能家では一族が次々と早逝しており、先ず妻の両親が相次いで亡くなり、続いて1歳だった妻が育つまでのつなぎ役になっていた伯父が死に、さらに14歳で結婚した婿まで逝ってしまいました。そんな中、両親の血縁者が領主から命じられた土木工事の現場監督を任せられた若者が有能であることから婿養子として迎えられたのが17歳の伊能さんだったのです。この時、幕府の昌平坂学問所の塾頭・林述斉から「忠敬」の忌み名を授けられていることでも伊能家の地位と財力、何よりも知性が窺えます。
伊能さんは浅間山の噴火を発端とする天明の不作が始まると水運を通じた情報で事態が拡大・深刻化することを察知し、即刻、関東圏の米を買い占めました。この時は江戸の米穀商も同様の買い占めを行いましたが問題は飢饉が発生してからの行動でした。
江戸の米穀商は米価を釣り上げて暴利をむさぼったことで庶民の憎悪を買って打ち壊しの憂き目に遭いましたが伊能家では無料の炊き出しを行い各地からの避難民にまで等しく施したのです。このため盗賊などに備えて近隣住人が自主的に警備を行ってくれたと言われています。この功績で士分に取り立てられた記念に描かせたのがあの肖像画でした。
こうして途絶える寸前だった伊能家を発展させた忠敬さんでしたが家庭的には恵まれず、婿養子になった最初の妻は2女・1男を儲けたものの天明3(1783)年に42歳で亡くなり、その4年後に内妻とした女性は2男・1女を生みながら寛政2(1790)年に26歳で亡くなり、次に仙台藩医の娘を後妻に迎えたものの5年後の寛政7(1795)年に亡くなり、最後に江戸で内妻とした才女(漢詩人・歌人で算術も得意)とは測量に出て留守がちになったことで別れてしまいました。それでも幸いなことに最初の妻が生んだ嫡男が家督を継ぎ、内妻が生んだ男子は測量を手伝って技能を継承しました。
伊能さんが本格的に測量と天文学を学んだのは50歳で後妻を亡くしたのを期に家督を嫡男に譲ってからで、江戸へ出て大阪の民間の専門学者・麻田剛立さんの門下から幕府天文方に着任したばかりの高橋至時さんと間重富さんに師事したのです。
伊能さんは当初は暦として天文に関心を持ち、和漢蘭の学術書を取り寄せて独学で研究していたため遅い入門でも基礎知識は十分で、関東の各地を測量して技能を磨いったのです。やがてロシア船の襲来で北海道の現地情勢を探索する必要に駆られた幕府によって測量を許可され(資金は自腹だった)、その出来栄えに驚嘆した幕府から全国を測量することを命令されて(公費になった)17年にも呼ぶ大事業を成し遂げたのです。

「風雲児たち」より転用
- 2019/04/13(土) 10:02:47|
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「地図でも判るようにこの地区は津波の直撃を受けました」担当者は元1科の元1尉が貼りつけた板を持ったことで地図を指差して説明を始めた。どうやら仙台空港よりも北の名取川の河口付近に造成された新興住宅地のようだ。
「すでに消防などによって遺骸は収容されていますが、建材や瓦礫の下から未発見の死者が出てくる可能性があります。その時は手をつけずに私ども呼んで下さい」この説明に老兵たちは顔を見合わせた。今日も市内の有志によって撤去作業が行われ、このボランテイアもその一翼を担うと言うのが募集の趣旨だったはずだ。すると3人いる元3佐の1人が質問した。
「遺骸が見つかれば収容するべきでしょう。そうすれば霊安車が到着するのと同時に載せることができる。廃材の下で圧死したまま、溺死したまま放置することは私にはできません」この意見に14人もうなずいた。しかし、担当者は困ったような顔で回答した。
「遺骸を見ることでPTSD(心的外傷症候群)を発症する危険があるんです。ですから遺骸を処置するのは医療関係者か公務員に限るように政府から行政指導が出ています。ご協力を願います」通常のボランティアであれば遺骸に触れることを禁じられれば安堵するはずだが、この集団は逆だった。今度は元曹長たちが声を上げた。
「我々は雫石の事故の遺骸の収容にも参加している。空から降ってきた遺骸が枝に引っ掛かっているのを木に上って収容したんだ。今更、精神病になんかなるもんか」雫石の事故とは昭和46年7月30日午後2時2分に岩手県の雫石上空8500メートルで訓練飛行中だった松島基地所属のFー86F戦闘機2機のうち訓練生の機体に追突した全日空のボーイング727が空中爆発・墜落した事故だ。全日空機に乗っていた162名が死亡した。
「スカーフがなびいていると思って見上げたら髪が枝に巻きついてスチュワーデスの首がぶら下がっていた。両目が飛び出していたぞ。ここの遺骸もそんな悲惨な状況なのか」「俺は7月10日の仙台空襲を経験しているが、今回は焼夷弾で焼け焦げた遺骸はないはずだ」OBたちが我を忘れて怒ったのは担当者が口にした行政指導が、遺骸を一刻も早く収容して静かな場所に安置しようとする人としての情やそれを実施する人間の素養を考えずに責任逃れのために一律に禁じたことだった。返事に詰まっている担当者に新山元群長が救い手を差し伸べた。
「担当者は上からのお達しを忠実に遂行しようとしているだけだ。あまり困らすものではない」現職の頃から人格者として尊敬を集めていた新山元群長の言葉は興奮状態の老兵たちに水を浴びせ、血圧を一気に引き下げる。
「今回の作業の責任者は私だ。逆に言えば私の責任の及ぶ範囲で指揮権を行使させてもらおう。諸官らの職務遂行を期待する」「部隊気をつけ」新山元群長の訓示が終わったところで元1科の元1尉が懐かしい指示を発した。それを受けて指揮官の元3佐が号令をかけた。
「気をつけ」「群長閣下に敬礼」「頭、右」列の正面には市役所の担当者と元1尉が立っている。新山元群長は列の右前だ。このため老兵たちは担当者にそっぽを向くように顔を向けた。残念ながらこの地方公務員の中間管理職は「閣下」が天皇に任命される高位高官に対する敬称であることは知らなかった。ただし、新山元群長は定年将補だ。
市役所に集まった市民の有志たちと一緒にOB部隊は名取川河口の造成地に向かった。市役所の公用車で先導しているのは若い職員だ。
「何だこれは」造成地に入っても見渡す限りの空き地で家屋は点在しているだけだ。仙台市のベッド・タウンとして真新しい住宅が建ち並んでいるのを想像していた1号車の元幹部たちは息を呑んだ。車内の空気が冷たく重い塊りになった。
「ここまで巨大な津波だったのか」「待てよ。倒壊した家屋が見当たらないぞ」元3佐同士が議論を始めると仙台駐屯地に転身赴任していた運転手の元1尉が事情を説明した。
「ここの住宅地は造成が終わって売り出すのとバブルの崩壊が重なったのであまり家は建っていなかったようです。おまけに仙台空港に近いから騒音が激しいと言う悪評も流れて。実際は滑走路は東西に向いているからそれ程でもないようですが」つまり倒壊した家屋が跡形もなく押し流された訳ではないようだ。言葉を失っていた元幹部たちは大きく息を吐き、車内の空気も元に戻った。後続する元曹長たちの車内で同じ状況が生起しているのなら知らせてやりたいところだが、幹部とは思考方式が違うので取り越し苦労かも知れない。
「結局、曹洞宗の寺が移転してきて下落した区画を買い占めて墓苑として売り出したはずです。そっちは当たったみたいですが」そう言っているところに新築の本堂が見えてきた。本堂もかなり損傷しているが、それに隣接する広い区画には墓地の礎石と転倒して砕けた墓碑が散乱している。これでは流出した遺骨の回収は不可能だが、それも行政指導に従うのだろうか。
- 2019/04/13(土) 10:00:02|
- 夜の連続小説8
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明治7(1874)年の明日4月13日に倒幕=体制破壊にしか興味や才能を持たない毛利藩や島津藩出身者とは別に新政府の形を整えるための施策を次々と提案し、実現していた江藤新平さんが「佐賀の乱」の首謀者として斬首されました。
佐賀県人は「鍋島藩は西国諸藩でも特に藩士の教育に力を入れていた」と自賛していますが、それは当時の勉学の基本である規範的古書の暗記を殊更に徹底するもので「柔軟な思考や多様な知識は著しく欠落していた」とも指摘されています。しかし、長崎警備の任務を遂行する上で来航するオランダ船の急速な進歩・発達を直視していたことから、同様に藩主自ら蘭学の研鑽に励んでいた鹿児島・島津藩、四国・宇和島の伊達藩、福岡・黒田藩と競うように西洋文明の導入を進めていきました。
江藤さんは天保5(1834)年にそんな佐賀藩で郡目付を務める下級武士の長男として生まれました。数えの15歳で藩校の弘道館の内生(初等・中等課程)に入学すると成績抜群で大いに期待を集めましたが、父親が職務怠慢で解職・永蟄居の処分を受けたため外生(高等課程)には進めず、弘道館の教授を務めていた儒学・国学者の私塾で学び、神道や尊皇思想を植えつけられたようです(佐賀藩は西洋文明の導入を進めていたので攘夷ではなかった)。その後は独自の活動によって他藩にも人脈を広げつつ存在感を増し、島津藩と毛利藩が倒幕の謀反に踏み切ると裏舞台で戦略に関与・暗躍したのです。そんな江藤さんが表舞台に立ったのは無血開城が成立した後も江戸の治安の維持に当っていた旧幕臣の彰義隊を敵視した新政府軍が武力制圧した上野戦争で、毛利藩の軍監・村田蔵六さんと協議して佐賀藩が保有するアームストロング砲を彰義隊の拠点である寛永寺付近に撃ち込み、外に追い出したところを銃で迎え撃つ作戦で旧幕臣たちに「武士道と云うは死ぬことと見つけたり(葉隠・聞書第一の冒頭)」の散り花を咲かせたのです。
明治新政府では江戸への遷都を実現するなど(島津藩・毛利藩の主流派は大阪遷都を考えていた)、政治的に無能な公家に迎合することなく実務を推し進め、中でも法令の整備には心血を注ぎ、日本が早い段階で近代法治国家になれたのは江藤さんの功績です。
その一方で「四民平等」「人権尊重」などの近代民主主義を謳うフランスの法典に佐賀藩式に傾倒したため、立憲君主制を主旨とするドイツの憲法を子飼いにした伊藤博文さんに研究させていた大久保利通さんと厳しく対立することになりました。
こうして征韓論を期に下野すると佐賀での不満分子の指導者になり、敵対する大久保さんもそれを見越して征討の準備を進め、2月16日に佐賀県庁=佐賀城に駐留する政府軍を攻撃したことから「佐賀の乱」が勃発したのです。結局、乱は2週間で終わり、江藤さんは逃亡して鹿児島の西郷南洲翁や高知の同志に武装決起を懇願しますが果たせず、自分が採用した写真手配によって高知県内で捕縛され、佐賀に移送されたのです。
裁判では江藤さんの圧倒的な迫力と明哲な論理に裁判官が委縮して、十分な取り調べもないまま江藤さん自身が策定した刑法の反乱罪に基づいて死刑=斬首・晒し首の判決が下りました。江藤さんの生首の写真は高校の歴史資料に載っていました。
- 2019/04/12(金) 11:19:15|
- 日記(暦)
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