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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月1日・名鉄7000系=パノラマ・カーが就役した。

野僧が生まれるピッタリ1ヶ月前の昭和36(1961)年の明日6月1日に長年にわたり名鉄電車の代名詞になっていた7000系=パノラマ・カーが就役しました。
野僧が産まれた頃、両親は名古屋市南区の名鉄・笠寺駅の高架下のアパートに住んでいたため名鉄の線路の音を胎教にしていたのですが、産まれる1ヶ月前にパノラマ・カーが就役すると独特のメロディー警笛を鳴らしながら駅に入ってくるようになったため完全に覚えてしまい、どれほど激しく泣いていてもパノラマ・カーが来ると機嫌が直って笑い始めたそうです。おまけに保育園からピアノを始めると鍵盤で遊んでいるうちにパノラマ・カーの警笛を探り当て、練習に飽きると弾くようになってしまいました。黒の半音の鍵盤の両端と中央の3つを「左右中左右中左右左中」の順で弾けます(小学校のたて笛ではド・ファ・ラでやっていました)。
その後、親の実家への帰省の度に利用するようになり(天井に速度が表示されていたのに熱中しました)、やがて蒲郡市の高校に入ると途中の豊川駅(同じ敷地内でも別の駅)と豊橋駅、蒲郡駅には名鉄が乗り入れていたのでは朝夕にパノラマ・カーの顔を見ると嬉しくなったものです。そんなパノラマ・カーについては高校の鉄道研究会の会員が歴史から車体までマニアックに教えてくれたので、東京の大学生たちがパノラマ・カーを見て「小田急のロマンス・カーの真似をしてやがる」と言ったため「ロマンス。カーの方が2年遅い。ロマンス・カーこそ同じ日本車両製造の模造品だ」と反論したこともあります。
パノラマ・カーの誕生は昭和30年に就任した名鉄の副社長が自動車時代の到来を予測して「常に魅力を発信し続けなければ鉄道に将来はない」と広く社員の意見を聴いていた中で「前が見える列車を作りたい」と言う提案が出されたことによります。
名鉄の特急は豊橋駅から新岐阜駅までと営業距離が短いため特急料金なしで乗れるのですが、当時、同じく名古屋駅に乗り入れているライバルの私鉄・近鉄が2階建て列車のビスターカーで鉄道友の会のブルーリボン賞を受賞したため名鉄の上層部には対抗意識が燃え上がり、全国どころか世界でも前例がない前面が全面ガラス張りで乗客の座席になっている特急用車両の開発が決定したのです。
ここで問題になったのが安全性で当時は全ての踏切に警報装置が設置されておらず歩行者だけではなく車両との衝突事故が頻発していました。このため名鉄では通常の車両以上の強度を確保するため強化ガラスと最前列の座席の間に巨大な緩衝装置を装備させました。実際、就役から半年後に木曽川堤駅付近の踏み切りに警報装置を無視して進入した砂利を満載したダンプ・カーと衝突した事故では時速85キロ出ていたため急ブレーキをかけても間に合わず約40メートルも引き摺ることになりましたが、ダンプ・カーの部品で側面のガラスがひび割れて破片が当たった乗客8名が軽傷を負っただけでした。この事故でパノラマ・カーの安全性は実証されたものの名鉄社内では強度が劣る通常の車両とパノラマ・カーの正面衝突事故に対する危機感が脅迫観念になったそうです。
そんなパノラマ・カーは昭和37(1962)年のブルーリボン賞を受賞し、2009年8月30日に引退するまで沿線の風景になっていました。
  1. 2019/05/31(金) 11:09:02|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ1569

会議が終わって陸上幕僚監部に戻る前に携帯電話を確認すると淳之介からメールが入っていた。
「産まれたのかァ・・・」箇条書きのような文面の冒頭を見て廊下の中央から外れて壁際で確認することにした。これで私も祖父になる。元々が年寄り臭い人間なので抵抗はない。
「男の子か、残念だな」勿論、誰にも言っていないが私としては可愛い女の子が希望だった。梢・あかりの血筋であれば美人になるのは間違いない。淳之介を産んだ女も外見だけは人並みより少し上だった。問題は私に似ることだが現時点では回避できているようだ。ただし、30歳を過ぎて禿げてくれば誠に申し訳ない。
「3450グラムなら標準だな。淳之介はでかかったもんなァ」淳之介が産んだ女を2日も苦しめたのは巨大児だったため、それでなくても初産で固い子宮口が中々開かなかったからだ。医師は子宮口を切開することも考えたらしいが、そこは何とか自然分娩で産まれてきた。その点、この大きさであればあかりも自力で産めたはずだ。
「何、けいしょうと読む名前を考えてくれだって、それは親の仕事だろう」独り言では反発したが本音では孫の名前を考える機会を与えられたことを喜んだ。メールはここまでなので廊下をスキップして法務官事務室に戻ることにした。それにしても産まれた時間が書いてない。連絡する時には5W1Hを確認することを教えなければならないようだ。
「モリヤ2佐、何か好いことがありましたね。お孫さんが生まれましたか」法務官事務室に戻ると女性事務官がニコヤカに笑いながら声をかけてきた。私としては平常心を保っているつもりだったが、やはり顔が緩んでいるらしい。1曹と曹長は大震災発生から1カ月が経過し、災害派遣部隊の交代が始まったことを受けて陸上幕僚監部からの支援要員として現地に出ており、事務室は2人だけなので雑談も遠慮なく楽しめる。
「はい、男の子だったようです。3450グラムですから標準の大き目でしょう」「そうですね。娘たちの男の子もその位でしたから今の子供なら平均ですね」60歳の定年が大震災の特別処置で半年延期されている女性事務官には長男と長女、二女の家庭に孫がいて祖母としては熟練している。自宅は千葉県内にあり、子供たちは県境を越えずに生活しているらしい。
「お名前は決まってるんですか」流石に熟練祖母の質問は鋭い。私がこれから課業時間中に始めようとしている私的な作業を見抜いたような質問をしてきた。
「まだのようです。あまり漢字は得意じゃあなかったですから」本当は淳之介は読書好きであり、色々なことを考え過ぎて決められなかったのだが、謙遜としてこう回答した。
「それじゃあお祖父ちゃんの初仕事として考えるんですね」「いいえ、私が考えると法号になってしまいますから止めておきます」ここは誤魔化したが、辞書を広げて頭を悩ましていれば察知されるのは時間の問題だ。とりあえず自分の席に着くと辞書の前に六法全書とバインダーを広げて仕事の体裁を取った。そこに女性事務官がコーヒーを持って来て確認していった。
「『けいしょう』か・・・『しょう』だな」今回は読みを指定されているので漢和辞典でも部首ではなく音読の索引で探すことになる。この漢和辞典は高校時代から30年以上の愛用品だから字の形が変わっている可能性があるが、それは後で確認することにした。
「しょう・・上、小、井、升、少、爿、召、正、生」音読での索引も画数の少ない方から順番で記載されているので中々思う字に至らない。ここまででは「恵正」「恵生」くらいだ。
「匠、これも良いな。尚、これは和尚の前に琉球の王さまだから遠慮しよう」安里と言う姓は画数が少ないため名前の方もこの辺りの画数が丁度良いようだ。私はノートを開いて「安里恵」と書いた下に選んだ漢字を並べてみた。大学の日本語の講義で「日本人はシ行の語感が好きだ」と習ったが、漢字でもシ行のショウと読む漢字は非常に多い。私としては佛教語辞典も調べてみるつもりだったが、これでは選択に困るようにするだけだ。
「安里恵正、安里恵生、安里恵匠、安里恵松、安里恵昌、安里恵笑、安里恵祥、安里恵梢」候補として選んだ漢字の意味を調べ、紙に縦横に書いてみると角張った字では「安里恵」までの柔らかさ、優しさが失われてしまうことが判った。とは言え淳之介に電話で伝えた「恵笑」も字のバランスが今一つだ。「松」は玉城家の通り字だが淳之介の血統を考えて加えた。同じ木偏の「梢」は「美人で賢い祖母のような子供になるように」との願いを込めたので落とせない。
ここまで来ると毛筆で書いてみたくなるのが私の悪癖だ。先ほど女性事務官に誤魔化した上、偽装工作まで講じたことを忘れて書道セットを引出しから取り出すと墨を磨り始めた。
「名前が決まりましたか」すると自分の机のパソコンで日報を入力していた女性事務官が笑顔を向けて訊いてきた。こうなると万事休す、後の祭りだ。
「はい、候補は幾つか」私の返事を聞いて女性事務官は立ち上がると横に来て見学を始めた。
  1. 2019/05/31(金) 11:04:42|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ1568

「男の子だよ。おチンチンがついてるさァ」「声が聞こえるねェ。元気に泣いてるさァ」ドアの向こうでは看護師が赤ん坊の様子をあかりに確認させているのが判る。おチンチンは手で触れさせたのだろう。淳之介は思わず自分の股間を見てしまった。
「体重・・・3450グラム、適正体重です。身長・・・51センチ、平均よりも長身ですね」続いて身体を計測している看護師長が担当医に報告している声が聞こえた。淳之介は4070グラムの巨大児だったからそれよりは小柄な標準的赤ん坊のようだ。
これから赤ん坊は昔の産湯に当たる身体の洗浄をしてもらってから父子対面と言う手筈だ。振り返ると義祖父母は目を閉じて手を合わせたまま固まったようになっている。義祖父母がここまで真剣に祈っていたことを知り、淳之介は父から習った安産の功徳がある地蔵菩薩の真言を唱えるのを忘れていたことに気がついた。そこで手を合わせると小声で「オン・カカカビ・サンマエイ・ソワカ」と唱えた。
「かりゆしさァ(めでたい)」「おめでとう」「みぃふぁいゆー(ありがとうございます)」ようやく椅子から立ち上がった義父母の祝福に淳之介はヤイマムニ(八重山方言)で礼を言ったが沖縄本島では「にへでーびる」だ。尤も、本土から沖縄に来た淳之介にとってはどちらも新たに覚えた言葉なので相手に合わせて使い分けするほど身についている訳ではない。
「はい、可愛い男の子ですよ」そこに看護師長が息子を抱いて出てきた。すると義祖父母は淳之介の両側から顔を出して曾孫と対面した。
「恵昇の赤ん坊の時にそっくりだな」「うん、お帰り、恵昇」この子は義祖父母にとっては待ちに待っていた伯父の生まれ代わりなのだ。こうなると名前は「恵昇」に決まってしまう。それでも淳之介は伯父が早逝したのは「昇」の文字が「昇天=往生」を意味してしまった結果のような気がしてならないのだ。こうなると父が言っていたように「けいしょう」と読む別の漢字を考えるべきかも知れない。
看護師長が一度、分娩室に戻ると続いてあかりがストレッチャーに寝かされて出てきた。今回は若い看護師が押している。淳之介は薄く目を閉じているあかりに顔を近づけて唇を重ねた。それを見て看護師は恥じらったように顔を反らした。
「ありがとう。お疲れさま」「私もお母さんになれたんだね」あかりは淳之介の鼻息を感じ取って顔を向けるとかすれた声で呟いた。淳之介にはその言葉が「自分も父親になった」と言う責任として胸に迫り、もう一度額に口づけすると少し離れて目で看護師に合図した。
看護師が押すストレッチャーが長い廊下を進んでいくと後を追うように我が子を乗せた新生児用のストレッチャーが出てきた。初対面から数分しか経っていないはずだが顔の色が落ち着いて面立ちと表情が判るようになっている。
「やっぱりあかりに似ているな。男前になるぞ」今度も顔を近づけて話しかけると我が子はまだ見えていないはずの目を淳之介に向けた。あかりの障害を持った目は白濁しているが、我が子の目は黒いのが判った。それで安堵するのはあかりに申し訳ないような気がするが、そこは親としての自然な感情で胸を撫で下ろした。
「お義母さん、無事に産まれました。3450グラムでした。あかりも赤ん坊も元気です」病室に戻る前に小ロビーから義母に吉報を伝えた。義母も待ちかねていたようで電話には即座に出たが、この報告に返事をしなかった。やはり感激がこみ上げてきているらしい。
「それで男か女かどっちねェ」義母が返事をしなかったのはこの説明を待っていたようだ。感激で混乱しているのは淳之介の方だ。
「はい、男です」「それじゃあ恵任(けいとう)だね」今度は義母が希望の名前を口にする。淳之介は産まれる前に名前を決めておかなかったことを少し後悔して電話を切った。切る前に義母からは「ご苦労さん、立派だよ。最高さァ。おやすみなさい」と娘への伝言を頼まれた。
会議中のはずの父へはメールになる。ここで淳之介は祖父母の希望を採用して「けいしょう」と読む名前を漢字に熟練している坊主に依頼することにした。
「無事に産まれた。男。3450グラム。あかり似=おかあさん似。けいしょうと読む名前を考えて欲しい」父も熱愛していた元カノの義母に似た孫の誕生には男だったことは別にして感激するはずだ。若しも女であればあかりに見せている愛情表現がさらに過激になりそうだ。
「お父さん、何時まで会議なのかなァ・・・」メールを打ち終わって病室に向かいながら淳之介は首を左右に振ってみた。名前を考えようとしても漢字が思い浮かばず、頭の中でカランカランと音を立てそうなくらい軽い脳ミソは産んだ母親似のような気がしてくる。そうなると顔だけでなく頭も母親似になってもらわないと困る。自信があるのは首から下だけだ。
  1. 2019/05/30(木) 11:25:13|
  2. 夜の連続小説8
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5月29日・増原恵吉防衛庁長官の口滑らし騒動

昭和48(1973)年の明日5月29日に田中角栄内閣の増原恵吉防衛庁長官が記者会見で昭和の陛下に防衛の実情を内奏した際の発言を漏らしたため辞任に追い込ました。
増原長官は意外にも防衛庁・自衛隊との関係が極めて深く、東京帝国大学を卒業して内務省に入省して警察畑を歩いた後に香川県知事になると敗戦後も引き続きその職に留まっていましたが、昭和25(1950)年に警察予備隊が設立された時、吉田茂首相の要請を受けて県知事を辞して警察予備隊本部長官に就任したのです。1年後に元内務官僚の大橋武夫衆議院議員が警察予備隊担当の国務大臣に就任したことで「長=トップ」の座は譲りましたが、昭和27(1952)年に警察予備隊が保安隊に改編されるとそのまま保安次長に横滑りして長官は吉田首相が兼務していたため実質的に長の座に復帰しました。その後、木村篤太郎法務大臣が保安庁長官に就任したため再び次級者になり、昭和29(1954)年に保安庁から防衛庁に改編されると防衛次長に横滑りしています。
昭和32(1957)年に香川県で行われた衆議院議員補欠選挙に出馬して当選すると、昭和34(1959)年の参議院選挙では出身地である愛媛県から出馬し直して当選しています。早い話がこれも横滑りでしょう。
国会議員としては池田内閣で行政管理庁長官、北海道開発庁長官に就任すると佐藤栄作内閣でも留任=縦滑りし、第3次佐藤栄作内閣では次級者に留まり続けた防衛庁長官に就任することができました。ところが就任1ヶ月足らずの昭和46(1971)年7月30日に高速の全日空機が航空自衛隊の旧式の練習戦闘機に追突した雫石事件が発生したため引責辞任することになったのです。
こうして振られ続けている防衛庁長官の職に田中角栄内閣で再任され、内閣改造でも留任=縦滑りして半年が経過した5月26日に昭和の陛下に「当面の防衛問題」を内奏する機会を得たのですが、「近隣諸国に比べて自衛力がそれほど大きいとは思えない。何故、国会で問題になっているのか」とのご下問があり、それに「仰せの通りでございます。我が国は専守防衛で野党に批判されるようなものでは御座いませぬ」と回答すると「防衛問題は難しいだろうが国の守りは大事なので、旧軍の悪いところは真似することなく、良いところは取り入れてしっかりやって欲しい」とのご内意を賜わったのだそうです。
これまで横・縦滑りを繰り返してきた増原長官の習い性が出たのか記者会見の席で口を滑らせてしまい、本来は秘すべき陛下からのご内意を公表した上、「防衛二法(防衛庁設置法と自衛隊法)の審議入りを前に勇気づけられた」と発言したため、これが5月28日の朝刊に掲載されると野党から「天皇の政治利用である」との批判が起こり、与党からも軽率さを非難する声が出て辞任に追い込まれました。
警察予備隊は本来、アメリカでは州兵が担当している治安維持と不法侵入者への対処を目的に創設された武装組織であり、元軍人たちが公職追放で採用できなかったため旧内務官僚や警察官が大量に送り込まれたのですが帝国陸海軍への憎悪を自衛隊にも向け、警察の下位に貶めようとする輩が大半でした。増原長官はどうだったのでしょうか。
  1. 2019/05/29(水) 11:09:05|
  2. 自衛隊史
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振り向けばイエスタディ1567

あかりは車椅子に乗せられて分娩室に移された。健常者の妊婦であれば軽度の運動と気分転換として歩かせるのだが、視覚障害者のあかりでは転倒する危険性が高く、移動に時間がかかるためこうなった。勿論、車椅子を押しているのは淳之介だ。
「駄目ェ、頭が出てきちゃう」車椅子の上でもあかりは陣痛に耐えながら状況を口で説明する。これは視覚に依らない自分自身への確認でもある。
「まだ息(いき)んじゃあ駄目だよ。分娩台に寝てからだからね」そんなあかりに横に付き添っている看護師長が注意を与える。妊婦が陣痛に耐えるため腹部に力を入れるとそれで子宮が圧迫されて胎児が出てきてしまうことがあるのだ。移動中は力を抜いて待つしかない。
「はい、息をして、スースー、ハーハー」「スースー、ハーハー。痛いッ」「それッ、スースー、ハーハー」看護師長の指示で呼吸法を始めたあかりが苦痛で中断すると淳之介が代わって声をかけた。後ろについてくる祖母は若い淳之介の冷静な態度に感心しながら一緒に声を出した。
「よく我慢しましたね。分娩台に横になったら安心して良いですよ」分娩室で待っていた担当医は車椅子から立ち上がったあかりに声をかけた。淳之介は車椅子を後ろに回すと立っているあかりの手を引いて分娩台に触れさせた。これで位置と高さを確認できた。あかりは手で確認しながら分娩台に体重を移し、足元の踏み台を使って身体を載せると腰を下ろした。同時に2人の看護士が素早くあかりの向きを変え、背中を支えて横にした。続いて足元に回って産褥ショーツを脱がし、両足を固定具に載せた。すると担当医が淳之介に声をかけた。
「それではお父さんは出て下さい」「立ち会えないんですか」これは想定外の指示だ。淳之介としてはあかりの手を握り、声をかけて励ましながら我が子の誕生を見守るつもりだったのだ。
「お父さんは事前講習に参加していないので残念ですが諦めて下さい。衛生上の問題もありますから早く出て下さい」担当医の言葉が少し命令調になったので、淳之介は退室することにした。立ち合い分娩には果たすべき役割の説明などの注意事項や尿や便、血や羊水が噴き出す出産の光景を見せておくための事前講習があるのだが、石垣島で暮らしている淳之介は参加することはできなかった。それでも担当医の許可を得るとあかりに歩み寄って「がんばれ」と声を掛け、ドアの前で振り返って「よろしくお願いします」と大声で挨拶をして深く頭を下げた。
「若いのに冷静なお父さんだな」「あれなら手伝ってもらいたいくらいです」ドアを閉める時、担当医と看護師長が、かつて父が与えられたのと同じ評価を口にしているのが聞こえた。
「もう生まれそうねェ」廊下の長椅子では祖父母が待っていた。梢があかりを出産した時は早産の緊急入院だったため病院からの連絡を受けて両親が駆けつけた時には産まれていた。ただし、夫は自宅で酔い潰れていて立ち会わず、あかりも意識がないまま産まれた未熟児だったので、このように家族で自然分娩に立ち合うのは自分たちの子供以来なのだ。
「俺、お義母さんとお父さんに電話してきます」祖父母の緊張した顔を見ていると淳之介まで息が詰まりそうになるのでここは席を外すことにした。病院では携帯電話の電波が病人に悪影響を与えるとして指定場所以外での使用は禁止されているため淳之介は廊下の中央にある小ロビーへ行って先ずは梢に電話をかけた。
「もしもし、産まれたねェ」日頃は冷静な義母が先走った言葉で電話に出た。こうなると冷静さを保っているのは淳之介だけなのかも知れない。
「まだですけど分娩室に入りましたから時間の問題だと思います」「そうねェ。心の準備をしておけって言う予告電話だね」「はい、そうです」本当は分娩室から聞こえてくるあかりの悲鳴や担当医たちの遣り取りを聞いているのが怖くて逃げてきたのだが、あえて義母の理解を訂正する必要はない。それでも長電話をしているとその間に生まれてしまう可能性がある。
「それじゃあ産まれたらもう一度、電話します」「産まれたら淳之介はそれどころじゃあないでしょう。お父さんにでも頼みなさい」確かに出産が終われば淳之介はストレッチャーで病室に運ばれていくあかりに付き添わなければならない。その前に感激で我を失って電話どころではなくなりそうだ。やはり梢の方が冷静なようだ。モリヤの父は先ほどの電話であかりが分娩室に向かうことは判っているはずなので省略することにした。後は分娩室の前に戻って子供の名前を考えることした。こうなると漢和辞典が欲しいのだが持ってくるのを忘れてしまった。
「もうすぐだよ」「頭が出てきたって看護婦が言ってるさァ」淳之介が戻ると長椅子で身を固くしていた義祖父母は顔を向けると早口で状況を説明した。
「はい、あと少し」「大きく息を吸ってお腹に力を入れて」中から聞こえてくる緊迫した声に淳之介は腰を下ろすことを忘れてドアの前で拳を握った。
「オギャー」次の瞬間、大きな産声が聞こえ、淳之介の頭は真っ白、胸は空っぽになった。
  1. 2019/05/29(水) 11:08:05|
  2. 夜の連続小説8
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左翼映画人・降旗康夫監督の逝去に思う。

5月20日に戦前の日本社会、中でも帝国陸軍を完全に否定する映画を製作していた左翼映画人の生き残りであった降旗康男監督が亡くなったそうです。84歳でした。
降旗監督は昭和9(1934)年に長野県松本市で生まれ、戦後に東京大学文学部フランス語学科に進学し、昭和32(1957)年に卒業すると東映に入社しました。戦後の日本映画は連合国占領軍が国民を「戦前の日本は絶対悪」「帝国陸軍こそ軍国主義の元凶」と洗脳するための道具として軍隊生活を一筋の光明も差さない暗黒社会であったかのように描いた作品を量産し、独立後もその路線を継続していたので、降旗監督も東京大学の2年先輩で今年の2月19日に亡くなった佐藤純彌監督のデビュー作である昭和38(1963)年公開の「陸軍残虐物語」の助監督として同じくデビューを飾ったのです。
野僧はこの映画を小学生の頃のテレビ映画劇場で見た覚えがありますが、三国連太郎さんが演じる純粋馬鹿の犬丸2等兵と中村賀津雄さんが演じる生真面目な鈴木2等兵が苛めの対象になって暴力を受け続ける軍隊の光景は陸軍少将の息子である祖父やこの映画の舞台になっている戦時下に入営した小父さんたちから聴く話とは全く違い、軍隊経験がない父親が真剣に見ているのを冷ややかに眺めていただけでした。
しかし、戦後も昭和30年代後半から始まる高度経済成長の躍動期に入ると「反戦」に名を借りた左翼的映画は急速に人気を失い、代わって社会の法秩序から外れた裏社会を美化した任侠映画が支持を集めるようになったのです。このため佐藤純彌監督と同じく降旗監督も東映ヤクザ映画を手掛けるようになり(それを企画した東映の坂上順プロデューサーも5月18日に亡くなっています)、ここで高倉健さんの代表作である「網走番外地」などで一緒に仕事をする機会を得たようです。
野僧が降旗監督の関わった作品を見たのは昭和48(1963)年から昭和53(1973)年まで放送されたテレビドラマの「キイハンター」でした。ただし、「キイハンター」は東映が制作に全面協力しているものの毎回、監督その他のスタッフが代わっているため、どの作品に降旗監督さんが参加したのかは判りません。他にも山口百恵さんの赤いシリーズも手掛けたそうですが、南沙織さんの熱烈なファンだった野僧は中3トリオが嫌いだったので見ていません。
この他には「駅STATION」「居酒屋兆治」「あ・うん」「ホタル」「あなたへ」など高倉さんが亡くなってからは名作と言われている作品も数多く手掛けていますが野僧が見たのは「鉄道員(ぽっぽや)」だけです。ただし、人気アイドルだった広末涼子さんの素人丸出しの稚拙な演技は最悪でした(広末さんについてはアカデミー賞作品の「おくりびと」やNHKの大河ドラマ「龍馬伝」も見ましたが成長したようには思えませんでした)。
降旗監督の立派なところは他の左翼映画人だった監督や男優・女優たちが政治的発言を控えて文化人を演じているのに日本共産党への熱烈な支持を公言していたことでしょう。
そう言えば反戦色が変に現実味を帯びていた「少年H」も降旗監督の作品でした。この作品は記憶に残っていますから冥福は祈ることにします。
  1. 2019/05/28(火) 12:39:06|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ1566

「あれッ、電源を入れ忘れていた」前潟3佐と大岩3佐の記者会見が終わり、首席法務官が事務室に2度目のコーヒーを持ってこさせた時、私は迷彩服の胸ポケットの携帯電話の電源を入れ忘れていることに気がついた。切ったのは公判が始まる直前だ。法廷に携帯電話を持ち込むことは認められているが電源を切らなければならない。かつて公判中に弁護人の携帯電話が鳴り始め、スイッチ操作で電源を切ろうとしても焦って上手くいかず、審理が中断して裁判官が立腹したことがあった。取り敢えず電源を入れると着信履歴が連なっていた。
「梢と淳之介からだな」公判開始直後に梢から第1報が入り、それから30分に1回の頻度で淳之介が掛けてきている。これはあかりの出産に関する連絡に違いない。そこで首席法務官室を出て廊下の隅に行って電話してみた。時間の経過から言えば生まれていても不思議はないが、初産の場合は二日掛かりになることも珍しくない。特に巨大児だった淳之介は明け方に陣痛が始まって産まれたのは翌日の朝だった。
「もしもし、淳之介か」「お父さん、まだ産まれないよ。それでも陣痛の間隔が短くなってきてるからソロソロみたいだ」電話に出た淳之介は何も訊く前に現状を報告した。やはり淳之介もワクワクし通しで待ちくたびれているようだ。
「すまんなァ、法廷で電源を切ったまま入れ忘れていたんだ」「うん、昼のニュースでお父さんを見たよ。迷彩服で出たんだね」法廷の映像は判決終了後に控室のテレビで国営放送のニュースを見たが、裁判官を中心にしていたのでそれ程目立ったようには感じなかった。
「裁判は勝ったんだね。おめでとう」「ありがとう。だけど判決を勝ち負けで考えるのは好きじゃあないな」船舶の事故に関する裁判で船乗りからの祝辞は有り難いが、私個人としては勝訴・敗訴と言う表現は好きではない。坊主でもある私は人間の行為の善因も悪果を生むことがあり、判決は白黒の色分けではなく灰色の濃淡を判定するものだと考えている。
「若し生まれてくるのが男だったらお父さんの勝ちを記念して恵勝(けいしょう)にしようかなって思ってたんだ」子供の名前の相談は何度か電話で受けている。安里家の通り名は「恵」なので下に着ける漢字1文字の選択だったが、両親は「亡くなった兄の恵昇をつけてもらいたい」と言っていることも聞いている。「恵勝」なら読みは希望に添えるはずだ。
「名前は苗字とワンセットの語感と漢字のバランスも大事だぞ。恵勝では安里の画数が少ない分、重くなり過ぎないか」私は頭の中で「安里恵勝」と言う文字を書きながら見解を述べた。
「そうかァ、漢字にしてみないといけないんだよね」淳之介も頭の中に紙を広げて筆を取ったのかも知れない。それにしても出産当日になっても名前が決まっていないのは余程色々なことを考えているらしい。尤も私は淳之介が生まれた時に読んでいた本の作者で決めたのだから悪くは言えない。妹は本を読み終えて栞(しおり)を眺めている時に生まれたから志織なのだ。
「強いて言えば判決で目的を達したから笑顔だな。だから恵に笑うで『恵笑』だ」頭の中で文字にしてみたが末広がりにはなっている。音も「けいしょう」になるので祖父母も納得するのではないか。ただし、単なる思いつきなので自信作ではない。
「これもお前の考える候補の1つにしてくれ」その時、統合幕僚監部のエレベータから降りて廊下を歩いて行く一団が見えた。どうやら前潟3佐と大岩3佐が牧野弁護士と滝沢弁護士や海上幕僚監部の関係者と一緒に首席法務官室に向かうようだ。
「すまんが仕事になった。電源は切らないが会議中に着信音は困るからメールにしてくれ」そう言って電話を切ろうとした時、淳之介の向こうからあかりの悲鳴が聞こえた。
「痛い、今度は違うわ」「淳之介、ナース・コールを押して」あかりに続いて祖母の指示が聞こえた。いよいよ分娩室に入るようだ。これでは会議どころではない。解脱した坊主としては諸事から超然としていなければならないが、現世に踏み留まったまま佛を直視して来迎を待つ浄土門の教義から言えば自然に歓喜し、心配すれば良いのだろう。
「遅くなりました」「今、揃ったところだ」首席法務官室に戻ると夫人たちが事務室のWACにうながされて退室するところだった。首席法務官室の応接セット一杯に8人が席についた。
「おそらく検察は高裁でも敗訴することは判っていても控訴するでしょう」「控訴を断念すれば今回の判決で指弾された恣意的な捏造を認めることになりますから」両弁護士は海上幕僚監部でも同様の見解を述べてきたらしく呼吸を合わせて立て板に水で披歴した。
「海幕としては内局とも協議して控訴期限である5月25日付で2人を復職させる方針です」「災害派遣に参加できると良いですがね」1等海佐の説明を受けた私の独り言に前潟3佐と大岩3佐は向かいの席で顔を見合わせた。2人は拘置所内でも大震災の被害と災害派遣の記事は見ていたはずだ。そこに参加できることは無罪判決を実感する無上の喜びになるだろう。
  1. 2019/05/28(火) 12:38:05|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ1565

「そろそろ病院に行こうか。先生も病院で昼飯を用意するって言っていたからな」あかりの陣痛の間隔が次第に短くなり、逆に時間が長くなってきたのを見計らって淳之介が声をかけた。
梢は昨日の清明(シーミー)節を休んだため今日は1人での勤務になり、淳之介に事細かな注意を与え、あかりを力強く励ました後、母に万事を頼んで出掛けていった。
「この子がお腹の中から出ようともがいてるの。早く出して上げたいけど扉が重くて開かないみたい」淳之介に脇を抱えられてソファーから立ち上がったあかりは1歩1歩踏みしめながら前に出る。健常者の妊婦でも足元に気をつけなければならないのだが、今日のあかりは日頃の用心深さを発揮できないだけに付き添っている淳之介の責任は重い。
「貴方、先に行って車を回しておいて下さい」「うん、判った」現在の指揮官は熟練した祖母だ。あかりを支えている淳之介を見守りながら用意していたカバンを持ち、居間に取り残された祖父に命令を与えた。淳之介は出産と言う大舞台で男に演じられるのは端役に過ぎないことを2度目のはずの祖父の姿にあらためて噛み締めた。ただし、父は持ち前の探求癖を発揮して妊娠・出産に関する書物を大量に読破した上、産婦人科や保健所の妊婦講習にも参加し、妊婦の雑誌「たまごクラブ」も愛読していたので出産時には権威になっていたらしい。
病院に到着し、病室に案内されると間もなくあかりは担当医の診断を受けた。ベッドに横になって子宮口の触診まで行われるため男性陣は退室させられた。この後には病棟看護婦長の説明が続くため淳之介と祖父は各階に設置してある小ロビーで缶ジュースを買ってテレビを見て時間をつぶすことにした。
「あれッ、お父さんが映ってるぞ」テレビは丁度、昼前の民放のニュースが始まったところだった。冒頭の画面では裁判官を中心に検事と弁護士が向かい合って座っている法廷の様子が映っている。その左側の弁護士の席の手前に座っている禿げ頭の迷彩服姿は間違いなく父だ。
「モリヤさんが出ている裁判って言うと・・・」「イージス護衛艦に漁船が衝突した事故だよ」淳之介が祖父に説明しているところにニュースが始まった。
「横浜地方裁判所で間もなく平成20年2月19日に海上自衛隊の最新鋭イージス護衛艦・あまご、7700トンが新勝浦漁協所属のはえ縄漁船・軽得丸、7.3トンに衝突して沈没させ、乗っていた岸西丸夫さんと節広さん親子を死亡させた事故の判決が下ります。現地からのレポートです。土井さん」男性アナウンサーは淡々と原稿を読み上げたが隣りに立っている女性アナウンサーは厳しい目で「怒り」を露わにしている。しかし、アナウンサーが読み上げたこの原稿でも「あまごが」「沈没させ」「死亡させた」と表現することで事故の責任があまご=海上自衛隊側にあると断定しており、それを感じ取った淳之介は顔に不満を越えた怒りを浮かべて祖父を見た。祖父は初めて見る義孫の怒りの表情に困惑しながら問い質した。
「お前も船乗りだろう。この事故をどう考えているんだ」テレビでは横浜地方裁判所の玄関前で男性アナウンサーが裁判の争点やこれまでの審理の概要を説明していて、長椅子に座っている淳之介よりも少し年長の男性が真顔でそれを注視している。
「この裁判は回避義務がどちらにあったのかを争ってるけど海上衝突予防法の規定よりも前に小型船が大型船を避けるのは常識だから、漁船の危険な操舵が事故の原因なのは間違いないよ」淳之介の見解にコーラを飲みながらテレビを見ていた男性が顔を向けて怒鳴った
「自衛隊が法律に違犯して漁船の親子を殺したんだ。死刑にするのが当たり前だろう」多分、この男性も父親になる予定者のようだがあまり知的水準が高いとは思えない。ただし、沖縄では地元2大紙だけでなく国営放送を含むテレビ各局も「海上自衛隊側に原因がある」と断定する報道で塗り固めているので愚かな素人が信じ込んでしまうのは仕方ないことだ。それでも淳之介は父が弁護している裁判だけに無駄と判っている努力を試みたくなった。
「貴方は道交法で自分が優先だからって走ってくる大型トラックの直前を自転車で横切りますか。俺は絶対にしませんよ」淳之介の説明に男性は考える前に追い込まれたことに怒り出したが、沖縄の男性に比べて背が高く、船乗りとして鍛えている筋肉質な体格を見てテレビに視線を戻した。その時、テレビでは長々と御託を並べていた土井アナウンサーが絶叫した。
「あッ、第1報を伝える各局の記者が飛び出してきました」「無罪です。無罪判決が出ました」画面を見れば判る不要な解説をしている土井アナウンサーの横に駆け寄った記者が一気に捲し立てる。すると用意されていた「無罪判決!」と言う字幕が画面の下半分に表示された。
「この子はモリヤ家にとっても歴史的な日に生まれて来るんだな」「お父さんなら何て名前をつけるのかな。電話が通じないから訊けないけど・・・」淳之介は朝から何度も父の携帯電話に連絡しているのだが留守電になってしまうのだ。
て・モリヤあかりイメージ画像・陣痛の合間の笑顔
  1. 2019/05/27(月) 11:12:59|
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振り向けばイエスタディ1564(かなり実話です)

「本日、横浜地方裁判所で無罪の判決を受けました前潟啓一郎3佐と大岩智人3佐の記者会見を始めます」2人の記者会見は海上幕僚監部の会議室で行われた。壁際に2つ並べて置かれた会議用の長机の中央には先ほどまで被告人だった前潟3佐と大岩3佐が座り、向かって左に海上幕僚幹部の人事教育部長と同じく首席法務官、右に牧野弁護士と滝沢弁護士が座っている。
統合幕僚監部の首席法務官と私は前潟・大岩両夫人と一緒に首席法務室で防衛省が撮影している記者会見の模様をテレビで見ていた。本来は両夫人も海上幕僚監部で待機してもらうべきなのだが会見終了後は両3佐と両弁護士を交えて検察側が控訴した場合の対応を話し合うことになっているのだ。WACの陸曹がいれてきたコーヒーを飲んだ時、質問が始まった。
「A日新聞の宮本です。本日の無罪判決を受けて自分たちには何の落ち度もない。責任は全て死んだ漁民の親子にあると考えているのですか」イキナリ攻撃的な質問だ。A日新聞は海難審判が始まる前に「双方の位置関係から衝突回避の一義的な義務はイージス艦側にあった」と断定する社説を掲載し、自衛隊を糾弾するマスコミ報道を先導してきた。私であれば今日の判決でそれが誤報であったことが認定された責任を追及するところだが、そんな戦闘的反撃を文民=民間人である両弁護士に期待する方が間違っている。
「無罪判決が出たと言うことが全てです」しばらくの沈黙の後、前潟3佐が答えた。その瞬間に多くのストロボが連射され、前潟3佐の額ににじんだ汗を際立たせた。
「M日新聞の浅沼です。結局、弁護側が提出した航海図も証拠採用されなかった。つまり検察だけでなく弁護側の主張も事実ではなかったことになります。それでも元被告は『自分は無罪だ』と胸を張って言えますか」これも搦め手からの攻撃だ。マスコミは何としても失言を引き出して無罪判決に疑問を呈する記事を作りたいようだ。
「無罪判決が出たと言うことが全てです」今度は大岩3佐が同じ台詞を繰り返した。ここで滝沢弁護士がマイクに手を伸ばして電源を確かめた。
「只今の質問者は我が方の航海図が証拠採用されなかったことを検察側と同じであるかのように言っていましたが、裁判官は検察側に対しては恣意的な捏造と厳しく批判しており、我が方については合理的客観性が確保できていないため依拠できないと説明したのです。貴方も文筆を生業としているのならこの相違は理解できるでしょう」滝沢弁護士の反論に記者たちは顔を見合わせて手元の配られた資料に目を落とした。
「TBZの関口です。今回の裁判でも一部のマスコミによって自衛隊側に全責任があるかのような報道が繰り返されましたが、それについてどのように感じていますか」放送法で政治的中立を義務づけられているテレビ局の記者の質問だからと言って油断はできない。テレビでは出演者の表情と言う手段が言葉以上に世論を誘導する効果を上げるのだ。
「拘置所では自分たちの裁判に関する新聞記事も読むことができなかったので、どのような報道が行われていたのか知りません」今度は前潟3佐が答えた。前潟3佐は航海長と言うことだが、この回避の舵捌きは流石である。当てが外れたテレビ局の記者は肩をすくめて腰を下ろした。
「Y売新聞の川上です。事故が発生した直後、当時の岩場防衛大臣があまご側の責任を認めて謝罪しましたが、これをどう思いますか」保守系の新聞の記者からの質問も時には危険である。前潟3佐は大岩3佐に顔を近づけて小声で話し合った後、マイクに向かった。
「私個人の感想として述べさせてもらいます。あの発言を聞いた時、私はこの組織が自分や家族の命を預けるに足る組織なのかに不安を感じました。あの時、海上自衛隊は事実関係を調査中であり、我々は事情聴取でありのままを述べていました。それを承知していたはずの防衛大臣が部下よりもマスコミの報道を信じた。これは・・・」ここまでで前潟3佐は言葉に詰まってハンカチで目元を拭い、それを見ていた両夫人も涙を浮かべた。
「Y経新聞の若松です。航海図を捏造し、事情聴取の内容を歪曲してまで告訴した検察に言いたいことがあればお願います」続いて保守系の新聞の記者が質問するとハンカチをポケットに仕舞った前潟3佐は手で大岩3佐を制してマイクに向かい直した。おそらく防衛大学校の後輩である大岩3佐の前を遮り、1人で批判の矢面に立つ覚悟を決めたようだ。
「検察官は公判中、我々に何度も『謙虚になれ』と言いましたが、その言葉をそのまま返したいと思います」「つまり、検察は思い上がっていると言いたいのですね」記者の確認に前潟3佐は無反応に顔を背けた。
「MHKの宮崎です。自衛官の弁護士に質問したいんですが」「彼は所属長からマスコミに自衛隊に関する内容を発表する許可を得ていないので出席できません」私は無意識に腰を浮かしかけたが、人事教育部長が未確認の理由を説明して諦めさせてしまった。
  1. 2019/05/26(日) 10:38:31|
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5月26日・5.15事件の犠牲者・田中五郎巡査の命日

昭和7(1932)年の明日5月26日に5.15事件で首相官邸を襲撃した三上卓海軍中尉ほかの襲撃犯と銃撃戦になり重傷を負っていた田中五郎巡査が死亡しました。41歳でした。
戦後の日本映画では帝国陸軍の暗部を暴く作品は数多く制作されましたが、帝国海軍については何故か山本五十六大将を中心とする連合艦隊の活躍を描いていました。その一方で愚かな青年将校たちが荒木貞夫大将や真崎甚三郎大将などの皇道派の将官の扇動を鵜呑みにして起こした2.26事件については、事件後に山口陸軍閥の末裔である寺内寿一陸軍大臣が「クーデターや政府要人の暗殺の再発を防ぐために陸軍大臣は現場の代表者であるべきだ」と言う詭弁を弄して陸軍大臣は現役とする要求を押しつけた結果、陸軍が気に入らない政権には大臣を推薦しないことで瓦解させる手段を手に入れて軍国主義が加速した原因であるにも関わらず変に肯定的で、「純粋な青年将校たちが憂国の情に駆られて起こした」と同情的に当時の政権に批判的な描写が繰り返されてきました。
2.26事件はそのような多くの作品があるのに対して5.15事件については昭和33(1958)年に新東宝が公開した「重臣と青年将校・陸海軍流血史」の中で比較的詳しく描かれているくらいで、他の作品では拳銃を突きつけられた犬養毅首相が「話せば判る」と諭した瞬間に手が映っている青年将校が「問答無用」と叫んで発砲するだけです。そんな「陸海軍流血史」でも駆け込んでくる将校たちを首相官邸の玄関で制止しようとした警察官2名が射殺されていますが、実際はそのような状況ではありませんでした。
この日、首相官邸では午後5時27分頃に自動車2台で乗りつけた首謀者の三上中尉のほか海軍予備少尉と陸軍士官学校本科生3名が表門から、海軍中尉、海軍少尉、陸軍士官学校本科生2名が裏門から襲撃しており、先に表門から内部に踏み込んだ三上中尉以下が犬養首相を探していて日本間の洋式接客室にいた警視庁警衛課=総理の護衛と言うよりも首相官邸の警備担当の田中巡査と遭遇したのです。おそらく田中巡査も和式の建物の廊下を靴を履いたまま歩いてくる足音に非常事態を察して拳銃を抜いて構えていたはずですが、「見敵必殺」の軍人と「正当防衛」「緊急避難」「逃走防止」の警察官では発砲に至る手順が違うため先に銃弾を浴びてしまい、激痛に耐えながらの応射だったため襲撃犯に命中させることはできませんでした。逆に襲撃犯は首相を探すことを優先したため留めは刺さなかったようです。こうして犬養首相を発見した三上中尉は拳銃を突きつけながら問答を始めたのですが、そこに到着した裏門組の海軍中尉が「問答無用、射て」と大声で叫んだため遅れて入ってきた表門組の海軍少尉が左頭部に発砲、それを見た三上中尉が右頭部にも発砲して重傷を負わせました。亡くなったのは深夜になってからです。
襲撃犯たちは玄関から庭に出て引き上げたのですが、別室で銃声を聞いたもののサーベルと拳銃を控室に取りに行くことを避けて庭に潜んでいた平山八十松巡査が木刀で打ちかかったため表門と裏門組の海軍少尉が1発ずつ発砲して負傷させています。ただし、こちらは致命傷にはなりませんでした。何にしても職務に殉じた警察官に敬意を表します。
  1. 2019/05/25(土) 11:12:07|
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振り向けばイエスタディ1563

無罪判決を受ければ刑事訴訟法が定める身柄を拘留する理由が消滅するため被告人は即座に釈放される。裁判所としては一刻でも早く釈放しなければ不当拘留として賠償請求を受ける場合もあるので手続きを早急に進めるのだが、玄関前には報道陣がカメラを並べて待ち構えており、ロビーにも記者がたむろしているため3年ぶりの「生」の妻との再会を味わうことができない。
私自身も東京拘置所生活を送った前科者なので面会に訪れた佳織とガラス越しでしか会えない苦痛を味わっている。私たちはガラスに開いた穴にストローを差し込んで互いの吐息を吸う馬鹿な工夫で「生」の存在を確かめたが、常識的なこの若い夫婦はガラス1枚の厚さを無限の距離のように感じていたのだろう。
「時間はかからないと思いますが、こちらでお待ち下さい」公判が終了して傍聴席から出てきた首席法務官と前潟・大岩両夫人を我々は弁護人控室に招き入れた。夫人たちとしては夫が拘留された頃の首席法務官は同じ海上自衛隊の境1佐だったが、現在は1等陸佐に交代しているため多少の違和感を抱いているのが見て取れる。その前に迷彩服を着ている私は完全に別世界の人間だが、そこは始めからのつき合いなので勘弁してもらうしかない。
「これから2人には市ヶ谷での記者会見に臨んでもらわないといけません。官用車は手配してありますからご家族もご一緒にお越し下さい」控室では私がロビーの自動販売機で買ってきた缶コーヒーを配っている間に首席法務官が予定を説明した。弁護人の控室は裁判の担当者が開廷を待つため共同で使用する部屋なのでコーヒー・メーカーや冷蔵庫、ポットなどは置いていない。その点、検察官の控室は全員が地方検察庁の同僚なので少し違うかも知れない。
「ご存知ないとは思いますが私も2年間の拘置所生活を経験しておりましてご主人たちの気持ちは我が事のように理解できるつもりです。本来であれば我々は席を外して心の底から再会を味わっていただきたいのですが、今、外に出るとマスコミの取材を受ける可能性がありますからそれは夕方まで我慢して下さい」夫人たちはコーヒーを開けずに黙り込んでいるので私が話しかけた。裁判所では首席法務官の1佐よりも弁護人の2佐の方が立場は強くなる。そのため身分不相応に私が取り仕切ってしまった。
「失礼します。大変お待たせしました」そこでドアがノックされ、裁判所の係官が開けて入ってきた。後ろには前潟3佐と大岩3佐が立っている。私なら周囲を無視して佳織を抱き締めるところだがそこは折り目正しい海上自衛官の夫婦には節度がある。夫婦並んで首席法務官から順番に2人の弁護士に礼を言って回り始めた。
「モリヤ2佐、懸命に尽力していただき本当に有り難うございました」やはり私は最後だった。しかし、それは後回しにされたのではなく少し長話をするためのようだ。
「モリヤ2佐の弁論は自衛隊の立場や特殊性を具体的に説明していて聞いていて安心できました」「流石は自衛官の弁護人だと2人で話し合っていました」2人の過分の評価に奥さんたちもうなずいている。これが弁護士名利と言うものかも知れない。しかし、涙もろい私も目は潤んでこなかった。そこが職業上の他人事としての客観的な感覚なのだ。
「木田1佐、お迎えに上がりました」そこに仙台からの帰路の教官だった中央業務支援隊の1曹が顔を出した。ここから市ヶ谷までは人数的にはマイクロ・バスの人員輸送車1台で十分だが、首席法務官を団体扱いする訳にはいかない。何よりも自衛隊の車両は窓にスモークの目隠しを施していないのでカメラの砲列の集中砲火を浴びてしまう。そこで窓から離れて座ることができる業務車1号4台に分乗することになった。
「裏の駐車場にもマスコミは集っているんだろう」「はい、カメラを構えて待っています」首席法務官の確認に1曹は口調を重くして答えた。
「無罪放免なんですから堂々と胸を張って出ていけば良いんですよ」「最初に我々が出て報道陣に私人である奥さんの撮影は拒否すると申し入れましょう」私の強硬論に民事訴訟が専門の牧野弁護士が補足した。流石に専門家の戦術は高度だ。
「それではモリヤ2佐と弁護士の先生お二人が先頭車両と言うことですね」「ワシが助手席に座ろう」自衛隊の車両の席順には階級・身分の上下の序列がある。最上位者は運転手の後ろ(最も安全であり、乗降時に運転手がドアを開ける都合もある)、次級者はその隣り、最下位者が助手席だ。私の立候補を聞いて1曹は安堵したように首で会釈した。
「これから前潟3佐と大岩3佐が記者会見のため市ヶ谷に向かいます。取材はそちらでお願いします。なお、2人の隣りには夫人が座っていますが、夫人は私人であり容貌が識別できる顔の撮影は個人情報保護の観点から拒否します。違反者に対しては民事訴訟も準備しております」結局、強面の仕事は私の担当になったが、顔が坊主化していては迫力不足は否めない。
  1. 2019/05/25(土) 11:11:07|
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5月24日・「武運拙い」イギリス軍司令官・ウェーヴェル元帥の命日

1950年の5月24日は日本が第2次世界大戦に参戦した時のインド駐留イギリス軍の司令官だったアーチボルト・パーシヴァル・ウェーヴェル元帥の命日です。
日本人は参戦初頭、抵抗らしい抵抗も見せずに敗退し、シンガポールの降伏交渉で丸刈りの山下奉文中将の恫喝に品良く整髪したアーサー・アーネスト・パーシバル中将が見せた怯えたような表情に「やはり貴族に戦争の指揮はできない」と日本のお公家さんと重ねてしまいましたが、イギリスに限らずヨーロッパの貴族は日本で言えば武将に当たる騎士です。ただし、パーシバル中将は貴族出身ではなくアイルランドの独立暴徒の鎮圧で武勲を上げた根っからの軍人で、不慣れな行政官としての交渉に気後れしていたようです。
一方、ウェーヴェル元帥は1883年にイギリス陸軍の少将の長男として生まれ、当然のように上流階級の子弟が通うカレッジと王立陸軍士官学校に進み、1901年に王立ハイランド歩兵部隊に入隊して早々にイギリスがオランダとアフリカのガーナの領有を争った第2次ボーア戦争に参戦しました。そうして1911年には参謀大学に首席で入学すると参謀として軍暦を重ねることになりました。1914年から18年の第1次世界大戦にも出陣し、片目を失う重傷を負っています。こうした前線での負傷は軍人としては勲章以上の栄誉となり、その後は旅団長、師団長として勤務した後、1935年から1937年にはパレスチナで発生したアラブ人の暴動の鎮圧に当たりました。そして1939年7月末に保護国・エジプトのカイロに赴任して中東とアフリカ北部の地中海沿岸の支配地域を担当することになりましたが、1ヶ月後の9月1日に第2次世界大戦が開戦し、リビアを植民地とするイタリアと交戦状態に入ったのです。
ウェーヴェル将軍はイタリアの出方を注視していましたが、バトル・オブ・ブリテンによる国民の動揺を抑えるため戦勝を欲していたエドウィン・チャーチル首相が作戦に介入してきて結果的に現地部隊の戦略構想を混乱させました。イギリス軍がリビアを制圧するとナチス・ドイツが侵攻して名将中の名将・エドヴィン・ロンメル元帥の戦車軍団と対戦することになってしまいました。
結局、ウェーヴェル将軍は散々に敗北し、チャーチル首相によって解任されてインドに左遷されるとイギリスが劣勢に堕ちっていることで独立運動が激化しており、これを鎮めることに手一杯で何もできぬまま日本軍にも敗北したのですから「武運拙い」としか言いようがありません。実際、イギリス軍は北アフリカ戦線のナチス・ドイツ軍や東南アジアにおける日本軍との戦闘は後任のクルード・オーキンレック将軍の指揮によって劣勢を挽回していますから軍人としてはあまり有能ではなかったようです。
インドでは1943年1月に元帥に昇任し、7月に貴族に列せられ、続いて10月には総督に就任して軍人としてよりも行政官として働くことになりました。ここではインドの独立とヒンドゥー教のインド、イスラム教のパキスタンへの分離に道筋をつけたことで歴史に名前を刻みましたがイギリスにとっては敗戦処理に近く、本人も死に際して貴族・軍人の墓所ではなく母校のカレッジの構内に埋葬されることを遺言しました。
  1. 2019/05/24(金) 12:36:33|
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振り向けばイエスタディ1562(部分的に実話です)

裁判では首席法務官も傍聴人席に座ることになるが予約はなく、判決は取材の記者や被害者側の遺族などが殺到するため券を獲得することが難しい。今回は統合幕僚監部首席法務官室で勤務する陸曹3名が前夜から野営して首席法務官と両被告人の妻の券を確保した。
「モリヤ先生、今日は作業服で出廷されるんですか」地方裁判所のロビーで首席法務官と別れて弁護人の控室に入ると待っていた牧野弁護士が驚いたように声をかけてきた。
法廷での服装は戦前には「裁判所構成法」で定められた重々しい法服があったが戦後に廃止されており、現在は最高裁判所の「裁判官の制服に関する規則」に基づく黒いガウン式の法服を高等裁判所や地方裁判所の判事も着用することが一般的だ。したがって検事と弁護人の服装に関する規則はないので違反に問われることはないのだが、人の生殺与奪を争う公式の場に席を占める者としてはネクタイを着用するのが節度なのは判っている。
「私は災害派遣にも参加していますから公的にこの服装での勤務を命ぜられているんです」私の説明は半分建前だ。実際は自衛隊に災害派遣のイメージを強調したい本音もある。
「しかし、ニュース映像では被告人が入廷する前に判事と検事と我々が着席しているところが流れますから、その服装だと目立ちますよ」逆に視聴者にこの服装を注目させれば東北地方での自衛隊の活動を改めて認識させることもできる。過去の自衛隊の事故の裁判ではマスコミが一方的に自衛隊の原因と断定して扇動した批判的世論に法廷が引き摺られたのも確かだ。しかし、今回は自衛隊を悪者とする印象操作に対抗する実績を有している。利用できるものは全て利用するのが近代戦の基本なのだ。
「こう言っちゃあ何ですが、モリヤ先生はその服装が似合いませんね。坊さんの法衣の方がフィットしますよ」遅れてきた滝沢弁護士がイキナリ失礼なことを口にした。言われるまでもなく屋外での活動をしなり色が白くなるに従って顔が坊主化していることは私も自覚している。ただし、この2人には法衣どころか作務衣姿も見せたことがない。ここまで言われるのなら次の機会には法衣で出席しようと思ったが、法廷では裁判官の心証が最も重要だから宗教色を前面に出すのは避けた方が良い。
「これより開廷します」今日もスーツ姿の被告人2名が出廷して席に着くと裁判官が開廷を宣言した。傍聴人席では記者たちがメモ帳を構えてボールペンを立てる懐かしい光景が見られた。最近の記者会見では携帯電話で画像と音声を録画・送信することが一般化しており、メモを取ることがなくなったが、法廷内では携帯電話の電源を切らなければならないので若い記者も慣れないアナログな作業を実施することになる。
最上段の席の裁判官は法廷内の動きが鎮まって注目が自分に集中したのを確認すると白い紙を両手で広げて大きく息を吸った。それに合わせて隣りの弁護士2人は生唾を飲み、私は目を閉じて無我の境地に入った。
「主文、被告人・前潟啓一郎を無罪とする。被告人・大岩智人を無罪とする」裁判官が判決理由なしで判決を告げるのは無罪か死刑だけだ。今回の求刑は禁固2年だったので被告人の名前が出たところで私たちは安堵の溜息をついた。同時に数人の記者たちが立ち上がって外に掛け出した。裁判所の外の様子は見ていないが報道番組の定番である実況中継しているアナウンサーのところに記者が全力疾走で駆けより、「無罪です」と叫ぶ場面が始まるようだ。
「判決理由、本件は平成21年4月21日午前4時7分頃、千葉県南房総市野母崎沖の太平洋の北緯34度31分5秒、東経139度48分6秒で海上自衛隊自衛艦隊舞鶴基地所属の護衛艦・あまごと千葉県新勝浦市漁業協同組合所属のマグロはえ縄漁船・軽得丸が衝突し、軽得丸に乗っていた岸西(きしせい)丸夫と岸西節広が行方不明となり、同年5月20日に認定死亡したものである」ここまでは傍聴人も含めて関係者は熟知していることだがそれでも真剣に聞き入っている。続いて裁判の流れに従いそれを評価していく中で最大の争点だった航海図の信頼性になった。すると向かい側の席の検察官たちは身構えることもなく肩を落とした。
「検察側が本法廷に証拠として提出した航海図及び僚船の乗組員の供述調書は恣意的に捏造したことが明らかであり信用性は認められない。また弁護側が提出した航海図も合理的客観性を確保できておらず依拠できない。したがって両被告人には危険の予見に対する判断上の過失はあったとしても回避義務は軽得丸側にあり、あまご側には回避義務がなかった以上、被告人・前潟啓一郎の注意義務は認められず、それを前提としていた被告人・大岩智人の注意義務も生じない」ここで再び数人の記者たちが駈け出していった。まさか駆け寄りながら広げる「不当判決」と大書した紙は持っていないだろう。それを見送りながら被告人席に視線を向けると2人は座ったまま頭を下げた。
  1. 2019/05/24(金) 12:35:35|
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5月23日・「天皇機関説」美濃部達吉博士の命日

昭和23(1948)年の5月23日は大正元年に発表した「天皇機関説」で軍国主義の狂気が蔓延した25年後に徹底的な弾圧を受けた美濃部達吉博士の命日です。
美濃部博士と言うと軍部の弾圧を受けたことと長男の美濃部亮吉都知事が東京都を大衆迎合と役人天国に堕落させたことで反体制の学者と思われがちですが全く違います。
美濃部博士は明治6(1873)年に現在の兵庫県高砂市の漢方医の次男として生まれました。明治以降も各地方は優秀な人材を東京に送って同様に全国から集まって来る俊英たちと切磋琢磨させていましたが、美濃部さんも東京に出て第1高等学校に進み、明治27(1894)年には東京帝国大学法科大学で政治学を専攻しました。明治30(1897)年に大学を修了すると高等文官試験の行政官に合格したため内務省に入省し、明治32(1989)年からドイツ、フランス、イギリスに留学します。
明治33(1900)年に帰国すると東京高等商業学校(現在の一橋大学)の教壇に立ち、続いて東京帝国大学の比較法制史の助教授、2年後には教授になって日本の法学を発展させた多くの人材を育成しました。こうして法学者としての地位を確立していた大正元(1912)年に発表した「憲法講話」でドイツの公法学者のゲオルク・イェリネック博士が提唱した「君主は国家における1つの、かつ最高の機関である」とする学説を大日本帝国に当てはめて解釈した統治機構論としての「天皇機関説」を発表しました。これを受けて天皇を唯一絶対の国家そのものの存在とする「天皇主権説」を提唱していた東京帝国大学法科大学の学長と論戦になり、それを通じて皇室や政治家、官僚たちの間でも主権説ではなく美濃部博士の統治機構の一部とする認識が定着して当時10歳代前半だった昭和の陛下も成長の過程で学習されたようです。
ところが昭和5(1930)年のロンドン海軍軍縮会議に強硬に反対する帝国海軍の艦隊派が「軍備の決定も天皇の統帥権に属し、政府が関与することは干犯に当たる」と言う詭弁を弄すと海軍と同時進行に軍縮を強要された帝国陸軍や軍備拡張による大陸進出を主張する右翼がこれに同調して大正デモクラシーを打ち消す不穏な空気が充満していく中、美濃部博士は「兵力量は統帥権の範囲外であり、予算を執行する政府に決定権がある」と理路整然と条約を推進する側を擁護したため軍部や右翼の憎悪の的になってしまいました。
昭和9(1934)年になると前年に政権を握ったアドルフ・ヒトラー首相がユダヤ人であったイェリネック博士の学説を否定したため、ナチス・ドイツに傾倒する帝国陸軍も盲従し、これを基礎とする美濃部博士の「天皇機関説」を攻撃し始めたのです。この時、昭和の陛下は美濃部博士の学説を正論と認め、学識を絶賛しましたが「尊皇攘夷」は表看板に過ぎない軍国主義者にとってこそ天皇は機関であり、翌年には全ての著書が発禁処分になり、貴族議員を辞職した上、不敬罪の疑いで特別高等警察の取り調べを受けました。
敗戦後は占領軍から新憲法を起草する憲法問題調査会の顧問に任命されましたが、武力紛争関係法の規定に基づき「占領軍には国家の根本規範を改定する権限はない」と新憲法に反対する立場を取り、これが日本国憲法を否定する右派勢力の論拠になっています。
  1. 2019/05/23(木) 11:44:03|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ1561

「貴方、お腹が痛い」5月11日の朝、食事の支度のために起き上ったあかりが寝ている淳之介に声をかけた。淳之介は5月8日の日曜日の勤務を終えて9日の午後に那覇へ来た。そうして翌10日の清明(シーミー)祭を済ませた夜には職場の先輩たちの助言を実行した。勿論、「久しぶりだから」と言って激しく抱くような人間ではなく本当にチョンチョンと突っつく程度だったが、我が子を刺激したのは確かだったようだ。淳之介が目覚めてカーテン越しの朝の淡い光で眺めていた幸せそうな寝顔は歪み、額には汗が噴き出て母親自身の生みの苦しみに耐える女の闘いの開始を告げている。
「陣痛だな、大丈夫か、落ち着け」一瞬にして目を覚ました淳之介は布団の上でうずくまっているあかりの背中を支えて横向きに寝かせると腰をさすり始めた。
「あッ、破水した・・・」あかりが股間に手を伸ばしたのを目で追うとネグリジェの下半身が濡れているのが判った。布団には夜尿用のシートが敷いてあるから大丈夫だ。
「あかり、来たねェ」すると淳之介の大声を聞いた祖母が寝室の戸を開けて顔を出した。続いて母の梢も廊下を駆けてきた。祖父は出遅れたができることはない。
「始めはすぐに収まるさァ。これから回数が増えて間隔が短くなっていくんだよ。これからが大変だから覚悟しなさい」やはり梢は冷静に助言する。あかりも病院で説明を受けているので「スースー、ハーハー」と声を出して呼吸しながらうなずいた。
「それにしても親孝行な息子さァ。お父さんが来るのを待っていたのさァ」祖母は生まれてくるのは男の子と決めている。那覇に来たあかりが伯父の恵昇との対話で「腹に宿って生まれてくる」と告げられたことを信じているのだ。しかし、日本史では武将の生まれ替わりの姫は珍しくないので前世の性別と一致するとは限らない。
「陣痛が収まったら朝ご飯を食べなさい。これから体力を使うんだからね」あかりの陣痛が収まってきたのを見て梢が声をかけた。この常に冷静な母は本当に頼りになる。
判決の朝、私は首席法務官の官用車に同乗して横浜地方裁判所に向かうことになった。統合幕僚監部首席法務官は1佐職なので官用車は将官用の黒塗りのクラウンやセドリックではなく業務車1号になる。同じ1佐でも駐屯地司令なら黒塗りになるがそこは仕方ない。
「モリヤ2佐、先日は楽しかったです」今日のドライバーは仙台からの帰路に公私混同につき合わせた中央業務支援隊のWACの3曹だった。WACは官用車のドライバーとしては珍しく首席法務官と軽く雑談を交わした後に声をかけてきた。これも判決に向かう我々の緊張感を和らげるための配慮かも知れない。
「君の技量確認できて安心したよ。君は健軍の西方支援隊から来たんだったよな」首席法務官の前で公私混同を持ち出されては困る私は話題をWAC個人に向ける予防線を張った。
「西方支援隊が那覇に輸送業務隊を作るための人事異動に便乗して憧れの都会に出てこられました」若い世代は1佐、2佐と言う高級幹部に対しても職場の上司以上の感覚は持ち合わせていないようで何の屈託なく自己紹介をしてくれた。
「そうかァ、おてもやんか」すると九州男児の首席法務官が反応した。九州人は地域間の対抗意識が強烈で横に3人が横一線に並んでいて1人が1歩踏み出すと次は2歩、3人目は5歩前に出ると言われている。中でも熊本は1人が前に踏み出すと次は横、3人目は後退りするへそ曲がりが多いと言う。余談ながら鹿児島は1人が1歩踏み出すと残りの2人は「チェスト―」と叫びながら駈け出し、逆に宮崎は3人とも「ヨダキー(面倒臭い)」と言って動かないそうだ。それでも東京に出てくれば九州人の一括りで同郷人になるらしい。
「はい、火の国・熊本の女です」WACの答えに首席法務官は妙に嬉しそうな顔でうなずいた。
「ところでモリヤ2佐の奥さまはWACだとか」「うん、よく知っているね」「1佐なんでしょう」今回は私の方からWACの自己紹介を仕掛けたのだが、返り討ちのように個人情報の告白になってしまった。それにしても本当に遠慮がない。
「1佐のWACなんて憧れてしまいます。市ヶ谷の来られることはないですか。是非、お会いしてお話ししてみたいです」この調子では面会と言うよりも官用車に乗せての対話を期待しているようだ。その意味では女性タクシー・ドライバーとしての適性がある。
「西方にも優秀なWACの輸送幹部がいたんですが私が配属されてすぐに行方不明になってしまってガッカリしました」この話は佳織から聞いたことがある。ハワイで行われた指揮所演習・ヤマサクラに参加していた本間郁子3佐と親しくなり、帰国後に連絡すると行方不明になっていたと言う。何にしても緊張や退屈することもなく法廷に出陣することができた。御褒美に佳織との対面を実現させてやろう。
  1. 2019/05/23(木) 11:42:49|
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5月23日・映画「俺たちに明日はない」のラスト・シーンが実演された。

1934年の明日5月23日に1967年初公開の映画「俺たちに明日はない(原題はBonne and Clyde)」でフェイ・ダナウェイとウォ―レン・ベイティがカップルを演じたアメリカの男女ギャングのボニー・バーカーさんとクライド・バロウさんが映画そのままに警官隊の銃撃で蜂の巣になって死亡しました。
ボニーさんは1910年にテキサス州で両親と5人兄弟姉妹の1人として生まれましたが、4歳の時に父親が病死したため実家があるダラス市でも治安が悪いセメントシティ(現在は流通拠点とオフィス・ビルが立ち並んでいる)に転居してここで育ちました。学校での成績は良かったものの逆上すると暴力を揮うことも多く、日本で言う女バンのような存在だったようです。16歳の時、同級生の不良と結婚し、18歳からはカフェのウェイトレスとして働き始めましたが、気風が良く働き者で美人だったこともあり客の人気を集めていたと言われています。ところが翌年、夫が銀行強盗で逮捕されて服役したため籍は抜かなかったものの事実上は独身になってしまい、20歳の時にすでに悪名が知れ渡っていたクライドくんと出会ってしましました。
そのクライドくんは1909年にダラス近郊のテリコの貧しい農家の8人兄弟姉妹の6番目として生まれました。両親が忙しかったため家事と育児は姉が担当しており、躾らしい躾けも受けないまま育ったため、幼い頃から動物虐待などの粗暴行為や学校をさぼって遊ぶ不良少年だったようです。17歳の時、兄が所属していたギャング団に入り、クリスマス前の七面鳥泥棒を皮切りに自動車窃盗から強盗へと犯罪者として成長して行きました。それでも家族は奪ってくる金品に喜び、犯罪を非難する者はいなかったようです。
2人が出会った直後にクライドくんは逮捕されて2年間服役しましたが、仮出所後は即座に悪事を再開し、ボニーさんと共に仲間を集めてギャン団の頭目になって行きました。その中にはクライドくんの兄夫婦も入っていました。
2人の犯行は繁盛している高級店にクライドくんが押し入り、店主に暴行を加えて多くの場合は殺害し、ボニーさんが店の前に横付けにして待っている車に乗って逃走し、州境を越えると言うものでした。当時は全米に捜査権と逮捕権を有する連邦警察=FBIは設立されておらず(司法省内に連邦捜査局はあったが担当範囲は全米規模の政治犯罪などに限定されていた)、州境を越えてしまえば犯罪は追いかけてこなかったのです。
ちなみに2人に愛車は映画でも描かれていた当時の乗用車としては最速のフォードV8で、パトロールカーでは追いつけなかったと言われています。
しかし、警察は他の州と連携して2人のギャング団を追うようになり、次々と逮捕者が出て最後は2人で逃走することになったのですが、その情報を入手したルイジアナ州の警察がテキサス州の特殊部隊と共同で人気のない道路脇の薮の中に潜んで待ち伏せし、農夫に変装した警察官が停車させたところを機関銃で150発以上の銃弾を浴びせたのです。
2人は裕福な商人だけを狙ったことで禁酒法と大恐慌の後遺症で鬱屈していた貧困層から英雄視され、30余年後に映画になると人気作品として再上映され続けたようです。
  1. 2019/05/22(水) 11:40:38|
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振り向けばイエスタディ1560

北部方面隊が曹侯補士を一律に退職させようとしている不当人事や被災地で地方自治体を標的とした一部マスコミや弁護士の動向を関係省庁に警鐘するなどやるべき手土産を山ほど抱えて東京に戻ったが、陸上幕僚監部の方でも私に確認・指導したい件が山積みだったらしい。その前に5月11日の判決に向けての事前会議に忙殺されてしまった。
「モリヤさん、お疲れさまでした」統合任務部隊司令部への派遣の解除と統合幕僚監部首席法務官室への臨時勤務復帰に関する申告が終わって牧野弁護士と滝沢弁護士に再会すると現地報告を待っていたような顔で出迎えられた。先ずは首席法務官室付のWACの陸曹が入れてきたコーヒーをすすったが、東北では停電のためコーヒーは常温の缶コーヒーだったので舌と胃に染みわたる心持ちがした。
「私もテレビでは見ていますが、やはり現地は悲惨な状況なんでしょう」牧野弁護士が特徴的な太い眉と大きな目で深刻な顔を作って質問してきたがそれでも弱い。
「テレビは東京の視聴者への影響を考えて悲惨な場面は避けて撮影しているようですが、実際は見渡す限りの風景が廃墟にもならない残骸の荒野と化しているんです」私は説明しながらアタッシュケースから現地で撮影してきた写真を取り出して2人に見せた。そこには1ヶ月近く倒壊した家屋の下敷きになっていた遺骸も映っている。これには裁判で被害者の悲惨な証拠写真を見慣れているはずの弁護士2人は顔を硬直させて生唾を飲み込んだ。
「テレビでは仙台市や石巻市の津波被害を紹介していましたがあれ以上なんですか」「はい、岩手県三陸のリアス式海岸の地域を襲った津波は比べ物にならない波高で、流速と水圧も凄絶でしたから特別な覚悟がなければ見せる訳には行きません」しかし、被災者たちの眼前では何の覚悟もないまま平穏な日常風景が地震から1時間を経ずに凄絶な地獄絵図に一転したのだ。
「ところで今回の派遣の目的だったマスコミと弁護士の反自衛隊訴訟の扇動はどうだった」ここで首席法務官が話を変えた。この派遣理由は両弁護士には概略しか説明していなかったようで困惑した顔で私を見た。
「現地でもマスコミ関係者と弁護士が避難所に乗り込んで災害派遣部隊の撤去作業の不備を問題化して被災者に賠償請求訴訟を起こすように説得していましたが、大半の東北の人たちは素直に感謝の気持ちを抱いているので問題化されることを自衛隊に申し訳ないと言っていました」私の説明に首席法務官は安堵したようにうなずいた。
「こんな言い方は不謹慎なようだが今回の大震災が東北で起こったことは幸いだったな。これが関東で起こっていれば政府や自治体の対応の問題点が不満に直結してマスコミの扇動は油どころかガソリンになって大炎上するはずだ。それが暴動に発展すれば自衛隊は災害派遣と治安出動の二正面作戦を実施しなければならなくなる。その活動に対する不満まで連動させられては治安の維持すら不可能になったはずだ」「今の政権ではお手上げですな。東北だったから大災害にも落ち着いて耐え忍んでくれているんですよ」首席法務官の見解を滝沢弁護士も肯定した。しかし、私は阪神大震災も経験しているが、革新系の神戸市長が自治労や県教組の職員と教師を指揮して公然と妨害活動を展開しても住民たちは自衛隊を信頼して協力していた。だから関東で同じ事態が発生しても不正入国している外国人と左傾マスコミの扇動、何よりも革新色が強い自治体の動向にだけ注意すれば同様の対応ができるのではないかと考えている。すると牧野弁護士が表情を硬くして口を開いた。
「今の見解はこの4人で語るから真意を理解されますが、最近は携帯電話に録画・録音してインターネットに投稿することが簡単にできるようになりましたから気をつけて下さい。それをマスコミが取り上げれば自衛隊幹部の問題発言として悪意を以って報道されてしまいます」私と同感なのかと思いきやもっと現実的な視点からの注意だった。確かに私のような野放図な、「元へ」野坊主な人間には住みにくい時代になったものだ。下手すれば本人が知らないだけで仙台市や石巻市での石地蔵の画像が東京では問題になっていたのかも知れない。
「何にしても世論が自衛隊の活動に肯定的になっていれば裁判に対するマスコミの常套手段も行使し難くなるのは確かだ」雑談が長くなったので首席法務官が本題を始めた。
「雫石、なだしおの二の舞、三の舞だけは避けなければなりません」私の決意表明も前任の1等海佐であれば反応したはずだが今度の1等陸佐は無表情なままだ。
「あの2つは裁判が始まる前に自衛隊側が責任を認めてしまったことが失策でした」「今回も岩場が認めたぞ」続く見解には何故か政治的に反応した。石場とは事故発生直後にマスコミの前で謝罪した岩場登防衛大臣のことだ。この首席法務官は北九州市が創立した地方公立大学の出身だけに学力の水準は私が中退した私立大学と大差がないような気がしてくる。
  1. 2019/05/22(水) 11:39:41|
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振り向けばイエスタディ1559

「ここが松尾芭蕉の奥の細道に出てくる最上川の下船場だよ」新庄市から戸沢村までは最上川の急流が山肌を切り崩した断崖絶壁が迫り、道路は岩肌を掘削して川側だけが開いた半トンネルが続いている。それを抜けたところが戸沢村の入り口で川下りの下船場でもある。ここから先は炬燵に入って周囲の絶景を楽しむガラス張りの観光船になるが、まだ乗ったことはない。
「松尾芭蕉と言えば『五月雨を 集めて流し 最上川』ですね」1曹は顔見知りで同世代だけに前回の3尉よりも話が弾む。この句が出れば私の答えは決まっている。
「ワシは芭蕉の句よりも子規の方が好きだな」「へーッ、どんな句ですか」「ずんずんと 夏を流すや 最上川」この句を聞いて1曹は呆気に取られ、WACは噴き出した。松尾芭蕉が山形県を詠んだ句としては山寺の「閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声」の方が評価は高いようなので、この句が若い女性に受けるのなら正岡子規で売り出す方が得策ではないか。
「見送りに来ていた2曹も言ってましたけど、モリヤ2佐と話していると色々な知識を与えてもらえるから飽きないし、本当に勉強になります」このドライバーのWACは初めて同行するのだが数時間の道中で私の雑学を満喫してくれたらしい。1曹も笑ってうなずいているところを見ると私も小難しい雑学を楽しく聴かせる話術が身についてきたのかも知れない。尤も、私の雑学を嫌ったのは知的好奇心を持たない美恵子とモリヤの家族だけだ。                                  
「申し訳ないが次の集落で親戚の家に寄らせてくれ。大震災の被害状況を確認したいんだ」「はい、伺っています。あそこに見えてきた集落ですね」雑談に夢中になっていると公私混同で寄り道する目的地を通り過ぎてしまう。私の確認にWACが返事をした。座席の間から前方を見ると最上川沿いの国道の大きなカーブの先に縦に住宅が並んだ集落が見えてきた。その一番入り口が前回寄った庄司永(ながし)さんの家だ。
「こんにちは」旧街道と思われる集落の道路に業務車1号を停めて私は1メートル半ほどかさ上げしてある石段を登り、永さんの家の玄関の前に立って声をかけた。待っている間に庭を見回すと池の中では色とりどりの小鯉が泳いでおり、地震の被害は受けていないようだ。
「はい、どなたですか」しばらくして中から女性の声がした。世代から言えば薫さんの奥さんらしい。先ほど1階の居間のカーテンが動いたからこちらを確認したはずだ。
「東京のモリヤです。永さんか薫さんは御在宅ですか」大声で説明すると奥さんはドアを開け、無愛想な顔を見せた。前回、訪ねた時、薫さんは奥さんのことを「人見知りする」と言っていたが、まだ知り合いにしてもらえていないのが判った。
「主人は農協の仕事に出ています。両親は寺の片づけに行っています」「大林寺ですか」「はい、そうです」永さんの菩提寺である大林寺には前回、案内されて参っている。歩いて3分、集落の横を流れる小川の対岸だ。そこで私は業務車1号の2人に手短に説明して大林寺に向かった。
大林寺では高齢の檀家たちが手分けして倒れた石塔を起こし、ずれた石畳をはがして並べ直し、破損した壁の上にベニヤ板を張っていた。豪雪地帯だけに屋根はトタンなので瓦が堕ちる被害はないようだ。庫裏や本堂の中では女性たちが掃除をしているのが窓越しに見える。私が近づくと手前で石畳を直している男性が立ち上がって声をかけてきた。
「自衛隊さんが被害の確認かね」状況判断としては適切な推理だ。素人が被害復旧に励んでいる準・公共施設に迷彩服姿の自衛官が現れれば災害派遣の御用聞きに見えても仕方ない。
「庄司永さんの親戚の者ですが」「角永(かどえい)さんかね」男性は久さんの屋号紋で答えた。山形では家紋とは別に各家に屋号紋があり、門柱や玄関、戸袋や屋根、特に墓石の正面に刻んである。久さんの屋号紋は直角に交わった直線の中に永の文字なのだ。
「角永さん、親戚の自衛隊さんが来てるぞ」男性が境内で作業をしている人たちに声をかけた。すると80歳を過ぎているとは思えない早足で永さんが歩いてきた。私が挙手の敬礼をすると立ち止って丁寧に頭を下げた。
「あれーモリヤ2佐だどれー。よくござってけだなっす」永さんは私の階級を自衛隊式に憶えていた。流石は元教師だけに頭脳も衰えていない。
「今日は災害派遣から東京に戻る途中で寄らせていただきました。大事ありませんか」自宅は先ほど確認してきたが、挨拶の手順として確認した。
「おかげさまで家族と家は無事でした。寺は無住で手が行き届いてない分、被害を受けて・・・」そこまで言って永さんが振り返ったので見回すと全員が手を止めてこちらを見ていた。
「4年後に私が退役したら入りましょうか。宗派が違いますから管理人としてですが」私の冗談に永さんは真顔でうなずいた。大林寺は曹洞宗だから書類上は所属しているが坊主としては捨てている。それにしても定年後はハワイに移住する予定を忘れていた。
  1. 2019/05/21(火) 11:55:58|
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振り向けばイエスタディ1558

今年は休むことができそうもない大型連休を前に私も東京に戻ることになった。それは東北地方の被災地での法律上の問題やマスコミによる反自衛隊訴訟の扇動が終息したことだけではない。震災直後に東北地方南部の近海で救援活動を実施したアメリカ海軍の艦艇の乗務員の中で「福島原発から漏洩した放射能を浴びた」と訴える声が上がり、訴訟に発展するのが確実視されているため、彼ら以上に至近距離で原子炉の冷却作業を遂行している自衛隊員にも同様の動きが出ないように情報収集と相談窓口になることを命じられたのだ。
帰路も定期的に東京から資料や物品を運んでくる中央業務支援隊の業務車1号だが、今回のドライバーは初対面のWACの3曹で顔見知りの1曹が教官として同行してきている。
「色々とお世話になったね。人使いが荒くて申し訳なかったな」出発は事情があって早朝だったが、こちらで専属ドライバーになってくれた宮城県地方協力本部の足立2曹が見送りにきた。
「モリヤ2佐のおかげで宗教と法律の知識が数十倍になりました」確かに佛法・務幹部の私とつき合っていれば話題は宗教と法律の話題ばかりだから耳にタコができた分、頭にも溜まったはずだ。携帯電話の番号を記した名刺を渡しているのでこれからも補習はできる。
「心霊体験ができたのは良かったのか悪かったのか判りません」石巻市での恐怖体験を思い出したのか足立2曹が真剣に悩んだ顔をしているので置き土産を伝授することにした。
「無視してもつきまとって困る時には不動明王の真言を唱えなさい。ノウマクサンマンダー、バーザラダン、センダーマーカロシャーダ―、ソワタヤー、ウンタラター、カンマンだよ」「幽霊は無視しろ」と言うのは陸前高田で茶山元3佐に伝えた助言だが、その後も足立2曹は行く先々で幽霊を見て怯えていた。やはり無視するのは難しいようだ。一方、私も隣りで同じ幽霊と対面していたのだが、こちらは宗旨を聞いて供養を勤めていた。私にとって幽霊は祖父の寺で小坊主をしていた頃から「いる者はいる」と言う存在なので特に恐怖は感じていない。
「それって映画なんかで山伏が唱えている呪文ですよね。一度では憶えられませんからメモして下さい」足立2曹の真剣な要望に隣りで待っている1曹とWACも興味を持ったようで私が業務車1号のボンネットで名刺の裏に平仮名で真言を記しているのを覗きこんだ。
「これで大丈夫です。ノウマクサンマンダー、バーザラダン、センダ―・・・」私からメモを受け取った足立2曹がいきなり真言の練習を始めたので1曹とWACは顔を見合わせた。
「不動明王の真言は災厄除けの功徳もあるからメモなしでも唱えられるように暗記しなさい。それじゃあな」私が声をかけて後席に乗り込むと足立2曹は慌てて姿勢を正し、敬礼をした。
島田元准尉は仙台FMでの「昭和・歌のアルバム」の最後には自衛隊も見送りの時に唄っている文部省唱歌「遠別離(とおべつり)」を肉声で熱唱していたから私も真似することにした。
「程遠からぬ旅だにも 袂(たもと)分かつは憂きものを 千里(ちり)の波路(なみじ)を隔つべき 今日の別れを如何にせむ・・・我れも益荒夫(ますらお)いたずらに 袖は濡らさじさは言えど いざ勇ましく行(ゆ)けや君 行きて努めよ国のため」振り返って見ていると足立2曹が手を振り続けているので2番まで唄ってしまった。
「モリヤ2佐、先ほどの呪文ですが・・・」駐屯地を出て間もなく1曹が振り返って声をかけてきた。ルーム・ミラーを見るとWACもこちらを見ている。今回は東北地方への別ルート開拓と転入したドライバーの慣熟訓練との名目を付けて国道4号線で北に向かい大崎市経由で山形県の尾花沢市に入り、新庄市から最上郡戸沢村を通過する予定だ。勿論、これが公私混同なのは言うまでもないが、高速道路を使わないので余計にかかる燃料代と相殺できるはずだ。
「あれは不動明王の真言でね。彼が幽霊を見るようになったから除霊のために教えたんだよ」「やっぱり被災地では幽霊が出るんですか」1曹は振り返ったまま動かなくなった。ルーム・ミラーのWACの目も固定されているので後ろから座席の頭部を叩いて注意した。
「結局、公的機関が慰霊を勤めないで放置しから震災直後に浮遊霊になってしまった犠牲者たちの魂魄が往生できないままになっているんだ。被災地で野営していると夜には幽霊たちが団体さんでやってくるぞ」「キャーッ」WACが前を見たまま悲鳴を上げた。この世代はマスコミがノストラダムスの大予言が外れた1999年7の月以降は一斉にオカルトから手を引いたため心霊現象などに興味がないと思っていたが、やはり反応はするらしい。
「それであの呪文を唱えれば幽霊が消えるんですか」「言葉だけじゃあなくて念がこもらないと神通力は発揮されないな。しかし、業務車1号は戦時の霊柩車じゃあないのか。知り合いの葬儀屋は遠方で死んだ人を深夜に霊柩車で運んでいると後ろから声をかけられるって言っていたよ」「△△ッ・・・」今度はWACは悲鳴も上がられなかった。どうしても話題がオカルトに向かってしまうのはやはり私が佛法・務幹部だからなのだろう。
  1. 2019/05/20(月) 11:34:03|
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5月20日・帝国海軍の撃墜王・岩本徹三少尉の命日

昭和30(1955)年の明日5月20日は帝国海軍の撃墜王・岩本徹三少尉(敗戦後に中尉に特別昇任している)の命日です。
現代人は軍事オタク・戦史マニアであっても帝国海軍の撃墜王と言えば「大空のサムライ」で自ら売り出した坂井三郎少尉(同前)だと思いがちですが、実際は負傷して戦線離脱していたため撃墜数は自己申告でも64機であり、自己申告で202機、僚機の証言で裏付けられた公式記録でも80機以上とされている岩本徹三少尉には遠く及びません。一方、帝国陸軍の撃墜王は公式記録76機、控え目な性格のため自己申告が30機の上坊良太郎大尉(敗戦前の正規の昇任)です。
岩本少尉は大正5(1916)年に樺太の国境近くで警察官の3男1女の3男として生まれました。13歳の時に父親が退役して故郷の島根県益田市に戻ったためこちらで成長しました。地元の農業学校を卒業する際、父親から「3男のお前も大学に行かせるから卒業後は家を継いでくれ」と頼まれたものの黙って海軍予科練習生を受験し、昭和9(1934)年に合格して入営すると航空科を志望して霞ヶ浦航空隊に入隊しました。
霞ヶ浦を卒業して昭和12(1937)年8月に支那事変が勃発して南京に赴任すると昭和13(1938)年2月25日の南昌空襲に直援3番機として初陣を飾り、撃墜×4、未確認×1と言う戦果を揚げました。その後は大陸戦線で帝国陸海軍最多の撃墜×14と言う活躍の後、空母乗り組みになって瑞鶴で真珠湾作戦に参加し、インド洋作戦では哨戒飛行艇を撃墜しています。続く史上初の空母決戦となった珊瑚海海戦では空母艦隊の護衛機としてアメリカ海軍の艦載爆撃機や雷撃機を撃退しましたが司令官・井上成美中将の優柔不断な指揮のため戦果は上がらず、次のミッドウェイ作戦の時には瑞鶴は同時進行で実施されたアリューシャン列島攻略作戦の護衛の任務だったため壮絶な空母決戦に臨むことはありませんでした。昭和18(1943)年11月にはラバウルに配属され、いよいよ撃墜数の量産が始まりました。坂井兵曹長は自己中心的性格で単機での決闘を追い求めたため仲間から嫌われていましたが、岩本兵曹長の飛行方法と戦術は編隊で編隊に対戦するために敵機の早期発見を重視し(「プロペラの太陽光の反射を探す」と言っていた)、発見後は編隊を有利な位置に誘導して損害を少なく戦果を大きくすることに努めました。
勿論、単機での技能は無敵であり、中でも先に僚機に攻撃させて編隊を乱した敵機を逃さず撃墜する戦法は効果絶大でしたが、惜しむらくは達人の域にあった岩本兵曹長だから為せる神技だったため同僚に伝授することはできなかったようです。
そうして敗戦まで撃墜数を積み重ねていきましたが、フィリピンに配属されていた時に初めて実施された神風(しんぷう)特別攻撃隊については「生きて戦うのが戦闘機乗りの使命」と拒否しています。また救命胴衣の背中には階級と氏名ではなく「零戦虎鉄(虎鉄は近藤勇の愛刀)」「天下の浪人」などと書いていたそうです。
敗戦後は「ラバウルの英雄」として紹介されたニュース映画を見ていた益田市の女性と見合い結婚しましたが地上での生活には適応できず、苦労の末にようやく落ち着いた生活を営み始めた頃、盲腸炎を腸炎と誤診されたことで手遅れになり7歳と5歳の子を残して亡くなりました。38歳でした。
  1. 2019/05/19(日) 13:22:44|
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振り向けばイエスタディ1557

島田元准尉の「昭和一郎の昭和・歌のアルバム」は3週間で終了ではなくDJが交代になった。始めは震災で亡くなった人たちが好きだった昭和の歌を流す追悼番組のようだったが、次第に避難所生活をしている被災者たちの思い出の歌の要望が増え、今では幼い日から青春、就職、恋愛、結婚、出産、育児、我が子の旅立ち、そして定年に至る人生の要所要所で口ずさんでいた歌で綴る昭和史の回想番組として絶大な支持を集めている。そのため仙台FMのベテラン・アナウンサーの和泉正孝が昭和次郎と名乗り、番組を引き継ぐことになったのだ。
「結局、最後までお願いすることになったのは最長老の昭和一郎さんでしたね」小会議室で番組のタイム・スケジュール表作成に付き合っている和泉はねぎらうように声をかけてきた。和泉は島田元准尉が可児市から持ってきた昭和の歌謡史に関する資料をまとめたバインダーを全てコピーしており、それを開いて番組で紹介する裏話を考える手順を確認していた。
「それは私が仕事を持たない隠居親父だからでしょう。若い人たちは仕事の合間のDJ課業だから職を失ってまで奉仕活動を続けることはできませんよ」島田元准尉の返事に和泉もうなずいた。和泉はアナウンサーとしては最古参で、仙台FMは世帯が小さいので肩書はないが大手放送局であれば「アナウンス部長」と呼ばれているはずだ。今回、昭和一郎の番組を引き継ぐことにしたのも職業人としての使命感と興味があったからだが、これまでの仕事が減る訳ではなく負担が大きいのも事実だ。
「他の皆さんは地元出身の歌手の曲を中心にローカル色を前面に押し出した郷土自慢の番組でしたから昭和一郎さんも選曲するのに遠慮していましたよね」「確かに多少は気を使っていましたが年代が違うからね」今回のボランティア番組に参加した各局のDJたちは旭川の雪うさぎは松山千春や中島みゆき、北島三郎などの北海道出身の歌手の持ち歌や北海道を唄った曲を使い、盛岡の石川賢治は東北人の千昌夫や吉幾三、佐藤宗幸、熊本の水前寺亜紀は福岡から鹿児島までの九州出身者は自分の占有物にしていた。その点、宮古島のハイサン兄さんは沖縄での番組の明るく賑やかな空気をそのまま持ち込んでいた。そんな中、雪うさぎが宇多田ヒカルの曲を使った時、「母の藤圭子は北海道出身」と紹介したため石川賢治が自分の番組で「岩手県一関市出身」と訂正して一悶着になった。結局、昭和一郎が「旅芸人だった両親が岩手県一関市での公演中に生まれ、そのまま北海道に渡って育った」と説明して決着がついたが、その時は藤圭子の「女のブルース」を流した。
「和泉さんは昭和20年代の生まれですよね」「はい、団塊の世代の昭和27年生まれです」正確には境屋太一氏の造語である「団塊の世代」は敗戦直後に帰還した兵士たちが子作りに励んだ昭和22年から24年生まれの第1次ベビー・ブーム世代を指すのだが、最近は戦後の混乱の中で粗製乱造された人たちを一括して呼称することが多い。
「そうなると戦前の歌はあまり詳しくないでしょう」「いいえ、三世代同居の家で育ちましたから祖父母や両親がかけていたレコードや懐メロ番組で耳にはしています」和泉の説明に島田元准尉は難しい顔をして溜息をついた。
「リクエストされた音源を探して流して葉書を紹介することまでは問題ないんですが、それを貴方がどのように評価するかに少し不安を感じています」「評価ですか・・・」意外な指摘に和泉はバインダーを繰るのを止めて島田元准尉の顔を凝視した。
「貴方の世代は戦前を軍国主義が蔓延していた暗黒の時代だったと習ってきたと思うんです。戦時中は戦争一色で国民は本土決戦で死ぬことを強要されていたと信じているんでしょう。しかし・・・」ここで島田元准尉は一つ息を飲んだ。
「戦前にも若者の青春があり、恋愛があり、家庭には親子の情愛や団欒があったんです。あの戦争は東京の大本営や軍令部に集められていたエリート将校たちが開戦当初は舞い上がり、劣勢に陥ると焦り、敗色が濃くなるに従って怯えて、やがては国を滅ぼすことばかりを考えるようになった」和泉は島田元准尉の歴史観に自分の祖父母や両親を重ねながら聞いている。
「そんな先が見えない戦争中も前線の将兵には軍隊としての規律と戦友愛があり、銃後の家族は声をひそめて無事の帰還を祈っていた。私はその時代を生きてきた人たちに経験を語っていただいて戦後世代に学校教育や戦後の映画人や作家、マスコミが作り上げた間違った歴史ではない真実を伝えたいと考えています」マスコミの一員である和泉は手放しでは賛同できないものの平成に入って2度実現した政権交代を契機に戦後のマスコミが推し進めてきた保守政権批判の是非を考えるようになっている。
「確かに自衛隊に対する評価もようやく定まりましたからね」和泉の言葉に島田元准尉は深くうなずいた。東北の人々の自衛隊に対する感謝の言葉を聞いたことが最高の記念品だった。
  1. 2019/05/19(日) 13:21:49|
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振り向けばイエスタディ1556

その夜、淳之介が石垣市内のレンタルDVDショップで借りてきたエロ動画を観賞しながら自家発電に励んでいるところに電話が鳴った。こう言う時には一時停止にしてから電話に出ないとあかりの超人的聴覚で察知されてしまう。ところが焦るとリモコンの操作が上手くいかず、いつになく時間が掛かってしまった。
「忙しかったの。ごめんなさい」案の定、電話口であかりが謝った。確かに忙しかったのだが、やっていることは生産性とは真反対の浪費行為だ。
「大丈夫、気にするな」淳之介としてはこう答えるしかないが、少し後ろめたい気持ちでテレビに映っている一時停止中の性交の場面を眺めた。それにしても現在のエロDVDは父が好きだったポルノとは違って男女の性器から交合の瞬間まで鮮明に映っている。淳之介が童貞の頃は肝心の箇所は描かれていなかったため妄想を働かせたものだがこれでは「単なる行為の観察」だ。
「ところで今日も異常なかったか」「お腹の中では元気に動いてるけど出てくる気配はないわ」あかりが家にいた頃は腹が大きく変形するのに手で触れて父子のスキンシップを楽しんだものだが、那覇と石垣島では405キロ離れている(船乗りだけに距離には細かい)。
「電話を腹に当ててくれよ」「うん、待っててね」スキンシップができないので父子の対話を楽しむことにした。あかりは返事をすると立ったまま固定式電話の受話器を腹に当てた。淳之介は音でそれを確認すると話しかけた。
「ファー(八重山方言で子供)、ビゲー(八重山方言でお父さん)だぞ。元気かァ。そろそろ出港の準備を始めろよ」あかりは受話器を強く押し当てていないので漏れた声が聞こえてくる。こんな淳之介の優しい父親ぶりに感激していた。
「もしもし、今日はここまでで好い」「うん、起こしてしまったかな」淳之介の呼び掛けが終わったのを見計らってあかりが声をかけた。淳之介は腹の中の胎児も眠ったり起きたりするのか考えながら妙な心配をした。あかりはそのような優しさにも幸せを噛み締めていた。
「いつまでもファーってヤイヤムニ(八重山方言)で呼んでちゃあいけないな。名前を決めないと」あかりとの会話が再開して淳之介は懸案事項の相談を持ち出した。
「候補は決まったの」「安里家の子供だから上を恵にするところまでだよ」「それじゃあ1週間前から進んでいないじゃあない」珍しくあかりが呆れたような声を出した。どちらかと言えば決断が早い淳之介が候補さえ決められないのが意外なのだ。淳之介は家でも本を読んでいることが多く、それも歴史物が好きなので漢字が苦手とは思えない。やはり過度に責任を感じて色々なことを考え過ぎているのだろう。
「こっちではお祖父ちゃんとお祖母ちゃんとお母さんで意見が分かれて揉めてるんだよ」あかりの報告に淳之介は少しうなだれた。義祖父母と義母は淳之介が候補も示さないことに痺れを切らして自分たちで考え始めたのかも知れない。
「お祖父ちゃんたちは伯父さんの名前をそのままもらって恵昇(けいしょう)にして欲しいって言ってるの」「・・・恵昇かァ」淳之介は頭の中で漢字にしてみた。両親よりも2歳年上だった恵昇伯父は義母以上の優等生で、東京の名門大学の工業学部に進学したのだが、実験で化学薬品の気化ガスを吸って呼吸器系を傷め、それでも無理に研究を続けたため病没してしまった。成績優秀なのは好いが、若死にしたことは気にかかる。
「お母さんはお義父さんの任をもらって恵任(けいとう)にしたいって」「けいとう・・・けいにんじゃあないんだね」電話では漢字が伝わらないので説明と読みが結びつかなかった。そこでメモ用紙に書いてみると歴史上の人物で見たことがある。しばらく思案すると奥州の覇者・安倍貞任は「さだとう」と読むことを思い出した。もう1つ、南総里見八犬伝の「義」の玉を持つ犬川荘助義任も「よしとう」だった。やはり義母は父の元恋人のようだ。
「本当は貴方も考えているんでしょう。教えて」ここであかりが質問してきた。やはりこの妻には隠し事はできないらしい。
「やっぱり海に関係する字を使いたいんだ。恵に海で恵海(けいかい)、太平洋の洋で恵洋(けいよう)、潮風で恵潮(けいちょう)、それから小舟で恵舟(けいしゅう)」「高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟の舟ね」いきなりあかりの口から幕末三舟が揃って出てきた。これは淳之介が与えた知識のはずだが、あかりの記憶力には恐れ入るしかない。やはりあの義母の娘だ。
「ところで女の子の名前は」「うん・・・」続きは質問ではなく追及になってきた。男親が女の子の名前を考えるのは意外に難しい。浮かぶのはどうしても昔の恋人や憧れの人、好きな芸能人になってしまい、後で妻にバレて怒られることも珍しくないのだ。その点、淳之介は問題ないが、娘に「あかり」とはつけれらない。
  1. 2019/05/18(土) 13:21:49|
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振り向けばイエスタディ1555

早いもので淳之介の単身生活は半月になろうとしている。本土のマスコミはバブル崩壊後に長引く不況で「沖縄の観光客は激減している」と報じているようだが、実際はバブルの頃には海外旅行に出かけていた準・富裕層が沖縄の離島や北海道の辺地に流れているため年齢層が上昇しただけで八重山方面にはそれなりの客足があった。そう言う訳で淳之介は忙しい。
「嫁さんはまだ腹から出さんか」朝礼前の雑談でも他の社員たちは淳之介をからかうことを楽しみにしている。殊更に生命の継承と血統の維持を尊重する沖縄の人たちにとって若い夫婦に子供が生まれることは何よりもの慶事なのだ。すると淳之介は申し訳なさそうな顔をして小さく首を振った。
「初産は産道が固いから子供が出てくるのに苦労するんだ。だから父親が軽くゴーヤで突っついてやるんだよ」ここで言うゴーヤは野菜の苦瓜ではなく男性器の隠語だ。しかし、淳之介はあかりが早産になった原因を知っているだけにこの有り難い助言を実行する気にはなれない。それでも子沢山の同僚たちは熟練の技を伝授しようと熱弁を揮い始めた。
「それでもホーミー(宝味=沖縄本島の方言の女性器)の中でいっちまうと子供が生まれた時、頭に白い液体が着いていて医者や看護婦にばれるから軽くチョンチョン程度にしろよ」毎度のことながら初めて父親になる若者への助言はワイ談に堕ちていく。毎回、似たような展開になるのだがワイ談に飽きはこないものらしい。
「そうそう、あまり深く入れると子供の頭が凹んじまうんだ。赤ん坊の頭は柔らかいからな」ここまで来ると信憑性も急激に堕ちていく。安里家の母子は下に落ちた話はしないから女性の立場の見解を聴く機会はない。生みの母親だった美恵子は得意そうでも本人は台湾で執行猶予中の出国禁止だ。何にしても淳之介の頭の中では裸のあかりが一体になるのを恥じらいながら待っている悩ましい姿が再生された。
「安里、鼻血が垂れてるぞ」そこに朝礼場である待機室に入ってきた社長が淳之介の顔を見て指摘した。社員の顔色で健康状態を確認するのは経営者としての基本である。淳之介は持ち主の意思に関係なく膨らんでいる股間を隠すため腰を引いた。
「溜まり過ぎだな。エロDVDを見てセンズリを掛け」そんな様子を見て単なるスケベな中年親父になっている同僚たちは朝礼を忘れて盛り上がってしまった。
「俺が好いのを貸してやるよ」「嫁さんがいなけりゃ見放題じゃあないか」実は淳之介は視覚障害者であるあかりには気付かれないエロ漫画をオカズにしている。写真雑誌ではなく漫画なのは中学時代に父が本棚に並べていた劇画「子連れ狼」や「新カラテ地獄変」などで覚えたばかりの自慰行為に励んで以来の常食なのだ。それでも単身生活の楽しみ方としてはエロDVD鑑賞には興味が湧いた。そう言えば父の本棚には日活ロマン・ポルノのVHSビデオもあった。題名は「キャバレー日記」だったが「キャバレーの軍隊式店員教育が面白い」と幹部自衛官の夫婦は子供が寝てから音量を落として鑑賞していた。
淳之介は石垣島と西表島の間の5つで4つの島を巡る航路の船内でも乗客に質問攻めになっている。5つで4つと言うのは南に並ぶ雲島の隣りの新城島(あらぐすくじま。通称はしんじょうじま)は上地島と下地島の総称なのだ。
「船長さん、マイフナー(八重山方言の良い子)は生まれたねェ」「ティダヌファ(太陽の子=八重山方言で逞しい子)に育てないとね」「アッパリシャンな女の子かも知れないさァ」淳之介が沖縄に来ることを決めたNHKの連続ドラマ「ちゅらさん」は小浜島を舞台にしていたが、美人を意味する「チュラカーギ」は沖縄本島の方言であって八重山方言では「アッパリシャン」若しくは「カイシャ(「美しゃ」と書く)だ。
「予定日は5月7日なのでまだです」「そうねェ。初産は遅れ気味だからワジル(八重山方言でイライラする)ことないさァ」淳之介は別にイライラしていないが、ここまで周囲の人たちから期待されていると早く吉報を届けたいような気分となるべく待たせて喜びを爆発させたい悪戯心が交錯してくる。
「それで子供の名前は考えてるねェ」「家の通字(とおしじ)は何ねェ」これでは朝礼だけでなく出航の時間まで遅れてしまいそうだ。
「安里家はメグミの恵ですよ。本土ではやっていません。出港しますから席について下さい」淳之介は質問に答えながら乗客たちを客室に押し込んだ。1人で過ごす長い夜に子供の名前を考えているのだが沖縄の作法が判らず候補も決められていなかった。淳之介と言う名前は父が生まれた時に読んでいた本の作者の吉行淳之介から取ったので参考にはならない。
竹井みどり「キャバレー日記」竹井みどり主演「キャバレー日記」
  1. 2019/05/17(金) 12:50:20|
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振り向けばイエスタディ1554

岩手県の太平洋岸を北上と言うよりも不通になっている海岸沿いの道路を内陸に迂回しながら久慈市に至った巡回は10日間で終わった。留守にしている間に統合任務部隊司令部に届いていた法律相談は公用車の事故や法令・規則の解釈の齟齬などで北部方面隊総監部の法務官で対応できていた。つまり私の統合任務部隊における現地での任務もこれで終了なのかも知れない。そこで久しぶりに我が妻・モリヤ佳織1佐に電話してみた。
「貴方・・・課業中はモリヤ2佐だったね」「うん、こっちもモリヤ1佐だな」これでは久しぶりの電話もラブ・コールにはならない。副校長兼企画室長は命令などの最終確認を受ける隊員の入室が多く、ドアの前で会話を聞かれている可能性があるため私用電話と判るのは拙いのだ。
「気仙沼大島へも行ってきたぞ」状況報告も身近な話題からになる。自衛隊用語で「報告」とは文書、若しくは口頭で下位者が上位者に伝達することを指すので我が家の場合は報告だ。
「それで出張所長さんは元気だったの」やはりモリヤ1佐の声が少し弾んだ。被災地の惨状には心が痛んでも人々との交流は思い出として刻まれているようだ。
「今回のトモダチ作戦で田舎の離島の住民にも国際感覚が身についたって感謝していたよ。それもモリヤ1佐の助言があったからこそだって」「ふーん、少し誉め過ぎな気がするけどね」モリヤ1佐は変に謙遜したが実際はもっと手放しだった。
「今も三沢の空軍が岩手県の被災地を慰問していてトモダチ作戦は継続しているんだぜ」「エア・フォースはフレンドリーな兵員が多いから通訳だけなら空自の隊員でも務まるでしょう」私は夫としてモリヤ1佐の口調の中にわずかな自己顕示を感じた。しかし、それは卑しい虚栄心などではなく気仙沼大島での大きな成果に対する自信だろう。
「そう言えばこっちで島田先任に会ったぞ」「うん、仙台に行くって電話があったけど本当に行ったんだね」驚かすつもりがこちらが呆れさせられてしまった。島田先任と伊藤佳織3尉の関係はやはり親子に近い緊密さがあるらしい。
「こっちで昭和一郎の昭和・歌のアルバムって番組を毎日やっているんだ。中々の人気番組で、ワシもカー・ラジオで聴いていたけど昭和に生きてきた人間の心を掴んで離さないな」私の説明に昭和をあまり経験していないモリヤ1佐は電話口で溜息をついた。モリヤ1佐が日本で暮らしたのは中学2年で帰国した昭和53年からアメリカの大学に留学した58年までの5年間と卒業して戻った昭和62年以降だけだ。その後もアメリカ陸軍指揮幕僚課程への留学とハワイの太平洋軍司令部での連絡官としての勤務があったから昭和に限らず日本での生活は短い。
「ワシのこちらでの任務が終わるのと島田先任の番組が終わるのとどちらが早いのかな」モリヤ1佐の気分が少し沈んだようなので話題を変えた。
「先任は2週間のボランティアだって言っていたけど延長になっているんだね。でも無報酬の仕事をあまり長引かせる訳にはいかないんじゃあないかな」「それじゃあ今夜も仙台FMへ行って話を聞いてくるよ」今度は私の方が島田先任との緊密さを誇示した。夫婦で小父さんとの関係を競い合っても全く意味がないものの番組作りにも参加していることを補足した。
本当は茶山元3佐との再会も説明したいところだが、モリヤ1佐は面識がない上、私用電話が長くなった。そこで最後に一番心配なことを質問した。
「ところであかりの出産に関しては何か言ってきてないのか」勿論、志織のハイス・クール生活も気にしているが、やはり初孫の誕生には敵わない。
「淳之介と梢さんから交互に電話が入るけど内容は一緒なのよ。淳之介はあかりから聞いた話を伝えているだけだから仕方ないよね」淳之介としては私に連絡したいのかも知れないが、携帯電話は地震でアンテナが倒れたため仙台市内でもようやく復旧し始めたところだ。
「まだ産まれていないんだね」「初産は予定日よりも遅れることが多いから連休明けになるんじゃあないかな」モリヤ1佐に言われて予定日は5月7日だったことを思い出した。モリヤ1佐の予想通りであれば淳之介も観光シーズンが終わって休暇も取り易いはずだ。
「それでもモリヤ2佐は東京に帰っても休暇は取れないんじゃあない」「うん、5月11日には判決が出る予定だから災害派遣でなくても無理だな」自分の返事で本業であるはずのイージス護衛艦と漁船の衝突死亡事故の公判の日程を思い出した。
「それじゃあモリヤ2佐もそろそろ撤退してくるんだね・・・はい、どうぞ」電話口でモリヤ1佐が誰かに返事をした。どうやらノドアをックされたらしい。かなり長電話になっているので廊下で待っていた隊員が痺れを切らしたようだ。
「用件は受け給わりました。無事の帰還をお祈りしております」モリヤ1佐は業務であるかのように取り繕いながら電話を切った。やはり副校長兼企画室長は大変な立場だ。
  1. 2019/05/16(木) 12:40:19|
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5月16日・日露戦争の影の大功労者・金子堅太郎の命日

昭和17(1942)年、第2次世界大戦に参戦した日本が滅亡への道を転げ落ち始める転機となったミッドウェイに向かって連合艦隊が出航した5月27日=海軍記念日の1週間前の明日5月16日に日露戦争を敗北前に停戦させた大功労者である金子堅太郎さんが89歳で亡くなりました。
金子さんはペリーが浦賀に来航した嘉永6(1853)年に福岡・黒田藩の生涯士分(本人1代限りの契約藩士)の長男として生まれました。7歳から藩内の学者について漢学を修養するようになり、10歳で藩校に入学したものの15歳で父親が病死したため士分を失って足軽である銃手組=鉄砲隊に格下げされてしまいました。
そうして明治を迎えると藩校での抜群の成績が認められて士分に取り立てられ、江戸=東京への藩費遊学を経て岩倉具視さんが世界に恥を晒した(国家元首の委任状を持たずに外交交渉を求め、国際慣習法の無知を知られてしまった)欧米使節に同行した旧・黒田藩主の随員として渡米し、そのまま留学したのです。アメリカでは小学校から始め、飛び級でハイスクールに入り、弁護士事務所で働きながらハーバード大学法学部に合格しています。ハーバード大学時代は後に金子さんの功績によって活躍(本人にとっては苦心)の舞台を与えられる小村寿太郎さんと同宿し、競い合いながらも協力して勉学に励みました。また多くのアメリカの知識人、上流階層と交流を持って人脈を構築しますが、その中には5歳年下のハーバード大学の先輩・セオドア・ルーズベルト大統領もいました。
ハーバード大学を卒業して帰国すると司法制度の近代化に尽力しますが、その一方で自由民権運動の急激な高まりに危機感を抱いた元老院から革命によって国王を処刑したフランスのアンリ・ルソーさん的な急進的な思想に対抗し得る保守派の政治思想を求められてイギリスのエドマング・バークさんを紹介しています。その後、内閣総理大臣の秘書として大日本帝国憲法の起草に参加するなど政府内での存在感を強めていきますが、天皇の意思に反して帝政ロシアとの戦争を決定した好戦的軍閥政府からハーバード大学時代に知己を得ているセオドア・ルーズベルト大統領に停戦の仲介を要請する任務を与えられて渡米することになりました。
アメリカでは常に大統領と接触し、日露戦争を「ヨーロッパ人とアジア人の戦い」とする世論の偏向を修正させ、「ヨーロッパ人が負けるはずがない」と言う前提でロシア側の発表だけを報道する新聞(ラジオ放送はまだ始まっていない)に日本側からの情報を合理的根拠を示して投稿するなど懸命な努力を続けた結果、日本海海戦の完全勝利と言う絶妙のタイミングで帝政ロシアに停戦交渉の開催を申し入れさせることに成功したのです。・
ポーツマス講和会議では継戦能力を残すロシアは日本の戦力が尽きていることを見抜いて敗北を認めませんでしたが、ルーズベルト大統領に異例の介入を要請してロシア側に痛みを与えず日本側の体裁が立つような妥協の産物の講和条約を成立させました。
金子さんは晩年まで日米友好に尽力していただけに生きている間に開戦を迎えたことは本当に無念だったはずです。
  1. 2019/05/15(水) 11:52:03|
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振り向けばイエスタディ1553

「モリヤ2佐も田老地区にある万里の長城を見て下さい。人口5000人にも満たない集落のためにあんな巨大な防波堤を作ったのは尾沢の利権以外に考えられませんよ」私の助言も松山3佐の憤激を鎮める効果はなかったようだ。おそらく今回の津波には全く役に立たなかった巨大な堤防を目の当たりにしながら被災地の復旧作業を指揮していてこの公共事業が行われた経緯に関心を持ち、国土交通省で勤務している大学時代の友人から話を聞いたようだ。
田老地区の巨大な防波堤は昭和35年のチリ地震による津波被害を根拠に昭和54年に完成している。当時の尾沢は37歳ながら当選十年目で自民党内では田中角栄の申し子として頭角を現していた。尾沢の資金源が東北地方に持ち込んだ公共事業を息のかかった建設業者に分配する利権であることはその頃から指摘されていた。
「地元の人も『尾沢さんのおかげであの堤防ができたから津波が来ても避難しなくても良い』って言われていたそうです」ここで安川3曹が同調した。幹部と陸曹では視点が違うが、やはり疑問は感じているようだ。そこで松山3佐への鎮静剤として劇薬を投与することにした。
「問題なのは尾沢がこの震災でも政権与党の一員で、復興工事を利権の材料にしようとしていることだな。尾沢にとって今回の大震災は地割れで金脈が姿を現したようなものだよ」ここまで辛口の見解を聞かせてようやく松山3佐は落ち着き、話題も変わった。
「モリヤ2佐、相談があるんですが」雑談が一段落した頃、安川3曹があらたまって話を切り出した。隣りで森田曹侯補士も姿勢を正している。
「どうした。ワシは法律相談が専門だから人生相談なら松山中隊長にしろ」「その法律相談です」安川3曹の返事に森田曹侯補士は顔を強張らせた。
「見た通り森田士長は曹侯補士なんですが、北部方面隊では曹侯補士は3曹には昇任させないで一律に依願退職させることが決まったんです」私は陸上幕僚監部の法務官室にいながらこの話は初耳だった。このように極めて違法性が高い不当人事を私に伝えなかったのは人事担当者が北部方面総監の威光を恐れ、陸曹の人事権は各方面隊に在ることを根拠に不介入を決めたからだろう。確かに私が動き始めれば陸上幕僚監部法務官室と北部方面隊の全面対決が勃発しかねない。「君子危うきに近づかず」「臭い物に蓋」は人事担当者の業務上の基本原則だ。
「僕は懸命に努力しても上の勝手な決定で無駄にされる陸上自衛隊に失望して退職することを決めたんですが、災害派遣に参加して行方不明者を捜索したり、犠牲者の遺骸を見つけて回収したり、被災者のために働くことにとても遣り甲斐を感じています。やはり自衛隊に残って陸曹として頑張りたいと思うようになりました」ここまでの雑談で森田曹侯補士の父親は3等空佐になって知らない間に設立された第3術科学校の警備課程を担当する7科長を勤めていると聞いている。この話が事実なら許し難い暴挙であり、息子から相談を受けて何と答えたのだろうか。
「それで法的に対抗処置が取れないかと考えていたところにモリヤ弁護士が来られると聞いて、相談することにしたんです」最後は松山3佐がまとめた。これに回答するのは簡単だが、影響を考えるとそれが正解とは言い切れない。私は組織人の2等陸佐でも法曹界に身を置く弁護士でもなく、曖昧を旨とする坊主の顔をして話し始めた。
「仮に法的処置を取った場合、森田曹侯補士は北部方面隊と総監を相手に不当人事の是正を求める民事訴訟を起こすことになる。これは明らかに採用時の雇用契約違反だから北部方面隊が敗訴するのは間違いない。上手くすれば北方総監の滋賀陸将に懲戒処分を与えられる可能性がある」
ここで「上手くすれば」はやや不適切だが坊主としては逆説的な論法も常套手段だ。
「勝訴を確実にするには森田曹侯補士単独ではなく他の曹侯補士たちと連名で集団提訴することだが、同期や連隊の他の曹侯補士たちは何て言っているんだ」この質問に3人は顔を見合わせて回答を譲り合った。結局、松山3佐が引き受けた。
「連隊では各中隊長の説得がかなり強硬だったようで全員が依願退職に同意しているようです。方面隊内には緘口令が敷かれていて同期で連絡を取り合うことは禁じられています」つまり北部方面隊としてもこの総監の独断の違法性は認識していることになる。逆にそうなると陸上自衛隊の体質から言って直属上司である松山3佐の立場はかなり危うくなるはずだ。下手すれば3佐で足踏みどころか「昇任、止まれ」になる可能性も低くない。
「ワシの記憶では滋賀陸将は生徒出身だったな。それじゃあ何を言っても無駄だ。今後のためには『縁がなかった』と諦めた方が良いかも知れないよ」やはり結論は坊主になった。
「上司は部下を選べるが、部下は上司を選べない」と言う金言を噛み締めて泣いてもらうしかなさそうだ。一方、私は弁護士としての職務放棄や自衛官として不正を黙過する罪悪感よりも同期の森田3佐に対する慙愧の気分を噛み締めることになる。
  1. 2019/05/15(水) 11:51:04|
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5月15日・何故か知られていない重大冤罪事件・豊橋事件が発生した。

昭和45(1970)年の明日5月15日に極めて悪質で日本式捜査手法の誤りを如実に表している冤罪事件でありながらマスコミが取り上げることがないためほとんど知られておらず、現在も未解決になっている豊橋事件が発生しました。
野僧はこの事件について中退した大学の刑法の講義で「冤罪の事例」として学びました。その時のノートによると(全て実名で記してありますがここでは伏せます)現場は豊橋駅の新幹線口から600メートルほどの距離にあった文房具店で、午前1時45分頃に火災が発生して焼け跡から店主の妻と長男、二男が遺骸で発見されましたが、妊娠中だった妻には性的暴行を受けた後に絞殺された形跡があったのです。この時、店主は取引先の人と大阪万博に出かけており、滅多に出かけない店主の不在を知っていた人物として2人の従業員に疑惑の目が向きました。このうち就職して2年目で妻が食事や風呂の面倒を見ていた21歳のMさん(=「野僧の苗字」マイナス「野」)が豊橋警察署の取り調べの際、顔や手に引っかき傷があったことで捜査線上の最重要被疑者となり、さらに証言に辻褄が合わない点が目立ち、何よりも「部屋でテレビ番組を見ていた」と説明していたアリバイを隣室の青年が「日付が変わるまで起きていたがMは帰宅しなかった。テレビはついていなかった」と否定したため逮捕されたのです。豊橋警察署での取り調べでMさんは「妻が下の子に母乳を飲ませているのを見て欲情し、関係を迫ったが拒絶されたため顔面を殴打し、電気コードで首を絞めて失神させたが強姦する前に下着の中で射精してしまった」と証言しました。これを受けて豊橋警察署は名古屋地方検察庁豊橋支部に送検し、名古屋地方裁判所豊橋支部で公判が始まりました。するとMさんは第1回公判では検察側の主張を全面的に認めたものの第2回では全面否定に転じ、以降は一貫して否認し続けたのです。
このMさんの言動を聞いて捜査に疑問を持ったのが愛知県警中村署の熟練刑事でした。この刑事は過去にも愛知県警の見込み捜査による誤認逮捕を究明しており、旧知の新聞記者に感じている疑問点を伝え、現職の間は他の警察署の所管事件に関与できない自分に代わって真相の究明に当たることを要請しました。すると意外なことに捜査と取り調べに当たった豊橋警察署の刑事たちもMさんの犯行とすることに疑問を持っており、単に上層部が迅速な解決を厳命したため「公判が維持できる材料が揃っている」と言う理由だけで逮捕・送検したことが判りました。しかし、捜査担当者が疑問を感じていながらの送検であっても3名の放火殺人罪と強姦罪では死刑になる可能性が大きく、記者と刑事は徹底抗戦とMさんを全面的に支援することを決意しました。こうして国選弁護士を2人が選んだ辣腕の弁護に交代させ、「発見された下着に付着していた精液の血液型がMさんと一致しない」「日頃から蚊に刺されて引っかき傷を作っていた」「証言したテレビ番組の内容は見ていないと知り得ない」「ポリグラフ=嘘発見器の反応は虚偽の証言だった」などと検察側が提出した証拠を1つ1つ潰していった上、警察を定年退職した刑事が弁護側の証人として「無罪の者も警察官の誘導によって犯行を認めたことがある」と経験を証言したのです。こうして1974年6月12日に無罪判決が下り、検察側は控訴を断念しました。
  1. 2019/05/14(火) 10:31:16|
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振り向けばイエスタディ1552(一部、実話です)

釜石市から宮古市に行くには遠野市まで戻ることになったが、祖父の影響で中学時代から柳田国男の民俗学の本を愛読していた私は素通りできずに道草を喰ってしまった。
したがって到着したのは夕方で、第3普通科連隊の指揮所に寄って挨拶した後は宿営地で夕食と簡易浴場での入浴になり、指揮所に依頼した久居の教え子・安川和也3曹との再会になった。調理場の行事用天幕で待っていると予定外に3名の隊員が現れた。
「モリヤ2佐、お久しぶりです」先ず声をかけてきたのは年賀状も届かず音信不通・所在不明になっていた松山3佐だった。それにしても防衛大学校を凌駕する都の西北にある東京6大学の雄を卒業したエリートの割には3佐で中隊長と言うのはかなり昇任が遅れている。
「どうだね。演習では不眠不休で指揮を執る時代遅れな作法が身についたかね」「いいえ、何かあれば起こせと言って指揮所で仮眠しています。時代遅れな作法を打破するのが私の存在理由でしょう。それはモリヤ1尉から学びました」松山3尉は演習の状況中も夜間は自分の個人用天幕で熟睡していた。このため仮想敵の急襲に対応できず、1小隊長の田島2尉に叱責されたのだが今度は指揮所の机にうつ伏して仮眠するようになってしまった。私も本音では「交代制で睡眠時間を確保するべきだ」と考えていたので何も言わなかったが、これでは3佐で足踏みしていても仕方ない。その前に私も2佐に特別昇任するまで1尉で停止していた。
「モリヤ中隊長、ご無沙汰しています」次は安川3曹が顔を出した。本当はこちらが目的だが、松山3佐に会えたことも予定外の収穫だ。
「そろそろ1ヶ月になるが聡美さんとは連絡が取れていないんだろう。大丈夫か」「妻はイラク派遣でも名古屋で待っていましたから戦場よりは被災現場の方が安心でしょう。それにウチの連隊はイラク派遣の経験を活かして家族に私たちの現在の状況を伝える工夫をしてくれていますから元気でやっていることは判っていると思います」安川士長がイラク派遣に行っていた時、私は殺人犯として東京拘置所に収監されていたから思いが至らなかったが、若い2人はそうして鍛えられたようだ。すると何故か知らない曹侯補士も待っていた。名札を見ると「森田」とあるが、顔には見覚えがない。
「始めまして、モリヤ2佐。お噂はかねがね父から聞いています」「父・・・誰だっけ」森田と言う人間には自衛隊に入る前から幾らでも会っている。淳之介と同世代の若者が「父から」と言うのだから同級生や同期、同僚の「森田」になるがそれも数人いる。
「曹学(曹侯学生)の同期の森田勇作の息子です」ここまで説明されてようやく思い出した。森田曹侯生は基礎課程の同じ班で愛媛県出身だったはずだ。言われてみれば顔は似ている。
私は吹いたくらいでは飛ばない2佐と言っても「長」が付く肩書ではないのでこれは申告ではなく挨拶だ。そんな訳で長机を挟んで幹部と陸曹・陸士の対面式に席についた。
「やはり3普連も禁酒なのか」災害派遣は行動命令に基づく公務のため規則上は飲酒できない。ただし、派遣の長期化に伴い買い出してきた酒類を販売する部隊も出てきているようだが、犠牲者への慰霊のため断酒する隊員が多く思ったほど売れていないと聞いている。
「3普連はイラク派遣中は禁酒でしたから慣れているんですよ」「なるほど」安川3曹の説明に当事者であるはずの松山3佐と森田曹侯補士がうなずいた。一方、私は北キボールもイスラム圏だったため同様の経験をしていた。
「それにしても宮古市は水道が復旧しているのは助かるな。トイレも水洗で快適だよ」これは私が宮古市に来て最も感激したことだ。岩手県内の被災地を巡回し始めてからは自衛隊の宿営地に一宿二飯の恩義を受けているが、折角の簡易浴場は節水が厳しく、トイレは相変わらず汲み取りではない簡易式だ。本業は普通科の戦闘員とは言え陸上幕僚監部勤務の文明生活が長くなると野営には特別な気合が必要になってしまう。
「同じ被災地でも岩手県は宮城県に比べて施工業者が絶対数不足していますからね」私の感想に安川3曹が答えた。陸上自衛隊には幹部の発言に陸曹が直接答えることを許さない雰囲気があるが、この中隊では距離感が近いらしい。
「それだけじゃあない。震災後、尾沢一郎が利権の獲得に乗り出して復興工事の発注を独占的に取り仕切っているんだ。仙台の東北地方整備局にいる大学の同期から聞いた話だから間違いない」突然、松山3佐が興奮したように聞く者に年齢・階級制限を加えた方が良い発言を吐き出した。確かに私も東京では中央官僚人脈から千石前官房長官が報道に圧力を掛け、尾沢前代表代行が利権の奪取に走っていることは聞いていたが余りに危険過ぎる。
「発言は慎重にな。松山3尉」黙ってしまった安川3曹と森田曹侯補士の前で私が15年ぶりに指導を与えた。これはすでに踏んでいる私の二の舞から踏み出すための助言でもある。
  1. 2019/05/14(火) 10:29:53|
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振り向けばイエスタディ1551

次の目的地の大船渡市は陸前高田市からは峠を1つ越えるだけだ。八戸からの災害派遣部隊はこの両地域を一体化して復興するため全力を投入して道路を復旧したらしい。その点が第9施設大隊を要する八戸駐屯地の強みだったようだ。
「中隊長はいつまで陸前高田におられる予定ですか」海岸で亡くなった漁師と市民の供養を勤めた後、通行可能な道路に停めてきた業務車2号に戻る私たちを見送ってくれた茶山元3佐に今後の予定を訊ねてみた。宮城県内から始めてここまで北上してきたことは聞いているので、次が大船渡市、その後は釜石市、山田町、宮古市になるのなら現地部隊に事前情報として伝えておこうと考えたのだ。
「うん、基本的には中2日の1週間単位で行動しているよ。年をとると疲れが抜けなくて脱落者が続出しているんだ。それでも岩手県内の惨状を話せば復帰する人も出るんじゃあないかな」茶山元3佐は自信あり気な口調で期待を示した。確かに岩手県三陸のリアス式海岸の津波被害は想像を絶している。松島基地でも「隊舎の2階は水に浸かった」と言っていたが3階の屋上までは届いていない。これから向かう大船渡市や釜石市も地図で見る限り、同様の地形なので市街地の深部まで徹底的に破壊されているはずだ。
東京の大手マスコミ各社がこの惨状を詳しく伝えてこなかったことは職務怠慢以前の自己の存在理由の否定に他ならない。大手マスコミでは放射能漏れの人体への影響を懸念した労組が記者やカメラマンを取材に派遣することを反対したと聞いている。結局、連日にわたる震災報道が福島原発の放射能漏れに終始していたのは東京の人間の不安を煽ることで積極的に取材ができない組織力の限界を糊塗するつもりだったのかも知れない。
「そう言えば豊川の小椋くんが我々のボランティアに参加したいって言ってきたんだ」「小椋1尉は災害派遣に来ていないんですか」これは意外な情報だった。小椋1尉は第6施設群の1科長のはずだからすでに災害派遣に出動していると思っていた。阪神大震災の時も中部方面隊に限界が見えてきた段階で西部方面隊や東部方面隊からも部隊が派遣されたが、今回は当初から陸海空3自衛隊の統合任務として全力投入のはずだ。
「小椋くんは今月末で定年退官するから2月から付になっているんだよ。本人は付でも特例で参加させてくれと申し入れたそうだが、群としては派遣中に何かあった時の責任の問題を考えて断ったらしい」「むしろ『忙しい時に余計な希望を持ち込むな』ってケンモホロロにあしわられたんでしょう」私は第6施設群とはカンボジアPKOで一緒になっただけだが、所在する豊川の土地柄を考えると体質は想像できるような気がする。豊川がある東三河では歩調を乱すことは絶対悪であり、かつて流行った「赤信号、みんなで渡れば こわくない」と言う川柳も「赤信号 みんなが渡るぞ さあ渡れ」と言い直されていた。
小椋1尉も部隊が災害派遣に向けて動いている時に個人の希望を申し出たことを「幹部にあるまじき悪事」にされたのではないか。そのような希望の本意・主旨など始めから考慮の対象にならない地下牢のような暗黒世界に私も就職家出するまで苦しめられてきたのだ。
「モリヤくんは豊川の出身だろう。そんなに地元が嫌いなのかい。私には忘れられない土地だけどな」茶山元3佐は私の敵意に満ちた返事に顔は変えないまま口調を重くして訊いてきた。本当は立ち話をしている時間はないのだが、この機会に誤解は解いておかなければならない。
「私は岡崎市の出身です。豊川は親が自分たちの出身地に家を建てて住み腐っているだけです。ついでに言えば祖父は山形県最上郡戸沢村の出身で集団就職で愛知県に出てきてモリヤ家の婿養子になったんです。だから血は4分の1、心は山形と岡崎が半々の人間です。私にとって豊川は現世の三悪道以外の何物でもありません」これで引き上げれば捨て台詞になってしまうが茶山元3佐は目で引き留めた。隣りで足立2曹は少し焦り始めながら黙って待っている。
「私にとっては高井中隊長の庇護の下で3尉から1尉まで育ててもらった部隊だし、家族には初めて住む土地だったから懐かしいんだが、モリヤくんは絶対に許せないような経験をしてきたんだろう。小椋くんも本当に残念だったと思うよ」「それでは退官後はボランティアに参加させるんですね」「うん、そのつもりだ」茶山元3佐の返事を聞いて私も安堵した。航空教育隊の従軍坊主の田沼准尉は阪神大震災の時、基地司令が「他の部隊が災害派遣に選手要員を参加させていればウチの優勝は間違ない」と言って山口県の防府南基地からではなく埼玉県の熊谷基地の人員で災害派遣部隊を編成して神戸に派遣したことに激怒して浄土真宗の宗教ボランティアに参加しようとしたと聞いているが、小椋1尉は最高の受け皿を得たようだ。それにしても災害派遣に参加している部隊は人員確保よりも組織としての常識を優先しているようでは必ずしも「手一杯」ではないらしい。
  1. 2019/05/13(月) 11:57:14|
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5月13日・瀬戸内シージャック事件で犯人が射殺された。

日本が大阪万国博覧会に浮かれていた昭和45(1970)年の明日5月13日に猟銃とライフル銃で武装した犯人・川藤展久(かわふじのぶひさ)▲(=さん欠く)が瀬戸内海航路の連絡船を占拠して(「シージャック」は「ハイジャック」を模倣したマスコミの造語)、銃撃によって多くの負傷者が出した犯人が警察官の狙撃によって射殺されました。
犯人の川藤▲(昭和24年生=20歳)は5月11日に仲間の少年2人と福岡県内で自動車を盗んで「土地勘がある広島で金品の強奪をしよう」と東に向かいました。ところが現在の山口県山陽小野田市の国道2号線の交通検問で摘発(理由は追い越し違反)されたことで車両の盗難も発覚して逮捕され、川藤▲と同乗者の少年の2人は運転していた少年とは別のパトカーで連行されることになりました。ところが途中で川藤▲が隠し持っていた猟銃を警察官に突きつけて動けなくした上で少年が胸を刺して逃走したのです。
逃走した2人は途中で盗んだ軽4輪車で宇部市に向かうと衣服を盗んで着替え、山陽本線で広島を目指しましたが、1つ手前の山川駅で下車すると既に警察の手配が回っていたため山中に逃れて一夜を明かしました。翌朝、警察官と鉢合わせしたものの一緒にいた市民に猟銃を突きつけたため逮捕に至らず、市民が運転する軽4輪車で宇品港に向かいました。ちなみに警察官は付近でもう1人の少年を発見・逮捕しています。
宇品港に行く途中で川藤▲は広島県警本部とは目と鼻の先の位置にある銃砲店を襲い、ライフル銃3丁と弾丸80発、さらに猟銃用の散弾250発を奪ってタクシーで宇品港に到着しました。そうして港内で散弾を乱射しながら停泊していた連絡船に乗り込み、船長に猟銃を突きつけ、乗客と見送りの37人、さらに乗員9人を人質にして午後5時15分に出港したのです。この時、乗船を阻止しようとした警察官も銃撃して重傷をわせています。
出港後も並走する広島県警水上警察所の警備艇に向かって発砲して警察官に重傷を負わせ、付近を航行しているモーターボートにも発砲し、取材のため低空で接近したセスナ機も銃撃して燃料タンクを貫通する発火していれば墜落確実の損傷を与えました。
結局、午後9時40分に松山観光港に入港して乗客の人質との交換を条件にして給油を要求し、給油が完了した翌日の午前0時50分に出港して四国近海を迂回して午前6時50分に宇品港に戻りました。この時点で広島県警は3715人の全署員のうち1256人を動員しており、大阪府警から国体優勝の実績を持つ狙撃手も到着して準備は整っていました。川藤▲は岸壁から説得に当たる父親と姉に向かって発砲しただけでなく地上に配備されていた警察官や上空で監視していた警察のヘリコプターにも銃撃を加えたため現場で状況を確認していた広島県警本部長が発砲を許可したのです。午前9時52分に銃を手放してデッキに出て警察官に向かって叫んでいる川藤▲を狙撃手がライフルで40メートルの至近距離から銃撃しましたが、この一部始終はテレビで中継され、ニュースでも流されて小学生だった野僧も見ました。
ところがこの凶悪犯に対する極めて適切な処置を一部の人権団体は「裁判なしの死刑」として県警本部長と狙撃手を殺人罪で刑事告発したのです。当然、不起訴だったものの。
  1. 2019/05/12(日) 11:56:20|
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