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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月1日・日本の高校体育の病巣・甲子園球場が竣工した。

大正13(1924)年の明日8月1日に日本の体育教育を蝕んでいる病巣である阪神甲子園球場が竣工しました。
野僧は生徒会の執行部として運動・文化各部の部費を統括する立場に就いて硬式野球部だけが突出して高額な部費を請求し(女子のソフトボール部の10倍)、配分されていることに疑問を感じて野球部員に用途を確認したところ、「他の高校の半額以下だ」と抗弁したため愛知県内の私立・公立高校の実態を調査しました。すると事実上はプロ化している私立高校ばかりか強豪校に数えられている公立高校でもウチの高校の倍額を超える部費を使っていることが判明したのです。理由として硬式ボールは高価な上、金属バットで打つため消耗品化しており、逆に硬球を打つバットも変形や破損が頻発し、さらに1から3塁の布製のベースもスパイクで強く踏むことで破損が絶えないことを上げていました。ソフトボールも似たような競技ですが女子の筋力ではここまでの衝撃はないそうです。さらに問題なのは名門校との練習試合だそうで、交通・宿泊費は勿論のこと信じ難いほど高額な謝礼金が必要なので公立高校の部費では支払えるはずがなくOBたちの寄付で賄っていると内緒話で告白しました。
このような狂った部活動が存在し続けている最大の理由はNHKと朝日新聞に代表されるマスコミが阪神甲子園球場を「聖地」と喧伝してそれに慣らされた視聴者がテレビのチャンネルを合わせ、暇と金があれば球場にまで足を運ぶからです。
夏の全国高等学校野球選手権大会は昨年で100回を迎えましたが、大正4(1915)年に全国中等学校優勝野球大会として始まりました。会場は現在の大阪府豊中市にあった豊中グランド内の球場で、第3回大会から現在の兵庫県西宮市にあった阪神競馬場内に設置した球場に移りました。ところが多くの観客が集まるようになり、仮設の観客席では収容し切れず、主催者の大阪朝日新聞と阪神競馬場の所有社である阪神電鉄が協議した結果、河川整備で確保した土地に本格的な球場を建設することが決定したのです。この決定の大正13(1924)年が十干十二支の組み合わせの最初の甲子(きのえね)年だったことから「縁起が良い」と甲子園大運動場と命名されたそうです。
しかし、阪神甲子園球場はあくまでも大会の会場=器に過ぎず、中身が問題のはずなのに春の毎日、夏の朝日の両新聞や実況中継を独占しているNHKが球場で試合できること自体を特別視する演出を続けているため、阪神淡路大震災でスタンドが破損して強度に問題が生じていても春の大会の開催を強行し、マスコミ各社は読者・視聴者の反発を懼れて、それを問題視する報道を放棄しました。さらに現在の大会期間中の気温が屋外競技を実施するのには不適切なことは選手を含めた全員が認識していても冷房装置が機能しているドーム球場への変更を提案する者は誰もいません。
高校サッカーの聖地だった国立競技場がオリンピックに向けた改築のため簡単に変更したのに比べても甲子園球場と高校野球を唯一絶対視するマスコミと愛好者たちの異常性が高校体育の健全な発展を阻害している現実を訴えたいものです。
  1. 2019/07/31(水) 12:00:15|
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振り向けばイエスタディ1628

1ヶ月に及ぶ東北での復興ボランテイアを終えて愛知県に帰った小椋元3佐は予定通り新城市役所作手総合支所に正式採用された。ところが周囲の反応は完全に想定外だった。
「小椋さん、東北では本当にご苦労さまでした」自衛隊で言う着任申告を受けた支所長は形式的な訓示を省略していきなりソファーを勧めた。立ち合っていた人事担当者(作手村当時の人事課長)もそれに同席した。
「いいえ、大切な再就職の始まりに無理なお願いをしまして大変ご迷惑をおかけしました」小椋元3佐は女性職員が運んできたコーヒーを配っているところで深く頭を下げた。すると女性職員は自分に対する感謝と誤解したようで困ったように黙礼した。
「とんでもない。本来は復興支援にウチの職員を派遣したいんですが、新城市が動かないのを頭越しに実行する訳にも行かず歯噛みしていたところに小椋さんの申し出でしたから職員一同、感謝していたんです」和歌山県人の小椋元3佐は18歳の新隊員として豊川駐屯地に配属されて以来、地元出身の隊員や外出で知り合った地域住民たちの一種独特な人間関係に悩まされてきた。東三河の人間が面と向かって誉める時は陰で徹底的にこき下ろしていると言う法則もその1つだ。支所長が手放しで賞賛して人事担当者も同調しているのは異例の採用人事で被った迷惑を揶揄しているのかも知れない。しかし、平成の町村大合併で新城市に組み入れられて、それまで独自色を前面に打ち出した事業を推進してきた作手村の職員たちが自分たちの意思で動けない現実に不満を抱いても不思議はない。
「冷める前にコーヒーをどうぞ」「やはりお疲れ気味かな」小椋元3佐が考えごとをしていると人事担当者が声を掛け、支所長が顔を覗き込んだ。
「それで東北の被災状況はいかがでしたか」小椋元3佐がコーヒーを口に運んだの見て支所長が質問をした。これは手元に舞い込んできた現地レポーターに隠蔽の気配がするマスコミの報道では知り得ない現実を確認しようと言う行政としての関心と個人的な好奇心によるものだ。
「はい、大自然の猛威と言うものを痛感しました。石巻市には北上川と言う豊川よりも広い1級河川が流れているんですが、津波が50キロも逆流して川岸の集落を破壊し尽くしました」「50キロと言えば豊川なら新城を通り過ぎてしまうぞ」合戦史でも有名な長篠城の下を起点とする豊川の長さは77キロなので新城市は通過点になる。2人は深刻な顔をして唇を噛んだ。
「北上川の河川工事には手が回っていなかったのかね」「いいえ、豊川と同じように新川と言う放水路を設置していました。それでも津波は山が迫って狭くなっている新川の河口で波高を上げて押し寄せたんです」「それが新川小学校の悲劇ですね」やはり支所長も津波の襲来を予想して比較的高い堤防の橋の接合部分に避難しようとした児童と引率する教師たちが犠牲になった悲劇は知っている。
「それじゃあ、北上川の新川を逆流した津波が堤防を越えて市街地を壊滅したんですか」やはり人事担当者は災害に関しては素人のようだ。それでも地図なしでの説明では石巻市の位置関係を理解することは難しいのは確かだ。
「メモ紙をいただけますか」「うん、どうぞ」小椋元3佐の申し出に支所長が立ち上がって机からクリップで留めた裏紙の束とボールペンを持ってきた。それを受け取ると茶山家で見た地図を思い出しながら大雑把な地図を描き始めた。
「ここから逆流して山で隔てられた地区を破壊していきました。そして巨大な津波はここからも襲来して市街地を直接破壊したんです」北上川の新川は石巻市でも北の端を流れており、逆流による被災地は山で隔てられた谷間の集落だった。一方、市街地は海岸から押し寄せた津波が舐めるように建物を流し崩していったのだ。
「私は前後2回、1週間ずつこの河口付近で山から流されてきた廃屋や海から打ち上げられた漁船の撤去作業を実施しましたが、岩手県内の被害はそんなものではありませんでした」地図上で示された広い地域をテレビなどで見た破壊された市街地の情景が覆っていることを重ね合わせいた2人はさらに悲惨な地域があると聞いて茫然としてしまった。
「岩手県の陸前高田市に1週間、被災住宅の片づけに行ったんですが岩手県三陸地方のリアス式海岸では湾が断崖絶壁で仕切られている上、奥が細くなっていますから波高が急激に上昇して威力も倍増するんです。だから鉄筋コンクリートの建物の3階まで波が押し寄せて壁も破壊されていました」「鉄筋コンクリート製が破壊されるようでは一般の木造住宅は一溜まりもないね」ようやく意識・思考を再開した2人は重い口を無理に動かして見解を述べた。
「この話を我々2人だけで聞くのは勿体ない。職員の前で話してもらいましょう」「是非、小中学生にも聴かすべきだな」バスの運転手兼用務員のはずが講師の仕事まで付与されてしまった。
  1. 2019/07/31(水) 11:56:31|
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振り向けばイエスタディ1627

「うーん、美味かった。久しぶりに好物を思いっ切り食べたよ。満腹満腹」4時近くになって昼食を終えると森田曹侯補士は満足そうにお茶を飲み干した。この湯呑や茶碗と汁椀、箸は食材のついでにスーパーで買ってきた安物だ。本当は照子も揃いの食器を買って来たかったのだが、ペア茶碗と言う年齢でもないので諦めた。
「海老フリャーじゃあなかった。フライド海老が本当に好きなんだね」ここでフライド・シュリンプと言わないところが照子=雪うさぎのDJとしての味わいだ。正確な英語を思い浮かべていた聴取者は少し肩透かしに合ったような意外性に噴き出してしまう。
「うん、浜松か八雲の小学生だった頃に食べて大好物になって、誕生日には海老フライの食べ放題だったよ。ところが沖縄では本土からの冷凍の輸入物だから身がプリプリしてなくて美味くなかったんだ」その禁断症状が出ていたところに海老フリャーの本場に引っ越したのだから食べまくるのは当然だろう。
「あれッ、この絵は屯田兵じゃあないか」照子が洗い上げのため食器を流しに運び始めるとそれを目で追った森田曹侯補士は壁に掛けてある大き目の絵に気がついた。その絵は黒い軍服姿の兵隊たちが鍬を持って畑仕事をしている情景が描かれており、畑の向こうの道路には馬車が通り掛かっている。新隊員後期課程の時に行った旭川駐屯地の北鎮記念館でこの複製画を見た覚えがあった。北鎮記念館は旭川駐屯地の敷地内だが正門を通らずに入館できる。屯田兵や日露戦争時に編制された第7師団と自衛隊の資料が多数展示されているが、昭和37年に日露戦争で拾得したロシア軍のコッサク騎兵の軍刀の寄贈を受けた当時の第2師団長が敗戦後、急速に忘れ去られていく屯田兵や第7師団の資料の散逸を防ぐため駐屯地内に設置したのが始まりと説明を受けた。この絵も複製画なのは言うまでもないが単なるコピーではなさそうだ。
「これは北海道巡幸屯田兵御覧の図って言うの。舞台の山鼻は2番目に開設された兵村で札幌の近くにあったのよ」洗い上げを中断して戻ってきた照子は思いがけない説明をした。森田曹侯補士は立ち上がると絵の前に立ち、新聞紙半分大の鮮明な場面に見入った。
「向こうの馬車には明治天皇が乗っていて屯田兵の仕事ぶりを視察したのよ。前期の屯田兵は奥羽越列藩同盟の士族出身者が多かったから天皇の視察を受けることは賊徒の汚名が晴れる名誉だって本当に感激したみたい」以前から雪うさぎの番組では屯田兵の話題が出ることがあり、その内容が非常に詳しいことが不思議だったが、ここまでとは思わなかった。
「何だか凄く屯田兵に詳しいね。自衛隊でもそこまで研究している人はあまりいないよ」「だって私のご先祖さまも屯田兵だもん」これもまた驚愕の事実だ。屯田兵制度は幕末に蝦夷地独立を目指していた榎本武揚が発案したものだが明治新政府がそれを引き継ぎ、徴兵による正規軍の設置が不可能な北海道の防衛と開拓の一人二役を期待するのと同時に禄を失って窮乏する旧松前藩士や奥羽越列藩同盟の士族に生活の糧を与えることを目的にしていた。その後、西南戦争に参戦して武功を上げ、戦力として期待できることが証明されたため大幅に充実・拡大され、未開拓の北海道の東部や北部に配置された。
「ご先祖さまは南部岩手の貧農の3男で長男に子供が沢山生まれたから家を追い出されて屯田兵を志願したそうよ。屯田兵には畳部屋2間と囲炉裏がある板の間、後は台所を兼ねた土間とトイレがついた一戸建て(兵屋=へいおく)と未開拓の土地がもらえたの。200軒の集落(兵村=へいそん)を中隊にしてたんだって」照子の説明に森田曹侯補士はノートを取りたくなった。中隊では中隊長の松山3佐以外は幹部も敵わない軍事知識を持っている安川3曹も屯田兵は専門外のはずだ。明日の昼休みにでも吹きかけて見たくなった。
「それじゃあ任用期間は長かったんだな。2年や4年じゃあ開拓しても作物ができる畑にはならないだろう。それを考えれば屯田兵じゃあなくて屯畑兵(とんはたへい=畑には音読みがない)だな」森田曹侯補士の話が妙に反れて、照子も呆気にとられた後、納得したようにうなずいた。ただし、北海道で稲作を始めたのも本州から入植した屯田兵たちである。
「お祖父さんから聞いた話だと普通の徴兵の兵役が2年だったのに屯田兵は現役が3年、予備が4年で後備が13年のトータル20年間で40歳まで勤めることができたんだって」森田曹侯補士が自衛隊用語の任用期間を使ったのに対して照子は正しく兵役と言った。これも軍隊用語の知識としてノートに取るべきだ。
「それで旭川に定住したんだね」「うん、日露戦争の時点で屯田兵が廃止になっても曽々(ひいひい)祖父さんは第7師団として満州へ出征していたから残った家族が畑を守ったのよ」ここで話に区切りがついて照子は台所に戻って洗い上げを再開した。残った森田曹侯補士の胸の中では描かれている屯田兵たちがアニメのように働き始め、音声まで響いてきた。
山鼻屯田兵開拓の図北海道巡幸屯田兵御覧の図・部分(聖徳記念絵画館所蔵)
  1. 2019/07/30(火) 11:45:50|
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振り向けばイエスタディ1626

今回の映画は「パイレーツ・オブ・カルビアン・生命の泉」になった。照子としては元ダンサーの母親に純粋培養されたバレリーナが「白鳥の湖」で主人公の白鳥と仇役の黒鳥の2役を演じるまでの心理的葛藤を描いた「ブラック・スワン」を見たかったのだが、森田曹侯補士の好みには合わないことは訊くまでもなく若者向きの人気作品にした。
「この映画はどこまで本当なのかな」映画を観終ってエスカレーターに前後に乗った時、森田曹侯補士が振り返って訊いてきた。森田曹侯補士も父親の転属が受験と重なったため優秀ではない私立高校へ入学することになったが勉強そのものが苦手な訳ではなく、興味を持てば書店の店員=本好きの照子に質問するようになっている。
「映画に出てきたスペインのフェルナンド6世とイギリスのジョージ2世は実在の人物ね。2人は戦争も起こしていたはずよ。でもカリブで生命の泉を探した本は読んだことないわ」照子の説明に森田曹侯補士は大きく1回うなずいた。
「お昼ごはんは少し遅くなるけどアパートで食べましょう。手料理を食べてもらいたいの」映画館はデパートに入っているので1階に下りたところで照子が提案してきた。以前、夕食に誘われたことがあったが、11時の門限までに名寄に帰るには8時の電車に乗らなければならず諦めたのだ。昼食であれば空腹さえ我慢すれば時間の心配はない。
「うん、買い物へ行こう」「でも、このデパートじゃあなくて近所のスーパーよ」森田曹侯補士がそのまま地下の食品売り場に行こうとエスカレーターに向かって歩き出すと動かなかった照子が呼び止めた。かなり生活臭い手料理になりそうだ。
「やっぱり名古屋の人は海老フライが好きなんだね」スーパーで食材を選びながら森田曹侯補士は海老フライをリクエストした。ただし、これは個人的な好物であって高校時代を過ごした尾張地区の名物だからと言う訳ではない。タレントのタモリが「海老フラリャーが名古屋の名物」とからかったのは森田曹侯補士が生まれる前の1980年代の始めだが、名古屋の商売人たちはそれを逆手に取り、得意の八丁味噌だれをかけた味噌海老カツなどを売り出し、名物として定着させただけだ。そのついでに変なことを思い出した。
「高校1年の英語授業で先生がウィッチ ドゥ ユー ライク ベター、シュリンプ・フリャー・オア オイスター・フリャーって質問してきたんだ。あのフリャーって発音を聞いた時に名古屋に来たんだなァって実感したよ」森田曹侯補士は笑い話のつもりで説明したが、何故か照子は真顔で考え込んだ。
「その先生の英語は間違っていない。フライでは炒め物で揚げ物ならフライド・フ―ドのはずよ。ケンタッキー・フライドチキーン」照子は説明の締め括りにアメリカの鳥肉の揚げ物チェーン店のCMソングを口ずさんだが確かに納得できる。つまり海老フリャ―は和製英語の名古屋弁と言うことだ。問題は山田先生のネタがタモリ以来の生徒のウケを狙った冗談だったのか本当に英語訳を間違っていたのかだが、あの時も定年に近かったので謎のままになる。
「海老は何本くらい食べたいの」「海老は何匹だろう」フライ用の海老のトレイを選びながら照子がしてきた質問に今度は森田曹侯補士が突っ込んだ。確かに見た目は真っすぐに伸びた棒状なので何本も理解できるが、生き物は何匹のはずだ。すると隣りで海老を選んでいた高齢者夫婦が話し合っている声が聞こえてきた。
「5ビ入りだと2人で分けるのが難しいな」「いいえ、貴方が3ビで私は2ビで良いですよ」2人には「ビ」と言う発音を漢字にできなかったが正解は「尾」らしい。
「俺は1人で5ビ食べたい。駐屯地の食堂では大き目の海老が3ビなんだ。俺は尻尾も好きだから5ビにしたい」高齢者夫婦が幸せそうに5尾入りのトレイをカートのカゴに入れて移動していくと森田曹侯補士が自己主張を始めた。よほど海老フライに飢えているようだ。実は沖縄で海老と言えば大型のロブスターになるためあまり海老フライを食べる機会がなかったのだ。その反動から高校時代は外食しても海老フリャーが専門になった。
「それじゃあ10ビ入りを買ってって貴方が7ビ、私は3ビにしましょう」照子は年下の関白亭主の出現に苦笑と幸せが入り交じった笑顔を浮かべてトレイをカゴに入れた。
「後はタルタル・ソースも忘れずにな。駐屯地じゃあソースと醤油、普通のマヨネーズだけだから今一なんだよ」これはかなりこだわりもありそうだ。海老フライの揚げ方にもレアやミディアム、ウェルダンの指定が入るかも知れない。それでも比較的簡単な海老フライが大好物と判って照子の年下の男の子データーのメニュー欄の1ページ目が埋まった。
「海老天は駄目なの」「嫌いじゃあないけどコロモが口の中に貼りつくだろう。フライの方が口の中でバラける感じが好きだな」照子の持ち前の研究心に火が点いた。
う・音無響子イメージ画像
  1. 2019/07/29(月) 11:52:19|
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振り向けばイエスタディ1625

森田曹侯補士は中隊長・松山3佐の配慮で月曜日の午後で下番する当直士長と土・日曜日の警衛勤務につくようになり、演習がなければ火曜日に代休を取って終日のデートを楽しむことができるようになった。それでも特別外出=外泊は許されないので夜8時でお別れだ。
「あッ、来たわ」この日も広橋照子は旭川駅の改札口の前で待っていた。森田曹侯補士が乗ってくる宗谷本線は基本的に1時間に1本だ。照子は改札口を出て来る人たちの中に森田曹侯補士の姿を探している自分に気づいた。利用者はそれほど多くない。ましてや今日は平日だ。それなのにすれ違うことをおそれている自分に苦笑してしまった。
「こんな気持ちで人を待つなんて・・・」照子は旭川市内の高校だったので電車通学はしていない。短期大学は札幌市だったが親戚の家に下宿していたので同様だ。別れた夫は実家の牧場で働いていたのでデートは家から出発だった。映画やドラマ、漫画などでも駅での待ち合わせは若い恋人たちのデートの定番だが照子は初体験なのかも知れない。
すると数着しかバリエーションがないポロ・シャツにGパン姿の森田曹侯補士が利用者たちから遅れて歩いてきた。照子は自分に会いたい気持ちで真っ先駆けて来ると思っていたのでそれがかなり不満だった。森田曹侯補士が自慢の脚力を使うべき時は今ではないか。
「待ったのか」「うん、凄く待ったわ」思いがけない照子の返事に森田曹侯補士は戸惑ったように照子の顔を見た。すると頬が膨らんでいる。これでは大人っぽく演出している服装が台無しだ。森田曹侯補士は照子の年甲斐もない脹れっ面に噴き出して指で軽く突っついた。
「馬鹿・・・」流石に「ブッ」と息を噴き出したりはしなかったが照子は恥じらったように笑った。その笑顔に森田曹侯補士は唇に塗っている口紅の色が変わったことに気がついた。
「お前に会う前に構内のトイレに寄って来たんだ。一緒に歩いていてトイレを探すのは格好悪いだろう」この種明かしも決して格好良くないが照子も納得した。照子自身も同じことを考えてトイレに寄って来たばかりだった。
「でも2週間も待ったのよ。本当に長かったァ」今度は不満にはならない嘆き節だ。先々週は実弾射撃訓練があり、陸上自衛隊では実弾射撃を実施した後、銃身内の線条溝(いわゆるライフリング)に延焼した火薬の飛沫が固着することを防ぐため3日間連続で銃手入れをすることになっているので代休は取れなかった。先週も月曜日から金曜日までは名寄訓練場での接敵訓練に参加していてやはり代休はお預けだった。
国防を主任務とする自衛隊にとって災害派遣は体力を消耗し、戦闘技術とは別の作業に従事するため練度の低下が懸念され、疲労回復後は早急に本来の訓練を再開しなければならないのだ。照子としてもそれが仕事とは判っていても会いたい気持ちとは別枠だった。
「災害派遣でやってこなかった訓練を挽回しているからね。災害派遣では危険防止のために姿勢を高くするけど戦闘では逆なんだ。意識している間は姿勢を低くしていても何かに気を取られるとついつい頭を上げてしまう。それで戦死だよ」「どっちが楽なの」「それは背中を伸ばしている方だな」森田曹侯補士の返事を聞いて照子は隣を歩いている姿勢を見直したが、確かに背筋が伸びて颯爽としている。手を前に45度、後ろに15度の基本教練の徒歩行進の通りに振っているため腕は組めないが見惚れてしまう。
「ところで今週のお前の番組は聴けなかったんだけど、どんな内容だったんだ」赤信号で立ち止ったのを逃さず、腕を絡めてきた照子に森田曹侯補士が訊いてきた。それにしても立ち止る時、音を立てて踵を引きつけるのは止めてもらいたい。それでなくても年の差カップは目立つのに年下の男の子が自衛官と判っては元も子もない。
「今回は北海道にはない梅雨の話題になって雨の歌特集になっちゃったのよ」確かに季節的には梅雨入りだが、北海道でも内陸で北部の旭川や名寄では実感が湧かない。
「梅雨かァ、うっとしい季節だよ」梅雨の経験者である森田曹侯補士の見解に照子は顔を見上げた。演習に行っていなければ番組の構成を考える時に話を訊いてリアルなネタを仕入れることができた。聴取者からのメールが複数届いていたので話題にしたが少し早まったようだ。
「雨の歌って意外に多いのよ。ジャンルもニュー・ミュージックから演歌、洋楽まで世代もバラバラ・・・八神純子の水色の雨、井上陽水の傘がない、三善英史の雨、欧陽菲菲の雨の御堂筋、ジーン・ケリーの雨に唄えば、B・J・トーマスの雨にぬれても」照子の説明が終わりそうもないので森田曹侯補士は雨の代わりに水を差した。
「軍歌もあるぞ。討匪行に緑の戦線」どちらも父の森田3佐の愛唱歌だが、緑の戦線は本来、重い泥靴と言う戦時歌謡曲で、自衛隊では題名と歌詞を変えて唄っていた。討匪行は昭和49年に麻生よう子がレコード大賞最優秀新人賞を取った逃避行とは別なのは言うまでもない。
  1. 2019/07/28(日) 12:00:50|
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7月28日・民主党政権で初めて死刑が執行された。

2010年の明日7月28日に鳩山由紀夫内閣から菅直人内閣に留任していた中央大学法学部出身で弁護士の千葉景子法務大臣の執行命令を受けて民主党政権として初めて2名の死刑が執行されました。
執行されたのは2013年8月18日に3人以上の男性と同時に交際していた未成年の女子の虚言癖に踊らされた暴力団員が別の交際相手である男性と同僚の女性の2人を暴行の上で殺害、たまたま現場に来訪しただけの男女2人を殺人未遂で重傷を負わせた熊谷4人殺傷事件の33歳の犯人Oと2000年6月11日に宇都宮駅前通りの宝石店に放火して店員6人を殺害した宇都宮宝石店放火6人殺害事件の59歳の犯人Sでした。
民主党政権は人材不足が著しく法治国家としての法務行政を所管・指揮する重責を担う法務大臣がわずか3年強の間に9人も交代し、参議院選挙で落選した千葉大臣に代わった柳田稔大臣は東京大学工学部出身で拉致問題担当大臣を兼務でしたが大阪地方検査庁の証拠改ざん事件の責任を負って辞任、そのつなぎに学生運動の活動家出身の弁護士でもある仙谷由人官房長官が兼務した後、同じく活動家出身の裁判官だった江田五月環境大臣が兼務する体たらくでした。そして菅改造内閣と野田泥鰌内閣では東京大学法学部出身で大蔵官僚から弁護士になった平岡秀夫大臣(当時は民主党山口県連代表)でしたが死刑の執行には消極的で、それを「職務放棄」と追及されても自民党の杉浦正健法務大臣が「悪人正機の教えを奉じる門徒として死刑は執行できない」と信仰を理由に拒否した前例で反論もできない不勉強な大臣でした。続く野田第1次改造内閣の小川敏夫大臣は立教大学法学部出身の弁護士でしたが、平岡大臣への「職務放棄」と言う批判を回避するためだったのか3名に執行命令を出し、野田第2次改造内閣の滝実(まこと)大臣は東京大学法学部出身ながら元自治官僚で阪神大震災発生時に消防庁長官に就任していましたが2名に執行命令を出しています。このあたりで人材が払底したようで野田第3次改造内閣では東海大学工学部出身の田中慶秋大臣が拉致問題担当大臣を兼務して就任したものの複数の疑惑が発覚したため数週間で辞任し、滝大臣が再任されました。結局、民主党政権下では7名に死刑が執行されました。
千葉大臣は社民党時代から「死刑廃止を推進する議員連盟」で積極的に活動していましたが、法務大臣に就任した時、死刑の執行命令に消極的な姿勢を批判されると「個人的信条で職務を放棄できない」としては議員連盟を離脱したのです。さらに死刑の執行に立ち合い、刑場もマスコミに公開するなど日本人が死刑制度を考える上で極めて大きな貢献をしましたが、死刑制度に反対する反体制活動家たちから見れば裏切り以外の何物でもなく、参議院選挙では自民党だけでなく野党からも批判に晒され、落選・引退に追い込まれてしまいました。その憂き目を見ていた菅内閣は後任にマスコミと法学論争などはできないズブの素人を当てましたがやはり務まらず、反体制活動家だった法曹界出身者でお茶を濁しつつ弁護士出身者を選任しましたが、司法試験に合格する学力と法務大臣としての資質は別であることを証明しただけで政権そのものが崩壊しました。
  1. 2019/07/27(土) 12:35:46|
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振り向けばイエスタディ1624

小椋元3佐は次の週は石巻市内への船岡施設OB部隊に参加し、最終週は茶山元3佐と裏山の廠舎造りに励むことになった。茶山元3佐は小椋元3佐が陸前高田市に行っていた間も1人で準備を進めていたらしい。
「茶―さん、今日は逞しい助っ人を連れてますね」近所の解体された住宅でもらった柱材をリヤカーに積んで数キロの道を引いて行くと通り掛かった知り合いの人が声をかけてきた。助っ人と言われても引いているのは小椋元3佐なので作業としては主力だ。
「うーん、牛並みの巨体だからもっと山積みにしても大丈夫でしょう」次に会った小父さんも自転車を止めて声をかけた。確かに小柄な茶山元3佐と比べられると小椋元3佐の巨漢は目立つが牛並みとは少し失礼ではないか。
「随分、若い人と一緒だけど息子さんじゃあないわね」今度は畑仕事をしている小母さんが手を止めて話しかけてきた。それだけ茶山元3佐は地元の人に親しまれていると言うことだ。
宮城県南部の船岡は東北地方でも蔵王下ろしが収まれば比較的温暖で高原地帯である作手地区と変わらない気候だ。そのため畑では夏野菜の栽培が始まっており、水田は刈り込まれた芝地のように青い早苗が植えられている。そこを役牛(えきぎゅう)のように重いリヤカーを引いて歩いていているのも中々絵になるかも知れない。
「ここが中隊長のアジトですかァ」車道を外れ、道端の草むらの下に小川のせせらぎを聞きながら数キロ進んだところに茶山元3佐が桃から産まれた桃太郎を育てた老夫婦が住んでいたと考えている小山がある。山の頂上への通路も茶山元3佐が手作業で開設してあるが、廃材を積んだままのリヤカーでは上がれない。ここからは2人で重材料運搬するしかないが、普段は茶山元3佐が1人で運んでいるのだ。
「今日は小椋くんと一緒だから大き目の柱材をもらってこれたよ。これを支柱にしよう」この角材は改築のために取り壊された民家の主柱に使われていたようだ。ただし、古民家ではないので太さはさほどでもない。重材料運搬では低い方に重さが偏るため茶山元3佐が圧倒的に不利なのだが、坂道では前後を歩くことで調整できる。小椋元3佐は3メートルほど前を歩く茶山元3佐の背中を眺めながら緩くはない坂道を登って行った。
「いつもは1人で運ばれるんですか」「うん、担いで登れない時は紐で縛って引き上げているんだ。息子が帰省した時には手伝わせるんだが、あまり酷使すると帰ってこなくなるって女房が文句を言うんだよ」確かに最近は陸上自衛隊でも定員削減や充足率の低下による人手不足への対策として機械化が進んでいるため、重材料はクレーンで運ぶ物だと思っている隊員も多い。今回の災害派遣では瓦礫の山となった市街地には建設機材を入れることができず、足場が悪い現場から重い廃材を運び出す作業で負傷した隊員も少なくないらしい。
「どのような廠舎を考えておられるのですか」「先すは簡易ベッドで5名ほど宿泊できる広さだね」つまり床は張らないと言うことだ。演習場の廠舎では屋根と床があるだけでも安眠できたが、こちらでは逆に野営気分を満喫するのだろう。
「それに車座になってバーべキューを楽しめる囲炉裏式の焚火だね」「と言うことは簡易ベッドで5畳に車座で3畳の8畳敷き、2間四方と言うことになりますね」「うん、そうなるな」小椋元3佐の計算に茶山元3佐は前を向いたまま返事をした。しかし、建物の強度を考えると柱の間隔は狭い方が良いのは常識だ。2間四方の空間柱を何本立てるつもりなのか。小椋元3佐は頭の中で設計図を描こうとしたが敷地が判らないので諦めた。
「今日は実施見積りよりも作業が進んで助かったよ。流石は小椋くんだ」その夜、夕食に続く晩酌で茶山元3佐は満足したように満面の笑顔を見せた。ただし、表情そのものはあまり変わらない。妻の静(しずか)は1ヶ月間休みなく肉体労働に励んでいる小椋元3佐の疲労を心配して今夜は焼き肉にしてくれた。晩酌は焼き肉の乾杯から始まっている。
「柱を立てて梁を渡せば後は屋根を葺いて壁を張っていくだけだよ。流石に梁を設置する作業は1人では無理だからね」今日はこれまで運んであった廃材の中から選んだ柱材に梁を渡した上で整地して埋め込んであった石の土台に立てた。それを交代で支えながら梁を渡して四角形の骨組みを作った。そうなれば屋根と壁を塞げば雨風を凌げる廠舎になるはずだ。
「明日は簡易便所を掘るからよろしく。井戸並みに深く掘るつもりだから頑張って下さい」「貴方、小椋さんもお疲れになっているんですからあまり無理をお願いしては・・・」茶山元3佐の作業予定を静が制止した。小山が砂地のはずがないので石を掘り出しながらの作業はかなり大変そうだ。だから小椋元3佐が手伝っている間に実施するのは作業見積りとしては適切だ。小椋元3佐は指揮官=幹部と作業員=陸士の両方の立場になって明日の作業を考えてみた。
  1. 2019/07/27(土) 12:34:37|
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7月26日・ここからの20日間・・・ポツダム宣言が発表された。

1945年の7月26日にアメリカ、イギリス、中華民国が大日本帝国に対して降伏と全滅の二者択一を迫るポツダム宣言が発表されました。
我々の世代が学んだ社会科や歴史の教科書では主語を単純に「連合国が=アメリカ、イギリス、ソ連、中国」にしていましたが、ソ連のヨシフ・スターリン書記長は7月17日からドイツのベルリン市郊外のポツダムで開かれた会議には出席していたものの日ソ不可侵条約を破棄していなかったため署名はせず、8月9日になって対日参戦してから宣言に加わりました。また中華民国の蒋介石総統は代表も送り込んでおらず(1943年のカイロ会談には本人が出席している)電話で説明を受けて同意し、宣言に名前を加えただけでした。したがって戦勝国は中華民国であって毛沢東主席の共産党中国ではありません。さらにイギリスのウィンストン・チャーチル首相はこの7月26日に開票が行われた総選挙で大惨敗(与党・保守党は193議席、野党・労働党は381議席)を喫したため帰国し、宣言はアメリカのハリー・S・トルーマン大統領が1人で3人分を署名しました。
宣言の内容の概要としては1「日本国に戦争を終結する機会を与える」2「日本国の抵抗が止むまで3カ国は軍事力を行使し続ける」3「軍事力が行使されれば日本国と日本軍はナチス・ドイツと同じく完全に壊滅する」4「日本は自国を滅亡に追い込んだ軍国主義者の指導を受けることを継続するか理性の道を歩むかを選択する時が到来した」5「我々の条件は以下の通りであり、譲歩せず、逸脱せず、執行の遅延を認めない」6「日本国民を欺いて世界制服に乗り出した勢力を永遠に除去する」7「戦争能力の喪失が確認されるまで日本国の領域は占領されるべきである」8「日本国の主権は北海道、本州、四国、九州並びに連合国が決定する諸小島に限られる」9「日本軍は武装解除された後、家庭に帰り平和で生産的に生活する機会が与えられる」10「日本人を奴隷化し、滅亡させる意志はない。戦争犯罪人は処罰されるべきである。日本政府は日本人に民主主義を復活させるために障壁を排除するべきである」11「日本は戦争と再軍備に関わらない生産手段を保有できる」12「日本国民の自由意思による平和的な政府の樹立を求める。この宣言の内容が実現した時に占領軍は撤退するべきである」13「日本国政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、保証することを求める。これ以外の選択肢は迅速で完全な壊滅があるのみである」と言うものでした。
この宣言が発表されてから東京近辺の陸軍と海軍の一部の軍人たちが国体の護持=天皇制の維持と勝算が全くない本土決戦に固執して政府の和平工作=宣言の受諾を反乱をチラつかせて(最終的には蜂起した)阻止・妨害し続けたため8月14日に中立国のスイスとスウェーデン公使を通じて受諾を通知するまでの20日間にヒロシマと長崎の原爆投下だけでなく通常爆弾の在庫一掃のようなシラミ潰しの爆撃が継続され、連合国が最後の13条で宣告している「迅速で完全な壊滅」に向けて犠牲者を増やし続けたのです。それにしてもソ連のスターリン書記長がこの会議に出席していたことも知らずに8月9日に裏切られるまで和平交渉の仲介を期待していた日本政府と軍部はすでに脳死状態でした。
  1. 2019/07/26(金) 12:23:43|
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振り向けばイエスタディ1623

陸前高田市の住宅地では復興作業を指導している小椋元3佐に大学生のボランティアたちは作業学の教授のような態度で接していた。小椋元3佐本人としては特別なことをやっているつもりはないのだが陸曹候補生で入校した陸曹教育隊や幹部候補生学校で学習し、部隊で練成した各立場の指揮の基本を適度に実施しているだけだ。
「こんにちは、市の復興ボランティアです。私はこのグループのリーダーを務めている小椋と申します」小椋元3佐は比較的高台にある被災住宅で先に来て作業を始めている家族に声をかけた。今日も住宅街の通り沿いに1軒ずつ片づけていく予定だ。
「K隊長さんのグループが来てくれたなら安心だ」玄関から出てきた家主とその妻は小椋元3佐の顔を見ると安心したように笑った。「K隊長」と言うのはこれまで作業に当たってきた被災住宅の家族が作業服の胸に縫い付けている名札を見て「小椋佳の小椋さんかァ」と言ったことで広まった呼び名だ。大学生たちは世代が違うので小椋佳と言う歌手を知らなかったが、住民たちが口々にこの仇名で呼び、中には「さらば青春」や「シクラメンのかほり」「愛燦燦」などを口ずさむ人もいるため定着してしまった。それでも漢字が判らないのでアルファーベットの「K隊長」にするところが今風だ。
「男子で家具と畳を運び出します。女子は襖と小物です。旦那さんは男子、奥さんは女子と一緒に作業をして下さい。そうすればその場で指示もできますから」小椋元3佐は作業の前に指示を与えたがこれは住人に向けたものだ。学生たちは小椋元3佐の指揮を受けることに慣れ、今では元施設学校教官として「施設基礎作業を習得している」と言う認定状を発行したいくらいの習熟度にある。すると大学生たちは門の前の道路に並んで体操隊形を作った。
「作業の前には準備体操です」「重い物を持つから関節を痛めないように」「膝屈伸から」「1,2、3,4、2、2、3、4・・・」やはり社会に出れば指揮を執る立場に就くことが多い大学生は自衛隊で言う列員(整列した時に並ぶ側)よりも指揮官になってしまうようだ。小椋元3佐の新隊員前期・後期課程の同期に剣物(けんもつ)2士と言う関西地方の大学出身の隊員がいた。剣物2士は教育内容だけでなく生活指導についても区隊長や班長が言うことをその場で理解していたため同期たちは班長に訊くことを面倒臭さがり、剣物2士の指示を仰ぐようになった。すると大人の考え方をする剣物2士は自分の立場を独り悩むようになっていた。
「本当は剣物さんもこんな風に思うままに行動したかったんじゃあないのかな」指揮官も立てないのに過去のパターンで体操を進める大学生たちに合わせて動作しながら小椋元3佐はあの頃は考えもしなかった同期の気持ちを慮った(おもんばかった)。剣物2士は陸曹候補生も一緒になったが、新隊員後期課程の時から一般(部外)の幹部候補生を受験させられ、陸曹に昇任して4年後からは部内との2正面作戦を強いられていた。結局、陸曹として北海道に転属し、そのまま出身地に近い駐屯地に戻った頃までで音信が途絶えてしまった。
「K隊長、体操終わります」指揮官でもないのに体操を仕切っていた女子大生が声をかけてきた。その間に学生たちは男女に分かれ、作業用の手袋をはめて準備を進めている。考えて見ればこの学生たちの中には教員志望者も少なくない。教員は児童や生徒に清掃などの作業を指導する機会があるはずだ。その意味ではこの作業も単なる奉仕活動ではないだろう。
「材点検、1、2」「待って、引き出しを抜くから」男子学生がタンスを持ちあげる前に小椋元3佐から習った通りに手元を確認しようとすると横から女子学生が声をかけた。これであれば作業内容さえ指示すれば後は現場監督すら不要だが、頭が働くだけに勝手な理屈による自己流に走ることだけは注意しなければならない。
「小椋さん、私も自衛隊に入ろうと思うんですが」最終日のボランティア作業が終わって宿泊している避難所の体育館の前の炊き出しの夕食を食べていると女子学生が声をかけてきた。
「自衛隊と言っても君たちなら幹部候補生だね」「でも新隊員が普通なんでしょう」この女子学生は仲間から雑多な情報を仕入れているようだ。小椋元3佐が現役であれば縁故募集になるように新隊員の受験も勧めるところだが、あの頃の剣物3曹の気持ちを噛み締めていただけに口にできなかった。剣物3曹は陸曹としての誇りを感じながら職務に励んでいても周囲は「早く幹部になれ」「陸曹では勿体ない」と勝手な期待を強制していた。やはり適材適所は本人の意思だけでは定まらないのかも知れない。
「自衛隊では自己判断が許されるのは幹部、陸曹は規則と命令の枠からはみ出すことはできない。貴女が自衛隊に何を期待しているかによって棲み分けるべきでしょうね」小椋元3佐の助言に女子学生は真顔で考え込んだ。バブルの時代のキャピキャピ女子学生とは人種が違うようだ。
  1. 2019/07/26(金) 12:21:57|
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7月26日・インカ最後の王・アタワルパが処刑された。

1533年の明日7月26日に事実上は最後となる13代カパ・インカ(インカ国王)のアタワルパ王が処刑されました。在位2年弱、31歳でした。
インカ帝国は文字を用いなかったため歴史は日本の古事記を語った稗田阿礼(ひえだのあれ)のような記憶による伝承によるしかなく、13代のカパ・インカが存在したとされていますが実在が確認されているのは9代のパチャクチ以降です。
インカは現在のペルーからチリ中・北部に当たるアンデス山脈沿いの長大(横幅は広くない)な国土を有していましたが、総延長4000キロに及ぶ街道に240キロごとに配置された飛脚によって統治していました。インカでは収穫物は全て王に捧げられる形で徴収されていましたが一方的な搾取ではなく寡婦や孤児、老人や病人などの労働力とはならない弱者を含む全国民に分配されていたと推察されています。
アタワルパ国王は1502年に11代・ワイナ・カパック王の側室の子として生まれたとされ、父の没後に王太子であった長兄も急逝すると正室(ワイナ・カパック王の妹でもあった=近親相姦)の子である次兄・ワスカルさんと領土を2分割し、ワスカルさんが12代国王に即位し、アタワルパさんは分国の領主になったのです。ところが数年でワスカル王は正室の子である自分だけが正統なカパ・インカであり、側室の子に過ぎないアタワルパさんに臣従を誓うことを強要しました。アタワルパさんがこれを拒否したため両国の間で内戦が勃発しましたが形式上は反乱であり、劣勢に陥って一度は捕獲されますが脱出に成功した後はワイナ・カパック国王の時代からの不満分子が同調したことで形勢を逆転させ、ワスカル国王を捕獲して退位させ、13代カパ・インカに即位したのです。
ところが当時のインカはそのような内輪揉めしている場合ではなく、すでにスペイン国王の命を受けた侵略者たちが上陸しており、即位間もないアタワルパ王にカソリックへの入信と侵略軍の進駐を認めることを要求し、これを拒否するとヨーロッパ圏の法慣習に基づく宣戦布告と見做して攻撃を開始しました。当時の銃は日本に伝来した火縄銃の原形であり、先込め式の単射だったのですが、インカは鉄器を持っていなかったためスペイン軍は剣や槍でも圧倒的有利に戦闘を進め、数では圧倒しながら呆気なく敗走しました。
こうして捕獲されたアタワルパ王はスペイン人の目的が財宝の奪取だと考え、侵略軍の頭目に大量の金と銀を提供することと引き換えに釈放させようとしましたが、領土そのものを目的としているスペイン人には土地の価値を高める効果しかありませんでした。
結局、アタワルパ国王は初めて見る本であった聖書を投げ捨てたことをカミの冒涜として断罪され、形式的な裁判にかけられるとインカの固有宗教で神像を崇めることをモーセの十戒が禁ずる偶像崇拝の重罪として火炙りの判決を受けたのです。ところがインカでは焼死者の魂は転生できないとされていたためアタワルパ国王は恐怖し、「洗礼を受ければ判決に手を加える」と言う神父の誘いに乗って入信し、鉄輪絞首刑で殺されました。洗礼名はフランシスコ・アタワルパで、カソリック式に埋葬されたそうです。ただし、それは南アメリカの人々が強いられている人類史上最大・最悪の殺戮の幕開けに過ぎませんでした。
  1. 2019/07/25(木) 12:56:07|
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振り向けばイエスタディ1622

結局、私は王茂雄(ワン・マオシィォン)中校(中佐)に玉城美恵子受刑者の航空券代を送金し、那覇への直行便で帰国させるように依頼することに決めた。ところが意外なことで頓挫してしまった。昼休みに銀行で2万円を台湾ドルに換金し、郵便局に寄って台湾宛ての現金書留用封筒の入手方法を確認したのだが、担当した若い女性職員は申し訳なさそうな顔で説明した。
「台湾には現金書留は送付することができません」「へッ、何で」意表を突き過ぎた回答にこちらも咄嗟に反応ができなかった。
「台湾では書留通常郵便物は禁制品に該当しますから受けつけることができません。なお、国際郵便為替をお作りになればその証書を送って先方が台湾の郵便局で現金に換金できます。ただし、手数料が2500円必要になりますが」女性職員は受付のカウンターの向こうに立てたデスク・トップのパソコンの画面を見ながら説明した。日本国内の郵便書留でも中身と切手代が変わらないことがあるから2500円を送料と考えれば文句はないが、日本の自衛隊の幹部とは違って高い社会的地位を有する王中校に現金化させる手間をかけるのは無礼極まりない。何よりも台湾ドルに換金したのが無駄になってしまった。兎に角、迷惑をかける女だ。
「宮弁護士、玉城美恵子に日本に帰国するための航空券代が届いたよ」数日後、台北市の中華民国行政院法務部(日本の法務省に相当する)に出向いた王中校は宮寛君(ゴン・グァンジュン=陳江河の偽名)弁護士を呼び出した。宮弁護も職業上の興味から法務部に顔を出すことは歓迎だ。何よりも法務部の玄関ロビーの隅にある面談席に座っていると軍服を着た王中校と一緒にいることだけで周囲は尊敬の眼差しを向けて来る。
「彼女は頼ることができる親族はいないと証言していましたが、出処は誰ですか」宮弁護士は裁判に先立って高額の弔慰金=慰謝料を支払うことで告訴を取り下げさせると言う日本人には一般的な提案をしたのだが、玉城美恵子は始めから受けつけなかった。その後も両親を証言のために出廷させたのだが、台湾人でも気軽に旅行する沖縄からの渡航に手間取り、遅きに失した感があった。実際、執行猶予中も親族と連絡を取っている様子はなく、孤立無援・絶縁状態であることを確信していたのだ。
「送り主は公判中に名前が出た前々夫のモリヤニンジン中校(2佐)だよ。モリヤ中校からは両親が支払ったことにしろと言ってきている。関係を断って20年が経過しているから絶対に知らせないでくれとかなり強硬な文面だった」ここで王中校は離れた席に座っていた上士=下士官を手で呼び、小銭を渡すと3人分の缶コーヒーを買ってくるように指示した。
「モリヤ中校は弁護士でしたよね」「うん、日本の陸軍司令部(陸上幕僚監部)の法務官室で勤務しているよ」宮弁護士は軍に関しては門外漢だが、日本の多くの弁護士にような「反自衛隊=反軍」思想には染まっておらず、国防を国民の義務とする国際常識を身につけているのでこの説明でモリヤ2佐の立場は理解できた。やはり玉城美恵子には不似合いな人物のようだ。
「ところで暫緩緩刑(執行猶予)の間、玉城美恵子(ユーチョン・メイファイスー)は問題なく務めたのかね」そこに上士が無糖ブラックの缶コーヒーを3本持ってきた。この上士は第6軍団指揮部法務官室の事務室に所属しており、専属ドライバーも兼務しているため頻繁に国防部や法務部、軍人が関係している裁判に出向く王中校に同行するので、このような嗜好まで熟知している。その点、甘くミルク入りのコーヒーが好みの宮弁護士は外されてしまった。
「玉城は広東語を学習しないので管理職の評価は芳しくないですが、現場で接している看守や雑役係からは真面目に勤務すると評判は悪くありません。特に理髪師としての腕はかなりのもののようです。我々も被告人の髪が綺麗に整えられるようになってテレビ映りが好くなったと弁護側は歓迎し、検察側は困惑しています」「確かに視聴者が好感を抱くようでは犯罪を憎悪する世論が起きにくくなるからな」台湾でも公判がテレビ中継されるため被告人が与える印象は検察・弁護双方が気を遣う点だが、拘置所から法廷に往復するしかない被告人に弁護人ができることはない。そこに意外な支援者が出現したことになる。この裏話に王中校は納得したようにうなずいて缶コーヒーに口をつけた。
「もう1つ、これは看守が言っていたのですが、死刑執行前に最期の整髪をさせるとその出来栄えを鏡で見た死刑囚が微笑むそうです」「ふーん、帰国させないでそのまま拘置所で働かせたいものだいな」実は台湾には理容師の国家資格はなく、業界の技能検定に合格し、公的機関の営業許可さえ得れば理髪店を開業できるのだが、玉城美恵子の場合は広東語を習得しないため関係法令の学科試験や接客の問題が解決できない。
「帰国しても理髪師に戻れる見込みはないのだろう。君は勧めなかったのか」「理髪以外の勉強には頭が働かないそうです」王中校と宮弁護士は渋い顔を見合わせてコーヒーを飲んだ。
  1. 2019/07/25(木) 12:55:06|
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振り向けばイエスタディ1621

「淳之介から玉城美恵子さんの帰国について相談されたんだけど」その夜、梢から電話が入った。私としては美恵子の航空券代を南城市の元義父母に送り、そこから台湾に送金させて那覇行きの直行便で帰国させる。そうすれば入国管理局の事情聴取は那覇空港で受けることになり、立会人は元義父母が出向けばすむと言う結論を出していた。それにしても私が最も巻き込みたくない人物に相談を持ち掛けた淳之介の軽率な行動は許し難い。私と梢の間に結ばれていた赤い糸が両親に引き千切られて、それを拾った美恵子が自分の薬指に縛りつけなければ結婚することはなかった。淳之介はそんな3人の複雑な人間関係を当事者として注視してきたはずだ。
「淳之介が台湾に行く航空券を頼んだんじゃあないだろうな」「まさかァ、那覇から台湾へ行く2人分の航空券と台湾から那覇へ来る便を3人分買いたいけど幾らかかるのかって訊いてきたのよ」この相談なら梢しかいないのは理解できる。その一方で恵祥が生まれてこれから出費が増える時期に南城市の祖父母に航空券を提供するのも軽率だ。やはり淳之介にとって南城市の祖父母は私の師僧でもある母方の祖父と同じく最大の理解者であり、尊敬に値する肉親であって孝行を尽くすことは道徳的な義務ではなく人間として当然の行為なのだ。
「しかし、淳之介はあかりと恵祥の生活費を安里家に送金しているんだろう。そんな余裕があるのか」「だから私に相談してきたんじゃあない。格安の航空券を何とかできないかって言うのよ」梢の口調には全く不快感がない。本土の常識的な義母であれば娘が出産すれば夫である婿は可能な限り節約して養育費や将来の教育費に備えることを要求するはずだ。それが別れた母親が犯罪者としての刑期を終えて帰国するのに多額の出費をしようとしているのだから腹を立てるのが普通だ。梢の目には淳之介の孝心は尊重すべき美徳に映っているようだ。
「ワシとしては台湾に1人分の航空券代を送らせて那覇空港で入国管理局の事情聴取を受けさせようと考えていたんだがな」「なるほどォ、そうすれば南城市のご両親も那覇で立ち合えばすむ訳ね。流石に一枚上手だわ」梢に感心されて私も電話口で笑ってしまった。
「確かに向こうの出発予定時間が判らないから飛行機の予約には困っていたのよ。確実に乗れそうな夕方か夜の便を予約するつもりだったけど、料金を送って向こうで買わせたた方が正解よ」「当日は裁判所で執行猶予中の素行を確認されて、そこで許可されれば国外退去になるそうだ。アイツは広東語ができないから通訳を交えての審理だと時間がかかるはずだよ。おまけに大馬鹿だしな」最後の台詞は余計だったようで梢は唾を呑んで返事をしなかった。
「それで幾ら送ればいいのかな」「航空会社によるけど1万5千円が基本だね。最近は割安の航空会社も参入してきてるけど、予約が不確実だから国外退去処分で搭乗するには信用されないかも知れないわ」梢の説明で私も自分が出した結論を実行できることになった。後は送金する方法だが、南城市の元義父母に届けるには淳之介から送らせるのが適切とは言え、それでは石垣島と南城市経由になり、現地で航空券を予約するのが裁判に間に合わない可能性もある。私が直接、南城市に送ればすむ話だが美恵子が帰ってくる以上、現在の絶縁状態を維持したいと言う気持ちは強まっている。勿論、淳之介には関与させたくない。そうなると王中校を通じて担当弁護士に手渡してもらうのが現実的なようだ。
「台湾で購入すると台湾ドルだろう。そうなると日本円に比べて割高になのか割安になるのか」これは王中校を通す以上、料金不足と言う失策を避けるための確認だ。
「流石は二枚上手ね。基本的には発展途上国で買った方が割安になるわ。それは郵便や国際電話の料金なんかも一緒よ」再び梢に誉めてもらって今度は少し胸がときめいた。
「それなら2万円で十分だな。あまり高額にすると支度金まで含まれていると思われそうだからな」どこまでも冷淡な私の態度に梢は溜息をついた。
「ところで貴方は何時、恵祥に会いに来られるの」ここで突然、話題が変わった。言われてみれば初孫の恵祥が生まれて1ヶ月が経過しようとしているが、東北地区太平洋沖大震災の災害派遣命令は継続しており、陸上幕僚監部も出動中だ。今回の淳之介の代わりに石垣港で美恵子を出迎えると言う予定も調査のための旅費を伴わない出張の名目を作って行くつもりだった。
「災害派遣が終息しないと特別休暇以外は認められないんだ。それは佳織も同様だ。あかりと恵祥が元気なんだろう」「うん、おかげさまで」梢は落胆を隠すように明るく返事をした。
「梢のご両親は何か言っていないか」「ウチの親は災害派遣が長期化して大変だって心配しているけれど、沖縄では福島原発の事故以外の震災報道はあまりしてないから今一つ実感が湧かないみたい」沖縄の地元2大紙やテレビの地方局は福島原発の事故を首都圏の電力需要を賄うために危険な原発を東北に押しつけたと断定し、本土決戦の前哨戦の舞台にされた沖縄と同じく日本の犠牲者だと扇動している。これを調査すると言うのは出張の名目に使えるだろうか。
  1. 2019/07/24(水) 12:29:30|
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振り向けばイエスタディ1620

私の職場に中華民国陸軍第6軍団指揮部法務官の王茂雄(ワン・マオシィォン)中校(=中佐)から返事が届いた。王中校から突然で初めての書簡が届いたのは「玉城美恵子の判決が下りた」と言う連絡だった。あの時は「玉城美恵子と言う人物とは一切関係を持っていない」と返事をしたのだが、今回はその無関係なはずの人物の釈放と国外退去=強制帰国を問い合わせる羽目になってしまった。どこまで行っても迷惑をかける女だ。
「これは英語で住所を書いていますが、切手に中華民国とありますから台湾ですか」女性事務官は命令と一緒に受け取ってきた書簡類の中に私宛ての私信を見つけて確認してきた。職場に届いた外国からの書簡は私信でも差出人を記録することになっているのだ。
「王中校からだね。ローマ字なら読めるでしょう」「SとHとYはシィって発音すれば良いんでしょうか。だったらワン・マオシィヨンさんです」事務官は誕生日付の自衛官とは異なり、年度一杯の3月31日付で一律に定年退職するが、今年度は大震災の影響で希望者のみ半年延期になっている。曹長と1曹は交代で仙台駐屯地の統合任務部隊司令部に出ているが、これだけ頭の回転が円滑なら大丈夫だろう。その1曹は体力練成で外周走路を走っている。
「そうなると中身も英文だね。しばらく翻訳にかかるからよろしく」封書を受取ってハサミで開けると今回もタイプで打った英文だった。少し長いようなのでパソコンのインターネットの翻訳サイトで済ませることにした。ただし、インターネットの翻訳サイトは原文の言語の言い回しを無理に解釈する誤訳が多いので頭の中でも読解する必要がある。
「お問い合わせの玉城美恵子については暫緩緩刑(=執行猶予)満了の当日に台北地方裁判所で確認公判を受け、刑罰中の生活態度に問題がなければ釈放となりますが、同時に国際退去処分を受け、そのまま台北発で那覇行きの国際フェリーで出国する予定です。フェリーになったのは本人に航空券を購入するだけの資金がなかったからです」英語の表現は単刀直入なので議論や演説には向くが、説明を日本語に直訳すると身も蓋もないことになる。要するに美恵子は航空券が買えないから船旅になって淳之介が迷惑をこうむることになったようだ。
ここで私には2つの選択肢ができた。1つは当初の予定通り淳之介に代わって石垣港で美恵子を出迎え、入国管理局の事情聴取に立ち合って次のフェリーに乗せること。もう1つは航空券代を送って台湾から那覇空港に直行させて関わりを持たないかだ。
現在の私は引き続き担当しているイージス護衛艦と漁船の衝突事故の控訴審は新たな展開もないまま海難審判と1審の事実認定の齟齬だけが論点になっている。大震災の災害派遣は8月一杯を目途に撤収が予定されており、法律上の問題は発生しそうもない。福島原発の冷却作業に従事した隊員の健康被害も現時点では報告されていない。つまり私には比較的余裕があるのだが、その貴重な時間を美恵子に使うのには抵抗がある。その一方で弁護人として入国管理局の事情聴取に立ち合い、日本での過失致死罪での立件を表明して本人を精神的に追い詰める加虐趣味な楽しみ方もある。石垣港から乗せるフェリーから身投げしてくれれば禍根が断てる上、少しは腹も癒えると言うものだ。
「モリヤ2佐、何だか凄く悪い顔をしてますよ。いつもは有り難い坊主さんの頭が反社会的勢力の人みたいに怖ろしく見えました」2つの選択肢を思案していると書類を整理し終えた女性事務官が声をかえてきた。視線を向けると少し怯えたような顔になっている。
「凄く悪いこと」を考えていたのは確かだ。下手すれば舌舐めずりした涎(よだれ)が垂れていたかも知れない。淳之介とあかりの間に恵祥が生まれ、眼前に明るい未来が開けたように感じているところに私自身も決して許すことができない過去の悪夢を甦らせるような帰国だ。こうなれば猫が捕まえたネズミを殺す前に玩具にするように玉城美恵子と言う女を徹底的に苛め抜いてやらなければこの悪縁に区切りをつけることはできそうもない。モリヤ家と同じく距離を置くことで封印してきた私の中の憤怒と憎悪が一気に燃え上がったような気がする。
「貴女はそう言うけどワシは3人の若者をこの手で殺した阿修羅だよ。下手なヤクザ屋さん・・・元へ、反社会的勢力の人間よりも血に塗(まみ)れているんだ。貴女はたまたま素顔を覗いてしまっただけだよ」私の返事に女性事務官は何故か哀しげな顔になった。
「私もモリヤ2佐の事件は知っています。だけどご一緒に仕事をさせていただいてあれは自衛官と言う職業が負う責任の遂行だったと納得しています。そんな風に自分を傷つけるような言い方はしないで下さい」これでは早く1曹が帰ってこないと危ないことになりそうだ。
「法然上人は幼い頃、屋敷を襲撃した敵を弓で殺したんだ。その罪から救われる教えを探し求めて念佛に至った。その点が女好きを重罪だと悩んだお公家さんの息子の親鸞とは次元が違うんだよ」とりあえず場違いな法話で怪しい空気を拭き消した。「カーン」=不倫の鐘ではない。
  1. 2019/07/23(火) 12:20:25|
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7月23日・サンダース軍曹を演じたヴィック・モローが殉職した。

1982年の明日7月23日に人間ドラマ「コンバット」で主役のチップ・サンダース軍曹を演じた俳優・ヴィック・モローさんが映画「トワイライトゾーン・超次元の体験」の第1話「偏見の恐怖」の撮影中の事故で殉職しました。53歳でした。
「コンバット」は日本では単純に「戦争映画のドラマ版」と思われていますが、アメリカでは「戦争を題材にした人間模様」を描いたヒューマン(人間)・ドラマと称されています。実際、戦闘シーンは特撮ドラマの「ウルトラマン」と同様に最後の締め括りだけで、それまでは軍隊内の階級による命令と服従、任務と個人の感情や能力による葛藤と苦悩、叱咤と克己、そして信頼関係などの人間模様が序幕として展開し、それらも「戦闘と言う命の遣り取りの前では些末事に過ぎない」と思い知らされるのが基本的な物語の流れでした。このためドイツ兵も悪役としては描かれておらず、アメリカ兵と同様に怯え、悩みながら戦闘に臨み、最後は敗軍として死ぬ運命にある悲劇の犠牲者になっていました。
ドラマはノルマンディ―上陸作戦(ドラマではオーバーロード作戦と称していた)後のフランス戦線で、戦闘に従事するアメリカ陸軍第361歩兵連隊第3大隊K中隊のギルバート・ヘンリー少尉が率いる第2小隊の第1分隊が舞台です。
モローさんが演じるサンダース軍曹はアメリカ中西部出身で5人兄弟の長男ですが、12歳で父親を亡くしたためアルバイトに励んで母親を助けながら高校を卒業してからも家族のために働き続けていた中、日本の真珠湾攻撃でメリカも参戦することになって現実逃避のために軍隊を志願したのです。軍隊では長男気質の苦労人だったことを評価されて伍長に昇任しますが、前線に送られると服務規律違反や負傷が相次ぎ、降格と昇任を繰り返しながら実戦経験を積み、ドラマの頼りになる25歳の鬼軍曹に成長したのです。
一方、実際のモローさんは1929年にニューヨーク市でも治安が悪いことで有名だったブロンクス区でロシア系ユダヤ人の子供として生まれました。アメリカが第2次世界大戦に参戦していた17歳で高校を中退して海軍に志願しますが、満期除隊後に夜間高校に通って卒業資格を習得しています。その後、フロリダの大学に進学して法律学を学びますが、メキシコ市の大学の演劇科に転学して、卒業後はニューヨークの俳優養成所を経てブロードウェイに進出しました。そうして1962年から1967年まで放送された「コンバット」に出演したのです。
「トワイライトゾーン・超次元の体験」の第1話「偏見の恐怖」は人種差別主義者が酒場から出ると未知の世界=ベトナムの戦場に迷い込んでいたと言う物語で、ベトナム人の子供を助けることで差別意識を克服するラスト・シーンを撮影していたのです。しかし、ロサンゼルス市の北80キロの砂漠で撮影中、爆発・炎上シーンの演出のため上方で爆発させた模擬弾の爆風でヘリコプターが墜落し、吹き飛んだローターによって両腕に抱えていた子役2人(中国系アメリカ人)と共に俳優にとっての殉職を遂げてしまいました。
日本の衝撃映像の特集番組で公開されたこのシーンでは「影」とは言えモローさんの首は回転して飛んでくるローターで切断されて飛んでいました。
  1. 2019/07/22(月) 12:29:19|
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振り向けばイエスタディ1619

小椋元3佐と宇田1尉は第9施設群が実施している復興作業の現場を一巡して指揮所と市の災害復興本部が同居している建物に戻った。
「こちらは陸上自衛隊施設学校の元教官で、現在は愛知県のシンジョー市サクテ総合支所の職員をやっている小椋さんです」宇田1尉はボランティアの担当者に小椋元3佐を紹介したが地名を間違えた。こちらに到着して再会を果たした時に作ったばかりの名刺を渡したのだが、「新城(しんしろ)市」と「作手(つくで)総合支所」を誤読している。
「シンシロ市役所ツクデ総合支所の小椋です」小椋元3佐は宇田1尉の隣りで1科長時代に身につけた温和な態度で挨拶をしながら名刺を手渡した。すると担当者は何故か戸惑ったような顔で名刺を受け取った。
「自衛隊さんは名刺交換されないようなので用意していませんでした。失礼しました・・・」確かに自衛隊では制服と名札で自己紹介の用が済むため名刺を交換する習慣はあまりない。さらに部外者と個人的に親密になることを妙に警戒する内向きな気質があり、「自閉隊」と揶揄されることもある。小椋元3佐も1科長になるまで名刺を持っていなった。
「シンジョー市と言いますと愛知県のどの辺りになりますか」担当者は小椋元3佐が口頭で訂正しながら名刺を渡したにも関わらず宇田1尉の誤読を繰り返した。
「シンシロ市は愛知県でも東の端で静岡県に接しています。また長野県に続く飯田街道も通っている古くからの交通の要衝です。ただし、ツクデは新城市街を見下ろす高原地帯なので主要幹線からは外れています」「これはシンシロ市とツクデ総合支所と読むんですね」ここでようやく誤読の訂正ができたようだ。それにしても岩手県で愛知県と静岡県、長野県の位置関係はどこまで認知されているのか。小椋元3佐自身も東北各県の並びくらいは知っていても市町村の位置までは判らない。何はともあれ明日からは復興ボランティアに励むことになる。
「こちらは皆さんのリーダーを務めてもらいます愛知県新城市の職員の小椋さんです」翌朝、市の災害復興本部が入っている建物の前に集った若者たちに担当者が小椋元3佐を紹介した。昨日、移動してきて避難所になっている体育館に宿泊したそうだ。、
「わーッ、小父さんなのに大きい」「ウチのパパと全然違う」「俺よりも背が高いな」「この服、自衛隊みたい」「昔の陸自の作業服だな。靴も陸自の半長靴だ」前で直立している小椋元3佐を見て若者たちは忌憚のない(?)品評会を始めた。この若者たちは埼玉県の大学生だがボランティアで単位を取得できることになり、暑さが本番になる前に実績を作っておこうと仲間でやって来たらしい。そこには「集団で欠席すれば教授が休講にする」と言う計算もあるようだ。この話を担当者から聞いて小椋元3佐は現代の若者気質に呆れていた。
「小椋です。ご紹介にありましたように今は新城市の職員ですが先月まで陸上自衛隊に勤めていました」ここで小椋元3佐が自己紹介した。市の担当者としては「元自衛官」と言う経歴を隠すつもりだったようだが小椋元3佐はあえて明確にした。すると大学生たちの間に不思議な緊張感が走り、全員が黙って背筋を伸ばした。
今日の作業は市内でも比較的高台にある住宅地の倒壊を免れた家屋の清掃と復旧だった。震災から2カ月が経過して被災者たちも自宅戻るための準備を進めているが、建物は無事でも海水と泥水に浸かった内部は家具や電化製品、畳や襖まで搬出しなければ清掃にも手がつけられず、個人ではどうしようもなかった。
「それでは作業にかかる前に準備運動をしよう」担当する家に到着して住人の出迎えを受けると小椋元3佐は学生たちに声をかけた。学生たちは顔を見合わせたが小椋元3佐は身振りで隊形を指示し、道路上で両手を広げられる間隔を作った。
「重い物を運ぶから先ず膝屈伸から・・・1、2、3、4、2、2、3、4」「・・・2、2、3、4」小椋元3佐の号令に正面の女子大生が合わせ始める。それが広がり、小学生の夏休みの朝のラジオ体操にような風景が被災地の街中に広がった。
「腰を痛めないように膝で持ち上げるんだ」「手を傷つけないように持つ前に手元を確認しろ」「息を合わせて持ち上げるぞ。ソーレッ、1、2」小椋元3佐は新隊員後期課程の助教を務めた時を再現するかのように学生たちに細かく注意を与え、模範動作を見せている。始めは周到な陸上自衛隊式動作を面倒臭がっていた男子学生たちも黙って従うようになってきた。
「小椋さん、写真を撮らせて下さい」「教師になった時の参考にしますから動画もお願いします」作業が進むうちに女子大生たちは携帯電話を構えて画像の撮影を始めた。
「撮影は1名にして他は作業を継続するように」「はーい、判りました」「流石ァ」小椋元3佐は施設学校で一般(部外)課程出身の女性の幹部自衛官の教育を担当したことがあるが、その時に感じた困惑が蘇ってきた。
  1. 2019/07/22(月) 12:28:18|
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振り向けばイエスタディ1618

茶山家で2日間の休養をとってから小椋元3佐は私有車で陸前高田市に向かった。先週末に船岡駐屯地から現地災害派遣部隊に連絡を取ったが、第9施設群の作業指揮官は前川原の幹部候補生学校と勝田の施設学校の初級施設幹部課程の同期だった。小椋元3佐は30歳を過ぎてから部内課程に合格したため同期の中では年長で(部内課程の受験資格は陸曹に昇任して4年以上を経過し、入校時の年齢は25歳から35歳まで)定年も早かった。したがって20歳代で入校していた同期たちはまだ現役の中堅幹部なのだ。
「小椋教官、お久しぶりです」現地指揮所で待っていたのは勝田の初級幹部課程では同期でも上級施設幹部課程(=AOC)では教官と学生になった宇田1尉だった。
「それにしても定年後まで自主的に災害派遣に出動するとは流石と言うか相変わらずと言うかですね」宇田1尉は皮肉ではなく本気で感服しているようだ。幹部候補生学校の部内課程では陸曹気分を払拭するため追い詰めるように無理難題が科せられるのだが小椋候補生は常に泰然自若としていて大柄な体形と共にズバ抜けた存在感を発揮していた。
「それにしても凄まじい被害だね。先週は石巻へ行ってきたが、津波の破壊力の度合いが格段に違うようだ」宇田1尉が指揮所の壁に掲示してある陸前高田市の地図を指して被害と作業の現状の説明を始めると小椋元3佐はここに到着するまでに通過してきた市街地の惨状に対する分析を述べた。石巻市で倒壊していたのは木造家屋が中心で鉄筋コンクリート製の建物は残っていたが、陸前高田市では鉄筋コンクリート製でもガラス窓が枠ごと破られて、そこから流れ込んだ海水で部屋の仕切る壁も突き倒され、コンクリートの外壁も崩れていた。
「はい、爆破訓練で鉄筋コンクリートの建物を破壊しろと言われてもあそこまでやる自信はありませんよ」宇田1尉の謙遜に教官だった小椋元3佐は少し渋い顔をした。しかし、世界でも類がないほど耐震性が高い日本の建物が、地震に耐えながら津波によって破壊されてしまった。テレビでは上空からの中継の映像だけだったが、迫りくる巨大な波に飲み込まれた犠牲者たちが味わった絶望的な恐怖には背筋が凍りついてしまう。
「先ずは作業現場を案内しましょう」説明が終わったところで宇田1尉は小椋元3佐を外に連れ出した。指揮所が入っている公共施設は比較的高台にあるはずだが、それでも使用可能なのは3階以上だ。この建物も津波で水没した跡が壁に染み込んでいる。
「1名だけじゃあ作業員としては役にも立たんが復興作業支援としてやれる仕事を与えてくれ」宇田1尉に第9施設群群が瓦礫の撤去を実施している現場に案内すると小椋元3佐は懐かしそうな顔をしながら申し出た。本来であれば現場での作業指揮官だけでなく陸曹時代に取った杵柄でトラックの運転手、建設機械の操縦手でもやれるのだが、ここでも自衛隊と言う組織の硬直性が退職して1ヶ月にならない小椋元3佐の意志を阻んでいる。
「小椋教官には陸前高田市のボランティアに応募した上で作業指揮官を勤めていただく予定です。市の担当者も大いに期待していますから頑張って下さい」宇田1尉の説明に小椋元3佐は安堵したようにうなずいた。これが配慮に対する感謝を示しているのは言うまでもない。
「それにしても宇田1尉は八戸が長いね。AOCも八戸からだったろう」次の作業現場に移動しながら小椋元3佐は宇田1尉に雑談をしかけた。
「一度、岩見沢へ転属しています。おかげでPKOも経験できました」この返事に小椋元3佐は反対側の顔をしかめた。実は幹部候補生学校に入校中に豊川を含む第4施設団がカンボジアPKOに派遣され、その後も熱望を繰り返したが参加できないまま定年を迎えてしまったのだ。
「第12施設群が行ったPKOと言うと・・・」「アフリカの北キボールです。イラク派遣の陰に隠れて目立ちませんでしたけどイスラム圏での活動の予行演習みたいな面もありました」小椋元3佐はこの説明に北キボールPKOには妙な知人も参加していたことを思い出した。
「北キボールにはモリヤ1尉も行っていなかったか。俺は彼が収監されていた東京拘置所に面会に行ったことがあるんだ」「へーッ、小椋教官の人脈は凄いところにまで及んでいるんですね」宇田1尉は感心してくれたが、小椋元3佐としてはあまり有り難くはない。陸上自衛隊の常識を体現する1科長にとってモリヤ2佐は理解不能の要注意人物だったのだ。
「モリヤ2佐は坊さんとしてイスラム教の神官(ウラマー)と一緒に地鎮祭をやったり、食材として屠殺する山羊の供養をやったりと宗教関係で大活躍していたんですが、最後はやはり普通科の幹部でした。自分としては普通科連隊長として実戦経験を訓練に反映してもらいたかったですね」小椋元3佐もモリヤ1尉(当時)が北キボールで戦闘に巻き込まれて現地の若者3人を殺害した事件については服務事故関連の資料で読んでいる。その点、宇田1尉は現地で見ていたので具体的な事実を知っているはずだ。しかし、今回は深入りすることは避けた。
  1. 2019/07/21(日) 13:17:34|
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振り向けばイエスタディ1617

今回も石巻市での復旧作業支援は5日間で終わり、高齢者たちの疲労回復に配慮して次回は2週間後になった。当然、小椋元3佐も一緒に船岡に戻ったがどこか不満そうだった。
「自分も岩手県の被災地を見たいんですが」茶の間で茶山夫人の静が用意した夕食を食べながら小椋元3佐が相談のような口調で希望を述べた。このように相手から結論を引き出すのは3人兄弟の末っ子として育った小椋元3佐の話術だ。
「岩手の被災地って言うとリアス式海岸の津波被害のことだね。それなら陸前高田が一番近いな」茶山元3佐は家の味噌汁を味わいながら淡々と説明した。小椋元3佐は船岡までの経路は詳細に調べたが、岩手県までは手が回らず陸前高田市の位置も判らなかった。
「陸前高田は奇跡の一本松で有名なところですよね」「うん、波高15・1メートルの津波で全家屋8069軒のうち4063軒が被災し、そのうち3081軒が全壊と言う壊滅的被害を受けたんだ。そんな中で倒れずに残ったのが奇跡の一本松だよ」ここまで正確に数字を並べられることでも茶山元3佐の頭脳が年齢的な衰えを来していないことは明らかだ。
「石巻市内も空襲の後みたいに建物がなくなっていましたがもっと酷かったんですか」「石巻市内は仙台の建設業者が入って機械力で撤去を進めているから空き地になっているが、岩手県内ではまだ瓦礫が山をなしている。岩手県内は中小の建設業者が各地に分散していたから自分が被害者になってしまったんだよ」都市部のマスコミはこのような復興が進まない背景を説明していない。新聞紙面には連日のように「過去に例がない甚大な被害」「一向に進まない復興工事」などと大売り出しのような見出しが躍り、テレビの出演者も沈痛な顔で映像を解説しているが単なる机上の作文、台本の朗読だったようだ。
「自分はまだ若いですから1週間も休養はいりません。来週は陸前高田に行ってみます」小椋元3佐にしては珍しく意思表示を宣言した。確かに大震災の復興作業支援に参加するため遠路はるばる東北までやってきて高齢者のペースの作業だけでは不完全燃焼なのは間違いない。
「それは結構だけど、実は私にもお願いしたい仕事があったんだよ」思いがけない返事に小椋元3佐は口につけた汁椀を止めた。
「私は定年後に近所の小山を買ってそこに廠舎(演習場内の宿泊施設)を作っているんだ。ところが大震災で復興支援に行くようになってから作業は止まったままになっている。だから小椋くんに手伝ってもらって遅れを取り返そうと思っていたんだ」小椋元3佐としても尊敬する施設の大先輩である茶山元3佐が独力で建設しようとしている宿泊施設には興味を引かれる。設計図から資材調達、作業見積もりと手順などを見聞して帰れば自宅の裏山にも同様の施設を建設できるかも知れない。それでも茶山元3佐はいつもの通り「選択は任せる」と言う態度だ。小椋元3佐は飲みかけていた味噌汁を口に流し込みながら思案した。
「新たな職場には1ヶ月間の休暇をもらっています。と言うよりも自宅に戻ってから正式採用になります。今までは臨時勤務扱いでした」地方公務員にも自衛隊と同様にボランティア参加の特別休暇はあるが、新入職員の見習い中では無理だったようだ。
「だから来週は陸前高田へ行ってその次は船岡OB部隊に参加して、最後の1週間は中隊長のアジト造りをお手伝いしてから帰りたいと思います。折角、東北まで来たんですから盛り沢山な経験をして帰らないと勿体ないですよ」小椋元3佐の返事を聞いて茶山元3佐は箸で摘まんだオカズを口に入れた。その顔はあまり喜んでいない。
「無理はしないでくれよ。我々よりも若いのは確かだけど君だって50歳代半ばの林住期に移ったんだ。これからは心静かに人生を振り返って穏やかな晩年を迎える支度をしなければいけないよ」茶山元3佐は不思議な世界観を持っていて驚かされることがある。この教示はヒンドゥー教など古代バラモン教の流れを汲むインドの土着宗教のシュードラ(奴隷)を除く階級にある者の信仰生活の在り様(ありよう)だ。人生を将来に向けて修業する学生期、仕事を為して家族を養い子孫を残す家住期、仕事を終えて家を離れ、これまでの生活を反省して精神を高める林住期、そして何物にも囚われることなく身心ともに自由になって大自然と一体になっていく遊行期の四住期に分けている。茶山元3佐が定年退官後も正式に再就職しなかったのもこの考え方を実践しているのかも知れない。
「おかわりはいかがですか」そこに静が入ってきた。静は2人の汗と泥で汚れた衣類を洗濯機に入れて回している。小椋元3佐としては作業服や中に着ていたトレーナーは兎も角として下着を人妻に洗わせることには抵抗があったのだが、玄関先に並べた演習バッグから強引に提出させらると四の五を言わさず洗濯場に持って行ってしまったのだ。
「はい、お願いします」小椋元3佐は恐縮しながら茶碗代わりの丼ぶりを差し出した。
  1. 2019/07/20(土) 12:22:57|
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振り向けばイエスタディ1616

「遺骸の収容は終わっているそうだから波で海に流出しないように防波堤の位置まで引き揚げるだけだな」今回も準備運動に自衛隊体操を実施してから作業にかかると参加者の中では新山元将補の次に高齢の元3佐が第44普通科連隊の指揮所で聞いてきた話を披露した。それを聞いた参加者たちは安堵したように少し表情を緩めたが、小椋元3佐は顔を強張らせて一緒に廃材の山の解体に取り掛かっている茶山元3佐に声をかけた。
「やはり遺骸を回収したんですか」「そのために捜索してるんだから当然でしょう。底引き網を回収しようとしていて津波に巻き込まれた漁船では船主が魚と一緒に漁網に絡まっていたよ。建物の形を維持したまま流されてきた家屋の中では衣類をカバンに詰め込んでいて逃げ遅れた家族がタンスの下敷きになっていた」茶山元3佐は感情を交えず淡々と説明したが、愛知県で見るマスコミの報道では死者と行方不明者は数字だけで写真はおろか遺骸の状況も説明していない。衛星放送で見ているCNNなどの海外のニュースでは被災地の悲惨さを事実として伝えるため遺骸なども映しているらしいが、NHKは視聴者の目に触れないように編集を加えており、実情を直視する機会は奪われている。
小椋元3佐は本来、動物の死骸でさえ目を背けるような性分なのだが「元自衛官として惨状を見ておきたい」と考えながら作業にかかった。すると廃屋の中に残っていた炬燵の下から猫の死骸が見つかった。まだ寒かった3月11日では炬燵を抜けて逃げる気にはならなかったのだろう。津波が押し寄せた時には冷たい海水の中で溺死するしかなかったはずだ。
久しぶりの施設基礎作業と猫の死骸の埋葬を終えて宿営地に戻ると宴席が設けられていた。勿論、外部に漏れないように2つの業務用天幕に分かれて元幹部と連隊の各科長と中隊長、元陸曹と各中隊の先任陸曹の会合と言う形式を取っている。
「先ず犠牲者に黙祷を捧げましょう」乾杯の前に連隊長の堀脇1佐が殊更に沈痛な表情で声をかけた。どの災害派遣部隊の宿営地でも夜には犠牲者の亡霊が現れると言う。船岡の施設OB部隊も最初に野営した名取市の閖(ゆる)地域で魂魄の集団の来訪を受けている。そのため出席者たちも神妙な面持ちで目を閉じた。
「それでは諸先輩方の忌憚のないご意見とご教授を給わるべく潤滑油を飲むことにします。乾杯」次に副連隊長の発声で缶ビールを掲げ、宴席が始まった。そんな中、新山元将補と堀脇1佐が声をひそめて深刻な話をしていた。
「閣下は岩手県内の被災地にも行かれたのですか」「うん、毎回ではないが陸前高田市と宮古市には行ったよ」新山元将補の返事に堀脇1佐は軽くビールを飲んでから話を続けた。
「岩手県内では尾沢一郎を通してでなければ建設会社に復興工事が発注できないと言う噂があるそうですね」「それは噂ではないようだ。実際に政府の復興事業計画に介入して地方自治体の入札による大手ゼネコンへの発注を阻止して自分の息がかかった建設会社に分配していると聞いているよ」やはり各地方防衛施設局にも配置がある施設幹部の人脈は旧建設省、現在の国土交通省にも広がっているようだ。
「問題は地元の人間たちは尾沢の力で復興事業を誘致できると吹き込まれて、岩手県内での支持基盤を盤石にしようとしていることです。すでに水面下では衆参両院の議員だけでなく地方自治体の首長まで尾沢の子分を立てる動きが公然化していると聞いています」「彼の利権の収奪と政治的策略だけは天下一品だからな」自衛隊でも高級幹部には自民党の飼い犬として固定票を投じている一般の隊員には見えない一歩踏み込んだ政治の裏側が見えるらしい。
「中には災害派遣部隊の配置も尾沢の力で決められたなんて有り得ない噂もあるようです。岩手県の海岸沿いには八戸の施設部隊が分散配置された上、宮古市には最精鋭部隊が投入されたのも尾沢の意向だったと言うんです。確かに宮古市の大型の津波には全く役に立たなかった巨大な堤防も尾沢が作っていますから格別な思いがあるのかも知れませんが」「と言う噂になっているんだね。そんな世論操作も尾沢の得意技だ」新山元将補は中央で勤務していた時、尾沢一郎と言う新進気鋭の政治家が官僚とマスコミを手懐ける手法も耳にしたことがあるが、要するに金丸信直伝の利益誘導と冷遇、懐柔と恫喝の使い分けだ。
「この調子では今後も岩手県では尾沢が君臨することになります」「それだけじゃあない。仮に自民党に政権が戻っても予算が確保できなければ復興事業は地元の期待通りには進まないだろう。それが尾沢の影響力を自民党が阻害していることが原因と言う噂が流れれば国政選挙では不利になる。ところで尾沢は被災地の慰霊に来たのかね」ここで新山元将補が缶ビールを口に運んでから皮肉な口調で質問した。岩手県を選挙区とする尾沢一郎は大震災以降、一度も地元に戻っておらず8月の犠牲者の初盆の法要にさえ参加しなかったのだ。
  1. 2019/07/19(金) 12:12:25|
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女優でモデルの純アリスさんの逝去を悼む。

昭和40年代の後半のテレビ・ドラマで活躍し、野僧が勉強の合間のオカズが必要になった頃、清楚な美貌と控えめな肢体で魅了して下さった純アリスさんが7月12日に癌で亡くなったそうです。66歳でした。
同級生たちはテレビなどで活躍している(いわゆる)ハーフのタレントたちの豊満な肉体や好色そうな顔つきを比較しながら羨望の声を上げていましたが、そんな(いわゆる)ハーフの固定観念に対してアリスさんはどこまでも清純で上品な雰囲気を醸し出す稀有な存在でした。アリスさんは昭和28(1953)年に日本が独立した後も朝鮮戦争のため広島に駐留していたニュージーランド兵と日本人女性の間に生まれた子供で両親は結婚しています。そのためアリスさんはニュージーランド国籍でしたが、純アリスと言うのは芸名で本名はマリー、結婚後に漢字表記にして雅璃子(まりこ)になりました。しかし、2歳の時、朝鮮戦争の停戦によりニュージーランド軍が撤退したため両親は離婚し、母親はアリスさんを兵庫県神戸市在住の自分の母親=祖母に預けて上京してしまいました。そうして中学2年の時に上京しましたがそれも母親ではなく叔母の家に身を寄せたそうです。
このためアリスさんは家族団欒と言うものを知らずに成長したのですが、東京キットブラザース(ブラザーズではない)のほぼ同期入団の俳優と結婚してから築いた家庭は円満であり、息子たちも立派に成長しています。
野僧はチャネル権を持っていなかったためアリスさんが出演していた「ママはライバル」や「どっこい大作」などのドラマは視聴できず、先輩からもらった週刊プレイボーイや平凡パンチのグラビアを堪能しただけですが、性的興奮よりも美術部の部長的な鑑賞だったように思います。
久しぶりにアリスさんの写真を見ると聡明で生真面目そうな容姿は晩年まで変わらなかったようです。冥福を祈ります。
純アリス純アリスさん
  1. 2019/07/18(木) 13:08:19|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ1615

船岡施設OB部隊12名と特別参加の小椋元3佐を乗せた4WDのワゴン車2台は石巻市を担当している第44普通科連隊の指揮所を訪ねた。石巻市への支援活動は2回目になるので出迎えた主要幹部も親しげだ。勿論、船岡駐屯地を通じて事前連絡は入れてある。
「これは閣下、お初にお目にかかります。連隊長の堀脇です」指揮所内で待っていた連隊長の堀脇1佐は新山元将補に十度の敬礼をした。現在の連隊長クラスはアメリカ留学やPKOなどで外国軍と一緒に勤務した経験を有する者が多いので手を差し出して握手を求めるのが一般的だが、帝国陸軍出身者の薫陶を受けた世代は外国流を嫌うことが多いので控えたようだ。
「44普連の長期にわたる派遣のご苦労には敬意を表し、感謝を申し上げます。私も前回は疲労回復が間に合わずに不参加になりましたが、今回は老骨に鞭打って作業員の末席に加えてもらいました」防衛大学校の先輩には珍しい新山元将補の謙虚で丁寧な態度に堀脇1佐は困惑した表情を見せたが、60年や70年安保の反自衛隊闘争への対応を経験している苦労人たちの中にはこのような紳士も存在する。施設幹部の新山元将補は部外工事などで自治労の巣窟だった地方自治体や大流行していた「反戦平和」に同調した地元住民との調整に当たってきただけに演習場と駐屯地で帝国陸軍風の豪傑を演じていた裸の王様たちとは意識が違うのだ。
「前回、船岡の皆さんには海岸線に打ち上げられている倒壊家屋や転覆船の捜索を担当していただきましたが、当連隊は北上川の津波の逆流による被災地の復旧を実施していますので、今回は北上川の河口付近をお願いしたいと考えています」新山元将補と連隊長の対面の挨拶が途切れたところで3科長が指揮所内に掲示している石巻市の地図を指で差しながら説明を始めた。宮城県の石巻市には早い段階から大型建設機材と豊富な経験を持つ建設会社が投入されており、陸上自衛隊でも人海戦術を専らにする普通科連隊は市街地から郊外の山間地や沿海部に活動場所を移しているようだ。
「やはり民間人に遺骸を見せる訳にはいかないんですね。トラウマって奴になってしまうから」「最近はピーチ―エスデーって言うらしいよ」連隊と船岡施設OB部隊の主要幹部たちの業務調整から一歩引いた位置で小椋元3佐が話しかけると茶山元3佐が妙な説明をした。テレビでは福島原発の放射能被害の報道が過剰であるとの批判を受けて一般の被災者の健康被害と予防策の解説にも話題を広げている。船岡でも電力の復旧が遅れていて、今も思うようにテレビを視聴できないから茶山元3佐は公共施設で見たのかも知れない。
「それを言うならピーティーエスディー(PTSD=心的外傷害後ストレス障害症候群)ですよ」「そうかね。私もそう言ったつもりだが」「これは失礼しました」この会話は312中隊の中隊長と陸曹の時と変わらない。茶山元3佐は殊更に命令口調を使う幹部が多い中で東北訛りの朴訥な話し振りで、陸上自衛隊の常識を通してしか人物を見ない古参陸曹とその門下生からは「お上りさん=田舎者」「お人好し=頼りない」などと陰口を叩かれていたが大多数の隊員からは圧倒的な人気と信頼を獲得していた。
「これが津波の被害ですか」自衛隊によって復旧した道路を通って海岸線に到着すると小椋元3佐は言葉を失った。北上川の河口付近は小高い山が海岸線にまで迫っており、川岸を堤防で区切ったような狭い平地しかない。その短い海岸にも北上川を逆流した津波が引き戻す時に流してきた倒壊家屋や押し上げた廃船と養殖の筏(いかだ)などが山積みになっている。
「これでも岩手県のリアス海岸に比べれば少ないものだよ」「うん、まだ地面が見えているからな」小椋元3佐が絶句するとワゴン車に同乗している船岡の元3佐たちが少し皮肉な口調で返事をした。船岡施設OB部隊は「民間人には遺骸を見せない」と言う行政指導を受けていても災害派遣部隊や消防、地方自治体は市街地での救援と復旧作業に手一杯なため「こぼれ球拾い」として海岸線の遺骸捜索に当たってきた。そんな中、岩手県の断崖絶壁に挟まれて先細りになっているリアス式海岸では津波は想像を絶する高さまで上昇し、破壊力は巨大になっていた。そのため海岸線には防波堤で止められた倒壊家屋が山積みになり、小型の漁船だけでなく巨大な観光連絡船まで打ち上げられていた。
「小椋くんの地元の和歌山も津波の被害に遭ったことがあったんじゃあないか」ここで助け船のつもりなのか茶山元3佐が声をかけてきた。
「はい、和歌山も江戸時代の宝永や安政の大地震、昭和の三河地震と南西地震で津波に遭っていますが、海岸線が岩手県とは違いますからここまで大きな被害は受けていません。むしろリアス式海岸の三重県の鳥羽の方が酷かったそうですよ」和歌山県でも小椋元3佐の出身地である新宮市は昭和21年12月21日に発生した南海地震では大きな被害を受けたが、津波は串本で6メートル57センチを記録したとは言えその大半は火災によるものだった。
  1. 2019/07/18(木) 13:04:26|
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7月18日・「宮沢」と間違えては駄目!宮本顕治の命日

2007年の7月18日は最期まで革命政党としての日本共産党で君臨していながら、死後は大衆政党への路線転換のため急速に消去された宮本顕治委員長の命日です。
昭和63(1988)年2月6日の衆議院予算委員会で共産党の議員の挑発を受けた浜田幸一委員長が「我が党は旧来より、終戦直後より、殺人者である宮本顕治くんを国政の中に参加せしめるような状況を作り出した時から日本共産党に対して最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました」と発言し、その議員が宮沢喜一大蔵大臣への質問中にも昭和8(1933)年12月24日に発生した共産党による党員リンチ殺事件=査問事件を解説した後で「私が言っているのはミヤザワケンジが人を殺したと言っただけじゃあないですか」と一方的に繰り返しました。この姓を取り違えるのは浜田委員長に限った話ではなく、以前はテレビの報道バラエティーなどでも政治屋やベテランの言論人が言い間違えた後、宮本と宮沢で混乱して失笑を買うことがありました。
宮本委員長は萩市出身の野坂参三名誉議長と同じく山口県の光市出身です。旧制徳山中学校を卒業し、旧制松山高校へ進学した頃から文学に目覚め、東京帝国大学在学中に芥川龍之介の評論が雑誌の懸賞に首席当選して文壇デビューを飾りました。次席だったのは後に評論界の重鎮になる小林秀雄さんでしたから宮本委員長の際立った実力が判ります。
しかし、当時の日本は大正デモクラシーの自由民権運動が明治期のヨーロッパへの留学生が持ち込んで水面下で蔓延していたマルクス主義の階級闘争に変質し、そこに火を点けるように1917年にロシア革命が発生したことでインテリ=エリートたちは共産主義を志向するようになり、文学界でもプロレタリア文学が芸術性を追求する本来の文学者たちを席巻する状況になっていました。宮本委員長もその流行に染まり、昭和6(1931)年に帝国大学を卒業すると間もなく秘密結社だった共産党に入党したのです。
宮本委員長は昭和8(1933)年12月26日に治安維持法違反で逮捕され、前述の査問事件の殺人も加えて裁判にかけられることになりました。その収監中に学生時代から事実婚の関係にあった女流文学者の宮本百合子さんと結婚しています。
裁判は宮本委員長の発病と療養のため逮捕から7年後に始まりましたが、現在も共産党が「思想弾圧のための暗黒裁判」と批判するような異常・不当性はなく、査問事件についても殺害を目的した暴行ではなく過度のリンチによる外傷性ショック死と結論づけて無期懲役の判決を下しています。その結果の昭和20(1945)年6月に網走刑務所に収監されたものの8月の敗戦によって進駐した占領軍司令部が10月に出した政治囚の釈放命令で不法監禁、傷害致死、死体遺棄などの刑法犯でもありながら釈放されました。共産党は「過酷な獄中生活」と言っていますが早い話が避暑に行ったようなものです。
その後は党内抗争を繰り広げ、中でも同県人である野坂参三名誉議長の追い落としと抹殺には精力を注ぎ、幕末の毛利藩で繰り返された血で血を洗う権力闘争(歴史の教科書では倒幕運動の走りになっている)の再現のようでした。やはりウッカリにでも「雨ニモ負ケズ」の宮沢賢治くんと間違えてはいけない凶人のようです。
  1. 2019/07/17(水) 11:47:44|
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振り向けばイエスタディ1614

翌朝、小椋元3佐は早起きの茶山夫妻の生活音で目を覚ました。昨夜の晩酌は2人にしては控えたので酔い潰れた訳ではなく、長距離移動の疲労による熟睡だった。
「今回も緑色の作業服に半長靴よね。下着と靴下の替えは演習と一緒で良いでしょう」どうやら奥さんの静が茶山元3佐が用意した荷物に入れる衣類を渡しているようだ。小椋元3佐も出発前に階級章を剥がしたOD色の作業服で揃えていることを聞いていたので押し入れの奥から探し出して持ってきたのだが、試着していなかった。
現在の迷彩服2型が採用されたのは1992年からで貸与と同時にOD色の作業服は廃止された(実際は全員にいきわたるまでは部隊の統一性を維持するため継続使用された)。あれから20年近く経つので30歳代半ばから50歳代では体型も少なからず変わっている。体重は特に増えていないが鏡で見る顔は丸くなってきている気がしていた。
小椋元3佐は布団から起き抜けると枕元に置いた演習バッグから作業服を取り出して着替え始めた。するとズボンの腰は余裕だったが腿が僅かにきつくなっているようだ。幹部に任官して第10施設大隊から施設学校に転属し、第6施設群に帰って1科長になってからは少し運動不足だったのは間違いない。そんな贅肉も今回の施設基礎作業で削ぎ落ちて引締った筋肉に戻るはずだ。茶山元3佐の話では船岡の施設OB部隊では年齢や階級に関係なく全員が気分だけは新隊員に返って可能な肉体労働に汗を流しているらしい。定年直後の小椋元3佐は今回の参加者の中では最年少になるので「小椋2士」になったつもりで頑張るしかない。それは定年退官して社会人1年生になった小椋元3佐にとってまたとない意識改革の場にもなる。
朝食を終え、静が運転する車で集合場所である船岡駐屯地の正門前に行くとOD色の作業服を着た老兵たちが立ち話していた。階級章は付けていないが作業帽の帽章で幹部と陸曹は識別できる。幹部は金色糸の刺繍、陸曹は桜の輪郭線の刺繍なのだ。
「こちらは豊川の第6施設群1科長で定年を迎えた小椋3佐です。今回の震災発生時は付(づき)だったので災害派遣に参加できず、退官後に自主派遣を発令してきました」茶山元3佐はその中で際立って風格がある老齢の人物に小椋元3佐を紹介した。小椋元3佐は無意識に不動の姿勢を取り、踵が「カツン」と鳴った。
「小椋くん、こちらは新山群長だよ」「第101建設大隊の小椋くんかね。貴官の志と実践には心から敬意を表するよ」茶山元3佐が「新山群長」と紹介した人物は温和な笑顔を見せると高い階級を感じさせる口調で労をねぎらった。第101建設大隊とは昭和26年に警察予備隊の工兵部隊として金沢駐屯地に設立された第504建設大隊が陸上自衛隊になった昭和29年に改称された部隊で、その年の9月に豊川へ移駐して昭和48年に第6施設群に改編された。つまり豊川駐屯地には約20年間は第101建設大隊の看板が掲げられていたのだ。補足すれば昭和35年から41年までは立川駐屯地にも第101建設大隊が存在し、国労の反自衛隊闘争による鉄道輸送の遮断や駅施設・鉄道設備の破壊に対抗して独自に蒸気機関車を運行し、復旧・建設する任務を与えられていた。
「閣下、体調は如何ですか。今回も3名が不参加のようです」ここで副官の役柄を果たしているらしい初老の人物が割って入った。小椋元3佐は元1科長として同業者の臭いを感じた。
「やはり持病を抱えている人は身体を酷使させてはいけないようだな。疲労なら休養で復調できるが持病が悪化すると医者の治療が必要になる。多分、無理をさせるような活動は許可しないだろう」「その点、閣下はお元気ですね」新山元群長の顔が曇ったのを見て幹部の作業帽をかぶった同年輩の人物が声をかけた。
「現役時代から楽をさせてもらってきたから消耗していないんだな」新山元群長が自嘲気味に笑うと周囲の元幹部たちが「ご謙遜を」と言いながら同調した。
「定年退官したOBの集まりだから新山群長以外の幹部は定年3佐と元准尉、陸曹は元曹長ばかりだよ」参加者の集合が完了して幹部と陸曹の作業帽に分かれての雑談が始まると聞き役に回っている小椋元3佐に茶山元3佐が小声で説明した。これで序列について心配はなくなった。幹部としては同格なので年齢にだけ気をつけて話せば良いようだ。
「今回の石巻市は岩手県のリアス式海岸ほどではないですが市街地が広い分、復旧にも手が回らないようです」4WDのワゴン車に分乗して出発すると小椋元3佐と茶山元3佐が乗った車の運転手の元准尉が解説した。小椋元3佐も自宅のテレビで石巻市の被害は見ているが、戦時中の空襲で一面の焼け野原になったような市街地のカラーの鮮明な風景には恐怖すら覚えた。小椋元3佐は昭和56年の北陸豪雪や1995年の阪神淡路大震災などの災害派遣に参加しているが被害の規模が違う。小椋元3佐は座席で拳を握りながら外の風景に見入った。
  1. 2019/07/17(水) 11:46:32|
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振り向けばイエスタディ1613

5月下旬になって茶山元3佐の自宅に小椋元3佐(定年退官で3佐に昇任した)が出征してきた。4月下旬に退官した後は自宅がある新城市役所作手総合支所の用務員兼公用バスの運転手として再就職したのだが、採用時には「震災ボランティアに行くこと」を条件にしたらしい。結局、地元の県立高校の分校と小中学校の新入生が落ち着いてからになったが本人は満を持して来ているだけに現役時代の泰然自若とした雰囲気以上に気合が入っているように見える。
そんな小椋元3佐の退官式は群長以下の部隊の大半が災害派遣に出動しているため、各中隊10名に満たない留守番の隊員がグランドに整列して体裁を整え、同じく留守番の最先任幹部である2尉が群長の代理として定年退官の辞令を伝達したと言う。本来は退官者へのはなむけに観閲行進が実施されるのだが参加者全員でも1個小隊では格好がつかず「災害派遣に参加して現地で定年を迎えたい」と言う小椋3佐の希望を拒否した部隊の冷淡さだけが際立った。
「静(しずか)、こちらが小椋3佐だ。6群(第6施設群)の312中隊では陸曹として色々と助けてくれたんだ」愛知県から自家用車で宮城県柴田郡の船岡までやってきた小椋元3佐が茶山家の前に車を止めるとエンジン音を聞いて茶山夫妻が玄関から出てきた。小椋元3佐は身長180センチを超える巨漢なので小柄な茶山夫妻は見上げるように対面してから頭を下げた。小椋元3佐は茶山元3佐が定年退官した時点では幹部に任官して春日井の第10施設大隊に移動していたため送別会に参加した以外は関わることができず静とは面識がなかった。
「奥さん、大変な折にご無理をお願いして申し訳ありません」「いいえ、被災者のために頑張って下さい」小椋元3佐は1科長を務め上げただけに言葉遣いは丁寧で物腰が柔らかい。静は厳つい(いかつい)見た目とのギャップに戸惑いながら安心したように微笑んだ。
「小椋くんのことは新山群長以下の幹部には話してあるが、明後日の集合時にあらためて紹介しよう。取りえず家に入って疲れを癒してくれ」玄関前での挨拶が終わると小椋元3佐が車から荷物を下ろすのを手伝いながら茶山元3佐が指示した。宮城県から岩手県の被災地を巡回して熟練した技で災害派遣部隊のこぼれ球を拾っている船岡の施設OB部隊も流石に年齢には勝てず、岩手県宮古市までで疲労回復の休養に入り、久しぶりの出動だ。それでも遠出を避けて宮城県では最も大きな被害を受けた石巻市に行くことにしている。
「頭に気をつけて。ウチは私たちに合わせたサイズで作っていますから」小椋元3佐が両手にカバンを提げて玄関の前に立つと先に入った茶山元3佐の向こうから静が声をかけた。茶山家の玄関は標準サイズで小椋元3佐の方が規格外なのだが、不自由をかけることに対する静流の先回りした詫びなのかも知れない。
「ここは福島原発から何キロくらいなんですか」静の手料理の後、3人で町内にある日帰り温泉に行って戻ると晩酌の席で小椋元3佐が少し顔を強張らせて訊いてきた。昔から少し心配性なところがあるからマスコミが危機感を煽っている問題が気になっているようだ。
「70キロくらいかな。この辺りは常に蔵王山から風が吹き下ろしているから距離ほどの影響はないはずだよ」茶山元3佐は安心させながら小椋元3佐のグイ飲みに酒を注いだ。地震後の巨大津波で電源機材が破損し、冷却装置が機能停止になったことから始まった福島第1原子力発電所の爆発と放射能漏れ事故は缶内閣が錯綜、混乱する経済産業省や原子力委員会と東京電力の報告や説明に振り回された結果、被害を矮小化しようとしているような印象を海外に与えたため、それに不信感を持ったアメリカ政府が逆に過大な避難指示を在日アメリカ人に与えたことでいまだに無責任な風説が蔓延している。
「アメリカはヒロシマと長崎に原爆を落としておきながら自分の国民の被害は大袈裟に心配するんですよね」そこに静が夕食のオカズの残りに手を加えたツマミを運んできた。この意見も反米的な立場での発言を繰り返している言論人がテレビで弄していたものだ。ただし、視聴者の関心から外れているため早い段階で姿を消した。
「逆に言えば広島と長崎で暮らし続けている高齢者がいるんだから新聞やテレビが騒ぐほど心配しなくても大丈夫だと言うことじゃあないか」「私の父も広島の船舶工兵の暁部隊でしたが、終戦時には隠岐の島の守備隊として派遣されていたので被爆はしませんでした」つまり小椋元3佐は紙一重で被爆2世になるのを回避したことになる。
「本当は小椋くんの船舶工兵の父上を渡河演習の時に講師として招聘したかったんだが、和歌山からでは講師料に交通費も重なって中隊に配分されている訓演(予算科目の訓練演習費)を超えてしまうんだ」2人で酒を酌み交わしながら話題は31年さかのぼった。木曽川での渡河演習は昭和55年9月に実施された中部方面隊の指定演習だが、第6施設群も徒歩用架橋とボートによる戦車や大型車両などの渡河を担当し、まさに船舶工兵になったのだ。
  1. 2019/07/16(火) 11:40:28|
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振り向けばイエスタディ1612

次の土曜日、森田曹侯補士は照子が勤めている書店兼CDショップの並びある喫茶店で待っていいた。この店には休養日の時間限定デートでも来ているため店長に顔を覚えられていて、カウンターから外を眺めては「照ちゃん、遅いね」「今日は忙しんだな」などと声をかけて来る。すると2時を過ぎてから照子が息を切らして入ってきた。どうやらここまで50メートルを全力疾走してきたようだ。照子は息を整えながらカウンターの前で立ち止まり、店長に日替わり定食を注文してから森田曹侯補士の分を確認した。
「年下の男の子からは照ちゃんと一緒のメニューを一緒に出してくれって注文を受けているよ」「ずっと待っていてくれたんだ」店長の説明に照子は店の奥の席からこちらを振り返っている森田曹侯補士を見つけて申し訳なさそうにうなずいた。
「ごめんね。今日は新作CDの発売日だからお客さんの切れ間がなくて交代することもできなかったの」「ふーん、新作CDかァ。俺の友だちも夜中に入荷する漫画の雑誌をコンビニで立ち読みして学校で内容を説明して自慢している奴がいたよ。本屋じゃあそう言う訳にはいかないもんな」書店でも雑誌や新刊は朝一番に配達されるが、24時間営業のコンビニエンス・ストアのようにはいかない。実際、深夜の雑誌が配達される時間帯になるとコンビニエンス・ストアは缶コーヒーを1本だけ買って書棚に積まれた雑誌を立ち読みする若者たちで賑わっている。要するにコンビニエンス・ストアは人間の欲望を際限なく実現することで利益を上げているのであり、営業時間などの制約によって多少でも我慢を強いることになる業者から客を根こそぎ奪い取っていくのだ。
「札幌ほどじゃあないけれど旭川でもコンビニが品揃えを拡大しているから専門店の売り上げが激減しているのよ」森田曹侯補士の説明に照子は口を尖らせながら専門店の店員としての苦情を訴えてきた。それにしても道産子の照子にとって都会は札幌であって東京ではないようだ。
ここで店長が今日の日替わり定食の鮭の切り身のステーキと白飯、サラダとスープ、そしてコーヒーが載ったお盆を2つ運んできた。鮭のステーキは人参と玉葱も一緒に鉄板で焼いているのでバターが焦げる匂いが漂っている。ポテト・サラダの馬鈴薯とトウモロコシも北海道産なのは言うまでもない。照子は店長に会釈をしてから手を合わせると箸を取って会話を再開させた。
「私の実家は(旭川市の)郊外で乳牛の牧場を経営しているのよ」今日のデートは時間限定どころかこの食事だけなので一瞬でも無駄にできない。
「牧場かァ・・・」森田曹侯補士も北海道の八雲町で暮らした経験があるため牧場には町内にあるケンタッキー・フライドチキンの試験農場(現在はレストランのハーベスト八雲になっている)の広大な草原のイメージを描いてしまう。名寄に来てからも鉄道や道路から牧場を見たことはあるが、やはり北海道の風景だった。
「乳牛を50頭くらい飼っているんだけど最近は大手の生乳会社の要求が厳しくなる一方で、おまけに廃業した牧場を買い集めて自営の法人牧場を始めてるから個人経営の牧場は追い詰められるばかりなの」書店に続いて牧場も企業経営の変化によって痛手を被っていることが判った。バブルが弾けた日本では「グローバリズム」と言うお題目を唱え、経営者と従業員が運命共同体として信頼し合いながら最善を尽くす伝統的企業倫理を破壊することに躍起になっていたが、その影響は終息していないのだ。
「別れた夫は酪農の学校を出てウチの牧場で働いていたんだけど私と結婚してからは親の意見を無視して新たな事業に手を出しては失敗することを繰り返したの。後継者として経営を立て直そうとしたのかも知れないけれど、周囲の勝手な思いつきに同調していただけだから軽率だったのは間違いないわね」ここで照子は最後に残ったオニオン・スープを飲みながら離婚歴を告白し始めた。父の森田3佐は照子が離婚理由を説明した時、相手にだけ原因があるような言い方をするようなら真摯に反省をしておらず、同じ過ちを繰り返す可能性が高いと警告していた。その点、照子は冷静で客観的に分析して教訓にしているようだ。
「今は酪農組合からの借金を返済しながら牧場を続けているけど地権者の父が同意書に印鑑を押さなかったから額は大したことないわ。彼に言わせれば資金が不十分だったから失敗したことになるのかも知れないけど、独自ブランドの開発や販売に投資しても製造工程や従業員の確保までの資金を回収できる可能性は低いでしょう」日替わり定食を食べ終えて仕上げのコーヒーを口にしたところで照子の離婚歴の告白も終わった。
「今日は1つの話題しか話せないから一番重要な問題を白状しました。質疑応答は明日にして下さい」そう言うと照子は森田曹侯補士と一緒に手を合わせた。これから照子の店まで半歩行進(屍兵が棺を担いで半分の歩幅と歩度で前進する動作)で送っていくことになる。
  1. 2019/07/15(月) 12:17:44|
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振り向けばイエスタディ1611

結局、部隊長会同では連隊と駐屯地のホーム・ページに殺到している陸士の外出時間への非難と抗議は「陸士が民間人を装って投稿した」との的外れな推察で出席者が納得してしまった。そうなれば各科長と各中隊長が口々に服務指導の徹底を強弁して時間切れを待つだけだ。
その中身のない議論の間、経緯を熟知している松山3佐は腹の中から湧き起こってくる嘲笑を必死に噛み殺していたが、その一方で手を上げて「雪うさぎのラジオ番組の聴取者がデートも満足にできない2人に同情して投稿した」と言う事実を説明したいと言う衝動とも闘っていた。これが隊員の募集に関係する部署に知られれば深刻な問題として真剣な議論になるはずだが、陸士を「服務事故を起こす要注意対象」としか見ていない普通の幹部自衛官の感覚ではこの事実が恋人の職業を利用した「内部告発」になり、「服務指導」の実態の漏洩にされて、かえって森田曹侯補士の責任を追及されかねないためあえて口を固く結んでいた。
「先任、今後の勤務割では森田士長を木曜日から月曜日の当直士長につけるようにしなさい。警衛勤務なら土日だな。兎に角、火曜日が休みになるように頼む」部隊長会同を終えて中隊に帰った松山3佐は事務室に寄って先任陸曹の曹長に指示した。部隊長合同では隊員に対して「ホーム・ページは不特定多数が閲覧するから内部告発の手段に用いることは絶対に許されない」と言う的外れな指導を徹底することが決まり、それを終礼時に先任陸曹に言わさなければならないのだが、松山3佐にはその前に講じるべき対策があった。
「私は勤務の回数が曜日を含めて均等になるように考えていますから森田だけを特別扱いする訳にはいきません」そう言って先任陸曹は引き出しから曜日別に特別勤務の回数を記録した中隊所属隊員の一覧表を取り出して見せた。早い話が「今更、やり方を変えたくない」と拒否したのだが、この中隊長と議論することは避けなければならない。
「別に回数を減らせって言っているんじゃあないんだ。どうせ勤務させるなら本人が喜ぶように配慮することは士気の高揚につながる施策だろう」「本当に本人が喜ぶんですか。普通は土日を外した月曜から木曜の方を喜びますが」どうやら先任陸曹は森田曹侯補士が雪うさぎ=広橋照子と交際していることを把握していないようだ。それでは照子の勤務先の書店兼CDショップが火曜日休みと言う特殊事情に対する配慮も理解できるはずがない。松山3佐は宮古市の被災地に残留して2人の出会いにも立ち合っているため交際の進展を確認しながら悩みも聞いているが、森田曹侯補士は誰にでも話している訳ではないようだ。
「本当は特外(特別外出)を許可したいところだが、それは周囲の反発を買うことになるから我慢させよう」松山3佐の言葉に先任陸曹は顔を強張らせて身構えたが、後半を聞いて肩の力を抜いた。本来、松山3佐は色恋沙汰には必要性も認めていない門外漢なのだが、災害派遣から帰宅して妻の松山裕美2曹への土産話に口にしたところ私設応援団が家庭内に設立されてしまったのだ。松山3佐は大学時代から女学生とは無料で性的欲求を解消する手段として関係を持つだけでは恋愛を経験することはなかった。松山3佐にとって女性の感情的反応は幼い頃から学んできた男性の著作物で述べられている論理とは合致せず、思考に混乱をもたらすだけだった。陸上自衛隊に入ってからもエリート幹部として色目を使ってくる女性自衛官を適当に摘み喰いしていたが、駐屯地業務隊厚生班で知り合って抱いた裕美士長(当時)はバージンだった。そこからは一途に押しまくられ、気がつけば独身幹部の官舎を下宿代わりにして通い妻を始め、気がつけば駐屯地中から祝福されて結婚していたのだ。それでも裕美2曹は良妻賢母であり、幹部自衛官としてはエリート・コースから外れつつある自分を変わらず尊敬してくれているので特に不満はない。その妻がこの10歳年の差カップルを応援している。松山3佐として珍しく妻の指揮・指導に従って可能な限りの支援を実施することを決めていた。
「中隊長が来月から演習がない時には火曜日に休めるように配慮してくれたんだ」この話を営内班長から聞いて森田曹侯補士は早速、照子に電話した。自衛隊では服務指導と報告は指導系統(戦闘や訓練では指揮系統)と呼ばれる組織構成を通じて行われるので、中隊長の指示も陸士に対しては先任陸曹を通じて営内班長の陸曹から伝達される。
「中隊長さんって被災地で案内して下さったエライ人でしょう。そんな人も応援してくれているのね」流石に照子は「暗そうな人」「オタクっぽい人」とは言わなかった。
「それじゃあ続きは土曜日に会って話そう」「うん、もうすぐ会えるんだから電話じゃあ勿体ないわ」本当は会えないからせめて電話で声を聞いているのだが、会った時の話題を消費しているような気分になるのも確かだ。要するに声が聞かれれば十分なのだ。ただし、土・日曜日のデートは照子の店の空き時間でも休日は客足が途切れることがないため店員が交代で取る昼食につき合いながらの会話だけだ。
  1. 2019/07/14(日) 12:18:16|
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ジャニー喜多川さんの逝去を追悼する。

今や初期の所属タレントが熟年の域に達して単なる男性アイドルの発掘、育成、管理、企画のトップ・メーカーではなくなっているジャニーズ事務所の創業者で社長のジャニー喜多川さんが7月9日に亡くなったそうです。87歳でした。
野僧は基本的に歌謡番組は見ないため喜多川さんのことも「(今では時代劇俳優のあおい輝彦さんが所属していた)ジャニーズのリーダーが芸能事務所を立ち上げた」と思っていましたから訃報を伝えるニュースに続く報道バラエティー番組が揃って特番化していた業績や影響については全く理解できませんでした。
あおいさんが所属していたジャニーズはアメリカ西海岸で暮らしていた日系2世の喜多川さんが昭和28(1953)年に在日アメリカ大使館の通訳として来日した際に住んでいた代々木で近所の子供たちベース・ボールを教えていたチーム名でした。ある日、雨で練習ができなくなって映画館で「ウェスト・サイド物語」を鑑賞すると子供たちが非常に感動したため教えるのがベース・ボールからダンスやコーラスに変わりました。喜多川さんは戦後間もない頃、日本からアメリカに出稼ぎに来る芸能人の公演に通い詰めて日本的歌謡曲の要素を体得しており、4人の子供たちは当時としては珍しい唄って踊れる美少年グループとしてたちまち脚光を浴び、昭和39(1964)年末にレコード・デビューすると翌年の紅白歌合戦に出場したのです。このジャニーズが昭和37(1962)年にバック・ダンサーとしてデビューして間もなく結成されたのがジャニーズ事務所でした。
ジャニーズ事務所タレントについてはミーハー路線まっしぐらだった妹の男性アイドル遍歴で知るほかないのですが最初が保育園時代の「フォーリーブス」、何故か郷ひろみさんを跳ばして次はジャニーズにしては珍しく非実力派の「たのきんトリオ」でした。続く「しぶガキ隊」「少年隊」でようやく現在も継承されている唄って踊れる実力派アイドル・グループ路線が確立され、さらに「光GENJI」「男闘呼組」「SNAP」「TOKIO」「V6」「Kink Kids」「嵐」「タッキー&翼」「KAT-TUN」とジャニーズ事務所の売り上げに全面協力していたのは間違いありません。
そうは言ってもジャ―ニーズは各グループがバラ売りで役者になっているため、野僧も映画やドラマの名演技に感激しているとジャ―ニーズ出身と判り、グループ名を教えられることの繰り返しになりました。本木雅弘さん(しぶガキ隊)に始まって東山紀之さん(少年隊)、草彅剛さん(SMAP)、岡田准一さん(V6)など幾らでも出てきます。
つまり能力が高い個人をまとめ売りして知名度を上げ、その後にバラ売りで個性を発揮させる経営戦略だったようです。それにしてもこれだけの才能の持ち主を発掘・育成する組織力と教育力、スキャンダルをほとんど聞かない躾指導と生活管理は本当に凄いです。
ところでテレビの報道バラエティー番組では「ジャニーさんは第2次世界大戦と朝鮮戦争に従軍しているため若者がアイドルに熱狂できる平和を守ることを願っていた」と繰り返し強弁していましたが男性タレントでは目的から外れています。そもそも反戦平和が軍事力の完全否定を意味するのは憲法9条教徒の日本人の非常識です。冥福を祈ります。
  1. 2019/07/13(土) 12:46:52|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ1610

「ロミオとジュリエットかァ・・・」森田曹侯補士はあまり優秀ではない高校出身であり、運動部中心の生活を送っていたためシェークスピアの代表作であるこの悲劇を読んだことがなかった。当然、4大悲劇と呼ばれるリア王やオセロー、ハムレット、マクベスは題名も知らない。かと言ってこの手の質問を陸曹や幹部にすると「恥をかかせた」と嫌われる原因になるので困ってしまう。おそらく回答できるのは中隊長の松山3佐と安川3曹の妻の聡美くらいだろう。すると雪うさぎが自分の発言の解説を始めた。やはり一般の聴取者には難しいと思ったらしい。
「本当に素敵な歌ですね。私はこの映画を高校生の時にレンタル・ビデオで借りて見たんですがレナード・ホワイティングの目が素敵でした。それからオリビア・ハッセイの早熟ぶりが羨ましかったな。あの映画に出演した時、オリビアは15歳でしたが同じ年代の私とは比べ物にならないくらい巨大な大人の胸でした。あの映画の中でロミオとジュリエットが一夜だけの結婚生活を過ごして朝を迎えたシーンでは先に目覚めたロミオが旅立つ準備を始めると余韻に浸っているジュリエットが『まだ行かないで』と誘ったんです。多分、初体験ではないですね。ところが抱きあった時にヒバリの鳴き声が聞こえてきてジュリエットは朝だと気づきました。私と彼のデートも時間が『そろそろ名寄に帰りなさい』って告げるから思いを遂げることができないまま見送ってるんです。だからさらまわしさん、私たちと気づいても声をかけないで下さい」珍しく雪うさぎはメールの話題を否定するような回答をした。やはり雪うさぎにとって森田曹侯補士と会っている時間は一瞬も無駄にできないほど切実なのだ。
「次も旭川のラジオ・ネーム、屯田兵さんから私たちのデートに関するメールです」この聴取者はラジオ・ネームから見て自衛官のようだ。旭川駐屯地には第2師団司令部、第52普通科連隊、第26普通科連隊、第2特科連隊、第2後方支援連隊、第2高射特科大隊、第2施設大隊、第2通信大隊、第2飛行隊、第2化学防護隊、第2音楽隊などの所在部隊があり、演習で顔を合わせることも多いが、雪うさぎの告白から名寄駐屯地に指名手配されると「年下の男の子」が特定されている可能性もある。森田曹侯補士は少し身構えてラジオに耳を傾けた。
「自分たち営内者には帰隊遅延と言う服務事故があって結構重い処罰を喰らいます・・・ヘーッ、帰隊遅延ってこの字を書くんだ。自衛隊に帰るのに遅刻して延期するです」これでキタイチエンが機体チェーンではなく帰隊遅延であることは理解できたはずだ。ラジオでは文字や画像は言葉で説明しなければ聴取者に伝わらない。雪うさぎとデートていても目に映る事物や耳に伝わる音声、肌に感じる風まで詩的に表現しているが、それも職業病の一種ではないか。
「自分の彼女も門限破りで怒られるくらいに考えていて『帰るのが早い』『もっと一緒にいたい』って我がままを言って困らせます。雪うさぎさんも気をつけて下さい・・・ふーん、適切な助言を有り難うございました。ここで屯田兵さんのリクエストで矢沢永吉の『時間よ止まれ』をどうぞ」森田曹侯補士はこの歌も父親の趣味で聞き慣れている。陸上自衛隊では宴席のカラオケで先輩の持ち歌に感動した若い世代が唄い継いでいくことが多いので、この営内者(=基本的に独身の3曹以下)の屯田兵も生まれる前の昭和の名曲を愛唱するようになったのかも知れない。そもそも屯田兵と言うラジオ・ネーム自体が古臭い。
「罪な奴さ アー、パシフィック 碧く燃える海、どうやら俺の負けだぜ まぶた閉じよう 夏の日の恋なんて 幻と笑いながら この女(ひと)にかける・・・時間よ止まれ 生命(いのち)のめまいの中で・・・」森田曹侯補士はラジオに合わせて口ずさみながら2番の歌詞の「汗をかいたグラスの冷えたジンに」で隊員クラブに行く予定を思い出した。雪うさぎの番組はまだ半分だ。「時間よ止まれ」が終わったところで営内班を見回すと他の隊員たちは隊員クラブへ行っているようで1人だけ取り残されていた。
「クラブにはジンなんて置いてないよな」森田曹侯補士は携帯ラジオを戦闘服の胸ポケットに入れてベッドから起き上がった。営内者の普段着は下はジャージでも上は階級章が着いている戦闘服か3種夏服だ。森田曹侯補士は部屋の電灯を消して廊下を歩きだした。
「どう言う経緯か判らんが連隊に営内者の外出時間が厳し過ぎると言う批判が殺到しているんだ」週末の部隊長会議で1科長が妙な問題を持ち出した。1科は第3普通科連隊と名寄駐屯地のホームページを運営していて投稿欄の内容も報告することになっている。
「営内者が民間人を装って投稿したんだろう」「飲み屋のママさんが売り上げアップを狙ったんだな」「陸曹は特外(外泊許可)だから犯人は陸士だな」連隊の幹部たちは好き勝手な推理を言い合い始めた。どうやら1名を除き雪うさぎのラジオ番組の聴取者はいないようだ。
「そんな熱愛中の隊員がいるのか」連隊長が苦笑しながら質問すると出席者たちは黙って顔を見合わせた。そんな中で真相を知る松山3佐だけは下を向いてユックリ鼻息を吹いた。
  1. 2019/07/13(土) 12:45:41|
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7月12日・相馬原駐屯地事件が発生した。

昭和27(1952)年の7月12日に群馬県の相馬原駐とん地(当時は「屯」の字が当用漢字に登録されていなかったため公共施設などに用いることができず「駐とん地」と表記していた)の警察予備隊を狙った襲撃事件未遂が発生しました。
この時点の朝鮮戦争は北朝鮮の奇襲的侵攻によって韓国軍と国連軍は釜山付近にまで追い込まれ、山口県豊浦町に亡命政府の首都を建設する準備も極秘裏に進められていました。ところが国連軍が半島中央部の仁川に上陸したことで形勢が逆転し、逆に平壌付近まで押し返したもののその側面に共産党中国が割り込んできたことで開戦前の38度線付近で国連軍と共産党中国軍(韓国軍と北朝鮮軍は脇役になっていた)が対峙する膠着状態に入っていました。しかし、長期戦になると建国間もない共産党中国の戦力が続かないことを知っていた北朝鮮の命令で敗戦後も日本国内に残留している北朝鮮人によって編制された祖国防衛隊と武力革命を標榜していた共産党軍事委員会が協力して在日国連軍への攻撃と学生を中心とする反政府運動・破壊活動を激化させていたのです。
相馬原駐屯地は群馬県北群馬郡榛東村と高崎市の相馬原演習場に隣接しており、現在は第12師団司令部が所在するため駐屯地司令は副師団長が兼務しています。陸上自衛隊の駐屯地は帝国陸海軍の軍用地が敗戦後に占領軍に接収されてから警察予備隊に払い下げられていることが多いのですが相馬原駐屯地の歴史は意外に浅く、第2次世界大戦への参戦直前の昭和16(1941)年8月に岩手県盛岡市にあった陸軍の盛岡予備士官学校(平時は民間人として生活しながら応招されると下級士官になる予備役士官を養成した教育機関)が前橋予備士官学校として移駐したのが始まりで、敗戦後はアメリカ軍が接収し、昭和25年に警察予備隊が創設されると昭和27(1952)年4月1日から同居することになり、相馬原演習場に隣接しているため特科(=砲兵)と特車(=戦車)部隊が編成されました。
相馬原駐屯地事件は警察予備隊が配備されて2カ月が経過した昭和52(1952)年6月頃から北朝鮮の祖国防衛隊や共産党の軍事委員会が内部の調査を始め、同時に「朝鮮出兵反対」の貼り紙を駐屯地の周辺に掲示するようになりました。
この動きを5月1日に皇居前広場で繰り広げられた血のメーデー事件や6月24日・25日に大阪で起きた吹田・枚方事件、7月7日に名古屋での大須事件に連動した暴動の予兆として警戒を強めていた群馬県警が「在日朝鮮人10名が竹槍を持って相馬原方面に向かった」と言う情報を入手して目撃現場に急行すると情報通りの集団を発見し、職務質問したところ竹槍だけでなく火炎瓶や硫酸を所持していたため爆発物取締罰則違反容疑で逮捕したのです。その後、逮捕者の供述から駐屯地の爆破計画が発覚し、群馬県内の山中にあったアジトが発見されたため7月29日の包囲・捜索で5名が逮捕されました。
この事件は共産党が在日朝鮮人と共同謀議と破壊活動を繰り返していた史実として重要でしょう。共産党が武力革命を放棄したのは昭和30(1955)年の全国協議会での決議を受けて昭和33(1958)年の同協議会で正式に破棄されてからです。
  1. 2019/07/12(金) 13:09:51|
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振り向けばイエスタディ1609

森田曹侯補士が名寄に帰って半月、雪うさぎこと広橋照子との交際は本人たちも予想していなかった展開になっている。森田曹侯補士は1週間の休養期間を与えられたのだが部隊としては災害派遣中のため陸士は日帰りの普通外出に限定されていた。外出許可権者である中隊長の松山3佐は特例的に長期化した派遣を理由に特別外出を許可しようとしたが組織の統制を重視する連隊本部1科の指導で実現しなかった。したがってデートは照子が勤めている書店を兼ねたCDショップの客足が減る午後から夕方までの時間限定となり、映画を1本見て喫茶店で会話を楽しむだけだった。勿論、地元ローカルFMの人気DJである照子を独占しての会話は贅沢な特権なのだがデートとして物足りないのは間違いない。
「謙作さん、今夜の夕食は私の手料理を味わって欲しいの」ようやく店が休みの火曜日のデートで初めて1日を過ごした夕方、照子は通りがかったスーパー・マーケットの前で立ち止まって提案してきた。10歳年長で離婚歴がある照子は始めから肉体を与える覚悟を持っている。しかし、森田曹侯補士は残念を超えた悲痛な顔で吐き出すように誘いを拒んだ。
「ごめん、20時には旭川を出ないと帰隊遅延になってしまうんだ」旭川駅から名寄駅まではJRで2時間少々、そこから駐屯地へはタクシーで15分かかる。陸士の外出時間は23時までなので夕食を取ってその足で列車に乗らなければ服務事故の帰隊遅延になってしまう。
「門限は何時なの」「23時だよ」照子には深刻な顔で「キタイチエン」と言われてもピンとこない。民間人の感覚では単なる門限破りではないか。時間も照子的には午後8時と11時だ。
結局、今夜も清く正しく美しい純愛を貫くことになった。それでも1回目のデートでは石狩川の堤防を歩きながら手を握り、2回目には繁華街で腕を組み、3回目には常盤公園の池の傍らで口づけを交わし、4度目の神楽岡公園でのキスでは乳房に触れた。ここから先の一歩は時間の制約を克服する手段を考えなければ踏み越えられない。明日は照子が雪うさぎになるFMの番組があるからデートは次の土曜、日曜日まで一旦休止だ。
翌日は平日なので仲間が勤務している駐屯地で過ごすことは避け、名寄市内で唯一の映画館である第1電気館で雑誌では半年前に紹介されていた正月映画を見た。この映画館も経営が苦しいと聞いているが、スキーができない夏場の娯楽が少ない名寄ではなくては困る施設である(残念ながら2014年10月20日に閉館してしまった)。
「こんばんは、こんばんは、こんばんは、も1つおまけにこんばんは。雪うさぎです」市内のファミリー・レストランで夕食を終え、酒は駐屯地の隊員クラブで飲むことに決めて帰隊すると照子の番組が始まる時間だった。営内班のベッドでラジオにヘッド・ホーンを接続し、電源を入れるとテーマ曲にしているさだまさしの「北の国から」の主題歌につづいて昨日までは目の前で聞いていた照子の声が流れてきた。それにしても「北の国から」には歌詞はないがさだまさしの唸り声は入っているのでやはり主題歌なのだろうか。
「今日も皆さんからのメールとリクエスト曲を交えてホッとするひと時を共有しましょう」照子の名調子は仙台から戻って完全に復活しているようだ。考えて見れば森田曹侯補士は宮古市から戻って初めて聞く照子の番組だった。
「それでは最初に深川市のラジオ・ネーム、さらまわしさんからのメールです。『雪うさぎさん、自衛隊の年下の男の子とのデートを楽しんでいますか。僕も旭川市内に行ったので年の差10歳くらいのカップルを探しましたが、会ったのは母親と息子ばかりで恋人同士は見つかりませんでした。どこでデートをしていたんですか』ですって・・・」読み終えて照子はしばらく間を置いたが、森田曹侯補士も唖然としてしまった。若しも照子の顔が知られていれば芸能人のデートの画像がスクープとしてインターネットに投稿されるように北北海道限定で広まったかも知れない。マスコミの影響力を今更のように実感した。
「さらまわしさん、その母親と息子が私たちだったのかも知れませんよ。若し、腕を組んで歩いていたら確率は高いですね。でも声はかけないように。デートの邪魔はしないでね」照子の答えは当事者として苦笑してしまった。照子は年齢の割に落ち着きがあり、母を感じさせる面がある。その一方で無邪気にハシャイだ時の笑顔は恋人に相応しい。
「でも私たちのデートは朝のヒバリの鳴き声に引き裂かれるロミオとジュリエットみたい。彼の外出の門限は23時だから夜の8時には旭川を出ないと機体チェーンになってしまうのよ」照子の説明は森田曹侯補士に言われたままを採用している。それにしても「帰隊遅延」が「機体チェーン」に聞こえたのは意味が伝わっていなかったのではないか。
「それでは1曲目はグレン・ウェストンが唄う映画・ロミオとジュリエットの主題歌でWhat is a youthです」森田曹侯補士は父の映画テーマ曲集のテープで曲だけは聞いたことがあった。
い・広橋照子(音無響子)イメージ画像
  1. 2019/07/12(金) 13:08:08|
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7月12日・放浪の画家・山下清の命日

1971年の明日7月12日は放浪の画家・山下清さんの命日です。49歳でした。ドラマの「裸の大将放浪記」では季節や土地に関係なくランニング・シャツ1枚でしたが、実際の写真や自画像では浴衣や国民服も着ているので題名のイメージを強調するための演出のようです。
山下さんは大正11(1922)年に東京・浅草で生まれましたが、翌年に関東大震災が発生したため両親の出身地である新潟市に転居しました。3歳で重い消化不良を患って死線をさまようと、その後遺症で軽度の言語障害と知的障害を抱えるようになったのです。大正15(1926)年に浅草に戻ったものの昭和7(1932)年に父が脳卒中で急逝し、母が再婚した義父は山下さんが尋常小学校で苛められていること聞くと「刃物で怪我をさせろ」と答えたため、真に受けて鉛筆削り用に持っていた小刀で怪我を負わせてしまったのです。この事態を憂慮した母は昭和9(1934)年に義父が不在中に家を出て、母子家庭のための福祉施設に入居しました。しかし、転校した尋常小学校高等科(現在の中学校)でも苛められたため、現在の千葉県市川市にある知的障害者施設の八幡学園に入園することになりました。
ここで出会ったのが情操教育の一環として児童・生徒に教えられていた千切り紙細工で、当初は色紙を切って貼り、そこに模様を付けるだけの稚拙な作品だったのが、軽度の知的障害者特有の驚異的な集中力で工夫を重ね、さらに昭和11(1936)年から顧問医になった精神病理学者の指導と激励もあって黒い紙を細く千切って紙縒りにして髪の毛にした上、灰色や青色の紙を重ねて光沢まで表現する高度な技法を駆使するようになったのです。こうして昭和13(1938)年に八幡学園の児童・生徒の作品展が開かれると山下さんの作品を目にした日本洋画界の巨匠・安井曾太郎さんや梅原龍三郎さんの絶賛を受け、天才少年・日本のゴッホとして一躍注目を浴びることになりました。
ところが18歳になった昭和15(1940)年に徴兵検査への恐怖から唐突に失踪し、全国各地を放浪する生活を始めたのです。迷子にならないように線路を歩きながら季節が夏に向かうのに合わせて北上し、秋を過ぎれば冬に向かって南下する生活は断続的に14年間に渡りましたが、結局、昭和28(1953)年にアメリカの雑誌「ライフ」が山下さんに興味を示したのに同調して朝日新聞が全国に手配する記事を掲載したことで昭和29(1954)年1月10日に鹿児島県で発見され、これ以降は周囲に人だかりができるようになったため放浪の旅は終わってしまいました。
山下さんの記憶力は超高感度のカメラを内蔵しているかのように正確な上、感動した個所を強調するピント機能も常人を超越していました。中でも花火大会が大好きで「今年はどこの花火大会に行こうかなァ」と呟いた2日後に脳卒中で倒れ、母に看取られながら最期を迎えました。ところで作品が見当たりませんが大阪万博には行かなかったのでしょうか。
余談ながら山下さんは浜松南北基地の合同航空祭で一日基地司令を務めたことがあり、空将の制服を着て「俺が中将になっても良いのかな」と困惑していたそうです。
  1. 2019/07/11(木) 12:55:14|
  2. 日記(暦)
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