1990年の明日9月1日は戦前・戦中・戦後の日米関係に多大な影響と業績を残したエドウィン・オールドファーザー・ライシャワー博士&駐日大使の命日です。79歳でした。
ライシャワー博士は明治43(1910)年に東京で明治学院大学の創設にも関わったオーストリア系宣教師夫妻の二男として生まれました。兄と共に築地のアメリカン・スクールに通いながら成長し、後年「たまたま日本に生まれたアメリカ人」と自称するような人生の基礎を作っていきました。昭和2(1927)年に家族でアメリカに帰国するとオハイオ州のオバーリン大学に入学し、卒業後は生涯の職場となるハーバード大学の大学院に進み、1933年にハーバード大学の東アジア研究の第一人者であったセルゲイ・エリセーエフ博士からフランスと中国、日本を研修した後、学内に設立を計画している極東言語学部の教授になることを依頼されます。こうしてライシャワー博士はパリにある国立現代東洋語学校に留学し、昭和10(1935)年には8年ぶりに日本の土を踏みました。
日本では東京帝国大学文学部初の外国人特別研究生になり、さらに京都帝国大学文学部国史学科初の外国人特別研究生になっています。昭和12(1937)年に中国の燕京大学に移って中国語の学習と並行して研究活動を継続した後、1938年にはハーバード大学に戻り、翌年には唐時代の日本人留学僧・円仁の研究論文で博士号を受けています。
ところが1941年12月8日に日本が第2次世界大戦に参戦するとアメリカ陸軍の依頼で通信部隊の翻訳と暗号解読の学校の設立に協力することになり、1943年から少佐として翻訳と暗号解読を担当し、終戦後の1945年11月に中佐で退役するまで活躍しました。翌1946年にはハーバード大学に戻って東アジア研究を再開しますが、政府の要請で占領軍の日本統治や独立した韓国の政策指針などを提言しています。
そして安保闘争で日米関係が険悪になっていた1960年に政権=与党側としか接触してこなかったアメリカの対日外交を批判する論文を発表すると翌1961年に発足したケネディ政権から駐日大使就任を懇願され、日米外交の表舞台に立つことになったのです。
ライシャワー博士は日本に留学中の1035年にパリ留学中に知り合った女性と結婚しましたが1955年に病没すると翌年には築地のアメリカン・スクールを卒業した日本人女性と再婚しました。このため「本人は日本生まれ」「妻は日本人」と言う身上が評判になって日本人の反米感情は急速に和らぎ、期待感が湧き起こったと言われています。
実際、ライシャワー大使は復帰前だった沖縄を含む全都道府県を訪問し、政権与党だけでなく野党の政治家や経済人、文化人などとも積極的に面談し、日米安全保障条約による軍事同盟を超えた「日米パートナーシップ」を構築しました。5年間の在任中は知日派以上の熟知日派として日米友好に尽力しますが、ベトナム戦争による反米世論が激しくなると対アジア強硬派のジョンソン政権と対立するようになり、昭和41(1966)年に辞任してハーバード大学に戻り、1981年の退任まで日本の研究に没頭する余生を過ごしました。ライシャワー博士の死因は大使在任中の昭和36(1964)年に統合失調症の少年に太腿を刺されて輸血した売血が原因で罹患し、苦しみ続けた重度の肝臓病でした。
- 2019/08/31(土) 12:30:05|
- 日記(暦)
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梢と2人で安里家に帰るとあかりと両親で恵祥を風呂に入れていた。出発前、私から「飲んでくる」と伝えていたので「今夜は任せられない」と判断したようだ。私はストレートのシーバース・リーガルをグラスに2杯飲んだけなので酔ってはいないが、湯船に漬かればどのような変化が起こるか判らないから残念でも仕方ない。
リビングでは梢の父が床にうつ伏せ寝用のベビー・マットを置き、その上にバスタオルを広げて恵祥を上げる準備していた。浴室から聞こえるあかりと母の会話に集中していたらしく私たちが入ってきたのに気がついて照れ臭そうに笑った。
「貴方、恵祥を連れて行くからエアコンを切って」そこに浴室から梢の母が居間の父に声をかけてきた。安里家の冷房はそれほど強くないが風呂上がりの乳児にエアコンの冷風が毒なのは間違いない。私への挨拶のために立ち上がっていた父はリモコンで電源を切った。
「それ、裸の王様の登場よ」そこに母がバスタオルで包んだ恵祥を抱えてきた。つまりあかりが恵祥を風呂に入れ、身体を洗ったようだ。乳児の湯浴みでは耳に水を入れないように親指と人差し指で押さえるなどのきめ細かい注意が必要だ。何よりも視覚障害者のあかりが気づかずに沈め過ぎれば溺れさせてしまう。勿論、母がつき添っているのだが、あかりが健常者でも熟練を要する乳児の入浴を果たせるようになっていることに感激して、私は隣りに立つ梢の手を握ってしまった。酔っていないのに泣き上戸になりそうだ。
「恵祥、気持ち良かったね。お母さんは丁寧に洗ってくれるから綺麗になってるよ。はい、オムツをはめますよ」母はリビングの隅に立っている私たちに背中を向けて、手際良く恵祥を裸の王様から眠れるモリヤの孫に役柄変更していく。私たちは完全に観客になっている。
やがて恵祥は寝巻を着せてもらって母の腕で私たちに視線を合わせてきた。こんなことでも初孫の成長が確認できる。後は風呂から出たあかりに母乳をもらって腹が膨らんで眠れば生後の経過日数が1日無事に刻まれるのだ。
翌朝、私は出勤する梢と一緒に海上自衛隊沖縄航空基地=航空自衛隊那覇基地に向かった。梢は本店に寄るため牧志駅で下りたが、私は終点の那覇空港からタクシーで懐かしの「小禄第2ゲート」まで行く。昨夜も私と梢は30年弱前に戻るのではなく恵祥の祖父母として民法上の不貞行為に立ち入らないことが不思議なくらい濃密な時間を過ごした。こうなると立ち入られない身体と民法770条の離婚事由の認定基準は本当に有り難い。
私は海上自衛隊の定期便の搭乗手続きが始まるまでの時間を利用して那覇基地内の自衛隊情報保全隊で王中校から聞いた「国籍不明の人物が死亡した事故」の地元2大紙の記事を探した。調査隊時代はスクラップした記事をバインダーで保管していたが、現在はコンピューターでデーター化しているので検索はかなり楽になっている。
「モリヤ2佐、今回の出張は何事ですか」海曹に通常の10倍以上は複雑なパスワードなどの手順を経てアクセスしてもらったコンピューターで検索を始めると白い3等海佐の制服を着た証3佐が画面を覗きながら質問してきた。その独特の視線に私は中華民国軍の諜報と防諜のプロである王中校と過ごした緊張の1日を思い出した。そうなると証3佐も事前に知った上で質問していることを疑ってしまう。
「中華民国陸軍の法務官と那覇市内で面会したんだ。君に立ち合ってもらった方が好かったかも知れないな」「2人とも制服だったでしょう。那覇駐屯地から相談を受けて隊員を派遣したんですが、堂々と乗り込んできたから傍観することにしました」これは予想された対応だが、「油断も隙もない」と言う古語を使うのは少し意味が違う。
「王中校は台湾人腹上死事件で有罪判決を受けて3年間の執行猶予を勤めてきた玉城美恵子と言う女性に同行してきたようですが、軍として関与する特別な理由があったんですか」こうなると回答が難しい。証3佐が王中校の姓と階級、美恵子の氏名と法的処分を把握していることから自衛隊情報保全隊が台湾軍将校の沖縄訪問を察知して調査していたことが判る。その一方で折角築いた王中校との信頼関係を維持するためにはこの場で美恵子の使用目的を漏らすことはできない。とは言え防諜のプロである証3佐=自衛隊情報保全隊が私の稚拙な誤魔化しを見抜かないはずはない。私は作麼生(そもさん=禅問答の追及)を受けた気分で表面上の事実を説明することにした。
「その女性が台湾の拘置所で刑の執行前の死刑囚を散髪すると出来栄えに感激して微笑むんだ。王中校はそれに感激して海外で出店する手伝いをするつもりなんだそうだ」「その海外と言うのはどこですか」「さてね・・・これだな。自動車道で乗用車が衝突、炎上、身元不明の男性が死亡」回答を誤魔化す代わりに探していた記事を見つけて私は興奮気味の声を上げた。しかし、この事故を質問するのも墓穴を掘ることになるのは素人の私も判っている。
- 2019/08/31(土) 12:29:00|
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王中校とカッチンを出て58号線でタクシーを拾うと国際通りのホテルに向かった。王中校としては話し足りないようだが、私は職務権限を持たない個人が外交交渉のような腹の探り合いをすることが重荷になってきている。勿論、正式に職務権限を与えられていれば王中校が白旗を揚げるまで語り明かし、中華民国軍の内情をさらけ出させてみせるのだが、今回は私個人の秘密漏洩になってしまう。結局、「明日は昼過ぎの定期便に乗らなければならないこと」を理由に勘弁願った。何よりこの時間なら梢と待ち合わせることができる。
「日本のホテルは部屋に盗聴器が仕掛けられていないからリラックスできるね」タクシーの中で王中校は思いがけない話題を日本語で口にした。案の定、運転手がルーム・ミラーを覗いた。今回の対話で分かったのは王中校が日本語を使うのは漏らしても良い話題と置き土産の残り香にする透かしっ屁のような軽い軍事情報の時だ。これは後者らしい。
「貴方の国ではそんなことが横行しているのかね」「いや、香港の話だ。中共では昨年施行された国防動員法で通信傍受や盗聴、インターネットの検閲、郵便物の開封と検閲などの保全業務に人民解放軍を動員できるようになったから今では香港も完全に監視下に置かれている。むしろ重要監視地域になっているんだ」この話題をタクシーの運転手に聞かせたのは正解だ。この運転手が乗客に共産党中国の実情を話してくれれば地元マスコミの世論誘導に追従している沖縄県民の意識を僅かでも軌道修正できるかも知れない(はずがない)。
「私は明日帰るが貴方の予定は」私は一緒にホテルの前でタクシーを降り、ロビーまで送りながら質問した。王中校が美恵子の就職先に考えていた台北駐日経済文化代表処那覇分処が頓挫した以上、授業料を送金して那覇市内の広東語塾に通わせる他に次の一手はないはずだ。その先に香港へのベルト・コンベアーが設置されるのは言うまでもない。
「うん、粘支処長に信用が置ける広東語の塾を教えてもらって確認するのと在沖縄アメリカ軍の知り合いと会う約束になっている。帰国するのは明後日になるな」私が今後の予定を確認することは浅からぬ悪縁を持つ玉城美恵子を王中校=某国が危険な立場で使おうとしていることへの加担に他ならない。おそらく王中校・某国は美恵子を使い捨てにするはずだ。美恵子が消えようが、消されようが私が関知する必要はないが、淳之介の母親として恵祥にもその血が受け継がれている事実に変わりはない。どうせ消えるのなら淳之介や恵祥にとって後腐れがないように願うばかりだ。「消えた」と言うニュースを見れば不動明王に焼却を祈願してやろう。
「それでは無事の帰国を願います。今回は楽しい時間を有り難うございました」「こちらこそ業務多忙な中、来てもらって感謝しています。再会を楽しみにしています」ロビーで王中校がルーム・キーのカードを受け取るとフロントから外れた位置で握手を交わした。ロビーは外食した客が帰ってくる時間帯なので賑わっており、色違いのミリタリー・ファッションに興味を持った連中は立ち止って視線を浴び出てくる。中には断りもなく携帯電話で画像を撮影する者もいる。これがサッカーの試合であればユニフォームを交換するところだが、王中校が着ている中華民国陸軍の軍服が羨ましくて仕方ない私は無意識にボタンを外しそうだった。
「貴方、お待たせ」国際通りの突き当たりにある都市モノレール=ゆいレールの牧志駅の下で待っていると携帯電話で約束した時間の15分遅れで梢が駆けてきた。若い頃は時刻表がないバスの関係で約束よりも早い時間に待っていると、まるで遅刻したかのように謝りながら駆けてきたものだ。その姿に重なって私の体内カレンダーが30年弱戻った。
ゆいレースは10分未満の間隔で運行しているのでホームに上がるとすぐに乗車できる。空いている座席に並んで座ると梢が少し顔を強張らせて質問してきた。
「それで・・・仕事はどうなったの」やはり美恵子の名前を出すことは控えたようだ。それでも私たちの赤い糸回線は通じるから問題はない。
「王中校が授業料を支援して広東語の塾に通わせるつもりらしい。マスターすれば香港で店を開かせるって言っていたぞ」「腕前を高く買われてるんだね。でも台湾じゃあないんだァ」「アイツは台湾で有罪判決を受けているから5年間は入国できないんだよ」「確かに香港も広東語だから判らないことはないわ。でも・・・」ここで梢は似合わない難しい顔になった。
「ウチのお客さんのアンケートでは『最近の香港は警察の取り締まりが厳し過ぎて楽しめない』って言う感想が急増しているの。もっと酷くなりそうだから移住となると心配だわ」「梢が心配する理由はないだろう。淳之介一家にとっては丁度良い厄介払いだよ」私の極めて冷淡な返事に梢は絶句した。黙り込みながら梢は私が美恵子の存在を否定する理由としてあかりに流れる谷茶(たんちゃ)の血を思い比べたのかも知れない。
- 2019/08/30(金) 12:51:15|
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「ユーチョン・メーファイスー(玉城美恵子)は使えるな」仕事帰りの馴染み客が来店して夕紀子がボックス席に行くと唐突に王中校が英語で話し始めた。明日、本土に戻る私としては恵祥とあかり、何よりも梢と過ごすためそろそろ帰りたいのだが王中校の目が逃がさない。私は小鉢のお通し(関東では「付け出し」と言うらしい)のクーブチー=昆布のチャンプルを割り箸で摘まむとグラスの酒をすすって英語で答えた。
「家族の情愛と言うものを理解しない女ですから本人が喜ぶ餌を与えれば何でもするよ。おそらく『世界的な大都会の香港で開店させてやる』と誘えば簡単に転がるんじゃあないか」これは元妻であり、淳之介の産みの母でもある美恵子を極めて危険な軍事分野の裏社会に売り渡しているのだが、私としてはそのまま2度と戻ってこないことが希望だ。
「理由としては我が国から5年間の上陸拒否対象者に指定されている。だから香港と言う訳だ」理容師として再出発することを熱望している美恵子にこの餌は喰らいついたら離さないほどの魅力があるはずだ。王中校の目的を冷静に分析・検討するほど頭は働かない。美恵子の頭は本人が勉強に励む私に向かって吐いた通り、髪を飾り帽子を被るために付いているのだ。
「その条件が広東語の習得なんだね。アイツが語学の勉強に励むとも思えないが床屋のためなら何でもやるからなァ・・・」「広東語の塾の授業料は私が援助するつもりだよ」王中校としてはその語学教育を台北駐日経済文化代表処那覇分処に依頼するつもりだったのだが、粘分処長に断られたのを目撃している。
「彼女には香港で流れている噂話の類(たぐい)を雑談的に報告してもらえば良い。現在の香港は当局の情報管理が本土並みに徹底しているからマスコミの取材も記者に尾行がついて監視されているんだ。手紙の投稿も開封されているし、電話も盗聴されている。それを批判すれば発行禁止になるか、執筆者が消される。だから本音ベースの噂話で実情を探ることが重要になるんだ」「私も2008年のチベット蜂起で共産党中国がやったことを聞いているから普通の日本人よりは実像を知っているつもりだが、やはり1国2制度などは政治的幻想と言うことだな」本当はこの話を日本語にして共産党中国を琉球王国時代の宗主国として再び臣従しようとしている沖縄県民に聞かせたいところだが、ボックス席ではカウンターに並んで座っている色違いのミリタリー・ファッションに興味を持ったらしい馴染み客に夕紀子が必死に説明しているのが聞こえてくるので刺激しないように英語を維持した。
「ところでモリヤ中校は愛知大学の本間郁子と言う後輩を知らないか」私は愛知大学を中退したので卒業生を後輩と呼ぶ資格はないが、この名前には聞き覚えがある。
「名前は聞いたような気がするが、顔や接点は思い浮かばないね」この状況は人並み以上の記憶力を持つ私には謎だ。ところがグラスに口をつけたところで記憶回路が接続された。
「それは陸上自衛隊西部方面隊総監部に所属していた輸送幹部の3佐だな」最近、英語力が急激に劣化している私は頭の中で単語を直訳しただけの英語で回答した。本間郁子3佐は佳織がハワイの太平洋軍司令部で勤務中に実施された日米協同指揮所演習・ヤマサクラで知り合い、帰国後に連絡を取ろうとしたが行方不明になっていた。先日のイージス艦と漁船の衝突事故の判決で横浜地方裁判所に向かう官用車の運転手だったWACからも同様の話を聞いている。人物は特定できたが、それを王中校が知っている理由が判らない。
「なるほど。これで今後の処遇が決められたよ」私の返事を聞いて王中校は皮肉な笑いを浮かべながらグラスの酒を飲んだ。ヒョッとして私は不用意に内部情報を漏洩してしまったのかも知れない。これも誘導尋問の手法なのだろうか。
「本間少校は私が担当弁護士に紹介してユーチャン・メイファイスーとの通訳をやってもらったんだ。抜群の語学力でそれまで弁護士が理解できていなかった事情が確認できたんだが、残念ながら公判は後半に入っていたんで判決を左右させるほどの成果はなかったよ」王中校は自省と疑惑の視線を向けている私に弁明のような説明を返してきた。それでも消息不明で解職されている本間元3佐に中華民国軍の相当する階級・少校を付けたことで把握している実像を提示したようだ。つまり本間郁子なる元3等陸佐は失踪・出国してどこかの諜報部員になっていることになる。まさか日本国ではないはずだが、同期の岡倉信一郎も似たような経緯で失踪し、海外の軍事情報分野で存在を感じさせることがある。
「今回、貴方とお会いしてまるで自衛隊が本物の軍隊になっているかのような気がしてきました。沖縄に潜入した工作員の処理や失踪したWACが諜報員になっているなんて学生時代に読んだ小説や漫画のようですな」「うん、感動してもらえたなら私も満足です」この台詞が今回の危険な出会いの幕引きには適切だろう。私たちはグラスを打ち合わせてカッチンを出た。
- 2019/08/29(木) 12:43:16|
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「モリヤ、久しぶりさァ」「前回は去年の9月だったから1年にはならないよ。確か前回も制服で来たぞ」前回は尖閣諸島近海で起きた中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突した事件の調査のついでだったから制服で来たはずだ。夕紀子はそんなことは完全に忘れているらしい。
「自衛隊の制服は滅多に見ないから記憶に残らないね。それでこちらの方は」ここでようやく主客の王中校に話を振った。ママが日出子と夕紀子に代わって叔母の孝子の時代の馴染み客が戻ってきたのでカッチンは家庭的な雰囲気になり過ぎているようにも感じる。
「王中佐は台湾の陸軍で法律関係の仕事をしているから美恵子の裁判でも色々世話を焼いてくれたんだ。今回も美恵子が『那覇市内では散髪屋に就職できそうもない』って聞いて心配してついてきてくれたんだよ」「その話はオカアから聞いてるよ」聞いているのなら説明させないでもらいたい。以前の夕紀子は感覚だけで行動する美恵子とは違い、冷静で思慮深いと言う印象を持っていたが、年齢を重ねて普通の沖縄の小母さんになってきたようだ。
「美恵子は那覇市内どころか沖縄本島中の床屋に指名手配されたままだから就職できないのさァ。人手不足の離島なら採用してくれるかも知れないけどあの娘(こ)は流行の最先端を追う仕事でなけりゃあやる気を起こさないから駄目だね」流石に姉も美恵子の職業人としての欠点を認識している。おそらく王中校が聴きたいのは身内の人物評だろうからこの話題は丁度良い。
「そう言えばお酒を忘れていたさァ。昨日、美恵子が帰ってきてオトウとオカアの苦労が始まるってネエネと話していたところにモリヤに会って、完全に頭のネジが外れてしまってるよ」夕紀子の言い訳は多分本音だろう。結束が固い沖縄の家庭でも特別な玉城家の異端児である美恵子が前科者として帰ってくれば世間だけでなく近所に住む門衆(モンチュウ)からも冷たい視線を浴びせられ、年老いた両親が矢面に立って守らなければならない。長男の松真は航空自衛官として浜松基地で勤務しているので当てにならない。だから結婚して家を出ている姉たちが深刻に受け止めているのは当然だ。ここで私は小声で王中校に玉城家の家族構成を説明した。
「酒は前回、淳之介と松真用にキープしたボトルを飲もう」「そんなのあったっけ」「スィヴァース・リーグルゥだぞ」振り向いて棚に並んでいるボトルを見回している夕紀子に私がヒントを与えるとすぐに見つけ出した。エライ中華民国陸軍の中校殿に飲ませる酒としてシーバース・リーガルはギリギリの格式だろう。前回、梢の好みに合わせておいて助かった。
「貴方から見て玉城美恵子はどのような妹ですか」乾杯が終わり、2人ともストレートのグラスを数回口に運んだところで王中校が夕紀子に質問を始めた。その前に私から可能な範囲で正直に話すように言ってある。これが閉店に近い時間なら夕紀子も水割りを作って客である私のボトルを減らすところだが今回はまだ早い。
「あの妹は可哀想なところもあるけどやっぱり厄介者なのさァ。美恵子の小学生時代は沖縄が本土に復帰したばかりの頃で、ナイチャア(本土の人)の教師が滅茶苦茶なことを吹き込んだから何も身につけずに高校生になってしまったのよ。だから姉弟の中で一番成績が悪くて私たちを見返してやろうと選んだのが国家資格が必要な理容師だったのさァ」確かに美恵子は出会った頃から一貫して「理容師」と呼ぶことを要求して「床屋」や「散髪屋」と言う俗称を拒否していた。しかし、そのような屈折した感情の上に立てたプロ意識はどこか危うい気がする。
「服装も地味な私たちのお下がりを嫌ってファッション雑誌で選んだ最新の流行をアルバイトの給料で注文して買うようになって、髪型も親に黙ってパーマをかけて高校の服装点検ではいつも注意されていたわ。それでも化粧だけはオカアが許さなかったんだ」私が玉城家の一員だった頃、日出子や夕紀子に会うと義母の勝子と服を着回ししているように見えた。その中で美恵子だけが派手な流行の服装だったから完全に浮いていた。だから防府に転属した時には「憧れの本土」と夢を膨らませていたはずだが、あそこは沖縄よりも流行から遅れていた。
「それではどうしてモリヤ中校と結婚したんですか。今日、私は矢田下士(3曹)にも会ってきました」この質問は私が美恵子を直接尋問、ついでに拷問したいくらいだ。すると夕紀子は美恵子以外の玉城家の女たち(勝子の妹の孝子を含む)に共通する顔を固くして答えた。
「あの頃、私がモリヤのどこが好きなのかって訊いたら、ナイチャアだからシマンチュウ(沖縄の人)みたいにベタベタとまとわりついてこないって言っていたよ。仕事を好きなようにやらせてくれるって思ったんだね」結局、私がその期待を裏切ったようだ。その一方で本土復帰直後の沖縄の学校教育では本土で学生運動の活動家だった教師たちが儒教的な倫理観を徹底的に否定したため児童・生徒たちは家庭で教育される貞操感念や奉仕の心、和の精神などに疑問を持ち、教師と両親を天秤にかけることになった。家庭に不満を抱いていた美恵子が教師を選んだのは当然の成り行きだったのかも知れない。

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- 2019/08/28(水) 10:53:04|
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夕食は那覇駐屯地の糧食班で残飯喫食させてもらった。残飯喫食と言うのは正規の手続きを踏まずに後で残飯として破棄する予定の余剰分を先に回してもらう裏技だ。これが公式訪問であれば糧食班が威信をかけて調理した豪華な料理で首脳陣と会食になるのだが、幹部食堂で通常の隊員食を味わうのも王中校には得難い体験のはずだ。案内は当然、駐屯地業務隊長だが単身赴任と言うことで夕食も糧食班で喫っているため特別な対応はないらしい。
「これで通常のメニューなのか」幹部食堂の奥に設けられている高級幹部の席でお盆に載せられて運ばれてきた一膳飯を見て王中校は隣りの私に戸惑ったように訊いてきた。陸上自衛隊の糧食班は調理師免許の取得を目指す陸士に実習させているため素人仕事であり、プロの調理師が腕を揮う海上の烹炊場や航空の給養小隊に比べて出来栄えは落ちるが、今日の料理は主菜から副菜、汁物、果物まで味付け、焼き物と煮物の取り合わせ、色合いまで行き届いている。
「どうぞ遠慮なく味見してみて下さい」私たちの向かいが指定席になっているらしい駐屯地業務隊長は自信ありげな顔で勧めてきた。やはり特別メニューのようだ。王中校と駐屯地業務隊長は箸を取って料理に手をつけたが、私は坊主としての作法を始めて出遅れてしまった。
那覇駐屯地の次は王中校の「肉親にも面会しておきたい」と言う要望で美恵子の2人の姉・日出子と夕紀子が交代でママを務めているスナック・カッチンだ。事前連絡を取っていないので今夜はどちらの担当なのかは判らないが、私としては同じ年の夕紀子の方が有り難い。
「玉城美恵子に何をやらせるつもりなんですか」カッチンが入っているビルの前でタクシーを下りた私は人通りがない歩道で単刀直入に質問した。今回の同行で私の中では王中校がここまで念入りに身元調査をする目的に自衛官としての警報装置が反応し始めている。王中校が法務官として間諜(スパイ)を捜査し、逮捕すれば司法、そして処理するのと同時に諜報活動にも関与していることは鈍い私も可能性として察知しており、ここまで玉城美恵子の身上を調査し、中国語を習得させようとしている目的が書簡にあった「理髪師としての才能を認めた」では納得できなくなってきている。考えられるのは美恵子に台湾の都市部で日本人や外国人相手の理容店を開業させ、国内に潜入している間諜を発見する監視所にすることだ。すると王中校は落ち着き払った顔のまま英語で答えた。
「玉城美恵子に広東語をマスターさせて我が国に呼び寄せる目的は貴方への書簡に記した通りだ。ただし、出店させるのは香港だ」これは想定外の告白だ。私は王中校の養女でもあった在香港の諜報員・盧暁春こと鄭祖賢が上海国際博を利用して潜入した北京で殺害された悲劇は知らないが、共産党中国が返還交渉でイギリスに約束した1国2制度を覆して支配権を強化していることは認識している。つまり私が考えていた内向きの目的ではなく台湾が国外に置く監視カメラ、盗聴器としての使用を考えているのだ。確かに中国当局の警戒も緊張感がない日本人の方が緩そうではある。私は黙ってうなずくと手で前を指して先に階段を登り始めた。
「いらっしゃいませ」「ハイサイ」以前は使い慣れていたドアを開けて店内に入ると二女の夕紀子の声がした。私の島口=沖縄方言の挨拶に夕紀子は顔を見ないで「モリヤねェ」と言い当てた。それにしてもカウンターと入口の間に壁があって来店した客が見えない構造上の欠陥を放置したまま数十年が経過している。改築する気はないのだろうか。
「あれ、仕事ねェ。格好いいさァ」壁を通ってカウンターの前に出ると制服姿を見た夕紀子は呆れたように声をかけてきた。沖縄では不要なトラブルを避けるため隊員の制服通勤を強制していないので一般市民が自衛官の制服姿を見る機会は本土よりも少ない。夕紀子は私の黄ばんだワイシャツのような制服を興味深そうに眺め始めた。最近の陸上自衛隊は次々に妙な徽章を作っているため胸ポケットと肩までの狭い生地にゴテゴテとバッチを並べることになっているが、私は服装規則で義務づけられていない徽章(多くは「着けることができる」と規定している)は装着していないので防衛記念章と格闘徽章、そしてヒマワリ型の弁護士徽章だけだ。夕紀子がミリタリー・ファッションに興味を持ったところで次のモデルを登場させた。
「どうぞ」「こんにちは」私が壁の陰で待っていた王中校に声をかけるとニコヤカな笑顔で歩み寄った。この店ではカウンター内だけが強い照明になっているため私たちはスポットライトを浴びたステージ上のモデルのように照らし出されている。夕紀子は王中校の薄い緑色の軍服と私の黄ばんだワイシャツを見比べながら首を傾げて挨拶を忘れていた。
「こちらが玉城美恵子の姉の夕紀子です。こちらは美恵子が台湾でお世話になった台湾国陸軍の法律関係の幹部、王中佐だ」「これはどうも、馬鹿な妹がご迷惑をかけました」私の紹介に我に返った夕紀子は急にかしこまっていつになく深く頭を下げた。
「こちらにどうぞ」まだ時間が早いので他に客はおらず、夕紀子はカウンター席を勧めた。
- 2019/08/27(火) 10:59:49|
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1790年の明日8月27日はアメリカ海兵隊の前身である大陸軍海兵隊の緒戦を飾る戦闘を指揮したサミュエル・ニコラス初代司令官(階級は少佐だった)の命日です。
ニコラス司令官は1744年にイギリスの植民地だったペンシルバニアのフィラデルフィアで鍛冶屋の息子として生まれました。ニコラス司令官が飲み屋の親父になっていた1775年4月19日に独立戦争が始まると同年6月12日に生起したマチャイアスの海戦の勝利(イギリスの補給艦隊を大陸軍が小型艦艇で襲撃した。独立軍はスクーナー=三角帆の高速帆船を捕獲した)で意気上がる大陸海軍の大尉に任官しました。
ニコラス司令官が大尉に任官して5日後の11月10日の大陸戦争指導会議でヨーロッパ列強の海軍が有している地上戦部隊に倣った海兵隊の設置が決定したのですが、大陸陸軍を指揮するジョージ・ワシントン司令官は将兵の割譲を拒否ししたため言い出しっ屁のロバート・ミラン大尉が1人で組織を造る羽目になったのです。しかし、郷土愛に溢れ(独立戦争なので愛国心ではない)、勇気があり、体力に自信を持っている若者は陸軍に参加しており、かつての自衛官募集のように「お兄ちゃん、海兵隊に入らない」と声をかけるような苦労をしていたようです。結局、フィラデルフィアのキング・ストリートにある飲み屋「タン・タバーン」を大陸海軍海兵隊の創設準備事務所にして、若者を泥酔させて意識朦朧としている中で入隊志願書にサインをさせて士官10名と兵員200名を集めたと言う昔の自衛官なら納得する逸話が語り継がれています。ちなみに現在もこの「タン・タバーン」はアメリカ海兵隊誕生の聖地として営業しています。
ニコラス司令官も11月28日になって海兵隊の創設を聞くと即座に海軍から移籍して募集する側で貢献したようです(早い話が元飲み屋の親父として若者を酔い潰したのか?)。この功績を評価されたのかは不明ですがニコラス司令官は大尉のまま移籍した日にさかのぼって11月28日付で海兵隊司令官に任命されています。
頭数は揃えたものの新設海兵隊は素人の集団に過ぎず、ニコラス司令官はバブル期の浜松基地警備小隊長のように隊員と部隊の戦力化に孤軍奮闘することになり、その成果は1776年3月3日のナッソーの戦いで発揮されました。この戦いではフロリダ半島の東方に浮かぶバハマ諸島ニューブロビデンス島のナッソーにイギリス軍が置いていた補給基地を250名の大陸海軍海兵隊が襲撃し、13日の戦闘の末に占領しただけでなく大砲88門と16535発を奪取しました。その後も1783年9月3日まで続く独立戦争で繰り広げられた各地の戦闘で戦功を重ねていきますが、アメリカの戦史ではジョージ・ワシントン初代大統領の功績として大陸陸軍=アメリカ陸軍の所有物にされているようです。
ニコラス司令官は独立戦争の終結に伴い海兵隊が解散すると少佐として軍籍を離れ、特別な栄誉を受けることもなくフィラデルフィアで暮らしていましたが、この日に黄熱病で死去しました。
1798年7月11日に再建されたアメリカ海兵隊はニコラス司令官を公式に初代総司令官と認定しており、海軍も「ニコラス」の名を冠した駆逐艦を4隻就役させています。
- 2019/08/26(月) 10:21:34|
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「今日、君と面会することになったのはこちらの台湾国軍の王2佐から玉城美恵子について調べたいと言う要望があったからだ。私も質問には正直に答えたから君も個人として話せる範囲で協力して欲しい」これが裁判の尋問であれば偽証罪と黙秘権の説明を加えるところだがあくまでも私的調査への協力なのでこの程度になった。王中校の肩書を「台湾国軍」としたのは矢田3曹に中華民国と中華人民共和国の違いが判るとは思えなかったからだ。
「補足すれば王2佐は日本語が堪能だからそのまま話せば良い。それではどうぞ」私の前置きが終わると王中校は置き机に置いていた大き目の手帳を開き、高級そうなボールペンを取ってメモの用意をした。そこで一呼吸の間を置いてから口を開いた。
「君がモリヤ2佐の妻だった玉城美恵子を誘惑して略奪したことは我が国の裁判の通姦罪に関する審理で詳細に証言されている。当時、理髪店の客だった君が上官の妻を誘惑したのは玉城美恵子にそれけ性的な魅力があったからなのかね」矢田3曹は自分の名前が外国の裁判で出ていたことを聞かされると表情を固くして私の顔を見た。私は弁護士の顔を作って目で答えを促した。
「いいえ、散髪されながら猥談を振っても意味が通じないので面白がって教えている間に誘惑してみようかと思うようになりました。勿論、新任のエリート幹部で妙に偉そうなモリヤ小隊長に一泡吹かせてやろうと言う若気の至りもありました」この辺りの話は善通寺でも聞いているので私としては特別な感情は抱かないが、駐屯地業務隊長が同情したような視線を向けてきた。
「問題なのは名誉ある陸軍将校の妻でありながら下士官の誘惑に乗った玉城美恵子の貞操観念だ。まさか強姦した訳ではないだろう」「勿論です。モリヤ小隊長が演習がない時まで家を開けて育児を押しつけていることに不満を持っていたみたいなので気晴らしにドライブに誘ったら簡単に落とせました」こうなると怒りよりも恥ずかしくなってくるが、要するに美恵子は私が性的情報から隔離していたため本当は人並み以上だった性への関心と欲求が蓄積していて、そこに矢田3曹が火をつけて大炎上させたと言うことだ。
「モリヤ小隊長はデートもバスか自転車だったからドライブさせてもらったことがないって不満そうでした。ディスコやゲーム・センターも初体験で『青春をやり直すんだ』って喜んでいました。セックスもプロのテクニックを教えると燃えてしまってこちらが大変でした」「ゴホンッ」矢田3曹の説明が私を侮辱していると感じたらしく駐屯地業務隊長が咳払いをして制止した。しかし、これは私にとって反省しなければならない事実だった。梢は手をつなぎ、腕を組める徒歩や2人乗りで抱きつける自転車を心から喜んでいたが、タクシー・ドライバーの娘の美恵子にはかなり不満だったようだ。何にしても波長が全く合わない相手だったのは間違いない。
「それで君は今、玉城美恵子と結婚していたことをどのように思っているのかね」台湾での裁判の尋問で美恵子が語った私と矢田3曹との結婚生活に関する証言を確認し終えた王中校は締め括りに私にとっても関心がある質問を投げ掛けた。矢田3曹は長い時間、うつむいて考えると私の顔を一瞥してから答え始めた。
「始めは玩具にして捨てれば幹部の妻としての世間体があるから誰にも知られずに片づけられると思っていたんですが、運悪くモリヤ小隊長本人に見られてしまったんです。それで責任を取って結婚することになりましたが、あの女はモリヤ小隊長の優しさに慣れていたんで私との生活には常に不満を感じていたみたいでした」矢田3曹はここで一呼吸置いて私の顔を注視した。
「問題が発覚した時、モリヤ小隊長は『家庭を顧みなかった自分にも責任がある』と仰って激怒していた中隊長をなだめて下さいましたが、それを聞いて私は自分が犯した罪を思い知って、一緒に裏切ったあの女が疎(うと)ましくなったんです」この言葉は前回、国際通りで会った時の態度でも納得できる。ここで私は弁護士でも人権派の顔に切り替えて言葉を返した。
「あの時の言葉に偽りはないぞ。私と玉城美恵子の出会いも不幸だったが君も不運だったと言うことだ。それでも流行の髪型に興味があった君の方がまだお似合いだったんだろう。結局、あの女には理容師以外に何の能力もないんだから、仕事と結婚してハサミと剃刀を伴侶として一生を過ごさなければならなかったんだ」続いて私は人権派弁護士として面目躍如の台詞を吐いた。
「君はあの一件で厳しい処遇を受け続けているようだが、そろそろ不当人事の領域に入っているように感じている。君が普通科の陸曹として有能だったことは良く知っている。今も鍛えていることは身体を見れば判る。君が陸上自衛隊を告発するのなら弁護は引き受けよう。いつでも遠慮なく陸幕法務官室に電話してきなさい」この長台詞を聞いて駐屯地業務隊長は青ざめた。目の前で不倫騒動の被害者と目されている弁護士の法務幹部が組織によって抹殺されようとしている加害者に民事訴訟を起こすことを勧めたのだ。それでも軍事裁判の判事として検察・弁護の法廷外の駆け引きを熟知している王中校は私の真意を洞察して口角だけで苦笑していた。
- 2019/08/26(月) 10:20:26|
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なかむら家での食事を終え、アルテビルの台北駐日経済文化代表処那覇分処に戻ると王中校は粘分処長と中国語での会話を再開した。何故か通訳の女性秘書は同席させていない。
2人はなかむら家でも県職員たちが先に帰り、マスターが材料の準備などで席を外した時に急に小声の中国語で話し始めていたが、大学時代もそれほど得意ではなかった中国語を思い出しかけただけの私に盗聴は無理だった。
「それでは那覇駐屯地に行きましょう」理解不能のまま結論が出たらしい王中校に私は声をかけた。次は王中校の要望で那覇の駐屯地業務隊で勤務している美恵子の前夫・矢田3曹と面会する。私の方からも駐屯地業務隊長の1佐に連絡してあるが、「中華民国陸軍の中校(2佐)を同行する」と説明したところ公式訪問になると秘密保全を含めた事前審査が念入りになる上、外交関係がない台湾の軍人の訪問が認められる可能性は低いと言うことだった。そのため私が引率してゲートを通り、業務隊長室で面会すると言う妥協案で決着をつけている。
「気をつけ」私たちが那覇駐屯地の正門前でタクシーを降りると歩哨はイキナリ大声で号令をかけた。市ヶ谷駐屯地の正門は民間委託の警備員になっているため忘れかけていたが、陸上自衛隊の正門では幹部が通過すると歩哨が「気をつけ」と叫び、全員が姿勢を正して警衛司令が「異常なし」と報告する。その声量がいつになく大きい、つまり気合が入っているのだ。
「陸幕法務官室のモリヤ2佐だが。こちらは中華民国陸軍のワン・マオシィォン2佐(王茂雄中校)だ」「はい、お話は聞いています」近づくと歩哨には3曹が立っている。これも異例の対応だ。つまり公式訪問ではないが外国軍に陸上自衛隊の威信を示す必要はあり、知恵を絞って可能な限りの演出を施しているらしい。案の定、警衛所の駐車場にはOD色の業務車1号が停まっていて第3種夏服を着た運転手が整列休めをして待っている。
「幹部引率」「服務中異常なし」通常は冷房のため締めているガラス戸を全開にしている警衛所の前を歩きながら警衛司令に声をかけるとこちらも最大音量で報告してきた。王中校は陸上自衛隊の駐屯地に入るのは初めてと言うことなので、1つ1つの動作や発声を興味深そうに観察しながらついてくる。私自身はアメリカ軍以外の外国軍の基地や駐屯地に行ったのは2度のPKOで訪問したフランス外人部隊とオランダ軍の宿営地くらいだが、ここまで過剰な演出はしていなかった。こうなると後で王中校の感想を訊いてみたくなってくる。
「陸幕のモリヤ2佐と台湾陸軍の王中佐ですね。駐屯地業務隊長室までお連れします」私たちが3メートルの距離に近づくと基本通りに運転手が姿勢を正し、敬礼をしながら声をかけてきた。私としても王中校に失礼ではない対応をしてもらえたことに安堵して、自分でドアを開けて次級者の席に座った。王中校の方は運転手が開けた。これはVIP=1佐以上並みの待遇だ。
それにしても「台湾軍」と言う呼称は少し非礼ではないか。私からの唐突な連絡で混乱したのは判るが、台湾は地名であってやはり「中華民国軍」が適切だろう。
駐屯地業務隊長室では「たまたま用談していた」と言う名目で待っていた第15旅団司令部の1佐クラスの幕僚たちに会うことになった。そこには中国語の通訳の1尉が同席している。やはり現場でも実際に役立つための施策を進めているようだ。
「矢田3曹を呼べ」意外に話が弾み長引いた非公式の面談が終わり、幕僚たちが帰ったところでコーヒー・カップを下げに来たWACの陸曹に駐屯地業務隊長が声をかけた。副官室で待っていたにしても忠犬ハチ公状態だったはずだ。ましてや昇任できずに問題隊員のまま放置されている矢田3曹にとっては1佐の駐屯地業務隊長室の敷居は普通科の隊員だった頃に汗を流した戦技障害走路(陸上自衛隊式フィールド・アスレチック)の登攀壁以上に高いはずだ。
「矢田3曹、入ります」WACと入れ替わりに3種夏服を着た矢田3曹がドアの前に立ち、自衛隊の作法通りに申告と敬礼をした。私は昨年の秋、尖閣諸島での中国漁船衝突事件を調査するため沖縄に出張した時、梢と国際通りを歩いていて会ったことがある。あの時は若い妻と子供と一緒で幸せそうだったが今日は異常に緊張して敬礼の動作もぎこちない。
「うん、入れ」駐屯地業務隊長も矢田3曹の身上表を読んで私がカンボジアPKOに行っている隙に美恵子を誘惑した顛末を確認したらしく嫌悪感をあからさまにしながら声をかけた。
駐屯地業務隊長室のソファー・セットは3人掛けの長椅子を対面にして置き机の両側に1人掛けを置いた8人掛けになっており、私と王中校が窓側の3人掛け、駐屯地業務隊長が壁際の1人掛けに座り、矢田3曹は席が判らず手前で立ち止った。
「そこに座れ」「はい、矢田3曹」駐屯地業務隊長はやや苛立った口調で指示し、私が視線で席を教えた。矢田3曹は多分心理的に座り心地が悪そうに私たちの正面に腰を下ろした。
「矢田3曹、久しぶりだな」「はい、ご無沙汰しています」最初に私から話を切り出した。
- 2019/08/25(日) 11:49:16|
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昼食は支処長の案内でアルテビルから徒歩数分のなかむら家へ行った。通訳の美人秘書が同行しなかったところを見ると会話は日本語にしてくれるようだ。その一方で王中校と粘支処長の会話を聴いていて私の中国語も少しは復活してきている。
なかむら家は梢とつき合っていた頃に何度か入ったことがあるが、沖縄料理(王家の宴席で供されたのが琉球料理、家庭で日常的に食しているのが沖縄料理)と地元の魚を使った海鮮料理が専門だ。久茂地は国際通りの続きにある沖縄県庁に近いため昼時の店内には一見して公務員と判る男女が多い。その中には県労組の活動家もいるはずだが、そこに制服と軍服を着た2人を案内した支処長の意図は不明だ。単に「美味しいから」「近いから」と言う理由も考えられる。
「王中校も沖縄には何度も来ていますが、この店は初めてですか」制服のズボンにしわを寄せないため私たちは居酒屋式のカウンター席に座ったが、マスターが絞りタオルを配り、注文を取ったところで支処長が談笑を再開させた。しかし、王中校は希望していた美恵子の就職を断られて少し不機嫌になっている。そこで私が代わりに答えた。
「私は若い頃、恋人と2人で来たことがありますよ。その恋人に王中校は会いました」意表を突いた展開に王中校は呆気にとられたようにこちらを見た。私は想定通りに展開に苦笑しながらマスターが出したグラスのうっちん茶を飲んだ。うっちん茶はウコンの葉と茎でいれるが肝臓に良いとされているため酒飲みに愛飲者が多い。
「それはアンリー・シャオさんのことかね」流石に驚いたのか冷静な王中校は安里梢の氏名を中国語のまま口にした。私も梢と広東語の勉強に励んでいた頃、互いの名前の中国語読みは覚えたので理解したが、この手の大物然した人物が焦り、慌てた姿も苦笑できる。
「そうです。梢とは毎週土曜か日曜日に必ずデートしていました。今日、王中校が言い当てたように親密な交際だったんですよ」ここでは支処長は蚊帳の外になってしまったが、ようやく王中校を引き入れることができた。
「と言うことはモリヤ中校も沖縄におられたのですか」「はい、30年ほど前の20歳代の5年間を沖縄で過ごしました。私にとっては青春の地です」私の説明に王中校はその5年間に梢と交際しながら引き裂かれ、美恵子と結婚した私の青春の「甘酸っぱい」ではなく苦くて辛く塩っぽくて梢と過ごした時間だけが甘い複雑な風味を理解したようだ。
「モリヤ中校の目には現在の我が国はどのように映りますか」ここで粘支処長が私に話を振ってきた。この日本語にもかなりの品格を感じる。今の日本のインテリ層でもこのような言葉遣いはしないのではないか。平成に入って日本が伝統的な精神文化や美意識が崩壊させている中、台湾ではそれが大切にされ、正しく受け継がれているようだ。これでは「日本文化を学ぶには台湾へ」と日本人の若者が留学することになりかねない。
「先ず3月11日の東北地区太平洋沖地震において中華民国が即座に巨額の義捐金の供出を決定し、迅速に救援隊を派遣してくれたことに心から感謝を申し上げます」私があらたまって謝辞を述べ、座ったまま45度の敬礼を実施したため注文した料理を運んできたマスターはカウンターの中で固まってしまった。したがって謝罪や感謝では頭を下げて20秒間待たなければならない敬礼を基本教練通りに即座に戻すことになった。
「これまで馬英九政権は野党が初めて政権奪取した陳水扁政権の独立志向の反動で李登輝政権以上に共産党中国に追従しているように見ていましたが、今回の毅然たる態度にその認識を改めました。むしろ共産党中国に服従しているのは折角、最初に到着した貴国の救援隊を東京に足止めして共産党中国の救援隊の到着を待たせた現在の日本政府です」私の見解に粘支処長は満足したようにうなずいたが、王中校には異論があるようで無反応に前に並んだ料理に箸をつけていた。
「その日本政府も災害派遣で自衛隊が活躍している写真を県民に見せたくないからと大震災の記事を掲載しない地元新聞を放置している沖縄県に比べればましですが」私が批判の相手を沖縄に向けると王中校も食べながらうなずいた。考えてみれば私も制服を着ており、周囲には県労組かも知れない連中が聴き耳を欹て(そばだてて)いる。しかし、ここであえて発言を控えないのが私の沖縄への愛着だ。私もグルクンの刺身に箸をつけると話を続けた。
「これは沖縄の魚ですが、尖閣問題では中華民国の漁船が共産党中国の人間を乗せて領海侵犯を繰り返していました」「中共は漁船が日本の海岸巡防署(=海上保安庁)の巡防救難艦(=巡視船)に衝突する事件も起こしてからは公船で行っているぞ。」粘支処長の前では政権批判ができないようで王中校は共産党中国を標的にし始めた。
「何にしても自衛官の私的発言を規制する法令はありませんから、本土の新聞が採用することはないでしょう」話が盛り上がる前に釘を刺すのは防諜=自衛処置だ。当然、音量を上げた。
- 2019/08/24(土) 13:06:15|
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ホテルを出て国際通りでタクシーを拾おうとしたが、軍服と制服の小父さん2人組はあからさまな乗車拒否に遭ってしまった。流しのタクシーにとっては土・日曜日に外出する自衛官が大口の客のはずなので乗車拒否される理由は全くないが、やはり制服を着た自衛官を乗車させているところを地元2大紙の購読者に見られたくないのだろう。ただし、航空自衛隊時代の私は那覇基地から国際通りまで片道6キロを徒歩で往復し、それより遠い場所には自転車だった。
「どうしますか。歩いても陸軍軍人の足なら散歩の距離ですよ」台北駐日経済文化代表処那覇分処は那覇市久茂地でも国際通りと58号線の間にあるアルテビルの6階だ。梢が仕事の関係でデート中に探したため場所は知っているが遠い距離ではない。
「フロントに呼んでもらおう。陸軍将校が市街地を2名で歩いているのはあまり名誉な姿ではないからね」やはり外国軍の将校はエライ存在であり、足で歩くことはあまり名誉なことではないらしい。そう言えば日本でもエライ武士は馬や篭に乗っており、帝国陸軍の歩兵でも上級将校は馬だった。一方、私が普通科を選んだのは「歩兵は歩く兵科=職種だ」と考えたのが主な理由だった。勿論、曽祖父が歩兵旅団長の少将だったこともある。
「ふーん、帝国陸軍は徒歩での移動が基本だったけど台湾陸軍は受け継いでいないんだな」ホテルの正面玄関の階段を登ってロビーに戻っていく王中校の背中を追いながら私は意外な発見を知識のデーターにした。考えてみれば同じ第2次世界大戦を描いた戦争映画を見ても日本では重い背嚢を背負った兵隊が長い99式歩兵銃を担って中国大陸の広野に列を作って進軍しているが、ハリウッド映画ではトラック、ヨーロッパでは列車が基本だ。その意味では前川原での私の認識も時代遅れだったようだ。それにしても梢は炎天下の徒歩デートを嫌がりもせずにつき合ってくれたものだ。自転車の2人乗りがドライブだった。
意外に狭く奥まった場所にあるアルテビルの6階の事務所に入ると前もって連絡してあったようで、台湾的美人の女性秘書が愛想よく支処長室に案内してくれた。
「ジー・シー・ワン・チョングシャオ(これは王中校)、ウォ・イージー・ザイ・デェング・二ィ(私は貴方をお待ちしていました)」分処長が柔和な笑顔を浮かべて王中校を出迎え、両手で握手を交わした。私のほぼ喪失している中国語力では2人の会話は解読不能だ。梢を連れて来るのならこちらの方だったのかも知れない。
「こちらは日本陸軍参謀本部の法務官、モリヤニンジン中佐です。こちらは中華民国那覇領事館の粘進士領事です」やや長めの時候のあいさつを終えて王中校は私を那覇支処長に引き合わせた。私の職務と階級を帝国陸軍式にしたのは意味不明だが、相手の肩書も本来の位置づけにしていることを考えると王中校としての国際常識を働かせたようだ。日本にとって台湾=中華民国は怨嗟による敵意が蔓延し続けている韓国以上に親愛な隣国なのだが、本来は共産党中国の方から持ち掛けられた国交回復を田中角栄が周恩来の術中にはまって立場が逆転したため言われるままに国交を断絶し、大使館や領事館も置くことができなくなった。しがって相互に外交窓口として法人格の代表部を設けているのが現状だ。
「はじめまして。陸上自衛隊幕僚監部法務官室のモリヤ2佐です。お会いできて光栄です」私としてもやはり一国の領事に対する礼を尽くした。
「台湾友好事務所にようこそ。私が所長の粘です。モリヤ2佐のお名前とお顔は見たことがありますよ」粘支処長は謙遜した自己紹介をしてから執務机の横に置いてある中国風のテーブル・セットの席を勧め、秘書に飲み物を指示した。応接セットをテーブルと椅子にしているのはお洒落であり、日本人としては深く沈むソファーよりも背中が伸びて座り心地が良いはずだ。
「ところで問い合わせてあったユーチョン・メイファイスー(玉城美恵子)の雇用の件だが」秘書がよく冷えた一口で高級と判る中国茶を運んできた後、王中校が切り出した。美恵子の名前を中国語で言われても私には判らないが秘書が傍らで通訳してくれているので理解できている。
「連絡があってから職員を玉城美恵子が勤めていた理髪店に行かせて色々訊かせたんですが、仕事の腕は抜群でも自分本位な面があって客の評判も両極端だったそうです。それからママさんだったスナックでも客を選り好みしたため長年の贔屓客を失って経営は行き詰っていたようです。死亡事件の現場になったアパートの家主は言うまでもなく酷評しています。ここまで評判が悪い人物を雑役係とは言え我が国の外交窓口である支処で雇うことは・・・」ここまで詳細に調査していることでも台北駐日経済文化代表処が大使館としての機能を果たしていることが判る。本音としては私と同様に関わることも避けたいのではないか。
「彼女も我が国の緩刑(執行猶予)で色々な経験を積んで人格が大きく変わったと言う肯定的な評価を受けているんだ。面接だけでも頼めないかね」「私としては沖縄での悪評を無視することはできません」王中校は何故か喰い下がってくれたが、支処長の判断の方が常識的だった。

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- 2019/08/23(金) 12:10:04|
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大正3(1914)年の明日8月23日に日本が正式に第1次世界大戦に参戦しました。
当時のヨーロッパではアジアの島国・日本がヨーロッパの大国・ロシアに敗北しなかったことを警戒しており、同盟国のイギリスでも介入には慎重な態度でした。このためドイツがフランス制圧の経路として中立国のベルギーに侵攻したことで宣戦布告した時もイギリス側は日本のアジア地域での勢力拡大を嫌って日英同盟の適用範囲がインド西端までのアジア地域に限定されていることを理由に参戦を要請することはなく、むしろ日本側の不介入を取り決めた覚書を交換しています。
ところがドイツ艦隊が大西洋や北海、地中海で通商破壊を開始してイギリス船が被害を受けるようになると中立の立場のまま艦艇で香港に航行するイギリス商船の護衛を要請してきたため賛否を巡って政界を2分する議論になったのです。
この時、各政党の代表的政治家の大半が反対する中、大隈重信内閣の加藤高明外務大臣はイギリスに恩義を売る好機であり、将来的な国益につながると参戦を主導して8月8日に「ドイツに宣戦布告した上で参戦範囲に制限を設けないこと」を前提とした参戦が閣議決定されました。逆にイギリスは日英同盟の破棄を画策するアメリカや日本の脅威増大を阻止したい中国の政界工作もあって日本の参戦に懐疑的になっていて参戦延期と参戦範囲の限定を要請してきましたが、大隈首相が参戦決定を大正天皇に上奏していることを理由に拒否し、8月15日にドイツに対して「杭州の租借地を中国に返還する目的で一時的日本に譲渡せよ」と言う意味不明の最後通牒を交付し、1週間の猶予期限を過ぎた8月23日に正式に宣戦布告したのです。なお、大隈内閣の参戦決定は政府と軍の首脳が同席する御前会議や軍統帥部との事前折衝を経ておらず、この陸海軍の意向無視は軍人に政治不信を植えつけ、後に陸軍による政治統制と言う合併症をもたらしたと言われています。
一方、イギリスは日本が参戦を決定すると積極的に利用する態度に転じ、ドイツ東洋艦隊の根拠地である山東省・青島(チンタオであってアオシマではない)の攻略を要請し、さらにドイツの植民地だった赤道以北の太平洋諸島の占領、太平洋からインド洋に出没するドイツ艦隊の撃破などの戦果を重ねていくと対日警戒論も沈静化して、ついには不慣れな塹壕戦で多大な損害を被っていたヨーロッパ戦線への地上軍の派遣も要請してきました。これは流石に断りましたが、船団護衛のための艦隊派遣には応じて巡洋艦1隻と駆逐艦17隻を地中海に派遣しています(Uボートの雷撃を受けて78名が戦死している)。
しかし、この時、帝国陸軍が地上部隊を派遣していれば戦車や航空機、高性能の通信機材が登場して(毒ガスは除く)戦術・様相が一変した科学技術を基盤とする近代地上戦を体験することができたので、日露戦争で思考停止しただけでなく大山巌元帥と児玉源太郎大将と言う稀代の名コンビが指揮・指導した卓越した戦闘ではなく無能な乃木希典愚将の稚拙な旅順要塞攻城戦の肉弾攻撃を美学としたまま第2次世界大戦で死ぬためだけの玉砕戦を繰り広げ、それを陸上自衛隊にまで引き継ぐような非現実的で時代錯誤な組織に堕落することはなかったはずです。その点が残念でなりません。
- 2019/08/22(木) 11:25:51|
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「私は中共が我が国に送り込んだ北朝鮮の工作員を逮捕して処理したことがあるんだ。奴等の尋問で沖縄にも開戦時に自衛隊のパイロットを殺害する暗殺要員が潜入していると言う情報を掴んだ。それでペンタゴンを通じて日本にも伝えたんだが、すると沖縄では国籍不明の人間が突然死する事例が起こるようになった」王中校は顔を近づけると小声の英語で説明を続けた。これでは事実になってしまう。ただし、本土ではそのような「事件」は全く報じられていない。
「沖縄のニュースは地元2大紙が発信源で県庁や県警もその主張に同調しているから、連続して国籍不明の人間が死んだことに疑問を示さなければ単なる突然死として揉み消すことくらいは容易いはずだ」王中校は私の見解を予想していたようで唇を歪めて苦笑した。
「すると沖縄のマスコミは逆に処理している側にも秘密裏に任務を遂行できると言う恩恵を与えているな。中共の意向を受けて活動しているマスコミにとっては歯痒いことだろう」この言葉で王中校が言う「処理」が抹殺=殺害であることがハッキリした。私自身も北キボールで3人の若者の生命を奪っているのだから任務で敵を抹殺する処理に異存はないが、発覚した時の法的対応を考えると現在担当している裁判さえも遊びのように軽く思われてくる。
「それはどのような手段で処理しているんだね。本土の住人は知ることができないから教えてくれ」私が法務幹部的に関心を示すと王中校は同業者の顔になって説明を始めた。
「先ずは漁船が海上で炎上・爆発して沈没した。乗っていたのは1名のはずが複数の人間の遺留品があった。しかし、海上保安庁は単なる事故として処置したようだ」この事故は新聞で読んだ記憶があるが、写真なしで1行にも満たない扱いだったはずだ。
「それ以外では交通事故が多いな。自動車の衝突にひき逃げ、エンジンからの出火もある」「その当事者が国籍不明なら警察も事件性を疑うはずだがそれをしないんだな」日本国内の話題なのに私の方が疑問を感じてしまった。これで門外漢であることが理解してもらえたかも知れない。
「中共としても送り込んでいる暗殺者が次々と処理されては隠蔽し切れないと判断したらしい。前の官房長官に揉み消しを指示して戦術転換したようだ」「早い話、呼集された航空自衛隊のパイロットを殺害して初動対処を阻止しようとしたんだな。酷い話だ」一応は困惑した顔を作りながら共産党中国を非難したが、私自身も沖縄時代のデモ対処で警備地域に突入してきた車両に速度も緩めず跳ね飛ばされたことがあり、日本人の活動家でさえ「自衛官を殺せば英雄視される」と言う狂気を抱いていることを体験している。それが共産党中国と北朝鮮と言う敵国の暗殺者であれば任務として淡々と遂行するであろうことは十分判っていた。
危な過ぎる話題に区切りをつけると王中校は元の姿勢に戻って残っていた冷めたコーヒーを飲み干した。私としても同年輩の親父の顔を至近距離で見る苦痛から解放されて溜息をついた。
「先ほど貴官は日本にはスパイを処罰する軍法がないと言っていたが、我が国では・・・」「刑法103条から115条の外患罪だね」今度も私が先に説明すると王中校はさらに驚いたように口を開けて絶句した。中華民国刑法の外患罪は日本の戦前の刑法と同一の内容で民間人のスパイ行為も含まれている。勿論、軍人にはより厳格で刑罰が重い軍法がある。現在の日本の刑法にも81条から89条で外患罪が定められているが、戦前の規定が台湾と同様にスパイ行為を含めていたのに対して戦後に改定された条文では外国を誘導して日本に武力を行使させた罪と侵略してきた敵軍に参加した罪を規定しているだけだ。確かに死刑を含む重い罰則に処することになっているが適用されたことはない。逆に自衛隊法では自衛官の守秘義務は規定されているがスパイ行為に対する処罰は見当たらない。強いて言えば昭和29年に制定された日米相互防衛援助協定等に伴う秘密保護法でアメリカ軍とアメリカ製の武器や装備品の秘密は保護されており、こちらは2007年にイージス艦・きりしまに乗り組んでいた2等海曹が中国人の妻に秘密情報を漏らしたことが発覚して関係者が大量処分された事件で情報の漏洩源になった3等海佐に適用されて有罪判決を受けている。つけ加えればこの中国人の妻は国外退去処分を受けていながら密入国して横浜の中華街に潜伏していた。つまり「ハニ―・トラップ妻だった」と言うことだ。
「日本はどうしてそこまでお気楽でいられるのかな。まるで国際社会には悪意を持った国が存在していないと信じているみたいだ」この疑問には私の本業で回答することにした。
「日本の佛教では浄土真宗と曹洞宗が2大勢力なんだが、どちらも公家の息子が始めた教団だから教義は衆生が苦悩している現世の汚濁は無視して自己満足な理想だけを追求した教条主義なんだ。だから『平和』『友好』と唱えてさえいれば結果は相手次第、危険に背を向けて只管打坐していれば殺されても満足と言う国民になってしまったんだな」この難解な日本語の説明に王中校は納得したようにうなずくとそのまま腰を浮かせた。これから王中校が美恵子の就職先として考えている台北駐日経済文化代表処那覇分処に行く予定だ。
- 2019/08/22(木) 11:24:10|
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「それにしても日本の社会は全く警戒心を持たずに開けっ広げで、安心するべきか心配するべきか悩みますね」梢が席を外すと王中校はソファーの椅子で片足を膝に載せ、肩の力を抜いてコーヒーを口に運びながら英語で話し始めた。私も渋い仕草を真似したいところだが普段が和風の生活なのでソファーが尻に馴染まず、何よりも足が短いので少し背中を緩めただけだった。
「イギリスのMI5まではいかなくても我が国にも一応は防諜機関が存在してはいるんですよ。勿論、そんなことは知っているんでしょうけど」「しかし、日本の防諜機関はイギリスのように一本化されていないから機能不全を生じていないか不安ではありませんか」王中校の指摘は日本の縦割り行政の弊害だが、朝鮮戦争末期の1952年に全国各地で発生した共産党の革命組織と在日朝鮮人の共同武力闘争に続く60年・70年安保闘争や非左翼組織による大規模テロのオウム事件などを通じて危機感を共有した現場レベルではかなり協力体制が整備されているらしい。当然、こんなことをアメリカ軍ではない外国軍将校の王中校に話す訳にはいかない。
「考えてみれば中華民国の防諜組織も行政院内で分散していますよね。貴国の行政組織は日本の統治下の形態を踏襲しているように承知していますが、縦割り行政まで維持しなくても好いんじゃあないですか」私の反撃に王中校は膝に載せていた足を下ろして背中を起こした。やはり自衛隊の幹部が中華民国の情報組織に関する知識を有しているとは思っていなかったようだ。ただし、私も別に必要があって調べた訳ではなく、尖閣諸島での漁船衝突事件を調査することになった時、沖縄近海に出没する漁民に中国や台湾の工作員が潜入している可能性を考えて研究し始めると持ち前の探求癖で止まらなくなっただけだ。
「貴国では。逮捕したスパイを取り調べ、裁判にかけ、処罰するのは軍の法務官ですから貴方が情報に関わる仕事を担当しているのは当然のことと考えます」私としてはこの「では」にあえて力を入れたことで「現在の自衛隊の法務官とは違う」と言う意味も添えたつもりだった。日本では日本国憲法76条で特別裁判所の設置が否定されているため武力紛争関係法では戦闘員の権利として付与されている軍事法廷での裁判も一般の司法裁判所が担当することになる。その一方で統合幕僚監部の首席法務官や海空幕僚監部の法務官が1佐職なのに対して陸上幕僚監部の法務官だけが陸将補職なのは戦時に軍事法廷を開設する際の判事を勤めさせることを想定していると言うのが私の個人的見解だ。
「貴官がそこまで我が国の内部事情を知っているのなら本音で話しましょう。幸い2人とも軍服を着ているので公安当局も監視対象にはしてないはずです」確かに「私は中華民国陸軍の中校です」「こっちは2等陸佐だよ」と看板を掲げていれば反戦平和団体の活動家は敵視しても、防諜組織の人間は国家秘密の漏洩や破壊活動の相談をするとは思わないだろう。しかし、折角の王中校の申し出だが私には軍人による諜報活動の原則である情報交換に提供するネタの持ち合わせがない。仕方ないので王中校からの質問に秘密保全上の許容範囲内で答えることにした。
「我が国は日本に比べれば国土が狭いから海岸線も短い、何よりも監視対象である国民の人口と入国者数が少ない。だから行政院(政府)の規模も小さくて距離感が近いから組織が分かれていても緊密に協力すれば問題はありません。しかし、日本は全てが圧倒的に巨大だ。それなのにこれほど小規模に分裂した組織で対処し切れているのですか」言われるまでもなく日本と台湾では面積は10倍以上、人口はマイナス1億人以上の格差があり、負けているのは最高峰の玉山=新高山の海抜が3952メートル、富士山は3776メートルであることくらいだ。このため戦前の尋常小学校では社会の授業で「日本の最高峰は新高山」と習いながら音楽の時間には唱歌「ふじの山」で「富士は日本一の山」と唄っていたそうだ。
「確かに抜け穴だらけなのは認めます。何よりも日本人には危機感が欠落しているので観光案内の感覚で外国人に包み隠さず披露してしまう軽率さには困ってしまいます。それに亡国マスコミの世論誘導に乗って実態は中国共産党の政治工作組織である民政党に政権を与えてしまった」「その点は我が国も外省人財閥が経営するマスコミが親中共に政策転換した国民党を支持する宣伝を繰り広げていますからお互いさまでしょう」台湾には日本の放送法のような報道機関の政治的中立を義務づけた法律がないだけに事態は深刻なはずだ。
「おまけにスパイを処罰する軍法がない。昭和55年に発覚した宮永スパイ事件でも秘密を漏洩した宮永幸久陸将補と自衛官だけが守秘義務違反で告発されている。私が貴官に情報を渡しても処罰されるのは私だけ・・・貴官には消えてもらうしかありませんな」私としてはスパイ映画の台詞を使ったブラック・ジョークのつもりだったが王中校は急に表情を固くした。
「やはり貴官も日本の秘密防諜組織の活動を知っているのですね。沖縄で中共が送り込んだ北朝鮮の工作員が相次いで死亡している・・・」これもブラック・ジョークであってもらいたい。
- 2019/08/21(水) 11:27:05|
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大正15(1926)年の8月20日に現在は成田空港の近傍に当たる千葉県多古町で極めて特異な展開を見せた鬼熊事件が発生しました。
この事件は多古町で車引きをしていた岩淵熊次郎さんが愛人関係になっていた小間物屋の住み込み店員のけいさんに別の情夫ができたことを知って激怒したことから始まります。
岩淵さんは粗暴な面はあっても男気に溢れ、酒を飲んで打ち解ければ気前よく奢り、高齢者や女性・子供が遠方を歩いていると無料で車に乗せて連れ帰り、困っている農家の田畑の仕事を気軽に手伝い、祭礼などの村の行事では中心的な役割を担っていたので村人たちの信頼が厚く、誰からも慕われていたのに対してけいさんと小間物屋の店主は色仕掛けで客を誘惑することを常套手段にしていたため女性を中心に嫌われていたのです。
実は岩淵さんには妻と5人の子供がいたのですが生来の女好きはどうしようもなく、けいさんの誘惑に乗って関係を持った時には周囲が諌めたのですが聞く耳を持たず、逆に新たに誘惑された男がいると脅して遠ざけるほど入れ込んでいたようです。
岩淵さんは直情径行なため一度火がつくと誰にも止めることができず、この時もけいさんと情夫、けいさんが同居して肉体関係を持っていた小間物屋の店主の3人を殺害し、2人の仲を取り持った知人の家に放火してしまいました。実はこの知人が評判の悪いけいさんと別れさせるため情夫への乗り換えを画策し、岩淵さんの過去の粗暴行為などを警察に告発して、拘束されている間に関係が発展したのでした。
一方、この地域の住民は他の地域から追い出されて荒れ地を開拓した移住者が多く、後の成田空港闘争でも学生運動の活動家たちと共同戦線を張って徹底抗戦したことでも判るように国家権力に対しては強い敵愾心を抱いており、その手先である警察も敵視していました。このため岩淵さんが駆けつけた警察官に重傷を負わせて山中に逃亡すると手分けして食事を運び、山から下りてくれば匿い、警察が地元の消防団や青年団を動員して5万人規模の山狩りを実施した時には虚偽の情報で大混乱を来し、単独行動になった警察官が岩淵さんに襲われて重傷を負い、さらに9月11日には殺害される妨害工作を加えています。
この頃、警察は岩淵さんの迫力ある容姿と山中を走り回る超人的な体力、そして神出鬼没な行動から「鬼熊」と言う仇名をつけ、新聞各社もこれを使用するようになりました。
そうして長期化した逃亡に嫌気がさしたのか岩淵さんは9月30日に知人を通じて新聞記者を先祖代々の墓所に集め、「怨みは全て晴らした」と宣言して毒入りの最中を頬張り、剃刀で頸動脈を切って自死しました。その後の裁判では自死を見ていて制止しなかった新聞記者や知人は自殺幇助で有罪になったものの執行猶予がつき、本来は犯人隠匿罪である村人たちは無罪になっています。
野僧は航空自衛隊で勤務中に同様の移住者の開拓部落に住んだことがありますが、集落内には東京での殺人事件の犯人が出稼ぎに行った村人になり代わって帰郷して匿われており、顔も隠さず別名で暮らしながら時効になるのを待っていました。アメリカの西部と同様に開拓民にはアウトロウ(無法者)の気風が発生するのかも知れません。

「鬼熊」岩淵熊次郎
- 2019/08/20(火) 12:11:36|
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「ウォー・スィー・アンリー・シャオ(私は安里梢です)。モリヤ・ベイ・チャオグー(モリヤがお世話になっています)」ここで梢が中国語で挨拶をした。
「これは参ったなァ。うっかり国語(台湾語)で独り言を呟くとカンボジアの中共軍ように筒抜けになってしまうんですね」王中校は梢の中国語を聞くと感心しながらぼやいた。それにしても日台法務将校の友好的対面のはずが、どう言う訳か互いに諜報活動を行っているかのような腹の探り合いになっている。おそらく王中校は美恵子の裁判で名前が出たことで私に興味を持って経歴を調べるとPKOに2度参加していることが判明し、カンボジアでの活動も何らかの人脈で知ったのだろう。さらに北キボールPKOでは日本人の男女を殺害した地元の不良青年たちと自衛隊で唯一の戦闘を実施し、殺人罪で告発されている。一般の自衛官が平穏無事に勤め上げることを願っている中でこれだけヤヤコシイことに首を突っ込んでいれば何か特殊な任務についていると思われても不思議はない。考えて見ればチベット弾圧の年に開催された北京オリンピックの聖火リレーの長野・善光寺からのスタート阻止に動いたこともあった。それでも早めに誤解を解いておかなければ身に危険が及ぶ可能性もある(スパイ映画では)。
「念のため言っておけば私は東京弁護士会に登録している陸上自衛隊の法務幹部であってそれ以外の何者でもありません。PKOでのことは偶然の産物に過ぎず特別な任務についていた訳ではありません」これを英語で説明するべきか日本語を梢に通訳させるべきかに悩んだが、正確を期するため相互の母国語になる後者を選んだ。
「大概の軍人はそのように説明されますが、今後の会話を円滑にするために信じることにしましょう」王中校の説明も梢が通訳した。早い話が半信半疑にもならない社交辞令と言うことだ。こうなると尖閣諸島漁船衝突事件で一緒に仕事をした那覇地方自衛隊情報保全隊の証(あかし)3佐も同席させるべきだったかも知れない。
初対面の挨拶が終わったところで私たちはホテルのロビーの隅で営業している喫茶店にコーヒーをソファーまで持ってこさせて談笑を続けた。
「安里さんはお孫さんの祖母とのことですが、モリヤ中校のお孫さんとの関係はどうなるんですか」ここで王中校は日本語で質問してきた。私が聴くところ梢の中国語と遜色がない流暢さだ。
「孫の父親が私の息子、母親が梢の娘なんです」私が「日本語ですむのなら」と気軽に答えると王中校は再び独特の笑いを口元に浮かべて小さくうなずいた。
「それは書類上の話で実際は夫婦なのでしょう。私は安里さんと姓で質問したのに貴方は名前で答えた。これは2人の関係が極めて親密であることを示していると理解しました」私も相手の言葉を瞬時に分析して背景を推断する能力には自信を持っているが、王中校のそれははるかに凌駕している。しかも母国語ではない言語でそれを発揮されてしまっては屈服するしかない。佳織の英語ならこのくらいの芸当はお手の物だろうが凡人の私には無理だ。
「結婚はしていませんが、若い頃に交際していたことがあります。息子たちはそれを知らずに交際を始め、結婚したので祖父母としての関係を結ぶことができました」中華民国刑法239条には不倫を犯罪とする通姦罪があるため夫婦間の貞操観念が戦後の日本よりも強固で、美恵子もそれで有罪判決を受けたはずだ。したがって個人情報の保全よりも事情説明を優先しなければ日本国陸上自衛隊の法務幹部としての人格を疑われかねない。
「それをモリヤ佳織上校(1佐)は許しているんですか」「はい、モリヤニンジンを真剣に愛した者同士で義姉妹の契りを交わして共有することにしています」「ただし、日本の民法770条の不貞行為は犯していません」梢の事情説明にも補足しなければならない。ここまで専門的な知識を披露すれば弁護士の法務幹部と言う現在の職務は信じてもらえるはずだ。
「玉城美恵子はモリヤ中校(2佐)の前妻だったと証言していましたが、どう見ても安里さんよりも劣ります。彼女は理髪師としては一種の天才ですが、家族や親として必要な素養が欠落しているようです。モリヤ2佐ほどの方がどうして結婚してしまったんですか」2人の説明を聞いて王中校は単刀直入な質問を重ねてきた。この質問の弁護士的な分析では若い日の私と梢の誠実で真摯な交際と軽薄な美恵子を見比べて結婚に至った経緯が理解できなくなったのか、それとも理容師としての仕事を再開させる支援をする前に人間性を詳細に確認しようとしているかだ。
「私の親族に梢と引き裂かれて傷ついているところに強引に迫ってきたのがあの女だったんです」「これほど素晴らしい女性なら結婚に反対する理由はないでしょう」「ウチの親族にも家族として必要な素養が欠けていたんです」私の説明は口調こそ冷静だが激しい怒気を帯びている。当事者・被害者である梢も沈痛な顔になり、それを察した王中校は話を途切れさした。
「これなら私は必要ないですね」梢は王中校の日本語力を理由にして仕事に向かった。
- 2019/08/20(火) 12:09:48|
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題名から80年が経過した1882年の明日8月20日にモスクワでチャイコフスキーさんの「序曲1812年」が初演されました。
「序曲1812年」はフランス皇帝・ナポレオン・ボナパルトのロシア侵攻と敗退を描いた時代絵巻的な作品ですがチャイコフスキーさんは始めからこの主題で作曲するつもりではなく、嫌々引き受けた仕事を片づける中で完成した偶然の産物でした。
チャイコフスキーさんは1880年に楽譜出版社社長から「(チャイコフスキーさんの)友人が遠からず開催される予定の産業博覧会の音楽部長に就任するのでお前を皇室に売り込もうとしている。そのため博覧会で演奏する楽曲を作曲しなさい」と言う書簡を受け取りましたが、この頃はバレー曲「白鳥の湖」やオペラ曲「エフゲニー・オネーギン」を仕上げて好評を得た達成感と脱力感に陥っていてやる気は全く起こらなかったようです。こうして一度は断ったのですが、数カ月後に音楽部長本人から「15分から25分の小品」と言う具体的な要望が届いたため請け負わざるを得なくなり、嫌々ながら作曲したのが「序曲1812年」でした。ところが1881年に予定されていた博覧会は中止になり、音楽部長も急逝してしたため作品は宙に浮くことになりましたが、この間にチャイコフスキーさんは数々の手直しを加え、完成度を高めていったのです。
そうしてこの日、モスクワ(冬季の首都)に建設中だったハリストス大聖堂で開かれたモスクワ芸術産業博覧会主催の音楽界で初演することになりました。しかし、評価は「凡作」と芳しいものではなく、続くサンクトペテルブルグ(夏季の首都)での再演なども同様でしたが、1887年にサンクトペテルブルグでチャイコフスキーさん自身の指揮による演奏会が開かれると一転して絶賛を浴び、代表作の1つに加えられることになりました。この作品ではナポレオンの進撃と敗退をフランス国歌・ラ・マルセーユズ(元来が革命軍の軍歌)で描いており、前半の勇壮な行進曲風と後半の力なく消え入る葬送曲のような演奏では同じ楽譜でも真逆の表現になりますから作曲者本人の指揮でなければ真意が伝わらなかったのかも知れません。
この曲の譜面の楽器には「キャノン(大砲)」があります。これは砲撃戦を描いているのですが、オーケストラの楽器としては太鼓のティンパニを強打します。ところが「初演では本物の大砲を発射した」と言う伝説が語られ(真偽には諸説がある)、その後は軍の音楽隊の演奏に合わせて砲兵が空砲を発射する実演が行われてきました。陸上自衛隊でも何度も実施していますが、砲手は耳栓をしているため指揮官が演奏と楽団の指揮者の動きに合わせるだけでなく、発射までの所要時間を計算して指示を与えなければならないので中々上手くいかず、特に最後の一斉射撃が1つの音に聞こえるようにするにはかなりの練度を必要とするようです。
ちなみに日本にも第1次世界大戦の青島攻撃を描いた「攻撃(陸軍音楽隊長・山本鉄太郎作曲)」があり、砲声だけでなく機関銃や小銃の銃声をドラムで描いています。普通科連隊の駐屯地行事などではこちらの実演も試してみては如何でしょうか。
- 2019/08/19(月) 12:25:38|
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翌朝、目を覚ますと隣りに眠っている女性が佳織ではなかった。それでもこの寝顔は心にそのまま溶け込み、吐息の音と匂いも記憶に甦ってくる。気がつくと梢は私の右手を固く握っていた。
佳織も私の胸に顔を埋めて眠るが自衛官としての生活習慣で熟睡はしておらず、起床時間には自動的に目を覚ましてしまう。私としては昨夜、シャワー・ルームで見惚れた今の梢の乳房の弾力を堪能したかったのだが、右手が封印されていては諦めるしかない。
その時、突然に梢の目が開いた。昔から通信ケーブルのような赤い糸で結ばれている私と梢は強く通じ合っているが、坊主にあるまじき煩悩に囚われていることを察知したのかも知れない。どちらにしても目が細い私はこの大きな目が放つ迫力には圧倒されてしまう。
「クックックックッ・・・オギャー、オギャー」すると襖の向こうで新しい生命が躍動し始める叫び声が聞こえてきた。恵祥のお目覚めだ。それにしても夜泣きを全くせずに朝まで眠ってくれるとは何とも親孝行な息子だ。淳之介は美恵子の寝かしつけがいい加減だったため夜泣きをした。おかげで防府の教育隊の班長としては慢性的睡眠不足で集中力が削がれて大変だった。その点、志織は佳織譲りの太い神経が備わっているので阪神大震災の災害派遣で不在になった期間を除けばよく眠っていた。果たして恵祥はあかりに似たのだろうか。
「恵祥、おはよう。お腹が空いたんだね。オッパイを拭いてから飲ませてあげるから待っててね」恵祥が泣き始めてすぐにあかりが話しかける声が聞こえてきた。おそらく祖母が襖を開けて見守っているはずだ。梢も腕枕を離れて身体を起こしている。これでは経験者とは言え私の出番はない。リビングの向こうの佛間から聞こえるあかりと恵祥の様子に耳を澄ませている梢を邪魔しないように小声で話しかけた。
「夜泣きしないんだね。それならあかりの負担も軽くて助かるな」「普通は知らない人が泊まりに来れば怯えて泣くものだけど、恵祥も貴方がお祖父ちゃんだって判ってるんだね。だから安心していつも通りに眠ってくれたみたい」恵祥は目覚めて私が抱いた時も泣かなかった。だから風呂に入れることもできたのだ。
「はい、お待ちどおさま。おっぱいだよ。お母さんもおっぱいが痛いから沢山飲んで下さいな」朝まで眠ってくれると母親の乳房は分泌する母乳で八切れそうになってかなり痛いらしい。佳織も噴き出した母乳が志織の顔にかかって飲ませながら拭き取るのに苦労していた。今頃、佛間でも同じ場面が再演されているのだろう。
いつも通りの朝が始まったことを確認して梢は安堵したように微笑むとその顔を横になっている私の顔に重ねてきた。これは最後になった旅行で泊まったホテルで朝を迎えた時以来のモーニング・キッスだ。あの時は数カ月後に別離を迎えるとは予想もしていなかった。それは梢も同様だったはずだ。諸行無常の理(ことわり)ではやり直しも新たな始まりだが、梢との関係の再開は切断された部分を接合させたような気がしていている。その因果を引き寄せてくれたのは淳之介とあかりであり、許してくれた妻・佳織である。
私は上に重なっている梢を押し起こすとパジャマの上から乳房を掴み、朝から囚われている煩悩を解消した。やはり30年弱の歳月は女性の肉体も熟成させるものらしい。
朝食後、梢と一緒に那覇市内のホテルへ行くと軍服姿の王中校はホテルのロビーでテレビのニュースを見ていた。このニュースは日本語だ。つまり王中校は日本語も理解できるようだ。
「王茂雄(ワン・マオシィォン)中校ですね、中華民国陸軍第6軍団指揮部法務官の。モリヤニンジン2佐です、日本国陸上幕僚監部法務官室付の」英語の自己紹介は肩書を英訳するだけなので簡単だ。ただし、順番は個人名が先になる(名刺の記載も同様)。
「はい、王中校です。今回はご無理をお願いしました」梢は私の隣りに立って王中校の英語に耳を傾けている。今日の服装は通勤着よりも少し華やかなワンピースだ。一方、私は王中校のアメリカ陸軍式の薄い緑の上衣と濃緑のズボンに比べて黄ばんだワイシャツのような我が社の制服が恥ずかしくなった。やはり昔の薄茶灰色の上下にしてくるべきだった。
「実は沖縄で初孫が生まれまして、貴方のおかげで対面を果たすことができました。心から感謝しています」「ほう、お子さんは沖縄で暮らしているのですか。それはおめでとうございます」私の説明に王中校は少し表情を緩めて祝辞を添えた。
「それでこちらは・・・奥さまのモリヤ佳織上校(1佐)ですか」王中校は佳織の氏名と階級も知っているらしい。最初に書簡が届いた時、自衛隊情報保全隊が妙な反応を示したことを過剰だと思っていたが、あらためて「流石はプロ」と感心することにした。
「こちらは孫の祖母です。今日は広東語の通訳を頼みましたが必要ないようですね」私としても日本語のニュースを見ていたことからの推理を突きつけて軽い打撃を返しておいた。

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- 2019/08/19(月) 12:24:21|
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「こうして貴方と枕を並べて眠られる夜が戻ってくるなんて思ってもいなかったわ」「それも女房公認でな」案の定、私の布団は梢の部屋に敷いてあった。しかも梢の部屋は6畳にタンスと机が置いてあるため布団2組と言うよりも2枚に分かれたダブル布団のようなものだ。
「ねェ、腕枕してよ」「うん、こっちに来なさい」佳織公認とは言え元カノである梢と同じ部屋どころか同じ布団で、それも腕枕で眠るとは流石に少し後ろめたい。しかし、梢のアパートに通っていた頃は泊まらかった分、いつも腕枕で昼寝していたから違和感なく抱き締めてしまった。その移動の途中で部屋の電気を消すところはやはり梢だ。
久しぶりに抱き締めると梢の身長が佳織よりも8センチ低く美恵子よりも5センチ高いことが確認された。あの頃はショート・カットだった梢はロング・ヘアになっているが、美恵子のように派手派手しく手を加えていないので腕に絡むことはない。頭は多分、佳織が一番重い。
「男性の更年期ってどうして起こるんだろう。私もそろそろだから気になるわ」腕枕をした割に話題はムードがない。女性の更年期は40歳を過ぎた頃から早い者順で始まるらしいが、男性はクジ引きと言うよりもダーツの命中のようなもので、生涯現役の強者もいれば私のように病的理由で終わってしまった不幸者は別にしても早期撤退の嘆き節を聞くことは珍しくない。それも急降下なら兎も角、突然墜落することもあるらしい。
「考えて見れば男性の勃起って海綿体が充血することで起こるんでしょう。血液の量が変わらないのに充血しなくなるなんて不思議よね」この調子では梢もかなり研究しているようだ。考えて見れば女性の閉経は卵巣の排卵機能の衰えによって子宮内膜の剥離・再生が滞り、やがて無くなってしまうことだが、男性の勃起不能は内的原因が思い当たらない。
「ワシも同期の主治医に訊いたんだが、小脳内に勃起させるスイッチがあって加齢や精神的障害によってその回路が停止してしまうらしいんだ。つまり血液の量は十分でも充血開始のスイッチが入らないから勃起しないんだな」説明していてそれが自分の身体で起こった原因に腹が立ってきた。社人党の徳島水子の政治的目的によって告発された拘置所生活での絶え間ないストレスが勃起スイッチを破壊したのだ。その一方で性的能力を喪失したから妻帯者が元カノを抱き締めて寝ていても民法上の不貞行為(=浮気・不倫)に発展することがない。その意味では私は性的不能の恩恵に預かり、満喫していることにもなる。
「バイアグラって薬を飲むとスイッチが入るのね」それにしても梢の勉強はやや暴走気味だ。確かに私たちがつき合っていた頃は何でも興味を持ったことを探求するのが共通の趣味だったが、現在は独身の女性が興味を持つような薬品ではない。
「それも主治医に訊いてみたけど血管拡張効果の副作用で静脈が詰まる危険性があるから処方したくないって言われたよ」バイアグラの副作用は血管拡張・血流増加による発熱やのぼせ、神経への興奮作用による視覚異常や目まいなど数多く報告されているが、偽物に気づかずに服用した場合もあり、主治医は「君子危うきに近づかず」と格言を口にしていた。
「だったら玉泉洞ハブ・センターのレストランへハブの蒲焼を食べに行こうよ。ウチの男性添乗員たちは『あれは効く』って観光客に勧めているもの」これでは梢は「私に抱かれたい」と期待していることになってしまうが、むしろ問題を解決することに一生懸命になり過ぎたと見るべきだろう。
私が航空自衛隊に入って最初の任地だった沖縄の内務班(陸上自衛隊の営内班=寮)には中年の単身赴任者が巣喰っていたが、その1人から「×9の法則」と言うものを教えられことがある。それは年齢の10代の数字に9を掛け、その答えが性行為の頻度と言うものだ。つまり20歳代であれば2×9は18なので1週間に8回、30歳代であれば3×9は27なので2週間に7回=2日に1回、単身赴任者の40歳代は4×9で36になるので3週間に6回=週2回、梢の父の80歳代であれば8×9は72だから7週間に2回=月に1回以上と言う計算になる。それでも父に質問することはできない。万が一、現役であれば立ち直れないだろう。
「明日は台湾軍の友だちに会いに行くんでしょう。午前中は休暇を取ったからホテルにつき合うよ。私も広東語の練習がしたいから」妙な方向に話しをずらした梢はそれで打ち止めにした。どうやらあれがオチだったようだ。
「王2佐(中校)は英語に堪能みたいだけどワシの英語力は使わなくなって急速に衰えているからな。梢が通訳をやってくれるなら安心だよ」「だったら寝なくちゃね」確かに睡眠不足での対面は失礼だ。腕枕で寝ていながらそこから先に進めない以上、後は熟睡するだけだ。
「おやすみ」「おやすみ」30年弱ぶりに腕枕での挨拶を交わして目を閉じたが、寝息を立て始めたのは梢が先で、私は佳織とは違う吐息の匂いを味わいながら音色を鑑賞していた。
- 2019/08/18(日) 11:35:07|
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昭和43(1968)年の明日8月18日に乗客・乗員104名(生存者は3名)が死亡した史上最大の自動車事故である飛騨川バス転落事故が発生しました。この頃、野僧は愛知県岡崎市の小学生で、秋の遠足では事故に遭った岡崎観光(現在は名鉄観光)の観光バスに乗ることになりました。
事故は名古屋市の団地の主婦を対象にした無料新聞が主催し、名鉄観光サービスが協賛した「乗鞍岳の山頂で夜を過ごして雲海と来迎=日の出を仰ぎ、帰路には飛騨高山を観光する」と言うツアーに応募した乗客725名と主催者・運転手・添乗員48名が15台の観光バスに分乗しての移動中に発生しました(岡崎観光の1号車から7号車=4号は欠番と他社の8号車から16号車の2つに分かれた編成)。
当時、日本付近は台風7号が通過して気象状況は不安定でしたが、夕方の天気予報では「回復傾向」「翌日は晴れ」と予報していたためツアーの実施が決定されました。ところが岐阜県地方に大規模な積乱雲が多数発生していることを富士山レーダーが捉えたことで20時に岐阜県に雷雨注意報が発表され、22時30分には大雨洪水警報に変わっていたのですが、車内ラジオは就寝する客がいたため点けていなかったのです。
それでもベテランの運転手たちにとってこの経路は飛騨高山への観光や冬場のスキー・ツアーなどで走り慣れている道であり、悪天候下でも順調に進行して集合・休止地点である現在の下呂市のモーテル飛騨に到着しましたが、ここで警報の発表と毎時50ミリの豪雨、さらに崖崩れが各所で発生しているとの情報を聞いてツアーの主催者である新聞社の社長が中止を決定しました。しかし、名古屋に向けて出発して間もなく1号車から3号車が通過した道路が崖崩れで通行不能になったため続行していた5号車から7号車の3台が立ち往生し、運転手と乗務員が懸命に善後策を講じているところに高さ100メートル、幅30メートルの巨大な崖崩れが直撃し、5号車と6号車は崖下15メートルを流れる飛騨川に転げ落ち、7号車だけは辛うじてガードレールで押さえられました。
生き残った乗務員ほかの男性4名が降り止まない豪雨の中、何カ所も崖崩れと崩落が発生している悪路を歩いて対岸にあるダムの見張り所に向かい警察署に事故が通報されたのですが、それは事故発生から3時間29分経過した午前5時40分でした。
通報を受けて警察と地域の消防団、さらに陸上自衛隊に災害派遣が発令されて(最終的には陸海空9141名=海上自衛隊の潜水員や車体を吊り上げた豊川・第101建設大隊の大型クレーンを含む)大規模な捜索活動が開始されましたが、転落した場所はダム湖でもあり2台のバスのうち5号車は300メートル下流で発見されたものの6号車は豪雨で増水した川底に沈んで発見できませんでした。そこで上流のダムを止水し、下流のダムを放水する「水位零(ゼロ)作戦」でようやく900メートル下流で発見したのです。
犠牲者の遺骸は事故の翌日には飛騨川が木曾川に合流して流れ込む伊勢湾岸の知多半島でも発見されており水量の凄まじさ=自然の猛威を見せつけましたが、現段階でも9名が行方不明のままです。
- 2019/08/17(土) 12:19:58|
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「貴方、ただいま」梢は早引きしたのではないかと心配になるくらいの時間に帰ってきた。おそらく空港内の支店カウンターを定時で閉め、売り上げを本店に届けると上司を捲し立てて確認を受け、店の前で拾ったタクシーに割増料金を渡して直行してきたのではないか。
「お帰り。御苦労さまでした」一方の私は父が夕食を食べている間に志織以来十数年ぶりに恵祥を入浴させた感激を噛み締めていた。ただし、恵祥を受け取ったのが母だったため、あかりの乳房と同様に見せてはならない一物を見せてしまった。梢がこれほど早く帰ってくるのなら祖父母が2人で協力して入浴させるべきだった。梢の裸を見るのは30年弱ぶりだが、そんな妄想を掻き立てても興奮できない自分が口惜しい。
「今から手料理に腕を揮うからね。貴方の大好物のオンパレードよ。ただしカロリー制限を前提で」梢はこう宣言すると寝室を兼ねた自分の部屋へ引っ込んだ。梢はデートで養老の滝などの本土系のチェーン店に入ると前から私の顔を観察していて、嬉しそうな表情をした料理を見つけると後から料理人に作り方を聞いていた。おかげで梢のアパートでは常に好物を食べられていたが、今回はそれを堪能させてくれるつもりらしい。
「さてと昨日用意しておいた材料は・・・」自衛隊並みに素早く着替えた梢はエプロンをはめて台所に立ち、冷蔵庫を開けて材料を探し始めた。どうやら昨日のうちに準備万端整えていたようだ。そう言えば材料探しのスーパー巡りも梢とのデート・コースだった。
「今夜はカキフライとマカロニ・サラダ、春雨のスープにするんでしょう。材料は上の段にまとめて並べていたじゃない」そこに風呂上がりの母乳をもらって眠った恵祥とあかりの様子を見に行っていた母が戻ってきた。折角、内緒にしていたメニューがバレてしまったが確かに大好物だ。おまけにフライは食用油を大量に使うため独り住まいの自炊では中々作ることはできない。梢のことなので私の生活までお見通しなのかも知れない。
「貴方はビールにしますか、それとも仕上げの島酒にしますか」母は私の隣りでテレビのニュース解説を見ている父に声をかけた。今夜は早かったとは言え、やはり最終便の客足が途絶えてから閉店する梢の帰宅は夕食よりも晩酌の時間なのだ。
「それでは私たちは失礼しますよ」「うん、おやすみ」梢の手料理を味わいながら父との晩酌を楽しんだ後、両親は寝室に引っ込んでしまった。このマンションはリビングを中心に和室が3つだが、奥の佛間にあかりと恵祥が寝ていて障子で隔てた隣室に両親が寝ている。梢の部屋は玄関脇の独立した一間だが、果たして私はどこに寝るのか。常識的にはリビングのソファーだが流し台で洗い上げを始めている梢は何も言わない。私は黙ってアパートの台所に立っていた20歳代の梢を思い出しながら懐かしいエプロン姿を眺めていた。
「酔ってないよね。寝る前にもう一度シャワーを浴びるでしょう」洗い上げを終えてエプロンを外した梢が訊いてきた。確かに恵祥との入浴は細心の注意を払っていたので少し緊張していた。その意味ではもう一度身体を洗った方が熟睡できそうだ。
「うん、下着はさっき替えたからこれを着るよ」返事をしながら歯磨きセットを出そうと演習バッグを探すと置いてあったリビングの隅にはない。私が周囲を見回していると梢が「歯磨きセとは洗面台に置いてあるわ」と声をかけた。
「貴方、入るわよ」歯を磨き、壁に固定したシャワーで頭から温めの湯を浴びているとイキナリ梢が入ってきた。自宅の浴室なので当然全裸だ。先ほどは「30年弱ぶりに裸を見る機会を逃した」と無常住地煩悩(実現しない願望)に耽っていたが、それが実現してしまった。
「ナナナナ・・・何事だ」慌てた振りをしながら梢の裸身を眺めると恥じらうことなく悪戯っぽく笑った。梢を初めて抱いた久米島のホテルでも似たような場面があった。純潔を奪った後、私が感激と後悔を噛み締めながらシャワーを浴びていると梢が入ってきて全身を手で洗わせたのだ。それで私は感激だけを胸に留めることができた。
「佳織が貴方のリハビリを試しなさいって言うんだもん」「リハビリって・・・」とぼけた答えに梢は30年弱ぶりに私の男根を見た。佳織よりも3歳年上の梢の身体は昔の弾けそうな張りは失っているが、どちらかと言えば筋肉質になってきている佳織よりも欲情を誘いそうだ。それでも私の身体は反応しない。これが美恵子であれば私の気持ちに関わりなく手や口で執拗に刺激し始めて、結果的に立ち直れないような自己嫌悪と敗北感を与えたはずだ。それでも肉体的魅力は2人に比べて格段に落ちるからそちらを原因にできる。
「ふーん、あの佳織でも反応しないんだもん私なんかじゃあ無理だね。でも久しぶりに貴方に身体を洗ってもらいたいからよろしくお願いします」先日、2人で勝手に私の譲渡を決めていたことで佳織を張り倒したが、どちらも一向に懲りていないらしい。

イメージ画像(弾けそうな頃の梢)
- 2019/08/17(土) 12:18:41|
- 夜の連続小説8
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空港から安里家のマンションまでは都市モノレールのゆいレールで終点の首里まで行き、そこでタクシーを拾うのに限る。私にとって首里は梢とのデート・コースの定番で、バスの狭い座席に並んで座り、揺られながらのスキンシップに胸を時めかせた長い坂道も、モノレースなら静かで快適にスイスイと登ってしまう。高いだけに眺めも満喫できる。
「こんにちは」安里家のマンションに到着して梢の母に玄関を開けてもらうと私は初孫との対面で高なる気分そのままに大声を出してしまった。
「しッ、恵祥はおっぱいをもらって寝てるの。あかりも一緒にね」廊下を歩きながらの母の説明に私は小声で「すみません」と謝った。リビングでは梢の父が立ち上がって待っていた。相変わらず背筋を真っ直ぐに伸ばし、学校長としての威厳を保っている。
「お久しぶりです」私はスリッパの踵を鳴らして姿勢を正すと10度の敬礼をした。前回、来たのは昨年9月に発生した尖閣諸島の周辺海域で海上保安庁の巡視船が中国行線に衝突された事件の実態調査だったから、今は親戚であること考えると久しぶりだ。本当は祖父さん面をして「あかりと恵祥がお世話になっています」と挨拶したところだが、淳之介は安里家の婿養子であり、「所有権」はこちらに有るので控えなければならない。
「ご無沙汰しています。モリヤさんが海上自衛隊の裁判で活躍しておられることはテレビで見て承知していますが、今回は東北にも出動されたようで本当にご苦労さまです」父の挨拶の方が数段上なようだ。とは言っても自宅で過ごしている両親を賞賛する台詞は恵祥が世話になっていることへの謝辞以外に思い浮かばない。
「あかりと恵祥にご両親がついていて下さるから淳之介も安心して八重山での仕事を続けられるのです。本当に感謝しています」何とか無難にまとめることができた。
「始めは視覚障害者のあかりに子育てなんかできるのかって思っていたんですが、あの子は恵祥の気持ちを理解した上で1つ1つ着実に対応しているんですよ」先ず制服を甚平に着替えさせてもらいリビングのソファーに腰を下ろすと、麦茶を運んできた母があかりの様子を説明した。この説明は梢からも聞いているが以前から感心していたあかりの常人を超えた能力が、傷害のハンディーを埋め合わせて余りある母性愛として発揮されているようだ。
「お乳は十分出ていますか」「若い分、栄養の吸収が活発なのか食べた物がそのままお乳になるみたいに良く食べて沢山飲ませています」高校までバスケットをやっていた淳之介は身長180センチ超で筋骨も逞しい。乳児期の栄養が十分であれば恵祥も大きくなりそうだ。
「ところで恵昇さんは背が高かったんですか」ここで妙な質問をしてしまった。これは単に栄養価から成長に思考が飛躍してしまっただけだが、両親は「生まれ代わりを示唆した」と受け取ったらしい。2人で顔を見合わせて目で何かを確認した後、先ず母が口を開いた。
「恵昇は主人と私がシマンチュウにしては背が高いのでやはりモリヤさんくらいの長身でした」「ただし、勉強ばかりで運動は苦手だったな」父の補足説明で佛間に掛けられている遺影の顔が浮かんだ。一見して優等生らしい恵昇さんは小学校時代から科学部一筋だったと聞いている。普通、小学校の科学部は昆虫や岩石の採取と標本作製が定番だが、恵昇少年は山野を歩き回ることもなく理科室にこもって試験管とビーカー、フラスコ、アルコホール・ランプで化学の実験に明け暮れていたそうだ。
「起きたわね」リビングで担当している裁判の解説や東北の震災の説明して過ごしていると佛間から赤ん坊の泣き声とあかりの「ちょっと待っててね」とあやす声が聞こえてきた。ようやく恵祥が目覚めたようだ。私はグラスの麦茶を飲み干した。
「お祖父ちゃんがお待ちかねですよ」先にソファーを立った母が襖を開けて声をかけた。その後ろで私は本当に待ちかねている。下手すれば母を突き飛ばしそうだ。
「恵祥、お祖父ちゃんだよ」普段なら佛間に入ればその家のお内佛さまに合掌・礼拜して少なくとも念佛、余裕があれば短い経文を勤めるのだが、今日の本尊さまは初孫・恵祥だ。
私は母の脇をすり抜けるとあかりに抱かれている恵祥の顔を見ようとした。ところがその口元にはあかりの乳房と乳頭がある。私は禁断の秘佛を見たような衝撃を感じて絶句してしまった。あかりの乳房には青い血管が浮き上がり、初めて見る小粒で可愛らしい乳頭は濃い茶色に変色している。その乳頭を口に含んで恵祥は懸命に吸いついている。そこには新たな生命の萌芽があった。私は守山の官舎で佳織が志織に授乳している姿を思い出した。
「お父さん、恵祥です」覗き込んだまま絶句している私にあかりが心配そうに声をかけてきた。それで我に返った私はあらためて恵祥の顔を見詰めた。やはりあかりを経由して梢に似ている。すると佛間の遺影の恵昇さんが「それは俺の顔だ」と呟いた。確かに否定はしないが半分は文科系とやや体育会系の血筋も入っています。
- 2019/08/16(金) 13:18:32|
- 夜の連続小説8
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久寿2(1155)年の明日8月16日(太陰暦)に源義賢さんが異母兄の義朝さんの命を受けた甥の義平さんに討たれ、父である為義さんから授かっていた河内源氏の嫡流を示す銘刀・友切(ともぎり)を奪われました。
2012年に放送された大河ドラマ「平清盛」は珍しく時代考証が綿密で、登場人物の人間像もリアリティに富み、中でも源氏一族は前回の同時代を描いた昭和47(1972)年の「新平家物語」とは全くイメージが変わっていました。
「新平家物語」では木村功さんが傷つきやすい生真面目な人物として演じていた源義朝さんは玉木宏さんが武勇に優れた野心家に、左翼作家でもあった佐々木孝丸さんが74歳で演じた源為義さんは小日向文世さんが損な役回りばかり演じているお人好しに、そして「新平家物語」では時々顔を出すだけだった源義平さんも波岡一喜さんが強烈な個性を放っていました。そんな中で源義賢さんは永岡佑さんが演じて父親(=小日向さんの為義)似の優柔不断なお人好しのまま弓で射殺されてしまいました。
史実での義賢さんは妾腹でありながら兄・義朝さんが無位無冠のまま手勢を獲得しようと関東に赴いている間に皇太子を警護する東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)に任命され、このことも父・為義さんが嫡男を代えようとした理由だったようです。実際、義賢さんは弓術の達人で、先に射った矢を狙って放った矢をその軸に命中させる技を披露して宮中に武名を轟かせたと言われています。しかし、滝口源氏の備(そなう)さんを殺害した犯人を捕縛した際、すぐに検非違使に引き渡さなかったため「匿った」との嫌疑を受けて帯刀先生の職を解任され、父が取り入っていた藤原道長さんの私兵になり、能登の荘園の管理人になりました。ところが不作によって年貢が納められなかったことの責任を問われて解任されると今度は京都で男色の趣味もあった道長さんの男妾になったのです。その後、道長さんは平清盛さんの弟の家盛さんにも手をつけています。
そのような先の見えない生活を送っている中、京都に戻った兄の義朝さんが下野守に任命されたため、すでに廃嫡していた為義さんは焦り、義賢さんを呼び寄せると銘刀・友切を授けた上で義朝さんに対抗するべく北関東の秩父重隆さんの助力の下に新たな勢力の獲得を命じたのでした。結局、義賢さんは秩父さんの娘婿になり、その所領を継承することになったのですが、この動きを察知した義朝さんが鎌倉にいた現地妻=三浦義明さんの娘との子である義平さんに命じて、埼玉県比企郡大蔵にあった秩父さんの館を襲撃して同居していた義賢さんと共に皆殺しにしたのです。
ちなみに鎌倉の頼朝さんに先駆けて京都に侵攻して平家を福原に追い、旭将軍の称号を得た木曾義仲さんは義賢さんの二男で、大蔵の館が襲撃された時に助け出されて乳母が嫁いでいた木曾に送り届けられてそこで成長したのです。
それにしても源氏は保元の乱では父子と兄弟が激しく戦い、木曾義仲さんと源頼朝さんは従兄弟同士、頼朝さんは実弟2人を殺害し、鎌倉3代将軍実朝さんは甥に殺害されています。それは足利尊氏・直義さん兄弟も踏襲していますから源氏の血統なのでしょう。
- 2019/08/15(木) 12:26:20|
- 日記(暦)
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美恵子が帰国、王中校が来日した日、私は海上自衛隊の輸送機Cー130で沖縄航空基地に来ていた。それは単に入間基地よりも厚木基地の方が近いからで航空自衛隊に文句がある訳ではない。来年3月に航空総隊が府中基地から横田基地に移転して航空自衛隊の定期便が発着するようになれば再び航空自衛隊のお世話になるかも知れない。実際、真っ白な制服の海上自衛官の中に黄ばんだワイシャツのような制服を着た陸上自衛官が紛れ込むと水色と紺のツートン・カラーの航空自衛隊よりも場違いなのは確かだ。
「貴方、おかえりなさい」制服のまま那覇空港に向かい梢のカウンターに行くといつもの笑顔で出迎えてくれた。私はその顔に祖母の気配を探したが見つけられなかった。むしろ幸せを味わっているのか昔に返ったように感じる。
「今回は海上の輸送機だったんでしょう。乗り心地はどうだった」梢には「厚木から乗る」としか言ってなかったが、それだけで海上自衛隊の輸送機であることを推察している。これは交際中の私の教育の名残なのか自己学習の成果なのかは判らない。
「海上もCー130Hだから変わらないよ。航空のCー1よりは落ちるけどな」アメリカのロッキード社製のCー130輸送機は私や梢が生まれる7年も前の1954年に初飛行して現在も製造され続けている傑作機だが、貨物の搭載を優先した設計のため温度や気圧などを調整するエアコンや防音の機能が適当な上、プロペラ機特有の振動があり、ハンモック式の座席の座り心地も悪く人員輸送も考えていた川崎重工のCー1に比べるとかなり劣る。
「ふーん、お客さんに勧めることがないから良いけど利用者としては大変だね」「陸上自衛隊は車両や列車での移動が原則で離島は船なんだが、今回は出張扱いでも予算を請求できないから輸送機になったんだ。沖縄までフェリーと言うのも好いけどな」沖縄までフェリーでは福岡まで新幹線で移動しての乗り継ぎになり、往復1週間の長期出張になってしまう。
「フェリーの旅かァ。久米島に行ったわね」「うん、海が荒れたから梢が酔ってしまって困ったけどな」梢とつき合い始めて沖縄本島の観光地を回り終った頃、1泊2日で久米島に行ったことがある。行きは海が荒れて梢は船酔いで寝込んでいた。
「私が吐いた洗面器を何も言わずに片づけてくれたのに感激したのよ。だから・・・」「あの時、背中をさすったのが前戯だったのかァ」その夜、久米島のイーフ・ビーチのホテルで初めて梢を抱いた。梢は何度も嘔吐した汚物を片づけ、背中をさすり続けた私の優しさに感激して抱かれる覚悟を決めたと言いたかったようだ。しかし、私にとっては梢の純潔を奪ったあの夜の出来事は苦い思い出でもある。だから茶化さずにはいられなかった。
「今から恵祥に会いに行くよ」「うん、今日は残業なしで家に直行するわ。夕食は私の手料理よ」そこに数名の観光客が歩いてくるのに気がついて私たちは私的会話を切り上げた。
「それではよろしくお願いします」「はい、受け給わりました」業務上の会話であったかのように偽装して敬礼をすると中年の観光客たちは私を取り囲んだ。沖縄でこの状況は極めて危険だ。梢はもう1人の若い男性社員を手招きして警備員を呼びに行かせようとしている。
「陸上自衛隊の方ですか」「はい、そうですが」先ず「方」と呼ばれれば危険度は急速に低下する。私は振り返ると梢に目で「安心しろ」と伝えた。
「今回の東北の大震災では本当にご苦労さまです」「テレビで連日の活躍を見て心から感謝しています」想定外の展開に私としては返事ができなくなった。沖縄本島への観光客はツアーで姫ゆりの塔などの南部戦跡を案内されると反戦平和思想を吹き込まれるため帰る頃には反軍・反自衛隊運動の同調者になっていることが多い。したがって私も秘かに身構えていたのだ。
「貴方も東北へ行かれたのですか」「やはり沖縄からでは遠過ぎますよね」私が返事をしないと観光客たちは勝手に結論を出そうとした。私は広報活動に意識を切り替えた。
「私も宮城県と岩手県の被災地を巡回相談してきました。テレビや新聞では視聴者を刺激しないように悲惨な光景は報道していませんが、実際ははるかに過酷な状況です」「ほーッ、やっぱり」これで期待に応えたらしく観光客たちは歓声に近い相槌を打った。
「巡回診療ってお医者さんなんですか」「このバッチを見たことがあるわ」期待に応えれば遠慮もなくなるようで、観光客たちは私の制服を指で差して確認し始めた。私としては格闘徽章に興味を持ってもらいたかったが、その上に着けている小さめの弁護士徽章を注視した。
「それは弁護士徽章です」「弁護士先生なんですか」「先生ではありませんが、陸上自衛隊の法務幹部です」妙なところで広報活動を始めてしまったが、これでは梢の営業妨害になりそうだ。
「ところでツーリストの用件だったのではないですか」「あッ、そうだった」「いらっしゃいませ」この回避行動で脱出に成功した。梢の反応は流石だった。
- 2019/08/15(木) 12:25:21|
- 夜の連続小説8
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1999年の明日8月15日午前5時15分頃に長崎県五島列島の福江島から西方80キロ付近の空域で対領空侵犯措置のため午前4時40分頃に新田原基地から発進していた第5航空団第301飛行隊所属のFー4EJ改戦闘機が突如として消息を絶ちました。
この時のアンノウン(国籍=彼我不明機)は東シナ海上空で探知され、防空識別圏(ADIZ)を突破して通告を受けても東進を続けたため福江島付近の領空を侵犯する可能性があると言う判断から春日基地にある西部航空方面隊の防空指令所が緊急発進を発令したようです。西部航空方面隊では緊急発進は築城基地の第8航空団が主担当ですが日本海などに対領空侵犯措置を必要とする可能性がある他のアンノウンが確認されている場合や南西航空混成団から引き継ぐ航跡などでは第5航空団に割り当てます。
このアンノウンは高高度を飛行していたようで緊急発進機は雷雲の中を飛行することになり、機上レーダーでアンノウンを捕捉した「ジュディ」をコール(報告)して間もなく警戒管制レーダーから機影が消え、31歳の1尉と27歳の2尉の2名を乗せたまま消息を絶ちました。操縦桿を握っていた1尉は2000時間を超える飛行時間を有していた中堅パイロットでサンダーストーム(雷雨)の飛行も経験しており、操縦ミスによる墜落とは考えにくく当初は落雷による機体の破損が原因と推断されましたが、後に高高度の乱気流に巻き込まれてエンジンが停止したと訂正されています、
ところがこの事故については同僚を含む各方面から様々な疑問を呈され、「アンノウンに撃墜された」と言う奇説がまことしやかに語られるようになりました。その理由としては先ず帰還したエレメント(僚機)の搭乗員の証言が全く表に出てこないことが挙げられます(緊急発進は原則として2機でエレメントを編成する)。エレメントはアンノウンを「タリホー=視認」するまでは編隊を組んで飛行しており、気象条件などは同時に経験していたはずです。またFー4EJ改は落雷しても空中に放電する機能が完備しており、落雷で即座に墜落するとは考えられず、高高度の乱気流に巻き込まれてエンジンが停止したにしても「エマージェンシー(緊急事態)」を宣言する暇もなく墜落することはないでしょう。さらにF―4EJは複座式なので2名が搭乗しており、1名が意識不明に陥ってももう1名が状況を報告することはできたはずです。
このため「アンノウン機に撃墜された」と言う噂が発生し、事故の直後にアンノウン機が進路を反転させて急速に領空から中国方向に退避したことが疑惑を補完しました。とどめがマスコミで前日に神奈川県で発生した増水した河川でキャンプをしていた家族が遭難した事故ばかりを報道してこの事故についてはほとんど取り上げず、日頃の自衛隊の事故を殊更に取り上げる報道姿勢とは真逆の対応に「アンノウン機が中国軍機だったことによる隠蔽」の疑惑が指摘されています。
ただし、航空自衛隊の立場から考えれば脅威の存在と対応の限界を日本国民に提示する絶好の機会であり、あえて口をつぐむ必要性はないでしょう。この後、航空自衛隊では墜落事故が5回続きましたが、昔の「殉職のノルマ=年10名」が復活したようでした。
- 2019/08/14(水) 11:54:38|
- 自衛隊史
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「これで事情聴取を終わります。法務省入国管理局としての決定が届くまでは原則として身元引受人の家で過ごすようにして下さい」男性職員は定型通りに美恵子に対する事情聴取を終えると筆記していた供述内容を読み上げた上で署名させた。日本での公文書は署名・捺印するのが一般的だが、外国人を対象とすることが多い入国管理局では「サイン」にしているようだ。
この男性職員は沖縄に赴任して間がないようで美恵子が台湾で告発を受けた周志竜の腹下死(美恵子が騎乗位になっていた)の事件を知らず、裁判に関する説明では軽く好奇心を示したもののそれ以外は極めて事務的に処理していた。
「それでは身元引受人に入室してもらいます。お待たせしました」男性職員が立ち上がってドアを開けると、外で女性の「どうぞ」と言う声が聞こえ、慌ただしい足音が響いてきた。両親は廊下で説明を受けていたようだ。
「美恵子ねェ」始めに母が入ってきた。台湾に出発する前から帰宅すことはなく長年会っていなかったとは言え母は随分老いたようだ。姉たちに似てチュラカーギ(美人)だった顔には深いしわが刻まれ、明るい太陽のようだった表情にも暗い雲がかかっている。
「美恵子、お前は」次は父だ。父は荒々しく部屋に入ると拳を振り上げたが、立ちすくんでいる母に遮られてそのまま力なく下に垂らした。
「お父さん、お母さん、ごめんなさい」美恵子は席で立ち上がると机に額がつくほど深く頭を下げた。入り口に並んで注視していた両親は初めて見る美恵子の謝罪に顔を見合わせた後、ゆっくり深くうなずいた。そんな家族の再会シーンを視聴していた男性職員が声をかけた。
「この場で被審査人である玉城美恵子を引き渡します。正式に法務省入国管理局から入国許可の通知が届くまでの身元保全は引受人の責任となります。その点を十分に理解した上で健全な日常生活を送らせるように助言しておきます」男性職員が定型句を述べてドアから出ていくと部屋の隅に座っていた王中校が立ち上がり、両親は驚いたように顔を向けた。
「こちらはモリヤさんの同僚の方ねェ」「今回は本当にお世話になりました。モリヤさんに航空券代を出していただいておかげで那覇空港に迎えに来ることができました」両親は完全に誤解している。王中校が着ている中華民国陸軍の夏の軍服の上衣は薄い緑色と濃い緑なので黄ばんだワイシャツのような陸上自衛隊よりも洗練されているのだが、沖縄の住人である両親には判らなかった。
「いいえ、私は中華民国陸軍法務官の王中佐です。陸上幕僚監部法務官室のモリヤ2佐とは旧知の仲ですが、今回は個人的に玉城美恵子さんを支援したいと思い一緒に来日したんです」王中校は両親に判るように自己紹介したが、登場人物と経緯が多彩過ぎて理解できなかった。そもそも民間人は「ホームカン」と言われても住宅展示場の「ホーム館」にしか聞こえない。
「取り敢えず、お食事でも」「そうですね。玉城美恵子さんの仕事ぶりをお話したいので御一緒しましょう」3人は次の行動を決めたが、美恵子は航空券代の出処を知り憮然としていた。
結局、王中校は軍服を着ているため入られる店が限られ、沖縄滞在中に宿泊する那覇市内のホテルの日本料理店での夕食になった。明日にはモリヤ2佐がこのホテルへ訪ねて来るのだが王中校は美恵子の態度を見てあえて触れなかった。
「美恵子は前の店に大金を要求した評判が消えていないから沖縄で就職するのは難しいんです」料理店では王中校が美恵子の台北拘置所での仕事ぶりを紹介し、その卓越した技量を絶賛したが両親はかえって顔を曇らせると現状を説明した。実際、父は帰国予定の連絡が入ってからは行きつけの理容店に再就職の相談を持ち掛けたのだが返事は厳しいものだった。
「自分で蒔いた種とは言え、散髪の業界で腕前よりも雇い主への態度が問題になると言うのは意外でした」実際は美恵子が謝罪していれば店主や業界関係者もここまで厳しい態度をとらなかったはずだが、それをしないまま台湾で刑事被告人になり、有罪判決を受けたことが現状を招いたのだ。父の説明に合わせて母が王中校のグラスにビールを注いだ。今夜は自家用タクシーを運転しなければならない父に代わって元カッチンのママである母が相手をしている。
「それならば玉城美恵子さんに我が国の言語を習得していただいて、台北市内で理髪店を始めてもらいたいと思います。それほど玉城美恵子さんの技量に対する評価は高いのです」この言葉にそれまで黙々と久しぶりの日本料理を味わっていた美恵子が顔を向けた。
「台湾の言葉を覚えるのってどうすれば良いんですか」「台湾語教室は那覇市内に幾つもあるが、私としては那覇の台北事務所で拘置所と同様の仕事をやりながら職員から学ぶのが早道だと考えているよ」両親はようやく帰国した娘が台湾に戻ることを希望したのに愕然としながら2人の顔を見回した。すると美恵子の目には熱意の赤い炎が点っていた。
- 2019/08/14(水) 11:53:15|
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那覇空港国際便ターミナルで美恵子は入国手続きの列から外れ、相談カウンターに向かった。すると手配の顔写真が届いているのか担当の女性職員は少し身構えて声をかけてきた。
「玉城美恵子さんですね」この場面は4年前に台湾の桃園国際空港のロビーで警察官に逮捕された時に似ている。あの時は入国カウンターで執拗な身分確認を受けた。しかし、今回はこのまま入国管理局に連行されることは判っている。それにしても台湾では「ユーチョン・メイファイスー」と中国語読みで呼ばれていて「タマキミエコ」と日本名だったのは通訳の今田菊子と王中校だけだった。だから懐かしさと共に多少の違和感を覚えた。
「これを出すように言われています」美恵子は女性職員がカウンター内の後方に立っている現場責任者らしい男性職員に振り返って声をかけるのを見て台北地方裁判所で行政院外交部法規委員会の長貞治審査官から受け取った書類を差し出した。責任者もカウンターに来ると2人で確認し始めた。この書類は英語で記されているため流石に通読はできないらしい。
「玉城さん、遅くなりました」気がつくと隣りに王茂雄中校が立っていた。王中校はビジネス・クラス(上校=1佐以上であればファースト・クラス)、美恵子はエコノミー・クラスだったのでここまで同行できなかったのだ。すると女性職員が広東語で声をかけた。
「中華民国軍の将校の方ですよね。通常の入国手続きはあちらでどうぞ」女性職員は王中校の軍服を見て「台湾軍の中校」と言う身分を察知したのだ。公務員労組が過激な反自衛隊反米軍活動を繰り返している国土交通省とは違い入国管理局(2019年度から出入国在留管理庁)は法務省の内部部局のため国際常識が通じるようだ。
「私は民国陸軍法務官の王茂雄中校ですが、玉城美恵子さんの私的随行者です。玉城さんの入国と社会復帰を見届けるために来日しました」王中校の日本語での説明を受けて女性職員と責任者は顔を見合わせて小声で何かを相談すると責任者が早足で奥に向かった。
それから簡単な確認を繰り返した後、美恵子と王中校はカウンターの奥にある面接室に案内された。この部屋は不法入国の疑いがある者の取り調べにも使用されるため窓はなく、狭くはないが壁には妙な圧迫感がある。おそらく壁の一部が通し窓になっていて関係者が監視しているのだろう。見回すと壁や天井に何カ所も監視カメラやマイクが設置されているのが判った。美恵子は事務机を挟んで向かい合いに置かれた椅子に座らされ、王中校は部屋の隅に運び込まれた3脚の折り畳み椅子の1つに座ることになった。
「それでは玉城美恵子さんの台湾への渡航のために取得した査証(ビザ)の期限切れと特別査証による入国に関する確認を行います」廊下で現場責任者から説明を受けていた男性職員が入室すると美恵子の前の席に座って声をかけた。この時も王中校に目礼したので国際常識は徹底している。つまり国家公務員としては中校=2佐=警視=2等海上保安正よりも下位と言うことだ。
「先ず氏名と生年月日、本籍地、住民票の所在地、職業と仕事先の住所を申告して下さい」役所の確認手順は裁判の人定尋問と変わらない。
「玉城美恵子、昭和40年・・・」美恵子は1つずつ回答しながら氏名は「モリヤ美恵子」「矢田美恵子」を経て「玉城美恵子」に戻り、本籍地もモリヤと糸満市で入籍して離別、即座に矢田と善通寺市で入籍しながらそれも破局を迎えて南城市の実家に戻したことを思い出した。
「職業は理容師ですが失業中です」「はい、結構です」美恵子の申告が書類の内容と齟齬がないことを確認して男性職員は無表情にうなずいた。
「こちらの中華民国行政院外交部法規委員会からの書類によると貴女は刑事事案で訴追を受けて逮捕拘束され、裁判で執行猶予3年の判決を受けたため観光査証の期限が切れても出国できなかったとありますが間違いありませんか」「はい、そうです」「何故、台北の日台交流協会に相談しなかったのですか」これは当然の質問だが美恵子には想定外だった。亡くなった周志竜の家族の招待を受けて予備知識もないまま台湾へ行って空港で逮捕された。専属の通訳もなしで尋問を受け、相談する相手もいなかった。宮弁護士が誠実に対応してくれるようになったのは裁判も後半に入り、今田菊子と言う通訳を介して美恵子の経歴と真情を伝えてからだ。だから信じ難いことに在台湾日本大使館に相当する公益法人・日本台湾交流協会に相談する以前に存在さえも知らなかったのだ。
「だって・・・どうしようもなかったのさァ」美恵子は説明できないままうつむき、背中を震わせて涙をこぼし始めた。王中校は裁判官や検察官、弁護士から取材記者までが呆れるほどフテブテシイと言われていた玉城美恵子と言う女性の変貌した姿に唖然としていた。しかし、不法入国する外国人が常用する泣き落としを見慣れている男性職員は表情を変えなかった。
- 2019/08/13(火) 11:16:15|
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夜のニュースはアテネ・オリンピックの開会式で華やぐはずだった2004年の明日8月13日にアメリカ海兵隊普天間航空基地に隣接する沖縄国際大学にヘリコプターが墜落・炎上する事故が発生しました。
この事故を契機に普天間基地は「世界で最も危険なアメリカ軍基地」と呼ばれることになりましたが、元航空自衛隊輸送幹部の目で見ると周囲に人口100万人を超える大都会があり、滑走路の延長線上に博多港、新幹線、在来線、高速道路、一般道が通り、住宅地が広がっているアメリカ空軍板付基地=福岡空港の方がはるかに危険です。そもそも普天間基地は沖縄戦の最大の激戦地・嘉数高地に隣接しているため完全な荒れ野になっていた丘陵地帯にアメリカ軍が建設したもので、沖縄の本土復帰後に反基地運動を背景にする市長が続出した宜野湾市が基地の存在を政治問題化する長期的展望に立って周囲に市立の小・中学校や病院を建設したことで騒音問題を意図的に生起させ、生活環境には不適当で安価な土地にマンションなどを建設させたのです。沖縄国際大学も普天間基地に隣接していれば騒音問題や事故の危険性は十分認識できていながら、あえてこの場所に建設したのですから自業自得以外の何物でもありません。
また事故の報道では1995年9月4日の海兵隊員による少女集団強姦事件以来の悪習で地元2大紙の敵意に満ちた論評に全国紙やテレビ局が引き摺られる形になり、アメリカ軍側の軍事的必要性に基づく処置も全て批判の対象になりました。
例えば事故現場で基地から出動した海兵隊の消防隊だけが消火に当たって遅れて駆けつけた宜野湾市の消防の介入を拒否し、周辺を憲兵隊が封鎖して同じく宜野湾市の警察や市役所の職員、大学関係者が立ち入れなかったことを徹底的に批判しましたが、当時は日本の公務員にはアメリカ軍の軍事秘密を保全する義務は課せられておらず、むしろ沖縄県の警察・消防を含む地方公務員は事実上中国の諜報員ですから(野僧も実際に経験しました。現在も基地反対運動の取り締まりには本土から機動隊が派遣されている)、秘匿したのは至極当然です。したがって墜落した機体や部品や燃料などが散乱した土壌までも回収したのも地方公務員以上に中国の工作員である疑いが強い大学関係者に回収され、分析される危険を回避したと考えればむしろ当然の処置と言えるはずです。
おまけに沖縄国際大学は事故では搭乗していた4名の海兵隊員が負傷しただけで死亡者は出ておらず、夏休み中の大学関係者は20数名が驚いただけだったにも関わらず、外壁が煤(すす)で汚れただけの建物を破壊して建て替え、焼け焦げた立ち木をモニュメントとして保存する過剰反応を取っています。
この事故以降、普天間基地の危険性が常識化してしまったことで外交問題に発展し、橋本龍太郎政権の時に辺野古にあるキャンプ・シュワブの沖を埋め立てて海上滑走路を建設して移転することで妥結を見たのですが、民主党政権が完全に崩壊させてしまい、本土の人間が沖縄県民に愛想を尽かさせるための反対運動が継続しています。それでも先日、宜野湾市長が岩国市長を訪問して岩国基地への飛行訓練の受け入れに感謝していました。
- 2019/08/12(月) 11:30:32|
- 沖縄史
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「玉城さん、本当にモリヤ中校(2佐)を憎んでいるのですか」墓参を終えて桃園国際空港に向かう車内で王茂雄中校は率直に訊いてきた。運転している上士は日本語が理解できないので秘匿の問題はないようだ。王中校としては玉城美恵子の理容師としての卓越した技量については裁判で弁護側の証言が採用されたことでも認めているものの人間性については疑問を感じていた。
「王中校さんはどうして日本語が上手なんですか」すると美恵子は回答ではなく質問を返してきた。拘置者の中にも日本語を話す者がいて美恵子に親しげに声を掛け、時には口説いてくることもあった。王中校の日本語は彼らのような聞き覚えではなく、下手すれば日本人の美恵子よりも正式な語法のように感じていたのだ。
「私の日本語はモリヤ中校の中国語と同じように軍の将校としての常識の範囲だよ。軍の将校は外国軍と接する機会が多いから言語を習得しておけば情報収集に役立つこともある。モリヤ中校もカンボジアでは中共軍の中国語での密談を聴き取って交渉を有利に進めたと言うじゃないか」それはカンボジアPKOで川の両側から橋を架けた時、日中では規格が違うためどのように整合するかを巡る交渉で、中国人民解放軍側は交渉の前に高度な英語と日本語は理解できないと言って自衛隊側に全面的な妥協を強いようとした。しかし、私が人民解放軍には日本語に堪能な者が加わっており、自衛隊側の相談を聴き取っていることを中国語の会話から察知したのだ。それにしても自衛隊と人民解放軍の交渉内容の詳細をどうして台湾軍の王中校が知っているのか。情報戦の恐ろしさに戦慄するような話だが残念ながら私は聞いていない。ところが美恵子の反応は完全に的を外していた。
「モリヤは中国語なんか話せないよ。英語が得意なのは知ってるけど、それは航空自衛隊だからで中国語までは話せるはずないさァ」確かに梢とは「旅行社の仕事に必要だから」と英語や広東語の実習につき合っていた。とは言ってもデートの時、アメリカ軍の兵員クラブや台湾人が経営する中華料理店で食事を取り、店員や他の客と会話していただけのことだ。ところが梢と引き裂かれ、美恵子とつき合い始める前には台湾人の出稼ぎ店員を抱き、交際中もアメリカ海兵隊の女性隊員と交わったことがあった。つまり語学力を秘匿するのは保身のためだった。
「モリヤ中校は貴女も知っている今田菊子の大学の先輩なんだ。あの大学の中国研究は日本の私立大学のトップ・クラスで、学生の外国語では英語と中国語を同格に扱っているらしい。モリヤ中校は法学科だから語学は専門じゃあなくても基礎的なことは習得しているはずだ。実際、文章は中々のものだよ」王中校から話を聞いて美恵子は、あれほど嫌悪し、馬鹿にしていた「小難しい勉強」が幹部自衛官としての職務に必要な努力であることをあらためて噛み締めた。それにしても王中校の「文章は中々」と言うのは間違いなく皮肉だろう。経典で憶えた私の書簡は「広東語と言うよりも昔の漢文に近い」と指摘されているのだ。
「貴女は夫であったモリヤ中校のことを何も知らなかったようですね」「・・・はい」美恵子の自衛隊に対する認識は学校の平和授業で習った好戦的な人殺しの集団だったのだが、モリヤとつき合ううちに「戦争を防ぐために努力している国家公務員」と言うところまで改善した。しかし、航空教育に転属したことで「何もしていない税金泥棒」から脱することはなく、夫婦共働きをすれば自分の仕事の方を優先してくれると期待していた。こうして王中校に接して軍の将校が担っている責任と高度な専門知識を知るにしたがって、その認識自体が間違っていたと思い知らされた。やはりモリヤは自分の相手には相応しくなかったのだ。だからモリヤとの間に生まれた淳之介にも愛情を感じることができないでためらうことなく捨ててしまった。
「どうやら貴女は完全に狂ってしまっている沖縄を離れて自分の人生を見直すために我が国に来たようですね。私の目から見ても現在の沖縄は常軌を逸している。最近の韓国も狂っているが奴らは自国の敵として日本を攻撃している。ところが沖縄は母国である日本を恨んで国際社会に日本の罪を宣伝している。我が国も民主主義の国家だが、県知事以下の地方公務員が自国への非難を海外に発信すれば国家への反逆として厳しく糾弾されるはずだ。昔の沖縄は地方公務員やマスコミが反国家教育と批判報道を繰り広げても県民は冷ややかに眺めているだけだったが、今の沖縄県民はそれを鵜呑みにして同調している。そんな沖縄では貴女はモリヤ中校が注いでくれた愛情も見えなかったはずだ。この機会に貴女は軍人の妻だった頃の生活を見直してみるべきです」「はい、先ず反省から始めます」美恵子は自然にこの言葉を口にした自分に困惑しながら窓の外を見詰めた。
「あッ、サインポール」すると通りに面した商店街に赤白青3色の円筒が回転しているのが目に入った。派手で大きな看板には「理髪」と大書してある。それはまるで美恵子の再訪を歓迎しているかのように見えた。結局、今回の反省はここまでだった。
- 2019/08/12(月) 11:29:22|
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8月11日は今から5132年前(キリスト教暦の紀元前3113年)にマヤ・ハアブ暦が始まったボブ(1月の呼称)1日です。
天皇とその一族の所有物である日本では元号なる私的な理由に基づく期間で区切ることになっていますが、国際社会では宗教によって定められている紀元が用いられています。
とは言え佛教暦は釋尊の般涅槃=死去を紀元とするもののそれを0年と1年のどちらにするかで見解が分かれ、東南アジアや南アジアの佛教国でも0年派=タイ、カンボジア、ラオス。1年派=スリランカ、ミャンマーに分かれて一致していません。ちなみにキリスト教暦では紀元前544年と543年になります。
一方、イスラム教国ではムハンマドが拠点をマッカからヤスリブに移した聖遷を紀元(キリスト教暦の622年)とするヒジュラ暦を用いていますが、月を重要視する教義から太陰暦を堅持しており、しかも太陽暦との誤差を修正する閏月を認めず、月の満ち欠けの周期に合わせて29日と30日を交互に繰り返しているため1年が354日になり、3年で1カ月のずれが生じ、18年で季節が逆転してしまいます。このためイスラム教国でも農業では種をまく時期、収穫する時期などを決めるのに不便なので特例的に太陽暦も使用してきたようです。現代社会の国際的な交渉や取り決めも同様です。
神道でも実在性が極めて乏しい神武天皇なる人物が即位したことになっているキリスト教暦・紀元前660年を紀元とする皇紀なるものがありますが、軍国主義の狂気の中の昭和15(1940)年に2600年を迎えたため大いに喧伝されましたが戦後はキリスト教暦に取って代わられています。
そのキリスト教暦は当初、1年を365日と0.25日とするユリウス暦が用いられていましたが天体科学の発達により、1年を365日と0.2422日に修正し、4年で割り切れる年の閏日を100で割り切れる年のみ実施しない方式に改めたグレゴリオ暦が1582年の10月15日から採用されています。これより天体科学上の誤差は28.821秒のみになりましたが、それでもイエスが生まれて0歳だった年をAD1年としており、紀元前も同様にBC1年にしているため紀元0年が存在しません。おまけにローマ皇帝のわがままで2月が28日間と言う変則的な暦も発生しています
その点、マヤ・ハアブ暦は最も天体の本質、宇宙の起源に迫っており、1年の誤差も僅か17秒にまで探究しています。これは西暦紀元前3113年8月11日を紀元として20日間の月を18回重ねた後に5日間を加えるもので、1月「ボブ」2月「ウォ」3月「ジプ」4月「ソッツ」5月「シュク」6月「ヤシュキン」7月「モル」8月「チェン」9月「ヤシュ」10月「サク」11月「ケフ」12月「マク」13月「カンキン」14月「ムアン」15月「パシュ」16月「カヤブ」17月「クムク」18月「ワイェブ」(この呼び名はペルー人の友人に口頭で聞いたため正確ではありません)の順で「ワイェブ」に加える年末(と言っても北半球は真夏です)の5日間は日本で言う「凶」に当たるため何もしないのが原則です。
- 2019/08/11(日) 08:55:29|
- 日記(暦)
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