昭和29(1954)年の10月1日に青森県五所川原(ごしょがわら)市と山形県上山(かみのやま)市が成立しました。とは言え平成の大合併の結果、野僧が全国各地を転属して回った頃とは市の範囲や地区の名称が変わっているのでいまだに困っています。
青森県五所川原市は野僧が津軽に住んでいた頃は大自然と広大な田園が広がる津軽半島の中央部の岩木川沿いに在った市街地で、JRの五能線とストーブ列車で有名な津軽線の駅がありましたが、現在は金木町と飛び地の市浦町が合併されたので両町の歴史や特産品も五所川原市に吸収されています。野僧が住んでいた頃から金木町と仲が悪かった中里町(=両町の住人の声)は小泊町との合併によって中泊町となる選択をしたようです。
金木町と言えば現在も若い世代に愛読者を増殖させ続けている太宰治さんの出身地で、生家の斜陽館には全国各地から見学者が殺到していました。さらに歌手の吉幾三さんの出身地でもありますが、こちらは東京に転居してしまいました。
市浦町は北海道から日本海を越えて朝鮮半島、シベリアまでを行動範囲にして貿易によって繁栄していた安東水軍の拠点・十三湊(とさみなと)が沈んでいる十三湖の歴史ロマンと他の地域の物とは味と身の量が格段に違う絶品の蜆が特産品です。
一方、五所川原市の有名人と言えば全国各地の選挙に出馬していた羽柴誠三秀吉さんがいますが、地元では経営が苦しくなると火事になることで有名な小田川温泉の経営者の実業家と言うことになっています。ただし、2015年4月11日に亡くなりました。
なお、五所川原市には青森市のねぶたとは違い立ち姿の立佞武多(ねぶた)もありますが、高さが20メートルを超えるため市内の電線を地中化してようやく練りが復活しました。
山形県上山市は曹侯学生基礎課程の区隊長の出身地(入校中は知らなかった)で、野僧も山形県人の血統と言うこともあって青森県の車力村の部隊で勤務している頃に山形県最上郡戸沢村の祖父の実家へ帰省しながら観光のついでに通過していました。
上山市の旧・上山藩は江戸時代初期の紫衣事件で沢庵宗彭禅師が流罪になったことで有名ですが、これは関心を持っている人がかなり限定されてしまいます。
また江戸時代の初期には来年の大河ドラマの主人公である明智光秀さんと同族(藩祖は甥と言う説もある)の美濃の土岐氏が藩主になり、用水路の建設を伴う新田や鉱山の開発と交通の大動脈だった最上川につながる支流の利用に合わせて城下町や街道を整備したことで上山温泉への湯治客だけでなく産品の流通を活発にして上山藩が繁栄する基礎を作りました。土岐氏と言うと斎藤道三さんに追放された馬鹿殿のイメージが強いのですが光秀さんも領国経営には辣腕を揮った名君ですから中途半端な知識は歴史を見誤ります。
さらに上山市は精神科医でアララギ派の歌人である斎藤茂吉さんの出身地です。斎藤さんには故郷を唄った作品が多く、小中学・高校生では短歌が趣味だった野僧は訪れたことがなかった山形への望郷の想いを募らせていました。
そして上山市と言えば無着成恭和尚の「山びこ学級」の舞台ですが、この作品(と言っても中学校のクラス文集ですが)は山形の人にはあまり評判が好くないようです。
- 2019/09/30(月) 13:24:47|
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石巻での災害派遣は市街地の広範囲が破壊されているため避難所が分散している上、都市部からのボランテイアが仙台市と競合していることで手が届かない地区に分散配置された。
「森田、肉を切ってくれ」「はい、森田士長」避難所になっている体育館の玄関前に設置されている行事用テントの調理場で隊員たちは料理の腕を揮っている。今回は現場監督として駐屯地業務隊の糧食班から陸曹が参加しているので作業の段取りは円滑だ。前回は宿営地の調理場だけだったので各避難所は素人仕事だった。森田曹侯補士は調理用のゴム手袋をはめると会議室用の折り畳み式机=作業台に熱湯消毒したまな板を置き、アイス・ボックスから取り出した肉の塊をのせた。このような衛生処置もかなり行き届いている。
「肉切り用包丁は特に切れ味が鋭いから気をつけろ。傷口は食中毒の原因になるぞ」そんな様子を見ていた陸曹が声をかけてくる。それでなくても切れ味が鋭い肉切り用の包丁を糧食班の陸曹が研ぎ上げているのだからゴム手袋くらいは簡単に切り裂いてしまうはずだ。傷口には食中毒の原因の1つである黄色ブドウ球菌が繁殖することが多い。
「肉じゃがのジャガイモの芽は確実に削れよ。スプーンを使えば簡単だぞ」今度は隣りの作業台で野菜の調理を始めた陸士に注意を与えた。糧食班では回転式の調理機械の筒の中にジャガイモを入れて摩擦で皮を剥くが、ジャガイモの芽だけは目視で確認しながら手作業で処理している。ジャガイモの芽や青味がかかった皮にはソラニンとチャコニンと言う可愛らしい名前の天然毒素が含まれていて、激しい下痢や嘔吐などを誘発する。
するとそこに「報道」と会社名を書いた腕章をはめた記者たちが顔を出した。記者たちは断りもなく作業現場に立ち入ると辺りを見回して写真を撮り始めた。
「ふーん、一応は衛生に注意はしているんだ」「それでもハエを遮る防虫ネットは張ってないな」「陸上自衛隊は腐った物を食べても平気だろうが、ここには身体が弱った老人もいるんだから食中毒を起こすぞ」目の前で粗探しを始められると森田曹侯補士たちも気が散って調理の手際が鈍ってしまう。そこで現場監督であり作業指揮官でもある陸曹が声をかけた。
「取材でしたら災害派遣隊本部の許可を受けて下さい。調理中は刃物や火を取り扱いますから危険です。隊員の集中力を妨げるような言動は遠慮願います」糧食班の陸曹たちは自衛官としての本来の任務から遠ざけられているため疎外感を抱いていることが多く、使っている陸士たちは調理師免許の取得を目指して真面目に働くが所詮は素人なので怒鳴りつけることになり、このように丁寧な言葉遣いで声をかける人物は珍しい。
「いいえ、被災者の取材に来たついでに覗かせてもらっただけです」「どうぞ気にしないで仕事を続けて下さい」記者たちは思いがけず素直に引き下がった。阪神大震災の時には救援物資を運搬し、救急患者を搬送する自衛隊の大型ヘリコプターの下を遮るように飛行する取材ヘリの危険性を指摘して、安全を優先するように要望しただけでマスコミ各社は態度を硬化させて執拗な粗探しを始めた。やはり平成になってから異常に続発する大規模な災害を通じて国民の自衛隊に対する理解が進み、マスコミの粗探しも支持を受けることなく批判を浴びるようになっているようだ。すると陸曹は立ち去ろうとする記者に質問を投げ掛けた。
「どうも石巻には取材に来ているマスコミ関係者が多いようですが、何か特別な材料があるんですか」想定外の質問に記者たちは顔を見合わせた後、一番近い位置に立っている1名が答えた。
「石巻では小学校や幼稚園の避難の不手際で子供たちが犠牲になっただろう。その問題点を明らかにするため各社とも記者を派遣しているんだよ」現場の陸曹と陸士たちにとっては記者が集っている理由が確認できて行動に注意する必要性を再認識しただけだが、北部方面総監があえて石巻に子飼いの部隊を派遣した目的がマスコミに目立つことであれば政治的に過ぎる。第3普通科連隊は甚大な津波被害を受けた宮古市で活動したため知名度が高く、その名前を石巻で見せれば北部方面隊が最初から最後まで活躍しているとの印象を広めることができる。その指揮官である滋賀陸将の名声も高まると言うものだ。
「今回は被災地からも手紙を出せるよ。復興もユックリだけど確実に進んでいるようだ」雪うさぎのアパートに石巻の森田曹侯補士から葉書が届いた。葉書には写真が印刷してある。宮古市では電力使用が制限されていたため隊員個人の携帯電話も充電できなかった。その携帯電話はアンテナが軒並み倒れていたためカメラ以外に使い道がなかったのだが、市内の写真屋やコンビニンエンス・ストアは営業しておらず、郵便局でさえ機能停止していたため写真を撮っても印刷して送ることなどは思いもつかなかった。
「貴方・・・」雪うさぎは森田曹侯補士の迷彩服姿に抱かれた時の記憶が重なり、前夫との結婚生活では味わうことがなかった快楽の波が再び胸に湧き起こってきた。
- 2019/09/30(月) 13:23:45|
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電話を切ってから照子は1人悩んでいた。テレビは点けっ放しだが意識は向かず見ていたはずのニュースが変わっていても気づかない。ただテレビの横の壁に掛けてある「山鼻屯田兵開拓の図」を見上げながら同時に湧き上げってくる複雑な思いを胸の中に並べていた、
「私は10歳も年上なのよ。彼から見ればお婆ちゃんじゃない。折角、抱かれても失望されたらどうしよう」そう言って照子は座卓の上に置いてある手鏡を取って覗いてみた。化粧を落とした顔の目尻には浮くではあるが笑いジワが記されている。照子は百面相を始めてみたが、20歳代に戻る表情は作れなかった。
「こんな私がどうして燃え上がっているのよ。彼に会いたくてどうしようもないなんて大人げない。恥を知りなさい」照子は鏡の中の自分を叱責すると座卓の上に伏せて置いた。照子は前夫が初体験だった。短大は女子限定ではなかったものの女学生が大半だったので札幌市内の大学との合同コンパにも誘われたが参加することはなかった。それも牧場の跡取り娘として育てられた責任感のようなものだったかも知れない。
「彼がウチの牧場で働きたいって言ったのは私と結婚するため・・・それとも自衛官としての夢を追求するため・・・でも牧場の仕事を見たら嫌になっちゃうかも知れない」普段は能天気な照子だが今日は妙に思考が後ろ向きになってしまう。こんな時はシャワーを浴びるに限る。照子は立ち上がるとテレビを消してタンスから下着を出し、壁に掛けたハンガーからパジャマを取ると台所の奥のトイレ、洗面台と兼用の浴室に向かった。
浴室で裸になると洗面台の鏡に腰から上の裸身が映る。20歳代の純潔だった頃とは違い乳頭は赤く色づき、乳房が垂れてきているように感じた。照子は首を振るとカーテンを引き、熱いシャワーを浴びた。玉の肌を磨くと言う古びた発想はない。単なる気分転換と清潔を保つためだ。
「貴方、そろそろ閉店だから30分後に外で待ってて」照子を閉店時間まで店内で立ち読みをしていた森田曹侯補士に声をかけた。店主である照子の友人は事情を察してレジの中で頭を下げ、森田曹侯補士も黙ってうなずいた。これからレジを閉めて売り上げを確認するのだが、最近はコンピューター化が進んでいるためレジの記録と残金との照合だけですむ。それと並行して万引き被害を確認しなければならないが、こちらは紛失した商品を発見すれば防犯カメラでの照会が必要になる。30分と言うのは掃除を含めた最短での帰宅を前提にした時間だ。
「灯りを消して。恥ずかしい」照子のアパートで手料理を食べ、交代でシャワーを浴びると照子は布団を敷いていた。布団はシングルだが冬用の厚手の毛布を2枚、掛け布団代わりに広げてある。森田曹侯補士は自分でも戸惑うほど緊張していて基本手順である消灯を忘れていたようだ。森田曹侯補士は立ち上がって蛍光灯の紐を3度引くと暗くなった部屋で布団に正座している照子の肩に手を掛けた。これまで遊びで抱いてきた女性たちはベッドに押し倒してそのまま裸にすれば良かったから、このような七面倒臭い段階を踏んだことはなかった。それでも手と口と舌で全身を愛撫する仕草も少しぎこちなかった。逞しい男根は黒光りするほど変色していて豊富な女性遍歴を感じさせるのだが照子にはそのような知識はない。ただ、ようやく身体も結ばれた幸せを噛み締めて涙をこぼしていた。
「ここよ。そんなに広くはないでしょう」翌日、照子はタクシーで森田曹侯補士を旭川市の郊外にある実家の牧場に案内した。
「やっぱり観光牧場じゃあないからこじんまりとしてるんだね」白樺の丸太で作った柵の手前に立った森田曹侯補士は周囲を見回しながら意外に適切な感想を口にした。実は前夫は観光牧場化も模索していて客寄せになる馬やラクダなどの飼育も検討していたのだが、餌は牛と共通にできても飼育小屋は別にしなければならず、その敷地が確保できないで実現しなかったのだ。
「ウチの先祖が手作業で原生林を切り開いて作った牧場だからこれで限界だったのよ。今でも周りに親戚が住んでいて一緒に牧場で働いているのよ」「ふーん、北海道は農家でもそんな家が多いよね」機械化が進んだとは言え北海道には農場と呼ぶ方が似合う広大な畑が多い。その農場は移住者の親族が協力して開拓した血と汗と涙が染み込んだ土地なので内地のように先祖代々で受け継いできただけの農地よりも愛着が強い。屯田兵として旭川に配属された照子の先祖の姿があの絵と重なって浮かんだ。
気がつくと照子が隣りに立って手を握っていた。昨夜共有した体温をもう一度手で確認しているようだ。そこで森田曹侯補士は肩に手をかけて引き寄せた。これで身体の弾力も確認できる。
「果てのない大空と 広い大地のその中で 何時の日か幸せを 自分の腕で掴むよう・・・」この風景の中では主題歌はこの松山千春の代表曲しか浮かばない。照子には雪うさぎとしてコメントをもらいたいところだが、デュエットしているので無理だった。

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- 2019/09/29(日) 11:30:08|
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石巻への派遣は緊急性が低く日程が確定しているため森田曹侯補士も松山3佐の配慮で出発前に外泊できることになった。まさか本気で振られることを心配したとは思えないが、後ろ髪を引かれないように刈りげる効果があるのは間違いない。
「空休(からきゅう)ですかァ。確かに森田は代休を貯め込んでいますが・・・」松山3佐が中隊事務室に顔を出して奥の手を指示すると先任陸曹は何故か困惑した表情で言葉を濁した。
「空休」と言うのは代休を貯めている営内者に年次休暇を使わずに外出用の休暇証だけを発行する裏技だ。行動は休暇に準ずる扱いなので最終日の門限さえ守れば外泊も可能だ。当然、宿泊先は休暇行動計画で申告しなければならないが、森田曹侯補士と雪うさぎの交際は承認印をもらわなければならない関係者は知っているので問題はない。ただし、2人がまだ清純な交際を続けているとは誰も思っていないはずだ。
「実は1科から曹侯補士が退職前に服務事故を起こすと新聞の取材を受けることになるから行動は厳に慎ませるように指導がありまして」「早い話が内部告発を警戒しているんだな」先任陸曹の説明に松山3佐は苦々しげに吐き捨てた。滋賀方面総監が着任して間もなく1年だが、東北への災害派遣が撤収段階に入ったため方面隊内に関心が戻ってきたのかも知れない。それに反応して幕僚たちは叱責を受けないように思いついた指導を伝達してくるのだ。
「それでも休暇や外出の許可権限は中隊長にあるんだ。私が印を押せばそれまでだろう。大体、今回のような不当人事の犠牲になる隊員の不満を煽るような処置は人間を扱う立場の者としては下の下だよ。巨大な組織だから人事に不満を抱く者が生じるのは仕方ないが、それを少しでも和らげるように工夫するのが人間学と言うものだ」松山3佐の話はどうしても難しくなる。先任陸曹は後で意味を吟味するため話の内容をメモしていた。
「本当に私のアパートに泊まれるの」森田曹侯補士は営内班長から「空休」の話を聞いて早速、雪うさぎ=照子に電話をかけた。すると照子は喜びよりも戸惑ったような返事をした。
実は照子は森田曹侯補士が折角部屋に来てくれても目にした途端に身構えてしまうあの絵を仕舞おうかと思案していた。そのため島田元准尉に手紙で森田曹侯補士が屯田兵に強い関心を持った理由を質問したのだが、まだ返事が届いていない。一方、森田曹侯補士は今回の「空休」が中隊長室での雑談の中で「代休を貯めても思ったような成果を上げていない」とこぼしたことで実現したので結果的に直訴になってしまった。そのため営内班長は陸士への特例的な処置が自分を通さずに上司から下りてきたことに困惑と不信感を露わにしていた。そんな訳で希望が実現する吉報のはずが2人とも浮いた気分にはなっていない。
「お前の定休日の前後も休めるから2泊3日できるんだ」それでも予定を説明し始めると少しずつ胸が高鳴ってきた。つまり2晩一緒に眠りにつき、2朝を迎えることができるのだ。しかし、森田曹侯補士は高校時代から性的目的以外で女性と布団に入ったことがない。その意味では愛情を胸に女性を抱くのは初体験だった。
「それなら時間がタップリあるから何所かに行きましょうよ。稚内か富良野なんてどう」「本当はお前の牧場を見てみたいんだけど親に挨拶するのはまだ早いだろう」気分の高揚が追いかけて来る会話は今一つ噛み合わない。それでも互いの希望は確認できた。照子は日帰りの小旅行、森田曹侯補士は次の職場として考えている牧場の下見だった。
「稚内と富良野は先輩に連れて行ってもらったことがあるんだ。どっちも車で行かないと移動が大変だろう」「確かにそうね。タクシーだとお金がかかっちゃうわ」先ず照子の希望が却下された。そうなると森田曹侯補士の職場の下見だが、2人の交際期間は出会いからでも3カ月に満たない。それでも何かに強く引っ張られるように互いを求める気持ちが強まりながら同時に深まっている。今では隣りに存在することが自然になっていた。
「でも本当にそれで良いの。普通の小さな牧場だよ」照子は両親に会わせることを躊躇うのではなく特に見せる物がないことを心配した。この助け船に森田曹侯補士も安堵し、逆に腹の中では決定し、父や松山3佐には告白していながら当事者には伝えていなかった希望を切り出した。
「俺が自衛隊を辞めたらお前の牧場で雇ってもらおうと思ってるんだ。それで即応予備自衛官になって現代の屯田兵になるんだ」「それって・・・」照子はこの言葉の意味をどう受け止めるかに迷った。照子は北海道内の酪農学校を卒業して実習からそのまま就職した前夫と両親の強い希望で結婚した。その話は森田曹侯補士にもしている。その上で実家の牧場で働きたいと申し出たのは求婚と受け取ることもできる。しかし、軽率な思い込みは避けることにした。照子も前回の痛手は人生の教訓にしているのだ。
「それじゃあ。見学と言うことで案内するわ」照子の返事を聞いて森田曹侯補士は溜息をついた。
- 2019/09/28(土) 13:37:59|
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1970年の明日9月28日にエジプトとシリアのアラブ連合のガマール・アブドゥル・ナーセル大統領(2代目)が心臓発作で急死しました。
日本ではナーセル、若しくはナセルと呼ばれることが多いですが、これは父親の名前のアブドゥル=ナセールの後半で(日本で言えば太郎左衛門の左衛門のようなもの)、一族の呼称=姓はフセインとされています。しかし、現在はエジプトでもナーセルで通っていますから独自の姓名に関する慣習があるのかも知れません。
また亡くなった頃の日本では学生運動の活動家を中心とする若年層の間ではアメリカの政財界で権力を握るユダヤ人に対する敵意から反イスラエルの気分が蔓延しており、中東戦争を指揮していたナーセル大統領の支持者は意外に多かったようです
ナーセル大統領は1918年に地中海沿岸の古都・アレキサンドリアの東端地域で郵便局長の息子として生まれました。この地域では十字軍による侵攻を撃退した歴史を持つためエジプト人よりもアラブ人=イスラム教徒としての意識が強く、祖父はオスマン・トルコから独立してイギリスの保護国になっていたエジプトでは難しかったマッカへの巡礼を果たしています。母の実家もアレキサンドリアの富豪だったので庶民階級の上位に属しますが、アラブ社会のこのような階層の男性はアッラーに対する強固な忠誠心と率直な行動力を美学として誇示するのでナーセル大統領もそのように育てられたのでしょう。
その後、居住地の小学校に入学したものの官僚だった叔父に預けられてカイロの小学校に転校しますが勉強よりも読書にふけり、伝記の英雄を自分に重ねて命令する者には相手構わず反発するような子供になっていたようです。この叔父は若い頃、反イギリス組織に参加していたことで投獄されたことがあり、ナーセル少年に経験談を語り聞かせたことで伝記の英雄たちと同化して尊敬と憧憬の念を抱くようになりました。
そうして反イギリスの独立運動に色濃く染められながら成長し、28歳の時、それまで上流階級の子弟しか受け入れていなかった陸軍士官学校がナーセル大統領のような階層にも枠を広げたため早速、受験したのです。一度目は面接試験で軍内に人脈がないことを嘲笑されたので祖父や叔父を通じて国防次官の推薦を受けて2度目で合格しました。
しかし、軍人になっても反イギリスの独立運動への激情は強まるばかりで、没後に3代目大統領になるアンワル・アッ=サダート大統領と共謀して決起の機会をうかがっていました。そして1952年7月23日にクーデターを決行してイギリスによって地位を保証されていた国王を追放して共和制による独立を勝ち取ったのです。
ところが西側連合国はナチス・ドイツによる迫害の被害者?ユダヤ人に母国を与えることを名目に1948年5月14日にイスラエルを建国して十字軍の野望であったエルサレム奪還を達成していたためイスラム教徒としてこれと戦うことが使命になりました。そうなるとアメリカの軍事支援を受けるイスラエルに対抗するにはソ連や共産党中国に接近することになり、アラブの立場を東西対立とは別次元で複雑にする結果を招きました。
急死前には中東戦争での敗北が続き窮地に陥って、身心共に疲労困憊していたようです。52歳でした。
- 2019/09/27(金) 11:55:48|
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森田曹侯補士は安川3曹と松山3佐には本心・真情を語っている。通常、陸上自衛隊では陸士が中隊長と直接話す機会はあまりないのだが、松山3佐は廊下を歩く足音で森田曹侯補士を聞き分けて部屋の中から声をかけてくる。松山3佐がこちらに着任して最初に直面したのが森田を含む曹侯補士への不当人事の問題だった。その後、演習や災害派遣での活動を観察して森田曹侯補士が陸曹になるのに相応しい人材であることを確認した。だから松山3佐は中隊長室ではこの不当な人事に対抗するための策略を練っており、当事者と雑談になるのも当然だ。
「相変わらず普通外出の日帰りデートでは広橋さんも不満だろう。今度の災害派遣に行っている間に振られるんじゃあないのか」松山3佐にしては珍しく悪い冗談を口にした。森田曹侯補士としてはそんな心配は全くしていないのだが、あれから何度もアパートに通っていながら清く正しく美しい関係のままなのが自分でも不思議だった。勿論、昼に手料理を食べた後、夜の電車に乗るため旭川駅に向かうまでの時間に一線を超えることは可能なのだが、寝室を兼ねた居間に掛けてある「山鼻屯田兵開拓の図」が目に入ると背筋に電流が走り、「自衛官の心構え」が胸の中で響き始めてしまうのだ。それにしても甘美な愛情の確認行為=交合い(まぐあい)も不純異性交遊と言われると「規律の厳守」に反するような気がするから困る。
「中隊長、僕は照子の実家で働きながら即応予備自衛官になろうと思っています。父も賛成してくれました」森田曹侯補士の思いがけない申し出に松山3佐は腕組みをして顔をしかめた。松山3佐は中隊内の冬季オリンピック経験者に森田曹侯補士の才能を確認して「極めて有望」と言う評価を得ている。それを受けてこの人材を3等陸曹に昇任させる前に冬季戦技教育隊に入れた上でオリンピックの強化要員に参加させ、冬季オリンピックに出場させることで滋賀総監の勝手極まりない独断とそれを阻止できなかった北部方面隊の主要幹部の過ちを正そうと考えていた。ここで本人に辞退されてしまっては元も子もない。
「牧場ならノルディックの練習場には事欠きませんよ。それから父は狩猟免許を取って動物を射つ訓練と獲物の解体を体験しろと言っています。それなら射撃の技量も維持できるでしょう。本当の即応予備自衛官になれます」ここでは「屯田兵」と言う表現は避けたが、松山3佐も森田曹侯補士が真剣に方向転換について思索していることは理解した。ならば別の一手もある。
「君の気持ちが固まっているなら私としては連隊のオリンピック要員を通じてスキー連盟に民間人の強化要員として推薦できないか模索することにしよう。君が民間人になっていれば今回の不当人事を語っても内部告発にはならない。むしろ口封じする手段がないだけに痛撃になるかも知れないぞ」民間人のバイアスロンの選手と言う異色性で注目を浴び、オリンピック放送のインタビューで告発させるのも一興だ。どうやら松山3佐は本人も自覚がないまま森田曹侯補士を自分の正義感を実現するための道具に使おうとしているのかも知れない。
「父は陸上自衛官は人を射ち殺す仕事だから命を奪うことに躊躇していては務まらない。手を血で汚すことに慣れておけって言っていました」これは極論だが本質を突いている。新任の頃、守山で指導を受けたモリヤ中隊長は北キボールPKOで日本人の男女を拉致・強姦・殺害した現地の不良青年3人を射殺・刺殺したが、それを殺人罪と告発された公判で殺意を尋問されると「殺すべき相手が殺せる状態になったから自動的に殺しただけだ」と証言していた。
「流石は航空陸戦隊の森田3佐だな。モリヤ2佐の同期だけのことはある」松山3佐の言葉に森田曹侯補士は一瞬驚いた後、深くうなずいた。松山3佐は森田曹侯補士の不当人事に対応するに当たり、独自に身上調査を重ねてきたため父親の森田3佐についても詳しくなっている。今思えば守山の時には煙たかった訓練幹部の田島2尉も曹侯学生出身だった。すでに廃止されてしまった制度だが異色の人材を発掘・育成するのには意味があったようだ。
「つまり君は陸自のヨーク軍曹になると言う訳だ」「はい、その映画は父に見せられました」「私はモリヤ中隊長だ」やはり同期は同期、趣味も似ているらしい。
「しかし、残念なのは北海道には猿がいないことだな。内地のハンターたちは猿が人間に似ているからと言って殺すのを嫌がるんだ。自衛官が人を射つ練習で狩猟をするなら猿こそ格好の練習台じゃあないか」これもまた極論だが本質を突いている。松山3佐の思考がモリヤ2佐の影響を受けたのかは不明だが、確かに一般空曹侯補学生7期生の2人なら口を揃えて「猿が射てなくて人間が射てるか」「敵だと思って射て」と言いそうだ。
「ところで中隊長は屯田兵に詳しいですか」「お主が何で俺の研究材料を知っているんだ」雑談に区切りがついたところで森田曹侯補士が質問すると松山3佐は小さい目を剥いて訊き返してきた。やはり勉強家でなければ東京六大学へは入れないらしい。そこからは即席の屯田兵の歴史講座になったが、内容は陸上自衛官でも困るほど高度で難しかった。
- 2019/09/27(金) 11:54:02|
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「昔、住んだ八雲は尾張藩士が集団移住して開拓した土地で屯田兵じゃあなかったからな」父の説明で森田曹侯補士も少年時代を北海道の八雲で過ごしたことを思い出した。今では北海道の民芸品のように思われている木彫りの熊は尾張藩主がヨーロッパ旅行した時、スイスで目にした土産物を持ち返り、冬の収入が途絶える八雲の藩士たちに作らせたのが発祥だ。それにしても同じ北海道とは言え八雲と名寄では自然環境が全く違う。
「ところでお前は幕末に活躍した伊豆代官の江川太郎左衛門が農民に軍事訓練させたのを知っているか」「いいえ」父の唐突な質問にあまり勉強が得意ではない森田曹侯補士は口ごもりながら返事だけした。江川太郎左衛門の名前は歴史の資料で見た覚えがあるが、目が大きな顔だったような気がするものの何をやった人物かは思い出せない。
「江川太郎左衛門英竜は幕末に外国船が日本近海に出没するようになった時、伊豆と江戸湾の防備に尽力した人だ。西洋式の砲術を学んで自分の領地で訓練に励んで実戦性を追求したんだ」父のワンポイント・レッスンが顔と重なったが本文は思い出せない。やはり読んでいなかったようだ。考えてみれば学校で習う日本史では薩長土肥の倒幕側が中心で本当は優れた外交交渉で日本を守り抜いた幕府の功績は否定的にしか紹介されていない。
「その江川太郎左衛門は無断で江戸湾に侵入して水深を測量したイギリスの軍艦に乗り込んで談判したんだが、その時の警護には銃を持たせた農民を連れていったんだ。そのことを幕府が問題にすると武士は剣や槍。弓矢と言った時代遅れの武術しか身につけていない上、銃器を見下して興味を示さない。おまけに屋敷と城を往復するだけの生活をしているから体力がない。その点、農民は泥の塗れることを嫌わずに肉体労働で鍛えているから銃を持たせれば即戦力になるって答えたそうだ」これでようやく幕末史が屯田兵につながった。この歴史講座を聞いて父が軍事雑学博士の安川3曹の恩師・モリヤ2佐と曹侯学生の同期と言うことに納得できた。
「俺も自衛隊はスポーツで身体を鍛えるくらいなら農家と契約して田畑の耕作をやらせた方が良いって考えているんだ。どのスポーツも中途半端にプロ化してしまって実戦の役に立たなくなっているだろう。だったら踏ん張って草を抜き、鍬をふるって土を耕す方が体力練成になるって言うもんだ」この父の見解は武道や球技、持続走の大会に向けた強化訓練ばかりに励んでいる航空自衛隊だけの問題ではない。陸上自衛隊では銃剣道と呼んでいる槍道は89式小銃とは長さが全く違う木銃での刺突ばかりを訓練して、銃床での打撃や銃剣による斬撃の技に連動する銃剣格闘は型を習うだけだ。持続走も走り易いユニフォームと専用の靴を履いて1分1秒の時間を競っているが実業団や大学駅伝とはレベルが違う。射撃でさえ動作だけに集中できる環境の下で繊細で精密な技術を駆使して得点を競うスポーツ競技になっている。その点、森田曹侯補士が励んでいるバイアスロンだけは元々が北欧の猟師の冬季の技法を軍隊が採用した競技なので実戦性を追求しているのは間違いない。
「お前が即応予備自衛官になるのは賛成だが、体力練成と両立できる仕事に就くことが前提だな。会社勤めだとジョギング通勤でもしないと自衛官としての体力は維持できないぞ。北海道なら冬場はノルディックになるな」父には照子の実家が酪農を営んでいることは知らせていないからこの指摘は尤もだ。自衛隊でも走って通勤してくる隊員がいるが、朝礼前には営内でシャワーを浴びて身体の手入れから始めている。民間企業でそのようなことが許されるのかは疑問だ。すると父が息子の腹の中を見透かしたような見解を口にした。
「北海道なら農家の規模が大きいから従業員を雇用しているんじゃあないか。そうすれば本当に屯田兵になれるんじゃあないか」これは格好の助け船だ。この好機は逃せない。
「実は照子の実家は牧場だから退職した後、雇ってもらおうと思ってるんだ」「ふーん、俺が言った条件はクリアできたんだな」「照子が離婚した理由だったね」話の順番が滅茶苦茶になっているが原因は母だった。それでもこれが前提条件だから先ず説明しなければならない。
「跡取りのつもりで色々を牧場の経営を変えようとしたんだけど失敗したんだって。一言も責めなかったよ」「お前が二の舞を踏まないようにしないとな」どうやら父は納得してくれたようだ。母への説明も父に要請したいところだが先ほどの会話から考えると無理強いはできない。
「牧場なら夏はジョギング、冬はノルディックの訓練には事欠かないな。できれば狩猟免許を取って害獣駆除も始めることだ」「害獣駆除って動物を射つの」「そうだ。射った動物を解体して肉にするところまでやるんだ」父が言っている場面を想像すると少し気分が悪くなった。
「陸上自衛官は人を射ち殺す仕事だろう。命を奪うことに躊躇していては話にならん。手を血で汚すことに慣れておけ」これは極論のようだが本質をとらえている。
「貴方、何を勝手なことを言ってるの」その時、電話の向こうで母の厳しい声が響いた。危ない。
- 2019/09/26(木) 13:43:24|
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明日9月26日は2013年のこの日に国際連合総会で賛成68、反対32で決議された「核兵器の全面的廃絶のための国際デー」です。
この決議では「軍縮会議において核兵器の保有、開発、製造、取得、実験、貯蔵、移転、使用若しくは使用の威嚇を禁止し、核兵器の廃棄を規定する包括的核兵器条約の交渉を早期に開始すること」を要請しています。
当時の国連事務総長は韓国人の潘基文さんでしたから「反米」を基本路線にしていて安全保障理事会の常任理事国が有する最終的懲罰手段である核兵器の意義を全く認めず、ソ連の崩壊後に核兵器やロケット=ミサイルの開発を進めていた科学者や製造していた技術者たちが紛争当事国に金で雇われている現状を抑止するための実効ある手段を講じることもないままに事実上は常任理事国を対象とした核兵器廃絶を扇動していました。
日本も悪夢の民主党政権でしたから朝日新聞が主導する大手マスコミが振り撒いていた「この条約で北朝鮮の核開発まで禁止できるかのような幻想」に同調して全面的に支持していました。
潘事務総長が就任してからの国際連合では2011年10月下旬の総会で軍縮と国際安全保障問題を扱う第1委員会から52の提案が出され、その中にはマレーシアなどによる核兵器禁止条約の交渉開始を求める提案が含まれており、賛成127票で決議されていました。さらに潘事務総長が退任する直前の2016年10月下旬の総会では多国間での核兵器撤廃交渉を翌年から開始する決議案が賛成123、反対38、棄権16で可決しています。この時、安倍政権が復活していた日本は反対しました。
そして2017年7月7日に122の国と地域の賛成で「核兵器の保有、開発、製造、取得、実験、貯蔵、移転、使用及び威嚇としての使用の禁止及びその廃絶に関する条約」が可決し、50カ国以上が批准して90日後に成立することになっていましたが、2017年9月20日にニュージランド、パラオ、パレスチナ、パナマ、パラグアイ、ペルー、フィンランドが批准したことで50カ国を超えました。しかし、常任理事国を含む核兵器保有国は1国も参加しておらず、事実上は核兵器を持たない小国による反対署名運動程度の意味しか持っていません。
何よりも日本の周辺国では常任理事国である核大国・ロシアと中国は言うまでもなく核開発に成功した北朝鮮や潘前事務総長の母国である韓国も不参加なのでマスコミや反核団体などが日本政府に批准を要求するのは国際情勢を無視した妄言に過ぎません。
日本でも裕福とは言えない島根県と同程度の国民総生産しか持たない北朝鮮が核兵器開発に成功するようでは経費と言う難易度は著しく低下していますから今後も拡散するのは間違いなく、狂信的な指導者がそれを手にした時、これを懲罰するのはやはり核兵器による威嚇と使用しかないのが現実です。
そんな国際社会の中で唯一の被爆国を標榜する日本は安倍政権を復活させました。これは核兵器を3度使用されないための現実的対応なのでしょう。
- 2019/09/25(水) 12:38:51|
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雪うさぎ=広橋照子が島田元准尉に手紙を出した頃、森田謙作曹侯補士は航空自衛隊芦谷基地の官舎にある実家に電話をしていた。
「もしもし、謙作なの。夏の休暇には帰って来るんでしょう。何時なの」母は最初の「もしもし」の声で息子と識別し、返事の前に用件を切り出した。最近、森田曹侯補士は母が照子との交際に対する苦言を並べながら不機嫌になるため電話をしなくなっていたのだ。
「7月から災害派遣で石巻に行くんだ。夏期休暇は何時になるか判らないよ。そんなんじゃ飛行機が取れないだろう」第3普通科連隊は陸上幕僚長の座を狙う北部方面総監が防衛大学校の1期先輩である東北方面総監に災害派遣の実績で有利に立っていることに対抗するため他の方面隊が撤収を始める中、最後を飾る幕引き役に使われることになっていた。今回は期間が短い上、給食や入浴などの生活支援が主任務なので各中隊から独身の若手を選抜して編成するため森田曹侯補士も入ってしまったのだ。
「辞めさせる人間を最後まで使うなんて酷いじゃあない。断りなさいよ」母の自衛官の妻としての意識は息子を受けた不当人事によって崩壊してしまったのかも知れない。森田曹侯補士としては最後まで自衛官の任務を遂行できることに異存はない。ただし、今回は互いに存在を求め合う気持ちが固まってきた照子と会えなくなることで後ろ髪が引かれる可能性はある。そんなことを口にすれば母が激怒するのは判っているので話題を変えた。
「お父さんはあれから東北には来てないのか」父の森田3佐とは三沢基地のアメリカ兵が被災地を巡回して英会話教室と軽音楽のコンサートを開催したトモダチ作戦で宮古市を慰問した時に会ったが、その後は連絡を取っていない。
「お父さんは7月から新隊員課程が始まって忙しいの。東北に行っている余裕はないわ。替わりたいの」「いるなら替わってよ」母は自分よりも父と話したいと言われたことが不満だったようで少し強い口調で父を呼んだ。すると父は自分の部屋でDVDかCDを鑑賞していたらしく母に半分怒鳴られながら電話に出た。
「謙作か。久しぶりだな」「うん、お父さんは忙しいみたいだね」本当は森田曹侯補士も公私共に忙しいのだが、ここは父に敬意を表することにした。
「災害派遣も8月一杯で一段落するみたいだな」「うん、俺はもう一度行くことになったんだ」電話から聞こえていた両親の会話では説明を受けていないようなので念のため捕捉した。
「それは変な話だな。災害復興が自衛隊の手を離れたから撤収するんだろう。今から他の方面隊が出動するのは理屈に合わないじゃあないか」流石に父は幹部自衛官だけに状況判断が鋭い。
「職場で流れてる噂ではウチの総監が陸幕長を狙っていて災害派遣で名を売った東北総監よりも目立ちたいから無理やり押し込んだってことだよ。幹部って大変なんだね」「北方総監の滋賀陸将は生徒上がりだろう。生徒上がりの防大出にはそんな奴が多いんだ」陸上自衛隊の生徒は陸軍士官学校への一貫校だった陸軍幼年学校からの伝統を継承して防衛大学校に合格させることに躍起になっているが、廃止された航空自衛隊の生徒はそれほど力を入れてなかったと聞いている。これで父も息子の不当人事に関して独自に調べていることが判った。
「それでお前は進路を決めたのか」父は唐突に本題を単刀直入に聞いてきた。おそらく北部方面総監・滋賀陸将の名前はそのまま不当人事に接続されているのだろう。
「俺、屯田兵になろうかなって思ってるんだ」「陸上自衛隊には屯田兵制度があるのか」この父の質問は冗談のはずだが口調は真剣だった。
「北海道で働きながら即応予備自衛官になろうと思っているんだよ。やっぱり日本の最前線は北海道だろう」「うん、その通りだが、間もなく三方を敵に囲まれることになるぞ」常に防空任務で周辺からの脅威に対処している航空自衛隊の父の見解は中隊長の松山3佐よりも深刻だった。その点、松山3佐は陸上自衛隊だけに「侵攻を受ける可能性が最も高いのは北海道」と言う認識なのだ。確かに対馬や尖閣諸島に侵攻を受けても海兵隊としての訓練を受けていない現在の陸上自衛隊が役に立つとは思えない。ヘリ・ボーンで兵力を送り込むには携帯式地対空ミサイルに対する防護措置が必要になる。
「まさかお前も災害派遣に行って武器で人を殺す訓練よりもシャベルで地面を掘って人助けする仕事の方が遣り甲斐があるって思ったんじゃあないだろうな」父の質問は阪神淡路大震災の後に自衛隊が経験した問題だ。あの頃はバブル景気の末期で自衛隊は3K職場と呼ばれて入隊希望者が消滅しかけていた。ところが阪神淡路大震災の災害派遣での活躍が報道されことで希望者が急増したものの射撃や戦闘訓練を拒否する者が続出したのだ。
「だから屯田兵になりたいって言ったじゃあないか」どうやら父も屯田兵には詳しくないようだ。
- 2019/09/25(水) 12:37:45|
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昭和27(1952)年の9月24日の午後12時20分頃(八丈島で火山性地震が観測された時刻)に伊豆諸島南部の明神礁が大爆発して調査のために接近していた海上保安庁の測量船・第5海洋丸が消息を絶ち、学術調査官9名と乗組員22名の31名が行方不明になり、その後殉職に認定されました。海上で回収された遺留品や船体の破片などに残されていた痕跡から爆発に巻き込まれたものと推察されています。
明神礁は昭和27(1952)年9月17日の午前に発生した海底噴火を最初に通報した焼津港所属の漁船・第11明神丸から命名されました。明神礁自体は明神海山と言う海底から約1600メートル高くなった海底火山の直径10キロから7キロのカルデラの外輪山の東端の岩礁で10キロ西にあるベヨネース列岩(何故かフランス語)と言う岩礁が西端に当たり、中央部には高根礁と言う山頂の水深が330メートルの突起部があります。
明神礁の溶岩は歴史上、何度も大爆発を起こして麓の村落に壊滅的な被害を及ぼした島原半島の雲仙普賢岳と同じ深成岩の花崗閃緑岩質のため、明治以降だけでも明治2(1869)年から明治4(1871)年、明治29(1897)年、明治38(1906)年、大正4(1915)年、昭和9(1934)年、昭和21(1946)年、この昭和27(1952)年の噴火は昭和30(1955)年まで継続し、さらに昭和35(1960)年、昭和45(1970)年から昭和46(1971)年、昭和54(1979)年から昭和55(1980)年、昭和57(1982)年、1986年から1988年にも爆発を繰り返しています(2017年にも海面変色が発生した)。噴火によって海抜200メートルから300メートルの新島を形成したこともありましたが、爆発による自壊や波の浸食によって姿を消すことが多く、地図上の領土にはなっていません。それでも火山活動が活発だった時期には第1発見者として領有権を主張することを狙ったアメリカや旧ソ連、中国、韓国、フィリピンなどの艦船が頻繁にこの海域に出没していました。
この噴火ではベヨネース列岩を領有している日本が10キロ東の明神礁に新島が出現したことを察知して9月18日には巡視船・しきねを現場海域に急行させたものの経・緯度などを正確に測定して国際社会に申請するため水路作成を担当している海上保安庁の測量課長や東京教育大学教授などの9名を派遣したのです。当時、現場海域には9月21日に中央気象台の観測船・竹生丸、9月23日に東京水産大学の観測船・神鷹丸などが接近していましたが難を逃れました。
野僧が小・中学生だった頃は理科の雑誌や学習辞典の海底火山の説明にはこの2隻が撮影した爆発の写真が掲載されて恐怖心を掻き立てていましたが、2隻は無事に帰還していますから第5海洋丸が巻き込まれた噴火はさらに巨大だったはずです。
日本には伊豆・小笠原諸島や奄美諸島などに多くの海底火山が存在しますが、鹿児島の錦江湾も中央に極めて活発に活動している桜島があり、湾の北東部には若尊(わかみこと)と言う海底火山もありますから錦江湾自体が噴火口なのかも知れません。逆に北海道の内浦湾は別名・噴火湾と呼ばれていますが学術的には違うようです。
- 2019/09/24(火) 14:38:35|
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「貴方、雪うさぎさんから手紙よ」今や日本有数の熱帯地域になっている岐阜が盛夏に入った頃、島田信長元准尉の元に是非とも避暑に行きたい土地から手紙が届いた。島田元准尉は妻の順子から洒落たパステル・カラーの封筒を受け取るとその達筆なペン書きの文字を眺めた。
「はい、ハサミ」順子は手紙に続いてリビングのチェストの上の手箱からハサミを取り出して手渡した。このハサミは自衛隊時代に使っていた官品(=官給品)を机の引き出しの中身と一緒に持ち返った厳密に言えば公物横領品だ。ただし、紙切りバサミ程度の安価な事務用品は補給上は消耗品扱いなので告発される心配はほとんどない。
「雪うさぎの本名は広橋照子だったよな」四つ折りの便箋を開きながら島田元准尉が独り言を呟くとテーブルの向こうに座った順子は両肘をついて手で顔を挟みながら「ふーん」と鼻で返事をした。仙台でのFM放送を終えて帰宅して以来、雪うさぎだけでなく宇都宮のとちおとめ、神戸の福原都、熊本の水前寺亜紀からも手紙が届くようになっているが、女性ばかりなので順子のヘソは少し曲がっている。勿論、ヘソの位置を確認した訳ではない。
「ふーん、3普連の彼氏をアパートに呼んだのかァ。好かったじゃあないか」順子の視線が気になって島田元准尉は解説しながら読むことにした。これまで届いた手紙で雪うさぎは仙台の帰りに慰問に寄った宮古市で、名寄から災害派遣で来ていた10歳以上年下の陸士長に一目惚れして、乙女のような甘く切ない恋心を綴ってきていた。島田元准尉は自衛隊OBとしても相談に乗ってきたが、その意味では順子に女性心理を訊ねることは有益である。
「彼氏って22歳でしょ。雪うさぎさんは大丈夫だったの」すると順子は女性として雪うさぎの貞操を心配した。肉食系男子以上の調教された野性動物である自衛官とすれば女性にアパートに招かれれば玄関はベッドに続いているのだが、順子としては雪うさぎが30歳過ぎで離婚歴があっても本人の意思に添わない性行為は許せないようだ。すると雪うさぎの手紙は安川をアパートに招くまでの苦労で1枚目が終わっていた。
「どちらかと言えば身も心も固く結ばれることが彼女の願いだったぞ。アパートに呼んで2人だけの時間を過ごしたいって言ったじゃあないか」これは反論ではなく前提の確認だ。前回、雪うさぎは安川をアパートに呼びたいのに門限が早いので実現できない不満を訴えてきた。そのため返事で陸上自衛隊の外出制度と階級区分を解説したのだが、今回は旭川と名寄の距離と移動時間の問題が絡んでいる。地図で見ると旭川と名寄は隣町に見えるので東海地方の感覚では名鉄の新岐阜駅から新名古屋駅程度の距離だと思っていたが列車で1時間弱とある(新岐阜駅から新名古屋駅は特急で30分弱)。やはり北海道は広いようだ。
「何々、アパートに来て手料理を食べさせたけど部屋に飾ってある屯田兵の絵を見たらそちらに興味を持ってしまって顔が自衛官になってしまった・・・だってよ」「自衛官になったらかえって危ないじゃない」順子も先任陸曹の妻として男女を問わない若い隊員たちの性的欲求に対する指導に悩む夫の姿を見てきたので、自衛官の体力が精力と表裏一体であることは熟知している。島田元准尉にとしては反論したくても否定できないところが辛いところだ。
「ところで屯田兵って何だっけ」ここで黙ってしまった夫の顔を見て順子が話題を変えてくれた。ところが島田元准尉も屯田兵については詳しくない。敗戦後に創設された陸上自衛隊は帝国陸軍とは別組織として一線を画しているため郷土史的に同じ駐屯地に所在した部隊に関する知識を学ぶ程度で、指揮官の精神教育でも帝国陸軍の戦史を取り上げることはあまりない。帝国陸軍を賞賛できない敗戦後の断罪史観を引き摺っていたのかも知れない。その点、伊藤=モリヤ佳織小隊長はハワイ出身と言う生い立ちを利用して「アメリカから見た帝国陸海軍」として大いに語っていた。その知識の出処が幹部候補生の同期のモリヤニンジン2佐だったのは間違いないが、あの無尽蔵な雑知識=トリビアの情報源は謎だ。
「屯田兵は北海道を開拓しながら守っていた兵隊たちだろう。雪うさぎの先祖は岩手から志願して旭川に入植した屯田兵だったそうだ」手紙の2枚目に書いてある説明で何とか面目を保つことができた。それにしてもまだ若い女性の部屋に屯田兵の絵が飾ってあることも驚きだが、それを見て気分が自衛隊に戻り切ってしまう22歳の陸士長にも感心してしまう。すると手紙にはその感心を関心に替えることが書いてあった。
「それからデートは北鎮記念館と旭川市の図書館通いになってしまったのかァ。それは素晴らしい隊員だな」「隊員としては立派でも恋人としてはどうなの」順子の質問は至極当然だ。島田元准尉は相談を受けていることを忘れて地方連絡部の広報官としての気分になっていた。しかし、雪うさぎはこの曹侯補士の陸士長が人事的に難しい立場にあることをまだ知らせていなかった。今は不釣り合いでもお似合いの恋人同士になることが先決なのだ。
- 2019/09/24(火) 14:37:34|
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1960年の明日6月24日に世界初の原子力航空母艦で8代目のエンタープライズが進水しました。
アメリカ海軍は当初、同型の原子力空母を6隻建造する計画でしたが、建造費が予算計上額を大幅に上回ってしまい、さらに原子力空母の実用化に関する経験が不足していたため、エンタープライズで検証試験を重ねる必要が生じたのです。
また原子力空母・エンタープライズは1968年1月19日にアメリカ海軍佐世保基地に寄港しましたが、核アレルギーが強い日本でもヒロシマと並ぶ被爆地の長崎県だったため激しい反対闘争が起こり、知名度が一気に上がってしまいました。その影響なのかミッドウェイ海戦を描いた戦争漫画でも飛行甲板が後部に斜めについている原子力空母のエンタープライズが帝国海軍の目標にされていました(多分、作者が写真を間違えた)。
実際のミッドウェイ海戦時のエンタープライズはヨークタウン級の2番艦ですが、ネーム・シップのヨークタウンはミッドウェイ海戦で大破した後に帝国海軍の潜水艦・伊168の雷撃を受けて沈没し、3番艦のホーネットは1942年10月の南太平洋沖海戦で大破して漂流し始めたためアメリカ海軍が魚雷6本と砲弾430発を命中させても撃沈できず、続いて発見した帝国海軍も砲弾24発と魚雷3本を命中させても火災を起こしただけで、最終的には巨大な艦体が燃え尽きるように沈没していきました。一方、エンタープライズはアルフレッド・セイヤー・マハン少将の門下生の対決だった第2次世界大戦における日米艦隊決戦の全てに出撃していながら無傷で、究極のラッキー・シップとして「ビッグE」の愛称で呼ばれていました。
そんな栄光の名前を受け継いだ原子力空母・エンタープライズですが就役後の実用試験を終えると1962年10月にはキューバ危機が発生し、カリブ海での海上封鎖に参加しました。続いてベトナム戦争で北爆に向かう攻撃機の母艦となり、この中で佐世保に寄港したため反対運動では反核と反戦の両方の団体がそれぞれの主張を叫ぶことになりました。さらに1988年から1989年の湾岸戦争、1998年から1999年のイラク侵攻にも参加していますから、戦歴と武功は就役期間が51年間と長い分だけ11年間だった先代の空母に引けを取ってはいません。ちなみにこちらのエンタープライズにも「ビッグE」の栄光の愛称が贈られています。
このエンタープライズは2012年12月1日に退役して現在はノーフォーク海軍基地で原子炉の無効化処理を受けていますが、最終的には艦体を切断しなければ取り外すことができないため艦体を留めて保管されるかについての結論は出ていません。
補足すればジェラルド・R・フォード級原子力空母のジョン・F・ケネディに続く3番艦もこの名前ですが(9代目)、まだ実戦の経験がなく「ビッグE」の愛称は受けていません。ついでに言えば24世紀にはエンタープライズの名を持つ宇宙艦も登場しますが、アメリカ海軍や宇宙軍の所属ではないはずです。尤も、イギリス海軍にも14隻のエンタープライズがありますからアメリカ海軍が商標登録している訳ではないようです。
- 2019/09/23(月) 14:35:58|
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8月に入っても歩兵第32連隊は真栄里=国吉の鍾乳洞に籠っていた。6月17日に第22連隊が全滅し、翌18日にバックナー中将が戦死するとアメリカ軍は「司令官を殺したのは前方から砲撃してくる砲兵陣地だ」と断定し、次の攻撃目標と定めて猛攻を開始したため反対の斜面の第32連隊は戦線から取り残され、忘れ去られる形になった。そうして日数が経つうち歩哨や斥候が目撃するアメリカ兵の数は減り、やがては姿を見せなくなった。その頃になると地上戦と同時進行で糸満の沖に集っていた艦隊の砲声も途絶え、間もなく姿を消した。
それでも残存する兵員50名が鍾乳洞に籠って2カ月が過ぎると流石に食料が足らなくなって、地元沖縄の人間である松泉たちが畑に残っている作物を盗んでくることを命じられた。
「村の人がいなくなって随分になるさァ。何か残ってるのかな」アメリカ軍に会っても疑われないように生徒を演じながら同級生は心配そうに声をかけてきた。第32軍の沖縄本島南部地区への移動はその計画自体が最高機密だったため沖縄県には知らされず住民が避難しないまま戦場になった。特に真栄里の集落は第22連隊の陣地への攻撃に住民の大半が巻き込まれて死亡していた。実は沖縄戦で死亡した非戦闘員の沖縄県民94000人のうち92000人はアメリカ軍の攻撃による犠牲者なのだ。嘉手納、読谷に上陸して以来、嘉数から首里、そして南部に至る経路上でアメリカ軍は住民が潜んでいる洞窟や岩の割れ間に手榴弾を投げ入れ、火炎放射機で焼き殺し、時には毒ガスを使って窒息死させてきた。
「ニイニは兵隊ねェ」丘を下ると麦わら帽子を被って鍬で耕している老女が声をかけてきた。畑の大半は荒れたままなので仕事を始めてまだ間がないことが判る。
「いいえ、水産学校の生徒です」松泉は咄嗟に嘘ではない身分を答えた。すると老女は笑顔になって手を止めると首に巻いていた手拭で顔の汗を拭った。
「水産学校は校舎が焼けて廃校になったから、ニイニたちは戦争が終わっても困るさァ」「戦争が終わったんですか」アメリカ軍は第32軍の陣地が集中する最南端付近にばかり注意を払っていて第32連隊には投降を呼びかけることも忘れているらしい。
「8月15日に天皇陛下さまがラジオで放送したのさァ。だから私も収容所を出て家に帰ったんだよ」8月15日と言われてもカレンダーは連隊指揮所にしかないので松泉には今日の日付が判らない。それにしても周囲の畑には人影がない。集落に老女が1人なのだろうか。
「オバアが1人で帰って来たねェ」今度は同級生が質問した。すると老女は笑顔を消して濃い眉の下の大きな目に怒りの炎と悲しみの海を一緒に現した。
「集落のデ―ジ(男)たちはアメリカの将軍が来たことを日本軍に知らせたって言われてみんな射ち殺されたのさァ。糸満の畑に穴を掘ってそこで殺してそのまま埋めたって収容所で聞いたよ。ヌー(女)たちはみんな犯された。それも連れてかれるオトウ(父)やウット(夫)の目の前だった・・・」老女の過酷すぎる説明に松泉たちはこの丘に到着した時、出迎えてくれた住人たちの顔を思い出した。同世代のチュラカーギ(美人)な女の子もいたはずだ。あの時点では攻撃は始まっておらず、石垣に囲まれた赤い屋根の家も無事に残っていた。そこから先は洞窟と丘の上の陣地で働いていたので知らない。
結局、第32連隊は8月22日になってアメリカ軍と接触し、翌23日に生存者50名が敬礼する中、軍旗を焼却して降伏した。
「美恵子、お前はワシたちが日本軍に騙されて戦争に参加したと思っているようだが、それは大間違いだ」松泉は枕元で妻が美恵子に手数料を渡し終わったのを確かめてから遺言のような教えを語り始めた。美恵子とすれば仕事が終わって手間賃を受け取れば速やかに立ち去りたいところだが、これも貴重な小遣い稼ぎを続けるための客あしらいとして聞くことにした。
「お前はどうして戦争を知らない教師が言うことを信じて実際に体験してきたワシたちの話しを聞こうとしないんだ。ワシたちは日本軍に踊らされて命を捨てるほど馬鹿じゃあない。生まれ育った沖縄を守るため自分にできること、遣らなければならないことをやろうとしただけだ」「でも、伯父さんと同じケッテツキンオー隊だった前の知事も先生と同じことを言っているさァ」「鉄血勤皇隊だ」毎回繰り返す美恵子の誤りを訂正しながら松泉は本土から来た教師も間違っていたのではないかと思った。
「知事は牛島が死ぬ前に『捕虜になっちゃあいかん、最後まで戦え』って命令したのは許せんって言ってるさァ。私もそう思うよ」「あれは長参謀長がつけ加えたんだ。牛島閣下はそのような方じゃあなかった」ここまで話して松泉の顔は諦めたように哀しげになった
「ワシが死んでからもお前が日本軍やあの頃のシマンチュウを冒涜するようなことを口にすれば地獄に堕とすぞ」日頃の松泉から一転した冷厳な言葉に流石の美恵子も絶句した。

真栄里地区・国吉の「山形の塔」
- 2019/09/23(月) 14:33:46|
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真栄里での戦闘は第22連隊の奮戦でアメリカ軍にとっては予定外に長期化していた。5日に姿を見せた先遣隊は対戦車地雷と人力で運搬できた1式4.7センチ砲によって戦車を破壊され、歩兵部隊も随所に設けた銃座からの機関銃の掃射で大損害を出した。
アメリカ海兵隊が本格的に侵攻を再開したのは6月11日に小禄の海軍根拠地隊を全滅させてからだったが、その前には糸満沖に移動してきた艦隊が艦砲射撃を加えた。しかし、石灰岩の横穴や鍾乳洞を利用した陣地には効果が低く、日本兵の卓越した狙撃によって指揮官から倒され、進撃路上で一進一退を繰り返すばかりだった。
「対戦車地雷はもうありません」アメリカ軍との攻防戦が始まって3日が過ぎた頃、第22連隊の指揮所壕内では補給担当者が武器の在庫が報告していた。移動に際して歩兵銃と機関銃用の弾薬や擲弾は食料と一緒に荷車に載せて引き、兵隊が可能な限り携帯してきたが対戦車地雷まで運ぶ余裕がなかった。それでも敵が戦車を先頭に進撃してくる以上、それを阻止する対戦車地雷がなくなれば残る戦法は梱包爆弾しかない。
「しかし、アメリカ軍も上陸以来、梱包爆弾には散々やられていますから、これまでのような戦果は見込めないでしょう」最近は戦車に後続してくる歩兵は絶えず道路上を警戒しており、梱包爆弾を抱えた兵隊が身を乗り出した瞬間に銃撃されることが増えている。
「それでも他に手段がない以上、やるしかないだろう」壕内の照明は石油ランプしかないので薄暗く、幕僚たちの沈痛に引きつった顔が悪鬼のように見えた。
「大城、比嘉、郷土のためだ。頼んだぞ」結局、梱包爆弾の肉薄攻撃は現地招集されたシマンチュウ(沖縄の人)の新兵たちが選ばれた。連隊としては戦闘に熟練した古参兵を失うよりは銃の取り扱いもままならない新兵を使う方が戦力の低下が少ないと言う合理的な計算があったのだが、この選定が「沖縄の人間に対する差別」と感じた者がいたのは間違いない。
「お前たちは小柄だから発見されにくい上に戦車の下に潜り込むのも簡単だ。必ず戦果が上がるから安心しろ」分隊長である軍曹の激励も無理な理由づけに聞こえる。両手で黄リンを混ぜた火薬を詰め込んだ木箱を持った金城と比嘉は周囲を見回し、一緒に現地招集されたシマンチュウたちに暗い目で無言の告別の辞を送った。
そんな第22連隊の激闘も6月17日には終わりを告げた。戦車部隊が下の道路に並んで砲門を丘に向けている中、歩兵たちが銃座と壕を火炎放射機と手榴弾で破壊して回った。
そして連隊指揮所壕がある鍾乳洞の垂直に深い入り口から日本軍の対戦車用梱包爆弾と同様の黄リンを混ぜた火薬を入れた木箱を投げ入れたのだ。この爆発によって道産子の連隊長である吉田勝大佐以下は戦死し、歩兵第22連隊は全滅した。
翌18日、アメリカ軍上陸部隊司令官のサイモン・ボリバー・バックナーJr中将は前線視察として真栄里の丘を訪れた。バックナー中将の第32軍の南部への移動を「敗走」とする誤解は訂正されていない。そのため舞台を移して激烈な組織戦闘が再開されていることも十分に理解できていなかった。この危機意識の欠落は多分にバックナー中将の性質だった。
「司令官、ここは前方の高台から弾が飛んできますから先には出ない方が好いですよ」従軍記者と副官や作戦参謀、軍医、衛生兵まで引き連れたバックナー中将を海兵隊第6師団の第22連隊長のハロルド・C・ロバーツ大佐が引き留めた。
「それなら迫力のある戦場を見せられるな。楽しみだ」バックナー中将は勝者の笑顔を見せるとロバーツ大佐の肩を叩き、トラック代わりに兵員や物資の運搬に使われている戦車が縦列駐車している道路を歩いていった。この直後、ロバーツ大佐は日本兵の狙撃を受けて戦死した。
「ここがジャップの歩兵第22連隊が立て籠もっていた真栄里です」バックナー中将一行は第22連隊の指揮所壕があった鍾乳洞を見下ろす高台に立って作戦参謀の説明を聞いていた。作戦参謀は地図を広げて地点名と風景を合わせるように説明している。バックナー中将はうなずきながら作戦参謀が指差す方向に顔を向け、数歩前進して確認しようとした。従軍記者たちは周囲の風景と一緒にバックナー中将の写真を撮影していた。この時点では丘の反対側の斜面の鍾乳洞には歩兵第32連隊が潜んでいるのだが、そんなことには気を止めていなかった。
すると1名の日本兵が丘からは死角になる岩場の陰から擲弾発射筒を発射した。この日本兵は沿道に配置されていた狙撃兵で、連隊が全滅してからも単独で戦闘を継続していたが、弾薬を射ち尽くしたため銃座に残っている弾丸を拾い集めに戻っていたのだ。
「司令官、危ない」副官が落下音に気がついて駆け寄ろうとした時には擲弾がバックナー中将の至近距離で破裂し、破片が胸部を深く抉っていた。その場で衛生兵が応急処置し、医官が輸血を開始したが間もなく息を引き取った(今の戦史では「日本軍の砲撃による」とされているが)。

糸満市真栄里の「バックナー中将戦死の地碑」
- 2019/09/22(日) 13:19:42|
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第32軍は沖縄本島の最南端である摩文仁に司令部を置き、具志頭から喜屋武岬、糸満にかけて縮小する形で残存している部隊を配置していた。移動はアメリカ軍の航空機による捜索を避けながら夜間に山間部を行軍しているが、20キロ=20000メートル弱の道のりに出発した時点では45000人の将兵が歩いているのだから計算上は数珠つなぎになる。そのため発見された部隊に艦砲射撃や空襲、機銃掃射が執拗に加えられ、爆発音と銃声が響き続けていた。
司令部には経路上の要所に各部隊を残置して陸路を南下してくるアメリカ軍を阻止させる計画もあるが、山間部は脇道が多く夜間では地元の人間の案内がなければ地図だけでは目的地に辿りつくことは難しい。その意味では兼城(現在の糸満市)から来た水産鉄血勤皇隊の生徒たちは非常に重宝している。
「ここを右に行けば糸満です」「左なら」「玉城村(タマグシクソン)です」松泉は本隊の前方を歩く中尉と軍曹に同行して道案内をしていた。
「タマグシクって(言)えばオメェの出身地じゃあねェが」松泉の説明に中尉が東北訛りで声をかけた。この歩兵第32連隊は昨年8月になって移動してきたが元々は山形市を地元とする部隊なので連隊長の北郷大佐以下兵隊の大半は東北人だ。
「はい、あの山を越えれば玉城村です」「そうけ・・・」松泉が感情を交えずに答えると中尉は軍曹と顔を見合わせた。このまま次の配置先に到着しても待っているのは全滅だけだ。それならばここで逃がして親元に帰す。それが許されないのならせめて親に対面させてやりたい。そんな東北人特有の濃密な家族愛を軍規との天秤にかけているようだ。
松泉にも2人が考えていることは判っていた。しかし、すでに同級生が何人も殉職し、鉄血勤皇隊全体の死者は数百人に達している。今は個人的感情に溺れている状況ではない。
「早く行きましょう」松泉は表情を引き締めると2人に声をかけた。第32連隊は空襲で破壊されるまで沖縄県営鉄道糸満線の路線だった敷き砂利を踏みながら雨の中を進んでいった。
「ここは海軍が入る予定の壕だったんだべ」第32連隊に割り当てられたのは真栄里の小高い丘陵の頂にある洞窟だった。丘の登り口には海軍根拠地隊と一緒に小禄飛行場の守備に当たっていた歩兵第22連隊が配置されている。歩兵第22連隊は愛媛県松山市に所在する部隊で、日清戦争では先陣として雪中行軍で清国との国境を突破して「雪の進軍」と言う軍歌にもなった。日露戦争では旅順要塞攻城戦で多大な損害を受けながら奉天会戦でも奮戦して「伊予の肉弾連隊」との勇名を馳せた。その後もシべリア出兵、上海上陸作戦などで武功を上げてきた。ただし、沖縄ではこれまでの戦闘で消耗した兵員を補充するため現地招集した新兵が半数を占めている(海軍沖縄根拠地隊が26日の段階で真栄里に移動してしまったのは隣りの第22連隊が撤退を開始したことが原因ではないかとも言われている)。
そんな精鋭部隊が配置された真栄里は小禄から兼城、糸満、喜屋武岬、摩文仁に続く那覇からの最短経路沿いにあり、交通の要衝であるのと同時に南下してくるアメリカ軍を喰い止めるための緊要地でもある。当然、激戦が予想されるのだが、それでも鍾乳洞の中の居住空間を整備している兵隊たちは久しぶりに快活な声で言葉を交わしていた。
「飲み水に不自由しねェのは有り難たいべさ」「何よりも空気が冷たいのが助かるべ」やはり東北人には沖縄では夏本番となるこの時期に行軍してきたのはかなり堪えたようだ。
一方、アメリカ軍の上陸部隊の追撃は遅かった。第32軍の主力が移動した後も置き去りにされた負傷兵たちは陣地に籠って抵抗を続け、最後の一兵まで戦い抜いた。このため破壊した陣地に折り重なって残る遺骸を見た上陸部隊の首脳陣は脱出した第32軍の主力を司令官以下が敗走するのに同行した少数部隊と誤解し、「組織的抵抗は終わった」と安堵していたのだ。
「敵発見、戦車が迫ります」6月4日の早朝に小禄に上陸したアメリカ海兵隊は小禄から豊見城一帯(アメリカ軍は『OROKU』と呼んで両地区を分けていなかった)を制圧しながら同時に南下を開始した。6月5日には戦車を先頭にした先遣隊が真栄里に迫り、発見した第22連隊の歩哨の報告は有線電話で頂上の第32連隊にも届いた。
「これでは関ヶ原の時に南宮山で動けなかった長宗我部みたいだな」第32連隊長の北郷大佐は東北人そのものの風貌にはよく似合う丸眼鏡の奥の目を少し険しくして呟いた。天下分け目の関ヶ原の合戦に出陣した四国の雄・長宗我部盛親は徳川軍の背後に位置する何群山の山頂に陣取りながら登り口の毛利秀元軍に出口を塞がれていたため徳川軍に内通していた吉川広家の策謀「宰相殿の空弁当(=長宗我部の出陣要請に吉川が『食事中』と答えた)」によって出陣することなく敗走する羽目になった。つまり出番がないまま全滅することを危惧しているのだ。
「いつでも増援を出せるように準備せよ」ズーンッ、北郷大佐の指示と外からの砲声が重なった。
- 2019/09/21(土) 13:26:36|
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9月20日は昭和62(1987)年10月の全国バス事業者大会で制定された「バスの日」です。
2009年からは「いつでも どこでも みんなのバス」を合言葉に全国各地の公営・民間の区別なく日本バス協会に加盟しているバス事業者が色々な記念行事を開催しているようですが、必ずしも9月20日ではなく間近の休日にずらしていることも多いようです。
浜松基地は1989年に統合するまで南北が別の基地だったので主要施設が両地区に分散しており、1周6キロと広大なため私有車を持たない隊員の交通手段の確保が必要不可欠でした(野僧が勤務中にも冬季に自転車で往復した定年直前の隊員が心不全で死亡した)。
このため管理隊の輸送小隊が定期バスを運行していましたが、若い車両輸送員たちは自衛官でありながら民間の観光バスの運転手に憧れるようになり(車力ではトラック野郎だった)、地元のバス会社の「バスの日」のバス試乗会に参加して話を聞いてきた若者=馬鹿者から「管理隊も日本バス協会に加入して基地でも『バスの日』を始めましょう」と言う冗談が出て、総括班長=事務長を兼務していた野僧が地元のバス会社に相談する羽目になりました。地元のバス会社としては航空祭で数万人の乗客を浜松駅から基地内まで往復輸送する臨時バスも大きな収入源になっていたため管理隊総括班長の機嫌を損なうことを避け、担当者は断る前の雑談として色々な無駄知識=トリビアを教えてくれました。
「バスの日」の由来は明治36(1903)年に京都市で福井さんと坪井さんと言う「井」の字の苗字の資産家2人が「二井商会」と言う蒸気自動車を改造した乗合自動車=バス会社を始めた月日です。しかし、このバスは運転手と車掌に乗客の定員が4名と小型だったため利益が上がらず、翌明治37(1904)年の1月には営業を止めています。
一方、「乗客4名ではバスと言うよりもタクシーだ」との異論が出たため明治38(1905)年1月に広島で営業を開始した少し大型の乗合自動車を推薦する意見もあったのですが、こちらもバスの整備不良による運行不順や市内の馬車業者の反発を招いたこともあり9月で営業を止めました。結局、1989年の段階では京都の営業許可書の交付日付しか期日が確定できなかったこともあり、9月20日が「バスの日」になったのです。
ちなみに野僧が受けた説明では公益社団法人である「日本バス協会=NBA」への登録資格はバスによる旅客自動車の営業を行っている事業者であって各都道府県のバス協会(島根県と佐賀県はバス・タクシー協会)が窓口になっているとのことでした。したがって料金を徴収しない自衛隊のバスはスクール・バスやコミュニティー・バスと同列の位置づけになり、日本バス協会に参加できないと言うことでした。
輸送幹部とは言え鉄道と船、飛行機マニアでも車嫌いの野僧としては馬鹿者、元へ若者たちには「大型2種免許が参加資格だ」と嘘ではないものの本当でもない説明を弄して納得させましたが、「趣旨に賛同して」と言う名目を付けて人脈を介して日本バス協会の執行部に申し入れれば特別会員になれた可能性はあったのかも知れません。ただし、それは警備小隊長が本業の総括班長よりも輸送小隊長の仕事でしょう。
- 2019/09/20(金) 13:32:31|
- 日記(暦)
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モリヤニンジン2佐=私には幼い頃から繰り返し見ている夢がある。記憶が残っているだけでも小学校に入る前に夜中に軍隊用語を叫んで母親を心配させたことがあった。その主人公は第3種軍装を着た海軍中尉であり、舞台は豊見城城址から裏手に下った集落だ。
夜が白み始めた頃から始まったアメリカ軍の激烈な艦砲射撃の中、私は士官斥候として首里を陥落させて南下してくるアメリカ軍の動向を探るため小禄の海軍沖縄根拠地隊の司令部壕から部下の2等兵曹1名を連れて豊見城城址の背後に出ていた。ここにも小禄飛行場方向からは激しい発射音が絶え間なく聞こえ、時折、流れ砲弾が落下して爆発している。
「中尉、陸軍は酷過ぎませんか」99式歩兵銃を抱えた2等兵曹が城址からの坂道を下りながら忌々しげに不満を吐き出した。海軍沖縄根拠地隊は第32軍から「第32軍司令部は5月26日に喜屋武岬方面に移動する。海軍の新たな配置先は真栄里」との連絡を受け、人力では運搬できない重機関銃や携帯不能の弾薬、大型の通信機材などを全て破壊し、地下壕もアメリカ軍が利用できないように処置して真栄里に向かった。
ところが移動前の第32軍司令部から「命令では第32軍の移動を支援した上で6月2日に撤退せよと伝えたはずだ」と叱責する電報が入ったため、大田司令官は「海軍陸戦隊の散り花を咲かせよう」と訓示して5月28日の夜に破壊した司令部壕に戻った。戻ってからは擱座した戦闘機から機銃を取り外して地上戦用に改造し、爆破して崩した壁の石を積んで掩体にするなどの虚しい作業に励んできたのだから2等兵曹が不満を口にすることを叱責できない。
その時、空気を裂く音を発することなく砲弾が落下して背後で炸裂した。私は足元に落ちていた空薬莢を拾おうと身をかがめていたため前のめりに吹き飛ばされたが、顔を上げると目の前に千切れた首が被ったままの鉄帽が転がっていた。周囲には2等兵曹の肉片と折れ曲がった99式砲兵銃や銃剣が飛び散っている。私が無傷なのが不思議になる惨状だった。
私は1人なっても斥候の任務を遂行しなければならず、坂の下の集落に踏み入っていった。沖縄根拠地隊に着任して豊見城城址を見学した後、この集落を通ったことがあるが、あの時の沖縄風の赤い屋根と石垣が整然と並んだ美しい街並みは空襲と砲撃で破壊され尽くしていて、崩れた石垣の中に瓦が散乱し、焼け焦げた柱が倒れ重なっている。
私は砲声と鳥や虫の鳴き声が混在する空気の中に人の声を聞き、辺りを見回すと崩れ残っている石垣の影に若い母親と2人の幼い男の子が身を潜めていた。膝までの浴衣を羽織っている男の子たちは兄が5歳、弟は3歳くらいかも知れない。
「どうした。逃げ遅れたのか」私の姿を見て母親は安堵したように微笑み、すがるような視線を向けた。母親は茶色に汚れた白のブラウスを着てモンペを履いているが、胸に縫い付けてあるはずの名札は剥がれてなくなっている。
「知念半島に逃げるつもりだったんですが、義母が義父の形見を忘れたと言うんで戻ったんです」「間もなく小禄でも戦闘が始まるから早く逃げた方が良い。この食料を持って行きなさい」私は肩から吊った雑納から缶飯を取り出すと母親に手渡した。本当は護身用に拳銃も渡したいところだが余計な荷物になるので止めた。
「静かに」その時、私の耳にエンジンの音と数名の話し声が飛び込んできた。会話は英語だ。母親は下の子を抱き締めて口を塞ぎ、私が上の子の口を押さえた。
「海兵隊は今日上陸するんだ。我々が先にこの城跡を占領すれば小禄制圧の手柄は陸軍のものだ」「小禄のシンボルはジャップの海兵隊(海軍陸戦隊)の陣地よりもこの城跡ですからね」アメリカ兵たちの会話からアメリカ海兵隊の上陸が今日6月4日に始まることが判った。しかし、私にはそれを報告することはできない。私は怯えている母親の肩に手をかけると指示を与えた。
「あれはアメリカ陸軍の偵察隊だ。私が囮になるからその隙に逃げなさい」「でも、海軍さんは・・・」母親がためらいの言葉を口にし終わる前に私は上の子の頭を撫でて立ち上がった。
私は石垣の陰を走ってアメリカ兵たちの前方に回り、集落の端で拳銃を構えジープの助手席に立っている士官を狙った。そして引き金を絞ると命中を確認することなく道路に飛び出して走り出した。私は士官用の革長靴ではなく兵用の軍靴と巻き脚絆なので足は軽い。
「オーッ、ジャプス・マリンコ(日本の海軍陸戦隊だ)」背後からアメリカ兵たちの叫び声が聞こえた。続いて聞きなれたM1ガーランド小銃とトンプソン・サブマシンガンの乾いた銃声が響いてきた。両脇を熱い空気の塊が通り過ぎていく。
「軍刀が邪魔だなァ」足に絡む軍刀を手で押さえた時、背中に熱く焼いた巨石が当たったような気がして私は仰向けに倒れた。アメリカ兵たちの「ビンゴ(命中)」と言う歓声が聞こえる。
「雨が上がったな。空が青いや・・・」目に映っている光景が暗くなり、間もなく電源が切れた。

海軍陸戦隊・モリヤニンジン中尉の遺影
- 2019/09/20(金) 13:31:10|
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松泉たち水産鉄血勤皇隊は豪雨と弾雨が降り続く中、連隊指揮所壕から前線の陣地への弾薬運搬や伝令などに当たっている。そんな仕事の合間に連隊指揮所の大尉に声を掛けられた。
「お前たちの水産学校は兼城にあるから糸満付近には詳しいな」「はい、僕の実家は玉城村なので那覇に出るのは自転車でした。だから裏路、近道、抜け道も良く知っています」「それは有り難い」大尉は今では誰も見せなくなった笑顔を浮かべると指揮所の奥に戻っていった。
この頃なると欠員の補充には手当てが終わって何とか銃が射てるようになった負傷兵を送り返ることが増え、完全に人数合わせの様相を呈していた。このため前線からは鉄血勤皇隊の生徒を戦闘に参加させる許可を求める声が殺到しており、生徒たちの中には弾薬を運んでそのまま戦死者の銃を取って戦闘に参加する者が続出しているが、第32軍司令部もあえてこれを禁じなくなっている。当然、松泉たちもその覚悟でいるが、武運拙く機会に恵まれないでいた。
「我が連隊はこれより喜屋武(きゃん)岬方面に転進する。水産鉄血勤皇隊には各中隊の先導役を命ずる」5月26日の日没後、連隊長は豪雨を頭から浴びている兵隊たちに「第32軍45000名が沖縄本島南部の喜屋武岬に移動する」との転進命令を下達した。牛島満軍司令官の移動命令の決済は22日に終わっており、戦闘と並行して準備を進めてきたのでこれは出発命令だった。松泉たちもここ数日、指揮所の幕僚に呼ばれて移動経路と壕に使える洞窟の所在地などを説明しており、重大な任務に生徒同士で引き締めた顔を見合わせて深くうなずいた。
首里地区には太平洋側のアメリカ軍がコニカルヒルと呼ぶ運玉森から陸軍の第96師団、東シナ海側からは海兵隊の第6師団が迫っている。ただし、第96師団は首里の丘陵地帯に向かう山道での死闘、第6師団はシュガーロ―フの攻防戦で戦力を消耗していて包囲は不完全だった。それでも海兵隊は無人になっている那覇の市街地を占領していた。
「ジャップが移動している。大軍だ」雨の止み間に飛び立った海軍の偵察機が、満月前夜の明るく照らし出された夜景の中に首里の南東方向の道を進む長い人影の列を発見した。
「大軍とはどの程度だ」想定外の情報に艦隊の総司令部と上陸部隊司令部は同様の確認をした。首里の地下壕陣地は極めて堅牢であり、アメリカ海軍が5月25日から開始した大規模な艦砲射撃を受けても機能が停止していないことは通信の交信状況などから推察して間違いない。弾薬や食料の備蓄も十分なはずだ。これを捨てることは戦略の常識から言って考えられず、関係する各級指揮官、司令部も全く想定していなかった。
「那覇市にはあえて奪還するだけの戦略的価値はないだろう」「小禄の海兵隊の増援じゃあないのか」「海兵隊はシュガーロ―フと首里に4個大隊を送っていますから可能性はあります」アメリカ軍では開戦初頭の昭和17年11月から翌年1月にニューギニアで安田義達大佐のブナ守備隊に苦戦して以来、太平洋の島々で対等以上の戦闘を繰り広げている海軍陸戦隊を同様の独立した軍種として海兵隊と呼称しているようだ。その大田実少将が指揮する日本海軍沖縄根拠地隊は小禄の司令部壕を拠点として那覇市の対岸である小禄地区を守備しているが、第32軍の要求に応じて主力を差し出したため残っているのは陸軍の工兵隊に当たる設営隊であり、小禄飛行場への上陸が予想される中、増援することは戦略的にもあり得ることだ。しかし、日本陸軍が首里の防衛よりも優先するかには疑問がある。
「高度を下げて確認します」「危険だ。見える範囲で良い」首里では今でも高射砲部隊が活発に射撃してくるため軍隊の司令部にしては珍しく危険の回避を指示した。
「日本軍は首里とは別に拠点となる陣地を準備しているのではないか」偵察機からの情報を聞かされた上陸部隊司令官・バックナー中将は意外な見解を示した。アメリカ軍は侵攻に先立って太平洋側から接近した空母から艦載機を飛ばして偵察を行ってきたが、沖縄本島全体の詳細な情報を入手していたとは言えない。また沖縄本島には洞窟が数多く点在しており、手を加えれば堅牢な地下陣地に改造できることはこれまでの戦闘で嫌と言うほど痛感してきた。
「兎に角、日本軍の部隊が移動している地区に艦砲射撃を加えて殲滅することだ。精確な座標を確認しろ」「偵察機から豪雨が降り出したため下方の視界がなくなり、低空の飛行は無理だと連絡が入りました」バックナー中将が指示を与えているところに水を差すような連絡が入った。再び激しい雨が叩き始めた司令官用天幕の中の空気が一気に険悪になって、濡れながら報告に来た若い参謀は気まずそうに入口で立ち尽くしていた。
この夜の艦砲射撃は地図上の座標だけで実施した盲射ちに過ぎず、日出後に開始した空襲も悪天候に阻まれて効果が上がらず、日本軍の移動を阻止することはできなかった。
翌27日には艦砲射撃で首里城が炎上するのを見届けた牛島中将以下の第32軍首脳が首里の地下要塞を捨て、徒歩で漫湖の付け根に当たる津嘉山の陣地に移動した。
- 2019/09/19(木) 13:14:36|
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9月14日、1989年6月4日から中国の北京で発生した天安門大虐殺の象徴的写真として日本を除く西側諸国に衝撃を与えた「無名の反逆者」=「戦車男」をAP通信のジェフ・ワイドナーさん、マグナム・フォトのスチュアート・フランクリンさん、ロイターの曾顯華さんと共に撮影した報道カメラマンのチャーリー・コールさんが移住していたバリ島で亡くなっていたことが明らかになりました。64歳でした。
コールさんはこの写真で1990年の「世界報道写真コンテスト」を受賞していますが、2003年にはフランクリンさんの写真もライフ誌の「世界を変えた写真100枚」に選ばれています。
事件発生時、野僧は奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に入校中で、中退した大学の中国人留学生の友人も参加している可能性があったため可能な限りテレビのニュースを視聴し、新聞や雑誌も熟読の上、スクラップしていたのですが、後年、特別で内緒の仕事として国内外の軍や治安機関と関係を持つようになると日本の天安門事件の報道が不完全な一面的請け売りであることが判明しました。
朝日新聞を中心とする大手マスコミは中国当局の代弁者に過ぎず、4月15日に脳梗塞で急死した胡燿邦元書記への追悼と意思の継承の決意表明をするため天安門広場に集まっていた学生たちを5月15日に訪中したミハイル・ゴルバチョフ大統領のペレストロイカの模倣を要求していると曲解していた鄧小平政権は殊更に危険視していることを察知すると日本国内での報道を控えるようになり、世界中のマスコミが大挙して乗り込んで学生たちの運動と治安当局の動きを注視しているにも関わらず現地駐在員による通常と変わらぬ取材だけでお茶を濁し、5月19日に戒厳令が発令されても国民の関心を掻き立てるのとは真逆の記事・番組造りに終始していたのです。
その結果、6月4日の武力弾圧についても実態を知る日本人は少なく、後で紹介されたニュース映像のような人民解放軍による銃撃や装甲車によって人を轢く惨劇が繰り広げられた舞台を学生たちが集結していた天安門広場だったと思いがちですが、実際は世界のマスコミが注視している天安門広場では治安部隊が催涙ガスやゴム弾を使った通常のデモ鎮圧の要領で数十万人の学生たちを排除していました。ところが治安部隊では対処できなかった場合に備えて天安門広場に向かっていた人民解放軍が長安大街の10車線の道路でデモに駆けつけようとする群衆に遭遇し、興奮した兵士が指揮官の許可を受けずに発砲したことで人民解放軍と群衆の相互が暴走を始め、あの惨劇が生起したのです。
あの白いシャツを着て両手に買い物袋を提げた青年が戦車の前に立ちはだかる写真は天安門広場への取材には出ずに宿泊先に留まっていた記者やカメラマンが部屋の窓から望遠レンズで撮影したもので、銃声を聞いた外国のマスコミが現場に向かった時には周辺は完全に閉鎖されており、音声による実況中継しかできなかったのです。
コールさんが歴史的傑作を撮影できたのは偶然の産物、怪我の功名のような面もありますが、事件後、中国当局は海外マスコミ関係者の宿舎を徹底的に捜索しており、危険を冒してフィルムを隠し通したプロ意識だけでも敬意を表するべきです。冥福を祈ります。
- 2019/09/18(水) 13:33:39|
- 追悼・告別・永訣文
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シュガーロ―フ、ハーフムーンの両陣地では今回も夜襲部隊が帰還せず日本兵の生存者は数少なくなり、壕の外ではシマンチュウの志願者が普段着のまま銃を持って歩哨に立っている。
そんな両陣地は翌日の猛攻には耐えたものの弾薬と食料も底を尽いてきた。日没後にはアメリカ海兵隊が松泉たちがいるハーフムーンの一角に手を掛け、至近距離で対峙している。この状況に指揮官の少佐はシュガーロ―フとの地下連絡路の爆破を用意させていた。
「今夜、お前たちは首里の司令部へ向かえ。陣地は敵に包囲されているが見つかっても『中学校の生徒だ』と名乗れば無闇に殺しはないはずだ」残り少ないローソクに照らされた薄暗い壕の中で夕食を終えた松泉たち鉄血勤皇隊の生徒に少佐が命令を下した。
「この陣地は明日には全滅するだろう。しかし、お前たちは郷土のために最後まで戦い抜かなければならん。どうか第32軍の最期を見届けてくれ」「嫌です。最後まで一緒に戦います」少佐の命令に続く悲痛な訓示に生徒の1人が抗論すると暗闇の中で「シッ」と大声を封じる音をさせた。唇に人差し指を当てた仕草は影になって見えなかった。すでに敵は壕から洩れる明かりや話し声を察知するほどの間近にまで迫っているのだ。
水産学校の配属将校は「上官の命令は天皇陛下の御命令」と言う誤った精神要素は教育しなかったが、軍隊では上官の命令が絶対なのは間違いない。鉄血勤皇隊の生徒たちは唇を噛んで「はい」しかない返事に替える台詞を考えていた。
「ニヘーデービル(有り難うございました)」松泉は指揮官にだけ届く声でこのシマグチ(沖縄方言)の感謝の言葉を口にした。この感謝の辞は世話になった礼ではなく、沖縄のために命を捨てたナイチャアの英霊とその覚悟をしている指揮官以下の生存している兵隊たちへの追慕の念から発していた。その夜、松泉は指揮官を命じられ、生徒に見えるように鉄帽を脱いで学生帽をかぶって陣地を抜けだした。
翌5月18日、アメリカ海兵隊第6師団は第29連隊を主体に最後の予備兵力である第4連隊と残っている全戦車を投入してシュガーロ―フとハーフムーンの制圧を開始した。
先ず艦砲射撃で首里の砲兵陣地を沈黙させると前日の日没後に確保したハーフムーンの北側から戦車を接近させて丘全体に砲撃を加えた。そして後続の第29連隊の歩兵が判明している壕とトーチカにしていた亀甲墓の中に手榴弾を片っ端から投げ込んで破壊した。
その後は戦車が数百メートルの距離のシュガーロ―フへ進攻し、一気に丘の周囲を横切り南側まで進んだ。ここには擲弾発射筒の陣地があったがすでに壊滅していた。戦車はこの位置から発砲してくる日本軍の銃座を砲撃して破壊すると歩兵が前進し、ついにシュガーロ―フも占領した。
この6日間の戦闘でアメリカ海兵隊は大隊長3名、中隊長11名が戦死するなど2662名の戦死傷者と1289名の戦闘疲労患者=発狂者を出した。特に小隊長として現場で指揮を執った中尉は小銃ではなく弾帯に拳銃を装着していることで識別されて狙撃兵の標的にされた。中にはカレッジ・フットボールのスーパースターだった中尉や着任して15分で戦死した中尉もいて、そんな名前を覚える暇もない使い捨て状態にアメリカ兵たちは同情を込めて「トイレット・ペーパー」と仇名していた。
首里の丘陵地帯での戦闘は太平洋の島々で日本軍との激戦を経験してきたアメリカ軍が「過去に経験したことがない」と愕然とするほどの死闘だった。洞窟や石灰岩の岩盤を利用した日本軍の陣地は戦艦の主砲による艦砲射撃でも破壊できず、その設計も硫黄島と同じくアメリカ軍の行動様式を計算し尽くしたものだった。このため午前に進撃し、午後は占領地区での陣地構築、夜間は陣地内で防御と休息と言う日程を基本とするアメリカ陸軍が予定通りの進撃ができず、構築している陣地を破壊されて日本軍の夜襲で大損害を受け続けている。
「Wowーッ」昼間は日本軍の正確な砲撃で前進を阻まれるため、とうとうアメリカ軍が夜襲をかけて銃剣による白兵戦を繰り広げるようになった。演習で夜間の突撃には熟練している日本兵もアメリカ軍の英語訛りの歓声には驚き、混乱を発生させて損害を被った。
嘉数高地陥落後2カ月弱の戦闘でアメリカ軍は26044名の戦死傷者を出し、陸軍は7762名、海兵隊でも6315名の戦闘疲労患者が発生している。日本軍守備隊が万歳突撃による自滅=玉砕を放棄してペリリュー島や硫黄島、そして沖縄のような持久戦を選択していればルーズベルト大統領が指揮する対日戦争の戦略が大きく狂ったのは間違いない。
この戦況に八原高級参謀は「あの馬鹿げた積極攻勢がなければアメリカ軍を壊滅に追い込むことができた」と舌打ちしたが、その言葉通りに戦力を無駄に消耗した結果、支え切れなくなった防衛線を突破されると激論の末、5月22日に首里城の地下に構築した第32軍司令部陣地を放棄することが決定し、26日に転進と呼ぶ逃避行が始まった。
- 2019/09/18(水) 13:32:42|
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シュガーロ―フの攻防戦も4日目に入り、アメリカ海兵隊では第2大隊長以下が戦死・負傷して戦力が半減した第22連隊に代わって第29連隊がこの要塞を制圧する任務を負うことになった。それに先立って第6師団ではようやく日本軍の防御態勢を検討した。
「ジャップの兵力はどれくらいなんだ」「少なく見積もっても1個大隊、下手すればそれ以上だ」参考人として呼ばれている第22連隊の士官が顔を強張らせて答えた。この士官もシュガーロ―フに取りつきながら離れた陣地からの機銃掃射を受けて部下の大半を失っていた。これまで太平洋諸島での戦闘ではアメリカ軍が日本軍守備隊の3倍以上の兵力と圧倒的な火力で圧倒してきたが今回は対等に射ち合っている。これでは過去の経験は役に立たない。
「シュガーロ―フとハーフムーンからの攻撃を見ていると両者の連携が密接過ぎるようだ。これは電話線が生きていて通信が維持できていると考えるべきだろう」「あれだけ艦砲射撃を加えても切断できないとなると地下ケーブルを構築しているとしか思えないな」流石にアメリカ軍は両方の陣地が地下トンネルでつながっているとまでは考えていなかった。
「そうなると両方の陣地を同時に攻撃しないと敵の回復攻撃を受け続けることになる。連隊全力で総攻撃を加えるべきだ」しかし、この結論はまだ甘かった。
この日、第29連隊は戦車中隊の支援を受けてシュガーロ―フとハーフムーン、ホースシューの3つの丘の陣地を総攻撃したが、先行する戦車は日本兵が黄リン火薬入りの梱包爆弾を抱えて自爆し、キャタビラを切られて停車したところに1式4.7糎砲の射撃を至近距離から受けて次々に撃破されていった。歩兵だけになれば丘と周囲に分散配置されている銃座からの銃撃を受け、それに擲弾も加わり、第22連隊同様の深刻な損害を受けた。そして続きがあった
「敵の集中砲火を浴びている。艦隊に掩護射撃を要請してくれ」戦況が3つの丘からの有効射程(照準した正確な射撃が可能な距離)外で包囲したまま膠着した頃、首里の方向からの砲撃が始まった。その弾着は極めて正確でアメリカ軍が将兵を配置している場所を狙い射ちしてくる。おそらく日本軍はこちらの陣地からも情報を送り、着弾点を修正させているらしい。この時代を先取りしたような部隊運用は日露戦争から進化を止めているこれまでの日本軍には見られなかった。アメリカ軍の上層部は八原高級参謀の名前と経歴を脅威と憎悪として再認識した。
「僕たちも連れて行って下さい」結局、アメリカ軍は包囲を維持できず日没後に撤退したが、日本軍はそれを追跡し、集結地に夜襲をかけた。松泉は同級生たちと陣地の中で武装し、出撃準備を整えている夜襲部隊の指揮官に直訴した。日本軍も激戦の連続で多くの将兵が戦死、負傷しており、今回は志願してきた地元の男性たちも銃剣を手に参加することになっている。
「子供が何を言っている。戦うのは大人の仕事だ。お前たちは手伝うだけで良いんだ」指揮官の中尉は苦笑しながら首を振った。今夜も月齢が若く辺りは暗い。
「ニイニたちは戦争が終わった後のシマ(沖縄)を作ってもらわないといかんのさァ。今はオジイたちに任せておき」不満そうな顔を見合わせている松泉たち鉄血勤皇隊の少年たちに50歳に近い男性が声を掛けた。男性は浴衣の裾を帯に巻き上げ、足には地下足袋を履いている。暗い中の人影でも完全武装の兵隊と軽装の志願者は一目瞭然だった。
アメリカ兵たちは負傷兵を見捨てることはせず、衛生車両が呼べない時には担架に載せて運んで行くため撤収の足は遅い。出遅れた日本軍も十分追いつけた。集結地ではエンジン式発電機で煌々と灯りを点けて、医官と衛生兵が負傷者の処置を始めていた。
「射てェ」集結地を包囲したのを確認した指揮官は瓦礫の中で立ち上がると軍刀を振って周囲に響く号令を叫んだ。同時に数丁の99式軽機関銃が火を噴き、99式歩兵銃もお伴をする。暗闇の中、軽機関銃の射出炎が点滅し、歩兵銃は単発の閃光を放っている。
「敵襲だ」「電気を消せ」「応戦せよ」士官たちは大声で指示するが、世界最強のはずの海兵隊員たちは地面に伏せて身動きできなくなっている。その様子を見ていた指揮官は軽機関銃の弾薬が尽きて発砲が止まったところで軍刀を振り上げた。
「突撃にーィ、進めェ」「わーッ」号令を受けて兵隊と沖縄の男性たちは雄叫びを上げて駈け出した。暗闇の中から集結地の照明に映し出された日本兵が姿を現すのはアメリカ兵にとっては地獄から魔者が襲いかかってくるようにしか見えない。
「日本兵だァ」「助けてくれェ」「お母さーん」「悪魔が襲ってくるよォ」アメリカ兵たちが条件反射で応戦したため一方的殺害ではなく近接戦闘になったが、日本軍が撤収してから診断書には「戦闘疲労患者」と記述される発狂者が大量発生した。暗闇の中に叫び声が響き、束の間の仮眠を取るはずの海兵隊員たちは横になっただけだった。ただし、参戦初日に太平洋戦線で苦しめられ続けている日本軍の夜襲を経験してしまっては眠ることなどできるはずがない。

沖縄戦の戦没者
- 2019/09/17(火) 12:16:33|
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康平5(1062)年の明日9月17日に神話の時代から平安初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂による武力侵攻を受けてからも異民族・皇室の支配に抵抗してきた奥州の覇王・安倍貞任(さだとう)さんが憤死しました。
奥州安倍一族の出自については過去には最も有力とされてきた神武天皇によって殺された畿内の王・長脛彦(ながすねひこ)さんの兄の安日彦(あびひこ)さんが東北に亡命して残した末裔とする説から奥州制圧のために中央から派遣された阿部一族が土着したとする説、そして最近になって支持者が増えているのがアイヌと同族の先住民・蝦夷の中で皇室に臣従した一族の末裔とする説などがあり、蝦夷説では安倍をアイヌ語で「火」を意味するアペが変化した姓としています。
安倍一族については1993年放送のNHKの大河ドラマ「炎(ほむら)立つ」で描かれていましたがこの年は「沖縄と東北の怨讐シリーズ」と言われ、半年間の「琉球の風」の後の9ヶ月間の短縮版だったため(その続きの「花の乱」も9か月間で帳尻を合わせた)、安倍頼良さまを里見浩太郎さん、安倍貞任さんを村田雄浩さん、安倍宗任さんを川野太郎さんと名優が固めていましたが長編の原作を描くには時間不足の感は否めませんでした。
貞任さんは寛仁3(1019)年に安倍頼良さんの嫡男として生まれたとされていますが根拠となる記録は確認されていません。当時の奥州で文字を使ったのは中央から派遣された官吏が主だったため記録は必要がある情報に限られ、安倍一族についても人物像などよりも利用価値や敵としての危険性などが中心になったのでしょう。このため「炎立つ」でも著者の高橋克彦さんの創作と思われる部分がかなり目立ちました。
現在の歴史教育では「源平盛衰記」や「太平記」にある「前九年の役」と教え、天台大僧正・慈円さんが著した愚管抄、鎌倉時代の説話集である古事談や古今著聞集などでは「奥州十二年の合戦」と記されている奥州の騒乱は永承6(1051)年に陸奥の守として奥州に赴任してきたことで始まります。しかし、この人事自体が前任の陸奥の守・藤原登任(なりとう)さんが奥州が産出する金や銀、大自然の恩恵を独占的に収奪していることに安倍時良さまが武力で威嚇したことに対する追討的目的を持っていました。
こうして奥羽の地で安倍一族と中央の武門の家柄である源頼義さんの戦乱が始まり、天喜5(1057)年に時良さんが討ち死にすると後を継いだ貞任さんは中央の武士団が苦手とする冬季に多賀城から岩手の内陸部に誘い出して壊滅することに成功しました。
これ以降は安倍一族優位のうちに奥州の覇権は推移しますが、出羽の清原氏が裏切って中央・源氏側についたことで形勢は逆転し、中央の武士が得意とする夏季に大規模な攻勢をかけ、貞任さんは現在の盛岡市にあった厨川の柵で深手を負い、身長8尺の巨漢を盾に載せられて源頼義さんの前に引き出され、視線を合わせただけで絶命したと言われています。
その後、安倍一族は現在の群馬まで落ち延び、そこで二手に分かれて関東地方と日本海側に抜けて沿岸の各地に定住していきますが、同姓の安倍晋三首相もその末裔を名乗っています。
- 2019/09/16(月) 12:46:44|
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思いがけない迎撃を受けて1個中隊を失ったアメリカ海兵隊題6師団第22連隊第2大隊は翌13日には2個中隊でシュガーロ―フを攻撃した。しかし、多大の犠牲を払って山に近づいたものの平地に身体を露出していたため陣地からの狙い射ちを受けて撤退せざるを得なかった。
「こうなると我が第2大隊の責任においてシュガーロ―フを制圧しなければならない」シュガーロ―フの名づけ親であるウッドハウス中佐は大隊長として攻撃に本腰を入れた。
「今回は全力を挙げて攻撃する。これであの小さな山にこもっている日本兵などは壊滅できるはずだ」「しかし、大損害を受けた3個中隊の残存兵力では実質的に2個中隊にもなりません」大隊本部の幕僚であるコートニー少佐は上級部隊に支援を要望せずに大隊だけで攻撃を強行するウッドハウス中佐の姿勢に疑問を感じていたが、激戦に尻込みすることはアメリカ海兵隊員が忌み嫌う「臆病」になる。コートニー少佐は自分が作成した通りの編成が執れていることを確認すると互いの銃弾が届く近距離にある集結地から部隊を送り出した。
「中隊長、山肌に取りつきました」日没前、長距離・長時間の匍匐前進でF中隊がシュガーロ―フの斜面に辿りついた。目の前にある斜面を登れば山頂は遠くない。中隊長の大尉は振り返って確認したが別の中隊が追いついてくる様子はない。
「ゴー(前進)」中隊長がおそらくアメリカ軍では最も短い号令を吐くと兵隊たちは這って斜面を登り始めた。この人員、持っている武器で山頂を確保できるかは二の次だ。すると斜面を動く人影に気づいた日本軍が銃弾を浴びせてきた。日本兵は銃座から身を乗り出して斜面に沿って銃撃してくる。そのため低い弾道を描いて弾丸が飛んできた。
「グッ・・・」「大尉」数十メートルの斜面の途中で中隊長が転がり落ちていった。手には無線機を持ったままだ。次級者が取りに行って通信を維持するのは戦闘行動の基本だが、そのような余裕はない。今は山頂を目指して這って行くだけだ。
「あの低い丘が我がアメリカ海兵隊の3個中隊でも制圧できないのか」日没後になって2個中隊が逃げ戻り、F中隊が連絡不能に陥っている状況にウッドハウス中佐は苦々しげに唇を歪めた。今日は新月から2晩目で闇は深く、その奥で銃声は続いている。
「取り敢えず連絡が取れないF中隊の確認に向かわなければなりません」「うん、通信機が壊れて戦果が報告できないだけで、すでに山頂を占領しているのかも知れんからな」ウッドハウス中佐の見解とは反対にホイットニー少佐は「全滅」の可能性を考えていた。
結局、この増援部隊も日本軍の攻撃を受けて大損害を出し、深夜には炊事兵や通信手、さらに憲兵まで投入したが壊滅し、この部隊に同行していたホイットニー少佐自身も戦死した。
この日、F中隊の一部は山頂にまで登ったものの暗闇の中、至近距離で射ち合い、最後には日米両軍兵士による手榴弾の投擲合戦が始まった。これ以降、シュガーロ―フの山頂には「ハンドグレネードリッチ(手榴弾が一杯)」と言う別名がついた。
翌朝、日の出とともに派遣されてきた第29連隊のD中隊がシュガーロ―フの山頂に踏み留まっているF中隊の増援に向かった。しかし、山肌を登るアメリカ兵を日本軍は離れた陣地から激しく攻撃し、周囲を含めて一掃してしまった。さらに日本軍はアメリカ軍の集結地に擲弾を射ち込み大隊長以下、多数の将兵を戦死・負傷させた。これではロシア軍が近代土木工学と大量の資材を注ぎ込んで建設した旅順要塞を十分な掩護火力もなく正面攻撃を繰り返した日露戦争の乃木第3軍をアメリカ海兵隊が再現しているようだ。
「玉城、弾薬を補充してこい」松泉はハーフムーンの陣地で弾薬補給に当たっている。アメリカ軍はまだ察知していないが、シュガーロ―フとハーフムーンに隣接するホースシュー(馬の蹄鉄)の3つの丘は地下壕でつながっていて鉄血勤皇隊や地元の志願者を含む約500人が配置されている。各陣地は緊密に連絡を取りながら共同で戦闘を繰り広げており、中でも那覇市民の墓苑だったハーフムーンにある多くの亀甲墓はトーチカに改造されているためシュガーロ―フに近づくアメリカ兵を背後から銃撃していた。
「弾薬の補充です。水筒も持ってきました」「おう、ありがとさん」松泉は亀甲墓の裏に開けた穴を潜って中で軽機関銃を構えている2人の兵隊に声を掛けた。松泉が水筒を手渡すと兵隊たちは早速、口に当てて飲み始めた。喉が「ゴクゴク」と音を立てて波打っている。
「うん、冷たくて美味い。汲んで来たばかりだな」「生きているってのはありがてェなァ」水筒の水はハーフムーンの裏手にある泉で汲んでいる。敵に遭遇する危険を冒しながら汲んでいる苦労もこの笑顔で報われるような気がする。
「お骨と一緒に戦っていると守ってもらえる気がするよ」松泉が空薬莢を拾い集めて木箱に入れていると兵隊は石室の隅に並べたジーシカーミ(厨子甕=骨壷)に手を合わせて呟いた。
- 2019/09/16(月) 12:45:36|
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野僧が生まれて2ヵ月半後の昭和36(1961)年の明日9月16日午前9時頃に第2室戸台風=昭和36年台風18号が名前の通りに高知県の室戸岬付近に上陸しました。
室戸台風と言えば昭和9(1934)年にほぼ同じコースを通過して大阪を中心とする関西圏に甚大な被害をもたらした台風が有名ですが、こちらも昭和26(1951)年に占領軍が測定の数値を国際規格に統一して以降では最大瞬間風速の84.5メートルと上陸時の最低気圧の925ヘクトパスカル(当時はミリバール)の最強記録を保持しています(初代・室戸台風の上陸時の最低気圧は911.6ヘクトパスカル)。ただし、最大瞬間風速では昭和41(1966)年の第2宮古島台風の85.3メートルの方が強いのですが、沖縄が本土に復帰する前なので測定したのは日本の気象庁ではなく国内の記録としては参考扱いです(初代は当時の器材は瞬間風速が記録できず、最大風速も限界値が60メートルだったためこの数値になっています)。
そして何よりこの台風は世界の海洋気象を測定・評価しているアメリカ海軍が風速65メートル以上のスーパー・タイフーンとした期間が6.00日間と現在も最長記録です。
ちなみに明治以降、最大の台風と言われている伊勢湾台風は上陸時の最低気圧は920ヘクトパスカル、最大風速は60メートルでしたが、名古屋への最接近が満潮と重なったなどの悪条件と社会党系の名古屋市長が自衛隊の事前出動を拒否した政治的失策によって河川の氾濫と高潮による甚大な被害が発生して死者4687名、行方不明者401名の台風による被害としては最高数を記録しています。
第2室戸台風は死者2702名、行方不明者334名の犠牲者を出した前回の室戸台風と同じコースを辿りましたが、今回は台風の速度が最終的に93キロに達するほど高速だった上、第2次世界大戦の空襲で木造家屋の大半が焼失し、戦後に都市が復興されていく中で新築された建物は比較的堅牢であり、最大の被害を出した伊勢湾台風から2年しか経過していなかったため自治体や個人の対応も迅速で的確だったこともあって死者194名、行方不明者8名に留まりました。
それでも上陸後も勢力が衰える暇もなく高速度で通過したため低気圧による海面膨張で4.12メートル(初代・室戸台風では4.50メートル)の高潮が発生し、工業化による地盤沈下の影響もあって大阪市全域の4分の1が水没しました。それでも高潮と洪水による死者はありませんでした。
さらに激烈な瞬間風速の威力は凄まじく、大阪以外でも京都の木津川沿いの送電線の鉄塔が10数基なぎ倒され、日本海に出てからも鳥取・京都から北海道に至る各地の沿岸に暴風雨と高潮の被害を与えながら北上したのです。
第2室戸台風の風速が弱まり、昭和28(1953)年からの基準である風速17.2メートルを切って熱帯性低気圧になったのは樺太を通過してオホーツク海に入ってからでした。それまで台風の目が確認できたと言われていますから過去の超大型台風に比べて被害者数が一桁低かったことが奇跡です。
- 2019/09/15(日) 11:40:04|
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「あれは大隊長が南部の菓子パンの名前をつけた高地だな」安謝川を渡河したアメリカ海兵隊の第6師団は廃墟となった那覇市内を流れる安里川に沿った道を首里に向かっている。前方に道と安里川を挟んだ台状の小高い山と低い丘が見えてきた。右側の丘はアメリカ軍は目標区域7672G(ジョージ)と指定しているが、偵察機が撮影して帰った写真を見たアメリカ海兵隊第6師団第22海兵連隊第2大隊長のホレイショ・C・ウッドハウスJr中佐が故郷の南部で子供の頃に食べていた菓子パンの名前をつけたシュガーロ―フだ。ウッドハウス中佐はガダルカナル島を占領してから行われた演習でも同様の形をした小山にシュガーロ―フと命名しているところを見ると余程の大好物だったらしい。もう1つの地元の人たちは大道森(ダイドウムイ)と呼んでいる丘にはハーフ・ムーン(半月)と言う洒落た呼び名がついているが、こちらが誰のセンスなのかは聞いていない。しかし、上級者が自分の趣味で英語の名前とつけても捕虜を尋問する時、地名の情報を整合させるのに余計な手間がかかり、日本軍が常用する海抜の数字を直訳する方が実用的だ。
「当然、陣地があるだろう。戦車を前に出して砲撃を加えながら通過しよう」「迫撃砲で叩いてから歩兵に占領させるべきではないですか」中隊長の意見に小隊長が異論を挟んだ。これは日本陸軍以上に命令厳守のアメリカ海兵隊にしては珍しいことだ。この小隊長は日本兵を残存させたまま通過して背後を突かれる危険性を考えたのだが、中隊長としては作戦の遅滞を挽回するために進撃を急ぐ上層部が安謝川の渡河に時間を要したことを問題視しており、今日中に目の前に迫った首里に踏み込む成果を優先していた。アメリカ軍でもこのような立場と現実の齟齬により上陸以来の戦闘で指揮官が状況判断を誤る場面が重なってきたのだ。
「戦車は射程距離に入り次第、シュガーローフとハーフムーンを連射しながら前進しろ。山頂には迫撃砲弾を射ち込む。それで応戦してこなければ歩兵は急いで通過する」中隊長は小隊長たちと配置されている戦車2両の車長を集めて作戦を指示した。戦車兵たちも日本軍の1式4.7糎砲は近距離からでなければM4シャーマン戦車の装甲を射ち抜けないことは判っているため安心してこの業務を開始した。
2両の戦車は広くはない道で前後になり、戦車砲を左右に向けて進行した。この道は琉球王朝時代からの首里と波止場を結ぶ主要幹線なので牛馬や荷車が通行できる程度に広いのだが、現在は爆弾と砲弾が路面を抉っており、戦車が横に並ぶのは難しかった。
「ドンッ」先を行く戦車がシュガーロ―フに砲弾を射ち込み、1秒置かずに丘の中央で爆発した。これが射撃競技なら最高得点だ。
「ドンッ」続く戦車もハーフムーンに射ち込み、砕けた石が斜面を転がり落ちた。それを受けて後方では軽迫撃砲の連続発射が始まり、2つの丘は閃光と土煙に覆われ、兵隊たちが待機している空き地にも細かく砕けた砂塵が吹き飛んできてヘルメットが「カチカチ」と鳴った。
数十発射ち込んでも日本軍の応戦がないため戦車は低速度で前進し、近距離から状況を確認しようとした。実はアメリカ兵の間では嘉数高地の信じ難いほどの頑強な抵抗を見て「日本軍はここに全戦力を投入していた。それを撃破した以上、戦闘は終わったも同然」と言う楽観論が流れていて多くは個人的願望と重ねてそれを信じていた。その時、前を進んでいる戦車の下で爆発が起こり、キャタビラが外れ、車体が大きく傾いた。
「地雷を踏んじまったぜ」「釘を踏むとパンクするから足元には要注意ですよ」2両の車長は一緒に砲塔のハッチを開けて顔を出すと軽口でぼやき、からかった。車軸が無事であれば車体に付けている予備のキャタビラに交換するだけなので作業は簡単だ。
すると道端の川の草むらから2人の日本兵が飛び出した。2人は身軽に車体に飛び乗ると砲塔の陰で手榴弾の信管基部を抜き、ハッチの中に投げ込んだ。そして全身で車長ごとハッチを押し込むとそのまま上にかぶさった。ほぼ同時進行の殺処分だ。
「ズーン」戦車の中で重い爆発音が響き、続いて車内の砲弾とガソリンが誘爆して車体が大きく揺れた。すでに砲弾とガソリンを使っているので砲塔が吹き飛ぶほどの爆発ではない。
ここまできてようやく日本兵による殺処分を認識したアメリカ軍が銃撃してきた。しかし、2人は車体から飛び降り、死角を使って逃走している。まさに「忍者」の技だった。
そこに戦車砲と迫撃砲で破壊したはずのシュガーロ―フとハーフムーンから激しい射撃が始まった。山の各所に銃口からの射出炎が見える。日本軍はこの小山を砲撃に耐え得る堅牢な要塞にしており、目障りな戦車を破壊するのを待って反撃を開始したのだ。
砲爆撃の弾痕の他に身を隠す掩体がないアメリカ兵たちは次々に倒されていく。さらにシュガーロ―フから日本軍の擲弾発射筒による砲撃が始まり、日没までにこの中隊は壊滅した。
- 2019/09/15(日) 11:37:13|
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嘉数高地での苦戦によって進撃速度の遅れを非難されていたアメリカ軍上陸部隊は沖縄本島北部の山中にこもった日本軍の掃討作戦に当たっていた海兵隊を転用して陸軍と海兵隊の4個師団を横に並べて南進してきた。このうち海兵隊については那覇市内の海岸への強襲上陸も作戦の選択肢に入っていた。一方、日本軍もこの動きを予測して知念半島での海岸線防備に当たっていた第44旅団を那覇市内に配置していた。
首里攻防戦に備えて松泉たちが配置されたのは独立混成第44旅団が守備する安里54高地だった。安里54高地は現在の国際通り北端脇にある貯水タンクが設置されている高台のことで、地元では慶良間諸島が眺望できるためキラマ・チージ(慶良間辻)と呼んでいた。日本軍としてはアメリカ軍が強固な陣地を配置している浦添から首里にかけての丘陵地帯を迂回して東西の海岸線から攻撃してくる可能性が高いと考えており、安里54高地を首里への侵攻を阻む防御拠点と考えていた。そこを任された独立混成第44旅団は九州南部の部隊によって編成されたのだが、旅団主力の歩兵4100名を乗せた輸送船がアメリカ海軍の潜水艦に撃沈されたため、千葉県の歩兵連隊を空輸して補充したまさしく混成旅団だった。
敵が迫る中、松泉は工業学校の生徒=工業鉄血勤皇隊の隊員が有線電話を展開する作業を手伝って丘の上の歩哨壕に行った。司令部の通信隊でもモールスを打てる水産学校の生徒は電信=無線、電機を学んでいる工業学校の生徒は電話=有線に配置されており、一般の中学生でも文章能力に優れている者は電文の記述要員や伝令として採用されているらしい。
松泉と工業学校の生徒は電話線のドラムを丸太の屋根で覆っている歩哨詰所の壕の中に置き、端末に革製のカバンに入った電話機を接続した。ここで工業学校の生徒はレバーを回して交換との導通検査を実施する。その間にも東シナ海の方向からは砲撃戦の轟音が聞こえている。
「アメ公はこの安里54高地をシュガーロ―フて呼んどるらしか」松泉が蒸し暑い壕の中で鉄帽を脱ぎ、手拭で額の汗を拭うと少し老けた軍曹に聞き慣れない方言で話しかけられた。首里から浦添で一緒に陣地構築に励んでいた兵隊たちは満州北部のハルビンで黒竜江の国境警備隊から編成された第24師団だったため会話は標準語だった。「さァ」「ねェ」と語尾を軽く流すシマンチュウには殊更に強く言う九州人の言葉は叱られているような気分になる。
「シュガーって英語で砂糖のことじゃあないですか。甘い名前をつけたんですね」すると導通検査を終えた工業学校の生徒が話を引き継いだ。工業学校には九州最大の中心都市・熊本から赴任している教師が多く、この方言にも慣れているようだ。
「何でもアメリカの菓子パンの名前らしか。この丘みたいな丸い形なのかも知れんたい」軍曹は自分で納得しているが、松泉にとってこの丘は琉球王家の菩提寺である崇元寺の山門前の美しい街並みに囲まれていた情景が記憶されているのだ。しかし、昨年10月10日の那覇市の大空襲と春以降の艦砲射撃で赤い瓦屋根と石垣で囲まれた家屋は破壊され、立木もなぎ倒されて丸裸になっている。松泉と工業学校の生徒は軍曹に一礼するとドラムを運んできた背負子を抱え、丘を下って安里川沿いを連隊指揮所に向かった。
「本当は電話線を埋めておかないと砲弾で切断されてしまうんだ。だけど俺たちも浦添から首里までの陣地を電話線でつなぐだけで精一杯だったからどうしようもなかったのさァ」工業学校の生徒の嘆きに松泉は道端の溝に沿って這わしている電話線を見た。今も銃声と砲撃の音が切れ間なく聞こえている。方向から言って泊か曙の海岸線のようだ。
「西からはアメリカの海軍陸戦隊が攻めてくるだろう。海岸に上陸してきたのかなァ」「うん、浦添の高台には陣地を並べたからそれを避けたのかも知れないな」鉄血勤皇隊として出征して以来、松泉たちは首里から浦添一帯を要塞化する土木作業に明け暮れていた。嘉数高地の陣地構築は戦力と時間に余裕がなく、自然の岩場の割れ目などを利用した応急的な物になったが、それでも多大な戦果を上げたと聞いている。首里地区では鍾乳洞や窪地を地下壕に改造しただけでなく沖縄の亀甲墓の背部に抜け穴を掘ってトーチカにもした、。勿論、日本兵たちは中に収められている巨大なジーシガーミ(厨子甕=骨壷)を片づける時には一礼していた。
アメリカ軍が上陸してから異様に殺気立っている現場指揮所の将校士官たちは硫黄島の守備隊がアメリカ海兵隊を相手に繰り広げた洞窟を使った陣地戦の死闘を語り、硫黄島以上の戦果を上げると息巻いていた。これからその成果が発揮されるのだ。
実際のアメリカ海兵隊の首里侵攻は戦車を先頭に立てて陸路で海岸線を進み、5月上旬には浦添と那覇の市境である安謝川で日本軍と対峙した。安謝川を強行渡河しようとするアメリカ軍と阻止する日本軍の激戦は数日に及び、艦砲射撃と空襲によって日本軍の対地火力網を破壊して5月11日にようやく対岸に辿りついた。
- 2019/09/14(土) 13:42:20|
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1321年の明日9月14日はキリスト教における死後の世界を描いた「神曲」の著者であるドゥランテ(ダンテはこの洗礼名を短縮した通称)・アリギェーリさんの命日です。
この「神曲」のイタリア語の原題「La Divina Commedia」を直訳すると「神聖な喜劇」であり、ダンテさん自身は原稿に「Commedia=喜劇」と記していました。日本語題の「神曲」は森鴎外さんが翻訳したアンデルセンさんの「即興詩人」の第1章「神曲、吾友なる貴公子」の中でこの作品が語られていることに由来し、興味を持った文学者たちが邦訳する時にもこの題名を用いたため定着したようです。
この作品が「喜劇」と呼ばれる理由としては地獄、煉獄、天国と言うハッピー・エンドな順番で構成しているためだと言われますが、小学校の図書室で見つけて読んで以来、地獄を描いた佛教の経典(例えば地蔵菩薩本願経の閻浮衆生業感品や地獄名号品など)と詠み比べてしまう野僧としては全く理解できません。
ダンテさんは1265年にイタリア半島中部トスカーナ地方のフィレンチェで没落して金融業を営んでいた小貴族の子供として生まれたようですが、教会に残っていた洗礼や埋葬の記録以外の伝記自体が「新生」や「神曲」などの作品に登場するダンテさん自身を投影した思われる人物が語る経験を元にしているため正確な生年月日は判っていません。
したがって少年時代も不明ですが、前述のような作品からの推理や高度な教養や幅広い知識、さらに卓越した文章能力などから修道院で見習い修道士をしながら聖書と神学や哲学を学んだと言う説と没落した貴族の子供として庶民階層に紛れる中で市井の幅広い知識人と交流したと言う説がありますが結論は出ておらず、判っているのは没落したとは言え貴族であり、バチカンと神聖ローマ帝国の政争に関与したことでフィレンチェの地方政権から追放処分を受け、放浪生活の中で死亡したことです。
その中でハッキリしているのは9歳だった1274年5月1日の春祭りで同じ年の少女・ベアトリーチェト出会って恋をして、18歳で再会を果たすと熱愛が燃え上がりますが、それを隠すために別の2人の女性に恋文に近い詩文を送ったことで著しく心証を害してしまい、親が勧める相手と結婚したことです。この少女=女性は「新生」では主人公、「神曲」では全編で重要な役割を演じる天国に住む理想の女性として実名で描かれています。
「神曲」で描かれている死後の世界では亡者はアケローン川(三途の川?)を渡ることになり、そこで冥府の審判官・ミノース(閻魔大王?)が往く先を決めます。そして地獄の入口には「この門を潜る者は一切の希望を捨てよ」と記した銘板を打ちつけた門があり、手前には善も悪も為さずに漫然と生きた亡者が留め置かれて蜂や虻に刺される苦痛を味わっています。そこから第1の洗礼を受けなかった亡者が放置される「辺獄(リンボ)」から第2の「愛欲者の獄」、第3の「貪食者の獄」、第4の「貪欲者の獄」、第5の「憤怒者の獄」。ここから1段下になり第6の異端の教派の聖職者と信者が火焔の墓穴に埋葬されている「異端者の獄」、第7の「暴力者の獄」、第8の「悪意者の獄」、第9の「裏切り者の獄(コキュートス)」までありますが、どれも佛教の地獄に比べれば耐えられそうです。
- 2019/09/13(金) 13:36:58|
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嘉数高地から撤退してきた部隊を吸収して第32軍は迅速に首里一帯を防御拠点とする体制を整えた。沖縄本島南部の中心に位置する首里丘陵から東西の海岸線まで大小の陣地を配置し、その規模は嘉数高地をはるかに上回っている。撤退してきた第62師団の兵員を加えても足りないほど陣地には事欠かない。その一方で嘉数高地で活躍していた鉄血勤皇隊の損害は「郷土防衛」と言う大義名分では総括できない惨状だった。
「撤退時にかなり殺(や)られているな」アメリカ軍の攻撃が始まる前に生徒を差し出している学校の配属将校や校長たちが第32軍司令部壕に集められ一連の活動の説明が行われた。その席で配属将校の1人が陣地を出発する前後で人数が激減していることを指摘した。
「アメリカ軍の攻撃は機関銃の集中射撃と言うよりも乱射と言うべき猛攻でした。兵隊たちは銃撃を受ければ即座に伏せて低地に身を潜めることに習熟していますが、生徒たちは茫然としてしまってそのまま命中弾を受けて死亡することが多かったようです」本人も負傷して手当の包帯が痛々しい守備隊の士官が状況を説明すると配属将校は苦渋に満ちた顔で黙り込んだ。この説明では学校での軍事教練で生徒は必要な戦闘技術が身についていなかったことになる。
「もう1つ、補足するのなら鉄帽をかぶっていないので多くは頭部銃創(じゅうそう)が致命傷になりました」校長たちは頭に銃弾を受けた生徒の死に顔を思い浮かべて沈痛な面持ちになり、司令部壕の小会議室の空気が重苦しくなった。
「それでは生徒たちにも鉄帽を配給しましょう」「数が足りるのか」「最近は兵隊の数が減っていますから大丈夫です」同席している第32軍司令部の参謀の説明の意味を察して配属将校の顔はさらに暗くなった。早い話が戦死者の無傷な遺品を都合すると言うことだ。それでも軍人同士の質疑応答はあくまでも現実への対処療法に過ぎない。
「いつまで生徒を戦闘に参加させるのか」「ここまで被害が大きくなった以上、親元に帰して欲しい」校長たちの胸には「生徒たちを親から預かっている」と言う立場からこの質問と要望が湧き起こっていた。しかし、嘉数陣地での活躍が日本軍の激闘を支えたと言う説明を受け、学校単位で犠牲者が出ているため「自分の生徒だけは」と言う利己的な意味にもなる要望を口にできるはずがなかった。軍人たちは今度も鉄血勤皇隊の活躍を期待しているはずだ。
「父兄への連絡は学校の責任で実施するように。軍としては名誉の戦死として中央に報告するからそのように説明してよろしい」会の最後に参謀が事後処置を指示した。日本軍では軍人や軍属が戦闘によって死亡した場合に戦死と認定される。鉄血勤皇隊の生徒たちは公式な招集令状を受け取っておらず身分上の扱いとしては志願による臨時軍属だから問題はないはずだ。ところが武力紛争関係法では18歳未満の少年の戦闘への参加が禁止されている。とは言え日本では戦後の新組織である自衛隊でも「自衛隊生徒」制度で再犯を繰り返しているから確信犯であって自覚はない。その違法な少年兵制度は陸上自衛隊だけ維持している。
16日間に及ぶ激闘の末、嘉数高地を制圧したアメリカ軍の上陸部隊は情勢分析を見誤っていた。日本軍は嘉数高地での戦闘で兵員を大幅に喪失した上、2度の嘉手納飛行場奪還作戦の失敗で武器と弾薬を大量に浪費したため、首里での抵抗は掻き集めた残存兵力による消耗戦でしかないと言う砂糖を入れ過ぎたコーヒーのように甘いものだ。実際に合理主義者の八原高級参謀が持久戦略を前提に立案した作戦計画では嘉数高地を突破された後の首里防衛も網羅されており、松泉たちが首里の丘陵一帯の各所に構築してきた陣地もこの時のためだった。
「嘉数では中学校の生徒たちは機関銃の弾倉に弾薬を装填しながら、それを銃座に運んで大いに活躍したらしいぞ」松泉たちは仕上げを急ぐ土木作業の合間に軍曹から軍司令部から漏れて来る鉄血勤皇隊の嘉数高地での英雄的活躍を聞かされた。その英雄たちの大半が還っていないことの説明はない。それでも松泉たちは空襲や艦砲射撃で犠牲になった兵士や生徒の遺骸を毎日のように間の当たりにして、穴を掘って埋葬する作業が増えていることで状況は察している。地面に座っている生徒たちは唇を噛んで視線を足元に落とした。
「軍司令部からはひたすら穴にこもって1人でも多くの敵兵を殺せと言う指示が出ている。兵隊は今日中に陣地構築を完了しろ。生徒は弾薬と食料、水を各陣地に運ぶ作業だ。いいな」「はい」生徒たちの士気を鼓舞するために聞かせた仲間の活躍の話題が逆効果だったことを見て、軍曹は作業の指示に切り替えた。
軍曹は大隊本部から「アメリカ軍は現在、占領した嘉数高地の陣地を徹底的に破壊しているが、それが終わり次第、編成を取り直して進撃を始める」と言う予測も聞いている。輸送を馬や人力に頼っている日本軍とは違い、重量物をトラックで運ぶアメリカ軍の進軍速度から言えば明日には姿を見せても不思議はない。
- 2019/09/13(金) 13:35:45|
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嘉数高地は沖縄本島を東シナ海から太平洋に横切るように隆起しているため中国の万里の長城、やイギリスのハドリアヌスの長城、さらにフランスのマジノ・ライン以上の難攻不落の要塞になっていたのだが、2週間を超えるアメリカ軍の猛攻によって寸断されてきている。間に楔を打ち込まれるように孤立した陣地は各個撃破され、後は潔く全滅するのが日本軍伝統の美学だ。ところが第32軍はそれに反する命令を下した。
「撤退して首里地区に合流し、指示する地点の防備に当たれ」第32軍としては本土決戦の準備を進める時間を稼ぐためには1日でも長くアメリカ軍を沖縄に引き留め、1滴でも多くの出血を強要しなければならない。したがって次に奪還する見込みもない陣地を死守して壕の中でアメリカ軍の火炎放射機で焼き殺され、破壊された瓦礫で生き埋めになるよりは包囲を突破して次の戦闘に加わえることの方が戦略的にも優先される。何よりも敵の陣地の奪取を目的としない万歳突撃は人命ではなく戦力の浪費に他ならない。
「帝国軍人が守備位置を放棄して敵に尻を向けて逃亡するのか」司令部内でも相手をする者が少なくなった長参謀長は若い参謀が持ってきた第62師団への撤退命令の合議に花押を書くとドアが閉まる前に独り言を浴びせた。この若い参謀は陸軍士官学校の校長だった牛島軍司令官の武人としての風格に心酔しており、豪放磊落を気取る長参謀長や冷徹な合理主義者の八原高級参謀の両方に同調していない。そのため長参謀長の罵声を黙殺すると地下壕の長い通路の石の床を踵で鳴らしながら司令官室に向かった。
「月明りは視界の助けにはなるが、人影が浮き上がるから要注意だ。発砲は銃撃を受けてからの応射に限定する。兎に角、物音と立てないように気をつけろ」深夜、アメリカ軍に包囲されている嘉数高地の守備隊が陣地を抜けだした。当然、この指揮官の訓示も小声だった。
嘉数高地は北側の宜野湾方向は断崖絶壁でも南=首里側の浦添方向は丘陵地帯になっており、村落も点在する。ただし、アメリカ軍が上陸すると想定していた嘉手納付近から那覇市、小禄地区にかけての住民は沖縄本島北部と南部の知念付近に避難させているため村落はほぼ無人であり、むしろ大半は廃墟になっているはずだ。
「敵の歩哨です」守備隊の先頭を歩いている2名の下士官が立ち止り、白い軍手をはめた手で後方に合図をした。すると指揮官に随行している副官の少尉が姿勢を低くして歩いてきた。
「なるほど・・・アメリカ兵は随分、無防備に立哨するんだな」草むらの中にしゃがんでいる下士官が指差した人影を確認して少尉は小声で呟いた。この歩哨も負い紐(おいひも=スリング)でM1ガーランド小銃を肩に提げて単独で立っている。恐怖心を感じているのか落ち着かない様子で周囲を見回し、しきりに足を動かして人影を目立たせている。これが日本兵であれば歩兵銃は腕に抱える「腕に銃(うでにつつ)」であり、夜間であれば着剣している。
「どうします」「刺殺だな」この少尉は士官学校や出征学徒ではなく曹長から少尉候補者で任官しているため実戦経験が豊富だった。少尉の指示を受けた下士官2人は目で打ち合わせると左右に分かれて草むらを前進していった。
「日本兵は死ぬまで戦うんだろう。だったら逃げてこないか見張ってるなんて無駄じゃあないか」歩哨が英語で不平を口にした時、前方の草むらの中で石と金属が当たる小さいが高い音が鳴った。歩哨は驚いたように負い紐に手を掛けたが、その瞬間、背後から着剣した99式歩兵銃で突かれて即死した。背後からの刺突では左肩甲骨の下を狙えば心臓を貫くことができる。ただし、心臓は刺突されると心筋が一時的に収縮するため銃剣が抜けなくなることがある。だから銃剣術では刺突後は足で踏み切って引き抜く動作を教習するのだ。
2人の下士官は倒れて痙攣しているアメリカ兵の顔を月明りで確認して戻ってきた。若いラテン系の兵隊で伸び掛けの髪と見開いた目が黒く日本兵のようだった。
「終わりました」「ご苦労」先任である下士官の報告を受けて少尉は手で「前進」を指示し、指揮官のところへ戻って行った。
「敵に発見されました」別の陣地から撤退した守備隊は突然、強烈なサーチ・ライトの照射を受け、言わないでも判っている報告が終わる前に機関銃の射撃を受けた。夜間の戦闘では数発に1発の曳光弾を加えており、その光が描く線で射撃する方向を修正する。
射撃してくる機関銃の数は増え、暗闇の草むらを赤い光の線が薙ぎ払っていく。日本兵は身を潜める窪地を求めて手探りで這い回っている。
「擲弾筒を発射せよ」「はい、擲弾筒を発射・・・」指揮官の指示を姿勢を起こして伝えようとした下士官が銃弾を受けた。身体は蜂の巣になって引き千切れた内臓が飛散している。攻撃するアメリカ軍には同行している鉄血勤皇隊の生徒を識別する手段も意識もなかった。
- 2019/09/12(木) 13:05:52|
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敗戦から10日が過ぎた昭和20(1945)年の明日9月12日に戦時下の帝国陸軍で要職を歴任しながらも上中下の周囲からは「便所の戸(押した方に開く=定見がない)」と陰口を叩かれていた杉山元(はじめ・げん)元帥が拳銃で自決しました。65歳でした。
杉山元帥は明治13(1880)年の正月に現在の北九州市小倉区の生まれ、陸軍幼年学校からの純粋培養が主流の帝国陸軍の将帥には珍しく旧制豊津中学校を卒業して陸軍士官学校に入営しました。士官学校を卒業して数年で日露戦争が発生したため、小倉の第12師団歩兵第14連隊第2大隊付の士官として出征し、ロシア満州軍の指揮権を分割されそうになったクロパトキン大将が面子から強行した攻撃で始まった沙河会戦の中の本渓湖の戦闘で顔面を負傷し、右半分が麻痺して目が完全には開かなくなりました。
日露戦争の終戦後、陸軍大学校に入校し、卒業後は情報を担当する陸軍参謀本部2部に配属されて明治45(1912)年から海軍軍令部の情報要員と一緒に商社マンに身分偽装してマニラに赴任しました。しかし、顔面に大きな傷が残り、半分麻痺した特異な風貌では接触した相手に記憶され易く、「諜報要員としては不利ではないか」と思ってしまいますが、記録には残っていないものの活躍はしたようです。それが評価されたのか大正4(1915)年からはインド駐在武官に任じられ、イギリスの植民地支配の実情を探り、独立運動の活動家に人脈を構築すると共に国際連盟の空戦法の制定会議(結局、現在まで未成立のまま)に空軍代表として参加するなど国際舞台へのデビューも果たしました。
杉山元帥は帰国後、陸軍飛行第2大隊長や陸軍省軍務局の初代航空課長を務め、後年、陸軍航空本部長にも就任したため「陸軍航空隊育ての親」との賛辞を受けています。
大正13(1924)年からは宇垣一成陸軍大臣の片腕として軍縮に大鉈を振るいましたが、統制派と皇道派の対立激化の中、皇道派の首魁・荒木貞夫大将と真崎甚三郎大将が実権を握ると次官の職を追われて古巣の第12師団長に左遷されました(中央から見れば)。
その後は皇道派の凋落によって中央に返り咲き、戦争に向かって前のめりに突き進む帝国陸軍で陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍3長官を歴任しながらこの国を滅亡に引き込んだのです。杉山元帥は第2次世界大戦への参戦に当たり、昭和の陛下から「作戦完了の見込み」を問われて「3か月」と答えたため、陛下が「お前は支那事変を2カ月で片づくと言ったではないか」と詰問され、それに「大陸は奥地が広うございました」と弁明すると「太平洋はなお広いではないか」と反論されて答えに窮したことがあったそうです。
その一方でヒトラー総統が全権を握るナチス・ドイツに倣って東條英機首相が陸軍3長官を兼務しようと退任を迫るのに対して「統帥権の独立」を盾に抵抗しています。
敗戦時、杉山元帥は本土決戦において関東地方を第1総軍の司令官でしたが、進駐してきた占領軍司令部から将兵の復員を礼を尽くして委託されたためこれに全力を傾注し、それが完了した翌日に司令官室で心臓を4発射って自決しました。なお、国防婦人会の役員だった妻も杉山元帥の自決の連絡をうけて青酸カリを飲み、短剣で胸を突いて後を追いました。杉山元帥としては生きて養女を育てることを希望していましたが拒否されました。
- 2019/09/11(水) 13:31:12|
- 日記(暦)
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