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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1702

翌日は思いがけず共通の趣味を持つことになった志織と上野の東京国立博物館と墨田区の刀剣博物館で日本刀を鑑賞した。どちらも国宝・重要文化財級の銘刀が並び、その圧倒的な迫力と武具としての究極の美に父と娘は目を輝かせた。
「お嬢さんは日本刀の真剣を持っているんですか」刀剣博物館では志織が展示品の案内をしていた学芸員に真剣の手入れについて質問した。学芸員は女子高生が真剣を手入れしていることに驚いたように確認してきた。日本の銃刀法では刀剣の所持に年齢制限を設けていないが常識的に未成年者には触れさせない。その前に志織がハワイのハイスクールの生徒とは思わないはずだ。
「はい、祖父が父の軍刀を預っているので、居合道をやっている私が手入れしているんです」この説明で学芸員は納得したようだが今度は私に質問してきた。
「お坊さんが軍刀を持っておられるのはやはり戦死者の遺品ですか」作務衣を着て、首には威儀細を掛けた坊主が軍刀を持っているとすれば戦死者の遺品が寺に奉納されたと考えるのが普通だ。戦時中に軍人だった祖父の軍刀を父が受け継いでいると考えることもできるが、それでは志織の説明は順番が逆転している。
「いいえ、父はジャパン・グランド・ジエータイのルテナン・カーネルだから自分の愛刀です」すると代わりに志織が説明したが、アメリカでの軍隊関係者の陸上自衛隊の呼称と英語の階級が目の前の坊主に重ならないはずだ。私は刀匠になった高校の先輩から自作の日本刀を贈られた時、手入れの方法を刀研ぎ師の曹長から習って義父に伝えた。先輩は「自分で調べろ」と冷たかったが、材料費の自腹が痛かったのかも知れない。勿論、謝礼金に10万円を送ったが、当時は美恵子が目を光らせていたのでそれ以上は無理だった。
「それでは刀身に丁字油を塗布しているんですね。打ち粉は1ヶ月に1回でもう一度、丁字油を塗り直している。それで大丈夫ですが、打ち粉の間隔はカレンダーではなく丁字油が乾燥してきたらやるようにして下さい。ハワイと日本では自然環境が違うでしょうから」志織と私の自己紹介を聞いて学芸員は感心した後、具体的に助言を与えてくれた。刀剣の手入れと言えば時代劇などでは白い粉を刀身に打ちかけて懐紙で拭き取る場面が浮かぶが、あれは防錆に塗布してある丁字油は植物性のため経年劣化で酸化すため拭き落とす作業だ。ちなみにあの白い粉は砥石を細かく砕いた粉末だ。私も佳織と鎌倉の骨董店で買った軍刀の手入れをしているが、金属を斬って生じたような刃毀れがあり使用済みであることを実感している。
「ダディが初めてマミィとセックスした時、バージンだったの」都内で夕食をすませて帰宅し、交代でシャワーを浴びた後、志織を相手にパジャマ・ミーティングを始めると真珠湾以上の奇襲攻撃を開始した。私は缶ビールを口にしていたが飲む寸前だったので吹くことはなかった。アメリカの女子高生らしい単刀直入な質問に戸惑いながら顔を見ると目は真剣だ。
「突然、どうしたんだ」「マミィは私に心から愛する人に出会うまでバージンを守りなさいって厳しく命令するの。でもハイスクールの友だちは『好きな人が喜ぶんだったら一緒に楽しめば好い』ってロスト・バージン(処女喪失)しているわ。だから・・・」ここで私は名古屋のオリエンタルから通販で買っておいたハワイの飲み物・グアバを勧め、志織は一口飲んで「美味しい」と微笑んだ。佳織は帰国子女として編入した公立中学校で個人指導を受けていた担任の教師に純潔を奪われた。伊丹のママさんの話ではそのことが心の傷になり、神戸の国際学校に転校してからは男子生徒と距離を置き、留学したアメリカの大学でも個人的に交際することはなかったようだ。私は佳織が私に純潔を捧げた梢に羨望、そして劣等感を抱いているように感じている。この事実を志織にどのように伝えるべきか悩みながらビールを飲み、注視以上の凝視をしている志織を見返した。
「マミィはお前が逃れることができたのとは逆の残念な結果を経験しているんだ。だからワシに抱かれて結婚した後もワシだけの自分になれなかったことを悔やみ続けてきた。それはマミィの責任ではないのに自分を責めているんだ。だから志織には愛する男性だけの自分になれる至高の喜びを経験させたいんじゃあないかな」回りくどい言い方だがこれが限界だろう。佳織が担任の教師に抱かれることになった状況は暴力を用いないレイプだったのは間違いない。
「ダディはマミィを責めたの・・・そんはずないよね」志織は厳しい目で思案をを始めた。頭の中では英語と日本語が激しく錯綜しているはずだ。
「やっぱりマミィはダディが好きなんだね」志織の適切な理解に私は安堵し、1本目の缶ビールを飲み干した。今日の缶ビールは梢が送ってくれたオリオン・ビールだ。グアバとオリオンで南の島セットと洒落込んだつもりだが流石に志織は気づいてくれない。急に先週、転属したばかりの佳織に会いたくなってきた。
15・JunJiHyunイメージ画像
  1. 2019/10/13(日) 13:14:19|
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10月12日・日本軍の「真の宿敵」・スティルウェル大将の命日

1946年の10月12日は第2次世界大戦前からアメリカの諜報部員として国民党軍に参加して極東方面全域での対日戦を指導した帝国陸・海軍にとっては「真の宿敵」と言うべきジョーセフ・ウォーレン・スティルウェル大将の命日です。
スティルウェル大将は1883年にフロリダ州で生まれ、1904年に陸軍士官学校を卒業するとアメリカの植民地だったフィリピンに配属され、続いてグアテマラ、メキシコ、再びフィリピン、日本、上海、3度目のフィリピンとアジアと中米を巡る特異な軍暦を重ねていきました。1913年からは陸軍士官学校の国語と歴史学の教官になり、翌年にはスペイン語(フィリピンはスペイン語圏)と近代語学も担当するようになりますが第1次世界大戦勃発時には中立国だったスペインに派遣され、続いて1917年8月にバージニア州の第80旅団に転属し、12月にヨーロッパ派遣アメリカ軍の参謀としてフランスに赴任して諜報活動に従事しました。
第1次世界大戦が終結すると1919年に帰国してアメリカ戦争省(平時の陸海軍省)軍事諜報部の中国語要員に指定され、カリフォルニア大学で(西海岸にはアジア系移民が多い)1年間の語学講習を受けた後、1920年から中国の山西省に道路建設工事の技師長として赴任しました。翌年には陜西省の建設現場に移り、さらに翌年からは満州の奉天、ハルビンとウラジオストックで日本軍のシベリア出兵の諜報活動を展開しました。こうして一度帰国して歩兵の専門教育を受けた後、1926年からは在中国アメリカ陸軍の歩兵部隊の指揮官に就任して日本と満州軍閥の抗争を現地と朝鮮・日本から注視していたのです。1935年には在中国アメリカ大使館の駐在武官と蒋介石総統の国民党軍の参謀長を兼務して2年後に開戦する日支事変に備えましたが、国民党軍の上層部は権力闘争に明け暮れるばかりで将兵の士気は上がらず、大規模な攻勢を仕掛けては失敗の繰り返しでした。
1941年12月に日本が第2次世界大戦に参戦すると翌年2月からはアメリカ陸軍中国・ミャンマー・インド戦域司令官に就任し、イギリス軍と共同で援蒋ルートの確保に努力しますが国民党軍の体たらくは末期症状を呈し始めており、スティルウェル大将は自らアメリカ軍式に訓練する数個師団を要求して実現すると精鋭部隊に育成しています。実際、この部隊の出現は大陸では連戦連勝だった帝国陸軍に衝撃を与えたようです。
その一方で「帝国陸軍が本格的な攻勢に転ずれば人望がない蒋介石総統の国民党軍は崩壊する」とフランクリン・ルーズベルト大統領に報告して帝国陸軍を南方戦線や太平洋諸島に引き出して消耗させる遠大な戦略を提唱しました。
1945年の沖縄戦で6月18日にサイモン・B・バックナー中将が戦死すると上陸軍=第10軍司令官に指名されますが、それは帝国陸軍第32軍の牛島満司令官と長勇参謀長が自刃して組織戦闘が終わった6月23日のことでした。
終戦後は西部防衛軍司令官(アメリカから見れば日本は西)を経てカリフォルニア州で第6軍司令官に就任しますが在任7ヶ月で胃癌により他界しました。63歳でした。
  1. 2019/10/12(土) 14:06:19|
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振り向けばイエスタディ1701

志織は私の夏期休暇に合わせて8月上旬に来日した。成田国際空港に到着して私の官舎に2泊、羽田空港から高松空港へ飛んで佳織のマンションに3泊、そこから関西国際空港へ移動して石垣空港へ飛び、淳之介のアパートに2泊、帰りは関西国際空港で乗り換えてハワイへ直行する強行日程だ。私としてはハイスクールでのレイプ未遂事件が心に傷を負わせていないかを心配しながら成田空港で出迎えた。
ハワイからの便が到着して日本人の観光客の集団が姿を見せた。私は独身時代、夏期休暇で愛知に強制規制させられると沖縄以上の蒸し暑さに参った経験があるので、「この人たちはハワイへ避暑に行っているのか」と思いながら眺めていた。
「ダディ、ただいま」するとロビーのざわめきの中に志織の声が響いた。声がした方向を探すと平均年齢が高い団体客の中で志織がいつも通りに色気抜きの笑顔で手を振っている。服装もTシャツとGパンにスニーカーと完全な普段着で旅慣れているとは言え周囲からは浮いている。
「おかえり。元気そうだな」私が自衛隊式の大声で返事をすると志織は両手にカバンを提げたまま駆け寄り、足元に落とすと胸に飛び込んできた。佳織との習慣で危なく口づけしそうになったが愛娘のファースト・キスを奪う訳にはいかない。取り敢えず抱き締めて娘の身長と髪の匂い、何よりも相変らず弾力不足の身体の感触を確かめた。
それにしても今日は電車で来たので私の服装は作務衣に雪駄履きだ。頭も剃っているから坊主以外の何者でもない。それが若い娘と抱擁し合っているのは極めて拙い。志織が金髪のアメリカ娘なら西洋風の挨拶に見えるかも知れないが、正真正銘の日本人だから成田空港と言う究極の国際社会で生臭坊主・色坊主・エロ坊主・スケベ坊主を演じてしまったことになる。
「また、頼まれた買い出しがあるんだろう」鉄道が大好きな私は成田空港からは京成電鉄のスカイライナーだ。本当は今回、志織が石垣島へ向かう便に乗る予定の関西国際空港への連絡線・南海鉄道のラピートにも乗ってみたいのだが香川県へついて行くことができないので諦めるしかない。それでも何時かはあの鉄人28号のような車両に会ってみたいものだ。
「うん、居合道と茶道の先生からメモを渡されてるよ」「茶道に消耗品があるのは判るが、居合道は何だ。まさか真剣を買ってこいなんて言われてないだろうな」茶道では手前で口にする抹茶や和菓子は言うまでもなく所作で使う懐紙や手前で点てる間に摩耗する茶筅も消耗品だ。さらに新たな弟子に与える袱紗(ふくさ)や足袋なども輸入品よりも日本で買った方が安価で品質も間違いない。日本のように茶道具や和装を買える店が少ないハワイでは先生が代理店のような役割を果たしているので志織は来日するたびに買い付けを依頼されている。一方、居合道の方は門外漢と言うこともあり想像ができない。まさか「試し斬りの青竹を買ってこい」とは言わないだろう。私が黙って考え込んでいると隣りの席から志織が説明を始めた。
「本当は真剣を振ることが許されるのは5段くらいからなんだ。だけどウチにはダディの軍刀があるから先生が特別に許してくれたのよ」それがあの事件で志織の純潔を護ったのだから刀匠になった高校の先輩に贈られた軍刀も我が家の守り刀としての役目を果たしたことになる。
「今はグランド・ダディが護身用に脇差しを買ってきて先生に練習を頼んだから、私は2段の癖に小太刀の技まで身につけてしまったわ」実は私も短剣道は5段なのだが、これは武術としての小太刀よりも海軍士官の短剣での技法なので居合道の方が本式なような気がする。それにしても女子高生の孫娘に護身用に真剣を与えるとは義父・ノザキ中佐もかなり過激な人だ。
「それで居合道の先生から頼まれたのが柄巻と下緒(さげお)、それから帯なの。茶道道具の専門店には連れて行ってもらったけど、居合道の店は知ってるの」唐突に説明されたがやはり私には理解できない。確かに私の武道の段位は合計17段だが、銃剣道と短剣道の5段で10段になり、残りは日本拳法が3段、柔道が2段、少林寺拳法と剣道、相撲が初段なので高段者とは言い難い。おまけに最近は武道と疎遠になっているから東京の武道用具専門店には行ったこともない。
「柄巻は柄に巻いてある滑り止めの紐のことよ。本当は中に和紙を巻くんだけど、これは障子紙で良いみたい。下緒は鞘に付けてある紐で居合道の所作では使うから結構傷んでしまうの。帯は腰に巻いて刀を差すの。道衣の袴の紐に差したら下がってしまうじゃない」志織の説明で新たな知識が身についた。沖縄時代、刀の研ぎ師だった工作小隊の曹長に刀剣に関する知識を誉められたが、ここまで踏み込んではいなかった。
結局、日暮里の駅の公衆電話のタウン・ページで武道用具専門店を探し、茶道具店に近い店で購入した。ついでに居合道の道場を教えてもらって見学したが、志織は特に感激はしなかった。やはり海外で武術を広めようと言う指導者は生半可な技量と覚悟ではないようだ。考えてみれば那覇基地の少林寺拳法部も沖縄空手の本場での普及=侵略の任務を負っていたようだ。
  1. 2019/10/12(土) 14:05:17|
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10月12日・看護師・イーディス・キャヴェルが銃殺された。

第1次世界大戦下だった1915年の明日10月12日にベルギーのブリュッセルで生前から近代看護の先駆者と評されていたイギリス人看護師のイーディス・ルイーザ・キャヴェルさんがドイツ軍によって銃殺されました。
日本の看護師たちは一神教の信者のようにイギリス人でクリミア戦争に従軍したフローレンス・ナイチンゲールさんだけを神格化していますが、アメリカ人の看護師たちは南北戦争で活躍し、アメリカ赤十字社の創始者でもあるクララ・バートンさんを崇敬しており、ヨーロッパ人の看護師の中にはキャヴェルさんの偉大な業績と職務に殉じた悲劇的な最期を覚悟と規範にしている人も少なくないようです。
キャヴェルさんはナイチンゲールさんよりも45年、バートンさんよりも44年遅い1865年にイギリス・ブリテン島南東部のノーリッチで上流階層家庭の4人兄妹の長女として生まれました。女学校と高等教育の学校を終えるとベルギーで家庭教師として勤め始めましたが父親が病気になったため帰国して介護することになり、病気が快復すると30歳で王立ロンドン病院の看護師の下で本格的に医学と看護を学びました。その後はイギリス各地の病院で働いて知識と技能に磨きをかけ、さらに病院に受診できない貧しい庶民階層のために現在で言う訪問看護を始め、看護の近代化と発展に大きく貢献し、その名声は尊敬と共にイギリス内外に広まっていったのです。
そうして42歳だった1907年にはブリュッセルに設立されたベルギー看護学校の教師として招聘され、6年間で400名(最初は4名だった)の看護師を育成しました。キャルさんは1914年に第1次世界大戦が勃発してからもベルギーに留まり、人道的な見地から傷病者をイギリスに送り続け、その中に200人以上の連合軍の将兵が含まれていたため占領していたドイツ軍から反逆行為と断罪されることになりました。
すでに1863年には国際赤十字社が設立されており、1899年の陸戦規則によって戦時下における傷病兵の取り扱いについては国際規約が確定していたにも関わらず人道行為を否定するドイツ軍の態度は国際社会から激しい批判を浴びましたが、緒戦の勝利に奢り高ぶっていたドイツ軍は顧みることなく軍事法廷は死刑の判決を下したのです。
キャヴェルさんは執行前夜に「愛国心だけでは十分ではありません。私は誰に対しても一切恨みや憎しみを抱いていないのです」との言葉を遺し、一緒に活動していたベルギー人の建築家と並んで立たされ、銃殺されたとのことです(年齢はナイチンゲールさんの90歳、バートンさんの91歳の半分に近い49歳でした)。
日本の看護師たちが精神教育で学習するナイチンゲールさんの事績の中では国際赤十字社の理念である「敵味方の区別なく」との文言が強調されているようですが、クリミアで働いていたのはイギリス軍の現地病院であって敵兵は収容しておらず、それを生命を賭して実践したのはキャヴェルさんです。日本の場合、一神教的に崇拝するのは幅広い思考・評価を制約し、疑問を持つことさえ禁ずる方向に走りがちなので控え目にした方が良さそうです(各宗教・宗派の有名人の伝記では過度な虚飾が蔓延しています)。
  1. 2019/10/11(金) 13:36:51|
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振り向けばイエスタディ1700

8月に入ると缶内閣は完全に死に体の様相を呈していた。自民党政権であれば与党としての責任において大規模災害の被害復興に目途がつくまで党内抗争は先延ばしにしたはずだが、民政党政権では東北地区太平洋沖大地震から2カ月が経過した5月19日には参議院議長が保守系の新聞に退職勧告文を寄稿し、その後も民政党の若手議員が自民党に不信任案の提出を持ち掛け、賛成可決させるべく党内の同調者を集めていた。
「缶首相は意外に根性があるな。人間サンドバッグにされても平気の平左だ」「本当ですよ。党員は代表の部下みたいなものでしょう。部下にあそこまであからさまに退陣を迫られても居座り続けるなんて自分には真似ができません」職場のテレビの前に陣取り、朝のニュースを見ながら曹長と1曹は庶民的な感想を語り合っている。
「それでも自衛隊の最高指揮官ですから災害派遣の目途がつくまで混乱は避けたいですよね」2人の時事放談を聴きながら女性事務官が自分の席でテレビを見ている私にコーヒーを出してくれた。缶政権が自民党のように実務担当者=官僚に全面委任する態度であれば途中で交代しても影響は小さいが、生半可な知識で些末事にまでくちばしを突っ込んでくる上、記者会見での質問に過敏になっているためマスコミの悪意に基づく粗探しを真に受けて現場の事情を無視した叱責と命令を加えてくる。私は阪神大震災でも連立与党だった社会党の妨害にはかなり悩まされ、憤ったがここまで足を引っ張られることはなかった。
「今回は自衛隊よりも東京電力の方が被害を受けているから、あちらは早期交代を願っているんじゃあないかな」「それは津波の被害じゃあなくて対策を妨害されてる話ですね」女性事務官は私のニュース解説を聴き慣れているので言いたいことはそのまま理解する。同様の陸曹2人組も何かを期待して振り返ったので私も時事放談に参加せざるを得なくなった。
「結局、今回の政権交代はマスコミの世論誘導で実現したから民政党は言いなりになるしかないんですね」先ず1曹が私の持論を代弁した。
「おまけに民政党内では尾沢が利権を握って、千石が政策を動かしているから缶内閣は2人が操る人形劇みたいなもんですな」次は曹長が請け売った。かつての自衛隊では幹部による政治的な指導教育や与党議員の選挙への協力が「政治への不関与」に違反すると批判されていたが、2人は私の私的見解にかなり染まっているのかも知れない。ただし、私と同様の見解は保守系の言論人たちも雑誌や新聞、テレビなどで強弁しているので政治問題化は無理だろう。
「その尾沢が選挙を取り仕切りながら政治資金で若手議員を手懐けているから、缶首相などは風で飛びかけているボロ看板みたいなもんだ」やはり私の発言が一番危ない。呆れたように微笑みながら聞き役に回っている女性事務官が最も賢明なようだ。
「缶首相は何が欲しくて首相の座にしがみついているんですかね。どう考えても針の筵(むしろ)でしょう」これも私の影響なのか30歳代の1曹は「針の筵」と言う古典的な用語を使った。考えてみれば曹侯学生の後輩なので頭のレベルに大差がないのは当然だ。
「缶首相は山口県出身だろう。山口県人の政治権力への執念は他県人には遠く及ばないほど凄まじいんだよ。関ヶ原では西軍の総大将として敗北したんだから藩主と一族は腹を切って国は改易されるのが当然なのに東照神君・家康公の温情で今の山口県の領土の大名として生き残ることができた。それを逆恨みして260年後に倒幕を果たして手に入れた明治の国家も自分たちの愚かさのため78年で滅ぼした。本来ならこの国を滅ぼした元凶として明治の会津のように冷遇されても当然なのに岸信介の登場で再び政治権力を握った。後は現在まで続く国家の私物化の歴史を作っているんだよ」朝のテレビを見ながらの雑談には不似合いな熱弁を揮ってしまった。やはり私は奥羽越列藩同盟として苦痰を舐めた東北人として防府で見聞した山口県人の反省のない傲慢な言動が許せないのだ。
「確かに山口県は何人も総理大臣を出していますからね」「缶首相で10人目くらいでしょう」曹長の知識は近いが当たっていない。山口県宇部市で生まれ育った缶首相は9人目だが、就任時に「内閣府の基準では戦後は選挙区を出身地にするので該当しない」と山口県知事が否定したと言う現地情報は田沼元准尉から聞いている。
「明治から今までに山口県出身者が総理大臣だった期間は30パーセント、3分の1になるんだ。缶首相はその記録を延ばすことに使命感を抱いているんじゃあないか」最後は私の冗談で朝礼の時間になった。電話番に残る女性事務官が最後にドアを出る私に声をかけてきた。
「次の首相は野畑さんになりますかね。あの人は第1空挺団の曹長の息子さんだから自衛隊にも理解があるんじゃあないかって思うんです」「選挙区は千葉だったよね」私の返事を聞いて女性事務官は小声で「はい」と答えた。どうやら次の研究材料が提供されてしまったようだ。
  1. 2019/10/11(金) 13:35:45|
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10月10日・帝国陸軍を本土決戦に駆り立てた宮崎周一中将の命日

昭和44(1969)年の10月10日はナチス・ドイツが降伏して全世界で孤立無援になってからも本土決戦により連合軍に一撃痛打を浴びせることで有利な条件で停戦すると言う幻惑によって帝国陸軍を降伏阻止に駆り立てた宮崎周一中将の命日です。
宮崎中将は明治28(1895)年に長野県飯田市で警察官の長男として生まれましたが、旧制中学校は愛知県豊橋市の現在の時習館高校に進学しています。敗戦時に千島列島・占守島に侵攻してきたソ連軍と死闘を演じた守備隊長=第11戦車連隊長・池田末男大佐も同校の出身(5歳年下)ですが軍暦や人間性は真逆のようです。
大正5(1916)年に陸軍士官学校を卒業すると仙台に在った歩兵第17連隊に配属されて任官しましたが予科士官学校の区隊長に移動し、そこから陸軍大学校に入校して17連隊の中隊長に復しています。2年後に陸軍参謀本部の外国戦史課に転属するとそこからは戦史研究の道を歩み始め、昭和7(1932)年8月に少佐に昇任すると陸軍大学校の戦史教官、昭和10(1935)年8月に中佐に昇任して昭和12(1937)年8月から翌年1月まで欧州出張、昭和13(1938)年3月に大佐に昇任すると6月に日支事変で新編された第11軍の参謀に配属され、翌年10月にはノモンハン事件の大敗を経験したばかりの歩兵第26連隊長に就任しました。それも腰掛のようなもので昭和15(1940)年10月には陸軍大学校の教官に戻り、翌年8月には少将に昇任しています。
こうして迎えた第2次世界大戦では昭和17(1942)年10月にガダルカナル島攻防戦で苦闘を続けていた第17軍の参謀長に転属してラバウルから作戦指導を行いますが、現地に移動してからは玉砕戦を主張したものの百武軍司令官の決断によって撤退が決定し、昭和18(1943)年5月に内地に戻って陸軍参謀本部第4部長(後方担当)に就任して8月には幹事として陸軍大学校に戻りました。昭和19(1944)年8月には大陸で新編された第6方面軍の参謀長に就任し、10月に中将に昇任すると12月に陸軍参謀本部第1部長(監理・人事担当)に就任しました。第1部長としては前線視察を積極的に行い、アメリカ軍が上陸を開始していたフィリピンに赴いて海軍が実施した捷1号作戦の失敗を確認したことで「本土決戦以外に勝機がない」と確信し、その後はその具体化に邁進することになりました。宮崎中将の見積もりでは本土決戦には50個師団が必要であり、陸軍内各部署との協議の結果44個師団、150万人を動員することが決定したのです。このため硫黄島や沖縄での戦闘に備えて配置する兵力も必要最低限に抑えられ、海上輸送で撃沈されて喪失した兵力の補充も拒否し、本来であれば宮崎中将が考えていた連合軍への一撃痛打になったはずの2つの戦闘が不十分なまま終わる結果になりました。
宮崎中将は帝国陸軍の戦史研究の第1人者だったはずですが、第2次世界大戦前のヨーロッパで本土決戦で勝利を掴んだ戦例としてはナポレオンを敗退させたロシアとソ連を撃破したフィンランドなどがあっても日本とは条件が違い過ぎます。
敗戦時は戦艦ミズーリ甲板上での降伏文書への調印式に立会し、その後は日米当局で敗戦史を記述することになりました。この屈辱が戦犯代わりの苦役だったのでしょう。
  1. 2019/10/10(木) 12:11:00|
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振り向けばイエスタディ1699

8月、佳織との週末同居生活が終わってしまった。佳織がハワイのアメリカ太平洋陸軍司令部から久里浜の通信学校副校長に転属してからは別々に官舎を借りていたので家具や寝具、食器などは2揃いあり、特に準備の必要はないが、毎週交互にそれぞれの官舎に帰宅する不思議で楽しい夫婦生活に幕を下ろすことは残念で仕方ない。今年の付日の8月1日は月曜日なので休暇をもらい、金曜日の夜から久里浜の官舎に泊まって夫婦共同作業で引っ越しの準備をした。
「貴方の茶碗セットは用意しておくから伊丹に来た時は瀬戸大橋を渡ってくるんやで」「ワシとしては飛行機で直行するつもりだけどな」必要最小限とは言え2人で生活できる食器類を新聞紙で包みながら佳織が口にした言葉に私は腹案を答えた。結婚前は佳織が守山だったので善通寺から瀬戸大橋を渡って伊丹で合流すれば日帰りでも間に合った。ところが東京と香川発では京都や大阪辺りが時間上の中間地点になり、ホテル代が必要になる。ならば交通費がかかっても互いの官舎を訪問し合う方が安上がりだ。
「それでも月1回は無理かな。ウチも土日の仕事が多いみたいやし、いくら飛行機大好きの貴方でも金曜日の夜の便で来て、日曜日の夜の便で帰るのはしんどいやろ」「別の裁判が入らなければ何とかなりそうだが、佳織の予定と合わなければ勿体ないな」私としては佳織に会うのは精神の栄養補給なので疲労回復になるのだが肉体の衰えは別問題なのは間違いない。
「土日は講演会やPTAの会合が多いんやて。地本としては『女の本部長は初めて』やって宣伝しまくってるみたいやから当分は大忙しだわ」確かにニュースのネタにとぼしい四国の香川県では「美人本部長」と言うだけで宣伝効果が抜群なはずだ。おまけにアメリカ出身の帰国子女、アメリカの大学と陸軍指揮幕僚大学院を卒業し、さらにアメリカ軍の災害派遣・トモダチ作戦にも参加していたとなるとスーパースター扱いされそうだ。
「それじゃあ今年の夏はハワイに帰省できそうもないな」これまで私と佳織は次級者だったため長の休暇を外して取得してきたが、私は裁判が夏期休暇明けに再開するため東京を離れることはできなかった。それでも佳織は志織の夏休み中にハワイへ帰省するようにしていたのだが、今回は夏休み期間中が募集活動の最盛期なので本部長も長期休暇を取ることは無理だろう。
「今年は志織を来日させて東京と香川と念願の石垣島へ行かせてやろうと思ってるんや」「石垣島は淳之介が1人で暮らしてるんだぞ。あのブラコン娘が大丈夫か」志織のブラザー・コンプレックスは淳之介が結婚して少しは落ち着いているようだが、海軍志望の理由は「淳之介の航海の安全を守るため」と言っているそうなので完治はしていないらしい。血は半分しかつながっていないとは言え兄と妹として育った2人が危ないことをするはずはないと信じながらも、淳之介が幼い頃からの志織の希望を叶えてファースト・キスを奪っても不思議はない。
「淳之介は夏休みの観光シーズン中は休暇が取れないから那覇の安里家と言う訳にはいかへんやろ。そんなに心配やったら貴方がついて行ったらエエねん」私は尖閣諸島周辺海域での中国漁船衝突事件の時、民政党政権が司法に圧力をかけている実態を調査するため石垣島に出張し、淳之介のアパートに泊めてもらったことがある。あの頃はあかりも一緒だったので若い夫婦の生活感が部屋中に漂っていた。あれから男1人暮らしになって久しいアパートが今はどうなっているのか。妙に自衛隊式の点検に行ってみたくなってくる。
「淳之介は子供の頃は善通寺で暮らしてたんやけん、こっちに呼んだったら懐かしいんとちゃうか」次第に佳織の兵庫式の関西弁が品のよろしくない浪速弁になって来たような気がする。これでは大阪のオカンと話しているみたいだ。香川地方協力本部と電話で話している間に南大阪出身の広報官の方言が伝染したのではないだろうか。電話で志織の日本語力を維持しているのは佳織の担当だが、この調子では関西弁・浪速弁化するのも時間の問題かも知れない。
「教頭先生、長いこと贔屓にして下さって有り難うございました」夕食は鍋釜も片づけたため佳織が行きつけにしていた小料理屋で取った。このママさんとは私が天皇の資質を否定したことで怒りを買って仲たがいしていたが、お別れの挨拶をしておく必要はある。
「今度は瀬戸内の魚になりますね」「娘の頃には食べ慣れてたけど今はママさんの味に親しんできた舌に合うか判らないわ」ママさんはビールを注ぎながら食の話題をふってきた。確かに善通寺の頃は瀬戸内の近海魚だったような気がする。ただし、前任地の防府も瀬戸内海沿岸であり、沖縄出身の美恵子は魚料理をあまり好まなかったため特に印象に残っていない。
「旦那さんは寂しくなるでしょうけど浮気しちゃあ駄目よ」私が浮気はできないことを知らないママさんは冗談めかして体力充実・精力絶倫の自衛官向きの注意を与えた。
「貴方、梢さんに会社を辞めてもらって呼びましょうよ」すると唐突に佳織が「アホな」ことを口走った。ママさんには「理解不能の夫婦」と言う強烈な印象が置き土産になったようだ。
  1. 2019/10/10(木) 12:09:56|
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10月10日・双十節=中華民国国慶節

10月10日は大衆の意志は台湾としての独立に向かっている中華民国の国慶節である双十節です。この名称の由来が日付に十が双つ重なることなのは言うまでもありません。
日本では国慶節を建国記念日と邦訳することが多いですが中国の古代史は考古学の領域までさかのぼってしまうため、日本や韓国のように神話の伝承を史実化することにも無理があり、10月1日の共産党中国の国慶節は1949年に毛沢東▲(「さん」欠く)が天安門で国共内戦の勝利を宣言した日であり、中華民国の国慶節も実際は堂々たる外交交渉を行って独立を守っていた日本の徳川幕府とは異なり、沿岸の主要都市を次々と奪われながらも危機意識を持たずに贅沢三昧な生活にうつつを抜かし、宮廷内の権力争いに明け暮れていた満州族の清朝に漢民族が反旗を翻した辛亥革命(実態は文化大革命の予行演習だった)の発端となった武昌起義の日です。
日清戦争に敗れた清朝は守旧派から急進派まで内部分裂を起こしましたが、最も現実的な日本に倣った立憲君主制への移行を模索する派閥が実権を握りました。ところが守旧派(=側近・腰巾着・取り巻き)に悪評を吹き込まれた西大后の命令による弾圧を受けて挫折すると武力革命を目指す過激急進派が勃興し、急速に長江沿いの各地に拡散していったのです。それでも清朝は各地で起こり始めた近代化の要求が満州族支配への反発に発展すること危惧して1905年になって地方議会の設置を認めましたが、これは皇帝が認めた議題を討議する形式的なものでした。さらに1911年には皇族内閣を組織しましたが、国会の開設を伴う本格的な内閣制度の実現を要求していた急進派を失望させ、革命への機運を高めただけでした。そんな中、孫文さんは東京で革命派の中心人物たちと会い、中国同盟会を創設して革命に向けた活動を開始したのです。
この頃、欧米列強は腹の中では清をインドのように巨大な植民地化することを考えながら、表向きは産業の近代化のため全国に鉄道網を敷設する計画を押しつけてきましたが、清朝に見切りをつけ始めていた各地の権力者や富裕層がこれに同調し、支配地域内に路線を張り巡らせ始めたのです。すると相次ぐ欧米との戦争の敗北による巨額の賠償金や義和団事件などによる損害補償によって財政が逼迫していた清朝はこれらの鉄道を国有化することで収入増を図ろうとしたため各地の権力者たちの反発を招き、一気に革命に向けて動き始めたのです。
これに対して清朝は満州族による鎮圧部隊を派遣して鎮圧しようとしましたが、新たに創設された欧米式の軍隊の中には革命に共鳴している者が多く、鎮圧部隊が自分たちを摘発・捕縛・処罰するために来ると思い込み、実際に逮捕された中国同盟会の会員の中には軍籍に在った者が含まれていたため、1911年10月10日の夜9時に湖北省武漢市の武昌地区の新たな軍が派遣部隊を襲撃し、500人以上の満州族の将兵が殺害されました。これ契機を新たな軍は革命軍となり、周辺の各地域を占領してそのまま漢民族による満州族排除の内戦=辛亥革命が勃発したのです。
香港でも共産党中国に返還されるまではこちらの国慶節を祝日にしていましたが、現在は公式に禁止されていないものの個人で祝うことが黙認されているだけです。
  1. 2019/10/09(水) 13:05:02|
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振り向けばイエスタディ1698

「名寄の自衛隊さんは東北の地震の災害派遣の仕上げに今度は宮城県の石巻に行っちゃいました。だけど今回の仕事は給食や入浴の支援みたいです」雪うさぎは森田曹侯補士たち第3普通科連隊が石巻に出発したことをFMの番組で紹介していた。今回の派遣については旭川の第2師団が発表しているので地元紙やローカル放送のニュースで紹介されているが、具体的な業務内容までは説明していなかった。この内輪ネタに気がついた聴取者たちが指摘したため番組では4月下旬の雪うさぎの「年下の男の子」騒動が再燃してしまっている。
「最初のメールは士別市のラジオネーム・愛植生(あいうえお)さんからです。ラジオでは漢字が判らないので説明しますが、このラジオネームは恋愛の愛に木を植えるの植えると生きるって書くんですよ。愛を植えて生きるなんて素敵な名前ですよね」雪うさぎは「生」の字を「生きる」と解釈したが「生かす」「生える」「生まれる」とも読める。それによって微妙に意味が変わってくるが、特に訂正を求めてこないので間違っていないのだろう。
「この間、名寄の自衛隊が宮城県の石巻に行った話題が出ましたが、雪うさぎさんの年下の男の子も行ってるんですか。帰って2カ月でまた別れ別れじゃあどちらも可哀想です。そこで2人のためにこの曲をリクエストします」「はい、年下の彼は石巻で頑張っていますよ。でも今度は郵便が再開しているので毎日葉書が届きます。だから一緒に頑張ってる気分です。心配しないで下さい」そう強がっても雪うさぎは森田曹侯補士の顔を思い浮かべて目頭が熱くなってきた。愛植生の気遣いも胸を温めている。しかし、放送中に鼻をすする訳にはいかない。そこで曲を短めに紹介してCDを流すことにした。
「それでは愛植生さんのリクエストでユーミンの30年前の曲です。『守ってあげたい』をどうぞ」自分で作成した台本メモを読みながら曲を紹介するとガラス窓の向こうでFM放送局の若い女性の担当者がCDを操作してイントロ(序奏)なしに「ソー ユー ドント ハフトゥー ウォーリー ウォーリー 守ってあげたい」と唄が流れ始めた。曲が始まると涙は止まったが、それでも念のためティッシュで鼻をかんでおいた。
「・・・初めて言葉を交わした日の その瞳を忘れないでね・・・」しかし、この歌詞を噛み締めながら聴いていると先ほど以上に眼がしらが熱くなり、鼻の中が湿ってくる。
初めて言葉を交わした時も森田曹侯補士は宮古市の避難所で給食支援をしていた。あの時、心を射抜かれた真っ直ぐな視線が忘れられないのは雪うさぎの方だ。涙を抑えると鼻水が止まらなくなる。そこでもう一度、ティッシュを取ると歌詞がトドメを刺した。
「・・・会えない時にも貴方のこと 胸に抱いて歩いている 日暮れまで土手に座り蓮華を編んだ もう一度あんな気持ちで夢を形にして・・・」「会えない時にも貴方のこといつも胸に抱いているよ・・・いつも抱かれていたい。貴方の夢を一緒に形にしたい」雪うさぎは歌詞で胸に湧き起こってくる意識を反らすため曲が終わった後に補足する解説を確認したが目に涙で潤んで文字が滲んでしまう。それでもCDは終わってしまった。DJとしてはアウトロ(終奏)が消えるのに合わせて話し始めなければいけない。雪うさぎはそのままマイクに向かった。
「この曲は1981年の発売ですが8年後の1989年にも再リリースされています。ですから私はこちらを聴いて今でも愛唱しています。私も彼を守ってあげたい・・・夢を形にして欲しい・・・失礼しました」無理に言葉を続けたが声がかすれてきてしまった。こうなると緊張感が途切れて涙が止まらなくなってしまった。
「・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」ぼんやりとラジオを聞いている者には訳が判らない涙声の謝罪が続いた。それでもセミプロとしての一線は踏み止まった。
「私は今、彼への想いを告白してしまったことで、逆に皆さんに愛されている幸せを実感できています。本当なら私的な感情をラジオと言う公共放送で口にすることは許されないはずですが、皆さんはそれぞれの年代で両親や兄弟、姉妹、友人や同級生のように心配し、激励し、助言を与えてくれている。その優しさを歌に託して私の胸に届けてくれる。私、幸せです」ガラスの向こうから心配そうに注視している女性担当者も雪うさぎの語尾に力が入っていることを聞いて安堵したようにうなずいた。
「森田くんと雪うさぎさんってつき合い始めて3カ月なんでしょう。凄いなァ」名寄の官舎では安川和也3曹・聡美夫婦が雪うさぎの放送を聴いていた。愛知県稲沢市出身の2人は名古屋市内の高校を卒業して入隊した森田曹侯補士とは特に親しくしている。
「俺は傍で見てたけどバチバチと赤い火花が走ったみたいだったよ。あれを運命の出会いって言うんだろうな」安川3曹も聡美と運命の出会いで結ばれた。この経験者夫婦は2人の運命の出会いも認めているらしい。
お・音無響子イメージ画像
  1. 2019/10/09(水) 13:03:25|
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10月8日・鬼才画家・村山魁多を生んだ従兄・山本鼎の命日

昭和21(1946)年の明日10月8日は我が郷土・岡崎生まれの版画家で美術教育の推進者にして14歳年下の従弟である夭折の鬼才・村山魁多くんに油絵の道具一式を贈って洋画家への道に引き込んだ山本鼎(かなえ)さんの命日です。63歳でした。
山本さんは明治15(1882)年に岡崎市の漢方医の長男として生まれました。父が医師の国家免許を取得するために西洋医学を学ばなければならなくなって上京し、そこで尋常小学校を修了しました。それから木版工房の住み込み弟子になり基礎的技能を学び始めますが16歳の時に父が長野県上田市で開業したため家族は転居します。
一方、山本さんは9年の年季奉公を終えると他人が描いた絵を彫るだけの版画職人としての仕事に不足を感じ、明治35(1902)年に東京美術学校洋画選科予科に入学しました。在学中の明治37(1904)年に雑誌・明星に自らの作品を版画にした「漁夫」を発表するとこれまでの原画を忠実に模倣する技術だけを競い合っていた版画界にはない斬新さが高く評価されて新進気鋭の版画家として注目を浴びることになりました。それは従来、絵師、彫師、擦師の3者が分業していたそれぞれの作業を1人で行い、作品を完全な自己表現の結晶とする創作版画運動に発展していったのです。
明治39(1906)年に東京美術学校を修了すると創作版画運動に賛同した若手作家の発表の場として美術文芸雑誌を創刊し、明治44(1911)年に終了するまでに35刊を発行しました。この頃、山本さんは京都の叔父母夫婦にあたる村山魁多くんの自宅に滞在していてここで東京美術学校時代に使っていた油絵の道具を贈って詩作だけでなく西洋画にも目覚めさせたようです。
雑誌を終刊させた明治45(1912)年に盟友の妹への求婚を断られたことで海外逃避を決意してフランスに留学しました。フランスでの生活は雑誌の経営が思わしくなったこともあり木版画や絵画を売って得た金でパリの名門美術学校・エコール・ド・ボザールのエッチング科に入学したものの貧窮を極め、自宅で裸婦を描いていてヌードのモデルから「寒いから暖房を」と懇願されても燃料がなく、仕方ないので手で背中を温めながら描いたと言う逸話が伝わっています。
大正5(1916)年にパリから陸路で帰国する途中にモスクワへ寄り、そこで農民が描いた作品や児童画を展示している美術館を見学したことが帰国後の活動に大きな影響を与えました。またモスクワで北原白秋さんの親友と知り合いその妹との縁談を勧められて大正6(1917)年に結婚しました。帰国後は創作版画の地位向上に尽力すると共に子供の感性を育てるために自由に描かせる児童画を普及させ、さらに農業に従事する若者が芸術に親しむ機会を得られるように実家があった長野県を中心に絵画教室を開催しました。ただし、ここでの絵画はロシアの影響が色濃かったため日本の文化的気風を重んじる民芸運動とは相容れなかったようです。
山本さんは昭和17(1942)年に亡くなった北原白秋さんの葬儀委員長を務めた後、脳卒中を患って長期療養中でしたが、この日に腸捻転を起こし、手術後に亡くなりました。
  1. 2019/10/08(火) 14:38:27|
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振り向けばイエスタディ1697

前期の試験が終わって早めに夏休みに入ると、石巻でも単位取得を目的にした都市部の大学生たちが大挙してボランティアに押し寄せてきた。大震災から4カ月を過ぎて仙台市を中心とする宮城県内では関係者の懸命な努力によって上下水道や郵便、流通などは復旧が急速に進んでいるが、電力だけは火力発電所が破壊され、公的専門機関の点検が完了したにも関わらず缶内閣が原子力発電所の再稼働を認めないため停電が続いている。したがって他の電力会社から送電される電力は公共機能が集約されている仙台市に優先的に供給されており、ボランティアたちも仙台市内に宿泊して運転が再開した列車やバスなどを利用して石巻に通ってくる。
「さァ、グラ隊長が教えている通り、作業の前に準備運動をしよう」「ラジオ体操第1と第2で良いんだよな」大学生たちは駅前で市役所の担当者が受付をしてマイクロバスでその日の作業現場に送られてくる。大学生たちは案内した担当者の作業の説明と注意が終わると携帯電話を覗きながら自発的に体操隊形を作った。
「ラジオ体操、用意。1、2、3、4、2、2、3、4・・・」大学生たちの中でも運動部らしく筋肉質な男子が慣れた口調でラジオ体操を指揮し始めた。担当者はこの光景に見覚えがあった。号令の掛け方もその記憶に一致している。最近の大学生は体育の講義や運動部でもラジオ体操を準備運動にしないはずだが、ここ石巻では先ほど口にしていた「グラ隊長」と言う人物が作業前に毎回実施していたのだ。
「さっき見ていた画像は何ですか」担当者が体操を終えた大学生に訊ねるとズボンのポケットから携帯電話を取り出して動画を再生してくれた。
「これは元自衛隊の小椋さんですね」「はい、春にボランティアに来た同級生が復旧作業の指導を受けたんです。それがとても勉強になったからって次にボランティアに行く仲間たちに動画を送信しているんです」「それが『グラ隊長のボランテイア講座』としてネットで広がっているからウチに限らず今来てる大学生はグラ隊長の教え子ばかりですよ」そう言って別の大学生も携帯電話の動画リストに登録してある「グラ隊長のボランティア講座」と言う題名を見せた。確かに小椋元3佐が指揮した1週間の復旧作業は市役所の担当者としても適切な作業分担やきめ細かい安全管理など学ぶべき点が多く、その後の作業にも踏襲している。
「その動画を私にも送信してもらえませんか。実は私も『グラ隊長のボランティア講座』の聴講生だったんですよ」担当者が仲間と一緒に軍手をはめながら作業を始める家に入って行く大学生に声をかけると片手を上げて了解した。この淡々と作業に向かう姿勢も小椋氏が背中で語っていた「グラ隊長のボランティア講座」の教示だった。
「一緒に写メを撮らせて下さい」森田曹侯補士の周りでは都会からの女性ボランティアたちが持ち前の軽さを発揮して足を引っ張っていた。森田曹侯補士は調理が終わって給食が始まれば鍋や釜の横で列を作っている被災者に配膳を始めることになる。ところがこの避難所に配置されている女性ボランティアたちは容姿端麗、身体堅固な森田曹侯補士を見つけると列から外れて取り囲み、携帯電話で写真を撮り始めたのだ。
「先ず私が撮るから次は誰か撮ってよ」森田曹侯補士のあからさまな嫌悪感などは気にも止めずに女性ボランティアたちはハシャギ回っている。現場指揮官の陸曹は都市部から来ているボランティアの機嫌を損ねることに躊躇して注意を口の中に溜めている。北海道の田舎でも若い世代は出会った場面を撮影してメールで送って友人と感動を共有する習慣が普及しつつあるが、都会ではそれが日常の生活作法になっているらしい。それでも最初に許可を求めるところが都会の若者の礼儀なのかも知れない。
「配食の邪魔になりますからもう良いですか」森田曹侯補士は22回目の撮影が終わったところで声をかけた。2回目は最初に写真を撮った女性が隣りに立ち、ツーショットになっていた。それを見て他の女性たちも同じことを要求しそうな雰囲気だったのだ。
「だったら写メを送りますから番号を教えて下さい」それでも都会の女性はメゲルことなく攻勢を堅持している。この年代から言えば大学生のようだが、父や職場の先輩からは陸曹や陸士が女子大生にもてた話は聞いたことがない。ところが時代は変わっているらしい。
「私、自衛隊が大好きで色々勉強しています。だから教えて下さい」森田曹侯補士は自分を注視している女性の目に火が点ったのを感じた。これは危険信号だ。
「森田さんって言うんでしょう。名札に書いてあるから。第3普通科連隊って北海道の名寄にある冬戦教の精鋭部隊じゃあないですか」「自分には婚約者がいますから無理です」ここは秘密兵器で撃退したが先走ったような気もする。すると女性は同世代の森田曹侯補士に「婚約者がいる」と言われたことを「断られた」と理解したようで新たな笑顔で別の陸士に声をかけた。
  1. 2019/10/08(火) 14:37:06|
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10月8日・乙未(いつび)事変=閔妃(びんひ)殺害事件

日清戦争が終結した明治28(1895)年の明日10月8日に出身氏族から閔妃と呼ばれる朝鮮国王・高宗の妻・明成皇后が宮廷内に乱入した朝鮮親衛隊・朝鮮訓練隊(=日本軍の軍事訓練を受けていた部隊)、朝鮮警務使(警察官)と日本軍守備隊・日本公使館警備官、さらに大陸浪人を名乗る日本人に斬殺された乙未事変が発生しました。
朝鮮の近・現代史は日本の敗戦後に独立した韓国政府によって滅茶苦茶に歪曲されているため事実は不明なのですが、この事変で殺害された閔妃は清の西大后と同様に政治に関与して混乱を招き続けた殺されるべきして殺された亡国の悪女だったようです。その点を理解せずに日本の皇后や将軍の正室のイメージに重ねると日本軍・官憲による残酷な殺害事件とする日韓の歴史家たちの思う壷にはまってしまいます。
19世紀に入ると朝鮮でも日本と同様に欧米列強の来航を受けるようになって対応に苦慮しましたが、日本はオランダに門戸を開いていたため市井の蘭学者たちが極めて正確にヨーロッパ事情を洞察しており、徳川幕府はその人材と情報を採用することで国際常識に基づいた外交交渉が可能でしたが、朝鮮王朝は清とのみ正式な国交を持ち、日本に対しては秀吉による侵攻の再発を防ぐための儀礼として通信使を送っていただけでした。このため欧米の恫喝に近い要求を受けても頑なに鎖国を維持していたのですが、肝心の宗主国・清がアヘン戦争に敗北して欧米列強の餌食になり始め、逆に東夷として見下していた日本が近代化に踏み出して急速に成果を上げる様子を目の当たりにすることになったのです。
この事態に朝鮮王朝内では「宗主国・清への忠誠を堅持するべき」とする保守派と「日本に倣い欧米諸国に門戸を開いて近代化に着手するべき」とする開化派が激しく対立したのですが、意外なことに開化派が担いだのは王の父である大院君(日本で言えば上皇)で、保守派の方が占い師に操られていた閔妃でした。
閔妃は王朝内で絶大な権勢を揮っていた閔一族が兄の相次ぐ早逝で4男が即位した高宗にあてがった皇后だったため王以上の強権を握っていました。ところが1894年に刺客を放って開化派の中心人物を殺害したことで閔一族が私物化している政治に不満を鬱積させていた農民・庶民の大規模な一揆が発生したため、その鎮圧のために清に出兵を要請したため開化派は日本にも出兵を要請したのです。これが日清戦争の原因です。
結局、日本が勝利したことで王朝内でも開化派が実権を握りますが、三国干渉に日本が屈服すると閔妃はロシアに乗り換え、日本が軍事訓練を実施して近代的な軍隊に育成し始めていた朝鮮訓練隊を解散して新たなロシアの指導による軍隊を創設しようとしたのです。閔妃の暴走がここまでくると大院君も放置することはできず、保守派が親露化したことを憂慮していた日本の在朝鮮公使と共謀して事件を起こしたとされています。
戦前は閔妃と面識があり、王宮の内部を熟知している朝鮮親衛隊と朝鮮訓練隊、朝鮮警務使が実行犯で日本軍守備隊と日本公使館警備官は周囲を警備していたと言われていましたが、戦後は日本人の反日作家や亡国歴史研究者を中心に「斬殺」と言う殺害方法を根拠にして日本の軍人と官憲の凶行とする見解が強まっています。
  1. 2019/10/07(月) 11:57:52|
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振り向けばイエスタディ1696

「岡田恵子事務官の送別会ですが、定年を延長した事務官がいる各部の合同で開くことに決まりました」先任会同を終えて事務室に戻ってきた曹長は女性事務官が席を外しているのを見て唐突に報告した。年齢で勤務年限が定められていて誕生日付で退官する自衛官とは違い事務官、技官、教官などの防衛省職員は定年に達した年度末で一斉に退官するため合同送別会になることも珍しくないが、今回は年度末に発生した東北地区太平洋沖地震による大規模な災害派遣に伴う特例処置で希望者のみ半年間延長されたのだ。法務官事務室としては私と曹長、1曹が交代で派遣された留守番(法務官の世話も含む)の功績への謝恩会を兼ねた特別な送別会を企画したいところだ。ただし、女性事務官は酒を嗜まないので隅田川の屋台船での船上宴会や最上級のレストランで超豪華なコースでも好いかと考えていた。
「それに二村事務官の歓迎会もやらない訳にはいきませんから合同送別会の後に二次会と言うことでどうでしょうか」言われるまで後任者の歓迎会は全く考えていなかった。後任者の人事記録が届いていないので詳しくは知らないが、曹長は陸幕内の陸曹たちから情報収集を始めているらしい。後任者の二村由美事務官は文書の処理と接客を担当する監理部総務課の所属とは言え郵政係なので大量に届く郵便物を整理する仕事を20年以上も続けてきたようだ。入隊した時期は佳織と大差はないがバブルで日本中が浮かれ狂っていた時代に東京の短大に通っていた後任者はアメリカに留学して隔離されていた佳織とは真逆の人間性のように感じる。
「大体、ウチは岡田事務官の後任にWACの陸曹を要望していたんでしょう。やはり定員の付け替えは無理だったんですか」曹長も引き継ぎに来てもやる気を全く感じさせない後任者には不満以上の嫌悪感を抱いているような口ぶりだ。各職場の人員配置は組織表の定員に基づいているが法務官室は私が定員外配置になっているため迂闊な要望は削減につながりかねない。それに気がついたのか私の返事を聞く前に自分の席に戻って行った。そこに女性事務官も戻ってきて曹長に笑顔で「お帰りなさい」と声をかけた。この穏やかな空気が今後どのように変わるのかを想像すると曹長ではないが頭よりも胃が痛くなってくる。
「岡田さん、4月から勤め始めるはずだった地元の司法書士事務所とは上手くいっているんですか」私は女性事務官が持ち返った書類の束を机に載せ、整理を始めたところに声をかけた。
「はい、千葉の個人事務所ですから電話番と書類の整理くらいの仕事ですよ。半年くらいは大丈夫だそうです」私が現在の職務に就いた頃に定年退官した女性事務官の夫も防衛省事務官で、関東圏の各駐屯地を転勤して回っていたため「妻が地球で夫は人工衛星だ」とからかわれていたと聞いている。その夫が習志野で勤務していた時に船橋市内に家を建てたのだ。
「司法書士の先生は私が現職の弁護士と一緒に仕事をしていると知ってこんなお婆さんを採用してくれたんです。だからモリヤ2佐のおかげで再就職できたようなものです」司法書士の仕事は登記や供託の代理や裁判所や検察庁、法務局に提出する書類の作成、さらに簡易裁判所の民事訴訟などでは当事者の代理を務めることもあるから弁護士と一緒に働いていれば参考になると思っても不思議はない。ただし、私の場合は個人的に開設している法律相談室に入る隊員からの電話や書簡に回答しているだけなのでテレビの報道バラエティー番組で弁護士が解説しているのを聞くのと大差はない。それでも各方面隊、各師団・旅団の法務官から届く報告をを整理する仕事を十年以上続けてきたのだから一般人よりは法律に詳しいのは間違いない。
「それで旦那さんの損害保険の代理店は儲かってますか」50歳を過ぎた自衛隊で言う定年前の高齢者たちの会話が途切れたところで30歳代後半の1曹が加わってきた。女性事務官が交代するとこの部屋の平均年齢は一気に若返るが、曹長も出身地の九州の部隊への定年配置を希望しているので遠からずメンバーそのものが大幅入れ替えになりそうだ。
「儲かっていたら私は就職しないで手伝いますよ。自衛隊に顔が利くから知り合いを訪ねて声をかければ幾らでも契約してもらえると考えていたみたいですが、幹部職の事務官では自衛官の人たちとは縁が薄くて中々話も聞いてもらえないようです」確かに私も入隊以来、少なからぬ航空自衛隊の基地と陸上自衛隊の駐屯地を回ってきたが事務官の知り合いはあまりいない。強いて言えば那覇基地の修理隊には地元採用の技官がいて一緒に仕事をしていたものの事務官は司令部で見かけるくらいで親しくなったことはない。
「それでも家の借金は終わってお子さんたちは独り立ちしていますからボチボチ働けば好いでしょう」「困った時にはモリヤ2佐の法律相談室に電話させてもらいます」私の世代の自衛官は50歳の定年までに家の借金を完済し、子供を独立させて退職金は丸々懐に入れる算段で結婚を急いだものだったが、定年が勝手に延期になって焦って嫁選びに失敗した連中は怒っている。私と美恵子の結婚がこれに該当するかは自分でも判らない。
  1. 2019/10/07(月) 11:56:44|
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振り向けばイエスタディ1695

翌週、私は佳織の転属と私の移動の予定についての情報収集を開始した。転属は本来、内示が出て初めて公式な予定になるため先走って動くと人事情報の漏洩として問題になりかねないが、夫婦であれば人情として多少は許容範囲が広くなるはずだ。
「おや、モリヤ弁護士が顔を出すとは珍しい」統合幕僚監部首席法務官室でのイージス艦事故の2審の現状分析と今後の方針に関する会合を終えて幹部の人事を所管する陸上幕僚監部人事教育部補任課人事第1班に顔を出すと班長の2佐が声をかけてきた。この2佐も同じ官舎から通っているので顔だけは見知っている。確かに航空自衛隊時代から人事には無関心で、むしろ敬遠している私が陸上自衛隊の人事の元締めであるこの部屋に立ち入るのは着任時の挨拶回り以来かも知れない。それでも佳織の転属のことを表情にも見せないのは流石に本職だ。
「法律相談はないかって御用訊きに伺いました。離婚に不倫、財産分与に遺書の作成と何でも無料でどうぞ」先ずは軽いジョークで警戒心を解くのは弁護士業界に限らず一般社会での常識だ。すると分厚いファイルを開いてパソコンの画面と見比べているベテランの陸曹が眼鏡のレンズ越しにこちらを睨んだ。そこで人事情報が積み上げてある机の上を見ないように視線を前に向けながら班長の前へ歩いて行った。
「1つ、ご教授いただきたんですが」「私はモリヤ弁護士に教えるほどの教養は持ち合わせていませんよ」ここでも班長は接触を拒んだ。佳織に調整が入ったと言うことは8月の移動予定が確定し、該当者への確認作業に入っているのだろう。電話の内容を聞かれるだけでも人事情報の漏洩になりかねない。部内の人間と言え長居されては迷惑なのは当然だ。
「それでは手短に。私が転属を希望しようとすれば普通科への復帰と師団、旅団の法務官ではどちらが実現性はありますか」「モリヤ2佐が転属ですか・・・やはり14旅団司令部ですかね」ここで班長はあえて善通寺への希望であることを前提に逆に質問してきた。この逆質問では第15普通科連隊の副連隊長は論外のようだ。
「それでもモリヤ弁護士は統幕のイージス艦事故の裁判の弁護を担当しているんじゃあないですか。職務の途中で転属を希望するのは私的事情を優先したと思われる可能性がありますよ」これは助言のように聞こえるが日本の裁判が結審するまで数年を要し、どちらかが控訴すれば3審まで続くことを考えれば途中で転属させるのは人事の都合ではないか。
「今の裁判は検察側の事情で控訴しただけだけで中身がないから私が抜けてもそれほど影響はないはずだよ。むしろ14旅団が編成された時に四国の自治体が熾烈な部隊の誘致合戦を繰り広げたと言うからそちらに興味を惹かれるんだな。勿論、3尉の初任地として配属されながら私的事情で転属することになった第15普通科連隊に懺悔と報恩したいと言う気持ちもある。だから最初の質問になったんだよ」この雑談的な会話の間も電話が鳴り続け、「只今、用談中です」と断っている声が聞こえてくるからこれ以上長引かせる訳にはいかない。そのため私から結論を出すように話題を誘導した。
「モリヤ2佐の弁護士資格と言う特殊技能は他に替わりがいませんから人事上最優先するのは当然です。定年まで普通科への復帰はないと考えて下さい。この特殊技能を優先すると言う人事の原則は国家資格だけではなく経歴も同様です。ですから海外での勤務経験が豊富な隊員には、将来その語学力と社交術や調整能力を活かせる職務に就いてもらうための配置を考えているんです」「判りました。お忙しいところに申し訳ありませんでした」先任順で言えば私の方が上位だが、ここは姿勢を正して10度の敬礼と回れ右をして退室した。
「佳織の将来かァ・・・」廊下を歩きながら考え事をしてしまった。陸上幕僚監部で2佐は敬礼されるよりもする側なので注意していないと欠礼を犯す恐れがある。それでも通信幹部の人脈から外れた佳織に用意される配置には自分の将来以上の興味があるので、すれ違う人にぶつからないようにだけ注意しながら歩を進めていった。
「お帰りなさい。お留守中にお電話が3件ありました。相手のお名前はメモして机に置いてあります」事務室に戻ると女性事務官が声をかけてきた。彼女とのつき合いも2カ月を切り、7月からは後任者への引き継ぎが始まっている。後任者はバブル期に高卒の募集に応募した短大卒で40歳代前半の女性事務官だが、長い髪と派手目の服装の割に眼鏡をかけて愛想がない。鳥ガラのような体形でも清楚で生真面目な雰囲気で完熟女の魅力が溢れている女性事務官とは真逆だ。せめてきめ細かい気配りの半分でも申し送って欲しいものだ。
「知らない名前ばかりだけど、どれも返信を求むなんだね。深刻な法律相談かな」私は机の上に並んでいるメモを眺めながらコーヒーをいれている女性事務官の背中に声をかけた。後任者はすでに経験しているのか机の前から動かない。現在の配置が閑職なのは当然だ。
古藤田京子イメージ画像
  1. 2019/10/06(日) 13:09:16|
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振り向けばイエスタディ1694

「ウチは通信幹部としては落第やったみたいや」私の官舎に帰宅した佳織は夕食の支度をしている私に妙にさばさばした表情で報告した。関西弁は久しぶりだが私としては大歓迎だ。
「どうした。校長閣下に怒られたのか」まさか陸将補の学校長が1等陸佐の副校長兼企画室長を叱責するとは思えないが、佳織の自己評価は第3者によるもののように感じる。
「ウチに移動の調整が入ったんよ。8月で着任して2年になるやろ」「校長閣下は去年の3月に交代したからナンバー2を移動させるタイミングとしては今度だろうな」組織の混乱を最小限に留めるためには上層部の交代を分散させる必要がある。自衛隊の幹部の移動が3月と8月が基本だから佳織は8月になる。東北地区太平洋域大地震の災害派遣の終結は8月一杯と言われているが、通信学校は補助的な人員派遣に留まっているから影響はなさそうだ。
「次は伊丹の通信群長じゃあなかったのか。最近は通信の1佐配置の部隊が増えているから佳織を外す余裕はないだろう」私としては通信学校の副校長で通信人脈に復帰すれば次は地元配置で伊丹駐屯地にある中部方面通信群長になると考えていた。すると佳織は無表情に首を振り、感情を交えずに裏事情の説明を始めた。
「幹部、陸曹に関係なく基通(=基地通信)派閥にはウチみたいな野戦通信出身者は入れへんのよ。だから方面通信群とは始めから縁がなかったんや」古巣の航空自衛隊では基地交換の有線とアンテナの下の無線まで基地業務群の通信隊が担当していたので私には同様の業務を担当する方面通信群の隷下の基地通信中隊派遣隊と佳織が所属していた師団の通信大隊の違いが良く判らない。流石に連隊などの本部管理中隊の通信班とは保有している器材や隊員の技量が違うことは想像できても同じ職種の専門的教育を受けている隊員をそこまで区別する必要性は全く理解できない。むしろ人事上の自縛・制約・阻害になっているのではないか。
「市ヶ谷の通信保全監査隊ならまた一緒に暮らせるじゃあないか。それに東千歳の第1電子隊や建軍の西方通信情報隊みたいな電子戦部隊ならアメリカでの経験が活かせそうな気がするがな」この2つの電子戦部隊が最近になって創設された長が1佐配置の通信部隊だ。航空自衛隊では電子戦の教科書は完全にアメリカ軍の直訳だったから陸上自衛隊も同様なら佳織のアメリカ留学と勤務の経験が役に立つはずだ。ところがここでも首を振った。
「あそこは通信でも防衛での経験が必要だからウチみたいな経歴では駄目なんよ」佳織のような経歴では駄目と言われてもそれは本人が希望した訳ではない。この比類なく優秀な人材を陸上自衛隊と言う大組織が使い切れていないことが判り、急に腹が立ってきた。
「そうなると久里浜の横滑りで通信教導隊はどうだ」「あそこは最新機材の普及教育が主任務だから一番駄目やね」この答えで佳織の自己評価の理由が得心できた。要するに最先端の機材の導入を推進することを組織の共通目標としている通信幹部の派閥の中で機材よりも隊員の技量向上に熱意を注ぐ佳織は異端者と断定されたようだ。これでは夫婦揃って本来の職種からはみ出したことになってしまう。珍しく私の口の中に苦虫が大量に入ってきた。
「そんな顔せんといて。調整が入った次の配属先は中々面白そうなんやもん」会話の展開から言えばこれは私の失意と立腹を取り為すために佳織が無理にやる気を口にしているようだが、顔を見ると必ずしも嘘ではなさそうだ。
「香川県の地方協力本部長なんやで。貴方も住んだことあるやろ」「あれは20年前になるかな。ワシたちの婚姻届を出したのも善通寺の市役所だったよな」とりあえず2人の思い出を語ったが、美恵子との離婚届けを出したのも善通寺市役所だった。
「普通、地方協力本部長は出身地の人間が着任するんだろう。どうして兵庫地本じゃあないんだ」「香川も関西弁だからエエんやろ。私としては兵庫の学校にはエエ思い出がないから対岸の方が安心なんよ」私にとって香川県が美恵子との離婚劇の舞台なのと同様に佳織には兵庫県が中学時代の苦悩の現場なのだ。考えてみれば私が愛して止まない沖縄も淳之介とあかりと恵祥が住む土地であるのと同時に梢と引き裂かれ、美恵子が帰ってきてしまった場所でもある。
「それじゃあワシも15普連の副連隊長に転属しよう。佳織の官舎は高松市内の特借(特別借り上げ住宅)だろうから週末夫婦できるじゃあないか」「14旅団の法務官じゃあないの」佳織が意外そうな顔をしたが、私も50歳を過ぎて定年退官まで片手になっている。インシュリンの摂取によって体力の衰えは幾分遅くなったが加齢と合わせて確実に進んでいる。普通科の幹部として勤務できるのはこの機会を逃せばもうないはずだ。それで務まらなければ2佐配置の第14旅団司令部法務官に横滑りする算段だ。
「14旅団は改編の時に自治体が誘致合戦を演じたみたいだけど、今は一件落着してるから貴方が活躍する場面は終わってるわね」やはり佳織も予備知識の収集を始めているようだ。
  1. 2019/10/05(土) 12:23:05|
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振り向けばイエスタディ1693

工藤とジェニファーの同棲生活は3年が経過していた。ジェニファーは2008年3月10日にチベットの首都・ラマで計画されていたチベット蜂起=ダライ・ラマ14世の亡命59周年を記念する大規模抗議集会を調査するために潜入してチベット僧と一緒に殺された倉田(村田の偽名)の事実婚の妻だった。倉田の死を告げに訪れた時、ジェニファーは胸に生じた空間を埋めるように工藤に迫り、やがて肉体関係に発展した。工藤としてもジェニファーが別の男性と交際することになり、倉田の活動が漏れることを防ぐためには必要な処置だった。
「素敵、このシチューはソイビーン・ペースト(味噌)で煮込んだのね」最近は夕食の支度は工藤の担当になっている。情報活動に関わる職務に就いたことで60歳を過ぎるまで独身で通してきた工藤にとってジェニファーとの生活は初めて味わう家庭だった。今夜もテーブルには日本食が並んでいる。モツの土手煮もジェニファーにかかれば味噌味のシチューだ。アメリカ人にとっての日本食のメニューは寿司や刺身、天婦羅にすき焼き、それにラーメンやウドンなどのヌードル(麺類)と言うところだが、工藤は煮物や焼き物と言った日本の家庭料理を献立にしているので、ジェニファーも「健康的で美容にも好い」と喜んでいた。
「焼き魚はドアを開けると匂いで判るわ。外に漏れると苦情が届くから要注意だけど」日本人には食欲をそそる焼き魚の匂いもアメリカ人には生臭さと焦げ臭さが混じった悪臭に感じるらしい。このため焼き魚の時には換気扇は回せない。尤もジェニファーは倉田との生活で焼き魚の匂いと味には慣れており、むしろ食欲をそそられる方だった。
「ニューヨークでも日本食の食材が手に入るようになって助かるが、魚屋が青魚を売っていないのが残念だよ。お前にも鯖や秋刀魚の塩焼きを食べさせてやりたいな。脂がのって美味いぞ」最近はニューヨーク市内の食品市場や大型店の食料品売り場に日本人が魚屋を出店しているが、水産業者が近海で水揚げされた魚以外は扱っていないため日本とは微妙に種類が違う。特に鯖は腐敗が早いため敬遠されているらしい。
「お前が着替えたら夕食にしよう。冷める前に戻ってこいよ」「はい、貴方」工藤が焼き上がった種類不明の魚を大皿に移し、別の器に作っておいた大根おろしを添えるのを見てジェニファーはクローゼットが置いてある寝室に入っていった。焼き魚にモツの土手煮、胡瓜と茄子の酢の物と言う和食の献立にパンと言う不思議な組み合わせもアメリカ生活30数年の工藤は慣れている。しかし、ニューヨークで売っている茄子が日本のような黒っぽい紫=なすび色ではなくピンクに近い赤紫なのはどうしても慣れることができない。むしろヨーロッパ系の白や黄色、柿のようなトルコの茄子の方が違和感を通り越した別物になるので愛用していた。
「倉田は焼き魚とソイビーン・シチューが好きだったけど供えてはいけないよね」着替えて台所に出てきたジェニファーは工藤が小鉢に分けていた酢の物をテーブルに置いてある倉田の遺影に供えた。先ほど寝室から鐘の音が響いてきたのでクローゼットの上の佛檀には手を合わせてきたのだろう。あのタンスの上に置く小ぶりな佛檀は松本がハワイで見つけてきた。
「日本では生臭物と言って動物や魚介類の命を奪って調理した食品は佛前に上げてはいけないんだ・・・この話はしなかったか」「ううん、何度でも教えて下さい」ジェニファーは遺影に手を合わせながら静かに微笑んだ。倉田はアフリカ系のジェニファーと暮らしながら故郷の鹿児島でも失われつつある薩摩オコジョの美学に染めていた。工藤は鹿児島出身ではないが、一世代古い人間としてジェニファーに日本女性としての素養を与え、磨きをかけている。そんなジェニファーを工藤も心から愛し始めていた。
「貴方はリタイヤした後は日本に帰るの」焼き魚と大根おろしにソイ・ソース(醤油)をかけ、ナイフとフォークで食べ始めたジェニファーが訊いてきた。工藤は秘密裏に管理されている自衛隊の人事では年齢上は定年退官しており、特例の委託職員と言う立場にある。ならば後任者が着任するか、本人が「限界」を感じた潮時がリタイヤだ。
「唐突にどうしたんだ。私がリタイヤしたくてもできないことは知っているだろう」工藤は箸で自分の手料理を摘まみながら答えた。その時、個人的に後任者と決めていた倉田の「申し訳ない」と言う声が聞こえたような気がして遺影を見て首を振った。するとグラスのオレンジ・ジュースを飲んだジェニファーが真顔になった。
「私、妊娠したみたいなの」「えッ・・・」海外情報要員の長として国際情勢の推移には卓越した状況判断を示している工藤もこの告白は完全に想定外で絶句するしかない。男性の更年期は女性以上に個人差が大きく、一般的に60歳前後と言われているが統計学的な検証は進んでいない。工藤自身はまだ現役だが衰えは自覚している。一方のジェニファーは40歳代前半の初産なので高齢出産になる。流石の工藤も頭が空白のままで言葉が浮かばなかった。
え・JenniferBealsイメージ画像
  1. 2019/10/04(金) 12:22:20|
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第83回月刊「宗教」講座・カソリックが犯した大罪科「十字軍」

※私事に忙殺されていて1日の掲載を忘れました。申し訳ありません。
現在も日本の学校が使用している社会科=世界史の教科書は明治期にヨーロッパの学説を鵜呑みにした歴史観の上に敗戦後にキリスト教国が多数を占める占領軍によって修正を加えられたため完全にキリスト教国=バチカン側に立った視点で記述されており、十字軍についてはキリスト教の聖地であるエルサレムをイスラム教徒に「奪われていること」を憂いたバチカンの教皇の命に呼応した国王や中小領主、さらに個人参加の人々が出征した宗教戦争と肯定的に教えられてきました。しかし、実態は全く違っていて「聖地の奪還」の大義名分を掲げていてもやったことは侵略と殺戮、破壊と略奪、そして強姦と時代が違うとは言え人倫に背く極悪非道の限りを尽くした一大凶事でした。そもそも「エルサレムを奪われた」と言ってもイエスを処刑し、使徒たちを殉教させ、教団を排斥したのは古代ユダヤ教団であり、何よりもエルサレムはキリスト教だけでなくユダヤ教にとっては「嘆きの壁=古代ユダヤ教の神殿の外壁」、イスラム教にも「岩のドーム=旧約聖書でアブラハムが息子のイサクを創造主に捧げようと台にした岩を覆ったイスラム式のドーム」が所在する聖地なのです。補足すれば人類学的にはユダヤ人とアラブ人には差異がなく、ユダヤ教を信仰しているか否かで分類されています。その一方で本来は縮れ毛で奥目、大きな顎と太い唇のアフリカ人的風貌だったアラブ系民族が現在のようなヨーロッパ人的な容姿になったのは女性が十字軍に集団で強姦されたことで混血が進んだとする珍説もありますが時期的に近過ぎる上、占領地域は限定されているため単なる妄想の類でしょう。
十字軍の始まりは日本で言えば平安時代後期に当たる1095年に現在のトルコやギリシャを支配していた東ローマ帝国の皇帝だったアレクシオス1世=コムネノスがバチカンの159代教皇のウルバノス2世にイスラムからの圧迫に対抗するためバチカンの傭兵の貸し出しを依頼する際、「エルサレムの奪還」を口実にしたことでした。現在もバチカンではスイス人を傭兵にしていますが、アルプスの山岳地帯で暮らすスイス人は身体強健で勇猛果敢、かつ狩猟に熟練しているため少数でも屈強の精兵揃いなのです。この要望を鵜呑みにしたウルバノス2世はその年の11月にヨーロッパの皇帝・国王や諸侯を集めて開催された教会会議で「エルサレム奪還」を扇動し、「参加者には免罪を与える」と宣言して話を大きくしてしまい、これに呼応した騎士たちが1096年から1099年に十字を描いた旗を掲げてエルサレムへ進撃しました。一方、アラブではイスラム教への信仰では一致していても部族以上の社会性を持っていなかったため騎士たちの軍団に各個撃破され、異教徒を人間とは認めていないキリスト教の論理で容赦のない殺戮と破壊、略奪と強姦を受け、エルサレムを中心とする各地にヨーロッパでは「十字軍国」と呼んでいる占領地域が乱立しました。ところが本国から遠く離れた中東の占領地域を騎士軍団の力で維持することは不可能であり、先ず食料などの生活必需品をアラブ人から購入しなければならないことから敵対関係が薄れ、騎士本人が帰国すると事実上は元の状況に復していきました。実はこの伏線となる事件があって、1096年にフランスのアミアン聖堂の司祭であるピエールがエルサレムへの巡礼をしていてトルコ人に阻止されたことに怒り、帰国すると民衆を率いて強行巡礼を試みたとこがありますが、この時は退去勧告に従わなかったため大多数は殺害されています。なお、生き残ってフランスに戻ったピエールは司祭でありながら最初の十字軍に同行して騎士たちのアラブ人=イスラム教徒の大量殺戮や集団強姦を扇動・指揮しました。ところが十字軍によるエルサレム奪還に気を良くした各地の諸侯が12世紀の幕開けである1101年に勢力圏の拡大を狙って出兵すると前回の敗北と損害を教訓として連合を組んでいたアラブ人に完膚なきまで叩きのめされて敗退しました。この失敗を見て今度は1107年秋から1110年にかけてノルウェーの国王・シグル1世が海路からの十字軍を派遣しました。この時は北大西洋の周辺地域を支配下に置いていたバイキングそのままに60隻の軍船に5000人の将兵を乗せて出港すると十字軍への共鳴で味方をする沿岸国の助力を受けながら南下し、ジブラルタル海峡から地中海には入ってトルコのコンスタンチノーブルからは陸路でエルサレムに到達しました。ただし、駐留はしていないので単なる顔見せに終わりました。
それから30年間は膠着と言うよりも慣れによる共存状態が続きましたが、イスラム側のセルジューク朝に卓越した武将・ザンギーが現れたことで事態は急変し、1144年に十字軍王国を追い落としてエルサレムを奪還したのです。これをうけて167代教皇のエウゲニウス3世が名説法師の聖ベルナルドを派遣して各国を扇動させ、フランス国王のルイ7世と神聖ローマ帝国のコンラート3世が出征を受諾し、1147年から1148年に十字軍を派遣しました。しかし、この連合軍は統制が機能せず、ザンギーの指揮に翻弄されるばかりで戦果を上げることなく撤退することになりました。おまけにこの十字軍の派遣を決定した1147年の教会会議でドイツ国王が当時は土着の宗教(ギリシャ正教とする説もある)を信仰していたバルト海沿岸のヴェンド人やプロイセン人、エストニア人、リトアニア人の討伐を申し出てこれが承認されたため、イスラム教徒からエルサレムを奪還すると言う大義名分が異教徒の廃絶に拡大し、ドイツの領土的野心を正当化するお墨付きを与えることになりました。
そこで再び40年ほどの休息状態に入ったもののイスラム側が「ジハード=聖戦」を宣言し、後にエジプト・シリア・イエメンを支配するアイユーブ朝の始祖となる武将・サラディンが十字軍国を壊滅しました。これを受けて173代教皇のグレゴリウス8世がイングランド国王のリチャード1世とフランス国王のフィリップ2世、そして神聖ローマ帝国の皇帝・フレードリヒ1世に呼び掛けて1189年から1192年に十字軍を派遣しました。ところが今回も苦戦続きで、フレードリヒ1世は渡河中に溺死し、2人の王も目立った戦果を上げることなく休戦協定を結んで帰国したのです。それをよそにドイツ国王は1193年に再びバルト沿岸への十字軍を申し出て174代教皇のクレメンス3世が承認したことでドイツの領土は拡大していきました。
そこから50年間の幕間を置き、1202年から1204四年にかけて176代教皇のインノケンティウス3世が大幅の戦略転換を伴う十字軍を派遣しました。今回はエルサレム奪還と言う趣旨を脇に置いてイスラム勢力の中核・アイユーブ朝の本拠地になっていたエジプト攻略を目指したのですが、戦費不足で輸送を請け負ったヴェネチアへの報酬が支払えず、その見返りにカソリック国であるハンガリーのザラ(現在のクロアチアのザダル)を攻略したため十字軍自体が破門される失態を演じました。その失敗の直後の1209年から1229年には176代教皇のインケンティウス3世がイタリア半島のつけ根から南フランスで多くの信者を獲得していたカタリ派を異端と弾劾してイギリスの貴族にアルビジョア十字軍として出征を命じました。この十字軍は異端者を異教徒以上の大罪人と考えていたため根絶やしにするべく徹底的な殺戮を繰り広げ、これに反発したフランスの諸侯との間で戦闘も発生したため予定外に長期化したのです。隣接する地域で血みどろの戦いを行わせておきながら177代教皇のホノリウス3世は1218年から1221年にハンガリー国王のアンドラーシュ2世とオーストリア皇帝のレオポルト6世による十字軍を派遣し、前回と同様にエジプトを攻撃しました。イスラム側は予期せぬ攻撃に混乱し、軍港のダミエッタの占領を許しましたが、カイロに侵攻する頃には体制を立て直し、これを撃退して失敗に終わらせました。すると今度は178代教皇のグレゴリウス9世が「十字軍の実行」を条件に戴冠させた神聖ローマ帝国のフィリードリヒ2世に出陣を命じましたが、戦争の準備を理由に先延ばしを続け、ついには破門された1228年になってようやく出陣するとイスラム側との交渉でエルサレムの形式的な統治権を獲得して休戦しました。ところが教皇は破門中のフィリードリヒ2世が独断で休戦したことを背信行為として追討の十字軍をしたものの1229年には完全に撃破されて終息しました。
この一連の悶着で教皇が長期にわたる遠征に要する莫大な戦費と多大の負担を全く理解していないことが知れ渡り、十字軍に応じる国は減少していきました。それでも1244年にエルサレムがイスラムに奪還され、キリスト教徒2000人が殺害されため国内から異端者を出し、配下の諸侯が十字軍に刃向ったことを負い目に感じていたフランス国王のルイ9世が180代教皇のインノチェンツィオ4世の呼び掛けに応じ、1248年から1249年にエジプトを目指しますが捕虜となり、莫大な身代金を支払って釈放され、帰国しました。それにも懲りないインノチェツィオ4世は1251年にはイスラム教徒によって支配されていた時代にスペイン北東部の内陸にあるトゥデラに移住し、農民や商人として自治を認められていたユダヤ人を異教徒として大量殺戮しています。そんなバチカンに忠誠を抱き続けていたルイ9世は1270年にも十字軍としてチュニス(現在はチュニジアの首都)を目指しますが途中で病没しました。その意志を受けたルイ9世の弟・シャルル・ダンジューはイギリスの王太子だった後のエドワード1世と共に184代教皇のグレゴリオ10世の命を受けて1271年から1272年にイスラム側の圧迫によって十字軍国が風前の灯火になっていたエルサレムに向かいますが阻止されて撤退、これにより十字軍国によるエルサレムの支配は400年に3年満たずに終了しました。この頃になるとバチカンは十字軍を莫大な戦費を要する遠征ではなく、当時、本格化していた異端審問と連動して異端と断定した信仰を行うヨーロッパ圏内の地域や教団に派遣することが増え、単なる宗教弾圧の手段になっていきました。実際、196代教皇のヨハネ22世は1320年から1321年にも十字軍をスペインのトゥデラに派遣して30000人ものユダヤ人を大量殺戮しています。
バチカンが執拗に十字軍の派遣を決定し、各国の皇帝、国王、諸侯から庶民までがこれに応じたのはキリスト教が同じ旧約聖書の創造主であるユダヤ教のヤハウェやイスラム教のアッラーを認めず、キリスト教=カソリックが説くディオ(=英語のゴッド)だけを唯一絶対で正当な創造主だと信じ、これらの宗教は旧約聖書の中で何度も罰せられる背信の邪教に過ぎず、これを自らの手で滅ぼし、全世界をキリスト教で統一することを創造主に対する忠誠心の証明と思い込んでいたからです。その一方で十字軍はアラブ地域の東方教会の集落も攻撃し、敬虔なクリスチャンたちまで大量殺戮していますから信じていたのはカソリックだったのでしょう。つまり十字軍が殺戮しているのは創造主に祝福された人間ではなく滅ぼすべき背信の徒に過ぎませんから罪の意識を微塵も抱くことはなかったのです。現在では産業革命によって世界で唯一、機械工業を発展させたヨーロッパは軍事力だけでなく医学その他の科学技術と研究開発でも先進の立場を維持していますが、当時はバチカンが宗教による制約をあらゆる分野に加えていたため医学を含む科学の研究は著しく停滞しており、むしろインドや中国との東西交流を持っていたアラビアの方が先行していたのです。ところが十字軍によって先端技術に触れたことで、ヨーロッパでも医学を中心に天文学や化学などへの知的好奇心が芽生えたものの異端審問が為政者の手に渡った結果、発生した魔女狩りにおいてはアラビア伝来の医術で病者を治したユダヤ人が数多く処刑されることになりました。さらに十字軍国が衰退するとイスラム教のオスマン帝国が地中海貿易を独占するようになったため外れにあるスペインとポルトガルは大西洋に乗り出すことになり、大航海時代が幕を開いたのでした。その時、スペインやポルトガルが南アメリカやアフリカを支配する大義名分「キリスト教の布教」もカソリックが与えました。これだけ敵味方=キリスト教徒・非キリスト教徒を問わぬ多くの人々の生命を奪い、各地の都市や集落で破壊の限りを尽くし、資産を略奪し、女性の貞操を奪う大罪を犯しながらもバチカンやキリスト教徒が罪の意識を抱くことはなく、現在でも環境や人権、環境保全や動物愛護などの地域の特異性を自分たちの勝手な価値観で国際問題化して、完全に服従するまで圧力を加え続けてきます。
それだけなら異端審問の踏襲なのですが、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領は聖公会からカロリック的に戒律を重んじるメソジストに改宗した敬虔なキリスト教徒だけに殊更にイスラム教を敵視しており、軍需産業の利益代表として大規模な戦争を望む側近の扇動を鵜呑みにして明確な証拠もないテロをイスラム過激派の犯行と断定してアメリカ軍を現代の十字軍とする事実上の第3次世界大戦を始めました。しかし、バチカンが十字軍や魔女狩りを含む異端審問を公式に罪と認め、懺悔のミサを勤めたのはバルト海沿岸への十字軍に蹂躙された被害地域であるポーランド出身の二六四代教皇のヨハネ・パウロ二世による2000年3月12日になってからです。結局、連合軍として勝利を収めたアメリカ、イギリス、フランスがナチス・ドイツによる大量処分の犠牲者として同情を集めていた「ユダヤ人の悲願を叶える」と言う名目で1948年にパレスチナの民からエルサレムを奪い、イスラエルを建国させることで事実上は十字軍の野望を実現したようです。
  1. 2019/10/03(木) 13:14:47|
  2. 月刊「宗教」講座
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振り向けばイエスタディ1692

岡倉はアフガニスタンに潜入していた。今年(2011年)の5月2日にアメリカがタリバーンによるテロの首謀者と断定しているウサマ・ビン=ラーディンが海軍特殊部隊の襲撃を受けて殺害されたため、その後の国内情勢を確認することが目的だ。イラクでの核施設探しは国務省のテイラーに同行したため先に結論を立ててそれを証明する証拠を見つけるアメリカ式の調査方法に協力させられそうになったが、今回の相棒は「長年の戦友」と言っても差し支えがないイギリスの諜報機関・MI6のジェームズなので成果も期待できる。
「ハンゾー(岡倉のコード・ネーム)、アフガニスタンでは我々のようなヨーロッパ人だけではなくてお前たちアジア人も敵視されているから危険を感じれば躊躇なく発砲することだ」パキスタンとの国境をメディア・パス(報道員査証)で通過するとイスラマバードで買った中古の日本製4WDのハンドルを握っているジェームズが前を向いたまま助言した。2人はメディア・パスで入国したので本来は武器を携行することは許されない。しかし、現地は国際法を厳守していられない事態に陥っているのだ。9.11テロを口実にブッシュ政権が始めた対イスラム戦争=21世紀版十字軍は国連を利用して攻撃の正当性を演出したためイスラム過激派たちに「イスラム教徒以外は敵」と言う極端で悲壮な覚悟を抱かせてしまった。実際、2007年には岡倉も関わった韓国のキリスト教団の集団拉致・殺害事件が発生し、2008年には日本の医療・農業支援組織のメンバーが殺害されている。この殺害事件の後、タリバーンは「この組織が住民の役に立っていることは知っている。だが住民に西洋文化を植えつけようとするスパイだ」「日本のように部隊を駐留させていない国の支援団体でも我々は殺害する」との声明を発表した。やはりジェームズが言う通りに行動するべきだろう。岡倉は外から見えないようにカメラ・バッグの底に隠してある拳銃を取り出して元に戻した。
「アメリカ主導の占領政策は失敗続きだな」荒廃したままになっている街並みを眺めながらジェームズは苦々しげに吐き捨てた。アメリカが主導し、イギリスのブレア政権が追従したアフガニスタンへの侵攻はロシア正教の信者も少なくない北部の軍閥を前面に立てて開始した。アメリカはイスラムの戒律を厳格に強制していたタリバーンに対する反発が国民の間に蔓延しており、その解放者として軍閥を歓迎すると考えていたのだ。
「タリバーンは率先して戒律を守って範を垂れていたから民衆に尊敬されていたんだ。イスラム教の戒律が苦痛を与えるだけの拷問だと思い込んでいるアメリカ政府には理解できないよ」岡倉はアフガニスタンに潜入して見聞したアフガニスタン国民のタリバーンに対する絶大な支持を国務省の役人たちに説明してきたのだが耳を貸すことはなかった。
「その点、我が国はアラビアのロレンスの母国だから少しは理解できるぞ」ジェームズは自分の皮肉を自嘲した。ブッシュ政権は国連の安全保障理事会でCIAの情報を根拠にタリバーンを糾弾するだけでは支持を集められないことを知るとブレア政権に協力を持ち掛けて、MI6が否定しているにも関わらずイギリス政府の見解として「イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を製造している」と発表させた。それでアメリカはアフガニスタンを皮切りとする対イスラム戦争を強行したのだからアラブのイスラムの気風を愛したトーマス・エドワード・ロレンス中佐も砂漠の砂の中(日本人の「草葉の陰」に当たる)で怒っているはずだ。
「おまけにタリバーンを駆逐したつもりが今度は軍閥が国内抗争を始めて、それで軍閥を武装解除したらタリバーンの残党が勢力を盛り返した。とどめがオバマ政権のアフガニスタン撤退だ。世界を巻き込んで問題を起こしておきながら手に余ると自分は撤退する。この調子では中国が国際社会で君臨することになるのは時間の問題だぞ」「やはり大英帝国の復活はないか」今日のジェームズのイギリス流ジョークは中々に冴えている。日本人はアメリカだけが唯一絶対の超大国だと思っているが、オーストラリアから東南アジア、南アジア、さらに中東、アフリカなどの旧植民地におけるイギリスの影響力は現在もアメリカを凌駕している。ただし、そこに侵出してくる旧ソ連や中国に対抗するだけの軍事力を持たないのでアメリカに情報を提供して利用して言うのも両国の同盟関係の側面だ。
「ほう、女性の服装は随分と開放的になったな」市街地でも露店が並ぶ市場に差し掛かると買い物をする女性たちの姿に2人は声を揃えて同じ所見を述べた。タリバーンの時代には街で見かける女性たちはイスラム教の戒律と気候的な理由により、顔を含む全身を布で覆い目元も網で隠すブルカばかりだったが、今回はイランに多い顔以外を布で覆うチャドルや普通の服装で髪と背中をスカーフで隠すヒマールが大半だ。
「意外に美人が多いんだな」これはジェームズのジョークではない。愛妻家のはずの岡倉も素直にうなずいた。この性的関心を防ぐためイスラム教では男性が魅力を感じる部位を隠すのだ。
  1. 2019/10/03(木) 13:13:41|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ1691

杉本と本間はアメリカ国内の中国系と半島系の移民社会を取材していた。大半の日本人は韓国は自由主義の一員としてアメリカと共に朝鮮戦争で戦火を交えた中国や北朝鮮と敵対していると思い込んでいるがそれは本質的に間違っている。朝鮮半島の住人にとって現代の国際社会を区分している政治体制はヨーロッパ人の浅い歴史の中で形成された後発の価値観に過ぎず、有史以来固く結ばれてきた宗主国・中華との絆と民族の血を隔てることなどできるはずがない。宗主国の支配者が共産党になってもそれはマルクス主義の政治組織などではなく、世界の中心の華やかな国家=中華を実現するため新たに成立した政(まつりごと)の府なのだ。
「それにしても韓国の変心は相変らず極端ですね」エンパイア・ステーツ・ビルディングの南側の区画にあるコリアン・タウンを歩きながら本間が日本語で話しかけた。周囲はアジア系の人間ばかりで、聞こえてくるのは英語と韓国語だけなのでこの選択になったようだ。
「うん、コンプレックスの固まりみたいな国民だからな」先ほどまで本間の案内でチャイナ・タウンの街角に貼られている政治的なポスターや広告を見て回ったが「反日」に関する主張は見当たらなかった。購入した中国語の新聞でも同様だ。本間によれば通行人の会話にも反日の気配はなかったらしい。ところがコリアン・タウンではいたる所に(いわゆる)従軍慰安婦問題を糾弾する英語のポルターが貼られている。通りではソウルの日本大使館前に設置する予定の(いわゆる)従軍慰安婦少女像の鉛筆画のパネルを掲げて英語で寄付を呼び掛ける女性たちの姿もある。日本から届く大手新聞では韓国よりも中国の反日デモの方を大きく取り上げているが、少なくともアメリカでは半島系の方が過激なのは間違いない。
「韓国系の連中は国連の事務総長を出したから舞い上がっているんじゃあないですか」「そうだな、完全に図に乗ってるぞ」本間の指摘に珍しく杉本も同調した。確かに2007年に潘基文事務総長が就任して以来、国際社会ではアメリカの属国に甘んじていた韓国は独自の外交らしきものを開始しているが、そこでは戦前の日本の戦争犯罪の宣伝と自分が植民地支配された被害国であって共犯国ではないと言う弁明ばかりだ。それを韓国系の人間はアメリカで代弁しているのだが、反日で共同戦線を張るために中国系が支援しているのは明らかだ。ただし、こちらには大国としての面目があり、政治的計算は比べ物にならないくらい長期的展望に立っているので感情で煽るようなことは控えている。
「アメリカのコリアンには南北の区分がないじゃあないですか。日本人が国家体制にこだわり過ぎるのは実態を見誤る原因になりますね」英語でコリアは韓国を意味して北朝鮮はノース・コリアになる。つまりアメリカにとって朝鮮半島の国家は韓国であって北の朝鮮民主主義人民共和国はその分断国家なのだ。ところがアメリカ在住の移民たちは同じ半島人として共存している。そこには優劣、敵味方などの区分はなく、あるのは「反日」と言う共通の民族意識だけだ。しかし、朝鮮王朝からの委託によって日本が保護国とした統治下では巨額の予算を投じて国土の開発と各種施設の近代化を進め、政治制度や学校教育によって半島人を文明人に引き上げた。韓国が日本による植民地支配に対する「抗日運動」と主張しているのは自国内でのデモやストライキなどの実力行使ではなく、中華民国の北京や上海と満州、アメリカのハワイや西海岸で日本の公館や企業を襲撃し、日本人に暴力を加えた不法行為のことなのだ。
「あそこで(いわゆる)従軍慰安婦少女像の寄付を呼び掛けている女は北の人間だな」ハンド・マイクで感情的な怒声を張り上げている女性たちの騒音はかなり離れても追いかけて来る。杉本は軽く振りかえると本間には識別できない韓国語と朝鮮語の癖=方言を指摘した。
「ところで今田(こんだ・本間の偽名)は韓国語の勉強をする気がないみたいだな。朝鮮半島は中国の一部だから関連する事案も多いだろう」最近、本間は北京語、広東語に続く言語としてベトナム語とタイ語を学んでいるが朝鮮語には近づかなかった。本間が生まれ育った豊橋市は戦前から工業地帯だったこともあって徴兵による人手不足に苦慮した企業が朝鮮半島で募集した労働者が多数働いていた。ところが日本の敗戦によって給与の支払いが困難になり、旅費が工面できなくなった彼らはそのまま日本に定住し、第3国人と自称して傍若無人に振舞うようになっていった。その子供や孫にあたる本間と同世代の半島人の生徒たちも暴力や恐喝を常態化させていて接触を避けるのが自衛手段だった。
「韓国語は杉本さんと岡倉さんがいるから私は東南アジアに手を広げた方が業務の幅が広がるでしょう。最近の中国は東南アジアを虎視眈々と狙っていますからね」これは表向きの理由だが本音では朝鮮民族に対する嫌悪感の方が強い。本間は台湾を中心に情報活動を展開しているため同じような歴史を持ちながら真逆の評価をしている韓国が許せなくなっていた。沖縄も韓国と同様の状況にあることは王茂雄中校から聞くだけなので実感は持っていない。
  1. 2019/10/02(水) 13:05:31|
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10月3日・大阪商人を描いた作家・花登筺(こばこ)の命日

昭和58(1983)年の明日10月3日は高度経済成長期に大阪や関西圏を舞台にした商人の成長と奮闘の物語を描いた多くのドラマで絶大な人気を獲得していた作家の花登筺さんの命日です。
花登さんと言えばテレビを独占していた大阪商人のドラマが有名ですが、実は時代劇を含むジャンルを問わぬ極めて多くの小説や脚本を手掛けていて、土曜日の午後の定番だった大村崑さんや芦屋雁之助さんが出演する上方喜劇も手掛けていたそうなので野僧も物心がついてからずっとお世話になっていたようです。
花登さんは昭和3(1928)年に大阪商人を含む関西の商人の源流とも言うべき近江の商家で生まれますが、生後間もなく姉の嫁ぎ先の養子になったことで花登姓を名乗ることになりました。ただし筺は筆名で本名は善之助だそうです。
旧制中学校を卒業した昭和22(1947)年頃から地元の青年団の素人劇団に参加して演劇活動を始め、翌年には大津市で劇団を結成して自作の劇を上演しています。昭和26(1951)年に同志社大学商学部を卒業して大阪の綿糸問屋に就職しますが結核を患って退職し、療養後はラジオ局にドラマの脚本を売り込んで採用されるようになったことで職業作家に加わりました。
昭和29(1954)年にはラジオ番組の脚本作家やミュージック・ホールの構成や演出家として東宝と契約しますが、大阪のテレビ番組「やりくりアパート」で人気を博していた中山千夏さんを東京でも使いたいとの申し入れを拒否したことで独立して大村崑さん、芦屋雁之助さん、芦屋小雁さんと共に「劇団・笑いの王国」を結成しました。
その後は大阪ならではの企業間の駆け引きや人間同士の確執などにより、複雑な変遷を辿りますが、昭和39(1964)年に劇団を解散すると大阪のテレビ局の番組を量産するようになり、野僧が知っている花登筺さんになっていきました。
花登ドラマと言えば何と言っても「どてらい男(やつ)」と「あかんたれ」ですが、その他にも両親が見ていた「細うで繁盛記」「大根の花」「赤福のれん」なども記憶に残っています。意外なところではスポーツ根性アニメの「アパッチ野球軍」の原作も花登さんです。このアニメは題名だけ見ると魔球を繰り出す超人的な選手が活躍する「巨人の星」や「侍ジャイアンツ」のような梶原一騎さん式のスポーツ空想物語かと思ってしまいますが、実際は前作「エースの条件(水島新司さんの野球漫画デビュー作)」の続編でプロ野球を断念した主人公が田舎で野球を教える花登さんらしい苦労物語です。
大阪と東京の営業マンの違いは東京式では結果が全てで売り上げが獲得できない企業訪問は時間の空費として叱責・懲罰の対象になりますが、大阪式では営業マンは顔を売ることが第1で無駄足を踏むことも「兄ちゃん、よく来るのに何も買わんで悪いなァ」と声をかけてもらうための下準備なのです。そんな濃密な人間関係による営業が成り立たなったのは「まんが日本昔ばなし」が終わって都市部の家庭や子供社会が無味乾燥化したのと同様に花登筺ドラマが消えたことも影響しているのでしょうか。
  1. 2019/10/01(火) 12:40:29|
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振り向けばイエスタディ1690

7月に入り松本はハワイ・ホノルルに帰宅した。現在、ニューヨークの日系人向け雑誌・ウィクリー・ジャパン編集部では松本の情報提供によってアメリカ社会ではあまり報じられていない中国や韓国の反日運動の過激化に関する取材=調査に励んでいるが、中東が専門の松本はシリアでのイスラム過激派の動きに神経をすり減らしていた。ブッシュ政権によってサダーム・フセイン大統領が殺害されたため、それまで圧倒的武力で押さえられていたイラク国内のイスラム過激派が野放しになり、続くアメリカ軍などの侵攻によって隣国・シリアに逃れて抗争に火が点いている。松本は編集部に集う特別職国家公務員たちの中では唯一の高卒だ。一般空曹侯補学生として入隊し、航空機整備員から空中輸送員=ロードマスターになったのだが、ゴラン高原のPKO部隊への物資輸送でヨルダンへ頻繁に行くようになってアラビア語に興味を持ち、名古屋市内の教室に通い始めると天賦の才があったのか極めて短時間で修得した。このため空曹としては異例の現地空港事務所に配置されていたところを視察に訪れた先々代の在ワシントン防衛駐在官・野中将補に見出されたのだ。
「その後、モリヤ2佐の娘には会うことがあるのか」松本は事実婚の妻・ユキの手料理を前に個人的に気になっていることを訊ねた。やはり曹侯学生の先輩で面識もあるモリヤ2佐の愛娘に危害が加わりかけた事件は常に意識の片隅に留まっている。
「志織には学校で会うわ。問題を起こした盧は退学になったから顔を見ることはないけれど。やはり他の韓国系の生徒は志織を憎悪しているみたい」「相変わらず怨の文化を外国にまで持ち込んでいるんだな」ここで会話に間を置いて日本式の作法で手を合わせ、箸を取って味噌汁をすすった。ユキの味噌汁は実家であるヒトヒラ家流だが西日本出身の松本の好みにも合っている。ただし、具の野菜がハワイの地元産なので色合いや食感が微妙におかしい。
「それでモリヤ2佐の娘に危険は及んでいないんだろうな」ユキの認識では志織の親の階級は母・佳織の「カーネル(1佐)」のはずだが松本にとっては先輩である父親の「ルテナン・カーネル(2佐)」になる。松本自身は野中将補に声をかけられて帰国すると部内の幹部候補生に合格して任官した直後に出国=失踪した。だから現在の3佐が最終階級だと自覚している。
「そこは事件の直後だから控えているわ。それでも根も葉もない悪い噂を流す嫌がらせは始めていたんだけど志織が黙らせてしまったのよ」意外な説明に不思議な熱帯魚の刺身を口に入れかけていた松本はそのまま放りこんで噛み締めた。アメリカ在住の日系人には殊更に波風を立てること避けようとする気風があり、組織的に敵対してくる韓国系の生徒に集団で対抗するとは考えにくい。そうなると志織が単独で立ち向かったことになる。
「7月4日のハイスクールのセレモニーで志織がエンブを披露したのよ」7月4日とは独立記念日のことでアメリカでは日付で言い表すことが一般的だ。エンブと言うのは「演武」をそのまま日本語で説明したようだ。
「モリヤ2佐の娘がやってるのは居合道だったよな。韓国系の生徒に向かって真剣を振り回したのか」「まさかァ。それじゃあ志織が逮捕されてしまうじゃない」松本にしては珍しい的外れな推理にユキは口を開けて苦笑した。松本は居合道に詳しい訳ではないが、それでも小牧基地にも居合道部があって航空祭で披露した型や試し切りの演武をを見たことがある。あの真剣で人を切る動作を自分に向けられればアメリカ人は怖れ慄くだろう。
「勿論、キル フォームのデモンストレーションも披露したけど・・・」そうやらユキは殺すの「キル」と斬るの「キル」を混同しているようだ。早い話が型も披露したのだ。
「その後に志織が警察の許可をもらって持ち歩いている短い剣でバンブー(竹)を切ってしまったのよ」志織としては祖父のノザキ中佐が頼んで預っている父の軍刀の真剣で青竹の一刀切りを披露したかったのだが、流石に許されなかった。そこで脇差しを小太刀の要領で振り、少し細めの竹を切ったのだ。それでも上に葉が繁った硬い青竹が斜めに切れて倒れた時は観衆の間で男性のどよめきと女性の悲鳴が起こった。
「みんなベースボールのバットみたいに長い剣を両手で振れば誰でも切れると思っていたけど、短い剣でバンブーが切れるなら、盧を気絶させた定規の代わりに使えば首が飛んでいたって震え上がったのよ」逆に言えば韓国系の生徒たちは自分が加害者になる可能性を共有していたのではないか。刀剣による斬首刑は日本だけでなく中国や朝鮮半島から中東までのアジア全域で広く行われているが、日本の切腹と介錯の作法は幕末の外国人殺害事件の処罰に立ち合った駐日公使たちが「残酷で美しい処刑」との感想を本国に送っているので、特別視されているのかも知れない。それに加えて第2次世界大戦でも日本陸軍が踏襲していたので尚更だ。
「流石はモリヤ夫婦の娘だな」松本はユキが注いだビールを飲み干すと手料理に下鼓を打った。
い・JunJiHyunイメージ画像
  1. 2019/10/01(火) 12:39:13|
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