fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月1日・イタリアの降伏を実現したピエトロ・バドリオ首相の命日

1956年の明日11月1日は早い段階でベニト・ムッソリーニ首相を追い落とし、イタリアの降伏を決めながらナチス・ドイツのローマ侵攻には抵抗をせずに逃亡し、南北に分かれた国内戦を引き起こしたピエトロ・バドリオ首相の命日です。
バドリオ首相は1871年にイタリア北西部のピエモンテ州で生まれ(アレキサンドリアとする説もある)、イタリア軍に入営してトリノの士官学校を卒業するとイタリアが1895年から1896年にかけてアフリカ唯一の独立国だったエチオピアの分裂に介入して行った第1次エチオピア戦争に参加しました。この戦争では当初、ヨーロッパの近代兵器と軍制を有するイタリア軍が優位だったのですが、アフリカ人への蔑視と緒戦の勝利に奢ったことでフランスから同等の火砲と銃器を購入し、敗戦を教訓として戦術を練った皇帝の軍に敗北したのです。バドリオ大尉は敗走するイタリア軍を支える戦闘を指揮し、司令官以下大半の士官が懲罰を受けた中で恩賞的に少佐に昇任しています。
1914年からの第1次世界大戦では歩兵師団の参謀や戦闘団長として活躍したことで1916年には少将に昇任し、オーストリア・ハンガリー帝国との休戦交渉では全権大使を務め、戦後は1919年から陸軍参謀長に就任しています。
ところが1922年10月にムッソリーニ統領がローマ進軍で政権を奪取すると、これを批判してブラジル大使に追いやられたものの帰国した1925年には国防軍参謀長も兼務し、1926年には元帥に昇任して1928年には侯爵に叙せられ、陸軍参謀長の職を辞してリビア総督に就任しています。ファシスト政権下で厚遇を受けたことで表立った批判は控えるようになり、1935年に発生した第2次エチオピア戦争では慎重な姿勢を取る司令官の後任を命じられると毒ガスや焼夷弾を使用して皇帝軍を壊滅させ、早期占領を実現させました。この戦功によってイタリアのアフリカ植民地の副王の地位と公爵を与えられた上で国防軍参謀長の椅子に腰を据えていたのです。
しかし、ムッソリーニ政権がヒトラー政権に同調して第2次世界大戦への参戦を指向するようになると戦力不足を理由に反対し、全ての職を辞して隠遁生活に入りました。そして1941年12月の日本の真珠湾攻撃によってアメリカが参戦する口実を得たことでヨーロッパの戦況が逆転すると軍首脳として復活し、1943年の北アフリカからの撤退、連合軍のシチリア島侵攻を受けてムッソリーニ首相の解任を画策し、国王に「統帥権の返納」を報告に来たところを拘束し、バドリオ元帥が首相に任命されました。
バドリオ政権はナチス・ドイツによるオーストリアからの侵攻を危惧して秘密裏に降伏に関する交渉を進めていましたが、アイゼンハウアー連合軍最高司令官が一方的にイタリアの降伏を発表したためローマを占領されると国王と共に半島南部に逃亡し、ナチスの傀儡のファシストの残党と内戦を繰り広げることになりました。敗戦後は戦争犯罪に問われることはなく全ての公職を辞して故郷で隠居生活を送りました。
日本の降伏を成し遂げた鈴木貫太郎首相は就任直後に「俺は日本のバドリオになるぞ」と家族に決意を語っていたそうなので真価を理解する人物は日本にもいたようです。
  1. 2019/10/31(木) 12:40:30|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1720

名寄に帰って森田曹侯補士は代休と年次休暇で丸々1週間の休暇をもらった。本人としては毎週連続で照子の平日の定休日に休ませてもらった方が有り難いのだが自衛隊はそこまで甘くない。それでも今夜は照子のアパートに泊まり、明日の定休日には実家に行くことになっている。
「貴方、お帰りなさい」夕方、照子の店で本を選んでレジに立つとカウンター越しに顔を近づけて声をかけてきた。まだ下校時間には早く照子は貸し切りなので立ち話ができる。
「今日は北鎮記念館を見学してきたよ。あらためて見てみると色々と勉強になったな」「だから坂の上の雲なのね」レジで文庫本3冊のバーコードを読み取りながら照子は納得した。NHKは2009年末から3年越しの長期ドラマとして司馬遼太郎の傑作「坂の上の雲」を放送しているが昨年末の第2部では乃木の第3軍が旅順要塞攻撃を始めたところまでだった。北海道の第7師団が旅順要塞攻城戦に参加するのはこれからになる。つまり照子は全編を読破しているようだ。一方の森田曹侯補士は両親が愛媛県出身ということもあり、家の本棚にはハード・カバーの3巻が鎮座していた。森田曹侯補士も中学生の時、この本で夏休みの読書感想文を書いたのだが、沖縄の教師からは「戦争賛美の小説だ」と叱責されただけだった。
「これから喫茶店で照子の仕事が終わるまで読んでるつもりだから呼びに来てくれよ」「うん、晩御飯は家(うち)でね」照子はそれが以前待ち合わせた喫茶店であることを確認するとお釣を手渡した。気がつくと次の客がCDを持って待っていた。
「今日は遅くなったから海老フライはまたね」アパートに帰った照子はエプロンをしながら台所に向かった。月初めは新刊や新着CDの発売が重なるため閉店が遅れたのだ。今日のオカズは一緒にスーパーで買ってきたから鮭の刺身と判っているが言い訳のために説明したらしい。
「これだったら外食にした方が良かったみたい」タイマーで飯が炊き上がっていることを確認しても照子の独り言は続く。森田曹侯補士は座卓で読みかけていた文庫本を閉じてその背中を見詰めた。すると照子は袋から野菜を取り出し、刺身に添える野菜サラダと味噌汁を作っている。味噌汁は北海道では嫁には喰わせない秋物になりつつある茄子で、千切ったレタスにスーパーの総菜のポテト・サラダを載せれば完成だ。
足でリズムを取りながら包丁を使っている照子の尻を見ていて森田曹侯補士は突然、性的衝動に駆られてしまった。前回の宮古市での泥にまみれた復興作業とは違い石巻での炊事と入浴支援では体力を消耗しておらず、任務から解放されて今まで保っていた自己制御が効かくなったようだ。森田曹侯補士は立ち上がると背後から照子の腰に手を回して抱きついた。
「こらッ、刃物を使っているのに危ないでしょ」「駄目だッ、我慢できない」森田曹侯補士は荒く鼻息を吐きながら照子のスカートを捲り上げ、下着に手を掛けた。
「刺すぞ」「刺すのは俺の方だ」照子が前を向いたまま包丁をかざすと森田曹侯補士は言葉で制して手際よく片手で自分のGパンのベルトを外し、一気に下半身を露出した。次の瞬間、照子の脳に衝撃が突き上げ、目の前に赤い閃光が走った。結局、2人の第2ラウンドは速攻に始まり、布団も敷かない畳の上での徹底攻勢になり、照子は快楽の渦で溺死した。
「森田謙作です。始めまして」「照子の父です」「母です」「叔父です」「義理の叔母です」「その下の叔父です」「その嫁です」翌日、森田曹侯補士はタクシーで照子の実家に行った。牧場の牛舎に隣接する家の広い客間で作業着のままの親族と対面した。客間の梁には明治期に岩手県から屯田兵に志願して旭川に配属されてきた初代一家以降の家族写真が大きく引き伸ばされて並べられている。その初代の軍服姿は照子の部屋に掛けられている北海道巡幸屯田兵御覧の図に重なってくる。照子の父や叔父たちの顔立ちもやはり似ていた。
「照子からお話は聞いています。随分お若いとは聞いていましたが、まだ大学生くらいのお年のようですね」「はい、23歳になりました」森田曹侯補士は本来であれば遅くとも今年の1月には3等陸曹になっていたはずだが滋賀総監の着任によって無期限延期になり、年齢だけが昇任してしまった。今思えば前任の総監も生徒出身の防衛大学校卒で曹侯補士の3曹昇任を遅らせていた。結局、自衛隊工科学校に改編された生徒の採用枠を維持するため先輩の将官たちが強権を揮ってきたと言うことではないか。
「貴方みたいに若くて素敵な人がどうして照子みたいな離婚歴がある年増とつき合うことになったんですか」黙ってこちらを凝視している父親に代わって母が質問してきた。両側に並んでいる叔父叔母も一斉に顔を向け、隣りに座っている照子は肩に身を寄せてきた。
「はい、それは自分にも判らないんですが、磁石が引き合うみたいにくっ付いて離れられなくなっています」「本当にくっ付いてるな。そんな照子を見たことがないぞ」森田曹侯補士の不可解な説明を下の叔父が呆れたように納得し、両親は顔を見合わせてうなずいた。
  1. 2019/10/31(木) 12:38:26|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

10月31日・毛沢東の軍事スパイ・銭学森の命日

2009年の明日10月31日は軍事スパイとしてアメリカから最新の核兵器とロケットの技術を盗み出して毛沢東国家主席が渇望していた核爆弾を搭載した大陸間弾道弾を実現した宇宙航空工学者の銭学森博士の命日です。97歳でした。
銭博士は1911年に浙江省杭州市で唐朝末期の呉と越(=ベトナム)王の33代目の末裔として生まれ、当時としては正当で高度な教育を受けて成長し、上海交通大学を卒業した後、アメリカへの留学予備校である清華大学に進学して1934年に公費留学生に選ばれると翌年にマサチューセッツ工科大学に留学しました。そのままマサチューセッツ工科大学で修士号、カリフォルニア大学で博士号を取得して1942年からはアメリカの核開発研究であるマンハッタン計画に参加しています。
1944年にはアメリカ戦争省の科学顧問に就任し、さらに終戦後の1947年にマサチューセッツ工科大学、1949年にはカリフォルニア大学の教授になってアメリカの国防と工学界の中枢で存在感を増していきますが、1950年にジョセフ・マッカーシー上院議員が告発した政府内の共産党員の存在に対する危機感から始まった「赤狩り=マッカーシズム」によって自宅軟禁を受け、1955年に朝鮮戦争におけるアメリカ兵捕虜との交換で共産党中国に送還されました。実際、銭博士は上海時代に共産党に入党しており、マッカーシズムそのものはソ連を敵視していても中国では1949年10月1日は国共内戦に勝利した共産党が政権を奪取していたためこの追放には根拠がありました。
ところが中国側の視点で見るとこの追放は「渡りに船」「願ったり叶ったり」だったのです。アメリカが日本のヒロシマと長崎で実用試験を行った原子爆弾の威力を知った毛沢東国家主席はこの兵器を手中に収めることを渇望するようになり、終戦後、共産党中国を樹立するとアメリカに対抗するべくナチス・ドイツから連行した科学者に核開発を命じていたソ連の研究機関にヨーロッパへ留学していた中国人の科学者を参加させるべく送り込んだのです。しかし、毛沢東国家主席の本性を察知していたヨシフ・スターリン書記長は受け入れを拒否したため中国の核開発は頓挫したままになっていました。そこにソ連以上の最新科学技術を盗み取った銭博士が戻ってきたのですから毛沢東国家主席が歓喜したのは言うまでもありません。
帰国後は銭博士のために設立された中国科学院力学研究所の所長に就任し、スターリン書記長の死に際して毛沢東国家主席が弄した恫喝によって送り込まれてきたソ連の科学者と共に野望を次々に実現していきましたが、この結果を見ると銭博士は上海で共産党に入党した時からアメリカで最新技術の盗み取ることを命じられていたとしか思えません。
現在も中国共産党は外国に居住している中国人に非常時の命令に従う義務を課しており(日本でも長野での聖火リレーの時に発動された)、情報収集も同様なので全員がスパイと見るべきなのです。また日本の核開発や宇宙工学の最先端技術の研究を行っている大学には在日韓国人と称する在日朝鮮人が多数在籍しており、学業を修了すると韓国に帰国した後、中国経由で北朝鮮に渡り、核兵器やミサイルの開発に参加しているそうです。
  1. 2019/10/30(水) 11:04:57|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1719

「父は9月で教師を辞めたのよ」「身体の具合が悪いのか。舌が回る間は頑張るって言ってたじゃあないか」夕食と入浴が終わり、ベッドの中の寝物語でジアエが思いがけない話を始めた。韓国には定年制度がないため生涯現役を目指す高齢者も少なくない。義父も若い教師たちの思想的偏向に危機感を抱いており、事実を伝える生き証人として生涯現役を貫くつもりだったはずだ。然も韓国では3月で進級するため9月では学年半ばでの途中退職になる。
「身体は相変らず強健なんだけど生徒や同僚から批判を受けて授業をボイコットされるようになったみたい」「それは酷いな。理由は何だい」義父の専門は英語だから生徒の反発を招くような内容はないはずだが事情は判らない。
「今の我が国では日本を批判しない者は社会から排除されてしまうわ。父は日本の統治下で近代化が実現した史実を生徒に教えてきたんだけど、それを植民地支配と否定している教師たちに批判されて生徒やPTAの前で公開討論をさせられたの。そうしたら話の内容を聞かずに罵声を浴びせられて、そのまま裁判みたいになって退職を要求されたのよ」「まるで中国の文化大革命の時の人民裁判みたいじゃあないか」アメリカでも中国系や半島系の閉鎖された社会では住民による糾弾と制裁が横行していて社会問題になっているが、当局が摘発に乗り込んでも被害者まで証言を拒否するため事実上は放置・黙認されている。日本では江戸時代に確立した法治主義・司法制度が韓国では現在も根づいていないようだ。
「お前は法務士官としては違法性を告発しないのか」「現在の法曹界の上層部は盧武鉉政権が任命した反日的な人間ばかりだから結果は判ってるわ。それにあくまでも公開討論会であって生徒の質問に父が答えられなくなっただけだと学校は組織ぐるみで口裏を合わせているのよ。結局、父の私的理由による依願退職にされたわ」陸軍の法務士官であるジアエでも告発できないほど韓国社会は反日一色に塗り固められていると言うことだ。
「そんな辞め方をしたんじゃあお父さんも働く意欲を失ってしまったな」「それが妙に気合いが入ってるのよ。始めは私も母も強がりだと思っていたけど本気みたい。聖也に半分日本人の血が流れていることが誇りだって前よりも大切にしてくれてるわ」岡倉は義父の真情を慮りながらダブルベッドの隅で眠っている聖也の寝顔を覗いたが自分に似ていて嫌になる。それにしても愛国者として韓民族に誇りを抱いていた義父母でも現在の狂気には耐え難いのだろう。
「父はこれから神学校に入って神父を目指すって言ってるわ。学校教育が人の道を説かなくなったらカミの教えを伝道するしかないって。当然、母も大賛成よ」これは意外な展開だ。義父の人間性を考えると懺悔室で罪の告白をすると説教が返ってくるウルサ型の神父になりそうだ。
「でも父だけじゃあないのよ」深刻な話が区切りになり、久しぶりに性欲が高揚している岡倉が抱き寄せるとジアエは腕の中で続きを始めた。
「私も陸軍の中で日軍(自衛隊)のスパイだって言われ始めてるわ」「日軍のスパイって言っても自衛隊と韓国軍は同盟軍だから情報は共有するのが原則だろう」岡倉の時代にはなかったが現在の陸上自衛隊幹部候補生学校は韓国陸軍士官学校と相互訪問を実施している。日本では政治は対立しても中国と北朝鮮と言う共通の脅威に対処している防衛分野での信頼関係は盤石だと思われているはずだ。岡倉はパジャマの上から乳房を揉んでいた手を止めた。
「金大中政権と盧武鉉政権で軍の対北朝鮮強硬派は一掃されてしまったから親中親北朝鮮でなければ居場所がないのが現在の我が軍なの。私の志望動機は・・・」「大韓航空機爆破事件の金賢姫の姿を見て宗教を認めない北朝鮮の体制に強い危機感を抱いたんだったな」岡倉の代弁にジアエは何故か恥ずかしそうにうなずいた。
「その北朝鮮に対する危機感さえも反北朝鮮の敵対者にされてしまうところまで進んでしまっているわ」確かに韓国社会では日本のような常識や適当による制御が機能せず、むしろ過激化が留まることがなく完全否定するところまで突き進んでしまう。ただし、それは宗主国・中国や同胞である北朝鮮には向かない。要するに日本だけが憎いのだ。
「今の上層部は日米安保条約では日本とアメリカは対等な同盟関係なのに我が軍は戦時には大統領を飛び越えてアメリカ人の国連軍司令官の指揮下に入らなければならない。これも日本の植民地支配の結果だって批判しているのよ。馬鹿みたい(パボ・チョルム)でしょう」「みたい(チョルム)はいらないな」こうなると韓国はアメリカにも反発していることになる。やはり経済的に中国との依存関係が強まったことで有史以来の従属意識が復活し、自己犠牲的な投資によって国土の建設を進め、国家の近代化を成し遂げた日本と朝鮮戦争で54000人もの若者の血で国土を染めたアメリカからの恩恵さえも負の記憶にしてしまっているようだ。
「私、予備役になって貴方と暮らしたいな」この呟きでようやく夫婦の営みに移ることができた。
す・韓国軍イメージ画像(韓国陸軍)
  1. 2019/10/30(水) 11:03:31|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

10月30日・第442戦闘団がテキサス大隊の救出に成功した。

1944年の明日10月30日にヨーロッパ戦線で文字通りの死闘を演じ続け、多大な武勲戦功を上げていた日系人2世部隊・第442戦闘団の通称・第100歩兵大隊が10月24日にルクセンブルクの南方とフランス東部のアンザス地方の国境地帯であるボージュ山地でナチス・ドイツ軍に完全に包囲されて全滅も時間の問題視されていた第36師団第141連隊第1大隊=通称・テキサス大隊=別称・失われた大隊の救出に成功しました。
第100大隊がこの救出作戦を命ぜられたのは山間の街・ブリエリで、同じ第141連隊の他の大隊が攻略に失敗していたナチス・ドイツの精鋭部隊・武装親衛隊が守備する山岳地帯=「黒い森」の突破に10月24日に成功した直後でした。
ナチス親衛隊に占領されていたブリエリの住民たちは「アメリカ軍が解放に来た」と聞いて自分たちよりも巨体のアメリカ人を想像していたのですが、現れたのは遥かに小柄な東洋人だったので目を疑ったもののその厳格な規律と人懐こい笑顔に魅了されて可能な限りの歓待と慰労を始めていました。しかし、兵員の多くは激戦で負傷しており、無傷の将兵も疲労困憊しており、10月25日のこの命令はあまりに過酷でした。
一部の第442戦闘団=日系人2世部隊に関する戦史読本ではこの命令がテキサス州の選挙民の圧力を受けた有力議員の要請を受けたフランクリン・ルーズベルト大統領の直接命令だったとされていますが、野僧がアメリカ軍の友人を通じて調べた公式記録にはそのような記述は見当たらず、それぞれの筆者の想像か創作の可能性が高そうです。
実際、アメリカ政府と陸軍はナチス・ドイツの非人道行為を批判している立場上、日系人部隊に過酷な戦闘を命じ、多大な犠牲を強いれば「敵国民でありながら戦時の軍に志願した義勇的移民をアメリカ兵の弾除けに使った」「ヨーロッパ人を守るためアジア人を盾にした人種差別である」などと批判の材料にされる可能性は認識しており、第442戦闘団の編成が完結し、訓練が終了した後も前線には投入しなかったのです。
したがってこの命令は上級司令部から救出を命ぜられた第36師団が第141連隊に作戦の実施を催促した結果、黒い森で戦力を消耗した上、救出作戦にも失敗していた第2、第3大隊ではなく成功を収めていた第100大隊に現状も確認せず命令を下したと言うのが真相のようです。ただし、第100大隊の損害も第2、第3大隊と大差はなく、ヨーロッパ人の部隊であれば指揮官が数値で説明して実施不能を申し立てたはずですが、第100大隊のヨーロッパ人の指揮官以下の幹部が引き受けたのは部下を犠牲にすることに感じる良心の呵責が弱かったのかも知れません。
第100大隊は傷む身体を引き摺って戦場に臨み10月26日から戦闘を開始しますが、ブリエリを失っていたナチス・ドイツ軍の抵抗は凄まじく211名のテキサス大隊を救うのに第100大隊は戦死者216名、600名以上が手足を失うなどの重傷を負ったのです。この戦闘直後の11月11日に行われた第1次世界大戦休戦記念日の式典で第36師団長が第100大隊の兵員が26名しかいないことを見咎めて「全員出席させろと命じたはずだ」と叱責すると指揮官は「残ったのはこれだけです」と答え、衝撃のあまり訓示もできなかったと言われています。
2世部隊物語・ミッキー熊本軍曹「2世部隊物語」ミッキー熊本軍曹
  1. 2019/10/29(火) 11:45:54|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1718

アメリカ軍が撤退を始めたアフガニスタン情勢を現地で確認していた岡倉は相棒のジェームズが本国からリビアへの移動を命じられたため8月一杯で出国することになった。ジェームズはトルコ経由で地中海を渡る予定で、イスタンブールで松本と合流するらしい。一方の岡倉はアメリカに帰る途中で韓国に寄り、ジアエと聖也(セインヤ)との家族団欒で激務の疲れを癒すつもりだが、酷使されているジェームズを思うと後ろめたい気持ちになる。
「貴方、お帰りなさい」「アッパ、エオセオ・オセヨ(お父さん、お帰りなさい)」ジアエはいつものように聖也の手を引いて玄関で出迎えたが、岡倉はアフガニスタンで見てきた寡婦と孤児たちの姿が重なって無意識に後ずさってしまった。それでもジアエは顔を染めている疲労の色で全てを察して何も言わず、岡倉も黙って聖也を抱き上げるとリビングに向かって歩き始めた。この長い廊下が岡倉を家族に引き戻してくれる帰路になっているようだ。
「お帰り、タイガー」「お疲れさまでした。今年は秋夕までいられるの」リビングの空気もいつもと変わらない。岡倉は義母に訊かれて初めて今年の秋夕が9月11日から13日なのに気がついた。しかし、1週間以上の長期休暇はアフガニスタン情勢について報告する責任を考えれば難しい。アフガニスタンの水面下の情勢はこの休暇をためらうほど緊迫していたのだ。
「今年は出張のついでですから少し早くなってしまいました。墓参りはジアエが休みの4日の日曜日に行くことにします」岡倉の説明に義母は半分残念そうに、もう半分は墓参を欠かさない婿に感心した顔をしてうなずいた。
「ソウル市内では随分と嫌な思いをしただろう」岡倉が乗り換えたタイの空港で買ってきた土産のお菓子を食べた聖也がソファーで昼寝をすると義父が難しい顔になって話題も変えた。ソウル市でも郊外にある李家に来るまでには市街地を通らなければならないが、反日団体の街頭演説に聞き入っている群衆の姿やいたる所に貼ってある(いわゆる)従軍慰安婦問題を糾弾するポスターを見ると韓国人の反日感情は狂気の域に達しているように感じた。
「確かにこの家では日韓友好が守られているのに国家同士となると何故ここまで憎悪されるのか全く理解できません。これは失礼な言い方ですが韓国が問題視している反日の原因は日本側にあるとは思えないんです」実際、訪問するたびに韓国の反日の色合いは濃くなる一方だ。その原因については杉本と本間を交えて話し合っているが明確な解答は得られていない。
「タイガーは従軍慰安婦や徴用工の問題はどう考えてるの」岡倉が呈した疑問に義母が質問を被せてきた。義母は少し皮肉屋なので反論しているように聞こえるが実際は逆である。
「結局、どちらも日本の朝日新聞や岩波書店とそれにつながる亡国言論人が発掘して喧伝した虚構でしょう。従軍慰安婦は朝日新聞の捏造だし、徴用工は岩波書店の歪曲です。韓国のマスコミはそれを請け売りして世論に火を点け、政府は世論に迎合しながら外交カードに利用してきた。ところが韓国ではその虚偽の史実が勝手に暴走を始めて誰にも止められなくなってしまったようです」やはり岡倉の見解に義父母も納得したようにうなずいた。
「戦時中に日本軍が前線でも売春宿を営業させていたのは確かだ。そこで韓国の妓生(キーセン)宿で買った娼婦たちを働かせていたのも間違いない。その中には貧しい親に売られた初潮前の少女もいただろう。しかし、日本の韓国総督府や軍が女性を強制連行させた事実はない。それを捏造したのは朝日新聞だ。私は朝日新聞が女性狩りの現場と書いた済州島の出身だが、父や兄は妻や姉を奪われて黙っているような情けない男ではなかった」この話は何度も聞いているが、今日は酒が入っていないので淡々とした口調になっている。
「それにしても朝日新聞や岩波書店はどうして自分の国を貶めるような主張ばかりするの。日本人は何故そんな新聞や出版社を許してるの。我が国では考えられないわ」義母の質問に義父とジアエも岡倉の顔を注視した。この説明も会話に区切りをつけるためには繰り返すしかない。岡倉はジアエが注いだ熱い紅茶の湯気を吸ってから口を開いた。
「朝日新聞はスターリン時代の第3インターナショナル戦略の下部組織に組み込まれて以来、日本が破滅させることを目的とする世論喚起を繰り返してきました。戦前は大陸での戦争拡大を扇動しながら南進を主張して、シベリアへの脅威を除きつつ英米との衝突を画策した。そうして国民党軍との長期戦でどちらも消耗させて毛沢東の共産主義国家の樹立を助けた。戦後は一貫して日本人の愛国心を阻害する一方で国際社会での立場悪化を画策してきた。ところが日本のインテリとエリートたちは自分たちが愛読している朝日新聞と岩波書店を知性の証明のように喧伝したから多くの国民も信じ込んでしまった。だから日本では未だに盤石の地位を維持しているんです」今回も岡倉はこの説明をしながら「隠れ赤報隊(=朝日新聞阪神支局襲撃事件を起こした)」と陰口を叩かれていた同期・モリヤ候補生の顔を思い出していた。
  1. 2019/10/29(火) 11:44:54|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1717(一部、実話です)

私としては直属上司である防衛大臣と同様に業務上の影響を受ける法務大臣の情報も収集しなければならない。こちらは山口県岩国市の選出なので田沼元准尉への依頼になる。私は翌日の土曜日に自宅のパソコンで手紙を打った。
「貴地ではお盆の檀経回りが一心地ついたところに秋彼岸ときますが無理しておられませんか」書き出しは同業者の心配風だが東京圏での盂蘭盆会は7月15日なので今一つ真実味がない。尤も私は宗教法人としての坊主業界には関わっていないので盂蘭盆会が7月と8月のどちらにしても他人事ではある。つけ加えれば春・秋分の日に祖先の慰霊を営むのは本来、神道の儀礼であって佛教が彼岸を勤める根拠はない。実際、中国では4月8日に清明(シーミー)節、朝鮮半島では太陰暦の8月15日に秋夕(チュソク)として宗教に関係なく祖先供養を勤めている。前置きはこのくらいにして本題に入った。
「宇部市で生まれ育った缶首相が退陣しましたが、准尉からご教示があったように山口県では県知事が県出身であることを否定していたくらいなので残念がる声は起きていないでしょう。むしろ自民党政権の復活が近づいたと歓んでいるのかも知れません」田沼元准尉とは時候の挨拶だけでなく佛教に関する話題が耳目を集めると互いの所見を交換しているが、政治問題については缶内閣が成立した時の山口県内の反応を訊いたくらいであまり取り上げていない。
「今回の野畑内閣では広岡秀夫法務大臣が山口県岩国市の出身のようですが、新聞の県内版や地元局のニュースではどのように報じていますか。野僧は陸幕の法務官室で勤務している関係で野畑政権の法務行政の方向性を知っておく必要があります。前回の缶首相に関するご教示は大変に役に立ちました。今回もよろしくご教示下さい」この程度の文章の量であればパソコンの文字なら葉書で十分だが、田沼元准尉の返事は折り紙のような郵便書簡=ミニレターなのでこちらの方が安価にする訳にはいかない。妙なバランス感覚を発揮して便箋代わりのA4用紙に印刷した。
田沼元准尉は缶首相の時の質問には苦労したようで今回は就任時から用意をしていたらしく回答は予想外に早かった。A4版の茶封筒には元准尉が購読している新聞の関係する記事も同封してある。すると保守の大本山だと思っていた山口県の意外な地域事情が判明した。
「拝啓、愚昧なる身の乏しい知識からご下問にお答えします」田沼元准尉の手紙は同じA4版1枚でも毛筆なので文字数が少ない。それでも前略にしないところが長年にわたって航空自衛隊で総務員として奉職してきた田沼元准尉だ。ただし、「愚昧」は宗祖・親鸞の自称でもあるので浄土真宗の坊主である田沼元准尉としては謙遜ではない。
「岩国市では平成10年を過ぎた頃から急激に反米軍基地の運動が激しくなって現在では沖縄並みのデモが行われているようです」私が防府南基地で勤務していた頃には沖縄で見てきた反米軍基地運動とは全く違い共存を志向する市民の態度に感心していたが、平成になって早々に尾沢一派が自民党を分裂させ、細川政権が成立して以降に変質したらしい。
「平成19年末に辞職した岩国市長は在任中、厚木から岩国に空母艦載機の夜間飛行訓練を移す計画に反対して市民運動を起こしています。広岡法相はその岩国市長の盟友のようです。新聞記事では元大蔵官僚の弁護士ですが自衛隊には敵対的な態度を取るのではないでしょうか」言葉遣いは田沼元准尉らしさを維持しているが書体と筆圧に元自衛官としての憤激を感じる。
「このような人物が法相になったことで2佐が担当しておられる海上自衛隊の裁判に悪影響が及ばさないかと心配しております。弁護士として尽力されますようにお願い致します」最後は挨拶なので読み流してから新聞に移った。すると広岡新法務大臣は東京大学法学部卒の元大蔵官僚で国税畑の経験を積みながら省庁間の人事交流で在インド大使館の1等書記官として赴任している。帰国後は大蔵省を離れ、内閣法制局の参事官を経て退官して山口県で弁護士登録をしたようだ。つまりエリート・コースから外れたと見切ったのだろう。記事の解説では人権派弁護士として活躍していたらしい。意外なことに田沼元准尉が問題視している岩国市長とは高校の同級生で平成11年の市長選で敗れていた。こうなると問題の元岩国市長も調べなければならない。そこで最近、少しずつ使えるようになってきたインターネットを開いた。
「なんじゃこれは」インターネットで元岩国市長の経歴を紹介する記事を読んで私は独り言を叫んでしまった。そこには「東京大学卒、労働省に入省・・・人事交流で在タイ大使館の1等書記官として赴任」とある。つまり同じ穴のムジナと言うことだ。
「昭和29年生まれか。ワシよりも7歳年上なら70年安保闘争の頃に大学生だったことになるぞ」これで結論が出た。おそらく70年安保の学園紛争では活動家以外の学生も共産主義革命に洗脳されており、官僚になった人間の中にも国家中枢に送り込まれた政治工作員が含まれていたのだ。今回の政権交代はその起爆装置が作動した結果と言うことだ。
  1. 2019/10/28(月) 13:28:07|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

10月28日・フィンランドの軍神?ユーディライネン大尉の命日

1976年の明日10月28日は第2次世界大戦中のソ連軍のフィンランド侵攻に於いて卓越した戦闘指揮を行い多大の戦果を上げながら適切な評価を受けずに終わったアールネ・エドヴァルト・ユーディライネン大尉の命日です。72歳でした。
野僧は空曹時代から基地警備戦闘の研究に励み、それがゲリラ戦術に発展したことで冬戦争=第1次ソ芬戦争でフィンランド軍が実施してソ連軍の機甲部隊を撃破したモッティ戦術に興味を持ち、徹底的に探究するようになりました。この研究成果は幹部学校の幹部普通課程に入校中、1等陸佐の教官を質問攻めにして「次は陸のCGS(指揮幕僚課程)に入校してこい」と呆れさせることになりました。
ユーディライネン大尉は1904年に1917年までは帝政ロシア領だったフィンランド大公国のヴィープリ州(現在は大半がロシア領)で生まれました。フィンランド空軍の「無傷の撃墜王」であるエイノ・イルマリ・ユーディライネン准尉は実弟です。
独立したフィンランドが創設した陸軍士官学校に入営すると最終学年まで進んだものの規律違反で停学処分を受け、停学中に仮配属された自転車大隊でも規律違反で拘禁処分を受けたため退学になり、新聞の募集記事を読んでフランス外人部隊に志願・入隊しました。フランス部隊では北モロッコに配属され、植民地戦争での非情で非常な活躍で敵と味方から「モロッコの恐怖」と言う仇名をつけられています。兵役満了後の1935年にフィンランド軍に復帰しますが再び素行不良によって除隊処分を受けてしまいました。ところが1939年11月30日に冬戦争が勃発したことで予備中尉として参戦することになり、中隊長として国境にあるヨーロッパ最大のラドガ湖の北湖畔に展開して圧倒的な兵力で侵攻してくるソ連軍の進撃を阻止しました。この時の部下には確認戦果542人の世界最多射殺記録を持つシモ・ヘイヘ兵長がいて、ユーディライネン中尉はその神技的射撃技術を最大限に発揮させるため狙撃手として単独行動させることにしました。ユーディライネン中尉は激戦を前に「まるでピクニックに出かけるよう」にハシャギながら出撃し、最前線ではソ連軍の苛烈な砲撃を受けても自ら持ち込んだロッキング・チェアに座ってくつろいでいたと言います。
こうして1940年3月13日にソ連軍を撃退して軍学校の教官に就任したのも束の間、1941年6月25日から再びソ連軍が侵攻を開始して継続戦争=第2次ソ芬戦争が生起すると前線で活躍して武勲戦功を上げたものの1944年9月19日の停戦条約でフィンランドが事実上はソ連の支配下に置かれたため、これを受けてナチス・ドイツ軍が侵攻してきたラップ・ランド戦争にも参加することになったのです。このラップ・ランド戦争ではナチス・ドイツの勧誘を受けたラウリ・アラン・トルニ大尉などのフィンランド軍士官が参戦していたので事実上の友軍相撃でした。
戦時の軍神も平和な時代には適応できず、国家的英雄でありながら昇任は大尉止まりで予備役に編入され、冬戦争終結後に結婚した妻とは離別し、酒に溺れ、戦傷の傷みに苦しみながらの老後だったようです。野僧は「日本のユーディライネン大尉」なのでしょうか?
  1. 2019/10/27(日) 11:14:04|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1716(一部、実話です)

9月2日に成立した野畑内閣は民政党の人材払底を内外に公然化させたと言うしかない代物だった。先ず人事情報の保全が機能しておらず組閣発表前の昼のニュースで氏名と役職が決定事項のように報道されて、午後からの組閣では官邸に到着した入閣予定者を女性アナウンサーが「〇〇大臣に就任する××さんです」と紹介していた。そんな中、防衛大臣は二川和夫と言う石川県選出で尾沢派の参議院議員で農林水産省の元官僚と紹介されている。
「松真、今度の防衛大臣になった二川は小松の人間らしいが知ってるか」新防衛大臣が小松市を地盤としていると知って私は元義弟で淳之介とあかり夫婦の仲人でもある玉城松真1曹に電話をした。松真は浜松の第1術科学校に転属するまで小松の第6航空団で勤務していたのだ。すると松真は「待ってました」とばかりに返事をした。
「ニイニ、早速の情報収集とは流石だね。やっぱり陸幕だと防衛大臣に会うことがあるんでしょう」やはり松真は空曹であって市ヶ谷の内情については理解していないようだ。防衛本省=内局と統合幕僚監部や陸海空幕僚監部では建物が違うため偶然にも会うことはない。
「大臣は内局の官僚に取り巻かれているから制服組が会うのは向こうから呼ばれた時だけだよ。呼ばれるのは将官限定だな」帝国陸軍では天皇の御前に出られる将官を閣下と呼んだのだが、今では平安時代並みに武官=制服組の立場が貶されているので検非違使の長である防衛大臣に会うことさえ難しくなっている。
「二川は自民党じゃあないから入れなかったよ。やっぱり本当に自衛隊を理解してくれるのは自民党だけでしょう」「それは今回の政権交代で証明されてしまったな。所詮は社人党が看板を掛け替えただけの売国政党だ。これでは他の選択肢はないぞ」二川新大臣は衆議院では森元総理大臣と同じ選挙区になるため勝てるはずがなく参議院で当選している。その保守本流の石川県の参議院でも平成に年号が変わった1989年には労働組合である連合推薦の議員が当選し、二川新大臣は2007年に2回目の非自民党の当選者だった。
「ワシはどうも石川県の政治屋は好かんな、なだしおの事故で自衛隊を売った防衛庁長官も輪島が選挙区だったじゃないか」なだしお事故は私が部外の幹部候補生の2次試験を受ける直前に発生したため特に注視していた。海上自衛隊の潜水艦・なだしおが乗客に見せるために接近してきた遊漁船・第1富士丸に衝突された事故では記者会見で謝罪を要求された海上幕僚長が「責任の所在が明確になっていない状況で謝罪はできない」と拒否したのに対して防衛庁長官が入院している被害者への謝罪を始め、制服を着させた海上幕僚長を同行させて晒し者にしたのだ。その話を冬の課程で担当した後輩にしたところ輪島の隊員が地元情報=悪評を聞かせてくれた。現在、担当しているイージス護衛艦と漁船との衝突事故の参考として公判記録を確認して同じ構造の冤罪だったことが明らかなったのであの防衛庁長官は絶対に許せない。
「あの人は政権交代選挙の時は自民党の候補を後継者とは認めないって民政党の候補者を支持したらしいよ。ニイニが言う通りの人間みたいだね。立派なのは森さんだけだな」私は神の国発言をした元総理も日本版ナチズム=国家神道の信奉者として認めていないのだが、やはり石川県には地元住民でなければ知り得ない地域の特殊事情があるようだ。
「モリヤ2佐、折角テレビを点けておくなら私が見たい番組にしても良いですか」新たな官房長官が閣僚名簿を発表してからも野畑内閣に関する解説が続いているのでテレビを点けっ放しにしていると岡田恵子事務官から引き継いだ日誌データの入力を終えた二村由美事務官が唐突に声を掛けてきた。私は「業務の参考」として時折チャンネルを換えながら報道番組を見比べているのだが、二村事務官は別の番組を推薦するつもりらしい。
「いいえ、人気ドラマの再放送があるんです。家で予約録画していますがここで見られれば帰ってから別の番組が・・・」「たわけたことを」二村事務官の説明が終わる前に私は努めて柔らかく叱責した。時事問題にまったく関心を持たない二村事務官にとっては組閣情報と楽しみにしているドラマに違いはなく、仕事時間中にテレビを見られるのなら同じような話題が続く退屈な報道番組よりもドラマを満喫する方が有益なのだろう。
「はい、テレビは消すから諦めて下さい」私は今後は課業時間中のテレビの視聴を止めることを決めてテレビを切った。しかし、その結果、新大臣の極めて重要な発言を見逃してしまった。
「私は安全保障に関しては素人だが、これが本当のシビリアン・コントロールだ」これは官邸から認証式のために皇居に向かう途中で受けたインタビューでのものだった。夜のニュースでは「ほとんどの国民は素人だ。一般の国民の代表が監視するのがシビリアン・コントロールだと思っている。国民目線で、国民が安心できる防衛政策が大事だ」と補足説明していたが、この人事を見ると「野畑首相は本当に自衛官の息子なのか」と疑いたくなってくる。
1・中島久美子イメージ画像
  1. 2019/10/27(日) 11:12:59|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

変質者的漫画の創始者・吾妻ひでおさんの逝去を悼む。

10月13日に手塚治虫先生が始めた作品に筆者自身が登場するスター・システムで自虐的な姿を晒け出して多くの共感者を獲得したシュールな漫画家・吾妻ひでおさんが亡くなったそうです。69歳でした。
野僧の高校では同級生の間で好きな作者を決めて買い揃えた単行本を互いに貸し借りする貸本組合制度があり、その中に吾妻ひでおさんの熱烈なファンがいて昭和47(1972)年から昭和51(1976)年まで週刊少年チャンピオンに連載して絶大な人気を博した「ふたりと5人」や昭和50(1975)年から昭和55(1980)年までプレイコミックに連載していた「やけくそ天使」などを熟読することができました。
「ふたりと5人」は今の基準ではかなり変質者的ですが当時は性同一性障害や女装趣味と言う概念がなく単にシュールな物語として理解され、支持を集めたようです。そもそも主人公の男子中学生が一目惚れする美少女が5人登場するため赤塚不二夫さんの「おそ松くん」式な家族構成なのかと思いきや少女は1人だけで父親と兄は女装趣味で同じ名前を名乗り(ただし、少女はユキ子、父は夕紀子、兄は由希子)、母と祖母も若造りで同じ名前(母は雪子、祖母はゆきこ)と言う意表を突き過ぎな設定でした。それでいて他の4人は服を脱ぐと父には胸毛が生えて筋肉質で、兄は胸が平面で陰毛が生えていない。一方、母は巨乳で祖母は72歳の老婆体形になり、これで識別します。おまけにスター・システムの走りで吾妻ひで子と言う美少女も登場しますが、設定は作者が性転換した姿や12時になると変身する姿などとまちまちで、後半からは作者本人が登場することになって消えてしまいました。ところで題名の「2人」と「5人」が誰を指すのかは不明です。
一方、「やけくそ天使」は連載されていたのが少年誌ではなかったため(成人指定ではなかった)展開は滅茶苦茶でかなり変態色が濃厚になっています。先ず主人公の名前が「阿素湖素子(あそこそこ)」で職業は看護婦に始まり記憶に残っているだけでもステュワーデス、教師、専業主婦、家政婦、アイドル歌手、会社社長などでどれも日活ロマン・ポルノや現在のアダルト・ビデオでレイプされている男性が征服欲を駆り立てられる職業ばかりです。当然、エロが前面に出ていて風紀委員も統括する生徒会の役員としては校内持ち込みを許可するべきか悩みましたが画風にリアリティがないため黙認しました。ちなみに吾妻さんをロリコン漫画の創始者とする説がありますが確かにその気配はありました。
そんな吾妻さんは昭和25(1950)年に北海道十勝郡浦幌町で生まれ、手塚先生の作品を愛読している間に漫画家に憧れるようになり、道内の同人誌に投稿を始めました。1968年に高校を卒業すると上京し、テレビ・アニメになった「おらぁグズラだど」や「どかちん」の作者の助手を経て、デビューしたそうです。
一方、昭和60(1985)年頃から精神を病み、失踪や自死未遂事件を繰り返し、その体験を描いた作品で海外の賞を受賞しているそうですが、野僧は大学生・自衛官になっていたため残念ながら読んでいません。
大学の哲学科志望だった野僧には吾妻作品との出会いは貴重でした。ご冥福を祈ります。
  1. 2019/10/26(土) 12:15:01|
  2. 追悼・告別・永訣文
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1715

工藤の告白を受けて諸西将補はソファーから立ち上がると廊下の対面にある在外公館警備室にコーヒーのお代わりを依頼した。他国の大使館には警察の警部か自衛隊の1尉が公館警備官として勤務しているが、在ワシントン大使館だけは防衛駐在官の手足としての陸海空の1尉が配置されている。間もなく警備官付の事務員として勤務している日本人の女性職員がお盆に載せた2人分のコーヒーを運んで来て、空になったカップを下げていった。
「それで奥さんは何歳なんですか」2人でコーヒーをすすってから諸西将補の面接が始まった。これは今まで申告してこなかったことへの疑惑の解消のための手順でもある。工藤のこれまでの態度を考えれば何か深刻な事情がある可能性を考えるのは当然なことだ。すると工藤は先ほどとは違う羞恥の表情を見せながら説明を始めた。
「実は3年前にチベットで死んだ村田の妻なんです。名前はジェニファー・ビーンズと言って年齢は43歳です。職業はアフリカ系女性向けの雑誌の編集長です」、諸西将補は2008年3月のチベット蜂起で死んだ村田=倉田とは面識がないが事件の経緯と個人情報に関する資料は前任者からの申し送りとして読んでいる。
「私としては今後、彼女が別の男性と交際して結婚することになれば村田との生活で知った我々の活動の一端が漏れる惧れがあるのでそれを封じたのです」諸西将補は工藤の説明に半分は納得したが赤面した様子を見る限り、現在は強い愛情を抱いていることも推察した。50歳を過ぎて孤独な身の上になってしまった諸西将補としては憧憬を禁じ得ない。一方、工藤の中では「ジェニファーの身体に宿った命が村田の生まれ代わりであれ」と願う気持ちと「我が子」として独占したいとの願望が交錯していた。
「それでも父親になればその子供が成長するまで生活を支えていく責任がありますね。アメリカでは日本のような定年制度はないから健康に注意していけば働き続けることは可能でしょう」諸西将補の激励に工藤は覚悟したようにうなずいた。
「実のところ私はそろそろ貴方の後任について考えていたんです」ここで諸西将補は身を乗り出して本題を切り出した。工藤としても悩んでいる問題ではある。
「前任の井上将補との間では新たに中国語要員を確保・育成して貴方が1佐の定年年齢になるのを期に村田くんを後任とする方向で進めていたようですね」「はい、村田は人間性や能力だけでなく経験も十分で同僚からの信頼も厚く最適任者でした」工藤の説明に諸西将補は申し送り資料で読んだ経歴と添付してあった顔写真を思い出した。鹿児島県人だけに西郷輝彦風の精悍な顔立ちで人間的な魅力を全身から発散していたのが伺えた。
「そこで良いですか」唐突に諸西将補が口調を改めた。身を乗り出して両手を膝の上で結んでいる。工藤も座ったままコーヒー・カップを皿に置き、姿勢を正した。
「陸幕は貴方の後継の適任者を見つけたようですが、この時代だけに全ての条件を満たしていないんだそうです。忌憚のない意見を聞かせて下さい」工藤は胸の中で不文律の条件を思い返した。その第1は一般大学卒の一般(部外)課程出身者、第2は両親を失っている独身者、第3は英語以外の語学に堪能であること、第4は格闘技に習熟していること・・・工藤の思考の途中で諸西将補の説明が始まった。
「ハッキリ言えば能力と人間性以外は条件に全く適合していません。逆に言えばそれらに目をつぶっても抜擢したい人材と言うことです」諸西将補は立ち上がって机のパソコンを運んでくると電源を入れ、金庫から出したメモリーを挿入しながら説明した。
「松山千秋3等陸佐、現在は名寄の第3普通科連隊で第4中隊長をやっています。幹部候補生は部外ですが岡村くんと今田くんの中間です」ここで既に指揮系統と言う条件が崩れている。杉本と岡倉は非公然とは言え2佐である。そこに階級が下で幹部候補生も後輩の上官を持って来ることは自衛隊の常識として考えられない。
「ついでに言えば妻はWACの2曹で1人の子持ちですが両親は病没しているようです。大学はW稲田大学政治学科卒、語学は5カ国語以上に堪能です」ここで画面が映ったので注視すると松山3佐は気難しそうな野性味のない体育会系が多い普通科の幹部とは思えない雰囲気だ。
「幹部候補生学校では学科だけはトップでも体力面と服務面の評価が低く序列は中位に終わっています。部隊でも上官の命令に公然と反論するため徹底的に嫌われていたので指揮幕僚課程には入れず、勤務評定が低くて昇任も最後尾になっています」この説明に工藤は陸上幕僚監部の真意を察した。要するに組織の枠に納まり切れない図抜けた人材と言うことだ。
「上官ではなく管理職として能力を発揮してくれれば大丈夫ではないですか。妻も巻き込めば一緒に使えるでしょう」工藤の意見に諸西将補は改めて画面の松山3佐の顔を見直した。
  1. 2019/10/26(土) 12:13:38|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

10月25日・マラソンの偉人・アベベ・ビキラ大尉の命日

1973年の10月25日は世界の陸上史に偉大な足跡を残し、侵略を受けた屈辱を晴らしてエチオピア帝国の名を世界に知らしめた英雄である皇帝親衛隊のアベベ・ビキラ大尉(メキシコ市オリンピック後の最終階級)の命日です。
余談ながらエチオピアでは氏と名と言う概念はなくアベベ(意味は「咲き誇る」)が本人の名前、ビキラは父親の名前なので「ビキラさん家のアベベくん」になるようです。
アベベ大尉は1932年にエチオピアの中央部を占める現在のオロミア州の貧しい小作人であるビキラさんの息子として生まれ、小学校に1年間通っただけで家の手伝いをすることになり、平均海抜2000メートル以上の高地で長距離を重い作物を運びながら成長したことが超人的な心肺能力と脚力を作り上げたと言われています。
19歳で皇帝の親衛隊に入隊すると体育の強化訓練を受けるようになり、足の速さに注目した上官の指示で出場した1957年の軍と親衛隊の陸上競技大会で2位になってローマ・オリンピックの強化選手に指定されるとスウェーデン人のコーチから科学的練習方法で鍛えられ、国内予選で2位になって1960年のローマ・オリンピックに出場しました。
エチオピアは1937年から1941年までムッソリーニ統領のイタリアに占領されていた屈辱の歴史を持っていたためゴールになっていたローマ市内の凱旋門でアベベ上等兵(当時)がテープを切ったことに国民は熱狂したのです(この優勝で兵長に昇任した)。ところが報道している海外のマスコミは世界大会に出場した実績もなく、エチオピアの国内予選で2位だった無名の選手の優勝に大混乱していたようです。
1964年にアベベ軍曹(当時)が東京オリンピックへの出場を決めると記録的には日本代表の寺沢徹選手やイギリス代表のベイジル・ヒートリー選手などが上回っていましたが、日本では「裸足の王者」と呼ばれて熱狂的な報道が始まりました。それはローマに出発する直前に靴が壊れ、現地で足に合う靴が見つからなかったため幼い頃から原野を裸足で走り回っていたこともあり、そのまま出場したことに由来します。本人は軽い裸足が気に入ってその後の大会でも継続しようとしたのですが周囲に制止され、東京オリンピックでも靴を履いていました。
競技では折り返し地点手前の20キロを過ぎた頃から独走態勢に入り、2位のヒートリー選手と3位の円谷幸吉2曹(当時)に4分以上の大差をつけて(=2位と3位は3秒差)、ゴール後は柔軟体操をしながら待つ圧勝を果たしたのです。
しかし、1968年10月のメキシコ市オリンピックでは他の選手には過酷だった海抜2000メートルの高地には慣れていても膝を痛めた練習不足に加え、36歳と言う年齢もあって16キロ付近で歩き始め17キロ地点で棄権しました。
さらに半年後の翌年3月23日の夜、東京オリンピックの恩賞のフォルクス・ワーゲン・ビートルを運転中に対向車の前照灯に幻惑されて衝突事故を起こし、頸椎の完全脱臼によって下半身不随になって競技人生からも棄権することになりました。その後も障害者スポーツの普及に尽力しましたがこの日に人生のゴールを迎えてしまいました。
  1. 2019/10/25(金) 13:15:24|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1714

工藤はワシントンの日本大使館に防衛駐在官の諸西将補を訪ねていた。それはリビアでは2月15日に国民評議会が起こした反カダフィの暴動をNATOが支援したことで内戦に発展しており、間もなく首都のトリポリが陥落するとの情報を受けてアラブに精通している松本を派遣することを検討するためだった。
「オバマ政権はイラクに軍事介入して泥沼にはまり込んだ失敗に懲りて中東から手を引いたんだが、EUが十字軍の再現を目指すブッシュの狂気を引き継いでしまったようだな」「EUは成立したばかりだから結束力を固めるのに反イスラムを利用してるんでしょう」諸西将補が着任したアメリカは既にオバマ政権なっていたためイスラム圏への軍事介入は退潮しており、抑えが効かなくなった国際情勢はキリスト教世界とイスラム教世界の対決と言う十字軍の再現の様相を呈して大きく動揺し始めたのだが、日本でも悪夢の政権交代が起こり、まだ機能しているリビア大使館(閉鎖されたのは2014年)を含む外務省の職員たちが危険を冒して収集した情報も受け皿がなくなって外交そのものが成立しなくなっている。
「外務省は事業仕分けで散々に叩かれた後遺症で身動きが取れないらしい」諸西将補は同情と困惑を混ぜ合わせた顔で大使館内の現状を説明した。雀山政権がマスコミ受けだけを狙って開催した事業仕分けなる三文芝居は台湾との2重国籍の元クラリオン・ガールがリベートの手法で官僚を甲高い声で責め立てることが人気を呼んでいたが、外務省も各国の大使館が接待用に備蓄しているワインや高級な備品が槍玉に上がり、外交ではなく社交のために機能しているかのように揶揄されていた。工藤は日本国内での報道は知らないが、諸西将補はアメリカ大使館に赴任する直前に重篤に陥った妻の病室のテレビで見た醜悪な劇場だった。
「外交では国威発揚も交渉で優位に立つための前提作りになりますから、最高級のもてなしで要人を感激させるのは必要経費のはずですが、それを税金の無駄遣いと否定されては現場も本当に困りますね」「最近は大手マスコミが海外の駐在員に各国の大使館を監視させているから秘密予算での活動も公費の不正使用として東京に報告されてしまうんだ。だから情報収集も何時何所で誰が何をするかを正式に申請しないと認められないそうだ」あまりに馬鹿馬鹿しい説明に工藤は悪い冗談かと思ったが諸西将補は真顔だ。
「それでは外務省が機能を回復するまで可能な限り、ウチが情報活動を補完するしかないですね。国際情勢は絶え間なく動いていますから情報が欠落することは絶対に許されません」工藤の言葉に諸西将補も苦々しげな顔でうなずいた。
「イギリスのMI6に同行させたいんですが、コネクションを持つ相手はアメリカ軍の撤退が始まったアフガニスタンに行っていますから今すぐは無理でしょう。ただし、彼が本国から移動命令を受ければ合流させて現地に入らせることも検討します」「それは岡倉くんが同行している人物だな。ならばアメリカの情報機関と言う選択肢はないのかね」諸西将補は工藤たちがアメリカの情報要員との連携を避けていることが気になっており、あえて確認してきた。
「判りました。杉本に確認させましょう」岡倉はイランでの核施設の探索で国務省のテイラーと仲違いしたが杉本と今田は別の人脈を維持している。その点、松本は現地調査では実績を上げていても人脈を構築する余力がない。そこが部内出身者の限界なのかも知れない。
「ところで松本くんには子供はいないのか。奥さんはハワイ在住の日系人だと聞いているが」松本の派遣について具体的な打ち合わせが終わったところで諸西将補が訊いてきた。アラビア語を専門とする松本は世界で最も危険な地域であるアラブ圏に派遣されることが多い。それを命ずる諸西将補が遺族となる可能性を抱える家族に気を配ることも当然だ。ましてや諸西将補には子供がなく孤独な身なので家族に対する想いは過去の防衛駐在官よりも強いものがある。
「ウチの社員は全員独身です。ただし、女の今田と最近別れた杉本以外は内縁関係の妻を持っています・・・子供がいるのは岡倉だけです」隊員個人の現状を報告しながら工藤は一瞬、言葉に詰まった。諸西将補はそれを見逃さなかった。
「何か言いかけたことがあるようだが、まだ報告できないことかね」初めてみる工藤の動揺に諸西将補は柔らかく確認した。すると工藤は入室した直後に女性職員が運んできたまま冷めているコーヒーを飲み干して口を開いた。
「実は私にも子供ができまして」「へッ・・・」諸西将補は究極に想定外の告白に当然のように絶句した。自分よりも5歳以上年長で男性の更年期と言われる還暦を過ぎている工藤が子供を産める相手と関係を持っていること自体が驚異だ。
「それはおめでとうございます。しかし、凄いですな」諸西将補の本心からの賛辞に流石の工藤も赤面した。実は工藤はジェニファーとの関係を個人情報として申告していなかったのだ。
  1. 2019/10/25(金) 13:14:24|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

10月25日・神風特攻公式第1号・関行男大尉が戦死した。

昭和19年(1944)年の明日10月25日に公式には現在も神風(しんぷう)特別攻撃隊第1号とされている関行男大尉が戦死しました。23歳でした。
最近は戦後の反戦気分による帝国陸海軍への冒涜に疑問を持った若い世代の間で反動的な礼賛が始っており、中でも特別攻撃隊に対しては究極の自己犠牲=殉国としていますが、元幹部自衛官の立場から見れば戦術の邪道としての批判を揺るがすことはできません。
関大尉は大正10(1921)年に愛媛県西条市で古物商を営む両親の1人息子として生まれました。小・中学校時代は長身で美男子、成績抜群のテニス選手で性格温厚と言う女生徒が憧れる条件が揃っていたのですが特に浮いた噂を残すこともなく海軍兵学校へ進学しました。この時、父親は大陸での戦争が長期化する中で1人息子を軍人にすることに難色を示して師範学受験を勧めたのですが、本人は「戦時だからこそ」と海軍兵学校を受験したのです。この父親は関大尉が海軍兵学校在学中に亡くなりました。
第2次世界大戦への参戦直前の昭和16(1941)年11月に海軍兵学校を卒業すると戦艦・比叡に配属された後に水上機母艦・千歳に転属し、そこで鎌倉の医師の娘からの慰問袋を受け取り(個人宛ではなくクジ引きのようなモノだった)、礼状に「横須賀に入校した時に会いましょう」と書いたそうです。ところが実際に会うと付き添ってきた姉の方に一目惚れして昭和19(1944)年1月に霞ヶ浦航空隊の教官に着任したのを機会に同年5月に結婚しました。しかし、戦局悪化の中、同年9月に台南航空隊に転属し、ここで体当り戦法の志願が行われたようです。この志願は本来、1人息子と妻帯者は除外されたのですが、関大尉は両方に該当するにも関わらず志願しました。
こうして部隊がフィリピンに移動すると同時に悪鬼・大西瀧治郎中将が司令官として着任して連合艦隊の死に花・捷1号作戦に呼応して爆装した零式艦上戦闘機による体当たり攻撃を提案して決定させたのです。関大尉は当初、爆装機2機と直掩機1機で編成された敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊には属さない全ての神風特別攻撃隊の指揮官でしたが、敷島隊が先陣を切ることが決まったため全員が下士官だったこともあり隊長を兼務することになったようです。しかし、悪天候が続いて偵察機が敵艦隊を発見して出撃しても遭遇できないで引き返すことが続き、10月24日になって栗田健男中将の艦隊が25日の早朝にレイテ湾に突入することを知った大西中将から出撃命令が出たため7時25分に発進し、途中で反転した栗田艦隊を視認しながらもアメリカ艦隊(栗田艦隊の反転を受けて警戒を解除していた)に突入して多大の損害を与えました。
最近の戦史関係の資料では関大尉が愛妻家であったかのような記述が目立ちますが、関大尉の戦死後に医学部に進学して知り合った医師と再婚した妻は「家庭では自分にまで軍人精神を要求し、武士の妻のような生活を強いた」と告白しながら特別攻撃隊に志願したことを非難しており、それは昭和48(1973)年8月26日に放送された「おこれ!男だ」の敗戦の日特別番組「婆さんが塾に戦争を持ってきた!」で遺品を受け取りに来た塾長の戦友の妻が目の前で遺書を焼き捨てた姿に投影されていました。
  1. 2019/10/24(木) 13:43:19|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1713

「子供は正常なようですね。お母さんが40歳を過ぎているので次回は血液検査をしましょう」この日の診断手順を終えた医師はジェニファーの感情を害さないように高齢出産への対応を説明した。これは英語では意外に難しい話術だ。
「その検査である程度の胎児の先天的な疾患の可能性が察知できます」「お母さんが加入している保険で補助を受けられますから経費の心配はありませんよ」医師と看護師は医学と生活の両面から検査の受けることを勧める。出生前診断は義務ではないので実際は拒否することもできるのだが、高齢出産の場合は検査を受けることが一般的らしい。
「それで異常が見つかったら・・・」ここで工藤は日本語を呟いてしまった。最近のアメリカでは医学会や女性団体を中心に重篤な障害を持って生まれくることが確実な子供は社会的負担だけでなく本人にとって不幸であるとする「生まれてこない権利」論が支持を集め始めており、これまでの「カミが授けた命を人間が取捨選択することは許されない」とするキリスト教の倫理を席巻しつつある。工藤がそこまで冷静な合理主義に徹し切れないのはこの新たな家族を慈しむ日本人としての情感の残滓なのかも知れない。
「お父さん、何か言いたいことがあれば英語でお願いします」「いいえ、モノローグ(独り言)です」工藤はこの子を産むのはジェニファーであり、60歳を過ぎている自分が育て上げるまで生きていられないことを考えて口を挟むのを控えた。日本人は「生者必滅」と言う佛教的な死生観によって妊娠中絶にも寛容な面がある一方で母親の胎内に宿った瞬間から我が子とする濃密な家族観も共有しているため、障害を持って生まれて来ることを理由に命を絶つことを当然視する前に先天性を与えた者としての責任を感じてしまう。
工藤の答えを聞いて医師は納得し切れない顔をしたが理解不能の言葉だったので妻のジェニファーが通訳しない以上、深入りを避けた。やはりアフリカ系の居住区域にあるこの医院には日本人の妊婦は通院していないようだ。
「これは両親が妊娠と出産に関して学んでおくべき知識を解説した資料です。お母さんだけでなくお父さんも熟読して咄嗟の時にも慌てることなく適切に対応できるようにして下さい」診察に区切りがついたところで看護師が工藤に大量の資料を渡し、医師が説明した。これからは重い荷物を運ぶのは父親の仕事になる。日本では産婦人科で渡されるこの手の資料や妊娠・出産に関する雑誌は母親が読むモノになっているが、アメリカでは共同参画が常識なので工藤も勉強しなければならない。おそらく妊娠後期に受講する日本で言う母親教室に当たる両親教室を含めてラ・マーズ法の本場として出産に立ち合うことを前提にしているのだろう。
「それで質問は先生にすれば良いんですね」工藤としては真面目に勉強すれば当然、疑問が発生するから次回の診察まで放置しておくことはできない。そのための念を押したのだが医師の回答は意外なところでずれていた。
「その時の医師が回答しますから遠慮なくどうぞ」「へッ、別の先生ですか」この医院の規模は日本的に言えば個人経営だ。そこに別に医師が来て診断することは理解できない。
「ダーリン、アメリカの医院では契約している医師が交代で診察しているのよ。だから出産もその時の医師が担当するから診察は全ての医師になるように日付を調整しなければならないの」ジェニファーは以前、医科に通院して担当医が交代することに困惑した倉田と同じ説明を工藤にも繰り返した。日本では個人経営の医院の医師は1人だが、アメリカでは複数の医師が共同出資で建物と職員を確保して、大病院での勤務と並行して診察することが一般的だ。工藤はアメリカに来て30年が経過していても健康体なので長期通院した経験がなかったのだ。ただし、これから高齢化していけばこの子供のためにも医者と友だちになって長生きしなければならない。多くの州の成人年齢18歳を迎える時に工藤は80歳を過ぎている。それでも格好良いダディでいたいものだ。工藤は両手に資料を抱えて立ち上がると日本式に頭を下げようとしたが無理だった。アメリカでは不要な挨拶ではある。
ジェニファーは終日の休暇を取っていたが工藤は日本式に午後から仕事だった。このため地下鉄に乗ってウィクリー・ジャパンの編集室に向かった。アタッシュ・ケースの中には産婦人科でもらった資料が少なからず入っている。それでも暗いトンネルと車内の灯りで鏡になっている窓で自分の顔が弛むのを修正していた。
ニューヨークの地下鉄の車内はまさしく人種のるつぼだ。アメリカでは公民法によって人種差別は否定されているがヨーロッパ系とアフリカ系の人たちは車両を自発的に乗り分けている。ところがアジア系だけは無頓着にどちらにも割り込んでいる。今日の工藤は無意識にヨーロッパ系ではなくアフリカ系の乗客たちの車両に乗っていた。
  1. 2019/10/24(木) 13:42:15|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1712

工藤はジェニファーの産婦人科に付き添っていた。アメリカでは市販の妊娠検査薬で自己確認し、通院するのは8週目に入ってからなのだ。アメリカの産婦人科は「オブストリクス&ガイナコロジー」と呼ばれ、加入している保険会社の契約先から選ぶのが一般的らしい。ジェニファーが選んだのはアフリカ系住民が大半を占める街の医院なので受付係から廊下を歩いている看護師、何よりも患者は全てアフリカ系だ。
独身の工藤は産婦人科に付き添うのは初めてではない。70年安保闘争が激化していた時代に九州から東京の大学に進学したものの学内は学生運動の舞台に過ぎず、同郷の仲間たちも忽ちのうちに飲み込まれていった。学生運動では貞操観念を「保守の倫理」と否定して集会の後には乱交に及ぶことも珍しくなく、そんな中で高校時代の同級生が妊娠したため学内闘争に背を向けてアルバイトに励んでいた工藤が中絶に付き添ったのだ。それも四半世紀前の話になる。
「ダーリン、緊張しないで。リラックス、リラックス」ジェニファーは待合室の席に並んで座っている工藤が何時になく落ち着かない様子でいるのを見て苦笑しながら声をかけた。アメリカでは産婦人科には夫婦同伴が普通なので周囲には男女が混在しているが、やはり若い世代が多く工藤がアフリカ系であればジェニファーの父親に見えるはずだ。工藤自身も日本で言う還暦を過ぎてから父親になるとは思いもよらなかった。
「だってお前は高齢出産になるだろう。心配じゃあないのか」「私は健康面には何も問題がないから年齢だけで高齢者にされるのは納得できないわ」工藤の心配にジェニファーは真顔で反論した。確かにジェニファーは容姿が若いだけでなく肉体も強靭で、抱いていても工藤が30代にアメリカに来てから愛した女性たちのような錯覚に陥ることがある。
「ジェニファー・ビーンズさんですね。検査をしますからこちらに来て下さい」間もなく受付で名前を確認したらしい中年の看護師が呼びに来た。ジェニファーは座ったまま動かない工藤の手を取り、待合室の隅にある測定器材に連れていった。先ずは身長と体重、血圧の測定からだ。検査が終わると看護師は紙コップを手渡しながら指示を与えた。この時、妊娠の確定、尿蛋白の数値、バクテリアの有無などの検査目的を説明するところがアメリカ的だ。
工藤が覚悟を決め、ようやく雰囲気に慣れてきたところでジェニファーが呼ばれた。工藤は入籍していない内縁関係だがジェニファーが受付でパートナー欄に記入したので一緒に診察を受けることになる。日本の産婦人科では夫は待合室に置いて行かれることが多いがアメリカでは立ち合うのが普通のようだ。落ち着いたはずの工藤は再び急激に緊張しながらジェニファーの後について診察室に入った。すると席は2つ用意してあった。
「ジェニファー・ビーンズさんですね」「イエス・サー」医師はアフリカ系の中年男性だった。始めは受付で記入した書類の氏名、年齢、住所、緊急連絡先、保険者番号、社会保険の種類などの身元確認から始まり、最終月経月日と月経期間、妊娠出産の有無、中絶歴、家族を含む既往症、手術歴、アレルギーなどを確認していく。このうち既往症については工藤も確認された。
「先生、尿検査は異常ありません」手順通りの質疑応答に区切りがついたところで先ほどの看護師が補足した。それにしても一切の感情を交えず淡々と手順を進めていくアメリカ式の診察も工藤のように特殊な事情を抱えている者にはかえって安心感がある。大学時代に付き添った日本の産婦人科では2人の関係を根掘り葉掘り訊かれ、中絶の同意書に署名する資格についても長々と講釈を受けたが、相手が判らない子供を身籠った同級生にとって他に選択肢はなく工藤は義侠心で来ているのだからこれは余計な前置きだった。ただし、アメリカの多くの州ではキリスト教の倫理で妊娠中絶が認められていないため手続きと審査は日本以上に厳しい。
「それではウルトラサウンド(超音波)の検査をしますからベッドに横になって下さい」医師の問診が終わると看護師はベッドの奥に置いてある器材の横に立ち声をかけてきた。工藤は立ち合っていないので知らないが、日本では妊婦の羞恥心を和らげるためカーテンで診察用のベッドは仕切られているらしい。ところがアメリカではそのままだ。おまけに医師も立ち上がってジェニファーの下半身の方へ回った。
「それでは下着を取りますよ」看護師は声をかけるとそのままスカートを捲り上げ、下着を脱がして両足を固定用の台に載せた。そこに医師は右手に不思議な形の金属製の器具=クスコを持って性器を覗きこんだ。これは膣を開いて中の子宮口を見る検査だ。それにしてもこの場面を夫に見せることは日本では考えられない。おそらく工藤が若ければ医師とは言え別の男性が自分の妻の性器を見ていることを屈辱に感じたはずだ。
続いて看護師が腹にジェルを塗ってからウルトラサウンドのセンサーを当てて胎嚢(胎児が入っている袋)の存在、子宮外妊娠ではないこと、さらに心臓の拍動を確認した。
  1. 2019/10/23(水) 13:40:10|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1711

森田曹侯補士たちは防衛省の災害派遣終了の公式発表の直前まで石巻の被災地で活動していた。そこに北部方面総監の滋賀陸将が在北海道のマスコミ関係者を引きつれて視察に乗り込んできた。そうなると撤収準備も視察後になり、逆に機材を全て並べ直して業務の規模の誇張と多忙ぶりを演出しなければならなくなる。
「森田、お前たち曹侯補士は総監には恨みが溜まってるんだろう。食事に下剤でも混ぜてやったらどうだ」現場指揮官の陸曹も始めていた撤収準備を無駄にされて冗談にも悪意がこもっている。すると森田曹侯補士は苦笑しながら首を振った。
「下痢させてトイレを使わせると掃除する手間が掛かりますから止めましょう。逆に便秘薬を入れて糞詰まりにしてやりますか」会社のOLが嫌いな上司にお茶を出す時、生ゴミに捨てた茶殻を混ぜたり、灰皿を洗った水などで湯呑を汚す嫌がらせをすることは雑誌などでも紹介されているが、自衛隊でも「絶対ない」とは言えないようだ。ちなみにOLたちは鼻糞を入れた茶を「はな茶」、痰を入れたのは「つばき茶」と言う隠語で呼んでいるらしい。
「自分は滋賀総監のおかげで陸上自衛隊に描いていた夢が単なる幻想だって教えてもらえたんです。馬鹿な人間が陸将と言う最高の階級まで登ってしまうと勝手な理屈で法律まで無視できる。それで被害を被った人間が悪いことにされてしまう。自分は服務規律違反を犯した記憶はありませんが懲戒免職されるようです」調理の作業を再開しながら森田曹侯補士は独り言のように真情を吐き始めた。陸曹も無視しているような態度で聞き入っている。
「自分の父親は航空自衛隊の3佐ですがここまで酷くないと言っています。帰ったら即応予備自衛官と両立できる仕事を探しますよ」「それが良いかも知れないぞ。本当に勿体ないけどな」駐屯地業務隊から派遣されているこの陸曹も糧食班の調理師免許取得を目的にしている陸士たちに比べて森田曹侯補士の自衛官としての素養が別格であることを実感している。勿論、糧食班の陸士たちも真面目に働いているのだが、それはプロ意識のようなものかも知れない。
「閣下にお出しするんだ。調理に手抜かりがないようにシッカリ指導しろ」そこに派遣隊本部の1尉が見回りに来た。陸曹や陸士たちはこの余計な視察を迷惑としか受け留めていないが、幹部は自分を売り込む好機としてご機嫌取りに万全を期しているようだ。
「最高の材料を用意していますから被災者に出している料理とは物が違いますよ。味付けも閣下の出身地の岩手風にしてあります」陸曹は皮肉な説明をしながら「塩分が濃い目だから定年前の小父さんは血圧が上がるぞ」と腹の中で呟いた。
「それから森田は閣下が視察しておられる間は別の場所に行ってもらうぞ」「自分だけでなく曹侯補士全員ですね」森田曹侯補士は前回の宮古市でも総監の視察とマスコミの取材時には目がつかない場所に隔離されていた。やはり幹部たちも滋賀陸将が強行している曹侯補士たちに対する不当人事が怨嗟を生んでいることは理解しているのだが、その過ちを本人に諌めるのではなく曹侯補士を遠ざけることで回避しようとしているのだ。この幹部に対する失望と不信も森田曹侯補士が陸上自衛隊に心底愛想を尽かした理由でもある。
「お前は目立つから良いが補士の徽章は陸曹候補生と紛らわしいから困る。補士は何人いるんだ」確かに新隊員から陸曹に昇任する陸曹候補生の徽章も士長の階級章の上に桜を縫い付けているので同様だが、この時期は陸曹教育隊に入校しているから来ているはずがない。おそらくこの1尉は「曹侯補士がいなくなれば紛らわしさも解消される」と期待しているのだろう。本質には踏み込まず表面上だけで都合よく評価するのも自衛隊の幹部の思考方法の基本なのだ。
結局、滋賀陸将は総監部の幕僚と多くのマスコミ関係者を引き連れて派遣現場に現れたが、災害派遣終結後も単独で復旧作業を継続することになる東北方面隊総監部には接遇する余裕がなく第1部の尉官を立ち合わせただけだった。
「私は岩手出身の東北人ですから今回の災害派遣に特別な思いがあるんですよ。だから最後まで災害派遣を継続したいと願っています」マスコミ関係者に熱弁を揮いながら滋賀陸将は涙ぐんで見せた。陸上幕僚長の座を狙う滋賀陸将としては防衛大学校の1期先輩の東北方面総監が今回の功績で席を譲り受けることを阻止するためには北部方面隊が最後まで貢献した実績を誇示する必要がある。しかし、東京での関心は災害派遣終結後の福島原発事故の対応に向いており、無駄な悪足掻き(わるあがき)にしかならなかったようだ。
「自衛隊さん、有り難う」それでも地元の被災者たちは避難所を出発する自衛隊を全員で見送り、通過する道路脇でも市民たちがトラックに向かって声をかけながら手を振り、老人たちは深く頭を下げていた。森田曹侯補士はトラックの荷台で市民の叫び声を聞き、後ろから手を振っている姿を見て2度も災害派遣に参加させてくれた滋賀陸将に心から感謝していた。
  1. 2019/10/22(火) 12:47:44|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1710

岡田恵子事務官の送別会は私の最上級のレストランでの超豪華なコースと隅田川の屋台舟と言う企画を本人が固辞したため曹長が提案した通り二村由美事務官の歓迎会を兼ねた普通の宴席になった。関係各課の合同送別会が防衛省共済組合の市ヶ谷会館で開かれたため2次会も廊下を移動しての別室だ。法務官室の5人と岡田事務官の夫の元事務官を加えても少人数なので普段は小会議室か控室として使用されている広くはない会場を予約していたが、親しくしていた他の部署の女性事務官たちも予定外に出席したのでかなり手狭だ。このため上席の2人掛けの机の中央に法務官、両脇を挟むように岡田事務官と二村事務官が座っている。
「それでは法務官のご挨拶からお願いしたいと思います」会場が狭いのでマイクを立てる余裕がなく司会進行の曹長は席に座ったままの肉声だ。それでも法務官は立ち上がった。
「岡田恵子事務官は都内の高校を卒業後、昭和44年に防衛庁事務官として採用されて檜町駐屯地の中央業務隊に配置されました。その後、有能さと真面目な仕事ぶりを高く評価されて陸上幕僚監部に配置転換されて以来、2000年の市ヶ谷移転にも転属して現在に至っています」このような経歴は出席者は承知していることだがそれが形なので仕方ない。
「本来は本年3月31日付で定年を迎えるはずだったのですが、3月11日の東北地方の大地震で自衛隊は総力で災害派遣を実施することになったため業務に熟練した事務官には半年間の退官延期をお願いした次第です」ここで挨拶を切った法務官は立ったまま隣席の岡田事務官と会釈を交わした。通常であれば相互に正対して一礼するところだが2人が立つのは無理だ。
「次に二村由美事務官ですが・・・」法務官は間に拍手を挟んで二村事務官の紹介を始めた。今日も岡田事務官は落ち着いた色のスーツ姿だが、二村事務官はフリルがついた光沢が強いシルク風のブラウスと裾に飾りがついた長めのスカートで全く似合っていない。業務の引き継ぎに来ていた時も自己主張が強い服装だったが、バブル期に成人して染み込んだ感覚は陸上幕僚監部と言う固く地味な組織で長年勤務していても抜けないものらしい。
「次に岡田事務官からご挨拶をいただきます」2次会と言うことで出席者は空腹ではない上、少し酒も入っているので前置きは長くても問題はない。だから法務官も「挨拶と女性のスカートは短い方が喜ばれる」と言う自衛隊の定型句を使わなかったのだろう。
「本日は総理大臣が交代することになり、東北地区での災害派遣も終了して業務が混乱している中、私のために盛大な送別の会を催していただき誠に有り難うございました」総理大臣の交代は国会開会の調整がつかず9月2日に首班指名される予定だ。残念ながら岡田事務官は国家公務員として野畑総理大臣の就任を迎えることはできなかった。
「・・・長い自衛隊員(=事務官も自衛隊員)としての勤務の中で特に強く印象に残っているのはやはり3月11日のことです。あの日、モリヤ2佐が身を盾にして私を守って下さったことは夫以外の男性に抱かれたことがなかった私には衝撃的でした。モリヤ2佐の胸に顔を埋めながら恐怖を感じることはなく秘かに感謝と感激に震えていたのです」この告白は事務室にいた4人は事実を知っており、法務官や親しくしている他の部署の女性事務官たちも本人から話を聞いているので美談として受け留めていたが、唐突に二村事務官が怒り出した。
「モリヤ2佐が岡田さんを押し倒したんですか。それってセクハラじゃあないですか。それを旦那さんの前で告白するなんて不倫を認めてるんでしょう」行為そのものは書類を綴じたバインダーを並べた書棚が倒れてくる危険から守るため立ちすくんでいた岡田事務官を床に押し倒して上に覆いかぶさった緊急避難・危害予防だが、目的を除外すればレイプ未遂に見えないことはない。あの時、背中からではなく仰向けにしてしまったため写真を撮られれば完全にレイプ・シーンの冒頭を飾るエロ画像だ。案の定、全員が絶句したため宴席の空気が固まってしまった。岡田事務官は驚いて二村事務官を一瞥した後、夫と顔を見合せたまま動かない。二村事務官は何故か私を睨んで眼鏡のレンズ越しに軽蔑の視線を固定している。このような不測事態に対処するのも私の業務なので渋々口を開いた。
「大丈夫、君の時は下敷きになってから助けてあげるよ。かなり痛いかも知れないけど我慢してね」この皮肉を受けて新たな同僚になる曹長と1曹が追い討ちをかけた。
「手遅れだったらモリヤ和尚が弔ってくれるから安心して成佛しなさい」「遺体の服を整えたらセクハラになるのかなァ。どうですかモリヤ弁護士」この漫才的ブラック・ジョークに慣れている岡田事務官は笑顔を取り戻したが、二村事務官は私に向けている目を引きつらせた。
「法律的にはセクハラ罪と言う犯罪はないぞ。それから二村さんが不倫と呼んでいる不貞行為も肉体関係に及ばなければ認定されない。残念ながら岡田さんはご主人だけのものだ」岡田事務官の夫も職場での日常会話を聞いているのか、私がつけた毎度のオチに爆笑した。
古藤田京子イメージ画像
  1. 2019/10/21(月) 11:56:53|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

10月21日・神風特別攻撃隊第0号・久納好孚中尉が未帰還になった。

昭和19(1944)年の明日10月21日に神風(しんぷう)特別攻撃隊で最初の戦死である久納好孚(「よしたか」若しくは「こうふ」)中尉が未帰還になりました。ただし、公式記録では昭和19(1944)年10月25日に戦死した関行男大尉が特攻第1号となっており、久納中尉は陸軍特別攻撃隊・万朶隊が出撃した翌日の11月13日になってから特攻戦死と布告されています。
久納中尉は大正10(1921)年に愛知県で生まれ、昭和17(1942)年9月に学徒出征で法政大学を特別卒業すると海軍に入営して戦闘機搭乗員になりました。
フィリピンのセブ島基地に配属されていた昭和19年の10月20日に連合艦隊がマックアーサー元帥のフィリピン上陸を阻止すべく総力でレイテ湾に突入しようとした捷1号作戦に呼応して鬼神・大西滝治郎第1航空艦隊司令官が戦闘機による肉弾攻撃を言い出して神風(しんぷう)特別攻撃隊が編成されると久納中尉は大和隊の隊長に就きました。この時の敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の部隊名は国学者・本居宣長さんの「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににおう 山桜かな」が出典です。人問隊はありません。
作戦は10月21日の朝に偵察機からの「敵艦発見」の通報を受けて午前9時にマバラカット基地から関大尉の大和隊と朝日隊が出撃して始まりましたが敵艦隊に遭遇できずに引き返し、大和隊の出撃予定時間の午後14時30分にアメリカ海軍の艦載機の空襲を受けて稼働機が全て炎上・爆発したため予備機で編成を執って爆装した特別攻撃機2機と掩護機1機の3機で16時25分になって出撃したのです。本来は空襲から戻るアメリカ海軍機を追跡して空母艦隊に案内させてやりたかったのですが、この時間差は埋めようがなく天候も悪化したため大和隊も中瀬1飛曹の特別攻撃機1機と大坪1飛曹の掩護機1機は帰還し、久納中尉だけが未帰還になりました。
海軍が当初、この未帰還を戦死扱いせず4日後の関大尉を第1号と喧伝した理由については戦時中から現在まで様々な憶測が飛び交っていますが、一般的には「戦果がなかったため特攻の先駆けにすることを避けた」と「久納中尉が予備士官だったため海軍兵学校出身の関大尉に手柄を譲らさせられた」と言う如何にもありそうな2つが定説になっています。この他にも「不時着して生存している可能性を考えた」や「関大尉が最初の特攻隊全体の指揮官である以上、順番に関係なく1号なのだ」と言う開き直りまでありますが、帝国陸海軍の戦史はニューギニアのブナが4カ月早いにも関わらずアッツ島を玉砕1号としているように面子や利用価値で脚色していることも珍しくはなく、久納中尉は「特攻0号」になるのでしょう。
久納中尉はおそらく名古屋の上流家庭の出身で(愛知県に限らず日本の教育委員会は地元出身の軍人を無視しているため出身地を特定する資料が見当たらない)、フィリピンに赴任して間もなく地元の富豪の屋敷で歓迎会が催された時、ピアノの名演奏を披露して喝采を浴びています。出撃前夜にも海軍が士官用宿舎に借りていた邸宅のピアノで好きだったベートーベンの「月光」を静かに弾き、平常心を保っていたことを示しています。
  1. 2019/10/20(日) 12:41:05|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1709

佳織は8月中の「なかじんのそこまで行って委員会」を録画していなかったので私は新聞各紙と東京の民放各局の報道バラエティー番組を参考にしながら民政党代表選挙を観戦することになった。それにしてもA日新聞が妙に野畑氏に肩入れしているのが気になる。
「民政党の代表選挙って実際は総理大臣を決めてるんでしょう。何だか滅茶苦茶軽いんですが・・・」「ガキどもの生徒会の選挙並みだな」出勤時、私が駅のキオスクで買い集めて来る新聞を回し読みしながら1曹と曹長は馬鹿にしたような顔で所見を述べた。職場でも「最高指揮官の交代」と言う理由でテレビを点けているが、自民党の総裁選挙のように東映ヤクザ映画を連想させるような人相で対立候補を睨む迫力がなく、素人でも「無理だ」と判る人物の乱立に元生徒会長としては仕事の一環として視聴させておく必要があるのか悩んでしまう。
「やっぱり野畑さんが有力なんでしょう。地元でも期待する声が高まっていますよ」珍しく時事問題に女性事務官も加わってきた。このままでは女性事務官は定年退官するのと最高指揮官の交代が重なることになる。当然、防衛大臣も交代するはずなので混乱の中で40年余りの防衛庁・防衛省での奉職生活を終えるのだ。
「野畑は空挺の曹長の息子なのに民政党に参加したのが納得できませんね」「弟も民政党所属の千葉県会議員でしょう」「弟さんは野畑さんが国会議員になったから交代したんですよ」女性事務官は擁護したつもりらしいが、私は「妙に自民党的だなァ」と別の感想を持った。
「息子が揃って野党に入ったくらいだから、親父は空挺でも不満分子だったんじゃあないですか」中途半端な知識と見解で新聞を読むと論説を疑い過ぎて極端な批判に走ってしまうことがある。野畑の出身家庭については新聞の人物紹介記事で読んでいるが、父親の曹長は富山県の農家の6人兄弟の末っ子、母親は千葉県の農家の11人兄妹の末っ子だったはずだ。ただし、野畑はインタビューの中で「生活は困窮していた」と強弁していたが、降下手当てがもらえる空挺隊員は一般の自衛官よりも高給取りであり、兄は早稲田大学、弟は法政大学に進学しているのだから単なる「苦労人伝説」の創作らしい。
「結局、貧乏な農家の末っ子が自衛隊に入ったのは生活のためで、国防と言う意識を持つのは入隊後なんだよ」「それにしても精鋭を誇示する第1空挺団で使命感を持たないなんて有り得るんですかね」曹長と1曹の議論は自衛隊の常識の枠から踏み出せないようだ。自民党を支持していれば使命感を持ち、していなければ不満分子と言うのはあまりにも独断と偏見に過ぎる。私自身も根っからの自民党嫌いなので選挙で投票したことはないが、それでも今回の政権交代で考え方を変える必要性は感じている。
「野畑さんの奥さんは素敵な方ですよ」ここで女性事務官が陸曹2人の話の腰を折るために地元情報を提供した。確かに政権交代の前からマスコミは雀山の妻・辛(かのと)が宝塚歌劇団の端役だったことを花形スターだったかのように喧伝し、不倫の略奪婚だったことまで美談にしていた。缶の妻・信子は学生運動の同志時代からの感覚で夫を論破することを誇示していた。それに比べれば野畑の妻はテレビや新聞どころか雑誌にも登場した記憶がない。
「本当に控え目な奥ゆかしい方ですが、ピアノの先生だけに声が美しくて選挙の応援演説や集会での挨拶もプロのアナウンサーのようだって評判なんです。カラオケを唄うと聞き惚れてしまいますよ」どうやら女性事務官は野畑の熱烈な支持者らしい。退職後は政治活動が自由になるから後援会に入っても問題はないが、あと1週間は待ってもらいたいものだ。
「それで自民党の議員みたいに地元に利権を持って来てるんですか」「それは・・・」今度は私が話の腰を折るための質問をすると女性事務官は黙って机の上に広げた新聞に目を落とした。
民政党の代表選挙は「総理大臣を選ぶ」と言う責任を考えていないのか、逆に「総理大臣なんて誰でも務まる」と見切ってしまったとしか思えないような軽い人物たちで争われた。私としては「これは民政党の人材払底であり、誰が総理大臣になっても果たして組閣ができるのか=防衛大臣はどうなる」と他人事ではない心配をしていた。
「私の定年が野畑総理の下で迎えられるなんて思いませんでした。感激です」結局、8月29日に行われた代表選挙で女性事務官が支持する野畑が当選した。女性事務官はテレビの決選投票の中継を見ながら感激しているが、衆参両院の首班指名を受けた後に天皇の認証を受けなければ総理大臣にはなれない。最近の国会運営を見ていると2日以内の開会は難しいのではないか。
野畑首相は演説で佛教系の書家である相田みつおの「どうじょうがさ 金魚のまねすることねえんだよなあ」と言う詩を引用したことで「どじょう総理」と仇名されてしまった。しかし、容貌は泥鰌(どじょう)と言うよりも鯰(なまず)だ。それでも妻は登場しない。本当に奥ゆかしい女性のようだ。そんな常識がかえって安心なのはこれまでが非常識過ぎたからだろう。
  1. 2019/10/20(日) 12:40:03|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1708

佳織が香川県に転属して間もなく1ヶ月経つが、私は低次元だが幹部自衛官としては意外に切実な問題に気がついて困っていた。そこで対策を講じるため佳織に電話した。
「そっちは読売テレビが映るだろう」「西日本放送やね。入るで」香川県の民間放送は私が善通寺にいた頃から瀬戸内海を挟んだ対岸の岡山県と電波とチャンネルを共有している。西日本放送は高松に本社を置く日本テレビ系列だ。
「だったら『なかじんのそこまで行って委員会』を録画して送ってくれよ」「そうかァ。ママさんに頼むことないんやね」私の要望に佳織も即座に反応した。「なかじんのそこまで行って委員会」は大阪の読売テレビが制作している時事問題のバラエティー番組だが関東圏では放送されていない。だからこそ出演者は教条主義の東京では暴言と糾弾されるような本音ベースの激論を戦わせている。議論の中で出演者が発言の根拠として提示する情報も東京のマスコミは絶対に報じない漏洩ネタが続出していて私が独自に確認すると意外に信憑性が高い。これまで伊丹のママさんが月に1回録画したDVDを送ってくれていたので久里浜の佳織の官舎で見ていたのだが、佳織が録画できるなら他人の手を煩わせる必要はない。むしろ佳織なら毎週送らせても郵送料は自腹のウチだから遠慮はいらない。
「番組じゃあ今度の内閣交代についてどう言ってるんだ」問題が解決したところで事前情報を取材することにした。今まではDVDを見た後、パジャマ・ミーティングに移行したのだが、その楽しみはラブ・コールになる。
「首相が交代するよりも政権を開け渡せって言う意見が目立ってるね」「勝屋だな」勝屋とは出演者の中でも過激な言動で賛否両論を集めている言論人の勝屋将彦だ。私個人は暴走して繰り広げる猥褻ネタを楽しみにしている。ただし、歯に衣を着せぬ発言が売り物の番組にもマスコミ業界の自主規制は適用されるようで、勝屋が興奮して過激な発言をすると隠蔽のための銃声が入り、猥褻な話題ではそれ以上の機関銃状態だ。
「勝屋は今回の代表選挙が世代交代に名を借りた尾沢潰しだと思って批判しているんじゃあないか」私としては勝屋が尾沢一郎を熱烈に支持していることに嫌悪感を抱いているのだが、チベットの大虐殺が起きてミャンマーの南方佛教僧からの依頼を受けて日本での抗議活動を始めていた中、北京オリンピックの聖火リレーの出発点が長野の善光寺に決まったため山内の若い僧侶たちを阻止に向けて同調させていると、勝屋がテレビで同様の主張をしたことで世論も賛同に大きく動き出した。その一点だけは同志でもある。
「三宅先生はパネル出演だけど野畑に期待してるみたいやね」「野畑かァ。空挺の元曹長の息子だからって期待している隊員も多いけど松下政経塾の出身だからな」「民政党には松下政経塾出身者が多いよね」松下電器を創業した松下幸之助会長が「ジバン」「カンバン」「カバン」の3バンを継承・譲渡する世襲制や徒弟制が常態化している政界に新たな人材を送り込もうとして開設した松下政経塾だが、政界の本流にある実力者は冷ややかに傍観していたため熊本県知事から首相になった馬鹿殿や自民党を飛び出した尾沢の愛人から野党・与党を渡り歩いた元キャスターなど知名度だけの軽薄な人物が指導に当たることになり、その申し子を量産してしまった。私は「素人が思い込みで政治権力を握ったことで日本を滅ぼした」と言う意味では松下村塾と松下政経塾は同罪だと考えている。
「今は地本の隊員が生徒を勧誘するのにも政治的立場が難しいんや。息子を自衛隊に入れようとする親だから自民党支持やと思って政権復活を期待するような話をすると逆やったりして。特に徳島県は千石官房長官の地元やから香川でも影響を受けている人が『民政党政権をどう思う』って質問してきたりするんだよ」地方協力本部は自衛隊の活動を地域に周知することが任務だが、自民党の保守政権だけが自衛隊の存在を認め、防衛力を整備してきた時代が長かったため野党支持者から「自民党の飼い犬」視されているのは間違いない。それが政権交代で野党の指揮下に入ることになった。営業マンが必死に売り込んだ商品には直接関係しない社長個人の失態で取り引きが困難になるのに近いような気がする。
「毎日の朝礼で服務の宣誓を唱和したらどうだ」「『政治的活動に関与せず』やね」全ての自衛官は入隊時に「服務の宣誓」に署名・捺印する。本来は暗唱するべきだが「自衛官の心構え」の5箇条は「シコセキダン」の頭文字で思い出せても短くはない「服務の宣誓」となると毎朝勤めるお経を覚えるような訳にはいかない。その点、我が家では毎週勤めている殉職自衛官の慰霊法要では服務の宣誓の「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め」の一節で魂魄に自分の死を納得してもらっているため佳織も暗唱しているのだ。
「地本の仕事って意外にウチに向いているみたいや」この言葉を聞いて安心して電話を終えた。
  1. 2019/10/19(土) 12:43:48|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1707

「ダディ、これから帰ります」志織は関西国際空港での出国手続きが終わり、搭乗待ちのロビーから電話してきた。私は自炊の夕食を終えて職場で開設している法律相談室に届いた隊員からの私的な相談を熟読してパソコンで回答を作成しているところだった。
「高松から那覇への直行便があったんだってな。遠回りさせてしまって悪かったな」志織が石垣島に移動した夜、私は佳織から那覇への直行便を見落としていたことを指摘する電話を受けているので先ずは素直に謝った。すると志織は坊主の父親を感激するようなことを答えた。
「ううん、伊丹のグラマミィ(祖母)のお墓にお参りすることができたから好かったよ」石垣島へ向かう飛行機は夕方にならない時間だったから高松をかなり早い時間に出発したようだ。電話で佳織も「今日は勤務だった」と言っていたので出勤と一緒だったのかも知れない。
「ダディと淳ちゃんが暮らしていた善通寺に行ったよ。立派なお寺があってビックリしちゃった」「あそこは弘法さんが生まれた街なんだ。弘法大師って判るか」「空海のことだね」回答としては正解だが日本佛教界のスーパースターを呼び捨てにするのは失礼だ。
「せめて空海さんと言いなさい」「それなら真魚(まお)くんだね」私が指摘すると志織は善通寺で仕入れたらしい弘法大師の幼名で反論してきた。やはりこの母子は簡単にはいかない。
「四国で淳ちゃんには金毘羅さんの航海安全と善通寺の厄除けのお守りを買っていったよ。善通寺には勉強のお守りもあったから恵祥くんの分もね」どうやら志織も叔母としての自覚が芽生えてきたようだ。それにしても若くてシッカリ者の叔母さんだ。
「四国って素敵な場所だね。マミィの車で走ってると竹のハットを被って白いベストを着た巡礼さんが歩いてたんだよ。88のセイクレッド・ポイント(=霊場)をアラウンド(=巡拜)するんでしょう。凄いなァ」英語で言えば菅笠(すげがさ)はハット、巡礼羽織はベストになるが、坊主の妻である佳織の邦訳としてはもう1捻り足りないような気がする。とは言え今の志織に私が英語の説明をするのは釈迦に説法、弘法大師に説教をするようなものだ。
「巡礼と遍路は英語ではピグリメイジで一緒だけど微妙に違うんだよ。だから坊主の娘としては区別しなさい。説明は長くなるから手紙で送るよ」ここで私は志織相手にモリヤ家恒例の佛教講座を始めてしまった。巡礼は四国に限らず霊場と呼ばれる寺院を巡拜する信者のことで弘法大師を慕って行跡(あんり)を辿る遍路とは似て非なる者なのだ。このため遍路には真言宗式の作法があるが巡礼には特にない。
「ハワイに帰ったらグラダディとグラマミィにマミィが四国にいる間に88ポイントをアラウンドするように勧めようっと」「それを言うなら四国八十八カ所霊場巡りだ。霊場はセイクレッド・ポイントよりもプレイスの方が良いかな」やはり志織は電話で「ヘンロ」と言われても理解できなかったようだ。ただし、補足説明しなければならない点がある。
「四国八十八カ所巡りは徒歩だと1ヶ月以上かかるぞ。、四国の面積は約19000平方キロだから1番でかいハワイ島の・・・」「ハワイ島は10414平方キロメートル、オアフ島は1545平方キロメートル、マウイ島は1884平方キロメートルだよ」「の倍近いんだ。距離では1200キロ歩くんだぞ。高齢者夫婦のデート・コースには長過ぎるだろう」論理的に説明するつもりが志織に教えられて、佳織の血統の方が濃いのを思い知らされた。
「何よりも1ヶ月間もお前を1人住まいにさせることをノザキ中佐が許すはずないじゃあないか」「うん、でも2人に見せてあげたい素敵な場所なのは間違いないよ」この話を聞いて淳之介が美恵子の腹に宿った沖縄に不思議な郷愁を抱いて永住したのと同様に、志織も佳織の体内で訪れた四国に共鳴したのだとすれば母親が身籠った時点から人生の始まりとする佛教の生命観の深さをあらためて噛み締めてしまった。
「ところでマミィからスマホを送ってくれって頼まれたけどダディは良いの」ここで志織は佛教講座を切り上げて現実の用件に話題を変えた。最近、東京ではスマートホーンと言う不可解な携帯式通信機の売り込みが始まっているが、急速に機能が発達している携帯電話でさえ使いこなせていない私には接触不能な領域だ。むしろパソコンの上達の方向で努力したい。その点、通信のプロである佳織は携帯電話と言う既成の機材の高度化に成功したが故に新機材への転換に遅れを取った日本の通信業界の参入を待つのではなくアメリカの機材を入手することを決めたようだ。
「スマホって志織が使ってる小型のパソコンみたいな画面がでかい携帯電話だろう。あれって便利なのか」「タッチパネルで使い方は簡単だし、何所ででもネットにも接続できるから乗り遅れた損だよ」どうやら佳織と志織母子は時代の波でサーフィンを楽しめているらしい。淳之介は周囲の流行に合わせて受け入れ、私は後退を志向するのがモリヤ家の形だ。
  1. 2019/10/18(金) 12:40:11|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

10月18日・「3つの旗の下で戦った兵士」・トルニ大尉の命日

1965年の明日10月18日にフィンランド軍、ナチス・ドイツ軍武装親衛隊、そしてアメリカ軍で多大な戦功・武勲を上げて「3つの旗の下で戦った兵士」と呼ばれた本名=ラウリ・アラン・トルニ大尉、アメリカ人名=ラリー・アラン・ソーン大尉がベトナム戦争で戦死しました。49歳でした。
実は野僧も「2つの旗の下で戦った元自衛官」ですが日本では個人が戦争に参加すると刑法93条の「私戦の予備陰謀」罪に該当するので語ることは控えます。
トルニ大尉=ソーン大尉は1919年に現在はロシア領、当時はフィンランドだったヴィープリ(ロシア名・ヴォボルク)で砂糖工場の小型貨物船の雇われ船長の息子として生まれました。1938年9月に兵役として国防軍に入営すると12月には下士官学校に入校して翌1939年3月に伍長に昇任しました。この年の9月にナチス・ドイツとソ連がポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まり、11月30日にはソ連がフィンランドに侵攻して冬戦争=第1次ソ芬戦争が開戦したためトルニ伍長の兵役満了も停止されて軍隊に留まることになり、第4猟兵大隊に配属されると敵の前進停滞と後方遮断を基本とするモッティ戦術の後方への攻撃を担当して現在はロシア領になっているヨーロッパ最大の湖・ラドガ湖畔に展開しました。そうしてソ連軍の包囲殲滅作戦で武勲を上げたため翌1940年2月からは予備士官学校に入校して3月13日までの冬戦争の最終盤には少尉として参戦しています。1941年6月25日に継続戦争=第2次ソ芬戦争が再開するとトルニ少尉は遊激戦中隊の指揮官として再びソ連軍の後方を遮断・撃破する任務を担当して幾多の戦闘で甚大な損害を与えました。このためソ連軍はトルニ少尉に高額の懸賞金を賭けています。
1944年9月19日にソ連とフィンランドの間で停戦協定が締結されると同盟軍として駐留していたナチス・ドイツ軍はフィンランド国外に退去させられることになりましたがトルニ大尉(1944年8月27日に昇任)は脱走して武装親衛隊の支援を受けながら反ソ親ナチのレジスタント活動を開始しました。そうした活躍を見てナチス・ドイツはトルニ大尉ほかの士官を勧誘し、1945年1月にUボートでフィンランドを脱出して武装親衛隊の特殊部隊の士官になり、北欧と東部戦線で戦功を重ねました。
1945年5月8日にナチス・ドイツが敗北するとフィンランドに帰国しますが親ソ政権によって反逆者と断罪され、逮捕・脱走を繰り返しながら海外逃亡に成功し、1950年にアメリカへ渡ってラリー・アラン・ソーンに名前を替え、1953年に正式な定住許可を得ると翌年には反共産主義亡命者をアメリカ軍に受け入れるロッジ・フィルビン法に基づいて陸軍に入営して特殊部隊の創設に貢献しています。その後は特殊部隊の指揮官としてNATOや中東で武勲を上げて数多くの勲章を得ますが、ベトナム戦争での特殊任務のために搭乗していたヘリコプターが当時の南北国境付近で撃墜されたのです。ソーン大尉の遺骸はベトナム戦争後も不明のままでしたが1999年に発見された遺骨が2003年6月23日に本人のものと確認され、アーリントン墓苑に埋葬されました。
  1. 2019/10/17(木) 13:31:21|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1706

翌日は淳之介が操舵する連絡船に乗り、八重山の離島を観光することになった。淳之介としては「ちゅらさん」を知らない志織には本土の企業が作ったリゾート施設以外に見るものがない小浜島よりも竹富島で沖縄建築の街並みを観光しながら義母によれば住職は父と顔見知りらしい日本最南端の寺・喜宝院の蒐集館を見学して、昼食に竹富ソバを食べても時間があればカイジ浜の砂溜り(珊瑚礁で堰き止められて海岸の砂が溜まっている場所)で太陽の砂と呼ばれている星砂を拾うことがお勧めだが、志織は意外な抵抗を見せた。
「珊瑚礁まで行くには泳ぐんでしょう。私、水着を持ってないよ」確かに竹富島の砂溜りの水深は干潮時でも1メートルを超えるから水着でなければ無理だ。逆に水着でなければ波打ち際での砂拾いだけになってしまう。浜で星砂を拾うには掌を砂に押し当ててくっ付いた砂粒の中から探すのだが興味がなければ時間潰しにはならない。
「あかりのビキニで好ければ貸すぞ」「お義姉さん、ビキニなんて着るの」淳之介の提案に志織が意外そうな顔をした。視覚障害者のあかりは自分だけでは服を選ぶことができず、この水着も淳之介の好みなのだ。恵祥を身ごもる前、淳之介はあかりを連れて海に遊びに行ったが、それは水浴びを楽しむよりも水着姿を鑑賞することが目的だった。そうなると高校時代に寮で仲間たちと回し読みしていた雑誌のグラビアを飾っていた派手派手しいデザインになる。淳之介は志織の半分立腹した顔を見てタンスから出してくるのは止めた。
「私、胸がないからビキニは駄目なの。ハワイでもスポーツ水着専門よ」志織は結婚式で会ったあかりの清楚で真摯な雰囲気が汚されたような気がしたが、そのような性的感覚も自然な形で楽しんでいる両親の生活を思い出して納得した。それでも憧れの兄は別だ。やはり重度身体障害者である妻を大切に守っている優しさだけの夫でいてもらいたかった。
「お前の身体はスポーツ・ウーマンっぽいな。何かやってるのか」淳之介は「胸がない」と言う申告に座卓越しに志織の上半身を目で確認した。いわゆる貧乳・平乳の女性は総じて痩身だが、Tシャツから覗く志織の首筋から肩は逞しく、腕も柔らかい筋肉が発達していることが判る。
「うん、居合道をやっているよ。今は2段なんだ」「居合道って刀を振り回す型だろう。踊りみたいなものだな」石垣市内には空手以外の武道の道場はあまりないため淳之介は本土にいた頃、演武を見たくらいで居合道をよく知らない。すると案の定、志織は少し膨らんで熱く語り始めた。
「居合道の型は真剣を使う理想的な動作だから身体が覚えていればから竹刀のスポーツになっている剣道よりも実戦的なのよ」「真剣を持っていればだろう。実戦的と言うのは無理があるんじゃあないか」淳之介としては中学生の頃、久居駐屯地の居合道部の演武で見た青竹の試し斬りも技よりも真剣の斬れ味に驚いたのだ。
「そんなことないよ。私だってレイプされそうになった時、居合道の技で身を守ったんだもん」「何だって」志織は淳之介の大声に驚いた。エアコンをかけているので窓は閉まっているが、開いていれば下の道路を歩いている通行人が立ち止ったはずだ。志織は淳之介の厳しい視線を正面で受け留めながら説明を再開した。
「日系人の生徒が東北の被災地に送る義捐金の募金をやっていることを批判した韓国系の同級生を私が言い負かしたら、ナイフで脅してレイプしようとしたのよ」「韓国人ならやりそうな話だな」淳之介も1人で過ごす生活ではテレビの報道番組を見る機会が増え、最近の韓国の反日運動の背景にあるのは中国の激情とは違い怨嗟であることを感じていた。続いて沖縄の県内ニュースを見るとテレビは共通した扇動を繰り広げている。
「でも持っていた製図用の定規で一の太刀を加えたら一撃で気絶したよ」これは「気絶」と言うよりも「卒倒」だったのだが志織の日本語力はあまり高度ではない。
「それで無事だったんだな」「うん、大丈夫。居合道って実戦的でしょう」結局、志織の言いたいことはこちらだったらしい。淳之介は志織のスマートホーンで居合道の稽古の動画を見せてもらったが道衣姿も凛々しく真剣な気合いに武道系女子の雰囲気が十分に伝わってきた。
翌日、志織は朝一番の便で竹富島に渡り、島内観光と昼食を終えて昼過ぎの便で拾われるとそのまま同乗して最終便までつき合った。
「海に抱かれて 男ならば 例え破れても 燃える夢を持とう・・・海よ、俺の海よ、大きなその愛よ 男の想いを その胸に抱き止めて・・・」各離島の波止場での待ち時間には取り留めもない話をして過ごしたが、今日は持ってきたウクレレを弾きながら加山雄三の名曲を唄った。
「ハワイの海は八重山まで続いているよ。私は淳ちゃんに届くように海に話しかけてるんだ。波の音の中に私の声が聞こえるでしょう」こんな志織の想いも歌にできそうだ。
16・JunJihyunイメージ画像
  1. 2019/10/17(木) 13:30:04|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1705

夏の観光シーズンの最盛期で超多忙な淳之介は志織の迎えには出られなかった。1991年2月にバブル景気が弾けて20年経つが日本人に海外旅行熱が再燃する気配はなく、国内の秘境として北海道のオホーツク海側や沖縄でも八重山諸島が人気なのだ。今日もアパートの鍵は会社の事務係に預け、志織にはタクシーで取りに来るように伝えた。そうして通常通りに離島航路の連絡船に乗務していた。
「淳ちゃん、お帰りなさい」最終便を接岸させると桟橋で待っていた志織が手を振りながら声をかけてきた。連絡船は竹富島や小浜島などから乗った観光客で混んでいたが、沖縄のリゾートは老若のカップルでなければ女性客が中心なので美少女・志織の出迎えにも特別な反応はしない。淳之介は操舵室で手を上げただけで接岸後の作業に意識を集中させた。
「ただいま石垣港離島ターミナルに接岸しました。船体を固定するまで危険ですから席を離れないようにお願いします」淳之介は船内アナウンスをしてラッタル(梯子・階段)で甲板に下りた。それでも乗り慣れた離島の住人たちは勝手に甲板に出てきている。それは無視して桟橋に跳び移り、舫い綱(もやいづな)をクリート(杭)に結んで固定し、タラップ(渡り板)をかければ完了だ。志織は岸壁で興味深そうに淳之介の作業を見学していた。
「有り難うございました。また来て下さい」最近、淳之介は父に送ってもらった帝国海軍の白い略帽をかぶり、挙手の敬礼で送迎している。本当は服装も父提供の海上自衛隊の3種夏服にしたいのだが、すぐに汚れるのは判っているので作業服だ。
「今日の嫁さんは若いねェ」「嫁さんが子供を産んだ留守に若い女の子と友だちになっちゃあ駄目さァ」島のオバアたちは雲島に通っていたあかりの顔を知っているので淳之介に寄りそうに立っている志織を見て声をかけてきたが「妹です」とだけ説明した。
「淳ちゃん、終わった」「うん、船に乗っても良いぞ」最後に朝の便で竹富島に渡り、昼過ぎに小浜島、さらに新城島を巡っていた老夫婦が下りると志織が声をかけてきた。
「迎えに行けなくてごめんな」「ううん、会社に行ったら社長さんが船の到着時間を教えてくれたの。だから沖から入港してくるのをずっと見てたんだよ」淳之介が操舵室の下の倉庫から箒と塵取りを取り出して客室の掃除を始めると志織は邪魔にならないように場所を変えながら話を続けた。手伝わないのは生徒に教室の掃除をさせないアメリカの学校教育の影響だろう。社長はハワイでの結婚式に出席しているのでそこで志織に会っている。淳之介もあれ以来だが志織があまり成長したようには感じられない。高校生になった今でも可愛い妹のままだ。
掃き掃除に続き窓ガラスと座席を雑巾がけすると料金を入れた携帯式金庫を持ち、操舵室と客室、機関室を施錠して岸壁に下りた。石垣島では8月の日没は7時過ぎなので西の空と海は残照で赤く染まっている。すると志織が思いがけない歌をリクエストしてきた。
「ダディがサンセット(夕日)を見ながら唄ってた歌をお願い」「へッ、まさか『夕陽赤く』ってやつか」「うん」最近、淳之介は加山雄三の歌がウクレレに合うことに気づいて練習していた。職場にウクレレは持って来ていないがお気に入りの歌の1つなのは間違いない。そこで顎でリズムを取りながら唄い始めた。
「夕陽赤く 地平の果て 今日も沈み 時は逝く はるか遠き 君住む街・・・ 」気がつくと志織は腕を組んで頬を肩に載せている。確かに父がこの歌を唄うと母は身体を寄せて聞き入っていた。つまりこれがモリヤ家の形なのだ。父は幹部候補生学校の頃、今は母になっている佳織と外出し、筑後平野に夕日が沈むのを眺めながらこの歌を口ずさんだのだと言う。加山雄三の夕日の歌が「君といつまでも」ではないところがいかにも父らしい。
「・・・君よ眠れ また逢う日を 夢見るような 星あかり」今の淳之介はこの最後の歌詞を口ずさむとあかりへの愛おしさがこみ上げ、会えない寂しさが胸に迫ってきてしまうのだが、今日は志織が一緒なので自然に唄うことができた。それでも腕を抱いている志織の胸には弾力がない。この可愛い妹は女子高生になっても相変わらず色気抜きのようだ。
「淳ちゃんは海に出ていて外国の軍艦に遭うことはないの」夕食は行きつけの食堂ですませて自宅に帰ると志織は意外な質問をしてきた。淳之介は志織の海軍志望は聞いていないので父と母の影響かと思いながらも真面目に答えた。
「俺は石垣と西表の間の離島を回るだけだからそんな機会はないけど、就職する前の年に中国の潜水艦が領海侵犯したのは石垣島と多々良島の間だったから近海を通過したのは間違いないな。今でも与那国島や波照間島の航路では潜水艦に遭うことがあるらしいけど近づく前に潜航するから鯨の見間違えと言うことにしているよ」「やっぱり私が淳ちゃんを守らないといけないね」志織の決意を込めた表情に淳之介は困惑して、この健気な妹の顔を黙って見詰めた。
  1. 2019/10/16(水) 13:26:15|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

10月16日・「他力更生」共産党中国が初の核実験に成功した。

1964年の明日10月16日に共産党中国が新疆ウチグル自治区内のロプノール湖で初の核実験に成功しました。
この実験については1976年9月9日に毛沢東国家主席が死亡した時、NHKを含むテレビ各局が放送した事実上の追悼番組だった悪業を紹介する番組の中でカラーの映像を流していたので鮮明に記憶に残っていますが、通常、アメリカの核実験や原爆投下に関する場面では極めて批判的な解説が入るのに対してこの映像については中国の近代化の象徴、アメリカやソ連に対抗し得る核保有国になった証明として感動を強要していました。特に毛沢東国家主席の指導の下、「両弾一星」と呼ばれる中国の科学者たちが自力で開発したと強調していましたが、それは虚構とは言わないまでも誇張です。
毛沢東国家主席はアメリカが日本で2度の核兵器の実用試験を行い、1発で地方都市(=ヒロシマ。長崎は中心部の山で遮断された)を壊滅できるほどの威力があることを知って以来、「自分でも使ってみたい」との願望を抱くようになったようです。このため1949年10月1日に国共内戦に勝利してソ連との同盟関係が成立するとヨシフ・スターリン書記長に1949年8月29日に初の実験に成功していた核兵器の提供と技術の移転を要請しましたが、毛沢東国家主席の危険な本性を見抜いていたスターリン書記長が拒否したのです。ところが1953年3月25日にスターリン書記長が死亡すると恐怖政治で絶対服従を強いてきた独裁者から解放されたソ連国内や東欧諸国では不協和音が起こり、フルシチョフ政権は共産主義諸国に新体制への信任を求めたのに対して毛沢東国家主席は軍需産業と核技術の移転を条件に加えたのでした。
こうして1953年に軍事大国化を目指す第1次5カ年計画に着手していた1955年1月に広西省でウラン鉱床が発見されて材料を入手したところへソ連から核兵器開発に当たっている科学者付きで遠心分離機と原子炉が提供されたため(ソ連崩壊後に「実際は核兵器の製造工場も建設した」との証言も出ている)、核兵器開発12年計画も開始したのです。すると1956年にはアメリカで発生したマッカーシズム=共産主義者狩りで国外追放になって帰国した物理学者・銭学林さんによってアメリカ式の核技術も入手したため核兵器開発は急速に進展してしまいました。なお毛沢東国家主席はソ連やアメリカだけでなく核保有国でロケット打ち上げでもあるイギリス、フランスの開発現場にも華僑の科学者や技術者を潜入させており、12年計画に合わせて招集したため、この原爆と水爆の技術者を「両弾」、弾道弾を「一星」と呼んだのです。
こうして先行してロケットの発射実験に成功するとこの日、国産の弾道ミサイル・東風2号に20キロトンの原爆を搭載して発射し、ロプノール湖上空569メートルで爆発させることに成功しました。さらに1967年6月17日には水爆の実験にも成功しています。
現在、中国はチベット高原に大半の弾道弾部隊を展開しています。日本ではインドの核開発を「国境紛争を繰り返しているパキスタンへの抑止力だ」と報じていますが、実際は中国からの核の脅威に対抗しているのでしょう。パキスタンは巻き添えです。
  1. 2019/10/15(火) 12:43:41|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1704

前回、佳織が香川県に来た時は志織を身籠っていたので長い参道と石段が続く金毘羅宮には来ていない。このため本殿までの参拝は初めてだったが予想以上に長く真夏には少し辛かった。
「意外に遠かったね」「ううん、このくらい毎日のトレーニング・コースだよ」佳織は志織が本格的な運動に励んでいることは知らなかった。志織はハイスクールではクラブ活動に参加しておらず居合道の道場に通って修行に励んでいる。7月4日に居合道の技を披露したのは教師や生徒に修行の成果をアピールするためでもあった。
「ジョギングを始めたのね。ダイエットを気にするようになったのかな」佳織の母親としての推理に志織は少し怒ったような顔をして首を振った。
「グラダディ(祖父)の指導で始めたんだよ。私は海軍に入ったら軍艦に乗り組むつもりだったけどグラダディはパイロットになれって言うんだもん。WAVESでは艦載戦闘機は無理だけど対潜哨戒機やヘリコプターのパイロットにはなれるって一生懸命なの」これは意外な展開だ。ノザキ中佐は志織の海軍志望を聞いて熱心に空軍を勧めていたが、「淳之介の航海の安全を守りたい」と言う理由を聞いて諦めたはずだ。ところが今度はパイロットと言う職務で後継者にすることを希望し始めたらしい。2人の息子=佳織の義弟は空軍の戦闘機パイロットになったが極秘任務の事故で殉職している。それでも孫娘にまでその夢を賭けるほど空の魅力は強いようだ。考えてみれば元航空自衛官の夫は陸上自衛官になっている今でも空を見上げる癖が抜けていない。般若心経を愛誦しているのは「空」の教えだからではないか。
「だけど有酸素運動をやり過ぎるとGへの耐久力が弱くなるから心肺機能を強化するためにしろって。だから坂を登るだけで距離は長くないの。エアロビとサーキット・トレーニングが中心ね」志織の補足説明で最近、帰省すると家の中にダンベルやバーベルが置いてあるようになった理由が判った。ノザキ中佐としては志織を危険が伴う軍のパイロットにすることを佳織が知れば反対するのではないかと懸念して黙っていたのかも知れない。
金毘羅宮は元来、松尾寺の鎮守社だったので般若心経を2人で合唱してから合掌して頭を下げると佳織は自衛隊式、志織はアメリカ軍式に回れ右した(自衛隊式の方が1動作多い)。
「志織はアノフィサー・アンダ・ジェントルマン(邦題・愛と青春の旅立ち)って映画を見たことがあるの」拝殿の前の長い石段を下りながら佳織は29年前の古典映画の話を始めた。
「うん、ダディがビデオを持っていて、私たちが寝てからマミィと見てたじゃない。だから淳ちゃんと留守番していて見たことがあるよ」衝撃的な告白だがここは素通りする。
「あの英語の舞台は海軍の予備士官パイロット・コースだけどケーシー・シーガーって言う女子の候補生がサーキット・トレーニングで苦労するのを見たんでしょう。どう思った」「だから私も筋力トレーニングに励んでいるわ。グラダディに鉄棒を買ってもらって懸垂は20回くらい平気だよ」そう言われて佳織は半袖のTシャツから覗いている志織の腕を見たが、目立つほど筋肉質ではないものの肩の三角筋が盛り上がっているのは判った。
「でもあまり筋肉質になると胸が固くなって膨らまなくなっちゃうよ。ビキニが着られないとワイキキのスターになれないじゃない」これはノザキ中佐がパイロットとしての夢を孫に託したのと同様に自分がスタイル抜群だっただけに娘にも女性としての魅力を身につけさせたいと言う佳織の願望だった。とは言え佳織もワイキキでビキニ姿を披露したことはない。ビキニを買って夫に見せたのはハワイの太平洋軍司令部の連絡官だった40歳を過ぎてからだ。
「皮下脂肪で体重が増えると運動能力が落ちるからパイロット・コースを終えるまでは無理だね。今は予備士官に合格するために頭と体を鍛えているの」「勉強にも励んでいるなら安心よ」佳織の返事を聞いて志織は難しい顔をした。
「でもグラダディは視力が落ちるとパイロットとしては致命的だからって色々厳しいの。スマートホーンは家では禁止(日本ではまだ高機能なガラパゴス携帯だったが)、パソコンを見る時にはブルーライト・カットの眼鏡を掛けろって。夜更かしも禁止だから短時間で予習復習して集中力が鍛えられてるわ」これではパイロットを育成するための虎の穴のようだ。ただし、佳織は梶原一騎原作のスポ魂アニメ「タイガー・マスク」は見たことがない。
「私が3年になったらグラダディが友だちの飛行機を借りて上空で私に操縦の練習をさせるって。アイハブ、ユーハブって言うのが楽しみ」これは複座式の航空機でパイロットが操縦を交代する時の「ユー・ハブ・コントロール(操縦を譲る)」「アイ・ハブ・コントロール(操縦を受ける)」を省略した航空用語だ。アメリカの航空関係法令は知らないが、熟練パイロットの監督下とは言え無免許の高校生に上空で操縦させることが許されるのか。やはり当局の目が届かない空の上ではパイロットが「アイ・アム・ロウ(私が法律だ)」なのだろう。
  1. 2019/10/15(火) 12:41:10|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

400勝298敗の大投手・金慶弘=金田正一さんの逝去を悼む。

10月6日に400勝、298敗、奪三振4490、与四球1808、登板5526回超などの前後人未踏の金字塔を打ち立てた日本名・金田正一さん=韓国名・金慶弘さんが亡くなりました。86歳でした。
野僧の世代はアニメ「巨人の星」を見ていないと学校での会話に加わることができないので野球嫌いだったにも関わらず毎週欠かさずテレビの前に座る羽目になった上、同級生の間で漫画の原作の回し読みまで始まったため金田さんを含めた読売ジャイアンツの選手から監督まで詳しくなってしまいました。その後、格闘系の梶原作品の大部分が創作・誇張なのを知り、「巨人の星」や金田さんに憧れて野球を始めた少年・勝三四郎が主人公の「おれとカネやん」などで取り上げられている金田さんの偉業や人物像も同様なのかと思っていましたがそれは数字で証明されており、おまけに愛知県稲沢市出身と言うことで人物像についても郷土の英雄的に耳にすることがありました。
金田さんは享栄商業高校に在学中、野球部の専用グランドがなかったため国鉄の八事球場を借りて練習をしていて、その豪速球を見た管理人の国鉄職員が国鉄スワローズに連絡してスカウトされたそうです。このため高校は中退することになり、金田さんはカラオケで「仰げば尊し」を熱唱しては他の選手たちに「お前たちは卒業したんだよな」と呟いていたそうです。なお、金田さんの3人の弟は全員がプロ野球選手になっていますが、実績を残したのは投手として128勝を上げた末弟の留広さん(昨年の10月2日に亡くなった)だけで、間の2人は金田さんの成績に見合う俸給を支払うと他の選手との格差が大きくなり過ぎるため差額分として入団させたと言われています。
金田さんの豪速球は球速を測定する機械がなかったため公式な記録は残っていませんが、戦前の読売でもプレイして伝説の沢村栄治投手や須田博=ビクトル・スタルヒン投手を知っている世代の人たちも「勝るとも劣らない」と評していて、長野球場での巡業試合では阪神の打者が「球が早過ぎる。距離が近いのではないか」と申し立てたため審判と一緒に巻尺で測ったこともあったそうです。
また豪速球と同様の球筋から急速に大きく変化するカーブも有名ですが、「巨人の星」では引退会見でアンダーシャツを腕まくりして「カーブの投げ過ぎで左腕が曲がってしまった」と語る場面を誇張して描いていました。
さらに打者としても登板中の投手としては最多の本塁打36本の記録を維持していて、代打に起用されて2本の本塁打を放っています。
野僧は金田さんの記録が凄いのは国鉄スワローズでの14年間に353勝を上げたことだと考えています。当時の国鉄スワローズは貧打・拙守の弱小球団だったので1点を奪われれば逆転することが難しく、下手に打たせれば後逸する可能性がありました。そんな国鉄でこれだけの成績を上げたのですからマスコミが「元巨人軍」と紹介し、読売に移籍してからの映像ばかりを使うのは少し違うような気がします。白黒だった国鉄時代が不具合ならむしろ韓国系企業のロッテの監督時代でしょう。冥福を祈ります。
  1. 2019/10/14(月) 12:54:50|
  2. 追悼・告別・永訣文
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ1703

地方協力本部長の職務には公私の時間区分が適用できない。モリヤ佳織1佐は着任以来、香川県知事から市町村の首長に始まり、教育委員会や各学校長、さらに県内の企業などへの挨拶回りに明け暮れている。当然、酒席への誘いもあり、帰宅する時間は善通寺駐屯地の消灯ラッパが鳴り終ってからになる。これは公務と言えば公務だが、接待で飲酒することは自衛官には認められていない。経費も自腹なのだ。
この日、佳織は午後から休暇を取り、志織を出迎えに私有車で高松空港に向かった。私有車はこれまで夫の官舎に置いてあったのだが、交通の便を考えると佳織の方が必要性は高いので香川県まで八王子ナンバーの車を運転してきた。車嫌いの夫は原付バイクを買うらしい。
「マミィ、ただいま」盆・正月の帰省ラッシュ以外は満席にならない高松便から下りてきた志織は制服姿の佳織を見つけると満面の笑顔で歩み寄った。佳織は昼休みまで来客があり、特借マンションまで着替えに帰る余裕がなかったのだ。
「初めての土地でおかえりは変よね。私の所へようこそ」佳織は片手のカバンを受け取ると笑顔で声をかけた。志織とは日本の大型連休の後に祝日分の休暇を取って帰省して以来だが、少し大人びたように感じる。やはり先に夫の官舎で過ごして精神教育を受けたのかも知れない。
「今回、ダディは大失敗してるのよ。私、羽田空港で見つけちゃった」広くはないローカル空港のロビーを歩きながら志織が少し頬を膨らませながら問題を持ち出した。
「どうしたの。ダディの仕事に失敗があるとは思えないけど」「だって高松空港から那覇の直行便があるのよ。那覇で石垣便に乗り換えた方が高松から関西空港に行くより早いじゃない」それは意外な指摘だった。高松から関西国際空港に行くには徳島へ出て淡路島を渡り、神戸経由で大阪湾を周回するルートと瀬戸大橋で岡山へ渡り、新幹線で新大阪へ出て同じルートを辿る二通りがあるが、那覇空港で乗り換えるよりも時間と経費がかかるのは間違いない。
「多分、ダディは石垣空港を起点にして航空券を手配したのよ。梢さんに頼めば間違いはなかったはずだけど、今回は私の転属も重なって混乱してたから仕方ないわね」「梢さんってお義姉さんのお母さんだね」昨夜の志織の質問を受けた時、父は胸の中で佳織が梢に抱いている劣等感を思ったのだが口にしなかった。だから志織にはハワイでの結婚式で会った兄嫁の母以外の認識はない。それでもこの会話で相変わらず夫婦双熱愛なのは確認できた。
「ここが金毘羅さんだよ」高松空港からは西に向かい琴平の金毘羅宮に参った。途中にニュー・レオマ・ワールドがあったが、美恵子が仕事を優先して家庭をかえりみなくなった頃、父と淳之介が2人だけで行った哀しい思い出の場所だとは知らずに素通りした。
「金毘羅船船追い手に帆かけてシュウラシュシュシュ・・・」金毘羅宮の門前に並ぶ駐車場に車を停めて参道に入るとどこからともなくお座敷歌の「金毘羅ふねふね」が聞こえてきた。
「あッ、これは淳ちゃんがお風呂で唄っていた歌だ」志織は立ち止って歌が流れてくる方向を探した。年の差がある淳之介と志織は一緒に風呂に入ることはなかったが、淳之介の唄は父親仕込みの隊歌演習式なので声が響き、外にも良く通っていた。
「淳之介は香川県で育ったからここで覚えたんだよ。これは瀬戸内海の船乗りの歌だから今の仕事の時も鼻歌にしているかもね」佳織の推理に志織も「同感」と言う顔でうなずいた。ここからは長い参道を歩いて行くことになる。両側には土産物の店が並び、前に立っている小母さんたちが声をかけて来るが、佳織の制服を見て何故か絶句していた。
「今度、香川に来られた自衛隊の本部長さんでしょうか」遠くから佳織の姿を確認して心の準備をしていた小母さんが声をかけてきた。言葉遣いは妙にあらたまっている。
「はい、8月1日付で香川地方連絡本部長に着任しました」「新聞とテレビで見ましたよ。本物の方が美人ですね」この台詞は挨拶回りの時も冒頭の常套句になっている。久里浜の官舎に引越し準備を手伝いに来た夫が冗談めかして口にしていた「スター扱い」が現実になっているようだ。すると周囲の店の小母さんたちも好奇心丸出しの顔で集って来て、志織はそれを興味深そうに観察していた。これは日本人の国民性の標本ではある。
「やっぱり自衛隊さんは金毘羅さんにお参りするんですね。昔の海軍の守り神でしたから」最長老の小母さんが意外な説明をしてくれた。金毘羅宮は瀬戸内航路の船乗りや漁師たちだけでなく海賊と呼ばれた水軍の守護神でもあった。このため戦前の帝国海軍から海上自衛隊まで戦没者・殉職者の慰霊祭が催されており、昭和25年10月17日に朝鮮戦争での掃海中に戦死した海上警備隊員の慰霊碑もある。おそらく地本本部長も列席するはずだ。
「だったら淳ちゃんと私のお守りを買ってかなくちゃッ。人間の限界を超えたら佛様に任せるんだもん」これは父の教えだが金刀比羅宮は明治の廃佛毀釋で神社になってしまっている。
  1. 2019/10/14(月) 12:53:27|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

10月14日・沖縄出身の共産党指導者・徳田球一の命日

1953年の明日10月14日は現在も沖縄県の反日活動家から絶大な崇敬を集めている日本共産党初期の指導者・徳田球一の命日さんです。「球一」と言う名前は親が野球ファンだった訳ではなく「琉球で一番の人物になれ」との願いを込めた命名だそうです。
徳田さんは日清戦争が開戦した明治27(1894)年に現在の沖縄県名護市で印刷業を営む家庭に生まれ、沖縄第1中学校=現在の首里高校を卒業後、鹿児島に在った旧制第7高等学校に進学したものの教官たちの沖縄出身者に対する差別に反発して退学、上京して日本大学の夜間部を卒業して弁護士資格を取得しました。
大正9(1920)年にソ連のスターリン書記長が創設した世界共産革命の実現を目指すコミンテルン=第3インターナショナルの下部組織・日本社会主義同盟に参加すると翌年にはソ連に赴いて何らかの指示を受けて帰国し、大正11(1922)年に非合法の日本共産党を結成すると中央委員に選出されています。その後も大正14(1925)年と昭和2(1927)年にソ連に渡っており、昭和3(1928)年に行われた第1回普通選挙の福岡3区にコミンテルンの隠れ蓑である労働農民党から出馬しますが落選、その直後の2月26日に門司駅で治安維持法違反容疑で逮捕されました。この逮捕を切っ掛けに3月15日からは全国一斉の共産党員と賛同者の摘発が行われ、50団体が捜査対象になり、約1000名が拘束され、約300名が検挙を受け、30名が市ヶ谷刑務所(=現在の東京拘置所に相当する)に収監された3・15事件に発展しました。
その後、徳田さんは戦時下を3食付きの獄中で生活しますが、日本の敗戦後も忘れられていたところ(それだけ安全だった)10月10日になって府中刑務所に取材に訪れたフランス人記者に発見され、ようやく釈放されました。
釈放後は即座に合法な政党としての日本共産党の結成に動き、昭和20(1945)年12月の第4回党大会で書記長に選出され、昭和21(1946)年の普通選挙では亡命先の中国から帰国した野坂参三と共に当選し、全国の労働組合の半数以上を傘下に収める大勢力に発展させましたが、昭和22(1947)年2月1日に国鉄や逓信省=後の電電公社などの公務員労働組合を含む全労働組によるゼネラル・ストライキを計画したため、これが吉田茂内閣の打倒に留まらず共産主義革命の発火点になることを察知した占領軍によって中止が指示され、求心力が急速に失われました。
さらに昭和25(1950)年には徳田さんがスターリンへの書簡で「シベリア抑留された日本兵を共産主義への洗脳の度合いによって分別し、効果が現れるまで帰国させないように要請した」と言う徳田要請問題が発覚した上、占領軍が共産党敵視に転換したことによる団体等規制令違反の逮捕令状が出たことを受けて10月に大阪からの貨物船で前年に共産化した中国に亡命して、北京から野坂さんや宮本顕治さんが主導する日本共産党を批判する負け犬の遠吠えを響かせていました。
墓は東京の多摩霊園と青山霊園、千葉の徳田家の墓所の3カ所にあり、多摩霊園の墓碑銘は毛沢東主席の作、文字は周恩来首相の筆によるものです。
  1. 2019/10/13(日) 13:15:44|
  2. 沖縄史
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ