昭和36(1961)年の明日2月1日に文芸春秋に掲載された小説「風流夢譚(ふうりゅうむたん)」が皇室を冒涜しているとして右翼の少年が社長宅を襲撃して家政婦を殺害、妻に重傷を負わせた事件が発生しました。
野僧は高校の図書室の日教組の活動家の教師が管理している書棚でファイルに綴じて大切に保管されている雑誌を見つけ、持ち出し禁止だったためその場で背表紙に題名が記してあったこの小説を読んだことがありますが、記憶に残っている粗筋は「眠っている間は止まり、起きていると動く時計を持っている主人公が電車で渋谷駅に行くと駅前には群衆がバスを待っていて『左慾(さよくの誤字)の人たちが革命を起こした』と噂し合っていました。やがて到着した1台目のバスは『警視庁との射ち合いの応援に向かう。巡査は味方、刑事が反抗している』と説明されて主人公は残りました。2台目のバスは『自衛隊を迎えに行く。反抗するのは幹部だけで下っ端は味方だ』と説明されて今度も残りました。そして3台目のバスに乗り皇居前広場に行くとタキシードを着た皇太子(=平成の天皇)と美智子妃殿下(=実名だった)が斬首されるところで、刑が執行されてから周囲を歩き回ると交差点にはイギリス製のスーツを着た昭和の陛下とスカートを穿いた皇后の首がない遺骸が転がっていて群衆が取り囲んで眺めているのを巡査が交通整理していました。すると昭憲皇太后(=昭和の陛下の母・実名だった)が現れたので主人公が怒鳴りつけると『糞ったれ婆』『糞ったれ小僧』と口汚い罵り合いになり、投げ飛ばして殴ろうとすると頭の中央に禿げがあって驚きました。そこで軍楽隊が演奏を始めたので気分が良くなり、浮かれたまま花火見物をした後、拳銃で頭を射って自死しますが中には蛆虫が詰まっていた。ここで甥に起こされて目を覚ますと時計は動いて進んでいた」と言うものでした。
この作品を右翼団体は「皇室に対する冒涜だ」と猛烈に批判して連日のように文芸春秋社に押し掛けましたが、保守系の文筆家は「左翼革命を揶揄している」と肯定的に評価しており、野僧も何故、日教組の教師が厳重保管していたのか理解できませんでした。
犯人の小森一孝くんは佐賀県出身で、昭和18(1943)年生まれの長崎地方検察庁諫早支部の副検事の息子で高校を中退して家出した後、肉体労働を経験しながら東へ進み、上京して右翼団体に入党したばかりでした(昭和46=1971年没です)。
事件は文芸春秋の社長宅に少年が侵入し、発見した50歳と22歳の家政婦に刃物を突きつけて社長の所在を問い、そこに帰宅した36歳の妻が社長の不在を伝えると逆上して妻の腿を刺し、庇おうとした50歳の家政婦の左脇腹も刺して逃走したものです。動機としては「作者も悪いが、それを売って金を儲ける社長はなお悪い」と供述しています。
この事件後、右翼団体は前年に発生した同じ年生まれの山口二矢(おとや=幹部自衛官の息子)くんによる浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件とは違って被害者が無関係な女性であり、むしろ妻を庇おうとした忠義の家政婦を殺害していることを強く批判しましたが、言論界では作者や出版関係者ではなく家族が襲われたことに衝撃を受け、表向きは言論の自由を主張しながらも皇室に関する文筆活動には自己規制を課すようになりました。
- 2020/01/31(金) 11:43:01|
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「マミィはダディに会ってるの」ハワイに帰省した佳織はリビングで志織と談笑していて真顔で問い詰められた。志織も夏休みには香川県を訪れ、四国の歴史と文化や豊かな自然を満喫してきたが、その一方で東京との距離も実感している。両親は「月に1回、父親が四国へ通う」と言っていたもののそれが可能な職務ではないことも判っていた。
「中々予定が合わなくてね。1回来てもらっただけだよ」佳織は残念そうに答えたが志織は不満げな顔になった。8月以降の日本の祝日は9月が2日、10月と11月、12月にも1日ずつあり、そのうち木曜日だった11月3日の文化の日以外は月曜日か金曜日だったので土・日曜日に合わせれば3連休になったが、間隔が中途半端なため9月23日の秋分の日だけにしたらしい。木曜日の文化の日は金曜日に休暇を取って4連休にするつもりだったが、秋の演習で発生した官用車の交通事故の処理で実現しなかったようだ。
「私のことを心配するのは好いけれどダディのことも考えて上げなさい。グラダディとグラマミィはいつも一緒で人生を共有しているのよ。マミィはダディと何年一緒に暮したの」志織は祖父母の生活を見て夫婦と言う人間関係を学んでいるようだ。しかし、佳織にはこの叱責が黙過できなかった。テーブルの向かいに座っている志織を直視すると少し口調を強めて反論した。
「私には国家から与えられた重要な職務があるのよ。ダディだって私が職務を優先することを認めてるし、誇りに思ってくれている。グランドダディも若い頃にはベトナム戦争に従軍して家には帰って来なかった。志織も軍人になるなら個人の生活と国家に対する使命のどちらを優先するべきか認識するべきよ。それが理解できないようでは上級軍事大学なんて無理ね」佳織の言葉に志織は皮肉に笑うとマンゴーのジュースを飲んでから答えた。
「『二兎を追う者、三兎を得る』、ダディはいつも言ってたじゃない。マミィだって強く希望すれば東京で転属できたんじゃあないの」これには佳織が絶句した。モリヤのこの台詞は自衛官と坊主の二足草鞋(わらじ)を履いていることを茶化した造語=改作古語だが、最近は弁護士と言う草鞋も履いているため「三足草鞋を履きたくても真ん中の足が立たない」と下ネタになっている。確かに佳織はモリヤとの生活を守るための努力を怠っていたのかも知れない。
「私、石垣島の淳ちゃんの家に泊めてもらって色々な話を聞かせてもらったんだ。淳ちゃんと私は産んだお母さんが違うんだね。それにあかりさんのお母さんはダディの昔の恋人だってことも。ダディは子供の頃から自分で見つけて育てていた大切な宝物を愛知の親に奪われて壊されてきたから自分から欲しがることができない人間になってしまった。だからマミィが愛してあげないとダディは1人で生きるようになってしまう」佳織は志織がアメリカでは年令相応に、日本では不相応な大人になっていることを実感した。それが判れば大人の女同士として話ができる。佳織もマンゴーのジュースを飲んで静かに話し始めた。
「ダディは自分から欲しがることができない人間なのね。私がダディに抱かれるようになっても奉仕するみたいな行為しかしないから『好きなようにして』って言ったら、ものすごく優しく抱いてくれたのよ。ダディには自分の欲望で快楽を求めるって言う感情がないのかも知れない。でも国家への忠節は私たち夫婦の共同作業であることは間違いないわ」あの時、淳之介は「梢とやり直した方が好い」とも言っていたのだが志織は口にしなかった。その時、庭の手入れをしていたノザキ中佐とスザンナがリビングに戻ってきた。単身赴任生活が続く自分たち両親よりもこの祖父母を見て夫婦の情愛を学ぶ方が志織には有益だと佳織は思った。
「そろそろ志織に交代しよう。ユー アー パイロット」「アイ アイ サー。アイ アム パイロット」翌日、佳織はノザキ中佐が友人の自家用機を借りての遊覧飛行に同乗した。副操縦席には志織が座っている。空港の管制空域を離れたところでノザキ中佐が志織に声をかけた。勿論、無免許の志織が航空機を操縦することは違法だが、空の上では目撃者がいない。そのため2人は会話を管制官に傍受されないようにレシーバーのマイクを額に上げている。
「いつものように急激な操作をしないように気をつけろ。先ず右に旋回してみろ」ノザキ中佐は教官パイロットとして指導を与えながら志織に操縦させている。航空機は速度が早いため操縦桿や方向舵のペダルの動きに大きく反応する。その感覚を体験させながら適性を見極めているようだ。ハワイの海の上を自由に飛びながら志織はセスナ機を自転車のように乗りこなしている。しかし、志織はまだ自動車の免許を取っていない。航空自衛隊には自動車で追突事故を起こして「ハンドルを引いたが車体が上昇しなかった」と証言した熟練の戦闘機パイロットがいたが、先に飛行機の操縦を覚えても大丈夫なのだろうか。
「操縦で一番難しいのは着陸なんだが、それは資格を取らないと教えられないな」海の上だけの遊覧飛行を終えて空港に帰投するため操縦を代わったノザキ中佐は満足そうに呟いた。

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- 2020/01/31(金) 11:41:25|
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後段休暇の私は愛妻・佳織には会えなかった。佳織は12月下旬から1月上旬にかけて連日のように忘年会と賀詞交歓会が続き、特別休暇の29日から3日までしか休暇が取れず、そこでハワイへ帰省した。ハワイへの便は関西国際空港発着なので東京は通過しない。
「佳織と『坂の上の雲』を語り合いたかったな」今年は土曜日の大晦日を私は1人で酒を飲みながら過ごしている。佳織が久里浜であれば同じように後段休暇でも土・日曜日で帰宅して2人で年を越すことができたはずだ。国営放送の「坂の上の雲」の第3部については番組放送後に電話を掛け合って互いの見解を交換してきたが、録画を見ていて203高地を陥落させた後、山頂に電話を引く場面の電話線が演習場で見慣れている有線よりもかなり太いことに気づいたのだ。是非とも通信幹部の解説を訊きたかった。
「それにしても佳織は疲労の上に時差ぼけが重なって大丈夫なのかな」私はあまり興味がない年末番組は見ずにレンタル・ショップで借りたDVDの映画をセットしながら独り言を呟いた。地方協力本部では年明けには武力紛争関係法だけでなく児童の保護と福祉に関する各種国際条約に違反していながら存続している陸上自衛隊高等工科学校の採用試験があり、佳織は昼夜を問わず多忙を極めたはずだ。母としてハワイの祖父母に預けた志織に長期休暇で会いに行くのは当然としても、夫としては本人の健康が心配になる。
「志織を呼べば良いんだが、受験が近づいてるからな」志織は9月でハイ・スクールの最終学年になっており、いよいよ初めての受験を迎える(アメリカでは私立の学校に進学しない限り受験はない)。志望校は陸海空軍の士官学校ではないが、予備役士官訓練課程(ROTC)が設置されている一般大学の中でも上級軍事大学に指定されている6大学なので勉強には真面目に取り組んでいるはずだ。
「淳之介に志織、みんな手元から巣立ってしまったな。ウチの親は沖縄でも海外みたいに思っていたが、ワシは本当に海外だからね」唐突に最近は思い出すこともなくなっていた愛知の親が頭をよぎった。しかし、それは懐かしさなどではなく地元を嫌って就職家出として防府の教育隊に入った私の真意を理解せずに、基礎課程修了後の休暇では帰省を厳命して看護学生の律子さんと計画していた1泊2日の小旅行を台無しにして、沖縄に赴任してからは冬と夏に5月の連休まで帰省を義務づけた親に対する嘲笑だった。その時、固定式電話が鳴った。
「もしもし、モリヤですが」「貴方、暮れましておめでとう」それはウチの親にとっては海外の沖縄から梢だった。このふざけた挨拶も若い頃に戻り切っている。梢は基本的には真面目な堅物だったが、酒を飲ませると急にお茶目になり、ハシャイで笑って唄って踊ってアパートに連れ帰ると途端に眠ってしまったものだ。
「どうした。まだ残業中じゃあないのか」梢の旅行社は本土の企業の正月休暇の期間中は避寒の観光客が殺到して超多忙になり、その観光客たちが沖縄での予定変更や本土の悪天候による帰りの便の心配などで問い合わせの電話をかけてくるため、空港ロビーの窓口を閉めた後も本店で対応しなければならなかった。それにしては電話してきた時間が早い。
「やっぱり本土は不景気なんだね。去年までは海外に行けないから沖縄って言うお客さんが多かったけど、今年はそれも減ってしまったみたい。だから夜勤の担当だけで大丈夫になっちゃった」「それなら家であかりや恵祥と一緒に年を越せるな」この台詞には1人で映画のDVDを見ようとしている者としては羨望が混じっている。
「貴方のことだから家で鍋でも叩いて除夜の鐘にするんでしょう」「もう飲んでるのか。だったら電話越しで乾杯しよう」梢の話ぶりは一杯入った時の名=迷調子だ。私は座卓の上に置いてきた泡盛のグラスを持って来ると受話器を握り直した。
「来年もよろしく。乾杯」「やっぱり酔ってるかなァ・・・会社で帰る前に乾杯してきただけだけど。乾杯」梢の返事を聞いて胸に青春の面影が浮かんだ。
「それで本当は何してたの」「DVDの映画を見ようとしていた」「やっぱり戦争映画」「いや、『ブタがいた教室』だ」これは妻夫木聡が演じる小学校の教師が教室と校庭で豚を飼い、育ってしまった豚をどうするか子供たちに考えさせる作品だ。大晦日には全く相応しくないが、坊主の法律家として生命を巡る冷厳な事実を考える上で是非見いたいと思っていた作品だった。
「その映画は聞いたことがあるけど貴方には1人で見せたくないな。私が隣にいれば・・・」梢は言いかけた言葉を飲み込んだ。確かに私1人でここまで重い問題を提起する作品を見れば湧き上がる思いを果てしなく重ね続け、立ち直れないところまで考え抜いてしまうかも知れない。
「やっぱり貴方と暮らしたい。今年の年末くらい東京へ行けばよかった」これは高校時代に世界哲学全集を読破し、大学の哲学科を勧められた私を熟知する梢の深い愛情の告白だった。

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- 2020/01/30(木) 13:21:02|
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サンフランシスコ条約の発効により日本が正式に独立を果たして5年目になる昭和32(1957)年の明日1月30日に第1騎兵師団第8連隊に所属する21歳のウィリアム・S・ジラード3等特技兵(一般の徴兵とは別枠で採用される特殊技能所持者)が群馬県の相馬原演習場内の射撃訓練場に金属屑として売れる空薬莢や弾頭を拾うため入っていた46歳の地元の女性を擲弾筒(グレネード・ランチャー)発射用の空砲で射って死亡させた事件が発生しました。
余談ながらジラード特技兵が所属していた第1騎兵師団は黄色の丸みを帯びた逆三角形を斜めの黒線で2分割して、上の枠に馬の頭を描いた部隊章が有名ですが、創立は西部劇で騎兵隊が猛威を揮っていた開拓時代ではなく第1次世界大戦後の1921年です。
射撃場内は危険なため民間人の立ち入りが禁止されているのは当然ですが、この地域では帝国陸軍の時代から実弾射撃訓練後に空薬莢を拾って金属屑として売ることが副収入として定着しており、早い者勝ちでもあったため隙を見つけては侵入していたようです。
この時、ジラード特技兵は女性に「ママサン ダイジョウビ タクサン ブラス(=真鍮=薬莢) ステイ=ママさん 大丈夫 沢山 真鍮あるよ」と声をかけて呼び寄せ、至近距離から発射したとの目撃証言があり、通常の空砲と比べものにならない威力を持つ擲弾発射用の空砲で即死させたのです。ちなみにジラード特技兵が発射したM1ガーランド小銃用のM9HEATライフルグレネード改は600グラムの弾頭を最大射程約230メートル飛ばして100ミリの装甲を貫通させる威力があるとされています。
日本政府としては事件が休憩時間中に発生していることから地位協定が米軍所管と定める部隊行動ではなくジラード特技兵個人の犯罪として日本の司法で裁くことを要求しましたがアメリカ政府と軍は強行に反発し、最終的に日米安保改定を3年後に控えて日本国内の反米世論の激化への懸念を説明されてアメリカ側が折れたとされていました。
ジラード特技兵は酒癖が悪く、周囲に借金を重ねる素行不良な兵士だったため部隊でも疎まれる存在だったようですが、それでもアメリカ国内ではジラードの親族を中心にアメリカでの裁判を要求する主張が報道されていました。尤も、海外駐留アメリカ兵に本土の東海岸と同等の処遇を与えることは合衆国憲法が認める権利なので当然の要求ではあります。
裁判では殺人罪ではなく傷害致死罪で告訴され、前橋地方裁判所は懲役3年・執行猶予4年の判決を下し、控訴しなかったことで刑が確定しました。これを受けてジラード特技兵は不名誉除隊しましたが、間もなく日本人女性と結婚して帰国を果たしています。
ところが1991年になって公開された外交文書によって日本政府(石橋湛山内閣と岸信介内閣)が殺人罪ではなく刑が軽い傷害致死罪で告訴することを交換条件に日本の司法で裁く密約を交わしていたことが発覚しました。
ジラード元特技兵は174832ドル=当時の360円で換算すれば62939520円の補償金を支払っていますが、受け取った遺族の「裁判を売買した代金だ。感謝はしない」と言う怒りの声が正しかったことになりました。
- 2020/01/29(水) 13:34:02|
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「こちらが昨日、着任された佐田支社長だ」「佐田です。よろしく」翌日、今後は佐田を名乗ることになる松山千秋1佐はニューヨークのオフィス街のビルの一角にある在米日系人向け雑誌・ウィクリー・ジャパン編集室で工藤からの引き継ぎに臨んだ。工藤に紹介されて自衛隊の海外情報活動の秘密要員たちの顔を見回すと実戦経験を積んだ少数精鋭であることが感じられた。逆に長机の席に立って並んでいる杉本、岡倉、松本、本間は妙に固まり、挨拶を返すのも忘れている。2佐の杉本と岡倉は3佐の事務所長として着任すると聞いていたが、昨日になって1佐の指揮官になっていることを知ったので心の準備ができていない。3佐の松本と本間は気難しい偏屈者と言う前評判に距離感を測りかねていたが、顔を見る限り若く優秀な人物のようで安堵と同時に困惑していた。
「佐田くん、引っ越しの方は進んでいるかい」長机の中央の席に向かい合って座ると工藤は本題の前に社交辞令から始めた。2人は今日の午後にもワシントンに向かい情報要員の本名などの個人情報を確認するので、組織としての活動については上層部3人で話し合う予定だ。
「はい、工藤さんが荷物を受け取ってから整理しておいて下さったおかげで開けて仕舞うだけですんでいます。今頃は妻がプロの技を発揮して娘に伝授してるでしょう」「荷物が破損していれば弁償を請求しなければならないが、箱を揺すってみたところでは陶器やガラス製品が割れた気配はなかったよ」「妻は梱包もプロですから」松山1佐の感謝の言葉に杉本と岡倉は顔を見合わせて首を傾げた。実はこの編集部では松山1佐本人の個人情報は各人が独自に探っていても妻についてはWACの陸曹と言うこと以外は何も知らなかった。野戦特科出身の杉本と高射特科の岡倉には「整理と梱包のプロ」と言う職種が判らない。ただし、輸送の本間と航空自衛隊でも輸送機部隊出身の松本は陸の需品、空の補給と推察していた。
「佐田くんが我々の組織の存在に気づいたのは何時だい」ここで工藤が少し危ない質問をした。杉本以下は陸上幕僚長(松本は航空幕僚長)と防衛部長との面接でこの組織が実在すること知り、困惑の中で採用が決まってアメリカに送り込まれていた。同じような経歴を歩んできたはずの松山1佐が事前に察知しているはずはない。
「僕は1997年のペルー大使公邸占拠事件の特殊部隊の突入の報告を読んで自衛隊に海外情報を現地で調査している組織が存在することを確信しました」いきなり想定外の回答を聞かされて4人は凍りついた。中でもその報告を書いた岡倉は倒せば砕け散りそうな固まり方だ。
「あの事件は佐田くんが入隊したばかりだろう」「はい、3尉として守山の35普連に着任したばかりでした」松山1佐の説明に4人は自分の3尉時代を思い出してうなだれた。3尉の頃は組織に慣れるだけで精一杯で余計な推理を働かせる余裕などはなかった。
「そこの中隊長は事件が発生して事態が硬直している頃、僕ともう1人の小隊長に普通科の幹部としての打開策の研究を命じたんです。ところがペルー軍の特殊部隊が突入した直後に回覧された報告書を読むなり、『これは現場に立ち会った人間が書いた文章だ。幹候校の同期が書く文章に似ている』と言い出して・・・」「その中隊長が昨日も話に出たモリヤ1尉だね」工藤の推察に松山1佐はユックリうなずいた。岡倉は幹部候補生学校の同期でも不可解な存在だったモリヤが自分の果たした仕事を真摯に受け止め、鋭く分析していたことを知り、目に氷が解けたような涙がにじんできた。
「その後は現地で調査している人間の存在を前提に報告を読むようにしたんですが、地域が偏っていることに気がつきました。アフガニスタンやイラン、イラクからリビアまでのイスラム圏と朝鮮半島については現地視点で解説されていますが、ヨーロッパ圏やロシア、中国と東南アジア、それにアフリカは外務省の情報の請け売りのようです」ここまで答えて松山1佐は話を聞いている4人の顔を見回した。この少人数で情報収集していれば地域が限定されていることも納得できたはずだ。それにしても中国を実績不十分と断じられたのは本間には不満だった。
「詳しくは午後からワシントンで確認しようと思っているが、ウチの職員を紹介すると朝鮮語が専門の杉本、ペルシャ語と韓国語の杉村(岡倉の偽名)、アラビア語の松本、中国語と広東語、ベトナム語、タイ語の今田(本間の偽名)だ」「一応、中国語要員はいるんですね」ここでも松山1佐は追い討ちをかけ、本間は好感を抱いた第一印象が見誤りだったと首を振った。しかし、松山1佐の話には続きがあった
「中国に関しては国内外の常軌を逸した取り締まりを見れば入国の危険性が高過ぎるのは理解できます。しかし、在米中国人の動向や東南アジアからの視点が働いていないのは何故でしょうか」本間の胸には香港駐在の台湾の工作員・盧暁春が中国で消息を絶って以降、消極的になっていた自分の活動の打開策を提示した松山1佐への信頼と敬意が湧き起こってきた。
- 2020/01/29(水) 13:32:51|
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松山一家がニューヨークのジョン・フィッシュランド・ケネディ国際空港に着くと第1ターミナルでは工藤とジェニファーが待っていた。ジェニファーは前を開けたコートの下に洒落たマタニティを着ていて腹の膨らみが目立つようになっている。
「ハロー」「ハーイ、グッド シ― ユー」「ユー、トゥー」ジェニファーが「ナイスト ミートゥユー」と基本通りに挨拶を交わしている工藤と松山千秋1佐の隣りで声をかけると小春は即答した。この挨拶はスラングに近く日本では知られていない。それでも三沢基地内では日常会話として使われているためアメリカ軍人家族の幼児のスポーツ・クラブに通っていた小春は聞き慣れているようだ。それからもワシントンに向かう列車の中でジェニファーは裕美2曹と小春の英語力を試すような会話を続けたが、三沢基地で学び、安川3曹の妻の聡美に教えられてきただけに全く問題はなかった。
「貴方に私の後任との話が持ち掛けられたのは昨年になってからだろう。それなのに家族に英語を学ばせていたのは何か海外への転職を考えていたのかね」女性3人とは通路を隔てた2人掛けの席で工藤が千秋1佐に日本語で質問した。先ほどからジェニファーが自然な英会話が成立していることに感心したような目を向けてくるのだ。
「いいえ、青森に赴任した時、地の利を活かすことを考えて思いつきました。文科省やマスコミはこれから国際社会になれば日本人にも英語力が必須になると言っていますが、所詮は単一民族の島国です。道案内くらいなら旅行用英会話でも十分でしょう。しかし、英語力がないから海外に出る決断ができないのは勿体ない。親として娘の可能性を少しでも広げてやろうと考えました」岡倉を除けば独身者ばかりが揃っているニューヨークの事務所では聞くことができない答えだった。工藤自身も還暦を過ぎて人の親になる以上、学ばなければならない話だ。
「実は守山時代の中隊長の奥さんがハワイからの帰国子女でして、アメリカ本土の大学を卒業して自衛隊に入るとアメリカ陸軍の指揮幕僚大学院に留学しましたから、英語力の威力を目の当たりにしたことになります」「そう言えば松山くんはモリヤ弁護士の教え子だったね。間近で奥さんの躍進を見ていたんだな」工藤にとってモリヤ佳織1佐は2代目ブッシュ政権がアフガニスタンやイラクに侵攻してアメリカ軍が血みどろの戦争に踏み込んでいく様を太平洋軍司令部の連絡官として中から観察し、客観冷静に分析した詳細な報告を送っていた有能この上ない人物だった。本当は自分の後任にすることを希望していたものの陸上自衛隊がさらに高い地位を用意していることを察して諦めたのだ。
「旦那は妙な人でしたが、奥さんは眉目秀麗にして頭脳明晰、不釣り合いでもお似合いの夫婦でしたよ」千秋1佐の絶妙な評価を聞いて工藤は楽しげに談笑している裕美2曹を見たが、こちらも不似合いでもお似合いの夫婦のようだ。それを言えば20歳の年の差婚で日本人とアフリカ系の異民族の夫婦になった工藤とジェニファーこそ不似合いだ。工藤は近い将来、我が子とジェニファーを交えた家庭に自分が加わっている情景を思い浮かべて苦笑した。
「君が片浜くんかね。若いな」「それは私が老いぼれているんですよ」ワシントンの日本大使館で5人と面会した諸西将補は工藤の隣りで自衛隊式に直立不動の姿勢を取っている千秋1佐と裕美2曹を見ながら声をかけた。諸西将補にも20歳代後半になる息子がいるが防衛大学校への進学を拒み、一般大学の工学部を出て技術者の道を選択した。息子では独身になって防衛駐在官として赴任するにも助力はなかった。
「家族の英語力も問題ないようです」「それなら小学校への編入も心配ないな」アメリカの学校は9月入学なので始まって半年にならないが、日本では幼稚園や保育園の年中に当たる5歳から「プレ・スクール」と呼ばれる予備学校に入り、6歳から始まる義務教育のための基礎知識や躾けを身につけさせる。日本の小学校で受けた10ヶ月の教育をどのように評価するかは事前に面接する校長と担当の教師の判断に委ねるしかないが、ジェニファーが太鼓判を押した小春の英語力であれば年齢相応の学年への編入が認められるだろう。
「これが君たちのパスポートだ。今日からは佐田一家だ」ソファーに座って女性事務員がコーヒーとジュースを持ってきた後、諸西将補は茶封筒からパスポートを取り出して千秋1佐に手渡した。裕美2曹は説明が理解できず怪訝そうな顔をしたが、ジェニファーが「OK」と優しく声をかけた。海外で諜報活動を遂行するためには別人格にならなければ不可能であり、その根拠になるのがパスポートだ。ただし、偽造では出入国の審査で熟練した係官に疑われる惧れがあるためアメリカ国内で行方不明になった日本人の回収したパスポートを日本に送って専門家が変造している。今回は家族帯同だったため該当者を探すのに苦労したらしい。死んだ村田の倉田、岡倉の杉村、本間の今田や杉本と松本、そして工藤自身も同様だ。
- 2020/01/28(火) 13:27:54|
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日本が第2次世界大戦に参戦して1年2カ月弱が経過した1943年の明日1月28日に日系人2世による正規の部隊を編成することが発表されました。
それ以前にもハワイ準州では日系人の若者を徴兵対象にしていて大隊長と2名の将校以外は日系人の士官、下士官が指揮・管理していた第100歩兵大隊が編成されていましたが、真珠湾攻撃の直後、駐屯地で日系人だけが居住していた兵舎を士官によって指揮された白人の兵士が銃を持って包囲すると言う事件がありました。それ以降は事実上、解隊され、逆にアメリカ本土と同様に強制収容所に収監しようとしたもののハワイの日系移民は人数が多い上、社会で果たしている役割も大きかったため指導的立場にある者のみを収監して、暴動を起こす恐れがある若者には軍隊への志願を募り、兵力不足を補うのと同時に監視下に置くことを考えたのです(背景にはアメリカ陸軍が第100歩兵大隊を高く評価していたこともある)。その結果、ハワイでは募集定員1500名に対して大学勝利奉仕団の参加者を中心に6倍以上の志願者が集まり、定員を1000名増員しました。逆に本土では強制収容所内で募集しましたが、日系人の中で親日派と親米派の対立が深刻化していたこともあり志願者は800名に留まりました。こうして第100歩兵大隊を第1大隊とした第442歩兵連隊に砲兵大隊と工兵中隊を加えた第442戦闘団が編成されたのです。
日系人部隊への志願者は英語が堪能な者、学歴が高い者、経済的に豊かな者よりも社会的に恵まれない者の方が多かったようです。前者はアメリカへの移民に「出稼ぎ」的な感覚があり、財産を蓄え、語学、学問、技術を身に付けたなら日本へ「錦を飾る」と言う希望を持っていてアメリカと日本を天秤にかける意識が強かったと言います。従軍するにもヨーロッパ戦線の前線で戦う442戦闘団ではなく太平洋の対日戦争での捕虜尋問、通信傍受などの情報任務を志願する者が多かったようです。一方、後者の低い階層の者は日本でも極貧で行き場がなくアメリカへ新天地を求めて移民した親の子供が多く、少なくとも食べることが出来る生活を与えてくれるアメリカに対して忠誠を尽くすことにも迷いはなく、寧ろそれが「アメリカ人として認められる好機であるなら」、さらに「家族を収容所から救い出すためなら」と言う意識が強かったようです。また朝鮮半島から日本人として移民してきた半島人の大半は志願を拒否し、逆に独立運動に走ったのです。
この時、アメリカ本土に住む日系人は何の罪もないまま財産、職業、地位を奪われて砂漠の中のアリゾナ州ボストンの強制収容所に収容されており、収容の期限も解放の条件も明確ではなく生活も必要最小限の食料と日用品が支給されているだけでしたが、アメリカ在住のドイツ人、イタリア人にはこのような処置は行われておらず、この理不尽な仕打ちをしたアメリカ合衆国に2世たちは何故、忠誠を誓って軍に志願し、「Go for broke!(当たって砕けろ)」を合言葉に勇敢に戦い、第2次世界大戦に於けるアメリカ軍の中で最多の勲章5525、部隊感状十度を得るほどの活躍をしたのか。若し、アウシュヴィッツの収容所に収監されたユダヤ人たちが「軍隊に入ればガス室には行かせない」と約束されても銃を執って戦うようなことはあり得ないでしょう。
- 2020/01/27(月) 13:33:17|
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同じ頃、松山裕美2曹は駐屯地業務隊の厚生班で残務整理に追われていた。厚生班では供与官補助者である補給係と厚生物品の管理を担当しているが、需品科のプロとして抜群の能力を発揮しているため、今回の退職は周囲に大きな失望を与えている。
「旦那は政治家になるため退職するんだって」無言で机上のパソコンに向かっている松山2曹に隣席の男性の1曹が声をかけてきた。松山2曹は3月の年度報告も見越して補給の供与・返納の記録と厚生物品の使用回数や管理状況の実績表を作成しているが、予定外の退職のため後任者は決まっておらず引き継ぎはできていない。
「それは夫に訊いて下さい。明日には演習から戻りますから」返事は素っ気ないが忙しそうにしている相手に声をかける方が悪い。すると1曹は迷惑を気にせずに話を続けた。第3普通科連隊が演習に出ると厚生班の利用者は激減するため暇を持て余しているのだ。
「政治家になるにはかなり金がかかるんだろう。そんな馬鹿な夢を見て仕事を辞めてしまうような旦那は捨ててアンタが母子家庭で娘を育てれば良いんじゃあないか。2曹の給料なら娘1人との暮らしには十分なはずだぜ」これは他人の家庭に立ち入った差し出口だが、関わるのは時間が惜しい。この1曹には厚生班を利用する隊員や出入りする保険の外交員などから駐屯地内の噂話を聞き集めて、それは細切れに流して影響を楽しむ悪癖があり、本音を言えば机を並べていることが苦痛だった。
「アンタはWACにしては美人だし、スタイルも抜群だからすぐに彼氏ができて×一(バツイチ)、コブつきでも結婚しようって男が現れるよ。悪いこと言わんから別れちまいな」無視していても1曹は勝手に話を続ける。下手すれば表情の変化も反応として楽しんでいるのかも知れない。
「旦那は根暗そうで、どう見ても女の扱いが下手そうだ。アンタもナニに熟練した男に抱かれれば一瞬で忘れちまうよ」ついに堪忍袋の緒を切る暴言を吐いた。松山2曹は空手の試合開始前にするように静かに息を吐くと顔を向けた。その目を見て1曹は椅子に座ったまま固まり、小刻みに身体を震えさせた。松山2曹の目にはスポーツではない極真空手で相手と死力を尽くして戦う時の気迫が燃え上がっており、素人の1曹はそれを殺意と感じたのだ。
「色々ご心配をいただき有り難うございます。それでもこんな危ない女と結婚しようなんて男はウチの旦那以外にはいませんよ。余計なお世話です」「はい・・・」怯えたように後退さった1曹は震えたままうなずいた。考えてみれば名寄に転属してきて以来、専用にしていた体育館のサンドバッグも厚生物品だ。毎日激しい突きと蹴りで痛めつけてきたので破れていないか確認しなければ心配になった。
松山千秋2佐と裕美2曹の退職の決裁が下り、一家で名寄を後にした。アメリカでは退役を機にジェニファーと結婚する工藤の家具付きマンションに入るので、引っ越しは衣類や食器などを箱に詰めて送るだけだ。松山家では転属の邪魔になるからと家具はホーム・センターで買った安物しかなく、小春の勉強机さえないのでテーブルが安川家に行った以外は全て捨てることになった。それでも千秋2佐の書籍や資料が家族の中で一番の大荷物だった。
「片浜くん」引っ越しが終わり、松山一家は旭川から羽田に飛び、電車で成田に移動した。成田空港でニューヨーク行きの便の搭乗手続きのためカウンターの前の列に並んでいると横から近づいてきたスーツ姿の男性に声をかけられた。先にその男性に気がついた裕美2曹は「バ」とだけ言って口を押さえた。それは陸上幕僚長だった。
「これは社長」千秋2佐は自衛隊の基本教練を感じさせないユッタリとした動作で身体を向けると背中を軽く丸めてお辞儀をした。小春は裕美2曹に「片浜って誰」と訊いたが、首を振った目を見て口をつぐんだ。千秋2佐は裕美2曹に順番を確保するように頼むと列を離れて幕僚長とロビーの人々の往来から外れた場所に歩いていった。
「申告を受ける訳にはいかないから、せめて見送りに来たよ」「これはご丁寧に有り難うございます」ここでも千秋2佐は10度の敬礼はしない。この人物には頭の切り替えだけでなく反射神経まで変更する機能が備わっているらしい。
「そう言えば君を退職日付でカーネルに昇任させることを決済者として伝達する。これで階級序列も管理者として問題はない」「それは驚きです。そんな荒技が仕えるんですね」千秋2佐=松山1佐が素直に感心すると陸上幕僚長は変に自慢げな笑顔を浮かべて顔を近づけた。
「そのために2佐にしておいたんだ。そもそも金庫の中でしか存在しない人間の階級だからできる放れ技だよ」「妻も一緒に保管していただけるのですか」「うん、何とか手配しよう」千秋1佐としては妻・裕美2曹の自衛官としての存在が抹消されることは避けたかった。その時、搭乗手続きが裕美2曹の順番になったのに気づき、握手を交わして別れた。
- 2020/01/27(月) 13:32:10|
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1951年の明日1月27日は2000年の調査でもフィンランド国民の絶大な尊敬を集めていることが確認されたカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム元帥の命日です。81歳でした。
マンネルヘルム元帥は1867年に極めて複雑な家系にある男爵家の父親とスウェーデン系の母親の間の7人兄弟姉妹の3番目の二男として生まれました。7歳でヘルシンキの学校に入学しますが、14歳の時に父親が金融取引に失敗して破産した上に愛人の女優とパリへ駆け落ちして、その衝撃で母親が急死したため兄弟姉妹はバラバラに親戚に引き取られることになったのです。マンネルヘルム元帥は母方の叔父夫婦が後見人になり、その領地に移って勉学を継続しましたが、素行が急激に悪くなったため経済的に行き詰っていた叔父は軍学校に転校させること決め、1882年にヘルシンキの陸軍幼年学校に入学したものの素行は改まらず、1886年には無断外出が発覚して退校処分を受けました。それでロシア貴族に嫁いでいた叔母の助力を得て帝政ロシア軍の騎兵学校に入学したのです。
帝政ロシア軍では主に近衛騎兵となって皇帝の身近に侍りますが(野僧の曾祖父の弟も近衛騎兵でしたが長身の男前だったそうです)、社交界にデビューさせられると経済的な負担が過重になり、1892年に叔母の紹介で富裕な貴族令嬢と結婚しました。しかし、娘2人に続いて生まれた長男が死産だったことから夫婦関係に亀裂が入り、1902年に離婚すると1904年に始まった日露戦争では志願して満州に赴き、奉天会戦で囮である乃木第3軍の稚拙な動きから意図を見破り、日本軍の全面攻勢に遅滞を生じさせています。
日露戦争後はフランス人東洋学者のポール・ベリオの探検隊に参加し、大半を単独行動(通訳と荷役夫は帯同した)でモンゴルから中国西域、チベットに至る難路を踏破しました。
ところが第1次世界大戦中の1917年にロシア革命が生起するとフィンランドは独立を果たしますが、ロシアに呼応して共産化を画策する赤軍と独立政府を支持する白軍の間で内戦が勃発し、マンネルヘイム中将は白軍の指揮を執り独立と政治体制を守り抜きました。ところが独立政府は歴史的経緯からプロシア側に傾き、軍事的に劣勢であること見抜いていたマンネルヘイム大将はこれに強硬に反対したものの孤立し、スウェーデンに亡命したのです。結局、第1次世界大戦の戦局の行き詰まりからフィンランドに呼び戻され、停戦と独立後の政治・軍事の体制整備に尽力しました。
1939年6月1日に始まった第2次世界大戦の緒戦でナチス・ドイツとポーランドを分割したソ連はフィンランドの再度の領有を画策して11月30日に侵攻を開始した冬戦争とソ連がナチス・ドイツ軍を撃退した1941年6月25日からの継続戦争、さらにソ連との講和後、フィンランドに駐留していたナチス・ドイツ軍を放逐するラップ・ランド戦争を指揮することになり、冬戦争では勝利を収め、継続戦争では不利な戦況ながらソ連の目がドイツに向かう時期を見計らって講話交渉を行うことで独立を守りました。
第2次世界大戦後は70歳代後半で第6代大統領になったもののナチス・ドイツと同盟国だったため敗戦国に加えられ、極めて難しい政治的判断を強いられことになりましたが、それでも独立は守り抜きましたから国民が絶大な敬意を維持しているのは当然です。
- 2020/01/26(日) 14:26:31|
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名寄の第3普通科連隊では2佐に昇任しながら依願退職する松山2佐が中隊長として最後となる冬季演習を終えて廠舎で酒を飲んでいた。隊員たちの間では2佐に昇任した中隊長の依願退職と言う異常事態に水面下では波浪が逆巻いていた。
「中隊長の退職理由が政治家への転身と言うのは本当ですか」退職してしまえば後の影響力が失われるので部下たちも遠慮がなく興味本位な質問を単刀直入に投げかけてくる。長い廠舎の奥から階級と役職順に並んでいる寝床で飲んでいても珍しく先任陸曹に質問された。
「政治家かね。あれは3バンと言って選挙区の地盤、知名度の看板、資金の鞄(カバン)がなければなれない職業なんだ。大学の同期も政治家の息子以外は秘書になって3バンを譲ってもらえる相手を探していたから今更無理だな」この説明は政権交代前にテレビなどが自民党の世襲議員を批判する時、繰り返し説明していたので報道バラエティー番組を見る者なら誰でも判っている。先任陸曹は答えをはぐらかされたと思ったのかムキになって応射してきた。
「それでも市町村の議員なら可能じゃあないですか。過疎で高齢化が進んだ自治体は議員の成り手がなくて立候補者を募集しているって話も聞きますよ。中隊長が応募すれば村長でもOKでしょう」「僕にそんな人望があるかね」議論の応射を止めるには答えに詰まらせるに限る。いくら遠慮を忘れても「貴方には人望がない」と言えないのは当然だ。先任陸曹は不満そうな顔で中隊長や小隊長とは1人分の間隔を開けている自分の寝袋の位置に戻っていった。
「しかし、我々も政治家への転身と言う理由で納得しているんですが、本当に違うんですか」先任陸曹が抜けると副中隊長である1小隊長が松山2佐の水筒のアルミ製のカップに紙製パックの焼酎を注ぎながら話を引き継いだ。その隣りで2小隊長も顔を向けている。見回すと土間を挟んで向かい側の曹長である3、4小隊長も同様だ。
「君たちは僕の学歴を過大評価しているんじゃあないか。確かに僕の政治経済学部は政治家を大量生産しているし、そのための勉強をしてきた。だけど出身者全員が政治家になる訳じゃあないんだ」「我々高卒の者には想像もできないんですが、W稲田大学の政治学部を卒業した人たちはどんな仕事に就くんですか」今度は2小隊長がボトルの洋酒を注いで質問した。これでは悪酔いの原因・チャンポンになってしまうが仕方ない。
「政治家の秘書、官僚が目立つが会社や大型店に就職して数年で創業する奴も多かったな。バブルが弾けて間もなかったからね」「それじゃあ幹部自衛官も官僚になるような気分で決めたんですか」どうやら松山3佐が着任して以来、小隊長から陸曹・陸士までW稲田大学政治経済学部出身と言う他に会ったことがない経歴の持ち主に好奇心を駆り立てていたようだ。
「僕の卒論は軍政の研究だったんだ。その研究を実地に検証したかったのかもね」「やっぱり高卒では判りませんね」松山2佐としては判り易く説明したつもりだったが、大学生活の後半を費やして研究と思索に取り組んで卒論を書いたことがない部内出身の幹部や曹長の小隊長たちには理解ができなかった。
「中隊長、よろしいですか」小隊長との会話が途切れたところに安川3曹が洋酒のボトルを持ってきた。安川3曹は森田曹侯補士の退職に際して松山2佐が助力を惜しまなかったことに信頼と敬意を抱いており、階級の序列が厳格な送別会では言えない礼を述べるつもりらしい。
「うん、安川3曹の奥さんには娘が大変お世話になったな」すると洋酒を注がれながら松山2佐の方が意外な礼を口にして、安川3曹は素直にうなずいた。
「妻も小学校に入ったばかりの娘さんに英語を教えてくれって言われた時には初心者なのかと思ったようですが、とても堪能なのに驚いていました」「青森では女房と一緒に三沢基地に通って習わしていたんだよ」松山2佐は名寄に着任すると英語教師の娘で抜群の語学力でホテルのレストランに採用された安川3曹の妻・聡美に娘の小春の英語の指導を頼んでいた。
「しかし、学校で国語を習う前に英語を学ばせると日本語が変になるって言いませんか」今度は3小隊長が口を挟んだ。これは文部科学省が小学校での英語教育の導入を検討している時にマスコミが紹介していた賛否両論でも反対派の意見だ。
「言語と言うのは知識じゃあなくある種の本能のようなもので、学習するよりも慣熟させるんだ。正しい言葉を話す人間が傍にいれば子供は自然に自分で修正するものだ」松山2佐の反論に4人の小隊長は顔を見合わせて首を傾げた。やはり思考の次元が違う。考えてみれば宮古市の災害派遣現場で松山2佐は取材に来た外国人記者たちと英語以外の外国語で会話していた。
「妻も娘さんの発音はネイティブだって感心していました」「そこが三沢で覚えた英語なんだよ」小隊長たちはこの中隊長を敬遠して真剣に向き合ってこなかった自分の浅はかさを思い知った。いくら水を注いでも器が伏せてあれば流れ落ちるだけで何の役にも立たない。
- 2020/01/26(日) 14:25:08|
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「貴方、お待ちかねの手紙が届いたわよ」年頭の気分も抜けた茶山元3佐が居間の炬燵で年末年始に詠んだ茶歌をた紙に書き並べていると静がA4版の茶封筒を持ってきた。差出人は小椋元3佐だ。これは12月11日に放送した203高地陥落の後に問い合わせた上原勇作元帥に関する施設学校の教育資料に違いない。茶山元3佐は船岡施設OB会の忘年会で戦史の権威・新山巌元群長から与えられた知識に加える新たな資料に期待を膨らませながら封筒を開いた。
「誠に申し訳ありませんが、私が勤務していた頃の施設学校では上原勇作元帥に関する教育は幹部課程の施設史の中で名前と業績の概略を紹介している程度でした」パソコンで記した手紙を読むといきなり期待を裏切られた。言われてみれば茶山元3佐が受けた講義も学校長か科長が個人的に研究した業績の紹介であって教程に記載されていた内容は似たようなものだった。
「施設学校としては戦後、警察予備隊として創設され、保安隊、自衛隊と発展していく中、一貫して旧軍との断絶を図ってきたため上原元帥の業績も日本陸軍の歴史であって陸上自衛隊とは関係ないと言うのが公式な立場です」これも茶山元3佐自身が実感していることだ。茶山元3佐が入隊した頃には戦前の軍隊を経験している幹部や古参陸曹がいたが、公の場所と時間では日本軍を賛美するような言動は全く見せなかった。
「そう言えば忘年会の時も上原元帥の名前を知っていたのは新山閣下だけだったもんなァ」忘年会では茶山元3佐が新山元群長を独占していたことに妙な嫉妬を抱いた連中から話の内容を追及されたが、上原元帥の名前を知っている者は誰もおらず、「工兵の父」と言う尊称も「坂の上の雲」で解説されている秋山好古大将の「騎兵の父」の方が通りは好かった。それどころか「坂の上の雲」に登場している大山巌元帥、児玉源太郎大将などの高名な軍人たちでさえ今回のドラマで詳しく知ったと言う者が大半だった。
「ただ、陸上自衛隊も海外では日本陸軍として同一に認識されており、第2次世界大戦では敵として戦ったアメリカやイギリス、フランスなどを含む諸外国の旧日本軍に対する評価は極めて高く、戦後すぐの頃のように別組織であることを強調する必要性は薄らいでいるようです」茶山元3佐もカンボジアPKOに参加しているが、身近に接した現地の人々は日本陸軍に心からの敬意と親近感を抱いており、学校で習ったような住民虐殺や強制労働と搾取、尊皇思想の強制などに対する怨嗟は全く感じられなかった。
「その意味では近い将来、陸上自衛隊が日本陸軍の歴史を継承する者としての隊員教育を実施するためにも資料の収集や客観的な評価、教訓の導出などに着手するべきかも知れません」流石に元1科長がパソコンで打った文章は事務的に体裁が整っている。茶山元3佐は久しぶりに公文書を読んでいるような気分になってきた。
「実は私も施設学校時代から柄にもなく戦史の研究に手をつけています。それは父が所属していた船舶工兵です。特に『船舶工兵の父』とも呼ぶべき鈴木宗作大将は愛知県の出身と言うこともあって新城、豊川、豊橋の図書館で資料に当たっているのですが市町村さえ特定できていません。愛知県内の教育委員会は軍人を蔑視しているため資料の収集や展示を放棄しているので、軍功や業績も忘れ去られているようです」現役時代は政治的問題には無関心と言うよりも他人事のような態度だった小椋元3佐が怒りを感じさせる文面になってきた。
「今のところ判ったのは船舶工兵は中国大陸の川幅40キロに及ぶ大河の渡河で装備と戦術を発達させ、それを第2次世界大戦の上陸作戦に応用したことです。ただし、海上輸送は輜重科の担当であり、海軍陸戦隊とも連携を図っていなかったのでアメリカやヨーロッパの海兵隊のように本格的な発展を遂げることはできませんでした」小椋元3佐は陸曹時代からアメリカ海兵隊に強い関心を持って研究していたが、それは単なるミリタリー・マニアなのではなく巨体に流れる父譲りの船舶工兵の血が騒いでいたようだ。
「こうなると目黒の防衛研究所に問い合わせるしかありませんが、人脈がないので躊躇しています。中隊長はお知り合いはいませんか」戦史の研究家の元群長と自衛官の弁護士なら知っているが、残念ながら防衛研究所に知り合いはいない。
「そう言えばモリヤくんに茶歌を送るんだった」茶山元3佐は小椋元3佐が同封してきた船舶工兵と鈴木宗作大将に関する資料に目を通しながら炬燵の上の書きかけの茶歌に気がついた。モリヤ2佐が無罪になり陸上幕僚監部法務官室に転属した頃に茶歌を披露したところパソコンで清書して送ってくれたので、それ以来作品を送って専属タイピストになってもらっている。モリヤ本人も茶歌を通じて自分の日常風景の覗き見することを楽しんでくれているらしい。
「梅沢中将は歩兵だろうからモリヤくんに訊いても良いかな」やはり施設科の幹部としては普通科のモリヤに教えを受けるのは上原勇作元帥ではなく梅沢道治中将になる。
- 2020/01/25(土) 11:41:34|
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1998年の明日1月25日にスリランカの古都・キャンディーにある国宝・ダラダー・マーリガータ寺=佛歯寺に爆弾を満載したトラックが突っ込んだ爆破テロが発生しました。
佛歯寺は日本の京都御所と同じくシンハラ王朝の旧王宮で、三種の神器に当たる王権の象徴・釋尊の犬歯を祀っている国宝寺院です。日本の皇室の三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)は伊勢の神宮の神体、天叢雲(あまのむらくも)剣=草薙剣も熱田神宮の神体なので皇室が護持しているのは形代(かたしろ)と呼ばれる複製品=模造品です。八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は本物としても、その三種の神器は壇ノ浦の合戦で八咫鏡は平時忠さんが守ったものの草薙剣は二位の尼が抱いて身を投げて海中に没し、八尺瓊勾玉は対岸の小倉の高浜浦で岩松と言う若者が拾ったことになっていますが、この伝承では時忠さんが持っていた八咫鏡も一緒に拾ったとしているので信憑性は低いでしょう(時忠さんはその功績で能登の輪島への流罪で赦免され、現在も子孫の時国家は健在です)。その点、スリランカの佛歯は植民地時代にイギリスが学術調査して本物と認定していますから世界的な宝物なのです。野僧も佛歯寺に行って佛歯を参拜したことがありますが、荘厳な円錐形の容器に収められており、その前に拜した佛舎利(遺骨)とは別の風格がありました。
この事件はイギリスの植民地時代に紅茶農園の労働力としてインド南部から強制移住させられたヒンドゥー教徒のタミル人がスリランカの独立後も母国に戻らずに北部に住みついていたのをインドが利用して、軍事訓練を施し、武器を与えて起こさせた内戦の一環です。
スリランカは佛教国なのでインドのマハトマ・ガンディーが理想とした調和を重んじる平和的で寛容な政治を実現しているのですが、反政府ゲリラ=タミル・イーラムの虎はイギリス軍からの伝統を継承している政府軍に歯が立たずに劣勢に陥るとテロを頻発させるようになりました。中でも植民地になる以前から居住している同じタミル人が社会的地位を築いていることを敵視して民族の融和を図るため必ず内閣に1名以上が加えられていたタミル人の閣僚の暗殺を常套手段にしていましたが、次第に重要施設や国宝寺院を標的にするようになったのです。
この日の夕方、まだ多くの参拜者や観光客でにぎわっていた佛歯寺の正門に大型トラックが突っ込み(鉄製の柵があるだけ)、王宮の正面通りだった参道(道幅は大型トラックではギリギリ)を暴走して本堂の前で大爆発しました。
しかし、幸いなことにスリランカから名古屋大学に留学している時、日本の道元禅に関心を持って永平寺の丹羽廉芳貫主に弟子入りした僧侶(駒沢大学の大学院にも進学している)がスリランカ国内の不穏な情勢を訴えたことで私費の提供を受け、佛歯を防弾ガラスで囲う工事が完成していたため優美な建物は破壊され、8名が犠牲になったものの佛歯は無事だったのです。ただし、境内で飼われていた白い佛象(神社なら神馬)の安否は不明です。
タミル・イーラムの虎がこのような極悪非道なテロを頻発させていてもヨーロッパや日本の人権団体はスリランカ政府による少数民族の迫害と一方的に決めつけて批判を続け、結局、それを利用した中国にインド洋制覇の拠点となる軍港を建設させてしまいました。

爆破前の佛歯寺

夜景
- 2020/01/24(金) 12:13:23|
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「歩兵銃が30式か38式なのかはボルト部分の形状が違うだけだからこだわる必要はないが・・・」新山元群長も交代で注がれるビールで酔いが回り始めているようで話は深く深く暴走を始めた。茶山元3佐としては願ってもない展開だが、群長を独占する訳にはいかない。
「それで坑道は実際に掘削されたのですか」陸上自衛隊の宴会では泥酔ての戯言であっても上官の話の腰を折るような無礼は許されないが質問であれば次への誘導=期待になる。すると新山元群長も話が反れていることに気がついて苦笑した。
「日本陸軍工兵の父である上原勇作元帥は日露戦争後に『自分は日本の工兵を厳しく鍛え上げたが、ただ1つの手ぬかりは工兵による要塞攻略、特に坑道掘削訓練を怠ったことだ。これをやっておけば旅順であんなに苦戦はしなかった』と反省の弁を述べておられるんだ。帰国すると早速工兵による要塞攻略作戦の研究を始めて、翌年には小倉で演習を実施している」「と言うことは・・・」新山元群長は茶山元3佐に結論を言わそうとしたが腹の中に収めた。
「確かにあの映画で坑道を掘っていたのはあおい輝彦たち歩兵でしたから、そこに気づくべきでした」「映画の虚構なんて幾らでもあるよ。僕も昭和44年の『日本海大海戦』を見て日本海軍は燃焼効率に優れた下瀬火薬を使っていたから排煙が少なく、黒色火薬で黒煙が充満したロシア軍よりも有利だったと言う解説を信じていたが、あれは間違いだった」新山元群長の説明にビールの順番に並んでいた陸曹の出席者たちは身を乗り出した。
「そうなんですか。自分も陸士の頃に見て、ずっと信じていました」「自分もです」どうやら茶山元3佐の戦略は成功したようだ。これで「坂の上の雲」の話題で盛り上がれる。
「下瀬火薬は薬莢内の発射薬ではなくて砲弾内に充填する炸薬だから排煙の色とは関係ないんだ。排煙の濃度の違いはロシア艦は舷側が高いから、低いイギリス製の日本艦の方が通気性が好かっただけのことだろう。これは防大時代の海自の友人の見解だがね」「なるほど」この解説に聴講者が一斉にうなずくと関心を持った他の出席者も話を止めて顔を向けた。
「そう言えば昨日の『坂の上の雲』では砲弾が爆発するところで下瀬火薬の威力を説明して排煙の話はしてませんでしたね」「そこが司馬さんの研究成果なんだよ」茶山元3佐としてはこのまま「坂の上の雲」の話題になれば狙い通りだが、その前に訊き忘れたことがあった。
「ところで先ほど名前が出た日本陸軍工兵の父である上原勇作元帥ですが」「上原元帥のことは詳しいよ。何せ同郷だからね」意外な答えに茶山元3佐は膝の上で拳を握った。新山元群長は初任地だった船岡で一人娘と結婚したため定年退官後は妻の実家を相続しているが、元々は九州男児でも薩摩隼人と聞いている。新山巌と言う名前も大山巌元帥と姓の1字違いだ。
「上原元帥は正確に言えば宮崎県の都城市の出身なんだが、ドイツで学んだ最新の建設工学と日本の伝統的な築城や堤防の普請や大工・佐官と言った建築の職人技を融合させて独自の工兵を確立されたのは知っているね。そう言えば先ほどの坑道掘削では日本の炭鉱作業を参考にして、小倉で演習をやったのは三池などの炭鉱から鉱夫を動員するためだったようだ」確かに茶山元3佐も施設基礎作業を学んだ新隊員後期課程では土方や大工に弟子入りしたような気分になった。その意味では技術だけでなく職業意識=職人気質も継承したのだろう。
「しかし、残念なことは山口閥が退潮したのを機に陸軍内の派閥の解消を目指しながら、実際は絶対君主に祭り上げられて山口軍閥に冷遇されていた連中がて上原軍閥を作ってしまったことだ。然も、その上原軍閥が昭和になると皇道派と呼ばれて陸軍に精神主義なんて馬鹿な信仰を蔓延させたんだ」意外な事実に茶山元3佐は黙り込んでしまった。こうなると宴席では主賓の前を辞去しなければならない。
「得難いお話を伺えて本当に勉強になりました」「うん、私も久しぶりに戦史を語り合うことができて嬉しかった。今後も研究に励んでくれたまえ」茶山元3佐が深く礼をして前から下がると順番待ちをしていた陸曹たちが「流石に難しい話をされますね」「年末に貴重な勉強になりました」と皮肉ではなく本気で感心して声をかけてきた。
「茶―さん、えらく閣下と話し込んでいたけれど時事放談かね」料理を食べ終えた出席たちは和室に広がって車座を作って雑談に花を咲かせている。茶山元3佐はその中でも同世代の元3佐の固まりに加わることにした。腰を下すと持っていたグラスに1升瓶で酒を注がれた。
「『坂の上の雲』で判らないことがあったから教えを受けたんだよ」「俺は花の梅沢旅団が出なかったところが気に入らないな」「梅沢道治中将は郷土の誇りだからな」話は想定外の方向に広がった。「花の梅沢旅団」とは仙台藩士出身の梅沢道治中将が予備役や傷病明けの兵を率いて日露戦争の緒戦の沙河会戦を制したの後備旅団のことだ。確かにドラマでは取り上げられていなかった。さらに新たな研究材料が見つかったようだ。
- 2020/01/24(金) 12:07:41|
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1月21日に野僧としてはNHK大河ドラマの常連だった俳優の宍戸錠さんが亡くなったそうです。86歳でした。
野僧の世代では「日活スター」と言われると古くは白川和子さんや宮下順子さん、片桐夕子さん、東てる美さん、大変お世話になった泉じゅんさんや三崎奈美さんなどの日活ロマンポルノ女優になってしまいますが、宍戸さんは制作者の勝手な芸術性の自己満足と左翼思想を庶民に洗脳する道具としていた東宝、東映とは違い娯楽としての映画を追求していた日活のスターであるだけでなく、大河ドラマに限らず色々なドラマの重要な名脇役として出演しており、あの独特の風貌と強烈な存在感で鮮明に記憶に残っています。
大河ドラマでは見た作品だけでも昭和48(1973)年放送の「国盗り物語」の柴田勝家さん、昭和49(1974)年の「勝海舟」の山岡鉄舟居士、昭和51(1976)年の「風と雲と虹と」の鹿島玄道(はるみち)さん、1988年の「武田信玄」の原虎胤さん、1996年の「秀吉」の本多正信さん、2000年の「葵・徳川三代」の本多忠勝さんがあります。「国盗り物語」の柴田勝家は上杉謙信さまとの手取り川の合戦前の軍議で火野正平さんの羽柴秀吉さんと言い争う場面は流石の迫力で、「武田信玄」の老いて病床で死ぬことを嫌っていた原虎胤さんが諏訪氏の遺臣に襲われて剣を斬り結びながら快感を満喫し、最期に「礼を申す」と呟いた演技は感動的でした。その中で野僧は「風と雲と虹と」で祭りの夜の乱交で鹿島玄道さんが嫌がる多岐川裕美さんを押し倒しているところを加藤剛さんの平将門さまに制止されるエロ抜きの強姦未遂シーンも記憶に残っています。
宍戸さんと言えば美男子の二枚目として売り出しながら「細面の貧相な顔立ちでは画面の中で目立つ個性がない」と考え、23歳の時に周囲には無断で頬にオルガのーゲンと言うシリコンを注入して悪役顔を作ったことが有名ですが、野僧も似たような経験があります。浜松基地の警備小隊長時代、サラ金で借金した隊員とその上司がヤクザ屋さんの取り立てを恐れて野僧に頼んだため代理で応対したのですが、同じヤクザ屋さんが別の隊員の取り立てに来ても毎回のように野僧が応対するため不思議がって役職を訊ねたのです。そこで「縄張りを守り、出入りする者を監視し、諍いを仲裁する仕事」と答えたところ同業者として親近感を抱いてくれました。そんなヤクザ屋さんから「金バッチの割にアンタの顔には凄味がない」と言われ、顎と鼻の下に髭を生やしたのです。そのおかげでデモ隊の中に1人で入って代表者と応対した時も迫力負けすることなく、かえってデモ隊の政治団体の機関紙に大きく顔写真が載ることになりました。その一方で若い女性自衛官に「亀仙人」と言う仇名をつけられました。昭和の男には職業人として顔を作らなければならない時もあり、おそらく宍戸さんも俳優として切実な必要性を確信していたのでしょう。息子さんで美男子の二枚目スターの宍戸開さんは現在53歳ですから宍戸さんが整形することなく年齢を重ねていけばあのような風貌の俳優になっていたのかも知れません。
追悼として一昨日から「国盗り物語」「風と雲と虹と」「武田信玄」「秀吉」のDVDを鑑賞しています。冥福を祈ります。
- 2020/01/23(木) 13:10:16|
- 追悼・告別・永訣文
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船岡施設OB会が大活躍した2011年の忘年会は12月19日の月曜日に行われた。自衛隊退官後の再就職も定年退職した隠居親父ばかりなので土・日曜日にこだわる理由はないのだ。おまけに12月18日の「坂の上の雲」は日本海海戦なので宴席はこの話題で盛り上がり、茶山元3佐の上原勇作元帥と旅順要塞への坑道掘削に関する疑問も持ち出し易くなるはずだ。ところが12月19日に「坂の上の雲」を吹き飛ばすような事態が発表されてしまった。
「只今から平成23年の船岡施設OB会の忘年会を始めます」司会が指定職の1科勤務だった元2尉が開式の辞を述べると上座の新山元群長以下は胡坐のまま背中を伸ばした。
「それでは群長よりご挨拶をいただきます。群長、お願いします」出席者は20名なので会場の和室はそれほど広くはなくマイクも必要ない。新山巌元将補は立ち上がることなく3つ長い座卓を並べた席の出席者を見渡してから口を開いた。
「今年は東北地区太平洋沖地震と言う未曽有の災害によって思いがけず我々施設OB会も昔取った杵柄、本領を発揮することになりました。宴(うたげ)を開くに先立って犠牲者の御霊(みたま)に黙祷を捧げたいと思います。黙祷」やはり新山元群長は折り目正しい上に立つべき人物だ。茶山元3佐は先任順で決まった真ん中の座卓の席で頭(こうべ)を垂れながら慰霊と共に敬意を表していた。この群長の下で勤務できなかったことが本当に残念になる。
「今回の災害派遣の武勇伝と苦労話は酒が入ってからとしまして、今年は国内外ともに波乱含みで最後の最後まで色々な不測事態が起こるようです。我々が現役であれば常在戦場とでも訓示するのですが、あくまでもOBですので今年のようにお呼びがかかれば応じられる身心を維持することに努めましょう。終わり」ここは何年経っても「部隊、気をつけ」と言いたくなるが、出席者たちは今日発表されたニュースを小声でささやき合った。
「それでは乾杯の音頭を安食(あんじき)科長にお願いします」「ご指名に与りまして乾杯の音頭を実施します。用意は良いですね。材点検(施設基礎作業・重材料運搬の号令)」先任順2位の安食元3佐は毎回乾杯の音頭担当なので前置きの冗談も口癖化している。出席者たちはビールを注いだグラスを掲げながら発声を待っていた。
「乾杯」「乾杯」ここでビールを飲み干し、波乱の2011年を締めくくる忘年会は始まった。本来であれば災害派遣=被害復旧出動に特別参加した小椋元3佐も招待したいところだが、再就職した支所のバスの運転手は地域の公的行事が続く年末・年始は多用らしい。
「あの後は全身が筋肉痛になってマッサージ通いでエライ出費だったよ」「それでも1人もギックリ腰にならなかったのは流石にプロだよな」「若造たちとは鍛え方が違うんだ」今回の忘年会は話題に統一性が全くない。それでも大半は災害派遣の苦労話だ。
「金正日はクーデターで殺されたんじゃあないか」「半病人みたいな顔をしてたからやはり病死だろう」その傍らでは今日発表されたばかりの北朝鮮・金正日の死を議論している者もいる。
「韓国の野郎、偉そうに被害者面しやがって。ウチは冷害飢饉の時にも朝鮮の同胞に送るからって米を強制供出させられたんだ。日本人が大根をかじって飢えをしのいでいる時にも朝鮮の人間は白い飯を喰っていた。その恩を忘れやがって」中には12月14日にソウルの日本大使館前に設置された(いわゆる)従軍慰安婦像に怒りの声を上げている東北の農家の息子もいる。それでも現在の野畑政権に関する話題は酒が不味くなるだけでなく料理まで傷みそうなので誰も触れていない。これでは酔いが回る前に「坂の上の雲」の話題を持ち出すことは難しい。茶山元3佐は仕方ないので最高の知性・新山元群長に酒を注ぎながら強襲することにした。
「『坂の上の雲』は見ておられますか」ビールを注ぎ、注がれると単刀直入に初弾を放った。すると新山元群長は口元を弛めて「勿論」と答えた。
「実は昭和55年に見た映画『203高地』では日本軍が旅順要塞まで地下坑道を掘削していく場面があったんですが、今回は全く出てこないので研究を始めているんです」「あの映画は私も見たが時代考証はかなり好い加減だったな」新山元群長は少し皮肉に笑うと座り直して戦史の講義を語り始めた。茶山元3佐の地下坑道は旅順要塞に到達したようだ。
「今回の日本陸軍の軍服はカーキ色だが、あの映画では黒だった。日露戦争の時点では満州の土の色に合わせて変更しているからカーキ色が正しいんだよ。ただし、北海道から派遣された大迫中将の第7師団だけは屯田兵と同じく黒だったから、203高地を占領した将兵は黒でも間違いではない」この様子では新山元群長はかなり本格的な戦史の研究家らしい。そのような人物にこの質問は、話がとめどなく続いてしまうため宴席ではタブーに近い。案の定、自分の席でビールの順番待ちをしている出席者が痺れを切らしかけている顔でこちらを見ているのが目に入った。すると新山元群長は手招きして先に注がせると「興味があれば」と勧めた。
- 2020/01/23(木) 13:08:43|
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1月17日に野僧の世代の愛知県人には中日ドラゴンズの名2塁手として記憶に残っている高木守道選手が亡くなったそうです。78歳でした。
野僧の父親は実業団野球の選手だったため同じ高卒で入団したプロ野球選手には屈折した対抗意識を抱いていたらしく、大の中日ファンのアンチ読売でありながら自分と同じ守備位置のセカンドでは立教大学卒の読売の土井正三選手の方を評価していました(客観中立に見ると守備範囲や送球技術、対処能力は高木選手の方が上でした)。
また小学校の野球少年たちは中日ファンと読売ファンに分かれていて、中日ファンにとって背番号1は高木選手の番号であり、3は中(利夫)選手でした。ただし、当時は「巨人の星」が放映中だったため人数的には劣勢だった巨人ファンも意気軒昂でしたから、野球嫌いで好きな球団がなかった野僧はどちらからも「×番は誰だ」と質問されて迷惑したものです。
高木選手は訃報を伝える新聞でも「岐阜県出身」と書いていますが、実は昭和16(1941)年に名古屋市で生まれ、幼い頃に岐阜に転居してそのまま高校まで過ごしたのです。10歳の時、初めて兄と一緒に中日球場の1塁側スタンドで中日VS読売の試合を観戦したそうですが、3回裏にバックネットの最上部から出火し、球場が全焼する大火災になり、読売戦と言うことで満員だった観客の避難は困難を極め、死者3人、重軽症者318人を出す大惨事になったのです。高木少年は無事だったものの観客としてのプロ野球観戦はこれが最後になったそうです。高校は当時の岐阜県内では強豪校だった県立岐阜商業に進学し、1年生の時に立教大学4年だった長嶋茂雄選手の指導を受ける機会を得て、肩を痛めていたため遊撃手から2塁手に転向することを勧められ、監督にレギュラーとして使うように推薦してもらったとの逸話を巨人ファンから聞きました。
県立岐阜商業では1年の夏の大会で甲子園に出場して準優勝、3年の春にも出場して準優勝(この時に相手は愛知県代表の名門・中京商業だった)しましたが、最後の夏は岐阜県大会の決勝で敗れています。高校生としての試合が終わってもプロのスカウトがなく、野球人脈で早稲田大学への進学を考えていたところに中日ドラゴンズからお呼びがかかり、昭和35(1960)年に入団しました。入団して最初に出場した試合では代走初盗塁・初打席初本塁打を記録しています。昭和38(1963)年からレギュラーになり、俊足功打堅守の主力選手として活躍しますが、今一つ花がなくホームラン王・江藤慎一選手などのスター選手の影に隠れていたようです。それでも昭和49(1974)年に20年ぶりに優勝した時に親友の坂東英二投手が唄った「燃えよ。ドラゴンズ」の2番では「1番高木が塁に出て」と最初に名前が出ており(シーズン中の1番は谷木選手で高木選手は2番が定位置だった)、存在感は大きかったようです。
監督としての活躍は野球を見ないので全く知りませんが、たまたま浜松に在住している時だったため星野監督と落合監督の辞任を受けての就任だったように聞いています。
坂東版「燃えよ。ドラゴンズ」を聴きながらご冥福を祈ります。
- 2020/01/22(水) 12:32:02|
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「連隊長、先ほど申告を受けていただきました松山2佐が退職願を提出しました」副連隊長と1科長は考えあぐねた揚げ句に叱責覚悟で連隊長に報告した。今日が年明け初出勤の連隊長は部隊に届いていた年賀状の山を確認しているところだった。
「うん、先ほど業務隊長が報告したいことがあるから厚生班長を連れて来ると電話があったばかりだ。用件は同じだな」第3普通科連隊長は名寄駐屯地司令も兼務しているため駐屯地業務隊の人事も掌握している。松山裕美2曹が退職願を提出すれば報告を受けるのは当然だ。
「それでこれはどう処置しましょうか」報告を受けても平然としている連隊長に困惑しながら1科長は副連隊長と顔を見合わせ、目で譲り合ってから仕方なく質問した。本来であれば方針を説明し、承認を受けるのが自衛隊流だが、これは判断がつかないことを告白したことになる。すると連隊長はゆっくり2人の顔を見比べながら口を開いた。
「松山2佐は年末に『退職する』と宣言していたんだ。それを実行に移しただけだろう。後は事務的に淡々と処置するだけじゃあないか」「しかし、自衛隊に不満を持って退職させるようなことを許せば反自衛隊の活動に走らせることになりかねません」「彼の出身大学は政界にも強い人脈がありますから、野党に加われば自衛隊の内部事情に精通した告発者と言うことになりませんか」2人は先ほどまで話し合っていた不安材料をそのまま持ち出した。すると連隊長は苦笑して1科長の顔を見た。
「野党と言うのは自民党のことかね。今は政権与党が自衛隊の味方とは言えないだろう。松山の性格から言えば政党の裏方になって素人に代弁させるよりも自分が立候補して議員になろうとするはずだ。与野党どちらにしても現実を無視した防衛政策にモノ申すのは痛快だぞ。とりあえず大学の人脈で有力議員の政策秘書にでもなるのかな」連隊長は松山2佐の退職後の行動を楽しみにしているような口振りだ。
「次の総裁選で自民党の総裁が交代すれば臨戦態勢だ。後は解散に追い込めば政権奪還は間違いない。松山ならどう立ち回ると思うかね」「そんなことは考えていませんでした」唐突に質問されて副連隊長は言葉を濁してうなだれた。それを見て1科長が連隊長に確認した。
「それではこの退職願は受理してもよろしいんですね。師団や方面には何と説明すればよろしいんでしょうか」これも自衛隊的には幕僚としての無能さを自己申告しているような質問だが、確認と言う形式を取っているので体面は保てている。
「その文面通り一身上の都合だろう。師団の担当者に確認されても個人情報に属するからと回答を拒否されたとでも言えば良い。それで納得しないようなら現政権の防衛政策に危機感を抱いて政界に打って出るつもりかも知れないとでも答えておけ。松山2佐は本来そう言う人材なんだ」連隊長の評価が反抗的な言動や非常識な態度に嫌悪感を抱いていた自分たちとは全く違うことを知り、2人は絶句した。日本式人事管理の問題点として凡庸で狭量な中間管理職による評価によって常識の枠を超えて才能が排除されている現実がある。連隊長は1つ咳払いすると意識改革のため補足説明した。
「松山2佐は陸上自衛隊が有事に地域を占領するような事態が起これば行政官として抜群な能力を発揮する人材だ。その意味では指揮官よりも幕僚の方が適任だが、日本の幕僚組織は所詮、村社会だからな」最後の言葉はCGSで学んだプロシア軍のヘルムート・カール・ベルハルト・グラーフ・フォン・モルトケ元帥が確立し、現在のアメリカ軍に至る参謀機構を腐敗させた帝国陸軍の悪しき体質を踏襲している陸上自衛隊の幕僚制度を揶揄しているが、その悪しき体質に慣れ切っている2人には通じなかった。参謀が思考を常識の枠に押し留めれば敵の常軌を逸した戦術は考慮外になる。指揮官はその自由奔放な思考を取捨選択して部隊を運用すれば良いのだ。その点、陸上自衛隊では幕僚組織も科長以下の管理を受け、その裁量の中で順当に業務を消化することしか許されない。やはり松山2佐を活かす場所は・・・。
「例のERCが手続きを始めたようだな」陸上幕僚監部に松山2佐が退職願を提出したことが伝わったのは数日後だった。本当の目的を知らない各担当者は昇任した直後の幹部の退職に困惑したものの1科長の「現政権に反対する政治活動を始める可能性がある」と言う説明に納得して、順次上級部隊に連絡してきたらしい。防衛部長には人事教育部長から報告を受けた幕僚長が会同後に呼び止めて教えた。このERCとはオーリー・ライス・ガーデン(早い稲の田=W稲田)の頭文字の隠語だ。PM=パイン・マウンテン(松の山)にすれば固有名詞だが人物を特定される情報は絶対に隠蔽しなければならない。
「と言うことは来月にはアメリカ行きですね。朝鮮半島や中東が騒がしくなっていますから絶好のタイミングでしょう」防衛部長の返事に幹部の退職の決裁権者は深くうなずいた。
- 2020/01/22(水) 12:30:53|
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1954年の1月21日に世界初の原子力潜水艦・ノーティラスが原子力産業のジェネラル・ダイナミックス社傘下のコネチカット州グロトンの造船所で進水しました。
ノーティラスは水夫や船を意味するギリシャ語でアメリカ海軍では1799年に就役した帆走戦闘艦の初代から1938年に就役し、米墨戦争で活躍した帆走戦闘艦の2代目、1911年に就役して第1次世界大戦に参加した潜水艦の3代目、1917年に就役した遊覧船が第1次世界大戦で徴用されて警備艦になった4代目、第1次世界大戦後から第2次世界大戦まで長期間運用された潜水艦の5代目に続く6代目でした(4代目と5代目の間に北極探検に転用された潜水艦にもこの名前が与えられましたが、アメリカ海軍に返却された時、艦番号Oー17に復したため除外されています)。
6代目・ノーティラスは日露戦争後の日本海軍の艦艇を世界水準に引き上げた平賀譲中将のアメリカ海軍版と言うべきハイマン・G・リッコーヴァー大将の指揮の下、実用化の目途がついた原子力エンジンを搭載して、それまで「水に潜ることができる艦艇」だった潜水艦を「水中に在ることが常態の艦艇」として計画されました。しかし、原子力エンジンの実用試験を主目的にしていたため艦体については3代目・アルバコア級(2代目は下北半島沖で機雷に接触して爆沈している)で水中における抵抗の軽減と静粛性、推進力などの有効性が確認できていたティア・ドロップ(涙滴)型と1軸式スクリューの採用は見合わせ、従来型の艦型で2軸式スクリューとしました。
日本の海軍マニアの間では「敗戦後にアメリカ軍に接収された伊400を参考にした」と言う風説が常識化していますが、アメリカ側の資料では「Uボートを参考にした」と解説していても伊400については触れておらず構造にも共通点が見当たりません。
また酸素タンクと空気浄化装置も従来型を搭載しましたが推進用モーターの電池を充電するためのディーゼル発電の必要がなくなったことで酸素供給時間は従来型の10日間から30日間に3倍増しました(後に原子力潜水艦用に換装して60日間になった)。さらに原子力エンジンは全力発揮の連続時間が250時間に及び1381海里=2557.6キロメートルの連続行動と燃料交換なしで地球2周半分に当たる62562海里=115864.8キロメートルの航海が可能になりました。
就役後、ノーティラスは太平洋からベーリング海峡を通過してグリーランドに抜ける北極海通過航海も実施しており、1958年8月3日に北極点で発した「ノーティラス、北90度」の電文は冒険に憧れていた当時の少年たちを大いに刺激したそうです。
ただし、艦型が従来型だったため武装面では特別な発展はなく、原子炉の実験データーの収集を主任務として量産型原子力潜水艦・スケート級や本格的ティア・ドロップ型原子力潜水艦のスキップ・ジャック級への布石に終始しました。この点は1960年に進水して以降、多くの実戦を経験した初の原子力空母・エンタープライズとは異なります。
1980年3月30日に退役しましたが、解体されることなく建造された造船所内で係留保管されており、一般公開されているそうです。
- 2020/01/21(火) 13:33:40|
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1月4日は仕事始めの駐屯地朝礼の後には昇任者の連隊長への申告がある。対象者は1科に集められたが1科長は松山2佐に申告を終えた後、1科で待つように要望した。
「松山2佐、4中隊長は3佐職配置なので1階級上の2佐でも問題はないんですが、やはり異例なので3月の人事異動に合わせて師団内の配置換えを調整させてもらいます」申告は上位者からなので最初に終わった松山2佐がソファーでコーヒーを飲みながら待っていると立ち合っていた1科長が戻ってくるなり用件を切り出した。4中隊長は前々任者の吾妻1尉が安川3曹に対する暴行事故に加担した疑いを持たれたため定年配置で業務隊の糧食班長になっていた天野1尉と交代させられた。その天野1尉が定年を迎えたため吾妻1尉と交代させる形で松山3佐が転属してきた。この無理な人事も「勤務評定が低い松山3佐は当分昇任しない」と言う前提だったが、やはり見込み違いだったようだ。
「僕は年末に退職を申し入れたはずだ。今は欠員の補充を考えるべきだろう」松山2佐はソファーの目の前の席に座った1科長に感情を交えない低い声で返答した。それを聞いてコーヒーを運んできた週番士長がカップをテーブルに落として飛び散らしてしまった。
「副連隊長と私もあれは怒りにまかせた失言だったと受け止めています。折角、2等陸佐に昇任したんですから、今後は順調に幹部自衛官としての階段を登りながらその優れた能力を発揮していって下さい」1科長は雑巾を持ってきた週番士長に汚れを拭かせるとあえて聞こえるように松山2佐の発言を打ち消す言葉を返した。しかし、松山2佐は家庭とは別人の陰湿な目で1科長の顔を舐めるように見ると少し声量を上げて反論した。
「僕は怒りにまかせて我を失うほど単純な人間ではないよ。そう言う人物評価しかできない組織には愛想が尽きたんだ」それまで幹部同士の密談として聞こえない振りをして仕事をしていた1科の陸曹たちも驚いて顔を向けた。
「今頃、妻も業務隊で上司に同じことを申し出ているはずだ。幹部の退職願には定型用紙がないはずだから書いてきた。受け取ってくれ」そう言うと松山2佐は胸ポケットから白の封筒を取り出した。表にはペン書きで「退職願」とある。本来、退職願には定型はなく決済者が納得できる文面であれば良いのだが、陸士用としては「一身上の都合により云々」と常識的な短文が印刷してあり、日付と共に直筆で署名・捺印だけさせている。
「判りました。取り敢えず受け取らせてもらいましょう。それで退職後の仕事は決めておられるのですか。やはり連隊長や副連隊長に説明する際、確認されると思いますから参考までに・・・差し支えなければ」1科長は急に冷静な表情になると、松山2佐が両手で差し出している封書を受け取ったが、中は確認せずに口頭で質問した。
「当然、自衛隊には漏らせない仕事だよ。お偉方には妻に飲み屋を開かせてヒモになるとでも言ってくれ。近くにお越しの際はお寄り下さいってな」明らかに茶化した松山2佐の答えも1科長は冒頭だけで十分な衝撃を受けた。このW稲田大学政治経済学部出身の特異な人物が自衛隊に反発して退職する以上、敵に回る可能性は十分考えられる。反自衛隊の立場を取る政党に参加して国会での追及を指導すれば危険極まりない。
「用件はすんだな。僕は中隊に戻るぞ。まだ中隊長だから年頭の訓示をせにゃならんのだ」松山2佐は真っ暗になって固まっている1科長をさらに凍結させるような口調を投げかけて立ち上がると、顔を背けている陸曹たちの間を通って部屋を出ていった。ドアが閉まった瞬間、1科には溜息と口臭が充満した。
松山2佐が帰ると1科長は副連隊長室に駆け込んだ。副連隊長が封筒の中身を確認するとやはりペン字で「一身上の都合により退職を申し出ます」とだけ記して署名・捺印してあった。
「松山はW稲田大学政治経済学部出身だったな」副連隊長は机の向うに立っている1科長を見上げ、渋い顔で判り切っている人事情報を質問した。
「はい、政治家や官僚を多数、輩出している名門校です。震災の時、宮古に来た海外マスコミの取材を案内してきた総務省の官僚にも大学の同期がいたようです」1科長の説明も判り切っていることだが今回は別の意味を持った。
「拙いぞ。極めて拙い。自衛隊の中に拘束しておけば服務規則で政治的活動やマスコミへの投稿や出演も制限できるが、野放しにすれば何をやり始めるか判ったもんじゃあない」1科長は隊員のマスコミへの意見発表を制限しているのは保全規則だと気がついたが、自分への責任追及に怯えている上司を刺激するような真似をするはずがなく、同じような沈鬱な顔を作ると「確かに」と答えながら深くうなずいた。退職届を保留して説得を試みるのも無駄な相手だけに、この初仕事は今年1年分の精力を使い果たすことになりそうだ。
- 2020/01/21(火) 13:32:07|
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サンフランシスコ講和条約が発効して日本が独立する3ヶ月前の昭和27(1952)年1月21日の午後7時30分頃にロシア革命と同様に武力蜂起を党の方針として公言していた日本共産党札幌支部を監視し、取り締まっていた札幌市警察本部警備課長の白鳥一雄警部が自転車で帰宅中に後方から追い抜いてきた自転車の男に拳銃で射殺された事件が発生し、日本共産党札幌委員会の委員長と共犯者2名が逮捕されました。
白鳥警部は大正5(1916)年に北海道の内陸部でも十勝連峰の麓である芽室町で生まれ、旧制・帯広中学校を卒業後、昭和12(1937)年に北海道庁警察の巡査になり、戦時中は陸軍特務機関のハルビン学院でロシア語を学んで特別高等警察外事課で勤務しました。敗戦後はシベリア抑留を経験してソ連の実態と世界共産革命の脅威を痛感し、復員すると自治体警察であった北海道警察に復職を果たしましたが、その抜群の能力を知った占領軍防諜機関(CIC)や日本政府の国家警察(占領軍がアメリカのFBIをイメージして創設した)とも密接に連携しながら辣腕を揮っていたようです。一方、日本共産党は51年綱領で武装闘争方針を採択したことを受けて全国各地で警察官を襲撃する事件が頻発させており、これに同調して札幌委員会でも北海道大学の学生を士官要員、労働者を兵士とする秘密の軍事組織を編成していました。この軍事組織の名称は中核自衛隊で、今の自衛隊はまだ昭和27(1952)年10月15日に保安隊になるまで警察予備隊でした。
白鳥警部はこの動きを正確に把握していて、当時は革命を標榜する労働組合の弾圧に利用していた任侠社会にも協力させて苛烈な取り締まりを進めており、札幌委員会が市内の丸井百貨店で開催していた丸木位里と赤松俊子の「原爆の図」展を占領軍の命令として中止させ、抗議のビラ撒きやデモ行進、座り込みを行った党員を多数検挙しています。このため道内の日本共産党員たちからは徹底的に憎悪されて年明けには「昨年は貴様のおかげで俺たちの仲間が監獄につながれた。この恨みはきっとはらす。俺たちは極めて組織的に貴様をバラしてやる」と言う脅迫状が大量に届いていました。このため警察は日本共産党の犯行と断定して札幌委員長を主犯としてブローニング32口径の自動拳銃(小型で軽量だったため日本陸軍将校でも愛用者が多く、昭和33年に銃刀法が制定されるまで市民が秘蔵していることも珍しくなかった)の射撃に長けた人間を特定して逮捕したのです。
裁判では共産党員系の弁護士が総動員されただけでなく大手新聞が赤旗と同一の記事を掲載して全面協力し、証拠捏造の疑惑や証言の矛盾点を大々的に喧伝したため再審請求では110万人もの署名を集めましたが、主犯の委員長が弁護士を通じて証拠隠滅のため札幌委員会の主要な党員を国外逃亡させるように指示した文書が押収され、実際に多くが共産党中国に亡命していたため疑惑が深まり、共犯者2名が犯行を認めたこともあって昭和50(1975)年5月20日に有罪判決が確定しました。
この裁判で批判的世論に屈した最高裁判所が「再審制度においても『疑わしきは被告人の利益に』と言う刑事裁判の鉄則が適用される」と言う「白鳥決定」を下したため、有罪が確定していた判決が疑わしいだけで覆る異常な事態が生起してしまったのです。
- 2020/01/20(月) 12:07:48|
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1月1日の夜は近所の寿司登美で寿司と張り込んだが、いきなり東野英治郎=水戸黄門似の大将が浮かない顔で詫びを入れた。黄門さまに詫びられては返す言葉もない。
「すいませんね。市場が休みなもんで好いネタがないんですよ。本当は店を閉めたいんですが正月は意外にお客さんが多くて。冷凍物と〆鯖(しめさば)、卵と海苔巻だけで開けてます」おせち料理は正月中の女性の負担軽減と年賀の来客用に作ると言われているが、家族が毎回食べるのにはあまり好まれないのかも知れない。
「じゃあそれで」今回は財務省担当の千秋2佐(1月1日付で昇任した)としては安く上がるので大歓迎だ。すると広くはないカウンターに座っていた夫婦2人連れの客が端に移動してくれた。母の玲子が挨拶したところを見ると近所の人らしい。
少し浮かない顔の大将がカウンターの向こうで俎板(まないた)の上に鮪(まぐろ)と烏賊(いか)、鰤(ぶり)、卵の厚焼きを並べ、薄く切って寿司を握り始めると正敏曹長と千秋2佐は出されたビールをグラスに注ぎ乾杯した。
「松山2佐は真面目に考え過ぎるから上官の横暴が余計に我慢ならないのかも知れませんね。その点、私なんかは空曹ですから命令を忠実に遂行していくだけで、それ以上のことは考えません。それは裕美も同じでしょう」正敏曹長は年越しの時、日頃は感情の起伏を感じさせず、むしろ凍結したような印象を与えている婿の千秋2佐が激昂し、「辞める」と宣言したことが気に掛かっているようだ。松山一家は明日の朝には北海道に帰るので話すのは今しかない。
「裕美は僕が考え過ぎるのをスパッと割り切らせてくれるので助かります。と言う訳で僕は本気でスパッと転職しようと考えています」「それはまた唐突な・・・」中村曹長は飲みかけていたビールでむせ始め、それを見て千秋2佐が手吹きタオルを差し出した。
「転職ですか。中々勇気がいることですね」すると端に移動してくれた夫婦の夫の方が声をかけてきた。年齢は50歳代の前半で、面長で精悍な顔立ちだ。
「すみません。話が聞こえてしまったもんで」「そう言えば久保井さんも転職されたんでしたね」正敏曹長が返事をしたためこの2人連れが1本上の通りの久保井夫婦だと判った。妻は最初に中村家に訪れた時、平井堅の実家の場所を訊いた有名な大ファンだ。
「実は私もバブルが弾けて間もない頃、リストラされて系列会社に転職したんです。会社としては新型コンピューターの導入で私のような課長クラスの事務処理を省くことができるようになって人件費削減としての決断だったんでしょうけど、息子たちが金がかかる時期だったから本当に不安でしたよ」考えようによっては北部方面隊の曹侯補士切り捨ては滋賀総監の独断による採用区分別リストラと言えるのかも知れない。
「そう言えば我が社(航空自衛隊)でもバブルが弾けた頃に、空士の質の快復のためとバブル入隊の士長の継続任用を認めなかったことがあるな」唐突に正敏曹長が内輪ネタを暴露した。千秋2佐は部内とは言え久保井は民間人だ。これが「不当人事」と受け取られるような処置であれば内部事情の漏洩になりかねない。
「松山2佐のところとは違ってウチは空士の継続任用の停止ですから合法的でした。確かにバブル入隊の空士の質は酷いもんでしたから必要な処置だったんでしょう。現場も苦労して育てた隊員を退職させるのは忍びなかったんですが、空曹にできるような奴は少なくて納得していました」「それが組織の分別と言うものでしょう」千秋2佐が評したところに大将が長い皿に盛った寿司を出した。赤身の鮪と白い烏賊、桃色の鰤と青の〆鯖、黄色の卵が並び色合いが美しい。そこに干瓢(かんぴょう)巻とカッパ巻が添えられ見た目の趣向が凝らしてあった。
「今年の紅白の『いとしき日々よ』は良かったですよね」気がつくと裕美2曹は久保井の妻の隣りに座って平井堅談義にふけっていた。小春は祖母が相手をしている。
「『JIN・仁』の主題歌は良かったけど、演歌に囲まれてと言うのは無理に押し込んだみたいで少し違和感を覚えたね」今回の平井堅は川中美幸と藤あや子の間で次の白組は細川たかしだった。下手すれば和服を着て登場した方が収まりの良い出番だ。
「今年は中2年の出場だけど、どうして途切れ途切れになっちゃうんでしょう」「うん、2000年が『楽園』で初出場、跳んで2002年が『大きな古時計』、3年が『見上げてごらん夜の星を』で坂本九と共演、4年が『瞳をとじて』で中2年、7年が『哀歌(エレジー)』、8年が『いつか離れる時が来ても』、それで中2年で去年の『いとしき日々よ』だね」流石は周囲が認める大ファンだけに頭に入力・保存されているデーターも見事と感心するしかない。
「ウチの旦那なんか『平井堅はたまにしかヒット曲が出ない』って言うんだよ。本当に腹が立つよね」そう言われて妻越しに覗き込むとその旦那は真顔で父と夫と深刻そうな話をしていた。
- 2020/01/20(月) 12:06:25|
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今年の紅白歌合戦は東北地区・太平洋沖地震の被災者を激励すると言う願いを込めてニュース直後の7時15分から「行く年来る年」に引き継ぐ11時45分までの長時間だった。男性陣は夕食のお茶代わりの乾杯から酒が始まっている。
前半は若手のグループと歌手が続くため小春も喜んで見ていたが、松坂市出身のポップス歌手・西野カナと女性演歌歌手の川中美幸に挟まれて平井堅が登場すると裕美2曹は男性陣の雑談を手で制した。平井堅は大ファンだと言う紅組司会者の井上真央が紹介した。
「例え時が移ろうと 縫い合わせた絆は決して解けない ああ貴女の声は忘れれば 忘れゆくほど焼きついていた・・・愛しき日々よ サヨナラは言わないで・・・」「この歌って『JIN・仁』の主題歌じゃない」沈黙を命じられている男性陣に代わって母の玲子が口を挟んだ。幕末にタイム・スリップした外科医が主人公のこのドラマを両親も見ているようだ。すると裕美2曹は言葉ではなく2回うなずいて返事にした。
「・・・貴女に吹く風よ 貴女に咲く花よ 貴女と追いかけた明日よ また会いたくて・・・」これが国営放送のドラマであれば一番盛り上がるこの辺りで番組の名シーンが背景に投影されるはずだがそこまで寛大ではなかった。
「『JIN・仁』は面白いよな。坂本竜馬に毛利藩に武器を売ったことを後悔させてただろう」「久坂玄瑞に尊皇攘夷を信じている奴は大馬鹿だとも言わせていました」平井堅が終わって藤あや子、細川ひろしの演歌が続いている間に男性陣の雑談が再開した。
「大河ドラマもネタ切れなら『JIN・仁』みたいにコミックのドラマを考えればいいのに」「僕は『ジパング』がお勧めだな」話が弾んでいると白組で猪苗代湖ズが登場した。すると今度は正敏曹長が手で家族を制した。猪苗代湖ズは名前の通り、福島県出身のバンドだが会津若松出身はボーカルだけだ。それでも正敏曹長は真剣に聞き入っていた。
「そう言えば来年の大河ドラマは会津が舞台だったよな」「再来年でしょう」望郷の思いを抱いた正敏曹長の呟きを玲子が訂正した。確かに残り数時間は再来年だ。
「トリが津軽海峡冬景色だったとは松山家のための選曲みたいだったな」「その前の愛燦燦もね」番組が終わり、行く年来る年に代わると炬燵で眠ってしまった小春に毛布をかけてあらためて中村家恒例の年明けの乾杯になった。蕗ヶ丘には寺がなく除夜の鐘は聞こえないので(名張市では過疎部落から新興住宅地内に移転した寺もある)、ここからは会話を楽しめば良い。
「私も来年早々には付になって定年だよ」乾杯後の開口一番で正敏曹長は今年の予定を語った。長女の昌代1曹の年齢を考えると遅い定年だが、新隊員で小牧基地の第5術科学校に入校している時に玲子と知り合って間もなく結婚したので不思議ではない。
「それじゃあ今夜はお父さんの武勇伝を聞かせてもらわないといけませんね」千秋3佐が正敏曹長のグラスにビールを注ぎながら要望すると、聞き飽きているらしい玲子は苦笑いして裕美2曹のグラスに女性用の赤ワインを注いだ。
「私は早くに名張に家を持った関係で小牧の教官と入間のDCに行った以外は転属をしていませんから取り立てて語るような経験はしてないよ。強いて言えば御巣鷹山の事故くらいかな」「貴方、あの話は新年の祝いには・・・」正敏曹長が1985年8月12日に発生した日本航空機墜落事故に出動した経験を語ろうとすると玲子が制した。事故での体験談は悲惨な場面が続くため年頭の「晴れ」の話題として相応しくないのは間違いない。話が途切れたところで千秋3佐が小春を抱いて裕美2曹と一緒に2階の寝室に運んでいった。
「流石に今回は自衛隊に愛想が尽きました」2人が戻ってきて酒が進むと千秋3佐は突然怒り上戸になり、義父の中村正敏曹長を相手に曹侯補士の強制退職への怒りを語りだした。
「しかし、曹侯補士は陸上でも4年以降、7年未満で3曹に昇任させる条件で採用しているだろう。方面隊司令官の権限で退職させることができるのかね」中村曹長は婿の怒りを刺激しないように気を遣いながら疑問点を正した。
「陸曹への昇任は方面隊の発令なので方面総監が認めなければ3曹にはなれないんです。後は現場の責任で説得して依願退職です。僕もまさか不当人事に加担する羽目になるとは思いませんでした」ここまで怒りの炎を噴くと喉が焼けるようで、千秋3佐は手酌でグラスにビールを注ぐと珍しく一気に飲み干した。
「それで裁判沙汰にはならなかったんですか。空自で同じことになれば民事訴訟に新聞投稿、反対の署名運動まで起こしかねませんよ」「陸自では上官の命令は良し悪しは考えずに組織ぐるみで実行しますから有り得ません・・・辞めた」最後に腹の底から吐き出したような怒声を上げると中村夫妻は困惑して顔を見合わせたが、裕美2曹は黙って小さくうなずいていた。
- 2020/01/19(日) 12:47:07|
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今年の1月17日で平成2年11月の雲仙普賢岳の噴火と3年6月の大火砕流から始まる平成の大災害シリーズの中でも特筆すべき阪神・淡路大震災から25周年なのだそうです。
しかし、その後も大規模地震や火山の噴火、さらに毎年のように「過去に経験がない」と言われ続けている大規模台風の襲来などが頻発・続発した平成の大規模災害シリーズによって被災者の記憶が薄らいでいるためマスコミや被災した自治体は阪神大震災の問題点を封印し、復興の実績と防災指導の広報で隠蔽しているようです。
阪神大震災の最大の問題点は兵庫県から自衛隊への正式な災害派遣要請が午前5時46分の震災発生から4時間以上が経過した午前10時になってようやく行われたことです。その原因は兵庫県の職員には公務員労組の活動家が多く、自衛隊の派遣を阻止しようと県知事には被害の規模を矮小化し、県の対応能力を過大に報告していた上、知事がテレビのニュースなどで実態を知って派遣要請を決意すると通信不能と嘘をついて妨害したことです。この教訓から市町村長から要請を受けた都道府県知事は自衛隊に災害派遣を要請するように運用を指導されていますが、県知事は災害派遣要請が遅れた原因を自衛隊が連絡を怠ったこととする責任の押しつけを訂正することなく死にました。
また神戸市長は共産党や社民党を支持母体としていたため始めは自衛隊の出動には抵抗を示していたのですが、惨状を目の当たりにして(兵庫県知事も同じ光景を見ていたはずですが)派遣を打診しても市長には派遣要請の権限はなく前述の結果を招き、息がかかった学者に「80パーセントは圧死」と発表させているものの逆の立場の学者は「救助の遅れが原因」と指摘している数千人の犠牲者を出しました。さらに神戸市でも日教組と自治労が自衛隊の派遣に反対しており、神戸市立の小中学校と高校を自衛隊に使用させることを拒否していただけでなく、呉基地から救援物資を満載して出動した海上自衛隊の艦艇は神戸港への入港を拒否され、姫路港から陸路で輸送することになりました。
最終的には村山首相から抜擢された自民党建設族の大物・小里貞利震災対策担当大臣が事実上の陣頭指揮を執って復興事業を軌道に乗せたのですが、市民の生命よりも自分たちの政治信条を優先した公務員労組の罪状については放置されたままです。
しかし、野僧が阪神大震災に対して自決の衝動を感じるほど無念の思いを抱き続けているのは、山口県の防府南基地と言う至近距離で勤務していながら航空教育隊司令が「他の部隊の選手要員は災害派遣で出場できない」と聞いて「優勝のチャンス」と考え、熊谷基地の第2教育群から神戸市内に出動させて防府南基地からは炊事用員を数名差し出しただけにしたことです。武人たる自衛官としての本懐はあくまでも防衛出動ですが、災害派遣も余技とは言え任務であり、少なくとも運動会の準備と運営よりも優先すべき重大事です。ましてや他の部隊が選手要員を災害派遣に出して戦力が低下しているのを狙って獲得した優勝に何の意味があるのか。閉会式では航空教育隊の表彰に拍手するチームはなく、多くの部隊は「災害派遣に向かう」と言う理由で閉会式を拒否して帰隊したのです。野僧にとって阪神大震災は自衛官人生最大の恥辱でした。誰か割腹用の脇差を貸して下さい!
- 2020/01/18(土) 13:14:25|
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「小春、大きくなってェ」今日は両親が揃って名張駅まで迎えに来ていた、前回、会った時の小春は保育園の年長で母親と同様に蕗ヶ丘の住宅地の道路を元気に走り回っていた。
「もう小学生だから大きくなったなんて言わないで」小春は祖父母の感嘆を子供扱いされているように受け止めたのか口を尖らせて抗議した。両親はそんなところにも成長を実感して嬉しそうに顔を見合わせた。夫婦として日常を過ごしている2人も今は祖父母になり切っている。
「昌代ちゃんは東京から帰って来ないの」途中のスーパー・マーケットで食材を買ってから実家に帰ると裕美2曹は長姉の昌代1曹の予定を訊ねた。
「昌代はどうせ独身だからって学生隊とWACの当直を引き受けてるんだって」母は不満そうに答えた。長姉の中村昌代1曹は久居駐屯地の衛生隊に配置されていたが、曹侯学生出身の3曹として指揮能力の練成のため第116教育大隊で勤務し、そこでモリヤニンジン1尉に出会った。その後、衛生隊に戻ったが、衛生隊長の医官が自衛隊中央病院に転属すると三宿駐屯地に同居している陸上自衛隊衛生学校の学生隊の助教として引き抜かれたのだ。
「昌代ちゃんが結婚しないのは相変らずモリヤ2佐一筋なのかな」母と一緒に台所で食材の収納を始めている裕美2曹が唐突に話を変な方向にずらした。すると母の玲子も冷蔵庫の扉を閉めてから同調した。家族とは言え女性にとって切ない恋物語は胸が時めくものらしい。
「久居の頃も奥さんが入校中だけでも一緒に暮らしたいなんて馬鹿なこと言っていたもんね。モリヤさんが裁判を受けている時には作野さんと2人で東京まで面会に行ったんだよ」昌代3曹はモリヤ1尉が北キボールPKOで地元の暴徒を殺害したことを殺人罪で告発された時、収監されていた東京拘置所まで中隊先任陸曹の作野曹長と面会に行ったのだ。あの頃の昌代3曹は留守宅の官舎の清掃や預けられていた自家用車の手入れにも励んでいた。
「多分、モリヤ2佐だったら昌代ちゃんが通ってきても何もせずに優しく見守ってくれたよ」「貴女の千秋さんみたいにね」この母子がモリヤ夫婦が不倫の末の略奪婚だったことを知るはずがない。夫の松山千秋2尉が裕美士長の純潔を尊重して手を出さなかったことをそのまま当てはめて恋物語の山場を越えさせた。実はこれは裕美2曹のお惚気でもある。
「そう言えばモリヤ2佐の奥さんは四国に転属して単身赴任中よ。昌代ちゃん、今度こそ押し掛け女房するつもりじゃあないでしょうね」この場面転換では清く正しく美しく純粋無垢だった裕美2曹も30歳代を過ぎると流石に小母さん化していることが判る。
「昌代の想いをモリヤさんが受け入れてくれるならそれでも好いよ。10年越しの想いを奥さんも許してくれるでしょう」結局、玲子が娘主演の美しくも切ない恋物語にして幕を引いたが、昌代1曹がモリヤ2佐一筋と決まっている訳ではない。実際は独身の身軽さと温かい懐で東京の休暇を存分に満喫している可能性もある。
「小春は小学生ならお母さんの晴れ着が着られるんじゃあないかしら」母娘で手分けして荷物を揃え終わると居間で映画のDVDを見ている小春に玲子が声をかけた。
「晴れ着って何」「着物、和服のことよ」小春の質問には裕美2曹が答えた。晴れ着と言うのは日常を「ケ」、特別な時を「ハレ」とする神道の観念の中で特別な時に着る正装を言う。
「着物かァ。よく取ってあったわね」「大切にすれば何年でも着られるところが和服の好いところなの」裕美2曹が感心すると玲子は自慢気に補足説明して立ち上がった。確かに晴れ着は正月と親族の結婚式、七五三くらいにしか着ないので三人姉妹の使い回しでも大丈夫だろう。すると居間の炬燵で茶を飲みながら雑談していた中村正敏曹長が婿の千秋3佐に提案した。
「折角、小春が晴れ着を着るなら、いっそのこと初詣はお伊勢さんにまで足を伸ばそうか」名張市から神宮がある伊勢市までは約85キロなので伊勢自動車道を使えば1時間半くらいだ。しかし、大混雑は予想される。案の定、千秋3佐は首を振った。
「僕は皇室が嫌いなので伊勢は遠慮します」「松山3佐が皇室嫌いとは意外だな」思いがけない理由に正敏曹長が興味深げに顔を見ると千秋3佐は冷めてしまったお茶を飲んでから答えた。
「僕の先祖は京都所司代の役人として孝明天皇の意志に背いて倒幕に暗躍する賊徒と戦っていました。ところが鳥羽伏見で破れてからは賊徒の汚名を着せられ、明治以降も差別を受け続けました」「それは会津も同じだ。むしろ代表格だろう」正敏曹長の相槌に千秋3佐もうなずいた。会津に対する徹底的な弾圧に比べれば桑名は苛めに近いのかも知れない。
「尊皇に身命を賭して戦った忠臣を賊徒に堕としたのは明治天皇です。天皇が戊辰戦争の過ちを認め、明治以降の誤った歴史観を正すまで僕は伊勢や明治の神社には参りません」東北では中央政府への忠誠心を示すため殊更に尊皇を叫ぶ傾向があるが、桑名人である婿の内に秘めた怨嗟の感情を知って正敏曹長も急に喉が渇き、お茶を飲み干した。
- 2020/01/18(土) 13:12:36|
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森田士長と照子が両親の実家に帰省しながらの新婚旅行を満喫している頃、名寄の官舎では駐屯地の延灯時間になって松山千秋3佐と妻の裕美2曹が酒を飲みながら話し合っていた。松山一家はこの正月休暇には三重県に帰省する予定だった。
「この休暇でウチの両親に自衛隊を退職することを言うんでしょう」「うん、部隊の方に申し出た以上、言わない訳にはいかないな」娘の小春が眠ったのを確認してテーブルに戻ってきた裕美2曹が唐突に直突きの質問をしてきたので千秋3佐は上段受けで答えた。
千秋3佐は年末の部隊長会同を兼ねた1月1日付昇任者を決定する会議で「自分の中隊は優秀な森田曹侯補士を退職させられたのだから陸士の昇任枠を与えられる権利がある」と主張した。すると1科長が学科試験の得点と体力測定の結果を説明し、「公正を期するため高得点者を優先する」と拒否したため、千秋3佐は「終身雇用を約束して採用した曹侯補士を退職に追い込んだ部隊に公正などあるか。都合が良い時だけ綺麗事を吐くな」と激昂したのだ。当然、副連隊長が叱責したが、これにも「不当人事に反論しなかった貴方も同罪だ」と言い放った上で「自分も退職する」と宣言して決然と退室した。
「私も『同じで良いかって』て確認されたから『勿論』と答えたけど、まだ手続きは始まってないのよね」裕美2曹は3連隊の1科長から電話連絡を受けた厚生班長に確認されたのだが、前もって噂を流してはいても誰も本気だとは思っていなかったらしく、まだ半信半疑だった。
幹部の退職は陸上幕僚長の決済なので秘かに話がついているが、陸曹は方面総監なのでかえって説明が難しいのかも知れない。あの滋賀陸将が「曹侯補士の退職への不満が原因」と聞けば激昂することは想像に難くなく、並み大抵の覚悟ではすまないはずだ。尤も、その役は今回の不当人事を阻止しなかった共犯者の担当なので同情は全くしない。
「本部管理中隊長から聞いた噂話では副連隊長や1科長は僕が1月1日付で2佐に昇任するから師団内で移動になって、それで気も鎮まるだろうと言ってるんだそうだ」「2佐になるのが遅れている不満が爆発したと思っているのね。馬鹿じゃあないの」裕美2曹は3連隊首脳の夫に対する人物評価を聞くと罵声を吐き出して缶ビールを飲み干した。
それにしてもこの夫は何時から幹部自衛官の大舞台・階級レースを棄権したのだろうか。1尉で結婚して3佐までは順当だったようだが、それでも他の一般(部外)課程出身者の出身大学と比べればかなり遅れを取ったらしい。最初の中隊長だったモリヤ1尉も階級や給与、賞詞と言った人事的評価には全く関心を示さなかったことは姉から聞いているが、人生観まで影響を受けるほど単純な人間ではないはずだ。何にしても2佐になりながらその地位を捨てて転進する新たな職務に同伴できることを自衛官として光栄としたい。
「ねェ、乾杯して」「へッ、何で」「乾杯」裕美2曹は次の缶ビールを冷蔵庫から持って来ると相変らずチビチビと惨めったらしく舐めている千秋3佐の目の前に突き出した。缶ビールもグラスに注いで飲めば乾杯も決まるが、缶と缶では鈍い音と不可解な弾力だけで感覚は今一つだ。それでも裕美2曹は名張の中村家で退職を告白する台本を考えているらしい夫を試合の時のような眼光を放ち始めた目で見詰めながら350ccの缶ビールを一気飲みした。
桑名の松山家の家屋は母が没した後、売却していた。元々が桑名の特産品である陶器の万古焼と鋳物の卸問屋だったので街道沿いの市街地の中心に位置し、商店にするには最適だっただけに意外に簡単に買い手が見つかったのだが、母が守山で勤務している時に亡くなったのは不幸中の幸いだった。家に残っていた家具や衣類、食器などは骨董商や古着屋に買い取らせ、売れ残った物は千秋3佐らしい割り切り方で全て破棄した。それでも桑名は名張よりも手前なので中部国際空港から経路で素通りする訳にはいかず、墓参りだけすませることにした。
「小春、ここがお父さんの家の墓だ。憶えているか」桑名市の公営墓地にある松山家の墓に参ると千秋3佐は妙に真面目な顔で小春に話しかけた。三重に帰省するのは小春が幼児だった12師団司令部に勤務していた頃以来なので数年ぶりになる。名張に裕美の実家がなければ帰省などはしないのだが、そこは愛妻家=女房孝行なのだ。
「うん、名張のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会い行く前に寄ったよね。でもお墓参りは会津のお寺の方が憶えてるよ」やはり小春にとっては12師団司令部からは比較的近い会津の中村の父の実家の菩提寺の方が記憶に残っているようだ。名張からは裕美2曹の母の菩提寺にも行ったので多少は混乱しているのかも知れない。
「ここの墓は次男だったお父さんのお祖父ちゃんが卸問屋を始める時に独立して建てたんだ。だから2代しか葬ってない。僕たちの代からはどうなるか判らないな」千秋3佐は遠回しにアメリカ行きを教えたが、小学生の小春には難しくて理解できなかったようだ。
- 2020/01/17(金) 13:41:31|
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両親は愛媛に帰省すると父の森田家と母の松原家に分かれて逗留するが、森田士長と照子は2日目は松原家に宿泊した後、父の車を借りて四国旅行に出かけた。やはり新婚旅行なので親同伴では困る。宿泊も目的地のホテルを取り、ようやく新婚連夜を満喫できるようになった。
「結局、お前が行きたいところは小説の舞台ばかりだな。明日は『竜馬がゆく』の高知だろう」「だって北海道じゃあ風景が違うからイメージが湧かないんだもん。今日の『二十四の瞳』の小豆島なんて礼文島や利尻島の荒々しい自然で想像してたから壷井栄が描いてる長閑(のどか)な漁村の雰囲気に違和感があったのよ。実際に行って感激しちゃった」今日はフェリーで小豆島に行ってきた。照子は波止場で二十四の瞳の銅像を見たところから感激を始め、観光案内のワンボックス・カーで小説の舞台になった入り江の漁村から大石久子先生が自転車で通った岬に向かうと冬場なのにの窓を開けようとして運転手に止められた。旭川に比べれば格段に日差しが明るく暖かいのは判るが、照子としては自転車で風を切って走る大石先生の気分を満喫したかったのだろう。森田士長はそんな妻が愛おしかった。
「俺は運動部だったから小説なんて読まなかったけど、お前と知り合って随分と頭が良くなったような気がするよ。お前から話を聞いてると面白そうだなって思って本棚から取り出して読んでしまうんだ。今なら読書家の仲間に入れてもらえるかな」「私だってそんなに運動好きじゃあなかったけど貴方とデートしてるとダイエットを気にしないですむわ。歩く距離が遠足見たいだもん」確かに照子とのデート・コースは東西南北10キロはある旭川の市街地を端から端まで往復することも珍しくない。森田士長にとっては毎日走っている距離の数分の1に過ぎないが照子には小中学校の遠足並みなのだ。言われてみれば最近裸にすると腰や下半身が引き締まってきたような気がする。早くホテルに入って確認したくなってきた。
そんな四国1周(徳島県は高知に向かう途中の祖谷渓と大歩危小歩危だけ)の新婚旅行も高知観光を終えて両親の実家に向かうと車内で照子はFMラジオに聞き入っていた。
「正岡昇の『瀬戸は日暮れて』の時間です」「はじまったァ。ノボさんの番組だ」照子が歓声を上げたので森田士長も耳を傾けた。「正岡昇」と言うDJ名は子規の本名で、「ノボさん」も家族や友人の呼び名だ。「瀬戸は日暮れて」と言う番組名は小柳ルリ子の大ヒット曲から採っているようだが森田士長と照子が生まれる前の曲なので知らない。
「ノボさんは仙台のラジオ・ボランティアで一緒だったんだよ。岐阜の昭和一郎さんの次のベテランだったけど元自衛官の昭和さんと違って妙に軽い語り口で笑いを誘う話術を勉強しました」照子は森田士長が「男友達」と誤解しないように先ず予防線を張った。
「昭和一郎さんはお前が俺との交際について色々相談に乗ってもらった通信の元准尉だったよな。こっちの本業は何なんだ」「それがお坊さんなのよ」「坊主・・・」言われてみればラジオから聞こえてくる声には独特の張りがあり、毎日の読経で整えているような響きがある。
「坊主が1ヶ月間も寺を留守にしても良いのか」森田士長は寺の業界に詳しい訳ではないが、小牧で通っていた私立高校が宗教法人経営だったため校長以下の教師は坊主が多く、葬儀が入ると授業を交代するので意外に多忙なことは知っていた。
「70歳を過ぎたお父さんがまだ住職を譲らないから大丈夫だって言ってたわ」「ウチの墓がある寺の住職も俺が生まれた頃から交代してないもんな。あの爺さんは一体何歳なんだ」森田士長は菩提寺の住職を妖怪か化け物のような口調で語っている。
「90歳にはなってないと思うけど・・・」照子も墓参の後に本尊に拜礼をして住職に紹介された。かなりの高齢だったが背筋が伸び、言葉はハッキリしており、頭脳年齢は70歳代のようだった。そもそも坊主には毛がないので禿や白髪と言う判定基準がない上、人と会う機会が多いから頭が衰えることはあまりない。つまり元来が年齢不詳の職業のようだ。
「そろそろ大晦日ですね。僕は寺の副住職ですから除夜の鐘を突きます。ウチの鐘は小さいから余韻が短いんで30秒に1声ですみます。つまり54分前の11時6分から突き始めて午前0時ジャストに108つ目を突くんです。今年の煩悩を来年に持ち越さないで、然もわずかな隙に煩悩を起こさせないと言う綿密な計算です」正岡昇の佛教解説は門外漢にも中々面白い。四国では街中で白い装束を着た遍路を見かけるので佛教が生活に染み込んでいるのだろう。
「それではここで除夜の鐘の歌をお送ります」除夜の鐘の解説に続いて正岡昇の口調が軽く跳ね上がると聴き覚えがある伴奏が流れ始めた。
「これって・・・」「ゴンゴンゴーン、ゴンゴンゴーン、除夜の鐘、今年の煩悩祓いましょ。ヘイ、ゴンゴンゴーン、ゴンゴンゴーン、除夜の鐘、来年好いことあるように」要するにカラオケで正岡昇が唄ったのだ。このアイディアを照子が北海道に持ち返るかは判らない。
- 2020/01/16(木) 13:12:48|
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1月15日は全国いちご消費拡大協会が「いちご」の語呂合わせで制定した「苺」の日だそうです。
15日で「いちご」にするのなら毎月でも良いはずですが、「良い苺」の1月だそうで、すると11月15日でなければ字足らずになるので「いー苺」と言うことです。実際は12月のクリスマス・ケーキ用で需要が急増したまま正月、成人の日、セント・バレタインデーに向かう生産の最盛期を反映しているようです。逆に11月は需要も生産も下火であり、農産物なので新たに需要を掘り起こすことには無理があるのでしょう。
ちなみに1月5日も語呂合わせで「いちごの日」なのですが、こちらは農産物の苺ではなく「15」の「いちご」で、高校受験を控えた15歳を励ます日だそうです。
野僧は小学校の授業で(理科の植物か社会の農業の話だったかは不明)「苺と西瓜は果樹から収穫しないので果物ではなく野菜だ」と習った憶えがありますが、植物学的にはバラ目バラ科に属するため茎と蔦が成長すればやがては木になるのかも知れません。
考えてみれば青森の道端に生えていて赤く熟した実を摘まんで食べた野苺は高さは低くても木でしたし、種類が近いラズ・ベリーも木から収穫されます。ただし、ブルー・ベリーはツツジ目ツツジ科なので実の形が違うように種類も異なるようです。
「ベリー」と言えば映画「サウンド・オブ・ミュージック」にはトラップ家の子供たちが修道院に逃げ帰った家庭教師のマリアに会いに行ったことを誤魔化すため、「野原でベリー摘みをしていた」と嘘をつき、父のトラップ大佐に「何のベリーか」と訊かれ、「ブルー・ベリー」と答えると「まだブルー・ベリーには早い」と追及されたため「ストロー・ベリーが寒くて青くなっていた」と言い訳する場面がありました。青森の野苺が美味しく、オヤツになるくらい量も採れるのを知ってこの映画を思い出したものです。
英語ではストロー・ベリーと呼ばれる農産物の苺の原種はオランダ産で、江戸時代になってオランダから持ち込まれたものが徐々に広まり、幕末=1800年代には庶民階層にも普及していたようです。
ただし、野苺はそれ以前から日本でも生えており、美味だけに広く食べられていたようで、「日本書紀」には「伊致寐姑(いちびこ)」、平安時代に著された「新撰字鏡」には「一比古(いちひこ)」、同じく「本草和名」や「倭名類聚抄」にも「以知古(いちこ)」の名前が出てきます。
以前、野僧は色々なフルーツ(これなら野菜と果実を一括りにできる)のジャムと果実酒を作るのが趣味で、浜松や防府で勤務していた頃には知り合いの農家から出荷できない苺を大量にもらうと食べ切れない分で作ったものです。当時、野僧は1型糖尿病を発症した直後で糖分の摂取制限を受けていたため、ジャムは家族用にして自分は氷砂糖を入れない果実酒を楽しんでいました。苺酒はフルーツ自体の甘味で砂糖なしでも十分美味しく、色も美しいため、官舎の奥さんの忘年会に提供すると李(すもも)酒やサクランボ酒(基地内の果樹で採った実で作った)、甘夏蜜柑酒と並んで大好評でした。
- 2020/01/15(水) 14:25:09|
- 日記(暦)
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翌日は午後から行動開始になった。森田敬作3佐と謙作士長父子だけでなく母の秀子と新妻の照子も親戚一同に勧められた酒で泥酔し、2組の夫婦は襖を挟んで鼾をかいて熟睡していたのだ。
酒気帯び運転の心配をしながら車で道後温泉に行くと男女に分かれて浴場に入った。照子にとしては「坊ちゃん」のようにタオルを湯で赤く染めたいものだが1回だけでは無理だろう。
「照子さんは謙作が2人目なのね」「はい、前の夫は初めてでした」女湯で並んで身体を洗っていると秀子が唐突に質問してきた。全く予想していなかった質問だったため照子は困惑しながら前を向いたまま答えた。鏡に映っている上半身は豊かな乳房に少し色づいてきた乳頭がついているだけの普通の女の裸身だ。それでも同じ女性には性行為の経験が身体を成熟させていく過程が体験的に判り、秀子の目には照子は年齢の割に未成熟に映ったようだ。
「ウチの息子は若い癖に経験豊富だから習えばいいわ。野生動物並みに体力もあるし」「今、そうしてもらっています」恥じらって答えた照子を見て秀子は慈しむように微笑んだ。一般的に母親は息子の性行為の経験は知りたくないタブーにしていることが多く、部屋を掃除していてエロ本などを見つけると怒り狂うこともある。ところが森田家では謙作が中学生になった時点で森田2尉(当時)が極めて具体的な性教育を始めたため、秀子も息子の成長に伴う自然現象と受け止めるようになっていた。そんな秀子も中学生の時に夜這をかけられた近所のマセ餓鬼・森田少年が初めてで唯一の男性だった。
「貴方たちはこれが新婚旅行なんでしょう。照子さんはそれで良いの」身体を洗って湯船に浸かると秀子は質問を続けた。やはり裸のつき合いでは本音が聴けるらしい。
「私にもラジオの仕事があるから長くは休めないんです。年明けには正月の特別番組の収録があるから家で過ごすこともできません。私の方が申し訳ないくらいです」照子の答えに秀子は安堵したようにうなずいた。照子がDJ雪うさぎとして放送している番組は森田士長がCDに録音して送ってきたので聴いたことがあるが、多くの聴取者を獲得しているのも理解できる素敵な番組だった。照子の容貌であればテレビでも良さそうだがこちらは謙作の専有物になった。
「建物は立派だけど展示物は・・・空っぽに近いな」道後温泉の後は松山城と石垣の下に南隣にある「坂の上の雲」ミュージアムに行った。すると森田3佐は失望したように大きめの独り言を呟いた。確かに3角形の地上4階、地下1階の建物は立派だが、中に陳列されている史料は展示の間隔が広く、長々とした解説ばかりで中身がない。
「多分、正岡子規の史料は正岡子規記念博物館で展示しているから集らなかったんだろう。秋山兄弟は県や市の教育委員会が軍人を毛嫌いして無視してきたから地元には何も残っていないんだよ」父の見解は期待を裏切られた怒気がかなり含まれている。すると質問に答えるため展示場の隅に立っていた学芸員が近づいて声をかけてきた。
「何かご質問があればお答えしますよ」眼鏡をかけた一見して優等生と言う感じの学芸員は森田士長と同世代の男性なので大学を卒業して採用された新人のようだ。
「質問も何もこれだけ中身がないと訊くことを見つけるのは難しいよ」森田3佐は「入場料400円は高い」とは言わないが、国営放送を見て興味を持った人たちに「目玉」などと宣伝して旅行に来させれば失望感を与えることになるのは間違いない。
「確かに現在も史料の収集には鋭意努力しているんですが、子規については子規記念博物館だけでなく各地の文学館や俳句の愛好者が所蔵していますから入手が困難です」「何でも鑑定団の影響だな」森田3佐の答えに学芸員は苦笑してうなずいた。
「兄の秋山好古については晩年を松山で過ごしたので書や遺品はあるはずなんですが、校長を務めた私立北予中学校(現在は県立松山北高校)にも残っていないようで、戦後に破棄された可能性もあります」「卑しくも陸軍大将を呼び捨てにするのは失礼だろう。そう言う態度だから遺品を持っている人も寄贈しようとは思わないんだ」森田3佐が厳しい目をして指摘すると学芸員は顔を強張らせて一歩後退さった。
「松山市内に子規記念博物館があるならこちらは秋山兄弟を中心にして、白川義則大将や歩兵第22連隊の関係史料も展示してはどうだ。歩兵第22連隊は日露戦争から沖縄戦まで犠牲を恐れぬ勇猛果敢な戦いぶりで『伊予の佛連隊(戦死者が多いため)』と呼ばれていたんだ。そろそろ郷土の誇りにしても良いはずだ」「確かに歴史を客観視する見直しは必要ですが、市民の意識は日本軍を肯定できるところまでは変わっていないようです」学芸員は気不味そうな顔で会釈すると展示場の巡回を始めた。
「そう言えば22連隊が沖縄で玉砕した時の吉田勝連隊長は北海道出身だったぞ。お前を真栄里の洞窟壕に連れていったから引き合わせかも知れないな」いきなり話が飛躍してしまった。
- 2020/01/15(水) 14:24:05|
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「坂の上の雲」で観光客の誘致に躍起になっている愛媛県に年末の帰省として旅行してきた家族があった。それも福岡県遠賀郡芦屋町と北海道旭川市の2方向からの現地合流だ。
「おかえり・・・じゃあないな」松山空港には新千歳空港からの直行便があり、両親はそれに合わせて芦屋から車で来ている。したがって出身地とは言え「おかえり」は変だ。
「照子さんは四国は初めてでしょう」「はい、本州は仙台までです。やっぱり暖かいですね」照子の返事を聞いて母の秀子は北海道でも比較的温暖な八雲での生活を思い出した。
「四国が暖かいって言うのは高知のイメージで、四国山脈が高いから意外に冬は冷えるんだよ」「でも蜜柑は温暖な地域で採れる果物だろう」父の森田3佐の説明に息子の森田士長が反論した。海抜1982メートルの石鎚山と1955メートルの剣山を要する四国山地は独立峰で1729メートルの伯耆大山や1510メートルの氷ノ山を最高峰とする対岸の中国山地よりも高く、太平洋からの南風も冷却されてしまうが、愛媛県でも西岸は日照時間が長い上、豊後水道の海風が吹くため温暖なのだ。蜜柑農家の森田家は愛媛でも松山の西隣の伊予市にある。
「へーさしござったのー(久しぶり)」「そうたいぶりじゃ(ご無沙汰してます)」森田士長の両親は近所で育った幼馴染のため菩提寺も同じだ。先ず墓参りに行くと山門の前で母の両親が待っていた。そこで森田士長は親たちの挨拶を照子に同時通訳しなければならなくなった。
「謙作が嫁さんを連れて帰って来たぞな」森田3佐が自分の両親に紹介すると秀子は後ろに控えている森田士長と照子を前に押し出した。母の両親も照子のことは愚痴を含めて詳しく聞いているようで10歳年上であることには特別な感情は見せず普通に挨拶をした。
「やっぱおせらしいね(大人っぽいね)」「らっしもない(とんでもない)。めんどしいよ(はずかしいよ)」これも森田士長が通訳したが次第に自信がなくなってくる。伊予弁は松山藩の松平家は三河武士の家臣団が移り住んだため岡崎の三河弁が目立ち、宇和島付近は伊達家なので東北弁が混じる。ところが読書家の照子は「夏目漱石の坊ちゃんみたい」と喜んでいた。
「嫁さんもやっつけつう(疲れただろう)。やねこい(面倒くさい)墓参りは適当にすませて早く帰るっぺ」「やねこいてて(面倒くさいと言っても)今回はご先祖さまに謙作の結婚の報告をしに帰ったんだ。らっしゃもない(とんでもない)ことを言うな」森田3佐は母の父の言葉に伊予弁で答えた。幼馴染の両親は子供の頃から両家に出入りしていたため会話は照子の実家の兄弟の家族に近い。そんな妹のような幼馴染に手を出した森田3佐は何者なのか。
今夜は森田家に母の松原家を招いて結婚式と披露の宴が開かれる予定なので、照子としては早く帰って父の母と兄の嫁が準備している花嫁としての化粧と衣装の着付けに掛かるべきかも知れないが、森田家の一員になったことを先祖に報告する方が大切だった。
森田家としての2人の結婚式は古式に則り、佛檀の前で行われた。父の兄の孫娘たちが晴れ着姿で酌をする酒で三々九度を行い、続いて焼香をして手を合わせて深く一礼した。広橋家での結婚式は名寄の自衛隊の仲間を呼んで牧場のガーデン・パーティーの予定だが、冬場は無理なので春を待つことになる。愛媛の親戚も北海道へ呼びたいものだが、蜜柑農家も酪農と同様に長期間家を空けることができないので諦めるしかない。
「敬作、お前は少佐だったな」「ううん、3佐だ」酒席になると無沙汰をしていた両親は両家の親族に包囲されてしまった。家ではあまり酒を飲まない母も今日は男女を問わぬ親族から代わる代わる注がれて泥酔気味だ。
「だったら国営放送を見ているだろう」やはり話題は御当地番組「坂の上の雲」だ。実は今回の休暇では道後温泉と松山市内観光に行ったついでに松山城の傍にできた坂の上の雲ミュージアムも見学する予定だった。照子にとって道後温泉は「坊ちゃん」の舞台でもある。
「原作も読んでいるが、あれは司馬さんには珍しく設定を間違えたな」仲人なしの結婚式のため2人だけで上座に取り残されている森田士長と照子にも森田3佐の意外な見解は聞こえてきた。森田士長が即応予備自衛官に転換して広橋牧場に住んでから照子は書店が月曜休みなので日曜日の夜には帰宅しており、毎回録画した番組を2人の部屋で繰り返し見ていたので、陸戦隊を育成している森田3佐の解説には興味があった。
「松山出身で3人まとめるなら秋山兄弟と白川義則大将だよ。子規では秋山兄弟と分野が違い過ぎて話の展開に無理があったじゃあないか」「白川大将かァ・・・」森田3佐の見解に質問をした親族たちは顔を見合わせた。白川大将については名前くらいしか知らないようだ。確かに白川義則大将も松山藩士出身の軍人なのでは俳人の子規よりは活躍する舞台は共通する。
「尤も、司馬さんは昭和の日本軍が嫌いだったから、上海事変の指揮を執った白川大将は描きたくなかったのかも知れないな」困惑している親族の顔を見て森田3佐は自分で結論を出した。
- 2020/01/14(火) 15:09:27|
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最後まで腹立たしい2011年の締め括りに12月25日の「坂の上の雲」の最終話を見終えると質疑応答の電話が意外なところから入った。それは正に「敵艦見ユ」の現場海域だ。
「お父さん、坂の上の雲は見てたんでしょう」先ず淳之介は「当たり前田のクラッカー」な確認をした。逆に淳之介が見ていれば感心してやりたいところだが、元々が歴史好きなのだ。
「勿論、見ていたよ。3年越しの長編だったけど今回で終わったな」今回は日本海海戦と日露戦争後の秋山兄弟の人生だった。原作通りとは言え戦後は不要だったように思う。
「だったら質問があるんだけど」「海軍は専門じゃあないぞ。高校生の時にモリヤ家で船乗りは港港に女を囲う好き者の仕事だって禁止されたから海上自衛官にはなれなかったんだ」これは事実だが、高校では海上自衛隊の航空学生と一般海曹侯補学生を受験しており、合格すれば就職家出するつもりだった(どちらも2次試験で落ちたが)。
「ひでェなァ。俺はあかり一筋で港に女なんか囲っていないよ」「それは判ってる。お前が行く港は離島の波止場だけだろう。女は干上がった婆ちゃんだけじゃあないか」淳之介も離島便に乗る観光客の若い女性から逆ナンパされることがあるそうなので、本当は貞操観念を誉めるべきなのだが、少し茶化して落ちにした。
「そこで質問だけど。秋山作戦参謀は本当にバルチック艦隊が対馬海峡と津軽海峡、宗谷海峡のどこから来るかに迷っていたの」「お主は船乗りとしてどう思う」ここで取り敢えず淳之介の見解を確認してみた。私も中学生の時に映画「日本海大海戦」で三船敏郎が演じていた東郷平八郎大将が思い悩む場面を見て以来、興味を持って研究してきたが、それはあくまでも書物で調べた机上の知識に過ぎず、本物の海の男の見解を聞きたかった。
「俺は船乗りだから長い航海を終えて港に入るなら最短距離を通ると思うよ。津軽海峡や宗谷海峡では通り過ぎて戻る形になるじゃない。海路図では始めから検討外だよ。若し、迷うとすれば対馬の北と南のどちらを通るかだね」前回の「坂の上の雲」でも館ひろしが演じる島村速雄前参謀長が「敵が多少でも航海と言うものを知っていれば必ず対馬海峡を通る。それが道理だ」と言っていたが淳之介も同じ意見のようだ。
「ワシは歴史の視点で研究したんだよ。当時は日英同盟を結んでいたからバルチック艦隊がシンガポールで購入した石炭の質が悪くて長期間の航海は不可能になったと言う情報が入っていたはずだ。だから船乗りの感覚とは別に最短距離の対馬海峡を選択するしかなかったんだ」「質が悪い燃料じゃあ出港も止めたいところだね。バルチック艦隊が可哀想になるよ」佳織には悪いが、やはり海戦の話は船乗り相手に限る。
「それにシンガポールや香港のイギリス公館からバルチック艦隊の動向の情報は入っていたはずだ。おまけに陸海軍の諜報員はフィリピンでも活動していたし、台湾は日本領だった。『遅い、遅い』と焦るはずはないな」「台湾海峡は狭いからバルチック艦隊が通れば見逃すはずがないよ」これでは佳織とも話している「坂の上の雲」の史実の誤りの指摘になってしまうが、基本的に司馬遼太郎先生を尊敬している私としては申し訳なる。そこで少し話題を広げた。
「『坂の上の雲』は産経新聞で昭和43年から47年に連載されたんだ。ところがワシは中学生の時にテレビで見た『日本海大海戦』と言う映画でも同じような場面があった。あの映画は昭和44年の製作だから『坂の上の雲』の請け売りとは考えにくい。つまり海軍内の苦労話としてそんな逸話が作られたんじゃあないかな」「少し苦労もしないと大勝利が盛り上がらないからね」淳之介の反応は随分大人になったようで、親父としては感心した。
「ところで秋山真之は戦争で殺した人を供養するため坊主になりたいって言ってたけど、始めから坊主のお父さんはアフリカで殺した人たちのことをどう思っているの」この質問も大人の視点だが、相手の気持ちを思いやる分別はまだ子供だ。
「供養だけは欠かさないね。時々、イスラムのモスクにも通っているよ」「流石だね」折角、「坂の上の雲」で盛り上がっていた父子の会話が少し重くなったので強引に元に戻した。
「映画の『日本海大海戦』ではバルチック艦隊を発見した宮古島の漁師がサバニで石垣島まで知らせる場面があったが、『坂の上の雲』では信濃丸の『敵艦見ユ』だけだったな」「その話は水産高校の時、航海の講師の先生が海ンチュウの誇りだって教えてくれたよ。宮古島港にサバニの碑があるんでしょう。お義母さんがお父さんと見たって言ってた」これは梢と2人で離島巡りをしていた頃のホロ苦い思い出話だ。今年も後段休暇の私は大晦日が土曜日、正月1日は日曜日のため年末年始は官舎で過ごすことになり、1人で食べるおせち料理は沖縄式にオードブルにすることにした。そのことを梢にメールで知らせると「作りに行く」と返信してきたが、冬の観光シーズン中の旅行社も後段休暇のようなものなので真面目な申し出ではない。
- 2020/01/13(月) 13:18:13|
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