昭和29(1954)年の明日3月1日にビキニ環礁で行われたアメリカの水素爆弾実験・キャッスル作戦(=全6回の初回)によって近海で操業していた多くの日本の遠洋漁船が放射能の灰を浴び、第5福竜丸の無線長が半年後に亡くなりました。
アメリカは1952年にエニウェトク環礁で行ったアイビー作戦で水素爆弾の爆発には成功したものの超低温で液化した重水素と三重水素を使用する湿式水爆だったため本体が過重になって航空機には搭載できず実戦の役には立ちませんでした。ところが1953年にソ連が実際は原子爆弾の威力を強化しただけの新型核爆弾の実験を「小型化に成功した水素爆弾」と発表したためアメリカは焦り、十分な基礎研究を放棄して無理に小型化した乾式水素爆弾の爆発実験がキャッスル作戦だったのです。このため爆発力の推定を誤り、危険海域も実際に影響を受けた範囲よりもかなり狭く設定しており、数百隻の日本の遠洋漁船と2万人以上の乗員が被曝することになりました。
この日、第5福竜丸ほかの遠洋漁船はアメリカが広報した危険海域よりも外のマーシャル群島近海で操業していましたが、閃光を目撃した後、上空を黒煙が覆い始めたため危険を察知して退避しようとしたのですが下ろしていた漁網の巻き取りに手間取り、4から5時間にわたって降灰を浴び続けることになりました。
第5福竜丸は3月14日に母港である静岡県の焼津漁港に戻りましたが、その間に船体や人体の洗浄を行わず付着した放射能を浴び続けていたため、乗員23名は上陸時には放射線性の火傷や頭痛、嘔吐、目の痛み、歯茎からの出血、脱毛などの急性放射線障害の症状を呈していました。当然の処置として静岡大学病院に入院して検査と経過観察を受けることになりましたが皮膚に受けた傷害は癌化することなく数カ月で治癒し、ヒロシマや長崎の原爆被曝者に見られる造血器の障害(白血病など)も8週目から快復に向かい8年で正常に戻りました。生殖機能は数カ月で消失しましたが数年で回復しています。染色体異常だけは現在も確認されていますが健康に影響を与えるほど深刻なものではないようです。
そんな中で無線長だけは容態が重篤化して9月23日に亡くなったのですが死因はC型肝炎で、日本の医師は「放射能症」を原因としましたが他の被曝者が肝炎を発症した実例はなく第5福竜丸の乗組員だけが発症したのは入院中に輸血された売血がC型肝炎ウィルスに汚染されていた可能性の方が高いようです。
ところがこの死をアメリカの占領下には形(なり)を潜めていた反米親ソ親中団体が利用して「アメリカによるヒロシマ、長崎に続く3度目の核兵器による日本人殺害」として反核平和運動を表看板にした反アメリカの政治闘争を大々的に開始したのです。この年に公開された怪獣映画・ゴジラもビキニ環礁での水爆実験で古代の生物が奇形・復活したと言う設定でした。中でも1967年に当選した美濃部亮吉都知事は文部省が買い上げ、東京水産大学校の練習船になっていた第5福竜丸が老朽化によって破棄されるとこれを展示する展示館を建設し、ヒロシマの原爆ドーム、長崎の平和祈念像と並ぶ反核兵器運動の拠点にしようとしました。今もその活動を継承している市民団体があります。
- 2020/02/29(土) 13:35:54|
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私の転出は引き継ぎが難しい。後任は若手を育成するため方面隊を飛び越して師団の法務官室の地方の国立大学法学部を卒業している1尉のWACが抜擢された。考えてみれば私の前任者も部外出身の1尉で、想定外に司法試験合格者が出現したため急ごしらえの配置先として2佐に特別昇任した私が着任したのだ。それでも司法試験には失敗したそうなので拘置所で家庭教師を勤めてくれた牧野弁護士の指導力が抜群だったことを改めて実感した。
「引き継ぐのは事務室長としての業務だけで私が開設した法律相談室は継続できないんだね」「はい、申し訳ありませんが閉鎖していって下さい」9月も半ばを過ぎて、私の陸上幕僚監部勤務も残り数日になったところに引き継ぎに来たWACの1尉は、どう見ても私よりも賢そうだが妙に謙虚に応答する。何となく前川原で出会った頃の伊藤佳織候補生を思い出させるが、30歳過ぎでもまだ独身だそうだ。
「事務室長としての業務は各方面隊から上がってくる陸上自衛隊に関連する裁判の公判の内容をまとめて、裁判に要する経費や損害賠償、損失補填、隊員の災害補填が発生した場合の予算請求などが中心だ。その他には陸上自衛隊に関する法令の改正があった時の文書審査、国際法を含む陸上自衛隊に関係する法令の情報収集と研究もお忘れなく。とは言っても君が師団でやっている仕事と大差はないよ」机の上に業務文書綴りのバインダーを並べてパソコンでデータの画像で説明している私に曹長と1曹は呆れたように笑っているが、二村事務官は私が担当している仕事の内容が意外だったようで眼鏡をかけ直してこちらを見た。二村事務官の目には裁判の合間に曹長や1曹と雑談しながら手早く片づけている適当な仕事に写っていたようだ。二村事務官は5時のラッパと同時に退庁するから単身生活の私が残業や休日出勤で時間不足を埋め合わせていることは知らない。ただし、二村事務官は5時に退庁しても家路を急いでいた訳ではなかったことも判っている。
「おっと昼のニュースの時間だ」壁の時計が11時30分になったところで1曹が机の上に置いているリモコンでテレビを点けた。するとWACの1尉は困惑したような視線を送った。通常の部隊ではテレビを見るのは昼休みになってからだから12時の国営放送になる。
「今までこの事務室は私の弁護士事務所にしていたから社会常識を仕入れるために民放のニュースも見てきたが、事務室長が代われば自衛隊の常識に復してくれ」仕事を中断してニュースに見入りだした曹長と1曹に声をかけると2人は不満と納得で半々に塗り分けた顔を向けた。それを二村事務官が快哉そうな顔で嘲笑したのでこちらにも指導を加えた。
「何よりも二村事務官は自衛隊の常識が全く判っていないから初心者として曹長の躾け指導を受けるて新事務所長に迷惑を掛けないようにしろ」「私は自衛隊の常識が判っていませんか」「2級(防衛省事務官の等級=下から2番目)の一般職の分際で2等陸佐の上官の指導に公然と反抗すること自体が自衛隊の常識に反しているんだ」私は自衛隊の階級が必ずしも人間性の優劣・上下・高低・貴賎を表しているとは思っていないため、上官と部下とは言わず同僚と呼んでいる。しかし、この女性だけは「同格」とは認めたくない。
「それってパワハラじゃあないですか」「またA日新聞の・・・に会って告発するかね」ここまで責め立てるのは本意ではないが後任者に服務指導上の問題点を理解させるためには必要な演出だ。二村事務官の男性遍歴についてはその後に発覚した手口を含めて口頭で説明するが、防衛庁に入ってからもバブル期の東京を女子学生として満喫するのと同時に演練・習熟した男性の籠絡手法を独自に発展させて被害者を増産していたらしい。
「モリヤ2佐はお坊さんだから佛教的慈悲心で寛大に接していたんですね。私は普通の幹部自衛官ですから厳しいですよ。ましてや法務幹部ですから法令規則の範を示すためにも厳しく自分を律していなければなりません」自衛官である曹長と1曹には常識的な方針転換だが、入庁以来郵政係として単独で勤務してきた二村事務官とっては初体験の自衛隊生活かも知れない。離婚の方は慰謝料や養育費を支払うことになるとの私の説明を受けて子供を使った泣き落としで許されたらしいが、今度は職場の空気が重圧になるのだろう。おまけの上司がWACではパワハラは成立してもセクハラにはならない。
「モリヤ2佐の奥さまは私たち後輩の希望の星ですが、今回の海外移動についてはどう言っておられるんですか」売店の食堂で会食すると意外に遠慮のない質問をしてきた。やはりこれからの部下の前では厳正な態度を演じていたようだ。
「今まではモリヤ1佐の海外勤務が多かったから特別な感想はないよ」「私もモリヤ2佐みたいな男性(ひと)とだったら結婚したいな」結局、私の魅力は寛大と放任なのだ。それでモリヤ佳織1佐と言う傑作は育て上げたが、私自身はそろそろ疲れ果てつつある。

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- 2020/02/29(土) 13:34:33|
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戊辰戦争は勝海舟さんと西郷南洲さんの会見から9日後、江戸城無血開城の2週間前だった慶応4(1868)年の明後日2月30日(当然太陰暦)の京都でイギリスのハリー・スミス・パークス公使が尊皇攘夷の過激派浪士に襲撃される事件が発生しました。
この日、パークス公使は天皇との会見のため通訳のアーネスト・サトウさんや在北京のアルジャーノン・フリーマン=ミッドフォード公使と共に宿舎の知恩院を出発し、行列の先頭を接待役の土佐藩士・後藤象二郎さんとその子分だった脱藩島津藩士・中井弘蔵くんが馬で進み、3人の周囲はイギリス陸軍の派遣隊が固め、さらに警護として肥後藩士300人が同行して御所に向かっていたのです。一行は知恩院の山門側の参道である新橋通りを西へ進み、突き当りを右折して大和大路通りを北に向かい、三条大橋で鴨川を渡って御所に入る予定だったのですが、行列の後尾の騎馬隊が大和大路通りに曲がった時に見物人に紛れていた京都出身の朱雀操くんと奈良出身の三枝翁くんが抜刀して襲いかかりました。
朱雀くんは列に沿ってイギリス陸軍の護衛たちを斬りまくりながら走り抜け、パークス公使たちに迫りましたが、急を知った中井くんが馬で駆けつけて下馬して刃を斬り結びました。ところが袴に足を取られて仰向けに転倒しましたが朱雀くんが振り下ろした刀が地面で止まり、逆に中井くんが下から胸を突き刺したところに遅れて駆けつけた後藤さんが背後から肩を斬りつけ、起き上った中井くんがとどめを刺して首を討ったのです。朱雀くんの犯行によってイギリス陸軍の兵士11人が負傷しました。
その隙に三枝くんはパークス公使に向かって駆け寄り、先ずはイギリス陸軍の兵士1人を斬りましたが、他の兵士に銃で足をすくわれて転倒し、そこを銃剣で刺突されて重傷を負い、民家に逃げ込んだところで銃弾を顎に受けて捕縛されたのです。この時、300人の肥後藩士は傍観していただけで全く動かなかったと言われています。
結局、三枝くんも3日後に粟田口の刑場で斬首され、朱雀くんの首と並べて3日3晩晒されましたが、イギリス人が絡んだ事件だけに処刑直前の三枝くんと朱雀くんの生首の鮮明な写真が残っています。そして2人を手引きしたことが発覚した土佐郷士・中岡慎太郎さん(=後藤さんとは不仲だった)の陸援隊の残党3人も官職を解かれた上で隠岐の島に流罪になりました。
大政奉還後も薩長土肥と公家が倒幕の口実に使っていた尊皇攘夷を信じ込んでいる狂人は脱藩浪士に限らず各藩の藩士にも存在したようで、島津藩の生麦事件に倣ったように備前藩主の行列の前を横切ったフランス海軍の水兵を藩士が斬った神戸事件や治安維持に当たっていた土佐藩士が上陸して騒いでいたフランス海軍の軍艦の乗員たちと銃撃戦を行った堺事件などが続発していて、国内向けには王政復古の大号令によって天皇親政が成立しても、諸外国から徳川幕府に代わる新政府として認められるかは微妙な状態だったのです。
このため朱雀くんと三枝くんはそれまでの外国人殺傷事件で処刑された尊皇攘夷の狂人たちが明治政府によって「志士」として靖国に祀られたのに対して「罪人」として除外されていて靖国の宗教性の欺瞞を証明しています。
- 2020/02/28(金) 14:07:33|
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「お父さん、本土では政府と東京都で尖閣諸島を奪い合ってるみたいだけど、何がどうなってるの」9月8日に野畑政権が尖閣諸島の国有化を発表して数日後、淳之介から電話が入った。淳之介の職場は八重山の海だから尖閣諸島問題は身近な話題なのだろう。
「沖縄のマスコミはどう報じているんだ」先ずは尖閣諸島問題の当事者であるはずの沖縄県の反応を確認したい。この件は梢との電話で話し合うことがあるが、非公式な場所や会合で沖縄県の首脳陣は「魚釣島(尖閣諸島の中国の呼称)だけでなく琉球が中国に併合されれば結果は同じことだ」と語っているらしい。別のルートからは不法上陸して警視庁が拘束した中国人漁民の身柄引き渡しに沖縄県警が難色を示したとも聞いている。
「ウチは八重山日報を取っているから、『中国が明時代には中国領だったと主張しているのは間違っている』って長崎の大学の先生が解説したのを読んでるけど、テレビを見ていると民政党は普天間の辺野古移設で裏切っただけじゃあなくて、元々は中国の領土だった尖閣諸島を返還して歴史を正しい姿に修復したいと言う沖縄県民の願いまで邪魔してるって批判してるんだ」沖縄の地元テレビ局にも政治的中立を義務づけた放送法は適用されるはずだが、私が住んでいた頃以上に共産党中国への偏向を公然化しているようだ。ただし、尖閣問題を共産党中国の立場で解説することが政治的中立に背いているとは言い切れないのも確かだ。
「要するに東京都知事は民政党政権では遠からず尖閣諸島を奪われてしまうと危機感を抱いているんだ。だから所有者から購入して都の所有地にすれば警備に警視庁機動隊を派遣することができるようになると言うのが最近の主張だな。それにワシが納めている都税を使われるんだが説明はないぞ」「それも八重山日報に都知事のインタビューが載ってたよ」私のぼやきに淳之介が想定外の反撃をしてきた。八重山日報は私の沖縄時代の知人である恵隆之介元2等海尉が編集に携わっていて、地元紙の琉球新報がドキュンメンタリ―作家の上原正稔に沖縄戦を主題とする連載を依頼しながら第2話の慶良間諸島の島民集団自決で「パンドラの箱を開ける時」と題する予告文を寄稿したところ掲載を拒否され、再三の抗議にも関わらず拒否を続け、結局は第2話を跳ばして連載を再開しながら途中で連載を打ち切った問題でも、沖縄県内の新聞とテレビが全く取り上げなかった中、八重山日報だけは「言論弾圧」として琉球新報を提訴した上原の寄稿文を掲載している。そうと判れば佳織の「なかじんのそこまで行って委員会」の録画DVDと同じように淳之介には「八重山日報」を資源ゴミ代わりに送ってもらいたいが、オランダ宛てでは送料がとんでもないことになる。
「そこまで判っているなら話は簡単だ。野畑政権としては反中過激派の都知事に介入させないために国有地にしたと言うのが真相だろう。つまり民政党らしく中国に媚を売ったんだよ」これは本土の新聞やテレビで政治記者や解説者が説明している見解の請け売りだが、私はむしろ外務省が共産党中国にどのような説明を弄するかを注視している。政権交代後、民政党は事業仕分けなる三文政治芝居で厚生労働省や国土交通省の事業を自民党の政治屋と官僚と業者の癒着による利権構造の象徴と徹底的に否定した。それをマスコミが勧善懲悪劇のように報じると国民が拍手喝采したため2幕目の悪役にされたのが外務省だった。海外の大使館が主催する会食で王族や政府要人に接待するために提供する高級な料理や酒類を贅沢と頭ごなしに糾弾した上、豪華な宿泊室を外遊する自民党の政治屋用だと断定した。こうして政府要人だけでなく王族にまで強固な人脈を構築し、濃厚な信頼関係を維持しながら紛争地帯で外交官を犠牲に供じて情報収集してきた外交努力も単なる社交と揶揄・誹謗・冒涜されたのだから誇り高き外務官僚たちが民政党政権に奉仕する気になるとは思えない。
「そう言えばワシは10月1日付でオランダに転属になったよ。9月21日から移動日だから荷物の発送を終わらせて今手配している成田からの便で赴任するつもりだ。お前とあかりと恵祥の顔を見てから行きたいが、そんな余裕はないから元気でやってくれ」「お義母さんにもだろう」私の決別の辞を淳之介は茶化してきた。確かに梢に会ってから行きたいが、佳織も高校生の採用試験直前で帰省できず会わずに出発する以上、梢だけに会っては申し訳が立たない。それにしても淳之介には自衛官の旅立ちは出征であり、戦地に赴く覚悟を伴うことを教えてきたはずだ。その点では少し落胆してしまう。するとでき過ぎた息子は想定外の提案をした。
「それじゃあ俺とお義母さんは夏の観光シーズンが終わるから、あかりと恵祥と4人で会いに行くよ。本当はアフリカに出征するお父さんを見送らなかったことを後悔してるんだ」「馬鹿・・・」落胆した気分が床で跳ね返って感激になった。この口調では旅客機から宿伯するホテルまで手配は完了しているのだろう。オランダの借家も家具付きなので引っ越しは中身を送るだけだ。遠路から出征兵士を送りに来てくれる4人のためにも荷造りを頑張らなければいけない。
- 2020/02/28(金) 14:06:21|
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2月25日にエジプトで30年にわたる長期政権を維持し、中東和平に多大な貢献を果たしたムハンマド・ハスニー・ムバーラク大統領が逝去したそうです。91歳でした。
ムバーラク大統領は1928年にナイル川が地中海に注ぐエジプト北部のデルタ地帯内のミヌ―フィーヤ県法務局で働く小規模な地主の息子として生まれました。1948年に欧米が強引にエルサレム付近に住むパレスチナ人を排除してユダヤ人の国家・イスラエルを建国したことに端を発する第1次中東戦争が勃発するとアラブ民族には近代戦を遂行する能力がないことが明らかになり、人材育成が急務なったことで中産階級にまで身分の枠を大幅に緩和して士官学校の学生を募集したためムバーラク少年は空軍を志願したのです(初代・ガマール・ガマドゥル・ナセール大統領や2代・アンワル・アッ=サーダード大統領は第2次世界大戦前の採用)。
1949年に士官学校を優等な成績で卒業するとパイロットになり、シナイ半島の基地や士官学校の教官として勤務しますが、1956年の第2次中東戦争後は1959年にツボレフTU-16爆撃機の飛行隊長になってから1961年までソ連で各種の軍用機の操縦訓練を受け、帰国後は飛行旅団長(=航空自衛隊の航空団司令)に就任しました。
1962年にサウジアラビアの支援を受ける旧王党派とソ連・エジプトの共和派による北イエメン内戦が始まると派遣されて参戦しますが、その途中の1964年から1965年までソ連のフルンゼ軍事大学に留学して上級士官としての教育を受けました。
しかし、1967年の第3次中東戦争ではアラブ側のソ連製の軍用機はイスラエルが供与されていたアメリカの軍用機に完膚なきまで叩きのめされ、エジプト空軍も壊滅状態に陥ったのです。これを受けてムバーラク将軍は空軍大学校長に任命されてパイロットの増員と教育期間の半減と言う課題に取り組むことになり、その成果をナセール大統領に認められたことで1969年に空軍大将に昇任して空軍参謀長に任命され、アッ=サーダート政権に移行した1972年には空軍司令官兼国防次官に就任しました。
そして1973年の第4次中東戦争ではイスラエルへの奇襲に成功して緒戦を制する軍功を上げたことで国民的英雄となり、空軍元帥になって1975年からは副大統領に任命されました。そんな1981年10月6日にアッ=サーダート大統領が暗殺されたことで憲法の規定に従って10月14日に大統領に就任して以降、2011年2月11日に辞任するまで30年弱の長期政権を維持しただけでなく、アッ=サーダート政権のイスラエルとの協調路線の継承とそれと引き換えに悪化していたアラブ圏との関係修復と言う両面の外交成果を上げ、中東和平に多大の貢献を果たしたのですが、東西冷戦の終結によって利用価値がなくなると長期政権を独裁と断定する欧米によって危険視されるようになり、その扇動で発生した反乱によって辞任すると暴動の鎮圧で死者が発生したことを殺人罪に問われ、危なくイラクのサッダム・フセイン大統領と同じ死に方をするところでした。しかし、エジプトの司法は冷静かつ合法的に審理を進め、殺人については2017年3月2日に無罪判決を下しています(公金横領は有罪)。敬意を込めて冥福を祈ります「アッラー」。
- 2020/02/27(木) 12:40:23|
- 追悼・告別・永訣文
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結局、臨時法律相談室を開設して二村由美事務官から話を聞くことになった。一般の弁護士であれは相談を受けるだけでも料金を取るのだが、私は副業=副収入を禁止されている自衛官なので無料だ。と言っても私の自衛隊内の法律相談室は書簡や電話、メールで気軽に利用できる。
「A日新聞に連絡を取るようになった切っ掛けは昨年末にソウルの日本大使館前に(いわゆる)従軍慰安婦少女像が設置されたニュースを見ている時の我々の雑談だったね」「はい、事務長が『A日新聞が嘘をついている』って言ってたから電話して『本当に嘘をついていたのか』って訊いたんです」この辺りの経緯は法務官室での事情聴取で聞いている。その後は記者が自衛隊に関する問題を記事にする前に電話をかけてきて陸上幕僚監部内の空気を伝えていたようだ。二村事務官は他の部局の女性事務官との雑談で噂レベルの情報には精通しているから記者としては記事のニュアンスを決める上で参考にはなったはずだ。
「会うようになったのは」「二川大臣の評判を訊かれた頃から直接会って質問に答えるようになったんです。次が田中大臣、そのうちホテルのレストランでの食事に誘われ、ワインに酔った振りをして・・・」主演女優がこの女性でなければ納得できる展開だ。
「誘惑されたんだね」「いいえ、だって夫と違って話が面白くて、服のセンスも格好良かったもん」相談者の神妙な口調が毎度の雑談になった。こうなるとA新聞の記者が取材=情報の入手を目的に誘惑したとは言えなくなる。私は事情聴取とは別に前提となる疑問を確認した。
「ところでご主人とはどのような経緯で結婚したんだね」「ディスコで知り合いました。チーク・タイムでキスをしてホテルに行って、つき合うようになったらできちゃったんです」想像通りの馴れ初めだった。バブル期の女性は素顔が判らないほど派手に化粧して着飾っていたから薄暗いホールにミラー・ボールの眩い照明で幻惑されれば美的感覚が狂っても不思議はない。
「それじゃあ愛情は感じてなかったのか」「愛情や優しさなんて男が女を口説く時に使う道具じゃあないですか。結婚なんて男と女が夫と妻って言う仕事をやっていれば好いんですよ」私は玉城美恵子よりも妻として素養がない女性が存在することに驚嘆した。美恵子が香港で理容店を始めたことは淳之介から聞いているが、少なくとも理容師としては徹底したプロだった。こうなると法律論の前に人間としての結論が出た。
「やはり離婚するしかないんでしょう。貴女との結婚生活ではご主人の方も不貞行為があったかも知れません。離婚訴訟になった時には興信所に依頼して相手の不貞行為が証明されれば慰謝料の請求権が相殺される可能性もあります。しかし、現時点では不貞行為を働いたのは貴女ですから給与で支払える範囲での慰謝料に応じて離婚するのがお互いのためです」「事務長がいなくなったら弁護士に代金を払わなければいけなくなるから裁判にはしません」やはり始めからそれを前提にしていたようだ。それにしても敗訴確実の離婚訴訟でも同じ職場では無下に断ることはできず泣く泣く請け負わなければならないところだった。今のところ私の弁護士としての戦歴はイージス護衛艦と漁船の衝突事故の1審が勝訴だったので勝率100パーセントだ。こうして考えてみると弁護士が刑事裁判の国選弁護士以外で敗れると判っている裁判を請け負うには特殊な自己暗示があるような気がしてくる。多くは「弱者を救えるのは自分だけ」と言う使命感=自己満足だが、下手すれば苛められて悦ぶ性癖なのかも知れない。
私も美恵子の不倫を経験しているが、相手の矢田に対して憎悪も嫉妬も感じなかった。強いて言えば専有物である妻を部下に略奪された怒りだけだった。むしろ梢の結婚が事実上の強姦による脅迫だったことの方が激烈な怒りを覚え、今でもその相手を見つけ出して殺したいほどの憎悪を抱いている。佳織が中学生の時、純潔を奪われた教師については私自身がその傷を癒してきたと自負しているので触れないでいられる。二村事務官の夫は感情を見せずに離婚を切り出したらしいので愛情以前に愛想が尽きているようだ。1人息子は夫が親から継承している外車専門のモータースの跡取りとして引き取られるのだろう。二村事務官に母性本能があるとも思えないのでその点は問題なさそうだが、夫側には養育費を請求する権利が発生する。
「大体、離婚しても相手の記者が結婚してくれる訳じゃあないんだろう」慰謝料と養育費を支払う責任と常識的な金額を説明すると二村事務官は急激に元気を失くした。どうやらテレビの不倫ドラマに出演したような気分に浮かれ、民法の基本的な知識を持たないまま離婚すれば慰謝料と自由を手にしてバブルの頃に満喫していた遊びを再開できると思っていたようだ。
沖縄返還の日米密約を暴露した西山太吉記者(山口県出身)は秘密文書を入手するために誘惑した蓮見喜代子事務官が離婚しても自分は妻と別れることなく使い捨てた。この2人の場合、そのような政治的目的もなかったので記者の方が自己犠牲を払う道義的責任はない。むしろ取材源の強い要望に応えなければならなかった記者の立場を擁護してやりたいくらいだ。

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- 2020/02/27(木) 12:39:08|
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内局を通した業務は遅い。人事教育部の担当者は私のオランダ行きは法務省と外務省から再三打診を受けきたのを断り続けていたと説明していた。それが「話は決まった」と言いながらそこから先は遅々として進まないのだ。
「やはり前例がない仕事だから内局も暗中模索の状態なんだろう」月次の陸上自衛隊に関連する司法の実績報告書の確認しながら法務官は同情するように声をかけてきた。私としてはこちらから希望した訳ではなく、地球を半周する流罪のように言い渡された移動人事だが、それでもこの新たな職務に大いに関心を持ち、期待も高まってきている。
「人事教育部としては君の後任の人選もあるから時期だけでも明確にしてくれと申し入れているようだが、内局は他省庁との調整になるから相手次第と言う答えらしい」報告書に目を通した法務官はバインダーを手渡しながら渋い顔で補足した。内局では防衛庁を警察庁の下部組織とするために暗躍した海原治が敷いた制服組=自衛官を屈従させる組織的慣習が前例踏襲として残っていて、2佐以下の自衛官に関する業務は若手に担当させ、陸海空幕僚監部からの問い合わせにも無礼千万な態度で答えさせていると聞いている。海原の息が掛かった官僚たちは全て退場したと言われているが、前例踏襲として後遺症が残っているようだ。
「時間があるようなら小平の業務学校で研修を受けておきたいのですが」私は定年延長のために警務幹部の付与を希望したが、本音では2008年の改編後は1佐職になっている中央警務隊長(改編までは警務隊本部付警務隊長で2佐と1佐が就いていた)を定年前の最終職務にしたいと考えている。自衛隊では日本国憲法第76条の2項で特別裁判所の設置が否定されているため軍事裁判は開廷できず、諸外国の軍隊のように法務幹部が判事や検事として機能することはない。ならば部隊の長を花道に自衛隊生活を終えたいと言うささやかな願いなのだ。
「いや、国連の会計年度は1月1日更新だから、それまでに戦力化できるように発令するはずだ。その期間を3カ月と見れば9月中には移動になるんじゃあないか」やはり法務官の視野は私よりも高い位置から開けているようだ。私の頭の中では日本の4月1日と志織が暮らしているアメリカの9月1日以外に会計年度は認識していないが、圧倒的多数の国ではカレンダーと一緒に1月1日で行政の年度が更新される。日本以外で4月1日はイギリスとインドやカナダなどの旧大英連邦とデンマークなど、日本人が「海外では」と思っている9月1日はアメリカとタイ、ミャンマー、ハイチくらいの少数派なのだ。
「それでは東京高裁の2審について統幕の首席法務官と民間の弁護士で今後の戦術を話し合っておいた方が良いですね」「統幕としては交代を依頼しなければならんな。弁護料は高いから予算が確保できるのか不安だよ」法務官の渋い顔が苦くなったところで私は踵を鳴らして姿勢を正すと1歩退がり、10度の敬礼、回れ右、前へ進めで退室した。
「事務長、相談したいことがあるんですか」私の法務省への出向と国際刑事裁判所の検事就任が10月1日付で確定し、9月21日の土曜日からの移動期間が決まった頃、二村事務官が深刻な顔で声をかけてきた。ただし、この女性は元々が「美人」と言えば虚偽となる顔立ちで表情は常に陰湿なのでいつも通りではある。
「何だね。私の勤務期間は2週間を切っているんだ。時間がかかる仕事は請け負えないよ」私の拒絶にも動じることなく二村事務官は席を立って私の前に移動してきた。運悪く曹長と1曹は要務でしばらく帰って来ない。
「実は夫から離婚すると言われていまして、慰謝料はいくら取れるでしょうか」あまりにも唐突過ぎる質問に私は呆れてしまった。最近は法律相談専門のバラエティー番組やワイドショーの法律相談コーナーが流行っているので離婚に関する予備知識は一般の主婦にもかなり周知されているはずだ。離婚に伴う慰謝料は婚姻関係が破綻する原因を作った側が苦痛を被った側に支払う賠償金であり、離婚を要求される事態に至った経緯を聞かなければ答えようがない。
「原因は何だね」「私が新聞記者と浮気したことが夫にバレてしまったんです」自分の不倫を告白しながら二村事務官は妙に誇らしげな笑いを浮かべた。私は例の記事が載った日の午後、法務官室で二村事務官を事情聴取していて沖縄返還に伴う日米の密約を取材していたM日新聞の西山太吉記者が外務省の蓮見喜代子事務官と肉体関係を持って秘密文書を入手した事件を思い出して疑ってはみたが、「この女性を抱ける男は夫以外にいない」と考え否定していた。
「それでは貴女の方が慰謝料を支払うことになりますね。ご主人は浮気相手のA日新聞の記者にも請求できますよ」「何でェ。慰謝料は女がもらうんじゃないの」私の弁護士としての説明に二村事務官は金切り声を上げた。この女性を誘惑したあのA日新聞の記者は何を狙っていたのだろうか。陸上幕僚監部でも法務官室では裁判沙汰になった不祥事くらいしか出てこない。
- 2020/02/26(水) 14:43:55|
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昭和11(1936)年の明日2月26日に発生した2.26事件で首相官邸の内閣総理大臣・岡田啓介海軍大将を警護していた村上嘉茂衛門巡査部長、土井清松巡査、清水与四郎巡査、小館喜代松巡査の4名と前内務大臣・牧野伸顕伯爵が逗留していた湯河原の伊藤屋旅館の別館で皆川義孝巡査が反乱部隊によって殺害され、殉職しました。
首相官邸は歩兵第1連隊の栗原安秀中尉を指揮官兼第1小隊長として同連隊の池田俊彦少尉が第2小隊、林八郎少尉が第3小隊、君島健次郎曹長が機関銃小隊を率いて約300名が襲撃しました。反乱部隊は先ず正門で立哨勤務中の警察官2名を拘束・武装解除し、急を察して駆けつけた動哨要員6名も武装解除して官邸内に踏み込んだのです。その頃、裏門に立哨していた小舘巡査が警視庁特別警護隊に緊急事態を知らせる警報ボタンを押しますが、そのベル音を聞いて反乱部隊が殺到したため拳銃で応戦しながらも全身に銃弾を浴びて倒れ、翌朝になって搬送された警察病院で「天皇陛下、万歳」と絶叫して死亡しました。官邸内では異変に気がついた土井巡査が岡田首相と首相秘書官で妹婿の松尾伝蔵予備役陸軍大佐を避難させ、村上巡査部長が廊下で待ち構えていたところに反乱部隊が乱入して銃撃戦になり、全身に銃創を受けながらも行く手を遮り、突進してくる兵士に中庭に突き落とされて殉職しました。さらに裏門から裏庭に回った清水巡査は逃亡を図って出てきた岡田首相と松尾大佐を制止し、その場で警戒に当たりましたが、そこにも反乱部隊が乱入したため殉職しました。そして岡田首相を女中部屋の押し入れに隠した土井巡査は可能な限り離れた位置で発砲して存在を偽装したものの弾丸が尽きたため通りがかった林少尉に組みつき、そこを兵士に銃剣で刺突されて殉職しました。
一方、牧野伯爵が宿泊していた湯河原の伊藤屋旅館の別館は所沢の陸軍航空士官学校の河野寿大尉か指揮する8名の別動隊が襲撃しましたが、突入前に玄関で機関銃を乱射したため事態を察した皆川巡査は先ず牧野伯爵と女性を裏口から逃がし、自分は物陰から廊下を歩いてくる河野大尉を銃撃して負傷させたのです。しかし、皆川巡査自身も銃創を負っており、同じく負傷していた看護師が応急措置して連れ出そうとしたものの動かせず、反乱部隊の放火による火災が迫ると看護師だけを逃がして自分は焼死により殉職しました。
高橋大蔵大臣の私邸は歩兵第3連隊の中橋基明中尉と中島莞爾中尉が指揮する約100名が襲い、警護の玉置英夫巡査は拳銃とサーベル、素手で奮戦しましたが、私邸を包囲されていては脱出させられず高橋大蔵大臣は射殺され、玉置巡査も重傷を負いました。鈴木貫太郎大将の侍従長公邸は歩兵第3連隊の安藤輝三大尉が指揮する約150名が襲撃し、警護の警察官2名が負傷しましたが重傷ではなかったようです。
一方、陸軍教育総監・渡辺錠太郎大将の私邸には警護の憲兵伍長と憲兵上等兵が配置されていましたが2階の控室から出てくることなく無抵抗で反乱部隊を引き入れており、そもそも歩兵第3連隊の安田優少尉と高橋太郎少尉は内大臣・斉藤實海軍大将を殺害した1時間後に30名を率いて襲撃したにも関わらず事件の急報が入っておらず、陸軍内の思想的同調者による謀殺との疑惑が持たれています。
- 2020/02/25(火) 13:18:40|
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「アメリカ軍の推薦を受けて国際刑事裁判所の検事としてオランダに赴任することになりそうだ」その夜、私は佳織のスマート・フォンにメールを入れた。香川地方協力本部は各地域事務所から夏休み中の成果報告が殺到するため電話では捉まらないのだ。、
A日新聞の靖国参拝を否定する取材記事の件で佳織は自分の職務への影響だけで一方的に私を非難した。そこまで精神的な余裕を失っているのであれば、この時期に移動予定の連絡を受けることも迷惑になるのかも知れない。
「あの時、親父は『家庭よりも仕事を優先するような女とは別れろ』って言ったんだったよな」珍しく簡潔で短文のメールを打ち終わると妙な過去を思い出してしまった。それはまだ愛知県の実家と交流を持っていた守山時代に佳織がCGSに入校することになって、私が1人で子供たちを育てることを知った父親が吐いた台詞だ。若し、父親がこの状況を予測していたのなら少し見直さなければいけないが早まったことはしない。父親は母親が保育士の資格を取得する時、「家事の手抜きは認めない」を交換条件に許可して、実際に母親が保育園長になっても家事に手を貸そうとはしなかった。
「そう言えば美恵子とのつき合いに反対した理由も当たらずと雖も遠からじだったな」事実上の同棲生活を送るようになった美恵子から結婚を迫られ、帰省したついでに告白した時、父親は知り合った場所が叔母のスナックだったことを「飲み屋の客とホステス」と決めつけ、一切の説明を拒絶した。これも事実誤認だったが美恵子の人間性については間違っていなかった。要するに私には「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」忍従の人生を強いてきながら本人は自分に責任と迷惑が及ばないために取り敢えず反対したことが的中しただけだ。
「佳織が『ゴメン』とさえ言えば許してしまうんだがね・・・こっちが言うのは変だろう」美恵子に関する記憶を消去するため意識を佳織に向けたが解決策にはならない。佳織の方も同じことを考え、苛立っている可能性もある。こんな時は互いの腹の中にある考えを洗いざらい吐き出して解決しなくても解消させるのが最上の対処方法だ。
「それにしても志織の様子を伝えてこないのは許せんな」スマート・フォンを充電に接続しても佳織への不満が継続してしまう。このスマート・フォンは志織が送ってくれたのだ。
「志織はハワイ大学のROTC(予備士官訓練課程)は空軍志望者が多いから海軍の枠が狭いって心配してたぞ。その問題を話し合ってきたんだろう」台所で寝酒の用意をしていると何だか父親としての存在を否定されたような気がしてきた。やはりメールではなく電話をしなければいけない。留守電でも良いから肉声で感情を伝えるべきだ。私は梢が送ってくれた泡盛とシークワサー・ジュースで酸味をつけた夏向きのオンザロックを作ると、琉球ガラスのグラスを持って固定電話に向かった。
「メールでも送ったが移動の調整が入った。遅くなっても良いから電話をくれ」案の定、佳織のスマート・フォンは留守電につながった。私は極力重々しい口調で用件を録音して電話を切ると座卓で酒を飲んだが、話し相手は佳織ではなく再会した時の梢の写真だった。
「もしもし、貴方」佳織から電話が入ったのは日付が変わる直前だった。私は枕元にスマート・フォンを置いていたので横になったまま電話に出た。
「うん、遅くまでご苦労さん」「入隊志望者の意思確認の報告が集っているんだけど、信頼性が不十分だから確認に手間取っているのよ」佳織の仕事の現状は理解しているが、連絡ができないほどではないことも想像できている。
「アメリカ軍の推薦は座間の法務官の意見らしいわ」佳織は時差を利用してアメリカ軍の人脈で経緯を確認したらしい。日本とワシントンの時差は14時間だから今は午前10時前だ。座間の在日アメリカ陸軍司令部の法務官のトーマス・ハセベ大佐とは年明けに来日した中華民国陸軍第6軍団指揮部の法務官である王茂雄中校と一緒に面会した。あの時、ハセベ大佐には佛教者の立場から欧米キリスト教国の国際法の運用手法に対する疑問を訴えた。日系人のハセベ大佐には共鳴する点があったのかも知れない。
「オランダには志織と一緒に貴方の勲章を受領しに行ったけど綺麗な国よ」気がつけば余計な手順を踏むことなく通常の会話に戻っている。やはりこれが夫婦と言う人間関係なのだろう。
「その志織はハワイ大学に進学することに悩みはないのか」「貴方に話したから私は良いって」今度は感激させてくれた。むしろ佳織の方が蚊帳の外に置かれている。佳織は私たちの意思疎通ができていることを察してあえて連絡はしなかったようだ。
「ROTCの講義と訓練は歩兵から始まるから貴方に質問するってさ」「はい、普通科の教範を英訳して送ります」日付が変わったところで久しぶりでも短めの電話を終えた。
- 2020/02/25(火) 13:17:32|
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1968年2月12日にベトナム・クアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で少なくとも69名、生存者数との比較では79名の住民を虐殺した韓国海兵隊第2海兵師団第1大隊=青龍部隊が2月25日にも同省内のハミ地区でより大規模に住民を虐殺しました。
今回は単独の村ではなく地域の集落の住民を手当り次第に殺害しており、人数では生存者3人を除く女性・老人・子供135人ですが、殺害方法についてはアメリカの要請で軍を派遣した韓国政府に配慮して「集落の広場に住民を集めて銃を乱射し、手榴弾を投げた」と凶悪であっても残虐性を薄めた表現にしています。しかし、実際はファンニィ・ファンニャット村と同様に女性たちに性的暴行を加えながら性交に使えない老人や子供たちから残酷に殺害していったのでしょう。それは古くは日本の対馬や壱岐の島、近くは朝鮮戦争の北朝鮮による占領地域で韓国人と言う野獣たちが繰り返してきた民族性なのです。
問題なのは日本のマスコミと反戦平和団体の対応で、ベトナム戦争を「アメリカ帝国主義に北ベトナムが抵抗している民族解放闘争」と言う勝手な勧善懲悪劇の構図のみで説明し、韓国軍をアメリカの横暴な命令に従属しなければいられなかった被害者として同情的に紹介していたためこの非人道的と表現するのもはばかれるような凶悪極まりない戦争犯罪を日本国内では報道しなかったことです。一方、アメリカでは日本のように単純な反戦平和の勧善懲悪劇ではなく「過去にアメリカが行ってきた戦争には正義があった。果たしてこのベトナムでの戦争に正義があるのか」と言う疑問に基づく報道だったため、同盟国として参戦している韓国軍の犯罪行為についても現地取材している従軍記者からの情報として国民に事実を周知して評価を問いました(現地に派遣されたアメリカ軍の監察官が「韓国海兵隊による犯行」と結論づけた報告書を提出したのは1970年1月10日)。
この報道によってアメリカ国内では韓国軍への批判以上に参戦させていることを問題視する世論が強まったため政府としては対応を迫られ、韓国軍の任務を後方支援に限定するか、逆に北ベトナムのベトコンに完全に支配された「誰を殺しても問題にならない」地域で活動させるかの選択を検討したようですが、結論が出ないうちにアメリカ軍の狂った指揮官によるさらに大規模な住民虐殺が起きてしまったのです。
戦争終結後、ベトナム国内では各地に虐殺記念碑=追悼碑、怨念碑、憎悪碑が建立され、当然、フォンニィ・フォンニャット村やハミ地区にも存在しますが、1999年9月に犯行に加わった青龍部隊の退役軍人が現地を訪れ、生存者や村人に謝罪して新たな記念碑の建立費用を寄付したそうです。その資金で黒大理石に「青龍部隊の兵士が135人を殺した。ここは血に染まり、砂と骨が入り混じり、家は焼かれ、火に焼かれた遺骸を蟻がかじり、血の匂いが満ち満ちていた(中略)過去の戦場はすでに苦痛が和らぎ、韓国人がここを再訪し、恨めしい過去を認め、謝罪した。そして赦しの上に、この石碑を建てた」と刻んだ記念碑が建立されたのですが、ベトナムへの経済進出により影響力を持った韓国政府が再三にわたって圧力をかけたため、現在は碑文の上に蓮の花を描いた石板がはめ込まれているそうです。これが大韓民国と言う国家であり、韓=朝鮮民族なのです。
- 2020/02/24(月) 12:29:45|
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私のA日新聞の記事の一件は、この新聞社が民政党政権を支えている最強の支持母体だけに「みんなで靖国神社に参拝する議員の会」に所属して今年も公約通りに8月15日に参拝した松川国家公安委員長も問題化することはなかった。それでは私のオランダの国際刑事裁判所の検事への移動の話が消えるかと思えば、そちらは着実に進行しているらしい。要するに1科的な厄介払いとは別に内局が法務省と外務省から受けた人事調整に応えることにしたようだ。
「モリヤ2佐、君の交換条件は実現しそうだよ」官舎に近い浄土宗の寺院で勤経や作務を体験させてもらいながら都内のモスクで私自身が北キボールで殺めた3人の若者の慰霊を勤めて過ごした夏季休暇が終わって出勤すると待ち兼ねていたように法務官が記憶を呼び戻した。
「交換条件なんて申し上げましたっけ」あの一件では二村事務官の関与の方に意識が行っていてその前の事情聴取や法務官との遣り取りなどは始めから意識していなかった。
「検事として赴任するには警務幹部になって定年退官を延長したいって言ったじゃあないか」「確かにお願い申しました」ようやく記憶が鮮明になった。今のままの2佐では定年退官は54歳の誕生日までなので3年を切っている。警務幹部であれば警察官と同じ60歳なので腰を据えて新たな仕事に取り組めると言ったはずだ。
「警務官の資格は『警務官及び警務官補の指定並びに権限の行使及び調整に関する訓令』の第1条に規定されていますが」「うん、その4項で実現させるつもりだ」法務官の説明に私は少し困惑した。この訓令の資格基準では基本的に小平駐屯地の業務学校の警務幹部課程を修業することが条件だが、おそらく2佐の入校は前例がなく私としても「実現は無理だろう」と半ば諦めていた。そこで訓令の第1条4項を思い出してみた。
「3等陸佐、3等海佐又は3等空佐以上の自衛官であって旧大学令による大学、若しくは学校教育法による大学又は専門学校令による専門学校の法科系統の教育を修了した者、又はこれと同等の学識があると認められる者・・・ですが私が該当しますかね」先ず私は愛知大学法経学部法学科中退なので大学を修了していない。さらに一般空曹侯補学生と陸上自衛隊幹部候補生学校、富士学校は専門学校令による専門学校ではない。そして「これと同等の学識を有する」と認められるための試験は受けておらず、何よりもこの補完的基準は法学士号を受けている他の学部の大学終了者を想定しているはずだ。
「その点は問題ない。前例第一、基準厳守の人事担当幹部も流石に司法試験に合格している君に受けさせる試験問題は用意できないって言っていたよ。おまけに格闘指導官を維持しているから実技面でも問題ないはずだ」私としては人事教育部が司法試験合格者を警務幹部に指定する前例を作ることに素直に同意したとは思えない。おそらく法務官が将官としての政治的手腕を発揮してくれたのではないか。実技面でも徒手格闘と逮捕術では似て非なる点が多々あり、司法試験と同様に格闘指導官だからと言う論理には少し無理がある。
「そう言えば君の英語力も評価項目になっていたが、こちらも英語検定は持っていないんだよな」「航空自衛隊英語検定3級なら持っています」私の返答に法務官は呆れたように口を開けてから閉じて首を振った。それにしても私の「学識」は岡崎市の矢作南小学校時代に植えつけられた知的好奇心の赴くままに興味を持ったことを徹底的に究明し、蒲郡高校時代にはその暴走が制御不能になり、愛知大学でも単位の取得は無視して学究に明け暮れていた。その結果が公的資格なしで一般(部外)課程出身の弁護士資格を持つ2等陸佐なのだ。そう言えば坊主の方も猊下から允可を拜領しているが、こちらも正式な安居(あんご=修行)はしていない。
「それではオランダ行きは現実の話なんですね」「1つ問題なのは健康面だが、オランダなら日本並みの医療は受けられるから心配ないだろう」梢の懇願を受けて私は血糖値の数字だけが基準のⅠ型糖尿病の診断を受け入れた。そのおかげでインシュリンの摂取による血糖値の調整で食事制限が緩和され、かなり体力も回復している。自衛隊中央病院の内科医の同期によると欧米では1922年にカナダのバンティング博士がインスリンの抽出に成功した時点から糖尿病では注射による摂取療法が確立しているが、粗食の日本では贅沢病と蔑視され、患者は食事療法を強要されいる。その意味では欧米で診療を受ける方が私としても安心できそうだ。
「ところでモリヤ2佐は海外赴任するのに単身になるんだな」考えてみれば佳織とはA日新聞の記事が載った夜の電話で口論になって以来、ハワイで志織のハイスクール卒業を見届けて戻ってからも連絡を受けていない。それは佳織の方が募集業務の最盛期に入っていることが理由だが、互いに非を認めていないので歩み寄る気持ちになれないのも確かだ。
「今も単身赴任ですから生活に変わりはないでしょう。この1年で会ったのは3回、それが年1回の七夕伝説になるだけです」法務官相手にこのメルヘンチックな表現は不適切だった。
- 2020/02/24(月) 12:28:31|
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照子はFM局からの帰りに深夜営業の薬局に寄って妊娠検査薬を買った。FM局の担当者は未婚だが妊娠検査薬を使ったことがあるそうで、「次回の月経予定日の1週間後からなら検査できる」と助言されたのだ。2度目の結婚とは言え性行為には晩熟(おくて)な照子にとって今風の生活を送っている年下の担当者は先生になった。
「ふーん、検査薬って言っても道具なのね」アパートに帰ると灯りの下で説明書を熟読した。取り扱いを誤って適正な検査結果が出なければ産婦人科に通院する決心がつかない。30歳代の照子は生理不順ではなく、それが10日以上遅れているのだから可能性は高いはずだ。
「ここにおしっこをかけるのね」箱の商品名は検査薬と書いてあっても中身と説明書を見る限り、尿をかける用具であって薬品はその先端部分に塗布してあるらしい。照子はもう一度注意書きをうなずきながら読み返すと立ち上がってトイレに向かった。
「お祖父さんの尿糖検査みたい」照子の祖父は還暦を過ぎて地域の健康診断で受けた血液検査で血糖値が引っ掛かり、数値だけを基準とする糖尿病と診断された。医師から食事制限を指導されて、厳寒の中の過酷な作業を終えても妻の手料理で元気を回復する楽しみを奪われ、凍えた身体を温める晩酌も禁止された。そのため急速に衰え古稀を迎えることはできなかった。
その祖父は医者から尿糖検査を義務づけられ、男性用便器にはこの妊娠検査薬のように検査薬が塗布されたプラスチック製の細い短冊が置いてあり、尿をかけていた。祖父はそれを恥じていたが、照子は期待と不安が先に立っている。
「陽性かァ・・・」照子は便器に座って最初に尿をかけ、それを手で水平に保ちながら残りを放尿した。排尿が終わり、トイレット・ペーパーで処置して流してから確認すると表示窓には赤い判定線が2本現れていた。説明書によればこれは妊婦だけが分泌するホルモンが検出されたらしい。照子は尿がかかっている検査薬が両手で包みたいほど愛おしくなった。
「お母さん、私、妊娠したみたい」トイレを出た照子が実家に電話をすると母が出た。旦那さま=森田士長は早朝4時からの搾乳作業があり、この時間には寝ているはずだ。
「チョッと待ちなさい。謙作さんに代わるから」すると母が想定外の返事をした。そうと判っていれば旦那さまの携帯電話に掛けるのだった。間もなく旦那さまが出た。
「照子か、大丈夫だったのか」旦那さまの声は少し不機嫌そうだ。やはりラジオを聴いていて突然音声が途絶えた後、「体調が悪くなった」と説明したので心配して起きていたようだ。
「はい、心配かけてごめんなさい。本当は真っ先に貴方に知らせたいことがあるの」「何だ。入院するのか」旦那さまの声が真剣になり、愛情を感じた照子は目頭が熱くなった。すると受話器の横から「照子は妊娠したんだって」と説明する母の声が聞こえた。しかし、旦那さまにはそのまま黙り込んでしまった。
「貴方・・・謙作さん・・・」照子は受話器から聞こえる息づかいが次第に荒くなってきたことに不安を感じて小声で呼びかけてみた。酪農の仕事に取り組みながら予備自衛官としての鍛錬を自己に課してい若い旦那さまは父親となる覚悟まで負うことはできないのかも知れない。それとも通い妻になっている照子との新婚生活が短過ぎて不満を感じていることも考えられる。
「俺は何をすれば良いんだ」長い沈黙の後、旦那さまは少し擦れた声で訊いてきた。24年間の森田家の息子から照子の夫の広橋家の義理の息子になって8カ月、唐突に父親になれと言われても実感が湧かなかったようだ。
「明日、病院に予約の電話をするから日時が決まったら付き添って下さい」「うん、判った。時間帯は牛の世話が開いている時間にしてくれよ」旦那さまの返事は従業員としても婿としても100点満点だ。照子も妻と広橋家の娘として感謝した。
「照子は病院で産むつもりなのね」ここで電話を母に代わった。やはり4時の搾乳まで仮眠するつもりらしい。それでも若い旦那さまは感激と不安、興奮と混乱で寝つけないのではないか。照子は2人の新婚部屋の寝床を思い出して胸を時めかしてしまった。
「多分、予定日は初夏だから病院でも大丈夫だと思うけど・・・」確認に反応しない照子に母は質問の意味を補足説明した。旭川市でも郊外にある広橋牧場では産婦を病院へ運ぶのに時間を要するため冬季が予定日の場合は助産師に依頼して自宅で出産している。牛と人の子を一緒にはできないが家族は男女を問わず出産には熟練しているのだ。
「それは謙作さんと話し合って決めるわ。30歳過ぎの初産だからお医者さんの意見も訊かないとね」「うん、照子が安心できるようによく考えなさい。自分の意思をハッキリ言うのよ」母も4時の搾乳に合わせて軽食を用意するので寝る必要がある。母親としての助言と激励を与えると電話を切った。照子は携帯電器を座卓に置きながらあらためて覚悟を決めた。
- 2020/02/23(日) 12:40:00|
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「次は旭川市内でホテルのルーム・サービスの仕事をしているリリー・オブ・ザ・ヴァレイさんです。このラジオネームはスズランの英語名ですね。直訳すれば谷間の百合。でもスズランはユリ科じゃあなくてスズラン亜科ですよ。だけど名前はスズランでも全く似ていないエゾスズランはラン科です」今度は植物講座になった。スズランは北海道を代表する花だが本州の寒冷な地域でも自生している。一方、エゾスズランは直立して50センチ前後まで成長する。高山植物としては九州や四国まで自生しているのでエゾスズランと言う命名は納得できない。
「スズランの花言葉は春の訪れを知らせる花だから『幸福の再来』。ヨーロッパでは聖母マリアの花として『純潔』もあるみたいです。フィンランドの国花で、北海道では札幌など市の花にしているところが多いですね。旭川市の花は桜ですよ」ラジオネームだけで長い前置きになってしまった。本当は牧場にとってスズランは誤って牛が食べると死ぬことがある危険な有毒植物なのだが、それには触れないですんだ。
「それではメッセージです。ゆきうさぎさん、最近、10歳になるウチの息子が小学校で馬鹿なことを言って困っています・・・お母さんなんですね。先生や友だちに私の仕事を説明するのに『ホテルのベッドの仕事』って言うんですよ。これじゃあコール・ガールじゃあないですか・・・ホテルのベッドの仕事ねェ。間違ってはいないけどお母さんとしては困るわね」照子の前夫は1970年代から80年代の映画のDVDを集めていて1971年公開のジェイン・フォンダ主演の映画「コール・ガール」を見たことがある。物語は特に記憶に残っていないがジェイン・フォンダが客に抱かれていて派手な喘ぎを上げながら冷静に腕時計を確認し、また喘ぎ声を再開する場面だけは印象的だった。当時、照子は前夫との性行為では快感を味わっていなかったが演技でも喘ぎ声を上げるべきかと悩んだのだ。その点、今の旦那さまは若い癖に性技に熟練していて、照子の方が快楽に溺れてしまいそうだ。
「そこでリクエストです。私のホテルの仕事がベッド・メーキングだけじゃあないと判らせるために息子に聞かせます・・・もう一昨年の歌になりますね。植村花菜で『トイレの神様』です」ガラスの向こうの担当者に視線を送るとうなずくのと同時にギターの伴奏が始まった。
「小3の頃から何故だか お祖母ちゃんと暮らしてた 実家の隣りだったけど お祖母ちゃんと暮らしてた・・・」この歌は長いのであまり前置きを長くしてはいけなかった。照子は反省しながら植村花菜の関西弁混じりの歌声に聴き入った。
「・・・トイレにはそれはそれは綺麗な女神さまがいるんやで だから毎日綺麗にしたら女神さまみたいになれるんやで・・・」そう言えば仙台でのラジオ・ボランテイアの時、宇都宮から来ていたとちおとめがこの曲をかけたのだが放送後、副業は坊主の正岡昇が「寺のトイレの神さまは烏枢沙摩(うすさま)明王だ」と教えてくれた。このネタは使える。
「・・・次の日の朝お祖母ちゃんは 静かに静かに眠りについた まるでまるで私が来るのを待っていてくれたように ちゃんと育ててくれたのに 恩返しもしてないのに・・・」歌は涙を誘うところに入った。照子も両目から涙が滲み、鼻水が大量に喉へ流れ込んでしまった。喉に流れ落ちる塩っぽい水を飲み込んだ時、胃から苦い水が逆流してきた。曲は最終段階だ。呼吸と喉の調子を整えなければならない。しかし、胃液に内容物が混じり、喉に湧き上がってくる。照子はマイクのスイッチのオフを確認してヘッド・ホーンを外すと立ち上がってスタジオの隅にある洗面台に駆け寄った。
「ゲーッ、ゲーッ・・・」嘔吐は止まらない。放送がある日は夕食を早めに取っているので内容物はあまりないが背中が痙攣し、胃を絞り出すように胃液が込み上がってくる。ガラス越しに事態を見ていた担当者はCDの続きのカラオケ・バージョンを放送した。
「失礼しました。急に体調が悪くなったので本当に申し訳ありませんでした」嘔吐を終えて水でウガイをしてから席に戻った照子はラジオから顔が見えてくるくらい真剣に謝った。しかし、ガラスの向こうの女性の担当者は不思議な笑顔を浮かべている。実は照子自身も原因に心当たりがあった。それを遠回しに聴取者に伝えることにした。
「明日、病院に行ってこようと思います。結果は来週の番組でお知らせしますが、今の結婚シリーズのリクエストが次のステップに換わることになるかも知れません。旦那さま、一緒に来てね」考えてみれば旦那さまも牧場の新婚夫婦の部屋でこの番組を聴いているはずだ。照子が帰宅するのは書店の定休日の前夜から1泊2日だけで旦那さまが名寄から通っていた頃と変わりがない。だから夜の夫婦の営みは毎回全力投球になり、避妊を忘れることがある。照子も30歳を過ぎているので新婚生活は短くなっても妊娠するのに早過ぎることはない。先日、旦那さまは牛の出産に立ち会っていたが、今度は自分が父親になるのかも知れない。

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- 2020/02/22(土) 10:05:19|
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昭和55(1980)年の明日2月22日はアジア+太平洋空域での空中戦に出場していた各国の戦闘機に全勝した赤松貞明中尉の命日です。69歳でした。
帝国陸海軍が航空機による戦闘を始めた支那事変以降の撃墜数では陸軍が控え目な性格のため自己申告は「30機くらい」、目撃証言を含めた公式記録では「少なくとも76機」の上坊良太郎大尉、海軍は自己申告で202機、公式記録では80機の岩本徹三少尉が撃墜王になります。一方、赤松中尉の撃墜機数は自己申告が350機以上でも公式発表は38機なので両者には及びません。しかし、海軍の戦闘機乗りの多くが航空母艦から発艦してアメリカ海軍の艦載機と対戦していたのに対して赤松中尉は主に地上基地を転戦して国民党軍、フィリピンのアメリカ陸軍航空軍団、イギリス軍、オーストラリア軍、そしてアメリカ海軍の航空母艦からの戦闘機との空中戦に勝利し、飛来したB29も撃墜している記録は特筆すべきでしょう(惜しむらくはノモンハン紛争に参戦していないのでソ連軍と対戦していない)。それでいて機体に受けた銃弾は5発のみです。
赤松中尉は明治43(1910)年に高知県加美郡赤岡町(現在の香南市)の測候所(現在のアメダス気象観測所)の所長の息子として生まれました。昭和3(1928)年に中学海南校(現在の高知小津高校)を卒業して佐世保の海兵団に入営すると昭和5(1930)年には操縦練習生(後の予科練)になり、2年の教育課程を終えて艦載の水上機や初期の航空母艦での飛行を経験した後、操縦練習生時代の教官だった源田実大尉が編成した曲技飛行チーム=源田サーカスに参加しました。
昭和12(1937)年末に支那事変の拡大で編成された上海の航空隊に配属され、翌年2月25日の南昌爆撃の護衛で初陣を飾りましたが目標上空で高度を下げたところを高空の雲中から降下してきた倍数の敵機との空中戦になり、単機同士の空中戦訓練しか経験していなかった海軍機は隊長以下が撃墜される苦杯を味わったのです。この経験で編隊での空中戦の訓練の必要性を痛感してその研究と実技に明け暮れたようです。その後も武勇伝を重ねますが、国民党軍が使用していたソ連製の戦闘機ポリカルポフI15とI16の性能・武装は日本海軍の96式艦上戦闘機を上回っていて苦戦を強いられたようです。
昭和16(1941)年に日本が第2次世界大戦に参加すると赤松飛行兵曹は大陸での爆撃機護衛の経験を買われて航空母艦ではなく台湾の地上基地に配属され、零式艦上戦闘機でフィリピン攻略に伴う爆撃に参加してアメリカ陸軍基地のP40を撃墜し、さらに南方戦線を転戦してイギリス軍やオーストラリア軍のスピット・ファイアを撃墜しました。
そして戦争末期には内地に戻り、雷電を駆って日本近海で行動するアメリカ空母艦隊の艦上戦闘機や硫黄島陥落後は「世界最強のプロペラ戦闘機」と言われるアメリカ陸軍のP51ムスタングとも熾烈な防空戦を繰り返しています。
そんな赤松中尉は男気あふれる長身の美男子だったため女性から非常にもてて周囲からは「松ちゃん(愛称)が一番撃墜したのは女だ」と嫉妬混じりの皮肉を言われていました。
敗戦後は高知に帰り、漁協で働きながら西日本軽飛行機協会の活動も続けていたそうです。
- 2020/02/21(金) 13:44:41|
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「こんばんは、こんばんは、こんばんは、も1つおまけにこんばんは。ゆきうさぎです」今夜は照子のローカルFM番組の日だ。11月1日付で森田士長が旭川の第52普通科連隊第2中隊に転属して予備自衛官になり、広橋牧場での仕事を始めて間もなく入籍し、年末年始には森田家の墓参を兼ねて四国へ新婚旅行に出かけた。照子は個人を特定できる情報には細心の注意を払いながらも惚気話を披露して新妻DJぶりを発揮している。
「最初のメールは旭川市愛別にお住まいの・・・縁起でもない地名でスミマセンって書いてあります。そんなことないですよ。だって愛別って言う地名は町内を流れている矢川をアイヌの言葉でアイベットって言うのが語源で、漢字は当て字じゃあないですか」いきなり話が大きく反れて地理講座になってしまったが、この自由奔放=野放図な進行も照子の番組の魅力ではある。
「愛別は大雪連峰の麓で桜の名所だし、屯田兵の私の旦那さまは愛別のマークが大好きなんですよ」ついでに惚気(のろけ)になった。愛別町の町章は矢川を表す黄色い矢羽根と青色の川の流れの中央に旭川を意味する旭日が描かれている自衛隊の部隊章のようなデザイなのだ。
「ごめんなさい。前置きが長くなりました。ラジオネーム、ヒグマのプーさんからです」確かに前置きが長かった。ヒグマのプーさんはラジオを聴いていて愛別からの投稿者が他にいるのかと気を揉んだことだろう。尤も照子の番組をいつも聴いていれば慣れているはずだ。
「ゆきうさぎさん、新婚生活は本当に幸せそうで安心するやら羨ましいやらです。旦那さんは牧場の仕事には慣れましたか・・・はい、元気で頑張っていますよ。旦那さんは屯田兵としての訓練にも励んでいるそうですが、両立はできていますか・・・はい、牧場を4周回ると丁度10キロになるから冬の間はノルディックで、今は駈け足で20キロ走っています」本当は旦那さま=森田士長は5月に猟銃所持の初心者講習を受け、学科試験に合格したので医師の診断書などを添えて申請書を提出し、教習射撃を実施してようやく乙種狩猟免許を修得した。今は広橋家に備えているライフルを持って射場に通っているのだが、あえて触れなかった。
「それではヒグマのプーさんからのリクエストは婚婚ネタです・・・ありがとう。コブクロの2004年のヒット曲で『永遠にともに』です」前置きが長くなり過ぎてガラスの向こうで痺れを切らしていた担当者がCDを操作するとピアノの伴奏が流れた。
「心が今とても 穏やかなのは この日を迎えられた 意味を何よりも尊く感じているから・・・」照子の結婚式は愛媛の森田家の佛檀の前で三々九度を交わした和式と春になって牧場に名寄の自衛隊の森田士長の同僚と旭川や札幌の照子の友人たちを招いてのガーデン・パーティーの洋式だった。ガーデン・パーティーでも友人たちはこの歌を唄おうとしたのだが、2007年に結婚した芸能人夫婦の豪華ホテルでの披露宴で、新郎がピアノを弾きながらこの歌を熱唱する映像が流れて視聴者を感動させておきながら、2009年に夫の不倫が発覚して離婚していたため「縁起でもない」と互いに制止し合っていた。それで自衛官が代わりに長渕剛の「乾杯」を唄ったが、こちらも離婚しているから大差はない。
「・・・やっとここから 踏み出せる未来 始まりの鐘が今 この町に響き渡る 共に歩き 共に探し 共に笑い 共に誓い・・・」あの芸能人夫婦の醜悪な顛末を知らなければ感動的な名曲だからリクエストしてくれたヒグマのプーさんの気持ちには感謝したいのだが、そうするには3年半前では記憶が生々し過ぎる。
「私たちの結婚は佛檀で旦那さまのご先祖さまに『永遠にともに』生きることを誓ったんです。だから響いたのは佛檀の鐘でした。それから新婚旅行中に除夜の鐘も聞いたから町に響いたのは『ゴーン』と言う音でした」茶化している訳ではないが、重く受け止めるよりは救いがある。照子自身も離婚歴があるが不倫が原因でなかっただけに、芸能人夫婦の豪華な披露宴の美談的演出から破局までの顛末が許せないのだ。
「次はラジオネーム、シャケのぼるさんからです。私のDJネームも夏には変ですけど、シャケさんも俎上するのは秋だからお互いさまですね。シャケさんは最初に中島みゆきの『ファイト!』をリクエストしてくれた時からですけど、あの歌の2番は川を昇っていく魚の鱗が光情景があります」照子は時計を見て前置きは短めに切り上げた。
「今日のリクエストもやっぱり中島みゆきですね。『遍路』・・・私、四国でお遍路さんに会いましたよ」照子は能天気に惚気たが、この曲は最後まで女の不幸・不運な逸話が続くので、いつまでも新婚気分に浮かれている照子に浴びせる冷水なのかも知れない。
「初めて私に スミレの花束くれた人は サナトリウムに消えて それっきり戻って来なかった・・・初めて私に永遠の愛の誓いくれた人は 2人で暮らす家の 屋根を染めに登りそれっきり・・・」ここまで縁起が悪いと逆に苦笑して聴けるから不思議だ。

旭川市愛別町の町章
- 2020/02/21(金) 13:43:24|
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1999年の明日2月21日はフィンランドがソ連の侵攻を受けた冬戦争と継続戦争で437回出撃して単独で94機、6機編隊で2機を撃墜しながら主翼にかすって塗装が剥がれた以外は被弾しなかった無傷の撃墜王・エイノ・イルマリ・ユーティライエネン准尉の誕生日の命日です。85歳でした。
冬戦争から同盟破棄によってナチス・ドイツを駆逐し、逆襲を撥ね退けたラップランド戦争までの地上戦を指揮した軍神・アールネ・エドヴァルド・ユーティライネン大尉は10歳年上の実兄で、准尉自身は「フランス外人部隊に従軍していた頃に送ってくれたレッド・バロン=アンフレート・フォン・リヒトホーフェン大尉の回顧録を読んだことで航空兵を志望するようになった」と述べています。
ユーティライネン准尉は1914年に1917年まで帝政ロシア領だったフィンランド大公国のヴィーブリ州で生まれました。航空機の操縦を修得した経緯は不明ですが、おそらく兄の支援を受けながら志望を実現していったのでしょう。
1935年に偵察機要員として空軍に招集されると戦闘機への転換教育を経て1939年3月にオランダ製で空冷式のフィンランド空軍は42機(=オランダ本国よりも10機多い)を保有していたフォッカーD.XXⅠ(最高速度395キロ、武装7.92ミリ機関銃×4)の部隊に配属されました。すると11月30日に冬戦争が勃発し、12月19日の初陣ではソ連軍のイリューシン爆撃機1機を撃墜しました。それからは兄が地上戦を指揮していた国境付近のラドガ湖の上空で空中戦を繰り広げ、115回出撃して単独で2機、6機編隊で1機を撃墜しています(大戦初期のソ連軍の主力戦闘機=ポリカルポフI16は最高速度525キロ、武装7.62ミリ機関銃×2と20ミリ機関砲×2)。
冬戦争が停戦になるとフィンランド空軍はアメリカ海軍の艦載機・F2A(最高速度484キロ、武装12.7ミリ機関銃×4)を導入したため再び機種転換し、1941年6月に継続戦争が始まると1942年末までに単独で34機を撃墜しました。さらに1944年にナチス・ドイツから名機・メッサーシュミットBf109(最高速度621キロ、武装20ミリ機関銃×3と13ミリ機関銃×2)が供与されるとエリート・パイロットを集めた精鋭部隊が編成され、ユーティライネン准尉もその一員として撃墜数を急増させ、58機を撃墜しました(同前=ミグ3は最高速度640キロ、武装12.7ミリ機関銃×1、7.62ミリ機関銃×2)。もう1つ、ユーティライネン准尉は継続戦争の停戦が発効する直前にソ連軍の輸送機を撃墜してフィンランド空軍として最後の戦果も上げています。
ユーティライネン准尉はフィンランドの軍人として最高位の勲章を2度受けている英雄ですが、士官となって部隊を指揮するように勧められても「前線で自由に戦うことができなくなる」と断り続け、1947年に准尉として退役しました。
退役後は恩給と空軍の中古の軽飛行機を譲り受けての遊覧飛行で生計を立てていましたが、長男は父の跡を継いで空軍に入営したものの飛行訓練中の墜落事故で殉職し、次男は海洋画家になっています。(偶然とは言え明日に続く)
- 2020/02/20(木) 11:30:34|
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結局、趙が普通の七三分けにして帰ると美恵子は無念さを噛み締めながら客のカルテを書き始めた。やはり役人である趙は資本主義的な流行を追って目立つことはできないようだ。
「アシメ・ツーブロックとお洒落七三を勧めた・・・と」これも理容師にとっては営業活動の1つだ。善通寺の理容店では店長が購読していたヘア・カタログで紹介している髪形を試す練習台になったが、学習するだけでなく流行を広めることこそ新たな客の開拓なのだ。
「そう言えば趙さんは難しい話をしてたね」客との会話の内容を書く段階になって趙が言いかけた小難しい話を思い出した。あの時、趙は「歴史」と言えば「昨年」の「騒動」は「許せない」と言っていた。聞き流しても良いのだが、今後この話題に触れないようにするためには知っておきたい気もする。学生の客が来た時に訊くように4つのキーワードを鉛筆に替えてメモした。美恵子の理容店は料金が中国人の理髪店よりも高めなので学生の客は少ないが、日本の最新の髪形で売り出せば流行に敏感な若者たちも集ってくるはずだ。
それから間もなくして1人の若者が日本の週刊誌を持ってきて「若手俳優の髪形のようにして欲しい」と注文した。今日は客足が増えて時々待ち時間が発生しているため、若者は順番を示すホワイト・ボードに「孫」と記名した。
「孫さんは学生なんだ」「うん、東和学院の学生だよ」香港には経営資金の出処によって日本の国公立大学と私立大学に当たる大学があるが、孫と名乗ったこの若者は後者の学生らしい。
「この髪形は茶色に染めないと重くなるから時間がかかりますよ。茶髪ならブリーチで色を抜くまでもないけどヘア・マニキュアじゃあ日持ちしないからやっぱりヘア・カラーで染めたいね」「今日の午後は休講だから大丈夫だよ」美恵子が雑誌のグラビアを見ながら説明すると孫はこともなげに答えた。美恵子は日本から持ってきたカタログで色を選ばせてからビニール製のシャンプー・クロスを着せると店の奥の洗髪台のベッド式の椅子に寝かせ、頭にシャンプーを注ぎ揉み洗いを始めた。頭皮の脂が毛髪を覆うとヘア・カラーの浸透を妨げるのだ。
「去年の歴史の騒動って何」ヘア・カラーが定着するまでの時間を利用して次の客の調髪を終えると美恵子は孫の髪形を整え始めた。このような男性の髪にパーマを当てるのは久しぶりだ。プロとしての血が胸の中で湧き起こり、年甲斐もなく興奮してくる。このような仕事に掛かった美恵子の集中力は客の話が耳に入らないほどなのだが今日は「学生に」と待っていた質問があった。美恵子はパーマの効き具合を確認しながらカーラーを外し、質問してみた。
「それは言えないよ。メイファイスー(美恵子)も口しない方が良いね」孫は美恵子が香港の地域事情に疎いことを察して助言を与えた。美恵子も那覇の中国語教室で共産党中国の監視の厳しさは指導されているが、ここまでとは思っていなかった。おそらく孫はこの店にも盗聴器が仕掛けられており、それを共産党中国から送り込まれた人民解放軍の兵士が傍受していることを推察しているのだ。下手をすれば自分も危ない。
「知ると損するならどうでも良い」美恵子は鏡に映った孫が真顔なのを見て持ち前の割り切り方をした。美恵子の頭には知的好奇心と言う機能は始めから備わっていない。
美恵子は店の持ち主である沖縄で輸入雑貨会社を経営している中城に業務日誌を送ることを命じられている。それは店の収支だけでなく来店した客に関する情報も網羅した詳細なもので普通の雇われ店主では考えられない内容だった。尤も、美恵子の場合は自発的に作成している客のカルテをコピーして郵送すれば用は足りるから負担ではない。
「意外に玉城美恵子は使えるな」中城は美恵子から届いた業務日誌を開封せずに別の封筒に入れ、台北在日文化経済代表処那覇支処長の粘進士に転送している。店の収入は中城に入るので割に合わない仕事ではない。粘支処長は台湾の関係者から玉城美恵子と言う元受刑者の人物評を聞いて王茂雄中校が香港に潜入させる諜報員に選んだことに疑問と不安を感じていた。しかし、「香港に自分の店を持たせる」と言う餌を与えられるとその前提である中国語の習得に信じられないほどの熱意を発揮して見せた。これであれば本人に自覚がない単なる盗聴器として香港の内情を高感度で通報してくるはずだ。
「やはり王中校の人選は正しかったようだな」粘支処長は美恵子の業務日誌の香港行政府の役人らしい趙の欄に走り書きしてある「歴史」「昨年」「騒動」「許せない」の4つの単語に目を止めた。趙が口にした「昨年=2011年の歴史に関する騒動」とは香港行政府が地域内の義務教育の歴史の教科書に中国共産党への忠誠心を植えつける愛国教育を加えようとしたことを10歳代の若い大学生たちが「洗脳教育だ」と反発し、黄之鋒をリーダーとする学生団体の学民思潮が大規模デモを起こしてこれを阻止した騒動のことだ。日本では全く報道されなかったが、2017年に香港で発生する雨傘革命の発端と言うべき事件だった。
- 2020/02/20(木) 11:28:13|
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美恵子が香港で理容店を開いて間もなく半年になる。場所は香港北部=九竜半島の対岸の行政府の官庁街と海外の金融会社の支店などが立ち並ぶ中環のビルの1室で、香港人が営業していた理髪店を購入したものだ。したがって利用に必要な大道具は揃っていて早々に開店できた。
「ニンハオ、いらっしゃいませ」開店前には地元の新聞に広告を掲載し、美恵子が日本の理容師の国家資格を持っていることを大々的に宣伝したので日本企業の香港支店で勤務する社員たちが利用するようになっている。美恵子としても長年の念願だった理容師としての仕事に本格的に取り組めるのだから張り切らないはずがない。
「内藤さんは裾と揉み上げを長めでしたね」「うん、もう憶えてくれたんだね。流石は日本のプロだな」理容師としての美恵子は人一倍の努力家で勉強家だ。毎日、来店する客の毛髪や髭の特徴や整髪の好み、さらに会話内容に関する詳細なノートを取っていて、それに防犯カメラの映像から複写した顔写真を添付して医者のカルテのような記録を作成している。
「美恵子さんは腕が良いけど、どこで修業したんだい」日本人の客は日本語での会話も楽しみにしている。この空間を日本の床屋・散髪屋にしているらしい。
「沖縄の那覇と山口県の防府、香川県の善通寺です。東京にも勉強に通いました」「ふーん、那覇は兎も角として山口県と香川県に理容師の修業に行くのは珍しいね。どちらも流行から取り残されたような田舎町だろう」「はい、色々あったんです」美恵子は頭のノートで修業した場所として防府と善通寺にバツ印を点けた。内藤は2回目の来店なので遠慮があるが、馴染みになれば防府と善通寺に行った理由を追求されかねない。そうなれば自衛官のモリヤと結婚していたことを告白しなければならなくなる。
「内藤さんは肌が弱いようですから深剃りはしません」「日本に置いてきた女房よりも僕のことを心配してくれるんだね。何だか嬉しくなっちゃうよ」この行き届いた接客は内藤に限らず、日本人、香港人、中国人を問わずに行っているから客は増える一方だ。最近は行政府の役人も顔を出すようになってきた。その時は当然、広東語だが内容に大差はない。
「趙さんのヘアトニックはイギリス製でしたね」美恵子はスナックのママだった時の経験から何種類かの男性用化粧品をキープ・ボトルのように並べ、好みに合わせて使い分けるようにした。ただし、横文字が読めないので名前は憶えられなかった。
「メイファイスー(美恵子)は理髪の腕だけじゃあなくて中国語も中々上手いけど、どこで覚えたんだい」「はい、中餐庁(=中華料理店)で働いていました」「どこで」「沖縄です」趙は香港行政府の役人だが着ている服装から見て高級官僚ではないようだ。美恵子は沖縄を出発する前、中国語教室で講師から香港での言動上の注意事項の指導を受けた。香港地域内には行政府の役人だけでなく一般市民にも共産党中国の公安関係者が潜入していて外国人や現地出身の香港人を監視していることを強調し、あくまでも台湾とは無関係の日本人として生活するように指導された。さらに店舗や借家には盗聴器や監視カメラが設置されており、国際電話は傍受され、海外郵便物も検閲されているから油断ばできないとも言われている。
「沖縄には我が国の企業が進出しているから中餐庁も繁盛しているだろう。沖縄県の首脳たちも凋落した日本よりも繁栄する我が国に臣従したいと言っている。日本に併合されるまでは中華皇帝に朝貢していた歴史があるからな」趙が歴史講座を始めたが美恵子には苦手な話題だ。それでも顔が鏡に映っているので興味深そうな目の表情を作った。
「歴史と言えば昨年の騒動は許せんな」鏡の中の趙の目つきが険しくなった。美恵子は自宅では新聞のテレビ欄以外は読まず、中国語教室でも政治的な話題は避けているようだったので昨年の香港の騒動と言われても理解できない。昨年、日本で起きた大震災や首相の交代さえも説明する自信はない。その代わり東京で流行している髪形なら熱弁を揮いたくなる。
「趙さん、アシメ・ツーブロックにしてみませんか」美恵子は無意識に提案してしまった。それが無意識に中国語になったのは語学力の発揮だろう。
「アシメ・ツーブロック・・・何だねそれは」「東京の男性の間で流行している髪形です。七三分けで裾を短めに借り上げて、伸ばした前髪を長めに流して少し遊び心を入れるんですよ」説明しながら切る前の趙の髪で作って見せてみた。確かに雰囲気は若くお洒落になる。30歳代後半の趙は興味深そうに鏡の自分の顔を見入った。
「そう言えば東京から来る日本人はこんな髪形をしてるな」「お洒落七三かも知れませんよ」そう言いながら手早く髪形を変えると趙は身を乗り出した。ここで趙が東京で流行している髪形にして職場に帰ってくれれば宣伝効果が絶大だ。できればネーブレスも試したいが茶髪に染めることが前提になるので無理押しはできない。
- 2020/02/19(水) 12:21:42|
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昭和29(1954)年の明日2月19日は素手では日本最強の格闘家である木村政彦柔道7段と大相撲を引退すると半島出身者らしい打算・功利的方法でプロレスを興行的に成功させた力道山さんが世界タッグ選手権保持者として来日したカナダ出身のベン・シャープとマイク・シャープの兄弟と蔵前国技館で対戦したことを記念するプロレスの日です。
木村7段は同じ熊本県出身の牛島辰熊9段の下で講道館柔道を極め、15年不敗の金字塔を打ち立てたのですが、出征による中断と敗戦後、占領軍によって武道が禁止されたことで生活に困窮し、それを見かねた牛島9段が同様の境遇にある柔道家を集めて見世物としてのプロ柔道を始めるとこれに参加しました。ところが力道山とは違い商業的才覚がない根っからの柔道家だった牛島9段は会場や宿泊場所、移動手段の手配を始めとする交渉にも苦労し、試合に観客を喜ばせるための演出を加えることも拒み、真剣勝負だけを繰り広げましたが、娯楽性に欠ける興行は早々に行き詰まり、木村7段は袂を分かって海外に出ると南米経由でアメリカへ渡り、そこでプロレスラーに転向したのです。
その頃、日本でも大相撲を引退した力道山さんが占領軍の慰問として来日した日系プロレスラーの指導を受けてプロレスを始め、ハワイに渡って本格的に修業して帰国すると持ち前の人脈を使ってプロレス団体を立ち上げていて、木村7段も合流することになりました。
実は力道山さんが木村7段を迎え入れたのには許し難い卑劣な計算があったそうです。それは柔道家として抜群の実績と知名度を持つ木村7段が外国人のプロレスラー相手に苦戦する惨めな姿を晒せば「柔道よりもプロレスが強い」と言う宣伝になり、その苦境を力道山さんが救い、仇を討てば日本人好みの戦友愛の発揮、敗戦コンプレックスの発散となって絶大な人気を獲得し、国民的英雄になれると言うものでした。
こうして迎えたシャープ兄弟との対戦では身長170センチ、体重87キロ、37歳の木村7段が身長197センチ、体重112キロ、38歳のベンと身長199センチ、体重119キロ、32歳のマイクに代わる代わる反則を交えた攻撃で弄ばれて1ランド目は敗北、観客たちが両者に罵声を浴びせる中始まった2ラウンドは身長176センチ、体重116キロ、30歳の力道山さんがコーナーから颯爽と飛びだすと空手チョップの連打で兄弟を圧倒して勝利を収め、1対1で引き分けと言う台本通りの展開になりました。
結局、2月19日、20日、21日の蔵前国技館、27日の大阪府立体育館、3月6日の蔵前国技館の5戦ではほぼ同様の展開になり、力道山さんの前の試合で負け役を演じさせられたことに憤った木村7段が記者会見を開き、台本の存在を臭わしながら「真剣勝負なら負けない」と豪語したため昭和29(1954)年12月22日に2人の対戦が行われました。この試合でも力道山さんの卑劣極まりない策謀が巡らされていたのですが、こうして木村7段を使い捨てると今度は元横綱の東富士(あずまふじ)関を誘い込んで同じ役柄を演じさせ、狙い通りに日本国民と朝鮮民族の英雄の地位を手に入れました。そんな日本のプロレス(=プロレスは和製英語)を愛好するファンたちの記念日です。
- 2020/02/18(火) 12:29:30|
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学生の夏休みだけでなく企業や公務員の夏季休暇である8月中旬になり、バブルの時代ほどではないにしても梢の帰宅は遅かった。それでも那覇駐屯地で平日の消灯ラッパが鳴った頃には夜勤者に任せて帰宅することができた。
「淳之介からメールかァ・・・」更衣室で私服に着替え、携帯電話を確認すると石垣島の淳之介からメールが入っていた。着信時間は8時過ぎなので昼にメールで知らせたA日新聞の記事に関する返答かも知れない。淳之介も夏の観光シーズンで早朝から出勤して1日中離島便を操舵しているから、この時間帯でも電話は控えた方が良さそうだ。
「父はオランダに転属になるかも知れません。理由は言いませんでした。海外単身赴任になるそうです」文面を確認して梢は唖然としてしまった。この話が今回の件が理由なのかは判らないが偶然にしても極端だ。考えてみればモリヤ夫婦は妻の佳織がアメリカに留学している間に夫のモリヤはアフリカのPKOに派遣され、そこでの戦闘が原因で刑事被告人になった。ようやく無罪になって同居生活を始めると今度は佳織がハワイに赴任した。モリヤがオランダと言う遠距離の外国に転属になっても佳織が帯同しないのは2人の「慣れ」なのだろう。しかし、梢には今も赤く強いケーブルで接続されているモリヤの真情が胸に響いてきた。
「この年になってヨーロッパへの単身赴任は辛い」同じ年齢のモリヤだが、かつて熱く静かに愛し合い、今も深く優しく愛し続けている梢の目から見て哀しいくらいの苦労人だ。本人にその自覚がないだけに放置はできない。それでも梢は携帯電話をセカンド・バッグにしまい、唇を噛み締めながら職場を後にした。
日付が変わるまで1時間を切った頃に首里のマンションの自宅に帰るとあかりと恵祥が暮らしている佛間から話し声が聞こえてきた。
「恵祥が寝ないの」玄関から居間を抜けて佛間の襖を開けると梢は小声で話しかけた。5月11日で1歳になった恵祥はかなり達者に歩き回るようになり、よく動く分食欲も旺盛で離乳食で腹一杯になればそのまま朝まで熟睡する。視覚障害者のあかりは逆に転倒しないように這って追いかけるためこちらも疲れて熟睡している。それが今夜は目覚めているので心配になった。
「恵昇伯父さんがお母さんに言いたいことがあるんだって」佛間はあかりには必要がないので電灯は点けてない。梢が点けると恵祥は可愛い寝顔で熟睡しているが、あかりは祖母の箪笥の上の位牌檀に向かって両手を合わせていた。
「ニイニが・・・」あかりは死者の魂魄や自然界の精霊と会話することができる。それでも恵祥を産んでからは坊主でもある淳之介の父・モリヤの指導で霊界との接触は控えるようにしていた。それを察して梢の亡き兄の恵昇も命日と清明節の法要以外は声を掛けないようになっている。それが今夜に限って特別な話があるようだ。
「モリヤさんがオランダに転勤する話は聞いてるな」「はい」あかりはノロやイタコの口寄せのように男の口調で語り始め、梢は前に正座した。
「佳織さんは自分の仕事があるからついて行くつもりはないようだ」「はい」モリヤは佳織にはオランダへの移動調整の話はしていないが、恵昇は魂魄として内面まで観察することができるらしい。今の佳織は自分の職務を優先することを当然視しているのだ。
「だったらお前が仕事を辞めてついていけ。本当はお前もそうしたんだろう」「でも・・・」「僕には嘘はつけないぞ」梢のためらいにあかりは恵昇に代わって苦笑した。あかりは恵昇に似た顔立ちだが、これでは本人と話しているような気がしてくる。
「お前がなりたくてなれなかった押し掛け女房に今度こそなってみろ」「押し掛け女房に」淳之介を産んだ美恵子は意外に意志表示をしないモリヤを指図して結婚にまで追い込んだと聞いている。佳織もまた妻子あるモリヤと不倫関係になり奪い取った。そこが親に交際を反対されて深刻に悩み苦しむモリヤを見て自分から身を引いた梢とは逆なのだ。
「私を理由にして自分を殺すのは止めて」突然、あかりが普段の口調に戻って梢が胸に過(よ)ぎらせた気持ちを否定すると意識を失ってその場に倒れた。確かにその時、梢は母としてあかりと恵祥の生育を見守る責任を考えた。魂魄を身体に憑依させる口寄せは体力と言うよりも精神力を消耗するらしく熟練したユタやイタコであれば安全な距離感を保てるが、未熟な若手では脱魂と同時に失神することも珍しくない。恵昇は伯父としてその点は配慮しているのだが、今回はあかりが自分の意識を割り込ませたことで大きな衝撃を受けたようだ。
「私、馬鹿なお母さんになっても好いのかな」梢は脱力したように倒れているあかりをそれでも目を覚まさない恵祥の隣りに運ぶとよく似た母子の寝顔を眺めながら独り言を呟いた。誰も見ていないが、その顔は30年前の梢だった。

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- 2020/02/18(火) 12:21:07|
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第2次世界大戦中の昭和18(1943)年の2月17日は明治期にはヨーロッパからの輸入によって艦隊を編成していた帝国海軍が自らの運用思想に基づく国産艦艇を発展させる上で多大の功績を残した設計の軍神?平賀譲(ゆずる)中将の命日です。
平賀中将は明治11(1878)年に広島藩士から新政府に出仕した主計官の二男として生まれました。父親が海軍の横須賀の鎮守府や築地の海軍大学校で勤務したことで関東での転校を繰り返しながら育ち、日清戦争が後半に入った明治28(1895)年には3歳年長の兄に続いて海軍兵学校を受験しますが近視と体格検査で不合格になりました。
このため第1高等学校工科に進み、明治31(1898)年に東京帝国大学工科大学造船学科(後の工学部船舶工学科)に入学したのです。ところが翌・明治32(1899)年に両親が相次いで他界したため学費と生活費に困り、手当が出る海軍造船学生を受験して合格したことで道が定まりました(この頃、兄は佐世保鎮守府参謀だった)。
大学を首席で卒業した明治34(1901)年から造船中技師(=海軍中尉に相当)として横須賀の海軍造船廠に配属され、続々と導入されるヨーロッパ製の艦艇の整備と研究に当たりました。明治36(1903)年には大技師(=海軍大尉に相当)に昇任し、日露開戦が迫った明治37(1904)年に呉の海軍造船廠に転属しますが、明治38(1905)年の年頭にイギリスへの留学を命ぜられ、結婚してその足で旅立ったのです。イギリスではグリニッジ王立海軍大学造船科で学び、3年後に帰国すると海軍艦政本部員となる一方で東京帝国大学工科大学造船学科の講師も務めました。
大正元年からは横須賀の海軍造船廠に配属されて本格的に艦艇の設計を始め、戦艦・山城型(=戦艦・扶桑の全面的な設計変更)、巡洋戦艦・比叡型、駆逐艦・樺型を手掛けました。こうして大正5(1916)年に海軍技術本部員を命ぜられると海軍の国力を無視した艦艇増強の88艦隊計画を担当することになり、大正9(1920)年には東京帝国大学工学部造船科(前年に学制変更された)の教授として工学博士号を受けています。
平賀中将が設計した重巡洋艦・古鷹や妙高型、軽巡洋艦・夕張、駆逐艦・神風型や若竹型など(戦艦・大和型も)は当時の欧米の艦艇と比べて兵装が強力な上、高速度で大きな脅威を与えましたが、三菱重工業社製の零式艦上戦闘機や1式陸上攻撃機が海軍の無理な要求を丸呑みするため機体の防弾性などを犠牲にした軍用機としては欠陥機だったのと同様に船舶としての設計と艦艇としての武装の均衡・整合が不十分で戦闘行動中の急激な操舵での安定性や弾薬の運搬経路などで多くの問題点が指摘されていました。
それでも生前から神格化が進んでいたようで亡くなった翌年には東宝が伝記映画「怒りの海」を公開していますから、自分の意見を絶対に曲げないことで「(名前の)譲=ゆずるではなく不譲=ゆずらずだ」と陰口を叩かれるような存在だったのでしょう。
ちなみに昭和13(1938)年からは東京帝国大学の総長を務め、在任中に亡くなったため史上唯一の大学葬が営まれ、大脳は付属病院で取り出されて現在も東京大学医学部に保存されているそうです。
- 2020/02/17(月) 13:50:51|
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「貴方、何をやってるのよ」疲れ果てて帰宅するとそれを待っていたかのように佳織から電話が入った。A日新聞の記事を読んでの叱責のようだ。
「何をって言っても東京高裁で会った記者からインタビューを受けて答えた内容が記事になっただけだろう」私としては氏名や所属が明記されておらず、写真も後ろ姿なので「身元不明の自衛官の個人的発言が記事になった」で押し通すつもりだった。
「でも自衛官の弁護士は貴方しかいないじゃない。ボイルヘッド(剃髪した頭)の自衛官なんて滅多にいないから一目瞭然でしょう」佳織は興奮気味なのか珍しく冷静さを失っているようだ。佳織は私を知っているから後ろ姿でも判別できるが、明るくはない高裁のロビーで望遠レンズを使って撮った白黒の写真では坊主刈りや禿げ上がった頭との見分けはつかないはずだ。何よりも司法試験に合格している自衛官が陸海空25万人弱で1人しかいないことを知っているのは自衛隊員(=事務官・技官を含む)でも極一部だろう。
「自衛隊を支持しているのは靖国神社への参拝を欠かさないような人が大半じゃない。それを幹部自衛官が否定したりすれば失望を与えるだけじゃあなくて、批判の声が上がることになるのは目に見えてるわ」「香川地本(地方協力本部)には批判の声が届いたのか」「それはまだだけど・・・」今の佳織は自衛官の募集だけでなく自衛隊の宣伝や苦情処理も担当する組織の責任者、職務の指揮官なので明らかに過剰反応している。佳織自身も通信学校の副校長兼企画室長時代は通信職域の幹部には常識である最新機材の導入には関心を示さず、隊員の技能の練成に熱意を注いでいた。考えてみれば佳織が香川県に赴任して1年が過ぎている。その間に会えたのは秋の連休と年度末の年次休暇の消化、そして5月の大型連休の3回だけで年末年始と夏季休暇は佳織がハワイに帰るので諦めるしかなかった。
「やはり地本で勤務していると苦情を受けてから対処するんじゃあ間に合わないのかな。今の佳織は原因潰しに先走ってるぞ」「夏休み中は高校生の募集活動の最盛期だから広報官に余計な仕事を与えたくないのよ。その原因が貴方となると私としても合わす顔がないわ」この発想は今日、事情聴取を受けた監理部と人事教育部に巣喰う1科系幹部のものだ。連隊1科の幕僚たちは連隊長と副連隊長や上級部隊の顔色を窺って違反ではない問題を起こした隊員を事前に抹殺することで忠誠心を示していた。組織の長である佳織がこの態度では側近が意図を明察して=顔色を窺って似たような処理を犯しかねない。
「それじゃあワシの存在が迷惑になるんだな。申し訳ないから消えるよ」「何もそこまで言っていないけど・・・」この返事は制止ではない。私たち夫婦はこれまで東京と三重県の久居、日本とアメリカのカンザス州、ハワイ州での別居生活を経験してきたが、今回は距離以上に心が離れてしまっているような気がする。香川県では美恵子と離婚し、佳織との婚姻届を出したが、私にとって幸いな土地なのか悪しき土地なのか判らなくなってきた。
「この件では佳織に言いたいことがあったけど通じそうもないから止めておくわ。自衛隊の香川県地方協力本部長として自己の職務に最善を尽くして下さい。ご迷惑をかけました」最後は一方的に言葉を吐いて電話を切った。オランダへの移動調整については何もできない以上、佳織に心理的な負担を加えるだけなので伏せておいたのは正解なのかも知れない。
「それにしても警察が防犯組織になったのは平成に入ってからだよな」私は電話を切って夕食の支度を始めながら懲りもせず余計なことを考えてしまった。実際、昭和の警察は犯罪捜査が主たる任務であり、幹部の人事でも捜査・逮捕で実績を上げることが昇進の早道だった。ところが平成に入ってからは防犯=警備が重要視されるようになり、市民を監視の目で包囲し、事細かな取り締まりで違反者を摘発して犯罪の芽を摘むことが実績になっている。このため人間に対する捜査能力は著しく低下しており、防犯カメラの映像の解析とインターネットで情報を収集することが基本になっている。それは警察だけでなくこの国全体が、監視による問題の発生防止を危機管理と同義語にしているようだ。するとまた電話が鳴った。
「A日新聞読んだよ。あれお父さんだろう」今度は夏の観光シーズンで大忙しの淳之介からだ。淳之介の石垣島のアパートの新聞は八重山日報だったはずだ。
「お義母さんから『A日新聞を読みなさい』って電話が入ったからコンビニで買ったんだ。松泉伯父さんも同じことを言ってたよ」昨年亡くなった元鉄血勤皇隊の玉城松泉伯父が靖国を否定していたとは意外だが、元軍人と話していても「周囲が靖国で軍神になれと言うから同調していただけで、死んだらご先祖さまになって家族を見守るつもりだった」と言うのが秘めた真情だったようだ。愛妻には叱責されても息子が理解してくれれば満足できる。それにしても梢は何とも有り難い義母だ。淳之介にはオランダへの移動の可能性を伝えた。
- 2020/02/17(月) 13:49:52|
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昭和35(1960)年の明日2月17日に陸上自衛隊の鉄道部隊=第101建設隊が立川駐屯地で創設されました。
この部隊の正式な任務=設立の目的は建設隊=施設部隊だけに災害で被害を受けた鉄道の復旧が主で二次的に隊員が機関車を運転して部隊の移動も実施することになっていましたが、実際は有事の避難民の輸送と日本共産党(初期)や革マル派(後期から現在)などの実力組織としてストライキを共産革命の発火点と位置づけていた国鉄労働組合による大規模・長期ストライキが発生した時に都市部への食糧の運搬などが期待されていたのです。
帝国陸軍の鉄道部隊は日清戦争で獲得した大陸の占領地に物資を大量に運搬する必要が生じ、東京から九州までの鉄道網を整備するために近衛師団の交通兵旅団として創設されました。このために任務は被害復旧よりも一段上の線路の敷設を含む鉄道建設も含まれていて、東海道線・山陽線と博多までの複線化や朝鮮半島を縦断する鉄道線の建設を担当し、戦時には列車の運行にも従事したのです。ただし、ドイツ軍やイギリス軍、フランス軍のような車両での運搬が不可能な大口径の列車砲は採用されず、あくまでも国鉄と同様の業務を実施していたようです。
陸上自衛隊の鉄道部隊は部隊創設の2年前の昭和33(1958)年に基幹要員の採用と育成が始まり、国鉄から9600型機関車を購入し、帝国陸軍の第2鉄道連隊が使用していた習志野の演習線で訓練を始めました。訓練内容は機関車や車両の運転や整備だけでなく線路の建設と維持保線(レールの幅はミリ単位の誤差でも脱線の原因になる)、測量と杭朽や架橋、ポイントと信号機の操作、さらにプラットホームの建設まで多岐にわたり、島松や霞ケ浦、古河、桂などの補給処の引き込み線で実技として設備やプラットホームを設置・運用しています。また部隊解散後も経験者が災害派遣に出動して破壊された鉄道網や駅の迅速な復旧により被災者の生活確保に貢献しました。
ところが国鉄労働組合が国民を人質にするかのように頻発させた大規模・長期のストライキは道路網の整備も相まって流通の主力を鉄道からトラックに移行させ、鉄道部隊の存在理由は急速に低下しました。中でも鉄道部隊の首脳陣が災害や戦時に架線が切断されれば運行できなくなる電車や有事の原油の輸入停止が危惧されるディーセル機関車を嫌って9600式機関車に執着したことが経費の無駄として会計検査で指摘されて部隊の存在に疑問符が点き、昭和41(1966)年4月1日で鉄道部隊は解散になってしまいました。
野僧は車力・第22高射隊の管理小隊長=輸送担当者として勤務している時、天候や道路事情に左右され、長距離移動による隊員への負荷が大きい車両による移動への疑問からJR九州の友人(管理職なので国労を敵視していた)と共同研究した地対空ミサイルと誘導装置や宿泊・調理設備(寝台列車と食堂車の転用)までを鉄道に搭載する高射ミサイル版列車砲の実用化を業務計画要望で公式に提案したことがあります。しかし、高射隊長は「恥にならねば好いが」と言いながら渋々印鑑を押したものの第6高射群本部はろくに検討もせずに却下したため露と消えてしまいました。
- 2020/02/16(日) 13:39:42|
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「閣下、よろしいですか」私は今出てきたばかりの法務官執務室に曹長を連れて入った。1曹は電話番として事務室に残した。
「二村事務官が何かやらかしたんだな」法務官は1曹がコーヒーを持ってきた時に「私物の携帯電話で通話中」と説明したことから明察した。人事教育課の担当者に国際刑事裁判所の検事の任期を確認させているところだったらしく、机の上には関係資料が置いてある。
「曹長から説明します」「先ほど閣下とモリヤ2佐が面談中に二村事務官の私物の携帯電話に連絡が入りまして、毎度のようにその場で通話を始めたのです」ここまでで既に曹長は立腹している。曹長の前の職場では勤務中は私物の携帯電話を通話不能にするように指導されていたそうだ。その点、私の弁護士としての業務連絡は私物のスマートホーンに入るため前の曹長や1曹、二村事務官にも禁止はしていない。それでも曹長と1曹は自主的に着信をメール限定にしていたが二村事務官は自由気ままに使っている。
「すると相手に礼を言われているような応答をして、言葉の端々にA日新聞と言う名前が出ていたのです」「なるほど」法務官は努めて軽く相槌を打っているが表情は渋くなってきた。
「最後に『私はモリヤ2佐が東京高裁に行く日を答えただけで』と言い訳していましたが、前後の脈略から見てモリヤ2佐の言動について詳しく話していたようです」3月に着任した曹長には私と1曹が時事問題を対等に語り合っていることに面喰らったようだが、二村事務官が配置換えになった頃の無礼千万な態度は目撃していない。これでもかなり改善したのだ。
「失礼します。二村事務官が帰りました」その時、ノックの後にドアを半開きにして1曹が声をかけた。続いて異様に緊張した顔の二村事務官が押し込まれた。
「二村さん、こちらに来なさい。曹長はもう良いだろう」法務官は固まったようにドアの前に立っている二村事務官に微笑みかけると曹長に退室を促した。曹長が二村事務官に厳しい視線を送りながら退室すると法務官は立ち上がってソファーに歩いていった。
「二村さんはA日新聞の佐々木記者とはどう言う関係なんだね」再び1曹がコーヒーを持ってきてから私が事情聴取と言うよりも尋問を切り出した。3人掛けの長椅子の中央に座っている二村事務官は前に並んでいる法務官と私の顔を怯えたように見比べたが、2人とも優しい笑顔を浮かべている。その不気味さに慄いたように分厚い唇を噛んだ。
「去年の暮れに韓国で従軍慰安婦の少女像ができた時、モリヤ2佐が『従軍慰安婦はA日新聞の捏造だ』って言ったから電話で確認したんです」「それは誤解しているぞ。私は『日本軍が韓国の女性を強制連行して慰安婦にしたと言うのはA日新聞と吉田雄兎が共同で捏造した虚構だ』と言ったんだ」相手の証言に訂正を加えるのは虚偽や誤解も公判で利用する尋問としては有り得ないことだが、そこは職場の上司としての服務指導の一環だ。
「二村さんの自宅はどこの新聞を取っているんだね」私の口調が叱責になったようで、不貞腐れたような顔になって眼鏡のレンズ越しに睨んだ二村事務官に法務官が優しく声をかけた。
「二村の家はY売新聞ですが、実家はA日新聞でした。両親から『A日新聞を読めば頭が良くなる』『大学受験の問題に出る』って言われて読んできたから、嘘が書いてあるなんて信じられなかったんです」「だからってA日新聞に確認したのかい」あまりにも馬鹿げた証言に私は大声で独り言を吐いてしまった。ここは呆れて唖然とするべきだったかも知れない。
「それで記者が誠実に対応してくれて交流を持つようになったんだね」「はい、国連の人権委員会の従軍慰安婦問題の会議でもA日新聞は証拠として採用されている。そんなに国際社会で信用されているA日新聞が嘘を書くはずがないって丁寧に説明してくれました」どうやら二村事務官は私を信用しておらず、感情的に嫌っているらしい。
「今までどんな話をしてきたのかな」「こちらから電話することはありませんが、電話で質問してきたことには正直に答えてきました」法務官の質問に答えた二村事務官の目に一瞬、恍惚の色が走ったのを私は見逃さなかった。昭和47年の沖縄の本土復帰に際して佐藤栄作内閣がアメリカのニクソン政権と交わした密約をM日新聞の西山太吉記者が外務省の大臣秘書だった蓮見喜久子事務官を誘惑して肉体関係を持ち、コピーさせて入手した卑劣極まりない情報漏洩事件がある。西山記者は入手した資料を基に書いた記事が編集長の判断で採用されないと、それを社会党の議員に渡して国会で追及させたため、一連番号から漏洩元が発覚して蓮見事務官は家庭が崩壊した。足元に冷風が吹いたようで私は背筋が寒くなった。
「本当は会ったことがあるんだろう」「いいえ、電話だけです」今度は音量を下げて独り言を呟くと二村事務官は即答した。この態度は限りなく怪しいが、あの事件の蓮見事務官はミニスカートが似合う知的美人だったが、真逆の二村事務官なら大丈夫だと信じたい。
- 2020/02/16(日) 13:38:33|
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2月11日に野僧が子供の頃には南海ホークスの捕手の大打者で、親父になってからはヤクルトの名監督だった野村克也さんが亡くなったそうです。84歳でした。
日本の野球はスポーツでありながらアメリカのベースボールとは違い筋力や反射神経などの運動能力による勝負ではなく、相手の弱点を研究してそこを攻める姑息で卑劣な球技ですが、その頭脳式野球で頂点を極めたと言うべき選手で監督が野村さんでした。
野僧が子供の頃にはプロ野球と言えば読売か中日(愛知県だったため)のセントラル・リーグで、パシフィック・リーグの野村さんの活躍は元実業団野球の選手でプロ野球の解説者のようだった父親もほとんど関心を示しませんでした。しかし、選手だった野村さんは読売の王貞治さんほかの強打者と熾烈な本塁打数と打点、安打数と打率の最高争いを繰り広げていて、昭和38(1963)年には松竹ロビンズの小鶴誠さんが昭和25(1950)年に達成した年間本塁打数51本を13年ぶりに破る52本で日本記録を更新したのですが、翌年に王さんが55本を打ったので1年間だけの記録になり、読売が新聞と系列テレビで大々的に喧伝したため完全に掻き消されてしまったのです。王さんとは日本記録だけでなく毎年のように両リーグ年間の最多本塁打数や最高打点を奪い合っていましたが、最終的には王さんに軍配が上がり、同じセントラル・リーグであれば視聴者の記憶に残るのですが、マスコミが数字しか報じないパシフィック・リーグでは目に止めても忘れ去られてしまいました。ただし、捕手と言う激務のポジションで50本以上の本塁打を記録しているのはアメリカや韓国、台湾のプロ野球界を含めても野村さんだけです。
そんな野村さんが昭和50(1975)年5月22日に王さんに次ぐ史上2人目の通算本塁打数600本を記録した時の後楽園球場の観客数は7000人くらいで、インタビューで「自分をこれまで支えてきたのは王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に人々の目の前で華々しく野球をやり、こっちは人目に触れない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」と皮肉な名台詞を吐いたのです。
野村さんが頭脳式野球に開眼したのは不調に陥っていた時、謎の「阪神ファンの医者(住所・氏名を明かさなかった)」が自分で翻訳して送ってくれたアメリカのテッド・ウィリアムスさん(大リーグで2度三冠王に輝いている)の著書「打撃の科学」に「投手には球種によってフォームに癖が現れる」とあったことでした。それ以来、対戦する投手の癖を研究するだけでなく、捕手として野手を指揮するために打者の癖までも熟知して試合に活かしていきました。この経験が昭和44(1969)年から昭和52(1977)年までの監督兼務を可能にしたのでしょう。ただ、野村さんは関東以外の人気報道バラエティー番組で「監督と言う仕事はどこの球団でも同じだと思っていたが、やはり選ばなければいけない」と阪神の監督になったことを「失敗だった」とボヤいていました。
野僧は野球が嫌いですが野村さんは人物として極めて面白く、何事も究極まで追求すれば教訓が語れるようになることを実感していました。冥福を祈ります。
- 2020/02/15(土) 13:00:19|
- 追悼・告別・永訣文
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想定外の展開になった事情聴取を終え、法務官室に戻るとその足で法務官の面接を受けた。2人でソファーに座ったが二村事務官はコーヒーを持ってこない。
「来客ではないから不要だ」と思っているようなので法務官が声をかけると、きまり悪そうに1曹が持ってきた。私物の携帯電話で通話中とのことだ。
「モリヤ2佐、オランダへの転属の話を聞いたそうだね」「はい、思ってもいない職務で胸が湧き立つ思いですが、本当に実現するんでしょうか」人事教育部の課長から簡単な説明は受けてきたが、国際司法裁判所と国際刑事裁判所は法務省が窓口になっていても判事の職は外務省の最高位にある大物官僚が引き継いでいる。法務・外務の両官僚としては検事の席を手にできるのなら新たな栄転先として確保するはずなので自衛隊に譲るとは到底思えなかった。
「アメリカ政府が君を推薦したらしい。政府と言っても在外駐留軍から君の名前が上がって、それをペンタゴンが国務省に伝えたと言うことだ」法務官のこの説明も、私は海外に駐留するアメリカ軍と仕事をした経験はなく、ましてや国防総省に名前を上げるような人脈は有してない。強いて言えばモリヤ佳織1佐だが、私に相談もなく話を進めるはずがない。
「実は以前から何度か打診がきていることは聞いていたが、陸幕としては法廷で現場の立場を主張できる君を失うことはできないと断ってきたんだ。しかし、そろそろ移動の時期でもあるから国際的舞台への栄転として考えてみてくれ」法務官は政治屋からの苦情への言い逃れに私を遠ざけることは認めないが、栄転としてなら受け入れるつもりらしい。
「私としては民政党政権下で行われるイージス艦の裁判で2審の判決が下りて被告人2人の無罪が確定するのを見届けて移動するつもりでしたが、来年の夏までかかりそうですから相棒の熟練弁護士に託すしかないようです」「国内移動であれば統幕への臨時勤務を発令し直して弁護も継続できるんだが、公判の度に帰国してもらう訳にはいかないな」野畑内閣がどこまでもつのかは判らないが、次の国政選挙で大敗して政権を失うことは誰の目にも明らかであり、衆議院の任期一杯はしがみつくと考えるのが常識だ。その一方で、6月の内閣改造で防衛大臣は防衛大学校出身で元航空自衛隊の軍事評論家に、法務大臣は東京大学法学部卒の元自治省官僚に代わっているので極端な政治介入はないはずだ。
「仮に検事として赴任することになれば、お願いしたい人事があります」ここで今回の移動の話を聞いてから事情聴取中にも考えていた人事上の処置を要望することにした。
「君のことだから実現不可能な要望はしないと思うが、まさか1佐に昇任させて1等書記官待遇で赴任させろと言うんじゃあないだろうな」この確認では私の1佐昇任は不可能と言うことになってしまう。確かに陸上幕僚長の退官の送別会で酒が入った人事教育部の2佐から幹部候補生学校の成績不良と幹部学校のCGS課程に入校していないため「1佐の目はない」と言われたことがある。美恵子が撒いた除草剤は草の芽も生えないほど効いているらしい。
「現在の法務と普通科のほかに警務の特技が欲しいんです」陸上自衛隊の特技制度では陸将補(航空自衛隊は1佐)になれば職種は抹消されるが、その予定はない。
「確かに警務幹部は司法警察職員だが、君はそれを指揮する検事になるんだからその必要はないだろう」「それだけではなく定年退官する年齢なんです」私の意表を突いた説明に法務官は呆気にとられた。警務官の定年は同様の職務を遂行する警察官に合わせて60歳なのだ。
「私も51歳を過ぎましたから2佐では3年後に定年です。折角、新たな職務に移動するなら5年間は腰を据えて取り組みたいんです」「なるほど・・・国際刑事裁判所の検事の任期を確認した上で人教(人事教育部)に相談してみよう」法務官は納得した顔でコーヒーを飲み干した。私の山形の祖父・永乃進は平時の大正時代に徴兵で朝鮮半島へ出征して憲兵になった。その意味でも警務幹部として海外赴任することには特別な思いがある。
「室長、先ほど二村事務官が電話で話していた相手はA日新聞の記者だったようです。記事のお礼の電話でした」事務室に戻ると二村事務官は不在で曹長が困惑した顔で声をかけてきた。この曹長は各方面隊の法務官室から選抜した前任者の交代要員で単身赴任中だ。今度の曹長も前任者と同様に陸上幕僚監部で勤務している女性事務官とは思えない二村事務官の勤務態度と人間性に疑問と不満を持っているらしい。
「A日の記者に室長が日頃から指摘しているA日新聞の嘘を電話で質問して逆に色々と訊き出されたみたいです」そこにコーヒーを下げにいった1曹も戻ってきて、怒りを露わにしながら流しでカップを洗い始めた。これでは私の移動の話は漏らすことはできない。
「ワシに天下のA日新聞で個人的意見の発表の機会を与えてくれたのは二村由美ちゃんだったのかァ」結局、冗談にしなければ平静を保てない私の心理を察して2人は苦笑いしてくれた。

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- 2020/02/15(土) 12:59:09|
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慶応4(1868)年の明日2月15日に和泉国・堺(現在の大阪府堺市)で土佐藩士と入港していたフランス海軍の艦艇の乗員による銃撃戦が発生しました。
この頃、薩長土肥の反乱軍の主力は江戸と奥羽越列藩同盟を制圧するため東に向かっていて、関西では大政奉還した幕府に代わって反乱軍の居残り組が治安の維持に当たっていたのですが一歩間違えば列強との戦争に発展し、将軍・徳川慶喜公が恭順の意を示して謹慎しているにも関わらず無理やり戦争に引き込んだことを万国公法違反との批判を受けていた反乱軍は極めて難しい立場に陥るところでした。
慶喜公は鳥羽伏見の戦いで敗北すると大阪城を明け渡して軍艦・開陽丸で江戸へ逃げ帰り、
そこに反乱軍の最高指揮官である皇族(東征軍の有栖川宮とは別)が入っていたのですが、土佐藩はその警護に当たっており、事件を起こした6番隊はその交代のために大阪に向かったのです。ところが到着すると皇族は大阪市内に出ていて警護要員も島津藩士と交代していましたため面目を潰された土佐藩士の6番隊は増員された8番隊と共に幕府の大阪奉行所が機能停止した後の堺の治安維持を担当することになったのです。
この頃、フランス海軍の極東艦隊が大阪湾に入っており、1月11日には神戸の三宮神社で備前藩主の大名行列の前を横切った水兵を藩士が斬ったことで銃撃戦に発展した武力衝突が発生しており、本業は儒学者で過激な尊皇攘夷思想が蔓延していた土佐藩士でも最右翼であった6番隊長は栄誉ある皇族の警護を奪われたことに始まる鬱屈を溜め込んでいたのですが、そんな2月15日に在兵庫フランス副領事と臨時支那日本艦隊司令官を出迎えるためフランス海軍の小型高速軍艦が堺港に入ると12月に大阪湾でボートが転覆してアメリカ海軍の提督のボートが溺死した事件を危惧した司令官の命令で水深の測量を無断で始めたため、これを中止させると今度は上陸して派手に遊び回り始めたのです。
住民から苦情が出て6番隊が艦に帰るように説諭しても言葉が通じず、捕縛しようとすると土佐の旗印を奪って逃走しようとしたためこれを銃撃して事件になりました。当然、フランス海軍側は応戦し、市街地で銃撃戦が始まるとフランス海軍の見習士官以下11名が射殺、若しくは土佐藩士に海に投げ込まれて溺死したのです。土佐藩は稀代の悪徳武器商人・坂本竜馬くんによって毛利藩と同じくアメリカの南北戦争の終結によって余剰になった銃器を大量に入手していたため装備においてはフランス海軍と優劣はなく対等な銃撃戦だったようです。
幕末の毛利藩による馬関海峡での外国船砲撃事件の停戦交渉では尊皇攘夷に染まった過激公家の圧力で幕府が発した「異国船討ち払い令」が原因として賠償責任を幕府に押しつけましたが今回は土佐藩が負うことになり、6番隊長以下20名が自刃に決しましたが、土佐藩士たちは立会人のフランス軍人の前で平然と腹を切り、中には自分の内臓を掴み出し、大声で恫喝する者もいたため11名まででフランス側が中止を申し入れ、9名は助命されました。これほど藩に迷惑をかけていながら帰国した9名は英雄扱いされたそうですから土佐藩の狂気も毛利藩と遜色ありません。
- 2020/02/14(金) 12:51:25|
- 日記(暦)
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その日、私は監理部、人事教育部の事情聴取を受けることになった。とは言え法律の専門家である私が明確な法令・規則違反を犯すはずがなく、迂闊に「自衛隊の常識からの逸脱」として処断すれば「懲戒権の乱用」と告発しかねないだけに担当者も及び腰だった。
「君は自衛隊支持者が靖国神社を崇敬しているのを知らないのか」2佐の私の相手は課長クラスの1佐だが、私が自衛隊の常識を知った上であえて逸脱している確信犯なのも承知しているため質疑応答は空々しくならざるを得ない。
「統計上の数値で確認したことはありませんが、そのような傾向があることは承知しています」私は言葉を銃弾にして戦う法廷を職場にしているので回答にも隙を作らない。質問した監理部の課長は「そうだろうな」と呟いて口ごもった。
「今回の新聞記事の取材に当たり、事前にどのような説明を受けていたんだね」次は人事教育部の課長だが、こちらもプロを相手に試合を挑むセミプロと言う風情だ。
「私は先ず自衛官は保全規則でマスコミに自衛隊に関する意見を発表するには審査と許可が必要だからと断ったのです。すると自衛隊に関する質問ではないからと執拗にい下がったため応じざるを得なくなり、オフレコで私の氏名や所属は記事にしないことを条件に承諾しました」このような事情聴取では対象となる人間の言動の瑕疵を見つけてそれを厳しく追求することで罪の意識を与え、懲戒処分を受け容れさせるのだが、それは人事が「ひとごと」とも呼ばれる冷淡な感覚がなければ追い詰めることはできない。
「現在の民政党政権で松川国家公安委員長は数少ない理解者だ。君の発言によってその理解者を失うことになる可能性については考えなかったのか」監理部の課長は政治的影響を持ち出した。私が沖縄で勤務していた時、人一倍真面目な空曹が自家用車で海岸に遊びに行き、車内の座席の下に財布や身分証明書と外出証を隠して泳いでいたところ車上狙いに盗まれたことがあった。その時も本人が被害者であるにも関わらず身分証明書の紛失として服務規律違反に問われ、懲戒処分を受けた。事情聴取では群本部の総務人事班長の指導を受けた若い小隊長が紛失した身分証明書が過激派の不正入門に利用される可能性などを強弁し、本人の「他にどのような保管方法があったのか」と言う質問には一切答えなかった。私にも同じ手を使うつもりらしい。
「民政党議員の心証を害する可能性を考えて日本国憲法が保障する基本的人権の第20条の信教の自由と第21条の表現の自由の行使を禁ずるのは自衛隊法第53条に基づき施行規則第39条で定める『服務の宣誓』の『日本国憲法並びに各種法令を順守し』に背く惧れがありますから、それで私を指弾するのは控えた方が良いですよ」この往復問答は法律相談のようだ。実は「服務の宣誓」に「日本国憲法並びに各種法令の順守し」の一文が入ったのは昭和45年11月25日に憂国の作家であった平岡公威(ひらおかきみたけ=三島由紀夫)と門弟の森田必勝(もりたまさかつ)が東部方面総監部室で割腹自決を遂げた事件で、総監室前のバルコニーから下に集められた隊員たちに「何故、諸君らは自分たちを否定する憲法を守るのだ」と訴えたことを受けて、3年後に追加されたのだ。
「尤も民政党は祟神(たたりがみ)空幕長が幼稚な作文で賞をもらった時、文民統制違反などと政治問題化して自民党の防衛大臣に首を切らそうとしましたから(実際は定年を早めた自主退職)、憲法に対する理解は社人党と大差ないかも知れませんね。私を懲戒免職にはできませんが、自主退職して反戦弁護士に転職しましょうか」「それは脅迫かね」私は冗談めかして言ったつもりだが両課長は真顔で確認してきた。それにしても内局や陸上幕僚監部に新聞記事を読んだ松川国家公安委員長や野党になっている自民党の「みんなで靖国神社に参拝する議員の会」から抗議や批判が届いているのだろうか。おそらくそれが届く前に「厳しく処分しました」と回答するための下準備に違いない。それが自衛隊の1科的保身術なのだ。
「そうなるとモリヤ2佐には現在、法務省と外務省から打診されている人事を考えなければなりませんね」唐突に人事教育部の課長が飛んでも8分、歩いて15分な台詞を口にした。私としては2佐配置の師団、旅団の法務官でも四国の第14旅団か沖縄の第15旅団への左遷が希望だったのだが、法務省だけでなく外務省からの打診となると海外への赴任になる。
「アメリカとNATOの対イスラム戦争の軍事法廷にでも派遣されますか」イラクのサダム・フセイン大統領が極めて胡散な裁判の結果、処刑された時から私は法曹関係者として現地の軍事法廷に参加したいと秘かに希望していた。すると両課長は顔を見合わせて私を冷笑した後、人事教育部の課長が真顔になって説明した。
「オランダのハーグにある国際刑事裁判所の検事の話だ。判事は外務省の高級官僚の指定席だが検事は法曹界から出すのが順当だろう」地名が間違っている。正しくはデン・ハーフだ。
- 2020/02/14(金) 12:50:25|
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1992年の明日2月14日に戦時中は帝国陸軍の「有末(ありすえ)機関」と呼ばれた諜報組織の首魁として中国やソ連で活躍し、戦後は占領軍に出仕して任務を継続した有末精三中将の命日です。96歳でした。
有末中将は日清戦争が終わった明治28(1895)年に北海道の羊蹄山の麓で屯田兵大尉・京極農場(丸亀藩主・京極家が開いた農場)支配人・倶知安村長の長男として生まれました。大本営参謀として日米開戦の阻止に全力を尽くしながら果たせず、ラボール=ラバウルの今村均大将の参謀として勤務中、要務による帰国から飛行機で戻る途中で戦死した有末次(やどる)少将は2歳年下の実弟です。
有末中将は上川中学校(現在の旭川東高校)を経て陸軍士官学校に入営し、大正6(1917)年に成績優秀により恩賜の銀時計を受けて卒業しました。初度配置は札幌の歩兵第25連隊で、3年後にはシベリア出兵に参加しています。シベリアで中尉に昇任して帰国するとすぐに陸軍大学校に入校し、大正13(1924)年に再び成績優秀で恩賜の軍刀を受けて卒業しました。卒業後は参謀本部勤務になり、昭和3(1928)年にはムッソリーニ統領が政権を奪取していたイタリアのトリノ陸軍大学校に留学して昭和6(1931)年に卒業しました。帰国後は青森の歩兵第5連隊の大隊長の椅子に腰かけながら昭和7年には陸軍省に配属されて皇道派の荒木貞夫、統制派の林銑十郎両陸軍大臣の下で働きましたが、2.26事件が発生して帝国陸軍が動揺している昭和11(1936)年夏にイタリア駐在武官として日本を離れました(実弟の次少佐は入れ替わりにイギリスから帰国している)。イタリアでは歩兵中佐から航空兵中佐・大佐となって技術情報を収集し、昭和14(1939)年春に帰国しました。
帰国後は年末に大陸へ赴任しますが、その前の配置職だった陸軍省軍務局軍務課長として陸軍の将軍の中でも穏健派で皇室に好感を持たれていた阿部信行大将を総理大臣に就任させる政治工作で活躍したと言われています。こうして北支那方面軍(=後の関東軍)参謀として赴任すると活躍が本格化するのですが、本人はあくまでも大佐、少将、中将であって部下の諜報要員を指揮していただけです。
昭和20(1945)年に日本が敗北するとマックアーサー司令部は国共内戦で連合国の一員である国民党軍が劣勢に陥っている大陸の情報を入手するためには帝国陸軍の組織と諜報員を活用するのが得策と考え、その首魁である有末中将を秘密裏に招聘し、非公式な役職に就けて指揮を執らせ、共産党政権の成立から朝鮮戦争の勃発、ソ連との連携と対立などの動きを掴んでいたのです。そのため「有末機関」の諜報要員(多くは陸軍中野学校の出身者と言われている)は戦争犯罪人に指定されることはなく活動を継続していましたが、ほぼ全員が海外で消息を絶ち(ベトナム戦争にまで関与したと言われている)、全ては謎のまま歴史から消えていきました。
戦前の帝国陸軍当時の有末機関に関する資料は防衛研究所などが秘密指定がない極秘文書として秘蔵しているようですが、占領軍や戦後の資料は存在そのものが否定されています。
- 2020/02/13(木) 12:06:32|
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「今、朝鮮戦争の話が出ましたが、8月10日に日本では竹島と呼んでいる独島に韓国の李明博大統領が上陸したことはどう考えていますか」やはり口が滑ったようだ。A日新聞なら現職の幹部自衛官が韓国の政権を批判したことを取材名目で政府要人に伝え、外交問題に発展させるくらいのことは平気でやるはずだ。むしろ今もそれを狙っているのかも知れない。
「自衛官は自衛隊法第53条に基づき施行規則第39条で定める『服務の宣誓』で政治的活動に関与できませんからその質問には答えません」「なるほど。流石は弁護士先生ですね。自衛官に取材していて政治的な質問をすると『政治的行為の制限』を理由に断ることが多いのですが、自衛隊法を調べるとこの61条の規定は被選挙権と選挙活動に関する制限で拒否する理由にはならないんです。それを指摘すると焦って答えてくれるんですが、先生については諦めます」どうやら佐々木記者は誉めてくれたらしいが油断はできない。そこで反撃に出た。
「それにしても君は『日本では竹島と呼んでいる独島』と言ったが、日本での地名よりも韓国の呼称の方が正当だと考えているのかね」A日新聞が考えていることは紙面を読めば訊くまでもないが記者の口から聞き出すのは一興だ。電波法で政治的中立が義務づけられているテレビ局とは違い、新聞は広告掲載の減少と定期購読の契約が解除されない限り、言いたい放題書きたい放題なのだ。しかも近年では支社の統合整理によって使わなくなった主要都市に保有している土地の貸地収入が企業収益の中心になっているため遠慮する必要もなくなっている。
「我が社は近隣諸国の立場に配慮した紙面造りを心掛けていますから・・・」「すると日本海も東海と呼ぶんだね。紙面では気がつかなかったがな」私の追及に佐々木記者は目では不快感を全開にしながら口元には苦笑を浮かべた。法廷とは違い対戦相手との距離が近いので表情で心理を読み、読まれながらの論戦になる。これはこれで疲れる。
「それではモリヤ先生は日本には戦没者慰霊施設は必要ないと言う考えなんですね」「誰もそんなことは言っていないぞ。そもそも靖国は同じ日本人でありながら戊辰戦争の戦没者を差別しているじゃあないか。そんな靖国に戦没者慰霊施設を名乗る資格はない。しかし、国家を守るために命を捧げた英霊に礼を尽くすのは国際慣習でもあるから非宗教の施設を作るべきだね。無宗教ではなくて非宗教だぞ」これも他の言論人からは聞かれない意見らしく佐々木記者は口で確認しながらメモを取った。
「具体的にはどこが好いと思われますか。やはり千鳥ヶ淵ですかね」やはり戦没者を侵略戦争の犠牲者と考えているA日新聞としては千鳥ヶ淵の無名兵士の墓が好みらしい。
「千鳥ヶ淵も悪くはないが、個人的意見としては横須賀の記念艦三笠の公園が良いと思う。戦艦三笠なら世界的な知名度があるし、第2次世界大戦に限定した慰霊施設ではないことも理解される」この調子で話が長引くと単なる感想ではなく私個人のインタビュー記事になりそうだ。そうならないためにもこの辺で立ち話を打ち切らなければならない。
「本来、国家鎮護は奈良の東大寺と全国の国分寺が担ってきたんだ。それで1000年以上も平和が保たれてきた。ところが明治の廃佛毀釋で国家神道が盗って代わった途端に戦争が続発して77年で大日本帝国は滅亡した。国家神道の復活に賛同する政治屋の踏み絵になっている靖国なんぞは廃止して花見の名所の公園にするべきだ。これもあくまでも個人的意見だぞ。以上。昼飯を喰う時間がなくなるぞ」一気に捲し立てるとメモをしている佐々木記者に掌を見せて私は歩き出した。完全に喋り過ぎなのは自覚しているが、自衛隊に関する内容はないので保全規則上は問題ないはずだ。それにしても松川国家公安委員長は民政党の議員でありながら南京虐殺や(いわゆる)従軍慰安婦問題を否定している数少ない良識派なので批判はしたくなかった。問題は松川委員長が8月15日に「みんなで靖国神社に参拝する議員の会」の一員として踏み絵を踏んだ後の記事でどう使われるかだが、服務規律違反に該当しなくても厄介払いで崇徳上皇のように四国に配流してもらえれば佳織との近距離別居生活が再開できる。
「モリヤ2佐、やられたな」翌日の朝礼前、私は法務官に部屋に呼ばれた。ドアを開けると法務官は机の上に新聞を広げていて、前に立つと「靖国参拝は国家神道復活の踏み絵?」と言う見出しが目に飛び込んでいた。法務官は座ったまま私を見上げ、無表情に声をかけた。
「君が東京高裁でA日新聞の記者から取材を受けたことは報告を受けているし、内容もその通りだが、ここまで大きく取り上げられるとは思わなかったよ」法務官室で取っている新聞は法務官が呼んでから事務室に回ってくるためA日新聞はまだ読んでいない。
「これでは発言者が君だと特定されてしまうな」そう言って法務官は記事の隅の写真を指差した。そこには頭に毛がない制服姿の自衛官が佐々木記者の前に立っている後姿が写っていて、写真の紹介欄には「インタビューを受ける自衛官の弁護士=東京高裁」とある。おそらく別のA日新聞の記者が背後から望遠レンズ付のカメラで撮影したのだろう。見事だ。
- 2020/02/13(木) 12:05:11|
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