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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月1日・世界最初(最古?)のイギリス空軍が創設された。

1918年の明日4月1日に独立軍種としては世界初=最古のイギリス空軍、英語ではロイヤル・エア・フォースなので直訳すれば王室空軍が創設されました。
ちなみにイギリス海軍もロイヤルですが陸軍はブリテイッシュの名を冠しています。またイギリス海兵隊はロイヤル・マリン・コーでも帝国海軍の陸戦隊と同様に海軍の一部です。さらにイギリス空軍にはハー(男性の国王の時はヒズ)・マジェスティック・エア・フォース(HMAF=王の光栄ある空軍)、同ネービー、同マリン・コーと言う呼称もありますが、こちらも陸軍は適用外です。
アメリカのライト兄弟が1903年12月7日にノースカロライナ州キティホークの海岸で動力式飛行機による人類初の飛行に成功する前の1897年にフランス軍は自国の研究者と軍用機の権利の譲渡と実用機の購入の契約を結んでいましたが、実験に失敗して破棄していました。続いて1907年にアメリカ陸軍がライト兄弟と契約し、1909年に世界初の軍用機を導入しました。すると1910年にフランス軍と帝政ロシア軍も航空機運用部隊を創設し、1911年にイギリス軍でも、1912年にはドイツ軍とイタリア軍が飛行部隊を創設してヨーロッパの主要国は馬に代わる3次元の兵器の時代に向けて鎬を削り始めました。ちなみに一般的な戦史では「航空機を戦闘に使用したのは第1次世界大戦が始まり」になっていますが、イギリスでは植民地の部族の蜂起の鎮圧に使用していて未開人には人間が空を飛ぶこと自体が脅威であり、上空から威嚇すると武器を使わなくても散り散りに逃走したようです。
第1次世界大戦では上空から小型爆弾を手で投げ落す爆撃に始まり、操縦者同士が拳銃で射ち合う銃撃戦が航空機の発達に伴い複座式機の後席からライフルを射つようになり、それが機関銃になり、単座機に機愛の関銃を固定した戦闘機が開発され、航空作戦が飛躍的に本格化したため陸軍航空隊のヒュー・トレンチャー少佐が陸海軍の航空部隊を統合した空軍の創設を提唱したのです。当時のイギリス陸軍の航空部隊は工兵隊の一部だったものの海軍では水上機を実用化して、周辺海域を哨戒飛行して敵艦隊を早期に発見するなどの軍功で艦艇と同格の地位を与えられていました。ところが航空機を一律に空軍所属としたため艦載の水上機が艦隊司令官や艦長の指揮から外れ、空軍の指令を受けなければ使用でくなくなり、こちらは海軍に戻すなどの試行錯誤・紆余曲折がありました。
補足すればイタリア空軍は5年後、フランス空軍は15年後、宿敵であるドイツの国防空軍はヒトラー政権下の1935年ですから17年後と言うことになります。現在は空軍の代表面をしているアメリカ空軍は1947年ですが、こちらは陸軍航空軍団からの独立であり、空母艦隊で強力な航空部隊を運用する海軍航空隊とは別です。アメリカでは空軍の独立のために第2次世界大戦では陸軍、海軍以上の戦果を上げることが至上命題になり、その戦果とは敵=日本人を殺害した人数でしたから敗戦当日の玉音放送後の午後にまで執拗に日本各地の都市への容赦のない無差別爆撃を繰り広げたのもアメリカ空軍の独立を実現するための実績造りだったことになります。
  1. 2020/03/31(火) 14:17:01|
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振り向けばイエスタディ1871

そろそろ外気が肌寒くなってきた頃、私はリミッド次席検察官と共にモレソウダ首席検察官に呼ばれた。今回は前もってコートジワール内戦の告訴に関する調整会議と連絡を受けている。
「リミッド検察官、これまでの公判記録を読みましたが気になったことがあります」会議の冒頭、私はリミッド次席検察官に疑問を投げ与えた。リミッド次席検察官は2003年に国際刑事裁判所が設置されると分析官に任命され、2006年から現在の職にある。だから昨年末に着任したモレソウダ首席検察官よりもこれまでの公判には詳しいはすだ。
「ほう、セルフ・ディフェンス(自衛)専門の割にジャパニーズ・グランド・ジエータイ(陸上自衛隊)のオフィサー(士官)の英語力は大したものだね。太平洋に浮かぶ孤島の国だから自国語だけで十分かと思っていたよ」「ご存知のように日本の対岸の隣国はアメリカですから英語くらいは学校で習います。それでもドイツとフランスの迂回路の国のような訳にはいきませんよ」ベルギー人のリミッド次席検察官に仕掛けられるとどうしても皮肉の応酬になってしまう。オランダ人は過酷な搾取で支配していた植民地のインドネシアを第2次世界大戦で日本に奪われ、それが独立につながったことを逆恨みして、戦時中は国民を捨てて亡命していた女王は今の天皇に繰り返し謝罪させているが、ベルギーとは戦火を交えたことも外交的に対立したこともない。早い話が自覚のない人種差別なのだろう。
「それでモリヤ次席検事が気になったことと言うのは何ですか」私とリミッド次席検事が皮肉な笑いを浮かべて見合っていると、呆れたように眺めていたモレソウダ首席検察官が割って入った。確かに時間の無駄ではある。
「これまでの公判記録を見ると検察独自の見解が欠落しているように思うんです。どれも内戦の取材で現地に入った旧宗主国のマスコミの報道で非人道的な実態が問題提起され、それをヨーロッパ諸国の人権団体が政治問題化して政府に圧力をかけ、国際連合に持ち込んだものばかりです。検察が独自に調査した形跡がないとは言わないまでも、証拠は旧宗主国から提供を受けたものばかりで、証人も同様でしょう。これでは公判を維持できないのは至極当然です」私の英語での説明に2人は視線を合わせることなく黙って考えていた。すると例の甘いコーヒーを口に運んだモレソウダ首席検察官の隣りで、リミッド次席検察官が眼鏡の奥の青い目を少し険しくして口を開いた。
「内戦が終結したと言っても散発的な戦闘や残党による暴力行為は継続しているから治安維持を担当しているPKO部隊の協力を受けながら調査するしかないんだ。現地人からの事情聴取についても通訳が確保できない以上、英語やフランス語が話せる人間に限定されるのは仕方ないじゃあないか」「そうなると限られた階層からの情報に偏ってしまいます。それで実態が解明できるんですか」私の反論に今度はリミッド次席検察官がコーヒーを飲んだ。
「モリヤ次席検察官も知っての通り、間もなく始まるコートジワール内戦の公判では2011年11月29年に我が国際刑事裁判所としては初めて逮捕、拘禁したバグボ前大統領を主犯的被告とするんです。確かに告発に当たっての物的証拠と証人は旧宗主国であるフランスから提供を受けています」ここでモレソウダ首席検察官が会議を仕切り直した。
「訴追に準備した資料は読みましたが、これにも疑問があります。どうも始めからバグボ前政権が国民に圧政を強いて反対派を武力弾圧し、公金を横領して巨額の資産を蓄積し、主要産業のカカオ豆の権益を独占していたと決めつけて、その結論を証明するための証拠を集めているようにしか見えません。本来は現地に入って無作為に調査して大局的視点から違法性の有無を判断するべきでしょう。そもそもヨーロッパのマスコミはアジアやアフリカの国々を民主主義が未発展な後進国と見下す傾向が強いですから、バグボ前政権とワダラ現政権の間で繰り広げられた内戦についても慎重、かつ綿密に再検証するべきです。フランスとしてはバクボ政権が臣従しなくなり、カカオ豆の利益を自国内に落とすようになったことで邪魔になって排除するためにワダラ現大統領を擁立したとは考えられませんか」私としても国際連合の機関である国際刑事裁判所が安全保障理事会の常任理事国のフランスの意向に従わざるを得ないことは理解しているが、三権分立による相互監視機能が民主主義の基盤の1つであるのなら是は是、非は非として毅然とした態度を示すべきだと確信していた。
「それでは裁判そのものを否定するのかね」私の独演が終わると2人は黙り込んでしまったが、批判されたヨーロッパ人のリミッド次席検事が先に口を開いた。
「資料を見る限り、戦争犯罪が行われたのは間違いありませんから訴追するべきです。その前に足元を固めないと意味のない公判になってしまいます」私の回答にリミッド次席検事は難しい顔をしてモレソウダ首席検事を見たが、こちらは無言でうなずいていた。
  1. 2020/03/31(火) 14:15:45|
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振り向けばイエスタディ1870

梢のオランダ語教室が決まり、1日の時間配分が確定したところで私はモレソウダ首席検察官の承認を得て無給の私的通訳として勤務させることにした。やはり長年にわたり旅行社の窓口で外国人相手の説明や交渉、搭乗券の申請手続きや交付の仕事をしてきた梢とでは語学力が比較にならない。特に私は陸上幕僚監部に配属されてからはハワイに帰省する機会も減って語学力の低下を痛感していたので、これは恥も外聞もかなぐり捨てた窮余の策だった。
「リビアはガッダフィーが死んで裁判は中止、こちらのコートジボワール内戦は今、調査中なのね。これで国際刑事裁判所の公判記録は終わりです」読解が苦手な私は梢に各ファイルの英文を読み上げてもらった。私たちの意識は赤いケーブルで接続されているから即座に理解できた。これなら辞書を引きながら読み進めるよりもかなり時間が短縮できる。ただし、流石の梢も軍事と法律、公判の専門用語には首をひねっていた。
「素人の感想だけどアフリカの内戦は戦闘だけじゃあなくて終結後の裁判にも植民地にしていたヨーロッパの国の影響力が及んでいるみたい」ここまで6冊のファイルにつづられた紛争は全てアフリカで発生しており、その調査から告訴、証拠調べ、証人尋問、そして審議と判決に至る膨大な記録を読んできた梢は事件と公判の本質を感じ取ってしまったようだ。
「結局、ヨーロッパの国にとってはキリスト教徒だけが人間なんだろう。だから布教に応じない現地人たちには野生動物を家畜にするための調教はしても人間としての教育をしなかった。社会制度も一切整えなかった癖に第2次世界大戦が終わってアジアの植民地で独立運動が起こるとアフリカでもそれに呼応して民族蜂起が続発したから独立を承認した。この内戦の連鎖はヨーロッパ的な身勝手さで責任を放棄した結果だな」「植民地にされるまでインドや東南アジアには封建国家があったからアフリカとは違ったんだね」やはり梢の反応は佳織とは一味違う。最近はパジャマ・チャアティング(談笑)=オランダ版パジャマ・ミーティング(会議)も定例化しているので互いの距離感はさらに密着してきているのが判る。
「おまけにヨーロッパの国は独立後も支配権を維持するため子飼いの部族を手懐けて政権を樹立させたんだが、ソ連や中国がアフリカを狙って政府に従属しない部族に武器を与えた上で軍事顧問を送り込んで内戦を続発させたんだ。アメフリカはアフリカには関与しないからヨーロッパとソ連、中国の対決のはずなのにヨーロッパは足並みが揃わないで各個撃破されたと言うところだな」これが日本では報道されない事実だ。国際司法裁判所と国際刑事裁判所の公判でも調査に当たる旧宗主国は子飼いの政権側の違法行為は隠蔽し、反政府側の犯罪だけを物的証拠や証人を添えて立件している。その旧宗主国と内戦に介入した当事国がどちらも国際連合安全保障理事会の常任理事国ではお手上げだ。
「これからワシが担当するのはリミッド次席検察官が調査しているコートジワール内戦の告訴状と公判の台本の作成だ。コートジワール内戦についても日本ではほとんど報道されてなかったから予備知識がない。これからは村(スフラーフェン・ハーブの行政単位)の図書館に通って新聞を読まなければいけない。それにも協力してくれ」「勿論、一緒にいられるなら幸せ」梢は22歳の誕生日に贈り物の希望を訊ねた時の答えを繰り返した。あれから30年過ぎて続きを再開できる幸せは私も実感している。あの頃は愛情を全力投球でキャッチ・ボールしているような交際だったが、互いに50歳を過ぎて肩の力が抜けるとバトミントンよりも軽く、羽根突きのような気分だ。カチッ、カチッと言う羽根の固い錘(おもり)が羽子板を打つ心地よい音色も今の2人の反応・共鳴に似ている。
「この部屋には電子レンジがないんだね」昼食は梢が持ってきた2人分の弁当だ。最近のオカズは昔に返ってチャンプルが多いが、定番の麩や豆腐、ソーメンがないため豚肉や魚の切り身のチャンプルになる。ましてや南方の野菜の苦瓜や糸瓜を売っているはずがないので折角の梢の手料理でも大好物のゴーヤ・チャンプルとナーベラーの味噌炒めは期待できない。
「他の職員は1階の食堂で食べるみたいだから電子レンジまでは用意してないんだろう。ポットとコーヒー・ドリッパーまでだよ」言われてみれば冷蔵庫もない。幹部と営舎外居住者の陸曹が勤務していた陸上幕僚監部の法務官事務室室には冷蔵庫と電子レンジがあった。そのおかげで私も温かい自作弁当を食べていたが、国際連合が管理するこの施設では私物を持ち込むにも正式に申請して許可を受け、使用量増加分の電気代を支払うことになりそうだ。
「冷めちゃうとチャンプルは油が固形化して美味しくないでしょう。違うオカズを考えるわね」「オカズのタッパーを別にしてくれればポットで温めるよ。やっぱり梢のチャンプルがマーサイさァ」私が作ってもらった弁当を食べていたのは防府南基地の第1教育群の教育班長の時までだった。あの頃は美恵子も愛妻だったはずだがそれは単なる私の勘違いだろう。
つ・純名里沙イメージ画像
  1. 2020/03/30(月) 12:44:53|
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振り向けばイエスタディ1869

「何だ、モリヤくんからかァ」山口県防府市の田沼元准尉=和尚のアパートに国際郵便の葉書が届いた。今日は広島と島根の県境の山村にある自分の寺から帰ってきたところだ。郵便受けには宛名側が上になって入っていたので困惑しながら取り出したが、裏を見れば日本文でローマ字を読むと旧知の僧兵仲間のモリヤ・ニンジンなのが判った。
「オランダに転属したのかァ。やっぱり只者じゃあないな」アパートの玄関の前で速読すると文面は「10月1日付でオランダのスフラーフェン・ハーブにある国際刑事裁判所の次席検事として赴任しました」だけで、上半分には机の向うの書棚に祀った立ち阿弥陀像(後背の形から言えば浄土宗)の前で合掌している男女の写真が印刷してある。田沼和尚は佳織を知らないのでモリヤの隣りが元カノの梢とは思わなかった。
「本尊さんの両脇は観音さんと地蔵さん、もう一体は・・・。モリヤくんは浄土宗に宗旨替えしたはずだけど一向専一じゃあなくても良いのかな」田沼和尚は片手で鍵を開け、ドアを開けながら写真を観察した。浄土真宗では浄土三部経でも阿弥陀如来と共に衆生済度に活躍する観世音菩薩、大勢至菩薩を否定して阿弥陀への一向専一を説いているから佛像とは言えゾロゾロと並べているのは許し難い「異安心」に見えてしまう。この上、モリヤが北キボールで命を奪った3人の若者のためにクルアラーンも唱えていることを知れば同じ浄土教の信者として激怒するかも知れない。しかし、浄土宗の念佛は阿弥陀如来を選択(せんじゃく)するのだ。
妻の栄子は留守だ。田沼和尚が不在の間は孫の世話をするために娘のアパートへ行っているから小休止したところで迎えに行かなければいけない。その前に座卓の席に腰を下ろすと不在の間の新聞が古い順に積み上げてあった。
「オランダに行っちゃったんだったら加倍さんが復活しても新聞の県内版を送る必要はないな。それとも逆に日本の政権交代の情報が欲しいのかな。あの人は昔から勉強家だからね」9月21日に民政党の代表選挙で野畑首相が再選されたが、5日後に行われた自民党の総裁選挙では全国区の大手新聞は完全否定していた加倍晋三元首相が復活を果たした。以来、自民党は攻勢に転じ、国会論戦でも野畑首相を窮地に追い込み、大手新聞はそれを批判しているが国民の目にはどちらが正論なのかは明らかだった。ただし、田沼家では保守系のY売新聞なので民政党政権を批判する立場だ。これまでモリヤには宇部市出身の缶前首相や岩国市出身の広岡秀夫法務大臣に関する山口県内の記事を送っていたが、オランダに赴任すれば日本の政治に対する興味を失うのか、逆に情報がないだけに必要とするのか判断に迷うところだ。田沼和尚は駐車場の自動販売機で買ってきた日本茶の缶がまだ温かいことを確かめると開けて一口飲み、上から新聞を手に取って読み始めた。加倍総裁の追及は前任者の簡単に萎えてしまった矛先に比べて固く鋭く、読んでいて小気味よい。
新聞を2部呼んだところで壁時計を見ると妻を迎えに行く時間になっていた。読んだ新聞のうち、加倍総裁の活躍を称賛し、首相への復活を期待する地元の声を集めたページだけを別にまとめると田沼和尚は立ち上がった。
「昨日、買い物で中司さんに会ったら『昔、1教群にいたモリヤさんがヨーロッパに転属したらしい』って言っていたよ」娘宅からアパートに戻る車内で妻が意外なことを説明した。中司元1尉は現役時代からの友人で、近所に住んでいるため今も親しくしているが、「元1教群」と言う基準で噂話を察知すると不可解な人脈で真相を探求して広報してくれるのだ。
「うん、オランダの国際刑事裁判所に赴任したんだそうだ。今日、転属案内の葉書が届いてたよ」田沼和尚は前を向いたまま事実を説明した。田沼和尚は栄子から「娘一家とハウステンボスに行きたい」と言われていて、モリヤがオランダに赴任したことを知られると「現地の方が良い」と言い出さないか心配していたのだ。それでも最近は田沼和尚と栄子も加齢による体調不良を感じることが多くなっているから無理な海外旅行を希望するはずがない。どうせ行くのなら沖縄の本土復帰直後に赴任して部隊創設に尽力した那覇基地の現状をこの目で見てみたい。
「モリヤさんの奥さんって1佐なんでしょう。随分、優しい顔した1佐ね」家に帰ってモリヤからの葉書を見せると栄子は意外なことを指摘した。そう言われて葉書の写真を見直すと確かにモリヤの隣りの女性の微笑みは柔らかく、全身から優美で快活な雰囲気を発散していて威圧感は全くない。とても連隊長を務める1等陸佐には見えない。それでも昨年夏までの防府南基地司令で今は芦屋基地司令を務めている柏原敬子将補はその美貌と品位で防府市民からも絶大な人気を獲得し、基地開庁記念日では基地司令目的の来場者が大幅に増えたらしい。
「どう見ても夫婦じゃあないか」「それはそうだけど」栄子は田沼和尚の反論に唇を噛んでうなずいたがその顔は納得していない。実は田沼和尚も「謎」として胸に仕舞い込んでいた。
55・柏原敬子柏原敬子将補閣下
  1. 2020/03/29(日) 12:12:15|
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3月28日・ロシア人の作曲家でピアニストのラフマニノフの命日

1943年3月28日は帝政ロシアの偉大な作曲家とピアニストでありながら共産革命後はヨーロッパとアメリカに活動拠点を移していたセルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフさんの命日です。それでも海外に逃れたロシア人たちの政治団体とは距離を置き、ソ連がナチス・ドイツの侵攻を受けた時には祖国救済のチャリテイー・コンサートを開いて収益を送ったためモスクワ放送でも楽曲が放送されていました。
ラフマニノフさんは1873年にバルト3国の内側のノヴゴロド州でコッサクの血を引く貴族の家庭で生まれました。4歳の時に姉たちの家庭教師がラフマニノフ少年の才能に気づきサンクトペテルブルグからピアノの教師を呼んで教育をうけさせたのですが、9歳で家が破産したため両親が離婚し、サンクトペテルブルグで母親に育てられることになったのです。間もなく才能が認められてサンクトペテルブルグ音楽院に奨学金を受けて入学することができましたが、遊びたい盛りを音楽だけで過ごすことに嫌気が差したのか12歳の時には全科目落第と言う劣等生になり、母親は甥(ラフマニノフさんの従兄)のピアニストに相談してモスクワ音楽院ピアノ科に転入させ、音楽教育者宅で寄宿しながら英才教育を受けさせました。この音楽教育者宅で生涯敬慕することになるピョートル・イリイチ・チャイコフスキーさんに会って才能を認められ、和声や対位法(どちらも合唱の技法)、さらにロシア正教の聖歌を学ぶ機会を得たのですが、音楽教師はピアノ演奏以外のことに興味を持つことさえ許さなかったため、かえって作曲への意欲が抑えられなくなり、音楽院を卒業すると関係を断って同じ学院の作曲科に編入しました。そして1892年に作曲科の卒業作品の歌劇「アレコ」を発表すると大好評を博し、次々に作品を発表するようになりましたが、1895年の交響曲第1番が評論家や他の音楽家から酷評されて自信を喪失してしまったのです。その原因として当時、流行していたムソルグスキーさんに代表される民族派の楽曲に対してラフマニノフさんはチャイコフスキーさん直系のドイツ・ロマン派であり、民族主義者にとって格好の標的になったことがあります。結局、1900年と1901年に「2台のピアノのための組曲2番」と「ピアノ協奏曲第2番」を発表したことで絶賛を浴びて、ようやく自信を取り戻したのです。
1917年にロシア革命が勃発するとスカンジナビア半島諸国への演奏旅行に出てそのまま2度と帰国することはなく音楽家としての地位を捨ててしまいました。その後、1918年秋にアメリカへ移住し、ピアニストとして活動するようになりました。周囲に「何故、作曲をしないのか」と問われると「もう何年もライ麦のささやきや白樺のざわめきを聞いていない」と答え、自身の音楽がロシアで育まれた芸術であることを表明しています。
実はラフマニノフさんのピアノ作品には決定的な欠陥があります。それは本人が2メートル超える長身で手も1オクターブの鍵盤を同時に弾くことができる大きさだったため、それで書いた譜面は普通の手しか持たないピアニスト、特に女性には演奏が困難なのです。それでもラフマニノフさんの作品は単なる楽器の演奏ではなく、ピアノが魂を込めて唄っているかのような響きがあります。
  1. 2020/03/28(土) 12:30:00|
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振り向けばイエスタディ1868

「貴方、モリヤ中隊長さんから手紙よ。でもオランダからなの」北海道の名寄の官舎では帰宅した安川3曹に妻の聡美が思いがけない葉書を差し出した。現在、安川3曹は部内幹部候補生の1次試験に合格したので課業中は連隊の面接と集団討論の練習があり、終了後も中隊の勉強会で帰宅が遅くなっている。陸上自衛隊では幹部候補生の合格を「部隊の名誉」と考えているから最早、個人の問題では済まなくなっている。今日は聡美の仕事が休みだから会えたが、普段は入れ違いになるため面接の勉強として民放と国営放送のニュースを梯子で見ながら新聞や雑誌を熟読して待っているのだ。
「オランダからってモリヤ2佐が海外に転属したって話は聞いてないぞ」葉書を受け取って差出人と一緒に国名を確認すると確かに「Netherlands」とある。これは知らない国名だが聡美が言うのだからそうなのだろう。文章は日本語なので読解に聡美の手助けは必要ない。要するに「10月1日付でオランダにある国際刑事裁判所の次席検事として赴任した」と言うことだった。しかし、自衛隊の部内紙の幹部の移動欄に載っていたかも思い出せない(欄外に「外務省に出向」としか書いてなかった)。流石の聡美も国際刑事裁判所と言う組織に関する知識は持ち合わせていないようで、これ以上この話題は続かなかった。
「そう言えば田島中隊長もスリランカの在外公館警備官になるため小牧基地の英語課程に入るって言ってたぞ。俺が仕えた幹部の人たちはドンドン海外へ行っちまうな」田島1尉は名寄から松本の第13普通科連隊に転属していたが、モリヤ2佐と同じく曹侯学生出身だけに一般の学科が得意で、部内出身者が中心の在外公館警備官に選考されたと言う。スリランカは2009年5月18日に内戦が終結したばかりなのでモリヤ2佐の一番弟子を自認する田島1尉は熱望したのかも知れない。安川3曹も部内幹部候補生に合格すれば、その先には海外への道が続いているような気がしてきた。聡美なら海外に連れて行っても全く心配はない。
「オランダかァ、遅い新婚旅行にいきたいな」「新婚旅行は北海道で満喫してるんでしょう」安川3曹の提案に聡美は反論した。聡美が愛知県の高校を卒業するのを待って名寄で同居を始めた2人にとっては北海道での生活が新婚旅行だ。同居を始めて5年以上経つが一度も帰省せずに2人でまとまった休みが取れると北海道各地に出かけている。幹部候補生学校がある福岡県の前河原に一緒に行けばそれこそ2度目の新婚旅行ではないか。2人とも九州は未経験なので今から楽しみになってくる。
「でも幹部候補生に合格すれば真っ先に知らせたかったのはモリヤ中隊長さんと田島中隊長さんでしょう。住所を間違いなく記録しておかないとね」安川3曹が妙に浮かれた顔をしているのを見て聡美が少し現実に引き戻した。松山2佐の交代は初めて中隊長になった防衛大学校出身の若手の1尉で、部内の幹部候補生の選考を中隊対抗の競技会のように考えていて面接と集団討論の練習でも妥協を一切許さない。そんな体育会系の新中隊長に接していると松山2佐の頭脳の優秀さを実感してしまう。その一方で田島1尉と松山3佐の間には生徒から部内の吾妻1尉と3尉候補者出身の天野1尉がいたので幹部の出身別の品評会のようだ。ただし、何故か安川3曹のような新隊員出身の部内はいない。
「貴方が幹部候補生になれたら赤ちゃんを産んでもいいのよね」ここで聡美が唐突に確認してきた。安川3曹は部内の幹部を志すようになって聡美には入校による移動が一段落するまで子供は作らないと宣言していた。聡美としては官舎で子供を遊ばせている妻たちから「まだできないの」と質問される度に本当は安川3曹の子供を望んでいる気持ちがざわめき立ち、怒りでも哀しみでもない強い感情が胸を締めつけてくる。
「勿論、約束は守るよ。ドンドン産んでくれ。チーム安川を作りたいけど種目は何かな」安川3曹と聡美はどちらも2人姉弟なので大家族には憧れがある。その前に中隊の陸士たちに見せられるエロ動画の「中出し」と言う淫語の誘惑もあった。それにしても最近のエロ動画は女優が妊娠しないか心配になるほどアカラサマだ。勿論、夫婦であれば遠慮はいらないはずだが、言い出し屁が自重しなければならないのは当然だろう。
「やっぱりテニスのダブルスでしょう」「バスケットなら5人だぞ。バレーなら6人、ソフトボールなら9人、サッカーだと11人、ラグビーは・・・」「バスケットまでにしておいて」官舎にも4人の子持ちは何家族かいるが、賑やかで楽しそうな反面、両親は常に全力投球で子育てしているように見える。それも上の子供が仕切り始めるまでなのは間違いない。一番上が男なら運動部のキャプテン、女ならオッカサンになっている。その点、2人姉弟では互いに無視すればすんでしまうので人間関係は希薄だ。男同士、女同士であれば違うのかも知れないが、これから2人の家庭で検証するしかない。
け・葦田伊織イメージ画像
  1. 2020/03/28(土) 12:28:10|
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3月28日・ロシアの作曲家・ムソルグスキーの命日

1881年の明日3月28日は管弦楽曲「禿山の一夜」やピアノ組曲「展覧会の絵」を作曲したモデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキーさんの命日です。42歳でした。
野僧は中学時代からモスクワ放送を愛聴していたためロシアのチャイコフスキーさんやソ連のショスターコーヴィチさんなどの名曲に慣れ親しんできましたが、幹部候補生の時に音楽大学卒・音楽幹部指定・中央音楽隊長予定の同期が「禿山の一夜」を五厘刈りにしている野僧の「テーマ曲」に決めたためミュージック・テープを買う羽目になりました(他の同期が勝手に買ってきて代金を払わせられた)。
「禿山の一夜」は本来、民族派の作曲家5人組で共同制作を進めていたオペラ「ムラーダ」の一幕、「聖ヨハネの祝日=夏至の前夜に禿山に地霊が現れて、手下の魔物や幽霊、精霊たちと馬鹿騒ぎして、夜明けと共に消えていく」情景を描いた作品です。このためショスターコーヴィチさんの交響曲第5番第4楽章(日本では勝手に「革命」と言う題をつけている)の出だしと同じくティンパニの連打から始まる劇的な曲で、管弦楽曲に分類されながらシンバルなどの打楽器が非常に効果的に用いられている上、管弦楽器も一気に演奏を始めるなどの演出効果で非常に迫力があります。ただし、オペラ「ムラーダ」は共同制作としては未完成に終わったため他の作品に度々引用され、派生曲が複数存在します。
ムソルグスキーさんは1839年にバルト3国の内側に位置するプスコフ州の地方君主の末裔として生まれました。6歳の頃から母親にピアノを習うようになり、かなり上達したものの10歳でサンクトペトロブルグのエリート養成学校に入学すると軍人を志望するようになりました。そうして13歳で士官候補生になりましたが、多くの文化人と交流を持ったことで音楽に興味が移り、19歳で退役しました。この頃、美少年と出会い同性愛にも目覚めたそうです。退役後はロシア帝政の文官に転身するのと同時に高名な音楽家からドイツ音楽を学んで作曲活動を本格化させますが、豪農でもあった実家が没落してしまいました。ところが謝礼が払えなくなったことで音楽家からの指導が受けられなくなり、かえって自由な作風を追及していったのです。しかし、1865年に母親が病没すると喪失感を忘れるため酒に溺れるようになり、これが死因となるアルコホール依存症につながっっていきました。オペラ「ムラーダ」が頓挫すると1872年に「禿山の一夜」を合唱曲に改作し、これが好評だったことでムソルグスキーさんは人気作曲家に加わりましたが、この頃からアルコホール依存症が深刻化して、1880年に公務員を失職すると生活が困窮したため1881年には年頭から4度も心臓発作を起こし、この日を迎えたのです。
「展覧会の絵」は友人の画家・ヴィクトル・ハルトマンの遺作展で10枚の絵を見た時の心の動きを曲にした作品で、それぞれの絵画の全く異なる印象を曲で説明しているだけでなく、歩いていることを表現した「フロムナード」の曲調も変えて、見た絵を考えながら次に向かっていることを聴く者に暗示しています。野僧は春日基地で親しくしていた西部航空音楽隊長に「(展覧会の絵の)フロムナードを徒歩の巡閲に使えないか」と提案したことがありますが、「盗作はできない」と拒否されました。
  1. 2020/03/27(金) 12:27:28|
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振り向けばイエスタディ1867(実際の会話に近いです)

「雄馬、外国から手紙だよ」「アンタに読めるの」愛知県豊川市のモリヤ家で同居している近野雄馬が帰宅するとリビングでテレビのドラマを見ていた祖母が手紙を渡し、母が水を差した。女2人の声を聞いて弟の聡馬も振り向いた。雄馬は会社を終えた後、市内のサッカー・チームの練習に参加してくるため1人だけ夕食が遅いのだ。
「ミッフィーの切手かァ」「可愛いね」「何言ってんの、ウサギならパックス・バーニーに決まってるじゃん」雄馬と祖母が封筒に貼ってある切手を見て誉めると横から母が嫌みを言った。この母は根っからのディズニー狂だが、このウサギが主人公のアニメがワーナーの作品であり、正しくはバッグス・バニーなのを知らないらしい。ヒョッとするとタイニー・トゥーンと一緒にしている可能性もある。何にしてもこれがモリヤ家とその娘の近野家の知的水準だから読めない横文字の手紙は床に置いたまま触れずに放置していたのだろう。
「雄馬、晩ご飯は読んでからにする。先にする」夕食の準備に台所へ向かった祖母が声をかけた。雄馬は横文字の「Moriya」と言う差出人の姓が「モリヤ」であり、伯父ではないかと推理した。しかし、伯父は実家と絶縁しているため淳之介からのメール以外に情報がなく外国に住んでいると言う話も聞いていない。伯父からの手紙であれば中身は日本語のはずだ。雄馬は返事の代わりに食卓の横の棚に置いてある棚の引き出しからハサミを取り出し、それを見て祖母は椀に注いだ味噌汁を鍋に戻した。
「伯父さん、オランダに転勤したんだァ」冒頭の説明を読んで雄馬は大声を上げてしまった。それを聞いて聡馬も立ち上がって手元の手紙を覗き込んだが、それを見えないように隠すのが雄馬の性格だ。この小意地が悪いところは手紙の差出人を除くモリヤ家の血筋かも知れない。
「何だ、日本語じゃない。英語の手紙が読めて雄馬は凄いなァって感心して損しちゃった」すると知らない間に背後に来ていた祖母が皮肉を言った。こちらの血にも少し意地悪なところがある。その点、雄馬と聡馬の母は意地悪するほど知恵が回らない。
「オランダかァ、フランダースの犬だよね」祖母と息子の騒ぎを聞いて母が反応したが、これは間違っている。「フランダースの犬」の舞台になったアントワープはベルギー北部の古都だ。それでも景色に風車が出てきて木靴を履いていればオランダになり、それを訂正する者がいないから間違った知識に納得するのがこの家だ。
「国際刑事裁判所って何をするところなの」雄馬が手紙を読み上げると工業高校3年生の聡馬が質問した。ここで質問相手を指定すると回答できないことを「恥をかかせた」と激怒されるため独り言にするのがこの家で生きていく上での知恵だ。案の定、誰も答えない。聡馬は質問したことを反省しながら聞き役に回った。母も4年生までは伯父と同じ矢作南小学校に通っていたが、仕上げが宝飯郡一宮町内の小学校だったことが致命傷になっているようだ。
「この人はあかりさんのお母さんじゃあないの」伯父も実家の知的水準を踏まえて必要最小限の短文にしており、もう1枚の紙にはとてつもなく広いリビングで仲睦まじそうにたたずむ男女の写真が印刷してあった。雄馬がそれを回覧すると聡馬が余計なことを発見した。この中で淳之介とあかりの結婚式に出席したのは従兄弟の雄馬と聡馬だけだ。祖母と母も佳織には会ったことがあるが、15年近く前なので顔を覚えていない。祖母が引っ手繰るように奪い取ると自室でテレビを見ている祖父を大声で呼んだ。
「あかりの母親って任人の昔の恋人じゃあなかったっけ」「今は元カノって言うんだよ」祖母の質問に母親が馬鹿な答えを返した。すると祖父は感心したようにうなずいた。この父親の娘への溺愛は永遠に続くらしい。
「そうだよ。お祖母ちゃんが引き裂いたんでしょう」この家では祖父を責めることは禁句で、都合が悪いことは一番立場が弱い者に押しつけるのが作法だ。伯父がいればその役になる。
「何で昔の元カノと一緒に暮らしてるんだ。不倫か」祖父は母の説明を中途半端に流用した。ただし、2人がつき合っていたのは30年前なので「昔の元カノ」でも間違いではない。
「堅物の兄ちゃんがそんなことするはずないだらあ」「でもあかりのお母さんも素敵な人だったよ」「伯父さんってもてるんだね」すると話が迷走を始めたが、聡馬の一言に祖父は対抗意識を燃やして睨みつけた。現在のこの家では伯父の代役は聡馬が演じているらしい。
「アイツは淳之介の母親と結婚しながら佳織と子供を作ったんだ。やっぱり寺の祖父さんに似たんだな」「お祖父さん、聡馬の前でその話は・・・」祖母は責任を自分の父親に押しつけられたことには反論せず、高校生の聡馬の前で不倫を揶揄したことを嗜めた。
「寺の祖父ちゃんってスケベだったの」「部屋に外人女の裸のカレンダーを貼ってたね」「お兄ちゃんと一緒じゃん。グェッ」ここで聡馬が雄馬の秘密を暴露したためいきなり腹を殴られた。
  1. 2020/03/27(金) 12:25:53|
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振り向けばイエスタディ1866(一部、実話です)

「おい、少し早いが今年の胡桃(くるみ)だぞ」今日も船岡町郊外の森の奥の小山の上にある桃爺夫婦の旧宅跡に設置した宿泊施設兼演会場=想起庵の整備に励んで帰宅した茶山元3佐は妻の静(しずか)に途中で収穫した胡桃と山わさびを手渡した。関東や中部地方では胡桃の収穫は10月下旬からと言われているが東北地方ではもう少し早い。山わさびの根はそのまま磨り下ろせば辛さでご飯が進む1品になる。
「貴方、外国から手紙よ」7つ道具を倉庫に片づけて居間に上がった茶山元3佐に静が台所から声をかけた。腰を下ろした炬燵の上には横文字で住所を記した封書が置いてある。手に取って見ると切手は女王の横顔だがイギリスではなさそうだ。
「ネーデルランドって聞いたことがあるな」「聞いたことあるけどどこだっけ」茶山元3佐は切手の上部に書いてあるアルファーベットを読んで声をかけたが、静の返事も相槌だけだった。考えてみれば切手の国名を読むくらいなら差出人のローマ字表記を読めば早いのだが、国際郵便の差出人は外国人と決めつけているため後回しにした。そもそも「Ninjin T(大空=僧侶の道号).Moriya」と言う氏名は日本人とは思えない。
「開けて読んでみなさいよ。カンボジアの友だちかも知れないよ」封筒を弄んで躊躇している茶山元3佐にお茶を持ってきた静が声をかけた。静としては夫が外国人と知り合ったのはカンボジアPKO以外には思い当たらないのだ。とは言え英文でも自信がないのにネーデルランド語ではお手上げだ。それでもハサミを手渡されてしまっては開けざるを得ない。静が好奇心丸出しの顔で覗き込んでいるので仕方なく封筒の上辺を切った。
「日本語じゃあない。誰からなの」「モリヤくんだ」中身はパソコンでA4版の紙に2枚の手紙だった。最後の署名が毛筆なのもいつも通りだ。実際、モリヤと知り合ったのはカンボジアPKOだったから静の勘は当たっていた。
「モリヤくんはオランダに転属になったそうだ」「モリヤさんって2佐で弁護士だったわよね」自衛官の妻生活を務め上げ、無事に定年を迎えた静も外国駐在の役職に詳しい訳ではない。むしろ最近は幹部だけでなく陸曹の旧部下たちからも「PKOに参加した」と言う便りが届くため混乱の方が先に立っている。そんな中、モリヤについては息子夫婦を自宅に宿泊させたことがあり、海上自衛隊のイージス護衛艦と漁船の衝突事故の裁判のニュースで顔が映ると教えられるので特に親近感を抱いていた。
「国際刑事裁判所の次席検察官になったんだとさ。昔から英語が得意だったからな」カンボジアで一緒になった時もモリヤは英語力を買われて指揮所の通訳要員だった。その後も北キボールPKOに同様の職務で参加しているから語学力は維持しているらしい。
「ふーん、日本で出せば安上がりだった転属案内が急な転属で国際郵便になってしまったって嘆いているよ。急にオランダへ行けなんて法務幹部は大変な職務なんだね」茶山家に限らず地方の自衛官の多くは保守系のY売新聞を購読しているので(都市部ではS経新聞になる)、モリヤが二村由美事務官にはめられたA日新聞の靖国批判記事は知らない。だから唐突にオランダへの転属を命ぜられたと解釈したようだ。
「何々、『ご下問があった梅沢道治中将についてはイージス艦の裁判の証人尋問が終わり、審理が中休みになったところで目黒の防衛研究所に行って調べようと思っていましたが、今回の転属で不可能になりました。誠に申し訳ありません』だそうだ。梅沢閣下のことはモリヤくんに訊けって言ったのはお前だぞ」「上原さんじゃあなかったっけ」茶山家の茶の間に宮城県出身の梅沢道治中将の話題が上ったのは年末の連続ドラマ「坂の上の雲」の時だった。日露戦争の旅順要塞攻城戦で日本軍が映画「203高地」のように坑道を掘っていたのかに疑問を感じたことから日本工兵の父である上原勇作元帥に関心が移り、そこから日露戦争で活躍した梅沢道治旅団長に広がったのだった。静が戦史に詳しいモリヤに訊くように勧めたのがどちらだったのかは今となっては思い出せない。
「防衛研究所には母方の曾祖父の青山寛少将について調べるために行くつもりでしたから気にしないで下さいかァ。モリヤくんの曾祖父さんは陸軍少将だったんだな」モリヤは手紙では触れていないが青山少将は日露戦争では有名な橘大隊の中尉の小隊長として沙河の激戦にも参加している。その意味では由緒正しく血統書つきの軍人・自衛官なのだ。
「オランダじゃあ日本の食べ物が手に入らないんじゃあないかしら。何か送ってあげようかな」茶山元3佐が軍人の話題に興味を巡らせていると静が女性としての思案を発揮した。今でこそ日本ではヨーロッパやアメリカ、中国の料理を「洋食」「中華」と区別しなくなったが、オランダで日本料理が普及しているとは思えない。確かに妙案ではあるが問題は送料だ。
  1. 2020/03/26(木) 11:20:16|
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振り向けばイエスタディ1865

照子は妊娠5カ月に入るとつわりも収まり、ラジオの収録も元の名調子に戻っていた。これまでは洗面器を足元に置いていて、吐き気を催すと歌が流れている間に嘔吐してスタジオの洗面台口をすすぐだけで放送を継続していた。
「こんばんは こんばんは こんばんは も1つおまけにこんばんは 雪うさぎです。今年も大雪山の山頂に雪が積もって雪うさぎの季節がやってきました」北海道の屋根である大雪山系は9月中旬には初冠雪する。しかし、それから1ヶ月が過ぎても今年の秋は気温が高く、まだ積雪は少ないようだ。このため旭川からの遠望では雪は見えない。
「最初のメールは旭川市内の醤油ラーメンさんからです・・・そうですね。札幌が味噌、函館が塩なら旭川は醤油ですよ・・・妊婦になった雪うさぎさん、調子はどうですか・・・おかげさまで母子ともに元気です。私の勘違いはラジオでも告白しましたけど、今は5カ月に入ってようやく落ち着いてきました」夏の放送中につわりを起こした時、照子はそこから起算して10カ月後に出産すると勘違いしていたが、旦那さまと産婦人科に通院すると最終月経日からの計算で5週間目に入っていた。つまり予定日は初夏ではなく春だった。
「ウチの嫁も30歳過ぎの初産でしたから色々と心配でした・・・優しいんですね。ウチの旦那さまも優しいけど牧場の仕事と屯田兵の訓練もあるから中々私にまで気持が回ってきません・・・」森田士長が広橋牧場で働き始めて間もなく1年になるが、慣れてくれば要領を使って楽をするのとは逆に自分で探して仕事を増やし、訓練も限界を追及して厳しくするばかりだ。そのため照子が帰宅しても部屋に1人で待たされることになり、時には「仕事と私のどっちが大切なの」と妊婦の情緒不安定を妙な嫉妬にしてしまうこともある。
「そこでお2人の子供さんのためにこの歌をリクエストします。胎教にも好いですから家でも聴いて下さい・・・へーッ、沖縄の歌ですね。古謝美佐子で『童神』です」メールを読み終えてガラス越しに担当者に視線を送ると間もなく三線(サンシン=蛇皮線)の音色が響き始めた。ここで照子は手を喉から胃に這わせてつわりの前兆を確認したが異常はない。照子はホッと溜息をつくと歌を聴きながら資料を確認し始めた。
「天(てぃん)からぬ恵み 受きてぃ此(く)の世界(しけ)に 生まりたる産子(なしぐわ) 我身(わみ)ぬむい育(すだ)てぃ・・・」シマグチ(沖縄方言)の歌詞では取聴者には理解できない。そう考えた照子は夏川りみのヤマトグチ(標準語)の歌詞カードを用意している。それを読みながら古謝美佐子の歌を聴くと意味が胸に染みてきた。
「・・・泣くなよーや ヘイヨーヘイヨー 太陽(てぃだ)の光受きてぃ ゆういりヨーや ヘイヨーヘイヨー 勝(まさ)さてぃ給(たぼ)り・・・」この素朴で力強い親心を噛み締めていると目に涙がにじんできた。夏の放送では植村花菜の「トイレの神様」の祖母が死んだ場面で湧き出た涙を飲み込んだことがつわりを誘発した。照子は机の上のティッシュを取ると唾として涙を吐きだした。するとそこで曲が終わった。
「どうも有り難うございました。沖縄方言では歌詞の意味が判りにくいかも知れませんが、天から授かった子どもを我が身にかけて育てる。太陽の光を受けて立派に育ってちょうだい。夏には涼しい風を送り、冬には懐に入れる。月の光を浴びて大人に育ってちょうだ。南風が吹く此の浮世を渡る。風が強くても花を咲かそう。天の光を受けて偉い人になってちょうだい。と言うような歌詞だと思います」実は夏川りみの歌詞カードでも沖縄固有の単語や微妙なニュアンスは理解できなかった。それでも北海道の取聴者には十分だろう。
「この歌は1997年に古謝美佐子が作詞してNHKのみんなの歌で流れたのだそうです。でも私は2003年の『ちゅらさん2』で恵里の弟の恵達の子供を祥子が産む時に東京の居酒屋・ゆがふで古謝美佐子が蛇皮線を引きながら歌っていたのを憶えています。旦那さまば中学時代を沖縄で過ごしたから子供が生まれたら子守唄に唄ってくれるかも知れません。でも折角なら沖縄方言で唄って欲しいな。標準語にすると何だか替え歌みたいですから」おそらく広橋牧場で放送を聴いている森田士長は悩んでしまったはずだ。自衛官の息子として沖縄で過ごした森田士長は中学校の友だちは官舎の同級生が中心で、シマンチュウ(沖縄の人)は部活動の仲間くらいだった。だから沖縄方言が得意な訳ではない。
「醤油ラーメンさんのおかげで私もただの妊婦から母親候補生になれたような気がします。もう一度、有り難うございました」照子は次のメールに移ったが、ガラスの向こうで担当者は難しい顔をした。照子の産休の問題はつわり騒動の後にも議題になったのだが、照子の体調が落ち着いたことで先送りになっている。東北地区太平洋沖地震後のDJボランティアの時は震災を伝える特別番組で埋め合わせたが、今回は人気番組を代行できる者が見つからないのだ。照子の本業である本屋の店員は経営者が高校時代からの友人だけに期限なしの産休になった。
く・音無響子イメージ画像
  1. 2020/03/25(水) 12:24:19|
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振り向けばイエスタディ1864

10月中旬になって佳織は伊丹の伊藤家の墓に参った。坊主である夫は明治の廃佛毀釋を許さず、本来は宮中行事=神道の儀礼である春秋の彼岸ではなく太陰暦4月8日の清明(シーミー)節と同8月15日の秋夕(チュソク)に墓参していた。今年の秋夕は9月29日の土曜日からだったが10月上旬に連続する採用試験の準備のため今日まで来られなかったのだ。
「佳織ちゃん、今年の秋夕は遅かったね」「うん、採用試験が終わるまでは身動き取れなかったのよ」墓参の後は亡き母の友人であるママさんの店に寄るのが習慣だ。それでもスナックは70歳を過ぎた頃に止め、今はカラオケが歌える喫茶店として昼間だけ営業している。そのためカウンターの正面の壁の棚はキープ・ボトルに代わって馴染み客との記念写真の額が並んでいる。そのカウンターも今日は貸し切りだ。
「それでもモリヤさんは佳織ちゃんがアメリカに行っている間も東京から日帰りで来ていたよ」ママさんの口調が少し厳しくなったが佳織は聞き流してコーヒーをすすった。そんな態度にママさんはカウンターに両手をついて身を乗り出した。
「ここは貴女のお母さんとお祖父ちゃん、お祖母ちゃんのお墓なんだし、高松からならそれこそ日帰りでも来られたでしょう。モリヤさんだって春は新学期(新年度の間違い)、秋は演習の事故なんかで仕事が溜まっているって慌てて帰っていたんだよ」要するに佳織の母親と祖父母の供養が血縁のないモリヤよりも粗略になっていることを叱責しているようだ。
「あの人は坊さんだもん。自衛隊と法要は同価値の仕事なのよ。でも私は自衛官専業だから可能な範囲で最善を尽くせば良いの。あの人もそう言っていたわ」佳織の反論にママさんは身体を起こして腕を組んだ。その目にはいつもは見せないかすかな侮蔑の色が陰っている。
「それはモリヤさんが貴女に負担をかけないための許しであって、できない分は自分が肩代わりするつもりだったのよ。実際、そうしてくれてたじゃない。典子の人生を考えたら貴女の供養がなければ救われないってことが判らないの」ママさんの指摘に飲んでいるコーヒーが急に苦くなった。母の典子は東京の大学を卒業後、横田基地に就職して郵送機のパイロットのノザキ中佐と知り合った。やがて結婚するとハワイに移住して佳織を生んだのだが、ベトナム戦争の激化でノザキ中佐は帰宅できなくなり、夫を日系人部隊第442戦闘団で失った義母からは軍人の妻としての銃後の守りを指導され、佳織の育児も重なって心労から体調を崩すようになった。結局、佳織が13歳の時に離婚して帰国したのだが、佳織は日本の中学校の担任の教師に性的関係を強要されたため家を売って神戸のアメリカン・スクールに転校させた。その後は祖父の病気、祖母の介護で自分の子宮癌に気づくのが遅れ、佳織がアメリカの大学に留学中に病没した。そんな母の魂を悲しませるようなことが許されるはずがない。佳織の顔から表情が消えたのを見てママさんはあえて追い討ちをかけた。
「結局、モリヤさんは昔の恋人と一緒にヨーロッパへ行っちゃったんでしょう。どうして貴女がついていかなかったの。自衛隊だって仕事を長く休むことはできるんじゃあないの」佳織はママさんが自分を「貴女」と呼んでいることに気がついて、空になったカップを皿に置くと地方協力本部勤務で身につけた営業用スマイルを浮かべて見返した。
「私は1佐であの人は2佐なの。職責が違うわ」「そうかしら。私が見る限り人間力はモリヤさんの方が数段上よ。貴女は自衛隊が女の活躍を宣伝するのに利用されているだけじゃあないの」自衛隊の幹部人事としては幹部候補生学校の卒業序列から指揮幕僚課程卒、アメリカ陸軍指揮幕僚大学院への留学と佳織がモリヤよりも上位に置かれ、差が開いていくことの根拠は十分だが、伊丹市内の企業経営者たちが利用していたスナックのママさんの眼力も否定はできない。
「今のままモリヤさんが昔の恋人と暮らして『残りの人生の伴侶はこの人だ』って気持ちになっても責めることはできないよ。これから貴女はその覚悟を持って自分の仕事に打ち込むことね」このママさんの言葉に佳織は反応しなかった。その時、有線放送が関西限定の大歌手の曲を流し始めた。これはやしきなかじんの「やっぱ好きやねん」だ。
「もう一度、やり直そうって 平気な顔して 今更 さしずめ振られたんやね・・・」佳織にとってやしきなかじんは関東地方では放送していない報道バラエティー番組「なかじんのそこまで行って委員会」をママさんに録画して送ってもらいモリヤと2人で見て語り合ったものだが歌を聞くのは久しぶりだ。
「・・・やっぱ好きやねん。やっぱ好きやねん。アンタやなきゃあかん。ウチは女でいられん・・・きつく抱いてよ 今夜は」佳織は鼻の奥に塩辛い水が大量にあふれ出したが、目からはこぼさなかった。この身体まで制御できる冷淡なほどの自己抑制力が感情を素直に露わにするモリヤを超えている点でもある。しかし、ママさんは哀しそうな目で佳織を見詰めていた。
  1. 2020/03/24(火) 12:32:23|
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振り向けばイエスタディ1863

オランダでの梢との生活が昔のリズムを取り戻して自然になってきた頃、2人で晩餐を楽しんでいると固定電話が鳴った。するとリビングに向かって座っている梢が立ち上がった。
「ハロウ。あら、志織ちゃん」最近、梢は電話にオランダ語で出るので挨拶が少し重い。それでも後半は一気に軽くなった。どうやらハワイの志織かららしい。
「うん、楽しくやってるよ」「うんうん、お互いに20歳過ぎの頃に戻ったみたい」「はい、とっても幸せです」志織からの電話なら私に用件がありそうだが、梢が談笑を始めてしまった。それにしても実の娘の志織が父親が一緒に暮らし始めた元カノの梢と親しく話しても良いものなのだろうか。尤も梢は兄の義母だから単なる元カノよりも関係は少し深い。
「ふーん、志織ちゃんもオランダに来たことがあるんだ」「へーッ、ミッフィーの街かァ。今度2人で行ってみよう」この調子では料理が冷める前に食べておいた方が正解な気がしてくる。今日の料理は素麺の代わりに極細パスタを使ったパスタ・チャンプルだ。沖縄風味のナポリタンのようでもあるが、やはりソーメン・チャンプルの方が近い。
「それじゃあお父さんに代わるね」パスタ・チャンプルを食べてパンを千切って口に入れようとしたところで梢が談笑を終えた。私はマグカップの牛乳を飲んでから受話器を受け取った。
「ダディ、新入隊員必携と自衛隊用語対訳集をありがとう」この第1声で用件は了解した。オランダに出発する前に日本から送った陸上自衛隊の新隊員必携=いわゆる赤本と自衛隊用語の和英辞典のお礼らしい。考えてみれば2人で過ごす幸せな気分のままシャワー、ベットに入るので志織だけでなく沖縄の淳之介やあかり、四国の佳織に電話をしていなかった。勿論、梢は私が出勤した後に8時間の時差を調整して沖縄に電話をかけているようだが、志織は11時間と昼夜が逆転していることもあり電話できなかったのだ。
「あの本、私が貰ってしまって大丈夫なの。自衛隊の秘密みたいなことが一杯書いてあるじゃない」最初の質問は保全からだ。確かに自衛隊用語対訳集は兎も角として新入隊員必携には基本教練から射撃、戦闘動作、歩哨、徒手格闘、銃剣格闘、さらに89式小銃の分解結合まで新入隊員課程で習う内容が詳細に記載されている。
「あれは駐屯地の売店で買ったんだから秘密指定はされてないよ。お父さんは沖縄でアメリカ軍版を買って研究したからアメリカ軍でも同様だろう。それでも一般人の目に触れさせるのは好ましくないな。志織個人の勉強に使って家から持ち出さないようにしてくれ」これは郵送した時に挟んでおいた注意書きの再確認だ。
「うん、そうしてるよ。でも大学のROTC(予備士官訓練課程)で習う動作と違うところが多くて家で練習していったのが役に立たなかったわ」流石の我が娘・志織は新入隊員必携で予習して個人的に事前訓練も実施したようだ。
「基本教練の回れ右1つ取ってもアメリカ軍は2動作、自衛隊は3動作だから全然違うだろう。アメリカ軍には10度と45度の敬礼はないしな」「うん、自衛隊は両踵を支点にするけどアメリカ軍は左踵と右爪先だから困っちゃった。だからグラダディに教えてもらったんだ」言われてみれば志織が暮らしているノザキ家には軍人の祖父がいるのだから始めから教官を依頼すれば良かったのだ。急な移動で多忙だったとは言え自分の迂闊さに苦笑してしまった。
「今のところは基本教練だろうけど地上戦闘や射撃が始まると動作が違うから益々混乱してしまうぞ。お祖父さんに習った方が良いな」地上戦闘の「その場に伏せ」の動作も、自衛隊では帝国陸軍の全長127.5センチの30式歩兵銃を携行しての柔道の横受け身のような動作を頑なに守っているが、アメリカ軍は銃口に異物が入らないように上に向けながら下半身からしゃがむように倒れ込み、身体を銃床で支えて寝射ちの姿勢に移行する。実は自衛隊でもM1ライフルやM1カービンの頃にはアメリカ軍式を採用していたのだが、64式小銃が銃床への衝撃で暴発する欠陥が露呈したため帝国陸軍出身者が勿怪(もっけ)の幸いと「安全対策」の名目で復活させたのだ。白兵戦が廃れた第2次世界大戦の時点で万歳突撃の自殺手段に成り下がっていた銃剣道を自衛隊に持ち込んで銃剣格闘や徒手格闘の訓練を阻害させたのも帝国陸軍出身者だ。私は戦後の日本で蔓延している日米開戦に反対した海軍は正しく、日独伊三国軍事同盟を進めた陸軍は悪と言う単純で表層的な歴史観に与するつもりはないが、日露戦争で帝国陸軍は何かを間違えてしまったのは確かであり、それが陸上自衛隊に悪しき影響及ぼしているのは組織の一員として許し難い。
「でも夏休みや冬休みには野外での演習も始まるからダディに教えてもらうことが一杯出てくるわ。私は海軍要員のミジップマンだけどROTCの間は陸海空海兵隊も大差ないみたい」前川原の一般(部外)課程は白紙からだったが、アメリカの士官候補生課程は仕上げのようだ。
  1. 2020/03/23(月) 12:25:20|
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3月22日・湯口事件=読売巨人軍の湯口敏彦投手の命日

昭和48(1973)年の3月22日は昭和45(1970)年の甲子園で岐阜短期大学付属高校の投手として活躍し、簑島高校から南海ホークスへ入った島本講平投手、広陵高校から広島東洋カープの佐伯和司投手と共に「高校生三羽ガラス」と並び賞されながら読売に入団したものの活躍しないまま2軍で低迷していた湯口敏彦投手が入院中の精神科病院で突然死した日で、読売系列を除くマスコミ各社は「湯口事件」と呼んでいました。
事件当時、野僧は小学校の高学年でしたが、アニメ「巨人の星」を見た世代だったのでプロ野球への関心が高く、登下校時には中日と読売ファンの同級生の口論を聞いていたため名前と事件は記憶しています。
湯口投手は県立岐阜短期大学付属高校の投手として昭和44(1969)年の春季大会で完全試合を達成するなどの活躍で東海地方では注目を浴び、昭和45(1970)年には春夏連続出場して春は準々決勝、夏は準決勝までの7戦に登板し、5勝2敗でした。この成績を受けてドラフトでは読売に1位指名を受けて入団したのです。
読売は極めて充実した戦力でプロ野球の連覇記録を破った昭和43(1968)年のドラフトからそれまでの大学卒や社会人で実績を上げた即戦力の獲得を止め、将来に向けた高校生の育成に方針を変えていたので注目と期待を集めて入団した湯口投手も2軍に直行することになりました。ところが1年目は肘の故障に悩まされて5勝6敗に終わり、2年目は前年の76四死球を問題視されてフォームを改造したものの2勝3敗に低迷し(元々が荒れ球も持ち味だったにも関わらず)、この頃から鬱病の前兆と思われる症状を見せるようになったようです。
2年間のシーズンが終わり、ファン感謝デーの紅白試合が行われると湯口投手も登板しましたが、前日の打ち上げ会の酒が残っていたため打者一巡で2ホームランを浴びる失態を演じてしまい川上監督と2軍監督から厳しい叱責を受けました。さらにその夜は寮に戻らず、帰ってきた湯口投手を2軍監督が激しく罵声を浴びせて殴打したことでさらに塞ぎ込んでしまい、3日後の納会では誰に話しかけられても無言で無反応、目の焦点も定まらなかったためチーム・ドクターに正式に鬱病と診断されて入院しました。
ところが読売系列ではないマスコミがこの事態を嗅ぎつけて取材を開始したため球団の命令で退院させられて練習に復帰、宮崎キャンプにも同行したのですが、やはり奇行は収まらずコーチが付き添って帰京して再入院したのです。そしてこの日に病室のベッドに横になったまま死亡しているのが発見されました。
突然の死は読売系列以外のマスコミに「自死」と断定的に報じられ、この年のドラフトでは読売が指名した7名の選手のうち1位、2位、3位、5位指名の4名が入団を拒否しました。読売が1位指名を獲得できなかったのはこれが唯一で、入団した3名のうち6位と7位は入団前から練習に参加させていた育成選手でした。
後年、2軍選手寮の寮長は手記の中で「生真面目過ぎて相手の気持ちを考えない2軍監督と繊細な湯口投手は最悪の組み合わせだった」と回想しています。
  1. 2020/03/22(日) 14:10:27|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ1862

「モリヤ検察官、裁判官が来ています」国際刑事裁判所勤務も半月が過ぎた頃、検察官事務室のカロン事務官が取り次ぎに来た。私としては膨大な英文との格闘に手一杯で応対どころではないのだが自衛官としては「有事即応」「常在戦場」なので奇襲攻撃も迎撃するしかない。仕方なく案内を許可した。すると入ってきたのは私よりも5歳ほど年上の日本人女性だった。顔は平っぺたい土台の半分は額で、細い眉と小さな目、低い鼻が遠慮がちに配置されている。それでいて口は意外に逞しい。要するに有能で遣り手な日本人女性の標本だ。オランダ赴任に際して外務省から届いた資料によれば国際刑事裁判所では創設以来、外務省の女性官僚が裁判官を務めていて今は2代目の戸崎久仁子判事だった。私が立ち上ってドアの内側で出迎えると戸崎判事は先に手を差し出した。海外では日本人女性の遠慮・恥じらいが「女性が先」の握手のマナーを守る紳士を困らすことがあるが、流石に外務省の官僚は違う。
「はじめまして戸崎です」「お初にお目にかかります。モリヤ・ニンジンです」戸崎判事は日本語で自己紹介すると少し腰を曲げて私の手を両手で握った。それでも頭を下げないのは握手の基本動作だ。日本の法廷では裁判官を検察官や弁護人よりも上位とする作法のようなものがあるが、欧米では裁判官と検察官と弁護人は対等な立場で意見を戦わせる。裁判官が公判を進行し、時に指導するのは役職上の指揮権の行使であって上下関係による命令と服従ではない。
「お時間があればどうぞ」「お忙しそうですが、よろしいんですか」私が執務室に備えてある対面のソファーを勧めると戸崎判事は机の上に並べたバインダーを見回しながら苦笑した。私は梢が弁当の時に飲むようにポットの水筒に入れて持たした日本茶を湯呑に注ぎ、オヤツに作った大好物のサータアンダギーを小皿に乗せてソファーに運んだ。
「少し冷めているかも知れませんがどうぞ」冷房が効いた部屋で湯呑からかすかに湯気が立っている。職場には自分用の他には安物の円筒の筒型湯呑を2つだけ持ち込んでいて湯呑置きはない。裁判官が上司なら失礼だが異国で出会った同胞と言うことで勘弁してもらおう。
「今日はモリヤ検察官が着任されて半月になったから、そろそろお目にかかりたいなと思ってやってきました」戸崎判事はハンカチで口紅を落とすと上品に両手で安物の湯呑を持って湯気を鼻で嗅いでから口に運んだ。日本式の作法も完璧なようだ。
「私は日本では弁護人でしたから同じ法務省所属の国家公務員である判事と検事が個人的な交流を持っていることを非常に警戒していました。本来は公正中立でなければならない判事が検事の意見だけを個人的に聞いて先入観を抱かれれば弁護側は当然不利になります。今回は検事として着任しましたから弁護人に同様の疑念を抱かせたくなかったんです」日本的な礼儀で言えば着任すれば役職や立場に関わりなく先ずは挨拶に伺うべきなのだが、あえてそれをしなかった理由を説明した。すると戸崎判事は半ば呆れ、半ば感心したように笑った。
「非常に日本的な発想ですね。欧米では司法関係者に限らず個人的な接触で判断に影響を与えてもそれは影響を受けた側の責任であって与えた側の不当行為にはなりません。むしろ法令で制限されている範囲ギリギリまで心理工作を試みるのが外交でも公判でも経済活動でも常識になっています」戸崎判事に言われるまでもなく私自身も日本流であることは自覚している。ただし、外務省も戦後一貫して日本流の気配り外交を展開し、明らかに悪意を持っている近隣の数ヶ国以外からは信頼を獲得しているはずだ。
「モリヤ検察官は前任の司法裁判所長閣下にもお会いできなかったのよね」ここで戸崎判事は口元には微笑みを残しながら目だけで真顔になった。美人とは言わないが魅力的な容貌の戸崎判事だが、きつい目は佳織が怒った時に似ている。私は不謹慎に笑いながらお茶を飲んだ。
「前の司法裁判所長と言うと皇太子の妻の父親ですね」私の冷淡な口調に口元の微笑みも消えた。外交官出身の皇太子の妻の父親は外務事務次官を務めた外務官僚の頂点で、娘が皇室に入ってからは政治に関与しないため国際連合の特命全権大使、安全保障理事会議長を経て2003年からは国際司法裁判所の裁判官になり、2009年からは裁判所長を務めていた。しかし、6月7日付で所長と裁判官を退任したはずだ。
「私は個人的に皇室関係者と会うのは遠慮します。現人神だった昭和の陛下は殉死を決意するほど崇敬していましたが今は単なる機関でしょう」遠回しに皇室嫌いを告白すると戸崎判事は無理に笑顔を作って小皿のサータアンダギーを指で摘まんで口に入れた。
「日本茶にドーナッツと言うのは珍しい取り合わせですね」「これはサータアンダギーと言って沖縄の菓子です。砂糖天婦羅とも言いますよ」梢は私のカロリー摂取量を考えてかなり小ぶりに作っているが、口当たりはやはりドーナッツに近い。これが黒糖味なら柔らかい花梨糖になるかも知れない。それにしても楽しみにしていた今日のオヤツがなくなってしまった。
  1. 2020/03/22(日) 14:09:26|
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3月22日・童話作家・新美南吉の命日

昭和18(1943)年の明日3月22日は「ごん狐」や「おぢいさんのランプ」などの童話を残した新美南吉さんの命日です。29歳の若さでした。
野僧が卒業した矢作南小学校は道徳の時間を使って郷土史を教えていたため半田市出身の新美さんの作品は低学年で「ごん狐」、高学年で「おぢいさんのランプ」を習いました。
新美さんは大正2(1913)年に現在の半田市で畳屋の2人目の男の子として生まれました。新美さんは身体がやや弱いものの成績は優秀で、畳屋に勉学は不要と言う父を担任が「教師になれる」と説得してくれたおかげで旧制・半田中学校に進学し(「ごん狐」は中学時代に執筆しています)、愛知師範学校を受験しましたが学科ではなく身体検査で落ちてしまいました。それでも母校の半田第2尋常小学校の代用教員に採用されました。
「ごん狐」は老人から聞いた半田の昔話と言う設定ですが、「両親がいないごんと言う子狐が川で魚を捕っている兵十の魚篭からウナギを奪い取ると間もなく兵十の母親が死に、そのウナギは弱っていく母親に食べさせようとしていたと知って後悔しました。そこで詫びようと魚売りのイワシを盗み出して兵十の家に投げ込むとそれを見つけた魚売りに兵十が殴られてしまったのです。さらに反省したごんは栗や松茸などを自分で集めて届けるようになりますが、ある日、ごんが家に入るのを見つけた兵十は鉄砲で撃ってしまいました。兵十が家に入ると栗がまとめて置いてあり、「お前だったのか」とはなしかけるとごんは小さくうなずき息絶えてしまいました。銃口からは青い煙が天に向かって立ち昇って行きました」と言う哀しい物語です。
その後、新美さんは代用教員を辞して職業を転々としながら東京外国語学校英語科に進学し、卒業して帰郷すると安城高等女学校の教師になりました。この頃には結核を病んで何度か喀血する病状でしたが、昭和17(1942)年の3月から5月の2ヶ月間に「おぢいさんのランプ」など多くの傑作を書き上げています。
「おぢいさんのランプ」は「東一少年がかくれんぼをしていて土蔵でランプを見つけ、友だちと遊んでいると祖父に怒られます。その夜、再びランプをいじっていると祖父が自分の半生を語り始めました。祖父は天涯孤独の身で村の雑用を引き受けて置いてもらっていたのですが、ある日、人力車を手伝って街に出て初めてランプを見て持ち返り、それを商売にして自立することができたのです。ところが小学校の校長に『ランプの下なら新聞が読める』と誉められて自分が文盲であることに気づき、読み書きを習いまいた。やがて村に電気が引かれることになると反対運動の先頭に立ちますが、電気を引くことを決めた区長の家に放火しようと火打石を打っても火が点かず、「今時マッチじゃなけりゃあ駄目だ」と呟いて自分のランプが時代遅れになっていることに気づいたのです。その夜、祖父は商売物のランプを木に吊るして火を灯し、石を投げて全て割ってしまい今の本屋になった」と言う考えさせられる物語です。
新美さんは「池に石を投げたが、波紋が広がるのを見届けられなくて残念だ」と言い残して亡くなりました。禅僧・良寛の伝記を書きましたが法名は「釋文成」=門徒のようです。
  1. 2020/03/21(土) 12:55:13|
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振り向けばイエスタディ1861

4泊4日の共産党中国旅行を終えてニューヨーク・リバティ空港に帰った本間と松山裕美を組織の長であり夫でもある松山千秋が出迎えた。北京からニューヨークの飛行時間は約13時間20分だが時差は12時間であり、朝9時に離陸すれば朝10時20分に到着することになる。その時差惚けを解消するには機内で熟睡してくるしかないが本間は絶好調だった。
「おかえり」「これはボス、奥さまとの熱い再会の儀式をどうぞ」挨拶もソコソコに本間は顔の前にVサインを突き出した。到着ロビーには一緒に帰国したツアー客も出てきたが、本間が万里の長城で披露した軍事知識で敬意を抱いており、通り過ぎながら声をかけ、中には敬礼していく者もいる。そんな様子を見て松山千秋は今回の企画が情報以外の成果を上げたことを実感した。何よりも本間の晴れ晴れとした顔を見るのは初めてだ。
「時差も解消できているようだから今日は通常勤務にしてもらおう」熱い再会の儀式を終えた松山千秋は2人のアメリカ陸軍軍曹を従えて歩き出した。本当は妻のカバンを持ちたいところだが、軍服を着ている時は待遇に差をつけるのを控えるのが常識だ。
「ハワイでも反日暴動のニュースは報道されているが、妙にニュアンスがずれてきているんだよ」途中で軍服を着替え、事務所に着くとハワイ帰りの松本が待ちかねたように声をかけてきた。ハワイのニュースは日系人が多く社会的地位が高いため中国資本に株式を買い占められているアメリカ本土のマスコミ報道に比べて日本側の見解・主張も取り入れて比較的公正なのだ。
「始めは『尖閣諸島の国有化は日本の政治的侵略だ』って本土のニュースをそのまま引用していたんだが、『国有化は日本国内の過激な動きから隔離して日中間の外交交渉による解決を図るための予防措置だ』と言う日本政府の弁明を流し始めて、今では(中国の)一部の過激な愛国者の暴走と言うことにしているよ」松本の説明はあくまでもハワイでの報道だが、アメリカ本土でも数日遅れで同調しつつある。
「それでは現地を見てきた2人に説明してもらおう。今日は佐田(松山一家の偽名)主事にも席についてもらう」松本の話が終わったところで松山千秋が長机に立ったまま並んでいる杉本、岡倉、松本に声をかけた。事務員扱いの松山裕美も席に着くことも説明したためコーヒーを配った後、隣りに椅子を持ってきて腰を下ろした。
「中共(=共産党中国)での反日暴動は毎度のように当初は人民解放軍の自作自演だったんですが、それに同調して日本製品を略奪しても逮捕されないことを学んだ人民が勝手に繰り返している状況です」これまで本間の中国情勢の解説は台湾から海峡越しに眺望した間接情報しかなかったが、今回は確信に満ちて語気にも迫力がある。
「証拠の動画はないのか」「残念ながらアメリカ陸軍の軍曹と言う役柄を演じていましたから中共の官憲に警戒心を与えることを避けるため情報収集の活動は控えました」杉本の皮肉にも自信を持って事情を説明する。それに松本千秋が補足した。
「その分、佐田軍曹も同行させて2人で確認させた。佐田軍曹は今田(本間の偽名)軍曹の説明に見解の相違があれば率直に発言しなさい」「はい・・・ボス」松山裕美は「貴方」と言いかけて本間が呼んだ抽象名詞を踏襲した。
「繁華街では北京の日本大使館に突入したと言う男性の集団がアジ演説とシュピレコールで遠巻きにしている庶民を扇動して、興奮が高まったところで棍棒や鉄パイプを配っていました。そこでリーダーの突撃の号令で日本の大規模店に突入して破壊を始めたんです」話が山場に入り、全員が揃ってコーヒーを口に運んだ。やはりコーヒーはアメリカに限る。
「店内では名札と尋問で識別した中国人の従業員を避難させて日本人の管理職だけを集めて暴力を使わないリンチを加えていました。その間に扇動に乗った暴徒は貴金属や家電製品、高級食材を奪って逃走していました」「警察官はそれを素通りさせながら外で撮影している外国人を制止していたんです」ここでは松本裕美が補足した。これで2名の確認が証明できた。
「倉田さんのチベット蜂起と同じ流れだな」「今回は群衆を使ってるけどチベット僧みたいに弾圧はできないだろう」「マッチ&ポンブに困ってるんじゃあないですか」話の切れ目で杉本が苦しげに呟くと岡倉と松本も真顔で同調した。やはりアメリカでの報道の域を超えられなかったこれまでの本間の説明とは違い聞く側も真剣に受け止めているようだ。
「ところが洛陽では日本人観光客は野放しだったんです」「その一方で北京の繁華街では日本人観光客が暴行に準じた迫害を受けていました」「要するにマッチで点けた火が燃え上がってしまってポンプでミスをかけても消せない状況なんだな」最後は松山千秋が松本の見解を引用してまとめた。それを聞いて本間は大きくうなずき、松山裕美は尊敬を込めた熱い視線を送った。明日はワシントンの日本大使館に行き防衛駐在官の諸西将補に報告する予定だ。
3・今田菊子イメージ画像
  1. 2020/03/21(土) 12:53:43|
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振り向けばイエスタディ1860

最終日の万里の長城での行軍訓練が終わると北京市内のホテルに泊まった。明日は早朝からバスで北京首都国際空港に移動して帰路につく。ホテルにチェック・インしたツアー客たちは観光バスに乗り日没の午後6時15分まで限定で土産物を買いに出た。
「かなり武装警察官が増員されていますね」前回とは別の繁華街近くの車道でバスを下りると松山裕美は目につく範囲に配置されている警察官の数に違和感を覚えたようだ。警察官たちは腰の拳銃とは別にカバーで覆った銃を肩に吊っているが、それが殺傷力がある小銃なのかゴム弾用のガス銃なのかは判らない。どちらにしてもこの装備は通常の警察官ではなく人民解放軍の治安専門部隊・武装警察隊だろう。
「どのくらい強いか試してみたいよね。南北朝鮮軍は跆拳道(テコンドー)だけど中国は抗夫(カンフー)じゃあないかな」「まさか太極拳じゃあないでしょう」本間の冗談に同好者の松山裕美も笑って応じた。日本の警察は柔道と剣道を基本にしているため逮捕時の格闘でも殴打や蹴りよりも体の捌きで刃物を封じ、投げ技で取り押さえ、無傷で身柄を拘束することに長けている。その点、人民解放軍の武装警察隊は中央道が死んだ第2次天安門事件での武力制圧を国際社会から徹底的な批判を受けたことで日本の警察の機動隊を参考にして創設されたと言われているが、それを警察ではなく軍内に設置したことに中国共産党の別の意図を感じる。ただし、松山裕美の興味は女性自衛官ではなく空手家としての腕試しだ。
「やっぱりあっちこっちで企業や大型店が破壊されたから、中国共産党としても放置できなくなったんですね」「自作自演の癖に対策は執るんだよ。それで言い訳になるって思っているところが凄いよね」本間の返事は痛烈だ。北京語に堪能な本間は中国人たちが扇動者が叫ぶ反日に呼応しながらも便乗して日本商品を強奪する狙いを口にしているのを聞いているだけに愛国心よりも正義感による怒りが胸の中で燃えていた。
「これって何が書いてあるんですか」繁華街に入ると大半の店舗の通りに面したウィンドウには北京語を大書した紙が貼ってあった。これが広東語の繁字体であれば松山裕美にも読めるのだが原形を留めない簡字体なので理解不能なのだ。
「要するに『尖閣諸島の国有化は野畑政権の犯罪だ』って糾弾してるんだよ。こうしておけば反日暴徒に襲撃されないって言うお札なんでしょ」「随分と大きなお札ですね」松山裕美は肩をすくめて皮肉に笑った。張り紙は興奮した商品のポスターを張り合わせて作った紙に黒々とした文字を並べてウィンドウの全面に及んでいる。
「この店は日本の企業の販売店じゃあないですか」「うん、『釣魚群島は中国固有の領土だ』『日本政府は不当な要求を止めろ』って書いてあるよ」本間の説明に松山裕美は不満そうな顔をしたが、これが襲撃除けのお札なら危ない店舗は目立つように貼らなければ加護がない。
「酷ーい。日本人は皆殺しにしろだって」「怖くてこの店じゃあ買えないね」「写メにして親に送ろうっと」その時、通りの反対側から女性の日本語が聞こえてきた。顔を向けると数人の若い女性が中国の菓子と雑貨を並べた店のガラス戸に貼られた紙を見ながら無邪気に日本語で会話を始めている。どうやら中国語が判る者が各店舗に貼られている紙を読み上げながら歩いてきて、この店の過激な文章を説明したようだ。それでも女性たちに危機感はなく、たまたま異国情緒に行き当たったような態度だ。実際、1人が携帯電話を構え、奥から出て気歌店主の制止に気づかないまま画像を撮影し、罵声を浴びせる店主にもレンズを向けた。
「お前たちは日本人だな」店主の大声を聞いて集ってきた群衆が女性たちを取り囲んだ。中国各地で日本人が嫌がらせを受けた発端はたまたま口にした日本語を理解した中国人が周囲に指摘したことだった。多くの日本人は「日本語を理解する外国人は親日派だ」と思い込んでいるが、それは中国と韓国には適用できない。
「きゃーッ」女性が悲鳴を上げると群衆たちの興奮に火が点いた。男たちは女性たちのカバンを奪い、中身を地面に振り落とした。それに手を伸ばして奪い合う者たちがいる。
「止めてェ」「お巡りさん助けて」男たちの手が女性たちが着ている海外旅行用のワンピースに伸びると悲鳴は絶叫に変わった。本間と松山裕美は周囲を見回したが警察官は顔を向けているだけで動こうとはしない。こうなると日本人以前に軍人として放置できない。
「ストップ、不正行為は止めなさい」本間は北京語ではなく英語で声をかけながら女性のスカートの裾を掴んで上に引き上げている男の背中を掌で突いた。後に松山裕美が続く。
「お前も日本人か」「合衆国陸軍軍人として不正行為は放置できない。実力で阻止する」男の1人が日本語で声をかけたが英語でかみ合わない回答を返し、2人で構えた。それを見て警察官が駆け寄ってきた。やはりアメリカ軍軍人の介入は回避しなければならないらしい。
  1. 2020/03/20(金) 14:19:48|
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どうして我が母校からはロクな政治家が出ないのか?

野僧が卒業した愛知県の宝飯郡一宮町立(現・豊川市立)一宮中学校は善悪・正否・優劣に関係なく人並みを外れた人間を「出る杭」として叩き潰し、それで地面に喰い込まなければ掘り起こして根っこから除去する校風のため、市会議員以上の政治家が出るはずがないのですが(農協票の県会議員はいるかも知れないが)、逆に卓越した人材育成の伝統を持ち世界的科学者を輩出している岡崎市立矢作南小学校と善悪・正否・優劣に関係なく個性を発揮して、自由奔放さを競い合っていた愛知県立蒲郡高等学校の卒業生を見てみると意外なくらい情ない政治家が出て全国的に迷惑をかけていることが判明しました。
先ず矢作南小学校からは第3次小泉純一郎内閣で法務大臣を勤めたS浦正建先輩です。S浦先輩は矢作でも現在は矢作東小学校の校区である東本郷町の出身なのですが、教師だった父親の勤務先の名古屋市内で愛知第1師範学校付属国民学校(現在の愛知教育大学付属小学校)に入学し、戦争末期の4年生の時に父親の実家に疎開して矢作南小学校に転校・卒業したのです。その後は矢作中学校、一時期公立高校の東大合格者数で日本一になった愛知県立岡崎高校を経て東京大学法学部に進学し、弁護士として活躍していたことから小泉内閣で法務大臣に選ばれたようです。法務大臣としては「悪人正機」を説く浄土真宗の門徒として死刑執行の決済を拒否し、11カ月間の任期中は死刑が執行されませんでした。しかし、親鸞聖人の「悪人正機」は「悪人を生前に救済する」「罪は全て許される」のではなく「罪を悔いた者は(死後に)阿弥陀如来によって救われる」と言う教説ですから、死刑にして阿弥陀如来の手に委ねるのが正しい理解のはずです。またS浦先輩が死刑を執行しなかったため政権交代時の平岡秀夫法務大臣が同様の職務放棄をしても自民党は批判・追及できない後遺症を残しました。そして何よりもS浦先輩は厚化粧婆さん=小池百合子東京都知事が2008年の自民党総裁選挙に出馬した時に選挙責任者になって以来、後援団体の代表と会計責任者を務めているのです。「恥ずかしい」「情けない」
一方、蒲郡高校からはラジオの人気DJ(三河出身の癖に名古屋弁で売り出した)から民社党の参議院議員に当選しながら学歴詐称で辞職に追い込まれたS間正次先輩がいますが、その詐称した学歴が「明治大学出身」だったため卒業生たちは「ウチの高校から東京六大学に合格できるはずがない」と自虐気味に嘲笑していました。
もう1人が蒲郡高校の生徒会長で長年にわたり同窓会の会長を務めていたS木克昌先輩です。S木先輩は蒲郡市長から無所属で衆議院選挙に出馬して自民党の候補に敗れたことで逆に入党して議員バッチをつけないまま小沢一郎の側近になり、次の衆議院選挙では民主党から立候補して当選すると以降は腰巾着として作っては壊す政党を渡り歩いてきました。政権交代時の菅内閣では総務副大臣を務め、議員立法を4件成立させるなどの実績を積んだものの結局は凋落する小沢一郎に最後まで忠義を尽くす飼い犬としての姿がテレビや新聞で取り上げられるだけになっています。「哀れだ」「惨めだ」
野僧もS木先輩と同じく生徒会役員を歴任しましたから蒲郡市在住であれば後継者になった可能性がありますが、亡国の政治屋・小沢一郎にだけは絶対に近づきません。
  1. 2020/03/19(木) 12:48:30|
  2. 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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振り向けばイエスタディ1859

最終日は旅客機で北京に戻り、明代に建設された万里の長城を見学する。万里の長城は秦の始皇帝が建設を始めたとされているが、秦から漢の城壁は遊牧民を遠方で喰い止めるため北方の草原地帯を区切るように続いているが、明の城壁は防御に当たる将兵を派遣・増員する便を考えて北京市の近くの山の稜線に沿って朝鮮半島まで伸びている。
「日本のジエータイは富士登山行軍をやるそうだけど人民解放軍も万里の長城の上を歩く訓練をやるのかな」「戦時の防御戦に活用するつもりならそちらの訓練にもなりますね」本間も松山千秋が着任するまでの勝手な身元調査で松山裕美が普通科の幹部の妻であることは判っているが、この回答は完全に普通科の発想だ。こうなると軍曹役を演じていても幹部自衛官としての軍事知識を教育したくなる。
「国境線の長大な城壁はヨーロッパにもあるのよ。スコットランドとイングランドの境界線にはローマ帝国のハドリアヌス皇帝が作った長城がグレートブリテン島を横断してるわ」「でも島を横断しただけじゃあ万里にはなりませんね」確かにハドリアヌスの長城の長さは約118キロなので全長21196キロ(現存する人工構造物は約6260キロ)に及ぶ万里の長城には遠く及ばない。それでも万里の長城も日本の1里4キロに換算すると5249里なので万里には届かない。それにしても松山裕美は数字の比較にこだわりがあるようだ。これは需品科の隊員の職業的な癖なのだが本間は松山裕美の経歴については調べていない。
「イギリスの長城も似たような構造なんですか」この質問も施設管理を担当する需品的だ。本間は1つ咳払いするとガイドの観光案内よりも高度な歴史講座を続けた。
「万里の長城の高さは8メートル弱、ハドリアヌスの長城は5メートル前後でどちらも始めは土塁だったのよ。それを石垣で補強したのは共通しているわ。ハドリアヌスの方はそこまでだけど万里の長城は北京の建設でレンガの製造技術と量産体制が整ったから石垣を煉瓦で覆ったの」本間が説明を終えると知らない間に背後に並んでいたツアー客たちが拍手をした。2人での会話も英語にしているため内容に興味を持って盗み聞きしていたらしい。プライドを傷つけられたはずのガイドも加わっているが、その顔には心からの敬意が表れている。
「軍曹は専門的な知識が豊富だけど陸軍の工兵なのかしら」「いいえ、ここでは答えられませんけど違います」中年女性の質問に本間は丁寧に回答した。やはり中国系とは言えアメリカ人にとって世界最強の軍は安心と誇りの象徴のようだ。
「アメリカもメキシコとの国境に万里の長城を築くべきだ。これ以上、密入国者を野放しにしているとアメリカ人の職を奪われ、犯罪が横行し、薬物が蔓延してしまう」すると中年男性が質問ではない意見を口にした。ところ構わず演説を始めるのはアメリカ人の国民性だが中国系も該当するのかも知れない。この政治的発言を聞いて本間はアメリカにおける中国系と半島系の移民も決して健全な存在ではないことを思い失笑してしまった。要するに中年男性はアメリカが建国以来掲げてきた正義ではなく自分たちが手に入れた経済的地位と牛耳り始めた社会制度に悪影響を及ぼしているヒスパニック系移民を排除しろと言っているのだ。
「メキシコ国境を封鎖するならカナダ側もしなければ外交的な均衡が取れませんよ」「こちらの軍曹は日本人みたいなことを言うな。日本人はどこにも好い顔をしておいて心の中では舌を出している。アメリカにとって害を及ぼす相手は拒否し、利益をもたらす相手とは盛んに交流する。それが外交と言うものだ」松山裕美の日本人的な疑問に中年男性はアメリカ人面をして反論した。しかし、本間はアメリカの外交には利益の追求も正義を理由にする美学があり、この意見は完全に中国式であることを実感していた。
「それは合衆国政府が判断することですから軍人である私たちはコメントしません。ガイドさん、案内して下さい」黙ってしまった松山裕美に代わって本間が仲裁した。それでガイドは「こちらへ」と声をかけて先導を始め、本間と松山裕美は今回も最後尾を歩き出した。
「ヨーロッパにはベルリンの壁って言うのもありましたね。やっぱり国境線を封鎖するのが好きなんですよ」「あれは高さ3メートルのコンクリート製、長さは155キロだよ」本間は先回りして松山裕美が好きな数字の情報を与えた。すると納得したようにうなずいたから正解だったようだ。中年男性が言っていたメキシコ国境に築く万里の長城は構造物よりも越境者を迷わず射殺する冷酷非情な警備体制を期待しているとすれば危険極まりない。
「第1次世界大戦の後にフランスがドイツとの国境線に建設したマジノ・ラインも有名だよ。でも莫大な建設費に軍事予算を浪費して肝心の戦車や飛行機、軍艦が買えなくなったんだから・・・」本間の説明に前を歩いているツアー客たちが振り返ったので講座は中止した。マジノ・ラインを「フランスの万里の長城」と揶揄しているのは日本だけだろうか。
  1. 2020/03/19(木) 12:47:09|
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3月19日・生還させられた悲運の艦長・西田正雄大佐の命日

昭和49(1974)年の明日3月19日は戦艦・比叡の艦長でありながら周囲に強制退艦させられて帝国海軍の「艦長は軍艦と運命を共にする」との不文律に背いてしまい不遇の中で敗戦を迎え、長い余生を送った西田正雄大佐の命日です。
西田大佐は明治28(1895)年に兵庫県龍野市で生まれ、幼い頃から頭脳明晰で大正5(1916)年に海軍兵学校を3番で卒業し、第1次世界大戦では地中海での連合国船団の護衛任務に派遣されています。帰国後は昭和3(1928)年に海軍大学校を次席で卒業したため陸軍大学校を優等で卒業した同郷で義兄の田中静壱大将と「龍野の誉れ」と並び称されました。
昭和16(1941)年10月に戦艦・比叡の艦長になりましたが、戦後の日本人が「大艦巨砲主義の遺物」と決めつけている榛名、比叡、金剛、霧島の4姉妹戦艦はハワイ奇襲作戦からラボール攻略作戦、ポートモレスビー攻略作戦、さらにインド洋でのセイロン沖海戦、ミッドウェイ作戦と同時に実施されたアリューシャン攻略作戦で縦横無尽、八面六臂の活躍を見せていました。そんな中、榛名と金剛がガダルカナル島への艦砲射撃で戦果を上げたことを受けて連合艦隊は比叡にも同じ作戦を命じたのです。西田大佐は「二番煎じが通じるはずがない」と猛反対しましたが、「一矢報いてミッドウェイの汚名をそそぎたい」との山本五十六司令長官の意向を聞いて承服したようです。
こうして始まった第3次ソロモン海戦で比叡は艦砲射撃と囮を担当する挺身艦隊としてトラック泊地から出撃しましたが(駆逐艦を主体とする輸送任務の別動艦隊も同時に出撃した)、戦艦や重巡洋艦を含むアメリカ艦隊もガダルカナル周辺海域に停泊しており、そこに飛び込む形で接近することになりました。しかも挺身艦隊は急ごしらえの寄せ集めで艦隊行動の訓練も実施しておらず、無線機も調整不良で指揮系統が維持できずに5キロ前後の至近距離での遭遇戦が始まりました。この砲撃・雷撃戦で唯一の大型艦だった比叡は集中砲火を浴び、味方艦からの砲撃も加わって満身創痍の状態になりましたが、西田艦長は足を負傷しながらも復旧と戦闘を指揮し続けたのです。しかし、舵が破損して操艦不能になった上、電話線が寸断されたため命令と報告が滞り、機関室付近に命中した魚雷は不発だったにも関わらず同時に着弾した砲弾の爆発を「機関部が全滅した」と誤解して総員退艦を命令したのです。この時、駆逐艦に移乗していた艦隊司令官は「口頭での報告」を命じて脱出させようとしましたが西田艦長は応じず、結局、周囲の幕僚たちに力づくでカッターに乗せられて生還したのです。
帰国後は服務規律違反に問われましたが、直属上司である挺身艦隊司令官の「口頭での報告」の命令に従った退艦を規律違反とするのは自己矛盾であり、同じ海域でのルンガ沖夜戦でアメリカ艦隊を全滅させた田中頼三第2水雷戦隊司令官が艦隊中央で指揮を執ったことを「軍神・東郷平八郎大将の日本海海戦以来の指揮官先頭の伝統に反する」として解任・左遷したのと同じく神主の島田繁太郎海軍大臣による教条主義人事です。
敗戦後は故郷の播州素麺の工場で働きながら長い余生を過ごしました(陸軍航空士官学校を卒業した長男・西田正人中尉は航空自衛隊に入隊している)。
  1. 2020/03/18(水) 13:43:13|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ1858

このツアーは料金が高かったため急遽の申し込みでもチケットが取れたのだが、反日暴動の実態を現地確認するにはあまり適当ではない。2日目の洛陽は日本で言えば京都や奈良のような古都なので観光客の階層も高いから不穏な空気からは外れている。それでも本間にとっては映画「少林寺」の舞台であり、嵩山少林寺までバスで1時間半なので「自由時間によっては足が伸ばせるかも知れない」と期待していた。
「やっぱり古都は落ち着きますね」「古都と言うよりも昔ながらの田舎街じゃあない」洛陽博物館を出て昼食に向かうバスの中で松山裕美は素直に感激を口にしたが、本間は皮肉に否定した。実際、洛陽市はバブル期の東京都心や地方の大都市のように建物どころか区画を次々に取り壊して新しい街に改造している北京市に比べると中央道に見せてもらったアルバムの写真の風景がそのまま残っていて、店と店の狭い路地から少年の中央道が駆け出してきそうだ。
「でも白馬寺は宇治の萬福寺みたいで面白かったし、斉雲塔は立派だったじゃあないですか」「宇治って平等院の他にも寺があるの」松山裕美が語り続ける感激にも本間は皮肉を繰り返した。宇治の萬福寺は江戸時代に亡命してきた明の禅僧・隠元を開祖とする臨済宗黄檗派の本山で中国風の伽藍と堂宇、佛像が有名だ。三重県出身の松山裕美は家族旅行で京都の宇治を観光したことがあるが、隣の愛知県出身でも会社を経営する両親が多忙だった本間は中央道との奈良旅行以外は修学旅行でしか訪れたことがない。
「昼からは竜門石窟ですよ。奈良の大佛さんよりも大きいって言うから会うのが楽しみ」「岩に刻んだ佛像なら臼杵の磨崖佛を見たことがあるから興味ないよ」松山裕美のハシャギっぷりは完全に修学旅行の生徒だが、一方の本間は観光旅行の楽しみ方が身についていないのかも知れない。今日の本間は目当ての嵩山少林寺に行けず不機嫌なのは確かだ。それにしても竜門窟の石佛の高さは17メートル超なのに対して臼杵の磨崖佛は約1.5メートルだから一緒にするのは間違っている。さらに岩国航空基地の海兵隊員なら兎も角、アメリカ陸軍の兵士で臼杵の磨崖佛を見たことがあるのは日出生台演習場での日米協同訓練の参加者くらいだ。本当は熊本市の建軍駐屯地で勤務している時に男子の陸曹に誘われた九州一周旅行で寄ったのだが個人情報は秘匿することになっている。
「これって・・・」午後からはバスに乗ってすぐに下りた(約13キロ)竜門石窟で嫌々のはずの本間は固まったようになって絶句した。ガイドに案内されてツアー客たちが先に進んでいくので松山裕美が声をかけると本間はようやく我に返って歩き出した。
「ここは(映画の)少林寺の中で小虎が李世民を匿った場所よ。バイが食事を運んでくるの。ビデオを見ながら私が行きたいって言ったら一緒に行こうって・・・」ツアー客たちから遅れて歩きながら本間は一方的に思い出を語り、涙ぐんだ。寄り添っている松山裕美は急にこの3等陸佐が急に愛おしくなり、黙って手を握った。洛陽を舞台にして随朝末期から唐の建国までを描いた映画・少林寺では暴君・鄭王に父を殺され、川に落ちて逃れた小虎が下流の少林寺の修行僧たちに助けられて、武術を目当てに得度して入門する。そんな小虎=僧名・覚遠は鄭王の軍勢に追われている男を助け、竜門石窟の中に匿った。それが唐の太宗になる李世民だったと言うのが粗筋だ。バイは武術の師の娘で互いに恋心を抱いていたが結ばれなかった。バイを演じていたティン・ナンは若い頃の小林幸子似だったので本間とは全くタイプが違うが、ビデオを見ている間は中央道が主人公のリー・リンチェィ、自分はタンになっていたのだろう。
「この大佛さん、奈良よりも大きいんだって」竜門石窟では最大の盧舎那佛の下で日本語が聞こえてきた。奈良・東大寺の大佛も盧舎那佛なので同じなのだが、松山裕美を含めて観光客の知識は大きさの比較に偏っているようだ。北京では反日暴動に巻き込まれないため日本人に間違われないように注意を受けた。昨夜と今朝のニュースでは中国各地の都市で日本人が暴行を受け、日本語を喋った中国人も巻き込まれたと言っていた。ところが洛陽では無頓着に過ごしても問題ないらしい。こうなると北京で目撃した日本の店舗の襲撃と略奪や各地の企業の破壊活動は事前に指揮官以下の組織が編成されていて、その扇動に呼応した群衆が便乗して略奪していることになる。残念ながら今回はそれを検証することはできない。
「あら女の自衛隊さんがいるわ。写真を撮ってもらいましょう」本間と松山裕美がガイドの英語の説明を聞いていると中年の日本人女性が歩み寄ってきた。この状況判断は正しいが間違っている。2人が着ているのはアメリカ陸軍の迷彩服であって自衛隊ではない。何よりも現在の共産党中国で日本人であることをアカラサマにするのは危険極まりない。
「すいません・・・」「アイ ドン ノー」2人は日本語が判らないと拒否した。日本では強引な小母ちゃんも海外では手振りで押しつけるほど強気ではないのだ。
  1. 2020/03/18(水) 13:42:06|
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3月18日・台湾で太陽花学生運動が始まった。

2014年の明日3月18日に台湾と共産党中国の間で2013年6月に調印された「海峡両岸サービス貿易協定」に反対する学生たちによって台湾の立法院(日本の国会)議事堂が占拠された太陽花(ひまわり)学生運動が始まりました。
日本のマスコミはこの運動をほとんど取り上げず、一部のニュースや報道バラエティー番組が余った時間の「海外面白情報」として国会が学生に占拠されていることを珍事として嘲笑していましたが、香港を始めとする共産党中国の圧迫に苦しんでいる地域では学生たちの決起に喝采を送り、問題の本質に向けた真剣な議論が始まっていたのです。
学生たちが反対した「海峡両岸サービス貿易協定」とは共産党中国側が金融や医療などの80分野、台湾側が運輸や美容などの68分野を開放して自由に業務を提供し合うと言うもので、国民党系の大手マスコミは「独立志向によって中国共産党の怒りを買い、経済的圧迫を受けて不況を招いた」と批判した陳水扁政権に代わって登場した国民党の馬英九総統(元来は経済学者)による大陸への経済進出政策の成果と喧伝していました。
確かに表面上は共産党中国の方が開放する分野が多く台湾側が有利に見えますが、あらゆる分野での共産党中国との連携は非常に巧妙で危険な策略が仕掛けられているのです。中国は日本などの西側諸国が国内生産する製品よりも安価で品質的に遜色のない部品などを輸出していますが、機械メーカーがこれに依存すると国内の部品の生産力が低下して中国に生殺与奪権を握られることになります。台湾の学生たちはこの危険な策略に気づき、大陸との一体化を党是とする国民党を指弾して反政府運動を開始したのです。
3月14日から立法院では「海峡両岸サービス貿易協定」の批准に向けた討議が行われていたのですが、高出力スピーカーを持ち込んでの野次騒音合戦や演壇への階段に人垣を作って発言を阻止するなどの低次元な妨害の応酬が続いたため議事進行を担当する国民党の議員が時間切れを宣言して審議を打ち切ったことが発端でした。これをニュースで見た学生たちはインターネットと携帯メールで同志を集めると午後6時頃から立法院に向かってデモ行進を始め、午後9時過ぎには300人に膨れ上がったデモ隊が立法院議事堂内に進入したのです。このことがニュースで報じられ、インターネットでも拡散すると反対派は続々と集まり、立法院の外には1万人を超えるデモ隊が形成されました。
議事堂内では排除に当たる警官隊と学生たちとの間で討議が始まり、学生たちは「議場を国民に返せ」と空疎な審議を繰り返してきた与野党を批判し、その模様をインターネットで中継したのです。こうして始まった学生たちによる議事堂占拠は国民の圧倒的な支持を集め、学生たちが議場内に持ち込んでいた黄色い太陽花を運動の象徴として、運動自体の名称にしました。また学生たちが叫ぶ「退回服貿=サービス貿易協定を撤回せよ」が「ホエホエクマー」に聞こえたためインターネットで知った日本の支持者たちは熊本県のくまモンや北海道のヒグマ注意を添付した応援のメッセージを投稿したのです。
結局、この年の11月19日の統一地方選で国民党は大敗し、2016年5月20日には政権の座を明け渡し、復帰は果たしていません。
熊出没注意野僧はこれを使いました。
  1. 2020/03/17(火) 12:52:32|
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振り向けばイエスタディ1857(かなり実話です)

結局、本間と松山裕美は暴徒と化した群衆と野次馬の破壊と略奪を撮影しているヨーロッパ人の観光客たちの背後から事態を注視して自由時間を終えてしまった。暴徒たちは大規模店に目ぼしい商品がなくなると繁華街に建ち並ぶコンビニエンスストアでも日本の店舗だけを的確に選んで襲撃を繰り返していった。それを現場で指揮していたのは最初に円陣を作っていた群衆のメンバーだった。
「チベット蜂起とやり方は同じね」中華料理店を出る時にガイドが指示した繁華街から通り一本向こうの自動車道で待っていると言うバスに向かって歩きながら本間が見解を述べた。今夜宿泊するホテルの内部は各所に盗聴器と監視カメラが設置されているのは間違いなく、小声で密談しても映像で怪しまれてしまう。それはバスの中も同様で、雑談は歩行者に化けて尾行してくる当局の人間に注意を払いながらでなければ危険なのだ。
「2008年のチベット蜂起も僧侶に化けた人民解放軍の兵士が中国系住民を殺して、それを口実に佛教の僧侶を大虐殺したんですよね。今回もアジテーター(扇動者)以下、破壊を指揮していたのは人民解放軍の兵士でしょう」2等陸曹の松山裕美も事務員として勤務する上で夫の松山千秋から村田の死と本間が後任になった経緯の概略は聞いている。今回の入国に際しても共産党中国の危険性を理解させるため2008年3月のチベットや1988年6月4日の天安門で繰り広げられた惨劇の実態を具体的詳細に教育されてきた。
「確かにあの行動は単なる暴徒じゃあないね」本間は周囲との距離を確認した後、返事をした。大規模店内では中国人の店員を名札で識別して逃がし、日本人の管理職だけを集めて床に座らせ、周囲を取り囲んで唾を吐きかけ、暴言を浴びせるなど脅迫と恥辱を与えていた。その手際の良さは捕虜収容所や治安出動での拘束者の分別方法と共通していた。
「それにしても盗んでいった宝石や貴金属を換金する業者がいるんですかね。腕時計や宝石を幾つも鷲掴みにしてましたよ」「家電製品や食料品を両腕で抱えていた奴も一杯いたね」暴徒たちは「日本製品の販売を許すな」と叫んで店内に乱入しながら、高価な日本製の商品を選んで略奪し、抱えたまま逃亡していた。つまり始めから金品目的の集団強盗だった。おそらく換金するのではなく家電は自宅で使用し、食品は1回きりの贅沢として味わうためだったのだろう。
「兎に角、現地に来て良かった。あんな間近で犯行が目撃できたのは・・・」本間は「中央道のおかげ」と言いかけて飲み込んだ。今回の入国からこの時間に現場にいたことも第2次天安門事件で死んだ最愛する中央道が導いてくれたような気がしてならない。中央道は中国では祖先供養を勤める清明節に周恩来の死を追悼するため人民が天安門広場に供えた大量の花輪を4人組が撤去させたことで発生した1976年の第1次天安門事件に対して第2次の名を冠している6月4日の事件で死んだ。あの夜、中央道は天安門の前にいたはずなので天安門広場に向かう戦車隊に投石した市民に兵士が無差別に銃撃した大量殺人とは別に治安部隊の排除行動によって殺されたはずだ。外国のマスコミが集っていた天安門の前では当初、西側の警察の治安部隊に倣った催涙ガス弾と警棒による制圧が始まっていたのだが、学生側が火炎瓶を投げ、装甲車から兵士を引き摺り出して暴行を加えて殺害したことで武器を使用し始めた。中央道はこれも人民解放軍による自作自演であることを本間に教えたかったのかも知れない。
本間が黙ってしまって間もなく2人はバスについた。乗り込むとガイドは一番前の席に座ってコンパクトで化粧を直している。このガイドを見失って中国人民革命軍事博物館の見学を諦めたから暴動に遭遇することができた。それが単なる偶然なのは本間も判っている。
2人はホテルでは普段着として迷彩服に着替えた。ただし、靴は女性用短靴だ。自衛隊で言う第3種夏服(半袖略衣)は往復用の2枚だけなので、それまでは迷彩服で行動するつもりだ。
「これは酷いわね」夕食を終えて部屋に戻ってテレビを点けるとニュースでは日本の企業が襲撃されて徹底的に破壊された映像を流していた。本来であればこの映像を見ながら議論したいところだが、盗聴器と監視カメラの存在を前提に時間を過ごしているので、不用意な発言は避けるしかない。松山裕美も同様に怒って拳を握らないために両手を結んで見入っている。
「パナソニックは鄧小平が来日した時、松下幸之助会長に『中国人民のために』と懇願して作った工場じゃない」本間はここでも無言で呟いた。大学時代、中央道の部屋に置いてある家電製品が割高な松下電器ばかりなのに気がついて理由を訊いたことがあった。そこで説明されたのがこの逸話であり、中央道は「中国人民は恩を忘れない。恩には報いる」と強く言い切っていた。つまり現在の中国人は「忘恩の徒」に堕したようだ。
「愛国無罪、造反有理。これは便利ね。そのうち世界中で使い始めるわ」本間はセカンド・バッグに入れていた現場で拾ったビラを広げると今度は声を出して独り言を呟いた。
  1. 2020/03/17(火) 12:48:07|
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3月16日・東京裁判の良識派判事・ヘーリング判事の命日

1985年の3月16日は連合国の不当な復讐劇だった東京裁判の中でインドのラダ・ビノード・パール判事と共に国際法に基づく正論を主張したオランダのベルナルト・ヴィクトール・アロイジウム・(ベルト)・ベーリンク判事の命日です。
日本人はナチス・ドイツを断罪したニュルンベルク裁判と同じ論理で日本を処断した東京裁判をイギリスから独立したばかりだったインド人のパール判事が批判したことを勝手に「同情」と理解していますが、法学者として国際法の不公正な適用と事後法による訴追を批判したに過ぎず、東京裁判以上に問題が多かった現地軍によるBC級戦犯の軍事裁判については容認し、推進を主張しています。その点、ヘーリング判事は全ての判事の中で最も詳細に訴追事由を検証し、公正に審査して極めて適切な判断を下しました。
ヘーリング判事は1906年にオランダ南部のデン・ボス(旧・スヘルトーヘンボス)の裕福なカソリック信者の家庭に生まれました。幼い頃から自我が強く、社会の固定的な常識に反発しながら成長すると法学者だった叔父の勧めと社会と犯罪、犯罪と刑罰の関係への興味から大学の法学部へ進むことを決めました。ところがカソリック系の大学に入学すると宗教的倫理と法律による犯罪者の処罰は相容れないとする見解から刑法が蔑視されており、在学中は刑法学の教授の推薦を受けて他の大学でヨーロッパにおける刑務所制度を研究しながら過ごしたそうです。卒業後にこの研究成果を発表すると別の大学から賞を贈られ、1933年には「職業犯罪者=常習犯のための立法」と言う論文で博士号を得ました。こうしてオランダの法学界での知名度が高まるとオランダでは4番目の都市のユトレヒト大学の教授になり、1936年にはユトレヒト裁判所の判事代理に就任しました。
ところが1940年にオランダがナチス・ドイツに占領されると一方的に改定した法律に背く判決を下したため危険人物視され、法務当局は地方の下層裁判所に左遷して逮捕を免れさせました。第2次世界大戦が終結するとオランダも国王一家がイギリスに亡命していたことで戦勝国に加えられ、東京裁判に判事を差し出すことになったのですが、占領下でナチス・ドイツに協力・従属しなかった人物が見つからず、国際法と政治情勢には素人でも英語に堪能なヘーリング教授兼判事代理が任命されたのです。
ヘーリング判事は11名の判事の中で最も早く東京に着任したため占領軍の京都とヒロシマの視察団に参加しています。さらに一面の焼け野原になった東京や横浜で暮らしたことで開戦初頭にロッテルダムを無差別爆撃したナチス・ドイツとアメリカ軍に差異がないことを痛感してパール判事の意見に共鳴するようになりました。ヘーリング判事は「東京裁判の所管はマレー半島上陸と真珠湾攻撃以降に限定するべき」「(日本的意思決定の)共同謀議の認定方法には疑義がある」「通例の戦争犯罪では島田繁太郎大将、岡敬純中将、佐藤賢了中将も死刑が相当である」「(文民で唯一死刑になった)広田弘毅首相は通例の戦争犯罪では無罪、平和に対する罪でも死刑にするべきではない」との見解を示しています。
帰国後は国際連合のオランダ代表を歴任しますが、日本の敗戦で取り戻した東南アジアの植民地の独立を容認する発言によって解任されました。
  1. 2020/03/16(月) 13:05:42|
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振り向けばイエスタディ1856(かなり実話です)

「今日は危険ですから日本人が経営する店舗には近づかないで下さい」天安門と故宮博物館を見学した後はバスで移動して北京市内の繁華街にある中華料理店での昼食になった。ツアー客たちが食事を終えて買い物のための自由行動に移る前にガイドが注意を与えた。
「危険かァ・・・何か起こることが判ってるみたいね」本間が無言で呟くと北京語に続く英語での注意を聞いた松山裕美も同じ疑問を感じたようで目を険しくした。それでも席を立ったツアー客たちが先を争って店外に出ていくので最後尾についていった。
北京市内の観光地にもなっている繁華街は昼食を終えた観光客と市民でごった返している。在アメリカ中国人のツアー客の中には親族と待ち合わせていた者もいるようで、見覚えがある服装の中年の男女が黄河のような人の流れを堰き止めるようにして再会を喜んでいる。本間と松山裕美は買い物よりも中国人民革命軍事博物館を見学したいと思っているのだが、ガイドを見失ってしまい探そうにもこの雑踏では諦めるしかない。
「何だか危なそうな人間がいますね」松山裕美が本間の耳元に顔を寄せて英語で呟いた。北京市内でも外国人に開放している地域は当局も国の威信を賭けて治安を維持しているため、盗難や暴行などの刑法犯罪は少ないのだが、今日は殺気立った目つきをした群衆が集っている。群衆と言っても全員が短髪の男性で痩せた者が多い中国人にしては逞しく、立っている姿勢も良い。その異様な群集は妙に威厳がある男性を囲むように円陣を作っている。
「日本の野畑は昨年の震災で我が国から受けた多大な恩義に領土の略奪と言う大罪で報いた」男性のアジ演説に群衆は野獣のような叫び声を上げる。2人にはその発声が号令調整に聞こえる。
「日本は150年前(正しくは133年前の1879年)、古くから我が国の皇帝に朝貢して臣下の礼を取っていた琉球に軍を派遣して占領した。釣魚群島(=尖閣諸島)は一緒に奪われたんだ」「日本による侵略だ」「中日戦争(日支事変)だけじゃあないぞ」群衆は台本があるかのように雄叫びを上げる。その声に遠巻きにしていた野次馬たちは距離を詰め始めた。
「我々は日本大使館への突入を試みたが、外交上の責任を負う我が共産党の意向を受けた警官隊に阻止された。しかし、警官隊も我々の怒りの行動に賛同していた」話は変な方向に反れたが、あえて警察隊の立場を説明するところが怪しい。
「見ろ。これが日本大使館の敷地の中で焼いた日章旗だ」白けた空気を察した男性はズボンの尻のポケットから焼け焦げた布を取り出すと頭上で広げて見せた。確かにそれは焦げ目をつけた日章旗だった。それを見て群衆が雄叫びを上げ、野次馬たちが後に続いた。
「そんな日本人が我が国の首都である北京市内に店を出し、人民から暴利をむさぼっている。それだけじゃあない。外国人に自国製の商品を売りつけて人民が受け取るべき利益を強奪しているんだ」「日本人を許すな」「日本人の店を破壊しろ」「日本製の商品を投げ棄てろ」野次馬の罵声の方が大きくなったところで最初の群衆たちは鉄パイプや棍棒などの破壊用具を配り始めた。この手回しの良さは極めて中国的だ。本間は隣りの松山裕美が拳を握っているのを手で制し、「ユー アー USアーミー(貴女はアメリ陸軍)」と声をかけた。これから目の前で日本の店舗や日本人が被害を受けても傍観者でなければならない。むしろ共産党中国の当局者の前で日本人を見捨てることがアメリカ人としての役柄の証明になるはずだ。
「先ずはあの店だ。ツゥシー(突撃)」男性は小道具が行き渡ったのを確認すると繁華街の一等地にある日本の大規模店を手で指した。この号令で素性を自白している。
それを受けて群衆が鉄パイプを振り上げながら走り出し、野次馬たちが後に続いた。群衆の一部は傍観している外国人観光客にビラを撒いていった。その1枚が足元に舞ってきたので拾い上げると漢字と英語で「愛国無罪」=「ペイトリオッティック・イノセンス」、「造反有理」=「レベル・レイショナル」と4行で大書してあった。
「始まりましたね」「うん、これは文化大革命のスローガンだよ」本間が中央道から習った知識を説明した時、大規模店内から男性の罵声と女性の悲鳴が聞こえ、ガラスを割り、大きな物を倒す音と非常ベルが響いてきた。外国人観光客たちは入口に近づいてデジタル・カメラやスマート・フォンのレンズの砲列を並べ、中で繰り広げられている破壊を撮影し始めた。本間と松山裕美は顔を見合わせたが全体を客観視することを選択した。
「ガード・マンは機能していないみたいですね」「下手に抵抗すればかえって危険なことを知っているんでしょう」本間は答えながら周囲を見回すと大規模店のガード・マンだけでなく、警察官たちも手出しをせずに無線で実況中継している。
「あれって泥棒じゃあないですか」破壊活動が始まってしばらくすると多くの中国人が店内から奪った商品を抱えて駆け出してきた。警察官たちはそれも素通りさせた。
  1. 2020/03/16(月) 13:04:21|
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3月16日・アメリカ軍による戦争犯罪・ソンミ村大量殺害事件

ベトナム戦争中の1968年には2月12日のファンニィ・フォンニャット村と2月25日のハニ地区で韓国海兵隊による住民虐殺が発生し、それに続くように明日3月16日にはグアンガイ省ソンティン県ソンミ村でアメリカ陸軍による大量殺害事件が発生しました。
この事件はアメリカ陸軍第23歩兵師団第11軽歩兵旅団第20歩兵連隊第1大隊C中隊第1小隊長のウィリアム・カーリー中尉が指揮したと言われていますが、軍事法廷での証言が喰い違い、陪審員制度のため日本の法廷のように徹底的に究明することなく印象で採決したことで、その後の陸軍と国防総省による隠蔽と関係者の死によって真実は闇の中へ葬られつつあります。
この日、カーリー中尉は北ベトナム軍ゲリラ=ベトコン捜索のため第1小隊を引き連れてソンミ村のミライ集落に入りましたが、唐突に広場に集めた村民504名(男性149名・妊婦を含む女性183人・乳幼児を含む子供173名)を銃火器による無差別射撃で殺害し、火炎放射機で家屋を焼失させたのです。残っている記録写真(報告用であれば上官からの命令の疑いが強まる)を見る限り韓国軍のような性的暴行や虐殺行為はなかったようですが、その場に居合わさずに生き残った3名を除く全村民504名を殺害したことに間違いありません。このため上空で犯行を目撃した武装偵察ヘリコプターは基地に報告するのと同時に機外アナウンスで「発砲の即刻中止」「従わなければ攻撃を加える」と警告し、救助のため着陸しましたが手遅れだったようです。
中国人民解放軍兵士としてベトナム戦争に参加した友人の父親の経験談ではベトコンと中国兵の戦闘方法は武力紛争関係法を完全に無視して残虐極まりなく、それに対してアメリカ軍は国際法とアメリカ国内法、さらに政治的指令で手足を縛られ、おまけに悪意のマスコミが監視している中での戦闘を強いられていましたから鬱屈と憤怒が爆発寸前だったはずで、忍耐力に欠ける韓国軍が先に凶行に及びアメリカ軍それに誘爆したと言うのが事件の経緯のようです。しかし、日本の反戦平和団体は韓国軍による犯行は市民に知らせることなくアメリカ軍によるこの事件をベトナム戦争の凶事として象徴化しました。
事件後、開かれた軍事法廷ではソンミ村でのベトコン捜索について「暗に殲滅を促す中隊長の曖昧な命令があった」とする証言と現地でのカーリー中尉の独断・暴走とする証言が交錯し(カーリー中尉は「ヘリコプターが上空から銃撃した」とも弁明したが不採用)、結局、カーリー中尉だけが終身刑の有罪判決を受け、他の上官や兵士13名は証拠不十分で無罪になりました。そしてカーリー中尉も軍内の同情論を背景に10年の懲役に減刑された上で1974年3月に仮釈放されました。
その後は公式な場に姿を表すことはありませんでしたが、2009年8月19日になって奉仕活動団体の会合に出席し、初めて事件について謝罪を表明したのです。これに事件当時10歳だったソンミ村の生存者は「謝罪はないものと思っていた。あまりに遅くて驚いている。犠牲者を代表して受け入れたい」「カーリー中尉自身が村を訪れ、当時とその後40年の想いを語ってもらいたい」と述べて佛教的に幕を引いたようです。
  1. 2020/03/15(日) 13:35:59|
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振り向けばイエスタディ1855

「現在、上海市を中心に日本が我が国固有の領土である釣魚群島(=尖閣諸島)を一方的に国有化したことに対する人民の抗議活動が行われています。現段階では皆さまの観光コースの北京市と古都・洛陽、万里の長城は平穏ですが、日本人と間違われないために日本製品を目立つように持つことは避けて下さい。何よりも北京語で『在アメリカの同胞だ』と説明すれば大丈夫です」北京首都国際空港から北京市内に向かうバスの中で中国人の女性ガイドが反日暴動について注意を与えた。やはり日本の企業と店舗、日本人だけを目標にした暴動のようだ。9月10日に野畑政権が尖閣諸島の国費買収を発表して以降、上海を中心に反日暴動が発生し、日本人が負傷していた。ところが本間と松山裕美が旅客機の中で日付変更線を越えた15日に共産党中国外交部の報道官が「日本の誤ったやり方に対する義憤は理解できる」「中国全土が日本の誤った行動に憤りをたぎらせ、政府による正義の要求や対抗措置を支持している」と抗議活動を容認する見解を述べ、中国国内のインターネット上で絶大な支持を集めていた「日本人を殴るのは好いことだ。痛快だ。小日本は最終的に滅亡してしまえ」「野畑が罪を犯したからこうなるんだ」と言う書き込みを肯定していた。このため不穏な空気は急速に全国に拡大し、バスの前のガラスから見える北京の空にも暗雲が立ち込めているようだ。
「何だかスリリングなツアーになりそうですね」松山裕美が隣の席の本間に耳打ちした。それでも全く怯えた様子はない。むしろ夫の松山千秋から本間の中国本土での活動に対する支援を求められ、それに応えることに妻としての使命感を覚えているのかも知れない。ニューヨーク・リバティ国際空港での抱擁と口づけはその確認だったのだろう。
「来ました。アメリカ陸軍の軍曹の軍服を着ています」天安門広場に着くとバスの駐車場を警戒している治安部隊の兵士が無線で報告した。すでにツアーに参加している2人のアメリカ軍人の情報は現場にまで通知されているらしい。
今回もツアー客たちはガイドに先導されて天安門広場に立つ石碑や彫像の英語と北京語の説明を聞きながら進んでいく。本間は前回、来た時よりもかなり警備が厳重になっていることを感じていたが、周囲の在アメリカ中国人の客たちを警戒して無言で呟いた。
「歩いている様子はアメリカ軍の動作で2人の歩幅、歩調も揃っています」ツアーが前を通過すると警備の兵士が報告する。2人は陸上自衛隊のWACだから歩行が基本教練の動作になるのは当然なのだが、それがアメリカ軍への偽装に役立っている。
「判りました。実施します」これからツアー一行が向かう地点の兵士が指示を受けた。すると1人の兵士が交代を演じながらツアー客の後方を横切り、最後尾を歩いている2人に向かって敬礼した。それに本間が条件反射的に答礼した。
「答礼の動作も軍人のものです。どうやらアメリカ軍の軍人なのは間違いないようです」交代を演じた兵士は定位置に立つと顔を見合せて笑っている2人を観察しながら無線で報告した。
天安門を潜る前にガイドが振り返るように指示して人民英雄祈念碑の説明を始めると、2人は軍服を着た男に声を掛けられた。男に気がついたガイドが目礼した。
「エクスキューズ・ミー」今日の役柄は軍人なので一般人以上の警戒心を披露しても問題はない。2人は自分たちに向けられた視線を察知して近づいてくる男を注視していたが、不似合いに友好的な笑顔を浮かべている。
「アメリカ陸軍の軍曹だと思いますが、観光旅行ですが」「貴方は」男の流暢な英語に本間が北京語で質問した。男が着ている軍服で治安部隊の上尉(1尉)であることは判っている。それでも礼式=マナーとして質問は自分の身元を明かした後だ。
「これは失礼した。私はこの地域の警備を担当している江(ゴン)上尉です」「確かに私たちはアメリカ陸軍の軍曹ですが、中国では名前は言いません。目的は祖先の母国の観光旅行です」本間の回答に江上尉と名乗った男は持て余したように苦笑した。
「所属は」「それも回答しません。貴方の職務権限で質問されてもこちらは合衆国陸軍の規律に基づいて拒否します」本間は外国では不評なアメリカ軍の傲慢さまで演じ始めた。
「観光旅行なのに軍服を着用している理由は」「身分を明確にすることで不要な嫌疑を受けないためです。現在の中華人民共和国は戦時体制にあるようなので」本間の皮肉にも江上尉は苦笑を浮かべたままだ。松山裕美には北京語は理解できないが、3等陸佐が中国保安部隊の上尉を圧倒しているのは明らかで快哉に笑って聞いていた。
「それでは楽しい観光と祖先の魂が眠る大地に触れて返って下さい」江上尉が顔を引き締めて姿勢を正すと本間と松山裕美も合わせて先に敬礼した。これも士官(両中国軍で士官は陸曹を指す)・将校(同じく佐官)に対する礼式に適っている。ここでの入国審査は通過できたようだ。
  1. 2020/03/15(日) 13:33:56|
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振り向けばイエスタディ1854

3日後のツアーに加わることができた本間郁子と松山裕美はニューヨーク・リバティ空港から北京に旅立った。その前に松山千秋が運転する私有車でニューヨークの市街地を流れるハドソン川の上流西岸にあるウェストポイント地区に寄り、駐屯地の外周道路に停めた車内で軍服に着替えた。陸軍士官学校内で着替えれば偽装は完璧なのだが、軍服や身分証明書を手配してくれた協力者を除けば本間と裕美が自衛官であることはアメリカ軍にも秘匿しているため窮余の策だった。これで少なくともウェストポイントから来た陸軍の兵士には見える。
「やっぱり制服を着ると気合が入りますね」「うん、陸自の制服よりも洒落てるから気分も好いよ」「会話は英語にしろ」2人が着替えている間、下車して周囲を警戒していた松山千秋が運転席に乗り込むと後席の女同士の会話に釘を刺した。本間と松山裕美は近くのスポーツ・ジムで少林寺拳法と極真会館の黒帯同士で稽古しており、設定通りの友人になっている。ただし、演じるのは台湾系のアメリカ陸軍軍曹だがら日本語を使うのは拙い。2人は肩をすくめて英語で談笑し始めた。これも海外旅行に出かける浮かれた気分を作るための準備運動だ。
「今回の旅行が2人にとって楽しいものになることを願っているよ。あくまでも祖先の土地である中国の空気を吸ってくることが目的だ。無茶なことをしないよう互いに自制してくれ」出発ロビーのゲートの前で松山千秋は職場の上司風に注意を与えた。2人は軍服を着ているので松山千秋も軍人と言うことになるが今日は私服だ。それでも2人の挙手の敬礼には同じように応えた。これなら私服を着た軍人に見えないことはない。
「貴方・・・」突然、松山裕美が駆け寄って胸にすがりつき、松山千秋は両手で抱き締め熱い口づけを交わした。ここがアメリカだから違和感はないが、どう見ても日本人の夫婦ではない。ただし、本間には羨ましい場面でもあった。
「今田(こんだ)さんの突き蹴りを受けていて不思議に思うことがあるんですよ」旅客機が離陸してシートベルトが着脱自由になったところで松山裕美が本間に話しかけた。周囲は共産党中国人か中国系華僑の客が多いので疑惑を抱かれない話題にしなければならない。
「どうして相手に当たる前から引こうとするんですか」松山裕美と本間はジムのフロアが空いている時には極真会館で言う組手、少林寺拳法の乱捕で互いに実戦性を強化している。そこで疑問に感じるのは本間が拳や蹴りを当てるだけで即座に引いてしまうことだった。
「だって少林寺の剛法(当身技)は急所に打撃するから時間的集中によって威力を高めれば効果は十分なのよ」「でも実際は私に当てても効果がないじゃあないですか」この指摘は本間も悩んでいるとことだ。松山裕美との乱捕では速度で勝る本間の突き蹴りが命中することが多いが、急所である水月=澪落ちを下から突き上げても松山裕美は卒倒するどころか、その場で猿臂(エンビ=肘)打ちや膝蹴りを返してくる。防具のような筋肉で身体を固めた男性の極真会館の空手家とは違い松山裕美はあくまでも鍛えて引き締まった女性であり、そうした敗北を重ねると少林寺拳法の理論に疑問を痛感せざるを得なくなる。
「極真では当てた相手の身体よりも拳1つ、足1つ分まで突き込む、蹴り込むように習います。勿論、連続攻撃をするために突き切った後には引いて構えますが、それは流れの中の動きであって、あくまでも突きで倒し、蹴りで倒すための一撃に力を込めるんです」「確かに貴方の一撃は堪えるわ」少女時代から少林寺拳法に励んできた本間としては急所への打撃で倒せないのは自分の技量不足と思いたいところだが、日頃の松山裕美の謙虚な人間性を知っているだけに素直に納得せざるを得なかった。
「でも少林寺の関節技は組手の動きから捕まえて極めてしまうんだから凄いですよね。私も痛い目に遭いました」松山裕美が突き込んだ後に引くのは先ほどの極真会館の理論の通りだ。今度は持ち上げられた本間は複雑な顔をしてうなずいた。
「少林寺拳法は中国の武術って言ってるけど本当は開祖が広島で学んだ不遷流柔術が元みたいなの。だから関節技が優れ物なのは当然だね」この話は大学時代、中国からの留学生の中央道が中国武術との動きの違いに違和感を持ち、研究した成果だ。中央道は剛法は香港功夫(カンフー)に通じるが、剛法(関節技)は日本発祥との結論に至って本間にだけ語っていた。それも懐かしさと哀しさが重なる思い出だ。
「サージェント、飲み物はいかがですか」そこにカートを押して通路を歩いてきたキャビン・アテンダントが声をかけてきた。カートの中にはビールやカクテルの缶が氷に浮かべてある。
「サージェント・ジョン(中軍曹)、アルコホールを飲みませんか」陸曹と呼ばれた経験がない(任官前は候補生だった)本間が返事をしないと松山裕美が奥から顔を出してカートを覗き込んで声を弾ませた。確かにこの旅客機の中では気楽な女2人旅だ。
  1. 2020/03/14(土) 12:12:02|
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振り向けばイエスタディ1853

松山千秋1佐と妻の裕美2曹、娘の小春の3人がニューヨークに赴任して偽名の佐田一家になって半年余りが過ぎた9月、中国で大規模な反日暴動が起こった。松山夫婦が勤務している日系人向け雑誌・ウィクリー・ジャパンの編集部でも状況分析に努めているが、国務省人脈からの情報とマスコミ報道以外に材料はなく傍観者にならざるを得ない。
「今回の原因は8月15日に中国人民解放軍の幹部が設立したフェニックス・テレビの撮影隊が中国本土や香港、マカオの活動家を引き連れて尖閣諸島に上陸したことです。フェニックス・テレビは海上保安庁による摘発の一部始終を中継しましたから明らかに政治的な扇動です」昼のニュースの後のミーティングで中国担当の本間は台湾からの情報を加えて解説した。その力んだ口調に杉本と岡倉は冷ややかな笑いを浮かべ、松山は不思議に優しげな視線を送った。
「日本の民政党政権はアメリカから中国に乗り換えて公然と属国化を進めているじゃあないか。反日暴動を起こせば日本の国内世論が反発して政権の足を引っ張ることになるのが判らないのか」「逆に尖閣で中国漁船が巡視船に衝突した事件の時のように圧力を加えれば幾らでも引き下がるって見切ったんだろう」杉本の疑問に岡倉が本間を遮るように答えた。やはり本間は中国担当者でありながら2010年の上海国際博覧会以外は中国本土に足を踏み入れていないことを嘲笑・侮蔑されているようだ。それは2008年のチベット蜂起で後継者と決めていた村田を失った工藤が中国国内の情報保全が戦時体制並みに強化されていることを察知して希望を禁じたためなのだが本間自身も不満を鬱積させている。
「引き金になったのは野畑政権が尖閣の所有者から土地を国費で購入すると言う9月10日の閣議決定を中国のマスコミが『国有化』と報じたことですが、あれは東京都知事が都費で購入して警視庁に警備させると表明したのを阻止するためなんです」本間の熱弁も全員が同じ情報源を共有しているので目新しいことはない。杉本と岡倉は白けた顔を見合わせた。
「問題はアメリカのマスコミの報道姿勢だが」「大手マスコミは中国華僑に株を買い占められているためかなり影響力が加えられています。今回のニュースについても中国側の誤解を肯定する表現になっていて日本政府の説明も単なる弁明扱いです」「うん、そうだな」松山が助け船として本間に与えた質問も杉本の相槌で水泡に帰した。
「今度こそ中国本土で実情を確認してきます」本間はミーティングの後、裕美と娘の学校の話をしている松山の前に歩み寄ると強く訴えた。本間の真剣な態度を見て裕美は席を外した。
「こんな混乱の中に飛び込めばたちまち抹殺されて行方不明者になるだけだぞ。僕が命じた在アメリカの中国人の動向の監視に励めば必要な情報は収集できるはずだ」松山は思い詰めた本間の表情を見ても冷静に指導した。しかし、本間は目を血走らせて見返してくる。すると松山は裕美を呼び寄せると手で指示して隣りに立たせた。
「この際、2人で中国旅行に出かけなさい。ただし、肩書はアメリカ陸軍の台湾系の下士官だ」唐突な指示に本間は唖然として裕美を見たが話は聞いているようで平然としている。
「アメリカ陸軍の軍服を着て堂々と入国すれば中国当局も監視の方法が変わる。今田(本間の偽名)と佐田(松山の偽名)は職場の同僚だが、佐田は中国語ができないから通訳を今田に頼んだと言う設定なら真実味もあるだろう」松山は一方的に必要事項を説明した。裕美は妻として夫の論法には慣れているので疑問を挟まず理解したが、本間は内容をよく噛まなければ呑み込むことができない。確かに海外では軍服を着用した軍人は身分を明示しているのでスパイの嫌疑をかけられる危険性は低い。アメリカ5軍でも特に陸軍は友邦からの移民を受け入れているため台湾系の兵士も少なくはない。士官であれば儀礼が発生し、別の意味の注意を払われる可能性がある。そして本間が中国語力に欠ける松山裕美に同行すると言う設定には無理がない。やはり思いつきではなく腹の中で考えていたのだろう。本間は口ではアメリカ国内の中国系移民の監視を命じながら秘かに自分の仕事を思索し、その実施のために妻を同行させることを決めた松山の指揮官としての姿勢に胸が熱くなった。
「佐田軍曹、用意してあるアメリカ陸軍軍曹の軍服を今田軍曹に渡しなさい。兵科は輸送だったな」「はい、連隊長。留守中は小春をよろしく」松山の指示に裕美は悪戯っぽく笑いながら部屋の隅の雑貨ロッカーに向かい両手で段ボール箱を抱えてきた。中にはアメリカ陸軍の半袖の夏服と迷彩服、略帽と戦闘帽、女性用の短靴と半長靴などの軍装が2人分入っている。本間が迷彩服を取り出して名札を確認すると「JON」と刺繍してある。
「私は中(ヂョン)ですか・・・」「フルネームは中央愛だ。身分証明書もそう作ってある」松山は本物の偽造品であるアメリカ陸軍の身分証明書を手渡した。これは第2次天安門事件で亡くした恋人・中央道から採ったのだ。本間は似合わない涙をこぼしてしまった。
  1. 2020/03/13(金) 11:34:38|
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講道館・嘉納行光第4代館長の逝去を悼む。

3月8日に講道館柔道の創始者・嘉納治五郎先生の孫にして昭和55(1980)年から2009年まで講道館第4代館長を務め、晩年は名誉館長の職に在った嘉納行光館長が亡くなったそうです。88歳でした。
野僧は中学校の教師の伯父が海上自衛隊生徒と水産高校通信科への志望に反対するのに吐いた暴言「船乗りなんて港港に女を囲うふしだらな人間だ」「長男が家を空ける職業に就くことは許されざる親不幸だ」を父親が言い続け、海上自衛官を目指して入部していたヨット部も退部させられたところに柔道部と空手部から警察官になった2学年上の先輩に「自衛官になるなら武道を経験しておくべきだ」と誘われて柔道部に入ったのです。
すると投げて投げられての練習が意外に面白く白帯が茶帯になり、その頃には教室でビーパップな同級生が仕掛けてくるプロレスごっこで足払いや大外刈り、払い越しを決めるなどして護身の役に立つことを実感し、やがては黒帯になりました(現在は2段)。おまけに練習と同時進行で嘉納治五郎先生の著書を含む柔道の本を読み漁り、月刊柔道マガジンを定期購読していたので上部組織の内部事情と行光館長の就任も知っていました。
講道館は創始者・嘉納治五郎先生が夏の東京と冬の札幌の両オリンピックの誘致の成功を見届けた昭和13(1938)年5月4日に帰路の船中で急逝されると嘉納先生の姉の息子である南郷二郎海軍少将が2代を継ぎましたが、敗戦後に占領軍が武道を「日本人を軍国主義化した手段」と否定したため「元軍人が館長では都合が悪い」と昭和21(1946)年に退任し、嘉納先生の二男である履正館長が46歳で3代を継ぎ、昭和24(1949)年には柔道が体育教育であることを明示するために結成された全日本柔道連盟の初代会長に就任しました。
履正館長は戦前から優れた指導者が種を蒔いていたヨーロッパで柔道復活の気運が高まったのを察知すると国際化を推進し、1952年には全日本柔道連盟が前年に設立された世界柔道連盟に加入してその年から東京オリンピックが終わった1965年まで会長を務めました。ただし、履正館長の後任のイギリスのジョージ・カー会長は自身が柔道家(国際連盟認定10段)であってもメキシコ市オリンピックでの競技種目を維持できず、経験者が優れた必ずしも組織経営者足り得ないことを証明してしまいました。一方、行光館長は国際柔道連盟の会長には就任しておらず、あくまでも講道館の館長と全日本柔道連盟の会長として国際化の名の元にレスリングの様式を持ち込もうとするヨーロッパ各国の柔道連盟に本家として監視・反対・妥協する立場でした。確かに試合場の外枠を線から赤色の畳1枚にしたことや白と青の試合用の柔道着など国際柔道連盟の合理主義には有益な点も少なくありませんが、ポイント式の勝敗判定は一本を狙って技を仕掛ける柔道の醍醐味を阻害しているのも確かです。それでも創始者の嘉納先生は海外に指導者を送りだす時、「日本人が勝てなくなるくらい海外で柔道を発展させたい」と激励されたそうですから、他の武道のように伝統に固執するのは柔道の本来の姿勢・態度ではありません。
補足すれば現在の講道館の5代館長は上村春樹9段です。ご冥福を祈ります。
  1. 2020/03/12(木) 14:10:13|
  2. 追悼・告別・永訣文
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