平安時代末期の源平の争乱の中、寿永2(1183)年の明日6月1日の加賀国の篠原の戦いで平家方の武将・斎藤実盛さんが討ち死にしました。
現在も西日本では稲の害虫を鎮めるため集落から集落が持ち回りで「実盛さま」と呼ぶ藁人形を神輿に載せて田園を隈なく巡り歩く「虫送り」と言う儀式が行われていますが、その祭神は斎藤さんなのです。
斎藤さんは芥川龍之介さんの傑作短編小説「芋粥」でうだつが上がらない役人の念願だった「芋粥を腹一杯食べさせてやろう」と自領の敦賀に招いた藤原利仁さんの末裔で、斎藤さんも天永2(1111)年の越前国の出身ですが、武蔵国に領地を与えられたため源氏と平家の抗争の時代には関東で暮らしていました。やがて源義朝さんが関東に来て鎌倉を拠点にして相模国を圧えると義朝さんの父親で源氏の頭領だった為義さんは弟の義賢さんも関東に送り出して対抗させようとしました。すると義賢さんは武勇に優れる兄との直接対決を避けて上野国に入りましたが、義賢さんが河内源氏の祖・源頼光さま以来、嫡流が継承する太刀・友切を授けられていることを知った義朝さんが長子(嫡男ではない)の鎌倉悪源太・義平さんに命じて討ち滅ぼしてこれを奪ったのです。この時、斎藤さんは義平さんの武勇と激しい性分を怖れてそれまで友好関係にあった義賢さんを見捨てましたが、遺児を匿っていた家臣から預かり、信濃国の豪族に嫁していた乳母のところにまで送り届けて託しました。この遺児が後の木曽義仲さんです。
保元・平治の乱では源義朝さんに参じて武勲を上げましたが、平治の乱が敗北に終わると手配よりも早く武蔵国に戻り、平家に臣従して源氏滅亡後の関東での支配に貢献したため知勇に優れる武将として存在を認められるようになったのです。そのため源頼朝さんが挙兵すると鎮圧に派遣された平維盛さんの陣に加わりましたが、富士川の陣中で坂東武者の強さと勇猛さ、残酷さを率直に述べたため怖気づかせてしまい、水鳥の羽音を敵襲と思い込んで逃亡させてしまったと平家物語には描かれています。
それでも斎藤さんは平家に従って京に上り、信濃国で挙兵して倶利伽羅峠の戦いで勝利して勢いに乗る木曽義仲さんを北陸で阻止する命を受けました。そうして迎えた篠原の戦いでは斎藤さんはこれが最後と覚悟を決め、「老武者では情けをかけられる=武門の恥辱」と白髪を墨で黒く染めて出陣したのです。このため平家物語の「実盛最期」(独立した1篇になっている)では木曽さんの家臣が名乗りを上げても「故あって名乗ることはできないが、尋常に勝負しよう」と応えて立ち合って討ち取られ、首を検分した木曽さんの陣中では顔を知っている別の家臣が「斎藤実盛殿では」と言っても「72歳の高齢には見えない」と訝り、髪を水で洗わせて本人と確認し、木曽さんは命の恩人を討ってしまったことを悔やんで人目をはばからずに号泣したと記しています。
この最期の戦いでは斎藤さんの馬が稲の切り株に足を取られて落馬したことで不覚を取ったため「死んだら稲の害虫(=ウンカ)になって喰い荒してやる」と言い遺したとの伝承から虫送りの「実盛さま」になったそうです。つまり祟り神です。
- 2020/05/31(日) 13:10:15|
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「貴方、海外小荷物が届いてるよ。随分重いんだけど何かしら」船岡の茶山元3佐が山小屋から戻ると妻の静が見た目は小さい段ボール箱を重そうに持って見せた。
「モリヤくんからだろう。開けてみよう」茶山元3佐が静から段ボール箱を受け取ると見た目の予測よりもかなり重く、腕の中で20センチほど落下させてしまった。箱の上面に貼ってある荷札の横文字を確認するとネーデルランドのモリヤニンジンだから間違いない。取り敢えず玄関に置くと山小屋へ持っていく7つ道具の中から小刀を取り出して箱の蓋を厳重に止めているガムテープを切り、静も興味深そうに身を乗り出して覗きこんだ。
「オランダ名産の大きな円盤チーズね」蓋を開けると中からは強烈なチーズの匂いが広がった。上に掛けてある外国語の新聞を取ると中には直径30センチはある黄色の丸く平たい固まりとその下に5合瓶と緑色の350ccの缶が6本詰め込んであった。固まりは巨大で重過ぎて何なのか判別できないが、静が匂いと色でチーズと推理した、
「本当に大きいな。固そうだから包丁では刃が立たないだろう。この鋸(のこぎり)で切ろうか」持ち上げているチーズは漬け物石に使えそうなくらい重く、焼き物のように固い。これでは包丁で切るのは無理だ。茶山元3佐が7つ道具の袋から鋸を取り出すと静は首を振りながらチーズを取り上げた。静としては茶山元3佐が常に7つ道具の手入れを念入りにしていて防錆剤を塗布しているのも知っているだけに食品に使うことは許可できない。
「パン切り包丁なら鋸みたいな使い方をするから大丈夫だよ」「ウチにパン切り包丁なんてあったかな」「高い物じゃあないから買いましょうよ」茶山家の食事は飯か麺、パンはトーストなのでフランス・パンなどに使うパン切り包丁は見たことがない。それでも山小屋で立ち木を切ってきた鋸の刃に木屑が付いているのを見て納得した。
「手紙が入ってるな」5合瓶を取り出すと底に封筒が入っていた。取り出して読むとA4版にパソコンの文字がギッシリと詰まった書簡2枚と印刷した画像1枚だった。箇条書きの荷物の解説から始まっているのはやはりモリヤだ。
「チーズは薄く切ってパンに載せて焼くと溶けて美味しいそうだ。どうやって薄く切るのかね」茶山元3佐がぼやくように呟くと静は自分の意見の通りだと納得してチーズを抱き締めた。小柄な静では腕からはみ出している。
「酒はイエネーファと言うオランダの地酒で、ジンの元になった酒なんだそうだ」「ジンって強い洋酒じゃあないの」「ジンジンジンジン、サントリー・ジン・・・」静の確認に茶山元3佐は返事の代わりに昔、テレビで流れていたCMソングを口ずさんでしまった。ただ洋酒は苦手なので間もなく開催される船岡駐屯地の花見の会で施設OB会の戦友たちに呑ませることにした。
「こっちはオランダのビールでハイネケンって言うそうだ」「綺麗な緑色ね。こうして並べると制服を着た陸上自衛官みたい」茶山元3佐が缶を玄関に並べると静が意外な表現をした。茶山元3佐としては灰茶色の70式の制服に愛着があり、迷彩服よりもOD色の作業服の方が着なれているので「基本教練の横隊みたい」と言ってもらいたかった。
「納豆と豆腐作りには成功したそうだ。これが写真だってよ」書簡には「添付画像参照のこと」と断り書きしてあり、そこには洋式の器に入れた沖縄豆腐、絹豆腐と納豆が写っていた。
「ふーん、炬燵はないからヨーグルト・メーカーって言う家電機材を買ったのか」「やっぱり海外での生活は日本とは違うのね。でもヨーグルト・メーカーって何に使うのかしら」静は手渡された画像の納豆と一緒に写っているヨーグルト・メーカーを見て首を傾げた。古希前後の初老夫婦の感覚ではヨーグルトは市販しているカップ1個で十分であり、大量生産する必要性は全くない。とは言え納豆製造用にしては本格的過ぎる。
「へーッ、ヨーロッパは大根が違うから沢庵にはできないのかァ」静の疑問には答えず茶山元3佐は自衛隊の回覧文書に目を通すように読み進めていく。そこで断り書きに従って静が持っている画像を覗くとスーパー・マーケットの野菜コーナーで撮った大根の写真が紹介されていた。
「色が全然違うな」「形もね」静も一緒に画像を覗き込んだ。写っているのは「大根だ」と説明されるから納得するだけで、見た目は大根とは思えない不可思議な根菜ばかりだ。
「これがモリヤさんの奥さんなの。沖縄豆腐も作ったって書いてあったから沖縄の人なのかしら」静が唐突に大根を持って写っている女性を指さして確認してきた。茶山元3佐は長いモリヤとのつき合いでカンボジアPKOの後、家庭を守れなかった前妻と離婚して前川原の同期のWACと再婚したことは知っていた。その後妻が1佐になっていることも部内の新聞で読んでいる。しかし、どう見ても1佐のWACと言う雰囲気ではない。それでも深入りしないのが茶山元3佐だから返事をせずに視線を書簡に戻した。続きにはアフリカでの体験と国際情勢が綴ってある。
- 2020/05/31(日) 13:09:07|
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終戦から17年が経過した1962年の明日5月31日にイスラエルでアドルフ・オットー・アイヒマン親衛隊中佐が処刑されました。
ニュルンベルク裁判はナチスの「人道に関する罪」については時効を認めていないので(ドイツは連合国との講和条約を結ばないまま東西に分断されていた)、現在もドイツでは元ナチスの高齢者が当時としては義務であった「協力の罪」で逮捕されて裁判を受け、大半は有罪判決を受けて刑務所内で死亡していますが、イスラエルに対して捜査権、逮捕権や司法権を与えておらず、ましてや死刑によって殺害する法的根拠はありません。
アイヒマン中佐は1906年にドイツ西部の刃物で有名なゾーリンゲンで電機会社の事務員の父親とオーストリア系の母親の5人の子供の最初の長男として生まれました。1913年に父親がオーストリア・ハンガリーの同業社の役員になったため一家で移住し、そこで成長しました。上昇志向が強い父親はオーストリアで事業を起こしますが立て続けに失敗し、アイヒマン中佐も入学した学校を立て続けに中退し、就職先も解雇されて行き詰っている中でオーストリア・ナチス党に入党し、親衛隊にも入隊したのです。その後は組織の歯車として機能しながら適材適所に配置され、それがユダヤ人問題の担当者でした。
アイヒマン中佐自身はオーストリア時代に多くのユダヤ人の友人と親交を持ち、ユダヤ人が経済の実権を握っていたオーストリア国内では常識化していた反ユダヤ主義に染まっていませんでしたが、親衛隊内でのそれぞれの立場の上司から巧妙に思想を誘導され、当初はユダヤ人の間で流行していたシオニズムに同調して「ユダヤ人を中東に強制移住させてヨーロッパから排除する」と言う意見でしたが、次第に強制収容所への収監=隔離、最終的にはガス室での大量殺害=民族抹殺を担当業務として誠実に実施し、むしろ有能な実務者として要職を歴任して親衛隊内で絶大な信頼を得ることになったのです。
1945年5月8日にナチス・ドイツが敗北するとアイヒマン中佐はアメリカ軍の捕虜になりましたが偽名を使って身分を偽った上、収容所から脱走して西ドイツ内で潜伏した後、難民を装ってイタリアへ移動し、ナチス戦犯の逃亡を支援していたカソリックの修道士会の手引きでアルゼンチンへ渡航しました。アルゼンチンでは偽名を使って農場経営などで生計を立てドイツから家族を呼び寄せて10年間の平穏な生活を送ることになりました。ところが逃亡したナチス戦犯を追及していた西ドイツの検察官が偽名による渡航を察知したものの海外での捜索が許可されなかったためイスラエルに通報したことで捜査が始まったのです。イスラエルはモサド=諜報特務庁の工作員を派遣しましたが尻尾を掴むことができずにいたところ息子が女友達に父親の素性を自慢したことから存在を確認し、息子を2年にわたり監視・尾行した末にアイヒマン中佐の拘束に成功しました。
イスラエルの法廷で戦争犯罪者を裁くことに国際世論は必ずしも賛同しませんでしたが、ナチスによる迫害を経験したユダヤ人たちが証言した過酷な待遇と残酷な大量殺人をユダヤ系大手マスコミに報道させたことでユダヤ人国家のイスラエルに処罰する権利があるように誘導されてしまい1961年12月15日の判決に基づいてこの日に執行されました。
- 2020/05/30(土) 12:14:31|
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「今はどんな気分なの」分娩台に横になってもジェニファーは普段と変わらぬ表情で医師が腹を圧迫して子供を押し出そうとしているのを傍観している。裕美2曹は自分が経験した出産とは別次元の光景に思わず質問してしまった。あの時は陣痛に耐えながら助産師の音頭に合わせた看護師たちの声援を受けて「キエーッ」と言う空手の気合と共に小春を産んだのだ。
「ベビーが頭で子宮口を押しているのは判るけど、私がドアを開けないから出てこられないみたい」痛みがない分、ジェニファーの分析は冷静だ。アメリカでも最終段階は息むらしいが、母親がその感覚が判らずに吸引分娩や医師が鉗子で頭を挟んで引き出すことも珍しくないと言う。
「それではジェニファー、大きく息を吸って腹に力を入れなさい」すると股間に回った医師が息むように指示した。腹を圧迫する役はベテランの看護師に交代している。
「腹の中身を股間から押し出すつもりで力を入れるのよ」裕美2曹は分娩台の頭側に回ると取っ手を握ったジェニファーに声を掛けた。それを受けてジェニファーは顔を歪ませて息み始めた。やはり鎮痛剤で陣痛は押さえても胎児が頭で内蔵である子宮口を押し広げる刺激は別のようだ。ジェニファーの額には汗が噴き出している。
「頑張れ、頑張れ、頑張れ・・・」気がつけば裕美2曹は分娩室での看護師たちの役を演じている。声援は日本語になっているがこの子どもは日米のハーフだから意味は通じるはずだ。
「イエス(そうだ)、カミング(来い)、カミング・・・」「レッツ(さあ)、プッシュ(押せ)、プッシュ、プッシュ・・・」股間を覗き込んでいる医師と腹を圧迫している看護師も声を掛けている。ジェニファーの声が悲鳴になった時、医師が両手を伸ばした。
「OK、ウェルカム(いらっしゃいませ)」「ミュウール(mewl)、ミュウール、ミュウール・・・」医師の歓声の後に聞こえてきた赤ん坊の泣き声はやはり英語だった(そんな訳がない)。
「オー、マイガー(ああカミよ)」ジェニファーは涙を浮かべて天井に向かってかすれた声で呟いた。その虚脱感と達成感が混在する顔を見下ろしている裕美2曹は自分の経験を重ねながら感激を噛み締めていた。ところがここからアメリカ式出産の発見と困惑、驚愕の再開だった。
「ジェニファー、貴女が産んだボーイだよ」看護師はヘソの緒を処置してタオル状のガーゼで拭いただけで裸のまま赤ん坊を抱いて見せにきた。日本では分娩室内の湯船で産湯に入れて母体内から付着してきた血液や出産時に漏れた尿や便などの汚物を洗い落とすが、アメリカではヘソの緒が取れて固まるまで湯を浴びせることは禁止なのだ。それは母親も同様でシャワーを浴びることもできない。さらに出産時は血液が凝固し易くなるため安静にすれば血流が滞り、血栓を起こす危険性があるため通常の出産の入院は2泊だ。これには医療費負担の問題も絡んでいるらしい。
「男だって」翌朝、10時よりも少し前に工藤が病室に掛け込んできた。現役の頃は「常に沈着冷静で泰然自若だった」と聞いている日本版MI6の現場指揮官とは思えない興奮度だ。工藤は起こしたベッドに寄り掛かっているジェニファーの手を取ると感謝の言葉を連射し始めた。
「グッドジョブ(よくやった)、ウェルダン(でかした)、ビッグ・ペィッテン(大手柄だ)・・・サンキュー(ありがとう)」興奮していても英語で呼びかけるところは流石にアメリカ生活30年オーバー(超)だ。工藤は微笑みながら涙を浮かべたジェニファーの額に唇を押し当てた。
「佐田さん(松山家の偽名)、どうもお世話になりました」「いいえ、こちらこそ勉強になりました」工藤はジェニファーへの感謝と慰労、隣りのベビー・ベッドに寝ている息子との対面に続いて壁際に立っている裕美2曹に日本語で声をかけて頭を下げた。ここで握手を求めないところは日本的な男女の距離感だろう。
「それでは名前を披露します」挨拶が終わったところで工藤は妙にかしこまった顔になると姿勢を正し、羽織っているジャケットのポケットから紙を取り出した。紙を広げて掲げるとマジックで大きく「命名・平助・Hesuke」と漢字とアフファーベットで3段に横書きしてある。
「平助くんですか」「ヘースケ・・・」裕美2曹が名前を読み上げると意味を察したジェニファーも相槌のように復唱した。
「江戸時代の蘭方医で『赤蝦夷風説考』を著した工藤平助から採ったんだ。この子にもあの時代の日本で海外事情を正確に捉えていた工藤平助のような目を持ってもらいたいと言う願いを込めた」説明に熱弁を揮う工藤に裕美2曹は夫との日常風景を重ねてしまった。
「私はジェニファーが妊娠したと聞いた時、倉田の生まれ換わりだと思った。否、思おうとした。しかし、腹の中で成長していくのを実感するに従って自分の生命を受け継ぐ我が子だと理解した。この子が私に新たな生き甲斐を与えてくれたようだ」工藤は紙をジェニファーに手渡すとベビー・ベッドを覗き込んで平助に顔を近づけた。アジア系とアフリカ系の両親の息子は産毛が黒く、肌は日焼けした日本人のようだ。顔がどちらに似るかはこれからの楽しみだ。

イメージ自画像
- 2020/05/30(土) 12:13:18|
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昭和27(1952)年の明日5月30日に杜の都・仙台市でも住民の大半が戦争中の朝鮮半島出身者だった大梶南地区で南の大韓民国、北の朝鮮民主主義人民共和国の支持者(必ずしも出身地別ではなかった)の対立が大規模な暴力事件に発展しました。
朝鮮戦争は1950年6月25日にソ連の非公然な全面支援を受けた北朝鮮が仮の国境線として合意していた38度線を越えて侵攻して以来、韓国とアメリカ軍を半島南部の釜山周辺にまで追い詰めながらも1950年9月15日の仁川上陸作戦によって伸び切っていた補給線が遮断されたため南に取り残された兵力が壊滅され、同時に手薄になっていた北に進攻した国連軍によって平壌の寸前まで逆襲されたのです。ところが1949年10月1日に成立したばかりの共産党中国が国連軍の国境の侵犯を口実に1950年10月19日に側面から軍事介入し(名目上は個人参加の義勇軍とした)、北朝鮮軍と同じく伸び切っていた国連軍の補給線を遮断して同じ戦況に陥らせました。その結果、両者は厳寒の中、一進一退を繰り返しながら38度線付近の山岳地帯で戦線が停滞することになり、1951年7月10日から休戦交渉が始まっても互いに滅茶苦茶な要求の応酬を続けていました。休戦の合意文書に調印したのは1953年7月27日です。
一方、現場となった大梶南地区は陸上自衛隊北部方面総監部がある仙台駐屯地から北西に1キロ弱の現在の仙台市宮城野区大梶地区で、住民の大半を占める朝鮮半島出身者が地区の中央を縦断する道路(横切る仙台石巻線とする説もある)を38度線になぞらえて南支持者の民団、北支持者の民戦に分かれて対立していたのです。
事件は大梶南地区以上に民団と民戦が対立していた大阪府泉大津市で発生した大規模な抗争事件で民戦系の住民が死亡したことを受けて大梶南地区の民戦系の住民が「死亡したのは自分の親族だ」と言い出したため(事実なのかは不明)、それが「大阪の仇を仙台で討つ」との興奮状態を引き起こし、この日の午後7時頃に「殺人鬼民団に対する抗議」として70名が松原朝鮮学院(大梶南地区の東側に隣接する)に集結すると4列縦隊のスクラムを作って民団系の居住地域に突入し、住宅を襲撃して住人に暴力を加えたのです。
住民からの通報を受けた仙台市警は警察官を大量動員して大梶南地区を包囲・封鎖すると
翌朝8時に一斉検挙し、6月2日までに暴力行為に参加した民戦系住民20名を逮捕し、刑事告発しました。仙台地方裁判所は昭和32(1957)年に全員の懲役6カ月から10カ月の有罪判決を下しています。
日本では戦前から朝鮮半島出身者の凶悪事件が続発していましたが、敗戦後は占領軍が東京裁判における日本の戦争犯罪を強調するため朝鮮王朝側からの要請による信託統治を侵略的植民地支配としたことで日本の警察も取り締まりに腰が引けてしまい、それに増長した朝鮮半島出身者による警察署の襲撃や警察官への暴行事件が続発しており、この年の2月21日から23日には青森県の木造警察署が朝鮮人暴徒に襲撃され、応援に駆けつけた弘前署員が集団暴行されるなど無法地帯に等しい社会になっていたため仙台市警も介入には事件の発生と朝鮮半島出身者の住民からの通報を必要としたようです。
- 2020/05/29(金) 13:23:16|
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夕方、工藤が仕事に出掛ける時間に合わせて裕美2曹が2人の家に行った。松山家では今夜から明朝の登校までは千秋1佐が小春と過ごし、家事一切を引き受けることになっている。
「それじゃあ気をつけてな。慌てて産まなくても良いぞ」「そればかりは約束できないわ。この子次第よ」早目の夕食を終えて工藤はソファーで陣痛に耐えているジェニファーの前に跪くと膝に手を置いて話しかけた。裕美2曹は間もなく定年退官する父親の中村正敏曹長よりも年長のはずの工藤の甘く優しい言葉に困惑しながら遠くから2人の姿を眺めていた。
「ベビー、明日の10時までダディを待っているんだぞ」立ち上がった工藤はジェニファーの腹に口を当てて話しかけた。陣痛が始まったのは昼前なので時間がかかる初産でも午前10時はギリギリの線だ。部屋の隅で裕美2曹は未知の無痛分娩による出産について思案していた。
「それでは妻と我が子をお願いします」玄関まで見送るとドアを開ける前、工藤は自衛隊式の回れ右をしてかぶっているニューヨーク・メッツの野球帽の庇に手を掲げて敬礼した。
「工藤さんは楽しみにしてるんでしょうけど明日の10時まではかからないよね」居間のソファーに戻った裕美2曹は陣痛が収まったらしいジェニファーに声をかけた。これはまだ陣痛に耐えなければならないジェニファーを安心させるための言葉でもある。するとジェニファーは自分の腹を撫でながら静かに話しかけた。
「貴方もダディに迎えてもらいたいのね。私も一緒だよ。2人で待っていようね・・・痛いッ」ジェニファーの呼び掛けに反抗するようにお腹の子は外に出ようとした。裕美2曹は出産の時、千秋1佐から「四苦の生老病死の生はジャーティーと言って産まれる時の苦痛だ。母親だけでなく子供も苦しいんだ」と教えられた。これが守山時代の坊主の中隊長からの請け売りなのは言うまでもないが、産まれてくる子供としては父親を待つよりも一緒に苦しんでいる母親を思いやった孝心なのかも知れない。
「5分切ったわね。産婦人科に電話して行きましょう」腕時計で時間を確認した裕美2曹が促すとジェニファーは深くうなずいて肘かけに手をついて立ち上がった。
「子宮口の状態から見て3時間以内には産まれるでしょう」タクシーで産婦人科医院に向かうと準備は整っていた。アメリカの産婦人科医院は病院で勤務している医師たちが共同経営し、交代で診断しているためジェニファーは今日の当直の医師とも意思疎通はできている。最近のアメリカでは入院してそのまま病室で出産するLDRと呼ばれる設備を売り物にしている産婦人科医院や病院が増えているようだが、この医院では日本と同じく分娩室で出産するようだ。
一方、ここに来る時、マンションの前でタクシーを拾ったのだが、日本では車内で出産と言う緊急事態を避けるため臨月と判る妊婦が手を上げていても素通りするタクシーがあるのにアメリカでは気がついた運転手の方が止まって声を掛けてくれた。エレベーターの中からスマートフォンでタクシーを呼ぼうとする裕美2曹にジェニファーが「不要」と言ったのは当然だった。
「こちらはミスター工藤の娘さんですか」「いいえ、それでも私たちが信頼している共通の友人です」裕美2曹はジェニファーとは顔見知りらしいアフリカ系のベテラン看護師から立ち合い人になるための適格性の確認を受けた。裕美2曹としては自分が経験していない無痛分娩に対する好奇心から立ち合いを申し出たのだが、その前から困惑と発見の連続になっている。
「それでは腰に鎮痛薬を点滴しますから裸になって横を向いて下さい」「えーッ、裸で子供を産むんですか」看護師の指示を聞いてジェニファーではなく裕美2曹の方が驚愕の声を上げてしまった。日本では入院衣に着替えて分娩台に乗せられてから下半身を裸にされるが、その時も「出産だから仕方ない」と自分に言い聞かせて羞恥心を打ち消している。ところがアメリカでは緊急に帝王切開しなければならない場合などの処置に備えて全裸で出産する医院・病院が多数派とのことだ。それにしてもこんなことに驚嘆していては立ち合い人としての信頼性に疑問符がついてしまいそうだ。裕美2曹は自分もきている入院衣を摘まんでみた。
看護師はベッドの脇で覗き込んでいる裕美2曹に微笑みかけながら長いピンセットで摘まんだ大き目の脱脂綿をビーカーのヨードチンキに浸し、腰全体に塗り始めた。こんな言い方は人種差別になりかねないがアフリカ系のジェニファーの肌の色には違和感がない。
「点滴は腕にしないんですか」「これは硬膜外麻酔と言って下半身に限定した鎮痛処置なんですよ。腕に点滴することもありますが、そうなると母親の脳まで麻酔されて意識がなくなる上、胎児にも影響するから分娩に支障が生じることが多いんです」看護師は勉強熱心な立ち合い人に興味を持ったようで、仕事の手を止めることなく丁寧に説明を始めた。
「痛みは消えましたか」「はい、効いています」看護師の確認にジェニファーが答え、いよいよ無痛分娩が始まるようだ。工藤も本当は「無理なお願い」であることは判っているはずだ。
- 2020/05/29(金) 13:22:14|
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防衛省が陸上自衛隊の新小銃・20式5.56ミリ小銃を報道陣に公開しました。20式小銃は全長854ミリと89式小銃よりも62ミリ短くなり、銃身長も330ミリと70ミリ短くなります。銃身長は弾丸の方向性を定める命中精度に直結するためヨーロッパでは弾薬を撃発する薬室部を握把や引き金よりも後方にして銃身長を維持しながら全長を短縮するブルパップ方式の小銃を開発・採用しています。ところが引き金と薬室部の位置関係が逆転しているため構造が複雑になり、顔の至近距離で薬莢内の火薬を発火・爆発させるため排出された硝煙を吸い込んで呼吸器に障害を発生させ、耳元での大音響が聴覚を損傷させる危険性が高く、さらに高温の薬莢が顔に当たり、襟から胸部に転がり込んで火傷を負った事例も報告されています。そのためなのか20式小銃では採用しませんでした。
国民体育大会が近づくと新聞の代表選手を紹介する記事には陸空自衛隊(海上自衛隊は訓練種目から廃止した)以外に競技者が存在しない銃剣道なる超マイナーな競技も取り上げられ、その時代錯誤な武術を訓練の中心に据えている各部隊が恥を晒しています。
銃剣道は明治初期、幕府に最新の武器を売り、軍制改革を指導し、幕臣を教育訓練していたフランスから導入されたもので、将校のフェンシングは武士の表芸である剣術に取って代わることはありませんでしたが、兵のバイオネット=銃剣術は足軽・雑兵の槍術と同種の武術として採用されたのです。おまけに訓練の教官要員を育成する陸軍戸山学校での担当者は久留米藩の宝蔵院流槍術の元指南役だったので射撃との連携を含めていたフランス式の銃剣術を槍術化してしまい、日露戦争では全長1275ミリの30年式歩兵銃に刃長400ミリの30年式銃剣(=通称・牛蒡剣)を装着して刺突する元亀天正式=槍・刀と共に鉄砲を多用した織田信長流の白兵戦を繰り広げました。さらに日露戦争後、日本国内では実態のない戦勝気分が蔓延し、帝国陸軍も装備や戦術に対する真摯な検証を行うことなく、元亀天正のまま第1次世界大戦を経て急速に近代化した欧米との第2次世界大戦を始めることになったのです。
しかし、第2次世界大戦では旅順攻城戦そのままに銃剣を閃めかして突撃しても銃弾の数百メートルの射程距離を突破することは不可能で、走りながらの銃殺刑だったことは太平洋戦線の離島の守備隊の全滅の戦史が虚実に物語っています。ところが帝国陸軍から陸上自衛隊に紛れ込んだ死に損ないの亡霊たちはこの時代錯誤を復活させることに執着し、戦後初の国産自動小銃である64式7.62ミリ小銃の開発では富士学校などのアメリカ留学経験者が「銃剣はナイフと兼用で可」と国際常識の意見を述べたにも関わらず「銃剣突撃には最低130センチの長さが必要」と強硬に主張して、全長990ミリの64式小銃の銃剣を当初の設計の倍近い刃長290ミリにさせて着剣すれば銃口を前に向けるのが困難な欠陥品にしてしまいました。全長916ミリの89式小銃になってようやく銃剣は刃長15センチと当初の設計を実現させ、20式小銃ではさらに短く「銃に装着できるナイフ」になるようです。こうなれば陸空自衛隊が訓練で銃剣道と称する槍術を実施する必然性は消滅し、銃剣格闘と徒手格闘で隊員の戦闘力を練成するのが組織としての責任です。
- 2020/05/28(木) 13:27:33|
- 時事阿呆談
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「妻に、ジェニファー・ビーンズに陣痛が来ました」裕美2曹はシートに横になったジェニファーに呼吸の調子を取りながら腰をさすった。その横で工藤はスマートフォンで出産予約している産婦人科医院に連絡を入れた。すると間もなく陣痛は治まった。
「陣痛の間隔が5分以内になってからもう一度連絡して連れて来てくれだそうだ」「入院の準備は終わっているんですか」「必要な書類と衣類はカバンに詰めてあるけど下着類は毎日のことだから・・・」工藤の説明を受けて裕美2曹はジェニファーに確認した。万事にマニュアル式のアメリカでは入院の準備も出産講座で渡されたパンフレット通りだが、持ち物に「下着は何枚以上」と書いてあっても毎日交換して洗濯するのでカバンに詰めておく訳にはいかない。
「食事は」「帰りにレストランに寄ろうと思っていたからまだです」「もう気分は良いのよね。だったらこのお弁当を食べて。食べられる時に食べておかないと頑張れないわよ」裕美2曹の言葉にジェニファーが起き上がると周囲にはアメリカ人たちが集まっていた。その顔は興味本位の野次馬ではなく心配と協力のためなのが一目瞭然で、むしろ芝生に敷いたシートから遠目に眺めながらささやき合っている日本人の方が冷淡だ。
「産まれそうなの」「病院に連絡したの」「陣痛の間隔はどれくらい」裕美2曹以上に経験豊富そうな女性たちが次々に質問してくる。この公園はマンハッタン区と言うこともありヨーロッパ系の中高年齢者が多いがアフリカ系のジャニファーを心から心配していることが判る。裕美2曹が小春を出産したのは北関東の駐屯地で勤務していた頃だが、官舎の主婦たちは兎も角として市内に買い物に出るとアカラサマに迷惑そうな視線を浴びせられて不快な思いをしたことに比べるとアメリカ人の意外な国民性に困惑と羨望を感じた。
「ハズ(旦那)はどこなんだ」「はい、私です」前に列を作っている女性たちの後ろで中年の男性が周囲を見回しながら声をかけると工藤が返事をした。男性は自分と同世代の工藤の顔を見て驚いたように指で眼鏡をかけ直した。この遣り取りに振り返った女性たちは驚きと呆れが入り混じった顔で工藤とジェニファーを見比べた。
「ハズが一緒にいて、病院の予約もできているなら心配はないわね」「後は病院へ行って麻酔薬を打ってもらえば産まれてくるのを待つだけよ」状況に緊急性と不安がないことを確かめると集まっているアメリカ人たちの言葉は激励に代わった。それにしても「産婦人科で麻酔を打つ」と言うのは無痛分娩ではないか。裕美2曹も知識としては学んでいるが、日本では「特別な事情がない限り勧めない」と言われている。これは女性として興味が湧いてきた。
「このフライは美味しいわ」「かき揚げの天婦羅よ」しかし、裕美2曹が質問しようとしてもジェニファーは一緒に食べ始めた小春から弁当の説明を聞きながら舌と耳と目で味わうことに夢中だ。こうなると折角の料理が不味くなるような質問は控えるべきだろう。
「これも天婦羅なのね。私は1つの材料を揚げることしか知らなかったわ」「お父さんが好きなの」するとかき揚げの天婦羅が好物の千秋1佐が解散したアメリカ人たちを見送っている工藤を手招きした。工藤は黙礼すると靴を脱いでジェニファーの隣りに座り、履いたままの靴を脱がしてシートの隅に並べて置いた。
「花見団子も手造りのようですが、奥さんは料理が上手なんですね」「女ばかりの3人姉妹で育ちましたから家が女性自衛官教育隊みたいなものです」個人情報を秘匿することを指導してきた工藤としては日本語とは言え自衛官としての身分を口にした裕美2曹に若干の違和感を覚えたが、現在の組織が松山千秋1佐の型にとらわれない指揮で活性化していることは諸西1佐から聞いているので特に何も言わなかった。
「ジェニファーさんは無痛分娩の予定なんですか」ここでようやく会話が途切れ、裕美2曹が質問するとジェニファーは頬張ったお握りを呑み込んでから答えた。
「私は40歳を過ぎた初産だから母体に負担がかからないように勧められたのよ。でもアメリカでは出産に保険が使える女性の間では常識になってるわね」やはりアメリカの出産方法の選択は医療費を保証する保険に連動するようだ。
「私も立ち合って良いですか。特に役には立ちませんが」「それは大歓迎よ。ダディも色々と勉強しているけど経験者には敵わないから助かります」家族に相談もなく話が決まってしまった。裕美2曹としては小春にも生命誕生のドラマを見せたいのだが、初産は時間がかかるので明日の通学までに生まれるとは限らない。自分の仕事は夫がトップなので承認はこれで済む。
「ならば私の今日の夜勤は休まなくても良いかな。そうすれば明日、明後日は休みになるから助かるよ」工藤は後任が決定してからニューヨーク州で資格を取得して、今は日系企業のガードマンなのだ。本人としては制服を着て、挙手の敬礼をする仕事に満足している。
- 2020/05/28(木) 13:25:34|
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4月上旬の晴れた日、松山一家がニューヨーク・マンハッタン区のハドソン川沿いにあるサクラ・パークに花見に出かけた。この名称は日本語に直訳したのではなく実際の横文字だ。
「思ったよりも綺麗ね。やっぱり桜を見なけりゃ春が来たような気がしないわ」松山一家は芝生に広げたシートに腰を下ろすと酒抜きの花見を始めた。広い芝生のあちらこちらには日本人と思われる家族連れや日本企業の社員たちが同じようにシートを敷いて弁当を広げ、缶ビールで宴会を始めている。散歩している多くのアメリカ人たちがそれを物珍しそうに眺めていた。
「今田(本間の偽名)さんはセントラル・パークにはチェリー(=桜)・ヒルって言う丘がある。ジャックリーン・オナシス貯水池沿いには桜のトンネルがあるって力んでいたけどね」「杉村(岡倉の偽名)と松本が『あそこの桜トンネルは八重桜だから花吹雪にならない』『サクラ・パークの方が本数は多い』って反論したからこっちにしたけどこんなもんだろう」松山夫婦は青森駐屯地で勤務していた時、日本一の弘前城の桜を見ているので2人が推薦したアメリカの桜では満足できないのだ。そうなると頭から観賞するのが松山家流だ。
「このサクラ・パークは1912年にニューヨーク在住の日本人の団体が日本から取り寄せた染井吉野を2500本寄付したことを受けてリバーサイド・パークの拡張に使う予定だった区画に植樹して、この名前をつけたんだ」「有名なワシントの公園とどっちが古いの」「ポトマック公園に桜が植えられたのも1912年だから歴史は同じだよ。あっちも東京の尾崎行雄市長が2000本送ったって言うから日本国内の桜の苗木は売り切れになっただろうな」それにしても夫・松山千秋1佐がインターネットで検索しているのは海外の報道番組が中心で観光案内を閲覧しているところを見たことがない。この知識の出所は妻の裕美2曹にも不明だった。
「さて弁当を広げましょう。小春、手伝って」広い芝生なので遠い隣りの席の花見が盛り上がってきたようで手拍子や歌声が聞こえ始めた。それを聞いた裕美2曹は千秋1佐が持っている布袋を受け取ると娘の小春に声をかけた。
「アメリカのエレメンタリー・スクール(小学校)って歩かないんだよ」「スクール・バスだから学年で日にちが違うんだよね」シートの上に弁当箱を並べながら小春が説明すると裕美2曹が受けた。松山家では両親ともにアメリカの教育制度に関心を持っているので小春の学校生活も承知している。アメリカでは春休みがないため野外活動には最高の季節も日程に余裕があり、春の遠足は郊外の牧場に出かけ、畜産を体験してきた。
「でも弁当が簡単で助かるわァ」「私の弁当はサンドウィッチにオカズが付いていたからみんながビックリしてたよ」「オヤツも要らないのよね」アメリカの小学校の弁当は子供たちが豪華さを競い合い、母親が優秀さと愛情を誇示するための道具になっている日本とは違いホット・ドッグやサンドウィッチならば上出来でパンや林檎の単品も珍しくない。ましてやオカズを付ける習慣がない。日本では定着しているオヤツの菓子も「遊びではない」と事実上の禁止だ。確かに徒歩の移動ではないのでエネルギー源としての糖分補給は必要ないだろう。
「それでも今日は手造りの花見団子をどうぞ」「私も手伝いました」「僕も手伝いました」要するに3人合作の花見団子を最初に食べることにした。松山家の花見団子は裕美2曹が母親から習った中村家流で、千秋1佐が苦労して探してきた白玉粉と絹豆腐を若干の砂糖を加えて混ぜて練り、それを3つに分けて食紅と抹茶で赤白緑に色分けする。あとは茹でて冷まして串に刺せば出来上がりだ。今回、小春にも中村家流の製法を伝授できた。やはりニューヨークで育てても日本の伝統文化は教えなければならない。
「おや、佐田さん(松山の偽名)。家族揃って花見ですか」3人で自作の団子を頬張りながら品評会を始めると背後から日本語で声を掛けられた。振り返ると前任者の工藤と妻のジェニファーが寄り添って立っていた。2人には20歳の年齢差があるが父と娘ではなく愛情で結ばれた夫婦に見える。それはジェニファーがアフリカ系=異人種だからではない。
「これは工藤さん、散歩ですか」「奥さん、随分とお腹が大きくなって。そろそろ臨月ですか」「赤ちゃんが産まれるの」マタニティーを着ているジェニファーの腹は大きく膨らんでいる。裕美2曹の経験から言って間もなく出産を迎えそうだ。
「予定日は過ぎてるんで、動けば子供が下がるからって言うから花見を兼ねて・・・花見団子ですね」「ハナミダンゴ・・・」花見団子を並べた紙皿を見つけた工藤が嬉しそうに声をかけるとジェニファーも興味を持ったようで身をかがめて覗き込んだ。
「私たちの手作りですがどうぞ」「ほう、手作りですか」「アウチッ・・・」千秋1佐が差しだした紙皿に工藤が手を伸ばした時、ジェニファーが呻き声を上げてしゃがみ込んだ。
「陣痛ね。大丈夫、初産なら時間はあるわ」固まっている男たちの前で経験者が指揮を執った。
- 2020/05/27(水) 13:14:18|
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照子と娘に付き添って病室に行くと眠る前に食べるように昼食が用意してあった。娘は疲れているのか小さな寝息を立てて眠っている。森田予備士長は照子が食べている間に携帯電話の使用が許されている廊下の自動販売機コーナーへ行き、先ずは広橋家に連絡した。
「母子ともに健康です。3010グラムの標準の女の子でした」「女の子だったの。とりあえずおめでとうございます。照子にもそう伝えて下さい」電話に出た義母は落胆した様子だった。30歳を過ぎている照子には多くの子供は期待できず、やはり最初は跡取りの男の子を期待していたようだ。義父母は結婚前に両親と会った時には「子供のうち1人は森田家の跡取りにする」と約束していた。果たして義父や親族はこのニュースをどう受け止めるのだろうか。
「無事に生まれたよ。3010グラムの標準の女の子だ」次は芦屋の官舎で待つ両親、今日は平日なので母に連絡した。母は「本当にチンチンはないのね」と余計な確認をした後、電話口で歓声代わりの溜息をついた。母は先日の電話で「男の子だと今度の子供の日が初節句になるから準備が間に合わない」と焦っていたのでこれで安心したのかも知れない。
「親父にも初孫が生まれたぞって伝えてくれ。お祖母ちゃん」「私は大きいママだよ。お祖母ちゃんとは呼ばないで」母は嬉しそうに文句を言った。おそらく連休には初孫に会いに北海道までやってくるはずだ。まだ桜が残っていれば夜桜の煮込みジンギスカンで祝いたいものだ。何はともあれそろそろ照子の食事が終わる頃なので森田予備士長は携帯電話をズボンのポケットにしまいながら足早に病室に戻った。
「目が覚めたらお腹が空いたみたい」ドアを開けると照子は娘に母乳を与えていた。森田予備士長が愛した白く豊かな乳房は血管が浮き上がって母乳タンクになっている。部屋には子供を産んだ乳牛の初乳のような甘く生臭い匂いが漂っていた。
「よく飲むなァ。やっぱり牧場の孫だけのことはある」「私も牧場に戻ったから牧場の娘でしょ」いきなり一本取られた。森田予備士長は腰をかがめて顔を近づけると窓越しの日の光が娘の顔を浮かび上がらせている。生まれた直後は顔立ちがハッキリしなかったが、今は少し締まったようで新生児の割に鼻が高く、閉じた目の上の眉毛もキリリとした中々の美人だ。森田父子は愛媛県が生んだ英雄・秋山真之中将似のソース顔の美男子で、大きな目がセールス・ポイントだ。照子も目は大きい方なのでどちらに似ても目がパッチリした美人になる。
「眩しくはないのかなァ・・・」「日向(ひなた)ぼっこしているみたいで気持ち良いんでしょう」森田予備士長が娘の額を照らしている日の光を気にして独り言を呟くと照子は身体の向きを変えながら自分の所見を返した。10歳年上でもどこか便りないところがあった照子もやはり一皮剥けて母親になったようだ。照子の言葉にもう一度、娘の顔を覗き込んだ時、胸に名前が浮かんだ。
「日向(ひなた)・・・日和(ひより)もあるぞ。日がつく名前が良いな」こんな時、親は小学校から今日まで漢字の勉強に励んでこなかったことを後悔する。森田予備士長は「今日」にも「日」が付くことには気がついていない。その一方で照子の妊娠を知らせた電話で父から「俺は散々女遊びをしてきたから娘ができたら同じことされるんじゃあないかと心配になると思っていた。だからお前が男で本当に良かった」と言われたことを思い出した。そうならないためにも自分が抱いた女子の名前は外すべきだ。多分、全く効果がない馬鹿な対策を考えた森田予備士長は妻と娘の前で過去の悪さを真剣に思い返し始めた。
「裕子、明子、正代、清子、五月、三恵子、早苗、佳代子、孝江、美和子、由紀子・・・」名前と一緒に顔と裸にした身体まで頭に浮かんでくる。旭川のスキー場でナンパして遊んた都会の女たちは名前を思い出せないが、互いに乱れ切って快楽に溺れた彼女たちこそ外さなければならない。それにしても「ロク」でもないことをしてきたものだ。ならば「ナナ」でも良い。
「何を考えてるの」母子の前で黙り込んでいる森田予備士長に照子が怪訝そうな顔で声をかけてきた。気がつくと照子は授乳を終えて娘の背中をさすってゲップをさせている。
「名前を考えていたんだ。日がつく名前が良いなって」「日がつく名前かァ・・・」照子が牧場に帰ってからは男女の名前を出し合ってきたが、書店で働いていた読書家の照子には全く敵わなかった。この提案を受けて思いがけない意見を出してきそうだ。
「お日さまの日に歩くって書いて『かほ』ってどう」「日曜日の日(にち)を『か』って読めるのか」「二日、三日の『か』だよ」「俺が読めないような名前じゃあ友達も間違うから却下」この森田予備士長の意見は適切だ。最近は暴走族の当て字のような奇異な漢字を使った名前が増えているが、あれは親の趣味と勉強不足を世間に公表しているだけで子供の幸せを願っての命名とは思えない。幸いにして常識的な話し合いの結果、「日和(ひより)」に決まった。
- 2020/05/26(火) 12:28:32|
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昭和7(1932)年の明日5月26日は伊予・松山出身で戦史に名を残す白川義則大将の命日です。
司馬遼太郎先生の代表作「坂の上の雲」は伊予・松山出身の秋山好古陸軍大将と真之海軍中将の軍人兄弟に畑違いの俳人・正岡子規さんを加えた3人で構成していますが、本来は白川大将を描くべきだったのではないでしょうか。白川大将は好古大将よりも10歳、真之中将の1歳年下に当たる明治元(1869)年に伊予・松山藩士の3男として生まれました。ちなみに没年は好古大将の2年後、真之大将の14年後なので同時代の人物と言えないことはないはずです。
真之中将や正岡さんと同じく旧制松山中学校に進学しますが中退して代用教員になり、さらに明治17(1884)年に我が一般曹侯補学生の前身のような陸軍教導団に入営すると2年後には工兵軍曹として近衛工兵中隊に配属され、翌年には新設された士官候補生(現在の部内課程に近い)として陸軍士官学校に入校すると歩兵に転科して明治23(1890)年に卒業、少尉として当時は広島にあった歩兵第21連隊で勤務しました。この士官候補生1期には同様に代用教員から陸軍に入営した鈴木荘八大将や宇垣一成大将がいました。そして少尉のまま明治26(1893)年に陸軍大学校に入校しますが、日清戦争の勃発により課程中止になって中尉として出陣し、終戦・帰還後の明治29(1896)年に復学して、以降は明治38(1903)年に浜田に移駐した歩兵第21連隊の大隊長として日露戦争に出陣するなど明治・大正期の陸軍で順調に昇任していきました。
ところが田中義一内閣の陸軍大臣だった昭和3(1928)年6月4日に満州で河本大作大佐の策謀による張作霖爆殺事件が起こると田中首相は当初、昭和の陛下に関東軍の関与を認め、徹底的な調査と関係者の処罰を約束しながら陸軍の強硬な反発に晒されると一転してあやふやな説明を始めたため信認を失って退陣しました。この時、白川大臣は陸軍内の現状を具体的に説明し、陛下の意向に反する揉み消しの処置を取らざるを得ないことを謝罪して、逆にその誠実で冷静な人間性を認められています。
陸軍大臣を退任した白川大将は昭和7(1932)年1月18日に第1上海事変が発生すると上海派遣軍司令官に就任しましたが、陛下から「国民党軍を撃退しても長追いしてはならぬ。3月3日の国際連盟までに停戦して欲しい」と要望されたためこれを忠実に守り、戦果拡大を狙う中央や勝ち戦さにはやる現場部隊の積極攻勢=徹底追撃の大合唱を抑え、上海の占領に専念しました。しかし、昭和7(1932)年4月29日の天長節の式典での国歌斉唱中に朝鮮人暴徒の尹泰吉が投げた弁当箱の爆弾が破裂し、重光葵敗戦時の外務大臣は右足を失い、日米開戦時の駐米大使だった野村吉三郎海軍大将は片目を失い、白川大将も全身108カ所に傷を負ったのです。その後、手術によって症状は小康を得ましたが、3日前から容態が急変して亡くなりました。63歳でした。
白川大将の3男・元春空将は陸軍航空士官学校を卒業し、戦後は航空自衛隊に入隊して第11代航空幕僚長、統合幕僚会議議長に就任しています。
- 2020/05/25(月) 12:54:44|
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照子は数回深く息を吸って吐くとメールを読む前に腹を手で押さえてガラス越しに見ている森田予備士長に陣痛が来たことを合図した。それを見た森田予備士長はサブ・コントロール・ルームを出て廊下で産婦人科に第1報した。初産の照子は予定日にも診察を受けていて内診で子宮口の確認も受けているが、まだ開いておらず「1週間程度遅れる」と予告されていた。
「はい、陣痛が始まったみたいです。はい、今はラジオの放送中です。はい、あと10分で終わります。はい、そのまま連れて行きます」森田予備士長が廊下で当直の看護師の指示に復唱しているとメイン・コントロール・ルーム=主調整室(=放送全体を統括する部屋)から父と同世代の中年男性が歩いてきて傍らで立ち止まった。
「陣痛が始まったんですね。番組の最後で4週間休むことを説明してもらいましょう」電話を終えた森田予備士長と並んで歩きながら男性は事前に決まっている産休の予定を確認してきた。週に1回、準備を含めても2時間程度の仕事ではあるが、産後4週間の復帰には不安がある。それでも1ヶ月検診には母子で旭川市内まで来るのだから問題はないのかも知れない。
「次は最後のメールになります。旭川市内のラジオ・ネーム・回る時代さんです・・・春の訪れと新たな命の誕生が重なって今年の4月は幸せな気分です」男性と一緒にサブ・コントロール・ルームに戻ると陣痛が収まった照子はガラス越しに笑顔を見せてうなずいた。
「僕は中島みゆきの大ファンなのであまり元気が出る歌は知りませんが、この歌なら照子さんも頑張って立派な赤ちゃんを産んでくれそうです。『ファイト』をお願いします。そんなことないですよ。『地上の星』と『ヘッドライト・テールライト』はNHKの『プロジェクトX・挑戦者たち』の主題歌で、昭和世代の小父さんたちを元気にしたじゃあないですか。この歌も阪神大震災と地下鉄サリン事件の後に中島みゆきがコンサート・ツアーで熱唱したんですよね。それでは今から頑張る私と子供と皆さんのために回る時代さんから『ファイト』をお送りします」男性はいつもと変わらぬ照子の口調に安堵したような顔になり、CDが流れ始めたところで担当者がマジックで「4週間産休の説明」と走り書きした紙をガラスに掲げた。
「・・・ファイト!闘う君の唄を 闘わない奴が笑うだろう ファイト!冷たい水の中を 震えながら上っていけ・・・」紙を確認した照子は顎でリズムを取りながら説明の言葉を思案している。その間も無意識に腹を撫でている仕草に森田予備士長は照子の母への羽化を感じて胸が熱くなった。やがて曲が終わった。
「実は先ほど陣痛が来たみたいで回る時代さんの応援歌はジャスト・オン・タイムでした。ファイト!闘う私の唄を有り難うございました。そんな訳で4週間、4回は休ませてもらいます。頑張ります・・・痛ッ」番組が終わったところで2度目の陣痛が始まった。本当に親孝行な子供らしい。森田予備士長も参加した出産教室では陣痛についても具体的に教えられており、第1報以外は10分間隔になるまでは連絡しないように言われている。つまり本来は入院する段階ではないのだが、産婦人科は牧場からの所要時間を考慮して受け入れてくれたようだ。
「そろそろ分娩室に入りましょう。お父さんも一緒にどうぞ」始まって10時間過ぎて翌朝になると、陣痛は仮眠できないほど間隔が短くなり、巡回に来た看護師の報告を受けた助産師の指示で分娩室に移動することになった。乳牛の出産を経験している森田予備士長は事前講習を受けているので我が子が誕生する瞬間に立ち合うことができる。
「さァ、立って。自分で歩いて行きますよ。歩きながら呼吸法を続けて下さい」照子と同世代の看護師は冷静に指示を与える。照子は額の汗を入院着の袖で拭うと「スースー、ハーハー」と声を出しなら呼吸法を始めた。森田予備士長は横で手を取りながらついて行く。
「はい、分娩台に横になって下さい。講習で習ったとおりです」分娩室で待っていたベテランの助産師は看護師よりも冷静に照子と森田予備士長と担当の看護師を指揮して準備万端整えた。芦屋の母からは「陣痛は生理痛が数倍強烈になったようなもの」「出産なんて1年便秘したウンコがやっと出た感じ」と電話で極めて判り易く説明を受けているが、森田予備士長自身は生理痛の経験はない。一方、便秘の方は冬季の雪中演習に行くと身体が零下30度での野糞を避けようとするのか出なくなることがあるのでその感覚は理解できる。
「ファイト!踏ん張って出してしまえ」森田曹侯補士は助産師に促されイキんでいる照子の枕元で両手を握りながら適切だが具体的過ぎる声援を送った。すると助産師に腹を圧迫された我が子が頭を出し、意外にスルリと生まれてきた。
「ホギャー、ホギャー・・・」「牛よりもスムーズだな」「馬鹿」長い脚が邪魔になる牛よりも楽に生まれ、元気に産声を上げ始めた我が子を見て森田予備士長が率直過ぎる感想を口にすると照子は呆れたように叱責した。毎日新鮮な牛乳を飲んでいるだけに色白の女の子だった。
- 2020/05/25(月) 12:51:58|
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昭和20(1945)年の明日5月25日の大空襲で桜田濠の現在の憲政記念館の位置に在った陸軍参謀本部で発生した火災が飛び火して皇居の明治宮殿が炎上しました。
この建物は明治宮殿と言う呼称でも判るように明治21(1888)年10月7日の落慶から57年弱で焼失しました。
明治天皇が江戸に出かけた時(正式な遷都ではない)は将軍の居宅と大奥があった江戸城の西の丸御殿に住んだのですが、明治6(1873)年5月5日の失火で全焼したため新政府はただちに新宮殿の建設を計画しましたが、国家の近代化と軍事力の強化に多額の資金を要していた時期でもあり、青山に在った紀州藩の江戸藩邸を仮皇居にしました。すると長土肥で不満分子の反乱が続発した上、明治10(1877)年には西南戦争が勃発して国費を使い果たし、宮殿建設はさらに先延ばしになったのです。
それでも国家体制の整備が進むと宮中での儀礼も規模が拡大し、回数も増加したため仮皇居では不都合になり新宮殿の建設に着手しました。ところが万事に西洋を模倣しようとする政府は招聘していたイギリス人建築家・ジョサイヤ・コンドルさんの設計による石造りの西洋式宮殿を提案したのに対して頑なに伝統を堅持したがる宮中は京都の御所と同様の和風建築を要求し、妥協の産物として外観は木造の和風でも内装は天井にシャンデリア、床には絨毯、扉はドアと言う洋式の和洋折衷式に決定したのです。そうして完成した明治宮殿は天皇が日常の政務を行う御座所と儀式の会場になる正殿、鳳凰の間と豊明殿などの表宮殿、天皇の居宅である奥宮殿を接続した一体構造だったそうです。
東京は第2次世界大戦でサイパン島が陥落してBー29の航続距離内に入ってからは空襲が本格化して、昭和19(1944)年11月24日以降、規模の大小はあっても合計106回の空襲を受けました。それでも警視庁消防隊は決死の消火活動を繰り広げ、火災は喰い止めていたのですが、この日は19名が殉職しながら延焼は阻止できませんでした。全焼した宮殿を視察された昭和の陛下は侍従に「これで国民と一緒になった」と呟かれ、力不足と迷惑を詫びる警衛局内匠頭には「戦争だから仕方ない。多くの犠牲者が出たことが残念だ。気の毒だ」と答えられたそうです。
この日の空襲は470機のB-29の大編隊がそれまであまり被害を与えていなかった山の手を中心に爆撃し、中野、四谷、牛込、麹町、赤坂、麻布、芝、世田谷、渋谷、青山、目黒、杉並、小石川、本郷、大森、品川、城東、深川、浅草、葛飾、荒川、江戸川、滝野川、下谷、京橋、淀橋、足立、神田、荏原、豊島、日本橋、王子、板橋、向島などの都内と立川市から奥多摩などの都下にまで及び、焼失家屋166000戸、死者3651人でこの中には市ヶ谷の陸軍刑務所で焼死したアメリカ軍捕虜62人も含まれています。
昭和の陛下と家族は鉄筋コンクリート製で無事だった御文庫を仮住まいとされて明治宮殿から渡り廊下で接続されていた宮内省の3階を仮宮殿としたのです。明治宮殿の跡地に現在の宮殿=吹上御所が建設されたのは高度経済成長が本格化した昭和43(1968)年になってからでした。
- 2020/05/24(日) 13:24:26|
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2月上旬に高校3年生の学年末試験が終了し、後任に採用することが決まっている女子高校生が業務実習として書店に通ってくるようになると引き継ぎが終わった時点で照子は退職した。アパートも解約して自宅に戻ったが、臨月に入っても週1回のローカルFM局の仕事だけは森田予備士長が車で連れて行っている。森田予備士長はサブ・コントロール・ルーム=副調整室に入ることが許されガラス越しに照子の仕事を見守っていた。
「今晩は 今晩は 今晩は も一つおまけに今晩は 雪うさぎです。私は春になると毛が茶色に生え変わって雪うさぎって言う名前が似合わなくなっちゃうんですよね」照子は今日、家の前で洗濯物を干していて草むらに顔を出した雪うさぎに会ったのだ。雪うさぎはヨーロッパ・アルプス、北欧からシベリア一帯に分布する大型の野兎で、ユーラシア大陸の両端の離島であるイギリス、アイルランドと北海道にも個体群が生息している。冬は雪原の保護色で白毛になるが夏は褐色から薄茶色に生え変わるものの尻尾だけは白い毛のままだと聞いている。
「旭川も桜が咲き始めましたからそろそろ煮込みジンギスカンの準備を始めましょう。それでは最初のメールです」旭川のジンギスカンは専用の鉄板で焼くのではなくすき焼き鍋で煮込む。花見は日没後に昔は七輪、今はテーブル・コンロを桜の下に持ち込んで暖を取りながら呑んで喰って歌っての大宴会になる夜桜が定番だ。
「名寄の玉井真吾さんからです。屯田兵、子供は生まれたか。生まれたら知らせろよ。俺は男に賭けてるからな・・・ですって。これってウチの旦那さんのことじゃあないかしら」照子は当然、メールをプリントアウトして下読みしているからこの台詞も予定通りだが、森田予備士長は立ち合っていないので困惑していた。その顔をガラス越しに見て苦笑した。玉井真吾は昭和45年から46年に少年キングに連載されたサッカー漫画「赤き血のイレブン」の主人公で、名寄の安川和也3曹がサッカーを始めた時、同じくサッカー少年だった父親から秘蔵していた単行本をもらったと言う逸話は聞いたことがある。つまり安川3曹からのメールなのだ。
「ウチの子を楽しみにしてくれているのは嬉しいですが賭けは困ります。私としては旦那さんみたいなハンサムでスポーツマンで優しい働き者の男の子が希望ですけど、旦那さんは女の子が欲しいそうです。旦那さんの両親が女の孫が抱いてみたいって言ってるから親孝行なんでしょう。リクエストは森山直太郎で『さくら』です」安川3曹は学生運動の活動家と実際は反戦歌で売り出した森山良子の息子である森山直太郎の曲をリクエストしてきた。「歌が良ければ個人情報は関係ない」と言うのは平成の人間の感覚だ。
「・・・どんなに苦しい時も 君は笑っているから 挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよするよ・・・」森田予備士長もこの曲は好きだが、安川3曹は妻の聡美に贈る歌としてがリクエストしたような気がしてきた。聡美は中学・高校時代に教師である両親の不倫に悩み苦しみ、それにつけ入った男に弄ばれていたが、安川3曹と出会ったことで今の幸福な生活を築くことができた。だからこの歌の通りにいつも優しく微笑んでいるのだ。
「・・・桜、桜、今咲き誇る 刹那に散りゆく運命(さだめ)と知って さらば友よ 旅立ちの刻(とき) 変わらぬその想いを、今・・・」安川3曹が幹部候補生に合格したことは聞いているが、部内課程の入校は秋からのはずだ。おそらく名寄で見る桜が今年で最後になることを告げているのだろう。
「次は下川町の寝坊した熊さんからです。雪うさぎさん、今晩は。はい、今晩は。いよいよ産まれますね。女の子だったら名前は旭川で咲き始めた桜です。男の子なら柳川熊吉の熊吉ですよ。北海道を愛する雪うさぎさんならこれで決まりでしょう」柳川熊吉は戊辰戦争語、遺骸の放置を命じた新政府軍に背いて五稜郭で死んだ土方歳三や戦没者を手厚く埋葬したため死刑判決を受けたが、島津藩軍監の助命で許されると函館山に慰霊碑「碧血碑」を建立した人物だ。確かに北海道の傑物ではあるが我が子の名前には首を捻ってしまう。そう思ってガラス越しに夫を見ると笑ってうなずいている。これは気に入ってしまったのかも知れない。
「折角ですが雪うさぎの息子が熊吉では母親の身が危険になっちゃいます。桜は潔く散っちゃうから開拓者の家風には合いません。それではリクエストはコブクロで『蕾』です」コブクロには「桜」もあるが、歌詞の中で散る桜の情景を描いている「蕾」をリクエストしてきた。
「涙こぼしても 汗にまみれた笑顔の中じゃ 誰も気づいてはくれない だから貴女の涙を僕は知らない・・・掌じゃ掴めない 風に踊る花びら 立ち止まる肩にヒラリ 上手に載せて笑って見せた 貴女を思い出す 1人・・・」「痛い・・・」照子が昨年の春に森田予備士長と桜並木の下を歩いたことを思い出して笑顔を向けた時、痛みが腰から脳に突き抜けた。陣痛の始まりだ。担当者が音声を入れた直後だったため苦痛の声がラジオで流れてしまった。

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- 2020/05/24(日) 13:23:14|
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昭和20(1945)年の明日5月24日に日米双方から帝国陸軍最強の特殊部隊と絶賛されている義烈空挺隊が沖縄本島の読谷・嘉手納両飛行場に突入しました。
陸軍空挺部隊はサイパン島への攻撃が始まり、昭和19(1944)年6月6日に中国大陸の成都から八幡地区を空襲したBー29の航続距離であれば日本本土の空襲も可能であると判断した陸軍参謀本部がサイパンの航空基地を攻撃し、機体を破壊するだけでなく山中に逃れ、遊撃戦を継続するために編成した特殊部隊です。ただし、空挺部隊と言っても上空での損害が大きい落下傘降下ではなく基地内に強行着陸した機体から飛び出して戦闘を展開することを想定していました。
こうして編成された空挺部隊でしたが万歳突撃で自滅を速めたサンパン島の陥落には間に合わず、Bー29の破壊だけに目的を限定した攻撃を計画して爆破の専門家である奥山道郎(みちお)大尉(三重県津市出身・陸軍士官学校53期・昭和15=1940年卒業)の工兵第4中隊を中核として再編成したのが後の義烈空挺隊でした。
奥山大尉の第4中隊はこれまでの本拠地だった宮崎県の新田原飛行場から兵庫県の豊岡に移動して原寸大のB―29の木製模型を使って訓練を始めましたが、ここに遊撃戦と情報収集を専門とする陸軍中野学校二俣分校の卒業生が転入し、部隊の編制が整ったのです。
こうしてサイパン島への出撃基地である浜松飛行場に移動して義烈空挺隊と命名されると吸盤がついた爆弾を機体に投げつける訓練も始めましたが、サイパン島の基地の整備が予想を超える早さで進捗して航空機の接近が困難になった上、中継基地にする予定だった硫黄島が攻撃を受けるようになったため作戦の中止を余儀なくされ、新田原飛行場に戻ると今度は硫黄島への出撃を命じられましたが、硫黄島は小型の戦闘機が中心のため銃撃や手榴弾による破壊の訓練を始めたところで中止になりました。そして沖縄本島にアメリカ軍が上陸すると熊本県の建軍に移動して命令を待つ毎日が始まりましたが、ここでも「最精鋭部隊は本土決戦用に温存したい」と言う参謀本部第1部長の宮崎周一中将の意向を受けた参謀たちの声に阻まれ、沖縄第32軍の大規模攻勢が失敗に終わったため、参謀本部の意向が「本土決戦用」に傾きつつあるのを現場指揮官たちが強硬に催促してようやく5月22日の出撃命令が下ったのです。
悪天候により2日延期になったこの日、隊員たちは戦闘服に塗料で迷彩を施し、100式短機関銃(マシンガン)や99式短小銃、99式手榴弾、各種爆薬などの最新式火器で武装して12機の97式重爆撃機に分乗して沖縄へ出撃しました。このうち4機はエンジンなどの不調で引き返しましたが6機が北飛行場=読谷飛行場、2機が中飛行場=嘉手納飛行場に強行着陸して、日本軍の爆撃機が着陸してくることに困惑していたアメリカ兵の前で次々に航空機や燃料タンクを破壊して基地の機能停止に成功しました。この時、混乱したアメリカ兵の火器の乱射による友軍双撃も発生しています。また中野学校二俣分校出身者たちは先に潜入していた工作員と合流し、敗戦まで活動したようです。
奥山大尉は出撃前に少佐になった上にこの軍功と戦死で2階級特進して大佐になりました。

屈強の部隊指揮官には見えませんが奥山道郎大尉
- 2020/05/23(土) 12:43:51|
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「味噌はどこで買ってるんですか」「刺身の魚はオランダの市場で仕入れているんですか」「吸い物の出汁は何で摂ってるんですか」行事用テントで出店している日本料理店で久しぶりに和食を口にしたが、梢は相変らず店員を質問責めにした。つき合っていた頃の沖縄は復帰して10年目だったこともあり、あまり本土の料理が普及しておらずデートでは「養老の滝」などの全国チェーンの居酒屋に入り、海老や牡蠣のフライや串カツ、焼き鳥などの本土風のツマミ=オカズを食べたものだ。梢は美味しそうに頬張る私の顔を見ながら自分も試食し、帰り際には店員に材料と作り方を習い、次の週からはアパートで練習していた。それが目の前で再現されて不覚にも目が潤んできてしまった。多分、花粉症ではないだろう。
「竹串は手製ですか」「器が紙製なのはエコ対策ですか」本格的料理を楽しんだ後は露店の花見団子やみたらし団子、どら焼きを食べてみたが、ここでも妙な質問をしていたのはそれが癖になっているのかも知れない。
「淳之介とあかりが感激した桜吹雪は見られないのね」梢は口元が汚れるみたらし団子ではなく花見団子を選んだ。それを1つ口に入れた後、桜並木の中に入り上を見上げた。この公園の桜は日蘭友好400周年を記念して2000年に400本を同時に植えたため、木の高さが揃っていて、12年目の若木では枝が広がっておらず単なる桜並木になっている。これでは空を覆うように咲いた花が春風で舞い散る桜吹雪にはならない。正直言って今帰仁城址の石垣に咲いている緋寒桜の古木の方が風情はある。
「淳之介とあかりが行ったのは桜の名所として全国的に有名な白石川の千本桜だから一緒という訳にはいかないよ。防府南基地の桜並木も海軍通信学校時代の古木だからやっぱり綺麗だったね。桜は根元に人の遺骸が埋っていて、その体液で成長して血を吸って赤く染まるって言い伝えがあるくらい地面の栄養を必要とするんだそうな。オランダの干拓地じゃあ古木にするのは難しいかも知れないな」これは前川原の東北の某国立大学農学部出身の同期が久留米の桜を見て「弘前城の桜は青森県が林檎栽培の経験を活かして管理しているから日本一なのだ」と力説していた知識の請け売りだが、その同期に言わせると東北他県の桜は青森県でも津軽地方の桜に比べると見劣りするらしい。
「そう言えばこの間行った自然史博物館にヨーロッパの銀杏(いちょう)は氷河期に絶滅したのをエンゲルベルト・ケンぺルが持ち返った銀杏(ぎんなん)から発芽させた苗木を育てて再生させたって書いてあったよ。桜もワシントンやアムステルダムみたいに日本が友好記念に植えればヨーロッパ中で花見ができるように成るかも知れないね」「それじゃあ中国のパンダ外交みたいに日本は桜外交になるな」ワシントンのポトマック公園のタイダルベイスンと言う入江のの堤防に植えられている桜並木は来日して桜に感激して帰国したアメリカ人たちの運動に東京市長の尾崎行雄が賛同して1912年に2000本を贈ったのを切っ掛けに、戦時中も市民によって守られて今では8000本が花を咲かせていると言う。中国は友好の証としてジャイアント・パンダを貸し出しているが、生まれた子パンダの所有権は中国にある。その点、桜なら何百年にわたって花を咲かせ、花見と言う風習も一緒に贈呈できるはずだ。ただし、私個人は春の盛りに散るのを愛でる桜よりも早春の小春日和に映える桃の方が好きだ。
「桜かァ・・・」その時、来賓たちの席が設けられているテントの方から琴と尺八の音色が聞こえてきた。演奏しているのは唱歌の「さくらさくら」だ。
「この歌は元々が子供の琴の練習用に作れられた曲だから演奏には最適だよな」毎度の悪癖で興味深そうに琴と尺八の音色に聴き入っている梢に水をかけた。「さくらさくら」は幕末の江戸で初心者の琴の練習用の曲に歌詞をつけて唄い始めた歌だった。それを明治16年に尋常小学校の音楽教育用の唱歌として採用する時に元の歌詞を尊重したため明治5年に強行した太陽暦への改暦とは矛盾が生じている。本州で桜が本番になるのは太陽暦の4月からであって弥生の3月ではない。ただし、九州の桜は3月なので地域限定であれば問題はない。
「今でも桜の歌って結構あるけど、沖縄じゃあ今一つピンとこないのよね」珍しく私の悪癖に反応しなかった理由を梢が説明した。確かに森山直太郎の「さくら」やコブクロの「桜」など街で店から流れてくると歩調を緩めてしまうような桜の歌は多いが、沖縄で聴いて同じような反応をするかは疑問だ。
「私は貴方と石嶺聡子の『花』を唄いたかったな」「川は流れどこどこ行くの 人も流れてどこどこ行くの・・・」この歌がヒットしていた頃、私は幹部候補生学校から沖縄研修に行き、梢と行った国際通りのレコード店から流れているのを聞いて立ち止まって涙していたのだ。
「・・・泣きなさい 笑いなさい いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ」思いがけず2人の想いが結実した。
- 2020/05/23(土) 12:41:38|
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弘仁2(811)年の明日3月23日は皇室をこの国土の支配者と考える弥生系日本人には守護神でも安倍晋三首相を含む東北の縄文系日本人には鬼神に他ならない征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)さんの命日とされています。
坂上さんは平安時代でも遷都前後の最初期の人物のため物的証拠は皆無、公的記録も真偽不明なので神話=伝説と史実が混同して人間よりも神として崇拝されているようです。
坂上さんは明確になっている没年から死亡年齢を引いた結果、生年は天平宝字2(758)年と推定されていますが、父親は中国からの渡来者の家系と言われている坂上苅田麻呂と判っていても母親は不明であり、ここから伝説が始まっていて古くは北海道・東北出身説から20世紀になってカナダ人の人類学者がアフリカ系説まで提唱しています。
坂上さんの伝説と史実が混合した伝承の中でも比較的信憑性があるものを拾っていくと坂上氏は地方豪族でも曾祖父の代から勇名を馳せた武門の家柄で、天皇の警護で活躍して信任を得て、父・苅田麻呂さんの代には女帝を籠絡して皇位を狙ったと言われる道鏡さんを排斥した功績で陸奥守兼鎮守府将軍を拝命して半年後に安芸守に転任するまで13歳だった坂上さんも多賀城に同行して奥州の地で暮らしたと言われています。
宝亀7(778)年に21歳で朝廷に出仕し、宝亀9(780)年に武門の家柄らしく近衛府の将監に任ぜられ、天元元(781)年に百済(朝鮮)からの帰化人を母親に持つ桓武天皇が即位したため帰化人への優遇が強まり、坂上さんも異例の昇進を遂げて延暦5(787)年に父親が死亡した後には内匠助と近衛少将を兼務したまま越前守になって朝廷内の地位を盤石にしました。そうして延暦10(792)年に桓武天皇による2度目の東北侵攻が決定すると都に残った征東大使に代わって征東副使として10万人の軍勢を率いて東北に赴きました。東北では武力と懐柔の硬軟2策を使い分けて多くの部族を臣従させましたが、延暦13年(795)年まで騒乱も続発したようです。その一方で中央では延暦12(794)年に長岡京から後の平安京への遷都が行われるなど中央と地方は別世界として動く現在と変わらぬこの国の歴史が経過していました。
坂上さんは延暦15(797)年に武力と行政を担う征夷大将軍兼鎮守府将軍に任ぜられると4万人の軍勢を率いて多賀城に赴き、延暦21(803)年までの長期戦を実施して奥州王と呼ぶべき大部族の長・阿弖利爲さまを降伏させましたが、生命の安堵を保証をして平安京に連行すると平安時代としては保元の乱まで行われなかった死罪に処せられてしまったのです。そうして奥州への侵攻・制圧が完了すると坂上さんは中央政界に戻りますが、桓武天皇の崩御によって平城天皇が即位すると皇子が幼かったため弟を皇太弟子に立てたものの健康を害したため譲位したのです。これに妾として男児を産んでいた藤原薬子さんとその兄が介入して平安京と平城京の2つの都に分かれての「薬子の変」に発展すると武力鎮圧を命ぜられ、必要最小限の局地戦で極めて迅速に終息させました。
これらの功績により坂上さんは生前から朝廷と平安京の守護神とされ、災厄に備えて京都市山科区西野山に立った状態で東を向いて埋葬されたと伝わっています。
- 2020/05/22(金) 12:13:02|
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「日本国、オランダ王国の国歌を斉唱します。君が代斉唱」この桜祭りは大使館主催の公的行事なので開会に当たっては両国の国歌斉唱が行われる。小渕恵三内閣が正式に国歌にしてしまった「君が代」が大嫌いな私としては回れ右して退席したいところだが、優秀な国家公務員である外務省の大使館員が周囲を取り囲んでいるので逃れようがない。間もなく自衛隊記念日の祝賀会とヘ別のプロらしい楽団が気分まで滅入ってくる「君が代」の前置き(伴奏とは言わない)を演奏した。せめて景気よく手拍子でなら唄っても好いがこれは公的行事だ。
「君が代は 千代に八千代に・・・」意外なことに若い外務省職員たちは真面目に「君が代」を唄い始めた。これならば口をつぐんで黙殺していても気づかれない。私の「君が代」嫌いを知っている梢は2人分のつもりなのか隣りで少し大きめの声で唄っていた。
「続きましてウィルヘルム・ヴァン・ナッソウ斉唱」次はオランダの国歌になった。題名から国王の個人名なので「君が代」以上のおべんちゃらの口上に曲をつけた歌らしい。
「ウィルヘルム・ヴァン・ナッソウ ベン、イチェーカー ヴェン ダッチェン ブルーツ・・・」唄い出しから名前の呼び掛けだ。これではオランダ語が解らなくても雰囲気は判る。それにしても曲は自衛隊の観閲式で聴く「巡閲」に似ている。あのように整列している部隊の前を通過しながら「俺は偉い」と自己満足させるような国歌のようだ。
「モリヤ検察官はオランダの国歌を知っていますか」開会式が終わり、解散になって接待係は来賓の話し相手になるため夫婦で歩き出すと独身らしい若い外交官が声をかけてきた。
「何だか国王への胡麻擂りの歌みたいですね」「それは日本語だから良いですが、オランダ語では禁句ですよ」「オランダ語はできませんから大丈夫です。必要なら連れ合いに通訳させます」実は外務省職員も本当に堪能なのは英語だけで、それ以外の言語は入省後に大使館での勤務や大学に短期官費留学する語学研修で習得するそうだ。
「簡単に言えば『ウィルヘルム・ヴァン・ナッソウ、私はオランダの由緒正しい血筋、永遠に祖国に忠誠を誓います。オラニエ公、私は何ものにも臆せず自由を与えるスペイン国王に忠誠を誓う』なんてところでしょうか。ウィルヘルム1世は今の王家の始祖です。ドイツ人でしたがスペインの討伐軍と戦っている隙にオランダを占領したんです。これは敗戦で落ち込んでいるウィルヘルム1世を励ますために家臣が陣中で即興で作った歌だそうです」「よく恥ずかしくもなくこんな歌を唄えるものだな。オランダ国王なんて戦争のたびに国民を捨ててイギリスへ亡命する卑劣漢じゃあないか」「20世紀以降、オランダは女王の国ですから逃げるのは仕方ないと国民も許しています」これは意外な歴史だった。いつもであれば赴任の前には歴史を詳細に研究して見どころを厳選するのだが、オランダの女王は過酷な植民地支配で住民の反発を招き、日本軍への協力者にしたため開戦早々に占領されたインドネシアでの戦闘を逆恨みして日本に謝罪を要求する態度を憎悪していたので、あえて調べなかったのだ。
「今月の30日にはベアトリクス女王陛下が退位されてウィレム・アレクサンダー王太子殿下が即位されますから国歌を聴く機会が増えるんじゃあないですか。王太子殿下はウィヘルム3世陛下が1890年に崩御されて以来、5代ぶりの男性の国王ですから国民も大歓迎しているみたいです」「ベアちゃんは男の子を産んだんだね。日本の皇太子とは大違いだ」私にとっては高僧に対する「猊下」が最高位であって「陛下」「崩御」は間近に拜する機会を得て御稜威に圧倒された昭和天皇だけに認めている。それを連発されて皇室嫌いが過熱してしまった。
「確かに我が国の皇室も悠仁殿下がお1人では心配ですよね」「現行の皇室典範が制定されたのは今の皇太子兄弟が生まれる前だ。つまり直系の男子でなければ後嗣になれないのは判っていたはずだ。それでもあえて多産が期待できない年令の(29歳6カ月)、しかも双子の妹しかいない女腹の外務省職員と結婚したんだ。おまえに弟も兄に遠慮して子作りを控えていた。要するに天皇家が途絶えても自滅と言うものだ。国民が心配するのは余計な世話だろう」流石にここまで言えば若い外交官の愛国心を刺激したのは当然だ。
「モリヤ検察官は陸上自衛官なのに日本陸軍の軍人とは真逆の考え方をしているみたいですね。皇室に忠誠心は抱いていないんですか」「日本陸軍の天皇崇拝は戦後の学校教育や映画に小説、マスコミなどが皇道派の狂信的な連中が多数派だったかのように歪曲しているだけで、実際の陸軍の上層部は天皇による統帥権を政治による文民統制に対抗する手段として利用していた現実主義者だったんだよ」本当は東北人としての戊辰戦争への恨みや平成の天皇の日本軍を戦争犯罪者と公言している態度に対する怒りも噴き出しそうだったが、梢が「そろそろ接待に」と声をかけたので踏みとどまった。この調子でオランダ人の来賓と酒を飲んで対話すると危ないので梢と若木の桜の下を歩き回りながら2人だけの時間を過ごした。
- 2020/05/22(金) 12:11:29|
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明治37(1904)年の明日5月22日は高杉晋作よん(「さん」をつけるに値しない)や桂小五郎よんなどの毛利藩のテロリストや土佐の稀代の悪徳武器商人・坂本竜馬よんと山口・鹿児島藩閥の国家権力独占の犠牲になった逸材・後藤象二郎さんなどの写真を撮った上野彦馬さんの命日です。67歳でした。
同時代の写真家としては横浜でアメリカ人から撮影と現像の技術を学び、スタジオと器材を買い取って日本人初の写真店を開業した鵜飼玉川さんや横浜で外国人相手の土産として芸者や侍、庶民の風俗写真を売りさばいて海外で商品(作品とは言い難い)が発見されることが多い下岡蓮杖さんがいますが、被写体の知名度と人気、卓越した技量と独特のセンスで上野さんが「第一人者」と言う評価を獲得しているようです。
上野さんは天保8(1838)年に長崎の蘭学者の二男として生まれ、現在の大分県日田市で広瀬淡窓先生が開いていた咸宜園で2年間、儒学と漢詩や数学、天文学、医学などを幅広く学んで長崎に戻ると安政8(1858)年からはオランダ軍医のポンペ・ファン・メールデルフォールトさんを主任教官とする医学伝習所内の舎密試験所に入所して舎密学=化学を勉強しました。この勉強の中で蘭書に載っていた湿板写真に興味を持ち、友人と共同で研究を始め、書物を読み解きながら試行錯誤を重ね、必要な化学薬品を自作してついには写真の撮影と現像に成功したのです。化学薬品の自作においては現像に必要なアンモニアを精製するために肉がついた牛の骨を土中に埋め、腐敗してから掘り起こすなどの工夫をしています。またガラス板が現在のフィルムなのに対してプリントは卵白を用いた鶏卵紙に印画したため上野さんの自宅には鶏の卵の殻が山積みになって「いつからカステラ屋に転業したのか」と訊かれたそうです。
そうして写真屋としての技術を身につけると横浜と江戸に出てさらに腕を磨き、長崎に戻ると来日していたスイス人の世界的写真家のピエール・ロシエさんの教えを受けて長崎市内の中島河畔に上野撮影局を開店しました。すると長崎に来た人々が西洋文明に触れた記念に写真を撮影するようになりましたが、1枚が金3分=現在の3万円程度と高額だったため上野さんが好んで撮影した以外はあまり庶民の写真は残っていません。
上野さんはロシエさんから学んだのか、独自に研究したのかは不明ですが、被写体を椅子に座らせ、傍らに机を置くなど西洋風の小物を巧みに使い、集合写真では視線の方向をずらして姿勢も変えるなど画面構成を計算した撮影を行っています。その代表作が坂本よんが台に寄り掛かり、右手を懐に入れた肖像写真ですが、最近は上野さん本人ではなく弟子が撮影したとされています。また目を細めているのは近眼だったためで、一緒に撮影した目を大きく見開いた眼光鋭い写真も残っていますから実際の目は大きかったようです。
その後は風景写真も撮影するようになり、太陽の輪郭線に金星が沈む瞬間の天体写真の撮影に成功し、明治10(1877)年の西南戦争では従軍カメラマンとして日本初の戦場写真を撮影しました。さらにウラジオストクや上海、香港にも写真店を開業して経営者としても成功したようです。
- 2020/05/21(木) 13:45:24|
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「近藤1佐から大使館主催の桜祭りに誘われたんだよ」「やったァ、花見がお祭りになっちゃたんだね」帰宅して梢に大使館主催の桜祭りの話をすると梢は大喜びした。ところが私は準・大使館職員として来賓を接待しなければならず、妻=梢はやはり和服だと言うのだ。
「お前、和服を持って来てるのか」「うん、海外では着る機会があるかも知れないからって母が持たしてくれたのさァ」考えてみれば梢が沖縄から送ってきた荷物の中には薄く細長い桐の箱があった。衣類の片づけは梢の担当だったのでクローゼットがある寝室まで運んだだけだったが、今思えば和服以外にあのような箱は使わない。
「着付けはできるのか」「成人式で母から習って、あかりの時に2回目、結納で3回目だったのさァ」それでは私は見たことがないはずだ。私は結納の時のあかりの和服姿に感激して、志織に振袖を買ってしまったが仕掛け人は梢だったらしい。
「本当は琉装を披露したかったけど持ってないから仕方ないね」「ワシも見たかったのになァ。残念」和服も楽しみだが、美しく優雅な沖縄の伝統装束を着たところはもっと見てみたい。あの頃も首里城跡(当時)の守礼之門では観光客に琉装をさせて記念写真を撮る業者がいたが、ほのかにシマンチュウ顔の梢には声がかからなかった。
「それじゃあワシも休暇を申請しておくよ」「はい、お願いします」ここが自宅で仕事をしていても通すべき筋なのだ。これでコスモスに続き「本土の桜を見せる」と言う約束も染井吉野と言う品種だけは実現することになった。ただし、テレビの映像で見たボス公園の桜は近藤1佐も言っていたように植えて10数年の若木なので枝は伸びておらす、花の量も乏しかった。
私は大きな計算違いを犯してしまった。桜祭りは当然、酒席になるので大使館の職員と家族は観光バスを手配して団体で移動するのだが、それを申し込むのを忘れていた。そのため自宅から駅まではタクシー、列車で乗り換えがあって1時間強のアムステルダムに向かい、そこからもタクシーになった。しかもボス公園はアムステルダム市と隣接するアムステルフェーン市の両域にまたがるため駅から5キロ以上ある。
「奥さん、それは日本のキモノ(着物)ですね。美しい」駅でタクシーに乗り込むと運転手は私が着ている自衛隊の制服よりも梢に関心を示して声を掛けてきた。
「はい、よくご存知で」「日本の観光ガイドで見ました。でも本物を見たのは初めてです」運転手は私が手渡した会場の地図を確認してタクシーを発車させたが、ルーム・ミラーで梢ばかりを見ている。これでは危険運転を指摘しなくてはならなくなる。
「会場までタクシーで直接行けるのか」「公園の入り口で管理人に申し込めば可能ですが、奥さまの美しい着物を見れば日本大使館の行事に出席することは理解できるでしょう。大丈夫だと思います」今日は私の制服は完全に無視されている。社交性が欠落している私としても接待と言う最も苦手な役目の負担が軽くなるならそれも有難いことだ。
「モリヤ2佐、申し訳ない。チャーター・バスを案内するのを忘れていたよ」「安里さんも和服では大変だったでしょう。ウチの車に同乗させて差し上げれば良かったのに気が効かなくて」会場に着くと近藤1佐夫妻が歩み寄って代わる代わるに謝罪した。やはり防衛駐在官は専用車両だったようだ。確かに和服の草履では歩幅が小さくなるため列車での移動には不向きだ。私も僧侶の法衣で列車に乗ったことがあるが、ホームへの階段を上り下りするのには苦労した。今はエスカレーターなので助かったが歩幅と歩調を合わせて歩くのは大変だった。
「間もなく開会式が始まるから、あちらの出席者の中に紛れ込んで下さい」謝罪が終わったところで近藤1佐が並んでいる行事用テントを手で示した。手前の椅子があるテントには外国人の男女、その隣りは日本人と思われるアジア人、その奥に見覚えがある大使館職員と和服姿の女性たちが立っている。この中に紛れ込めば良いらしい。1佐の防衛駐在官は在外大使館では1等書記官待遇なので大使夫妻と公使夫妻、参事官夫妻の傍らの席に戻っていった。
「これはモリヤ検察官」梢と2人で書記官、理事官、外交官夫婦たちのテントに歩いて行くと自衛隊記念日の祝賀会で顔を見知った職員たちが小声で話し掛けてきた。今日は野外なので職員たちは背広で妻の和服の引き立て役になっている。歩いてくるまでに見たところでは周囲には在オランダの日本料理店のテントが軒を連ね、花見団子やドラ焼きなど祭りの定番の露店も並んで美味しそうな匂いが漂っている。それでも手つきを見る限り、露店の方は素人のようだ。
「大変お待たせしました。それでは2013年桜祭りを開会したいと思います。開会に当たりまして在オランダ特命全権大使、永嶺安正よりご挨拶を申し上げます。レディース アンド ジェントルマン・・・」開会式が始まったがこれでは楽しいお祭りではなく堅苦しい式典ではないか。やはり梢と2人でシートと弁当を持って来た方が正解だったかも知れない。

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- 2020/05/21(木) 13:44:06|
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5月20日は1875年にパリでドイツ帝国(当時、以下同じ)、オーストリア・ハンガリー帝国、スペイン帝国、ロシア帝国、オスマン帝国、ブラジル帝国、アメリカ合衆国、イタリア王国、スウェーデン・ノルウェー連合王国、デンマーク王国、ベルギー王国、ポルトガル・アルガルヴェ連合王国、フランス共和国、アルゼンチン共和国、ペルー共和国、ベネズエラ共和国、スイス連邦の17カ国によるメートル条約が締結されたことを記念する「メートルの日」です。イギリスは自国と植民地内の単位基準が確立されていたため混乱を避けて参加しませんでしたが、輸出用に作成した自国のメートル原器の確認測定が許されず輸出品の規格に関する信用が低下したため1884年になって加盟しました。
メートル法は1700年代に入り、経済活動が国内に留まらなくなったことから世界共通の単位が求められるようになり、先ずフランス国民議会が革命後の1790年に南北の子午線の北極点から赤道までの1000万分の1を「1メートル」とすることを決定したのです。したがって長さの「メートル」、重量の「キログラム」、面積の「アール」「ヘクタール」、液量の「リットル」「デシリットル」はフランス語です。
これを受けて同一経度上に位置するフランス北部のダンケルクからスペイン東部のバルセロナまでの距離を計る一方で三角測量で精密な緯度を測って地球の大きさを割り出しました。こうして作成したのが最初のメートル原器です。
当時、この共通単位の必要性は輸出入に関わる各国では共通認識になっており、1867年のパリ万博に集まった学者の間でフランスのメートル法が評判を呼び、自国に帰って採用を提唱し、採用の気運が高まる中でメートル原器の信頼性の確認と承認を目的に召集されたのが1875年の会議でした。この時、メートル原器は作成から100年近く経っており、定規などの確認に使用されて歪みや摩耗が進んでいたため最も伸縮が少ないとされていた白金とイリジウムの合金製でX型の現在の物に作り直されました。ただし、1960年からはクリプトン86の発光スペクトルの波長を基準にするように変更されています。
2019年現在、メートル条約には59カ国が加盟、42カ国が準加盟していますが、国際連合加盟国ではリベリアとミャンマーが未加盟で、アメリカ合衆国は公的にはヤード、ポンド法を維持しており、イギリスも両方の単位を併用しています。
日本は明治18(1885)年に加盟し、明治22(1889)年にメートル原器の交付を受けたことで明治24(1891)年にメートル法の「度量衡法」と従来の和式の単位を定めた「尺貫法」を制定しましたが、生活様式に根づいた和式を捨ててメートル法に移行する必要性は乏しく、単位に米=メートル、糎=センチメートル、粍=ミリメートル、屯=トン、瓩=キログラム、瓦=グラムなどの漢字を当ててみても全く普及しなかったため大正10(1921)年には尺貫法を廃止しましたが効果は薄く、敗戦後の昭和26(1951)年に計量法で禁止し、さらに罰則を課す暴挙に出たのです。しかし、和風建築や和服を作るのに「1尺は30.303センチメートルと計算すれば良い」と言うのは現実を無視した机上の論理だったので、現在は法令の運用が緩められています。
- 2020/05/20(水) 12:45:41|
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「昨年、依頼を受けた陸海空の隊歌の楽譜とCDが届きました」翌日、オランダ大使館に近藤1佐を訪ねて島田元准尉の熱烈な使命感の成果でもある依頼品を届けた。あまり期待されなくてもその倍の成果を見せつけるのが昭和の男だから島田元准尉は正しく昭和一郎なのだ。
「ほう、陸海空の隊歌の楽譜に歌詞カード、それにCDまで揃っていますね。これをもらっても良いんですか」「はい、防衛駐在官に渡すと説明しましたから私の歌詞カードとCDは別に送ってくれました。どうそ」おそらく島田元准尉は一般人で楽譜が読める者は少数派なので郵便物の重量を考えて省いたのだろう。しかし、近藤1佐も新しい「海を征く」の歌詞カードは一瞥しただけで素通りしたからこちらも省略しても良かった。
「こっちは陸海空の行進曲ですね。『軍艦行進曲』かァ・・・守るも攻むるも鉄(くろがね)の 浮かべる城ぞ頼みなる 浮かべるその城日の本(もと)の 御国(みくに)の四方(よも)を守るべし 真金のその艦 日の本に仇なす国を 攻めよかし・・・」CDに島田元准尉が手書きしている曲名を見て近藤1佐はいきなり軍歌「軍艦」を唄い始めた。唄う前に顎でリズムを取っていたところを見ると腹の中で「ジャンジャンジャンッタッタラジャジャジャジャジャン」と伴奏を入れたらしい。市ヶ谷で知り合った海上自衛官はWAVESの嫁と交際中、「パチンコ屋の前で軍艦マーチが流れていると大声で唄い始めて困った」と言っていたが、こうなると元海軍少年としても隊歌演習に参加するしかない。
「・・・石炭(いわき)の煙は海神(わだつみ)の 竜(たつ)かとばかりなびくなり 弾(たま)射つ響きは雷(いかづち)の声かとばかり怒呼む(どよむ)なり 万里の波頭乗り越えて 御国の光輝かせ」やはりこの歌は気合が入る。海上自衛官にとっては航空機整備員のジェット音と同じく心臓の鼓動や脳波が反応・共鳴するのかも知れない。これからは梢をつき合わせて家でも隊歌演習を実施することにしよう。それにしても離島航路の連絡船に乗ったのが嬉しくて、舳先で「海を征く」から「軍艦」「艦船勤務」「月月火水木金金」「江田島健児の歌」「暁に祈る」の2番を熱唱している私を傍らで嬉しそうに眺めていた梢は何者なのか。
「どうもおつき合いいただきまして有り難うございました。本当に海軍少年なんですね」「2次試験で落ちなければ同業者でした」私の皮肉に近藤1佐は苦笑した。実際、海上自衛隊生徒は親の命令で断念したが一般海曹侯補学生を2回と航空学生は2次試験で落ちた。何故、航空と陸上には合格しても海上は落とされるのか。多分、制服が似合わないからではないか。
「軍艦は瀬戸口藤吉が鹿児島民謡のおはら節を元に作曲しましたが、陸の分列行進曲はフランス人の作品でしたよね」「シャルル・エドゥアール・ガブリエル・ルルー大尉です」このフルネームは島田元准尉がCDに書き込んでいたので暗記しただけで、私は「シャルル・ルルー」と早口言葉のように憶えていた。
「こっちは唄わなくても好いんですか」「はい、曲は兎も角、歌詞と歴史的経緯には許せない点が多々ありますから結構です」私の胸から防府で染み込んだ山口県人への嫌悪感が嘔吐のようにこぼれ出た。陸上自衛官の私としては警察予備隊創設1周年の式典用に初代音楽隊長・須磨洋朔1佐が作曲した行進曲「大空」を採用してもらいたいものだ。
「これだけあれば自衛隊記念日の式典のBGMには完璧ですが、あのバンドはデン・ハーグのアマチュア楽団ですから行進曲までリクエストするのは無理かも知れません。それにダンスを楽しみにしている参加者も少なくないですから、今年は陸海空の隊歌をリクエストしましょう。隊歌演習はお願いしますよ。こちらは個人的に楽しませてもらいます」近藤1佐は意外な説明をすると隊歌のCDと楽譜を茶封筒に戻し、歌詞カードは行進曲のCDと楽譜と一緒に引き出しに収めた。それにしても天下の日本大使館の公式の式典にアマチュアの楽団に演奏を依頼していることには首を傾げてしまう。それが防衛駐在官=自衛隊の立場によるものなのか、民政党政権の事業仕分けの影響なのかは判らないが、嘲笑している参加者がいても不思議はない。
「ところでモリヤ2佐は大使館主催の花見の会に参加しませんか」「オランダで花見の会ですか。先日、ニュースで『アムステルダムのボス公園の桜が7分咲きになった』と言っていたから見に行こうと思っていたところですが」「それです。まだ若木なので日本人の目には物足りませんが400本植えてあるから雰囲気くらいは楽しめますよ。日本料理と一緒にどうぞ」島田元准尉のおかげで梢との約束が倍の形で実現しそうだ。淳之介とあかりは茶山元3佐の案内で船岡・白石川の千本桜を満喫したそうだが、こちらはオランダの四百本桜と少しこじんまりしている。それでも久しぶりに日本の食べ物を味わうことができれば感激するのは間違いない。
「いっそ2人で『同期の桜』でも唄いませんか」これは悪い冗談だ。「防衛駐在官が晴れ舞台に立てるのは自衛隊記念日の式典だけ」と言うのは近藤1佐自身から聞いた嘆き節なのだ。
- 2020/05/20(水) 12:44:31|
- 夜の連続小説8
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第2次世界大戦が勃発する1年前の昭和13(1938)年の明日5月20日に重慶を発進した中華民国軍のマーチン139型(Bー10の輸出仕様)爆撃機2機が東シナ海を超えて日本の領土の上空に侵入し、博多と熊本に反戦ビラを散布して帰還しました。
帝国海軍(陸軍は「無差別爆撃は武力紛争関係法違反の惧れがある」と拒否した)が重慶市の爆撃を開始したのはこの年の12月18日からですが、目的はあくまでも蒋介石の拠点の破壊であってこの1回だけの爆撃に脅威を感じた訳ではありません。
この作戦で使用したマーチン136型爆撃機はアメリカのマーチン社が1930年に開発を始めた全金属製で双発の爆撃専用の機体で、実用化した時点では世界最高水準の性能を発揮したため1934年からアメリカ陸軍航空軍団も導入しましたが、帝国陸軍の97式重爆撃機や帝国海軍の97式陸上攻撃機、ナチス・ドイツのユーカンスJu88爆撃機の出現によって一気に陳腐化したため1937年には生産が中止され、在庫だけでなくアメリカ軍が保有していた機体もオランダ、アルゼンチン、中華民国、トルコ、タイに輸出されていました。このため操縦していたのは大陸での日本と国民党政権の武力紛争に個人参加していたアメリカ人の義勇パイロットではなく徐煥昇と冬彦博の中国人で(航法士の氏名は不明)、2名とも終戦と国共内戦、国民党の台湾への逃亡まで生き残って英雄として勲章を授与されたようです。
この時、博多と熊本の上空を飛行しながら投下したのはあくまでも反戦ビラであって手榴弾1個も落とさず、拳銃弾1発も撃ち込んでいません。それはマーチン139型の航続距離が重慶から九州の片道にも届かない1996キロだったため爆弾倉に予備の燃料タンクを増設した上、本来は4名の搭乗員を3名にして極限まで軽量化を図っていたからです。
それでも中華民国は主にアメリカでこの飛行を「渡洋爆撃」と大々的に喧伝し、日本軍が中国各地を爆撃しているのに対して投下したのが反戦ビラだったことを「人道的遠征」と弁明しましたが、これは武力紛争関係法では地上戦の偵察も戦闘行為に含まれる規定を無理やり適用して(空戦規則は現時点でも未制定)、反戦ビラを日本人の戦意を喪失させる精神的武器にした虚偽に近い拡大解釈です。ただし、この反戦ビラは林房雄さんや中野重治さんと共に東京帝国大学でマルクス文学運動を発生させ、昭和7(1932)年には日本共産党に参加したため昭和9(1934)年に治安維持法違反で検挙されて獄中で転向した振りをして釈放後に中国に渡り、国民党政権に参加しながら日本軍捕虜や日本人保護民の共産主義への洗脳に当たっていたプロの作家の鹿地亘さんが執筆しましたから武器としては上等なものでした。
惜しむらくは空襲警報が発令されず、灯火管制もない夜間に街の灯りで都市部を識別して反戦ビラを撒いたのですが、折からの強風で飛散して博多や熊本市内ではなく大半は人通りもない郊外の田園地帯や山中に落ちて、翌日になって拾った住人は自主的に官憲に届けたため全く効果はなく、地方新聞が珍事として掲載しただけでした。当時の日本では「空襲」と言う攻撃方法が現実の脅威としては認識されていなかったようです。
- 2020/05/19(火) 13:07:32|
- 日記(暦)
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「へーッ、ここまでやってくれたのかァ」4月に入って2000年に日蘭友好400周年を記念して造成された「アムステルダムのボス公園の桜並木が7分咲きになった」と言うニュースを見て梢を連れて行く計画を立てていた頃、岐阜の島田信長元准尉に依頼していた陸海空自衛隊の隊歌の楽譜とCDが届いた。転属案内の書簡で依頼したのはこの2つだったが、A4版の茶封筒の中には「あれも欲しいな」とは思ったが遠慮した物まで揃っていた。
「先ずは陸海空自衛隊の隊歌のCDと楽譜に歌詞カードまでついてるぞ。流石だな」市販のCDであれば歌詞カードも付いているのは普通だが、これはどこかで録音かダビングした物なので島田元准尉が調べてくれたことになる。私も海と空については「可能であれば」と断り書きしていたのだが、やはり人気DJの昭和一郎さんの音楽関係の人脈は並みの自衛官とは違うらしい。
「ふーん、陸と海の隊歌は古関裕而の作曲なんだな」私は机に置いてある老眼鏡をかけて歌詞カードを見ながら口ずさもうとしたが、題名の下に書いてある作詞者・作曲者の名前に目をとめた。陸上自衛隊歌「栄光の旗の下(もと)に」は作詞が赤堀達郎、作曲は古関裕而とある。海上自衛隊歌「海を征く」も作詞は佐久間正門でも作曲は古関裕而だ。ただし、航空自衛隊歌「蒼空遠く」だけは作詞が海老根達、作曲は高山実だった。古関裕而と言えば東京オリンピックの入場行進曲「オリンピック・マーチ」やスポーツ中継の定番曲「スポーツ・シャワー」などの名曲があり、軍国歌謡の「露営の歌」「暁に祈る」「若鷲の歌」「ラボール海軍航空隊歌」や阪神タイガースの球団歌「六甲おろし」、読売巨人の「闘魂こめて」、夏の甲子園の「栄冠は君に輝く」、戦後歌謡の「イヨマンテの夜」「高原列車は行く」、何よりも戦史アニメ「決断」の主題歌を作曲している。どれも私の愛唱歌なのでそれにつき合っていた梢も聴いたことがあるはずだ。しかし、一緒に歩きながら「勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を出たからは」と口ずさんでいる私を梢はどう思っていたのだろうか。終いには憶えてデュエットしていたような気がする。
「『海を征く』は男女雇用均等法の関係で歌詞が変わりました・・・かァ」陸の「栄光の旗の下で」を軽く流した後、大好きな「海を征く」と熱唱しようとすると2枚の歌詞カードの間から手書きのメモが落ちた。拾って目を通すと海上自衛隊とも思えない失策が書いてあった。
「それがこの歌詞なんだな・・・明け空告げる海をゆく 歓喜湧き立つ朝ぼらけ 備え堅めて高らかに 今ぞ新たな陽が昇る おお堂々の海上自衛隊(じえいたい) 海を守る我等・・・これじゃあ下手な替え歌じゃあないか」1番を唄ってみて私は怒りの声を上げてしまった。中学生の時の社会科の授業で日本が海外との輸出入によって成り立っていること知って海上自衛隊を志望するようになって以来、高校でも一般海曹侯補学生と航空学生を受験して2次試験に失敗した私は親との妥協で航空自衛隊に入ったものの海軍少年の血は鎮まらなかった。そのため那覇基地では隣接する海上自衛隊の隊員クラブ「ハイビスカス」に通うようになって知り合った海上自衛官から色々な知識を仕入れたのだ。その中で習ったのが「海を征く」だった。
「男と生まれ海をゆく 若い命の血は燃える 馨れ桜よ黒潮に 備え揺るがぬ旗印 おお選ばれた海上自衛隊(じえいたい) 海を守る我等。怒涛よ騒げ 雲よ鳴れ 力黒金たじろがず 常に鍛えて逞しく 越える苦難の雨嵐 おお灼熱の海上自衛隊 海を守る我等。紅の意気 昼も夜も 重い使命にたぎり立つ 緑清しいあの山河 永久の栄えをただ祈る おお国担う海上自衛隊 海を守る我等」「海上自衛隊歌ね。さっきのは何」机の席で立ち上がって片手を腰に取り、歌詞カードを突き出して「海を征く」の隊歌演習を実施しているとテーブルで迷彩服にアイロンをかけている梢が声をかけてきた。やはりこの歌も知っているようだ。
「海上自衛隊が『海を征く』を変な歌詞にしてしまったんだ。2番から唄うから聴いてくれ・・・黒潮薫る旗風に 映える使命の若桜 熱い力の意気燃えて 凌ぐ波濤は虹と咲く おお精鋭の海上自衛隊 海を守る我等。伴(きずな)に結ぶ伝統の 誇り支えるこの山河 永久の平和を祈りつつ 祖国の明日を担う おお栄光の海上自衛隊 海を守る我等」「曲に歌詞が合ってないね。言葉を無理にはめ込んでいるみたいで変だわ」梢の感想は私の代弁だ。防衛駐在官の近藤1佐も古く正しい「海を征く」を口ずさんでいたから海上自衛官も同様なのかも知れない。
「それでこっちが陸海空自衛隊の行進曲かァ。ワシの頃の航空自衛隊は『ブラビューダ』を借用してたけど今は自前の行進曲があるんだな」航空自衛隊歌で口直しして残りのCDと楽譜を確認すると意外な逸品だった。私が防府南基地に転属すると開庁記念日の観閲行進では相変らず陸上自衛隊の「扶桑曲」「抜刀隊」を演奏していたので、沖縄時代の顔見知りだった西空音楽隊の隊員に質問すると「山口陸軍閥の流れを汲む地元の来賓に迎合した要望だ」と説明された。その一方で「ブラビューダ」もアメリカ海兵隊から借用している曲だと聞き「自前の行進曲がないならお前らは不用だな」と揶揄したことがあった。これで存在理由は確保できたらしい。よかった。
- 2020/05/19(火) 13:06:26|
- 夜の連続小説8
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「今日、部長に退職を申し入れたわ」ジアエは夕食の席の祈りを終えると神学校でもある修道院から帰宅している父と母に今日の出来事を報告した。両親もこれからの聖也の育成には父親である岡倉との同居が必要であると言う認識では一致しており、アメリカへの移住にも同意しているので特別な反応はしなかった。それでも母はこここまで身近で成長を見守ってきた聖也と別れることに寂しさを噛み締めているのは伝わってくる。
「聖也も4歳だからアメリカの幼稚園に入れた方が良いな。私が教会を任されるようになればお母さんと一緒に暮らすつもりだから心配せずに行きなさい」「でも神父の妻帯は認められていないでしょう」父の説明に自分も敬虔な信徒であるジアエが疑問を述べた。カソリックでは神父を生活の全てでカミに仕え、信者全体を「教え」「導き」「守る」父親のような存在と定義しているため、家族の父親となることは認めていないのだ。
「そうは言っても離婚を頑なに禁止しているのも我がカソリックだからな。お前も知っての通り、妻帯の信者が神父になるには妻の同意を得て事実上の離婚をするんだ」「今の私たちみたいにね」父の説明に母が苦笑しながら同調した。確かに父が修道院に入る際も母の同意どころか全面協力を得ていた。そのため布教を名目に帰宅した時には別室で就寝し、家族の団欒とは距離を置いている。聖女だった頃のジアエもそのような清らかな生活に憧れたことがあったが、岡倉の妻になり、聖也の母になって命を分かった家族への愛に生きる幸福を自分の使命と感じるようになった。だから信者だけでなく個人主義が殊更に優先されている世界に向けても家族愛を説いているカソリック教会の復古的教条主義には矛盾も感じていた。
「我が国の宗教はカソリック、プロテスタントだけじゃなくて佛教も底が浅くて完全な教条主義なのよね。それが国民性にも反映しているみたい」唐突にジアエが信仰するカソリックだけでなく韓国人まで批判したことに母は驚いたように顔を向けた。
「私は日本の佛教寺院に行って住職と話したことがあるけど、我が国の僧侶たちのように王朝以来の戒律だけを守っていればあとは何をやっても構わない。我々だけが世の中の真理を悟っていると言う傲慢さはなくて、逆に心の底にまで佛教が満ち溢れているような深い信仰心を感じたわ。カソリックの神父やプロテスタントの牧師も在韓アメリカ軍のチャップレン(従軍宗教者)と話していると『カミと共にある』と言う揺るぎない確信が伝わってきて、聖書の文章の引用しかしない我が国の神父や牧師とは別次元なのよ」ジアエの厳しい見解に母は目を険しくしたが父は無表情に食事を口に運んでいる。そんな祖父の姿をジアエの隣りの席の聖也は不思議そうな顔で注視していた。
「今、お前が言ったことは私も修道院で感じていることだ。私はアメリカ人の神父に育てられたから、お前が言ったようにカミの存在を理屈ではなく当然のモノとして実感している。ところが我が国の神学校で学ぶ神学生¬、修道士たちは聖書を暗記し、儀式の作法を学び、説教の練習をすれば神父になれると思い込んでいる。だから戒律も神父としての立場を危うくしないために守っているだけで背信に対する怖れなどは全く感じていない」ジアエの批判には目に怒りの色を浮かべた母も父=夫の告発には唇を噛んで黙り込んだ。
「だから異教徒の信仰を尊重することができないでアフガニスタンに乗り込んでイスラム教徒に布教するような傲慢なことをやってのける。佛教も昨年の10月に僧侶が対馬から佛像や経典を盗み出してきただろう。今月には地方裁判所がその犯罪行為を肯定した。お前が言う通りだ」「どうしてそんなことになってしまうのかしら」ジアエは食事を忘れて聞き入っている聖也に注意を与えてから話を続けた。やはり信仰や社会問題に関する深い見識は父でなければならず、帰宅するのを待っていたのだ。
「結局、我が韓民族は中国の一部でありながら地理的条件で独立王朝を認められてきた歴史の中で中国皇帝の意向に盲従してきたことが人間性を作ってしまったんだろう。だから独自の学問を探求し、文化を創造する必要はなく、与えられた教義を表面的に模倣すれば十分だと信じているんだ。キリスト教や佛教も同じことで中国皇帝に教えられた儒教の作法の中で聖書と経典を使い分けているだけだ」「その点、日本は海を隔てているから国難に際しても自己解決するしかない。だから大震災でも国民は毅然として可能な生活を維持していたのね。やっぱり聖也はタイガーの傍で育てた方が良いわ」結論は母が出した。
「それにしてもタイガーは最終的に自分の佛教とお前のキリスト教のどちらを家の宗教にするつもりなんだ」「どちらも大切にしているわ。おまけにアフガニスタンでイスラム教も好きになったみたいよ」「やっぱり日本人の考えることは韓民族には理解できないな」両親は呆れて顔を見合わせた後、聖也にも手で指示して食事を再開した。
- 2020/05/18(月) 12:42:09|
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「本当に退職を希望するのかね」2013年2月25日に韓国の大統領が交代して間もなく、ソウル特別市に隣接する高陽市の歩兵第11連隊本部では李知愛(イ・ジアエ)少佐が直属上司である監理部長に退職を申し出ていた。李少佐は事前にその意向を伝えていなかったため机を挟んだ席に座っている監理部長は困惑した顔で見上げている。
「幸いなことに今度の大統領も軍に対しては理解があるはずだ。もう少し政権の同行を見極めてからでも好いんじゃあないか」昨年末に岡倉が帰宅した当日に韓国では大統領選挙が行われ、盧武鉉政権の大統領秘書室長(日本の内閣官房長官に相当する)として親中容北嫌米反日の政権運営を取り仕切った文在寅と帝国陸軍士官としての軍歴を有して日韓国交回復を実現した朴正熙大統領の娘との事実上の一騎討ちの結果、得票率で3.5ポイントの僅差で保守派と目されている朴槿恵政権が成立した。やはり常識的な韓国軍人としては朝鮮戦争で戦火を交えた北朝鮮と共産党中国にアカラサマにすり寄り、同盟国であるアメリカを敵視して信頼関係を破壊しただけでなく、建軍以来の宿敵である北朝鮮との戦闘を任務と考え部隊を厳格に指揮している将校士官たちを排除・抹殺した金大中・盧武鉉政権に嫌悪感を抱くことは禁じえない。それでも表裏反対=面従腹背を常とする韓国の国民性を守り、表向きは殊更に政権につながる上層部に尻尾を振っているから中堅士官としての椅子に座っていられるのだ。
「それでは部長は李明博政権を評価しておられるのですか」韓国陸軍では人事異動の間隔が比較的長いので、この部長とは李明博政権の後半は一緒に仕事をしてきた。李明博前大統領は反財閥を鮮明にして国内景気を悪化させた盧武鉉政権に対する批判を受けて、実業家からソウル市長になると市の膨大な財政赤字を改善し、大規模な公共事業を進めたことで企業の経営も立て直した実績で当選したのだが、現在の韓国経済は完全に共産党中国に依存しているため政治的にも追従せざるを得ず、ご機嫌取りのために反日姿勢を強めるのは当然の結果だった。李大統領はその理由を「幼少期に在日韓国人として過酷な苛めに遭った」と説明していた。
「日本人が民政党に政権を与えたことを国家としての退潮と見切った判断力は流石に企業経営者だった。おまけに大震災と言う天罰を受けて国家は崩壊する寸前まで追い込まれた。ところが民政党政権が議会の任期の4年間も全うできずに敗北した上、まさか加倍政権が復活するとは李大統領でなくとも我が国民は誰も想像しなかっただろう」確かに年末に帰宅した夫は加倍首相が衆議院選挙の最中に行われた日本記者クラブ主催の党首討論会で(いわゆる)従軍慰安婦問題を否定した発言に対する韓国民の反応を気にしていたが、李少佐も夫から日本人の政治的バランス感覚の解説を聞き、激昂して極端に振れる韓国民の投票行動が幼稚に思えていた。その点、アメリカやイギリスの2大政党は政策に差異はあっても韓国のように極端ではない。むしろ多くの外交的失策が指摘されているバラク・オバマに2期目を与えたことはジョージ・ウオーカー・ブッシュ政権が始めた対イスラムの第3次世界大戦後の政治的安定を図るアメリカ式の政治的バランス感覚なのかも知れない。
「君が李明博政権の感情的な反日姿勢に批判的だったのは知っているが、朴槿恵新政権も同様の外交方針を取ると考えているのかね」未婚の母とは言え身分証明の顔写真を維持するため整形を受けない軍人には珍しい美女である李少佐に見詰められて思いがけず政治的見解を披歴してしまった監理部長は質問で同じ過ちを犯させようとしてきた。
「選挙中の討論会での発言を見る限り、同様の方向に進まざるを得ないでしょう。経済的に中国に依存している以上、外交も追従することに変わりはなく、むしろ李政権が火を点けてしまった反日感情は押さえようがないですから、さらに過激な反日外交を繰り広げなければ国民の批判を受けてしまう。そもそも亡き父親の威光を利用して保守系政党での地位を高めてきただけで、政治的実績に見るべきものはありませんから首相の娘として人気を獲得していた日本の田中牧子と同様に大統領のお嬢さまと言うだけで大統領にしてしまったんでしょう。その点、日本人は今回の選挙で田中牧子を落選させたそうですから政治的見識は数段上です」この見解には年末に夫から聞いた解説がかなり投影されている。監理部長は口の中で苦虫を1匹噛み潰した。そんな様子を見て李少佐は何故か少し口元を緩めて話を続けた。
「私の退職理由は法務士官でありながら総務課員としての配置だけで、実務経験が積めないことへの不満と不安と言うことにして下さい。少佐まで昇任しながら法務士官としては懲戒処分の事情聴取を手掛けただけです」思いがけない理由を聞いて監理部長は顔を向けたまま思案した。
「それは君が総務課長として極めて有能だからで、将来は私のポストに座ってもらうことも考えているんだ」「それは光栄です。これで失礼します」監理部長の弁明が説得に続く前に李少佐は踵を鳴らして姿勢を正し、敬礼に続いて回れ右をして退室してしまった。

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- 2020/05/17(日) 13:52:36|
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「ふーん、お義父さんとの生活を満喫しているんだ」私との国内小旅行を終えた翌朝、梢はあかりに電話をかけた。日本とオランダの時差は8時間なので朝9時に電話をすれば向こうは夕方の5時になる。双方に負担がかからなくて適当な時差だ。あかりは昨日の出来事を説明する母の弾んだ声を聞いて嬉しそうに返事をした。
「貴方に風車の音を聞かせてあげたいな。風を切るブーンって言う音は迫力があって、水を汲み上げる機械の歯車が回るキリキリって言う音やザブザブって水が流れ落ちる音は他では聞けないでしょう」「ふーん、面白そう」今回の旅行は博物館巡りだったのだが、視覚障害者のあかりには説明のしようがない。それで梢が用意してきたのが音の話題だった。
「オランダの風車は大きなネジみたいな溝を切った金具で水を汲み上げて排水するだけじゃあなくて小麦を挽いたり、牛乳をかき混ぜてチーズにしたり大活躍してるのよ」「だから色々な音がするんだね。風車の仕事の音だ」あかりは幼い頃から梢だけでなく祖父母にも古今東西、多岐にわたる知識を与えられてきたので、理解力は健常者に優っても劣ることはない。
「お義父さんはあかりにクリスマスの讃美歌と鐘の音を聴かせたいって言ってるよ。冷たい空気の中に響いてくる讃美歌と聖堂の鐘の音をあかりがどう受け止めるのかを知りたいってさ」「その前に私は淳之介さんと本土の除夜の鐘を聴きに行きたいけど、年末は仕事が忙しいから無理だって諦めてるのさァ」これは梢もモリヤの希望に反論した現実だった。年末は買い出しに石垣島に渡る島民や帰省する子供たちも多く淳之介は大晦日まで大忙しだ。年明けも2日から運航を再開するので休暇は帰省が一段落してからの翌週になる。勿論、そんなことはモリヤも判っているのだが、あくまでも「あかりの世界を広げたい」と言う親心だった。
「今年は淳之介さんの休暇が成人の日の後になったから恵祥とオジイ、オバアと一緒に今帰仁まで桜を感じに行ったんだよ」淳之介の離島航路の正月休暇は成人の日が難問だ。離島に新成人の女子がいると石垣市内のパーマ屋でセットと着付けをしてもらうため早朝の特別便を出さなければならない。離島の住民への奉仕の精神を社長から学んでいる淳之介は志願してこの任務を遂行しているのだ。そのため今年は沖縄の緋寒桜の開花に間に合ったらしい。
「今帰仁の桜はお義父さんとも行ったわよ。どうだった」「オジイとオバアは綺麗だって言ってたけど淳之介さんと私は船岡で本土の桜を感じてきたから何だか物足りなくて申し訳なくなっちゃったの」あかりの声はそのまま「ごめんなさい」と続けそうな雰囲気だ。それは本土でも桜の名所として有名な船岡・白石川の千本桜と比較して優劣を付けているのではなく、自分と淳之介が体験している感動を祖父母と共有していないことが残念なのだ。
「本土の桜かァ・・・お義父さんに連れて行ってもらう約束が実現してないね。コスモスにはこっちで会ったけど」「コスモスはお義父さんと行ったさだまさしのコンサートで聴いたんだよね」「うん、アパートでもテープで聴いていたけど本物に感激して泣いちゃったのよ」あの頃の沖縄ではコスモスが咲いておらず梢は見たことがなかったので秋に本土へ連れて行って見せる約束をしていた。しかし、モリヤの両親と伯父夫婦が執拗に交際に反対したため悩み苦しむ姿を見かねて梢から別れを切り出したのだ。
「そう言えば貴女たちがお世話になった船岡の茶山さんに私たちもお世話になってるよ」折角の国際電話が沈んでしまったので梢が話題を換えた。
「茶山さんは元気なの」淳之介は年賀状を交換しているので先日の帰宅で読んでくれたが、茶山元3佐の年賀状は凝った絵が描いてあるらしくあかりには理解できなかった。
「うん、ご夫婦ともお元気みたいだね。日本の食べ物をこちらで作れるように材料を送ってくれたんだよ」「材料を・・・どんな」あかりも梢と祖母から料理の手ほどきは受けているが、材料まで手作りさせるには無理がある。それでも知識として教えることにした。
「苦汁(にがり)って言う豆乳に混ぜて豆腐にする液を送ってくれたのさァ。オバアは海水にしているけど本土では苦汁を使うんだって」「苦汁ってやっぱり苦いの」「確かに苦いね」梢の返事を聞いてあかりが電話口で顔をしかめたのが判った。
「それから納豆と作る藁(わら)の袋」「藁って稲でしょう。それを使って納豆を作るの」「私もビックリしちゃったよ。藁に大豆を発酵させる納豆菌が棲んでるんだって。ウチでは納豆に茹でた大豆を足して毎日、食べてるよ」酵母の納豆菌も生き物なので増殖を途絶えさせる訳にはいかない。おかげで最近は焼いたトーストに納豆を載せるのが朝食の定番になっている。
「お義父さん、豆腐と大豆が大好物なんだね」「半分は坊さんとしての精進料理だけどね」あかりが何かを訊こうとしたが、恵祥が昼寝から目を覚まして泣いたため今回はここまでになった。恵祥は赤ん坊ではなく幼児の泣き声になっている。後で祖父に聞かせる嬉しい話題ができた。

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- 2020/05/16(土) 12:26:13|
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国立民族学博物館の次はズィーボルトの邸宅だ。ここでズィーボルトが執筆した大著「ニッポン」は東洋進出を画策していたヨーロッパ列強だけでなくアメリカのペリーも熟読していて、日本の伝統文化や日本人の高い倫理観などの資質だけでなく海外に門戸を閉ざしていても旺盛な知的好奇心を発揮して西洋文明を吸収していることを理解した上で来航していた。だからアメリカを始めヨーロッパ列強は他のアジア各国に用いた恫喝とは違って日本にだけは万国公法に基づく外交交渉を要求するなど国際常識が通じる相手と言う認識を持っていたのだ。その意味ではズィーボルトは日本にとって大恩人である。
「これがズィーボルト事件の原因になった伊能地図かァ」邸宅内にはズィーボルトが王室に寄贈せずに手元に残した秘蔵品と国立民族博物館で展示し切れない特異な品物が展示されているが、今回はズィーボルトが幕府天文方で書物奉行も兼ねていた高橋景元から入手した伊能忠敬の日本地図=大日本沿海輿地全図の中版もあった。ズィーボルトは江戸から長崎に戻ると高野長英や二宮敬作、高良斉などの高弟に地名をオランダ語に直させたとのことだ。そして帰国後に印刷してヨーロッパ各地で売りさばいたことが日本人の先進性の証明にもなった。
「この地図は種子島と屋久島までなんだね」私が高野長英や二宮敬作、高良斉の筆跡に見入っていると梢が意外な点を指摘した。確かに離島も東は千島列島の国後島から西は対馬や五島列島まで網羅されている。おそらく梢は沖縄が入っていないことに江戸時代には日本と認められていなかったような疎外感を覚えたのかも知れない。
「それを言ったら奄美諸島や小笠原諸島も入っていないじゃあないか。当時の日本の木造船では離島への航海は危険だったんだよ。それに沖縄は島津藩が治めていたから幕府の測量事業に積極的な協力はしなかったんだろう。昔から島津藩は日本国内で鎖国していて、幕府の隠密は生還の可能性が低い薩摩飛脚を怖れていたんだ。大体、鹿児島の方言は他国の人間と会話できないようにワザと難解に作った言語で、戦時中は暗号が解読されていると認識した海軍は鹿児島出身の通信員同士に方言で通話させて暗号の代用にしたくらいなんだよ」この話は佳織にはした記憶があるが、梢には言っていないはずだ。大江健三郎などの本土の亡国文化人が持ち込み、琉球大学教授から沖縄県知事になった大田昌秀が植えつけた被害者史観に与しなくても、戦国乱世を経験していない沖縄にとって島津藩は武力で琉球王家を従属させた侵略者であり、主食である米の耕作を認めずに高値で売れるサトウキビなどの栽培を強制して重税を課した圧政者なのは間違いない。だから私たちの間でも鹿児島の話題は避けていた。
「これが日本狼(オオカミ)かァ」次は1キロ弱歩いた国立自然史博物館だ。ここで見たいのはズィーボルトが持ち返った日本狼と日本獺(カワウソ)の剥製だ。どちらも東京・上野の国立科学博物館で剥製と全身骨格が展示されているがオランダに来た珍獣同士で対面したいのだ。
「でも山犬(ヤマイヌ)って書いてあるよ」私が日本狼の剥製を感慨深げに見ていると今回も梢が説明を補足した。昔から梢は私が夢中になって見落としている情報に気がついて補足してくれていた。この女性と暮らしていればもう少し堅実な人生を送ったのではないだろうか。
「確かに狼って言うよりも犬だよな。海外の狼はシベリアン・ハスキーやシェパードをさらに大きくしたような大型犬で(犬ではないが)、こっちは秋田犬よりも小さくて紀州犬や甲斐犬くらいだ。口には噛みつかれたら腕が千切れそうな大きな顎と鋭い牙があるはずだよ」日本狼は体長1メートル前後、肩高は50センチ前後だからこの例えは適切なはずだ。ただし、現存する剥製標本は日本の3体とこの1体だけなので平均値は確定できていない。
「口も小さいよね。先が尖っていて犬とは違うわ」沖縄には狐がいないので梢は私が土産に渡した愛知県の童話作家・新美南吉の「ごん狐」の絵本の挿絵くらいしか知らないから気がつかなかったが、顔は鼻先が尖っていて日本犬と狐のハーフのような雰囲気だ。尻尾も日本犬のように巻いてはおらず狐と同じく30センチほどに伸びた房のような形だ。その一方で耳は立ってはいても日本犬よりも小さく狐とは全く違う。
「結局、日本狼と山犬は別の動物なのかしら」ここでもオランダ語と英語などヨーロッパの言語の説明がついているが、それを読んでも梢は明快な知識は得られなかったらしい。
「それは難しい質問だな。どちらもワシが生まれた時には絶滅してたから存在感がなかったよ。小学生の頃に同級生が野犬に咬まれて気をつけろって注意されたけどあれは街中で暮らしていたもんな」しかし、この剥製は江戸からの帰路に大阪の天王寺で売られていた物をズィーボルトが自費で購入したそうなので、山犬は街中で捕まったとすれば話はややこしくなる。珍しく回答を避けた私の返事を聞いて日本狼か山犬か不明の剥製が苦笑したような気がした。ところでアニメ「狼少年ケン」の舞台は日本だったのだろうか。ヒマラヤが見えるジャングルだ。
- 2020/05/15(金) 13:21:32|
- 夜の連続小説8
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慶応2(1866年)年の明日5月15日に実際は11代藩主=65代当主の側室の子=妾腹でありながら12代藩主=66代当主=異母兄の娘婿になったことで第13代藩主=第67代当主になれた毛利敬親さんが萩城から山口新屋敷に移りました。
毛利藩は周防と長門=現在の山口県、島津藩は薩摩と大隅=現在の鹿児島県の2カ国を領していながら藩主の居城があった律令国名から長州藩、薩摩藩(=薩長連合)と呼ばれてきましたが、山口は長門国なので毛利藩に関してはこの時点で史実誤認になります。
毛利氏は本来、鎌倉時代初期に下級公家から源頼朝公の側近になった大江広元さんの4男で越前の国人領主だった毛利経光さんが4男の時親さんに与えた中国山地の吉田庄郡山の国人領主でした。この「元公家」であることを毛利家は誇示して「朝臣」を名乗り、それが幕末に毛利藩に現れた吉田寅次郎くんの尊皇攘夷の狂気を炎上させ、その結果成立した大日本帝国が77年でこの国を滅ぼしたのですから亡国の家系なのは間違いありません。
そうして安芸国の中国山地の国人領主として鎌倉・室町時代を過ごしましたが、戦国乱世になり守護大名である大内氏が中国地方全域から九州北部まで手中に収めるとこれに従い、出雲の尼子氏が反旗を翻して勢力を拡張するとこちらに寝返るなど武士の風上に置けぬ卑怯な綱渡りで領地を維持していました。ところが文弱に堕した大内氏が陶氏に背かれて滅亡すると面従腹背で巨大な領土の乗っ取りを画策し、結局は陶氏だけでなく尼子氏も滅ぼして大内氏の領国をそのまま手中に収めたのです。そうして中国地方8カ国を引き継いだ毛利輝元さんは山城の吉田郡山城から三角州の広島(この地名は築城時につけた)に巨大な平城を築いて天正19(1591)年に移りましたが、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦で西軍の総大将を務めて敗北し、恥を知る武士であれば死に際を飾るべきところで生き恥を晒し、周防と長門の2カ国に大幅減封された上、萩への移動を命ぜられたのです。
ところが西軍の敗北=東軍の勝利については「毛利両川」と呼ばれた分家の吉川氏と小早川氏が重要な役割を果たしており、吉川広家さんは関ヶ原で東軍に内応するに当たり、「本領安堵の口約束を得ていた」と主張しましたが、大阪城内で徳川家を滅ぼした後の政権を取り決めた文書が発見されたことで反故になり、4分の1への減封を呑まざるを得なくなりました。ところが周防と長門2カ国の禄高が太閤検地では29万8480石2斗3合だったはずが、毛利家による検地の幕府への報告では53万9268石に倍増弱していて、関ヶ原での先陣の武勲で広島に入った福島正則さんの49万8000石を超えていたのです。このため公式には36万9411石3斗1升5合の禄高として家格も広島藩よりも下位とすることで収まりました。居城についても毛利家としては瀬戸内海運の拠点・防府や防長2国の中央に位置し、大内氏が西の京を築いていた山口を希望しましたが、幕府としては地の利を与える訳にはいかず、広島と同じ三角州でも不便な海辺の寒村に過ぎなかった萩に築城して居住することを命じたのです。事実上の領土内の流刑でした。
この山口への移住によって毛利氏は幕命への不服従を表明し、江戸時代260年間の怨念がこもった萩を捨てて自らが選んだ土地に住む藩主としての念願を果たしたのです。
- 2020/05/14(木) 11:17:14|
- 日記(暦)
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「ふーん、これは密教系の佛像だな」国立民族学博物館には日本から持ち込まれた佛像専用の展示室があった。同じ様式の佛像が左から釋迦如来、薬師如来、大日如来、多宝如来の順で4体と一回り大きい大日如来が1体並んでいるので禅宗や浄土門ではなく密教系なのが判る。中でも左手の人差し指を伸ばして右手で握る智拳印を結んでいる多宝如来は珍しい。
「おそらく明治期の廃佛毀釋で流出した佛像だな。ズィーボルトが持ち出すには由緒があり過ぎるよ」「ここに江戸の寛永寺の物だって書いてあるわ」私が佛像を眺めながら推理を楽しんでいると梢がオランダ語と英語ほかのヨーロッパの言語で書かれた説明文の地名を指さした。
「ならば間違いないな。寛永寺は歴代将軍の墓所がある寺だから流石のズィーボルトでも佛像を持ち出すことはできないよ」オランダ国立民族学博物館は日本では西洋医学の紹介者として有名だが、実際は情報収集を目的に派遣されていたフランツ・フォン・ズィーボルトが8年間の滞在中にオランダ船で秘かに送っていた収集品を広く公開・展示するために自宅で開設した個人博物館が前身だが、後にズィーボルトが収集品を王室に寄贈したため新たに王立博物館が建設され、その所有権が国に移ったことを受けて同じ建物で国立民族博物館になった。そのため人工物を蒐集する博物館としてはヨーロッパ最古=世界最古なのだそうだ。
「こうなるとお経が難しいぞ。大日如来は理趣般若経でも経本を持ってきてないし、多宝如来は妙法蓮華経に出てくるけど世尊偈(=観世音菩薩普門品偈)や自我偈(=如来寿量品偈)じゃあないしな」今回、私は頭陀袋には威儀細と数珠、戒尺(小型の拍子木)と香合、浄土宗と臨済宗の経本しか入れてこなかった。寛永寺は天台宗だから妙法蓮華経になるが、多宝如来が釋迦如来と問答する見宝塔品を読んだのは佛教書としてだけだ。こうなると最近は風化が著しい記憶に頼るしかない。私は頭陀袋から威儀細を取り出すと首にかけ、戒尺を両手に持って5体の中央になる大日如来の前に立ち、梢も傍らに続いた。幸いなことに室内には私たちの他の拜観者はいないので中年女性の係員は好奇心丸出しの顔で見ているだけだ。私は作務衣のポケットに戒尺を入れると数珠を揉み、2人揃って手を合わせて深く頭を下げた。
「カチッ、カチッ、カチッ」続いて戒尺を打ち鳴らすと佛像を照らすライト以外は薄暗いホールの高い天井に反響し、係員は驚いたように身構えた。
「大金剛輪陀羅尼・・・ノウマクシッチリヤ ジビキャナン サラバ タタァギャタナン・・・」この大金剛輪陀羅尼は密教で罪障や魔忿を除くために唱える短い経文だが、勤経で読み間違えた時や邪念を払う目的でも唱えるため師僧から習ったのだ。
「・・・ビダマニ サンバジャニィ タチマチ シッタァギリヤ ソーワーカー。願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成佛道」佛像が5体鎮座されているのでこの経文を5回繰り返した後、回向文を唱えた。本当は各如来の真言も唱えたかったが多宝如来は知らなかった。
「貴方は日本の僧侶ですか」拜礼を終えると係員が歩み寄って声をかけてきた。本当はその場にひれ伏して三拜したかったのだが邪魔された。
「はい、スフラーフェン・ハーグ在住ですが日本人の坊主です」私のアメリカ式英語での説明では聞き取りにくいようなので梢がオランダ語で言い直した。オランダ語教室に通い始めて3ケ月弱だが、もう簡単な通訳が務まるようになっている。
「日本人の観光客たちも同じように手を合わせて行きますが、皆さん、ナマミダーブーと繰り返します。貴方が唱えたのは東洋のマントラ(呪文)のように聞こえましたが」「確かにマントラです。おそらくナマミダーブーは日本の浄土門の念佛ですが、ここには阿弥陀如来はおられませんからマントラにしました」私の説明に係員は手を合わせながら深くうなずいた。この様子から見て単なる見張り番ではなく学芸員なのかも知れない。そこで1つ提案することにした。
「折角、薄暗い部屋に灯明を思わせる照明で厳粛な雰囲気を演出しているのですから、香を焚いて嗅覚でも信仰に誘ってみては如何ですか」梢は「wierook=ウィオーク=抹香」と言う業界用語のオランダ語も知っていた。やはり私との生活を前提に学んでいるようだ。
「日本の佛具専門店には液体式蚊取り器に装着する香のボトルを売っていますから、それなら東洋のアロマセラピーとして理解されるでしょう」流石の梢も「佛具専門店」や「液体式蚊取り器」のオランダ語は判らなかったが、英語を交えて説明すると係員はスマートフォンを取り出してメモ代わりに入力した。
「液体式蚊取り器のお香のボトルって以前、貴方がお香の勉強用にってあかりに送ってくれたあれね」「蚊取りマット器で抹香を焚くのは今一つだと思っていたら佛具店で見つけたんだ」これは淳之介からあかりの超人的な聴覚と嗅覚の話を聞き、視覚障害者のあかりが火傷しないで香に触れられるように知恵を絞っていた頃の話だ。やはり気持ちは通じていた。
- 2020/05/14(木) 11:15:37|
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