昭和29(1954)年の明日7月1日に保安隊が陸上自衛隊に、海上警備隊が海上自衛隊に改編され、新たに航空自衛隊が設立されました。
第1次世界大戦の主戦場になったヨーロッパ各国では航空機の戦力化の意義を痛感し、早い段階から独立軍種として空軍が創設されましたが、陸海軍航空隊の合併だったイギリスを除くと陸軍航空隊の発展・分離によるものでした。続いてアメリカでも第2次世界大戦後の1947年に陸軍航空軍団が空軍になり、併せて空母艦隊による海軍戦闘航空隊も存続しましたが、航空自衛隊は始めから航空専門の防衛組織として設立されています。
日本でも(公職追放によって時間が有り余っていた)元軍人たちの間では独立後の再軍備に向けた研究が活発に行われていて、陸軍航空士官学校出身者たちはアメリカに倣って独立した空軍の創設を主張するようになりましたが、戦闘機の戦力化には莫大な予算と時間と労力が必要なため「独力での実現は困難」と諦めざるを得なかったようです。一方、海軍航空隊経験者たちはアメリカ海軍が空軍とは別の航空戦力を維持したことに意を強くして海上警備隊=将来の海軍にも空母艦隊を再建することを願うようになり、それと並行して離島の地上基地に戦闘機部隊を配置してシーレーンの防空も一緒に担う海空合同軍構想も検討していたのです(第2次世界大戦中に井上成美大将が主張していた)。しかし、アメリカ海軍の中古駆逐艦でようやく創設された海上警備隊が空母艦隊を保有することなどは遠い夢物語に過ぎず、むしろ陸軍航空士官学校出身者たちが進める独立した空軍に参加した方が海空合同軍は実現すると考え直した人たちが乗り換えたためイギリス空軍のような陸海軍航空隊の合併になりました。ただし、この乗り換えた中に源田実元大佐がいたことで「真珠湾への再攻撃を進言せず、ミッドウェイ海戦で陸用爆弾による空母爆撃を提案しなかったと言う航空参謀として重大な失策を重ねながら紫電改での戦果を自分の手柄にしている」と憎悪している人たちは海上警備隊に参加して対潜哨戒機を中心とする航空隊の創設・育成に尽力しました。
心配された戦闘機、練習機などは在日アメリカ空軍司令部の積極的な支援と丁寧な指導があって急速に整備され、驚くほどの進化を遂げましたが、その功績によって第2次世界大戦中に日本各地の都市への無差別爆撃による日本人文民の大量虐殺を指揮したカーチス・ルメイ大将に旭日大綬章が贈られたことは航空自衛隊の歴史の汚点になりました。
また警察予備隊、保安隊、陸上自衛隊は敗戦責任を押し付けられた帝国陸軍の影響を極力排除していたため、陸軍航空隊経験者たちが腹いせのように帝国陸軍の流儀=精神主義を航空自衛隊に持ち込んだ結果、航空部隊や警戒管制部隊の組織制度や業務に対する認識はアメリカ空軍譲りの科学的合理主義でも防府南、熊谷の航空教育隊で行われている基礎教育は陸上自衛隊以上に守旧的懐古趣味で「部隊では何の役にも立たない」と揶揄され続けていても改める気配すらありません。このまま航空教育隊を放置するのなら海上自衛隊と同様に航空自衛隊もアメリカ空軍と合併して基礎教育を共通課程にした方が組織の将来のためです。当然、教官・助教もアメリカ空軍に依頼し、全て英語で実施します。
- 2020/06/30(火) 13:35:31|
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「それじゃあリザーブで好いんですね」「うん、前払いにするよ」結局、店に在庫を置いている銘柄の中では最も高級感があるサントリー・リザーブをキープした。ママさんがボトルの首に紐で掛けるプラスチック製の札を手渡したので漢字で「野咲」と書いた。これは2人が自衛隊を退役してハワイのノザキ家の養子に入る時、日本で用いるように夫が考案した姓だ。日本の国籍法では二重国籍が認められておらず、自衛官は日本国籍を有していることが資格要件になっているのでハワイ州での家族養子の手続きは終えていてもアメリカ国籍は取得していない。逆に志織だけはノザキ家の養子に入った際、アメリカ国籍を取得したので22歳に達するまでに日本国籍を放棄する手続きを行うことになる。法手続きの専門家の夫がいれば任せておけば良かったが、それも佳織の仕事になった。夫は志織の手続きの際、知人の法務官僚に「占領下の昭和25年に制定された日本の国籍法のせいで親子が引き裂かれた」と文句を言うことを楽しみにしていたが佳織にそんな趣味はない。
「お酒は水割りで良いのよね。旦那さんは泡盛をストレートだったけど」「うん、それでお願い」佳織が考えごとをしているとママさんが声をかけた。出会った頃から夫は焼酎や洋酒もストレートかオンザロックで飲んでいた。それは最初に洋酒を教えられたアメリカの軍人たちに「水で薄めると本当の味は理解できない」と言われたことに共感したためだ。しかし、東京拘置所に収監されている間に糖尿病を発症してカロリー制限を受けてからは水割りにしていた。それもインスリンを摂取するようになって復活させたようだ。
「本当の好みは違うんでしょう。用意しておくから言って」「特にこだわりはないけどヴォ―ボンが飲み慣れてるわね」「ヴォ―ボンって・・・」「日本人はバーボンって呼んでるよ。ジャック・ダニエルが良いな」佳織にとってバーボンは大学とアメリカ陸軍の指揮幕僚大学院の首席で飲んだ銘柄だった。香川で誘われた高級クラブで「バーボンが好み」と言えば日本では最高級になるワイルド・トゥーキー(=ターキー)だったが自腹ではこの程度だ。
「旦那さんが古いアニメ・ソングを唄うと歌詞の画面が懐かしいからリクエストが続出していたわ。それでも全部唄えちゃうんだから感心しちゃった。よっぽどテレビっ子だったんだね」佳織が水割りを飲み始めるとママさんはカウンター越しにメニューを渡しながら夫のこの店での姿を説明した。夫の歌好きは相変わらずだったらしい。
「その逆みたい。チャンネル権は父親と妹に握られていたそうよ。だから見られた時には全神経を集中させていたから完壁に憶えたんだって」佳織自身は中学生までハワイで過ごしたので日本のアニメは全く知らない。だから夫の特技にも関心がなかった。それでも前川原の飲み会でアニメ・ソング・メドレーを披露して同期たちの賞賛を浴びていたことを思い出した。
「奥さんは何か唄わないの」「ビートルズにカーペンターズ、それにサイモン・アンド・ガーファンクルとあとはオールディーズしかないみたいね。日本で言えば懐メロだわ」最近のカラオケは中継局との接続でジャンルを問わず無限大に近い楽曲を選択できるようになっているが、この店では昔ながらのレーザー・ディスクなので、曲目は日本人が根強く愛唱する往年のヒット曲に限定される。佳織はメニューを閉じるとカウンターの脇に置いてグラスを口に運び始めた。高松の県内要人たちとの交換会では、共通の話題を作ってその延長で河岸を変えていたので会話が途切れることはなかった。何よりも佳織は美貌の女性地方連絡本部長として高齢の男性たちに気を遣ってもらっていたのだ。
ママさんとしても完全に場違いなこの古い馴染み客の取り扱いに困ってきた。この女性も夫と来店していた頃には誰が見ても熱愛夫婦で、理解できなくても聞いていて興味が湧くような硬軟派上下品・古今東西の話題で盛り上がっていた。あれほど魅力的だったこの妻も今では妙に高慢で冷淡な雰囲気を感じさせるようになっている。
「いらっしゃいませ」そこに2人の男性客が入ってきてママさんが声をかけた。それは顔だけは知っている馴染み客だった。2人はカウンターで決めている指定席に腰を下ろすと高松で磨きをかけた営業用スマイルを浮かべた佳織の顔を覗き込んだ。
「あれッ、坊主の弁護士の隊員さんの奥さんじゃあないですか」「はい、お久しぶりです」「坊さんは海外に転勤になったって聞いたけど奥さんは着いて行かなかったんだ」男性客の無神経な反応に佳織は作り笑顔を消すと顔を前に戻して周囲に城壁を作った。ママさんは男性客にお絞りを渡しながら横目でそれを確認した。
「やっぱりアメリカ勤務が長いとウチみたいな店ではかえって落ち着かないみたいね。ボトルのキープは無理しなくても良いのよ」ママさんは遠回しに佳織の来店を拒否した。やはり庶民の店の雰囲気に今の佳織は異質の高級ブランド品なのだ。
- 2020/06/30(火) 13:32:57|
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昭和5(1930)年の明日6月30日は周囲の顔色を伺うことしか知らぬ愛知県人とは思えない豪放磊落で粋な言動=逸話と軍功を残した矢代六郎大将の命日です。
愛知県出身の海軍大将と言えば第1次世界大戦後の海軍軍縮条約を巡って条約派と艦隊派が激しく対立する中で海軍大臣に就任すると両者の顔を立てて必要不可欠だった人材まで抹殺し、現在も批判され続けている大角岑生愚将と2人だけですが、矢代大将のおかげで愛知県の汚名は薄れるかも知れません(大角愚将がつけた汚名は簡単には注げない)。
矢代大将は安政7=万延元(1860)年に現在の犬山市で楠木正成さんの家臣の血筋と言う大庄屋・松山家の3男として生まれました。8歳で兄と共に許し難いことに尾張藩で結成された庶民の倒幕組織(譜代の浜松藩でも神職による同様の組織が結成されている)に参加し、薩長土肥の反乱軍側で戊辰戦争に従軍しました。従軍中に松山家の血筋を知った水戸・天狗党の生き残りで跡取りがないまま病気になった水戸藩士に頼まれた兄が弟を養子にしたため矢代に改姓し、病床の養父から尊皇攘夷の狂気を吹き込まれたようです。
戊辰戦争後は矢代の家督を継いだまま帰郷すると藩校が閉鎖されるまで修学し、さらに愛知1中の前身の愛知英語学校を卒業すると「若し合格できなければ侠客になる」と言い残して上京し、海軍兵学校8期生に合格したのです(当時は東京の築地にあった)。明治14(1881)年に卒業して少尉に任官してからは兵学校の分隊士として教育助手を務め、明治20(1887)年に当時は中尉がなかったため大尉に昇任すると9年にわたり海軍参謀部で勤務しました。この間に2度ウラジオストックに出張し、その経験で日清戦争後の明治28(1895)年から3年間、ロシア公使館の駐在武官として情報収集に当たりました。
帰国後は海軍大学校でアメリカのマハン少将の教えを受けてきた秋山真之少佐の戦術の講義を学び、装甲巡洋艦・浅間の艦長として日露戦争を迎えました。日本海海戦で浅間は後部に命中弾を受けて航行不能に陥りますが、乗員の懸命の処置によって修復すると第4戦隊参謀の見舞いに「前しか見ていなかったから何も知らない」と答えたそうです。
戦後はドイツ駐在武官を命じられ、第1次世界大戦に向かうヨーロッパで日英同盟として敵になるドイツで情報収集に当たりました。明治40(1907)年に少将に昇任して翌年に帰国してからは艦隊司令官を歴任し、明治44(1911)年に中将に昇任すると海軍大学校校長、大正2(1913)年に舞鶴鎮守府司令長官と退役準備のような配置に就きましたが大正3(1914)年に海軍の担当者たちが巡洋戦艦・金剛の発注を巡り、ドイツの造船会社から賄賂を受け取っていたシーメンス事件が発覚して山本権兵衛内閣が倒れ、斎藤実海軍大臣が矢代中将を後任に指名したのです。
矢代海軍大臣の対応は大角人事とは真逆で「海軍の体質改革」と言う明確な方針があり、日本海軍を作り上げた山本権兵衛大将を予備役にしただけでなく海軍の中核をなす山本派閥と目される将官たちの権限を縮小し、海軍の独善的な体質を政府の方針に従う機関に改革したことで国民の支持を取り戻したのです。海軍大臣退任後は大将に昇任し、佐世保鎮守府司令長官を最後に大正9(1920)年に予備役に入りました。
- 2020/06/29(月) 12:52:59|
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「モリヤさん、お久しぶり」陸上幕僚監部に転属し、以前と同じ官舎に入った佳織は夫と行っていた近所の居酒屋に顔を出してみた。するとママさんは少し困惑したような顔で出迎えた。
「旦那さんは外国に転属になったそうだけど入れ替わりに奥さんが帰ってきたのね」部外者とは言え官舎の住人を相手に水商売をしているママさんは自衛隊の人事の裏事情にも通じている。モリヤ妻は陸上自衛隊での女性の活躍を象徴する存在として将官にするべく失点のない経歴を重ねさせており、モリヤ夫の海外赴任が決まったのはA日新聞の取材で閣僚の靖国参拝を批判したことが問題視されたことだが、実際は妻に悪影響を与えないための隔離だったと聞いている。
「それにしても奥さんは随分帰ってなかったんじゃあないの。旦那さんからは2回くらい四国のお土産をもらったけど」「私は忙しくってあの人が来ても相手をしている時間がなかったのよ」佳織の口調が厳しくなり、ママさんはカウンターの奥の調理場からつけ出しの小鉢を持ってきて割り箸と一緒に前に置いた。伊丹のママさんも家庭=夫婦関係よりも仕事を優先している佳織の姿勢に批判的だったが、酒を提供する店の女主人は酔った男性の愚痴ばかりを聞くため男女同権と言う時代の流れが理解できていないのではないかと考えている。この飲み屋のママさんは家庭を守っているのかを訊けば痛烈な嫌味になるはずだ。佳織は取り敢えずビールを頼み、グラスを口にしてから悪意のある質問を投げかけた。
「ママさんは独身なの」「いいえ、家庭がありますよ。ただ子供が中学生の時に夫が亡くなったから進学費用を稼ぐためにこの店を始めたの」通常、水商売や風俗業界で働いている女性は仕事中とそれ以外の時間の自分を別人格としているので本当の私的事情を口にすることはないのだが、佳織は同性であり他に客がいないたため事実を語ったようだ。
「私には亡くなった母と親しかった伊丹のスナックのママさんがいるんだけど似たような事情だったわ。あちらは旦那さんが商売に失敗して借金を返すために店を始めたの。結局、旦那さんは借金に治療費を上乗せして病気で亡くなってしまったから大変な苦労をしたみたい」こうして別世界の女性たちの苦労を話題にしていると先ほどまで胸に抱いていた上から目線の嫌悪感が自責の念に代わってくる。特別職国家公務員・幹部自衛官である自分の職務遂行とママさんたちの商売の苦労に優劣はない。むしろ夫の職務を顧みることもなく、その赦しと支えに後押しされていたことも忘れていたことが女性として劣っているように思えてきた。
「あの人はよく来てたんですか」「旦那さんは休みの日には近所のお寺で修行してたから、法事で飲んだ帰りに寄るくらいね。頭を剃って作務衣だったから官舎のお客さんでも自衛官って思っていない人がいたわ」佳織は夫の休日の過ごし方を知らなかった。自衛官は副業が禁じられているので謝礼は受け取れない。寺にとっては無料で真面目に働く有り難い納所(雇われ坊主)だったはずだ。それにしても法事も勤めていたとなると本格的な坊主ではないか。
「それに弁護士だって判ると無料法律相談が始まっちゃって。ウチとしては助かったけど旦那さんは仕事の気分転換にならなくなって申し訳なかったわ」夫の素行を聞いて佳織は苦笑してしまった。佳織が前川原で出会った時には幹部候補生になっていたので羽目を外すのにも節度があったが、思い出話しで語る沖縄時代の行状はこれに近い。その相手は梢だった。
「あの人のボトルは・・・」「「転属する前に飲んでったから残ってないのよ。旦那さんと一緒に来てくれていた頃は灘の清酒だったけど今回は何にしますか」ママさんの確認に佳織はカウンターの正面に並んでいるボトルの銘柄を見回したが、日本酒に焼酎、国産のウィスキーなど庶民の酒ばかりで、高松での会合・宴席の帰りに企業の経営者や国の出先機関、県庁などの幹部職員に誘われて行った高級店とは格が違う。
「あの人は何をキープしてたんですか」「旦那さんは泡盛専門だったわね。インスリンを打つようになってからは最初の頃よりも飲むようになって・・・強いのよ。驚いちゃった」佳織は夫がインスリンを打つようになったことも知らなかった。夫は「糖尿病は食生活の乱れが原因」と決めつける日本の医療関係者や一般人の偏見が許せず、糖尿病と言う診断さえも拒否して食事制限と運動量で血糖値を維持していた。そんな夫が診断を受け入れてインスリンを摂取するようになった経緯も佳織は妻でありながら想像できなかった。
「それじゃあ酔うほどに飲むようになったの」「いいえ、兎に角、強いから酔った姿は見なかったわね」夫が酒豪なのは前川原の頃から知っている。同期の飲み会でも注がれた酒は全て飲み干しながら酔った様子は見せず、酔い潰れた同期を介抱する余裕があった。考えてみれば卒業祝賀会の帰路、送迎バスの中で酔いつぶれた佳織を背負って連れ帰ったのも夫だった。あの時、屋上でせがんでもらったのが初めてのキスだった。佳織の方が不倫のキスを奪ったのだ。
- 2020/06/29(月) 12:52:00|
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明治36(1903)年の明日6月29日は小学校の音楽の教科書に「日本を代表する作曲家」として紹介され、「花」「荒城の月」「箱根八里」の作品3曲を習った滝廉太郎さんの命日です。23歳でした(軍隊少年だった野僧は軍歌調の「箱根八里」が大好きで、通学しながら熱唱し、家や教室でも笛やオルガン、ピアノで演奏していました)。
滝さんは明治12(1879)年に廃藩置県後に内務官僚になっていた大分県の別府湾沿いの日出藩の家老職にあった上級武士の男8人兄弟の長男として東京で生まれました。日出藩の藩主・木下氏は木下藤吉郎の賢妻・於禰の長兄の家系で関ヶ原での武功によって3万石の所領を与えられ、2代藩主が弟に5000石を分け与えたため2万5千石になったものの幕末まで加増も減俸も移封もされずに存続した藩でした。
父は、さらに滝さんが就学年齢に達した頃に内務官僚から地方官になって関東以西の各地に家族帯同で赴任したため、滝さんは神奈川県の師範学校付属小学校に入学し、富山県の師範学校付属小学校に転校し、東京の尋常小学校を卒業すると今度は大分県の師範学校付属小学校高等科に入学したものの父の県内移動で竹田市の高等小学校に転校・卒業することになりました(彫刻家の朝倉文夫さんの先輩に当たる)。義務教育終了後は東京の尋常小学校時代から始めていたピアノ=音楽家の道を歩み始め、明治27(1894)年に東京音楽学校に入学し、研究科に進んだ頃からは作曲にも励むようになりました。
当時の音楽教育では洋式の5線譜による楽曲がなかったため子供たちに讃美歌や海外の民謡を日本語の歌詞で唄わせていて、その替え歌のような教材を問題視した現場から日本の歌詞から作曲した純正の楽曲を求める声が上がっていたのです。滝さんはその声に応え中学校の唱歌として前述の「荒城の月」と「箱根八里」など、幼稚園の唱歌=童謡として「桃太郎(桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけたキビ団子、1つ私に下さいな)」「雪やこんこん(雪やこんこん 霰やこんこん 降って降ってはずんずん積もる)」「お正月(もういくつ寝ると お正月)」「鳩ぽっぽ(ぽっぽっぽ鳩ぽっぽ 豆が欲しいかそらやるぞ)」などを作曲し、また組歌「四季」の中の1曲として前述の「花」を発表しました。なお、「桃太郎」は作詞も滝さんです。一方、「荒城の月」は仙台城下の商家の出身だった土井晩翠さんが戊辰戦争で荒廃した奥羽越列藩同盟の城をイメージして作詞したにも関わらず滝さんは小学校高等科時代を過ごした大分県竹田市の明治6(1873)年の廃城令で取り壊された岡城の記憶で作曲したため悲壮感が全く足りません。それを選んだ文部官僚が薩長土肥の人間だったのでしょう。
こうして日本国内での評価が定まった明治34(1901)年から音楽家としては3人目の留学生としてドイツに渡航しましたが5カ月後に肺結核を発病して帰国することになり、大分市の父の生家で療養していましたがそこで亡くなりました。
没後、感染を恐れた周囲が楽譜などの所持品を焼却して作品の大半は失われてしまったため偉大性を強調する人たちは過大推定していますが、確認されている作曲作品は34曲に過ぎず(大半は唱歌)、「日本を代表する作曲家」と呼ぶには実績不足でしょう。
- 2020/06/28(日) 12:30:03|
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翌日は主人の車でバートラガーズから近いマイエンフェルトを案内してもらった。この軍用仕様のOD色の4WDも購入に際して戦時に供出することを前提に補助金が出たそうだ。
「何だか日本人ばかりだな」マイエンフェルトの街に入るとハイジに出てきたような古民家や石畳の道で写真を撮っているのは「アルプスの少女ハイジ」を見て育った世代の日本人の女性たちばかりだった。隣りの席で梢も驚いたような顔をしている。
「日本の『ハイジ』でバートラガーズはクララやゼ―ゼマン家の祖母が湯治した場所として紹介されたから、今でもホテルの宿泊客の半分は日本人なんです」そう言われてもう一度窓の外を見ると確かにアニメの中でオンジやハイジが歩いていた風景のようだ。それにしてもヨハンナ・シュペリが「アルプスの少女」を発表したのは1880年だから日本で言えば明治初期だ。日本では明治の文明開化や第2次世界大戦の空襲、敗戦後の高度経済成長で文化財に指定されていない古い街並みの大半は失われてしまったがスイスでは国全体が明治村になっている。
「日本の『ハイジ』は1977年にドイツで放送されたので私も見ました。翌年にはイタリアでも放送されて、それから何度も再放送されましたからスイス人の過半数は見ていると思います」「スイスでは放送されなかったのかね」私の単刀直入な質問に主人はルーム・ミラーで私の目に知的好奇心しかないのを確認してから口を開いた。
「実はスイスの文化人の間では『日本のアニメはシュピリの原作を変質させている』と言う批判があるんです。スイスで作られた映画やドラマのハイジは怯えた目で祖父を見ますが、アニメでは信じ切ったように真っすぐ見ている。私はそこに好感を持ちましたが、変質と言われればそうかも知れません」「私たちも原作の小説を読んでいるが、祖父の過去、特にイタリアの傭兵だった軍歴や大工の事故でハイジの父親を死なせた過去などは描かれていない。それに地元のキリスト教会に異端者にされて住民からも敵視されていたことも原作では重要な要素なのに子供向けのアニメでは全く触れていない」私たちの物語への理解が一般の日本人観光客よりも深いことを知って主人は感心したようにうなずいた。
「おまけに原作には登場しないサン・ベルナール犬がアニメでは重要な役柄を演じていることで、日本人にはスイス・イコール・サン・ベルナール犬と言う固定観念があるのではないかと批判する文化人もいました」「だけどセント・バーナードはスイス人にとって嫌悪する対象ではないはずです」今度は梢が反論した。それにしてもサン・ベルナールと言う犬種が救助犬として飼育していた修道院の名前のドイツ語読みで、英語読みならセント・バーナードになると理解した語学力は流石だ。私には判らなかった。
「結局、スイスでは今でもアニメやコミックは低く見られていますから文化人たちはアニメが感動を呼んで子供たちが見るようになることを危惧しているんでしょう」主人の見解は日本にも当てはまる。日本でも自分たちの知性と教養、要するに学歴をひけらかして庶民文化を否定する文化人と称する連中が少なくないが、スイスでも幅を効かせていると言うことだ。
「着きました。この坂道を登っていけばアルムの山小屋です」主人はマイエンフェルトの中心部を抜けて曲がりくねった山道を通り抜けたところで車を止めた。タクシーが数台待っているところを見ると日本人の観光客も来ているらしい。
アルムの山小屋の外観と構造はアニメに描かれていた通りだったが少し小さく、今では食堂になっていた。小屋の角にスイスの国旗が掲揚されているので立ち止まって敬礼をしてから中に入った。それを見て主人もサングラスを外して額に手を掲げ、梢は会釈した。
店内で軽食を食べていた日本人の観光客たちは迷彩服の私とGパンにトレーナーの普段着で入ってきた梢を見て顔を見合わせた。彼女たちは海外旅行用のお洒落着で、ここまで登ってくるのが大変だったことが判る踵が高い靴を履いている。同じ日本人でも遠路はるばるの観光客と往復とも列車旅行の私たちでは気分が違うのは仕方ない。
アニメの映像を思い出しながら店内を見回していると私の迷彩服に声をかけるのを躊躇していた店員が近づいてきたので主人が手で制して外に連れ出した。どうやら観光客たちも家の中を見学していて声をかけられ、逃げられなかったようだ。
「クライム エヴリィ マウンテン、サーチ ハイ アンド ロウ、フォロウ、エヴリィ バイウェイ、エヴリィ パス ユー ノウ・・・」アニメそのままの草原を見下ろし、遠くの岩山を仰いでいると今回は梢が唄い始めた。それにしても出てくるのはオーストリアが舞台の「サウンド・オブ・ミュージック」の挿入歌ばかりだ(アメリカの映画だが)。やはりアメリカ民謡の「オー マイ ダーリン クレメンタイン=雪山讃歌」はロッキー山脈でなければ似合わないのだろうか。尤も「雪山讃歌」の原曲はゴールド・ラッシュの金鉱師の愛唱歌で登山とは関係ない。
- 2020/06/28(日) 12:28:53|
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1994年の6月27日深夜から28日未明に長野県松本市で軍事常識では化学兵器に属するサリンが噴霧され、8名(1名は14年後)が死亡する事件が発生しました。
野僧は事件当時、浜松基地の警備小隊長だったので生物・化学兵器についても在日アメリカ軍や陸上自衛隊化学学校から資料を取り寄せて研究しており、テレビや新聞が「松本市で悪臭騒ぎ」と報じながら被害者が出た地域=範囲と人数、症状だけを紹介している段階から「神経ガス剤の噴霧による大量殺人」と推定し、北朝鮮の核開発疑惑を巡り極東情勢の緊張が高まっていることと考え合わせて北朝鮮工作員によるテロを前提に部内外の関係者と協議を始めたのです。すると間もなく公安警察の友人に呼び出されて厳格に口止めされた上で「オウム真理教が山梨県内の教団施設で自主開発した化学兵器によるテロの可能性が高い」と情報を漏洩してくれましたが、その一方で「現在は社民党の村山政権であり、元警察官僚の亀井静香が政権を取り仕切っている以上、マスコミの批判が強い宗教団体の捜査は慎重に進めなければならない」とつけ加えました。実際、この事件では公安警察と長野県警の捜査担当者の情報共有は行われていなかったようです。
このテロ事件はオウム真理教が松本市内に食品工場と修業道場を併設した教団施設を建設しようとした際、「食品工場」とだけ説明を受けていた地主が「目的を隠蔽して貸借契約を結んだ」とする契約の無効を求める民事訴訟を起こし、1度は却下されたもののオウム真理教の反社会性を加えた訴状を長野地方裁判所が受理したため食品工場が建設できなかったことを教祖の松本智津夫が弟子たちの前で非難したため始まりました。実はこの事件の前年にオウム真理教はサリンの精製に成功しており、1993年には創価学会の池田大作会長の暗殺を2回実行したものの失敗し、野僧と同郷で愛知学院大学卒の幹部が重体に陥っていました。この日の午後、山梨県上九一色村の教団施設で3度目の暗殺用に精製したサリンを4tトラックのアルミ製の荷室内に噴射装置を設置した噴霧車に充填して護衛のワゴン車と共に目標とした長野司法裁判所松本支部に向かって出発したのです。ところがサリンの充填に手間取って出発が遅れ、監視カメラを避けて一般道を走行したことで到着予定時間が大幅に遅れたため目標を裁判官官舎に変更し、22時頃に到着すると50分かけて噴霧を実施しました。この結果、裁判官官舎ではなく風下になった生命保険会社の寮と一般のマンションや民家に被害が及び7名が23日中に死亡し、約600名が重軽度の傷害を負いました(ただし、裁判の迅速化のため因果関係が明確な重傷者144名に絞られた)。
さらにこの事件では第1通報者で妻も14年間意識を取り戻すことなく亡くなった会社員が自宅に薬品類を所持していたことから犯人の疑いをかけられ、警察の捜査を無視する形でマスコミが暴走し、薬品がサリンであることが判明してからも「サリンはバケツで薬品を混ぜれば簡単に作ることができる」などとお手軽な専門家に解説させる報道番組が続出しました。結局、このマスコミの誤報による冤罪は1995年3月20日の地下鉄サリン事件がオウム真理教の犯行と確定するまで晴れることはありませんでした。過剰で執拗なオウム報道はマスコミが誤報を謝罪・訂正する代わりの自己弁護だったようです。
- 2020/06/27(土) 13:23:18|
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最終の宿はバートラガーツの温泉の民宿だった。バートラガーツの温泉はオーストリアとの国境に近いブフェファース修道院が管理するタミナ渓谷から湧き、巡礼者たちが旅の疲れを癒したことで評判になり、名湯としてヨーロッパ中に広まった。今では日本各地の温泉地のように湯源からの配管で地域内に供給されているため民家の民宿でも満喫することができる。
「考えてみればお前は温泉に入るのも初めてだろう]「うん、沖縄には温泉なんてないもの」夫婦と言うことで一緒に入浴することを許された私たちはヨーロッパでは珍しい湯船につかりながらのどかな会話を楽しんだ。ホテルの浴室では水着を着けなければならないが、ここでは裸で良い。おかげで普段から一緒にシャワーを浴びている私たちの生活の形を再現できた。
「あかりたちは船岡に行った時、茶山さんに近くの温泉に連れてもらったんだって」「山も蔵王山に登ったんだろう。同じ初体験をお前はスイスでやっちゃったんだな」「うん、勝っちゃったのかな」山形県人の血統を誇りとしている私としては蔵王山と月山、鳥海山は別格の山なのだが一般的にはアルプスと日本の山では知名度や海抜、難易度や距離感は比較にならない。ただし、ヨーロッパ在住の私たちは列車できたので交通費はそれほどかかっていない。
「湯船に浸かるのなんて久しぶり」「ワシも東京では1人暮らしだったからシャワーだったよ」あの頃の梢のアパートは沖縄式だったのでシャワーしかなかったが、首里のマンションの浴室には湯船がある。おそらく恵祥が生まれてから風呂に入れたのだろう。
「モリヤさんは日本陸軍の軍人なんですか」夕食は家族との会食だった。私たちと同年代の主人は入浴後も迷彩服を着ている私にドイツ・ビールのジョッキを手渡しながら質問してきた。海外では相手のグラスにビールを注ぐ習慣はあまりないのだ。ここでは私と主人がビールのジョッキ、梢と夫人がワインのグラスで乾杯をした。
「スイスは国民皆兵だから貴方も軍人なんでしょう」「はい、歩兵大尉の山岳中隊長です」「つまりエーデルワイスですね」軽くビールを口にすると早々に軍隊談議が始まった。私もスイス陸軍の山岳歩兵の徽章が丸い台座にエーデルワイスの花を刺繍したデザインなのを知っていた。
「私も普通科(歩兵)の中隊長でしたが、現在は法務幹部で警務官(憲兵)の2佐です」「だから国際刑事裁判所に派遣されているのですね」やはり軍人同士は業界の話題が通じる。私が嬉しくなってジョッキを掲げると、主人は姿勢を正して乾杯に応じた。
「スイスでは武器を自宅で保管しているんじゃあないですか」「はい、最近は盗難や紛失が頻発しているため地域によっては村役場や公民館、郵便局などで一括保管するようになっていますが、私は士官なので拳銃と小銃を自宅で保管しています」こうなれば見せてもらわない訳にはいかない。主人もそれを察して席を立つと寝室に取りに行った。
「これがSG550小銃、こちらはP220拳銃です」主人が両手に持って戻ってきた拳銃を見て私は唖然としてしまった。それは自衛隊も採用しているP220で、小銃も89式小銃に酷似している。考えてみればP220のSIG社はスイスの銃器メーカーなのだ。
「我が陸上自衛隊でもザビエル社のP220拳銃を使用しています」私としては現場で定着しているP220の悪評を口にすることはできないので次の話題を補足した。
「それから陸上自衛隊ではL90と呼んでいたエリコン社の35ミリ対空機関砲も導入していましたよ。1969年に採用して2009年に最終射撃を実施するまで40年間も日本の空を守ってくれました」「そんなに長く愛用してくれたとはスイス人として感激です。それも日本の軍人の整備能力が高いからなんでしょう」「はい、装備品が長持ちし過ぎてアメリカ軍からは実際に展示品を使っている博物館と呼ばれています」私が紹介した実話を夫婦はジョークと思ったようで顔を見合わせて声を上げて笑った。
「こちらのSG550は陸上自衛隊の89式小銃よりも長くて重いですね。やはり銃身長が長いのでしょう」「はい、銃身長は518ミリです。スイス軍は山岳地帯での狙撃戦を重視しているので命中精度が採用の絶対条件なんです」「89式の銃身長は420ミリです。軽量化を優先しましたから」軍人の会話では相互の情報を交換するのが作法なので、相手が漏らした内容には応えなければならない。それにしてもSG550は外見こそ酷似していても持たせてもらうと全長は1メートルあり、重量も4キロ程度と64式小銃並みだった。
「安全装置の形状はロシアのAK74に近いですね」「やはり本職の軍人は違いますね。確かに外観はアメリカやヨーロッパの小銃を参考にしましたが内部構造はロシアのAK47方式を採用しています」イスラエル軍のガリル小銃もAK74を模倣している。軍用小銃の信頼性ではソ連軍はアメリカを凌駕しているようだ。この軍事談議でアンリ・ギザン将軍の墓参をしていないことを思い出したが、ここは西の端なのでフランス語地区とは逆方向だ。
- 2020/06/27(土) 13:22:13|
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朝鮮戦争が始まって2日後の1950年6月27日に京城(ソウル)から逃亡する李承晩大統領の命令によって韓国軍と官憲による韓国民の大虐殺・保導連盟事件が始まりました。
日本統治下の朝鮮半島内での独立運動=民族闘争は極めて低調だったもののソ連が送り込んだ工作員による共産革命の火種は全土に蔓延していて、日本の敗戦と同時に火の手を上げてアメリカによる占領を拒否して金日成を盟主とする統一国家を樹立するはずでした。ところが朝鮮総督府は日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国に伝達する前にアメリカでのキリスト教系独立運動活動家に行政権を移譲したため敗戦と同時に半島の南半分に李承晩を首班とする大韓民国が成立してアメリカ軍を中心とする連合軍が進駐したのです。徹底した反共産主義者だった李承晩大統領は自国内に革命分子が存在していることを察知すると1948年12月1日に国家保安法を成立させて摘発と弾圧を始め、その一方で要監視者を教育によって懐柔するため1946年6月5日に組織したのが保導連盟でした。
保導連盟では「大韓民国絶対支持」「北傀儡政権絶対反対」「共産主義排撃粉砕」「南北労働党暴露粉砕」を綱領に掲げる逆洗脳教育を強制した一方で転向を拒否した者の家族には「登録すれば共産主義者としての処罰から逃れることができる」と勧誘するなど曖昧な点も多く、「食料の配給を受け易くなる」などの理由で形式的に登録する非転向者もあり、当初から実効性には疑問が持たれていました。
そんな中、共産主義による民族統一国家の樹立を旗印に掲げた北朝鮮が南北の境界線だった38度線(当時は緯度の通りの直線だった)を突破して侵攻を始めたため李承晩大統領は「思想傾向がハッキリしない保導連盟は敵を誘導し、味方を攻撃する危険性が高い」と断定して保導同盟の登録者と南朝鮮労働党員を抹殺するように命令して京城を脱出したのです。これを受けて韓国内では該当者の一斉拘束が始まり、韓国中央にある大田刑務所に集められた拘束者が多数処刑されたほか、非戦闘地域を含む全土の刑務所で処刑が行われました。その他にも地域単位で該当者が集められ、掘った穴に入れて韓国軍の兵士や警察官が射殺した事例も極めて多く、済州島では識別不能になった全島民の抹殺を意図した大量殺戮が繰り広げられました。さらに侵攻してきた北朝鮮軍にとっても保導連盟は朝鮮労働党を裏切った反逆者であり、占領地域で同様の大量処分を行ったようです。
この事件は韓国史の恥部として軍人政権だけでなく文民政権になってからも隠蔽され続けたため生存者・目撃者の高齢化によって遠からず記憶からも忘却されるはずだったですが、自国と日本を断罪することを存在意義にしていた盧武鉉政権が本格的な調査に着手し、公式な処刑記録は焼却されていたものの証言を集めて人数を推定する一方で「射殺が行われ、埋設された」とされる場所を発掘して多数の遺骸を発見するなど信じ難い国家による大量殺害事件が事実だったことが証明されたのです。
ただし、あくまでも韓国がやることなので被害者数は公式に確認されている4934人だけでなく遺骸を海に遺棄された者や未発見の者を大幅に上乗せして、盧政権の推定11万人から被害者団体が主張する120万人にまで膨らんでいます。
- 2020/06/26(金) 13:11:41|
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昨日は時間が中途半端になった上、ツェルマットは歩いて10分で回れるほど小さな町なので、ホテルに荷物を預けると日没が9時前なのを確認してから出かけることにした。町の東側の山際の駅から地下を走るケーブル・カーのスネガ・エクスプレスでスネガへ登り、そこからロープウェイに乗り継いでプラウヘルトへ行った。昔はスネガまでスキー場にあるようなチェアー・リフトだったそうだが、山の天候の急変や高所恐怖症の観光客に配慮して建設したらしい。
プラウヘルト駅からはハイキング・コースに従っての軽登山気分を満喫しながら絶景の湖に映る「逆さマッターホルン」を眺めた。正直言って本栖湖の「逆さ富士」よりもはるかに神秘的だったが、そう感じるのも愛国心の欠如なのだろうか。
さらにスイスの最高峰4634メートルの夏場は巨大な岩の塊りであるモンテ・ローザを間近から眺めたが、それにしても梢は登山初経験の癖にいきなり海抜2580メートルでロスト・バージンさせてしまった。2580メートルと言えば長野と群馬の県境の暴れ火山・浅間山よりも12メートル高い。それにしても高山病にならなかったのは幸いだった。
「私、日本の山を飛び越してアルプスに登ちゃったけど、神さまに怒られないかな」今日はシェルマット駅からシェヴァルツゼーへのロープウェイにしたが、グン・ブランシュの白い牙のような絶壁が迫ってくると梢は少し怯えたように訊いてきた。
「連れてきたのが坊主だから佛さんが護ってくれるよ。今日だって天気は最高じゃあないか」ロープウェイの窓からはマッターホルンの巨大な岩塊の向こうに藍色に近い快晴の空が広がっているのが見える。昨夜泊ったのは日本で言えば旅籠のような古びたホテルで、番頭に当たる副支配人が色々なアドバイスをしてくれた。マッターホルンに行くのも最近は定番になっている8人乗りの高速ケーブル「マッターホルン・エクスプレス」や一般的なゴールナーグラードへの登山列車よりもロープウェイでシェヴァルツゼーに行った方がマッターホルンの偉大さを実感できると強く勧めたのだ。シェルマットでは日本の歓楽街のようにホテルの前で番頭が客引きをしていたが、梢がオランダから予約を入れたこのホテルは正解だった。ただし、番頭が登る前に見るように命じた有料のマッターホルン博物館では1865年7月15日にイギリス人のエドワード・ウィンパーと一緒に初登頂に成功した7人のうち下山中に滑落して死亡した4人の遺品が展示されていたため厳粛に勤経してきた。
「凄いなァ、誰かが意志を持って創ったとしか思えないわ」シェヴァルツゼー駅で下りると今度もハイキング・コースに従って歩き、地名の由来になっている黒い湖(水が濁っているのではなく深さで光が届かない)を見た。続いて高台に上がると目の前にまさしく「偉大な」マッターホルンが直立していた。梢は圧倒されたように黙っていたが、我に返って感激を口にした。日本の登山愛好者の間では穂高連峰の槍ヶ岳を「日本のマッターホルン」と呼んでいるらしいが規模が違い過ぎる。むしろこの形状からマッターホルンを「スイスの槍ヶ岳」「アルプスの剱岳」と呼んだ方が適切なような気がする。番頭の説明では「マッタ―」は牧草地、「ホルン」は山頂を意味するドイツ語と言うことだ。
「ねェ、この山で死んだ人たちの鎮魂に『いつかある日』を唄おうよ。私も一緒に唄うから」梢の言葉に私もうなずいた。この歌はフランスの登山家で1951年6月29日にヒマラヤのナンダ・ヂビィで遭難死したロジェ・デュブラの遺書を元に作られた登山家の愛唱歌で、私は修学旅行前の数学の授業で夏休みにヒマラヤへ行くような登山家の教師から習った。
「いつかある日、山で死んだら 古い山の友よ、伝えてくれ 母親には安らかだったと 男らしく死んだと父親には 伝えてくれ愛しい妻に 俺が還らなくとも生きて行けと・・・」この歌は私たちの間では「自衛官の覚悟」を示す遺歌になっていたが、梢も心に歌碑を刻んでいたようだ。唄い終ると山頂からの冷たい風が草原を吹き抜け、葉が拍手のような音を立てた。
「これはエーデルワイスじゃないの」冷たい風にうつむいた梢は近くの岩の陰に群れのように咲いている白い花を見つけて歩み寄った。エーデルワイスは映画「サウンド・オブ・ミュージック」で見ただけだが、華麗で愛らしく白く清らかな姿は鮮明に焼きついている。
「摘んでも枯らしてしまうだけだから・・・」梢は草に膝をついて顔を近づけると匂いを嗅ぎながら呟いた。おそらくあかりにも花の香りを伝えたいと思ったのだろう。
「エーデルワイス エーデルワイス エブリィ モーニング ユー グリート ミー スモール アンド ホワイト クリーン アンド ブライト ユー ルック ハッピー トゥ ミート ミー・・・」この歌も最後の歌詞「ブレス マイ ホームランド フォーエバー(我が祖国を永遠に守ってくれ)」が好きで愛唱歌にしていたが、梢とエーデルワイスの対面が実現するとは思っていなかった。立ち上がった梢を抱き締めると涙がこぼれてきた。

ツェルマットからのマッターホルン
- 2020/06/26(金) 13:10:19|
- 夜の連続小説8
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今日はいよいよアルプス観光の目玉・ツェルマット村だ。昨晩、泊まったコー村の民宿からも上高地の穂高連峰の想わせるダン・デュ・ミディの雄大で衝立のような姿が見えるのだが、海抜3257メートルでは高さも穂高連峰の3190メートルと大差はない。
「先ずは昼食ね」ローザンヌからツェルマットまでは列車で4時間弱かかる。コー村では民家の民宿だったので家族と一緒に早めの朝食をとって駅まで送ってもらって列車に乗ったが、麓のテイッシュ駅でアプト式鉄道に乗り換えてツェルマットに着いた頃には午後になっていた。
「冬物が活躍するぞ」ツェンマットは駅前でも海抜1600メートルなので夏場の日中でも気温は15度を切ることがある。それでも民宿を出る時、梢のコートは鞄の一番上に入れてきたから座席でも簡単に取り出せた。勿論、私は迷彩の作業外衣だ。
「ここだけは民宿が取れなかったんだよな」「大半の町民の仕事はホテルやレストランの従業員だから町の主要産業を阻害することはできないんだって」そんな確認をしながらホームに下りるとやはり空気は冷たい。過酷な環境なので駅全体が建物の中にあるのだが、それでも線路から冷気が吹き込んでくる。梢はコートのポケットに入れていた手袋をはめた。そんな様子を見ながら息を吐いてみたが流石に白くはならなかった。
「あれッ、オランダ語の『Welkom=ウェルカム』の隣りに『ようこそ』って書いてあるよ」多くの観光客についてホームを歩いて行くと梢が壁に書き連ねている文字に気を留めた。言われて横を向くと世界各国の歓迎の言葉が並んでいる中に平仮名で「ようこそ」と書いてある。オランダ語と並べているところが私たちのためのようで梢と笑顔を交わした。
「それにしても静かな町だな」「うん、こんなに車が走っていてもエンジン音がしないね」駅前にはマイクロバスやワゴン車が何台も駐車していて運転手が客引きをしているが、走り出してもエンジン音がしない。どうやら電気自動車らしい。
「馬車もあるさァ」唐突に梢が歓声を上げた。タクシーとは少し離れた路上に馬車が停まっている。こちらの御者(ぎょしゃ)は客引きこそしていないが、馬に近寄る観光客に愛想笑いを振り撒いているのは同じだ。それにしても御者もタクシーの運転手と同じ服装なのは不似合いではないか。やはり御者は中世風の衣装でなければ雰囲気が出ない。
「そう言えば竹富島にも観光案内の水牛の車があったよね」「ワシらは乗らなかったけどな」私たちはレンタ・サイクル専門だったので観光ツアーの水牛車には乗らなかったが、並走しながら御者の小父さんが三線を弾いて「安里屋ユンタ」の原曲を披露するのを聴いていた。
「ここではヨーデルを聞かせてくるのかな」「ヨーデルって『山の人気者』に出てくる叫び声だろう」「それを言うなら『ハイジ』でしょう」私の高校では上高地への修学旅行の前に大学時代は山岳部だった教師たちが自分の科目の授業中に山の歌を教え始め、その中に昭和8年の中野忠晴の「山の人気者」も入っていた。
「『山の人気者』ってどんな歌なの。聞いたことないよ」「本場で下手なヨーデルを唄うのは流石に恥ずかしいな。それでもご要望とあれば実施します」ここで隊歌演習の姿勢になるのは単なる個癖だ。歩道を歩いている通行人たちは物珍しそうに眺めていく。タクシーの運転手たちは腕組みをしてこちらを見ているが、アジアの軍人が始めることに注目しているだけだろう。
「山の人気者 それはミルク屋 朝から夜まで唄を振り撒く・・・娘と言う娘はユーレイティー ふらふらとユーレイティー ミルク売りを慕うユーレイティー ユーレイユーレイティー・・・」私の下手なヨーデルに梢は大喜びで拍手したが、周囲の人たちは口々に何かを言っている。しかし、地域から見てイタリア語のようで理解できなかった。
「君のヨーデルは発声法が違うよ」すると地元の人らしい高齢の男性に英語で声をかけられた。
私たちはこれから昼食に行くのだが、こうなると知的好奇心を発揮するしかない。
「ヨーデルは仮声帯を使う裏声と肺で出す胸声を織り交ぜて唄うんだ。本来は牧童が谷を挟んだ相手と意思疎通するための連絡手段だったんだよ。仮声帯を使うと羊を追って喉が潰れてしまっても高い声がでるからなんだ。君は軍人だから声量はあるようだ。発声法を覚えればすぐに上達するだろう」男性は説明しながら自分の首の喉仏の上を指で差し、仮声帯の位置を教えてくれた。確かに私の声量は自衛隊の号令調整と坊主の勤経の両方で鍛えているので発声方法を覚えれば上達しそうだが、位置だけでは声を出す方法が判らない。
「ツェルマットの人間なら誰でも唄えるはずだからガイドにでも聴かせてもらってマスターして帰ってくれ」それだけを言うと男性は梢に笑顔を向けて立ち去った。私がヨーデルをマスターしても使う機会は「山の人気者」とハイジの主題歌2曲を唄う時くらいだが、淳之介とあかりにマスターさせれば波止場と船で対話できるかも知れない。これもスイス土産にしよう。
- 2020/06/25(木) 13:17:05|
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昭和28(1953)年6月25日から29日にかけて九州では集中的な豪雨が続き(この時点では「集中豪雨」と言う気象用語はなかった)、大規模な水害が続発したため第5次吉田茂内閣は昭和27(1952)年10月15日に警察予備隊から改編した保安隊に災害派遣を発令しました。
九州や四国、中国地方の大型台風ではない集中豪雨による大規模災害と言えば最近でも2009年7月や2012年7月に発生していますが、平成の集中豪雨ではダムや堤防などが整備されていたにも関わらず許容量を超えた主要な河川の氾濫が続発したのに対して、この時は山間部の中小の河川の水害で道路網が寸断された被害が深刻でした。
この年の6月の気象状況は上旬には活発な梅雨前線が九州北部に大雨を降らせたものの間もなく南下し、奄美大島と屋久島の間を上下する動きを続けていましたが、中旬になってフィリピン付近に優勢な太平洋高気圧が張り出したため梅雨前線が押し上げられ、対馬海峡付近にまで達しながらも、中国から別の大陸性高気圧が張り出したため再び熊本付近に退き、太平洋と東シナ海からの湿った空気が補充されて巨大な雨雲が九州一体から紀伊半島、静岡まで伸びて停滞していたのです。そのため紀伊半島でもこの梅雨前線によって7月中旬まで豪雨が続き、死者・行方不明1046人の戦後最大の豪雨被害を出した南紀豪雨=紀州大水害を発生させています。
九州では6月25日の降り始めから阿蘇山麓、英彦山麓、背振山麓などの九州北部の山間部で集中的な豪雨を記録し、その大量の水が筑後川、遠賀川、那珂川、大分川などの主要な河川の上流の中小河川に流れ込みました。その結果、熊本県、大分県、佐賀県の山間部で泥水流による被害が続発し、道路網が寸断したため復旧のための人員・器材を運び込めず食料などが供給できなくなり、最終的な被害としては死者数が多い順に熊本県=339人、福岡県=259人、佐賀県=59人、大分県=55人、山口県=25人、長崎県=21人、鹿児島県=1人の合計759人、全壊家屋が同じく福岡県=1321軒、熊本県=1009軒、大分県=333軒、長崎県=320軒、佐賀県=319軒、鹿児島県=10軒でしたが、福岡市、熊本市、大分市などの県庁所在地や小倉市(現在の北九州市)、門司市(同前)、久留米市などの主要都市でも洪水が発生する深刻な事態になりました。
これを受けて吉田内閣は大野伴睦国務大臣を本部長とする西日本水害総合水害対策本部を福岡県庁内に設置し、緒方竹虎副総理以下、建設大臣、厚生大臣、農林大臣も派遣して現地で対応に当たらせ、合わせて九州各地の保安隊に災害派遣を発令して食糧運搬や道路網の応急復旧などを実施させました。政府の被災者に対する意識調査では保安隊の災害派遣を65.1パーセントが「有り難かった」「役に立った」と肯定的に回答しています。
この結果、政府は戦前の破損部の修復・補強を中心とする治水工事の抜本的な見直しを迫られ、平成になってマスコミが「自民党長期政権の利権の温床」と批判し、民主党政権が事業仕分けで滅多切りにしたダムや堤防、流量調整のための放水路などの大規模公共事業が営々と実施されることになったのです。
- 2020/06/24(水) 14:00:17|
- 自衛隊史
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2日目はレマン湖沿いにローザンヌからジュネーブ、シヨン古城への列車旅行だ。レマン湖は琵琶湖よりもやや小さい三日月形の湖でローザンヌが中央部北岸、ジュネーブはそこから60キロのフランスとイタリアの国境が迫る西岸、シヨン古城は逆方向に30キロの東岸にある。今夜の宿泊は東岸のコー村なのでレマン湖周遊だ。クライスト中佐夫妻はチューリッヒ湖の遊覧船観光を勧めていたが、レマン湖の方が大きいので楽しみは今日に延ばした。
最初に国産連盟本部だったパレ・デ・ナシオンに行った。全面ガラス張りの高層ビルの国際連合本部とは違い広大な敷地に建つ宮殿のような風格があるこの建物は現在、国際連合でも旧ソ連や中国に牛耳られてアメリカと対立している人権高等弁務官事務所や世界保健機関、国際労働機関や国際教育局(ユニセフの下部組織)などのジュネーブ事務局になっている。
「ここが5000円札の新渡戸稲造さんが活躍した国際連盟本部だったんだよね」一般人も見学できる建物のロビーに入って唐突に梢が妙な思い出話を口にした。大理石の板を敷いた床に新渡戸の足跡が残っていたのだろうか。
「よく憶えてるな。国際連盟創設期の事務次長だったんだ」昭和59年にお札が孝明天皇暗殺犯の岩倉具視と元テロリストの伊藤俊輔、厩戸皇子が2種類から明治の文化人3人に全面変更になった時、梢が知らなかった新渡戸稲造について説明したことがある。
「高校生の時、お祖父さんから新渡戸が書いた『武士道』を読めって言われたんだよね」「うん、それで『自分の落ち度は自分で裁く』って言う日本の武士の倫理観を学んだんだ」「『罪』じゃあなくて『落ち度』って言うところが武士らしいし、貴方もそれを受け継いでるよ」梢は敬意を込めて評価してくれたが、逆にそれは「法律に違反していなければ責任を問われない」と言う法曹界の常識に染まり切れない原因にもなっている。
「新渡戸は国際連盟の規約に『人種差別撤廃』を盛り込むように尽力して過半数の賛同を得たんだが議長のアメリカ大統領の一存で却下されたんだ。それからエスペラントを国際連盟の作業言語にしようとしたんだが、フランスに反対されたんだってさ」「ふーん、そんなに偉い人だったのに本土でもあまり知られていなかったんでしょう」この知識は防府に転属して有り余る時間を使っての自主学習で仕入れたので梢には話していない。そこであまり気が進まない防府時代の経験を補足することにした。
「防府に転属してからの演習で三沢に行った時、盛岡の新渡戸の生家跡の銅像を見て来たよ。敷地しかなかったけど立派な武家屋敷だったみたいだな」「武家屋敷かァ。ヨーロッパの騎士の屋敷とは違うんでしょう」「ヨーロッパの騎士は領地で農園を経営していることが多いから屋敷も大きな邸宅だけど、日本の武士は俸禄で雇われているだけだからそこまでいかないな」話が反れたが疑問には可能な限り答えるのが私たちの作法だ。私の説明に梢は納得した。
「ジュネーブ条約って貴方が裁判で使っている武力紛争関係法のことよね」「の中心的国際法なのは間違いないが、それだけじゃあないぞ」この質問には国際刑事裁判所の次席検察官である私としては大学の講義並みの解説をしなければならない。とは言え梢には日常生活の中で専門知識を聞かせているのであらためて話すような題材はない。
「ジュネーブ条約は1864年に制定された赤十字条約が始まりだから、1868年の戊辰戦争の時点では存在していたんだな。あの戦争で薩長土肥が関東から東北で犯した非人道的な行為を欧米が批判したのもそれが根拠だったんだ。その後も大きな戦争を経験するたびに改訂されて、現在は第2次世界大戦後の1949年8月12日に制定された『戦地にある傷者及び病者の状態の改善に関する』第1条約と『海上にある軍隊の傷者、病者及び遭難者の状態の改善に関する』第2条約、『捕虜の待遇に関する』第3条約、それに『戦時における文民の保護に関する』第4条約の4つがあるんだ。これに1977年に2つ、2005年に1つの追加議定書が制定されているが、この議定書は軍隊の正当な戦闘行為を阻害する内容が多くて批准はあまり進んでいないよ。『文化財を保護するため砲弾などで損害を受けることが予想される場所に陣地を作ってはならない』て言われたら航空自衛隊の奈良基地なんて前方後円墳3つに囲まれているから違法な陣地になってしまう。ついでに言えば正当な戦争は我が家があるオランダのスフラーフェン・ハーグで1899年に制定された『陸戦の法規慣例に関する条約』が根拠だな」ここまでスラスラと知識が出てきたのは日頃から仕事で使っている商売道具だからなのは言うまでもない。しかし、梢も半分以上は知っているのではないか。
「あッ、噴水だ・・・」パレ・デ・シオンを出てレマン湖畔の遊歩道を歩き始めると正面に巨大な水柱が上がった。これがジュネーブ名物の大噴水だ。水柱は高さ140メートルまで上がり、風下で見ていると傘を差していてもずぶ濡れになるらしい。ここは2キロあるから安心だ。
- 2020/06/24(水) 13:52:17|
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幕末の血の嵐が吹き荒れていた文久3(1863)年の明日6月24日に江戸3大道場の1つ「練兵館」で最強と謳われた仏生寺弥助=本名・吉村豊次郎さんが謀殺されました。33歳でした。
弥助さんは文政13(1830)年に越中国仏生寺村(現在の氷見市)の農家、若しくは漁師の子として生まれましたが、15歳頃に同じ村出身の斎藤弥九郎さんを頼って江戸に出て現在の靖国の南西部一体に100畳敷きの道場と30畳敷きの寄宿舎を構えていた神道無念流の練兵館の風呂焚きとして雇われました。当時の江戸では現在と同じ防具を装着して竹刀での試合稽古を採用した北辰一刀流の千葉周作さんの玄武館が「技の千葉」、精神面の修養を重視した鏡新明智流の桃井新蔵さんの士学館は「位(=品格)の桃井」、そして現在なら「オール江戸剣術選手権」と言うべき他流試合の大会を主催していた斎藤さんの練兵館は「力の斎藤」として並び評されていました。
そんな練兵館で弥助さんは風呂を焚きながら熱心に道場を覗き見していたため斎藤さん以上の実力者と目されていた隠居先生こと岡田利貞さんに声をかけられ、個人的に指導を受けることになったのです。すると驚異的な上達を見せ、岡田さんの推薦で風呂焚きを止め、門下生になることができました。岡田さんは自分が発掘した天才を愛し、英才教育を施すと忽ち修得して周囲からは斎藤さんの2人の息子を凌ぐ「斎藤の閻魔鬼神」と呼ばれるようになりました。しかし、元々が無学文盲だったため練兵館では門下生に受講させていた軍学などの座学は全く話にならず平仮名でも自分の名前が書けなかったようです。
やがて通常7年以上かかる免許を2年で与えられたのですが、道場内での地位が高くなると行動にも制約を受けるようになって、そんな堅苦しい生活に嫌気が差したのか練兵館から出奔してヤクザの用心棒などで暮らすようになりましたが、手強い道場破りなどが現れると何故か姿を現して、これを完全撃破して練兵館の看板を守ったと言われています。
弥助さんの剣技は岡田さんの英才教育を受けた割に左上段からの面打ちだけでしたが、その速さは神の領域で、練兵館に道場破りに来るほどの剣客でも「面を打つ」と予告されても防ぐことができず、試合後に「剣が見えなかった」と語っていたそうです。
しかし、練兵館は桂小五郎よん(「さん」を付けるに値しない)や高杉晋作よんも入門していたように毛利藩とのつながりが強く、弥助さんもその人脈からヤクザの用心棒と同じ軽い感覚で京都の尊皇攘夷のテロリストに加わったのですが、将軍警護の目的で集められ上洛してきた壬生浪士組(=後の新撰組)の初代局長の芹沢鴨さんと親交を持つようになり、京都所司代=会津藩の直属になった壬生浪士組に乗り換えようとしたため、誰も敵う者がいない剣技を恐れた毛利藩のテロリストたちが抹殺を画策し、泥酔させた上で五条河原に連れ出して斬殺したと言われています。
惜しむらくは弥助さんは道場対抗試合や御前試合などの公式戦に出場したことがなく、道場破りも敗れた方は口をつぐみ、練兵館としても助太刀に救われたことは恥辱なので記録に残さず、神の領域の強さは伝説にしか残っていません。
- 2020/06/23(火) 13:43:04|
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永世中立国のスイスは第2次世界大戦中に連合軍機に誤爆された以外は戦火に晒されていないためチューリッヒは争乱や災害、大火で何度も灰燼に帰している京都よりも古都としての風景を留めている。それでもチューリッヒはスイス最大の都市とは言えリマト川沿いとシューリッヒ湖の岸辺に市街地があるだけの東西南北15キロ前後の小さな町だ。
「モリヤ2佐は佛教の僧侶だそうですが、キリスト教の聖堂に入っても良いんですか」駅前からのタクシーでは後席にクライスト中佐夫妻と梢、助手席に私が座ったが、運転手に行き先を指定する前に夫人が確認してきた。やはり敬虔なクリスチャンは訪問した土地では最初に聖堂で礼拝するようだ。これは日本で来客が最初に佛檀に参る作法に通じる。
「信仰とは別に礼儀として挨拶するのは問題ありません。皆さんが京都や奈良で佛教の寺院を見学するのと同じ感覚で入らせてもらいましょう」「それではグロスミュンスターへ行きます。あそこはツヴィングリの教会なんですよ」私は長年にわたりキリスト教についても研究してきたがフルドリッヒ・ツヴィングリはマルチン・ルターと同時期に宗教改革の口火を切ったスイスの聖職者で対カソリック戦争の指揮官だったはずだ。スイスは現在も反体制的な主張を繰り広げているカルヴァン派(日本キリスト教会も加盟している)の創始者でフランス人のジャン・カルヴァンも活動拠点にしているから危ない過激キリスト教団の巣窟なのかも知れない。
聖堂参りの後はクライスト中佐夫妻の案内でチューリッヒ中央駅に隣接するスイス国立博物館から現代作家のコレクションが充実していたチューリッヒ美術館、短いケーブル・カーで昇るアインシュタインの出身大学であるヨーロッパ屈指の名門・チューリッヒ連邦工科大学を見学して、駅前の商店街にある古びた建物マイセン・ギルド・ハウスのレストランに入った。ここは中世の同業者組合の集会所だったそうだが、レストランとしては灯りが暗く、窓も小さく、料理と歴史を一緒に味わう店のようだ。ちなみにスイスの料理は言語と同じ隣国の影響を色濃く受けているが、地形や気候で作物が限定されるため独自に発展させたと言われている。
「中佐は戦車大隊長だったんですか」席に着いて注文を終えたところで文化施設の見学中は控えていた軍事談議を持ちかけた。それでも雑談の中で戦車乗りだったことは聞いている。
「プロシア騎兵の名残のような兵科だね」ここでもクライスト中佐は自虐的に謙遜した。しかし、私から見ればドイツ陸軍の戦車大隊は第1次世界大戦において世界初の戦車を登場させ、ナチス・ドイツ陸軍はソ連軍と並ぶ現代戦車戦術の本家であり、何よりも日本がライフル式の105ミリ戦車砲で単板装甲の74式戦車を導入した5年後に120ミリ滑空砲で複合装甲のレオパルト2を装備した世界最高峰の機甲部隊のはずだ。
「それでもレオパルト2は素晴らしいじゃあないですか。日本が120ミリ滑空砲の戦車を導入したのは1990年になってからですよ」「確かにレオパルト2は我が国の誇りだ。しかし、今となっては輸出商品に過ぎないよ」ドイツの傑作戦車・レオパルト2は東西冷戦期には1800両以上が生産されたが、ドイツ統一が実現して冷戦構造が終結してからは武器輸出が解禁されたこともあり、中古商品としてNATO軍加盟各国とスウェーデンなどに売却され、ドイツには225両しか残っておらず、新型戦車の開発も行われていない。
「ヨーロッパでは東西冷戦が終結した以上、軍縮は当然の選択かも知れませんが日本はロシアと中国と言う危険な軍事大国に直接対峙している上、対岸の北朝鮮は中国の代役として核兵器と弾道ミサイルの開発に躍起になっていますから本来は軍縮とは逆に軍備増強を進めなければならないのです。ところが日本のマスコミはヨーロッパ限定の軍縮を世界的潮流であるかのように報道して世論を誘導している。おかげで自衛隊は多忙なのに組織は削減、人員は圧縮される羽目になっています」クライスト中佐が退役したのは東西冷戦が終結して10年間の軍縮の気運が最高潮に達していた時期だから愛車だったレオパルト2が外国に売られるのを無念の思いで見送っていたはずだ。しかし、それが世界的潮流ではないことをあえて説明した。
「否、NATO軍もロシアが軍事力の増強を再開すれば前線を東にずらして対峙しなければならない。アメリカのブッシュ政権が破壊した中東の秩序を保つための軍事行動も必ず求められるようになる。ヨーロッパのマスコミも軍縮を主張しているが、現実はそんなに甘くない」結局、食事中も私とクライスト中佐は軍隊談議になり、料理を味わいながら談笑している梢と夫人とは話題も雰囲気も全く噛み合わない会食になってしまった。それでも夫人は「夫があんなに熱弁を揮うのを見たのは久しぶりよ」と喜んでいたそうなので迷惑ではなかったようだ。
午後からは郊外の動物園と植物園まで完全制覇した。やはりクライスト中佐夫妻も私たちのオランダ滞在が長くなることを聞いて「今回は下調べ」と考えて案内してくれたのだろう。夕食前に中央駅前で別れ、夫妻はホテル、私たちは民家民宿に向かった。
- 2020/06/23(火) 13:41:44|
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昭和23(1948)年の明日6月23日に青森県北津軽郡五所川原町(現在の五所川原市)で香具師(=祭礼などで屋台を出店し、経営する業者)と在日朝鮮半島人の大規模な抗争事件が発生しました。
事件の発端は6月20日に岩木川の河川敷の五能線の鉄橋と101号線の乾橋の間にある北斗グランドで開催された町立五所川原小学校の運動会で香具師1人と在日朝鮮半島人が喧嘩になり、毎度の如く周囲にいた半島人が加勢して香具師が袋叩きにされたのです。
当然、香具師は報復を考えましたが凶暴性は半島人側の方が勝っており、6月22日に「香具師6人が町内の遊郭で遊んでいる」との情報を入手すると日付が変わった午前3時に半島人15人が棍棒などを持って襲撃し、乱闘になったため五所川原警察署が急行して香具師と半島人18人を逮捕しました。この噂が広まると青森県内だけでなく東北・北海道からも双方の支援者が終結し始め、全面抗争の様相を呈したのです。これを受けて五所川原警察署は占領軍司令部がアメリカのFBIを参考に設置していた国家警察の青森本部や占領軍地方軍政部に支援を要請し、集結している支援者を拘束するとトラックで郊外に運んだのですが、それ以上の人数が続々と到着し、運んだ支援者も脱走して駆けつけたため一色即発の事態に陥っていきました。
この危機に地元選出で戦前には青森拳闘倶楽部(=ボクシング・クラブ)を主宰し、地元新聞の社長を務め、戦後も昭和23(1948)年6月から津軽酒造の社長に就任していた県議会議員が調停を買って出て、両者の代表者を自宅に招いて話し合いの席を設けたのです。この席で「過去のことは一切水に流す」「不穏な事態が起こりそうになったら責任者に連絡を取って防止に努める」と言う誓約を交わし、事態は終息したのですが4年後の昭和27(1952)年2月には対岸の木造町の警察署が在日朝鮮半島人に襲撃され、応援に駆けつけた警察官が集団に暴行を受ける事件が発生しているので、地域の有力者である県会議員の顔を立てただけで、実際は日本人を舐め切っていたようです。
戦前から戦中は日本人の健康体の青年たちには漏れなく召集令状が届き、根こそぎ出征していたため、労働力不足が深刻な地方には徴兵がなかった朝鮮半島で募集した多くの半島人たちが家族連れで移住して農業や漁業、林業などに従事していました。このことを現在の韓国では強制徴用などと史実を捏造していますが、勧誘のため好条件を過大に提示することはあっても公権力による強制を示す公文書の記録にありません。特に気候が厳しい東北や北海道では住民が短命だったため人口密度が低く、家族での労働の代行が困難だったので多くの半島人を受け入れたのですが、冬季には農業の収穫がなくなるため期待していた豊かな生活は果たせず不満が鬱積していたのです。さらに敗戦後3年が経過すると海外に抑留になっていた出征兵士の復員が本格化し、半島人たちの必要性は低下していきますが、占領下で復興に手一杯だった日本政府には帰国費用を与える余裕はなく、その不満を毎度の如く日本人を逆恨みしてカタギとヤクザが半々の存在だった香具師でも怖れずに集団の力で暴行し、全面対決を実行しようとしたのでしょう。
- 2020/06/22(月) 13:58:50|
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座席に戻ると乗務員たちが座席をベッドに直す作業をしていて梢とドイツ人夫婦は通路で待っていた。私が歩いてくるのを見つけた梢は立ち話を止めて日本語で声をかけた。
「時間がかかったね」「うん、途中でドイツ軍の元中佐に会ってね。声をかけられたんだ」「貴方は迷彩服だもん。元軍人なら声をかけたくなるよね」日本語で会話している私たちをドイツ人夫婦は覗き見しているが表情からトイレに行くまでの警戒感が消えている。
「こちらのノイマンさんは貴方が軍人なのに頭を剃っているから日本版ネオ・ナチじゃあないかって疑ってたんだって」「英語が通じたのか」「奥さんはオランダ語が判るそうだから片言で何とかなったよ」この誤解はアメリカ軍でも受けることがあるが迷惑この上ない。ナチス・ドイツでは側面を短く刈り上げていても頭頂部は7・3分けにしていた。坊主刈りだったのは帝国陸軍だから剃髪をナチズムのシンボルにするのは止めてもらいたいものだ。
「それで貴方は坊さんだって説明したら旦那さんが『禅僧か』って訊いてきたから『うん』って曖昧に認めちゃったんだ。ゴメンナサイ」「どうせ英語が通じないから宗教談議にはならないだろう。気にするな」私の返事を聞いて梢は安堵したようにうなずいた。
「それでドイツの元中佐との話は面白かったの」「ドイツ軍は沖縄の自衛隊よりも肩身が狭い思いをしているみたいだ。東西冷戦が終わってドイツはEUの中心地になったんだから、もう国防のための軍隊はいらない。治安維持と国境警備の警察部隊を強化すれば十分だそうな」「面白い。私も話を聞いてみたいな」梢が軍事関係の知識を学習しているのは私との会話のためだと思っていたが個人的にも関心を持っているのかも知れない。
乗務員たちは作業を終えるとドイツ語(多分)で挨拶をして隣りの座席に移動していった。ヨーロッパの寝台車の2段ベッドでは緊急時に女性を先に避難させるため下にするのが一般的なようでドイツ人夫婦に倣って梢が上に寝た。
翌朝は予約順にビュッフェのアナウンスが入り、ドイツ人夫婦と一緒に呼び出された。食事の間に乗務員がベッドを座席に直すらしい。
「窓の外はアルプスになってるね」ビュッフェの席に着くと窓の外には巨大な岩山が高さを競い合うように連なっていた。9時過ぎにチューリッヒ着なのでスイスに入っていても不思議はないが、戦時には爆破して封鎖すると言う国境のトンネルの長さを実感するのを忘れていた。
「グッド・モーニング、モリヤ2佐」ウェイトレスに朝食のセットを注文して窓の外を眺めながら今日の予定を話し合っていると通路をクライスト元中佐と奥さんらしい銀髪の女性が歩いてきて声をかけた。梢もクライスト元中佐のアメリカ軍とは全く違う見解に興味を持ち、話を聞きたがっていたが、到着までの時間を考えると少し無理なようだ。
「グッド・モーニング、クライスト中佐・アンド・マダム」「イエス、グッド・モーニング・サー」私の挨拶に妻も笑顔で答えた。それにしても夫と同じ階級の私に敬称の「サー」を付けたのは退役者の現役に対する謙遜か、現在の国際刑事裁判所の検察官に向けた敬意なのかは判らない。どちらにしろ互いに席に戻ってからの説明が好意的だったのは間違いない。
「クライスト中佐ご夫妻はチューリッヒにはよく来られるのですか」ここで梢が質問した。高齢者に「初めてですか」と訊くのは「経済的な余裕がない」「学習意欲がない」「夫婦仲が良くない」などの失礼な意味になることもあるので避けたのは流石だ。
「夏にはスイスで避暑と言うのが私たちの習慣になっているんだ」「冬のスキーもね」夫妻は誇示するのではなく自然に答えた。やはりヨーロッパの軍の士官は貴族階級の騎士の末裔と位置付けられており、肩身は狭いとは言えドイツ軍でも社会的な地位は確保されているらしい。
「私たちは初めてなんです。よろしければ見どころを教えて下さいませんか」「今日は美術館、博物館、動物園、植物園巡りの予定ですが、よろしければ夕食まで案内しましょう」梢のおかげで熟練のガイドを無料で確保することができた。おまけに会話も弾みそうだ。
チューリッヒは人口約39万人でもスイス最大の都市で、国際的な金融機関が集中している。中学校の社会科の地理の試験ではスイスの首都を出題して「ジュネーブ」と答えさせる引っ掛け問題があったが、首都のベルンの人口はチューリッヒ、ジュネーブ、バーゼルに次ぐ4番目で約14万人に過ぎず、古都ではあっても文化施設はチューリッヒの方が充実している。しかし、日本でこの地名が知られたのはコール・センターの受付係(=松木里菜)の美貌が評判になった保険の「ハロー・チューリッヒ」のCMが始まってからだろう。
「そう言えばアンリ・ギザン将軍の墓所はどこにあるか知りませんか」「残念ながら知らないな。彼はフランス系だからフランス語地区にあるんじゃあないかな」1つ宛てが外れたが、私に外国軍の将軍や提督の墓所を訊かれても答えられないので、こちらの愚問だった。
- 2020/06/22(月) 13:57:16|
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オランダのアムステルダムからスイスのチューリッヒまでの列車旅行はドイツを縦断する形で8時間以上かかるため昼過ぎ発で翌朝着の特急にした。途中のフランクフルトで夜行列車に乗り換えたが個室のような作りになっている座席で一緒になったのは同世代のドイツ人の夫婦だったので気楽に過ごせる。ただし、「英語は得意ではない」と言うことで会話は弾まない。
「夜の移動だからハイジが汽車から眺めた風景は見られないわね」「日没は9時頃だからかえってリアルな旅情を満喫できるよ」車窓からは日没になった広大な平原の遠方に近代的な市街地が見えているが、ビルの窓の明りを除けばアニメの中でハイジがセバスチャンと一緒にフランクフルトからアルムへ戻る時に眺めていた風景そのものだ。それにしても我々は寝台車のベッドで眠るがハイジとセバスチャンは固い椅子に座って一夜を過ごしたはずだ。それでもアルムに帰られる歓びで尻や腰が痛くなるのも気にならなかったのだろう。
「アー ユー ジャパン アーミー(貴方は日本陸軍ですか)」トイレに行くと乗降ドアのロビーですれ違った高齢の男性に声を掛けられた。私は迷彩服を着ているが国籍を示す徽章はつけていない。「アーミー」は兎も角、「ジャパン」を察知されたのは謎だ。
「イエス、ジャパン グランド ジエータイ(はい、日本国陸上自衛隊です)」私は沖縄で勤務していた頃の日米協同演習後の交換会で親しくなったアメリカ空軍の士官に「アー ユー ジャパン エア フォース」と訊かれて「イエス」と認めたところ「日本は憲法で陸海空軍は保有できないはずだ」と突っ込まれたことがあり、外国人からのこの質問には余計な予防線を張るようになった。尤も昭和の時代には「インペリアル エア フォース(皇国空軍)」と答えて煙に巻いていたが、平成の天皇の軍隊と思われるのは嫌なので、現在はPKOや国際活動で普及し始めた「ジエータイ」を国際語にするためこちらを常用している。
「私も連邦陸軍の軍人でした。貴方の階級は」「2佐(=中佐)です」「それでは一緒ですね」私の返事を聞いて男性はニコヤカに笑いながら手を差し出したので握手した。しかし、私はトイレに向かう途中で、おそらく男性は終えたところだ。梢の命令でインスリンを摂取するようになって頻尿は改善されたが、それでも尿意を覚えたからトイレに行くのだ。
「スミマセン。トイレに行く途中でして」「それは失敬、しかし、ここで日独陸軍の士官が会えた偶然を大事にしたい。ここで待っていよう」私としては梢との2人旅を満喫しているのだが、敗戦後のドイツの軍人には聞きたいことが山ほどある。とは言えドイツの軍人の立場は沖縄の自衛隊並みだったそうなので、ドイツ人夫婦と相席になっている私たちの個室に招くのは心配がある。やはりここでの立ち話になるかも知れない。
「国際司法裁判所で次席検事を勤めていますニンジン・モリヤ2佐です」「ユルゲン・クライスト元ドイツ連邦陸軍中佐です。名札の姓を見て日本人と判りました」トイレから戻ってくると先ほどの高齢男性が待っていた。もう一度、握手をし直して自己紹介した。それにしてもクライストと言えばキリストのことであり、佛教徒の私としては心理的に半歩引いてしまう。
「クライスト中佐は何歳ですか」「私は第2次世界大戦時中の1944年の生まれです。モリヤ2佐は」「私は1961年です」西ドイツの再軍備は朝鮮戦争の勃発によって在日アメリカ軍を派遣する必要から1950年8月10日に急ごしらえされた自衛隊よりも遅い1955年なのでクライスト中佐は21歳だったことになる。
「日本のジエータイはマックアーサーの書簡一枚で創設されたので、いまだに憲法違反の汚名がつきまとうため基本法を改定して正式に創設されたドイツ連邦軍を羨む声があります」「そうでもないでしょう。ドイツ連邦軍は始めからNATO軍の一部に過ぎません。おまけに国防の最前線は警察組織の国境警備隊が守っているからジエータイよりも国民に存在を認められていないんだ。一昨年の東北の地震で活躍しているジエータイに多くの国民が心から感謝しているのを見て羨ましくなったよ」私個人としては非武装は大宝律令でも規定されている日本的精神文化の踏襲と考えているので憲法違反と言う批判は特に気にしていないが、幹部の中にはこの羨望論を口にする者がいるのは事実だ。自衛隊でも今回の加倍政権の復活で憲法改定への期待する声が湧き起こっているのかも知れない。当然、私は必要性を認めていない。
「そう言えば1977年10月18日にハイジャックされたルフトハンザ機に突入して解決したGSG9も国境警備隊の特殊部隊でしたよね」「東西冷戦が終結すればEUの中央にある我が国に軍隊は必要ないのかも知れないな。治安維持と国境警備の警察力の強化で十分だよ」意外な話の展開に興味は尽きないが乗務員による寝台の設置が始まったので席に戻ることにした。席の番号を聞いたので続きは明日にする。梢への土産話にするには少し悩んでしまう話題だったが勉強になったのは間違いない。
- 2020/06/21(日) 14:11:37|
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休暇の期間が長いので梢の旅行計画にも余裕がある。スイスは観光立国だけにホテルの手配や現地での移動手段も整っていて、電話に出る担当者は英語だけではなく日本語でもある程度は応対してもらえるらしい。これもバブルが残した功罪の数少ない功の方かも知れない。
「貴方が行きたいのはジュネーブの国際連盟本部とブーリー市にあるアンリ・ギザン将軍のお墓だったよね」「ギザン将軍の墓地の所在地は日本で買った伝記に書いてあっただけで、地図で探してもブーリー市が見つからないんだよ。ドイツ語フランス語とイタリア語が混じっているから片仮名表記が正確と限らないな。だから無理しなくても良いよ」私の説明に梢は安堵したようにうなずいた。どうやら同じ問題を抱えていたようだ。アンリ・ギザン将軍は第2次世界大戦でスイスがナチス・ドイツとファシスト・イタリア、それにドイツによるオーストリア併合とフランス侵攻によって完全に包囲された中、武装中立を指揮して同盟国・イタリアへの交通路として支配を狙うドイツと対峙し、さらにイタリア制圧後、連合軍がドイツ進攻の経路として通行を要望したのも拒否して永世中立を体現した英雄だ。私は高校時代にフィンランドの対ソ戦とスウェーデンやスイスの武装中立の研究を始め、大学1年の時に発売された「将軍アンリ・ギザン・意思決定を貫く戦略(著者・植村英一、原書房)」を購入して熟読したのだ。残念ながらその本も防府から転属する時に紛失した段ボール箱の中に入っていた。
「スイスに行って軍人さんを見つけて訊いてみれば判るかも知れないよ。貴方は迷彩服で行くんでしょう」「うん、山を歩くには一番の服装だろう」スイスはヨーロッパの覇権を争っていたオーストリア、ドイツ、フランス、イタリアに囲まれているため中世から情報戦の舞台だった。現在も国際機関が集中しているので諜報活動は活発なはずだ。そんな国に滞在するには自衛官としての身分を明示しておいた方が間違いはない。
「そう言えば戦時には国境付近のトンネルや橋を破壊するように爆薬が設置されているそうだから見てみたいな」「それはワザワザ見に行かなくても国境付近のトンネルや橋は全てそうなってるんじゃあないの」「確かに」またもや一本取られてしまった。梢とつき合っていたのは曹侯学生から空曹時代だが、幹部になってからもこの調子では頭脳の優劣と言うよりも呼吸の押し引きの問題のようだ。そこで梢の希望を訊いてみることにした。
「お前の希望はどこだい」「私はやっぱりハイジの舞台を見たいのさァ。でもデルフリ村のモデルって言う村を探したんだけど、イエニンスとローフェルスの2つがあるみたいなの。どれもマイエンフェルトの近くの集落なんだけどね」先日の説明ではデルフリ村は実在しなくてもオーストリアとの国境付近らしいと言うことだった。アニメでは作者が現地で取材して印象に残った風景を合成すると聞くので一カ所ではないのかも知れない。
「歩き回ればハイジやペーターに会えるような気がする村なんだろう」「多分そうだね」どちらにしても架空の人物の物語なので実際に住んだ家があるはずがなく、アニメの雰囲気が味わえれば十分だ。こうなるとヨーロッパが舞台の映画やアニメの舞台巡りしてみたくなる。
「スイスはね列車での移動が最高なんだって。ホリデー・チケット(周遊券)を買えば国内は乗り放題だし、登山鉄道も半額になるみたい」「沖縄にはない山を見るはずが、沖縄にはない列車にも乗れるんだな」ここで岡本敦郎の「高原列車は行く」を唄いたくなったが歌詞が出てこなかったので最後の「高原列車はラララララ行くよ」だけを口ずさんだ。
「ところでスイスは寒いんだろう。高校の修学旅行は9月だったけど上高地じゃあ朝には息が白くなったからな」「沖縄で読んだパンフレットには夏場でも平均気温は20度以下だから山に行くには冬物を用意するようにって書いてあったわ。流石に沖縄からスイスに行く人はいなかったけど」そうなると迷彩服が重宝する。梢も今年買った冬物が活躍しそうだ。
「ホテルはそんなに高級なところじゃあないんだろう」「それなのよ。超高級からビジネスまでホテルのランクの幅が広いし、山のホテルやペンション、民家の民宿からバンガローまで選び放題みたい。キャンプ場でテントって言うのも選択肢になっているわ」私としてはホテルの食事用に冬制服も持っていくべきかを確認したのだが想定外の難問が返ってきた。若い頃なら梢と個人天幕で野営して、満天の星空を見上げながら語り合い、冷えてくれば一緒の寝袋で眠るのにも憧れたはずだが、お互い50歳を過ぎると演習につき合わせるのは遠慮したい。
「やっぱり連泊にした方が安いのかな」「必ずしもそうではないみたい。ヨーロッパの人は目的地をジックリ見るから近くのホテルを渡り歩くのが普通なんだって」一般的な日本人の旅行はガイドに引率されて説明の時間だけ立ち止まって次に移動する団体行動なので、連泊が安上がりなら日程を調整してでも戻ってくるはずだ。その点、私たちの旅行は昔からヨーロッパ式だったから現地の人と触れ合える英語が通じる民家の民宿を梯子することにした。
- 2020/06/20(土) 13:47:13|
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私の国際刑事裁判所への赴任は内局が手続きを行っているので自衛隊法第63条の「他の職、事業の関与制限」が定める防衛大臣の承認を正規に得ているのだが、副収入は認められないため国際連合からの給与は国庫に振り込まれて2等陸佐の俸給だけを受領している。休暇などの服務分限も自衛隊員としての制度に準拠しているので、職場の同僚たちがヨーロッパ式のサマー・バカンスに入るとかえって自宅勤務ができなくなり、窓口業務を兼ねて常日勤で生活を送っている。それでも月2日の年次休暇を取得するのに遠慮はいらず、夏の特別休暇3日間に年次休暇7日間を加えて2週間の日本人としては困ってしまうような長期、ヨーロッパ人には許し難いほど短期の休暇を楽しむつもりだ。
「アルプスへ行きたいな」「アルプスってスイスでしょう」旅行プランの立案については達人だった梢に唐突に希望を伝えると予想外だったらしく呆気にとられたような返事をした。オランダに赴任して以来、2人でテレビや新聞、雑誌を見ながら行きたい場所の希望は述べ合っているが、スイスについては冬場のスキーくらいで話題にならなかったのだ
「お前は山を見たことがないじゃあないか。おまけにオランダには山がないだろう。ならば本格的にヨーロッパの屋根を見てみようって言うことだよ」沖縄では県内最高峰の石垣島の於茂登岳でも海抜526メートル、沖縄本島の我那覇岳は503メートルと本土で言えば裏山の高さしかない。一方、アルプスはスイス領ではない西ヨーロッパ最高峰のモンブランは4810.9メートル、スイス最高峰のモンテローザでも4634メートル、3大北壁のマッターホルンが4478メートル、グランド・ジョラスが4208メートル、難易度で選ばれたアイガーが3975メートルと日本一の富士山を上回っている。
「そうね、流石にアルプスでスキーは初心者には無理だもん。やっぱり行くなら夏場だわ。でも高所恐怖症じゃあロック・クライミングは駄目でしょう」「はい、遠慮します」陸上自衛隊の普通科である私は登山が嫌いな訳ではないが、馬力自慢のワンダー・フォーゲル専門だ。それでも断崖絶壁を見ろしながら歩く隘路・山道は御免こうむる。
「そう言えば貴方の高校の修学旅行は上高地だったんだよね」「うん、白樺湖とセットだったよ」これは梢に高校の卒業アルバムを見せた時にした話だ。私の母校・蒲郡高校の修学旅行は地域の県立高校と同じく長崎と熊本だったのだが、2年先輩が現地で他県の高校の生徒と喧嘩騒動を起こしたため私の前年から信州に変更された。おかげで長野の大学を受験する者が増えたのだが、私としても目の前にそびえる穂高連峰を見上げた感動は忘れられない。
「貴方はアルプスの少女ハイジも好きだったよね」「うん、中学生の時には分厚い原作を読破したぞ」私は中学校の図書室でヨハンナ・シュビリの長編童話「アルプスの少女」を見つけたのだが、本を読む習慣がない無教養な土地柄なので他の本は大半が新刊同様だったのに、この本だけはボロボロになっていて背表紙はガムテープで補強してあった。内容としてはアニメと大差なかったが、原作にはアルム・オンジの過去とハイジの父や母との関係、そして宗教的な問題についても詳細に描かれていた。
「私も貴方に言われて原作を読んだけど、デルフリ村は作者が創作した架空の村みたいよ」ここまで探求しているところが旅行のプロの仕事だ。しかし、つき合っている頃にその話題を聞いたことがないので、別れた後に調べたのかも知れない。
「それでもフランクフルトへ行く汽車に乗った駅があるマイエンフェルトやクララのお祖母さんが湯治していたラガーツの温泉はオーストリアの国境近くのクラウヒュンデン州に実在するのよ」「オーストリアとの国境だったらサウンド・オブ・ミュージックでトラップ一家が亡命してきた場所かも知れないな」「流石にそれは知らないわ」これは単なる思いつきなので知らないのが当然だ。映画「サウンド・オブ・ミュージック」は梢と2人で国際通りの映画館の地下の古典映画専門の映画館で見た。その時、父親を「キャプテン・トラップ」と呼んでいるので、私は陸軍か空軍の大尉だと思ったのだが、字幕は「トラップ大佐」になっており、さらに「ネービー=海軍」での軍歴も語られているので不思議だった。映画の後、それを梢に言うと「戦前のオーストリアは東欧を治める大帝国だったから海軍もあったはずよ」と教えられた。やはりあの頃から梢の方が頭は良かったのだ。
「それでスイスへは飛行機で行くの、列車にするの」どうやら仕事を請け負ってくれたらしく、梢の希望調査が始まった。旅券の手配からホテルの予約、現地での観光プランまでプロとしての達人の技を発揮してくれるはずだが、それを英語でやれるところが流石だ。
「ハイジがフランクフルトに行った時に眺めた風景を見ながらの列車の旅が良いな」「やっぱり陸上自衛隊になっちゃったんだね」梢の返事は落胆ではなく感心だった。

実写版「アルプスの少女ハイジ」
- 2020/06/19(金) 13:55:32|
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明日6月19日は2005年に馬山市(現在は昌原市)が「対馬と言う島が韓国固有の領土であることを内外に周知する」目的で制定した条例に基づく「対馬島の日」であり、現在も昌原市が継承しています。
馬山市は鎮海湾でも最も奥にあった港湾都市に過ぎず対馬の領有を主張する地理的・歴史的な必然性は全くないのですが、倭寇に苦しめられていた李王朝が応永26(1419)年に対馬を李従茂将軍(この場合は提督)に攻撃させた時の軍港だったため、それが自分たちの手柄のように思い込んでいるのかも知れません(韓国人には毎度のことです)。
実際の対馬は有史以来、日本の固有領土であり、島民は日本語を話し、生活習慣も日本式なので距離が近いと言うだけで領有権を主張される根拠は全くありません。その距離も対馬の紹介記事では「釜山から対馬は博多からの半分」とされていても外来の厳原港は南島東岸にあるので実際は壱岐島からと大差ありません(対馬は南北82キロある)。
それだけでなく文永11(1274)年と弘安4(1281)年の元寇で高麗王朝=韓国は水軍の主力として対馬に侵攻し、沿岸部の村々を襲撃して老人から幼児までを手当たり次第に殺害し、女性を船に乗せて散々に強姦した上で海に投げ込んで殺害したと記録されています。さらに元寇の後には侵攻に対する報復と積極的防御として対馬の漁民が武装して朝鮮半島南部沿岸を襲撃するようになり、康応元(1389)年には高麗王朝の水軍が逆襲して同様の残虐行為を繰り広げ、続く李王朝も倭寇の撲滅を名目に対馬の領有を画策するようになり、前述の応永26(1419)年には兵船227隻、兵員17285人を派遣して全て日本人の殺害をするべく上陸戦を展開したのですが、内陸に入ると日本の武士団には敵わず撤退=敗走したのです。その後は対馬の領主・宗氏が朝鮮との交易を進めるため倭寇を取り締まると同時に防備を固めたため李王朝による侵攻も鎮まりましたが、そこで降って湧いたように起こったのが認知症を患っていた豊臣秀吉さんによる朝鮮出兵でした。韓国人は神功皇后による朝鮮出兵や任那の日本府の存在は認めていませんが、秀吉さんについてはいまだに深く恨んでおり、大阪や名古屋からの旅行者に「秀吉をどう思うか」と質問し、悪く言って謝罪しないと許されないようです。
そして日清戦争と日韓併合までくると日韓では史実が大きく喰い違ってしまいますが、日韓両国の敗戦後、李承晩政権は「秀吉の朝鮮出兵の際に1419年以来、李王朝の領土だった対馬を奪われた」「この時、李王朝に臣従する島民は激しく抵抗した」と言う荒唐無稽な虚偽の歴史を捏造し、「韓国の独立時に返還せよ」とアメリカに要求したのです。当然、アメリカは拒否しましたが、李承晩ラインによって竹島を奪取したことに味を締めた韓国は日本が竹島の領有を主張することに対抗して国内では対馬の領有=返還を喧伝するようになりました。この条例も島根県が2005年2月22日に「竹島の日」を制定したことに対抗して地方自治体に過ぎない馬山市が制定したものです。
当事者である対馬は観光収益確保のため韓国人の旅行客を誘致していますが、島根県の「竹島の日」に日本の国鳥である雉を大量に惨殺している国家と国民との交流を進めること自体が売国行動であると厳しく糾弾されるべきでしょう。
- 2020/06/18(木) 13:24:34|
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「貴方、海へ行きましょうよ」夏の最盛期に入り、海辺のリゾート地であるスケベニンゲン=スヘフェニンゲンでも多くの観光客が闊歩するようになると唐突に梢が提案した。現在の私は始めから公判維持が難しいことを予測していた第2次コートジボワール内戦におけるバグボ政権に対する裁判が早くも行き詰まり、八方塞がり状態に陥っている。そんな様子を傍らで見守っている梢は「気分転換させよう」と考えてくれたようだ。
「海へ行くんだったら水着だぞ。夏の少女になってくれよ」「少女じゃあなくて夏のお祖母ちゃんにならなりますよ」梢が言い出しっ屁なのを良いことに勝手な要求を投げつけると予想外に快諾し、浮き浮きした足取りで寝室に水着を取りに行った。
「ところで泳げるようになったのか」「貴方に教えてもらったところまでよ」戻ってきた梢の教官の立場で技量を確認すると案の定の答えだった。日本の学校教育で水泳が必修になったのは昭和30年5月11日に発生した宇高連絡船の紫雲丸の衝突沈没事故で乗船していた修学旅行の小学生が多数溺死したことが理由だ。しかし、当時の沖縄には日本の文部省の決定は適用されず、昭和47年の復帰後も水不足が深刻だったためプールの設置は不可能であり、本土から大量に送り込まれた日教組活動家の教師たちが海での水泳教育と言う余計な仕事を請け負うはずがなかった。そのため梢もブクブク沈んでしまう金槌だった。
「それじゃあ顔を水につけて足をバタバタ、上を向いてプカプカまでだな」「今ならそれで十分よ」職場の先輩が「彼女を私有車で基地のビーチに連れて行く」と言うので私と梢も同行させてもらい、その時、教えたのがこの初心者用の基本泳法だった。続いてバスで本島中部のホテルのビーチにも行ったものの都会の女性たちがリゾート気分を満喫していて水泳の練習をするような雰囲気ではなかったのだ。
「水着はあの時買ったあれか」「うん、胸がしぼんじゃったから泳ぐと落ちるかも知れないさァ」あの時、買ったのはビキニだったはずだ。確かにつき合っていた頃の梢は佳織のようなセクシィ・ボディと言うよりも固太りだったが、乳房は美恵子よりもはるかに盛り上がっていた。
「胸がしぼんだのはワシも知っているから気にするな。ブラリと垂れるよりは好いよ。落ちないように上にTシャツを着た方が良いな」「沖縄のビーチでTシャツを着るのは日焼け予防だけど、私の場合はビキニの脱落防止なんだね」答えながら梢はトランクス型の海水パンツを手渡した。毎夕の散歩では海岸にも行くが、日本のような脱衣場とシャワーや軽食堂を備えた海の家は建っておらず、沖縄のビーチのようにホテルで着替え、シャワーも部屋に戻って浴びる方式らしい。そうなると地元の人間も水着でやってきてそのまま帰る帰るのだろう。つまり私たちも家で着替えて行くことになる。
「貴方はシャワー・ルームで着替えてね。私は寝室にするから」「一緒に着替えたいな」「佛さんの前でそれを言うか」私の煩悩丸出しの希望に梢はリビングの仕事机の前の書棚に祀っている佛像を目で差しながら喝を入れた。私は浄土宗なので阿弥陀如来の救済に甘え切って破戒を特権のように振舞っている浄土真宗の門徒とは違い、無理なく身を正しながら救いを待つ節度はわきまえている。お詫びに「南無阿弥陀佛」の十念を唱えてからシャワー・ルームに向かった。帰れば一緒にシャワーを浴びるのだから諦めるのは簡単だ。
「やっぱり水が冷たいね」「日差しもそんなに強くないな」スケベニンゲンはオランダ有数のリゾート・ビーチと言っても日本の湘南などのように隙間なくビーチ・パラソルが満開になることはなく昔ながらの海水浴の風景が広がっている。それでも遠くはない沖に暖流が通り、亜熱帯の日差しが降り注ぐ沖縄に比べるとワッデン海の水温は低く、北緯52度のスフラーフェン・ハーグの陽光は弱く、海水に身体を浸す気にはなれない。
「Tシャツを濡らさない方が良いな」「膝まで水に入れば十分でしょう」私たちが撤退の相談をしている横ではヨーロッパ人の高齢者たちが元気よく水に浸かり、力強く泳いでいる。昭和20年8月18日に千島列島最北端の占守島に侵攻してきたソ連軍は気温・水温10度以下でも積載過重で座礁し、日本守備隊の砲撃で航行不能になった輸送船から泳いで上陸しているのでヨーロッパ人の肉体の耐寒性は日本人とは比較にならないようだ。
「ここはやっぱり貴方が好きな海の歌を熱唱しないと駄目ね」泳げないと判ると梢は次の気分転換を提案してきた。いつもなら加山雄三の「海・その愛」や夕暮れ時なら「君といつまでも」、気合を入れる時には「我は海の子」や「月月火水木金金」が出るところだ。
「目を覚ましてみると白い砂は焼けて 眩しい日差しと悪戯な瞳が僕を惑わす・・・ララ夏の少女よ 強く抱き締めて 2人の全てを ここにしるしておこう」今日は夏のお祖母ちゃんに大好きな南こうせつの主題歌を贈った。当然、強く抱き締めて2人の全てをしるしておいた。

イメージ画像「夏の少女」の頃の梢
- 2020/06/18(木) 13:22:01|
- 夜の連続小説8
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翌日は早朝に起こされて個人に配られているコンバット・レーション(携帯食)を食べると空気が冷たい間に長い坂道を下り始めた。アメリカ軍では1日分の水と食料は自己管理なので、訓練前にコンバット・レーション3食と水筒2本分の水を配布すれば後は関知しない。一方、指導教官が深夜に個人用テントから小銃を奪う恒例行事は受講生の間で先輩から後輩への申し送りになっているため不発だったようだ。
快適な冷気の中、急な坂道を下っていくと小隊の先頭を歩く2人のヨーロッパ系の男子受講生たちは競い合うように歩調を早め始めた。地面を跳躍するように踏み切れば歩幅は3段跳びのようになり、それが隣りよりも遠ければ勝ったような気分になるようだ。危険を冒して急な下り坂で跳躍することは蛮勇の誇示にもなり、運動神経を証明しているつもりなのかも知れない。
「下り坂は速度をセーブ(抑制)しないと怪我と故障の原因になるわ」身長が高い順に並んでいるためどうしても女子は後方になる。志織が抗議しても声が届かないようだ。前方の背が高い連中は勝手に駆け出しているが、列の中央以降は同調せず小隊は2つに分かれてしまっている。最後尾を付いてくる指導教官の海兵隊の軍曹は無表情に傍観しているだけだ。
「今のプラトーン・リーダー(小隊長)は誰」「ベンじゃないの」志織が声をかけると前を歩いている女子受講生が振り返って答えた。ベンと呼ばれている男子受講生は海兵隊要員のアフリカ系で、分かれてしまった前の列の最後尾、小隊の中央を歩いていた。今回の訓練で志織は予備士官訓練課程(ROTC)参加者の中でも海軍と海兵隊の軍種、ヨーロッパ系とアフリカ系、アジア系、現地人の人種、所属している大学の違いなどが複雑に絡み合って微妙な対立が存在していることを実感した。おそらく小隊長のベンも先頭を歩くヨーロッパ系の受講生たちの暴走を制止することで「臆病」「僭越」と見られることを懸念して、仕方なく前の「勇者」の集団の最後尾について行った可能性もある。
「小隊、止まれ」前の集団との距離が歩調を早めただけでは追いつけないほど開いたところで、志織は列の横を駆け抜けて前に立つと大声で小隊を停止させた。それに受講生たちが従ったのは誰もこの状況に対処する腹案を持っていないのだ。
「指揮不在の事態が生起したと判断し、当小隊の指揮をミジップマン・モリヤが代行する。当小隊は現在の歩度(一定時間の歩数)を維持しながら目的地に向かって前進する。前へ、進め。道足」志織は停止した後半の集団の前で父譲りの指揮官振りを発揮すると号令をかけて列の中央に入って歩き始めた。確かに部隊行動中は指揮官の下に一糸乱れず組織としての機能を維持しなければならないが、指揮官が戦死することも戦場の常識ではある。その場合の代行者は階級の序列で決定するのが軍の制度だが、ここでは全員が受講生と言う同一の立場なので志織が立候補した。指導教官は黙っているので志織は容認されたものと判断し、父からの指導を思い出しながら小隊長として指揮を執った。
「ミジップマン・モリヤ。先ほどの指揮権の行使の根拠は何だ」管理地区に到着して訓練が終了すると志織は指導教官に声を掛けられた。志織の指揮は1キロほど歩いたところで待っていた前半の集団と合流したところで終わった。やはり重い背嚢を背負っての徒競争は長続きしなかったのだ。志織は小隊長のベンに状況を説明すると最後尾の列員に戻ったのだが、指導教官はその一部始終を黙って観察していた。
「根拠はありません。非常事態の超法規的処置です」志織の返事に指導教官は厚い唇を歪めて苦笑した。今回は深い廂(ひさし)の奥で黒い瞳が浮き上がる目が笑ったように感じた。
「君は海軍要員だったな」「アイアイ・サー」訓練の終了が宣言されているので志織はあえて海軍式の返事を用いている。指導教官の二人称「ユー」の語調も訓練中のように高圧的ではない。気がつくとその背後には小隊長のベンも立って耳をそばだてている。
「機械相手の海軍では合理的判断とか言う小理屈が必要らしいが、我が海兵隊においては指揮官が走り出せば兵士も全力で後を追うんだ。ついていけない者がいれば銃を突きつけて追い立てる。それでも遅れるようなら足元の銃弾を撃ち込む。それが海兵隊だ」「アイアイ・サー」それでも理尽くめで反論しないことで指導教官に対する敬意は表しているつもりだ。
「君は日本陸軍が硫黄島で海兵隊を敗ったと言ったが、日本陸軍の万歳突撃は走りながらの集団自決だったんじゃあないのか」「ノー・サー。父の曾祖父の青山寛少将は日露戦争に橘大隊の小隊長として出征し、沙河の激戦を経験したそうです。青山中尉は指揮官として先頭を駆け出す時、一瞬だけ兵士を見回したと言います。この『一瞬の確認』の有無が日本陸軍とアメリカ海兵隊の違いのようです」アメリカ海兵隊でも指揮官が突撃を命じる時、部下の様子を確認するのは当然だ。それを怠ったことを遠回しに指摘されてベンは黙ってうなだれた。
- 2020/06/17(水) 13:28:13|
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6月11日に作曲家で編曲家の服部克久さんが心不全のため83歳で亡くなったそうです。
野僧は小学生だった昭和47年頃からさだまさしさんの大ファンなので2月分の小遣いで買うレコードのジャケットは歌詞だけでなく作詞・作曲・編曲の氏名まで熟読しており(それが癖になった)、グレープ時代の名曲「フレディもしくは三教街」や「哀しきマリオネット」、個人になってからの「童話作家」「第3病棟」「夕凪」「哀しきマリオネット」、失敗映画「長江」の主題歌「生々流転」などの編曲を手掛け、NHKの完全中継コンサートにゲスト出演したことで名前と顔は知っていました。また大学時代に豊橋のデパート内のレコード店の女性店員と親しくなって強引に勧められて買った谷村新司さん「昴」も服部さんの編曲で、翌年に見た映画「連合艦隊」の主題歌「群青」と合わせてカラオケの十八番にしました(「群青」は歌詞の映画映像が目的だった)。谷村さんの歌は声域が広いため高音部が上手く唄える人は少なく、2オクターブが出る野僧が唄うと女性客から「忘れていいのよ」のデュエットをリクエストされたものです。ただし、「ガバッ」と胸に手を突っ込むアクションは相手が酔っている時限定で、そこまで行けばアパートに送って泊めてもらいました。そう言えば沖縄時代の同僚の空士と中年の小父さんたちが好きだった柏原芳江さんの「春なのに」も服部さんの編曲だったようです。最近では1994年の竹内まりやさんの「駅」も服部さんの編曲だそうです。
それにしても谷村さんの「昴」のホルンの前奏は、この曲を使っていた洋酒のCMの雄大な情景も重なって国歌にしたくらいの風格がありました(歌詞には国語として問題があるが)。逆に竹内さんの「駅」の弦楽器の前奏は雨の駅の陰鬱な空気を連想させてそのまま歌詞に入っていけました。さださんの「フレディもしくは三教街」は前半の甘い思い出と後半の哀しい結末で伴奏の曲調が変わっていて、いまだに涙なしでは聴けません。また「第3病棟」の前奏と途中の間奏とエンディングは玩具のピアノで小児病棟に入院している男の子との微笑ましい交流を描いた前半と知らないは間に男の子が極楽に往生していた哀しい結末を見事に表現していました。
服部さんは昭和11(1936)年に淡谷のり子さんの「別れのブルース(窓を開ければ 港が見える)」や高峰三枝子さんの「湖畔の宿(書いてまた消す湖畔の便り)」、笠木シズ子さんの「東京ブギウギ(東京ブギウギ リズム浮き浮き)」、藤山一郎さんの「青い山脈(若く明るい歌声に)」などの戦前戦後の洋風の軽快な一般国民の愛唱歌を作曲した服部良一さんの長男として生まれました。幼い頃から音楽の英才教育を受け、高校卒業直後からフランスのパリ高等音楽院に留学してクラシックを基礎とする合唱技法の教育を受け、帰国後は草創期のテレビ界で活躍しました。特に各種番組の主題曲を数多く作曲し、新聞の訃報記事ではTBS系のドキュメンタリー「自由の大地」と「ザ・ベストテン」を紹介していましたが野僧は見ていません。むしろフジテレビ系の「ママとあそぼう!ピンポンパン」でお世話になったかも知れません。2代目お姉さん・石毛恭子さんのファンだったので中学校に登校する前に盗み見していました。御冥福を祈ります。合掌
- 2020/06/16(火) 13:19:23|
- 追悼・告別・永訣文
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全行程3分の2である18マイル=28キロ968メートルの登山行軍を終えると海抜1500メートル付近での野営になった。この寒冷地での宿泊体験も今回の訓練の眼目なのだ。今回の背嚢=スパインには寝袋を入れてきたが、ハワイの平地であれば空気で膨張させる敷きマットと毛布1枚で十分だ。ところが息が白くなる宿営地では寝袋が必需品であり、汗をかいた後の処置も細心の注意を払わなければ朝まで凍えることになる。
流石に2人用個人天幕は女子の受講生同士だが、相棒は同じく海軍志望のハワイ太平洋大学(私立)のヨーロッパ系の学生だ。ヨーロッパ系らしくハワイの高地の強い日差しで顔は真っ赤に陽焼けしている。コンバット・レーション(携帯食)は夕暮れ時に外で食べ、テントの中に入って懐中電灯で照らしながら身体の手入れをして下着を替えたが、相棒は水筒にスポーツ・ドリンクを入れているのでタオルを濡らすことができなかった。そのためヨーロッパ人特有の乳製品のような体臭が充満しているが本人は気づいていない。もう一度、迷彩服を着て横になれば消灯まで雑談する以外にやることはない。すると相棒の方から声を掛けてきた。
「シオリ、どうして足を載せてるの。それじゃあ寝にくいでしょう」先ず背嚢に足を載せて横になっている志織の寝方が不思議そうに質問してきた。
「今日は1日中、歩いたから血液が脚に下がってるの。こうして身体に戻すと明日は足が軽くなるわ」正確に言えば歩いたのは午前10時から午後6時までの8時間だ。明日は山を一気に下る12マイル=19キロ312メートルが待っている。
「やっぱり貴女は陸軍軍人の娘ね。行軍に慣れてるみたい」「うん、ダディからアドバイスを受けられる点は有利ね」今日の行軍訓練も父に初日は斜面の登攀が中心になることを説明したおかげで半長靴の紐の締め方まで適切な助言を受けた。やはり父はこれから始まる戦闘訓練でも頼りにしたいフィールド・コンバット(野戦)のプロなのだ。
「朝、シオリはサージェントに『日本軍は硫黄島でアメリカ海兵隊を敗った』って言ったけど、アメリカ軍が硫黄島を奪取したんだから勝ったのは海兵隊じゃあないの」次は海軍軍人を志す学生としての誇りに関わる質問だった。志織も同じ立場なので否定するつもりはない。そこで父の見解を説明することにした。
「確かに戦争の勝敗は目的を達成したアメリカ軍の勝ちよ。でも戦闘としては22786名の日本軍守備隊を戦艦8隻、航空母艦16隻、巡洋艦15隻、駆逐艦77隻で完全に包囲して、1200機の航空機でも攻撃しながら約60000人を上陸させて、日本軍は1023人の捕虜以外の18000人前後が戦死したけど、アメリカ軍は6821人が戦死、19217人が戦闘継続不能の戦傷を負ったのよ。21平方キロメートルの小島を攻略するのに2月16日から3月15日まで27日間を要してるわ(日本軍の公式発表は3月21日)。これは敗北じゃあないの」「戦争で勝ったのならアメリカ軍の勝ちでしょう。全滅した日本軍に勝者を名乗る資格なんてないわ」父もこれは否定していない。その一方で志織は日米双方の魂を持つアメリカ軍士官の祖父からも薫陶を受けている。このアメリカ的愛国心の固まりのような相棒にそれが通じるとは思えないが、今回はあえて補足・反論することにした。
「貴女はクリント・イーストウッドの『フラッグ・オブ・アワ・ファーザー(邦題・父たちの星条旗)』と『レター・フロム・イオージマ(邦題・硫黄島からの手紙)』は見たことあるの」「勿論、中学生の時に見たわ」それは志織も同様だ。祖父母に連れられてホノルル市内の映画館で見たのだが、日系3世のノザキ中佐にとっては日米両軍の兵士が戦友に映るらしく、敵味方の区別なく戦闘に興奮し、犠牲に号泣を繰り返していた。
「あの映画を見てどう思ったの」「暗闇の中で死を恐れずに襲いかかってくる日本兵は本当に怖かった。あんな強敵に勝ったアメリカ軍を誇りに思うわ」「貴女が日本軍を強敵と認めるのならそれで十分よ。サージェントもそれを認めていたから私の反論を否定しなかったと思うの」ここが話の落とし所だろう。志織は空気が冷えてきたことを感じて寝袋にもぐるとチャックを上げた。個人保管の小銃も寝袋の中に入れている。今夜はこれを抱いて眠るのだ。ROTC(=予備士官訓練課程)の先輩たちの体験談では指導教官たちは深夜にテントを点検して小銃を放置して熟睡している受講者を見つけると無音で奪うらしい。そして翌朝の集合時に小銃を紛失した受講生には荷物の追加などの重罰を与えると言う。
アメリカ軍の寝袋は朝鮮戦争で援朝抗美義勇軍=共産党中国人民解放軍に仮眠中を襲われた時、寝袋から抜け出せずに全員が銃剣で刺殺された教訓からチャックを最上部まで上げると開く構造に改良された(今では登山用の寝袋でも雪崩に遭遇した時の脱出のために採用されている)。仮眠中の油断が命取りになることはアメリカ軍の戦訓なのだ。
- 2020/06/16(火) 13:18:19|
- 夜の連続小説8
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昭和41(1966)年の6月15日は兵学校の卒業序列が最後までつきまとった帝国海軍の人事を検証する上で格好の材料である高橋三吉大将の命日です。
高橋大将は明治15(1882)年に旧岡山藩士から出仕した宮内省職員の3男として東京で生まれました。明治34(1901)年に29期生として125名中5位の成績で海軍兵学校を卒業しましたが、同期には後に海軍大臣・総理大臣となる米内光政大将や6号潜水艇の事故で殉職する佐久間勉大尉、さらに退役後、明治神宮の宮司を経て昭和の陛下の侍従長になりマックアーサー元帥との会見に同行した藤田尚徳大将がいます。中でも佐久間大尉とは「在学中から親友だった」と回想しています。
明治37年に開戦した日露戦争の黄海海戦では駆逐艦に乗務して水雷戦、日本海海戦では戦艦に転任して砲撃戦を経験しますが、これは成績優秀者を育成するための人事だったようです。日露戦争後は砲術学校、続いて海軍大学校に入校し、第1次世界大戦中の大正4(1915)年にはヨーロッパに出張して、帰国後は小規模な艦隊で海賊的に船団を襲い、港湾施設を艦砲射撃していた軽巡洋艦・エムデンなどのドイツ艦艇を警戒していたイギリスからの要請で南アフリカのケープタウンからシンガポールまで航行する商船を護衛する任務でインド洋を往復しました。大正11(1922)年に海軍大学校教官から軍令部第2課長に赴任すると前年にワシントン海軍軍縮条約が締結されており、88艦隊計画を推進していた加藤友三郎海軍大臣が条約の履行に舵を反転させ、伏見宮軍令部総長や加藤寛治連合艦隊司令長官を中心とする艦隊派と厳しく対立していたのです。ただし、艦隊派の背後には88艦隊計画による莫大な収益を期待していた造船業界の後押しがあったのは間違いありません。この事態に砲術士官として艦隊派に加わっていた高橋大佐は海軍省が予算執行の一環として艦艇の建造まで管轄下に置いていることを問題視して、海軍省を事務業務だけに縮小させるべく活動を開始したのです。ところが大正15(1926)年に連合艦隊参謀長に着任すると加藤司令長官の狂気とも言うべき無謀で強引な訓練を推進することになり、昭和2(1927)年8月24日には夜間演習中の多重衝突事故・美保関事件が発生すると旗艦・長門を大混乱している現場海域から退避させようとする大失態を演じました。この事故は軽巡洋艦・神通の艦長・水城圭次大佐を軍法会議に掛け、自決に追い込んだことで責任を回避し、翌年には初めて航空母艦を組み込んだ第1艦隊司令官に就任しました。そんな軍歴を重ねていた昭和6(1931)年に満州事変が勃発すると陸軍省を差し置いて参謀本部が直接介入して事態を指図することになり、これを海軍も踏襲・模倣する形で軍令部優位の体制が実現しましたが、それが戦時下では海軍省が軍令部の御用機関と化して政治的統制機能を喪失させる結果を招いたのです。その一方で連合艦隊司令長官だった昭和11(1936)年には対米戦争を回避するため呉鎮守府司令長官の藤田大将と共に軍事参議官に退くことで同期でも68位卒業で昇任が1年遅れていた米内大将を海軍大臣に引き出しましたが、昭和14(1939年)には予備役に編入されて第2次世界大戦は白金の洋館で傍観していただけでした。
- 2020/06/15(月) 13:37:19|
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翌週、志織はハワイ島のポハクロア演習場での30マイル行軍訓練に参加した。ポハクロア演習場はハワイ島の5パーセントに相当し、陸上自衛隊最大の北海道・矢臼別演習場の3倍の面積を持つ。また海抜が高いので気温が低く、ハワイでありながら将兵に寒冷地での状況を体験させられるため環太平洋合同演習・リムパックなどでも使用されている。
海兵隊の大型輸送ヘリコプターに分乗して演習場の管理地区に降り立った予備士官訓練課程(ROTC)の受講生たちは指導教官である海兵隊の下士官たちから今日の昼から明日の朝まで3食分のコンバット・レーションとMー16小銃を受け取ると4列横隊で整列し、大学での訓練で習っている要領で小銃の外観と機能の点検を実施した。
「ミジップマン・モリヤ。武器、健康、装具、異常なし。出発準備完了」前に海兵隊の下士官が立つと受講生は大声で申告する。指導教官の目は鋭く受講生たちの心を射抜くような迫力があるが、志織は演習で野性に返って戻った父を思い出して逆に懐かしかった。
「貴様は日本人だな。そんな貧弱な体で重い荷物を持って歩けるのか。途中でギブアップするならここで家に帰ってお勉強してろ」「ノー、サー(いいえ)。日本軍はイオージマ(硫黄島)でアメリカ海兵隊を敗りました。今回も負けません」志織は両親に「アン・オフィサー・アンド・ア・ジェントルマン(邦題・愛と青春の旅立ち)」のDVDを見せられたことがある。この点検と問答はその冒頭の場面の再現でもある。指導教官がルイス・ゴセット・ジュニアと同じアフリカ系なのも嬉しくなる。しかし、ここで笑うほど海兵隊員は甘くない。顔に精一杯の憎悪を浮かべると「覚悟しておけ」と言い捨てて次の聴講生の前に移動していった。
「スポーツ・ドリンクが喉にまとわりつくな」「本当だ。喉は乾いてるのに舌が拒否している」高所とは言え北緯19度から20度とフィリピンと台湾の中間に位置するハワイ島の日差しは強烈で体感気温が高い。受講生たちは脱水症状を予防するため水筒に入れてきたスポーツ・ドリンクを飲んでいるが、発汗が進んでくると独特の甘みと濃度に舌から喉が拒絶反応を示し始めた。何よりもアメリカ軍用水筒は凍結防止の保温性はあっても冷たさは維持できないため生温いスポーツ・ドリンクでは普段でも飲む気にならない。
「シオリ、お前は平気なのか」隣りで水筒の水を控え目に飲んでいる志織に同級生の男子受講生が声をかけてきた。周りの受講生たちも一斉に顔を向けた。訓練冒頭の海兵隊員を恐れぬ志織の発言を聞いて、この日本人の女子聴講生に好奇心を抱いたらしい。
「うん、薄い塩水だから気にならないよ」志織の返事に海兵隊員も顔を向けた。海兵隊員たちは担当する聴講生の個人情報を読んでおり、志織が陸上自衛官の娘であることは知っている。先ほどの返事も陸上自衛官からの挑戦と受け取っているのかも知れない。
「どうして塩水を入れてるんだ」「ダディは歩兵中佐だから行軍訓練のプロなのよ。汗をかく時は水に微量の塩を混ぜておくと血液細胞の浸透圧が維持できるからバテないって教えてくれたんだ。日本兵の知恵だって」志織の説明に受講生たちは顔を見合わせた。
「日本陸軍の歩兵は今でも徒歩訓練をやるのか」「うん、62マイル歩いて戦場に移動して、そこに陣地を作って迎え撃つのがシナリオの定番だって。それも敵に見つからないように夜間に歩くんだよ」「62マイルかァ。ハワイ島の直径に近いな。日本陸軍にはヘリやトラックがないのかな」本当は100キロなのだがアメリカ式のマイルでは端数が入ってしまう。この話をする時、父は「石油の輸入が滞って燃料が欠乏している中での戦闘」と説明していた。個人的には自転車の銀輪部隊の方が好みなのだそうだが、祖父のノザキ中佐は「元エア・フォース(=航空自衛隊)とは思えない時代感覚」と呆れている。輸送機のパイロットにとっての100キロは離陸してそのまま着陸する「頼まれれば何時でも運んでやる」程度の距離なのだ。
「サージェント、ミジップマン・スミスが倒れました」行軍訓練も海抜1000メートルを超えると酸素が希薄になり、疲労も重なって意識を失う聴講生が出始めた。志織の前を歩いているヨーロッパ系の男子受講生が突然、背嚢の重さで仰向けに倒れた。
「これは酸欠だな」志織の報告に最後尾を歩いてくる指導教官は歩調を変えることなく近づくと、白目を向いている受講生の鼻に手の甲を近づけて呼吸を確認した。
「アンビ(救急車)も満員じゃあないかな。こいつは大柄だから背負って歩くのは嫌だよ。その点、ミジップマン・モリヤなら軽そうだが」続いて頸部を指2本で触れて脈を確認すると指導教官は珍しく軽口を叩いた。「大したことはない」と判断したようだ。
「水をかければ目を覚ますだろう」そう言って下士官は自分の水筒の水を受講生の顔にかけると本当に意識を取り戻した。これは父の空曹時代の体験談にもあった処置だ。その後、父は背負って歩いたのだからこの下士官の方が運は良い。

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- 2020/06/15(月) 13:35:46|
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1942年の明日6月15日にハワイで後の第442戦闘団の基幹となる日系人による第100歩兵大隊の再編成が始まりました。第100歩兵大隊は1940年10月29日にハワイの日系移民を徴兵の対象としたことで新編された部隊です。
1941年12月8日に日本海軍がハワイ・真珠湾を空襲すると海岸の防備に当たっていましたが、フランクリン・ルーズベルト政権は日独伊三国軍事同盟と敵対関係になったにも関わらず日系人だけを敵視し(市民レベルではドイツ人、イタリア人にも敵意と警戒心を抱いていたが)、アメリカ本土では強権発動の根拠となる法律もなく大統領命令だけで移住して真面目に働いて築いた生業や財産を奪い、犯罪者が収容される都市部の刑務所よりもはるかに待遇が劣悪=過酷な砂漠地帯に設置された強制収容所に収監しました。一方、ハワイでは移民の人数が多く、流通業などで社会に果たしている役割が大きかったため指導的立場にある者だけを重点監視し、危険人物だけを収監するに留めていましたが、武器を持たせて軍務に就かせることには不安を抱き、事実上の任務停止=解隊状態にしていました。
そんな中で日本が国際連盟創立時に主張した「人種差別の解消」を大義名分とする「大東亜新秩序」=「アジアの植民地からの解放」を戦争の目的に掲げるとアメリカが日系人だけを強制収容していることを格好の実例としてアジアでの反英米宣伝に利用し、ナチス・ドイツもヨーロッパで同調したのです。これを受けてルーズベルト政権は「日系人をアメリカ人と認めている証拠」として戦争前には陸軍内で高い士気と練度を絶賛されていた第100歩兵大隊の再編を内々に決定し(非公表)、徴兵対象でも予備役扱いにしていた1432名を召集して「ハワイ臨時歩兵大隊」を編成すると離島航路の小型船・マウイ号でカリフォルニア州のオークランドへ送り、北部五大湖沿岸のウィルコンシン州のキャンプ・マッコイで訓練を開始したのです。この「臨時歩兵大隊」は大隊長以下3名のヨーロッパ系士官以外は幕僚と各中隊長の士官から下士官、兵に至るまで全て日系人で、戦線の拡大に伴い拡充が予想される「日系人部隊」の基幹要員として練成する意図が明らかでした。しかし、ルーズベルト政権は国民に日本への敵意を扇動することを優先したため多くの日系人が志願し、訓練に励んでいる事実を国民に公表せず、正式に日系人部隊の編成が発表されたのは第100歩兵大隊がミシシッピー州のキャンプ・シェルビーに移動した1943年1月28日になってからです。現在では日系人2世部隊の代名詞になっている第442戦闘団はこれ以降に募集された将兵で編成されました。
実はこの前からアメリカ軍は日本軍の無線傍受と通信文の翻訳、暗号解読や通訳などに約3500人の日系人を動員していたのですが、あくまでも個人の特例的軍役であって部隊を編成したのは第2次世界大戦下ではこれが初めてでした。
また本土からの志願者たちは家族が強制収容所から解放されることを期待していましたが、閉鎖されたのは1945年9月2日に日本が降伏文書に調印して2ヶ月が経過した11月から年末にかけてでした。ただし、第442戦闘団がヨーロッパ戦線から帰還したのは1946年7月中旬ですから家族は強制収容所にはいなかったことになります。
- 2020/06/14(日) 13:20:27|
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「ルテナン・カーノー(2佐)・モリヤ、グッド・イブニング・サー(こんばんは)」「グッド・モーニング・ミジップマン(海軍と海兵隊の候補生)・モリヤ」夏休みに入ったばかりの志織が電話をかけてきた。時差11時間なのでこちらの夕方の8時(オランダではまだ明るい)は向うの朝の9時だ。
「ROTC(予備士官訓練課程)の夏休みの課題の相談か」「ううん、今回は実技なの」考えてみればアメリカは9月に学年が進むので夏休みは日本の春休みのような意味もある。今回の実技訓練は次の段階へ進むための試練なのかも知れない。
「海兵隊要員と一緒に30マイル行軍訓練があるんだけど、歩兵中佐としてアドバイスをお願いします」「30マイルと言うことは48キロと280メートル30センチだから陸上自衛隊の新隊員後期課程並みだな」久しぶりに陸上自衛隊の話題で嬉しくなった。普通科連隊の演習では100キロ歩いたが、久居の共通教育中隊の新隊員前期課程では25キロだった。考えてみれば私が50キロ歩いたのは学生と班長として3回経験している防府の曹侯学生空曹候補者課程の1泊2日行進訓練だが、あちらの1日分は25キロに過ぎない。
「背嚢は何キロだ「背嚢って何」「軍隊用のリュックサックのことだよ」「スパインね。今のところ20ポンドだけどこれにコンバット・レーション(携帯食)を3食入れるの」20ポンドと言えば9キロと18グラムだからこれも陸上自衛隊の新隊員後期課程並みだ。
「コンバット・レーションよりも水筒の方が重いぞ。アメリカ軍は2本携帯するだろう」「うん、1日の摂取量は自己責任で携帯するんだって」何だか私も参加したくなってきた。富士での演習でアメリカ海兵隊と一緒になったことがあるが、野性動物のような巨体には圧倒されても持久力や戦闘技量は大したことはないと言うのが率直な所見だ。強いて言えば人を殺すことに躊躇しない残酷さが陸上自衛隊との違いだろう。
「荷物については出し入れする頻度や順番ではなく重い物を底に入れるんだよ。それも重い物は背中に密着させることだ」「そんなアドバイスを待ってたのよ。メモするわね」志織の反応を聞いて似たような会話をどこかでしたような気がしたが思い出せない。
「志織は日本人の女性だから骨格が細いだろう。背嚢の・・・」「スパインです」「スパインのストラップを掛ける両肩にはタオルを入れておいた方が良いな」「はい、荷重を和らげるのね」こんな反応よりも志織の声の方が遠い記憶を手繰り寄せてくるような気がする。
「歩いていると足が汗をかくだろう。靴下にしわが寄るとそこに肉刺(まめ)ができるから休憩の度に紐を緩めて引っ張っておくことだ」ここで記憶が甦った。前川原での80キロ山岳踏破訓練で佳織に言えなかったアドバイスだ。そこで母の苦労話を披露することにした。
「佳織はオフィサー・キャデット・スクール(士官候補生学校)の80キロ山岳踏破訓練で、初日に足に肉刺ができて2日目は何とか耐えたんだが、3日目の朝の戦闘訓練の突撃で動けなくなってしまったんだよ」「マミィはダディのアドバイスを聞かなかったのね」何となく志織が「今みたいに」「その頃から」と言い足しそうなので先に弁護した。
「ワシが別の作業に行っていてアドバイスできなかったんだ。今回、志織にできたからせめてもの罪滅ぼしだな」本当は区隊長に介助を命じられ、2人で野草を探しながら帰った甘い思い出もあるのだが、訓練の厳しさが薄れてしまいそうなので控えた。プロシアの戦争哲学者・クラウゼヴィッツ少将が定義している通り、「軍人は過酷な体験を誇示する人種」であって、「甘い思い出を語る軟弱者」ではないのだ。
「これは少し言いにくいんだけどグラマーな女性は乳当ての下着の紐も意外に気になるものらしい。それから生理中で貧血を起こしたWACもいたな」「乳当てってブラのこと。私は重さを感じないから心配ご無用、生理日じゃあないからそっちも大丈夫よ」いきなり志織の乳には膨らみがないことを告知されてしまった。佳織はセクシー・ボディなのに誰に似たのか。生理で意識を失ったのは久居の新隊員前期課程の25キロ行軍に同行した中村昌代3曹だが、あの時は背負って2キロ以上歩いた。防府での曹侯学生基礎課程のむつみ訓練でも熱射病で倒れた穴見曹侯生を背負って山を下ったこともある。ここで志織に1曲聴かせることにした。
「友を背にして道なき道を 征けば戦野は夜の雨 『すまぬ、すまぬ』を背中に聞けば 『馬鹿を言うな』とまた進む 兵の歩みの頼もしさ」これは火野葦平の体験談的小説「麦と兵隊」を映画化した時の主題歌で「徐州徐州と人馬は進む」が唄い出しなのだが、あえて2番にした。
「志織にはアメリカ人の学生を背負うことはできないだろうが、予備士官候補生として周囲に気を配る余裕は維持するように」「アイアイ・サー」返事は海軍式になったが、気分は久しぶりに陸上自衛隊に帰ってしまった。もう一度、梢と散歩に行きたくなってきた。
- 2020/06/14(日) 13:18:49|
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「モリヤ2佐の奥さんが帰って来たんだね」陸上幕僚監部の朝礼で佳織が転入幹部として紹介されると法務官室の事務室でも久しぶりに雑談が盛り上がった。後任の佐藤1尉は地方の国立大学法学部の出身だけに根っからの優等生の模範生で、「固い職業に就きたくて自衛隊の幹部候補生を受験した」と言うだけあって現在の事務室は勉強部屋のような緊張感が充満している。
おまけに法務官は定年退官し、3月の定期人事異動で1曹は元の職種である高射特科群に転出し、後任はWACで独身の2曹なので法務官室は女性が過半数になっている。このため曹長は他の部署の男子隊員たちから「ハーレム」「大奥」などと羨ましがられているが、実態は「アマゾネス」であり本人は気疲れして急に老け込んでいた。
「ところで先日、監理部の総務課長が確認に持ってきた女性のことをモリヤ1佐は知ってるんですかな」女同士の雑談になれば日頃は無愛想なニ村由美事務官も口を挟む。優等生面が鬱陶しい佐藤1尉も所詮は独身なので話題は自衛隊限定だ。弁護士としての法律の専門知識から副業の坊主の宗教論、おまけに歴史や政治にまで果てしなく話が広がり、どこまでも掘り下げていったモリヤ2佐に比べれば扱い易く、かなり手慣れてきている。
「それはオランダの防衛駐在官から2級賞詞を授与された時に立ち合っていた女性のことね。和服を着ていたから正式な出席者だろうって確認に来たんだったわよね」佐藤1尉の返事にニ村事務官と2曹はうなずいたが、曹長は耳だけを貸している。
「結局、問題になると拙いからって朝風に写真は使わなかったんでしたよね」部内紙・朝風が6月末にイージス護衛艦・あまごと漁船の衝突事故の無罪判決が確定した記事を特集すると一般紙があまり取り上げないだけに情報を渇望していた隊員から賞賛と続報を求める声が寄せられたらしい。そのため7月中旬の隔週号でモリヤ2佐に統合幕僚長から2級賞詞が授与された話題を掲載しようとしたのだが、部内紙・朝風にオランダの駐在記者がいるはずがなく特派員を出張させる予算もない。それで記念写真の提供を依頼して届いたのが和服の女性が見守る前で賞詞を受け取るモリヤ2佐の写真だった。
「それでニ村さんは岡田元事務官に確認したの」佐藤1尉としては1佐である総務課長からの照会を放置することはできず、「モリヤ2佐とは特に親密だった」と言う前任者の岡田恵子元事務官に確認するようにニ村事務官に指示していた。
「私は岡田のお婆さんはチョッと・・・それにモリヤ2佐と岡田さんは不倫関係を疑われていましたから別の女性の存在がバレると話がヤヤコシクなりそうで・・・」ニ村事務官は3月11日に発生した東北地区太平洋沖地震への災害派遣のため9月1日まで定年退官を延期していた岡田元事務官の後任として配属されてきたのだが引き継ぎの際、防衛省事務官だけでなく女性としても常識が欠落いたことで厳しく指導を受け、度々叱責されていた。それをいまだに逆恨みして根に持っているようだ。ただし、不倫関係についてはこの下卑た女性(「ブスな」でもある)の邪推に過ぎない。不倫の鐘を鳴らしているのは本人の方だ。
「岡田元事務官とモリヤ2佐が不倫ですか・・・確かに奥さまは香川県に単身赴任していたけど、10歳年上だと私と曹長の逆ですよね」「ゴホンッ」独身の2曹がWAC隊舎内の会話のような見解を述べると曹長が咳払いをした。同世代の独身女性同士で佐藤1尉と2曹の波長は合うようだが妻帯者の曹長は苦手だ。とは言えこの容姿劣悪、性格劣悪、品行劣悪と3拍子揃っている最悪の女性・ニ村事務官には近づきたくもない。最近、お茶出しを2曹に命じたのも表向きは年齢が理由だが本音はニ村事務官が触れた湯呑を使いたくないのだ。
「ニ村事務官の個人的事情は別にして私からの指示は公務だから早急に実施しなさい」「逆にモリヤ1佐に訊けば判るかも知れませんよ。結婚すると相手がやることに勘が働くようになりますから」「それで浮気がバレたんだな」変なことで熱弁を奮い始めたニ村事務官を黙らせるため曹長が冷水を浴びせた。モリヤ2佐がA日新聞に閣僚の靖国神社参拝問題の取材を受けた背景にニ村事務官の情報提供があり、その記者と不倫関係だったことを聞いた時には机を並べていた1曹と2人で「あの女を抱ける記者は凄い」「俺なら起たない」「それも取材のテクニックなのか」と並はずれた精力と記者魂に感心していた。
その頃、佳織は着任後の挨拶回りで、電話で話したことがある総務課長の牛尾1佐から2級賞詞の授与の時の写真を渡され、さりげなく梢について確認を受けた。
「この人は私設秘書です。息子の嫁の母親で非常に優秀な人だから同行をお願いしたんです」やはり顔色を変えない人妻のモリヤ1佐に牛尾1佐の背筋にエアコンの風が吹き込んだ。
「それでは別の借家に住んでいるんですね」「いいえ、同居していますよ。家政婦も兼ねていますから」結局、モリヤ2佐は妻公認の不倫相手とオランダに赴任したと言う結論になった。
- 2020/06/13(土) 13:42:33|
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