1946年の明日8月1日にソ連軍の創設期からの戦闘に参加して抜群の軍功を上げ、卓越した指揮能力と高潔な人格によって兵士の絶大な支持を受けていながら独ソ戦で捕虜になってからはスターリン体制に反対する立場からナチス・ドイツの協力者として活動したアンドレイ・アンドレーエヴィッチ・ウラソフ少将が刑死しました。
ウラソフ少将は1900年にヨーロッパ・ロシアの中央にある城塞都市・ニジニ・ノヴゴロドで仕立屋を経営する農家の8男として生まれ、神学校に進学したものの1917年にロシア革命が勃発したため革命軍に兵隊として参加しました。その後のウクライナやクリミアなどの皇帝支持派との内戦で活躍して狙撃兵連隊長にまで昇進しています。1930年には富農の娘の女医と結婚しましたが、1936年から始まった大粛清で富農が搾取者として敵視されたため表面上は離婚しました。さらに1938年からはスターリン書記長が蒋介石総統の対日戦を支援するために送った軍事顧問団に加わり、1939年11月からはソ連のフィンランド侵攻=冬戦争に参戦しています。冬戦争でソ連軍はフィンランド軍のモッティ戦術に散々撃破されましたが、その敗因には大粛清による士気の低下と規律の弛緩があり、ウラソフ大佐は優れた指揮と統御で引き締めを図り、雪中の撤退においても部隊を維持していたと言います。これらの軍功により1940年には少将に昇任しますが、その年の6月に同盟国だったはずのナチス・ドイツが侵攻を開始すると軍団長に就任してキエフ要塞地区を担当することになりました。担当地区の守備に成功すると首都防衛戦に参加する転属を命せられてナチス・ドイツ軍の包囲を突破してモスクワに向かい、1942年2月からは陥落寸前だったレニングラード(元と今のサンクトペテルブルク)の救援の任務を与えられました。しかし、厳冬期で補給が受けられずソ連軍の戦争指導部はウラソフ少将だけを救出するために飛行機を飛ばしましたが、兵員を置き去りにすることを拒否して残り7月12日にナチス・ドイツ軍の捕虜になったのです。
捕虜としては特別収容所が用意され、ナチス・ドイツ陸軍最高司令部東方外国軍科のラインハルト・ゲーデン大佐の接触を受けたことで協力者になりました。その背景にはスターリーグラードで別れた妻から「スターリン書記長がウラソフ少将の名声・人望に嫉妬心を抱いている」と言う書簡を受け取って粛清の対象になる可能性を実感したことが理由とされています。人望の高いウラソフ少将の投降呼びかけの放送の反響は大きく、前線で戦っていたソ連兵の多くが銃を捨てて投降し、ソ連軍の作戦は崩壊の危機に瀕しました。しかし、戦況を挽回するにはすでに遅く、スラブ人を蔑視するヒトラー総統の顔色を窺う軍上層部やナチス党はウラソフ少将を軽視したため戦争末期にはナチス・ドイツから離反して投降したソ連軍将兵で編成した「ロシア解放軍」を指揮してプラハ解放に参加しましたが、ドイツ領内でアメリカ軍に投降したにも関わらず部隊ごとソ連軍に引き渡され、秘密裁判で死刑判決を受け他の同士と共に軍人としての名誉も奪う絞首刑に処されたのです。現在のロシアはスターリン体制に抵抗した「ロシア解放軍」の将兵の名誉を回復しましたが、ウラソフ少将だけは「国家への裏切り者」として放置しています。
- 2020/07/31(金) 11:15:07|
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翌朝、ホテルに迎えに来た杉本は今まで見たこともない温和な微笑を浮かべていた。それを見て本間の背中には失礼な悪寒が走った。
「昨日は良い子だったな。ヨシヨシ」おまけに頭まで撫でてくる。ただし、その手つきはペットの頭を撫でる飼い主で、続いて「お手」と言いそうだ。
「ご褒美にモーニング・コーヒーをご馳走しよう。ロビーのコーヒー・サービスで良いだろう」杉本は一方的に決めると空いているロビーの隅の席に向かって歩き出し、本間も後に続いた。
「お前の好みはセルべスのトアルコトラジャだったな。あの酸味が好きなのかな」本間が丸いテーブルの向かいの席に座ると杉本は2枚目を演じる役者のような台詞を吐き続ける。こうなると悪寒の続きで発熱しそうだ。杉本は困惑して反応しない本間にもう1度微笑みかけると傍らに立ったウェイトレスにコーヒーの銘柄の指定ができるかを確認した上でトアルコトラジャを2杯注文した。丸いテーブルの向かいの席から注視すると今日の杉本は妙に満ち足りていて、よほど幸せな時間を過ごしたようだ。
「昨夜、ホテルのレストランで中共人と思われる男2人が話しているのを聞いたんですが・・・」本間は杉本が携帯電話型の盗聴電波感知器で確認するのを待って昨夜の経験を話し始めた。すると杉本の顔は口元では微笑みを造りながら眼だけが鋭くなった。それでもフロントに背を向けているので本間以外には見えない。この隙のなさが温和な微笑みを単なる偽装に思わせる。
「中国人は国土が広いから地声が大きいそうで筒抜けでした」「それはお前に聴かせようとしたんじゃあないか」「私の方が後から席に着いたので待ち伏せはできません」本間の説明は中央道から聞いた中国人の自虐的な見解だが杉本は納得しない。それでも補足説明にはうなずいた。
「奴らの話では中国共産党は1989年の天安門事件で学生たちが国家転覆を狙う暴動を起こしても西側マスコミは『民主化運動』と一方的に礼賛して、首都の治安を維持するために党が執った非常手段を徹底的に糾弾してくることを学習したのだそうです」「お前はそれを冷静に聴けたのか」「暴れたくなる衝動を抑えるのに苦労しましたが、何とか平静を装いました」杉本は本間が大学時代に愛し合った留学生が1989年6月4日の天安門事件で死んだことは知っている。ところが身元不明の中国人たちは民主化を推進した胡耀邦元総書記の急死を受けて学生を中心とする若者たちが天安門広場で行っていた追悼の集会を「国家転覆を狙う暴動」と批判し、天安門に向かう群衆に興奮した兵士が命令を受けずに銃を乱射したことから始まった犯罪的殺傷事件を「治安維持のために党が執った非常手段」と擁護していたらしい。日頃の本間の言動から言えば冷静に傍聴人になっているのはかなり大変だったことは理解できる。杉本はもう一度頭を撫でたくなったが、そこにコーヒーが運ばれてきた。
「レディ・ファーストでハニー(=妻)に先に」杉本はテーブルの手前で立ち止まったウェイトレスに英語で指示した。タイ的美人のウェイトレスは全く身映えしない本間がかなり美男子の杉本の妻になっていることに同じ女性として羨望を覚えたのか、コーヒーを置きながら顔を覗き込んだ。一方の本間は杉本が自分を紹介した「ハニー」が親しみを込めて妻を呼ぶ時に用いられることは知っているが、別の意味がないかを考えていた。
「つまり最近の中国共産党がアジア各国で華僑と学生にデモを起こさせて政府に圧力を掛けているのは天安門事件の経験を逆に利用していると言うことだな」本間が悩んでいることは無視して杉本は仕事の話題を続けた。実は杉本が本間を妻にしたのは頭を撫でる代わりのご褒美だった。
「実際、2010年のデモで国軍と治安部隊が発砲した事件では天安門と同じように国際世論の批判を扇動することに成功しました。ところが今度はタイ人市民の反華僑のデモが始まり、それが日に日に大規模になっていることに困惑しているようです。それで激論を交わし始めました」「折角のトアルコトラジャが冷めるぞ」本間の熱弁にも同調しないところが杉本らしい。それは興奮状態の説明には誇張や曲解を断定的に述べてしまう危険があるため必要な間ではある。
「それで結論的には華僑側も反デモのデモを起こして市民同士の対決で死傷者を出す。それをタイのマスコミが反華僑勢力を軍部と結託した民族主義者と批判しながら議会制民主主義に基づく現政権の正当性を世界に発信する。それを受けて各国のマスコミが反政府デモを批判する報道を展開して国際世論の圧力で反華僑勢力を一掃する。そして国王も共犯として権威を失墜させると言うシナリオを考えているようでした」「極めて毛沢東的な手法だな。お前も中国本土に入れなくても活躍の場ができて良かったな。お前まで長期滞在させる訳にはいかないが、俺は今回の事態の結末が見えるまでここに留まるつもりだ」やはり今回の杉本はどこかおかしい。本間はご馳走してもらったトアルコトラジャを飲み干すと丁寧に頭を下げた。口の中に残ったかすかな酸味が何故かいつもよりも心地好かった。
- 2020/07/31(金) 11:13:48|
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1970年の明日7月31日にイギリス海軍が大航海時代からの粋な制度だったラム酒の配給を廃止しました。
イギリス海軍がラム酒を配給し始めた理由は艦船に積載する飲料水を樽詰めにしていたため航海中に黴が発生し、樽の木材から腐敗が始まるなどの問題に衛生上の対策としてアルコホール飲料を配給したことからでした。当初はアルコホールが弱いビールでしたが、航海の長期化と南洋の高温多湿な気候によって水と同様の劣化が発生するようになり、少しは腐敗しにくいワイン、さらに高濃度の蒸留酒であるブレンデーに変更されましたが、1655年にジャマイカを占領したことでイギリス人入植者が西インド諸島で栽培を始めた砂糖黍で作った安価な地酒のラム酒が採用されたのです。しかし、高濃度のアルコホールを勤務中に飲用させることはできず下士官、水兵には水割りで支給され(士官は原酒)、その濃度はラム酒1に水4から始まって第2次世界大戦中は鎮静剤効果を期待したのか1に3と濃くなり、戦後は飲料水の保存技術の発達によってラム酒が待機中の嗜好品になったため1に2の酒として支給されていました。ちなみに当初の1に4の比率は原酒の支給を受けた下士官や水兵がすぐには飲まずに隠し持ち、酔うためにまとめて飲んでいることを防止するため保存が効かない1に4の水割りが始まったのです。このエドワード・バーノン提督が決めた対策は下士官や水兵には不評で、提督が愛用していた絹と絹の混紡のグログラム生地のコートが「オールド・グロッグ」と言う仇名になると「グロッグ」がラム酒の薄い水割りの名称になり、やがて飲んでも酔えないことの意趣返しに酔っ払いの千鳥足を「グロッギー」と呼ぶようになりました。この粋な制度はイギリス海軍の代名詞になり、トルファルガーの海戦で狙撃を受けて死亡したホレーション・ネルソン提督の遺骸を本国に持ち帰るためラム酒の樽に漬けておいたところ乗組員たちが飲んでしまって入港した時には空になっていたと言う伝説(=史実らしい)まであります。
この衛生保持のためアルコホールを支給する制度はイギリスの植民だった国の海軍にも継承され、アメリカ海軍ではロバート・スミス海軍大臣がラム酒をライ麦が原料の国産品=ライ・ウィスキーで代用することを決定して、それを水割りで飲むように通達したため水兵たちは「グロッグ」に倣って「ボブ・スミス」と呼ぶようになりました。
そんなイギリス海軍の軍艦乗りの生き甲斐でもあるアルコホールの支給廃止は海の男たちを悲嘆の淵に沈め、今でもこの日を「ブラック・トット(「微量」の意)・デー」と呼んで悪夢の記念日にしています。ちなみにアメリカ海軍は1862年、カナダ海軍は1972年、ニュージーランド海軍は1990年に廃止しましたが、イギリスやカナダ海軍では帆船時代に切れたメイン・マストの操作ロープをマストに登って修復したのに匹敵する英雄的行為の報償としてラム酒を支給する制度は残っています。
実は自衛隊内での飲酒は駐屯地司令、基地司令、艦長が指定した場所=隊員クラブや宴席会場でしか許されないのですが、外出できない者への土産として持ち込むことが常態化して(休日は隊員クラブが休業のため)、いつの間にか野放しになってしまったようです。
- 2020/07/30(木) 12:38:24|
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「珍しく素直にホテル内で過ごしていたぞ」ホテルに電話をすると意外にも本間は部屋にいた。杉本の妙にハシャイダような顔を見てトミタ少佐は少し嫉妬を感じながら質問した。
「その女性記者はどんな人なの」「大学時代に同棲していた中国人の留学生が天安門で殺された仇を取ろうと燃えている変な奴だ。色気は全くないから女1人にしても心配はないよ」本当は本間が愛し合っていた中央道(ゾン・ヤオドウ)は留学生用のアパートで生活していたので同棲はしていなかった。要するに本人が漏らした思い出話に尾ヒレが着いていたのだ。
「シャワーを浴びたら艦隊決戦だ。今回も撃チンするぞ」片づけを終えたトミタ少佐を後ろから抱き締めてふざけた宣戦布告をすると腕を振りほどいて真顔を向けた。どうやら点けている「テレビの英語ニュースを見ろ」と言うことらしい。それは今回の反政府デモの指導者になっているアビシット政権で治安担当だったステーブ元副首相に対する記者団の囲みインタビューだった。
「貴方は2010年4月10日の暗黒の土曜日事件で国軍や治安部隊に発砲許可を与え、90名以上を虐殺した殺人罪で告発されましたが、このデモを利用して自分の裁判を妨害しようとしているのではないのですか」やはり外国人の記者の質問には敵意とは言わないまでも悪意が含まれている。流暢な英語で質問しているところを見るとアメリカかイギリスのマスコミかも知れないが、韓国でも保守政権を軍事政権の継承者として批判的に報道するのが海外マスコミの基本姿勢で在韓アメリカ海軍の広報官としてトミタ少佐も苦労した。
「あのデモ自体が中国共産党の指令を受けた華僑による国家乗っ取りとそれに同調する毛沢東主義の洗脳を受けた若者による暴動ですから、あらゆる手段を講じて鎮圧するのは政府の責任でした。それを刑事裁判に持ち込んだのは憲法裁判所によって自分たちの政権が憲法違反であることを認定された華僑政権、シナワトラ家の妹の焦りでしょう」ステープ元首相の回答に外国人記者の間から低くブーイングが起こった。そのインタビュー中も周囲からデモ隊の絶叫が聞こえていることから現場になっている政庁街での囲みなのが判る。
「貴方たちの政党は選挙を拒否して不戦惨敗しながら司法を使って議会で圧倒的多数を獲得した政権与党を否定しましたが、今度は議会制民主主義を完全に否定して暴力による政権奪取を画策しているんですね。それで政党なんですか」今度の記者の英語は訛りが強いので非英語圏のマスコミかも知れない。それでも悪意に変わりはない。
「残念ながら我が国では欧米式の議会制民主主義が成立する基盤が議会制民主主義を認めていない共産主義国家の策謀によって崩壊してしまいました。国王陛下に忠誠心を抱かず、タイ民族に愛着を持たず、自国よりも中国共産党に従属する首相が選出される議会制民主主義がこれ以上、継続されれば国家そのものが破滅する。それは最早欧米的な手続きでは阻止できないのだ」この回答が聞こえたのか、周囲から賛同の叫び声が響き始めた。
「これでは俺の取材は長くなりそうだな。当然、華僑側も対抗するデモを起こすだろう。両者が武力衝突すれば内戦に発展しかねない。おそらく華僑政権は国軍の出動は認めないだろうから、国軍が独断で出動すればそれはクーデターだ。それでも沈静化するまで年内一杯かかるぞ」「その間、貴方はここで暮らすのね」杉本の見解にトミタ少佐はクミコになってうなずいた。先ほどの宣戦布告で「撃チンするぞ」と言ったのは「撃沈」では「男根による攻撃」の意のジョークだった。ここまで「お預け」させられてはシャワーの後まで待ち切れず、そのまま水中で艦隊決戦になりそうだ。ただし、海軍軍人を溺れさせるには水量不足な気もする。
「まったくアイツは私の飼い主のつもりなのかねェ」ホテルのレストランで夕食を終えて部屋で缶ビールを飲みながらラジオで中国語放送のニュースを聴いていた本間は杉本から所在確認の電話を受けて立腹していた。フロントから回ってきた電話に出ると杉本はイキナリ「おったぞ」と日本語で声をかけた。これでは逃げ出しそうなペットを心配している飼い主ではないか。
「大体、コマシの杉なら愛人の家に入ったところで始めるんじゃあないの。私のことを気にして電話してくるなんてらしくないよ」杉本が端正な風貌と巧妙な弁舌、洗練された立ち振舞いと「悪魔の手」と噂される性技で女性を籠絡して情報を収集していることは海外出張して不在になっている間に岡倉や松本から聞いている。その一方で韓国のジャーナリストだった愛人を秘密保持のために殺害したことで女性を単なる道具と見ていることも判明した。アメリカ海軍士官らしい今度の愛人も利用価値がある間だけの関係のはずだ。本間にはそんな冷血人間が自分を心配する理由が判らず、どこか不気味だった。
「そう言えばレストランで中国人が妙なことを言っていたな。杉本に教えれば良かった」本間はラジオの中国語を聴いていてレストランで隣りの席の中国人たちが大声で話していた内容を思い出した。それは今回の事態に関する内容だったが立腹して言い忘れた。
- 2020/07/30(木) 12:36:52|
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7月26日に現在アメリカでは「アフリカ系奴隷を使っていた南部の富豪を肯定的に描いている」としてネット配信自粛中の名作「ゴーン・ウィズ・ザ・ウィンド(邦題・風と共に去りぬ)」で清純な娘から良妻賢母になる主人公の友人・メラニー・ウィルクスを演じた女優・オリビア・デ・ハビランドさんが亡くなったそうです。104歳でした。
野僧は家にあった世界名作全集の巻頭に映画化された時の名場面の写真が掲載されていたため小学校の高学年で手に取っていきなりその清純な美貌に心奪われ、マーガレット・ミッチェルの原作を読み進めながらその場面の写真を喰い入るように見てしまいました(まだ年齢的に別の目的に使うことは知らなかった)。その後、沖縄で出会った亡き妻は日米のミックスだったこともあり、オリビアさんに少し似た面差しだったので国際通りの地下映画館で「ゴーン・ウィズ・ザ・ウィンド」を見た時にはオリビアさんが登場すると隣りの生メラニーを観賞したものです。また毎月購読していた映画雑誌に掲載されていた若い頃の写真はスタイル抜群で(一般のハリウッド女優のような巨大な爆乳ではなく円錐形の美乳)、その点も亡き妻に共通していて逆に会えない時にはグラビアを見て自分を慰めていました。
しかし、当時は「オリビア」と言えばイギリス人歌手の「ニュートンジョン」さんか、映画「ロミオとジュリエット」で主演して布施明さんの妻になっていた「ハッセー」さんのことで、飲み屋の有線放送で杏里さんの「オリビアを聴きながら」が流れて「オリビア」談議が始まると「ニュートンジョン」ファンは「フィジカル」を唄い、「ハッセー」ファンは布施さんの「君は薔薇より美しい」で対抗しましたが、「デ・ハビラント」ファンは黙っているしかありませんでした(野僧は映画「ロミオとジュリエット」の挿入歌「What is youth」を唄えましたがカラオケはなかった)。
そんなオリビアさんは第1次世界大戦中の1916年にイギリス人でケンブリッジ大学卒の東京帝国大学の英語教授とロンドンの王立演劇学校出身の舞台女優の間に生まれました。ところが娘たちの健康がすぐれないことを「東京の気候が合わないから」と考えた母の希望で1919年に家族で太平洋を渡って帰国の途に就きますが、船上でオリビアさんが気管支炎を発症したためカリフォルニアに留まって療養することになったのです。すると父親は日本から同行した家政婦と2人で戻ってしまったため、母親はアメリカで子供たちを育てることになりました。そうしてオリビアさんは妹と一緒に母親から音楽や弁論術などの演技の基礎を学び、高校生だった1933年に地域の素人劇団の「不義の国のアリス」で主演し、卒業後に地元の劇場でシェークスピア劇「真夏の夜の夢」に主演しているのを見た有名演出家の勧誘と推薦を受けて映画化された同作品でハリウッドに入り、やがて「ゴーン・ウィズ・ザ・ウィンド」のメラニー役を掴んだのです。この作品ではアカデミー賞助演女優賞にノミネートされたもののアフリカ系女中役のハティ・マクダニエルさんに譲ることになりましたが、1946年の「トゥー・イーチ・ヒズ・アウン(邦題・遥かなる我が子)」で主演女優を受賞して1941年にヒッチコック作品「断崖」で受賞していた妹のジョーン・フォンティンさんと唯一の姉妹主演女優賞受賞者になっています。心から冥福を祈ります。

役柄は「メラニー」になっている化粧後の写真。
- 2020/07/29(水) 13:45:32|
- 追悼・告別・永訣文
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夕食が終わってもタイの政治情勢の質疑応答が続き、アメリカ海軍連絡官に対する取材のような雰囲気になってきた。しかし、トミタ少佐はそれも仕事熱心な日本人男性の習性と受け止めて全く楽しくない対話を無理に弾ませていた。
「どうして王制のタイで中国共産党の手先なのが明らかな華僑が政権を握るようになったんだ」杉本も新たな愛人に決めたトミタ少佐が赴任し、東南アジアに担当替えされてからはタイの政治と軍事について研究しているが、アメリカではタイに限らず軍事政権を否定的に評価する論説・記事しかないため現地で実情を見聞しているトミタ少佐の見解を確認しておきたかった。
「結局、中国では欧米日が『私企業だ』と思って投資していても実態は共産主義体制だから、飛躍的に経済発展を遂げて獲得した莫大な利益は国家財政に吸収されるのよ。その潤沢な資金を世界各国の華僑に渡してマスコミを始めとする企業の株式を買い占め、私立学校に投資して中国に依存する社会を構築しているわ。タイは真っ先に狙われて昔から住みついている華僑が有力な軍人に政治資金を渡して軍事政権下で株式投資を進めた。そうしてマスコミと私立大学を影響下に置くと学生たちを毛沢東主義に洗脳して、1992年5月になると大規模なデモによって軍事政権の打倒に成功したのよ」この最後の部分はアメリカの論説・記事でも詳細に述べられていた。それでもオバマ政権も在アメリカ中国人華僑に株式を買い占められているマスコミの扇動で成立した親中政権なので「中国脅威論」が下火になって中国の関与については触れていない。
「それで民主化を名目にして国王と佛教の権威を否定する毛沢東主義を浸透させて都市部では華僑が社会の実権を握るようになったわ。そんな中で実施された2006年4月の下院選挙を保守政党がボイコットしたから華僑の政党が圧勝してタクシンの独裁政権が成立したの。ところがラーマ9世が1党だけが参加した選挙を承認しないで、憲法裁判所に審査を命じたことで毛沢東主義に洗脳された学生が華僑と一緒に暴動を起こした。これを鎮圧するために対抗して国軍が9月19日にクーデターを起こした話はさっきしたわね」トミタ少佐もアメリカ海軍の連絡官として公式には表明できない政治的見解を語り始めると胸に溜まっていた疑問や不満が堰を切ったように溢れて出したらしい。
「結局、タクシン首相は亡命に追い込まれて華僑政党の議席独占も憲法違反と言う判断が下ったけど、タクシン派の毛沢東主義者たちはデモで軍事政権の打倒に成功した1995年を再現しようと暴動を起こした。それを武力鎮圧したのが2010年4月10日土曜日の事件よ。それを受けて議会が再開されても華僑政党の議席独占は変わらないからタクシンの側近や義弟、妹が首相になっている。そんな状況だから野党は逆に大規模デモでインラック政権を打倒しようとしているの。今回は華僑に牛耳られていることに危機感を抱いている幅広い階層のタイ人が参集しているから妹も亡命することになりそうね」「あの首相は未婚の母なんだよな」前回、タイに来た時にはバンコク市内の華僑の店に貼ってあったインラック首相のポスターに身惚れたが、アメリカで調べてみると未入籍の相手との間に子供を儲け、仕事と育児を両立していることを誇示して若い世代にタイの道徳観の否定を扇動していることが判った。
「それにしてもタイの国軍がクーデターを起こして国王の聖断を仰ぐ行動原理は日本の戦前の皇道派と共通しているが、戦時中に日本軍から染められたんじゃあないのか」杉本も同様の意見だったが、日本で戦前に繰り返された2・26事件などの皇道派将校によるクーデターやテロと重ねてしまい全面的に肯定はできない。杉本は2・26事件を吉田松陰の狂気を宗教化した帝国陸軍の精神教育を鵜呑みにした愚かな青年将校たちが士官学校長だった真崎甚三郎の私的な権力欲と怨嗟による政権批判を真に受けて暴走した犯罪としか見ていない。
「確かに似ているわね。それも昭和天皇とラーマ9世はどちらも私心のない信仰の対象にされても不思議がない名君主だから成立する原理だけどアメリカ人には絶対に理解できないわ」日本では今の天皇が変わって以降、天変地異が頻発しているだけでなく、マスコミの扇動による亡国的な政権交代が村山政権を含めて3回も起こっている。それでも自衛隊員から個人的にも救国の叫びを聞くことはなかったのは「政治的活動への不関与」と言う教育が徹底しているだけでなく今の天皇が後を委ねるに足る聖帝ではないからかも知れない。
「そう言えば寝る前にホテルに電話をしてアイツが大人しくしているか確認しなければいけないな」話の腰が折れたところで杉本はスマート・ホンに登録してきたホテルに電話をかけた。本間のスマート・ホンに直接電話しないないのは所在地を確認できないからなのは言うまでもない。命令で連れてきた珍獣がゲージの中で大人しくしていることが判れば海軍軍人のトミタ少佐を愛妻のクミコにして快楽の海で溺れさせる「夫婦」の営みを始める。それを期待したのかクミコは恥じらいと悦びが入り混じった顔で立ち上がるとテーブルの上を片づけ始めた。
- 2020/07/29(水) 13:41:37|
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サッタヒープ軍港のゲートで待っていると退庁するタイ海軍の軍人たちに混じってクミコ・トミタ少佐が徒歩で出てきた。海軍の軍服は基本的に世界共通なのでアジア人のトミタ少佐は見分けにくかったが、目立つアメリカ海軍の巨大な帽章で何とか判った。
「貴方、おかえりなさい」先に見つけて駆け寄ったトミタ少佐に杉本は似合わない笑顔を見せて軽く手を挙げた。タイ海軍の軍人たちは妙に不満そうな顔で2人を中州にして素通りして行く。やはりアジア人がアメリカの軍人に期待するのはハリウッド映画のような再会シーンなのだ。杉本は安楷林には人前での抱擁、口づけなどの羞恥心と優越感、非日常性を巧み刺激する演出を多用したが、今回は自分自身が幹部自衛官だった時以上にケジメをつけている。ただし、それはトミタ少佐の間で軍服を脱いでクミコになれば女心を鷲掴みにして完全に虜にしている。
「次に貴方に会えるのは年末年始でハワイに帰省する時だと思っていたわ」2人並んで歩き始めるとトミタ少佐は無理に真顔を作りながらも口調では歓びを明らかにして歓迎の辞を口にした。
「日系人相手の週刊誌とは言え親日国のタイで起こっている政治問題には読者も関心を持っているからな。実は今回は中国語に堪能な記者が一緒に来ているんだ。それが女なんだよ。スマン」杉本の説明は雑誌記者と言う役柄の台本通りだが、余計な嫉妬を買わないため一応は女性記者の本間を同行させていることを説明した。トミタ少佐には日本人的な態度を見せるように努めているため会話も旧き好き日本風になる。この調子では過失もないのに謝罪する「スマン」に続いて、何もしてもらっていなくても「オカゲサマ」が出てきそうだ。
「その女性はサッタヒープには来てないの」「当り前だろう。何とかシングルの部屋が取れたスワナプーム空港近くのホテルに泊まっているよ。後でホテルの部屋にいるか確認の電話をさせてもらおう」これは演出ではなく杉本が本当に本間を心配している配慮だった。大学時代から男子学生なら誰もが羨む女子遍歴を重ね、入隊後も若手幹部に色目を使うWACたちを玩具にしてきた杉本にとって本間は女としての性体験があるらしいこと自体が不思議な珍獣であって、勝手に暴れ回る孫悟空のような存在なのだ。
「いただきます」2人は帰りに市内のスーパー・マーケットに寄って買ってきた食材で作った和泰(日本とタイ)折衷の手料理を前に日本式に手を合わせた。クミコは箸を付ける前にテーブル越しに缶ビールを注いだ。タイを含めた海外の一般の商店では日本のようなビールの中瓶は置いておらず今回も日本製の缶ビールだが、クミコのトミタ家では母が父のグラスにアメリカ製の小瓶のビールを注ぐのが夕食の風景だったらしい。日系3世の両親から日本の作法として学んだのかも知れない。それは杉本の実家も同様なので夫婦の形として踏襲することにした。
「インラック政権にはタイ国軍も強く反発しているのよ」互いのグラスのビールを1本分ずつ飲み終えるとクミコがトミタ少佐に戻って説明を始めた。やはり同僚を取材現場近くに残して自分の家に来ている夫が遅れを取ることがないよう日系人=日本人の妻的に気を遣っているようだ。ましてや相手が女性となれば妻としての対抗意識に火が点いても不思議はない。
「インラック政権は海軍が決定していたドイツ海軍の中古潜水艦の購入を一方的に白紙にして中国の潜水艦の導入を決定したの。一度、中国製の兵器を導入すれば後は部品の調達や修理などで言うままにならざるを得なくなるのは世界の軍事常識だから当然、海軍は拒否したわ」「補足すれば兵器に限らず中国製品に手を出せば同じ事態が待っているぞ。おまけに外交問題が発生すれば部品の供給を停止することも常套手段だ。兎に角、中国に関わっては絶対にいかんのだ」杉本の誤記が強まってトミタ少佐は姿勢を正してうなずいた。
「国軍は中国が華僑を使って国家の実権奪取を策謀していることを察知していたから2006年9月19日にクーデターを起こしてタクシンを国外追放したのよ。ところが中国資本に乗っ盗られたマスコミはタイ独自の平和的クーデターを批判する報道を執拗に続けて妹のインラックを首相に祭り上げた。今回の大規模デモは国軍がクーデターを起こせないから民族派の政治団体が代わりに決起しただけよ。貴方の雑誌にはその真実を報道して欲しいわ」「お前はアメリカ軍の軍人なのに国軍のクーデターを肯定しているのか」トミタ少佐の熱弁を聞いて杉本は率直な疑問を呈した。この時の口調にも皮肉な響きはない。
「アメリカ合衆国は自由と民主主義を世界に確立することを国是としているけどそれはキリスト教の価値観の押しつけであることは否定できないわ。韓国で勤務してアジア人のキリスト教は一神教の独善性に染まっただけなのを学んだ。佛教国には佛教国の政治手法があるのよ」確かに国民の大半が文盲だった時代のタイ国軍のクーデターは選挙に代わる政権交代の手段であった。それがデモ隊に発砲する流血の事態になったのは華僑のデモが中国に指令を受けた間接侵略であることを国軍が察知しているからだ。
- 2020/07/28(火) 12:55:13|
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1993年の7月28日は帝国海軍切ってのアメリカ通であり、アメリカ海軍内に豊富な人脈を有していながら戦時中は嶋田繁太郎海軍大臣の人事で軍政や作戦に影響力を行使できるような要職につかずに敗戦を迎えてしまった横山一郎少将の命日です。
横山少将は明治33(1900)年に海軍士官の長男として神奈川県横須賀市で生まれましたが、父親が日露戦争の黄海海戦で戦死したため母は夫婦の故郷である高知県に帰り子供たちを育てました。やがて父の母校の高知県の海南中学校に進学し、母の希望もあって5年の時に海軍兵学校に合格して47期生として入営したのです。大正8(1919)年に115人中7位の成績で卒業すると巡洋艦、戦艦、駆逐艦に乗り組んだ後、海軍大学校に入学して昭和5(1930)年に首席で卒業しています。海軍大学校卒業後はアメリカの名門・イェール大学に研修留学し、翌年からはアメリカ駐在武官付補佐官として満州事変の勃発による対日感情の悪化を目の当たりにする一方で、大学時代のフットボールの試合で死者が出ているにも関わらず試合を続行した闘争心の強さなどを実感する体験を重ねて「アメリカには勝てない」と強く認識するようになったのです。
昭和8(1933)年に帰国すると第1次世界大戦後に締結された主要国海軍の補助艦を制限するロンドン条約の改定会議に対する腹案の作成を命ぜられ、前回の締結後は艦隊派と条約派の内部抗争を生起させた軍縮条約を逆に工業力で勝るアメリカ、イギリスの軍拡に制限する手段として利用するべく「最初は米英の8割を主張しながら比率が低下しても調印する」と言う案を上申しましたが、当時の海軍大臣は愛知県人の典型・大角岑生大将だったため旧艦隊派と旧条約派の対立を避けるため条約からの脱退方針を決定してしまいました。この頃に横山中佐は「大陸での武力侵攻による利権獲得は欧米列強との全面戦争につながる」と主にオランダ領インドネシアを念頭に置いた南方への経済進出=資源の平和的獲得を目指す研究団体を立ち上げています。
しかし、日本の東アジア、東南アジアへの武力侵攻は留まることはなく日米開戦が迫る中、アメリカ駐在武官として野村吉三郎大将の日米交渉に参加することになりました。横山大佐は野村大将と同じくハル国務長官が提示したアメリカ側の妥結条件である「合衆国及び日本国間協定の基礎概略」=「ハル・ノート」を肯定的に認識しており、合意に向けて懸命な努力を繰り広げていましたが、尊皇攘夷教の信者=山口県人の松岡洋右外務大臣に拒否したことで東條英機内閣が開戦を決定してしまいました。
昭和17年8月に帰国すると旧式巡洋艦の艦長などの閑職(主に物資輸送)に置かれましたが、一部の上層部から秘かに「早期終戦の研究」を依頼されると「敗戦以外に決着はない。日清戦争以前の国家になる」と答えています(=千島列島を除けばその通りになっています)。結局、昭和20年8月18日にマニラへ派遣されて敗戦の交渉に臨み、9月2日に戦艦・ミズーリの甲板で行われた降伏文書の調印式にも参加しました。
戦争末期6月16日のアメリカの日本語放送では横山少将を名指しして「終戦に向けての努力」を強く要望するメッセージが読み上げられたそうです。
- 2020/07/27(月) 13:42:55|
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ニューヨークが青森県と同緯度であることを証明するような晩秋になった10月下旬、杉本はタイで発生している大規模デモを調査することになった。ところが今回は本間を同行するように命ぜられた。これでは遠距離恋愛中のクミコ・トミタ少佐との生理休暇にはならない。
「すみませんね。私が希望した訳ではないんですよ」タイのスワンナプーム空港に向かう旅客機でも隣りの席になってしまった本間は本当に申し訳なさそうに弁明した。一緒に搭乗手続きする日本人の男女が特別な関係と思われても仕方はないが、杉本にとっての本間は性別不明の珍獣に過ぎず、本間にはかつての花形でも現在は職務停止中の挫折した先輩としか思えない。
「どうやら佐田(松山の偽名)は今回のタイのデモを中国人華僑と民族派の対立と考えているようだな。そうなるとお前の語学力が少しは役に立つかも知れないと言うことだ」相変らず杉本の言葉には棘がある。周囲は杉本が「アメリカ海軍の日系人士官を愛人にしてから妙に人間的になった」と評しているが、やはり性分は変わっていない。それでも本間はニューヨークに着任して案内されたセントラル・パークでデートのような幸せな気分を味あわせながら「油断して心を開くこと」の危険性を教えた冷淡な対応を忘れていないので特別な感想は持たなかった。
「俺はサッタヒープの自宅を拠点にするからお前は迎えに行くまでホテルで待っていてくれ」杉本はアメリカ海軍士官の宿舎を自宅と呼んでいる。やはり妙だ。出発前、杉本はバンコク市内のビジネス・ホテルを予約しようとしたが暴動が発生している中心街は受付け拒否になっていて郊外にあるスワンナプーム空港付近でシングルが1室しか取れなかった。相手が本間でなければ無理にでも同泊を依頼するのだが、杉本はそれを口実にこの出張を生理休暇にした。
最近は松山夫婦だけでなく岡倉まで愛妻弁当を持ってくるようになり、職場は妙にアットホームな空気が漂い始めているから、意外に杉本もトミタ少佐と過ごす時間を求めているのかも知れない。勿論、トミタ少佐からタイ国内の最新情報を訊き出す目的もある。
「2010年4月10日にタクシン支持者のデモを鎮圧する時には国軍が発砲して日本人記者も死亡しているから取材のつもりで勝手に1人でうろつくんじゃあないぞ。お前の少林寺拳法も銃弾には通用しないことを忘れるな」これも棘だらけだが真摯な心配が感じられた。本間は「杉本が女性に好意を抱かれるのは英語や韓国語で話すからではないか」と推察している。実際、職場で聞く日本語の台詞は嫌味で冷たい人間としか思えない。本間も杉本が韓国の保守系ジャーナリストで長年にわたり愛人関係にあった安楷林を口封じのために殺害したことは知っているが、事件を取り上げたインターネットの書き込みで確認するとかなりの美人だった。その書き込みでは埋葬された直後に墓地を暴かれて遺骸を全裸にして屍姦する辱めを受けていた。本間はその画像を見ても「女性として許せない」とは思ったが杉本には特別に同情を感じなかった。
「結局、現在のタイは国王が老齢になって国民を精神的に安定させてきた存在感が弱くなって、それを見計りながら中国人華僑が本性を現し始めたんだ」杉本は前後の席のアメリカ人たちが英語だけを話していることを確認すると声を落とした日本語で事前教育を始めた。
「タイのマスコミも大半は華僑が株式を買い占めているから世論の誘導はお手の物だ」「台湾やフィリピンと同じですね。その点、日本の新聞社は自社持ち株、テレビ局は系列新聞社が独占保有しているはずなのに日本版人民日報になっているのは何故でしょう」杉本は本間の話をはぐらかすような質問には答えないで睨みつけた。
「庶民は文盲が多いからテレビの影響力は絶大だ。日本でもテレビの扇動で政権交代が現実に起きただろう。タイや台湾や韓国には放送法がないから公前と宣伝を繰り広げれば庶民は信じ込んで投票してしまう。おまけに中国は海外在住の華僑に国家の命令で行動することを法律で義務づけているからタクシン支持のデモを起こすとなればタイ在住の中国人を総動員することは簡単だ。それは日本人も長野オリンピックで見たらしいがな」「要するに今のタイのデモと鎮圧は中国の非軍事的侵略と防衛戦争と言うことですね」ここでようやく杉本はうなずいた。
「タイに限らず中国は世界中のマスコミと私立学校を手に入れているから華僑で足りなければ現地の学生を使っても親中派のデモを起こせる。それを軍が鎮圧すればマスコミが悪者と断定して国際社会に発信される。それを報じる世界各国のマスコミも人民日報の海外支局だから政権と軍を批判する国際世論が湧き起こる。そうして国連が非難決議をして判決が下ると言う茶番劇のシナリオだ。本当はお前の活躍の場は世界中に広がっているんだぞ」「それは絶対に喜べませんね。それでも佐田支社長はそれが判っているから今回も私を同行させたと言うことでしょう。遣り甲斐はヒシヒシ感じています」これは杉本なりの激励と期待の表現なのかも知れない。
機内食のタイ料理を食べ終わると本間は眠ってしまった。反対の窓側に向けた肩から毛布が落ちると杉本は黙って掛け直した。寝顔を見る限り本間が見ているのは悪夢ではなさそうだ。
- 2020/07/27(月) 13:41:38|
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2002年の明日7月28日は東西ドイツの独立(実際は独立的自治化)、再軍備の前からアメリカ軍の対ソ連諜報機関としてラインハルト・ゲーレン少将が再構築していたナチス・ドイツ軍時代からの情報組織=連邦情報庁を日本以上に愚かな西ドイツの反戦・嫌軍世論に迎合して自縛的に変質させたゲルハルト・ヴェッセル少将の命日です。
敗戦後のドイツは中世以降、ヨーロッパ全土で行われていたユダヤ人弾圧をナチスだけの人道に対する罪であるかのように押しつけられたニュルンベルク裁判を受け入れ、持ち前の過剰に徹底・純化する国民性も相まって日本以上に反戦・嫌軍色が濃い国家になりました。このため西ドイツ連邦軍の立場は基本法(国際社会の憲法に相当する)を改定して創設されていても自衛隊以上に酷く、現在の統一ドイツはEUの中央になったため「軍による国防は不要」「安全保障は警察力の強化で十分」と言う認識の元、軍備はNATO軍の一員としての体裁を維持できる最小限にまで圧縮されています。
ヴェッセル少将は第1次世界大戦が始まる前年の1913年にドイツ最北部のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の牧師の子として生まれました。第1次世界大戦に敗れたドイツがどん底の政治・経済に喘いでいた中で成長するとアドルフ・ヒトラー政権が成立する前年の1932年に士官候補生として国防陸軍に入営し、歩兵と砲兵の教育を受けて砲兵の部隊経験を積み、1939年6月1日に第2次世界大戦が始まると歩兵に転じて1941年に陸軍大学を修了すると軍団参謀を経てゲーレン少将がいた陸軍総司令部東方外国軍科に配属されてソ連軍を担当することになりました。戦争末期になると精神的に追い詰められたヒトラー総統は不利な戦況を報告する情報担当者を嫌悪するようになり、ゲーレン少将も解任されたため代行者として終戦を迎えたのです。
敗戦後、ゲーレン少将が前述のヨーロッパにおけるアメリカ軍の情報機関を創設するのに勧誘されると分析を担当し、1955年に連邦軍が創設されると大佐として参謀本部の情報畑で勤務しました。1963年に少将に昇任すると機甲旅団長を経て北大西洋条約機構軍事委員会ドイツ代表になり、1968年にゲーレン少将が退役した後を受けて連邦情報庁長官に就任したのです。
就任後は東西冷戦の激化を受けて日本以上に現実逃避する西ドイツ国民の軍事分野に対する嫌悪感が増大したためヴィッセル長官は「可能な限りの活動内容を開示する」「担当業務を情報収集に限定する(工作活動は否定)」と言う情報を扱う者の常識から逸脱する方針を発表し、実行に移しました。しかし、軍事情報はギブ・アンド・テイクが原則でも渡した情報が開示されてしまっては渡した側に危険が及び、信頼関係は成立しなくなります。このためイギリスの防諜のMI5と諜報のMI6も可能な限り活動内容を内閣に報告していても、それを開示することはなく把握している情報の全体像が判らないように断片的に引用するだけです。その点、日本の諜報機関は存在そのものが否定されていて国民も架空の物語扱いしているため活動内容や収集情報の開示を求められることはなく保全は完璧です。実は自衛隊も国民の無関心・無知で助かっている面が多々あります。
- 2020/07/26(日) 13:12:58|
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「私、しばらく石垣島に行こうかしら」電話を切った梢が相談するように呟いた。梢としてはあかりが恵祥を連れて歩く自信がつくまで一緒に生活しようと言うのだろう。それは旅行社での仕事で母、祖母として十分な支援ができなかったことの埋め合わせかも知れない。しかし、傍らで会話を聞いていた私は大きく首を振った。
「駄目だ。お前は馬鹿なお母さんになるって決めてここへ来たんだろう。悪いお父さんになったワシから離れることは許さんぞ」私も自分の口からこれほど身勝手な台詞が出たのには驚いた。私は2歳年下の妹が生まれてからは兄として我慢させられ、反抗期と同時進行の思春期には父親への絶対服従を孝行=人の道として強いられてきた。自衛隊に入ってからも過酷な曹侯苛めに遭い、私の中の「私」などは種のまま野鳥に啄まれ、芽が出れば刈り取られ、おまけに除草剤まで撒かれて枯れ果てたのだ。それがオランダで梢と暮らし始めて互いに愛情のキャッチボールを全力投球で再開し、義務や責任=使命感などの理由を必要とせず、自分の歓びとして思うままに愛することができるようになった。それは就職家出で逃れた沖縄で出会った梢との交際で回復するべきだった私の精神上の欠陥のようだ。
「それを25年前に言って欲しかったな。そうすれば・・・馬鹿」私の言葉を黙って受け止めた梢は涙声で返事をして胸に顔を埋めてきた。甚平の開いた襟の間に頬が当たり、薄着の身体を抱き締めると弾力と体温が腕に溶け込んできた。25年前に別れた夜、梢は私の胸で子供のように声を上げて泣いたが、あの時「俺から離れるな」と言っていればこんな遠回りをしないですんだ。となると淳之介とあかりは兄妹になってしまうが、別の幸せを得たはずだ。
「日活ロマン・ポルノとAVって違うの」9月も半ばを過ぎるとオランダの日没時間は8時前になるので梢との散歩=デートも夕食を遅くして食べる前に出かける。今日の話題は「淳之介が完全に毒されている」とあかりが心配していたAVだ。仮に淳之介が無神経にあかりがいる部屋でAVを見ても喘ぎ声くらいしか聞こえないので何をしているのか判らない。レイプ作品であれば脅迫と悲鳴になるのであかりは恐怖を感じてしまうだろう。
「それをワシに訊くのか。お前を日活に連れていったのは『視たい』って頼んだからだぞ」「うん、『あんねの日記』は面白かったな」会話は思い出話に換わった。つき合い始めて1年が過ぎた頃、人気アイドルグループ(始めはキャンディーズ・ジュニアと言う名前だった)・トライアングルの小森みちこが日活ロマン・ポルノに出演した「あんねの日記」のポスターを見た梢がせがんだので一緒に桜坂の日活専門の映画館に入ることになった。それにしても日活を見に来ている男性たちは暗い館内で自慰行為を始めることもあるので非常に迷惑だったはずだ。一方、私は梢のお墨つきをもらった気分になって竹井みどりの「キャバレー日記」のビデオを買ってアパートで観賞すると軍隊式の店員の接客を面白がって気に入ってしまった。
「ワシもリハビリとしてAVを見たことがあるけど本当に挿入しているから犯罪性を疑ってしまったよ」「本当に性行為をしているの。信じられない。あの頃は大島渚の『愛のコリーダ』くらいだったじゃない」続いて梢は妙な知識を自白した。この作品は2人で「戦場のメリー・クリスマス」を見た後、レンタル・ビデオ・ショップで大島渚作品を探していて見つけたのだ。
「一番の違いは姦られてる女優が本当に美人でスタイル抜群、おまけに年齢層やタイプの幅が広くてポルノ女優とは別次元なところだな」「貴方は三崎奈美が好きだったよね」「お前に少し似てるからな。乳が」私の馬鹿な自白に横を歩いている梢が背中を叩いた。私は映画雑誌を何冊も購読していたためジャンルを問わぬ映画情報に詳しく、内務班のポルノ上映会ではミズヤハルオと呼ばれて解説者にされていた。三崎奈美は「白薔薇学園・そして全員犯された」で引率の女教師役だったが、張りがある釣鐘型の乳房が魅力だった。しかし、この作品は梢には見せていないはずなので、行きつけのスナックで酒を飲んだ時、マスターとポルノ談議になったのかも知れない。酔った男の話題が下(しも)に落ちるのは自然な流れであり、若い女性が聞いていると恥らった顔見たさに内容が過激になる。確かに梢の乳房は不思議に筋肉質で豊かに盛り上がっていたが、三崎奈美ほど揉み応えがある美乳ではなかった。
「あかり一直線の淳之介がそんなの過激なビデオを見れば欲求が不完全燃焼して変になっても不思議はないね。やっぱりあかりを早く帰らさないと危ないわ」「でも2人目ができてしまうかも知れないぞ。避妊に注意させろよ」私の下に落とした返事に梢は真顔でうなずいた。とは言え完全受け身のあかりに避妊する方法はないので淳之介に厳しく注意するしかない。
「淳之介はあかりを優しく抱いてるんだろうな」「うん、私は貴方に抱かれていると優しさに包まれているみたいで幸せだったけど、あかりも命が1つになるって言ってるわ」しかし、私は美恵子も同じように優しく抱いて欲求不満を与えてしまったのだから相手によるらしい。

三崎奈美さん
- 2020/07/26(日) 13:10:31|
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慶安4(1651)年の明日7月26日(太陰暦)に江戸の軍学者・由井正雪さんが幕府転覆を目論んだ「慶安の変」が発覚して逗留していた駿府梅屋町の町年寄邸を町奉行所の捕り方に包囲されたため自刃しました。
野僧の世代なら由井正雪の名前と「慶安の変」については横山光輝さんの忍者漫画「伊賀の影丸・正雪編」や時代劇「江戸を斬る」シリーズの第1作「梓右近隠密帳(成田三樹夫さんが演じた)」で知ったのですが、江戸時代には実録本の「由井根元記」や「慶安太平記」と言う読み物的伝記が出版されていて、後者は版を重ねるごとに内容が破天荒になり、それが「樟紀流花見幕張」と言う歌舞伎になったことで完全に現実から乖離して、正雪さんが竹田信玄公の生まれ替わりで「太平記」の楠木正成さん的な英雄とされる一方で、全国各地で武者修行する中、島原の乱のキリシタン側の武将で天草島に潜伏していた森宗意軒さんから南蛮渡来の幻術を学び、伊達領白石城下での仇打ちの助太刀になるなどの同時代に起こった事件が挿入され、明治以降も文庫本になって少年たちに読まれていました。そうなると毎度のことながらこの読み物的な歴史書によって庶民に広まった人物像は歴史的資料が乏しい中で容易には修正されず、戦後の観光ブームなどに利用されて収拾がつかなくなっている面も否定できません。
江戸幕府が事件後に由井さんを調査した公式記録では駿府宮ヶ崎の坂東平氏三浦市の流れを汲む郷士の息子とされています。17歳で江戸の親戚宅に奉公に出ると何故か楠木(正成)流の軍学を修得して江戸の長屋で軍学塾・張孔堂を開くと、これが江戸市中で大変な評判を呼び、大名の江戸詰藩士や旗本を含む3000人の門弟を集めたと言われています。しかし、路地の奥の通常は2間の長屋に日替わりでも3000人が出入りすることは物理的に無理でしょう。それでも幕府は大阪夏の陣から30年以上経過しても豊臣恩顧の大名たちを口実を作って改易にする強権政治を継続していた上、「武士は二君に仕えず」と言う建前で再仕官が厳しく制限されていたため江戸にも浪人が溢れており、私塾にも多くが参集して正雪さんの軍学を用いれば幕府の転覆が実現すると言う不穏な空気を醸成するようになっていたのは自然な流れでした。
こうして立案された「慶安の変」では首謀者の1人で宝蔵院流槍術家の丸橋忠弥さんが江戸城内に潜入して火薬庫に放火・爆発させるのと同時に周囲にも放火することで、十分な共も連れずに急ぎ登城してくる幕閣を他の浪人たちが襲撃して殺害、そうして城内に乱入して11歳の4代将軍・家綱くんを拘束して政権を奪取すると言う由井さんの軍学者としての才覚が伺える極めて実現性が高等戦術ですが、同士のはずの奥村八左衛門さんが密告したことで発覚し、大阪にいた丸橋さんが捕縛され、そうとも知らずに出身地の駿府に来ていた由井さんにも奉行所の手が伸び、それを察知して自刃したのです。
武力蜂起には失敗したものの当時の幕府は幼い将軍を補佐するため初代会津藩主・松平正之公が大老職にあり、事件が発生した経緯を徹底的に究明して原因の解消に努め、諸大名に浪人の召し抱えを勧めるなどの対策により反乱の目的自体は達成されました。
- 2020/07/25(土) 13:07:39|
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「貴方、何かあったの」突然、座卓の上に置いている携帯電話が鳴ったので出るとあかりからだった。あかりの向こうでは恵祥の泣き声が聞こえる。恵祥は2歳になってからは赤ん坊のように泣くことは滅多にないので異様な切迫感を感じた。
「私の胸に貴方の怒ったような叫び声が響いて、急に恵祥が泣き出したのよ」あかりは淳之介の返事を待たずに説明を始めた。電話の傍で祖母がなだめているが、恵祥は片言で何かを訴えながら泣き続けている。
「うん、色々反省することがあって自分に腹が立って叫び声を挙げたんだ。本当は今から自分の顔を殴るつもりだった」淳之介の説明にあかりは黙ってしまい、電話からは荒い息遣いだけが聞こえ始めた。淳之介はあかりとの絆を噛み締めながら待っていた。
「貴方も1人だけの生活では色々思い通りにならないことも多いから自分を責めたくなっちゃうのかも知れないね。私が帰れないからいけないのよ。ごめんなさい」あかりの声が涙ぐんだようになった。しかし、今の淳之介にとってこのような理解はかえって辛くなる。
「そんな綺麗ごとじゃあないだよ。俺はお前が欲しい。抱きたくて仕方ないんだ。最低だろう」これが恋人同士であれば相手に嫌われないように言葉を選ぶのだが、夫婦には自分の恥部を晒して真情を理解し合うことが必要な時もある。やはりあかりは妻として受け止めた。
「貴方は若い男性なんだから何ヶ月間隔で那覇に来て私を抱くだけじゃあ欲求不満になってしまっても仕方ないわ。でも貴方が健常者の女性と関係を持つと、私に気遣いながらの夫婦生活が味気なくなりそうで不安なの。本当にごめんなさい」これもあかりの真情なのだ。淳之介の愛情は信じていても健常者との欲望の赴くままに奔放に快楽を追及する性行為を知ってしまえばそちらを求めてしまうのは人間の性(さが)だ。あかりは自分が置き去りにされる立場なのを自覚しているだけに受け止め方も真剣だった。
「私、貴方の元に帰ります。恵祥は受け入れてくれる保育所を探せば何とかなるわ。私も貴方と暮らしたいの」あかりの希望は性欲ではなく淳之介の精神的な安定や恵祥を加えた家庭の再開が理由のはずだ。あかりもその方法を研究していたことが判り、淳之介は安堵の溜息をついた。今日、雲島で出航準備をしている時、昼食を食べ終えたらしい砂川が戻ってきて「通勤用の漁船を探してみる」と言っていった。砂川の性格から言って食堂で会った島民に話をして何らかの手応えを得ている可能性が高い。AVに現(うつつ)を抜かしている場合ではなかった。
「私、石垣島に帰ろうと思うの」今日は自宅で早くも窮地に陥っているコートジボワールのバクボ前大統領の裁判の打開策を思案していると昼過ぎに沖縄のあかりから電話が入った。出たのは梢だが、電話器をモニター・ホンに接続したので会話は傍聴できる。
「恵祥はどうするねェ。淳之介が言っていた離島は通勤できないんでしょう。市内じゃあ恵祥が交通事故に遭うし、それは解決したねェ」最近、私たちはあかりから恵祥を連れて石垣島に帰る時期と方法について相談を受けているが、歩くのが達者になった恵祥を外出時に制御する方法が難題だった。健常者の親でも目を離した隙に子供が道路に飛び出して事故に遭うことがある。視覚障害者のあかりでは自分の歩行の安全を確保した上での制御になるため不安はさらに大きい。その一方で淳之介が考えた離島への移住も社長が同意しなかったと聞いている。
「恵祥を保育園に入れれば送り迎えだけだから何とかならないかしら。そろそろ淳之介さんが限界みたいなの」あかりの説明に私の経験に基づく勘が反応した。早い話が欲求不満だろう。私も美恵子の妊娠中は教育隊に山積みされていた学生の置土産のエロ雑誌を活用し、佳織の時は許可を得てレンタル・ビデオ・ショップで日活ロマン・ポルノを借りていた。
市ヶ谷で開設していた無料法律相談室にも「妊娠中に夫が風俗店に通ったことが許せない」と言う女性自衛官からの訴えがあったが、私が「妊娠するまで夫が貴女に注ぎ込んでいた精力(この場合は性力)を何カ月も我慢させられると思うのか」と質問するとほとんどは納得した。現在は男女同権意識が過剰に広まっているため妊娠と出産が女性だけに課せられた労働と苦痛のように考える女性が増え、妻が妊娠を拒否し、夫は最大限に協力することが当然視されているが、男性にとっての性欲は犯罪であることが判っていても強姦に走ってしまう者もある宿業なのだ。私は美恵子の目を盗んで海兵隊の女性軍曹の車で一泊旅行に行って22回連続の性交を達成して「アイアン・コック(=鋼鉄の男根)」と呼ばれたが、独身時代からの大好物・日活ロマン・ポルノで我慢できた。しかし、その血を受け継いだ淳之介には不倫相手に開発されて淫乱になった美恵子の血も加わっている。おまけに現在のAVは刺激が日活ロマン・ポルノの比ではない。と単身生活で見ていた私は淳之介が受けた激AVの副作用を心配した。
- 2020/07/25(土) 13:06:03|
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明治政府が制定した旧刑法により死刑の方法が絞首刑に統一されることになり、それを「武士の恥辱だ」と憤慨した元武士で強盗殺人犯の巌尾竹次郎・川口国蔵両死刑囚の熱望により、刑法が施行される直前の明治14(1881)年の7月24日に江戸時代後半に8代にわたって斬首の執行職を世襲してきた山田浅右衛門家の最後の当主の弟が市ヶ谷監獄内で首を刎ねました。
8代将軍・徳川吉宗公の時代から斬首刑の執行職を世襲した山田浅右衛門家は「首切り役人」と呼ばれることもありますが、実際の身分は役人=幕臣ではなく浪人でした。その理由については諸説があり、一部の学者が唱える「幕府が死の穢れを嫌った」と言う説は平安時代なら兎も角、武家の統領である江戸幕府においては有り得ないでしょう。逆に現代風なのが山田浅右衛門家の本業は刀の試し切りのため納める刀匠と買う武家の双方から多額の礼金が入り、副業としての刀の鑑定や仲介での収入、さらに所有権を認められていた斬首した遺骸を個人での試し切りを希望する武芸者や肝臓などを薬品にする医師などが購入したので「3万石の大名並み」と言われる高収入があり、幕臣の僅かな固定給よりも自分の裁量で利益を得られる浪人を選んだと言う説です。また斬首には単なる剣術を超えた特殊な技量を要するので幕臣にすれば技量が劣る者が世襲する可能性を排除するために1回毎の個別契約にした(奉行所の同心も旗本である与力との年間契約で雇用された足軽だった)と言う非常に説得力がある説もあります。実際、山田浅右衛門家は初代から4代と7代から8代を除いて血統ではなく門弟が養子になって世襲しており、その一方で怨霊の断絶を図ったのか朝右衛門に改名した当主も2人いました。
斬首による死刑は恐怖以外の苦痛を与えることなく確実に落命させられるため世界各国で採用されていましたが(サウジアラビアなどでは現在も)、頚椎はかなりの重量がある頭部を支えているため意外に強靭で、なまくらな刀剣では容易に切断できずかえって激痛に悶絶させることが多かったため、ヨーロッパでは刀剣から斧に変わり、やがて確実に斬首できる装置としてギロチンが採用されたのです。一方、日本では世界最高の切れ味を持つ日本刀による斬首が継続されましたが、頚椎の骨は1つ1つが固く大きい上、頚髄には弾力もあるため両断しようと振り下ろした刃が止められてしまうことも珍しくなかったようです。実際、野僧が見た平岡公威さんが市ヶ谷駐屯地の東部方面総監室で割腹自死した時の記録映像では門弟の森田必勝くんが銘刀・関の孫六での介錯に2回に失敗して3度目に首が落ちていました(森田くんは剣道の有段者が介錯して1度で成功した)。また佐賀藩士・山本常朝さんが説いた武士の心得「葉隠」では「膝まで斬るつもりで刀を振り下ろさなければ首は落ちない」と体験談を語っています。
山田浅右衛門家は明治の政変で解職になって副業も失い、新たに「東京府囚獄掛斬役」として斬首を執行していましたが、弟の方が腕前に優れ大久保利通さん暗殺事件の犯人6人や本当は熱愛型の高橋伝さんも担当しました。その弟もこれを最後に監獄の書記に配置替えされて間もなく退職し、「首切り」山田浅右衛門家の歴史は終わりました。
- 2020/07/24(金) 12:01:20|
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夜、アパートに帰った淳之介は途中のコンビニエンス・ストアで買ってきた弁当で夕食にした。今回は砂川の生活指導を守ってサラダも買ってきた。朝食用のパンもサンドウィッチだ。
「親父は1人暮らしでもまめに料理を作っていたよな。仕事で疲れて帰って家事もやるなんて元気はどこから湧いていたのかね」淳之介も父と2人での生活を半年近く経験しているが、毎日、普通の母親以上に手間をかけた料理を食べさせ、小まめに掃除をして、衣類の破れたところを見つけると夜遅くまで手縫いで修繕してくれていた。そのため小学校の学芸会の劇の挿入歌として唄った「母さんの歌」の「母さんが夜なべをして 手袋編んでくれた」が「父さんが夜なべをして ズボンを縫ってくれた」に思われて鼻水をすすってしまった。
「俺は親父の血を受け継いでいても半分はあの女(=産みの母の美恵子)の血だから最近はそっちが濃くなっているのかも知れないな。拙いぞ」淳之介は独身時代に煩悩を使い尽くして更生した真面目人間の父と極めつきの才女の母との生活の圧迫感に耐えられず沖縄の美恵子の実家に逃避したのだが、祖父母は父が自分の両親以上に敬愛している通りの素晴らしい人たちだったものの産んだ母は息子として我慢のならない大馬鹿糞女だった。その自分に流れる濁った半分の血を打ち消すためにも父のような清く正しく厳格な生活を送らなければならないのだが、時間の経過と慢性的な欲求不満が堕落の道に蹴落としてくれている。
「血のつながりと言えば志織の奴、馬鹿なことを言っていたよな」弁当を半分食べて、サラダを摘まみながら妙なことを思い出した。それは数年前、ハワイから1人で帰国した志織が石垣島を訪れて、出産のためあかりが不在になっているこのアパートに泊まった時のことだ。
「アイツが高校で韓国系の生徒にレイプされそうになったって言うから俺がソイツを海に沈めてやるって言ったんだったよな」その時の会話を復習しても頭の中では最近見たJKが学校で集団レイプされるAVが再生されてしまう。ただ、それは下劣な欲情ではなく。怒りに油を注ぐ効果を生んだ。淳之介は頬張っていたサラダのレタスを噛みにじると一気に呑み込んだ。
「それで親父が拘置所に入ってたのに俺まで殺人犯になったら呪われた血統みたいで嫌だって言うから、俺とアイツは半分しか血がつながっていないって教えたんだった」血がつながっているのは「呪われた殺人犯」の父の方なのでこの説明は意味がない。
「そしたら布団の中で『抱いて欲しい』って言ったんだよな」独り言で復習していてもあの展開はAVではない深い人間ドラマのようだ。2間しかないアパートで淳之介と志織は襖を挟んで布団を敷いていたが、その襖越しに志織の思い詰めた声が聞こえてきた。
「ダディは『抱かれるのは心の底から好きになった人まで取っておけ』って言うの。マミィは『私はレイプされてバージンを失ったから、志織は愛する人に捧げられるように大切に守れ』って言うの。だけどレイプされたら憎んでいる男に奪われてしまう。だから・・・」その後、志織は「初体験を大好きな淳ちゃんに捧げたい」と訴えたのだ。幸いにしてその頃の淳之介は恵祥の父となった至福と責任を自覚していたので兄として懇々と説教した。志織は泣きながら聞いていたようだが、翌日空港に送ると出発ゲートに入る前、抱きついて背伸びをしながら口づけしてきた。おまけに「これが私のファースト・キッスだよ」と自慢そうに笑った。つまりロスト・バージンは防いだがファースト・キスは奪わせてもらったことになる。
「それにしてもアイツがブラコンだとは思わなかったな」確かに志織は幼い頃から「淳ちゃん、淳ちゃん」と呼びながら後をついてきたが、それは兄として慕っているのであって男性として好意を持たれているとは思わなかった。ハワイへの遠洋航海で再会した時にも「ファースト・キスをあげる」と訴えたが、それはアメリカの習慣だと思っていた。
「しかし、今みたいな生活をしていたら危なかったな」弁当を食べ終えてペットボトルのお茶を飲みながら淳之介は反省した。最近のインターネットのAVは動画サイトの乱立で過激で特異な作品で閲覧者の獲得を図るようになり、社会的倫理に背くような展開が目立つようになっている。例えば兄が妹と、弟が姉と、息子が母と、父が娘と肉体関係を持つ近親相姦劇も珍しくない。淳之介の今の母である佳織は標準以上の美人で、均整の取れた肉体美を維持しているが、血がつながっていないとは言え劣情を覚えたことはない。母親似の志織も人に自慢したほどの美少女だが、あの頃は同様だった。しかし、AVに毒された自堕落な生活を送っている今なら自信はない。志織の方から求められたのだから応じてしまう危険性は大だ。翌朝、寝坊した志織を起こした時の愛らしい寝顔を思い出すと妄想が湧きそうになった。
「いかん、いかん、俺は何をやってるんだ」淳之介は無意識に臨戦態勢になっている男根に向かって罵声を浴びせた。そんな淳之介をクローゼットの上のあかりと恵祥の写真が見詰めている。あかりの閉じた目の奥に涙が滲んでいるように見えた。

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- 2020/07/24(金) 11:59:55|
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1983年の7月23日に新型旅客機の人工知能を過信したことで信じ難い事態を招き、乗客・乗員69名に死線の綱渡りをさせながらパイロットの冷静沈着な対応で無事に着陸したギムリー・グライダーが発生しました。
この日、大西洋側のモントリオール空港からロッキー山脈に近い内陸部にあるアルバータ州のエドモントン空港まで北米大陸を横断する便のカナダ航空が導入したばかりのボーイング767は人工知能による「燃料搭載情報システム」を使用して給油を始めましたが、この装置は静電容量表示ゲージのハンダ付けの不良で故障していたため係員による燃料計測棒での目視の給油に替えられました。
当時のカナダはイギリス式のヤード・ポンド法=ガロンから国際標準のメートル・グラム法=リットルに移行している最中で、この機体の装置がメートル・グラム法の第1号であったため必要とする=給油する燃料の量を22300キログラムと算定したところまでは正しかったもののモントリオールでの燃料残量7682リットルを重量に換算する際に係員がこれまでのヤード・ポンド法の比重で計算したため20088リットル給油しなければならないところを半分強の12596リットルしか入れなかったのです。さらに操縦席の燃料残量の計器は「燃料搭載情報システム」を通じて表示するため、この機体ではパイロットが22300リットルと手動入力したので人工知能としては必要量と合致しており、「飛行準備完了」と判断しました。実は飛行前にパイロット2人と給油担当者は給油に要した時間などから給油量に疑念を持ち、機体の人工知能で再確認を実施しましたが結果は同じだったので、機長は近傍のオタワ空港で再点検することを決めモントリオールを離陸したのです。ところがオタワ空港でも係員の同様の混乱によって燃料不足が発見できず、操縦席の燃料残量の計器が表示する数字を信じて目的地に向かって離陸しました。
しかし、目的地まで半分を飛行したオンタリオ州レッドレーク上空で左エンジンの異常を示す警報装置が作動を繰り返し、間もなく左エンジンが停止したのです。そこで機長は右エンジンだけで最寄りのウィニベグ空港に緊急着陸することを決断し、高度を下げ始めた時、右エンジンも停止しました。そこからは滑空状態で高度と下降率の法則通りに飛行することになり、副機長が計算するとその時点の高度と下降率ではウィニベク空港まで飛行することは不可能と言う結論に至りました。そこで機長は最も近いカナダ空軍のギムリー基地への緊急着陸を要求して滑空状態で着陸したのです。とは言え両エンジンが停止してラムエアー・タービン(非常用風力発電機)以外の電力を喪失した時点から機体が発する信号で正確な位置を表示する方式に変更されていた管制レーダーでは位置と高度が判らず無誘導状態になっており、車輪さえ自重と風圧で下ろす必要最小限の装置しか機能しない機体を操っての着陸でした。幸い着陸までは乗客・乗員に負傷者はいませんでしたが、前脚が固定できずに接地した機体前からの発煙に焦った乗客が先を争って脱出したため滑り台で下り重なって10名が軽傷を負いました。
- 2020/07/23(木) 13:07:02|
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「そっちは自分で処理していますから大丈夫です」公私共に世話になっている砂川に性欲の処理について訊かれて淳之介は困惑と羞恥を隠すように怒ったような口調になった。実のところ以前はレンタルDVDショップの店員に顔を憶えられるほどAVを借りまくっていたが、現在はインターネットの無料のアダルト・サイトを探して視聴することが多くなっている。結婚前と同様の虚しいが健全な処理方法だ。
「それでも夏場には竹富や小浜に来ていた本土の観光客たちに大人気だったそうじゃない。『ホテルに遊びに来て』って誘われたんでしょう」やはり離島の住民たちの口コミの情報共有はメールやインターネットを必要としない。確かに淳之介は夏の観光シーズンに竹富島や小浜島まで乗せた若い女性客たちの間で「若くて格好良い船長さん」と評判になり、噂通りの逆ナンパを受けていた。そのため海上では操舵室の下に女性客が集まり、交代で梯子に登って見学していて、石垣港で下船する時には記念写真の撮影会と握手会になっていた。
「でもあかりは船長さんを信じて待っているんだから、その信頼を裏切っちゃあいけないよ。あかりは目が見えない分、不安は深く大きくなってしまうから人生に絶望してしまうかも知れない。裏切るなら絶対に判らないように。死ぬまで騙し続けるように。死ぬ間際のうわ言でも口にしないように・・・」砂川の目が怪しく光り、口調が重くなってきた。そう言えばAVでは列車やバスの中で痴漢が暴走して性行為に及ぶ話も珍しくない。電車やバスで通学・通勤したことがない淳之介の常識的では衆人環視の車内で男性器を挿入することなどは有り得ないのだが、都会の人間には興奮させる現実味があるのだろうか。その一方で性行為の対象はJKと呼ぶ女子高生の若い娘と並んで熟女も人気らしい。この場面は船内での白衣の熟女と若い船員の危険な情事と言うAVになりそうだ。しかし、淳之介は義母の梢と今の母の佳織がレイプされた過去を持つことを聞かされており、それで興奮・欲情することはできない。
「私が見ていては弁当が進まないみたいね。私も食堂でお昼にするか」昼食を中断して考え込んでしまった淳之介を見て砂川は座席に置いていた麦わら帽子を持って立ち上がった。生活指導を受けた淳之介としては見送るのが礼儀なので弁当を座席に置いて後に続いた。
「島としては大歓迎だから無理のないように考えてみてね」砂川は船と波止場に掛けてあるタラップを渡ると振り返って声をかけた。淳之介としては石垣市内であかりと恵祥の安全を確保しながら育てる方法も検討しているが、やはり雲島を実現したいものだ。
「若い男なんだからたまには息抜きしないとやってられないよね。でも抜くのは息だけだよ」淳之介が敬礼して見送ると砂川は悪戯っぽく笑いながら下ネタのオチをつけた。日頃は頼りになる保健士の砂川も大声で下ネタ話を語り合って楽しんでいるオバアまでいかない島の中年女性軍団の一員なのは間違いない。どう考えてもAV女優ではない。
客室は出航30分前までエアコンを切るので弁当を食べ終えた淳之介はデッキの座席で海を眺めながら考えごとを始めた。
「親父の初体験の相手は十歳以上年上の上官だって言っていたよな」この話は尖閣諸島付近の海域で海上保安庁の巡視船が中国の漁船に衝突された事件の調査に来た父親を行きつけのスナック「ばすきなよお」に連れていった時に聞いた思い出話だ。父は航空機整備員課程に入校していた浜松基地で親しくなった2曹のアパートで初体験し、性技の実技教育を受けたと言っていた。
「それでも砂川さんは20歳以上の年上だから対象外だよな」まだ淳之介の頭の中ではAVと現実が混線しているようだ。淳之介は中学生の時に自慰行為を目撃した産みの母の美恵子に口腔性交された経験がある。この状況も過度の欲求不満が原因なら美恵子のような方法で解消するのも治療法なのだろうか。それにしてもあの中途半端な初体験には今でも腹が立つ。
「親父はあの女(=美恵子)とつき合い始めた頃には別の女性とも遊んでたって言ってたよな」これも衝撃の告白だった。父は梢と別れた心の傷に構うことなく勝手に彼女として振舞う美恵子に違和感を抱いて、知り合った女性たちと遊び、時には肉体関係を持っていたらしい。
「アメリカ海兵隊の女性軍曹に腕相撲で負けて夜の那覇基地をデートすることになったって言うのも凄かったな。体育館の裏で壁に手をつかせてバックでハメたら足の長さが違うから届かなくて困ったって・・・ゴクリ」父はそのWM(ウーマン・マリーン=女性海兵隊員)とは岩国基地の航空祭で再会していたのだが、それは言わなかった。
結納の夜、淳之介は仲人で叔父の松真と父の3人で叔母の夕紀子が引き継いだスナック「かっちん」に行ったが、その時、坊主でもある父は「女性体験は両手両足を超える」と言っていた。それが謹厳実直な超堅物の石部金吉と評されているのは何故だろうか。その点、淳之介はあかり1人だけ、それも童貞と処女の初体験同士だった。やはり純愛路線しかないようだ。

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- 2020/07/23(木) 13:05:39|
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1955年の明日7月23日はフランクリン・デラノ・ルーズベルト政権で日本とアメリカの開戦直前まで戦争回避の外交交渉を担当していたため、私利私欲でロシア皇帝・ニコライ2世の日本側に全面的に譲歩する詔勅電報を握り潰して日露戦争を引き起こしたエヴゲーニィ・アレクセイエフ大将のような極悪人のように思い込まれているコーデル・ハル国務長官の命日です。
戦時中だけでなく戦後の日本でも交渉に際してハル長官がアメリカ側の妥結条件を提示した「合衆国及び日本国間協定の基礎概略」を「ハル・ノート」と呼び、まるで日本側が絶対に飲めない一方的な条件で外交交渉を破綻にして開戦に踏み切らせるための事実上の最後通牒であって、「ハル長官が個人的に野村吉三郎大使に手渡した」と思い込んでいますが、実際は覚書に準ずる事務的文書であり、大陸における和平を日本と国民党政権の交渉に委ねる手順と和平後の日本とアメリカの友好施策を列挙した実現性が高い内容でした。そもそも当時のアメリカでは北中南アメリカ大陸で鎖国するモンロー主義を破って第1次世界大戦に参加したことを批判してヨーロッパで始まっていた戦争への関与を拒否する世論が大勢を占めており、日本を挑発して開戦に踏み切らしてもアメリカが前面に立って本格的に参戦することが容認される可能性は5分と5分以下でした。
結局、ルーズベルト政権内で暗躍していたソ連の工作員の策謀によってアメリカが東南アジアの植民地で利害関係が一致するイギリス、オランダに呼びかけて課した経済封鎖=ABCD包囲網で完全に敵視していた東條英機内閣が「日独伊3国同盟の目的をヨーロッパでの戦争をアジアに波及させないことに限定する」「中国大陸で獲得した権益の放棄と国民党政府との交渉に基づく日本軍の撤退」と言う極めて常識的な条件が検討に値しないほどの侮辱と受け取り、山本五十六連合艦隊司令長官の趣味である博打の真珠湾奇襲作戦と同時にマレー半島上陸作戦を実施することを決定したのです。そしてフィリピンの植民地ではなくアメリカの領土であるハワイ州を宣戦布告1時間前に攻撃されたことで国民世論は激昂し、太平洋とヨーロッパでの2正面戦争に突入しました。
ハル長官は1871年にテネシー州で生まれ、オハイオ州の国立師範学校を卒業した翌年にテネシー州の法律学校も修了して法曹界に入り、テネシー州議会議員から国政に転じると11期にわたって下院議員を勤める間に明晰な頭脳と抜群の辣腕で民主党内で頭角を現し、1930年に上院に移ると1933年からルーズベルト政権の国務長官に選任され、1944年11月に健康上の理由で退任するまで11年9カ月間勤めたのです。
日本人は「ハル・ノート」以外の業績に関心を示しませんが、開戦前には関税の引き下げと貿易の促進により世界恐慌下の国際経済の活性化を図り、終戦前にはナチス・ドイツの科学者や技術者たちをソ連に奪われる前に秘かに組織ぐるみアメリカへ移送して戦後の科学技術競争に備え、戦後は第1次世界大戦後に設立された国際連盟にモンロー主義に拘束されたアメリカが参加しなかったことを反省し、国際連合の創設に積極的に関与しました。これらの業績を評価されて1945年にはノーベル平和賞を受賞しています。
- 2020/07/22(水) 13:05:30|
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淳之介の連絡船が雲島の波止場に到着すると診療所の保健士の砂川直美が待っていた。砂川は白衣の上下に麦わら帽子をかぶっている。白衣のズボンがバミューダー・パンツなのは手製だろうか。白衣のズボンは薬品や患者の体液が足にかからぬように長い方が好ましいと言われているが昔は膝下までのスカートだったからその長さを踏襲したようだ。
「船長さん、あかりと息子を島に呼ぶ話はどうなったんねェ」連絡船を接岸させて、舫(もやい)綱で固定すると砂川は舫杭に寄り掛かるようにして声をかけた。実は淳之介もこの問題で頭を悩ましている。砂川には「可能性」「選択肢」と言う形で相談したものの勝手に話を進めてしまったので、船のようにスクリューを反転=後進=ブレーキに切り替えられないのだ。
「家は数年前に亡くなった西大浜さんの息子さんが帰ってきた時に訊いたら『家賃なしで使えば良い』って言ってくれたのさァ。あの家ならオバア用にバリア・フリーに改造したからあかりでも心配ないよ」淳之介は砂川の説明で数年前、石垣市の火葬場まで運ぶ西大浜のオバアの棺を乗せたことを思い出した。どの島のオバアたちも永久に死にそうもない生命力を感じさせるが(オジイはそうでもない)、やはりお迎えはやってくる。海の彼方にあると言う沖縄のニライカナイ浄土からはミルクユガフ(弥勒世果報)もやはり阿弥陀如来のように迎えに来るのだろうか。淳之介は八重山の西の空と海を紅く染めて沈む美しく大きな夕日を見るたびにそこにニライカナイがあるように感じて手を合わせ、頭を垂れている。
「保育所も今預かっている子供が小学校に入ったら保育士を石垣市に返さなければいけなくなるから助かるって喜んでいたよ」砂川は島の保育所にまで声をかけてしまっている。サトウキビ畑と野菜の農耕や酪農、家内漁業で自活している家以外の若者たちは石垣市や沖縄本島に就職しているため島の子供の数は減少している。今でも保育所は保育士1人に子供1人のマン・ツー・マン状態なのではないか。その子供も母親が家にいるため本来は保育の対象外なのだが、「農業を手伝う」と言う名目で支所が申し込ませた特例入園だったはずだ。何にしてもこうなるとますます「後進一杯」「ヨーソロ」と言う訳にはいかなくなる。淳之介は父にもらった白い海軍士官の略帽をかぶり直すと砂川に正対して話を始めた。
「俺も社長に相談してみたんですが、朝は会社に出勤してもらわないと困るって言うんです。俺としてはこの島の波止場に連絡船を停めて朝一番にこちらから石垣港に向かう便にして乗客を拾いながら出勤すれば良いかなって考えていたんだけど、朝刊を積んで島に配達するのもこの連絡船の大切な役目なんだって。何よりもこの島では点検・整備が単独作業になるし、工具も船に積んである応急処置用しかないからお客さんを乗せるだけの信頼性を確保できないそうです」淳之介の説明を聞いて砂川もこの船会社の厳格なプロ意識に納得せざるを得ないのだが、それが嫌なので斜めにうなずいた。
「あかりと恵祥を雲島に住ませて俺が週1回帰れば良いかとも思うけど、そうなると足になる便がないんですよ。わざわざ俺の通勤のために別の人に操舵してもらう訳にはいかないでしょう」砂川自身も淳之介から話を聞いた時、あかりや恵祥母子だけでなく島のためにも妙案だと思ったが、現実は色々な事情が複雑に絡み合って簡単には動かないと言うことだ。
「後は西表島に行く船に雲島に寄ってもらうとか、俺が漁船を買って通勤するって奥の手も考えてるからもう少し待って下さい」頭を悩ましている成果を披露して淳之介は昼食の弁当を食べるために操舵室に向かって歩き出した。ところが話が終わったはずの砂川もついてきた。
客室の席に座ってお茶のペットボトルを飲んで弁当を開けた淳之介に砂川が事情聴取を始めた。砂川も昼食の時間のはずだが、今日は患者がいなくて暇を持て余しているらしい。
「お弁当はコンビニで買っているのね」「はい、最近は面倒臭くなって朝飯と晩飯もコンビニ弁当が多いです。外食より安上がりでしょう」「それでも野菜は多めに食べなきゃあ駄目だよ。休みの日に鍋で煮て冷蔵庫に入れておけば3日くらいは食べられるから」これは保健士としての生活指導らしい。淳之介も父に似て料理は嫌いではないが、あかりとの別居生活が長くなって次第に家事にまで負担を感じるようになっている。すると砂川が妙な真顔で質問した。
「それで船長さんはホーをどうしてるねェ」「ホーってホーですか」「女に何度も言わせるんじゃないの。ホーはホーさァ」唐突に砂川が「性欲の解消」を質問してきたので思わず確認したが、言い出した砂川の方が少し赤らめた頬を膨らませて文句を言った。
「ホー」とは「宝味」と書いて「ホーミー」、沖縄方言の女性器と性行為のことで、それを照れ隠しに省略すると「ホー」になる。これも保健士としての生活指導に含まれないことはないが、むしろ別居生活を送る若い独身男性への浮気防止を目的とする身の下相談のようだ。淳之介は箸で摘まんでいたオカズの海老フライを戻すと砂川から視線を外して答えた。
- 2020/07/22(水) 13:03:36|
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天武天皇元(672)年の明日7月22日(太陰暦)に日本の皇室にしては珍しく皇位継承と美貌の才女を巡る確執が武力紛争に発展した壬申の乱の最終幕・瀬田川の戦いが行われました。
壬申の乱は皇室を凌ぐ権勢を揮う蘇我入鹿さんを中臣鎌足さんと協力して惨殺した中大兄皇子が皇位について天智天皇になり、大化の改新を推進したものの当時としては晩年の40歳を過ぎると治世に協力した同母弟の大海人皇子ではなく息子の大友皇子を後継者に指名したことが主因だったとされています。さらに万葉集に相聞歌が残っているように大海人皇子の想い人(妃説もある)だった額田王を天智天皇が奪ったため、政治的には協力しても感情的には対立していたと言われています。
そんな中、天智天皇が病床に伏せると大海人皇子は大友皇子を皇太子に推挙して自分は「出家する」と称して吉野に隠棲したのです。ところがこれは挙兵の準備で、この年の12月に天智天皇が死亡して24歳の大友皇子が弘文天皇として即位するとただちに近畿一円から関東で兵を募ったのです。天智天皇は果断過ぎる性格な上、選り好みが激しく蘇我一族打倒の共犯者の中臣氏を重用する一方で自分の皇位継承の邪魔になる異母兄などを謀反の冤罪で処刑し、さらに朝鮮出兵や近江大津への遷宮を強行して豪族にも多大の出費を強要していたため反発する者が多く大海人皇子の軍は朝廷軍に遜色がない4万人に膨らみ、東海道を大津に向けて進撃して関ヶ原で衝突しました。ところがこの関ヶ原の合戦では朝廷軍の内部抗争で総大将の山部王が殺害され、当然のように敗走しました。続いて大海人皇子の軍は近江と伊賀の連絡路を遮断しながら西進し、待ち構えていた朝廷軍と第2回の夜戦を行いましたが、寄せ集めの弱点が露呈して敗走したものの翌日には後備軍が参戦し、返り討ちにしたのです。
両軍が対峙した瀬田川には日本書紀に記述があるようにすでに本格的な橋が架けられており、大海人皇子の軍では「この橋を突破することが勝機である」と考えていました。ところが朝廷軍は橋の中央部の板の釘を抜き、紐で引いて落とす仕掛けを施していて橋を渡ってくるのを待っていたのです。しかし、敵が橋を渡って攻撃してこないことを怪しんだ大海人皇子の軍はカラクリに気づき、武将の1人が鎧を2重に着て降り注ぐの矢の中を橋を駆け渡って敵陣に乱入し、カラクリが使用不能になったのを確認した軍主力も橋を渡って撃破しました。この結果、弘文天皇は翌日に自ら命を断ち(歴代126名の天皇では唯一の自死者)、大海人皇子が天武天皇として即位したのです。
日本史上で壬申の乱が特異なのは天皇の軍=官軍が反乱軍=賊軍に敗北し、天皇が総大将として自死したことです。尊皇思想なる奇体な基準で日本史を評価した水戸学の「大日本史」では南北朝を3種の神器を持っていた後醍醐の南朝を正統として北朝の血統だったその後の皇室に泥を塗りましたが、この大事件については天智天皇に10巻、天武天皇には11巻を割いて詳細な業績を殊更に論述しているものの「その間隙」と言う姑息な編集手法で避けて跳ばしたようです。
- 2020/07/21(火) 13:46:39|
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「杉村さん、これで何とかして下さいな」1週間後の夕方、ワシントンから帰ってきた松山1佐が岡倉の家を訪れた。松山1佐はジアエにも同席を求めたので聖也にはテレビを見せて並んでテーブルの席につくと茶封筒を手渡した。
「これは・・・」中身は日本政府発行のパスポート2冊だった。岡倉は隣りから覗き込んでいるジアエとの間で広げると名義は「杉村知愛」「杉村聖也」になっている。岡倉はジアエから入籍を求められ、翌日には松山1佐に相談した。これがその回答のようだ。
「岡倉くんはアメリカ国籍を取得していないので正式に入籍できないことは理解していただけるでしょう。そこで苦肉の策としてアメリカに移住してきた日本人家族と言う体裁を整えることにしました」松山1佐の説明にページをめくると入国時に税関や検疫などが確認したスタンプなども押してある。岡倉が使っている杉本名義のパスポートはアメリカで失踪した日本人の押収品の写真を貼り替えて偽造してあるが、スタンプの日付を見ると今回は新たに作成したらしい。とは言え韓国政府発行のパスポートとは違うジアエと聖也の顔写真の入手経路は判らない。松山1佐は感心して見ているジアエに笑顔で話を続けた。
「チアイとセイヤなら韓国語の読み方と大差ないからすぐに慣れるでしょう。それでも韓国語や韓国流の風習が出てしまった時のために日本国籍を取得した在日韓国人と言うことにしておきなさい」松山1佐の助言にジアエはうなずいた。実際、ジアエの父がソウル市内の聖堂のアメリカ人神父に育てられることになったのは、出身地である済州島で戦前からソ連が潜入させていた工作員に洗脳された多くの島民が朝鮮労働党の支持者になり、李承晩政権が摘発に着手したものの識別が困難だったため、暴走した官憲や反共団体が全島民の抹殺を目的とする大弾圧が始めたことだった。あの時、父は事件後に現地調査に入ったアメリカ兵に助けられてソウル市内の聖堂に預けられたが十万人を超える島民が小船で日本に渡り、戦前の移住者を語って不法残留していると言われている。つまり済州島出身者の娘と孫なら辻褄は合う。
「問題は聖也くんの日本語力ですが」「基礎は妻が教えていたので私と暮らし始めて急速に上達しています」松山1佐はジアエが大学時代に習得した日本語が通訳も勤まるレベルなのは説明を受けているが、日本人の子供として幼稚園に入る聖也が日本語を話せなければこの対策も水泡に帰す。本来であればワシントンの渡辺将補に依頼する前に確認しておくべき事項だが、聖也の入園手続きを新学年に間に合わせると言う配慮=親心からフライングしてしまった。勿論、岡倉が自分に相談した以上、必要な条件は整っていると信用したのも確かだ。
「夫が帰宅した時に安らげるようにと思って教えていたのですが、最近のソウル市内では日本語が話せる子供が苛めの対象になっていますから控えてしまいました」ジアエがそのような思いを込めて教えた日本語であれば基礎は完璧だろう。後は日常生活の中で名称などの単語を吸収して行くことだが、そもそもニューヨークの幼稚園であれば日常会話は英語だ。
「もう1つ問題なのは聖也くんが日本人となると今回の幼稚園で目撃したような苛めに遭う可能性があります。実は私の娘も三沢基地でアメリカのネイティブな英語を学ばせたんですが、小学校ではヨーロッパ系の子供たちから中国人と一緒に『卑しいアジア人』と侮蔑され、アフリカ系にも『公民権運動の恩恵を横取りした泥棒』と誹謗されたんです」これがジアエは知らなかったアメリカ社会の現実だ。アメリカでは1950年代からアフリカ系市民による公民権運動が激化して多くの犠牲者を出し、大きな社会的混乱を来たした上で1964年に公民権法が成立した。これに便乗して中国人華僑を中心とするアジア人も同様の恩恵に与ったのだが、このことでアメリカ社会では現在もヨーロッパ系の下に自らの力で国家による保護を勝ち取ったアフリカ系が位置し、アジア人は最下級に置かれている。
「それで佐田(松山の偽名)さんの娘さんはどうしているんですか」岡倉の質問に松山は少し厳しくした目でジアエの顔を見てから口を開いた。
「娘には日系人部隊・第442戦闘団の話を詳しく語って聞かせました。日系人は公民権運動の恩恵ではなくアフリカ系以上の犠牲を払って国家に忠誠を尽くし、アメリカ人と認められたんだと反論させました。そして中国人華僑は連合国の一員と言いながらアメリカのためには何もやっていない。半島人に至っては日本人として移民して来ながら日系人部隊の募集を拒否して抗日運動を始めた。ここまで説明させたらヨーロッパ系とアフリカ系の子供たちが反アジア連合軍になって娘を守ってくれています。トドメに妻が極真空手の演武を披露しました」ジアエも父から日本の真摯な信託統治によって韓国が近代化したため国内に反日の声はなく、抗日運動は海外だけで行われ、しかも老若男女を問わぬ日本人を暴行・殺害し、個人の商店や家屋を破壊した犯罪的暴動だったことは聞いている。このため松山1佐の批判に異論はなかった。

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- 2020/07/21(火) 13:44:43|
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岡倉とジアエ夫婦は早速、国際問題に直面していた。聖也(セインヤ)が入園したカソリック系の幼稚園では中国系と北朝鮮・韓国系の子供たちが日系人と在アメリカ日本人の子供たちを執拗に苛めており、聖也にも始めは加担するように誘い、次第に強要するようになったのだ。
岡倉が帰宅して家族で夕食を囲み、団欒を満喫して聖也が眠るとリビングのテーブルに向かい合って座ったテジアエは深刻な顔で報告した。
「保育士のシスターは何も言わないのか」「リーダーの中国系の子供が『中国はアメリカと一緒に戦った連合国で日本は戦争犯罪国だ。罰を受けるのは当然だ』ってアジテーションするからシスターとしてもPTAの反発を危惧して強く言えないようなの」本当は夫婦で酒を楽しむ時間だが、酔って相談できるような軽い問題ではない。
「要するに放置しているんだな」「いいえ、『カミは不当な暴力は許さない』って制止しているようだけど、『ナチと日本は人道に反する罪を犯したからソドムやゴモラのように滅ぼさなければいけない』って反論するんだって」「それは子供の知識じゃあないな。完全に大人に吹き込まれているよ」岡倉の見解にジアエも顔に半ば怒り、半ば困惑を浮かべて深くうなずいた。
「それに韓国系の子供が『日本は韓国を植民地にして世界に誇るべき優れた伝統や文化を破壊し、民族としての慣習や道徳を否定し、財産や宝物を略奪した』って同調して、聖也にも『一緒にやらなければ裏切り者だ』って強要するのよ」こうなると韓国政府が日本に財政援助を強要する際の常套句の代弁のようだ。
「それで中韓連合軍はどんな苛めをやっているんだ」「目立つような暴力は振るわないみたい。日系人の子供の持ち物を隠したり、食べ物に鼻糞や唾を入れたりするの。それで日系人の子供が怒ると集団で暴力を振い始めるらしいわ」この陰湿さは民族性なのかも知れない。それでも岡倉はジアエや李家の両親からは全く感じていないので首を振って否定した。
「当然、シスターは止めに入って事情聴取するけど、中国系と韓国系の子供たちが『日本人が暴れ始めたから止めた』って口裏を合わせるそうよ。シスターは『カミに誓えるか』って訊くんだけど素直に『はい』って言うんだって。そうなるとシスターとしては両方の親に事実を伝えるしかなくないけど、日系人の親は『家でも子供を厳しく躾ける』と謝罪しても中国系や韓国系は『ウチの子は悪くない。日本人が悪いに決まっている。この幼稚園は心正しい子羊が勇気を揮って邪悪な悪魔を懲らしめても誉めないのか』って抗議するらしいの」これも中国と韓国が日本人の「お人好し」な美徳を弱点にする常套手段だ。
「聖也としては中国人と韓国人が悪いって判っているから仲間に加わりたくないけど、拒めば自分も苛めの対象になるから本当に困っているのよ」ここでジエアがマグカップに日本茶を淹れて出した。国際問題を仕事にしている岡倉としてはこのカソリック系の幼稚園で起きていることはキリスト教国である先進国が取り仕切る国際社会で中国が巧みに立ち振舞い、腰巾着のように韓国が追従している構図がそのまま投影されているように感じる。アメリカや日本は韓国を自由主義国陣営の一員だと信じているが、韓国にとっては中華帝国の脇を固める属国としての立場こそが有史以来の国是であって、本心ではアメリカを日本に代わって支配者になった仇敵と見ているのだ。その証拠に2007年に韓国の潘基文が国際連合の事務総長に選出された時、アメリカは国際連合が自国寄りになることを期待して自由主義陣営に投票を呼び掛けたが、現在の国際連合は(いわゆる)従軍慰安婦問題などで反日色を全面に出しながら、珍しく同調的なオバマ政権を中国寄りに誘導している。
「カソリックの軍人としては『孤立無援になっても殉教精神で正義を貫け』と言いたいところかも知れないが、共産主義国家の中国には始めから人類普遍の正義などは存在しないんだ。韓国は地続きだから不可能でも絶海の孤島の日本なら『関わらない』と言う自衛策を講じることができるぞ。聖也は折角入園した幼稚園を止めるのは残念かも知れないが、転園させた方が良いな」「私としては貴方の許可が欲しかったのよ。聖也も中国人と韓国人は嫌いだって言ってるわ。私が聖也と一緒に別の幼稚園を探します」要するに結論は出ていたようだ。岡倉は両親が生前、誰が考えても答えが出ている問題を深刻な顔で話し合っているのを見て「馬鹿げている」と冷笑していたが、これが夫婦と言うものであることを実感した。
「もう1つ、私としては聖也に岡倉姓を名乗らせたいの。李聖也では韓国系になってしまうでしょう。アメリカの中国系と韓国系の移民たちはこの国に東アジアの母国を作ろうとしている。聖也は相手の国に順応しながら自分たちの伝統を控え目に守る日本人にしたい。私たちを貴方の籍に入れさせて」これは別の意味で重大な問題だ。しかし、責任者である松山1佐が家族連れで着任した以上、不可能ではないはずだ。岡倉は父のように音を立てて茶をすすった。
- 2020/07/20(月) 13:12:35|
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7月10日に長年にわたり「朝鮮戦争の英雄」と称えられてきた白善燁大将が亡くなりましたが、その埋葬を巡って信じ難い(=許し難い)冒涜が加えられているようです。
白大将は1950年6月25日の北朝鮮の奇襲侵攻によって韓国軍が総崩れになり、首都・ソウルを捨てて敗走する中、第1師団長としてソウルの西側の臨津江に踏みとどまって防御戦を指揮し、退却時には味方によって漢江の橋が破壊されていたため渡河作戦を実施して水原に到着すると一転、侵攻してくる北朝鮮軍を迎撃して劣勢が続く韓国軍の中で孤軍奮闘の戦果を挙げました。特に北朝鮮軍と追いつ抜かれつで敗走している韓国軍に見切りをつけ始めたアメリカ陸軍の前で師団長として先頭に立って突撃を敢行し、信頼を一気に回復した武勲はアメリカでも尊敬を集めています。さらに1950年9月11日の仁川上陸作戦によって戦況は逆転すると連合軍と共に平壌付近にまで追撃しながら逆に北朝鮮軍を追い越して退路を断ち、平壌市域への一番乗りを果たしたのです。戦線が膠着した後も北朝鮮軍が残置した兵員に韓国内の協力者が加担したゲリラの掃討作戦や韓国全土での治安の維持を指揮し、これらの多大な軍功により1953年1月31日には32歳で韓国陸軍初の大将に昇任しています。
これほど祖国に貢献した英雄なら日本であれば軍神に祭り上げられ、国民の寄付で「白善燁神社」が創建されるのですが、現在の韓国では真逆の冒涜の声が上がり、文在寅政権も積極的に同調しました。白大将は日本の委任統治下の1920年に平壌の生まれで、急速に発展する満州国を間近に見ていて憧れが募り、師範学校を卒業しながら満州国軍の軍官学校に入り直して少尉に任官し(朴正熙大統領とは違い日本陸軍の士官学校には留学していない)、満州での匪賊掃討作戦に参加して中尉で終戦を迎えたため、金大中・盧武鉉政権以降に韓国内で蔓延した「日本の植民地支配に加担した親日派=売国奴」と決めつけられ、さらに現在では朝鮮戦争を「金日成主席がアメリカの手先・李承晩政権を廃して祖国を統一しようとした正義の戦争」とする民族主義史観が定着しつつあるため韓国軍側の英雄は「祖国の裏切り者」扱いされるようになっているのです。
このため李明博政権が高齢になった白大将の死後の対応として「名誉元帥」の称号を贈り、ソウル特別市銅雀区(愛知県田原市の姉妹都市)にある国立顕忠墓苑に埋葬することを決定していたにも関わらず、文在寅政権はこれを破棄して一般の戦没者と同じ韓国中央部の大田市にある大田顕忠墓苑に変更しました(=銅雀区の国立顕忠墓苑に埋葬されるには「反日」が必須条件らしい)。
日本では現地の連合軍による敗北の報復軍事裁判で処刑されたB・C級戦犯への同情論に便乗して国家を滅亡に引き込む大罪を犯したA級戦犯(人選に異論はあるが)まで軍神として靖国に合祀していますが、白大将は韓国国民の価値観が変転しても祖国防衛の英雄なのは間違いなく、幹部学校入校中に雑談を交わすようになっていた文在寅政権の鄭景斗国防部長官は青島幸男都知事が就任記者会見で自衛隊への冒涜しているニュースを見て野僧に「貴官はこんな国家のために死ねるのか?」と訊きましたが、同じ質問を返したくなります。
- 2020/07/19(日) 12:22:42|
- 追悼・告別・永訣文
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数日後、岡倉はジアエを連れて出勤した。職場の同僚の中でジアエと面識があるのは杉本だけだが、それも15年前に岡倉を韓国に同行して高陽市の歩兵第11連隊を取材して以来だから抜群の記憶力を有するらしい李知愛元少佐でも忘れているはずだ。
「おはようございます」「おはようございます。ようこそウィクリー・ジャパン編集部へ」岡倉に続いて事務所に入ってきたジアエに先ず松山1佐が声をかけた。想像以上の美人だが跳び蹴りが届く射程距離内で強妻の裕美2曹が湯茶接待の準備をしていては愛想笑い以上の態度は見せられない。その裕美2曹は名古屋での極真空手の試合で在日韓国人の跆拳道の選手から卑劣な反則攻撃を受け、顔に重傷を負った経験があるので好感を抱けないでいる。
「お忙しそうですから私はご挨拶だけで帰ります」周囲では立ち上がって出迎えた松山1佐とコーヒーを運んできた裕美2曹以外は脇目も振らずパソコンの画面を注視しているためジアエは遠慮したように申し出た。しかし、岡倉にはこれが雑誌社の編集部を演出するための素人芝居だと判っている。中でも同じ3佐=少佐の本間が胸中では対抗意識をくすぶらせながら無視してパソコンのキーを操作しているのには苦笑してしまう。
「レディース アンド ジェントルマン。いよいよタイガー・ジェット・シンが奥さん、息子さんと一緒に暮らすことになりました。折角、ご挨拶にみえているので顔くらいは憶えなさい」松山1佐のリング・アナウンス風の紹介は苦肉の策だ。岡倉は工藤の時代から職場では偽造パスポートの名義の「杉村」を名乗っている。ところがジアエには「本名が岡倉であることを告白している」との報告を受けているため同僚たちに本名を明かす訳にはいかず、かと言ってジアエの前で偽名を使えば不要な疑惑を抱かせかねない。こうなると大学時代にプロレス部で使っていたリングネームのタイガー・ジェット・シンイチローをパロディ化する前の本物に戻すのが落とし所だろう。ジアエも自宅で母親が愛用している仇名に微笑んだ。
「はじめまして、杉本です」現役時代の先任順に杉本から顔見せした。杉本は韓国に行く際は在日韓国人を装うため「金田」姓を常用していたが、今回はここでの偽名を名乗った。ジアエに会った時も金田姓を使っていたのでそれを思い出させない狙いもある。杉本としては東アジア的な丸顔がクミコ・トミタ少佐に似ているような気がするが、どこか雰囲気が違うことを考えていた。やはり日系人と韓国人、アメリカ海軍と韓国陸軍、佛教徒とカソリック、独身者と一児の母の違いが微妙な差異を生じさせているのだろう。
「私は杉本さんのお顔に見覚えがありますよ。15年前に夫と一緒に韓国に来られた方ではないですか」杉本が珍しくボンヤリと考えごとをしているとジアエが恐ろしい記憶力を披露した。しかし、これで李知愛少佐が韓国陸軍から対日諜報活動の任務を命ぜられていないことが明らかになった。仮にこの秘密機関への接触と調査を目的にしているのならば油断させて懐に入り込むのが常套手段であり、あえて警戒心を抱かせる必要はない。
「その節は取材にご協力いただいて有り難うございました」ここは互いの役柄を演じることで収めた。続いて同じ3佐同士の松本と本間だが、レディ・ファーストで順番が決まった。
「今田(こんだ)菊子です」本間も職場での偽名を名乗った。松山1佐が着任した時、偽名による混乱を避けるためコール・サインを導入することを提案したが、偽造パスポートの氏名に慣れる効果もあり検討のまま放置されている。
「女性もおられるんですね。よろしくお願いします」ジアエが本間ほど話題を提供する人間を知らないと言うことで岡倉が家庭で職場の情報を漏らしていないことが証明された。
「奥さんは跆拳道を嗜まれますか」「いいえ、軍学校の教育で習っただけで素人と変わりません」唐突に本間が質問した。本間と裕美2曹は相変らず極真空手と少林寺拳法の他流稽古に励んでおり、ソウル大会からオリンピック種目になってアメリカ人も通うようになっているコリア・タウンのテコンドーの道場に興味と敵意を持っていることは熟知している。陸曹の裕美2曹はコーヒーを出す時にも会話をしなかったので代わりの質問だ。
「それにしても綺麗な人ね・・・杉村には勿体ないわ」やはり本間の方がジアエの清楚な美貌と上品な雰囲気に劣等感を抱いてしまった。
「最後に松本です。タイガーさんとは時々一緒に出張させてもらっています」流石に松本は「中東方面」とは言わない。それでも岡倉は任務からの帰路に自宅に寄ると業務上の出張として土産を渡していたので事情は察知できる。
これで男性社員は全員、事実上の妻帯者になるが、組織には「保全」と言う基本的な問題が加わってきた。杉本が長年の愛人だった安楷林を殺害したのも秘密漏洩の予防処置だった。工藤の時代に家族愛を否定していたのもこの悲劇を避けることが理由だった。

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- 2020/07/19(日) 12:21:20|
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アメリカで新学年が始まる9月、ニューヨークの岡倉の家に愛妻で内妻の李知愛(イ・ジアエ)元少佐と1人息子の聖也(セインヤ)がやってきた。李元少佐は韓国陸軍を正当に依願退役しても海外移住を理由に予備役にはならず、就労ビザを取得してアメリカにやってきた。
「ウェルカム・USA」「ダディ、こんにちは」ニューヨークの玄関・ジョン・F・ケネディ国際空港で出迎えた岡倉に聖也は流暢な英語で挨拶した。やはり元英語教師の祖母の元で育っただけに英語力に不安はないようだ。ジアエも機会を見つけて日本語を教えていたが、韓国国内で反日感情が激化・蔓延してきたため迂闊に口にすることが危険になって控えてしまった。
「ニューヨークでは9月の第1月曜日のレイバーズ・デーまでが夏なんだ。それから先は朝夕が冷え込むようになるからカーデガンは必需品だな」岡倉はジアエが押してきたキャリーバッグを受け取ると歩きながら説明した。聖也の今日の服装は日本で言えば新潟と同じ緯度のソウルから青森のニューヨークに来たので半袖のポロシャツに半ズボンだ。それでもジアエは機内のエアコン対策に薄いカーデガンを抱えている。
「それでもネィティブ・アメリカン・サマーになると日中は真夏でも朝夕は晩秋みたいに冷えて、寒暖の差が大きくなるから身体には気をつけてな」「はい、ダディ」岡倉の補足説明にも聖也は素直に返事をする。その横でジアエは岡倉が「インディアン・サマー」をあえて言い替えたことに気づいて感心したようにうなずいていた。近年、アメリカでは世界1周を目指していたコロンブスがカリブ海の島で会った先住民をインド人と思い込んで呼んだ「インディアン」とアラスカの1部族を総称にした「エスキモー」は不適切とされ、「ネイティブ・アメリカン」と「イヌイット(これもアラスカ北部の部族名だが学術的に採用された)」に言い替えるようになっている。それは季節用語の「インディアン・サマー」にまでは及んでいないが、岡倉は聖也の頭の中の辞書では始めから削除しておくべきだと考えたようだ。
「聖也の幼稚園はマンションの近くの色々な民族の子供を集めているカソリック系の園を申し込んであるよ。明日、園長と面接して英語力を確認すれば入園だ」広い空港を地下鉄の駅に向かって歩きながら岡倉は1つ1つ現状を説明した。
「カソリック系で良いの。私たちは佛教徒の貴方の家族になるんだから・・・」「お前の信仰心は簡単に捨てられるような軽いものではないだろう。俺の方は松念院の和尚の薫陶を受けて育っただけで佛教徒としての信仰心は大したことはない。聖也も今までカソリックの家庭で育ってきたんだから同じ倫理観を教えられる幼稚園ならカルチャー・ショックも和らぐはずだ」結婚以来、実感している岡倉の日本的な「良い加減」に寛容で緩く薄い信仰心を噛み締めてジアエの目は少し潤んできた。その新入園児予定者の聖也は何度か連れて行ってもらったインチョン(仁川)空港よりも利用客が多く、色々な民族が混在しているロビーを興味深そうに見回している。ジアエと内縁の夫婦になって10年余り、まさか家族として一緒に暮らせる日が来るとは思っていなかったが、韓国から届くの荷物を受け取る度にそれが現実であることを確認し、そして今日を迎えた。ただ退役したとは言え元韓国陸軍少佐のジアエに自衛隊内でも存在を秘匿している現在の職場を見せることはできない。岡倉はジアエと両側から聖也の手を引きながら胸の内を2つに分けて至福と苦悩を交互に味わっていた。
「奥さんをみんなに紹介しなさいよ」ジアエと聖也の移住・転居に関する雑事が終わったところで職場に顔を出すと松山1佐は思いがけないことを指示した。松山1佐の思いがけない発言には慣れてはきたが、やはり常識の枠内に片足を残していては咄嗟に対応できない。
「しかし、妻は元とは言え先月までは韓国陸軍の士官だった訳で・・・」「元なんだろう。韓国陸軍から我々と同じような任務を命ぜられた可能性があるのか」松山1佐は事もなげに確認するが、岡倉としては在韓国大使館の防衛駐在官に相談して内々の調査を依頼しただけだ。その結果、李知愛少佐の退職理由は「大統領の反日的言動とそれを受けての韓国政府の内外政策に嫌気が差した親日派の反国家的行動」と断定されていた。これは逆に対日諜報活動を隠蔽するために人事上の瑕疵を刻んだとも考えられなくはないが、聖母の生まれ変わりのジアエが聖也を巻きこむ危険を冒してまでそのような任務に応じるとは考えられない。
「これからも杉本さん(職場での岡倉の偽名)には家族連れで奥さんの実家に帰省してもらうつもりだから、挨拶くらいはしておかないと礼を失するだろう。韓国は儒教の国なんだから」「妻も仕事に使うつもりなんですか」「否、帰ったついでに実家でニュースを見て、土産に新聞と雑誌を買ってきてもらうくらいだ。早い話が今までと同じようにアメリカや日本では報じられない韓国国内の実態を確認するだけだ。奥さんに祖国を裏切らせるつもりはないよ」松山1佐の思考が縦横ともに理解を超えていることは判ってはいるが、毎回思い知らされる。
- 2020/07/18(土) 11:53:52|
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6月5日には北朝鮮による「拉致被害者の会」の創設者が亡くなったのに続き、7月10日に福井県小浜市の海岸で婚約者と共に拉致された保志さんの父親の地村保さんが93歳で亡くなったそうです。
野僧が掛塔(かとう・かた=入門)した福井県小浜市の僧堂では托鉢を修行の主体にしていて敦賀全域を隈なく回りますが、そんな中で小浜市内の山間部・飯森地区に行くと「拉致被害者を取り戻せ」と言うポスターを張った看板を掲げた家がありました。
野僧は西部防空管制隊で勤務している時、深夜に日本海を朝鮮半島から北陸に向けて接近する不審船を監視した経験があり、拉致事件には強い関心を持っていたため雲衲(修行僧)の間のローテーションを調整してその家で托鉢したのです。するとテレビで何度か顔を見たことがある小父さん=保さんが出てきて半紙に包んだ喜捨を渡すと続けるように仕草で促したため、通常は家族が出てきたところで終わる読経を災厄除けの陀羅尼に替えて続けました。保さんは門前まで見送って合掌して深く頭を下げました。
その後、集落の公民館で休憩になるとグランドでゲートボールに興じていた高齢者たちが集まってきてお菓子を配ってくれながらの雑談になったのですが、小浜の僧堂の雲衲はテレビやラジオはおろか新聞や雑誌も読むことができず、究極の世間知らずのため高齢者たちは「何々を知っているか」と確認して教えるのを楽しみにしていて、この地区ではやはり「拉致問題」が話題の中心になりました。
野僧は上山して間がなかったため拉致問題についても熟知していましたが、雲衲たちは半信半疑で「北朝鮮は労働者の理想の国でしょう」などと反論する馬鹿までいたのです。当然、高齢者たちは興奮気味に「地村さんが拉致被害者の会に入ってからは日教組の教員や市役所の組合員が家の周りに『拉致被害者の会は危険な反動分子の集団だ』『北朝鮮に冤罪を擦りつけるな』などと言う看板を立てていくんだ。後で見せてやるからウチに来い」と説明したのです。そしてお爺さんの1人が「自衛隊が救出に行けば良いんだ」と言ったのを聞いて若い雲衲の1人が「この人は元幹部自衛官です」と馬鹿な紹介をしたため野僧が質疑応答する羽目になりました。
福井県の日教組や自治労は社民党の支持母体=下部組織のため党中央から拉致被害者の会の活動を徹底的に妨害するように命ぜられており、小浜市役所が2002年に帰国を果たした保志さんを職員として採用したのも表向きは「保護と支援」でも実際は「本人と周囲の言動や接触者を監視し、拉致被害者の会としての活動に制約を加えるために自治労が提案した」と元関係者から聞きました。それは他の帰国したちに比べて保志さん夫妻が公的場所で発言することは極めて少なく、今回の訃報に際しても息子で喪主の保志さんではなく妻が市役所の広報を通して挨拶を公表していますから現在も社民党の妨害は継続しているようです。
社民党の女性党首2人は在日朝鮮人の血統なのであくまでも金王朝に忠誠を尽くすことが本分なのでしょう。保さんの苦悩に同情、憤怒に同調しつつ冥福を祈ります。合掌
- 2020/07/17(金) 12:45:29|
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「やっぱり暑いなァ」「名古屋に寄ってきたのが準備運動になったけど、飛行機で来ていたら早速、夏バテするところだったわ」名古屋からのぞみで博多に着き、鹿児島本線に乗り換えて久留米まで来れば移動は完了だ。久留米駅に着いた時には午後の日差しも少し弱まっていたが、それでも北海道の名寄とは比べものにならない。北海道では盆を過ぎると朝夕は急激に冷え込むようになり、綿が入った布団でなければ朝には目が覚めてしまう。その点、久留米では当分タオルケットが活躍しそうだ。
「明日、アパートの入居手続きを済ませてから運送屋さんに電話して、荷物が届いたら貴方は入校ね」「うん、1人で片づけをやらせることになるよ。悪いな」アパートは幹部候補生学校が紹介してくれた。幹部候補生学校では妻子持ちの部内部外(=自衛隊で通信課程や夜間課程を修了した部外課程の合格者)の候補生のために数軒のアパートを確保しているが、最近の不景気で自衛隊の志望者が増えたのに反比例して部内部外の人数が少なくなり、手頃な部屋が空いていた。明日はホテルから駐屯地で教えてもらったアパートに向かい、管理人との入居手続きを済ませてから支社止めになっている荷物の配送を依頼し、残った時間で必要な品物を近くのスーパー・マーケットで買い込めば引っ越しは終わる。
航空自衛隊の部内課程の入校は防衛大学校や一般(部外)課程と一緒のため入校式は家族などが参列して盛大に行われるが、陸上自衛隊は時期外れなので近傍の福岡県や熊本県の駐屯地から入校する候補生が家族を呼ぶくらいでこじんまりしている。当然、安川候補生は聡美を呼んだ。
「来賓紹介、本日は8月22日付で西部方面総監に着任されました晩鐘幸一郎陸将にご臨席いただいております。なお晩鐘陸将は平成19年7月から平成21年3月まで当幹部候補生学校の学校長兼前川原駐屯地司令も勤められておられます」式が始まる前、思いがけない幸運が紹介された。名寄での壮行会で分隊長の1曹からかつてのアンパンマン連隊長・晩鐘1佐が西部方面総監に着任したことは聞いていたが、2小隊長が即座に「部内課程には建軍駐屯地での研修はない」と否定したため諦めていた。その本人が舞台上の席に座っている。あれから10年経つが昔から貫禄があったのでそのままのように見える。考えてみれば防衛大学校と一般(部外)課程の入校式には幕僚長かその名代が来賓になるので晩鐘陸将が出席することはない。家族席の聡美にも思い出話で聞かせている晩鐘陸将の実物を見せる=に会わせることができた。
式は足音が1つになるように立って座るを繰り返しながら形式通りに進んでいく。安川候補生は比較的長身なので席は前から3番目の中央付近だ。やがて来賓祝辞になった。
「続きまして来賓の西部方面総監、晩鐘陸将からご祝辞を賜りたいと存じます。晩鐘陸将、お願いします。候補生、気をつけ」「気をつけ」指揮官の候補生の号令で、また一斉に立った。それに合わせて晩鐘陸将が壇上中央の演台に歩み寄ると侯補生たちが声は出さないが大きく息を吸って止めたのが判った。今回、入校した候補生たちもニュースでは髭の隊長の方ばかりを紹介していたが、第1次イラク派遣復興支援群長としての晩鐘1佐の存在感も記憶しているようだ。晩鐘1佐は見覚えがある動作で指揮官と敬礼を交わすと、胸ポケットから奉書を取り出して開いた。そうして訓示の前に隊員たちの顔をユックリ見回すのが癖だった。
すると晩鐘陸将は安川候補生の顔に気づいたようで一瞬、視線を止めた。目立つ位置ではあるがそれ以上に熱い視線を感じたらしい。一般の行事の聴衆であれば目が合った瞬間に笑顔を浮かべ、挨拶代わりに小さくうなずくのかも知れないが、そこは厳格な自衛隊の儀式だ。安川候補生は視線だけを最大限に熱くして晩鐘陸将の顔を注視した。
「以上、終わり」「候補生、気をつけ」「気をつけ」晩鐘陸将の祝辞が終わり、候補生たちは「気をつけ」をしたが、今回は足音が揃わなかった。やはり内容が深い祝辞に感銘を受け、意味を考えてしまった候補生が少なくなかったのだ。
晩鐘陸将はイラク派遣においては隊員たちに「GNN=義理・人情・浪花節」を徹底した。それはイラク人の気質が驚くほど古い日本人に似ていると明察し、それに応えるためには「隊員の方が先祖返りすることだ」と出した答えだった。
クエートの空港に到着した時にも「アメリカの協力者」としての回答を期待する記者たちに「我々は同じように敗戦を経験した友人として復興の手助けに来た」「メソオポタミア文明を築いたイラク人に日本人と同じことができないはずがない」と挨拶してイラク国民の共感を得た。
今回の祝辞では「自衛隊は強くなければならない。それは戦闘力だけでなく過酷な環境に耐え、黙々と任務を遂行する耐久力だ。諸官らは古くから日本社会を支えてきた叩き上げの幹部として強い指揮官になってもらいたい」と激励した。是非、会って話をしたかったが無理なのは判っている。せめて葉書を出すことにしよう。
- 2020/07/17(金) 12:44:13|
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毎年7月17日には全国版のニュースでは「夏の京都の風物詩」でも、西日本では博多祇園山笠と小倉の祇園太鼓の京都版である祇園祭の山鉾巡行が行われます。
ニュースや新聞では祇園祭を八坂神社の祭礼として神道の行事であるかのように報じていますが、八坂神社自体が明治の廃佛毀釋の凶風の中で本来の名称を否定されて神社に組み込まれた佛教の山王社の1つであり、神佛習合だった平和な時代には比叡山延暦寺に属する「祇園社」でした。この「祇園」と言う呼称は祭神・牛頭天王が守護していた天竺の「祇園精舎」に由来するので祭りも佛教の行事なのは間違いありません。ちなみに牛頭天王は赤い角の牛の頭を持った異形の神です。
現在、京都の祇園祭も博多祇園山笠と同じく国の重要無形民俗文化財に指定されていますが(小倉祇園太鼓は福岡県の無形民俗文化財)、それは山鉾町が継承している巡行などの市内での行事のみで八坂神社での祭礼は除外されています。山口県下関市の赤間神宮や山形県羽黒町の出羽三山神社などの祭礼も佛教寺院や山王社だった時代の法要を軽薄な神道式に変質させているのは明らかですが、八坂神社での儀礼も特に修行をしていない神職がおそれかしこまるだけの形式的な祭礼に堕しているのでしょう。
平安時代初期に朝廷が疫病の大流行を受けて貞観5(863)年に東寺の神泉苑で祟り神や死者の怨霊を鎮める御霊忌を勤めたものの効果がなく、翌年には富士山が大噴火し、さらに東北で大地震・大津波が発生するなどの天災も続発したため佛教に修験道、陰陽師が一致団結した厄除け祈願となりました。そこで先ず陰陽師が律令国の数である66本の鉾を立て、これに全国の悪霊を宿らせて穢れを祓った後、神輿で医療加護の薬師瑠璃光如来を本地とする牛頭天王を招いて御霊忌を勤めました。この貞観11(869)年の御霊忌が京都の祇園祭の起源とされ、基本的な形式は踏襲されています。
当時は平安京に遷都して100年弱で井戸の掘削は進んでおらず、便尿などの汚物は市内の木立や川・溝に捨てていたため衛生環境は劣悪で、そこに現代以上の温暖な気候によって熱帯性の害虫が発生して疫病が蔓延していたと考えられます。つまり祈願だけでは効果はなく、だから毎年継続されたのでしょう。その一方で明治の廃佛毀釋では佛教の天部の神々は外来神として否定され、山王社の多くは破却されましたが、流石に京都の守護神として明治元年で999回目を数えた祭礼を行う祇園社を否定・冒涜することはできず、祭神は牛頭天王をそのままにしながら八坂神社に変質させたのです。
ところで祇園祭の目的は祟り神や死者の怨霊を鎮めて疫病を防ぐことですから、コロナ・ウィルスと言う疫病に怯えている今年こそ例年以上に盛大に開催して共産党中国の細菌兵器を日本から退散させるべきです。それが奈良県選出の総務大臣を代表とする自民党や旧民主党の政治屋を使って日本版・ナチズム=国家神道の復活を画策する神道政治連盟の責任であり、有力閣僚である総務大臣があくまでも「神道を擁護する」と言うのならマスコミを通じて「祇園祭でコロナ・ウィルスを撃退できる」と所信を表明し、閣議でも主張して盛大な祇園祭の開催を実現するべきでしょう。
- 2020/07/16(木) 14:04:06|
- 日記(暦)
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「和也、聡美、おかえりなさい」安川和也・聡美夫婦は久留米に向かう途中で稲沢の実家に寄った。母はTシャツにGパンの軽装で首に巻いたタオルで額の汗を拭いながら出迎えた。今回の入校に当たり名寄の官舎は引き払い、家具や九州では使いそうもない北海道用の冬の衣類は実家に預けることになったので受け入れ準備の掃除をしていたらしい。
「荷物は明日の午後には届くけど準備は万全だね」昔なら長距離の引っ越しは国鉄のコンテナと相場が決まっており、北海道からもフェリーに積み替えれば費用を押さえることができたらしいが、JRが貨物輸送を大幅に圧縮したためトラックで直接運ぶ方式が主流になって北海道からはトラックのまま運転手つきでフェリーに乗るので驚くほど高額になっている。然も今回は転属の赴任手当をもらっていないので全て自腹だった。
「それにしても姉貴が出戻るとは思わなかったよ」「荷物はアンタの部屋で預かるつもりだったけど駄目になっちゃったわ」安川候補生は2月の合格発表の時点で聡美と久留米に転居することを実家に連絡し、不用な家具や荷物を預かってくれるように依頼していたのだが、その後に姉の鶴舞は長引く不況でも生活を慎むことをせず、不足分をデリバリー・ヘルス(=派遣型風俗業)で稼いでいたことが発覚して離婚したのだ。このため2階の2部屋は姉の荷物と生活空間で占有されており、先約の2人の荷物は1階の客間に収納することになった。当然、安川家では来客は丁重にお断りしなければならなくなる。
「それで姉貴は」「今日も仕事って出かけているけど風俗を続けていないか心配だよ」「姉貴は短大時代から親の言うことを聞かなくなったからなァ」母と息子が顔を見合わせて一緒に苦虫を大量に頬張ると聡美は困ったように足元を見た。
家に上がると先ず客間を確認した。以前の客間には壁際に床の間と佛檀があり、家具は座卓と茶箪笥だけが置いてあった。今は掛け軸と木彫の置物を片づけた床の間には畳んだ段ボールを敷いて座卓が立てかけてある。佛檀と茶箪笥の前にも畳んだ段ボールが立ててあった。
「何だか祖父さん、祖母さんに申し訳ないな。佛檀の中身だけでも居間に移すことはできないのか」「お盆の棚経のままテレビの上に置こうかと思ったんだけど、今のテレビは液晶だから薄くて載らないのよ」やはり母も内佛と祖父母の位牌を倉庫になる客間に残しておくことは避けたいようだ。盂蘭盆会の棚経は江戸時代に切支丹の取り締まりとして坊主が全ての檀家・門徒の遺影を巡回するのに草鞋(わらじ)を着脱する手間を省くため、縁側に佛檀の中身を並べて祀った風習が「遠方から帰ってくる先祖が落ち着けるように」「年に1度の佛檀の風通し」などの名目をつけて残ったものだ。
「ご迷惑をおかけします。2人で九州に行きます。お守り下さい」安川候補生は佛檀の前の段ボールを外して扉を開けると手を合わせて頭を下げた。隣りで聡美も手を合わせると小声で「ナンマンダブ」と唱えて頭を下げた。ただし、安川家は浄土宗なので念佛は微妙に違う。
「姉貴は子供を連れて帰らなかったのか」居間に座って母が台所から運んできたジュースを飲むと話題は安川家が直面している問題に戻った。姉の鶴舞には幼稚園に通っている男の子がいたはずだが、家の中には子供が暮らしているような気配はない。子供がいれば帽子や小物、食べかけの菓子などが部屋の隅や家具の上に置いているはずだ。
「鶴舞が要らないって言い張って置いてきたんだよ。泣いてすがったけど振り払って出てきたわ」鶴舞は安川候補生や聡美の県立の普通科高校の先輩で、名古屋市内の私立の短期大学に進学して時代遅れな学生運動の活動家とつき合うようになってからは高卒の両親を見下して注意や叱責を無視するようになった。しかし、安川候補生の胸には親戚や近所の子供たち慕われて、楽しそうに相手をしていた高校時代の鶴舞の朗らかな笑顔が浮かんですぐには信じられない。短大時代の活動家と保育士になって間もなく結婚した元義兄は別人だが、ここまで人間性を捻じ曲げた交際はどのようなものだったのか。安川候補生自身はどん底のような高校生活を送っていた聡美を立ち直らせ、2人で幸せな生活を築いていると自信を抱いているだけに姉の過去を知りたくなってきた。しかし、訊くだけ無駄なのは判っている。
「俺としては姉貴が売春で逮捕されると本当に困るんだよな。俺の久居の教育隊の時の中隊長は幹部候補生学校に入校中に妻が無断で仕事を始めたから、それを扶養手当の二重取りの服務違反にされて内務の成績が最低まで落とされたんだ」「それってモリヤ2佐のことね」聡美にとってもモリヤ1尉(当時)は2人を結びつけてくれた恩人だ。安川候補生は松山2佐から聞いた部外出身のエリートだったはずのモリヤが1尉のまま閑職に留まっていた理由が我が身に降りかかってくる悪い予感が迫ってきた。安川候補生は立ち上がるともう一度佛檀に手を合わせた。今度は線香も立てて鐘を打った。浄土宗式に「南無阿弥陀佛」
- 2020/07/16(木) 14:02:57|
- 夜の連続小説8
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7月16日は明治18(1885)年のこの日に半官半民の日本鉄道が開業した大宮から宇都宮までの路線(現在は東北新幹線)で宇都宮駅前の旅館・白木屋が握り飯2個に沢庵を数切れつけて竹の皮で包んだ駅弁を売り出したことを由来とする駅弁記念日です。
宇都宮駅前には現在の駅弁を納入している松廼家が「駅弁発祥の地 宇都宮」と言う大看板を掲げていて、駅の構内にも同様の看板があり、野僧が子供の頃の学習雑誌などにもこの看板の写真と共に記念日や由来が紹介されて鉄道好きの常識になっていました。ところが平成に入ると真偽不明の記録を発掘して常識を覆すことが流行したため、「日本鉄道よりも古い路線で駅弁を売っていた」とする異論・反論が続出したのです。
例えば日本鉄道の最初の路線は明治16(1883)年の上野から熊谷だったので(現在はJR高崎線)、「上野と熊谷の両駅が最初に売り出した」と主張する人がおり、さらに明治17(1884)年に「高崎まで延長された時に高崎駅が売り出した」とする人や大宮から宇都宮は高崎線からの枝分かれなので「始めに開通した大宮の方が先」とする人もいて、どれも書物の名称は明らかにしないで「関係図書に記述がある」と説明しています。
日本鉄道にこだわらなければ話は全国に波及し、明治10(1877)年に「東海道線の梅田(現在の大阪駅)と神戸で売っていた」とする説が最も古いようです。これは西南戦争に出征する兵士たちが神戸港から船に乗るため当時開通していた京都から神戸まで鉄道を利用した際、「大阪と神戸で兵士たちに弁当を売った」と言うのです。確かに商売と食べ物の組み合わせなら関西の方が現実味はありますが言い伝えに近い情報のようです。
局、宇都宮以外は弁当の中身などの具体的な情報はなく、証拠となる記録の出典も明らかではないので史実と認定するには不十分でしょう。
ところがこれらの主張をする人たちは駅弁を売りだそうとする魂胆も腹に抱いているため簡単には引き下がらず、一般人の関心が低いため激論にはならないものの何時までも燻り続けているのです。そのため日本鉄道構内営業中央会は2005年に宇都宮の「駅弁記念日」とは別に4月10日を「駅弁の日」に制定しました。この日付は「弁」と言う漢字が「4」と「十=10」の組み合わせであり、10が「とう」と読めることが由来です。
それにしても小学生から航空自衛隊の鉄道大好き輸送幹部(通常はカー・マニア)になるまで「宇都宮が発祥」と信じてきた野僧にとっては「駅弁を売る側がここまで気を配る必要があるのか」と疑問を感じつつ「自分が正しい=相手が間違っている」と強弁するのなら「根拠となる記録を提示するべきだ」と多少腹が立ってしまいます。
車が嫌いで鉄道が大好きな野僧は出張や旅行でも鉄道を利用することが多く、全国各地の色々な駅弁を食べましたが、強烈に印象に残っているのは昭和62(1987)年に食べた東北本線・八戸駅の鮪寿司の弁当でした。あまりに感激したので通るたびに往復で買ってしまったほどです(今は売っていないようです)。新幹線では浜松と豊橋の鰻弁当も乗る時の定番ですが、奈良の幹部候補生学校に入校中、毎月の帰宅時に京都駅のホームで買っていた市内のホテルのレストラン提供の洋食弁当は病みつきになりました。
- 2020/07/15(水) 13:35:40|
- 日記(暦)
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