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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月1日・第302保安中隊による初の特別儀仗が実施された。

昭和32(1957)年の明日10月1日に明治神宮外苑聖徳記念絵画館前の広場で開催された自衛隊中央観閲式で観閲官である岸信介首相に対して第302保安中隊(現在は第302保安警務中隊)が初めて特別儀仗を実施しました。
中央観閲式は警察予備隊時代の昭和26(1951)年に東京都江東区の越中島駐屯地で実施されて以来、保安隊を経て昭和30(1955)年の防衛庁・自衛隊発足1周年式典から昭和47(1972)年まで戦時中に学徒出陣式典が行われた神宮外苑で開催していました。しかし、2期目に入った美濃部都知事が「交通渋滞の原因になっている」と開催に難色を示し、自衛隊側も昭和33(1968)年に旧・国立競技場が建設されて会場が手狭になり、戦車などの大型車両の進入と走行が困難になっていたこともあって翌年から朝霞駐屯地に変更しました。そして1996年から海上自衛隊担当の観艦式と航空自衛隊の航空観閲式の持ち回りになって3年に1回、11月1日の自衛隊記念日の直前の10月の最終日曜日に朝霞駐屯地で開催されています。ちなみに11月1日の自衛隊記念日は昭和41(1966)年に何の根拠=必然性もなく制定されたのでこの時点ではありませんでした。
特別儀仗については昭和32(1957)年8月27日の閣議決定で陸上自衛隊に「国賓に対する栄誉礼と儀仗」が任務として付与され、当時は芝浦分屯地に所在した(現在は市ヶ谷駐屯地)第302保安中隊が特別儀仗を担当することになったのです。第302保安中隊と保安警務中隊の特別儀仗は昭和32(1957)年10月4日に国賓として来日したインドのジャワハルダー・ネール首相に実施して以来、新儀仗銃の初使用になった2019年5月22日のシンガポールの国防相で2867回になっています。
特別儀仗服は昭和30(1965)年に決定していましたが、この任務付与を受けて正式な制服になりました。冬服の濃緑色は風格と品位があって現在の安っぽい色の玩具の兵隊のような制服に変更した理由が判りません。詰襟式の古臭いデザインはアメリカ海兵隊の儀仗服のように歴史があるから威厳を生むのであって新しく採用するのは愚の骨頂です。あれが安倍前首相とその妻の個人的な趣味だとすれば早急に元に戻すべきでしょう。また小銃は当時の標準装備だったMー1ガーランドでしたが、2019年から形はあまり変わらないもの550グラム軽い儀仗銃に変更されました。儀仗専用であればモデルガンでも良さそうですが弔銃で空砲を射つことがあり、何よりも儀仗の意義は要人の警護と式典会場の警備(実際は人の盾が役目)なので実弾を発射できる本物の小銃でなければならないのです。
野僧は現役時代、儀仗隊長を2回経験しているため特別儀仗についてはかなり研究しましたが、元第302保安中隊長は佐藤栄作首相の国民葬の時、遺骨を祭壇に運ぶ任務を命ぜられたのですが新品の白手袋が滑り、落とせば自決する覚悟を決めたものの無事に置くことができ、その瞬間全身に冷や汗が流れたと言っていました。101名の全隊員がそのような「国家の威信を担う」覚悟で特別儀仗を務めているのです。
  1. 2020/09/30(水) 12:02:04|
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振り向けばイエスタディ2052

岡倉はハノイ郊外のノイバイ国際空港から乗った成田行きの日本航空が離陸する時、窓から外を見て韓国企業の進出の規模を痛感させられた。駅を出て呆れた発展が止まったような旧市街地の周りを取り囲むように近代的な工場やオフィス・ビル、マンション式の社員の社宅が建ち並び、隔絶した別世界を造っている。
「これは本格的にベトナム語を学ぶ必要があるな」今回の調査は英語が通じるサイゴンでは成果があったが、ハノイでは言葉が通じないため現地人脈を構築できず、接触した韓国人は異様に警戒して岡倉が名乗った雑誌が実在するかを本社に問い合わせたらしい。岡倉としてはニューヨークの書店で見かける経済雑誌の名前を無断借用したので疑惑は回避できたはずだが、それでも組織ぐるみで警戒されたようで他の社員に韓国語で話しかけても無視されるようになってしまった。やはり地道に現地人脈を開拓するところから始めるべきだ。
成田経由でニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に着いたのは早朝だった。知愛は聖也の幼稚園があるので来られなかったが、松山1佐が出迎え、そのままワシントンの日本大使館の渡辺防衛駐在官のところに連行された。
「アメリカは寒いだろう。体調はどうかな」「はい、久しぶりの仕事で完全燃焼したかったんのですが準備不足だったことは否めません」渡辺将補はアフリカ系の女性事務員がコーヒーを運んでくると「熱いうちに」と勧めた。湯気が立ち上っているコーヒーを口にすると熱い液体が冷えた身体に染みわたったように感じた。
「やはり言語が問題になったのか」「サイゴンは英語が通じましたが、ハノイは中国語の方が役に立つようです」「フランス語は通じないのかな」ここで渡辺将補が思いがけない可能性を指摘した。確かにベトナムは昭和15年に日本が進攻するまでフランスの植民地だった。インドやオーストラリアなど旧大英連邦の英語、南米のスペイン語やポルトガル語を考えると旧・宗主国の言語が使われていても不思議はない。
「それもサイゴンでは期待できそうですが。ハノイでは国際性を感じられませんでした」サイゴンとハノイは人口こそ50万人しか違わないが、サイゴン=ホーチミンは南ベトナム時代から東南アジア経済の中核都市であり、フランスの植民だった頃に身につけた洗練された雰囲気が街中に漂っていた。一方のハノイはベトナムの封建君主の王府ではあっても古代から都市計画もなく広がった市街地がそのまま残っている。これが自由主義国家であれば首都の開発は莫大な利益を生むため名乗りを挙げる企業があったはずだが、社会主義の官僚たちは面倒臭い仕事を先送りにして、土足で乗り込んできた韓国が郊外に新都市を建設してしまったと言うところだ。
「しかし、田中内閣の日中国交回復以来、企業の海外進出が中国一辺倒だったのは得意のマスコミを使った世論誘導だったんですかね。日本の目を中国に向けさせておいてその隙に韓国がベトナムに進出した」「中国の国家戦略は選挙がない分、長期的展望に立ち、多角的広範囲にわたるから日本人の感覚では理解し切れないのは確かだ」ここで松山1佐が口を挟んだので岡倉は今回の成果を報告することにした。
「日本人が理解し切れないと言えばベトナムと中国は中越戦争や南沙諸島の領有を巡って厳しく対立していると思っていましたが、実際はかなり積極的に貿易を進めていて、サムスン電気は日本製の最先端電子部品を使用した製品をベトナムから輸出しているそうです」思いがけない話の展開に渡辺将補と松山1佐は強張った顔を見合わせた。
「事実関係は未確認ですが、北朝鮮が発射している弾道弾の誘導装置もサムスンが開発していると言う情報があります」「それにも日本製の最先端電子部品が使用されていると言うことだな」渡辺将補の確認に岡倉は深くなずいた。
「日本の最先端電子部品を使った電気製品の軍事転用を調査させるつもりが、とんでもないモグラを叩いてしまいましたね」「中国の宇宙開発が急速に進歩したのにも関与して日本の最先端電子部品が使用されているんだろう。軍事分野でも西側やロシアに比肩するレベルに達しているからな」高射特科出身の岡倉はロケットやミサイルの話題は得意分野だが、今回は南北ベトナムの韓国、中国、アメリカに対する嫌悪感の差異などに翻弄されて能力を発揮できなかった。
「ベトナム軍への転用については・・・」「北朝鮮に売るぐらいだからベトナム軍をお得意さまにしてるんだろう」岡倉はサムスンについては調査できず、「太平洋物産が軍服や戦闘服を製造している」と言う情報を入手しただけだったが、渡辺将補が同じ推理を認めてくれた。
「日本も加倍政権になって外交が復活したから、新世代の外交官は先ず水面下で痛みを与えてから面と向かって問題を指摘して、最後は強行手段に訴えるくらいのことはやるはずだ」「朴槿恵政権に父親と同じ外交姿勢を期待するのは韓国の実情を知らせない日米のマスコミの戯言です。むしろ徹底的な反日外交を始めるでしょう」最後は岡倉が花を持たせてもらった。
  1. 2020/09/30(水) 12:00:24|
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9月30日・東部戦線ではない撃墜王・マルセイユ大尉が戦死した。

1942年の明日9月30日にナチス・ドイツ空軍の独壇場だった東部戦線ではなくスピットファイヤーなどの高性能戦闘機に精鋭パイロットが乗った難敵・イギリス空軍を相手に158機の撃墜数を記録したハンス・ヨアヒム・マルセイユ大尉が戦死しました。
マルセイユ大尉は姓でも判るようにフランス国王・ルイ14世が発したプロテスタント禁止令から逃れてプロシアに亡命したフランス人の末裔です。マルセイユ大尉は1919年にベルリンで第1次世界大戦の陸軍大尉で敗戦後は警察に入っていた父親の息子として生まれました。少年期に母親と離婚したこの父親は1933年に陸軍に復帰して少将にまで昇任しましたが1944年1月に東部戦線でソ連のパルチザンの攻撃で戦死しています。
第2次世界大戦が始まる半年前の1938年11月にナチス・ドイツ国防空軍に士官候補生として入営し、基礎教育を受けた後に1939年3月から戦闘機飛行学校に入校しました。飛行学校では警察官の息子の割に規律違反の常習犯でしたが1940年7月に極めて優秀な成績で卒業すると飛行訓練隊に入隊して実技の訓練を受けながらドイツ西部の化学工場の防空任務に当たりました。そして1カ月後に教導航空団に配属されるとバトル・オブ・ブリテンの爆撃機の護衛としてイギリス本土上空でイギリス空軍と対戦することになったのです。配属されて8日後の8月24日には初撃墜を記録しましたが、母親への手紙には「今日、私は最初の敵を撃墜しましたが、それを受け入れられません。この若者の母親が息子の死の知らせを受け取った時、どう感じるかばかりを考えています。そしてこの死の責任は全て私にあります。私は最初の勝利に満足するどころか悲しんでいます」とセンチメンタルな文章を記しています。そして9月23日に初めて撃墜されて脱出し、3時間ドーバー海峡で泳ぎましたが、この撃墜によって単独になった隊長が戦死したため帰還すると徹底的に糾弾されました。それにはマルセイユ少尉がずば抜けた色男で女性遍歴が激しく、出撃前に朝帰りするなどの規律違反に上官から同僚まで怒り心頭に達していたようです。結局、2度目に転属した戦闘航空団が北アフリカ戦線に派遣され、ここでそれまでの交差や追尾しながら後方から射撃する直線的な飛行戦術を横転から側面を射撃する画期的な戦術を確立したことで驚異的な撃墜数を記録することになったのです。勿論、側面の荷重=Gに耐えられるように背筋と下半身の強化に万全を期していました。
しかし、北アフリカ戦線を重視するウィンストン・チャーチル首相の意向を受けてイギリス空軍が精鋭パイロットを送り込んだのでマルセイユ大尉は過酷な連戦になって疲労困憊していた上、航空機の整備も完全とは言えない状態に陥っていて、この日はイギリス空軍機を迎撃・撃退した帰路、初使用のBf106のコクピット内で煙が発生・充満して脱出する時、機体が急降下して速度が650キロに上昇していることに気がつかずに脱出したため尾翼で胸部を強打して即死したのでした。
この死を戦果として報道した新聞にマルセイユ大尉の写真が掲載されるとイギリスの女性たちはその俳優並みの美貌に心を奪われて敵でありながら教会で冥福を祈る者が続出したと言う伝説があります。女性の撃墜数は世界一だったのかも知れません。
ハンス・アルヒム・マルセイユ大尉超イケメン撃墜王・マルセイユ大尉
  1. 2020/09/29(火) 12:43:18|
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振り向けばイエスタディ2051

サイゴン=ホーチミンでの調査に区切りを着けると岡倉はハノイへ移動した。移動手段は37時間の寝台列車だが、ベトナムの鉄道は電化されていないためディーゼルのエンジン音は覚悟しなければならない。さらに寝台の毛布は日本のように毎回クリーニングしてあるとは思えない他人の体臭と湿気があるから不快感も我慢するしかない。そこは社会主義国家の国鉄なのだ。
「ハノイは完全に韓国化してるんだろうな」そんな寝台に横になっても中々寝つくことができず、岡倉はサンゴで見聞してきた現状を思い返してみた。サイゴンは自由主義国の南ベトナムの首都だっただけに社会主義化されたとは言え市民の表情には活気があった。むしろ市場経済が導入されたことで1975年4月30日の敗戦以来、中国の文化大革命を模倣した思想弾圧で封印されてきた企業経営の手法を復活させようとする熱気が湧き起こっていた。店舗も中心地は韓国系のデパートやホテル、コンビニエンス・ストアに独占されているが、少し外れた地区へ行けば日本やタイの系列店があり、韓国を嫌う中高年の市民はそちらまで足を延ばしていた。それでもベトナム政府の韓国企業に対する優遇には異常な格差があったので、先行して進出させたハノイでは想像するのも嫌になるような状況だろう。
「タインホアか。ここには太平洋物産が繊維工場を建てたんだったな」ハノイの南西に位置するので鉄道では手前になるタインホアの駅では数人の韓国人が乗り込んできた。服装から見ると企業の管理職と随行の社員たちのようだ。するとユッタリとした時間が過ぎていた車内で聞き覚えがある韓国語の喧騒が始まった。それにしても韓国人が集団で喋り出すと会話が騒音にしか聞こえないのはなぜだろうか。語尾を低くして意見の強要を避けることに慣れている日本人には喧嘩を売られているようにしか思えない。
「中国に輸出する商品の相談を始めたぞ」嫌でも耳に入ってくる韓国人の会話を聞きながら岡倉は日本語を口の中で呟いた。前の席は寝台で上下になった若いベトナム人だが英語は苦手なようで嫌悪感を露わにしていても会話はできない。
「それでも政府の許可がいるのか。やっぱり社会主義国だな」韓国人の会話を聞くだけで情報収集になるので岡倉の嫌悪感は少し薄らいだ。岡倉がアメリカに来る前の日本でも中央官庁が企業の経営を事細かに指図していたため、新規事業を始める時には担当の管理職が説明に出向き、若い官僚に平身低頭することが常態化していたが、その後の規制緩和ブームでかなり解消したと聞いている。こうして韓国の企業がベトナムの中央官庁を訪れる姿を見ていると「日本経済はマルクス主義の最高の成功例」と言う外交官ジョークはかなり本質を捉えているようだ。
「おいおい賄賂の相談を始めたぞ。社会主義国は規律が厳しいんだろう。それとも自由主義の毒が蔓延しているのかね」岡倉がベトナム語に堪能であれば聞こえてくる韓国人の会話を同時通訳してやりたいところだがそれは無理だ。岡倉がベトナムへの出張を命じられたのは昨年末のことで社会体制や生活習慣、歴史文化を学習することで手一杯で語学については観光旅行者用冊子に目を通すところまでだった。幸いなことにサイゴンではある程度、英語が通じたものの北部は英語よりも中国語が使われているらしい。それもベトナムの鉄道が中国の南寧までつながっていて列車が行き来しているからと言うのは意外だった。日本人は中越戦争や南沙諸島の領有権を巡ってベトナムと中国は今も厳しく対立していると思い込んでいるが、やはりアジアには欧米のキリスト教国のような教条主義よりも実利を求める「好い」加減さがあるのだ。
韓国人たちが延々と議論を続けている間に列車はハノイ駅に着いた。韓国人としては普通の相談なのかも知れないが岡倉や周囲のベトナム人には口喧嘩にしか聞こえなかった。しかし、韓国人たちは賄賂の金額を韓国の相場と比較していたので、歴代大統領が退任後に逮捕される汚職収賄が事実であることまで確認できてしまった。
「随分と古びた街だな」駅から出ると市街地の風景は予想とは違い、雑然とした東南アジアの都市と言う雰囲気が充満していた。駅の正面には数棟のビルが建っているが、それ以外は大き目の地震が来れば倒壊しそうな2階建て以下の鉄筋コンクリート製の商店が並び、派手な看板の下では従業員が大声と手振りで客引きをしている。信号がない車道には規制線もなく多くの原付バイクがかなりの高速度で通過して行く。自動車はほとんど走っていない。むしろサイゴンの方が道路や店舗の造りに自由主義的な統制が取れていて安心できた。
「子供の頃に聞いたベトナム戦争の話ではハノイはアメリカ軍の北爆で戦時中の東京みたいな焼け野原になったはずだが・・・この建物はどうみても築50年だろう」道路を渡る勇気がなかった岡倉は駅前通りを歩いてみたが戦争の痕跡は見つけられなかった。やはりアメリカ陸軍が日本全国の各都市に加えた無差別爆撃は第2次世界大戦限定の狂気=凶事だったようだ。戦後の日本人は空襲をその凶事に直結させる経験をしているから勝手に連想した面も否定できない。
  1. 2020/09/29(火) 12:40:32|
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9月28日・第442連隊戦闘団で初の戦死者が出た。

1943年の9月28日にイタリアで第442連隊戦闘団にとって初めての戦闘でシゲオ・ジョー・タカタ軍曹以下3名が戦死者しました。
第442連隊戦闘団は8月20日にニューヨークのブルックリン港から戦時徴用船・ジェームズ・バーカー号で大西洋を横断し、9月2日に北アフリカのフランス領アルジェリア(ヴィシー政権はフランスの東半分を支配していたに過ぎなかった)のオランに上陸しました。日本軍では南方戦線や太平洋上の離島の守備隊に送られる兵士の多くはアメリカ海軍の潜水艦に輸送船を撃沈されて戦うことなく戦死していますが、ジェームズ・バーガー号が大西洋でUボートの攻撃を回避できたのは護衛の駆逐艦が優秀だったのでしょうか。
北アフリカに上陸して1週間後の9月9日から連合軍はイタリア本土への上陸を企図した「アヴァランチ作戦」を開始しました。これはイギリスのウィンストン・チャーチル首相がイタリア海軍を無力化して地中海の制海権を奪取するのと同時にナチス・ドイツ軍の兵力を分散させることでソ連軍の東部戦線とノルマンディー上陸作戦によって始まる西部戦線を有利にすると主張したことを受けてのことでした。
実はこの前日、7月25日にベニート・ムッソリーニ統領を解任していたイタリアは連合国と国王・ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の署名による休戦協定を結んで事実上、降伏していたのですが、盟友・ムッソリーニ統領の解任を察知したアドルフ・ヒトラー総統が軍を派遣していたためイタリアを舞台にナチス・ドイツ軍が連合軍を迎え撃つ戦争が生起したのです。作戦が始まるとナチス・ドイツ軍は機甲師団と自走砲部隊を派遣して一度は撃退に成功しましたが、戦艦が到着して艦砲射撃を開始すると次々に破壊され、間もなく上陸に成功して橋頭堡を確保したのです。
しかし、第442連隊戦闘団は北アフリカに留め置かれていました。それは日系人と同時期に徴兵対象になったアフリカ系の部隊「バッファロー・ソールジャー」が先に戦線に投入されると「ヨーロッパ系兵士の弾除けに激戦を割り当てられる」=「人種差別だ」と言う批判をマスコミが扇動したためアメリカ軍首脳は日系部隊の使用に慎重になっていたからです。すると日系人の将兵たちから前線部隊への参加を希望する声が上がり、これを受けて日系人部隊=第100歩兵大隊は第34師団133連隊に編入されて、9月22日に橋頭堡の確保が完了していたサレルノに上陸してイタリア戦線に参戦したのです。
上陸後、サレルノから半島中央部のアヴェリーノ県モンテマラーノに移動したのに続きベネヴェントに向かって進撃を命ぜられてアッピア街道を前進していると9月28日にナチス・ドイツ軍に遭遇して初めての戦闘を経験しました。この日にオアフ島出身のシゲオ・ジョー・タカタ軍曹が戦死し、さらに30日までの戦闘で2名が戦死しました。
タカタ軍曹は眉間を射ち抜かれながらも薄れゆく意識の中で敵兵の位置を周囲に伝え続け、戦死後に陸軍殊勲十字勲章(名誉勲章=メダル・オブ・オナーに次ぐ2番目に高位の勲章)が授与されています。これが任務を解除されるまで9486名に上った第442連隊戦闘団の死傷者の最初でした。
  1. 2020/09/28(月) 13:37:02|
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振り向けばイエスタディ2050(一部、事実です)

「アンタ、韓国人じゃあないね」岡倉がサイゴンで在アメリカの経済雑誌の韓国系記者を名乗って調査を開始して数日後、親しくなったサムスンのベトナム人技術者と飲んでいると素性を見破られた。ただし、危険な雰囲気ではない。
「確かにアンタの韓国語は本場仕込みだけど体臭は日本人のものだ。韓国人に近づくとキムチの臭いがするが日本人は沢庵だ」と言われても岡倉はニューヨークでも愛妻の知愛が漬けた自家製のキムチを常食していて沢庵は何年も口にしていない。おそらく後半は例え話の冗談だろう。
「大体、韓国人はベトナムに来てもフーティウなんて食べないよ。母国の家族に送らせてでも韓国食に執着するんだ」岡倉が技術者と出会ったのは昼食に入った工場の傍の麺料理店だった。岡倉がベトナム風細饂飩のフーティウを美味そうに食べているのを見た技術者が声をかけてきたのだ。実は岐阜県出身の岡倉はきし麺風のフォーが好きなのだが、あれはベトナムでも北部の麺類で南部では細饂飩風のフーティウや素麺風のブンが一般的らしい。
「俺は日本が好景気の頃、電気メーカーで技術講習を受けながら働いていたから日本人をよく知っている。その後、韓国でも講習を受けたが全く違っていた」ここまで見抜かれていては認めるしかない。岡倉が困った顔でうなずくと技術者は苦笑してうなずき返した。この技術者とは英語で会話しているが、そうなると日本語と韓国語でも良くなる。
「先ず不思議だったのは日本人が我々だけじゃあなくて東南アジアの人間なら皆が感謝している第2次世界大戦の進出を侵略だったと考えていることで、俺がベトナム人だって判ると労組の連中は対米戦争では日本がアメリカ軍に協力したって謝罪までしてくるんだ」この技術者が好景気と言ったのはバブルの狂乱景気を差すようなので、企業では70年安保闘争の頃に学生だった世代が管理職や労組の幹部になっていたはずだ。その世代の世界観はアメリカを悪の帝国、日本はその従属国、ソ連と中国は正義、ベトナムは戦前の日本とアメリカの帝国主義の犠牲になった悲劇の国と言う極端に偏ったものだった。
「ところが韓国は真逆でベトナムは中国皇帝の支配が及んだ最果ての土地だと完全に見下していて、自分たちは中国になり代わり救済の手を差し伸べてやるんだって明言しやがった」技術者は苦々しい顔で氷を入れたグラスに注いだラルー(ベトナムのビールの銘柄)を大目に飲んだ。元々ラルーは薄いのでオンザロックでは全く苦くない。
「韓国の連中は日本も台湾と同じ中華文明が届かない離れ島って言ってたぞ」「化外(けがい)の地ってやつだな」技術者としては岡倉も怒らせて一緒に「反韓」で盛り上がるつもりらしいが、あの国の「反日」「嫌日」「憎日」には長年慣れ親しんできたので特に反応しなかった。
「あんまり腹が立ったから韓国軍がベトナムの村を襲って女を強姦した上、老人から子供まで虐殺した事件をどう考えるのかを訊いたんだ。すると始めは『嘘だ』と絶対に認めなかった」「韓国は歴史を歪曲・捏造するのが当たり前だからな。ベトナム人も同じことをやっていると考えたんだろう」岡倉が口調は穏やかなまま韓国を揶揄したため技術者も少し納得したようで、自分のラルーを勧めた。しかし、泡立ちも弱いので注がれてもビールと言う気がしなかった。
「それでも俺が引かないと韓国軍は南ベトナムを助けるために派遣された。その犠牲的精神に感謝しろって開き直りやがった」「その論理で日本の信託統治を理解して欲しいな」現在の韓国は日清戦争後、清国の後ろ盾を失った朝鮮王朝が日本に統治を委任したことを朝鮮併合と呼んで「植民地化された」と国際社会に向けて主張している。そうすることで本来は日本に従属して第2次世界大戦に参戦・敗北して課せられた「戦争犯罪国」と言う立場を「被害国」に転換しようとしているのだ。その姑息な手法を教えたのは日本のA日新聞かも知れない。
「とどめに日本は生理が始まらない韓国の少女を20万人も強制連行して慰安婦にした。敗戦時には大半を虐殺したのだから数百人くらいの犠牲は我慢しろってよ」流石に技術者も呆れてきたようだ。20万人と言うのは韓国が主張している韓国人の(いわゆる)従軍慰安婦の総数で少女に限定した人数ではない。おまけに前線で戦闘に巻き込まれて犠牲になった売春婦はいても敗戦時に日本軍が虐殺したのではなく、帰国後に売春婦を蔑み、日本への協力者として敵視した韓国人に迫害されて多くが病死・餓死したのだ。
「それにしても日本政府は韓国に甘いな。韓国は日本から輸入した最先端の電子部品をベトナムに送って東南アジア向けの電化製品を作っていると説明しているが、実際は中国が一番の大口輸出先なんだ。北朝鮮の弾道ミサイルの誘導装置もウチの製品だぞ」酔いが醒めた技術者がこの情報を漏らしたことに気がつくと危険なので、岡倉はテレビの歌番組に熱中していた振りをして「この歌手は美人だな」と声を掛けた。この情報を日本に送っても悪夢の民政党政権では韓国と中国にご注進しかねなかったが、加倍政権なら適切に対応するはずだ。
  1. 2020/09/28(月) 13:35:47|
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9月27日・19年19号台風で復活した狩野川台風が上陸した。

昭和33(1958)年の9月27日に2019年10月12日に伊豆半島に上陸して関東から東北南部を縦断した巨大台風の19号の危険性と進路を説明するのに気象庁が「狩野川台風のような」を連呼したことで体験者には記憶が復活した昭和33年台風22号=狩野川台風が上陸しました。
最近のテレビの天気予報を取り仕切っている気象予報士たちは平成生まれなのか昭和の台風に関する知識が不足しているようで10月中旬に19号が関東地方を直撃したことを「地球温暖化の影響でこの時期になっても日本近海まで海水温が高いため勢力が衰えず、むしろ強まって接近し、関東地方を直撃する」とスウェーデンのグレタ小娘に同調した解説していましたが、昭和10(1935)年の9月26日には岩手県沖で帝国海軍の最新鋭の艦艇が台風によって大破した第4艦隊事件が発生していますから現在の気象が異常な訳ではないはずです。ただし、昭和29(1954)年の9月26日の洞爺丸台風=台風15号は九州、近畿地方を通過してから日本海を北上して北海道の西側を抜けた右半円が津軽海峡にかかったのです。
狩野川台風は9月21日にグアム海域で発生した弱い温帯性低気圧が最大風速17メートルを超えたことで台風になり、弱いまま北西に進行していながら22日午後に小笠原諸島付近で進路を北に変更した頃から急速に勢力を強め、22日15時から24日3時までに気圧が104ミリバール(当時の単位)も下がって当時の世界最低気圧・現在でも4位の877ミリバールを記録し、最大風速は100メートルを超え、直径15キロの明確な台風の目を中心として日本列島に接近しました。しかし、900ミリバール未満の気圧を48時間維持した26日になると急速に衰えて21時頃に気圧955ミリバールで伊豆半島の南端をかすめ、27日0時に960ミリバールで鎌倉付近に上陸しました。その後は東京湾を通過して6時には三陸沖に抜け、9時に温帯性低気圧になりましたが、台風を衰えさせた低い海水温による秋雨前線を刺激したため伊豆半島では25日から台風が最接近した26日夜までに1時間雨量が120ミリを超え、総雨量が753ミリと言う集中豪雨になりました。このため半島中央の天城山地を水源にして沼津に流れる狩野川では上流で鉄砲水や土石流が続発し、それによって倒された樹木が川の石などに引っ掛かって天然のダムを造り、それが水圧に耐えられなくなって倒壊して巨大な鉄砲水を起こす「ダム倒壊現象」が被害を大きくしました。さらに下流では流木が橋に引っ掛かってダム倒壊現象を発生させ、堤防を破壊して流域に水害を引き起こしたのです。
この台風では狩野川流域の市町村だけでも死者684名、行方不明169名、家屋全壊261戸、流失697戸、床上浸水3012戸の犠牲と損害を出しました。この他に伊豆・小笠原諸島を含む東京都内でも死者・行方不明者46名、浸水家屋33万戸の被害を出し、横浜も丘陵地の倒壊が相次ぎましたが、気象庁が最大の被害を受けた狩野川地区を台風の固有名詞にすることに異論を挟むことはなかったようです。その点が昭和の日本人の節度なのでしょう(東北の震災を東日本と呼ばせている平成とは違う)。
  1. 2020/09/27(日) 13:35:17|
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振り向けばイエスタディ2049

ベトナムに入った岡倉は困惑を超えて驚愕していた。アメリカとベトナムは航空便が就航していないため(直行便は2019年から)成田で全日空に乗り換えてホーチミン空港に着いたのだが、現地はニューヨークで命ぜられた「ベトナムへの韓国企業の進出状況の調査」ところか「乗っ取り」と言うべき事態を呈していた。
「サイゴンにはサムスン電気が進出したとは聞いていたがロッテのホテルとスーパー・マーケットが建ち並んでるじゃないか」岡倉は昔懐かしい空港バスで旧・サイゴン、現在のホーチミン市の中心街に来たのだが、サムスン電気の大規模な工場が建設されていると言う情報以上にロッテ・グループの名を冠したスーパー・マーケットとホテルが建ち並び韓国の都市に来たかのような錯覚に囚われた。目を配るとコンビニエンス・ストアも韓国のチェーン店だ。
「社会主義による経済建設に失敗して韓国企業に代行させたから産業の大半を奪い取られる結果になったんだな」ベトナムが南北に分断されていた頃は自由主義の南の方が繁栄していた。それを中国の全面的な支援を受けた北が1975年4月30日に軍事力で制圧したのだが、社会主義の経済感覚しかない北の指導者に多くの経営者が競い合いながら管理・運営してきた企業を維持できるはずもなく、南の市民の不満は武力で封殺してきた。そして1980年代になると小船で海外逃亡を図るボート・ピープルが大量に発生して日本でも話題になった。しかし、日本のマスコミは反戦報道で北ベトナムを支援してきた人権蹂躙の共犯者なので小船の乗り心地などの「話題」にはしても政治「問題」として報道はしなかった。
「アンニョンハシムニカ」岡倉がホテルを紹介してもらうために駅の観光案内所に入るといきなり韓国語の挨拶を受けた。社会主義国では女性も仏頂面で応対すると思い込んでいた岡倉はベトナム美人の愛想笑いとのセットが少し嬉しかった。
「アンニョンハセヨ」岡倉は韓国語で答えるとそのまま用件を続けた。すると受付の美女はパンフレットをカウンターに広げて流暢な韓国語で説明を始めた。やはりベトナム人ではない容姿の岡倉を韓国人と判断したらしい。それだけベトナムでは韓国人が多いと言うことだ。
「ロッテのホテルは当日の申し込みでは無理ですが、少しランクを落とせば韓国系のホテルに宿泊できます」受付嬢は「韓国人あれば韓国のホテル」と思い込んでいるらしく、並べているパンフレットも全て韓国系だ。確かに韓国人の偏狭な愛国心は海外でも排他主義を発揮する。岡倉はソウルに行く度に李家以外で抱いていた嫌悪感がつきまとっているような気分になった。
「ベトナムのホテルはないのかね。折角、ベトナムに来たのだから現地の人たちとも交流したからね」「それは・・・」岡倉の確認に受付嬢は顔を強張らして黙ってしまった。本当はベトナム語が話せない岡倉としてはベトナムのホテルには不安があるのだが、南時代には英語が通じていたはずなので思い切ってみたのだ。
「誠に申し上げにくいのですが・・・我が国でも旧南地域では抗米救国戦争(=ベトナム戦争)時代の記憶を残している人民が少なくないので韓国の方には不快な思いをさせる危険があります。ですから韓国系のホテルをご案内しているのです」これが真相だった。そこで岡倉はもう一つベトナム人の意識調査をしてみた。
「日本人ならどうだい。僕は日韓のハーフなんだよ」「それは・・・」受付嬢は再び黙ってしまった。すると別の客を応対していた男性の担当者が横から代わって説明した。
「日本人はフランスの植民地だった我が国を独立させてくれた恩人として感謝しています。しかし、経済建設に着手した我が国が企業の進出を要請しても日本政府と経団連は中国にだけ目を向けて黙殺しました。その結果、韓国が取って代わって現在のような状況になっているのです」この口調は韓国によって発展している現在のベトナムを決して肯定していない。むしろ援蒋ルートを遮断するためフランス領だったベトナムに進出して解放した日本に期待を裏切られた悔しさが滲み出ている。日本としても日中国交回復後、稲村嘉寛会長が主導する経団連が「多大な迷惑をかけた謝罪=私人による賠償」と称して国際的企業慣習を放棄した中国進出を推進し、マスコミの扇動に経営者が躍った結果、特許を盗み取られ、技術を学んだ従業員が同業の会社を乱立し、外交関係が険悪化すれば鄧小平の懇願を受けて建設された松下電器の工場は徹底的に破壊された。つまり日中友好の狂乱でベトナムには多大な迷惑を掛け、日本も小さくはない損害を被ったようだ。男性は受付嬢が別の客の応対を始めると顔を近づけて小声でささやいた。
「それに対米戦争(=ベトナム戦争)で日本人はアメリカ国内の北を正義とする反戦運動に同調して南の防衛的戦争を妨害しました。我が国の政府は北ですから南の敵は味方なんでしょう。韓国軍が虐殺したのも南の人民だから気にならない。怨讐よりも経済発展を優先すると言うことです」結局、岡倉はベトナム人旅行者用の宿泊所に泊まることになった。
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  1. 2020/09/27(日) 13:33:54|
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9月26日・帝国海軍の遭難事故・第4艦隊事件が発生した。

昭和10(1935)年の9月26日に帝国海軍の第4艦隊が台風を突破しようとしたことによる重大な遭難事故が発生しました。
帝国海軍では昭和9(1934)年に佐世保港外で荒天による横波を受けた水雷艇・友鶴が横転・転覆して乗員113名のうち100名が死者・行方不明者となった事故を経験し、艦体の構造上の強度と復元力を検証して強化する再発防止策を講じていましたが、当時は第1次世界大戦後のワシントン、ロンドン軍縮条約による艦艇の保有制限を逃れるため小型艦艇に重武装することが常態化していて友鶴もその典型でした。
第4艦隊は昭和10年度海軍大演習のため臨時に編成された艦隊で岩手県沖250海里で実施される対抗演習に参加するため9月24日と25日に函館港を出港しました。実はこの時点で大型台風の接近と演習海域の通過が予報されており、艦隊内でも反転による回避が検討されたのですが、すでに波浪は激しくなっているため臨時編成の艦隊では衝突事故の発生が懸念され、何よりも「実戦では台風と言う荒天下の海戦もあるはず=台風の克服も訓練になる」と言う蛮勇の意見が採用され、予定通りに演習海域に向けて航行したのです。こうして現在の天気予報で言う「暴風圏」に入ると最低気圧960ミリ・バール(当時の単位)、最大風速34.5メートルを観測し、特に主力艦隊から200キロ南東を航行して台風の右半円内に入った水雷戦隊は最大瞬間風速45から50メートルを記録して海面には三角波が起ち、最新鋭駆逐艦・吹雪型の初雪と夕霧は艦橋の前方の艦首部分が千切り取られる甚大な損害を受け、その他の全艦も何らかの損害を被りました。吹雪型では艦首部分に暗号書が保管されている通信室があり、漂流していれば敵に回収される惧れがあるため当初は初雪(夕霧では事前に暗号書を持って退避していた)の艦首の軽巡洋艦・那智による曳航を試みましたが高波で断念し、生存者の確認をすることなく艦砲射撃で撃沈したのです。この台風によって第4艦隊では駆逐艦・睦月、菊月、朝風の艦橋大破、同・三日月の艦橋とマスト大破、航空母艦・鳳翔の飛行甲板損傷、同・龍驤の艦橋高波による圧壊、重巡洋艦・妙高の艦体中央部のリベット鋲の弛緩、軽巡洋艦・最上の艦首部に亀裂、潜水母艦・大鯨の艦橋前方の舷側に歪みなどの大損害が出ましたが殉職者は初雪の艦首部の乗員24名だけでした。
当然、野村吉三郎大将を長とする査問会が設置されて原因の究明が図られましたが、軍縮条約の制限の中の無理な重武装化と言う根本原因は海軍の組織全体に責任が波及することを懸念して表立っては取り上げず(対策は講じた)、艦の軽量化のために採用・推進した電気溶接による強度不足を主たる原因としたのです。実際、大損害を受けた吹雪型駆逐艦や大鯨には電気溶接が使用されており、リベット接合の妙高は鋲の弛緩ですみました。しかし、この結論は電気溶接が主流になり、欠点が改善されていった欧米に比して日本の造船技術の発達と艦艇の性能向上を阻害する結果を招きました。
とは言え本質的な原因は明治35(1902)年の陸軍の八甲田山雪中行軍遭難事件に学ばなかった海軍の自然の猛威に対する認識の甘さでしょう。
  1. 2020/09/26(土) 13:31:17|
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振り向けばイエスタディ2048

九州・久留米でも名残り雪が舞った2月中旬、前川原の幹部候補生学校では部内課程の修了式が行われた。4月から入校していた防衛大学校、一般(部外)課程と薬科大学出身者は12月までの9カ月間で卒業して部隊に配属されているが、来年度=2014年4月の入隊者からは全国各地の普通科連隊での実習を経験してから幹部候補生学校に戻って卒業するようになるらしい。
それにしてもこれだけ頻繁に課程教育の方式が変更されると困る面もある。安川候補生は入校前、部隊で色々な年齢層の幹部たちから情報を与えられたため、古手の中隊長や1科長には防衛大学校出身者は春から秋の半年、部外は1年、部内は秋から春の半年と説明され、若手の中隊長や小隊長からは防衛大学校と部外、薬科大学は混成で春から年内の9カ月、部内は秋から冬の5カ月と教えられた。そもそも「春に満開の桜の下で部外と合同で幕僚長が出席する盛大な卒業式」と言う情報はかなり古かった。
「安川和也 名寄・第3普通科連隊」卒業式では1人1人舞台に上がって校長から修了証書を受け取るが、司会が名前を読み上げるだけで候補生は立ち止まることなく差し出される証書を受け取って通り過ぎて行く防衛大学校方式だ。聡美は入校式でも感激したが、修了式では泣き過ぎて吐き気を催してしまった。
「奥さん、候補生の行進が始まりますよ。急いで下さい」トイレで吐いて講堂のロビーに出ると安川候補生の所属中隊の案内係の陸曹が待っていて急(せ)かすように声をかけた。しかし、聡美はこの嘔吐が涙によるものではないことを察していた。安川候補生の100キロ行軍訓練は正月明け早々に行われ、その週末に抱かれた。それで毎月末に必ずくる生理がまだこない。身心共に生理不順になるような状態ではないから考えるべき可能性は1つだ。聡美はイライラしながら玄関のガラス扉を開けている陸曹に「ごめんなさい」と詫びながら慎重な足取りで講堂から本部庁舎に向かう道路にできている人垣の中の家族たちに紛れ込んだ。
「パチパチパチ・・・」間もなく安川候補生が家で聞くことがあるスーザのマーチ「士官候補生」が流れ、人垣の遠くから拍手が広がってきた。
「頑張れ」「シッカリやれよ」校長以下の学校関係者がかける激励に候補生が「はい」「頑張ります」「有り難うございました」と答える声が近づいてくる。どうやら1列で歩いて来るらしい。
「おめでとう」やがて先頭の候補生が家族の前に差し掛かった。家族の端に立っている儀礼階級章を着けた陸上自衛隊の幹部が声をかけた。つまり親子2代の幹部自衛官が誕生したと言うことだ。その隣には和服の女性が控えている。部内課程の修了式に両親揃って駆けつけるとは感心してしまったが、実は先頭を歩いてきたのは式で指揮を執っていた首席で卒業した候補生だった。
「聡美、大丈夫か」首席以外は中隊・区隊・個人の建制順になり、安川候補生は順番通りに歩いてきた。いつになく厚着をしている聡美に安川候補生は少し歩調を緩めて声をかけた。学校関係者の前を通った時、案内係の陸曹から聡美が嘔吐していたことを聞いたようだ。
「お先に行くぞ」「ごゆっくり」安川候補生と聡美が対面したのを見て同期たちは声をかけて追い越して行く。これで数分間は立ち止まって話ができる。
「大丈夫、稲沢へ行ったら病院に掛ってみるから」「通院するほど悪いのか。だったら久留米で病院に行こう」部内課程を卒業した安川候補生は一度、名寄の第3普通科連隊に戻らなければならない。しかし、官舎は退去してしまったので聡美は稲沢の安川家で待つ予定だ。安川家には名寄から送った家具を預けてあるため居間の炬燵を片づけて寝なければならないが、2階を占拠している義姉の鶴舞が1部屋を譲るとは思えない。
「病気じゃあないから心配しないで。遅れちゃうよ」「うん、ご苦労さんでした」聡美の答えに安川候補生は困惑しながらも姿勢を正して敬礼をした。
「それでは本日、目出度く修了の日を迎えた第94期部内課程の候補生諸官の部隊での活躍と同期愛の発展を祈念して万歳三唱で送りたいと思います」候補生たちは本部庁舎の前で右折すると中央グランドに整列した。見送った学校関係者と家族は道路を横切って候補生たちと向かい合った。そこに儀礼階級章を着けて白手をはめた幹部が1人駆け寄り、基本教練通りに周り右をして校長に敬礼した後、口上を述べた。どうやら部内課程の先輩である区隊長らしい。
「第94期部内課程候補生諸官、万歳」「万歳」「万歳」「万歳」「万歳」「万歳」万歳三唱の後は盛大な拍手になる。聡美は修了式の前の外出で帰宅した安川候補生から「万歳の手は内側に向ける。前に向けるのは降参だ」と習っていたのでそれを守ったが、気になって見回すと全員が作法通りだった。愛知県では聞いたことがなかったが、九州では常識なのかも知れない。
防衛大学校の卒業式での「帽子投げ」はアメリカ海軍士官学校の候補生が士官用正帽に変わる=任官する歓喜を表現した習慣の踏襲なので幹部候補生学校では行われない。
  1. 2020/09/26(土) 13:29:56|
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9月26日・香港で雨傘革命が始まった。

2014年の明日9月26日に共産党中国の大弾圧の暴風雨に耐えて今も差し続けている香港の雨傘革命が始まりました。
この運動は2017年に予定されている特別行政区行政長官の選任を香港返還時の合意事項である「1国2制度」に基づく一般市民による選挙ではなく「行政長官候補には指名委員会の過半数の支持が必要であり、候補者は3から2名に限定する」と8月31日に共産党中国の人民代表者会議常務委員会が発表したことに学生が憤慨して9月26日から授業をボイコットし、香港市内の主要な交差点を座り込みによって封鎖し、それが地域の占拠に発展したのです。ところが行政区当局は暴力行為や破壊活動は全く起こらなかったにも関わらず主要な繁華街や商業エリアの占拠が9月28日になっても解消しないことから排除に動き、道路や広場に集まっているだけの学生たちに催涙スプレーや胡椒スプレーを噴射し、武装警察当局の発表でも87発の催涙弾を発射しました。これに対して市民は自宅から持参した雨傘や雨合羽、レイン・コート、ポンチョを着用した上にゴーグルとマスクをはめて運動を継続したのです。これが雨傘革命と言う呼称の由来です。
すると10月2日深夜になって行政長官が記者会見を開き、女性政務官(現在の行政長官)を窓口として学生団体の代表と話し合う用意があることを発表し、夜が明けた10月3日に大陸側の九竜半島で武装警察当局が「デモに反対する市民」と称する裏社会の人間と学生たちとの間で暴力抗争が発生し、さらに10月4日には5人の大学の学長・校長が現場を訪れて学生を激励しながら、直後に8人の学長の連名による「君たちの犠牲と君たちの愛は香港の心である。我々は全てを見て、全てに感動した・・・私は父親の気持ちで君たちにお願いする。どうか無駄な犠牲を出さないで欲しい。君たちが引き下がっても失敗したのではないのだ」と言うデモの停止と解散を求める談話を発表したのです。
こうした硬軟の策謀が失敗に終わり、事態が長期化し規模が拡大すると行政区当局は共産党中国の本性を露わして、10月15日に行政区庁舎前の道路に集結していた学生たちに武装警察隊が攻撃を開始し、催涙ガスや胡椒ガスを集中的に浴びせて路地に追い込み、そこで徹底的に暴力を奮うなど銃弾を発射しなかっただけの惨劇が繰り広げられました。
しかし、学生たちは屈しないどころか、さらに参加者が増大して行政区と金融センターを包囲して機能停止をさせましたが、2008年のチベット騒乱でも用いたデモ側に扮した人民解放軍の兵士が一般市民に暴力行為を加え、それを口実に武装警察が苛烈な大弾圧を開始した結果、12月15日に行政長官が「『暴動』の終息を宣言」しました。
この時から現在まで日本のマスコミは1989年の第2次天安門事件と同様に基本的には取り上げず、取り上げる時には学生たちの民主主義を守るための運動を70年安保の共産主義暴力革命を標榜した学園紛争と同列の扱いをして共産党中国とその下請け香港行政区の人権弾圧と暴力行為を正当化する歪曲報道を流し続けています。
2008年のチベットの大弾圧事件の糾弾運動に参画した野僧はさらに危険な事態に立ち至った現在も闘いを続けている香港の学生たちに心から敬意を表したいと思います。
  1. 2020/09/25(金) 12:34:26|
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振り向けばイエスタディ2047

「そう言えばモリヤ中隊長は25キロ行軍の前の精神教育で前川原の80キロ行軍の話をしていたな」山道を接敵行進しながら道端の石佛の陰に身を潜めた安川候補生は妙なことを思い出した。背振山系は古来、修験道の道場だったため各所に石佛が立っているのだが、モリヤ候補生は区隊長から全ての石佛に訓練の安全祈願をするように命ぜられたため、立ち止まって読経している間に置いていかれて走って追いかける羽目になったと言う笑い話だった。
「モリヤ候補生は現職だったから多分ど根性を背負っていたんだろう。それで走るのはきついよな」安川候補生自身も止まって走るの接敵行進には少々参っていた。ど根性ブロック1個と根性レンガ2個を入れた背嚢は冬季雪中演習で防寒具を詰め込んだ時よりも重いのだ。
「考えてみれば全ての石佛に祈願したのなら、この石佛もモリヤ候補生の読経を聞いたことになるぞ・・・南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛」実家が浄土宗の安川候補生は修験道=密教の石佛に念佛を唱えてみた。すると石佛が「判った。頑張れ」と返事をしたような気がした。
「状況終了。行軍開始」すると山道の後方で呼子笛の高い音が響き、区隊長の声が聞こえてきた。今回の状況は潜伏している敵に気がつかずに通過した小隊が後方から攻撃を受けて最後尾の候補生が戦死し、指揮官不在の中で列員が応戦すると言うものだった。そのため背が高く前方を歩いていた安川候補生にやることはなかった。それでもモリヤ候補生に倣って石地蔵に祈願した上、対話できたのは有り難いことだ。
「背中が痛い」行軍が終わって次の週末に帰宅した安川候補生は玄関で聡美を抱きしめながら苦悶の表情を浮かべた。同じく部内出身の区隊長は「加逆趣味があるのでは(=サディスト)」と疑いたくなるほど厳しく、山中では状況付与を繰り返して進行を遅らせた揚げ句に下り坂を走らせた。そのため戦闘動作で背嚢の中のブロックとレンガがずれていた安川候補生は歪んだ控え銃の姿勢で走ることになったのだ。
「大丈夫、単なる筋肉痛だろう。横にさせてくれ」何時になく頼りない足取りで玄関を上がった安川候補生は心配そうに見詰めている聡美に指示した。それを聞いて聡美は奥の部室に手早く布団を敷き、安川候補生は横になった。
「背中をさすろうか」「うん、頼む」何故か隣りに横になった聡美が声をかけると仰向けに寝たまま天井を睨んでいた安川候補生は苦痛の呻き声を漏らしながらうつ伏せになった。
「背骨の両側の筋肉を押してくれ」「何時も貴方がマッサージしてくれるところだね。だったら腰に座った方が好いかな」安川候補生がうなずいたので聡美は恥じらいながら尻にまたがって、逞しい背中の筋肉を両手で押し始めた。
「腰の骨がずれてるといけないと思って部隊に帰ってから鉄棒にぶら下がったんだが、そうしたら背中の筋肉痛が酷くなって、風呂で湯船に浸かっても良くならないんだ」「貴方にしては珍しい・・・初めてじゃないの」聡美の所見に安川候補生もうなずいた。19歳の1士でイラク派遣に参加し、冬季戦技教育隊を受講して冬季レンジャーになった安川候補生も間もなく30歳になる。鍛えれば強化された肉体に老化の兆しが見え始めても不思議はない。筋肉痛ですんだのはこれまでの鍛錬のおかげではないか。
「うん、気持ち好い。お前はマッサージも上手いな」「マッサージもって、ほかに何が上手いの」安川候補生の誉め言葉に聡美は軽い悪戯心で確認した。常に全力疾走で生活している夫を尊敬し、置いていかれないように精一杯の努力をしている聡美には誉めてもらえることは山ほどあるが、自己評価では申告できない。すると安川候補生は聡美を乗せたまま腕と膝で身体を起こした。
「無理しないで」「無理はしないぞ」腰から下りた聡美の言葉に安川候補生は答えながら下半身裸になった。すると男根が臨戦態勢になっていた。
「お前が上だ。好きなようにしろ」再び仰向けに横になった安川候補生は傍らで正座している聡美に声をかけた。玄関で腰痛を訴えた夫を見て聡美は今回の子作りは諦めていたのだが、思いがけず主導権を渡されてしまった。
「それじゃあ入って・・・」聡美は裸になって畳んだ衣類を枕元に置くとためらいながら下腹部に跨った。そして腰を浮かせて男根を身体に受け入れた。安川候補生にとっては高校時代から抱いてきた履き慣れた靴のような聡美の身体だが、結ばれる度に感動が湧き起こる。実はこれも「聡美が上手いもの」に入るのだが、それは思い出したくない少女時代につながるため加えない。
「俺は避妊できないぞ」「うん、好いの・・・」やがて聡美の腰の動きが激しくなってきたが、今回の騎上位では膣外射精による避妊はできない。しかし、安川候補生の注意に聡美は首を振りながら至福を追い求めた。この朝、聡美は希望通り九州で妊娠した。これこそが背振山中で会話をした石佛の加護・功徳なのかも知れない。
せ・善田伊織イメージ画像
  1. 2020/09/25(金) 12:33:13|
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9月25日・「リヨンの屠殺人」・バルビー親衛隊大尉の命日

1991年の明日9月25日はナチス・ドイツによる占領下のフランスで「リヨンの屠殺人」と呼ばれたニコラウス・クラウス・バルビー親衛隊大尉の命日です。
バルビー大尉は1913年に現在のボンで生まれ、12歳の時に父親の転勤でフランスとの国境の街・トリーアへ引っ越し、学生だった1933年からナチス党に参加して1935年には親衛隊の情報部に入りました。1939年6月1日に第2次世界大戦が勃発すると1942年から占領下のオランダに赴任し、さらにナチス・ドイツに占領されたフランスのヴィシーの支配地域だったディジョンとリヨンのゲシュタポの責任者(階級は大尉でも)に就任して反ナチス・レジスタンスの鎮圧を指揮しました。この任務では15000人以上のレジスタンスを拷問し、8000人以上を強制移送して4000人以上の殺害に関与しただけでなく、フランス国内でのユダヤ人弾圧も主導したので実際に殺害した人数はこの数倍になると後年の裁判で訴追されています。
したがって1945年5月8日にナチス・ドイツが降伏すれば当然、戦争犯罪人として訴追されて極刑を受けるはずでしたが、親衛隊の情報員として活動していたことに着目したアメリカ陸軍情報部(CIC)が秘密裏に保護し、ソ連やフランスやドイツ、オランダなどの共産主義組織・活動家の情報提供と調査の継続を指示したのです。間もなくフランス当局はバルビー大尉の存在を察知し、アメリカに照会の上で引き渡しを要求しましたが、否認・拒否しながら国外脱出を画策し、CICが用意した偽造パスポートと必要書類を持って家族同伴でバチカンの協力を受けてイタリアの反共産主義組織の手引きでアルゼンチンに渡航すると1951年4月には南米中央部の親米軍事政権のボリビアへ移動しました。
ボリビアでは軍事政権のアドバイザーとして共産主義者組織や反政府ゲリラの弾圧を指導し、1957年10月には国籍を取得して確固たる地位を築き、ナチス戦犯の逃亡受け入れや武器の密輸にも暗躍しました。1967年10月9日のキューバ革命の英雄・チェ・・エネルスト・ゲバラの逮捕と処刑にも関与したと言われています。
こうして半ば公然とした活躍を見せればフランス政府は「確信」を「疑惑」と言いながら取り調べのための引き渡しを要求しましたが、ボリビア軍事政権は「自国民保護」を理由に拒否し続けました。しかし、1972年にチリのリマで発生した殺人事件の被害者と加害者の双方と関係したいたこと捜査対象になり、身元が判明したのです。すると本人が正体を明かした上でテレビに出演し、取材に殺到した各国のマスコミに自叙伝を売りつけました。そんなバルビー大尉も1982年にボリビアの軍事政権が倒れて社会主義国家に移行すると社会党のミッテラン政権だったフランスに引き渡され、1984年からリヨンの法廷での裁判を受けることになりました。
法廷では「フランスがアルジェリアでやったのと同じことだ」と主張して物議をかもしましたが1981年に死刑が廃止になっていたため終身禁固刑の判決を受け、収監されたまま病死しました。
  1. 2020/09/24(木) 12:44:13|
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振り向けばイエスタディ2046

安川候補生は卒業前の試練として課せられる伝統の100キロ行軍に出発した。一般(部外)課程は背振山系までトラックで移動するから「80キロ山岳訓練」と呼んでいるが、部内課程は駐屯地から徒歩なので100キロになる。これを「春を呼ぶ訓練」と呼んで楽しみにしている久留米市民は早朝にも関わらず拍手や声援で見送ってくれる。中には日の丸の小旗を振りながら万歳を斉唱する高齢者もいるが、これでは戦地に出征する部隊の壮行だ。
「貴方、頑張って」人垣の中から聡美がかけた声に安川候補生は小さくうなずいた。安川候補生が背負っている背嚢は異様に大きく膨らんでいるが、これも伝統になっている負荷として「ど根性ブロック」1個と「根性レンガ」を2個入れているのだ。普通科から入校している候補生たちはこの馬鹿げた伝統に部隊の名誉をかけているため原隊で小隊長に訊いた個数を基準としながら同期たちに対抗しなければならない。
「旦那さんはど根性1個と根性2個だね」聡美が候補生の妻だと察した年配の男性が声をかけてきた。年配の市民たちは背嚢の膨らみと肩紐の喰い込みで中身を推理しているらしい。
「ワシは学徒動員だけで徴兵になる前に戦争が終わってしまったが、自衛隊さんが旧軍以来の蛮勇を受け継いでくれているのは頼もしくて胸が熱くなるよ」男性は意外な言葉を口にしながら鼻をすすった。聡美の両親は愛知県の公立学校の教師と言うこともあり、家庭では幼い頃から反戦平和と日本断罪の歴史観を教え込まれ、周囲の大人たちも自衛隊を「税金泥棒」と揶揄していた。しかし、高校で先輩の安川と知り合い、その安川が陸上自衛隊に入隊して赴任した北海道からイラクに派遣されたことで「自衛隊が平和を守っている」と考えを改め、日夜訓練に励む安川を尊敬するようになった。ところがこの男性は自衛隊が旧軍の後継者だと言っているようだ。考えてみれば帝国陸海軍が「旧軍」ならば自衛隊は「新軍」になる。
「旦那さんはどこから入校してきたのかね」「北海道の名寄です。第1次イラク派遣にも行きました」候補生たちが通り過ぎて市民たちが解散しても男性は聡美を放さない。聡美も愛知県の大人たちとは違う見解に興味を持って立ち話に応じた。
「今の時代に旦那さんが戦地に出征するなんて奥さんは不安だっただろうね」「いいえ、あの人が私を置いて死ぬはずがないって信じていましたから、身体を壊さないか心配しても不安は感じませんでした」「流石は幹部候補生の妻は心構えが違うばい」男性は「首が落ちるのでは」と心配になるほど大きくうなずくと自動販売機で聡美に甘い缶コーヒーを買ってくれた。大企業と系列会社の中小企業が集中している愛知県では自衛隊に限らず公務員に対する評価は「税金で飼っている」と陰口を叩くほど低く、信用度と利用価値だけが認められている。その点、尚武の土地柄の九州では勝負が男性の行動原理であり、女性は弱気を許さず叱咤激励する。聡美はこの雄々しい気風を身につけた子供が欲しくなったが、卒業前の夫は忙しそうだ。
「北海道の普通科は装甲車で移動するから、あまり徒歩の行軍は得意じゃあないんだろう」上り坂に入って同期たちの口数が減ってくると後ろを歩いている西部方面隊の普通科連隊から入校している侯補生が余裕を誇示するため声をかけてきた。西部方面隊と北部方面隊の人事交流は北海道でも南部の第7師団と第11旅団が中心なのでスキー訓練も体験程度で過酷な冬季戦技教育隊を経験する者は少ない。胸にレンジャー徽章を着けているこの候補生は北海道帰りの陸曹たちから戦車に随伴するため装甲車で機動する演習の話を聞き、炎天下の行軍に耐える自分たちに勝手な優越感を抱いていて、それを実証するように入校直後に夏バテしていた安川候補生と冬季レンジャーを見下していた。
「そうだね。ノルディックで滑ってばかりいたから徒歩の行軍は得意じゃあないな」この返事は完全で痛烈な皮肉だ。安川候補生は真夏の演習で高温猛暑に耐えて行軍する西部方面隊の普通科に敬意を払っているのは間違いないが、世界を相手にする冬季オリンピックにバイアスロンの選手を送り出している第2師団とは次元が違うことも確信していた。
「名寄の冬季演習はどんな感じなんだ」部内課程の候補生は若手陸曹から選抜されているので普通科出身でなくても余裕はある。西部方面隊の普通科に代わって隣りから中部方面隊の特科の候補生が質問してきた。プロシアの戦争哲学者・カルル・クラウゼヴィッツ少将は「軍人は苦難に耐えた経験を誇示する癖がある」と喝破しているが、自衛隊の酒席でも災害派遣や入校、演習の苦労話に花が咲き、同じ経験の過酷さの競い合いが始まる。安川候補生もイラク派遣や冬季戦技教育隊、冬季演習の話は言い飽きているのだが訊かれれば答えるしかない。
「隷下30度、風速20メートルの中をノルディックでアキオ(荷物運搬用のソリ)を引いて行軍するんだ。寝るのは天幕じゃあなくて雪洞を彫るんだよ」西部方面隊の普通科は黙ってしまった。この質問は出身県に駐屯する特科連隊の援護射撃だったのかも知れない。
  1. 2020/09/24(木) 12:41:46|
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振り向けばイエスタディ2045

前川原では安川候補生が卒業に向けて必死の頑張りを見せていた。異常な高温だった9月上旬に入校して以来、完全な夏バテでスタート・ダッシュを切り損ね、胸を飾っている「冬季レンジャーのバッジを外そうか」と悩むような不甲斐ない候補生生活を送っていたが、それでも久留米の気候に慣れ、秋が本格的なってからは持続走、戦技障害走や射撃、格闘技、野外演習などの訓練で先頭に立ち、ようやく本領発揮するようになった。
「安川候補生の奥さん、美人っすね」「毎日、フェンス越しに応援なんてラブラブじゃあないっすか」夕方の持続走の時間になると聡美は外周走路のフェンスに来て安川候補生が走ってくるのを待っている。前後を走っている一般(部外)課程の候補生たちは羨ましそうに声をかけてくるが相手にするよりも速度を上げて振り切ることにしている。安川候補生の脚力なら1周10分程度の距離なので少し待てば4回は会えるが立ち止まって話す訳にはいかない。
年末年始休暇は課題論文を作成するため久留米で過ごすことにした。初詣は市内の筑後川沿いにある安産の神さまの総本宮・水天宮だったが、まだ子宝は授かっていない。
「安川和也候補生、ラスト・スパートですよ」「聡美こそあと少しの我慢だぞ」スーパーやデパートで買ってきたおせち料理と雑煮を囲みながら日本酒で乾杯すると互いに励まし合った。聡美は久留米ではホテルのルーム・サービスのアルバイトに励んでいるが、レストランとは違い食事時間が勤務にならないため週末だけ帰宅する安川夫婦には好都合だった。実は外国人の宿泊客を英語やフランス語、ドイツ語で案内しているのを知ったホテルから正社員=フロントへの勧誘を受けたのだが「候補生の妻」と説明して諦めてもらっていた。
「今年の大河ドラマの軍師官兵衛は福岡が舞台なんだって。卒業する前にもう一度観光に行きましょうよ」どうやらホテルで大河ドラマを観光に利用するためのポルターを見てきたらしい。
「しかし、黒田官兵衛は姫路の出身だって聞いたぞ。おまけに大分の中津の領主もやっていたって同期の間で揉めているんだ」最近の歴史好きは男子よりも「歴女」と呼ばれる女子の方が優勢だが、流石に自衛隊に入ってくるような若者は男女を問わず戦国武将にも憧れを抱いているらしく候補生の間でも議論は白熱している。その点、尾張出身の安川候補生は織田信長ファンですむから戦国談議では手取り川の合戦で惨敗を喫した上杉謙信以外に負けることはない。
「博多には買い物に出かけたけど福岡城は見てないよ」聡美の意見を聞いていて安川候補生は「お前も歴女になったのか」と思ったが、その前に福岡城が思い浮かばなかった。
「熊本城は尾張出身の加藤清正が築いた天下の名城だって見に行ったけど福岡城はなァ・・・」候補生の中には福岡県人が多く博多と小倉は妙に対立しているが、郷土自慢に小倉城の写真は見せてもらっても福岡城は記憶にない。そんな「お城談議」になっても安川候補生には築城の名手・加藤清正がついている。ついでに言えば現在の姫路城を築いた池田輝政も尾張出身だ。
「貴方の宿題が終わったら博多観光ね。私はネットで調べておくわ」「パソコンは論文作成で使うぞ」「スマホで大丈夫」2014年は1月4日・5日が土・日曜日なので年末年始休暇は2日長いのだが、夫婦揃って勉強で始めることになった。
「スリランカとオランダから年賀状が届いたわ」休暇の最終日、安川候補生が鈍った身体に喝を入れるためのジョギングから戻ると聡美が着替えを出しながら炬燵の上に置いてある2枚の葉書を差して説明した。上から見下ろすとどちらの葉書も横文字で住所が記されている。
「スリランカは田島中隊長、オランダはモリヤ2佐からだな。英語だったら訳してくれよ」「どちらも裏は日本語だから安心して」安川候補生は聡美の説明にうなずきながら着替えとタオルを受け取ると浴室に向かった。
「田島中隊長が今年は幹候校を卒業すれば富士学校に入って部隊配置、3尉の間の勉強が大事だから気を緩めずに頑張れ。任地は10師団よりも12師団、特に松本を推薦する・・・だって」陸上自衛隊でも全国各地に分散している普通科は帝国陸軍歩兵の人事方式を踏襲しているため、部内でも出身地近傍の部隊に配置されることが多い。その理由としては初級士官が勤務に集中するため未知の土地に移動することによる不安や困惑を解消し、地元人脈を活用できることなどが揚げられている。中には「地元であれば知っている裏通りや抜け道を使って敵を攻撃できるからだ」と言う過激な説明をする幹部もいるが真偽は不明だ。実際、岐阜県出身の田島1尉は初度配置が守山、北海道の名寄を経験した後は本人の希望で松本に帰っている。確かに守山ではノルディック・スキーを履く機会はないが、松本ならバイアスロンの訓練があり、冬季戦技教育隊出身の実力を発揮できそうだ。これは任地を希望する理由にも使える。
「どちらも2人で遊びに来いって言ってるぞ」「オランダとスリランカだね。勉強します」2人からの年賀状は聡美の宿題になったようだ。今年も2人で頑張ろう。
さ・葦田伊織イメージ画像
  1. 2020/09/23(水) 12:18:39|
  2. 夜の連続小説8
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個性的名優・斎藤洋介さんの逝去を悼む。

独特の風貌と卓越した演技力で脇役ながら抜群の存在感を発揮していた名優・斎藤洋介さんが9月19日に亡くなったそうです。69歳でした。
野僧が斎藤さんを知ったのは高校2年生の時に放送された国営放送の連続ドラマ「男たちの旅路」の第4話「車輪の一歩」でした。物語としては脊髄損傷で車椅子生活を送っている斎藤よう子さんが演じる女性は厳格な母親の監視下に置かれて介護施設内での幽閉生活を送っていたのですが、ある日、玄関で居合わせた車椅子の男性6人に誘われて念願の外出をしたのです。ところが車椅子が踏み切りの線路にはまってしまい身体者同士では救えなくなっているところに警報機が鳴り出して健常者の男性に救われたのですが、脊髄損傷で下半身の制御が効かないため失禁してしまいました。このことを知った母親は激怒して車椅子の男性たちを罵倒し、主人公である京本正樹さんと古尾谷雅人さんが演じる警備員たちも制止しなかったことで一緒に謝罪することになりました。そして「もう放っておいてくれ」と今後の関係を拒絶する母親に主人公が女性に「それで良いのか」と訊ねると「母親の機嫌を損ねたくない」と答えたのでした。しかし、女性は秘かに母親からの自立を決意し、車椅子の男性たちと主人公の警備員が見守る中、無断で外出して駅へ行き、「誰か私を階段の上まで運んで下さい」と助けを求めたのです。一方、斎藤洋介さんが演じる車椅子の男性は介助を受けながらポルノ映画を見て、自慰で処理していた性欲を両親に告白して「トルコ風呂(現在のソープランド)へ行かせてくれ」と頼み、公認でトルコ風呂に向かったのですが、店員が嘲笑しながら入店を拒否されてしまうと言う当時としては深い社会問題を提起した作品でした。しかし、野僧の父親は「親の世話になっているのに目を盗んで外出するなんて恩を仇で返している」「働いていない片輪(かたわ=身体障害者)の分際で女を抱きたいなんて贅沢だ」と本当の意味を考えることはありませんでした。実際、父親は野僧が重度身体障害者になった時、医師の勧めで車椅子を購入すると「ウチに片輪がいると知られると世間体が悪い」と外出を禁止したどころか来訪者に見えない所に片づけましたから事実の予告編でした。
その後、斎藤さんとは先輩が内務班で開催していたポルノ観賞会で見た昭和60(1985)年の天地真理さん主演の「魔性の香り」や奈良の幹部候補生学校に入校中に同期のWAFと行った「帝都物語」、国営放送の大河ドラマ「炎立つ」や「龍馬伝」他のドラマでも会いましたが、帝都物語では主演の島田久作さんも極端な面長だったため斎藤さんが演じる森少尉は変身前と後のように見えてしまいました。中でも記憶に残っているのは番組名を失念してしまった生活豆知識のバラエティー番組の「葬式」特集で演じた葬儀屋さんです。あの独特のキャラクターか一般人は直視することを避けたがる重く暗い話題を軽く苦笑しながら見て考えられる番組にしていたのは流石でした。
2020年に咽頭癌が見つかり、切除手術を受けて放射線治療を受けていたそうなので役者として復帰するのは難しかったのでしょう。自宅で倒れて救急搬送中に心肺停止になったことを幸いとするべきかも知れません。心よりご冥福を祈ります。合掌
  1. 2020/09/22(火) 12:46:15|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ2044

杉本が戻ってきたのは4日後の朝だった。あれから本間は新聞やテレビのニュースを注視しているがクミコ・トミタ少佐の死については全く報じておらず事件性がない「自然死」扱いされているようだ。実際は翌朝、出勤しなかったことでタイ軍の憲兵隊が失踪として捜索を開始し、午後になって海岸で遺骸を発見して軍医が検屍したのだが「水泳中の心臓麻痺」と判断したためマスコミの取材を受けなかったのだ。何にしても現場に近づかないのは処置後の鉄則だ。
「ただいま」「お帰りなさい」流石に杉本は疲れた顔をして入ってきた。タイは古くから東南アジアに君臨した王国だけに国土は広大で、西からはミャンマーが迫っているものの南はマレー半島の北半分にまで伸び、北はミャンマーとラオス、東はカンボジアを遠くに追いやっている形だ。そこを1週間の強行軍で回ってきたのだから身心共に疲労困憊するのは当然だ。本間はあえて別の理由は考えないことにした。
「すぐに朝食の支度をします。新聞でも読んで待っていて下さい」「シャワーを浴びたい」「はい」杉本の返事に本間は洗濯を終えている下着を取りに行ってタオルと一緒に手渡した。
「お前は意外に好い嫁になるんじゃあないか」杉本がシャワーを浴びている間に本間は朝食の支度を整えた。飯と味噌汁は2人分作ってある。もう1品はやはり卵焼きだ。実は本間1人の間は目玉焼きだが、それは単に卵を溶く器が不要で、作る手間もかなり簡略できるからに過ぎない。そんな本間にテーブルの向うから杉本が声をかけた。これは取りようによってはプロポーズだ。しかし、任務とは言え杉本の内妻の命を奪ってきた本間は黙って卵の焼け具合を確かめた。
「美味い。この卵焼きを食べると家に帰って来たって気分になるよ」2人で向かい合って座り、手を合わせて食事を始めると杉本は卵焼きを美味しそうに頬張った。しかし、本間には目の前で微笑んでいる杉本が吐いた甘い言葉の真意が判らなくなっている。本間にとって杉本は海外のスパイ映画で主人公のライバルとして出てくる人間的な感情を削ぎ落としたような人物だった。そんな杉本が職務を放棄してまで年末年始をハワイで過ごしたクミコ・トミタ少佐を殺害した自分をどう思っているのか。ただ任務を遂行する本間の中では「杉本を守りたい」と言う私的感情があったのは確かだ。
「そう言えば台湾の立法院を占拠している学生たちは『ホエホエクマー』って叫んでるだろう。あれはどう言う意味なんだ」食事も残り半分になったところで杉本が雑談的に質問してきた。どうやら杉本もスマート・ホンで台湾情勢を確認していたようだ。
「あれは広東語で『トゥイフィイフウマオ(=退回服貿)』って言ってるんですよ。日本語にすれば『サービス貿易協定を撤回しろ』と言う意味ですね」「だろうな。台湾で『吠え、吠え、熊』をスローガンにするのは変だなとは思ってたんだ」杉本は本当に感心したような顔で本間を見詰めた。これでは仲睦まじい夫婦の朝食風景ではないか。本間はニューヨークに着任して間もない頃、杉本にセントラル・パークを案内してもらい、優しい気遣いと甘い言葉に酔わされたことがあった。そしてそれが人間の心理を操る情報活動の危険性を教えるための演技だったことを告げられて深く傷ついた。この幸せな時間が暗転すれば確かに残酷な復讐劇になる。
食事を終えて本間が洗い上げをしている間、杉本はテーブルで新聞を読んでいた。シャワーと食事で疲労は多少回復したようだ。
「疲れているんでしょう。眠った方が良いですよ」洗い上げを終えた本間が声をかけると杉本は歩み寄って抱き上げた。思いつく限りの態勢での防御を教える少林寺拳法の柔法でも抱き上げられた場面は想定していない。強いて言えば顔面に拳で突きを入れて身体を捻って逃れるくらいだ。勿論、今の本間がそんなことをするはずがなく、杉本は無事にシングル・ベッドに運んだ。
杉本は本間を仰向けに寝かせると見下ろしながら固い表情で見詰めた後、かすれた声で言葉を吐き落とした。その言葉が重く本間の胸に響いた。
「俺と一緒に暮らした女は死ぬことになる。だからお前はここでの仕事だけにしておけ」情報収集目的に限らず多くの女性を抱いてきた杉本だが、一緒に暮らしたのは卒業後に交通事故で死んだ大学の同期と安楷林とクミコ・トミタ少佐だけだった。実例がここまで重なった以上、本間と過ごしている時間は仕事の一線で隔絶しなければならない。
「大丈夫、押しかけ女房のカカア天下なら主導権は私が握りますから、貴方が飼っている死神の出番はありません」本間は杉本の首に腕をかけると腹筋で身体を起こして口づけをした。
「お前の腹筋は美しいよな。あの時もこの割れ目を見て感心したよ」本間が着ているTシャツを脱がすと杉本は見事に8つに割れた腹筋を指でなぞりながらささやいた。それはバンコク市街の路地裏でムエタイの回し蹴りで卒倒させられ、レイプされかけた時の話だ。これが愛撫なのかは判らないが本間にとっては初体験の仕草だった。
11・今田菊子イメージ画像
  1. 2020/09/22(火) 12:45:02|
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9月22日・所詮は努力型・豊田副武大将の命日

昭和32(1957)年の明日9月22日は平時の人事で大将にまで昇任して第2次世界大戦を迎えてしまったため連合艦隊司令長官や軍令部長の重職を担う羽目になり、本人だけでなく海軍の晩節を汚した豊田副武(そえむ)大将の命日です。
豊田大将は明治18(1885)年に現在の大分県杵築市で生まれ、地元の旧制中学校を卒業して明治35(1904)年に180人中107番の成績で海軍兵学校33期に入営しました。ところが日露戦争が終わって2カ月半後に卒業する時には171人中26番になっていましたから典型的な努力型のようです。平時の軍隊では努力型が評価されるようで大正4(1915)年には海軍大学校に入校し、20人中首席で卒業しています。こうなれば順当に昇任して行くのが平時の人事であり、巡洋艦・戦艦や艦隊司令部と海軍省・軍令部などを往復しながら昭和16(1941)年9月に呉鎮守府司令長官に着任して職分に対する指定で大将に昇任して開戦を迎えました。その翌10月に東條英機大将が組閣することになり、海軍省としては豊田副武大将を大臣に推薦する予定だったのですが、東條大将を嫌悪していた豊田大将が拒否したため箸にも棒にもならぬ神主・嶋田繁太郎大将が就任して結果的に海軍は東條首相兼陸軍大臣の意向に追従することになりました。
戦争中は軍事参議官を経て横須賀鎮守府司令長官に転属するなど一度も実戦を経験しないで過ごしましたが、昭和19(1944)年3月31日に連合艦隊司令長官の古賀峯一大将がトラック島から逃走するために搭乗していた2式大艇の遭難事故で殉職(海軍乙事件)したため後任に指名されたのです。ただし、この時も1期後輩の古賀大将が昭和18(1943)年4月18日に戦死(海軍甲事件)した山本五十六大将の後任になったことを根に持って「今更、任されても自分にできることは何もないし、気力もない」と拒否しています。それでも連合艦隊司令長官になると艦隊決戦の繰り返しの末、レイテ沖海戦で残存戦力を消耗し尽くした揚げ句に昭和20年4月には「使える物は最後まで使う」と言う安易な発想で戦艦大和に沖縄本島への特攻作戦を命じて「艦を持たない海軍」にしておいて昭和20(1945)年5月29日に連合艦隊司令長官の座を小沢治三郎中将に譲りました。そして軍令部長に就任すると戦力を喪失して敗戦以外に選択肢がない状況の中で大西瀧次郎中将と共に本土決戦を強硬に主張したのです。
野僧は現役時代、帝国陸海軍の元士官たちから「努力で身につけた知識や能力は戦場では役に立たない。人間の素地が暴かれる戦場では持って生まれた士官としての才能だけが頼りだ」「自分に士官としての才能があるかを見極めてから昇任試験を受験しろ」=「努力型の人間は戦争では役に立たない」と言われたのを教訓にして士官としての本能を磨く修養だけに励んでいました。豊田大将の軍歴を見ると禅で言う「瓦を磨いて鏡にした」ような努力型であり、日露戦争から第2次世界大戦への参戦までの長い平時の人事で順当に昇任したところで開戦となり、才能が及ばない重職を担うことになったのが本人と海軍だけでなく国家にも不幸だったようです。それにしても戦争末期に実戦経験がない豊田大将を連合艦隊司令長官に抜擢した嶋田海軍の平時型人事には呆れるしかありません。
  1. 2020/09/21(月) 14:06:57|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ2043

サッタヒープまでは列車を利用した。南部地区には華僑が多く車内ではタイ語と中国語が入り混じって賑やかだ。ただし、タイ語は語彙が乏しく外来語をそのまま使用しているためタイ人同士の会話でも中国語に聞こえることもある。
「いよいよ首相は危ないらしいぞ」「職務怠慢で告発されるんじゃあ所詮は銘門一族のお嬢さまだな」一見して華僑と判る中年男性たちが中国語で政局を語っている。この辺りは密告が徹底している中国とは違う。本間は隣の席で殺気が充満しているバンコク市内とは異質なユッタリとした空気が漂っているのを感じていた。これが「微笑みの国」と呼ばれる佛教国・タイの本来の姿なのだろう。それでも本間がサッタヒープで実施する処置は殺気ではなく殺意を帯びている。
「今日も暑いから日課の水泳に行くわね」終点のサッタヒープ駅で下りれば軍港までは歩いて行ける距離だ。杉本がバンコクに戻ってくると異様に日焼けしているため理由を聞くとトミタ少佐はハワイ出身の海軍軍人だけに大の水泳好きで、毎日のように近くの浜辺で泳いできたと説明した。タイの3月の日没時間は午後6時30分頃だから帰宅して夕食の前に一泳ぎすることは可能だ。本間は軍港のゲートで帰宅時間になるのを待った。
やがて聞きなれてきたタイの国歌が流れて課業が終了すると白い軍服を着た将兵たちが歩いて出てきた。本間はサングラスをかけてパーカーの帽子を頭にかぶると門柱の脇に立って通って行く海軍の軍人たちを眺めていた。杉本から住所を聞いているトミタ少佐の宿舎はゲートに来る前に確認してきた。徒歩通勤であることも知っている。
時間の経過と共に出てくる将兵が増えてきた。多くは同僚や知人と談笑しながら歩いている。陸上自衛隊では警衛所の前で敬礼しなければならないので談笑しながらとはいかなかった。そんな余計なことを思い出していると目の前を同じ白い軍服でも違う帽章の正帽をかぶった少佐のWAVESが通り過ぎた。少佐は一瞬、本間に視線を送ったが歩調を緩めることもなく宿舎に向かう道路を歩いて行く。忘れもしないクミコ・トミタ少佐だ。
やはりトミタ少佐はビーチに出かけた。移動は自転車なのでマンションの下で監視していた本間は置いていかれたが、そこは陸上自衛官なので久しぶりのジョギングで追いかけた。
「ふーん、あまりスタイルは良くないね。私と大差ないじゃん」ビーチは平日の夕方と言うこともあり無人だった。軍港とは岬を隔てているためタイ湾の潮流が直接打ち寄せて海水の透明度は高い。本間は草むらに停めてあるトミタ少佐の自転車から小型双眼鏡で腰まで水に浸かって夕日を眺めている後姿を見詰めた。トミタ少佐も胸の膨らみが乏しく、全体に骨張っている。多彩な女性遍歴を誇る杉本が夢中になるとは思えない。するとトミタ少佐は沖に向かって泳ぎ始めた。
「流石は海軍、見事な泳ぎっぷりだわ。水中で処置しようとすれば返り討ちに遭うのは間違いないね」バタフライで夕日に向かって進んでいくトミタ少佐を見ながら本間は独り言を呟いた。本間は子供の頃から少林寺拳法に夢中だったためスイミング・スクールには通っていない。その点、トミタ少佐は泳法が正当派なだけでなく泳力もかなりのものだ。水中で接近して溺れさせるのはアクアラングでもつけていなければ無理だ。本間は潮風に吹かれながらトミタ少佐が砂浜に上がるのを待つことにした。
本間はトミタ少佐が波打ち際に腰を下ろすと自転車から続くビーチ・サンダルの足跡を辿って接近した。パーカーの腹のポケットの中では杉本から渡されたインスリン用の注射器の用意をしている。薬剤はアフリカに生息するコブラ科のマンバから採取した毒液だ。
「素敵なサンセットですね」「ネイティブな英語だけど・・・」本間は足音に気がついて振り返って見上げたトミタ少佐に声をかけ、首筋に注射器を突き立てて一気にボタンを押した。これを摂取されれば神経の興奮状態が続き筋肉が収縮する。つまり強制的に心臓麻痺を起させる。
「助けて。救急車を・・・」「貴女があの人を裏切ったからいけないのよ。本当に愛してたの」本間は冷静に足跡を辿って後退すると波打ち際で悶え苦しむトミタ少佐を見下ろしながら英語で声をかけた。しかし、悶絶するトミタ少佐は返事をしない。間もなくうつ伏せに倒れて痙攣し始めた。顔を波が洗っているが反応しない。処置は完了したようだ。
「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛・・・」本間は海を赤銅色に染めて沈みいく夕日が幼い頃に連れていかれた菩提寺の法要で聞いた説法の阿弥陀来迎の場面に見えて無意識に手を合わせて念佛を唱えていた。この時の合掌は肘を落とした一般の作法だった。
「処置が終わりました」その足でバンコクに戻った本間は首相府を包囲するデモ隊を後方から観察してからニューヨークの松山1佐に定時報告した。その冒頭で特別命令が完了したことを伝えると松山1佐は事務的に「ご苦労さま」とねぎらった。実はその前に杉本から電話があったのだが、松山1佐から説明を受けていたらしく「すまなかった」と詫びられていた。
TamLynTomita2イメージ画像
  1. 2020/09/21(月) 14:04:28|
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振り向けばイエスタディ2042

「デモ隊が立法院を占拠したのかァ。それが無血で行われたって言うところが台湾の民度の高さだね」杉本が農村の反政府暴動の実態を確認するため出かけている3月18日に台湾では海峡両岸サービス貿易協定に反対する学生の大規模なデモが発生して日本の国会議事堂に当たる立法院が占拠された。本間が王中校からメールで指示されたインターネットのサイトを視聴すると学生の代表が立法院に立ち入る様子が実況中継されていた。学生たちは警備の警察官を話し合いで退去させて、その後の活動も公開されている。これを見る限り個人的に興味はあっても自衛隊の情報要員としては現地に向かう必要性はないようだ。
「あの人は無事に調査できてるのかしら。夜の定時報告がないからって捜索を開始するんじゃあ間に合わないよ」台湾の立法院での学生の演説をスマート・ホンの音声で聞きながら新聞に目を通すと意外にもインラック政権に反旗を翻した農民の抗議活動について詳細に報じていた。日本と同様にタイでも農民は政治的見識に欠けるため政権与党の固定票化する傾向が強く、華僑政権に変わっても与党に投票していた。日本の政権交代は尾沢一郎が手当のバラ撒きを餌に地方の農協幹部を手懐けて自民党を裏切らせたことも要因だったが、タイでは政府が機能停止になっている中で農家が生産した米を政府が買い取る制度も放置していたため農民の反発が起こり、道路を封鎖する抗議活動を展開している。
「あの人は百姓一揆なんて言ってたけど、暴れ牛は猛獣よりも危険よ」タイの農村では機械化も始まってはいるが、まだ水牛を耕作や運搬に使っている農家も多い。そんな家畜の水牛でも子牛が豹に襲われると角で応戦して撃退することがあると聞いている。本間としてはタイ語が堪能とは言えない杉本が危険に巻き込まれることを同僚以上に個人として心配していた。
本間は杉本からの定時連絡が入ってから「異常なし」の報告を兼ねてニューヨークに情況を説明している。その時間帯はニューヨークでは午前中なので都合も好い。
「今、杉本は北部の農村地帯にいるようです」「北部と言うと道路封鎖をやっている地域だな。あそこは2月2日の選挙では反政府デモの妨害を拒否して成立させたんじゃあなかったか」「そうです」松山1佐にはこの答えで十分だ。2月2日に実施された下院選挙では反政府デモ側がバンコク市や南部地区の立候補者の受付所を包囲して手続きを阻止し、不在者投票と当日の投票も同様に妨害したため選挙が成立しなかった。ところが北部では有権者が反政府デモを阻止して無事に投票が行われた。しかし、この異常な選挙は憲法裁判所によって無効が宣言されている。
「華僑の幹部たちはインラック政権に見切りをつけて反政府側との妥協を模索するようになっています。現在、憲法裁判所が審理している2011年に親族の国家安全保障会議事務局長を内閣官房に移動させて人事を職権乱用とする問題も憲法違反とする裁定が下る可能性が高く、そうなれば失職します」「華僑は損得勘定が行動原理だからインラック政権を維持することによる利益と損益の決算が出たと言うことだな」タイの国内情勢の説明が終わって本間が独自に収集している情報をつけ加えると松山1佐は冷静に反応した。混乱の渦中に身を置く現地では大局を見失うため収集した情報は安全地帯に送って分析・評価するのが軍事常識だ。松山1佐がその役職に適任なのは杉本と2人で実感している。会話が途切れたところで本間が報告を終わろうとすると松山1佐が声を重くして話を続けた。
「杉本が帰るのは何日後だ」「タイ全土の反政府デモの波及状況を確認して戻ると言っていましたから1週間はかかると思います」「そうか・・・」松山1佐が唾を飲み、秘匿電話の受話器を握り直した音が聞こえた。
「実は杉本の愛人のクミコ・トミタ少佐がアメリカ海軍の防諜組織に北朝鮮のスパイと疑われる人物の接触を受けたと報告したんだ」「それは・・・」本間の頭に年明けにハワイから帰ってきた2人をスワンナブーム空港で出迎えた時に会ったトミタ少佐の顔が浮かんだ。ゲートを出てきたトミタ少佐は幸せそうな笑顔を浮かべ杉本に寄り添っていたが、本間と杉本が話している背中越しに見詰めている目には嫉妬・憎悪を超えた殺意が感じられた。
「実はアメリカ国防省と我々の組織は連携している。特にアジア方面では我々が提供する情報に対する期待は増大している。だからトミタ少佐の報告も関係者の間で通知してきたんだ」本間も帝国陸軍から陸上自衛隊に入った諜報要員が共産党化した中国や東南アジアで活動してアメリカ軍に情報を提供していたことは工藤から聞いたことがある。
「杉本が帰ってくる前に君が処置しろ。杉本は韓国で愛人を殺したことで士気を喪失していた。今、傷心を抱えて意気消沈してもらう訳にはいかないんだ」「はい、実施します」本間はこの返事を挨拶に替えて電話を切った。先ず考えたのは杉本がサッタヒープ軍港のトミタ少佐の宿舎に身元を特定されるような品物を残していないかだった。
  1. 2020/09/20(日) 14:10:57|
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9月20日・撃墜数世界最多・ハルトマン大佐の命日

1993年の明日9月20日は第1次世界大戦で航空機が戦争に登場して以降、世界最多の撃墜数352機の記録を保持しているナチス・ドイツ国防空軍とドイツ連邦空軍のエーリヒ・アルフレート・ハルトマン大佐の命日です。
ハルトマン大佐は1922年にドイツ南部のヴェルデンベルグ州ヴァイスザッハで医師の息子として生まれましたが、第1次世界大戦での敗北後の深刻な不況と社会不安から逃れるため一家は中国に移住し、現地で外国人排斥運動が激しくなった1929年まで幼児・少年期を過ごしました。帰国すると母親がグライダーを始めたためハルトマン少年も14歳で免許を取得し、1937年には15歳でヒトラー・ユーゲンス(=ナチス版自衛隊生徒)のグライダーグループの教官になっています。
第2次世界大戦が開戦していた1940年に18歳でナイス・ドイツ国防空軍にパイロット要員として入営し、1942年10月に対ソ戦の東部戦線に配属されると撃墜数93機のエドムンド・ルスマン曹長の僚機になりましたが、空中戦で戦場パニックに陥って見失い、援護のため接近したルスマン曹長を敵機と見誤って燃料切れまで逃げ回る失態を演じて3日間の飛行禁止と整備員の助手を命じられました。さらに11月に軽爆撃機を初撃墜した時には自分の銃弾が命中したのに見とれていて破片を浴び、初墜落も経験しました。しかし、その墜落後に発病して1カ月間入院したことで冷静に自分の欠点と効率的な戦術を研究し、退院後はルスマン曹長や他の熟練パイロットたちの僚機になったことで空中戦に臨んでの精神的安定や「索敵→決定→攻撃→反復」と言う基本戦術を確立していきました。特に僚機を援護することに最善を尽く、損害を受けにくい戦術を常用したため敗戦時まで僚機のパイロットを戦死させることはありませんでした。
ナチス・ドイツ国防空軍の東部戦線には200機以上の撃墜数を記録したパイロットが15名いて(2桁は常識だった)日本陸軍の上坊良太郎大尉の76機、日本海軍の岩本徹三少尉の自己申告202機・公認80機、フィンランド空軍の「無傷の撃墜王」・エイノ・イルマリ・ユーティライネン准尉の94機、アメリカ陸軍航空軍のリチャード・ボング少佐の40機、アメリカ海軍のデヴィット・マッキャンベル大佐の34機に大きく水を開けていますが、開戦直後のソ連軍の戦闘機はナチス・ドイツのメッサ―シュミットBf109と比べて旧式機でパイロットの技量も未熟だったので勝負にならなかったのです。さらに地面の上空で戦っているため被弾しても不時着・脱出すれば良く、エース・パイロットの多くは敗戦時まで生存していました。一方、ハルトマン大佐が配属された頃にはアメリカの技術供与を受けた最新鋭戦闘機が導入されていたのでこの撃墜数は別格です。
ナチス・ドイツの敗戦後、ハルトマン少佐(当時)は武力紛争関係法の正当な戦闘行為を遂行していたにも関わらずソ連に引き渡され10年半の抑留生活を送りました。帰国後はドイツ連邦空軍に復帰しますが、Fー104Gの導入に「我が軍のパイロットの技量では手に負えず事故が続発する」と強行に反対したため(実際に事故が続発して「未亡人製造機」と揶揄された)、1970年9月に48歳の大佐で退役し、名誉少将に昇任しました。
  1. 2020/09/19(土) 13:53:52|
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振り向けばイエスタディ2041

「菊子(本間郁子の偽名)、我が国でも不穏な情勢が発生しているぞ。見に来るか」3月になりタイで杉本と武力を用いない内戦を注視している本間のスマート・ホンに台湾の王茂雄中校(中佐)からメールが届いた。このアドレスはアメリカの雑誌記者用だから単なる取材の誘いだ。
「どうしましょう」王中校は台湾とタイの1時間の時差を考えなかったようでメールが届いたのは本間が朝食の支度をしている時だった。台湾では自宅で朝刊を読み、ニュースを見てから出勤する前に送信したくらいの時間だ。
「台湾の反政府運動はお前をタイに連れてきた時に言っていたサービス貿易協定だな」杉本はアパートの下の通りで買ってきた朝刊を広げて台湾の記事を探しながら質問した。しかし、華僑が経営している新聞に台湾での反中国運動の記事が載っているはずはない。タイの国内情勢でさえ政府側の見解が中心で、3月13日の深夜にクアラルンプール国際空港を発進してタイ湾のトーチュー島付近で消息を絶ったマレーシア航空機の記事が紙面の大半を占めている。
「経済学者の馬英九の政権は国内のサービス産業振興を目的に中国側が医療や金融、台湾側は運輸や美容などを開放する協定を昨年の6月に締結したんです。それから半年経って中国に騙されたと言う声がネット上で拡散して、若者を中心に協定の破棄を要求する書き込みが爆発的に急増しているようです」本間は杉本には台湾で動きがあれば現地に行くつもりでいることは説明している。杉本も中国と台湾が主任務の本間の現地調査には同意するつもりだった。しかし、タイの政治情勢はインラック政権の崩壊に向かって急激に動き始めていて、こうなると華僑側の動向を確認するために本間の存在は欠かせない。
「俺の任務をお前に優先させる訳にはいかないな。お前も気になっているんだろう。チケットは取れるのか」杉本は感情を介在させない表情で答え、本間がテーブルに並べた朝食に箸をつけた。今朝もタイ米に味噌汁と卵焼きだが、味噌汁をすすってから飯を食べ始めるのが杉本の作法だ。
「私が必要なのかを訊いているんです。どちらを優先するべきかはニューヨークに決めてもらえばすむ話でも、貴方が『必要だ』と言えば私は『タイでの任務を優先したい』って言います」「うん、美味い」本間が興奮気味に問い質すと杉本は卵焼きを頬張って軽く誉めた。確かに味と焼き具合は完全に杉本の好みに合致している。。
「この卵焼きが喰えなくなるのは困るな。自分で作っても満足できる奴にはならないんだ。と言ってお前は家政婦でも料理人でもない」相変らず本心を語らない杉本に本間は少し苛立ちを覚えた。すると和食には合わないコーヒーを飲んでから言葉を続けた。
「ニューヨークには前提なしで確認しろ。その回答にはプロとして従え。それがお前をプロと認めている俺の本心だ。折角の朝飯が冷めてしまうぞ」「はい、いただきます」杉本に促されて本間は少林寺拳法式に手を合わせて箸を取った。先ず杉本に誉められた卵焼きを口に運んだが、本当に美味い。出色で会心の一品だった。
「ハロー」本間は朝食の片づけを終えたところで松山1佐の雑誌社の支社長用のスマート・ホンに電話をかけた。タイとニューヨークの時差は11時間なので向こうは夜になっている。即座に出たところを見ると残業中だったらしい。
「今田(本間の偽名)くんか。どうした」「実は台湾の友人から『反政府運動に大きな動きが起こる気配がする』と連絡が入ったんですが、タイの取材とどちらを優先するべきかと思いまして」本間は杉本がテーブルの向うで見ているため指示された通りに前提なしで説明した。
「台湾と中国の海峡両岸サービス貿易協定に反対する学生運動の話だな」アメリカではニクソン政権が共同声明で台湾を切り捨ててからも日本のような馬鹿正直な外交政策は取らず、軍事や経済面では強い関心を持って注視しているのでマスコミが取り上げることも意外に多い。その意味ではタイよりも情報は豊富なようだ。
「つまり今はネット上で協定破棄を訴えている若者たちが集会やデモを起こすって言うんだな。背景に本省人と外省人の対立があるところはタイに共通している。しかし、タイのようにデモ隊が武装することはないだろう。馬英九政権も親中的政策が軍内の反発を招いていることを自覚しているから強権的な弾圧はできないはずだ。政府の中枢で血を見ることもなく穏やかに大規模デモを起こして世界の注目を集めれば終わるんじゃあないのか。我が国の防衛に与える影響はタイの方が高い。台湾の友人には『上司の判断だ』と説明しておきなさい」あえて何も言わなくても希望通りの回答が来た。本間は安堵の溜息をつくと杉本に笑いかけ、その顔を見て杉本は困ったように口元だけで笑った。
「それじゃあ俺は農村を回るから留守番を頼むぞ」「連れていってくれないの」「農村に華僑はいないからな」結局、本間の女としての悦びは杉本のプロの仕事によって脇に除けられた。
10・川本真琴イメージ画像
  1. 2020/09/19(土) 13:52:33|
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振り向けばイエスタディ2040

「ダディ、不思議なペンダントを有り難う」佳織よりも少し遅れて志織からも感謝の電話が入った。スリランカらの小荷物は東京には直通でもハワイへはアメリカ本土経由になるらしい。
「不思議なって石の種類は判っていのか」「スザンナの宝石コレクションで探したら同じ石があったの。クリソベルのキャッツアイでしょう」本当は梢の母親と同様にスザンナにも志織が世話になっているお礼に宝石を贈ろうかと思ったのだが、以前、ノザキ中佐が現役時代に世界各地で買ってきた宝石のコレクションを見たことがあったので志織のお守り用にした。
「スザンナのはブラジル産って言ってたけど、これはスリランカ産でしょう」「うん、佛教の聖地で生まれた石だからお前に加護があるはずだ」実はP.B.グナダサ&サンズでこの石に決めた時、私は「舎利礼文」と「消災吉祥陀羅尼」を唱えて加護と災厄除けを祈願していた。すると店主のアヌラ・グナダサさんがスリランカ佛教協会の会長であることが判明したため、次回の訪問時にはあらためて会うことになった。
「スリランカだったらディエゴ・ガルシアにアメリカ海軍航空隊の基地があるから私も行くかもね」「ディエゴ・ガルシアは中東やアフリカに行く航空自衛隊の輸送機も経由基地にしているよ。航空自衛隊に会ったら宜しくな」志織がアメリカ海軍航空隊に入る気になっているので私も同調したが、9月で3年生になり、ハワイ州の予備役部隊で予備役士官訓練課程(ROTC)の研修士官として勤務するための準備を進めていることは聞いている。研修士官になるためには軍事専門職の訓練を受けて正規兵の資格を取得する必要があり、ノザキ中佐の海軍パイロット人脈を動員して着々と進めているらしい。これが陸軍であれば基礎訓練の延長で歩兵の資格を取得すれば州兵で勤務できるのだが、そこが技術職である海軍の難しいところだ。
「ディエゴ・ガルシアと言えばワシが知らない間にフィリピンにアメリカ軍が再駐留したんだろう。クラークとスービックが復活するのか」オランダではアジア方面の情報が乏しいため佳織がフィリピンに赴任することになった理由と言うアメリカ軍の再駐留については志織に確認することにした。中川床1佐の説明では私がオランダに赴任した2012年とのことだった。
「正式にアメリカ軍がフィリピンに再駐留するのは防衛強化協定の締結後だけど協議は現在進行中なの。ただ2012年には連絡官が派遣されて常駐しているから始まってると言えないことはないよ」この回答で志織もかなりアメリカ軍人になっていることが判った。
「それでもキュービポイント海軍航空基地とスービック軍港、それからクラーク空軍基地の再使用については未定で、パラワン島のアントニオ・バウディスタ基地とルソン島のフォート・マグサイサイ基地、ミンダナオ島のルンビア基地、マクタン島のベニト・エフエフ基地に航空部隊を分散配置するみたい。キュービポイント航空基地は民間空港として機能しているから返還は困難、クラーク基地は火山の噴火の被害が深刻だからと言われているわ」ここまで専門的な知識が滞りなく出てくるのは予備役士官訓練課程で専門的に学んでいるからだろう。むしろ佳織に教育させるべきではないか。
「ところでお母さんの転属予定については聞いているか」「お母さんは東京に帰ってまだ半年じゃない。もう転属なの」案の定、佳織は志織にも人事情報を漏らしていない。上級幹部の人事異動は影響が大きいだけに厳格に秘匿されているが、通信幹部として秘密保全にプロ意識を抱いている佳織は殊更に実践しているらしい。
「これは別のルートからの噂だから誰にも言うなよ。どうやら防衛駐在官としてフィリピンに転属するみたいだ」「どうしてフィリピンなの」志織の声に憤りが混じった。志織としてはやはり佳織がヨーロッパに赴任して私との物理的な距離を縮め、精神的にも歩み寄ってもらいたいと願っているようだ。しかし、私は佳織がヨーロッパを希望したことは本人からも聞いている。
「お母さんはイギリスやフランス、ベルギーを希望したそうだが、組織としてはアメリカ軍での強い人脈を優先して決定したと言うことだ」私の説明に志織は電話を持ったまま黙り込んだ。受話器からは荒い息遣いが聞こえてくる。ハワイとオランダの時差は11時間なのでそろそろ夕暮れになる時間帯だ。ホノルル市郊外の高台にあるノザキ家は紅く染まった海の眺望が美しい。
「その人事が納得できないなら退役すれば良いじゃない。結局、マミィは近い将来、提督になる1等陸佐であって、2等陸佐のダディの妻で自分を納めるつもりはないのよ」志織が将軍=ゼネラルと言うべきところを提督=アドミナルと間違えたのはご愛敬だが、先日の電話で佳織が口にした妻としての欠格に対する認識は共通している。やはり血を分けた母子なのだ。
「ダディはマミィと別れて梢さんと再婚するべきよ。グラダディも伊藤典子と別れてスザンナと結婚したから安心して軍務を遂行できて幸福な老後を満喫しているの。ダディも幸せになってよ」お礼の電話のはずが思いがけず21歳になった娘の本心を噛み締めることになった。
20・JunJiHyunイメージ画像
  1. 2020/09/18(金) 13:33:38|
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振り向けばイエスタディ2039

「やっぱり私と別れたいのね」いたたまれなくなった佳織は最も恐れている確認を自ら口にした。先ほどの「邪魔な存在になりたくない」と言う拒絶は逆に佳織が「邪魔な存在になっている」と示唆されたような気がしている。
「いや、君は離婚理由になる過失は犯していない。不貞行為を働いたのはワシの方だ。君が離婚を要求すれば慰藉料を含めて考えるが、こちらから申し立てることはない」思いがけない告白に佳織は意味を理解するのに時間を要した。日本では弁護士だった夫からは民法が定める不貞行為は肉体関係であって接吻や愛撫では離婚事由にならないと聞いている。
「それって梢さんを抱いた・・・関係を持ったってこと」夫が1年以上に及んだ拘置所生活のストレスで性的能力を喪失し、回復不能なのは医師から診断を受けているから間違いない。実際、出所後は一緒にシャワーを浴び、抱き締められて寝ていても夫の男性器が臨戦態勢になることはなかった。黙ってしまった佳織に夫は感情を交えずに説明した。
「たまたまワシの一物が起った時、梢が隣りに寝ていたんだ。日本でも同じことになったことがあったが君はいなかった。おそらく人生最後の性交の相手は梢だな」この敗北は決定的だった。佳織は女として身を引くべきかを考え始めた。
「ところで志織が海軍士官になるのに両親の離婚は障害にならないのかな。帝国海軍では家族の身元調査が厳格で、父親が戦死以外で死亡していると兵学校には入れなかったって言うからね」やはり夫は家族ことを優先する。夫には「我がまま」の「我」が欠落しているのだ。しかし、これを妻としての信頼と至福と受け止めるような気分ではない。
「大切な梢さんを愛人にしていても良いの。私みたいな自分本位な女とは別れて梢さんを正式な妻にするべきよ」佳織はオランダのモリヤ家の電話がスピーカーとモニターになっていて梢も会話を聞いていることは知らない。すると梢が電話を代わった。
「佳織、そんな心にもないことを言うんじゃあないの。ウチの人の妻は貴女しかいないわ」「それじゃあ梢さんは」「私は人生の伴侶で十分、今更書類上の立場なんて必要ない。ねッ、貴方」妙なところで夫に相槌を求めたところを見るとこれが2人の共通認識らしい。確かに2人は若い頃、入籍するまでもなく夫婦以上に肉体と精神は固く結ばれていた。それがモリヤの親の反対で引き裂かれ、運命に翻弄される人生を送ってきたが、淳之介とあかりの出会いによって再会を果たし、精神の絆だけを復活させた。それに奇跡のような肉体の結びつきも加わったのだから婚姻関係を「今更」と言う気持ちになるのは理解できる。
「貴女が不要だから捨てるって言えば喜んで下取りするけどそんなことあり得ないでしょう。今年は内戦の実態調査でスリランカへ行ったけど、私としてはハワイで佳織と志織の3人の時間を過ごしてもらおうと思ってたんだよ」「スリランカへは国連の人権委員会の非難決議の実態調査だったんだね。ご苦労さまでした」「はい、私設秘書として同行しました」重い話題がようやく軽くなったが国際電話が随分長くなっている。そこで締め括りに感想を訊くことにした。
「スリランカはどうだったの」「素晴らしい国よ。ウチの人なんて平成で腐った日本よりも母国したいって言ってるの。私も2人で暮らして一緒に骨を埋めてもらいたいって思ってるわ。だから佳織にも感動のお裾分け」話に区切りがついたところで佳織がスマート・ホンを切ろうとすると夫が「追伸」を差し入れた。
「そう言えば淳之介とあかりは八重山の雲島に移住するらしいぞ。車やハブがいない島だからあかりでも安心して子育てできるらしい。母親として知っておけ」どうやら夫は本心から佳織を妻であり子供たちの母親と認めているようだ。それを許している梢を含めて常識的な頭では絶対に理解できない人生の伴侶なのは判った。
「もう一度 やり直そうって 平気な顔して 今更・・・」佳織はスマート・ホンを制服の腰のポケットにしまうとネックレスを首にはめながら無意識に歌を口ずさんだ。これは大阪の大歌手・やしきなかじんの「やっぱ好きやねん」だ。伊丹のママさんのスナックでもカラオケで唄ったことがあるが、夫の優しさに包まれていた生活を思い出すと自然に溢れてくる。
「・・・やっぱ好きやねん やっぱ好きやねん 悔しいけどあかん アンタよう忘れられん きつく抱いてよ 今夜は」唄い終わると涙が止められなくなった。佳織は目元には化粧をしていないが、ハンカチで拭いながら瞼が腫れているのが判った。
「ウチの場合は男女の立場が反対や。我がままなのは私、あの人は私を憎めば楽なのにそれができない。私たちってつくづく目出度い夫婦やね」コンパクトを出して化粧を直しながら佳織はもう一度歌詞を噛み締めた。主人公の女性は弄ばれて捨てられた男が現れて、また騙されることを承知した上でやり直す気持ちになっている。それが夫のような気がした。
ん0・森野佳織1佐イメージ画像
  1. 2020/09/17(木) 11:42:52|
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9月16日・マッターホルン初登頂者・ウィンパーの命日

1911年の9月16日はアルプスでも屈指の難度を誇るマッターホルンの初登頂に成功したイギリスの登山家で木版画家と文筆家のエドワード・ウィンパーさんの命日です。
ウィンパーさんは1840年にロンドンの画家の11人兄弟姉妹の2男として生まれましたが父はウィンパーさんを後継者にしました。1860年にイギリス山岳会の依頼を受けてアルプスの風景を描くようになると自身も登山を始め、次々に名峰を踏破しました。そうして1865年に霊峰として畏敬の対象となっていて誰も登ろうとしなかったマッターホルンにウィンパーさん(25歳)とチャールズ・ハドソンさん(牧師・37歳)、フランシス・ダグラス卿(スコットランド貴族・18歳)、ダグラス・ロバート・ハドゥさん(19歳の初心者)のイギリス人4人が挑戦することになったのです。
マッターホルンは標高4478メートルのプラミッド型の山体を持つ完全な独立峰で東壁の落差が1000メートル、北壁が1200メートル、南壁が1350メートル、西壁は1400メートルです。ドイツ語の草地を意味する「マット」と山頂の「ホルン」を組み合わせた名称で、イタリア語とフランス語では鹿の角の「チェルヴィーン」「セルヴァン」と呼んでスイスを構成する各民族とも神聖視していたため、そこにイギリス人が無遠慮に踏み込むことには民族感情が入り混じった反発が起こったようです。
それでも現地ガイドのタウクヴァルターさん(45歳)と同名の長男(22歳)、高名な山岳ガイドのミシェル・クロさん(35歳)を先導として麓まで荷物運搬を手伝ったタウクヴァルターさんの二男・ジョセフを加えた8人でスイス側の麓の街・シェルマットの延長線上の東壁と北壁の境界線で途中に足がかりとなる段があるヘルンリ尾根から挑戦して7月14日に登攀に成功しました。ところが下山時、ウィンパーさんが本業のスケッチをしている間に命綱で身体を結んだメンバーはクロさん、バドゥさん、ハドソン牧師、ダグラス卿の順番で出発していまい、タウクヴァルター父、ウィンパーさん、タウクヴァルター長男が後を負う形になってしまいました。すると難所である窪地に差しかかったクロさんがピッケルを岩場に置いて命綱を引き寄せようとした時、初心者のハドゥさんが滑落してクロさんとハドソン牧師を巻き込み、支えようとしたダグラス卿も一緒に1000メートル落下していったのです。
命綱がハドソン卿とタウクヴァルター父の間で切れたため後続の3人は助かりましたが、「ハドソン卿が3人を救うために切った」「タウクヴァルター父が3人を守るために切った」と言う推測と疑惑が議論されることになりました(後年、回収された命綱が軽く弱い予備のロープだったため「衝撃に耐えられなかった」と言う結論になっています)。
帰国後、ウィンパーさんは唯一生き残ったイギリス人として一方的に糾弾されることになりましたが、その弁明として著した「アルプス登攀記」の名文と自作の挿絵が大きな感動を呼び、逆に名声を獲得しました。その後は地質学や生態学、地理測量を習得し、グリーランド探検やアンデス山脈、ロッキー山脈に登った体験の著書を出版しました。この日はモンブランへの登山旅行中に麓の旅館での急逝でした。71歳でした。
マッターホルン手前の稜線がヘルンリ尾根
  1. 2020/09/16(水) 13:01:35|
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振り向けばイエスタディ2038

「課長、海外から小荷物が届いています。差出人はご主人のようです」陸上幕僚監部人事教育部で勤務している佳織に命令回報を持ってきた事務室のWACの2曹が羨ましそうに小荷物を手渡した。佳織はバインダーを机に置いて受け取ったが、横文字の差出人はニンジン・モリヤでも住所はスリランカのコロンボ市で、「P.B.グナダサ&サンズ」と言う店名が入っている。つまりコロンボ市内の店で注文した商品が送られてきたのだ。
「何だろうスリランカからなんて。梢さんと旅行したお土産かな」佳織は2曹が退室してから厳重に梱包してある小荷物を机の上で開いた。これが梢との旅行の土産だとすれば佳織はすでに妻とは認められていないことになる。するとヨーロッパ式の図柄が入ったジュエリーボックスが出てきた。上には「WARRANTY」と書いた封筒が載っている。
「保証書つきと言うことは宝石ね。何事かしら」蓋を開けるとクリソベルのネックレスだった。掌に載せて眺めると透明感がある褐色の石は上品で金属部分の細工も高級感をかもし出している。別居して以来、互いに連絡を取っていない夫からの突然の贈り物に佳織は困惑してしまった。
今年の年末年始休暇に帰省した時も志織は夫から学んだ軍人としての考え方を披露して佳織には冷淡だった。佳織としてもこのまま破局に至る前にやり直す糸口を探してはいるが、夫と梢の間にはわずかな綻びさえ見つからないのだ。
「そうか、これを理由に電話をすれば良いんだ。東京とオランダの時差は・・・」佳織は志織に叱責されて帰国する度に電話をかけようとしたのだが、離婚を切り出されるのを懼れて躊躇していた。だから夫が暮らしている国との時差さえ知らない。
「イギリスのグリニッジ時間と日本の時差が9時間だからオランダもそのくらいね。だったら今かければ向こうは朝の7時と言うことになるわ。まだ出勤前よ」イギリスとオランダにも1時間の時差があるので実際は8時を過ぎている。しかし、佳織は勘違いに気づかないままスマート・ホンに登録だけしている夫の官舎の番号にかけた。
「ハロー」電話には夫が出た。久しぶりに聞くと発音は完璧な英語になっている。佳織はあらためて大きく息を吸うと日本語で返事をした。
「もしもし私です。判りますか」「君か、元気でやってるか」夫の口調は何も変わっていない。佳織は夫婦の絆を確かめられたようで安堵の溜息をついた。すると夫が現実を突きつけた。
「日本語ね。誰から」「東京の佳織からだ」電話口で梢が話しかけ、夫は当たり前に答えた。これはオランダの2人とって佳織が第3者になっていることを意味している。佳織は胸に点ったロウソクの灯りが風で吹き消されたような気分になった。
「そう言えば君はフィリピンに防衛駐在官として赴任するんだってな。頑張れよ」「どうしてそれを」「仕事柄、防衛駐在官に接する機会が多いから妻の栄典を耳に入れてくれることもあるんだ」夫はまだ部内秘である人事情報を漏洩した人物を特定されるような説明はしない。それでも以前は「お前」と呼んでいた自分を「君」と他人行儀に呼びながら「妻」とは認めている。相変らず理解不能な人物のようだ。
「そう言えば素敵な宝石を有り難う」「うん、お守り代わりにフィリピンに連れて行け。佛教の聖地・スリランカの大地から生まれたクリソベルのキャッツアイだから加護があるだろう」この気遣いは消えたロウソクに火を点す。佳織はジュエリーボックスに戻したネックレスの石を見詰めながら夫の笑顔を思い浮かべた。あの不思議な笑顔と暮らした時間はあまりにも短く、優しさに甘えて自分の仕事だけを追い求めた結果の今がある。結局、佳織は夫を独立した存在として見てきたが、梢は深く愛し合って一心同体となり、別れてからも固い絆を信じていたのだ。
「私、本当はNATO軍司令部の連絡官を兼ねたベルギーか、イギリスやフランスの防衛駐在官を希望していたの。そうすれば貴方の傍にいられるし、仕事でも協力できるじゃない。だけどフィリピンにアメリカ軍が再進駐しているからって・・・」佳織の説明は夫もスリランカで中川床1佐から聞いている。ここで夫はあえて水をかけて火を消した
「ロンドン、パリ、ブリュッセルとスフラーフェン・ハーグの距離は香川県から東京までの半分だから会いにいけるって言われても期待はできないな。最早、君はワシを必要としていないから会いに来ることが負担になるだけだ。そんな邪魔な存在にはなりたくないよ」初めて夫が本音・真情を口にした。志織からも夫が厳しい仕事に立ち向かっている時、佳織は妻として支える責任を放棄していたと何度も責められている。電話から聞こえてくる夫の声は自信に満ち、精気に溢れ、海外で日本以上に厳しい職務を遂行している疲れや悩みは全く感じさせない。その生命力の根源は梢の存在以外にない。志織が「本当は甘えん坊だ」と評している夫に孤独な生活を強いてきた結婚生活を想い佳織の目から涙が零れ落ちた。
  1. 2020/09/16(水) 13:00:04|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ2037

「あかり、今日は天気が好いから布団を干しておきなさい。これからは塀に掛けるのよ」祖父が淳之介と恵祥に庭の植木の授業を始めると祖母はあかりに声をかけた。夫婦の布団は淳之介がウチナー正月で沖縄本島に行く直前に運び込んだのだが、客用はしばらく使っていない。恵祥の子供用は今回持ってきたのでこちらも汗になっている。祖母はあかりの手を引いて押し入れに連れていくと襖を開けさせて畳の上に布団を下ろした。
「私が声をかけるからユックリ運びなさい。サンダルは縁側の下に揃えておくから布団を置いてから履きなさい」祖母の指示を受けてあかりは畳の上の布団を手探りで確認し、自分たちのダブルの敷布団を3つに折って両手で持ち上げた。この家は石垣島でマンションを買って移住していた一家が「先祖代々の墓がある島に残る」と言い張った祖母のために建て替えたので間取りは2人が住んでいたアパートと同じ6畳2間の2DKだ。
「塀まではあかりなら15歩ぐらいかな。布団がぶつかったらそこよ」祖母が2往復して2人分の敷布団を干す間にあかりは庭に下りて1回目の敷布団を持ち上げた。
「はい、そのまま前に進みなさい」あかりが家事を始めたのに気がついた祖父と淳之介は植木の傍から見守っている。恵祥は駆け寄ろうとしたが祖母が制止した。視覚障害者が作業をする時には注意力を動作に集中させなければならないのだ。
「この布団、私たちの臭いがする・・・」1歩1歩足の裏が踏む小石を感じるほど慎重に進みながらあかりは胸に抱えている敷布団に淳之介と自分の汗の臭いを感じていた。あかりと恵祥が暮らしていたマンションの佛間は祖父母の寝室と襖1枚で仕切られているため淳之介が帰宅しても夫婦の営みは控え目にしなければならなかった。だから昨夜のホテルでは溜まりに溜まって臨界点に達していた淳之介の大爆発にあかりも誘爆して女性としての官能に酔い痴(し)れた。こうして2人の体臭を感じるだけで頬と胸が熱くなってくる。それにしても昨夜の淳之介は燃え上がり過ぎて避妊を考えていなかったが、恵祥に弟か妹ができればどうするのだろうか。
「近くで緋寒桜が歓迎してくれているわ」布団を干し、島の食堂で昼食を取った後、集落内を歩いているとあかりが立ち止まって呟いた。あかりが過去に嗅いで記憶した匂いの識別能力は健常者が目で見た以上の正確さがある。どうやら風に乗って聞こえてくる桜の匂いを察知したようだ。淳之介と祖父母も周囲を探したが桜の木は見当たらない。するとあかりは鼻で探しながら歩き始めた。こうなると超能力に近い。
「あった、あそこだ」船乗りとして超人的に目が良い淳之介が集落の狭い通りの先を指差した。祖父母が注視すると集落の中央にある支所の前に植えられている緋寒桜が満開になっていた。
「貴女も素敵な香りよ。今年は今帰仁や首里の桜には会えなかったから無理かなって思っていたけど会えて良かった」あかりは垂れ下がっている枝の花の匂いを嗅ぎながら話しかけ始めた。石垣市にもバンナ公園などの桜の名所はあるが沖縄本島に比べて本数が少なく、淳之介には物足りない。しかし、匂いで楽しむあかりは本数や周囲の風景との調和は気にならないようだ。
その夜、雲島では公民館で淳之介、あかり、恵祥一家の歓迎会が開かれた。支所の職員たちも今夜は自分の島には帰らず、台風の時に使う宿直室に泊まって参加している。
「旦那の淳之介は連絡船で顔見知りだし、あかりは診療所のマッサージで世話になっているからあらためて紹介するまでもないね」自治会長の肩書を与えられている島の長(おさ)は島民が乾杯を待たずに勝手に飲み始める前に手短に挨拶するとグラスを掲げた。やはり竹富町内の学校の校長だった祖父の手前、少しは礼儀を考えたらしい。
「乾杯」「乾杯」乾杯したグラスを飲み干したところで蛇味線が響き始めるのは八重山でも同じだ。ただ曲は沖縄本島のようなカチャーシーや谷茶前(タンチャメー)ではなく「安里屋クヤマ(安里屋ユンタの原曲)」だ。
「あかり、酒を飲んでも大丈夫か」「やっぱり恵祥が心配だから止めておく。オジイとオバアには楽しんでもらいたいもの」淳之介は隣りの席で酒を注がれ、乾杯をしたあかりを心配して声をかけた。祖父母は教え子の職員や同世代の島民たちと酒を酌み交わして盛り上がっているからあかりが慣れない酒に酔ってしまうと恵祥の面倒をみる者がいなくなってしまう。
その恵祥を探すと20人ほどいる小学生たちと一緒に夕食を囲んでいた。高学年の女の子は弟や妹の面倒を見ているのでシッカリ者の母親のように仕切っている。あかりが仕事を始める2月から世話になる保育士も島民の妻なので出席しているはずだが完全に任せているようだ。
「シカサーソーラー(さみしい)」その時、祖父の声が聞こえてきた。同世代の島民たちとあかりと恵祥を手放す気持ちを共有しているのかも知れない。やはり年に何回か祖父母を呼び、首里に帰るようにしなければいけない。
李暁剛イメージ画像
  1. 2020/09/15(火) 13:55:35|
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振り向けばイエスタディ2036

「クヨナーラ」翌日、社長が操舵する連絡船で雲島に渡ると波止場では島民が総出で待っていた。島民たちは声を揃えてヤイマムニ(八重山方言)の挨拶を叫んでいる。雲島の人口は220人前後なので砂川直美が指揮を取っての合唱は沖の連絡船まで届いた。
「お父さん、何て言ってるの」淳之介とデッキに出ている恵祥は繰り返し聞こえてくる合唱を聞きとって質問してきた。恵祥が知っている挨拶は標準語の「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」と沖縄本島のシマグチ「はいさい」、後はオランダに行った祖母=梢が電話で口にする「ハロー」くらいで「クヨナーラ」は初耳だった。
「八重山では『こんにちは』を『クヨナーラ』って言うんだよ」「『さよなら』じゃあないよね。だって嬉しそうだもん」恵祥は安里家で常に誰かに話しかけられて育ったため2歳の割には言葉が達者で、しかも頭の回転が早い。これは母親似らしい。淳之介も父親に似ればあまり遜色はないのだが、半分混じっている母親の血を考えたくないので辞退した。
「オーリトーリ」2人がデッキで手を振ると合唱の台詞が変わった。砂川は島民を集合させて歓迎の発声を練習していたのだろうか。あかりは接岸の衝撃が危険なので祖父母と客室で座っているが、できれば聞かせてやりたい見事な合唱だ。
「今度は『おーい』『来―い』って言ってるよ」「そうだね。あれは『オーリトーリ』って八重山の『いらっしゃい』の挨拶なんだ」淳之介が説明した時、船長が減速して連絡船が揺れたため淳之介が肩を掴むと恵祥は驚いたように身体を寄せてきた。恵祥はあかりの腹の中で何度も雲島に来ているので船酔いはしない。やはり海ンチュウの息子なのだ。
「校長先生、クヨナーラ」「校長先生、オーリトーリ」連絡船が波止場に接岸し、恵祥を抱えて淳之介が飛び移り、ラッタル(渡り梯子)を掛けて舫い綱を杭に縛っていると中から祖父母とあかりが出てきて集まってきた島民たちと対面した。すると支所の職員たちが祖父を取り囲んで歓声を挙げた。どうやら別の離島の校長をしていた時の教え子のようだ。
「校長先生のお孫さんと曾孫さんが島に住んでくれることになって、ハナーツブルヤ、アンツァーグッテ、ミングッテ、トゥマンギッテルさァ」支所長はわざとヤイマムニで「私の頭はこんがらがって、グルグル回って、びっくりしている」と歓迎の辞を述べたが、祖父は理解して快活に笑った。やはり教師として地元に溶け込むことを信条にしていただけのことはある。
「宮良くんと新城くんに友利さんだね。3人とも違う島の子供だったはずだが・・・」「竹富町役場に就職しましたから石垣島と与那国島以外はどこにでも配置されます」支所長の説明に祖父はうなずいた。祖父自身も石垣市と与那国町以外の離島を管轄する八重山郡竹富町に配置されたため離島から離島を巡ることになった。その島に梢はモリヤを連れて訪ねたことがある。冷静に考えれば結婚前の娘が恋人と宿泊を伴う旅行で来ることは当時の倫理観から言えば許されないことだが、梢はモリヤに一生の伴侶となる運命を感じ、両親もそれを認めていたのだ。
「恵祥くんかァ。島の子ができたね」「あかりちゃんが帰ってきたから年寄りは長生きできるさァ」祖父は教え子たちと再会の感激を味わっているが、少し離れたところではあかりと恵祥が熱烈歓迎を受けている。あかりが高齢者たちに声をかけられている隣りで恵祥は知らないお爺さん、お婆さん、小父さん、小母さんたちに手渡すように抱かれて顔を強張らせている。それでも祖母と父親が嬉しそうに見守っているので黙って耐えていた。
「この家なら台風でも大丈夫さァ」「西大浜はお婆のために改築したからバリア・フリーになっているよ。だからあかりも安心さァ」波止場から集落までは支所のワゴン車で移動した。支所の職員の話によると砂川は今回の移住を沖縄県の「Iターン推進事業」と「離島過疎化防止対策事業」に申請して必要な予算を確保したらしい。したがって住民だった老女が亡くなってから空き家になっていた家屋の改装にも公費が当てられ、誰の懐も痛めることなく完成したそうだ。保健士・砂川直美のおそるべき政治力だ。
「家具と荷物は船長さんが自分で仕舞ったから、何時でも生活が始められるのさァ」家の案内と説明は「Iターン事業」担当の職員の仕事のはずだが島民は口を挟ませない。淳之介は今回の話が決まってからは家具や荷物を自分の連絡船で雲島に運び、停泊中に家まで持っていって片づけていた。だから食器棚の中まで石垣市内のアパートと同じ状態になっている。
「この島には車よりもハブがいないことが安心だな」家の中の案内が終わって庭に出ると石垣に替えて建っているコンクリート・ブロックの塀を見ながら祖父が呟いた。沖縄本島であかりが恵祥を連れて散歩に出る時、自動車は運転手が白い杖に気がつけば注意をするが、ハブにそんなことは期待できない。ましてや恵祥が興味を持って手を出せばたちまち咬まれることになる。祖父母もこの島はあかりが子育てするには最高の環境であることを実感できた。
  1. 2020/09/14(月) 13:22:12|
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振り向けばイエスタディ2035

那覇市首里の安里家では今年は1月31日のウチナー正月で帰宅した淳之介と一緒にあかりと恵祥が石垣島、さらに雲島に帰ることになったため引っ越しの荷造りで大忙しだった。結局、保健士の砂川直美が通勤用の漁船を見つけ、社長は海が荒れる日は会社の待合室に泊まることを条件に許可したので、あかりと恵祥はいよいよ雲島での暮らしを始めるのだ。
「梢とモリヤさんからこんな物が届いたさァ」そんな安里家にスリランカから厳重に梱包した小荷物が届いた。差出人はモリヤと梢の連名だが、その下には「P.B.グナダサ&サンズ」と言う店名が入っていて住所もコロンボ市になっている。
「スリランカの土産だろうけどお菓子にしては小さいねェ」ソファーに座った祖母は祖父に手渡して見せた後、自分の膝の上で包装を解いた。すると日本とは違うヨーロッパ式の宝飾品を入れる小箱が出てきた。上には「WARRANTY」と書いた封筒が載っている。
「保証書つきなんて何だろう」元教師の祖母には中身の推測はついていたが、隣りから覗き込んでいる祖父の関心をはぐらかすためとぼけながら蓋を開けると中には見事なクリソベルのペンダントが入っていた。それを見て祖父も「ほーッ」と感嘆の声をあげた。祖父は年明け早々に梢から「月内にスリランカへ旅行に行く」と言う連絡を受けていたが、あかりと恵祥を送り出す日が迫っていることばかり考えて興味は持っていなかったのだ。
「キャッツアイさァ。これはとっても高いのよ」祖母はペンダントの石を指で摘まんで窓にかざすと褐色の丸い石の中央に光の筋が入り、猫の目のような模様が浮き上がった。
「キャッツアイって猫目石のことじゃあないのか」「それは日本人に多い勘違いよ。石の種類はクリソベルで、光にかざして輝く筋が入ることをキャッツアイって言うの」祖母は理科が専門ではないが、やはり女性として宝飾品には興味を持って研究していることが判った。
「このサイズと色だと沖縄でもン十万円するわね」「特に輝きもしない丸い石がそんなにするのか」門外漢の祖父にとって宝石とはダイアモンドやルビー、サファイアなどの透明で光り輝く原石を加工した宝飾品を差す。祖母に見せられた光の筋は神秘的ではあるが、そうしなければ単なる褐色の小さな丸い石に過ぎない。
「まさか梢がモリヤさんに我がまま言ってねだったんじゃあないだろうな」祖母の説明を聞いて共働きで宝飾品を贈ったことがない祖父は男性として心配になってきた。沖縄は酒類と同じく宝飾品も関税が低く抑えられているため本土と比べれば安価で購入できる。それでも数十万円となると自衛隊の給与しかもらっていない(らしい)モリヤにはかなりの出費になるはずだ。
「あの2人だから大丈夫よ。保証書にスリランカ産って書いてあるからビックリするほど安く買えたに違いないわ」祖父を安心させるために無理な推測を述べたが、祖母はペンダントの金属部分の最高級の細工から見て安価ではないことは判っていた。その一方で独身時代のモリヤの「質素を旨とすべし」式の経済観念には梢も感心していたので本当に心配はしていない。
「2人からの感謝の印として受け取っておくね」祖母はネックレスをはめると立ち上がって寝室の鏡台の前へ行き、自分の胸元で光るクリソベルに見入った。あかりと祖父には送ってこないことから考えると出産からこれまで梢が母親として果たすべき役割を代わってきたことへの感謝の気持ちを表していると理解した。
「石垣に帰った夜はホテルに泊まるのよね」荷造りを終えた箱を郵便局で送った淳之介が帰ってくるとあかりと夕食の支度している祖母が訊いてきた。今回の引っ越しには島民への挨拶と居住環境を確かめるため祖父母も同行することになっている。祖父は復帰時に本土から送り込まれてきた学生運動の活動家出身の教師たちが教職員組合を反日に誘導していることを批判したため八重山に単身赴任させられた。八重山でも離島を巡っていたが雲島では勤務していない。それでも八重山はアメリカの統治下でも軍は駐留していなかったため兵士による犯罪は経験しておらず沖縄本島のような反基地が反日に拡大した世論は今も発生していないと確信している。
「島の人たちは『住む準備は完了しているからそのまま来い』って言ってるけど、アパートでお世話になった人たちにお礼を言わないといけないし、砂川さんも『あかりと恵祥を八重山病院で受診させておけ』って言うから市内のビジネス・ホテルを予約しておいたよ」「八重山病院の先生は代わってないの」淳之介の説明にあかりが質問を返した。あかりとしては視覚障害者の育児に困難が伴うことを懇切丁寧に説明し、その覚悟を見て取ってからは親身に相談に乗り、具体的な助言を与えてくれた医師に心からの感謝を伝えたいのだろう。
「どうだろうね。八重山病院の先生は長い人と短い人が色々だからな」八重山病院の医師には任期を過ぎれば早々に沖縄本島に戻る者と根を下ろして長期勤務する者に分かれる。しかし、淳之介は受付に電話しただけなので担当する医師の確認にまでは意識が及ばなかった。
  1. 2020/09/13(日) 12:15:51|
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振り向けばイエスタディ2034

「スリランカ内戦での国連人権委員会の調査はかなり杜撰だったようです」スリランカには美味しいお菓子がなかったので高級な紅茶を土産にしたが、受け取ったモレソウダ首席検察官はそれをドリッパーの横に置いてコーヒーを淹れてくれた。紅茶は放置したままだが土産は相手に渡すことが目的なので気にせずコーヒーをすすって話を切り出した。
「調査団はキリスト教徒としての偏見で当事者の証言を無視しただけでなく、提出した写真などの証拠を不採用にしてヨーロッパ人のジャーナリストが撮影した報道写真を採用したようです。代表は『被害者が死亡して証言が得られない以上、加害者の主張は採用できない』と説明したそうですが、これでは始めから政府軍の犯行と言う結論を出していたことになります」「私もムスリマ(女性のイスラム教徒)だからキリスト教徒の独善性には許し難い点が多々あるけど、国連の機関が派遣した調査団がそこまで極端な対応するとは思えないわ」私はスリランカから持ち帰った怒りが腹の中で再燃して口調に怒気が混じったようで、モレソウダ首席検察官は大佛の顔になって穏やかな反論で宥めた。こうなると私は掌の上で暴れていた孫悟空のようなものだ。
「しかし、同業者、専門家の目で見れば政府軍の主張に合理的正当性があるのは明らかで、調査団の報告書の内容は軍事上の常識から言えば非現実的です」私は口調を落としながらも主張は換えず、黙ってこちらを見ている生きた大佛に本論を述べた。
「若し、スリランカ政府と軍を被告として裁判を始めることになれば被告側の真実を述べている証言と本物の証拠を否定できなければ公判が成立しません。コートジボワ―ルの公判は双方の戦争犯罪行為を旧政権側だけに適用・断罪していますが、スリランカでは被害者になっているタミル・イーラムの虎が戦争犯罪を繰り返したのに対して政府軍は武力紛争関係法と軍事規律に基づく合法的な戦闘しか行使しなかったから内戦が長期化したのです」話が苦戦中のコートジボワールに及んだため大佛の背後に炎が立ち上り、目だけが不動明王になった。
「私は私的旅行として同意したんです。今の話は旅行の体験談として聞いておきます」「楽しい旅行でした。有り難うございました」モレソウダ首席検察官が大き目のマグカップの甘く濃いコーヒーを一気に飲み干したため、私も砂糖を入れていない濃いコーヒーを飲み終えて立ち上がった。それでも退室する時、「高級な紅茶を有り難う」と声をかけてくれたので少し救われた。
「スリランカに旅行だったんですって」続いて留守中に1回だけ訪ねてきたと聞いた戸崎久仁子判事の執務室に行った。裁判部事務室の職員に案内されて部屋に入ってきた私を見て戸崎検事は何故か嬉しそうに声をかけてきた。私は日本の裁判所で同じ国家公務員である判事と検事が法廷外で接触することを問題視していたので戸崎久仁子判事の部屋を訪ねることはなかったが、これは同胞としての親近感の表現だろう。
「はい、佛教の聖地を見て回ってきました」私の説明に戸崎判事は少し陽に焼けた顔を見て納得したようにうなずいた。実際、スリランカでは佛歯寺以外も梢が調べた佛教の僧院を巡ってきたが、日本の寺院の本尊が佛像なのに対して釋尊が実在しているような信仰には心から感激した。
「スリランカは内戦が終結して5年経っているけどどんな感じだったの」すると戸崎判事は遠回しに旅行=現地調査の成果を探ってきた。私としては佛教の聖地巡礼も本当の目的だったのだが、仕事に生きている大物女性たちには理解されないのかも知れない。
「国連人権委員会は(いわゆる)従軍慰安婦問題と同じ過ちを犯したようです」相手が日本人なので私が抱いている国際連合人権委員会に対する不信感を説明するのは簡単だ。事務総長の選挙ではアメリカの指示を受けた日本の全面支援で就任できた潘基文事務総長は韓国の国民性である「忘恩」を発揮して国際連合人権委員会に(いわゆる)従軍慰安婦問題を提起させた。その調査は日本では強制連行を裏づける公文書が発見できなかったにも関わらず韓国の元慰安婦の証言と明らかに捏造と判る陳腐な証拠を採用して事実と認定した。そもそも朝日新聞が「自己を断罪する勇気ある告白」と賞賛しながら大きく執拗に報道した吉田清治の済州島での強制連行が虚偽であることは本人が認めており、逆に元慰安婦たちは当初、「親に妓宿(キーセン)に売られた」と証言していたはずが、日本の官憲や軍によって強制連行されたことになっていた。
「つまりモリヤ2佐はスリランカ内戦の報告はコートジボワール以上の虚偽だと考えているんですね」戸崎判事には私が現在の裁判に疑問を持っていることは話しているだけに理解は早い。
「仮に国連人権委員会が刑事告訴を強要するようなら組織に対して虚偽告訴罪を適用する用意があります。逆に被疑者死亡のままタミル・イーラムの虎を戦争犯罪者として告訴すると言う手もありますね。そうなれば念願の死刑を求刑できます」私としては手前勝手な死刑廃止を絶対的正義として世界に徹底しようとしているヨーロッパで、国際法では死刑が存続していることを示すために求刑をしたいと考えている。やはり戸崎判事は外交官の顔になって黙ってしまった。
  1. 2020/09/12(土) 13:30:33|
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