11月1日は1989年に沖縄県酒造組合連合会が制定した「泡盛の日」です。
野僧は就職家出として航空自衛隊に入隊しながら浜松南基地の第1術科学校に入校したため毎週のように実家に帰らされる羽目になり、そこで最も遠い任地として那覇基地=沖縄を希望して(千歳基地は最新鋭のFー15Jの配備が始まっていたため学生長たちが揃って希望した)、そこで洋酒と一緒に出会ったのがオリオン・ビールと泡盛でした。
野僧は高校時代、かくれて煙草を吸う同級生たちから「お前も吸え」と言われると「俺は酒を飲んどる」と反論した通りに寝酒を飲んでいて(父親はビールしか飲まないため正月用の日本酒が残っていた)、大学に入学した頃にはコンパや部の宴会で新入生を酔い潰そうと酒を強要されても相手が先に潰れるほどの酒豪になっていました。そのおかげで沖縄では安く飲める免税品の洋酒と泡盛の飲み比べに励むようになり、やがて亡き妻と一緒に通っていた沖縄料理の店で飲む泡盛に魅せられて、こちらが研究テーマになったのです。
地元に人たち(シマンチュウ=島の衆)は泡盛を「島酒(シマサキ)」と呼んでいて泡盛は少し改まった正式名称のような感じでした。実際、昭和47(1972)年の本土復帰後は国税庁が沖縄の蒸留酒を焼酎乙類に指定したため「泡盛」は商品名に類する通称になり、野僧が赴任した翌年の昭和58(1983)年になってようやく「大蔵省令で定める酒類」の特例的な名称として表示が認められたので多少は反発と遠慮があったのかも知れません。
その後、沖縄料理の店で郷土史研究家の高校の教員と親しくなり沖縄の歴史に詳しくなったのですが、泡盛の名称には「泡盛を蒸留する時、細かい気泡の盛り上がり方でアルコール濃度を判断していたことから泡を盛るで泡盛になった」と「昔は現在のようなタイ米ではなく粟で醸造していたため酒の古語である『モリ』との組み合わせで『粟酒=アワモリ』になった」と言う2つの発祥が唱えられていているとのことでした。
野僧は瓶踊りのCMで有名だった糸満市の「まさひろ」や久米島の「久米仙」、名護市の「龍泉(首里の竜泉とは別)」などの酒造を見学したことがありますが、実際に飲み比べたところでは南の島になるほど美味しく、最高は沖縄最南端・波照間島の「泡波」だと確信しています。これには好みがありますが本島出身のシマンチュウたちも石垣島の「宮の鶴」や「八重泉」などを推す者が多く、極端に地元意識が強い宮古島の人たちが言い張る「菊乃露」や「多良川」を含めても先島、八重山産になります。その理由としては水質や製法の差異もありますが、沖縄戦でアメリカ軍が上陸した伊江島や読谷以南の酒造所の大半は破壊され、墓の中や地下などに避難させていた黒麹も職人たちが離散して放置されたため、戦火を免れた名護以北でも再建が遅れたことが大きいようです。
これほどの美酒が身近にありながら九州、特に鹿児島出身者は実家から持ち帰る芋焼酎や蕎麦焼酎を殊更に愛飲していましたが、九州の焼酎は江戸時代になって琉球王家が島津藩主に献上する泡盛の酔い心地に感服して領内の酒蔵に製法を学ばせたことが発祥ですから対抗意識を持つこと自体が身の程知らずです。
- 2020/10/31(土) 13:10:49|
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タイからニューヨークに帰った杉本と本間は同居を始めた。これで全員が事実婚していることになるが、2人はタイに出張するまで最も険悪な関係だっただけに岡倉と松本は少なからず困惑している。逆に松山1佐は「予定通り」と言う風情だ。
「杉本さん、今田さん(本間の偽名)、おめでとう」引っ越し終えた翌朝、杉本と本間が一緒に出勤すると松山裕美2曹が花束を手渡した。最古参の杉本もこれまで職場結婚は見たことがなくこれで自分が第1号になったことに気がついた。
「ありがとうございます」いきなり本間が花束を抱き締めて泣き出して、杉本が黙って震える肩を抱き寄せた。そんな愛らしい本間と優しい杉本の姿に岡倉と松本は我が目を疑っていた。こうなるとタイで何があったのかを事情聴取するしかない。
「それでは近日中に2人の結婚披露パーティーをセットします。料理の国籍の希望があれば言ってくれ」幹事は岡倉が立候補した。人種の坩堝(るつぼ)と呼ばれるニューヨーク市内を隈なく探せばアフリカの奥地でも太平洋の離島でも食べられない地元料理はない。本間は兎も角として杉本の口を割らすには趣向を凝らすことが肝要だ。すると杉本は本間と目で何かを打ち合せてから意外な提案をした。
「どうせお前らは俺がコイツのどこに惚れたのかを訊き出したいんだろう。その謎を解決するにはコイツの手料理を食べさせるのが手っ取り早い。パーティーはここに手料理を持ち寄ってやろう」「我が社の規則では支社内での飲酒は支社長が指定した場所に限定されているんだが・・・渡辺支社長も呼べば大丈夫かな」松山1佐の思案は自衛隊服務規則の飲酒場所の指定なのだが非公式とは言え自衛隊の施設だから準用するのは適切だ。
「それって私や杉村(岡倉の偽名)さんの奥さんも参加できるって言うことですか」「うん、ウチのも奥さんの仲間に入れてやってくれ」杉本のあらたまった答えに裕美2曹とは空手と少林寺拳法の稽古で一緒に汗を流している本間は困ったようにうなずいた。
「折角だけどウチのを参加させると話題が限定されるから今回は遠慮しよう。今回は徹底的に追及するつもりだからな」「それは怖いな。追及はお前が受けろよ」「やっぱり貴方の仕事でしょう。私は後ろで見てるわ」本間の答えに杉本が頬にキスをして岡倉と松本は固まってしまった。
結局、土曜日の夕食の時間に自宅で作った手料理を事務所に持ち寄り、電子レンジで温めて配る形式で2人の結婚披露パーティーが開かれた。本間は岡倉の妻・知愛に借りた清楚なワンピースを着て裕美2曹に念入りに化粧をしてもらい別人のような雰囲気になって長机の中央にスーツ姿の杉本と並んで座った。2人の両隣りには仲人代わりの松山夫婦が座り、来賓の渡辺将補と工藤、岡倉と松本が両端に分かれている。酒は缶ビールと洋酒の手酌なので先ず缶ビールの栓を開けるところから始まった。
「おめでとう」結婚披露パーティーとは言え本名さえも秘匿している人間関係では仲人役の紹介も中身はないに等しく、明日を保証できない任務を命じている来賓の祝辞も一言で終わった。それでも岡倉の音頭で乾杯して料理に手をつければ目出度い宴の雰囲気が発生した。
「この手料理に惚れたのかァ。言われてみれば今田の手料理なんて食べたことないもんな」「美味い。ウチの女房の次だ」岡倉と松本はこれも松山家と岡倉家から持ってきた小皿に盛られた料理に箸をつけながら事情聴取ならぬ料理の品評会を始めた。とは言え男にとっての家庭料理は母の味、妻の味が一番なので首位の座は譲ってもらえない。
「この卵焼き絶品でしょう。タイの終わりが見えない任務を遂行できたのは毎朝この卵焼きを食べさせてもらったおかげなんですよ」「うん、絶妙な味つけと焼き加減だね。ウチの奥さんの次だ」声が聞こえる場所に妻が座っている松山1佐も同様らしい。その妻同士は缶ビールを飲みながら男たちとは違う話題を語り合っていた。
「私は中国に2人で行った時から今田さんは良い奥さんになると思ってたわ。だってキチンとしてるもん」本間と尖閣諸島で海上保安庁の巡視船に中国の漁船が衝突してきた事件後に発生した反日暴動の調査に行った裕美2曹はホテルの同室で過ごして女性自衛官的な規律心と所作が身についている意外な面に感心していた。それを夫の松山1佐にも報告していたので2人の間では本間に対する女性としての評価は高かった。
「小春ちゃんはどうしたの」「岡倉さんの奥さんに預かってもらったわ。あそこには幼稚園児の息子さんがいるからお姉さん気分が味わえるみたい」工藤の家には更に小さい乳児の兵助がいるのだが、小学生の小春には幼稚園児の聖也くらいが丁度良いのだろう。すると自分の名前が耳に入った岡倉が自分の洋酒のグラスを持って本間と裕美2曹の前に移動してきた。
- 2020/10/31(土) 13:09:19|
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真珠湾攻撃か間近に迫っていた1941年の明日10月31日にアラスカ州とハワイ州を除くアメリカ本土の中央部に位置するサウスダコタ州ブラック・ヒルズのラシュモア山の山頂側面の岩壁にガットン・ボーグラムさん(=日本の高村光太郎さんの留学中の師匠)が彫刻していた初代のジョージ・ワシントン大統領(無所属)、3代のトーマス・ジェファーソン大統領(民主共和党=分裂前)、16代のエイブラハム・リンカーン大統領(共和党)、26代のセオドア・ルーズベルト大統領(共和党)の石像が完成しました。
アメリカの歴史を永遠に残すことを目的とする彫像を刻んだラシュモア山は海抜1745メートルですが、極めて硬質な花崗岩でできているため当時の科学者は1万年後にも彫像の原形が維持できると推定していました。しかし、その硬度のため当時の工具による掘削は不可能でガットン・ボーグラムさんが400人の作業員を指揮してダイナマイトによる爆破で岩壁を砕く工法で作業を進め、1927年からこの日まで14年をかけて彫刻したのです。ちなみにボーグラムさんはこの年の3月6日に亡くなったため完成を見届けられませんでした。また当初は全身像にする計画だったのですが、ホーグラムさんの死と対日戦争の勃発による予算不足で断念して現在の顔面像で完成としています。
この4人の人選については国民投票などが行われた記録が見当たらず、建設決定時のジョン・カルビン・クーリッジ政権(共和党)の一存だったようですが、当時のアメリカ人の共通認識だったのかネイティブ・アメリカンの聖地でもあるこの山に白人支配の象徴を建設したことに対する反発はあっても、人選に関する批判はなかったようです。確かに初代のワシントン大統領、歴代大統領の中で最も優秀とされるジェファーソン大統領については依存がないはずですが、リンカーン大統領は日本のアフリカ系奴隷を解放した人道主義者と言う評価は誤りで、アメリカでは国家分裂の危機を南北戦争によって喰い止めた軍事的な英雄であり、逆にネイティブ・アメリカンの虐殺者なので、この聖地には最も不適切な人物です。セオドア・ルーズベルト大統領は日露戦争の停戦を仲介してくれた大恩人なので日本にも建設したいくらいです(従弟のフランクリン・ルーズベルト大統領は仇敵)。
ちなみに聖地を汚された抗議としてヨーロッパ系アメリカ人の彫刻家が1943年からラシュモア山と同じブラック・ヒルズの別の峰にネイティブ・アメリカンの英雄・クレイジー・ホースさんの彫刻を始め(発注者もヨーロッパ系アメリカ人の団体で、名前自体が勝手につけた蔑称)、親族が継続していて現段階では顔ができただけですが、西部劇の酋長のような完成像に対してもクレイジー・ホースさんの部族の反発が起きているので、こちらも顔だけで終わった方が好いのかも知れません。
それにしても日本に同様に偉大な総理大臣4人の彫像を作るとすれば誰になるのでしょうか。戦前は初代の伊藤俊輔首相は仕方ないとしても他の薩長藩閥の首相は許し難く、本土決戦論が蔓延している中で敗戦を実現して民族滅亡を回避した鈴木貫太郎首相まで跳んでしまいます。敗戦後は吉田茂首相と中曽根康弘首相と言うところでしょうか。社会党の片山哲首相と村山富市首相、民主党の鳩山由紀夫首相、菅直人首相、野田佳彦首相なら1名追加です。
- 2020/10/30(金) 12:26:37|
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あかりは首里の祖父母のマンションに住民票を移していた間は重度身体障害者の手当てを受給していたが、雲島では淳之介の給与と診療所でのマッサージの収入で対象外になっている。と言ってもマッサージの収入は健康体ばかりの島民には医師が治療に施術が必要と認める保険適用の筋麻痺や関節拘縮などの患者はおらず、あくまでも疲労回復が目的なので料金は控え目にしている。それでもあかりとしては島のために自分が役立っていれば満足だった。
「今日もチャンプルさァ」波止場に入港して連絡船に積んできた荷物を島一軒の雑貨店の店主に渡していた淳之介の仕事が終わったところであかりが声をかけた。島では大半が農家なので野菜は代わる代わる差し入れてくれるから困ることはない。卵は庭で鶏を飼っている家から分けてもらい、魚も漁師たちが家で切り身にして持ってきてくれる。後は雑貨店で買う食材でチャンプルは決まるのだが、ゴーヤやナーベラにはまだ早く素麺、麩、豆腐でなければ肉か魚になる。
「今日は何のチャンプルかな。この匂いは魚肉ソーセージ・チャンプルだな」弁当箱を受け取った淳之介はあかりの手を引いて波止場のベンチに連れて行くと包みを開きながら推理を始めた。その浮き浮きした口調があかりには幸せだった。
「当たった。魚肉ソーセージ・チャンプルだ」あかりには肉類の鮮度を確認する手段が匂いを嗅ぎ分けるしかなく、雑貨店が仕入れた日付は店主の説明以外に確認できない。その点、ビニールのチューブに入っている魚肉ソーセージは消費期限が長く、調理も簡単だから最近はチャンプルだけでなくジューシー(雑炊や炊き込み飯)やスープにも重宝している。
「マーサイビンどォ(美味しいの)」「うん、、マーサイさァ。お前と一緒に食べられればそれだけでイッペイ(一杯=とっても)・マーサイビンだ」隣りで自分の弁当を食べながらあかりは淳之介の口が動き続けている音を聞いていた。この様子なら本当に美味しいようだ。
「今朝、恵祥が山羊を潰すって殺すことなのって訊いたのさァ、山羊を見に行って宮良のオジイから聞いたみたい」食事を終えて2人で手を合わせると水筒の茶を回し飲みしながら淳之介が出勤してからの出来事の話題になった。
「可愛がってる山羊が肉にされてしまうのが可哀想だと思ったみたい」これは人間が生きる上で避けることができない宿業なのだが、淳之介はその道のプロ=坊主の父に質問した記憶がない。淳之介が幼い頃の父は入校の連続とPKOで接する機会が余りなく、少年時代になると説明が懇切丁寧過ぎて重かった。だから疑問は学校で教師に訊くようになっていた。
「お義父さんみたいなお坊さんって肉や魚を使わない料理を食べてるんでしょう」「精進料理って奴だな。親父が作ったのを食べたことがあるぞ」父は中学生の時に祖父の寺で小坊主生活をしていたため精進料理が得意で、防府や善通寺、守山、久居でも修行に通っていた寺で出された精進料理を家で研究していた。当然、家族は試食させられたのだが、美味しかったのはまだ市販されていなかった豆腐ハンバーグくらいだった。
「オランダでお袋さんと親父は納豆や豆腐を手造りしてるって言ってたな。ウチでも作って淳之介に食べさせよう」「豆腐は熱湯を使うから危ないってオバアが教えてくれなかったんだ。納豆は沖縄では食べないってさ」どうやらあかりは安里家直伝の島豆腐の作り方は習っていないらしい。一方の納豆は沖縄の気温では保存できないため本土から伝来せず、冷蔵庫が普及した頃はアメリカの占領下だったので普及しないままだった。その納豆をオランダで作って食べている義母はやはり生活の全てが父と一心同体のようだ。
「豆腐は石垣で買ってくるから料理だけ研究してくれ。納豆は肉の代わりに入れれば何にでも使えるぞ。例えば納豆チャーハン、ひき割り納豆にすればマーボ納豆、チャンプルに入れてもマーサイかも知れん」「それなら私も鮮度の確認の不安が解消するわ」あかりが意外なことで賛同した。やはり視覚障害者の家事では健常者なら素通りできることが大きな負担になっているのだ。しかし、この調子では毎日が肉魚抜きの菜食生活になってしまいそうだ。肉体労働者でもある淳之介としては少し困ったことになる。
「それでも成長期には動物性蛋白質を取らないと丈夫な体ができないぞ」この指摘も父の体験談だ。小坊主時代の父は毎食が精進料理だったので中学校で貧血を起こすようになったらしい。そのため敗戦直後の子供のように「学校の給食が本当に有り難かった」と言っていた。
「漁師さんたちが新鮮な魚を届けてくれるから完全な精進料理にはならないから大丈夫。恵祥が魚も可哀想って言ったら困るけど」ここで父に相談すれば精進料理が中国の皇帝と朝鮮の国王、日本の天皇が殺生を徹底するために命じた作法に過ぎず、本来の佛戒では「殺したところを見ていない」「自分のために殺したと聞いていない」「自分のために殺したことを知らない」ものを「三種の淨肉」と呼んで托鉢で供養されれば食べられることを懇切丁寧に教えてくれたはずだ。
- 2020/10/30(金) 12:17:25|
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「あかり、行ってくるよ。恵祥、好い子でいるんだぞ」早朝、淳之介は雲島の漁港から自家用船で石垣島へ出勤する。漁港と言っても数隻の小型魚船をつないでいるだけなのでサンゴ礁を一カ所切って防波堤で囲っただけの連絡船の停泊所を兼ねた小さな波止場だ。船に乗り込む前に抱き締めて口づけするのは昔、父が今は義母になっている梢のアパートから帰る時の習慣の踏襲だが、これは航空自衛隊のパイロットが家のドアを締める時に死を覚悟することに由来しているのであまり縁起は良くない。それでも恵祥の頭を撫でながら無事に帰ることを誓っている。
「弁当はお昼の便の時にね」「うん、判ってる」出港して自家用船のスクリューが海水を掴み始めるとエンジンの音が大きくなるので最後の会話は互いに絶叫になっている。視覚障害者のあかりの調理は時間と手間がかかるため昼に定期連絡船で雲島に来る時に渡すことにしているが、実際は2人分作って一緒に食べていた。
「恵祥、海は静かなのね」「うん、ベタ凪だよ」あかりには見えない海の様子を確認する質問に恵祥は専門用語で答えた。海軍少年が航空経由で陸上自衛官になっている父親の息子が船乗りになって発生したウミンチュウの血は確実に受け継がれているようだ。淳之介は雲島に移住して保健士の砂川が手配した自家用船を手に入れるとあかりと恵祥を乗せて海に出て天候による変化を体験させていた。ベタ凪なら安心だ。
「あかり、恵祥、オトウは仕事に行ったねェ」「今、出港しました」「あそこの白い線がお父さんの蹴波(けなみ)だよ」ここでも恵祥は専門用語で答える。毎朝、漁港で父親を見送った後には出漁する漁師たちとの会話になるのだからウミンチュウの言葉が身につくのは当然だ。
「保育所に行くさァ」家に帰って朝食を終えれば母子の一日の始め直しになる。最近の恵祥は淳之介が出勤前に揃えておいた服を自分で着て、通園袋に連絡帳やタオルと下着の替えなどを詰めて支度するようになっている。あかりは玄関で持ち物の確認をするだけだ。
「恵祥、おはよう」「オジイ、おはようございます」家を出て小学校の校舎の一室で開設している保育所に向かって歩いているとサトウキビ畑に行く農家の老人に会った。老人は山羊を2頭紐で引いている。あかりも山羊の泣き声で察知していたので心の準備はできていた。
「オジイは山羊を連れて行くんですね」「雑草を喰ってもらうのさァ」「いつも美味しいお乳をありがとう」あかりが手を差し出すと恵祥が山羊の頭に誘導した。その指先を舐めたのは淳之介の弁当のお握りを握った時につけた塩が手に残っていたのかも知れない。
「それじゃあ行くさ。もうすぐ息子と嫁が軽4で通るから気をつけてな」「はい、お疲れさまです」「今じゃあ頑張ったらあかりに揉んでもらえるから助かるよ」老人が声をかけて歩き出すと山羊も鳴きながら後に続いた。恵祥は老人に誉められた母を誇らしげに見上げたが、あかりはサングラスの中で眼を閉じて深く頭を下げていた。
「オジイが今は石垣島に注文すれば肉が買えるから山羊を潰さないですむって言ってたよ。山羊を潰すって殺しちゃうことでしょ」老人が言った通り、若夫婦が軽4輪トラックで通り過ぎると手を引いて道路脇に誘導した恵祥が話しかけた。
「そうだね。お肉になってもらうには殺すしかないのさ」「だからオジイは山羊や鶏を大切にするけど可愛がらないんだって。名前をつけないって言ってるよ」恵祥の説明にあかりは答えられなかった。豚や肉牛は屠殺されて肉になるため生まれ、育てられている。今では全国的なブランドになっている石垣牛も同じ宿命を負っている。
都会の子供たちは遠足や体験学習で牧場に行くと肉牛の世話をして「可愛い」と歓声を上げるが、その後に出される牛肉もその可愛い牛だったことを大人たちは教えない。その点、恵祥は家畜や海で泳ぐ魚が人間のために命を奪われる事実を生活の一部として学んでいるのだから都会の表面的な教育とは比較にならない地に足をつけた知恵を身につけられるはずだ。
「今日は診療所の仕事じゃあないですよね」「今のところ予約は入っていません」保育所では島民の妻である保育士が確認してきた。あかりの診療所での鍼灸と按摩は雲島に常駐することになってから予約になり、砂川が連絡してくる。希望によって鍼を打つ場合は消毒などの準備が必要なため早めの予約が必要だ。その鍼は人間の肌で摩耗するので逐次更新しなければならないが石垣島には専門店がないので薬局での特別注文になる。その手間を考えると鍼を使わないマッサージ専門にしたいのだが、先ほどの老人も鍼灸愛好者なのでは手間を省く訳にはいかない。
「それじゃあ家事が終わってから迎えに来て下さい」「お願いします」「お母さん、頑張って」恵祥の声が保育士のすぐ横から聞こえたから密着して立っているらしい。淳之介一家が雲島に転居してきた時、島民たちは「恵祥を島の子にする」と言っていたが、それが実践されていることを実感する毎日だ。それはあかりにとっては素直に安心なことだった。
- 2020/10/29(木) 13:00:58|
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文治3(1187)年の明日10月29日(太陰暦)は奥州王・藤原秀衡さまの命日です。
奥州藤原氏は京都で権勢を奮っていた藤原家の系譜であるかは不明ですが、その遠戚が関東に下って藤原姓を名乗り、多賀城の鎮守府の官人(高位の役人)として陸奥国に赴いて定住した可能性が高い、つまり藤原姓を名乗っても文句を言われない程度の血縁だったと推察されています。
秀衡さまは奥州藤原氏の3代目で初代の清衡さまは多賀城の官人で現在の宮城県南部の亘理で荘園を経営していた藤原経清さんと陸奥国の事実上の覇王だった安倍頼時さま(安倍晋三首相の先祖)の娘の間に生まれたと言われています。ところが陸奥国で産出する金などを狙った京都の宮中が源頼義・義家さん父子を派遣して安倍一族を滅ぼしたのが前九年の役です。父の経清さんは安倍一族の武将として斬首されたので清衡さまも母親と共に殺されるところでしたが安倍一族に代わって陸奥国も治めることになった出羽国の豪族・清原武則さんの長男が美貌に惹かれて妻にしたため清衡さまは養子になりました。しかし、清原氏の義父が没するとその息子たちとの間で跡目争いが発生し、これに再び源義家さんが介入して清原氏の血統の息子たちを滅ぼすと(=後三年の役)清衡さんが藤原姓に復して実質的な奥羽=現在の東北地方の統治者となったのです。
秀衡さまは保元2(1157)年に父の基衡さまの死を受けて一族の長となりましたが、清衡さま以来、京都の求めに応じて金や馬、矢羽根にする鷲の羽根などを貢納することで地位を保ち、前年に京都で発生した保元の乱と平治元(1160)年の平治の乱には関与せず、その後の平家の繁栄と源平の争乱にも遠隔地と言う地の利を活かして傍観者を極め込むつもりでしたが、平治の乱で敗死した源義朝さんの遺児・義経くんを匿って育てたのが大失策となりました。厄病神に成長した義経くんは異母兄の頼朝さまが関東で決起したとの報を聞いて参陣しようと飛び出したため、秀衡さんは武勇に優れる佐藤継信さん・忠信さん兄弟を同行させたのですが、平家を壇ノ浦で滅ぼしたところでお役御免になり、頼朝さんに無断で後白河法皇から官位を受けたことを糾弾されると京都から平泉へ逃げ戻ってきたのです。その結果、鎌倉を拠点に勢力を拡張していた頼朝さまに頼義・義家さん以来の征服欲が燃え上がり、秀衡さまの死を待って側室が生んだ長子の国衡さんと公家の娘が産んだ嫡子の泰衡さんの跡目争いを策謀し、分裂に乗じて侵略を開始し、奥州藤原氏は文治5(1189)年に滅亡しました。東北に極めて多い佐藤、工藤、伊藤、加藤などの「藤」を用いた姓は各地に潜伏した藤原一族を隠すため家臣が名乗ったことによります。
清衡さま、基衡さま、秀衡さまの遺骸と泰衡さんの首は平泉の中尊寺金色堂内に現存するため医学・科学的な検証によって多くの点が解明されています。秀衡さまの血液型はAB型(父親の基衡さまはA型)。身長は164センチでいかり肩だったこと。腹が突き出した肥満体だったこと。顔は大きく、鼻筋が高く通り、顎が長かったこと。(当時としては珍しく)重度の歯槽膿漏で虫歯もあったこと。晩年は脊髄を病んで横臥にも苦痛が伴ったであろうこと。死因は脊髄に細菌が入り、敗血症を発症したことなどが公表されています。
- 2020/10/28(水) 13:49:27|
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翌日はナバオ市内に所在するフィリピン軍の東ミンダナオ方面コマンド司令部と近郊の陸軍部隊を訪問した。明日は海軍の東ミンダナオ方面管区と空軍の第3戦術航空団を見学してからケソン市に戻る予定だ。フィリピン軍への訪問を日程の中心に据えたのはナバオ・デス・スクワッドの視察を目立たなくするためなのは言うまでもない。しかし、今日の訪問先には第10歩兵師団があり、第10通信大隊出身の佳織には懐かしかった。
「はじめまして。在フィリピン日本大使館の防衛駐在官のモリヤ佳織1佐です」「ようこそ。師団長のポルタド少将です」ナバオ市内のゼネラル・マヌエル駐屯地の第10歩兵師団司令部で面会したポルタド少将は日本の防衛駐在官が女性自衛官だとは思っていなかったようで、ドアから入ってきた佳織に手を差し出すのに少し時間を要した。フィリピン軍の平時の最高位は中将なので自衛隊の将補に当たる少将が師団長を務めている。
「私が最初に勤務した部隊は第10師団の通信大隊でしたから今回の訪問には懐かしさを感じています」妙に念入りな握手の後、ソファーに腰を下ろすと佳織は社交辞令ではない挨拶として自己紹介した。するとポルタド少将は意外なことに感嘆した。
「日本陸軍には通信専門の大隊があるんですね。やはり先進国の陸軍は違う」佳織はケソン市の首都圏方面コマンドを皮切りにルソン島の陸海空軍部隊を歴訪しているが、陸軍は12万人の将兵の大半を歩兵にしていて独立以来、各地で続発している反政府ゲリラへの対処に当たらせている。つまり内戦専門の陸軍なのだ。
「今日は我が陸軍部隊を視察しているようですが、率直な感想を聞かせて下さい」ポルタド少将は女性の下士官がアイス・コーヒーを運んでくるとそれを勧めながら会話を進めた。
「フィリピンと日本はどちらも離島の国家であり、国土面積は30万平方キロメートルと37万平方キロメートルで大差はなく、それを守る陸軍の人員も12万人と14万人弱(定員は15万人強)ですから同程度の規模です。実は私の夫は普通科=歩兵の幹部なんですが、所帯が小さい陸上自衛隊が特科=砲兵や機甲科=戦車、施設科=工兵、飛行科などを少数ずつ配置しているのは欧米の陸軍のミニチュアを作っているようなもので実戦の役に立たないと批判していたんです。夫は有事には石油の輸入が大幅に減少して車両の使用さえも制限されるから普通科を自転車の銀輪部隊にして機動力を確保するべきだと提唱していました」「中々本質を突いた意見だね」ソファーで身を乗り出したポルタド少将は目を真剣にしながら微笑んだ。
「演習も現在のような敵の侵攻を普特機の連携で迎え撃つと言う欧米式の台本ではなく、フィンランド軍が冬戦争でソ連軍の機甲部隊に実施したモッティ戦術を日本に適用した歩兵が自転車機動力を発揮する組織的ゲリラ戦に転換するべきだと言うのが持論でした」「なるほど一理ある」ここで佳織は夫の意見に賛同したポルタド少将に痛撃を加えることにした。
「逆のことがフィリピン軍にも言えて、現在は対ゲリラ戦の専門部隊化していますが対岸の軍事大国の侵攻を受けた時に通用するかに少なからず疑問を感じてしまいます。対岸の軍事大国はかつての人海戦術から現代戦を実施する欧米並みの空輸能力と高機動力を有しています。特に対空防御力を強化する必要があるように考えます」「我々も空軍力が著しく劣っていることは自覚している。陸軍としても歩兵に携帯SAMを配備しているのだが予算が乏しいので遅々として進まないんだ。何せ小銃もM14が残っているくらいだからね」M14小銃はアメリカ軍が1954年に制式化した昔の7・62ミリNATO弾を発射する自動小銃だが、ベトナムでのジャングル戦には不向きだったのでM16に更新された。全土が熱帯雨林のフィリピンでも同様の戦闘様相になるはずなので、予算を使用する優先順位はこちらの方が高い。
「こちらは夫が制服に装着していた陸上自衛隊の第10師団の部隊章です。よろしければ記念にどうぞ」面会時間が終わり、駐屯地の案内に向かう前に佳織が迷彩服の胸のポケットから取り出した封筒を手渡した。中には夫の第35普通科連隊時代の部隊章が入っている。将官への記念品であれば守山から新品を取り寄せて額装するべきだが、出発前に1種夏服のボタンをつけ直していて裁縫箱の中で見つけて思いついたのだ。
「ほう、これは魚かね。竜にも見えるが」「金鯱と言って師団司令部がある名古屋の城のシンボルです。上部の赤は普通科の職種=兵科色、35は夫が所属していたインファントリィ・レジメント=普通科連隊のナンバーです」「レジメントかァ。我が陸軍はバタリアン=大隊の上は戦闘旅団になるからな」陸上自衛隊でも有事には普通科連隊を中核にして特科と機甲科、戦闘施設の支援部隊を加えて戦闘団を編成するが、フィリピン陸軍ではそれが常態になっているらしい。
ポルタド少将は興味深そうに部隊章を眺めた後、迷彩服の胸ポケットに仕舞った。「部隊章のデザインは第10師団が最高」と言うのが守山で一緒に暮らしていた頃の佳織と夫の評価だった。

第10師団
- 2020/10/28(水) 13:47:39|
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待機所の視察を終えて宿泊先のホテルに向かう公用車の車内で佳織と山本警部は日本語で真剣な雑談を始めた。運転手が日本語を理解しないことは空港からここまでの観察で確認している。2人の日本語の会話を聞いている運転手は「ナバオ・デス・スクワッド」の名称を耳にすると発言者の表情を窺い、肯定的に捉えていると安堵した笑顔を浮かべていた。
「駐在官は内藤と言う男を知っているようでしたが」「いいえ、初対面よ。似た人に会ったことがあったから驚いただけ」「そうですか・・・」これは自衛隊と警察の双方が絶対的部内秘にしなければならない事実なので山本警部も追及はしなかった。
「それにしてもナバオ・デス・スクワッドとは盲点ね。警察が先だったみたいだけど誰の着想かしら」「本庁上層部のことは私のような現場の人間には判りませんが、当初はアメリカの警察のSWATに留学させるつもりだったようです」アメリカの警察の狙撃部隊・SWATであれば自衛隊のアメリカ留学や日米協同訓練に近いが実戦経験が目的となると重みが違ってくる。
「ところがアメリカでは日本人の目に触れる機会が多く、日本人の警察官が犯人を狙撃しているところを目撃されれば政治問題になりかねないと言うことで断念したようです」アメリカでも州によっては日系人の警察官がいるはずだが、4世や5世では体格や表情がアメリカ化しているので一見して日本人とは違う。
「自衛隊もその点は嫌になるほど気を遣っているけど警察も大変なのね」「民政党政権の頃、『公務員は悪人』と言う批判報道が蔓延して警察も餌食になりました。最近は職務質問する口調が高圧的だ。取り調べで自白を強要している。あれは誘導尋問だったなどとマスコミが弁護側に立って一方的な批判報道を繰り広げるので上層部は神経過敏になってるんです。おまけにセクハラやパワハラの内部告発も横行していて警察内部では中国社会のような相互監視と密告で組織を維持しているようなものです。このフィリピンへの派遣も対テロ部隊だから可能なんです」悪夢の民政党への政権交代によって日本が奈落の底へ転げ落ちたのは佳織がハワイの太平洋軍司令部から帰国したばかりだったので、マスコミが「自民党の長期政権によって官公庁が腐敗している」と言う執拗な批判報道で世論を誘導していたのは見ていない。ただ事業仕分けと言う荒唐無稽な政治ショーに国民が拍手喝采することが理解できなかった。逆説的に言えば事業仕分けの歯牙が及ぶ前に東北の大震災で国民の絶大な信頼を獲得した自衛隊は幸運だったのかも知れない。
「警察はカンボジアPKOで殉職者を出した時点で戦闘訓練に着手するべきだったのよ。あの時、日本の警察官は銃撃を受けても車両から出ようとしなかった。デモ隊から投石を受ければ車両に退避する機動隊の発想だったのかしら」「確かに機動隊用の車両は全面を鉄製の網で覆っていますから投石や鉄パイプの打撃には耐えられます。それでも我々はカンボジアでの高田警視(警部補から2階級特進)の犠牲を繰り返さないために銃撃を受けた時の対処要領を訓練しなければならなかったんです。ところが上層部はその後のPKOに参加しなくなったことで問題は解消したと考えていた節があります」佳織の指摘に応えて山本警部は唇を噛んだ。
「駐在官はカンボジアPKOに詳しいんですか」「第1次派遣隊としてUNTAC司令部で勤務していたわ。でも高田晴行警部補が殉職する前に交代したから事件には詳しくないのよ」実際は夫が個人的に研究してきた膨大な資料を見せてもらいながら詳細な説明を受けているのだが、釋迦ならぬ警察官に説法するのは避けた。
「自衛隊の目で見てあの時、オランダ軍が警護対象の日本の警察官を置き去りにして逃げたことをどう思いますか」「オランダ軍の指揮官は銃撃の状況からゲリラの陣容を推察して『反撃しても戦果は期待できない』と言う費用対効果で判断したんだわ」「費用対効果ですか・・・」「それが軍隊の常識よ。大日本帝国陸海軍を除くけど」山本警部も戦陣訓の狂気を盲目的に実行した日本軍を軍隊の行動原理と考えているようで佳織の説明に困惑した顔で振り返った。
「指揮官は任務の達成を最優先するけど、達成するのに必要な戦力を要求する権利と損害を必要最小限にする責任も与えられているのよ。アンピル村で待ち伏せしていたポルポト派の残党は森の中から機関銃を乱射してきた。日本の警察車両を前後から挟んでいたジープに乗っている兵士の小銃では反撃にならないし、身を守る掩体もない。だから退却を命じた。あれが装甲車だったらポルポト派は手を出さずに次の獲物を狙ったはずよ。勿論、オランダ軍は銃撃を受ければ日本の警察官も退避行動を取ると考えていたはずだけどそこは判断を誤ったわね」「やはり戦闘は我々の凶悪な刑法犯や過激派への対処とも比較になりません。新たな任務に加わった対テロ戦闘は体型的に学ぶ必要があります」この口ぶりでは山本警部はナバオ・デス・スクワッドでの体験学習よりもSWATへの留学の必要性を考えているようだ。しかし、佳織は内藤たちがイギリスのMI5で体型的に殺人技術を学んだことは知らない。
- 2020/10/27(火) 12:33:23|
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昭和17(1942)年の10月26日の南太平洋海戦で帝国海軍の艦上爆撃機と艦上攻撃機の戦術と操縦を確立した名パイロットの関衛(せきまもる)少佐と村田重治(むらたしげはる)少佐が戦死しました。
南太平洋海戦は6月5日から7日のミッドウェイ海戦で空母艦隊の主力4隻が撃沈された帝国海軍が陸軍のガダルカナル島奪還の支援に生き残った空母3隻、戦艦3隻、巡洋艦12隻、駆逐艦34隻を投入し、空母3隻、戦艦1隻、巡洋艦7隻、駆逐艦16隻のアメリカ軍と対戦した8月24日の第2次ソロモン海戦でも空母1隻を失い、前回同様にガダルカナル島のヘンダーソン飛行場の空爆による破壊を企図してこの日にニューギニア島の西海域で行われたのが南太平洋海戦でした。今回の日本軍は空母4隻、戦艦4隻、巡洋艦10隻、駆逐艦22隻でアメリカ軍の空母2隻、戦艦2隻、巡洋艦9隻、駆逐艦20隻を大きく上回る戦力でしたが、空母1隻と駆逐艦1隻を撃沈したもののミッドウェイ海戦から続く熟練パイロットの消耗が加速する結果になりました。
関衛少佐は明治42(1909)年に山形県米沢市で旧米沢藩士の海軍軍人と無条件降伏の実現に尽力した左近司政三中将の妹の母の間に生まれ、旧制・東京府立第5中学校を卒業して海軍兵学校に58期生として入営しました。一方、村田重治少佐は同年に長崎県で島原藩士の息子として生まれ、旧制・長崎県立島原中学校を卒業して海軍兵学校に入営した同期です。この頃の海軍兵学校では永野修身校長の発案で生徒が自分で立てた学習計画に基づいて課題を探求するダルトン・プランを採用していて、それまでの知識を暗記するだけの詰め込み式とは真逆の教育が行われていました(野僧の矢作南小学校もダルトン・プランの研究指定校でした)。このダルトン・プランで育った人間は型にはめられることを嫌い自由な発想で徹底的に探究する気風が強く、組織内でははみ出し者になりがちですが、航空機の発達と同時進行だったため押し込める型が存在しなかったのです(ミッドウェイ海戦で戦死した艦上攻撃機パイロットの友永丈市大尉も59期生のダルトン世代)。
2人は昭和8(1933)年に飛行学生になって基礎教育修了後には爆撃機要員となりましたが、当時の航空機は複葉機から鉄製の単葉機に移行して急速に発達する段階で、そこにドルトン・プランで身につけた探究心を如何なく発揮して機体の限界を見極めながら関大尉は急降下爆撃、村田大尉は空中投下雷撃を思考錯誤していきました。戦闘機パイロットは個人技の撃墜数で実力を証明できますが、艦上爆撃機と攻撃機は命中率がそのまま戦果になるとは限らず(特に堅牢なアメリカ海軍の艦艇では)、パイロットの技量や機体の性能はそれ程目立ちませんが真珠湾奇襲以来、多くのアメリカ艦艇を撃破・撃沈してきた帝国海軍の艦上爆撃機と艦上攻撃機の搭乗員の多くは2人の教え子でした。
この日、村田少佐は空母・翔鶴の第1次攻撃隊を率いてアメリカの空母・ホーネットを攻撃して爆弾6発、魚雷2本を命中させたものの被弾・炎上してそのまま突っ込んで自爆、関少佐は同じく翔鶴の飛行隊長として第2次攻撃隊を率いて空母・エンタープライズに爆弾3発を命中させながら被弾・炎上して駆逐艦に突っ込んで自爆したのです(順番が逆の資料もある)。日本海軍にとっては大き過ぎる損害でした。
- 2020/10/26(月) 13:43:03|
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腰に軍用の弾帯を締め、そこに吊ったホルスターに自動式の拳銃を納めた男に続いて狭い階段を登ると重そうな鉄のドアが閉まっていた。ドアの上には防犯カメラが設置されている。男は変則的にノックしてからドアを開けた。これが合言葉の代わりらしい。これだけの対策を施しているのはナバオ・デス・スクワッド側も麻薬密売組織からの攻撃の危険に晒されていると言うことだ。
待機所に入ると正面の壁にはフィリピン国旗とナバオ市旗が貼ってあり、数台の電話を置いた机の席に女性が1人座っている。その手前には簡易ベッドを兼ねているらしい背もたれがない長椅子の前に数人の男が立ち上がって出迎えていた。
「あッ」「はじめまして。内藤勘解由です」佳織は男たちの1人の顔を見て驚きの声を上げたが先に日本語で自己紹介した。相手が名乗った以上、ここではこの偽名の人格なのだろう。
「中村主水です」「伝法寺隼人です」「十文字小弥太です」「畷左門です」最初の男・内藤に続き、並んで立つ4人が似たような偽名を口にした。全員が私服のサファリ・ジャケットを着用し、足にはアメリカ軍の放出物資の半長靴を履いている。その着こなしは一見してプロ=自衛隊だ。
「私は在フィリピン日本大使館の防衛駐在官のモリヤ1佐です。内藤さんがリーダーなのね」「はい、そうです」姿勢を正して答えた内藤の顔を見て佳織は記憶を甦らせた。この男に会ったのは夫が北キボールPKOでオランダ軍と現地の暴徒に拉致された男女の日本人ジャーナリストを捜索中に交戦になり、その戦功で勲章を贈られ、代理として授与式に出席した時だった。
「私個人としては日本人が麻薬撲滅に直接貢献することは日本とフィリピンの信頼関係の強化に有益だと思っていますが、貴方たちに危険が及んだ時のことだけが心配です」佳織としては内藤たちが実戦経験を積むために派遣されている自衛官であることは知っているのだが、偽名を名乗っている以上公にはできず、とぼけるしかなかった。すると十文字小弥太と名乗った男が不可解な言葉を口にして内藤以外の男たちも唱和した。
「隠密同心心得の条、我が命我が物と思わず、武門の儀あくまでも影にて、己の器量を伏し、御下命如何にしても果たすべし、尚、死して屍拾う者なし。死して屍拾う者なし」それを反対の壁際に立っているこちらも日本人と思われる男3人は冷めた目で見ている。しかし、佳織が帰国した時には「大江戸捜査網」は終わっていたのでこの言葉は知らなかった。
「警察署長から防衛駐在官には我々の活動を包み隠さずお教えしろとの指示がありましたから、資料をお見せします」対面が終わったところで内藤が机に行き、女性に引き出しの鍵を開けさせて厚いファイルを取り出した。その間、別の4人が不動の姿勢でいるので佳織が「休みなさい」と声をかけると自衛隊の基本教練式に休んだ。
「あらかじめ残酷な遺骸の写真が多数含まれていることを申し上げておきます」長椅子に並んで座ると内藤はテレビ番組のように注意喚起してからファイルを開いた。すると日付と時間、場所と対象者、容疑を記した英文の紙面に続き、現場写真が始まった。
「これは最近の密入国した密売人3名を排除した時の記録です。最初はアジトの外から投降を呼びかけています」「ここにいる人たちの顔もあるわね」佳織の指摘に両側に分かれて座った4人は反応せず、内藤だけが小さくうなずいた。
「すると向こうから発砲してきました」「撮影は誰が」「これは小弥太です」赤外線カメラの暗い画面の中央に銃口が放った閃光が写っている。戦場写真であれば高額で売れるはずだ。
「そこで3名を背後に回らせ、こちらの2人で陽動して注意を引きつけながら排除しました」「暗い屋内で3人とも背後から頭部を1発で射ち抜かれているわね。見事な腕前よ」後頭部から射ち抜かれた遺骸は頭蓋骨が裂けるように破れ、脳髄が飛び散るため普通の人間では正視できない。しかし、佳織はアメリカ陸軍の指揮幕僚課程や太平洋軍司令部で9・11の現場写真とアフガニスタンとイラクでの戦場動画と画像を何度も見ているため表情も変えなかった。
「あの女性自衛官も殺人の現場写真を見慣れているようですね」「ここに来ている自衛隊の連中は訓練だけではなく実際に殺人の経験を積んでいるようです」「それも銃器や刃物ではない殺害方法にも熟練していて証拠を一切残しません」壁際の長椅子に座った山本警部に警察から派遣されている隊員たちが所見を述べた。
「しかし、日本国内で人命を奪えば刑法199条の殺人犯です」「いくら自衛隊でも法的根拠なしでは国外でも同様でしょう」警察官たちの見解に山本警部は北キボールから帰国したモリヤ1尉を逮捕した場面を思い出してしまった。
「君たちが超法規的訓練を必要としたように自衛隊こそ戦争のプロとしての技術を習得しなければならない理由があったんだろう。お互いに詮索しないことだ」「あちらが隠密同心ならこちらは必殺仕事人でいきますか」最年長の隊員がつけたオチでようやく警察組の表情が緩んだ。
- 2020/10/26(月) 13:41:57|
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昭和19(1944)年の10月25日に日本の海戦史上最大の謎と言われているレイテ湾を目前にしていた栗田健男中将の艦隊が反転しました。
開戦初頭に「アイ・シャル・リターン(私は戻ってくる)」と言い残してフィリピンから敗走したマックアーサー元帥は太平洋を東進するニミッツ大将がサイパン島、テニアン島、グアム島などのマリアナ諸島を制圧したのを受けてフィリピンの中央部太平洋側のレイテ島に上陸している復活を果たしましたが、これに対して豊田副武司令長官が指揮する連合艦隊は「捷(しょう=「勝」の同音異字)」と呼ぶ作戦を発令して戦艦=大和、武蔵、長門、金剛、榛名、山城、扶桑、伊勢、日向、重巡洋艦=愛宕、高雄、摩耶、鳥海、妙高、羽黒、鈴谷、熊野、利根、筑摩、最上、那智、足柄、青葉、軽巡洋艦=阿武隈、矢矧、多摩、五十鈴、能代、鬼怒、駆逐艦=島風、浦風、磯風、雪風、浜風、秋風、野分、早霜、秋霜、朝霜、初霜、青霜、岸波、沖波、長波、浜波、浦波、藤波、時雨、山雲、朝雲、満潮、曙、潮、霞、不知火、初春、若葉、それにハルゼー大将が率いるアメリカ空母機動艦隊をレイテ沖から引き離すため小沢治三郎中将が指揮する囮艦隊として航空母艦・瑞鶴、瑞鳳、千代田、千歳と言う残存艦隊と乏しい燃料の大半を投入したのです。しかし、戦局は絶対国防圏と呼んでいたマリアナ諸島を失って7月22日に東條英機内閣が退陣した直後であり、マリアナ諸島からの日本本土空襲は11月24日からでも既に中国大陸の成都からBー29が九州北部に飛来していることで9000キロに及ぶ航続距離は認識できていたはずなので艦砲射撃による地上部隊の壊滅を企図するのであれば喪失しても日本本土への影響が小さいフィリピンとでは優先順位が違うは明らかでしょう。それでも豊田連合艦隊はマックアーサー元帥の復活阻止を最優先して総力戦を決意したのでした。
作戦に当たりフィリピンに分散配置されていた陸海軍の航空部隊は搭乗員が体当たりする特別攻撃を実施しましたが、接近する途中でアメリカ空母艦隊から発進した攻撃機によって戦艦・武蔵以下の主力艦が撃沈されています。それでも小沢中将の囮艦隊はハルゼー艦隊を太平洋上に引き出すことに成功し、栗田艦隊はレイテ島を迂回するサマール沖まで進攻したのですが、そこでハルゼー艦隊に置き去りにされたアメリカの護衛空母艦隊に遭遇し、砲撃戦を開始したのです。その結果、戦艦・大和は「敵艦に主砲を放つ」と言う開戦以来の念願を達成し、水雷部隊による魚雷攻撃も含めて正規空母1隻、重巡洋艦1隻、大型駆逐艦1隻を撃沈、空母3隻、巡洋艦3隻を撃破した大戦果と誤解し(実際はスコールの中に逃れて主な損害は開戦当初の空母1隻の撃沈だけだった)、達成感を満喫しながら宿題を片づけるような気分でレイテ湾への突入を再開したのです。
実際、栗田司令官以下の上層部は「戦艦で輸送船や上陸部隊を砲撃することは日本海海戦以来の艦隊決戦を本分とする我々には屈辱である」と公言していて始めから乗り気ではなかった節があります。そこに連合艦隊から小沢囮艦隊の成果抜きにハルゼー艦隊の行動を知らせる電報が届き、これを撃滅するために反転したと言うのが真相のようです。
- 2020/10/25(日) 13:37:16|
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ズテルデ市長との面談を終えて佳織と山本警部はナバオ市の庁舎の更衣室で戦闘服、出動服に着替え、同じ規格の鉄帽、防弾ヘルメットを被って公用車に乗り込むとナバオ市警察署とナバオ・デス・スクワッドの待機施設に向かった。
「ナバオ・デス・スクワッドの活躍は2010年くらいまでです。それまでに十分に成果を上げて、現在は警察と協力して不法入国する密売人の警戒と捜査、そして排除を実施しています」車内で助手席から山本警部が日本語で説明した。この「排除」が日本の警察と自衛隊にとっての戦技訓練=実戦経験なのだろう。
ナバオ市警察書では正面玄関前の国旗掲揚台の旗柱にフィリピン国旗と一緒に日章旗が掲揚してあった。佳織は公用車を下りると出迎えていた署長を促して見上げられる場所に移動すると両国国旗に挙手の敬礼をした。市の庁舎でも同様に日章旗が掲揚してあったが正面玄関前の軒が深く、出迎えた秘書が妙に緊張していたため国旗掲揚台が見える場所まで移動はできなかったのだ。佳織にとってアメリカは半分祖国のようなものだが、フィリピンの公的機関に国旗で出迎えられたことで防衛駐在官の外交官としての職責を再認識した。
署長室では山本警部が変に緊張していた。やはり外国の警察官とは言え日本の政令都市などの大規模警察署長と同格の警視正の前となると条件反射で固くなってしまうらしい。それを言えば佳織も警視正に相当する1等陸佐だが少し肩の力が抜けているような気がする。ただし、「舐めとると舐めさすぞ」と言う夫の古巣・航空教育隊第1教育群の常套句は知らないので口にしない。
「アムネスティ・インタナショナルとフィリピンの人権団体は1998年から300人以上が私人による自警組織であるナバオ・デス・スクワッドによって殺害され、摘発のために拷問が日常的に行われていると言っています。同様の批判は2009年4月の国連総会で人権委員会が調査結果を報告した中でも述べられていますが、以前は麻薬が蔓延して密売人の巣窟状態だったナバオ市が2008年には『フィリピンで最も安全で住みやすい街』に指定されたのはナバオ・デス・スクワッドの成果でしょう」署長もナバオ・デス・スクワッドとズテルデ市長に対する国際人権団体の批判は認識しているので「関与」には触れなかった。
「2009年にはナバオ・デス・スクワッドを残虐な殺人暴力集団のように描いた自主製作映画がベネチア映画祭で賞を受けています。海外の団体や個人が批判するのは無視しておけば良いのですが、同じフィリピン国民がナバオ市やミンダナオ島の治安が回復している実状を歪曲した映画を海外で発表するのは治安の責任者として許し難い思いがします」署長の歯噛みするような顔を見て佳織の後ろに座っている山本警部が深くうなずいた。
「アムネステイに限らずヨーロッパの人権団体や環境団体が自分たちの手前勝手な正義を国連の人権委員会を使って世界中に強制していることはオランダの国際刑事裁判所で検察官を務めている夫も問題視していて、提訴前に客観公正な調査に努力しているようです」「ご主人は国際刑事裁判所の検察官なんですか」「階級は2等陸佐ですけどね」在フィリピン日本大使館としては訪問と市長との面会に際して申告してある佳織の氏名と生年月日、家族構成と学歴、そして自衛官としての略歴程度しかナバオ市に通知していなかったため、それを伝えられた署長も夫の職務までは知らなかったらしい。
「それではナバオ・デス・スクワッドの実態をつぶさに見ていただいて、ご主人にも詳しく知らせて下さい。残念ながら彼らとナバオ市が無関係とする必要から私を含めて警察官が案内することはできませんが、私からも連絡しておきますから安心して下さい」「はい、一般市民の平和な生活よりも犯罪者の権利を優先する人権団体の論理は私も個人的には容認できません。今回、ナバオ・デス・スクワッドに実像を見ることは私の職務にも必要なことです。ご配慮に感謝します」ここまでで3人は立ち上がり、佳織と署長は握手を交わした。ハグや頬を寄せることがなかったのは政治家と制服を着た公務員の立場の違いのようだ。
「こちらがこの地区のナバオ・デス・スクワッドの待機所です」位置を秘匿する必要から公用車は少し離れた公共施設の駐車場に停め、そこからは山本警部の案内で待機所に歩いた。待機所は写真で見た敗戦後の日本のような商店と住居を兼ねた掘っ建て小屋が並ぶ雑然とした街の奥の堅牢そうな鉄筋コンクリート製の建物の2階だった。2階の窓から双眼鏡を持った女性が監視しているのが見えた。
「日本大使館の1佐と警部だ。ナバオ市警察署から連絡があっただろう」「イエス・サー」山本警部が階段の入り口の壁に設置されているインターホンで来訪を伝えると2階でドアが開く音がして2人の足音が下りてきた。間もなく目つきが異様に鋭いズテルデ市長に似た顔立ちの男性たちが姿を表し、2人が武器を携帯していないことを確認すると前後に立って中へ誘導した。

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- 2020/10/25(日) 13:36:00|
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佳織は大使から直接の指示を受けて3泊4日の日程でフィリピンの南半分を構成するミンダナオ島の都市・ナバオに出張した。ナバオは人口ではマニラ、セブに次いで3位だが面積は世界有数の広さで、ルソン島に多いマレー系のフィリピン人とは異なる民族の支配地域だったこともあり、歴史や文化、さらに政治的にも半ば独立国のような扱いになっている。
「モリヤ駐在官に宿泊を伴う視察をお願いして申し訳ないのですが、現実を理解していただかないと困ったことになりますから」フィリピンの国内線に乗り込む通路で同行している山本警部が遠回しに説明した。大使からも具体的な説明がなかったが、現地での迷彩服と半長靴の着用と赴任する時に陸上幕僚監部で渡された鉄帽と防弾チョッキの携行を指示されたことから危険を伴う視察なのは想像している。それでも護身用の武器を持たせないところは外務省だ。
「今日、面会するズテルデ市長は次回2016年の大統領選挙に出馬すると言う噂があります」「だから1種夏服なのね。そう言う重要な情報は前もって教えてくれないと下調べできないじゃない」「それは外務省の落ち度です」佳織の苦情を山本警部は巧みに回避した。外務官僚=外交官は人脈を使って仕事をするためそれが習い性になっていて、組織内の主従関係と業務の指導を受けた師弟関係が他の省庁以上に強く、上司の命令や指示を過剰に徹底する傾向がある。今回も大使が「内密に」と言ったため必要な情報まで秘匿したのかも知れない。
「それではモリヤ駐在官はファースト・クラス、私はビジネス・クラスなので機内では別行動になります」「はい、ナバオで会いましょう」フィリピンの国内線の小型ジェット機ではファースト、ビジネス、エコノミーにクラス分けしても乗り心地に大差はないのだが、それでも座席の位置や幅などで料金を割り増している。それを役職に反映するところが外務省だ。
「市長、こちらは在フィリピン日本大使館の駐在武官のモリヤ佳織大佐です。モリヤ大佐、こちらがロドリゴ・ロァ・ズテルデ・ナバオ市長です」市が差し向けた公用車で市役所と言うよりも地方政府の庁舎に案内され、近い将来には大統領になるかも知れないズテルデ市長と面会した。市長の秘書の案内で握手を交わすとズテルデ市長は顔を近づけて頬を寄せてきた。ズテルデ市長の身長は165センチの佳織と大差ないので横顔の全面が密着してしまった。
「日本軍の駐在武官がこれほど麗しい日本女性とは驚きました。おかげで握手する儀礼が役得になりましたよ。残念ながらハグは辞退しましたが」小さな奥目が人懐こい笑顔を造った。どうやら頬を寄せたのは肩を抱き合うハグを遠慮した形だったらしい。間近で見るとレイテ島出身のズテルデ市長は一般的なフィリピン人とは明らかに異なる風貌で、ゴツゴツした土台の真ん中に大きな鼻を据え、その両脇に小さい奥目を配している。最近は日本でもマスコミに登場することが増えた大都市の市長などの地方自治体の長とは別格の存在感がある。
「フィリピンはアメリカの植民地だった関係で日本を敵視する歴史を捏造していますが、日本人が密林を開拓して農園を作り、地元民に農業を教えたのです。現在のナバオの繁栄の基礎を作ったのは日本の先人たちです」「市長は私費で日本軍のカミカゼの基地だったミンタル墓地に日本とフィリピンの友好を祈念する記念碑を建立しています」市長の秘書は日本的な気配りを見せる。日本でも側近のこのような態度は上司が専制君主=暴君であることが多いが、ズテルデ市長から受けるのは圧倒的な存在感しかない。
「市長、我が自衛隊の隊員の練度向上にご協力いただいていることに心から感謝申し上げます」続く佳織の挨拶にズテルデ市長の小さな奥目が鋭く光った。佳織は庁舎に到着するまでに山本警部から警察の対テロ特殊部隊の隊員が秘密裏にナバオ市の麻薬撲滅組織=ナバオ・デス・スクワッドに参加して実際に密売人などを殺害する経験を積んでいて、自衛隊も2013年1月16日に発生したアルジェリアの天然ガス施設で日本人が人質になった事件でソマリアに派遣されている陸上自衛隊を関係各国の特殊部隊との協同作戦に参加させようとした(防衛省内局の反対で実現しなかった)ことを受けて数名の隊員が派遣されているとの説明を受けていた。一方、警察は2007年5月17日に愛知県長久手市で対テロ特殊部隊の隊員が犯人に射殺された事件を切っ掛けに超法規的訓練を模索したと言うことだ。
「私は祖父から日本軍の勇猛さや規律の厳格さについて聞いてきました。現在の日本軍もその伝統を継承しているようで、市民の激情に駆られた暴走を制御してくれていることにこちらから感謝します」市長の秘書の隣りに座っている山本警部は警察官に対する評価がないことに一瞬不満の表情を浮かべたがすぐに無表情を作り直した。佳織は自衛隊内に対テロの特殊部隊が存在することも知らず、隊員が海外で実戦経験としての殺人を行っているとは考えたこともなかった。確かに外国軍では実戦=殺人を経験した兵士がいなくなることを避ける目的で定期的に国際紛争への介入を繰り返しているが、自衛隊では夫が唯一の実戦経験者だと思っていた。
- 2020/10/24(土) 12:40:27|
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月曜日の昼、自宅で秘書兼通訳として私が作成した英文の文書を校正していた梢は唐突に佳織の電話を受けた。フィリピンとオランダの時差は6時間だから向こうは夕方になる。仕事を終えて宿舎から電話してきたらしい。
「佳織は妻なんだから電話してくるのは当たり前だけど突然どうしたの」「うん、あの人は仕事でしょう」国際刑事裁判所では在宅勤務が許されることは伝えてあるが、月曜日は週刊予定を確認するため出勤することを推察しての電話のようだ。
「ニンジンさんは月曜日は基本的に出勤だけど私に用なのね」「うん・・・」佳織が口ごもるのは珍しく梢は「モリヤとの関係修復を決意したい」と言う申し出まで考えてしまった
「ねェ、若い頃の梢とあの人のセックス・ライフはどんな感じだったの」「えッ・・・」今度は梢が絶句する番だ。先ほどのためらいは羞恥であり、梢も同じ理由で即答できなかった。
「あらたまって『どんな』って言われても・・・幸せだったよ」「それは私も同じだけど・・・」今日の会話はどうも円滑ではない。何よりも佳織が国際電話をかけてまでそのようなことを訊いてくる理由と目的が判らない。
「でも私と結婚した時、あの人は31歳だったけど梢とつき合ったのは21歳からでしょう。性的欲求も強かったはずよ」佳織とは思えない話題に梢は答えようがなくなってきた。
「どうしてそんなことを考えるようになったの。フィリピンで何か嫌なことがあったの」「実は・・・」ここで佳織は再び口ごもり、梢の方も再び重い理由を考えてしまった。若し、佳織が別の男性と交際を始めたのなら納得はできる。フィリピンの治安から性的暴行を受けた可能性も頭をよぎった。しかし、その推理も大外れだった。
「あの人が25歳くらいの頃、つき合ってたって言う女性と会ったのよ」「まさかフィリピン人の・・・」意表を突き過ぎる話題の連続に梢は頭の回路がショートしそうだ。
「25歳の頃はまだ沖縄だったはずだけどフィリピン・パブへでも通っていたの」「まさかァ、普天間基地のアメリカ海兵隊の航空機整備員よ」これでようやく話がつながった。佳織はフィリピンのアメリカ海兵隊の基地を訪問して偶然にモリヤを知っている女性と出会ってしまい、そこで性的関係まで告白されたと言うことだ。
「彼女はあの人に那覇基地の体育館の裏で抱かれたって言うの。それからは彼女の車でドライブしてホテルで抱かれたんだけど兎に角、あそこが鉄の棒みたいに固いからアイアン・コック(=鉄の男根)って呼んでいたそうよ。それに回復力が凄くて22回連続って記録も樹立したってさ」「何となく分かるわ。ニンジンさんは本人に自覚がないけど女を溺れさせるテクニックを身につけているのかも知れないね」先日のジュディ・アイランド曹長に続き、梢まで同様の回答をするのでは佳織は妻として若い夫とのセックス・ライフを訊き出さなければいられなくなった。
「でも梢はバージンだったんでしょ」「そうよ、だから始めは優しく優しく愛してくれたわ。それでも私が気持ち好いように色々な刺激を与えて女として育ててくれた。まるで花を育てる園芸農家みたいだったな」佳織のその段階は中学生の時に古河に奪われてしまった。
「でもその頃のニンジンさんは曹侯苛めに遭って精神的に追い詰められていたのよ。だから一緒にお酒を飲んでも泣き上戸になったり、怒ったり、不満を言ったり、愚痴をこぼしたりして、私のアパートの来ても寝てしまうだけだった」「そんなところ見たことないな」佳織が知っている夫・モリヤニンジンは日常生活でも自衛官と夫、父親の理想を追求する求道者のような人物で、時にはそれが行き過ぎて組織の常識から逸脱してしまうが、泣き言や怒り、不満や愚痴を聞いたことはない。強いて言えば自嘲していた。
「だからお酒は控えるようにしてアパートで私から抱いてくれるように求めるようにしたのさァ。泣いている時は傷ついている気持ちを癒すように、怒っている時は炎が燃え尽きるように、不満や愚痴も私の中に吐き捨てれば良いって願いながら抱かれたのよ。だから激しく抱いた時もあるわ」この話を聞いて佳織は夫が家で岩崎宏美の「マドンナたちのララバイ」を聴きながら鼻をすすっていた情景を思い出した。夫にとって梢との暮らしは日常の「幸せ」とは別次元の「至福」であり、その琴線に触れられると涙が滲んでいたのだろう。
「それじゃあ梢も22回連続抱かれたことがあったの」「まさかァ、そんなんなことされたら壊れちゃうよ。やっぱりアメリカ人はアジア人よりも野性的なんだね」梢の返事を聞いて佳織は吹き出してしまった。確かにアイランド曹長の鍛え抜いた肉体は野性動物に近かった。
「多分、ニンジンさんはその時に煩悩を使い果たしたんだよ。だから佳織の時には愛情だけ」やはり梢は癒し系だ。夫はそんな梢を奪われた絶望をようやく癒しているのだ。それにしても「煩悩」と言う業界用語が自然に出てくる梢はかなり尼僧化しているのではないか。

若い頃の梢=イメージ画像
- 2020/10/23(金) 13:15:03|
- 夜の連続小説8
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野僧の子供から青春時代に愛唱していたヒット曲の数々を作曲した筒美京平さんが10月7日に80歳で亡くなっていたことが公表されました。
野僧の岡崎市立矢作南小学校では「好きなのに黙っているのは卑怯だ(臆病だ)」と告白する勇気を教えていたくらいなので歌謡曲も禁止しておらず、筒美さんの作品は1年生の時の「ブルー・ライト・ヨコハマ(いしだあゆみさん)」から4年生の「また逢う日まで(尾崎紀世彦さん)」「さらば恋人(堺正章さん)」「17歳(南沙織さん)」「潮風のメロディー(同前)」、5年生の「男の子女の子(郷ひろみさん)」、6年生の「わたしの彼は左きき(麻丘めぐみさん」を教室で合唱し、保育園から相思相愛のガール・フレンドと下校しながら口ずさんでいました=「左ききになって」と言われましたが意味が判りませんでした。
特に南沙織さんは始めて好きになった歌手だったので宝飯郡一宮町の一宮中学校でも愛聴していましたが、このド田舎の中学校では「恋愛はフシダラ」と否定されていて野僧が歌謡曲を鼻歌で唄っているだけで同級生、特に女子から徹底的に白眼視されたのです。そのため岩崎宏美さんの「二重唱」「ロマンス」「センチメンタル」「ファンタジー」「未来」「霧のめぐり逢い」「ドリーム」「思い出の樹の下で」や太田裕美さんの「雨だれ」「たんぽぽ」「夕焼け」「木綿のハンカチーフ」などの名曲の数々はラジオを録音して1人で楽しむしかありませんでした(その癖、友人の家に行くとポスターを貼ってレコードを集めていた)。
それでも蒲郡市の蒲郡高校に進学すると教室でアイドル系とフォーク、ロックに分かれて愛唱していて、その頃には庄野真代さんの「飛んでイスタンブール」「モンテカルロで乾杯」「マスカレード」「ジャングル・コング」がヒットしたものの同級生の間では「これは歌謡曲なのかフォークか」が論争になっていました。それでも庄野真代さんは「最も美人なフォーク歌手」と呼ばれていたので結論は「フォーク」でした(太田裕美さんも同様の論争になりましたが、どちらも大ファンなので奪い合いだった)。また高校2年から3年にかけてはジュディ・オングさんの「魅せられて」が大ヒットしましたが、歌よりも振付の方が人気で文化祭でも手造りの衣装で熱唱する「男子生徒」がいました。
そうして大学に進学すると「日本語(教授がそう自称していた)」の講義で学生の愛唱歌の歌詞の情景描写と人物設定の分析・研究が始まり、最初が「木綿のハンカチーフ」だったのです。歌詞の研究なので曲は関係ないのですが、何故か最初に合唱するのが習慣になり中学時代には奪われていた感激を味わうことができました(そのうちギター部員が伴奏するようになった)。
そこから先は大学を中退して航空自衛官になったので高卒の若い隊員が聴く曲やカラオケで唄う歌を聞くくらいでしたが、松本伊代さん、早見優さんなどのアイドルの小娘に興味を持つような年齢ではなく(近藤真彦くんは嫌悪していた)、その中で印象に残っているのは斉藤由貴さん(兄は防衛大学校だった)の「卒業」と友人の影響で聴くようになったレベッカの「人魚(歌としてはNOKKOさん)」くらいです。心からの感謝を込めて冥福を祈ります。合唱(あえて誤字)。
- 2020/10/22(木) 11:57:21|
- 追悼・告別・永訣文
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次の6月1日の日曜日も梢と自転車で買い物に出かけた。梢は近所のスーパーや顔馴染みになったパン屋、八百屋、魚屋、肉屋で食材を買っているが、日曜日の軽いサイクリングは沖縄でのデートを思い出せて幸せだと言う。ただし、あの頃は私の自転車で2人乗りだった。
「犯人が拘束されたのかァ」食品を布袋に詰めて店を出ようとするとロビーの隅に置いてあるテレビの前に人だかりができていた。近寄って覗くとユダヤ博物館射殺事件の犯人が拘束された臨時ニュースだった。ただし、オランダ語なので梢の同時通訳でなければ理解できない。
「フランスのマルセイユの税関で拘束されたんだって」「マルセイユって地中海側じゃあないか、それは出国するために税関を通過しようとしたのかも知れないな」一応、私も頭の中でフランスの地名入りの地図を描くことができた。マルセイユはモナコ公国に近い地中海沿いの港湾都市なのでベルギーのブリュッセルからフランスを縦断したことになる。
「やっぱり空港の検閲は厳格だから船で逃亡しようとしたんだ。国際列車では車掌に発見されてしまうからな」梢は私の見解には反応せずにテレビのオランダ語に集中している。
「カバンにカラシニコフ小銃を入れていたって言ってるよ」「銃と実弾を持ってフランス国内を移動したとすれば警察は冷や汗ものだな。税関で乱射しなくて良かったよ」今度はテレビを見たままうなずいた。ここで画面ではアナウンサーに横から紙が手渡された。
「犯人の個人情報が公表されたって。氏名はメディ・ネムシュ、年齢は29歳、フランス国籍、今はここまでだって」梢の通訳を聞きながら画面を見ると犯人の顔写真も映った。
「戦闘員と言うよりも殺人者の顔だな」これは警察などに拘束された時に正面と側面から撮影された顔写真で、私も殺人容疑で逮捕されて東京の警察に連行された時に経験がある。無表情を指示されるのでこのように凍りついたような顔で写ったのかも知れないが、目に生命の光りがなく漆黒の闇のようだ。私が知っているイスラム教徒はコートジボワールやスリランカで寄ったモスクのウラマー(聖職者)を除けば北キボールPKOで接したトバラの市民たちで、純朴で天真爛漫な笑顔は鮮明に記憶に残っている。一方、戦闘員は任務に基づく戦闘と言う正当行為で「殺人」するので、第2次世界大戦の戦争犯罪国である大日本帝国やナチス・ドイツの軍人たちの顔写真でも凶悪性は感じさせない。ところがこの犯人の顔は悪鬼そのものだ。
「AKー74を使ったと言うことはやはり中東やアフリカ北部のゲリラ出身と考えざるを得ないな。それにしても軍用小銃を持ち込めるなんてヨーロッパの銃器の取り締まりはどうなってるんだ」私も職業上の興味から各地の銃砲店に立ち寄ることがあるが取り扱っているのは主に西ヨーロッパの銃器でアメリカ製もあまり見ない。ましてやロシアや中国製となるとイラクやリビア、エジプトなどの旧ソ連から武器の供与を受け、中国が引き継いだ紛争地帯で手に入れたと考えるのが常識だ。中でも昨年=2013年4月にイラクの山岳地帯でゲリラ戦を展開していたアルカイーダ系の過激派がアメリカ軍の攻勢を逃れてシリアに入り、そこでアル・ヌスダ戦線と合流して結成したイスラミック・ステーツの可能性が高い。
「ねェ、貴方は国際司法裁判所の日本陸軍中佐の検察官かって訊かれてるんだけど」テレビの画面を見ながら考えごとをしていると梢が声をかけた。見回すと周囲の人たちがこちらを注視している。この街で陸上自衛隊の迷彩服や作務衣を着ていれば名刺の看板を掲げているようなものだから仕方ない。私は深く息を吸った。
「イエス」私の返事を梢が「ジャ(Ja)」とオランダ語に通訳すると同世代の男性が少し興奮気味にオランダ語で何かを言ってきた。
「ワシは英語しか判らんと説明してくれ」「はい」通訳しようとする梢に指示するとオランダ語で何かを説明した。意外に長かったので「夫には英語でお願いします。オランダ語は私が通訳します」と言ったようだ。すると男性はオランダ訛りの英語で言い直した。
「やはり犯人はイスラミック・ステーツなのか」これは非常に拙い質問だ。周囲の人たちが私の職務を知っている以上、迂闊な発言をすれば政治問題に発展しかねない。私は頭の中で陸上自衛隊の注意事項を踏まえて台本を作成した。
「私は警察当局による捜査と犯人に関する情報は持っていませんからその質問には回答できません。1つ、言うならばシリアで国土を制圧して独立国を標榜している武装過激派組織はイスラミック・ステーツと自称していてもイスラム教の教義から見れば背信のテロリスト集団に過ぎません。国際連合でもISILの略称を用いていますが、これはイスラム教に対する冒涜です」私と梢がオランダに来てから登場したイスラミック・ステーツを日本では「イスラム国」と呼んでいることは知らないが、英語よりも冒涜し、実態を誤認させる悪質な邦訳である(怒)。その後のオランダ語の質問も梢が私と一体化して通訳してくれたので無事にすんだ。
- 2020/10/22(木) 11:55:57|
- 夜の連続小説8
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昨日は公判の関係で土曜日でも通常出勤していたが、5月25日の日曜日は午後から梢と買い物に出かけた。昼のニュースでは「重体だったユダヤ博物館の職員が死亡して犠牲者が4人になった」と報じる一方でベルギーの警察が公開した防犯カメラの動画が流されていた。
「ワシが北キボールでやったことも動画にすればアアなるんだな」梢の後ろについて自転車をこぎながら私はニュースで見た銃を構えて建物の中に発砲している犯人の姿と北キボールで3人の若者を殺害した場面を重ねていた。私の場合、3人目は刺殺だから更に残酷だ。いつもはGパンをはいた梢の尻に少し胸が時めくのだが今日は沈む一方だ。
「やっぱり警察官の人数が多いわね」繁華街の信号で止められると梢が振り返って声をかけた。繁華街では交差点に1人以上の警察官が肩に軽機関銃を吊って立っている。私は「国際刑事裁判所の迷彩服の検察官」として顔が売れてきているので近づけば敬礼してくれるが、笑顔は一瞬で消して厳しい視線で通行人を監視している。
「犯人の顔は動画を処理して手配写真に使えるくらい鮮明になってたが、逃亡先は判らないんだよな」「地続きだからどこへでも行けちゃうもんね」店の前に停車している車が増えてきたので自転車を下りて歩道を並んで歩きながら会話を始めた。
「スフラーフェン・ハーグには国際機関があるから警備を強化するのは当然だけど、周辺の国では空港や駅、道路でも厳格な検問をやってるんだろうな。窓を開けたらいきなり銃を突きつけられるんだぞ」犯人は自動小銃を持って逃亡しているので警察官が武器を拳銃から軽機関銃に変更したのは当然の対応だ。実は在日アメリカ軍でも警備対処はアメリカ本土を基準に世界共通にしているため9・11の後は日本の治安に関係なく警備が準戦時に強化され、憲兵隊は拳銃からMー16自動小銃に持ち替えていた。不法侵入者への対処も戦時に準ずるため停止命令に従わなければ発砲することになる。それで日本人が射殺されても基地内はアメリカなので軍事裁判所で審理するが、間違いなく職務執行の正当行為として無罪だ。
「大豆が安いわね。多めに買っておこうかしら」駅前通りの大手スーパーに入ると梢は食料品売り場で大豆の袋詰めを見つけて私が持っているカゴに入れた。最近は梢の手造り納豆が「日本を思い出す一品」として好評で戸崎判事や大使館の近藤1佐と在外公館警備官に分けているので大豆の消費量が増大しているのだ。おかげで我が家の朝食は毎回納豆になっている。
「貴方はお好み焼きを食べたいのね。今夜はそれにするさァ。でも鰹節はまだ節約だよ」大豆に続き小麦粉の前を通過すると梢は相変らず私が考えていることを言い当てた。若い頃につき合っていた頃から梢は私が考えていることを言い当てていたが「お好み焼き」は知らず、ピザ屋に誘ったことがあった。それを考えると文字情報ではなく画像が胸に浮かぶらしい。
我が家の鰹節は魚屋で買ってきた鰹を天日干しにした自家製だが、オランダの初鰹は日本の北海道並みに初夏なので現在の在庫で2カ月は喰い継がなければならない。その前に日本から持ってきた大工道具の鉋(かんな)で削る作業があった。茶山さんに鉋をひっくり返したような鰹節削り器を頼んでいるが流石に見つからないようだ。
翌週はコートジボワール内戦の裁判の証人尋問が続いて多忙だったためベルギーの事件への関心は薄らいでいたが、私とモレソウダ首席検察官が法廷から戻り、法廷服を着替えた後に小会議を行うためリミッド次席検察官にも声をかけると部屋ではテレビのニュースが流れていた。
「その後、犯人に関する新たな情報がありましたか」「否、我が国の政府と警察当局は周辺各国とも情報は共有しているようだが捜査協力については不十分らしい」リミッド次席検察官はベルギーの法曹界で活躍してきたので警察当局や政府にも人脈があるはずだが、この捜査情報はどこか他人事で、ニュースを見た時のような強い関心は維持していないように感じる。
「所詮、犠牲者はJew(ジュウ)だ。ブリュッセルに奴らの博物館を作らせたのが間違いだった」すると本人がその理由を自白した。「Jew」とはユダヤ人の呼称だが歴史的に蔑称とされている。ユダヤ人は民族としての血統ではなくユダヤ教を信仰していることでパレスチナ人と類別されるため、キリスト教徒のヨーロッパ人にとってはイエスを十字架にかけた罪深き異教徒になる。第2次世界大戦後はナチス・ドイツに全ての罪を押しつけているがヨーロッパではカソリックが広まるのと同時進行でユダヤ人への迫害が行われてきた。やはりリミッド次席検察官は「ヨーロッパ人の正義」を体現しているようだ。
「私たちが着替えましたら首席検察官の執務室でミーティングを行います」「しかし、レディ・モレソウダが着替えて身支度する時間を見計るのは難しいから、私の部屋で待った方が賢明だと思うがね」確かに女性が着替えて整髪や化粧などの身支度に要する時間は人それぞれだから男性の部屋で待っている方が間違いない。ところでレディ・モレソウダは化粧をしているのだろうか。
- 2020/10/21(水) 13:17:09|
- 夜の連続小説8
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昭和26(1951)年の明日10月21日に占領軍にルース台風と命名された台風15号による甚大な被害で山口県知事の要請を受けた下関市の小月駐屯地(現在は海上自衛隊小月航空基地)の第11普通科連隊が公式には初の災害派遣を実施しました。
昭和26年台風15号=ルース台風は10月9日にグアム島西方で台風になると発達しながら西進し、12日には924ヘクトパスカルになって13日に沖縄本島と宮古島の間を通過して東シナ海に入り、14日の19時に鹿児島県串木野に上陸しました。上陸時の最低気圧は観測史上4位の935ヘクトパスカルで猛烈な勢力を保ったまま九州を縦断、山口・広島県を通過して時速100キロ近い高速で15日の夕方には三陸沖に抜けたのです。
この台風は勢力が極めて強かったので九州・四国・中国地方に甚大な被害を与えましたが、中でも山口県では現在の岩国市を流れる錦川が氾濫し、各地で土砂崩れが発生して県の消防や警察では対処し切れず、死者・行方不明者が400名を超える非常事態になったため田中龍夫知事は小月駐屯地の第11普通科連隊に対して災害派遣を要請しました。
錦川では前年の台風29号=キジヤ台風で増水に対応できるように工夫した錦帯橋が建築から276年目に流失しましたが、その増水では無事だったコンクリート製の愛宕橋、大正橋、臥竜橋、門前橋などがこの台風15号では鉄道用の鉄橋を除いて全て崩落・流失していますからどれ程の大災害であったかは理解できます。
要請を受けて第11連隊では情報収集を開始するのと同時に第4管区総監部(現在の第4師団司令部)に許可を求めましたが、受けつけた幕僚は「前例がない」を繰り返した揚げ句に「許可権者は内閣総理大臣である」と言って「出行保留=不許可」としました。実際はこの年の7月14日に現在の京都府亀岡市内で発生した大規模な水害に対して宇治駐屯地の警察予備隊による災害派遣が実施されていましたが、地元自治体の打診=要請を受けた現地指揮官の独断による非公式な派遣であったため綿密・徹底的に隠蔽されて第4管区総監部の幕僚は知らなかったようです。しかし、現地情報を収集して事態の重大さを認識していた三松泰助第11連隊長は副連隊長を福岡市の管区総監部に派遣して総監部=幕僚組織の長でもある井本熊男副総監に写真を含む資料を見せて許可を求めましたが「一度、出行保留にしたものを翻せない」と拒否されたのです。そこで副連隊長は筒井竹雄総監が退庁するのを待って直訴すると即座に東京の総隊総監部(現在の陸上幕僚監部)に電話をして、それが吉田茂総理大臣に届いて公式には初の災害派遣が発令されました。
これを受けて第11連隊は21日早朝に隊員300名をトラック20台に分乗して出発させ、道路の崩壊や崖崩れなどで寸断されている道路を40カ所も応急補修しながら前進して(流石に橋の流失は迂回した)、夕方になって最大の被災地で陸の孤島と化していた当時の広瀬町(現在は岩国市)に到着したのです。そうしてトラックに満積してきた食糧と毛布などの救援物資を配り、被災から1週間の飢えと寒さで疲弊・衰弱し切っていた町民たちを救いました。ただし、元学生運動活動家の市長後の岩国市の公式市史からは削除されているようです(対応した教育委員会の市史担当の職員は知らなかった)。
- 2020/10/20(火) 12:42:34|
- 自衛隊史
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「恐ろしいことになりそうね」家に帰ると梢は録画しているテレビを点け放しにしていた。自転車で帰宅する10分間にニュースの内容に進展があったのだろうか。私はエレベーターで運んできた自転車を玄関から入れると洗面所でうがいをしてからテレビの前に移動した。
「博物館の防犯カメラの映像が警察に提供されたみたい。映像が残酷だからって放送はしてないけど・・・」「それは珍しいね。余程の惨状なんだな」欧米のマスコミは視聴者=市民に事実を周知することもジャーナリズムの使命としているため日本人には耐えられないような残酷な事件現場の映像も加工せずに流すのが一般的だ。それは食事時間のニュースでも同様なので日本的な気配りは冷徹な欧米のジャーナリストから見れば一種の検閲に映るのかも知れない。
「防犯カメラの動画を静止画像にしているので不鮮明ですが、犯人は一見してアラブ系の風貌のようです」ここでアナウンサーの説明と同時に人物の画像がテレビに映った。確かに逆光で不鮮明だが、目深にかぶった野球帽の下の顔は彫りが深く、揉み上げから顎と鼻の下にに黒い髭を蓄えていることが判る。これは典型的なアラブの男だ。
「犯人は灰色か水色のジャケットを羽織って建物に近づき、玄関前で持っていたカバンからロシアで製造されているカラシニコフ自動小銃を取り出しました」「無断コピーのAKー74は中国の主要輸出品だぞ。闇ルートの」アナウンサーの説明に思わず突っ込んでしまった。これも画像で紹介しているが、大きくはない手提げカバンから取り出したのは床尾を畳んだAKー74のようだ。ヨーロッパでの中国はアジアで暴君のように振舞っている覇権国家とは別の国のように国際連合安全保障理事会の常任理事国として紳士を演じている。その裏で華僑に国から資金を渡して個人の資格で企業の買収を進めているが、それも経営危機に陥った企業に対する救済と受け取られている。しかし、実際は旧ソ連がアフリカでバラ撒いて部族間の抗争を内戦に発展させた銃器を中国が無断で模造した56式自動歩槍を補充する形で輸出してきて、現在では5・56ミリNATO弾を発射する84式自動小銃が主流だ。
「それでガラスのドア越しに中にいた4人に発砲しています」ここで画像は銃を構えている犯人の姿になった。鉄筋コンクリート製の建物の壁として設置されているガラスには重量を支えるだけの強度が与えられているため小銃弾を貫通させることが難しく弾道は定まらないはずだ。おそらくセンサー式の自動ドアを開けた状態で発砲したのだろう。
「現在、我々は警察当局に動画の公開を要求していますから近日中に事件の実態をお知らせできると思います」ここまででニュースは死亡した観光客の人物紹介に移ったが、フランス人女性の風貌もコートジボワールで会ったフランス陸軍の女性兵士たち、特にオージェ大尉には似ておらず、むしろフランス系ユダヤ人のようだ。尤もブリュッセルに観光に来てユダヤ博物館に立ち寄るのはユダヤ人が中心なのは言うまでもない。
「ベルギーへはスイスの後に行ったじゃない。アントウェルペン(オランダ語の地名=英語のアントワープ)はそれ程でもなかったけどブリュッセルにはアラブ系の人が多かったから、こうなるとイスラム教徒に対する警戒心が強まって排斥運動が起こらないか心配よ」「リミッド検察官も『移民制限するべきだ』と言っていたからその可能性は高いな」私と梢は昨年の夏に「アルプスの少女」を目的にスイス旅行をして非常に感激したので、秋には「フランダースの犬」の舞台になったベルギーのアントウェルペンに1泊2日の小旅行をしてきた。すると梢がスフラーフェン・ハーグの図書館で下調べしている段階からネロを葬った教会が現存し、領主の娘にアロアのモデルがいたことが明らかになり、さらに栗毛で青い目が一般的なベルギー人の中で(金髪に染めている女性は多い)アロアが金髪の巻き毛で黒目がちなのはスペインに従属していた頃の混血の可能性が高く、ネロの祖父の足の障害はナポレオン戦争での戦傷であることまで判った。当然、現地で会った日本人の観光客に教えたが揃ってアニメしか見ておらず、原作で描写されているパトラッシュが茶色で立ち耳であることも知らなかった。
「9・11の後、アメリカでも戦時中の日系移民みたいにイスラム教徒を迫害する空気が蔓延したそうだが、それでもアメリカは多民族の国家だから中立的に解説する人物が登場したけど(日系移民の時には現れなかった)、ヨーロッパはキリスト教一色に塗り潰されているから一度、邪悪な存在と断定すれば魔女狩りのように社会から一掃するまで差別と弾圧を繰り返すんだろうな」9・11後のアメリカの話は志織の小学校での体験談だ。
「確かに人権や児童福祉に環境や動物愛護の問題で反対どころか同じ立場でも視点や見解が違うだけで敵視するのはヨーロッパの団体だわ」「カソリックでは外の異教徒よりも内なる異端者の方が憎悪の対象なんだ」「それが魔女狩りね」梢との夢のように楽しいヨーロッパでの生活に突風が吹き込んだような事態になってきた。それも2人でなら潜り抜けられるはずだ。

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- 2020/10/20(火) 12:41:12|
- 夜の連続小説8
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1948年の10月19日に李承晩政権から済州島で島民を皆殺しにする命令を受けた麗水に駐屯する韓国陸軍・第14連隊が反乱を起こし、それに参加した兵士だけでなく同調した市民も大量粛清する事件に発展しました。
李承晩政権は日本による統治末期から北朝鮮の工作員による洗脳が進んでいた済州島で官憲による摘発を進めましたが、すでに識別不能になっていたため島民を皆殺しにする目的で武装警察と右翼の暴力団を送り込みました。しかし、多くの島民が山中や小舟で日本へ逃れたので軍も投入することを決め、最も近い麗水に駐屯する第14連隊に出動命令を下したのです。すると10月19日の深夜に40名の兵士が武器庫を襲撃し、ラッパを吹いて約2000人の全将兵を集めて「反乱決起」を呼びかけ、反対した者はその場で射殺した上で軍の車両で麗水の警察著と郡役所に向かうと政治犯を釈放して、その手引きで警察官の私邸や李承晩派の政治団体員、右翼の住宅を襲って数日間に警察官約100名、市民約500名を殺害したのです。反乱軍は翌20日には麗水地区を制圧し、隣接する順天地区に駐屯していた同じ連隊の2個中隊と合流するとその日のうちに順天地区も制圧し、さらに鎮圧に派遣された光州の第4連隊も兵士が士官を射殺して合流しました。
李承晩政権は21日に麗水と順天地区に戒厳令を布告して10個大隊を派遣しましたが、反乱軍は市民の呼応者を取り込んで周辺にも勢力を拡大しながら兵士は北部の山岳地帯に移動しました。鎮圧軍は23日に順天地区の攻撃を開始しましたが、市街地を守っていたのは学生と市民だったのでその日のうちに鎮圧し、25日には麗水地区への攻撃を開始して(麗水地区へ移動する途中で反乱軍の待ち伏せに遭い司令官が重傷を負い、将兵270名が戦死しました)200名の兵士と1000名の市民が守っていた市街地を制圧すると主力は反乱軍が立て篭もった智異山に向かい、同時に同調者の摘発を始め、嫌疑を受けた市民を下着一枚で学校に連行して校庭で射殺したのですが、それ以上に李承晩派の市民が報復のための殺害を繰り広げたため麗水の市街地には阿鼻叫喚の地獄絵図が描かれたのです。そうして鎮圧軍は智異山での山岳戦闘を開始しましたが市民の支援を受けた反乱軍のゲリラ戦術に苦しめられ制圧には1957年まで9年を要しました。
この1週間の反乱と鎮圧によって死者2976名、行方不明者887名、負傷者1407名が出て(韓国では犠牲者数を約8000人とする学説もある)、首謀者と幹部152名が軍法会議によって銃殺に処せられています。
その後、李承晩政権は韓国軍内にも北朝鮮の工作員が潜入していることに危機感を抱き(=正しくは思想調査が不十分なまま徴兵した)、徹底的な粛清を実施して当時の韓国軍の1割に当たる4700名が排除されました。その中には日本陸軍士官学校出身の朴正熙少佐=後の大統領も含まれていました。また反乱を起こしたのが第14連隊と第4連隊だったため韓国陸軍では「4」は不吉とされ、現在も欠番になっています。
日本でも戦前・戦中に特高警察が共産主義者の摘発を行いましたが、あくまでも個人の思想犯罪=治安維持法違反の一線は越えませんでした。やはり民族性の違いなのでしょう。
- 2020/10/19(月) 13:42:45|
- 日記(暦)
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「Wat is dat(ワット イズ ダット=何だとう)」5月24日の仕事も店じまいの準備を始めていた頃、廊下にリミッド次席検察官の絶叫が響いた。地声が大きい私よりは低音で上品な話し方をするリミッド次席検察官の初めて聞く怒声に廊下に出てみるとモレソウダ首席検察官も立っていて顔を見合わせて首を傾げた。
「大丈夫ですかね。元気はあるみたいですが」「モリヤ検察官なら号令かとも思うけどリミッド検察官だから心配ね」モレソウダ首席検察官に大きな目で促されて私がリミッド次席検察官の執務室のドアを叩いた。振り返ると廊下には事務室の職員も出てきている。
「カム・イン」するとリミッド次席検察官は平静に戻った声で入室を許可した。先ほどの絶叫は母国語のオランダ語だったが今回は公用語の英語なので急速に冷静になったことが判った。
「どうしましたか」「何がだね」ドアから顔を出して質問すると正面の執務机に座っているリミッド次席検察官は無愛想に訊き返してきた。部屋の中ではテレビのオランダ語が聞こえている。言葉は理解できないが口調から言ってニュースのようだ。
「先ほど大きな声を出したみたいだから貴方にしては珍しいので心配してきました」「それは・・・」私の説明にリミッド次席検察官は眼鏡の奥の青い目を動揺させた。それを見て私は無遠慮に部屋に踏み込むと机越しに正面に立った。歩きながら確認するとやはりニュースだった。
「我が国のニュースを見て思わず叫んでしまったんだ」「我が国と言うとベルギーですか」「当り前だ」私は海外で日本のことを「ホームランド=我が国」とは呼ばないので一瞬、オランダのことかと思ってしまったが、やはり愚問だったらしい。
「それは何のニュースですか」「午後3時50分頃に我が国の首都にあるユダヤ博物館で無差別発砲テロが発生して3名が死亡、1名が重体になっている」リミッド次席検察官が説明しながら画面を見たので私も振り返るとまだ続きを放送していた。しかし、オランダ語では理解できない。一方、ベルギーの国民の過半数は言語学的にはオランダ語の方言とされるフラマン語を話すのでリミッド次席検察官にとってオランダ語は訛ったフラマン語なのだろう。
「それで犯人は逮捕されたんですか」「逃亡しているようだ。被害者は重体の1名を除いて全員殺されたから目撃証言も得られていないらしい」ベルギーの首都・ブリュッセルからスフラーフェン・ハーグまでは車両であれば2時間前後で移動できるので犯人がオランダを国外逃亡先に選べばそろそろ姿を現す可能性がある。
「ユダヤ博物館を襲撃したとなると反イスラエル闘争を続けているパレスチナ過激派の犯行ですかね」「常識的にはそうなるが、ブリュッセルはパレスチナに限らずイスラム系の移民が急増していて、今ではムハンマドが最多の新生児の登録名なんだよ。私も我が国の政府には『移民の受け入れには慎重であるべきだ』と言っているんだが、左派人権団体の対イスラム戦争の難民受け入れ要求に迎合して止めようとしない。キリスト教を信仰しない野蛮人と我々のような文明人が共存することの危険は奴らの残虐非道な戦闘行為を見なければ理解できないんだ」リミッド次席検察官の異教徒蔑視は何年共存しても改まらないらしい。これ以上、リミッド次席検察官から得られる情報はなさそうなので自分の部屋に戻って英語放送のニュースを見ることにした。
「ベルギーのブリュッセルで無差別発砲テロが発生したそうです。そのニュースを見て興奮して絶叫したようです」「それはいけないわね。私もテレビで見ることにするわ」廊下で待っていたモレソウダ首席検察官に事情を説明すると顔を強張らせて自分の部屋に戻っていった。私も部屋に戻ってテレビを点けた後、梢に電話をしてニュースを録画するように指示した。新聞と違いテレビでは番組制作者の感覚で情報を垂れ流すため、一般の視聴者が関心を持ちそうもない事実は紹介するだけで通り過ぎてしまうことも多い。しかし、専門家としてはそれが重要な意味を持つことがあり、帰宅中に見逃す部分も録画しておかなければならないのだ。勿論、気になる部分を繰り返し見るための保存でもある。
「被害者は観光中のイスラエル人夫妻、同じくフランス人女性1名で頭部や頸部を銃で射たれて即死しました。またベルギー人の博物館の職員1名も同様に射たれていますが瀕死の重傷で病院に搬送されています」ニュースも当局の発表を伝える速報から取材した情報に移っている。頭部を射つと言うことは明らかに殺意があるが、現在のテロは組織による高度な洗脳の結果、本人にイスラエル人=ユダヤ人を憎悪する理由がなくてもためらうことなく犯行に及ぶことも多い。そうなるとアメリカの2代目ブッシュ政権が始めた対イスラム戦争=第3次世界大戦の結果、テロ組織となって世界で暗躍しているイスラムの名を冠することが不適切な過激派武闘組織の関与が疑われてくる。そうなるとこれまでアメリカの暴挙には批判的だったヨーロッパまで反イスラムに急旋回しかねない。せめて異常性格者=個人による犯行であってもらいたい。
- 2020/10/19(月) 13:41:21|
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昭和54(1979)年の明日10月19日に多くの点で観測史上最強と言われている台風20号が和歌山県白浜町に上陸しました。
この年、野僧は高校3年生だったのですが親が家を増築したため夏休み中「トントンカンカン」の騒音で受験勉強に集中できず学校の生徒会室で勉強する羽目になり(ついでに柔道部の練習にも参加していた)、おまけに進学する資金を残さず貯金を使い果たして「下宿する必要がない」と言う理由だけで絶対に来たくなかった地元の私立大学を受験させられたのです。ですから強烈な台風の通過を「折角、新築したのに」と心配する両親の顔を見て「ザマァみろ」と嘲笑っていました。
台風20号は太平洋中部で発生した996ヘクトパスカルの熱帯性低気圧が10月6日に連合艦隊の拠点だったトラック島付近で最大風速が17メートルを超えて台風になり、ミクロネシアのホール諸島付近で停滞している間に勢力を強め、9日にマリアナ諸島付近では980ヘクトパスカルになって暴風圏を伴いながら西寄りに進み、11日3時には920ヘクトパスカル、12日15時には沖の鳥島付近で台風になってからの観測史上最低気圧870ヘクトパスカル(熱帯性低気圧を含めると2005年と2015年のハリケーンに破られて3位)、最大の風速70メートルを記録しました。さらに890ヘクトパスカルから925ヘクトパスカルを維持しながら西に進んでいきましたが、フィリピン沖で北寄りに方向を転じた頃から勢力を弱め始め、17日から18日にかけて沖縄・奄美の南西諸島沖の東シナ海、九州・四国沖の太平洋を通過して19日の金曜日の9時45分に中心気圧965ヘクトパスカル、最大風速35メートルの勢力で和歌山県白浜町に上陸したのです。上陸後は時速95キロと言う信じ難い高速で通過して岩手県北部から太平洋に抜けました。おかげで野僧は暴風雨警報が午前中で解除されたため登校しなければならなくなり、列車が大混乱している中2時間以上かけて到着すると6時間目で「出席した」と言う実績だけで下校することになったのです。ところが列車が動かずバスも到着時間不明だったため生徒は駅で「列車の回復を待つか」「バスに賭けるか」の選択を迫られ、野僧は「(生徒)会長はどうしますか」と質問攻めに合いました。野僧はバス代を持っていなかったので列車を待ちましたが、バスは橋が点検の結果、不通になってしていて乗客を途中の駅から再開した列車に乗り換えさせたのでバスを選択した者はバス代を損しただけでした。一方、関東地方南部では台風の右側が通過したため首都圏は鉄道や道路が甚大な被害を受けて交通網が麻痺しましたから、それ比べれば野僧たちの損害は軽いものでした。
台風20号は太平洋に抜けて千島列島に向かい20日3時には温帯性低気圧に落ちましたが15時には最低気圧が950ヘクトパスカルまで低下して北海道でも72名の死者・行方不明者を出して、海は大荒れになったため多くの漁船が遭難したのです。
このため台風20号が猛烈な勢力を維持した72時間は当時としては前年の台風26号の96時間に続く2位で(現在は4位)、暴風域の直径では当時は最大でした(現在は10位=以前は台風雲の直径だったので伊勢湾台風や室戸台風とは比較できない)。
- 2020/10/18(日) 12:33:03|
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10月25日にプランコット・チャンオチャ陸軍最高司令官が国王・ラーマ9世の認証を受けて正式に首相に就任したのを見届けた杉本と本間がニューヨックに戻り、松山1佐と一緒にワシントンで防衛駐在官の渡辺将補に詳細な説明をした。それから数日後、日本では管(くだ)官房長官が加倍首相の執務室で面談していた。
「タイの国内情勢について例の跳び込み報告が入っています」「例のだね」広い空間に独り取り残されたような執務机で切れ間なく官僚からの説明を受けている加倍首相は割り込んで入室してきた管官房長官の口上に興味深そうに顔を向けた。
「タイ国内の混乱は中国の一路一体戦略に基づく洗脳工作で毛沢東主義の信奉者になっている若者を利用して華僑が国家そのものを乗っ取ろうとしたことにタイ人保守派が抵抗した救国行動だと言うことです」「中国の世論工作は日本でも悪夢の政権交代選挙で猛威を振るったが、民政党政権が自滅してくれたおかげで3年で済んだ。しかし、東北の大震災がなければマスコミの懸命な広報活動で支持率を維持していたかも知れん。東京都知事はあの大震災を神罰と言って物議をかもしたけど、その意味では国家を救った尊い犠牲と感謝するべきだな」東北人の管官房長官は加倍首相の「尊い犠牲」と言う見解に心の中で首を傾げながら話を続けた。
「中国の世論工作はインテリ層を通じてタイ国内に蔓延していて選挙では総理が仰った政権交代選挙のような状況を繰り返すしかなく、野党になったタイ人保守派の政党が選挙を否定してデモによる政権崩壊を画策していたのが国内の混乱だったと言うことです」「外務省の報告も似たような内容だけど何処となく欧米の反政府側を批判するニュアンスを感じるんだよね」加倍首相の所見に管官房長官も同意するようにうなずいた。
「5月7日に憲法裁判所が2011年の国家安全保障事務局長の人事を違憲と裁定したことでインラック首相が失職して事態が収束するかと期待したにも関わらずデモが継続された上、政権擁護派との抗争が発生する危険性が高まったため陸軍が戒厳令に踏み切った。そして与野党の協議を仲介したものの事態収拾は無理だと判断して自力で国家の再建を実行することにしたと言うのが今回のクーデータの経緯だそうです」「インラック首相は綺麗な人だったけどな・・・無事だろうか」「愛妻に叱られますよ」管官房長官の冗談に加倍首相は苦笑した。首相夫妻の熱愛ぶりは周囲と選挙区では常識なのだがマスコミは仮面夫婦のように演出している。友人の妻だった辛(かのと)を不倫の末に略奪した雀山夫婦を絶賛していたのと比べると悪意に基づく歪曲報道なのは明らかだ。実際、管官房長官は中国やロシアが常用するハニー・トラップも加倍首相だけは心配ないと確信している。
「つまりタイとしては軍の力で事態を終息させる以外に選択肢がなかったと言うことだね。ならば新政権に建前と本音を説明した上で、表向きは欧米の常識に従いながら裏では全面的な支持と支援を進めるのが私の外交手法だ」「しかし、現地のマスコミは中国資本に買い占められていますからスリランカのように国際会議で私的人権団体が内戦でのゲリラによる住民虐殺を政府軍による少数民族弾圧と批判したことを日本政府の公式見解と報じられた轍を踏みかねません」「タイでは軍が報道を検閲しているんだろう。その点は大丈夫だ」タイ国軍による報道の検閲は日本の新聞でも批判的な論調で報じられていた。それも加倍首相は事実のみを認識して外交上の判断に反映したようだ。
「それでは官僚たちが順番を待っていますから失礼します」「ところで先日の韓国企業がベトナムの工場で我が国の最先端電子部品を使ったロケット器材を製造して、北朝鮮と中国に輸出している件はどうなった」「あれも跳び込み報告でしたね。外務省がベトナムと中国の大使館に事実関係の調査を命じましたが、疑惑は濃厚と言うところまでです。事実であることが確認できれば外交ルートを通じで韓国政府に我が国が事実を察知していることを伝えて自発的な中止を促しますが、現在の韓国世論では・・・」「韓国の首相の父親は祖父の盟友だったから非常手段は取りたくないが仕方ないな」加倍首相の祖父の浜首相は朝鮮戦争の休戦後も国内の親北朝鮮勢力の一掃と対日謀略に躍起になって国家再建に失敗した李承晩政権を打倒した日本陸軍士官学校出身の朴正熙政権を全面的支援して最近までの日韓の同盟関係を樹立した。それも日本のマスコミは好意的に報じていたが、実際は日本を軍人政権の協力者として敵視していた金大中政権以降、反米反日で従中従北朝鮮に転じていることは加倍首相、管官房長官も認識している。
「韓国からの跳び込み報告は撤退しています」「大丈夫、意識改革と世代交代が進めば我が国の外交官は存分に能力を発揮してくれるよ」「国際常識に立ち戻ってくれれば安心ですが・・・」管官房長官の不安は加倍首相の当選同期で個人的に親しい浜田外務大臣が屈中屈韓の外交姿勢で日本の国際社会での立場を損なった宮沢喜一首相の後継者と目されていることだった。
- 2020/10/18(日) 12:30:41|
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享和3(1803)年の10月17日はオランダを通じての西洋文明を言語=文章で理解する上での道を切り開いた前野良沢さんの命日です。
江戸時代は長崎の通詞(通訳)でも文章の読解は禁じられていたため会話に限定され、翻訳するにはオランダ人に朗読させて通詞が言葉として意味を記録すると言う非常な手間をかけていたのです。このため高額の洋書は家宝として死蔵されることになりました。
前野さんは8代将軍・徳川吉宗公の時代の享保8(1723)年に福岡=黒田藩士の息子として生まれましたが、幼い頃に両親が死没したため母方の大叔父である淀藩(京都市伏見区)の医師・宮田全沢さんに養われたことで医師になったのです。宮田さんは学才豊かな反面奇人変人で幼い前野さんに「世の中には捨ててしまえば絶えてしまうものがある。流行りはどうでも良いから廃れそうなものを習い覚えて後世に伝えるようにせよ」と教えたそうです。前野さんはその逆の業績を残しました(趣味では実践したものの)。
寛延元(1748)年に宮田さんの妻の実家で中津=奥平藩の江戸詰藩医の前野家の養子になって後を継ぎましたが、ある日、知人からオランダの書物の断片を見せられて記されている文字に興味を持ち、「同じ人間の言葉が理解できないはずがない」と思い立つと幕府の書物奉行を務めて吉宗公の命でオランダ語を学んだ青木昆陽さんに師事したのです。ところが青木さんは単語を700語ほど理解した程度だったので、参勤を終えた藩主・奥平昌鹿公の帰藩に同行しながら長崎に遊学しました。結局、西洋の解剖書「ターヘル・アナトミア」を入手したものの通詞には読めず、理解できないまま江戸に持ち帰ると同じく「ターヘル・アナトミア」を持っていても全く読めなかった小浜藩医の杉田玄白さんが訪ねてきて自分たちで翻訳することを決意し、そこに中川淳庵さんと桂川甫周さんも加わりましたが誰もオランダ語の知識を持ち合わせておらず、通詞に教えられた単語を少し知っていた前野さんが指導者になったのです。
オランダ語は文盲の前野さんたちによる翻訳事業は図説の身体の部位から単語を解明するところから始めたことは杉田さんが高弟の大槻玄沢さん(この号は杉田さんの「玄」と前野さんの「沢」から取った)に贈った回顧録「蘭東事始」で紹介されています。それから3年5カ月の難行苦行の末の安永3(1769)年に「解体新書」として刊行にこぎつけました。しかし、前野さんは人命に関わる医学書の翻訳の不完全さを自覚していて「責任を負えない」と翻訳者に名前を入れることを断ったためこの大事業が杉田さんの手柄のように思われていましたが、「蘭東事始」を福沢諭吉さんが明治になって「蘭学事始」に改題して出版したことでようやく日本史に名前が記されるようになったのです。
その後は医学よりも語学に興味が移ってオランダ語の研究に励み、藩主・奥平昌鹿さまから「オランダの化け物」と仇名をつけられ、「蘭化」を号としたのですが、福沢さんは緒方洪庵さんの適塾に入門を乞うた際、「中津のような田舎では蘭学は学べない」と訴えると緒方さんから「中津から日本の蘭学は始まったのだ」とたしなめられ、ようやく前野さんの研究を始めたそうなので地元でも偉業は伝わっていなかったようです。

みなもと太郎作「風雲児たち」より
- 2020/10/17(土) 13:35:44|
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「今後は陸軍が海空軍と警察を指揮下に置いて治安の維持にあたる」「政府の国家治安情報監視センターの機能を軍の平和維持指令センターに移管する」「陸軍の仲介で現政権と反政府の代表者の話し合い場を設ける」そして「親政府・反政府双方のデモは撤収し、今後は禁止する」プランコット・チャンオチャ陸軍最高司令官は声明として今後の方針を説明したが、何度も「これはクーデターではない」と強調していた。続いて軍の担当者が具体的な説明を始めた。
「当面、マスコミ報道の検閲を実施する」「政治的立場を問わず衛生テレビ10局の放送を停止する」「明日、各政党の代表者による話し合いを設定する」「当面、夜間の外出は禁止する」「市民はパニックを起こさず、軍を信頼して平穏な生活を取り戻してもらいたい」テレビの中継は会議室のような部屋でチャンオチャン陸軍最高司令官と関係者が並んで席についている画面だけなので記者が同席しているのかは判らない。常識的には軍の行動自体に批判的な欧米のマスコミが報道の検閲や海外の視聴者向けの衛星テレビの放送の停止を容認するはずがないので、テレビ・カメラに向かって一方的な発表と説明を続けているのかも知れない。
「当分は食品の買い出し以外は出歩かない方が良いな。拘束されるようなことになれば大使館を通じて日本に照会されてパスポートの偽造が発覚してしまう」「そうですね。今日は中断した・・・の続きに励みましょう」流石に本間は性行為をハッキリ口にしなかったが、言っていることはそのものだ。ただし、買い出しのついでに戒厳令下の軍の行動を確認するつもりなので本間が望むように朝から晩までベッドの中で過ごす訳にはいかない。
「その前にニューヨークに速報を入れなければいかんな」「時差は11時間だからあちらは夕方の5時前、課業終了直前ね」杉本が下半身の下着を探すと本間が薄笑いを浮かべながら手渡した。どうやら隠していたらしい。こんな茶目っ気も可愛いが今は仕事優先だ。
結局、5月21日に軍の仲介で開かれた与野党の話し合いは口汚い罵り合いで終わり、軍の「6カ月から9カ月後の下院選挙の実施」「それまでの暫定政府の樹立」と言う提案は持ち帰って翌日に話し合うことになったが、22日の話し合いでも野党側は強硬に選挙を拒否し、与党側は暫定政府に戒厳令の事前連絡がなかったことを批判したため夕方4時10分に議長を務めていたチャンオチャ最高司令官は協議の中止を宣言して陸軍が出席者を拘束した。
「今度はクーデター宣言だ」夕方5時に点け放しにしているテレビが臨時番組を流し始めた。杉本と本間は夫婦の買い出しを演じながら市内を見て回ったが、流石にクーデター慣れしているバンコク市民は弾倉を装填した小銃を構えた兵士が通りの各所に立っていても気に留めることもなく談笑しながら歩いていた。むしろ激しく長かったデモが終息した安堵感が見てとれた。
「戒厳令だけでは足りないのね」台所で買ってきた魚の鱗を取り、野菜の茎を切っていた本間が歩いてきて隣りからテレビを覗き込んだ。
「最早、憲法の手続きを無視して早急に強固な政権を樹立しなければならないと判断したんだな」「非合法でも必要な対応だわ」本間の返事はタイでは正論だが、勝手な教条主義に固縛されている欧米の政府とマスコミには通じない。
「今回のクーデターの目的は我が国を本来の平穏な状況に戻すことだ」チャンオチャ陸軍最高司令官はクーデター宣言に続き、悲痛な顔で説明を始めた。通常、クーデターを起こした指揮官は自分たちの行動の正当性を誇示するために不敵な態度を演じるものだが、この表情からは苦渋の決断だったことが窺える。
「今後は我が国の政治が正常な状態を確立するまで陸海空軍と警察で構成される国家平和維持評議会が全権を掌握する。細部は担当者に説明させる」ここまでで画面は前回の戒厳令の時と同じ軍人に移った。結局、チャンオチャ陸軍最高司令官はテレビ・カメラを直視することもなかった。やはり5月21日と22日の与野党の協議会の議長を務めてタイの政治家たちの救いようのない実態を痛感させられたことで意に反してクーデターに踏み切ったようだ。
「君主制に関する条項を除くタイ王国憲法を停止する」「現在の暫定内閣は停止する」「議会上院と全ての裁判所の機能は維持する」「午後10時30分から翌日午前5時までの外出禁止は維持する」「5人以上の集会は禁止する」「全てのテレビ、ラジオ局は陸軍に関する以外の通常放送は中止する」「国民は通常の生活と仕事を継続する」「大学と学校は5月25日まで閉鎖する」今回は一覧表を用意しているので説明は細部の補足になっている。しかし、文字がタイ語では理解度に変わりはない。陸軍がここまで情報統制に念を入れている以上、外国人向けの英語への通訳も停止されるかも知れない。そうなると新聞を買い集めてインターネットの翻訳機能で情報収集するしかない。それではタイ語も習得している大使館の外務省の職員に期待する方が賢明と言うのが常識的な判断だ。本間が言う通りそろそろ潮時らしい。
- 2020/10/17(土) 13:32:11|
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昭和53(1978)年の明日10月17日に個人の信仰や遺族の意思を無視して戦死者の魂魄に軍隊生活を強要している国家神道=日本版ナチズムの中核施設・靖国に国家滅亡の元凶・A級戦犯が合祀されました。
この日、「昭和殉難者」の名目で合祀されたA級戦犯は開戦時の首相だった東條英機大将=刑死、2・26事件直後に就任しながら陸軍の恫喝と居直りを黙認した広田弘毅首相=刑死、奉天特務機関長として満州国の建国を画策した土肥原賢二大将=刑死、支那派遣軍総参謀長として満州事変の拡大を指導した板垣征四郎大将=刑死(軍司令官の西尾寿造大将は不起訴・釈放)、ビルマ方面軍司令官として東南アジアの戦争を指揮した木村兵太郎大将=刑死、南京占領時の中支那方面軍司令官だった松井石根大将(B級戦犯)=刑死、陸軍省軍務局長ほかの経歴で中国での戦闘に深くかかわった武藤章中将=刑死と終身刑の判決を受けて獄中死した平沼騏一郎首相、白鳥敏夫イタリア大使、東條大将退陣後の首相だった小磯国昭大将、陸軍参謀総長として戦艦・ミズーリで降伏文書に署名した梅津美治郎大将、禁固20年の判決で獄中死した東郷茂徳外務大臣、逮捕されたものの起訴前に収監死した海軍軍令部長の永野修身元帥と日本の外交を大きく誤らせた元凶の松岡洋祐外務大臣(出身地の山口県では偉人)で、アジアの占領地での軍事裁判で死刑判決を受けて執行されるか獄中死したB・C級戦犯約1000名も同時に同じ名目で合祀されました。
この合祀を知られた昭和の陛下が当時の富田朝彦宮内庁長官に「私はある時にA級戦犯が合祀された上、松岡や白鳥までもが。筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが、松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。松平は平和に強い考(え)があったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから私(は)あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と語られたことは昭和63(1988)年に発見された富田長官の手帳に貼りつけてあったメモで明らかになっています。このうち「筑波」は厚生省からA級戦犯の祭神名簿を受け取りながら合祀しなかった筑波藤麿5代宮司、「松平」は福井藩主・松平春嶽さんの3男で最後の宮内大臣と初代宮内庁長官を務めた松平慶民さん、そして「松平の子の今の宮司」は海軍機関学校卒の元少佐で元1等陸佐の松平永芳6代宮司を指しています。
松平宮司は自衛隊時代から時代錯誤な言動で無能ぶりを発揮していましたが、大病を患って退役すると右翼の言論人になっていた石田和外元最高裁判所長官の後押しで宮司に就任し、「東京裁判は国際法では認められていない。その判決で死亡した被告は靖国神社に祀って然るべきだ」との教えを受け、「東京裁判を否定しなければ日本の精神復興はできない」「合祀しなければ靖国神社が祭神の人物評価をしていることになる」と筑波前宮司の判断に賛同していた神職や職員を説き伏せて合祀を強行したのです。
しかし、戦争の勝敗は別にしても国際情勢を見誤り、組織としての面子と野心で勝算のない戦争を始め、支那事変から敗戦までに310万人(昭和38年の閣議決定)の国民を犠牲にして、全国の都市を空襲や艦砲射撃によって焦土化したA級戦犯の大罪は東京裁判でなくても処断されなければならず、英霊=軍神とすることが許されるはずがありません。
- 2020/10/16(金) 12:12:42|
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「いよいよ貴方との任務も大詰めね」バンコク市内のマンションで夕食をすませ、デモ隊の動きを確認するために出かける準備をしながら本間が杉本に声をかけた。2人は3月中旬に肉体関係を持ってからは夫婦同然の生活をしている。ニューヨークで杉本は本間に女を感じたことがなかったが、抱いてみると鍛え抜いた肉体の具合(?)は最高で、今では味と焼き加減の好み100パーセントの卵焼きを食べさせてくれる掛け替えのない同棲相手になっている。
「そうだな。下院選挙の無効裁定が出たのは3月21日だから・・・」「私たちが結ばれる直前よ」杉本としてはインラック政権が実施した2月2日の下院選挙を無効とする憲法裁判所の裁定から2011年に国家安全保障会議事務局長を移動させて玉突き式に元親族を昇格させた人事を審理している今回の裁定までの間隔を訊いたのだが、やはり本間にはあの日の方が忘れられない記念日になっているようだ。その点も中々可愛い。
「違憲の裁定が出ればインラック首相は失職するけどそれでデモ隊は解散する・・・」「はずがないな。華僑政党が政権を手放さない限り反政府デモを継続するつもりだろう」4月に入り、憲法裁判所が違憲の裁定を下す公算が高まるに従ってタイでは混乱の収拾に向けて国家全体が動き始めている。こうして現地で暮らしていると地鳴りが聞こえてきそうだ。
「そろそろ軍が動くぞ」「そうみたいね。華僑社会も経済の破綻だけは避けたいからインラック政権を見捨てるつもりみたい」2人は準備を終えて立ち上がると、どちらからともなく抱き合い口づけを交わした。これから杉本は軍と警察関係者、本間は華僑の幹部と接触する。海外の政府とマスコミは事態収拾への軍の介入をタイで頻発している軍事クーデターと断定して発生する前から批判しているが、現地では他に手段がないことを痛感している国民の期待が急速に高まっている。防衛駐在官を含む外務省ルートの報告は省内の担当国派閥によって注釈が加えられるため現地の実情がそのまま大臣に届かない傾向があり、それが非公式な杉本・本間からの跳び込み情報が必要とされる理由でもある。
「それじゃあ気をつけてな。明日の朝飯を楽しみにしてるぞ」「貴方こそ無理しないでね。華僑の若い世代の中には毛沢東思想に洗脳されたタイ人学生と協力してタイを中国の従属国にしようとする過激派が急増してるのよ」この情報は2人の中では復習なので杉本はうなずいただけで部屋を出ていった。残った本間は部屋の中を確認し、不在間の侵入者を察知する仕掛けを施してからドアを閉めた(=玄関マットに粉末を撒いて足跡を残すなど色々ある)。
5月7日に憲法裁判所はインラック政権がタウィン・プリアンシー国家安全保障会議事務局長を実務がない内閣顧問に移動させてウィチアン警察長官を後任とすることで副長官だった兄のシナワトラ首相の元妻の兄・プリアオハンを警察長官に昇格させた玉突き人事を職権乱用とする裁定を下した。これによりインラック首相は失職したが、華僑政党が暫定政権を維持するため反政府デモは終息せず、むしろ民間人同士による内戦が発生する危険性が高まっている。
「やっぱり始まったな」5月20日の深夜、ベッドで愛し合っていた杉本と本間は下の道路を走る数台のトラックの音で行為を中断した。身体はつながっているが快楽に溺れていないところは流石にプロ同士だ。最近のデモは過激な抵抗運動を抑制してきたインラック政権が退陣したことで毛沢東信奉者のタイ人を加えた華僑の過激派の対決姿勢が強まり、時間を問わず小規模な衝突が頻発しているため調査活動は昼間に変更していた。
「結局、法廷クーデターでインラック政権は退陣に追い込んだけど、それでは解決にならなかったんだね」身体がつながったまま仕事の話になったが、上空をヘリコプターが通過する音を聞いて杉本が枕元のリモコンでテレビを点け、本間も顔を向けた。
「陸軍の最高司令官、陸上幕僚長だな」テレビではプラユット・チャンオチャ陸軍最高司令官の記者会見が中継されていた。タイ語での声明発表に英語の同時通訳が重なっているが、意識を集中させなければ聴き取ることができない。当然、性行為は中止になった。
「戒厳令の発動かァ、クーデターじゃあないんだな」「どう違うのかしら」裸のまま杉本の隣りに座った本間が可愛い質問をした。
「クーデターは政権の打倒と奪取が目的の非合法手段だが、戒厳令は治安を維持するための合法的出動だ」「でも自衛隊の治安出動は内閣総理大臣の命令じゃない。今の暫定政権に発令権限があるの」「戦前の戒厳令は天皇の勅令だったな」今夜は珍しく快感と至福の余韻に浸ることもなく仕事の話で盛り上がってきた。すると画面の上部に字幕で補足説明が流れた。
「暫定政権は事前に知らされていなかったのか、そうなると国王の勅令か・・・」「それとも軍司令官に権限があることになるわね」記者会見では陸軍最高司令官の声明が続いているが質疑応答は始まっていないので今は黙って聞くしかない。

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- 2020/10/16(金) 12:11:24|
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「これっすよ。白井さとみの保育園の先生シリーズは」作業員に出た陸士たちは夕食と入浴をすませると駐屯地の隊員クラブに飲みに行く前に営内班のソファーで陸曹から借りたパソコンを立ち上げ、インターネットで問題のAVを検索した。スマートホンでもAVサイトの検索には色々な手順があるらしいが1士は女優の名前から入った。
「確かに小隊長に似ているな」女優のページを開くと作品のリストと一緒にヌードの画像と簡単な個人情報が表示されていた。そこには30歳の現役保育士とある。しかし、少し弛んだ体型からは30歳代後半に見える。
「出演作品は4本っす。父子家庭の父親に同情して姦らせるのと若い男の保育士とできるの、お決まりの園長にレイプされるの、後は若い保育士とレズるっす」この調子では全作品を完全視聴したのかも知れない。この1士が車内であそこまで執着していたのは、白井さとみの熱烈なファンとして瓜二つの安川3尉の母親に会ったことで興奮状態になったのではないか。
「顔が確認できれば俺はいいよ」「俺も年上は好きじゃあないからここまでにしておく」1士以外の3人の士長たちは30歳代のAV女優は性的興奮の対象ではないらしく自分のベッドに戻ろうとした。20歳前後では高校時代の残像に重なるJK(女子高生)や同世代のJD(女子大生)モノの方が食欲=性欲をそそるはずだ。すると1士は喰い下がった。
「ドラマの始めのところだけでも見て下さい。オルガンがとても上手いんです。絶対にプロだって判ります」半分ベソを掻いての懇願に士長たちは顔を見合わせるとソファーの椅子に腰を下ろした。それを見て1士は慣れた手つきで出演作品にクリックして動画を再生させた。
「さとみ先生の愛情保育」黒板に色とりどりの文字で書いた題名がオルガンのBGMと一緒に映し出された。流れているのは聞き覚えがある童謡だが確かに素人の演奏ではない。ただ舞台になっている保育室は幼児が数人玩具で遊んでいて掲示板には子供の絵が貼ってあるものの貸事務所のような造りで真実味がない。その保育室のドアを開けて見憶えがあるAV男優が顔を出した。今回はスーツを着ていて冴えないサラリー・マン風だ。動画ではさとみ先生が園服を着た幼女を連れてきて手提げ袋を父親に渡すとしゃがんで顔を近づけながら話しかけた。
「真衣ちゃん、明日も元気で会いましょうね。バイバイ」「いや、真衣は先生と一緒が好い」いきなり小学生になる前の子役が抜群の演技を見せた。さとみ先生は抱きついて泣き始めた幼女の背中をさすりながらなだめている。この反応は演技とは思えない。そうして物語はさとみ先生が真衣と遊園地へ遊びに行く約束をしてしまい、その帰路、父親がラブ・ホテルに車で入ったところからは毎度のAVになった。
「結構、好きものだな」「腰の振り方なんて積極的だぞ」「乳首が黒いから本当は子持ちじゃあないのか」こうなるとやはり若くて美しいJKかJDの方が好い。半ば白けた士長たちが粗探しを始めると1士が怒ったように反論した。
「さとみ先生は父親の上に乗る時、隣りに寝ている真衣を確認しました。抱かれている間も目は真衣を見ています。やっぱり本物の保育園の先生っす」ここまで真剣にAVを見ている人間が存在することに士長たちは呆れと驚きで口が塞がらなくなった。
「後はどうなるんだ」「さとみ先生が2人の家に通うようになるんですが、真衣が男の子に苛められて叱ったら、その子の母親から父親と愛人関係だから贔屓しているって抗議されるんです。それで父親が謝りに行ったら母子家庭で今度は母親とできちゃいます」つまり別の女優に代わるらしい。それで父親の奪い合いになって何度も性交シーンが続くところがAVだ。
「レイプ物はどうだ」「俺は見たくないっす」「つき合ってやってるんだから見せろ」1士の説明で後半は省略し、次は「さとみ先生の汚された保育」になった。
出だしは同じく題名が書かれた黒板にオルガンのBGMだが、今回は薄暗い保育室でさとみ先生が1人で練習している場面に続いた。そこにこれも見憶えがある初老のAV男優が入ってきた。そうしてさとみ先生の仕事が終わってからも練習に励む勤務態度を誉め、悩みごとを聞き出しながら距離を詰め、最後は押し倒してレイプする。
「後は園内の色々な場所で園長にレイプされるんす。子供たちのお遊戯会の時も舞台の隅でハメられます」「ワンパターンだな。JKモノの定番だ」士長たちはここで立ち上がってしまった。
「俺、保育園の時、憧れてた先生がいたんすよ」「その先生を思い出すんだな」パソコンを陸曹に返すと隊員クラブで事情聴取になったが、保育園での初恋を忘れていないのは驚きだった。
「その先生がAVみたいに男に抱かれてたらどうするんだ」「もう結婚してます」陸士たちが白井さとみ先生を演じているのが安川3尉の実姉だと知ることはなかった。それにしても姉の鶴舞は弟の嫁の結婚前の氏名をAVの芸名にしたのだ。許し難い暴挙ではないか。

日活ロマンポルノ「キャバレー日記」より
- 2020/10/15(木) 11:06:09|
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「恐ろしかったわねェ」談笑を終えて作業員たちが帰ると両家の母と息子と娘は残った菓子を摘まみながら茶話会の続きを始めた。すると開口一番に白井家の母は大げさに怯えたような表情を造って意外な感想を述べた。
「何か危ないことがありましたか」安川3尉には義母が言いたいことは想像がついたが一応は常識的に確認した。すると聡美は目を険しくして視線を反らし、安川家の母は息子の質問に添って心配そうに顔を覗き込んだ。
「だって戦争映画を見ているみたいだったじゃない。上官の命令1つで若い人たちが機械のように動いて、命令されたことに忠実に従っている。普通の若い子たちなら目が届かないところで休んだり、手を抜いたりするのに本当の歯車のようにクルクルと回っていたわ。戦場でもアアして『死ね』って命令されれば何の疑問もなく突っ込んでしまうのね。今の平和な日本で恐ろしいことだわ」白井家の母の独演会の間、観衆の3人は菓子を頬張りながら缶ジュースを飲んでいたが誰かが反応しなければならない。すると3人が交代でその役を演じることになった。
「お義母さんに恐ろしいって思われるのは良いことですよ。自衛隊のPKOでは車両の駐車位置や宿営地のテントの紐が完全な直線になっていることに外国軍は脅威に感じるんです。厳正な規律は自衛隊の抑止力の根幹ですから、今度の部隊のそれが確認できて嬉しいです」安川3尉の皮肉な感想に白井家の母は不本意そうな顔で缶ジュースを口にした。
「自衛隊なんだからあのくらいでなくちゃあ困るわ。引っ越しがキチンとできないような人たちが武器を持っているんだったらそっちの方が恐ろしいわ。それにお父さんの名鉄だってキチンとしているのよ。列車が1分遅れれば大問題なんですもの」安川家の母の意見の後半には白井家の母も軽くうなずいた。バスと違い列車は線路と言う外部と隔絶した空間で運航するため鉄道会社では到着時間の誤差が1分を超えると時刻表に齟齬が生じたとして責任問題になるらしい。これも海外では考えられないことだ。
「お父さんは和也さんが幹部になったことを喜んでくれてたけどお母さんは違うのね」「年上の斉藤さんが和也さんに敬語を使っているのを見て人間関係の上下を感じたけどそれがどう言うことなのかは判らないわ。私たちは平和で平等な社会が理想なの。だから教育委員会と学校、校長と教師、教師と生徒も人間同士としては対等でなければいけない。自衛隊の階級制度とは対極ね」母には教師として「生徒を戦場に行かせない」と言う使命感があり、その確固たる信念は聡美が家にいた頃から変わらない。一方、父は「知性も教養もない保守政権の飼い犬」と馬鹿にしていた自衛隊のモリヤ中隊長に完膚なきまで叩きのめされたことで違う意味で自衛隊を怖れるようになり、安川3尉が幹部になったことの重みを理解したようだ。
「お父さんのおかげで貴方は平和な国に生まれてこられるのよ。安心しなさい」聡美は両手で腹に触れながら声を出して我が子に話しかけた。これは自衛隊に染められたのではなく安川家で両親と一緒にイラク派遣に赴いた安川3尉を待つ不安な生活を送る中で確信した国際社会の現実と自衛隊の存在意義だった。
「安川小隊長の奥さん、サトミって名前でしたよね」「うん、そう呼ばれていたな」「綺麗だったなァ」「若い頃、アイドルかモデルだったんじゃないのか」引っ越しが終わって部隊に戻る斉藤2曹の私有車の中では陸士たちが雑談を始めていた。
「それであの女教師が奥さんの母親なんだね」「お前は熟女好きだっけな」「熟女教師・教室レイプってAVはあるけど婆さん相手は遠慮するよ」肉体労働の後の雑談は酒が入らなくても下に落ちていくものらしい。
「奥さんのお母さんは白井って呼ばれていませんでしたか」「うん、呼ばれていたけどそれがどうした」「本気で口説く気か。小隊長の義理の母親だぞ、止めておけ」何か引っ掛かるものがあるらしい1士に士長たちが危険を察して制止を始めた。
「この間見たAVの女優が白井さとみって名前だったんですよ」「白井さとみって平凡な名前は芸名になりそうじゃあないか」「奥さんがAV女優と同姓同名なんて気分は好くないぞ。絶対に本人に言うなよ」こだわりを捨てない1士に運転している斉藤2曹も制止に加わった。
「そう言えば顔が安川小隊長のお母さんに似ていたような気がする」それでも陸士は記憶を呼び返している。始末に困った隊員たちは全員で無視して独り言にしたが、1士の説明に先ほど会った安川3尉の母親の顔を思い出してしまった。安川3尉はイケメンだが母も美人だった。
「保育士シリーズだけど優しい笑顔が本物ぽくてエプロンが似合ってただよな」これで引っ掛かりは理解できたが、幼児相手の仕事をする保育士の性行為を描いたAVは想像できない。結局、今夜はインターネットのAVサイトで閲覧することになった。
- 2020/10/14(水) 12:11:14|
- 夜の連続小説8
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昭和57(1982)年の明日10月14日は日本では無名でも南米の実業家として成功しただけでなくベルー人でさえ認めていなかったチャンカイ文化に着目して自費で史跡を発掘する一方で遺物を蒐集して専門の博物館を開設したため現在でも「チャンカイは天野」と賞賛されて尊敬を集めている天野芳太郎さんの命日です。84歳でした。
野僧は防府南基地・第1教育群での不当人事の犠牲にならなければ次は在チリ日本大使館の在外公館警備官として赴任する予定だったので南アメリカの研究に励み、その中で天野さんの名前と業績を知りました(後に親しくなったペルー人の友人からも聞いた)。
天野さんは明治31(1898)年に現在の秋田県男鹿市で生まれました。大正5(1916)年に秋田工業学校の機械科を卒業すると現在の横浜市鶴見区で庭園を造成していた父を頼って横浜市の造船所に就職して大正9(1920)年には鋳物会社を創業し、さらに自ら考案した小型ポンプの販売会社も始めました。そんな順調なスタートを切っていた大正12(1923)年に関東大震災が発生して事業は頓挫しましたが、父が造成した遊園地で妹に饅頭店を出させて大儲けしたのです。
そうして資金を貯めると少年時代から冒険小説を愛読して描いていた海外雄飛の夢を実現するべく昭和3(1923)年にウルグアイを目指して商船で横浜港を出発しました。天野さんは航海中も寄港地で仕入れた物品を売る商売を営み、3ケ月の航海で目的地に到着すると父の訃報が届いていてそのまま引き返すことになりましたが、年末には目的地をベネズエラに変更して再度出発し、パナマに到着するとベネズエラでは内戦が勃発していたためそのままパナマで会社を創業してチリで農場、コスタリカでマグロ漁、エクアドルで製薬会社、ペルーで金融業を経営するようになりました。
ところが成功すると巨大な妨害が入るのが宿命のようで昭和16(1941)年に日米が開戦したためパナマの会社と財産はアメリカに没収され、スパイ容疑でアメリカ国内の収容所に収監されました。翌年に在留敵国人交換で帰国したものの昭和26(1951)年8月には再び南米を目指して出発し、1度目は遭難して九死に一生を得ると9月にカナダ経由でパナマに到着したのです。パナマでは知人に預けていた資産を元手に事業を再起させますが、偶然訪れたペルーのチャンカイ川流域の集落で大量の土器と織物を発見し、そこに東洋の美意識が反応して遺跡の発掘と遺物の蒐集と研究を開始しました。その結果、この文化がキリスト教暦1000年から1400年に極めて狭い地域の小さな集落で中南アメリカの古代文明とは異なる独自の発展を遂げていることが明らかになり(最終的にインカ帝国に埋没したが)、ようやくペルーの古代史学会が興味を示した頃には天野さんの個人的研究が多大な成果を上げ、1954年には首都・リマに天野博物館(現在の天野プレコロンビア織物博物館)の前身となる展示場を開設していたのです。現在も天野博物館はペルーの遺跡発掘で卓越した指導力を発揮しているそうです。
天野さんが南アフリカで成功する理由を周囲の人たちは「全く見下したところがないから人が集まってくる。人が集まれば物と情報も集まり商売になる」と評していました。
- 2020/10/13(火) 12:48:05|
- 日記(暦)
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