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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月1日・67人が犠牲になった難工事・丹那トンネルが開通した。

昭和9(1934)年の明日12月1日に世界各国から導入した最新技術を結集しながら多大な犠牲を供じて建設した丹那トンネルが完成し、最初の列車が通過しました。
箱根は唱歌「箱根八里」で「函谷関」「蜀の桟道」と並ぶ「天下の険」と歌っている通りの難所で、蒸気機関車では上りは沼津駅、下りは国府津駅で登坂用の補助機関車を連結し、食堂車を分離して軽量化しても低速度になり、豪雨による土砂崩れなどの天災も頻発して東海道線の円滑な運行を大きく阻害していました。
そこで鉄道院の後藤新平総裁は箱根を経由しない新路線の検討を指示し、それを受けて国府津駅から小田原駅、湯河原駅、熱海駅、三島駅、そして沼津駅を結ぶ路線が提案されましたが、それには箱根山から伊豆半島に続く山脈をトンネルで貫通する必要がありました。この提案を受けて後藤総裁が管理局に実現性の検討を命ずると地質調査に基づく工事の難度の判定よりも利便性の向上を優先する発想で賛成したため新路線全体の総工費2400万円(トンネルは770万円)、工事予定期間7年の建設計画が決定し、トンネル工事は大正7(1918)年3月14日から外部発注を受けた鹿島組(現在の鹿島建設)と鉄道工業会社により熱海口と三島口の両側で始まりました。
この工事ではオーストリアがアルプスのトンネル建設で常用している掘削した岩盤を速乾性のコンクリートで固め、そこに深くまで長い杭を打ち込んで一体化させて強度を確保する工事方式が日本では初めて採用されたものの電気照明と電気式削岩機を使用するはずが第1次世界大戦後の好景気で都市部での電気需要が急増したためトンネル工事には送電されなくなり、カンテラ式ランプとツルハシによる旧式の作業になってしまいました。さらにトンネルを掘り進めていくと山脈中央部にある湿地帯に水田が広がっていた丹那盆地の下部に到達し、その大量の水が湧き水として噴出したのです。建設会社としては鉄道用の本道とは別に排水坑を掘削して対応しましたが、その水量は芦ノ湖の3倍に達し、逆に丹那盆地は水田が干上がる慢性的な水不足に陥り、現在は酪農地帯になっています。そしてトンネル工事では定番の落盤事故は大正10(1921)年4月1日に熱海口で発生して16人が犠牲になったのを皮切りに、続く大正13(1924)年2月10日に三島口で16人、追い討ちをかけるように昭和5(1930)年11月26日に工事現場の活断層を震源とするマグネチュード7.3、震度6から7の北伊豆地震が発生したことで3人など事前の地質調査の不備が禍根になっていきました。おまけに火山地帯特有の土質も工事を阻害し、それに対応するために世界各国の最新技術を次々に導入し、丹那トンネルの工事は日本の土木技術を一気に発展させる実証実験になっていったのです。
こうして7年の予定が16年に延び、770万円の予算が新路線の総工費2400万円を超える2600万円に膨らみ、青函海底トンネルの34人の倍近い67人の犠牲者を出して昭和8(1933)年6月19日に最後に残った5.2メートルの岩盤が鉄道大臣の操作で爆破されて貫通し、排煙の関係で電化するなどの工事を経て東京発・神戸行の夜行特急がこの日の午前0時40分に熱海口から入り、9分2秒で通過しました。
  1. 2020/11/30(月) 12:45:55|
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振り向けばイエスタディ2112

「お久しぶりです」「本当に久しぶりね。今はどうしてるの」モリヤ佳織1佐と向かい合うと本間は姿勢を正したが杉本は無視した。これは自分も自衛官であること隠すための意図的な態度だ。それを察した本間が自己紹介した。
「私は依願退職してフリーのジャーナリストだったこの人と結婚しました。今は2人でアメリカの雑誌社に務めています」「貴女の退職は朝風(自衛隊の部内紙)で読んで知っていたけど元気そうで安心したわ」「ありがとうございます」モリヤ1佐は本間の説明に半信半疑の目をしたが笑顔を作って受け容れた。
「この時間にここで会ったと言うことは香港に取材に行っていたの」礼を言って話を打ち切ろうとした本間をモリヤ1佐が質問で拘束した。その口調からは単なる推理遊びではない必然性を感じる。本間は先ほどの自己紹介を踏まえて回答した。
「はい、香港特別行政区当局が学生たちを強制排除する実態を取材してきました」「それなら同じ任務ね。何か特別に気をつけるべきことはある」本間の答えにモリヤ1佐は2人の本当の職務を見抜いたように確認した。やはり実際は軍事情報の収集が主任務の防衛駐在官は2人が所属する秘密組織の存在を知っているようだ。
「在中国の各国大使館や領事館は監視下に置かれていて外交官特権も大幅に制約を受けているのよ。それでも他の国はマスコミが外交官以上に実態を取材しているけど日本のメディアは駐在員を避難させている。だから私が香港総領事館に出張して現場を歩き回ることになったの」言われてみればモリヤ1佐も2人と同様にGパンに軽装のジャケットを着ている。
「今回は催涙スプレーと胡椒スプレーを常用していますからマスクとゴーグルは必需品です。最初にデモ隊側に潜入した工作員が暴力行為を働いて、それを口実に暴力的な鎮圧を始めます。それは周囲の群衆が始めることもあるのであまり間近に立ち入らない方が良いでしょう」「その手はチベットと同じね。役立つ助言をありがとう」杉本が代わって説明するとモリヤ1佐は優しい笑顔を浮かべて手をつないだままの2人を見詰めた。
「それじゃあ搭乗時間が近づいたからこれで。向うに帰ったら岡倉・・・プロレス・マニアの同僚に同期の私が『よろしく』って言っていたと伝えてね。グッド・ラック」モリヤ1佐は最後に親指を立てた右手を突き出した。洒落た野球帽をかぶっているのだから挙手の敬礼でも良さそうだが、私服の時には自衛隊色を消しているのだろう。
モリヤ1佐が歩き始めると3メートルほど後方に立っていた男性が従った。通り過ぎながら2人を見た視線の鋭さから警護の随員のようだが自衛隊特有の汗臭さはなく、むしろ常に警戒心を張り巡らせている警察官の雰囲気を発散していた。
フィリピンでは愛知県人で輸送幹部の本間の熱望でミンダナオ島の特攻隊が出撃した飛行場跡にある日本人慰霊碑に出かけた。昭和20年4月19日に戦死した愛知県出身で船舶司令官だった鈴木宗作中将の慰霊を勤めたいらしい。鈴木中将はレイテ島からミンダナオ島に船で移動中にアメリカ軍の艦載機の攻撃を受けて戦死したのだが、出発地は昨年11月の巨大台風30号で受けた甚大な被害の復旧が進んでおらず訪問を避けざるを得なかった。
「鈴木中将はミンダナオ島に向かっていたんだから魂はこの島に来ていると思うの」慰霊碑の前に香港で買ってきた線香を立てて手を合わせた後、本間は杉本に静かに説明した。この慰霊碑はナバオ市のズテルデ市長が私費を投じて建立したもので、まだ新しいが風格がある。
「そこに同県人で後輩のお前が参ってくれれば中将も喜んでいるだろう」「だったら嬉しいな」本間は素直に微笑むともう一度手を合わせて深く頭を下げた。ミンダナオ島は香港よりも南に位置するため日が陰っても気温は高く、海からの風が心地よかった。
「あッ」「おッ」ズテルデ市長が就任してからの強硬な治安対策で夜の街も楽しめるようになったと聞くナバオ市内に夫婦で出かけると今度は杉本が見覚えのある男性と出会ってしまった。それでも名前を口にしなかったところが杉本だ。それは中国が沖縄に潜入させた北朝鮮の暗殺者を抹殺するために自衛隊が極秘裏に養成した処理要員の指揮官・朝山優治3佐だった。杉本は彼らがイギリスのMI5で証拠を残さない殺害方法の研修を受けている時、経験者として立ち合っていた。しかし、互いにこの場所に存在していることも隠蔽しなければならず、目と目で挨拶を交わすと杉本は本間と、朝山3佐は初めて見る日本人の男たちと談笑を始めた。それでも男たちからは自衛隊特有の汗臭さが漂っている。おそらくあの時の小弥太、隼人、主水、左門とは別の要員の訓練を現地で指揮しているのだ。杉本の頭の中ではズテルデ市長の強硬な治安対策と日本で陸上自衛隊が創設したらしい対テロ専門部隊が結びついた。

  1. 2020/11/30(月) 12:43:15|
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11月30日・安倍晋三総裁が戦時売春婦報道の虚偽を明言した。

2012年の明日11月30日に自公が政権を奪還し、安倍晋三首相が復活を果たす衆議院選挙を前に開かれた日本記者クラブ主催の党首記者会見で安倍自民党総裁が「済州島で百人を超える女性を女子挺身隊として強制連行し、実際は(いわゆる)従軍慰安婦=戦時売春婦にした」と言う体験談を本にして、同じ内容の講演活動を行っていることを朝日新聞の植村隆(敬称不要)が「勇気ある告白」と絶賛する記事を連載化した吉田清治(本名・雄兎=同前)を「詐欺師まがいの人間」と呼びました。
この記者会見には当時の全ての政党から自民党の安倍晋三総裁、民主党代表の野田佳彦首相、嘉田由紀子未来の党代表、山口那津雄公明党代表、石原慎太郎維新の会代表、志位和夫共産党委員長、渡辺善美みんなの党代表、福島瑞穂社民党党首、鈴木宗夫新党大地代表、自見庄三郎国民新党代表、舛添要一新党改革代表が揃って出席していて前半の討論に続き後半は日本経済新聞の実哲也記者、毎日新聞の倉重篤郎記者、読売新聞の橋本五郎記者、朝日新聞の星浩記者からの代表質問が行われました。この発言は星記者から衆議院選挙で勝利して政権に復帰した時の「靖国参拝」と「(いわゆる)従軍慰安婦に関する河野談話の見直し」に関する考え方を質問されたことに対する回答でした。
安倍総裁は韓国が戦時売春婦を外交問題にする根拠にしている河野談話について「河野談話は閣議決定ではなく、逆に日本の公権力が韓国で女性を強制連行した事実を示す具体的な証拠が存在しないことは第1次安倍内閣が閣議決定している」と断った上で「そもそも朝日新聞の誤報による。吉田清治と言う詐欺師のような男が作った本をまるで事実であるかのように日本中に伝わったことでこの問題はドンドン大きくなっていきました」と原因が朝日新聞の意図的な誤報に在ることを星記者に対して明言したのです。
間もなく首相に復帰する安倍総裁から「詐欺師のような男」と言われた吉田雄兎は詐欺師以上の中国や韓国が送り込んだ工作員の疑惑が濃厚な男で、現在は大正2(1913)年に福岡県遠賀郡芦屋町西浜で生まれたことが確認されていますが、植村が絶賛した本の著者の略歴では山口県出身になっていました。また現在の福岡県立門司大翔館高校の卒業生名簿の門司市立商業学校時代の昭和6年度卒業生に氏名があるものの備考欄に「死亡」と記されています。仮に遠賀郡芦屋町で生まれ、門司市立商業学校に進学した吉田雄兎が在学中に死亡したとすれば日本に潜入した工作員が利用するのは常套手段です。実際、著者略歴では法政大学を卒業して昭和12(1937)年に満州国の地籍整理局に就職したことになっていますが、地籍整理局には記録があっても法政大学の在籍者名簿に吉田雄兎の名前は存在しません。このように本人であるかも不明の人間が書いた怪しい本を天下の朝日新聞が推薦図書的に取り上げたことが戦時売春婦問題を大きくし、その知名度で芦屋町議会選挙に共産党から出馬・当選しています。
その後、安倍政権は朝日新聞を追い詰めて社長に謝罪させましたが、長年にわたり日本の知識層に浸食してきた権威と権力は揺るぐことなく現在も存在し、逆恨みも込めた悪意に満ちた歪曲報道を続けています。
  1. 2020/11/29(日) 14:09:03|
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振り向けばイエスタディ2111

杉本と本間はホテルが長期滞在を怪しみ始めたところでアメリカへ帰ることにした。中国共産党の指令を受けた香港特別行政区当局の遣り口を十分に観察して杉本は倉田の、本間は中央道の死に際を具体的に推察できるようになったが、日本が国際ルールを歯牙にも掛けないこの巨大な覇権国家の隣国であることの危険性を思い知らされることにもなった。
「結局、観光旅行にはならなかったなァ」香港からフィリピンへ向かう旅客機の中で杉本は疲れたように日本語で呟いた。香港の治安の悪化はフィリピンでも大きく報道されているため乗客はまばらで座席は前後とも空いている。出発前、松山1佐からは「学生が封鎖している地域以外は平穏なはずだから可能な観光も楽しんでこい」と言われていたのだが、到着が事態の急変に重なったためそんな余裕はなかった。
「それでも貴方の髪形は成功だったよ」「久しぶりに日本人の床屋にやってもらったからな」本間が隣りの杉本の横顔を見ながら側面の整え方を誉めると杉本も満更でもないようだった。
本間は香港に向かうに当たり台湾の中華民国陸軍の王茂雄中校(中佐)と連絡をとった。すると以前、台湾の裁判所で殺人罪の公判を受けていて弁護側の通訳をした日本人の被告「玉城美恵子が香港で理髪店を経営しているので確認して欲しい」と依頼された。しかし、本間は女性自衛官式ショート・ヘアとは言え理髪店に入ったことはない。そこで丁度髪がのびていた杉本に協力してもらうことになった。
「ニンハオ」「こんにちは。予約してないけど好いかな」杉本が香港特別行政区庁舎に近い店舗兼用マンションの2階にある理髪店に入ると好みではないが若い頃は可愛かっただろうと思わせる同世代の女性=美恵子が待合席で美容雑誌を読んでいた。他に客はいないようだ。女性は日本語の挨拶を聞いて驚いたような顔をしたが「どうぞ」と日本語で答えた。
「お客さんは日本人なんですね」「うん、長旅だったから日本に帰る前に髪を整えておこうと思ってね」整髪席に座ると美恵子はビニール製のマントをかけてから首筋に髪が入らないようするためのカバーも巻いた。この日本式の配慮に杉本は懐かしさを覚えた。
「失礼ですが、お客さんが通ってる理髪店はあまり腕前が良くないですね。アジア人の黒い髪を理解していないみたい」杉本の希望を聞いて整髪を始めた美恵子は率直な所見を口にした。確かに杉本が利用しているニューヨークの理髪店にはアジア人やアフリカ系の客はおらず(人種と仕上がりで特化している)、ヨーロッパ系の客の金髪や茶髪と同様に切って整えるだけだ。その点、美恵子は微妙に長さを調整して裾や揉み上げのコントラストを柔らかくしている。
「近所で大騒ぎになっているからお客さんが減っちゃったんじゃあないの」整髪、洗髪の間に話が弾んできたので髭剃りになったところで本間が確認を依頼された経営状態を質問した。入店して数十分経っても他の客や予約の電話が入らないから当然の質問のはずだ。
「それは大丈夫。学生のデモが長くなったら知らない若い人が大勢来るようになったのさァ。皆、今の香港の若者の髪形って注文だから何となってるけど、私が知らない中国語を喋るから困っちゃう」ここまで聞けば杉本には中国本土から送り込まれてきた人間たちが香港の若者に偽装するために美恵子の店を利用していることが推察できるのだが、この思慮が足りない経営者は客が確保できていることにしか意識が及んでいないようだ。
「そう言えばあのお客さんたちは自衛隊っぽいね。自衛隊って座っていても背中を伸ばしてるし、返事は大声で、身体を動かすのもカチッカチッて機械みたいなんだよ」「自衛隊を知ってるんだァ」「別れた旦那が2人とも自衛隊だったのさァ」本間からは美恵子が岡倉の同期のモリヤ2佐の前妻であることは聞いているが、再婚相手まで自衛官だったのは知らなかった。
「腕は流石だったな。床屋でマッサージしてもらったのは久しぶりで気持ち好かったよ」「疲れが取れて良かったね」本間の返事に杉本は首と肩を揉みほぐしてもらった余韻を味わうようにユックリと深くうなずいた。あの腕とサービスがあれば香港とは言わずニューヨークでもアジア人相手の店として成功しそうだが、台湾としては本人に自覚がないまま仕掛けた盗聴器・監視カメラであり、実際に人民解放軍の存在を察知していた。
「あッ、本間郁子3佐・・・」マニラのニノイ・アキノ国際空港で下りてロビーを歩いて行くと見覚えがある女性と出会ってしまった。その女性は目の前で立ち止まると在ワシントンの防衛駐在官と松山1佐、そして杉本しか知らない本間の本名と階級を口にした。それはハワイでの日米協同指揮所演習・ヤマサクラで知り合ったモリヤ佳織2佐(当時)だった。モリヤ1佐が在フィリピンの防衛駐在官になっていることは職場で回覧される自衛隊の海外人事情報で知っていたが偶然にしても唐突な再会だ。本間は隣りに立っている杉本の手を取った。
  1. 2020/11/29(日) 14:07:36|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ2110

「お前、早いな」偶然、特別行政区庁舎と同じ中還地区の商業地域の交差点で自作自演の暴動を目撃した杉本と本間は久しぶりの長距離走を始めた。すると意外な本間の脚力に杉本は困惑しながら息を切らして声を掛けた。
「道場に通う時はダイエットのために走ってるもん」「俺も時々はジョギングしてるが最近はな・・・」杉本の言い訳を聞いて本間は少し速度を落とした。陸上自衛官の夫婦とは言え警察が幹線道路を封鎖している検問を迂回しながら2キロを走れば10分近くかかるのは仕方ない。特別行政区庁舎が見えてきた頃には武装警察隊による学生の強制排除は始まっていた。
「あれは軍用のアンビランスね。香港に軍隊は存在しないはずなのに」庁舎に隣接する添馬公園には10トンのコンテナ・トラックを緑色に塗り、側面に赤十字を入れた大型軍用アンビランス(=救急車)が視界を遮るように縦列駐車している。これは戦闘・災害などで負傷者が同時多数に発生した時の専用車両なので人民解放軍が派遣したとしか思えない。輸送幹部が本業の本間の見解に杉本もうなずいた。
しかし、香港市民たちは長年にわたり絶対服従を強いられてきたチベットのラサ市民とは違い周辺に配置されている警察官の制止を無視して強制排除の現場に近づいて行動を監視し、スマートホンのカメラの砲列を作っている。座り込んでいるのも学生たちなので交差点で起こったような潜入した当局側の人間による暴動は起きそうもない。そのため警察隊は無抵抗で座っている学生の両腕を2人がかりで引き上げ、取り調べの場所にまで引き摺っていく。催涙スプレーや胡椒スプレーを腰に下げているが使用していない。
「あれなら担架で運んだ方が楽そうね」「それは危ないぞ。チベットでは警察隊のアンビランス(=救護車両)に運ばれた負傷者は薬を塗られた途端に容体が急変して死亡したんだ」杉本は2008年3月に倉田が現地から報告してきたチベットでの殺害方法を説明した。チベットでは警察隊がガス銃で鉄球を発射して僧侶や市民を負傷させ、担架で運んだアンビランスで薬剤を塗布し、鎮痛剤と称する注射を摂取すると次々に急死していた。
「你還好嗎(ニィハイハオマ=大丈夫か)?」アンビランスでは引き摺られた時に靴が脱げ、踵をすりむいた女子学生たちが手当てを受けている。救急隊員は負傷者=学生を落ち着かせるように声を掛けているが、耳をすませて聞いていた本間が予想された事実を説明した。
「やっぱり北京語だわ」「香港の救急隊の制服を着ているところも念入りだな」杉本は皮肉を口にしながらも平和的な強制排除に安堵して本間と顔を見合わせた。その時、排除現場を注視している市民から罵声が飛んだ。
「お前たちは民主主義の恩恵を受けていないのか。香港の民主主義を守る運動を阻止するなら中国へ行ってしまえ」「香港は独立するんだ」「圧政に立ち向かえ」同時に市民の一部がジュースの空き缶を警察隊に投げつけ、それが警察隊のヘルメットに当たり、路面に落ちて高い音を立てて転がった。それを受けて指揮官が車両のマイクで宣言した。
「香港特別行政区保安局はこの運動が独立派の反政府活動であることを確認した。首謀者を国家政権転覆扇動罪容疑で逮捕する。妨害する者も共謀罪だ」命令を受けて数名の武装警察官が腰のスプレーを外して周囲に催涙ガスと胡椒ガスをふり撒き、市民はスマートホンの撮影を中止して咳き込み始めた。続いて本隊は片手で参加者の頭を押さえ、顔に吹きかけ始めた。
「これは謀略だ。行政区当局の不当行為は国際社会が許さないぞ」立ち上がって抗議した学生に屈強そうな警察官が飛びかかり、路面に押さえつけた。周囲では学生たちが座ったまま警察官に蹴り倒されて袋蹴りにされている。
「国家政権転覆扇動罪」は第2次天安門事件の時、鎮圧部隊に学生たちの集会の目的を説明し、自発的な解散と撤退を待つように要望した劉暁波教授が逮捕され、留置されている罪状だ。
「上尉、非常用薬剤を使いますか」弾圧が始まると本間は風下に立って通常では聞き取れない距離でアンビランスの外に設けた処置所にいる救急隊の制服を着た人間たちの会話を確認していた。すると両手にゴム手袋をはめた看護師と思われる女性が椅子に座って担架に載せて運ばれてくる負傷者を見ている男性に上尉=大尉と声をかけた。
「今回は中止だ。勿体ないが普通の薬剤で手当てしてやれ」忌々しげに答えた男性の目には敵意が満ちており、むしろ「ゾッ」とするような冷たさを感じさせる。
結局、中国共産党は暴力による民族抹殺と女性たちに漢民族の子供を生ませる民族浄化を推し進めているチベットとは違い、少なくとも香港では同化する者は国家に加え、反抗する者も徹底的な監視下に置いて生存だけは許すつもりなのかも知れない。それでも殺害の準備を忘れないのが中国共産党と人民解放軍だ。
  1. 2020/11/28(土) 13:57:52|
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11月28日・田中藤作死刑囚、執行後蘇生事件

明治6(1872)年の明日11月28日に江戸時代の斬首、磔(はりつけ)、火炙りなどの処刑方法(詰め腹=命令による割腹はあくまでも自裁)から吊首刑に変更されて間もなく伊予松山の石鎚県で執行された田中藤作死刑囚が蘇生した事件が起こりました(この事件のネタ元も中退した大学での刑法の講義です)。
この事件の背景としては明治5(1871)年に明治政府が発布した神佛分離令によって神佛習合の祠を破却すること命じられると四国八十八カ所の本場である四国では住民の強い反発が起こり、その最中に旧松山藩主で明治4年(1870)年の廃藩置県で松山県知事になっていた枝胤の松平勝成公が免職になって上京を命ぜられたため8月15日に3000人が参加した久万山・久米騒動=反政府一揆が発生したのです。この騒動は当初、嘆願を趣旨としていましたが、一部が暴徒化して郡役所に乱入すると租税事務所に放火しました。これに対して松山県(石鎚県に改称したのは11月)は中央政府に軍隊の派遣を要請して鎮圧に当たり、首謀者と主要な参加者を捕縛しましたが、江藤新平法務卿の「良民に対して危害を加えた訳ではない」と言う判断で徒刑(懲役刑)になり、放火犯2名だけが死刑に決しました。
放火犯は江戸時代であれば一律に火炙りですが、明治政府は幕末に来日した外国人が斬首と獄門=晒し首、磔などを目の当たりにしただけでなく写真を撮影して母国に持ち帰ったため日本の刑罰が「残酷」=「非近代的」との批判を受けていることに苦慮していて、明治4(1870)年に西洋式の処刑方法である吊首刑を採用することを決定していました。しかし、吊首刑と言われても経験者がいないため素人の業者に器材を提案させた結果、今で言う懸垂用の鉄棒のような高い台に紐を掛け、片方を死刑囚の首に巻き、もう片方に20貫=約75キロの石の重りをつけて落とすことで首を吊る方式が採用されたのです。
こうして田中死刑囚は現在の松山市藤原町の徒刑場(=刑務所)で中央から通達された処刑方法の「重り石を架けて死相が現れてから3分後に縄を解く」と言う規定通りに執行されました。執行後、引き取り手がない遺骸は腑分け=解剖されることになっていましたが、田中死刑囚は遺族が希望したため引き渡され、棺桶に納めて荷車に載せて実家に向かって出発すると1里(4キロ)ほど進んだところで棺桶の中から呻き声が聞こえ始め、蓋を開けると蘇生していたのです。遺族はその事実を役所に通報しましたが、問い合わせを受けた中央政府は「刑の執行で処罰は満了しており、以降は通常の生活に復帰させろ」と回答したため田中死刑囚は放免されたのでした。ただし、余生については4年から26年まで諸説が伝わっていて墓所についても「あの竹藪のどこか」になっているそうです。
実際、懸垂用鉄棒方式の吊首刑では公式記録はないものの蘇生した事例が複数あり、2年後にはイギリス式の13階段を登り、床板が落ちて宙吊りにする死刑台方式に改められています(現在は平らな部屋の中央の床が落ちる)。なお、現在は30分以上吊るした後に医師が死亡を確認してから棺の中に下ろして火葬するので蘇生することはあり得ません。また、死刑囚は死刑だけが刑罰のため刑務所ではなく拘置所に収監されます。
  1. 2020/11/27(金) 12:52:28|
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振り向けばイエスタディ2109

杉本と本間は学生がインターネットに「座り込みで封鎖した」と書き込んだ交差点を見て回っている。すると主戦場が香港特別行政区政府庁舎周辺に移り、運動が長期化していることもあって全体的に人数は目減りしていて、見学者=野次馬が加わって体裁を整えている状態だった。各交差点の指導者の学生も背に腹は替えられないのか、多少は不審な点があっても受け入れざるを得ないようだ。そんな状態で週が変わると事態が急変した。
「貴方、代金を払いなさいよ」「うるせェ、俺たちはお前たちのために座り込みしているんだ。喰い物くらい出すのは当たり前だろう」その罵声は交差点から少し離れた食料品店から聞こえてくる。さきほど座り込みを終えた飛び入りの若者が歩いていった方向だ。
「ガシャーン」間もなく通りにガラスが割れる音が響き、女性が悲鳴を上げると男性の通行人が駆け寄って指導者の女子学生に声を掛けた。
「リーダー、座り込みしていた男が食料品を奪った上、店を壊しています」「そんなことって・・・」今までの整然とした座り込みに慣れていた指導者は座ったまま茫然自失してしまった。その周囲で立ち上がった自主的参加の若者たちが駆け出した。その後を現場を撮影していたテレビ局のアナウンサーとカメラマンが追った。
「止めに行ってくれた」誰もが安堵したところにさらに大きな破壊音を伴奏とする悲鳴の合唱が始まり、座り込んでいた学生たちは一斉に立ち上がって状況を確認した。
「バリーン」「キャーッ」「ガチャーン」「ヒーッ」若者たちは歩道に隠していた鉄パイプを振り回して周辺の商店のウィンドウと店頭に陳列されている商品を次々と粉々に叩き壊していく。その手際の良さはどう見ても破壊のプロの仕事だ。
「止めろ。我々の抵抗運動を非暴力とすることは何度も言ってあるじゃあないか」「そんなことをすれば行政区政府に弾圧の口実を与えることになるぞ」駆けつけた学生たちが暴れている若者を羽交い締めにして非難すると別の男が大声で叫び始めた。
「お前たちも我々と一緒に実力をもって傀儡政権を追い出せ」「圧政を許すな。今こそ香港人民の力を示すのだ」しかし、若者と学生の格闘を注視している市民たちは北京語の呼びかけに疑惑を抱いたらしく冷たい視線を浴びせているだけだ。すると若者は背後からしがみついている学生の腹を鉄パイプの端で突くと歩道で取り囲んでいる市民に殴りかかった。
「ウワーッ」「ギャーッ」頭から肩、背中を殴られた市民は歩道に倒れ、額に血を流して座り込んでいる者もいる。そんな情景をカメラマンは間近から中継し、記者が解説し始めた。
「香港の独立を求める学生たちの怒りが爆発したようです。封鎖していた交差点付近にある中国人が経営する店舗を破壊し始めました」そんなカメラの前で高価な腕時計や装飾品を両手に抱えて雑踏の中へ逃走する者も現れた。
「とうとう略奪も始まりました。これが民主主義の実態なのでしょうか。アメリカでも市民の抗議が暴動になることは珍しくありません」アナウンサーは略奪した犯人を特定しないで学生たちの運動を強調する。映像では同世代の暴徒と学生の見分けはつかない。「この映像を海外に発信すれば弾圧の正当性を証明できる」と言うのが中国共産党の思考論理だ。
その時、次の交差点に停めていたトラックから警察隊が下車して道路上で隊列を組み、徒歩で若者が暴れている歩道に近づいてきた。日頃は弾圧を受けている学生たちもこの時ばかりは警察による鎮圧と逮捕を期待していた。ところが警察隊の一部は若者を隠すように歩道に踏み入り、学生たちの顔に胡椒スプレーを吹きかけた。さらに本隊は交差点に向かった。
「今よりこの暴動を鎮圧する。お前たちは商店を破壊し、商品を略奪しただけでなく、多くの一般市民を暴行した。我々は1名も逃すことなく逮捕し、適切な刑に処する・・・やれ」指揮官の指示を受けて警察官たちは交差点に残っていた学生たちに襲いかかった。それは逮捕ではなく抵抗しない人間に対する一方的な暴行である。警察官は女子学生を守ろうと立ちはだかる男子学生を片っぱしから警棒で殴り倒し、逃げ惑う女子学生も襟首を掴んで引き倒すと足で踏んで地面に押さえつけた。それでいて今回も男女の担当区分は守っている。
「止めて。私たちは何もしていない」「そうだ、あれは我々の運動に紛れ込んだ知らない連中だ」指導者の女子学生と補佐役の男子学生が抗議したが、指導者は逞しい女性警察官に後ろで束ねている長い髪を掴まれて引き倒され、補佐役は顔に胡椒スプレーを念入りに吹きかけられて激しく咳き込んで動けなくなった。
「これはチベット弾圧の再現だな」「銃弾を使わない天安門とも言えるわ」驚くことに同じ台本の惨劇は各地の交差点で同時上演されていた。その1か所で観劇することになった杉本と本間は公共交通機関は使わずに長距離走で特別行政区庁舎に急いだ。
  1. 2020/11/27(金) 12:49:20|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ2108

フィリピン経由で香港に入った杉本と本間はホテルでの朝食を終えると動いている公共交通機関を乗り継いで学生たちが封鎖している特別行政区庁舎に向かった。特別行政区庁舎は香港島と九竜半島を隔てる水路沿いに在るが、本間は広東語の表示を読み、香港トラム(=市電)やバスの中のアナウンスを聞き分け、あえて警察官に質問をして何の支障もなく案内した。
「盧暁春(ルー・シァォチェン)に香港の隅々まで案内してもらったから土地勘はあるわ」旅慣れた日系アメリカ人の夫婦を演じるためGパンにラフなジャケットを着て手をつなぎながら歩いていくと次第に周囲の人の数が増え、やがてアメリカのニュース映像で見覚えがある香港特別行政区政府の庁舎が見えてきた。
「完全に包囲してるんだな」「それでも大人しく座り込んでいるだけだからバンコクとは逆ね」2人で調査したバンコクの反政府デモでは指導者の扇動に呼応して参加者たちが雄叫びを挙げ、遠巻きに静観している警察隊に毒づく者もいた。一方、香港では行政区庁舎の周囲をバリケードで固め、その中で看板を掲げた学生たちが整然と黙って座っている。騒いでいるのは応援団を気取る野次馬ばかりだ。そのためなのか必要性に疑問を感じるほど多数の警察官たちも身構えている様子はない。
「こちらは書き込みよりも人数が減ってるね」「指導者たちは分散して座り込むよりも庁舎前に集中させることにしたんだろう」行政区庁舎周辺を確認を終えると徒歩で商業地域の交差点に移動した。アメリカで見たインターネットの書き込み記事では9月28日の警察隊による武力弾圧以降は雨合羽や傘、ゴーグルとマスクで防護した自発的参加者が急増していたはずだが、広い交差点に座り込んでいる学生たちの密度はかなり下がっている。
「あれが自発的な参加者だね」杉本がスマートホンで画像を撮影していると本間が小声の日本語で呟いた。スマートホンの覗いたまま視線を向けると数人の見学者が学生たちの間の空いた路面に腰を下ろし、現場の指導者らしい学生が看板を持ってきて膝の前に置いた。
「続々と参加者が増えてきたぞ」「凄い人数ね」それを見て歩道から次々に見学者が交差点に入り、空いた場所に腰を下ろし始めた。これであれば学生たちが運動の手法として掲げている「座り込みによる封鎖」になりそうだ。
「それにしても追加の参加者たちは全員が短髪だな」「身体は学生にしては逞しいわね」「座り方も折り敷けだぞ」指導者が看板を配っているのを眺めながら杉本が違和感を口にすると本間も同調した。それにしても膝を立てた胡坐の「折り敷け」とは懐かしい。これは日本陸軍から陸上自衛隊と航空教育隊が継承した地上部隊限定の号令だ(海軍と海上自衛隊にはない)。
「彼らの会話を聞いてみるから」疑惑を共有すると本間は杉本の腕に自分の腕を絡めて歩き始めた。交差点を渡って向かいの商店に行く歩行者を演じて背後を通るつもりらしい。
「間違いなく北京語よ」「そうか、人民解放軍だな」商店に入ると周囲に店員や客がおらず、防犯カメラから遠い通路で本間が報告した。2人が背後を通過した時、座っている自主的参加者は振り返って確認したが、その眼は異様に鋭かった。
「倉田さんが死んだラサの騒乱でも人民解放軍の兵士がチベット僧に化けて漢人の商店を破壊して店主や家族を殺したんだ。それを口実にして僧侶を大量に殺して僧院を破壊した。今回も同じ手を使うつもりじゃあないのか」同僚で工藤の後任に予定されていた倉田=村田を敬愛していた杉本にとって2008年3月のラサでの謀殺は許し難い凶事である。しかし、中国共産党はそれを罪とはせず、ここでも繰り返そうとしているようだ。
「結局、中国共産党は天安門の後、鄧小平が『中国には十億の人民がいる。そこに紛れ込んだ千や万の不純物を排除することは巨大国家を統治するのに必要な処置だ』と言ったままの感覚なのよ」本間にとっては大学時代に愛し合った留学生の中央道(ゾン・ヤオドウ)が殺された1989年6月4日の第2次天安門事件に重なっていた。
「中国は十分な準備期間を置いてから実行に移すから学生たちがあの自発的参加者に慣れて気を許してから実行に移すんだろう。おそらく来週だな」杉本の見解に本間もうなずいた。確かに中国共産党の指導部には選挙制度がないため結果を出す期限はなく、当事者の関心が薄れるまであえて手をこまねき続け、機が熟し切ったところで一気に断行する。その時には世論工作を含め準備は万端整っているのだ。
「こちらで取材しているマスコミが引き揚げた頃だ」「学生のインターネットの書き込みじゃあ駄目なの」「そんなものは簡単に遮断できるだろう」本間は盧暁春が自宅に盗聴器と監視カメラが設置され、電話を盗聴、郵便物も開封されていることを前提に生活していたことを思い出した。盧暁春は愛人との性交中の喘ぎ声を監視している人間に聞かせて愉しんでいた。
  1. 2020/11/26(木) 13:24:40|
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振り向けばイエスタディ2107

ワシントンでも木々の葉が舞い散って秋から冬に進んでいることを実感する季節になった頃、松山1佐は日本大使館の防衛駐在官・渡辺将補を訪ねていた。
「ウチの杉本と今田(本間の偽名)から申請があった香港への新婚旅行を許可したいと思います」「公務出張を報告するなら回りくどく別件で脚色する必要はない。早い話が香港の現状を確認に行くんだろう」「はい、しかし、実際に新婚旅行も兼ねさせようと思いまして」渡辺将補は女性事務員が出した熱いコーヒーのカップで手を温めている松山1佐にしては珍しく婉曲な言い方を嗜めたが、意外な理由を補足説明した。
「香港ではデモが拡大して行政府も弾圧に本腰を入れているようだが、我が国を含む各国の領事館には危険防止を理由に行動制限を掛けているから思うように情報収集ができないようだ」「外交官が自分の安全を考えずに現地に入れば逮捕はされないはずですが、相手が中国では流石の加倍政権も躊躇していると言うところですね」「政府としては領事館の安全確保のために北京の大使館から在外公館警備官を派遣しようとしたのだが、それも拒否されたらしい」「やっぱりスパイを疑っていますな」松山1佐の鋭い見解の連発に渡辺将補は苦笑いしながらコーヒーを口にした。外交官には「外交関係に関するウィーン条約」によって「身体の不可侵=逮捕・拘束・勾留の禁止」」「刑事・民事・行政裁判権の免除」「関税を含む公租・公課及び社会保障負担の免除」「被刑事裁判権・証人となる義務等の免除」「保護義務」の特権が認められており、各国の外交官はこれらを駆使して情報収集に当たっているのだが、国際連合の常任理事国である中国は「安全確保」「病気の感染予防」「混雑からの回避」などを理由にして行動制限を加えることを常套手段にしている。
「それならばフィリピン経由で香港に入るのが適当ですね。今田は11年前に香港に行っていますが、中国の情報の保存には自由主義国のような費用対効果の発想はありませんから10年以上使用実績がなくても破棄することはないでしょう。別人格の在アメリカ日系人の夫婦として行ってもらいます」「確かにフィリピンとは外交では対立しているが、貿易は活発だから入国制限も緩いはずだ」中国とフィリピンは南沙諸島の領有権を巡って厳しく対立していて華僑の血統のベニグノ・アキノ大統領は裏切り者呼ばわりされている。そのため2013年11月の超巨大台風30号で壊滅的な被害を受けながら中国の支援は病院船の接岸と物資を受け入れただけだった。それでも在フィリピン華僑たちは復興のための建設資材を大量に輸入しており、人の交流も活発になっている。
「管(くだ)官房長官も前回のシリア潜入を拒否されたことで君たちの国家に対する忠誠心に不信感を抱いたかも知れないから、こちらから申し出はその面でも有益だろう」「政治家にとっての利用価値だけで忠誠心を評価されるのは心外ですが、本人たちもやる気になっていますから期待してやって下さい」渡辺将補の見解に松山1佐もうなずきながら答えた。日本発の海外向け報道番組で見る管官房長官は少し抜けたような大きな垂れ目が印象的な加倍首相とは逆にいかにも秋田の農家の息子らしい相手の腹を探るような陰湿さを感じるが、そこが最高権力者を補佐するナンバー2としては適任なのかも知れない。
一方、7月28日にシリアで日本の軍事業者の須川有名(あるな)がISに拘束されたことが公表されたのは8月中旬だったが、その後、日本では4月にイラクからシリアに潜入した須川が反政府武装組織の自由シリア軍に拘束された時、通訳として交渉に当たって救出したジャーナリストの後堂健仁(ごどうけんじん)が10月下旬になって出国し、トルコ経由でシリアに潜入してISに拘束されたことが判っている。管官房長官としては松本が同じ状況に陥った可能性よりも「あの時、詳しい情報を得ていれば」との不満が先に立っているのではないだろうか。
「香港には盧暁春(ルー・シァォチュン)って言う同士がいたんだ。凄い美人だっから貴方に合わせたら危なかったわ」年末年始休暇前の香港への出張=旅行が決まり、アパートで準備を始めた本間は隣りで荷造りしている杉本に思い出話を始めた。
「その人はまだ香港にいるのか」「ううん、上海国際博に紛れて中国本土に潜入して北京市内で行方不明になったわ。直属上司だった台湾の王中校は『抹殺された』って言ってたけどあんな美女が拘束されれば・・・」本間は中国史の中で美女たちが辿った凌辱と拷問の末の惨殺を思えば当然予想される同士の最期は口にしなかった。
「今回、私は貴方と一緒だから安心よ。でも殺される時には一緒が好い。手を握って死んでね」「馬鹿野郎、俺と一緒に帰って晴着で新年を迎えるんだろう。向うで本場のチャイナ・ドレスも買ってやるぞ」本間は杉本が愛したクミコ・トミタ少佐を処理したことで自分の運命を自覚したようだ。しかし、杉本はすでに本間を人生の伴侶、任務の相棒として前を向いていた。
盧暁春0イメージ画像(盧暁春)
  1. 2020/11/25(水) 13:13:30|
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11月25日・国連でアジア人の能力を証明したウー・タント事務総長の命日

1974年の明日11月25日は国際連合史上初の非ヨーロッパ人で非キリスト教徒だったミャンマー人のウー・タント第3代事務総長の命日です。最初に補足すればミャンマーには苗字がなく「ウー」は日本語の「君」や「殿」に当たる男性用の敬称です。
ウー・タント事務総長は1909年にイギリス領だった現在のミャンマーのパンタナウでインドと中国の血統の家庭で生まれました。一族はイスラム教徒でしたが本人は敬虔な佛教徒になっています。パンタナウの高校を卒業してヤンゴン大学では歴史学を専攻し、卒業後は母校の教師になり、26歳の若さで校長に抜擢されました。同時にフリー・ジャーナリストとしても活動し、新聞や雑誌に寄稿しながら翻訳書を数冊出版しています。
第2次世界大戦後の1948年1月4日のミャンマー独立により高校の教師時代の知人のウー・ヌ(ウーは敬称)が大統領に就任すると放送局長、情報局長、経済社会局長などの閣僚を歴任し、1955年4月にインドネシアのバンドンで開催された第1回アジア・アフリカ会議に出席しました。そして1957年に駐アメリカ大使としてワシントンに赴任すると国際連合のミャンマー政府代表も兼務しましたが、1961年9月18日にダグ・ハマショールド事務総長が航空機事故で死亡したのを受けて11月3日の安全保障理事会で事務総長代理に指名され、1962年11月30日の国連総会で正式に事務総長に選ばれて1971年12月31日までの2期を全うしたのです。
在任中にはベルギーの過酷な植民地政策から解放されたコンゴで発生した内戦が米ソの代理戦争の様相を呈すると国際連合が積極的に武力介入することで解決に導き、キューバ危機では軍事行動に向かうアメリカに自制を促しながらソ連との直接交渉を仲介しています。その一方でクリスチャンの南ベトナムの首相が佛教徒を弾圧していることに懲罰的対応を取ったことで北ベトナムとの紛争に介入を企図していたアメリカのキリスト教保守派と対立し、アジア・アフリカ会議の提唱国である共産党中国の国連加盟を実現するなど自由主義陣営から見れば必ずしも評価できない点もありますが、どちらの陣営の利益代表でもなく、国際社会の正義と秩序を追及する国際連合事務総長の立場を考えれば「当然」と言うべきでしょう。
国際連合では日本の徳川幕府の老中が家格は高くても石高は小さい譜代大名から選ばれていたのに倣った訳ではないにしても、正式に発足した後の事務総長はノルウェー、スウェーデン、ミャンマー、オーストリア、ペルー、エジプト、ガーナ、韓国、ポルトガルといわゆる大国と言われる国以外から選出されており、その中でも発展途上国(当時は後進国)の人物が極めて有能であることを実証したウー・タント事務総長がその後のアフリカ、南アメリカの事務総長に道を開いたのでしょう。ただし、韓国の潘基文事務総長はイラクからシリアへ越境逃亡したイスラム過激派をクルド人の「難民」と思い込んで人権委員会に対応を任せ、有志連合軍が要求するISを樹立するのを阻止するための軍事介入を拒否するなど公私混同人事と共に「国連史上最悪・最低」との汚名を残しましたからアジア人の事務総長は当分出ないかも知れません。
  1. 2020/11/24(火) 13:11:59|
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振り向けばイエスタディ2106

今年の秋は国際刑事裁判所に着任した時にオランダ陸軍参謀本部を訪問し、ミッフィーの作者のディック・ブルーナの出身地でもあるユトレイヒトの植物園へ江戸時代前期の長崎出島商館の医師・ケンペルが日本から持ち帰り、氷河期に絶滅していたヨーロッパに広めた銀杏を見に出かけた。沖縄出身の梢が木の葉が色ずくのを見たのはオランダに来てからなので紅葉巡りも毎回感激してくれて嬉しい。それでもヨーロッパ人にとって紅葉は生命の衰えを感じさせるので四季の移ろいを愛でる日本人のように美しさを鑑賞する気分にはならないそうだ。おまけにヨーロッパの楓=メープルは日本のような鮮烈な赤には染まらず単なる枯れ葉のような色だ。尤も沖縄のクスノハカエデは常緑樹で、葉っぱも名前の通り樟の木のような舟形のため本当に楓なのか疑ってしまう。そんな秋を満喫している私のところに日本から電話が入った。
「グッド・モーニング、ルテナン・カーノー・モリヤ、スピーキング(おはよう、モリヤ2佐ですが)」「もしもし、日本から玉城曹長です」朝食前に新聞を読んでいるところだったので「おはよう」と挨拶したが、サイドボードに置いてある日本の時刻を表示させている時計では松真曹長は午後の課業時間中のはずだ。
「平日に私用の国際電話をしていて大丈夫か」「今日は警衛隊長明けです。自宅で仮眠して目が覚めたところで電話しました」どうやら時差を計算した訳ではないらしい。
「それでは改めて。仲人さん、息子夫婦がお世話になっています」「八重山の雲島に家を借りて引っ越したって聞いていますけど、休暇は南城の実家に帰るだけで精一杯なのでまだ顔を見に行けてません」元義弟の松真・美代子夫婦には淳之介とあかりの仲人を務めてもらっているが、親でさえ顔を出していないのに頼まれ仲人に謝られてはこちらが申し訳なくなる。
「それで何か急用かい。まさか仲人さんが離婚するんじゃあないだろうな。日本では弁護士だったがこっちでは検事だから離婚調停は専門外だぞ」「そんなァ、ネエネとは違いますよ・・・これは失言でした」松真を含む玉城家の4人姉弟で離婚しているのは3女の美恵子だけだが、その1度目の相手は私なのだ。確かにこれは大変な失言だが、考えようによっては私と美恵子が結婚していた過去が玉城家でも風化していることにもなる。
「実は香港で起こっているデモについてニイニなら詳しい情報を掴んでいるんじゃあないかと思いまして」「香港の学生が次期長官を普通選挙で決めろと要求している問題だな。日本では相変らずなのか」「はい、マスコミは中国の顔色を窺って詳しいことは報じていません」私自身は2008年にチベットで起きた僧侶に化けた人民解放軍による大量殺人事件に関わっているので日本のマスコミの隠蔽工作は熟知している。
「香港については常任理事国の中国が内政問題にしているから国際刑事裁判所は関与していないんだ。中国は台湾と戦争になっても内戦として国連の介入を拒否するつもりだが、香港は正式に返還を受けた自国領だからやりたい放題だぞ」「国際問題って複雑なんですね」松真は日本では誰も口にしない事実を聞いて重々しく返事をした。
「それにヨーロッパでは旧宗主国以外はアジアに対する関心が低いから情報量は日本と大差はないんだ。強いて言えばイギリスのテレビが取り上げてはいるが、長引く不況の間に主要な企業の株式を買い進められていて中国の顔色を窺っているのは日本と同様だ」「中国はヨーロッパにも進出してるんですか」「統合してEUになってアメリカに対抗できる存在になった頃に中国は経済発展したからその潤沢な国家予算でヨーロッパの企業の株式を買い占めた。おまけに学会を援助して工業技術や研究成果を自国に送らせたんだ。だから中国の科学技術が異常な早さで発達しただろう。中国空軍の最新鋭戦闘機はロシア製の機体にミラージュの電子装置を搭載してるらしいぞ」「へーッ、そのネタは今度の授業で使わせてもらいます」専門分野の情報に松真は興味を示したが、私としては今日は出勤するつもりなので長話はできない。
「今でもヨーロッパにとっての脅威は旧ソ連の軍事力を引き継いだロシアであってソ連と敵対していた中国は味方と言う意識があるから馬鹿みたいに気を許している。その上あの中国がヨーロッパでは国際ルールと言うよりもヨーロッパ流のマナーを厳格に守って行動しているから許し難いほど信用されてるんだ。特にバチカンに巨額の寄付をして教皇の信任を買い取っている。マルクス主義は宗教を認めてないが、国際的な信用を獲得するのに利用できるとなれば悪魔も帰依するポーズを演じるらしい」「そんな国で商売していて大丈夫かな」ここで松真が本題を口にした。要するに姉の美恵子が香港で暮らしていることへの見解を聞きたいのだ。
「自分の店が持てるからって香港に行ったんだ。夢を果たした見返りに殺されるなら本望だろう。自衛官なら職に殉ずる喜びを理解するべきだな」「どうも有り難うございました」私の冷たく厳しい見解を聞いて松真は力なく返事をして電話を切った。
クスノハカエデ(沖縄)クスノハカエデの葉
  1. 2020/11/24(火) 13:10:44|
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振り向けばイエスタディ2105

「最近、随分熱心にネットを見てるけど中古マンションでも探してるの」日本では秋本番を実感している頃、浜松基地の東三方官舎の玉城家で夕食後に炬燵でパソコンに見入っている松真曹長に台所から妻の美代子1曹が声をかけた。その後も松真曹長は第1術科学校の教官、美代子1曹は第1航空団補給隊で勤務している。実は沖縄の玉城家の1人息子である松真曹長は北海道出身の美代子1曹と結婚しているため静岡空港が開港し、札幌と那覇への定期便が就航したのを期に中間に位置する浜松でマンションを探し始めたのだ。
「そっちも調べてるけど、それよりも香港のデモが気になってな」日頃は政治には無関心な松真曹長の意外な答えに台所仕事を終えた美代子は歩み寄って背後からパソコンの画面を覗いた。すると若い女性が流暢な日本語で熱弁を奮っていた。
「この娘(こ)は誰、香港のアイドルでしょう」「この娘は学生団体のスポークスマンの周庭さんだ。通訳なしで日本人に現状を解説してるんだよ」松真曹長の説明で誤解を解いた美代子1曹は隣りに腰を下ろして一緒に解説投稿を見ることにした。
「日本のテレビじゃあ観光と経済への影響くらいしか報道してないけどかなり学生が暴れているのね」周庭の解説が途絶えて画面には若者たちが店舗に押し入り、商品を両手に抱えて奪いする映像が流れている。そこで解説が再開した。
「我々は全ての参加者の氏名、年齢、連絡先、大学と高校、顔を把握していますが、この暴徒たちには該当者がいません。つまり我々の運動に便乗した第3者か・・・特別行政政府は我々が要求する選挙による次期長官の選任を拒否する理由として貧民階層の影響力が政治に及ぶことを挙げていますから政府が貧民階層の凶暴性を演出している可能性もあります」これがプロのアナウンサーであれば言葉は中立でも表情や口調、声で批判と賞賛、悲しみや怒りを巧妙に印象づけるのだが、周庭は素人なので朗読調に解説するだけだ。
続いて場面は警察隊の弾圧に変わった。重武装の警察隊は隊列を組んでTシャツにGパンの軽装に雨合羽を羽織っただけのデモ隊に突進し、ゴーグルやマスクを奪いながら顔にスプレーを吹きかけていく。さらに咳き込んで倒れ込んだ参加者たちを取り囲んで足蹴にしている。よく見ると女子学生を痛めつけているのはヘルメットから長い髪を出して制服の胸が膨らんだ屈強そうな女性警察官だ。その点も抜かりはないらしい。
「我々を弾圧している警察官の人数を通算すると香港警察の総数を大幅に上回っており、中国共産党が人民解放軍の兵士を投入している可能性が高いのです。なお、返還時のイギリスと中国共産党の協定で人民解放軍は香港の領域内に立ち入ることはできません」「そんな馬鹿なァ。政府がそんなことしたら危なくて住めないじゃない」「それが中国なんだよ」美代子1曹の庶民的感想に松真曹長は一段上から反論した。松真曹長は40歳代半ばで曹長に昇任したため上司から3尉候補者として幹部になるように勧められている。この会話でも標準的空曹と思われる美代子1曹との思考レベルの格差を実感した。
「美恵子ネエネは香港のどの辺りに住んでるのさァ」数日後、南城市の玉城家に松真曹長から電話が入った。玉城家の両親が1人息子の航空自衛隊志望を許したのは将来、那覇基地に帰ってくることを期待していたのだが、今では浜松でマンションを買うことを考えているらしい。しかし、今日の話題は実家とも音信不通になっている美恵子についてだった。
「美恵子は『もう連絡しない』って言い残して出ていったから住所は知らないよ。急にどうしたねェ」電話に出た母は唐突に松真が連絡してきたことに困惑していた。
「今、香港はとんでもないことになってるんだ。知らないねェ」「こっちのニュースでは何も言ってないけど・・・」母の返事を聴いて松真は沖縄のマスコミが宗主国と仰ぐ中国が不利になるニュースを流すはずがないことを思い出した。
「香港では行政長官の選挙を要求している学生が市内の交差点を占拠してるんだけど10月からは政府庁舎の包囲を始めて警察と衝突するようになったんだ。最近は警察が暴力的に逮捕して、それに関係ない市民も巻き込まれているみたいだからネエネが巻き込まれていないか心配になったんだ」確かにテレビの報道番組で香港の学生の座り込みの映像を見た記憶はあるが、沖縄の普天間基地を辺野古に移設する計画に反対する活動家たちが海岸で座り込んでいるようなある種の行事だと思っていた。
「本土のテレビじゃあ詳しく知らせてるねェ」「ううん、ニュース番組で観光や経済への影響について少し触れるだけだ。新聞では結構詳しいけどインターネットほどじゃあない」今では母もインターネットを利用するようになっているが国際政治の情報までは閲覧していない。一方的に絶縁を宣言して出ていっても美恵子は玉城家にとっては心配の種であり続けるようだ。
周庭・96・12・3(香港)周庭(新聞記事から転用)
  1. 2020/11/23(月) 12:58:54|
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11月22日・T-33A入間川墜落事故

1999年の11月22日に埼玉県入間基地所属のT-33A連絡機がパイロットの年次飛行を終えて帰投中にエンジンの不具合が発生したため周辺の住宅などに被害を及ぼさないように入間川沿いを飛行して住宅地にあるゴルフ場に墜落する事故が発生しました。
この事故ではテレビのニュースが「事故機によって高圧電線が切断され、大規模な停電が発生している」との第一報でTー33Aを練習機と説明し、「未熟なパイロットの操縦ミスの可能性がある」と事実無根の推測原因をつけ加えましたが、搭乗していたのが5228時間の飛行時間を有する元飛行隊長で47歳の2佐と飛行時間は6492時間で千歳基地ではバストガイの称号を獲得している48歳の3佐の超熟練パイロットであることが判明すると訂正に追われ(2000時間以上がベテラン)、弁解のように「住宅地に被害が及ばないようにするため脱出が遅れた可能性が高い」と補足するようになりました。
航空自衛隊では昭和46(1971)年7月30日に松島基地所属のF-86F練習機(機体は戦闘機でも使用目的は練習機だった)が全日空の最新鋭旅客機・ボーイング727に追突された事故で旅客機の乗員と乗客162名が全員死亡しながら自衛隊のパイットが脱出して生存していることが批判の対象になり、以来、航空自衛隊では緊急時の脱出が封印されてパイロットは機体と運命を共にすることが義務づけられ、航空機整備員たちは「故障がパイロットを殺す」と言う重大な責任感を負って人間技以上の完璧を期すことになりました。それでも運輸省(当時)の事故調査委員会はパイロットが地上の安全を確保するため脱出することなく空き地に機体を墜落させると「墜落を回避する努力を怠った」と断定し、殉職者の犠牲的精神に石礫(つぶて)を投げ、泥を塗りました。
この事故ではパイロットに義務づけられている飛行時間を消化するための年次飛行として13時2分に入間基地を離陸し、30分間の訓練飛行を終えて帰投するため入間基地の管制隊と通信設定した直後の13時38分にマイナートラブル(日常的な不具合)の発生を通報してきました。この時の管制官の状況確認には日本語で振動と異音、オイル臭を伝え、ほぼ同時に操縦室内での発煙と最短距離での着陸を要求し、13時40分には緊急着陸(エマージェンシー)を宣言しました。その後、パイロットたちは高度の維持と機体の安定に努力しながら入間基地に向かいましたが、高度が急速に下がったため「着陸は不可能」と判断して航空自衛隊のパイロットの死に際の作法通りに空き地を探し、入間川近くのゴルフ場に機体を向け、手前の高圧電線に接触させる直前に脱出しましたが、すでに高度は60メートルを切っていたため落下傘による落下速度の制御が及ばず地面に叩きつけられて即死したのです。
この事故で東京電力の高圧電線が切断されたため埼玉県南部と東京都西部の約80万世帯が停電し、道路信号や鉄道にも大きな影響を与えましたが、機体がゴルフ場に墜落していなければ前方の住宅地や狭山環状有料道路に被害が及び17時までに復旧した停電の迷惑とは比べ物にならない犠牲が発生した可能性がありました。さらにニュースで2人の命を賭けた被害回避努力が報じられていたため事故への批判は過去に例がない控え目さでした。この事故で航空自衛隊創設時以来の老朽機・Tー33Aは用途廃止になりました。
  1. 2020/11/22(日) 12:43:48|
  2. 自衛隊史
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振り向けばイエスタディ2104

10月9日になると香港特別行政区政府は次第に中国共産党としての本性を露わにしてきた。先ず学生側が市民に第1回対話の予定日の10日に政庁前の幹線道路に集まるように呼びかけていることを察知して3条件を前提にした対話の拒否を発表した。それでも10日の夜には多くの市民が幹線道路に集まり、民主的な選挙を要求する集会が始まった。時間の経過と共に参加者は15000人を超えた。
「チンシュウ・シュンニュウ=継続占領(=占拠を続けろ)」集まった市民は誰が始めるでもなく合言葉のように叫び声を繰り返し始めた。その声を反響させている特別行政区庁舎の高層ビルのブランドを上げた部屋の窓では照明を遮って多くの人影が見下ろしている。
群衆の「継続占領」の連呼が収まると学生が1人、特別行政区庁舎の正面に立ち、割れんばかりの拍手と歓声を受けた。学生団体の事務局長で香港大学の周永康だ。香港大学の名誉総長は特別行政区長官が務めている。つまり大学のトップの足元で演説するのだ。
「多くの人々が我々に諦めて帰れと言ったが、10年から20年後に歴史を振り返った時、香港の民衆は今新たな歴史を切り開いていることが判るだろう」周はハンドマイクで演説したが、後半は地鳴りのような歓声で聴き取れなかった。
続いて学生団体の代表で香港公開大学の黄之鋒が中央に歩み出た。黄は特別行政区の教育局が中国共産党への忠誠心を愛国心教育と称して義務教育に加えようとした時、高校生でありながら抵抗運動の先頭に立ち、名と顔を売っているため群衆たちも黙って発言を待った。
「政府庁舎前の道路にテントを持ってきて長期占拠で我々の粘り強さを示そう」内容は肩透かしだったが、再び「継続占領」の歓声が湧き起こり、暴徒と化すのも時間の問題に思われた。すると群衆の前に並んでいる学生たちが声を揃えて唄い始めた。
「戦う者の歌が聞こえるか 鼓動があのドラムと響き合えば 新たな熱い命が始まる・・・」これは大ヒットしたミュージカル「ラ・ミゼラブル」の劇中歌「ザ・ピープル・ソング(=民衆の歌)」の広東語版で、群衆たちも間奏が入る部分から唄い始めた。
「明日が来た時 そうさ明日が 列に入れよ 我等の味方に 砦の向うに世界がある 戦えそれが自由への道 戦う者の歌が聞こえるか」満月翌日の明るい夜空に群衆の叫びのような歌声が響き渡った。それにしてもミュージカル「ラ・ミゼラブル」の劇中歌を知っていると言うことは集まっている群衆の知的水準と階層がかなり高いことを示しているのではないか。
群衆がそのまま幹線道路を封鎖すると15日の深夜になって保安局が「占拠の違法」を宣言した。同時刻に警察のトラックが学生と市民が設置したバリケードの周囲に停車し、重武装した数百人の警察官が下車すると編制を執ることもなく手当たり次第に破壊を始め、中にいた参加者の顔に胡椒スプレーを吹きかけた。
「俺のゴーグルを返せ・・・ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」「目が潰れる。止めろ」警察官たちは参加者が催涙ガスや胡椒ガスに備えて持参していたマスクとゴーグルを手際よく奪いながら至近距離からスプレーを吹きかけていく。これは事前に訓練していたとしか思えない。
「我々は無抵抗だ。暴力は違法だ」参加者たちが政庁舎の反対側の公園に逃げるとそこでも軽装の警察官が待ち構えていた。5日間で半月になっている薄い月明りの中でも逃げる参加者を無言で捕え、数人で押さえつけて袋叩きにする。遊歩道上に押さえつけられて殴られている参加者の目には公園の各所で黒い影が小山を作って地面=参加者を殴り蹴りしている光景が映り、それが天安門広場で繰り広げられた地獄絵図に重なった。
「私は英界日報の記者だ。君たちの行動を公表するぞ」公園には香港の新聞社の記者も逃げたが、暗い木立から現れた2人の警察官が立ちはだかった。身分を口にしても無反応で腹に蹴りを入れ、うずくまった記者の脇腹を両側から蹴り続けた。朝になって動けるようになった記者は出社して体験談として記事を書いたが編集長が却下した。
また非公認の政治団体の党員が警察官に手足をビニール製のストラップで縛り上げられ、暗い建物の影に連れ込まれて暴行される一部始終を民間テレビ局が暗視カメラで撮影していたが、朝のニュースでは解説つきで報道したものの昼には音声が削除され、学生たちが録画しておいた最初のニュースをインターネットに投稿した。
「今回のニュース映像の音声削除は我が社の上級管理職の命令によるもので、報道の内容は記者個人の立場や感情とは関係なく、単に事実だ」夕方になってテレビ局の記者27名が連名でインターネット上のニュース映像に意見を書き込んだ。おそらく中国国内であれば共産党の情報統制が完璧に機能して情報が漏洩することは一切ないのだろうが、香港のイギリス直伝の民主主義の成熟度はそれを許さない。それでも日本のマスコミは自発的に報道規制していた。
  1. 2020/11/22(日) 12:42:27|
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11月21日・タラワ守備隊司令官・柴崎恵次少将が戦死した。

昭和18(1943)年の11月21日に始まったギルバート諸島タラワ環礁ベティオ島でのアメリカ軍の海兵隊の上陸作戦で元航空陸戦士官として野僧が尊敬する海軍陸戦隊指揮官の1人・柴崎恵次少将が戦死しました(戦死公報は11月25日付)。
柴崎少将は日清戦争が終わった明治27(1894)年に現在の兵庫県加東市で生まれ、旧制小野中学校を卒業して海軍兵学校に43期生として入営しました。大正4(1915)年に96人中29位の成績で卒業すると航海科士官として戦艦、巡洋艦、駆逐艦から給油艦、測量艦、河川用砲艦までの各種艦艇を渡り歩きました。
平時の海軍陸戦隊士官の人事は基本的に鎮守府付として発令され、柴崎少将も呉と横須賀で経験を積んだ後、昭和12(1937)年に呉鎮守府先任参謀として豊予要塞と下関要塞、由良要塞の参謀を兼務し、昭和14(1939)年に漢口方面特別根拠地隊の副長兼参謀、昭和16(1941)年に支那方面艦隊司令部付で上海海軍特別陸戦隊と上海根拠地隊の参謀長、昭和18(1943)年に呉防備戦隊司令官の軍歴を重ねていきました。
アメリカ軍がギルバート諸島を攻略目標としたのはアリューシャン列島とソロモン諸島で勝利してからの太平洋全域を制圧する大戦略の中、マックアーサー元帥がニューギニアからフィリピンに迂回北上するカートホイール作戦を主張したのに対してニミッツ元帥は太平洋の島々に日本軍を残存させる危険を排除するためハワイから離島守備隊を壊滅させながら西に向かう作戦を提案し、統合参謀本部が採用したことによりました。一方、日本軍は開戦直後に奪取したギルバート諸島の重要性を認識しておらず、わずかな守備兵を置いただけで放置していたのですが、昭和17(1942)年8月17日にアメリカ軍が潜水艦で221名を上陸させる奇襲陽動作戦を実施したことで再認識して、横須賀の第6特別陸戦隊と設営隊を配置して大規模な陣地設営を開始すると昭和18(1943)年2月15日に第3特別根拠地隊を編成(第6特別陸戦隊の改編)した上に3月12日には佐世保の第7特別陸戦隊を加えた陸戦隊2600名と設営隊2200名(大半は軍属の土木作業員で1200名は朝鮮人労働者)に増強して、7月に第3特別根拠地隊司令官として柴崎少将を赴任させたのです。
この戦闘では戦艦、重巡洋艦、軽巡洋艦、護衛空母、駆逐艦からなる艦隊が激烈な艦砲射撃を加えた後、日本軍の10倍近い35000名の第2海兵師団が水陸両用車で上陸を目指しましたが、日本軍の陣地は椰子の巨木を積み重ねた堅牢なものだったので砲撃に耐え、450メートル沖の珊瑚礁を超えた時点で激しい砲銃撃を浴びせて第1波はほぼ全滅させました。ところが柴崎少将は艦砲射撃による負傷者が予想以上だったため司令部壕を救護所に使わせることに決め、新たな指揮所に移動したところに砲撃を受けて戦死しました。守備隊は自分たちのために戦死した司令官の温情に応えて勇戦し、アメリカ海兵隊をして「地獄のタラワ」と呼ばせる大損害を与えたのです。アメリカ兵は悲惨な損害による恐怖と憎悪から土木作業員も無差別に殺害しました(捕虜は160名)。
  1. 2020/11/21(土) 13:12:25|
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振り向けばイエスタディ2103

「ウチの商売も大損害さァ」その頃、美恵子は店の前のアプローチから道路を見下ろしながら怒っていた。9月26日に学生たちがデモと座り込みを始めた頃は中心部の交差点だけが封鎖され、そこを迂回すれば車両の通行は可能だったが、9月28日の夜に警察が強制排除してからは逆に一般市民の参加者が急増して座り込みが幹線道路にまで広がり、この地域でも役人たちの自動車出勤や公用車の運行が不可能になっている。
「そろそろ髪を切りに来るはずのお客さんが音沙汰なしなのはお役所の仕事が忙しいんだよね。学生が何に怒ってるのか知らないけれど親のお金で勉強させてもらっているのに働いている人にはいい迷惑さァ」美恵子は常連客のカルテを確認しながら怒りを再燃させた。沖縄の小中高校では教師が日常的に語る「反アメリカ軍反自衛隊」の「反戦平和」を信じていたがそれ以上の興味はなく、理容学校に入って航空自衛官のモリヤ3曹とつき合うようになるとデート中も熱く語る使命感に共鳴して自衛隊支持者になった。ところが転属した防府では出産・育児に追われて理容師としての仕事から遠ざかり、理解者だったモリヤ3曹も体育学校への入校と幹部候補生の受験で積極的に協力しなくなって愛情が冷めるのと同時に自衛隊に対する嫌悪感も抱くようになった。そして本格的に仕事を再開した善通寺で出会った矢田3曹はモリヤ3尉とは違い自衛隊を単なる職業=収入源と割り切っていて政治的認識には美恵子と大差はなく、そのままノンポリティカル=政治的無関心が固定されてしまった。
「警察は社会に迷惑をかけている人間をドンドン逮捕して座り込みを止めさせれば好いのさァ」香港の新聞は9月28日の強制排除は短い文章の記事だけで写真は載せていなかった。テレビでは「交差点の封鎖が解消した」とだけ報道していた。したがって学生がインターネットに投稿した動画を閲覧していない美恵子が事実を知るはずがない。美恵子がインターネットで見るのは日本のヘアメイクとファッションの専門サイトと昔味わった快感を思い出して性欲を解消するためのAVだけだ。当然、その後は自慰行為に耽ることになる。
「警察が無理なら大学が勉強しない学生を全員退学させれば良いのさァ。それとも親が『授業料が勿体ない』って怒りに行けば良いさ。オカアが泣いて頼めば一緒に家に帰るよ」古今東西を問わず権力者と反体制の活動家は美恵子のようなノンポリの庶民を扇動することで社会を思う方向に動かしてきた。その一方で学校教育制度が確立した近代以降は教育や報道、芸能を使って政治信条を植えつける洗脳も横行している。
10月4日土曜日の午後、香港島の中央部で官公庁と商業施設、そして上流階級の高級住宅の回りに庶民の住宅街がある金鐘中心部の交差点を座り込みで封鎖している学生たちのところに香港理工大学、香港港浸大学、香港科技大学、嶺南大学の学長と嶺南大学付属の教育学院の校長が訪れた。学長たちは学生たちを激励し、食料などの集積所を確認して帰ったが、続いて香港地区内の8つの大学の学長たちが連名で学生たちに解散と学業への復帰を求める声明を発表した。これは学生たちの学籍を握る立場からの警告でもあり、裏社会の人間に殴らせて恩師に頭を撫でさせた後の脅しのようだ。何にしても相手の動揺を誘うのは孫子の兵法の常套手段だ。そんな中で香港の大学の最高峰である香港中文大学の学長が談話を発表した。
「君たちの犠牲と君たちの愛は香港の心である。我々は全てを見て、全てに感動した・・・私は父親の気持ちで君たちにお願いする。どうか無駄な犠牲を出さないで欲しい。君たちが引き下がっても失敗したのではないのだ」脅しながらも自尊心を刺激するを忘れない。ここまでの一連の動きを指揮している行政区政府の人間はかなり心理戦に熟練しているようだ。
しかし、学生の指導者たちは辛亥革命から国共内戦を経て文化大革命、第2次天安門事件など現在までの中国共産党の思想弾圧と懐柔策を研究し抜いているので術中にはまらないように仲間たちには先行的に注意を与えていた。
「政庁が学長を使ってきたのは『我々が恩師の呼びかけにも背く暴徒』と言う悪い印象を流布するためだな」「ならばこっちも真似させてもらおう」「我々が歩み寄ったのを政庁が拒否したとなれば悪役を返納することができる」翌10月6日の朝に学生たちの団体は香港特別行政区当局に対して「対話を複数回行うこと」「対等な立場の対話であること」「当局は対話の結果を実行に移すこと」の3条件を飲むことを前提に対話に応じることを申し入れた。また市民の参加で封鎖していた特別行政区庁舎への歩道を開放して徒歩での通行を可能にした。これも実際は封鎖する地域を縮小することで長期戦に向けての態勢を整える目的があった。
「道路が封鎖されていて車両が一切通行できない。そのため業務が滞っている。歩道の一部だけでなく公道からも撤退することを要求する」それを受けた午後に特別行政区政庁は反論の声明を発表したが懐柔策が通じない相手であることを痛感したような態度だった。
ん5・岡田奈々イメージ画像
  1. 2020/11/21(土) 13:10:41|
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11月21日・海軍の枠を超えた秀才?豊田貞次郎大将の命日

昭和36(1961)年の明日11月21日は後半生に別の分野で卓越した能力を発揮した異色の海軍軍人・豊田貞次郎大将の命日です。
豊田大将は明治18(1885)年に現在の和歌山県田辺市で生まれ、大阪の旧制中学校と東京の外語学校英語科を経て海軍兵学校に33期生として入営し、日露戦争が終結した明治38(1905)年に首席で卒業しました。同期には豊田副武大将がいます。
卒業後は多くの艦を渡り歩いて潮っ気を吸収しましたが、明治45(1912)年に大尉でイギリスのオックスフォード大学に留学しました。帰国後は戦艦「比叡」の分隊長を経て第4戦隊参謀に配属され、第1次世界大戦ではインド洋から南太平洋に出没するドイツ海軍艦艇による通商破壊を懸念したイギリスの要請を受けてシドニーを拠点として船団護衛を実施しています。大正6(1921)年には海軍大学校に入校し、中学校以来の首席で修了し、日英同盟が失効した大正12(1923)年にイギリス海軍駐在武官として赴任することになりました。イギリスで4年間勤務した後にジュネーブでの海軍軍縮会議に参加することになり、帰国したのは昭和2(1927)年なので日本国内の現状認識と人脈は消滅していました。おまけに昭和5(1930)年のロンドン海軍軍縮会議への参加を命じられたため日本で発生していた条約派と艦隊派の対立に巻き込まれ、艦隊派が担ぐ伏見宮元帥の意向で海軍省軍務局長を半年で解任されています。これは長年、「海軍大臣になりたい」が口癖だった豊田少将には大きな挫折でした。
ところが左遷された広島県の広の海軍工廠長で航空機の開発と整備に携わったことで工業界に視野と人脈が開け、日本の工業生産力、特に鉄鋼業の脆弱さを実感したことで海軍の枠を超えることになったのです。昭和15(1940)年に念願の海軍次官に就任すると陸軍が固執するに独伊三国同盟に反対する及川古志郎海軍大臣の頭越しに実現に向けて動きますが、これは陸海軍の敵対=国家分裂の回避が目的でこの見識に近衛文麿首相が着目したことで政界への道が開かれました。この年に省内の権力争いに敗れた商工大臣が退任すると近衛首相は工業政策に明るい豊田中将を後任とすることを決め、大将昇任と同時に予備役に入り大臣になりました。その後、近衛首相は日米交渉が重大局面に入った中でも反米的言動を繰り返す松岡洋右外務大臣を解任して豊田大将を横滑りさせて全権大使で同県人の野村吉三郎海軍大将を支えさせようとしました。しかし、戦争回避を望まれる昭和の陛下と対米開戦を主張する陸海軍の板挟みに嫌気が差した近衛首相が辞任したため豊田外務大臣も同調して、今度は日本製鉄の社長に招聘されたのです。そして敗戦前の鈴木貫太郎内閣では軍需大臣と運輸通信大臣を兼務しましたが、日本の工業生産力は壊滅状態で、同期の豊田副武大将がレイテ湾突入=捷号作戦によって消失させた連合艦隊の司令長官だったのと同じ気分を味わったことでしょう。
敗戦後はA級戦犯として拘束されましたが外務大臣として日米交渉を推進していたことで不起訴・公職追放となり、昭和33(1958)年からはブラジルとの鉄鋼合弁企業の会長としての職を全うしました。
  1. 2020/11/20(金) 13:19:39|
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振り向けばイエスタディ2102

香港特別行政区当局は9月28日に強制排除した学生たちが再び座り込みを始め、それに対する市民の支援が強まったことを察知して矢継ぎ早に手を打ち始めた。
「香港行政区政府としては10月2日から林鄭月娥政務官を窓口にして学生たちとの話し合いの席を設けることを決定した」先ず深夜に行政長官が突如として記者会見を開き、次期長官の最有力候補と目されている女性の林鄭月娥政務官を窓口にして学生側との和解協議を呼びかけた。しかし、記者から「辞任の意向」を質問されると「辞めることはできない」と即答した。行政長官は中国共産党によって任命されているため辞任が許されないのは当然だった。
「これは行政区政府が弾圧の準備を進めるための時間稼ぎだ」「行政区政府は中国共産党に操られている傀儡だから天安門事件のような手法で我々を抹殺するつもりじゃあないのか」学生たちも「行政区政府が記者会見を開く」との情報を密着取材を始めた外国人記者から聞き、秘かに代表者がメールで決めた場所に集まってテレビ中継を見ながら話し合っていた。
「今回は天安門の時とは違って外国のマスコミが取材に集まっているから行政区政府・・・中国共産党もあまり過激な手段は取れないだろう」「それが通じる相手じゃあないことは香港市民が一番学んでいるはずじゃあないか」楽観論を口にした学生を周囲が批判すると気まずそうな目つきになってテレビに視線を移した。
「しかし、今回も日本のマスコミは取材に来ていないみたいだな。アメリカやヨーロッパ、それに東南アジアからの取材陣は我々に直接取材してるのに」「28日の弾圧の後は完全密着してるよ」26日に交差点で座り込みを始めると外国人の観光客たちがスマートホンで競い合うように撮影して数時間後にはインターネット上に書き込みが大乱舞した。すると翌日にはアメリカやオーストラリアとイギリス、フランス、ドイツなどの西ヨーロッパ、さらに軍事政権が報道統制しているタイを含む東南アジアからも取材陣が続々と乗り込んできた。
「日本人のフリー・ジャーナリストに聞いた話だと日本の大手マスコミは労働組合が強いから危険な場所に社員の記者を派遣しないんだそうだ」別の学生が個人的取材に来ている日本人ジャーナリストから聞いた事情を説明すると今度も学生たちは興奮気味に反論し始めた。
「それだけじゃあないぞ。日本政府は天安門事件後に国際社会が課した経済制裁を最初に破って貿易を再開しただろう」「おまけに国王(=天皇)を中国に行かせたぞ」「それも日本のマスコミが中国共産党の宣伝媒体になっているからだ」香港に限らすアジア各国の民主活動家にとってはアジアで最高峰の民主主義国家である日本の物心両面の支援を期待したいのだが、かつての外務省の高級官僚=外国貴族たちはヨーロッパとアメリカにしか興味がなく、アジアは完全に見下していた。国内世論もA日新聞が主導する大手マスコミは中国共産党が不利になる事実は周到に隠蔽し、今年タイや台湾で起こった「反中国」の市民運動も1970年代の学園闘争と同列に報道したため国民から支援の声は起こらなかった。
「大体、日本は我々の女神の鄧麗君(テレサ・テン)を香港の裏切り者の陳美齢(アグネス・チャン)よりも格下扱いしていたじゃあないか」「陳美齢はニュース番組にも出演していて、義務教育問題の時も行政区政府と中国共産党を代弁していたそうだ」香港では第2次天安門事件の時、コンサートで学生たちの行動への熱烈な支持を表明し、当局から禁止されると街頭で唄って支援の輪を強く押し広げたテレサ・テンは民主化運動の象徴的な存在になっている。一方のアグネス・チャンは留学から帰国するとアメリカ式の女性の社会進出を主張し、それをマスコミが取り上げて報道番組のコメンテーターになったが、外交問題では常に中国共産党を全面的に擁護する発言を繰り返している。
「やっぱり日本の若者に事実を知らせるために日本語のインターネット配信にも力を入れないといけないわね」「それは日本語にも熟練している君に任せよう」やはり香港の学生たちの国際感覚と戦術判断は日本の若者とは立ち位置が違う。
「日本の若者は英語力が弱いんだよな。メールで対話しても自動変換機能に頼ってるから誤変換で意味が通じなくなることが多いんだ」「それでもマスコミ報道に不信感を抱いている人が増えてるから、今度の加倍政権ならアメリカに同調くらいするかも知れないぞ」「そのアメリカもオバマ政権では期待できないな」この会話もインターネットがすでに行政区当局の監視下に入っていることを前提にしているところが香港の置かれている現実だ。
ところが夜が明けた10月3日には大陸側の九竜半島で武装警察当局が「デモに反対する市民」と発表した裏社会の人間と学生たちの間で暴力抗争が発生した。これも表向きは「交差点の封鎖で商売に悪影響が出ている商店の経営者」と言うことになっているが、学生が座り込んでいる交差点の周囲の商店街に確認しても該当する人物はいなかった。
  1. 2020/11/20(金) 13:18:15|
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11月20日・本庄繁大将が刑死よりも自刃を選択した。

昭和20(1945)年の明日11月20日に占領軍司令部からA級戦犯として召喚されたことを受けて本庄繁大将が自刃しました。
本庄大将は明治9(1876)年に現在の兵庫県丹波篠山市の農家で生まれ、地元の旧制中学校を経て日清戦争が終わった明治27(1894)年に陸軍幼年学校に進み、明治30(1897)年に陸軍士官学校9期を修了しました。この9期からは本庄大将を始め首席の荒木貞夫大将(皇道派の首魁)、松井石根大将(南京事件のB級戦犯として刑死)、阿部信行大将(首相、最後の朝鮮総督)、林仙之大将(2.26事件の軍事法廷の判事)、真崎甚三郎大将(2.26事件の首謀者)と5人の大将が出ています。
士官学校修了後は翌年に兵舎が完成して大阪から福知山に移転した歩兵第20連隊に配属され、明治35(1902)年に陸軍大学校に入校しましたが明治37(1904)年に日露戦争が勃発したため歩兵第20連隊に戻り、中隊長として戦地に出征しました。しかし、戦地で負傷して内地へ戻されると陸軍大臣官房付になり、終戦後の明治39(1906)年に大学校に復帰し、卒業すると平時の軍隊で順調に昇任していったのです。
大正7(1918)年に大佐に昇任すると翌年に広島の歩兵第11連隊長になってシベリア出兵に参加し、大正10(1921)年からは満州の軍閥・張作霖さんの軍事顧問に就任しています。こうして歩兵第4旅団長、第10師団長を歴任して階級も中将になっていた昭和6(1931)年に関東軍司令官になると1カ月後に柳条湖事件が発生して関東軍は近衛文麿内閣の不拡大方針に背いて急速に満州全土を制圧し、昭和7(1932)年の満州国の樹立に突き進んだのでした。満州国の樹立を見届けた後、本庄大将は軍事参議官を命じられて日本に帰りますが、この時、昭和の陛下から「柳条湖事件は関東軍の陰謀と言う噂があるが」と下問され、それに「関東軍並びに司令官たる自分は絶対に謀略はやっておりません」と言い切っています。これは関東軍司令部内の主導派参謀が本庄大将を蚊帳の外に置いたのか、逆に共同正犯としてシラを切ったのかは不明ですが現在では竜条湖事件は関東軍の自作自演とする説が史実になっています。
また侍従武官になっていた昭和11(1936)年2月26日に真崎大将の洗脳を受けて、荒木陸軍大臣の不当人事で首都圏に集められていた青年将校たちが反乱を起こしましたが、本庄大将は昭和の陛下に青年将校を擁護する弁明を繰り返したため怒りを買いました。
極東国際軍事裁判では関東軍関係者として板垣征四郎大将、土肥原賢二大将、武藤章中将の3人が死刑になっていますから本庄大将が出廷していれば間違いありませんでした。
現場になった陸軍大学校関係者の回想録と死亡診断書によれば「青酸カリを飲んだ後に刀を左下腹部の深さ2寸に突き立てて右下腹部まで引き、それを3回繰り返し、続いて心臓を3回突いて、右頸動脈部を深さ5分,長さ5寸切った」とあります。野僧は脇差で自刃した渡辺崋山さんの死亡診断書を読んでことがありますが「左脇腹から深さ3寸、横1尺5分、右頸部に深さ1寸、長さ3寸」とあり、やはり長く重い軍刀では柄(つか)が下がってしまうため真横に引いて腹筋と腹部大動脈を切断するのは難しいのでしょう。
  1. 2020/11/19(木) 12:27:21|
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振り向けばイエスタディ2101

学生たちは座り込みデモを土・日曜日も継続している。美恵子の理髪店は日本式に月曜休みにしているが、公務員の客は休日出勤になったようで予約をキャンセルしてきた。そこで美恵子は電気代かからない新聞を読んで空き時間をつぶすことにした。
「この人、科技大学の鄭さんさァ」店で2紙取っている中で返還前からの大衆紙は比較的自由主義の立場の論調のため公務員の客は見向きもしない。むしろ美恵子には店に置かないように勧めてくる。そんな大衆紙に交差点での座り込みの写真が大きく掲載されていてその中に香港科技大学の学生の鄭の顔を見つけた。
「この髪の色、私の仕事さァ」鄭も夏休みが終わる直前に店に来て、「イメージ・チェンジしたい」と言って髪を明るい茶色に染め、髪形も日本の流行に合わせていった。その鄭は「民主的選挙」を要求する文字を書いた看板を膝の前に立てている。
「あの子、お腹は減ってないのかしら。もう3日目じゃない」学生たちが昼夜を分かたず座り込みを続けていることはテレビのニュースでも報じている。美恵子の住居は同じビルの上の階なので今のところ現場になっている繁華街に出かける予定はないが、明日の休店日には腹に溜まる菓子を大量に差し入れるのも悪くない。勿論、学生のデモを支援するつもりなど毛頭ないが、馴染み客への顔つなぎの挨拶代わりだ。
「君たちはすでに3日間にわたり交差点を不法に占拠している。したがって香港特別行政区保安局の命令に基づきこれより強制排除を実施する」28日の夜になっても学生たちが解散しないため警察は強制排除を宣言した。交差点に続く道路の両側には透明なフェイス・カバーがついたヘルメットをかぶり、防刃チョッキを着た警察官たちが横並びに広がっている。部隊が前身し、シャッターを下ろしていない店から漏れる明かりで照らされると先頭の警察官たちが黒い発射管がついたガス銃を構えているのが判った。それを見た学生たちは立ち上がって両手を上げ、無抵抗の意志を示した。しかし、学生たちは騒ぐことも暴れることもなく秩序正しく交差点に座っているだけで武装した警察官に強制排除されるような落ち度はない。
「構え、射て」指揮官の号令で一斉にガス銃が発射された。同時に低いガスの圧縮音が繁華街のビルの間に響き、弾頭が白い煙を引きながら落下した。
「うッ、目が痛い」「鼻が・・・」道路上に転がった弾頭から白い液状の飛沫が飛び散り、酸味のある刺激臭が充満した。学生たちは目を押さえて悲痛な叫び声を上げながら逃げようとしたが、足元に固い弾頭の直撃を受けた学生が頭から血を流して倒れているのに気がつくと止まらない涙と鼻水を拭いながら救護を始めた。
「射手交代、構え、射て」指揮官は射手の交代を指示し、無抵抗の学生たちに追い討ちをかけた。再びガスの圧縮音が響いたが先ほどよりも音は低い。警察官が持っている発射管も先ほどよりは少し太いようだ。今度は黄色い煙のような粉末を引きながら弾頭が交差点に落ちた。
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ・・・」「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ・・・」今度のガスは黄色い粉末を散布した。その粉末は強烈な胡椒の臭いがして、吸った者は激しく咳き込み始めた。つまり催涙ガスで目潰しした上に胡椒ガスで呼吸困難に陥らせたのだ。それを見計らったように指揮官は部隊に前進を命じた。同時に数人の警察官たちが歩道に入って先行し、本隊は腰に下げていたスプレーを構えて学生たちに殺到した。
「酷い、痛い」「止めろ、無抵抗じゃあないか」歩道を走った丸腰の警察官たちはガスから逃れた学生たちを男女の区別なく無言で殴打し、引き摺って交差点に押し戻した。そこに歩いて前進してきた本隊が到着すると交差点内にいる学生たちの顔に無差別にスプレーを噴射し始めた。周囲には鼻を突く酸味を帯びた刺激臭と胡椒の臭いが充満してきた。つまりガス弾で散布した胡椒ガスと催涙ガスをご丁寧にも個別に再度吹きかけたのだ。逃れようとする学生たちは歩道で待ち構えている警察官たちに暴行されて押し戻される。その頃、別の警察官は交差点から外れた道路上で学生以外の市民の立ち入りを阻止し、外国人であっても携帯電話やスマートホンを取り出していれば使用を禁止して押収を警告していた。
この夜、警察当局は「暴徒による交差点の不法占拠の排除」を発表したが、手段として87発の催涙弾を発射したことを公式に認めた。
学生たちは公立病院に救急搬送されれば治療とは逆の処置を加えられる危険性が高く、少なくとも身元を当局に把握されるため、交差点での座り込みの順番ではなかった学生たちが安全な場所に運び、店員が裏口で提供した水で洗眼するなどの応急処置を実施していた。さらに自宅に戻ると雨傘や雨合羽、レイン・コート、ポンチョを着用した上にゴーグルとマスクをはめて座り込みを再開した。これが「雨傘革命」と言う呼称の由来になった。
  1. 2020/11/19(木) 12:25:09|
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11月19日・とうとう50年!世界最長の未執行死刑判決が下った。

昭和45(1970)年の明日11月19日に主犯である被告が世界最長の未執行死刑囚になっているマルヨ無線強盗放火殺人事件の最高裁判決が申し渡されました。
事件は昭和41(1966)年12月5日に福岡県福岡市博多区下川端町(現在の博多リバレイン)の電気店・マルヨ無線川端店に元店員の尾田信夫=昭和21(1946)年生と17歳の少年が押し入り、宿直の店員2名をハンマーで殴って重傷を負わせた上に縛り、現金22万円余りと腕時計2個を奪い、逃走時に尾田死刑囚がストーブを蹴り倒して火災になり、1名は自力で逃げたもののもう1名は焼死体で発見されたと言うものです。
店員1名が生き残ったことをニュースで知った少年は12月10日になって博多警察署に出頭して逮捕され、尾田死刑囚も12月27日に「強盗殺人罪」「現住建造物等放火罪」容疑で逮捕されました。
尾田死刑囚は山口県宇部市出身で、マルヨ無線でアルバイトをしながら日本電波専門学校に通学し、卒業後は正社員になりましたが商品のラジオを盗んで質入れしていたことが発覚して解雇・警察に通報されて、身柄を拘束されている間に店長が無断でアパートの部屋に入り、ローンで購入していたステレオを押収したことを恨んでの犯行でした。その後、別の電気店に就職しましたが同様の犯行を繰り返したため警察に逮捕されて中等少年院で2年間服役し、そこで共犯の少年と知り合ったのです。
被告人2人は逮捕容疑の罪状で福岡地方裁判所に告訴され、昭和43(1968)年12月14日に尾田被告に対して死刑、少年には懲役13年の判決が申し渡されました。続いて福岡高等裁判所に控訴して昭和45(1970)年3月20日に尾田被告は死刑、少年には控訴棄却の判決が出て少年だけは刑が確定し、尾田被告も上告した最高裁判所で同年のこの日に控訴棄却の判決を受けて刑が確定したのです。
ところが弁護団は通常の死刑囚の再審請求とは異なった戦術を採り、刑の執行がここまで長期間にわたって躊躇されることになりました。それは火災の発生原因が放火か、失火なのかです。少年は警察と法廷で「少年院で尾田被告がマルヨ無線に強盗に入り、店員を殺した上で放火して証拠を隠滅すると言う犯行計画を打ち明けられた」と証言しましたが、弁護団と尾田死刑囚は「事実無根」と真っ向から否定し、消火に当たった消防士と現場検証した警察官が「現場の石油ストーブには人為的に断とされた形跡がない」と証言していることを受けて「罪状は強盗殺人と強盗傷害のみで火災は失火」と主張しているのです。確かに強盗による1名殺害、1名傷害で死刑にすることは量刑の均衡性から見て難しく、7度の再審請求の中では福岡高等裁判所が異例のストーブの転倒実験まで行い、職員が何度足蹴にしても同じ型のストーブは倒れず、手で強引に倒すと安全装置が作動して燃料タンクが外れることが確認されましたが、裁判所としては「これを以って判決を覆す証拠とはなり得ない」として再審を棄却し続けています。ただし、尾田死刑囚は「冤罪」ではなく、司法当局としても日本の刑法にはない「終身刑」として拘置所(死刑囚なので刑務所ではない)で死なせることが当たり障りのない処遇と考えているのかも知れません。
  1. 2020/11/18(水) 11:46:57|
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振り向けばイエスタディ2100

「中文大学かァ。お客さんがいたっけ」9月26日の金曜日になってテレビは「香港では最高峰」と言われている公立の中文大学で始まった学生によるデモのニュースを流し始めた。それでも現場からの中継ではなく遠距離から撮影した映像をスタジオで解説しているだけだ。これまでも待合席においてある数紙の新聞では香港市内の大学や高校で普通選挙を求める学生や生徒が授業をボイコットの呼びかけていることは断片的に報じられていたがデモは初めてだ。
「中文大って沖縄で言えば琉大さァ。大人しく卒業すれば偉くなれるのにこんな騒ぎを起こして本当に馬鹿だね」世界大学ランキングで常に50位以内に入っている香港中文大学とモリヤが高校時代、父親から「国立大学なら下宿させてやる」と言われて進路指導部で相談すると「琉球大学ならお前の成績でも」と勧められた某国立大学を一緒にするのは極めて失礼だが、大学受験そのものに縁がなかった美恵子では仕方ない。
その沖縄でも反アメリカ軍基地のデモには多くの大学生が参加しているが、大半は自治労や日教組に加入することを前提に教授の推薦をもらうための点数稼ぎだ。それに比べて香港の学生たちは全員が真剣な顔で手造りの看板を掲げ、「民主主義を守る意志」を訴えている。
「只今入ってきた情報です。学生たちが香港各地の主要な交差点で座り込みを始め、幹線道路を封鎖した模様です」香港のテレビ放送は香港特別行政区当局の検閲を受けているので「反中国共産党」色が強い事件については隠蔽しようとするのだが、2011年に公立学校の義務教育に「愛国心」と称する「中国共産党への忠誠心」の精神徳目を加えることに高校生や大学生が反対した事件があったため一般市民の関心も強く、抑え切れなかったようだ。
「現在確認できている現場は中環、金鐘、銅鑼湾、旺角などの繁華街や商業地域です。学生たちが暴徒化する危険性は十分に予測されますから市民は近づかないようにお願いします」アナウンサーの注意喚起に美恵子は店のドアを出て外の様子を窺ってみた。ここは繁華街や商業地域ではなく特別行政区の政庁や役所が建ち並ぶ行政地域だが、沖縄で見慣れたデモ隊であればリーダーがハンド・マイクを使ってシュピレコールを絶叫し、それに参加者たちが唱和して大音響をがなり立てる。比較的静かな通りにも喧騒くらいは聞こえてくるはずだ。
「何ともないさァ」店の前のアプロ―チに出てみても下の大通りを通行する車のエンジン音しか聞こえてこない。それでも近くの警察署から数台のパトロールカーが走って行くのが見えた。
「君たちの行為は中華人民共和国香港特別行政区の道路交通法規に違反している。直ちに交差点から退去して、自動車や一般歩行者に通行を解放しなさい」繁華街の中心部の交差点でも多くの学生たちが座り込んで封鎖していた。それでも一部の学生が手前の交差点で看板を掲げ、協力と迂回を促しているので渋滞は起きていない。しかし、現場に駆けつけた警察は車両の拡声器で実力行使の前の警告のような呼びかけを始めていた。
「全く反応がないな」「普通は我々の警告に反発して罵声を返してくるんだが」警察車両の中でマイクを握っている幹部警察官は隣りの席の同僚と困惑した顔を見合わせた。呼び掛けを繰り返しても学生たちは膝の前に看板を置いて黙って座っているだけで無反応だ。ただ外国人の観光客たちが携帯電話やスマートホンでそれを熱心に撮影している。
「奴らが怒りそうな言葉で挑発してみろ。こちらを攻撃してくれば実力で排除する口実ができる」「武装警察隊の連中もトラックの荷台で出番を待ちかねているだろうからな」幹部警察官は同僚の助言に唇を歪ませて笑うと頭の中で文章を組み立ててからマイクを握り直した。
「君たちは1989年に北京の天安門の前で反国家的暴動を起こした学生たちの真似をしているのかも知れないが、あの暴徒たちは合法的な手段で排除された。我々も君たちがあのような暴徒と化せば同じように合法的な手段で排除する」会心の挑発を言い終わって幹部警察官は自慢げに顔を見たが、同僚は険しい顔で首振った。
「今のは拙いぞ。我が共産党は64事件(第2次天安門事件)自体を歴史から削除しているんだ、外国人がいる前で我々がそれを口にすることは党の方針に背くことだ」この指摘に幹部警察官は凍りついた。文化大革命で毛沢東と5人組が全中国人民に徹底した共産党への忠誠を家族愛よりも優先する密告制度は香港にも持ち込まれており、反共産党的言動を察知すれば組織の長に報告するのは義務であり、それを回避すれば同調者として一緒に処断される。一気に奈落の底へ落ちた幹部警察官の手からマイクを奪い取った同僚が警告を続けた。
「この交差点の封鎖を実施している組織の代表者はこの車両に来なさい。目的と期間、参加者などの説明を受けよう。それによっては・・・」狡猾な中国の当局者は最後を明確にしない。これに性善説に立つ日本人なら「判ってもらえるかも知れない」と信じて反応するが、中国共産党の実態を熟知する香港の学生たちは規律正しく座り込み、整然と交差点を封鎖し続けた。
  1. 2020/11/18(水) 11:45:46|
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振り向けばイエスタディ2099

「メイファイスー(美恵子)、俺たちが行動を起こせば応援に来てくれよ」香港島の美恵子の理髪店では夏休みを終え、新学期に備えて髪を整えに来る学生たちは妙にいきり立っていた。美恵子は善通寺市内の理髪店で本格的に仕事を再開した時から定期購読している理容の専門雑誌を香港に取り寄せて研究しているため、欧米モードの他店とは違う「アジア人に似合う最新の髪形の店」として学生を中心に客は急激に増えている。その学生たちが何に怒っているのかは政治音痴の美恵子には全く判らなかった。
「私は仕事のことしか判らないけど、最近テレビのニュースでも大学生たちが集会を開いているのを見るわね」「俺も映らないか探してくれよ」この学生は軽く冗談で返したが、この話題で鏡に映っている自分に向かって激を飛ばし始める学生も少なくない。
香港では8月31日に共産党中国の人民代表者会議常務委員会が2017年に予定されている特別行政区行政長官の選任を香港返還時の合意事項である「1国2制度」に基づく一般市民による選挙ではなく「行政長官候補になるには共産党の指名委員会の過半数の支持が必要であり、候補者は3から2名に限定する」と発表したことで学生を中心とする市民の間で怒りの声が噴き上がり、各大学の代表者たちが集まって決起行動を話し合っているところだ。
「若いから怒るのは仕方ないけど怪我をしないように気をつけなさいよ。折角、大学に入ったのに途中で止めるなんて大馬鹿よ」美恵子は洗髪しながら母親のような指導を与えたが、かつて身近に大学を中退した大馬鹿がいたような気がした。
「我々も台湾の学生たちに倣って我が香港の民主主義の危機に立ち向かうべきよ」今日も各大学の代表たちは香港中文大学に集まり、激論を交わしている。香港の学生は海外や共産党中国からの留学生を除けば自宅から通学している者が大半なので夏休み中でも代表者が集まるのは容易だ。学生たちは3月18日に台湾で発生した学生たちによる立法院占拠事件を口々に賞賛し、それに倣うことを主張し始めた
「彼らは馬英九政権が締結した海峡両岸貿易サービス協定は台湾に不利だって言う経済的な理由で運動を起こしたけど、我々は香港返還時の約束が期限を待たずに破棄されていることを世界に訴えるために決起するんだから、台湾以上の支持を集めることができるはずだ」3月18日の事件は日本では「学生が国会を占領した」と言う珍妙な話題としてしか報道されなかったが、欧米や東南アジアでは台湾の学生たちが中国共産党に牛耳られている馬英九政権に反旗を翻し、しかもそれが非暴力に徹した運動であることが絶賛され、学生たちが占拠した立法院内に並べたひまわりの鉢植えから「ひまわり学生運動と呼ばれて絶大な支持を集めている(日本では台湾語の「退回服貿=貿易協定を破棄せよ」を聞き間違えて「ホエホエクマー運動」)。
「彼らは馬英九政権の打倒までは主張しなかった。そこがポイントだ」「政権打倒を目的にすれば政権は本気で弾圧してくる」「そうなれば非暴力ではすまなくなり、犯罪者として裁かれてマスコミも警察寄りの報道を始める」学生たちの議論は次第に現実味を帯びてきた。
「我々も今回は香港の独立を主張するのは控えよう」香港でも大学の学力水準に格差があり、やはり名門大学の学生が指導力を発揮するようになるようだ。そんな学生が示した弱腰とも言える活動方針は異論を挟むことなく賛同された。
「中国共産党が香港を手放すはずがないから弾圧の口実を与えるのは損だよ」「あくまでも鄧小平がサッチャーに約束した1国2制度を中国共産党が守って、西側先進国式に住民の投票によって次期長官を選任すると言う一点に絞るべきだわ」「それを仲間たちにも徹底しないといけないぞ。興奮すれば余計なことを叫び始める奴も出かねない」この冷静な議論が香港の民主主義の成熟度を如実に示している。
「しかし、中国共産党は民主化を推進していた胡燿邦書記が急死して、追悼と意志の継承を誓うために集まっていた学生たちを国家反逆の暴徒って断定して武力弾圧したぞ。そこは要注意だ」「殺害した学生たちの遺骸は解放軍が回収して焼却場でゴミとして処分したそうだ」「学生たちの真意と集会の目的を説明しようとした劉暁波教授も首謀者として逮捕されたままだ」「奥さんの劉霞がノーベル賞を代理受賞することも認めなかった」「それどころか中国人のノーベル賞の受賞を禁止したじゃないか」日本のマスコミの扇動に踊らされただけの学生運動であれば当局の弾圧が過酷であることを再認識すれば腰が引けて運動に参加することを迷い始めるものだが香港の学生たちは逆だった。
「このままでは香港まで共産党の言うままに暮らすしかない暗黒社会になってしまう」「それを阻止するためには我々が今立ち上げるしかないのよ」それは興奮に浮かされた若者の雄叫びではなく悲壮なまでの覚悟を背にした決意表明だった。
  1. 2020/11/17(火) 12:11:52|
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振り向けばイエスタディ2098

社会が機能停止するヨーロッパほどではないもののニューヨークでも夏の長期休暇が本格化している8月中旬、松山1佐はワシントンの日本大使館の防衛駐在官・渡辺将補に呼び出された。
「佐田くん(松山の偽名)、奥さんと2人の留守番中に呼び出して悪いな」渡辺将補は開口一番に海外出張を遂行してきた部下たちを家族と過ごさせるために夫婦で留守番している松山1佐を冷やかした。その渡辺将補も妻と一緒にアメリカ旅行中だったはずだ。
「閣下は旅行中だったのではないですか。確かナイアガラの滝と5大湖巡りで3泊4日では」「昨日東京から連絡が入って戻って来たばかりだ」東京からの命令となるとかなり緊急な要件と言うことになる。すると女性事務員も休暇中らしく陸海空の1尉が揃っている在外公館警備官の中でも空の1尉がアイス・コーヒーを運んできた。部内出身の兵器管制幹部と聞いている空の1尉は女性事務員の代役のつもりなのか似合わない愛想笑いをふりまいて退室した。そんな様子に渡辺将補は困ったように苦笑してから真顔になった。
「先月28日にシリアでミリタリー・ビジネス業の日本人がISに拉致されたんだが、昨日になって『17日に犯行声明を出す』と言う情報がヨルダンの在シリア日本大使館に届いたらしい」「つまり大々的に報道させるための予告ですね」松山1佐の見解に渡辺将補もうなずいた。
「ミリタリー・ビジネス業の日本人と言えば4月にシリア北部で自由シリア軍に拘束されて居合わせた日本人のジャーナリストに助けてもらって帰国した人間がいましたね」「その須川有名(あるな)については松本くんからも報告を受けているが、同一人物の可能性が高いようだ」渡辺将補の説明に松山1佐はユックリ深くなずいた。イラク侵攻やリビア内戦を経験している松本も現地でシリア国内の危険度を察知して、隣国のレバノンやヨルダン、トルコで現状を探ってきた。そのため噂レベルの伝聞情報しか入手できず、問題の日本人の肩書になっているミリタリー・ビジネス=軍事業が何をする業者なのかも判らなかった。
「そこで政府からの特命だが、松本くんをシリアに潜入させて可能であれば接触、それが不可能なら所在と現状を確認させてもらいたい」「政府からと言うことは首相自らの命令ですか・・・お答えになれないのは判っています」「連絡自体は次級者からだった」渡辺将補は答えてから気まずそうな表情を浮かべてアイス・コーヒーを口にした。それに倣ってグラスに口をつけた松山1佐の頭には日本発の海外報道番組で見る記者会見の管(くだ)官房長官の顔が浮かんだ。
「お断りします」2人が揃ってグラスを置いたところで松山1佐は「拒否」を宣言した。松山1佐は表情を変えずに注視している渡辺将補が激怒を押し殺していると推察していたが、意外にも安堵感を噛み締めていた。
「拘束されたのが自衛官や外交官であれば松本も喜んで死地に赴くでしょう。しかし、この軍事業者の行動目的は不明、身元も怪しく、女の偽名を使っています。そんな人間の勝手な行動のために今後も国家のために必要な貴重な戦力を失うことはできません。長官には私が拒否したと伝えて下さい」「うん、その判断は指揮官として適切だ。政府は国民にシリアへの渡航入国禁止を指示している。そこに私人が営業活動とも言えない目的のために入国した以上、本人の自己責任と考えるのが常識だ」この特命を下したのが加倍首相なのか、実務を担っている管官房長官なのかは判らないが、政府としても外務省さえ在シリア大使館をヨルダンに移して傍観している危険地帯・シリアで発生した事件に対処するには先ず情報収集から手を着けざるを得ないのだ。そのために外交官以上の活躍を見せる少数精鋭の非公式組織を使おうとすることは理解するが指揮官としては服従できない。現在、松本はハワイで内縁の妻・ユキと休暇を過ごしており、杉本からは死亡したクミコ・トミタ少佐の家と墓の現状の確認を依頼されている。
「私はインパール作戦で独断撤退した佐藤幸徳中将を秘かに敬愛しているんだ。君たちの情報活動は各人の犠牲的使命感によって遂行されている。そんな危うい立場を強いている日本の政治が、それを当然視することは我慢ならん」意外な告白に松山1佐は口を固く結んで考え込んだ。インパール作戦の佐藤幸徳第31師団長については守山でモリヤ中隊長から聞いたことがあるが、今回の特命は牟田口廉也第15軍司令官の無謀な作戦に比べれば必要性だけは認めざるを得ない。しかし、渡辺将補は松山1佐が指揮官として「命令拒否」と言う日本軍・自衛隊では万死に値する暴挙を示したことに強く共感したようで真情の吐露を続けた。
「この際、ミリタリー・ビジネスの経営者には一般の日本人が直視できないほど残酷に殺されてもらうべきかも知れん。それでなくても日本ではインターネットの書き込みを読んでISに参加しようとトルコ行きを企てる愚かな若者が出ている。加倍政権は要求には応じないから殺される。その悲惨壮絶な動画配信を見て怯えてくれれば強烈な再発防止になるだろう」この暴言は将官としての非情な見識だが松山1佐も納得できた。要するに自業自得だ。
  1. 2020/11/16(月) 12:41:28|
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11月16日・川崎協同病院安楽死事件

1998年の明日11月16日に神奈川県川崎市の医療法人・川崎医療生活組合が経営する川崎協同病院で医師の意図的処置によって患者を死に至らしめたことで殺人罪に問われた川崎協同病院安楽死事件は発生しました。
法的には被害者になる川崎喘息の公害病認定を持つ58歳の患者は11月2日に気管支喘息重積発作(=痙攣発作や短期発作の反復が30分以上続く症状)で心拍停止に陥り、川崎協同病院に搬送されました。病院での救命措置で心拍は再開したものの低酸素脳症で意識は回復せず人工呼吸器を装着して入院し、11月6日に自発呼吸が確認されたため人工呼吸器は外しましたが気管内チューブを鼻から挿入しました。11月11日になって医師が気管内チューブを抜くと呼吸状態が悪化したため再挿入しましたが、家族には「9割9分9厘植物状態になり、9割9分9厘脳死状態である」と説明し、後に「気管内チューブを抜くことの同意を得た」と証言しています。
そして11月16日に患者の妻子と孫が集まっている病室で気管内チューブを抜くとのけ反るなど苦悶し始め、医師は鎮静剤を静脈注射しますが沈静化しないため同僚の医師に助言を仰ぎ、集中治療室から取り寄せた筋弛緩剤を看護師に注射させると数分後に呼吸、11分後に心拍が停止したのです。この処置は翌日になって院長に報告され、実施した医師から事情聴取した上で反省を促す指導を与えただけで終息させました。
ところが3年後の2001年10月30日に交代した新院長への内部告発があり、実施した医師に事情聴取すると「気管内チューブを抜いた上で鎮静剤と筋弛緩剤を注射した事実」を認めたため病院内の管理部が内部調査を進め、「不適切な医療行為により患者を死に至らしめた」と判断して退職を勧告し、2002年2月に医師は依願退職したのです。さらに病院を経営する法人は2002年4月に記者会見を開いて事実を公表し、外部調査委員会を発足させて第3者的視点からも考察を加えましたが、患者と遺族が懇願し、現場の医師や看護師も苦悩している「安楽死」を問題提起するまでには至りませんでした。
一方、横浜地方検察庁は医師の行為が殺人罪に相当すると判断して横浜地方裁判所に告訴し、2005年3月に「治療を尽くさず、家族の真意を十分に確認せず、誤解に基づいてチューブを抜いた」として過失致死ではなく殺意が必要な「殺人」と認定し、懲役3年、執行猶予5年の判決を下しました。続く東京等高等裁判所は2007年2月に「患者の意思が不明で死期が切迫していたとは認められないが家族の要請はあった」と認め、「事後に非難するのは酷に過ぎる」として殺人罪としては最も短い懲役1年6カ月、執行猶予3年に減刑し、最高裁は2009年12月に「被告の判断と行為は法律上許される治療中止には当たらない」と上告を破棄して2審の判決が確定しました。
敗戦後の日本は「生命はカミから与えられ、死はカミの意思による」とする欧米のキリスト教的生命感に塗り固められていますが、日本の佛教では「人と生まるるは宿業を因とし、父母を縁とせり(父母恩重経)」であって「生老病死」は必然の四苦なのです。治癒できない病者には手前勝手な「生きる義務(権利ではない)」を押しつけられるのは迷惑です。
  1. 2020/11/15(日) 13:33:32|
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振り向けばイエスタディ2097

翌日は到着して入った食堂で早めの夕食を取り、往路と同じ国際フェリーに乗船した。この航路は夕方にヘルシンキを出航して翌日の昼にストックホルムに到着、そうして夜に向うを出て翌日の昼過ぎにこちらに戻る往復運航なのだ。したがって船内食はどちらも朝1回だけだ。
「そう言えば貴方は久米島に行った時の大荒れの海でも全然船酔いしなかったよね」日没は9時過ぎなので日差しが弱まってきた甲板で潮風に吹かれながら思い出話を楽しんだ。最初の話題は2人が初めて結ばれた久米島への船旅だ。
「あの時化(しけ)は本当に酷かったよ。台風も来てないのに三角波が立って窓から海面が見えたもんな。車を積む船体だったら転覆しかねなかったぞ」久米島には春休みが始まる前の3月中旬の日曜日に代休をつけて1泊2日で出かけたのだが、激しい風雨を伴う荒天に見舞われて海が大荒れになり、大きくはない観光フェリーは上下左右に揉み苦茶にされた。
「貴方は私が吐いた洗面器を小まめに片づけてくれたんだよね」「お前だけじゃあなかったぞ。観光客は全滅、動いていたのはワシだけだった。久米島の人も乗ってたけど全員寝てたな」船での移動に慣れている島民は多少の揺れくらいは物ともせず、持ち込んだ酒とツマミで宴会を始めるのだが、あの時は大人しく横になっていた。
「やっぱり高校時代にヨット部で鍛えたから船に強いんだね」「ワシがヨット部だったのは1年だけだから体質が変わるほどじゃあないよ」私は海上自衛隊生徒を断念させられて進学した蒲郡高校では「海の男になろう」とヨット部に入った。ところがこのヨット部はインターハイや国体で全国制覇する強豪校だったため1年間で芽が出ない部員は翌年の新入生の練習の邪魔にならないように切り捨てられる。残念ながら私も該当したのだ。
「お前は船に弱いのかって思ってたから八重山で離島に行く時には真剣に心配したんだぞ」「普通は船酔いしない私があそこまで吐いちゃうんだから本当に酷い時化だったんだよ」話題が八重山の離島の小学校の校長だった父を訊ねた旅行に広がって梢は懐かしそうに微笑んだ。
「あの時、お前は初めてワシに抱かれる覚悟をしてたから、それがストレスになって酔ったんじゃあないかな」「私が吐く時、背中を擦ってくれたでしょう。貴方の手が心地好くて抱かれるのが待ち遠しくなっちゃった」「あれが愛撫になったのかァ・・・」私の馬鹿な返事に梢は呆気に取られてから苦笑した。ここで乗船前に買っておいた缶ビールを開けて乾杯した。
「しかし、提督ビールが発売中止になっていて残念だな。淳之介に送ってやろうと思ったんだよ」「2008年で製造終了したって言ってたわね」私は食堂の小父さんから聞いた東郷平八郎元帥を含む提督シリーズ26本の缶ビールをヘルシンキ市内で探したのだが、酒屋の親父さんから残念な説明を聞かされた。
「淳之介はウミンチュウとして東郷元帥よりもロジェストベンスキー提督を尊敬するべきだな。あの大艦隊をここからアフリカ大陸を迂回して対馬まで指揮したんだ。船乗りとしては神格化されても良い偉業だよ」「だから本屋で伝記を探したのね」「どちらかと言えば肖像写真を探したんだ。淳之介はフィンランド語は読めないだろう」淳之介は水産高校でも専門科目は学科・実技共に成績優秀だったが、国数英理社の5科目は中学以来の海面遊泳をしていて中でも英語はダイビング気味だったらしい。その話を本人から聞いて私は理髪と美容以外に頭が働かない愚かな母親の血ばかりを受け継いでいるのではないかと心配したものだ。
「ストックホルムに着いたら土産の買い物だけど」「フィンランドではお義母さんたちにリュイユ織の壁掛けだけだったな」「木工製品はスウェーデンとあまり変わらなかったから送料を考えてね」梢はヘルシンキ市内では北方民族の伝統的工芸作品と言われるリュイユ織の壁掛けを義母やお世話になっている茶山さん、島田さんの奥さんに買っていた。その何とも言えない深い色合いは北欧の森と湖だけでなく空気と大地を染めて織り込んだようだった。
「淳之介にはバイキング船の模型が良いな。後は陶器とガラス製品、金属製の食器、家具は欲しいけど送料が高そうだ」夕方に列車で到着して今回も泊まるホテル・イエルムまで歩きながら覗いた店でも世界的に有名な食器類や家具には感心してしまった。
「問題は恵祥のビッケね。ビッケ、ビッケ、ビッケ、ビッケは海の子バイキング」今回は梢が「小さなバイキング・ビッケ」の主題歌を口ずさんだ。ビッケは同じアニメを放送したドイツやオーストリアではヴィッキーという名前だったらしい。
「ビッケが無理なら今回も木工細工の玩具ね」「うん、スイスで買った木彫りの動物が気に入ったみたいだから種類を増やしてやろう。そろそろ積み木も良いかな」熱愛中の祖父母も孫の話題では盛り上がるようで頭がフル回転してアイディアが続出した。結局、ビッケはスウェーデン語の絵本を見つけたので梢が頑張って日本語に翻訳した。「流石は賢いお祖母ちゃん」
リュイユ織リュイユ織のタペストリー
  1. 2020/11/15(日) 13:32:06|
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11月15日・蒲郡農学校中退の河井信太郎特捜部検事の命日

昭和57(1982)年の明日11月15日は東京地方検察庁特捜部の剛腕検事として敗戦後の経済疑獄で活躍した河井信太郎検事の命日ですが、実は野僧の出身校・蒲郡高校の前身である蒲郡農学校を中退していました。
現在の普通科と商業科の蒲郡高校は明治45(1912)年に創設された蒲郡女学校を前身としますが、大正2(1913)年に創設された宝飯郡立西部農学校から愛知県立蒲郡農学校になった蒲郡農業高校も昭和23(1948)年に統合しています。
河井先輩は大正2(1913)年に現在の蒲郡市で生まれ、蒲郡農学校に進学しました。生年月日から見てサイパン島で文民を保護する一方で遊撃戦を指揮して映画「太平洋の奇蹟」の主人公になった大場栄大尉とは同級生です。ところが学業半ばでより高い志を掲げ、兄が住む東京に出ると東京実業学校=現在の東京実業高校に再入学しました。そして中央大学の夜間部に進んで在学中に高等文官試験(=現在の上級職国家公務員試験と司法試験に相当する)に合格しましたが、採用前に海軍経理学校短期現役学生に選ばれ、ここで経理と会計を学んだことは後に検事としての絶大な腕力になりました。
昭和19(1944)年に海軍大尉から東京刑事地区裁検事に転任し、敗戦後は静岡地裁沼津支部の検事、東京地方検察庁の検事、司法研修所の教官を歴任した後、昭和32(1957)年には法務省刑事局刑事課長に栄転しますが、敗戦後の経済復興の中で頻発した贈収賄疑惑の捜査に剛腕を奮ったため昭和34(1959)年から2年間、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアに在外研究員として長期出張しています。昭和36(1961)年に帰国すると東京地方検察庁特捜部長に就任し、数少ない経済を熟知する検事として相変らず続発する汚職・疑惑の捜査に当たりましたが、日通疑惑(公費による米類の運搬を日本通運が独占的に請け負っていることに関する国会での追及を巡る疑惑)の捜査に反対する検事総長と対立して実際は閑職の東京地方検察庁次席検事に転属させられ、以降は最高検察庁の平の検事と水戸地方検察庁検事正、横浜地方県雑長検事正、広島高等検察庁検事長の地方回りで退官を迎えました。
河井先輩は前述のように経理や会計に精通していたため捜査対象になった企業から収支や経費に関する簿冊を漏らさず押収し、それを詳細に確認して不自然な数字を発見するとそれを徹底的に追及する捜査手法を地検特捜部に伝授したそうです。またマスコミにあえて情報を漏らし、被疑者がそれに焦って動くことを狙う手法は現在も事件報道などで見られますが、あまりにも常用し過ぎたのか最近は情報源と意図を推察されてしまいます。
ちなみに検察内では河井先輩ほかの私立の中央大学出身者の活躍により、国立の東京大学出身者との感情的な対立が発生し、「中東戦争」と呼ばれていました。
そんな泣く子も黙り、権力者が怖れ慄き、国民は拍手喝采した正義の味方=地方検察庁特捜部も大阪地方検察庁特捜部の証拠改竄事件で当時の部長、副部長、主任検事が逮捕され、検事総長が引責辞任したことで権威は失墜してしまい、安倍政権の忖度疑惑は復権を狙った特捜部の焦りに見えました。河井先輩も草葉の陰で歯噛みしていることでしょう。
  1. 2020/11/14(土) 12:17:52|
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振り向けばイエスタディ2096

「ヘイヘ少尉はかなり小柄ですが、こんな長いライフルを取り扱うことができたんですね」展示室に陳列されているシモ・ヘイヘ少尉が実際に着用した軍装と当時の小銃を見て梢が案内係の元軍曹に率直な感想を述べた。確かに軍装は男性用としては年長の子供服並みのサイズだ。逆に第2次世界大戦当時のボルト・アクションの軍用小銃は沖縄のテレビや新聞でのアメリカ軍のM16やスリランカでAK74の本物を見てきた梢には不可解なほど長く見えるはずだ。
「シモ・ヘイヘは兵長でしたが戦後に5階級特進して少尉になっています。ヘイヘ少尉の身長は152センチでしたから当時のフィンランド人としても小柄でした。このモシン・ナガンM28の全長は123センチですが、ヘイヘ少尉は少年時代から猟銃を扱い慣れていましたから苦もなく使いこなしていたようです。ただし、実際にヘイヘ少尉が使用したM28はヘルシンキの国立陸軍博物館に収蔵されていて、これは別物の実銃です」元軍曹の丁寧な説明に梢は私の顔を見た。私は自衛隊体育学校で銃剣道による実戦を体験するため99式歩兵銃に30年式銃剣=牛蒡剣を着剣して刺突したことがある。127センチの99式歩兵銃に40センチの30年式牛蒡剣を着けると身長175センチの私でも操作が煩わしく、「銃剣道は元亀天正の遺物=織田信長の時代の戦闘方法」と言う教官の狙い通りの結論を実感することになった。
「昔の日本軍が使っていた38式歩兵銃や99式歩兵銃はもう少し長いぞ。徴兵検査で身長が重要な審査項目になっていたのは銃の操作が理由だからお前の疑問は適切だ」私は元軍曹にも判るようにあえて英語で補足説明した。
「ヘイヘ少尉の顔は戦争で負傷したんですね」続いて梢は壁に掲示してあるパネルの軍服を着た戦後の肖像写真と戦時中の白の雪中用ポンチョを着た写真を見比べて質問した。
「はい、ソ連軍の銃撃を受けて顎が砕けたんです。意識不明の状態で川船に載せられて後送されたんですが、医師も処置できずに棺に納められて葬儀が行われました。ところが棺の中で意識不明のまま息を吹き返して懸命な処置を施した結果、生き長らえることができたんです」「長生きしたんですか」「2002年の4月1日に当地で亡くなりました。96歳でした」「町ではどのように暮らしていたんですか」戦闘で3人を殺した私と暮らしている梢は記録上だけでも542人を射殺している人物に強い関心を持ったようだ。
「家業の狩猟と農業を受け継ぎましたが、猟犬の繁殖・育成・販売も副業にしていました」「どんな方でしたか」「非常に無口で極度に控え目な人でした。こちらの戦場で3人で写っている写真にも『自分の部分は切り捨てて可』と書いた紙片を添えています」そのパネルの下に掲示してある紙片の文章はフィンランド語で書かれているため判読できなかったのだが、ヘイヘ少尉の人物像を知るためには重要な資料だ。
次の部屋はこの地域で繰り広げられたコッラーの戦いの史実を写真と模型、ジオラマと英語を含む数カ国語で解説したパネルが掲示されている。
「第2次大戦末期に日本がソ連の侵攻を受けた満州や樺太では女性の輪姦や略奪と破壊が横行し、村単位で住民の無差別殺害が頻発しましたが、この町ではどうだったんですか」モッティ戦術に関する展示については研究してきた資料の出典のような内容なので復習・確認として熟読したが、それよりも気になっていることを確認した。日ソ不可侵条約を破って満州と樺太、千島に侵攻したソ連軍はシベリアに抑留されていた犯罪者に軍服を着せ、武器を与えただけの凶悪集団だったため飢えを満たすために食料を奪い、性欲を抑えることなく女性であれば手当たりしだいに強姦し、遊戯のように住民を殺害した。その点、フィンランドに侵攻したソ連軍は戦車部隊を主体とする正規軍だったので武力紛争関係法に携わる者として興味があった。
「侵攻を受けて占領された時には住民が集められて思想傾向を確認されましたが、互いにかばい合って家族が出征していることも隠したようです。ところが敗走する時には家に押し入って食料を奪う兵士が続出しました。それでも我が軍の追撃が急だったので強姦や殺害を犯す余裕はなかったようです」「よかった・・・」梢は安堵した表情を浮かべたが私は別の感想を持った。
「要するに関東軍が居留民保護の責任を放棄したから満州の悲劇が起こったんだ。逆に樺太の日本軍は陣地に籠っての戦闘に専念していてソ連軍が市街地で住民に凶行をはたらいていることは知らなかったと言うことだ」最後の結論は梢にも難しいので日本語の独り言にした。
「この草原にもソ連軍とフィンランド軍の兵隊の血が染み込んでいるのね」「湖水にも溺れ死んだ戦車兵の涙が混じっているよ」梢がシモ・ヘイヘ少尉の墓がある教会とコッラーの激戦地の場所を確認してくれたので、町のタクシー乗り場で待っていた往路と同じタクシーで墓参と戦跡に立っての慰霊の勤経ができた。この人気ない草原と湖、川には多くの戦没者の魂魄が彷徨っているようで、梢と手をつないで歩くような気分にはならなかった。

  1. 2020/11/14(土) 12:16:19|
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11月13日・上流階級の不倫醜聞・不良華族事件が発覚した。

昭和8(1933)年の11月13日に当時の貴族階級=華族を始めとする上流階級・富裕層の不倫醜聞=不良家族事件が発覚しました。
事件の発端は東京の赤坂溜池にあった最高級のダンスホールの「日本一の好男子」を自称する主任講師が女優やダンサーだけでなく良家の子女、有閑マダムなどを弄んでいる「色魔」として警視庁に検挙されたことでした。当時は現在の民法の不貞行為とは違い婚姻関係にある女性が夫以外の男性と肉体関係を持つことは「姦通罪」と言う犯罪であり、その捜査過程で主任講師の相手が華族や上流階級の妻にまで及ぶことが発覚したのです。おまけに有閑マダムを主任講師に斡旋していた姦通罪の主犯とも言うべき女性は大正天皇の生母=明治天皇の側室である柳原愛子(なるこ)さんの甥の娘で伯爵・吉井勇さんの妻の徳子さんでした。さらに伯爵・柳原家では大正10(1921)年に徳子さんの叔母で美貌の歌人として有名だった白蓮=樺子さんが福岡の炭鉱王に嫁ぎながら東京の社会運動家の愛人と駆け落ちして新聞を使って非難の応酬を繰り広げた大醜聞を起こしており、徳子さんの父で樺子さんの兄である柳原伯爵自身も男色相手の役者から手切れ金を脅し取られる醜聞が発覚していたのです。
徳子さんは主任講師だけでなく昭和6(1931)年の8月頃から日本郵船社長の男爵・近藤家の二男と肉体関係を持っていて、その妻も別の男性を紹介されて今で言うダブル不倫になっていたようです。またアララギ派歌人・斎藤茂吉さんの妻で作家・北杜夫さんの母も親密な友人とされていて、茂吉さんは婿養子として斎藤精神病院を相続していたため離婚はできず、晩年になるまで別居して今で言う事実離婚しました。
徳子さんと吉井勇さんの結婚生活は柳原家が平安時代からの宮中人であり、公卿になる資格を有する堂上華族なのに対して吉井家は同じ伯爵家でも明治になって華族制度が作られた時、幕末の功績によって華族に加えられた新華族であり、初代の父は旧島津藩でも下級潘士で、結婚は始めから破綻していて互いに愛人を引き入れていたと言われています。
この事件の訴因である「姦通罪」は夫の告発によって成立するため吉井伯爵が事を荒立てなければ事件にはならず警視庁も撤退するしかなかったのですが、華族の不祥事を取り締まる宗秩寮審議会は審理を進め、12月21日に徳子さんは「礼遇停止」、男爵・近藤家の二男夫婦は華族の身分を剥奪する「除族」、本来は被害者になる吉井伯爵と男爵・近藤家を継いでいた長男には監督不行き届きによる「訓戒」の処分を下しました。
その後、徳子さんと吉井伯爵は別居・離婚しましたが、吉井伯爵は浅草の美人芸者と再婚して文筆家としての地位を確立したのに対して徳子さんは長男と一緒に柳原家に戻されて、戦後は高田馬場の借家で暮らし、昭和53(1978)年に亡くなりました。
現在も日本人の倫理道徳となっている儒教は江戸時代になってから武士階級の行動規範として周知され、それが領民に普及することで広まって定着しましたが、柳原家では平安貴族の源氏物語の世界であって恋も風雅な嗜みだったのかも知れません。旧武士階級以下の頑なな貞操観念で非難されても本人には理解できなかったのでしょう。
  1. 2020/11/13(金) 13:28:36|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ2095

翌朝はヘルシンキ中央駅から2時間5分かけてロシアとの国境の町・ラウトヤルヴィに向かった。この町が冬戦争でソ連軍から「白い死神」と怖れられたシモ・ヘイヘ少尉の故郷なのだ。
「この風景ね」ヘルシンキの都市圏を離れると車窓から見える風景は東山魁夷が描いた深い針葉樹林帯と大小様々な湖になった。これを楽しみにしてきた梢は声も立てずに見入っている。私も作品と眼前の風景が頭の中で一緒になり、現実との識別できなくなった。
「湖の畔の木々は太陽の光に照らされて葉が緑色に輝いてるけど、森の奥に入ると青く深く沈んでいる。針葉樹だから葉の光り方も強くない。逆に光を取り込んでいるみたい」梢の詩的表現に私の中の幻想的な風景鑑賞も彩りを増した。日本の田舎の鉄道では駅と駅の間には田園が広がるものだ。ところがフィンランドでは湖畔の平地を切り開いて町が作られたらしく、深い森が唐突に農地と町になって駅に停車する。
「今の青森の『道』は全然違う風景になっていたって言ってたけど北欧はどう」何度目かの駅に停まった頃には風景から受ける感激も薄らいできていつもの会話が始まった。これは演習で三沢基地に行った時に見てきた東山魁夷が『道』を描いた八戸市種差海岸の県道1号線の話だ。
「北欧の作家が描いた針葉樹林帯と湖の絵画と見比べてみたいな。東山魁夷には『沼の静寂』って言う水面(みなも)の睡蓮を描いた作品があるけど、蛙が跳び込む水の音が聞こえそうなくらい沼の静寂を感じさせるんだ。初夏の日差しだけのクロード・モネの睡蓮じゃあ太刀打ちできないよ」日本の美術界と学校教育では明治以降の西洋式芸術を日本の伝統文化よりも上位に置く洋尊和卑の悪習が改まらず、現在も日本画は猿真似の油絵よりも低く見られているようだが、流派の枠、師弟の殻を打ち破った明治以降の巨匠たちによる日本画の傑作はヨーロッパでの流行を追った画家たちの油絵に勝るとも劣ることはない。それは東山魁夷についても断言できる。
「ストックホルムの美術館では気がつかなかったわね。スウェーデンの国王は自分の国の画家を援助しなかったのかしら」「確かに趣味で集めた西欧の有名画家の作品ばかりだったな」とは言え日本の皇室が所蔵している絵画は写真さえ見たことがないので批判はしなかった。日本の宮中には襖と言うキャンパスがあるのでそこに何が描かれていたのか興味はある。日本各地の名勝であれば納得するが、中国の風景の山水画だったりすれば腹が立って来るだろう。
「2・3キロなら歩きたかったけど、やっぱり無理だったかな」「熊が出るんじゃないの」目的地のラウトヤルヴィはシンペレ駅から2・3キロだ。フィンランドでも流しはないため駅前のタクシー乗り場から利用した。東京であれば乗車拒否されそうな近距離だが途中に人家はなく、車も通らない荒野なので危ないところだった。車窓から見える草原ではトナカイと思われる巨大な鹿が群れで草を食べていて、それを狙って熊が出ても不思議はない。
「お客さんは日本陸軍の中佐だそうですが、日本でもヘイヘ少尉は有名なんですか」2・3キロでは運転手と会話を楽しむ時間はなく、荒野では案内する名所もない。それでも行き先を「シモ・ヘイヘ記念館」と指定したため毎度の自己紹介の後、手短に質問してきた。
「日本でも普通科(=歩兵)の狙撃手からは崇敬されてるね。しかし、一般の隊員にまでは知られていないな」守山で狙撃手にシモ・ヘイヘ少尉を教育したのは当時のモリヤ中隊長だったが、それまでの村田経芳少将の精神訓話とは違い戦果が具体的な数字なので記憶に残ったはずだ。後は陸曹得意の口コミで少しは知名度が発生していることを期待したい。
「こちらがティラ地区兵舎とシモ・ヘイヘ記念館です」私の答えに運転手が次の質問を考えている間にシモ・ヘイヘ記念館に到着した。ティラ地区兵舎と言う通り、木造2階建ての学校の校舎のような建物だが、1983年に復元されたため壁土や木材はまだ新しい。 
「ようこそ。日本陸軍の中佐の見学とは光栄です。先日、電話で確認されたモリヤ中佐ご夫妻ですね」中央玄関から入ると元軍人と言う雰囲気の目が鋭い老人が英語で出迎えた。どうやら梢は確認の電話を入れたらしい。入館料は無料と言うことなので昔の在郷軍人、今の隊友会のような村人が奉仕で案内係を担当しているのかも知れない。
「中佐の方が現役の専門家ですから質問には元軍曹が可能な範囲でお答えします。どうぞこちらから」前口上を終えると元軍曹の老人は1階の廊下に案内した。1階は地区の博物館になっているようで学校の教室と郵便局、そしてベッドと銃架が並んだ兵舎が再現されている。私は愛知県の明治村で明治6年に名古屋城内に建てられた歩兵第6連隊の兵舎を見たことがあるが、部屋の広さは半分ほどで自衛隊の営内班に近い。
続く2階の最初の展示室は冬戦争でもこの地区で繰り広げられたコッラーの戦いに関する人物史で、半分はシモ・ヘイヘ少尉、指揮官だったアールネ・ユーティライネン大尉に関する資料もある。実際に本人たちが着用した軍装には無意識に姿勢を正してしまった。
白夜光(東山魁夷)東山魁夷・白夜光
  1. 2020/11/13(金) 13:27:31|
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